| 幻魔大戦 全20冊合本版<幻魔大戦> (角川文庫) | |
| 平井 和正 | |
| (2014) | |
幻魔大戦 全20冊合本版
平井和正

角川e文庫
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1
漆黒のビロード地の向う側に強い光源があるように、大天蓋をびっしりと埋め尽した星群の輝きだ。
おびただしい星辰の瞬きの中にまぎれこんで、機体の標識灯を明滅させ、心細げにのろのろと星空をよぎっていくジェット・ライナーがあった。
トランスワールド航空の国際線を飛ぶDC─8の夜間飛行は、さながら孤独な旅人を想わせる姿だった。
巨大な空間のまっただ中に宙吊りになっている時、厖大な星々の輝きは身近に、そして地上は遥かに遠く虚ろであった。
夜間飛行には、いつもいくばくかの孤独感がつきまとっている。地表は濃い暗闇の底に消え失せてしまい、己れ自身はあまりにも巨大すぎる虚空のさなかにまぎれこんでしまうせいかもしれない。自分の空間座標をすでに確かめるすべもなく、地上に残してきた一切の親密なものと切り離された孤立感がもたらす寂しさなのであろう。
機内の照明はほとんど消され、機内で上映されていた映画の光と影のたわむれも失われて、倒した座席の背に頭をあずけた人々の平穏な寝息が漂ってくる。
二重ガラスの機窓は小さく暗く、目をあそばせて心をいこわせる何物も今は見えない。機内を巡回するスチュワーデスたちの足音も間遠になった。ジェット噴射の単調な震動が時折、意識の表面にのぼってくるだけで、機体は安定し、きわめて平穏だ。
パリのオルリー空港を飛び立ち、大西洋を横断してニューヨークのケネディ空港へ向うジェット・ライナーの機体前部を占めるファースト・クラスには、訪米途上にあるヨーロッパ一の小王国トランシルヴァニアの第一王女、ルナ姫の姿が見られた。
〝ヨーロッパの宝石〟とうたわれ、ファースト・クラスの乗客の関心を独占している高貴な美貌だ。
黄金の髪と類いのない碧い瞳は、彼女をなにかしら地上のものではないように際立たせている、凄みがあるほどの美の属性だった。
ハリウッドがよだれを流して欲しがっている真の珠玉だ。高貴で神秘的で類い稀れな美貌は、単なる美人女優たちを、満月の光輝に圧倒される星々と同じく輝きを失わせてしまうだろうといわれていた。
ルナ姫はまぎれもなく単なる美女ではないと、だれの目にも明白だった。彼女の裡にはなにかしら冴えざえと燃える核のようなものがあり、内奥から漏洩するリークのような輝きが、ルナ姫を他のものから画然と分っていたのである。

裡で燃えるものが不眠と化して、シートに埋まりこんだルナ姫を捉えていた。時折訪れる興奮状態がずっと居座り続けているのだ。べつに異常なことではない。この種の特殊な気分の高揚は、幼い時分からの彼女の親しい伴侶であった。
膝の上に広げた真紅のビロードの布地に一箇の水晶球が載り、ルナ姫の両手がその表面にかざされ、小止みなく動き続けている。神秘家が占いに用いる水晶球である。ルナ姫を凡百の美人と分つのは、彼女の未来透視の巨大な才能のゆえであった。
すでにして幼少時から顕われた超常的な才能は、ルナ姫にヨーロッパ最大の神秘家としての知名度を与えつつあった。
トランシルヴァニア王国はひどく貧しい。諸国の経済援助を取りつけるのが、外交使節であるルナ姫の任務であり、華やかな大霊能者としてのルナ姫の名声がおおいに役立っていた。トランシルヴァニアには国庫を潤おす財源になる資源も産業もほとんど皆無に等しい。人口一万人足らずの極小国は、国家の体面を維持する可能性を、毎年の人口増加とともに失いつつあった。
それを産業と呼べるかどうかわからないが、トランシルヴァニア王国がわずかに外貨を稼ぐことを可能にしているのは、ジーベンヴュルゲン王家が代々生み出している、妖怪じみた超常能力者の血であった。
すなわち、第一王女ルナ姫の占い師の才能によって、小王国は辛うじて生計をたてているのだった。
十八歳の美少女ルナは、人口約一万の扶養すべき大家族に取りすがられていたのである。
ファースト・クラスの乗客の一人がシートのポケットにさしこんでいる英字新聞の社交欄には、ルナ姫の写真と訪米に関する記事が大きく掲載されていた。
その記事は、ルナの神秘的な美をたたえるとともに、彼女の持ち合わせている風変りな才能を大仰にあげつらっていた。
それによれば、ルナ姫は予言と呼ばれる未来予知能力を始め、遠隔視(千里眼)、遠感、過去認知、催眠、星体放射など、超心理学のテキストの項目に並ぶ超常能力を一人占めするオールラウンド・プレイヤーということになっていた。
ルナ姫がトランシルヴァニア王国の親善使節として、渋い各国の経済援助を取りつける信じがたいほどの業績の裏には、彼女の異常レベルに達した催眠能力が一役買っているのではないかと推測し、記者は、あの類い稀れな美しい瞳で見詰められれば、だれしも催眠術以上の効果を認識せざるを得まいとつけ加えていた。
ルナ王女のおもむくところ、常に小鳥たちが群れ集って、プリンセスの魅惑をたたえ、そのかぐわしい吐息にふれた庭園の花々はいっせいにツボミを開くという噂にはかなりの信憑性がある、と記者は揶揄の筆致をはずれて、シリアスに書き、
──なお、美しいルナ姫の今回の訪米のきっかけになったのは、例によって夢のお告げによるものらしいが、プリンセスの予知夢の内容を知る者は今回に限ってだれもいない。親善使節として表敬訪問に先立ち、これまで毎回夢の内容を詳細に発表していた慣例からすると、今回のルナ姫の沈黙は異例でもあり、大方の失望を買っているようだ。
しかし、いずれにせよ、愛らしく美しいプリンセスの見る夢もまた、プリンセスにふさわしいハッピーな美しい夢であるに違いない──
記事は歯が浮く類いの決まり文句でしめくくられていた。この手のくだらない社交界記者の記事は罪がないほうで、セールスマンとしてのルナ姫の行状をえげつなくでっちあげる赤新聞によれば、ルナ姫は米合州国へ金をせびりに出かけるのだそうだった。ルナ姫と米国高官や大富豪とのうさんくさい仲をでっちあげるくらい平気でやってのける低級紙も多いのだ。無邪気な人間が読めば、ルナ姫は美しき国家的売春婦だと思いこんでしまうほどであった。
低俗なジャーナリズムの腐肉獣を気にしたところでどうにもなるものではない。ルナ姫はそれらの侮辱を有名税として無視する境地に達していた。
それでなくとも、小柄なかぼそい体に荷ないがたい重荷を背負っているルナであった。
膝の上の水晶球に見入るルナ姫の瞳は、自己陶酔者のそれに似た光で満たされていた。二時間ほども、まったく姿勢を変えていないのだ。トランス状態に入った霊能者以外には不可能な業であった。
見るに見かねて、ルナ姫の随行者が、ルナ姫の覚醒をうながした。禿頭の恐ろしく長身のキリギリスのように瘦せこけた年寄りであった。見るからに融通のきかない一徹者の顔をしている。ルナ姫が外遊先で羽目をはずさぬよう目付役を務めているのだ。凄い美人のルナ姫は国際的プレイボーイの狙う標的である。
もちろん多忙なルナ姫は、トランシルヴァニア臣民の糊口をしのぐのに精一杯であり、色恋沙汰に浮身をやつす暇もあればこそだが、人の目にはそうは映らないらしい。トランシルヴァニア王国の忠臣どもにとっては、いかにも危っかしい気ままな小娘なのであろう。
「プリンセス、明日も朝からハード・スケジュールでございます。もうお寝み下さいませ」
禿頭の背の高い老人が背後のシートから身を乗りだし、耳打ちによって奏上申し上げる。
「少しは体をおいといいただかねば」
ルナ姫は精神集中を妨げられ、跳びあがるような反応を示した。大仰なようだが、心臓が爆発せんばかりのショックを受けたのだ。トランス状態からきわめて手荒に引き戻されると、おおかたの霊能者は異常なショック症状の虜になる。
それをいくら言葉を尽して説明しても、頑迷固陋の年寄りは決して理解することがない。斧を振るうような乱暴さで無理やり、ルナ姫を現実に引き戻そうとするのだった。
なによりも信心深い年寄りは、ルナ姫の奇矯な水晶球いじりが、神への冒瀆同様いかがわしいものと信じ、王女の救国的献身行為を妨害してはばからないのであった。
「わかっています。そう何度もくり返しいわずともよい」
ルナ姫は激しい心臓の乱調を鎮めようと深呼吸を重ねたあげく、ひどく不機嫌に呟いた。高齢の老人にいう言葉ではないとわかってはいるが、怒りを抑えるのは無理というものだった。こんなわからず屋がお目付役づらしてついてまわるのだから、ルナ姫の任務遂行は楽ではなかった。押しつけの忠義を振りまわし、一事が万事、わがもの顔でルナ姫の行動に掣肘を加え、邪魔しぬくのだった。
「わたくしはもう子供ではない。自分のなすべきことはよくわかっています。わたくしがなすのは、すべて必要だから、なさねばならないからです。口出しは控えなさい」
ルナの怒りをひめた口調に対し、禿頭のキリギリスは鈍感そのものだった。
「お言葉ですが、プリンセス。このレム侍従はもったいなくも国王陛下よりプリンセスの大切なお体をおあずかりした身......」
老人は不服げに反論してきた。
「お体をおいといいただきたいという願いは全臣民の思いを同じくしておりますところ。お聞き届けいただけねば、たとえプリンセスのご不興を招くことになろうとも、敢えて諫言するのが私の義務でありますれば......」
「もうよい」
ルナ姫はうんざりして忠臣気取りの老人の言葉をさえぎった。苛立ちがあらわになるのをどうにも自制できない。
「あなたの諫言通り寝むことにします。スチュワーデスにブランデーをもらって下さい」
家臣がいる限り、ルナは頭越しに飲み物を注文することもできないのだった。くだらぬしきたりだが、トランシルヴァニア王国はサイズは小さくとも格式だけは恐ろしく高く、ルナはそこの王女なのだから、やむを得ない。
「ブランデーですと? とんでもないこと、人目もございます。あたためたミルクを持ってこさせましょう」
ルナ姫のかんしゃくは炸裂寸前だった。
「わたくしはブランデーがほしいといったのです。ミルクなどに用はありません!」
「なりませぬ。ミルクになされませ」
「ブランデーを」
「プリンセス、駄々をこねるのもいい加減になされませ」
老人は恐ろしく厳格な顔でがんとしていい張った。ルナ姫の軽い気まぐれも許さないのが、よりによって随行者としてついてきたのだった。相手が姫君とはいえ、わずかな自由も認めない気だ。
「もうよい。もうなにも要らぬ。わたくしは寝みます」
ルナ姫は血が逆流し、体が慄えるのを懸命に制御しなければならなかった。国家経済を一身に負って健気に奔走している姫君は、ほんのわずかな気まぐれも許されないというのだった。若い身空で私的な楽しみを全て放棄し、献身している彼女を、頑迷な老人は手の焼けるわがまま姫君としか思っていないのである。
人生のなにもかもがうとましく、腐臭を放ちだすのは、愚昧な目付役の度を超えた干渉を受ける時であった。しかも相手は大切な姫君に忠誠の限りを尽している気なのだから救われなかった。ルナ姫が不快を示せば、ひどい仕打ちを受けたと本気で信じこむ手合なのだ。
ルナ姫が現実逃避を行ない、己れの霊能の世界に孤立しがちなのは、もっぱら旧弊固陋なこうした連中の無理解が追いこむのだといえただろう。
老人の目配せを受けて、近づいてきたスチュワーデスが、ルナ姫の膝にそっと毛布を拡げようとした。ルナはもはやなんの反応も示さなかった。彼女の意識はすでに世界を異にしていたからである。
もっともスチュワーデスは、その無反応ぶりを貴人の人もなげなマナーと解したかもしれない。他人のサービスは当然のこととして受け容れるのだ、と。
もちろん、そうではない。ルナ姫は一度夢想の中へ入りこんでしまえば、周囲にだれがいようと識別できなくなってしまうのである。
「いったい何が起きるのか......」
ルナ姫の心を占有している思念が凝結し、独り言と化して我知らず唇を漏れ出た。
「はい? プリンセス......」
と、毛布を拡げたまま大柄なヤンキー・ガールのスチュワーデスが誤解して答えた、これに対する問いかけと勘違いしても無理はなかった。
「なにをお望みでございますか、プリンセス?」
スチュワーデスは、ルナ姫が膝に置いた水晶球が邪魔になって、毛布をかけることができずにいた。
ルナ姫はまたしても意識を呼び戻され、茫然とスチュワーデスを見返した。精神集中時を妨げられると、軽度の記憶喪失に似た状態に陥ちこんでしまうのだ。
「毛布をおかけいたしましょうか、プリンセス?」
スチュワーデスはあわてていった。なにかしら大きな失態を犯した自覚に捉われていた。自分はこの高貴な女予言者の神聖な精神集中を乱してしまったらしい。
「ノー・サンキュー」
と、ルナ姫は辛うじて硬ばった舌根を動かした。一秒も早く途絶した思念の糸をつなぎ合わせねばならなかった。
「失礼いたしました......」
スチュワーデスは顔を赤らめて立ち去った。彼女はこの稀代の美貌の女予言者に大きな関心を抱いていた。占星術や占いなど神秘的なジャンルが趣味なのだ。ルナ姫を乗客に迎えて張り切ったのはいいが、うまく話しかけるチャンスがなかった。夢想家タイプのルナ姫は報道の虚像とは異り、およそ社交的ではなく、己れの思念の内に閉じこもり、ほとんど口をきこうとはしなかったからである。神秘ファンのスチュワーデスは他にも幾人かいて、等しく失望を味わっていた。
もっとも、ルナ姫のような高貴な乗客に対して気軽に話しかけることは許されないのだった。
スチュワーデスが倉皇として立ち去ると、ルナ姫は再び、精神統一を計り、潜在意識の深海へ探索の手を伸ばしにかかった。
──何事かが起こるのだ。このジェット・ライナーに乗っているうちに、何かが......
それは確信に等しかった。
それは輪郭だけ残存しており、内容が完全に失われている、あの夜の夢の記憶につながっていた。おびただしい寝汗に濡れそぼり、歯の根が合わぬ悪寒に慄えながら、跳ね起きたあの夢......
体中がたった今まで氷河の中に埋められていたように冷えきり、恐慌の余波が、寝室の闇の中に今もなお荒れ狂っていた。
王宮の寝所の天蓋付の寝台に半身を起こし、狂ったように荒々しく鼓動する胸を両手で抑え、ルナ姫は汗まみれの顔に、追い詰められた小動物のような目をぎらぎら光らせていたのだった。
だが、どうしても内容を思いだせないのだ。手を伸ばせばあっけなく届きそうなのに、一度目覚めてしまうと、どうしても思いだせないあの夜の夢。
彼女はそれが自分にとって、常に親しい予知夢であることを知っていた。だが、それはこれまで無数に訪れた予知夢の群れとは比べようもなく重要であり、ほとんど運命的な重みを持っていた。
その夢こそ、ルナ姫をうながし、訪米の旅へと出発させたものであった。米国の石油業者の大富豪にこれまで何度となく招待を受け、謝絶してきた彼女の決心を変えさせた、衝撃的な夢なのだった。
ルナ姫には明確な予感があった。この旅の途上で非常に重要な、運命的な変化が生じるだろう。それは、彼女個人の運命をはるかに超える巨大な変動のスタートとなるだろう。それが起きた時、ルナ姫はあの夢の内容を全て想い出すことができるだろう。
ルナは水晶球凝視によって更に潜在意識の深みへ降下して行った。時空間を超え、あの夜の夢に戻って行くのだ。
ルナ姫はすでに、夜間飛行のジェット・ライナーのシートの中にいなかった。トランシルヴァニアの城の、寝室に回帰していた。巨きな天蓋付の寝台の上に横たわっている。
寝室は闇に満たされているが、ルナ姫には苦にもならない。透視能力が働きだしているからだ。それは瞼を閉じていても、なにもかもがはっきり見えてしまう。寝室の隅々まで明確に見てとれる。真の暗闇であるにもかかわらず、透視という超常能力は光を必要としないためなのだ。
ルナ姫は、精神を集中し、半覚醒状態に移行して行く。トランスに入り、予知夢の展開する世界をのぞきこもうとしている。
突如、意識に強烈な衝撃があった。
それは真赤な閃光となって水晶球を粉砕し、全世界を引き裂き、血の色に染めあげた。
凶器で頭部を強打され、致命傷を負ったとしても、この物凄いショックの前にはなにほどのこともなかったであろう。
ルナ姫は呼吸を停止させ、永劫にも等しい恐慌と惑乱に圧し潰された。
次の瞬間、ルナは鋭い叫び声を胸郭の深みから迸らせ、弾けるようにシートから跳びあがった。無数の細片に砕け散り剝離した水晶球のかけらが機内に飛散した。キラキラと光りながら、空中に噴き上りファースト・クラスの乗客席一面に降り注ぐ。
まったくなんの理由もなく、傷一つ一点の曇りもなく磨きあげられた精緻な水晶球が炸裂したのだった!
水晶球の内部に閉じこめられていたかのように、一切の記憶が雪崩を打ってルナ姫の前を通過して行く。
ルナ姫の異様な叫び声は、乗客席をいたく驚かすに足るものであった。乗客たちの眠りを唐突に中断させ、覚醒に引き戻した。
ショックを受け、あるいは呆然とした乗客たちの視線が、棒立ちになり凍りついているルナ姫に集まった。
ルナ姫の顔は紙よりも蒼白だった。異常に大きくなった瞳は、ぎらぎらと凍てついた光を放っていた。
ルナ姫が眼前にしているのは、現実と化した予知夢の世界にほかならなかった。
化石となったルナを見返す乗客席の顔という顔は全て、死人の顔と化していた!
一人残らず、無気味な死の仮面をルナ姫に向けていたのだった。
それは未来透視だ。ルナ姫は乗客たちの顔に不可避の運命を見たのであった。目に映ずるものの一切が、この世のものならぬ恐ろしい光景を現出させていた。
「プリンセス、どうなされました......」
遠い虚ろな声音が響いてきた。振り返ると、緑色にぶよぶよにふくれあがり、目鼻立ちも崩れて定かならぬ、しかし口やかましい随行者とわかる無気味な死人が彼女を覗きこんでいた。海草のように見るかげもなくズタズタに裂けているのは衣服だけではない。
五体の形を満足に残さぬ、グロテスクに破壊された水死体であった。長らく海中を漂い、ぼろぼろに崩れた肉体の残骸だ。
そして、スチュワーデスの制服と辛うじてわかる布きれを付着させた女の死体が、水幽霊の形相で漂い流れてきた。顔面はそげて半分しか残っておらず、四肢は左足一本だけを留めてちぎれてしまっている。周囲には人々のむごたらしい破壊された遺骸が散乱し、ゆらゆらと水流に揺れている。
「寄らないで!」
ルナ姫は堪まりかねて悲鳴を迸らせた。両手で顔を覆い、熱病に冒されたように激しく悪寒に慄えた。真実がようやく意識に浸透してきたのである。
無気味にゆらめきながら、ルナを凝視している水幽霊たちに向って、彼女は泣き声をあげた。
「みんな、もうじき死ぬわ! わたしにはそれが見える。みんなの運命がはっきりと見えるわ! 一人残らず海に沈み、藻屑になってしまうのよ......」
「しっかりとなされませ」
と、随行の老人の水死体が遠い声でいった。
「プリンセスは気が高ぶっておられる。プリンセスに暖めたミルクを持ってきてくださらんか」
「かしこまりました......」
と、スチュワーデスの恐ろしい水幽霊が虚ろな谺のように答える。
ルナ姫の目にはもはやすさまじい変貌を示す現実しか映らなかった。秩序あるものはなに一つとどめていない。
機体の残存部は、燐光を放つ濃密な海水に満たされていた。海面に激突するまでに空中分解を遂げたのだろう。機体はきれいに飛散し、まとまりを持つ形状を残してはいない。
スチュワーデスの正視に耐えられぬ遺体が再び漂い流れてくる。
ルナ姫は、それが老人に命じられてミルクを運んでくるスチュワーデスの姿だと判別する理性の力を振るい起こそうと死にもの狂いで努めた。
視野に映じているのは、現実ではない。いまだ現実と重なりあっていない未来の光景である。ルナ姫の超常感覚は未来の時制に先行している。これほど物凄い未来透視はまたと味わったことがなかった。この非・現実が、現実にやがてぴったりと重なりあう時がやってくると......
「驚いたね。なにごとが起きたのかと思ったよ。プリンセスらしからぬ悲鳴だ......」
「プリンセスは寝ぼける癖があるみたい」
と、近くの乗客席でアメリカ人の夫婦者がささやきあうのが轟音のようにルナ姫の聴覚をたたいた。
「このジェットが落ちるんじゃないかと一瞬思ったよ、ハニー」
夫が息を殺していう。ファースト・クラスの乗客たちはショックの表情を隠さず、シートから伸び上るようにして、ルナ姫を眺めようと試みていた。何事が起こったのかわからないままなので、不安を覚えているのだった。
ミルクを運んでくるスチュワーデスのほかにも、同僚のスチュワーデスたちが、棒立ちになっているルナ姫に急ぎ足で向ってきた。
炸裂した水晶球はファースト・クラスのほぼ全客席に、広範囲に渡り、微細な剝片をばらまいたのだ。
ルナ姫は両手で顔を覆った。物凄いエネルギーの奔流の急接近が、彼女の超常感覚に触れたのだ。むろん、常人にはいかなる感覚器官にも捕捉できぬ、無形無音のエネルギー流の波動だった。
しかし、ルナ姫にとっては、巨大な砲弾が大気を裂いて飛来してくるのと同じだったのだ。凶暴な波動が前触れとして、熊蜂の襲撃のようにルナ姫に肉迫した。
ルナ姫の喉の深奥から、絶叫が迸り出てきた。とどめようもない恐怖の悲鳴だった。何事が起こるのか、今こそはっきりと悟ったのだ。死物狂いで急迫したそれを拒否しようとルナ姫は頭を振り、狂ったように鋭い叫び声を放った。
その叫び声が意味するものを悟って、全乗客、急行してくるスチュワーデスたちがいっせいに氷結してしまった。
「ジェットが......ジェットが落ちる!」
絶叫が続くうちに、機体に貫き走った激動が鋭利な刃物で切り落したように、ルナ姫の叫びを断ち切った。
通路に立往生したスチュワーデスの手から、ミルクのカップがふわりと放れ、宙に浮いた。DC─8の機体が名状しがたい無気味な呻き声をあげたのだ。
ねじ曲った空間にジェット・ライナーが突入し、全機体が歪曲したようであった。
ジェット・ライナー操縦席の全計測器は瞬時に狂乱状態に陥った。が、操縦士たちが恐慌に陥る暇は残されていなかったのだ。
想像を絶したエネルギー力場の渦動に吞まれて、DC─8の全機体の機構が末端のボルトの一本に至るまで、いっせいに歪曲したのである。
マイクロ・セコンドでDC─8の機体はねじれ、あっけなく弾け飛んだ。翼がジェット・エンジンもろとも吹っ飛び、ばらばらに裂けちぎれる。
DC─8は壮絶な空中分解を遂げた。夜の虚空でぱっくりと割れた。ちぎれとんだジェット・エンジンの巨大な推力が、ついでに機体を引き裂いていったのだ。
機体は幾つかの部分に割れて飛び散り、乗客たちの肉体はちぎれて、虚空にばらまかれた。空間は無数の雑多な破片が唸り飛ぶ死の狂乱の場と化した。
空中に炎の巨大な輪が花開く。
あまりにも凄惨な滅びの光景であった。もちろん、だれ一人としてこの大惨事を目撃すべく生命をとどめている者がありうべきはずがなかった......
いや、そうではない。ルナ姫だけが明確にこの凄絶をきわめた死の印象を脳裡に刻みつけていた。それは現実と非・現実が寸分の狂いもなくぴったり重なりあった瞬間であった。
ルナ姫は己れの体が、見えざる巨大な手に摑まれ、虚空に引きずりだされるのを意識していた。
猛速度で空間を乱れ飛ぶ、ジェットの機体の破片がルナ姫の軟い肉体を傷つけなかったのは奇蹟だ。鋭い破片がわずかに接触しただけで人間の肉体は分断されてしまうからだ。
そして、ルナ姫の体は狂風の中に投げだされ、凄い速さできりきりと回転しつつ落ちて行く。
地上一万メートルの高空からの落下だ。ルナ姫が意識をとどめているのが不思議であった。空中分解のショックで、全ての者の意識がフューズが飛んだようにブラック・アウトしてしまったからだ。
轟々と狂風がルナ姫の耳許で咆え猛り、暗い地上と鮮明な星空が急速に回転している。
そうだ! やっと思いだした!
ルナ姫は恐慌にも優る感動をもって、取り戻した記憶を握りしめた。
この夢だったのだ! 目がさめると、どうしても思いだせなかったこの夢!
すると、ルナ姫の意識は自動的に過去の世界へ舞い戻って行った。トランシルヴァニアの城の、夜の寝室で叫び声とともに跳ね起きた。天蓋付の寝台の上に、冷汗にまみれ、悪夢から脱出した余波で息を切らし喘いでいるルナ姫に戻った。
パリのブティックで買ったネグリジェを寝汗で重くしめらせてしまい、脱ぎ捨てて若い肉体をむきだしに、とめどもなく噴きだしてくる気味悪い汗を流しているルナ姫になった。
予知夢である!
彼女は訪米の旅がこのように無残な結末を迎えることをちゃんと知っていたのだ。搭乗したジェット・ライナーが奇怪な遭難に巻きこまれ、夜の大西洋に散りしだくことを。
なぜ、予知夢を思いだすことによって、悲惨な航空機事故を回避できなかったのだろう。思いだしてさえいれば、百人以上の人々の生命を救うことができたのに......
ルナ姫は悔恨にさいなまれた。ジェット・ライナーのコースにわずかな変更を加えただけで人々はみな助かったはずなのに。

いや、そうではなかった。彼女は事故発生を探知し、警告を発したのだが、すでに手遅れだったのだ。しかし、もっと条理の通った説明ができたら......
ルナ姫が悔恨に心をゆだねているうちに、なにかしら変化が生じていた。彼女の肉体はもはや虚空の落下をやめていた。
全様相が、完全な変貌を遂げていたのだ。ルナ姫の足許の側にある星空は、もはや地球上から仰ぎ見る星辰ではなかった。足許どころか頭上にも、前後左右にも、あらゆる方向が凄まじい濃厚さを持つ星群で埋め尽されていた。
ルナ姫がこれまでに見たこともない猛烈な星の密集があった。これは宇宙空間である。宇宙の全てが多彩な光に充満していた。
だが、上下左右のない虚空に宙吊りになっていながら、ルナ姫は絶対真空も絶対零度の寒冷も感じることがなかった。
微妙な波動が満ちている宇宙空間には、平穏さと静謐さがあった。
これはどうしたことか......
ルナ姫の心は疑った。もしかすると、自分はすでに死んでしまったのではないだろうか。肉体の死によって、精神だけの存在......幽霊になったのではないか。
呼吸すべき大気もなく極寒の宇宙空間で、こうして存在すること自体、ありうべきことではない。すると、ここはまさしく死後の世界......
ルナ姫は突如、堪えがたい孤独感の虜になった。たまらない寂しさとともに、冷寒が浸透してきた。ルナ姫は胎児の姿勢で体をまるめ、寒さから身を護ろうとし、歯の根も合わず慄えた。
〈ルナ姫よ、あなたはまだ死んではいない〉
不意に言葉が生れた。いや、言葉ではなく意識の表層にわきあがった想念の閃きであった。
〈あなたは精神のみの存在として、この宇宙空間に招かれたのだ、ルナ姫よ〉
その想念は独得の力強さ、重厚さに満ちており、自己の想念とは歴然と区別されるものであった。
明るい光の波動が意識を暖めにかかり、ルナは孤絶の苦しみから解放された。
「あなたはどなた......?」
光の波動である明るい想念は、ルナにとって慰謝であり、平安そのものを意味するものであった。その精妙な意識が、ルナ姫の意識とまじわるにつれて、ルナは落着きを取り戻し、気が楽になり、幸福感さえ味わいはじめた。
記憶が甦り、ルナは幼少時より自分がこうして精神だけの存在として肉体を脱けだす、〝星体放射〟〝離脱〟と呼ばれる奇異な経験をくり返してきたことを思いだした。
何も心配は要らなかった。肉体と精神体は白銀色の輝くコードで結ばれており、空間的にいかに遠く離れようとも無限に伸展し、跡切れることは決してないのだ。
精神体としてのルナ姫は、現実の肉体同様歩くこともできるが、ユニークなのは自由自在に空中浮揚し、凄い速さで飛行することもできるのだった。
扉や壁など堅固な障害も、苦もなく突き抜けて行くことが可能であった。精神存在である時のルナ姫にとって、いかなる物質も障害物となることはなかったのだ。
アストラル・ボディーと化したルナ姫は、一瞬にして地球の裏側まで移動し、見知らぬ国々を訪問することができた。それらの見聞は、ルナ姫だけの心に秘めた経験であった。そんなことを口外すれば、精神異常者を見る目が返ってくるだけだと、ルナ姫は賢明にも沈黙を守るすべを知っていたからである。
それと同じことが今、起こっているのだった。ただし、もっと巨大な規模で。
〈ルナ姫よ、見るがよい。あなたの地球が属する島宇宙、銀河系星雲は、一塊の光る雲となって浮いている。あなたが今いるところは、その銀河系より三八〇万光年へだてた宇宙空間なのだ〉
明るく光る精妙な意識がルナ姫に告げる。
「三八〇万光年......」
その巨大な天文学の距離は、ルナ姫の実感とは同程度の隔りを持っていた。だが、銀河──天の河として夜空にかかる星の集団を、ひとひらの雲に似た小さな渦状星雲として、確認することは、彼女にとっても衝撃的であった。
自分はあまりにも遠くまで来てしまった、とルナ姫は悔恨をこめて考えた。きっと帰りつくのは容易なことではないだろう......
「でも、どうしてわたくしがこんなところに......?」
〈ルナ姫よ、あなたの精神は光も及ばぬ速さで大宇宙を一挙に跳躍したのだ。あなたの精神と分離した肉体は地球上にあり破壊されたジェット・ライナーから投げだされ、夜の大西洋に向って落下しつつある〉
「わけがわからないわ......あなたはどなたですか? どこにいて、どのようにしてわたくしと話をしているのですか?」
ルナ姫は困惑の極に達していた。なにもかもが彼女の理解を超絶していた。
〈われわれは今、直接意識を通じて思念を交換している。テレパシーといえばあなたには理解しやすいだろう。われわれのコンタクトは言語を介在させずになされている。私がどこにいるかという問いに答えるのはいささかむずかしい。なぜなら私は意識エネルギー体だからである。それゆえ、空間の特定の座標を占めているわけではない。
私の意識はルナ姫よ、あなたの意識の周囲に広がり、内部に包みこんでいる。いいかえれば、私はあなたの意識を呼び寄せ、私自身の意識の内に組み込んだのだ。あなたはバリヤーによって完全に保護されているゆえに、恐れる必要はない。いかなる邪悪で危険な存在も、あなたを傷つけることはできない〉
「こんなこと、とても信じられない。わたしはきっと夢を見ているんだわ......あの、目が覚めるとどうしても思いだせなかった夢の中に閉じこめられている......」
〈これは決して夢ではない。意識体にとって時空間はなんの意味もない。三八〇万光年の宇宙の深淵をあなたの意識が超えるのに、わずか一秒の時間すらも必要ではなかった。私に対して心を開きなさい、ルナ姫よ。さすればあなたは多くのことを知るであろう〉
ルナ姫は勧められる通り、自分の意識を開いた。心地よい光と暖かさが増加し、それとともに力強いエネルギーがどっと流入してくるのが感じられた。それは一滴の水が大海に流れこみ、広大な共生感を所有するようなものだった。
「本当だわ! あなたは噓をいっていたのではないのですね。あなたの意味することが、なぜかとても素直に理解できます。あなたはもしや、神と呼ばれる方ではないのでしょうか......」
ルナ姫は畏敬に捉えられて、己れを包みこむ巨大なエネルギー体の全容を推し計ろうとした。だが、物質宇宙のみならず、高次元宇宙全体に広がっている神の如き広大な意識は果てしがないようであった。上方を仰ぐほど、その威容に目くらめき圧倒された。それは宇宙全体を推し計ろうとする試みに似ていた。あまりにも複雑精妙であり、無限の情報の海であった。
〈私は神ではない。あなたがた人類が神と呼ぶ、創造主、大宇宙意識体ではないが、あなたがたと特に密接なエネルギーのつながりを持つ個性を備えた宇宙意識体といおうか。しかし神ではありえない。私の名はかりそめに〝フロイ〟と呼ぶがいい。あなたの種族の言葉で〝白金の光〟という意味になる。ルナ姫よ、私は宇宙意志の要請により、あなたを地球人類の代表として選び、ここに招いた。それは宇宙の真実の姿をあなたに見せ、重要なメッセージを託すためにほかならない。
ルナ姫よ、あなたは私の意識のパイプを通じて、真実を知るであろう〉
恐ろしい密度のおびただしい情報がルナ姫の意識によって走査されていた。時間感覚はそこに存在しなかった。異様に圧縮された、数百億年の宇宙史が一瞬にして展開されたのだ。
ルナ姫の意識は、そのあまりにも厖大な情報をとうてい処理しえず、おぼろげな輪郭を捕捉するに止まった。彼女の貧しく閉ざされた地球人女性の意識では、それが限界であった。ルナ姫があまりの驚異に圧倒されていなければ、その関心のおもむくところにより、好きなだけの真実を摑みとることができたであろう。後でいかに悔んでも取り返しのつかない過誤とルナ姫は信じるようになったのだった。
言語を超えた方法で、〝フロイ〟がルナ姫に物語ったのは、宇宙全域に渡る大戦乱の歴史であった。
数百億年もの間、跡切れることなく続いている〝幻魔〟軍団と〝大連盟〟の超大規模の戦闘を、ルナ姫は一瞬にして展望した。
〈大宇宙のあらゆる空域において、戦さは激化する一途をたどっているが、もはや自分たちがなんのために戦うのか、その理由を知るものはほとんど皆無といえる〉
〝フロイ〟の物語の輪郭をルナ姫が言語に置換した内容はこのようなものであった。実際は、〝フロイ〟がその意識の内に投射する現実そのものが異様な密度で凝集しており、無限に語句を連ねても、全容を捉えることはまったく不可能であった。ほんの個人的な人生ですら、全てを言葉に置換するなど、とうていできようはずがないのだ。
〈あまりにも長きにわたる戦乱のゆえに、戦いの理由さえ忘れ去られてしまったようである。敵味方、双方ともただひたすら敵を徹底的に滅尽すべく、激烈な戦いを続けている。超古代の神話に痕跡を残す戦乱が、今もなお戦われているのだ。
わずかこの十億年の間に、いったい幾つの星雲、島宇宙があとかたもなく消滅し去ったことだろう。
ルナ姫よ、見るがよい。私の意識に組み込まれており制御下にあるあの渦状星雲も、いまや消え行こうとしている。あの無残にむしばまれた星雲を目にとめるがよい〉
ルナは〝フロイ〟の意識の誘導に従い、彼女自身の属する銀河系宇宙と一卵性双生児のように酷似しているレンズ状の渦状星雲を視野におさめた。
それは、美しい外縁部から中心部に向って、醜悪な虫食い穴のような侵蝕が広がっていた。
その渦状星雲が病毒にむしばまれ、致命的に病んでいるという印象は強烈そのものであり、致死期の重病人を目のあたりにしたように、ルナ姫は息を吞まずにはいられなかった。
〈そうだ、この星雲は病んでいる〉
と、〝フロイ〟はルナ姫の直感の正しさを証した。
〈これは、あなたがた地球人類がメシェ31、アンドロメダ星雲と呼んでいる島宇宙の一つである。あなたがたには知るすべもないが、この島宇宙はもはや救いようもなく、滅びの道を急速に滑り落ちつつある。残された命運はいくばくもない。よく見ておくがよい。そのために私はあなたを惨害のただ中へと導こう〉
時間経過はただの一秒たりともなかった。ルナ姫の意識は次の瞬間、アンドロメダとして知られる星の大集団の中へ移動を遂げていた。
「ああ、星が消えて行く!」
ルナ姫は思わず絞りだすような嘆声を漏らしていた。
「星がみるみる消えて行ってしまう!」
それはルナ姫が一度も経験したことのない、魂の深奥へと響きわたる、深甚なショックであった。
ルナ姫を全方向から取り囲む、輝きわたる星の大集団に急速な異変が生じているのである。
密集する星で埋めつくされた大天球を、暗黒が驚くべき速度で蚕食し、〝虚無〟が拡大しつつあるのだ。
〝フロイ〟の意識下の圧縮されたタイム・スケールで見せられているのだと気付いてもなお、心が恐ろしさに凍りついた。
超巨大なクリーナーの吸口が星の大集団の中にさしこまれたように、星群がごそり、ごそりと欠落し、消滅して行く。
それは凄まじい光景である。ルナ姫は魂のみ味わう冷寒に慄えた。
星々の輝きを失った宇宙空間は、真の〝虚無〟そのものであった。そこでは宇宙を律する法則にはずれた、真の意味での異変が進行中であった。
〈長期間にわたる激戦は、一千億の恒星系の半ば以上をすでに消滅させてしまった。やがては長くを待つことなく、全ての星系があとかたもなく消滅してしまうであろう。一度破れた宇宙的均衡は、地滑りのようにどこまでも波及し、星々を掃くように滅尽させて行く。全き破滅が到来するまで、それはやむことを知らない。一つの島宇宙全体の死だ〉
ルナ姫は息を吞んでいた。〝フロイ〟の垣間見せる島宇宙の凄絶な死に圧倒されてしまったのだ。そのために、いったいどれだけの生命体が、星間種族が死滅して行くことだろう。
ルナ姫は全感覚が麻痺するほどの衝撃を受けていた。滅尽されて行く生命体の尽きぬ怨み、嘆き、絶望、恐怖、苦痛の絶叫が、巨大な波濤となって大宇宙に拡がって行くさまを衝撃の中で垣間見た。
この無限の光彩に満ちた美しい大宇宙で展開される最大級の地獄図絵であった。
〈この宇宙規模でのジェノサイドを招き寄せたのは、〝大連盟〟の非力さも大いにあずかっている。〝幻魔〟の侵攻軍はそれにひきかえあまりに強大であり、〝大連盟〟はその電光石火の侵攻の前になすすべもなく、脆弱さ、軍紀の緩み、臆病、内部抗争、日和見、裏切りなど、ありとあらゆる弱点をむきだしにして敗れ去った。彼らは星間種族エゴイズム、星間国家エゴイズム、宗教抗争などに浮身をやつしすぎ、結束するすべを遂に学ぶ暇がなかった。それに引き比べ〝幻魔〟はきたえあげられたはがねの大槍のように精強そのものであり〝大連盟〟の神経中枢を、脆弱な肥大した肉体を造作なく突き刺し、なんの抵抗感もなくえぐり、致命傷を負わせることができた〉
〝フロイ〟は事実のみを淡々と述べた。それは遠い過去に去った歴史を語る口調に似ていた。悼みや悲しみは意識の深みに沈み、遠い谺のように響いているのみだった。
だが、ルナは〝フロイ〟の意識から伝わる滅亡する星間生命体の阿鼻叫喚の凄絶さ、計り知れぬ重さによって、〝フロイ〟の心を感じとることができた。
「〝幻魔〟とはなんなのですか?」
〈〝幻魔〟は大宇宙の破壊者だ。彼らは全ての星々を滅尽するまでは、決して戦いをやめようとはしないだろう。戦乱は無限の過去の彼方から続いている。宇宙の全域にわたり、〝幻魔〟はすでに数億、数十億の島宇宙をあとかたもなく消去してしまった〉
「でも、なぜそのようなことを?」
〈〝幻魔〟は破壊のための破壊をのみめざし、純粋な破壊者として生きる、凶暴なエネルギー生命なのだ。〝幻魔〟は星屑一つ残さず宇宙をクリーナーの如く掃いてしまう。後に残るのはなにもない。〝虚無〟だけがそこにある。〝幻魔〟はこの大宇宙が存在する以前から存在するといわれる。彼らの軍勢は比類なく強大であり、彼らの駆使する〝魔の力〟は恐るべきエネルギー・レベルにある。それは燃えさかる恒星を吹き消すといわれているとおりだ。
いかな星間種族の産みだす超科学による超兵器も〝幻魔〟の前には玩具同然に無力という。〝幻魔〟に対抗すべくには、負エネルギーである彼らに対し、正のエネルギーである超常能力を結集することにより、打ち消してしまわねばならない。だが、これまでにそれだけの強大な正エネルギーを結集させた例はほとんどない......それがために、アンドロメダ星雲における〝大連盟〟は完膚なきまでに叩き潰され、敗北しなければならなかった。
ルナ姫よ。あなたの属する銀河系宇宙にもすでに〝幻魔〟の侵攻が開始されて久しい。間もなく、あなたの母星である地球にも〝幻魔〟は悲惨な戦乱を巻き起こす。その時、あなたがたも戦わねばならないのだ〉
「わたくしにどうしろというのですか!? わたくしはつまらない平凡な女にすぎません。とうていそのような力はないし、務まりようのない大役です」
ルナ姫は愕然としながら抗議した。
〈戦うのだ、ルナ姫よ。地球全体の運命はあなたの掌中にある。あなたは正のエネルギーを結集させる核とならねばならぬ。それがあなたの負う役割なのだ〉
「とんでもありません。それはイエス・キリストのように偉大な救世主に課せられる大任ではありませんか! わたくし如き卑小な者に、そのようなことをいわれても困ります......わたくしは辞退します。大任にふさわしい偉大な真の救世主をわたくしの代りに選んでください」
ルナ姫は必死で懇願した。なんとかして逃避したいという思いで頭の中が充満し、火のように燃えた。ほとんどそれはパニックに近い逃避願望であった。
〈戦う以外に、あなたがたが生き伸びる望みはない。ルナ姫よ、あなたがたには希望があり、愛と友情の連帯がある。至上至高の価値を求める心がある。それは正のエネルギーであり、集結することによって、唯一、〝幻魔〟を打ち破る〝力〟となるものだ。その心がある限り、無敵と思われる〝幻魔〟すら、敗退するであろう。
〝真の救世主〟とは、その無限の正のエネルギーを全宇宙に充満させる存在をいうのだ。ルナ姫よ、私はあなたを〝幻魔〟の支配下にある世界へ導き、彼らの正体を見せよう〉
「いやです!」
ルナ姫は声を限りに絶叫した。死にもの狂いで拒否し、懊悩に身悶えした。
しかし、必死の拒否の叫びも手遅れであった。ルナの意識は再び光速を超える速さで移動していた。瞬時にスライドを切り換えて行くように、初め微細な宇宙塵と見えた、浮遊物のベルトが拡大された。
それは地球人の概念をはるかに超える、超巨大サイズの人工物体──宇宙機の破片・残骸にほかならなかった。
破片とはいえ、地球上の最大級のピラミッドの何十倍も巨大なのだ。原形はおそらく山脈に等しい威容を誇っていたに相違なかった。
すでに遠い昔に死滅した宇宙の古戦場の遺跡であった。
ルナ姫の意識は速度を緩めて、浮遊物となって宇宙を漂っている残骸の群れのただ中に分け入った。
生命の徴しはまったく感じられない。これほどおびただしい機体の破片の中に、遺体のかけら一つ浮遊してはいない。
ルナ姫の意識は直径数百キロにもわたって拡がっている塵のベルトの中を高速で駆けめぐる。
そして発見した最初にして最後の生命体が救命カプセルの内部で、二千年の長きにわたり不幸な夢の世界をさまよい続けている、異星のサイボーグ戦士の怪異な巨体であった。
身の丈は二メートルを超え、顔にはインディアンの戦士の戦いの隈取りに酷似した印形が刻みこまれていた。ヒューマノイドであり、地球人との体形の差異は認められない。
ルナ姫は畏怖を持って眠れる異星人の戦士の姿に見入った。地球人として、最初の異星人との邂逅であることはまったく意識になかった。
〈これはサイボーグ戦士、ベガだ。彼は連合軍機動部隊の司令官として〝幻魔〟に大会戦を挑み、不運な裏切りにあって敗れ去った。二百年を戦い続けて敗残の身となり、自死を選んだベガを私はこの世にとどめておいた。以来二千年の間、ベガは自己閉鎖した己れの意識界──夢の中をさまよい続けている。
苦痛に満ちた夢のくり返しの中で、ただ一つの慰謝は彼の他星人の恋人アリエータの面影だ。美しい超能力者の娘アリエータは、最後の大会戦が決定的な敗北に終った時、戦死した。サイボーグの彼にとっての愛は、肉欲的な性愛ではなく、純粋な精神愛ではあったが、愛する者を護れなかった傷手はあまりに大きく、ベガは自己の裡に閉じこもってしまった。
ルナ姫よ、あなたはベガの意識の世界に入り、彼を覚醒させ、再起させねばならない。あなたが彼を甦らせた時、彼はまたと得がたい忠勇な味方となるであろう〉
〝フロイ〟の誘導によって、ルナ姫は怪異なサイボーグ戦士の自己閉鎖した意識世界に入りこんで行った。
ベガの無限にくり返される想念は、暗く冷たく虚ろな谺のようであった。二千年の間、サイボーグ戦士ベガは悲愁の想いとともに、彼の人生の内部に閉じこめられてきたのだった。
〈アリエータ、アリエータ......君は死んでしまったのだな......私を残して、忘却の遠い彼方に去ってしまったのだな......孤独な戦場の明け暮れの中で、君だけが小さな灯だったのだが......君が去り、全てを失って敗残の身となった今、この広大な宇宙にありながら、求めるものとてない。
長い長い戦いだった。あまりにも長すぎた。二百年の歳月が、このサイボーグの無感覚な体に触れようともせず過ぎ去っていった。傷つきやすく、無常な肉体を持たぬ私にとってすらも、その歳月はどうにもならぬ倦怠と疲労と無為の思いを蓄積するだけにすぎなかった......
私は疲れたよ、アリエータ。魂の深奥に疲労が巣食っており、そいつをなだめることもいやすこともできないのだ。私はなぜ君といっしょに死ねなかったのだろう......君と夢のない永劫の眠りを眠ることがなぜできなかったのだろう......〉
ベガは痛恨をこめて、意識をそれに向け、憎悪の叫びを投げつけた。だが、その憎しみすらも虚しく冷めて、鈍く赤く光っていた。
〈私を殺せ、〝幻魔〟よ。なぜ敗残兵の私を生かしておくのだ......なぜ魔界と化した宇宙に、私の存在をとどめておくのだ。もはや私の愛する者も、同胞も、友もすべてが消え失せた。私もこれ以上生をとどめておきたくはない。私を殺せ、早く! 運命の手にあやなされて、私が再び甦り、お前たちをうち滅ぼすことのないように!〉
宇宙の端から端まで、とてつもない轟音とともに亀裂が走り抜けるようであった。ルナ姫は絶叫をあげた。狂った者のように金切声で拒否の叫びを放ち続けた。
それは人間の想像を超えたものだった。宇宙と等身大の貪虐な肉食獣の裂けてねじ曲った口──宇宙の亀裂が凄まじく邪悪な笑みを浮かべるのを、ルナ姫は確かに見た。
そこに蓄積された〝幻魔〟の負エネルギーの厖大さは、あらゆる概念を覆すものであった。原初の宇宙よりも以前より存在するもの。それは完全な絶望、苦悩の深淵そのものであった。それに意識を向けているだけで、ルナ姫の精神の全ての安全装置はいっせいに吹き飛び、狂気の暗黒が襲うことを彼女は知った。
〝フロイ〟の意識エネルギーが彼女を包みこみ、バリヤーとなって、暗黒エネルギーの流入を阻止した。幾億もの雷鳴を集めたような、〝幻魔〟の投げつける〝虚無の咆哮〟が宇宙全体を震撼させているようだった。
〈ルナ姫よ。私はサイボーグ戦士ベガを、あなたの地球へ送ろう〉
〝フロイ〟の想念が、宇宙の激動のさなか、信じがたい穏やかさでルナ姫に告げた。
〈あなたはベガを覚醒させ、説得を加えて、再び〝幻魔〟に抗して立ち上らせるのだ。愛だけが彼を敗残の苦悩から再起させるであろう。その時に彼はまたと得がたい助力者となることをあなたは知るであろう〉
再び宇宙の雷鳴が轟きわたり、ルナ姫はそれが〝幻魔〟大王──暗黒エネルギーの中枢から投げつけられる嘲笑にほかならぬことを悟った。
〝フロイ〟の意識を通じて、〝幻魔〟の脅迫をこめたメッセージがルナ姫を打った。
〈〝幻魔〟大王は大宇宙の破壊者にして、そは永遠の支配者なるぞ〉
破壊的なエネルギー震動が、〝フロイ〟の意識に激突し、超新星の爆発のように燃えあがった。〝フロイ〟の白光のバリヤーが大きく揺いだ。宇宙空間を津波のようにおし渡り、行く手の全てのものを消滅させて行く。超絶の暗黒エネルギーの真向からの襲来に対して、屈することのない〝フロイ〟の偉大さを、ルナ姫は讃美せずにはいられなかった。
〝幻魔〟大王の咆哮が、恐ろしい衝撃波となって宇宙の深淵をどこまでも渡り続けた。
〈星よ消えよ! 暗黒と虚無が全宇宙を支配するまで!〉
ルナ姫の意識は、宇宙津波の追撃を振り切って、跳躍した。閃光と化した意識は、再び大西洋上の虚空にあり、一万メートルの落下を続けているルナ姫自身の肉体に回帰していた。
疾風がルナ姫の必死に呼吸しようとする空気を吹きちぎり、窒息させた。暗黒の虚空をどこまでも吸い込まれて行く。あまりにも巨大な経験が、苦痛や恐怖を圧倒しているゆえに、ルナ姫は己れの肉体がまさしく死地にあることさえ意識していなかった。
夢なのか、幻覚なのか。
ルナ姫の眼前がにわかに展け、大群衆が出現したのだ。何万、何十万とも知れぬ彼らの顔は、なぜかルナ姫の親しく見知っている顔であった。実際に知っている顔ではない。だが、なぜか見慣れているという気がしてならないのだ。彼らの顔の表情が伝えてくる親密さ、友愛の波動は、ルナ姫と彼らが固いきずなで結ばれていることを証していた。
彼らはルナ姫の仲間であり、同志なのだ。大群衆は彼女に向って手を振り、笑いかけ、拍手を送っていた。ルナ姫は彼らに向って挨拶を送った。
轟音とまがう大歓声がルナ姫を押し包んだ。大きなレセプションでスピーチしたり、トランシルヴァニアの国民に向って話しかけたことはあるが、これだけの大群衆に対して挨拶を述べるのは初めてであった。
ルナ姫は、〝フロイ〟に招請を受けて地球より三八〇万光年隔てた宇宙空間で見聞したことどもを、人々に報告しようとした。
一言ごとに大歓声がまき起こり、ルナ姫がいくら声を張ってもかき消されてしまうほどだった。津波のように轟音と化して歓声が返ってくる。熱狂の大渦巻が生じていた。彼らはさながら〝救世主〟を迎える民衆のように興奮の頂点に達した。
ルナ姫は、自分が〝救世主〟でないことを人々に説明しようとしたが、もはや己れ自身の声さえ聞こえなかった。
〝幻魔〟の侵攻を伝えようとしても、轟音の津波にかき消された。大群衆は熱狂してルナ姫の許へ続々と参集してくる。ルナ姫を盟主として仰ごうとしているのだった。
それは間違いだ、〝フロイ〟にも告げたように、自分は平凡なつまらない女にすぎない、とルナ姫は告げようとしたが、だれも耳を貸そうとはしなかった。
ルナ姫ははっと覚醒し、自分の肉体が高度一万メートルの高空から、暗黒の大西洋の深淵へと凄まじい風切り音を発して落下していく現実に気付いた。
群衆の歓呼と拍手の轟音は、大気を裂いて落下して行く己れ自身が発する、疾風の轟音に他ならなかったのだ!
改めて恐怖とともに、宇宙での邂逅の記憶が甦った。あの時彼女は〝フロイ〟の偉大な意識バリヤーの裡に守護され、いかなる危険をも感じなかった。
〝フロイ〟がルナ姫を邂逅のために、宇宙に呼び寄せ、そして再び地球上へ戻したのであれば、〝フロイ〟は依然として彼女の肉体を守護するのではないか。
もし彼女がこの深夜の航空機事故によって死すべき運命にあるならば、〝フロイ〟は彼女を招き寄せ、〝任務〟について悟らせるような手だては講じなかったに違いない。
ルナ姫は閃光のように一瞬の思念で論理を完成させ、不思議な安息を感じた。
〝フロイ〟は彼女を護るだろう。なにも心配はいらないのだった。
一万メートルの高度より、加速しながら大西洋に落下するならば、海面はコンクリート床の強度と剛性を備え、人間の肉体はあとかたもなく炸裂する。
だが、すべての常識を裏切って、ルナ姫は蝶が舞い降りるように優雅に大西洋に到達し、水煙をあげて着水すると沈んで行った。深淵へと引きこまれて行った。
強烈な水圧が重く体を絞めつけた。暗黒の深淵へどこまでも沈んで行く。肉体の死が迫ってくるのを感じた。
苦痛も、恐怖も依然として感じなかった。
暗い海中を巨大な流線形の影が高速で移動し、ルナ姫に向ってくるようであった。群れをなして接近してくる。
巨大な魚群の影だ。鮫のようにも思えた。だが、恐れの気持はなく、平穏な心のままルナ姫は待ち受けていた。
にわかに、周囲の海中が激しく渦巻いた。魚群がルナ姫の下方へ集合してきた。
イルカであった。イルカの大群がルナ姫めざして突進してきたのだ。
ルナ姫はベルベットのように柔軟なイルカの体の感触にとり囲まれた。下方から圧力がかかり、ルナ姫の体はエレベーターに乗ったように押し上げられて行く。
ルナ姫は上昇を続け、海面上に押し出された。
頭上には再び満天の星空が広がった。ルナ姫は呆然と仰臥し、呼吸活動を再開していた。あれだけの高処から墜落したにもかかわらず、打撲傷一つなく、水さえも吞んでいない。着衣さえ海水に濡れこそしても、ほころび一つ生じていなかった。ルナ姫は不思議にも思わなかった。〝フロイ〟は約束を守ったのである。偉大な力を振るう〝フロイ〟にとっては、なにほどのこともなかったのだろう。
ルナ姫は密集するイルカの大群が作る浮島の上にあった。イルカたちはまるで予定された救助者のように、即座に救出に駆けつけてきたのである。
イルカたちは甲高い声で互いに喋りあっていた。自分たちの買って出た役目を無事に果たせたことを互いに喜びあっているように思えた。彼らの興奮した話し声は、あの幻覚の大群衆のざわめきそっくりであった。
ルナ姫の体の下にあり、彼女を支えているイルカたちの友愛の情が明確に伝わってきた。彼らはルナ姫が好きでたまらないと訴えかけはしゃぎたてているのだった。
ルナ姫はイルカたちの純粋な友情を感じとり、それがテレパシーの伝達であることを悟った。イルカたちはだれが彼女の許へ一番乗りしたか詮議し、楽しげにレース経過を論評しているのだった。
これまでにも、動物の感情をテレパシーで読んだことはあるが、イルカがこれだけはっきり喋るとは想像したこともなかった。
ルナ姫のテレパシー能力がレベル・アップしているのだ。
同様に視力に変化が生じていた。すでに暗闇は彼女の視界を妨げなくなっていた。海面下まで視界は及んでいた。信じがたい明確さで、視力を働かせようと意図すれば、細部まで読みとれた。まるで超ズーム・アップの望遠レンズでもセットしたようだ。
透視能力が働きだしていたのだ。それのみならず、ルナ姫の潜在超常感覚は全て解放されていた。
その時、おそらく四、五キロメートルを隔てて、暗闇の海上に、ルナ姫は異様な存在を察知した。肉眼では絶対に見えるはずがないのである。鋭敏なイルカたちが気付くよりも、ルナ姫は早く、それの接近を読みとったのだ。
〈怪物だ......〉
と、イルカたちが喧しく警告していた。
〈怪魚ではないか?〉
〈違うようだ。なにか非常に不思議なものだ......だれも見たことがないといっている〉
数キロ隔てたあたりを遊弋しているイルカたちとの通信が行われているのだった。
〈危険そうか?〉
〈危険はないようだ......今のところは平和に見える〉
〈〝姫〟を他所へ移動したほうがよいか?〉
ルナ姫は興味深くイルカたちの通信を傍受していた。彼らはルナを〝姫〟という概念で呼んでいた。高貴な若い女性というイメージがちゃんと存在していた。いったいだれがイルカたちに教えこんだのだろう。それとも彼らの文化の中に初めからあるものだろうか。
〈〝怪物〟が移動を開始した! そちらへまっすぐに進んでいる。ものすごいスピードだ! 注意しろ!〉
と、見張りがけたたましく緊急の叫び声を送ってきた。
〈〝船〟よりも速い。われらよりもずっと速い! これは恐ろしいものだ。避難したほうがよいかもしれない!〉
〈わかった。〝姫〟を移す......〉
イルカたちは緊張をいっせいにしめしたが、それでもその笑っているような柔和な顔つきは変らなかった。
「待って!」
と、ルナ姫は叫んだ。イルカたちは鋭敏に反応し、動きを停止させた。
〈その者に危険はないわ。わたしはそれを知っているから......〉
イルカたちは彼女の言葉を完全に理解していた。言葉ではなく、同時にルナが伝達しているテレパシーをキャッチしたのである。
「彼を恐れる必要はないのよ。彼はわたしと逢うためにやってくるのだから......」
〈〝彼〟に〝姫〟を引渡してもよいのか?〉
と、イルカの一頭が尋ねた。
〈〝彼〟が〝守護者〟なのか?〉
〈わからない。〝姫〟が自分で判断するだろう......〉
「そのとおりだわ。〝彼〟がわたくしの〝守護者〟なのよ」
と、ルナ姫は答えた。彼女のため浮島になっているイルカ群はもちろん、周囲を泳ぎまわっている数十頭のイルカたちが興奮しきってぺちゃくちゃ喋りだした。そのさまは、おとぎ話の小人たちの描写とそっくりであった。イルカたちは海に棲む親切な妖精なのだ。
〈〝彼〟が来た〉
〈〝彼〟は人間とは違うようだ。こんな人間は見たことない〉
〈〝彼〟はわれらより速く泳ぐ!〉
イルカたちの嘆声に迎えられるように、高速艇さながらに夜目にも白い水脈を曳いて、猛烈なスピードで、〝彼〟はみるみるうちに接近してきた。どうやって移動するのか、いかなる高速艇にも増してエネルギッシュな疾走ぶりであった。
二、三回、ルナ姫を乗せたイルカ群の周囲を旋回すると、戸惑ったように停止した。奇異なものに遭遇して、思案しているようであった。
今度はスピードを殺し、ゆるやかに近づいてくる。ルナ姫は闇を透して、相手の戦士の隈取りで彩った怪異な顔を見た。思いがけぬ事態の激変に対応できず、いささか混乱していたが、ルナ姫を発見したからには、確かめずにはいられぬ、という吸い寄せられるような動きであった。
無表情なサイボーグ戦士の巨きな顔は、海中にあって、イルカの背の浮島の上にあるルナ姫を見上げた。目には探るような光があった。
ルナ姫はまさしく貴婦人の威厳をもって、海中のサイボーグ戦士を見降ろした。美しい金髪の巻毛は海水に湿り、全身濡れねずみの姿だが、貧相にはならず、逆に魅力的だった。瞳が星のように輝いているせいもあるだろう。ルナ姫は体と精神が灼熱する高揚に捉えられていた。
「戦士ベガ、地球へようこそ。〝フロイ〟があなたを送り届けると約束したので、すぐにわかったわ」
と、ルナ姫は落着き払っていった。
──彼女には逢ったことがある......だが、いつ、どこで?
サイボーグ戦士ベガの思考はいまだに混乱を脱してはいなかった。
──彼女は夢の中で出逢った女性ではなかったのか? 長い長い果てしのない夢の中で、彼女は私を訪れ、ずいぶん長い間話しあった......あれは夢ではなかったのか......
「夢ではないわ、戦士ベガ」
ルナ姫は開かれた本のページを読むようにたやすくベガの思念をチューニングした。
──そうだ。彼女の名はプリンセス・ルナ。神の如き者〝フロイ〟が私を覚醒させるべく派遣した異星の超能力者だ。〝フロイ〟は私を異星雲の辺境の星、地球へ送ると告げた......そうだ、思いだしたぞ! 神の如き者〝フロイ〟は〝幻魔〟に対抗し異星の姫君に助力させるべく、私を辺境の星、地球へ送ると約束したのだ! あれは夢ではなかったのか......
ベガの思念は暗く苦く後悔と落胆に満ちてい、ルナ姫を憤然とさせずにはおかなかった。
「夢でなくてお気の毒ね。あなたはあの地獄のような宇宙の墓場で、悔恨に責めたてられながら、出口のない悪夢の中を逃げまわっていたほうがよかったというのね」
と、ルナ姫は痛烈な調子でいった。ルナのような女性が出す時、その声音はガラス破片を植えつけた笞と同じ効果を発揮するのだった。
「あなたはもう逃げまわり落ちのびるだけが精一杯の敗残兵に心からなってしまっているのね!」
「お願いだから、どうか私の心を読まないでいただきたいものだ、美しい異星の姫よ。私は長い長い戦いに倦み疲れているのです」
サイボーグ戦士は悲しげに答えた。それは異星の言葉でなされたが、強力レベルのテレパシー能力を目覚めさせたルナ姫にとっては苦にもならなかった。
「あなたにはとうていおわかりにならんでしょう。長い戦いは地獄そのものでした。〝幻魔〟は善きもの、美しいもの、価値あるものを全て根こそぎにし、破壊し、滅尽した。私にとっては全てが終ったのです、なにもかも......どうか私を責めないでいただきたい、ルナ姫よ。私は冷たい永劫の眠りから、無理やり引きだされたばかりなのです......」
「知っていますよ、ベガ、なにもかも。〝フロイ〟が彼の意識の中から、全てを映しだして見せてくれたわ」
と、ルナ姫は冷やかに答えた。
「かつてのあなたは比類ない勇者であり、何百億、何千億もの民があなたの名を耳にしただけで勇気づき、奮いたったわ。あなたこそまぎれもない真の英雄そのものだった......でも、みなが......アリエータが尊敬と崇拝をこめて、勇者ベガと呼んだ、英雄ベガはどこかへ去ってしまったのね。女々しい泣き言しか口にしない抜殻を残して......そうよ、今のあなたは抜殻だわ! 巨大なエネルギー発生装置、幾多の超兵器を備えたサイボーグ戦士の逞しい偉軀の中には、なにもないのね!」
ルナ姫は燃える瞳をベガの巨体に注ぎ、斬りつけるようにいった。
「あなたは偉大なる抜殻だわ!」
「なぜ、アリエータの名を......?」
サイボーグ戦士は驚いた目をし、傷ついた心を抱きしめる少年のようにおし黙った。
「わたくしは〝フロイ〟に導かれて、あなたの意識の中に入ったわ。あなたの想いの全てを知らされたのよ。でも、アリエータはもちろん、わたくしだってまさかあなたがこんなに空虚な、魂の抜殻になってしまうとは夢にも思わなかった......」
ルナ姫の瞳に痛憤のたぎり落ちる涙が光った。
「いったい何があなたをこのようにみじめな卑しい敗残者そのものに変えてしまったの。誇り高いだれよりも剛毅な戦士ベガはどうしてしまったの? アリエータが今のあなたを知ったらどんなに悲嘆することかしら......わたくしには自分のことのようにわかる。
〝フロイ〟は助力者たるべき者としてあなたを選んで地球へ送ってくれた。だけどわたくしたちは戦う気力をなくした、惨めな負け犬は要らないわ」
「異星の美しい姫よ。私は二百年というもの戦いに明け暮れ、挙句の果てに私が戦士として帰属し、忠誠を捧げ、愛したものを全て喪い、敗残兵となったのですよ」
ベガはたまりかねたように抗弁した。ルナ姫の見せた憤りの涙にいたくショックを受けたことを隠さなかった。
「それを、今ただちに立ち直れとおっしゃっても無理というものです。あなたはなにもご存知ないのだ......長い長い戦いがどんなに人の心を倦み疲れさせるか、感性を摩滅させ、無残に荒廃させるかを......あなたは〝幻魔〟の真の恐ろしさをご存知ない。それは強酸のように心をむしばむ恐怖との戦いでもある。そして私の胸は荒涼とし、空虚になってしまった。しかし、それが私の罪でしょうか?」
ベガは心から知りたがっていた。
「どうか教えていただきたい、美しい異星の姫よ。この蓄積した底なしの汚泥のような魂の疲労は、私にはどうにもならんのです。私は疲れた......とてつもない疲労です。それをどうかわかっていただきたいものだ」
「腰抜けの負け犬!」
ルナ姫の紅唇を痛烈な蔑みをこめた一語が迸った。
「戦士ともあろうものが、よくもそんな泣き言を際限もなくいえますね! 地球人はあなたのような者の力など借りない! 臆病者はさっさと立ち去るとよい!」
ルナ姫の怒りは激しかった。誇り高い美貌は凄絶なほど冴えた。瞳から稲妻が迸る。
「負け犬!」
「むごいおっしゃりようだ」
ベガは茫然としていた。ルナ姫の迫力に押しまくられていた。彼の巨きな掌に乗りそうな腰をしたかぼそい女性が怪異なサイボーグ戦士を幼い弟のように叱りとばしているのだ。
「あなたがかりそめにも戦士であるなら、恥を知りなさい。誇りを失った戦士は、戦士の屍よりも無価値です。あなたを信じて地球へ送り届けてくれた〝フロイ〟が気の毒です。あなたは負け犬になることによって、あなたを育みそだてた、そしてあなたを愛し尊敬した、故郷の星々の人たちを全て裏切っているのですよ! なぜそれがわからないのですか......あなたは本当にそれでも戦士だったのですか」
「私は......そうです、昔は戦士でした」
ベガは聞こえないほどの小声で呟いた。ルナ姫の叱責に打ちのめされてしまったのだ。実際に雷撃を受けたとしても、これほどのショックは感じなかったであろう。
「あなたを信じ、愛して死んでいった人たち......とりわけアリエータに対して弁解する言葉がありますか?」
「弁解の余地はありません......二千年もの間、私は自分を見失っていたようです。ルナ姫よ、まったくあなたのおっしゃるとおりだ。私は恥で全身が燃えあがりそうです」
「もう一度尋ねます」
と、ルナ姫は容赦なく追い詰めた。
「今もなお、あなたは戦士ですか? はっきり答えてください」
「そう......私は今もなお戦士です。たとえ宇宙の敗残兵であっても、私が依然として戦士であることに変りはない。私は戦士であり、それを止めることはできないのです。たった今、それがわかりました」
ベガの声音は力強さを加えた。
「その事実を私に教えてくれたあなたに感謝します。あなたはきびしく言葉の笞で私を打ちのめすことによって、私を蘇生させてくれた......ありがとう、プリンセス。あなたとともに歩むことで、私はあなたに感謝を示そう。神の如き者〝フロイ〟の選択が誤りなきことを証明するためにも......」
ルナ姫は無言で輝くような笑顔を見せた。たとえ濡れネズミであっても、可愛らしく美しいプリンセスであることに変りはなかった。
「よろしい、勇者ベガ......」
と、ルナ姫はおごそかにいった。
「神の如き者〝フロイ〟の推挙を受け容れ、あなたを〝大連盟〟地球戦団の軍事顧問に任命することにいたします。今ここで、誓ってください......」
と、ルナ姫はいった。
「今後、私たちと生死をともにし、〝幻魔〟の侵攻軍と戦い、宇宙に平安と調和を回復するべくことを、戦士の誇りにかけて誓うのです。わたくしとあなたの良心と、そしてこのイルカたちが証人です」
「誓います......」
と、ベガが答えると同時にイルカたちが喧しくお喋りを再開した。息の詰まる緊張から解放され、楽しくなったというはしゃぎぶりだった。
「人間だけが〝幻魔〟と戦うのではありませんね」
と、ルナ姫が感慨深げにいった。
「地球上の生きとし生けるものがこぞって、破壊者〝幻魔〟と戦うのです。今、気付きましたが、イルカたちも人間にいまだ知られていない〝力〟をもって、来たるべき〝幻魔大戦〟の戦線に参加するだろうと彼らは告げています。もしわたくしと、勇者ベガ、数百万光年隔って生きていたあなたとが、しっかり手を結びあって、愛と信頼をいつまでもつなぎとめるなら、わたくしたちは決して敗北しないでしょう。〝フロイ〟がわたくしの意識の裡に残してくれたメッセージです......」
「プリンセス、戦士は誓いを守るものです」
戦士ベガはいかつい巨きな手を海中から伸ばし、同時にイルカの浮島の上からさしのべたルナ姫の白い繊手をそっと掌に握りしめた。
「私の忠誠はあなたのものだ。私は今、確実に甦った。この奇蹟の邂逅の時を与えてくれた〝フロイ〟に......宇宙意識でも宇宙エネルギーでもなんでもよい、無神論者だった私だが、その存在を神と呼んでもよい、深く感謝しよう。そして私は今もなお、私を必要とし、信じてくれる人々のために生きよう」
「わたくしたちはあなたを歓迎します、勇者ベガ」
ルナ姫はベガの腕に抱き取られ、巨大な幅広の肩に座りながら朗らかにいった。

「わたくしはこれから仲間たちを捜さねばなりません。まだ逢ったことのない人々だけれども、名前も顔も、どこへ行けばよいかもすでにわかっています。未来透視によって......でも、これさえも、〝フロイ〟の贈りものなのでしょう、きっと」
イルカたちがさっと散った。彼らがどんなに空中高くすばらしいジャンプを見せても、巨人戦士ベガとルナ姫の姿はもはやどこにも見当らなくなっていた。
彼らは任務を果すべく、去ってしまったのだった。
2
人間には必ず、失意の時が訪れる。それは人が人である限り避けがたいものだ。社会的動物である人間は、孤島や人跡未踏の密林の奥地にでも、孤立して生きなければ、己れの人生を思いどおりに生きることはできない。
そのようなことは不可能だし、人が常に自我の拡大を望むならば、他との摩擦により、挫折は尽きることがないだろう。
挫折と無縁の人生はありえないし、それを自己鍛練の機会とみなし、奮起するきわめて幸せな人たちも存在しており、彼らの認識はまったく正しいのだ。
だが、いつも自己中心に生きている人間、自我の無制限な拡大こそが人生最大の目的とみなす人間たちは数多く、彼らは必ず社会的勝者となるべく、他人を排除する競争原理を信仰する。
この種の信念体系の信奉者たちはなによりも挫折を忌み恐れる。挫折は他人のためのものであり、自分の身に生じてはならないのだ。
自己中心に徹して生きようとする人間にとって、挫折は耐えがたい大きな苦しみだ。挫折を恐れ、回避しようと焦るほどに、その苦痛は増大し、さらに耐えがたいものになる。
自己の生きたいように生きるし己れの生き易さを他人に要求して生きることが、自我の拡大欲というものだ。他人は必ずしもそれを許容はせず、激しく抵抗する場合もあって、思うにまかせず凶暴な自我は傷つき、血を流すことになる。
高校生、東丈がそうした典型の一人だった。丈は重ねて挫折を幾つも味わうことになった。
彼は失恋し、志望大学の格落ちを指導教師に宣告され、高校野球部のレギュラーからはずされた。
友人に裏切られ、家庭には不和があり、肉体的欠陥の恐怖があり、およそ考えられる限りの挫折が丈に波状攻撃を加えてきつつあった。
悪運は仲間連れでやってくるのを好む。俗にいう憑きに見放された時がこんな状態を招き寄せる。
一九六七年春──。
東京杉並、青林学園高校の野球部では、新年度のレギュラーの発表を待っていた。
すでに内定は耳打ちされているのだが、やはり正式告示となると、さすがに緊張した若々しい、あるいは子供っぽい顔が並んでいた。
前キャプテンの手には、各ポジションのレギュラー氏名を記した紙が巻かれて筒になっている。部員たちは心を逸らせ、固唾を吞んでいた。
「全員集合したか?」
と、三年の前キャプテンが腕の時計をのぞきこみながらいった。
「じゃあ、発表するぞ、いいな」
「キャプテン! 丈と四朗がまだです」
「遅い! いったいなにをやっとるんだ、あのバカ」
と、前キャプテンはぎゅっと眉をしかめて不機嫌な声音を出した。
「担任のデバ......いや出羽先生に......」
と、二年の部員が野球部長の顔をうかがい、ペロリと舌を出した。
「出羽先生に油を絞られてます」
「油を? なんでや?」
「学年度末の考査の成績が悪いとかで......東大志望は諦めたほうがよいと説得されているのでは」
失笑が湧いた。
「青年よ野心家たれ、かよ......」
「トウダイ違いね、無理むり」
「がむしゃらだからなあ、あのチビ。練習試合でも目の色変えてスパイクしやがるんだから......」
「汚ねえんだよ、あいつ。ヘボなくせにバッティング練習だってもう一本、もう一本てねばりやがるしよ」
丈の評判はかんばしくないようだった。
「まあ、四朗はともかく、丈が頑張り屋だというのは確かだが......」
と、野球部長の中年教師がなにやら口重げにいった。
「とかく、がむしゃらに背伸びをするのが難点なのだな。根性があるのはいいが、チームワークが丈一人のためにガタガタになってしまう」
前キャプテンは唇を妙な形に引き締めながら、部長の述懐とも愚痴ともつかぬ言を聞いていた。
「先生......今度の決定のことですが、あらかじめ丈に話しておいたほうがよかったんじゃないですか?」
声を落していった。
「ん......しかし、そうはいっても、丈だけを特別扱いするわけにはいかんだろう。こと志と反するのは、なにも丈一人だけじゃないんだ」
部屋はだしぬけに静まり返った。その会話の意味するところは明瞭すぎた。丈にとっては凶報だ。
「しょうがねえよなあ。運だよ、運」
と、部員の一人がいった。
「実力のねえ奴は必ずそういうんだよ」
「くじびきじゃないもんな」
「静かにしろ」
と、前キャプテンがざわめきを抑えた。
「では発表する。おい、だれか画鋲を取ってくれ」
緊張で部室の空気は浸水したように重くなった。部員全員の視線を浴びて、前キャプテンは無器用そうな手つきで、筒に巻いた二枚つなぎの全紙大の紙を拡げにかかった。
「お前、ちょっとそっちの端をおさえて」
だれかがいかにもわざとらしい溜息を漏らした。だれも笑わなかった。
東丈。この四月早々十七歳になったばかり。高校二年。
彼は親しい友人である江田四朗とともに、学級担任の教師から、ようやく解放された。デバと生徒たちが呼んでいる出羽教師は、頭頂が禿げた、ひょろりと瘦せた陰気な中年教師だった。
ぼそぼそした無味乾燥な話しぶりで、丈たちに際限もなく説教を続けた。しなびた野菜のように魅力に欠けていた。丈たちは神妙な顔付の演技を続けることにしんそこ疲れた。
世の中には顔をつきあわせるだけでも、かったるくなり、エネルギーを使い果す、という人間が存在しており、出羽教師はまぎれもなくその内の一員であった。
職員室を出た二人は、疲れやすい老人が覚えるような疲労を抱き、げっそりした顔つきになっていた。
「ちっ」
校庭に出ると、丈は荒々しく唾を吐いた。癇の強さがはっきりと顔立ちをはじめ、全身の動作に表われていた。気短で瞬発力があり、思いどおりにならないと堪え性がない。他人の動作や思考が常にワン・テンポ遅れているように感じ、苛々する。いつも先頭を切って走っていないとおさまらない。
自己に対する自分自身の評価と他人の評価が必ず食い違い、期待はずれになる。なぜ他人が己れを過小評価するのか不思議でならない。
彼の目の中には、絶えず他人の賞讃を期待する落着かない光がある。そのために必死の努力を傾けるのだが、いつも目標は彼の力にわずかながら余る。
丈はそういう少年だ。身長一六二センチ。彼の心の隅で焼けた石炭みたいに、間断なく苦患をもたらし続ける元凶である。中学二年当時からまったく背は伸びず、凍りついてしまっている。彼の全ての鬱屈はそこに起因する。
「実に凡庸なせりふしか吐かねえな。世の常識って奴を、一歩たりとも超えることができないんだ、奴は。しかも、自分の奉ずる常識の線を、他人が超えることすらも許せないと来てるんだ。
奴は自分の目で、たとえ幽霊を見ようが、空飛ぶ円盤を見ようが、断乎として認めることを拒否するぜ。そんなものが実在するというのは、世の常識に反するからだよ」
丈は見るからに向う気が強そうだった。口調も戦闘的であり、必要がない時も相手に突っかかるような口調で喋る。議論にかけても見かけどおりのファイターだ。自分の条理が通らない時は、論理をすり変えてでも、論破されまいと頑張る。
絶対に負けたくないのだ、と、江田四朗は小柄な友人の性格を見ている。が、必要以上に丈が攻撃的なのは、本当は自信が欠けており、それを隠蔽するためだと思っているが、決して口には出さない。
丈は他人に批判がましいことをいわれると、全人格を否定されたかのような、過激な反応をしめす。ものすごい劣等感の持主であり、それを刺激すると、丈はきわめて不健康な精神状態の人間になる。
江田四朗は論争家タイプの人間ではなかったし、丈とつきあっていけるのはそのためだった。
丈は圭角だらけの少年だったが、それを償うのは、彼が実に凜然たる美少年という事実であった。色白で眉は濃く、瞳は黒々と輝く。その黒い瞳に不穏な光が絶え間なくちらついているとしても、充分な魅力があった。
もっと人気があってもいいはずなのに、丈はどちらかといえば、敬して遠ざけられていた。あまりにも手強く、迫力があるうるさがただからであろう。
「常識に凝り固まった奴ってのは、不善だ。おれはそう思う」
丈は妥協のない口ぶりで続けた。
「受験と高校スポーツは、デバがいうように本当に両立しないか? そんなテーゼはそもそもありえないじゃないか。両立させるもさせないも、当人の意志強固さであり、根性なんだからな。デバは正しくは両立しがたいというべきなんだが、両立しない、とすり変えているんだ。奴の怠惰さの証明だよ。
奴は生徒に、受験に専念させるように仕向けることで楽をしたいんだ。だが、おれは絶対に両立させてみせる。おれにとって、青春とは、自己の可能性に挑戦することだし、ぎりぎりの限界まで突きつめてやる。それが、おれにとってはガッツってことなんだ」
丈は話しだすとすぐに熱っぽくなった。
「なあ、四朗よ。おれはこんな体でも中学から柔道をやったし、サッカーもやった。剣道もやり、高校ではボクシングか野球かで、野球をとった。だけど、勉強を怠けたわけじゃないし、英会話をやり、ハムの免許を取り、哲学書だって読んでる。ニーチェやショーペンハウエルをな。おれぐらい頑張ってる奴が、うちの高校に何人いる?
おれはフル・オーケストラのタクトを振れるぜ。ピアノとバイオリンを四つの時から習ったから、スコアだって自由に読めるんだ。
おれは他人に負けるのが絶対にいやなんだ。負け犬になるくらいなら、自殺する。デバの奴だって、おれに根性がないとは絶対にいえないはずだ」
「丈のお姉さんは、ずいぶんいろんなことをお前に仕込んだんだな」
と、四朗はさりげなくいった。
「丈の才能を伸ばしてあげようとしたんだな。いいお姉さんでうらやましいよ。おれもそういう姉がいたらな」
「親代りってやつだから......小さいころはけっこうスパルタだったんだぜ。ピアノをガキだから指が小さくて、うまく弾けないだろ。そうするとモノサシで、こう指をピシッとぶちやがるんだ。わんわん泣きながらピアノを弾いたっけ。おっかねえお師匠さんだったよ。今はさすがにぶたれないけどな」
丈の口調が和らいだ。丈には、彼と顔だちが酷似した美しい姉があるのだ。十歳近くも年上なので、母親のいない丈を親代りとして育てるには充分であった。四朗にとっては、神秘的なほどろうたけた大人の女性であり、ひそかな憧れの対象であった。いまだに未婚のまま、丈と弟の卓の世話を親代りで焼いている。
丈とは同系の美貌だが比べようもなく眉と瞳が優しい、やや寂しい顔立ちの女性だった。
問題は丈の弟だ、と四朗は思った。巨漢ともいうべき高校一年生で、一歳上の兄である丈とは人種が異るようなのだ。弟の卓は傑物とでもいうべき存在で、高校柔道界の逸材である。こちらは完全に文武両道であり、身長一九〇センチという巨体の印象とは裏腹に、学業成績は学年一をくだらない。すごい鋭利な頭の持主なのだ。
丈は決して弟のことは口にしなかった。
「僕はまさに凡庸そのものだから......」
と、四朗は疑わしげにいった。
「両立はむりだ。結局はどちらかを選ぶことになるからなあ」
「この期に及んで、情ないことをいうな」
丈がきめつけた。
「なんのために、この一年間、汗と泥にまみれてグラウンドを這いずりまわったんだよ。そんな弱音を吐いてるようじゃ、ボロ雑巾みたいになったユニフォームが泣くぜ」
むっとした表情だった。
「レギュラーのポジションをがっちりこの手で摑もうってんだぜ。それより発表にだいぶ遅れた。行こう。走ってくぞ!」
駆けだす丈の後を、四朗があわてて追う。
「だけど、丈よ......お前はともかく、僕のレギュラーは怪しいもんだ......僕は神経がちょっと鈍いところがある......」
走りながら四朗がいう。
「馬鹿いえっ、じゃ、おれが最初から運動神経があったというのか? 冗談じゃねえ、他人の三倍猛練習したからだ! ガッツならだれにも負けねえ......そう自信がついたからだ......」
二人は離れた部室へ向けて、校庭を横切り、せっせと走った。
「丈よ、おれな......レギュラーはずされたらな......受験一本に絞るよ」
四朗は息を弾ませて喋った。
「なにっ、退部するってのか!?」
「ああ......そうする......」
丈はいきなり足を停めた。行きすぎる四朗の背中を眼を怒らせて睨みつけた。
「日和ったな、お前」
「怒るなよ。家庭の事情というのがあるんだよ」
四朗は丈をなだめるように、気弱そうにいった。丈のきつい目を背中に受けたまま、振り返ろうともしない。
「おやじが退職したんだ。再就職するだろうが、もう年だし......だから浪人なんかしてる余裕はないんだ。おれは、レギュラーになれなくても、むしろそのほうが......」
「そうじゃない。根性が足りないんだ」
丈は咬みつくような口のききかたをした。
「家庭の事情だと? それを口実にしてるだけなんだ。もう努力するのがいやになった......それだけのことなんだよ、お前は」
「そんないいかたはないだろう」
さすがに穏和な四朗の顔色が変わったようであった。
「後できっちり話をつけるさ。今は時間がない。行くぞ」
丈は冷淡にいい捨てて、再び走りだした。
血と汗どころか、反吐を吐き、腰が立たない猛練習の明け暮れによって、営々と築きあげたものが、砂上の楼閣であることを知った時、都合よく再起の努力など湧いてくれるものではない。目的完遂の原動力が自我の拡大にあった時、崩壊がもたらすのは地獄の苦しみだけだ。
正選手のポジション表に丈の名前はなく、皮肉なことに、まったく自信欠如していた江田四朗の名はレギュラー・メンバーとして登録されていたのである。
丈の顔面は蒼白になり、握りしめた両手の拳は抑えようもなくぶるぶる慄えた。頭の中が真空になったように、耳の中は轟音で充満した。
部員たちの目が、血の気を喪った己れの顔を窺っているのはわかるが、どうにも制御できない。たとえようもない喪失感と失墜感とで血が逆流し、立っているのが困難になった。前キャプテンがなにごとか話しかけているが、意味をなす言葉として丈の耳には聞こえてこない。
丈は正選手の座を、一年生部員に奪われたのである。二年生の丈よりもはるかに体格がよく、素質に恵まれ、中学野球のヒーローだった新入生に。
丈はすさまじく口をかたく結んだまま、部屋を飛び出した。足許がふらついたのが、堪まらないほど癪だった。
「丈! 待てよ! どこへ行くんだ!」
前キャプテンの制止の声を振り切るように走る。思考がバラバラに飛散し、なにも考えられない。頭の内部で暗闇が咆え猛っている。体に感覚がなく、重く痺れて自分のものではないような足で、丈は走る。激動で心が軋んでいる。全世界が意味のない無秩序なマッスに変貌して行く。
東丈が真蒼な顔で飛びだして行った後、部室は気まずい、金属の味のする沈黙で満たされた。
後味が悪すぎて、互いに相手の視線を避けあっていた。丈の反応があまりにも強烈だったので、度肝を抜かれてしまったのだ。
東丈が従容と運命を受け容れるタイプではなく、最後まで投げずに食いさがり、あくまで闘争するタフなファイターだと知ってはいても、丈の振舞いはあまりにも異常すぎた。
悲劇の予感を感じたように、だれもが憮然として居心地悪げにしていた。
「ショックだったなあ、丈には......」
と、三年生の部員が咳払いしながらいった。
「無理もないけどよ」
「ひょっとすると退部するかもしれねえな。あの取り乱しようじゃ......」
「しょうがねえよな。がっくりきてるのは丈一人じゃねえんだし。おれだって二年の時、補欠に落されて滅入ったもんな」
「実力の世界だから、きびしいよ。どこだってこんなもんだよ。なんでもそうそう自分の思いどおりになるもんじゃないしなあ」
三年生の部員たちが口々にいった。
「とにかく、あいつは野球向きじゃないよ。それが原因の全てだよ。だれだって、みんないってたじゃねえか」
それが事実なのだった。部員たちは野球部長も含めて、なんとなく納得し、ほっと気が楽になった。
「遅れましたが、ミーティングを始めます」
と、新任のキャプテンがどもりながら口を切った。丈のことはしばらく気になるだろうが、そのうちに忘れてしまうだろう。脱落者にとって落伍は重大問題だが、他人は気にもとめないものなのだ。
だれが悪いのでもない、と理性ではわかってはいる。どこへも尻を持って行きようがない。
あてどのない痛憤に丈は慄えた。
強いていえば、悲劇は丈本人の背伸びがもたらしたものだ。
丈の肉体的能力が人並以下ということはない。だが、スポーツにおいては、持って生れた素質がものをいう。とくに、丈が卓越した素質を有する競争相手を持ち、その相手が努力家であって、資質をより生かしているならば、肉体的ハンデを負った丈には、根性だけではいかんともしがたい限界が存在した。
丈は遣り場のない憤りに悶えた。他人が八時間眠るなら、こちらは睡眠時間を四時間に減らすことができる。他人が二時間練習するなら、こちらは練習量を倍に増やすこともできる。努力と根性ならだれにも負けない。
だが、持って生れた貧困な資質をどうすればいいのだ。死ぬ気で努力しても、破れぬ壁が厳然として存在する。
丈は、人気のない校庭のはずれの、桜の古木に顔を押しつけ、崩れかけている心を必死で抑えつけていた。
──畜生! 負けてたまるか! おれは負け犬にはならないぞ! こんなことでめげたら、おれは負け犬になる......

丈は顔を古木のごつごつした幹に打ちつけることによって、心の激震に堪えようとしていた。堪えようとするほどに、しだいに力まかせになってくる。がつんがつんと音がするほど激しく叩きつけ、その衝撃と苦痛がむしろ快かった。
自分自身に攻撃的であることしか、今の丈にはなすすべもなかったのだ。
「丈! やめろ! そんな無茶なことやめてくれ!」
背後で悲鳴のようにだれかが叫んだ。江田四朗が後を追ってきたのである。
「そんなこと止めてくれ! 死んじまうぞ!」
丈は、自分の身を気遣ってくれる友人に対して、なんの感動も覚えなかった。ただわずらわしく、うとましいだけだった。
だが、狂ったように古木の幹に顔を打ちつける動作だけは止めた。葉だけになった桜の古木が揺れていた。
「丈、おれな......さっきもちょっといったけど、家の事情で退部しようと決心してるんだよ」
「お前は、正選手になったんだろ......」
丈は振り向きもせずにいった。自己閉鎖と拒否のためにおよそ感情のない声音であった。
「だけど、よく考えてみると、やっぱりおれには受験と野球を両立させるのは無理だ。両方ともだめにしちまう......だから、おれ、受験一本に的を絞ることに決心した。で、キャプテンに頼みこんで、ライトのポジションをお前にゆずりたいんだ......」
「ふざけるな!」
丈は引き裂けるような声を出して、べったり血のにじむ蒼白な顔を四朗に振り向けた。額には醜い傷が口を開いていた。目は屈辱と憤怒にぎらぎら光っていた。四朗が思わず後退りするほど凄惨な表情をしていた。
「そんなことが通用するとお前は本気で思ってるのか!」
丈は憎悪に光る目で、歯ぎしりした。
「お前は、おれの気性を知っているくせに、そんな白々しいことをよくいえるな!」
「丈......おれ、そんなつもりでいったんじゃないんだ」
「おれはな、チビだ。だれもがいうようにチビなんだよ」
丈は切り裂くような声音でいった。呪詛に満ちており、四朗は背中が冷気で覆われた。
「肩も弱いし、走るのも遅い。いくら努力しても、これだけはどうにもならない......チビだから、どうしてもパワーがない。今時の小学生なら、おれよりもでかいのが沢山いる。
反吐を吐きながら頑張ってみても、素質のある奴が本気になったらかなわない。おれには一番肝心な素質がないんだ。だから、これ以上はどうやっても伸びない。おれの背丈と同じさ......そうだろ、四朗。お前だってそれを認めるはずだぞ」
「丈......」
四朗はいいかけて言葉にならず、顔をいたずらに振り動かした。
「それが真実なんだ。おれは一年生の素質のある奴にポジションを奪られた。だからといって、他人に変に同情されたり憐れまれたりする憶えはない。人を負け犬扱いするな! おれはお前を殴りたくてうずうずしてるんだぞ! 四朗、お前はおれに最悪の侮辱を加えてくれたな......」
丈の体は激昂に慄えていた。
「悪かったな......おれはただコンバートできればと思ったんだ」
四朗は茫然といった。心が苦く冷めて行くのを感じていた。丈はもちろんどうかしているが、自分の間抜けさにも腹が立ってきたのだ。
友情なんて、この程度のものか、と四朗は冷めた心で考えた。たかが野球、と彼はいいたかった。その程度のもので、人生の破滅のように反応するのは馬鹿げている。たかが高校野球部のサードのポジションの取り合いではないか。
社会の動向にいささかも変化をもたらすわけではない。あまりにも卑小でちっぽけだ。
もちろん、そんなことを口にすれば、丈は本当に四朗を殴るであろう。だから彼は黙っていた。
受験勉強に専念すれば、丈との仲も稀薄になり、しだいに遠のいて行くだろう。
丈はヒステリックで異常だ、と彼は思い、己れの思念の冷淡さに愕いた。これまで親友だと思っていたが、こんなことで心が離れるとしたら、友情とはいったいなんだったのか。
「その、額の傷だけど、医者へ行ったほうがいいな。たぶん縫わなきゃならないだろう。相当ひどい出血だ」
と、四朗は乾いた声でいった。これ以上丈のそばにはいたくないのだった。もうつきあいきれねえやと内心呟いている自分の薄情さに気がとがめながらも、幻想に等しかった友情の破綻を受け容れる気持になっていた。
3
野球部を退部し、友人の江田四朗と気まずくなり、立て続けの挫折を味わった東丈は、更に失恋の憂き目を見ることになった。
恋と呼ぶには、丈のエゴは肥大しすぎていたかもしれない。丈は昔から異性に対して淡白という以上に冷淡な性向があったようである。
丈はかつて異常なほど可愛らしい少年だった。端正な愛らしい顔立ちに、黒く輝く瞳の魅惑は、女たちを文字どおり身慄いさせ、天使と呼ばせるに充分だった。
小学生時分まで、丈は見る者に息を吞ませる美少年であった。造化の神がよほど念入りに手がけたとしか思えなかった。
女たちに限っていえば、丈は讃美や追従、媚態に慣れきり、ちやほやされるのに飽きあきしていたのだ。
通学区域の異る他の小学校、中学校の女の子から大量のラブ・レターを渡された。しまいには読む気もなくなり未開封のままかたはしからドブ川に捨てた。
同性の少年たちはたいていが丈の敵だったが、女たちは徹底した彼の讃美者、崇拝者であった。生れながらのドン・ファンではないかと大人たちは心配したが、そのころから丈は一種独得の教祖性を身につけていたようである。
だが、丈は自分の持っている女性たちへの影響力に嫌悪を抱いていた。年齢に関りなく女たちがねっとりした視線でへばりつき、しきりにまとわり、つきまとうのがいやだった。自分の母親と同じ年代の女たちまでが、いやらしい媚態を示すのだ。丈は彼女らの体臭を嗅ぐことすらうとましかった。
そんな過去が、丈を異性に対して冷酷にさせる素地を形成したようである。
ガールフレンドがいないわけではなかったが、所詮恋人の域に高まりはしなかった。いつも丈に過大な要求を突きつけるようになるからだった。手紙の返事をくれないとか、電話を丈からかけないというくだらぬことが、トラブルの原因になる。彼女らはきまって丈を独占しようとするのだった。
一方、丈は女性に専有される気は毛頭なかったので、気まずいことになった。丈にとってはまったく意外な愁嘆場を招き寄せることになってしまうのである。
多趣味で、やりたいことが山ほどある丈にしてみれば、他愛もない女の子とつきあっている時間がまったく惜しかった。
高校入学後、丈はステディのガールフレンドを持った。
ピアノを弾く少女で、名前を沢川淳子といった。姉の三千子の仕込みで、一時はピアニストを志望したこともある丈と波長が合ったのだ。手が小さいため、ピアノは断念したが、音楽に関心を失ったわけではなかったので、沢川淳子とつきあうのは退屈ではなかった。
少女は丈より二歳年上で今年音大に入学したばかりだった。鋭い感性の持主であり、なんといってもすごい美人であった。
丈が彼女とつきあいだしたのは、そのためもあったに違いない。自分より年上だという点も気に入っていた。丈にとっては、ガールフレンドとはその程度のものであり、仲間に顕示するアクセサリーの性格を持つものだった。
知りあって一年間、二人の仲は恋人に格上げしてもいい状態に進んでいた。年上の少女はすでに熟していて、窮極的な関係を望んだが、丈はそこまでは踏み切れずにいた。
やはり丈にとって女性はアクセサリーにすぎず、過大な要求を持ちだされることを拒否していたのかもしれない。
恋人だと自分では思っていたのだが、さほど心が熱しているわけではなかった。他人が目をひるませるほどの美人でなければ、これまで同様、単なるガールフレンドで終始していたかもしれないのだった。
沢川淳子という少女を、愛していると丈は自分にいいきかせていた。話は合ったし、いっしょに時間をすごすのは楽しかった。次に逢う日をきめなければ、さよならをいいあうことはなかった。若い異性の肉体の刺激的な感触も知り、荒い呼吸をつく熱した唇の味を覚え、薄い小さな下着の下に指を潜らせて、生暖い鮮血のような手触りにスリルを感じた。
互いに愛撫しあって欲望を高めるすべも習い覚えた。彼女が自分に夢中になるのを見るのは快楽であった。興奮の極に達すると、恥ずかしがりやの美少女が別人のように変貌してしまうのだ。
丈は彼女を果てしもなく引き込みながらも、彼女の欲するものを、手を高く掲げて遠ざけるようにして与えようとはしなかった。
それは決して丈の清教徒的少年の潔癖さでもなく禁欲主義のもたらすものでもなかった。相手に、多くを要求され奪われることを恐れる、単なるエゴのなせるわざであった。その点、丈は甘やかされた子供同様、実に自己本位で、卑劣だったのだ。
野球部を退部し、親友だった江田四朗と気まずくなった後、丈は恋人の沢川淳子とも不和になり、喧嘩別れをした。
四月の挫折以来、丈は陰鬱になり、とげとげしい不機嫌さをウニのトゲさながらに生やして、周囲の一切に対し敵意をことさらに隠そうともしなかった。
だれに対しても、咬みつくような喧嘩腰で応じるのだった。自分でもぶざまだと思い、どうかしていると反省が掠めるのだが、どうにも自制がきかないのだった。
自己閉鎖し、手のつけられない不機嫌のウニの殻の中に閉じこもっているほうが、気楽でいいというふてくされた気分が続いていた。
ひどく蒸暑い夏が訪れ、丈のささやかな挫折には関りなく季節は移って行くが、丈の鬱屈は強固に持続していた。周囲では彼の精神失調を気遣いはじめた。
恋人との仲が破綻するのは当然といえたろう。少女は丈のねじくれた凶暴な自我に対応することができなかった。彼女は大学の新しい世界の急速な展開に気をとられており、級友や上級生との新しい交際にいくらも魅力を見出すことができたからである。
年下の恋人のわけのわからぬ幼稚な鬱屈を理解しなかったし、その努力を払おうともしなかった。
「悪いけど、あたしにはあたしの生活があるのよ。丈がなにを悩んでいるのか知らないけど、あたしにまで当り散らすのはやめてほしいわ」
と、沢川淳子はきわめてはっきりといい渡した。
「あなたの顔見ていると、こっちまで気が重くなっちゃうもの。だいたい野球なんて部活動、足を洗うのが当然じゃない。受験だって、そこここの大学でお茶を濁すわけじゃないでしょう。そうなにもかもが丈の思いどおりになるわけじゃないし、そんなことでイジイジ悩んでるなんて幼児的だわ。
とにかく、あなたの自分勝手な不機嫌さの飛ばっちりで、あたしの生活まで陰気にしたくないの。当分逢わないことにしましょう。その方がいいわ。あたし、決心したの」
上野でのバイオリン・コンサートを聴きに行った後、美少女は容赦なく宣告し、二人の仲は終った。彼女はますます成熟の度合を増して美しく、高校生の丈にとってはアンバランスな恋人になりすぎていた。
「イジイジしてる丈には全然魅力ないわよ」
と、彼女は別れぎわに辛辣な言を吐いた。
「あなたの颯爽としているところが、とってもよかったんだけど......丈って案外挫折に脆いのね。見た目とは大違い......」
彼女も、いくらか気がとがめていて、自己正当化を計らねばならなかったのだろう。
「君がその気なら、それでいいさ」
丈はようやくのことで言葉を喉の奥から押しだした。
「君がそういう女だと早くわかってよかったよ」
未練を残すのは無念すぎた。
「あら、あたしがどういう女だと思ってたの? 悪いけど、あたしって、なんでもハイハイということをきく可愛い女じゃないのよね。他人の持物みたいに思われて、どうでもいいように扱われるのはいやなの。あたしだって傷つきたくないもの。特に八つ当りで他人を傷つけて平気な人とはつきあえないのよね、やっぱり」
彼女は丈をとことんまでやりこめた。
「とにかく、あたしは自由で、だれに対しても何も負い目はないんだし、それをあなたにはっきりいっておきたかったの」
上野の森は分厚く夏の葉が繁り、二人連れの姿がむやみに多かった。しかし、今の丈には、枯れ木の荒涼とした光景にも等しかったのである。
いうまでもなく沢川淳子のいい分には理があった。一方的に悪いのは丈自身であり、返す言葉もなかった。だが二人のこれまでの結びつきが、愛でも恋でもないことが明白になっていた。彼らが互いに要求していたものは、相手の美しさや魅力であり、他人に顕示するアクセサリーの域を出ないものだったのである。
「でもね、丈、こうなっても本当はあなたにとって、そんなにショックじゃないと思うの」
と、少女は最後に止めを刺した。
「丈にはお姉さんがいるものね。本当いうと、あなたにはだれも必要じゃないのよ。あなたにとっては、お姉さんほどすばらしく完璧な女性って他に存在しないのよね。あなたとつきあってみて、それがよくわかったわ。この先、どんな女の子があなたとつきあうにしても、あたし、その娘がとても気の毒に思う。だって、どんなに頑張っても、あなたの心の中の比重計を見れば、あなたのお姉さんにかなわないんだもの。マザコンていうけれど、あなたのはシスター・コンプレックスね、きっと」
それが訣別の言葉となった。彼女の言葉は、たとえ自己正当化から出たものであっても、全てが正鵠を射ていたのだった。それが丈を打ちのめした。
4
熱帯夜が大都市の上空に居座っていた。おそろしく蒸暑く、動かずにじっとうずくまっているだけでも、べっとりと汗が肌を濡らし、玉になって滑り落ちた。
水に漬った大きな獣のように、重々しく湿った夏の夜であった。
開け放しになった窓にはスダレがかかり、近隣のかけ放しのTVの音が遠慮なく入りこんでくる。風が死んで重く停止した空気に、蚊取り線香の煙がゆっくり渦巻き、立ち昇っていた。
犬が吠え立て、路地では子供たちが集まって花火を楽しんでいる。ポン、ポン、と大げさな音が炸裂していた。当時の家々の夏の夜は開放的で、エアコンとサッシ窓が閉鎖してしまう以前の季節の風物詩があった。
東丈の家は、杉並の住宅街の奥まった一画にある、古い木造家屋であった。だだっ広いが、小家族にとっては住みにくかった。
「どうしたの、丈? ご飯、ちっとも減らないのね」
と、姉の三千子がいった。
彼女は母親のいない東家の主婦を務めていた。年齢は二十代の半ばをすぎているが、お河童にした髪形のせいか、少女のような初々しさがあった。色白でやさしい顔立ちをしている。黒眼勝ちの憂いを含んだ美貌である。
「............」
丈は無言で箸を動かしていた。さもいやいやながら、義理で食卓に向っているという態度であった。また実際食欲がないのだ。食道の太さが半分になってしまったように、さっぱりはかがいかない。食物の味がよくわからなくなっていた。
「............」
丈は拒絶の意志を露わに見せて沈黙を続けた。だれからも話しかけられたくないし、答えたくもない。たとえ、それが姉の三千子でも......
「食欲がないのね? どこか体の具合が悪いんじゃないの?」
三千子は気遣わしげに箸を止めていった。
「ここのところ、ずっとよ。いつもの半分も食べないし、顔色だってよくないわ。明日にでもお医者さんへ行ったほうがいいわね」
丈は執拗に黙っていた。言葉にしてほっといてくれと怒鳴らなければわからないのか、と理不尽な癇癪が起きてきて、箸が慄えるのをけんめいに抑えつける。
「丈、どうしたの?」
「うるせえな!」
丈は噴きあげるように荒あらしい声を出した。
「ちゃんと食ってるじゃないか! そんなにうるさく尋問されちゃ、食欲だってなくなるよ!」
八つ当りであった。丈は食事をしなくてもすむ口実に跳びついた。箸を乱暴に食卓の上にほうりだす。転がった箸の一本が畳に落ちて見えなくなった。
「もう食いたくない!」
「なにもそんな......」
三千子はショックを受けていた。ただでさえ大きな黒い瞳をいっぱいに見開き、唇を慄わせて丈を見ている。
「そんな乱暴ないいかたをしなくてもいいじゃないの。心配だから、尋いただけよ」
「わかったよ、うるさいな」
自分が子供じみた癇癪の虜になっており、姉に対して理不尽にすぎるとわかっているのだが、抑えがきかないのである。
「この家は刑務所じゃないんだろ。だったら口うるさい看守みたいに、おれのやることをいちいち見張らないでくれよ」
「ひどいわ......」
姉の顔が蒼白くなってきた。姉の秘蔵っ子のように育てられた丈は時折、激しいわがままで困らせることはあるが、姉に対してこれだけ攻撃的になることはめったになかった。
「姉さん、よしなよ」
と、食卓を囲んでいる一歳年下の卓が口をはさんだ。食欲旺盛なところを見せてドンブリを抱えこみ飯をかきこんでいる。小柄な丈とは人種が異るようにおそろしく大柄で厚みのある体格をしている。武道をやっているので、高校一年とは思えぬほど筋骨逞しく威圧的だ。
「兄貴は荒れてるんだよ。放置しといたほうが無難だね」
薄笑いを浮かべていた。丈とは血のつながりがないかのように、造作の大きな、いかにも腕節の強そうな面構えをしている。
「でも......」
三千子はいいかけてやめた。丈は一度曲ってしまうと実に依怙地になることを知っているからだ。
「いいって......触らぬ神に祟りなしだ」
丈は巨漢の弟をじろりと睨んだが、口を引き結んだまま立ち上った。
襖を開けて居間を出る。後手に荒々しくぴしゃりと閉めきった。どうにもならぬ荒涼たる気分だった。二階の自室に引きこもっても何もすることがない。勉強は手につかず、本を読む気にもなれない。心が荒廃しているので、音楽が遠い存在になっていた。レコードも聞かず楽器もいじらない。失恋の後は、ピアノに近づくことすらいとわしかった。
「ここ当分、大荒れだろうな。息を殺して、そっとしとくのに限るぜ、姉さん」
「まあ......やっぱり学校でなにかあったの?」
「さあねえ......ま、知らないってことにしときましょ。当り障りないようにしておけば、そのうち時間が解決するでしょう。うっかり口外すれば、兄貴の面子丸潰れってわけ」
「そんな......先々月ぐらいから、ずっと変だと思ってたんだけど、丈はいわないから......」
「口が裂けたっていえないこともござんすよ」
と、卓が得々としていった。丈の頭にかっと血が昇った。弟のわけ知り顔の口調が憎かった。
荒々しく襖を引き開けた。三千子と卓があっけにとられた顔をあげ、見返す。
「もう一度いってみろ! なにが面子丸潰れなんだ!?」
声が激情に震え、甲高く割れた。卓は平然と一口カツを口にほうりこみ、頰張った。
「聞こえないのか、きさま......」
丈は怒りで目がくらみかけていた。弟は咀嚼物を吞みこみ、湯吞みのお茶を飲んだ、その落着きぶりが丈の怒りに火をつけた。
「聞こえてますよ、耳はいい方だから。ただとっさに口のきけない事情がござんして」
卓は余裕たっぷりにいった。子供をなだめすかすようににやにや笑う。
「しかし、なんのことか、さっぱり......」
「とぼけるなっ」
丈は逆上して絶叫した。近隣に聞かれることも意識の外に消えた。
「いってみろっ、なぜ、おれの面子が丸潰れになるんだっ」
「知りまへんな、拙は。なにも知らんでげすよ。兄者の面子などというげに恐ろしきことは......見猿云ワ猿聞カ猿と申しまして、わっちは三猿主義......」
にやにや笑っていた。その余裕ぶり、韜晦ぶりが、丈の怒りに火を注いだ。
「なにっ、きさま、なめやがって!」
丈は部屋の境の敷居を越えて、ぐっと足を踏みだした。卓はドンブリと箸を抱えたまま、器用に尻でいざって後退りした。
「いやですね。すぐなめたの、なめないのといってカッカする。兄貴の悪い癖ですよね。喧嘩はやめましょう。食事のまっ最中だしさ」
「この野郎!」
「丈! やめなさい! そんなにムキになって怒ることないじゃないの......」
「そうそう、わっちみたいな平和主義者に暴力を振るうなんて根性よくないよ。腹ごなしのお相手はごめんですね」
卓は口も達者だった。丈はもはやとめどがなくなっていた。食卓を跳び越えて卓に襲いかかる。
卓は巧みに足払いで丈を転がした。むろん慣れているのだ。
「おやめなさいよってば。わたいは柔道三段、兄さんは白帯、これ実力の問題ですからね。やっても無駄ざんすよ」
「つけあがるな! この雑巾野郎!」
丈はとびかかって力まかせに拳を振りまわし、両手がドンブリと箸でふさがっている卓の鼻面にたまたま命中させることに成功した。
「殴ったな!」
卓の逞しい顔が赤くなった。打撃を避けきれなかったので、プライドが傷ついたのだろう。やにわに両手のドンブリと箸を投げだしてむっくり巨体を起こした。
「だいたい兄貴は自分勝手すぎるじゃないか! 女が腐ったように滅入りこんだり、八つ当りしやがって、男らしくねえや! 得意のせりふの根性が聞いてあきれらあ! 野球の正選手になれないからって退部したり、女に振られたからって、おとなしい弟に暴力を振るうのかよ」
「なんだと......」
「一言もないだろう。なんだってんだ、一応兄貴だと思えばこそ立ててるのに、人の気持も知らずにつけあがりやがって!」
「ぶちのめされたいのか......」
「笑わせんな。喧嘩ならこっちの特技だぜ。兄貴みたいなドシロウトとはわけが違うってんだよ」
「やめて! 二人とも、やめなさい!」
三千子の制止もむなしく、取っ組み合いになった。食卓が蹴倒され、縁側の障子がバリバリと桟ごと破れた。
だが、勝負はあっけなくついた。丈が軽々と投げとばされ、柱と壁に頭をぶつけて脳震盪を起こしたのだ。なにしろ身長一九〇センチの卓と小柄な丈とでは体力が違いすぎた。
「な、なんだい......兄貴が悪いんだぜ! そっちから強引に仕掛けてきたんだからな!」
「卓ちゃん、いいから濡れタオル持ってきてちょうだい!」
卓はふくれっ面で居間を飛びだして行った。
「丈! 大丈夫? しっかりして」
三千子は、仰向けに大の字に伸びた丈の傍らに白い腿を見せて両膝を突いた。丈は青い顔で茫然としている。幼いころから、弟との喧嘩で一度も勝った記憶がないのだ。屈辱にとどめを刺されたみたいだった。
ふくれっ面で、それでも卓が持ってきた濡れタオルを、三千子は丈の額に載せた。彼女の唇は慄え、瞳はうるんでいた。
「どうしてそんな無茶をするの、丈......あまりお姉さんを心配させないで」
丈はふらふら揺らしながら身を起こした。濡れタオルを投げ捨てる。最悪の心境というほかはなかった。どこにも身の置きどころがない。
「丈ったら! どこへ行くつもり?」
丈は無言で、三千子を押しのけて居間を出た。玄関へ向う。
「どこへ行くの、こんなに夜遅く!」
丈はやはりなにもいわず、スニーカーをはいた。
「丈ったら! お姉さんがこんなに心配しているのがわからないの? ねえ、どうして?」
丈は玄関を跳びだし、路地へ走り出た。姉の呼び声があわただしく後を追ってくる。その悲痛な響きに両耳を塞ぎたい思いだった。歯ぎしりしながら走る。近くの家々の窓がガラガラと開く音がした。さぞかし近隣の噂話の材料にされることだろう。
泣くまいとして歯をくいしばっても、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。自己嫌悪の涙であった。理不尽に姉の三千子の心を傷つけた自分自身が許せなかった。
だが、自分が自分自身の制御を超えてしまうのも青春だ。自分自身に対する不可解さと恐怖がある。
丈は走りながら、拳で顔の涙を払い落していた。
──畜生! 畜生! 体がチビだからどうだというんだ!
呪詛のような想いが心に焦げつく。
──そんな卑小な肉体的条件が、人間の内容となんの関りがある? ヨーロッパ世界を征服した小男たちを見るがいい! ナポレオンやヒットラーのような小男の征服者たちを......
巨大になりたい!
丈は胸が痛くなる激しい願望に駆られた。たとえ肉体的に矮小であろうとも、巨大組織の頂点に位置し、全ての人間の尊敬と畏怖を一身に集め、己れに従う多くの人間たちを頤使する巨大な影響力を持ちたい!
他の全ての人間たちを支配下に置く超大物に、なんとかしてなれないものか!
それが不可能であることは痛切にわかっている。だが、丈の心と体を根底から揺れ動かす願望は、冷酷な現実にわずかな亀裂でも探させようとするほど激しく強いものであった。
頭は灼熱し、反対に心は冷たくたぎっていた。
丈はしゃにむに歩いた。できるだけ暗い夜道を歩き続けた。歩かずにはいられないのだった。体の動きを止めると、体の内圧で心臓が炸裂する苦痛が襲ってきた。どう身を処していいのかわからぬ、彷徨の苦しみだった。
ただひたすら巨大な存在になりたい。だが、それに至るための過程がわからず、どこから手をつけていいのかもわからない。
自分がはたして、そこへ行きつけるのかどうか、それすらも分明ならぬ苦しみだった。
自分の肉体が卑小であり、かつまた頭脳も天才と呼ばれるものに遠いことを知っている。努力を重ねなければ、クラスの上位成績者の一画に食いこむことすら困難だ。
弟の魁偉な卓のように、たやすく他人を抜き去る特別な才能は、丈には縁がない。高校の柔道チャンピオンであり、片手間にトップの学業成績を維持できる人間とは、根本的になにかが異っているのだ。
その隔差を埋めることができるのは、根性だと信じ、自分にいいきかせてきた。生れつき、劣等な素質しか与えられていない人間が、強者と伍して行くのに、他になにがあるだろうか。
睡眠時間を削り、その分を猛練習に注ぎこんで、絶えざる努力と研鑽によって、優越者を抜き去るしかないではないか。
その信念は、ある限度までは正しかった。だが、その限界を超えた時、血を流す努力だけでは突破できぬ壁が現われてきた。
その壁を崩すことは、人間には不可能だ。
丈の未来は冷たく暗く収束され、抜け穴はどこにもないように思われた。どんなに超人的な努力を重ねたところで、卑小な人間は矮人でいるしかないのだ。いかに人に抜きんでようとあがいたところで、卓のような巨大な才能に恵まれた優越者がひょいと手を伸ばし、丈の頭を抑えつければ、それでおしまいだ。手も足も出ない惨めな敗北が待っているだけだ。
丈は憎しみと怨みの強酸で、心をぼろぼろに侵蝕させながら、いつまでも歩いた。
夜が更けていった。丈は自分がどこをどう歩いているのか、見当がつかなかった。見知らぬ夜の街並がひっそりと静まり返って続いていた。
丈はなにも気づかなかった。その据った暗い目にはなにも映っていない。夢遊病者のようにひたすら歩き続けているのだった。
正気な時であれば、気違い沙汰だと思うであろう。だが、今の丈は、己れの望みがかなうならば、悪魔とでも取引したい切羽詰まった状態に追いつめられていた。
悪鬼の神に、自分の魂を売ってもいい。もし彼が、自分を巨大な存在に変えてくれるならば。
おれは超人──巨大な存在となり、これまで彼を迫害した世界に復讐し、そして支配する......
丈ははっとして、狂的な夢想の世界から脱けだした。全身がシャワーを浴びたように冷たい汗で濡れ、シャツやズボンが肌にはりついていた。
おれは本気だったのか。心から真剣に悪魔と取引することを願ったのか。
いつしか展けた無人の道路を、丈は機械的に歩き続けていた。右手は広大なグラウンドであり、左手は荒れた空地ででもあるのだろうか。丈高い金網の柵が両側にどこまでも続いていた。照明は乏しく、道路は暗闇の底に沈んでいた。さながら無人地帯だった。
丈の足がにわかに停まり、体が凝固した。息が停止するほどの驚愕だった。
自分の願いが通じ、悪鬼の神が眼前に姿を現わしたのだ......丈がとっさにそう思ったほど、前方の闇の底にそびえたち、立ちふさがった異形の影は奇怪なものであった。
身長は三メートル近くある、と、丈の恐慌に捉われた目は錯視した。が、それは疑うべくもなく人間以外の存在だった。
恐竜の背丈と幅を持った怪物存在。そんなものはとうてい考えることができない。
遠い街灯のわずかな光が、現実ではありえない巨体と鬼神の怪異な頭部の輪郭をおぼろげに浮きあがらせていた。
そして、その巨大なまるい目......自ら青い仄かな光を放っている異妖な目は、絶対に人間のものではなかった。
「だれ......だれだ? どなたですか......」
丈は必死で声を絞りだした。自分のものとは思えない老人の掠れ声が出た。
巨大な鬼神の影は答えなかった。闇の中に発光する目玉が瞬きもせず、とんでもない高い位置に浮いている。
「な、なにをするんだ......」
丈は喘ぐようにいった。恐怖の固い塊りが喉に詰まり、呼吸困難になったのだ。鬼神の巨大な影の右手が動き、腰から銃器とも剣ともつかぬ、得体の知れない武器を抜き取ったからだ。
武器だ、と丈は直感した。冷たく痺れるように重くなった体をじりじりと後退させる。
自分が呼びだした悪鬼の神だという迷信的な恐怖は消え、肉体に対する脅威が入れかわった。巨大な相手の意図がよからぬものだと悟ったからだ。用心深く尻ごみする。相手が剣のような武器で斬りつけてくるのではないかと恐れたのだ。
あまりにも超現実的だが、肉体的な防衛本能が、丈の逃走をうながした。後退りを続けながら、間合いを取っていっさんに逃げだそうとしたのだ。
鈍いこもった音とともに、なにかが飛んできて、丈は胸に鋭いショックを受けた。
射たれたのだ! 巨大な相手の奇態な武器によって攻撃されたのだ。
痛みよりも驚愕、狼狽が大きかった。
丈は弾丸を射ちこまれた胸を両手で抱えこみ、よろめきながら逃げ走った。射たれたという恐怖とショックでパニックに陥っていた。
丈は無人の路上を、泳ぐように走った。えんえんと無人のグラウンドと塀に囲まれた空地が道路の左右に続いている。灯火の明るい街並ははるか彼方にあった。
巨大な影は悠々と追ってくる。滑らかで素早い動きである。丈は恐怖の虜になって、突んのめるように走った。気ばかり焦って足がもつれ、少しもスピードがあがらない。お馴染みの悪夢の感覚だ。恐ろしい化物に追われて、命からがら遁走する悪夢。
丈は悲鳴のような声をあげ続け、死にもの狂いで疾走する。異様な恐怖、今まで味わったこともない恐怖だ。あまりにも理不尽であった。
息が切れ、心臓が破裂せんばかりに苦しくなった。足を緩めなければ死んでしまう。が、足が勝手に動き続けるのだ。背後から迫ってくる怪異な巨人の足音に追われて、全力疾走する足は雲を踏むように頼りない。最大速度で走っているつもりなのに、まるでスローモーション・フィルムのようにおそろしくノロノロと間延びしている。
これは夢だ! 悪夢なんだ! と必死に自分に対していいきかせる。この奇矯な感覚は、夢の中でだけ味わうものじゃないか!
時間流が変化を生じていた。まるで流れが蜂蜜のようにとろりと濃厚になり、遅滞を示しだしている。
長い長い何十キロメートルも続いたような無人の道路が尽きて、街並が始まった。人家の灯火が凍った火花のように見える。視神経がどうかしているのだ。
超高速度映画の内部へまぎれこんだように、丈はゆるゆると波打つように、大股で走って行く。重力のひどく少い他天体で走っている感覚だ。自分の嵐のような呼吸音が、テープの速度が狂い間延びしたように聞こえてくる。
凍てついている赤い灯をめがけて、丈は泳ぐようにのろまな体を運んで行く。ポリス・ボックスの真赤なランプだ。
警官が小さなポリス・ボックスの中に佇んでいる。中年の警官で、いかにも頼もしそうに見える。
「た、たすけて......」
まるで自分の声ではないようだ。レコードを手で廻しているように、意味不明の唸り声が漂い流れる。
だが、警官はなんの反応も示さない。彫像のように佇んでいるだけだ。その目は義眼のように鈍く死んで、丈を見ようともしない。
マネキン人形みたいに硬直しているのである。
「これは......どうしたんだ......」
思考のスピードと、言葉になるそれが同期していない。例のわけのわからない唸り声がずるずるとひきずる感じで漏れ出るだけだ。
「みんな......どうなっちまったんだ......」
答は返ってこない。丈は、化石した警官を見捨てて、通りに泳ぎ出た。歩道もない商店街の狭い通りだった。
意味のある動きはなにひとつない。全てが凍りついている。警官同様通りに見るわずかな通行人も歩行のポーズのまま凍っている。
「これは夢だ! おれは夢を見ているんだ!」
大部分のシャッターが閉まっている商店街を、丈はコールタールのプールを泳ぐようによろめきでた。
自分が発狂したのではないかという恐怖が丈を捉えた。目に映るなにもかもが意味を失っている。この世界に丈は異物として存在し商店街のだれとも意志を疎通することができない。
時間が鈍く凍りかけ、緩慢に流れている。丈がいかに叫び声をあげても、だれ一人反応を示さないのはそのためだ。丈の声を聞きとることができないし、丈の姿を見ることもできないのだ。彼らの認識の外部に丈ははみだしてしまっていた。
丈はもどかしい動きで、背後を振り向こうと努めた。
怪異な巨人は着実に、丈の背後につき従っていた。ただ無言で追いすがってくる。
恐怖におしひしがれながらも、丈は追跡者を振り返り、相手を見届けようとした。神秘な力を振るう、これは本当に鬼神なのか、悪魔なのか......
双眼だけを爛々と輝かした巨人の影から閃光が迸った。丈の横手にあった郵便ポストが同時に消失した。あとかたもなく蒸発してしまったのである。
仮借ない追撃が、丈の逃走に拍車をかけた。だれにも救いを求めるすべはない。ただできることは、全力をあげて逃げることしかないのだ。
丈は悪夢感覚の泥濘世界を逃げに逃げた。体は冷汗に漬ったようになり、呼吸がほとんどできなくなった。心臓の鼓動さえ、異様に間延びしていた。もう半ば以上、死んでしまったような気分になった。体が麻痺して無感覚になり、意識は混濁しはじめた。
疲労の極に達した丈が、ふっと意識に一瞬の光が射しこんだように覚醒した時、彼は取り壊し工事中の工場跡敷地へ逃げこんでいた。廃屋が半分がた撤去された現場は、爆撃を受けた戦災地のように荒廃し、ぞっとする気配を漂わせていた。
もうだめだ。一歩も走れない......
丈は肩で息をしながら、剝きだしの鋼鉄の柱にしがみついた。猛火の苦痛となって疲弊が全身の細胞を灼きこがしている。
いつしか悪夢の遅延感覚は消え、荒い呼吸と狂ったような動悸の轟音が回復していた。正常な時間の流れが回帰していた。全身の肌を大量の汗が流れ落ちている。力を最後の一滴まで使い果した、脱力感で体が煮こんだ肉のように柔くなり、使いものにならなかった。
丈はただ冷たい鋼鉄の柱にしがみつき、酸欠の苦しみに喘いだ。足許は取り壊した工場の建物の残骸が散乱し、ぞっとする荒蕪地である。
丈は鋼鉄の柱に寄りかかり、両手で目に流れこむ熱湯のような汗を払い捨てた。
世界から見捨てられたような、広大な工場跡は、完全に無人地帯であり、丈の絶望感を深めた。もはやどこからも救いは来ず、助けを求めることはできない。
瓦礫の堆積の彼方の暗闇に、鬼神の凶々しい影が肉迫していた。どうにもならない不当、理不尽な迫害であった。攻撃はあまりにも不条理であり、気違いじみているが、殺意はまぎれもないものだった。
丈は追いつめられ、もはや逃げ場がなかった。異常な急激さで体力を喪失し、抵抗や反撃を加える余力もなかった。むろん巨塔のような怪物に対して、棒切れで殴りかかっても効果はないだろう。
奇怪な巨人は闇の中で何かを動かしていた。鉄がきしみ、触れあう響きが騒がしく、耳ざわりであった。
いったい、何をしているのだ?
丈は必死に目をしばたたき、汗で曇った視界の回復を計った。照明のない工事現場は暗かった。星あかりだけでは、怪物的巨人がなにをやっているのか、確かめることが困難であった。
無気味に鋼鉄のきしる音が続いている。必死に目を凝らした丈は、巨人が二抱え以上ある大きなまるいものを、長い逞しい両腕でさしあげているのをぼんやりと見てとった。
いったいなにをする気なんだ?
ただならぬ恐怖感が丈の胸を冷たくした。生命の危険に曝されて、知覚が鋭敏化し、異常感覚に達したのであろう。突如として、夜目がききはじめたのだ。
巨人が加速をつけて放った巨大な丸い物体が、恐ろしい質感と威迫をもって、空間をよぎり、丈に向ってきた。
落雷を受けた轟音と衝撃で、世界がぐらっと揺動し、砂埃とコンクリートの細い破片が丈の全身に振りかかった。丈は死にもの狂いで鋼鉄の柱にしがみついた。
激動が静まると、再びギリギリと鉄が無気味にきしみだした。
丈は口から心臓を吐きだしそうなショックに襲われた。今、何が起こったか、やっと理解したのだ。
巨人は、コンクリート・ビルを取り壊すための、巨大な破壊鉄球を丈にほうり投げてよこしたのだ。堅牢なコンクリートにぶつけて破壊する何トンもの大鉄球をまともに浴びれば、丈は人間の形も残さない血泥の塊りと化してしまう。

破壊鉄球は再び巨人の手許に戻っていた。丈は堪えがたい悪寒に震えた。それは絶対に人間の力ではなかった。地上のいかなる怪力の持主も、何トンもの質量を持つ大鉄球を、風船のように気軽に投げつけることが可能なはずはない。
丈の気配を見定めてから、巨人は太い鉄鎖で吊られた破壊鉄球をぐいと抱えあげた。
容赦なく二度目の攻撃が襲ってくる!
丈は絶叫をあげて、背にしていた鋼鉄の柱を離れた。瓦礫に足をとられ、泳ぐように逃げる。
背後で鋼鉄同士が激突し、ものすごい火花が散った。凶暴な轟音で魂が消し飛んだ。
丈はばったり倒れて四つん這いになり、頭を両腕で抱えこんだ。
顔をあげると、破壊鉄球がたぐられ、巨人の手許へ戻って行くところだった。
この化物は、彼を嬲りものにして楽しんでいるのだ。いつでも殺せるのに、わざと手間暇をかけ、丈の苦痛と恐怖を増大させ、卑劣な喜悦を味わっているのだ。
初めて、丈の心に恐怖を押しのけて、怒りが湧きあがってきた。丈は口中のジャリジャリする泥混りの唾を吐き捨てた。
怒りが丈の体に活力を注入したようだった。丈は瓦礫の上にへばりついている屈辱、惨めさに嚇っとなった。たとえ相手が鬼神であろうと、なにもせずにむざむざと殺される気にはなれなかった。
相手の言語に絶する非道さ、理不尽さが憎かった。彼を虫ケラのように平然と叩き潰そうとする冷虐さに、猛然と丈は反撃しようとした。
丈は絶叫をあげて、手に摑んだコンクリートの破片を巨人めがけて投げつけた。優に人殺しをしかねないスピードで飛び、激しく巨人の胸板に命中した。が、巨人はびくともしなかった。
丈は次々に瓦礫を投げつけた。あたり前の人間であれば、いかなる強者といえども被害を免れなかっただろう。確かに激突した瓦礫が鈍い打撃音を発してはね返るのに、巨人は無反応のまま平然としていた。
まるでフランケンシュタインの怪物そのものだ。こいつは不死身なのだ!
巨人はあわてもせず、クレーンから吊るされた、破壊鉄球を手許に引き寄せ、狙いをつけていた。
これでは問題にならない。いかに丈が歯向ってみても蟷螂の斧そのままだった。丈は深甚な絶望に捉われ、手にしていた瓦礫を取り落した。
「畜生! なんでおれをこんな目に遭わせるんだ!」
丈は裂けるような叫び声を迸らせた。怒りと抗議を力の限り吐きつけた。
「やめろ! なにをする? やめてくれ!」
驚くべし。巨人はクレーンから吊られた破壊鉄球の鉄鎖を途中で捻じ切ってしまった! こんな人間が絶対にいるものではない。丈の心臓はせりあがり、喉からはみだしそうな気分になった。これは超自然的な存在だ。鬼神そのものだ。自分があの時本気で祈った、あの時の祈りが怪異な超人存在を呼び出してしまったのだ......丈は本気でそう信じた。あまりにも自分の念が強烈だったので、祈りが通じてしまったのだ。
丈の目はこの時、真円になるほど大きく見開かれた。口があんぐり開き、口の隅からよだれがしたたり落ちた。
あの化物、なんてことを!
超人的存在はまさにその真価を発揮していた。とてつもなく重い破壊鉄球を、鎖を摑んでゆるやかに振りまわし始めたのだ。ハンマー投げさながらだ。
これほど恐ろしい動きは見たことがなかった。何トンという重量の鉄球が重々しく恐ろしい唸りを生じて、巨人の体の周囲を旋回している。人間があの物凄い死の回転に巻きこまれたら......細い骨の破片と血泥の詰まった皮袋と化すだろう。
背中に氷河が生じた。もはや声も出ず、息もつけない。ただ眼球をとびださせて、巨人が空中に織り出す死の縞模様を見つめるだけだ。魂を吸い込まれるようであった。
巨人が破壊鉄球を丈めがけて投げつけてよこす意図は明らかだった。丈にはもはやそれを避ける余力がなかった。
巨人の大きな両手を離れた破壊鉄球が、何者もとどめることのできない恐ろしい質量と速度を持って丈に向い、閃き飛んだ。
丈は無意識のうちに祈った。特定の何かに向けて祈ったのではない。ただ自分の祈りが、凶暴な鬼神を祈り出したのであれば、もう一度祈ることによって救いがもたらされるだろう......そう確信したのだ。
ハンマー投げさながらに巨人の投じた破壊鉄球は、丈のはるか頭上を飛び越え、背後のコンクリート壁を紙のように打ち破った。すでに半ば取り壊され、空虚な醜い残骸を曝していたコンクリートの建物は、ぐらりと傾き、物凄い轟音とともに崩壊を始めた。
爆撃を受けたみたいに外壁が崩れ、二階の床が抜けているコンクリートの廃屋は何百トンの重量を解放し、地上へと向った。
愕然と振り仰いだ丈は、厖大な新しい瓦礫が自分の真上に崩れ落ちようとしているのを知った。鬼神は破壊鉄球を直接自分に投じようとしたのではなく、これが真の目的だったのだ。
絶対に逃れようがなかった。どんなに丈が機敏であっても身をかわすことはできない。瓦礫に生き埋めになるより早く、血の染みをはねちらかして死ぬ!
絶体絶命の危地に陥ちた自覚が、丈の精神内部にあるものを変質させた。なにかがぐにゃりと曲ったような気がしたのだ。
ついで、体が灼熱感に包まれ、なにかが放射されるように体から出て行くのを感じた。
時間の遅延感覚が再び始まったようであった。圧倒的な厖大な質感をもって、頭上から崩落してくる廃屋の瓦礫が、のろのろと動きを減じ、遂にはストップ・モーションがかかってしまったのだ。
中空に、崩落のパターンを描いたまま、何百トンの瓦礫が凍てついている眺めほど奇怪なものはなかった。
時間が停止したようにぴくりとも動かない。ストップ・モーションがかかったまま、中空に厖大な瓦礫が浮揚している。
だが、時間が停止したわけではない。その証拠に、丈の喘ぎは嵐の轟音を発している。いまだ眠りについていない街からは、交通音が響いてくる。
風向きのせいで、電車の騒音までが明瞭に流れてきた。警笛が長く夜空に尾を引いて消えて行く。
丈はただ目を見張って凍った空中の瓦礫を見上げた。なぜそれが自分を殺しに雪崩れ落ちてこないのか。
瓦礫を排除したい念が働いたと同時に、瓦礫に動きが生じた。重力を失ったように、全ての瓦礫が空中浮揚して行く。はっと息を吞むと同時にぴたっと静止する。
なんとも名状しがたい驚異が丈を捉えた。彼の意志に従って、厖大な瓦礫群は動いているのだ。なんの苦もなく、重みさえ感じずに。
丈は心に意図するがままに、それを前後左右に動かしてみた。思いどおりに操ることができる。
異様な感動──歓喜がこみあげてきて、沸騰した。身も心も沸き立った。
丈はぞっとするような、刺激的な歓喜に心をゆだね、闇の彼方の巨人を捜した。そいつはそこに依然として存在していた。
暗い陰険な、悪意のこもった笑いの衝動が丈にとり憑いた。卑劣な喜びに身慄いする。
「こいつを食らえ......この人殺し野郎! 今までのお返しに全部くれてやらあ......」
丈は引きつる口で笑いながらいった。
心に衝撃があった。そんなことをしてはならない。鋭い制止だ。
いけない、東丈。
丈はそれを黙殺した。復讐を求める感情はだれにも抑えられなかった。
そんなことをしてはいけない!
丈にはそれがテレパシーの制止であることを理解できようはずがなかった。
彼はあなたの敵ではない! やめなさい、東丈!
その声は激しい命令となって、心の裡にがんがんこだました。
待ちなさい、丈!
うるさい! あいつをやっつけてやるんだ! もうだれにもおれを留められないぜ!
丈は、ぐにゃりと曲る感覚の〝力〟を解放した。
丈の頭上にのしかかり、覆っていた大量の瓦礫は突如、時速九百キロ近い疾風とともに巨人に向けて迸った。天空が引き裂かれるような凄まじい轟音と、爆撃の揺動が大地を叩きつけ、跳びあがらせた。
丈の解放したPK(念動力)は、有史以来だれも見たことのない凄絶レベルに達していた。
5
時速九百キロに達する、PK(念動力)の起こした死の暴風──それは目にも止まらぬ速さで生じ、爆発に似ていたが、一定方向にだけ爆風が制御されて疾ったという点で異っていた。
数百トンの瓦礫が紙屑のように軽々と吹っ飛んだ。
丈は己れのPKの容量を知らなかった。〝力〟を解放することが何を意味するか、それすらもわきまえていなかった。ただ闇雲な怒りと憎悪に駆られて、報復したのだ。
恐ろしい轟きがあがり、大量の鉄材、コンクリート塊が、巨人めがけて爆撃のようにたたきこまれた。
大地を跳びあがらせた激動がやむと、巨人のいたあたりは瓦礫に埋め尽され、息もつけぬおびただしい砂塵が濛々と立ちこめているばかりだった。
たとえ、それが象や犀のような巨獣であろうとも、この瓦礫の猛爆にあってはひとたまりもなく潰えてしまったろう。
信じられないような静寂が戻ってきた。丈は自分の発揮した〝力〟の物凄い効果に魂を消しとばされ、啞然として立っていた。舞いあがった塵埃に鼻と口を刺激され、咳こまなければ、呆然自失していたかもしれない。
それこそ無我夢中といいたいが、憎悪をこめた力いっぱいの復讐であることは歴然としており、事実をごまかすことはできなかった。
丈は体を二つに折って前屈みになり、激しく咳こみ、涙と鼻汁で顔中を汚した。咳の発作に体を痙攣させながら、這うようにして現場を逃げだす。
瓦礫が崩落したあたりは、静まり返って微動もしなかった。巨人が何者であれ、絶対に生きていられるはずがなかった。
とんでもないことに自分が巻きこまれたという実感が迫って、丈はにわかにうろたえ、浮き足だった。早く現場を離れなければ、とそれだけが頭の中に灼きついた。
もし、凶暴な持凶器強盗に襲われ、格闘のあげく正当防衛とはいえ、相手が死んでしまったら、こんな気持になるに違いなかった。
──お、おれのせいじゃない! おれは知らない......
丈の心には自己正当化と逃避の衝動しかなかった。超現実的なこの悪夢から脱出したい、ただそれのみに終始していた。それに結着をつけるには、立ち上って全速力で走りだすしかなかった。
丈は足許の瓦礫に足をとられながら、それこそこけつまろびつの有様で逃げだした。走りだすとなおさら恐怖が湧いて、後も見ずに逃走して行く。
丈の狂躁的な足音が工事現場から消え去った後、瓦礫の堆積がむくっと動き、隆起した。上に積み重なった何十トンもの重量を、毛布をはねのけるようにして、巨体が半身を起こした。
巨塔のような体軀には、いささかも手傷を負った気配がない。平然としており、体を調べる手間すらもかけなかった。
至近距離で爆発が生じたと同じ衝撃を浴びながら、苦にもしない──それはまさしく人間以外の存在だ。巨軀を立ち上らせたのはそうした怪物存在だった。異星人のサイボーグ戦士ベガだ。
「凄い奴だ......」
ベガの声音には感嘆の念があった。
「あの少年のPKレベルは超絶的ですな。多くのPKを見てきたが、あれだけの瞬発力の持主は初めてだ」
ベガは英語を喋っていた。言語転換機能を持つ彼は数千の星間語を話せたし、英語を操るまでに手はかからなかった。
「うっかりいじるのは考えものですな。バリヤーを張るのが遅れたら、私とて無事にはすまなかったでしょう」
「なんでもいいですから、わたくしの体の上からどいて下さい」
ルナ姫が怒った声音でいった。
「ベガがバリヤーを解いたので、体が瓦礫にはさまってしまいました......気をつけて!」
「これは失礼......」
戦士ベガは謝罪しながら、ルナ姫を瓦礫の中から引っ張りだした。
「そんなに引っ張らないで! 服が裂けてしまいます! ああ痛い、すりむいたみたい」
ベガの巨大な腕に摑まって、瓦礫の上に出てきたルナ姫はいたくご機嫌ななめであった。ひどい侮辱を受けたようにきりきり眉を吊り上げて怒っている。
「お怪我はいかがですか?」
ベガは巨体を折り曲げて覗きこもうとした。
「相当ひどいですか、プリンセス?」
「触っちゃだめっ」
ルナ姫が反射的に叫ぶ。両手をうしろにまわしてかばっている部分からすれば、口外しにくいような場所をすりむいたのであろう。戦士ベガはバツが悪そうに、ルナ姫の高貴なお尻に伸ばした巨きな手を引っ込めた。
「たいしたことはないようです。でも、あなたは自分が不死身の体を持っているので、生身の肉体がたいへん脆いことを忘れがちのようですね、ベガ」
「以後、気をつけるとしましょう。しかし、いささか薬がききすぎたのではありませんか」
と、ベガはインディアン戦士のような怪異な顔に苦笑らしきものを浮かべていった。
「潜在超能力を覚醒させるのに、ショックを与えるやりかたは聞いたことがありますが、危険が伴うとも......丈は死物狂いで反撃してきましたからね。しかし、プリンセス、これはあなたのアイデアですよ」
「それなら、なぜあらかじめ警告してくれなかったのです。ベガ、あなたは不親切です」
ルナ姫はまともにベガの非を鳴らしたてた。八つ当りには違いないが、こんな不機嫌なルナ姫は見たことがなかった。
「あの若者のPKを見くびっていたようです。しかし、まさかどかんと大爆発するとは思いませんでした。負けん気でねばりがあって、いいファイターだ」
「冗談事ではありません。彼は歪んでいます」
ルナ姫の口調にはユーモアがなかった。ひどく気分を害しているのだ。
「わたくしがテレパシーで強く警告したのに、彼は無視しました。あの日本人の少年は歪んでいる上に、野蛮です!」
「怯えていたのでしょう。ずいぶん手ひどく脅されましたからね。彼の場合には、超能力を顕在化させるトリガーになるのは恐怖だとプリンセスが見抜いたのは正鵠を射ていたわけです。まあ、大目に見てやることです」
「そう簡単には許せません」
ルナ姫はきりきり怒っていた。ドレスを破かれ高貴な体のあちこちに擦り傷を作ったのが、よほどプライドを傷つけたのだろう。だが、それ以上に、彼女はあの若者に対して根に持っていることが感じられた。
「今ごろ、自分のPK能力に仰天していることでしょうな」
ベガはなだめるような口調でいった。
「私が心配しているのは、この先の段階です。超能力者は潜在能力に気がつくと、優越感を持ち、慢心するケースがほとんどです。己れの特異な力の行使に陶酔するのです。徳性が低次レベルにある者ほど、その傾向は顕著です。特にPK能力者は、権力志向が目覚めて、暴力的になりやすい。たとえば〝いじめっ子〟が機会さえあれば、自分の腕力を誇示したがるように......」
「では、彼に手きびしく思い知らせてやらなくては......」
と、ルナ姫は目に落着きのないきらめきを宿して、さりげなくいった。
「彼が自分の力に酔っ払って、なにかしでかさないうちにね」
プリンセスは剣吞な顔つきをしている、とベガは思った。ルナ姫は繊細優美な外見と裏腹な、鋼鉄のようなものを蔵しており、そのために彼女は望む時に、いくらでも手きびしく、また手強くなれるのだった。
6
全力疾走で、後からだれか追いかけてくる者の有無を確かめる度胸もなく、丈は明るい街の灯を求めて逃走した。
悪夢の感覚がいまだに持続していた。時間がへんに間延びしている感覚は去ったが、虚ろな非現実感はいまだにとどまっていた。
さきほど巨人に追われて死物狂いで逃げた街の通りは、常態に復していた。何事も生じなかったようであった。
丈はようやく走るのをやめた。両足はマラソン終了直後のようにまだ走りたがっていた。丈がどれだけ懸命に疾走したかの証左であった。
全身は汗でずぶ濡れだし、工場現場でかぶった塵埃がどすぐろく体中に附着していた。いかに現実がなに食わぬ顔をしていようと、丈が味わったことだけは幻ではない。
キツネにつままれるとはこのことであろう。つい数十分前の、全てが化石した街並の光景が幻覚であったとしか思えないのだ。
──もしかすると、あれはやはり幻覚だったのか......
丈にそう疑わせる平穏さなのである。商店の人々が浴衣がけで縁台を店の前に出し、涼んでいる。店の多くはシャッターをおろして店仕舞いしているが、夏の夜らしく宵っぱりな陽気さが漂っていた。高声でかけるTVかラジオの番組が聞こえている。
通りのまん中にうろついている犬たちを、警笛で追い払って、タクシーが通る。
丈は夢遊病者のように、正常すぎる街の通りを歩いていった。どこの街であるかはわからない。一度も来たことのない、馴染みのない通りであった。
安堵感とともに、たとえようのない異和感が胸郭の裡に広がっていた。
ポリス・ボックスの前には、見憶えのある中年警官が佇んでいた。丈が助けを求めた時、彫像と化していた無反応ぶりがうそのようであった。
じろっと目を動かして丈を見る。警官の注意を惹きつけるだけの雰囲気を、丈が持っているのに違いない。
丈は心臓が引きつる緊張感に体が固くなった。警官は今にも声をかけて丈を止め、職務質問をかけてくる。丈にはそれがはっきりとわかった。
工事現場の物凄い光景が眼底に甦った。あの責任を、丈は問われることになるのではないか。
警官が一歩足を踏みだして声をかけようとし、丈はそれを避けたいと願った。
突風が吹いた。いきなり一陣の疾風が警官めがけて襲いかかり、目潰しをくらわせ、警官の頭の制帽を吹き飛ばした。
警官はあっと声をあげ、丈のことを忘れ、あわてふためいて、素早く路上を転がっていく制帽を追いかけた。
丈の内部でなにかが曲り、制帽はたまたま通りあわせたタクシーのタイヤの下に、ぴったりタイミングを合わせて吸い込まれた。
丈は右手をあげて、顔をこすった。口許には隠しようのない笑いが刻みこまれていた。
警官は、丈に職質をかけようという気を起こしたばっかりに、制帽を車に轢き潰される破目になったのだ。
その〝力〟を試す......それは抗しがたい誘惑であった。匿名性を持った特異な〝力〟を行使することには、特殊な快感があることを丈は発見した。
特に彼は努力する必要もない。ただ心に命じるだけでいいのだった。
──曲れ、と。
内容の細部までを計画する必要はなかった。警官の注意を他にそらさなければ、と丈が思った、すると突風が吹いてきたのだ。ただし制帽をタクシーに轢かせたのは、丈の悪意ある余興であった。
〝力〟はだれにも気付かれることなく、好むがままに行使することができる。
丈はぞくぞくする快感に、酔ったような気分になった。それはこっそりと禁断を犯す喜びそのものだった。甘美な、どこか恐ろしいものがある快感だ。麻薬にはこの特別の味があるに違いなかった。
丈は、眼をあげて、街灯のナトリウム灯に意識を集中した。そして、曲げた。
ナトリウム灯は黄色い残像を残して暗くなった。〝力〟の干渉を除去すると、再び点灯した。
どんなことでも、自由自在に曲げられた。街はにわかに騒然としてきた。騒霊の軍団が乗りこんできたような賑やかさだった。
風もないのに、ゴミバケツの蓋が舞い上り、円盤のように編隊を組んで飛行した。閉まっている商店のシャッターがいっせいにガラガラと開き始めた。タバコやコーラの自動販売機が、コインも入れないのに、ありったけの商品を吐きだしていた。路上をコーラの罐が転げまわり、店の奥から出てきた店主が追いまわす。商店の日除けテントが飛び立とうとして、バタバタ羽搏く。

人々の叫び声と悲鳴があちこちであがった。丈は〝曲れ〟と命じただけで、細部まで指令したわけではない。さぞかし、丈自身思いがけぬ椿事が出来しているのであろう。
丈は笑った。これほど暴君じみた傲慢な気分を味わったことはまたとなかった。
自分には労せずしてこれだけのことができる。おそらくそれ以上のことも可能であろう。
丈はポルターガイストに襲撃された街を見捨てて、車群が絶え間なく走る大きな通りに出た。環状7号線であろう。それで自宅へ帰る道の見当がついた。
怪異な巨人に追われて、思いがけぬ遠方まで来たと思っていたが、歩いて帰りつけない距離ではなかった。
丈は帰路をたどりながら、これまで頭上を重く圧していた鬱屈がきれいに消えているのを知った。胸郭がにわかに展けて、自由に呼吸できるようになったようだった。四月の野球部退部以来の苦しい挫折感が、今こそ十全に償われるのを知った。
彼が新たに得た自信は、背丈がにわかに伸びて、弟の卓をすらしのぐ巨漢になったら感じる種類のものであった。いや、それ以上のものだ。
彼にはどんなことだってできるからだ。
歩道のない狭い通りをライトを怒らせて、大型トラックが暴走してきた。横暴な人もなげな勢いであり、道をゆずらない丈に向って警笛を怒声のように迸らせて、速度を緩めず突っ込んでくる。行手をさえぎる通行人など雀の群れのように蹴散らせると確信しているのだった。
粗暴なヤクザに等しい人間の屑だ。奴等は間断なしに人々の生命を死の危険に曝しながら、なんの反省もない。
丈はトラックを〝曲げ〟た。
暴走トラックは不意につまずいたようになってよろめき、道路の端の溝に車輪を突っ込んだ。くるりと半転して荷台の積載物をぶちまけながら、空地へ転がりこんで行った。
鮮やかな転回である。亀の子のように全輪を空ざまに下腹を見せてひっくり返ってしまう。
逆さまになった運転席のドアーが開いて、半裸のステテコだけの男たちが這いだしてきた。泣き声のような悲鳴を漏らしていた。救助を求めながら四つん這いになってあがいている。
通りすがりの車が残らず停まり、近所の民家の窓が明るくなって、見物人が集まってきた。
丈は野次馬の興奮した話し声に背を向けて歩きだした。〝力〟をコントロールできたことに満足していた。大型トラックは空地に飛びこんで転がり、人家には被害を及ぼさなかったし、ステテコの男たちも血を流している気配はなかった。腰を抜かしただけだ。
もっと惨事を起こすこともできたし、そうしてもよかったのだ。
帰りは足が地につかないような満足感で満たされた。丈の顔にはひそやかな笑いが刻みこまれていた。燃えたつような笑いであり、愉快な笑いではなかった。
〝力〟をどう使うかで、丈の頭はいっぱいになっていたのだ。その用い方によって、丈の振るう〝力〟はいくらでも、彼の自我を世界に向けて拡大させることができるのだった。
不意に巻き起こった落雷のように獰猛な犬の吠え声が丈の夢想をおそろしく乱暴に引き破った。丈の顔に忌々しげな笑みが浮かんだ。無比の〝力〟を得たというのに、いきなり吠えつかれて跳びあがった醜態が忌々しかった。
塀越しに吠えたてているのは、三頭の大柄なドーベルマンであった。丈への悪意を露わに剣吞な悪相と剝きだした牙に見せつけている。
丈の通学路に当る大邸宅に飼われている犬どもであり、いつも見境いなしに悪意を露呈し、凶暴な吠え声で通行人を悩ますヤクザどもであった。
ドーベルマンどもが、理由もなしに丈を深く憎んでいるのは明らかであり、丈が奴等を〝曲げ〟るのを躊う理由はなかった。機会さえ摑めば、奴等が手近の人間という人間を殺すことは明白だったからだ。
丈はドーベルマンどもを〝曲げ〟て、正義を遂行した。
ドーベルマン三頭は、大邸宅のスレート屋根の傾斜を、爪でガリガリ搔きむしりながら滑り落ちてきて、辛うじて雨樋にしがみつき、情ない声で泣き喚いた。その内の一頭は上から滑ってくる仲間に押し出され、雨樋に前脚の爪をかけて一瞬ぶらさがり、宙を蹴っていたが、悲鳴とともに落ち、地上で鈍い音を立てて静かになった。
丈は後に生じた騒ぎを見届けることなく、その場を離れた。燃えたつような笑いはますます深く刻みこまれ、手で触れて確かめることができた。
これが正義の報復だ、と丈は高揚感の中で確信した。おれは〝復讐の女神〟にちょっぴり手を貸してやったのだ。
だが、今後自分がやろうとするのは、このような卑小なことではない。自分に用意されるべきは、もっともっと巨大な業だ。全ての人間たちをこぞって彼の前に拝跪させ、崇拝させ、歓呼をあげさせるようななにかだ。
これを江田四朗に見せてやったら、どんな顔をするだろう。
四月以降、丈は親友の四朗となんとはなしに疎遠になっていた。丈自ら四朗を避けたせいもある。結局、レギュラー・ポジションを得た四朗は、受験に専念するという決意のほどを反故にしている。
たかが高校の野球部がなんだ。丈は嘲笑いたくなった。甲子園には無縁の弱小野球部ではないか。
その極小世界で、大仰に悩んでいた自分がいかにも愚かしく卑小に思えた。まるで虫ケラみたいにちっぽけだ。
この特異な〝力〟を的確に用いることさえできれば、丈は文字どおり無敵だ。
なんという逆転だろう。これまで自分に優越していた者たち全てを、虫ケラ同然に見降すことができるのだ。
のみならず逆転していたのは丈をあれだけ苦しめ抜いていた執拗で屈辱的な劣等感がみごとに優越感に変化したことだった。
抑えようとしても、丈は優越感の高処に押しあげられ、有頂天になっていた。
むろん、ビルを蹴倒してゴジラみたいに破壊力を誇示して歩くこともできるが、それはこの〝力〟を卑小化するものだ、と丈は思った。
この〝力〟を巧妙にコントロールすることにより、彼があれだけ憧れたナポレオンやヒットラーのような征服者たることも可能だ。
いや、それ以上のことも。この〝力〟こそ、イエス・キリストが振るった奇蹟の力かもしれないからだ。
もしそうであれば、自分は今後の世界の歴史をことごとく塗り変えて行くだろう。
この〝力〟は、彼個人に属すべきものではない。個人的な力としては、あまりにも巨大すぎるだろう。それは、個人的に核ミサイルを所有するようなものだからだ。
丈の考えはいかにももっともらしかったが、根底的に大きく混乱していた。それは、彼がその〝力〟をひとかけらも手放す意志がないということだった。それはあくまでも彼の恣意的な運用のもとに置かれており、他人にまかせる気など毛頭ないのだ。
夜更けになって帰宅した丈の心境は、それこそ暴帝ネロまがいの権力志向によってふくれあがっていた。彼は他人に対して生殺与奪の権力を振るう空想に酔いすぎていたのだ。
「どうしたの、丈?」
姉の三千子が白く硬ばった顔で迎えた。姉が心を痛めていることはわかっていた。
「今ごろまで、何をしていたの......」
三千子は探るような目つきになっていた。丈は頭から砂埃を浴びて汚らしくなっていたのだ。丈は歪んだ笑いを姉に向けた。
「ちょっとお散歩、さ......」
まるで人が変ったように、丈の雰囲気が一変していることは、敏感な三千子に隠せるはずがなかった。顔つきも変っている。傲慢さで、顔に厚みが増し、どぎつい印象をもたらした。
怯えたような眼ざしで見送る三千子を残して、丈は自室への階段を駆け登った。古い家なので階段はひどくきしむ。そのためにそっと昇降する習慣を、今の丈は忘れ去っているようであった。
もちろん、丈は姉の驚きと不審を無視したのだ。今はそれどころではなかった。
自室に跳びこんだ丈は、閉めきった部屋のむっとこもる湿気には構わず、本棚に並ぶ背表紙を調べにかかった。汗が頰を伝わり、ポタポタと畳に落ちる。
通俗的な装丁の新書本をあわただしく抜き出す。〝超能力入門〟という書名で、筆者の名はあまり馴染みがない。いい加減に書き飛ばされた怪しげな通俗書である。
だが、今の丈はたとえようもない熱心さで調べにかかっていた。本棚には、仙術、魔法などの文字が読み取れる本が多く目についた。
ボディ・ビルの教本や武道のテキストも並んでいる。〝超心霊学〟などという奇怪なタイトルも読み取れる本棚は、総じて、丈の志向するものが明確になっていた。哲学書はプラトン、カントなどはなく、ニーチェやショーペンハウエルといったあたりだ。左翼の思想書はほとんどない。
丈の目は、〝超能力入門〟の目次を懸命に追っていた。
超心理学......遠感、未来予知......ESP......PSi......遠隔視(千里眼)......遠隔移動......空中浮揚......星体放射......過去認知......超常現象......ポルターガイスト......
不可思議な用語を漁りまわる丈の額は玉の汗だった。暑気当りしそうな熱気の中で、背筋が冷たくなってくる。
PK(サイコキネシス)......
これだ! 丈は跳びあがる思いであった。
自分に突如生じた特異な恐るべき〝力〟はまぎれもなくPK──念力と呼ばれる力、精神力で物体を動かし、移動させる超能力だ。
自分は異常なほど強力な超能力者となったのだ!
丈の心は目もくらむ歓喜にあふれた。
見るがいい。世界的に著名なPK能力者といえども、子供の玩具のように小さく軽い物体を動かせるだけだ。それも短い時間に限られ、しかも好調時だけではないか。大勢の研究者たちが、子供の遊びに等しいゲームに熱中しているのだ。
彼らが丈の〝力〟を垣間見ることを許されたら、どんなに驚喜することだろう。
今に、自分のこの偉大なPKを気のすむまで見せてやろう!
丈の心は興奮に沸きたち、衝動を抑えきれずに手にした本を、ガラス窓めがけて力いっぱい投じた。
本はガラスに命中する寸前、空中にぴたりと停止し、鳥のようにバサバサと羽搏きながら、丈の手に舞い戻ってきた。丈は口が耳まで裂けるような笑いを浮かべた。
とりあえず、なすべきことを発見して、丈はにんまりとほくそ笑みながら階下へ降りて行った。
大男の弟、卓をさっそく征伐に出かけたのである。丈は怨みを決して忘れない性格なのだった。
卓はテレビ・セットの置いてある居間にいた。寝そべって見ている画面には巨泉がはしゃいだ口調でくだらぬ洒落をいっていた。
丈はがらりと襖を開けて、巨漢の弟を見降した。余裕たっぷりに柱に寄りかかる。
「おい、卓......さっきのことだがな」
と、丈は底意を秘めた口ぶりで、もったいをつけていった。
「あやまっといたほうがいいぜ」
卓はテレビの画面から離した目を丈に向けた。あっけにとられた顔つきだった。
「なんだ、兄貴帰ったのか。姉さんがえらく心配してたぞ。まさか家出もしやしないと思ったけど」
もういさかいなど忘れているらしい。
「起きろよ。そこへ座るんだ。さっきの話をこれからきちんとつけるんだからな」
丈が顎をしゃくる。
「なんだ、まだ怒ってるのかい」
それでも卓は身を起こしてあぐらをかいた。巨体だが武道のせいでうそのように軽い動作だ。
「でも、あれは兄貴が悪いんだぜ。客観的にいってな......そっちが先に手を出したんだしさ」
「うるさい」
と、丈は高圧的にいった。
「あやまれといってるんだ。ごたすかいうんじゃない。手を突いて、兄に対する無礼を、悪うございましたとあやまるんだ。二度とこのような不敬は働きませんと誓え」
大男の弟は、丈の恐ろしく高飛車な態度にむかっ腹を立てた。
「そっちこそうるせえ!」
と、怒鳴り返す。
「だれが悪くもないのにあやまるもんか。冗談じゃねえや! テレビを見てるんだ、邪魔するなっ」
三千子が居間に入ってきて、どなりあう二人をほとほとあきれたという表情で見た。
「また兄弟喧嘩なの? いい加減にしたら?」
「兄貴がわざわざむしかえしに来たんだ」
と、卓は憮然としていった。
「ほんとにしつっこいたらねえよ。おれってよく我慢してるな......そう思うよ」
「笑わせるな」
丈はやにわにテレビ・セットの電源コードを、壁のコンセントから引き抜いた。巨泉のしたり顔が消えてしまう。
「兄弟喧嘩じゃないぜ、三千子姉さん。兄が礼儀知らずの愚かな弟をこらしめるだけだ。罰を与えるのは、兄の当然の義務だからな」
「こらしめるだと? 面白え、たんとこらしめてもらおうじゃないの」
弟は目にも止らぬ速さで立ちあがった。天井に頭を圧されているような巨体だ。腹立ちを薄笑いにまぎらわせながら、三千子に向って顎をしゃくる。
「姉さんは隣りの部屋へ避難したほうがいいぜ。また濡れた手拭の用意でもしといてくれ。これから兄貴が気絶するんだから」
「今度は手加減しないからな」
丈は庭に面した雨戸を繰り、いっぱいに開け放った。
「なんで雨戸を開けるんだ?」
と、卓が不審そうに尋く。兄弟喧嘩のみっともないところを、あえて近隣に聞かせることはないと思ったのだろう。
「貴様を放りだすためさ」
丈はせせら笑っていった。
「池の中で行水させてやる。あわてて水ごと蛙を吞みこまないように気をつけろ」
「そんな大口を叩いていいのか」
卓は、丈の挑発に乗ってしだいに殺気だってきた。
「蛙どころか、金魚まで吞みこむのはそっちだ!」
「目上の者に対する礼儀を教えてやる。これを機会に、反省と謙虚さをたっぷり身につけるんだな。さあこい、ゴリラ野郎」
「このチビ!」
丈は発射された弾丸のように、大男の卓の両手の中に跳びこんだ。卓はあっさりと丈をわし摑みにしたように見えた。一度摑んでしまえば問題にならない。大人と幼児の体格、体力の差があり、技術的にはそれ以上の隔差があった。
だが、彼は丈の体のどこも摑むことはできなかった。車にはねられたような強烈なショックが、卓の全身を痺れさせたのだ。
丈は、倍する巨体の弟を開いた雨戸の間を通し、軽々と池に投げこんだ。
池の深さはたいしたことはないが、水しぶきだけは盛大であった。
「これぞ、空気投げ。体をふれずに投げ飛ばす高等技だ。わかったか、雑巾ダンスのでかいの」
丈は笑いに慄えながら言葉を絞りだした。
「約束どおり、蛙をくらえ!」
卓はむせかえり、本当に喉の奥に引っかかった蛙を吐きだし、げえげえと吐き続けた。
「ざ、ざまあみやがれ......」
丈の笑いが止まらなくなった。畳に倒れて笑い転げる。気違いじみた笑いだった。なんというこの復讐の甘美な味! 魂が痺れるような魔的な快感であった。長年にわたる鬱積を遂に晴らしたのだった。
大男の弟は池の中に座りこみ、目をぱちぱちさせて、しょげ返っていた。
「丈! あなた、なんてひどいことをするの......」
三千子は蒼ざめていた。
「なにも弟を、池の中につき落さなくてもいいじゃないの......」
「あれで、いいんだよ、姉さん......」
丈は笑いの発作がおさまらず、痙攣する腹を苦しげに抱えこんでいた。
「ぼくは、昔から卓の奴に、ひどい目に遭わされっ放しだった......それは姉さんだってよく知っているはずだぜ......」
「でも......」
「ぼくが卓の奴に、この池に落されたのは、二度や三度じゃない。子供のころからずっとだ......今度は僕がお返しをする番さ。これからは、奴が気にくわないことをするたびに、この池で水浴することになるんだ」
「丈。あなたどうかしたんじゃない......まるで人が変ったみたいよ......」
「そのとおりさ、姉さん。ご洞察のとおり、僕は人が変ったんだ」
丈はへんにぎらつく目で、三千子を見返した。
「なにも卓だけには限らない。まだしも肉親だから手加減したんだが、僕の気にくわないことをする奴は、だれであろうと、こっぴどい目に遭うことになってる。池の中で泳ぐぐらいじゃ追っつかないだろうな」
不吉な予言であった。歪んだような不遜な薄笑いがへばりついていた。
「もちろん、三千子姉さんだけは別だけどね。姉さんは、ちっちゃいガキのころからぼくの味方をしてくれたからな。特別待遇ってところさ」
あっけにとられて言葉もない三千子を残し、丈は薄笑いしながら、悠然と二階の部屋へ昇っていった。
ずぶ濡れの卓が池から這い上ってきた。顔が鳥肌立っていた。
「兄貴の奴、どうなっちゃったんだろ? とても信じられない......なんか、とり憑いたみたいだ。ありゃあ、前の兄貴じゃないよ! 絶対違う! キツネ憑きとか天狗憑きとか、変なもんにとり憑かれたに違いないよ......」
「お勝手から湯殿に入ってちょうだい」
と、三千子は庭にずぶ濡れで突立っている卓にタオルを渡しながらいった。
「お父さまがお帰りになったら、お入りになるかもしれないから、お湯を汚くしないでね」
「あいよ、わかったよ。でも、姉さん、あれは絶対おかしいぜ。前の兄貴とは別人だよ」
卓はまるくしたタオルを右手に摑み、びしゃびしゃと濡れた裸足の音を立てながら、庭をぐるりとまわって裏手に去って行った。
三千子は両手をあげて、ざらざらと鳥肌立っている頰を撫でた。予感が──それは胸騒ぎとなって彼女を襲った。
卓の言葉を、否定しきれないものを感じていたのである。丈の変貌ぶりはあまりにも著しかったからだ。
あのどぎつく、ふてぶてしく脹れあがったような顔、へんにぎらつく眼つきは、断じて彼女の知っている弟のものではなかった。あんな妙な顔つきをした丈は、過去一度も見たことがない。
どこか怯えたような、それでいて激しいものを必死に堪えているような弟の内面性があとかたもなく消え失せているのを感じ、三千子は肌寒くなってしまった。
弟の卓は、兄よりも幼いころから大柄で体力に優れていたが、特に小柄な兄に対して横暴であったりしたことはなかった。それは子供のことであるから、取っ組み合いの喧嘩は珍しくなかったが、それでも体力に劣る兄をいじめるというよりは、かばっている面が強く見受けられた。
むしろ、兄が外でいじめられて泣きながら帰ってくると、必ず仕返しに飛びだしていったものだ。兄弟の間は特に不仲ではなかったはずだが、同じ家に肉親として育ちながらも、三千子自身理解しかねるような丈の性格にはどこか複雑で、不可解なところがあったようである。
しかし、今、丈が本音を暴露してみると、その鬱積ぶりには、三千子が思わず肌寒くなるほどの異様さがあった。
丈が弟に対して、あれほどの激しさで敵意を蓄積させていようとは、夢にも思わぬことだったのだ。
内面性がなにかのきっかけで、一挙に外部へ噴きだしてきたのかもしれないが、丈の人格は確かに変ったと三千子は認めざるを得なかった。
それにもまして、三千子は、自分がだれよりも愛情を持っている弟の丈の身に、なにかしら恐ろしい変化がもたらされるのではないかと思えてならなかった。そして、その予感が彼女を居ても立ってもいられぬ不安な気持にさせていたのである。
7
二階の自室に戻った丈は、燃え立つような笑いを顔に彫りこんだまま、〝力〟──PKを試用することに熱中した。
己れの身は空中浮揚させて、指一本触れることなく、押入れの戸を開ける。夜具は魔法にかかったように、オートマティックな動きで次々に滑り出てくる。
まるで目に見えない魔神の召使を持ったようである。心に命じて〝曲る〟感じを味わえばいいのだ。
手を使わず衣服を脱ぎ、部屋の隅へほうった。パンツ一つの体を、敷いた夜具の上へ降下させて行く。
信じられないほど豪奢な、王侯の特権意識を含んだ自己満足が襲ってきた。
心に念じただけで、すぐさまそれが実現する──人間は昔からどんなにその安易さを求めてきたことか。
自分は今、長年の人類の願望をこの身に実現しているのだ。しかも、それはアラジンの魔法のランプの精のように、持主にとってただ便利であるだけの卑小な代物では決してない。
それはおそらく、モーゼの振るった巨大な〝力〟に比肩するものであろう。イエス・キリストが人々に示したような奇蹟も、自分にとってたやすいことだろう。
自分の〝力〟はやがて世界を覆って行くだろう。これまでさんざん、凡庸な人間たちによって軽視され、チビと嘲られたこの身が、明日は世界の指導者、支配者として君臨するのだ。
なぜなら、自分は比類なき超能力者であり、人類の中でも稀に現われる超人的な救済者だからだ。
おそらくナポレオンにしたところで、共通点は小男であることにとどまり、自分のこの〝力〟に比較するものはなにもなかったはずだ。
ヒットラーにしたところで、内実は非力な夢想者だ。大衆を煽動する術に長けているにすぎなかった。自分のこの〝力〟をほんの数パーセントでも持ち合わせていれば、哀れな敗残の運命をたどらなくてもすんだはずだ。
おれは彼らとは違う。おれは巨大な〝力〟の行使者であり、いってみれば〝救世主〟だからだ。
丈の夢想は尽きることなく展開された。自分の持てる〝力〟をいかにして能率的に、そして効果的に発揮するか、丈は熱狂的に考え始めた。
「あきれた! 本当にひどいものだわ!」
ルナ姫の声音は怒りがこもって、鋭く咬みつくようだった。
「彼は、超能力を自分の利益のために使用することしか念頭にないのよ。ナポレオンですって! ヒットラーですって!」
彼女は唾棄すべきことを口にしたように、嫌悪に口を歪めた。本当に唾を吐きたかったのであろう。
「彼は世界の支配者たらんとする野望を育て始めたわ。モーゼと比肩する〝力〟ですって! ご冗談でしょうよ!」
「超能力者には珍しくありませんよ」
と、戦士ベガが感想を述べた。彼ら二人は夏の夜闇の中に影と化して佇んでいた。通行人が目のあたりにすれば、錯覚と信じるであろう。ベガは大型トラックのように闇の中にそびえ立っているのだった。
「非難してみても始まらんでしょう。超能力者には大きな弱点があり、すべての者が同じ陥穽に足をとられるのです。エリート意識と増上慢、そして独善です。あの少年ほど巨大なPK能力者であれば、だれしも同じ幻想の虜になることでしょうからね」
「あの思い上りようは絶対に許せないわ。あの救世主気取りは」
ルナ姫は力をこめて断言した。
「なんとしてでも、手きびしく懲らしめてやらなければ! 彼の超能力など、井の中の蛙でしかないと思い知らせてやるわ、ベガ! 本当にあの子は嚇っとさせるわ、黄色いネズミのくせに!」
彼女ははしなくも本音を吐いたが、自分では気付かないようであった。彼女は自分の人種的偏見にはまったく注意を払わない独善の持主ではあった。
「彼の傲慢さを叩き潰してやらなきゃ、わたし気がおさまらない......」
「うっかり手出しをなさらぬ方が賢明ですよ、プリンセス。あの少年は、いわば戦車に乗った腕白小僧とでもいったところです。己れの力を知らず、それをコントロールするすべも知らない。あの工事現場で、彼が〝爆発〟するところをご覧になったでしょう。彼は山を一つぐらい消滅させる力を発揮したかもしれないのです」
「わたくしがそんなことを恐れると思うのですか」
ルナ姫はつんと顎を突きだしていった。一度思いこむと猪突猛進する性向が、この小柄でたおやかな姫君にはひそんでいた。外見とはおよそ結びつかない、鋼鉄のような毅よさを心に蔵しているルナ姫であった。
「見ていなさい、ベガ。わたくしの超能力で、彼に身も世もない悲鳴をあげさせ、徹底的に悔い改めさせてみせます」
「どうなさるのです、プリンセス? 何度もいうように彼のPKは危険ですよ。彼を再び〝爆発〟させたら、あなたの生命が危険に曝されます」
「自分のやるべきことはわかっています」
ルナ姫は厳然といった。ベガにこれ以上の口出しを許さないきびしさであった。
「彼がこのまま誇大妄想の、自己顕示欲ばかり強い権力意志の化物になってしまったら、それはわたくしの責任です。〝フロイ〟に対して申しわけが立ちません......それになんのためにこれだけ苦労して、あの少年を捜しだしたのか、わからなくなってしまいます」
「彼がそう簡単に音をあげるとは思えませんな」
と、ベガは率直なものいいをした。
「おわかりでしょうが、彼は猛然と反撃してきますよ」
「心配ですか、ベガ。わたくしが彼に傷つけられると思っているのですね。でも、わたくしの裡に残してくれた、神の如きもの〝フロイ〟の智恵はこういっています。テレパシーを使えって......わたくしのテレパシーはあの子のレベルより何万倍も強力です。彼がPKで巨人であるように、わたくしもテレパシーではかなりのことができるでしょう。わかりますか、ベガ。わたくしは彼の心の中に、恐怖を注入することができるのですよ」
ルナ姫はベガに、夜目にも蒼白い微笑を見せた。その微笑はいささか殺気だっているように、ベガには思えたのだ。
8
ルナ姫が自信を持っているとおり、彼女の精神感応は、テレパシストとして人類最高であったかもしれない。
宇宙意識体〝フロイ〟と数百万光年の超距離交信をなし遂げた自信がそうさせるのであろう。前人未踏といえたかもしれないのだ。
そのルナ姫にとり、東丈の意識の波長を捉え、テレパシーによる刺激を送りこんでやるのは児戯に類した。
ルナ姫が思念を凝らし、精神エネルギーを集中するにつれて、彼女の双眸は透明なランプのような光を放ち始めた。
ルナ姫の瞳は人間放れしており、とりわけ超能力を発揮する時は、暗闇でも宝石のように輝きだすし、エネルギー集中が進むにつれて、サーチライトさながらの光芒を放つことになるのだった。
丈はこの夜、災難に見舞われた。
〝力〟による世界再統合という大きな空想を飽くことなく展開させ、大野望をふくらませるだけふくらました丈は、神経が過熱したのか、寝つけなくなっていた。
ふだんならナーバスになりがちな不眠も、今夜ばかりはさすがに苦にならなかった。さまざまな空想が脳髄を心地よく痺れさせてくれるのである。
丈はまず手始めに学校を統合した。全校生徒が、校長を初め教職員を含めて、丈の指導に服し、熱狂的な追従者と化すのだった。
丈の示す〝力〟は、人々の心を動かさずにはおかない。〝救世主〟の力と確信させるのに充分なのだ。
丈は退部した野球部に復帰し、PKによるスーパー投手を想像の中で試してみたが、すぐに飽きて、ワイプの手法で消してしまった。
この〝力〟はまるで野球ごとき常人の遊びには不均衡だと知ったからだ。いかにPKによる快速球を投げ、超大ホームランを打ったところで、快感を得られなかった。非力な常人たちにとっては、アンフェアというものであろう。
その次に、失恋した恋人の沢川淳子とよりを戻してみた。もちろん、彼女はかつての恋人が偉大なる人物であったことを知り、深く後悔して戻ってくるのである。彼の胸で泣き崩れ、前非を悔いる淳子を、むろん丈は許してやる。彼女は愚かな人間だが、恋人の真価を見抜けなかったのは非力な常人の常として、やむを得ないともいえるのだ。
丈は二、三度肩を叩いてやってすぐに淳子に飽き、ディゾルブの手法で消した。突如として彼女が凡庸きわまりない存在であり、自分にふさわしくない存在と悟ったのである。
美しい女性はいくらでも彼の忠実な信徒としてかしずいてくれるので、いささか食傷気味となった。ハレムのように数多くの美女とたわむれることができるのだが、当然姉の三千子が彼の世話を見ていることに気づいて、美女たちのハレムは中止したのだった。
丈には美女たちが群がり寄り、チヤホヤする時間の余裕はないはずであった。〝救世主〟として人々の渇仰を集め、信徒を集めつつ、世俗的な権力者たちと取引し、あるいは戦わなければならないのだ。すでに丈の空想は高校という小宇宙をはみだしてしまっていた。
人類の指導者たるべく進軍する丈の許へは多数の追従者が集結を続け、巨大組織として育って行く。
日本を代表する大実業家、首相、高名な学者、文化人、全ての実力者が続々と丈に帰依しつつある。
いつしか丈は巨大な建物の中心部に位置し、秘書グループを指揮して、国際的な問題の解決に挺身している。一分の余裕もない高速回転の忙しさだ。
武道館で大聴衆を前に講演している。一語ごとに大歓声と拍手が湧く。大衆はまったく丈の一挙手一投足に熱狂しているのだ。
丈の主宰する巨大組織は海外へも足がかりを見出して行く。まず最初は北米西海岸に支部が作られ、大勢力を伸ばすとともに、ニューヨークへと飛び火する。そして南米ブラジル......
丈は東奔西走である。一時として体が安まることはない。今この時はパリ、六時間後にはロンドン......明日はボンで西ヨーロッパ組織拡大会議が控えている......
丈は組織拡大欲に飽きてきた。このままではたちまち全世界を席巻してしまいそうだ。あまりにも順調すぎるのである。やはり波風が立った方が現実的だし、時には逆境に立つこともあるだろう。
他の宗教組織がこぞって敵方にまわるというのはどうであろうか。国家権力と結託した宗教界の実権者どもは、丈の組織崩壊を狙い、忠誠な信徒を装った工作員たちを多数送りこんでくる。裏切者〝ユダ〟がひっそりと組織を侵蝕し、丈の側近にも逆意を秘めた陰険な蛇が息づいている。
やがて内部抗争の火の手があがりだす。重要な機密はかたっぱしから反徒どもの手に漏出する。卑劣な裏切者どもは、丈の悪評をまきちらし、醜聞をでっちあげて外部へ流し、マスコミに売りこむ。
丈は巨大な邪悪な力を持つ〝大魔王〟と悪意に満ちた中傷がなされ、デマがデマを生んで広がっていく。
丈は美貌の女信徒を〝魔力〟によって支配し、女奴隷として多数をハレムに収容し、かしずかせているという虚報がマスコミ・ジャーナリズムを賑わせる。
世界はこぞって丈を糺弾し、教団本部へ暴徒が押し寄せ、投石し、信徒たちに暴行を加える。
丈の持てる巨大な〝力〟によって、暴徒を一掃することは可能だが、そんなことは好ましくない。真の〝大魔王〟としての烙印をおされてしまうからだ。
しばらくは苦しい受難の時をすごさなければならない。
だが、もちろん丈はこの迫害をはねのけるのだ。側近にいた卑劣な蛇の正体を暴き、そいつを絞めあげて陰謀を白状させる。そして蛇を送りこんできた極悪な宗教、政財界の結託した大ボスに対して、丈は戦いを挑む。
丈は単身、ヤクザ、右翼暴力団に護られた大ボスの許へ乗りこんで行く。いかなる暴力も丈を傷つけることはできない。なぜなら、丈は巨大な〝力〟を持つ超人であり、たとえ軍隊を相手取っても打ち破ることが丈には可能だからだ。
激しい戦いが展開される。日本刀や銃器を手にした暴力団が丈を押しつつみ、殺到してくる。
丈はしばらく、その詳細な乱闘を空想した。唸りを生じる日本刀、白い目と歯を凶暴に光らせて突進してくる野獣じみた精悍な男ども......拳銃やライフル銃が丈に向けていっせいに射ちまくられる。
丈は、しばし大藪春彦の不屈の主人公のように凄まじい活躍に身を挺した。丈の〝巨大な力〟は発動されない。たかが暴力団風情には巨大すぎるからだ。
〝力〟の援護なしで、丈は群れなす男たちを倒して行く。卑劣なだまし討ちの時だけだ、丈の巨大な〝力〟が発揮されるのは。
丈は〝爆発〟し、卑怯な奴らは消し飛んでしまう。そして、いよいよ大ボスとの対決である。権力と暴力の堅牢な鎧を剝ぎ取ってしまえば、相手はおぞましい卑怯未練な、生の執着で命乞いする老ぼれにすぎなかった。
丈は空想に倦怠を覚え始めた。アクション・シーンには高揚感をもって熱中したが、後がつまらない。
結局は、真の巨人である丈にとって、非力な常人は脆弱にすぎ、相手にならないのだった。
やはり敵役は、丈と同等の〝力〟を持った超能力者......それも悪の巨人でなければならないだろう。
悪の巨人は、丈を屈服させ、破滅さすべく、邪悪、周到な計画をめぐらしているのだ。
丈の尽きることのない空想は新しい展開を迎えた。
彼、悪の巨人は、凶暴な闇の組織を従え、虎視眈々と丈を滅ぼす機会を狙い続けている。
先の大ボスを操っていた黒幕こそ、この悪の巨人にほかならなかったのだ。
闇の軍団は、もしかすると丈が若芽のうちに潰そうと、すでに動きだしているのかもしれない......
丈は冷たい波動で体を覆われ、顔を凍りつかせた。
もしかすると、それは真実なのでは? よく考えてみろ、丈。今夜起こったことはいったいなんなのだ!?
お前は有頂天になって忘れてしまったようだが、お前を襲った奇怪な巨人はいったい何者だったのだ?
あの異様な襲撃者は、お前の空想が真実であることを意味しているのかもしれないのだ......〝悪の巨人〟は実在し、お前を抹殺すべく動きだしたのだとしたら......
丈の体中にどっと冷汗が噴きだした。
空想でもなく、幻覚でもなかった。部屋の暗闇の一画に、あの奇怪な襲撃者がこつぜんと巨体を現わし、部屋の天井の高処に達する顔が双眼を青白く光らせて、仰臥する丈を見降していたのである。
「うわっ」
丈は堪えきれず絶叫して飛び起きた。それは絶対に恐怖が作りだした幻像ではなかった。沈鬱な巨人の怪異な顔が、凝然と丈を睨んでいる......
丈は夢中で照明を点けた。あふれだす螢光灯の光が部屋に溜まっていた闇を追い払った。
丈の体は汗で冷たく湿っていた。
天井に届くほどの巨人の幻影は消えている。やはり一瞬の目の迷いだったようだ。確かに見たと思ったのだが......
幽霊かと思わずにはいられなかった。工事現場で起きたことは、あっさり忘却できるようなことではなかったからだ。
体を湿らせている汗が氷の冷たさに変り、胴震いが出た。
だれかが丈を凝視していた。視線をはっきりと感じるのである。戦慄がとめどもなく湧きあがってくる。
丈の背後にだれかがいる。それは確実なのだ。しかし丈は振り向けない。振り向けば、そのだれかとまともに視線を交えることになる。背筋が硬直し、鳥肌が体中に広がった。
だが、振り向かずにはいられない強迫観念が、丈に圧迫を加えた。
丈は悲鳴をあげた。
壁の中に二つの眼が光って、丈を凝視していたからだ。
恐怖が冷たい暗流のように、どっと丈の心の中に流れこんできた。
壁の中から手が伸びてきて、丈の手を摑んだ。幻覚ではなかった。たしかに手首を握られたのだ。丈をじりじりと引き寄せて、壁の中へ引きこもうとする。
丈は絶叫をあげて部屋を飛びだした。
丈の悲鳴を聞きつけて、姉の三千子と弟の卓が階下から慌しく駆けあがってきた。二人とも寝入りばなを叩き起こされたらしく、パジャマ姿だった。
「どうしたの、丈?」
「兄貴!! 何があったんだ!」
丈は幽鬼のように廊下に立っていた。三千子と卓の姿を見て、じりじりと後退りする。丈の目には、姉と弟の姿は映じていない。なにかしら想像を絶したものを見ているのだった。
「近寄るな!」
と、丈が金切声で喚いた。精神に異常を来したとしかいいようのない形相である。目は据ってぎらぎら光り、恐怖で面変りしているのだ。
「丈! しっかりして!」
三千子は愕然として叫んだ。体が凍りつく冷気を覚えた。丈は明らかに姉や弟の顔がわからなくなっていた。
真青な怯えきった顔を二人に向け、後退りを続ける。まるで、彼らが異形の化物ででもあるかのようだ。
「どうしたんだよ、兄貴! しっかりしてくれよ! おれだ! 弟の卓だってば!」
卓が前へ進みでると同時に、丈は狂ったように後に跳びのいた。
「あ、危い!」
丈の体は轟然と、廊下の端の窓を突き破って跳んだ。
「きゃっ」
と、三千子が魂消るような悲鳴を迸らせた。
「兄貴っ」
丈の体はガラスの破片とともに二階の窓から転落し、地上に激突する寸前、目に見えぬ巨大な手で引き抜かれたように消失した。
消えたのではない。初速千キロを超える高速で突如飛び上ったのである。砲弾のように丈の肉体は上空へとかき消えた。
たとえ目撃者がいたところで、己が目をどうしても信じることができなかったに違いない。
庭へ狼狽しきって跳びだしてきた三千子と弟の卓は、むろん丈の姿を見出すことはできなかった。二階から転落したのである。血まみれになって倒れ伏している丈の姿を脳裡に描いていたのだ。
「丈! どこなの、丈!」
三千子はショックのあまりがたがた慄えてい、声は悲鳴のようにうわずった。
「姉さん、庭を見てくれ! おれは表を捜しに行ってくる!」
卓は下駄を鳴らして、玄関の木戸に向って駆けて行く。
9
「たいしたものだ」
と、サイボーグ戦士ベガがさして感心したようすもなく讃辞を呈した。
「PK能力者として、レベルを抜いていることは間違いありません。私もこんなに派手なPKは初めてお目にかかりましたね」
「パニックに襲われて逃げだしたのよ」
と、ルナ姫が冷やかにいった。
「わたくしがテレパシーで送りこんだ恐怖の虜になって。とんだくわせ者みたいね」
「しかし、プリンセス、彼の発揮しているPKは、個人的なレベルをはるかに凌駕するものです。集団PK以外に、彼の〝力〟に匹敵するレベルのものは見たことがありません。きわめて特殊なタイプの超能力者ではないかと思います。彼がどこへ行ったか、おわかりですか?」
「逃がしはしないわ。一度テレパシー・バンドを捕えたら、彼が世界の果てに行こうとも......」
わざとらしい軽蔑がこもっていた。徹頭徹尾、蔑みを隠そうともしないルナ姫だった。
「では、追跡してみましょうか」
戦士ベガはその逞しい両腕をさし伸ばし、ルナ姫の小柄で華奢な体をひょいと抱きあげた。
「お疲れでしょうが、しばらくご辛抱を」
ベガは双腕にルナ姫を抱き取ったまま、すっと空中へ浮揚していった。ミサイルを発射したようにぐんぐんと加速しながら上昇して行く。噴射推進ではないので、まったくの無音である。
バリヤーをめぐらしているので、ルナ姫が高速飛行によって窒息する懸念はなかった。重力場推進によって飛行する戦士ベガは、他のいかなる航空機も決してなしえない超高速を自由に出すことができた。
ルナ姫の指示により、ベガは方位を定め、まっしぐらに丈の後を追跡した。間もなくベガ自身の探知システムに、丈の飛行ぶりが捕捉された。
「地球人の基準でいうと、丈は現在マッハ10をわずかに下まわる速度で東南へ飛行中です。いよいよもって、ただごとではありませんよ、プリンセス。PK能力者として、彼は明らかに異常です。彼の〝力〟は人間のそれではなく、〝幻魔〟の発揮する〝力〟に近いのではないかという気がする......」
「〝力〟だけではなく、品性も〝幻魔〟に近いみたい」
ルナ姫の批評は痛烈であった。丈の野望がよほど腹に据えかねたのだろう。
「自らを〝救世主〟と思いあがって、モーゼやイエス・キリストと自分を比べている、あの黄色いネズミの〝力〟がどの程度のものなのか、限界まで試してやるわ! きりきり舞いさせてやるから、見ていらっしゃい!」
「プリンセス......あなたはあの少年に懲罰を加えるおつもりですか?」
「自分がどんなに卑しくみすぼらしく、そして小さな存在か思い知らせるのです。見てごらんなさい、ベガ。彼は死物狂いで逃げて行くのよ。彼の目には、月がベガの姿に見えるの。わたくしが遠隔催眠でイメージを彼の心に送りこんでいるから。でも、どうあがいたって逃げきれるものではないわ」
彼女のいうとおりだった。丈は必死の逃亡中であった。丈の飛行速度はマッハ15を超えた。いかなる高速のジェット戦闘機も絶対に、彼を追尾することは不可能だ。
生身の人間が平然とそれだけの超高速飛行に堪えうるとは、ベガにとって信じがたい驚異であった。
丈にとっても、もしルナ姫のかけた遠隔催眠によって、幻影に追いかけられているのでなければ、己れの〝力〟の偉大さに酔い痴れることができたであろう。
しかし、ルナ姫はイメージ化の媒体として天空に懸かる満月を用いていた。いかに死力を振り絞って加速したところで、見かけ上の等速度運動を行なう月から逃げ切ることはできなかった。
丈の心は絶望的な苦痛と疲労に閉ざされ始めた。
「だいぶ、へこたれてきたわ」
ルナ姫が嘲笑をこめていった。
「でも、まだこれぐらいで勘弁してあげるわけにはいかないわ。ベガ、わたしがどうするかわかる? 彼の心に〝幻魔〟大王のイメージをわたくしの記憶から投射して送りこむの。それで、思いあがりでのぼせた頭もすっかりさめるかもしれないわ」
「もうおやめなさい、プリンセス」
と、ベガが強い口調で警告した。
「超能力者が体力の全てを使い果すのは、きわめて危険な結果を招きかねません。神経組織が焼損することにもなりかねないし、重大な神経障害を惹起する可能性が大きいのですよ」
「わたくしのやることに口出ししないで!」
ルナ姫は激しくはねつけた。
「あなたの助言する意味はわかります。でも、これは地球人同士の問題なのです。彼が真実を悟らなければ、彼の存在は地球人全体の運命に重大なデメリットをもたらすでしょう。わたくしに未来透視の〝力〟があることを忘れないでください、ベガ。たとえ、どんな犠牲を払っても、彼は真実を知らねばならないのです。あなたは助言者ですけれども、当事者はあくまでも、わたくしたちなのです。黙って見ていてください」
ルナ姫の気迫にはただならぬものがあり、ベガは危惧の念を抱いたまま沈黙せざるを得なかった。ルナ姫の裡には鋼鉄のようなものがある。それは指導者としてすばらしい特質といえる。偉大な指導者として彼女が自分自身を育てるには不可欠のものといえるかもしれなかった。が、それと裏腹になっているのが、凄まじいばかりの独善性であり、彼女が自信を深めていくにつれて、ベガの助言を受け容れることを忌避するようになるのではないか。
ベガは心に忍び寄る前途への危惧を払い捨てられなかった。
10
満月を媒体にした幻影が消えた。
「............!」
丈の胸を鋼鉄の箍さながらに締めあげていた恐ろしい圧迫が消滅した。思わず歓声をあげたくなるほどの解放感が襲ってきた。
だが、消えたのは幻影だけではなかった。媒体に使われた月自体があとかたもなく消滅を遂げていたのだった。
違うのだ! なにごとか、異常なことが起こっている!
超高速飛行から一瞬にして停止した丈は、空中浮揚状態に入り、異変の正体を見定めようとした。
信じられないことが起きていた。丈はすでに地球上に存在するのではなかった。
宇宙の測りがたい深淵のまっただ中にあるのだった。
全方位にわたり輝きわたる光の壁が丈を囲繞していた。想像を超えた密度で蝟集する星群であった。それはよく晴れた夜、天空に仰ぎ見る満天の星がみすぼらしい粗雑な代物に思える、異様な緻密さで、宇宙の大円球を埋め尽していた。
今は地上もなく、天空もない。足下に踏みしめるべき確固不動の大地などどこにも存在しなくなっていた。
宇宙の深淵のまっただ中に、身を支え頼るべき何物もなく、孤立し、漂っているのである。
丈は不意に酩酊を発したような感覚の虜になった。頭が鳴りだしたようだった。それは強烈な宇宙酔いとでもいうべきものであるかもしれなかった。
あまりにも巨大な宇宙と、対比するのも愚かしい卑小すぎる自分と......
自分が落下しているのか、上昇しているのか、方向感覚が判断の基準を持たなくなっていた。
孤独が冷たく胸を覆った。人類という絆から、自分だけ切り離され、孤絶して生きることの真の意味が、丈には今こそわかりかけてきた。
己れが属していた豊饒さを離れ、全き孤立を持して生きることは不可能なのだと丈は思い知らされた。そのように人間は造られていない。地上に生きる人間が持つ孤立感など、ひっきょう甘えの変形でしかないのだった。自分を甘やかしてほしいと他人に要求しているにすぎないのだった。それは幼児的な甘えであり、真の孤独とはなんの関係もないのだ。
丈は、自分がいま突然、飛び出してしまうことによって、遠ざかってしまった、豊饒で限りなく優しい人類の絆を懸命に捜し求めようとした。
この真実を悟った自分は、地上に戻っても必ずうまくやっていけると丈は確信した。以前のように幼稚ではありえないだろう。私利私欲のために、他人を排除して顧みない偏狭な生き方は決してできないだろう。
地球へ戻ろう、と丈は思った。自分はもっともっと賢くなり、謙虚になり、自己の利益のために他を押しのける卑しい真似はやめるだろう。
自分がこの宇宙で見てきたことを人々に語り、真実を告げるのだ。地上に生きる人間は、自分がどんなに豊饒であり、幸福であるか、真実に全く盲になっているのだ。自分自身が幸せである事実に気付かないほど不幸なことがあるだろうか......
丈の目には暖い感傷的な涙があふれてきた。清々しく心を浄化する涙だった。
餓えた犬たちのようにガツガツと自己の利益を貪ることしか念頭にない奴らを、一度ここへ連れてきてやりたいものだな、と丈は思った。
どんなエゴイズムの化身でも、きっと考えを改める。人間が孤絶して生きることは絶対に不可能であることを、彼らは知ることになるのだ......
望郷の思いに熱した丈の心は、恐ろしい光景を目のあたりにして一瞬にして冷却した。巨大な絨毯がくるくると巻きあがるように、光の凝集した壁が消えて行くのだ。
その後には、真の闇が──それは物質的な闇ではなく、虚無の深淵というべきものだ──急速に宇宙を侵蝕して行く。
宇宙が死んで行く!
丈の胸を名状しがたい悲痛な、絶望の思念が占めた。その思いは筆舌に尽せぬ苦しみそのものだった。
全ての美しいもの、良きもの、素晴しいもの、価値あるものが、宇宙の死とともに滅びて行く......それらが人の心に復活する明日を持つこともなく。
虚無の深淵とは、永劫に救いの光一条、射しこむことのない全き苦悩、絶望、悲嘆、その苦渋の闇だ。それは物質の光が影の部分に作りだす闇ではない。単なる物質が存在しない空間ではない。星群が消滅し去った後の、空洞のような空間のことではなかった。
それは、魂にあいた暗い冷たい虚無の孔である。愛なく喜びなく、光もない、絶対の虚無。未来永劫に渡る絶対の苦悶と絶望。
それを思うだけで冷汗がとめどもなく流れ、正視することもかなわない。
人間の魂に巣食う虚無の虫食い孔と直接つながる宇宙大の虚無。
丈はその時、〝虚無の咆哮〟を聞いた。宇宙の端から端までを貫き走る亀裂の轟音。それはルナ姫が三八〇万光年を隔てた彼方で耳にした、〝幻魔〟大王の咆哮であり、宇宙の深淵をどこまでも押し渡って行く〝宇宙津波〟、暴虐と破壊の衝撃波にほかならなかった。
丈は心身ともに震撼した。純粋な悪の衝撃波が行きわたる全ての生命を物質を消し去って行く轟音、無数の犠牲者の放つ苦悶の、絶望の叫び、それらが一丸となって丈を打ちのめしたようであった。
こんなことが許されていいものか!?
まっさきに意識をたたいたのは、この問いかけだった。
これほどの暴虐が尽きることもなく行われ、それを黙過することが許されるものなのか?
丈を襲い、震撼させた〝衝撃波〟は単なる物質的なショックをもたらしたのではない。信じがたいほど凝縮された超密度の情報そのものだったのである。
その一瞬、丈は無数の世界が滅びる際の、滅亡する億兆もの生命体の苦悩の悲鳴に打たれたのだった。
ただ一つの惑星が消滅する時でさえ、その苦悶と絶望の総量は、人の想像を超えるであろう。尽きせぬ怨みと嘆きをいつまでも虚空に刻印するだろう。
破壊者〝幻魔〟の宇宙津波は鬼畜の恐ろしい鯨波とともにどこまでも拡がって行く。
──そんなことを許してはならないはずだ!
丈の心に純粋な怒りが燃えあがった。それは全くの正当な憤り、〝義〟を護持しようとする者の激しい怒りであった。
──許してはならない! たとえ宇宙創造主が、〝神〟が許すとしても、おれは決して許さない!
宇宙の雷鳴が轟きわたり、丈はそれが絶対暗黒の王、〝幻魔〟の暗黒エネルギー体の意識中枢が、個人的に丈に向けて放った嘲笑であることを理解した。
丈は全身全霊で叫んだ。
宇宙の亀裂、暗黒エネルギーの食肉獣のように裂けてねじ曲った口が、憎悪のエネルギー放射とともに嘲笑したからだった。その言語を超えた凄絶さは、丈を発狂へ向けて突きやろうとした。
「きさまは何者だ!?」
丈の悲鳴に似た絶叫は、闘志をかきたてることにより自己崩壊を防ぐ必死の努力であった。
〈そは宇宙の破壊者にして暗黒の支配者なるもの......〉
陰々たる雷鳴が轟きわたる。
〈天に満ちたる星々を余さず消し、時の流れを停め、空間を無に帰するものなるぞ〉
「くそっ」
丈の身裡に押し寄せる圧倒的な憎悪と敵意に対抗し、闘志がふくれあがった。
「きさまは、この宇宙になにをしようというのだ!?」
丈は声を限りに叫んだ。
〈破壊......〉
その答は全宇宙に谺した。
〈なべて生あるものに死を! 形象あるものに虚無を! 億兆光年の宇宙に全き破滅を!〉
「そんなことはさせない! おれはきさまと戦うぞ! 全ての善きもの、美しいものを護るために! そうとも! この真実を知った者は必ず自ら進んで戦いに身を投じるだろう! 全ての光は闇と戦うのだ!」
〝幻魔〟大王の哄笑は耳を聾した。
〈〝幻魔〟は数百億年にわたる不敗者なるぞ! 宇宙が幾度滅ぶとも、我ら〝幻魔〟の敗るることなし。それでもなお、余に挑むか、こわっぱ!〉
「戦うとも!」
丈は声を限りに絶叫した。
「たとえきさまが最強の勝者でも、おれはきさまに戦いを挑まずにはいられない。その闘志は、おれの魂の深奥から奔流となって迸りでてくる! おれはきさまに挑戦するぞ!」
丈は咆哮とともに、自らの持てる全エネルギーを〝暗黒の虚無〟に向けて解き放った。それがたとえ自らの破壊を意味するものと知っていたところで、やらずにはいられない熱いエネルギーのほとばしりであった。
己れの持てる限りの〝力〟を戦のきやすい若い魂の咆哮とともに、あらん限りの情念をこめて投げつけた。
丈は自ら放出したエネルギーによって、恐ろしい渦動に巻きこまれた。それは自分自身をブラック・ホールの超重力場に投げこむのといっしょだった。
〝幻魔〟の虚無の深淵はあっさりと丈の放出したエネルギーもろとも丈を吞みこみ、吸引した。丈は苦悩と絶望の叫び声をあげ、絶対暗黒のまっただ中へどこまでも落下して行った......
死力を振るい、消耗し尽した東丈は、露出した岩塊の上に倒れ伏していた。
周囲は恐るべき惨状であった。広範囲にわたる山崩れが、樹林を根こそぎにし、地形を変え、荒廃の姿を曝していた。
人家ほどもある巨大な岩塊が多数崩落し、山裾の地域に大惨害をもたらし、山の形すら変ってしまった。
それをPKというにはあまりにも凄まじすぎた。丈の放出した〝力〟は文字どおり、山を移したのだった。
だれの目にも、その惨害のさまは巨大地震によるものと映ったろう。どんな大暴風といえども、これだけの破壊をもたらすことはできない。
丈は倒れ伏したまま微動もしない。空気中には、落雷の余韻のようにオゾンの香が濃く漂っていた。
闇は静寂に帰り、夜空は星群の瞬きに満たされていた。

生命を失ったもののように動かない丈の傍らに、天空から巨大な影が音もなく舞い降りた。
ルナ姫を双腕に抱きとったサイボーグ戦士ベガの姿がそこにあった。
「地球人の闘志には、目を見張らされますな、プリンセス同様、この少年も見応えのある頑張りを示しました。ブラボー! というのですか?」
ベガの皮肉をルナ姫は無視した。
「これで、多少は懲りたでしょう」
と、彼女は冷淡にいった。
「どうしてもしなければならなかった......自分だけが〝力〟を持った超能力エリート......〝救世主〟気取りを打ちこわしてやらなければならなかったのです。自分の高の知れた〝力〟の限界を悟るいいチャンスになったでしょう」
「彼は勇敢だった。自分に勝ち目がなくとも、相手の圧倒的な優勢に怯むことなく、真正面から戦いを挑んだ」
と、戦士ベガはいった。
「無謀なだけです」
ルナ姫はにべもなかった。
「でも、これで彼は謙虚さを学んだでしょうよ」
「おみごとでした。プリンセス。あなたはこの少年を完璧に翻弄し尽した。挽回のチャンスすら与えませんでしたな。少年は強敵に死物狂いの戦いを挑んだが、まさか同士討ちを演じているとは夢にも思わなかったはずです。地球人類が、プリンセスご自身とこの気の毒な少年の二人に象徴されるとすれば、今ごろ〝幻魔〟大王はいたく喜んでいることでしょう」
「なぜ、そのような皮肉をいうのですか」
ルナ姫は瞳を怒りにきらめかせて、ベガを睨んだ。
「皮肉ではありません。かなり失望したと申しあげましょう。地球人類もまた、〝幻魔〟にとって弱敵でしかないかもしれない......私はそう考え始めたところです」
と、ベガはあからさまに述べた。
11
「高度のテレパシストであるあなたに対して、表面だけとりつくろってみても始まらんでしょう」
ベガは率直そのものであった。
「私がこれまで見てきた数多くの星間種族と同様に、あるいはそれ以上に、地球人は内輪もめを好む種族だ......驚くと同時に失望もしている。そう申しあげるほかはありますまい」
ルナ姫は強く瞳を見張って、ベガを見詰めていた。著しく自尊心を傷つけられはしたものの、ベガのうそ偽りのない失望を思い知らされて、動揺もしているのだった。
ベガは地球人類があまりにも未開人に近い心性の持主であることに落胆していた。
地球人の歴史は骨肉相食む流血の暴虐に貫かれてい、きわめて不安定な種族の典型といえた。いわば人類は種として若く、粗暴なのだった。きわめて攻撃的で危険な未開人のパターンに入る。
ベガの意識を読み、ルナ姫の心は屈辱でかっと燃えた。彼女には自分自身を笑いものにできるユーモア感覚が不足していた。
「あなたの心の中など、見たいとも思いません!」
ルナ姫は高く顎を持ちあげた。勝気なだけに涙が出るほど口惜しいのだった。
ベガは彼女の傷ついた自尊心には目もくれず、意識のない丈の体を、頭をゆっくり振りながら見降した。
「気の毒に、すっかり参ってしまっている。男とは単純な生物です。いかに豪勇無双の英雄でも、女の奸計にかかってはかたなしだといわれるとおりらしい」
「ベガ! あなたは意地悪です!」
ルナ姫は涙をこぼすまいとして甲高い声になった。
「あなたはテレパシストではないから、この黄色人種の少年の心に巣食った危険な欲望を理解することができないのです! この黄色いネズミは、ヒットラーを理想像にしているのよ」
「アドルフ・ヒットラー? 偏執的の独裁者でしたな」
ベガは、地球史を学んだらしい。
「この少年、丈もそうだというのですか?」
「激しい劣等感の持主だということでは、同じです。同じように正常な道徳性とは無縁の、〝救世主〟妄想にとり憑かれているんだわ。危険な偏執狂です、この黄色いネズミは」
ルナ姫は嫌悪に堪えぬそぶりを見せた。
「なるほど。〝幻魔〟がいかにも喜びそうな話です。〝幻魔〟の最も得意とするのは、敵勢力に内部抗争、内部分裂を惹き起こす業だからです。ところが、この星、地球ではそれすらも必要がない。クサビを打ちこむ親和性、友好関係が存在する基盤がもともとないというわけですな。人種、国家、民族、そして宗教のバラバラの割拠、摩擦や角逐を融和し、統合する使命を持つべき超能力者グループですら、結成以前にすでに強い反目と抗争が存在する......私としてはプリンセスの気の遠くなるような遠大な壮挙に対して、気を長くして期待をかける、としかいいようがありません」
ルナ姫は一言もなかった。感情が激するままに、地球人の低劣さを異星人ベガの前に曝してしまった後悔が心を灼いていた。
「ともかく、少年を覚醒させましょうか」
と、ベガがクールにいう。ルナ姫は無言でうなずいた。後悔してはいるのだが、それを素直に認める気になれないのだった。とかく感情に動かされやすい自分に腹が立ってたまらなかった。己れのなすべきことを自覚した時、彼女は感情家であることをきっぱりやめようと決心したのである。心の揺れ動くままになっていては、特に女の身にとっては自らを律することは不可能になる。自律性の欠如した指導者にいったいだれがついてくるだろうか。
それは助言者のベガにも告げなかった秘かな誓いであった。
ベガは腰間から銃器とも剣ともつかない武器を抜きとった。エネルギー・チューブがベガの本体につながっている。アタッチメントの先端を、丈の左の二の腕に押しつけた。シュウッと軽い音が響いた。
数秒後に丈の瞼があがった。しかし、立ちはだかるベガやルナ姫を認知した表情は浮かばない。
白痴じみた虚ろな目は鈍く、光がなく、無反応であった。死魚の曇った目玉が中空を睨んでいるようだ。
「丈! 東丈......私のいうことが聞こえるかね? どうしたのだ......」
「............」
丈の目は鋲を打ちこんだみたいに微動もしない。身じろぎすらしなかった。
ベガは丈の体を摑み、揺すった。やはりなんの反応も示さない。
「丈! しっかりしろ! 私の声が聞こえるか?」
ベガの巨きな顔に暗い翳りが這い降りてきた。
「プリンセス。どうやら私の恐れていたことが事実になってしまったようですぞ、ショックが強すぎたのです。精神機能に障害を来たしたようです......」
ルナ姫はきびしい眼ざしを、廃人の顔貌になっている丈に注いでいた。いささかも動揺を表にあらわしていなかった。
「たいへん、まずいことになりましたな、プリンセス。こうなると私の手には負えません。ひとまず東京の彼の実家へ連れ帰るしかないでしょう」
ベガは暗然とした口調だった。巨大な偉軀には悲しみがみなぎってきていた。口には出さなかったが、超能力の大器たるべき者を、未然に打ち砕いてしまった悔恨、それを制止しなかった自責が巨人の心を重く絞めつけていた。言葉にすれば、それはルナ姫の犯した取り返しのつかぬ失態を責めることになる。ルナ姫はそんな彼の思いやりを読んだが、眉一つ動かさぬ勝気さで無視した。
「私が悪かった......」
と、ベガが口重にいった。
「ブレーキをかけるべき時に、それをしなかった私の責任です」
「だれも責任を問われる必要はありません」
ルナ姫は蒼白い顔で、しかしきっぱりといった。
「丈はわたくしの送りこんだ〝幻魔〟大王のイメージと戦って敗れたと思いこんだのです。それで丈は逃避したのよ。丈の自我は、自分自身の内部へ、つまり深層意識の奥深く逃げこんだの。彼は自分の弱さに負けたのよ」
「だが、彼は廃人になってしまった。こんな若さで......むごいことですな」
「彼を現実に連れ戻す方法はあるわ」
と、あくまでもルナ姫はたじろがずにいった。
「わたくしが、テレパシーで丈の深層意識の奥へ降りて行きます。深層意識の穴ぐらで胎児のようになっている丈を捕えて、現実に引き戻してやるわ」
「なるほど......ESPドクターとしてプリンセス自ら治療に当るわけですな」
ベガは、ルナ姫の超然と見えるほどのクールな自信の謎が解けて、頭を振り動かした。だが、彼女の自信には経験と実績の裏付けがない。なんという危うげな自信だろう。
彼は自分の知っていた多数の超能力部隊のだれかれを思いだした。ルナ姫のようなタイプはたしかに珍しい。それは彼女が超能力者として未完成でありながら、過重な責任をその細い肉体に荷なっているせいかもしれなかった。風にも堪えぬほど危うげで脆そうだが、精神は鋼鉄のようなものを蔵している。ベガにとって敬愛を覚えずにいられない女性であった。
「しかし、プリンセス。他人の深層意識の中にまで立ち入るのはたいへん危険が伴うものですよ。思いがけない落し穴に足を取られることがあるのです。充分、トレーニングを積んだESPドクターの場合も事故は起こるのです」
「でも、みすみす彼を失ってしまうわけにはいきません」
と、ルナ姫は強固な意志をのぞかせる、水晶のような声でいった。
「彼ほどの高度なPK能力者は、稀に得られる貴重な珠玉だ......そういったのはあなたですよ、ベガ。とにかく、わたくしはやってみます。平気ですよ、心配しなくても」
「あなたが一度決心すると、何者もあなたの進路を妨げることは許されなくなるみたいですな、プリンセス。私は時々自分が苦労性の口やかましい老婆になったような気がしますよ......これはほんのちょっとしたお節介ですが、テレパシーは肉体的な接触を持った方が強く働くものですよ。もっともプリンセスがおいやでなければ、ですが」
ルナ姫はちらと一瞥を巨人に投げた。自分の人種主義を、この異星人に揶揄されたのかと気をまわしたのだ。ベガの前で、日本人の少年を黄色いネズミと罵ったことは、彼女の魂を火傷させた恥の熱さだった。
岩盤の上に仰臥したまま動かない丈の顔に、ルナ姫はゆっくり己れの顔を近づけて行った。無言でベガの助言に従ったことが、彼女のせめてもの贖罪の表明であった。
丈の空虚な、魂の存在しない目の奥を深々と覗きこみながら、冷えた額に己れのそれをぴったりと合わせた。死人に触れるような嫌悪感を覚悟していたが、そんなことを気にする余裕はなかった。彼女の精神集中はすでに開始されており、ルナ姫の〝分離〟は速やかに行われた。
12
星体放射と呼ばれる、肉体からの精神の脱出は、なにも通常の時空間だけに向けてなされるとは限らない。
身を接して存在する他人の精神の深奥への旅も、数百万光年彼方への跳躍も、精神体にとっては特別な差異はない。
ルナ姫の精神体は、肉体の属性を保ったまま、丈の意識を降下して行った。
心象の結晶の中を突き抜けて進む。それは緻密な記憶層のタピストリだ。歪んでいる複合観念は冷たく暗い氷層のようだ。
丈の心は無数の怨恨、憎悪、自己嫌悪が形成したガラス破片の堆積だ。それは己が心を傷つけてやまない。
それらは現実に等しいビデオ・フィルムをそれぞれのセルに蔵している。触れればたちまち映写が始まる。苦しみはどこまでも再生産されるのだ。
高校野球部のレギュラーに漏れた丈が、校庭の桜の古木の幹に額を叩きつけて血を流している。屈辱と憤怒の苦悶に満ちたシーンは決して虚空に消え失せることなく、そこに永久に存在し続ける。
丈は巨体を誇る弟の卓にどうしてもかなわない。体力も知力もすべて卓が凌駕している。どんなに努力を重ねても、敗者であることは運命づけられていることを、丈は思い知らされる。
敗者の嚙みしめる苦渋がどんなに苦いか、敗者の烙印がどんなに痛いか、丈はだれよりも知っているはずである。
いじめっ子の餓鬼大将が、ひ弱で体の小さい丈をおさえつけている。歯を剝きだした笑いを丈は決して忘れない。
〈これを食え! 食わないと拳固が唸るぞ! やい、口を開けろってば!〉
餓鬼大将は泥をこねて作った団子を、無理やり開けさせた口に押しこむ。丈は顔中を泥にまみれさせ、喉の奥にまで詰まった泥を必死で吐きだし、無力な恐怖と屈辱に泣き叫ぶ。
〈ヤーイ、チビ! チビ助!〉
餓鬼大将に追従する子供たちが、てんでに泥を投げつけ、残酷な嘲笑ではやしたてる。
丈は泥人形になって泣いている。
〈この野郎!〉
弟の卓が救援に駆けつけてくる。
〈兄さんをいじめた奴は、おれが相手になってやらあ!〉
大柄でタフで敏捷な卓には、年長の餓鬼大将も対決は回避する。卓は中学生と喧嘩しても勝ってくるほどの抜群のファイターなのだ。
餓鬼大将たちは喚声をあげて逃げて行き、振り向いて毒づく。
〈ヤーイ、弟に助けられてやがら! それでもお前は兄貴かよ! 女の腐った意気地なし!〉
子分たちが唱和する。
〈女の腐った意気地なし、ヤーイ!〉
丈は両親の会話を漏れ聞いている。襖の向うで、まだ若く、生きていたころの母親が愚痴っぽくいう。
〈本当に、丈は弱虫でどうしようもないわ。卓とどっちが兄だか弟だかわかりゃしないもの。兄弟逆に生れてきたみたい。あんなにひ弱で性根がないんじゃ、この先どうなってしまうのかしら......〉
〈兄弟の中には、一人ぐらいできそこないがいるもんさ〉
と、これも若いころの父親がさしたる興味もなげにいう。父は多忙なジャーナリストで、子供たちとの交流は乏しい。めったに顔を合わせることもない。血肉の濃さを感じさせない、客のような父親。出世欲と仕事欲にとり憑かれた、父という名の他人。
〈動物には一腹の仔の中に必ず弱くて育たない奴がいる。そういう出来そこないは、生命力が乏しくて淘汰されてしまう......人間だって同じだろう〉
〈そんな、あなた......自分の子に......〉
〈出かけるぞ。今夜は会社で泊るからな〉
冷酷な父の言葉に丈の心は打ち砕かれ、二度と回復することはなかった。
(ぼくはできそこないなんだ......できそこない! 生れてこなければよかったんだ!)
丈は深くわが身を恥じ、死にたいとさえ思った。なぜ両親が自分に対して冷淡で愛情薄いのか、やっとわかった。きっと両親は自分のように不出来な子が生れてくることを希んでいなかったのだ。自分が小さく貧弱でみすぼらしく、彼らの期待に反したため、彼らは自分に関心を失い、見捨てたのだ。
自分は生れてくるべきではなかった。
ただ一人の庇護者は姉の三千子である。
〈丈、あなたが生れそこないなんてウソよ。絶対にそんなことないわ。それはお姉さんが断言する......丈にはなにか、素晴しいものがかくれている......まだそれが表に現われないので、それがだれにもわからないだけよ。お姉さん、信じてる! 丈はきっと今に、だれも悪口をいえない、立派な人になるわ! 丈が一生懸命がんばって、裡に隠れているすばらしいものを引き出せばいいのよ。お姉さんが見ていてあげる〉
三千子は自分の膝に涙でぐしょ濡れの顔を押しつけ、嗚咽する幼い丈のかぼそい背中を優しく撫でながらいい聞かせる。
鴨居にぶらさげたヒモで、丈は首を吊り、危く死にかけた日。めまいのする白熱の夏の日だ。蟬が狂ったように啼いている。しんと不意に静まり返った白い時間。
〈ばかっ 丈のばかっ なぜこんなばかなことをするのっ〉
〈姉さん......ぼくは......ぼくはただ背を伸ばしたかっただけなんだよう......もっと大きくなりたかったんだよう......〉
〈うそつき! そんなことでお姉さんをだませると思うの、丈のばかっ〉
姉の三千子は丈の体を力いっぱい揺さぶって難詰し続ける。姉が真に怒っている。
〈姉さん、ごめんよ......ほんとはぼく死にたかったんだ......死んじゃいたかったんだ......ぼくなんかいないほうがいい、ぼくがいると家中みんなが迷惑する......病気ばかりしていて体が弱いからがんばりたくても、だめなんだ......〉
〈丈! お姉さんはあなたを決して見捨てないわ! どんなことがあっても......約束する! お姉さんは丈が全ての人々に尊敬される人間になるまで、ずっと丈についていて見守っていてあげる! 一生、お嫁に行かなくたっていい! その代り丈、あなたはがんばるのよ。力が尽き果てるまで、努力しなさい! 自分にあるのは努力だけだと思いなさい。
丈、よく聞きなさい! 本当にだめな人間は素質があっても努力をせず、愛されることだけを要求し、自分では人を愛そうとしない人間よ! そんな冷酷な人間にだけはならないでほしいの......〉
激しく迫る肉親の愛だ。三千子の顔は蒼白く、きびしく、そして美しい。いつも控え目な三千子とは思えないほどの激しさだ。
ルナ姫は降下を続けた。彼女が捜している丈の真の自我はどこかに潜んで、侵入者の目をかわそうとしている。
だが、ルナ姫はだまされはしない。丈は苦痛に満たされた人生の時点に回帰することは決してないとわかっているからだ。
「丈! どこにいるの? 返事をしなさい! どこに隠れていても、わたしは必ず捜しだすから!」
と、ルナ姫は叫んだ。暗い洞窟は丈の子宮へ回帰したい願望そのものなのだろうか。
突然、ルナ姫の眼前に三千子の姿が立ちはだかった。三千子は美しい瞳に敵意を満たしてルナ姫をにらんでいる。
丈の庇護者である三千子が、ルナ姫の接近を妨害すべく出現したのだ。
〈あなたはだれ?〉
と、三千子が激しい語気で詰問する。
〈なんの権利があって、あなたはこんな所まで入ってきたのっ、ここから早くお帰りなさい。来てはだめ! あたしがここを決して通さないわ!〉
「あなたはそこをどきなさい」
ルナ姫は権威をもって命じた。
「あなたは本物の姉の三千子ではない。本当に弟の丈を愛している三千子なら、わたくしを妨害するはずがないわ。あなたは丈の偽りの自我の化身にすぎないのよ。わたくしは本当の丈に用があるのです! そこをどいてわたくしを通すのよ!」
〈丈はあたしの大事な弟です! あなたなんかにいじめさせるものですか! あたしは弟をあなたから護るわ!〉
「そこをおどき!」
ルナ姫は、立ちふさがる三千子に鋭く命じた。丈は三千子の背後に身を潜めているに違いなかった。
ルナ姫は断乎として三千子を押しのけた。
はたしてその後には、丈が胎児のように身を屈してルナ姫の目を逃れようとしていた。
「やはり、そこにいたのね!」
「来るな! 来ないでくれ!」
と、丈が拒否の叫び声をあげた。彼はルナ姫を恐れていた。凶暴な外部世界からの侵入者として恐れているのだった。もちろん、本音はそれだけではない。ルナ姫は彼を強制的に、外部世界へ連れ戻そうとする人間だからだ。
彼は〝幻魔〟と戦って一敗地に塗れた。もう〝幻魔〟は沢山だ。彼を庇護する優しい姉の三千子とともに、懐しく静かで安らぎのある幼年時代の一時に隠棲していたのだった。
丈はあの時のベガと同じだ、とルナ姫は気がついた。敗残兵の閉鎖世界に安住しようとしているのだ。
彼らには、なぜ自分のような毅よさが欠如しているのだろう、とルナ姫は不審に思わずにいられなかった。女の自分ですら、屈服を拒んで、戦いをあくまでも持続させる気力があるのに、男たちのこの弱さはいったいどうしたことだろう。
自分がしっかりしなければ。男たちの脆弱さを根底から払拭しなければ、世界は〝幻魔〟の意のままに蹂躙されてしまうではないか。
「丈! ここから出るのよ!」
ルナ姫は丈の手を摑み、抵抗を排して引きずりだしにかかった。この時からの彼女は、以前の彼女とは別人のきびしさが加わり、顔付までが変ってきていた。
「出てきなさい! 敗残兵であることはもうやめなさい! その隠れ場所はもう失くなってしまったのよ。わたくしが消してしまったから!」
「お姉さん! 僕を連れて行かせないで! 助けて、お姉さん!」
丈は抗い、幼い子供の声音で悲鳴をあげ続けた。ルナ姫は胸が悪くなったが、やめようとはしなかった。一度事を始めたら、断乎としてやりとおさねばならないのだ。丈は幼児性の中に埋没し、彼女の追及をかわそうとしているのだった。
丈は五つ六つのいたいけな幼児に変ってしまっていた。哀れみを催させ保護欲をかきたてる幼児性をもって泣き叫んでいる。ルナ姫を懐柔しようとする策略だ。
その弱々しさが気に入らなかった。この丈の女々しさはよほどの覚悟で叩き直してやらねばならない。
再び姉の三千子のイメージが、母性愛の化身として、丈を救うべくルナ姫を妨害しに現われた。
ルナ姫と三千子は幼い丈の手を摑んで、奪い合いになった。
〈帰って! あなたに丈は渡さないわ!〉
と、三千子が叫ぶ。
〈あなたは丈を傷つけるだけだわ。あなたには丈になにもしてやれない。あなたは残酷で無慈悲な女よ! 冷たくて傲慢で、愛や優しさのひとかけらもない女だわ! そんな人に大切な弟を渡せるものですか! 帰ってちょうだい!〉
その言葉には、丈の自我が変装しただけの存在とは思えない迫真性があった。この三千子は幻ではないのか......ルナ姫を躊らわせる迫力だ。
「なんといわれても、わたくしは構いません。わたくしには絶対の、至上である義務があります。わたくしをどんなに嫌っても憎んでもいい。でも、もしあなたが真に丈を愛しているなら、この手を放しなさい」
ルナ姫はきっぱりといった。
「もし、そうしなければ、丈は決して本物の男にはなれませんよ! 丈を鍛えあげるのに手を貸して下さい。丈が真に他人によって尊敬される男になれるかどうか、今決まるのです」
三千子が躊らいを見せた。張りつめていたものが、急速に抜けて行くようだった。
三千子の力が弱まるのを感じた。彼女はルナ姫の説得を受け容れたのである。それはいかにも不思議なことに思われた。
後は丈だけだった。
「丈! よく聞きなさい。もしわたくしといっしょに行くことを拒むなら、お前は本当におしまいになってしまうのよ! 丈! お前は一生の間〝できそこない〟ですごすつもりなの!?」
その一言でルナ姫は勝った。彼女はやすやすと丈を三千子の手から奪い取った。
13
丈の夜空の星群に据えられた空虚な目の中に、ゆっくり光が戻ってきた。
「あ......」
と、言葉にならぬ嘆声を漏らして、ルナ姫と戦士ベガを見上げる。記憶がひしめきながら意識の表面に登ってきたのであろう。完全に正気づいたようだ。
「おみごとです、プリンセス」
と、ベガが讃嘆する。ルナ姫が肉体的なコンタクトを解き、立ち上ってから、ものの一分とはかからなかった。顔が蒼白になり、瞳が異常に大きくなったルナ姫は、勝利の色も見せず、無言で丈に目を注いでいる。
「どうやら、まともな人間に生れかわったようですな」
と、ベガ。
丈は二人から視線をそらさず、体を起こした。意識を取り戻すとともに、体力も回復したようであった。
「あなたがたが何者かわかります......」
と、丈は躊らいながら、英語でいった。彼は小学校から英語塾に通っていたので、会話は一応こなせる。
「あなたがたについても、われわれが今後なさなければならないことについても、僕の心の中に描かれています。あなたのテレパシーの中に描かれています。あなたのテレパシーは強力でした、プリンセス・ルナ」
丈はどもりながらいった。気おくれしていたし、恥ずかしくもあり、なにを喋っていいかわからなかった。
「われわれは、〝幻魔〟と戦う仲間......同志だったんですね。僕は〝幻魔〟がいかなるものか見ました。プリンセスがテレパシーで意識の中にある〝幻魔〟を見せてくださったのでしょう......」
丈は言葉に詰まった。自分を黙って見詰めているルナ姫の碧い瞳が人を寄せつけない冷やかさで充たされていたからである。
ルナ姫の体がふらっと揺れて、ベガの巨腕に支えられた。額に汗が流れ降っていた。
「くたびれたわ、ベガ......抱いていってちょうだい」
と、彼女は疲れた掠れ声でいった。
「申しわけありませんでした。僕はまったく誤解していました......突然のことだったし、......つまり敵だと思い違いをしてしまったんです」
口ごもりながら、けんめいに謝罪する丈を、ルナ姫はもはや見向きもしなかった。
「野ネズミを巣穴から引きだしてはみたけれど......」
ルナ姫は冷やかな声でいった。
「こんな臆病な野ネズミが、どうやったら一人前の戦士になれるのかしら、ベガ」
痛烈な調子だった。美しく誇り高い女性だけに似つかわしい冷淡な声音だ。
「わたくしには苦労を払っただけの甲斐はなかったように思われるわ」
野ネズミ......それが自分に対して向けられた批評だと気付いて、丈は恥辱に蒼ざめた。
「ともかく、鍛えてみることです」
と、ベガは重々しくいった。
「生来の臆病者を勇者に変えることができるのは、美しく誇り高い女性だけだ......私の故郷ではそういっています」
「でも見込みのない生徒はいやだわ。時間がないんですもの」
と、ルナ姫は素気なくいった。丈にはもはや一片の関心もなかった。
「次の超能力者を探さなくては......本当に時間がないのよ、ベガ。〝幻魔〟がもうすぐ、そこのあたりまで追い迫っていることが、わたくしにはわかるの。急がなくては......」
切実な響きがあった。
「次の目標は北米大陸でしたな」
戦士ベガは疲れきったルナ姫を幅の広い胸に抱きあげた。
「まっすぐ飛びましょうか?」
「そうして、お願い。わたくし、少し眠りたい......本当に疲れたわ......」
彼女は黄金色の髪をベガの胸に押しつけ、あっという間に眠りに落ちた。
「帰るがいい」
と、ベガは丈に向って感情のない声音で告げた。
「ここは君の母国ではない。気をつけて帰りたまえ。何が起こるかわからぬ。われわれは君の超能力を覚醒させたが、君を構っている時間の余裕がないのだ。自分のなすべき事について、じっくり考えてみることを勧める。君は今のところ、われわれの行動に加わる資格がないのだ」
ルナを胸に抱いたベガの巨体が宙に舞った。丈を置き去りにしてあっという間に消える。
だれの目にも空中へ消滅したとしか見えないだろう。地球上のいかなる航空機もまったく及ばぬ超高速で飛び去ったとは、人間の肉眼で認識することはできないからだった。
「野ネズミか......」
丈は呟き、拳でごしごしと目を拭いた。
「できそこない......そして野ネズミか......」
がっくりと頭を垂れる。ルナ姫の誇り高い、蒼白い顔を冷やかにしていた軽蔑は、丈を打ちのめした。
彼女がいかに傲慢で独善的であっても、その言葉を否定することはできない。丈はルナ姫の目の前で顔向けできない醜態を曝してしまった。
こともあろうに逃げ隠れしたのである。恥も外聞もなく、彼女の前から逃げだし、だらしなくも姉の三千子に助けを求めたのだ。
体が恥で燃えあがりそうだった。姉の三千子に対しても恥を搔かせたと感じていた。自分が女のスカートのかげに隠れる臆病者、卑劣漢だと知ったら、姉はどう思うだろう。
これまでただ一人の理解者として、丈を信じ、愛し、励まし続けてくれた三千子は、どれだけの悲しみを味わうことになるであろうか。
たぶん、丈が過去に挫折を迎えたいつの時もそうであったように、姉は許容してくれるだろう。自らの失望を表わすことなく、思いやりの深さを示してくれるだろう。
だが、それでは、これまでと同じくり返しだ。自分は永久に、姉を失望させ続けることになってしまう。
美しい高慢なルナ姫は自分を〝野ネズミ〟と嘲罵した。もしかすると、それは反駁しようもなく正しいのかもしれない。
疑うべくもなく、ルナ姫は自分の正体を看破したのだ。彼女は自分の浅ましい心の下水溝までをその美しい碧い瞳で冷やかに眺めたに違いない......
丈はやり場のない屈辱に叫び声をあげ、転げまわりたい衝動の虜になった。
ルナ姫よ、あなたは正しい。あなたは自分のみ高貴で美しく清浄であるかもしれないが、比類なく残酷だ。なぜ、あなたは自分を狂気の淵に沈むがままに見捨ておいてくれなかったのだ。
あなたは侮蔑を与えるためにのみ、自分を正気に引き戻したのか......自分が臆病な野ネズミであることを思い知らせ、傷口を踏みにじり、苦悶を倍加させるために、あなたは他人の心の深奥にまで踏みこんできたのか。
ルナ姫よ、あなたに果してそんな権利があるのか。それはあまりにも傲慢で独善的で、人の心を無視したやり方ではないか。
ルナ姫よ、あなたは高貴な身で美しく、才質優れてはいるが、それゆえに人の心がわからないのだ。傲慢なあなたには、他人の苦しみ、悲しみを理解することはできないのだ。
丈の心は複雑な軌跡を描いて変化した。
いずれにしろ、ルナ姫への反撥は拭いがたいものがあった。彼女は美しく、そして冷酷だ。彼女への崇敬とともに同程度の反感が働き、丈の心は二つに引き裂かれた。自己嫌悪と自己正当化の間を、丈は振子のように行き来した。
「ルナ姫よ、今に見るがいい!」
丈は大声で叫んだ。裡に鬱屈するものを噴出させずにはいられなかった。

「あなただって今にきっと苦しみ悩む時が来るんだ! 勇気を失い、挫折する日が必ず来る。あなただって人間に変りはないじゃないか! その時になったら、あなたの口にした残酷な言葉を思いださせてやるからな! あなたがどれほど立派な、高潔な人間か、正体をおれは見届けてやるぞ!」
丈は喉も裂けよとばかり咆哮した。汗にまみれ、肩で息をつき喘ぐ。
「そうだ、お前のいうとおりだ。東丈。おれがお前に力を貸してやろう......」
不意に声が漂ってきた。丈は初めそれが自分の声の谺かと思った。
丈は跳びあがり、ぎょっとするほど間近に浮かびあがった人影と対峙した。
目の錯覚ではないかという疑いが湧き起こった。丈の体は愕きに痺れたようになった。
14
夜闇はまるで暗い巨大な鏡と化したように、丈の視線の行先に、もう一人の丈自身の姿を浮きたたせていた。
これほど異妖な光景はなかった。目と鼻の先にもう一人の自分が存在するのである。
鏡に見慣れた顔の自分が、じっとこちらに視線を注いでいる。にんまり笑った顔が、総毛立つほど妖しく無気味であった。
「だ、だれだ......」
丈の声は意に反して慄えた。
「お前は何者だ? おれになんの用があるんだ?」
丈は背中を冷たい感触に這いまわられながら、尻ごみした。
「おれはお前だ......」
そいつは平然といった。冷たい響きのない声音であった。
ドッペルゲンガーだ! 丈の心臓に恐怖の氷の指が摑みかかった。西欧の古い伝承に、もう一人の自分を見るというドッペルゲンガー伝説がある。
ドッペルゲンガーを見た人間は数日以内に死ぬというのが、この伝説の無気味さであった。日本でも芥川龍之介のドッペルゲンガーが銀座に現われ、知人たちに目撃された逸話が有名であり、丈もそれを知っていた。
そして間もなく芥川は自殺したのである。
「うそだ......これは幻覚だ! 消え失せろ!」
と、丈は己れを励ますように叫んだ。ドッペルゲンガーの丈は平然として彼を凝視している。
「おれはお前に力を貸しに来たのだ」
と、ドッペルゲンガーは陰々たる声の響きでいった。それが丈に、恐怖とともに興味を起こさせた。
「力を貸す? なんのためにだ?」
「もはやお前は劣等意識に悩む必要はない。おれがお前に勇気を与えるからだ。もうだれもお前を蔑んだり、馬鹿にすることはない。お前は全ての人類の中で、最も偉大な人間となり、尊敬を受けることになる」
ドッペルゲンガーは自信たっぷりに断言する。
「ルナ姫といえども、お前を再認識せざるを得なくなる。彼女はひっきょうか弱い女性であり、女の限界を破ることは出来ない。彼女はお前につらく当るが、それは彼女がお前の力を恐れているからだ。つまるところ、ルナ姫はあらゆる面でお前に劣っており、実力にかけては及びもつかないことを、彼女自身よく知っている。
そのために、ルナ姫はお前を牽制し、抑えつけておくべく故意にお前を無視している。それはいうまでもなく、お前が己れの真価に目覚め、指導者として彼女にとって代ることを恐れているからだ。
丈よ、目をさませ。お前は偉大な世界一の超能力者であり、お前の秘めたる実力の前に、過去のいかなる奇蹟能力者といえども比肩することは許されない。
お前は空前の、比類なき〝力〟の持主なのだ。ルナ姫ごとき脆弱なテレパシストを畏怖することはない。彼女は他人の心に断りもなく土足で踏みこむ、低級な覗き屋であり真の偉大さなど少しも持っていない。
お前は彼女の高貴な生れや育ち、彼女が鼻にかけているわずかばかりの超能力、美貌に眩惑され、位負けしているのだ。
丈よ、お前こそ美しく、比類なき〝力〟を備えた真の偉人であり、神のつかわされた〝救世主〟に他ならない。お前は美しく、強い男だ。全ての人類が盟主として仰ぎ見るのにふさわしい巨大な人間なのだ。ルナ姫などの偽りの権威に惑わされるな。お前が真に覚醒した時、お前は巨大な恒星として無数の星を従えることになる。
その時、ルナ姫などとるに足らぬ星屑の一つになりさがっているであろう」
ドッペルゲンガーは雄弁であり、丈の心をくすぐり、高揚感をもたらすすべを心得ていた。丈のもっとも拘泥しているところを巧みにえぐってくるのだった。
「考えてもみるがいい、丈よ。彼女はなぜにかくまで理不尽なのか? なぜ理を尽し、条理を尽してお前と話し合わないのか? 彼女のやり方はあまりにも傲慢であり独善的であり、居丈高ではないか? お前を脅しつけ、恐怖を植えつけ、苦痛をのみ与えた。彼女はお前をこづきまわしたではないか。彼女のやり方はあまりにも不公正ではないか。
彼女はうむをいわせずお前を追い詰め、お前が正常に思考し、判断を下す暇さえ与えなかった。彼女にはたしてそんな権利がどこにあるというのだ?
彼女は超能力者を気取った鼻もちならぬ小娘にすぎない。所詮はお前とは比較にならぬ小物でしかない。
丈よ、目覚めるのだ。お前はだれにも、いいようにこづきまわされる人間ではない。お前の偉大なる〝力〟は星を破壊し、消滅さすことさえできるのだ。
野ネズミなどと、小娘にいわせてはいけない。丈よ、お前は武家の家系に生れた者だ。男子たる者は、女どものあなどりを許してはならない。お前はいわば家長として、地球をあずかっているのだ。
丈よ、立ち上れ! お前に備わった真の力を自覚せよ。家長に対する傲慢の罪を犯したルナ姫を罰してやれ。彼女が泣いて前非を悔い、哀れみを乞うまで罰してやるがよい。お前の巨大な〝力〟をわずかに解放すれば、造作もないことだ。
彼女の五体から力を取りあげ、歩くことはおろか這うこともできぬようにしてやるがいい。生ける屍と変えて、お前に侮辱を加えたことを後悔させてやるがいい。
簡単なことだぞ、丈。彼女に対して念をかけ、一言〝曲れ〟といえばよいのだ。
さあ、やれ、丈。〝曲れ〟と念ずるのだ。
どうしたのだ? 心臆したのか? あれだけこけにされ、侮辱されたことが口惜しくはないのか? ルナ姫を罰してやれ、さあ早く! 彼女がお前の慈悲を乞うざまを見たくはないのか?」
「待ってくれ......」
と、丈は呻くようにいった。全身にじっとりと冷たい汗をかいていた。ドッペルゲンガーがそそのかすことは、確かに誘惑的であり、動揺せずにはいられなかった。彼のいうとおり、ルナ姫の傲慢さは許しがたかったし、報復したい欲望はないとはいえない。言葉を重ねられるごとに気持が動くのは否めない事実であった。
「おれだって、そんな気にならないわけじゃない......」
「では、躇らうことはない。彼女に〝曲れ〟といってやるんだ。さあ早く!」
「いや......もう少し考えてみなくちゃ......」
「なにを考えるのだ? そうすることが怖いのか? 彼女が考えているとおり、お前は臆病者なのか?」
「いや......違う」
「彼女の考えは正しく、お前は野ネズミなのか? どうした、なにをぐずぐずしているんだ?」
ドッペルゲンガーの声音は焦慮を見せはじめた。息つく間もなく丈をせきたて、追いたてようとしている。
「さあ、やるんだ、丈! 一言〝曲れ〟といえばいいんだ! お前は彼女を罰し、どうにでも自由にできるということを証明するんだ! 丈! なにをしている!」
「待て!」
丈はけんめいに踏みとどまり怒鳴った。
「お前はなぜ、おれにそんなことをさせたいんだ? 理由をいってみろ!」
「それは......お前を助けたいからだ」
ドッペルゲンガーはやや詰まり気味に答えた。丈が抵抗してくるのが意外そうであった。
「お前に力を貸し、お前を〝救世主〟にしたいからだ。丈、お前にはその資格がある。それを妨げる者を排除するのは当然のことだ。だからこそ、お前はルナ姫の傲慢さを罰し、彼女の分を悟らせなければならないのだ。一罰百戒で、お前の巨大な力を知れば、だれもお前に逆らわなくなるのだぞ」
「ルナ姫は確かにお前のいうとおり、鼻もちならないところがある。しかし、彼女を傷つけてまで報復したいとは思わない。それに、彼女のしたことは、おれを傷つけるのが目的ではなかったんだ。おれを目覚めさせようとして、少し手荒らにしただけだ」
「なにをいう。目を覚ませ、丈! ルナ姫はお前を支配下に置きたがっているのだ! これは戦いだぞ! お前は必ず勝つ! 恐れずに、おれのいうとおりにすればいいのだ」
「待て。お前はおれの質問に答えていないぞ。なぜ、そのようにおれに肩入れするんだ? おれを〝救世主〟にすることで、お前はどんな得をする? ルナ姫をおれにやっつけさせることで、お前はどんな利益を得るんだ? それをまず答えてもらおう」
「おれは、お前だからだ......」
ドッペルゲンガーはいささか動揺を抑えきれずにいた。
「お前の利害は、おれの利害だからだ。従って二人の利害は共通する。お前が指導者になるには、まずルナ姫を追い落し、配下にしなければならないからだ」
「お前は、おれの二重人格の片割れだというのか?」
「そうだ。お前とおれは二人で一人なのだ」
「では、お前はおれにとってハイドなのか?」
「............」
ドッペルゲンガーは沈黙した。
「答えてくれ。それともおれがハイドで、お前がジキルなのか?」
「おれはお前の〝理性〟だ」
と、相手はいった。巧妙なはぐらかしだった。
「お前は〝感情〟であり〝意志〟だ。お前はおれの判断に従うべきだ。なぜなら、おれはお前にとって最善の道をいつも知っているのだから」
「ルナ姫を呪い、苦しめるのが、最善の道だというのか?」
「彼女をちょっと罰し、懲らしめるだけだ。指導者にはそれだけの決断力が不可欠だからだ」
「おれには疑問だ......おれがルナ姫にそんな真似をしたと知ったら、姉さんはどう思うだろうか? 姉さんが喜ぶとはおれには思えない。それどころか、悲しむだろう」
「お前はもう大人だ。姉のいいなりになる子供ではない。感傷的な女の言葉など無視してしまえ。お前は世界の指導者たろうとしているのだぞ。女の言葉に左右されてどうする」
「おれはそうは思わない」
と、丈は力をこめていった。
「姉さんは、おれに人々から尊敬される偉大な人間になれといった。冷酷で思いやりのない男に決してなるなといった。偉大な人間とはなんなのだ。女をいじめて喜ぶ卑小な人間のことではないはずだ。世界を救う使命を負う〝救世主〟が、勢力争いをしたり、女を呪って痛めつけたりするものだろうか? お前のいうことは間違っている」
「馬鹿な考えを起こすな。もっと利口になるんだ、丈。おれのいうことを聞いてくれ」
ドッペルゲンガーは嘆願の口調になってきた。
「おれはお前のためを思っていっているんだ。おれのいうとおりにすれば間違いはない。必ずお前を全人類の指導者にしてやる......」
「やめておこう......」
と、丈はゆっくりといった。
「お前のいうことは納得できない。それにお前の力を借りる必要はない。お前がいう勇気などおれには必要ないと思う。もし、本当におれに力があるのなら、いつかルナ姫もそれを認め、おれを必要とするだろう。他人と争ってまで指導者の地位をほしいとは思わないな。
ルナ姫が意識の中から見せてくれた光景......あの宇宙のまっただ中を漂っている時、おれは人間が孤立して生きることはできないと知ったんだ。ルナ姫もそう考えていることは確かだ......彼女は鼻もちならないところは持っていても、理解しあうことはできるはずだ。おれは彼女の意識の中に入りこんだのだから、それがわかるんだ」
「やめてくれ、そんな馬鹿な考えは! 彼女は敵でおれたちは仲間だ。おれと一心同体になってくれ!」
ドッペルゲンガーはなぜかひどく狼狽し、あわてふためいて哀願した。
「な、頼む! おれを受け容れてくれ......おれたちが一体化した時に、お前は地上で最強の存在になれる。黙っていても、全ての者がお前に従うようになる。お前は地球上の支配者となり、だれもがお前を崇拝し、歓呼の声をあげ、お前の名を連呼するんだ。そのためには、おれが必要だ! さあ! おれと一体化しよう......」
焦だってドッペルゲンガーがじりじりとすり寄ってきて、丈は後退した。
「待て、まだ質問がある。お前がいうように、お前が即ちおれであるならばなぜおれたちは一体の存在ではないのか? なぜ、おれに対してお前を受け容れろと頼むのか? そもそも同一存在であるならば、そんな必要はないではないか......答えてくれ!」
「それは......われわれが分離したからだ......」
相手は明らかに困惑し、躊躇しながらいった。
「分離したことは間違っている。だから、われわれは再統合されねばならないのだ」
「なぜ分離したのだ?」
「ルナ姫がお前に与えた混乱の時にだ。お前はかつての自分ではなくなり、ひどく弱々しく、脆くなった。かつてのお前であれば、恥辱を受けて黙っているはずがない。ルナ姫を許すはずがない。受けた屈辱を忘れず、一生恨み続け、いつか報復しようとするだろう。それなのに、お前は女々しくなり、ルナ姫に報復しようとする気さえ起こさなくなった。お前は勇気を失くし、真の臆病者になりさがってしまった。それは、おれがお前から分離したからだ。さあ、丈、おれを受け容れろ! そして昔のように強くなれ!」
ドッペルゲンガーは両手を伸ばし、すり寄ってくる。その両手の手指は鷲の爪のように無気味な形に拡げられていた。
「お前の言葉が事実であれば、お前はかつてのおれの心の、怨恨や嫉みや憎しみなど、ドロドロした汚穢な部分だということになる。そうであるならば、お前とおれは再統合されるべきではないということになる。近づくな!」
丈は叫び、一気に数十メーターを飛び退った。人間業ではない跳躍だった。ドッペルゲンガーは呆然とした。
「なにを、馬鹿なことを! それではお前は不完全な人間だ! おれを失えば、お前には戦う勇気がなくなってしまうのだぞ! お前は他人に踏みつけにされても怒る勇気もなく沈黙している卑怯者になってしまうのだぞ! 丈、おれがいなければお前はまともな人間として生きて行けないんだ。おれのいうことをきけ」
「断る! お前はおそらくおれの悪しき部分なのだろう。ハイドはお前だ。おれはお前など必要ではない! なぜなら、お前は邪悪で腐敗しているからだ!」
「馬鹿な! 丈、頼む、考え直してくれ! おれを見捨てないでくれ!」
ドッペルゲンガーは悲鳴に似た声音で、喚くようにいった。両手を激しくもみしぼるような動作で哀願する。
「いやだ! お前はどうしたって好きになれない。二度とおれに近寄るな! おれは別にお前がいなくたって、自分が弱くなったとは思わない。かえってその方がスッキリして心が軽くなった。どこへでも消えてしまえ、おれの邪悪なハイドよ!」
「どうしてもおれを見捨てるのか」
ドッペルゲンガーは怒り狂い、地団駄を踏み、恐ろしい声で怒号した。
「おれを見捨てれば、お前は死ぬぞ! 何日もたたずにぽっくりと死ぬんだ。それでもいいのか!?」
「おれが死ぬ? どうしてだ?」
「それは、お前が不完全な人間だからだ! 地上に存在すべきでない、分裂した人間だからだよ!」
相手はすかさず恫喝にかかった。その脅迫ぶりは巧妙で手慣れたものを感じさせた。
「魂が分裂した人間は長くは生きられないのだ。お前がおれとの合体を認めない限り、お前の余命は数日だ。どうだ、丈? お前はその年で若死にしたいのか? お前の美しさや才能は無に帰してしまうのだぞ! お前にはやりたいことが山ほどあるはずだ。世に認められ、偉大な人物として人々の崇敬を受けること、美しい女たちをわがものにすること、名声、富、女、尽きることのない欲望があるじゃないか!
もし、お前が若死にするなら、それらは全て烏有に帰してしまう。あと数日で、お前は冷たい焼けた骨のかけらになってしまうんだぞ、丈!
だが、おれと合体するなら、お前は好きなだけ長生きして、あらゆる栄誉と富と権力を独占できる! さあ、どちらを選ぶのだ? わずか数日の余命を選ぶか、それとも......」
「脅してもむだだよ」
と、丈は胸に鋭利な刃物を擬せられた冷たさを覚えながら、はねつけた。
「おれはこの巨大な宇宙で何が起きつつあるか、真実を知らされた。全宇宙を襲う破滅と死の前に、たかが名誉や富がなんだというのだ?」
「お前はルナ姫にだまされているのだ! そんなものはまやかしだ!」
「まやかしではない。あの光景は、人間の想像を超えたものだった。ルナ姫がおれをあざむくためにでっちあげたものでは決してない! 彼女はおれに真実を見せてくれたのだ。あの恐ろしい宇宙の真実を一度知った以上、おれは自己本位な、私利私欲を追求する生き方はできなくなったのだ!」
「お前は目の見えない馬鹿者だ!」
ドッペルゲンガーは怒り狂った。
「あばずれ女にだまされた大間抜けだ! 目を覚ませ! 死んでもいいのか? おい、本当に死ぬんだぞ! なにもかもゼロになってしまうんだぞ! この馬鹿者が!」
「お前のいうことは矛盾だらけだ」
と、丈は脅迫の冷感に堪えて反駁した。
「お前が本当におれであるならば、再び一体化するのになぜそんなに大騒ぎする必要がある? おれの受容の許可を受けねば、それができないというのは、どういうわけだ? まったく理屈に合わない。すじが通らないんだ。
二人が同一存在であるならば、さっさとお前は合体すればいい......そうだろう? それが不可能だとすれば、答は一つだ。すなわちお前はおれではないんだ! さあ答えろ! お前はいったい何者だ!?」
「おれはお前だ......」
ドッペルゲンガーはただくりかえしに固執した。取り乱したあげく自分でもわけのわからぬ混乱に陥ちてしまったようだ。
「お前はおれなのだ。その単純なことがどうしてわからないのだ!」
「おれはお前を信用しない。お前のいうことはでたらめでつじつまが合っていない。第一、おれはお前が自分の一部だとは思えないし、むろん同一化したいとは決して思わない。なぜなら、お前は邪悪で、厭わしいからだ。はっきりといっておく。二度とおれに近づくな! さもないと......」
丈は力をこめて断言した。
「おれはお前を二度と戻れないような遠方へ追い払うことになるだろう」
「おれはお前を力ずくでも取り返すぞ!」
と、ドッペルゲンガーは憎悪に狂い、鬼のような声音で怒鳴りちらした。形相は悪鬼のそれに変り、丈をぞっとさせるとともに激しい敵意をそそりたてた。
こんな奴が自分の片割れであってたまるものか! こいつは化物だ!
「お前はおれのものだ! お前だけの自由にはさせるもんか! お前を食い殺して、その体をおれのものにしてやる!」
ドッペルゲンガーはふわりと宙に浮き、怪鳥のように飛んで、丈に襲いかかってきた。耳が痛くなるような憎悪の叫びをあげる。
「消え失せろ、化物!」
丈はサイキック・エネルギーで化物の突進を受けとめ、痛烈に岩肌へ叩きつけた。
轟音とともに山全体がぐらりとよろめき、岩肌が打ち砕かれたビスケットさながらに火花を散らして飛散した。何千もの破砕片となり、土砂崩れとなって斜面を駆け降って行った。
もはやドッペルゲンガーの体はどこにも見当らなくなっていた。
そいつが幽霊のように実体を持たぬ存在でないことは、一種の手応えで明らかであった。それを、岩肌に減り込むほどの激烈さで叩きつけたのだ。生物であるならば、絶対に無事にはすまない。岩肌とともに破砕されて、土砂とともに崩落してしまったというのか。
岩石流を追って斜面を下まで、化物の残骸を調べに行こうという衝動を、丈は圧し殺した。もう沢山だ。自分の嫌悪に触発された〝力〟の物凄さに怯みを覚えていた。
丈は超巨人としての力を備えている存在だった。〝力〟の限界を心得ずに、それを行使する恐ろしさを感じていた。
自分の〝力〟を知らねばならない。さもなければ、その意図もないのに、知らずに他人を傷つけることになりかねなかった。
しかし、ドッペルゲンガーの化物に対して、すまないことをしたという念は動かない。それが不思議だった。そいつを殺し、息の根を停めることはできないと無意識のうちに悟っていたからであろうか。
ドッペルゲンガーが、比類なく危険な存在だということを、丈はやはり識域下で熟知していたようである。安堵の念が湧いた後も、心臓は早鐘を打ち、全身はなおも噴きだし続ける気味悪い汗にまみれていた。
たった一晩の出来事にしては、あまりにも多く起こりすぎた。多すぎる印象が混沌と渦巻いていた。それらが沈澱し、見通しがきくようになるのは、時間も必要だったし、容易なことではなかった。
たとえば、自分の経験を、姉の三千子に話して聞かせるにしても、どう筋道を立てて話せばよいか、見当がつかないのだった。
三千子の顔を思いだし、里心がつくと矢も楯も堪らなくなった。丈は危険な崩落ぶりを見せている斜面を用心深く降りようとし、今の自分にはその必要がないことに気づいて、愕きを覚えた。
体を浮揚させ、足が地を離れると夢幻の気分に捉えられた。眼下に暗い山塊が拡がって行く。森林は海のように、月光を浴びて静まり返っている。
冷気が体を押し包んだ。自分の現在位置がまったく摑めないことに気付き、衝撃を受けたのである。
ルナ姫らに追われてきた時は、無我夢中であり、己れの〝力〟をほとんど全解放し、ただいかに速く飛ぶかということだけに心を奪われていた。
今、自分のいる場所は、日本国内であるのかもしれず、あるいは外国であるのかもわからない。
帰路がまったくわからなくなっていた。
思いだした。巨人ベガは丈に対し、ここは丈の母国ではないとはっきりいったのである。つまり、丈は不法入国者として、この地に存在するわけだった。
丈は狼狽に駆られて、ぐんぐん加速し、上昇を続けた。地表が急速に遠ざかり、航空写真の視界に変って行く。
温度が低下し、寒くなってくる。歯が鳴り、体が震えだした。おまけに空腹で、ひどく心細かった。
これでは迷子と同じであった。どうやって帰ればいいのか途方に暮れてしまう。
なんということだ。つい先刻まで〝救世主〟を気取っていた〝力〟の持主が寒さと空腹に震えて歯を鳴らしているのだ。しかも帰り道もわからないときている。不法入国者としてこの地の官憲に捕えられれば、強制収容所行きだ。情ないにもほどがある。
自分の〝力〟とは、それほど卑小なものだったのだろうか。
丈は精神集中し、思念エネルギーを高めた。体が熱くなり、飢餓感が薄らいだ。〝力〟がどこからか流入してくる感覚であった。
その〝力〟によって、自分の肉体をコントロールすることもできると丈は知った。
彼は〝曲れ〟と念じた。彼の肉体は静止状態から、人間の常識を超えたスピードで一挙に飛んだ。加速することなくあっさり音速を破り、まだ暁光も射さぬ東の空に消えた。
15
丈が去った後の、岩石が崩落し、山肌をむごたらしく変えた搔き傷の痕に変化が生じ始めていた。
丈がもう少し留まっていれば、興味深く眺めたかもしれない。
斜面の下には、人家ほどもある大岩塊を始め、岩肌から剝落した岩石が樹海をなぎ倒し、数千箇もゴロゴロ転がっていた。その惨状をたった一人の人間が爆発物も用いることなく起こしたとは、だれも信じないだろう。
優に天変地異に匹敵する巨大なエネルギーが、丈という〝エネルギー・パイプ〟を通って湧出したのである。一箇の肉体存在にすぎぬ人間から発生するにしては、あまりにもケタはずれのエネルギーといえたろう。
だが、問題はそれではない。生々しい崩落の痕に動きが生じたのである。それは一箇所だけではなく、きわめて広範囲にわたり散乱した岩塊の間で生じていた。
もし、丈が現場に留まり観察していたならば、無数のヒルのような半透明なものが動いていることに気付き、それらがかなり急速に集合しつつあることを知ったであろう。
それらは急速な動きであり、組織体の意図的な行動を思わせるものであった。みるみる群体のような集合体を形成して行く。半透明のヒルのようなものが、うごめく大きな塊に成長して行くのだ。
もはやそれは東丈のドッペルゲンガーとしての形状を残してはいなかった。半透明のジェリーのように間断なく震えわなないている異形のものであった。
丈のもたらした物凄い衝撃により微塵に飛散した不定型細胞を、長時間かけて回収すると、その異形のものは、体を直立させた。四肢は持っているが、ヒューマノイドではない。四足獣が尾を支点に後脚で立ちあがったぎごちなさがあった。

その異形のものは、人間より明らかに獣にそっくりであり、しかもたとえようもなく毒々しい存在であった。四足獣としてもひどく不均衡でチグハグであり、キメラにも似たでたらめな印象をもたらすものだ。頭部は暴竜ティラノザウルスを小さく縮めたようであり、二重に植わった鋭い歯ばかりが目立った。前肢は猿の手のようで、後肢には蹄がある。そしてカンガルーさながらの強靭な尾が、ずんぐりした短軀を支えている。
暴竜に似た歯だらけの頭部で、アンバランスに小さな目玉が赤くぎらぎらと燃えていた。肺臓の作りだす呼吸音が耳障りに響きわたった。激しく喘ぎ続けている。
鋭い擦過音が舞い降りて、異形のものをなぎ倒した。
異形のものは岩塊の間に転げこみ、身を隠したが、やがてそろそろと体を起こした。
闇の中に、燃える石炭のかけらのように、険しく毒々しい真赤な目玉が中空に燃えていた。
そいつは翼を持っており、異形のものよりもはるかに大型であり、強烈に悪魔的な印象を放っていた。おびただしい歯をずらりと剝きだしたさまも一まわり凶悪であった。
物凄い印象の口を半開きにし、冷たく赤く燃える目玉で、最初の異形のものを凝視している。
両者の間には冷たい憎悪と敵意の交流以外のものはなにもなかった。
不意に大柄な方の小型暴竜の猛々しい歯だらけの口から、破壊的なエネルギーが放出されて、最初の異形のものを衝った。そいつは頭部がぱっくり割れて、棒のように背後にひっくり返った。
頭が二つにちぎれたかと思われたが、起き上ってきた時は、すでに元どおりに復元されていた。両者とも人外の化物だった。
「いきなりなにをするんだ......」
と、小柄な異形のものがいった。そいつの抗議は日本語でなされた。
大柄な異形のものが、悪魔的な風貌を更に強めて、音声による言語を放った。金属がきしるような不快な声音であり、恫喝以外のなにものでもなかった。
「待てよ、これには事情があるんだ、ザメディ」
と、小柄なものが日本語で返した。抗議のかわりにおもねりが声をねっとりさせた。
「時間をかけて、言語機能を日本語に調整したんだ。同じ時間をかけなきゃ元には戻らない......例の小僧に接近するために、念入りにやったんでな。だが、おれのいうことはテレパシーでわかるだろうよ」
実際に異形のものが喋ったのは、母国語が混入しているのか、かなり崩れ濁った日本語ではあったが、日本語に変りはなかった。
金属のきしるいやな音声で、ザメディと呼ばれた大柄な異形のものがまくしたてる。
両者の間に立ちこめた冷たい敵意は抑圧されているものの、消え去ることは決してなかった。それは両者の間にある基本的な関係のようであった。
「てめえの心の中なんか覗きたくもねえって......そりゃお互いさまだよ。このザンビさんだってね」
と、小柄な異形のものがうそぶく。
「任務をし損じればどうなるか、百も承知だよ。だが、お前だって同じことだぜ、ザメディ。閉鎖時空間の冷凍地獄で百万年の流刑だ。人のことをごたごたいってないで、ルナとベガのほうをがっちり抑えるんだな」
小柄なザンビは、恐竜の歯を剝きだして嘲笑した。再び大柄な異形のものの口が破壊的なエネルギーを放出し、小柄なザンビは二つにちぎれて岩塊の間に転げこんだ。
だが、這いだしてきた時には、再び復元していた。異様な生命力の持主であることは疑うべくもなかった。
大柄な異形のものザメディは凶悪なきしり声で呪い文句を吐きちらしているようだった。
〈きさまなんかと組まされて、こちとらは大迷惑だ......〉
ザメディは汚い米語でまくしたてているのだった。スラム街のニグロが使う低級な言葉だ。
〈もしきさまが、例の丈という小僧をものにしそこねたら、おれがこの手できさまを焼き殺してくれるからな、ザンビ〉
ザメディの目玉は鬼火のように燃えていた。地上の生物で、これほど残忍凶悪な印象を備えている例はなかった。鰐でさえ優雅であるといえるほどだった。
〈二度と生き返らせねえから、覚悟しやがれ。おれはこれから、ベガとルナをはめに行く。その間に、きさまは小僧をこますんだ。わかったかよ、この猫あたま野郎!〉
小柄な異形のものザンビはただ黙して、憎悪の波動を放出し続けていた。力量に大差がなければ、報復の挙に出たいのだが、相手が強大すぎて手が出せないのだった。
〈おれはてめえみたいな役立たずの外道野郎じゃねえ。てめえなんぞの手を借りる気はねえが、てめえがもしおのれの仕事も満足にできなきゃ、こっちが割を食う。小僧だっててめえなんぞにまかしたくはねえが、どうにも手不足でしかたがねえ......いいか、ザンビ。おれが戻るまでにラチをあけとくんだ。さもねえと、おれはてめえを殺す。〝幻魔〟の軍律にはまかしておかねえつもりだ。この手でてめえを殺して封印するから、覚悟しておきやがれ!〉
異形のものザメディは強烈な破壊エネルギーを放出し、再三、ザンビを引きちぎった。
怪鳥の叫びをあげ、異形のザメディは羽搏き、空中に飛びあがった。燃える石炭のように凶暴な赤い目が、ふっと闇の中に溶解すると、おぞましい姿は消え失せていた。
翼を用いて飛び去ったのではない。空中で消失したのだった。
異形のザンビもまた、その後を追うように姿を没してしまっていた。彼らが人の理解を超えた〝妖力〟を備えていることは明らかであった。そして彼らの正体も、その目的も今は明らかだった。
〝幻魔〟が来寇したのである。異形のもの、ザンビとザメディは〝幻魔〟の尖兵として地球を襲ったのだった。
彼らは地球の超能力者たちを狩りに来たのだ。
真夜中の森林の中は、暗黒と妖気に満たされていた。無気味で恐ろしい悪夢だ。
〝幻魔〟が来た。地球にあだなすため......丈が危い......丈は狙われている......
彼女は苦しい息をつき、暗黒の悪夢から逃れ、丈を救おうと努力した。悪夢が底なし沼の暗い汚泥のように、彼女を捕え、引き止めていた。
彼らは丈を殺す。その異形の影はすでに丈の上に覆いかぶさっている!
彼女は呻き声をあげて、悪夢の囲繞を力の限りに振り払った。辛うじて執拗な悪夢から脱出する。
彼女──東三千子は苦しい息をついて、水面に勢いよく浮上するように、激しく顔をあげた。
居間の座卓の上に顔を伏せて、居眠りしていた自分に気付く。うとうとするうちに、異様な悪夢を見たのであろう。
柱時計は午前三時をまわり、無表情な貌で単調な振り子の音を響かせている。
実に静かであった。物音一つしない。
三千子は手指の腹で、額を湿らせている冷汗を拭った。心臓が早鐘を打っている。
夢だ、ただの夢だ、と自分にいい聞かせる。
丈はむろん、大新聞社の外信部に勤める父親も帰宅した気配はない。
彼女は飲みさしの冷えたお茶を飲み、かわいた喉を湿した。全身が総毛立ち、過敏になっているのがわかる。そっと胸のふくらみの下を抑えて、烈しい動悸をなだめる。
悪夢を見たのは、丈の身を案じているせいだとわかっている。丈の身にはなにごとか異常が生じている。しかし、彼は家を飛び出して行き、それを彼女に語ろうとはしなかった。大人になろうとしている弟は、もはや庇護者である彼女を必要とはしなくなったのかもしれない。
だが、丈の身に起きたことが、それほど日常的なことではないと三千子は感じていた。おそらくその出来事は弟の手にあまり、庇護者である姉の手にもあまるものなのであろう。
三千子は不安と危惧に堪えかねて、そっと立ちあがり、縁側に出た。雨戸は開いていた。ガラス戸を滑らせて、外の気配に耳を澄ます。すでに月は傾き、夜空はひどく暗くなっていた。
こんなに暗くては、丈が帰ってこられない......自分が灯を点けて、待っていてやらなければならない。
彼女は縁側から、サンダルに足をおろし、庭へ出た。戸外は暗く、あまりにも静かすぎた。たちまちまとわりつく藪蚊の唸りにかまわず、三千子は暗い夜空を仰いで佇んでいた。
すると、一瞬、狂風の轟きが暗い天空を駆けるのを聞いたように思った。むろん幻聴であろう。感の鋭い三千子には珍しいことではなかった。
その狂風の轟音は、未来に地上を覆う災厄と戦乱を告げているような気がした。
三千子はいつしか両手で身を護るように体を抱きしめ、夜の冷気の中に立ちつくしていた。
暗い......暗すぎる......
三千子は心にひとりごちた。彼女が探るように見据えた目の先に、未来は冷気と闇の中で消え失せていた。
解説
SF評論家の中島梓さんは、平井和正さんを〝言霊使い〟の作家であると評したが、いかにも的を射た表現だと思う。少年マガジンの人気まんが『エイトマン』の原作者としてデビュー以来、平井さんは腕達者ぞろいのSF作家のあいだでも、そのエンターティナーとしてのぬきんでた才能はつとに認められてきたわけだが、近年平井さんの一連の作品には明らかに独自の使命感に支えられた熱い脈動の高まりがうかがわれるのだ。
人が「ことば」を発するとき、それは他者への愛のメッセージであるべきで、人類の文明とか文化は、愛を核としてもたない限り、いっさいの色彩や香りを失い、いたずらな虚無の供物と化してしまう。平井SFの根底に熱い脈動となって流れているものは、間違いなくこの愛のメッセージなのであり、それこそが言霊の本質であるはずだ。平井さんはいま「ことば」のもつ、いわば根源の力=言霊の復活に作家生命のすべてを賭けようとしているかに見える。
あえて乱暴ないい方をしてしまうと、文学一般は近代に至って、さながら科学における生体解剖のメスにも似た機能を「ことば」にもたせてしまったのではないか。かかる文学においては人間の内的世界もズタズタに腑分けされ、そのすみずみまで実験室の冷い人工燈の光の下にさらけ出されるだけとなった。そこには、いったいどんな感動があるというのだろう。文明社会の病根をとり除くどんな力を私たちに与えてくれるというのか。
じつのところ、私たちの日常の生活自体、事態は深刻なのだ。そこに氾濫している「ことば」のなんと虚ろで、毒にまみれ、腐臭にみちたものであることよ。ついにタバコを捨てられぬかの如くに、私たちはドブ色に汚れきった「ことば」を無感動にもてあそぶ。あとに残されるものといえば、疲労と倦怠と虚無でしかあり得ないのだ──。
「この蓄積した底なしの汚泥のような魂の疲労は、私にはどうにもならんのです。私は疲れた......とてつもない疲労です。それをどうかわかっていただきたいものだ」という、宇宙戦士ベガの哀訴は、私たち現代人の心底のつぶやきそのものなのではないか。
神の如き者〝フロイ〟はいう。「戦う以外にあなたがたが生き延びる望みはない。......あなたがたには希望があり、愛と友情の連帯がある。至上至高の価値を求める心がある。それは正のエネルギーであり、集結することによって、唯一、〝幻魔〟を打ち破る〝力〟となるものだ。その心がある限り、無敵と思われる〝幻魔〟すら、敗退するであろう」
『幻魔大戦』の創作意図が託されたと思われる、この〝フロイ〟のメッセージに、私たちは勇気づけられ、生きる力のこみあげてくるのを実感し、暗黒をきりさく光への熱い信仰にうちふるえる。
平井和正というひとりの作家を、いま私たちが持っていることの喜びは、まずなによりこのあたりにあるように思えてならない。
『ウルフガイ』シリーズの最新作の中で、主人公の犬神明が、自らの使命を〝天使の指先〟と規定しているところがあった。それはまた作者である平井さんのいわば創作上の信条告白でもあるのだろう。
たしかに私たち人類は有史以来、悪魔のかっこうの標的となってきた。そして、現代社会の中で私たちは物質的欲望や肉体的快楽をみたすことが幸福であるかのように、すっかり思い込んでしまっている。そうした御利益を吹聴することで多くの信者を集める〝宗教〟団体すら出現している有様だ。しかし、物欲や快楽をみたすことが幸福感に浸ることと対置されたものであることは明らかなのだ。快楽と幸福のとり違えの悲劇こそ、まさに悪魔の存在証明といえる。ことばを変えていえば、かつてなかった物質文明の繁栄する現代社会こそ、悪魔どもにとってじつにぬくぬくとした温床となっている。
平井SFは、かくして暗黒と虚無と悪魔に対するに、光と希望と天使の壮絶きわまりない戦闘図絵となって展開されていくわけであるが、その描写力のみごとさに目を奪われて、作者が私たちに提示してくれているきわめて今日的なテーゼを見落としてはならないだろう。それは私たちのひとりひとりが悪魔の力を排して、光と愛の勝利する世界へ一歩一歩近づいていく努力を惜しまぬことなのだ。
平井さんの一連の作品は、ここ数年来驚くべき売れ行きを示しており、それはもはや伝説的ですらある。しかもその読者は圧倒的に若い世代で占められており、ファンから寄せられた沢山の手紙を平井さんから見せていただいたことがあったが、どれも共通して〝魂の教師〟として平井さんの作品が受けとめられていることが印象的であった。平井さんのテーゼは、確実に若い世代に浸透し、拡大しつつあるのだ。
平井さんとのかかわりあいについて若干ふれておきたい。私が編集者として、また友人として平井さんとおつきあいをいただくようになってから、もう十五年余にもなろうか。私が創刊時の少年マガジンでまんが編集者としての第一歩を踏み出し、何本かの連載まんがの担当(といっても、寝ずの番で完成した画稿をまんが家から受けとり、印刷所に送りこむ純粋に肉体的な労働)を経て、はじめて自分でプロデュースしたのが、『エイトマン』(まんが桑田次郎)だったことは、平井さんとの浅からぬ因縁を感ぜずにはおられない。これは他でも書いたことだが、平井さんは初対面の人などに「私の騎兵隊である内田さんです」と紹介して下さるのが常で、それというのも、作家としての道程で誰しもが遭遇する、いくつかの曲がり角ごとに、どういうわけか私がラッパを吹き鳴らしつつ平井さんのもとに駆けつけ、デビュー作の『エイトマン』のあと、『幻魔大戦』(まんが石森章太郎)、『ウルフガイ』(まんが坂口尚)をそれぞれ少年マガジン、ぼくらマガジン誌上に発表していただいた。以上の作品群はいずれも平井さんの作家的地歩を強固にした、いわば代表作ばかりで、編集者冥利につきるというのはまさにこうしたことをいうのだろう。
しかし、不思議といえば不思議なことがある。それは平井さんとのコンビによる一連の作品が、どれも不測の事態によって中断の止むなきに至ってしまったことだ。『エイトマン』の場合はまんが家の拳銃不法所持事件のため、連載を突然打ち切らざるを得なかったし、『幻魔大戦』も熱狂的ファンに支えられ、名作として高い評価を受けながら、壮大なスケールの構想半ばにして休載となり、つづく『ウルフガイ』は創刊間もないぼくらマガジンに『仮面ライダー』『ハルク』『バロム1』などとともに連載が開始され、〝変身するスーパー・ヒーロー〟路線のその後の大ブームの口火を切りながら、わずか数か月後に同誌が休刊となって、これまた中断してしまった。
人気作品というのは、たいがいおわりを全うするのが相場なのだが、以上のような仕儀で、平井さんには大きな負目がある。どうやらこんなところにもあの嫉妬深い悪魔の手が及んでいるのだろうか。(読者諸氏もご用心、ご用心!)もし、まこと悪魔のしうちだとすれば、平井さんには悪魔も打ちひしぐ強い守護天使がついているにちがいないのだ。
『ウルフガイ』シリーズは、いまや数百万部の超ベスト・セラーとなって継続中だし、本書でたっぷり堪能していただいたとおり、『幻魔大戦』の新シリーズも、平井SFの一つの巨峰をきずくことを約束された作品として、ここに再登場したのだから。
内田 勝
本書中には「どもる、いざる、気違い、盲、白痴、ニグロ」など障害者や人種を差別しているととらえかねない語句や表現があります。これらは、現代の人権擁護の見地からいずれも使うべきではない言葉です。しかしながら、人権意識の低い時代に発表された作品であること、並びに著者自身に差別的意図はないことを考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
一九六七年夏──
七月に入って蒸し暑く寝苦しい熱帯夜が続いていた。
猛暑に悩まされているのは日本だけではなかった。太平洋をはさんだ北米でも凄まじい酷暑にあおられて、黒人スラム街の暴動が続発していることを、外電が伝えていた。
日本では、暴動こそ起きないものの、暑さにゆだっていることに変りはなかった。一九六〇年代は、まだ冷房システムが家庭に普及する以前の段階にあった。ウチワと蚊取り線香が各家庭の必需品であり、涼を取るのはせいぜい扇風機だった。
夜に入っても暑さは引いて行かず、どんよりと熱い空気がわだかまって、全身から噴きだす汗がおさまらない。家中を開け放っていても、風が死んでいるので、体中を熱いバスタオルでくるまれているようだ。
暑さで狂わんばかりなのは、人間だけではない。癇を立てた犬たちが、そこかしこで苛立たしげに吠えたてていた。
軒先にした打ち水も、いっこうに涼を呼んではくれない。
どこの家も窓を開け放っているので、TVの音があちこちから、遠く近く聞こえてくる。軒下に吊った風鈴はこそとも音を立てようとしない。
東三千子は、それまで調べていたオクスフォード英英辞典を閉じ、ほっそりした指先でこめかみを伝っている汗をそっと抑えた。あまり汗をかかない体質の三千子も、今夜は座っているだけで堪えがたかった。
繊手には荷が重い、厖大なボリュームの英英辞典、米俗語辞典などの辞書類を片付け、書きかけの原稿箋をしまう。
三千子は海外文学の翻訳者だった。翻訳といっても、世間に名の通った翻訳家の下訳であり、彼女の名が表に出ることはない。
下訳という名の下請け仕事なのだ。高名な翻訳家は、彼女の訳した原稿に適当に手を入れ、自分の名を冠して世間に出す。実際は三千子の仕事である翻訳書が何冊も書店に並んでいるが、彼女の名は見当らず、印税収入などまったく入らない。
高名な翻訳家がくれるわずかな下訳料だけが彼女の収入になる。まるで徒弟制度を思わせる奇妙な慣習だが、駆けだしの翻訳者である三千子はとくに気にしていない。自分の未熟な翻訳がそっくり活字になるのが不思議なほどだ。
ひどく辛抱強い性格に生まれあわせている三千子は、たいていのことを苦に思わない方なのだが、この猛暑の中に入ってきた急ぎの仕事だけは、さすがに悲鳴をあげたくなった。ポケット・ブックの百ページを二週間であげることを要求されているのである。
猛暑の夏ほど、原稿書きにとってつらい仕事はない。暑さで思考力は低下し、精神集中が困難になる。汗ばんだ腕に原稿箋がへばりつく。噴き出した汗が原稿箋の表面に滴り落ち、インクをにじませて判読不能にしてしまう。
日中はほとんど不可能であり、夜を待つしかない。それが熱帯夜で、深更になっても気温が低下しないとなれば、もはや最悪だ。
三千子は溜息をついて立ちあがり、座卓を拭きにかかった。午後九時にほど近いが、弟たちはまだ帰宅していない。父はむろんのこと、帰ったとしても夜明け近くになる。
台所での水仕事だけがわずかに涼をもたらし、快適であった。夕餉の仕度はとっくに出来ているし、風呂も沸かしてある。
弟の卓が遅いのは、部活動のせいだとわかっている。汗だらけになって帰宅すると、巨軀で風呂桶の湯を半分ほどもあふれさせ、相撲取りのように食卓の前にどっかと座りこみ、馬のように大量に食べる。
大柄なわりにほとんど手がかからない弟である。屈託のない性格で、むずかしいことはいっさいいいださない。幼いころから、あっさりした淡白な子で、外では荒っぽい喧嘩もしてくるが、学業成績はいつも驚くほどよかった。これほど育てやすい子供はないと三千子はいつも思った。
母親は幼時に早逝したが、卓はいじけもせず、恬淡としていた。情が薄いのではないかという気がするほど、ものにこだわらない性格の弟であった。しかし、外部ではだれにも好かれるし、人望もある。小学生のころから、大人並の体格をしており、中学一年で早くも柔道の初段を取った。天才肌なのである。しかも文武両道といったところで、学業成績はトップの座を他にゆずったことがない。
だれの目から見ても、文句のない〝よくできた〟弟なのだが、姉の三千子から見ると、なにかしらあっけないところがあった。まるで、腰掛けのようにただそこにいるという感じがするのだ。
卓にとって、家庭も家族もさして本質的に重要なものではないように思える。感情の絆が稀薄で、時が来ればあっさりと出て行ってしまう、そんな気がする。卓にとってはすべてが仮の宿といった感じがいつもつきまとっている。
そのためか、肉親というよりは、気のおけない同居人の感が昔からあるようだ。血のつながりの濃さがほとんど感じられない。
しかし、それは卓だけには限られていない。十年前に他界した三人の姉弟の母は、きわめて印象の薄い人であった。ただ単に、平凡であるというだけではなく、ごく当り前の女性であり、人並の母親ではあるのだが、なにかしら、存在感が稀薄であったように思う。
肉親でありながら、親密さがなにかしら乏しく、没後も二人の弟が亡母を慕って、三千子を悩ませた記憶がまるでない。彼女自身にとっても、亡母は過ぎ去った淡い夢のような人であった。
肉親であれば、もっと切実な感情が通うはずなのに、といつも思う。その気持は、三千子に対して、罪の意識のようなものをもたらした。
ひょっとすると、自分は薄情な人間なのではないかという疑いである。まるで他人がたまたま寄り集まった......そんな感じでこれまですごしてきたからだった。
父親についてさえも、存在の稀薄感がつきまとってはなれない。父の竜介はいわば〝仕事の鬼〟であり、家庭生活にはほとんど関心を持っていない。子供たちとは別次元のジャーナリストの世界が、父にとっては全てだった。それは母が生存中もそうだったし、現在は更に明確になっている。
三人の子供たちと父は一度も共通の経験を持っていなかった。遊園地にも、旅行にも連れだって出かけた記憶がない。
子供たちが見る父親はいつも、他人行儀で、家庭生活に対して鬱陶しさを隠そうとしない〝よそのおじさん〟的な人間像に他ならなかった。
父には、亡母の生存中から愛人がいたようである。父が家庭に冷淡なのはそのためもあるかもしれなかった。今はおおっぴらに愛人宅へ出入りしているようだが、公然の秘密として、子供たちはだれも口に出さない習慣がついていた。
奇妙な家庭だ、と三千子は思っている。純粋な少女時代に知った父の秘密はひどいショックだったが、今となればなんの感慨もない。血肉の情が薄らいでしまったのかもしれない。今では父の愛人のことを考えても、嫌悪や敵意の情は湧いてこない。
まるで、他人の寄りあい世帯のようなものである。
ただ一人、弟の丈を除けば。
十代の半ばから、弟たちの母親代りを務めてきた三千子にとって、とりわけ丈は弟であるよりも、己れの愛児に対するような感情が通っていた。おそらく妙に存在感の稀薄な亡母に代って、丈を幼いころから手塩にかけてきたせいかもしれない。九歳の年齢差は、三千子に母性愛を育てさせるのに充分だったようである。
それに丈はひどく手のかかる子供であった。それは弟の卓に比べればあまりにも歴然としていた。
ひ弱で、癇が強くて、すぐにひきつけを起こした。真夜中にいきなり四〇度を超す高熱を発するのである。いつもおろおろする母親に代って、医者の手配をするのは、三千子の役目であった。
午前三時ごろ、丈を抱いて医師の門を叩いたことが幾度もある。少女の身にとっては重責であった。母親がうろたえるだけの役立たずである分だけ、三千子は強くならざるを得なくなった。
丈が姉の秘蔵っ子になるのは当然の成行であったかもしれない。
だが、そうした状況的なものばかりではない、と三千子は思っている。最初から彼女と丈の間には緊密な、魂の結びつきというべきものがあった。
それは神秘的なもので、直感でしかわかりようがない。他人には説明不能なのだ。この現世でこそ、自分と丈は姉弟だが、前世ではもっと血の濃い間柄、母子ではなかったろうか......彼女は時折、そうした神秘的な考えの虜になってしまう。それは不可解、不合理な確信であった。
影の薄い母が、ますます影を薄くしていったのも当然の成行であるかもしれなかった。
三千子のだれにも口外したことのない、秘かな考えは、自分は弟の丈を育てあげるために、この世に生を享けたとするものだった。
理由はない。ただ、そんな気がするだけである。
そのような奇妙な考えが、三千子を縁遠くして行くようだった。どちらかといえば寂しい美貌だが、彼女は人目を惹く存在であった。薄暮の中に咲く白い花のように清浄さが、人の心を動かすのだった。
そのくせ、三千子は二十七歳の今日になるまで一度も恋を経験したことがなかった。誘われることは珍しくないが、一向に燃えるものがないのだ。
昔から一度も結婚の夢を描いたことがないというのも、女性としては珍しいことであるかもしれなかった。
少女時代から三千子は、すでに結婚し、子供を産んだ母親のように落ち着いており、うわついたところが毫もなかった。
彼女はすでに宿命を感じてい、それを従容と受け容れる準備をととのえていたようでもある。
十代を出ずして、彼女は確固たる独身主義者となっており、持ちかけられる縁談には一顧も与えなかったからだ。我ながら変っていると思う。親類の伯母などやきもきしている向きはあるのだが、三千子は柳に風と受け流していた。翻訳者として生きるのに結婚する必要はなかった。ありがたいことに、父は少しも彼女の結婚問題に関心を示さなかった。子供たちとは無縁の世界に生きている人であった。
とはいえ、三千子が弟の丈のために一生を捧げようと意識しているわけではない。弟が〝一人前〟になるまで、自分が見守っていなければという強い義務感があった。
いずれは丈も結婚し、家庭を設け、姉の庇護の手から放れて行くだろう。世の中はそうしたものだ......
だが、なぜか実感がないのだった。そのような未来はあくまでも常識的な推論にすぎず彼女には想像をめぐらすことができなかった。
なぜか三千子は自分の行末に関し、想像力を喚起することが非常に困難に思えた。そういえば、昔から自分の将来について、真剣に思んばかったことがないような気がする。どうにも関心を持てないのである。もしかすると自分は案外に早逝するのではないかという気持があった。むろん、それは漠然としたもので、気がかりになるほどのことではなかった。
その代り──いつも彼女の念頭にわだかまっているのは、弟の丈の行末であった。もう一人の弟、卓は決してそのような危惧を起こさせないしっかり者である。
しかし、丈はそうでない。幼いころから丈は少女のような首筋をした美しい少年で、薄幸の面影があったのだ......
三千子は流しで洗い物の手を停めて、いつしか考えこんでいた。水道の蛇口から水が無為に迸っているのにも気がつかない。
丈の身には、なにごとか異変が生じていた。それは、感の鋭い三千子には疑う余地のないものであった。
一週間ほど前の、兄弟喧嘩の晩からそれは始まった。丈は真夜中に気が狂ったような挙動に及び、二階の窓から跳び降りて姿を消してしまった。およそ考えられない狂態であった。
帰宅したのは丸二十四時間も過ぎた翌日の深夜であり、それもこっそりとだれも気がつかないうちに自室に戻っていたのだった。
三千子がふと予感がして、二階に昇って行くと、丈は灯りをつけない自室に膝を抱えて目だけを光らしうずくまっていた。わずか一日でげっそりと憔悴し、ひどく汚れて疲れ切った風情だった。
ひどく寡黙になってい、彼女がいくら問い訊しても、口重に答えようとしなかった。
無理やり入浴させ、食べさせたあと、丈は丸一日眠り続けた。完全な熟睡で、声をかけても一度も目を覚まさなかった。
丈は常態に戻ってからも、姉や弟の視線を避けるように自室に閉じこもり、二日間登校を放棄した。
特にノイローゼ症状を示したり、偏屈になったという印象ではない。なにごとか深刻に考えこんでいるという感じがした。
弟の卓が明らかにした野球部退部や失恋などの挫折が、丈をこれだけ自己閉鎖に追いこんだとは、にわかに信じられないものがあった。三千子には弟の気持が薄々わかっているような気がしていた。
それは日常的なありふれたことではない。丈は心身に、恐るべき非日常的な変化を体験中なのに違いない。それはほとんど確信の域に達していた。
それゆえ、彼女は弟に対して執拗に問い訊すことはしなかった。折があれば、丈は自ら進んで話すであろう。それは魂の結びつきが彼女にもたらす確信であった。
昔からそうなのである。丈が心を割って話せるのは三千子以外にはなく、彼は飽きあきするまで迷い事をこねくりまわした挙句、姉に持ちこむ癖があった。
信頼感はなにがあろうと、いささかも揺いでいないが、丈の抱えているトラブルが、自分の手に余るのではないかという危惧が、三千子を動揺させていた。それはなにかしら、恐ろしく異常なことなのだ......
玄関口での帰宅の物音と声が、三千子をもの思いから急速に引き戻した。卓がようやく帰ってきたのだった。丈ではない......彼女は出し放しの水道の蛇口の栓をあわてて停めた。長い間、流水にさらされていた両手の指同様、心も冷えてしまっていた。
卓は洗いざらしの特大の浴衣をひっかけたなりで、湯上りの巨軀を相撲取りさながらのボリュームで食卓の前に据え、めざましい勢いで食欲を満たした。いかにも楽天家らしい顔には屈託の影もない。丼飯の数をみるみる重ねて行く。見ていて、胸がすくほどの健啖ぶりである。実に健康的で陰翳がなかった。
食後のお茶を湯吞みですすりながら、卓はふと窺う目付になった。
「姉さん、兄貴は?」
自然に声を忍ばせていた。
「まだ、帰らないわ......」
弟が何をいいだそうとしているのか、事前にわかってしまって、三千子はと胸を突かれる思いで答えた。
「兄貴、やっぱりおかしいよ。普通じゃない......」
卓は声をひそめたなりだった。
「丈がどうかしたというの?」
「いおうか、どうしようかと迷ってたんだけどさ。兄貴、学校へ行ってないぜ」
「まあ......」
三千子は顔を白くさせた。
「どこをほっつき歩いてるんだか知らないけどさ......姉さん、兄貴は病気なんじゃないかね?」
「病気?」
「ノイローゼが高じて、よくあるやつで、これもんになっちゃったんじゃないのかな?」
卓は太い人差指をこめかみに向け、くるくると輪を描いてみせた。
「まさか、そんな! 滅多なこといわないでね!」
三千子は自然に声を高めた。卓は姉のいつにない剣幕に怯んだが、やめはしなかった。
「しかし、確かに様子が変なんだ。おれと顔を合わせても、目に映らないらしいんだ......ポウッと気が抜けたようになってるし、一日中家をあけて夜中までどこかをほっつき歩いてる......あれは早く医者に診せたほうがいいんじゃねえのかなあ。手遅れになったら、もう兄貴は一生台なしだぜ......」
「あなた、まさかそんなこと、丈にいったんじゃないでしょうね?」
「いうもんか、冗談じゃない。本当いうと、おれ、兄貴がなんだかおっかないんだよ。なにか人が変ったみたいで......あれは絶対、前の兄貴じゃないよ」
「まさか......」
「ほんと、おっかないんだよ。なんか憑きものでもしてるみたいでさ」
と、卓は力をこめていった。よほど庭池の中に投げこまれたのが心理外傷になっているようだった。そのため余計に兄が異常に思えるのであろう。
「............」
三千子は顔を曇らせて言葉もなかった。猛暑のためただでさえ食欲不振気味なのが、胸がつかえてしまった。
「兄貴はともかくとして、姉さんも大丈夫かい?」
と、卓は初めて心配顔でいった。
「ここのところ、ずっとあまり寝てないんだろ? 顔色がよくないよ。貧血気味なんじゃないのかい......兄貴の奴、まったくしょうがねえな、姉さんに心配ばかりかけて......」
「丈のせいじゃないのよ。ここのところ、仕事がちょっときつくて......すこし無理してるから」
「姉さんはいつも兄貴をかばうからな」
と、卓は不服げにいった。
「早くなんとかしたほうがいい......しかし、父さんにいっても始まらねえだろうからなあ」
「お父さんはお忙しいのよ」
と、三千子が父親をかばう。
「いくら忙しいったってさ......子供に全然関心がねえんだから。非行化したらどうするんだ」
「だれも非行化なんかしてないじゃないの」
「それは子供の出来がよかったからさ......しかし、変な家だねえ、ウチも。家族全員がまともに顔を合わせて食事なんか、したことがないんだから。家族がみんなバラバラで、勝手なことやっててさ、姉さんが一番たいへんだよなあ。こんなことやってると、本当にお嫁に行きそこなっちゃうぜ」
「あたしはどうせお嫁には行かないわ」
と、三千子は呟くようにいった。食卓の上の汚れ物を台所にさげにかかる。
「なんで、姉さんはいつもそんなふうにいうんだい?」
いつも食事がすむなりTVに向うか自室に引きあげる卓が珍しく饒舌になっていた。
「姉さんだって、そろそろ適齢期をはずれかけてるからなあ。おれだって気になるよ。おれたちみんなのために姉さんが犠牲になったなんて、寝覚めがよくないよ」
「そんな生意気いって......馬鹿ね。犠牲なんてことあるわけないでしょう。きっと縁遠いのよ」
「だって、縁談、かたっぱしから断わっちゃうじゃないか。姉さんのことを知ってる人間はみんな不思議がってるぜ。だって姉さんは美人だからな。弟のおれの目から見たってさ」
「無理して褒めてくれたから、デザートに西瓜を出すわ。冷蔵庫に入れておいたから、きっとよく冷えているわよ」
「やっぱり、いってみるもんだなあ」
と、居間で卓がいった。TVをつけたらしい。それで話は打切りになった。三千子は胸のどこかが痛むような表情で、洗い物をかたづけていた。
深夜になっても、息づまる暑さはいっかな引いていかない。熱気は夜の闇に満ち、ぶつぶつ呟くような音をこもらせていた。
三千子は再び居間の座卓の前に座って、翻訳のペンを重たげに走らせていた。卓はとうの昔に自室に引き取って白河夜船だろう。スウィッチの切られたテレビが、いまだに温気を吐きだしていた。
相変らず、じっとりと汗が体中を湿らせている。ペンはいっこうにはかどらず、深い溜息が唇を漏れた。睡眠不足と疲労で偏頭痛が疼き始めた。両眼の間の奥に重苦しい苦痛が生じていた。
掛時計に目をやった。午前二時をさす針がダブッて見える。視神経が疲労で参っているのであろう。さすがに体を横にしたい欲望が高まった。
丈はまだ帰ってこない。まさか夜遊びしているとは信じられないが、この数日、明け方に帰ることもあるようだ。親馬鹿のようで気が引けるのだが、丈に限って非行化しているとは思えなかった。丈の性格からすると、およそ考えられないことだ。彼にはストイックなところがあり、欲望の充足には控え目であった。
丈は一人前の男になろうとして苦闘しているのだ、と彼女は思った。人が徐々に段階を踏むところを、丈は一挙に生皮を剝ぐようにして脱皮しようとする。血を流して苦しむのは、ある意味で当然のことだ......
今回の彼の変貌ぶりも、おそらくそれに関係があるのだろう。弟がそれだけ苦しんでいるのに、自分が安閑としているわけにはいかない......それが三千子の考え方であった。彼女が睡眠不足と闘い、疲労の影を皮膚の下に淀ませて頑張っているのは、それがゆえだったのだ。
他人が聞けば、笑うかもしれないし、あるいは呆れるかもしれない。いずれにしろ、三千子は彼女を知るだれからもひどく古風な女といわれたが、それを引け目にすることもなかった。
いつしか、うたた寝していたらしい。苦しい夢からようやく浮上すると、三千子は両腕の間に突っ伏していた顔をあげた。下敷になった原稿箋がシワになっていた。
丈が帰ってきたような気がしたのである。だが、彼が玄関を開けて入ってくれば、三千子が気付かないはずがなかった。彼女は眠りが浅く、目敏い性質である。
三千子はだるい体を持ち上げて居間を出、玄関を確かめに行った。丈のスニーカーは見当らない。まだ帰ってはいないのだ。もう時計は三時をまわっている。しばらくすれば夏の早い夜明けだ。
彼女が階段の登り口に引き返した時、階上の丈の部屋に気配を感じた。間違いない。丈はいつの間にか、部屋に戻っていたのだ。
三千子は弾かれたように階段を駆け登った。古い家はきしみ、家鳴り震動したが、それどころではなかった。
「丈! そこにいるのね、丈!」
自然に声高になってしまった。だが、ドアーの向うは静まり返り、息をひそめていた。
「丈、開けて! さもないとお姉さん、入っていくわよ!」
三千子は返事を待たず、ドアーに手をかけた。ドアーは錠がおりていず、あっさりと開いた。
部屋の中は暗かったが、窓が開放されているので、ものの輪郭の見分けはついた。
丈の影が膝を抱いて壁際にうずくまっていた。丈は二階の窓からこっそり入ったらしい。
「つけないで!」
と、彼が呻くようにいった時、三千子はすでにスウィッチを入れていた。天井から吊った白熱電球が点り、眩い光を降り注いだ。
丈は両手で顔をかばい、光から護った。白いワイシャツは泥だらけで、鉤裂きを肩のあたりに作っていた。
「丈! いったい何があったの? なぜ泥棒みたいにこっそりと家の中に入ってくるの? お姉さんに話してちょうだい......」
さすがに三千子は黙っていられなくなった。ともかく姿を見て気が緩んだせいもあるだろう。常の三千子ではない、激しい詰問の口調になった。
「お姉さんがどんなに心配しているか、わからないの!? ここ幾晩も眠っていないのよ! あまりにも理不尽じゃない......あなたはそれでも平気なの!?」
丈は両手で頭を抱えこみ、息もついていないようであった。三千子は気を鎮め、声の調子を落した。
「悪かったわ。つい嚇っとなってしまって......お姉さんにわけを話してちょうだい、きっと力になってあげる......」
「お姉さん......」
丈はいいかけ、息を吞んだ。頭を激しく左右に振り動かした。
「だめだ! とても信じちゃもらえないよ! いくらお姉さんだって......」
絶望的な苦しい声であった。憐愍が胸に詰まって、三千子は両膝を床に突き、弟の肩を摑んだ。
「お姉さんに話して! 話さなきゃいけないわ」
と、命令するようにいった。
「気違いじみてて、あまりにも馬鹿ばかしすぎるんだ......どうやって話せばいいのかもわからない!」
丈は頭を振った。惨めに混乱しきっていた。だが、狂っているのではない、と三千子は確信した。いくら異常な振舞いをしたとしても、丈は狂者ではありえない。彼は扱いきれない困難な状況の中で苦しんでいるのだ。

「お姉さんが、丈の言葉を疑ったことが一度でもあって? あたしはあなたを信じてるのよ。丈が誠実な子だということは、お姉さんがだれよりも知ってるわ。とりあえず、今夜、何があったのか話して」
三千子は弟の肩を捉え、揺り動かしながら迫った。
「今夜......」
丈は口ごもった。まごうかたない恐怖が、苦痛とともにくっきりと顔を彩った。
「姉さん......おれ、たいへんなことをしてしまったかもわかんないんだ......」
「はっきりとおっしゃい」
彼女は冷たい胸苦しいものに絞めつけられながら、声を励ました。ここで冷静さを保持しなければ、と灼きつくように意識していた。
「丈が何をいおうと、姉さん驚かないわ。だから、落ち着きなさい。ちゃんと筋道をたてて話してちょうだい」
丈の喉がごくりと鳴った。不意に三千子の腕にしがみつく。
「おれ......人を殺しちゃったかもしれないんだ......」
「人を殺した?」
おうむ返しにいって、三千子は頭の芯で金属音を聞いていた。丈の顔は怯えきって真蒼であった。
「だれを......なんのために......?」
三千子は不意に重くなった舌の根を苦心して動かした。
「どうして......?」
「よくわからない。相手は......」
丈はかつての恋人の名を口にした。沢川淳子──丈より二歳年上の、音楽大学生である。三千子も逢ったことがある。いかにも感受性の鋭そうな美しい女の子であった。
「わからないって、どういうことなの? 丈、もっとはっきりしなさい!」
彼女は落ち着かなければ、と自分にしきりにいいきかせた。声がうわずり、なにもかもうわずってくるのだ。
「わからないというのは、相手が沢川さんかどうかわからないということ? それとも、相手は沢川さんで、彼女を殺したかどうかわからないけれども、手をかけたということ? それをはっきりして!」
「どっちも、はっきりしないんだ......」
丈の声音がもつれてきた。
「ちょっと、そこに待っていなさい!」
三千子は部屋をとびだし階段を駆け降りて行った。いつもはしとやかだが、今は構っていられない。
台所で、彼女は水道の栓をひねり、コップに水を満たした。それをまず自分で一気に飲みほした。水の冷たさが喉から胸へ落ちて行く。
つられてうわずりかけた気持が鎮まってきた。ここで自分が気丈さを振るわなければ、どうするのだ、と彼女は思った。空になったコップに水を満たし、それを掲げ持って二階へと昇った。
丈は歯をガチガチとコップの縁に鳴らし、水を半分も胸元にこぼしながら貪り飲んだ。
「沢川淳子に呼びだされて逢ったんだ、今夜......」
声がしっかりしてきた。多少落ち着いたのであろう。
「彼女だと思った......でも、何かが彼女に化けていたんじゃないかと思う......襲いかかってきたんだ......」
「沢川さんに化けていた? だれかが変装していたというの?」
丈のいうことはまだわかりにくかった。
「そうじゃない......そいつは人間に化けられる奴だ。人間じゃないかもしれない......」
「え......」
三千子は呆然とした。本当に丈はどうかしているのか。
「だから、信じられない話だといったんだ!」
丈の声は激しい叫び声に高まろうとした。
「だから最初から、気違いじみた話だと断わったじゃないか!」
「わかったわ、丈。もう少し詳しく話してちょうだい。なぜ沢川さんが人間じゃないとわかったの? 人間に化けている、何か別のものだと......」
「そいつは彼女に化けて、おれを狙ってきたとわかったからだよ......」
丈は焦りに頭を振りながらいった。
「わかってる、おれの話が非常識だってことは......だが、ほかにいいようがない。いったいどうやって説明したらいいんだ!?」
「それは、この間、卓と喧嘩した夜に始まったのね? あなたが家を飛びだしていった夜......あの夜、あなたの身にはなにかが起こった。そうなんでしょう?」
「そうなんだ、そうなんだよ!」
丈は驚きの目で、姉を見詰めた。三千子がわかっていることに感動したようだった。
「もちろん、お姉さんは気がついていたわ。あなたが真剣に何事か考えこんでいることも......でも、丈が自分から進んで打ち明けてくれるまで、待っていたの」
「ごめんよ、姉さん。打ち明けたかった......でも、あまりにも異常なんだ。もしかするとおれは気が狂ってしまい、狂人の妄想を展開しているのかもしれない......そう考えだすと恐ろしくて、話せなかった、どうしても......」
「いってちょうだい。あの夜、二階の窓から飛びだした時、何が起こったの?」
三千子はしっかりと丈の両肩を摑まえて、気迫のこもった声でいった。
「なにも心配しないで。事実だけを話して」
「おれは、飛んだんだ......」
丈は覚悟を決めたように答えた。
「そう。空を飛んだんだよ、姉さん。おれは翼がないのに空を飛べるんだ。よく夢の中で空中遊泳をするように......おれは現実にも、ミサイルのような速さで空を飛べるんだよ! だが、話をすればいかにも馬鹿ばかしく聞こえる。あまりにも異常だ......でも、それだけじゃない。本当はもっととてつもない話なので、おれが空を飛んだり、念力で物体を動かすくらいは、ごくつまらないことなんだ」
丈は激しく汗を流し始めた。興奮が彼を捉えつつあった。
「とても、信じられないだろうし、とんでもない空想だと思うかもしれないけど、黙っておれの話を聞いてくれるかい、姉さん。もし、姉さんがおれを信じてくれなければ、だれが信じるだろう......おれはそれが堪らなくこわかったんだよ!」
「さっきもいったけど、あたしは丈のことを疑ったことは一度もないわ。あなたがまだ小さいころ、お化けや幽霊を見たといって泣いた時、だれが丈の言葉を信じたの?」
「そうだ......お姉さんだった。母さんはおれをぶったけど、姉さんだけは信じて、慰めてくれたね。こわがることはない、お姉さんがお化けから丈を護ってあげるって......それで、こわくなくなったんだっけ」
かすかな笑みが丈の唇に浮んだ。
「姉さんは、お化けたちに向って、少しもこわがらずにいった。あたしの弟に構っちゃいけないって。そんなことはあたしが許さない......そう姉さんがきっぱりいったら、お化けたちはいなくなってしまったんだ。思いだしたよ、姉さん。そういえば、あの時もたいへんだった......お化けが何百匹も何千匹も家中にうようよしてたんだから。でも、姉さん以外はだれも信じてくれず、ぼくを叱った」
丈はすっかり落着きを取り戻し、話しはじめた。自分の体験した不可解な〝幻魔大戦〟の物語を。
2
三千子は一度も口をさしはさまず、丈にすっかり話させた。話の腰を折ることを恐れただけではなく、丈が冷静に筋道をたてて話すことができたからであった。
大宇宙全域に渡り展開されている巨大な戦乱、〝幻魔大戦〟を、三千子がなんの疑いもさしはさまず受容したのは、あるいは奇妙なことであるかもしれなかった。
だが、彼女はその物語を、以前から知ってでもいたかのように受けつけ、まったく拒否反応は示さなかった。
同様に、異星のサイボーグ戦士ベガと王女ルナとの遭遇も、彼女を驚かしはしないようであった。
「王女は、自分の意識の中にある〝幻魔〟との接触を、テレパシーでおれの心に投影したんだ。本当の意味で恐ろしい経験だった。おれはたぶん、その時気が狂ったんだと思う」
と、丈はいった。
「気が狂った!?」
三千子はぎくりとした。
「〝幻魔〟の正体に接すれば、気が狂わない人間はいない......だが、王女がおれを治療してくれた。ルナ姫はおれの心の中に精神体で入りこみ、治してくれたんだよ。だから、王女はおれのことをなにもかも知っている。もちろん、姉さんのこともね」
「そう......姉さんも、王女ルナに是非逢ってみたい」
と、三千子は呟いた。
「どんな女かしら? きれいな女なんでしょうね」
「それは、きれいだ......けどおっかない。冷たくて傲慢で、人を見下げている。とても好きにはなれないな......」
「でも、丈が超能力者なら......ルナ姫たちと協力して行かなければならないんでしょう? 〝幻魔〟と戦うために、地球の超能力者たちを結集させて......ルナ姫はそのために、今も活動中なんじゃなくて?」
「そうだろうと思う。しかし、姉さんは凄い理解力を持っているんだな」
丈は驚異と畏敬の目ざしで彼女を見つめていた。
「こんなとてつもない話を、少しも驚かずに平然と受け容れるなんて凄いや......まるで昔から知ってたみたいだ」
「なぜか、不思議にも思わないの。そういうこともあるんだなあって......で、ルナ姫と異星人の戦士ベガは、丈を置き去りにして行ってしまったわけね。なぜ、いっしょに行動しなかったの?」
「それは、きつい質問だな」
丈はむっつりと黙りこんで考えていた。姉らしくない、容赦なく思いやりに欠けた質問だった。しかも、姉は無言で丈の答を待っていた。
「彼女はおれのことが、信頼を置けないと思ったんだろう、たぶん」
と、丈は暗い声でいった。自虐的な衝動に駆られたようにつけ加える。
「おれの弱さを彼女は知り尽したんだろう。おれは〝幻魔〟の本性を見せつけられ、恐ろしさで気が狂った......おれは女のスカートのかげに隠れる卑怯者だった......その上、おれは自分の〝力〟で世界の指導者になることを夢想していたんだ。彼女はおれのいやらしい本性をなにもかも知ってしまった。軽蔑されてもしょうがない......彼女にはなに一つ隠せないんだ。おれが卑劣で汚い性根の人間だってことが......」
「それは、丈の思いすごしよ」
と、三千子はきっぱりといった。
「丈だけが、世俗的な欲望に汚れた人間ではないわ。もし王女ルナが本当に人の心がわかる偉大な超能力者だったら、もちろんそれを知っているはずよ。大事なのは、丈がその後、どのように努力したかということだとお姉さんは思う。丈が苦しんで、その中から何を摑みとろうと努力したか、それが肝心なことよ。丈は聖者じゃない。最初からの聖者なんて一人もいないのよ。王女にも、それはわかっているはずだと思うわ」
「しかし、彼女は、おれを置いて行った......」
「それはきっと、丈に時間を与えるためよ。心の整理をさせるためだわ。あなたが、超能力の巨人であるならば、本当に見捨てるはずがない。苦心して丈を見つけだし、超能力を目覚めさせ、狂気の淵から救いだした挙句、あっさり見捨てるなんて、ありえないことだわ。王女はあなたが自覚するのを待っているのだと思うの」
「姉さん......」
丈は三千子が初めて聞くような声を出した。瑞々しく情感にあふれる熱い声音であった。
「今の姉さんの言葉ほど、うれしく、すばらしいものは聞いたことがないよ。ぼくはこれまでずっと姉さんに教えられ、励まされ、勇気づけられてきた......でも、今ほど力づけられたことはない。ぼくはいつも、姉さんに恥をかかせないことを規範にして生きてきたんだ......どういう風に行動し、振る舞えば、姉さんを喜ばすことができるか......どうすれば姉さんがおれを誇りにできるか、いつもそれを考えてた。それが正しかったとわかって、おれはうれしいんだ! 姉さんはおれの女神様みたいなものなんだな。姉さんのおかげで、おれは崩れないですんだんだ! おれのドッペルゲンガーが、さんざん焚きつけ、誘惑した時も、おれは堪えることができた......」
「丈のドッペルゲンガーが、あなたをそそのかしてルナ姫に報復させようとしたことね」
三千子は静かにいった。彼女は透き徹るような静かな顔をしていた。
「あなたがドッペルゲンガーの誘惑に乗らなくて本当によかったと思う。きっとその時が丈にとっての正念場だったのね」
「本当をいえば、おれはルナ姫にしっぺ返しをしてやりたかった。あの高慢ちきな鼻をへし折ってやりたかった......彼女の泣きっ面を見て、ざまあみろといいたかった。でも、どうしてもできなかった。だって、ルナ姫がやっているのは自分のためじゃない。大きな目的のために努力しているんだ。全人類を破壊と破滅から救うため......それを考えたら、仕返しなんかとてもできなかった。おれは、ルナ姫をやっぱり尊敬してるんだろう......たとえ鼻もちならない欠点があったとしても」
「その丈のドッペルゲンガーというのは、本当にあなたの分裂した人格のハイド氏なのかしら?」
と、三千子が考えこみながらいった。
「おれも、それを疑っているんだよ、姉さん」
丈は息を詰めるようにしていった。
「ドッペルゲンガーの遣り口って、悪魔みたいだわ。丈の欲望や憎悪をあおりたてるようなことばかりいって、誘惑したんでしょう? 自分に従えば、世界の王になれるとかいって丈の欲望に、弱い心に火をつけようとした」
「おかしいと思ったんだ。おれは拒否した。そいつに向って去れといってやったんだ。ドッペルゲンガーは狂ったようになって、おれに襲いかかろうとした。で、おれは念動力でやつを叩きつけてやった......」
「何者かが丈のドッペルゲンガーに化けていたのかもしれないわ」
「そうなんだ、そうなんだよ!」
二人は雷に打たれたように体を硬ばらせて、互いの目にのぞく恐怖を見つめあった。
「〝幻魔〟がもう地球に来襲して、あなたたちの妨害を始めたのかしら?」
三千子が恐怖を押し切るように力をこめていった。
「それをすらりと口に出せるところが、姉さんのすごいところだ」
と、丈は感嘆をこめていった。
「おれは......それを考えることさえ恐ろしかった。考えたくなかったんだ。そいつがまたおれの前に現われるんじゃないかと神経が細る思いだった。ルナ姫や姉さんがそんなに勇気があるというのに、おれってだめだなあ......まったく野ねずみみたいに意気地なしなんだ」
再び自己嫌悪が丈をむしばみはじめた。顔から精気が失せ、暗く翳って行く。
「丈。本当の勇気というものはね、他人を護ろうとした時に湧いてくるものなのよ」
三千子は静かな声でいった。
「あなたは今、だれも護ろうとしていないじゃないの。自分のことばかり、くよくよと考えているじゃないの。そんなことでは、だれだって臆病になってしまうわ。子供を持った母親はとても強い。それは子供を護ろうとする本当の愛と勇気があるからなの。王女は今、全世界を〝幻魔〟から救おうと苦闘していらっしゃる。ルナ姫が若い女の子だけれども、丈より強いのは当然じゃないかしら」
心にしみる、深い声音だった。
「でも、お姉さんは丈が卑怯な臆病者だとは思わない。その証拠に、ドッペルゲンガーに化けた〝幻魔〟の誘惑をちゃんとはねつけたじゃないの。巨大な超能力を用いてルナ姫を排除し、世界の王として君臨せよという誘惑を退けたじゃないの。丈には勇気がないわけじゃない。今は戸惑っているだけなのよ。でも、丈が今の悩みや苦しみから逃げていてはだめ。それらを克服しようと戦った時に、あなたは初めて強くなれる。勇気だって湧いてくるわ。王女もそれを期待して、あなたを残して行ったんだと思うの。お姉さんは、王女の気持がわかるような気がする......」
「〝幻魔〟はやっぱり来てるんだろうか、姉さん!?」
丈はごくりと喉を鳴らした。新しい緊張が丈の体にみなぎってきた。だが、それは明らかに前のそれとは別種のものだった。
「ルナ姫たちは、それに気がついているだろうか? もし〝幻魔〟が攻撃を開始しているんだったら、ルナ姫たちに知らせてやらなきゃならない。今夜起きたことだって......」
「そう、今夜なにが起きたのか、それを話してちょうだい」
と、三千子は丈をなだめる声のトーンで穏やかにいった。彼女の手の下で、弟の体が慄えた。みるみる顔から血の気が失せ、体が冷たく固くなってきた。
「沢川さんと今夜逢ったのね?」
「逢った......いや、そうだろうと思うんだけど、自信がない」
丈は再び混乱し始めた。
「呼びだされて逢った......でも、彼女かどうか......姉さん、そんなことってあるんだろうか!?」
彼は唐突に異常な力で、姉の手首を握りしめた。
「おれはやってきたのが、本当に彼女かどうか確信がないんだよ! けど、あれが本物の彼女だったら、おれはたいへんなことをしたことになる......姉さん、おれはどうしたらいい?」
「丈、あなたはいったい何をしたの......彼女に......」
「おれは恐ろしかったんだ! だから、彼女を退けようとして、〝力〟をほんの少しだけ放出した......すると、彼女は......彼女は......」
丈の息は砥石を研ぐような荒い響きを立て始めた。額に滲んだ大粒の汗が転がり落ちる。
「落ち着いて、丈! それからどうなったの?」
「いや......とてもいえない......恐ろしすぎる! 姉さんだって、気が狂っちゃうよ!」
丈はまたもや怯え切ってしまった。歯がガチガチ鳴り、声がもつれてくる。
「丈、深呼吸しなさい。いっぺんに話そうとしなくてもいいわ。少しずつ、口から出るままに話しなさい」
三千子の声はやさしく穏やかで暗示をかけるようであった。
「お姉さんがいるじゃないの。こわいことなんか何もない......お姉さんはいつだって丈を護ってあげる。だから、気を楽にするのよ......」
彼女はエプロンのポケットに入っていたガーゼのハンカチで、弟の満面の汗を吸い取らせた。
「姉さん、やっぱりあれは、彼女だけれども、同時に彼女ではなかったんだよ! だれも信じないだろうけど、そうだったんだ!」
丈は呻くようにいった。
3
なぜ、最初から気づかなかったのだろう。一度は丈から冷酷なまでの思い切りのよさで去っていった沢川淳子が、なぜ彼に再び声をかけてくる理由があったのだろう。
丈はそれを疑わなかった。うぬぼれもあったかもしれない。真の理解者を求めていたということもあるだろう。
丈は混乱の極にあり、自繩自縛の状態に陥っていた。だれにも話すことのできない秘密を抱えこみ、動きがとれなくなっていたのだ。
沢川淳子に対して、もはや恨みもこだわりもすっかり消え失せていた。それどころか、念頭から消え去っていたといってもいい。
「丈と逢いたいの」
と、三か月ぶりの電話をかけてきて、彼女はいったのだ。
「どうしても逢って、あたしの話を聞いてもらいたいの」
「しかし......」
丈は以前の彼ではなくなっていた。王女ルナの与えた火のような試練が、彼を骨格だけ残して焼き尽してしまったように、過去の丈を構成していた雑然たる部分とともに、かつての恋人との思い出も灰になってしまい、今更なんの感興も呼びさまさなかったのである。
今の丈は、新しい丈でなければならず、そのための悩みが彼をしっかりと捉えていたのだ。過去に丈は回帰することは不可能であった。あの宇宙の凄まじい亀裂をいったん見てしまった彼にとり、日常性は空疎すぎたようである。
恋と彼が思いこんでいた感情は、もはやとうの昔に燃え尽きた。おそらくそれは恋ですらなかったのだろう。沢川淳子は丈に対してなに一つ変革をもたらしはしなかった。両者の間には一種の誤解があっただけだ。互いに相手に対して、何をもたらしたというのだ。恋人を持っている、ただそれだけの皮相的な満足感か......
どうして丈は、沢川淳子の意味もない要請を受け容れたのであろう。
いや、そうではない。丈はもはや今の自分が、彼女に対してなんら心の傾きを持たないことを告げたのではなかったか。
一度ならず、二度三度までも。
だが、沢川淳子は執拗であった。以前のプライドの高い彼女にはない押しの強さで、彼女は丈につきまとった。かつての彼女にはありえないことであった。
そして、今日、登校することもできず、街をさまよい歩いている丈に、沢川淳子は突然声をかけてきたのだった。
「丈、もしかしたら、あなたに逢えるんじゃないかと思って来てみたのよ」
彼女は平静な表情で佇み、丈を見詰めていた。
七月初旬の猛暑が街を煮たたせた日暮れ時で、だれもがべったりと汗をかき、シャツに湿った染みを拡げているのに、沢川淳子は白いきめのこまかい皮膚に汗ひとつ浮べていなかった。猛烈な西陽をまともに受けて、平然としていた。
「逢っても仕方がないと思ったんだ」
丈はどっと噴きだす汗を頼りなげにハンカチでこすった。
「もう僕たちは、別々の人間になってしまったんだから、このままにしておいた方がいいんだ」
「あなたにどうしても逢いたかったのよ」
と、彼女は丈の言葉など聞かなかったようにいった。
「どうしても、丈とお話したいことがあったの」
なにかしら微妙な異和感があった。以前の沢川淳子とは波動が異っている。が、それは丈も同じであろう。
二人は前のように肩を並べて歩いた。もちろん、正確を期すれば、前のようにとはいえない。丈はきめの美しい白い皮膚をした腕や肩に接触したいという欲望を感じず、肩に手をまわすことをしなかったからだ。
彼女は以前に変らず、美しくキュートで、誘惑的だったが、丈は非磁性化でもしてしまったように、性的な磁力を意識しなかった。
以前はその果汁をたっぷり含んだ瑞々しい白い体を思っただけで、抵抗しがたい欲望の虜囚になってしまったのだが。貪り尽さねばいられぬ鬼のような欲望が立ち上ってきて、己れ自身が恐ろしいほどだった。
彼女はそんな丈の熾烈な欲望を巧妙にかきたてながら、身をかわし、結局はおあずけにするすべを心得ていたものだ。丈に抱かれ、熱い秘密の部分まで探らせながら、なにも与えることなく翻弄し尽すのだった。そして、一度は近づけても、二度目はそれを許さなかった。丈を翻弄し、懊悩させることが楽しかったのであろう。
そんな恐ろしく気まぐれで、何を考えているのかさっぱりわからず、利己的で残酷な沢川淳子を覚えている丈にとっては、彼女の変貌は不可解なものであった。
彼女はまぎれもなく変っていた。
丈に愛想尽しをいったことをいたく後悔し、恥じてもいるということを、何度もくり返して丈にわからせようとした。丈と別れたけれども、結局は彼を一日も忘れることはできなかったといった。
丈には特別の人を魅するところがあり、他の若者には求むべくもないのだ、と沢川淳子は強調することによって、彼の歓心を買おうとした。かつてのプライド高く、丈の美質にはかえって目をそらす態度が明白だった彼女とは思えなかった。
いったいどっちの彼女が、本物の沢川淳子だったのだろう、と丈は思った。しかし、いずれにせよ、今の彼女はかつてのように丈を蠱で魅了することはなかった。彼女が不安定な変りやすい気質で、彼を苛立たせ翻弄していたころの力を失っていた。
あるいは丈自身が変貌してしまったため、新しい視野の中で、沢川淳子が色褪せて見えるのかもしれなかった。
一度王女ルナのこの世のものとは思えない、凄みさえ感じられる美貌に接してしまったからかもしれなかった。つまり、沢川淳子はもはや以前のように彼の心を振動させる力を喪失していたのである。
だが、沢川淳子が切羽詰まっているとはいえ、丈の心を全く動かせなかったわけではない。丈は切実に真の理解者を求めていたからだ。彼女は丈に接近することによって、その空隙に割り込むことができた。
沢川淳子は丈を夕暮れの公園に誘い、ようやく涼風のきざした黄昏の中で、自分に生じた心境の変化を話し続けた。彼女は疑う余地なく真剣であり、丈とのいったん跡切れたラポールをかけ直すことに努力を傾けていた。
そして、丈は心を動かされた。だれにも話せない苦しみが心の中にわだかまっていたし、親しげに接近してくる沢川淳子を遠ざけることは困難だった。
夏の公園の夕闇の中で、彼女の白い皮膚が情欲的に瑞々しかった。だが、涼しくなるにつれ、人出が多くなってきて、彼女は落ち着かなくなった。近くの商店街で納涼祭でもやっているのだろう。スピーカーの演歌が高声で流されていた。家族連れの浴衣を着た子供たちが、公園内を走りまわって喧しい。
「丈、うちに来て話さない?」

と、沢川淳子が誘った。夕闇の中で白い顔がぞくりとするほど美しかった。
「大丈夫。うちには今だれもいないの。みんなで休暇をとってハワイへ行ってしまったわ。だから家中からっぽ。留守番はあたしだけなの」
丈の躊躇を見てとった彼女はすかさずいった。
「家でなら、もっとゆっくり話せるし、丈に是非見せたいものがあるの」
丈はなぜその誘いに乗ったのだろう。夜の雰囲気のためだったのだろうか。夜の大気はあまりにも濃厚であり、街灯の光は街路樹の緑を鮮やかに照らしだしていた。
丈の意識は狭窄されたように鮮明さを失い、鈍く暗くなって行ったようである。
さながら催眠暗示が効果を現わしてきたようだった。心の働きが自由を失い始めていた。
まるで強い酒をあおり、にわかに強烈な酔いが発したようであった。なぜだかわからない。自分が自分でなくなる麻酔の鈍さをぼんやり意識しながら、彼女に手を引かれるままに歩いた。五本の指を深くからみあわせたそのあたりから、徐々に麻痺が生じ、五体にまわってくるように感じられた。
もはや沢川淳子の発する磁気に似た吸引力は抜きさしならぬほど、丈の心身を絞めつけていた。相変らず強い異和感が胸部の中央に居座り続けているのだが、どうにもならないのである。丈は盲者が手を引かれるように、彼女の意のまま導かれて行くよりほかになかった。
何度か門前まで訪ねたことのある彼女の家は、屋敷町にある大邸宅であった。門灯さえも並みの民家と異り、由緒ありげに目に映ずる。そういえば、沢川淳子はいかにも富裕な階層に生まれ育ったという娘そのものであった。
丈は、大金持であることを平然と誇示しているのがうとましく、一度も門をくぐったことがなかった。露骨な金権の圧力に押され気味な己れ自身に腹を立てていたのかもしれなかった。
コンクリート造りの大邸宅はしんと静まり返っており、彼女が鍵で開けた潜り戸のきしる音がぞくっとするほど大きく響いた。
沢川淳子は丈の手を放さず、導いて行った。無人の大きな邸を満たしている静寂は、なにかしら禍々しく、丈の体毛をぞくぞくと立ち上らせるものがあった。
大邸宅の内部は空気がこもり、つんと埃と黴の臭気が鼻孔を刺激した。ここしばらく人間が生活していないことは間違いなかった。
沢川淳子は一瞬も丈の手を放すことなく、大広間の横手から伸びる階段を二階へ昇って行った。
「こっちよ、丈」
ぐいぐいと彼女は丈を引っ張って行く。
二階の巨大なスタインウェイのグランド・ピアノが置かれたホールほどあるのが、彼女の部屋であった。まるで宮殿のようである。家具などの調度品の豪奢さは、丈が見たこともないほどだった。丈は富裕な階層がどのような生活を営んでいるか、まったく無知であった。
「こんなに広い邸だから、使用人たちも何人かいるんだろう?」
と、丈は尋ねた。
「いるわ。運転手を入れると四人......」
「その人たちはどうしたんだ? まさか家族の人たちといっしょに海外旅行へ出かけたわけでもないだろう?」
「もちろんよ。家族が旅行中、夏休みをとって家にはいないのよ。だから、あたしだけがお留守番......」
彼女は笑った。
「凄く静かだ......家がだだっ広いだけに気味が悪いくらいだ。君はよくこわくないね、一人で住んで......」
「平気よ、なんともないわ......」
沢川淳子は笑い続けながらいった。丈は神経質そうに身慄いして、彼女の手の中にある己れの手を取り戻そうとした。彼女は放すまいとしたが、丈の力の方が強かった。
なにかしら肌寒く、冷房でも入っているのかと思ったが、その気配はなかった。大きな部屋の窓という窓がきっちり閉めきられていて、ここも埃と黴の臭いがしていた。
丈は緊張し、居心地が悪かった。
「見せたいものがあるといってたけど、なんだい?」
と、彼はいった。
「ちょっと待ってて。その前に今着替えてくるわ」
そこで待っていてね、といって、彼女は丈を離れた。続き部屋のドアーを開けて振り返る。
「そこにいてね。どこへも行っちゃだめよ」
意味ありげな笑みを見せて、ドアーの向うへ姿を消した。なぜ、そんなにしつこく念を押すのか、わけがわからなかった。一人取り残されると、丈は落ち着かなくなった。なぜ彼女に強いられるままに、こんなところまでついてきてしまったのか。
頭がよく働かず、心に鈍い被膜がかかったようであった。今の自分が靄のかかった夢の世界をさまよっているような気がした。
ふと異和感を覚えて左手に目をやると、手の甲に指の痕がくっきりとついていた。沢川淳子が自分の右手の指をきっちりからみあわせた、その痕がさながら黒ずんだ痣のように手の甲に浮きだしているのだった。
なぜだかわからない。不安な異和感はますます高まる一途だった。埃と黴の臭いが丈を息苦しくさせた。
なぜ、彼女は家中を閉めきり、異臭をこもらせて平気でいるのだろうか。
その異臭が、丈の体にもしみついてきそうで不快だった。いや、確かに彼の体からも、いやな黴臭い臭いがただよい始めているようだった。
丈はふと指の痕が痣のように浮き出ている己れの左手を持ちあげ、鼻先へ寄せて、臭いを嗅いでみた。
間違いなく、黴臭い異臭が、皮膚にしみついていた。丈はぞくりと鳥肌が立った。なにか異様なことが起きつつあることを悟らざるを得なかった。
沢川淳子の激しい叫び声が丈の耳を撃ったのはその時である。
「丈! 早く来て、丈!」
たとえなにが丈の心に徴していたとしても、それを吹き飛ばすのに充分な、彼女の急迫した叫び声だった。
丈は反射的に動き、彼女が入っていったドアーを引き開け、内部へ踏み込んだ。
部屋の内部は暗く、息が詰まりそうな異臭が立ちこめていた。それが大きな寝台の置かれた寝室だということはおぼろげながらわかる。
背後のドアーが激しい音を立てて閉まる。風もないのにいきなり閉まったのだ。
「淳! どこだ? どこにいる?」
丈は跳びあがるほどのショックに堪えて、大声で叫んだ。
「返事をしろ! どこにいるんだ!?」
「丈!」
これほど衝撃的なものはなかった。丈は大きく目を見開いたまま、体を硬直させた。
寝室の暗がりの中に、隈なく白い皮膚をさらした沢川淳子が飛びだしてきたのだ。寝室とつながっているバスルームの灯が、彼女の全裸の肌の輪郭をくっきりと彩った。
「!」
避けようもなかった。彼女の体が跳び込んできて、丈の体は剝きだしの彼女の両腕にきつく緊縛された。
「丈、抱いて......」
と、沢川淳子はいった。熱した息が丈の首筋に強く当たった。丈は戦慄した。
若い充実した女体の感触はあまりに官能的であり、丈は全身鳥肌立った。だが、欲望のためばかりではない、それは異様な戦慄だった。
丈は首をねじ曲げ、沢川淳子の唇を避けた。なぜだかわからない。丈が彼女の唇を拒否したのは初めてのことだった。
吐息を吹きかけながら、彼女の口が丈の首筋を這い、両腕できつく抱きしめるにつれて、丈の胸に押しつけられた白い隆起が原型を失い、ひしゃげる。
だが、丈の両手はだらりと垂れさがったままだった。感覚は彼女が挑むにつれて反応し、熱してきたが、異様な不快感を伴った戦慄はいっかな減じず、むしろ高まって行く。
「丈! 早く......」
彼女は体を押しもむようにして、丈を寝台に向けて動かそうとした。
「さあ、早く! だれも知らないわ! だから早く!」
丈は動かなかった。彼女の挑発に応じさせないなにものかが彼の裡にあった。
裸形で強烈に挑んでくる沢川淳子には性的欲望とともに嫌悪感をそそりたてるものがあった。丈はその二つの感情の相克に引き裂かれ、動くことができなかった。
丈の躊躇ったまま体の両脇に垂れた手を、沢川淳子の熱い手が捉えに来た。芯から異様に火照ってくる熱気だった。ただごとではない熱さだった。
沢川淳子はじれている動作で、捉えた丈の手を導こうとした。柔軟な体毛が触れた。彼女の滑らかな体は微妙に慄え蠕動しながら、丈の全身を吞みこもうとするような感覚をもたらしていた。
その鮮血の熱さ、血糊のぬめりの感触は、丈をこの上ない興奮と酩酊に駆りたてるはずだった。全感覚が沸きたちつつ、ぬめりの深奥へ沈みこむ。
丈は再び強い異臭を嗅ぎ、嘔吐感に衝きあげられた。その異臭は名状しがたい有機物の腐敗臭と黴の臭気が入りまじったものであり、堪えがたい拒否反応となって現われ、丈に沢川淳子の体を思いきり突きのけさせた。
彼女の体は弾けるように飛んで、寝台に落ちた。それほど強力な力が働いたことに、丈は呆然とした。彼の〝超常的な力〟が発動してしまったのだ。
丈は両手で己れの口を抑え、衝きあげてくる吐気に堪えた。異臭の強烈さが堪えがたかった。全身に冷汗が流れた。
凄まじい異臭を放っているのは沢川淳子の白い肉体だった。
沢川淳子は寝台を降り、再び丈に向って近づいてきた。両手を前に突きだしてい、その不吉に曲げられた手指が摑みかかる鬼女の爪を想わせた。
「臭い! どうしてこんなに臭いんだ!?」
丈は大声を出し、彼女の接近を避けて後退りした。沢川淳子に近寄られたくなかった。
「淳! 君はどうかしてるぞ! 君は物凄い臭いをさせてるんだぞ!」
「丈! こっちへ来て!」
と、彼女がいった。丈の仕打ちに傷ついたようでもなく、怒った様子もなかった。
沢川淳子の顔はまったく無表情そのものだった。
丈は寝室のドアーを手探りし、開けようとした。錠はおりていないにもかかわらず、ドアーは微動もしなかった。把手を摑んで力いっぱいひねったがびくともしない。丈はかっと逆上し、肩を叩きつけた。ドアーはきしんだが、頑強さをもって丈の攻撃に耐える気配を示した。
異臭を吹きつけながら、彼女の両手が丈を捉える寸前、丈は気付き、〝力〟を放った。ドアーは蝶番であっさりはずれ、大音響とともに広間の床に倒れこんだ。
丈は、彼女に追われて寝室の外へ飛びだした。
「なぜ逃げるの、丈? ここへ来てあたしを抱いて......」
と、沢川淳子は何事もなかったように甘い特別の声音でいった。しかし、丈にとってもはやそれは、甘美な白い肉体を含めて一片の魅力をも持たないものだった。彼女は異常に狂ったところがあった。それが丈を総毛立たせ、嘔気の生唾で口腔をいっぱいにした。
彼女が広間の階段側を塞いでしまったので、丈は巨大なグランド・ピアノの後にまわりこんだ。
「もう沢山だ! 来るな!」
丈は自分の声が恐怖と嫌悪にうわずり、奇妙にしゃがれているのを知った。自分の声のようではなかった。
「やめてくれ! おれに近寄るな! 君は淳じゃない!」
なぜ丈はそんな言葉を口にしたのか。が、それがきっかけになったように、沢川淳子は巨大なグランド・ピアノを丈に向けて投げつけたのだ。
巨大な重いグランド・ピアノは激しい勢いで、丈に向いキャスターに載って床を滑って来た。もし丈が受け止めようとしても、その巨大な質量と慣性には抗すべくもなく、背後のコンクリート壁との間にはさまれ、圧し潰されていたであろう。
生命の危機を悟った瞬間、丈の〝力〟は解発された。無形無音の恐ろしい渦動エネルギーが、グランド・ピアノの質量を巻きこみ、弾き返した。
大型台風が荒れ狂う凄まじい音が立ち登った。グランド・ピアノはビスケット製のように木っ端微塵に裂け、木部をまき散らし、ピアノ線を弾けさせながら、沢川淳子に向って唸り飛んだ。
一瞬にして広間は超高級グランド・ピアノの無惨な残骸で覆われてしまった。

凶暴な風の轟音が続く間、目を半眼にして突っ立っていた丈は、グランド・ピアノの壊滅とともに沢川淳子が姿を消しているのを知り、膝が砕けてその場に座り込みそうになった。全身を冷汗が流れ落ちていた。
広間のあまりの惨状に体の力が全て脱けて行くのを感じた。あまりの衝撃のため、心身ともに麻痺してしまっていた。
沢川淳子がなにかしら異様な見知らぬものに変化し、自分を襲ったことだけはわかっている。それに自分の〝力〟──念動力が爆発の凄まじさで反撃したこともわかる。
だが、実際になにが起きたのか、理解できずにいた。
それを確かめるべく丈は、膝の関節がゆるんでがくがくする足を励ました。形状を全くとどめず破壊し尽され、破砕されたグランド・ピアノの残骸の下に、全裸の沢川淳子が埋まっていた。
弾け飛んだピアノ線が、彼女の白い皮膚をズタズタに破っていた。鋭利な刃で切り裂かれたようであった。
だが──丈の血は血管の中で凝固してしまったみたいだった。これだけむごたらしく傷つけられていながら、彼女は一滴の血も流し出していないのだ。
まるで縫いぐるみの人形が壊れたように、白い皮膚があちこち破けて、へらっと口を開いている。
しかも、その破れ目、開孔部には、断ち割られた脂肪層も筋肉ものぞいていない。
沢川淳子の白い肉体は縫いぐるみ同然、なにか得体の知れないものが内部に詰まっているのだ。
あの恐ろしい異臭が、彼女の奇怪な縫いぐるみ人形から立ち登ってきて、丈はまたもや嘔吐感に捕えられた。
今まで彼が体を触れあっていたのは、沢川淳子の白い皮膚一枚をかぶった、わけのわからないものだったのである。
気が狂いそうなおぞましさ、不快さだった。体中をムカデが這いまわっている感覚が、丈を襲い、酸っぱい胃液が喉にこみあげてきた。堪えきれず、床に胃液を吐く。
丈は火のついた恐慌の虜になった。なにがなんでも、この場を逃げだしたい。一秒でも余計に留まれば、確実に発狂する。
そう思った瞬間、激しい音をたてて窓のブラインドが巻きあがり、大きな窓がさっと左右に開いた。丈の〝力〟が働いたのだ。彼は間髪を入れず、開いた窓に向って体を躍らせた。......
4
「後はよく憶えていないんだ......」
と、丈は息切れしたような声でしめくくった。
「気がついたら、姉さんに体を揺すぶられていた。どこをどうやって帰ったのか、なにもわからない。気が動転して......自分の正気が失くなって行くのがはっきりわかるようだった......」
丈は体を伸びあがらせるようにして、姉の三千子の両手にしがみついた。眼が恐怖に輝き、再び呼吸が荒くなった。
「姉さん! あれはなんだったんだろう!? 本当に沢川淳子だったんだろうか? 彼女の内部に入ってたものはいったいなんだったんだろう? それを考えると、おれ、気が違いそうになるんだよ!」
「丈、今思ったけれども、わたしたち、それを確かめてみなきゃいけないわ」
三千子は痛いほど丈の両肩を握りしめながらいった。姉の細い体のどこにこんな力があるのだろうと疑われるほどの強い力だった。
「何が起こったのか突きとめるのよ。そうしなきゃ、丈は頭がおかしくなってしまうわ。今からすぐにでも、それを確かめに行かなくちゃ!」
「え......またあの場へ戻れっていうのかい?」
丈は恐怖と疑惑の目で姉を見返した。
「そうよ、丈。たった今行くの」
「いやだ! おれはいやだ!」
丈は激しく頭を振った。
「あんな所へもう一度行くくらいなら、死んだほうがましだ!」
「行かなきゃならないのよ、丈。このことから逃げだすわけにはいかないわ! どうしても確かめなければ!」
「いやだ! もう一度見たら、おれは絶対気が狂う!」
丈は狂ったような激しさで拒否した。自分の肩を握っている姉の手を振り払おうとさえした。
「丈! お姉さんのいうことを聞きなさい。もし、あなたが今この問題から逃げたら、一生の間、なにか困難が生じるたびに逃げだすことになるわ。自分の手に余ると思ったとたんに逃げ腰になる臆病で無責任な人間になってしまうのよ。それこそ王女ルナがいう野ネズミに......あなたはそれでもいいの、丈!?」
「............」
姉の激しい声に、丈は黙りこんだ。
「責任回避はやめなさい。どんな難題にも立ち向う勇気がなければ、あなたは自分をどうやって鍛えることができるの? 王女が困難に立ち向っている時、あなたはノイローゼみたいに頭を抱えこんで部屋にとじこもり、泣き喚いている。それなのに、あなたはどうやって自分を野ネズミではないと証明できるの?」
丈は茫然として姉を見返していた。いつもの姉のようではなかった。こんなに激しい気迫の姉を見るのは初めてだった。いつも物静かでやさしい彼女のどこにこんな熾烈さが蔵されていたのだろう。
三千子はいきなり丈の体を突き放して立ち上った。
「いいわ、お姉さんが行ってくる。一人で行って、何が起こったのか、確かめてくる......あなたはそこにいるといいわ!」
平手打ちをくれるような語気だった。丈は姉がこれまでになく怒っているのを感じた。身の置きどころがなくなる激しさだった。
丈は生まれて初めて姉がこわくなった。彼女は本気で自分に対して腹を立てているのだ。
「姉さん、待ってくれ......」
階段を降りようとする姉の足が停まった。
「ごめん......おれ、行ってくる......」
丈は、頭を振りながら言葉を押し出した。
「姉さんが確かめに行くなんて、やっぱりおかしいよな......これはおれの問題なんだから、おれが自分で解決しなきゃならない......こんな簡単なことが姉さんにいわれるまでわからないなんて、おれはどうかしてる」
「丈、一緒に行きましょう。姉さんも行って確かめたいの」
三千子の声が活気を帯びた。丈が恐怖を克服したことがわかったのだ。少なくとも逃避をやめ、立ち向う気力を見せたからである。
「姉さん、なにも玄関から出ることはないよ」
と、丈がいい、三千子の足を引き止めた。
「え......どうして?」
「忘れたのかい、姉さん。おれが空を飛べるってことを......」
丈は自信を回復しつつあった。己れの〝力〟を意識すると自信が湧いてくるのだった。
「そうか、姉さんはまだ見たことないんだったな。話を聞いただけで......じゃ、おれの〝力〟を見せるよ」
丈は大きく開かれた部屋の窓に寄り、三千子を振り返った。そして窓の外に消えた。
三千子はあっと叫び、部屋を横切って窓に駆け寄った。なんの物音も立てず、丈の体は消えていた。先夜、卓との争いの夜、窓から飛び出して行方をくらましたのとまったく同じだった。
「姉さん、こっちだ!」
丈の声は上空から聞こえた。窓から身を乗りだし空を仰いだ三千子の体が、勢いのあまりバランスを崩した。
体がぐらっと傾き、転落を予感したが、三千子の体は重力に逆らい、落下するかわりに空中を漂い、急速に上昇して行った。
悲鳴をあげたかもしれないが、耳元を唸る風切り音にかき消されたようだった。
人家の屋根があっという間に沈み、夜闇の底に消えて行く。灯火が点々と散らばり、それが瞬く間に光のパターンになった。深夜の大都会が不夜城となって、きらめく宝石の散乱と化す。
夜の大気が爽やかであった。三千子は今、自分が信じがたい高速で飛行しているのを知った。翼も持たないのにぐんぐんと夜空へ舞い上って行くのだ。
爽快感とともに恐怖も目覚めた。支点を持たない者の当然の恐怖であった。
不意に手首を摑まれた。
「丈!」
「ごめん。いきなり姉さんを飛ばしちゃって......やっぱり手をつないでた方が安心だろう?」
丈は笑っていた。わだかまりを切り捨てたように軽快になっていた。
「丈! これがあなたの〝力〟なのね!」
と、三千子は風切り音に負けまいと、大声で叫んだ。
「そうだ、姉さん、悪くないだろ」
「あなたは今みたいに、二階の窓から出入りしていたのね!」
「そうなんだ、ただし、夜だけ......だって昼間から飛びまわるわけにはいかないだろ」
「それだけはやめて! ご近所の評判になってしまうから」
「気違い扱いされるだろうな、あそこの家の息子は鳥でもないのに空を飛びまわるって」
丈が笑う。
「でも、姉さん。人間が空を飛ぶって、不思議でもなんでもない、ごく当り前のような気がするだろう......」
「本当ね! わたしも夢ではよく空を飛ぶから、よくわかるわ」
「フロイトの夢判断なんて大噓さ! きっと人間は、元々空を飛べるんだ。だけど、その〝力〟をみんな失くしてしまったんだ。でも夢の中では潜在意識が憶えていて、だれでも空を飛んでいる」
その言葉には真実味があった。
「このまま飛んで、どこへでも行けるんだぜ、姉さん! アメリカでもヨーロッパでも、どこへでも! もし、姉さんが望むなら、宇宙へ行くことだってできる!」
東京が壮麗な光の島となって、闇の底へと沈んで行く。地球の円弧がはっきりとわかってくる。凄いばかりの光輝を放つ星空を背景に、地球の巨大な曲線が姿を現わしてくる。
「姉さん、どこへ行きたいか!? どこでも、おれが連れてってやるよ!」
「だめよ、丈! 空を飛ぶのはとても楽しいけど、わたしたちこんなことをして遊びまわっているわけにはいかないわ。他にやるべきことがあったでしょう」
「現実的なことをいいっこなし......」
だが、丈は姉の言葉を聞き入れた。
「こんなに遠くまで来てしまって、帰り道はわかるの......」
「大丈夫だ。レーダーみたいな超常感覚があるから。自分の囲りになにがあるか、目に頼らなくてもわかる」
「素晴らしい力ね。だれでも、こんな力を持ったら、自分の欲望を満たすために使いたいと思うでしょうね......」
「そうだ......おれも初めそう思った。王女たちと逢うまで......」
「王女たちは、あなたの〝力〟を必要としているでしょうね」
「戻ろう、姉さん!」
超高速の降下が始まった。だが、航空機に乗っている時のGの変化は全く感じられない。どのような急加速、急停止も、夢幻のように滑らかに行なわれる。
「姉さんは、いつもおれの忘れていたことを思い起こさせてくれる」
と、丈はいった。いかに超高速で飛行しても、風切り音は一定のレベルを超えない。念動力(PK)による飛行が、他のいかなる飛行形態とも根本的に異るのは、慣性の法則から自由であることだ。Gの変化もなく外力も干渉しないため、肉体的には安静状態と変らない。大量の空気を同時に移動させるので、風の抵抗を感じないのであろう。飛行中、周囲を観察すると、自分が光る巨大な繭に包みこまれたように周囲が発光しているのがわかる。地上から観測した場合、それがどう目に映るのか。
「もしかしたら、丈以外にも、空を飛べる〝力〟を秘かに持っている人たちがいて、こっそりと飛びまわってるのかもしれないわね」
と、三千子はいった。
「UFO......未確認飛行物体というのがあるでしょう? どんな原理で飛行するのか全くわからない......もしかすると、今のあたしたちは地上から見ると、UFOなのかもしれない......」
「姉さんの考えることは発想が凄い......確かに超能力者は世界中にどれだけいるかわからない。おれのような〝力〟を持っている人間も他にいるかもしれないものな......なんで姉さんはそんなことをあっさり思いつくんだろう?」
「きっと、この夜のことは死ぬまで忘れないと思うわ」
と、三千子は静かにいった。
「二人で夜の空を飛んだことは、とても素晴らしい記憶になるでしょう......二人で夜の地球を眺めたこと、あなたのこの偉大な〝力〟が、自分のためのものではないこと、自分の使命はこの壮麗な地球の運命と決して無縁ではないこと......丈はきっとこの後も思い出すことになるわ。そして、お姉さんがいったことを一言一言思いだす......そのためにも、わたしのいうことを耳の奥にはっきりと刻みつけておいてちょうだい。
丈、あなたは王女ルナに協力なさい。王女がどんなに高慢で冷たくよそよそしく、意地悪で、あなたを見下しているように思えても、決して自ら分裂行動をとらないようにしなさい。自分を殺してでも、王女に尽しなさい。あなたには、まだまだ人の心はわからないから......とくにあなたは広い大きな心を持った人を誤解するでしょう。それは、あなたが自分の小さな狭い心で他人を判断しようとするからなの。
王女ルナは優れた人です。彼女が若い女性であることで、王女を過小評価しないようにしなさい。丈、あなたの〝力〟は、彼女を生かすために用いられなければ、無力になり、意味を失うでしょう。丈がお姉さんを愛しているように、王女も愛しなさい。これまでお姉さんが丈のために長い間、力の限り努めてきたように、王女のために努力しなさい。それがあなたの果すべきことです。
これからさまざまなことが起きていくでしょう。だれも想像しなかったことがめまぐるしいスピードで起き、あなたの人生は全く変ったものになるでしょう。考えられない巨大な恐ろしい嵐が襲いかかって、何もかも消し飛ばしてしまい、丈も、もうだめだ、これ以上立っていられないと思うでしょう。その時に、今お姉さんのいった言葉を思いだして......あなたを支えるのは愛だけだということを。他にはなにもない、本当に何もないのよ! それを決して忘れないでちょうだい......」
耳に残る姉の声音であった。その言葉通り、丈はいつまでも忘れることがなかった。この先に続く未来を、あるいは三千子は視ていたのかもしれない。丈に遺そうとした言葉にはそれだけの重みと深みがあったのである。
「お姉さんも決して忘れないわ、この夜のことを......心に深く刻みつけておくわ」
「姉さん、いつだって空は飛べるんだぜ」
と、丈は胸を締めつけられる思いを味わいながらいった。
「いつでも好きな時に、姉さんを空の高みに連れて行ってあげるよ」
「いいえ......こんなことはもう二度とはないわ......」
三千子は呟いた。
「心にこの上なく鋭く鮮やかに深く刻みこんで、素晴らしい想い出にしておくためには、何度もくり返してはいけないのよ。丈にも、いつかそれがわかる時がくるでしょう」
眼下には再び大都会の夜景が展開されていた。不眠不休の活気が光の波動となって上空に放射されている。無尽蔵の宝物殿から運びだされた宝玉をぶちまけたように多彩な美しい光が散っている。夜間飛行者以外には決して味わうことのできない壮麗な大都会だけの美である。
無数の動く光点は自動車のライトだ。東京タワーを初め、高層建築物が夜間の標識灯を点滅させて夜間飛行のパイロットの注意をうながしている。
丈は姉の言葉通り、その壮大な夜景の美が、一点の光もない暗黒の荒野に還ってしまったあとも、鮮やかな記憶として再現することができた。そして白い頰を興奮に上気させ、汗ばんだ熱い手で丈の手首をしっかりと握りしめていた三千子のことも。だが、それはとほうもなく巨大な鏡が木っ端微塵に砕け散ったように、全ての現実が雪崩を打って瓦壊した後のことであった......
5
屋敷町にある沢川淳子の家は、静寂の中で何事もなかったように、大邸宅の輪郭を夜空に浮き立たせていた。
その一画は人気もなく、騒ぎの痕跡すらなく静けさに覆われていた。犬の吠え声も聞かれなかった。
二階の大きな広い窓の一つが開け放たれ、カーテンのレースの白が、わずかな夜風を捕えてゆっくり揺れていた。
丈が数時間前、脱出した時と全く変らない光景であった。
夜の妖精たちのように、丈と三千子の姉弟は開け放たれた大きな窓から、邸の内部に音もなく入りこんだ。
室内に入った瞬間、三千子は惨状を見るより早く、うっと呻いて両掌で鼻と口を覆った。
「ひどい臭い......いったいどうしてこんな臭いが......」
「いった通りだろう、姉さん。家中にこの堪らない臭気がこもっているんだ。彼女もこの臭いをさせてた......」
丈は嫌悪に渋面を作りながらいった。
「しかも、だんだんひどくなってきた。彼女が壊れたピアノの下敷になった時、匂い袋がパンクしたみたいになった......」
「彼女はどこなの?」
「あのピアノの下......」
だだっ広い五十畳ほどもある広間の、一面を占めた壁の下に、グランド・ピアノの残骸はうず高く散乱していた。
響板、木骨、蓋、脚、いずれも見分けがつかぬほど打ち砕かれて、乱雑に積み重なっていた。
丈の放出した〝力〟には驚くべきものがあった。それは爆発であって、人間の生身の力とはなんの関りもない。剛力の大男がハンマーを振るったとしても、ここまで徹底的に破壊することはできまい。鉄骨までがアメのようにちぎられているのだ。
「ひどい......スタインウェイが滅茶めちゃになってしまって......」
三千子が思わず嘆息を漏らした。
「仕方がなかったんだ。とっさのことだと、〝力〟を制御できない......」
と、丈が抗弁する。あまりの惨状に気がとがめるのも当然であった。
「馬鹿ね、あたしって。そんなことより、確かめなきゃならないことがあるのに......」
三千子がわれに返ったようにいった。
「彼女はそこにいるの?」
「いない! 確かにこの下敷になってたんだが......」
丈の声がうわずった。
「そこに間違いないの?」
「絶対に間違いない! いなくなってしまった......」
丈は呆然とした。三千子が寄ってきて、彼の腕につかまり、破片の下を覗きこんだ。
「でも、どこへ行ったの!?」
姉弟は慄然とした顔を見合わせた。
「本当に血は一滴も流れていないわ......丈のいうように、もし人間だったら、そんなことはありえない......」
「彼女は生き返って、ここから出て行ったんだ! 生きてるはずは絶対にないのに!」
丈の顔は真青になった。
「丈、見て! あれはなに!? あのゴムの布みたいなもの!」
三千子が声をあげた。丈は姉に指示されるままに、細長い木の破片で、その得体の知れぬ、ぐにゃりとしたゴム布のようなものをピアノの残骸の下から拾い上げた。
三千子がきゃっと叫んだ。それには毛髪が黒々とついていた。
「丈のいったことは本当だったのね......」
三千子は慄えをおびた声音で、何度も息を継ぎ、固唾を飲みながらいった。
「これは丈のいった縫いぐるみの皮の一部だわ。彼女は破れた皮を残して、ここから立ち去ったのよ」
「姉さん! これは本物の人間の皮膚じゃないか!」
と、丈が呻くように叫んだ。脂身のように白く硬ばった顔を、激しく汗が伝い流れていた。
「もしかしたら、沢川淳子は......本人が縫いぐるみにされていたんだ。なにか得体の知れないものが、彼女の皮膚の中身をそっくり食い荒し、皮だけを一枚かぶって、沢川淳子になりすましていた......おれはその彼女の皮をかぶった化物を、淳だと思いこんでいたんだ......」
「でも、そんなことが可能なの!?」
「人間にはもちろん不可能さ! だけど、人間以外のものだったら......」
丈の呼吸はひゅうひゅうと鳴っていた。
「この厭な臭い......この黴臭い臭気は、そいつの立てている臭いだったんだ! 沢川淳子の中身を食っちまった化物の臭いだったんだ!」
「丈! やめて!」
三千子は慄然として丈の腕にしがみついた。
「そいつは、彼女を食い荒しちまった! 人間の皮をかぶった化物......」
丈はおぞましい毛髪のついた皮膚の切れはしを力いっぱい投げ捨てた。
「もしかしたら、丈......彼らはもう地球へ来ているんじゃないかしら?」
三千子の発した言葉は、丈のみならず、彼女自身をも氷結させる力があった。
「彼らって......」
「あなたのいった〝幻魔〟......こんな悪鬼のような恐ろしい真似が、他のだれにできるというの?」
丈は灰のように蒼ざめていた。
「姉さんもそう思うかい?」
「他のどんな生物に、こんな恐ろしいことができるかしら......」
「ひどいことをしやがって......」
丈は歯をくいしばった。憤りが胸中を灼き焦し、荒れ狂っていた。だが、それにも増して恐怖は大きかった。あまりにも理解を絶したもの、それは憎むべき対象からはずれている。憎悪をぶつけるには、無気味すぎ、定かならざる闇の深淵の存在であった。明確な形状を持たぬ者を人間は恐れることはできても、憎むことは困難なものである。
「丈、家の中を調べてみなければ......彼女の家族がどうなったのか、確かめなきゃならないわ」
と、三千子が丈の腕を揺すりながらいった。
「彼女がいったように一家そろって海外旅行なんて怪しい。きっと何かが起こったのよ」
「けど、それは......なにも今調べなくても警察に知らせて......」
「なにをいっているの!? 相手は人間以外のものじゃないの! 常識的なことをいってる場合じゃないはずよ」
三千子のいう通りだった。
「まだこの邸の内部に、それがいるかもしれないわ」
それはぞっとさせる考えだった。丈はまた逃避の衝動に摑まれ、体が冷たく重くなってきた。
「さあ、丈。そのあたりから一応調べてみましょう」
「姉さんは勇敢だ。なんで姉さんにはそんな勇気があるんだろう」
と、丈は呻くようにいった。
「そうしなきゃと思うからよ。だって、それは丈を狙ってきたんでしょう? そのために沢川さんたちが犠牲になったのだとすれば、本当に申しわけないわ。そうでしょう?」
「おれに、姉さんの半分の勇気でもあったらな......」
「弱気なことをいわないで! それはあなたを狙って何度でもやってくるわ、たぶん。どっちみち引き退るわけにはいかないのよ。どうせ避けられない対決なら、逃げまわっちゃいけないわ」
三千子はぴしゃりといった。
「絶対に逃げてはいけないの。あなたは自分の強大な〝力〟を信じなさい。〝幻魔〟に負けないだけの〝力〟を丈は授けられているのだから!」
「姉さんにそういわれたら、行くしかないよ」
と、丈は覚悟を決めていった。
「けど、危険だから、姉さんは来ないほうがいい」
「あたしも行く。危険な場所に丈だけを行かせるわけにはいかないもの」
三千子は不思議な力強さを見せていった。かぼそい姉の体が、電流でも通じているような迫力をはらんでいるのを、丈は眩しいような気分で見守った。こんなに小柄でほっそりした三千子が、丈の知る限りいざとなればいつも、もっとも信頼のおける強い存在でありうるのは驚異的であった。
もっとも、まだ少年の域を脱しない丈にとっては、三千子のその強さが、女の強さであるのか、あるいは女であることを超えた強さなのか判断することは難しかった。単にただ気丈であるということを意味するだけではない毅よさが三千子には潜んでいるようであった。
邸は広いだけに、無気味な立たずまいを持っていた。
おそらく二ダース近い部屋を蔵しているのであろう。邸の敷地も二千坪はたっぷりありそうだった。
それらの全てを隅々まで家捜しするのは、容易なことではなかった。広大な邸のどこにでも、それは潜むことができる。その気になれば丈たちと鬼ごっこをすることだってやってのけられるだろう。
邸の二階は、沢川淳子の部屋だけではなく、彼女の弟妹の部屋も蔵していた。淳子のピアノ練習室ほどではないが、それぞれが相当なスペースを持っていた。いずれも続き部屋で立派なトイレット・ルームが各々に附属している。中産階級に生まれ育った姉弟には考えられない富裕さ贅沢さだった。
淳子の弟妹たちも、彼女のスタインウェイのコンサート・グランド・ピアノには及びもつかないが、各自アップライト・ピアノを所持していた。信じられないほど奢侈をきわめているとしかいいようがない。
だが、いずれの部屋も、人の体温をとどめることなく、空虚になっていた。どこもあの異様な黴臭さは部屋の空気の中に漂ってはいたが、淳子の部屋の物凄い濃密さはなかった。
一部屋を調べるごとに丈はぐっしょりと汗をかいた。緊張は堪えがたいまでに高まってきた。邸の全部を調べ終るまで、神経がもちそうもなかった。
淳子の皮をかぶった化物が、そのあたりに潜んでいるかもしれないのだ。たとえ本物の虎がかくれひそんでいるとしても、これほど神経が灼け焦げそうな緊張感は味わわずにすんだに違いない。姉がいなければ、すぐにでも逃げだしたかった。
二階を調べ終って、幅の広い階段を階下に降りて行く。胸が苦しく圧迫されるようで、めまいがしてきた。姉は蒼白い顔こそしていたが挙措動作は落ち着いていた。丈のように足が宙に浮く頼りなさはない。
丈はその辺に座りこみ、横に体を倒したい誘惑に必死で耐えた。疲労と緊張が頂点に達しつつあるのだった。この数日間、ほとんど睡眠をとっていないし、激越な精神的ショックを受けて、いくらも経っていなかった。
体中から血の気が失せて、痺れるような悪寒がぞくぞくと湧きだしてきた。
クリスタル・ガラスの重量数百キロもありそうな凄いシャンデリヤのさがった大広間に降りる。だがスポットライトしかついていず、闇があちこちに巣を作っている。丈は体をぐらつかせて幅広の手すりにしがみついた。
「元気を出して、丈!」
と、三千子が緊張のため銀線が慄えるような声音で励ました。
「あなたには素晴らしい〝力〟があるじゃないの。弱音をあげないで!」
先手を打たれた感じだった。いつも丈のことを過敏なほど気遣う三千子が、弛緩を許さないきびしさで鞭打っていた。
姉は生まれながらのリーダーだ、と丈はぼんやり考えた。非常事態になると、平常時では考えられない精神力と卓越した能力を発揮するのだ。姉がもし超能力者だったら、どんなに凄い〝力〟を発揮するだろうか......
「とても臭うわ」
と、三千子がいった。彼女は丈よりもはるかに優れた知覚の持主だった。
「どこから捜す?」
「臭いの強い方から捜して行きましょう。広いから大変だけど......」
大広間には、一階の居住部分、厨房、地下の酒蔵へと結ぶ通路があった。後の二つは簡単だが、居住部分は使用人部屋を含めてだだっ広い。
「もう四時近い。急がないと明るくなってくるぞ」
と、丈がいった。邸を満たしている静寂は不吉で禍々しく堪えがたいほどだった。悪鬼の館だ、と彼は思った。人間の皮をかぶった得体の知れぬ化物がうろつきまわっている館だ。これは幽霊屋敷などといった怪談とは別次元の、本物の異様な危険が充満した世界なのだ。姉の手が痛いほど力をこめて丈の手首を握りしめていた。その肉体的な結びつきが、異様な危険に対抗する足場だった。幼いころから、どんな時も、姉の三千子に手を握っていてもらえば安心感が湧いたことを丈は思いだした。昔だけではない、今も同じなのだ。
──丈、恐くないでしょ......お姉さんがそばにいてあげますからね......
三千子のそんな遠い日の声までが鮮やかに甦ってきた。実の母親ではだめなのだった。姉の励ましでなければならなかった。
丈は身近に呼吸している三千子の体温を感じ、彼女を捉えている恐怖と緊張、それを克服しようとする雄々しい努力をわがことのように感じとった。
──どんな時も、お姉さんといっしょにいれば安心だ......
濃密な恐怖を圧して、かすかな笑みが丈の唇に刻みつけられた。幼い頃の確信が、当時とそっくり同じ生々しさで甦ってきたからだった。
二人は全ての照明を遠慮なく点灯して行った。老人向きの和室もあれば思いきり豪華な洋室もある。全てが乱雑というわけではなかったが、整然と取りかたづけられていもせず、生々しい生活臭を漂わせていた。
押入れも収納庫もかたっぱしから開けて調べる。
「丈、やっぱり彼女があなたにいったことは噓だと思うわ」
と、三千子が息を殺していった。
「居間のテーブル、見たでしょ? お茶器が出しっ放しになって、お急須の中身が黴だらけよ。お茶請けもいたんでる......ずいぶん長い間出しっ放しになっていたのよ。長期の旅行に出るというのに、こんなだらしないことをしていくかしら?」
「じゃあ、淳の家族は、海外旅行なんて行かなかった......?」
「はっきりとはいえないけど。沢川さんに化けた〝それ〟がいうことなんか信用できるはずがない......丈をこの邸に連れこんで、どうにかするための罠だったと思うの」
「そうすると、家族の人たちはどうなったんだろう?」
丈はぞっと鳥肌立った。自分の質問の意味するものが彼に悪寒をもたらしたのだった。
「それを今から捜すのよ。何かしら必ず手がかりが残っているはずだわ」
三千子は根気よかったし、丈のように早く切りあげて邸を立ち去りたいと思ってはいないようだった。姉の意志の強さに彼は畏怖を覚えた。
「丈、見て!」
三千子の叫び声に、丈は跳びあがった。
「見つけたわ、スーツケースを! ほら、見てごらんなさい!」
三千子が押入れから見つけだしたのは、大型のキャリアー付のスーツケースだった。一箇ではない、数箇だった。のみならず大小のバッグが押入れいっぱいに詰めこまれている。
「これがどうしたんだい? バッグが蔵ってあるだけじゃないか?」
不審げにいう丈の体を、三千子はもどかしげに揺すった。
「開けてみて、丈! 鍵がかかっていたら、壊してもいいから、開けてみてちょうだい!」
「だけど、姉さん、そんなことをしたら......いや、そんなことをいってる場合じゃなかったっけ」
丈は押入れからサムソナイトのスーツケースの一箇を引きずりだした。錠はかかっていない。旅行仕度がぎっしりと詰まっていた。
「思った通りだわ。全部開けてみて!」
丈はいわれるままに、スーツケース、バッグをかたっぱしから開けた。一つ残らずきちんと旅行仕度が詰められており、例外はなかった。
「見せて、丈!」
三千子がバッグの一つを丈の手から取り、床にぶちまけた。姉の仕業とは思えぬ荒っぽさで、きっちり詰められた中身を床に次々にぶちまけて行く。
「丈! これを見て! 一家中のパスポートよ!」
丈は彼女が次々に開く旅券に目を奪われた。一家五人のパスポートが全部出てきたのだ。
「だれも旅行になんか出かけていないのよ、丈! 旅行計画はあった。でも、だれ一人出発しなかったのよ。じゃあ、家族の人々はどこへ行ったの!?」
丈は、姉のこんな顔を見たことがなかった。恐怖と疑惑が見慣れぬ表情を形造っていた。
「姉さんがいいたいのは、結局......」
「沢川さんの家族の人たちを捜さなきゃ。あたしはみんなが、まだこの家の中のどこかにいると思う!」
丈は顔までがそそけだった。三千子があまりにも確信をこめて断言したからだ。
後の捜索は手早かったが、徹底的であった。三千子は弟に〝力〟を発揮させ、畳をはがし、天井板まではずさせたからだ。丈にとっては造作もなかったが、立ちこめる埃だけが苦の種だった。噴きあげてくる汗に埃が縞を作った。
三千子は物音を立てることをいささかも気にしなかった。怪しいと思う場所は徹底的に羽目板まではずさせた。もし丈の〝力〟がなければ一ダースもの工事人夫が必要になったであろう。
だが、そこまで徹底しても、それ以上はなにも出てこなかった。丈は、近隣の者が不審を覚えて、警察を呼ぶのではないかと思ったほどだった。
居住部分を捜し終えて、二人は大広間に戻った。なにしろ大邸宅だから捜し甲斐というものがある。最近の犬小屋をましにしたような貧弱な建売住宅とはわけが違う。
三千子は丈を従えて厨房へ入って行った。大料理店の厨房で使っていそうな、恐ろしく背の高い、幅広の米国製電気冷蔵庫が目を惹きつけた。牛を一頭、まるごと収容できそうなサイズであった。
が、観音開きに開いた分厚いドアーの内部は、予想を裏切った。変哲もない生鮮食料が幾段にもわたり、詰めこまれているだけだった。
三千子が、ほっと溜息をつく。
「しかし、一家中の人間を押しこめるには、これでも小さすぎるよね」
と、丈がうっかりいった。
「しかし、冷蔵庫でもなければ、物凄い臭いがするんじゃないかと思うんだ。なにしろ、この猛暑だから......近所の人たちが気付いて騒ぎだすんじゃないかなあ」
姉は紙みたいに白く引き緊まった顔で、返事をしなかった。
「姉さん、やっぱりここにはだれもいないんじゃないかな? 少なくとも邸の内部には隠されてないと思うんだ」
丈は、姉の表情のきびしさに気押されながらいった。
「まだ捜してない場所が沢山あるわ。地下室もそうだし、裏には倉庫もある......それに、これをあまり常識的に考えないことね。沢川淳子さんが残したのは皮膚だけだったのよ」
と、三千子は神経の張り詰めた声でいった。
「もしかすると、あたしたち、見当違いをして捜していたのかもしれない......」
「............」
丈は無言で姉の白蠟みたいに白くなった顔を見ていた。彼女の心を何がよぎったのか、わがことのように知ることができたのだった。
「もう沢川家の人々はどこにもいないのかもしれないわ。この世のどこにも......」
「帰ろう、姉さん!」
と、丈はたまりかねていった。
「ここにいてもむだだ。もう帰ったほうがいい」
「でも、もう少しだけ......丈、お願い、つきあってちょうだい」
姉は無類の辛抱強さを見せてねばった。
「倉庫と地下室だけ......それでもうあきらめるわ」
「手っ取り早くやろう。もう夜が明けてきちゃうから」
しかし、倉庫にはなにもなかった。埃っぽい臭気がこもっているだけだった。山積みにされたガラクタは分厚く埃をかぶってい、最近動かされた痕跡はなかった。
あとは地下室が残った。
「前に淳に聞いた話だと、地下には酒蔵があるということだった」
と、丈はいった。沢川淳子の父親はワイン狂で、何千本もの銘酒をストックしてあるという話だった。
「これで何もなかったら、本当に家に帰るって約束だよ、姉さん」
「ええ......」
三千子は釈然としない面持だった。
地下室への階段口の扉には錠がおりていた。鉄の金具を打ちつけた頑丈な樫の扉だった。よほど貴重な酒蔵なのであろう。
丈は思念を鋼鉄の錠に集中した。錠の機構が目に見えぬ手で操作されたようにガチリと動き、弾ける勢いで樫の扉が開いた。静寂を粉々に打ち砕く大音響だった。
同時に雪崩れでたのは、恐ろしい濃密さのあの異臭だった。三千子が息が詰まりそうに短く喘ぐ。
ここだ!
誤りようのない確信が二人の心を占めた。
「姉さんはここにいて。おれが一人で下を調べてくる」
丈は姉の手を振り切って、地下室へ走った。
「丈、あたしも行く!」
「だめだ。来ちゃいけない!」
丈はどなり、一呼吸して地下室への階段をくだり始めた。照明はうす暗く、空気は湿っぽく、ひどい異臭に満たされている。
地下室は二十畳ほどの広さで、四方の壁は横にした酒瓶をおさめる棚が並び、数千本のワインのコレクションが壮観であった。
「丈! あの床はなに?」
と、制止を聞かずに丈の後から階段を降りてきた三千子が、丈の肩にぎゅっと指先をくいこませていった。
「どうして地下室の床に、いっぱい枯葉が敷きつめてあるの?」
「姉さん、危い! さがれ!」
丈が叫ぶと同時に、地下室の床を埋め尽していた泥色の枯葉がどっと湧きたち、渦巻いた。
「蛾だ!」
悲鳴をあげる姉を抱えるようにして、丈は地下室の階段を駆け登った。名状しがたい危険の感覚が丈を機敏にしていた。
大広間に飛び出した二人を追って、地下から泥の噴水が噴きあがるように、おびただしい枯葉色の蛾の大群が凄まじい勢いで沸きだしてきた。
何百とも何千とも数えられぬ蛾群はわっと渦巻き、だだっ広い大広間の天井と床の間を埋め尽しにかかった。地下室からはとめどもなく蛾の大群が噴出してくる。
大広間の照明をさえぎり、暗くする密度と異様な翅音、キラキラ光りながら放出される鱗粉が火山灰さながらに舞い、空中を圧した。

病的なほど蛾を嫌う三千子は悲鳴を絞りだしながら丈にしがみついてくる。あっという間に、大広間は密集する蛾の大群に満たされ、払いのけても払いきれない狂喜乱舞の場と化した。
無数の蛾が羽搏きつつ放出する鱗粉は、スモッグのように舞い降りて、二人の目、鼻、口を犯しにかかった。もはや鱗粉を吸いこまずに呼吸することは不可能だった。
「丈、鱗粉を吸わないで!」
三千子がむせびながら叫んだ。
「早く外へ......逃げて!」
だが、警告より早く、丈はどっぷりと鱗粉を気管に吸いこんでしまっていた。たちまち頭がくらくら痺れ、肺と心臓がぎゅっと圧搾されるように苦しくなってきた。
「丈、しっかりして!」
姉の悲鳴に似た声が熱鉄のように耳を灼いた。空気だ。鱗粉に汚されない空気が要る。
大広間の窓が轟音とともに弾け飛んだ。疾風が窓という窓から颶風の荒れ狂う凄まじい轟音を発して流れこんできた。
一瞬にして、周囲は紅蓮の炎が燃えあがる火炎地獄と化していた。
丈はこのような業火を想像したこともなかった。一切の可燃物がいっせいに丈余の炎を噴いて炎上したのだ。猛烈な輻射熱が全身の水分を蒸発させ、マッチ棒みたいに燃えあがらせようとした。丈は姉の手がきつく己れの体を抱き締めるのを感じた。なんとかして姉を助けねば、と混濁する意識で必死に念じた。この火炎地獄の苦悶をなんとかしなければ、と思ったようである。
凄まじい大爆発が起こった。堅牢なコンクリートの建物があっさりと吹き飛ぶ、信じがたいエネルギーの暴発であった。大邸宅は中天高く割れ砕けながら投げあげられ、雪崩を打って崩壊した。丈と三千子の体は猛烈なエネルギー渦動に巻きこまれ、同時に空中へ吹き飛ばされた。
あとはよく憶えていない。エネルギー渦動の作りだす真暗なトンネルを高速で落下して行く感覚が記憶に留まった最後のものであった。
6
絶え間ない火炎地獄の夢が続いた。
丈は炎の乱舞する夢の世界を彷徨しつづけた。丈の意識の内部では、いつまでも沢川邸の業火の場面が静止し、丈を閉じこめているのだった。
物質レベルに達する凶暴な悪意が荒れ狂い、火炎はそれを浄化すべく焼き尽そうとしていた。
あれは神聖な火だ、と丈は夢の中でも考えていた。自分が強烈な疾風を邸内に呼びこんだとたん、神聖な火は顕われ、大量の酸素を得て爆発的燃焼を起こした。邪悪な意志の具象化である毒蛾の大群は神聖な火に焼かれ、大爆発によってあとかたもなく消し飛んでしまった。
沢川淳子を初め、一家の者たちをあとかたもなく喰い尽した異形のものは、あの爆発で一掃されてしまったはずだ。生命あるものは決して生き残れない、そう確信させるに足る爆発の物凄さであった。
丈は火炎地獄の中をさまよい続け、姉の三千子を捜した。この世ならぬものと無数に遭遇し続けた。目覚めれば決して記憶に留まらない無数の幻影が通り過ぎて行った。
猛火の海の中で、丈はさまざまな世界が破滅するさまと直面した。猛火の中で異様な大群衆が逃げ惑い、焼け死んでいった。丈はなぜか自分自身は高熱の炎に焼き尽されることもなく彷徨しては、地獄図を眺めているのだった。
潜水者が時折、海面に浮上するように意識を回復する。すると夢の記憶はこぼれ落ち、なにも残らない。火のように熱い息を吐き、喘ぎながら、古い天井板を睨みつけている。すると奇怪な形状の斑紋などが、すかさず高熱の作りだすとりとめもない世界の諸相に変貌して行くのである。
丈はそうした脈絡もなく展開され、つむぎだされていく不毛な夢、火炎の夢の中で、生まれる前の自分と化していた。現在の東丈という名と肉体を持って生きている己れではなく、別の名前、別の肉体を持ち、別の過去の世界に生きている自分であった。
そして同様に、別の名前、別の肉体を持って生きている三千子や、その他の人々を見た。
まったく別人と化しているにもかかわらず、丈には一目で、同一性が見分けられるのだった。不条理な夢だった。
そして三千子はいつの時も丈とともに生きていることを彼は知った。彼女がいつも丈にとって姉であるわけではなかった。ある時は母親であり、ある時は師であった。その事実を知ることは、夢見る人である丈にとりいささかの異和感をももたらすものではなかった。彼にとり、三千子は常に母親でもあり師ではなかったか。
そして、いつも火炎が丈にはつきまとっていた。それは、丈が火の中で生まれ落ちたかのように運命的なものだった。彼を囲繞しているのは、単なる物質的な火ではない、霊性を備えた火であるように思われた。その神聖な火は、丈の不浄さを焼き尽すために存在しているのだった。それは激しく勁よく、清浄そのものであった。
四〇度を超す高熱が数日続いた。
不可解な高熱であり、往診した医師にも理由が摑めないようであった。医師の投与する頓服でごく一時的に解熱されるのだが、愁眉を開く間もなく、真夏の烈日に曝された寒暖計さながら、体温計は急上昇した。
ひっきりなしに氷枕や氷囊を取り換える作業が、三千子に一昔前のことを思いださせた。幼いころの丈は、突発的に高熱を出しては、彼女をきりきり舞いさせたものだった。深窓の令嬢風に育った母親が頼りなかったもので、責任の重圧は全て三千子にかかってくるのだった。
丈はおそろしく手のかかる子供であり、無能力者に等しい母親は一切責任を放棄してはばからなかったからである。
三千子にとって、丈は年のはなれた弟というよりも、手塩にかけた愛児という感情が強かったのも、当然だったかもしれない。
高熱に冒された丈が、無力な幼児に還ったように寝ている姿を見ることは、三千子を忘れかけていた〝養母〟の気持に戻した。
譫妄状態になっている丈は、熱に浮かされた目で、枕許に座る三千子を時折しげしげと見詰めては「お母さん......」と呼んだ。
早逝した姉弟の母親は、三千子とはおよそ似ても似つかぬ顔立ちの人である。頼りなくよそよそしく影の薄い女性であり、丈にはまったく慕われていなかった。
そんな母親でも、高熱による譫妄状態のため幼児逆行が起きれば、頼りたくなるものなのか、と彼女は思った。なにしろ遠足の弁当一つ作ってやったことのない母親であった。自分の腹を痛めた子供たちを、なにか手のかかる妙な動物のように考えていたふしがあった。子供が病気になれば、周章狼狽して奥の間に閉じこもるか、実家へ行ってしまうという風変りな人だったのだ。
三千子自身、母親に関してはほとんど明確な記憶がない。もの心つくのがひどく遅かった彼女は、自分を育ててくれたのは、だれか別の女だったように思えてならないのだ。それは優しく情のこまやかな女性の手の記憶であり、肌の感触であり、冷淡な実母とはおよそ似ても似つかぬ、慕わしい存在だったように思える。
だが、それも定かならぬぼんやりした記憶でしかなかった。妙なことに三千子は幼い日のことをほとんど思いだせなかった。まったくの空白になっているようなのだ。他人が幼いころを明確に記憶している事実が実に不思議に思えた。
小学校に入ってからもしばらくは曖昧な忘却の霞が漂っているようだ。とくに記憶力が劣っているわけではないのだが、小学生になった後も、ものごころがついていないように、ひどく不鮮明な記憶しか持ち合わせていない。
小学校高学年になって、弟の丈たちをいっぱしの若い母親のように面倒を見た記憶が、昨日のように鮮やかであるのに比べると、突如ぷつりと跡絶えたみたいに空白だけが存在した。
まるで記憶喪失症のようだ、と彼女自身思っていた。ある日、突然存在を始め、それ以前はどこにも東三千子という女の子は存在しなかったかのようだ。もちろん、そんなはずはない。戦災で幼いころの写真は生家とともに焼けてしまったが、戦後のものは保存されている。九歳の少女の三千子が生まれたばかりの赤ん坊の丈を抱いた写真もあるはずだ。
とにかく、おそろしく記憶があやふやで、特に母親のこととなると、それが甚だしかった。現実の母とは似ても似つかぬ肌触りをぼんやりと憶えている。冷淡な母には考えられない濃厚な愛情を注がれた思い出がある。
後で両親にそれとなく訊してみたところでは、乳母が付いた事実もなく、それらしい女性が存在したことはないようであった。
それは三千子が空想で作りあげてしまった真実の母であるかもしれなかった。亡母が生存中も没後も、薄情のようだが、三千子は亡母が単なる行きずりの人にすぎず、真実の母は他に存在するような気がしてならないのだった。
それは亡き母に対する冒瀆に感じられたが、偽りのない気持でもあった。その真実の親がどこか遠い場所にいて、いつか彼女たちを迎えに来るという確信は、彼女の中に強固な巌として居座っているものだった。幼稚な空想には違いないが、いつか拭い去れない感情となっていた。
親に縁が薄いという宿命感だったかもしれない。その感情は父親に対しても適用されうるものであった。多忙な報道関係者で在宅することの極度に乏しい父親への反撥だったかもしれないが、必ずしもそうともいいきれないものがあった。
思いだせないほどずっと昔から、三千子は自分が異邦人だと感じていた。彼女が根ざすところはどこにもない。縁もゆかりもない時代と場所に島流しになった......そんな感じが心にしみついているのだった。
あまりにも幻想的であり、三千子はその感覚をだれにも打ちあけたことがない。理解者を得るべくもないことを、彼女の聡明さはよく承知していたからである。
ただ一つ、彼女がこの現実に根ざすものがあるとすれば、それこそが弟の丈にほかならなかった。奇妙なことに、もう一人の弟、卓にはそれがない。自己の分身のような親密さは丈にしか感じないものであった。
特に差別しているのではない。大柄で気のいい巨犬みたいな卓に対して愛情薄いわけではない。だが、魂の深い結びつきは丈以外に感じ得べくもないのだった。
いいかえれば、異邦人意識の強い三千子にとって、この世界で唯一のアイデンティティーをもたらすのが、弟の丈だったのである。
高熱にうなされて、夢幻の世界をさまよっている丈の枕許に小さな座卓を据えて、急ぎの翻訳を続けながら、三千子は弟を看取っていた。
丈は激しい悪寒に慄えたかと思うと、大量に発汗することをくり返していた。真赤に火照った顔に、うるんだ目を虚空に据え、うわ言を口走った。時としてうわ言はあまりに明確で、意識を回復したのではないかと、何度も顔を覗きこみ、声をかけたほどであった。
「姉さん! 火だ! 火だ! 火が燃えている! 逃げるんだ、焼け死んでしまう!」
丈は大声ではっきりと叫んだ。彼が間断なく火事の悪夢にうなされていることがわかった。
それほど、あの夜の出来事は丈にとり衝撃的であり、心身を狂わせたのであろう。それは三千子にとっても同様であったが、丈は疲労が重なったためか、その直後、高熱を発してしまったのだった。
三千子にとっても、想起するのもうとましい無残な出来事であり、沢川邸が大爆発を起こした後、どこをどうやって丈と二人、家に帰りついたのか、記憶がはっきりしない。信じがたいことだが、掠り傷一つ負っていなかった。沢川邸があとかたもなく消し飛んだ爆発の物凄さを考えあわせると、ありえないこととさえいえた。そのあげく、丈は全力を使い果してしまったように、病いの床に臥してしまったのだった。
あの夜は明け方になっても、警察と消防のサイレンが夜空に鳴り続けていた。丈はすでに激しい悪寒の虜になっており、三千子は弟の頭を冷やすのに大童だった。冷蔵庫の製氷皿が造る氷は簡単に溶けてしまい、氷は簡単には出来ず、さんざん気をもまされた。井戸水を汲んでは、こまめに濡れタオルを交換するほかはなかった。
空ろな非現実感がずっとつきまとってい、沢川家の人々を襲った運命、沢川邸の壊滅が実感できなくなっていた。あまりにも巨大な刺激によって心が飽和してしまったのであろうか。
三千子自身も疲労の極にあり、丈の発病もあって、追いまくられるうちに、非現実の時空間へ入りこんでしまったようであった。彼女はその後、一度も横臥することなく数日間にわたり、うたた寝だけで丈の看病と翻訳の仕事にすごした。
超人的、と弟の卓が驚嘆をこめて評したが、三千子にはさほどのこととは思えなかった。一向に現実感を持てないまま、日が経ってしまったのだ。おそらく気が張っていたためであろう。
丈は熱に浮かされて、間断なくうわ言を口走った。意味のとれないことが大部分だったが、しきりに「お母さん」と呼んだ。それが亡母とはとれないことが奇妙であった。
四〇度の高熱が作りだす夢の世界では、亡母とは異る母親がいるらしいのである。丈はその世界での〝母〟としきりに語りあい、声高に呼びかけていた。
うわ言を聞いているうちに、三千子はすっかり心を惹きつけられてしまい、丈とともに高熱の生んだ夢幻の世界に入り、〝母なる人〟に逢ってみたいとさえ思った。
解熱剤で一時的に熱が引いても、昏々と眠り続け、丈はなかなか意識が回復しなかった。三日目が終るころ、医師が入院させるよう勧め、三千子が慌しく準備を始めたころ、丈の意識が戻った。
「姉さん......」
と、丈は意外にしっかりした声音で三千子を呼んだのである。憔悴した蒼白い顔に、見開いた目が生気を取り戻していた。夏掛けをはねのけて、筋張った手を三千子に伸ばす。
彼女は両手で弟の手を握った。
「丈、気分は?」
「もう大丈夫だ」
と、丈ははっきりといった。
「もう元気を回復したよ、姉さん、すぐによくなる」
それが明確に自分でわかるのだ、と丈はいった。
「ものすごく沢山の夢を見た......姉さんに見せたかったな」
やつれた顔で笑う。たしかにまだ病人とはいえ、見違えるような精気のある笑いだった。
丈は発病以来初めて流動食を喉に通した。高熱を患った人間とは思えないほどしゃっきりしていた。
原因不明の不可解な発熱は不可解なままに、憑き物が落ちたように突如去ってしまったのだった。
「丈が、しきりに夢を見ているらしいことは、看病していてよくわかったわ」
と、三千子は給仕をしてやりながらいった。丈はおろし金ですりおろしたリンゴを食べ、もっとこってりしたものが食べたいと駄々をこねた。つい二、三時間前の高熱にうなされ、入院間近い重病人とはまったく思えなかった。
「夢が現実なのか、現実が夢なのか、よくわからなくなっていた。時代がばらばらで、どう考えても不条理なんだけど、僕と姉さんが登場する夢なんだ。しかも、姉さんは確かに姉さんなんだが、その夢ではお母さんなんだな」
と、丈は夢を反芻しながらいった。
「だから、僕は、お姉さんと呼んでいいのか、お母さんと呼ぶべきなのか、ずいぶん混乱したよ。しかも、その夢の舞台が江戸時代だったり、もっと古い時代の外国だったり、あちこち入れ換るので、わけがわからなくなってしまうんだ」
丈は、他愛ない夢物語を熱意をこめて語った。よほど強い印象が残っているとみえる。
うなされながら「お母さん」と口走っていたのは、やはり亡母ではなかった、自分のことだったのだ......、三千子はなんの不思議もなく、それを受け容れることができた。丈にとり、彼女は姉であると同時に母でもあるのだから、当然のことかもしれなかった。二人の感情の結びつきが、それほど深いところでなされている証左にほかならなかった。
「時代が大昔で、舞台が外国で、人種も違うし、今の姉さんとはまったく違う顔、たとえばギリシャ人の顔立ちをしてるんだけど、それにもかかわらず、姉さんだということはすぐにわかるんだな。僕も同じことなんだ。
そして時代はどんどん跳び移るんだが、姉さんと僕の関係は変らない。姉弟であったり母子であったり、または師弟であったりする。エジプトやギリシャ、中国やインド、日本の江戸時代、どんどん変っていく。いつのことかわからない超古代の時代もある。
姉さんが古代ギリシャの寛衣のような白い衣をまとって出てくるんだ。姉さんは僕に対して、霊的な体験を授けようとしているらしい。どうやれば、精神と肉体を分離できるかというようなことを僕に教えようとしているんだ。非常に高い山の頂上で、ご来光を迎えながら、姉さんは僕に高度な霊的な秘儀を授けてくれる。時間を超越して、いかなる時代にも自由に精神を投射するための秘儀とか......少し思いだしてきたよ、姉さん!」
丈は疲れを見せず、情熱をこめて語り続ける。
「すると、もう時代が大きく変ってしまっている。何万年か、何十万年過去の時代なんだ。地球の大陸の形は、現在とは全く違う。日本列島など、どこにもない、そんな時代なんだ。
高度な文明が発達しているが、現代文明とは根本的に違う。石油や原子力のような物質的エネルギーで動いている文明ではないんだ。人間の精神を通じて巨大な宇宙エネルギーを呼びだすことができるらしい。都市は何千、何万トンの巨石を自由自在に組み合わせて造られている。土木機械などはなにも必要ない。人間は精神力で自由に造形できるんだ......」
丈は、自分の言葉にはっと愕いていた。
「そうだ! 超能力文明そのものなんだよ。その時代の人間はだれでも、多様多彩な超能力を発揮することができる。精神移動で、他の天体を訪問できる人々が沢山いた......
現在の人類にはとうてい考えられないことなんだ。世界は平和で、現代に比べれば楽園に近いが、やはり邪悪を好み、光よりは闇を好む人間たちもまた存在した。つまり彼らが楽園の蛇なんだ。彼らは平和を憎み、破壊と闘争を求めて〝闇の力〟を宇宙から招き寄せようとした......」
「それ、〝幻魔〟じゃないの!」
と、三千子が声をあげた。
「そうだ、〝幻魔〟だ......いわれるまで気がつかなかった」
丈は思いがけぬ驚きを味わいながらいった。
「当時の地球には大きな変動と混乱が生じた......地球だけではなく、太陽系全体に巨大な嵐が襲いかかったらしい。それは一箇の惑星が粉々に砕けちるほどの物凄い大変動だった。〝幻魔〟の襲来で、地球はもとより全太陽系が破滅に瀕した。そんな時代の夢だった......」
「それで、どうなったの? 〝幻魔〟はどうやって追い返されたの?」
三千子は異様なほどの関心を示して、丈を性急に質問攻めにした。
「その時は、確か、人類の善い力を結集することができたんだ......」
と、丈は夢の記憶を辿りながら、ゆっくりと喋った。
「それは物凄く巨大な力だった。地球全体がしろがね色に光り輝くほどの厖大なエネルギーが誕生したんだ。〝幻魔〟は追い払われて、どこかの閉鎖時空間に閉じこめられてしまったらしい。全人類の善い力を結晶させる一人の地球人がいたんだ......彼はその偉大な〝力〟をもって〝幻魔〟と対決した......」
「偉大な救世主が出現したわけね」
と、三千子が珍しく興奮に捉われた声音を出した。
「真の救世主とは、全人類の善き力を結集することができる存在をいうのね」
「そうだ、その通りだ! それが救世主の資格なんだね。〝彼〟は〝幻魔〟を追い払い、閉鎖時空間に封じこめた。でも、もちろん、〝幻魔〟がそれで敗退してしまったわけではない。その後も、何度も小競りあいはあったらしい......」
「わかったわ。悪魔というのは〝幻魔〟の記憶の痕跡なのね。きっと神話や伝説にある善と悪の戦いというのは、その時の記憶のことなのよ、何百万年、何千万年も昔のこと......人類はやはり〝幻魔〟と遭遇し、戦った。そしてまた、大きな戦いがくり返されるのよ、丈! それで〝幻魔〟の尖兵はきっとあなたに先制攻撃を仕掛けてきたんだわ。善い力の結集を妨害するために! あなたはそれで、夢で啓示を受けたのよ。また近い未来に、善と悪との戦い──ハルマゲドンが用意されていることを悟らされたのよ。丈、あなたは、はるかな超古代の、〝超能力文明〟に生きた人類の生れ変りの一人なのね。ルナ姫ももちろんそうだわ。これからきっと沢山の生れ変りの〝超能力文明人〟が出てくると思うわ」
「凄いなあ。アトランティスやレムリアなんか問題にならない超文明だったんだな! 人類は今まで数知れない興隆と衰退をくり返してきたんだ。そういう確信が湧いてきたよ、姉さん。超文明が興った時もあるし、原始時代のような野蛮な時代もある。それらを交互にくり返してきたのが人類の真の歴史なんだ。僕は夢の中で、そうした時代の変遷につれて、何度も何度も生まれ変った。魂は輪廻のたびに新しい肉体を持つんだ......
しかし、いつもお姉さんと僕はいっしょだった。決して離れないことを誓った魂同士なんだよ。だから、いつの時代に生まれても、僕は姉さんにきびしく育てられた......超古代に〝幻魔〟と戦った時もそうだ。姉さんも〝超能力文明人〟の一人だったんだよ。だから姉さんにも超能力があるんじゃないかなあ......」
「あたしにも超能力が......あたしにはないわ。いくら努力しても、ものを動かすことはできないし、未来透視能力もなにもESPは働かないもの」
「そうかなあ......」
丈は、三千子の否定がいかにも残念そうだった。
「お姉さんにだってきっとあるはずだと思ったんだけど」
「超能力なんて、あたしにはないし、その方が気が楽だわ」
三千子は恐ろしいことから話をそらすように、あわてていった。
「〝幻魔〟は間違いなく、すでにもう地球に侵攻してきている。丈を襲ったドッペルゲンガーも、沢川淳子さんに変身したのも、同じ〝幻魔〟じゃないかしら。丈、あなたを滅ぼすためにやって来た......地下室から飛びだしてきた毒蛾の大群も、きっと同じそいつの仕業だわ。丈がひどい高熱を出したのも、あの毒蛾の鱗粉を吸い込んだせいじゃないかと思うの......」
「しかし、鱗粉は姉さんも吸った」
「息を停めてたから、ほとんどあたしは吸わずにすんだの。丈は吸い込んだとたんに倒れてしまったのよ」
「あの毒蛾の大群は、ドッペルゲンガーや沢川淳子に化けた〝幻魔〟が操っていた......お姉さんもそう思うかい?」
「間違いないと思うわ。でも、あの大爆発であとかたもなく一掃されてしまったんじゃないかしら? もうこれでなにも起こらなきゃいいんだけど」
と、三千子はいい淀んだ。
「もし、あれが本当に〝幻魔〟だったんなら、簡単に滅びたりはしないだろうな」
丈は静かにいった。彼にとり憑いていた恐怖は高熱とともに落ちてしまったようであった。大病の後で、ひどくやつれているにもかかわらず、ある種の逞しさ、成熟度が大きく一段階あがった、そんな印象を三千子は受けていた。確かにあの凄まじいほどの高熱が、丈の精神的な、不純な挾雑物を焼き払ってしまった落着き──少年から男への脱皮を感じさせるものがあるようであった。
「それにあの強烈無比な猛火......」
と、丈はいった。瞬きもせずに瞳が光って三千子を見詰めており、彼女をふと狼狽させるほどだった。
「どこから、あの火が出てきたんだろう? あの大爆発の物凄さといったら......こうやって姉さんも僕も生きているのが奇跡だものな。あの烈しい火は、もしかすると、姉さんから出てきたんじゃないか」
「そんな......あたしには超能力なんて全然ひとかけらもないもの。いくら努力しても、ロウソクの炎だってつけられないわ。きっと、それは丈が無意識のうちに、大きな〝力〟を発揮したのよ。そうにきまっているわ。丈は素晴らしい〝力〟の巨人なんだもの」
「そうかなあ......やっぱりおれがやったことなのかなあ」
丈にも確信はないようであった。
「無我夢中だったから、よくわからないな......だけど、姉さんの力だという可能性もないわけじゃない」
「あたしに、そんな恐ろしい力があるはずないわ。信じられないような、物凄い火嵐だったもの......でも、あの炎の中で〝幻魔〟が生き延びるとしたら、完全な不死身ということになる。いったいこの先、世界はどうなってしまうのか、とても心配な気がするわ......」
「気をつけないといけないな、姉さんも」
と、丈はいった。
「もちろん、〝幻魔〟はおれを狙ってくるけれども、姉さんだって飛ばっちりを受けるかもしれない」
「大丈夫よ。あの烈しい炎の中で、いくら〝幻魔〟だって生き残れるはずがないわ。心配ないわ、平気」
三千子は努めて明るい声をだした。
「〝幻魔〟だって生物に変りないでしょう。だったら傷つくだろうし、死にもするでしょう。丈、あなたの〝力〟に堪えられる生物がいるはずがないわ。それよりお姉さんが心配なのは、アメリカへ飛んだ、ルナ王女たちの身なの。彼女たちだって当然、丈と同じに〝幻魔〟に狙われるでしょう? 丈が護ってあげなくても大丈夫かしら......」
「しかし、彼女が要請もしてこないのに、こっちからのこのこ出て行くわけにもいかないし。それにベガがついているから......」
と、丈は口重になっていった。
「これから自分が何をすべきなのか、よく考えてみるよ。おれはまだ高校生だし、おれの〝力〟をどう役立てるべきかもわからない。他人に見せたとしても、ただの見世物扱いにされてしまうかもしれない。そんな気がするんだ。それに〝幻魔〟のことを他人に話して聞かせたとしても、お姉さんのように素直に受け容れ、理解してくれるとは限らない。ひょっとすると気違い扱いされるかもしれないんだ」
驚くほど短期間で、丈は成熟したものの考え方を身につけている、と三千子は感嘆した。やはり、悩み苦しんで、考え抜いただけの甲斐はあったというべきであろう。
「ともかく、今後のことはとっくりと考え抜いてみる。もう心配はしないでくれ、姉さん。もうおれは元気になったから......明日は起きて、久しぶりに学校へ顔を出してこなきゃならない」
丈のいう通りになった。入院直前の重病人から、突如急転して本復した丈は、翌朝、平日通りに起床すると、きちんと朝飯を食べ、登校して行った。
多少のやつれは見えたものの、昨夜まで枕もあがらぬ病人とは思えず、三千子も押しとどめることはできなかった。彼の言葉通り、彼の健康に関する限り、懸念はないと三千子自身わかってしまっていたからだった。
そして、彼女の確信にはとりたてて理由というものがなかった。いわれもなく突然わかってしまったのである。平常人の神経を持ったもう一人の弟、卓にはいかにも理解を超えることのようであった。
「いくらなんでも無茶だ、姉さん」
と、卓は目を跳びださせるような顔つきで姉に抗議した。
「三日も四〇度以上の熱で、生きるか死ぬかって騒ぎだったのに......こんな無理をさせたら、兄貴死んじまうよ」
「でも、突然元気になってしまったんですもの。朝ご飯も三膳食べて、機嫌よく学校へ出かけていったわ」
「どうも兄貴のやることは、よくわからないんだなあ......姉さんもよくつきあうと思って、心から感心するよ。いや、ほんと」
卓は太い溜息をついていった。
「おれ、兄貴って人間がだんだん理解できなくなってくるんだよ、姉さん。どうしてあんなに不可解な人物になっちまったのかね? やっぱり、何かとっ憑いているんじゃないかな。最近は全然、おれに突っかかってこないし、いったい何を考えているんだか......」
さっぱりわからないといって、卓は太い首をすくめ、登校して行った。
卓は、丈に生じた変化についてまだなにも知らないのである。いつかは折を見て事情を話しておかなければと思ったが、その機会がまわってこなかった。
それに、どのような説明を加えればいいのか見当がつかない。丈のいう通り、大宇宙における〝幻魔〟との戦いに至っては、おおよその人間が荒唐無稽な空想譚としか受けとらないのではないかという拭いがたい危惧があった。
平均的な人間の日常生活からはあまりにも遊離しているからだ。空想的で馬鹿げた夢物語と解するならまだしも、異常者を見る目を向けてくるかもしれない。その点、丈はまったく透徹した醒めた目で己れの立場を認識している。丈のように突如巨大な超常的能力を持った少年が、だれしも丈のように振る舞えるとは限らない。まずおおかたは己れの強大な力に自己陶酔し、自己顕示欲の化身になってしまうのではないだろうか。三千子はちょっぴり誇らしさを味わうことを自分に許した。丈は異常事態に対処してちゃんと己れ自身を保持している。
今後もさらに大変動が丈の身辺に生じてくるであろうが、彼は悪戦苦闘しながらも切り抜けていくに違いない。三千子は、弟を信頼できることが嬉しかった。
だが、丈の行く道はだれも想像の及ばぬ異常な世界であった。おそらく三千子自身は彼についていくことは許されないであろう。彼女のような当り前の人間にとっては、生きることさえ不可能な恐ろしい嵐、激動の荒れ狂う世界が丈の行く手には待ち構えている、そんな気がしてならなかった。
平凡な女でしかない自分には、これまでのように丈をかばい、見護ってやることはできないだろう。おそらく、彼の足手まといに堕してしまうだけだろう。もはや〝超人〟と化した丈にとり、姉の自分は不必要な存在になって行くのだ......
しかし、それは昔から自分が予期していたことだ、と三千子は思った。いつかその日が到来することを、自分は知っていたし、それを恐れてはいない。自分の役割が終ったというだけのことだ。
そのために自分はこれまで生きてきたし、自己犠牲と意識することもなく、献身の日々を送ってきた。結婚して家庭生活を築くことを夢想したこともない。それは自分には縁のないことだとごく自然に思い込み、ことさらにパセティックに断念するということもなかった。
淡々と役割を果たし、それを終えた後のことは考えもしない、そんな生き方をしてきた。たぶん、それほど長くはこの世に留まらないという予感が昔からあったのではないだろうか。
今の三千子には、生々しい情感は遠かった。わずかに、澄んだ悲しみのようなものを味わっていた。
もともと自分は異邦人だったのだから、この世に留まることに未練を持つべきはずがないのだ、と彼女は気付いた。だが、丈のことだけは例外的に一つだけ大きな気がかりであった。
体の芯まで深い疲労が三千子を捉えて、彼女は改めて夜具を展べ、ワンピースのままもぐりこんだ。無人になった家の中は掛時計のリズムだけが支配していた。
翻訳の仕事をしなければならないと思うのだが、どうにもならなかった。丈が回復したという安心感が、三千子の体から箍をはずしてしまったようであった。
どれほど眠ったろうか。ひどく不快な喧しい音が、三千子を眠りから引きずりだした。
だれかが玄関の引き戸を乱打していた。まさに乱打するという、ひどく居丈高な、高飛車な叩き方で、三千子を不安にさせた。
三千子はふらつきながら夜具を抜けだし、姿見をちらと覗き、乱れた髪を抑えた。化粧気のない蒼白い顔は、肌がやや荒れてい、目の下に薄い隈があった。やややつれていて、かえってそれが三千子を凄艶に見せていた。
なおも玄関の戸は荒々しく叩き続けられ、太い野卑な声──まさにそれは蛮声であった──が、怒鳴っていた。
「はい、ただ今......」
三千子は慌しく玄関に出て、引き戸の掛金をはずした。彼女が開けるのを待たず、引き戸は外部の力で荒っぽくこじ開けられた。問答無用の容赦なさであり、三千子の心臓はどきどきしてきた。
ただごとではないと悟ったのだ。
「東さん?」
奥目の、頭頂の薄くなった中年男が、三千子を突き刺すように凝視を浴びせながらいった。その横に長身瘦軀の〝電信柱〟とあだ名されているに違いない男が並んでいた。奥目の中年男より多少年が若いようだった。
雰囲気は実に悪いが、押売の類いではなさそうであった。
「はい、東でございますが......」
三千子の声は不安に掠れた。
「警察の者です。お宅に高校生の息子さんで、丈という子がいるね?」
と、奥目の私服刑事がいかにも押しつけがましい口調でいった。
「丈ですか? はい、おります......今、学校に行っておりますが」
「その東丈という息子さんのことで、お尋きしたいことがあるんだが、いいですね?」
〝奥目〟は有無をいわせぬ口ぶりだった。
「はい。どのようなことでしょうか......」
だが、三千子にはもう見当がついていた。沢川家の一家消失事件は連日、新聞紙面を賑わしている。いずれ何か、警察がいってくるのではないかという予感がないでもなかった。だが、いざそれが現実となると、全身が冷たくなった。
「どうぞ、お上りください」
と、彼女はいった。とにかく時間を稼ぎ、心を鎮めなければならなかった。
刑事たちは無骨な埃だらけの革靴を玄関の三和土に残して、応接間に上りこんだ。
「構わんで下さい」
と、〝奥目〟がいった。だが、三千子はまず自分が落ち着く必要があった。必要以上の丁寧さでお茶を淹れる。わくわくとうわずっていた気持が多少落ち着いてきた。この程度のことでうろたえていてはどうにもならないと気づいたからだ。なんとかして丈を刑事の追及から護ってやらなければならない。
淹れた茶を運んで、刑事たちの待つ応接間へ現われた三千子は、内心はともかく、平静さを表面的には回復していた。
「弟がなにかいたしましたのでしょうか?」
と、三千子は刑事たちの席の正面に座り、まっすぐに目を当てながらいった。考えてみれば、丈はなにも良心にもとるような行為は働いていない。心に恥じることはなにもないのである。刑事たちもぶしつけな目つきで、彼女をじろじろ眺めていた。
「いや。そういったわけではないんだがね」
と、奥目の刑事が押しつけがましくいった。
「あんたの弟さんのガールフレンドで、沢川淳子という娘さん、知ってるだろうね」
「存じています。二、三度お目にかかったことがありますから」
三千子は、どんな嫌疑が丈にかかったのだろうかと考えながら返事をした。それとも、ただの捜査活動の一環なのだろうか。
「まあ、ご存知かと思うが、沢川淳子の一家がああいうことになってだね、われわれも一応家族全員の交遊関係やらつきあいやらを調べているわけですよ。それで、娘さんの親しい友達だった、お宅の弟さんに関しても、一応お尋きしたいことがあるわけです」
「さようでございますか。どうぞなんでもお尋ねください」
「今月の十三日の夜、弟さんは家にいましたか?」
奥目の刑事はいきなり核心に入ってきた。
「はい、ずっと家におりました」
三千子が淀みなく答える。
「ほほう、よく、そんなにすかさず答えられるもんだね」
と、〝奥目〟は皮肉っぽくいった。長身瘦軀の伴れは陰湿そうな眼を光らせていた。
「考えもしないでね。人間は何日のいつごろ何をしていたかを即座に答えられるもんじゃないんだが......あんたはよほど特殊な記憶力を持ってるらしいね」
乱雑な話しぶりであった。三千子はじろじろ眺めまわす刑事の無遠慮な視線をはね返すように、強く張った黒い瞳で見返した。
「そのことははっきりお答えできるんです。というのは、弟の丈は十三日の夜から四〇度を超す高熱を出しまして、昨夜まで枕もあがらず臥っておりましたから......もしお疑いでしたら、お医者様にお問合せいただければ、すぐにわかります」
「べつに疑っているいないということじゃないんでね。一応関係あることはなんでも調べることになっとるんですよ」
〝奥目〟はよれよれの汚いハンカチを取り出して、カッター・シャツのえりの下を拭いた。
「弟さんは、沢川淳子さんと親しい仲だった......お姉さんのあんたの目から見て、どの程度の深い仲だったか、聞かせてくれないですか?」
「決して不純なおつきあいではなかったと思います」
と、三千子はきっぱりといった。彼女の強く張った黒い瞳から、刑事は目をそらした。
「それに沢川さんが音楽大学に入られてから、おつきあいが疎遠になっていたようです。弟は受験を控えた高校生ですし、環境が異ってしまえば、どうしてもそうなりがちだと思いますけれど」
「早い話、弟さんが振られたということじゃないですか?」
奥目の刑事はデリカシーなど無縁のようであった。
「そういう言葉をお使いになりたければ、それはご自由です」
三千子は穏やかにいったが、蔑みを読みとるのはさほど難しいことではなかった。〝奥目〟の頰骨のあたりが赤黒くなった。三千子のような女性に軽蔑されるのは、男にとって楽しいことではなかった。
「しかしですね、二人の間が壊れるまでは、非常に親しい仲だったことは確かだ......そうでしょうが。はっきりいって、恋人だったんでしょう?」
〝奥目〟は粘液質の気質を見せて、じわじわとくいさがってくる。
「弟がまだ非常に若いことをお忘れにならないで下さい。恋でもなんでもないことを取り違えて熱中したのかもしれません。あたくしは、丈と沢川淳子さんがさほど親しかったとは思えません」
三千子はきっぱりといった。刑事たちに対する気後れは消え去っていた。あるのは丈をどのように護ろうかという念だけだ。
「ほほう、お姉さんの目からすると、二人は親しい仲ではなかったとね。それはまたどうしてですかね? 他の二人を知る者によれば、二人は熱あつで、傍の目も羨むばかりだったというんですがねえ」
〝奥目〟が皮肉たっぷりにいう。相棒の〝電信柱〟は一言も発しなかった。
「二人は間違いなく肉体関係もあったという者もいますよ。相手の娘さんは友人に、子供を堕ろしたことを告白してもいるし......そうなると、これはお姉さんが本当のことを何も知らなかったか、あるいは弟さんをかばいだてしていることになる」
「あたくしは弟の丈を信じております。弟はあたくしに対して隠しだてをすることはありません。だれが、どのようなことを丈に関していおうとも、弟に関してあたくしが一番よく知っているという確信は揺ぎません。ですから弟と沢川淳子さんとの間に肉体関係があり、沢川さんが弟との子供を中絶したなどという根も葉もない噂は信じません」
「こいつは驚いた。親馬鹿というのはよく聞くがねえ......」
と、〝奥目〟はわざとらしく驚嘆してみせた。
「お姉さんは、すると、弟さんを信じきって露ほども疑わないというわけだね」
「肉親が互いに信頼しあうことに、なんの不思議があるのですか?」
三千子は不信の薄笑いを浮べている刑事をまともに見詰めながらいった。
「いや、まいった、まいった......お姉さんは弟さんの、その親代りだったね。すると、弟さんは、相手の娘さんとのつきあいについて、お姉さんのあんたになんでも打ちあけたというのかね?」
「はい。肉親同士信じあっていれば、それが当然のことではないでしょうか」
「しかし、いくら仲がよくたって、弟がお姉さんに男と女のことまで打ち明けるもんかねえ? その相手の娘さんとのことだが、弟は肉体関係はないとあんたにはっきりいったのかね?」
「はい。弟はなんでもあたくしに相談してくれますから。そして、一線を超えてはいけないというあたくしの忠告を聞いてくれました」
「まったくのところたいしたお姉さんですな、あんたは」
刑事は負け惜しみ気味にいったが、さじを投げたという顔付になった。
「どういうご用件で、うちへいらしたのか見当がついているつもりですが、なぜ弟が事件に関係あるとお思いになったのでしょうか?」
と、三千子はあくまでも真正面から立ち向って行った。
「家族全員について調べているんでね。とくにあんたの弟さんだけをということじゃないんだ。まあ、気にしないでもらいたいですな」
刑事はいささか面白くなげにいった。
「相手の娘さんにしても、つきあっていたのはあんたの弟さんだけじゃないんでね。深間にはまった男がそれこそ何人もいるようなんです。まあ、お宅の弟さんが父親じゃないかもしれんが、こっそり中絶したという噂は事実で、それは調べがついている」
「まあ......」
「最近の若い娘は、まったくかげで何をやってるかわからないからね......お宅の弟さんも、いってみれば、遊ばれちゃったんじゃないのかね」
「............」
三千子は無言で頭を横に振った。沢川淳子の中絶話は意外ではあったが、さほど驚きはしなかった。そんな噂があっても不思議ではないように思える。二、三回逢ったが、あまりいい印象は残っていない。きらきらと移り気な、落着きのない性格ばかりが目についた。同性である三千子にとって、淳子の美貌は男である丈の目に映るそれとは全く異る。
「それはともかく、お宅の弟さんは、相手の娘さんに振られて、だいぶ荒れてたようだが......」
奥目の刑事はいやらしいもってまわったいい方になってきた。彼にとって、三千子は御しにくい相手だったのであろう。なにをいって揺さぶってみても、美しく端然として崩れないのだ。
「青春期には青春期の悩みがあると思います。弟は受験と体育部の板挾みになって、野球部をやめました。悩みを持っているのは弟だけに限りません。一口に荒れている荒れていないという問題ではないと思いますけれど」
「ふん。悩んでいたのは、彼女に振られただけじゃないというわけかね?」
「失礼ですが、刑事さんは十七、八歳のころ、なんの悩みも持たず、お幸せだったわけですかしら?」
「そりゃまあ、なかったとはいえんが、悪いことはしなかったね」
「とおっしゃると、うちの弟になにか疑いがかかっているのでしょうか?」
「べつに、そういうわけじゃないですがね」
刑事は鼻白んだ。ひたむきに押してくる三千子のようなタイプは苦手のようであった。
「どうも、お手間を取らせまして」
と〝電信柱〟の刑事が初めて口をきいた。〝奥目〟よりはだいぶ感じがよかった。
「どうか気になさらんで下さい。また近いうちにいろいろお尋きすることもあるかもしれませんが、ま、その時はよろしく」
刑事たちは立ち上り、帰っていった。いっこうに要領を得ない訪問であった。〝奥目〟にさんざん厭味めいたことをいわれただけだった。彼らもいった通り、捜査活動の一環として、沢川淳子の男関係を探っているのであろう。
しかし、沢川一家の消失と丈の間にいかなる関係も探りだせるはずがない。それは人間世界の論理ではつながりを見出すことが不可能なのだ。沢川淳子に失恋した丈が、沢川一家を皆殺しにして死体を隠匿し、邸宅を爆破したと警察が考えたとしても、裏付けできるはずがない。
日常次元の論理と、非日常の現実との間に、正気を見失いそうな深い亀裂が走っているのだった。恋の恨みにより、平凡な高校生が一家を惨殺したと推理したところで、そこで行き詰まってしまうであろう。たった一箇の死体でも隠匿するのは並みたいていのことではない。それが一家五人、使用人四人の計九人となれば、不可能というしかない。加うるに大邸宅を完全に吹き飛ばしてしまうには、その方面の専門家が必要になる。
刑事たちは真夏の烈日にあぶられながら、汗を絞りだして空しく歩きまわるほかはないようであった。
しかし、なぜかこのままではすまない、三千子はそんな気がした。これだけの大事件に発展したからには、警察は決して諦めないであろう。そして、いつか丈の異常な能力が明るみに出た時、警察は再び有力な容疑者として、丈をクローズ・アップするだろう。
そして、警察は〝幻魔〟との戦いなど決して容認することはあるまい。あくまでも日常次元の論理に従って、丈を断罪しにかかるであろう。
丈の未来が、突然狭隘な暗い切り通しのようにせばまるのを感じて、三千子は心を重く閉ざされた。
このままではすまない。すぐそこに凶運が待ち構えているのが、三千子には見えるような気がした。その凶運は、奥目の刑事の形をしているようであった。
7
相変らず猛暑の夏の日が続き、表面的には何事もなく日が経っていった。
東丈はしごく平常に学校へ通っていた。世にも異常な体験は、外見上は丈になんの変化ももたらしていないようであった。あと数日で夏休みが始まろうとしていた。あの不可解な高熱の後遺症はさしあたって顕われていないようであった。
丈の超絶的な〝力〟はその後振るってみせる機会もなかったが、彼にいわせると〝健在〟だそうだった。
三千子は、刑事たちの来訪の件を丈に話したが、ほとんど気にする様子もなかった。
「その後、捜査の進展もないようだしな。いくら探ったって、何も出てくるわけがないんだから」
と、彼はいった。最初のうちこそ、ジャーナリズムを大いに賑わした事件も、日が経つにつれて、記事が小さくなり、報道の頻度が激減した。一家の遺体がまったく発見されないところから、狂言説も出ているようであった。
「でも、お姉さんは心配なの。なぜか、このままではすまない気がして......」
「心配してみたってしょうがない。たとえ、警察がおれを疑っていたところで、一家の死体が出てこなければ、どうにもならないはずなんだ。法律的にはね」
「まあ、よく知ってる!」
と、三千子は目をみはった。弟が以前に比べて、ずっと逞しくなっていることは認めざるを得なかった。
「だから、おれは警察のことはあまり気にしないんだ。それよりルナ王女たちの動静の方が気がかりだ......おれの〝力〟をどのように開発したらいいかという問題もある。それに、潜在的な超能力者たちを、どのようにして結集させたらいいかと頭を悩ましているんだ。もちろんルナ王女も一所懸命やっているだろうけどね。
お姉さんだったら、自分が超能力者だと気付いていない連中をどのようにして集める?」
「そんなことまで考えていたの。まるで人柄が変ったみたいよ、丈。やっぱり責任感を持つと人間は変るものなのね」
と、三千子は讃嘆をこめていった。
「お姉さんにいろいろ、きつくいわれたからさ......なにしろおれは今まで、唯一のビジョンといったら東大、大蔵官僚っていう実に通俗的な代物しかなかったもんな。しかし、エゴイズムの化物がエリート・コースに乗ったところでなんになるんだ......本当におれは自己催眠にかかってたみたいだよ。ルナ王女たちが手荒に目を覚まさせてくれるまではね」
丈は照れくさげに首筋を搔いて渋面の笑みを見せた。
「でも、おかげではっと我に返った......けれども、依然として自分の〝力〟をどのように生かすか、まったく見当がつかない。お姉さんのいう通り、空を飛んでばかりいたところで仕方がないものな」
「人に呼びかける何かが必要だと思う」
と、三千子は考えこみながらいった。
「超能力者結集のことよ。だれかが灯を掲げなければ......隠れた超能力者たちが自覚するような何かが必要だわ。その何かが具体的にはいえないけれども......」
「ぼくもそれは考えた。山を動かすとか、海を二つに分けるとか、水の上を歩くとか......でも、それをやるとモーゼやイエスみたいになっちゃうな。ぼくがやりたいのは、新興宗教じゃないんだから......超能力者を自覚させるのは、思ったよりもむずかしい。自分に超能力が潜在してると気がつかない人間を、どうやったら目覚めさせられるんだ」
「ルナ王女があなたにやったように......?」
「あれは極端すぎるよ。ルナ王女はおれに潜在超能力があることをはっきり知っていた。だからこそ、荒療治をしたんだ。だけど、もし超能力が顕在化しなければ、おれは工事現場で死んでいたろう......おれにはとてもあんな真似はできないよ。第一、だれに潜在超能力があるのかないのか、皆目見当がつかないんだから」
「どうすれば潜在超能力を開発できるか、そのシステムが必要なわけね? でも、超能力というものは、だれもがもともと持っているものなのかしら? それともごく特殊な存在なのかしら? 突然変異種とか超人類といったように......」
「お姉さんはすごいことを知ってるんだな。やっぱり翻訳家だけのことはあるよ。それにいつも着眼点が人と違う」
「おだてないで......」
と、三千子は透き徹るような頰を上気させた。
「これでも、いろいろ超能力のことを調べてみたのよ。超心理学の方では、超能力を目下研究中みたいね。でも、潜在超能力を覚醒させ、顕在化させるまでの研究はなされていないみたい。たまたま超常感覚の顕在化している人々を被験者にして、実験を進めている程度で......トレーニング法もあるみたいだけど、効果のほどは疑わしいみたいよ」
「ぼくも超能力のことを調べてみたけど、そのへんはさっぱりわからないな。学問として超心理学が扱う超能力はひどくちっぽけなもののような気がする。カードを使ったりしてまるでゲームだよ。むしろ、宗教、とくに密教関係での超能力の方が規模といい、意義といい、うんと大きいみたいだ。でもね、姉さん」
といって、丈はひどく生真面目な顔をした。
「もし、大きな超能力がいきなり顕在化したら、たいていの人間はその重荷に堪えかねてしまうんじゃないかという気がする。それはマイダス王の〝力〟みたいだ。まずおおよその人間はその〝力〟を自分の欲望の充足のために使おうと思いたつんじゃないか......大きな超能力は一種の権力だからね。自分の欲望を満足させ、他人を支配しようとしはじめた時、きっと恐ろしいことが起こる。超能力なんかなかった方がよかったと必ず後悔するに違いない......もしかすると、自分の利益のためにだけ超能力を使う人間は、一種の悪魔みたいな人間になってしまうんじゃないか。そういう気がしてならないんだよ」
「超能力を自己の欲望を満たすためにだけ使う人間は、悪魔になる......」
三千子が呟くように、丈の言葉をくり返した。
「そういえば、黒魔術みたいな邪悪な業がその典型ね。ある種の密教がそうだし、ブードゥー教のような悪魔崇拝もそうだわ。現世利益を祈る祈禱師や行者みたいな人々も、それに近いわね。自分の利益だけ、私利私欲だけが目的で邪悪な〝力〟を授かろうとする人々は、世の中にいくらもいるもの」
「だからこそ、超能力者を結集することは容易じゃないと気がついたんだ。巨大な〝力〟を持った超能力者ほど、自分の〝力〟に自己陶酔するんじゃないか。自分こそ最高の、神に等しい人間だという誇大妄想の虜になってしまうんじゃないか......人のことはいえない。自分の経験からして、そう思うんだ」
丈は赤くなりながらいった。以前の丈にはなかったことだ、と三千子は思った。弟の見せている人間的成長ぶりが眩しいほどであった。丈は急速に成長しつつある。もはや劣等感の強い、自己中心的な少年ではない。まだまだ頼りなげな脆さは首筋に残してはいるが、もはや姉の庇護を必要とするひ弱な少年ではありえなかった。
三千子は心からの讃美を感じながら、一種の寂しさを禁じえない自分を許した。間もなく丈は逞しい雄性として巣立ち、自分の保護は必要としなくなる。それは必ずしも遠い未来のことではないであろう......
「でも、きっと世の中が変ると思う」
と、彼女は確信をこめていった。
「〝幻魔〟がすでに地球に侵攻してきているのだったら、次々に世界中に大異変が生じてくるはずだわ。大変動が来て、これまでの平穏な日常性が崩れ去った時に、初めて人々は覚醒するんじゃないかしら。超能力者たちが結集を遂げるには、きっときっかけが要るのだと思うわ」
「きっかけ? どんなきっかけ?」
「さっきもいったように、それが何であるかはわからないわ。世の中が完全に変ってしまうような何かかも......」
「お姉さんが考えているのは、なにかどえらいことみたいだな」
と、丈は笑った。
「お姉さんの考えは、女には珍しくスケールが大きいものな。まるで、世界の滅亡とかハルマゲドンのことをいってるみたいだ。女予言者だね」
「ひやかさないで。ただ、そういう気がして不安で堪らないのよ。もちろん、何事もなければいいとは思うけど。でも、このままですむとはとうてい思えないの」
「お姉さんのいうことはよくあたるからな」
と、丈はいったが、さして気にしているようでもなかった。
「でも、くよくよ心配してたら体に悪いよ。姉さんこのところ、やつれてる。あんまり気にしない方がいいな。翻訳の仕事も無理しないで......」
「ありがとう。でも、もう一息だから頑張るわ」
三千子は笑ったが、その笑顔は痛々しいように丈の目には映じた。もともとほっそりした体つきが、この数週間でいっそう細くなってしまったようだった。
「相変らず、父さん帰ってこないな」
と、丈は話題を変えた。やつれた姉を見ていると鼻の奥がつんと痛くなってくるのだった。
「七月になってから、一度もうちに帰ってこないじゃないか。ひどいもんだ......いくらよそに居心地のいい家があったとしてもさ......父さん、先月分もうちに金を入れてないんだろう?」
「ええ......でも、心配ないのよ。まだ当分暮していけるから。あんまりそのことは父さんにいわないでね」
と、彼女はややあわて気味にいった。
「お姉さんが無理な仕事で瘦せほそって行くのを黙って見ちゃいられないよ。一度おれが父さんに会って、はっきり話をつけてくる」

丈はきっぱりといった。
「丈......それはお姉さんにまかしておいてちょうだい」
「どうして? もうそろそろ、父親と対等に話してみてもいいころだろう。それくらいは長男の責任だからな」
彼はさして気負っているようすもなく、あっさりといった。丈はどんどん成長して行く、と三千子はまたしても思った。言葉通りに、彼は家長の責任を放棄した父親と対等に話し合うだろう。もう丈は庇護の手を必要としない男性に育ってしまったのだ。
それは三千子にとり息苦しいような情念であった。
8
血圧が降下しているのか、体調が悪かった。生理が始まったせいだろう、腰に痛みが生じていた。三千子の生理はもともと順調な方ではなかった。
健康な時でも、体調が大きく崩れ、寝込んでしまうこともある。疲労が蓄積しているような時は、脂汗が流れるような苦痛に堪えなければならなかった。
猛暑と過労、それに心労が加わって、三千子はまいってしまっていた。仕事は追い込みの部分だし、締切の日時も切迫してきたので、つらいからといって寝込んでいるわけにもいかない。
体が崩折れそうな脱力感に堪え、脂汗を体中に滲ませながら、小さな座卓に向い、仕事を進める。
ともすれば、意識が散漫になり、あらぬ方へさまよいだすのだった。テキストのポケット・ブックのびっしり活字の並んだ頁がぼやけ、無意味なパターンになり、その画面に見憶えのない光景が映りだす。
見知らぬ異邦の光景である。まるで映画のように明確に映写されるのだ。三千子にとってはとりたてて珍しいことではなかった。
急速な動きを伴って、場面が展開されることもある。三千子自身の意識が、高速で飛ぶ鳥のようにぐんぐんと加速して突進して行く。それがいつ果てるともなく続くのだ。
知らない街を歩いていることもある。行き交う通行人たちの顔がはっきりと識別できる。明らかに外国の光景もあれば、日本国内と覚しい場面もある。それも現代とは限らず、過去の時代とわかることもある。人々の衣装や風俗で、それとわかるのだ。
他愛もない白昼の幻想、白日夢であるのかもしれない。疲労時に起きがちなところから、三千子はそれを幻覚症状だと思っていた。目をはっきりと見開いたまま見る精妙な夢である。
今、三千子が視ているのは、汚いよごれた下町、建物も看板もうす汚い、塵芥だらけのスラムの光景であった。英語の看板やどぎついネオンサインが目につく。
まるで地獄の一部みたいに陰気な、ごみ溜に等しい街路である。そこを三千子の意識は歩いていく。靴でさんざん踏まれ、破れた新聞紙が、埃っぽい熱い風に巻きあげられ、路上を舞っている。
行き交う人間たちは全て見慣れぬ黒い肌をしている。壊れた消火栓から激しい水流が噴き上って通りを濡らしている。恐ろしく異質な光景の中の、異質な人間たちだ。
その中を衝撃的なほど明るく輝かしい黄金の長い巻き毛を風になぶらせて、若い白人女性が歩いて行く。
──ああ、ルナ王女だ、と三千子は思った。なんの理由もなく、直感的にそれとわかってしまったのである。
地獄じみた凄惨な暗いスラム街を行く金髪の美少女は恐れ気もなく、勇敢であった。彼女は大きな澄みきった碧い瞳で、だれかを捜している。その瞳からは透明な光があふれだしているようだ。
だが、危険・凶暴な害意に満ちた暗い夜のスラム街を行くには、彼女の姿は痛々しいまでにかぼそかった。
ああ、いけない、沢山の黒い凶悪なものが彼女を餌食にしようとしている、と三千子は胸を痛めた。だれか、彼女についていなければ......やはり丈は彼女を護りに行かなければならない。彼の恐ろしいまでに巨大な〝力〟は、彼女を護るために存在しているのだ。
三千子はルナ王女のために恐れ、心痛し、同時にその勇気に感嘆し、讃美を惜しまなかった。彼女は神聖さにあふれ、白馬に乗ったオルレアンの少女のようだ。その美しい金髪は神聖な霊光のようにさんぜんと輝いている。
おそらく感じるだろうとひそかに恐れていた嫉妬などネガティヴな感情はなにも存在しなかった。暖かいあふれるような情感だけが胸の裡を占めた。
丈のいうことは正しい、と三千子は思った。これだけ大きな使命感と愛を胸に、よこしまな街を行く神聖な少女に対して、どのような敵意を育むことができようか。そこまで卑小になることは、だれにもなしえないだろう。
三千子はさんぜんときらめく黄金の髪の美少女に、大いなる愛の波動が湧きだすのを覚えた。だれしも、心ある者なら、彼女を力の限り助けたいと願わぬ者はいないだろう。
彼女は華美で浮薄な上流社交界の生活に一顧もくれず、汚いスラム街の危険の充満した暗がりに入って行ける勇気の持主なのだ。それは単なる勇気などというものではありえない。ルナ王女のきゃしゃな体を支えているのは、とてつもなく大きな理想家の魂なのだ。なんという大業に手を染めたことだろう。それを成就するのは、たとえ救世主にとってすらも難事であるに違いなかったのだ。
ああ、ルナ王女よ、あたくしもあなたを助けに行きたい、と三千子は思った。もし、このひ弱な体にそれだけの〝力〟があるのなら、すぐにでも飛んで行くのに。
もし、あたくしにそれが不可能だったとしても、弟の丈が必ずあなたをお助けするでしょう、プリンセス。あたくしはそのためにこそ、これまで弟を育ててきたつもりです。弟は逞しい助力者に成長し、あなたの大業成就に寄与することでしょう。
それこそが、このあたくしの使命だったような気がします。他にはなにもない、そんな気がするのです。
三千子は、ルナ王女に限りない愛を感じた。まだ見ぬ王女がいとおしかった。その身はたとえかぼそい風にも堪えぬ美少女でも、心にはいかなる過去の英雄も及ばぬ大志がある。彼女は不屈の意志を持って、未来を切り開いて行こうとしている......
激しく乱暴に玄関の戸を叩く物音が、手荒く三千子を現実に引き戻した。
夢うつつで、彼女は臥から起きあがった。体中に力がなかった。またあの刑事だ、と思った。毒牙を秘めて再び襲いかかってくるのだ。
体をあちこちにぶつけ、よろめきながら玄関へ出て行く。まるで無我夢中だった。しかし、心は冷たくひえびえとしていた。警報機のようなものが遠く、心のどこかで鳴り続けていた。
返事をしたつもりだが、声にならなかったらしい。玄関の戸を乱打する音はさらに荒々しさを加えて続いている。なぜあんなに横暴で傍若無人になれるのだろう、と三千子は不思議に思った。まるで今にも戸を叩き破り、押し入ってきそうな横柄さだ。
やっとの思いで、玄関の戸をはずした。例によって彼女が開けるのを待つことなく、外部の力は容赦なく戸を引き開け、体を押し込んでくる。
奥目の刑事が立っていた。一人きりだ。連れの〝電信柱〟の姿は今日は見えない。
〝奥目〟のへんに粘っこい視線が、胸のあたりにからみついてくるのを感じて、三千子は急いで浴衣のえり元を搔き合わせた。起き抜けのしどけなさを露呈していたのであろう。三千子らしくもないことだった。
「申しわけございませんが、体をこわして臥っておりますので」
と、彼女は掠れ声でいった。まともな声が出ない。
「お話はまたにしていただけませんか」
「大事な用件なんだがね」
と、〝奥目〟はおっかぶせるようにいった。非人間的な高飛車さだ。
「お宅の弟がどうなってもいいのかね?」
「弟が......」
胸に氷塊がつかえた。刑事が丈に不利な証拠を摑んできたことは間違いがないらしい。〝奥目〟は、三千子の動揺にすかさずつけこんだ。
「あがらせてもらうよ。じっくりと話を聞かせてもらわにゃならん」
いうよりも早く靴を脱いでいた。三千子はただ呆然とした。なにかが恐ろしく間違っていた。この奥目の刑事の異様な高飛車さ、理不尽さも、その大きな間違いのごく一部にすぎなかった。
刑事はずかずかとあがりこみ、勝手に応接間に入った。
「お茶なんかどうでもいいから、こっちへ来なさい」
信じがたい横柄さだ。彼女は刑事を家の中に入れてしまった後悔を感じた。とてつもない異和感が胸郭の裡に居座っていた。
三千子は応接間に入る前に、浴衣のしわを伸ばし、裾前をきちんと合わせた。起き抜けの寝乱れ姿を見せてしまった己れのうかつさが腹立たしかった。
刑事はへんにねばつく奥目で、応接間に入った三千子を舐めずるように見ていた。気味悪さを感じずにはいられなかった。その視線には、偏執的な興味があった。全身に鳥肌が立った。それはほとんど強度の色情といってもよい代物であった。
「どんなご用件か存じませんが」
と、三千子は気力をかきたててきびしいきっぱりした声音を出そうと努めた。
「どうぞ手っ取り早くお話しになってくださいませんか。さきほども申しあげましたように、体をこわして臥っておりますので」
だが、言外にこめた非難を、奥目の刑事はまるで感じないようであった。
「あんたはそんなことをいうが、私の話を聞いたら、それどころじゃないと思うだろうよ」
と、〝奥目〟はしんねりとからみつくような調子であった。思わず身慄いが出るほどのいやらしさだった。三千子はこの変質的な刑事にはっきりと嫌悪を抱いた。
この男は三千子によこしまな関心を抱いている。それが女の勘で明確に読み取れるのだった。
「お宅の弟さんに不利な証拠があがってね」
と、刑事は悦楽を匂わせる語調で始めた。ねっとりした光を帯びた奥目は三千子の体を飽かずに舐めずっているようである。
「当日......七月十三日、沢川淳子といっしょにいた弟さんの姿を見ている人間が何人も現われたんだな」
言葉を切って、刑事はじろじろと三千子の表情を眺めた。口許が忌わしい悪魔的な形相を呈しているように三千子には思えた。
「こいつをどう説明してもらおうかと思ってるんだがね」
「それは間違いないことでしょうか?」
懸命に反問しながら、三千子の頭には、沢川一家の死体が発見されない限り、警察は丈をどうにもできないはずだといった弟の言葉が甦ってきた。それが正しいのかどうかはわからない。三千子は法律にはまるで疎かったからである。
「ああ、間違いないね」
刑事がにんまりと笑う。その顔付はますます不快なものになってきた。
「それでは、丈は......参考人として調べられることになるわけでしょうか?」
「それはどうかわからん」
三千子は安堵で心を緩めたりはしなかった。テーブルをはさんでにんまりしている刑事はまったく信用ならなかった。
「なぜですか? 弟が沢川さんといっしょに当日いたというのであれば、当然事情聴取がなされるのではないのですか?」
「お姉さんは、それが心配かね?」
「心配というよりは、それが当り前と思うからです。確かな目撃者であれば、丈を警察に出頭させて、面通しをさせるのではないのですか?」
「お姉さんはいろんなことをよく知っとるじゃないか。インテリだね......もちろん、あんたのいった手順を踏むことになるだろうね」
「それでは、そのようになさってください。弟を警察に出頭させたいのであれば、そういたします。あたくしには何もいうことがございません。どうぞこれでお引き取りください」
それを喋るだけでも苦痛だった。まったくこの偏執的な目をした刑事は堪えがたい人間であった。
「お姉さんにも、いろいろと尋きたいことがあるんだがね」
「体をこわしておりますので、今はご免こうむります。今後は、弁護士に相談した上で、お返事したいと思います。今日はどうぞお引きとりください」
「お姉さん、あんたはなかなか手ごわい娘だね。そんな優しげなきれいな顔しとるくせに、気丈というのかね......まあ、弟をかばいだてしたいというのは姉として当然の人情かもしれんが......」
奥目の刑事はあきらかに三千子の反応を楽しんでいた。彼女が動揺するのが愉しくてならないという変質者の嗜虐趣味が濃厚になってきていた。
「それは、どういうことでしょうか?」
三千子の胸に毅よさが湧きだしてきた。丈を護らなければならない。こんな刑事に負けてはならない。それは彼女を叱咤し、奮いたたせた。
「あたくしは、弟が潔白であることを信じています。弟もそれを証明できるはずです。参考人として出頭させますから、弟に直接なんでもお尋きくださればよろしいと思います」
「参考人? 違うね、そんな生易しいものじゃない」
と、奥目の刑事は、今はまぎれもない嘲笑に口を歪めていった。
「お姉さんはなにか勘違いをしているんじゃないのかね? お宅の弟は重要参考人どころか、歴とした被疑者だよ。沢川一家殺しと邸宅爆破のね。出頭させるんじゃなくて、警察はお宅の弟を逮捕するんだ。手首にがしゃんと手錠をはめ、腰繩を打ってね」
「どうしてですか!? なぜ丈が容疑者なんですか!」
三千子は叫ぶようにいった。
「弟がいったい何をしたというんですか?」
「当日の夜、お宅の弟が沢川淳子といっしょに沢川邸に入るのを目撃した人間がいるんだよ」
と、刑事はにたにた笑いながらいった。三千子は体を凍結させる冷感に必死で堪えた。これは罠だ、と心に閃くものがあった。ここで崩れてはならない。
たとえ、丈が沢川淳子といっしょにいる現場を目撃されていようとも、それはそれだけのことだ。丈を有罪にするきめ手にはならない。
「では、なぜ丈を逮捕しないのですか?」
三千子は遂に踏み留まり、崩れなかった。この奥目の刑事のやり方には、なにかしら非常にいかがわしいものがある。それを明確にさせるのだ......
「丈を逮捕し、取り調べればよろしいでしょう。警察がそう判断していれば、当然丈はすでに拘留されているはずです。あなたがわざわざここへやってきて、姉のわたくしを脅しつけるような真似をするのは、納得がいきません......捜査本部が当夜、沢川邸で本当は何が起きたのかを知りたければ、当然、丈はすでに取調べを受けているはずです」
三千子は自分が理路整然と話し続けていることを今更のように気付き、更に閃きを受信した。
「丈が沢川淳子さんと当日、そして当夜いっしょだった事実を証明する目撃者がもし本当に存在するなら、とっくの昔に丈は尋問を受けているはずです。ということは、そんな目撃者は存在しないんです。つまり、あなたは、あたくしを引っかけるために、でたらめをおっしゃったんです。これ以上、刑事さんとお話しすることはなにもありません。どうぞお引き取りください」
「まったく気が強い娘さんだ」
と、刑事は平然といった。
「捜査にはいろんな手がある。容疑者をすぐに拘留せず泳がせるというのも、そのうちの一つでね。真犯人は自らばたばたもがいて正体を現わすって仕掛けだ。自繩自縛というやつだね。警察が何も知らずにいると思ったら大間違いだよ。それどころか、逆にだいたいの線は摑んでいる」
奥目の刑事の顔を、非人間的な笑みが彩った。三千子をぞっと冷たくさせる陰惨な笑いであった。
「たとえば、当日の夜、沢川邸爆破の直前、お姉さん、あんたは弟さんと邸の中にいたね......」
ぐらっとくる衝撃に三千子は必死に堪えた。綿のように正体なく疲れている体のどこから湧いてくるのかと我ながら驚く気力で、三千子は堪え忍んだ。
「それも、目撃者があるというのですか?」
落ち着いた声が出たのが奇蹟であった。刑事は、さぞかししぶとい女だと思っているだろうな......そんな想念が脳裡を掠めた。今にも崩れそうでいて、崩れない。内部で彼女を支える〝力〟が奇蹟的に湧き出してくるのだった。
丈を護らねばならない、その一念だ。
「もちろん、目撃者は見つけだしてある」
噓だ、と三千子は思った。しかし、この揺さぶりも罠だ。目撃者の存在を否定させようという言葉のトリックだ。彼女が否定すれば、彼女はそこにいたことを認めたことになる......
「決定的な証拠さえあれば、目撃者なんぞはどうでもいいんだ」
と、刑事はいい、やにわに腰を応接椅子から持ちあげた。
「おれは、その決定的証拠というのを摑む自信がある。二階の弟の部屋を捜索させてもらうよ」
三千子が制止する暇もない素早さであった。奥目の刑事はいきなり応接間を出ると、ずかずかと奥へ踏み込んで行った。
「待ってください! そんな無法なことをしないでください!」
三千子は大声で叫んだが、体の方が即座に動いてくれなかった。呆然としてしまったように硬直してしまっていた。
刑事は勝手に階段を二階へ昇って行く。勝手を知り尽しているかのようだ。
いくらなんでも、無法な! しかし、なにかへんだ、と三千子は気付いた。いくらなんでも横紙破りが過ぎるのではないか。
いかに刑事が横柄だといっても、度が過ぎる。〝奥目〟は多少頭がおかしくなっているのではないか。
三千子は、自分のもののようではない、重い体に鞭打って、二階へ昇った。怒りと疑惑で心がぬり潰されていた。
〝奥目〟は、丈の部屋に入り込んで、押入れの戸をガタピシさせて開閉していた。あまりにも勝手を知っているのが、三千子の疑いを更にかきたてた。〝奥目〟は無断侵入したことがあるのではないか......
三千子は腰の痛みに堪えて、ようやく二階へ昇った。徹底的に刑事と争おうと決心がついた。このような無法を許しておくことはできないと思った。
いい加減にしてください! 激しい声を刑事の屈みこんでいる背中に叩きつけてやるつもりだった。
だが、実際に声を出す前に、〝奥目〟はうずくまったまま体をねじ曲げ、背後の三千子を振り返ってにんまりした。
その笑いに名状しがたい妖気を感じて、三千子は声を吞んだ。この奥目の刑事は疑う余地もなく異常であった。完全に常軌を逸していた。単に変質的であり、偏執的であるという以上に気が狂っていた。
「あなた......おかしいわ」
と、三千子は辛うじて掠れ声を絞りだした。
「刑事が令状もないのに、勝手に押し入って捜索するはずがないでしょう......そんな違法を承知でやるはずがないわ。それに、刑事は二人で組んで行動するはずよ。最初に来た時の背の高い刑事さんはどうしたんですか?」
「あいつは役に立たないから置いてきた」
と、〝奥目〟は答えた。人間とは思えないほど耳障りな倍音がまじった厭な音声であった。
「非常の場合はなんでも許される......おれはお前たち姉弟の尻尾をこの手で摑まえてやったんだ!」
「あなたはいったい何をいっているんですか!?」
三千子は声を高めて前へ踏みだした。
「あなたは気が狂っているんじゃないのですか? あとで後悔しますよ......」
「おれはちゃんと証拠を握ったんだ」
と、狂気をみなぎらせて、〝奥目〟はいった。
「証拠? なんの証拠ですか?」
「これだ!」
〝奥目〟はぱっと鳥が発つように立ちあがると、両手に拡げたものを三千子に突きつけた。
三千子の喉に悲鳴がひっかかり、押し潰されたようになり、彼女はただ激しく喘いだ。悲鳴もあげられないほどの驚愕ショックであった。
9
〝奥目〟が両手に掲げ、拡げてみせたのは奇態な袋状のものであった。ずたずたに破れてはいるが、その肉色の袋に三千子は見憶えがあった。
長い頭髪が付着しており、よく見ると、人間の顔と覚しき奇怪な紋様が見分けられた。それはまるで、人間の体皮をそっくり剝ぎ取り、なめした上で縫いぐるみに仕立てたような代物であった。
三千子はその奇怪な皮袋の破片を、爆壊直前の沢川邸で目にしたことがある。グランド・ピアノの残骸の中で、丈が見つけだしたものだ。黒いちぢれた体毛の付着した人間の体皮の切れ端......
「これが逃れぬ証拠だ......」
〝奥目〟は、無気味な縫いぐるみを三千子に向って掲げながらいった。その声がトンネルの向う側から響いてくるように遠く虚ろに聞こえた。
〝奥目〟が両手に拡げているのは、〝幻魔〟によって内部を食い尽され、体皮一枚を残して縫いぐるみにされた沢川淳子の遺骸に他ならなかった。
しかし、なぜ〝奥目〟がそれを持っているのだ。丈の部屋の押入れの中から見つけたと偽る必要がなぜあるのだ?
三千子は貧血を起こし、部屋の中がすっと薄暗くなった。
歯を剝きだして笑っている〝奥目〟の妖気あふれる無気味な顔だけが、視野の中央に小さく映っていた。
「噓! それを持ち込んできたのは、あなた自身だわ!」
自分の声さえが他人のもののように虚ろに非現実的に響いた。
「これで、お前たちを沢川一家殺しの犯人に仕立てるのは簡単だ......」
と、妖鬼のような〝奥目〟がうそぶいた。無気味な皮袋を両手に掲げて歩み寄ってくる。三千子は後退りし、肩が窓ガラスに接触した。
「お前は刑事じゃないわ」
と、彼女は自分の声が話すのを他人事のように聞いた。
「お前は人間ですらもない。人間に化け、人間の皮をかぶった化物だわ。お前は沢川淳子を殺し、中身を食い尽して本人に化け、丈に近づいた。今度は同じようにして刑事の皮をかぶったのね」
「よく見破った」
と、妖鬼と化した刑事がいった。そのびっしり植わった歯を剝きだした笑顔はたとえようもなく人間放れして異質であり、陰惨であった。
「お前は丈につきまとい、ドッペルゲンガーに化けて誘惑しようとした......その試みが失敗すると、今度は、沢川淳子を食い殺して彼女に化け、丈に近づこうとした」
三千子の声は自分のものではないかのように冷静に、怪奇な笑顔の刑事を告発した。
「あたしはお前が何者か知っている......お前は〝幻魔〟なのだわ」
相手は人間の声ではない倍音をまじえた異様な笑声をたてた。
「お前は沢川一家の人々を食い尽してしまったのね。それも沢川淳子に化けて、丈に接近するために......」
「その通り......」
と、相手は人間放れした声音で答えた。充分に非人間的でありながら、人間の姿形を持っていることが名状しがたい恐ろしさを誘った。これは奥目の刑事の肉体を奪取し、中身を食い尽して、余した人皮一枚をかぶっている、何かしら得体の知れない〝物〟なのだ。
「お前の弟を捕えるためにやったのだよ」
と、そいつはきいきい声でうそぶいた。
「弟に近づくためだ......」
「丈をどうするつもりなの?」
「もちろん、殺す」
と、そいつは素早く答えた。
「食い尽して、弟の〝力〟をおれのものにするのだよ」
「丈を食べれば、丈の〝力〟が身につくというのね?」
「その通り......〝力〟を持った人間を食えば、おれの〝力〟はそれだけ増大する......」
おそろしく調子の狂った声音であった。三千子は自分が人外の化物と問答している実感を持った。
「なぜ、丈を直接襲わないの?」
「弟はとても強い。油断させなければならないからだ......油断したところを捕まえる。そして弟を殺す。それがおれの〝力〟を増大させる」
「お前が〝幻魔〟だとしても、お前には地球を破滅させることなんてできないわ」
と、三千子は異様な冷静さを保ち続けながらいった。
「お前は幼稚で頭が悪いもの。お前はただの人食いの化物でしかないし、お前がいくら頑張ったって、地球人に勝てるはずがないわ。お前の正体がわかれば、簡単に退治されてしまう。お前の知的レベルは、低級な肉食動物でしかないもの。それに比べて、丈は比類なく強い。お前を消滅させるのに苦労はしないわ。お前のように頭の悪い下っ端〝幻魔〟は尻尾を巻いてさっさとお帰り。お前の出てきた宇宙の地獄へ」
「ぬかしたな......」
そいつは狂った声でいった。
「おれたちは強い。地球の奴等のように弱くてすぐ死んだりはしない。お前たちはおれたちに食われるだけの生餌だ......おれたちはどんどん殖えて、地球の奴等を食いまくってやる。そして、おれたちの〝力〟は増える。おれたちは更にもっと強くなるのだ......」

「貪欲なだけで、愚かな、低級なお前たちにそんなことができるものですか」
三千子はなぜ自分が、かくも冷静に〝幻魔〟を挑発しているのか、わけがわからなかった。
「お前を食ってやる」
そいつの目が燐火のように気持悪く燃えあがった。
「お前の体の中身をそっくり食って、お前の皮を着こみ、お前に化けて、弟に近づく。弟は気を許すだろう。そこをすかさず捕まえてやる......」
そいつの喋り方はますます人間放れしてきた。壊れたスピーカーの出すような音声である。
そいつが緩慢に迫ってくるにつれて、三千子の肩が当った窓ガラスはみしみしと音を立てた。
そいつの顔は好色さのパロディーだった。燃えたぎる色欲が顔を醜怪にしていた。敵意や憎悪など一かけらもない。食欲をそそられている猛獣の穏和な顔と似ていた。白い大量の泡が口辺からあふれだしてきた。
「お前は可愛くてきれいだ......」
と、そいつは不意に猫撫で声の調子になっていった。
「お前を見るとうずうずした......自分を抑えるのに苦労した......だが、ここでなら、だれからも邪魔は入らない。ゆっくりと時間をかけてお前を食べられる......」
歓喜の波動が伝わってきた。それは強度の情欲、性衝動に酷似していた。
あの黴臭い異臭が漂ってきた。奥目の刑事の体を奪取した異形のものが放出する堪えがたい悪臭だ。三千子は息を止め、その醜怪な顔を見まいとし精一杯顔をねじ曲げた。白い首筋に腱がくっきり浮きあがり、激しく汗が流れた。
「さあ、おれにくれ......その白いきれいな体を......」
窓ガラスにぴったり背中を押しつけて身動きできない三千子に、異形のものの手が伸びてきた。浴衣のえりに摑みかかる。三千子が激しく喘ぎ、体重がかかった窓ガラスがミシミシときしんだ。
そいつは全身がインクに漬けたように青黒くなってきていた。かぶっている体皮の色が変色してしまったのだ。おそらくその異形の体から体液の如きものを分泌し滲出させているのであろう。青黒いトカゲのような色に染まった手が、三千子の浴衣のえり元にかかり、恐ろしい力で一気に引き裂いた。
鋭い激しい音を発して浴衣の生地が帯のあたりまで裂け、半身がだらりと垂れさがった。蒼白いほどの皮膚が静脈を透かして剝きだしになる。
そいつは色情に憑かれた凌辱者の笑声をたてた。露出した小ぶりだが形のいい乳房に青黒いトカゲの手を這わせにくる。そいつは今や全身から青いインクのような体液をしたたらせていた。
「可愛い女だ......お前がそっくり食えるなんて、おれは幸福だ......」
異様な声音で口説くそいつの口がぱくりと大きく開き、その口腔の奥から青光りする鱗をもったなにかがぎゅっと伸びだした。
びしっと板を割るような音とともに、三千子の背後で窓ガラスに亀裂が走り、割れ砕けた。バラバラ......と足許に窓枠をはずれたガラス片が落ちる。
喪心したように三千子の体がずるずると沈みこんで行った。青黒いトカゲの手が、半分残った浴衣のえりを摑み、宙吊りにしようと彼女の体を引き上げる。
三千子の右手が急激に動き、次の瞬間掌ほどの鋭角なガラスの破片が、そいつの顔面を襲っていた。左の眼窠に深々と突き立てられる。
そいつは呻き声もたてなかったが、わずかに怯んで棒立ちになった。青い鱗に覆われた何かが口腔内に逆戻りしてしまった。
三千子は素早く逃げた。冷静なのか無我夢中なのか、自分でもわからなかった。なにかが乗り移ったみたいに、体が勝手に動くのである。窓ガラスが偶然に割れて、とっさにガラス片を武器に応用したのか、それとも武器にするためにガラスを押し割ったのか、三千子自身にも判断がつかなかった。
三千子はそのまま階段を駆け降りた。そいつがすかさず後を追ってくるのがわかっていた。鋭い尖ったガラス片で顔を刺されたぐらいでたじろぐような化物ではなかった。
三千子は夢うつつの非現実感の虜になり、不思議に恐怖はなかった。体になんの力もなく寝込んでいたのに、体が意外なほど素早く動くことを不思議に思っていた。
そいつは三千子を台所に追いこんだ。鋭いガラス片は左目に突き立ったままだが、青黒い異様な顔はショックの色もなく、平然としていた。怒った様子もなかった。たとえようもなく非人間的な思考形式が、その人間とは異質な脳髄の奥でなされているのだった。蛇や鰐の心の方がよほど人間的といえたであろう。
「逃げてもむだだ......」
異形のものは気を悪くした気ぶりもなくいった。
「抵抗しても無駄だよ。お前の弟のように特別に強くなければ、お前たち人間はおれたちにかなわない。おれに食われた人間たちはずいぶん抵抗したが、結局は食われるしかなかった......お前たち人間の力では、武器を使ったところで、おれたちを傷つけたりやっつけたりすることはできないのだよ。だから、逃げてもむだだ......さあ、おれに食べさせてくれ。その白いきれいな体を......」
顔面に白く光るガラス片を突き立てたそいつは、おぞましい青黒い死骸が生きて動いているようであった。
おそらく、そいつのいう通りだろう、と三千子は思った。異形のものは、地上の生物ではない。不死身の生命力を誇っているに違いない。いかなる攻撃も効を奏さないとそいつが豪語するのは本当だろう。
「さあ、こっちへ来るんだ......白い可愛い女......」
と、異形のものが口説いた。
「おれはお前が好きさ......お前は気が強くてしっかりしている。どこまでも抵抗しようとしている......お前を食べれば、きっとおれは〝力〟が強くなる......おれはもっともっと強くなるのだ......お前の弟の丈を食らえば、おれは百倍にも千倍にも強い〝力〟を持てる! おれはどんどん大きくなり、強くなるのだ......」
「丈をお前なんかに食べさせるものですか」
三千子は強い決心をこめていった。
「あたしは丈を護る! お前などに指一本触れさせるものですか!」
再び異形のもののぱっくりと開いた大口の奥から、青光りする異様な形状を持った器官が伸び出した。それは異形のものの凶暴な本体だ、と三千子は知った。そいつは、その青い鱗に包まれた棍棒状の器官によって、人体へ侵入する。発狂を誘うほど、それは奇怪な凌辱のイメージを有していた。
三千子は後退りし、流しに置いた柳葉包丁を右手に摑んだ。肉迫してくる異形のものに向って突きだす。包丁の刃は青い鱗を持った器官に当ったが、傷つけることはできず、空しく滑った。
青黒いトカゲの手が三千子の包丁持つ右手を摑み、もう一方が左手を捕えて反撃を封じた。その力は人間を超えていた。万力に締めつけられるのと同じだった。三千子のかぼそい手首は激痛とともに力を失い、柳葉包丁を落した。抗いようのない怪力だった。そいつは三千子の両腕を引きちぎることさえ簡単にやってのけたであろう。
猛烈な糞力で、じりじりと三千子を引き寄せるそいつのぽかっと開いた大口から青い棍棒状の器官が更に突出して、彼女の顔に迫った。
首の筋肉が張り裂けるほど強くよじりながらも、横目でそれを見ずにはいられなかった。棍棒状突起の尖端は磯巾着の開口部みたいに無気味に笑み割れ、白い粘液をしたたらせていた。
異形のものは、その醜怪な器官を捕えた犠牲者の体腔部から侵入させ、貪り尽すのであろう。三千子は顔をめがけて伸びてくるそれを避けて、首を左右に打ち振った。それは彼女の顔を捉え、口腔を犯す意図を明白に見せて、彼女の顔の動きについてきた。
それが自分の口を犯し、体内へ侵入する想像のいやらしさおぞましさに、狂気の波が三千子の心を浸し始めた。
「丈!」
三千子は掠れ声を出した。声に力がこもらなかった。へんに体が痺れたようになり、脱力感がじんわりと拡がりだした。
「助けを呼んでもむだだよ......」
人間のものではない汚れた声音がいった。
「この次は、弟の番だ......さあ、口を開けるんだ。もう観念するんだよ......」
身慄いを起こさせる不快な感触が顔面にぶつかった。青い器官の尖端が、掌を拡げたようにがばっと開いた。周囲に無数の触手がぞよぞよとうごめいている。
彼女の顔面部にそれが貼りつき、窒息させる気だ、と直感する。異形のものは、体を意のままに変形させる能力を持っているのだ。
──丈! と、三千子は再び胸の裡に叫んだ。そいつが自分を内部から食い尽し、彼女自身に変形して丈を襲う、それだけは許してはならないと思った。
だが、どうすればいいのだ。真黒な絶望感の中へ三千子は沈みこんで行こうとした。
その暗黒が突如、音もなく引き裂けたような気がした。ぎらぎらと光り輝く真紅の炎が壁となって前後左右に立ち上った。猛炎の包囲だった。
それは一瞬の幻覚だったろう。だが、心を掠めた目を射る猛火の輝きは、その幻覚の中から現実の中へ躍り出てきた。
火が発していた。真青な華麗な火炎が、異形のものの背後に光輪のように現われ、それは轟音とともに天井に達する高さに噴きあげつつ、そいつを包んだ。
幻覚ではなかった。これほど美しく恐ろしい炎を三千子は見たことがなかった。
凄烈な青炎はオーラと化して、異形のものを包みこんだ。そいつは三千子の手を放し、物凄い叫び声を立てた。悲鳴さえも非人間的だった。
面も向けられない熱波が三千子の顔に押し寄せてきた。彼女はよろめき逃れ、そいつを押し包んでいる火炎が、ガス台のレンジから噴出していることを知った。
バルブが自然に開いて生ガスが噴きだし、自動点火でもないのに火を発したのだ。そしてその猛烈な炎は垂直に上方へ向って立ちあがることなく、空間で折れ曲って異形のものに吹きつけたのだ。
ありえないことが起こっていた。奇蹟と呼ぶほかはない。丈だ、となぜか三千子の脳裡を直感が掠めすぎた。丈の〝力〟が起こした奇蹟だ......
猛火に包まれた異形のものは、床に転がり、這いずった。生きながら烈しく燃えあがっていた。凄まじい業火が天井まで立ちあがっている。生きながら灼かれる轟音の恐ろしさといったらなかった。三千子は両耳を掌で塞ぎ、生ける火葬の燃焼音を聞くまいとし、大声で叫んだ。
異形のものは生ける火球となって床を転がって行き、勝手口のガラス戸を押し破り、裏庭へ転がり出た。
きりきりと回転したが、猛火は消えず、いっそう火勢を強めた。そいつ自身が引火性のきわめて強い可燃物ででもあるかのような、激烈な燃え方であった。火薬に引火したように閃光が更に火球から噴き、更に烈しく燃焼し、熱気を噴出した。
おそろしく長く感じられたが、火を発してからはごく短時間で燃え尽してしまったようである。家に火炎が燃え移らなかったこと自体も奇蹟に属した。
青い猛炎を凄壮に噴きだし、きりきり舞いするさまは、三千子が幼いころ見た焼夷弾が炸裂するさまに酷似していた。それは彼女の古い記憶層を揺がし、全てを幻影と感じさせる悪夢の記憶世界に誘った。
空気中に充満する鋭く刺激する異臭が、三千子をめまいとともに、幼い過去の世界、戦火の猛火に閉ざされた世界へ引っ張りこもうとした。真青な火炎を噴きだす焼夷弾、夜空を真赤に灼き焦がし、丈余の高さに立ち上る猛炎の壁。
それは五歳の三千子が遭遇した東京大空襲の火嵐の夜の記憶だった......
めまいが幻覚を生みだしていた。
「お母さん!」
と、幼い三千子が叫ぶ。激越な火嵐の生む疾風がなにもかも周囲の一切、可燃物の全てから火炎を噴きださせる。火炉と化した路上に無数の人々が転がり、松明のように燃えあがっている。
「助けて! お母さん!」
真紅と化した火炎地獄の空間の中に、幼い三千子の母なる人が立ち現われ、三千子の小さい手を握りしめる。
「お母さん! こわかった! お母さん! どこにも行っちゃだめ!」
三千子が声を限りに叫んですがりつく、その母なる人は、奇妙なことに彼女の亡母ではない。輝く黒い瞳の、それは亡母とは似ても似つかぬ女性である......
そのきらめく黒い瞳の輝きは、丈のそれに似ている......そして三千子自身にも似ている。黒い瞳の小柄な女は、しっかりと幼い三千子の小さな手を握りしめた。
もう大丈夫だ。三千子の心を限りない安堵が満たした。〝お母さん〟といっしょにいれば大丈夫なのだ。もうなにも心配することはない......
そして、三千子は、物凄い業火の海に少しも恐怖心を持っていない自分に気がついた。炎はいつも彼女の人生についてまわる。恐れることはなにもない。彼女は不死鳥の如く、猛火の中から生まれたのだから......
幻覚が消えた。猛火もまたすっかり消えていた。熱気だけがオーヴンの内部のように空気を焦がしている。ガスレンジから噴出した恐ろしい青炎はあとかたもなくなっていた。そんなことがあったとは信じられないほどだった。
が、台所の天井はおびただしい煤が真黒にこびりつき、木の床は黒い焦痕が這っている。勝手口のガラス戸は倒れて、破片を飛散させる惨状を呈していた。
夢でも幻覚でもなかったのだ。
後庭の柿の木は重く繁った葉を茶色に焼け焦げさせていた。変色した庭土に灰の堆積が残っていた。
その原型も留めず、完全に燃え尽きていた。真夏の午後の熱した空気を、わずかに湿った風が動かすと、灰の堆積が飛び散り、舞いあがった。
不意に甦ったような油蟬の啼き声が喧しかった。
三千子は剝きだしになった蒼白い胸部を左手で抑え、じっとりと汗を滲ませながら、頭の中を空白にする暑苦しい油蟬の声に耳をかたむけていた......
暑い。ただひたすら暑く、思考能力が蒸発したかのように、なにも考えることができなかった。なにかひどく大事なことが甦ろうとしていたのに、それは蒸暑い淀んだ真夏の大気の中に消え失せてしまっていた。
10
巨大な都市が過熱していた。ニューヨーク市ぐるみ、すっぽりとオーヴンの内部へ突っ込まれてしまったようだ。
鉄とガラスとコンクリートのアスファルト・ジャングルは、熱帯樹林と化したかのように息苦しい蒸し暑さと熱波が充満していた。
ニューヨーク市の夏は、北海道に等しい緯度にあるくせに、殺人的、凶悪なほど暑い。特にこの数年の夏の暑気の凄まじさは毎夜人死にを出す異常なレベルに達していた。
凶悪な暑さは、肉体のみならず人の心を疲れさせ、堪え性なく怒りっぽくさせ、苛立ちを増大させる。そして治安を悪化させるのは、暑さのあまり眠れぬ人間たちが深夜まで街々を彷徨するからだ。
特にスラム街では寝苦しく、眠れぬ人間たちの苛立ち、鬱屈、怒りは発火点にまで高まり、貧困と人種差別に反抗する政治的指導者の煽動が効を奏し、暴動、掠奪が頻発している、激越な焦怒の夏であった。
一九六五年の夏、ロサンゼルス・ワッツの暴動に始まり、ハーレム、デトロイト、ニューヨーク、ワシントンと、とめどもなく拡大される都市の黒人暴動は、〝長い暑い夏〟と呼ばれ、いっかな鎮静化の徴しすら見せなかった。
ニューヨークのブラック・ハーレムは、マンハッタン島の北東部、ハーレム河とイースト河に囲まれた地域だ。一九〇一年、最初の黒人流入があるまでは、ニューヨークきっての美しい土地であった。
今では人口密度のみならず、最も塵芥密度の高い、人間のごみ溜だ。ニューヨーク市の黒人人口の半分、五十万人が住むこの凄まじい犯罪地区で育つ子供のうちの大部分が、遅かれ早かれ、警察のお世話になり、刑務所、売春婦更生施設で、人生の教育を受けることになっている。
汚れて痛んだ建物同様、人の心も荒廃していた。黒人暴動の慣れで、タガのはずれたハーレムは、白昼から凶暴無残な荒廃の雰囲気で満たされていた。夜ともなれば、そこには秩序はなにもなくなる。大きな顔でのし歩いているのは、黒人マフィアの連中とチンピラどもだ。
もはや白人は警官といえども入って行けない魔窟と化していた。ユダヤ人を初めとする白人経営の店舗はかたっぱしから掠奪され、破壊されて廃墟と化している。黒人暴徒は秩序維持のため出動した警官、火災で駆けつけた消防士に襲いかかり、殺そうとする。それらの公務にたずさわる者が白人であろうが黒人であろうが、見境いはない。まるで黒人暴徒自身、自分たちの住む街を地上からきれいさっぱり焼き払ってしまいたいと激しく願っているようであった。
貧困と犯罪の凄まじい廃疾と化した、己れたち自身を消去したいと願っている激烈さで暴動はくり返されるのだった。
異常な荒廃の夏がマンハッタン島の上に淀んで、動く気配すらも見せなかった。市警本部の警官隊と州兵部隊が一触即発の危機に備えて招集を待っていた。
この夜も信じがたいほどの物凄い熱気がマンハッタン島の上に居座っていた。冷房の効いた建物でなければ、朝まで一睡もかなわないということが明白であった。
タクシーの運転手は、ハーレムに入ることをもちろんきっぱりと拒絶した。頭頂の薄くなった筋肉隆々の上半身を持つ運転手だった。腕などはポパイの敵役のブルートさながらの物凄い太さで、針金と見まがう剛毛が生えていた。どう見てもタクシー・ドライバーにはもったいない厖大な筋肉の量であった。
「とんでもねえ」
と、ブルートみたいな運転手はいった。怯気を振るうというより、好んでロードローラーの前で寝そべる気持はないという率直さであった。
「今は観光客はだれもハーレムには近寄らないね。黒ん坊の奴等、この暑さで煮立ってるからね。入ってったら最後、二度と出てこられないことは確かだよ。肉切包丁でバラバラにされて、下水へ捨てられちまうだろうよ」
それは狂気の沙汰であるという内容を、運転手は辛辣に語った。
「まあ、酔狂でお客さんがたが、ハーレム見物に行くのは勝手だ。ただし歩いていくよりあるまいよ。今は車を走らせるだけで、ショットガンをぶっ放してくる気違いがいるからな」
いったい、この客は何者だろう、とブルート運転手は考えていた。一人はとてつもない美人だ。金髪の豪華さといったらない、とびきりの上玉だ。今時のハーレムへ入って行って、無事に出てくる気遣いはまったくない。狂気にとっつかれ目を血走らせている黒ん坊のけだもの野郎どもが絶対に見逃すはずがないのだ。
彼女はおそらく身分の高い外国人の観光客なのだろう。ロマンティックな興味を持っているので、ハーレムの危険など気にもならないのだ。
これほどの美人が、スラムの黒ん坊のけだもの野郎の手にかかるのかと考えると惜しくなった。だが、いくらハーレムの物騒さを話しても、彼女はいっこうに気にかけもしないのだ。
しかし、このきれいな金髪娘の連れの、ごつい野郎の凄さといったらなかった。たぶん名のあるプロレスラーか何かかもしれない。たしかに用心棒としてはうってつけだ。まったく大型戦車みたいな体格をしていた。
ブルートみたいなタクシー・ドライバーは体格には自信たっぷりだったが、客席のごつい大男にはかぶとを脱いだ。なにかしら得体の知れぬ物凄さを秘めていた。その怪異な面の迫力といったらなかった。なにしろ赤や青で隈取りがしてあるのだ。まるで戦いの化粧をしたインディアン野郎みたいだ。
若いころ仲仕や用心棒などをして、荒っぽい事に通じた運転手は、本当に凄い奴は見ただけでわかると己惚れていた。
まあ、普通だったら、この怪異な隈取りの大男がのっそりとやってきたら、スラムの黒ん坊どもも気を吞まれて道をあけるだろう。このごつい奴が並みはずれて手強いことは、低能の黒ん坊のけだもの野郎にだってぴんと通じるからだ。
ところが、今夜みたいに暴動待ちという形勢だと、黒ん坊どもはみんな気が狂ってるから、普段と違うことをする。ありったけの拳銃、刃物、棍棒が使われる時を待ってうずうずしているのだ。
黒ん坊どもはいっせいにこのアパッチ・インディアン野郎に襲いかかるだろう。そうなったら最後どんなにごつい野郎だってどうにもならない。あっという間に脳みそが全部バラされて、頭の鉢から飛びでることになってしまう。
「お客さん、やめとくんだね」
と、運転手はありったけの親切心をかきたてて、客席の二人に忠告した。
「少なくとも、今夜はやめといたほうがいい。黒ん坊ども、暴動を待ちかねてるんだから。なにかきっかけがあれば、あっという間におっ始まるんだ。そんな中へ入っていったら、生きちゃ戻れないぜ」
が、客席の二人はなんの反応も示さなかった。忠告を聞いた気ぶりさえもなかった。
「では、ハーレムの入口で降ろしてもらうわ」
と、美少女の方が、わずかにドイツなまりの感じられる英語で命じた。いったいなにを考えているのかさっぱりわからなかった。運転手はこれ以上忠告する気を失くした。制止してもむだだとわかったからだ。この二人はまっすぐハーレムに入って行き、すぐに生を失くしてしまうであろう。
だが、それが望みだとあれば、傍からなにをいってみたところで仕方がない。
のっぽのごつい奴は平然として、人間放れした陰鬱な目玉をぎろぎろ光らせていた。世の中にはへんな奴らがいるもんだ、とタクシー運転手はしみじみ思った。
気がとがめたが、それを振り払って、セントラル・パークの角で、二人を降ろしてやることにした。
「ほれ、そこをまっすぐどんどん入って行くんだ」
と、運転手はいった。
「お望み通り、黒ん坊どもがわんさと涼みがてら、暴動が起こるのを待ってるだろうよ。なあ、お客さん。思い直すんなら今のうちだぜ」
二人とも返事をしなかった。美少女のほうがタクシー代を払い、ちゃんとチップもくれて車を降りた。
車の外に出てみると、ごつい奴が思ったよりもはるかにでかいのが運転手にもわかった。七フィートはたっぷりあるだろう。小柄な美少女は奴の掌に尻をのっけても、たいしてはみだしそうもなかった。
タクシー運転手はしばらくの間、首をねじ曲げて、奇妙な二人連れが波打つ夜の熱気の中に歩み去って行くのを見送った。ごついアパッチ野郎は、この糞暑いのにスーツをきちんと着こんで、汗をかいている気配も見せなかった。確かにあの二人ともかなり気が触れていることは疑う余地がなかった。
運転手は頭を振って、唾を車の外に吐き、後頭部を搔いた。それから勢いよく車を発進させたが、当分あの気違いじみた二人連れのことが頭を去りそうもないことはわかっていた。
何が起こったか、どうせ明日の新聞に載るだろう。あの気違いじみた二人連れが、騒ぎの種にならないはずはないのだから......
もちろん、ブルートまがいのタクシー運転手の予想ははずれるはずがなかった。
11
大気は熱いスープみたいだった。ルナ姫はさすがに異星人ベガがうらやましかった。サイボーグ戦士の彼は、数百度の寒暖差にもびくともしないのだ。
生身のルナ姫は、純白のサマー・ドレスが汗でよれよれになるのを心配しなければならなかった。
とにかく、こんな猛暑は生まれて初めての経験であった。以前、ニューヨークには一度来ているが、爽やかな空気のひやりとした秋口の訪米であり、真夏のニューヨークが焦熱地獄であろうとは、夢にも思わなかったのだ。
暑がりのルナ姫にとっては、難行苦行のニューヨーク滞在であった。おまけに、エア・コンディショニングの行き届いた高級ホテルで涼んでいるどころか、人捜しのために熱気の波打つ中を足を棒にして歩きまわらねばならないのだった。
暑さなど何も感じないサイボーグ、ベガが時として憎らしくなることさえあった。何不自由なく姫君としてすごしてきたルナ姫が、日常生活に関しては〝でくの棒〟に等しいベガの面倒まで見なければならないのだった。
ルナ姫は身につけた宝石類を換金して、金を作り、安宿に泊っては人捜しに励むというまったく新しい生活パターンを身につけなければならなかった。
ルナ姫は大西洋上の航空機事故で死亡したことになっており、戸籍上の身分も金もなにもない、幽霊に等しい身の上になっていた。大ホテルに投宿すれば、トランシルヴァニア王女の顔を知っているだれとばったり出くわすかもしれなかったし、所持金が限られている以上、高い宿泊代はとうてい払えなかった。
彼女は金を稼ぐ才覚がまるで欠如していた。占い師をやれば、けっこう商売繁昌したろうが、お姫様育ちが禍いして、そこまで頭がまわらなかった。
全て付人にこれまでまかせてきたルナ姫は、地球では無能力者に等しいベガのために、服を手に入れてやるだけでも大苦労を強いられた。身長七フィートもある巨人に着せる服は簡単には手に入らなかったからである。
しかし、所持金の残高を気にしながらも、五番街のブティックであれこれ買物するのはけっこう楽しかった。彼女が付人なしで行動するのは生まれて初めてだったのである。
従者の如くついてくるベガは、凄まじいばかりの異彩を放っていたが、ニューヨークではあまり気にする人間はいなかった。じろじろ眺める目がないわけではないが、ニューヨークという土地柄、いかなる奇態な人物も、あっさりと受容されるゆえであった。
鋭い観察力を持つ人間にかかれば、ベガが非・人類存在であることはあっさり看破されそうなものだが、それを指摘した人間は一人もいなかった。
だれかがルナ姫に、彼はプロレスラーかと尋ね、そうだと答えて以来、それで押し通すことになった。ベガが腰間に吊っている奇妙な武器についても、とがめだてする人間はいなかった。それは人類が考える武器とはあまりにもかけはなれていたゆえであった。彼がその武器一つで、地球全部の軍隊と対等以上に戦えるなど、いかなる突飛な想像をも超えていたからである。
それに尖端文明の地、ニューヨーク市では、奇抜なファッションに凝る人間に不自由することはありえず、異星のサイボーグ戦士ベガも極端なファッション・デザイナーの作品として許容されたようであった。

無口なベガはいつも黙々と、ルナ姫の後を音もなくついて歩いた。この二人の組合せほど人々の目にとり理解に苦しむものはなかったろう。実に奇抜なコンビであった。気品と威厳をたっぷり持ち合わせた美貌の金髪娘と、インディアンの戦士を想わせる怪異な隈取りを顔面に施した雲突くばかりの巨大漢。富豪令嬢とその用心棒というのが一番ありきたりな解釈だった。
マフィア大幹部の娘と用心棒という推理もあって、これはルナ姫の気に入った。面白がってそれらしく振る舞おうとしたくらいだった。好奇心から気軽に声をかけてくる手合いがぐっと減るからでもあった。ベガの大型トラックのような凄まじい巨体を見て、人々はルナ姫に接近する気を失くしてしまうのだった。マフィア選り抜きの用心棒のイメージに、サイボーグ戦士の不吉なデザインは無理なく合致していたからである。
地球における日常性に関していえば、サイボーグ戦士ベガは無能力者にも等しかった。軍隊の機構の中で生きてきたベガにとり、地球の文化はことごとく理解に苦しむ代物であった。ベガの知識には、泥棒という職業犯罪者はさておき、売春婦、ヒモ、ポン引という概念が欠落していたからである。麻薬密売者、強盗、追剝、詐欺師、ペテン師の類いも、血肉化した知識とはいえなかった。戦闘専門家にしてみれば、まったくの縁なき衆生でしかなかったからであった。
学ぶことは無限にあった。歴史、政治、経済、文化、なにもかも早急に詰めこまなければならなかった。ルナ姫がそれらに関し、有能な教師とはいいがたかったため、ベガの苦労は多かった。文字を憶えてからはずっと楽にはなったが、なにぶん図書館に入り浸りというわけにもいかなかった。
とにかく、ルナ姫はむやみに精力的に外を出歩き、用心棒としてはついて行かなければならなかったからである。
彼女が、やがては己れの片腕となるべき超能力者を捜していることはわかっているものの、こればかりは、援助するにもベガの能力を超えていた。
ルナ姫には、イメージがあるらしい。名前や住所までははっきりしないにしても、人捜しにかかった時には、相手の容貌まで明確にイメージ化されているようであった。
東京における東丈を捜しだした時は、実にみごとであった。丈のほぼトータルなイメージを完全に摑むことに成功していたのである。
それに引き比べ、今回はいささか手間取った。
捜索の対象人物が、ごく若い黒人、あるいは黒人の少年か幼児というところまで突きとめられたにもかかわらず、それ以上特定することが困難になってしまったようであった。
ルナ姫にとって今度の人捜しがあまり気乗りしないためだろう、とベガは口には出さないが推測していた。丈の場合の精力的な捜索活動とはうって代って、注意力の集中が持続せず、ルナ姫はブティックの買物や美術館巡りに精を出しているように見受けられたからだった。
ルナ姫の心の中には、黒人に対するわだかまりがあるように、ベガには感じられた。日本人の丈に対しても、ルナ姫の態度にある種のぎごちなさを感じたことだが、今回はそれが際立っていた。彼女はそのしこりと対決することを避けて、ブティック巡りに精力を注いでいるようにさえ見えた。
彼女には、ベガが鋭敏な観察力を備えている事実がどうにも納得できないようであった。彼女ほど有能なテレパシストが、およそその能力にそぐわぬ鈍感さを示していた。おそらく、ベガのメカニカルな生命体としての外観に目が惑わされているためだろう。ベガの心に対して、注意力を集中したことがないためでもあった。
ベガは無数の星間種族に接した経験から、ルナ姫の内心の葛藤の類推を試みていた。彼にいわせれば、地球人の人種の差異はほとんど取るに足りない僅少なものでしかなかった。おそらく、彼女が幾つかの代表的な星間種族と知り合えば、彼女の人種主義など雲散霧消するにきまっていた。彼女を捉えているのは、特殊な閉鎖社会における価値感であった。
ヒューマノイド・タイプの星間種族の中には明らかに爬虫類や昆虫をそっくりそのまま連想させる連中もいて、ルナ姫がもし彼らを見れば、人種主義などあっさりと吹っ飛んでしまうだろう。その程度の浅はかな代物でしかないのだった。
だが、今はルナ姫自身で、己れの人種主義の性向は解決しなければならない。ベガが口出しすることではなかった。
ルナ姫には、純粋な反面、驚くほど無知で傲慢な、そして鈍感な一面があった。テレパシストとしての異常な鋭敏さ繊細さを向けない限り、他人の心がまったくわからないという驚くべき矛盾を持ち合わせていることも、その一つであった。
こんなものだと大ざっぱに決めこむと、その固定観念に目を塞がれて、明白な事実が映らない愚鈍な盲目になってしまうのだ。非常な同情心、憐愍と並列して、恐るべき非情さ冷酷さを同居させているのだった。
たとえば、嫌いなものはとことん嫌いであり、頭から拒否してしまう。受容どころか、理解する気さえ全く持たなくなる。偏見と誤解を訂正する気も持たない、徹底した偏狭さの虜になってしまうのである。彼女の有色人種嫌いがそれであり、隠す気すらない率直さであった。
もちろん、彼女の頑固さ狭量さは、その美点を覆い隠してしまうほどではなかった。いかにいやがっていようとも、己れの義務をそのために放棄してしまうことは決してしなかった。
彼女の人類への忠誠心と愛は、疑う余地のない明確なものであった。もっとも、彼女のそれが向けられるのはもっぱらヨーロッパの白人社会の規範であって、圧倒的に人口では優る有色人種への配慮はほんのお義理であり、添えものでしかなかったことも確かである。
だからこそ、ルナ姫が黒人スラム街のハーレムへ足を踏み入れるべく下した決心を、ベガは賞讃することができた。たとえそれが、さんざん逡巡し、一日延ばしにした挙句の結論であったとしても。
12
まったくのところ、これ以上の客観の視点はないというベガの目をもってしても、猛暑の夏のハーレムは、ルナ姫にとり好ましい点はなに一つないといってよかった。
夜遅くなっても、ニューヨーク市の上に居座った熱暑はいっかな減衰する気配を見せなかった。
暑がりのルナ姫はまったく気の毒なほどへこたれていた。ぐったりした体をなんとか動かしているのは、彼女の気力であり、強靭な意志そのものだった。
夜のハーレムは暑いだけでなく、異様な臭気が漂っていた。暴動が一触即発の危機にあるため、市の衛生局の塵芥回収車が出動を拒んでいるからだった。そのため夜の大気は巨大なゴミ溜みたいな熱気と悪臭に満たされていた。
警察がルナとベガの二人連れを発見したら、なんとしてでもハーレムへの進入を阻止したであろう。一触即発の暴動の引金に充分なりうるからだ。
しかし、二人は感づかれることなくハーレムへ入りこんでしまっていた。
ハーレムに住む黒人は、その全てが麻薬中毒患者、アル中、売春婦、ポン引、麻薬密売人などといった連中で占められているわけではない。善良な市民も数多く住んでいた。
一九六〇年代に入ってブラック・モスレムの運動が盛んになり、ブラック・パンサーなど黒人過激派も台頭し、ハーレムはゆっくりと渦巻きつつ、人種戦争へと加速を続けていた。黒人は、白色人種への恐怖と追従をはねつけ、〝黒は美しい〟を合言葉に、白人への対決姿勢を強めつつあった。黒人は公然と白人に挑戦し、白人権力への憎悪と敵意を叩きつける気力を獲得したのだった。
都市の黒人暴動は、白人に歯向うことを知った黒人たちの自己主張の一部だった。いつまでも白人の靴の下に這いつくばっていないぞという黒人の意思表示といえた。
そして、人種戦争へ突入したハーレムは戦場と化し、荒廃した。ハーレムの街角という街角には数日分の塵芥が積まれて山と化し、ブラック・モスレムの消毒薬を振りかける努力も空しく強烈な腐臭を放っていた。市衛生局はまったく寄りつこうとしなかった。それだけで市街戦が勃発する可能性があったからである。
街路に出ているおびただしい黒人たちの大半はピストル、刃物を初め、武器を所持していた。市警の警官隊が突入してくれば、たちまち何日も続く射撃戦が始まるのだった。
ハーレムの街路はおびただしい屑が散乱していた。それらの塵芥を片づけようとする努力はとうの昔に放棄されてしまったのだ。
散乱しているのは塵芥だけではなかった。おびただしい麻薬中毒者、アル中が街路にじかにごろごろと寝ころがっていた。罐ゴミ、ウイスキーやジンの空瓶、汚れた古新聞紙、食物屑、あらゆる塵芥の中で、人間も屑と化していた。
売春婦たち、ポン引、ハスラーたちがあちこちに固まって大声でどなりたてるように喋り合っている。彼らは電気に触れたように、奇怪な二人組を見ると喚きたてるのをやめ、無気味な沈黙をもって、白く光る凝視を送ってくる。
消火栓を開いて、派手に噴水を噴きあげさせているのは黒人の不良少年どもだ。いずれの顔も、二人組の動きを魅せられたように光る目で追っている。
確かにこの二人組は、注視するに足るだけの値打ちがあった。夜目にも豪華に輝く明るい黄金の髪をした白い美少女と、人間放れした巨軀を動かしていく奇怪なインディアン戦士(?)との二人連れだ。
彼らは、異様な凝結した沈黙をもって迎える黒人住民たちを、まるで気にしていないようであった。さながら、無人の土地を往くように平然と、白い目を刃物のように光らせている黒い人間たちを無視してはばからないのだった。
街路に出ている殺気立った黒人住民たちの大部分は、奇妙な二人組を不審げに視線で追うだけだったが、何人かの男たちは、二人組の後をゆっくりと追い始めた。
商店には〝黒人経営〟と貼紙が目立った。ユダヤ人を初め白人経営者の店は全て閉鎖されている。掠奪を受けて破壊された店舗が多い。
奇妙な二人連れの後を、綿帽子のように獰猛に頭髪をふくらましたアフロ・ヘアの黒人の大男たちがゆっくりとつけて行く。それは草食獣の群れの後をついて行くハンティング・ドッグさながらの無気味な静けさをはらんでいた。
二人連れは急がず歩いて、ブラック・モスレム教会の前を通りすぎた。街頭に出ている黒人たちは等しなみにぴたりと鳴りをひそめて、二人を迎える。
あまりにも奇妙な二人連れが落ち着き払っているので、逆に気を吞まれてしまうのだった。彼らは異常な異物である。この殺気立った猛暑の夏の夜に、ハーレムへ侵入する白人などいるはずがない。その確信を平然と打ち破る超常識の二人だったからである。
もしも二人連れがこそこそと歩いていれば、侵入者としてたちまち険悪な黒人群衆に包囲されることになったろう。
しかし、彼らがあまりにも超然として黒人たちを無視しているために、ほとんどの黒人はその場を動きもせずに二人連れが通るのにまかせた。
しかし二人を尾けていく獰猛な黒人たちの数もしだいに増えて行く。無言のまま押し黙って、ただついて行くのである。もちろん非武装の者は一人もいない。これみよがしにでかい拳銃を腰ベルトの間に押しこみ、ナイフや棍棒を左右の手でもてあそびながら、無気味な期待をこめて、ゆっくりと二人の後を歩いていく。腰にオートバイのチェーンをずっしりと巻きつけている黒人もいる。非行少年の愛用する武器である。
「かなり殺伐な雰囲気になってきたようですな」
と、ベガは素気ない口調で感想を述べた。もちろんサイボーグ戦士の彼にとってはなにほどのこともない。蟻が群れをなしているのと同じことだ。しかし、この雷雲が迫るような敵意の激しい雰囲気は、テレパシストのルナ姫にとっては、相当の重圧になるはずであった。
「彼らはわれわれを憎んでいるらしい。なぜですか、王女?」
と、ベガが尋ねる。このような盲目的な憎悪は納得がいかないのだ。
「わたくしたちが白色人種だからでしょうよ」
と、ルナ姫はあまり気乗りしない返事をした。なにか別のことに精神を傾けているため、周囲の状況には目が向いていないのだった。
「白人と黒人の仲の悪さは、一口には説明できないわ......歴史的なものだから」
「おかしなことです。肌の色の違いが、深刻な争いの種になるのですか? いっそ、すべての人種が混血してしまえば、闘争は消えて失くなるのではありませんか?」
「無理よ、そんなこと......そんな理想論を口にする人もいるでしょうけど、決して実現はしないでしょうね」
ルナ姫がおざなりの口調でいう。
「ひとつお尋きしたいのですが......」
と、ベガがいんぎんに持ちかけた。
「もし、王女が黒人男性を配偶者に持てば、生まれる子供は、黒白の縞になりますか、それとも斑に?」
「冗談いわないでちょうだい!」
ルナ姫は突如、激越な反応を示した。いたくプライドを傷つけられたのだ。もちろん、ベガがそんなことを本気で質問するほど無知とは思えなかった。
「おや......何かお気に障りましたか?」
ベガは平然としていた。
「当り前です! わたくしが黒人を夫に持ち、混血児を生むなど、冗談でも口にすることを禁じます! わたくしはいやしくもトランシルヴァニア王国の王女ですよ! そのようなことで嘲弄することは許しません!」
ルナ姫は本気で怒っていた。ベガを打ち据えたいというように、小さな拳がきつく握りしめられ、雪の白さになっていた。瞳が青い炎みたいに爛々と輝いている。
「嘲弄など、とんでもないこと。地球人類の抱えた諸問題の複雑さに驚嘆しているだけです、率直に申しあげて、人種差別という問題は、私の理解の外にあります。かつて私は、ヒューマノイドとはおよそかけはなれた、爬虫類型星間種族と親交を持っておりましたのでね。〝大連盟〟には人種問題など存在する余地がありませんでした......慣れてしまえば、昆虫型星間種族だって気にならないものですよ、王女」
ベガがさりげなく語る意味はよくわかっていたが、それでもルナ姫は腹の虫がおさまらなかった。それは生理的嫌悪だからだ。
──黒人だって、慣れてしまえば気にならないものですよ、と彼はいいたいのだろう。だが、生理的嫌悪には慣れなどはない。かえって深まるだけだ。
「とにかく、その話題は今後一切禁じます。わたくしの前で決してしないでください」
彼女は激しく、きっぱりといった。
「お言葉を返すようですが、王女。今後あなたは超能力者と協力する上において、相手がたとえ黒人でも黄色人種でも、親交を結んでいかざるを得ないのではありませんか? それに現在、捜しておられるのも、相手は黒人ではないですか? そのような差別や嫌悪をあからさまに表明されては、とうてい協力などかなわないのではないかと思いますが......」
「ですから、それは決して口にしないことです! そのようなことは考えたくもありません。わたくしはどんな人種とも協調するように努力します。けれども、絶対に人にいわれたくないこともあるのです! これだけいったら、わかるでしょう。もう二度と口にしないでください! いいですね......」
「承知しました......」
ベガは、彼女の語調の激越さに驚きながら答えた。ルナ姫は、黒人を個人的によく知っているわけではない。恐らく一人の知人もいないだろう。それなのになぜ、黒人をそれほど受容することを強く忌避し、嫌悪することができるのか、彼にはさっぱりわからなかった。彼女は己れの建前と本音の明らさまな食い違いに敢えて目をつぶろうとしているのだ。
にもかかわらず、ベガは彼女の努力を認めざるを得なかった。彼女が大きな偽善を抱えているにせよ、決死の勇気を振り絞り、困難に挑んでいる姿勢を賞讃せざるを得なかった。
所詮ルナ姫は完全無欠な人間ではない。それどころか、圭角だらけの欠点の多い人間である。しかし、彼女の全ての短所を集めても、彼女の美質を覆いかくすことはできなかった。
ベガは、彼女が物事に真正面からひたむきに取り組む姿勢が好もしかった。とにかく彼女は外見からは想像も及ばぬ頑張り屋であり、努力の人だった。多少気位が高くて高慢な所は目をつぶることができた。
なんといっても、彼女は世間知らずの同義語であるところの、正真正銘のお姫さまだったのだから。
二人は八番街へ入った。二人をつける黒人の男たちは二十名を超す人数にふくれあがってきた。彼らの残忍な期待もまた大きく育っていた。更に、二人、三人、と尾行の集団はふくれあがって行く。
いずれも体は大きいが、まだ年齢はきわめて若かった。若いくせに恐ろしく残忍凶暴な面相が多かった。人間放れした凄惨な顔付きであり、鏡を見れば本人ですらたじろぐに違いなかった。何かしら憑きものがしているような異様さであった。
もっとも、とり憑かれているのは彼らだけではない。ハーレム全体が異様なものに憑依されていた。それはサイボーグのベガにすらはっきりわかる濃厚な雰囲気であった。
「王女。彼らは襲ってきますよ」
と、ベガが警告した。
「気をつけてください。私のボディーに密着して離れないように......」
「わたくしたちを殺す気だわ」
と、ルナ姫は、たいしたことではないという風にいった。
「でも、彼らに当ってみれば、例の子供の居場所がはっきりするかもしれない......」
「東丈の時には、あれほど簡単に彼をキャッチしたのに、今度はずいぶん手間取りますな」
「皮肉をいわないで。なにもかも順調に行くとは限りませんからね」
「どこへいらっしゃるのです? わざわざ彼らに機会をくれてやるのですか?」
先に立つルナ姫が、いきなり大通りから路地へ折れるのを見て、ベガは不審げにいった。
「ここでは想念波が多すぎて邪魔だからです」
と、彼女はじゃけんな口のきき方をした。相手の察しが悪いと不機嫌になる性癖があらわになっていた。勘の鋭敏な人間にはありがちなことだ。
「どぶ川の中にすっぽり潜って捜し物をするような気分です」
と、ルナ姫はいまいましげにつけ加えた。
「どうしても気が散って、うまく捉えることができません。ゴミ溜のなかにいるみたいに臭くて......」
精神集中ができないのは嫌悪のためだった。塵芥の臭気のせいではない。人種主義者の心が嫌悪の情に堪えないからだった。黒人を人間屑、人間以下の劣等な動物として嫌い、蔑んでいるルナ姫の心が、超常感覚の集中を妨害しているのだった。
自分は恐れているのだ、とサイボーグ戦士に告げたかった。告白して助言を得たかったが、高貴な白色人種としてのプライドがやはり妨害した。
黒人は生理的に嫌悪を誘うし、恐ろしくもある。特に彼女たちをつけまわしている黒ん坊たちは邪悪で凶暴で人食いの犬みたいな恐ろしさがあった。とうてい人間とは思えなかった。ハーレムにおける凶暴な黒人の凶暴さは無類のものである。明らかに人間以下のものになりさがった存在の、非人間的な恐ろしさだった。
だが、恐ろしいのはそれだけではない。己れ自身の魂の中に居座っている、冷酷さ非情さも恐ろしいのだ。黒人なぞ人間と思っていない、非人間的な苛酷さが大きな氷塊みたいに感じられる。それが強固な人種主義であることは、自分でもよくわかっているのだが、さりとてどうにもならなかった。振り捨ててしまうことも忘れてしまうこともできなかった。
黒人の若者たちは、最初の五倍ほどにも増えていた。もし、二人が走りだせば、たちまち雪崩を撃って殺到してくるであろうことは容易に察しがついた。沈黙の中にはりつめた緊張は、今や手で触れそうな密度に高まっていた。
ルナ姫が足を停めて振り返るのを見て、ベガは巨大な体軀で彼女をかばうようにして、抜け目なくガードした。だれかがいきなり彼女を射つかもしれなかったし、その前に防禦手段を講じなければならなかったからだ。
黒人の若者たちは、およそ五十名を数えた。人数をたのんでいるので、今はベガの人間放れした巨軀に対する恐れもなくなっていた。剝きだした目玉に白目が異様に光っている。
しかし、足を停めて対峙したルナ姫は、彼らを戸惑わせたようであった。
「わたくしは人を捜しています」
と、ルナ姫が凜然と高く張った声音でいった。その声は張り詰めた銀線が震えるように響きわたり、竜の吐息のように熱く生臭い夜の大気を涼しくさせるようだった。
「お前たちに尋きたいことがあるのです」
王女様のご下問そのままであった。次の瞬間の彼女の行動ほどベガを驚かせたものはない。
ルナ姫はいきなり歩みだし、つかつかと殺気をはらんだ黒人暴徒集団のただ中へ分け入っていったのである。
あまりにも意外であり、唐突でもあったので、黒人暴徒たちはベガ同様、意表を突かれた。気を吞まれたようにルナ姫に道を開けた。ルナ姫の小柄な体は、丈の高い黒人の大男たちの中に埋没してしまった。
ベガは彼女の無謀ともいうべき勇気に感嘆せざるを得なかった。小柄で華奢な体のどこにあれだけの勇気がひそんでいるのだろう。今の彼女は、サイボーグ戦士ベガの掩護などまるで気にとめていなかった。
「わたくしの尋くことをよく聞いて、質問に答えなさい。いいですね?」
その高飛車さといったらなかった。自分を明らかに殺そうとしている黒い人間たちの群れをものともしていないのだ。ベガがついているから、というだけではあるまい。己れの使命を果すことだけに熱中して、恐怖を忘れてしまっているのだ。
「わたくしが捜しているのは、不思議な〝力〟を備えた若い黒人、ないしは黒人少年です」
と、ルナ姫は始めた。暴徒たちは気を吞まれたまま、耳を傾けていた。
「その子供は、普通の人間にはない力を持っています。手を触れずにものを動かしたり、壁の向う側にあるものを、壁を通して見たりできます。未来に起こることをいい当てたり、失くなったものを捜しだすこともできるし、相手が何を考えているか、いい当てる力もあります。しかし、その子供が一番上手なのは、壁を抜けることのはずです。鍵のかかった窓のない部屋から消え失せてしまうこともできるのです。その子供を閉じこめておけるどんな檻も監房もありません。手錠をかけ、縛りあげても効き目がなく、風のように抜けだして行ってしまいます。そう......お前たちが〝悪魔小僧〟と呼んでいる子供がそれです。彼がどこにいるか、教えなさい......」
暴徒たちは顔を見合せ、興奮した声音で声高に喚きあい始めた。
「そう、その子供の名は〝リンクス〟です。〝リンクス・ギャング〟を率いている黒人少年です。わたくしは彼に逢って話すことがあります。〝リンクス〟がどこにいるか、教えなさい......」
ルナ姫は黒人の若者たちの発する思念波を読み取るために、次々と質問を浴びせ続けた。言葉による答は問題ではなかった。彼女の質問を受けて、反射的に彼らの心が返す思念をキャッチすればいいのだった。
黒人の若者の一人が、黒人スラングだらけの恐ろしくわかりにくい黒人米語で、詰問するように激しく喚いた。
それが口火になり、黒人暴徒どもは口々に喚き始めた。大きな黒い拳を威嚇的に突きあげ、目を剝きだして凄まじく怒号していた。
白人の女が〝リンクス〟を捕まえてどうするのか、とルナ姫に詰問しているようだった。
「この白人女は〝リンクス〟を捕まえて、鞭で打ち、黒い皮を剝ぐんだ!」
と、凶悪な衝動に憑依されていることが一目でわかる、黒い顔が真赤な口をあけて喚きちらした。怒りの叫喚が湧き起こり、それに唱和した。
「白人女を殺せ! 白人を殺せ!」
「お黙り!」
と、ルナ姫の銀線のような声が凜然と響きわたった。恐れを知らぬ、威厳に満ちた叱咤であった。
「お前たちにもう用はないわ! 道を開けなさい! 退りなさい!」
ルナ姫が白いかぼそい手を水平に持ちあげ、厳然と命ずる。これはたいしたものだ、とベガは思わず陶然となった。王女の凜然たる気迫は、夜気にたちこめた暑気を追い払い、沛然と降りだす雷鳴まじりの夕立のように爽快そのものであった。
もちろん、世間知らずだから出来ることに違いない。王女の権威が黒人スラムでも通用すると思いこんでいるのであろう。
黒人暴徒たちの憎悪は沼地から湧きだす有毒ガスのようだった。白人への憎しみの熾烈さは、女であろうといささかも容赦しない物凄さであった。
白い女、ルナ姫への害意は、サイボーグ戦士ベガでさえ冷たいものを感じるほどであった。
これほど凶悪な黒い顔は見たこともなかった。悪夢の中にのみ現われる恐ろしい化物の面であった。
「旦那様に嬢様方。おらたちは一文なしでがすだ。なんでもええだから、恵んでくだせえまし......」
恐ろしいものが潜んでいる黒人言葉のパロディーであった。
「おらたちも、旦那や嬢様みてえないい服が欲しいですだ。上等な腕時計も、上等な靴も欲しいですだよ」
「おらたちの黒い汚らしい娘っこも、嬢様の素敵なおべべを羨しがってますだよ。どうか恵んでやってくだせえ、哀れな黒ん坊どもによう......」
「チリチリちぢれてねえ金髪も、真白な肌もなあ、おらたちの黒いすべたは欲しがってますだよ。気前のええ旦那様に嬢様方よう、ついでにそいつもお恵みくだせえまし。お願いしますだ......」
嘲り声であった。ベガが殺到するより早く、ルナ姫はサイボーグ戦士を制止する身振りをした。ベガはブルドーザーさながらに黒人暴徒たちを排除することができるのだ。
「ベガ! まかせておいて!」
と、彼女が叫んだ。
「白人野郎が!」
凄まじくも毒々しい罵声が飛んだ。ダムが決壊する一瞬であった。
「ここをどこだと思ってやがるんだ! チャラチャラ歩きまわりやがって! 白人の汚ねえ豚野郎!」
単車のチェーンが弧を描き唸りを生じて、ルナ姫へ襲いかかり、白い小さな顔に巻きついた。
ぞっとするような悲鳴があがった。
が、悲鳴を迸らせたのはルナ姫ではなかった。彼女の右隣りにいた黒人の若者が、血を噴く顔を両手で摑んで転げまわった。凶暴なチェーンが、黒い皮膚と肉をむしり取り、真赤な血を噴きあがらせたのだ。
憎悪に狂った喚声をあげて、棍棒がルナ姫に打ちかかった。殺人的な重量と破壊力を持った棍棒が命中すれば、彼女の頭蓋は陶器のように砕けたろう。

だが、その重い棍棒も、ルナ姫をそれて、別人の黒人暴徒の頭を叩き割り、大量の鮮血を飛散させた。撲殺された牡牛のようにばったりと倒れてしまう。
そこへサイボーグ戦士ベガの巨軀が乗り込んで行った。見るに見かねたのだ。うおーっと咆哮をあげて、凶器を手にした凶徒の群れが渦巻いた。ナイフが閃き、棍棒が振り降ろされる。
凶器がベガの衣服を裂き、音を発してサイボーグ体を激しく撃つ。ベガが長い両手でかき分けると、凶徒たちの体が紙細工みたいに軽々と左右に吹っ飛んだ。周囲の仲間を体ごとぶつかってなぎ倒し、一〇メーターもころがって行く。
渾身の力で振り降ろされる黒い手に握られた凶器は、サイボーグ体に掠り傷さえも負わせることができない。破れたスーツの間から、異様なメカニズムが現われ、凶徒たちは驚愕に目玉を跳びださせ、這うように逃げた。
ようやく相手が並みの人間ではなく、彼らの想像を絶した異常な怪物であることを悟ったのだ。
黒人たちは呼吸を停め、魅入られたようにサイボーグ戦士の怪異な、威嚇的な姿に見入った。凄まじい恐怖の表情が現われてきた。
だれかが拳銃をベガに向けて射ちこんだ。弾倉のありったけを射ちこむ。弾丸はベガの巨体の肩口に胸に腹に、火花を発して跳弾となり、砕け散った。
ベガは平然と拳銃を射ち尽した相手を捉え、宙に投げ飛ばした。人間砲弾のように軽々と空中をダイヴィングし、仲間の頭上に落ちた。
奇声をあげて、恐慌に陥った全ての凶徒が逃げ散る。いずれも正気が消し飛んでしまったのだ。
ベガは腰に吊った巨きな〝万能銃〟を抜き取り、敗走する凶徒に向けて発砲した。風になぎ倒された葦みたいに、黒人たち十数人が路上に長く伸びた。残りは死物狂いで足を空ざまに逃げ去って行く。
ルナ姫は無事だった。蒼白な仮面のような顔をベガに向けていた。
「大丈夫ですか、プリンセス。お怪我はありませんでしたか?」
ルナ姫は黙ってうなずき、ベガがさしだす巨大な手につかまった。ショックを受け、疲れてもいるようであった。
「ご心配には及びません。彼らは死んではいません。王女が意識を読むのにご入用かと思って、幾人か捕まえておいただけです」
「その必要はありません。彼が何者で、どこにいるかもわかりました......」
と、ルナ姫はいった。ベガの巨腕に支えられてようやく立っている心許なさであった。
「お疲れになったのですか?」
「憎悪に満ちた心は、わたくしを疲れさせます。とくにこれだけ多数の人間の心が憎悪の叫びを放っていては......」
黒人凶徒の心に接触することが、彼女のエネルギーを奪い去り、枯凋させたようであった。サイボーグ戦士ベガは、疲れを知らぬ巨腕にルナ姫の軽い華奢な体を載せた。彼女は両腕をベガの太い首に巻きつけ、体を安定させた。甘えるようにしなやかな体をすり寄せる。眼下に点々と死骸のように散乱している黒人凶徒の体を見降ろし、身震いした。改めて恐怖がこみあげてきたようであった。
黒人たちが死んではいないとわかっていても、恐怖の凶暴な余波が体を慄わせた。彼らはまさか、この騒ぎが、黒人大暴動のきっかけになるとは思いもつかなかった。
「黒人の子供の名前は、ソニー・リンクス。〝悪魔小僧〟と呼ばれています。この黒人の男たちにさえ恐れられているほどの、ギャング団のボスのようです。彼の超能力は非常に強大で、リンクスはそれを行使することにいささかの躊躇もしないからです。残忍で気まぐれで、敵が沢山いて、ひどく憎まれています。にもかかわらず、彼は黒人の英雄でもあるのです......ニューヨーク市警を彼が好きなように翻弄できるから......彼は危険な恐ろしいギャングのボスです。こんなボスは世界に二人といないでしょう」
「そんなに凄い奴ですか? まだ若いんでしょう?」
と、ベガが尋ねる。
「若いといっていいのかどうか......ソニー・リンクスは、五歳の黒人の幼児なんです」
と、ルナ姫はいった。
13
ルナ姫はすでに、黒人幼児ソニー・リンクスの精神波帯を捕捉していた。
それが可能だったのは、ソニー・リンクスが精神感応者としての能力を持ち合わせていたからだった。日本人の東丈より、はるかにテレパシーのサイキック能力は優れているのがわかった。
ソニー・リンクスはとてつもない子供であった。
五歳の幼児に率いられた〝リンクス・ギャング〟は、ハーレムにあっても特異な非行少年グループであった。頭目は五歳のリンクスであり、最年長者は十八歳の灰色熊のような体格の黒人少年で、二十名ほどの構成員の年齢はその両極端の間に散らばっていた。
〝リンクス・ギャング〟の中には、ソニーのローティーンの実兄が二人、ハイティーンの従兄が二人加わっていたが、ソニーが頭目である事実には少しも影響を及ぼさなかった。
五歳の彼より年長者で力も強く、体格も優れ、世故に長けた悪智恵の働く連中揃いだったが、にもかかわらず、ソニーの権力は強大そのものであり、不動のボスであった。
なぜなら、ソニーはまぎれもない天才児であり、黒人の〝スーパー・ボーイ〟だったからである。
彼は二十名の配下を常に従えての神出鬼没の活躍により、ハーレムの商店主たちの鬼門となっていた。
なぜなら、五歳のソニー・リンクスは不世出の大泥棒であり、ハーレムの商店主たちは、彼がその輝かしい才能に満ちた経歴を開いて行く過程につきあい、さんざん苦い目に遭わされたからである。彼らハーレムの店主たちはユダヤ人を初めとする白人経営者が大部分であり、黒人パワーの増大に軌を合わせた、〝リンクス・ギャング〟の活躍は実際の被害以上の脅威をもたらすものだった。
怪盗団〝リンクス・ギャング〟は日一日と勢力を伸ばし、脅威を増大させつつあった。始末に負えないのは、〝リンクス・ギャング〟にかかると、店側がいかに用心し、警護手段を講じたところで容易に突破され、存分に荒されてしまうという点にあった。
そして店主たちにとってなによりも痛いのは、店内が徹底的に荒されているにもかかわらず、外部から侵入した形跡がないため、保険会社が盗難保険の支払いを渋り、あるいは拒否することだった。いかに被害が甚大であっても保険金が払われれば、実害はない。ところが、〝リンクス・ギャング〟に限って、盗難の被害は店主の丸損になりがちであった。買収してある警官と慣れあいで、外部から侵入した形跡をでっちあげないかぎり、保険会社といつまでもいい争う煩に堪えなければならないのだった。
ハーレムの商店主たちから〝悪魔小僧〟と尊称されるソニー・リンクスは、早くも利発さを発揮したのか、あるいは年長の狡猾な従兄から吹きこまれたのか、けちくさい食料品店荒しは卒業し、もっと金目の電機製品や時計や貴金属などを狙い始めていた。親しい故買屋はいくらでも盗品を買い上げてくれて、〝リンクス・ギャング〟は隆盛の一途を辿っていた。
〝悪魔小僧〟と尊称される五歳の黒人幼児は、いかなる超心理学者も遭遇したことのない超能力の巨人であり、その明確な〝力〟は奇蹟能力としかいいようのない超絶的な精神移送能力にかかっていた。
それは常に十数人の配下をテレポーテーションにより、警戒厳重な倉庫内部に送りこむことのできる、とてつもない〝力〟であった。この精神移送能力により、ソニー・リンクスは、絶対に捕まることがなかった。たとえ間抜けな配下がボスの指示を守らず、警備員の手に落ちることがあろうとも、ボスのリンクスは決して捕まらず、捕われの配下を必ず奪還するという放れ業を演じ、子分どもの絶大な尊敬を獲得し、黒人世界の賞讃を一身に集めるのであった。
〝悪魔小僧〟ソニー・リンクスは若年ながら不世出の大物黒人としての評判を高めつつあった。彼は白人のものを盗むのではなく、白人によって黒人が盗まれたものを奪い返すというテーゼにより、黒人英雄の道を歩んでいた。
少なくとも、この夜までは。
この夜、〝リンクス・ギャング〟は、ハーレムには不在中であった。ソニー・リンクスとその配下たちは、五番街の毛皮卸商の倉庫を襲っていた。
このところ、めっきり悪智恵に長けたリンクスは、ケチな食料品店荒しとはもう手を切っていた。五歳にして彼は、金こそが万能の切札だと確信し、全米一の大盗の道をひた走ろうとしていた。
いずれは銀行も襲うだろうし、そのうちノックス砦の金塊を狙うようになるかもしれない。彼の異常な超能力がそれらを可能にすることは疑いの余地もなかった。
倉庫の中は宝の山だった。黒テンやミンクを初め、高価な何万ドルもする毛皮コートが唸るほど蔵いこまれていた。アメリカ女は例外なく毛皮気違いである。故買屋はいくらでも喜んで引き取る。
「ほれ、見ろ! どうだ、凄えだろう! こいつを着てよ、七番街を歩いてみろってんだ!」
配下たちは黒豹や狐の毛皮をてんでに着こみ、すかしたモデルのようにファッション・ショーを気取っていた。汚れたTシャツを着た、真黒けな餓鬼どもには、まったく縁のない豪奢をきわめた代物である。
「馬鹿野郎、おめえ、オカマになりてえんだろう!」
「こいつを一枚、シュガーにやりてえな。シュガーの奴、恐ろしくカッコつけてこいつを着てねり歩くぜ!」
「だめだ!」
と、ソニー・リンクスの従兄のバッチがどなった。
「そんなことをしてみろ、一発で足がつくじゃねえか! 安淫売のシュガーが逆立ちしたって本物のミンクが着られるかよ。警官がたちまちシュガーから剝ぎとっちまうぜ」
バッチは十六歳で少年の家から戻ったばかりだった。世故に長けていて、頭が切れた。何がヤバくて何がオーケーか、よく心得ている少年だった。〝リンクス・ギャング〟のナンバー・ツーで、ソニーの参謀であった。
〝リンクス・ギャング〟は少数精鋭主義で、ほとんど血縁で固めていた。麻薬中毒などは厳重に排除して組織の純潔を守っているのである。ブラック・パンサーに習ったやり方で、持ち込んだのは、黒豹党に心酔しているバッチであった。そのため〝リンクス・ギャング〟の実入りの大部分はブラック・パンサーやブラック・モスレムに献金として流れていた。
食料品店を襲う、セコいやりかたを改革し、本格的な白人膺懲に切り換えたのも、バッチの差金であった。黒人団体の全国的な台頭とともに、黒人の若者たちがいっせいに右へ習えして、黒人の権利意識に目覚めた風潮を反映していた。たとえ泥棒であっても、強奪者白人から取り返す義挙なのである。
その点は、五歳の幼児ソニーといえども例外ではなかった。〝白人の豚野郎〟をやっつけることこそが唯一無二の正義であった。
今、〝悪魔小僧〟ソニーは、コーラの瓶を右手にラッパ飲みしながら、高価な毛皮コートを着こんだ配下たちがふざけまわるさまを、不機嫌な面で睨んでいた。
今夜はなぜか、心が楽しまないのだった。朝から予感がつきまとっていた。彼は自分の予感がまずたいていの場合、的中することを経験上心得ていた。
なにか、重大な手違いが起こりそうな気がしていた。それは、彼自身の生活に大変化をもたらす可能性があった。
予感があるならば、計画を変更すればいいものを、彼はこれまでの実績に基き、自信過剰になっていた。
彼自身の超能力の威力に、絶大の確信を持っていたからだ。
ソニー・リンクスは己れが逮捕者の手に陥ちることなど、想像することもできなかった。それこそ、相手がガードマンであろうが、警察であろうが問題外であった。警官のでかい手が彼の首根っ子を抑えつけた後になっても、精神移送能力を発揮することにより、スカを摑ませてやることが自由自在にできるのだった。
彼を幽閉、監禁しておける、いかなる檻もまた密室も存在しなかった。彼を捕えようと努力することは、幽霊を捕えようとすることと同じだった。
彼の配下が捕獲者の手に落ちた場合も同じことがいえた。ソニー・リンクスは即座に配下の監禁を解き放つことができ、それゆえ配下の絶対の信頼と尊敬をかちえているのだった。
実際、〝悪魔小僧〟ソニーは天下無敵であり、この世に恐れるものなど一つも持たなかったのだ。
その常勝将軍ソニー・リンクスがどうしたことか今夜は落ち着かず、情緒不安を覚えているのだった。
間違いなく、なにかが彼の身に生じようとしているのだ。
ナンバー・ツーのバッチの命令で、配下たちはとびきり高級な毛皮コートを選び、床に積みあげ始めた。安物はみなほうり投げてしまう。〝リンクス・ギャング〟は、盗品の運搬手段に苦労することはない。頭目のソニーが手を触れて、〝魔法〟をかけるだけで、獲物は、正当な所有者の占有を離れ、故買屋へのルートに乗ってしまうのだった。
「ボス、用意ができたよ」
と、バッチが声をかけたが、ソニーは耳に入らないように、コークのボトルを握りしめて、目は中空を睨みつけていた。
ソニー・リンクスの顔はカーボンのように真黒であった。頭髪は小生意気に綿帽子みたいなチリチリのアフロ・スタイルだ。への字になった分厚い唇の上に、鼻があぐらをかき、琥珀色した目が小憎らしく光っている。
ふてぶてしい顔であり、幼児にしても、ただものでないという印象を与える面構えであった。
自分よりはるかに年長者を子分にしているのだから、度胸も知略も本物といえた。まだおむつが取れて二年しかたっていないのである。
だが、今、ソニー・リンクスはナーヴァスになっており、他に深く注意を奪われて、バッチの言葉が耳に入らない有様であった。
「ボス、もういいぜ」
と、バッチは声を高めていった。今夜のソニーはそわそわしており、明らかにどうかしていた。いつも率先して掠奪に加わる彼が、今夜は物色もせず、コーク・ボトルを手にしてい、ただ目をぎらぎらさせているのだ。
「待てよ。なんかおかしいんだ」
と、ソニーは上の空でいった。配下たちはたちまち不安な気分に捉えられて、ボスの周囲に集まってきた。こんなソニーはまだ見たこともなかったからだ。
「なんか、こう、胸ん中で声が聞こえてきやがるんだ......」
心に接触してくるのが、正確には声であるのかどうか、ソニーには判断できなかった。テレパシストとしての才能を持っているソニーは、人の心の動きを気味悪がられる正確さで感知することができた。精神集中すれば、相手が何を考えているのかわかるのだ。ある時には、精神集中などしなくても百発百中で他人の思念をいいあてることが可能であった。
だが、今回のように、明らかに異質な他人の思考とわかる波動が、胸の中央から湧き出してくるのは初めての経験であった。
実をいえば、その感覚は、しばらく前から──数日前からそこはかとなく生じており、不定愁訴のようにソニーを悩ませていた感じであった。
なにか他人との間の隔壁に隙間が生じて、他人の心の動きが雑音のように洩れてくるという不安定な気分であった。いつもソニーがやっているように、心を他に向けて雑音のような他人の思念をきっぱりと閉めだしてしまうことが、今回に限りどうしてもできないのだった。
いくら隙間をパテで埋めても、しつこく漏洩してくる雨水のようであった。耳鳴りのようにまとわりついてやむことがなかった。さすがの〝悪魔小僧〟も、自分が気が狂うのではないかという強迫観念の虜になりかけていた。
いつも他人の話し声が聞こえるといっているうちに発狂した自分の祖父のことを知っているからだった。糞じじいは恐ろしく耳が敏いことをかねがね自慢していたそうであり、若いころは一ブロックはなれた建物の中の話し声が全て聴きとれるという地獄耳の持主だそうであった。
それがアル中のよれよれの糞じじいになってからは、天国の天使の声が聞こえたり、地獄の悪鬼の声が聞こえるようになり、しまいにはハーレム中の黒人の考えていることが全部わかるといいだした時は、すでに気が違ってしまっていた。
その狂態を知っているだけに、ソニーは怯えずにはいられなかった。どんな声が聞こえようとも、スウィッチを切るように心をそらしてしまえるなら問題はない。聞くまいという意志で、これまではシャットアウトすることができたのだ。
ところが、今回のはそうではなかった。聞き慣れない外国語放送を聞くように、想念の声がしきりに胸の中央あたりに湧き出してきて、煩わしくてならなかった。非常に遠方で聞こえる放送のうちはまだよかった。この数十分で、放送局が隣りの建物に引っ越してきたかのように、にわかに強く鮮やかに入りこんでくるようになったのだ。
今ははっきりとその放送が指向性を持ち、他ならぬソニー・リンクス当人に向けられていることが明確になってきた。
そいつは、ソニーを狙っていたのだ。もはやわけのわからない外国語放送を聴くような代物ではなかった。
鋭く激しいメッセージすら伝わってきた。それはブラック・パンサーの闘士が木箱に登り、聴衆をアジテートする激越さに充分匹敵するものであった。
鋭い権威的な女の声とわかり、ソニーは本能的に反感をもった。これまで彼を権威で抑えつけようとした女は、彼の母親を初め、ろくな奴ではなかったからだ。
ソニーの人生の戦いは彼をごつい手で殴りつける母親との戦いから始まっていた。女の圧制ほど憎むべきものはなかったのである。
五歳にして、ソニーは母親を初めとするあらゆる世俗的権威の膝下から脱却していた。教会も学校も──ソニーはまだ就学年齢に達していなかったが──彼の自由を束縛する力を失っていた。なぜなら彼は、ソニー・リンクスであり、黒人英雄だったからだ。
権威的な女の声とは別に、彼は強い危機感に心を締めつけられた。それは、時折ソニーを襲う予知感覚の閃きだった。何事か危険が肉迫していることは間違いなかった。
だが、その危険がいかなるものなのかはっきりせず、ソニーは心を悩ませた。胸中にいよいよ明瞭さを増してくる声と関係があるのかどうかわからず、彼は全力をあげて、予知感覚をもたらすものを究明しようとしていた。
ソニーの消し炭のように黒い皮膚には汗が滝のように流れ落ち、目は固く据って、空ろに光った。
彼を捉えた異常な緊張が、配下たちを不安に陥れた。こんな頭目はかつて一度も見たことがなかった。ソニー・リンクスは頭がどうかなってしまったらしい......それが配下たちの一様に受けた印象であった。
「ソニー! なんか様子が変だ! ソニーってば!」
と、バッチが従弟の肩を摑んで揺すった。
「やばいぜ! ソニーまで変になっちまってる!」
と、ソニーの実兄の一人デニーが声をあげた。恐慌の徴しの冷風が一同の胸に流れこんだ。ソニーが時折、トランス状態になり、魂の抜殻になってしまうことは、身内の彼らがよく知るところだった。彼らには窺い知るよしもない神秘体験を持っているのだ。
それ自体は無害なソニーの奇癖とみなしているが、大事な仕事中に生じたとなれば話は別だった。
無意識状態になったソニーを抱えて、宝の山の中で立往生だ。
今までこんなことは一度もなかったし、配下たちは、その異様さに怯えた。
「ソニー! ソニーってば! しっかりしてくれよう!」
「おい、おれがわかるか!? お前の兄貴のデニーだよ! ソニーってばよ!」
デニーが半分泣き声を出して、弟の小さい体を揺する。
何事か不穏なことが生じかけているのが彼らにもわかるのだった。ソニーさえ正常であれば、たとえ何が起きようと心配はなかった。彼の〝力〟は平然とピンチに対処して行ける。
だが、こんな魂が抜けたような状態にソニーがある時、緊急事が突発すれば、彼らはまったくの無能力者になりさがってしまうのだった。
「ソニー! おい、目を覚ませってば、ソニーよう!」
「ソニー! 警察だ! 豚が来たぞ! ずらかろう、ソニー!」
揺さぶる手の動きにつれて、ソニーの体は正体なくガクガク揺れ動いた。
「おい、どうしよう!? これじゃ身動きが取れねえぞ! ずらかったほうがいいんじゃねえのか!」
と、一番年長の大男のアレーが怯えた声で叫んだ。
「ずらかるったって、倉庫の扉は全部外からロックされてるんだぜ! ソニーが気がつかない限り、おれたちはここへ閉じこめられちまってるのと同じなんだ」
と、バッチが論理的な言葉を吐いた。
「なんとかしてソニーを正気づかせる方が先だ」
「おい、本当になんか様子が変だ」
と、ソニーのもう一人の兄チンクが押し殺した声音であわただしくいった。
「警官どもが、すぐそばまで来てるんじゃねえのかい? なんか凄くいやな予感がするんだ! あんまり静かすぎる!」
「お巡りが踏みこんできたら、こっちは逃げ場がねえぞ。全員パクられちまう!」
一同は慄然とした顔を見合わせた。頼みのソニーが正気を取り戻さない限り、全員袋のネズミだ。
「ソニー! 気がついてくれよう、ソニーってばよう!」
ソニーには聞こえなかった。目も耳も開いているが、何も見えず、何も聞こえないのだった。まさに魂が肉体から脱けた状態だった。
現実はそこにある肉体とともに、はるか遠方に遠離った。どこまでも離れて行き、ほんの一点と化し、やがてそれも消えて行った。
どこともわからぬ場所で、若い白人の娘がソニーを待ち受けていた。彼女は輝くばかりの金髪と白い肌を持ち、女神のように権威があり、美しかった。
そして、その事実が、ソニー・リンクスの反撥と敵意をそそりたてずにはおかなかった。ソニーは急進的な黒人主義の信奉者であり、全ての白人は豚野郎であった。断じて許容すべからざる仇敵であった。
その白人娘がどんなに気高く女神さながらに美しくても、白人の豚野郎であることに変りはなかった。
──やい、白豚!
と、ソニーは憤激の叫びを放った。
──お前なんかに用はねえぞ! だれだか知らねえが、とっとと失せやがれ!
ハーレムで育てば、たとえ五歳でも悪罵のボキャブラリーに不足することはない。まっ先に覚えるのがダーティー・ワードなのだ。
──てめえのシッティング・カントにファッキング・ラットを詰めこんでくれるからな! 覚悟しやがれ、ダーティー・クラックめ!
ソニーの唇を衝いて凄まじい威嚇がとびだして行った。彼は夢中で罵り続けた。その美しい白人娘が、彼の運命に激変をもたらすべく出現した凶運の女神であることを本能的に悟ったからかもしれない。
幸福なハーレムの帝王の日々に終末を告げる金髪娘に対して、ソニーは激烈な呪いと拒絶の言葉を投げつけた。
彼女の伝えてくるメッセージはきびしいさし迫った要請だったが、彼は頭から拒否し、悪意のありったけを叩き返した。罠にかかった穴ぐまが荒れ狂うさまと似ていた。逃れられぬ運命を、受け容れる気は毛頭ないのだった。徹底的に抗戦する覚悟だった。
美しい金髪の女神が、彼の心に送りこんでくるイメージを、ソニーは狂気のように拒否した。服従する気は毛頭ないと相手にわからせてやらなければならなかった......
ソニー・リンクスの配下たちの感じていた不安は現実と化していた。倉庫のある建物は、市警の警官隊が充満し、踏み込む時を待っていたのである。
毛皮卸商の倉庫は充分に警備されており、ネズミの体温すら検出する保安システムが完備していた。〝リンクス・ギャング〟が倉庫内に姿を現わした五分後には、市警のパトロールカーが音を殺して続々と集結しつつあったのである。
トランス状態に入ったままの頭目を抱えてなすすべもない〝リンクス・ギャング〟は、鉄扉が開くとともに発砲して雪崩れこんできた警官隊に抗するすべもなく、悲鳴をあげて倉庫内を逃げまわった。
飛びこんできた警官隊は、相手が素手だと知ると拳銃のかわりに棍棒を使った。それでも、二名が射殺され、三人が重傷を負った。警官隊は、黒人少年たちを追いまわし、堅い木の棍棒を容赦なく頭や肩に打ち降ろし、叩き割った。何百万ドル分の毛皮が血に浸る凄まじさだった。
総勢十名の〝リンクス・ギャング〟は瞬く間にほとんど全員死ぬか重傷を負うかした。米国の警官は世界一凶暴でないにしろ、殺人を躊うことは決してない。その棍棒は骨を砕くために堅木で造られており、ヨーロッパの警官が持つ骨折を避けるべく工夫された軟式の棍棒とは訳が違う。彼ら米国警官は倒れた相手により有効なキックを浴びせ、引きずり起こして棍棒の乱打を浴びせることを躊わない。相手が死亡に至ったところで、有罪にはまずならないし、凶行の相手が黒人ならこっそり賞讃を受ける。
黒人の子供に対しても、振り降ろされる棍棒の速度が緩むことはない。一番運のいい者でも、前歯を残らずへし折られ、顔中が血だらけになった。運が悪い者は頭骨が割れて眼窠から両方の眼球がいっぺんに流れだした。最年長の大男のアレーはわずか数分で、一生の間廃人にされた。
幸か不幸か、最初からトランス状態に入っていたソニーは、凶暴無残な警官暴力の圏外に置かれた。死体のように転がっていたので、最初に射殺された死体と同一視されたのであろう。
ソニーが意識を回復したのは、凶行が終結した後だった。警官の一人が、傷ついていない黒人少年に気づき、床から引きずりあげ、歓喜に震えて叫び声をあげた。
「おい、見ろ! 〝悪魔小僧〟だ! ソニー・リンクスを摑まえたぞ! とうとう奴をものにしたぞ!」
他の警官たちがたちまち群がり寄った。遂に神話が崩壊する時が到来したのだ。決して捕えられないはずの〝悪魔小僧〟がとうとう警察の手に落ちた瞬間だった。
ソニーの琥珀色の目は、倉庫中に血の河を流す惨状を見まわし、恐ろしい憤怒に燃えあがった。
彼はゆっくりと、そして素早く、自分を捕えている牡牛の如き体軀の白人警官の面のどまん中に痰を吐きかけた。
「白豚野郎! 一人残らず殺してやる!」
ソニーの唇から、五歳の幼児とは信じられぬ凄いせりふが迸った。

白人警官が怒りの咆哮とともに棍棒を振り降ろした時、すでにソニーの小軀はわし摑みにした把握から、奇蹟のようにすり抜けてしまっていた。
そのまま、手近の壁へ敏捷に走る。警官たちが拳銃を抜くより早く、頭からコンクリートの壁へぶつかって行った。そして、壁を抜けて消えた。
一番近い位置にいた警官が飛びついたが、コンクリートの壁にしたたかに巨体をぶつけ、はね返された。肩の骨を折ったらしく苦痛の叫び声をあげて、床にのたうった。
警官隊の不信と驚愕に満ちた目の前で、ソニー・リンクスはもののみごとに壁抜けをやり遂げ、逃げおおせたのだった。
警官は決してソニー・リンクスを手中におさめることはできないのだ。
ソニー・リンクスが苦もなく倉庫の外壁を透過して、夜の路地に奇術みたいに姿を現わすと、すかさず獰猛で威嚇的な犬の吠え声の合唱がまき起こった。
警察犬が駆りだされていたのだ。市警の念の入れ方は常になかった。毛皮卸商の倉庫に侵入したのが〝リンクス・ギャング〟だと早くから割れていたようである。
たちまちパトロールカーのルーフについた投光器がさっと伸びて凶々しく路地の中にさしこみ、ぎらぎらする光の舌でなめまわし、ソニーを捉えた。
路地の反対側の口にもパトロールカーが赤色回転灯の毒々しい光をまきちらして停まり、投光器の光条が伸びた。袋のネズミとなったソニーがぎらつく光の滝の中に浮びあがる。
でかい三頭ばかりの警察犬が攻撃欲に逸りきって、犬係の命令を待ちかね、焦れていた。
ソニーの黒い顔は無類にふてぶてしく、琥珀色の目は爛々と光った。
「やい、犬っころ! てめえら尻尾を引っこぬいてくれるからな!」
窮地に立った者とは信じられぬ満々たる自信をもって彼は毒づいた。
「それとも毛皮をひん剝いて、はらわたをぶちまけてやろうかい! てめえら警官も同じよ!」
ソニーはピッと鋭く唾を吐いた。五〇メーターほどはなれた路地の口にいた警官がわっと喚いて顔をかきむしった。ソニーの唾は驚くべき射程距離を持っていた。
「かかれ!」
と、憎悪をこめて警察犬に命じる。手綱をはずされた犬どもは勇躍し、ソニーめがけて殺到する。
五〇メーターを瞬く間に走破し、ソニーに躍りかかった最初の犬が、恐ろしい悲鳴とともに大量の血を噴きだし、真赤なものをばらまきながら地に落ちた。
それは犬がソニーに触れないうちに生じた。
路上に落ちた犬は、真赤なえたいの知れぬ臓物のかたまりとなり、原型を失くしてしまっていた。紫や赤の入りまじったわけのわからぬものが堆積となり、プルプルと震えている。
二頭の犬はパニックで発狂したようになり跳んで逃げた。
目を射るぎらつく光の洪水の中で、それは悪夢の中の恐ろしい光景であった。一瞬にして、大柄な逞しい警察犬は、犬ではない真赤な異形のものと化してしまったのである。その光景を目撃した警官たちは、ソニーがなぜ〝悪魔小僧〟と呼ばれるかを理解し、冷たい汗が流れ落ちた。それは絶対に人間業ではない。恐怖で眼球が突出し、顔は生パンのように灰色と化した。
「やい、警官、てめえらも同じ目に遭わせてやる!」
と、ソニーが恐ろしい金切声で威嚇していた。
「てめえら豚どもを一人残らず裏返しにしてくれるぞ! てめえらのはらわたに糞をひっかけてくれるから覚悟しやがれ!」
いつしか警官たちは恐怖に堪えかねて、拳銃を両手に構え、射ちまくっていた。絶叫をあげて引金を引き続ける。
しかし、ソニーの姿はそれより一瞬早く、スウィッチを切ったように唐突に消え、路地の両側に陣取った警官は同士討ちを演じた。パトロールカーの車体に弾丸が減りこみ、投光器が射ち砕かれる。正気を失くして拳銃を乱射する警官たちは三名の死者を出す狂乱に陥った......
14
夜の五番街はひとしきり、救急車とパトロールカーのサイレンの叫喚が走りまわり、騒然とした渦の中にあった。
五番街に面した摩天楼の屋上から、深い谷間を覗きこむソニー・リンクスは遣り場のない憤激に身悶えしていた。彼の配下たちが死骸と化して運びだされていくのを数えていたのである。病院へ運ばれる救急車へ搬入されたのはわずか二人だけだった。残りは全て死体置場へと運ばれる。〝リンクス・ギャング〟瓦壊の図であった。彼の兄は二人とも死に、従兄のバッチも死に、もう一人の従兄もまた死んだであろう。
ソニーは憎悪に燃えて歯がみをし、復讐を誓った。ニューヨーク中の警官どもを根絶やしにするまで報復をやめる日はこないと誓ったのである。
「畜生......畜生......」
あまりにも激烈な憎しみのあまり、呪い文句は逆に単調になった。彼の失態のために、みんなが死んだ。彼の兄も、従兄たちも。彼が死なせたようなものだ。あの時、彼が気を抜いて、トランス状態に陥ちなければ、こんな悲劇を招くことはなかった!
ソニーは真黒な絶望と悔恨に悶えた。衝撃が深すぎて、涙は一滴も滲んでこなかった。喪失感の甚大さが、ソニーを冷えた暗黒の深みへ引きずりこんだ。
と、ソニーの目が光った。必死に谷間の底を覗きこむ。黒人少年が一人連れだされてきたのだ。まだ奇蹟的に足で立って歩ける者が残っていたのである。
それが、兄のチンクらしいと気づいて、ソニーの血は轟々と音をたてて、熱く血管を巡りだした。
「今に助けてやるからな、チンク! 待ってろよ!」
ソニーは大声で喚いた。もちろんその声は深い谷底までは届かなかった。彼は黒い肌に汗をだくだく伝わらせて、はるか遠い谷底に目を凝らした。
チンクを押しこんだ警察車が動きだし、走り去るのを必死に目で追う。兄の行く先はわかっていた。警察で白ん坊の刑事にぶっとばされながら取調べを受けるのだ。奴らはきっとチンクをこっぴどく叩きのめすだろう。
だが、待ってろ。すぐに彼を奪い返してやる。邪魔立てする警官はみんな、さっきの犬みたいに〝裏返し〟にしてやるのだ。
ソニー・リンクスの目は物凄く光った。新しく獲得した〝力〟──〝裏返し〟で、白人の豚野郎は残らず臓物の山に変えてしまってやる!
どいつもこいつも臭い湯気の立つ臓物の山に変えてやるのだ!
気配を鋭敏に察知して、素速く振り返ったソニーの猛々しい形相は、まさしく大山猫の凄壮さだった。
「てめえ......」
と、彼は爛々と光る目で、ルナ姫とサイボーグ戦士を睨みつけて毒づいた。
「この畜生! さっきの白豚だな!」
ルナ姫はサイボーグ戦士の幅広の肩に安定して座り、敵意をみなぎらせた黒人の子供を見降ろした。
長い金髪の巻毛を夜風になびかせた白い女神は、憎しみに満ちたソニーの目にさえ神々しいばかりに美しかった。怪異な巨人の肩に乗ったその姿は、天空の一画から舞い降りてきたこの世ならざるもの、神性を帯びた不思議な存在であった。
「ソニー・リンクス。聞きなさい。お前に話があります」
と、白い女神は銀線の震えるような声音で叫んだ。
「わたくしはお前を捜していたのです!」
「このすべた!」
ソニーの声は憤怒の金切声だった。
「てめえのおかげでみんな死んだんだ! てめえがちょっかいをかけなきゃ、こんなことにはなんなかったんだ!」
「ソニー・リンクス! わたくしのいうことを聞くのです!」
「こん畜生! おれに近寄るな!」
ソニーの小軀はだれかが存在のスウィッチを切ったように消失した。目の錯覚ではないかと疑いたくなるほど、完全に消えた。
ソニーの体は、隣接した摩天楼の屋上に一瞬にして移動していた。
「テレポーテーションだ」
と、サイボーグ戦士ベガが呟いた。
「この黒いチビさんには、超能力がはっきりと顕在化していますな、王女。彼は相当危険ですよ。精神感応の方はいかがです?」
「さっき一度、コンタクトを計りました。丈よりはかなり強いわ。でも、彼はまるで野獣並みです」
「では、精神感応で彼に事情説明をなさってはいかがです。彼の話し言葉はまったくわからないです。あなたの心の中を見せておやりなさい。言葉を重ねても、彼には通用しないでしょう」
「そうかもしれませんね......」
ルナ姫はまるで気乗り薄であった。むっつりと不機嫌な顔になっていた。
ルナ姫はテレパシスト同士の親密な精神交流に慣れていなかった。心を開放することに強い抵抗を持っているのはそのためであった。
精神感応では、自己のプライバシーを保持することは、極度に困難である。相手の意識を己れの思うがまま誘導することによって、秘密をカバーするような高等なテクニックは、まだルナ姫のよくするところではなかった。
たとえ、テレパシスト同士でも、相手に知られたくない領域はいくらもある。とくに女性であるルナ姫にとり、ことさらに精神的接触を忌避したい部分は多くを占めた。己れの心にある敵意は決して隠せないものである。黒人への嫌悪は、素手で汚物に触れるのと同じレベルにあり、その相手と心を接触させることのおぞましさが隠せようはずがなかったのだ。
礼儀正しく、いんぎんに嫌悪をおしかくす偽善は、テレパシストには縁のないものだ。心は決して偽ることができないからだった。
精神感応の能力を持たないサイボーグ戦士ベガにとっても、緊張した濃厚な沈黙が続いた。
ルナ姫の白い顔を汗が伝い流れた。ソニー・リンクスは白目を剝いて睨み返していた。言葉は一言もないが、電流が通じているような緊張関係が彼我の間には存在した。
両者はまったく同時に、過激な反応を示した。
「ばかっ、このわからず屋! 低能!」
と、ルナ姫が怒りに燃えて叫んだ。
「白豚! おれの知ったことかい!」
ソニーが憎悪をはねちらかす。きいきい声で奔流のように罵詈雑言を投げつけてよこした。最低のスラム言葉であり、五歳の子供の口から出るとは信じがたい滑らかさだった。
「どうしたのです、王女?」
ベガが堪りかねて尋ねる。
「だめだわ? まったく話にならない! あの子供は獣と同じよ! 知能は最低で、まるっきりのどぶねずみだわ! 犬と話した方がまだ気がきいているわよ」
ルナ姫は興奮のあまり、王女の品格を失ってしまった。
「あいつは真黒なスラムのどぶねずみそのものなんだわ! けがらわしい!」
「おれがどぶねずみなら、てめえはハツカネズミだ! てめえ、おれのけつの穴をなめやがれ! おれのちんぼこをしゃぶれ!」
ソニーがスラムの大人もたじろぐ達者な悪罵をきんきん声で喚きたてる。
「無礼な!」
ルナ姫の美しい眉がきりきりと音をたてて逆立った。碧い瞳が怒りの白光を噴いた。
「お待ち! 今、お前の黒い皮を剝ぎとってやるから!」
「プリンセス!」
ベガは愕然として叫んだ。ルナ姫は本気で激昂してしまっている。
ソニーは、彼女が自分に懲罰を加えるのを待ちはしなかった。目にも止まらぬ速さで空間転位すると、片手におそろしく大きなどぶねずみの尾を摑んでぶらさげていた。宙吊りになったねずみがキイキイ悲鳴をあげてもがく。
「そらよ! てめえの腐れまんこの中にこいつをぶっこんでやらあ!」
ソニーの手からどぶねずみが消えた。精神移送をほどこしたのだ。時を置かず空間転位したどぶねずみは、ルナ姫の純白のサマー・ドレスの内部の、両脚の間を駆け登った。
ルナ姫の喉を魂消るような鋭い悲鳴が迸った。彼女が出す声とは信じられぬ、生々しい絶叫であった。

彼女は狂ったように身をもがき、どぶねずみを蹴り落そうとするように両脚をあがき、ベガの肩の上に立ち上ってしまった。ルナ姫が見せるはずのない狂態であった。
ソニーは一声、嘲笑を残し、空間転位して消え去った。兄のチンクの後を追ったのであろう。
ルナ姫はベガの肩の上で両脚を蹴る動作を続け、鋭い高周波音のような叫び声をたて続けていた。
「これは......」
ベガは苦笑を禁じえなかった。
「さしもの女丈夫の王女様にも、思いがけぬ苦手があったわけですな。臆病な小動物のどこが恐いのです?」
王女はベガの巨きな頭部に両手でかじりついて泣きだした。
「こわい......こわいわ! こわいのよう!」
「ご心配には及びません。もう逃げ去りましたから」
「本当? そこらへんにまだいるんじゃないの......」
「そのようですな。屋上に、三十匹ほどが......」
ベガは屋上の暗がりを見まわしていった。いたる所に、赤く光る目玉が点々と散っていた。
「きゃあっ」
と、ルナ姫があられもない悲鳴を放った。
「いや、いや、いやっ! こんな所にいるのはもういやよ! ベガ! どこかよそへ連れて行って! 早く!」
王女にもあるまじく、半狂乱であった。威厳などひとかけらもなかった。
「早く! でないと、わたし死んじゃう!!」
ルナ姫は明らかに精神失調を来し始めていた。
15
セントラル・パークの水銀灯の照明に、公園のしたたるような盛夏の緑が鮮やかに浮きあがっていた。
ルナ姫はヒステリックになると同時に、意気沮喪してしまっていた。もうなにもかもいやになってしまったのだった。
しょんぼりと肩を落して、セントラル・パークのベンチに座りこんでいた。金髪の色まで褪せてしまったかのようだった。匂いたつような精神の高揚、精気が失せてしまっていた。
張り詰めていたものが、突如切れてしまったのだ。自分自身を叱咤して駆りたてるものが、あとかたもなく消滅してしまったことを感じていた。脱力感にもまして苦しい喪失感、幻滅感がルナ姫の裡を食い荒し、空洞にしつつあった。
あてどもなく中空に投げられた彼女の眼ざしは空ろであり、類い稀れな碧の瞳は色褪せて灰色になってしまっていた。
「どうなさったというのです、王女。ソニー・リンクスの行方をこれ以上追わないのですか?」
サイボーグ戦士ベガは、ベンチにかぼそくうずくまっているルナ姫を見降ろしながら尋ねた。その眉根は陰鬱に閉ざされていた。
「もうたくさん! あんなニグロの子は......けがらわしいどぶねずみはもう二度と見たくない」
ルナ姫は両手で顔を覆った。ソニーの所業を思いだすだけで、全身が悪寒に粟立つのだった。ヨーロッパ人の女性である彼女にとって、ねずみほど生理的嫌悪をそそりたてるものはない。生理的なショック症状を起こしてしまうのだ。
黒死病と呼ばれるペストがヨーロッパ大陸に暴威を振るい、人口を半減させた時から、このげっ歯類の動物は魔的な嫌悪の象徴と化したのである。西欧人女性がねずみを見て失神することを日本人は滑稽に感じるが、国土が腐爛死体の山で埋まった恐ろしい惨状の記憶を持つことと持たないことの相違によるものだ。日本人にとりねずみは恐ろしくない。〝嫁御〟と呼び家内繁昌の徴しにする。だが、西欧では腐爛死体の堆積を招く凶兆の使いなのだ。
「もう、故国へ......トランシルヴァニアへ帰りたいわ......」
ルナ姫はかぼそい哀れな声で、すすりあげるようにいった。
「こうやって苦労して、世界中を飛びまわったって、なんの役にも立ちやしない......なにも得るものがない......こんな徒労を重ねて、いったいなんになるの......」
「ふむ。もう諦めてしまったといわれるのですか、王女。〝幻魔〟の軍勢と戦うどころか、それ以前にギブアップというわけですか?」
ベガの口調は冷やかなほど素気なかった。
「だって......だって努力するだけむだなんですもの。丈は女のスカートのかげに隠れ、自分の姉に救いを求める腰抜けの卑怯者だし、黒人の子は獣の心と知能しか持っていない。どうしようもありゃしない......本当にどうしようもないじゃないの」
「王女。あなたは二百年間を戦い続けて敗れ去り、更に二千年の間、敗残兵の眠りを貪っていた私を目覚めさせてくださいましたな。あなたは誇り高く、まさに火のような誇りをもって、私を叱咤し、私の戦士の誇りを甦らせてくださった。王女、あなたは私に向い、私が戦士であるならば七回打ち倒されても、更に七度立ちあがって戦えといわれた。全てを失ったとしても誇りのために戦えと......
王女、あなたのあの火のように燃えさかる誇りは、ただの幻にすぎなかったのですか? わずか数度の挫折で、失われてしまうような、底の浅い、他愛ない代物だったのですか?」
「なんですって......」
ルナ姫がかっとしていいかけるのを、ベガはきびしい身振りで抑えた。
「あなたの誇りが、ただの鼻っ柱の強さ、意地の強さであるだけなら、一度挫ければそれまでです。ちやほやされて、わがままいっぱいに育ったお姫さまの傲慢さなら、挫折に堪えることはできないでしょう。
王女ルナ、あなたの誇りとはいったいなんだったのです?
あなたは、自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起こし、ヒステリックに振る舞う甘やかされた子供のようだ。都合の悪いことは全て他人のせいにし、そして自分だけは絶対に正しいと信じている。他人の落度はきびしくとがめだてし、責任追及を苛烈に行うが、我が身のことには目をつぶる。いったいどこに反省があるのです?
王女。あなたはいつ、全ての他人を思い通りに従わせる権力を得たのです? いったいいつから、〝地球の女王〟に成りあがったのです?」
「ベガ!」
ルナ姫は蒼白になり、唇を慄わせた。
「お前は......わたくしを侮辱するのですか? お前だけはわたくしの忠実な味方だと思っていたのに......わたくしがこんなに参っているのに、慰め励ますどころか、わたくしを責めたてて、楽しいのですか?」
「侮辱? とんでもないことです。私が感じていること、真実を率直に申し上げたまでです。私は戦士です。甘ったるい言葉をかけて、わがまま勝手な王女様をちやほやすることは性に合っていません。ありのままの事実をきちんと認識することが最も重要であって、自己憐愍に溺れることは、指揮官の厳に慎まねばならぬことなのです。
王女。もっと心を寛くお持ちなさい。視野が狭く、狭量であることは、それだけで指揮官失格です......」
「............!」
ルナ姫はものもいわず立ちあがり、サイボーグ戦士の巨軀に背中を向けた。
「王女! どこへいらっしゃるのです?」
ルナ姫は返事をしなかった。心に凶暴な嵐が荒れまわっていた。誇りを傷つけられた怒り、信頼を裏切られた悲しみ、非難された屈辱で、彼女はほとんど逆上していた。
「お待ちなさい、王女!」
「いやっ、ベガのばかっ」
彼の声を振り切り、ルナ姫は暗闇に向けて闇雲に走った。どこへ行くというあてがあるわけではなかった。
彼女はサイボーグ戦士の意地悪さを憎んだ。彼の皮肉さ、冷やかさがどうにも我慢ならなかった。
あの血も涙もないサイボーグには、人の気持などわからないのだ。
自分がこんなに心を痛め、己れのものをなにもかもうち捨てて、これほど一所懸命にやっているのに、だれもわかってくれない......
ルナ姫の心からたとえようもない孤独と悲哀の巨波が迸りでた。その悲しみは彼女の強力な精神波に乗って放射され、街々に広がって行き、生けるものの全ての心に流れこんだ。眠れる子供たちは夜泣きし、大人たちも悲哀の念に心を満たされて枕を濡らした。犬たちは夜空に悲しげな遠吠えを放った。
サイボーグ戦士ベガは黙然と巨大な腕を胸の前に組み合わせて、夜空を仰いだ。
彼らはみな子供なのだ。ルナ姫自身も、東丈やソニー・リンクスに劣らず、未成熟な、ほんのよちよち歩きの子供なのだ。
地球の超能力パワーは、幼年期の黎明を迎えたばかりであった。
彼らが超能力戦士として充分に訓練され、組織されるまでに、長い時間を貸さねばならないだろう。彼らは優れた超能力者の萌芽ではあるが、〝幻魔〟の強大な軍勢と太刀打ちするには、あまりにも幼なすぎた。
もし、いち早く〝幻魔〟が尖兵を送りこんできたら、ひとたまりもない。
そう考えて、サイボーグ戦士ベガは強い悪寒が心に湧き立つのを覚えた。
夜空は不意に鬼気に満ち、異様な威嚇をもって頭上を圧した。
ニューヨーク市の夜は不吉なサイレンが、遠く近く鳴り続けていた。
本書中には人種の対立を描く上で「気違い、黒ん坊、低能」など差別しているととらえかねない語句や表現があります。これらは、現代の人権擁護の見地からいずれも使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はないこと、物語の必然性や発表された時代性を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
ソニー・リンクスは単身、市警分署へ殴りこんだ。
捕えられた兄のチンクを奪還するためもあったし、配下たちを殺傷した警官どもに報復するためでもあった。
警察に正面切って殴り込みをかけるのは初めてだったが、凶悪な〝力〟を得て自信をつけたソニーには興奮をかきたてられこそすれ、怯じ気づくことなどありえなかった。
この世で最も憎むべき敵、警察をやっつけてやるのだ。今後、ソニー・リンクスとその配下には二度と手を出せなくなるまで、徹底的に叩きつけ、蹂躙してやるのだ。
ソニーはもはや警官など恐れなかった。今夜、彼が警察を根こそぎ叩きつけてやれば、彼の名はあらゆる黒人社会で不滅の栄光を受け、語り伝えられるだろう。
わずか五歳の、字も読めぬ黒人幼児が、白人権力の象徴たる警察を、地上から抹殺してやるのだ。喝采を叫ばない黒人がただの一人でもいるだろうか。
ソニー・リンクスの心には、ルナ姫の説得などひとかけらも留まっていなかった。憎悪こそあれ、彼女がなにをいおうと関心の一片だになかったのである。
市警分署は、深夜になってもまったく退かない暑さにうだっていた。
刑事部屋では、効きの悪い冷房装置を声高に罵りながら、夜勤の刑事たちが幾人か汗を流していた。
何度電気屋を呼んでも、まともに修理されたことがないのだ。騒音だけは戦車のように唸りたてるが、送風孔からは生ぬるい空気が流れだしてくるだけだ。
しかし、この夜のようにニューヨーク市中に熱気が居座っている夜は、窓を開放するよりいくらかましという気分になるのだった。
古くなった警察署の内部にあるのは、人間も含めてロクでもないものばかりであった。
刑事たちはだれていて、のろのろとやっていた。一本指でポツンポツンと報告書のタイプを打ってはタバコをふかし、ネクタイを緩めてはジワジワ湧いてくる汗を拭いた。
だれもがシャツの脇の下に大きな汗の染みを作っていた。交替のように、ひっきりなしに壁際に据えつけられたウォーター・クーラーに出かけては、冷えた水を飲んだ。それだけがわずかに涼を取る方法だといわんばかりだった。
刑事には、普通、人が想像する以上に文書作成のデスク・ワークが多いのだ。尋き込みや張り込み以外にも難儀は多く、警察署の汚いデスクにしがみついて不得手なタイプを深夜に至るまで打たねばならない。
警察仕事はルーティン・ワークの別名であって、さまざまな容疑者が連れこまれ、荒っぽく小突かれていたところで退屈さにはまったく変化が生じないのだ。
もちろん、警察を煩わす事件は、夜通し絶え間なく起き続ける。特に今夜のような熱帯夜で人々が夜っぴて眠られぬ宵は、犯罪発生も増加する。一晩中だれかが殺されたり切られたり、殴られたり強姦されたりしている。強窃盗は、刑事たちがタバコをふかす都度発生しているといってもいい。そして刑事たちは一晩中部屋の空気が霞むほどタバコを吸い続けるのだ。
刑事たちは仕事に忙殺されているから、下の階や留置場で騒ぎが生じていても、少しも動じない。
警察署に運びこまれてきた容疑者が暴れ、拳銃が発射される騒動になっても、刑事たちの疲れた非情な顔はぴくりともしない。だれかがどうにかするだろうと思っているのだ。みんな自分の仕事に手いっぱいで、他人の分まで構いつけている暇はない。
事件発生の報が入って駆りだされるまでは、自分の知ったことではないのだ。
だから、階下でゴタゴタが起こっていると知っていても、刑事たちはいっこうに平気で自分の仕事に専念していた。
「なんだ、やかましいな」
と、仏頂面をあげてぶすりと文句をいう程度だ。刑事の一人が重い腰をあげたのも、階下の様子を見に行くためではなく、ウォーター・クーラーの水を飲みに行くためだった。
だれ一人、電話機を摑んで、何事が起こったのかと尋ねる者はいなかった。
ウォーター・クーラーの水を飲みほし、使い捨ての紙コップを摑み潰して、トラッシュボックスに投げこもうとした刑事の動きが、感電したようにぎくしゃくした。
いつの間に入ってきたのか、黒人の子供がウォーター・クーラーの水を平然と飲んでいるのだ。
「なんだ、お前は!?」
とがめたものの、黒人の子供がじろりと見返すと、巨漢の白人の刑事が思わず怯んだ。
「どこから入ってきた! 出て失せろ!」
怯んだ自分に腹が立って、刑事は喚きたて、子供に摑みかかろうとした。
黒人の子供はまだほんの五、六歳だった。カーボンみたいに真黒な顔に琥珀色の目が光り、ただものでないふてぶてしい面構えをしていた。刑事はそのあまりにも恐れ気のない挑戦にたじろいだのだ。
「がたがた騒ぐな、白豚」
と、黒人の子供は、凄い啖呵を切った。とうてい幼児とは思えぬ気迫であり、口調であった。
「おれはチンクを取戻しにきたんだ。素直に渡さねえと、きんたまを裏返しにしてくれるぞ、白豚ども。わかったか!」
「だれだ、お前は?」
刑事たちはようやく重い腰を椅子から持ちあげた。同じ室内で起こった騒動なので、さすがに黙過するわけにはいかなくなったのである。

「なんだ、このチビクロは?」
「サンボ、お前、どこから来たんだ?」
刑事たちは、騒ぎの主が黒ん坊の餓鬼と知って拍子抜けしたようだった。
「やかましい! がたがたするんじゃねえ!」
と、ソニーは堂に入った態度で凄みをきかせた。
「見損うな、白豚。おれをだれだと思ってるんだ。聞いて驚くんじゃねえぞ。おれは〝スーパー・ブラック〟の〝悪魔小僧〟だ。おれをサンボ呼ばわりした奴あどいつだ? てめえの汚ねえはらわたを引きずりだしてやるから覚悟しやがれ!」
大男の白人刑事数人を向うにまわして、彼らの膝小僧までしかないチビクロが気迫だけは完全に相手を上まわっていた。頭から彼らを吞んでかかっているのだ。
「本当だ!! このチビクロは〝悪魔小僧〟だ!」
と、刑事の中から驚きの声があがった。
「なに? あの大泥棒の悪餓鬼か?」
大男たちは動揺した。
「豚ども!! おれの前にひざまずけ!」
黒人幼児の怒りは、大男ぞろいの刑事たちを圧するほど猛々しく激しかった。
「さもないと、てめえらを一人残らずあの世へ送ってやる! おれにできないと思うなよ。おれはソニー・リンクスだ! 〝スーパー・ブラック〟なんだからな!」
「このチビクロが!」
憤然とした叫び声があがった。
「黒いけつっぺたの皮をひん剝いてやる!」
「まあ、待て......」
と、年配の刑事が若い同僚の憤激を制した。
「なにが望みなんだ、ソニー・リンクス? 用向きをいってみるといい......」
さすがに老獪だった。わずか五歳の幼児とどなりあっていては、自分たち大人が間抜けになるだけだからだ。
「チンクを返せ!! おれの兄貴だ。てめえら白ん坊の豚どもは、おれの仲間を何人も殺して、チンクを連れていった! おれはチンクを取戻しにきたんだ!」
「チンクというのはお前の兄貴で、逮捕された兄貴をお前は取戻しにきたんだな」
年配の刑事がなだめるようにいった。
「その通りだ! やい、白豚! チンクを返しやがれ!」
黒ん坊の幼児は威風堂々と叫んだ。
「さもねえと、ためにならねえぞ!」
「しかしな、坊主。お前の兄貴は悪いことをしたんだ。盗みに入ったところを捕まえられたんだ。悪いことをした奴は刑務所へ入れられることになってる。しかたがないことさ」
「ブラックが白ん坊の物を取るのは正しいんだ!! 白ん坊はブラックのものを盗んだ。だからそれを取戻すのは正しいことなんだ。刑務所も警察も白ん坊どもが作った。だからブラックは入る必要はない」
ソニーは五歳の幼児としては驚くべき論理性を発揮した。
「ブラックにとってチンクはヒーローだ! チンクを返せ、白豚ども。さもないと二度と帰れないところへ連れてってやるぞ!」
「お前の馬鹿親父に代って、お前を仕置してやる!」
怒り狂って若い刑事が咆えた。
「二度と大人に向って大口を叩けないようにしてやる!」
「まあ、待て。この小さいのは、おれが出遭った最高の黒人雄弁家だね」
と、年配の刑事がいった。
「静かに話しあった方がよさそうだ。階下で騒ぎをおっ始めたのは、お前の仕業かね、ビッグ・ショット?」
「当り前だ。おれのいうことに四の五の吐かしやがったから、四、五人の豚をぶっとばしてやったのよ」
と、ソニーは威厳をもって答えた。琥珀の目が爛々と燃えあがった。
「ぶっとばした、お前が?」
白人刑事たちは大声で笑った。
「お前みたいなチビクロが大人のポリスを何人もぶっとばしたというのか」
「笑うな! この野郎!」
嚇っと怒ってソニー・リンクスが怒鳴った。
「てめえらもぶっとばされてえのか!」
「面白い、やってもらおうか」
と、若い刑事がじりじりと進み出ながらいった。舌なめずりして笑っている。
「けつっぺたの黒い皮をひん剝いてやるぞ、サンボ」
「てめえ、咆え面かくなよ!」
ソニーは嘲笑って、黒い手を伸ばし、ウォーター・クーラーに触れた。
ビーン!! と鋭い音が響き、ウォーター・クーラーの機械が消失した。機械本体はあとかたもなく消え、鋭い刃物でスパッと切られたような水道配管から水が迸った。
目の前のチビクロが消してしまったのだと悟る前に、刑事たちは本能的に危険を察知して後退りした。
「消えてしまった!」
と、叫び声があがった。冷風のように恐慌の波が刑事部屋に流れ込んだ。
「こんな馬鹿なことが......」
腐った生パンみたいな顔色になり、懐疑心を捨て切れずに呻く。
「きさま、サンボ、ウォーター・クーラーをどうしちまったんだ?」
「もう一度サンボといってみな。てめえも地獄へ送ってやるからよ!」
ソニーが勝ち誇って喚いた。目を輝かし、歯を剝きだして、チビのモハメッド・アリみたいに喚きたてる。
「こいつ......」
恐慌に駆られて、刑事の一人が脇の下に吊った革袋の拳銃を摑もうとした。脅しだったかもしれないが、ソニーはそれより早く反応した。
ソニーはその場から消えた。映画のコマが途中で抜けたように、黒人幼児は突如として相手の脚下に出現していた。再び破裂音がして、拳銃を抜きかけた刑事の姿が消失してしまった。
宙に残った革袋と拳銃がごとんと重々しい響きを発して木の床に転がった。
わっと叫んで、刑事たちはいっせいに後退した。これだけ見せつけられた以上、いかなる不条理も受け容れざるを得なかった。
黒人幼児ソニー・リンクスは、超常識の〝力〟を持っている。その〝力〟は甚しく危険とみなさざるを得なかった。
「ヒュー! どこへ行った、ヒュー!」
消失した刑事を呼ぶ同僚たちの目にまじりけのない恐怖が光った。このチビクロはモンスターだ。間違いなくこいつは気違いじみた化物なのだ。
刑事たちは、闇雲に、逃走したい欲望と狂ったように反撃したい欲望に板挾みになった。各自の拳銃を置いた場所へ戻ろうとじりじり足を滑らせていた。
「おい、チビ。お前、ヒューをどこへやっちまったんだい?」
白髪混じりの年配の刑事が赤ん坊をあやすようにいった。彼だけが辛うじてソニーと意思を疎通させる努力を払っていた。
「どこだか知るもんかい」
と、ソニーはいった。それは本当のことだった。咄嗟の場合には、精神移送の行先などわかるものではない。エンパイア・ステートビルのてっぺんではないことを祈るだけだ。行先は北極かもしれないし、火星かもしれない。ソニー自身確かめたことは一度もないのだった。
「てめえらも同じ所へ送ってやろうか! 地獄だかどこだか知らねえが、白豚のゴミ捨て場によ?」
ソニーが凄む。
「それとも体の内と外を裏返しにしてくれようか! 汚ねえ臓物を残らずぶちまけてやるぜ!」
「警察犬がどうかしたとかいってたが、それもお前の仕業か? 毛皮がなくなって臓物だけ残ったとか......」
と、年配の刑事が老獪にも、ソニーの昂ぶった気をなだめすかすべく、猫撫声で話しかけた。
「その通りよ! おれの〝力〟が知りたかったら、どっちでも好きなようにしてくれるからな!」
「どっちもご免だな。おい、余分な真似はしないことだ......」
彼は、机の上に載せた拳銃にしゃにむに跳びつこうとしている刑事を抑えた。
「考えてもみろ。いったいこれをどうやって報告するんだ? ヒュー・オブライエン刑事はパチンといって、破裂したゴム風船みたいにいきなり消えてしまいました。......そういって市警本部長に報告するのか? そして同僚の刑事たちはパチンというたびに消え、以後行方はまったく不明であります......おれはご免だね。査問委員会で阿呆の烙印を押されるにきまってるんだからな......」
「どうしろっていうんだ......」
「彼のいい分を聞いてやろうじゃないか。そうしたところで悪いことはなにもあるまい。これ以上もめるのはご免だ」
「話がわかるじゃねえか」
と、ソニーはいった。
「おれはチンクを取戻せばいいんだ。今夜のところはおとなしく帰ってやらあ」
「お前の逮捕された兄貴なら、勝手に連れて行け」
年配の刑事はこともなげにいった。
「たかが黒人の窃盗犯の一人や二人、喜んでくれてやるさ。なにもこんなところで暴れていないで、早いところ連れていけばいいだろうよ。留置場は地下だ。教えてやるから、さっさと消えてくれ」
本気でいっているのだった。
「留置場にはいねえんだ。下にいる警官どもはごたごた吐かしやがって話にならねえ。二、三人ぶっとばしてやって、ここへ来たんだ。よう、早くチンクの居場所を教えろ。さもねえと、みんなぶっとばしちゃうぞ。おれは気が短いんだ!」
「わかったよ。階下にいる連中は、チンクの居場所を知らんのだ。それにお前の持っている〝力〟を見くびるという間違いを犯したんだ。だが、わしはそんなことはしない。わしの手にチンクがあれば、すぐにでもお前にくれてやる。わかるな?」
ソニー・リンクスは今にも爆発しかけていた。
「早くチンクを渡すんだ、この野郎!」
「なあ、聞いてくれ、チビ。本当にチンクがわしの手の中にいれば、すぐにでも渡してやる。だが、チンクはここにはいないんだ」
「チンクはどこにいる? その場所をいうんだ」
「チンクは署長が連れて行った。ここのオライリー署長だ。だからみんなここにいるだれも、チンクの居場所は知らんのだ」
白髪混じりの刑事は、手を無意味に動かしながらいった。
「ここの署長がなぜチンクを連れてった?」
「わからん......本当だ。署長ともあろう者が、なぜ黒人窃盗犯に用があるのか、さっぱりわからんのだ。しかし、まあ、こっちの知ったこっちゃないからな。署長がよこせというんなら、なんだって引渡すさ、たとえ喰いかけのサンドイッチでもな......」
刑事は肩をすくめた。
「署長はどこだ?」
「一階の執務室にいるはずだ。入口から入って、左手の奥だ。お前が今さっき階下で騒ぎを起こした時、署長は出てこなかったのか?」
「そんな奴、おれが知ってるか、阿呆!」
と、黒人幼児は的確な寸評を述べた。
「ともかく、その左手の奥にある部屋にいる大男がオライリー署長なんだ。恐ろしい顔をした七フィート、三百ポンドもある大男だからすぐにわかる。彼は一日に一人黒人の子供を頭から丸かじりするんだ」
年配の刑事がオライリー署長に愛情を持っていることは確かだった。署長が頓死すれば涙を流すほど、彼は署長を愛していた。もっとも、それは喜びの涙だったけれど。
「その署長がチンクの居場所を知っているんだな」
と、ソニーは念を押した。
「もし噓をつきやがったら、すぐに戻ってきて、てめえの頭だけをネバ・ネバ・ランドまでぶっとばしてやるぞ」
「噓じゃない、お袋のエプロンのヒモにかけて誓うよ」
「よし。そのオライリーとかいう署長とかけあってやる。忘れるなよ。なにかあったら、すぐに戻ってくるからな!」
ソニーは、刑事部屋の壁に手を伸ばしていった。
またもや激しい破裂音、警察署の褐色砂岩の建物の壁が木製の内装の壁とともに二メーター四方ほど大きく消し飛び、大穴が開いていた。
壁の破片がどこへ行ったかは神のみぞ知る。夜気が大きな破孔を通って流れこんできた。暑い湿った空気であり、当分は刑事部屋の疲れきった老朽冷房機はなんの役にも立たないことになった。
「いいか、忘れんなよ!」
黒人幼児の奇蹟能力者は甲高い子供の声で叫び、消失した。鮮やかな消えっぷりで、思わず反射的に目をこすりたくなるほどだった。
「一つだけわかったことがあるが......」
と、白髪混じりの刑事がいった。
「あのチビクロは車を持っても、ガソリン代を必要としないのは確かだな。あとしばらくすると、奴がハーレムの王様になって、ロールスロイスに乗ってることを、わしは賭けてもいい」
「ハーレムどころか、ニューヨークの王様になってるだろうよ」
と、だれかがいった。
「あのチビクロが、どこかの核兵器貯蔵庫へ出かけることを思いついたらどうする。どうせあの調子でどこへでも入っていくだろう。いずれは思いつくにきまってるんだ。今のうちにゴマをすっといた方が利口だな」
2
ソニー・リンクスは息も継がず、オライリー署長の執務室を急襲した。
執務室は、二階の刑事部屋とは比較にならず立派な部屋だった。冷房装置も調子よく作動しており、マホガニーの巨大なデスクの据えられた執務室にせっせと冷気を送りこんでいた。
ソニーは、執務室に精神移動を遂げると同時に、身裡に霜が生じるような冷気を覚え、総毛立った。
彼がこれまで味わったことのない、不快な、体中から全ての血液が消失していくような堪えがたい悪寒だった。
それは、いわれのない恐怖であり、嫌悪でもあった。ソニーはかつて自分の寝床の中にガラガラ蛇を発見したことはない。しかし、シーツの中に毒蛇がとぐろを巻いていたら感じるであろう、強い嫌悪の念が、彼を捉えたのである。
最低の黒人スラム街で育ったソニーは、たいていの悪徳、背徳には免疫になっている。そのソニーにしても、真に邪悪なものとはいまだ遭遇してはいなかったのだ。
麻薬で頭のおかしくなった男が、野球のバットで通行人の頭を叩き割り、大量の血と白い脳髄が路地いっぱいに飛び散ったのを見物した時ですら、これほどの厭悪感は覚えなかったほどである。
テニスコートほどもある巨大な執務デスクの向うには、巨人が座していた。
オライリー署長だ。五歳の幼児であるソニーにしてみれば、身長七フィートの署長は、非現実的な巨人であった。まるで怪異な魔神の巨像のように、はるか高処から、ソニーを見降している。
ソニーはぞっと身慄いし、部屋中を素早く見まわした。実兄のチンクの姿はどこにも見当らなかった。
署長が含み笑いを漏らした。その笑声は怪奇な梵鐘が鳴り響くように、ソニーの耳を打った。
白髪混りの刑事がいったように、署長の顔は恐ろしかった。東洋の魔神像を想わせる怪異な形相であった。
だが、その恐ろしさが単なるはったりや威嚇であるならば、ソニーは一瞬も恐れはしなかったであろう。
その怪奇な顔は、邪神の物凄さをみなぎらせており、それがソニーの背筋を寒くし、口中を干あがらせたのだった。
「とうとうやって来たな、どぶねずみ......」
オライリー署長は陰々たる笑声を響かせた。
「どうした。何を探している?」
「チンク......チンクはどこだ?」
ソニーはにわかにうろたえだし、それを隠せなかった。冷たい恐慌の波が今はソニー自身の背中を撫でていた。
「チンクだと......あのどぶねずみのことか」
署長が陰気な声音でいった。
「チンク! おい、どうした? どこにいるんだ!?」
ソニーは大声で喚いた。突如、明確になったことがあった。兄のチンクの出している想念波がしばらく前から跡切れてしまっていることにいきなり気付いたのである。それは完全に消滅していた。ソニーと一番気の合っていた兄、チンクの心があった場所は、空虚な暗闇と化していた。
普段、意識しないながらも、いつも感じつづけていた兄の存在感が今は無に帰していたのだった。
「チンク! どこへ行った!?」
ソニーは堪えきれず、悲鳴のような声で絶叫した。
「チンク! 返事しろ!! おれが助けに来たんだぞ!」
「むだだ、チビクロ」
と、署長はものすごい笑顔でいった。
「チンクはもうどこにもおらん」
「なんだって......」
「チンクはもういない。死んでしまったのさ」
「チンクが、死んだ!?」
「そうとも、死んだ......わしが喰ってしまったからな」
オライリー署長の七フィートの巨体がぬっくと執務デスクの向う側で立ちあがった。ソニーは巨塔に見降されるような気がした。
彼は全身の皮膚に霜が降りた冷感に震えた。この署長はあまりにも異常であった。気違いじみていて恐ろしかった。ソニーが初めて体験する底なしの恐怖だった。
署長の恐ろしい顔は、今や仮面の無表情さで、立ちすくむ黒人幼児を見降していた。青い酷薄な目玉はガラス球のように虚ろに光っていた。
その青い冷たい目玉が、眼窠からじりじりと押し出されてきた。
同時に署長の怪奇な魔神像を想わせる顔が火にあぶられるソフト・ビニールの仮面のように変形し、ぐにゃぐにゃに歪み、しわが寄ってきた。
眼球が視神経の紐を引いて空洞と化した眼窠からずり落ちた。
今までソニーがオライリー署長と思いこんでいた人物は、わずか皮膚一枚の存在であることがわかった。
その面皮が裂けてずり落ちていく、その内側に、ソニー・リンクスが身震いするほどの厭悪感を持った、何か忌わしくおぞましいものが潜んでいた。
面皮の残骸をまといつけた青黒い鱗を持ったものが、人間の声を出し、ものすごい笑い方をしていた。
「そうとも。おれが喰っちまったのだ......」
ソニーは言葉にならない切れぎれの喚き声をあげた。彼の股間は暖いものがあふれ、足許には温水がプールを作って湯気をたてた。
「お前の兄貴のチンクは、おれが喰った。頭蓋骨をがりがりと咬み砕いてな......脳味噌をすすったのだ......そしてなにもかも頂戴した。その前に、このオライリー署長も喰らってやったがな。こやつらはたいして美味とはいえなかった......そしてお前を待っていたのだよ、ソニー。お前で口直しをするためにな」
面皮の残骸をまとった青黒い鱗の異形のものは、ソニーの足許になにかを吐き出してよこした。ボロと化した服地、ちぎれたスニーカー、バックル......
「あ、あ、あ......」
ソニーはプリンのように震えた。すべて兄のチンクが身につけたものの残骸だとわかったのだ。ソニーのカーボンみたいに真黒な顔は色褪せて灰色になり、眼球が跳びだしてきた。
「く、喰っちまいやがった......本当にチンクを喰いやがったな、てめえ......」
青黒い鱗を持つ異形のものは、陰々とした凄まじい笑声を響かせた。
「きさまはだれだっ」
ソニーは絶叫した。
「ザメディと呼べ......」
異形のものは異教の梵鐘の鳴るような声音でいった。
「わしはきさまをひっ捕えるために、はるばるとやってきた......きさまはもはやわしの掌中にある......」
「いやなこった!」
ソニーは大山猫の形相になり、憤然と叫んだ。
「おれを喰おうったって、そうはいかねえぞ! てめえなんかに喰われてたまるかい!」
ソニーの目はぎらっと光って、署長の執務デスクの上に載っている革袋入りの拳銃に一瞬停止した。
「見てやがれ、このど畜生!」
ソニーは瞬時にして執務デスクの上の拳銃を手にしていた。力いっぱいホールスターの中から拳銃を引っ張りだす。
しかし、数キロもある大口径の拳銃は、幼児のソニーには文字通り荷が重すぎた。まるで小型の大砲を想わせる四五口径は、小さい黒い両手に余り、ソニーの体はふらついた。歯をくいしばり、大きな銃口を執務デスクの後ろの、怪奇な異形のものに向ける。
「この人喰鬼野郎、汚ねえ化物野郎め! よくもチンクを喰っちまいやがったな! 見てやがれ、このハジキでぶっとばしてやる! でっかい風穴を通してやるからな!」
ソニーは怒り狂って喚きちらした。
執務デスクの後ろに立ちはだかった、七フィートもある巨体、署長の制服と崩れた面皮の残骸をまとったものは平然としていた。ソニーの構えている大口径の拳銃など気にもしていなかった。
異形のもの、ザメディのどこかから黄色い煙が噴きだしてきた。生臭く嘔気をもよおさせる異臭を帯びた黄色い煙は、それ自体の意志を持っているかのように拡がり、ベールを作り、執務室全体に立ちこめようとした。
「ど畜生! 喰らえっ」
ソニーは四五口径をぶっ放した。
とほうもない轟音とともに、強烈な反動がソニーの小さい体を後ろに倒した。でかい拳銃を抱えたまま、床にころころと転がる。
ソニーは屈しなかった。床に尻を突いて座りこみ、両手両足を用いて、大型拳銃をがっちり固定した。
巨塔の如く立ちはだかっている異形のものに向って狙いをつけ、たて続けにぶっ放す。いやらしい黄色い煙は、化物との間を埋めにかかっていたが、至近距離だ。弾丸がはずれるはずはなかった。スラムに育ったソニーは本物の拳銃を射ったことが何度もある。
ソニーは回転弾巣が空になるまで、四五口径を射ち続けた。何発も、塔のような異形のものに命中したはずであった。
だが、化物はなんの反応も見せなかった。苦にもしていないのは明らかだった。ソニーは憎悪で目がくらんできた。拳銃が役に立たないとあれば、得意の〝力〟でぶっとばしてやるまでだ。二度と還って来られない所へ飛ばしてやる!
と、渦巻いていた黄色い煙の渦がすっとほどけて、意志を持つもののようにソニーに向って流れてくると、四五口径にからみついた。
絶叫を放って、ソニーは跳びあがった。
掌中の四五口径がなにかしら形容を絶したぐにゃぐにゃする、いやらしいものに変形してしまっていた。
そいつは青黒い鱗と無数の鋭い歯を持った爬虫類の如き化物であり、虚しく空を切ってソニーが跳びのいたあとに両顎が嚙み合わされた。金属の牙が咬み合わさる時のような音がした。
今は執務室中に立ちこめた生臭い悪臭のする黄色い煙のスクリーンの中から、猛々しい翅音を響かせて、羽根を持った毒あるものが飛びだしてきた。そいつは毒針で攻撃し、ソニーを刺し殺そうとまっしぐらに襲いかかってきた。おそらく熊蜂のような獰猛な毒虫であろう、しかし、もっと大きく、もっと邪悪な代物であった。
そいつが、四五口径から発射された弾丸が邪悪な〝力〟に触れて変形したものだとソニーは直感的に悟った。
こいつはとてつもなく悪い黒魔術師か、さもなければ悪魔そのものだ、とソニーは知った。
ソニーは怒りに燃えて、襲いかかる毒虫どもと戦った。毒針をきらめかせて襲ってくるのを次々に空間転位でこの世の外に叩きだしてしまう。
彼が奮戦している間に、黄色い煙の彼方では、執務デスクの向うの異形のものが、なにかしら奇怪な変化を遂げていた。
青黒い鱗を持つ巨体が急速に溶解し、執務室の壁を覆い始めた。異形のものは平面化を遂げて行き、さらに異形と化した。
ソニーが毒虫どもをこの世の外に放逐して注意を異形のものに戻した時、ザメディと名乗るものは、執務室の内壁を、青黒い鱗で覆い隠し、さらに天井、床と拡大し続けていた。

ソニーは嫌悪と怒りに全身、鳥肌立った。
青黒い鱗で装幀された壁には、爬虫類を思わせる口中に鋭い歯を備えた、みにくい頭部が、狩猟のトロフィーのように突き出していた。
頭部のほとんどが大きく裂けた口であり、二重に植わった鋭い歯であった。それは総じてティラノザウルス・レックスを連想させたが、比べようもないほど貪虐、凄惨な印象を備えていた。
恐怖は甚大なものだったが、それを上まわるのが嫌悪であり、憎悪であった。
こいつをやっつけてやりたい! ソニーの心を占めたのは本能的な攻撃欲だった。なんとしてでもやっつけてしまわなければ、居ても立ってもいられぬ激しい衝動が彼を虜にした。
「畜生、畜生......」
と、ソニーは口汚く罵った。
「これはいったい、どうなっちまってるんだ......」
混乱し、困惑を禁じえなかった。目に映ずるのはグロテスクの極致だった。壁面から突出した爬虫類の頭部には目玉がなかった。真赤に燃える石炭のような陰惨な目は、天井からソニーを見降していた。異形のものの体は位置関係が分解して平面的に拡がってしまっていた。
ソニーはこれほど奇怪なものを見たことがなかった。異形のものの体表がいつの間にか、執務室の天井、床、壁の六面を隙間なく、青黒い無気味な鱗で覆い尽してしまっていたのである。その外側はどうなっているのだろう......考えただけで気分が悪くなり、嘔気がうごめきだした。
「この化物野郎......なんてひでえ化物なんだ......」
ソニーは息を殺していった。大声で喚く元気がなくなってくるのを感じた。悪寒がして体が冷たくなってきた。
我慢しきれなくなり、ソニーはいつもの調子で壁抜けをし、逃走しようと試みた。
だが、壁はゴムのような弾性をもって、ソニーの体を弾き返し、床に転がした。
青い鱗の生えた壁は、ソニーの透過を拒んだのである。
壁抜けができないのだ! ソニーはかっと逆上し、狼狽に駆られるままに再び壁面に向って突進した。
またぞろ弾力ある壁が彼をはね返した。パニックの巨波がソニーを吞みこんだ。
ソニーは気違いのように、壁面を叩きながら、部屋中を走りまわった。
異形のものが陰々たる笑声を轟かせた。
「壁抜けができまい......」
と、そいつは恐ろしい嘲笑をこめて告げた。
「きさまはどんな物質でも通り抜けられようが、ザメディの体細胞で造りあげた特製の檻からは決して抜けだすことができんのだ......お前は虜囚になったのだ。二度と逃れることはできないのさ......」
「アイーッ!」
と、ソニーは金切声で叫んだ。
「おかあちゃん!」
彼は度を失ってしまっていた。優越感が崩壊したとたん、ソニーは怯えきった五歳の幼児に還った。自分よりうわての恐ろしい敵の手に落ちてしまったのだ。
ソニーは泣き喚いた。
「おかあちゃん! 化けものにとっつかまっちまったよう!」
「泣き喚くがいい......」
異形のものは陰惨な笑声を響かせた。
「泣き叫び、涙が涸れるまで......そうしたら、きさまを連れて行くところがある......」
「地獄はいやだ! いやだよう!」
ソニーの頭には、自分が地獄の悪鬼に捕まったという恐怖しかなかった。
「マリア様。おいら悔い改めるだ!」
彼は死物狂いで絶叫し、切羽詰まった不信心者だけの切実さで懇願した。
「もう悪い事は一切止しますだ、教会にも行ってざんげしますだよ! ロウソクをあげてお祈りもしますだ」
スラム育ちの幼児は、突如として南部のニグロの口調になってしまった。よぼよぼの祖父が時折、発作的な悔悟の情に駆られて口走る調子が、孫の口に宿ったのだった。
「だから......だから......地獄行きだけはかんべんしてくだせえ!」
ソニーは恐ろしいことに気付いた。青黒い鱗の生えた体皮で表装された、署長執務室の六方の面がじりじりと間隔を狭めてくるのである!
彼は執務デスクの上に跳び乗り、恐慌に駆られ、火がついたように地団駄踏んだ。
「ひゃあーっ、マリア様っ、お助けを! おらピンチですだっ」
オライリー署長の執務室の前では、制服警官が集まって、混乱状態になっていた。
執務室の扉は開かず、インターカムも電話もまるで通じない。物音一つしない死んだような静寂だけが、扉の向うにわだかまっていた。
異常事態が発生したことは間違いなかった。
「オライリー署長! どうなさったんです!?」
扉をいかに叩けども、返事はまったくなかった。
「署長の身に不祥事が生じたに違いない」
と、年配の巡査部長が断定した。ソニー・リンクスの殴り込みによって、署内が大混乱に陥っているにもかかわらず、いっこうにオライリー署長は、その七フィートの巨軀を現わそうとしないのだ。
ありえないことだった。オライリー署長は分署の支配者なのだ。
「ドアを破れ! 署長は脳卒中で倒れたのかもしれん!」
もしや、ソニー・リンクスが署長をどうにかしてしまったのではないか......その場の全員が同じことを考えていたが、だれも口には出さなかった。それは必ずしも沈痛なものだけをもたらす想像ではなかった。ばんざいという歓呼を抑圧している者が大部分だった。
警官たちは執務室の扉を破りにかかった。だが、署長が自慢にしている樫の扉は、警官たちの足や肩をいたずらに痛めつける結果に終った。
「斧だ! だれか斧を持ってこい!」
堪りかねて、老巡査部長が叫んだ。警官たちが気後れの色をあからさまに見せる。
「そんなことをしていいんですか......」
「この際だ、やむをえん! もし間違いだったら、わしが責任を取る......」
老巡査部長が悲壮な顔付でいった。
勇を奮るって、斧が打ちこまれ、署長執務室の樫の扉が剝ぎ取られていく。
斧を打ちこむ都度、木っ端が飛び散り、きしみながら樫の扉は裂けて行ったが、やがて、斧の刃は思わぬ障害に出くわした。
「な、なんだ、これは!?」
斧を振るう警官が叫び声をあげた。重い斧を叩きつけるたびに戻ってくる衝撃が、にわかに異質なものに変ったのだ。
ぽかっと空間の開くはずの、扉に入った割れ目の向うには、得体の知れぬものが充塡されていたのだ。無気味なぐにゃぐにゃしたもの、弾力性に富み、おそろしく強靭なもの......
「変なもので入口が塞がっているぞ!」
「構わん、ぶち破るんだ!」
再び斧が振るわれた。だが、斧の刃は一インチも滅りこむどころか、あっさりと弾き返された。何度やっても、掠り傷さえつかない。
「こいつは、生きてるぞ!」
愕然とした叫び声が湧いた。
ぐにゃぐにゃした生臭い内臓のようなもの、そいつは厭らしい粘液をしたたらせながら蠕動をくり返していた。生きていて、しかも動いている奇怪な肉質のもの。
制服警官たちは額から滝のように汗を流し始めた。いかに斧を力まかせに叩きこんでも、コールタールのような手応えが戻ってくるだけだ。
警官の一人が喚き声をあげながら、腰間の拳銃を抜いた。
「畜生! こいつを撃っちまってもいいか!? おれはこの気持の悪いのを撃ちたい!」
だれも返事をしないうちに、彼は撃鉄をあげ、立て続けに射ちまくった。
弾丸は内臓の化物に滅り込み、そして弾き返された。
拳銃を手にした警官が斧で脳天をぶち割られたようにぎくんと硬直し、崩れ落ちた。彼の拳銃から発射された弾丸は、弾き返されて跳弾となり、彼自身を射ち殺してしまったのだ。
嚇っと逆上した警官たちは正確な状況判断を忘れ、いっせいに拳銃を射ちまくりだし、全員が跳弾の犠牲者と化した。
建物がぐらぐらと揺れだした。床から天井に至る壁の木部が大きく上下に裂け、扉の残骸が爆発したように吹っ飛び、死傷した警官たちのボディーの上に倒れ伏した。
壁を押し破って、それは廊下に転がり出た。奇怪な肉質の粘液を垂らした巨大な球型のもの。それは怪物的なおぞましいミートボールそのものであった!
署内は七転八倒の大混乱に陥った。署長執務室の壁をぶち抜いた巨大なミートボールは、カウンターの前に転がりだし、進路に当った巨漢の警官たちは跳んで逃げた。この忌わしい巨大な内臓器官の塊に手を触れる勇気を持つ者は皆無の有様であった。
「署長が攫われた!」
「市警本部に応援を要請するんだ!」
絶叫が交錯する中を、巨大ミートボールは署の玄関を押し破り、石段を転がり落ちた。これほど怪異な見世物はなかった。その得体の知れないものが何であるにせよ、生きて意志を持ち、行動していることは歴然としていたからである。
分署中の警官が残らず跳びだしてきて、怪奇なミートボールの追跡に加わった。移動し、逃走するミートボールを追い、警察車が次々に恐ろしい咆哮をあげた。
ニューヨーク中の警察車が、警察無線の指令を受け、いっせいに集結してきたかのようであった。
3
中央ハーレムは、不穏な気配が立ちこめ、騒然となった。
数十台もの警察車が金切声のサイレンをつんざかせて続々と集まってくるのだ。
ただですら暴動の火種がくすぶっているハーレムは、流言飛語が飛び交い、通りに出てくる殺気だった黒人たちで混みあい始めた。
黒人の少年が数名警官に射殺されたという、この上なく刺激的なデマが取り沙汰され、めざましいスピードで、ハーレム全体に拡がっていった。事あれかしと待ち望んでいる連中により、暴動の素地はたっぷりとできあがっていたのである。
そこへもってきて警察車の大量集結と夜空を圧するサイレンの叫喚は、黒人群衆の不穏さに油を注ぐ効果をのみもたらした。
彼らは警察を憎んでいた。心の底から、何にもまして憎んでいるのだった。ハーレムでは警官は絶対に一人歩きはしない。黒人たちの全てが白人嫌いではないが、警官だけは別であった。
悪の象徴、圧制、差別の象徴である警察への憎悪は、黒人群衆の胸中にくすぶる凶暴な燠火であった。黒人過激派の、武器を手に立ちあがれという煽動が効を奏するのは、こんな時であった。
黒人群衆の興奮は、一時に雪崩を打って何オクターブもはねあがっていた。
トランシルヴァニアの王女、ルナ姫はすっかり心細くなっているところで、この騒ぎに行き当ったのだった。
ルナ姫は疲労し、喉がかわき、空腹だった。異星のサイボーグ戦士ベガと別れ、やみくもに夜のセントラル・パーク周辺を歩きまわっていたのである。
心が虚無に冒され、寂しく、やりきれなかった。どうともなれ、と一時は自棄的な考えにとりつかれたが、所詮、彼女の責任感はそのまま埋没してしまうことを許しはしなかったのだ。
彼女の怒りや腹立ちは長続きしなかったが、心の深奥には鋼でできたようなものがあって、彼女が自分を失ってしまうことは決してできなかった。
各自の心がバラバラに離れ去ってしまったのは、ある意味では当然のことである、とルナ姫は冷静になってから気付いた。
人種も生れも育ちも、四囲の習慣、ものの考え方も全て異質な者たちが、相互理解を欠くのは無理もない、と彼女は自分にいいきかせた。
こうした差異を無視して、いきなり結束を固めようとした行き方こそ誤まっていたのだ。全ての責は他人にではなく、独善の虜になっていた自分にある。
ルナ姫は、あてどもない深夜の彷徨を続けながら、くり返し自分にいってきかせた。
己れの非を認めることは簡単ではない。王女の誇りをもって、人々に君臨し奉仕を受けるべく育ってきた彼女にとっては、なおさら容易ではなかった。
挫折の原因は、己れの高慢さ、独善による強引さにある、とわきまえて、自分を説得しようとしても、必ずしも胸落ちはしないのだった。心の中で納得せず、他人を非難し、責を帰そうと反抗するものがある。
それは、自分はなにも悪くない、といいはり、自己正当化を計るのだ。日本人の丈は卑怯未練な黄色いねずみであり、ニグロのソニー・リンクスは文字通り獣並みの馬鹿なサンボであり、ベガは人の心が理解できぬ機械人形であった。いずれもルナ姫の高貴な自己犠牲、志を理解できぬ愚かな馬鹿者たちであった。
ヒステリックにそういい張る相手を説得するのは困難をきわめた。他人をとがめだてし、自己憐愍に埋没するのは、実に容易であり、快楽を約束する誘惑でもあったからだ。ルナ姫がいかに苦労していようと、だれも認めようとする者はいないのだから、徒労の極致だと思いこみたがる自分を説得するのは、更に骨が折れた。
だが、彼女の責任感は実に堅忍不抜であり、彼女が挫折することを決して許さなかった。どうにもならず投げやりになり、ふてくされている時ですらも、ルナ姫はいずれは自分が心を奮起させて、ベガの許へ戻って行くであろうことを確信しているほどであった。
やがてはベガが自分を捜しにくることはわかっていたが、それをいたずらに待っているのはルナ姫の誇りが許さなかった。過ちを悟り、非を認めるのも、自分の意志から発するものでなければならなかった。
その時であった。警察車のサイレンの不吉な合唱が湧き起こったのは。
精神感応の聴き耳をたてると、殺気だった黒人群衆の想念がひしめきあって雪崩れこんできた。毒々しい攻撃欲にあふれ返った、他人に刺激され興奮に自らを駆りたてて行く群衆心理の大渦巻だった。
それは、ルナ姫の超常感覚にとり、黒雲のように湧きたち、憎悪と攻撃欲の化身となった蜂の大群のイメージに酷似していた。無気味な高圧の意欲を大気中に充満させていく、敵意をはらんだ真黒な雷雲だ。
ぞっと総毛だつ思いで、大通りを荒々しく疾走する警察車に注意を向け、搭乗する警官たちの心を読み取ろうとした。
......署長が拉致された......分署を破壊、逃走中......怪物体......怪物......
詳しいことはなにも摑めなかった。警察無線で指示を受けるパトロールカーの警官たちにしても、きわめて断片的な情報しか与えられていない。
とにかく、異常な事件であり、正体不明の怪物が出現し、警察分署を襲撃したことだけはわかった。
それは分署長を初め、多くの警官を殺傷したきわめて危険なものであるようだった。
ニューヨーク市警は発狂したのではないかとルナ姫は疑った。ハーレムの黒人群衆同様、ニューヨークの治安機関はこれまた熊蜂の大群のように湧きたっているのが感じられたからだ。
緊急の大量動員がなされつつあった。ルナ姫は体を圧迫される不安の虜になった。なにか大異変が起きようとしていることがはっきりとわかった。
ルナ姫はサイボーグ戦士ベガの意識を捉えるべく、精神感応の可聴域を拡大してみた。ラジオ・セットのボリュームをあげるのと似ていた。たちまちおびただしい雑多な想念が渦巻いてとびだしてきた。ガリガリ、ザーザーというノイズそっくりだ。ものすごい量の思念の空電で、空一面埋っているようである。
このとほうもない想念の大渦巻の中から、特定の想念の波長を選りだし捕捉するのは不可能に近いほどだった。何十万人がいっせいに喋りたてている中から、どうやって識別することができるというのだろうか......
もちろん、困難だが、不可能ではない。ルナ姫は超常感覚の耳を澄ました。
〈プリンセス!〉
その呼びかけは、カクテル・パーティー効果に酷似していた。パーティーの大人数のガヤの中でも、自分の名前が口に出されればはっきりと聴き取れるというあれだ。
ベガの想念はゴシック体のように際立ち、脈打った。
〈プリンセス・ルナ!! 現在、私の想念をキャッチしていますか? (まったく困ったものだ。この連中は心理的に不安定すぎる)この騒動に巻きこまれないように、プリンセス。気をつけなさい。危険、危険......〉
危険!
ベガの想念は警告を続け、赤い警告表示灯のように強く輝き、明滅した。彼はルナ姫の身をひどく心配していた。その懸念は、真に親密な友人に向けられるものであり、ルナ姫は彼の言葉によって傷つき、彼を誤解したことを恥しく思った。
〈私の思念をテレパシーで読んだら、わかりやすい場所まで来てください。聞こえますか、王女。空からあなたを捜します。わかりますか、プリンセス?〉
「わかったわ、ベガ!」
ルナ姫は無駄と知りながら、大声で叫び返した。ベガはテレパシー能力を持っていないから、彼女の送信をキャッチすることはできない。一方的な送信だけだ。
「ベガ、早く来てちょうだい!」
夜空を圧して遠く近く間断なく警察車、消防車のサイレンの叫喚が唸りたてていた。ルナ姫の超感覚にとり、夜闇はさながらアニミズムの世界そのものであった。
ニューヨーク市中に高く低く唸りたてている警察車のサイレンが凶暴な怒りと威嚇をこめて怒号している。
〈どけっ どけっ おれの邪魔をするなっ 邪魔する奴は容赦せんぞ!! しょっぴいて行って一生ぶちこんでやる! どいつもこいつも引っ込んでおれ!〉
〈糞っ このバカ車! この忙しい時にカマなど掘りやがって、ぶち殺すぞ!〉
〈畜生め! ブレーキの効きが悪いぞ! これじゃ何人ぶっ殺すかわからん! 今朝修理工場から出てきたのに、なんてこった!〉
パトロールカーを運転する警官の想念がサイレンにからみついているのだった。殺気だち、うわずり、気違いじみた狂騒音を奏でていた。
金切声を夜空に放っているのは警察車のみならず、消防車もヒステリックに唸りたてていたが、かなりニュアンスが異なっていた。
〈黒ん坊どもめ、なんで自分の住み家にわざわざ放火して焼いちまうんだ!? 気違い沙汰だ!〉
〈また放火だとよ! この糞暑いので、黒ん坊ども気が狂いだしてるぞ!〉
深夜であるにもかかわらず、あちこちで交通渋滞が生じていた。大通りに非常線が張られて、交通遮断が行なわれているからだった。全ての車が迂回を命じられ、混乱が拡がりつつあった。
喧しい種々のクラクションがここを先途と唸りたて始めた。
〈警官の糞垂れが!! でけえ面しやがって、ぶっ殺すぞ、本当にもう!〉
〈なにさ、市長に電話を一本かければ、お前なんか首が飛ぶんだからね! 憶えといで! あとでたっぷり仕返しするから......〉
〈畜生、えれえことになるぞ! あと三十分のうちに金を届けないと、麻薬の卸し屋が帰っちまう! 迂回なんかさせやがって、なんてこった!〉
〈早くしろ、早く! 前の車、なにをやってやがるんだろう。これじゃ朝まで立往生だぜ......〉
想念の断片が、猛吹雪のようにルナ姫の顔にぶち当ってくる。混沌としたなかで、なにかしら想像を絶した異変が規模を拡大しつつあった。
平板な日常意識がひしめきあう上を、稲妻のように危機を告げる意識が閃き続けている。それは、ルナ姫を本能的な不安に陥れるものであった。この世のものならぬ脅威がこめられていた。
〈ええもう、喧しい......なんでパトカーがあんなに沢山走りまわっているんだ?〉
〈〝悪魔小僧〟がまたなんかしでかしたとよ〉
〈警察のど畜生が。チビクロ一匹に振りまわされやがってよ〉
〈白ん坊のヘチャムクレどもが......いい気味だ〉
雑音となって渦巻く想念の海の中で、黒人幼児ソニーに関する意識は、ルナ姫の心耳をそばだたせずにはおかなかった。
スラムの黒人たちが、ソニー・リンクスのことを意識にのぼらせているのだった。ソニーの警察署への殴り込みは、おそろしく歪曲された形で、黒人たちに届いていた。
実兄をまじえた仲間を皆殺しにされたソニーが、警察署へ単身乗りこんで、署長以下署員たちを何十人もやっつけ仇を討ったというのだった。
どうやって黒人幼児ソニーがそんな大それたことができたのか知らないが、報復のためニューヨーク全市の警官が非常呼集され、更に州兵が大挙出動している......黒人大弾圧の陰謀が進行中だ......
想念の断片がマリン・スノーのように舞っている。
〈ああ、腹が減った。早いところ、食物にありつきたいもんだ〉
〈きゅっといっぱい......〉
〈麻薬が切れてきた〉
〈マリアの奴が、逃亡やがった......〉
〈ようティヒー聞いたか? ジョーイがおめえを殺すといって捜しまわってるとよ〉
〈どえれえ騒ぎじゃねえか。ハーレムの黒ん坊どもがまた騒ぎだしたんだってな〉
〈黒ん坊なんかみんなアフリカへ送り返しちまえばいいんだ。クロの獣野郎どもが〉
〈聞いたか!?〉
不意に身近に、黒人の想念が力強く響き渡った。
〈地獄の悪鬼が現われたとよ!〉
〈どでかい大鬼だとよ! 白ん坊の警官どもを片端からぶっ喰らってるとよ!〉
〈ショーティーのあの悪どもが、石に変えられたきり、元にもどんねえちゅうぞ!〉
〈白ん坊のお巡りどもを喰い殺してくれるんなら善い鬼にきまってるじゃねえか!! 鬼だろうとなんだろうと、兄弟だぜ!〉
〈鬼が白ん坊どもを一人残らずくっちまうといいだ!〉
〈警官が鬼に喰われるところを見てえだよ〉
〈見に行こうでねえか!〉
〈やめれ! これ、やめれちゅうに! おめえらも鬼にくわれるど!〉
〈鬼は兄弟だ! いっしょに白ん坊をやっつけろ!〉
〈なんちゅう不信心者めらじゃ! マリア様、キリスト様、この愚か者どもをお救いくだせえ......〉
〈モハメッドのいうことを聞け!! 世直しの鬼はブラックだ! 神もブラックだ! 全て善いものはブラックなんだぞ!〉
〈警察と軍隊は、鬼を殺そうとしているぞ! 鬼はブラザーだ! ブラザーを殺させるな! ブラザーを救え!〉
超知覚のもたらす心耳に集中していたルナ姫がはっと気づいた時、黒い大きな河のように黒人の大群衆がひたひたとハーレムから流れでてきた。
どろどろとした熱泥のような情動が、黒人暴徒たちの心から噴きだしてきた。火口からあふれだし、迫ってくるギラギラ輝くマグマを想わせた。
白人への怨恨の激しさ、憎悪の猛烈さにルナ姫は顔色を失った。暴動への期待に酔った黒人暴徒たちに発見されれば、もちろん白人のルナ姫が無事にすむわけがない。
「白豚め、鬼にくわれろ」
「白ん坊を殺せ」
「白い悪魔を殺せ」
黒人暴徒の煽動者たちがひっきりなしに喚きたて、黒人群衆の心にある憎悪と破壊欲をかきたてていた。
地霊の唸りのような喚声が高まってくる。ルナ姫はうろたえてあたりを見まわした。ベガが間に合わないことはわかっていた。
ルナ姫にできることはただ一つであった。彼女自身を黒人に擬装するのだ。催眠パワーをレベルアップして、強力な遠隔催眠をかける。
すると、黒人群衆の目に映るルナ姫は、平凡な黒人娘にすぎなくなる。
彼ら黒人の敵意をそそりたててやまぬ白人の姿は、彼らの意識から消去されてしまう。
「オールパワー・トゥー・ザ・ピープル!」
と、拳を突きあげて叫ぶ。
「ライト・オン! ライト・オン!」
ブラック・パンサーのアジテーションだ。
「キル・ザ・ホワイトピッグ!」
ルナ姫はたちまち黒い大河の中に吞みこまれた。そのまま流れに巻きこまれ、押し流されて行く。
前方でしきりに銃声が鳴り響いた。黒人群衆は火を点じられたように興奮に煮立ってきた。
それは恐ろしい波動であった。地獄の蓋が開けられたように、たちまち凶悪、陰惨なもので大気がぐつぐつ煮えくり返る。
黒い大河の行く手に、警察車が何台も立ち塞がり、バリケードを作っていた。なおも次々にブレーキをきしらせて集結してくる。
黒人群衆から地鳴りのような喚声があがった。
制服警官たちは、拳銃を初めガス銃、ライオット・ガンを構えていた。暴動鎮圧用の散弾銃だ。
「停まれ! 停まれ!」
警察車のスピーカーががなりたてた。
「来てはならん! 引き返せ! ここから先に進むことを禁じる!」
「痛い目にあいたくなければ、早く帰れ!」
「危いから引き返せ!」
警察の制止はまったく効果がなかった。
「白豚を殺せ!」
黒人暴徒の怒声が凄まじく噴き上った。
「白人の悪魔を殺せ!」
制服警官は空に向けて威嚇射撃を開始した。黒人群衆は躊躇し、それから反撃に転じた。銃を所持する者が、警官たちに向けて発砲したのだ。
ガス銃が黒人群衆に向けて発砲され、どっと群衆が崩れて、暴動が勃発した。
そのまま射撃戦になれば、武器に劣る黒人暴徒が後退することになったかもしれない。そして何昼夜にも渡る射ち合いの幕を開くことになったであろう。
たちまち二十台ほど集結したパトロールカーの警官たちは、ガス銃とライオット・ガンで黒人暴徒を追い返し始めた。
催涙ガスの強烈な白煙を浴びた黒人群衆は悲鳴をあげて咳込み、嘔吐しながら右往左往した。銃を持つ黒人暴徒は警官に向けて射ちまくったが、劣勢であることはまぎれようもなかった。
たちまち収拾のつかぬ大混乱に陥った。催涙ガスに攻めたてられ、涙とはな汁をとめどもなく垂れ流しながら、黒人群衆が先を競って逃げようとする。転倒した者は立ち上れぬまま容赦なく群衆の足下に踏みつけられた。
思わぬ異変が生じたのはその時だった。
優位に立った警官隊にパニックが生じ、算を乱して黒人群衆同様に逃げだしたのだ。銃声が散発的になり、次いで狂気に捕らわれた激烈さで荒れ狂いだした。
怪奇な球型のもの──ミートボールが出現したのである。それは警察分署を破壊して脱出した時よりも、はるかに奇怪に変形していた。
まるで雪の斜面を転がり落ちたように厖大な質感を備えて、それは出現した。それは明らかに巨大化していた。
それ自体が成長したという表現は当っていないかもしれない。それの表面は、怪異なオブジェで構成されていた。その表面はまるで人体の部分で形造られているようだった。
何百人という人体をコンクリート・ミキサーにほうりこんでかきまわし、それを圧し固めて球型に仕上げた、そんな凄まじい印象であった。よくよく見れば、人体の一部と見分けのつくものがおびただしく、内臓や骨、筋肉、腱などと複雑にからみあい、想像を絶した奇態なオブジェを形成しているのだ。シュール画家の悪夢に出てくるようなものであった。
それを一目見ただけで、全ての人間が発狂したようなパニックに圧しひしがれた。
数台の警察車が激突し、エンジンから火炎が噴きあがった。火炎の照り返しを受けた、球型タンクほどにも巨大化した異形のものはこの世のものではない凄まじさであり、発狂者を続出させた。
黒人暴動は一時に狂乱のレベルに達した。未曾有の混乱の中では、なにが起きているのかを正確に把握することは不可能だ。
黒人暴徒は、警察が敗退したことだけを鋭敏に察知し、暴動はハーレム全体を巻きこむ大火となって燃え拡がった。

最初の数分で、何百人もの死傷者が続出し、それは天井知らずの数にはねあがりつつあった。
黒人暴徒はたちまち何万の数にふくれあがり、それは即座に無数の焼打となって火の手をあげ、夜空を焦がし、炎上した。恐ろしい大混乱の中で、もはやルナ姫の姿は数万の黒人暴徒の波に吞みこまれ、見分けもつかなくなっていた。
しかし、ルナ姫のあげた悲鳴は、彼女の意志とは関りなく、声のみならず精神感応の救難信号として放たれたのだ。彼女の肉声の叫び声は、阿鼻叫喚の地獄の中であっさりかき消され、聞く者はだれ一人存在しなかった。そこでは数千、数万の人間が声を限りに喚き、悲鳴をあげ、咆えたてていたのである。それはもはや叫びではなく、押し寄せる津波のたてる恐ろしい轟音に似ていた。
しかし、ルナ姫の救いを求める叫び声は、テレパシー波長帯の全波長に搬送され、全世界へ向けて発射された。絶体絶命の危地にあるルナ姫がテレパシーで送信した救難信号は、いまだかつて地上のだれも放ったことのない強力なテレパシー放送となり、地球全土をカバーした。
地球上のありとあらゆるテレパシストが、その超常感覚の感度に応じて、ルナ姫の叫び声を遠く、近くに聞いたはずだ。その反応ぶりもさまざまだったであろう。
女の悲鳴を聞いてと胸を突かれても、空耳と決めて自らを納得させた者が最も多数を占めたはずである。
それがたまたま、巡回中の警官でもあれば、腰の警棒に手をかけて、悲鳴の主を捜しに行ったであろう。
眠りを悲鳴によって破られ、とび起きた者も多かったはずだ。
優秀なテレパシストであれば、ルナ姫の視覚を通じて、現場で起きている異変を視ることも可能だったに違いない。睡眠中であれば、その光景を悪夢として受け取ったであろう。
いずれにせよ、ルナ姫と心霊的接触を持つ全ての人間が、その瞬間、彼女の身に起きたことを察知したのである。
それははるか大洋を隔てた東京の東丈にしても例外ではなかったのだった。
4
昼近く──丈を友人の江田四朗が久しぶりに訪ねてきていた。夏休みに入って、初めて見る友人の顔だった。
開け放った二階の窓からのぞく樹木の緑が濃く、照りつける真夏の陽光に眩しく輝いていた。油蟬がおそろしく暑苦しい啼き声を張りあげている。
「なんだ、元気そうじゃないか」
と、江田四朗は開口一番にいったものだ。
「病気だって聞いたから、心配して見舞いにきたのに......いったいどこが悪いんだ?」
丈はいかにも健康そうで活力を感じさせた。四月以来、塞ぎこんでいることの多かった丈を見慣れていた目には、丈が一まわり大きくなったほどの変化を感じさせるほどであった。
「ここかもしれないな」
と、丈はにこりともせずに、人差指を自分のこめかみに当てた。
「ここが、ちとおかしいらしいんだ。気が狂ってるらしい」
「よせやい」
四朗はメガネが知的にしている整った顔に苦笑を浮べた。
「自分を異常だと思っている狂人はいないっていうじゃないか。しかし、神経症っていう顔じゃないぜ。それとも自覚症状とか病識でもあるのか」
「冗談だといいが、そうじゃないかもしれない」
と、丈はまじめな顔でいった。
「国民全員が盲目の国では、眼の見える人間は気違い扱いされるんじゃないだろうか? おそらく彼のいうことは、狂気の沙汰としか思えないに違いないんだ......」
丈はまったく笑わずにいった。
「おれはもしかしたら、その目明きの人間なのかもしれない」
四朗は奇妙な表情で、丈の顔を窺っていた。彼の真意を計りかねているのだった。
「いったい、なにがいいたいんだ? なんのことかおれにはちっともわからない」
「今にわかるさ」
丈は畳に据えていた腰をあげ、開け放たれた窓際に寄って、眩しい蒼空を仰いだ。
「なあ、四朗......前はよくお前と話しあったっけなあ」
彼はまるで遠い過去に思いを馳せるような調子でいった。懐旧談をするにはまだ丈は若すぎたが、四朗には今の丈がへんに大人びているように思えた。
「将来のことをさ......おれは必ずトップになるという誓いをたてた。野球部なら主将、学生なら首席、企業体なら取締役社長、官庁なら局長だ......コースでいえば東大法学部から大蔵官僚というとこだな。なんであろうと、トップになってリード・オフしなければ気がすまないと。憶えてるかい?」
「ああ。もちろん......いかにも丈らしいと思ったよ。お前は恐ろしく負けず嫌いだからな......けど、いったいなにがいいたいんだ?」
「おれは突然、自分の幼稚さに気付いたんだよ。けちくさい望みに身を焦がしていた自分にね......そんなものは、いくら気張ってみたところで、サル山のボスザルの権力志向とほとんど変らない。河の流れに浮んだ水の泡みたいなものだと気がついた」
大きく出たな......四朗はただまじまじと丈のまじめくさった顔を見詰めていた。たしかに冗談をいっている顔付ではなかった。
「どうやら、おれの頭の具合を疑いだしたらしいな」
「そんなことはない......ただお前が本当は何をいいたいのか、見当をつけかねているんだ」
と、四朗は当惑の口ぶりでいった。
「世界は......宇宙は目に見えない〝力〟で動かされている......そう感じたことはないか、四朗?」
「ずいぶん唐突だな。神のことをいっているのかい?」
「まあね......宇宙に瀰漫している〝力〟のことさ。この太陽系を整然と組みあげ、運行させている目に見えない力のことだよ。何十億年も回転しながら、いささかも軌道をはずれたりしない。太陽系の属する銀河系島宇宙も一糸乱れず運動を続け、星間の交響楽をかなでている......とほうもなく巨大でありながら同時に精緻をきわめた〝力〟がかなでているんだ。ヘンデルとかバッハの音楽、フルトヴェングラーのブルックナーの交響曲から感じとれる〝力〟だとおれは思うんだが......大昔から人間がくり返してきた権力の争奪があまりにもちっぽけで取るに足りないことだとわかってくる。サル山のボスザルが何者だろうと、大部分の人間たちは気にもかけないだろう。それと同様に、地球という微細な惑星で人間が権力争いすることが、どの程度の意味を持っているかと考えざるを得ないんだ」
「気宇壮大だな」
と、四朗はいった。大上段に構えた丈に対する皮肉が感じられた。
「だが、受験生にとっては気休めにもならないだろうな。もちろん失業者もそうだろうし、倒産寸前で、一家心中を覚悟している人たちもだ......それに世界中でどんどん餓死していってる大量の貧民も、夜空の星を見上げていい気分になったりはしないだろうと思うな。そういう連中はバッハなんて聞いたこともないだろうと思うよ」
「斜に構えて皮肉をいうなよ」
と、丈は怒りもせずにいった。激情家で、すぐにむっと感情を表に出しやすい丈には似合わなかった。
「サル山の連中も、腹を減らしてうろついてる野良犬も夜空の星を見て感動なんかしないさ」
と、丈はいった。
「多くの人間がサルに近い低次の狭い意識の中に閉じこめられている状況があるからといって、宇宙を運行する〝力〟を否定することはできないはずだ。それは低次元のイデオロギー論争や宗教論に還元することもできないんだ。宇宙時間から見て古代ローマ帝国がどれくらい保ったというんだ? 人間の歴史なんて一瞬だぜ。太古から人間がくり返してきた権力闘争は、宇宙の視点から見れば、蟻の戦争とたいして変らないだろう」
「まあ、いわんとするところはわかるけどね」
と、四朗は気圧されながらも、反撥を覚えていた。
「だが、正直いって、ぴんとこない」
「そうだろうな。お前は宇宙の〝力〟と接触した経験を持ってないからだよ。人間は自分で思いこんでいるほどちっぽけなものじゃないかもしれない。地べたにへばりついて、星辰の世界に思いをめぐらすこともなく、惨めに這いまわって生きるのは、なにも定められた運命じゃないとおれは思う。自分の心の中に宇宙の〝力〟が入りこんできた時に世界はまるっきり変貌する。人間が人間として生きるに価しないというほどの惨苦は存在するだろう。だが、本当はそんなものは取るに足りないことなんだ! 自分の中にもある〝力〟に気付けば、だれでもそれがはっきりとわかる!」
「ちょっと神がかってるな」
と、四朗はどこまでも懐疑的にいった。
「そう思うのも無理はない」
丈は相手を凝視しながらゆっくりいった。
──丈は変に重厚だ、と四朗は思った。あれほど劣等感が強くて、怒りっぽく短気だった丈が、まるで人が変ったように厚みが出てきている。
深沈としているのだった。なにごとか、丈の性格をまるごと変えてしまうようなことが起きたに違いなかった。小学生時代からの仲だ。互いの性格は奥底まで知り尽しているはずであった。
「お前は、〝力〟がどんなものか知らないからだ」
「〝力〟だって? 宗教がかっていて、そういうのは、僕は好かないな。目に見えない〝力〟とか、神秘主義的すぎるよ。僕は幽霊も信じないし、宗教も信じない。もともと無神論なんだ。それは、丈、お前だって同じだったじゃないか。どんな地上の謎もいずれは科学的に解明される......そういっていたじゃないか。そのお前がなぜ、神がかったことをいいだしたのか僕にはわからないね」
丈はしばらく無言で四朗を見詰めていた。
「それでは〝力〟を見れば信じるというのか?」
と、ゆっくりした口調で尋ねる。
「この目で見ればね......だが、そんなものはあるはずがないんだ」
四朗は依怙地になっていった。
「丈、お前がイエス・キリストだったら、おれの目の前で奇蹟を見せてくれるかもしれないけどな......」
「わかった。見るがいい......」
丈の言葉と同時にそれが起こった。
丈の勉強デスクが不意にその重量を失ったのである。デスクの脚が床を離れ、音もなく浮きあがる。
「あっ」
と、四朗は叫んだ。が、その叫びは息が漏れたように弱々しいものだった。
デスクの上に載ったスタンドも、本立ても重力を無視して宙に浮揚した。
そんなことはありうべからざることだ! と理性が抗議を申したてる。己が目で今まさに見ていることを必死で否定したいのだった。
奇術だ、奇術に違いない! どんなトリックがあるにせよ、デスクが重量を失って空中浮揚するなど、絶対にありえないのだ。
が、デスクは四朗の期待を裏切り、上昇して行くと、部屋の天井にぴたっと貼りついたまま動かなくなった。
「奇術だ......トリックがあるんだ! そうだ決っている!」
四朗は呻くような声を絞りだし、弱々しく否定を続けようとし、己れの破産しかけた理性にしがみついていた。
「その目で見ても、信じないというわけか」
と、丈はいった。考えこむような表情で、猜疑心の強い友人を見詰めながら、デスクをゆっくりと天井から床へ引き降した。デスクの上の雑多なものは、何一つ倒れたり転がったりしてはいなかった。信じがたいバランスの取り方というべきだった。デスクの上には蓋のはずれたインク瓶までが載っていたのである。
「では、いったいどうすれば信じるんだ?」
心から知りたがっているように丈は尋ねた。その目が不意に輝く。
「トリックではない証拠があればいいんだ。四朗、お前自身を重力から切り離してやるよ」
言下に四朗は己れを地上に縛りつけていた重力が消滅するのを知った。体が全ての支点を失い、頼りなく浮きあがり、上昇する。彼はあっ! あっ! と息が詰まるような悲鳴をあげて身をもがいた。水中で溺れる者のように四肢を必死にあがかせた。
「どうだ、宇宙遊泳の気分は?」
「丈、やめろ! やめてくれ! おろしてくれ!」
「いいじゃないか。なにもそう遠慮するな。このまま外へ出て、空を飛んでみないか......地球が青い星に見えるまで高く昇ってみるのもいい。世界観がきっと変る。セコい生き方をしてた自分が恥しくなる」
「もういい! わかった! 降してくれ!」
四朗は恐慌に襲われて呻いた。狂ったように四肢をもがき続けている。
「心配するなよ。落したりしないから......バタバタするとまるで溺れてる虫みたいだぜ」
丈は初めて笑った。
「これでも奇術だっていうのかい?」
「奇術じゃない! わかったからやめてくれ、頼む!」
四朗の顔は怯えて真青になっていた。
姉の三千子が紅茶を淹れて、部屋に運んできたのはこの時だった。この異様な光景にぶつかって棒立ちになる。
「丈!! なにをしているの!?」
激しい声であった。
「ちょっとトレーニングしてる」
「おやめなさい!」
三千子の語気はきびしかった。滅多に聞くことのない怒り声だった。
「すぐにやめなさい!! 早く!」
「わかったよ、今すぐにやめる」
丈は狼狽して、四朗を解放した。四朗は床に降りると、へたへたと腰が抜けたように座りこんでしまった。烈しく汗を流し、息を切らしている。
「どうしたの、姉さん......」
丈は三千子の怒りを熱湯に漬けられたようにピリピリ痛く感じながらいった。日頃の姉はほとんど怒らない。その穏やかさが失せた時は、さすがに怖かった。平手打ちをくうよりも効き目があった。
「そんなこわい顔をして......」
「お友だちを玩具にしてからかうなんて、とんでもないことだわ!」
三千子の怒りは本物であり、激しかった。
「玩具だなんて、大げさだよ」
「噓つき! 姉さんにそんな噓は通用しないわ! 四朗さんの顔をよくみなさい! 真青じゃないの。それがわからないの!?」
丈は恐れをなした。姉の怒りは尋常なものではなかったからだ。
「丈! あなたの〝力〟はそれは素晴らしいものかもしれない。だれにも真似のできないものかもしれない。でも、その〝力〟を鼻にかけて他人を嬲りものにすることは絶対に許せないことだわ! 姉さんは決して許しません!」
「ほんの冗談だったんだけどな......」
「丈、あなたは自分の〝力〟を四朗さんに疑われて面白くなかった。それで〝力〟を誇示してみせたんでしょう。そんな押しつけがましいことがありますか! 丈、あなたにはもう驕りが出ているわ!」
丈の心は見通しであった。
「ごめんなさいね、四朗さん。丈が無茶をして......大丈夫かしら」
「僕は......高処恐怖症なんで......もう大丈夫ですから......」
四朗はなおも滝のように流れ落ちる汗を拭きながら、息切れする声でいった。
「へえ、高処恐怖症だって? 洒落た病気持ちなんだな。知らなかったよ」
と、丈がいい、三千子に鋭く睨まれて首をすくめた。
「知らなかったんだ。勘弁しろよな」
「そんなあやまり方がありますか!」
三千子はあくまできびしかった。彼女は弟の〝力〟が弟自身をスポイルすることを恐れていたのである。
その前兆は、丈が弟の卓に向けた振舞いにもうかがわれた。丈はその持てる〝力〟を真の意味でコントロールしてはいない。
餓鬼大将がその権力を振るう機会をいつも求めているように、丈もまた〝力〟を発揮し、誇示することを願ってやまないのだ、と三千子は思った。
彼は新しく手に入れた〝力〟を試したがっている。しかし、それがために、丈はいたずらに人々の反感を買うのではないか。
三千子はそれを危惧していたのだ。
「いや、もういいんです......ただ、ひどく驚かされたもので、ショックを受けただけです」
と、四朗は無理に笑いを作った。
「丈、君の〝力〟は、超能力とかいう奴じゃないのかい? 思念の力で物体を動かすという......」
「超心理学では、PsiとかESPとかいってるようだな。早くいえば念力さ」
と、丈は三千子の表情に目をやりながら、もっともらしくいった。
「まさか、そんなものが本当にあるとは思わなかった......」
四朗は頭を振り、溜息をついた。いまだに衝撃が尾を引いているようであった。
「だけど、どうして君はいきなり、こんな大きな力を授ったんだ?」
「授った? だれから......? おれ自身の力さ。潜在能力という奴で、これまでずっと眠っていたんだ。話せば長くなるんだけど」
丈は己れの超能力の根元が自分自身にあると信じて疑わなかった。事実は──彼自身は超能力のいわば放電極の一つにすぎず、全ての超能力の源泉は、人類全体の潜在意識の海に秘められていたのである。
「とても信じられない......」
と、四朗は渋々といった。それを認めるのがいやで堪らないという表情であった。
「しかし、君の超能力を見せつけられたからには、信じないわけには行かない......足許の確固不動としているはずの大地が崩れてしまったみたいだ......」
「信じようと信じまいと、これが事実なんだ」
と、丈はかさにかかっていった。
「宇宙には拮抗する二つの巨大な〝力〟が働いている。一つは宇宙を存在させ、維持しようとする正の力だ。もう一つはその努力を破壊しようとする負の力だ。それを単純に神と悪魔の抗争といってしまっていいのかどうか、おれにはわからない。宇宙を生成発展させる力と、全てを破壊し無に帰そうとする力が、がっちり嚙み合っているのが宇宙の実相なんだが、それはどんな巨大な観測装置を用いても、肉眼には映らない......
その負の力は〝幻魔〟と呼ばれているが、それをまともに視てしまったものは、だれでも発狂するだろう。純粋の悪、純粋の恐怖がそこにあるんだ」
丈はむしろ淡々と喋った。感情がこもらない方が凄味があった。
「おれはルナ王女によって、〝幻魔〟という宇宙の根源悪を垣間見せられた。おれは即座に気が狂ったよ。心霊医師でもあるルナ王女が治療してくれなかったら、おれは痴呆症になって、今ごろどこかの病院で、壁に向って座っているはずだ」
「そんなに物凄いものか、〝幻魔〟っていう奴は?」
四朗は、丈の淡白な口調に気圧され、懐疑癖を忘れていた。
「ああ、凄いね。今までお前の見た最悪の悪夢を何万倍にも増幅した、物凄い恐怖を想像してみるといい。しかも、それは悪夢ではなく、現実に存在する。その宇宙の根元悪から噴出した悪の波動は、暴虐な侵寇軍の形をとって、宇宙の星という星を消滅させつつあるんだ」
「丈......君はこれまでそんな話し方をしたことなかったな。よほど確信があるんだろうな」
「確信ではなくて事実なんだ。地球人類はこれまで井の中の蛙としてすごしてきた。今後は宇宙的な嵐の時代に入る......もう人間同士くだらない戦争なんかやっていられないだろう。大宇宙を二分して戦われている〝幻魔大戦〟に地球も巻きこまれて行くからだ」
その戦いによって、地球の救済者たらんとする......これほど壮大なヒロイズムはまたとないであろう。神がかりなどという他愛ない代物ではないと四朗は思った。
「この地球上に、潜在的な超能力者がどれだけ存在するか、だれにもわからないだろう。だけど、だれかが超能力者たちを糾合して、超能力軍団を組織しなければならない。だれかがそれをやるのを期待するよりも、気づいた者がまず手をつけるべきだ......時間はもう残り少いんだ。目覚めた者が率先して成して行かなければならない......」
丈の目が爛々と光り始めた。丈は己れのヒロイズムに夢中になっている、と四朗は感じた。劣等感の強い丈を変えたのは、彼自身の超能力だった。彼の得た自信は、今ヒロイズムに転化しつつあるのだ。
「〝幻魔〟は想像も及ばぬほど強大な敵だ。数百億年に渡る不敗者なんだ。いかなる超科学兵器もまったく歯がたたない。米ソが水爆ミサイルをくりだしたところで、まるで問題外だ......〝幻魔〟に対抗できるのは、強大な超能力だけなんだ」
そうだ、丈、お前のような......と四朗は考えた。お前のような強大な超能力者だけが地球を救済する資格を持つというわけだ。
超能力者をスーパー・エリートとする丈の考え方は、選民思想そのものだ。丈の劣等感は裏返しになって、優越感に転化した。彼の超能力は、強烈なエリート意識を生みだしたわけだ......
四朗の心には猜疑心と反感の黒雲が群がりたっていた。三千子の危惧は当っていた。羨望と嫉妬の感情こそ友情の最悪の敵であった。四朗の目には、友人の丈は無気味な存在として映りつつあったのである。
「それで、そのルナ王女という女性は、今どこにいて、何をやっているんだ? 彼女が君の潜在能力を目覚めさせてくれたわけだろう? そのルナ王女は君を放置して、なにを始めたんだ?」
「ルナ王女か」
丈にとっては痛い質問であった。彼を臆病者と罵って立ち去ったルナ王女は、それ以後なんの音沙汰もなかったからである。
「今はわからない......彼女には彼女なりの役目があるんだろう。潜在超能力を持つ者を探しだして目覚めさせるのが、彼女の使命なんだと思う」
これは逃げ口上でもあり、半ばは虚勢でもあった。丈は顔が赤らんでくる思いがした。ルナ姫に味わわされた屈辱の苦い味は絶対に忘れられない。魂に青い炎で灼きつけられた文字となって燃え続けるだろう。
彼女は、丈の本当の力を知らず、見くびっているのだ。いずれは必ず、それを知らされることになるだろう。一度はテレパシーによる小細工にひっかかりはしたが、二度と同じ手は効かない。
自分には真に巨大な〝力〟があるのだ。ルナもそれを認めざるを得まい。彼女はテレパシーを用いてトリックを弄するのは巧みだろうが、所詮は小細工でしかないのだ。
「そうすると、ルナ王女が組織を作りあげる方が先だな。彼女はテレパシーで超能力者を見つけだすのがうまい。しかし、君にはその力がない。そうじゃないか?」
と、四朗がこざかしく丈の弱みを突いてきた。
「まあな。それはそうだが......」
丈は、四朗がへんに執拗に底意地悪くなっているのを感じた。やっぱりこいつ、さっきの一件を根に持っているのか。
「君はどうやって、超能力者の同志を見つけだすつもりなんだ?」
四朗が追及する。丈はちらと三千子の顔に目をやり、彼女の目に警告の色を読んだ。
「さあね。新聞広告でもだすか......」
といって、丈は笑った。
「超能力者なんて、そうは沢山いないだろう」
四朗は執拗な感じで押してくる。
「それはわからん。潜在超能力があっても、気がつかなければないのと同じことだからな」
「しかし、君のような強力な超能力を持っていれば超エリート確実だな。それだけ力が強ければ、なんでも好きなことができるだろう......邪魔する奴はほうりだせばいいんだから......」
さっき自分にしたように、と四朗は胸の中だけで言葉を続けた。
「それじゃまるで〝超能力のヒットラー〟じゃないか」
笑ったが、本心からの笑いではなかった。四朗の挑発はじゅうぶん通じていた。
──こいつ、嫌味をいってやがる......
その驚きをまじえた感情は、友人を新しい視野で見直させるだけの力をもっていた。友だちだと思ってきたが、この程度の脆弱なつきあいだったのかという失望があった。つまらないことをしつこく根に持っていると思った。警戒心が働いて、丈は用心深い目つきになり、四朗の顔をうかがった。
「しかし、超能力者がスーパー・パワー・エリートになるのは間違いないだろう? 超能力者優越が固まれば、ヒットラーの第三帝国みたいにならないとどうしてわかる? 超能力者の〝第六帝国〟が地球全土を支配して、超能力者の優越人類が、超能力のない劣等人類を支配するかもしれないんだ......」
「それは被害妄想の気があるぜ」
と、丈は笑っていった。
「おれはただ〝幻魔大戦〟に備えて、超能力戦団が必要になるだろうといっているだけだからな」
「〝幻魔大戦〟という大義名分があれば、超能力者独裁はちゃんと成り立つじゃないか」
と、四朗はへんに興奮していった。彼の敵意が伝わって丈は顔を硬ばらせた。相手はまったく誤解している。こいつに〝力〟を見せたのはまずかったかな、と反省が湧いた。こいつは羨望と嫉妬で、劣等感の塊りになっちまってるみたいだ。
確かに超能力のない人間に〝力〟をむやみに見せるのは考えものだ。ひょっとすると、これは先々、超能力を持つ者と持たざる者との確執の原型になるかもしれないぞ。
新しい階級闘争が始まり、超能力の無産階級は、有産階級に激しい敵意を向け、闘いを挑むかもしれない。
「超能力者がそうでない人間を奴隷化したりしないとどうしてわかる? 歴史を見てみろよ。いつだって強者は弱者に圧制を加えるようにできているんだ。超能力を持たない者が超能力者階級に隷属しなきゃならないなんて、おれはいやだ。そんな時代が来ることは絶対に許せない」
四朗は興奮に慄える声でいった。
「そんな議論にはついていけないな......」
と、丈は気持を抑えながらいった。姉の警告の光をたたえた目が気になった。四朗に〝力〟を見せるべきではなかったのだ。
「第一、机上の空論だ。超能力者がどのくらいの人数存在するのかもわからないんだから......それに超能力の性質だって、超心理学ではまだ突きとめられてない、特殊な力なのか普遍的なものなのか、それすらもわかっていないんだ。四朗、お前の考え方だと、ドイツ人の赤ん坊を見るたびに、これがヒットラーの再来になるかもしれないと議論するようなもんだぜ」
「それは論理のすり換えだ!」
四朗は甲高い鋭い声で叫んだ。
「超能力は現実の力だ! 現実を変える力なんだ! 超能力は危険な力だ! おれは超能力者のエリート主義を否定するぞ!」
「しかし、お前はほんの少し前まで、超能力の存在すら認めていなかったんだぜ......奇術だといい張っていた。それがいきなり超能力者は帝国主義だなんていいかねないんだからな......もういい、わかった。この話はもうやめよう」
「どうしてやめるんだ!」
と、四朗はどなった。甲高いヒステリックな声音になり、眼には興奮の涙がにじんでいた。三千子が丈に目配せをしていた。
「おれは超能力者の帝国主義について指摘しようとしているんだ! 超能力の悪を証明しようとしているんだぞ! それを聞きたくないというのか」
あまりにも異常であった。こんな四朗は見たこともなかった。つまり自分は、四朗の外面しか知らなかったのだ、と丈は気がついた。
「おれは超能力者を否定する! だから、丈、お前は聞きたくないんだ! 聞くのがこわいのか!?」
「もうよせ、お前は興奮してるんだ。今はお前と議論はしたくない」
「おれは興奮なんかしてないぞ!」
四朗はますますいいつのろうとした。
「逃げるのか!? そんなの卑怯じゃないか! おれは超能力を否定してるんだぞ! つまりお前を否定してるんだ! それなのにお前は反論もしないというのか!」
「今は議論をしたくないといっているだけだ。お前がこんなに興奮していない時になら話してもいい。今はなにを喋ってもむだだ......」
「なにがむだだ! 人を馬鹿にするな!」
四朗は激しい声でどなった。
「興奮するな! だれもお前を馬鹿にしてなんかいない......」
「噓をつけ! 馬鹿にしてるじゃないか!」
「冗談じゃない。お前を馬鹿にしたりしないよ」
「いや、絶対馬鹿にしてる!」
子供じみた水掛論だった。──こいつはなんで、こんなくだらないことにこだわるんだ? と丈は思った。
三千子に、宙吊りにされている醜態を見られたからだ。その恥辱、屈辱感が、この劣等感の強い奴の心のバランスをすっかり狂わせてしまったからだ。
そうだ、この四朗という奴も、おれと同じように強度の劣等意識の持主だったのだな、と、丈は今更のように悟った。強い劣等意識を持った同士がたまたまバランスをとり、友人関係のようなものを作りだしていたのだ。疑似友人関係とでもいうべきものだ。本当のものではない。
同病相憐れむだから、片方の劣等意識の原因が除去されれば、あっさりと偽りの友人関係は壊れてしまうのだ。
真の友情であれば、こんなにたやすく脆く壊れてしまうはずはない。今の四朗にあるのは、羨望と嫉妬の生んだ激しい憎悪でしかない。彼は、その〝力〟が丈にのみ与えられ、自分には与えられなかったという理不尽、不公平に激しく腹を立てているのだ。
自分には与えられなかった〝力〟は否定され、破壊されるべきなのだ。四朗は自分の激怒が何に起因するのか、まったく理解していない。丈の全人格を否定したいという闇雲な激しい衝動の虜になってしまっているのだ。
だが、なぜこんなことが自分にわかるのだろう、と丈は疑った。おれには四朗の感情が自分のことのようにわかってしまう。
「お前はいつもおれを馬鹿にして、笑いものにしてるじゃないか!」
四朗の逸脱ぶりは限度を知らなかった。
「いつもおれを虚仮にしちゃあ、かげでこっそり舌を出してるじゃないか! 今になって始まったことじゃない! 小学生の時からお前はそういう陰険な奴だったんだ!」
小学生の頃、病気欠席した四朗に、丈はおためごかしにわざと間違った宿題を教えて恥をかかせた、と彼は糾弾を始めた。正気の沙汰ではなかった。
「なんで今更、小学生時分のことを持ちだすんだ......そんなことおれは知らないよ。全然憶えてない」
「ごまかすな。お前は忘れたって、おれはよく憶えてるんだ! とにかくお前はそういう卑怯な奴なんだ。さっきだって、おれを宙吊りにしてさんざん馬鹿にしたじゃないか!」
「お前が信じないから証明してみせただけだ。とにかくすぐに謝まったじゃないか。いちいちそんな風に根に持たれちゃ堪らないよ」
「居直るんだな! お前はそうやって自己正当化しては、人の落度を探しだす、そんな奴なんだ......おれはそんなお前をこれまで友達だと思ってきたんだ!」
「もうお止めなさい!」
と、三千子がいった。穏やかだが毅然としており、いいつのる四朗をも沈黙させるものが秘められていた。
「確かに丈は失礼なことをしましたけど、悪意がなかったことは四朗さんもご存知のはずです。仮にも友達であるならば、なぜそのような曲解をするのですか? 友情は忘れて、相手の気に障る点だけを棚下ろしするような、そんな友人関係はないはずです。だって、そうじゃありませんか? 友人関係とはそんな一方的なものじゃないはずです......丈の落度をとがめるにしても、もっと冷静になってからになさってはいかがですか」
「............」
四朗は蒼くなった顔を引きつらせ、唇を慄わせていたが、一言もなかった。
「傍から余計なことをいって、お気に障ったらご免なさい。でも小学校の時からおつきあいしているお友達同士の仲が、こんなことで壊れてしまうのは残念だと思いませんか? 冷静になってみれば、二人ともそれがきっとわかるでしょう......」
三千子は声の調子を落して穏やかにいった。
「帰る!」
と、四朗は癇癖の青筋を浮きあがらせて、やにわに座布団を蹴って立ち上った。
「丈、お前とのつきあいもこれまでだな!」
しかし、丈は彼を見向きもしなかった。他のことに激しく心を集中させているのだった。
「あっ......あっ!」
と、丈の口びるを激烈な驚愕の叫び声が迸った。
5
彼の目にはもはや狭い自室のたたずまいは見えなかった。眼前には狂気の群衆が右往左往し、人間放れした喚声の湧くモブシーンが、突如シネラマの大スクリーンのように展開されていた。閃光が続けざまに走り、銃声が鳴り響いた。
丈は、その光景の凄絶さに圧倒された。それは単なる臨場感と呼ぶべきものではなかった。丈は今まさに現場に存在しているのを感じた。
女の鋭い悲鳴が丈の全神経系に落雷のショックをもたらした。それがルナ姫のものであることを、なんの理由もなく直感したのである。
丈の超常感覚に、ルナ姫のそれが電流のように火花を発して流れ込んできた! 二人の間にはホットラインに似たテレパシー回路が形成されていたのだ。不思議な心の連繫であった。たとえ顕在意識では反目しあっていたとしても、識域下では強固な結びつきが存在する証左であった。
その瞬間、丈の意識はルナ姫のそれと重なり合った。彼はルナの視覚を通じて見、彼女の聴覚を用いて聞いた。それのみならず、ルナ姫の超常感覚のもたらすイメージが津波と化して丈の心に一時に殺到した。
〈助けて! ベガ! 助けて!〉
丈は彼女の心に渦巻く恐怖、惑乱を自分のもののように感じた。ルナ姫はこの瞬間、度を失い、ただの無力な少女に還元してしまっていた。
パニックが彼女を圧倒し、丈もまた心身を圧する恐慌に死物狂いで対抗しなければならなかった。
〈集団催眠が破れてしまったわ! どうしよう、ベガ!? なんとかして、お願い!〉
彼女はベガに救いを求めるしか思いつかなくなっていた。火のついたような惑乱に捕えられ、どうしてよいかわからないのだ。
「王女ルナ! しっかりしろ!」
丈は堪りかねて絶叫した。ルナ姫の心が素早く反応してきた。コンタクトしている丈の意識に気付いたのだ。
〈だれ!? 丈なのね!〉
「そうだ! 落ちつくんだ、プリンセス! 僕が支援する! 頑張れ!」
〈丈! どうしたらいいの!?〉
「冷静に、プリンセス! 落着いて切り抜けるんだ! 集団催眠をもう一度かけ直せ!」
〈だめよ! もう効き目がない! 彼らをコントロールできないわ!〉
「〝力〟を送る! なんとかして持ちこたえるんだ! 今すぐそちらへ救援に行く!」
〈彼らを混乱させるわ!〉
「すぐに行く! 頑張ってくれ、プリンセス!」
識域下の心霊的回路が閉じたのか、眼前いっぱいに展開されていたモブシーンが消え、狭い自室のたたずまいが立ち戻ってきた。
丈はほんのわずかな間に、おびただしい汗を床にしたたらせていた。ルナ姫の生理現象が空間を超えて、丈の身に転位したのだった。心臓は早鐘を打っていた。強度の精神感応で生じる双子現象の例だった。
ルナ王女をたった今、救援しに行かなければならない。それは絶対の要請であった。
「丈! どうしたの!?」

三千子が目を見張り、まじまじと弟を見詰めていた。
「今、だれと話していたの?」
「王女ルナとテレパシーで。姉さん、おれはこれからアメリカへ行ってくる!」
「えっ」
「王女の身が危いんだ。救けに行かなきゃならない! 姉さん、ニューヨークと東京の時差はどれくらいある!」
「十三時間ぐらいかしら......」
「じゃ、向うは今、真夜中だな、やっぱり間違いなかったんだ」
「丈、待って! そう簡単にアメリカへは行けないわ」
「姉さん、超能力者にとって国境はないんだよ」
丈は開け放った窓から、奇妙な鳥のように飛びこんできたスニーカーを捕え、穿いた。
「丈!」
「話は後で......」
三千子は、彼の言葉を最後まで聴きとることができなかった。丈は残像を残して消えた。開放された窓の間を通り抜け、それほどの凄まじい速さで離陸し、飛び去ってしまったのだ。
いかなる高速ミサイルも、丈の速度には追随できなかった。想像も及ばぬ巨大な〝力〟が丈の内部に流入し、彼に超常識のスピードを与えた。
観測者には、一条の光がきらりと蒼空に立ち登るのが見えるだけだったろう。
一瞬にして、地平線が壮大な曲線をつくり、球型のカーブと化した。
──王女ルナ! これであなたもおれのことをねずみとは呼べないはずだ!
轟々と音を発する歓喜に包まれて、人類のいまだかつて知らない超高速で丈はイカルスのように天空の高処へとぐんぐん昇った。
彼は大量の空気を己れとともに運んだ。気層の接触面が摩擦を生じ、彼の肉体の周辺を発光する美しい光輝で繭のように包んだ。
その光輝は、彼の今感じている栄光そのものに似て美しく鮮やかであった。
地球は暗い虚空をバックに球体と化した。大気層の靄に包まれて大洋が光り、アジア大陸がまさに実物大の地図と化した。球面にまといつく大量の雲塊の群れが動いていた。壮大な光景であった。
丈にもたらされた底なしの〝力〟は、暗い虚空を貫き、彼を信じがたい速力で運び続ける。その青い美しい惑星に住む三十数億の人類の潜在意識の海を丈は軽々と超高速で滑って行く。
一方、ルナ王女は──。
丈との心霊的なコンタクトによって、〝力〟を注ぎ込まれた彼女は、時を移すことなく強力な催眠波を周囲に放った。
かつてないレベルに高まった彼女の催眠パワーは、双眼をサーチライトに変えたように白光となり脈打って迸り出た。
集団催眠の渦中に陥った、数百名、数千名の黒人暴徒は目をあざむかれ、意識誘導を受けて、幻影のまっただ中へ投げ込まれた。
ルナ姫を包囲する黒人暴徒はすべてルナ姫自身の幻影と化してしまった。
その場の全員の顔はルナ姫のものとなり、己れの視野の中で右往左往する群衆は全てルナ姫本人であった。
破壊衝動のふくれあがった群衆心理は思いもよらぬ強力な干渉を受け、混乱し、四分五裂した。
どこを向いてもルナ姫の顔がある。己れ自身の顔は見えないから、自分をのぞいた全ての群衆がルナ姫に変じた信じがたい驚愕、混乱であった。
この時、ニューヨーク州知事は、黒人暴動鎮圧のため州兵出動の断を下していた。数千の武装州兵と戦車、装甲車がすみやかにハーレム地区へと集結を行なった。
奇妙なザメディボールの襲撃と黒人暴動は同一次元のものとして扱われていた。情報伝達にも混乱が生じた。分署長及び警官十数名が黒人暴徒により羅致され、殺傷されたという誤報となり、上層部に送致されたのである。
日常次元を逸脱したザメディボールの分署襲撃事件の報告は、ニューヨーク市長、州知事の上層部へ達するまでに、日常意識によって処理され、変形してしまった。奇怪、超人的な指導者に率いられた黒人暴動のイメージにすり換えられたのである。
一方では、黒人たちの心を捕えたのは不死身の黒い巨人、超絶の力を振るう黒い預言者が出現し、黒人たちの先頭に立って、白人の悪魔どもを打ち倒すという幻想であった。黒豹党、黒人回教徒らの過激派が、このイリュージョンをことさらにあおりたてる役割を果した。
キル・ザ・ホワイトピッグ!
黒人暴動はいまや山火事のように止まるところを知らず燃え広がりつつあった。米合衆国のかかえこむ黒い火薬庫は爆発し、炎上していた。
一方、異星のサイボーグ戦士ベガは──ルナ姫の放つ強力な催眠波を受けて、数百、数千のルナ姫が入り乱れる大混乱のまっただ中へ、夜空から降下して行った。
「プリンセス、本物はどこです!?」
さすがのベガにも、本物のルナ姫を判別することは不可能だった。ルナ姫が放射している催眠波はベガ自身をも渦中に巻きこんでしまったからである。
「王女ルナ! どこです!? どこにいるんですか?」
ベガは目を惑わしてやまぬルナ姫の群れの中へ分け入って行った。右往左往する数百を超すルナ姫はまったく区別がつかない。ベガは遠隔催眠パワーの凄まじさに驚嘆した。ルナ姫は超能力者として超絶レベルにある。これほどの大物はかつてベガも知らない。かつての大連盟の超能力部隊に属する催眠者とはまるでランクが異なる。確かにルナ姫は最大級の超能力者の素質を持っていた。
「プリンセス・ルナ!」
ベガは大音声で叫んだ。人間の肺ではとうていこれだけの大声は出せない。大出力の拡声装置のそれに匹敵した。
衝撃波となって全群衆の心を揺がせ、ルナ姫が催眠波の放出を停止すると同時に、未曾有の大規模な集団催眠が解けた。
サイボーグ戦士ベガは、黒人群衆のまっただ中にあった。そして黒い顔の中でただ一輪白い花のようにルナ姫が、ベガに向けて両手を差し伸べていた。
「ベガ! わたしはここよ!」
「プリンセス! ご無事でしたか!」
ベガは黒人群衆を押し分けて進み、胸に跳びついてくるルナ姫を巨大な双腕に抱きとった。
「黒い巨人だ!」
サイボーグ戦士ベガの黒光りする怪異な巨軀に、黒人群衆の眼が灼きつき、津波のように驚嘆の喚声が湧き起こった。
「黒人の神だ!」
確かにサイボーグ体は質感といい威圧感といい、黒い巨神のイメージを体現しているといえないこともなかった。
まるで火にガソリンをぶちまけるように、黒人群衆の興奮は一気に頂点に達した。
夜空はサイレンの叫喚と銃声で満ちていた。
「プリンセス! これはいったい何事ですか? 上空から見ると、この一帯は発狂したような大群衆で充満しています。明らかに軍隊と覚しい武装した集団もこの地帯めざして進出しつつあります」
「暴動よ、ベガ! みんな気が狂ってしまっているんだわ!」
ルナ姫は気分悪そうにいった。
「血なまぐさい憎悪と怨恨が立ちこめて、わたし、息が苦しくて......」
テレパシストのルナ姫には、夜の大気が毒にどっぷりと濡れているのがわかるのだ。それは怨恨の瘴気であった。
「それだけじゃないわ。なにかおそろしく邪悪で不吉なものが、すぐこの近くにいる! ものすごく無気味な毒気を放っているものが......人間じゃないものよ、ベガ! それがすぐそばまで来ているわ!」
「私も上空からそれを見ました。あなたを捜すのに気をとられて、正体までは見届けなかったが......」
「この感じは、とても言葉ではいえないわ。たとえようもなく、いやらしくて邪悪で......これほど無気味なものはないわ、ベガ!」
彼女は両腕に満身の力をこめて、ベガの巨腕にしがみつき、体を戦かせた。
「まるで......まるで......地獄の蓋がほんの少し開いたみたい! 緑色の無気味な炎がアバタみたいにボツボツと燃えている! 見ていると気が狂いそう! この世のものとは思えないわ!」
ルナ姫の叫びは、ベガの恐怖を知らぬサイボーグ体にも冷感をもたらすようであった。
「あれよ、ベガ! 間違いないわ! ベガ、あれが来たのよ!」
恐怖の虜になり、彼女はすくみあがった。
「ベガ! わたしこわいわ!」
「プリンセス。あれとはなんです!」
ベガの声は緊張していた。
「あれとは何物ですか? まさか......」
「ベガ! あれがこっちへやってくる!」
王女は脅された猫のように総毛立った。
ハーレム地区にあがった火の手は夜空を焦がして燃えあがった。パトロールカーを初め数百台の車が横倒しにされ、火を点じられた。白人所有の店舗がかたはしから放火され、炎上していた。
ガス銃、放水ホースで黒人暴徒と渡りあっていた警官隊は射撃戦に発展すると、怒濤の勢いの暴徒に押しまくられ、命からがら敗走しはじめた。
もはや本格的な大暴動であった。
戦車、装甲車がキャタピラの轟音を響かせて、ハーレム地区に突入した。もはや州兵対黒人暴徒の流血は避けられなかった。
市街戦となり、銃火が荒れ狂った。ぎらぎらと血のような色の炎が闇に踊り、悽愴そのものだった。大量のグリースやバターの山が街路に積まれ、そこへ突入してきた戦車のキャタピラが踏みにじると、とたんに空廻りして進退の自由を失う。そこへ火炎瓶が四方八方から飛び、火を噴いて燃えあがる。機銃掃射を加えて装甲車が突撃してくると黒人暴徒が蜘蛛の子を散らすように逃げる。
そして戦車を先頭に侵入してきた州兵の一隊は、ザメディの奇怪なミートボールとまともに遭遇した。ルナとベガのいる地点とわずか数ブロックしか隔てていなかった。
強烈な投光器のライトを隈なく浴びたザメディボールは見る者を狂気に誘うグロテスクな姿を、州兵の前に曝した。
わずかな間にザメディボールは一層巨大化し、身の毛のよだつ怪奇さを増大させていた。人体の器官、内臓、骨を表面にびっしりまといつけた形相は、対峙した者の心魂を一気に空白化し、蒸発させてしまう。
州兵は言葉にならない絶叫をあげ、発狂の苦悩にさいなまれた。
寸秒後、猛烈な銃火が吹き荒れた。
ザメディボールは嘲笑するように揺れ動いた。無数に射ちこまれた銃弾は、そのままのエネルギーをもって返還された。州兵は瞬く間に全滅した。銃身が焦げつくほど射ちまくった銃弾がそっくり返ってきたのだ。死体が散乱する。
戦車の砲塔から突き出た長大な75ミリ砲の砲口がくわっと輝いた。ほとんどゼロ距離射撃だ。
初速そのままを保った砲弾をまともに喰ったザメディボールはわずかにひしゃげたようであった。
が、あっさり跳ね返された砲弾は、戦車の砲塔に命中して爆発した。戦車は無残に上部を吹き飛ばされ、擱坐したまま烈しい火炎を噴き上げた。
側面の迂回路をとって進撃してきた、もう一台の戦車はこの光景に直面し、砲撃を思いとどまった。強行しても、同僚の二の舞いだと悟ったのであろう。
そのまま、ザメディボールの退路を断つべく猛進する。キャタピラにかける戦法に出たのだ。ザメディボールは前方の炎上する戦車両側の建物に進退の自由を阻まれている。
砂岩造りの建物にザメディボールを圧しつけ、圧し潰してしまおうというのだ。猛然と体当りを敢行する。キャタピラが路面を全力でかきむしり、轟々と咆えたてた。
ザメディボールがにわかに膨脹した。数倍にも体積を拡大させる。戦車はむごたらしく仰向けざまに横転し、凄まじい異音とともに弾け飛んだキャタピラがうねった。
ザメディボールはさらにふくれあがり、その動きにつれて押しこくられ、砂岩造りの建物の根元に滅りこんだ。
褐色砂岩の古い建物が雪崩れを打って戦車の上に崩壊した。
今や球型タンクさながらの巨体に成長を遂げたザメディボールは、無気味な姿を軍隊の投光器の光条にさらけだし、夜空に浮きたっていた。猛攻をあっさりと退けられた州軍を意気沮喪させる、物凄くも怪異な形相であった。
「ベガ! あれよ!」
ルナ姫が指差して叫んだ。
「さっきから邪悪な毒念をまきちらしていたのは!」
「正体がわかりますか、王女? 透視してみてください」
「わ、わからない! ガスがかかっているみたいなの! でも、内部に人間の姿がぼんやりと見えるみたい......」
ルナ姫は必死に超感覚的知覚を凝らした。
「小さな......子供だわ......」
「プリンセス。あなたの超能力をもってしても、透視できない相手というのは、私にはただ一つしか考えられません」
「ベガ、どうしたの!?」
彼はルナ姫の体を下に降し、腰間の武器を抜き取った。
ルナ姫はその心を読みとり、電流に貫かれたように全身を戦かせた。
「やっぱり、〝幻魔〟!?」
「〝幻魔〟一族に間違いないようです。プリンセス、〝幻魔〟はさすがに機敏です。抜かりなく我々の動きを読んで、先手を打って我々を封じこめるべく、尖兵を地球に送りこんできたようです。これはかなりの強敵ですよ、プリンセス。おそらく千軍万馬の強者でしょう」
「ベガ! どこへ行くの!?」
ルナ姫は声を振り絞って、サイボーグ戦士の巨大な幅広の背中に呼びかけた。
「もし、この〝幻魔〟一族の者が、私の想像する以上の強敵だったら、私は二度と戻ってはこられないでしょう」
ベガは彼女に背中を向けたまま無感動な声音でいった。
「そんな......わたしは......わたしたちはいったいどうすればいいの!?」
ルナ姫の声音は今にも泣きだしそうに慄えた。
「超能力によって戦うのです。自分で自分の身を護るのです。あの丈という日本人少年とともに地球を護りなさい......」
「ベガ!」
ルナ姫の叫びは悲痛だった。ベガは肩をそびやかし、敢えて王女を振り向こうとはしなかった。
「ベガ! 待って、お願い! わたしを残していかないで!」
王女の叫びを振り切るようにして、サイボーグ戦士は怪物に向い、足を運んで行く。数百年を戦いの明け暮れに送った戦士の気概が、その幅広い両肩の間から立ち登った。
ベガの戦いの隈取りを施した怪異な顔に、不敵な笑みが浮んだ。
「来い、幻魔一族。貴様たちとこのベガとは、所詮切っても切れぬ絆で結びつけられているようだな......三百八十万光年の彼方でつけられずに終った決着を、今この辺境の星、地球の上でつける羽目になるとは思わなかったがな」
くっくっと喉の奥から苦い笑いがこみあげてきた。
「この世の終りがくるまで戦い続ける......まさに宿命だな。戦士の宿命だ」
凄惨な真紅の炎が踊り狂う戦場へ向けて、サイボーグ戦士ベガの怪異な巨軀が歩み去って行く。
「丈、早く来てちょうだい!」
ルナ姫は慄えながら、心にささやいていた。
「来て、早く! 丈ったら、なにをぐずぐずしているの!?」
彼女の超感覚の眼には、サイボーグ戦士の敗北の未来が映しだされつつあったのだ。それはとりも直さず、地球の破滅の光景そのものでもあった。
6
丈はこの時、数千キロ彼方の上空を光の矢となって飛来しつつあった。彼の意識は、ルナ姫のそれと心霊的なコンタクトを保っていた。
丈はルナ姫の感覚を通じて、その場の状況を知ることができた。もはや、丈にはどこをどう飛んでいるという自覚はなかった。無限のチューブの中を超高速で突進している感覚だけが全てであった。
〈丈! 早く来て!〉
と、ルナ姫の想念が必死の切実さで叫んでいる。彼女はベガの身を案じている。彼の敗北を知っているのだ。
〈丈! 彼にはあなたの助力が必要だわ! 早く来て彼を助けて!〉
サイボーグ戦士は死地に足を踏み込んでいる。
数階建てのビルの如き巨体に成長を遂げたザメディボールと五十メーターほどを隔てて対峙の姿勢に入っている。
ベガは銃と剣の合の子のような武器の狙いをザメディボールの無気味な球面、人体器官の襤褸に向ってつける。
「行くぞ、幻魔一族!」
と、ベガは挑戦の叫びをあげた。
言下に強烈な光条が、武器の尖端から迸った。
空気層を貫通してズビッと鋭い破裂音を発し、空気をイオン化し、パルスが疾ったあとも、青く輝く条痕を大気中に刻みつけた。
超高熱線だった。ザメディボールの表皮は鋭いパルスを受けてパチッと弾け、震動が全球体の隅々に走り抜けた。
人間でいえば、さしずめ蜂に一刺しされたという反応であった。
サイボーグ戦士ベガはにやりと笑みを怪異な面に浮べた。超高熱線のようなエネルギー放射による攻撃には、応じ返しのテクニックが使用不能と読んだのだ。
「いまのはほんの小手試しだ。次は六十万度の高熱線のシャワーをお見舞いする!」
ベガは本格的な攻勢に出た。前進しながら、武器の出力を思い切ってあげる。
超高熱線が無数の青いパルスと化して傘のように開き、ザメディボールの表皮を包みこむように降り注ぐ。
たちまち、ザメディボールは灼熱しはじめた。
真赤に煮えたぎる大火球と化す。ザメディボールの基部に接したアスファルトは、スープみたいにぐつぐつと煮たち、溶解して行く。
大火球は面も向けられぬ灼熱の輝きを発していた。異変の予感がベガを襲った。
「ちっ」
ベガの表情が変った。疑惑が確信に変ったのだ。
突如、ベガの巨体は虚空へミサイルさながらに駆け登った!
一拍遅れて、真赤な大火球と化したザメディボールが火を噴いた。爆発の勢いで、八方に向けて無数の小火球を放出し、吹き飛ばした。ある種の植物の莢が弾けて、無数の種子をばらまくように、火球を飛散させたのだ。コンデンサーのようにエネルギーを貯え、一挙に放出することができるのだった。
ザメディボールを中心にして半径百メーターのエリアに物凄い火炎の雨が降り注いだ。だれの想像も及ばぬ熱エネルギーの爆弾である。火球の降り注いだ街路や建物は煮立ちながら、月面さながら軽石の表面みたいに孔だらけになった。
鋼鉄を一瞬に気化させる高熱である。火球に直撃された有機物──人間の肉体など燃える暇もなかった。そんな生ぬるい熱さではないのだ。
付近にいた黒人暴徒、州兵数百名が、火球の雨を浴び、たちまち骨も残さず消滅してしまった。溶け崩れた戦車が猛火に包まれている。
直撃を免れた人間たちも、街路に口を開き、煮えたぎるクレーターに足をとられ、マッチ棒のように白熱した火炎を噴きだして燃えあがった。あたりは焦熱地獄の火炉と化してしまっていた。
反射的に火球雨の襲撃を回避し、上空へ駆け登ったサイボーグ戦士ベガは恐ろしい悔恨の呻き声を絞りだした。
「プリンセス!!」
この時、ルナ姫は大火球と化したザメディボールとは百メーターも離れぬ至近距離にいたのだった。逃げ走っても、掩護物を求めても、絶対にこの恐るべき火球の雨から逃れることは不可能であった。超高熱の火球はコンクリートや鉄も容易に貫通し、建物の内部も火炉に変えたからである。
ベガは悔恨の念によってサイボーグ体を万力にかけられたよりも強烈にぎりぎりと搾めあげられた。
彼は王女を絶対の死地のただ中に置き去りにしてしまったのだ。
が、ベガは奇蹟を目のあたりにした。真赤な火口さながら灼けただれている街路に、王女の白いドレスが動いている。彼女は生き残ったのだ。
どっと湧き起こった安堵がベガの心身を押し包んだ。
丈だ! 丈がサイコキネシスを働かせてルナ姫を救ったのだ。いまだ千キロの距離を隔てながら、丈は心霊的な接触によって危機を知り、王女の周囲にPKのシールドを形成したのである。
火球の雨はサイコキネシスの遮蔽膜にぶつかり、空しくそらされた。PKバリヤーだった。
丈はいつの間にか、サイコキネシスの使い方に長足の進歩を現わしていた。ベガは驚嘆の念を禁じえなかった。この危機に直面して、地球の超能力者たちは、にわかに覚醒したようにめざましい力を振るい起こしつつある。
半径百メーターの灼熱地獄のただ中で、生き残ったのはルナ姫ただ一人という惨状であった。
地表は月面さながらのクレーターだらけのアバタ面になり、深く穿たれた無数の穴の底でぐつぐつと煮えたぎっている。
エネルギーを放出したザメディボールは以前の姿に戻っていた。
ザメディボールの厭らしい球体の表面に、ぽかりと無気味な孔がひらいた。真赤な血の色をした目であった。憎悪と怨恨で血を噴かんばかりの気違いじみた目であった。
ザメディボールの発散する憎悪の波動は、強酸の腐臭にも似て、灼熱地獄にもまして堪えがたいものであった。
「邪魔するんじゃねえ......」
ザメディボールのどこからか、陰々たる声音が漂ってきた。恐ろしい真赤な目玉が、中空に浮揚しているベガを睨んでいた。
「敗残兵のくせしやがって、よくも楯突きやがったな......」
人間放れしてはいたが、米語には違いなかった。
「貴様のちゃちな武器が通用すると思っていやがるのか。すっこんでろ、このスクラップ野郎のサイボーグが......」
崩れた黒人米語なのがいっそうおどろおどろしく奇怪であった。
「この私を、知っているのか?」
ベガはショックを隠せずに尋ねた。
「貴様は幻魔一族のものだな......」
「当りめえだ、〝幻魔〟の目は、宇宙くまなくお見通しよ。貴様がこの惑星の超能力者どもを駆り集めて、〝幻魔〟に楯突かせようと謀らんでることを見逃すとでも思っていやがったのか?
この地球はおれが取りしきる。ソニーというチビクロはもうとっ摑まえたし、次はそこのルナという小娘の番よ、それから丈とかいう小僧を頂戴する。だからよ、やい、おんぼろサイボーグ野郎! 手めえの出る幕はねえんだ。とっとと失せやがれ!」
ベガは愕然とした。この化物が内部に取り込んでいるもの、ルナ姫が透視したものは、黒人幼児のソニー・リンクスだったのだ。
これではうかつに攻撃をしかけることはできない。ソニー・リンクスを人質に取られているのと同じことだからだ。
「ベガ! この化物のいう通りだわ!」
下の街路からルナ姫が叫んでよこした。ベガと〝幻魔〟の対話を聴いていたのだ。
「この化物の体は、超能力の透過を困難にする磁場を持っているのよ! だからソニーは壁抜けも精神移動もできずにいるんだわ!」
ルナ姫は、〝幻魔〟ザメディの意識を読みとることに成功していた。
「でも、ベガの武器が通用しないというのは噓だわ! この化物はひどく恐れている! 自分の体に穴をあけられることを......磁場が破壊されると、彼は無力になるのよ!」
「このテレパシー使いが!」
ザメディボールの意識が、狼狽の波動を放出した。心にシールドが降りて、意識は解読不能の雑音と化した。車のエンジン・ノイズみたいに無意味な波動となった。
地表のルナ姫はうまく逃げられたことを知り、唇を咬みしめた。ザメディボールには確かに弱点がある。もう少しのところで、意識を解読できそうになったのだ。
ザメディボールは、猛然と憎悪をルナ姫に集中した。無気味な球体から、仮足がいきなり躍りだして、街路のルナ姫を襲った。
「丈!」
と、彼女が悲鳴をあげた。丈はすみやかに反応した。サイコキネシスを遠隔操作して、ルナ姫の肉体を一気に地上から引き抜く。ザメディボールから跳びだした巨怪な仮足は空を切り、不浄な粘液を飛散させた。
丈は、ルナ姫の超感覚を通じて、正確無比なコントロールを発揮した。
上空のベガの巨腕に、風を切って飛来したルナ姫の肉体が寸分の狂いもなく収まった。
「みごとだ!」
と、ベガは思わず賞讃を口にせずにはいられなかった。地球の超能力者たちは秘められた〝力〟を発揮しつつある。長足の進歩といってよかった。
〈もう一息でそっちへ着く! 誘導してくれ、王女!〉
丈の想念が閃いた。
丈は大陸間弾道弾さながらに、大気圏へ再突入を計ろうとしていた。ルナ姫の救援のためにサイキック・エナージーを割いたためか、やや時間を失ったのを感じていた。今は全力投入だった。
光の繭に包まれ、暗黒の虚空を流星のように突っ込んで行く。
突如、暗いチューブを脱して、眼前に凄まじいばかりの光り輝く灯火の海が広がった。
ニューヨーク市だ!
マンハッタン島は燃える宝石を無尽蔵の宝庫から搬出し、ブルドーザーでぶちまけたようであった。広大な光の海が今、丈の眼前に広がっている。
なにかがひゅっと風を切って唸った。
恐ろしく粘着力のある紐状のものが、ルナ姫の両足にからみつくのを感じた。電気ショックのような無気味な悪寒が、ルナ姫の体を貫き走った。
ルナ姫は恐怖と苦痛の叫び声をあげた。
それは地表のザメディボールが飛ばしてよこした体細胞のつむぎだした鞭状の触手だった。
「いかん!」
ベガは愕然とした。地上に擱坐したかのようなザメディボールに、器用な投げ繩使いの真似ができるとは思いもよらなかったのだ。
「痛い、いたい! 足がちぎれてしまう!」
ルナ姫は悲痛な叫び声をあげた。ナイロンの強靱な釣糸を巻きつけられたようなものであった。もがけば深く皮肉に喰いこみ、肉を裂いて血を噴かせる。
地上のザメディボールとルナ姫を奪いあえば、恐らくルナ姫の肉体はちぎれてしまうであろう。
ベガの躊躇につけいって矢継早に飛来した鞭状の触手がベガの四肢にもからみついた。まるで蜘蛛の吐きかける糸に自由を奪われて行くようだ。
触手は驚くべき強靱さだった。ベガが力まかせに振りほどこうとしても、振り切れない。断ち切ろうとしても、断ち切れない。
ベガ一人であれば、どのような反撃も起こすことができる。だが、彼がサイボーグ体の巨大パワーを発揮すれば、ルナ姫の体はあっさり分断されてしまうであろう。
ベガの顔は苦渋に歪んだ。彼がどのような行動を起こそうと、それは王女を殺す結果を招くと知ったからだ。それは彼自身の失態であった。ザメディボールの反撃を許した彼自身が責を負わねばならなかった。
が、ベガが躊躇する間にも、触手は次々に飛来し、ルナ姫と彼の自由を奪取しつつあった。今は彼が反攻を試みることすらままならなくなっていた。
〝幻魔〟ザメディは、空中のベガの苦衷を見抜き、歓喜し、勝ち誇った。サイボーグ戦士は重力場駆動システムを具備しており、ルナ姫を犠牲にする気であれば、ザメディを振りちぎることも可能だ。しかし、サイボーグは王女を犠牲にすることはできない、とザメディは読んだのだ。
じっくりと二人とも料理することができる。その驕りがザメディに油断を生んだ。意識のシールドが思わず緩んでしまう。
拷問され失神しそうな苦痛のうちに、ルナ姫はザメディボールの弱点を読みとった。
〈目よ、丈! ザメディボールの目玉! それだけが唯一の弱点だわ!〉
心霊的接触を保ったままの丈は、たやすく彼女の意識が伝える指示を読んだ。
なにか武器がいる!! なにがいいだろう! 尖端のとがった大槍のようなもの!
丈は眼下の光の海に流星のように突入しながら、超感覚の視野に大槍のイメージを捕捉した。
丈はすかさずサイコキネシスを発動し、エンパイア・ステートビルの屋上に大槍を逆様に突きたてたイメージのVHF送信アンテナを根元からもぎ取っていた。
それは暗い巨大な空間をよぎり、天から投げ降される巨大な槍と化して、マッハを超え、電光となって駆け降りた。
それはザメディボールの真赤な巨眼に深々と突き立った。あれほど強靱なザメディボールがあっさりと突き破られたのだ!
「ベガ! あのアンテナを射つのよ!」
ルナ姫の叫びは、サイボーグ戦士の巨体を揺がす強烈な啓発であった。
「応っ!」
とベガは咆え、真青な条痕を大気に穿ち、超高熱線のパルスを送りだした。
それはまさに落雷の凄まじさで、青い火柱となってザメディボールに突き刺った。
超高熱線はアンテナの金属を溶解させ、ザメディボールの内部に達する深い孔を穿っていた。それは一瞬間だったが、必要なだけの時間をソニー・リンクスに与えた。
〈ソニー・リンクス! その孔を抜けなさい!〉
ルナ姫のテレパシー波は、ベガの穿った孔から内部へ浸透した。不透過の磁場が破れたのである。
この時の彼らのチームワークはみごとであったというほかはない。精神感応という通信手段を有する超能力者だけになしうる絶妙のタイミングであった。
ソニーは文字通り泡を喰って、ザメディボールの檻を脱出した。怪奇なザメディボールを一目見るなり、驚きのあまり転げ落ちかけたが、辛うじて精神移動を行ない、空中にある丈の背中に現われた。黒い小さい手を丈の首にまわしてかじりつき、がたがた震えた。
「ひゃあっ、な、なんてえ化物だいっ」
と、金切声で喚く。目玉が跳びだしそうになっている。
「おれは、あんな凄げえ化物の腹ん中にとっ摑まってたのかよう......ああ、気分が悪い......」
ソニーは今にも嘔きだしそうに喉を鳴らし、体を痙攣させた。
「おれの背中にゲロを吐かないでくれよ」
と、丈が背中にへばりついているソニーにいった。
「気分が悪くて死にそうだ......」
と、ソニーは弱々しくいった。
「おれはあの化物の腹ん中で、一秒ごとに神様とマリア様に祈ってたんだ。こんなすげえ気違いみたいな化物野郎だと知ってたら、とっくに死んじまってたよ......」
「お前は助けだしたが、王女とベガが代りに摑まってしまったんだ」
と、丈はいった。
「ようし、ベガ、プリンセス! おれのサイコキネシスで、そいつを引きちぎってやる」
「やめろ、丈!」
ベガの制止の声が返ってきた。
「無理すると、王女の体が引き裂かれる! 無事に助けだす方法は一つしかない! ソニー・リンクスにやらせるんだ!」
「なんだって? おれになにをさせる気だ!?」
ソニーは目玉を剝きだし、恐慌にぎょろつかせた。
「そうだ、ソニー! 王女と私の体をお前の〝力〟で精神移送させてくれ! 他に方法はない」
「いやだ!」
ソニーは金切声で絶叫した。
「また化物野郎にとっ摑まっちまうじゃねえか! まっぴらだ! おれはご免だ!」
「早くしないと王女の体がまいってしまう! ソニー、お前の〝力〟以外に彼女をザメディから解放する方法はないのだ! 丈のサイコキネシスをもってしても不可能だ! ザメディは王女と体細胞を合体させてしまう気だ。そうなってしまえば、王女を救うことは不可能になる! ソニー、頼む!」
「い、いやなこった! そんな高慢ちきな白人女がどうなろうと、おれの知ったことかよ!」
「ソニー、聞くんだ! みんなお前を救出するためにやって来たのだ。お前を救うためにザメディと戦ったのだ! お前も誇り高いソニー・リンクスなら、我々とともに戦え!」
なにをいっても無駄であった。ソニーは怯じ気づいてしまっていた。
「いやだ! お前なんかどうともなりやがれ! 白ん坊なんか化物野郎にくわれちまいやがれ!」
ソニーはパニックに震えながら、喚き続けた。
「おれはソニー・リンクスだ! スーパー・ブラックだぜ! 白豚は悪魔にくわれろ!」
「ソニー、お前が男なら、王女を救けろ」
と、丈は叫んだ。
「王女はお前のために命を賭けたんだ! だったらお前もそうしろ! 男だろ、ソニー・リンクス!」

「いやだ!」
ソニーは丈の背中から消え失せた。精神移動によって逃げ去ったのだ。
「逃げた! 逃げやがった!」
丈は怒号した。
「なんて奴だ! 恩知らずのどぶねずみ野郎めが!」
「ソニーに構うな! 王女が危い!」
ベガの警告が丈を揺さぶった。
「いつまでもこのままではいられんぞ......」
ザメディの鞭状の触手にからみつかれた両脚の皮膚は刃物で切り裂かれたように血を噴いていた。苦痛に堪えかねてぐったりと気を失ったようになっている。
「ベガ! どうすればいいんだ? あのロープみたいなものをサイコキネシスで引きちぎらせてくれ!」
「いかん! 無理な力を加えれば、王女の肉体が裂ける。奴はそれを百も承知でやっているんだ。これ以上、触手をかけられないようにサイコキネシスでシールドしてくれ!」
「わかった! だが、どうするんだ?」
「熱線で触手が断ち切れるかどうか試してみる。彼女をしっかりと固定していてくれ、頼むぞ、丈!」
ベガは、触手にからまれて不自由な腕を動かし、武器の尖端を鞭状の触手に向けた。バチッと青い閃光が飛ぶ。触手は青白く光ってベガを巻いた部分まで光が疾った。
ベガの巨体は激しい衝撃にガクガクと跳ねた。
「ベガ! 大丈夫か!?」
丈が青ざめて叫んだ。それほどベガの反応は激烈だったのだ。
「だめだ......熱線を使って切断しようとすれば、王女まで焼いてしまう! 奴はエネルギー集中を体細胞の磁場を使ってコントロールできるんだ!」
ベガは辛うじて衝撃に持ちこたえたようだった。ザメディボールの触手にからまれている以上、サイボーグ体のバリヤーは効果を失う。
「じゃあ、どうすればいいんだ!?」
丈の声音にパニックの徴しが表われた。絶体絶命の魂が凍てつく冷風に吹かれていた。
「いつまでもこんなことは続けられないぞ。サイコキネシスを使っちゃいけないのか?」
「いかん! 王女をずたずたにちぎってもいいのか! そっとしておくんだ! バランスを崩すな!」
「いつまで持久戦を続けるんだ。ベガ! なにかいい手はないのか?」
「ある! ソニーだけが我々の窮境を救うことができる......」
「だって、あいつは逃げちまったじゃないか! あのチビクロが戻ってくるとでも期待してるのか!? 戻ってくるもんか、絶対に! 奴はけだものといっしょだ! 人間なんかじゃない!」
丈は怒りに燃えてどなった。
「賭けるのだ......ソニーが戻ってくることに......」
ベガは静かにいった。
「戻ってくるもんか! あいつは逃げたんだ! 命の恩人の王女を見捨てて逃げた恩知らずの人でなしなんだ!」
「それでも信じるのだ。信じるほかはない......ソニーは必ず戻る。丈、お前もそう信じろ」
「信じられるもんか。卑怯な恩知らずを、どうやって信じられる!?」
「お前たちは同じ地球人の超能力者同士ではないか。必死に祈れ。必ず心は通じる......そう信じるのだ、丈。ソニーは恐怖のあまり逃げた。しかし、恐怖を追い払い、真の勇気をもって戻ってくる! ソニーは必ずそうする! 私は彼を信ずるぞ! 異星人の私でも信じるのだ!」
サイボーグ戦士ベガの言葉には烈しい力がこめられており、丈は圧倒された。
「おれには信じられない......」
「それでも信じろ! 彼を信じている私を信じろ、丈! 私は確信している。ソニーは必ず戻ると!」
ベガの熱と気迫は丈の心を動かさずにはおかなかった。丈は体が熱くなり、目が熱くなってきた。
「わかったよ、ベガ......」
「祈るのだ、丈! ソニーが戻るよう、神に祈れ。王女には彼の助力が必要だ。我々には彼が必要だ。地球人類が、地球全体が彼を必要としているのだ! 彼が助力を拒むはずはない! 彼は地球を救うためにつかわされた者なのだから!」
「わかった......あなたを信じるよ。ベガ」
丈は頭を振りながらいった。
「だけど王女の様子がおかしい......ソニーが戻るまで保つだろうか?」
「それよりも気になるのは......」
と、ベガは低い声で呟いた。
「〝幻魔〟が王女と肉体的な融合を計る気ではないかという危惧だ。そうなれば、だれにも王女を〝幻魔〟から救いだすことはできない。王女は〝幻魔〟の一部分として吸収されてしまう......」
「僕もそれを恐れていたんだ」
と、丈は重苦しくいった。
「そうはならないように、サイコキネシスでバリヤーをかけている......だけど、それが効き目があるのかどうか、よくわからない」
「いずれにせよ、我々に時間はあまり残されていない。祈るほかはないのだ」
ベガは静かな声でいった。
7
周囲は暗く、静かで、涼しかった。幅の広い河の向う側に夜空を焦がすような大都会の光芒が拡がっている。湖みたいな水面を広げているのがイースト河で、ここはクィーンズ区のどこかだろうと、ソニーは見当をつけた。
目的地を定めて精神移動を行なったわけではない。本能的に安全な場所、化物の危害の及ばない地を求めて跳んだのである。
ハーレム全体が燃えているようであった。夜空が真赤に焦げている。そこには州軍、市警対黒人暴徒との戦いを卑小にしてしまう、信じがたい凶暴な〝悪〟の渦巻があった。
ソニーは突っ立ったまま、足許の地面に胃の内容物をもどしてしまった。超感覚をそれに向けただけで、体中の体液が残らず消失してしまうような無気味な悪寒に捉えられてしまうのだった。これほどの恐怖は経験したことがなかった。
その恐怖ゆえにソニーは逃亡した。戦線を離脱したのである。妙なことにソニーは心の奥底で、その行為が敵前逃亡の重罪であることを感じていた。
その後味の悪さ、気の重さは格別で、過去ソニーが行なったいかなる行為にもまして、彼を心やましく、不安にさせ、居たたまれぬ苛立たしさの中に陥しこんだ。
それをごまかすために、ソニーは自己正当化すべく全力をあげて重圧に抗し、努力を払わなければならなかった。
彼、ソニー・リンクスは再び、絶対にあの化物野郎に近寄らないと誓いをたてた。悪魔小僧と異名をとったソニー・リンクスが捕縛され虜囚の辱かしめを受けるなど、決して二度と起こってはならないのだった。
〝幻魔大戦〟かなにか知らないが、そのようなご大層なお祭り騒ぎに関与する気は毛頭なかった。それはあまりにも気違いじみており、奇矯に過ぎて、まっとうなソニー・リンクスの日常性、及び信念と波長がまったく合わなかった。
すなわち、ソニー・リンクスの戦いとは白豚どもを相手に闘争し、勝利をおさめることであり、現実的な目標と掠奪という収穫があった。
〝幻魔〟などといういかがわしいゲテモノ相手の戦いになんの高貴さがあるだろうか。そこには黒人が白人をやっつけ、奪われたものを取り返し、白豚どもを制圧するいかなる歴史的必然もないのである。
ただの無意味な暴虐と、黒人白人の戦いという秩序もなく、単に混沌としているだけで胸糞悪く、忌わしい混乱があるのみだった。
ソニー・リンクスは突如、恐ろしいほどの孤立感に心を搾めつけられた。
リンクス・ギャングは壊滅してしまった! もはや親しい黒い顔はどこへ行っても見られない。ブラザーは残らず殺されてしまい、ソニーは一人きりになってしまったのだ!
こんな馬鹿なことがあっていいものか!
仲間は全滅し、彼の世界であったハーレムは今や戦火のまっただ中にあり灰燼に帰しつつある。
それなのに、ソニー・リンクスはなにをしているのだ。いったいどこへ逃げて行こうとしているのだ?
ソニーは戦慄を抑え切れなかった。
見るがいい。どこか安全な場所へ逃げようとしたのに、ソニー・リンクスはイースト河の対岸でうろうろしているのだ。望むならばヒマラヤ山脈のてっぺんに行き、ラマ僧といっしょに暮せるというのに、跳んだはいいが、ハーレムの火事がはっきり見えるクィーンズ区くんだりで、ソニー・リンクスはうろついているのだ。
なんというちっぽけでみすぼらしいことをやってのけてしまったんだろう!
ソニー・リンクスはもっとでかいことを威風堂々とやってのけなければならなかったのだ。
どぶねずみのように棲み家のそばを離れられず、うろちょろするのは、ソニー・リンクスの誇りを傷つけた。ソニー・リンクスはそんなケチなチンピラではないのだ。スーパー・ブラックなのだ。
彼はソニー・リンクスなのだ!
ソニーは足許の石塊を力いっぱい蹴飛ばした。これほど気が重く滅入る感じは初めて味わうものだった。
「けっ、知っちゃいねえよ! まったくおかしな野郎どもだぜ」
ソニーはひとりごち、口汚く悪態をついた。
「けっ、白ん坊の白豚どもとスーパー・ブラックが仲間になれるかってんだ! 手下にしてくださいと頼みこむんなら話はわかるけどよ......」
ソニーはなぜ彼らのことがそんなに気に懸るのかさっぱりわからなかった。白ん坊どもは叩き潰すべき敵である。ソニーをねずみ呼ばわりし侮蔑したあの白い王女は特に憎むべき仇敵である。
彼女を助けるために、ソニーが小指一本動かす義理はない。憎むべき白人女が破滅することこそ喜ぶべきである。
ソニーは虚勢を張って肩をそびやかし、周囲の暗闇を見まわした。ズボンのポケットに両手を突っ込み、口笛を吹きだす。
失ったブラザーたちの顔が次々に脳裡を横切って行き、おのずと口笛がしょっぱくなった。兄や従兄や仲間たち、彼らは二度と話すこともなく笑いもしない。ただ冷たく硬い死人の顔をしているだけだ。
驚愕と不信が胸につかえた。もう二度とブラザーたちに逢えないというのは、とうてい信じがたい驚きだった。ソニーはハーレムのスラムで育ち、年寄りだけではなく、若者たちが暴力死で突如死ぬのを見聞きしている。死がどうやって人間を襲うか、その理不尽さを五歳の幼児のものとは思えぬ世間知で心得ている。
しかし、その世間知をもってしても、〝リンクス・ギャング〟の突然の消滅を受け容れることは不可能だった。
ソニーは恐ろしい孤立感にさいなまれ、暗闇に震えながら立っていた。この熱帯夜の熱気のさなかにあっても、寒気を抑えることができなかった。
ソニーはかつてこのような真の孤立を知らなかった。泣きたくなったが、辛うじて我慢した。スーパー・ブラックのソニー・リンクスは泣いたりしないのだ。ソニー・リンクスはただの餓鬼ではない、黒人英雄なのだから......
「なんだ、あんなハツカネズミなんか......」
と、ソニーは大声でいった。自分を説得しようとしているのだった。
「あんな白豚女なんか、どうともなっちまいやがれ!」
ソニーは両手で胸を抑えた。顔が歪み、泣きべそをかいた。
胸が重くふたがれ、熱いようでもあり苦しいようでもあり、息が詰まるような気持であった。五歳の幼児にはまったく説明不能のアンビバレンツだった。
このまま遠く逃げ去りたい。だが、それと同じ強さで、戦場へ復帰することを内なる声が要請しているのだった。その内なる声は、たとえソニーがどこへ逃げようと、ヒマラヤの頂上まで逃亡しようと執拗につきまとい、彼に戻ることをうながしつづけるに違いなかった。
自分は本当は逃げたくないのだ、とソニーは五歳の幼児にふさわしくない透徹した洞察をもって悟った。逃げずに踏みとどまってあのおぞましい化物と戦うことを望んでいるのだ。それが彼、ソニー・リンクスの神聖な義務だからだ。
言葉にすると、ソニーが感じているのはそうした強い義務感と逃避の欲望との相克であった。彼はどうしていいかわからず、判断に苦しんだ。
ブラザーでもないあの白人女まで混じったあの連中のところへなぜ戻らなければならないのか、納得がいかないのだった。一方、義務感はますます鋭さを増して彼をとがめだてていた。
だが、考えてみると、あのザメディとかいう〝幻魔〟の化物野郎は、彼の実兄のチンクを喰ってしまった仇敵なのだ。そしてソニー自身をも死ぬよりも恐ろしい目に遭わせた憎むべき敵なのだ。
男なら、兄のチンクを喰い殺した化物野郎に立ち向い仇を討つべきだ。
そうなれば、あのおかしな白人女混じりの連中とも、ザメディという共通の仇敵を持つことで、共同戦線を張る大義名分が立つ。
ソニーは自分を納得させる口実を考えだし、にわかに元気づいた。鈍く停止しかけていた血が轟々と音を発して体内をめぐりだした感覚であった。
これで、彼らと力を合わせることができる。あの高慢な、彼をどぶねずみと蔑んだ白人の王女は好きになれないが、しばらくは我慢しよう。あのザメディの化物野郎をやっつけるまでの辛抱だ。
ソニー・リンクスともあろうスーパー・ブラックが、ミートボールの化物に舐められっ放しでいる屈辱には堪えられない。
「そうだともよ、ソニー・リンクス!」
と、彼は興奮し、大声でどなった。
「化物野郎に一泡吹かせてやろうぜ!」
かっと全身が灼熱するように熱くなった瞬間、ソニーは全ての逡巡をかなぐり捨てて跳んだ。
サイボーグ戦士ベガの巨大な肩の上に出現したソニーは白い王女に向けて、小さな黒い手を今は躊躇なく伸ばした。
タッチしたとたん、ルナ姫の体を鮮やかに空間座標からかき消してしまう。文句のない手際であった。
「ざまあみろってんだよ!」
黒人幼児は金切声で勝鬨をあげた。
「受け取んな! 黄色い兄ちゃんよ!」
丈はあわてて、間近にいきなり出現したルナ姫の体を両手でがっちりと摑まえた。こんな際であっても、頭がくらっとなるようないい匂いがした。
せっかく捕獲していたルナ姫を鮮やかに奪回されたザメディの鞭状の触手は怒り狂ってベガの巨体に凄まじい勢いでからみつき、がんじがらめにした。
「そこのでっかいのも助けてやるぜ!」
ソニーはサイボーグ戦士の巨体もみごとにかき消してしまった。後には空しく数条の触手がうごめきながら、消失した獲物を求めてかき探っていた。
サイボーグ戦士とその肩にまたがった黒人幼児は時を移すことなく、王女を両手に抱えた丈の傍らに出現した。
「やったぞ! ざまあみろ! ソニー・リンクスがスーパー・ブラックだってことがわかったかよ!」
彼は勝ち誇ってキイキイ声で喚いていた。
「よくやった、ソニー!」
と、ベガが控え目な讃辞を口にした。
「やっぱり戻ってきたな、ソニー。それでこそ男の子だ!」
と、丈が叫んだ。
「あたりめえよ! ソニー・リンクスはスーパー・ブラックなんだ」
ソニーが鼻をうごめかす。これほどの得意は味わったことがなかった。恐慌を克服した誇らしさであった。ソニー・リンクスが初めて知った克己の味わいだった。
「気を緩めるな!」
冷水を浴びせるように、ベガが警告を発した。戦いのベテランである彼は、勝利の後に来る陥穽の危険をよく心得ていた。驕りによって自ら墓穴を掘ってしまうのだ。
「油断するんじゃない。みんな心をひきしめろ! 奴は手強い。必ず猛反撃を仕掛けてくるぞ! 奴は君たちが超能力戦士として初心者であることを知っているし、君たちにポイントを取られたことは奴のプライドをいたく傷つけた。
奴は我々の思いがけぬ手を使って猛攻をかけてくるだろう。わずかな勝利で気をよくすることは自殺行為だということを忘れるな!」
「奴に反撃なんかさせることはない!」
と、丈は目をきらめかせて叫んだ。強烈な〝力〟の印象が全身からあふれでるようだった。丈は王女の体をサイコキネシスを用いてベガの巨腕の中に滑りこませた。
「待て、丈! なにをする気だ?」
ベガが叫んだが、逸りきっている丈を制止することはできなかった。
「まあ、見ていろ! あの化物を粉々に叩き潰してやる!」
丈の目はぎらぎら輝いた。
「丈、やめて!」
不意にベガの巨きな腕の中で王女が身をもがかせて、叫び声をあげた。
「やめなさい! あなたにはできないわ!」
王女の叫び声が、丈の超能力を解発させる結果を生んだ。
できるか、できないか、見ていろ!
巨大な〝力〟が見えざる源泉から湧き起こり、放電極の丈を通って、厖大なエネルギーを空間に放出した。
突如、雪崩れ出た〝力〟に励起されて、暴風が生じ、一定方向に制御されて走った。大気が高速回転し、竜巻が出現した。
旋回する空気の流れは、高速回転のため青白く発光し、おそろしく巨大な空気のドリルと化して、圧倒的な力感をもって地表の一点に、激しく突き刺さって行った。
それはハリケーンを極度に圧縮し、エネルギー量をそのままに一点に凝縮した破壊力の物凄さを持っていた。
だが、鋼鉄のドリルの剛性を持つ圧縮された空気の錐は、ザメディボールの表皮にあっさり弾かれた。戦車砲の零距離射撃をも苦にしないザメディボールのバリヤーが、閃光を放つ空気ドリルをはね返し、それは一瞬恐ろしい渦動にふくれあがり、上空へ噴き上ってきた。
たちまちあたりは超弩級のハリケーンに匹敵する疾風の暴威が充満しようとした。天空が裂けるような凶暴な轟音とともに稲妻が無数に天空から地上へと突き刺さる。
一番泡をくったのは、丈本人だった。もののみごとに応じ返しされたのだ。全員が巨大な空気の回転翼に巻きこまれ、消し飛ばされてしまうだろう。
「渦動逆回転!」
と、丈は叫んだ。間に合わないかと肝を冷やしたが、危く中和する渦動が生じ、打ち消すのに成功した。とてつもない怪獣に育ちかけたものが元の仔猫に返るように、喉を軽く鳴らすような唸りが残った。
「なんてことするんだよ!」
ソニーが怒って甲高い喚き声を出した。
「もう少しで脱水機にかけられたみたいに、バラバラにちぎれちまうところだったぜ! 無茶すんなよ......」
と、丈を非難する。王女の糾弾は更に激しかった。
「丈! 一人で英雄ぶるのはやめなさい! なぜベガやわたしの警告が聞けないの? あなたにはできないといったじゃないの!」
王女の熱い怒りが心に伝わってきて、丈は一言もなかった。危く壊滅を喫する瀬戸際まで行ったのだから仕方がない。功名心に逸ったという彼女の指摘もその通りだった。
ルナ姫に対して名誉挽回のために抜けがけを試みたのだ。己れの蔵する巨大な〝力〟を誇示したかったのである。
「王女、丈をあまり責めなさるな」
ベガが弁護してくれた。
「初陣の若武者というものは、いつでも功名心に駆られるものです。またそれだけの闘志がなければ、勇者と呼ばれる大戦士に成長することはできないのです。彼はちと逸りすぎただけです」
戦士の星に生れたベガらしい弁だったが、王女には納得がいかなかった。
「でも、彼はわたしたちを挽肉のようにして殺しかけたわ......彼にはスタンド・プレイの癖があるのよ。いつだって自分だけいいところを見せようとして、他人のことなんか眼中にないのよ。わたしは彼の行動だけをとやかくいってるのじゃない。彼の心の中まできちんと読んでいっているのです」
「なるほど。しかし、これで丈も一つ大きなことを学んだでしょう。とにかく批判や検討は後まわしです。今はザメディという危険な敵がわれわれの隙につけ入るべく、気息をうかがっている。こちらが気を抜いたり、そらしたりしようものなら、再び凄まじい反撃が襲ってきますよ」
「その通りだと思うぜ」
と、ソニーがさかしらげにいった。
「仲間割れはよくねえ、少くとも敵の豚野郎のまん前ではな。そんなことより、よう、でっかい大将、おれはあとなにをやりゃいいんだい? あのザメディ野郎をぶっ殺す手はないのか?」
「あるとも」
と、ベガは冷徹な表情でいった。
「ソニー、お前にはザメディボールに穴をあけてもらおうか」
「穴をあけるって?」
丈が尋ねた。
「しかし、ザメディはもう弱点だった目玉を塞いでしまったんだろう?」
「だから、ソニーの〝力〟が必要なのだ。王女と私をザメディの触手からもぎとったと同じ方法で、奴の体の一部をどこかへ精神移送してしまうのだ」
「なるほど! それであのザメディボールに精神移送した体組織の分だけ穴が開いてしまうというわけだな!」
ベガの奇策は丈の意表を突いた。ベガは超能力こそ備えていないが、戦術には長けていた。
「冗談じゃねえよ!」
と、ソニーがキイキイ声で抗議した。黒い顔色がさっと灰色に変った。
「そいつをやるには、おれが奴に触らなきゃならねえってことじゃねえか!?」
「その通りだ」
「殺生なことをいいっこなしだ!」
ソニーは死物狂いの悲鳴をあげた。
「よしてくれよ! 気が狂っちゃうよ! 奴に触るくらいなら、ガラガラ蛇にキスしたほうがましだぜ!」
「まあ、落着いて私の話を聞くといい」
ベガは冷徹な司令官の顔貌になっていた。
「ザメディは、今攻撃には不向きだが、防御には万全という体勢を整えて、じっくりと作戦を練っているのだ」
ベガの指摘する通り、火炎を多発させて炎上中のハーレム地区のどまん中に居座った巨大な球型ガスタンクのようなザメディボールは真赤な火炎の照り返しを受けても、まったく新しい動きを示す気配を見せなかった。
「そのことは、さっき丈のPKによる渦動エネルギーを苦もなくはね返したことで充分察しがつく。奴の体組織は特別な磁場を持っているのだろう。魔法とも超能力ともつかないが、完璧なバリヤーだ。
しかし奴の体勢を崩す方法が一つある。君たちの超能力と私の超科学兵器のコンビネーション作戦だ」
地表の巨怪なザメディボールは真赤な陰影を体表に踊らせながら無気味な沈黙をまもっていた。凝固したようにうずくまっているが、どのような変化を蔵しているか計りがたいものがあった。
「......質問はあるかね?」
と、サイボーグ戦士が鋭くいった。
「以上述べたことは、かつて友人の超能力戦士と話しあい、かなりの成功が望めるという意見の一致をみた作戦だ......やってみるだけの価値は充分にあるはずだ」
「待ってくれよう!」
と、ソニー・リンクスがキンキン声で泣き言をいった。
「もうちょい、ましなのはねえのかい? おれにもう一度奴に触れってのは殺生だぜ、ベガよ。おれは気分が悪い......もっとスカッとした作戦を考えてくれねえか」
「ない!」
サイボーグ戦士はきっぱりといった。ベガの右の巨腕の手首にカタリとスリットが開き、アタッチメントが姿を現わした。それを引き出して、剣とも銃ともつかぬ武器に接続する。
「ベガ、それはなんだい?」
と、丈が質問する。ベガが手にした武器はみるからに無気味な様相を呈していた。
「空間自体を超高速で振動させる......」
ベガは淡々とした口調でいった。
「空間干渉波とでもいったものを発生するシステムだ。この特殊な力場の震動に接した物質は、異次元空間に飛ばされる......」
「なんのことだかよくわからないけど、物騒なものらしいな」
と、丈は薄気味悪そうにいった。
「異次元へ飛ばすっていうと、この世から消え失せてしまうのかい?」
「その通り。今はこれ以上の説明は無理だ。それよりも行動開始だ。ソニー、頼むぞ!」
ベガが決然といった。
「作戦通りにやれば大丈夫だ! 恐れずにやってのけろ!」
「仕方がねえ!」
と、ソニー・リンクスが喚いた。琥珀色の目玉が緊張で跳びだしそうになっていた。
「行くぜ!」
奇声をあげてソニーは跳んだ。時間を置かず、小さな体が、球型タンクのようなザメディボールの頂上に出現する。
「この犬畜生が!」
ソニーは口汚く罵って、ザメディボールの表皮を蹴りつけた。
「てめえを今からばらしちまうからな! 覚悟しやがれ!」
ソニーを知覚すると同時に、ザメディボールの無気味な表皮が沸騰したようであった。巨人の掌が開いて持ち上るように、ソニーの周囲に数メートルの高さに隆起した。その反応の素早さは、覚悟をきめているソニーはもちろん、ベガたちをも愕然とさせた。ネズミ取りのトラップがぱたりと閉まる速さであった。
奔騰する肉の壁に摑まれかけて、ソニーは喉がはり裂けんばかりの絶叫をあげた。
ザメディボールが食虫植物みたいにソニーを捉えたと見えた瞬間、黒人幼児は跳躍していた。
精神移動すると同時に、ザメディボールの一部を持ち去ったのだ。直径二メーターの穴が突如出現し、ザメディボールの妖異な巨体に暗い影を形造った。
「やった!」
と、丈は叫んだ。ぎりぎりに蓄めていた緊張が一挙に切り落された快感が身裡を貫き走った。ソニーは凄い奴だ! チビだが確かにスーパー・ブラックだ!
「今だ、丈! PKであの穴を固定しろ!」
ベガの指令がしばらく遅れて漂ってくるようだった。
「もう固定している!」
丈は〝力〟を解放する実感とともに叫び返した。がっちりとザメディボールを把握し、磐石の重みをもって圧していることに絶対の自信を実感した。
「よし!」
ベガの手許から、無形無音のエネルギーが迸るのを丈は超感覚で捕捉した。それは熱でも光でもなく、一種の空間が曲るイメージだった。空間のパースペクティヴが変形し、異形のものに化けてしまう感覚だった。それは空間自体を鋭利な刃物で切り離し、どこかへつなげてしまう、奇怪な居たたまれぬ、亀裂感そのものでもあった。
地表のザメディボールに凄まじい変化が生じた。それは矛盾しているが、爆発と爆縮が同時に発生したとしかいいようがなかった。内圧が急激に高まり破裂した気球のように粉々に引き裂けたかと思うと、空間の一点に向けて吸い込まれるように恐ろしい速さで縮小し、消え失せた。
ザメディボールの痕跡すら残すことなく、完全無欠に消滅してしまったのである。後に残ったのは惨憺たる瓦礫の山の連なりだけだった。
「やったぞ!」
丈の胸郭から爆発的な歓喜の叫び声が飛びだして行った。
「ざまあみやがれ!」
と、声を限りにソニーが絶叫する。
「化物野郎、風船みたいに弾け飛んじまいやがった?」
勝利の雄叫びだった。
「待てっ」
ベガの警告は冷水を頭から浴びせかけるように痛烈であった。
「有頂天になるのはまだ早いぞ! そんなことでは〝幻魔〟の思うつぼだ! 王女、透視しなさい!」
「わかったわ......」
ベガの巨腕の中で王女は意識を拡大させた。黒人暴動の凶暴な波動は、強烈な背景音として荒れ狂っていた。ハーレム地区のいたる場所で夜空を焦がしている火炎の真赤な炎と同じだった。
しかも、黒人暴徒は、ザメディボールと超能力者との死闘の展開された場所へ、誘蛾燈へ惹きつけられる虫たちのように、続々と詰めかけつつあった。闘争と破壊の欲求が、まるで磁力のように働いて吸引しているのだった。州軍の主力も、戦車破壊を知って集中してきた。もはや酸鼻な決戦は避けるべくもなかった。
だが、これだけ緊迫した暴力の波動が満ちあふれた戦場の雰囲気の中にあっても、〝幻魔〟ザメディの邪悪な波動は際立って異質であり、隠しようがなかった。王女の心霊的な視覚にとっては、燐光のように異妖な光を放っていた。
「精神感応で、奴の意識探査をしなさい!」
と、ベガが指令する。
「〝幻魔〟一族の者は、これしきのことでは参らないはずです。奴は必ず反攻の機を窺っています」
ベガの戦士の本能はまったく正しかった。
「見つけたわ! あの瓦礫の中よ!」
王女は興奮しきって叫んだ。
「溶解した瓦礫の塊に化けているわ! 彼はやっぱり死ななかったのよ! 彼は自分の本体だけをいち早く切り離して温存したんだわ......異次元空間へ消えたのは、彼の神経中枢以外の体組織にすぎなかったんだわ!」
「そんなことだろうと思っていた......」
ベガは冷徹な口調でいった。
「〝幻魔〟は不死身です。簡単には息の根を止めることはできないのです......みんなよく記憶しておくといい! 〝幻魔〟を倒したと思いこんだとたん、恐ろしい危険にさらされるということを......」
「これだけ物凄い攻撃を受けてもまいらないのか!?」
丈の驚愕は激しかった。それでは、姉の三千子を襲った〝幻魔〟も息の根を止めたと安易に考えたのは大間違いということになる......
姉の三千子が危険にさらされているという考えが真赤な閃光となって、丈の心を襲い、警急の血の色で染めあげた。
姉が危い!
丈の心を稲妻が撃った。もう一人の〝幻魔〟は日本にいる三千子を再び襲う......
「それだわ、丈」
ルナ姫が電気に触れたように感応した。
「ザメディもそれを考えてる! ザンビという仲間のことを! ザンビと合体して、逆襲しようと彼は考えているのよ!」
「畜生! そんなことはさせないぞ!」
丈の怒りは雷撃に似ていた。無形のエネルギーが放出され、地上へ駆けくだるさまは、超巨人がとてつもない大槌を力まかせに叩きつけるようだった。
爆撃をくったように瓦礫が更に粉砕され、激しく四方八方へ飛び散った。丈の激怒のエネルギーは大気中にきなくさい臭気と帯電の気配を充満させた。
「その前に貴様の息の根を止めてやる!」
衝撃波が水脈のように大気中に波紋を作り、八方へ拡がって行く。丈の怒りは激しすぎて制御を逸脱していた。
「やめて、丈! 廃墟をこれ以上拡げないで! ザメディはこんなことでは殺せないわ! 人間の被害が増加するだけよ!」
王女の制止を受けて丈は歯ぎしりした。憤怒と憎悪の中に冷たい恐怖が混りこんできていた。
〝幻魔〟のかたわれは、再三東京の三千子を襲うに違いないと確信したからだった。〝幻魔〟は不死身だ。死滅したと考えたのは大きな誤まりだった。
「王女のいう通りだ、丈」
と、ベガがいった。
「焦っても無益なことだ。それよりも、奴から聞きだしたいことがある」
「しかし、〝幻魔〟を殺すことも滅ぼすこともできないとしたら、いったいどうすればいいんだ?」
丈は身慄いを禁じえなかった。とめどもなく冷たい戦慄の波紋が湧出してきた。
「こちらの息が切れちまうまで、奴は持ちこたえて、襲いかかってくるぞ! そうなればこっちはスタミナ切れでやられる!」
「あせるのは禁物だぞ、丈。今のはほんの小競り合いだということだ。焦らず逸らず、相手の弱点を探りだす。こちらの〝力〟は有効に使い、敵には浪費させるのだ。これは息の長い勝負なのさ、丈。大宇宙では数百億年も続いている......丈、お前が一人血気に逸っても局面が急変するわけではないのだ」
ベガのクールな専門家の言葉は、過熱してきた丈を鎮静させるだけの説得力があった。
「王女、彼に質問し、彼の意識を読み取って下さい。〝幻魔大王〟が今、どこにいるか、尋問するんです......」
「〝幻魔大王〟は間もなく、この惑星にお出ましになる......ザメディはそう答えたわ」
ルナ姫は双眸に光をランプのように点していた。活発に超感覚が動いている証拠だった。
「そして、こういっているわ。〝幻魔大王〟はこんなちっぽけな恒星系は一吹きで消し飛ばしてしまう......あっという間に太陽系は消滅してしまうだろう......」
「それは噓だ! 〝幻魔大王〟ともあろうものが、こんな辺境の星区まで自ら出向くはずはない。派遣されてやってくるのは、貴様たち〝幻魔〟の下っ端だけだ。なにしろ〝幻魔大王〟は宇宙の隅々にまで手を拡げているのだから、辺境に主力部隊を派遣するはずはない」
ベガは、王女に通訳させた。
「〝下級幻魔〟の出世コースからはずれたあぶれ者が、体よく追っ払われてやってきたのだろう......そうザメディに伝えなさい、プリンセス。彼を侮辱して怒らせてやるのです。彼は〝老朽幻魔〟だといっておやりなさい。彼は地球人のひよこのような超能力者にも勝てぬ弱者だと......宇宙最強の〝幻魔〟一族の恥さらしであって、この失態が上部に知れれば、消去されるだろう、と」
「ザメディはそれを認めているわ。もし、地球制圧の任務に失敗すれば、消滅刑を受けることになると百も承知なのよ」
「我々はザメディを〝消滅刑〟に服させるだろうといいなさい」
「彼自身が消滅することになっても、次々に強大な新手の〝幻魔〟が派遣されてくることになる......もちろん、ザメディが任務遂行を断念する気は毛頭ないわ。それどころか恐ろしい意気込みで報復を誓っている......」
王女の顔色がしだいに蒼ざめてくるようだった。
「ザメディたちが失敗すれば、〝幻魔〟の派遣軍が地球を任地に変更して、やってくることになるかもしれないわ、ベガ。本来なら他の星系を侵攻に向うはずの派遣軍が......」
「派遣軍が来る?」
ベガは衝撃を受けた。今、この段階で〝幻魔〟派遣軍に来寇されては、地球は一堪りもなく壊滅するだろう。地球人の軍隊が〝幻魔〟に対してまったく無力であることは、ザメディボールと州軍の戦闘によってはっきり証明されている。〝幻魔〟の中でも、特に強力とはいえぬ下級レベルのザメディを相手取ってすらもそうなのだ。
星系全体を消滅させる任務を持つ〝幻魔〟派遣軍を相手にしては一堪りもない。地球人が己れの超能力戦団を持つに至るだけの時間を稼げなければ、結果はすでに明らかであった。
「でも、ザメディは敗北を認めないわ! 戦いはこれからだと宣言しているわ」
王女は緊迫した口ぶりでいった。
「危い! なにかザメディはやりだすつもりよ、ベガ!」
「それを探りだすんです、王女。その前に彼を封じてしまわねばならない」
ベガは再び武器のエネルギー・チューブを手首のコンバーターに接続しながら命じた。
「今度こそ、奴を異次元空間へ飛ばしてやります。恐らく彼も今回は防ぎきれないでしょう。ザメディの本体、神経中枢のありかをしっかり把握していて下さい。彼が再びトカゲの尻尾切りで逃れられないように......」
「ザメディは変形能細胞の大部分を失っているわ。でも、彼はさほど恐れていないし、へこたれてもいない......反撃の意欲は物凄いわ! 気をつけて、彼は我々のだれかを人質にとるつもりよ!」
ルナ姫は正しくザメディの策略を看破していた。
「人質だって? 冗談じゃねえよ!」
と、ソニー・リンクスが金切声で喚いた。
「でっかいおっさんよう、早くあの化物野郎をやっつけようぜ!」
「そうだ! 奴の反撃を待つことはない。こっちから攻勢に出よう、ベガ!」
丈は〝力〟を蓄め、雷雲のようなエネルギーをはらみながら、ベガをうながす。
「今度こそ、奴の本体を叩き潰してやる! 回復不能になるまで奴を粉砕して、ガスに変えてしまってやる!」
「待て、二人とも。様子がおかしい......うかつに手を出すな!」
ベガの言葉通り、様相が急変していた。〝幻魔〟ザメディボールが造りだした瓦礫の廃墟に、数千の群衆が接近しつつあったのだ。
高空から見おろすと、それは黒い潮が寄せるようだった。ハーレム地区の各所で炎上する火の中で、それは奇妙な群衆の動きであった。
何事が起こり、いかなる戦いが街を瓦礫の山に変えたのか、それを知るために群衆は四方から集まってくるようであった。それは干潟に潮が満ちてくるのにそっくりだった。
「彼らは惹き寄せられてきたのよ!」
王女の声は不吉な警告の響きを帯びていた。
「ザメディが何か始めたのか?」
「特殊な催眠波を放出しているわ......磁場を造りだして、群衆を引き寄せているのよ」
「あいつ、何を始める気なんだろう?」
「王女のいった通り、人質を取るためだ」
と、ベガがルナ姫の警告の意味を読解した。
「人質をとって、我々の攻撃を中止させる腹だ! 見るがいい、軍隊も動きだしている!」
「その前に先制攻撃だ!」
と、丈が叫んだ。闘争と破壊への意志が彼に危険な高圧電気の印象を与えていた。
「だめよ、丈! 群衆を巻きこんでしまうわ!」
「しかし、今をおいて機会はない!」
ベガが断言した。ぐいと武器を構え直す。
「待って、ベガ! 群衆が......」
王女の叫びを待つまでもなく、全員が眼下に生じた異変を目撃していた。
突如、強大な磁場が生じたかのようだった。廃墟に接近した群衆は、強力な磁極に吸引される砂鉄の動きを示した。
異常な速さで、飛ぶように人間が動いて結集し、核を造った。その核の周囲に群衆が信じがたいスピードで引き寄せられ、みるみる密集し、ダンゴ状に膨脹した。
人体が引き寄せられる速度は、尋常一様のものではなかった。何十人、何百人と積み重なり団塊と化して行く!
「わっ」
と、ソニー・リンクスが絶叫した。
「あれはなんだ!? なにが起こったんだい!?」
「〝幻魔〟ザメディは群衆の肉体を引き寄せているのだ」
と、ベガが真相をいい当てた。
「ザメディは大量の人体でバリヤーを造る魂胆だ。つまりそれが、王女のいった人質の意味だったのだ」
ソニー・リンクスが喉が裂けるのではないかと思えるほどの金切声で喚きだした。
「なんだ、あれは!? なんだ、あれは!? 人間の体がみんなくっついちまったじゃねえか!」
恐怖と嫌悪が異様な声音にしていた。王女が嘔きそうな音を喉の奥で立てた。
「人体組織を融合させたのだ」
と、ベガだけが冷静さを保持していた。
「まるで挽肉のボールだ」
丈も嘔きそうな声音でいった。
「何百人もの人間がぐしゃぐしゃになってくっついちまった......あれを元通りにほぐすのは大変だな。だいたい元に戻るのか、ベガ?」
「戻らんだろう」
サイボーグ戦士はクールにいった。

「人間の団塊だ。細胞組織が融合し、癒着してしまっている。何百人もの規模のシャム双生児と同じだ。外科手術で切り離せば、みんなが全員死んでしまうだろう」
「ひでえ!」
ソニーが胃液を嘔吐した。
「人数がいくらでも増えて、人間団塊が膨脹して行くぞ!」
丈は自分の声がうわずり、ヒステリックな響きを帯びてくるのを制しきれなかった。
「これ以上何千人にも増えたら、いったいどうなる、ベガ?」
「とめどがあるまい」
ベガの声音は冷酷なほどハードに響いた。
「ザメディにはそれだけ人質が増える。団塊が育てば育つほど、奴は我々の攻撃から安全になると計算している!」
「やめさせて! ひどいわ......ひどすぎるわ......」
王女が呻くようにいった。
「なんとかならねえのかよ、ベガ!?」
ソニーが泣きそうな声で喚いた。
「ミートボールにされてるのは、みんなハーレムの連中なんだ! 頼むよ、大将! あれをやめさせてくれ!」
「方法はある!」
と、サイボーグ戦士は重々しくいった。
「ザメディは、人質をとった以上、我々が手出しをしまいと踏んでいる。これ以上の犠牲者を出さないためにも、今、ザメディを異次元へ飛ばしてしまうべきだ」
「それはひどすぎる!」
丈は愕然とした。
「ザメディといっしょに何百人もの人間たちを見殺しにするのか!?」
「そうよ、ベガ! それじゃあんまり冷酷すぎるわ!」
と、王女が同調する。
「冷酷? なにを馬鹿なことを! このまま看過すれば、犠牲者は何千人にも何万人にも限りなく増加するんですよ! 今なら少数の犠牲ですむんです!」
「少数の犠牲? 何百人もの人命が少数だというの?」
「これはまぎれもない戦争なのですよ、王女! これが戦争というものです!」
サイボーグ戦士の言葉も声も鞭のように激しかった。
「犠牲者の出ない戦争がどこにありますか? 最低限少数の犠牲者に留めることが、指揮官の責任ではないですか! 指揮官の無能、無責任が、不必要な大量の犠牲者を生みだすのです! この間にも犠牲者は増大の一途を辿っているのですよ!! あなたの無意味な感傷のために!」
「どうすればいいの!? だって、あんなに大勢の人々をみすみす犠牲にするなんて......」
王女の声はうわずり、目は狂ったように動転していた。
「指揮官に無用なのは逡巡や優柔不断です! 勇気や果断さがなくて、どうして不測の事態に立ち向えますか!」
サイボーグ戦士の気迫に王女は圧倒されてただ唇をわななかせた。言葉がなかなか出てこない。
「決断なさい! さもなければあなたに指揮官の責任は果せない! 補佐役の副官や参謀はいくらでも助言はできる。しかし、決断を下すのはあくまでも指揮官なのです! 王女、あなたが決断しなければならんのです!」
「やめてくれ! やられてるのはみんなハーレムのブラックなんだ!」
ソニーが気違いじみた声音で喚きたてる。再び恐慌が黒人幼児の心を捕えていた。
「静かにするんだ、ソニー! そんなに騒いでは、王女の心がますます乱れる!」
「そうはいくかよ! おれの仲間や親兄弟がやられてるかもしれねえんだ! 他人のことだと思いやがって、なにをいってやんでい! この大木野郎が!」
ソニーはもう半狂乱である。
「てめえ、やられてるのが黒人だからって気易くいいやがると、ただはおかねえぞ! おれの親があの中にいるかもしれねえ!」
「しかし、団塊になってるのは黒人だけじゃなくなったぞ。州軍の白人兵士も吸い寄せられてる」
と、丈が指摘した。
「ザメディにとっては、黒も白も見境いはないんだ。人種などお構いなしにミートボールをこねあげるだけだ」
ザメディの人間団塊は見るも恐ろしく、無気味に膨脹し、かさを増してきていた。人間の四肢がびっしりと積み重なった表面を持つその形相は、見る者に冷汗を流させる悪夢そのものの奇怪なオブジェであった。人体器官だけでできた超巨大なミートボールだ。
「王女、決断をなさい」
ベガの声が断乎とした響きを帯びて迫った。
「あなたが逡巡する間にも、犠牲者は続々と増えて行くのです。己れの下した決断の生んだ結果が良かれ悪しかれ、苦しまねばならないのが指揮官の定めです。それが指揮官の責任というものなのです。ならば、指揮官は己れの良心と信念に従って決断を下すべきです。それがあなたに課せられた義務ではありませんか、王女。他に救いを求めなさるな! 他に決断をゆだねることは許されません。あなたの責任を果しなさい! 我々は全力をあげて協力を惜しみません。しかし、ご自身の義務は王女自ら果されなければならんのです!」
「............」
王女の蒼白な顔に苦悶の汗が幾筋も流れ伝わった。
「王女! ご決断を!」
「やめてくれ、お願いだ!」
ソニーが黒い小さな手をもみしだきながら叫んだ。
「おれのブラザーたちを殺さないでくれ!」
「やめろ、ソニー!」
と、丈が歯をくいしばるようにしていった。
「お前はそうやって、犠牲になるブラザーたちを増やしていることになるんだぞ! お前がスーパー・ブラックなら、これ以上犠牲者を出さないようにしろ!」
その声は奇妙に掠れていた。
「いったいどうしろってんだよ!」
「おれはベガに賛成する! これは癌の手術と同じことなんだ。癌に冒された細胞組織を切除しなければ、ますます癌は増殖して、病人は死んでしまう......勇気をもって手術をしなきゃならないんだ......迷っているうちにどんどん癌細胞は増えて行く」
「丈の言葉は正しい」
と、ベガがきっぱりといった。
「王女、あなたは医師だ。癌患者を前に考えこみ、迷っている医師なんです。逡巡し、躊躇するのは、責任を自分で負う勇気がないからです。私は他ならぬあなたに任命された顧問として、決断をくだすことをあなたに勧める」
「なんだか知らねえが、相手は癌じゃなくて人間なんだぞ!」
と、ソニー・リンクスがどなった。
「何千人もの人間を焼き殺しちまおうってえのか! 黒人だと思って馬鹿にすんな!」
「ソニー、お前の親兄弟は、あの人間ミートボールの中に詰めこまれているかもしれない」
と、丈が汗を流しながら掠れ声で懸命にいった。
「だが、無事でいるかもしれない。放っておけば、人間ミートボールに吸いつけられて、化物の一部になってしまうかもしれないんだ......もしそうだったらどうする?」
「どうするって......」
ソニーは狂ったように目をきょとつかせていた。
「今、あの化物を消してしまえば、お前の親兄弟は助かる......さあ、どうするソニー?」
「そんなことおれにわかるわけねえじゃねえかよ!」
ソニーは悲鳴のような声をあげた。
「親兄弟が助かるんだぞ! なにをぐずぐずしているんだ、ソニー!」
「だ、だってよ......そんなことわかんねえよ! いったいどうすりゃいいんだい......」
「プリンセス、早く心を決めてくれ......」
丈は滝のように汗を流しながらいった。声は呼吸困難に陥ったようにますます掠れてきた。
「丈、どうしたのだ!?」
と、ベガが愕然としていった。
「何が起きたのだ?」
「〝力〟が弱くなってる......」
と、丈はかわいた声でいった。
「PKが水が漏れるみたいに、どんどん弱くなってくる......頭の芯がぼうっとして、めまいがするんだ......目の前に膜が張ってしまったみたいだ......」
「神経疲労だ! PKを使いすぎたのだ。このままでは焼き切れてしまうぞ!」
ベガは空いている右腕を丈に向ってさし伸べた。
「ここへ来るんだ、丈。休まなければいかん! 超能力を使いすぎて廃疾者になることもあるのだ。PKを休ませろ」
その時、眼下で新しい火炎が生じた。州軍の戦車が砲撃を開始したのである。あまりの凄まじい光景に、兵士の神経が破綻してしまったのであろう。恐怖に狂ったように砲撃を加える。爆発の轟音とともに、巨大な人間団塊が炸裂し、どろどろに気味の悪いものが飛沫みたいに飛び散った。
数台の戦車が発狂したように、超巨大なミートボールめがけて砲撃を浴びせかける。爆発の閃光は悽愴に地を染め、震わせ続けた。人間団塊は崩れ、ひしゃげ、滝のように血を迸らせていた。
「ベガ! もう見ていられない!」
王女は狂おしく身をもがき、悲痛な叫び声をあげた。
「彼らを楽にしてあげて! 彼らをこの地獄から救いだしてあげて、お願い!」
彼女は激しく涙を流していた。
「これ以上、彼らを苦しませないで!」
「わかりました」
と、サイボーグ戦士は短く答えた。
一瞬、崩れた人間団塊は、真紅に灼熱し、あかあかと燃え輝き、見守る者の全ての網膜に鮮烈な残像を残した。
そして反転すると影絵のように黒くなり、突如消失した。瓦礫とともにあとかたもなく消え失せていた。
あとには空虚な暗闇に踊る火災の火の手が、奇怪な光と影を投げかけているばかりだった。
その時、丈の体がぐらりと傾き、空中浮揚をやめて、真逆様に燃える地上めがけて落下して行った。
「わっ、黄色い兄ちゃんが大変!」
と、ソニーがわめいた。
丈の〝力〟は不意にフューズが飛んだように跡切れてしまっていた。丈は〝力〟の制御に失敗してしまったのである。
8
アメリカの長く暑い夏が、世界一の超豪華アパートの目と鼻の先で、分厚い硬質ガラス一枚を隔てて過熱し、荒れていた。
ニューヨーク市では、最低の人間塵芥のスラム街と世界最高の富裕階層の買い占めた土地がわずか数千メーターの距離しか持たずほとんど接しあっている。
セントラル・パークの東側に建つ三十階の超高級アパートに住むのは大富豪の石油業者、アラブの豪族たちだ。
最上階には大きなスイミング・プールがあり、大富豪の作った人工の別天地がある。広大な屋内花壇には珍しい花々が色彩を競っている。外部で荒れている猛暑の炎熱とはまるで関りを持たない爽やかな人工の大気が深山の清涼さで別天地を満たしている。
だが、耳を澄ませば、ハーレム地区で依然として続いている黒人暴徒と警官隊の射ち合いの銃声が聴きとれるはずなのだ。
巨大な磨きあげられたガラス越しに、屋上プールの美しい青色の輝きを眺めていると、灼けつくような焦燥感がじりついてくる。申しぶんなく超豪華である。世界超一流の大金持の生活、丈がこれまで想像したこともない真のブルジョアの日常が眼前にあった。
だが、そんなものは、今の丈の感興を誘う力を何一つ持たなかった。火であぶられるような激しい苛立ちが彼をさいなみ続けていた。なすべき急務が控えているのにもかかわらず、行動の自由が失われているのだ。
他の何も必要はなかった。今、即座に行動すること、それを丈は身を切られるような切実さで求めていた。
「よう、ブラザー。もう起きて大丈夫なのかい?」
たった今まで人気のなかった広い部屋に声があった。ドアの開閉した気配はまったくない。
そんなことができるのは、ただ一人だった。もちろんそれは驚異の黒人幼児ソニー・リンクスにほかならない。どんなに厳重に施錠された密室にも、ソニーはその〝壁抜け〟という途方もない〝力〟により、自由自在に出入りするのだった。
「大丈夫もなにも、こんな時、じっと寝ていられるもんか」
と、丈は巨大な窓ガラスの外に目をやったまま答えた。
「一秒でも早くここを出たい。外へ飛びだして、ザメディの化物野郎を捜しに行きたいんだ」
丈は熱っぽい慄えに背筋を貫かれ、大きくぶるっと震えた。
「おれはこんな所でのんびりしているわけにはいかない。早く東京へ戻らなければならないんだ、ソニー。頼むから、おれをお前の〝力〟で東京まで送ってくれないか。偉そうな看護婦に命令されてすごすのはもうまっぴらなんだ」
「おれだって、こんな所は好かねえ」
と、ソニーは精巧な寄木細工の床にべっと唾を吐き捨てた。大金持の白豚野郎への軽蔑の表明であった。
「スーパー・ホワイトピッグの城だからな。さっさと出て行きてえよ」
黒い顔には年齢にそぐわぬ憂悶というべきものがあった。
「ここの奴らは大嫌いだ。金持も召使どもも根性悪でいけ好かねえ。だけど、お前が病気じゃしょうがねえや。あんばいがよくなるまで我慢するしかあんめえよ」
「おれは日本へ帰りたいんだ。ソニー、お前の〝力〟でおれを東京へ送ってくれ。ここにいても、おれはよくなりそうもない」
丈は顔にぴんと張ったピアノ線のような緊張を浮きたたせて、ソニーを振り返った。
「頼む、ソニー。おれを東京に連れてってくれ」
「そうしてやりたいんだけどよ......おれはトーキョーってどこにあるか知らねえんだ。知らねえ所へ送るっていうのはなあ......」
「地球儀で教えてやったじゃないか!」
「だってよ、なんだかおれ、自信ねえよ。行先がはっきりしてりゃいいんだけどよ。一度でも行ったことがありゃ、間違いねえんだ。けど、間違えてとんでもねえ場所へ送っちまったら......やばいじゃねえかよ!」
「............」
ソニーのいうことももっともだった。ソニーの〝力〟の現われ方は明確だが、方向性にかけてはだいぶ不明瞭になる。彼自身がはっきり位置や場所を座標化し、意識化している限り、精神移送は正確に行なわれるが、知らない場所になるととたんに怪しくなる。当てずっぽうでやっても正しく目的地に到着することもあるが、そうでない場合は行方知れずとなり、神のみぞ知るという結果になることが少くないということだった。
「月か火星へ行っちゃうかもしれねえからなあ」
と、ソニーは平然としていった。なにぶん就学以前の幼児でもあり、丈が地球儀を見せて説明しても、座標という概念自体がぴんとこないようだった。
「あの人間山脈に頼んでみたらどうなんだい? あのでっかいおっさんは人間放れした力をいっぱい持ってるじゃねえの」
「ベガには断わられた......」
丈は苦々しくいった。
「安静にして休養を取らなければだめだというんだ。だが、それだけじゃない。王女と二人で彼は何か計画を練っているんだ......だから、おれに構っていられないんだ」
彼らは自分の抱えている苦慮を理解していない。そんなことには興味がないのだ。それが大きな不満のしこりになって胸中にわだかまっていた。
丈は姉の三千子の身を灼けつく不安をもって案じている。それは決してゆえないことではない。なんといっても〝幻魔〟ザンビは三千子を襲撃しているのだから。そして同じく〝幻魔〟ザメディはその恐ろしい不死身ぶりを証明している。
丈には彼ら〝幻魔〟が完全に死滅したという考えをどうしても受容できなかった。どこか陽の当らぬ地下の暗闇に雌伏し、再起の時を執念深く待っているように思えてならないのだった。
それは自分にとり憑いた単なる強迫観念であるとは信じられない。彼らが蠢動を開始する前に一分一秒でも早く、東京の三千子の許に帰りたかった。
あの〝幻魔〟ザンビは、姉の三千子に対して変質者の偏執をもってつきまとうような気がしてならなかった。明らかに特殊な執着をもっていることが丈には感じとれるのだった。
だがベガや王女は、丈の懸念にさしたる関心を示してくれないのだった。丈の心配は個人的なものであり、彼らの関心事はもっと巨大なものであるのかもしれない。
しかし、病床にあって行動の自由を失っている丈にとっては、身を灼く焦慮であり、彼の心をさいなみ続けた。医師は丈に絶対安静を命じ、融通のきかない看護婦が少しも隙を見せずに彼を看視し続けていたからである。
今こうしてベッドを離れ、窓の外を眺めるほどの隙を丈に与えたのは、看護婦にとり、大きな失態というべきであった。
「なにしろ一人で小便にも行かせないんだ」
と、丈は不快げにいった。黒人幼児のソニー・リンクスは凄まじいスラムの黒人米語を使うので、時折ぴんとこないこともあるが、最初から馬の合う相手ではあった。幼児とはとうてい信じられぬほど世間知に長けており、丈の方がたじたじとさせられた。口が達者で頭はべらぼうにいい。天才であることは間違いなかった。その超人的な〝力〟を抜きにしてもなおかつそうなのだ。
「無理やり溲瓶を使わせるんだからな。かなわないよ」
「あの看護婦はお前に気があるんだぜ」
と、ソニーがさかしげにいった。
「お前みたいな東洋人の美少年が好きなんだとよ。気をつけな、ブラザー。体中舐めずりまわされちまうぜ」
「チビのくせに生意気いうな」
丈は赤面してどなり、ソニーはげらげら笑った。
この黒人幼児は、ルナ姫には及ばないが優れたテレパシストであり、看護婦の心を読んでいるのだった。
看護婦はややいかついタイプの美人であり、高給をもって傭われているだけに、恐ろしいほど有能であった。目いっぱい能力を発揮することに専念し、丈から一瞬も目を放さなかった。
ただ職務だけでなく、かなり個人的な関心を、この東洋人のほっそりした美少年に抱いていることは明白であった。王女やソニーのように卓越したテレパシストでない丈にも、彼女の感情は伝わり、迷惑至極であった。多分に母性愛的であるだけに、押しつけがましくて堪えきれないのだ。排尿のため、下腹部に手を触れられると、どうしていいかわからないほど困惑の極に達する。
「彼女が戻ってきてみろ、ほうりだされるぞ」
と、丈はいった。
「お前のいったひどいことを耳に入れてやればな......お前も付添いの看護婦が必要になるだろう」
「心配要らねえよ」
ソニーは顔中でニタニタ笑いながらいった。
「彼女は当分、他人のことなんぞ構っていられねえ」
「ミス・キングになにかやったのか!?」
丈は愕然としていった。
「そうでなきゃ、お前とお喋りだってできねえじゃねえかよ」
ソニーはけろりとしていった。
「ひよこを抱えた牝鶏みたいにお前を見張ってるんだからよ」
「ソニー! お前、彼女をいったいどこに送ったんだ!?」
「気にするなって。しばらくの間、留守にしてもらっただけだからよ」
ソニーは悪童の顔つきをしていた。
「ミス・キングが白人だからって、あまりひどいことをするなよ。白人が全部〝幻魔〟みたいに悪どい連中ばかりじゃないんだから」
と、丈が説教する。
「わかってるって。相手が白豚だからって、やたらにやっつけたりはしてねえよ。その証拠に、王女とだってうまくやってるじゃねえか」
ソニーが抗弁する。
「気に喰わねえことだって、この通り我慢してやってるんだぜ。おれとしちゃ、こんな所にごろついてねえで、ハーレムに帰りてえんだがよ。ルナとベガがこむずかしい相談をしてるもんで、その間辛抱してやってるんだ」
「いったい王女たちは、ミスタ・メインと何を話し合っているんだろう? 様子はわからないか、ソニー?」
ミスタ・メインとはこの超豪華アパートの主の大石油業者であった。今はルナ王女の後援者だ。王女が米合衆国に渡ったのは、ミスタ・メインの招きによるものだったのである。
「こむずかしくて、なんだかさっぱりわかんねえ」
と、ソニーは鼻の付根にしわを寄せていった。
「王女は、〝力〟を持った連中を集めるのに、ミスタ・メインの力を借りようとしてるんじゃねえか......」
ソニーの粗野で隠語だらけの物凄くわかりにくい黒人米語から察するに、王女は超能力者を組織化すべく、大企業のオーナーであるミスタ・メインを説得し、援助を取りつけることに成功した模様であった。ミスタ・メインは以前から、霊能者として高名だったルナ姫の熱心な信奉者だったのである。
ミスタ・メインは石油業者として有名だが、その勢力は米国政財界において隠然たるものがあるらしい。丈は病気静養中のこともあり、ミスタ・メインにはまだ顔を合わせていないが、王女たちの計画にはさほど関心があるとはいえなかった。
その点、丈は世間知らずの高校生であり、ルナ姫はトランシルヴァニアの経済を背負ってきただけあって、経済的なバックを確立することが急務だということを知りつくしている苦労人だったようである。
もちろん、組織は金を必要とする。理屈ではわかっていても、世慣れない丈には一向にぴんと来ないのだった。
米国有数の大富豪にぬくぬくと庇護を受けていることが、黒人過激派のソニー・リンクスとは別な意味で、彼の潔癖さに抵触するのだった。
常識を超えたとてつもない大金持という存在がなにかしらいやなのだ。王女たちが財政的援助を必要としていることはわかるが、大企業のオーナーから無原則に金を引きだすというのは好ましくないと丈は感じていた。それは金を恵んでもらうのといっしょだ......

もっとも丈が理解していないだけで、王女たちには経済援助を取りつける際の原則というものがあるのかもしれないが、丈にしてみると、なにかしらとてつもない借金をするような気がしていやなのであった。
物凄くデラックスな病室にいるだけで、窒息感を催すのだ。これは分に過ぎたことだと丈は思っていた。もっと地道にやるべきだ。王女の考えは丈が考える以上にスケールが大きいのかもしれないが、なにかしら見当違いがあるように思えてならなかった。
ルナ王女には借金に慣れた者の安易さがある......この時の丈はむろんそれを言葉にすることはできなかった。王女は額に汗して金銭的報酬を得たことがない。彼女にとっては、金は必要な分だけ、蛇口をひねって水道の水を出すようにして得られるものなのだろう。もちろん彼女はだれが水道を引いたのか、少しも関心を持っていないのだ。
丈の地道で堅実な中産階級の考え方とはまったく相容れないものだった。
「どうなんだい、丈。休んだおかげで少しは〝力〟が戻ってきそうかい?」
と、ソニーが尋ねる。
「わからない......まだ試していないんだ。体にまだ力がないんでね」
丈は躊躇しながらいった。試してみるのが恐いのだった。〝力〟が永久に彼を見捨てて去ってしまったのではないかという気がしてならないのだ。突如、〝力〟が離れ去り、空っぽになってしまった感覚は、いまだに生々しく記憶に残っていた。〝力〟は無尽蔵のものではないとはっきりわかった。不明の理由でいきなり枯れてしまうことがあるのだ。車がハイウェイを走っている最中、いきなりガス欠になってしまう感じだった。
「わかるぜ、その気持は」
と、ソニーが同情した。
「おれも、あの化物野郎のザメディにとっ摑まって、壁抜けもできなくなってよ、〝力〟がなくなっちまった時は、もう気が狂いそうになったもんだからよ」
「フューズが飛んじまったんだよ」
と、丈はいった。その表現が的確だ、と彼は思った。
「だが、もう大丈夫だ。ベッドから降りて、こうやって立っていられるから......小便だってもう自分でできるさ」
「思いきって試してみるんだな。看護婦のスカートをまくるとかよ......」
ソニーはにやりと笑っていった。ませたチビだ。
「試す時は、日本へ飛んで帰る時さ」
丈は苛立たしげに頭を振った。
「〝幻魔〟ザメディもどこへ消えたかわからない。こんな所にぐずぐずしていられないじゃないか。王女たちがここを動かない気なら、おれは一人でも日本へ帰るぜ。日本には〝幻魔〟がもう一匹いることは確かなんだ」
「あせるなって。その時にはおれがちゃんと〝力〟を貸すからよ」
ソニーは自信に満ちていった。この黒人幼児には年齢とまったくそぐわぬ肝の太さがあった。特に〝幻魔〟ザメディと渡り合った経験がもたらすものだろう。英雄の器を感じさせる線の太さが顕われてきていた。
「お前は黒人じゃねえけど、ブラザーだ。おれはブラザーを見捨てたりしねえからな。安心してな」
「王女と会って話がしたい。日本へ帰るといってやるんだ。王女が今どこにいるか知らないか? 会いに行く」
「よし、おれが連れてってやる」
ソニーは黒い小さな手を出して、丈の手を摑んだ。
「ちょっと待てよ......」
といいかけた時は遅かった。ソニーに手を摑まれたまま、丈は空間転位を遂げ、おそろしくだだっ広い部屋にパジャマ姿のまま突っ立っていることになった。
広間にいた人々がいっせいに丈たちを振り返った。なにもない場所にいきなり出現したのだからむりもない。
ルナ姫の碧い瞳が呆れたように丈を見詰め、丈は赤面し、へどもどした。例によって戦士の隈取りを施したベガの怪異な顔は、なんの感情も現わさなかったが、彼らが接見していた人物にとっては、予想外のイベントだったようである。眼球を突出させんばかりにまじまじと丈たちを凝視していた。
背の高い逞しい肩を持った初老の人物である。髪は銀髪だが、肌は赤ん坊のようなピンク色をしていた。いかにも大きな発電量を維持しているという印象であった。ミスタ・メインであることは疑問の余地がなかった。
「失礼! ソニーが間違えたので......」
丈は口ごもった。目の中まで赤くなる感じだった。
「てやんでい、王女と会いたいちゅうから連れてきてやったんじゃねえか」
と、ソニーが不服そうにいった。
「まだ安静にしていなければいけないのでしょう?」
と、王女がきびしい瞳の色で丈を凝視しながらいった。
「面会謝絶のはずだけど......看護婦はどうしたのですか?」
「えっ、看護婦はちょっと用足しに......」
丈は首をすくめていった。王女は丈の心など見通しであった。
「ソニー・リンクス!」
「知らねえよ! おれは丈がお前さんに会いたいってきかねえから、連れてきてやったんだ」
ソニーはそらとぼけていた。
「ソニーが感違いしたので......お忙しいところをお邪魔しました......さあ、ソニー、元の場所へ戻してくれ」
王女の目つきは、丈にとってひどく居心地の悪いものがあった。
「いいじゃねえか。日本へ帰るといいにきたんだろ。それをいってから、おさらばしようぜ」
「その元気なら、もう大丈夫そうですね」
と、王女は丈をたじろがせる眼ざしを変えぬままいった。王女の態度は真綿にくるんだダイヤモンド・カッターというきびしさがあるようだった。
「大丈夫だと思います。だいぶ回復したようです」
丈は丁寧な口をきいた。他人行儀にならざるを得ないよそよそしさが王女にはあった。
「少し気になることがあるので、日本へ帰ろうと思っています」
「それより先に、わたくしたちがどんな立場にあるか、理解してもらう必要がありそうですね」
王女は冷やかで優雅な喋り方をした。
「なかんずく、丈、あなたには自分の立場をはっきりとわきまえてもらわねばなりません......」
「どういうことですか?」
と、丈は戸惑いながらいった。王女は相変らず彼をたじろがせる澄みきった碧い瞳で丈を凝視していた。息苦しくなってくるほど、まっすぐに目を当て、はずそうとしなかった。
「それより先に、あなたに紹介する人がいます。〝クェーサー〟のメイン社長です。〝クェーサー〟は非常に大きな企業複合体で、世界中にホテル・チェーンや航空会社、通信企業を所有しています。メイン社長は〝クェーサー〟のオーナーで、米国有数の石油業者としても高名な方です」
「君の話は聞いているよ、すごいPKの持主だそうだね。いずれ是非拝見したいものだ。私をジョンと呼んでくれ」
メイン社長は長身を自ら運んで、大きな手を丈に向って差し伸べた。万力で締めつけてひねりあげるような握手だった。病みあがりの丈はあまりの握力にたじろいだ。
仕立てのすばらしいスポーツ・スーツに包まれた大柄な肉体は年齢に似合わぬ鍛練された逞しい筋肉を感じさせ、圧倒的であった。小柄で非力な丈が劣等感を持たずにいられない迫力ある肉体主義の権化そのものであった。
メイン社長は、丈が当惑するほど長い間丈の手を放さずシェイクし続けていた。
「こんな恰好で失礼します。なにぶん、いきなりソニー・リンクスに連れて来られたものですから......」
と、丈は固くなり、ぎこちない発音に赤面しながらいった。
「そんなことを気にする必要はない。ソニーの素晴らしいテレポーテイションの〝力〟を見ることができて、私はたいへん喜んでいる......服装などいっこうに気にすることはないよ、丈。しかし、気になるというなら、召使に着替えを持ってこさせよう」
メイン社長は闊達な気性を見せて、明朗にいった。握手からようやく解放された丈の手は痺れているほどだった。丈は左手で感覚を失いかけた右手をゆっくりもんだ。その仕草をメイン社長が興味深げに眺めているのに気がついた。まるで力比べのような握手を好む男がいるものだ、と丈は思った。体格の大小、力の強弱で相手の人格を計っているみたいだ。
大男のメイン社長にはいささか子供じみているほど稚気満々なところがあった。
「やり返せばよかったんだよ。また体の具合が悪いってのか」
と、黒人幼児が琥珀色の目を光らせていった。少からずミスタ・メインに反感をつのらせているようだった。
「やあ、どうも失礼した。君が病後だということをつい失念した」
と、メイン社長は優しく詫びるように笑った。
「元気になったら、君の偉大な〝力〟を是非とも見せてくれたまえ。山脈を崩すほどの物凄いPKだそうだが......」
「そうだ、ブラザー、お前の〝力〟を見せてやんな。このアパートをハーレム河へぶちこんでやれよ」
「ソニー・リンクス、おやめなさい」
と、王女がいった。多少苛立っているようだった。
「今、私たちはメイン社長と大切な打合せをやっているところです」
メイン社長に呼ばれたプエルト・リコ人の美しいメイドが部屋へ入ってきて、丈に着替えの一揃いを渡した。丈にたいへん好奇心を持っているのがその眼つきでわかった。召使たちの間では、王女一行が大評判になっていることは間違いなかった。召使に秘密を持つということは至難の業なのだった。彼らは一行の各人がどのような〝力〟の持主であるかということまで心得ているのであろう。メイドがその眼に表わしている好奇心の露骨さは、丈を赤面させるほどであった。
精神感応が幾分なりとも働いている丈は、他人の心の動きに鋭敏になっていた。有名な超能力者として生きることは、スター的な自己顕示欲を満足させるだろうが、楽しい生き方ではなさそうに思えた。美しいメイドの抱いている好奇心は、珍しい動物に対するそれと大差ないように思えたからである。
丈が面白いことをしてくれるのを、目を見張り胸をわくわくさせて期待しているのだった。
丈は別室に一人で入って服を着替えた。サイズはきちんと合っていた。メイン社長の召使は有能であるらしい。だが、サイズからいって子供服ではないかと気になった。丈は日本人としても大柄な方ではない。
「なあ、ブラザー、あの白人の豚野郎は好かねえ奴だろう」
声がして、ソニーがいきなり出現した。丈は苦心してネクタイをきちんと結んでいた。
「あの白豚が、お前の〝力〟を見せろといったら、凄えことをしてやんなよ。あの力自慢の野郎の上に自由の女神を載っけてやるとかよ......」
ソニーは白い歯を剝きだしていった。
「あまり自信はないな。あの大男なら女神像をかついでも平気かもしれない」
ソニーはげらげら笑った。
「おれはあの白人野郎を信用しねえ。白人は豚だ。汚ねえことを腹ん中で考えてるに違いねえんだ。おれたちを利用しようってんでな......気を許すなよ、ブラザー。白人はこの国じゃ悪魔なんだ。奴らは必ずおれたちを喰いものにして、裏切ろうとするからな。もっともこのソニー・リンクスがそうはさせねえけどよ」
「しかし、王女がそんなことはさせないんじゃないか。彼女はどんな人間の心でも簡単に見破ってしまう〝力〟がある。だれも彼女を瞞せないよ」
「気をつけろよ、ブラザー。王女もやっぱり同じ白人なんだ。白人は白人だ、信用ならねえ」
「しかし、おれたちは超能力者だろう。〝幻魔〟と戦う同じ側にいるんだ。真の敵は〝幻魔〟だ、ソニー。おれたちは一度団結して、〝幻魔〟ザメディと戦ったんだぜ。つまり戦友同士なんだ。〝幻魔〟が相手となったら、白人も黒人もない。みんな同じ地球人の仲間同士なんだ。わかるか、ソニー」
五歳の黒人幼児は、丈が考える以上の高い知能を持っていた。
「おれを餓鬼扱いするんじゃねえよ。おれはスーパー・ブラックなんだ。ソニー・リンクスなんだ。白人は豚だ。必ずおれたちを裏切る。それをよく憶えておきな、ブラザー。おれにはわかってるんだ。おれは王女に気を許さねえからな。あの白人女はお高くとまっていやがって気にくわねえ」
「お高くっていっても、正真正銘の王女なんだから仕方ないさ。彼女に悪気はないと思う。それに王女が白人だってことは、彼女の責任じゃないんだから」
「ともかく、おれのいったことを忘れるなよ、ブラザー。白ん坊に決して気を許すんじゃねえぞ。お前は白人の悪さを知らねえんだ」
ソニーは執拗にいった。白人不信は彼にあって確固不抜たるものだった。
「わかった。憶えておく。みんなが待っているからともかく戻ろう」
丈はネクタイの結び目を気にしながらいった。いつも姉の三千子に結んでもらうので、己れ自身の作業に自信がないのだった。
「忘れかけたら、おれが思いださせてやるさ、ブラザー」
と、ソニーは自信満々でいった。
「白人野郎に舐められるな。あのでかい白ん坊を地面にめりこましてやれ。おれだったら、アマゾンへすっ飛ばしてワニに喰わせてやる」
いかにもやりかねない剣幕であった。
9
「よく似合うぞ、ハンサム・ボーイ」
部屋へ戻るとメイン社長がわざわざ立ちあがって、大仰な讃辞を呈した。
「気に入ったかね? 私が命じて仕立てさせたスーツだ」
丈が案じたようにデパートで探してきた子供服ではなかったようだ。
「君はまったくハンサムだな、丈。まるでナルシスのようだ。輝くばかりに美しい若者だ」
メイン社長は同性愛の気でもあるのではないかという気がするほど、オーバーなゼスチュアで讃めちぎった。
大男のメイン社長は丈を抱えこむようにして導き、テーブルに着かせた。ルナ姫は皮肉っぽい碧い瞳で眺めているし、丈にとってこれほど居心地の悪いことはなかった。
ソニーは丈の隣りに座りこんだ。体が小さいので足は床に届かず、顔は辛うじてテーブルの上に出ていた。
異星のサイボーグ戦士ベガは、一見、プロレスラー風の厖大な恰幅で特大の椅子に体を載せていた。怪異な隈取りを施した顔は無表情そのものだ。
純白のドレスをまとったルナ王女はよそよそしく美しく優雅であった。丈に向けてくる澄み切った眼ざしにはやはり親しみが感じられなかった。
恐ろしく豪華な部屋である。大理石のマントルピースの上の壁には、巨大な世界地図が貼られ、色とりどりの頭のついた押しピンがとめられている。
部屋の隅には二抱え以上もある大地球儀が電動モーターの静かな唸りとともに、ゆるやかに回転していた。すばらしいディスプレイだった。各地の時間が表示されるようになっているのだ。今は丈の視界を横切って、ユーラシア大陸から弧状を描いて垂れさがっている懐しい日本列島がゆっくり滑って行くのが見えた。
丈は激しい望郷の思いに心を貫かれた。すぐにでも飛んで帰りたくなった。姉が心配しているに違いなかった。なにしろ、北米大陸まで飛んで行ったきり、音沙汰なしになってしまったからだ。
丈はまたしてもルナ王女の碧い瞳を意識した。王女には彼の心が見通しであろう。丈の心の脆弱さを軽蔑しているかもしれなかった。テレパシストが身近にいるのは気疲れしてかなわないと彼は思った。いつも弱みを見せまいとして気を張っていなければならないのだ。いつも他人に己れの心を公開して、平然としていられる人間が果して存在するだろうか。存在するはずがない。そんなことに人間の心は堪えられないはずである。
王女の冷やかに澄みきった瞳は、そんな丈の脆弱さを非難しているように見えるのだった。もちろん丈の思いすごしに違いなかった。丈自身の心が反映しているのだ。
「これまでの話し合いの内容を、丈は知らないので、一通り説明しておきます」
と、ルナ王女は主導権を握って、ごく自然に話を進めた。この種のミーティングの議事進行は手慣れたものだった。トランシルヴァニアの経済使節を務めているうちに、しっくりと身についたものだ。
以前からルナ王女に大霊能者、預言者としての才質を見出し、交誼を求めていた大石油業者のメイン社長に、王女は新しい〝超能力者グループ〟の後援を取りつけることに成功したのだった。
彼は一年前にヨーロッパで王女と逢い、熱心な帰依者となっていたのである。このほど王女が渡米する目的も、メイン社長のコンサルタントとしての契約を交わすためだった。
メイン社長はオカルトに通暁した人物であり、王女の突拍子もない〝幻魔大戦〟の警告を受け容れるだけの素地があったのだ。いうまでもなく、異星のサイボーグ戦士ベガと引合されては、懐疑的になる余地がなかったといえる。
「メイン社長は、われわれが計画する超能力者を主とする団体(それはまだどんな形態をとるかわかりませんが)設立のために、快く基金として三百万ドルを拠出することに同意されました。われわれの構想では、この団体は、全ての人種、民族、国家、宗教を超えた人類全般による地球的規模の組織に育成されるはずのものですが、メイン社長はその傘下にある全企業及びそれに付属する組織をあげての協力を申出ておられます」
王女は特に気負いも見せず、淡々としていったが、メイン社長の表情にはあからさまに拠金の巨額さに驚嘆する反応を見出すべく、ぎらりと輝いて丈とソニーの顔を見詰めた。
ソニーはいっこうにぴんと来なかったようだし、丈にも実感はなかった。丈の存在を抜きにしての取りきめだったこともあるだろうが、今の彼にとっては何事が生じようとも不審には思わなかったかもしれない。メイン社長の代りに米国大統領が、全面的援助を申出たとしても不思議はなかったのだ。
しかし、メイン社長は丈の無反応ぶりにいささか失望したようだった。
「その他、細目についての取決めはいずれ文書にして調印することになりました。われわれの提唱する超能力者団体は、更に検討を加えられることになるでしょうが、宇宙における〝大連盟〟の構成要素の一単位を想定して構成されることになるでしょう。
けれども、当団体の特殊な性格に鑑み、ここしばらくは非公開性を保持することが必要になりますし、そのための配慮も必要になるはずです。
幸いメイン社長の全面的な支持を得ていますので、氏の協力を得て、各国の政府機関に対し、極秘裡に折衝を進め、要らざる誤解を避けながら、好ましい協力関係を樹立し、やがて来るべき〝幻魔大戦〟に備えていかなければなりません。しかし、いうまでもなく、この過程においては、敵の激しい妨害工作が予想されるため、充分慎重に配慮を払うことが必要になります......」
「なんのことか、さっぱりわからねえ」
と、ソニーが無遠慮に大声でいった。
「もっとはっきりいってくんな」
「われわれ〝力〟を持った連中は、持たない多くの人間たちに嫌われやすいということだよ」
と、丈がいった。
「だから、超能力者の組織を作っていく時に、じゅうぶん気をつけて、ゴタゴタを避けようということだ。世界のいろいろな国のお偉方と渡りをつけるのに、メイン社長が力を貸してくれる、と王女はそういっているんだ」
「丈のいう通りです」
と、王女はクールにいった。なにかしら素気ないものを感じさせる語調であった。
「なんだ、そうならそうと、丈みたいにわかりやすくいやいいじゃねえか」
と、ソニーが無遠慮にいった。
「偉そうにいうから、なんだかわけがわかりゃしねえよ」
「わかりました。できるだけ平易な喋り方を心がけるようにしましょう」
王女はにこりともせずにいった。
「で、話を聞いてると、お姫さまよ、あんたがボスみてえな話だけどもよ、お前は女だろ、ちゃんと務まんのか」
恐れを知らぬソニーがずけずけといった。
「女は可愛らしくしてるのが一番だぜ、おい? 変に突っぱらかっちゃってよ、女ボスなんかにならねえ方がいいぜ。そのでっかいおっちゃんか、丈か、それともおれにやらせといた方がいいのと違うか?」
「その疑問は当然あると思いますが、いろいろ考え合わせた上でわたくしがリーダーシップを取ることにしました。ベガは異星人であり、この銀河系宇宙に属する星間種族でさえもないので、軍事顧問として協力してもらうのが最適です。また丈は若くて政治・経済問題には未経験であり、リーダーとして現在適任であるとは思えません。またソニーに関しては年齢的に問題外です。従って、各国の元首、首長とも面識を持ち、外交使節として経験を持っているわたくしが、暫定的に指導者を務めるのがもっともふさわしいと考えるからです。
また、銀河系宇宙外で、宇宙意識〝フロイ〟の招聘を受けたのがわたくし自身であったことから考えても、地球における超能力者集団の指導者として最適任であるのはわたくし以外にないと確信を持っています。この問題に関し、これ以上異議をさしはさむ必要があるでしょうか?」
ルナ王女は自信の重みをもって、淡々と述べた。特別に気負っているようでもなかったが、ソニーのさしはさんだ疑義が、意外であったことは隠せないようであった。
「いくらお前がどこだかのお姫さまだってよ、地球全体の超能力者のよ、ボスになる資格が生れつきあるわけじゃあるめえ。ボスになる奴は本当に〝力〟があって頭も切れる人間じゃなきゃならねえ。
まだこんなに人数が少ねえんだから、選挙で決めるわけにもいかねえが、お姫さまよ、もしあんたより〝力〟のある奴がでてきたら、あんたはボスの座をそいつに渡すんだろうな?」
恐れを知らないソニー・リンクスは辛辣な口をきいた。丈のように、ルナ王女が高貴な存在であることを認め、引け目を感じるような心理は、スラム街の〝帝王〟ソニーには無縁のものであった。白人貴族など、それこそやっつけるべき白豚にすぎないし、その評価は憎むべき白人の警官とは比較にならぬ低さであろう。
「そうするつもりです。わたくしよりも適任者が現われた時には......」
王女は深く息を吸い込んだ後、ゆっくりと慎重に答えた。
「宇宙意識である〝フロイ〟は、地球に救世主が出現することを告げたはずです。わたくしたちのなすべきことは、その救世主の降臨に備えて道を整え、準備することでしょう。いずれにせよ、わたくしたちがこれから形成しようとしている団体は、超能力者のためのものではなく、全ての人類のために存在しなければならないはずです。超能力者団体は地球を統合し、支配するのではなく、奉仕するためにあるのです。大宇宙の破壊者である〝幻魔〟から、宇宙に存在する全ての善きものを守護するのを目的とする〝大連盟〟の加盟者となるのであれば、それは当然のことです」
「なんだかよくわからねえが、おれたち〝力〟のある超能力者のグループが、〝力〟を持っていねえ人間たちを護ってやろうっていうのかい?」
と、ソニーが率直に尋ねた。
「つまり、おれたち強い者が、〝力〟のねえ弱っちい連中を〝幻魔〟から護ってやるってんだろ?」
「護ってやるというのは、ふさわしい言葉ではありません。われわれには地球人類の平和と安全のために奉仕する義務があるということです」
王女は平静な態度を保持しながらいった。
「おれは白人の白豚のために奉仕するなんて気はねえぞ。おれにはブラザーに対する義務はある。だが、白豚はブラザーじゃねえからな」
ソニーは真黒な顔に琥珀色の目をぎらぎら輝かして挑むようにいった。
「白豚なんか、〝幻魔〟にくわせちまえばいいんだ!」
「〝幻魔〟の前に、地球人類は一つです。黒人だろうと白人だろうと、人種などごく小さなことです。問題にもなりません」
王女が平静さを装っているのは、丈の目にも明らかになってきた。
「白豚は白豚だ」
ソニーは、黒い小さな拳固を作って、頑強にブラック・パワーを誇示した。
「人類ってのは、ブラザーのことだ。つまり白豚でねえ人間のことよ」
メイン社長は大いに興味深げだったが、賢明にも沈黙を守っていた。もちろん、ソニー・リンクスが黒人過激派のスーパー・ブラックであることは百も承知なのだ。
「しかし、ソニー。〝幻魔〟ザメディは、黒人も白人も差別はしなかったよ」
と、丈はとくに王女を援護する意図もなしにいった。
「〝幻魔〟にとって、人類は一つだ。つまりソニー、おまえがポーク・シチューを喰う時、その豚肉が白か黒か、区別なんかしないのと同じことだよ。〝幻魔〟もそんなことは気にしない。人類の反撃が弱ければあっさり蹴散らして、地球を宇宙から消しちまうというだけのことさ」
「お前はそういうけどな、丈」
と、ソニーは真面目な顔でいった。
「王女は、人類は一つだなんて気易くいうがよ。そんなことてめえじゃ信じていないんだぜ。わかるか、ブラザー。彼女は心にもねえことを、もったいつけて喋くってるだけよ。おれには人の心の中がわかるってことさ。王女は心の中じゃ、丈、お前やおれを黄色や黒だといって見さげてる。白が一番偉いと思ってるのよ。そのくせ、そんなことは問題じゃないといってるんだ。白ん坊の心の中はみんな同じだぜ。汚ねえったらねえよ」
ソニーは幼児独特の暴露家でもあった。丈のように、王女に対して遠慮することもなく寸毫の仮借も与えなかった。
ルナ王女の顔はわずかに蒼白くなった。だが毅然とした態度は崩れなかった。
「ある意味では、ソニーのいうことは真実です」
と、彼女は静かにいった。
「ソニーが人の心を見抜くことができるのは、わたくしも否定はしません。しかし、ソニーが明らかにしたのは、真実の全てではありません」
「いったい何がいいてえんだい?」
と、ソニーが尋く。
「お前がカラードを嫌ってることを認めるのかい?」
「わたくしは恥しく思っています......わたくしの心の中には確かに有色人種に対する偏見があります。それは醜い偏見ですし、捨て去ろうと努力していますが、自分の思い通りにはなりません......」
王女の白い肌が汗ばんできていた。
「それは偏食の習慣のようなものです。理屈ではないのです。好きでないものを好きになろうと努力するのです。なみたいていのことではありません......人間の心は自分でも思うように動かないのです。しかし、わたくしは努力しています。自分の偏見を捨て去ろうと努力を傾けています。それがわたくしのいう真実の全てです」
「努力したって、嫌いなもんは好きになれないわなあ」
と、ソニーがいった。
「お姫さまよ、お前はおれたちを毛嫌いし、蔑んでいるわけだ。おれたちが黒や黄色だという理由でな。こんなことで人類は一つだなんてよくいえるもんじゃねえか」
丈はソニーの頭の回転の速さ口の達者さに舌を巻いた。まだ粗野で未熟だが、天才であることに間違いはなかった。
「やっぱりお前は骨の髄からの白人だなあ、え、お姫さまよ......けど、そんなこっちゃあ、おれはお前がボスだのリーダーだのとでかい面するのは勘弁できねえぞ」
「しかし、ソニー。王女が当面の代表者として適任であることは認めるほかないぜ」
と、丈がソニーの舌鋒に水を注した。
「それはお前も認めるだろう?」
「まあな」
と、ソニーは譲歩した。反対のための反対論ではなく、王女の指導性に釘をさしておこうという腹づもりなのだとわかった。
「それに彼女は率直だし、正直だ。彼女が己れの人種的偏見を捨て去ろうと努力している限り、おれは王女を信ずる理由があると思う。彼女は少くとも偽善者ではないからだ。おれは王女の努力を高く買う」
丈はいつの間にか、ルナ王女の弁護にまわっていた。己れ自身、公正に振舞おうとすれば、そうならざるを得ないのだった。
「それから、もう一ついっておきたいが、ソニー。お前が白人という白人を全て嫌ったり憎んだりしているならば、王女の持っている人種的偏見を一方的に非難し、攻撃することは公平でないと思う。彼女の努力を認めない限り、お前は決して公正な立場には立てないはずだ。永久に白人の悪口をいい続けるつもりじゃないんだろう?」
「お前には、白人の本当の悪さがわかんねえんだ。だから考え方が甘いんだよ。白人は悪魔だ。悪魔と仲よくするのはよくねえことだ、そうだろ? 白ん坊がてめえは悪魔じゃないと証明するまで、おれは白ん坊を信用もしねえし、許しもしねえ。ひとついっとくが、ブラザーよ、王女が正直なのはなぜだと思う。おれには人の心が読めるから、ごまかしが通用しねえと知ってるからさ。白人は都合のいい時だけ正直者面するもんだ。
この先、彼女がどうするか教えてやろうか? 彼女は〝力〟のある連中を集める。そして彼女の腰巾着になるのは、ゴマスリ野郎の白ん坊どもだ。王女は白ん坊の側近の言葉だけを聞き、おれたちカラードにはハナもひっかけなくなる。おれたちは腹這いになって這いずっていかなきゃ、王女にお目通りもかなわねえってわけよ。それくらい、ちゃんとわかってるんだ。
今はおれたちが必要だから、王女は下手に出ている。〝組織〟を作って金をあっちこっちの金持どものポケットから引っぱりだすには、おれたちの〝力〟が要るからな。ハッタリをかませなきゃならねえんだ。
だけど、必要ねえとなりゃ、おれたちはあっさりとお払箱よ。裏切者とかなんとか呼ばれて、蹴りだされらあ」
「お前はたいした奴だな、ソニー。たしかにスーパー・ブラックだよ」
と、丈は感嘆をあらわにいった。
「そうよ。おれは白ん坊どもをよく知っているんだ」
ソニーは自信たっぷりにいった。
「それも、下手に出る白ん坊ほど信用ならねえ奴はいねえってこともな」
「ソニー、お前の白人への悪口を聞いているとうっとりするよ。その調子でお前が大人になれば、当の白人ですら白人嫌いにさせちまうだろう。だけど、もっと大事なことがある。にもかかわらず、おれたちは王女を信ずるべきだし、そうしなきゃならないってことだ。ソニー、お前も少くとも彼女を信じようと努力すべきだ。おれたちは〝幻魔〟ザメディと死物狂いで戦った。その時は黒人も白人もなかったはずだ。王女を中心にして、おれたちは結束したんだ。一度できたことが、できないはずはない。あの時の気持を想いだしてみろよ、ソニー。ベガだっていっしょに戦った仲間なんだ。異星人のベガとともに肩を並べて戦えるならば、同じ地球人で人種の違いなど気にもならないはずだ」
丈の言葉、声音には熱と光がこもっていた。
「ソニー、おれたちはともに何か大事なことをしようとしていたんだ。〝幻魔〟と戦ってやっつけ、地球を護ったということだけじゃない。それよりももっと大切なことがあったはずだよ、ソニー。あの時、おれたちの心は一つにしっくりと融け合っていたし、おれたちはみんなそれを知っていた。自分の命よりも大事なものを護るために、おれたちは戦っていたんだ。全ての善きもの、素晴らしいものを、命をかけて護ろうとしていたんだ! そうじゃないのか、ソニー?」
「ブラザーよ、お前はおかしな喋り方をするけど、なかなかどうして、いいこともいってるぜ」
ソニーはにやりと笑った。
「おれだって、お姫さまにたいして文句があるわけじゃねえのよ。一応いってみただけさ。お前のいう通りだ、ブラザー。おれたちは団結して、あの凄え〝幻魔〟の化物野郎をやっつけたんだからな。この先も、新手の〝幻魔〟が攻めてくる限り、おれたちはうまくやっていけるわな」
大男のメイン社長が思わず深々と吐息を漏らすのが聞こえた。
「そういうわけで、王女、あなたがリーダーシップをとることにわれわれは異存ありません」
と、丈はいった。
「われわれのなしうる限りの一致協力を期待されてけっこうです」
「ありがとう、丈、ソニー」
と、王女は抑えた声音でいった。
「あなた方の好意に深く感謝します。各自の忌憚のない意見、たいへん有益でした。わたくし自身、更に努力するつもりでおります。二人とも力を貸してください」
「信は愛、信は力......〝フロイ〟の言葉だ」
と、それまで沈黙を守り、一言も発さなかったベガが初めて口を開いた。
「それは〝大連盟〟の司令官を務めた私の得た最大の教訓でもあった。心の結集がなければ、いかなる強大な力もなんの用も果さないということだ。他人を信ずるという行為には大きな努力が要る。不断の努力による持続が不可欠なのだ。心を結んだからには、それをつなぎとめる努力を払わなければならないということだ」
「素晴らしい!」
メイン社長が熱狂的に拍手した。顔は真赤になり、双眼には感動の涙が浮んでいた。この大男の大石油業者は正真正銘の好人物らしい、と丈は悟った。ひどく感動しやすく、涙もろい人物なのだ。人喰い資本主義の牙城であるはずのメジャー石油資本の領袖に、こんなお人好しがいるとは、丈には思いもつかないことであった。
「これほど偉大なドラマはまたとないだろう」
と、メイン社長は涙で目を血走らせながら劇的な口調でいった。
「偉大な〝力〟の持主たちが集まって、世界の運命を変える会合を開き、歴史的な論議がなされたのだ......私は深く感動した。これほど無私な魂たちによってなされる崇高な葛藤はかつて一度も史上に表われたことはないだろう......世界の運命を決定するにふさわしい神聖なものを秘めたドラマだった」
表現こそ大仰だが、しんそこそう思いこんでいることがよくわかった。
「おいら、そんなにかっこよかっただか?」
と、ソニーがふざけた南部なまりでいった。
「素晴らしかったとも! 最高だったよ、ソニー。私はこの一幕の出来事を記録して後世に伝えようと思っている」
メイン社長は熱狂的にいった。
「この日、この場所で、巨大な〝力〟を備えた超能力者たちによって、いかなる論議がなされたか、後世の人々は知るだろう。私はこの歴史的な場面に居合わせて、記録者となりえたことを光栄に思う」
「なんの、ちょっくら口論しただけですだよ」
と、ソニーがいった。
「録音をとったのですか?」
と、王女が尋ねた。
「さよう、逐一論議の模様は録音されたはずです。無断で失礼しましたが、この部屋でした人声は全て自動的に録音される仕掛けになっておりましたのでな」
「録音を取る時には、あらかじめ申し出ていただきたいのです」
と、王女はいった。
「それはもちろん、許可を得てからにいたしますとも、王女様」
と、メイン社長はあわてていった。
「私もそのつもりでいました。無断で録音する気はもともとなかったので......」
「録音には充分気をつけましょう、みなさん。わたくしたちにもやがて政治的な敵対者が出現するかもしれません。秘密会での録音が政敵の手に渡って利用されることのないように......」
「政敵ってなんだ?」
と、ソニーが質問する。
「その前に、この部屋の自動録音装置を停めていただけませんか」
と、王女が要求する。
「わかりました。さっそく停めましょう」
メイン社長は巨体を起こし、大きな執務デスクに向った。コンソールの操作スイッチに手を触れる。
「停止させましたが、これでよろしいですかな?」
王女は形のいい頭をかしげて、遠方の音に耳を澄ましてでもいるようだった。美しい金髪が輝いている。
「まだ録音が続いています。一台は停まったけれども、もう一台が動いています」
「そんなはずはないのですが......録音装置はこれで停止したはずです」
と、メイン社長が狼狽とともに不審を顔に表わした。
「いいえ、わたくしにはわかります。わかってしまうのです。録音はまだ続けられています。メイン社長、あなたがご存知ないだけのことかもしれません」
「私は聞いていないが、さっそく係の者を呼んで調べさせましょう」
メイン社長は当惑の表情を浮べて、会議室から足早に出て行った。超能力者たちは口を閉して、互いの顔に目を走らせていた。
「だから、白ん坊のやることは油断がならねえといってるんだ」
と、ソニーが勢いよくまくしたてた。
「いっとくが、おれはあのメインという白人野郎を絶対信用しねえからな。白豚はやっぱり白豚よ」
ソニーは、大立者メイン社長をさえ、ものともしていなかった。
「録音が停まったわ」
と、王女がいった。
「動かなくなった......だれが停めたのかしら?」
不審げに超知覚を働かせ、探っているようだった。
「なんのこったい」
と、ソニーがいった。サイボーグ戦士は超然として無表情のまま、小揺ぎもしなかった。丈は目を半眼にして座っていた。王女はなおも小首をかしげたなりだった。いかにも腑に落ちないという表情が顔に浮んでいた。
ややあって、メイン社長が部下を一人従えて戻ってきた時も、四者四様のポーズは崩れてはいなかった。
「さっそく調べさせましたが、予備の録音装置はセットしていないということなのですが、王女殿下」
と、メイン社長はいかにも当惑した口ぶりで報告した。部下はコンソールのパネルをはずし、大型のオープン・リール・テープレコーダーの点検にとりかかっていた。
「いいえ、そんなはずはありません。確かにこの部屋のレコーダーが停められた後も、もう一台のレコーダーがどこかで動き続けていました」
と、ルナ王女は丁寧だが、きっぱりとした口調で断言した。
「この部屋ではないかもしれません。しかしもう一系統のレコーダーが録音を続けていたのは間違いない事実なのです。わたくしにはそれがわかったのですから」
「しかし、王女様、そうおっしゃられても......」
メイン社長は困惑しきっていた。係員はパネルを元に戻し、視線を捉えたメイン社長に向けて頭を振った。
「録音機は停止させたので、更に録音が行われているというのは考えられません、王女様」
「あなたはご存知ないだけかもしれません、メイン社長。それでは遠視して、レコーダーのありかを探ってみます。マイクは、照明のブランケットに偽装して、合計五箇セットされているはずです。間違っていますか?」
係員が、メイン社長に向ってうなずいてみせた。
「その通りだそうです。マイクは確かに全部で五箇です」
「マイク・コードは壁の内部を通って、コンソールのミクシング装置につながれています。この部屋で人声をキャッチすると、テープレコーダーは自動的に作動して録音を開始し、人声が跡絶えると自動的に停止します」
「その通りです。よくご存知ですね」
と、メイン社長が愕きの響きをこめていった。
「今わかったのです。この部屋のレコーダーとは別に、ミクシング装置からコードがずっと延長されて、部屋の外へ出ています。それが予備というのか、もう一つのレコーダーに接続されているのです。この工事は秘密裡になされたようです。メイン社長がご存知なかったのはそのためでしょう」
「秘密の工事が......私はなにも聞いていないが......」
メイン社長はショックを受けたようだった。
「盗聴システムのための秘密工事です。間違いありません」
と、王女は冷静に指摘した。
「メイン社長、あなたの敵は、あなたの牙城にまで忍び込んでいるようですね。その者はあなたのとっている防諜システムを知り尽して、あなたを陥れようとしています」
「うかつだった......まさかと思っていました」
と、メイン社長は顔青ざめていった。
「社の保安部は信頼できると思っていたのですが、間違っていたようです」
「レコーダーの設置されている場所、あなたを裏切っている人物に関してわかったことは後ほどお教えしましょう」
「今、教えていただけませんかな? 打つ手が早いほど被害は小さくなります」
メイン社長はせっかちな気性を剝きだしにして頼んだ。
「あなたの敵は、あなたの身近にいる人間です。わりあい小柄で、メガネをかけており、東洋人のように見えます。日本人みたいな男です」
その場の全員が視線を丈に向けて走らせた。
「日本人のように見えますが、はっきりしたことはわかりません。彼は外見と内面の落差が非常に大きい、危険な人間です。よほど用心しなければ、足をすくわれることにもなりかねません」
王女は中空に瞳を向けながら、心に浮ぶままを口にしていた。
「驚きましたな。そんなことまでわかってしまうのですか?」
と、メイン社長がいった。
「今、あなたの心に浮んだ人物、彼が犯人です」
王女はうなずいた。
「彼は毒蛇のように危険です。あなたがこれまで気づかずに来たのはたいへんうかつでした。彼はあなたの寝首をかく準備を用意周到に重ねてきたのです。彼を放逐するのにも、細心の注意が必要です」
「彼は確かにそれをやれる立場にあります」
メイン社長が認めた。さすがにショックを隠せなかった。
「盗聴用のレコーダーは、こういう部屋にあります」
王女はその部屋の様子を描写した。監視用閉鎖回路TVのスクリーンがずらりと壁際に並んでいる部屋、大量の電子機器がランプ表示をともし、作動している大きな部屋だ。
「それは保安部だ」
メイン社長は更に衝撃を受けたようであった。
「保安部が、私を探っていたのか......」
わずかの間に、あれほど潑剌としていた精力的なメイン社長の顔に老いの翳が濃くなってきていた。
「いや、それにしても早く気がついてなによりでした。最少の被害でくいとめることができます。教えていただいたことにお礼申しあげる......」
メイン社長は気を取り直していった。レコーダーをいじっていた部下に耳打ちして部屋を去らせる。
「驚きました。そこまでおわかりになってしまうとは......たいへんなお力ですな。もし、保安部にこの種の〝力〟の持主がいれば、防諜問題では苦労しなくてすむのですが......」
「もう、ちゃんとそのように手を打っているではありませんか」
と、王女がいった。
「超能力者を使って、保安部を強化する。そのために、超能力者を集めていたのでしょう?」
「なんでもお見通しですな。実を申せばその通りです。みなさんにお引合せしようと思っていたのですが......」
「単なる〝力〟の持主は......無自覚の超能力者は危険な存在になりえますよ」
と、王女は警告をこめていった。
「世間の人々が思っているよりも、超能力者ははるかに多数に上るのです。けれども、ほとんどの場合、〝力〟は正常な用い方はされていません」
「おっしゃる通りです。私の集めた超能力者たちが、みなさんのお役に立てば幸いだと思っています」
メイン社長はおとなしく、王女の警告を受け容れた。いやに殊勝だが、本当にわかっているのか、と丈は疑問に思った。超能力者を防諜システムに組み込んで利用しようなどという発想には根本的にきなくさいものがあって、丈は好きになれなかった。
王女の碧い瞳がきらりときらめいて、丈の目を捉えた。丈の想念を読んだようだった。彼は王女の眼ざしに警告の色を読んだ。
「それは非常に大切なことですから、われわれは更に突っこんだ話しあいをする必要があります」
と、王女はやんわりといった。メイン社長が超能力者問題について、真の理解と見識を持っているかどうかは疑問だった。彼は企業家のせいなのかどうか、性急に実利を求める性癖を持っており、それが超能力者問題にも顔を出していると考えてもよさそうであった。
商人は戦争こそ金もうけの絶好の機会であることを知り尽している。メイン社長はその狡知によって肥えふとる商人以外の何者でもない、と丈は思った。彼は超能力者を利用して巨利を博することを企てているし、それは彼が個人的に好人物であることとなんの関りもない。あらゆるものを利して、金もうけを謀らむのは商人の本能だ。
もちろん、ルナ王女はメイン社長の魂胆を底の底まで熟知しているであろう。両者は相互に利用しあうことを暗黙の了解として、優雅にワルツを踊ろうとしているのだった。
再び、王女の瞳がきらりと光って、閃いてきた。彼女には丈の想念がわがことのようにわかるに違いなかった。これほど不公平なことはない。丈はガラス箱に入れられて、生態を観察されている昆虫になったような気がした。
超能力者は、〝力〟を持たない普通の人間にとって、好ましからざる者であるのかもしれない。これほど不公平感をあおりたてるものはあるまい。
世間一般の人間にしてみれば、心を透視する〝力〟を持つ者に己れの汚穢に満ちた魂の内部を覗きこまれるのは、恐怖と嫌悪の経験でしかないだろう。そんなことが可能なのは釈迦のような聖者かあるいは忌まわしい化物のどちらかなのではないか。
おれの心を読まないでくれ、と丈ですら抗議したい衝動に駆られるほどなのだ。
もし、超能力者が徳性と関りを持たない存在であれば、これほど恐ろしいものはなかった。ニーチェ流の奇矯な超人思想にとり憑かれ、超道徳性を主張するようになれば、その超能力者は明白に悪魔性に加担していくだろう。
ルナ王女の眼ざしは丈に気詰まりな緊張感をもたらし、彼は己れに〝力〟が顕現した時の奇怪な昂揚、魔的な自己の発揚にとり憑かれたことを思い出し、体が火照る気分に襲われた。あの〝力〟を得た夜、いかにのぼせきってばかげた妄想を展開させたかをいやでも思いださせられたからである。想起しただけで、体が恥のために燃えだしそうな気分になるのだった。
メイン社長はあわただしく王女ら超能力者たちのいる部屋を出たり入ったりしていた。巨大組織のオーナーというイメージにそぐわず、大きな体がこまめに動くのだった。スポーツマンの俊敏な身のこなしであった。
「なんだか知らねえが、せかせかした男だな、でかい図体してんのによ」
と、例によって、ソニーが遠慮のない鋭く的確な批評をくだした。
「あのおっさんは何をやらかそうってんだね? えらく忙しそうだがよ」
「大きな組織のボスになると、決断をくださなきゃならないことがいっぱいあるんだろう」
と、丈がいった。ソニーと話している時だけは気が楽だ。このこまっしゃくれた黒人幼児とは最初から理屈抜きで馬が合う。
「ボスというのは、ちょこまかするもんじゃねえよ」
ソニーは感心していなかった。
「あれじゃだめだ。ボスというのは眠ってたって手下がきりきり動くようじゃなきゃな」
「手下に裏切られるボスというのは、どこが悪いんだ?」
と、丈は試みに質問してみた。ソニー・リンクスは外見と内容の落差の大きい人間だとわかっている。五歳の黒人幼児の内部に、なにかしらとてつもないものが秘められているようだった。生れつき知識を備えている人間のことを天才と呼ぶのであれば、ソニーこそ天才の名にふさわしかった。
「手下にゴマスリ野郎ばかりを集めると、ボスはとろくなる」
と、ソニーは断定した。
「ちやほやされているうちに、人間の性根が甘くなるんだ。ほめそやされるのが嫌いな人間はいねえ。だれだってけなされるのは面白くねえ。こりゃ人間だから当り前だわな。だがよ、ボスがきびしい本当のことをいう手下を、近づけねえようになった時は、もうそのボスの先は長くねえわな」
ソニーの表現は単純なだけにおそろしく明快だった。だが、真実だ、と丈は思った。しかし、なぜ五歳の幼児がこんなことまで知っているのだろう。
「ボスがちょこまかして、なにもかも全部やろうとすれば、手下は動かなくなる。いや、ボスが見ている時だけ働くふりはするんだが、見てなきゃなまけるもんよ。手下どもがなにもしねえ方が得だと思ったら、組織はいくらボスががなりたてても動かなくなる。ボスには生れついての素質ってもんが要るんだ。このボスのためなら、なんでもやろうと手下に思わせなきゃだめだ。手抜きをするような手下を持ってるボスは元々だめな奴なんだ。ボスになる資格がねえのよ。
だから、ボスになるってのは、なかなかむずかしいものなんだ。みんなが自然に集まってきて、向うからボスをたてるようでねえとな。自分からボス面するような頭のとろい奴はだめだ」
「部下に裏切られるボスというのはどうなんだ?」
と、丈は尋ねた。はるか年下の幼児に教示を受けるという意識はなかった。
「ボスになりたがる手下はいくらでもいるからな......」
ソニーは考えこみながらいった。
「手下の裏切りは、組織が大きくても小さくてもある。ボスを蹴落して手前がボスになりかわろうとする手下がいることは、覚悟しとかなきゃならねえ......だけど、そいつをがっちり抑えるのもボスの実力ってもんよな。裏切りそうな手下には初めからちゃんと目をつけておくんだ」
「しかし、裏切りそうもない奴が裏切るかもしれない」
と、丈はしつこくいった。
「気をゆるした部下が裏切るケースの方が多いんじゃないのか?」
「手下に裏切られるってのは、ボスの宿命かもしれねえぞ」
ソニーは奇妙な甲高い声で笑った。王女は無表情な白い貌にちらりと翳を動かしてソニーを見やった。二人の会話を聞いているだけで、口を出そうとはしなかった。
「不断から、ゴマスリ野郎の手下にちやほやされて、頭がとろくなっているボスは、必ず手下に裏切られるだろうぜ。組織を自分できっちり締めておけなくなっているんだからな。ボスにとっていやなことは聞こうとしないし、目をそむけて受けつけなくなる。胸に一物ある手下が裏切ろうとするには、ちょうどいい。組織にはガタが来ているだろうからな。気がついた時には、手前の足下には大穴があいてる......後はまっさかさまに落ちるだけよ」
丈は恥しくなってきた。自分がこの年になるまでなにも考えず育ってきたことを痛感する。自分の目は節穴同然だ。平和な日本でのんべんだらりとして生きてきたからであろう。受験勉強をいかにしたところで、人間を見る目など決して育たない。人間が白痴的になまくらになるだけだ。
「ソニー......お前はきっといいボスになれるだろうな」
と、丈は素直にいった。以前のように劣等感のかたまりと化し、肩肘を張らないだけましだ。
「そうとも、おれはいいボスだったんだ」
と、ソニーは恬然として答えた。
「手下どもはみんな死んじまったけどよ。今度は超能力のある奴らを見つけてきて仕込んでやる。おれは生れつきのボスなんだ」
「どうやら、そうらしいな。僕はボスの素質などなんにもないらしいが......」
「そうだろうな。ボスを一度やってみないとはっきりはいえねえけどよ」
ソニーは無遠慮に丈を眺めながらいった。
「それには、お前が尊敬される人間でねえとな。こいつは簡単にはいかねえよ」
「その通りだ」
丈は笑いながらいった。
「まったく簡単にはいかないな。ソニー、君の指導者論は、拝聴するだけの値打があったよ」
「わからねえことがあったら、なんでもおれに聞きな」
ソニーはそっくりかえって偉そうにいった。
「丈、お前はなかなか見込みがあるぜ。頭もいいし、もったいぶらねえからな。おれのいう通りにしてりゃ間違いはねえ。きっとどんどん伸びる。超能力者の世界には、肌の色の違いは関係ねえ。生れも育ちも、なんの役にも立たねえんだ。本当の実力だけがものをいうんだ」
ソニーはわざとらしく、ルナ王女をじろじろ見ながらいった。
「こいつは公平でいいやな。〝力〟がなきゃボスの座は務まらねえからな。やりたい奴にやらしてみりゃいいのよ」
王女はなんの反応も示さなかった。丈とソニーの会話に無関心というわけではないにしても、コメントをさしひかえているのだった。おそらく他にもっと大事なことがあったのであろう。
しかし、丈は多少の疎外感を味わわずにはいられなかった。彼がなにを考えていようが、頭から問題にされていないような気がしていたからだ。
「プリンセス。わがままをいうようですが、僕は一度日本へ戻ろうと思います」
と、丈は意を決して、王女の注意を喚起することにした。
「東京でも、すでに〝幻魔〟は侵攻を開始していますし、一度襲われている姉や、肉親の身が心配でもあります。ここでいったん別れることをお許し下さい」
彼は固苦しくいった。あの〝幻魔〟ザメディとの死闘の際に経験した隔意のない一体感がまるで噓のようであった。超能力者の同志というよりは、高貴な身分の女性という感じがはるかに強い。まともに口をきくことすらはばかられるほどであった。
それはただ丈の劣等感のなせる業というよりは、王女がよそよそしく澄ましている印象のせいといえたであろう。冷やかな瞳をしていて、微笑すら見せないのだ。女ほど得体の知れぬ生物はない、と丈は思った。おそろしくむら気で、何を考えているのか想像もつかないのだ。
姉の三千子を除いて、全ての女は丈にとり不可解そのものであった。あれこれ臆測しているとはなはだしく気疲れする。
「その気持はわかります」
と、王女が答えた。しかし、丈の言葉に対する答であって、丈の心中の想念に対するそれではなかろう。テレパシストは優秀であるほどに、その種の混乱を生じやすいものである。
「あなたがお姉さんの身を案ずる気持はもっともだと思いますけれども、もう少し待って下さい」
「しかし、王女。僕がここにいてもお役にはたてません。ミスタ・メインの庇護を受けることも、大きな負担です。僕の性には合わないようです......お許しいただけるならば、東京へ戻って、休養をとり、体調を整えたいと思うのですが。〝幻魔〟が東京で暴れだすことを案じているのでは、居ても立ってもいられなくなります」
「もちろん、必要もないのに、ニューヨークへ留まるようにいっているわけではありません。丈、あなたの存在が今ここで重要になっているからです。わたくしにもう少し時間を下さい......その後、わたくしもベガも、あなたといっしょに東京へ行くつもりです。これは約束します。ですから、もう少しだけ待って下さい」
王女は真面目に丈を説得した。どうにも反論するすべが見当らなかった。王女はお高いかもしれないが、生真面目であることは疑問の余地がなかった。
「王女も、東京へ行かれるのですか?」
「ええ、行きます。丈、あなたのお姉さんに逢ってみたいからです」
どうして、という丈の言外の疑問を読み取って王女は答えた。
「姉にですか? どうして姉に......?」
「なぜか逢ってみたいのです。逢わなければならないという気がするのです。きっと、その必要があるからでしょう」
王女の行動原理は必ずしも、論理的整合性を必要としないのだ、と丈は思った。潜在意識の奥には深い理由があるにしても、その時は意識の表面には登ってこないことが少くない。後になって納得がいくことになる。
それゆえ、王女は自身の直感を大事にしているのだった。それは予知能力と不可分に結びあっていることは確かなのだ。
「姉も王女にお逢いしたいといっていました」
と、丈はいった。王女の目がきらりと光って丈を見詰めた。
「長くは待たせないつもりです」
と、王女はいい、その問題にけりをつけてしまった。
10
その後、メイン社長は、数十名の〝超能力者〟を連れてきて、王女たちと引合せた。
いずれも平凡な感じの老若男女で、丈は強い印象を受けなかった。彼らは緊張しており、自分たちが何を試されているか知っているようだったが、希薄な印象と同様に、その持てる〝力〟も弱々しくかぼそかった。
王女たちに比較すれば、陽光の下の燭光というほどの圧倒的な〝力〟のレベルの相違があったのだ。
有名な大学の超心理学研究所で、その持てる超能力を証明されたという触れこみの人物が多かった。しかし、とるに足りない微弱な連中だ。サイコロの目を的中させたり、カードを読んだりする程度では、まったくものの役に立ちはしない。本物の超能力者なら、決して辛気くさく味気ない実験動物の身分に甘んじたりはしないだろう、と丈は思った。
メイン社長は、王女を初めとする超能力者たちの反響があまりにも乏しいので、期待はずれを味わうと同時に戸惑ったようでもあった。
ろくに社交的な会話すら交わされなかったからであった。実際、話をしたところで、得るものはなにもないことは明らかであった。超心理学研究所で、世にもお寒い実験と称するお遊びを百年一日のように繰り返してきただけの人間たちだったからである。
ゼナー・カードをいくら睨んでいたところで、超能力の開発など決して行なわれない。それだけは確かなことであった。
メイン社長は、両グループの間を取り持とうとして、一人で喋りまくった。しかし、両グループの間に存在する懸隔はあまりにも大きすぎて、彼の饒舌もそれを埋めることはできなかった。
カクテル・パーティー形式の交歓会が用意されたが、メイン社長の意図に反して、雰囲気はさっぱり盛りあがらなかった。王女たちのグループに敢えて話しかけてくる人間は一人もいなかったからである。顔見知りの仲間内でひそひそと密語を交わしており、メイン社長だけが精力的な笑い声をもって空まわりを続けていた。
丈は一人孤立して立ち、皮肉っぽく黒い瞳をきらめかせて、パーティーの人々を観察していた。超能力者として紹介された中で、興味を持てそうな人間は皆無だった。いずれも品性卑しく、メイン社長の厖大な資力にしか関心のない人々に思えた。丈程度の精神感応でも、その辺が読み取れるのだから、王女にとっては無意味な時間の浪費でしかないだろうという気がした。
しかし、王女がその美しい頭の中でめぐらせている考えは、丈の想像力に余るものがあった。一人で沈黙している時の王女はただひたすら美しく神秘的で、どこかしら人間ばなれしているところさえあったのだ。
周囲を見まわしている丈に目星をつけたのか、他の超能力者グループの一人がさりげなく近寄ってきた。狐のように品性卑しく、狡るそうな印象をもたらす男であった。様子を窺いに来たのだということが、丈にさえも一目で読みとれた。
丈を与し易しと睨んだのだろう。男は愛想笑いを満面にたたえて接近してきた。
安物の背広を、瘦せた貧相な体に貼りつけたような人物であった。見るからにいかがわしかった。
「やあ、元気かね」
と、男は狎れなれしく話しかけてきた。
「やあ」
と、丈は当らずさわらずの意味をこめて答えた。相手の発している波動で、なにをもくろんでいるかおおよその見当がつきそうな感じがするのだ。やはりこれも超常感覚のせいであろう。以前にはなかったことである。微弱とはいえども、精神感応が働いているせいか、勘がひどく鋭敏になっている。
「とても元気そうじゃないか。だいぶ参ってしまって、絶対安静だったそうだが」
男はきょときょとした落着きのない目で丈を窺いながら、探るようなもののいい方をした。率直さや素直さには縁がないのだった。
陰険さ、品性の低さを感じさせるのは、その心に居座った不抜の猜疑心にある、と丈にはわかった。常に相手を疑り、術策を弄して相手の真意を探りだそうという習性が身についているからであった。
「そんなことを、よく知ってますね」
「なにをいうんだね、だれだって知っているさ。君は史上最高のPK能力者だってことはね、サムライ・ボーイ」
と、男は露骨なおもねりを発揮してすり寄ってきた。さまざまな意味でいかがわしい人物であることは間違いなかった。
「君は山脈をあとかたもなく崩してしまうほどの力を持っているそうじゃないか。それは本当かね?」
「だれがそんなことをいっているんですか? まさかメイン社長じゃないでしょうね?」
丈はパーティーの席上にメイン社長の巨体を捜した。
「だれだって知っていることさ」
男はごまかそうとしたが、丈にはもうその必要はなかった。メイン社長は嬉しがり屋で口が軽い人物なのだ。王女たち超能力者グループの後援を引受けたことを、だれかれ構わず喋っているに違いなかった。
「一つ、君の〝力〟を是非とも見せてもらいたいものだね、サムライ・ボーイ」
大仰な表現にもかかわらず、男が丈らの力を過小評価し、高をくくっていることは明らかであった。いわゆる〝超能力者〟と総称される人間にはイカサマ師ペテン師が多い。
丈のことも、その例に漏れず、大富豪の好事家メイン社長に対して、売り込みに成功したイカサマ師の同業者だと考えているのだった。
できれば丈をひっかけて笑いものにしてやろうという底意が、青白い陰火のように男の心の奥底で燃えていた。愛想のいい振舞いで、嫉妬に満ちた悪意を陰蔽しているのである。
「病後なので、かんべんして下さい」
と、丈はあっさりと断わった。当の男だけではない。パーティーの席は陰気な敵意で充満している。王女たちグループがメイン社長にうまく売り込みに成功したという嫉妬妄想であった。
「君は凄い力の持主だったというが、病気をしてまるで〝力〟がなくなってしまったそうだが、それは本当かね?」
用心した方がいい、となにものかが丈にこっそりささやいたようだった。丈は警戒心をかきたてて、改めて男の気味の悪い目の奥を覗きこんだ。
「どうですかね......まだ試していないもので。ついさっき、病室のベッドから降りてきたばかりなのです」
丈はさりげなくはぐらかした。相手の男は丈を陥れようとしていることがわかったからだ。メイン社長に取り入って禄を食むのがそもそもの目的なのだから、他の超能力者は全て蹴落すべきライバルなのだった。
丈にとっては失望以外のなにものでもなかった。他人の心の動きが明瞭にわかるようになったことは、丈に少しも喜びをもたらさなかった。どちらかといえば気が滅入る。
「そういうと、あんたの〝力〟はなくなってしまったかもしれないわけだ!」
と、男は大仰にいった。内心では期待にうずうずしているのだ。
「メイン社長がそれを聞いたら、さぞかし嘆くことだろう! 史上最大のPK能力者の君が、こともあろうにその〝力〟を全て失くしてしまったとは!」
「まだ試していないといっただけです」
丈はいったが、相手は耳も貸さなかった。丈の周囲には他グループの〝超能力者〟たちが集まってきた。男は大声で喧伝し始めたからだった。
いずれもいけ好かない顔をした連中だった。メイン社長の財力にたかってくる糞蠅みたいなイカサマ師どもだ。口舌とハッタリは達者だが、肝心の〝力〟はなにも持っていない。いかにもありそうに見せかけている手品師が多い。〝力〟があったとしても、そんなものはとるに足りなかった。王女が無視し、黙殺するのは当然である。
「〝力〟をなくしてしまったとは、気の毒に......」
と〝超能力者〟の一人がわざとらしい嘆声を漏らした。
「この種の〝力〟は突如、離れてしまうことがあるもんだ。それが還ってくるのかどうか、還ってくるとすれば、いつなのか、神様だけがご存知だ」
「一度失った〝力〟を取り戻すには、たいへんな努力が必要だ。私の知りあいの超能力者は、ある夜いきなり〝力〟が離れてしまってね。取り戻すのに三年かかったよ」
いずれも冴えない安物の服を着た連中が丈の周囲を取りかこみ、声高に喋りたてていた。
「〝力〟を失くしたり、取り戻したりということはよくあるのですか?」
丈はついつり込まれて質問した。
「もちろんさ! そんなことも知らんのかね? 霊能力は本人の意志にかかわりなく、ついたりはなれたりするもんだ」
〝超能力者〟の一人が丈の無知に呆れたようにいった。
「自分の意志ではどうにもならないんだ」
「急にはなれていったきり、死ぬまで戻ってこないこともある」
「人生のある時期、強くなったり弱くなったりすることがある。なぜそうなるのか、だれにもわからない。超能力というのは、おそろしく気まぐれなものさ。ある朝起きて、〝力〟がものすごく強まっていたのに、いざ人前に出て、披露してみせようとすると、あとかたもなくなっていることがある。冷汗ものだよ、まったく。〝力〟をいつも完全にコントロールできる超能力者がいるとは信じられんね」
超能力者たちは口々に喋りたてた。丈の志気を殺ぎ、自信を喪失させるべく、躍起になっているようだった。
「〝力〟を失わさせる最大の要因は、自己の欲望だね」
と〝超能力者〟の一人がしたり顔でいった。
「全ての物質的な欲望は〝力〟を弱めてしまう。特に〝力〟を金もうけに使おうとするとだめだ。たちまち〝力〟の源泉に見捨てられてしまう。これはどんな超能力者にも同じことがいえる。エドガー・ケーシーだって、他人のために石油を見つけてやることはできたが、自分が石油会社を作り、油層を掘り当てようとした時は、完全に見はなされてしまった」
「〝力〟を己れの欲望を満たすことだけに用いようとすれば、必ず〝力〟に見はなされる。それは〝力〟が元来、神様のものだからだよ」
偉そうなことを口にする相手は、まるっきり神など信じていそうもなかった。
「〝力〟は神の意に沿って使わなければならないものなんだ。自我に基き、自己の欲望を満たすために使うことは許されていない。〝力〟を悪用しようと試みる者は、己れの〝力〟によって復讐される......」
「悪魔の〝力〟を借りている超能力者もいる。我欲にこりかたまり魂の汚れきった人間には悪魔が助力するんだ。悪魔の貸す〝力〟は無気味で恐ろしい。人間を傷つけたり、殺したりすることができる。そのためには生贄を悪魔にささげ、悪魔と盟約を結ばなければならないがね」
狂信的な目を光らせて〝超能力者〟の一人がいった。丈をうんざりさせる連中ぞろいだった。いずれも知性に欠け、いうことは紋切り形か、さもなければ神がかっていると思えた。
「悪魔の助力を得た超能力者は恐ろしい〝力〟を振るう。暴力的で破壊的な〝力〟だ......その凶暴な〝力〟は、本人の意志によるコントロールをさえ受けつけなくなることがある......知らないうちに、家中をめちゃめちゃに破壊したりしてしまう。そうなれば、その者の〝力〟は狂った化物と変りがなくなる......」
丈の〝力〟への当てこすりが感じられた。後から出現して大スポンサーのメイン社長の寵を独占した王女グループへの反感が隠しきれないのだった。王女グループに追い落される危惧は無理もない心情だったかもしれないが、丈はその志のなさ、低劣さにげんなりさせられた。
「破壊的な〝力〟は全て邪悪なもので、神の寵を得られないものだよ」
と、狂信的な目付をした〝超能力者〟が押しの強い口調でいった。
「魔王から〝力〟を借りているのだ」
「そうですか。では、預言者たちやモーゼはどうですか?」
と、丈は腹の虫を抑えきれずにいい返した。
「モーゼだって火の雨を降らせたり、イナゴや毒虫の大群を出現させたり、ずいぶん乱暴な奇蹟を現わしたと旧約聖書に書かれているじゃないですか。それも悪魔の〝力〟を借りてやったことですか?」
狂信者は反論に応ずることができず、黙ってしまった。しかし、丈の周囲に集まった〝超能力者〟たちは、丈の反撃にますます敵意を強めたようだった。煩わしくもあり、面倒でもあったが、さりとて逃げだすわけにもいかなかった。
「そんなことより、あんたの失った〝力〟が回復するかどうかが問題だな。そうじゃないか、サムライ・ボーイ」
と、最初に寄って来た狐じみた男がいった。おためごかしだということは見え透いている。丈の不安定な状態につけこんで揺さぶりをかけ、自信を喪失させるのが目的なのだとわかっていた。
どんな世界でも同じことだろう。いかにも親しげに、同情深くよそおって接近する、心に害意を秘めた、毒蛇みたいな存在はどこにもいる。丈は高校野球部で入部したてのころ、上級生に同じ手を使われたことを思いだした。いかにも親切げに忠言めいた言葉を吐いては、フォームを崩させ、調子を狂わせるのだ。
後でそれと気づいた時にはもう遅い。相手の卑劣さに切歯扼腕するだけだ。他人の善意を素直に信じた己れの馬鹿さ加減を呪い、不信と猜疑の目でこれからは他人を見ようと決心するのだ。この手の親切ごかしの卑劣漢ほど嫌悪すべき存在はなかった。
「ご心配いただいてありがとう。だが、大丈夫ですよ。僕の〝力〟はそう簡単には失くなりませんから」
丈は必要以上に強い調子でいった。
「たいした自信だ。その自信なら心配いらんだろう」
丈の不安を見抜いている相手がわざとらしく、卑しげな笑声をたてる。
「だが、論より証拠だ。〝力〟が本当に回復したかどうか試してみたらどうかね?」
「え......今ですか?」
丈は躊躇した。うまく相手に釣りだされ、乗せられたことに気付く。
「そうさ。自信があるのなら、遠慮はいらんだろう。さあ、やってみるといい......どうした?」
「............」
「怖いのか、サムライ・ボーイ。それとも、〝力〟を失くしてしまったのを、みんなに知られたくないのか? どうなんだ?」
狐じみた男が、巧みに丈を挑発し、追い詰めて行く。
「さあ、どうした、サムライ・ボーイ! 遠慮するな、君の素晴らしい〝力〟を発揮してみろ。みんなが見ているぞ! 思いきりやってみろよ!」
パーティーの席上の全員が、丈に注視を浴びせていた。王女が冷やかな碧い瞳で眺めている。丈の挑発に乗った愚かしさを非難しているようだった。
丈はかっと全身が熱くなり、ついで冷感の虜になった。王女の救援を求めることはできない。これは彼自身の問題なのだ。彼自ら解決しなければならない。
恐怖と不安が冷水の感触で胸中に充満した。もし彼らがいったように〝力〟を失ったまま回復していなかったら......
丈はようやく悟った。体力を回復したにもかかわらず、〝力〟を試す気にならず、ずるずる引き延ばしていたのは、喪失の不安のゆえだったのだ。〝力〟が彼を見捨て、永久にはなれてしまったのではないかと怖れていたのだ。
狐のような男は、丈の心中を完全に見抜いており、彼を陥れることに成功したのである。
「やったれよ、ブラザー!」
と、ソニー・リンクスが叫んだ。黒人幼児の黄金の目は炎のようにぎらぎら輝いていた。
「こいつらイカサマ師どもに、お前の凄い力をぶっくらわせてやんな! 奴らのチンケな力とはわけが違うってことをよ、みんなに見せてやるんだ!」
「そうだ、丈君。君の驚異的なパワーを諸君にお目にかけたまえ」
と、メイン社長が勢いこんでいった。素晴らしい見せ場ができたことを喜んでいた。
「うんと派手な奴を見せてくれたまえ!」
メイン社長が人がいいだけの奇蹟愛好者でしかないことは明白だった。大サーカスを見物するのと同じで、そこには深遠なものはなにも求められていないのだ。メイン社長にとって、王女たちはただ単に目先の変ったサーカス芸人でしかないのかもしれなかった。
「なにをぐずぐずしているんだ! さあやってみせてくれ!」
「メイン社長がああおっしゃっているんだ、なにも遠慮することなどないんだぞ!」
「どうした? やってみせようにも、手品の種を見破られるのが怖いんだろう!」
「お前には〝力〟などなにもありゃせんのだ! このペテン師めが!」
丈を包囲した連中の口から、嘲罵の声が投げつけられた。
「ペテン師! イカサマ師!」
丈の顔に汗が流れた。体が自分のものでないように遠く、頼りなく感じられた。
「この子供にはなんの〝力〟もありゃせんのだ!」
と、狐面の〝超能力者〟が大声でアッピールした。
「つまるところ、我々はみんないっぱい喰わされたんだ! 大げさな触れこみだったが、まったくお笑い草さ! この黄色い子供には、マッチ棒一本動かすほどのPKもありゃせんのだ!」
狐面は高々と指につまんだマッチ棒をさしあげてみせた。
「さあ。もしお前の〝力〟がほんのわずかにでも本物だというんなら、このマッチ棒を動かしてみろ!」
〝超能力者〟たちは大声で笑った。
「できるか? できゃせんだろう! お前にはそんな〝力〟は元々ないからさ!」
「なぜ、やらないのだ、丈?」
と、メイン社長が尋ねた。
「君には簡単なことだろう。君の〝力〟がもし本物なら、造作もないはずだ。君はもう充分回復しているのだから!」
メイン社長の声音に疑いを感じとって、丈は目の中まで赤くなるような恥辱に灼かれた。
「僕の〝力〟は見せ物ではない!」
丈は歯の奥から押し出すようにいった。その声は低く、緊張し、しわがれていた。
「パーティーの余興に見せる芸当ではないんだ!」
「でたらめをいうな! イカサマ師の小僧め! お前にはそんな力はひとかけらだってありゃせんのだ!」
狐面が勝ち誇ってどなった。みごとに丈を追い込み、罠にはめたことで歓喜していた。
「ペテン師めが! イカサマ師! インチキ野郎!」
狐面が嘲弄をこめて、指につまんだマッチ棒を丈の顔に向けて弾きとばした。
天井からさがった巨大なシャンデリヤが揺れだした。
ぎょっとする沈黙につづいて、けたたましい悲鳴と叫喚があがった。床がぐらっと突きあげられ、盛りあがったようだった。
巨浪にもてあそばれる豪華客船さながらに、パーティー会場は激動に見舞われた。化粧石を貼った壁や天井に、異音とともに凄まじい亀裂がみるみる走り、細かい破片が右往左往する人間たちの頭上に降り注ぐ。
巨大地震の凶々しい轟音、地鳴りが湧き起こるようであった。超高層ビルは凄まじくきしみながら、大きく揺動している。超高層ビルの恐ろしい倒壊が生じようとしていることをその場の全員が予感せずにはいられなかった。
「やめろ! やめろ! やめてくれ! もう沢山だ!」
だれかが金切声で絶叫していた。それがメイン社長のものであるかどうかはわからない。激動の中で阿鼻叫喚が交錯し、照明があわただしく明滅をくり返していたからだ。人々は床の揺動につれて酔漢のようによろめき、床に這い、床上を滑るテーブルにしがみつき、声を限りに悲鳴をあげ、恥も外聞もなく救いを求めていた。
超高層ビルを襲った地震は、何時間も続いたようだった。地震に慣れていない北米人にとっては、生地獄の恐怖だったことは間違いない。
実際には五分間ほどだったであろうが、逃げ場のない超高層ビルの三十階に閉じこめられた人間たちにとっては、永劫の責め苦に等しかったであろう。
揺動がようやくおさまった時、四這いになって床にしがみつき、発狂の恐怖にさいなまれていた人間たちは、われ先にパーティー会場から消え去ってしまった。死物狂いで超高層ビルを逃げだそうとして、エレベーターの前で先を争い、摑みあっているのであろう。
ホールに残っていたのは、ルナ王女を初めとするグループの面々に、茫然自失のメイン社長だけというていたらくであった。床はテーブルが倒れて横転し、料理や皿、食器類がぶちまけられ、凄まじい惨状だ。大広間の広い壁を飾るみごとな砂岩タイルが剝落して、散乱している。
天災が生じたとしか思えない狼藉ぶりであった。
「これだけやれば気がすんだでしょう」
と、王女がクールな声音で丈に向っていった。眉をしかめていた。不快をかくせない表情だった。
丈はメイン社長に劣らず茫然としていた。何事が起こったかよくわからないという顔をしていた。

「派手にやったじゃねえか、ざまあみろい」
ソニーだけが快哉を叫んでいた。腹を抱え、顔を煉瓦みたいに赤黒く染めて笑っている。阿鼻叫喚の最中もずっと笑い転げていたのであろう。
「奴ら、ぶっとびやがったぜ! 今ごろエレベーターにぎゅう詰めになって小便を漏らしてらあ! ふざけやがって、ざまあみろってんだ!」
笑い転げて声も出なくなり、ソニーはきゅうきゅうと喉を鳴らし、膝を平手で叩いていた。
「さぞかし、楽しかったでしょうね、丈」
と、王女がいった。おかしがっている顔ではないのだから、そのいおうとするところは明白だった。
「物凄いPKだ......私はこんなに驚いたことはないよ」
ようやくメイン社長が息も切れぎれにいった。ろくに声も出ないありさまだった。
「このビルを倒壊させるまでは止めないのかと思ったよ」
「すみません......そんなつもりはなかったんです」
丈は表現に苦しみながら、あまり上手でない英語と闘った。
「ぼんやりしていたんです。自分の〝力〟が回復しているかどうか、確信が持てなかったし......どうしていいかわからなかった。するとあれが起こったんです」
「自分がなにをやったか、気がつかなかったというのかね?」
メイン社長が不審そうに反問した。
「そうです......わざとやったわけではないんです」
「彼は無意識のうちにサイコキネシスを振るったようだといっているのです」
と、王女がメイン社長に向っていった。
「ビルを破壊し、人々を恐慌に陥れ、パーティーをめちゃめちゃにする気はなかったと弁解しているのですわ、メイン社長」
「おお、そんなことは一向に構わない! 気にする必要はない!」
メイン社長は大仰に両手を拡げ、感嘆を表現した。
「これだけの壮絶なPKを見せてもらうためなら、ビルの一つや二つ倒したって構わない! まさにモーゼの奇蹟に匹敵する、すばらしい〝力〟を見せてもらい、私はおおいに満足しているよ、サムライ・ボーイ!」
「ただの地震かもしれないし、ポルターガイスト現象かもしれないと丈は考えています。彼は自分の振るった〝力〟であるかどうか、確信がないのです」
と、王女がいった。
「地震だって!? こんなにうまくタイミングの合った地震なんかあるものじゃない。それにここはマンハッタン島だよ。巨大で堅牢な岩盤の上に載っているのだ。地震など起きはしないよ。それに、ポルターガイストにはビルを地震のように揺する〝力〟はありはせんさ。間違いなく、全ては君のPKが起こした現象なんだ、サムライ・ボーイ! 君はりっぱに回復した。もっと自信を持ちたまえ!」
メイン社長は顔を真赤にして興奮の態であった。丈はしかし、感銘を受けた風でもなく、気遣わしげな面持をしていた。王女の不機嫌さが気になっていた。丈に対してなにやら含むところがあるのかと思ったが、そうでもないようであった。
澄みきった碧い瞳がとりすました冷静さで丈をじっと見詰めている。それを意識すると、とたんに落着きを失ってしまうのだった。お世辞にも、優れたテレパシストとはいえない丈には、王女の意識を読むことは困難をきわめた。
王女は故意に意識に遮蔽をかけて、心を読まれないようにすることさえ可能なのかもしれなかった。
今も王女の表情は不快の色をかくさないが、それがほんものであるかどうか、丈には識別できなかった。なにかしら異和感がつきまとうのである。
「申しわけありませんでした、王女殿下」
と、丈は意を決していった。
「決して意識してやったわけではありません......不愉快でなかったとはいえませんが、報復のために〝力〟を使ったつもりはないんです。〝力〟を試すことさえ不安で居たたまれない思いでしたから......僕自身、なにが起こったのか、さっぱりわかりませんでした」
「あなたは、しばしば爆発的な〝力〟を行使する癖がありますね、丈」
と、王女はいった。
「わたくしが思うに、あなたは火薬庫の前を、くわえタバコで歩きまわっている番人に似ています。巨大な力をまかせられるにしては、かるはずみで不注意なところが多くあるようです......この先あなたが大きなミスを犯すことにならなければよいのですが」
「気にすることはねえぜ、ブラザー!」
と、ソニーが強くいった。王女の言葉に反撥しているのだった。
「あん畜生めら、ぶっとばしちまえばよかったんだ! どいつもこいつも、なんの〝力〟も持っていねえペテン師どもじゃねえか。そいつらがよ、こともあろうにおめえのことをイカサマ呼ばわりしやがって! よっぽどおいらがぶっ飛ばしてやろうかと思ったぜ。どうだい、意気地のねえこと! 命からがらずらかっちまったじゃねえか!」
「巨大な〝力〟を持てるものは、それだけ大きな責任を負っているということです」
と、王女がソニーの反撥には取りあわずにいった。
「丈の〝力〟の源泉にはなにかしら不可解なところがあります。今のうちに丈が完全にコントロールするすべを身につけなければ、それは多くの人々によって誤解される羽目にもなりかねません。〝邪悪な力〟として非難されることにもなるでしょう。丈のような巨大な〝力〟の持主は、いかに慎重になってもなりすぎるということはないのです」
「おっしゃる通り、気をつけることにします」
丈は少くとも表面的には反撥しなかった。むっとしたり、ふてくされた態度を顔に出すことはしない。それよりも王女の水のような冷静さがなぜか気にかかっていた。ルナ王女は本来、感情的な女性であるはずなのだ。腹を立てる時には、怒りを隠すことなく、直截に表わすであろう。なにぶんお姫さま育ちなのだから、その方がナチュラルだ。
そのルナ王女が、なぜこんなにクールに振舞っているのか、丈には得心がいかないのだった。胸を重苦しく締めつけるものがあり、それを検証してみると、わけのわからない不安であることを丈は知った。それは王女の一身に関する不安であり、今の丈には分析しようがなかった。王女の心は、彼にとり永久に不可解であり続けるだろうからだ。
救いを求めるように、ベガに目を投げたが、無口なサイボーグ戦士の怪異な顔は無表情に静まり返っていた。その顔は感情の表出を拒否していた。だが、丈を賞讃もしないかわりに責めてもいないらしいのが、わずかな救いだった。
「おお、本当に何も気にする必要はないのに!」
と、メイン社長だけが懸命にいった。
「確かにモーゼの奇蹟にも比肩される偉大な力だ! 丈、おそらく君は、人類始まって以来の大PK者に違いない!」
彼は王女たちグループを、全力挙げてバックアップすることを熱烈に約束した。他の超能力者グループとは全て縁を切ってしまうといった。
丈にはなんの興味もなかったが、メイン社長はそうした宣言が王女グループを喜ばせると思えたのであろう。超能力者たちはメイン社長に取り入るべく売り込みと自己宣伝の限りを尽したに違いなかった。
「ところで、私は〝クェーサー〟の基金で〝超能力研究所〟を開設する計画を持っているのだが......」
と、彼はいった。次から次にアイデアを速射する性癖があるのだ。もはや売り込み競争に敗れ去った多数の〝超能力者〟には一片の関心も留めてはいなかった。気分転換が速く楽天的な性格なので、失敗に終ったパーティーのことなぞ気にもかけていないのだ。
「Psi研究所の責任者の人選に頭を悩ましているところです。そこで是非とも王女殿下の御助言を得たいと思うのですが......この写真の人物などいかがでしょうかな? 高名な超心理学者で、ドクター・レオナード・タイガーマンという男ですが」
メイン社長は手にした大判の封筒から、写真を引っぱりだして、王女たちの目にさらし、助言を仰ぎにかかった。
実にどぎつい精力的な風貌の男が写真にうつっていた。どうみても科学者の品位とは縁もゆかりもない。押しの強いどすの効いた顔に、灰色の目が酷薄だった。ギャングの親分といっても通用するし、えげつないことでは天下一品の、配管工あがりの労働組合のボスといってもなんら不思議はない。
興味深いのは、太い鼻梁と、酷薄な大きく薄い口がいかにも牙を剝きそうな感じをかもしだしており、その異相が虎を連想させることで、全員一致の答申を出すであろうということだった。
動物を連想させる人間はいくらもいるが、これほど名を体現している例も珍しいであろう。虎男とはそのものずばりである。
更に興味深いといえるのは、その虎男の邪悪さを漂わせる異相が、王女を初めとする一同に奇妙な既視感をもたらしたことだった。期せずして全員が同じ印象を受けたのだ。
この虎男とどこかで顔を合わせたことがある......それはいわれのない不合理な確信であった。
メイン社長は、虎男の売り込みに多少なりとも心を動かされているようだった。さもなければ、王女の助言を仰ごうとはしなかったに違いない。
一度遭ったが、なかなか迫力のある人物だった、とメイン社長はいった。さぞかし、ハッタリのきいた押しの強い男に違いない、と丈は想像した。その写真の酷薄な目には催眠術師の光があるようだった。
きわめて感じの悪い人間であり、できれば顔をそむけていたいタイプのいやな奴であることが確信できた。不穏な気分に支配されている時であれば、大通りの対岸にいても喧嘩になるかもしれないのだ。
「写真だけお目にかけて、意見を尋くというのも乱暴な話ですが、いかが思われますか?」
と、メイン社長が王女の見解を求めた。
「この人物に関して、いかなる印象を受けたか、率直にいっていただけませんか?」
「............」
王女は沈黙していた。メイン社長を居心地悪くさせるに足るだけの意味をもった沈黙であった。
「いや、馬鹿なことを申しあげました。私としたことが、こともあろうに、王女殿下に向って愚かな真似を......やはり本人とお引合せした上で、ご意見を拝聴するべきでした」
と、彼は気まり悪げにいった。
「その必要はありません」
王女がようやく答えた。
「写真を見ただけで充分にわかりました。けれども、ノーコメントというのがわたくしの正直な気持です、彼を批評しただけで、口が穢れます」
メイン社長は啞然とした顔で、王女のクールな顔を見詰めた。王女がこれほど激しいとは思わなかったのであろう。丈もメイン社長に同感だった。身も蓋もないほどはっきりしている。
「そうですか......それほどのひどさとは想像もつきませんでした」
と、メイン社長はようやくいった。
「検討の余地がないというわけですな」
「わたくしでしたら、この男を十キロ以内に近づけません」
王女はきっぱりといった。
「魂が悪臭を放っています。写真を見ただけで、腐臭が鼻についてしまって、気分が悪くなりました」
「いや......実はお会いいただこうと思って、別室に待たしてあったのですが......そういうことであれば、急いで引き取らせます」
社長はようやく苦笑らしき表情を顔に押しあげた。
「なぜ、この男をパーティーに出席させなかったのですか?」
王女が尋ねた。もはや虎男にはなんの関心もないが、メイン社長の心理には興味があるという口ぶりであった。
「なにか問題を起こしかねないと思いましたので......出席させないほうがよいという気がしたのです。これはひょっとすると予知能力のうちかもしれませんな」
と、メイン社長は正直に答えた。
「おっしゃる通りです」
王女があっさりという。
「わたくしなら、少なくともこの男との間に最低十キロメーターの距離を置きます。いやな臭気をかがずにすむように......」
「そういえば、彼は臭い」
と、メイン社長がいった。
「そばに寄られると、いやな臭気がします。殿下のおっしゃる通りだ」
「わたくしは、彼の魂の放っている悪臭のことをいったのです。しかしいずれにしても不潔で不浄な人物であることは間違いありません」
「そうではないかと私も思っておりましたよ」
と、社長は臆面もなく抜けぬけといった。いうまでもなく、大企業のオーナーを務めるだけあって、メイン社長は決して無能な人物ではない。〝超能力産業〟を狙うところなど、企業家としてはむしろ天才肌といえるであろう。それだけに合せ持っている凡庸さが目立つということもあるのかもしれなかった。
「それでもなおわたくしに鑑定させようとしたのですか?」
と、王女が儀礼的な微笑を浮べた。
「正直に申しあげると、その通りです。殿下が彼をどのように批評なさるか知りたかったわけです。非礼の段は平にご容赦ください。タイガーマンは今後一切近づけないことにしましょう。私も大変さっぱりしましたよ」
メイン社長は晴ればれとした顔で笑った。
「実を申せば、タイガーマンは非常に悪評の多い要注意人物なのです。事実、幾度も告訴されたことがあります......有罪となって刑務所へ入れられたとしても不思議はないのですが、悪運強くその都度逃げおおせています。軍の諜報部や中央情報局にも睨まれている札付きの人物です。しかし、昔から魔術師や魔法道士は、霊力の強い人物ほど悪評さくさくなもので......サンジェルマンやカリョストロ、ラスプーチンの例もあることですから、一応、王女殿下に評価していただこうと思ったわけでして」
「彼には真の〝力〟などひとかけらもありません」
王女はきっぱりといった。
「彼を近づけぬようお勧めします。それは大きな災厄と同じです。彼は災厄そのものではありませんが、災厄をキャッチする高感度のアンテナのようなものです。それはあなたの身に降りかかってくるのですよ、メイン社長。彼を身近に置いただけで、精神的肉体的な異変が生じてくるはずです。体力気力の衰えている人間にとっては、大きな被害が生じてくるでしょう」
「その通りです、王女殿下。タイガーマンと会って話をしていると、数分と経たないうちに頭痛がしてくるのですよ」
と、メイン社長が愕きをこめていった。王女の示唆を受けるまでは、はっきりしていなかったことが、にわかに明瞭に意識化されてきたようであった。
「彼と会うのは楽しい経験ではありませんでしたね。王女殿下の今のお言葉で、やっとその理由が吞みこめましたが......」
「Psi研究所よりも、はるかに必要性があるのは、超能力養成のカリキュラムでしょう」
と、王女がいった。
「それと有能な指導員です。それも単なる技能面だけの指導では著しく不充分といえます。これは全人類的規模の問題ですから、姑息な方法で速成することはできません」
「それはもちろん承知しております、王女殿下。殿下がいつも強調されるように、超能力開発における道徳性についても、充分考慮を払っていく必要は感じています。超能力開発で、悪質な〝妖術使〟のような者を生み出してしまう危険はついてまわるわけですからな」
メイン社長は単なる思いつきでなく、超能力計画に関してはよく考え抜いていることを匂わせた。確かにその通りであろう。粗放な頭脳を持っていては、ビジネスマンは務まらない。ただ、商人の構想は全てが金銭ずくだという原則がある。メイン社長にしても、その枠から逃れることはできないと丈には思えた。
メイン社長は欲得ずくではないと思わせたがっているが、〝クェーサー〟は王女グループの〝力〟を利して巨大産業へと育って行くだろう。彼においては本音と建前が不可分にからみあっていて、本人にしてもよくわからなくなっているらしい。しかし、原則はあくまでもギブ・アンド・テイクなのだ。それだけは確固不抜のものだ。さもなければ、いかに先見性を持ち、高い見識を持っているように見えても、金持は決して金を出すものではないのである。
丈はそう考えて、なぜそんなことが自分にわかるのか不思議に思った。理由はなにもない。なぜかわかってしまうのだった。こんな大人びた思考は、これまでの丈には縁のないものだった。自分らしくもない不可解な洞察力が丈の内部に居座ってしまったようであった。
それが、丈に目覚めた〝力〟と無縁でないことだけは明らかだった。
丈は再三、ルナ王女の碧い瞳が自分の顔を凝視していることに気づき、戸惑いを禁じえなかった。王女の視線はいかにも意味ありげなのだが、丈の理解の及ぶところではなかったからだ。自分があまりにも愚鈍すぎ、低能すぎる気がして、丈は心が鬱屈してきた。
なんとしても、ルナ王女の心の裡は読めないのだった。
丈は日本へ帰りたくなった。姉の三千子の顔を見、声を聞きたいのだった。もうこれ以上、この場の気詰まりな雰囲気はまっぴらであった。王女の超能力構想に対しては、申しわけないが、さっぱり興味が持てず、空虚でそらぞらしい気分であった。巨大な〝幻魔大戦〟が全宇宙を席巻しているというのに、地球では愚にもつかない主導権争いや利権をめぐっての抗争が当分の間えんえんと続きそうだ。
それを考えるとばかばかしくなってしまったのだった。
その場へ、狂言まわしのように一人の男が現われた。東洋人に酷似した小男であった。大仰なメガネをかけ、口許にはお追従笑いがへばりついていた。意味のない笑いであり、ジャパニーズ・スマイルと称される代物だった。だれの目にも、貧相な矮軀の東洋人と映ったであろう。
貧相でどことなく卑しげな風貌の小男は、小型のハリケーンが荒れ狂ったような大広間の惨状にいささか度胆を抜かれたようであった。
立ちすくみ、茫然としている。分厚い近視眼鏡の奥の矮小化した目玉がうろたえて動転していた。
「皆さんにもっと早くご紹介しておくつもりでしたが、この男がビッグ・ジョンです」
と、メイン社長が大声でいった。その顔には悪辣といってもいい笑いがへばりついていた。
「私の個人秘書です。本名はジョン・カコニアス・カトー......どうぞお見知りおきください」
ソニー・リンクスがけたたましい声で笑った。
「きわめて有能な人物なので、ビッグ・ジョンと呼んでおります。いつ私を打ち倒して、〝クェーサー〟の社長の座につくかもしれませんのでな」
メイン社長は辛辣にいったが、あくまでも冗談としての語気であった。
丈はカトーと聞いた時、疑問もなしに小男が日本人だと思いこんだが、そうでもないことが薄々わかってきた。東洋人に酷似してはいるが、白人だ。サトーという姓のイギリス人がいるのと同じ類いであるらしい。
「王女のいった通りだぜ」
と、ソニーが笑いころげながらいった。
「メインの身近にいる奴で、メガネをかけたチビ......東洋人そっくり、日本人みたいな男だとよ! まさにそのものずばりじゃねえか! 電話を盗聴してる奴、メインの寝首を搔こうとしてる奴......こいつの他にいるはずがねえや! こともあろうにメインの個人秘書だとよ!」
全員の視線が呆然としている日本人そっくりの小男カトーに集まっていた。それに気づいて、小男の顔は草の葉のように薄緑に変色し、分厚いメガネの後ろで目玉がぎょろぎょろしてきた。
「おい、そこのおっさん!」
と、ソニー・リンクスが大声で呼びかけた。
「もうお前、運の尽きだぜ! 王女がお前の陰謀をすっかりばらしちまったからよ!」
「な、なんですか、なんですか」
と、小男はうろたえきって口走った。
「いったいなんのことですか!? いったい私がどうしたというのですか」
「とぼけんなよ、おっさん。お前の悪企みが露見したといってるんだ! こっちの王女にかかったら、お前の陰謀なんか全部お見通しなんだ」
「ジョン、なんのことか私にはさっぱりわかりません」
と、小男はメイン社長に訴えた。
「タイガーマン博士が、ジョン、あなたに大至急会って重要な用件について話したいといっているので、あなたを捜していたんです。あなたのPsi計画全体の運命にかかわることだとタイガーマン博士は申しているのですが......話を聞いてみてはどうでしょうか?」
「その必要はねえよ、おっさん!」
と、なおもソニーがからんだ。
「タイガーマンとお前が共謀で、メインをひっかけようとしてることは百も承知なんだ! お前はメインを葬って、〝クェーサー〟を乗っ取る気だ! タイガーマンはお前に抱きこまれて、メインの頭を狂わせてよ、気違い病院に送りこもうって腹なんだ! どうだ、どんぴしゃだろうが! おれのテレパシーだって、王女に負けねえんだぜ!」
「とんでもないいいがかりだ!」
と、小男は青黒くそそけだった顔で抗弁した。
「いったいなんの証拠があって、そんな無茶なことを! ジョン! 私は自分にかけられた嫌疑の一切を否認します! この方たちが何をいおうと、全て根も葉もないことであり、事実無根であり、私に対するいわれのない中傷であり誹謗であることを断言します!」
この小男が外見とは似ても似つかぬしたたか者であり、裡に巨岩の如き図太いものを秘めていることは明らかであった。
「ジョン、誓って私は潔白です。疚しいことはただの一点もありません! これは何かの陰謀です。何者かが私に無実の罪を着せて、陥れようとしているんです! 私を信じてください、ジョン! 長年の間、私ほどあなたに忠誠を尽してきた部下はいないと、あなたはおっしゃったじゃないですか!」
小男は巧みにメイン社長の弱点を突いた。
「十年の間あなたに尽してきた忠誠が、わずか数語のらちもない誹謗で忘れ去られてしまうのですか、ジョン!?」
お人好しのメイン社長は、この逆襲に遭って明らかに心をぐらつかせた。また小男はボスの泣き所を充分に心得ているのだった。泣き落しで攻められることにメイン社長は意外に脆いのだ。
「いったい私を有罪とするなんの証拠があるのですか? 人の心を読めると称するテレパシー使いの無責任な証言で、私は有罪を宣告されたのですか?」
小男カトーは開き直り、王女に挑戦してきた。
「私をもし裏切者とするならば、明白な証拠をお見せいただきたい。ただ口頭で有罪を宣告されることに私は断じて承服できません。口先だけの安っぽいちゃちな詐欺師に葬り去られるのでは死んでも死にきれないというものです!」
丈は小男の剛腹さに感銘を受けた。敵にまわせばこれほどしぶとい人間はいないであろう。最後まで怯まず反撃するタイプだ。
「頭を叩き潰さなきゃへこたれない毒蛇みたいな奴だな、こいつは」
と、ソニーが批評した。
「こんなしぶとい奴が身近にいるんじゃ堪まんねえや。尻の毛を残らずひん抜かれちまうぜ。いっとくが、このおっさんは相当な悪だぜ。ほっといたら、世界に何人もいない大悪党に出世するかもしれねえな」
「らちもないいいがかりはいい加減にしてもらいたいですな」
と、小男は強気にいった。
「いったいなんの証拠がありますか。ジョン、私はこのような侮辱に耐えることはできません。彼らは口先だけの人間で、でたらめな誣告を平然とやってのけるイカサマ師です!」
「へえ、こいつは驚いた! テレパシストに心を読まれてもめげない奴がいるとは思わなかったぜ!」
と、ソニー・リンクスが大声でいった。
「ご立派だよ、まったく! 体に似合わず、肝っ玉が太いや!」
「どうしても証拠が欲しいというのですか?」
と、王女が冷やかにいった。白光を放つような碧い瞳の凝視を受けて、小男の顔は平たい石のように灰色になってきた。王女の視線には特殊な力があるかのように、小男は動揺を隠しきれなかった。みる間にべったりと脂汗が額に滲む。
「そう、証拠があるなら、見せてもらいましょう......」
小男は口が不意に硬ばったように口ごもった。恐怖が目に光った。王女の視線に堪える度胸がそこなわれてしまったのだ。
「それはそうだ」
と、メイン社長が口をはさんだ。公平に振舞わねばならぬという義務感につき動かされていた。長期間、小男カトーにまるめこまれてきただけに、心情的にはそちらに傾きやすいのであろう。
「これは、公平を期す意味で、ビッグ・ジョンの背信行為の具体的な証拠を挙げていただいたほうがよいでしょう。もし、おさしつかえなくば、ですが......」
「あなたにいろいろとお見せした奇蹟の他に、どのような証拠が欲しいとおっしゃるのですか?」
王女がいささかも感情的になることなく尋ねた。かなりの感情家だったかつての王女がまるで噓のようであった。
「わたくしの言葉は信じられないとおっしゃるのですか?」
「いや、そのようなことはありません。しかし、私としてはなんの証拠もなしに部下を裁き、運命を狂わせることはできません。それを是非とも理解していただきたいものです......」
と、メイン社長は苦しい弁解をした。小男カトーが彼に及ぼしていた影響力の大きさが感じられた。カトーはメイン社長を操縦する術によほど長けていたのかもしれない。
「わかりました。お好きなだけの証拠をさしあげましょう」
ルナ王女は顔色も変えずにいった。
「彼自身があなたに真実を語るでしょう。彼はもはや己れの正体を偽ることはできません。真実のみをもって、ジョン、あなたの尋ねることに答えるでしょう。なんでも尋ねてごらんなさい」
その場の全員が、王女の言葉の大胆さ、絶大な自信に息を吞む心地を味わった。丈はぎょっとして、彼女の冷静な面を見詰めた。自分の耳が信じられなかったのだ。小男カトーが真実を語るなど絶対にありえない。王女はどうかしてしまったのではないかととっさに思ったのだ。
「もちろんのこと、私は真実をのみ語っています」
と、カトーは自信たっぷりにいった。丈と同じく、王女の正気を疑っていることがわかった。
「ジョン、彼に質問してごらんなさい。盗聴を仕掛けたのが何者の仕業であるかを」
王女が穏やかにいった。メイン社長は戸惑った顔で王女を見返し、それからカトーに視線を向けた。王女がなにを意図しているのか、さしもの明敏なビジネスマンにもさっぱり吞みこめないのだった。
「ビッグ・ジョン、正直に答えてもらいたい......」
メイン社長は咳払いしながらいった。
「私の身辺に盗聴を仕掛けている者の正体を、君は本当に知っているのかね?」
確信に欠けた尋問ぶりだったが、当のカトーの表情はみものであった。醜い日本人を戯画化したような顔が赤くなったり青くなったり、急速な変化を繰り返した。メイン社長の想像を超えた混乱が小男の心中に生じ葛藤を演じているのだった。
「はい......」
と、小男は息を継ぎながら苦しげにようやく答えた。
「知っているのか!?」
「イエス......」
メイン社長の顔色も変った。みるみる朱を注いだように顔が赤く充血してくる。いささかたるんだ喉の皮が波打った。
「それはだれだ......?」
メインの声は低く、ささやきかけるようであった。顔は真赤になり、目はぎらぎらと輝いている。
それと対称的に小男の顔は土気色になったまま固定し、死人のようなそれになってしまった。鈍い被膜のように恐怖が目を覆っていた。
「だれだ、カトー? だれが私を探っていたのだ? 話せ」
「それは......」
意志を強制される苦悩が万力のように小男の心を絞めあげた。
「話すんだ、カトー!」
「それは......私です、ボス......」
小男はカラカラに乾いたグレープフルーツの果実を搾りあげるように、物凄い努力を見せて、声をようやく絞りだした。
「私がやりました......私です、私がやったんです......」
「やっぱりお前だったのか、カトー! お前が私を裏切っていたんだな!?」
「はい、ボス。私があなたを裏切っていたんです。四六時中、あなたをスパイしていました......極秘資料を盗みました......」
その場の全員に、この小男に生じた奇怪な葛藤の真相が徐々に浸透しはじめた。小男は己れの意志を圧倒する、告白の衝動に支配され、狂おしく言葉の下痢症状を呈していた。そして、小男をそうさせているのは、まぎれもなくルナ王女の意志に他ならないことを、みなが一様に悟りかけていたのである。
全員が、名状しがたい異様な衝撃に打ちのめされた。ルナ王女の〝力〟は他人の推測を超えている。王女は他人の意志を縛りあげ、強制し、心にあることを告白させることができるのだ。
王女はその意志の〝力〟により、他人の心に干渉を加える。それはさながら自白剤を服まされたような効果を発揮する。告白の衝動に圧倒され、本人が死物狂いで抗しようとも、その恐ろしい衝動にはまったくかなわない。
何事が己れの心身に生じているか、本人は充分に知り尽しているのだが、それでも、心にあることをぶちまけ、真実をあくまでも喋り続けずにはいられないのである。限りない吐瀉が続くように、彼は喋り続ける。
傍で眺めている丈ですらも、小男カトーの告白のおぞましさに顔から血の気が引いていくのを感じた。王女の〝力〟の恐ろしさに怯気づいたせいもあるが、この小男の心に蔵した地獄の凄惨さに圧倒されてしまったのだ。
小男カトーは、自分がいかにしてメイン社長の目にスクリーンをかけ、足許を掘り崩すべく綿密な計画のもとに陰謀を進めたか、ことこまかに自白した。いまや告白することに情熱と歓喜を覚えているとしか思われなかった。己れの陰謀が全て瓦壊したことを気にとめている気配はなかった。
カトーの陰惨な計画は十数年も昔から、遠謀熟慮のもとに進められたもので、その周到さ、精緻さにはだれもが舌を巻いた。メイン社長は完璧な陥穽の中に誘いこまれ、手も足も出ずに〝クェーサー〟を投げだす仕組がほぼ完成の域に達していたのである。
王女がカトーの謀みを暴くことによってのみ、彼は蹉跌を迎えることになったのだった。巨大多国籍企業〝クェーサー〟は巧妙な仕掛により、裏切者カトーの手中に落ちるようになっていたのである。
まさに小男カトーは巨大企業乗取りの天才というべきであった。思いがけぬルナ王女の介入が、一挙に彼を破滅の淵に叩き込んでしまったのだ。
「だが、なぜだ? なぜこんなことを......」
メイン社長の逞しい顔は蒼白であった。
「お前には特に目をかけてやったのに......わしがお前を拾い上げ、仕込み、個人秘書の地位まで与えてやったというのに......お前はなぜこんなことをわしにしようとしたのだ?」
カトーがメイン社長に仕掛けた罠は三重四重の精妙をきわめたものであり、合法的なものからスキャンダルに至るまで、〝クェーサー〟を投げださざるを得ないようになっていることを知ったメインは、さすがに激しい動揺のため体の慄えを隠すことができなかった。まさしくメイン社長はたった今まで絶体絶命の逃れようのない危機の縁に立たされていたのである。
「いってみるがいい、カトー......なぜお前は私を裏切った?」
「それはあなたが間抜けだからだ」
と、小男カトーは平然といった。その冷やかな毒々しさは無類だった。
「あなたが無能の上に愚鈍で、しかも石油業者の親の莫大な遺産の上に、偽りの王国を築きあげただけの、単なる幸運に恵まれた人間だからだ。私のように何も持たない人間は、ありとあらゆる手を使い、あなたのような愚劣な人間を喰い殺し、その死骸の上に私自身の王国を築く権利がある。あなたのように愚かな馬鹿者は、私のような人間たちに与えられた巨大な餌なのだ。私は馬鹿者どもを喰らい、肥えふとり、更に巨大化して行くことを許されている......」
「いったいだれがそんなことをお前に許したというのだ?」
メイン社長の呼吸は衝撃と裏切られた無念さで荒く速くなっていた。
「私はお前をわが子のように愛していたというのに......」
「あなたは愚鈍な馬鹿者だから、私に喰らわれる餌だ。私の神があなたを喰らうことを許してくれた」
「お前の神とはサタンのことだろう......」
と、メイン社長は苦々しげにいった。
「ユダめが......この蛇めが......私を瞞すのはさぞかし楽しかったろうな?」
「その通り。あなたを瞞すのは実に楽しかったよ、ジョン」
恥知らずな答が返ってきた。
「もう一歩というところだった......〝クェーサー〟は私のものになるところだったのだ」
初めて人間的感情が声音に表われた。蹉跌の苦しみが滲んできた。
「こんな破局を迎えるとは、実に残念だ......」
催眠に深く落ちてはいるものの、挫折の苦悩は感じているのだった。みるみる顔面が凄惨な憔悴の影を濃くしてきた。骸骨そっくりの無気味な顔になってきたのである。
「〝クェーサー〟は私のものになるべきなのだ......私にこそふさわしいものだ......ジョン、あなたのように愚鈍な人間の手にあるのはそれこそ罪悪だ。〝クェーサー〟は世界を制することさえできるのだから......私にはこの挫折は堪えられない。断じて受け容れることはできない」
カトーは骸骨の顔付できりきりと歯をきしらせた。背中に氷河が生じるような、陰惨な恐ろしい執着ぶりであった。
「〝クェーサー〟は私のものだ、ジョン。あなたは〝クェーサー〟にふさわしからざる人間だ。あなたは〝クェーサー〟から手を退くべきだ。私はあなたを取除くつもりだった......」
「取除く? 私を殺すつもりだったとでもいうのか?」
「そうだ。ジョン、あなたは〝事故〟でこの世を去ることに決っていたのだ」
メイン社長はさすがに息を吞んだ。
「私から〝クェーサー〟を取りあげ、ほうりだしただけでは、まだ気がすまず、私を殺す計画までめぐらしていたのか?」
「その通りだ。あなたは私の遣り口をご存知だろう。私は何事も徹底的にやってのけるということを......私は決して手を緩めない。あなたを完全に滅ぼしてしまわなければ安心できないからだ。あなたを再起不能に陥れるだけでは安心できない」
小男カトーは平然といった。人間放れした冷血さをのぞかせていた。
「なんということだ......」
と、メイン社長は両手で頭を抱えて呻いた。
「お前は私の信頼する部下たちをどの程度まるめこんでいたのだ?」
「勘所は全部抑えた。あなたにそれでも忠誠を尽す人間は放逐する手筈が整っていたし、私には充分自信があった。勝利は文字通り私の掌中に握られていたのだ......」
カトーの顔は悪鬼めいて凶悪であった。
「もう沢山だ」
と、メイン社長は弱々しく吐きだすようにいった。
「こんなことはもう終りにしたい......」
怒る元気さえ失くなってしまったようであった。心が挫けてしまったのだ。
「あまりにもおぞましすぎる......カトー、お前はなに一つ悔んではいないのだな?」
「なにを悔むことがある?」
と、カトーは反問した。
「馬鹿なことをいうものだ。私は当然のことをしてのけたまでだ。弱肉強食こそこの宇宙の法則ではないか。敵に隙を見せればそれまでだ。そして自分以外の人間は全てが敵だ。支配に服さない者は滅ぼしてしまえばいいのだ。勝ち残る、それがこの世界に生きる者全てに当てはめられる最終的な目的だ。私にとって他者とは滅ぼすべきものでしかないね。そのためには手段は選ばない。人間関係は方便以外のなにものでもない。あなたがそのようにショックを受けることこそ、私にとって驚きの至りだね」
カトーが冷嘲をこめていった。
「な、たいした奴だよ」
と、ソニー・リンクスがいった。
「出て行け......」
メイン社長は羞恥の血の色を首筋の皮膚に滲ませながら、歯をくいしばっていった。
「お前のような奴を見ていると、同じ人間であることが恥しくなる。私の前から消えて失せるんだ。二度とその卑しい面を私に見せるな。私が訴訟を起こして、お前を刑務所へほうりこまなかった幸運にいつまでも感謝するがいい。私に人を鑑識する目がなかった非を認めて、訴えることだけは思いとどまってやる。とっとと消え失せろ」
「考えが甘いなあ、おっさんよ」
と、ソニーがいう。
「毒蛇の頭はぶっ潰しとかないとあかんで。九回裏ツーアウトから逆転を狙っとるで」
「構わん!」
メイン社長は朱をぬりたくったような真赤な顔でどなった。
「お前の顔を見ていると胸が悪くなる! 早く出て行け!」
小男カトーは嘲りをこめてにたっと笑い、冷やかな優雅さで大広間を立ち去った。貧相な東洋人じみた矮軀に似合わぬ、悪党の図太さを全身に滲ませた後姿だった。
メイン社長は手近のテーブルの電話機を摑み、保安部長を呼べとどなった。脳卒中を起こしかねないほど顔が真赤になったままだった。
「どうも頼りねえなあ、あのおっさんは」
と、ソニーが忌憚のない批評を加えた。メイン社長は電話に出た保安部長に向って大声で咆えたてていた。おもむろに激怒を発したのであろう。いかにもメイン社長らしい腹の立て方だった。愛嬌はあるが、いかにも頼りない。
「王女。やっぱり僕は日本へ帰ります」
と、丈はいった。すでに腹がきまっていた。
「僕がここに長居をしても、なにも益することはありませんし、政治的な駆引や取引は僕には無理なことはわかっています。王女が今後育てていかれる組織には、できるだけお手伝いしたいと思いますが、これ以上ここに留まる意義が僕には見出せないんです。是非ともお許しを得たいと思います」
きっぱりしすぎるほどの口調になっているのが自分でもわかった。腹の底からうんざりしてしまったのだ。欲得ずくの人間たちと関り合うほどうとましいことはなかった。若くてピュアーな丈にとり、たった今見せつけられた、欲望に狂った人間の地獄図は、あまりにも凄惨すぎた。体中にいやな臭いのする重い金属がぎっしりと詰まったように、体が重く冷たくなり、鈍痛が両目の奥の脳髄に疼いていた。
毒気に当てられてしまったのだ。
丈は急いで己れ自身を浄化する必要に迫られていた。姉の三千子に逢いたい、と彼は痛切に願った。三千子の与える安息と慰藉だけが丈の求めるものであった。
「そんなにお姉さんに逢いたいのですか?」
と、王女。わかっていることを、と丈は腹立たしくなった。
「僕は日本へ帰ります」
宣言するようなきつい語気になった。
「他のことは、今はなにも考えられません。申しわけありませんが......」
「おれもお前といっしょに、日本へ行くぜ」
と、ソニー・リンクスがいった。
「どうしてだ......?」
「おれがついててやらねえと、お前は危っかしくてしょうがねえからよ」
ソニーが口をとがらせた。
「〝幻魔〟がもしも日本で待ち構えててみな、お前はイチコロでやられちゃうぜ。なんてったって、丈、お前は世間知らずだし、そそっかしくて、目がよく見えねえからなあ」
その通りだから、生意気いうなとソニーにいい返すことはできなかった。この黒人幼児にかかったら、年齢の差など問題でなくなってしまう。
「しかし、お前は日本を知らないから跳べないといっていたじゃないか、ソニー」
「お前が日本に帰れば、引っ張られてちゃんと跳べるんだよ。サイキック・レーダーでお前の居場所を突きとめるからな」
「わかったよ、お偉いスーパー・ブラック・ボーイ」
丈は折れて、偉ぶったちびに右手を差し出した。
「その時は僕の家へ来いよ。泊めてやるぜ」
「うんと歓迎してくれよ。日本の食い物は初めてなんだよ。スシ、サケ......スキヤキ、テンプラ......よく知ってるだろう!」
ソニーは得意満面で自慢した。日本へ兵隊で行ったことのある黒人の年寄に教わったのだといった。
「丈、あなたが日本へ帰ることは、もう止めるつもりはありません」
と、王女がいった。
「無理強いして、あなたにここに留まってもらったのは、私たちの前途が決して平坦ではなく、それどころか同じ人類同士の陰険な妨害や攻撃に遭うということを、あなたにもつぶさに見聞きしてもらいたかったからなのです。無数の困難が待ち構えているはずです。でも、この程度のことでへこたれないでください。そのことをはっきりと自覚してほしいのです」
つい先ほどまでの取り澄ました冷やかさが和いでいた。声にも顔にもほんのりと暖みが現われてきていた。
「わかりました。よく憶えておくつもりです、プリンセス」
王女が白くほっそりした繊手を差しのべるのを見て、丈は他愛なく感動した。わずかばかりの優しさを与えられたぐらいで、と反抗的に思わないでもなかったが、妙なもので胸が熱く詰まってしまった。
王女の手は暖く軟かった。雪の冷たさを予期していたのが不思議であった。血が通っていて人間らしかった。丈はスリルを感じ、胸の鼓動が高まるのを知った。彼は自分が思っているよりずっとロマンティストだったのである。
ルナ王女のために全力を尽くそう、と我ながら他愛なく思うほど、熱くなって心を決めた。丈の裡に埋れていた騎士道精神が突如覚醒し、奮起したかのようであった。
「ベガ......いろいろお世話になって、ありがたく思っている」
丈は、無口におし黙っている異星の巨人に向い、口ごもりながらいった。サイボーグ戦士の無表情な顔にはなんの変化も生じなかった。
「そんなことは心配するな」
と、サイボーグ戦士は深い声音でいった。
「お前にも、いずれ戦友がどういうものかわかるだろう」
「もうわかっているつもりだよ、ベガ」
無骨で怪異なサイボーグの巨体の深奥に宿っている暖い感情が、丈の心を熱くさせた。見た目には、脅威的な鋼鉄造りの怪物としか映らない。人間的な感情が一片でもあるとはとうてい信じられないのだ。まるで鉄の巨神だ。
「いや、お前にはまだわかっていないさ、丈」
と、ベガは素気なく、いった。
「真の友愛は苦難の中でしか生れない。お前はまだ苦難に遭っていない」
「なんだかわかんないけど、かっこいい!」
と、ソニーがいった。丈はただ顔を紅潮させた。体が熱く火照り、涙が目に滲んでくるほどの高揚感を味わっていた。
「丈!」
と、甲高い女の声が聞こえた。大広間の戸口の方を反射的に振向いた丈の顔色がさっと変った。
ミス・キングだった。丈に専任的につけられた看護婦である。大柄でいかつい、堂々とした美人だ。丈がなによりも苦手とする女性だった。
「大変だ!」
と、丈は思わず口走った。彼女の許可なく病床から脱け出しているところを見つかっては、ただではすまない。彼女の義務感と忠誠心は全看護婦の鑑であって、患者の恣意的な逸脱行為は決して許されないのだ。
「丈! そんなところで何をしているのです!?」
と、ミス・キングが大声で叫んだ。
「いったいだれがベッドを出ていいと許可したのですか!? あなたにはまだ早すぎます!」
その顔はいかつく、きびしく、かつまた愛情にみちており、丈をぞっとさせずにはおかなかった。その母性愛的な態度ほど彼を辟易させるものはなかったのだ。
「ソニー! お前、彼女をいったいどこに捨ててきたんだ!?」
丈は慄然としながら黒人幼児を詰問した。
「なぜもっと遠くへ捨ててこなかったといいてえのか?」
と、ソニーは正しく丈の心を読み取った。
「すまなかったよ。今度は念入りに遠くへ飛ばしてやるぜ。たとえば、日本のトーキョーなんかにな」
ソニーはげらげら笑いながらいった。
「早いところ、ずらかったらどうだい、丈! さもないと彼女のでかいオッパイの谷間で溺れ死んじまうぜ!」
この黒人幼児は憎らしいせりふをいくらでも心得ているのだった。
「丈! お待ちなさい、丈!」
と、ミス・キングが巨大なバストを揺りたてながら、速足でこちらにやって来た。
「おれは逃げるぜ、ソニー!」
丈は怯気づいて逃腰になった。ミス・キングに摑まったら無理やりベッドに連れ帰らすにきまっている。
屋上庭園に面したフランス窓が、弾けるように大きく開いた。丈は尻込みし、それから大きく開放された空間めがけて駆けだした。
愕然としたメイン社長の叫び声が後を追ってきた。
丈はちらりと振り向き、好人物の大石油業者に向って手を振った。
丈の体は一同の視線を集めて、突如ミサイルと化し、一瞬にして消えてしまった。ミス・キングがけたたましい悲鳴をあげ、卒倒した。だれも見向きもしなかった。
たちまち開放されたフランス窓の間から、ニューヨーク市の上空に居座った熱波がどっと押し入り、快適にエアコンディショニングされた大広間の爽やかな空気をだいなしにした。
しかし、彼らはそれにも気づかず、丈の消えた真夏の空を茫然と眺めていた。蒼穹には壮大な純白の入道雲が雪崩れ落ちていた。それは奇妙に壮厳な光景であった。
11
その夜、東京は恐ろしく蒸暑かった。風が完全に死んでいた。
夜空には月がなく、暗い夜の闇が地表にのしかかっていた。なにかしら不穏な気配が大気中に充満している。雷雨注意報が出されているのだった。
心を苛立たせ、後髪をよだたせるような波動が大気を絶えずちりちりとけばだたせているようだ。だれもが皮膚を気味悪く濡らす汗を、小気味よく洗い流す驟雨の来襲を切望していた。気が狂いそうな蒸暑さだ。
夜闇の底をしなやかな獣の背が揺れて疾った。
大柄な逞しい灰色の牡猫が、夜の巡回に出ているのだった。
革の首輪を巻き、栄養が満ち足りて毛並がよかった。己れの闘争力を自負しているので、動作は自信たっぷりだった。付近の王者なのだ。自分の領域には精通しており、うろんな他所者は彼に挨拶抜きではあたりをうろつくことさえかなわなかった。犬でさえ、彼には敢えて喧嘩を売る勇気を持たない。ケチな愛玩用のチビ犬が負け犬の遠吠えで、彼の軽蔑を浴びるだけだった。
大気中にみなぎる不穏な緊張に感応して、大きな牡猫は荒々しい闘争の気分に支配されていた。猛悪に気が荒んで、だれかに構わず闘争を挑みたい、喧嘩好きとなっていた。
もちろんのこと、彼の領域においては、覇者である彼に敵対しようなどという不心得者は一匹もいない。彼の進路を妨げるどころか、跳んで逃げるように急いで退散するのだった。とくに今夜のように、彼の気が荒んでいるとわかっている夜は格別だ。
磨きあげたその猛々しい鉤爪と牙で挑みかかる、凶悪な雄叫びを聞くまでもなかった。
代りに犬どもが騒然と吠えたてた。電光のようにみなぎり、満ちあふれる好戦的気分の波動に感染して、気が狂ったように至るところで吠え声が湧き出した。
「うるせえなあ......」
と、自棄になったようにバタバタと団扇を使いながら、東家の雨戸を開け放った縁側で、大男の卓がぼやいた。ランニング・シャツにステテコ姿で、筋骨逞しい巨体を汗でぐっしょり濡らしていた。風呂上りで涼もうとしたつもりが、噴き出る汗がいっかな引こうとはしないのだった。
「なんで犬ども、大騒ぎしてるんだ......」
縁側に出した籐椅子にどさりと座りこんで、卓は不平そうにいった。
「きっと気が立っているのよ。だってこの蒸暑さですもの」
と、台所の流しで食器を洗いながら、姉の三千子がいった。あまり汗を搔かない体質の彼女も額をじっとりと汗でしめらせていた。それでも、水仕事をしている彼女は、弟の卓のように堪えがたい蒸暑さに苦しめられてはいないようだった。
三千子は指先で、額を拭い、吐息をついた。無意識のうちに溜息を漏らしているのだった。
「大丈夫かい、姉さん?」
耳敏く聞きつけて、卓が縁側から座敷越しにいった。
「ずいぶんつらそうだぜ。少し休んだほうがいい。そんな片付仕事なんか後でいいよ......もう何日もろくに寝ていないんだろ?」
万事、大雑把な卓らしくない気の遣い方であった。
「大丈夫よ、心配しないで」
口でいうほど大丈夫でないことは、三千子自身わかっていた。三千子はひどく夏瘦せしていた。げっそりと頰の肉が落ちて、細身になった彼女に半病人の印象をもたらしていた。
卓が指摘する通り、この数日満足に睡眠をとっていないからだ。眠れないのである。かてて加えて食欲不振と、心労が責めたてて、三千子は立ちくらみが常態になるほど疲労困憊しやつれた。
もちろん、弟の丈の身が案じられて、食事が喉を通らないのである。丈がアメリカ大陸へ超常能力による飛行により渡ったらしいとわかっているだけで、彼からはなんの音沙汰もない。丈が今どこでどうしているのか、知る手段はなに一つなかった。
「兄貴のことはあんまし心配するなよ、姉さん......」
卓は団扇の手を休めずに大声でいった。
「丈兄貴はもうじき帰ってくるよ。もしかしたら今夜にだっていきなり帰ってくるかもしれない......」
三千子は洗い物の手を停め、水道の蛇口をひねって水音を消した。
「どうしてそんな風に思うの、卓ちゃん? なにか予感でもあるの? それともただの気休め?」
「けさがた、丈兄貴がひょっこり帰ってくる夢を見たんだ。そうだ、思いだしたよ、姉さん。元気な顔で帰ってきた」
卓は団扇の手を休め、柄の尖端で己れの額をこづきながらいった。
「三千子姉さんにいおうと思っていたんだ。すっかり忘れちゃってたけど」
「そう。それが正夢だといいわね」
と、三千子は疲れた声でいった。気休めにはもう倦み疲れているのだった。
「だけど、姉さん。おれの夢はわりと的中するんだぜ。兄貴、今夜あたり、ひょっこり帰ってくるんじゃないかなあ......」
「そうであってほしいわ。だけど、卓ちゃん。もしお父さまに丈がいないことがわかったら、なんといって説明したものかしら?」
三千子はぼんやりと水に濡れた自分の細い指先を見つめながらいった。
「そんなの平気さ。親父は家族がどうしていようと気にもかけやしないからな。もう一週間もうちに帰ってこやしないじゃないか。丈兄貴がいないことなんかわかりっこないよ」
卓が吐きだすようにいった。
「でも、時々昼間のうちに、お帰りになることあるのよ」
と、三千子が弁護するようにいった。
「卓ちゃんたちは昼間学校へ行っているから、わからないでしょうけど」
「親父は、おれたちのことなんか気にもとめないよ。それは確かだ」
卓は無愛想な口ぶりでいった。
「だから、姉さんも親父のことは気にすることはない。そんなことより、おれは姉さんの体のことが心配だよ。まあ、兄貴のことを心配するなというほうが無理だろうが......」
「ありがとう、卓ちゃん。夢が本当になって、丈が帰ってくるといいわね......」
犬どもの殺気だった叫喚がまたしても沸きたった。
「なんだってんだ。まったくやかましいったらありゃしねえな」
と、卓が腹だたしげな声をだした。尋常一様な吠え方ではないのだ。
「なにか、ただごとじゃない雰囲気ね」
三千子がふと不安げにいった。
「なにかいやなことでも起こりそう。大地震でも起こる前兆じゃないかしら......」
暑い大気を満たす不穏な波動には、肌寒くなるほどの異様な凄みが感じられた。
「そういえば、なんだかぞくぞくしてくるなあ」
卓はむっくりと籐椅子から巨体を起こし、立ち上って雨戸の外を覗いた。
「外に出て、ちょっとその辺を見まわってこようか?」
卓が縁側の外に置かれた庭下駄を足で探って穿こうとしている時、不意に台所の三千子が悲鳴をあげた。
「ど、どうした、姉さん!?」
卓はその巨体にそぐわぬ素速さで台所へ飛んで行った。棒立ちになり、すくみあがっている三千子の肩に手をかける。
「ねずみだ!」
卓が気抜けしたようにいった。二人の視線を集めて台所の板の間に、ドブネズミがうずくまって目を光らせていた。不穏な気配にドブネズミは毛を逆立たせ、ファイティング・ポーズを取るみたいに後脚で立ちあがった。冷たい凶悪な目で姉弟を睨み返す。臆病なドブネズミにしては怖れ気のない、傍若無人な不敵さだった。
「この野郎!」
卓は調理台の上にあった出刃包丁をとっさにひっ摑んだ。威嚇ではなく、本気だった。それほどドブネズミは人もなげな振舞い、明瞭な悪意によって、卓の攻撃衝動をひきだしたのだ。
ドブネズミは大きな門歯を剝きだし、きしるような憎悪の叫びをあげた。
今にも跳びかかってきそうに見えたが、卓が出刃包丁を構えて足を踏みだすと、くるりと向きを変えて逃げ走った。
「畜生! 逃がした!」
卓が口惜しげに唸った。日本の古い木造家屋はネズミにとって天国だ。自由自在に出没し、跳梁することができる。
「怖かった......」
三千子は胸を撫でていた。
「あのネズミ、今にも卓ちゃんに襲いかかるんじゃないかと思って......」
「もうすこしで踏み潰してやったのに」
卓は包丁を逆手に構えている大仰さに気づき、照れくさげに調理台の上に戻した。
「でも、なんだか様子がおかしいわね。ネズミってもっと臆病なはずなのに......堂々としてあたしをじろりと睨むのよ。跳びかかってくるんじゃないかと思わず大声で悲鳴をあげてしまったの」
「生意気な奴だ、ドブネズミのぶんざいで......一瞬本気になってやっつけてやろうと思ったよ。うちにはネズミが多いけど、あんな図太い奴は初めてだな」
卓らしくもなく興奮していた。額に浮いた脂汗を拳で払いのける。
「卓ちゃん、今夜は本当に様子が変よ。きっとなにか異変が起こるわ」
と、三千子が確信をこめていった。
「おれもそんな気がしてきたよ、姉さん。大地震が来るんじゃなければいいんだがなあ」
卓はぞくりとしたように逞しい巨体を震わせた。
「貴重品だけとりあえずまとめておいたほうがいいんじゃないか。それと米、味噌、醬油......罐詰とか即席ラーメンなんか、リュックサックに詰めとこうか?」
またぞろ重苦しい犬どもの叫喚がいたるところに沸きあがって、姉弟の体に悪寒を走らせた。
不吉な金切声のような遠吠えの合唱が暗い夜空の下の市街に充満していた。三千子は総毛立った顔になり、弟の筋肉の盛りあがった太い腕につかまった。
「やっぱり避難の仕度をしておいたほうがいいかしら?」
「ああ、そうしたほうがいい。今夜はどうも眠れそうもないな......第一、この気違いじみた暑さだ」
卓もそそけだった顔であった。ショックの気配が毛穴に滲んでいるようだった。
大柄な逞しい灰色の牡猫は立ちどまり、ブラシのように全体毛を逆立たせた。強敵と遭遇した時の猛悪な闘争心が、電気のようにその毛深い体にみなぎった。
立ち並ぶ民家の中に、一軒だけ立ち腐れている廃屋の縁先で、彼は化物じみた強敵と出くわしたのだった。
牡猫の目は真円に等しく見開かれ、爛々と光り輝いた。これほどの激烈な敵意と闘志はいまだかつて彼の知らぬものだった。全身が猛々しい闘心の塊と化した。彼は単なる猫以上の存在となった己れを知った。
そいつは明らかに化物であった。ねずみの恰好をしてはいるが、見たこともないほどの超大物であり、灰色の牡猫を異常に挑発するだけのことはあった。普通、猫は捕食の対象であるネズミに対して敵意を表明したりはしない。穏和な享楽心をもって捕殺するだけである。相手が窮鼠となって歯向ってきたところで、その関係に憎悪や憤怒が混りこむ余地はない。
そいつは剛毛を逆立て、燃える石炭のような赤い目玉をぎらぎらと輝かせていた。悪夢の中でお目にかかる類いの大ねずみであった。
いかに闘志のある牡猫とはいえ、己れに匹敵する体軀の巨大ねずみに向っていくのは容易なことではない。
闘争の鬼神に憑依されたように、灰色の牡猫は猛りたち、勇敢であった。なんの躊躇もなく闘いの雄叫びをあげて、まっしぐらに化物ねずみへ向けて突進した。そいつを屠らなければいられぬ攻撃衝動の化身となったのだ。
火を発する獰猛さ激烈さで、牡猫は巨大ねずみに攻撃をかけた。たとえ相手が大型犬であってもこの闘争心には怯まずにはいられなかったろう。
だが、相手は本物の化物であった。化物ねずみの口があんぐりと開き、とほうもない洞穴のような大口と化した。その馬鹿げたほどの大口は猫どころか豚ほどのサイズの生物もあっさり通過させてしまったであろう。
牡猫は聞く者を総毛立たせる恐ろしい絶叫をあげ、それは大口が激しい勢いで虎罠みたいに閉じると同時に、鋭い刃物で断ち切ったように不意に跡切れた。
後には遠近でさかんにあがっている犬どもの遠吠え、叫喚だけが喧しかった。
真赤な目を燃やす化物ねずみは、なにごともなかったように廃屋の夕闇にうずくまり、座りこんだまま、前脚でなにやら手芸を試みていた。人間そっくりの器用な手つきであった。錆びた針金をしきりに前脚で折り曲げて、奇妙な針金細工を作っているのだった。
これは絶対にただのねずみではありえなかった。鮫のような不吉な半月形の口が開き、べっと革の首輪だけを吐き戻す。灰色の牡猫が首にはめていたものだ。それだけが覇者の遺品であった。
奇怪な稜線のパターンを持った針金細工が完成して、座り込む化物ねずみの真正面に据えつけられた。
化物ねずみは針金のように太い頰髭をかすかに震わすだけで、あとは置物同然に凝固してしまった。
と、化物ねずみの前に置かれた奇怪な針金細工が、外部の力を受けないままに、ゆっくり回転を始めた。
徐々に回転速度があがり、針金細工の輪郭がぼやけてくる。目にも止まらぬ速さで廻り続けているのだ。
もうろうとなった針金細工の高速回転体から、白煙が噴き出してきた。いや、白煙と見えたのは季節はずれの霧であった。ポタージュ・スープさながらに濃厚な霧はたちまち渦巻いて拡がり、周囲を満たして行く。
命あるもののようにうごめく濃い霧の中で、鋭い破裂音とともにスパークが走り、きらめいた。
花火のような炸裂音と閃光がくり返し幾度も迸った。
溶解して変形しねじ曲った針金細工の残骸の間から、奇態なものが徐々に姿を顕わしつつあった。
それは胎児の姿勢のようにまるまり、目を閉じた異形のものであった。それは小さな恐竜の化石のように凝固し、ぴくりとも動かなかった。幾億年もの地質学的時間を隔てて、超古代の地層の間から掘りだされた化石に酷似していた。
命があるものとは見えなかったが、しだいに落ち窪んだ凄い感じの瞼が開き、真赤な火のような眼がぽっかりと現われた。
異形のものは妖火の燃える眼で、眼前にうずくまる化物ねずみを瞬きもせず凝視していた。

不意に凶暴な歯だらけの大口が開いて、汚らしい黒人スラングの米語が奔流となって迸りでてきた。憎悪と悪意の毒液のように大量の唾がしたたり落ちる。
〝幻魔〟の尖兵ザメディである。ハーレムの黒人大暴動の夜、サイボーグ戦士ベガにより異次元へ飛ばされたザメディが復活してきたのだった。
とめどもなく吐きつけるダーティー・ワード、悪罵で眼前の化物じみた巨大ねずみを殺そうとしているかのようだった。
化物ねずみが負けずに反駁する。互いに相手の失態をこきおろしているのだった。凄まじい毒念を吐きかけあう応酬が続いた。
化物ねずみが、〝幻魔〟の尖兵の片割であるザンビだということは疑いの余地もなかった。東三千子を襲撃した際、突如発した猛炎に灼かれ、姿を消したままのザンビであった。
彼らは地球生物からは類推できない、異様な不死身の持主であった。いかなる攻撃手段も彼らを滅すことはできないようだった。
〝幻魔〟ザメディとザンビは、憎悪を剝きだしにいい争っていた。互いに失敗の責任を相手になすりつけ、とがめあっているのだった。互いの憎悪と敵意が物質化現象を起こして、夜の大気はきな臭く匂いはじめた。恐ろしく刺激的な悪臭が廃屋に立ちこめ、周囲に拡がって行った。互いの喉許へ凶暴な口で喰らいつき、殺し合う寸前だった。
暗い夜空に閃光が走りはじめた。雷雲が発生したのだった。
化物同士のいがみ合いはいつ果てるともしれなかった。責任のなすり合いは、既得利権をめぐっての角逐に発展していた。〝幻魔〟ザメディは、ルナ王女たちを独り占めすることを宣し、ザンビには一指も触れさせないと告するに及んで、いい争いは更に深刻化してきた。
──てめえには超能力者どもを一口でも喰らう資格はねえ!!
と、ザメディは猥雑な穢い黒人米語でまくしたてた。
──てめえには一口だって喰わせねえぞ! やい、ザンビ、てめえなんぞ泥の中に潜りこんで虫ケラでも喰らっていやがれ!! それがてめえには似合いだ!
ザメディはニューヨーク市における惨敗の責を全てザンビの失策に帰していた。ザンビが東京で、丈をしっかり抑えておけば、万事うまく行っていたのだ......
ザンビが反駁し、ザメディが更に猛りたった。彼ら食肉動物の素姓を持つ〝幻魔〟にとり、超能力者の骨肉を喰らうというのは、特殊な意味を持っているようであった。相手を喰らい摂取することにより、その〝力〟を我がものになし得るという信仰があるのだろう。それゆえに、特別に〝力〟の強いルナ王女たち超能力者に対して、両者とも異様な偏執の炎を燃やしているのだった。
両者の争いはしだいに白熱化を加えた。ザメディは獲物の肉の一片をだにザンビにゆずる気を持たず、一方ザンビは執拗無比であった。
もはや〝幻魔〟同士の殺し合いは不可避になったようであった。廃屋の荒れた庭に、瘴気が立ちこめ、不快な悪臭で充満させた。
廃屋の奥庭に密生した荒れほうだいの樹木の重く繁茂した葉が枯渇し、ばらばらと落ち始めた。毒気にふれた全ての植物がみるみる赤茶けて枯死し、しぼみ、輪郭を崩して行く。凄まじい毒念、害意の物質化現象であった。致死性の神経ガスさながらの強烈さだ。
大気中にみなぎる緊張は、神経を逆撫でする堪えがたい濃度に高まった。
暗い天空に突如きらめく巨大な亀裂が走り抜けたのはその時だ。
夜空を端から端まで引裂く強烈な紫電は、大魔神が燃える槍を虚空から投げ降したように、地上の廃屋めがけて駆け降った。
凄絶な火柱が突立ち、暗闇の隅々を真青な閃光で照らしだした。
十数メーターにわたる青く燃える巨槍が、二匹の〝幻魔〟の頭上に降り、噴出する閃光の中に灼き尽した。
百雷の轟音が頭上の夜空を圧した。暗い天空が粉砕され、雪崩れ落ちてくるほどの圧倒的な轟きであった。
廃屋が一瞬にして火炎に包まれ、炎上していた。天空の一角から投げつけられた異様な激怒が、二匹の〝幻魔〟の頭上に落ちかかったのだ。凶悪な怒りが白熱した炎を噴きだし、荒れ狂っているようだった。
12
空間に満ちた青い閃光が、束の間影のない世界を造った。
青白い閃光は、雨戸の隙間から射しこみ、室内を真昼の明るさで浮びあがらせた。眼底が真白になるほどの強烈さだ。
「うむっ」
と、縁側に立った卓が、眉をしかめて唸り声をあげた。
「凄い稲妻だ! 今の雷はわりと近い所に落ちたよ、姉さん!」
遠方から消防自動車のサイレンの金切声が近づいてくる。大気に満ちた不穏な気配は鎮静化どころか、ますます荒々しさを加えてきていた。
「こんな盛大なの見たことないや。夜空が稲妻だらけだ!! 姉さんもこっちへ来て見物しないか」
「怖いから遠慮するわ」
と、三千子が奥の部屋から襖越しにいった。とうてい卓のように雷火を見て興奮できようはずがなかった。
縦横に世界を引裂く紫電を悠々と観賞できるのは、卓の剛胆さだ。男でもこの夜の雷の荒れようは心胆が冷える代物だったからである。
「いよいよ一雨来るのかな? 来てもらいたいっすねえ......このままじゃ、とうてい寝られやしないよ」
激しく団扇を使いながらいう。
「大地震が来るから、避難の仕度をするって騒いでたのに。やっぱり寝るつもりなの」
と、隣室から三千子がいった。
「でも、本当になんだかいやな夜になったわね」
犬たちの咆哮は鎮まるどころか、激しくなる一途だった。
「犬も蒸暑くて気が狂いかけているんじゃないか。なにしろ厚い毛皮を着てんだから。一雨来てくれなきゃ、どうにもおさまりがつかないよ」
と、卓が太い鼻息をついた。
紫電が続けざまに大天蓋に亀裂を走らせ、凄壮な雷電の饗宴となった。絶え間なく稲妻の閃光が闇を青く染め、付放しのテレビの画像が乱れ、滅茶滅茶に揺れ動く縞と化した。
轟きわたる雷鳴でなにも聞こえない。天空が八つ裂きにされている物凄さだ。落雷が遠く近く生じているらしい。
紫電が天空の一画から走り降る都度、家中の照明が点滅した。
「凄え......」
さしもの卓が目をまるくしていた。バリバリバリと身の毛のよだつ轟音が頭上を走り抜ける。立続けの落雷だった。十数発が連続している。
大胆な卓の顔色もしだいに悪くなってきた。これは雷見物などと洒落こむ代物ではない。いつ己れの頭上に火柱が降ってくるかわからないのだ。
想像したこともない物凄い雷の暴威が荒れ狂っている。
大音響とともに頭の内側が真白になり、卓は我知らず腰を引いた。近くの電柱のトランスが直撃を受けたらしい。あたりの照明が全て息絶えてしまった。
夜闇に荒れ狂う閃光が凄絶だ。卓は不覚にも体が痺れたようになるのを覚えた。雷の恐ろしさを思い知らされたのだ。
頭が裂けるばかりの衝撃が頭上から逆落しに襲いかかって、卓は気付いてみると這うように座敷の奥へ逃げこんでいた。恐怖で体が自由に動かない。雨戸が開けっ放しなので、荒れ狂う雷電がまともに襲いかかってくる恐ろしさだ。
冗談事ではなく、卓は雷が自分に集中攻撃をかけてくるのを感じた。死の恐怖が卓を捕えて麻痺させた。理性もなにも蒸発してしまい、頭を抱えて突伏しているほかはないのだ。
立て続けに付近に落雷が猛爆の轟音をたてた。目を固く閉じていても、恐ろしい紫の閃光が瞼を通過して眼窠の奥へ突き刺ってくるのだ。顔もあげられないものすごい光と音の波動が荒れまわっている。両腕で頭をかばい、神の加護を祈るだけで精一杯だ。
十数発、落雷が連続して、生きた心地も失せ果てたが、ふと気配を感じて卓が顔をあげると、姉の三千子が縁側に立っていた。開け放した雨戸の端に手をかけて、恐れ気もなく稲妻の荒れまわる戸外をのぞいている。
脳裡を真白にする閃光が空間を切り裂くと、三千子の姿はこの世の人ではない凄壮さをもって浮きあがる。髪の毛が逆立つような気がした。
「お姉さん!」
お姉さん、と絶叫するように呼びかけるが、上空を狂いまわる音の津波にあっけなくかき消されてしまう。
姉が雷に打たれる、と思ったが、卓の体は自分のものではないようにぴくりとも動かなかった。
三千子は平然と開けた空間に体を曝し、白い顔を仰向けて、千々に引き裂かれる紫の空を仰いでいる。
付近に立続けに落雷が集中したためか、大気はきついイオン化の異臭をみなぎらせている。体の皮膚にぴりぴりと刺激的な波動が生じている。
今にも雷が縁側の三千子を直撃するのではないかと卓は凍りつく気分になった。
「姉さん! 危い、よすんだ!」
卓は怒鳴ろうとしたが、声が出てこない。なぜ姉がそんな無謀な真似をしているのか見当もつかない。雷見物などしている場合ではなかった。姉は頭がどうかしている!
「丈!」

姉の叫び声が雷鳴に混じって、卓の耳を打った。なんのために彼女が丈の名を呼んでいるのか、卓にはわからない。なにもかも気違いじみていた。
三千子は大声で丈の名を呼び続けている。
卓は自分も気が違うのではないかという気分になった。この雷電の物凄さも尋常ではない。なにもかも狂いかけている。
その時、庭に落雷した。丈余の真青な火柱が立ち登った。卓は畳に突伏し、三千子が雷に打たれたことを確信した。全世界が火を発し、灼き尽される凄絶さだった。
だが、恐るおそる顔をあげた時、確かに雷が落ちたあたりに丈が立っており、姉の三千子が縁側を飛び降りて行くさまを卓は目のあたりにすることになった。
錯覚だ、こんなはずはない、と卓は思った。落雷の衝撃で視神経に変調を来して、おれは幻覚を見ているに違いない。
「お姉さん!」
と、庭に立っている丈の幻が叫んだ。
「丈! 本当にあなたなの!?」
その丈の幻と姉が抱き合っていた。卓としても、いつまでも己れの正気を疑っているわけにはいかなかった。
「兄貴! 戻ってきたのか!?」
と、卓は叫んで、へばりついていた畳から体を引きはがした。足が宙に浮く気分で、自分も庭へ飛び出して行く。
「兄貴! 無事だったんだな!」
卓は巨大な両手を拡げた。この瞬間、これまでになく肉親の絆を強く感じた。
「卓! お前も元気か!」
丈が目をきらめかせて笑いながら、大柄な弟を振り向く。
「兄貴! 落雷とともに帰るなんて洒落てるぜ!」
「まさか雷入りで歓迎されるとは思わなかったよ!」
折も折、沛然と雨が落ちかかってきた。大粒の雨は堰を切った激しさ荒々しさで、みるみるあたり一面をぬらし、白い雨足をはねあげる。三人ともみる間にずぶ濡れになってしまう。
豪雨になった。絶え間なく閃き続ける稲妻だけが、真暗闇をつらぬく唯一の照明であった。
「丈! 本当に心配したわ! 無事に生きて帰ったのね!」
三千子の顔はぐしょ濡れになり、涙と雨の区分もつかない。物凄い土砂降りの中で、丈はとてつもない幸福感に打たれた。やっと帰ってきたのだ。愛する肉親と再会したこの瞬間の感激を決して忘れまい、と丈は思った。全ては激流と化した時間に巻きこまれ、押し流され、抗するすべもない。だからこそ、この閃き去る時を大事にしよう、もはや残り少いのだから......
しかし、丈はいったい何が残り少いのか、突きつめて考えるだけの勇気を持たないままだった。
丈は姉の三千子の肩を抱いたまま、紫電の間断なくはためき続ける壮絶な天を仰ぎ、叩きつけるように落ちてくる雨滴に顔をさらした。強烈な雨勢の中でも、両眼からあふれでる涙の暖さははっきり感じとることができた。そして彼はふとこの至福の瞬間がいつまでも持続することを切実に願った。
丈の切望に対する回答のように、狂乱の天からは幾条もの稲妻が走り降り、暗い地上に突き刺った。
世界を包み、おし迫る暗黒星雲にも似た、巨大な動乱の威嚇の影を、丈は閃光の彼方に見届けていた。至福の瞬間は、あっけなく手をすり抜けて去って行く。それを摑んでおくことも、後を追うこともできない。
豪雨は容赦なく、丈の感傷の涙を洗い流し消し去った。
本書中には「気違い、配管工あがり」という言葉の他、人種の対立を描く上で「チビクロ、黒ん坊、白ん坊、サンボ、ニグロ」という語句や表現が使用されています。これらは、現代の人権擁護の見地からいずれも使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はないこと、物語の必然性や発表された時代性を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
大都会の上に居座っていた、異常に長く暑い夏が、ようやく腰をあげ、去って行った。
粘液質の大気が少しずつ清澄な爽やかさを増してきていた。心なしか安堵の気配が街々に漂っている。だれもがしんそこから長い溜息をついているかのようだった。
いかに異常気象のもたらした炎暑が凄まじいものであろうと、大陸から爽やかな冷気が日本列島の上空に流れこんでくれば、他愛ないほどに記憶から消え薄れてしまう。いつまでも暑く長い夏の記憶に拘泥する者はいないのだ。
日本は高度成長時代に活気づき、猛然と経済成長に加速を加えて突入して行こうとしていた。公害時代はいまだ本格的にその不吉な黒い影を見せて前途に立ちはだかることなく、凶兆はすでに顕われてはいたものの、三年後に控えたエクスポ70と七十年安保に国民の意識は向けられつつあった。猛加速の酩酊感の中で、不協和音を奏でている大終末の唄は、俗耳に入らなかった。
破滅はすでに用意されていたが、それを声高に警告する予言者の不吉な声は、高度成長経済の急加速の騒音の中に埋没してしまっていたのである。
一九六七年、秋──
高校二年の超常能力者、東丈の周辺にささやかな変化が生じようとしていた。
最初は世間のだれの目にもつかないとしても、いずれは全世界に波及し、変化をもたらして行く、その核ともなるべきものであった。
東丈を中心として、強力な磁場が形成されたように、吸引された人々が集まりつつあった。
磁石が働いたように、目に見えない力に惹かれるのか、丈の周辺はにわかに人の密度が濃くなった。
いつでも人々が群がっている。以前の丈には考えられないことだった。夏以前の丈は、一癖ある、相当なうるさがたとして、むしろ敬遠されていたからだ。
今は、だれもが丈に対して強い関心を抱いており、それを隠せない雰囲気となっていた。それは畏怖であり、物珍しさであり、薄気味悪いものへの反撥でもあったが、総じて、己れの理解を超絶した存在への反応であることにおいて同一であるようだった。
丈が異様な〝力〟の所持者であることが、いつしか知れわたり、公然の秘密となっているらしかった。
噂の出所は、おそらくかつての友人の江田四朗あたりであろう。四朗は丈の凄まじいPK能力を目のあたりにした証人である。彼が口外したとしても不思議はなかった。
もっとも、丈と四朗の友情が壊れて以来、四朗は接近してこない。丈に対して強い反感を持っていることは明らかであった。丈の有する〝力〟についてネガティヴな、いやな噂が広まっているのは、四朗の敵意と偏見が醸成したものとみなしてもよさそうだった。
あるいは丈の自宅の近隣で口さがない人々によって囁かれている噂話が、丈の通学する高校、青林学園へ持ち込まれたということもひとつには考えられた。
さまざまな風聞が丈に関して取沙汰されていたことは事実であり、丈にもそれと察しがついた。
しかし、だれ一人として丈に向かい、真実をずばり尋ねる勇気を持ち合わせている者はいなかった。その理由は、一つには丈がそうした興味本位の質問を受けつけないような雰囲気を身につけてしまっていたせいであるかもしれなかった。
丈がそれを意識したわけではない。だが、彼は癇の強い、ひ弱な少年のマスクを血を流して一挙に剝ぎ取ってしまったほどの顕著な変貌を示していたのである。
ある人々には、その変化は驚異であり、同時に異常に魅力的に感じられたのであろう。
丈は確かに変った。もともと端麗な貌が冴えて、沈潜した落着きが生じてきた。単にハンサムであるだけではなく、とぎ澄まされた鋭利さと陰影のある憂色が同居する奇妙にアンバランスな印象で、見る者を惹きつけてやまないのだった。
丈は、宇宙の真の姿を見てしまったのである。その経験が丈を決定的に変えた。二度と再び以前の無知で傲岸な自分に回復することはありえないと悟っていたのだ。
もちろん、丈にはその凄絶な経験を生かすだけの稟性があったからこそであろう。
丈の黒曜石のような瞳から、落着かず絶え間なくちらついていた光が消えた。
突っかかるような戦闘的な言動も、抑制のきいた穏和さにレベル・ダウンした。全身に生やしていた不可視の海胆の棘の如きものが消え失せたのだった。
強固なバリヤーが失せたのを知ったかのように、にわかに数多くの人々が丈に対して接近を計ってきた。丈は自分が強い磁石になり、砂鉄を吸引しているような気がした。自分では己れの何が他人に影響を与えているのか、さっぱりわからないのである。
自分のPK能力をこれ見よがしに披露したわけでもない。少くとも意識的にPKを発動した憶えは一度もない。むしろ、そんなものは持たないかのように自ら封じ、隠蔽しているのだ。他人に己れの超常能力を誇示したり、吹聴したりする気は毛頭なかった。
一方では、かつての親友の江田四朗のように敵意と反撥をあらわに遠ざかった者もいる。
四朗がいいふらしたのかどうか、丈を無気味な怪物でもあるかのように忌避し、近寄らない人々ももちろん多数存在した。
理不尽に恐れられるのは愉快な気分ではないが、さりとて丈の方から弁解しに行くこともできない。四朗の反目が、超常能力を持たざるがゆえの嫉妬から発していることはわかっているが、それは四朗の問題であり、丈にはどうすることもできないのだ。
それは明らかに丈の責任ではない。
しかし、黙過することのできない問題であることも確かだった。
焦慮に堪えねばならない時もある。待たねばならない時があるのだ。
丈は人が長い時間をかけ苦労して身につける人間知をいつしかわがものにしていた。以前の丈にはおよそ考えられないことだったはずである。ごく短時日の間に、血を流してひ弱で癇性な少年のマスクを剝ぎとってしまったことと無関係ではないに違いなかった。
──話を聞かせてほしい......
と、幾人もの人間が、直接丈に接近を計ってきた。それは同級生でもあったし、顔のみで名を知らない下級生であったりもした。
かつては女生徒にのみ人気のあった丈だが、今は男生徒からも丈に手紙が届けられた。
丈のまったく知らない者たちが多数、丈への強い関心を隠さず、接近の機会を捕えようとしているのが感じとれた。
だが、丈はさしあたり自分から行動を起こしたり、彼らの関心に応えようとする気はまったくなかった。前述した通り、丈は今が待つべき時であり、行動を起こすべき機は至っていないと知っていたからである。
同級生の久保陽子が、丈に対して最初に接近を成功させた一人となった。
──お話ししたいことがあるんです。今日の午後、文芸部の部室まで来ていただけないでしょうか。
久保陽子はおそろしく緊張しきった物腰で丈に声をかけてきた。陽子はおそろしく生真面目なタイプである。緊張すると校長室に呼ばれた小学生のようになってしまう。まるでゼンマイ仕掛の人形みたいにぎごちなくなってしまう。
「話ってなんだ?」
と、丈はいった。聴き耳をたてている同級生が沢山いるので、陽子はさらに硬くなってしまった。喋ろうとして口をあけるのだが、なかなか声が出てこない。みるみる顔が上気して真紅になった。
「折り入っての話なのかい? ここでは話したくない?」
以前の彼にはおよそ考えられない思いやりを示して丈がいった。たしかに夏休み以前の丈であれば、お高く止ってはなもひっかけなかったであろう。
事実、これまで口をきいたこともないはずである。コチコチに真面目、見た目にも小学生かせいぜい中学生並みだ。なんの関心も持てないタイプだった。丈はもともと年上の成熟した感じの女性にしか興味がなかった。青い未熟な果実のような久保陽子を気にも止めなかったのは無理もない。
「ええ......すみません。お願いします!」
久保陽子は粉を吹いているような白い顔で、声をうわずらせた。丈に声をかけるだけで、校舎の四階から跳び降りるほどの覚悟を固めていたに違いなかった。
周囲で聴き耳を立てていた同級生たちが、目配せをしたり、小突きあったりしていたが、面と向かって揶揄してくる者はいなかった。以前であれば、そんなことはとうてい考えられなかった。今の丈は確かに一目置かれているのだった。気易くからかいの対象にできる存在ではなくなっていたのだ。

丈は今や青林学園という小宇宙で、もっとも気になる存在と化していた。それは彼が己れ自身で考えている以上のものであった。
2
青林学園に文芸部があることぐらいは知っていたが、だれが部員になっているのか、丈は知らずにいた。
よほど沈滞して、存在感のないクラブであるに違いなかった。この何年も機関誌が出版されていないらしいのである。
丈も中学時代には作家になろうと思いたって、三島由紀夫調の習作を数編書いて、文芸部の機関誌に掲載し、好評を得たことがあるが、多趣味で移り気な丈にはあまり持続しなかった。
今はなんの興味もない。文学などくだらぬ二流趣味だと思っていた。
「君が文芸部員だなんて知らなかったな」
その日の午後、丈は文芸部の部室で久保陽子に遭うなりいった。女子部員が多いのか、部屋はわりあいこぎれいである。高校のクラブはどこでも殺風景なのが普通だ。埃っぽく雑然としている。
「文芸部って、いったい何をやっているんだ?」
「今の文芸部は、部員が八名しかいないんです。そのうちの三名しか出てきません」
と、久保陽子が答えた。
「それじゃ、クラブ活動なんか無理じゃないか」
丈は目をほそくして久保陽子の顔を見詰めながらいった。
「はい。なにもできません」
と、彼女は小学生みたいに返事をした。
「文芸部ももうこれでおしまいだなって、みんなでいっています」
ますますもって、校長室へ呼ばれた小学生だ。かちかちになり、不動の姿勢を崩そうとしない。
「おれになんの用かわからないけど......座ってもいいかい?」
「はい。どうぞ......気がつかないでどうもすみません! 今、お茶を淹れます!」
久保陽子は気の毒なほどあわてていった。みごとなほど顔が赤くなっている。以前の丈であれば、陽子が自分に愛を告白するのかと思いこんだであろう。しかし、今の丈には余裕というべきものが生じていた。自分自身をある程度客観視できるようになっていたのだ。
丈は目を窓外にそらした。開放された窓からは後庭の緑がのぞき、爽やかな風が入りこんでくる。だが、日射しはまだ烈しく強い。あの凄まじく暑い夏の出来事は、濃縮されたような記憶となって丈の脳裡に折り畳まれていた。丈が持っている凄絶な経験を知る者は姉の三千子以外に一人もいない。弟の卓でさえアウトラインを心得ているだけだ。
今、自分がこの場に平穏裡に存在することさえ不思議に思えてくるのだった。その後のルナ王女たちの消息はいっさいわからぬままである。時として居堪れぬ焦慮に胸をかきむしられてしまう。
修羅の場と化したニューヨーク市へ再び飛び帰りたくなってしまうのである。
久保陽子がお茶を淹れて運んできた。自分は粗末な木のベンチに腰をおろし、きちんと両膝を合わせる。
「まさか、おれを文芸部にスカウトしようというんじゃないんだろう?」
丈は、相手の緊張をほぐそうとして冗談をいった。
「文芸部廃絶の危機を救うために......」
まさか久保陽子が、丈の中学時代の習作を読んでいるはずはないと思った。出身中学も違うし、同級生とはいえ口をきいたこともない間柄である。比類なく真面目だというほかは、まったく目立たない少女であった。
「いいえ。文芸部なんかどうでもいいんです」
と、久保陽子は真剣な口調でいい、丈は度胆を抜かれたように彼女を見詰めた。とっさに言葉が出てこなかった。
「しかし......じゃ、なぜ......」
「文芸部のことなど気にしないでください」
陽子は懸命な口調で続けた。
「たまたま部室が空いていたので使わせてもらっているだけなんです。それより、わたし、東さんにいろいろ質問したいことがあるんですけど、いいでしょうか?」
「君の聞きたいことは、だいたい見当がつく」
丈は相手の上気し、汗を浮べた顔から目をそらし、緑の濃い窓外の空間に投げた。
「だが、今話す気になれるかどうかはわからない......」
「もちろん、話したくないのに東さんに無理強いはしません......わたしが真剣で、面白半分じゃないってことだけ、わかっていただきたいんです」
「君が真剣なのはよくわかってる」
丈はいささか気圧されるのを感じた。ひたむきな強さだ。同級の女生徒にはまったく無関心だったので、久保陽子の思いがけぬ個性に新鮮なショックを感じていた。
「お尋きしていいですか? あの......今、学校中で東さんのことがいろいろ取沙汰されています、ご存知でしょうか......その噂が本当かどうか知りたいんです、とっても」
「確かにいろんなことをいわれているようだね」
丈は用心深かった。
「君はなにを知りたいんだ? おれがどんなに異常な人間かってことか?」
「誤解しないで下さい。わたし、ただ真実が知りたいんです」
久保陽子は髪の付根まで真赤になり、声をうわずらせた。
「興味本位じゃありません、信じて下さい。東さんが見たことを......宇宙でなにを見たのか尋きたかったんです」
「君はえらく変ってるな。そんなことを聞いてどうする? 興味本位でもなく、面白半分でもなかったら、いったいなんなんだ?」
「............」
陽子は言葉に詰まり、苦しそうに黙りこんだ。かすかに頭を振る。
「ただ知りたいんです。是非教えてください......」
「悪い評判の方を聞きたいのかい? それとも......」
丈は相手のあまりの真剣さに圧され、気の毒になってきた。久保陽子は必死なのだ。おそらく男の子に自分から話しかけることさえ、大決心が必要なのだろう。そんな少女だ。
「どうやらおれが悪魔とか化物とかにとり憑かれたという噂が広まっているらしい。そうじゃないのかい?」
「はい。天狗にとり憑かれたとかいっている人もいます」
少女はあっさりと認めた。そんなことを今まで丈の前で口にしたのは彼女が初めてであった。
「天狗だって......? ずいぶん古めかしいことをいうもんだな」
「あの......怒らないでください。もっとひどいことをいっている人たちもいます。東さんは恐ろしい力を持った大魔王になったんだって......あなたに逆らうと簡単に殺されてしまう。骨も残さずに地上から消されてしまう......そんなことをいいふらしているみたいです」
さすがに眉をしかめる丈を心配そうに見ながら、陽子はいった。
「もちろん、そんなこと、わたしは信じていません!」
「だれがそんなことをいいふらしてる?」
「............」
陽子は沈黙した。喉の奥になにか突っかえてしまったようだった。
「だれの仕業かわかってる。江田だろう?」
他にいるはずもなかった。
「わたしは江田さんから何も聞いていません......そんな噂を聞いただけです」
と、少女は弁解するようにいった。
「だれが何をいおうと気にはしないさ。しかし、噂が事実だとしたら、君はどうする?」
「そんな......事実なんですか?」
「事実だとはいわない。君はただそれを確かめたいだけなのか?」
「東さんに関していろいろなことがいわれていますけど......東さんは空を飛んでアメリカへ渡ったというのは本当ですか?」
少女は思いきったように尋ねた。
「君はどう思う? そんなことが可能だと思うのか?」
丈はあくまでも慎重だった。反問する。
「わたし......できると思います」
「しかし、科学的でないとは思わないのかい?」
「科学では説明できないことは沢山あると思います。超心理学で扱っているESP......超感覚的知覚だって、日本ではほとんど研究されていませんけど、アメリカやヨーロッパやソ連では熱心に研究されて、科学化されています。日本は遅れているんです、とっても。東さんが持っている力はたぶんサイコキネシス、念動力とかいわれている力です」
丈ははっと驚いた。
「驚いた......まったく意外だな。どうしてそんなことを知っているんだい?」
見直すという気持であった。眼前の少女がただ生真面目である以上の存在に見えてきた。
「わたし、興味があるんです。いろいろ調べてみました」
「君がそんなことを知ってるとは思わなかった......」
丈は驚嘆の目で見詰め、少女はますます顔を赤くした。一九六七年の当時、超能力や超心理学はほとんど人に知られてはいなかった。日本では一部のディレッタント、好事家のものでしかなかったし、むしろSFの世界で知られている程度であった。
「サイコキネシスでも、空中浮揚といっている超常能力だと思うんですけど、昔からの言い伝え、伝説の中にはよく出てきます。たとえば久米の仙人の空中飛行をする仙術もそうだし、役の行者小角も行なったと伝えられています。伝説は馬鹿にできません。現にトロイを発見したシュリーマンの例もありますから......」
「いろんなことを知ってるんだな、君は」
丈の感嘆ぶりに、少女はしだいに気をよくしてきたようである。
「ちょっと調べてみただけです。超能力というのは確かに存在して、否定できないと思っているんです」
「君は超心理学に興味があるんだね?」
「ええ。心霊主義、スピリチュアリズムというのもありますけど、霊とか霊媒とかいうと、一般の人は神がかりみたいに感じて、抵抗が強いと思います。正統な学問には馴染まないんじゃないかと思うんです」
意外に喋らせると、久保陽子は雄弁であった。熱中に目が輝き、魅力的になった。開放した窓から入ってくる風が、少女の前髪をなぶると、まるみをおびたなだらかな白い額が現われ、丈はそれに異性を感じた。彼女は凡庸な見かけ通りの女の子ではないようであった。他愛もない、食べ物や化粧の話に憂き身をやつしている他の女の子たちとは一線を画するものがあった。しかし、多分に風変りといってもよさそうだ。
「もし、おれに君のいうサイコキネシスという超常能力があったとしたら? 君は超心理学の研究対象として、おれを研究したいというわけか?」
丈は、少女の目を直視しながら尋ねた。心を読みとろうとしたのだ。
「だとしたら、お断りだ。おれは超心理学とやらのモルモットになる気はないんだ」
「いいえ......モルモットだなんて......そんなつもりは全然ありません。東さんの超常能力を実験したくて、こんなことをいってるわけじゃないんです」
「それは違うな。君はおれに対して好奇心を持っている。噂がもし本当なら、おれの〝力〟を試してみたいと思ってるんだ。違うかい? もし否定するなら、君は噓つきだ」
少女は丈の視線に堪えられず、目を伏せた。全身の皮膚が赤く染まるのがわかるようだった。こうした年代の少女の赤面は生々しく生理的なものだが、彼女のそれには爽やかさがあった。
「ごめんなさい......わたし、好奇心がありました。でも、決してそれだけじゃないんです、信じて下さい......」
「じゃ、どんなつもりで、そんなに知りたがる?」
丈の追及は仮借がなかった。底から光ってくるような黒い瞳で少女の心の底まで見通すように凝視し、放そうとしない。それは男らしく迫力があって、少女を息苦しくさせた。
「実は......わたしのおじいちゃん......祖父は若いうちから不思議な力があって、気合一つで雀の群を気絶させてバラバラ落したり、犬や猫を不動金縛りにすることができる人だったんです。武道をやったせいだといってましたけど、今思えばサイコキネシスとしか考えられません。動物だけじゃなくて、家に入った泥棒に念力をかけたところ、道の真中で立往生しているのが朝になって見つかったこともあったそうです。とても念力の強い人で、祖父のおかげでESPに関心を持つようになったんです」
「君のお祖父さんは超能力者だった......?」
「はい。だから、わたしにしてみれば、超能力の存在を信じるとか信じないということじゃないんです。ですから、東さんのことを聞いた時も、ああ、おじいちゃんと同じような〝力〟を持った人がいるんだなって、とても感動したんです。で、どうしてもお話をしてみたいと思ったんです」
久保陽子は熱心にいった。
「東さん、あなたは超能力者なんでしょう? なぜそれを認めようとしないんですか? その理由を教えてください。本当のことを明らかにすると、さしさわりがあるんですか?」
「おれが自分のことを他人に話すのも話さないのもおれの自由だ」
と、丈はきっぱりといった。
「必要でもないことをべらべら喋るつもりはないんだ。君のおじいさんが超能力者であろうとなかろうと、関係がない」
「............」
君に話す必要はない、と断言されたのといっしょだった。少女はしょげた表情で沈黙してしまった。どう話を持っていけばいいのかわからなくなってしまったのだ。
「おれが超能力の持主であろうとなかろうと君には関りのないことだ。そうじゃないか。もし仮りにおれが超能力者だということを認めたとする。それで、君はいったいどうするつもりだ?」
「どうするつもりって......」
少女は困惑して頭を振り動かした。
「それを知って、どうする? それが君にとって何を意味するかということだ」
「わたしにとって......?」
久保陽子は考えこんだ。哀れなほど混乱し、当惑した表情であった。
「君になにか変化をもたらすのかということだよ」
「わかりました!」
ぱっと少女の顔が輝いた。喜びの表情が魅力的だった。
「わたしの生き方がたぶん変ると思うんです!」
「なぜ? おれが超能力を持っていることと、君の人生とか生き方とどんな関りあいを持っているというんだ?」
丈の追及は仮借がなかった。相手のあいまいさ、あやふやさを徹底的に洗いだしてやまないという語気だった。
「わたし、ちょっと噂を聞いただけなんですけど、宇宙ではおそろしく大きな戦いが、宇宙を二分して行なわれているとか......それは善の力と悪の力との激しいぶつかりあいだと聞きました。東さんの〝力〟は、その宇宙の戦いに関係しているって......」
「それで......?」
「地球もずっと以前からその戦いに巻きこまれているとか。東さんはその宇宙の戦いのことをよくご存知だと......わたし、その話を是非ともお聞きしたかったんです」
丈は不意に目が覚めたような顔になって、久保陽子を見返した。恐ろしく真面目だけれども、鈍いと思っていた少女がそうでないことに突然気がついたのだ。
「それを聞いて、どうする?」
「もしそれが本当なら、全ての人間がはっきりと目を覚さなければいけないと思うんです。どんな国のどんな人間にしても、エゴイスティックな生き方はできないはずでしょう? 自分さえよければいいという自己本位な考え方で、地球上では角突き合っているけれども、もし、宇宙的な戦乱の嵐が吹き荒れているのをはっきりと知れば、生き方が変ってくるし、また変らざるを得ないはずです。わたし自身、平和な日本でぐうたらに生きていることを変革しなければと思うんです」
「君のいうことは正しい......おれは確かに宇宙で行われている〝幻魔大戦〟を見た」
丈は熱くなっていった。久保陽子になら、自分の知っていることを語ってもいい、彼女はそれを聞くだけの資格があると確信したのだ。彼女は江田四朗とは違う。彼女なら丈の話を正しく理解することができるだろう。
「これからおれが話すことは、常識的にいうとおそろしく突飛なことだ。しかし、今宇宙で何が起こっているか、できるだけ正確に、おれの知る限りを話す......もし信じられないと思っても、即座に結論を出さずに、保留しておいてほしい......」
「はい......」
少女は目を大きくみひらいて、緊張を全身にみなぎらせ、待っていた。丈はその背後の窓に目をやり、午後の陽光が風に揺れている木々の緑を視野におさめた。平穏さに満ちた秋のたたずまいであった。現実の見かけと内実の落差がふと丈を愕然とさせた。
嵐が実際に襲来する以前は、だれも嵐の脅威に思いを向けることはない。現在を現実主義者として平穏に生きることの方が望ましいからだ。不快な予感は、たとえ生じたにしても心から素気なく追い払ってしまう。人間の心は享楽主義とマッチしやすくできているのかもしれない。
だとすれば、神の言葉を伝えるという預言者が人々の怒りを買い、石や馬糞を投げつけられ、追い払われるのも無理はない。
丈は話し始めた。
3
丈の話を、久保陽子は大きくみはった双眸をほとんど瞬きもさせずに聞き入っていた。
丈はこれほど熱心な聞き手を期待したこともなかった。激しい精神集中で、白々と顔が面変りしているほどだった。やや上目遣いに丈を凝視する瞳が底の方から光ってくるようだった。恥しがり屋の少女が、今は丈の顔にまともに目をあてて、そらす気ぶりもなかった。
丈は、トランシルヴァニアの王女ルナが、いかにして〝フロイ〟と呼ばれる宇宙意識から招集されるに至ったかを語った。話しているうちに、ルナ姫のそれが、自分自身の体験であるかのような迫真的な感じがしてきた。おそらく王女との間に生じたサイキックなつながりによって、意識の自己同一化が一部分生じているのであろう。
丈は、宇宙戦艦の残骸の中で、異星のサイボーグ戦士ベガに王女が遭遇するシーンをはっきりと瞼の裏に投影することができた。いつかこの感動的なシーンを絵に描いてみたいという欲望も覚えた。
考えてみれば、丈が己れ自身で経験したのでもないのにこれだけ明確に視覚的な記憶があることは奇蹟としかいいようがなかった。さながら丈が王女自身でもあるかのように、精密な記憶が、想起する努力によって、丈の意識の表層に浮びあがってきた。
丈がそこまで知っているはずのない記憶だ。今だに丈と王女の間には、目に見えないサイキカルなパイプがつながっているようであった。
それは、意識の急速な拡大の感覚をもたらすものだった。己れ以外の視点を獲得して世界を見ることが可能になったのだ。
この世界が変貌し、そこに生じてくる広大な共生感ともいうべき感覚を他の人々にももたらしたい、と丈は願わずにいられなかった。たとえば、今眼前にいる少女、久保陽子に対して、己れが感じている豊饒な世界の拡大感をもたらしたいという痛切な望みだった。
しかし、己れの言葉、語彙のなんと瘦せこけて貧困なことだろう。
いかに熱意をこめて語ったところで、感動の本質はいたずらにすり抜け、白々しく貧しく萎縮して行ってしまうのだった。自分の訥弁をこれほど意識したことはなかった。以前はもっと雄弁だったような気がする。愚にもつかないことを大量に喋るぶんには、人間は雄弁でいられるのかもしれなかった。
いざ、真に大切なことを語ろうとする時、初めて己れの言葉の貧しさに気付くのだ。
しかし、丈の焦慮とは反対に、少女はどもり、つかえながら語る丈の言葉の一語一語に対して鳥肌立たせるほどの反応を見せて聞き入っていた。
丈は話しながら己れの経験したことを追体験した。孤独で歪んだ劣等感の持主であり、ヒトラー・タイプの熾烈な権力志向の持主だった自分が、まかりまちがえばヒトラーのように悪魔と盟約を結び、幻魔に使嗾されるままに〝世界の王〟としての道を辿りかねなかった危険が、記憶による追体験を味わう間に、冷風となってよぎって行くのを知った。
それこそが、真の危機だったのだということが今はっきりとわかった。〝幻魔〟は物質的欲望の充足を約束することにより、丈の魂を買い取ろうとしたのである。それをきっぱりと拒否なしえたことが、今となってみれば奇蹟的に思えた。
──まるで荒野の四十日の放浪中のイエス・キリストみたいですね。
と、後で久保陽子が感想を述べた。
──〝悪魔〟がイエスの前に現われて、自分を崇めれば〝世界の王〟にしてあげる、といったんでしたね。
──そういえばそうだな。
と、丈は無気味な暗合に膚寒くなったものだった。
──もちろん、おれは救世主なんかじゃないけどね。正直いって、強大な超能力で世界を従え、征服するという考えには、血が沸騰して、頭がくらくらと痺れるほどの魅力があった。もう少しで〝幻魔〟の誘いに乗ってしまうところだった......
──いいえ、東さんは決して魂を悪魔に売るような人じゃありません!
久保陽子はりきみかえって断言したものだった。
──イエス・キリストがサタンに魂を売らなかったのと同じです! 〝幻魔〟って馬鹿ですね。それくらいわからないんでしょうか?
彼女は丈を信じきっているのだった。
──きっと〝幻魔〟は東さんの気性のことを知らなかったんですね。だから、誘惑なんて馬鹿なことをしたんですね。
愛らしくも生真面目な断言ぶりだった。しかし、それは後の話である。この時の久保陽子は目を瞬きもせず瞠って、丈の話をひたすら聞くのに夢中であった。
地球に侵攻を開始した〝幻魔〟について語るには、彼のかつての恋人である沢川淳子のファミリーを襲った凄惨な運命について避けて通ることはできなかった。
それを口外することは、丈にとり少からぬ危険を意味したからである。沢川邸爆発事件はまだ人々の記憶に新しく、警視庁に設けられた捜査本部も活動を続けているはずだからだ。〝幻魔〟ザンビに肉体を簒奪された刑事の失踪事件も派生し、いまだに解決を見ていない。
その後、警察の動きは表面化してはこないが、あるいは丈の身辺を内偵中であるのかもわからないのだ。この種の大事件を日本警察が簡単に投げだしてしまうことは、およそありえなかった。
しかし、〝幻魔〟が地球への侵攻を断念しない限り、今後も丈への攻撃は止むことはないだろう。そして丈の知る限り、〝幻魔〟が中途で挫折を甘受することはおよそありえないように思えた。
現在は小休止期を迎えているにすぎず、いずれ前回を上まわる激しい攻撃が仕掛けられてくることを丈は確信していた。
──そんな物凄い念動力をお持ちなのに、ずいぶん他人のことに気を遣われるんですね。優しい心をお持ちだからですね。
と、後で陽子がいった。丈の姿勢の柔軟さが不思議でもあり、また感動的でもあったのだ。
「あたしだったら、警察が因縁をつけに来たら、ぶっとばしちゃいます。だってなんにも悪いことはしてないし、心に恥ずることはないんですもの。それに、なんにも悪いことをたとえしてなくても、警察に捕まったりしたら、世間ではやっぱり悪者だと思うでしょ。それが世間ですよね。だったら、やっぱりあたし、テレキネシスでやっつけちゃう。どうせ、テレキネシスは目に見えないし、警察だって、だれがやったかわかりゃしませんものね。二度と来ないようにうんと懲らしめてやります」
──しかし、警察だってべつに悪いことをしてるわけじゃないんだぜ。
と、丈は指摘した。
──もし、君のお父さんが警官で、上官に命令されておれを捕まえに来たとする。おれのサイコキネシスでぶっとばされちゃったら、どんな気がするかい?
「それもそうですね」
陽子は考えこみ、深刻な声音で同意した。
「やっぱりサイコキネシスでぶっとばすのはやめることにします。警官にだって妻や子供たちもいるし、怪我させたりしたらお気の毒ですもの。でも、サイコキネシスで警官がやって来られないように食い止めるのはいいんじゃないでしょうか? いくら歩いてやって来ようとしても、目に見えない壁があって、足が進まないし、パトカーも動かないんです。それならいいんじゃないでしょうか?」
──まるで化物を捕まえに行くようだな。しかし、おれが奇怪な力を持っていること、それで警察を遠ざけていることは、すぐに世間中に知れわたる。世間の人々は、おれを悪い妖術使か怪獣みたいに思うんじゃないだろうか。おれが外を歩くと、人々はいっせいに顔色を変えて死物狂いで逃げて行くんだ。君だったら、そういうことになっても平気なのかい?
「なるほど......それも困りますね。あたしが〝幻魔〟についていくら本当のことをいっても、だれも信じてくれなくなりますものね。あたしが〝幻魔〟そのものだと思われちゃうかもしれません。やっぱり警察をサイコキネシスで食いとめるのはやめます」
陽子は改めて尊敬の眼で丈を仰いだ。
「すごいんですね。いろんなことを充分に考え抜いているんですね。あたしなんか抜けているから、すぐに悪者扱いされてしまいますね、きっと。
でも、東さんが考え深いのはきっと、他人のことに対して思いやりがあるからなんですね。だってふつう相手が攻めてきたら、相手の奥さんや子供たちのことなんか構っていられませんもの。東さんが本当に優しいから、相手の身になって考えられるってことですね。あたしも考え方をこれから変えます!」
丈は話し続けながら、眼前の少女が伝えてくる未来の時制の谺のような心の波動を感じていた。
陽子にはなにか切実に求めているものがある。それは日常次元において、人間が欲求する類いのものではない。人間が魂で求める、そういった希求なのだ。陽子が持っているのは、求道者の生真面目さなのだ、と丈は薄々感じていた。
「沢川家が大爆発で消滅したのはあなたのやったことで、それはあなたが大魔王の力を持っているからだ、といっている人たちが大勢います」
と、陽子は憤慨の口調でいった。
「警察があなたを捕まえに来ないのは、あなたの〝力〟をこわがっているというんですよ。もし、あなたに楯突くと、文字通り、言葉通りに消されてしまうからだって......本当にひどいこというと思いませんか!」
「それをいいふらしているのは江田四朗だろう?」
「はい。大体はそうだと思います」
「だったら、江田がまだ元気でぴんぴんしていて、消えもしないでいるというのは、どういうことになるんだい? おれの悪口をいっても無事ですむということは、彼のいいふらしていることと食い違うじゃないか?」
「あっ、そうですね。確かにその通りですよね! なんでみんな、それに気がつかないんでしょう。本当に馬鹿みたいですよね!」
陽子が慨嘆する。
「今度そんなことをこそこそいってる人がいたら、あたし、いってやります!」
「無責任な面白半分の噂というのは、たいてい矛盾しているんだ。しかし、それに気がつくのはごくわずかだ......しかし、こんなことぐらいでへこたれちゃいられない。いちいち噂する人間の口を塞いでまわるわけにもいかないだろう。そんなことより先に、しなきゃいけないことがある......」
「しなきゃいけないことって......なんでしょうか?」
「われわれが本当の〝力〟をつけることだよ。どんな中傷や攻撃にも崩れない強固な連帯を持つことさ。われわれの敵は人間じゃなくて、〝幻魔〟なんだから......」
「本当にそうですね。人間同士傷つけあい争っていたら、〝幻魔〟にかなうわけがありませんよね」
と、陽子が生きいきとした声で叫ぶようにいった。
丈は、未来の時制から響いてくる谺に似た会話に心の耳を傾けていた。それは遠感で捉えた、はるかに遠方で交されるかすかな話し声に似ていた。同時にそれは未来予知の一種であったのかもしれない。
現在の久保陽子は、丈の話に耳を傾けることに精神集中しており、おそろしく真剣な表情で一語も発していない。が、丈の耳には、未来において二人が話しあうであろう会話が遠い谺のように響いてくるのだった。
その二重性が奇妙であり、興味深くもあった。丈の心に伝わってくる二人の会話が、彼のつくりあげた想像であるのか、あるいは未来の時制を先取りしているのか定かではなかったのだが......
4
「あたし、ルナ王女って失礼だけどあんまり好きになれません」
と、少女が真剣な口ぶりで語っていた。抗議しているようだった。
「なにかとっても横暴で傲慢だなって気がするんです。だって、いくら東さんの超能力を目覚めさせるためといっても、恐怖や暴力を道具に使うなんて、野蛮すぎるし、人間の尊厳を踏みにじっていやしないでしょうか? もし東さんが死んでしまったら、いったいどうやって償うつもりだったんですか? 償えやしませんよね。だったらルナ王女のやったことは、とうてい許せないことじゃありませんか!?」
「王女にはその必要があったんだ。他に方法がなかったんだよ」
丈が王女を弁護する口調がいっそう陽子の心を熱くさせるようであった。
「本当にそうでしょうか? 他にあなたを覚醒させる方法はまったくなかったと断言できるんでしょうか!?」
「そう問い詰められても、おれは王女じゃないから......しかし、おれの潜在超能力を引きだすには、恐怖が一番効果的な手段だったことは考えられるな」
「だって、そんなの、思いやりがないじゃありませんか? 残酷だし、非情だと思います! その後、〝幻魔〟大王を東さんの意識の中に投影して脅しつけたやり方だって、冷酷そのものだと思います! あたし、本当にむかむかと腹が立って......いくらあとで治したとしても、他人を恐怖で発狂させるなんて、そんなひどいこと許されるんですか!?」
「王女には治す確信があったんだよ。それに王女はそれがおれにとって一番いい方法だと信じたんだろう。たぶん彼女の考えは正しかったんだと思う。王女のやり方は手きびしかったけど、おれの目を覚まさせてくれたわけだから......」
「そんなこと許せません! いくら必要だったからって、ひどすぎるもの......」
陽子は感情的になり、憤りに声を慄わせた。
「いったい何さまのつもりなんでしょう!? 他人に対して、そんな生殺与奪の権力を行使するなんて!」
「きっと自分が王女のつもりなんだろう」
と、丈がいった。陽子は意表を突かれたように声を吞んで黙りこみ、それから泣きそうな声音でくすくす笑った。
「そうですね。怒ってもしょうがないですね。東さんはこうして死にもせず、狂人にもならずにすんだんですものね。王女様にお礼をいわなきゃいけないのかも......でも、やっぱり少しは腹が立ちます。あたしの考え方が間違ってるんでしょうか?」
「間違ってはいないだろう......王女は完全無欠な人間じゃないんだ。でも、それはだれだって同じことだ」
「東さんは腹が立たないんですか? これだけひどい目に遭わされたのに」
「その時は腹が立った」
と、丈は認めた。
「で、今は?」
と、陽子が手を緩めず追撃する。
「正直にいってください。思いだして腹が立つということはないんですか?」
「あるよ」
丈は正直にいった。
「やっぱりね......あんまり東さんが聖者ぶってるから、どこかつねくりたくなってたんです。王女は傲慢で独善的な、鼻もちならない人間だと思います。あたしはやっぱり王女が好きになれませんけど、それでもいいですか?」
「好きになれといっても無理だろう。しかし、王女を理解することはできるはずなんだ。王女には王女の立場があり、大きな責任がある......君だって王女の立場に立てば、結局同じことをしたかもしれないんだ」
「いいえ。あたしはそんなひどい手段で東さんをいじめたり、絶対にしません!」
久保陽子は力みかえって断言した。
「うんと親切にしてあげます。人に恐怖を与えたり、脅しつけるなんて、あたしにはとてもできません」
「そして、おれはまだ目が覚めずにフラフラしているだろう......」
「東さんは、王女のことが憎らしいんじゃないんですか!」
と、陽子がむきになる。
「東さんはきっとルナ王女が好きなんですね、やっぱり?」
「好きだとはいえないな......しかし、そんなことは問題じゃないんだ。個人的感情だからな」
「やっぱり東さんは、王女が好きなんです。だから一生懸命かばうんでしょう」
陽子の思いこみを訂正することは、丈にはできなかった。丈自身、王女に対する己れの気持がよく理解できないほど屈折したものだったからである。
「しかし、三千子姉さんは、王女が大のひいきなんだ。王女に対して、なんというか、肩入れしているんだ。姉さんの前で王女の悪口なんかいえないぜ」
「東さんのお姉さまは、ものすごくすてきな女ですね」
陽子が熱意をこめて讃美する。
「あたし、大好き。美しくて、たおやかで、神秘的ですね。あのお姉さまに育てられて、東さん幸せだと思います。理想的な母親って感じがしますね。あたし、惚れぼれとしちゃいます」
「それはともかく、王女は三千子姉さんによれば、オルレアンの少女ジャンヌ・ダルク以上の神聖な存在なんだけどね。君の意見を姉さんに聞かせてみようか?」
「それなら、あたしも王女様の悪口はいわないことにします」
陽子が急いでいう。
「お姉さまがそんなに褒めていらっしゃるなら、ルナ王女は本当は立派な人なんでしょう。だからもう、悪口はいいません」
「そいつはちょっと節操がないんじゃないか?」
丈が呆れる。
「いいえ、いいんです。だって人を自分の好き嫌いで判断するのはよくないことでしょ? だから、もう王女さまのことは決していいません」
陽子は真面目くさっていい、丈は笑った。
丈は未来の谺があまりにも生々しいので、二人が現実に喋っているのではないかと錯覚するほどだった。
思わず声を吞んで、眼前の陽子の顔をじっと凝視する。丈が不意に黙りこんだので、相手は不審そうに愛らしい額に薄いシワを寄せて彼を見返した。
「どうかなさったんですか?」
と、少女が尋ねた。同時進行している会話は丈にしか聞こえないもののようであった。陽子はただ丈の肉声にだけ、耳を澄ましているのだった。
単なる想像ではない、と彼は不意に確信した。丈は未来からの声に耳を傾けていたのだ。
それは丈の意志を向けると始まり、そらすとスウィッチをオフにしたように止ってしまうのだった。超常能力の新しい形態が丈の裡に目覚めたのかもしれなかった。
「あたし、今までだれにも話したことなかったんですけど、変な〝力〟があるんです」
と、陽子がいった。その声音はきわめて明確なものであり、眼前の少女が口にしたのかと丈が一瞬錯覚を起こしたほどであった。
「とてもこわい〝力〟で......それでだれにも話せなかったんです」
眼前の少女と二重に存在する陽子が話していた。以前であれば、丈は己れの気が狂ったのかと思ったであろう。目の前の陽子は何も喋っていないのに明確な声音で彼女の話し声が聞こえてくるのだ。
「あたし......小さいころから、だれかを嫌ったり憎んだりすると、その人の身に不幸が起きるんです。あたしが強く嫌ったので、病気になったり大怪我をしたりした人が、身近に幾人もいます......小学校一年のころ、嫌いな先生が自転車で溝に落ちて、大怪我をしたり......あたしに悪戯しようとした近所の若い男の人が大病を患って足腰が立たなくなってしまったことがあります。それだけじゃなくて、あたしの〝力〟のせいでひどい目に遭ったとはっきりしている人が全部で七人もいるんです。あたし、自分の〝力〟を自覚してから、とても恐ろしくなって、人を嫌ったりしないようにしようと一生懸命努力しているんですけど......こんなこと、だれにも打ち明けられなくって。だから人に話したの、今が初めてです」
「その〝力〟を君は意識して振るったの?」
と、丈が尋ねている。彼は自分の口が動き言葉を発しているのではないかと反射的に口許へ右手を伸ばしていた。そうではなかった。
「七人のうちの三人は、明らかに意識的にやったんです。でも、他の四人はつい怒りにまかせて......小さな子供のころから、あたしが喧嘩した相手の子供が熱を出したり、事故に遭ったりすることがとても多いので、変だなとは思っていました。でも、その〝力〟がだんだん強まってきたみたいで......大怪我して一生廃人になった人が出たので、あたし本当に恐ろしくなってしまったんです。こんなことをしていると、いつか人を殺してしまうんじゃないかって......」
「人は死ななかったんだね?」
「はい......」
陽子は息を吞むようにして答えた。
「たぶん......確信はないんです。引越したりして遠くへ行ってしまった人もいますから......自分にこんな嫌な、恐ろしい〝力〟があったので、東さんのことを聞いた時、どうしてもお話ししようと決心してたんです。あたしの〝力〟について、意見を聞かせてほしいと思って......」
「もし、君の〝力〟が今いった通りのものだったら、一種のサイコキネシスだろうな」
丈は躊躇いがちにいった。
「おれのPKとは種類が違っているかもしれないが、たぶんそうだ。君も超常能力を持っているということだろう」
「でも、それは悪い〝力〟......邪悪な超能力ではないでしょうか?」
少女の声音は張り詰めたピアノの弦のようだった。
「人を傷つけたりひどい目に遭わせる〝力〟は、悪魔的じゃないでしょうか......もしかしたらあたしは、悪魔になってしまったんじゃないかと思って、ずいぶん悩みました。もう二度と、人を傷つけないようにしようと決心し、心に誓うんですけど、ついむらむらと腹を立ててしまうんです。怒りっぽい自分が恐ろしくてしかたがないんです......」
丈はようやく、相手の少女が生真面目すぎるほど固い理由を理解した。己れのコントロールを超えた不可解な〝力〟を自覚している少女が己れ自身にはめている強い抑制のタガなのだ。自分がバラバラになり、〝力〟が抑制を放れて割拠を主張することのないように、己れを律している陽子の、頑固なまでの生真面目さであった。一度恣意的になったら、どのような結果をもたらすかを知り尽しているゆえだった。

「それは、おれにもよくわかる」
丈は共感のかたい絆を少女に対して意識せずにはいられなかった。
「基本的には、おれの〝力〟も、君の〝力〟も同じものじゃないかな。ただ顕われ方が違っているだけで......サイコキネシスは他の全ての力と同じで、善くも悪くも使えるものなのだとおれは思う。そして〝力〟の所有者には責任がある。それはたとえば、車を運転している人間に、大きな責任があるのといっしょだ......君はその責任を意識している。前はそうじゃなかったかもしれないが、今はしっかりと意識してコントロールしているわけだ。そうだろう?」
「あたしの〝力〟は悪魔的なので、もしかしたら、あたしはもう〝幻魔〟の仲間になっているんじゃないかととっても心配になってしまって......」
「そんなことは絶対にない!」
丈は力をこめて否定した。
「おれはすでに〝幻魔〟と遭遇し、奴らと話をした。〝幻魔〟がどんな奴らか知っているんだ。君は決して〝幻魔〟の仲間なんかじゃないよ。君は純粋で心のきれいな人間だと思う......ただ自分の〝力〟を恐れているだけだ」
「よかった!」
久保陽子は声を震わせていった。瞳に涙が浮び、せわしく瞬きした。感動のあまり泣きそうになっていた。
「あたし、こわくて堪らなかったんです! 自分の持っている〝力〟は悪魔的で邪悪だし、もしかすると自分はもう〝幻魔〟になっているんじゃないかと思って......でも、こんなこと、だれにも話せないし、相談もできないでしょう。気違いと思われるか、魔女扱いされて恐れられるかどっちかだと思うんです。だから、東さんの噂を聞いた時に、どうしてもお逢いしてお話ししたかったんです」
「おれが悪魔だと思わなかったのかい? 江田はそういいふらしていたんだろう?」
丈はかすかに笑った。
「いいえ! あたしはそう思いませんでした!」
陽子は大きく目を見開いていった。
「そんなことありえないと思っていました。あんなに目の美しい人が、恐ろしいことをするなんてありえないと信じてました! ずっと昔から......小学校のころから、あたしは東さんのことを知ってましたし......」
「そういえば、小学校も同じだったんだな。クラスは違うが......君とは小さいころから逢ってたんだな」
「はい。あたしはいつも、東さんのことを見ていました。こんなに小さいころから......」
陽子の顔は血の色が射してきていた。
「いつか一度、東さんとお話ししてみたいと願っていたんです。そして尋ねてみたかったんです......なぜ、そんなに悲しそうな瞳をしているんですかって......あたしには東さんが、とても遠い所から来た異邦人に見えていたんです。あたしって変ですね。東さんはこの地球の人間じゃなくて、遠い他の星に生れた人だと昔は思いこんでいたんですよ。だから、あんなにきれいな、淋しそうな瞳をしているんだなあって......」
少女は憧れをこめていった。
「だから、あたしとっても嬉しかったんです。東さんとやっとこうしてお話しすることができたから......」
「君はおれを信じてくれていたんだね?」
「もちろん、信じます。だれがどんなことをいったとしても、信じずにはいられません。みんながいうように、東さんが大魔王で、平気で人を殺す邪悪な化物のはずがないんです......あたしは東さんの淋しそうな瞳を見ていましたから。あたしはその人の瞳を見れば心がわかると思います。邪魔な人間は殺してしまおうと思っている人間が、きれいな淋しそうな目をしているはずがないんですもの」
確信のこもった讃美だった。丈は知らなかったが、陽子は小学生時分から丈の忠実な讃美者だったのである。
「今度のことで、あたしとっても腹が立ちました。東さんのことをなにも知らない人たちまでが尻馬に乗って東さんの悪口をいっているんですもの。もしかして、知らないうちにあたしの〝力〟を使ってしまいやしないかと思ってびくびくしていたんです。どうしたって、悪口をいってる人に、なによ! っていいたくなってしまいますから......反撥しまいと思っても無理なんです。自分の心が自分でどうにもなりません。学校へ来るの、よそうかと思ったくらいです」
「それで、もう大丈夫なんだね?」
「はい、もちろん! だって、こうやって東さんとお話しすることができたんですもの。もう平気です。だれかが悪口をいっていたら、いってやります。あなた、本当の東さんを知っているのって......」
「ありがとう、君は人の心を暖くさせる」
と、丈はいった。不覚にも涙が出そうになり、鼻の付根が痛くなってきた。
「どうかなさったんですか!?」
と、現実の久保陽子が心配そうに尋ねた。丈ははっと我に返った。輪ゴムが弾けたように現実が激しい勢いで立ち戻ってきた。
会話を交していたのは、今この場にいる陽子が相手ではなかった。未来の時制における陽子と、丈は話していたのである。
「おれは今、どうしていたんだろう?」
と、丈はいった。彼の意識はこの場の現実を離脱し、未来に投射されていたのだ。
「急にぼうっとなって、黙ってしまいました......そのままずっと何もおっしゃらないし、どうかなさったのかと思って......」
陽子は、丈がいなくなってしまったのを感じていたのだが、それをどのように表現していいかわからなかった。
「魂が脱けたみたいでした......気分でもお悪いのですか?」
「いや、大丈夫だ」
「なんだか東さんが、あたし以外のだれかと話し合っているように見えました。確かにあたしに向って話してくださっているのに、他の人と同時に話し合っているみたいなんです」
久保陽子の感は鋭かった。今、丈の身に生じた現象を正確に捉えているのだった。それは彼女の身に、超常能力が備わっているせいだったろう。
丈の意識は時間線を未来にさかのぼり、陽子と対話を持ち、彼女がESPの持主であることを教えられたのだ。
これもやはり、未来透視と称するESPなのであろう。
丈は未来の記憶を備えた眼で、少女をしげしげと見詰めた。陽子がまだ一言も話していない、彼女自身の性格や過去が丈にはわかってしまっているのだった。
その知識が、丈にとって眼前の少女を身近に、そして親しいものにした。丈は今は陽子の愛すべき性格を知り尽していた。
もし、この超常能力が充分に活用できるならば、初対面の人間でも瞬く間に、その性格を看破することが可能なのではないか、と丈は思った。もう一度試してみる値打がある。
「それで、どこまで話したっけ?」
と、彼は少女に尋いた。
「東さんがサイコキネシスでニューヨークまで飛んで、それから起こったことまでです。ルナ王女たちと協力して〝幻魔〟と戦い、倒した、そこまでお話しになったんです。そしてトランス状態に入ってしまわれました」
少女はさすがに勉強しただけあって、心霊主義や超心理学の用語をよく知っていた。
「そうか、トランス状態というのは、つまりあんな状態のことだったんだな」
丈は改めて納得する思いだった。
「魂を肉体から脱出させてしまうわけだ......だから意識がなくなってしまう。エドガー・ケーシーも同じことをやっていたんだ」
新しい超常能力を開発することへの強い意欲が沸きたってくるのを覚えた。じっとしていることを許さない内圧の高さであり、むずむずする高揚感であった。
しばらくの間、丈はPKを用いていなかった。意識的に〝力〟の行使を己れに対して封じていたのだ。
しかし、もし志を同じくする者たちが集結することを必要とし、鍛練を要するというのであれば、〝力〟を解き放ってもいいのではないか、と丈は思った。
PKだけに限らない。己れの内部に蔵している全ての超常能力を発掘し、解放すべき時が来たのかもしれぬ。
〝幻魔〟と戦うには、もちろんのことそれでは不足である。地上の全ての超能力者が結集するためのシステムが不可欠だ、と彼は直観的に悟っていたようである。
システムとは〝組織〟だ。もっとも強固にして効率のいい組織を生みだせるか否かが、戦いの趨勢を決定づけるであろう。
丈は徐々に進行する覚醒感を味わった。彼がなすべきことが、新鮮な世界像を形成して眼前に浮びあがってくるのを見る思いがしたのだ。
5
「おれは組織を造って行こうと思うんだ」
と、丈は彼の忠実な秘書役たるべき久保陽子に向って心を明かした。
「最初に造るのは、組織のほんのヒナ型でもいい。同じ志を持つ者が集結して行くための核だ。核がなければなにも始まらないからな......初めはおれと君の二人だけでいい。同志が今後なして行くべきことを、そして、いかにしてそれを果すかということをじっくり研究する。つまり研究会でもいいわけだ。新入会員は厳重に資格審査をやる。論文を書いてもらおうかと思ってる」
「えっ、あたしも論文を書くんですか!?」
と、陽子が声をあげた。
「マンガやイラストならいいんですけど、文章はとても苦手なんです、あたし......」
尻込みする真剣な顔を見て、丈は笑った。
「君はいいよ。だけど、新入会員には論文を書かせる」
「あたしのお友達で、何人か東さんのお話が聞きたいという人たちがいるんですけど」
と、陽子は懸念を持ちながら尋ねた。
「それでも、やっぱり論文を書いてもらわなければいけませんか?」
「話を聞きに来るぐらいはいいさ......しかし、ただの物好きや好奇心というのは困るな。そのへんの研究会といっしょになってしまう。かなりしっかりした見識を持ってないとな......たとえば〝ESP研究会〟と名乗ったとすると、物好きや多少おかしいのがどっと詰めかけてくるような気がするんだ」
「あたしのお友達なら絶対大丈夫です。小学生時代からの親友ですから。でも、ちょっと困ることがあるんです」
陽子はいかにも困った顔でいった。感情的に率直すぎて、心を偽ることができないのだった。
「なんだい、困ったことって?」
「そのお友達、東さんのファンなんです、昔から。こういうミーハー的なのって、どうかと思うんですけど、あたし自身もそうだったので、それで困ってしまうんです」
「話を聞くだけなら、なんでも構わないだろう。会員にするのは別だが」
と、丈はいった。
「しかし、女ばかりというのは具合が悪いんじゃないかな」
「それなら、あたしたちで男の子も連れてきましょうか? 心当りはありますから」
「自発的に来ないのはやめとこう。人をかき集めたり、どこかの宗教みたいに折伏するのが目的じゃないんだ。とにかく、数は少くてもいいから精鋭でなければ話にならない」
丈は先行の組織造りの困難さを予感しながら口重にいった。いかに熱心な人々が集まったとしても、肝心の超能力者がどれだけ存在するだろう。丈には最終的な目標である超能力集団を組織するだけの方法論がまるで存在しないのだった。
組織造りの知識はほとんどなく、もちろんノウハウなどあるはずもない。が、将来のための演習であり、布石であると考えればよいのかもしれず、まず必要なのは教程だった。集まってくる人間たちに、丈が最初から全て細かく説明しているのでは時間ばかりかかってどうにもならない。
「パンフレットを作ってはどうでしょうか」
と、陽子が提案した。
「話を聞きたいという人には、まずそれを読んでもらい、アウトラインを摑んでもらうんです。東さんが文章を書いて下されば、あたしがガリを切ります。そういうことなら、あたし得意なんです」
「それはいいな。そうすれば手が省ける......しかし、それじゃまずおれが論文を書かされるのといっしょじゃないか」
丈が声をあげ、陽子は控え目に笑った。
「でも、東さんは文章がお上手ですから、大丈夫じゃないんですか?」
「どうしてだ?」
「中学時代に、東さんが書いた小説を読んだんです。すごい才能のある人だなあと思いましたから......」
「えっ、あんなのを読んだのか!?」
丈は再び声をあげ、赤面した。そんな彼を陽子は好ましそうに見ていた。そういえば、昔、三島由紀夫ばりのくだらない短編小説を幾つか書きちらしたことがある。それらは中学の校内誌に掲載されたのだが、出身中学の異なる久保陽子がそれを知っているのは意外であり、身の置き所のない燃えあがる恥の感覚を誘った。
「とっても感動しました。自分と同じ年齢の男の子にどうしてあんな高度なものが苦もなく書けるんだろうと......」
「よせよ! くだらないんだ、あんなもの!」
丈は赤くなっていった。
「でも、東さんは文章が上手に書けるんですから、ご自分の経験したこと、知ったことを書いて本にしてみたらどうでしょうか? 体験記なんですけど、それを知らないで読めば、小説かと思うかもしれませんね......」
「なるほど、そうか。アダムスキの円盤同乗記みたいなもんだな」
「アダムスキって、空飛ぶ円盤に乗った金星人に逢ったという人でしたね」
陽子はそんなことまでよく知っていた。当時にすれば希有といえたろう。空飛ぶ円盤やUFOは世間一般に知れわたった存在ではなかった。陽子のように超常現象や奇現象に興味を持っている年若い女性はひどく珍しかったのである。
「よく読めば、わかる人にはわかるように書けばいいんじゃないでしょうか? 真理を知るとはそういうものだと思うんです。アダムスキだってインチキだとさんざんいわれているんでしょう? でも、あの本を読むと、アダムスキは心が優しくて高潔な人だとわかります。売名のために人騒がせをする人間とは思えないんですけど。
だから、東さんも本を書いて、心ある人たちに知らせていけばいいと思うんです。今宇宙でなにが起こっているのか、幻魔とは何なのか、地球の人々は何をなすべきか、その本を通じて訴えていけば、必ず心ある人々がわかってくれると思います。大勢の人々が東さんの言葉に耳を傾け、同志たちが集まってくるのじゃないでしょうか? あたしの考えは、変でしょうか?」
「変じゃないよ。君のいう通りだと思う」
丈はいささか感銘を覚えながら、陽子に対して保証を与えた。
「それはやってみるだけのことはある。おれにどこまで書けるかわからないけどね......」
「すばらしい本になりますよ、きっと」
陽子は確信をもって断言した。
「きっと世の中を変えるだけの力があると思います。宇宙の真相を描いた希有の書ですもの」
「みんなはSFだと思って読むだろうな。アダムスキのようにウソツキのペテン師みたいに悪口をいわれる......それどころか気違い扱いされるかもしれない」
「でも、東さんには本当の凄いPKという力があるじゃありませんか」
と、陽子が思いださせてくれた。
「東さんにはとっておきの最高の切札があるんです。だれだって納得させられると思います。絶対に!」
「しかし、君。おれの〝力〟を一度も見ていない......見せてくれとも頼まない。それなのに、おれを信じているんだな。おれの〝力〟が本物だと......なぜなんだ?」
丈が不思議そうに尋ねた。
「どうして君は、おれを無条件で信じることができるんだ?」
「そんなことすぐにわかります。実際に見なくてもいいんです。東さんを見て、言葉を聞いているだけで、あたしにはなにもかもわかるんです。ここでわかるんです」
陽子は右手で白いブラウスの胸の中央を抑えてみせた。今更のようにその胸を持ちあがらせている意外な双つの隆起に気付き、丈は目をそらした。これまで彼女に異性を意識していなかったのだ。
「心でわかります。だから、本当だろうか、とか、もしかしたら、なんて決して思いません。最初から、あっ、あれは本当だ! とわかってしまったんです」
陽子は誇らしげにいった。
「おれは時々、自分の〝力〟のことを忘れてしまうんだよ、どうしてかな? 本当はもっと突きつめてみるべきなんだろうが......むやみに他人に見せない方がいいような気がするんだ」
「人々に見せたら、きっと大騒ぎになりますね。テレビに出ろといってくるかも......」
「テレビはだめだ、見世物になるだけだ」
「でも、世間の人々に広く知らせるにはいいんじゃないでしょうか?」
「いや、空騒ぎが起こるだけで、インチキくさくなってしまうだろう。どんなに真実のことでも、お祭り騒ぎになれば、だれの目にも見えなくなる......おれはそう思う」
丈は丈なりに考え抜いたあげくの結論だった。ブーアスティンの「イメージの時代」を読んだせいもあるだろう。そこには現代の発達したマスコミ・ジャーナリズムの徹底的な神聖剝脱の機能が力説されており、丈にマスコミを警戒する智恵を与えた。
のみならず、丈の父親が大新聞のジャーナリストであり、マスコミ人の偽善性について教えるところがあったせいかもしれなかった。マスコミの本質は〝マッチ・ポンプ〟であり二律背反がその根幹に存在する。右の手で与え左の手で奪い去るのがマスコミ・ジャーナリズムの本性なのだ。彼らは放火者でありかつまた消防者である。道徳家を声高に標榜する煽情家なのだ。彼らほど矛盾しきった正義漢はまたとない。空しい理想を振りかざす根っからの現実主義者は、およそ混乱した存在といえるはずだった。
丈は父親の東竜介の中に典型的なマスコミ人を見出していた。口と腹が乖離している不節義漢だ。丈の精神は左翼思想には馴染まない。それでも「ブルジョア新聞」のエセ・ジャーナリストに対する批判は、近親憎悪を含めて強烈に抱いていた。
「マスコミからは逃げるにこしたことはないな」
「そうでしょうか......?」
久保陽子はいささか承服しかねるといった趣きで、不満げにいった。
「でも、マスコミを使わなければ、だれも東さんの言葉を聞くことができないんじゃないでしょうか?」
「おれは本を書く。書を通じて万人に知らせる。しかし、マスコミ有名人になって、スター扱いされ、チヤホヤされる危険は絶対に避ける。いいかい、マスコミは幻影を作るのが商売なんだ。しかも次々に新手の幻影を作りだして新陳代謝させなければ、商売にならない。古い幻影が邪魔になったらどうする? 作りだした己れの手で叩き落すんだ。それがマスコミの商売の手口なんだ。
もし、おれがマスコミの宣伝力を利用してスター存在になったとする。彼らはおれの売名に協力してくれる。持ちつ持たれつの仲だ。しかし、それは一時的なものだ。チヤホヤしながら、彼らはおれを叩き落し、落ちた偶像にする時期をこっそり計り始める。機会が到来次第、掌返したように、今の今まで味方だったマスコミはいっせいに敵にまわり、悪口をいい罵声を投げつけて、おれを葬り去ろうと狂奔する。それがマスコミの手口というもんなんだ」
「そんな、ひどい......本当にそんなことってあるんでしょうか?」
「スターや有名人が醜聞を起こした時、マスコミは狂喜して悪口を書きたてるじゃないか。ハイエナみたいに喜んで踊り狂う。彼らはそれを社会正義の遂行だと考えている。〝悪いニュースは良いニュース〟というのが、古来彼らの座右の銘なんだ。おれはマスコミとは一線を画すつもりだ。絶対に彼らを利用はしない。利用したが最後、彼らはとことんまで恩を返させようとする。おれが没落して彼らの商売に寄与することさえ当然と、彼らは考えるんだ」
「それじゃ、マスコミが向うからやってきても遭わないんですか?」
「遭わない。利用もしないし、利用もされない。おれがやるのは本を書くことだけだ」
「でも、マスコミが怒るんじゃありませんか?」
「生意気だといってか? しかし、マスコミの食いものになるよりはましさ。踊ろうとしない人間を、マスコミといえども踊らせることはできないんだ。つまり商売にならないんだ」
「それならいいんですけど、マスコミを怒らせたら損じゃないかと思って......仕返しされるんじゃないでしょうか?」
「マスコミと喧嘩する必要はないが、ご機嫌取りをする必要もない。迎合したところで彼らはあなどりこそすれ、感謝することなんかない。彼らは王様気取りなんだ。おもねる者は馬鹿にする。痛めつけることを遠慮するなんてことは絶対にしない。マスコミの構造を知れば、そんなことはすぐにわかる。現場の個々のジャーナリストが誠実だとしても、紙面を作るのは商売人だ。資本主義の論理によって動かされている走狗なんだ。現場の意見が通るのは、商売人の利益と一致した時だけなんだ」
「そんなことをよくご存知......」
久保陽子は改めて感嘆の目で丈を見た。
「本も沢山読んで、考え抜かれたんですね、きっと」
「まあ、本も読んだが、おれの父親は新聞記者なんで、実物をよく知っているということかな」
「でも、東さんて凄い人ですね。あたし、東さんを崇拝してもいいですか?」
と、陽子はいった。
6
最初に、久保陽子の友人たちである女の子たちが数人集まってきた。
彼女たちはいずれも高校生で、陽子から丈の驚くべき神秘性やカリスマ的な偉大さを吹きこまれ、驚異の感情を味わいたくてやってきたのだった。
丈は、開店休業同然の文芸部部室を借りて、原稿を書き、会いに来る人々と面接した。一週間後には十人近い会員が丈の周囲に集まっていた。いつしかこの小さな集会は、〝超常現象研究会〟と名付けられていた。中には久保陽子のように〝幻魔研究会〟と呼ぶ者も存在した。〝GENKEN〟と略称される場合もあった。
活動不振の文芸部を乗っ取った形だったが、陽子を初め文芸部員が数名創設メンバーに入っているので、文句が出る恐れはなかった。男生徒会員も二名ほどいたが、圧倒的に女生徒が多いクラブであった。内実は、丈のファンクラブといった方がよかった。丈と接触し、話ができるというので彼女たちは参集したのだ。あらかじめ久保陽子が心配した通りのミーハー性が色濃く漂っていた。
丈には自分の人気の所在がよく理解できなかったが、原稿書きと合わせて、崇拝者たちと話をする機会を多く持った。彼女たちは競って丈の原稿清書を手伝おうとした。華やかであったが、丈には居心地が悪かった。女生徒たちは、互いに張り合い、牽制し合うことを始めていた。用をかこつけては、丈の自宅にまで訪れるようになったのだ。
一か月後に、初のパンフレットが出来上ると、入会希望者は一挙に数十名にふくれあがった。女生徒によって多く構成される会員は意外な行動力を発揮して、パンフレットを配布し、勧誘活動を展開し始めたからである。
組織の自走性に気付いた丈は、急いで会員規則を定め、入会審査をきびしくすることにした。それでも、入会希望者は減るどころか逆に激増した。毎日数人の希望者がパンフレットを手に、文芸部室を訪れるようになった。
面接や入会審査の雑務が大幅に増加して、丈の原稿書きのための時間を奪った。もはや部室は大盛況を呈して、原稿を書くどころの雰囲気ではなくなっていた。
久保陽子は、世話人としてめざましく働いていた。彼女に組織者としての才能があるのは明らかだった。会員たちを指揮して、ガリ切りや印刷、ミーティングの割り振りに小休みなく走りまわっていた。
手狭な部室ではにわかに大人数となった会員を収容しきれないので、学校当局と交渉して総会用の会場を借りるのが陽子の主な仕事だった。
一度動きだすと、物事には慣性の法則が働く。止めようもない勢いがついてくるのである。
僅かな期間で「GENKEN」は校内屈指の大勢力にのしあがろうとしていた。この急成長ぶりには、これまで丈について取沙汰されていた超常識的な噂が好奇心をあおりたてた事実はまぎれようもなかった。青林学園高校で、丈はもっとも悪名高い有名人物でもあったのだ。
丈は、自分がこれほどまでに関心を持たれていることを知り、驚くと同時に警戒もした。もはや彼の一挙手一投足は注視の的になっているのである。
「このままだと、もうじき校内指導にひっかかって、新聞部みたいに学校当局の監視下に置かれそうだ。それに......」
と、丈は秘書役の久保陽子に向かっていった。
「生徒会からもなにかいってくるんじゃないかな。文芸部を乗っ取ったという噂が立ってるらしい」
「新入会員には一応、文芸部員になってもらっていますから、生徒会の方は大丈夫だと思います。部の予算を〝GENKEN〟の機関誌にまわすとまずいかもしれませんけど」
と、陽子がけろりとして答えた。
「つまり、文芸部の中の分科会にしたわけです。文芸部には、小説、詩、短歌と一応分科がありますから、一つぐらい増やしたって名分は立つはずです。〝GENKEN〟の機関誌だって文芸部の会誌の名前で出せるんですけど、会員が激増したので、その分の会費だけでも充分やって行けると思います」
「君は商才があるんじゃないか」
と、丈は感心していった。組織の実務は一切陽子が取りしきっているのでわからないが、その綿密さと臨機応変の才は、とうてい丈の及ぶところではなかった。
陽子は分科会を作り、一度に全会員が集中して、丈の負担が増えすぎないようにした。数十名に激増した会員が常に部屋いっぱいに詰めかけていては、仕事にならないからだった。小グループに分けて、会場は自分たちで捜させた。これは頭のいいやり方だった。会員が何百人になろうと、場所の確保に悩むことはなくなるからだった。
「でも、困ったことにリーダーがいないんです」
と、陽子がいった。
「だから、まとまりがなくなって、みんなだらけてしまうみたいです。大急ぎでリーダーを養成する必要があると思います」
「どうやって、次々にいろんなことを思いつくんだい?」
と、丈は尋ねた。
「実をいいますと、うちの母は**会に入信しているんです」
陽子は有名な宗教団体の名をあげた。
「なるほど、それで組織運営について詳しいわけか」
「母の話を聞いていますから......有能な幹部がいないと、組織は伸びません。リーダーを育てようと思うんですけど......つまり幹部候補生ですね。東さんに特訓していただきたいんです」
「特訓っていったって、なにをやるんだ?」
「東さんのいつも身近にいて、お話を聞けるようにしたいんです。イエス・キリストだって選びだした十二人の弟子がいたでしょう?」
「おれはキリストじゃないぜ」
丈は笑っていった。
「お釈迦さまだって高弟たちがいましたよ。回教のモハメッドにも、たしか弟子がいたはずです」
「しかし、裏切者のユダが入りこんできたらどうする?」
丈が面白そうにいう。
「それは心配しているんです、とっても......会を分裂させようとする裏切者も必ず出るはずなんです。それをどうすればいいか、頭が痛いんです」
気の早い話だった。丈は、超能力が発現したあの夜、興奮しきって眠れぬまま、空想に耽ったことを想いだした。絶対の権力者として、高校を支配しようと想像をめぐらしたのだった。
あの時の自分は、神がかり的な独裁者として支配権力の座にすわろうとしていたのだ。今のように控え目な運動を推進するとは、考えもつかないことであった。
「東さんの傍で、いつも薫陶していただきたいんです。本当の幹部候補生です。でも、女性は具合が悪いでしょうか、やっぱり......」
「薫陶なんてオーバーだが、女性はまずいんじゃないかな。どんな噂が出てくるかわからない」
「そうでしょうね、やっぱり」
陽子は口惜しげにいった。
「世の中っていやですね。すぐにいやらしい想像をするんですもの」
「それは気をつけた方がいい」
丈は、陽子と自分に関してすでに噂が取沙汰されていることを知っていた。陽子が献身的なだけに、真実らしく聞こえる噂だ。
女生徒たちが多数丈の周囲に集まっている現状も好ましいものではなかった。嫉妬心の生む性的な妄想を人々の頭に繁殖させるのに役立つだけである。人々は、丈をハレムの主だと思うだろう。
「東さんがきれいすぎるからいけないんです」
と、陽子はいって顔を赤らめた。
「男性なのにきれいすぎ、魅力がありすぎるからです......だれだって東さんに接近して話を聞いてみたいと思うんじゃないでしょうか?」
「............」
丈には返答のしようがなかった。丈はもともと己れの美貌には無関心なところがあったのである。劣等感を痛く駆りたてることが他にあって、気にする余裕もなかったということかもしれない。
しかし、今はあれほど苦にした矮軀もまったく気にならない。意識の外へ消えてしまったようである。そうした些事を気にしている時間がないのかもしれない、と丈は思った。しかし、身長こそ前と少しも変らないが、ぐっと背丈が伸びたような感じがあることは事実だった。心が寛くなったために、些事が気にならないのだということを、丈は意識していなかった。
「男生徒がもっと入会してくるといいんですけど、会の女の子が目当てだと誤解されるのが嫌なのか、とても動きが鈍いんです。どうしたらいいでしょうか?」
「心配するな。そのうちになんとかなるさ」
と、丈はあっさりいった。
「男生徒は東さんに対して、いい感情を持ってない人が多いみたいですけど、やっぱり嫉妬しているんですね、きっと。東さんがあまりにも女性に人気があるんで面白くないんですね」
陽子は晴ればれといい、丈を苦笑させた。彼女にとり、丈の言葉は絶対なのである。
「しかし、皆はだいぶおれの〝力〟が見たいようだな。話をしているとひしひし、それを感じる」
「それはそうだと思います。みんな、いつ東さんが超能力を見せてくれるかと期待に胸をふくらましているんです」
「まるで、それだけが目的という連中もいるみたいだな」
「東さんがちっとも公開なさらないので、がっかりしている人たちも、中には多少いるみたいですけど......」
陽子は認めた。
「わかってる。おれにはそんな超能力なんか本当はないんだといいだす奴らも出てきている......どうだ、君は超能力が見たいか?」
丈は微かな笑みを浮べていった。
「ええ、それはもちろん! でも、どうしてもというんじゃありませんけど」
陽子はあわてていった。
「なぜ話をするばかりで、肝心の超能力を発揮してみせないのかな、と君は思ってただろうな」
「はい......実はそうです」
彼女は困ったような顔で白状した。
「よほど調子のいい時でないと、超能力はうまく働かないんじゃないか......君はそう考えて、遠慮してたんだろう?」
「その通りです。あら! どうしてそんなことがおわかりになるんですか!?」
「テレパシーを使ったんじゃないかと今、君は思ってる」
丈は笑いながらいった。
「やっぱり、そうなんですか!?」
陽子は興奮のあまり上気してきた。
「超能力を見世物にしたくないからなんだ」
と、丈はさりげなくいった。
「PKの公開実験をやれば、派手で面白いショーになることは間違いない。人集めにはもってこいだ。どんどん人は集まるし、熱狂的な愛好者が激増する。しかし、結局はショーが目当てなんだ。有名スターの後援会やファンクラブと少しも変りがない。そんなものを作っても仕方がないんじゃないか?」
「でも、中には真面目な人たちもいると思うんですけど......」
「しかし、空騒ぎの混乱の方が恐ろしい。結局は、おれがいつでも超能力を使ってみせなければ納得しなくなるだろう。新しい刺激や趣向を要求するようになるだろう。おれにはそれが目に見えているんだよ。みんな、自分でも超能力を開発して身につけようと躍起になる。力のある者は大得意になり、TVに出て超能力をショーに使うようになる。イカサマ手品で、インチキをやる奴らもどんどん登場する。インチキがばれて大騒動になるだろう」
「どうしてそんなことがおわかりになるんですか? 予言みたい」
「明治時代にも起きたことがあるんだ。東大教授の福来友吉が超能力者たちを使って、念写や念動力の実験をやり、超能力ブームが起きたことがある。その時は朝日新聞がおおいに持ちあげて、ブームに火を注いだ。だが、インチキだと騒ぎたてる敵対者たちが泥をかけて消してしまった。超能力者たちは不調になると、ついインチキの誘惑に負けてしまうんだ。手品を使ってでも、期待に応えようと馬鹿なことをしだすんだ。それ以来、日本では超能力を学者が取りあげることはなくなった。福来教授のように学者生命を失くしてしまうからなんだ」
「その事件のことはなにかでちらと読んだことがありますけど......それで用心なさっているんですね?」
陽子は彼の慎重さの理由がよく吞みこめないようであった。
「でも、東さんのように凄い超能力だったら、インチキなんていわれる余地はないんじゃないでしょうか。いつだって、疑いを口にする人の目の前で証明してやればいいんですから......」
「そしてショーの芸人みたいに見世物をやってのけなければならなくなる。日本の学者は面白い習性があってね。どんな奇蹟を見せられても、こんなことはありえないから科学的でない、科学研究の対象にはならないと必ずいいだすんだよ。科学的常識に反するからインチキでデタラメだという恐るべき思考法の持主が科学的権威者なんだ、日本ではね」
「だって、そんなの変じゃないでしょうか?」
陽子が憤慨した。
「なぜ科学的常識に反する現象が存在するのか、究明するのが科学者の使命でしょう? 前提とする常識が誤っているのではないかと検討するのが良心的な科学者のとるべき態度だと思います」
「もちろん、その通りだ。しかし、わが日本では、科学的常識にしがみついていずに、謎を追及すると、学者生命を失うことになっているんだよ。だれにも相手にされなくなり、学者の世界から永久追放になってしまう。恩師に忠実に従って、危いことには手を出さないのが、日本の学者の望ましいあり方なんだね」
「だって、そんなの変です! 科学的真理を追及しないで、どうして科学者といえるんですか!?」
陽子は怒って叫んだ。
「それは、お茶やお花だったら、お師匠さんのいう通りにするかもしれませんけど......科学者はオリジナリティーなしですむんでしょうか?」
「日本ではそうらしい。学者の世界というのは昔、イエス・キリストをいじめたユダヤ教の律法学者の世界にそっくりなんだな。学者の体裁だけ整えておけば、それ以上は必要ないんだ。地位と名誉を守るためだけに汲々としている。自己保身のためにそれが不可欠なんだ。イエス・キリストを認めるようなユダヤ教の律法学者は死ぬまで袋叩きに遭わされる。それといっしょさ」
「律法学者ってなんですか?」
陽子はよく理解できないような顔をしていた。
「ユダヤ教の宗教的教師さ。モーゼの十戒以来の細分化されたおびただしい戒律を、ユダヤ民族に守らせるのが仕事なんだ。従って、イエスのような革命的な人物は放逐すべき破壊者というわけだ。新しい事はご法度なんだよ」
「日本の科学者が超能力の存在を認めないのは、律法学者がイエスを認めないのといっしょだということですか?」
「そうだ。超能力の存在は、科学者の基盤を崩す。既成の科学体系が崩壊してしまう。イエスの教えは、ユダヤ教の基盤である戒律主義を崩す。だからこそ、イエスを殺してまで否定しなければならなかったんだ。日本の学者の世界はユダヤ教の世界そのものさ」
「〝白く塗りたる墓〟って、イエスさまがいったのは、律法学者のことだったんですか? 見かけはきれいだけど、内部は骨や腐ったものでいっぱいだと......」
「自己保身のために真理を圧殺する人間のことをいっているんだ」
「それで、やっと少しわかってきました」
陽子は得心がいった顔をした。
「でも、東さんの偉大な超能力を見せれば、いくら頑固な学者たちもわかるんじゃないでしょうか?」
「イエスは死人まで生き返らせたけど、律法学者たちはますますイエス抹殺の決心を固めた。動機は自己保身だし、自分の身が可愛い人間は、どんな残酷な、卑劣なことも平気でやるってことを忘れないほうがいい」
「そうですね......でも、みんながどうしても超能力を見せろと要請したら、どうなさいますか?」
陽子はじっと丈の顔を見詰めながら尋ねた。
「必要があれば見せる。必要がなければ見せない」
丈の答えに、彼女は不満そうだった。
「でも、みんなは見たがっています。それを見たくて、噂が本当なのかどうか確かめたくて、みんな集まってきたんだと思います。東さんがお話だけで、〝力〟を見せないものですから、文句が出てきています。やっぱり超能力なんてなかったんだといって、辞めて行った者も少数だけどいます。気が早すぎると思いますけど、今にもっと増えるんじゃないでしょうか?」
「なにも人数ばかりを集めるのが目的じゃないんだよ。なぜこの研究会を作ったのか、主旨を思いだしてもらいたいな。超能力を見世物のように思っている連中にはどんどん辞めてもらって構わない。少数精鋭主義で行くと最初にいったろう? 考え方のしっかりした本当の同志にふさわしい人たちには、もちろん必要なだけのことはする。無責任でいい加減な野次馬は用心深く除外しなきゃならない......密教でもやっぱり同じことが行なわれているんだ。その資格を持つ人間にだけ、奥儀を授け、秘儀を明かすということは大事なことなんだよ」
丈は嚙んで含めるようにいった。
「もし、超能力が無責任な人間によって、自分の欲望を満たすためにだけ使われたら、恐ろしいことになるだろう。悪魔的な妖術使に堕落してしまうんだ」
「そこまでお考えになっていたんですか。あたしの考え方はとっても浅墓でした......仲間だと思っていた人たちの口から、超能力を疑うような言葉が吐かれたものですから、つい焦ってしまって......」
陽子は赤面していた。
「でも、考えてみると、東さんのおっしゃる通りですね。超能力を悪用する人間が出たら、それこそ幻魔の仲間になっちゃいますものね......よほどしっかりした心を持たないと、超能力はかえって持たない方がいいですね」
「その通りだ。今、超能力を見せろと騒いでいる連中は、それだけでは満足しないはずだ。自分たちにも超能力を与えろと要求するだろう。少数の人間が超能力を独占しているのは、許しがたい社会的不公正であり不正義だというだろう。我欲だけで生きている人間は必ず悪平等を要求する。他人が自分より得をしているように思うと我慢ができないんだ。自分はなにも苦労しないで、分け前だけを声高に要求し、騒ぎたてる。
彼らには充分気をつけなければならない。こういう類いの人間は、超能力を得るためには幻魔とでも手を結ぶ。彼らには絶えざる不満と嫉妬妄想しかないんだ。必要なのは、こういう人間を早く見つけだして、遠ざけることだ。
おれが何も動かないでじっとしているのは、〈彼ら〉をはっきりと浮きだたせるためもあるんだよ」
「あっ、そうだったんですか!」
陽子は声をあげ、ますます赤くなった。
「ごめんなさい......やっぱり自分の浅知恵で、他人を計るもんじゃないですね。もしかしたら、東さん自信がないのかな、なんて思ったりして......これだけ大勢の人たちに注目されていると、なかなか思いきってできないのかもしれないなんて、考えてました! ごめんなさい。そこまで深く東さんが考えていらっしゃるとは思わなかったんです。あたしって馬鹿ですね、本当に!」
彼女はばか、ばか! といいながら自分の頭を握りこぶしで打った。陽子にはそうした巧まぬ愛嬌があった。
「それじゃあ、騒ぐ人には騒がせ、不満をいう人にはおおいに不平不満をいわせておけばいいわけですね。〈彼ら〉が去って行くのは自由だし、その方がお互いにうまく行きますよね」
「君のいう通りだ」
と、丈はいった。
「しかし、もしかしたら、本当は自信がないのかもしれないよ。ここのところずっと試したこともないし、今ごろは失くなってしまってるかもしれないぜ。みんながいってるように、口先ばかりで中身はカラッポということもありうる。そうしたら、君はどうする?」
「あたしは東さんを信じてます。本当は、東さんに超能力があろうとなかろうと構わないのかもしれません」
と、彼女は生真面目にいった。
「あたしが東さんを信じるのに理由はないんです。ここが信じているからです」
陽子は胸に手を当てがい、うたうようにいった。
「だから、この目で見る必要なんかないのです。でも、見ることができたら......やっぱり素晴らしいでしょうね!」
7
陽子の言葉通り、人々の期待は高まっていた。ESP実験公開を望む声はしだいに大きくなりつつあった。
虚報ではあったが、総会の席上で、丈が超能力を公開するという噂が広まっていた。入会申込者がウナギ登りに増え、他校からも問合せが来るほど、前人気は凄まじいものがあった。
教師たちも著しい興味を示していた。
「大教室を借りる交渉に行ったら、先生たちにつかまっちゃったのよ」
と、陽子の友人の井沢郁江がいった。びっくりするほど瞳の大きい、丸顔の美少女である。
「取り囲まれちゃってね、いろいろ根掘り葉掘り尋かれるの。こっちは借りられないとやばいと思って神妙に答えてたんだけど、要するに東君の超能力を見たいのよね。しつこいとどなりたくなるくらい、うるさく問いただされちゃった」
郁江は、陽子のように東丈に対して畏敬を露わに示すことはしなかった。以前と変らない級友づきあいの調子であった。気兼ねしない、ざっくばらんの言葉遣いだ。
「彼らも、凄く興味を持ってるのよね」
と、郁江に同行した大柄な岩田邦子があいづちを打つ。肉厚な顔にニキビを作っている。彼女たちが詰めかけている文芸部室は人いきれで生臭いようですらあった。しばらく前の丈であれば我慢がならなかったであろう。丈はこの年齢の娘たちが嫌いだったのだ。
「彼らも総会に出たいっていうの。いえ、もう参加することに決めていて、それが大教室を貸す条件みたくなっちゃったんだけどさ。しょうがないから、そのことはあいまいなままに帰ってきたんだけど......陽子じゃないとやっぱりてきぱきやれないわね」
陽子は風邪を引いて寝込んでいるのだ。猛暑の夏が去った後、気候はめっきり不順になり、冬はいつもより一か月も早くやってきた。異常気候という言葉がマスコミで頻繁に取沙汰されるようになった。
娘たちがいっせいに喋りだし、賑やかな笑い声が文芸部室を満たした。彼女たちは全世界を暗く閉しつつある暗雲を気にもかけていないようであった。活きいきとして、楽しくてならない雰囲気を発散させていた。
つまりは、さほど真剣でない証左といえるかもしれなかった。
〝GENKEN〟は最初に陽子が危惧を漏らしたように、丈のファンクラブという様相を呈してきていたのだ。
女生徒ばかりあふれかえっており、男は数えるほどしか見当らない。
関心を持っていないわけではないのだが、華やかでけたたましい少女ばかりのファンクラブという雰囲気が遠ざけてしまうのだった。
丈が求めているのは、女くさく賑やかな応援団ではなかったが、陽子の予言通り、少女たちがバリヤーとなって、丈の真に求める人材の接近を阻んでいた。
「先生たちが総会へ押しかけてきてもいいのかしら?」
と、丸顔の郁江が尋いた。
「陽子に、あんたたち何やってんのって怒られちゃうわ」
大柄な岩田邦子が首をすくめた。
「でも、どうしようもないのよね。あの場の成行だったんだもの」
「構わない。先生が来てもいいし、他の生徒が傍聴に来ても、いっこうにさしつかえない」
と、丈がいった。えっと驚きの声がいっせいにあがる。
「本当!?」
「どうして? 総会なのにだれでも入れてしまったら、総会にならないんじゃない?」
「関心を持っているなら、一般の人間だって構わない」
と、丈は答えた。
「そんなことしたら、会場にぎゅうぎゅう詰めにしても間に合わないわ。みんな物凄く興味持っているんだもの」
と、丸顔を可愛らしくしかめて郁江が抗議するようにいった。
「では、もっと大きい会場を借りればいいんだ。五百人教室とか、いっそ講堂を借りてきてもいい。先生方がそんなに関心を持ってるなら、いやとはいわないだろう」
「本気なの、東君? だれでも入れて、ただで見せちゃうの、超能力を......?」
郁江が眼を瞠る。
「そんな、もったいないなあ」
と、岩田邦子が不満げにいった。その場に居合わせた会員たち女の子の一致した見解であるようだった。
「見世物じゃないんだぞ。もったいつけて、大げさに吹聴しながら見せるものじゃない」
「だって、ふだん超能力なんてない、あんなものはインチキだといってる奴らだってひやかしに来るでしょ。そんな奴らにわざわざ見せてやることないじゃない。そんなの、やだなあ」
邦子は感情的であった。常日頃、超能力否定論者と口論しているのであろう。同感の声がいっせいにあがる。
「東君の超能力なんてインチキだ、手品をあばいてやるといってる連中が絶対に来るわ。そういう連中が騒ぎだしたらどうするの? 総会をぶちこわす気で来るかもしれないでしょ」
「そうよ。最近、東君に対する反感、凄いんだから。三年の野口とか山崎なんか、化の皮を剝がしてやると公然といってるのよ」
「ジェラシーよ、自分が無細工な顔してもてないもんだから、醜男は恨みっぽくていやあね」
残酷なことをいって、どっと笑う。
「でも、東君が平気な顔してるところを見ると、ヤキモチ焼きの連中の妨害ぐらい、びくともしないんじゃないの」
と、高三の平山圭子がおっとりといった。細身で大人びた容貌の少女だ。
「そうよ、東君がそんなことぐらいでオタオタするはずないじゃない。それは東君に対して失礼よ」
一人が憤然といった。これも丈の熱狂的な帰依者だ。熱っぽい目で飽かず丈の横顔を見詰めている讃美者の一人である。今日は、大番頭の久保陽子が病欠しているので、気が大きくなっているらしい。
「東君はだれと対決したって敗けるもんですか。総会をぶちこわす気でくるんなら、やらせときゃいいじゃない。自分たちが赤恥をかくだけなんだからさ」
熱狂した甲高い声音でまくしたてる。
丈はこうした少女たち熱烈な讃美者たち多数に囲まれている己れが、他人にどのように映るかよくわかっていた。嫉妬と反感が煮立たないはずがない。いずれは丈の批判勢力が結集してくるだろう。
女の子たちをハレムのように擁して、影響力を振るっている美少年の教祖だ。これほど小面憎いものはないだろう。化の皮を剝がしてやろうという闘志に燃える者が出てきて当然だ。
「そうだわ、満天下の注目を集めて対決と行こうじゃないの! いざとなって怯気づくなっていってやらなきゃね」
興奮がとめどもなく沸きたってきていた。
「でもね、三年のあの田崎が、東君に用があるといってるみたいよ」
と、三年の平山圭子が物静かな口のききかたをした。とたんに喧騒がぴたりと静まり返った。
「田崎が? 東君に用があるって、どんな用があるのかしら?」
と、郁江が尋ねた。声音に隠せぬ不安があった。
「さあ......どうせろくな用じゃないんでしょうけどね」
「田崎の子分どもがいってたわよ......」
と、人垣の後方でだれかがいった。
「東君はもう学校へ顔出しできなくなるだろうって」
「なにさ、東君に田崎の奴、喧嘩を売る気? 身の程知らずめが!」
と、岩田邦子が憤然と声を張りあげる。笑声が湧いたが、心からの笑いではなかった。

「暴力団がなにいってんのよ! 田崎なんてチンピラのくせに!」
「田崎はチンピラじゃないわよ」
と、平山圭子がソフトに否定した。
「ひどい喧嘩好きだけどね。田崎と小学校が同じだから知ってるんだけど、彼、ちょっとおっかないところがあるわよ」
「東さんに比べたら、田崎なんか目じゃないわ! 吹けば飛ぶような小僧っ子じゃない!」
岩田邦子が力説する。
だれかが、田崎宏のことを暴力団と呼んだが、それは事実ではない。田崎は保守党の大長老政治家の孫である。バックが大きい上に、本人は気性の激しい暴れ者で、カッと激発して暴れだすと手がつけられなくなる。本物のヤクザを相手に大乱闘を演じ、何人もKOしたというから、拳法の腕も確かなのであろう。その時はヤクザが謝まって、手打式をやったそうである。法務大臣を何度も務めた政財界の黒幕ともなれば、当然筋物にも大きな影響力を持っている。
しかし、それで田崎は暴力団と同一視される破目にもなった。いわゆる番長組織など田崎の足許にも寄りつけない。ぐれた連中が彼の取巻きとなり、田崎は祖父の小型版のように隠然たる勢力を擁していた。金をいくらでも家から引きだせるので、田崎をたてまつる人間には事欠かない。
かなり乱暴なことをしても、学校を初め周囲は見て見ぬふりをする。そのため、年若い田崎は著しく増長した。青林学園の番長組織など手荒い制裁を受け、全滅状態にある。ヤクザを殴りつけることをスポーツのように考えている乱暴者が相手では、愚連隊程度の番長グループでは手も足も出ないのだ。
田崎は丈よりも一学年上なので、顔は知っているものの口をきいたことはない。
「〝検事総長〟が、おれに用があるといってるのかい?」
と、丈は面白そうにいった。〝検事総長〟とは田崎宏のことだ。祖父が元法務大臣であり、彼が番長グループを撲滅したり、ヤクザたちを病院送りにした業績からつけられたあだ名であろう。
「田崎と逢うの、東君?」
と、平山圭子が尋ねた。面長なおっとりした顔立ちの少女である。だれかが気のいい馬のようだと評したそうだが、もちろん馬には似ていない。温順な感じのことをいったのであろう。
「逢ってみてもいいな」
「でも、田崎は乱暴よ。かっとなると相手がだれだろうと殴りかかるんですって。あたし、心配だわ......」
「孫悟空みたいな奴だってね。一度、うちの弟が田崎と話したことがあるといってた。礼儀が正しくて感じのいい、男っぽい奴だといってた」
「冗談!」
と、郁江がいい、少女たちはわっと笑いだした。
「相手は狂犬みたいな奴じゃないの。逢ったりしたら、なにをされるかわからないわ」
「東君が田崎みたいな小僧っ子を怖れなきゃならない理由がどこにあるのよ!」
と、岩田邦子がむきになって反論する。
「田崎なんて鎧袖一触だわ。吹っ飛んじゃうわよ」
「でも、彼が今度の大会をぶち壊しにくるということも考えられるわ。東君をインチキ呼ばわりして、化の皮を剝がしてやると公言しているんなら、みんなの見ている前で、それくらいやりかねないじゃないの」
三年生の平山圭子は思慮深いところを見せていた。丈はその穏和さと考え深さが好きである。昔から年上の女性に惹かれる傾向があるせいだ。以前の丈だったら、つき合ってみようと思ったかもしれない。教養があって頭のいいタイプの女性に出遭うと興味を惹かれる。
そうしたタイプが、実は姉の三千子に代表されるものだと丈は気がつきはじめていた。姉にどことなく似ていたりすると、がぜん無関心ではいられなくなる。
もちろん、今はそんなことは口に出せない。女性が何十名も集まっていると、複雑な政治力学が必要となってくるのだ。丈にとっては本意ではない。久保陽子がうまくコントロールしてくれないと、帰依者の女性集団はとたんに丈にとってプレッシャー・グループと大差ない存在になってくる。
丈は本来、異性に冷淡である。異性に関心を持たれるのが嫌いなのだ。他人の目から見れば、丈が少女たち讃美者、崇拝者に取り巻かれ、ハレムの王みたいにやにさがっていると思うのかもしれないが、丈にとってはこの上なく迷惑な誤解だ。久保陽子の存在が機縁となって集結した崇拝者グループは、丈の本意では決してない。
田崎の考えることはわかっている。丈を天才的なスケコマ師と思いこんでいるに違いなかった。〝大色魔〟といったところであろう。田崎は彼なりの正義感に基づき、〝検事総長〟として、丈に制裁を加えようと思いたっているはずである。
「平山さんは、田崎を知ってるのかい?」
と、丈が尋ねる。
「ええ。小学校でいっしょだったの。今でも口をきくことぐらいあるわ。ばったり出会ったような時だけど」
平山圭子はなぜか頰を赤らめて答えた。彼女には珍しい反応であった。丈の眼差が気になったのだろう。丈は黒々とした瞳を実に率直に向け、相手の魂の内部まで覗きこむような気分にさせる術を心得ていた。丈のカリスマ性の秘密はまず第一に、その黒い涼しい瞳にあった。心の中をなにもかも読みとられて、噓がつけない気持になってしまうのだ。
「平山さんに頼みたいことがある」
「なにかしら?」
平山圭子は目をぱちぱちさせた。丈が彼女から目をはなさず、じっと見詰めているからだった。
「田崎に逢ってくれないか?」
「田崎に? いいわよ。でも、どうして?」
平山圭子のみならず、居合わせた全員が不審そうな表情になった。
「おれが逢いたがっていると伝えてもらいたいんだ」
「ええ、構わないけれど......どうして田崎なんかと逢ったりするの? 彼、激情家だから、かっとさせると危いわ」
口々に同意の声があがった。
「総会の前に、田崎と逢って話をつけておくのさ。彼が協力的になるようにね」
「そんな! 田崎は総会を潰してやるといってるのに!」
平山圭子は声を高めた。びっくりして椅子から立ち上ってしまう。
「そんな交渉に行ったら、ますます足許を見られて、なにをいいだすかわからないわ。やめて、東君! あなたは田崎を知らないのよ。彼はつむじ曲りで、根っからの喧嘩屋だわ。しかも、彼は東君を嫌ってるのよ。逢いに行くなんて、わざわざ喧嘩を求めて行くようなものだわ!」
「そうよ、東君。行くのはやめて!」
と、郁江が叫び、部屋中の少女が同じことを口々に叫び始めた。
久保陽子なら、こんなことはないだろうと丈は思った。彼女は丈を絶対に信じている。丈が一度決心したなら、掣肘を加えることは決してしないだろう。
「東君が、田崎なんかに負けるはずないじゃないのよ」
一人だけ岩田邦子が頑張っていたが、一同の非難の合唱にかき消されてしまった。
「田崎に逢って伝えてくれ」
と、丈は断乎としていった。女たちの不満の声を受付けない、だれにもゆずることのない口調であった。だれも丈のそんな口調をきいたことがなかった。
「一対一で逢いたいというんだ。時間と場所は今考える」
「そんな......まるで決闘じゃありませんか!」
平山圭子はさすがに声を慄わせ気味になり、態度の変った丈をこわごわと見ていた。
丈には突如として、容赦のないきびしさが現われていた。凜々しい顔になっていた。もともと凜然とした美少年なのだが、今はきびしいサムライ顔とでも表現すべき面貌になり、女子供の干渉を許さない激しさが満ちあふれていた。
他の少女たちも声を吞み、しんと静まり返ってしまった。
今の丈は、彼女たちがこれまで見て、狎れてきた穏やかな丈ではなかった。安易に口をきくことすらはばかられる、力強い権威に充ちた、畏怖すべき存在であった。にわかに丈は迫力をはらみ、小柄な体軀が二まわり、三まわりも大きく見え始めた。
──東君は大きな釣鐘みたいなものね。
と、後で平山圭子は友人たちに語った。
──小さく突いたぐらいじゃびくともしないし、音なんかまるで出ないんだけど、力をこめて突くと、びっくりするほど底力のある音が出てくるのよ。みんな、初めて彼がどんな音を出すかわかったわけ。女ってやっぱり目先のことしかわからないってところがあるのね......
「わかったわ。田崎をここへ呼び出せばいいのね」
と、平山圭子は丈の書いたメモをポケットにしまいこみながら、おずおずといった。顔が青白くなり、目が怯えていた。
「でも、乱暴なことはやめてね、東君。彼は決闘を申し込まれたと思って、やってくると思うの。そうじゃないとあたしからもいっておくけど」
「果たし状を突きつけられたと思うだろうな。田崎じゃなくても、そう思う。だが、心配しなくていいよ。ちょっと話し合いをするだけだから......」
丈は射るような目で立ち上り、部屋中の少女たちにきびしい視線を浴びせた。
「このことは絶対に秘密だ。だれにも口外してはならない。おれが田崎と逢うのをこっそり見に来てもならない。これは諸君に誓約してもらう。まさか、破る者はいないと思うが......」
丈は、燃えるような瞳を一人一人の顔に当て、岩田邦子の顔で止めた。
「わかってるな、邦公。こっそり窺きに来ようと思ってたろう!」
「は、はいっ」
岩田邦子は飛びあがるようにして答えた。だれもさすがに笑わなかった。鮮やかに心を読まれた岩田邦子は顔が青白くなり、引きつってしまった。
「君の心が読めないぐらいでどうする。絶対に来るなよ、邦公。もし破ったら絶交だぞ」
「はい! わかりました!」
彼女は悲鳴のような声を出して誓約をくり返した。丈がおそろしい目をしていたからだ。丈が初めて見せる家長的なきびしい権威であり、彼女はまったく慄えあがってしまった。
これまで知っている丈は穏和であり、アイドル的なミーハー人気の対象であった。丈の周囲に集まる少女たちは、アイドルの側近という特権的立場に狎れていた。
しかし、丈がしょせんアイドルではありえないことを、彼女たちは知ることになった。秘書的存在である久保陽子が、丈に対して臣従の礼をとっているかのようなへりくだりようが、彼女たちにもようやくわかりかけてきた。
つまり、久保陽子は自身が意識する、しないにかかわりなく、丈を〝家長〟として遇していたのである。戦後の父権失墜に伴い、〝家長〟の存在をほとんど知らない娘たちにとって、丈の持っている〝家長〟の資質は、目を洗われたように鮮烈であった。
8
丈を捉えている責任感の重みは、彼を〝家長〟としての自覚に押しやりつつあった。
〝家長〟にとり、あらゆる意味での幼稚さ、被護者としての甘え、弛みは寸毫も許されない。全責任を双肩に負わなければならないからである。
〝幻魔大戦〟の真相を知る者の自覚が丈を変えた。
それは、トランシルヴァニアの第一王女、ルナ姫に生じた変化とまったく同一のものであった。重責を負ったからには、一切の猶予期間はみずから返上し、〝家長〟にふさわしく自己を鍛えあげなければならない。
自分には大いなる責任があるのだ。
丈は、初めて姉の三千子の持っている気丈さ、確かさを理解することができた。父親の東竜介が家長であることを放棄しているからには、主婦として三千子は弟たちを育て、家を守るという責任感により、毅よくならざるを得なかったのだ。
今は、丈自身が〝家長〟の毅然とした強さをおのがものとすべき時であった。宇宙の真相を自覚した者が、〝家長〟としての責任を果さなければならないのだ。
それは、だれが〝家長〟の座を定めるというものではなく、自ら悟り、覚醒した者が果さねばならぬ義務を意味していた。
丈は前進を開始したのである。
午前一時。
綜合グラウンドの外壁が、巨大戦艦の船腹のような彎曲を描き、通りに向けてせりだしている。広大な空地が多く、人家はわずかに散在しており、深夜ともなれば寂寥感が著しくなる。暗く淋しく、虚ろだ。
風のざわめきだけが耳朶を打つ、悪夢の中の荒涼が広い空間をすっぽりと覆っている。北側を走る私鉄の終電が通過した後は、なんの物音もしなくなる。
丈はそんな無人地帯を、田崎宏との会合の場所に選んだのだ。むろん、余人の介入を避けるためもある。研究会の少女たちが家を抜け出すことのできない時刻を選んだのだ。
夜間、とうてい女子供が一人歩きできる雰囲気ではなかった。灯火はわずかであり、夜闇の底に広大な綜合グラウンドが夢魔のように沈みこんでいる。
夜の暗さは、丈にとりなんの苦にもならなかった。彼は超常能力である透視を働かせることができたからだ。
透視能力は、両の瞼を閉ざしていても作動する。肉眼で見るよりも、明確であり、光量の多寡にかかわらず、細部にまで渡って明瞭に見分けることが可能である。
丈は滅多に、自己のPKを用いないように、この透視を働かすことはない。ふだんは意識の中にはなく、まるっきり忘れてしまっているほどだ。
だが、一度使う時になれば、スウィッチを入れればいい。闇の中に沈みこんだ無人地帯は、陽光に照らし出されているよりも明白に全貌を丈の前にさらけだしていた。
丈は、西側の道路にヘッドライトを光らせたタクシーがやって来て停まるのを、視角的には綜合グラウンドの施設に妨げられながらも、はっきりと見定めることができた。
透視能力は三次元レーダー以上の働きを持っている。障害物があっても、邪魔されることはない。死角というものが文字通りないのだ。
丈に察知されることなく、忍び寄ることはまったく不可能であった。
タクシーが客を吐きだして走り去ると、丈は闇の中を緩やかに歩いて行った。タクシー運転手が、サイドウインドーをさげ、唾を吐き捨てるのが、同じ車内にいるのと同様にくっきりと見える。数百メーターも隔てた、しかも施設の建物の蔭なのだから、いささか信じがたいほどだ。驚くべき鮮明さで、細部に至るまで克明に見える。肉眼と異るのは、意志すると同時にデティルがズームアップされることだ。至近距離で見るのとまったく変らない。しかも、透視には物質的な遮蔽はなに一つ存在しないのだ。三次元的制約を全て脱しているのである。
丈は暗闇の中を、白昼と変らない動きで歩いて行った。静まり返った道路の向うから、田崎宏が挑戦的な足取りでやってくる。乏しい街灯の光に首を傾け、目を凝らして丈の姿を見定めようとしていた。
田崎は緊張していた。豪胆に振舞おうと努めてはいるが、全身に現われた緊張を、夜闇が隠してくれていることに感謝しているのだった。
彼は特に大柄とはいえないが、胸幅の厚いふてぶてしい体つきの持主であった。四肢は太く発達しており、猪首の上によく光る目玉をつけた頑強そうな顔が載っていた。タフで人並はずれた馬力の持主であることは間違いなく、「悪名」を演じている勝新太郎と奇妙なほど相似的な雰囲気を漂わせていた。
独善的できかん気が強く、きわめて喧嘩っ早い人間であることは一目瞭然であった。彼なりに強い正義感に駆られて動く、俠気のある男であると自負しているのだが、あいにくその判断の基準は偏狭であり、ひとりよがりでありがちなのだった。
一度思いこんだら、だれがなんといってもきかない思いこみの強さが、彼のエネルギーをいやましに活性化しているのだ。一本気ではあるのだが、かなり偏執的といいかえてもよさそうであった。
丈はとっさにそれだけを相手の喧嘩慣れしたしぶとい顔から読み取っていた。論理的な積み重ねの経緯をたどることなく、ごく自然にわかってしまったのだ。これもサイコメトリと呼ばれる類いの直感的な超能力であるのかもしれなかった。
ようやく前方の丈に気づいた田崎はすばやく身構えた。肉眼に依存するしかない彼は、ほんの十数メーター手前に来るまで、丈の気配を察知しえなかったのだ。
田崎の逞しい顔には疑念が浮んでいた。動物的な勘を自負しているのに、相手が身辺に忍び寄るのを察知できなかった自分自身への怒りが混った、ショックの表情であった。
丈はことさらに気配を殺した覚えはなかったが、平静な気分でいることが、田崎の動物的警報機を狂わせたらしい。
「あ、東か......!?」
田崎は少しどもりながら、しゃがれ声で誰何した。
「そうだ。あなたも一人で来たようだな」
丈は平然といった。田崎の顔に表われた猜疑や怒りの色をさりげなく見守っている。
「あたり前だ! きさまごときに呼び出しを受けて、助っ人を連れてくるような情ない真似ができるか、馬鹿が!」
田崎が吐き出すようにいった。すっかりその気になっていた。いつでも闘争時に備えて、心身が調整されているのだ。
「きさまは一人か? 別に加勢を連れてきたって構やしねえがな」
彼はぺっと唾を吐いた。心身ともに闘いへの期待で沸きたち始めていた。根っからの喧嘩好きであり、他に何も求めていないのだった。
「さあ、来やがれ。勝負だ!」
気合のこもった声を出した。丈を頭から吞んでかかっているのだ。
「なぜ、おれがあなたを呼び出したのか、理由を知りたくないのか?」
と、丈は穏やかにいった。田崎の闘志は真正面から叩きつけてくるようだった。
「馬鹿野郎、そんなこと知る必要があるか!」
田崎は獣のように咆えた。かっと頭に血が昇り、燃えるように全身が熱くなってくるのだ。自ら火をかきたてようとする。
「いい度胸だぜ、東。望み通り勝負してやる! 来ないなら、こっちから行くぜ!」
「勝負してもいいが、あなたと二人きりで話し合ってみようと思っていたんだ」
「くだらねえ! 話すことなんかあるか! おれに一人で呼び出しをかける度胸は褒めてやるが、手加減はしないぜ! 叩きのめしてやる!」
「一つ聞きたいが、田崎さん。僕があなたを呼び出したのはなぜだと思う?」
「くだらないことを聞くな! おれがきさまの化の皮を剝がしてやるといってるのを聞きつけて、果し状をよこしたんだろうが!」
「それで、勝負をつけに来たんだね。だが、違うな。僕はあなたを決闘のために呼び出したんじゃない」
「じゃ、なんのためだ? ふざけるな! 話し合いで、おれをごまかそうたってそうは行かねえぞ! おれはきさまみたいないかがわしいインチキ野郎が大嫌いなんだ。糞が漏れるほどぶちのめしてやる!」
田崎は怒りの火勢を自らあおりながら怒鳴った。
「おれを甘く見るな! おれはな、弱っちい野郎どもみたいに話し合いなんかしねえんだ! 殴り合いをするのがおれの礼儀作法よ!」
唾をぺっと吐き捨て、目を怒らせて遠い街灯の光に照らしだされた丈を睨みつけた。
「さあ、かかって来い! さもないと、こっちから行くぜ!」
闘志満々だった。向う気の強さだけは並みはずれているのだ。丈に向けてやにわにつかつかと歩きだし、間を詰めにかかる。丈はその動きに合わせて後退した。
田崎が蔑みの表情を浮べる。丈が臆したと思ったのだ。
「なんだ、こいつ。人を呼びだしておいて、まともに勝負する元気もねえのか?」
「よっぽど喧嘩が好きなんだな。相手をしてもいいが、その前に話がしたいと思ってるだけだ。それぐらいも待てないのか?」
丈は冷静な声でいった。田崎はそれが気に食わないようだった。
「そんなに世迷言を吐かしたいんなら、一分だけ待ってやる。好きなことを吐かせ。一分たったらぶちのめすぞ!」
「いいとも。おれはあなたと勝負するというよりも、自分の信念をあなたに対して証明したいのだ。だからこそ、他人を交えずに逢えるこんな場所と時間を指定した。一対一で会うために......」
「だったら、なにもゴタゴタいうことはねえじゃねえか! 早くケリをつけちまえばいいんだ!」
と、田崎が性急に怒鳴る。
「ご託を並べるな! いいたいことはそれだけか!?」
「まだある。あなたはおれが新興宗教の教祖みたいな真似をして、みんなを、女生徒たちをたぶらかしていると思っているんだろう?」
「その通りじゃねえか! おれは教祖だなんだとぬかして、他人を瞞す奴が許せねえんだ! 気の毒な人間をたぶらかして、金や物を巻きあげたり、奉仕させたりする手合がよ! きさまは怪しげな力を持ってるとかいうが、おれはそんなこと怖れちゃいねえぞ! 超能力だの霊力だの、そんなもんはこの世にありゃしねえんだ。きさまの化の皮をひんむいて、それを証明してやるからな!」
田崎は怒鳴りちらした。迫力のある声音である。舞台に立てば映えそうな若者だ。
「あなたは平山圭子が、おれにたぶらかされたと思っている。それで、おれを叩き潰そうと決心したんだ。小学生のころから、あなたは平山圭子が好きだったからだ」
質問などではなく、断定であった。丈は田崎の心の裡を見抜いていた。
「もちろん、だれもそんなことは知らない。当の平山圭子さえ知らない。あなたはそれを心に秘めていたからだ。しかし、おれは知っている。あなたが、おれを打倒して平山圭子の目をさまさせようとしていたこともだ」
「なぜ、そんなことを......なぜだ!?」
田崎は喚いた。目は疑惑と驚きに光っていた。
「他にもいろいろわかっている。あなたが〝超常現象研究会〟の総会をぶちこわしてやろうと計画していたこともだ。だが、そんなことをさせるわけにはいかない。沢山怪我人が出るからだ。だから、その前にあなたと逢っておこうと思ったのだ」
「もちろん、総会なんてふざけたものはぶっ潰してやる。ついでにインチキ研究会も叩き潰してやるんだ! きさまがいくら頼みこんだって、決心は変えねえぞ。きさまはペテン師のインチキ野郎だ。手品使いのスケコマ師だってことを、みんなの前で暴露してやるんだ! きさまをぶちのめして白状させてやるから、覚悟しろ!」
「なるほど。おれを半殺しにして、半死半生のざまを見せつければ、平山圭子もおれの正体がわかって、目が覚めると思ったんだな。いかにもあなたらしい発想だよ」
丈は怖れ気もなくいい、それが田崎を刺激し、逆上せんばかりの怒りに誘った。
「平山のことはいうな! きさまみたいなスケコマ師が二度と口にしたら、殴り殺すぞ! おれはきさまのようなイカサマ野郎を見ると虫唾が走るんだ! 気の毒な人間たちを瞞してひどい目に遭わすペテン師は二度と立って歩けないようにしてやる!」
田崎はやにわに襲いかかった。喧嘩慣れした敏捷な動きであった。丈は軽々と跳んで突進をかわした。
「あなたは正義感だけ持っているが、やり方がなってないな」
丈は考え深そうにいった。
「喧嘩が強いのにまかせて、悪人をぶちのめせば、それですむと思っているのか。そんなことで悪人は改心したりしないよ。病院の中からあなたを告訴するだろう。あなたの祖父がいくら大物政治家であろうと、いつまでもあなたをかばいだてすることはできやしない。これまでは警察沙汰になっても、祖父の威光で示談にしてことをおさめてきたかもしれないが......田崎さん、そんな甘えはいつまでも通用しない。あなたの強いという喧嘩だって結局は子供のケンカじゃないか。高が知れている」
「なんだと? この野郎、逃げまわらずに勝負しやがれ!」
田崎が目を吊りあげて喚く。
「もう容赦しねえぞ! よくもなめやがったな! 半殺しぐらいじゃすまさないからな、見てろ!」
弾丸のように突進してきた。丈が再び跳びのき、彼は歯ぎしりして罵った。
「ようし......そうやってあくまでも逃げまわろうってのか。そんなら、こっちにも考えがある」
田崎は学生服の背中に手をまわし、隠し持っていた木刀を抜きだした。
「本気でおれを怒らせたな、東よ......きさまが卑怯な真似さえしなければ、使うまいと思ってたが、もう許さねえ!」
構えは本格的だった。腰の据わりも文句のつけようがない。筋目の通った修練を積んでいるに違いなかった。
「拳法だけじゃなかったんだな、田崎さん」
と、丈が落着き払っていった。
「よほどの覚悟で来たということがわかったよ」
「そうよ。汚いペテンを使うスケコマ師には制裁を加えてやる。おれの知ってる人間で、新興宗教に家財産を全部巻きあげられ、首を吊った者がいる。神だの如来だのと吐かして薄汚い真似をする奴は許しておけねえんだ。頭蓋骨が砕けるかもしれねえぞ、東。手加減はしないからな」
田崎は凄い迫力を示した。精悍無比であり、白熱したエネルギーをあたりに放射しているようであった。
「行くぜ、東。今度は逃さねえ。骨をへし折ってやる」
じりじりとすり足で間合を詰めてきた。両眼は炎のように輝いている。
「あなたを呼んだのは、本当のことを教えるためだ」
と、丈は微動もせずに立ったままいった。田崎の攻撃などまったく気にせず、平常そのものの態度だった。
田崎の胸に疑念がゆらいだ。これまで彼が無数にくり返してきた荒々しい闘争の歴史の中で、いざという時にこれほど平静な相手は一人もいなかった。まるで、田崎の存在など気にも止めていないのだ。幼い子供がオモチャで向かってくるのを見ているような、事もなげな落着きぶりであった。
「あなたがいかに虚しいことを夢中になってやっているか、知らせるために来たのだ」
「ほざくな!」
田崎は疑念を振り払い、獣のように咆えながら、跳躍した。木刀が唸りを生じて丈に振り降ろされる。
夜目にも白く、目を歯を光らせて、おめきながら襲いかかってくる若者は恐ろしい気迫に満ち、無類に剽悍であった。並みはずれた活力の持主なのだ。スポーツや武道に励むことで発散させるには、そのヴァイタリティーは巨大すぎるのかもしれなかった。
木刀の打撃は優に人を殺しかねない力がこもっていた。丈はよけずに木刀を頭上で受けた。
両手が肩の付根まで痺れる衝撃が、木刀を通じて田崎に伝わったろう。
丈はエネルギーを全身に満たして立ちはだかっていた。木刀の打込みのショックなどまったく感じなかった。強烈なエネルギーがとっさに全身の細胞に充塡され、たぎりたっているのが感じられた。
PK(念動)を用いて、相手の木刀をはね返すのは簡単である。しかし、丈はそれをしなかった。一瞬の気合のように、サイキック・エネルギーで全身を満たし、わざと田崎の激しい木刀の打撃を頭で直接に受けたのだ。
田崎は満身の力を渾めて大岩を打ったように、体が痺れ、木刀を取り落さずにいるのが精一杯であった。まったく手加減せずに打撃を加えたのだ。
相手の頭蓋骨を砕いたことを、彼は確信した。まさか相手が身動きもせずに、渾身の力で振り降ろした木刀を受けるとは思いもつかなかったのだ。
田崎は凍るような思いで、頭を砕かれた丈が棒のように倒れるのを予期した。殺す気はなかったが、嚇っとなって喧嘩相手を大怪我させたことは幾度もある。
今度も相手を殺しかねないほど怒り狂ってはいたが、素手の相手を殺す意志はなかった。木刀を用いたのも、半ばは逃げ足の速い相手を牽制するためだ。木刀で殴り殺す気だったわけではない。
素手の相手を撲殺してしまった......
田崎は重く痺れるような衝撃を心身ともに味わっていた。大岩石を打ったような、異様な手応えは、殺人行為を犯したと彼に確信させるほどのものだったのだ。
丈は微動もせずに立ちはだかっていた。黒い濡れた光を放つものが、筋を引いて額をゆっくりと伝わった。
「それで気がすんだのか?」
と、丈は平然といった。
「貴様......」
田崎は声帯が凍てついたようになり、うまく声が出てこないのを知った。
「これだけか?」
丈は笑みを浮かべていった。その笑いは田崎の目には嘲笑として映った。満身の力をその一撃に渾めたのに、相手は冷やかに笑っているのだ。冷たい屈辱が田崎を捉えた。
「これくらいで気がすむほど、あなたの怒りというのはちっぽけなものだったのか?」
と、丈はいった。力をこめて続ける。
「あなたはちっぽけでけちな人間だ。暴力を振るって他人に恐れられ、いい気持を味わうのが目的のコビトだ。そんな生き方がどんなにつまらないか、おれはあなたに教えてあげよう。そのためにおれは今夜あなたをここへ呼びだしたのだ」
「貴様、ぶっ殺してやる!」
田崎の目は凶暴に燃えあがった。相手の不遜さが本気で自分の獣性に火を点けたのを感じていた。もう後戻りはできなかった。
「やってみるがいい。あなたのしていることは幼稚な子供の喧嘩だ。腕白小僧が力まかせに棒切れを振りまわしているのと同じことだ。そんなことでは蚊に刺されたほどにも感じないぞ。さあ、やってみるがいい!」
「吐かしたな!」
挑発され、怒りに目がくらんだ田崎は憤然と躍りこみ、力いっぱい突っ立っている丈を乱打した。唸りを生じた木刀が無抵抗の丈の体を所構わず打ち据えた。
狂的な衝動が田崎にとり憑き、やめることができないのだった。異様な打撃音とともに岩石を殴りつける痺れが両腕の感覚をなし崩しに奪った。
遂に木刀が、手許から数センチを残し、真二つに折れ飛んだ。
田崎は激しく呼吸を乱し、汗みずくになり、よろめくように後退した。気味悪い消耗感が体中に広がった。両腕は鉛の重さとなり、感覚を失っていた。
丈はその場に少しも姿勢を変えずに突っ立っていた。田崎は心の底からこみあげてくる冷感に慄えた。あれだけの狂気の乱打が相手になんの打撃ももたらしていないと気付いたのだった。憤怒は去り、恐怖が彼の心身に巣食った。
「もうこれで終りなのか?」
と、丈は変らぬ声音で尋ねた。田崎は答えもやらず、荒い呼吸音を響かせていた。
「どうだ、自分がどれだけちっぽけな貧弱な人間かということがわかったんじゃないのか? 田崎さん......あなたはそれだけ夢中になってやっても、おれを倒すことはできなかったじゃないか......」
こいつは化物だ、と田崎は思った。氷の冷感がじわじわとパニックの根として育ちつつあった。
こいつは不死身の化物だ。いくら殴りつけてもまるっきり平気なのだ。こいつについて噂されていたことは真実だったのかもしれない。魔王の化身で、恐ろしい通力を持っているという噂だ。
こいつが底知れない力で反撃してきたら、自分は殺されるだろう。
田崎は恐怖の虜となった。微動もせず突っ立ったままの丈が、魔神のように威圧する巨大な影となって迫ってきた。田崎はこれまで自分を臆病だと思ったことはなかった。他人に対して、それがどんな地位の大人であろうが一度も臆したことはなかったのだ。彼には巨大な、祖父という後楯があり、それを背負っている限り、警察ややくざですら取るに足りない相手であった。底知れない権力を持った祖父の許へ駆け戻れば、なにをしでかそうと穏便におさまるということが幼いころからの経験で刷り込まれていたのである。
今、田崎宏は、その威光が全く通じない敵と対面していた。常識を超えた、無気味な存在であった。
この相手は、田崎の背後にある威光も通用せず、彼の得意とする暴力も平然と無視する想像もつかない強靱さの所有者であった。
田崎宏は喘ぎながら、ただじりじりと後退りを続けた。逃亡の衝動に捉えられているのだが、相手に思いきって背中を向ける勇気がどうしても湧いてこないのだった。彼が背中をさらした瞬間、恐ろしい反撃が、無防備な背中に襲いかかってくる、そんな強迫観念が田崎を猛鳥の爪のようにわし摑みにしていた。
「逃げるな」
と、丈は冷やかにいった。
「今逃げだせば、一生の間屈辱にさいなまれることになる。自分の弱さ、臆病さを恥じながら生きて行くことになる。それよりおれの話を聞くといい」
「いやだ!」
田崎は叫んだ。己れの叫び声が老人のそれのように惨めに弱々しくしゃがれていることに、彼は慄然とした。
「では、おれをもっと殴れ! あなたがいつもやっているように、他人を殴る蹴るで痛めつけ、制裁と称しているように、おれにもやってみろ!」
「いやだ!」
「なぜだ! あなたはそれが好きじゃないか! 他人を暴力で支配するのが大好きじゃないか。祖父の威光をかさに着て、傍若無人な乱暴を働くのが、あなたのなによりも好むところじゃないか! さあ、続きをやり直すんだ! あなたはおれを制裁すると公言した。おれをやっつけて化の皮を剝がすといった。その公約を果したらどうだ!」
「い、いやだ!」
田崎は慄えながら絶叫した。
「あなたはそれでも男なのか!? 男なら一度誓ったことをとことんやり抜け! 自分の暴力が通じないぐらいで怯気づくな! さあ、おれをもっと殴ってみろ!」
「いやだ! お前は化物だ! 化物を殴ったってなんにもならない!」
死物狂いで喚いた。

「だめだ、続きをやり直すんだ。あなたは超能力などあるものかと否定した。化の皮を剝がしてそれを証明すると公言したんだ。卑怯な真似をするな! あなたの望み通り、おれは体を張ってあなたと勝負しているんだ。おれは自分の信念のために命を賭けることを証明しようとしているんだ! あなたも男ならそうしろ!」
「いやだ、いやだ! お前は化物だ!」
死物狂いで喚き、田崎はくるりと向きを変え、逃走しようとした。
閃光が走った。暗い夜空を紫電が閃き、闇を引き裂いたのだ。凄まじい光が一瞬、影のない妖しい青白い世界を産んだ。
雷鳴が猛々しく轟き渡った。
9
突然の雷鳴だった。非現実的な異和感が真青な闇の中に存在した。異次元の世界が突如として眼前に展開されるのを見る心地がした。
田崎は頭の深奥まで真青に染めあげられ、凝結したように身動きもかなわなかった。
更に青い閃光が二度、三度と空間に充満する。異様に明確な影のない世界だ。
東丈は白い顔に凄惨な血の網目をめぐらし、田崎を見詰めていた。鬼気迫る光景に、田崎の心は凍結した。
彼が木刀の乱打で殺してしまった丈の怨霊が、そこに立ちはだかり、異変をもたらしている......そんな考えが不意に田崎の心にとり憑いてしまったのである。喉の奥から声にならない悲鳴が切れぎれに漏れ出てきた。腰がぎっしりと砂の詰まった重量感で満たされ、両膝の蝶番が壊れたようにへなへなになって体重を支えておくことが不可能になった。
田崎は動物的な退行を起こして、浅ましく四這いになり、泣き喚きながら逃げようとする衝動の虜になった。誇りが一片も残さず蒸発しかけていた。
「逃げるな!」
と、凜然とした叱咤が浴びせかけられた。
「しっかりと足を踏んばって、おれを見るんだ! 惨めな真似をするな!」
頭を力まかせにぶちのめされるほどのショックを覚え、田崎はがくりと腰が砕けかけながらも危うく踏み止まった。
田崎は呆然とした顔で、丈を見返した。
「なぜ逃げる。まだ勝負は終っていないぞ」
丈の声音は鞭を振るようにきびしかった。
「いやだ......お前は人間じゃない! 化物とは勝負なんかできるもんか」
田崎は慄えながら叫んだ。
「逃がさないよ、田崎さん。本当のことをあなたに知らせるまではね......」
丈の笑いほど田崎にとって恐ろしいものはなかった。彼は全身、総毛立った。
「やめろ! ほっといてくれ! おれは二度とお前には関りあわない......」
必死で喚く。
「本当だ! お前が人間じゃないことはよくわかった! もうお前に楯突く気はない! 約束する......」
声が弱々しく掠れだし、彼は惨めな気分に陥った。
「だめだ!」
丈の声は激しかった。
「もしおれが悪魔の王だったらどうする? あなたは魂を悪魔に渡すことになるんだぞ! 男らしく戦え! 打ち倒されて二度と立てなくなるまで戦うんだ! 男だろう、田崎さん......元気を出せ!」
これほどの侮辱はなかった。当の相手から励ましを受けているのだ。こんな嘲弄は我慢できない......
田崎の全身を摑んだ怯懦が、憤然と闘志を奮いおこすとともに剝落していった。
「畜生......」
「そうだ。その意気だ」
と、すかさず丈がいった。
「元気を出すんだ。逃げようとしたって、逃がしやしない。田崎さん、あなたはそんな恥をさらすのに堪えられないだろう」
「貴様が悪魔だとすれば、貴様のいう通り逃げてもむだだ......」
田崎の体に再び筋金が戻ってきた。蒸発しかけていた闘志を、負けん気でふるいおこす。
「これくらいでへたばってたまるか! 最後まで徹底的にやってやる」
「その通りだ、田崎さん。あなたにはそう簡単にへこたれてほしくないな」
田崎はぎりっと奥歯を嚙みしめて、学生服の前をはだけ、さらしの腹巻に手を突っ込んだ。白木の鞘におさまった短刀を取りだす。
「貴様が本当に悪魔なら、これで最後の勝負だ。もしこれが通用しなかったら、おれの生命をやる」
度胸が決まったようであった。
「その時はおれの生命をとれ。生恥をさらすのはご免だ......」
人が変ったように、田崎は冷静になってきた。相手が顔を血で染めているのが、はっきりと見えるようになった。こいつだって生身なんだ、と彼は思った。一念を渾めれば通用しないはずはない。人間放れした奴だが、やっぱり五体に血が流れている生身の人間なのだ。
彼はにわかに活気づいてきた。一瞬前の惨めなパニックにうちひしがれていた自分が噓のようであった。
「よし、本当の勝負だ!」
田崎は闘魂を吹きこぼれさせんばかりに露わにして宣言した。
「お前が本当の悪魔なら、必ず仕止めてやる! おれは負けん! 摩利支天に誓って、お前を倒す!」
彼は胸許に構えた白鞘をゆっくりと払った。夜目にも鋭利な刃が白かった。
「だが、その前にお前に尋く。東、お前は本当に悪魔の王か?」
確かにさいぜんの田崎とは顔付も物腰もがらりと一変してしまっていた。腹が据って、臆病風が消し飛んでしまったのであろう。
「答えろ、東!」
「あなたはそう思っていたんじゃないのか? 悪魔の王だと最初から決めつけていた。なぜ今になってそんなことを尋くんだ?」
「不審があるからだ」
と、田崎はしっかりした声音でいった。
「おれが臆病風に吹かれて卑怯にも逃げだそうとした時、お前はそれを止めた。おれに勇気を取り戻させるように仕向けた。確かにお前のいう通り、あそこで逃げていれば一生恥辱を背負って、びくつきながら生きなければならなかったろう......お前はなぜおれを止めたんだ?」
「人間は逃げるべきではないからだ」
と、丈は答えた。
「もし相手が悪魔の王ならとくに逃げてはならない。あなたに男らしく戦ってもらいたかった。本当に戦うとはどんなことか、それをあなたに知ってもらいたかったのだ」
「お前のいうことは本当だ。おれが今までやってきたのは子供の喧嘩だった。おれは本当に恐ろしい強敵と戦ったことが一度もなかったことに気付いたんだ」
「そうだ、田崎さん。おれはそれをあなたに知ってもらいたかった」
「すると、お前は悪魔の王ではないな」
と、田崎は静かにいった。武者震いは去っていた。
「どうもおかしいと思っていた。お前はいったい何者なんだ?」
「宇宙の真実を伝える者だ。宇宙で何が起きているかを人々に教え、なにをなすべきかを教えるのだ」
丈は腹の底から声を出した。
「それがおれの目的だ。おれが悪魔の王だと呼ばれていることは知っている。この先も呼ばれ続けるだろう」
「なぜ否定しないんだ。悪魔の王ではないとなぜみんなに訴えないんだ?」
「否定したからといって信じてもらえるか? あなたは最初おれのいうことを信じたか?」
「そうだな......信じなかったな」
田崎は首を振った。その眼が光った。
「しかし、今では信じる気になれる。お前は悪魔の王ではない。お前はなにか、別のものだ......」
「なぜ、そう思う」
「ここでわかったよ」
彼は片手で胸を叩いた。すっかり明朗な顔になっていた。太い濃い眉も睫毛の長い大きな目も邪気がなくなっていた。
「お前が本当はいい奴で、悪魔の王なんかではないとわかったんだ。しかし、お前はまったく凄いやつだ。頭をさげる......こんな気分になったのはこれが初めてだ。お前には負けたよ」
「真実を他人にわかってもらうのは並たいていのことじゃない......」
と、丈はいった。
「生命を張らなければならないこともある。それをあなたにわかってもらいたかったのだ、田崎さん。口先でいくらうまいことをいっても、真実を伝えるために命がけになれる人間じゃないと、他人はいつか正体を見破ってしまうだろう」
「お前が生命を賭けてなにをしようとしてるのか、おれにはよくわからん。だが、きっと凄いことなんだろう。ひとつ聞きたいが、なぜお前ほどの人間が、おれに黙って殴らせておいた? 本当に手向かいもしないで木刀を受けるだけのことがあったのか? おれは餓鬼の頃から一日何千回も木刀を振ってる男だ。殴り殺されるかもしれなかったんだぜ......」
田崎は心から不思議そうにいった。
「お前はひどい怪我をしてるんじゃないのか? ひどい血だ......」
「人間が本気になった時、なにができるか知らせたかったんだ。心配するな。おれはこれくらいでへたばりやしない。人間には自分でも気付かないような物凄い力がかくされているんだよ、田崎さん。だからこそ、あなたの木刀を受けて見せたんだ。木刀でなく、その短刀を使ってたとしても同じことをしただろう。人間は気力だよ」
「お前には負けたよ。さっぱりと潔よく認めるぜ。どうとでも好きにしてくれ」
田崎はやにわにその場に座りこんだ。しんそこから観念してしまったようだった。
「ひとつ聞かせてくれ、東。お前は通力を持ってるそうだが、それは本当なのか?」
「事実だ」
「なら、なぜ最初にそれを使わなかったんだ? おれの木刀を受ける前に......」
「使いたくなかったんだ。おれの持ってる超能力は自分のために使うものじゃないと思ってる。どうしても他人のために使わなきゃならないならともかく......自分で自分の力を封じてあるんだ。だから、だれにも見せない。見なければ信じないような人間には見せても仕方がない。田崎さん、あなたがさっきいったように、本当に信じてくれるものは、見せなくても心でわかってくれるんだ。おれはそう信じてる」
「わからねえ......なぜ凄い力を持っていながらかくすのか。だけどわかるような気もする。お前のやろうとしてるのは、次元の高い喧嘩だな。凄んだり暴れたりしないで、相手をおとなしくさせて、従わせようとしてるんだろう?」
「真に戦うべき時はくるだろう。だが、今必要なのは喧嘩じゃない。心意気だよ。自分の生命に替えても護るべきものがあると他人に示すことだ。人間は真に高貴な美しいものを護るために戦うべきだ。さもなければヤクザの喧嘩になってしまう」
「心意気か!?」
田崎は地面に座りこんだまま、首を垂れて胸許に埋めこんだ。しんそこから打ちのめされてしまったようだった。
「おれはよっぽどくだらないことをしてたんだな、これまで......てめえのことしか本当は考えたことがなかったからな。胸がスカッとするように暴れてやりたい、それしか考えたことがなかった。気に食わん奴を全部張り倒してやれば、この鬱陶しいのがさっぱりするんじゃないかと思ってな......だけど苛々するだけで、本当はちっともさっぱりしなかったよ。それどころか、ここが爆発寸前のボイラーみたいにどんどん圧力が高まって、息もつけないような気分になりやがるんだ......」
田崎は短刀の柄で己れの胸を小突いた。
「まったくどうにもならない」
「その気持はわかる」
と、丈はいった。
「おれもそうだったんだから。宇宙の真実を知るまでは、......体が爆発するんじゃないかと思うほど苦しかった。だから、おれが知ったことをみんなにも知らせようと決心したんだよ。田崎さん、あなたも真実を知るべきだ。そうすれば、自分がなにをなすべきかがわかる」
「教えてくれ、東。その宇宙の真実とかいうのを。おれはお前に負けたんだ。お前に教わることを恥じちゃいない。お前はおれよりも大きな人間だ。根性も肝っ玉もなにもかもでかい......なんでもいってくれ。おれはいわれた通りにするから」
「この次にまた話そう。今夜はもう遅い」
「遅くたって、おれは構わないが......おい、東、大丈夫か?」
田崎が夜気を透して、血が黒いタールのように顔面を汚している丈を見詰め、懸念をこめて尋ねた。
「だいぶひどいんじゃないか......医者へ連れて行こうか?」
「心配ない。おれはこれくらいで参ったりはしない。とはいえ相当きつかったことは確かだけどね」
「おれは無茶をしすぎた......」
田崎は後悔していった。
「おれは恐ろしかった。お前が不死身の化物だと思いこんで......無茶苦茶なことをした。許してくれるか?」
「覚悟の上だったんだ。あなたも気にすることはない。先に帰ってくれ」
「いや、怪我人を残して帰るわけにはいかねえ。お前を救急病院に連れて行くんだ」
「だめだ! パトカーが今、こっちにやってくる。早く刃物をしまうんだ。警官に見つからないうちに先に引上げてくれ!」
丈はきびしい声音でいった。
「パトカー? なぜそんなことがわかる?」
「おれにはわかるんだ。そこが超能力だ。早く行かないと二人とも警察で夜明かしすることになるぞ!」
田崎は慌てて一挙動で地面から身を起こした。剝き出しだった短刀を白鞘におさめる。
「わかったよ。じゃ、おれはこれでずらかる! 刃物なんか持ってるところを捕まったらただじゃすまねえからな。また逢おうぜ、東。体を大事にしろよ」
彼は身軽に足音も立てず走りだした。さすがの不良少年もパトカー相手に事を構える気はないようである。丈高い金網フェンスと彎曲したコンクリート壁の間の通りを、暗がりにまぎれていっさんに走り抜けて行く。いかにも場慣れした逃げ足であった。
車のライトが、私鉄の駅前からの通りをゆっくり這ってくる。パトロールカーが巡回しているのだ。通りを曲ってくれば、丈を発見するだろう。
丈は深呼吸をして、ポケットのハンカチを探った。頭皮を破って顔面に縞目をなし、流れ伝わった血は路面に点々と散っている。体中に痺れるような苦痛が脈打っていた。木刀で滅多打ちにされたのだ。こたえていない方がおかしい。
パトカーが丈を発見すれば、一騒ぎは確実であろう。しつこく問いただされることは間違いない。
丈は目をあげて今しも通りを丈に向けて曲ってこようとするパトカーのヘッドライトを見詰めた。
パトカーは思い直したのか、方向転換してゆっくり走り去って行った。エンジンの音が遠ざかり消え失せる。
「もういいぞ、出てきても」
と、丈はいきなり声を出した。その声は森閑とした夜のしじまの中にとてつもなく大きく響きわたった。
「隠れてもだめだ。そこにいるのは最初からわかっているんだ」
頭上に大きくせりだし、彎曲した球場の壁の角を曲って、セーラー服の少女がこわごわと姿を現わした。怯えた足取りでそろそろとやってくる。
「早くこっちに来い、陽子!」
と、丈はどなった。少女は鞭が入ったように小走りになってやってきた。もちろん久保陽子だった。
彼女は怯えたような引きつった顔で近づいてきた。叱責を覚悟して、小犬がぺたんと耳を伏せたような顔つきになっていた。
「来るなといったろう! なぜ来たんだ!?」
丈は激しくどなった。
「すみません......」
「約束を破ったら、絶交するといったはずだぞ! それを覚悟で来たんだろうな?」
陽子はますます縮みあがり、蚊の啼くような声音でいった。
「ごめんなさい。でも、どうしても心配で......」
「絶交だ、約束通り。いいんだろうな!」
「いいえ......」
「いいえったって絶対に窺きに来ないという誓約を破ったんだから、文句はないはずだぞ!」
「でも、あたし......なにも誓約していません。ちょうど学校を病気で休んでいましたから......」
陽子は丈の剣幕に圧され、ようやくのことで言葉を絞りだした。
「............」
丈は言葉を吞み、しばらく啞然としていた。それから弾けるように笑った。
「そうだった! 陽子は休んでいてあの時いなかったんだな! そのことをけろっと忘れてたよ! お前まで徹底させるのを忘れてた。それを承知で、様子を見に来たんだな?」
「ごめんなさい」
「狡い奴だ......」
陽子は、丈の笑いに心が和み、元気を取り戻した。
「どうしても来たかったんです」
「今だってパトカーに見つかれば、補導されるところだったんだぞ......若い女の子がこんな時刻にうろつく場所じゃない。痴漢にでも襲われたらどうする」
「痴漢なんて......だれにも会いませんでした」
「パトカーに摑まえさせればよかったな。今ごろたっぷり油を絞られてる」
えっ、と陽子は声をあげた。
「じゃ、パトカーがこっちに来かけたのに、方向転換してどこかへ行ってしまったのは、東さんがやったんですか? PKかなにかで......」
「不良少女を補導するよりもいいことを思いついたんだろう」
「パトカーに見つかったらどうしよう、こっちへ来ないでとずいぶん祈っていたんです。弁解のしようがないから......」
「夢遊病だとでもいうんだな」
そろそろと近づいてきた少女は、ようやく丈の顔面を汚している血に気付き、悲鳴に似た声をあげた。
「ど、どうしたんですか!? 血まみれじゃありませんか! だれがこんなことを......」
「田崎に決ってるじゃないか。あいつの木刀を体で受けたんだ。何十発もやられたよ。しまいにはあいつも疲れたらしいけどね」
「なぜ、そんな無茶を......ひどいわ!」
久保陽子は慄えだした。丈にはその顔が蒼くなるのがわかった。
「ひどい......服が破れてボロボロだわ! 早く病院へ行かないと、死んでしまう!」
声がうわずり、甲高くなった。パニックに襲われたのだ。
「心配するな。だれが死ぬもんか。わざと打たせたんだ......実際にはなんともないんだ」
丈が出した手に、度を失った少女がすがりついてきた。マラリヤ患者のように全身でガタガタ震えていた。
「今、救急車を呼んできます! だから、ここに静かにじっとしてて下さい!」
「大丈夫だといったろう......ひどいように見えても、見かけだけさ。木刀で打たれてへたばるもんか。田崎は打ち疲れて、もう手出しはしないとさ」
「えっ、念動力で田崎をやっつけちゃったんですか!?」
「いや、超能力は使わなかった」
「なぜ? そんなこと......」
「超能力を使って、田崎を脅かしてやるつもりだったんだが......やめた。田崎は降参して、子分になっちまうだろう」
「田崎を子分にすればよかったのに......いけないんですか?」
「超能力で他人を支配したくなかったんだ。それはよくないという気がした......田崎も驚きがさめれば、また元気づいておれをやっつけようと思うかもしれない」
「そんなこと二度と考えないように、物凄い念動で脅かしてやれば......」
「いや、そういうことは気が進まない。超能力は人を助ける時なら使ってもいいが、人を脅かすようなハッタリはいやだ。超能力が汚れてしまう......そんなことより、田崎はもうわれわれの邪魔はしないよ。大会をぶちこわしにも来ない。今度〝幻魔〟のことを聞きたいといっていた。あいつは本当の仲間になるかもしれないな」
「東さんをこんなにひどく木刀で殴っておいてですか? あたしにはちっともわかりません......男の子ってなにを考えているんですか? 東さんも、こんなにズタズタになるまで殴られ、血を流しておきながら、田崎のことを少しも悪く思っていないんでしょう? あたしにはなにがなんだか......」
久保陽子はさじを投げたようにいった。丈は楽しそうに笑った。
「田崎にはふつうの言語では通じないんだよ。肉体言語というやつでないと......つまり、殴り合いという言語を通じることで、あいつは信用できる男とできない男を見分けるんだ。ふつうの言葉はいくらでも人を瞞すことができる。美辞麗句を連ねてね......だけど田崎流の乱暴きわまる肉体言語じゃそうはいかない。弱虫や卑怯者はすぐに正体を現わす。荒っぽいけれども、これほど正直な言語はないと田崎は信じているんだよ。
彼の信念にも、もっともなところはある。言行一致そのものだからな。だから、おれは田崎をわざと挑発して木刀で殴りかかるように仕向けた。おれが彼の木刀の洗礼に堪えれば堪えるほど、田崎はおれを信頼するとわかっていたからだ」
「そんな! だって痛いんでしょう!? それとも痛くないんですか?」
「そりゃ痛かったさ、目から火花が散ったね」
と、丈は正直に認めた。
「だけど、人間は気力だよ。物凄く気を張って精神集中していると、殴られても堪えることができるんだ。もっとも無意識のうちに超能力を使っているのかもしれないけど......しかし、気力さえあれば人間はおそろしく強くなれると実感したよ。田崎にもそれは通じた。田崎はおれの気力をおおいに高く評価したんだ」
「気違い沙汰です」
と、陽子が怒っていった。青ざめて抗議する。
「そんな気力だ精神力だと無茶なことをして死んじゃったらどうするんですか!?」
「死なないよ。こうやってぴんぴんしてる」
「まったく、男の人ってなにを考えてるんだかわかりません。不可解です」
陽子は泣きだしそうな声音でいった。丈は笑って彼女の腕を取った。
「さあ、引上げよう。また思い直してパトカーがやってくるぜ。なぜ今日に限って巡回のコースを変えたのか警官が不思議に思ってる」
丈は彼女を引張って、夜闇の中をぐいぐいと歩きだした。
「そんなことより、早く怪我の手当をしなきゃだめじゃありませんか!」
陽子が泣き声で抗議するが、丈は取合わなかった。
「家の人に気付かれないうちに早く帰るんだ。さもないと〝超常現象研究会〟なんて変なものに入ってから、娘が非行化したといわれるに決ってるじゃないか」
「いわれたって構いません!」
「お前は構わないかも知れないが、〝超常現象研究会〟に悪評が立つ」
「そんなに評判が悪くなるのが恐いんですか!?」
「ああ、恐いね」
「臆病者! 世間態ばかり気にして! なんでこんなに秘密にしなきゃいけないのかわかりません!」
と、陽子は嘲るようにいい、丈の手を振り切ろうとしたが、丈の握力は鉄の輪をはめたようだった。陽子を引きずるようにして強引に歩き続ける。
「お前のように勝手なことをしていると、〝超常現象研究会〟は不潔な評判が立つ。東丈は色魔で、女子高校生たちを夜中に誘い出しては不純異性交友に励んでいるという噂が必ず広がるんだ。わからないのか? もうとっくの昔に、おれがハレムを作ってるというデマが流れてるんだぞ。女の子ばかり集めてセックスの魔王みたいに君臨してるっていう話だ。今の田崎だってその噂を真に受けていた。お前が勝手に暴走して裏づけを作るような真似をしてどうする?」
「そんなことは本当じゃないし、デマなんだから、どうでもいいじゃありませんか! なにをいわれようと平然としていればいいんです!」
久保陽子は頭に来てしまい、丈に引きずられるように小走りに歩きながら、怒り声でまくしたてた。
「自分さえ信念があれば、世の中にどんな誤解を受けようと構わないじゃありませんか!」
「不必要な誤解の種子を作る必要がどこにある? 世の中にはわざわざ曲解してやろうと手ぐすねひいている連中までいるんだぞ。好んで敵を沢山作るのは愚かな人間のやることだ」
「どうせあたしは愚かな人間です。愚かで結構です! でもあたしはわざわざ木刀で殴られて大怪我をするような真似はしません!」
「お前にはわからないこともあるんだよ、陽子。だからといって大騒ぎして突っかかるような真似はよせ」
「あなたがわけのわからないことをなさるからじゃありませんか! あたしがどんなに心配しているかおわかりにならないんですか!?」
「そうだ......これからますますお前の心配することが増えてくるかもしれないよ」
かんかんになって怒っていた陽子が思わず息を吞むほど、その声は深く胸にしみた。
「なぜそんなことを......毛を吹いて疵をもとめるっていいますけど、東さんはわざわざ大怪我しに自分から出かけるんですもの。だからあたし、怒っているんです。なぜそれをわかってくださらないんですか?」
「それが必要だからだ......おれがやろうとしているのは並大抵のことじゃない。はっきりいえば、地球全体の運命がそれにかかっているんだよ。おれたちは人類を含めて地球の全てを破滅から救わなきゃならない。たいへんな大事業だ。しかも、それはスタートを切ったばかりだ......これからは大勢の人々の協力を得ていかなければならない。そのスタートの段階で、みずから誤解の種子をまきちらしてどうなる。多くの人々の理解を求めて、宇宙的な真実を訴えて行かなければならないのに、桃色クラブの誤解を最初から受けて、どうやって人々の耳を傾けさせることができるんだ?
お前の勝手気ままな行動で、人々は初めから色メガネをかけておれたちを見ることになるかもしれないんだ。それがわからないのか......
田崎はどうしてもおれに必要な人間だったから、いわば緊急の方法をとったんだ。田崎を制することができれば、当面の問題は全て解決できる。そのために、おれは痛い目をしのばなければならなかったんだ。もし、おれのやることがどうしても納得いかないというのなら、反対するというのなら、これ以上君とともにやって行くことはできない。君は君の好きなように道を選べばいいだろう......」
丈の話し方は静かだったが、きっぱりとしており、恐ろしいほどの気迫がこもっていた。抗弁の余地のない決意が伝わってきた。
「ごめんなさい! あたし、そんなつもりでいったんじゃないんです」
陽子は総毛だちながら、とっさに声を絞りだした。
「東さんの考え方がわからなくて、東さんの身が心配だったから、つい口走ってしまったんです。本気でいったんじゃないんですから、わかってください。だから、ともにやっていけないなんて悲しいことはいわないでください。お願いします」
おろおろと歩きながら、陽子は涙声でいった。
「もう二度とわけのわからないことはいいません! 納得が行かなくても騒いだりしません。得心がいくまでよく考えます。だから、いっしょに連れて行ってください。あたしはただ東さんのお役に立てればいいなと思っているだけなんです。あたしなんて本当に馬鹿で愚かで気がきかなくて、ちっともお役に立たずに足を引張ってばかりいると思うんですけど......我慢してください、一所懸命やりますから......」
陽子はよくもこれだけたて続けに喋れたと驚くほどだった。必死だったのだ。丈がきわめて毅然とした性格であることはわかっている。そのきっぱりとした遣り口から見て、彼は自分を暗い道に置き去りにし、立ち去ってしまうと本気で思ったのだ。彼は二度と自分を近づけようとはしないだろう。
陽子は懸命に喋りながら、涙がどっとあふれた。泣き泣き必死で喋り、歩き続けた。
「君が頑張り屋で、死物狂いでやってくれていることはよくわかってる。ありがたいと思ってるよ」
と、丈は優しい声でいった。丈のこんなに情感のこもった声音を、陽子はこれまで聞いたことがなかった。
「君がどんな気持で尽してくれているか、おれにはよくわかっている。いつも感謝を忘れたことはない......君がおれの身を心配するあまり、きついこともいうし、こんな真夜中に無我夢中でやってきてくれたことも、よくわかってる。だけど、おれを縛ろうとしないでほしいんだ。おれの考えていることは、君に理解できない場合も沢山あるだろう。君がおれの身を心配しすぎると、おれは自分の使命を果すことがむずかしくなる。おれが使命を果しやすくなるように、君の力を貸してほしい。それを今、約束してくれないか。わかってくれ......君が死ぬほど心配しているのを見るのは、おれにとっても同じくらいつらいことなんだよ」
「わかりました、ごめんなさい!」
陽子は感動に体を慄わせ、叫ぶようにいった。続けて忠誠を誓おうとしたが、ほとんど言葉らしい言葉にならなかった。感情の深い場所で、丈の思いやりを感じていた。無上の幸福感がこみあげ、体が暖くなった。
「百里の道も一歩からっていうだろう。おれたちはほんの一歩を踏みだしたばかりなんだ。おれたちの力で世界を変えていかなきゃならないんだぜ。気が遠くなるほど大変なことだ......しかし、やらなければならないんだ。頑張ろうな」
「はい!」
陽子は夢中で答えた。丈がきつく摑んでいる腕のあたりから電流のように強烈なものが伝わってくるようだった。永久に彼が腕を放さなければいいと願った。二人で霧に閉ざされた夢の中をいつまでもさまよっているような気がした。少女にとって、丈のいう世界の救済はさしたることではなかった。世界が滅びようが滅びまいが、彼女自身にとっては重大事ではないのだった。
少女の願うことは、ただ一つ東丈に献身したいという熱情に他ならなかった。自己犠牲をいとわず、丈に尽すということだけで激しく鋭い高揚を覚え、他にはなにも要らなくなってしまうのだった。
むろん、自分は彼を愛している。だが、それ以上に深く尊敬しているのだ、と少女は思った。つまり崇拝しているのだ。研究会のみんなも丈に夢中だ。彼にはなぜか女性の琴線に訴えかけるものがある。母性愛に似た根源的な感情を強く揺り動かすところがあるのだ。彼のために献身したいと願っているのは自分だけではない。

もちろん、みんなが自分のように命に替えても彼を護りたいと思っているかどうかはわからない。しかし、自分には確信がある。もしものことがあれば、彼のために自分の命を投げだす覚悟はいつでもついているのだ。
それを証明できる機会があればいい、と少女は疼くような鋭い情念にさいなまれた。彼には大志があり、果すべき大業がある。けれども、自分には彼を扶けるべきなんの力もない。彼が巨大な存在として育って行くにつれて、彼女の存在価値は相対的に低下し、彼に与えるべきなにものも自分にはなくなってしまうだろう。
自分のような凡庸きわまるつまらない女は、彼のそばにいられなくなるだろう。自分が側近にいるだけで彼の株を下げるようなことになるだろうからだ......そんなことになる前に自分は身を引く。彼のそばにいた全ての想い出は自分の宝物になるだろう。
だが、もしかすると、彼は自分に行くなというかもしれない。彼は引止めてくれるかもしれない。
そこでいつも十七歳の少女の感傷は堂々巡りを始めるのだった。いつの間にか、丈は白鳥の王子となり、幻想の彼方へ立ち去ってしまうのだ。生身の肉体を持った丈が、すぐそばに息づいて存在することさえ、信じられなくなってしまうのだった......
10
明け方近く、血だらけになって帰宅した丈は姉の三千子にきびしい叱責を受けた。
こっそり家に入って浴室で血を洗い流せばわかるまいと高をくくっていたのだが、姉の目を逃れることはできなかった。
「本当にたいしたことはないんだ。見かけは凄いけど......頭からの出血はオーバーに見えるもんなんだ」
と、丈は懸命に弁解した。しかし明るい場所で鏡に映してみると、われながら愕然とするような凄惨さだった。久保陽子は暗がりだったせいもあってこれほどとは思わなかったのであろう。まともに見れば卒倒しかねなかった。
「いったいなんでこんなに馬鹿な真似をするの!?」
三千子は顔面蒼白になって激しく怒った。頭部からの出血はもっとも派手だが、それだけではない。顔面は打ち身と擦り傷で一面に変色し、紫色に脹れあがっている。それも道理で、丈自身何十発木刀の加撃を受けたか憶えていない。頭皮はぶよぶよにはれて、熟した果実の皮のようだった。今にもずるずると剝けてきそうであった。
服を脱ぐと、全身、青や紫の挫傷が無数に入り乱れていた。体中の皮膚に派手な抽象画をぬりたくったようである。
われながら、あまりの壮絶さに唸り声が出た。三千子がショックを受けるのはあたり前であった。
頭皮の皮は傷だらけで、あちこち破れて血まみれだったが、顔面には裂傷が一つもなかった。三千子が血を拭きとり、傷口を消毒する間、丈は痛いとも痒いともいわなかった。瘦せ我慢しているのかと思ったが、そうでもないようであった。
三千子の方が出血や創傷挫傷の華々しさにうわずってしまい、手の慄えが止まらなかった。しかし丈は平然として、頭をシャンプーでもしてもらっているようである。
そういう点は、以前の丈と大違いであった。神経質な子供だった弟は、わずかの血でも流すと大騒ぎしたものだった。逞ましい末弟の卓が、すり傷や切り傷など日常茶飯事でけろりとしていたのに比べると、女々しいとしかいいようがなかったものである。
「大丈夫だ。ほっといても明日までに治る」
と、丈は馬鹿げたことをいった。
「なにを馬鹿なことをいっているの? 明日病院に行かなきゃだめよ。傷が化膿でもしたらどうするの」
三千子には信じがたいことだった。丈の負傷は軽傷ではない。一度は手当を諦めて救急車を呼ぼうと思ったほどだ。
「心配ないよ、姉さん。自信があるんだ。さもなきゃ、わざわざ痛い目に遭ったりするもんか。明日になったら、姉さんが驚くようなことが起きているだろう」
丈は機嫌よく予言までする始末であった。
「なんで、こんな無茶なことをしたのか、理由を教えてちょうだい。事と次第によっては、姉さん許しませんよ」
手当を終ると、三千子は弟を茶の間へ連れて行き、きちんと正座させた。昔から弟を正式に叱責する時の彼女の作法であった。
「まいったな。姉さんをおどかす気はなかったんだ」
丈は照れくさそうにいった。
「久しぶりだな、こうやって正座させられて叱られるというのは......十年ぶりぐらいかな」
「どういうことなのか、わけを話しなさい」
と、三千子が命じる。階下が騒々しいので目を覚した弟の卓がねぼけ眼で降りてきたが、三千子に素気なく追い払われた。卓はびっくりしていっぺんに目が覚めてしまったようだった。
「信用できる仲間が必要だったんだ」
と、丈はあっさりといった。
「そのために、これだけ殴られなきゃならなかった。痛い買物だったよ」
三千子は呆然と弟の傷だらけの無残な顔を見詰めていた。
「味方を作るのも容易なことじゃない。なにしろ僕は悪評が高いから」
「その相手の人に、あなたは何をしたの?」
と、三千子が問い訊す。
「なにもしない。ただ殴られただけだ」
「なにもせずに、ただおとなしく?」
三千子がきびしい目で反問する。
「なるほど、そうか。姉さんは僕が相手に黙って殴らせただけじゃなく、やり返したんじゃないかと心配してるんだね」
丈は痛そうに顔を歪めて笑った。
「反撃はしなかったというのね?」
三千子はほっとしたようであった。溜息をついて、緊張を解く。
「当り前じゃないか、いやだなあ。そんな風に思われていたのかとわかると、いささか心外だな」
「だって、こんなにひどい目に遭わされて、丈が我慢しているなんて、とうてい思えなかったもの」
「もっと信用してほしいな。僕の〝力〟は自分のためには絶対使わないといってるじゃないか......木刀で殴られたのだって、避けることもできたし、相手を金縛りにすることだって簡単だった。しかし、敢えて殴られっぱなしで辛抱したんだぜ。もちろん、辛抱しきるだけの自信があったからだけどな」
「ごめんなさい。姉さんが間違ってたわ」
と、三千子はあっさりと非を認め、詫びた。
「丈が、そこまで覚悟ができているとは思わなかったの......あんまり怪我がひどいものだから、目がくらんで、頭がかっとなってしまって」
「だから、こっそりと帰ってきたんだけどな。姉さんの目ざといのには負けた」
「丈の身をいつも心配しているからよ......」
と、三千子は真面目な口調でいった。
「丈はこれから、何を始めるつもりなの? よかったら、姉さんに話して聞かせてくれないかしら? できれば、なんでも協力したいと思っているし......」
「同志を捜そうと思っているんだ。それとともに、宇宙で何が起きているか、多くの人々に知らせ、訴えていきたい......もはや地球の上でちっぽけな軋轢を繰り返している時じゃないとアッピールしたい。今、僕はどうやれば、みんなに耳を傾けてもらえるか、いろいろ試しているところだ......ルナ王女のように大がかりなことはできないけれども、自分にできるかぎりのことをしたいと思ってる。
一度宇宙的真実を知ってしまうと、なにもしないでいるというのは堪えがたくなるんだよ。だから超常現象研究会というのを作ったんだ。だが、会員が女の子ばかりで、妙なことになってきた......」
丈は、いかにして田崎という味方を作ろうとしたかを語った。傷の痛みに顔をしかめながら語るさまが、ひたむきであり滑稽でもあり、三千子に笑うに笑えない複雑な気分をもたらした。
「男の子って、やることが突拍子もないのね」
と、三千子はしみじみといった。
「とても女には考えつかないわ。でも、ずいぶん痛い友情もあるものね」
「その通りだ。もう一度やれといわれてもご免だな、しばらくは」
と、丈は渋面でいい、吹きだして笑った。
「それで、田崎さんはあなたの味方になってくれたの?」
「痛い目に遭っただけのことはあったと思う。今度の総会がどうなるか楽しみだよ」
「でも、総会をぶちこわしてやるといってる人たちが沢山いるそうじゃないの?」
「そうさ。田崎がそのぶちこわし屋の急先鋒だったんだ。彼がこちら側につくと、後の者がどうするか楽しみだな」
「江田四朗さんも、あなたのことを非難している側の急先鋒なんでしょう?」
三千子の問いが丈の顔から笑いを奪った。突然、全身の痛みが激化したような顔つきになる。
「江田はおれを憎んでる」
暗い声でいった。
「悪い噂は全て四朗が火付役なんだ。かげにまわっておれの悪口をあることないこといってまわっている......あいつは本当のことを知っているのに、決して真実をいおうとしない。おれを悪魔の王にしたてあげるためなら卑劣なことでもなんでもやってのける......そのくせ、表面には決して出ないんだ。本当はおれの〝力〟を怖れているものだから、おれと二人で顔を合わせないように、こそこそと逃げまわっている」
「四朗さんは嫉妬しているのね」
と、三千子は浮かない顔で呟いた。
「それに、あの時、丈が超能力を見せて、彼に恥をかかせたから......人間って本当にむずかしいものね。無二の親友があっという間に仲違いしてしまうんだもの」
「あいつ、幻魔にでもやられているんじゃないかな? やることがどうも陰険で、普通じゃない」
と、丈がさりげなくいった。
「だめよ、丈! うっかりしたことをいっちゃいけないわ!」
三千子は屹度なっていった。丈がはっとした顔で姉を見る。
「そんないいかたをしたら絶対にだめ。丈、あなたに敵対する者は、今後いくらでも出てくると思うわ。その人たちを全て幻魔憑き呼ばわりしていったらどうなると思うの? あなたを悪魔の王呼ばわりしている人々と同じことになってしまうでしょう? 悪態の投げつけ合いになってしまったら、それこそ本物の幻魔の思うつぼじゃないかしら? 心ある人たちはだれも丈について行かなくなってしまうわ。だって、むやみに口をきわめて相手を罵る者はだれが見てもやっぱり品性下劣ですもの。丈が一番味方にしたい心ある人々は、必ずそっぽを向いてしまうと思うの」
「姉さんのいう通りだ」
と、丈は素直に認めた。
「むずかしいのは、中傷を本気にする人間が多いということだな。人間というのは、どうして悪い噂ほど信じやすいのかね? いい噂は信じずにアラ探しをするけど、悪い噂となると、待っていたとばかり鵜吞みにするんだ。それを考えると暗い気分になる......」
「それはわかるけど、いつも大多数を占めるのは大勢順応派だと思うの。そんなことを気にしていてはなにもできないはずよ。彼らはいつも遠巻きにして様子を見ている。丈自身がしっかりしていなければ。附和雷同する人々を相手にするよりは、心ある人たちを味方につける方が先だと思うの。だから、今は右顧左眄すべきじゃないと思う。信念を明らかにして進むべき時のはずだわ。あなたを悪魔呼ばわりする心ない人々といい争っている暇はないと思うの」
三千子はようやく柔かい声音になった。
「もう遅いからお休みなさい。明日は、病院へ行ってらっしゃい、学校の前に」
やっと許しが出て、丈はしかめ面で立ちあがった。
「ひでえ面になったなあ、兄貴」
と、廊下で待っていた卓がつくづくと丈の彩り豊かな顔を見て、嘆息とともにいった。
「木刀だろう? 堪らねえや......しかし、それだけこっぴどくやられて、忍耐したというのも、ずいぶん人間が練れましたねえ、いや本当。あの短気な兄者とも思えませんよ」
「総会があるんだ。同情を惹こうと思っただけだよ」
丈は仏頂面でいい、二階の自室へ引きとった。体中がメリメリときしむようだ。明日、起きられるかどうか疑わしいほど、体中が痛みの巣になっていた。
やっとこの思いで夜具を敷く。体を横たえると、ごく自然に溜息が漏れた。ニューヨークにいるはずのルナ王女一行のことを考える。王女には大実業家のメインがバックについている。丈のような辛酸を舐める必要はないであろう。丈のことなど、もはや念頭にもないかもしれない。
もう三か月間にわたり、なんの音沙汰もなかった。もはや丈には関心がない、と彼が判断しても無理からぬところであった。おそらく丈が強引に戦線を離脱し、帰国したことが、いたくルナ王女の機嫌をそこねたのかもしれない。丈など頼るに足りないという意志の表明とも考えられた。
ルナ王女は、日本を再び訪ねて姉の三千子にも逢うとはっきりいったのだ。それを反故にするからには、よほど腹を立てているのかもしれなかった。
しかし、たとえ王女に見放されたところで、丈は丈に出来ることをなさねばならなかった。その間、幻魔大戦が中断されるわけもなかったからである。
見放された淋しさはあったが、それにこだわっていられなかった。丈の心の裡なる要請は、彼が無為のまま停滞していることを許さなかったのだ。
──王女、あなたはひょっとして、おれのやっていることを独走ととるかもしれない。
と、丈は心の中でルナ王女に語りかけた。
──統制を乱すものと考えるかもしれない......勝手に集団を組織することは許されないことなのかも。だが、おれにはなにもせずにいることはできない。どんなに小さなことでもいい、自分にできる限りのことをやって行きたい。たぶん、あなたは激しく怒るだろうが、それでもおれはやらざるを得ないということをわかってもらいたい......
丈にはなんの自信もないのだった。自分のやっていることは、非常に愚かしく、まずいことなのかもしれない。ルナ王女たちの努力を乱す行為なのかもしれない。しかし、王女たちが丈を放置しておく以上、丈が独自の判断で活動することを一概に責められないはずだ。なぜなら、幻魔の尖兵はすでに地球を侵攻しており、事実上戦端は開かれているからだった。
しかし、それにしてもニューヨークに残してきた王女たちは今なにをしているのだろう。王女の画策している〝超能力者集団〟は実現の途についているのだろうか。
丈は足ずりしたいもどかしさの中で、自分の主宰している会があまりにもちっぽけで無力なのに失望した。失望することはないとわかっている。今、自分は演習をこなしているのだと自分に納得させる。
このちっぽけなファンクラブみたいな集団をちゃんと育てあげるのが、自分に課すべき試練だ。今は端緒に就いたばかりだから、多少失望が多いのはやむを得ない。
いったいいつの日に、意図するような〝超能力者集団〟に成長するかなんの目算もないが、努力することしか丈には残されていないのだった......
11
秋が深まり、学園祭、文化祭のシーズンを迎えていた。
東丈の通学する青林学園高校の学園祭は一年置きに開催され、今年は休みである。それだけに、全学一致の視線が〝超常現象研究会〟総会に向けられていた。
丈がその神秘的な〝力〟を総会の席上において公開するという噂が広まっていたからである。また田崎宏を初めとする反対派が、丈のインチキを暴露するという噂は、だれの耳にも入っていた。これだけ全学一致で耳目を惹きつけるイベントはなかったし、学園祭といえども太刀打ちできない関心が集まっていた。
丈はあらかじめ、総会が超能力公開を目的とするものではなく、講演会と質疑応答にすぎないことを、パンフレットを通じて流しておいたが、なんの冷却効果もなかった。
総会の日が近づくにつれて、問い合せの件数はウナギ登りに上昇し、他校からの参加希望も急速に増加した。丈にかかわる噂は学園という地域社会を超えて、あちこちに飛び火しているようであった。
〝GENKEN〟のスタッフの女の子たちは、丈が驚くほどよく働いた。会員でない男子生徒たちも駆りだしてきて、総会の準備に余念がなかった。
ベニヤ板を切り抜いて、大きな切り文字を、廊下いっぱいに広がり、せっせと製作している。少女たちは木工は不得意なので、各自のボーイフレンドを連れてきたのであろう。楽しげに笑い転げたりしながら、総会の三日も前から各チームが駆動していた。
丈は会員の熱心さに逆に励まされてもいた。しかし、会員たちの高揚はすべて丈が初めて公開の席上に姿を現わし、〝力〟を発現するという期待に支えられていることは、いやでも圧力となって迫ってきた。
久保陽子は例によって、きりきりとコマネズミの忙しさで走りまわっていた。丈に寄りつく暇もない超多忙さだ。
あの夜以来、丈は陽子とほとんど言葉を交していなかった。厳重に口封じしたので、会員たちは丈が田崎宏とどのような話し合いをつけたのか、だれも知らぬままであった。好奇心は満々にふくれあがっているのだが、だれも先頭切って丈に質問する勇気を持たないまま、総会準備の忙しさの渦中に入ってしまったのである。
翌日、学校へ姿を現わした丈はなにごともなかった爽やかな顔をしていた。あれだけのおびただしい打撲傷、裂傷は、噓のように目立たなくなっていた。朝までの数時間の睡眠のうちに、その奇蹟は起こったのだった。
「丈! いったいあなたはどうなっているの?」
と、姉は茫然と己れの目を疑りながら叫んだ。たとえ丈が拒んだとしても、病院へ連れて行く決心がとんでもない肩透しをくったのである。
「精神力で治ったんじゃないかな」
と、鏡の前で、丈自身も不思議そうにいった。奇蹟そのものの回復力といえたからだ。皮膚を覆っているかさぶたは擦っただけで落ち、傷痕はなにも残らなかった。
「これもあなたの超能力なの? とても信じられない......」
「素手で、田崎の木刀を受けてやろうと決心した時、やれる! という気が強くしたんだ。体中の細胞にエネルギーを充満させておけば、木刀で打たれたって大丈夫だ。そんな確信が湧いたんだよ、姉さん。やっぱり超能力というのは精神エネルギーなんじゃないかな。あれだけ滅多打ちにされても持ちこたえたんだから、傷が一晩で治るぐらい不思議はないのかもしれない......だって修験者は素足で火の上を歩いたり、煮えくり返っている熱湯に手を突っ込んだりする荒行を平気でやっているけど、火傷もしないからね。僕のサイコキネシスが働いたとしたら、傷ぐらいあっという間に治りそうな気がするよ」
「本当に不思議なことがあるものね。聖書にはイエスさまが足萎えの人や病人にさわるだけで治したとあるけれども、本当のことだったのかもしれないわね」
と、三千子は感に堪えたように呟いた。
「でも、まるで不死身ね。なんだかお姉さん、恐ろしいわ」
「どうして......?」
「こういうことで、ますます丈が誤解され、孤立するんじゃないかという気がして......お願いだから、他人の目の前でこれ見よがしに、あなたの〝力〟を見せびらかしたりしないでね。姉さんは、丈が怪物みたいに思われて、大きな誤解が広がるんじゃないかと思って心配なの。気をつけてね......」
「〝力〟を見せまいとして苦労してるんじゃないか、姉さん。ただ、無意識に発揮されてしまう〝力〟はこわい。まさか何時間か寝ただけで傷がきれいに治っちまうなんて想像もしなかった。〝力〟を隠しておくように注意はするけれども......」
「総会のことだけど、充分注意するのね。〝力〟を見せろとどんなに要求されても、従っちゃだめ......まさかとは思うけど、それが気になるの」
「大丈夫だよ、心配ない」
丈はあっさりといった。姉の心配はわかるが、丈自身、自覚しているからこそ、これだけ苦労しているのだ。〝力〟を振るって人々を説得しようと思うならば、これほど簡単なことはない。
姉は心配しすぎとしか思えなかった。
弟の卓は単純に驚倒した。
「こりゃあ、凄いなあ、兄貴。こうなると本当に不死身だな」
卓は目が飛びだしそうになりながら、舌をもつれさせていった。
「下手すると、痣になってずっと残るんじゃないかと思ったけど......超能力ってのは物凄いもんだな。おれも超能力が欲しいよ。どうして兄貴だけなんだ? 兄弟だろ、不公平じゃないか」
「おれだって初めは自分に超能力があるなんて知らなかったんだ」
「どうやったら超能力は出てくるんだ? 教えてくれよ、兄貴」
「教えてもいいが、命がけだぞ」
と、丈はにやっと笑っていった。
「ああ、それでもいい。やり方を教えてくれ」
卓は本気になった顔でいった。
「お前をビルの取りこわしの工事現場へ連れて行く。そこで、コンクリートにぶつけて壊す破壊球をお前めがけて投げつけるから、必死で身をかわすんだ。やりそこなったら、ぐしゃっと潰れて死ぬけどな......そして、おれは廃ビルをお前の上にぶっ倒れさせる。そいつを必死で受けとめようとして成功すれば、お前は超能力者になってる。どうだ、やってみるかね、卓?」
「やっぱりやめとこう」
卓はあっさりと答えた。
「おれはこのままでいいや。しかし、兄貴は本当にそんな目に遭ったのか?」
「そうだ」
巨漢の弟は改めて感嘆した表情で小柄な兄を眺めた。
「人間にはやっぱり取柄があるもんだなあ」
と、卓はいった。
「そこまでおれは必死になれないよ。それくらいだったら、超能力なんかなくてもいい。おまけに持ってるだけで使わないんだったらなおさらだ。なんの意味もありゃしない。おれだったら、ばんばん使ってみんなをたまげさせてやるんだが......兄貴のは禁欲主義なんじゃないの? おれにはぴんとこねえや」
「前のおれもそう思ってたよ。だけど超能力使だけじゃ、奇術師と同じだってことがわかったんだ。みんなは面白がって感心する。たいしたもんだというだろう。だけど、そのうちに飽きちまって、忘れるんだ。そういえばそんなのがいたっけかなあ、ということになっちまうんだ。おれの〝力〟は見世物じゃない。証明の一つなんだ」
「証明ってなんの?」
「宇宙は目に見えない〝力〟の均衡によって成立しているという事実のだ。〝力〟が一方に傾けば、地球など簡単に壊滅するということだ」
「そういうことを考えてると、どうも勉強にも身が入らなくなるんだなあ。宇宙だの、幻魔だの、あんまり考えたくないや」
大男の天才柔道少年はあっけない口をきいた。
「そういうのは兄貴にまかせるよ。だって兄貴は教祖タイプだもんな。使命感に駆られて衆生に説法するのがなんとなく最近似合ってきたぜ。宇宙の真実を説いてさ......ま、よろしく頑張ってよ。おれは超能力は断念するから......」
いかにも卓らしいせりふだった。彼は苦労せずに何事においてもトップ・ランクの成績を悠々と維持できる人間なのだ。人に倍する努力など考えたこともないのではないか。大仰に努力を払うなど彼にとってはイモそのものなのであろう。
「それは、丈のいってることが正しいと思うわ」
と、三千子がいった。
「お隣が火事になったら、勉強どころじゃないでしょう? なんだか、空気が乾燥してるなあなんて吞気なことをいっていられないはずよ。幻魔はおとぎ話でもなんでもない。身近に迫っている脅威なのよ」
「はいはい。だけど幻魔は兄貴にまかしとくよ、やっぱり。わたしは月並な人間の一人にすぎないのでして。超能力は羨しいけど、どうも手に入れようとあがく気にはなれないね」
卓は大急ぎで二人を残し、登校して行ってしまった。わずか一歳違いなのに、まったく相容れるところのない兄弟であった。ものの考え方も人生観もまったく違う。卓は幻魔の話を聞くことを極度にいやがった。
卓は唯物論の信奉者であり、当然のこととして無神論者だ。卓の現実主義に亀裂を入れるような神秘主義的思想は一切彼の避けるところだった。超能力の存在は、実兄の丈がいる限り認めざるを得ないが、議論することは決してしなかった。本来は、超能力などありえないと断言したいところだろう。
丈と議論になりかけると、説得されることを避けてさっさと逃げだしてしまうのだった。根はいい人間なのだが、自分の価値基準に合わない真実を受容することは断乎として退けることができるのだ。丈は弟の卓を観察することによって、前途の険しさを思い知らされた。丈がいかに〝幻魔大戦〟の脅威を説いても、現実家たちはおそらく一顧も与えず、耳を貸すことさえ拒むであろう。その障壁をいかにして突破するか、丈には目算がまるで立たなかった。
「一度、卓にも地球が青い球体だってことを見せてやったほうがいいかもしれないな」
と、丈は考えこみながらいった。
「あれを見ると、だれだって世界観が変ると思うんだ。確固として足を踏みしめるべき大地が、宙に浮かぶ青い小さな星だってことを、自分の目で見てしまえば、狭い視野に閉じこもることはできないんじゃないかと思うんだ。地球は哀れなほど小さな惑星で、幻魔の巨大な〝力〟にしてみれば、あっという間に搔き消すのは簡単だってことを思い知らせてやれば......ちっぽけな現実主義なんか捨てざるを得なくなると思うんだ。卓を引張りだして、宇宙空間へ連れて行ってやろうか? 姉さんはどう思う?」
「卓は本当は小心者なのよ」
と、三千子はいった。
「自分のきっちり計算した人生が変ってしまうのをいやがっているの。卓にはもっと具体的な目的があって、それは高校、大学の柔道チャンピオンになり、オリンピックでゴールドメダリストになり、ということなのね。そのために厳密な生活設計をやり、きびしいトレーニングに励むことをいやがらないわ。でも、それは全て、形として明確に現われる目標なのよ。
卓は現実主義者だから、確実な目標があればエネルギーを全力集中できるの。でも、丈のいっていることは形のない、抽象的なことでしょう? 幻魔になど気をとられていては、エネルギーが集中できず、目的を達成できない、と卓は考えるのよ。卓のような現実主義者は世の中にとても多いと思うわ。戦争があろうと幻魔が来ようと、その人々は、お金もうけをしたり、立身出世に打ちこんだり、いい大学に入ろうとすることをやめないでしょう。自分の目標が崩れない限り、他のことはどうでもいいし、つまらぬことで頭を悩ませたくないのね。だって、気が散ってエネルギー集中がそこなわれるから......」
「だって、そんなのはかえって非現実的だ。厭なものから目をそむけたからといって、それはなくならないんだから」
と、丈は抗議するようにいった。
「現実主義者たちは、みずから選んで視野を狭くするということ。卓を見ているとよくわかるわ。そういう人たちは、たいてい頭がよくて物質万能的で計算高いの。功利主義だから、自分の損になることには関り合わない。人生とはなんて考えていたら、目標達成が覚つかなくなるでしょう。視野は狭いほうが、力を集中しやすいと彼らは知っているのよ。卓は根はいい子だけど、自分のことしか頭にないわ」
「そういわれると、卓のことはなんにもいえなくなる。ほんの少し前まで、おれも卓と同じ立場にいたんだから......東大─大蔵官僚なんて立身出世コースを本気で選ぶ気でいたんだし。それは、時々懐疑的になる瞬間もあったけどな」
「お父さまを見返してやろうと思っていたんでしょう?」
丈は目をまるくして姉を見詰め、うなずいた。家庭的に冷たく、子供たちに無関心な父親の東竜介への面当てを、いつも執念深く考えていたのは事実である。そのためにひとかどの人間になろうとする努力が、自分の性格に偏りを作ったことを、丈は今では自覚していた。
「姉さんはなんでもお見通しなんだな」
と、丈は感心していった。
「もしかしたら、卓だってそうかもしれないでしょう? 体は大きいけど、ナイーブな所はあるのよ。今にきっと丈のいうこともわかってくれると思うわ。だから焦らないで」
「自分の弟さえきちんと説得できないで、なにができるかと思ってしまうんだ」
丈は目を伏せた。
「卓さえおれの話を聞いてくれないのに、まして他人が......とつい思ってしまう。力づくでも宇宙の真実を見せてやりたくなる」
「なぜ、そうしないの?」
と、三千子はゆっくりとした語調で尋ねた。
「あなたは〝力〟を隠そうとして、必死に努力しているんでしょう?」
「場合によりけりだと思う......本当に効果があるという場合ならいいけど、さもないと見世物に終ってしまうから」
「それだけじゃなくて、丈、あなたは〝力〟を行使することを、なにかの理由でとても心配しているんじゃなくて?」
三千子の指摘は、痛い所を衝いた。丈が自分に対してもいいきかせている論理がぐらりと揺いだ。
三千子の直観力は、いつも丈にとっては驚異的であった。丈本人すら迷っている思考の混沌をあっけなく見抜いてしまうのである。なぜ姉にはそんなことまでわかってしまうのだろう。
「そうだな......おれはたぶん自分の〝力〟を怖れているんだと思う」
「無意識のうちに使ってしまうんじゃないかということ?」
丈は畏怖の眼差で姉を見た。
「もしかすると、そうかもしれない。でも、それだけじゃなくて、いろんな心配がミックスされてるんだ。なによりもまず、僕は自分の力がどの程度のものなのか見当もつかない。信じがたいような巨大な〝力〟で、僕自身制御できなかったらどうするか......引きだしたのはいいが、ストップしなくなったらどうするか......知らないうちに使い果してしまうことはないか......自分でも知らないうちに〝力〟を使ってしまわないか......考えると胸苦しくなってくるんだ。だから、できるだけ使いたくないし、使うまいとしている......姉さんのいう通りだ。僕は〝力〟を行使するのがこわいんだよ」
丈は、ニューヨークのミスタ・メインの超高層ビルを破壊しそこなった経験を、三千子に物語った。怪しげな超能力者たちに侮辱を受け、挑発されているうちに、突如現われて超高層ビルを巨大地震のように振りまわした巨大な〝力〟の根元を、丈はいまだに解決しかねていた。
丈の潜在意識が、彼の怒りを受けて、破壊的な〝力〟を放出したのであれば、丈は〝力〟を十全にコントロールしていないということになる。幸い、超高層ビルの破壊には至らなかったが、それは悪夢と化して丈の心にしっかりととり憑いていたのである。
「それは、丈が〝力〟の根元についてなにも知らないということが最大の問題なのじゃないかしら」
と、姉はいった。二人は、とうに登校時間が過ぎたことも忘れて、額を突き合わせ、話に熱中していた。
「だけど、どうやってそれを知ったらいい?」
「ルナ王女なら、ひょっとしてわかるかもしれないけど......」
王女は丈の存在など不要になったようになんの音沙汰もない。
「そう、神に祈ることね」
と、三千子はいきなりいった。
「神に?」
丈は意表を衝かれた。当惑の眼で姉を見返す。無神論者の卓ではないが、丈はふだん神のことを考えたことはない。神と聞いて、彼の意識に昇ってくるのは、通学路に沿って幾つか存在する神社の社や鳥居である。稲荷講の信者なのか、朱色の幟を立てている人家もある。
神といえば、反射的にそれらの光景を想い浮べるのだ。丈は姉が、そうした神社へお詣りに行くことを勧めたのかととっさに思ったほどであった。そういえば、昔、幼いころ三千子と手をつないで近所の神社へお札を貰いに出かけた記憶が甦ってきた。その時は、弟の卓もいっしょだった。まだ無神論には染まっていなかったのであろう。
「神社へ参詣に行けといったんじゃないわ」
姉は笑って丈の誤解を解いた。
「神といっても、日本の八百万の神様のことじゃないのよ」
「じゃ、キリスト教の神かい? それとも回教のアラーの神? どうも関係ないと思うんだがな」
ユダヤ教の絶対神エホバもあれば、拝火教の神アフラ・マツダもある、と丈はつけ加えた。
「そうね、地球には神様が多すぎるものね」
姉は笑った。こんな際でも、三千子と話しているのは楽しかった。登校時間はとっくにすぎ、授業はすでに始まっている。
「神といういい方がよくなかったのかもしれないわね。人種や民族や宗教宗派によって、いろいろな受けとりかたがあるんですものね。だったら、ルナ王女が宇宙空間で遭った〝フロイ〟のことでもいいわ。〝フロイ〟は巨大な宇宙意識体ということなのでしょ? 無数の宇宙生命体の意識を、高次元の大きな意識に組みこんでいる〝フロイ〟なら、神と呼んでもいいと思うの。
〝フロイ〟はルナ王女の使命を明らかにし、幻魔から地球を護る使命を持った守護者たちに逢うように勧めた。その守護者の一人が、丈、あなたじゃないの。だとすれば、丈が祈るべき相手は〝フロイ〟という大意識体ということになるわ。〝フロイ〟はあなたのことを知り尽しているはずよ。あるいは丈の〝力〟は〝フロイ〟から与えられているものなのかもしれない。だから、丈が〝フロイ〟と意識で交流することができれば、丈の知りたいことは教えられるんじゃないかしら......」
「だって、僕は王女みたいなテレパシストじゃないんだ。テレパシーで〝フロイ〟と話し合うなんてとてもできないよ」
「でも、努力することはできるわ」
「そうだ......」
丈はゆるやかにうなずいた。頭の中にひしめく考えに夢中になっていた。不意に顔が晴れてきた。

「もし〝フロイ〟が僕に与えた〝力〟だとすれば、僕はそれをあずかっているだけで自由に使えないことになる。ミスタ・メインの超高層ビルを破壊しなかったのも説明がつく。僕のコントロールをはずれて〝力〟が暴走するんじゃないかとそれが一番心配だったんだが、今姉さんのくれたヒントで、少し気分が明るくなってきたよ。〝力〟が原子炉の発揮するエネルギーみたいなもので、綿密、慎重なコントロールを必要とするんだったら、とてもじゃないけど、危っかしくて使えない。恐いもの知らずで盲滅法使っているうちはよかったんだが......今となると、自分が原子力発電所へ入りこんで遊んでいた子供みたいな気がするよ。大事故が発生しなくてよかったと胸を撫でおろしていたんだ」
「早く〝力〟を完全にコントロールするすべを知ることね」
と、三千子が掛時計に目をやり、あわてて立ち上りながら結論を述べた。
「それと、早く学校へいらっしゃい。でも、超能力を使っちゃだめよ。アンフェアになるから......」
「〝力〟は自分のためには使わないと何度いわせるんだい?」
と、丈は憮然としていった。
「どうせみんなもそう思うんだろうな。僕が私利私欲のために超能力をぞんぶんに使っていると......」
「だれでも自分に〝力〟があれば、そうしたいと思ってるからじゃないかしら」
と、三千子は丈を送りだしながらいった。
「〝力〟を自分のために使うって、どんな気持がするものか、あたしも知りたいわ」
「教えてやろう、姉さん。自分が悪魔になったような気がするもんだよ」
と、丈はいった。
12
総会は凄まじい前人気であった。午後二時半の開場の前にキャンパスは長い行列で混みあっていた。全校生徒が開場を待っているのではないかとだれもが印象を受けたであろう。
他校生の制服姿も目立った。やはり女子高校生が多い。地味な高校生に比べて一段と華やかなファッションの女子大生も混っている。
生徒の父母なのか、一般人も開場を待つ長い列の中にかなり見られた。五百名を収容する大教室もオーバー・フローするのが必至であった。
部活動の一端でしかない〝超常現象研究会〟の総会がこれだけの聴衆を集めるとは、部外者にとっては信じがたいことであろう。〝GENKEN〟は文芸部の一分科会にすぎないのである。しかし、今は会員八十名という大世帯にふくれあがっていた。
腕章をつけた整理係が長蛇の列にリーフレットを配っている。知らない人間が見れば、コンサートでも開催されるのかと誤解するかもしれなかった。列に並ぶ人々はおとなしく静かに待っていたが、裡にこもった期待感と興奮は明らかであった。
初めて、これだけ人を集めるイベントを担当した女生徒たちは緊張しきっていた。顔を引きつらせている者もいた。GFに駆りだされた男生徒の助っ人たちが興奮を隠せず、高声で喋りあい、うろうろしている。インスタントの警備係なのであろうが、あまり頼もしげではなかった。
生徒会の総会もこれだけ人を集めることはない。席が足りず、立見が大量に出ることはすでに確定的だった。折畳みの補助席を会員たちが会場へ運びこんでいる。
殺気立ったような女の子の甲高い声で事務連絡が交わされていた。開場時間が迫っているのに、東丈と久保陽子の所在がわからないのだった。
情報伝達の不備があると、簡単なことで組織は動揺するという見本であった。
「ちょっと、あんた、総会が中止になるって本当なの?」
「東君と陽子が校長に呼びつけられて、中止を強要されてるんだって......」
〝超常現象研究会〟の幹部の女の子たちが額を寄せあってひそひそと話し合っている。みな顔が青白く硬ばっている。
「だって、そんな、今頃になってから中止なんて、いったいどういうわけよ」
丸顔の井沢郁江が憤然としていった。可愛い顔が殺気立った猫の顔みたいになっていた。ただでさえ大きな瞳が真円になっている。
「今度の総会が荒れるんじゃないかって心配してるというのね、校長が......それで騒ぎが起こる前に中止させようというんじゃないかって......」
大柄な岩田邦子が苛立ちを露骨にのぞかせた声でいった。肉厚な顔にニキビが沢山吹きだしている。過労と心労で吹出物の巣になってしまったのであろう。
「それはないわよ、今頃になって! これだけのお客さんをどうしてくれるのよ!」
と、郁江が憤然とまくしたてる。地団駄踏みかねなかった。
「校長の奴、ぶんなぐってやりたい!」
可愛い郁江が怒り狂って叫ぶ。額を集めた幹部たちはそれには同感だったが、怒りよりも憂色が濃かった。校長は学園においては最高権力者だ。それが中止を命じたからには、もはやいかに彼女らが息巻いてもどうにもならないのではないか......
翌年一九六八年に始まる大学騒動は、まだ火を噴いてはいなかった。燎原の火のように日本全土に拡がり、高校生、中学生に至るまでヘルメットをかぶり、学園権力と戦うことを覚えたのはしばらく後のことだ。少女たちは絶対権力者にまともに戦いを挑むことなど夢にも考えなかった。
「東君が校長に今逢ってるから、なんとかなるでしょう......」
と、三年の平山圭子が心許なげにいった。いつも大人びた落着きを見せる彼女だが、今回は手に余るといった風情であった。
「陽子がショックを受けちゃってね。そしたら東君が校長に掛合に行ったのよ。東君のことだから、なんとかするんじゃないかしら?」
「田崎たちのこともあるし、今度の総会は荒れるって校長が聞きつけたのよね。殴り込みがあって、総会がめちゃめちゃになるんじゃないかって予想があったものだから......怪我人が出るのを心配して、中止ってことになったんじゃないかな」
邦子が痒い吹出物をいじりたげに、手の指をむずむずさせながら暗い声を出した。
「とにかく東君を信頼するしかないわ」
と、平山圭子。
「東君がきっとなんとかするわよ。まさか中止なんてありえないわよ。東君を信頼しようよ。会員たちが浮足立っちゃうわ。もうなにかあったと勘づいてるのよ。あたしたちがおろおろしてるざまを見せたら、みんな恐慌状態になっちゃうわよ。ね、みんな、東君がきっとなんとかするから! あたしは彼を信じてる!」
「その通りだわ」
邦子が感動した。感動すると鈍いような表情になるのだった。
「東君を信頼しなくてどうすんのさ! みんなの盟主じゃない。さあ、みんな持場へ戻ってよ。なにごともなかったように振舞うのよ、いいわね? さもないと騒ぎがどんどん大きくなるからね」
「もうみんな、心配してあたしたちの様子を窺ってるわよ」
と、郁江が会場をぐるりと見まわしながら小声になった。
「あんたがあんまり大きな声で怒鳴るからじゃないの」
「だってしょうがないでしょ。かっとなっちゃったんだから......」
「何事もなかったように解散しましょう。みんなの不安をほぐしてやるのよ、わかってるわね」
「東君が校長室へ呼ばれて行ったこと、みんな知ってるわよ。訊かれたらなんていえばいいの?」
「東君が校長を招待しに行ったといえばいいでしょ。引張ってくるって......」
「本当だったらいいけどね」
「東君だったら、それくらいやるわよ。われらの盟主を信じようよ」
「時間になったら、客を入れるわよ、予定通り......」
最後に郁江が責任感に瞳を真円にしたまま、挑戦的な声を出した。
「あたしも東君を信じてるからね。でも、もし万一中止でもこれだけの客は帰さない。あたしストリップでもなんでもやるわよ!」
「その言葉信じてるよ」
と、邦子がいった。
「立看板作っとくからね!」
そこへ場内整理係の少女たちが慌しく走ってきた。きゃんきゃんと声が割れた聞きとりにくい甲高い声で報告する。
開場時間を無視して、強引に入りこんできたグループがあるというのだった。
「困っちゃった! いくら待って下さいっていっても聞かないんです。十人ぐらいで行列してる人たちを無視してどんどん入ってくるんです。どうしたらいいですか!?」
「どんな連中なの?」
と、邦子が尋ねる。
「ええ、みんな男の子、とっても感じ悪い! 田崎の子分じゃないかしら」
「あ、入ってきたわ。図々しいわねえ、あいつら」
全員が振り向いた視線を浴びて、十数人が荒々しく入ってきた。恫喝的、威嚇的な雰囲気が、表でおとなしく入場を待ち、行列を作っている生徒たちと大違いだった。
場内整理の女の子たちの制止を押し切ってどやどやと会場の最前列を占めにかかる。
「ひどいわねえ、あたし、文句いってやる!」
と、郁江が愛らしい顔を真赤にし、憤然としていった。
「やめなさいよ、郁、あいつらタチが悪いんだから」
邦子があわてて郁江の腕を摑み、制止しにかかる。
「陽子にいっとかなくちゃ! 陽子、本当に校長室にいるの? あたし行って呼んでくる!」
平山圭子が長身を揺すって走って行った。
「はなしてよ! 文句いってやるの、当り前じゃないの、勝手に招待席に座ってるんだもの、頭に来ちゃうわ!」
郁江が叫んだ。怒ると顔に似ず彼女は勇敢であった。
「警備係の男ども、いったいなにやってるのよ! だらしないったらありゃしない!」
「よしなさいよ、郁江ったら!」
邦子の手を振り切って、郁江はステージ前の最前列に走って行った。
「ちょっと、あなたたち、だれの許可を受けて、この席に座ったんですか!?」
彼女は腰に両手をあてがい、そり身になって叫んだ。
「この席は招待席なんですよ! あんたたちの座る席じゃないわ! それにまだ開場前なんだから、さっさと立って、外へ出てください!」
「うるせえな!」
と、招待席を占拠した連中が怒鳴り返した。
「どこに座ろうが、こっちの勝手だろ、このブス!」
「引っ込んでろ、ドブス! ブス!」
口々にはやしたてる。この悪態は、可愛い郁江にはあまりにもそぐわなかった。
「ちゃんと規則に従いなさいよ! 仲間といっしょでなければ、あんたたち一人じゃなんにもできないんでしょ。ちゃんとわかってるんだから! 一人になればてんで臆病なくせに、仲間といるとずいぶん気が強くなるじゃないの! 笑わせないでほしいわ!」
「うるせえってんだよ、このブス!」
「他に言葉を知らないの? 馬鹿の一つ憶えじゃないの。頭悪いわね! だいたいあんたたちに他人の顔のことをいう資格があるの?」
郁江は開き直ると、実に勇敢であった。連中はたった一人の彼女に押しまくられ、すっかり鼻白んでしまった。
「なんだと......ちょっとぐらいお面がハクいと思っていい気になりやがると、承知しねえぞ!」
一人が血相変えて立ち上った。数人が相次いで威嚇的に席を立つ。
「立ったついでに外へ出てちょうだい!」
郁江は負けていなかった。
「外で待ってる行列の一番最後に並んでもらいますからね。席がなかったら入場お断りするからそのつもりで。あんたたちに総会に出る資格はなにもないのよ、わかる? 〝GENKEN〟は会員に知能テストやってるんだから、あんたたちが入会できるわけないもんね」
昂然と馬鹿面を並べたニキビの連中を睨みつける。
「こいつ、いうじゃねえかよ......」
「おっかねえおねえちゃんだなあ......」
威嚇が通じないと見て、連中は戦法を変えた。郁江を脅すかわりに笑殺する手に出たのだった。
「よう、ねえちゃん。あんまり怒るなよ......あんまり力むと屁が漏れるぜ......」
連中はゲラゲラ笑いだした。口々に卑猥なからかいを郁江に投げつける。
「もう、よしなさいよ!」
岩田邦子はかんかんになっている郁江を力まかせに引張り出した。体力差にものをいわせて強引に連れだす。
「本当に下劣な奴らなんだから!」
郁江は身を慄わせて叫んだ。顔が真赤になり、眼に涙が浮んでいた。
「あいつら、一人残らずぶん殴ってやる! 手をはなしてよ!」
「よしなさいってば! あんなヤクザみたいな人間の屑と喧嘩したって、どうにもならないでしょ! あんたがむきになればなるほど傷つくだけよ。なにか方法を考えようよ、郁江......」
「あたし、もう本当に頭に来た! だれか金槌持ってきて! あいつらの頭、滅り込ましてやるんだから!」
郁江は猛りたっていた。これ以来、彼女は〝トンカチの郁江〟という異名を頂戴することになる。
会場整理係の女の子たちが周囲に集まってきて、不安そうに身を寄せあっていた。
「大丈夫でしょうか、先輩?」
と、一年生の須藤久美子が心配げにいった。
「今日の総会、荒れるってみんないってますけど、なにか起こるんじゃないですか、あの人たちのせいで......」
最前列を占拠した連中が、何事か画策していることは、だれにも感じられた。彼らは総会をぶちこわしに来たのかもしれない。さもなければ、開場前に乱入して最前列を力づくで奪取するという暴挙には及ばないであろう。
「いったいどうしたらいいんですか? あの連中が総会の途中で騒ぎだしたら? あたしたちじゃ、とっても制止できません」
「心配しなくてもいいわ」
邦子が会員たちの不安を鎮めなければならなかった。不安には伝染力があるのだ。
「今、東会長と陽子副会長の所へ、平山先輩が行ってるから。東会長がきっとなんとかすると思うわ。彼を信じようよ!」
「そうよ、東君を信じないで、いったいだれを信じるというの!?」
郁江が興奮した声で叫んだ。
「東君は、あんなゴロツキどもに負けないわ! 彼は凄い力を持っているのよ。あいつらなんかひとまとめにして、ポイ! だわ。東君はイエス・キリストの再来だってあたし信じてるんだから! 今日だって彼の持てる力を示すための総会なのよ!」
「あんな馬鹿な連中のことなんか、気にすることないわ」
と、邦子が元気を取り戻していった。
「今にコソコソと消えてなくなるわよ。そしたらうんと笑ってやろうよ」
「そうですね、きっと。みんなおつむの悪そうな顔してますね。馬っ鹿みたい!」
と、須藤久美子がいった。全員がどっと笑う。
「だれが一番醜くて馬鹿面で、短足かみんなで投票しようよ」
女の子たちは特有の残酷な笑声を響かせた。最前列を占拠した連中は、わっと笑いが湧くたびに気にする様子を隠せなかった。酷評がなされていることが気配でわかるのであろう。
会場入口では混乱が生じていた。入場を待っている行列を無視した連中が、係の制止を押し切って乱入し始めたのだ。最初の乱入組に刺激されて、柄の悪い連中が付和雷同に移ったのだった。
女の子の受付では、実力行使で排除もできず、手に負えなかった。警備係を担当した男生徒たちは情ないことに逃げだしてしまう始末であった。
非行グループに等しい粗暴な連中は、おとなしく待っている行列を尻目に力づくで会場入口に張られたテープを引きちぎり、押し通った。抗議の声があがり、腹立たしげな雰囲気がみなぎってきた。
たまたま現場を通りかかった平山圭子は独断で入場を開始するように係員に指示した。まだ開演まで三十分もあるが、不法入場者にのみいい席を取らせる不公平は許しがたいと思ったのだ。
入場が始まったが、柄の悪いゴロ学生が奇声をあげて割り込みを続ける。すでに開場時からして、総会は波乱含みであった。
平山圭子は、現場を離れて、東丈と陽子を捜しに行った。丈は校長に呼び出されて話し合っているという。たぶん彼らは校長室にいるのだろう。
しかし、校長との話し合いの最中、跳びこんで急を告げるのははばかられた。校長は丈に総会の中止を要求しているのかもしれないのだ。そんな所へ割り込んで、総会が始まる前に、早くも波乱が生じていることなど話せようはずもない。
平山圭子は気ばかりあせって、頭がかっと灼熱してきた。的確な判断を下すのは、高校三年の少女にとり、容易なことではなかった。事態が急迫してくると、胸ばかりわくわくして、頭の回線が焼きついたようにうまく働かなくなってしまう。
教職員室の前の廊下を通る圭子に、彼女が〝GENKEN〟の役員であることを知っている教師らが声をかけてきて、足を引き止めさせられた。
「平山、どうした? 血相を変えて......総会は中止か?」
「えっ......いいえ、中止だなんて、そんなことはありません」
「そうか? とにかくそんな噂を聞いたぞ」
生物の教師が面白そうに笑いながらいう。超心理学を一言のもとに否定し、教室で圭子と議論した教師だ。
「だいぶ人がもう集まってるみたいじゃないか」
数学の教師がいった。
「総会に出てみたいが、席はあるかい?」
教師にも〝GENKEN〟に関心を持っている者は少くなかった。それは超心理学の肯定派、否定派にとどまらなかった。
「ええ、招待席が用意してあるんですけど......」
平山圭子はいいかけて唇を咬んだ。性悪の無法者たちが乱入し、占拠してしまったのである。
「そうか、後で行ってみよう。二時半から開演だったね」
「私も行ってみるかな」
と、生物の教師がいった。なんとかしてゴロツキ集団を招待席から追い出してしまう算段を講じなければならなかった。東丈と久保陽子に早く連絡する必要があった。
「あの、校長先生と、うちの研究会の東君が会われているらしいんですけど、ご存知でしょうか?」
「いや、知らんね」
「副会長の久保陽子もいっしょのはずなんです。どうやって呼び出したらいいでしょうか?」
「簡単だ。校長室に入って行けばいい」
教師たちは笑って廊下を立ち去ってしまった。平山圭子は途方に暮れてその場に棒立ちになった。いうまでもなく、校長室は一般生徒が気軽に入って行ける雰囲気を持つ場所ではない。しかし、陽子には是非連絡をつけねばならない。
緊急の用事で陽子を中座させれば、校長は何事が起こったか必ず尋ねるだろう。もし校長がこの期に及んで総会を中止させようとしているならば、願ってもない口実を与えることになってしまう。
少女は思い乱れて、なすすべもなく立ちすくんでいた。打開策を求めて、必死に考えをめぐらすが、虚しく空転するばかりだ。
13
その時、校長室では、丈もまた試練の場に立たされていた。
年代物の革貼りのソファに丈と久保陽子を座らせ、校長は恰幅だけ抜群にいい体を、仰々しいデスクの向うにはめこんでいた。
巨大なデスクは校長の地位を飾るためのものだろうが、馬鹿ばかしいほど場所塞ぎの代物であった。それこそ何トンもありそうなのだ。卓球ができるほどのだだっ広さだった。デスクのみならず校長室も異様に広い。教職員室の大部屋とほぼ匹敵するスペースを誇り、その無駄ぶりの印象はあまりにもひどすぎるほどであった。
歴代の校長がいつの〝御代〟にやったのかさだかでないが、よほどの権力意識の亡者だったことは間違いない。似顔絵書きが、一様に威厳を持たせた歴代校長の肖像画がだだっ広い校長室の壁にずらりと並び、一同を見降ろしているが、そのいずれもおごそかな顔貌からは、だれの仕業とも判じかねた。
「で、君は......東君に尋きたいが、今日予定されている総会で、どういったことを集まった人々に話して行くつもりかな? たいそうな前評判で、他校の生徒、学生や、父母までが聴講しに来るということだが......」
校長は責任回避の名人であった。角の立ちそうなことは全て長時間かけてこねくりまわし、みんながうんざりしてやる気をなくし、うやむやになるまで持ってまわるのを特技としていた。官僚主義に巣食う策師であり、〝時が全てを解決する〟というのが、彼の座右銘であった。
自己保全のためには、何もしないのが最良の途だと心得ていた。すなわち、何も事を起こさなければ、何一つ事がこじれることはないわけである。
問題解決のために手を打つことが要請されても、彼は決して動かないことを本領としていた。ポーズだけは見せ、問題解決にある程度の熱意は示すのであるが、リップ・サーヴィスの域を出ることはなかった。
たとえば、非行生徒問題にしても、抜本的解決への関心など決して示すことはない。そんなことは不可能であり、〝永久運動〟に興味を持つことと同義であった。放っておけば三年以内に非行生徒は姿を消すとわかりきっているからである。わざわざ火種を突っついて勢いを熾烈にさせることはないというのが彼の信条であった。
自分では一切責任を取ることなく、全て他人に転嫁する。それを彼は最上の処世術と観じていた。むろん、批判者はいようが、気にする必要はなかった。疑う余地もなく、彼の見識は正しいからだ。
時は偉大な調停者だ。愚かな人間が真の見識もなく動けば、それだけ傷口は広がる。肉に埋れてしまった異物と同じで、問題は荒立てずにそっとしておくに限るのである。
校長は、〝超常現象研究会〟なる部活動を公認するかのように、総会を認めてしまった文芸部顧問教師の失態を大いに責めたい心境であった。
とかく若い者は考えが浅くて困る。前例がないものは一応保留するという当然の思慮が欠如しているのである。それをまた最高責任者である自分に報告してこないという手落ちも遺憾であった。
総会の開催が確定したという情報が届かぬままにずるずると当日に至ってしまったのだった。教職員間でかなりの話題になっていることは心得ていたが、校長自身はこれほどのセンセーションを呼んでいるイベントであることに著しく認識不足だったのだ。
久保陽子が緊張しきった面持で咳払いをした。顔が青白く引き攣ってしまっていた。まさか開場一時間前になってから、会長、副会長ともに校長室へ呼びつけられるとは想像もつかなかったのだ。
しかも、校長はこともあろうに総会開催に重大な障害をもたらそうとしている雰囲気である。ただでさえ緊張過多の彼女の顔が他人のそれのようになってしまうのは無理からぬことだった。
「あの......文芸部の総会ですから......会計報告や新部長選任や、その他いろいろな議事があります......」
「そういうことは聞いていないのだよ、君」
校長は苛立しげにいった。
「文芸部総会の名を借りて、君たちが何をやろうとしているか、それが問題なんだよ。〝超常現象研究会〟というのはいったいどんなものなのか、教えてくれないかね? 文芸部といったいどんな関係があるのか......」
校長は改めて、彼の腹心の教務主任が胃潰瘍で夏以来入院中であることを忌々しく思った。主要な情報収集係に寝込まれてしまったこともあって〝GENKEN〟総会棚上げ決定が遅れ、当日までもつれこんでしまったのだった。
「ですから、お手許にお届けしたパンフレット、会報をご覧いただければ、おわかりのように〝GENKEN〟は文芸部の分科会で、SF研究会でもあります......」
陽子は必死の声音でいった。総会開場の時刻は迫っているし、気が気ではない。
「SF研究会......また妙なものが出てきたね、君。エスエフとはいったい何かね? まさか変質的なものではないだろうね?」
校長はメガネを額に押しあげ、デスクの上のパンフレットをいじりまわしながら尋ねた。SMと感違いしていることは明らかだった。
「いいえ、変質的だなんて、そんな! SFはサイエンス・フィクションの略です。科学小説です」
と、陽子が躍起になって反論する。
「科学小説だって?」
校長はうさんくさそうにいい、パンフレットを投げ出して、メガネを鼻梁の上に戻した。
「はい。ですから文芸部の分科会で活動しているんです。そのパンフレットにもありますように、超心理学は、超自然現象を研究する科学で、現在アメリカやヨーロッパでは熱心に研究されています」
陽子は暗記した文章を読み上げているような口調でいった。校長はまったく納得した顔付ではなかった。
「それはともかくとして、〝GENKEN〟というのは〝幻魔研究会〟の略だそうだね?」
「いいえ......〝GENKEN〟は、超常現象の現と研究会の研をとった略称ですけど......」
陽子はぎくりとした。根が正直者なので、本音を隠すことができないのだ。
「そうじゃないだろう......〝幻魔〟というのはいったい何物だね? 説明してもらえないかね......いや、君でなくて、そちらの会長の口から聞きたい」
校長は、答弁を陽子にまかせて沈黙している東丈が気になってならなかった。いつもなら、教務主任に生徒の扱いはまかせるのだが、今回は自分でやらねばならない。生徒を扱うのはどうも億劫であった。
東丈という生徒は、小柄なわりに妙に落着いた所があり、どっしりと座り込んで応対は女の子にまかせたという表情をしている。ただ単に生意気というよりは、測りがたい図太さを感じ取ってしまうのだった。
東丈は、黒く澄んだ瞳をまともに校長に向けて、ソファから立ち上った。小柄な体が意外なほど大きく目に映じて、校長はふと気圧されるのを覚えた。
校長は小心で因循姑息な小人物にすぎなかった。たとえ相手が生徒であっても、人格的迫力を持っていると、逃げ腰になる己れを知っていた。迫力ある人物ほど苦手なものはない。彼の鷹揚な大人ぶりの仮面を剝いで、無能な小心翼々の素顔を露わにしてしまう、強迫観念の虜になってしまうからだった。
それゆえ校長はソツのない教務主任を懐ろ刀として使い、韜晦をもって世人の目をくらますべく努力してきたのである。
余儀ない事情があり、有能な教務主任抜きで、二人の男女生徒を引見することにはなったが、両名ともとるに足らない印象の持主であり、校長は安心していた。久保陽子は緊張過多のコチコチになった少女で、一方の東丈はひよわそうな小柄な少年にすぎなかった。二人ながらに中学の下級生並みにしか見えなかったのだ。
しかし、校長は丈のきらめく黒い瞳がサーチライトを照射するように彼の目を直視してきた時、己れの浅はかさを知った。最初の子供じみた印象とは大違いであった。まるで相手は化けの皮をかぶっていたとしかいいようがない。
瞞された困惑と驚愕が校長を捉えた。体軀こそ中学生並みでも、中身はそうではない。それは相手のきらめく黒い瞳を一瞥した瞬間、明白となった。
教務主任が不在でも、だれか他の教師を介添にすべきだったと校長は本気でくやんだ。
「私からご説明しましょう」
と、東丈は穏やかにいった。その口ぶりは年齢にふさわしからぬ荘重さであり、校長の浮足立った心にずしりと応えた。校長が小耳にはさんだ不穏なとてつもない馬鹿げた風評が、実は根も葉もあることだという事実を裏書きしているように思えた。
「〝幻魔〟とは宇宙に存在する根元悪です。ゾロアスター教でいう善神悪神二元論の、善神アフラ・マツダに対する悪神アーリマンに相当するのではないかと思います。〝幻魔〟の実体は闇の悪神アーリマンよりはるかに巨大であり、キリスト教の悪魔であるサタンも宇宙の根元悪である〝幻魔〟から逆照射を受けている仮の存在にすぎません。
宇宙は巨大な破壊者である〝幻魔〟に供された祭壇です。全ての星々、物質、生命体は、〝幻魔〟にささげられた生け贄です。もし、生け贄を拒むならば、徹底的に蹂躙され、滅ぼし尽されます。
三光という言葉をご存知と思います、校長先生。〝幻魔〟は三光の巨大な具現者なのです。〝幻魔〟は大宇宙に生じた悪質な腫瘍であり、宇宙を死滅させるまで増殖する癌細胞なのです」
丈はこのように年長者に向かって語るのは初めての体験だった。が、特にむずかしいことではなかった。淡々と語るだけのことだからだ。誇張もせず、劇的効果も狙わない。事実だけをむしろ訥々と語るほど効果が大きいと知っていたのだ。聴き手は丈の誠実さによって判断する。立板に水の流暢さは、逆に聴き手の猜疑心を搔きたてるものである。その証拠に一流のセールスマンはむしろ訥弁なのだ。
久保陽子は、初めて崇拝する東丈が、大人の権威と対等以上に、堂々と話すのを見て、いたく感動していた。丈の人格的迫力に比較して、初老の校長がなんと自信なく、スケールが小さく見えることか。逆に小柄な丈は別人のように大柄に見える。校長は圧倒されてしまったようである。
丈の信念が、大人の校長のそれをはるかに凌駕しているからだ、と未熟な陽子にもはっきりそれとわかるほどだった。
「なんだか迷信的ないかがわしい話だ」
と、校長は虚勢を張って、重々しい口調でいった。ろくに理解していないのは明白であった。
「悪魔だか幻魔だか知らんが、そのようなものは迷信だよ、君。この科学時代に存在するはずがないじゃないか。そのような馬鹿ばかしいことをいいふらしてまわることは控えたほうがいいだろう」
「決して迷信をいいふらしているつもりはありませんが、〝幻魔〟はいわゆる悪魔とは違います。はっきりした物質的肉体を持っていますし、だれもその目で見ることができるのです。〝幻魔〟は三光を本質とする、宇宙の侵略者であり劫掠者です。三光とは、殺光、焼光、掠光......つまり、殺し尽し、焼き尽し、奪い尽す、もっとも凶暴な破壊者なのです」
「馬鹿ばかしい! 君は本当にそんなことを信じているのかね! 話にならないね! 〝幻魔〟だの宇宙戦争だの、あまつさえは地球滅亡の危機だの、愚にもつかんたわ言で、君は人騒がせを企んでいるんじゃないのかね?」
校長は鼻息荒くいった。丈が確信をこめて堂々と語るのを聞くうちに、生徒に馬鹿にされ、愚弄されている気分になってきたのだった。それは校長の劣等感による被害者意識であり、己れの息子や娘と議論しては軽蔑の視線を浴びる屈辱感のなせるわざであった。彼らは権威者である父親を冷やかな嘲りと蔑みの目で見、それを隠そうともしないのだ。
校長は簡単に精神的安定を失う己れを知っているだけに、老獪なソツのない教務主任をバリヤーに用い、己れの権威を守っているのだった。
その頼りとする教務主任が病欠でいない今、校長はやむなく危い橋を渡らねばならなかったのだ。
「私が人騒がせを企む、不真面目な人間だ、と校長先生はお思いですか?」
丈はいささかも動じず、平静な声で尋ねた。陽子は不穏な成行にハラハラしながらも、丈の冷静さに誇りを覚えずにいられなかった。
「君は、怪しげな新興宗教まがいの運動を展開して、我校の生徒たちを巻き込もうとしているのではないか......そういう疑問も出ている。だから君の話を聞いてみて、私の判断の材料とし、また君にも申し開きの機会を与えようと思ったのだ......」
校長はハンカチでごしごし顔を拭きながら発音不明瞭な声音でいった。
「私はただ真実を申し上げているだけです、校長先生。怪しげな世迷言を喋ってまわり、人々を惑わせているわけではありません。人々が私の話を聞きたいと向うから集まってくるのです。今回の総会にしても、こちらが集めたわけではなく、参加希望者が多数に上ったというだけのことなのです。本校の先生方もおいでになりますし、他校から見える先生も大勢おられます。しかし、私が招いたわけではありません。校長先生はなにか誤解していらっしゃるのではありませんか?」
「私が誤解している?」
校長は、不敵な奴だと怯えを感じた。次第に相手のもたらす圧迫感は高まり、恐怖すら覚えはじめた。とうてい歯が立たない相手だと知った校長の卑小な自我は警戒心と敵意の体液を流し、甲殻類の鎧を作りにかかっていた。
「何が誤解だ? 君がやっているのは、怪しげな新興宗教まがい、そのものじゃないか。現に事実として君はせっせと人を集めているじゃないか。君はなにやら怪しげな奇術を使って人を惑わせているようだが、今日の総会でもそうするつもりだったのかね?」
校長は自分が手のつけられないほど興奮している一方で、うまく収拾をつける必要をも痛感していた。生意気な、父親への尊敬を知らない己れの息子、娘どもに対する嫌悪が、眼前の生徒に転移してしまったことを感じてもいた。彼らは眼前の生徒に物腰が似ているわけではないが、年長者の権威をおとしめ、非尊敬、非服従をもって当ることだけは共通しているように思えた。
「君は不遜だ。思いあがっている」
校長は抑制できずに口走り、病欠している教務主任が悪いと恨んだ。彼さえいれば、このような間の悪い対決に陥ることなくすんだのだ。
だれか教務主任に代る教師を呼び、この泥沼から脱出しなければならなかった。感情的になることなく、事なかれ主義を回復しなければならなかった。
見れば見るほど、眼前の生徒は彼をむかむかさせ、不快な圧迫感をもたらした。世間知らずのひ弱な若者のくせに、立派な大人、年長者の権威を蔑ろにし、愚弄してはばからないのだ。
眼前の男生徒と女生徒は、校長の父家長の権威を馬鹿にする彼の息子、娘どもと同一存在であった。不遜なのだ。昨夜の激しい敵意に満ちたいさかい、腹立ちが甦ってきて、校長を怒りと敵意の針鼠にした。

「私が不遜とお考えなら、お詫びします」
そういう丈を、久保陽子は鳥肌が立つような気分で見た。不遜なのは断じて丈ではない! 不当ないいがかりをつけ、曲解を恥じない校長自身である。
怒りもせず校長の面子を立ててやる丈は大きく包容力のある存在であり、息荒らげてラチもないいいがかりをつけている校長は、薄くなった半白の頭髪に恥かしいほど卑小な存在に思えた。
「しかし、私は思いあがっているつもりは毛頭ありません。校長先生がなにか誤解されていることがあれば、それを解きたいと思っていますし、努力を惜しまないつもりです」
「私はなにも誤解などしておらん!」
校長は語気荒く怒鳴るようにいった。
「君のやっていることは、文芸部再興の美名を借りた新興宗教まがいの布教運動だ! いいかげんな、デタラメな教理を説き、判断力のない思慮の浅い生徒たちを狂信に走らせるのが目的だ! 私は少しも誤解などしておらない! 君は女生徒ばかりを百名近くも集め、再臨したキリストだなどとデタラメを押しつけ、狂信妄信の徒に仕立てた女生徒たちに君臨している! それが事実だ! どこにどのような誤解があるのかね!?」
ものに憑かれたように校長は怒鳴り続けた。いけないと思うのだが、抑制がきかないのだった。もっと穏やかに持って行き、手強い相手ならそれなりに巧妙にまるめこんでしまわねばならない。今、校長が取っているのは、〝事なかれ主義〟とはおよそ正反対の態度であった。校長一人が年甲斐もなく、鼻息荒く怒鳴りまくっているのである。教師たちが見れば、己が目を疑うであろう。常に茫洋とし、大人然とした校長が阿修羅の如く猛り狂い、生徒を怒鳴っているのだ。
しかも、当の生徒が泰然としているのだから、驚くべき逆転そのものであった。
「それはあんまりです、校長先生!」
久保陽子は我を忘れて、校長に食ってかかった。
「それでは東さんに対して、あまりにもひどすぎます! まるで東さんを悪魔の王や色魔扱いにしてかげでコソコソ中傷する、卑怯な人たちの根も葉もない噂を、そっくり取り上げて事実とするなんて、公正であるべき校長先生のやることではないと思います!」
緊張過多の陽子が、せきを切ったようにまくしたてた。
「公正な判断を下すなら、事実関係を厳密に調査してなさるべきだと思います! 噂だけを取り上げて、東さんを一方的に糾弾するなど、警察でもやらない事だし、まして教育者としてもっともつつしむべきことではないでしょうか!?」
少女のまなじりを決した激しい抗議に、校長はまたしても圧倒された。まさかと思うほど、理路整然とした反論のしようのない論陣を張り、ぐいぐい押しこんできたのである。校長の面目は丸潰れだった。
「ちょっと待て、陽子」
制止をかけたのは丈だった。陽子は不意につまずいたような顔で不満げに丈を見た。
「校長先生にはそれなりのいい分がある。校長先生は僕が申し開きをすることを望んでおられる。それならば僕は申し開きをする権利を認められたということだ。僕にこの場をまかせておいてほしい、それよりも総会の開場時間だ。君は先に失礼してプログラムを進行させてくれ。僕は必ず申し開きをしてみせて、校長先生の了解を頂戴する自信がある」
丈は校長に目を向け、同意を求めた。
「よろしいですか、校長先生? 総会を遅らせると騒ぎが起きますので、久保君に収拾させたいと思いますが」
校長は黙っていた。うまく言葉が口から出てこなかった。にわかに舌が軟口蓋に貼りついたようになり、異論を誦えようにも言葉にならなかったのだ。眼前の東丈という生徒にはそれほどしたたかな迫力があった。
「校長先生のお許しが出た。早く行って騒ぎが起こらないように抑えてくれ。校長先生も騒動はお好みにならない」
と、丈が勝手に校長の意図を斟酌していった。校長は異議を誦えたかったが、意味不明の発声が切れぎれに漏れ出るだけだった。
「わかりました。失礼いたします」
陽子は丈の目配せを受け、丁寧に校長に頭をさげ、校長室を出て行った。
なにか腑に落ちないのだが、校長は丈の指令に反論しないし、妙な唸り声を喉でさせているだけなので、とりあえず丈のいう通りにしたのである。
校長室の前の廊下で待っていた平山圭子が声をあげて、陽子にとびついてきた。
「待ってたのよ! どうしようかと思った!」
廊下にひびきわたる高声に気付いて首をすくめ、声をひそめて続けた。
「総会がもう荒れ始めたの。ゴロツキたちが時間前に勝手に入りこんで、招待席を占拠してるのよ。陽子、どうする......?」
「今すぐ行くわ。彼が総会をプログラム通り進行させておけというの」
「東君が? じゃ、総会は予定通り開けるわけ? 校長がいちゃもんつけてるって聞いたけど......」
「大丈夫よ、彼が今校長を説得してるから」
陽子は確信を持っていった。校長はぐずぐずいっているが、どうってことはないだろう。あんないい加減な、腰の弱い校長が、丈に太刀打ちできるはずはないのだ。
陽子の丈に対する信頼は確固不動のものであった。
「じゃ、早く開会しなきゃ。あのゴロツキたち、最前列にずうっと並んで動かないけど、やっぱりなにか始める気かしら?」
陽子と平山圭子は小走りに会場へ急いだ。
「平気よ! あたしが行って追っ払ってやるから! 大変、もう時間がないわ!」
しまいには息せききって駆け出す。
14
「僕は再臨したイエス・キリストだなどと一度たりともいったことはありません」
丈は、赤くなったり青くなったりしている校長に向かっていった。久保陽子が席をはずしたので、丈は気が楽になっていた。
「もちろんのこと、他人にそのように思わせるような言動に及んだこともありません。キリストのような奇蹟を公衆の面前で顕わした憶えもないんです。救世主信仰をあおりたてることもしませんでした。ただ人々が自然に集まってきただけです。校長先生がおっしゃったような嫌疑をかけられる憶えはまったくありません。それだけはいくら強調しても強調しすぎることはないと思います。新興宗教まがいの活動とおっしゃいましたが、新興宗教の特徴は、組織拡大、金集め、信仰による御利益の三つです。僕はこの三つとも否定します。会費は正規の文芸部の部費にすぎませんし、会計監査を受けます。また会員数を増やすためのいかなる活動もやっていません。勧誘もなにもやりません。それでも向うから関心を持って集まってくる者は、文芸部として拒否することはできないわけです。そして、信仰による御利益などなにひとつあるはずがありません。校長先生がご心配になるようなことはなにもないはずだと思います」
「し、しかし、君は教祖然として振舞っているじゃないか!」
ようやく口がきけるようになった校長は、顔を朱に染め、振り絞るように叫んだ。
「だれが見ても君は教祖だ! 若い女の子ばかりを集めて君臨しているじゃないか! 君はハレムを作ったつもりじゃないのか!?」
「文芸部は、正規のクラブ活動です。女子生徒が多いのは伝統的なもので、なにも今始まったことではありません。他の部活動となんら変ることなくやっています。部員は午後五時までには全員下校しています。部室には部外者も自由に出入りできますし、校長先生のおっしゃるような風紀の乱れは全く存在の余地がありません。根も葉もない風聞を根拠にした非難を浴びせるのは、真面目な会員たち、本校生徒たちへの重大な侮辱ではないでしょうか」
丈は静かにいった。校長は浮足立ち、冷水を全身に浴びた気分を味わっていた。自信が根こそぎにされて行くのだ。
眼前の小柄な生徒はますます圧迫感をはらみ、巨大化して行くようだった。あまりにも落着きすぎ、切れ味が鋭すぎた。十七歳の少年とは信じがたい沈着さ、自信がひしひしと伝わってくるのだ。図太いといえば、これほど図太い少年には逢ったことがなかった。大の大人を気力だけでぐいぐい圧してくるのである。
「侮辱だと? 君は私を脅かすつもりか!? 校長の私を、生徒の身で......? 思いあがるのもほどほどにしたまえ!」
校長は脳卒中を起こさんばかりに無気味に赤黒い顔色になってきた。
「事実関係をもう少し慎重に把握された方がよろしいのではないかと申し上げているのです。女生徒一人一人にも個人的な名誉があります。親兄弟の名誉もかかっています。なんの確信もなくハレムなどという言葉を使えば、それは大勢の人々の名誉をきずつけることになると思います......」
丈は言葉を切り、底知れぬ深みを持った黒い澄み切った瞳で校長の眼をじっと覗きこんだ。校長ははっきりと恐怖を覚え、四十年間の教育界で培った経験が眼前の美少年には通用しないことを悟った。彼は単なる反抗児や非行少年を相手にしているのではなかった。大人も及ばない胆の重みを持った希有の天才児と対面しているのだった。少年などとは呼べない、不可解な成熟した存在である。大きな黒い瞳は底知れぬ光をたたえ、世界の何を見てきたのかと疑わせた。
「生意気なことをいうんじゃない!」
校長は圧迫感に辛うじて耐えて、虚勢を張った。
「君のような子供に偉そうなことをいわれる憶えはない! 私はこの学校の校長だ。文芸部を閉鎖することもできるし、君を含めて君の信者たちを停学にすることもできるし、放校することもできるんだ。そのことを忘れないようにするといい!」
「お気に障ったようでしたら、お詫びいたします。しかし、ハレムなどという言葉は、公的な場所でお使いにならぬようお願いしたいと思います」
丈はあえて逆らわずにいった。
「僕は誤解をときたいとこそ思え、これ以上の誤解が広がるのは希望しません。今度の総会でも、多く広まっている誤解をときたいというのが主眼です。僕は救世主ではありませんし、悪魔の王でもありません。人を念力で殺傷したり、呪いをかけたりすることはありません。そのような根も葉もない風聞を流している一部の人々に反省を求めるのも総会の目的です。校長先生のご心配になるようなことはなにひとつありませんので、ご安心いただきたいと思います」
「待ちたまえ、君は自分に都合のいいことばかり口にしているが、世の中はそううまく行くものじゃないよ。はっきりいうが、君のやっている新興宗教まがいの布教活動は、本校の秩序に害を及ぼし著しい浮薄な熱狂気分を蔓延させ全校生徒は落着いて勉学に励むことができなくなる。特に女生徒多数は君の布教活動により、著しく名誉をそこなわれる。以上の理由により君の布教活動を校内で認めることはできない。君は今すぐ文芸部の分科会を解散したまえ。もちろん総会開催は認められないし、中止してもらう」
校長は恐怖をはね返すべく、騎虎の勢いでいった。ここまで強硬な命令を口にするつもりはなかったのだが、成行でそうなってしまったのだ。ぞっとする冷感が身裡で渦巻いていたが、今はエスカレートする一途だった。教務主任がこの場にいてくれたらと痛切に思った。彼がもっと巧妙に誘導してくれたものを。
事を荒立てるのが本意ではないが、成行で全面対決という方向へ猛然と突っ走りはじめてしまったのだ。この底の知れない黒い瞳の少年が反抗してきたらどうなるか。校長も停学や放校という強い処置が取れるほどの確証を握っているわけではない。全ては単なる噂の域を出ないものだ。その点、少年の主張に分がある。噂だけで断罪しようというのは、老練であるべき校長の身にしてみれば、まったく軽率だ。なにぶんこの生徒は百数十名を超える強力な支持者を校内に持っている。生徒たちをそそのかして抗議に立ち上らせることも、この教祖的な少年には可能かもしれないのだ。
事なかれ主義をもって和とする校長にしてみれば、馬鹿げた失態だ。それがわかっていながら、みすみす強硬方針に走ろうとしているのだった。
この少年が正面から反抗してくれば、一層方針を硬化させなければならない。全校生徒を巻き込み、そして父兄をも巻きこむことになりかねないのだ。
「総会はたった今中止だ。これは校長命令だから、従ってもらう。君の布教活動は校内校外を問わず認めることはできない」
いけないいけないと思いながら、とめどもなく深入りして行くのだ。いいつのりながら、校長は内心、茫然としていた。校長である身は、生徒に諄々と説き、わからせてやらなければならない。ただですら反抗心の強い年頃の少年を頭ごなしに強圧するのは、火薬に火を投じるきわめて愚劣な真似である。
なんとかしなければ、と思いつつ校長は自制を働かすことができないのだった。支離滅裂にいいつのる自分を制止することが不可能になっていた。理性のブレーキがこわれてしまっていた。
「君のように危険きわまる生徒を断じて放置しておくことはできない!」
校長は怒鳴るような語気で続けた。
「君は......お前は教祖まがいのペテン師だ! 達者な弁舌と手品で純情な女子生徒たちをたぶらかしているのだ! ちゃんとわかっているぞ、このペテン師小僧めが! お前の面皮を剝ぎとって学校から放りだしてくれる、見ておるがいい!」
校長のいうことは、もはや教育者のものではなくなってきた。学校長という身分もどこへやら、埒もない暴言をまくしたてる野卑さに堕してきた。
「ネタはちゃんとあがっておるんだ。お前は人間の皮をかぶった悪魔だ! 怪しげな通力を振るっては、良家の子女を瞞し、もてあそぶ色魔だ、この外道が! わしは誓って貴様を叩きだすまで闘ってやる! 貴様は世を迷わし、人を狂わす魔道の者だ! わしは負けんぞ! 貴様などに負けてたまるものか! 貴様が悪魔の妖力で人間を殺せるとしても、わしは闘ってやる! このわしの目が黒いうちは、貴様には思い通りにはさせん! 本校の生徒たちに指一本でも触れさせるものか!」
校長は、白髪混りの頭髪を逆立て、ぜいぜいと息を切らせながら、喚くように喋り続けた。血圧が異常に上って、脳の血管が爆発しそうだった。憎悪で己れが悪鬼の形相になっているのがわかる。
咆えたて、怒鳴りたてながら、校長は己れの空恐ろしい逸脱ぶり、狂気の暴走に絶望を覚えた。感情のおもむくままに、暴言をまくしたてずにはいられないのだ。なにもここまでいわなくても、と怯えに体を縮めたくなるが、心理的な下剤をかけられたように言葉が全て罵倒の雑言となり迸りでてくる。
己れ自身の罵詈雑言に鼻面取られて、しゃにむに引きずりまわされているようだ。いくらなんでもここまで言いすぎては、無事にはすまないとわかっている。教師たちにもし聞かれれば、正気を疑われるであろう。教育者としても人間としても、口が裂けてもいってはならないことが、奔流となってとどまることを知らない。
校長は唾の飛沫をとばして猛然とまくしたて、面罵を続けながら、自分が自分でなくなる分裂の恐怖に捉えられ始めた。気が狂ったのではないかという恐怖だった。
東丈という生徒は少しも激したところがなく、端然として悪罵を汚泥のようにはねちらし狂いまわる己れを見詰めている。その顔は静かで悲しげでもある。怒りや反撥の気色が少しもない。
校長は突如として惨めな恥しさの虜になった。自分が最低のくだらない屑になりさがり、地べたを這いまわる酔漢さながら反吐を吐きちらしているような気がした。
校長が息を切らしながら、黙りこんだ時、校長室のドアーがノックされ、教師たちの顔が隙間に覗いた。
「校長先生! どうかなさいましたか!」
と、体育の教師が日焼けした顔を緊張させて尋ねた。おっ取り刀で駆けつけたという殺気だった雰囲気であった。
「大丈夫ですか、校長先生! 気違いじみた怒鳴り声が職員室まで聞こえましたが、この生徒がなにか......?」
柔道三段という肩の張った体育教師は疑わしげな目で丈を睨みながらいった。まさか温厚篤実な校長が狂人の喚き声をだしていたとは想像も及ばなかったのであろう。
「大丈夫だ......心配ない......どうかお引取り下さい。私はまだこの生徒と話が......」
校長は息も切れぎれにいい、ハンカチで額をおさえた。全身から力が抜けて、回転椅子に腰を落した。
「わかりました。どうも失礼しました......」
体育教師たちは腑に落ちない顔でドアーを閉め、去って行った。狂人の怒声を出したのはいったいだれなのか、さっぱりわからなくなったのであろう。まさか、校長が、と思っているのだった。
「つい口が過ぎた......」
と、校長はハンカチで口許を抑え、くぐもった声音でいった。断腸の思いであろう。
「すまなかった。つい嚇っとなっていいすぎてしまった......」
呆然自失という面持であった。目は焦点が合っていない。
「今、私がいろいろいったことだが......私の本意ではない。わかってほしい......」
「わかっています。気にはしません」
丈は穏やかにいった。憑きものが落ちたようなげんなりした相手にいささか同情を感じていた。精根尽き果てたようだ。
「何を自分がいっているのかわからなくなってしまった......ひどいことをいうと思ったろうが、つい嚇っとなって、心にもないことをいったようだ......」
「校長先生はお疲れになっているんです」
と、丈は温和な声音でいった。
「心を痛められていることが、他にも沢山あって、疲れていらっしゃるのです。どうか心配なさらないで下さい。今おっしゃったことは全て忘れて下さい。僕も忘れます」
「ありがとう......どうにも止めることができずに無茶をいってしまったが......私の真意がわかってもらえてうれしい。君は本当に怒っていないのだろうね?」
校長はハンカチを探りながら、おろおろ声ですがるようにいった。突如、弱気になり、自信喪失して別人のようにおどおどとしていた。
「もちろんです。僕は決して怒ったりはしません。校長先生のお気持もよくわかっているつもりです。他人に誤解を生まないように、充分注意するつもりです。ですから、どうか校長先生もご安心下さい」
校長が弱々しくうなずく。いくらか心の重荷が降りて、心が和んだようであった。
「すまなかったね。なんで私はあんなことをいってしまったんだろうなあ......なにか別のものが私の口を借りて喚きちらしているようだった......どうしようもなかったのだ」
「充分お休みになって下さい。休養をお取りになれば、ご心配は要りません。過労と睡眠不足で、頭がぼんやりされていたのです。今すぐご自宅にお帰りになって、お寝みになってはいかがでしょうか......月曜日にはもうすっきりとされて、元気を回復されているはずです......なにも心配はなさらないで下さい......今日の総会は必ず僕が責任を持ちまして、平穏に終了させます。決して騒ぎは起こさせません。お約束します」
校長はにわかに二十近くも年を取り、老衰で呆けたような顔貌になっていた。涙もろくなって、感情のしまりがなくなってしまったようである。
「そうか、そうか......君がしっかりと責任をもってやってくれるか......よかった。よかったなあ! 君がこんな立派な素晴らしい若者だとわかって、私は嬉しいよ......」
校長は鼻をすすり、まるめたハンカチで顔を撫でまわした。感情的な失禁のために少しおかしくなっていた。
ありがとう、ありがとう、と校長はしきりにくりかえした。つい数分前の悪鬼のように猛り狂っていた人とは信じがたい巨大な落差があった。
脳の血管が切れたのではないかと丈は思った。これほど急激な人間の変貌は初めて見るものであった。
「それでは校長先生、僕はこれで失礼いたします。どうかお体に気をつけて、充分に休養をお取りになって下さい」
丈は同情をこめていった。校長はただ、「そうか、そうか」とやたらに首をうなずかしているばかりだった。
校長を一人で残していくのは心配だったが、時間がないので仕方がなかった。もはや総会はスタートしている。丈が行かなければ、陽子たちは心配のあまり、髪が白くなってしまうかもしれない。
なぜ校長の態度にこれほどの激変が見舞ったのかさっぱり要領を得ぬまま、丈は校長室を退出するほかはなかった。
狂乱状態に陥った校長を説得するため、最後の切札としてPK(サイコキネシス)を披露するしかないのではないかと決断に迫られた時、にわかに激変が生じ、まるで噓のように急転直下解決してしまったのだ。
丈自身、なにが起こったのか見当もつかなかった。とりあえず丈にとり、好都合な変化であったことは間違いないようである。
校長室の外の廊下に出ると、平山圭子が跳びついてきた。控え目な圭子が我を忘れて、丈の手を両手で摑むほどの感動の表出ぶりであった。
「東君! よかった!」
泣きそうな声であった。
「大丈夫なの!? あたし、どうしようかと思って......」
「心配ない。校長先生は了承してくれた。総会は予定通り開催する」
「うわあ、よかった!」
ほっそりした長身の平山圭子は顔を小柄な丈の肩に押し当て、すすり泣いた。それほど安堵感は強かったのであろう。丈は彼女を抱きしめてやりたいほどだった。
もちろん、そんな人目につくことはできない。あらぬ誤解を生むに決っている。
「しっかりするんだ。これから総会、本番だぞ!」
肩を振って、平山圭子を離れさせる。彼女は涙のたまった瞳で気まり悪そうに微笑した。
「今、会場の方はどうなってる?」
「オープニングをやってるはずよ。それより柄の悪いのが何十人も最前列の招待席を占拠して動かないの。どうしましょう?」
「心配ないさ。それより教師用の招待席は足りそうか?」
「やっぱり足りなくなったみたい。陽子が急いで手配したんだけど、もう入場が始まっていたんで、間に合わなかったの」
「そうか......まあいい、気にするな」
丈は平然といって特に急ぐ気配も見せず歩きだした。
──まあ、この男はどうなっているんだろう、と平山圭子は思わずにいられなかった。たしかに小柄なのだが、それと意識しなければ、信じられないくらい大きく見える。とうてい一六〇センチそこそこしかない小柄な少年とは思えないのだ。平山圭子は崇敬の眼差で、丈の後をついて行った。自分がこの歳下の計りがたい少年を心から崇めているのがわかる。元もと冷静なタイプであるはずの彼女が、しんそこから彼に傾倒しているのだった。
恋とか憧れといった感情が、幼稚で底の浅いものに感じられる。彼女の世界の中心には彼が核のように存在しており、彼のことを考えるだけで、心が暖く明るい情感で満たされるのだった。
おそらく、陽子も郁江も他のみんなもそうなのだろう、と平山圭子は考えた。嫉妬のような生臭く息苦しい情念ではない。丈を独占することなどだれにもできはしないだろう。なぜなら、生身の彼はそこに存在するが、それは彼であって、彼ではない。本当の彼は太陽のように輝く素晴らしい存在なのだ。
丈は今もこの場にいて、肉体を持ち、生身の存在として肉声を響かせ、輝かしい黒い瞳で彼女を見る。だが、それは仮のもので、本当は彼女が決して手にできないのだ。なぜなら彼はイエス・キリストのような高処にある存在で、万人のものだから......彼は間もなく他の多くの人々のために、巨大な世界に登り、一女子高校生にすぎない自分などには想像も及ばぬ光輝を身にまとうことだろう。
平山圭子は真実、丈が救世主であることを確信し始めていた。彼は巨きな力を備えた偉大な存在なのだ。多くの預言書によって告げられている再臨する救世主とは丈のことをさしているに違いない。
彼の語ることなすことが、ことごとく彼女の心を打ち、惹きつけて放さないのだった。丈の影響下にあって、それまでの自分が鮮やかなまでに変えられてしまったことを、焼きつけられたように強く意識していた。
どんな運命の激変があっても、自分はどこまでも彼に従って行く。自分だって久保陽子に負けずに丈を信じ、敬愛しているのだ。たとえ、全世界の人間が丈を疑い、悪意の罵りを投げつけ、迫害を加えたとしても、自分は決して怯まない。彼を一途に信じて行くのだ。
そして、どんな迫害があっても、丈は負けない。真の救世主だったら、どんな試練にも必ず打ち勝って行くからだ......
平然と会場へ向かって歩く丈の後に従いながら、平山圭子は一人熱くなって、そう確信を固めていた。
15
総会会場の五百人教室は、神経に障るような緊迫感と期待感が充満していた。
座席は一つ残らず埋まり、立見がぎっしりと通路にあふれている。遅れてきたらしい教師たちは招待席を占拠され、やむを得ず立っていた。
ステージはオープニングが終り、陽子と郁江が掛合で、超常現象の基本的概念の幾つかを解説している。ユーモラスな演出でいささか稚拙だが、会場の気分をほぐす効果はそれなりにあげているようであった。時折前列を占拠したゴロツキ連中から野卑な野次が飛ぶが、二人とも受付けない。陽子も郁江も可愛らしくチャーミングで、だんだん調子が出てきたらしく、けっこう受けていた。
どっと会場が湧き、笑いで揺ぐ。陽子がボケで郁江がツッコミだ。それがぴしゃりとサマになっている。なかなかのタレント性がありそうであった。
丈の講演はプログラムの最後で、まだしばらく間がある。丈と平山圭子は隣接した準備室の小教室に入った。準備に余念のない係たちがあっと声をあげて丈を迎えた。寸劇をやるので、動物の縫いぐるみを着こんだり、タイツ姿の女の子たちがうろうろしていて賑やかだ。
まるで学芸会という雰囲気だった。実際に会員の意識もその程度のレベルであろう。賑やかに楽しんでいる。
準備室の全員が丈の周囲に集まり、質問を口々に浴びせかける。丈のOKサインですっかり緊張がほぐれ、楽しげな笑い声が渦を作った。校長の総会中止命令の噂に心を痛めていたのだ。
最前列を占拠したゴロツキ連中のことも、丈は懸念の必要はないといって退けた。
「でも、あれじゃ警備ができません。ずらっと柄の悪いごっついのが首を並べているんだから......うちで頼んだ警備用の男の子たちなんか怯気を振るって逃げてしまったし」
「いっせいにステージに跳びあがってきたら、いったいどうすればいいんですか?」
「こっちにも考えがあるんだ。君たちは心配しないで、僕にまかしといてくれ」
と、丈はきっぱりいった。丈にはよほどの自信があるのだ、と会員たちは思わざるを得なかった。
「会長反対派が全部で五十人ぐらい入っているようです。それも前の方に集まって、なにをするかわかりません。総会を妨害するといってた連中ばかりです......」
「しかし、無事にプログラムは進行中じゃないか」
丈は笑いながらいった。
「会長が登壇するのを待っているんです、きっと。大騒ぎにならなきゃいいんですけど」
「僕の出番は一番最後だ。それまでおとなしくしててくれれば、いうことなしさ。陽子や郁江たち、うまくやってるじゃないか。すごい大拍手だ。いい雰囲気になってきたな」
出番を終った陽子と郁江が転げるように駆けこんできた。喜色満面で思わず丈にとびついてくる。総会中止はないことをだれかに聞かされたのであろう。
「やっぱりさすがは東君だわ!」
と、郁江が鼻高々で叫んだ。
「校長なんて東君にかかったら、メじゃないって、だからあたしがいったじゃないの!」
「叱っ そんなに大声出さないで」
陽子が郁江の口を両手で塞ぐ。二人は抱きあって笑いころげた。これほど活きいきとして楽しそうな姿を見たことがなかった。ステージで大受けして高揚しているからだろう。
丈はふと胸が詰まる思いに駆られた。可愛い少女たちの喜びも笑いも、あと一年後にはどうなっているだろう。いや、数か月後には......ふとそんな想念が心をよぎると、なぜか堪まらない気分になってしまった。
大動乱は暗雲となって忍び寄っている。盗人がこっそりと暗夜忍びこんでくるように、その時も音もなくやってくるだろう。そんなくだりを聖書の一節で読んだような気がした。
なんとかしなければ! 泥濘に足を取られるように、こんなことにかかずりあっていていいのか!?
体中が煮立つような懊悩だった。丈は奥歯を嚙みしめてこらえた。確かに大動乱の襲来の前には、茶番劇に等しく無意味であるかもしれない。こんな所で波乱含みの総会をやっていたところで、あまりにも末梢的であり、得るところはないのかもしれない。
集まるのは若い女の子ばかりで、いったいなにをやっているのかと笑われるとしてもしかたがない。丈は不意にしんとなった準備室の中を見まわした。少女たちが心配そうに丈を見詰めていた。
丈の態度に、不穏なものを敏感に嗅ぎつけたのであろう。彼女たちはその点、実に鋭敏な第六感をみな備えているのだ。
しかし......と丈は気力を奮いおこして考えた。
──いかなる大河小説も、最初の一ページなしには開始できないのだ。出だしの一ページで大河小説の流れをだれが想像できるというのか。
おれは今、最初の一ページにようやく着手したばかりなのだ。大河も源流を辿って行けば、小さな泉に発していることを思いだせ。ガンジス河も最初から大河であったわけではないということだ。
丈に自信が甦ると、電気のように徴していた少女たちの緊張もゆるんだ。まったくもって敏感そのものだ。まるで遠感でも作用しているのではないかと思うほどであった。
「大丈夫だ。なにも心配することはない」
と、丈は力強くいった。こんなことでつまずいていられない。まだスタートしたばかりなのだ。たかが数十名の反対者がどうしたというのか。その背後には、常識と保守感覚に支配された強力な反対者が権力機構としてそびえ立っているのだ。
「しばらくの間、精神統一をする。出番が来たら知らせてくれ」
準備室は、丈の一言で水を打ったように静まり返った。私語一つ聞こえなくなる。会員たちの尊敬心が電流のように丈に伝わってきた。
彼らは丈を信頼し、敬愛している。さまざまな悪評判にも負けず、中傷や誹謗をはね返して、他人を説得しながら、丈についてこようとしているのだ。
多くの宗教団体と異り、丈は会員たちになにも利益を約束しない。現世利益などまったく何一つ丈は語らない。幸せになれるとも、してやるとも約束しない。それなのに、彼らは丈になんらかの魅力を見出し、指導者と仰いでついて来ようとしているのだ。
丈は自分にその資格があると自負はしていない。なぜ彼らが自分を盟主と仰ぎ、従って来ようとしているのか、自ら納得するだけの理由を見出せずにいるのだった。
ルナ王女のように生れながらの豊かな天分と高貴な育ちで、だれもが敬意を表わすような素地は丈にない。平凡な小市民的生れと育ち、才知も人並はずれているとはいえない。これだけは抜群といえるPK能力を誇ることもできようが、それだけでは戦車に乗った子供と同じことである。人は彼を恐れるであろうが、決して心から説得され、自らついてくることはありえないのだ。
丈は自分が指導者の器だと自負してはいないが、集まってきた少女たちは、驚くほど素直で純粋ないい子たちばかりだ。優れた資質の子たちばかりを全校から選りすぐったような感すらある。もちろん、そんなことはないだろうが、それが実感なのだ。彼女たちが初めからそうだったのか、徐々に変っていったのか、丈には判然としない。
丈自身も変貌したと他人にしばしば指摘されるが、自分ではどんな変化のプロセスを踏んだのかわからないのと同じことかもしれなかった。
丈は、不意に彼女たちに激しい焦げるような愛情を感じた。燃えあがる情念の高まりであった。彼らを肉親と等しく親しいものに感じたのだ。

たとえ、世界を破滅の影が包もうとも、敗北を肯んじまいとする強烈な決意であった。
最後の一瞬まで、愛する者たちのために総てをあげて戦おうとする熱情の奔騰であった。すると、自我がにわかに軽く薄いものになり、拡大して行った。世界の果てまで、地球の隅々まで、無限に拡がり、包みこんで行くのを感じた。校舎が小さく縮まり、ミニチュアと化し、丈がちょうどPK能力により空中浮揚を行なう時と同じく、足許の大地へぐいぐいと沈んで行くような気がした。
もはや、総会で事を起こそうと待ち構えている連中のことも気にならなくなってきた。彼らも現在は丈に対し、激しい反感を持ってはいるが、いずれはわかる日が来るだろう。彼らには理解するだけの余地がないのだが、理解させえなかった丈自身にも問題があることは確かであった。
敵対者を否定しようとする強い感情はもはや丈の心から消え失せていた。今までは丈が内心どのように譲歩しようが、決して消えることのなかった敵愾心であった。
彼ら敵対者を翻意させ、理解させるのも、自分に課せられた重要な仕事だ、と丈は初めて素直に納得することができた。
彼らは、丈を理解しえないがゆえに、牙を剝き、狂犬のように襲ってくるであろう。しかし、それを正面から撃退してはならないと丈は思った。それは簡単だ。それがために安易すぎる道であった。
「東さん......時間ですけど......」
と、久保陽子の声が遠慮がちにいった。そっと丈の肩をゆする。
丈は目をあけた。目を閉じて微動すらしなくなった丈を、彼女たちは眠ってしまったと感違いしたのであろう。
大教室で盛大な拍手が湧いていた。プログラムは全て大好評のうちに進展し、遂に最後に予定された会長である東丈の講演を残すのみになったのだった。
丈は少女たちに曇りのない笑顔を向けた。彼女らは、丈のあまりにも屈託のない明るい表情に、かえってはっとしたようであった。
丈はまったく気負いも緊張もなかった。事前に想像したような気の昂ぶりは影すらも見当らなかった。
準備室を出る丈を、部屋の全員が追った。絶対に見逃せないシーンが始まるのだ。
16
丈の姿が現われると、会場は一瞬、音を失くしたようにしんとした。だれもが目をみはり、固唾を吞んだようである。
ステージに向かって歩く丈に、全員の視線が膠着していた。ぱらぱらと拍手が湧き、それが力のこもった拍手に急成長して行く。会員だけのものではない。想像した以上に、支援者が多いという証明だった。
声援と同時に怒号も飛んだ。反対同盟とでもいった連中が大声で罵詈を丈に投げつけている。しかし、それを圧するのは拍手であり歓声であった。
ここに至る会員たち全員の努力が奏功したのだ。聴衆の大部分は丈に好意的であった。〝反対同盟〟の野卑な雑音に反撥してか、拍手と声援にも力が入ってくる。
ステージに上った丈は、怒声には目もくれず、一礼した。会場が静かになる。〝反対同盟〟の野次も止んだ。丈の出方を窺っているのであろう。
丈は用意された椅子には腰をおろさず、デスクに向かって立ったまま、冴えたよく通る声で話しだした。マイクが必要ないほどの声量のある素晴らしいバリトンが会場全域に行き渡った。
だれも──久保陽子ですらも、丈がこれほど鮮やかな講演をするとは予期していなかった。普段の会話の際とは別人の感がある、真剣勝負の気迫が聴衆に迫ってくる。背筋が寒くなり、戦慄が体を這う、凜然たる美と迫力が丈にはあった。
ステージにおける丈が見せている瞳は、聴衆のだれ一人、見たことがないものだった。サーチライトがその眼窠の奥に秘められているのではないかと疑いたくなるほど、丈の瞳は明るく輝いていた。その瞳が聴衆の視線を捉えると、鏡面が太陽光を反射するような閃光をその者は感じた。
丈は驚くべき瞳をしていた。会場の全員がおそらく一生涯持ち続ける鮮明な記憶となったであろう。
その顔、瞳、声とともに、丈は忘れえない印象を全ての聴衆にもたらしたのだった。人並より小柄な少年が、だれよりも大きく見えた。聴衆は〝反対同盟〟の者たちですら、壇上の美少年が、なにかしら人並はずれた、特別な存在であることを認めざるをえなかった。多くの者が、丈に魂を奪われたようになり、ただ耳だけをそばだてて、美しい声の響きに聴き入った。
──この場にお集まりの皆さんに、私はある報告をなしたいと思います。それはこの宇宙全体に関る真実であり、私がこの身をもって経験したことです......
丈はいきなり前置もなしに、全速力で疾ばし始めた。眼前に広がっている聴衆の雰囲気を摑んだだけで、これはいけると確信したのだった。
聴衆は魅入られたように、目と耳だけの存在と化していた。丈が発する言葉は、そのまますっと入りこみ、浸透して行く。岩壁にボールを投げつけたように跳ね返ってくるのは、〝反対同盟〟の面々だが、会場全体の反応に比べればほんの少数派であり、まったく気にならない。
──私は、現在、宇宙で何が起こりつつあるか、この目で見ました。宇宙的規模での歴史の証人と逢い、直接言葉を交えたのです。私が誇大妄想的な空想を展開しているとお感じになるのは自由ですが、どうかこの数十分間だけでも、私の話に耳を貸していただきたいとお願いしておきます......
時の勢いだった。丈はまだ真実を小出しにしている段階であり、一気に真相を明らかにすることは注意深く避けていた。聞き手によっては甚しく空想的であり、現実味に欠けて、誇大妄想とそしられることを配慮したからに他ならない。
だが、眼前の聴衆が丈の姿を見ただけで、催眠術にでもかかったように魂を奪われ、目をみはっているのを見て、とっさに決心したのだ。
今は遠まわしに抽象的な言葉をつらねている時ではない。信念を吐露し、真正面から波動を投げかける時だ。
丈は語り続けながら、いかに己れの声が張りと艶に恵まれ、のびのびと会場全域に浸透するかを驚異の思いで観察した。彼はこれまで、多人数を相手にした講演の経験は一度もなかった。少人数の座談ですら訥弁を矯正できなかったほどであり、今回も自信皆無といってもよかった。つっかえ、どもりながら必死に喋るどころか、我ながら信じがたい迫力でみずから言葉が活きいきと飛びだして行くのである。
ステージの丈は人間放れしていた。若い神のように美しいのだ。磁力のようなもので視線を吸いつけられ、目を放すことができない。背筋が寒くなるほどの美しさだった。真に美しいものを見た時、人間は恐怖に似た感覚に襲われ、戦慄するものである。
多くの聴衆が、自分が今、凄まじい光景に立ち合っているという経験を持った。生身の神に見まごう美しい若者が、今しも歴史の分岐点に立ち、第一声を放っている......世界の歴史が今こそ巨大な質量を音もなく転回させて行くのだという洞察であった。
この美しい若者こそが、歴史を変え、世界を変えるのだ、と信じた人々は少くなかった。悪意に満ちた敵対者ですら、圧倒されるものを感じずにはいられなかったのだ。
これほど迫力のある講演を耳にしたことのある者は一人として存在しなかった。若者の力に満ちあふれた輝かしい声が、場内に充満し、渦巻き、空気は帯電しているようにビリビリと波動を聴衆全員に伝えていた。
丈の声自体に特別なエネルギーがみなぎっており、人々の魂を直撃し、震撼させた。
──イエス・キリストが最初に人々の前で法を説いた時、この壮絶なほど力強い感動があったのではないかと思わずにいられない者もいた。
ステージの丈の体の周囲が発光している、と感じた者もいたようである。空気ではなく発光しているのはオーラだとささやく者もいた。
事実、丈の高揚しきった精神は、明らかに体の周囲のみならず会場全体に、また会場の外部にもなにかしら変化をもたらしはじめたようであった。
丈のサイコキネシス(PK)により、物質化現象が生じたのかもしれない。ステージの上はスポットライトが幾つも点灯したようににわかに明るくなってきた。肉眼ではっきりわかるほど──それどころか眩しいと感じるほど、丈を載せたステージは明るくなり、光輝にあふれてきた。
聴衆の口を、声にならないどよめきが衝いて漏れた。髪の毛がふわっと逆立ってくるほど、それは壮絶な眺めであった。
丈は大宇宙を粉砕しつつ巨大な宇宙津波となって広がり続け、向う者をことごとく破壊し、滅尽して行く〝幻魔〟の侵寇について語っていた。
それが宇宙の実相であり、避けられぬ真実であること。しかし、〝幻魔〟は向う所敵なしであっても、真の意味で無敵ではないと、宇宙意識体〝フロイ〟が告げたこと......丈は語り続けた。
〝幻魔〟といえども無敵ではない。われわれ一人一人の人間はバラバラに孤立しているならば、ひ弱な人間として〝幻魔〟の敵ではないが、もし愛と友情により、よく心を一にすることができたならば、〝幻魔〟さえ退ける力となる。人類が無意味な同族内闘争を止め、心を宇宙に向けて開くことをなしうれば、愛と友情による連帯は、〝幻魔〟の猛攻によく堪えることができる。
この宇宙的大嵐の時代を迎えて、われわれになしうるのは、即座に闘争を中止し、心を結ぶことにある。
丈は熱と力をこめて説いた。自分がいかに強く確信を持っているかを知って、驚嘆するほどの気迫が迸り出た。
古来より、人類は文化遺産として沢山の神話伝説による予言、神の言葉を伝える預言者による預言を持っている。それはこの世の終末の時を迎えて、暴虐と破壊の嵐が吹き荒れ、この世界は滅びるが、それでもなお人類は立ち上り新生の時代を迎えるというものである。これらの預言が、宇宙の破壊者〝幻魔〟による侵寇を表わしていることは疑う余地もない。今、人類が侵寇に備えて手を結び、立ち上らなければ、人類の未来はなく、再生する世界を見ることもなく、地球世界は破壊され尽した死の廃墟と化す運命を避けられないだろう。
──〝幻魔〟はすでに地球に来ています。影のようにこっそりと忍び寄り、侵寇の用意を進めているのです。〝幻魔〟は強大な悪の〝力〟であり、〝幻魔〟がある限り、人間はその影響を免れることはできないのです......
丈がそう語った時、聴衆は再び大きくどよめいた。丈の言葉がまぎれもなく真実そのものであり疑問の余地のない現実である、と受容する心の用意が出来ていたからだった。彼らは、丈の声音に、真実のみを語る者の輝かしい響きを感じとったと思ったのだ。
──〝幻魔〟は一見、無敵であり不敗であるかのような強大さを誇っています。しかし皆さん、恐れてはいけません! 怯えることはないのです。なぜなら、全ての預言は最終的に〝悪の勢力〟すなわち〝幻魔〟が敗れ去ることを告げているからです。これほどわれわれ人間にとって頼もしく力づけられる預言はまたとありません。
そして宇宙意識〝フロイ〟も、同じように〝幻魔〟の敗北がありうることを告げているのです。多くの預言者によって告げられているように、人類の心を愛という一つの方向に向けてまとめあげ、〝幻魔〟の干渉を断ちきり、その悪の波動を無力にする存在......宗教的には〝救世主〟と呼ばれる偉大な存在、〝幻魔〟を無力化する力を持った一人の人間が、間もなくこの地上にその存在を明らかにすることでしょう。
その者──〝救世主〟は偉大な力を秘めた美しい若者として立ち現われてくるでしょう。その若者は、人々のバラバラな心を一つの美しい網に編みあげるべく、愛を説いて行きます。人々の心の中に荒れ狂っている、さみしい虚無、エゴイズム、好戦思想など苦悩の源泉を洗い流し、人間の一人一人を強靭な愛の糸に生れかわらせて行きます。その愛の網が〝幻魔〟に向けて投げかけられた時、〝幻魔〟はその荒々しい〝力〟を根こそぎ失ってしまうのです。
その偉大な業を行なう一人の若者は、やがて皆さんの目前に姿を現わします。われわれはその日のために花道を備えて迎えなければならないのです。それはわれわれ一人一人が愛と友情で武装することです。そして、その若者は、愛の網で地球を覆い、〝幻魔〟の攻撃を無力化します。宇宙意識〝フロイ〟はこう告げています......もし、地球人たちがそれを成し遂げれば、それをきっかけに〝幻魔〟は衰退の第一歩を記すことになるであろう、と。
その瞬間、凄まじい響きとともに、大教室の窓ガラスが数枚割れ、砕け落ちた。会場の全聴衆を捕えていた呪縛が一気に破れ、解けた。
「インチキだ! だまされるなよ!」
「お前がその救世主だというのか、噓つきのペテン師野郎!」
「手品使いの色魔! その面で何人女をたらしこんだ!?」
〝反対同盟〟がいっせいに割れるような蛮声で喚きだした。もっと早く妨害行為に出る予定が、丈の素晴らしい講演の呪縛にかかり、手も足も出なかったのであろう。窓ガラスの破砕音でいっぺんに覚醒したようであった。
静まり返った会場が、〝反対同盟〟の汚らしい喚き声で占拠された。
「インチキ野郎! イカサマ師!」
「女たらし! 色魔! 強姦野郎!」
頭の悪い野次が飛び交った。丈を立往生させようと声を限りに喚き散らす。
「東は悪魔だ! みんなだまされるな!」
突き刺すような鋭い声が飛び、〝反対同盟〟ですら一瞬、黙りこんだ。
「東は人殺しだ! 本物の悪魔だ! 東は悪魔の力を持ってるぞ! みんな気をつけろ!」
席から立ち上り、鋭く絶叫しているのは、丈と同級の江田四朗であった。東丈と四朗が小学校からの親友だったことを知っている者たちは、この告発に啞然としていた。
「東は恐ろしい人殺しだ! 前につきあっていた女の子を殺して知らん顔をしてる! みんなも聞いたことがあるだろう、会社社長一家が全員蒸発して家が大爆発で吹っ飛んだという事件を! あれは東が悪魔の〝力〟でやったんだ! 警察が東を調べた、すると刑事が二人とも行方不明になっちまった! みんな東がやったことだ! 東は悪魔の力を持ってる、手も触れずにものを動かしたり、空を飛んだりできるんだ! 本当だ、おれはこの目で見た! 丈が空を飛んだのをはっきりと見届けたんだ! アメリカで起こった黒人大暴動で何万人も死んだのも、東がやったことだ! 東は人間じゃない、化物だ! 東は悪魔の王だ! 奴のいうことにだまされるな! 東は人殺しだ! みんなをだまして支配し、世界をヒトラーみたいに支配する陰謀を企てているんだ! みんな、気をつけろ! 東がいった救世主というのは、自分のことをいっているんだぞ! 奴はみんなをだまして地獄へ連れて行く悪魔だ!」
江田四朗はものの怪が憑いたように、金切声で叫びたてた。その鋭い毒々しい告発は聴衆の胸に突き刺り火の矢のように燃えた。
「東は僕を殺すかもしれない。僕が本当のことをいい、みんなに教えたからだ! 僕の身になにか起こったら、それは東がやったんだ! 東は念力で人を殺す大悪魔なんだ! そのことをみんな忘れないでくれ! 東をみんなで倒して、ヒトラーみたいになるのをストップさせてくれ! 僕は命がけでいっているんだぞ! 東は救世主なんかじゃない! 人類を破滅させる悪魔だ! それを僕は命を賭けて断言する!」
四朗は己れの弾劾に自己陶酔し、身を慄わせ、拳を宙に突きあげて、絶叫した。
「東は悪魔だ! 東を殺せ!」
〝反対同盟〟が怒号し、彼らはいっせいに席を蹴って立ち上った。
「東を倒せ!」
「東を殺せ!」
彼らは江田四朗の告発により、一気に発火状態になった。
「問答無用だ、東を殺れ!」
女生徒たちの悲鳴があがった。〝反対同盟〟の面々は鉄パイプのような武器をこっそりと持ちこんでいたのだ。講演中の東丈を襲い、袋叩きにする手筈がつけられていたのであろう。
最前列を占めていた連中が怒号しながら、机を乗り越え、ステージに飛びこんで行った。後方からも机の上を飛び越え、聴衆の体を踏みつけながら、全員がステージの丈に向けて殺到する。
一人がデスクに載っていた花瓶を鉄パイプで叩き割り、払い落した。悲鳴と叫び声が湧き会場がわっと総立ちになった。数十人の暴漢がステージ上の丈一人に襲いかかったのだ。予定の行動であることは明白だった!
だがまっさきかけて通路を駆け寄りステージにとびあがった一人は度胆を抜くような振舞いに及んだ。花瓶を叩き割ってからデスクによじ登り、丈に鉄パイプごと飛びかかろうとしていた奴が、いきなり悲鳴をあげて鉄パイプを飛ばし、デスクから床へ転げ落ちたからだ。
真先にステージへ飛び上った一人は、木刀を振るい、そいつを叩き落してしまったのである。
「田崎だ!」
驚愕の声が〝反対同盟〟の暴漢たちの唇を衝いて出た。彼らの行動がぴたりと止んだ。それほどの仰天ぶりであった。
田崎が真先に丈を襲ったとだれしもが考えた。その思いこみがもののみごとに裏切られたからである。
田崎は右手に木刀を持ち換え、左手でマイクをデスクから取り上げた。マイクが生きていることを確かめる。丸坊主の精悍な顔で、聴衆をじろりと見渡す。度胸はいいのだ。
「埃っぽいことをバタバタやるな。おとなしく座ってろ」
田崎はマイクに向い、大声でいった。ビーンとハウリングが起こるほどでかい声だった。
「お前らはみんな講演を聴きに来たんだろう......だったら、他人の迷惑にならないように静かにしていろよな」
一同は胆を潰した表情で、壇上の田崎を凝視していた。なかんずく〝反対同盟〟の驚愕は甚しかったようだ。
「田崎! 貴様、裏切るのか!?」
と、怒声が飛んだ。
「ほう、その気張った喚き声は、野口一党の親分だな?」
田崎は愛嬌のある顔をしかめ、にやりと笑った。
「そうか野口の旦那、お前さんが黒幕かい......だが、お前に裏切者と呼ばれる心当りはないんだよ。いったいいつおれがお前と談合したというんだ? おい野口、滅多なことをいうなよ」
会場の野口は、ステージの田崎に木刀の先端をさしつけられて黙ってしまった。
「感違いしてもらっちゃ困る。おれはこの東丈先生のだな、素晴らしい講演にえらく感動したんだ。だから、お前らの跳ね上りで、この講演をぶちこわしてもらいたくないんだ......わかるか? だから、おれはこうして体を張って講演を守ろうとしてる。このおれに苦情があるなら、いつでも受けるぜ。だが、この講演会は、お前らの出番じゃねえんだ。おとなしく自分の席へ帰れ!」

田崎は木刀を一人一人に突きつけて、名前を呼んだ。
「川上、石黒、矢田! ほら、席へ帰れよ。新庄、柴田、安川......なにをぐずぐずしてるんだ! 井上、綾部、板坂、藤松、工藤、お前らの席はそこじゃない! そこは招待席だ! 恩師の先生方をお招きしたいい席なんだ。その席を勝手に占拠したうえ土足にかけるとは、この恩知らずのできそこない! こら、石丸に和田! お前らも同じだよ! お前たちにこの素晴らしい講演を聞く資格なんかないぜ、おい。豚に真珠っていうんだ! 早く出てけ、ほら! ぐずぐずするなって!」
容赦なくマイクの高声で名指しにされ、追い立てられると、さすがに〝反対同盟〟の面々も居座ることもできず、顔を伏せてこそこそと退散して行った。田崎の威令には驚くべきものがあった。教師の手に負えないゴロツキどもが射すくめられたようになり、すごすごと逃げだしたのである。
彼らが会場から一人残らず姿を消すまで、田崎はマイク片手に名指しで酷評を浴びせ、退出を督励し続けた。その酷評、寸評があまりにも的確でおかしいため、会場には笑声が湧き、空気が和んだ。田崎はユーモラスな言動、愛嬌のある顔によって、司会者のすばらしい資質があることを証明しているようであった。田崎はがぜん人気を獲得した。
「会場もだいぶ静かになったようで......赤っ恥をかいて逃げだした悪漢連中も、今ごろは心静かに反省などしているでありましょう」
と、田崎は挨拶し、盛大な拍手を浴びた。
「なにぶんプログラムにも出ていない人間が勝手に飛び入りし、勝手なことを喋りまして大変申しわけありません。会場も平和を取戻しましたし、マイクを東丈先生にお渡しして引き退りますが......」
田崎はぎょろりと大目玉を剝いて、微妙な会場の反応に答えた。
「今、東丈先生といったけど、決して冗談でいったんじゃないんだよな。おれは本当に彼を尊敬してるし、素晴らしい男だと思ってる。だから先生といったんで、おちょくってるわけじゃないんだ。先に生れたから先生ってわけじゃない。歳のことをいえば、おれの方が彼より先に生れてるんだから......本当に心から尊敬して、先生っていってるんだ。そこを間違えないでくれよな」
心のこもった激しく強い拍手が、田崎の言葉に応えた。田崎は感動したようであった。かつてない体験だったのであろう。
「先生、どうもすみませんでした」
と、田崎は丈に向かっていった。
「どうぞ講演を続けて下さい......こんなに素晴らしい講演が聞けるなんて、まだなにか信じられないです。こう、魂が慄えるっていうのか、体の方が勝手に血沸き肉躍るって感じになっちまうんです......先生、先生が本当のことをいってるんだな、とわかる。言葉だけじゃないんです。魂でわかっちまうんです。ありがとう、先生。先生なんて勝手にいっちまうけど、勘弁して下さい。おれがしんそこ尊敬してるからいうんで......学校のだったら先公だけどね......おれみたいながさつ者だけど、おれは先生について行きたいです。どんな凄いことが起こっても、世界中ひっくり返るような騒ぎになっても、おれは先生について行きます! 〝幻魔〟という侵略者を地球から追っ払うために戦います。愛と友情の網の一本の糸になりたいんだ。どうかおれをよろしくお願いします!」
田崎は、丈が手を差し出しているのを見て、急におろおろと声を詰まらせた。
「先生......! 本当に凄かったよ、先生!」
彼は右手の木刀をほうりだし、丈の手を摑んだ。凄まじい拍手だった。聴衆の全員が席を立ち、惜しみない拍手を壇上の二人に送っていた。
だれもこれほど力のこもった拍手をしたことはないし、聞いたこともなかったろう。掌がはれあがり、真赤になっても、人々はなおも痛みをこらえて拍手を続けた。
拍手はいつまでも、際限もなく続いた。小休みになりかけるかと思うと、勢いを盛り返して、再びクライマックスへと向かうのだった。
その場のだれもが一人一人、この日の光景は一生涯忘れないだろうと感銘に酔ったことは間違いなかった。申し分なく劇的であり、悩ましく、そしてちょっぴり可笑しかった。
「先ほど、私に対して強い批判がなされました......」
丈は田崎からマイクを受取り、場内を沸かしている喝采を制した。
「もちろん、その批判はまったく真実ではなく、悪意ある中傷、誹謗でしかありません。残念ながら、私の旧い友人によってなされた告発は全て根拠というものがなく、彼の私に対する悪意と憎しみが作りあげた妄想です。このようなことを口にするのは忍びがたいのですが、告発が重大な犯罪に関るだけに、黒白ははっきりとつけておかねばなりません。心乱れて、あのような偽りの過激な告発をなした旧友に対し、残念な気持を抑えがたいのですが、私はいつでも自己の潔白を証明する用意があります」
再び強い拍手が起こった。江田四朗の毒々しい告発に、反撥と嫌悪、怒りを抑えきれぬ感情の発露だった。
「私は、告発をなした旧友に怒りを持ち、なじるつもりはありません。真実がどちらの側にあるか、いずれ真実自体の重みにより、明らかにされるからです。もし仮りに私が告発された如く、悪の化身、悪魔の王であるならば、私は決して正体を隠せなくなるでしょう。そして私が潔白であるならば、真実自らがその潔白を証明するはずです。
皆さんにお願いします。先入感や偏見に目を曇らされることなく、この先を見守っていただきたいのです。どちらに理があり、どちらに非があるのか、皆さんの素直な心の目でごらんになればわかるはずです。
私はこの場で、重大な犯罪を犯したと告発されました。告発した彼はもちろん、なんの証拠も持たず、私が犯罪者だと証明することはできません。きわめて愚かな行為です。彼が怒りと憎しみに心を惑わされ、正常な思考ができなくなっている証拠です。
しかし、極悪犯罪者だと身に覚えのない疑いをかけられた私もまた、この場で自分の潔白を証明することはできないのです。警察が私を取調べ、告発の事実はないと認めるまで、私は疑いの目で見られなければなりません......」
場内から声があがった。
「そんなことはない! あなたは潔白だ!」
「信じてます! がんばって!」
悲鳴のような声で、少女たちが口々に叫びだした。場内が騒然と沸いてきた。
「皆さんのご信頼は嬉しく思います。しかし、私の無実を信じず、中傷と誹謗をこそ事実だと思う人々もいるでしょう。私が無実を証明できないからです。そうした疑いの目を覚悟して、悪意ある噂の中を生きることが、今後の私が担うべき十字架です、私は潔くこの十字架を背負って行きます。しかし、いつか真実は必ず現われるでしょう。〝幻魔〟は実在の存在です。決して架空のおとぎ話に登場する化物ではありません。その事実をやがて人々は知って行くでしょう。その時に、私の潔白は自ら証されるはずです」
狂ったような金切声があがり、丈の言葉を中断させた。
江田四朗が、喚きたてているのだった。〝反対同盟〟が全員退散した後も、四朗は一人踏み止まり周囲の非難の目に耐えて頑張っていたのである。
彼の丈に対する憎悪が並みなみならぬものだという証しであった。彼は席を立ち上り、壇上の丈に人差指をえぐるようにさしつけながらなにごとか叫んでいるのだった。
あまりにも激昂しているので、発音不明瞭に早口が加わり、何を難詰しているのかわからない。耳を刺す憎悪の叫びとしか聞こえないのだ。
「わからない! 何をいってるんだ!?」
「わかるように喋れ!」
会場から声が飛んだ。
「喋らせるな! 会場から出て行け!」
「引っ込め! 引っ込め!」
「噓つきは出て行け!」
「ろくでなし! 大噓つき!」
会場が荒れてきた。女の子まで黄色い声で江田四朗を罵る。丈が身振りで抑えなければ、会場の憤激は江田四朗の一身に集中したであろう。近くの連中が立ち上り、四朗に詰め寄ろうとしていたからである。
「東丈! お前は噓つきだ!」
四朗はようやく聞きとれるほどの声域に落した。
「卑怯者の東丈! お前は僕のいったことを全部否定するのか!? お前は恐ろしいほどの念力を持っているじゃないか! 超能力で空を飛ぶじゃないか! お前はそれまで否定するのか!? 僕はそれを見たんだぞ! アメリカへ行くといって空を飛び、一週間も帰ってこなかったじゃないか! お前はそれまで否定するのか!? お前は大事なことをみんなにわざと隠してる! 知られては困ることを沢山隠しているんだ!」
四朗は喉が破れたように声を掠れさせたが、怒鳴っているうちに自信を回復しはじめたようであった。
「答えろ、東丈! 答えられないんだろう!? お前の正体がみなに分ってしまうからだ! おれはお前の正体を知ってるんだぞ! 僕はあらゆる方法で、お前の正体を暴露してやる! お前の否定することが全部、お前の人殺しを結局証明するんだ! なぜなら、お前は悪魔の力の持主で、その力を使って会社社長一家や刑事たちを殺したからだ。他の方法では、絶対に不可能なやり方で、お前は人殺しをやったんだ!」
──この馬鹿者を黙らせろ、と怒りの声が本格的に湧き起こった。私刑に遭わせかねない憤激が江田四朗をとり囲んだ。
人々が怒気に満ちて立ち上るのを見て、江田四朗はたじろいだ。袋叩きに遭うのではないかという恐怖で顔面蒼白になり、顔をひきつらせ、震えだした。
「彼に手出しをしてはいけません。彼をほうっておきなさい」
壇上の丈がマイクで警告しなければ、総立ちになった聴衆に、四朗は吊し上げを食ったであろう。
四朗は恐怖の虜になり、人々の勢いが弱まったのを見すかすと、死物狂いで通路を逃げて行った。転がるように会場を跳びだして行く。
しかし、後には江田四朗の蒔きちらした毒が重く残っていた。
「皆さんの心には、疑いの気持が残ったことでしょう。東丈の旧友だというのに、なぜ彼はあんなひどい悪口をいうのだろう、もしかしたら、東丈にはなにか隠していることがあるのじゃないだろうか......皆さんの心の中にはそうした疑いの心が湧いてきたかもしれません......」
丈は静かな調子でいった。
「それが、彼の狙ったことです。疑いの心は、愛と友情の連帯をこわす、もっとも有効な破壊者です。もしかしたら......なにが真実であるのかわからない時、その気持が湧き起こるのを止めることはできないかもしれません。だからこそ、さきほど、何が真実か突き止めるために素直な、偏見に曇らされない目で見守っていただきたいとお願いしたのです。真実は必ず明らかになります! そのことだけは忘れないで下さい。
また、彼は念力のことを申しました。この僕が超能力の持主であることまで否定するのか、と問いつめました。つまり彼がいおうとしたのは、人智では計り知れないような大事件が起きており、その事件を起こしたのは、僕の持つ超能力だと告発しているのです。おわかりでしょうか? 僕が超能力を有することを認めれば、謎の大事件は、僕の仕業だと証明することになる、と彼は考えたのでしょう。なぜなら、他の人間にはできないから、という理由です。
しかし、彼は誤っています。いわゆる超能力を備えている人間は数多く存在します。しかも、その〝力〟の強大さにかけては、〝幻魔〟も大変なものです。ニューヨークの黒人大暴動で恐ろしい力を振るったのも、他ならぬ〝幻魔〟でした。
いずれ〝幻魔〟はだれの目にもわかる巨大な力を現わして行くでしょう。その時に彼のゆえなき告発は無意味になります。けれども彼は自分が完全に間違いを犯していると認めはしないでしょうから、今後さまざまな方法で僕を攻撃することになるでしょう。彼の攻撃はそれなりの説得力を持ち、効果をあげるかもしれません。
多くの人々が、彼の軽率な言葉を信じ、僕を悪魔の王と信じるかもしれません。彼には確かに勇気があるからです。最後まで踏み止まって攻撃を続けようとしました。もし、彼が本心から僕を悪魔王と信じているのなら、たいした勇気です。もしかしたら、彼は僕が決して反撃しないということを知っているため、敢えて攻撃したのかもしれませんが......
もちろん、僕は江田四朗をいかなる形でも攻撃することは決してしません。それは、自分が変死したら東丈の仕業だと思ってくれ、と彼がいったからではありません。人類が内部抗争を繰り返すことは明白な間違いだからです。それは〝幻魔〟を喜ばせるだけの利敵行為に他ならないでしょう。
僕はこの先も、彼を根気よく説得して行くつもりです。やがて彼も何が真実かを知る時が来るでしょう。
重ねて皆さんにお願いいたします。真実を見定める目を持って下さい。一時の感情に決して走らないで下さい。真実はやがて明らかになります。今日起きたことを、胸に灼きつけておいて下さい。
疑いの心が起こったとしても、一時の感情で判断を下さないで下さい。江田四朗のように、単なる思い込み、自分だけの心証によって、性急な判断を下さぬようお願いします。繰り返していいますが、真実は間もなく明らかになるでしょう......」
──超能力を!
と、会場に叫び声が生じた。丈に超能力行使を要請しているのだった。
超能力を! 超能力を!
場内の聴衆は唱和した。熱狂的な叫び声と拍手が高まって行く。会員の少女たちの始めたコールがやがて会場の全員に波及しようとしていた。
丈は手をあげて、コールを抑えた。拍手が更に高まる。異常に期待のこもった熱狂が会場を渦巻き、どよもしていた。
「皆さん、よく聞いて下さい!」
丈の声はきびしく響き渡った。
「皆さん考え直して頂きたいことがあります。皆さんがこの会場へお出になったのは、超常現象、とくに超能力に関心をお持ちだからだということはよくわかっています。私がこの〝超常現象研究会〟を作りましたのも、こうした現代の科学者が手を触れたがらない種類の特異現象が存在するという事実を、世に知らしめたいという動機に基づきます。目には見えず耳にも聞こえず、科学的な計測機器によっても明確に捉えることが困難な、この超常現象は、日本でこそ科学の研究対象として市民権を持っておりませんが、文明国と呼ばれる世界の先進国では、米ソを初めヨーロッパ諸国、インドなど公的な研究機関が設けられ、旺盛な研究活動が進められています。
私がこうした日本における後進性を打破したいと願うのは、単に日本が学問的に後進国であることを残念に思っているからではありません。
人間には、目に見えない精神エネルギーが秘められており、その秘密を明らかにすることだけが、今後の人類の存亡を決定すると確信しているからです。
もし、この精神エネルギー、いいかえれば超能力を人類が自分のものにできなければ、人類の存続は不可能になるでしょう。なぜならこの精神エネルギーは、他の物質的ないかなるエネルギーにもまして巨大だからですし、宇宙の破壊者である〝幻魔〟はそれを負エネルギーとして破壊のためにのみ駆使しているからです。
精神エネルギーに目覚めた人類の真の連帯だけが、〝幻魔〟の巨大な負のエネルギーを打ち消すことができます。それこそが、愛の力です。〝幻魔〟の恒星をすら消してしまう恐ろしい憎悪のエネルギーをうちまかすのは、宇宙の真理である愛に目覚めた人々の精神エネルギー以外にはありません。
それゆえに、私は皆さんに真実を伝え、自覚し、立ち上ることを求めているのです。
けれども、超能力は決して万能の特効薬ではありません。〝幻魔〟は超能力と同じ〝力〟を行使することができます。つまり、超能力を極限まで悪用すると、〝幻魔〟の〝力〟そのものになります。
〝超能力〟だけに興味を持たないでいただきたいのです。
〝超能力〟は見世物ではないのです。面白おかしいショーではありません! 興味本位で、面白そうだから自分でもやってみようとか、私利私欲のために使おうとしたら大変なことになります!
自分の利益のために、人をびっくりさせたり感心させたりするために使おうとすれば、その超能力はもはや〝幻魔〟の振るう魔力と同じものになってしまいます! まして超能力を自分の欲望を満たすために悪用するならば、その者は人間であることを止めて、〝幻魔〟の奴隷になってしまうでしょう!
くり返していいますが、超能力は興味本位の見世物ではないのです! 私は皆さんが、超能力を見たがっているからといって、皆さんの欲望に迎合し、超能力をお目にかけるつもりはまったくありません。
私が超能力を持っているとしても、それは宇宙における真実を証明するためのものです。現在の物質科学では取り扱うことすらできないが、人間には肉眼では見えない精神があり、その精神が蔵しているエネルギーこそ、宇宙を存在せしめている計り知れない宇宙エネルギーと同質のものだと証明するためのものです。
私の恥をお話します。私はかつて友人に、精神エネルギーが存在することを証明しようとしました。友人は超能力も信じず、宇宙で今展開されている〝幻魔大戦〟のことも頭から否定し、受付けようとはしませんでした。私は友人を説得すべく、超能力を彼に示しました。
事実は否定できません。彼はショックを受けました。超能力の実在を受け容れざるを得ませんでした。
しかし、その結果はどうだったでしょう。友人は私を憎みました。なぜなら、彼には超能力がなく、私にはあったからです! 友人はその不公平にひどく腹を立て、自分にないものを持っているという理由で、私を憎悪しました。
私が深く考えることなく、衝動にまかせて超能力を示したことが、親友の仲を真二つに割いてしまったのです。もう皆さんにはおわかりのことでしょう。
あるいは、その友人にも超能力が潜在しているのかもしれません。開発することにより、彼もまた超能力を得ることができるのかもしれません。
しかし、問題はそんなところにあるのではありません。超能力が自分にはなく他者にあるという理由で、嫉妬や憎悪の反目が生じるならば、人々が超能力を持ったところで、優劣を競い、憎みあいが生じるはずです。だれは自分より優っている、だれそれは自分より以下の超能力しかなく劣っている......もしそうであれば超能力は新しい紛争の種子になるだけです。超能力などいっそない方が幸せかもしれません......
超能力はもっと本質的な愛の〝力〟でなければならず、いたずらに興味本位の、あるいは利益追求の対象であってはならないはずです。
その友人を失った苦い経験ゆえに、私はだれにも超能力を示しておりません。人に求められるからといって、おいそれとお目にかける種類のものではないとおわかりいただけたでしょうか?」
拍手が湧きだした。力強い共感のこもった反応であった。丈は続けた。
「私はこの先も、ショー芸人が見世物を演じるようには、人々が求めたからといって超能力を示すことは決していたしません! この目で見なければ信じない、という方もおいでと思いますが、それでも結構です。そうした人々は超能力を己れの目で見ても、手品だ奇術だと叫び、決して肯定することはないでしょう。その人々が精神エネルギーをわがものにできないことは幸運といえるかもしれません。心に愛のない超能力などない方が幸せです。〝幻魔〟の奴隷にされるのが関の山だからです。
私は必要でなければ、精神エネルギーを行使しません。超能力はむだ遣いすべきではないからです......
くり返して申し上げますが、超常現象としての超能力が大事なのではなく、本当に重要なのは、精神エネルギーの根元である愛に目覚めることです。超能力に捉われないで下さい。超能力は単なる現象です。形としての超能力がなくても、人を思いやる愛の心を持つことが、人類全体の精神エネルギーをどんなに豊かにするか知れないのです。
以上で、私の最初の講演を終ります。どうもありがとうございました」
声にならない歓声が巨きな波動となって噴きあげたようであった。会場の全員が総立ちになり、拍手を送った。
何千人もの聴衆がいるのではないかと思われる、凄まじい音量の拍手であった。涙を流して拍手する者が沢山いた。巨大な感動がふくれあがる中を、丈はステージを降り、会場を立ち去った。
17
丈を含めて、〝GENKEN〟のだれも、総会の異様なまでの大成功を予測したものはなかった。
丈自身、己れの講演が多数の聴衆にそれほどまでの感銘を与え得るとは夢にも思わなかったのだ。自分にまともな席できちんと喋ることができるというのは、丈にとり大きな発見であり、驚きであった。
もとより、他の人々にとって、それは驚異であり、歓喜でもあった。
閉会後一時間たっても、なお興奮のさめやらぬ聴衆が帰ろうともせず、キャンパスに立っては夢中で語り合っていた。丈の講演はそれほど大きな感銘と衝撃を与えたのである。
会員たちは抱きあって泣いた。他に歓喜を表現する手段がないかのようであった。彼女たちの手になる総会は、単に大成功という以上の成果をおさめたのだ。
総会の途中で生じた波乱は、むしろ丈の火を放つような素晴らしい講演を生かす方向にのみ働いたようであった。総会潰しを企てた〝反対同盟〟は、こと志と反してスーパー・スターを産むだけの結果を得たのだった。
準備室の丈を、平山圭子に案内されて、鬢に白いものが混った紳士が訪ねてきた。
「私は圭子の父親ですが......」
と、彼は名乗った。丈は渡された名刺にちらりと目をやった。企業経営者であるらしいことは、風采物腰でそれとなくわかっていた。
楚々とした平山圭子と似ずに、がっしりした長身、精力的な迫力ある風貌の持主であった。平山圭吾と名刺にある圭子の父親は、逞しい手を丈に向けて差し出した。
「聞きしに優る素晴らしい講演で、私、まったく敬服いたしました。これほど感動的な講演は生れて初めてです」
平山はサビの効いた迫力ある声音で絶讃を惜しまなかった。娘の平山圭子が顔を赤らめて立っている。
「娘にいろいろ聞かされておりまして、一度是非お目にかかりたいと願っておりました。それがこのような素晴らしい形で、謦咳に接することができまして、これ以上の幸せはございません」
彼は力強く丈の右手を握り、振り続けながら熱心にいった。丈の父親東竜介と同年輩であろう。が、丈の父と異り、いかにも太っ腹そうであり、頼もしい親父というイメージを体現していた。
「実は、私、娘に対し、そんなに素晴らしい青年であるなら是非とも逢わして欲しい、家へ連れてきなさいと何度もいっておりました。その度に、娘になにをいってるの、お父さん、東君はあたしのボーイフレンドじゃない、先生なんだと聞かされ、正直ぴんと来ませんでした......なにしろ娘よりも年下の若者だと聞いておりましたし......娘のいうようなそれほどの英才であるならば、是非一度お目にかかりたいと申したわけです。圭子はなにぶん一人娘ですし、それほど惚れ込んでいるならば、私のめがねにかなったら、などと馬鹿なことを考えておりました」
「お父さん! やめて!」
平山圭子が真赤になって、父親の袖を引いていた。泣きそうになっていた。
「いいじゃないか、圭子、本当のことなんだからな。そんなわけで、今日の講演会を聴かせて頂いた次第です。いやもう、驚きました、目から鱗が落ちたとはこのことをいうのでしょう。あわよくば娘の婿に、などと浅墓に考えていた自分が恥しくなりました。確かに東さん、あなたは娘の師であるだけでなく、沢山の人々の師となるべき人ですなあ。私、そう確信いたしました」
「そう買いかぶられると恐縮です。僕も講演をやったのは今日初めてなもので、調子がよく摑めなかったのですが......」
丈はようやく右手を平山圭吾の握手攻めから取戻し、椅子を勧めた。
「とんでもない、そんなご謙遜を! しかしご講演は今回初めてというのは本当ですか? 失礼なことを申し上げますが、あれはただの場慣れや訓練から出てくるものと全然違いますな。胸を打つ迫力が違います。やはり言葉というのは口先ではなく、その人の魂から出てくるというのは本当ですなあ」
平山は一人で唸り、感銘を新たにしていた。迫力のある相当な古狸らしいが、気はいいのであろう。
「あれが言霊というものですな。いや、東さん、私つくづく感動いたしました。娘のいう通りです。あなたは世界の動向を左右する力を秘めておられるのかもしれん。しれん、などといっては失礼この上もありませんが、私平山は、あなたが世界を変える人物だということにはっきり確信を持たせて頂きました」
平山圭子の父は、なおもいかに自分が大きな感動を受けたかを縷々として語った。女の子たちは神妙な顔をしていたが、しだいにおかしさをこらえかねたのか、そっと席をはずす者が続出した。その場で笑い転げるわけにはいかなかったからであろう。平山圭子は居たたまれぬように、真赤な顔をして身悶えせんばかりであった。生真面目なタイプの久保陽子ら数人が準備室に残っただけであった。生理的な笑いの季節にある女の子たちばかりなのだから、やむを得ない。
丈は笑いこそしなかったが、感激家の平山が飽くことなく己れの受けた感銘を表現する熱情には閉口した。感動の抑制が効かなくなっているのだ。
かなりの間、独演会を演じた後、平山が切りだしたのは、丈の後援の申し出であった。これだけの素晴らしい講演を、ただの一学園の部活動にとどめておくのはいかにももったいないというのだった。
青林学園高校の文芸部超常現象研究会はそのままとして、外部に展けた、発展性のある組織を造ってはどうかという勧めであった。そのためには、平山圭吾が場所や資金を提供し、後援者としてできる限りの援助をしたいというのだった。
「いや、これはこのままではおしいですわ」
と、彼は力説した。
「これは絶対に、一般に公開して大勢の人々に聞かせるだけの値打があります。先生のおっしゃったことは、そのまま世直しにつながりますものなあ。世界中の人間に是非とも、先生の講演を聞かせなきゃいけません」
平山はいつしか丈を先生と呼び出していた。自分の熱弁に酔ってしまったようである。

「先生は本当に世直しの救世主やもしれません、私はそう信じとります! イエス・キリストの再来、弥勒菩薩の下生、あの講演を聞いた時に、心からそう確信しましたわ! 超能力は人心を惑わしやすいから、自分は使わないといい切った先生を見ると、なんかこう胸がじーんとしましてなあ......」
彼の長広舌は尽きるところを知らなかった。幾度も場所柄を忘れ、ポケットからタバコを出しては、娘の圭子に注意された。だが、いっこうに応えない。
「私も昔から超常現象は好きですし、東西のありとあらゆる本を読み漁りました。行者の通力というのもいろいろ見ております。世直しをするという人間も後援したことがありますが、これが信者が何人か集まるとちゃっかり教祖におさまって、金もうけに夢中になるという手合ばかりでして......そのせいもあって、今日の先生の火を吐くばかりの素晴らしい講演がずしんと胸に響いたんでしょうなあ。ああ、これだ! これが本物だ! わしが今まで探していたのはこのお方だ、そう思うと体がかーっと熱くなってしまい、こうやって娘に頼んで押しかけさせて頂いた次第です......」
要するに、ルナ王女に対する大石油業者ミスタ・メインのようなものだった。後援者としては、財力がケタ違いだろうが、もちろん丈はそんなことを念頭においたわけではなかった。自分にも後援者が出現したのを知り、単純に驚いているのだった。その申し出を受けるかどうか、それはまた別次元の話だ。
平山圭吾は、渋谷の目抜き通りに持っている自分のビルの一フロアを、丈とその主宰する組織に提供したいといった。設立に必要な資材と資金を一切、面倒を見るというのだった。
あまりにも破格な申し出であり、丈にはにわかに諾否を決められなかった。
「それはそうでしょうなあ......先生は今後大きく飛躍して行かれるお方ですし、器、容れ物にご不満があるかもしれません。しかし、それは発展し、脱皮する都度考えて行けばよろしいのではありませんか? まあ、私の提供出来る施設にしても、広さは知れておりますが、旗上げとしては場所もいいですし、人集めにも適当かと思いますが......」
「べつに、そうしたことに不満があるとか、そういうことではありません。ただ、今まで予想したこともないお申し出ですので、ちょっと戸惑っています。学校から離れて、講演やその他、活動を展開して行くことは考えていませんでした」
丈は、平山がここぞとばかりまくしたてようとするのを抑えていった。
「いずれは、と思っていましたが、僕はまだ高校生ですし、学業半ばで、校外の活動には当然限界があります。今度の総会にしても、校長先生は危惧の念をお持ちでした。もし、僕が高校生の身で活動すれば、新興宗教類似の活動という誤解を受けて、当局からさし止めを命じられるかもしれません」
「それこそ、法難という奴ですな。いや、先生がお年に似合わず考え深くて冷静でいられるのには、またびっくりですが、しかし、妨害にめげてしまっては、先生の活動もそれで終りになってしまいませんか?」
「妨害を恐れてはいません。今日も華々しくやられましたから」
丈はそっと笑いながらいった。
「ただ、充分考え抜いた上で、今後活動を進めて行きたいのです。〝蛇のようにかしこく、鳩のように柔和に〟というのを、僕のモットーにしたいと思っています」
「いや、本当に先生はしっかりしていらっしゃる! 敬服の他はありません!」
平山は大声をあげて感嘆し、娘の圭子に上衣の裾を引張られた。
「大人も及びませんな、先生の思慮深さには......なんともはや、私などはいたずらに馬齢を加え、年とともに愚かになるという感を否めませんわ......わかりました、先生! 先生のお考えがしっかりと定まるまで、私お待ちいたします! その間に私よりもっと大きなものを提供できる、松下さんのような後援者が出現しましたら、私は潔くおゆずりいたしますから!」
平山は両手で丈の右手を摑み、幾度も深々と頭をさげた。
丈はこの時初めて、自分のために全てを投げだすという熱心な帰依者第一号を得たわけである。しかし、丈はそれを実感するよりも、ただ面喰っていた。
事態は新しい展開を示し、丈の思いがけない方向へ走りだしたようであった。
そこへ、外へ出ていた会員たちが叫び声をあげながら駆け戻ってきた。
「東君! 東君来て! 外に出て見て!」
と、顔を紅潮させた郁江が叫んだ。
「どうしたんだ?」
その勢いに丈も平山も吊りこまれて立ち上った。それほど郁江らはけたたましかった。
「東君、外に出て空を見て! 凄いんだから、本当に!」
郁江は興奮しきって叫び立てた。
「なにがって、虹よ、虹! 外に出て見てごらんなさいよ! あんな凄い虹、見たこともないんだから!」
なんだ、虹か......という暇もなく、丈は会員たちに手を取られ、外へ引張り出された。平山圭吾もあわててついてくる。
少女たちのいう通りであった。キャンパスの展けた東空に、雄大な虹がかかっていた。かつて見た憶えもないほど天空に掛った橋の七彩が鮮やかであった。キャンパスにいまだに残っている人々が嘆声を漏らしながら空を仰いでいる。
「いやあ、これは見事だ!」
と、感激癖のある平山が大声で絶讃した。
「わしはこんな見事な虹を、東京で初めて見たわ! これは凄いもんだ! まるであの虹の橋を渡って、イエス・キリストでもやって来そうじゃないですか!」
人々がいっせいに振向いて平山に視線を集め、次いで丈に気づき畏敬の眼ざしを注いだ。
「先生! これは天の贈り物ですよ」
と、平山はあたりをはばからぬ大声でいった。
「先生の起つ日を祝って、天上でパレードでもやっているのと違いますか? これは偶然じゃないですなあ!」
人々が同感の嘆声を漏らす。丈は無言で天空に弧を描く、多彩な半円形のアーチを見詰めていた。
丈の黒い瞳に見詰められて、虹は更にその鮮やかな光輝を強めてきた。東空が一面、燃えあがるようだった。人々が叫び始めた。
虹は信じがたいような光彩を放って燃えていた。虹がぐんぐんと巨大にふくれあがって行く。丈がその〝力〟で引き寄せだしたとはだれも気づかなかったが、人々の騒ぎは大きくなった。七彩の光の帯は、巨大な滝のように美しい光の粒子をまきちらすように燃えていた。
平山圭吾が突如声をあげてうずくまり、祈り始めた。あまりの畏敬の念に圧倒されてしまったようだ。人々も次々に膝を折り、敬虔な目を光の大瀑布に注いだ。
丈は塑像のように立ち尽し、光芒の天に目を注ぎながら、新しい世界が展けたことを感じていた。
あとがき
小説を書く時、私の内宇宙にはいつも混沌とした星雲の如きものがある。
それは茫漠として形象を持たず、エネルギーのみを放射している存在である。私にとり小説を書くという作業は、この星雲の如きものからエネルギー放射を受け、文章という形に定着させていくことなのだ。
他の作家のことは知らないが、私にしてみるとこうした受信という作業が全てといってもよい。ヘタに創作ノートなど作ると、自分の作りだした固定観念に縛られ、二進も三進もいかなくなってしまう。
〝幻魔大戦〟を作りだす前、私の内には超特大の〝星雲〟が存在した。いったいどうやって形象化してよいのか、見当もつかぬ規模の巨きさを持っていた。
地球人類全体が神の如き高次元の〝力〟を備えて、大宇宙を虚無に帰そうとするとてつもない破壊者と戦う、というコンセプトだけは明確なのだが、さて、いったいどこに切り口をつけていいのか皆目わからない。
無重力空間を漂っているみたいに支点を持たず、焦りを感じているところへ、石森章太郎さんのもう一つの〝幻魔大戦〟の設定書を〈少年マガジン〉の内田編集長から見せられた。宇宙の侵略者である魔人グループと、地球の超能力者グループが魔法対超能力の戦いを展開するという設定である。
内田編集長を交えて、石森章太郎さんとミーティングを持った時、初回で〝幻魔大戦〟は瞬く間に誕生した。あっという間にキャラクターを含めて、星系が誕生するように、明確な形象化を成し遂げてしまったのである。
一九六七年の初めのことだ。コミック版〝幻魔大戦〟はこの年の三月から年内いっぱい〈少年マガジン〉誌に連載されることになった。
幾度か他に書いたことだが、連載中〝幻魔大戦〟は少数の熱狂的な支持者を得たけれども、おおむね不評だった。不評を買った理由はいくらもあるだろうが、一言でいえば〝早すぎた〟ということだろう。
雑誌掲載は〝討死〟する形で、バッサリ打ち切られてしまった。理解を得られなかった苦しみだけが私に残った。非常に大きなことを手がけているという漠とした自覚があっただけに、私にとっては大ショックだった。マンガ原作者であることに見切りをつけるほどの深甚な衝撃であった。
事実、私はそれ以後、本格的に小説を書きだし、現在に至ったわけである。
考えてみれば不思議なことだ。〝幻魔大戦〟の〝大星雲〟はそのまま私の内宇宙に留まり続け、のみならず秘かに成長すら続けていた。私にとり、もっとも重大な関り合いを持つ作品だとする認識は、その後十年間を経過しても、私の内に確固として存在し続けた。
十年間という歳月は、一人の作家を変えてしまうに充分な年月である。作家の中には己れを燃焼し尽してしまう者すら多く存在する。私は二十代から四十代へと足を踏み入れてしまっていた。
しかし、私の内宇宙では、〝幻魔大戦〟の〝星雲〟は依然として拡大を続け、エネルギー放射を続けていたのだ。私は〝幻魔大戦〟の圧力を年々強く感じるようになっていた。
が、〝幻魔大戦〟は前述した通り、石森章太郎さんとの共同作業により成立した作品である。私一人の意志では動かせない。条件が揃わない限り、再スタートは困難だとほとんど諦めている有様だった。
けれども、頭ではあれこれ考えたあげく断念していたのだが、それとは関りなく機は熟しつつあったのである。
一九七九年初め、石森章太郎さんと私は、それぞれ独自の〝幻魔大戦〟を造っていくことで合意を成立させた。思いもかけなかったことがバタバタと実現してしまったのである。もし機が熟していなければ、いかにフリーハンドを与えられてもどうにもなるものではなかったろう。
ところが、元来遅筆で寡作だった私が、奔流のように新しい構想による〝幻魔大戦〟を産みだし始めてしまった。〝真・幻魔大戦〟と名付けた新作のみならず、同時併行してコミック版〝幻魔大戦〟の原作小説をリメイクする作業に取りかかってしまったのである。
まことになにものかにとり憑かれたような、と表現するほかはない。自分の能力をはるかに凌駕したところで、凄まじいスピードで仕事が進められていくのだ。優に十年間の仕事の分量をわずか一年間でこなしてしまうという信じられないハードワークを自分が達成しつつあるのを、私はわれながら呆然とした気持で見まもることになった。
新作〝真・幻魔大戦〟を手がけ始めた時、構成の必要上、コミック版〝幻魔大戦〟の原作小説に細部をおぎなって、〝真・幻魔大戦〟を補完しなければと思いたった。それが、二つの〝幻魔大戦〟同時進行の発端となったのである。
両者がデュオを奏することが、この異常な物語の奔流を産みだすことになったらしい。最初の予定では、原作小説のリメイクにすぎなかったのに、私の内宇宙の〝幻魔星雲〟が強烈なエネルギー照射を行なうにつれ、全く異る様相を呈し始めた。
リメイク版〝幻魔大戦〟は、原型をいつの間にか離脱し、完全に独自の成長を見せることになったのである。作者の私自身、あれよあれよといううちに、〝幻魔星雲〟のエネルギー照射は、またもや新しい〝幻魔大戦〟を誕生させてしまった。もはや作者にはどうにもならぬ。これをなんと呼ぶべきなのだろう。とりあえず〝小説決定版・幻魔大戦〟と命名しておくことにしよう。
読者の皆さんに今お読み頂いているこの〝幻魔大戦〟は、コミック版〝幻魔大戦〟とも、その原作として書かれた小説(活字化されていない原稿)とも、大きく異るコースを進み始めてしまった。
混乱を避けるために明記しておくが、この〝小説決定版・幻魔大戦〟は、他社で現在進行中の〝真・幻魔大戦〟と相互補完を成す唯一のものである。
両者ともに現在進行中なので、詳しい解題は加えられないのが残念だ。
両者合わせて全三十巻をひとまず予定しているが、例によってこの先どうなるかさっぱりわからない。順次お読みいただくほかはないようである。
現在書ける範囲で読者諸氏の理解の一助としてみたい。
コミック版〝幻魔大戦〟では、ご承知の向きも多いかと思うが、幻魔地球侵攻軍と地球人超能力戦団の対決を控えて、月が地球に異常接近する、衝撃的なシーンで終っている。結末が謎に終る〝リドル・ストーリー〟となっているわけである。
なにぶん雑誌掲載時は不評を買い、暴力死の如き最期を突如迎えることになり、七転八倒した挙句の苦肉の策が、あのショッキングなラストシーンを産んだのだ。
無理やりつけた幕切れではあったが、きわめて印象的であったためか、単行本にまとまった後、にわかに再評価されて、再開を要望する声が高まってきた。
しかし、あれほど凶意に満ちたラストシーンを書いてしまうと、私の内では地球における幻魔大戦の敗北は必至であり、どうしてもストレートに続編を書く意欲が湧いてこないのだ。
新たな構想の下に再挑戦するしかない。一九七一年に石森さんと始めた〝新・幻魔大戦〟は前作の〝幻魔大戦〟と登場人物が一人も共通しないという〝別の幻魔大戦〟として読者の前に姿を現わすことになった。
他の場所で幾度も説明を試みたことなのだが、〝新・幻魔大戦〟は多元宇宙で幻魔侵攻のために滅びた別の地球が物語の発端となっている。
つまり〝幻魔大戦〟は、〝新・幻魔大戦〟によって産み出された地球が舞台になっているわけである。後から産まれたのが親で、先に産まれているのが子という、いささか変則的な構成だが、〝幻魔星雲〟からのエネルギー照射を受けるのがいささか順序が乱れたと解釈していただきたい。
〝新・幻魔大戦〟で滅亡した地球の過去に戻り、超能力者たちの家系を造りだそうと試みた、時間跳躍者の可憐な女主人公お時は、〝幻魔大戦〟には登場せず、わずかに東丈、三千子姉弟の意識に影を落しているだけである。〝幻魔大戦〟はお時を抜きにして物語を進行させている。一方では〝真・幻魔大戦〟にお時は名を変えて重要なキャラクターとして登場している。双つながらにお時が関与していながら全く異った展開を示すのには、大きな意味があるらしいのだが、それはまだ作者の私にもはっきりしない。〝幻魔星雲〟の投射を受ける作業は当分の間続くわけだし、ヘタな予測は止めにしておこう。
当シリーズの〝幻魔大戦〟
、
までは、原作小説の展開をそのまま受けていたのだが、
の後半からにわかに新展開を示し、本書
に至って完全に原作の軌道をはずれてしまった。
作者自身、全く予測のつかぬ物語の成長ぶりを見せ始めたのである。
一九六七年当時の私にはとうてい書けなかったであろうことは確かだ。超能力を用いたアクションという現象面にしか気が廻らなかった事実はまぎれもない。
あの時点では、やはり私は〝幻魔大戦〟を育てる力に欠けていたと認めざるを得ないようだ。〝幻魔星雲〟のエネルギー投射をもう一つ受けきれなかったわけである。
今なら十全だというのでは決してないが、多少は経験も積み、目も少しは見えるようになったので、再挑戦の機が熟したということなのであろうか。
ひょっとしたら、宇宙意識〝フロイ〟が実在しており、私にGO! のサインを出したのかもしれない。白状すると実はそんな気がしてならないのである。
してみると〝幻魔〟も実在するってわけかなあ?
だいたい私みたいな自他ともに許す大遅筆家が、わずか一か月間で七百枚も書いたなんて、恐ろしく面妖だと思いませんか? これはヘタをすると、私の一年分の小説産出量なのだから。
平井和正
本書中には「気違い」という病気を差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
渋谷駅前の雑踏を歩く東丈は、学生服姿でもありまったく目立たない。中学生のように小柄で平凡な少年に見える。
しかし、その黒瞳の輝きは、視線を止めた者に小柄な少年が並みはずれた迫力の持主であることを知らせるものであった。黒々とした瞳は光を吸収し、何百倍にも増幅して送り出してくるようだ。
丈は見る者をはっと瞠目させ、気圧された感じを与える雰囲気を持っていた。しかし、漫然と見過す、節穴のように瞳孔の拡散した目には、その平凡ならざる印象は映じてこない。むしろ、丈の連れである高校生の美少女たちに目を惹きつけられるだろう。
どういうわけか、最初に丈に近づいて帰依者となり、側近となった少女たちはいずれも人目に立つほどの美少女である。あるいは丈の精神波を傍で受けているうちに、美少女に脱皮してしまったのかもしれない。いずれも顔色は新鮮な花のようであり、目が明るく活きている。繁華街に集まる少女たちが、顔色悪く、どろんと死魚のような腐った目をしているのとは対称的であった。
目立たないようだが、丈には、ある種な粗暴性格者の若者たちが電流を通じられたように触発させられるものがある。そうした人間にとり、丈は眩しいほど刺激的なのだ。
丈には圧倒的な気力がある。時としてその高圧の〝力〟が、黒い瞳にみなぎりあふれてくることがある。それが無意識のうちに相手を挑発することにもなりかねないのである。
渋谷駅の構内の雑踏の中で、同級生の井沢郁江をつれた丈は、渋谷は初めてという相手と待ち合わせていた。
二人とも小柄だが、郁江はやたらに愛くるしくて極端に目立つタイプである。とくに私服を着ている時は、男どものちょっかいが多くて新宿や渋谷のような盛り場は気詰りだという美少女であった。
駅構内はひどく埃っぽく異臭が漂い、絶え間ない喧騒で充満していた。あらゆる年齢層に属する男たちが、郁江の可愛い顔にねっとりした視線を投げて通る。十代から七十歳を越えた年寄りに至るまで、その意味するところは同一であった。
もし、郁江がテレパシストだったら、山猫のように逆毛を立てて瞋恚を発するだろう、と丈は考えていた。世の男たちが、女性の浄不浄を問わず、内心に秘めている貪婪と欲望は、正視に耐えがたいものがあるのだ。
もちろん、丈自身の裡にも、彼らと等質のどろどろした情念が存在する。だからこそ、相手の目付を見ただけで、その想念の内容までわかってしまうのだろう。丈の遠感は軽微なもので、ルナ王女のようなエックス線まがいの冷徹さではない。
しかし、もし連れが姉の三千子であって、その種の目付を向けられれば、唾を吐きかけたくなるであろう。それだけ三千子は丈にとり、神聖不可侵のものであった。
男たちの淫猥な意識に心を向けていると、虫歯の腐臭のようなおぞましいものが、心に染みついてくるような気がする。ある種の人間の心は汚物溜である。物凄い腐臭をまきちらして通るさまを見ると、苦しい唾が頰の内側に湧いてくる。いわゆる虫唾が走るというものであろう。
心が生理的な拒否の想いでいっぱいになってしまうのだ。
丈はまだ若くて純粋であり、わかっているようでも、不浄の許容度はきわめて低かった。不浄な人間には堪えられない。忌わしい化物を叩き潰したいという衝動がむらむらと衝きあげてくる。丈には不可視の巨大な〝力〟の兵器庫が秘められているだけに、身が凍るような思いを味わわねばならなかった。
丈が、その凶暴な衝動を解放すれば、惨事は必至だからだ。
男たちは通りすがりに、意識の中で郁江の衣服を剝ぎとり、彼女の白桃のような肉体を指や口や陽物で克明に犯すのだ。丈にとって不快なのは、そうした淫猥な波動に汚染されて、丈自身、郁江を見る目が汚れているのに気づくからだった。
男たちと同じような目付で、彼女を見ているのではないかと気になった。丈自身、貪婪な欲望が欠如しているのではない。愛くるしい郁江に対して丈がなにも感じていないといえば、もちろん偽りである。
久保陽子や平山圭子たちと比べて、井沢郁江は明白に丈の欲望を目覚めさせるところがあった。
郁江自身が丈に対して、特に挑発的なわけではない。白桃のように瑞みずしい肉体を持ってはいるが、ごく無邪気である。丈に男性を意識している気配はない。ペットが主人にすり寄るような、意識しないインファントな媚態があるだけだ。しかし、それが丈を妙に刺激するのだった。
〝幻魔〟によって貪り喰らわれ、皮一枚の下におぞましい化物を秘めていた、かつての恋人沢川淳子の記憶はいまだに生々しく、丈は女性に対しておのずと忌避的な精神状態にあるのだが、正常な若い男性としての性的ポテンシャルまで失ってしまったわけではない。
頭でこそ、性的意識を克服すべきだと考えてはいるが、現実を強引に従わせることはできない。
いかに強大な超常能力を所有しているところで、己れの欲望までねじ伏せてしまうのは不可能である。自分で自分がどうにもならないのだ。
井沢郁江のとてつもなく可愛い顔を見ると、心が安定を失い、頼りなくざわめきだす。恋愛感情だとは思えない。しかし、性的欲望の対象であるだけではない。丈はいつも困惑し、努めて郁江と二人だけになる機会を避けるようにしていた。
今日も岩田邦子や久保陽子が参加できなくなり、気がつくと丈は郁江と二人きりで渋谷駅構内に取り残される破目になったのだった。
郁江は至極、無邪気である。時折、甘えるように媚態を示してすり寄ってくる。陽子や邦子がいれば、耳たぶを引っ張られてたしなめられるのだが、うるさ方がいないので今は伸びのびと振舞っている。
本人は意識的でなくても、傍の目というものがある。高校生男女がいちゃついていると見えるかもしれないのだ。退けようとは思うが、面と向って注意しにくかった。本人に底意がないだけになおさらである。
丈はさりげなく、郁江との間隔をあけ、保持しようとするのだが、彼女は気付かず、間を詰めてくる。郁江は丈を崇拝している。性的意識が稀薄だから、気易く丈に近寄ることが可能なのだ。
他の少女たちは遠慮もあるが、郁江ほど無邪気でないともいえるであろう。
「ちょっと待っててくれ。新聞を買ってくるから」
丈は一計を案じ、郁江をその場に残して売店を捜しに行った。郁江から離れるのが目的だった。GENKENオフィスに電話をかけ、身替りをよこしてもらおうという腹だった。郁江には悪いが、丈にも堪えがたいということがあるのだった。
オフィスには幸い人手が沢山あって、すぐに交替要員をよこすという返事だった。
「東先生が、わざわざ駅までお出迎えにいらしてるとは知りませんでした。そうまでなさらなくてもよろしかったのに......」
電話に出た女性が恐縮していた。最近オフィスの常連になっている保母の菊谷明子らしい。郁江などはいまだに丈を東君と呼んでいるが、近頃では先生呼ばわりされることも多い。オフィスの後援者である平山圭子の父親が先生と呼ぶのが影響している。
旧知の郁江らが「東君」と呼ぶと、むしろ奇異の目で見られるほどだ。しだいに非難がましい視線にさらされるようになったので、郁江以外は「先生」派に転向してしまった。郁江だけは平気でいまだに「東君」と呼んでいる。傍の目をあまり気にしないからであろう。
丈自身はどう呼ばれても気にしない。先生呼ばわりも一時は気にしたが、諦めてしまった。呼びたい人間たちといちいちいい争っている煩には堪えられない。平山圭子の父など先生をいくら止めさせようとしても無駄で、結局、「先生」が定着してしまったのだ。
「先生」と呼ばれる身ではないが、そう敬称したい人々がいるからには仕方がない。向うは揶揄が目的ではないからだ。
構内の売店で夕刊を買い、郁江の待つ場所へ戻って行こうとした丈は異変に気付いた。郁江のいたあたりにセーラー服の女高生が六、七人かたまっていて、郁江の姿が見えない。いなくなったのではなく小柄な彼女は、女高生の人垣によって隠されてしまったのである。
視力のいい丈は、すでに女高生たちが、郁江の知り合いなどでないことを見抜いていた。雰囲気がまるで違う。態度も服装も居汚く崩れている。清潔感が欠如しているのだ。
通りすがりの人間には、知り合いの女高生がたむろしていると見えるかもしれないし、彼女らも表面的にはそのように振舞っている。
一九六七年には、まだ〝スケバン〟という言葉は一般化されていない。しかし、内容は同じである。粗暴なタイプの非行少女グループであり、カミソリなどの凶器を所持している点もまったく変りない。風俗的に多少、〝洗練度〟が不足していたかもしれない。アフロ・スタイルやカーリー・ヘアの奇抜な髪型、足首まで届くぞろりとした制服のスカートはまだ一般に定着していない。しかし、彼女たちが男顔負けの凶暴さと陰湿さで彩られた非行少女グループであることは、なんら変りはなかったのである。
丈はあわてずに、女高生の集団に向って近づいて行った。郁江が非行少女グループに目をつけられるのは珍しくないようだ。負けん気で可愛すぎるのが、闘争的タイプの少女たちに反撥を呼ぶのであろう。
丈が接近するのを動物的勘で悟ったのか、非行少女たちは半円型に開き、丈を迎えた。ぎらぎらと動物的に底光りする七、八対の目が丈の全身に灼きついてきた。敵意と興味がないまぜになった目付だ。
丈の全身から発散している波動を、キャッチする感覚はまさに野獣的な鋭さであった。
取り囲まれていた郁江はさほど怯えてはいなかったが、さすがに丈を見て安堵感に顔がほぐれた。丈が帰ってくるのを知っていたから、簡単に謝まらず、突張っていたのであろう。
「東くーん......」
と、郁江が呼んだ。非行少女たちが嘲笑に顔を歪めながら、郁江の口真似をした。
「東くーん、どうしたのよう。遅いじゃないのさあ......」
喉に白い包帯を巻いた女高生が嘲り声でいい、非行少女たちが笑う。異常に大きな瞳をした少女であった。しかし瞳の色は暗く、底がないように虚無的で無表情だ。日本人放れした顔はいくらかフランス製の陶器の人形に似て、エキゾティックだ。髪はナチュラル・ウェーヴでもじゃもじゃにもつれている。いわゆる雀の巣スタイルだ。
丈は無言で、黒い瞳を頭株の少女に据え、きらめかせていた。虚無的な瞳の少女は圧迫感が不快だったのだろう、わずかに血の色を顔に刷いた。怒気が顔をこわばらせる。
「お兄さん、どういう風? まともにガンつけちゃってさ」
と、少女は低い恫喝的な声でいった。脅しには慣れているのだろうが、作り声だ。
「お兄さん、あんた、この突張った娘の連れなの?」
丈はやはり無言でうなずいた。郁江が非行少女たちの集団の中から駆けだしてきた。少女たちが急いで摑まえようと手や足を出したが、間に合わなかった。虚を突かれたというのかなにかしら妙にタイミングがはずれてしまい、力なく手が垂れさがる。
非行少女たちはきょとんとして、丈と郁江を見ていた。力いっぱい空振りしたあとの、間の悪い表情をしていた。
「東君、この人たち怖いのよ。いきなりあたしの鼻をそぎ落してやるっていうんですもの。びっくりしちゃった......そんなこといわれたの初めてだわ」
郁江が丈の腕につかまり、背後に身を隠すように廻りこみながら告げた。
「なんだか変よ、この人たち。理由もないのに、いきなりまっすぐやってきて取り囲むんだから......一度も顔見たことがないのよ」

非行少女たちは肉食獣の群れのように、丈と郁江を包囲した。男など怖れていないことを証明したがっていた。
頭株の少女の手には安全カミソリが把まれていた。虚ろな大きな瞳が虚無的に丈を見詰める。
「あんたの佳いお面がだいなしになってもいいのかい?」
彼女はしゃがれた声でいった。
「二目と見られなくなるよ。鼻が失くなった人間の顔って化物面だよ。せっかくいい男なのに気の毒だね」
「そんなこと、あんたにできっこないわ!」
と、向う気の強い郁江が叫んだ。
「あんた、この人をだれだと思ってるの? 今のうちにやめといた方がいいんじゃない? 天罰がくだるんだから!」
「天罰だって? どういうことさ?」
意表を衝かれたように虚ろな瞳の少女がいった。非行少女の配下たちがいっせいにざわめく。丈の正体をいい当てようとしてささやきあっているのだった。魅せられたように丈の横顔に見入っている少女もいる。
「知らないね、どこのなに様だか......」
頭株の少女が呟いた。この大都会には非行少年グループが無数に存在する。丈がどのグループにあてはまるのか、一応検討したのであろう。
「あんたたちにはわかんないだろうけど、彼は偉大な力を持っているのよ。いいこと、よく聞きなさい! 彼はこの乱れた世を救うべく天命を帯びて地上に下った方なのよ! あんたたちの頭では、なんのことかわからないだろうけど、彼の神聖な体に手を出してごらんなさい。たちまちその手は腐れ落ち、体は萎えしなびて、しわくちゃの年寄りになるのよ! それが天罰だわ!」
郁江は胸を張り、堂々としていった。
「あんたたちも早く改心するといいわ。さもないと取り返しのつかない悲しい目にあうかもしれないわよ!」
「彼、生神様かなにかなの?」
と、非行少女の一人がおずおずと尋ねた。丈に尋常ならざるものを見出して、不審を覚えていたのだろう。
「そうよ。彼は物凄い力を持ってるのよ」
と、郁江が大威張りでいう。
「人の心の中がみんなわかっちゃうし、手を触らないでもものを動かしたり、ジェット機より早く空を飛べるのよ。わかる?」
「うわあ、凄い。それじゃ、スーパーマンじゃん!?」
と、非行少女たちは嘆声をあげた。
「そうよ。自動車だって、機関車だって念力で持ち上げちゃうんだから!」
郁江は調子に乗り、その目で見たかのようにまくしたてた。
「念力って本当にあるんだってよ。うちのおばあちゃんがいってた。行者が掛声かけると大岩が割れたり大木が倒れたりするんだって......念力で呪われると、元気な人でも一晩でコロッと死んじゃうんだってよ」
非行少女たちは仲間の説明を聞き、すっかり闘志を失くして、畏敬の目で丈と郁江を見比べていた。
「彼は優しいいい人だから、他人を呪い殺したりしないわよ。だけど力はもっと凄いわ。本当にイエス・キリストみたいな人なんだから!」
「へえ......じゃ、本当に生神様じゃん? そういえば、彼、ちょっと変ってるもんね。なんかこう、目なんかキラキラして、スカッとした感じで、他の野郎と違ってるよね。生神様なんだったら、神々しくてさ、彼なんて呼んじゃいけないのかもね」
「なんだか、力が抜けちゃって、変だなあって思ってたのよ。ファイトないのよね」
「あんた、ちょっといい男だとすぐテレンとなってヨダレこぼすじゃん」
非行少女たちは口々にいった。もはや敵意を失ってしまったようであった。
その間、頭株の非行少女は虚無的な瞳を瞬きもさせずに丈の顔に据えていた。獣性というよりは、妙に虚ろで危険な雰囲気を持った少女であった。
「そうすると、あんた、イエス・キリストみたいな偉大な生神様で、死にかけた病人も治せるっていうのかい?」
と、彼女は一人だけトーンの異る暗い掠れ声で尋ねた。
「彼にはなんだってできるわよ」
郁江が熱っぽくいった。
「あんたたちも一度彼の講演を聞きにくるといいわ」
「へえ......講演っていうと、講堂なんかに人をいっぱい集めて喋る、あれ?」
「当り前じゃん。でも、面白そうだね......彼が本当に喋るんなら、聞きにいってもいいわ」
「彼、名前なんていうの?」
と、非行少女たちは大いに関心を示した。
「ちょっと待ってね。講演会のビラ持ってるから、今あげる」
郁江は紙袋から取り出したパンフレットを配り、非行少女たちはいっせいに手を出して奪いあった。郁江は才能豊かな宣伝マンの素質を発揮していた。
「へえ、そうかい......あんた、新興宗教の教祖なのかい......」
一人パンフレットに手を出すことなく、頭株の非行少女がぽつりといった。
「あんた、本当に病人を治せるのかい?」
丈はただ無言で見返していた。その瞳の輝きに気圧されたように、相手は虚ろな瞳をそらした。
「あんたを今度訪ねてくよ......」
と、彼女はいった。
「この突張った娘がいったように、本当に力があるのかどうか試してあげるよ、お兄さん。でも、もし噓だったら、ただじゃすまさない......あんたの顔はきれいさっぱり失くなっちまうからね。それだけははっきりいっとくよ」
少女の指の間から手品のように安全カミソリの刃が消え失せていた。
「いつでも来るといい」
と、丈は初めて口を開いた。
「僕は新興宗教の教祖じゃないし、生神様でもない。連れの女の子は誇張して話をしたんだ......しかし、君が僕の話を聞きたいというのなら、いつでも会う。もしよかったら、これからオフィスにいっしょに来てもいい。いろいろ話をしよう」
爽やかな声だった。瞳がキラキラと宝石さながらにきらめく。
「やめとくよ、今日は......」
頭株の非行少女は虚ろな瞳で呟いた。
「だけど、必ず逢いに行くからね......あんたがインチキでニセモノだったら、償いはきっとしてもらうよ。わかったね、お兄さん」
「君の名前は?」
相手は無表情な笑いを丈に向け、手下たちに合図をした。丈に好奇の目を投げていた非行少女たちはたちまち流れるように去ってしまった。たいした統率力である。
「ああ、怖かった......」
と、郁江がふくらんだ胸を撫でおろしながらいった。
「東君がいっしょだからって、高をくくってたけど、ひやひやしちゃった。だって、あの頭領のお姐さん、とっても怖い目をしてるんだもの。カミソリの刃を二枚重ねて持ってたし、もしかしたら、やられるかなって......ああいう娘って本気でやるからおっかないのよ。相手が男でもメじゃないんだから。東君、それを知らないんじゃないかと思って......」
「もちろん本気だってことはわかってたよ。ああいうタイプはいい加減じゃなくて、ひたむきなんだ。君も気をつけた方がいいな。あの娘は君を狙ってたんだ」
丈は右の掌を開いてみせた。安全カミソリの刃が鋭利な光を弾き返した。郁江の目がまるく瞠かれる。
「ど、どうしたの、東君!? それ、あの娘が持ってたんじゃなかったの?」
驚きで声がうわずった。丈はにっこりして拳を握りしめた。もう一度開くと、もはやカミソリの刃はあとかたもなく消失していた。
「凄い! まるで手品みたい! ね、東君、どうやったの!? 教えて......」
いいかけて、郁江ははっとし、真円になった眸で丈を凝視した。
「うわあ......あたし初めて、東君が超能力を使うのを見たの」
「ただの手品さ」
といって、丈は笑った。
「だれにもいうんじゃないよ、郁ちゃん。東丈は奇術師だって評判が立つからな。超能力というのは、小さなことで使うべきもんじゃないんだよ。どうせやるなら、でっかいことをなされ、さ」
「あたし、見ちゃった!? みんな羨しがるなあ、きっと」
と、郁江が子供っぽくいう。
「そんなことより、お迎えが来たよ」
と、丈がいった。
「先生!」
と、呼びながら数人の男女が小走りにやってくる。オフィスから交替のためにやってきたメンバーである。いずれも若いが高校生ではない。青林学園文芸部から脱け出した〝GENKEN〟は、成人を含めた大学生ら若者たちが主体になっている。丈は、高校生会員の活動を制限したのだ。学業と〝GENKEN〟活動を両立させるのはたやすいことではない。従って高校生会員は休日以外、渋谷のオフィスに参加することは許されていなかった。
丈たちより年上の会員たちは、礼儀正しかった。年下の丈をごく自然に先生と敬称し、畏敬の目で見ている。
「どうも申しわけありません。先生みずから待ち合わせで立ちん棒なんかさせてしまって......」
メガネをかけたひ弱そうな青年が恐縮を表わした。大学二年の内村だ。内村はもっとも熱心にオフィスに詰めてはボランティアを務めている。
「もっと早くお電話下されば、わたしたちがお迎えに出ましたのに」
と、先程電話口に出た菊谷明子が眩しげな目で丈を見ながらいった。子供のように小柄な女性である。手足も細く弱々しく、これで保母が務まるのかと心配になるほどだ。もう一人の連れの金沢という青年も背は高いが、今にも折れそうに体は細身だ。
なぜか〝GENKEN〟に集まるのは、腺病質で脆弱なタイプの若者が目立つようだ。主宰の東丈にしたところで、引きしまってはいるが瘦せぎすで体は小さい。なぜか超常能力に関心を持つ者は、スポーツマンで強健な大男とおよそ正反対の連中ばかりだ。身体的な劣等感を超能力で補償しようという意識が働くのかもしれない。
「今、お話しになっていた女の子たちはなんでしたの?」
と、菊谷明子が尋ねた。すばらしくいい眼の持主なのだろう。他の二人の青年はなにも気がつかなかったようであった。
「立話をしてたんですよ。そのうち遊びに来るかもしれない......」
丈は、勢いこんで話しだそうとする郁江を手で制していった。郁江は理由がわからず不満げであった。乱暴な非行少女たちが丈の前では噓のようにおとなしくなり、引上げていった事実をなぜ喋ってはいけないのかと不思議に思ったのであろう。
「なにか、柄の悪い女子高校生グループだったみたいですわね」
菊谷明子はたいへん感の鋭い女性で、わずかの間に人を見るすべに長けているようであった。
「なにか、先生が因縁でもつけられているのじゃないかとどきんとしたくらいですわ」
「これからはいろいろな人たちがやって来ますよ」
丈は質問をそらした。郁江は喋りたくて仕方がないのだが、口を封じられて残念そうな顔をしていた。
「ああ、やっと見えたようだ」
と、丈がいった。国電の改札口を、平塚の新しい会員である年配の紳士が出てきた。丈たちを見つけ、恐縮の態で頭を下げる。まさか丈自身が出迎えるとは思わなかったのであろう。
丈はみずから特別扱いを要求したりは決してしないが、会員からすると、普通の会員なみに主宰者の丈が振舞うことは意表を衝かれることでもあり、とんでもないことだと思うのであろう。
丈がいかにその傾向を除去しようと努めても、会員たちが気持の上で丈を〝教祖〟扱いし、担ぎあげてしまうことは、避けがたいことであった。
後援者の平山圭吾もそうだが、丈の父親よりも年かさの会員が、主宰の丈を「先生」と呼ぶ。全ての会員たちが右に倣えすることは止められなかった。例外的に郁江のような気軽なタイプが「君づけ」で呼ぶだけだ。
平塚の会員の、高級服を着た堂々たる紳士が子供のような年齢の丈に対し、恐縮しきって叩頭している図は、通りすがりの群衆の注目を浴びずにはおかなかった。
「先生みずから出迎えていただくなんて、めっそうもないことで......」
平塚から来た年配の紳士は、石丸といい、電機メーカーの経営者である。この年齢層の会員はたいてい宗教遍歴があり、必要以上にへりくだり、丈を生神様の教祖扱いにしたりする傾向がある。〝教祖〟様を待遇するにはそうせねばならぬという固定観念でもあるのかもしれない。後援者の平山もその性向が顕著である。この種の人々は、必要もないのに巨額の私財を〝奉納〟しようとする衝動に駆られやすい。おそらく富裕で資力があるだけでなく、罪滅ぼしのようななんらかの理由があるのかもしれなかった。
こうした献金を、最初丈は全て辞退しようとしていたが、組織が育ってくるにつれて、そうもいっていられなくなった。わずかな会費だけでは活動も思うにまかせないからだ。平山や石丸のような篤志家の援助は不可欠のようであった。
2
渋谷の道玄坂を登り、左に折れて行くと真新しい煉瓦を貼ったきれいな八階建てのビルがある。地下にはしゃれたレストラン、料理屋も入居していて、古い雑居ビルのせせこましさ貧乏たらしさとは縁がない。
ビルのオーナーは平山圭吾で、七階のフロアーを全面的に〝GENKEN〟に貸与してくれたのである。たいへんな恩恵というべきであった。平山の東丈への打ちこみかたが知れるというものだった。
七階の窓からは渋谷の低部が一望におさめられる。渋谷は都心に近いターミナルとしては再開発が遅れており、西武資本もまだ入る前で、高層ビルは少く、かなり貧寒な眺望であった。
オフィスには常勤の事務員が二人いる。両名とも会員でボランティアだが、今は給料が出るようになったらしい。丈は財政面のことはよく知らない。知らないといってすむことではないかもしれないが、多忙すぎるのである。丈は高校生であり、学業を放棄するわけにはいかないから、当然〝GENKEN〟の活動は制約を受ける。その短い時間のうちに原稿を書いたり、会員と話をしたり、幹部会議を指導したり、無数の雑用が詰めこまれている。出版局も作り、月報を刊行するので、その編集会議も丈の肩にかかってくる。久保陽子や平山圭子が編集を手伝っているが、筆の立つ人材はまだ会員には数少い。
オフィスに詰めている会員は日中は三、四人だが、夕刻からがぜん増えて四、五十名が講演会などイベントの準備に取り組んでいる。日曜、祭日はとくに人が増える。ボランティアの活動家だけを受け容れても、かなり広い七階のフロアーは満員になってくる。
いずれはもっと広いスペースを求めて転居することになりそうだ。現状でもボランティア志望者の多くは、本部詣りを制限されている。東京各地に支部造りは進行中だし、平塚の会員石丸のように篤志家のいる地方はすでに地方支部の核が出来つつある。
後援者の平山などは、活況を呈す〝GENKEN〟に至極満悦であり、急速に組織を拡大させるべきだと丈を説いている。
「〝GENKEN〟の体裁を整えて、宗教法人認可を申請しませんか、先生」
と、平山はいっている。宗教法人として〝GENKEN〟が登録されると、収入は全て無税になるというのである。寺社が敷地を利用して駐車場を作ったり、貸ビルや幼稚園を造るのに精を出すのは、宗教法人の恩恵を生かして金もうけに励むためだという。〝坊主丸もうけ〟というのはそのことだという。話を聞くほどに丈は呆然とした。
法を説いて人を救済すべき宗教は、奇怪な税制による恩恵をフルに利用すべく、ゴルフ場経営から金貸しに至るまで、厖大な信徒の奉納金をありとあらゆる金もうけに注ぎこんでいるということである。
そんなものは、もはや宗教でもなんでもないだろう、と丈は思った。信徒がこの救いがたい事実を知って平気でいるならば、マルクスがいった通り宗教は麻薬だ。信徒もまた、教団の組織拡大欲によって踊らされ、みずからも権力欲により脳を狂わされているのだ。
〝GENKEN〟の年かさの会員は、宗教遍歴の経験者が多く、かつて所属して知っている教団の内幕を暴露して、丈たち若い会員を驚愕させた。
既成の宗教団体のほとんど全ては、根底的に腐っているのではないか、と丈は考えるようになっていた。
平山が、宗教法人にしようと提言するのは税金対策のためである。いいかえれば税金逃れだ。社団法人は認可の条件がきびしく、宗教法人は簡単だという理由である。
丈は話を聞けば聞くほど、既成宗教の乱脈さに対する怒りがつのってきた。宗教という美名に隠れての権力がらみの金とセックスの乱脈さは信じがたいものだった。名前を聞けば子供でも知っている大教団の幾つかは、教団幹部が組織を私し、私腹を肥やし、信徒の女性たちと性関係を結ぶ〝悪の花園〟だ。神仏などどこにも存在する余地はないのだ。
丈は時折、何百億円をかけて完成させたという巨大殿堂の類いを根こそぎ叩き潰してやりたいという誘惑に駆られることがあった。
自ら貧窮に陥り、家庭を破滅にさらしながら、信徒たちが上納した浄金を貪り、王侯貴族の奢侈を平然と享楽している吸血鬼のような教団幹部の頭上に、王宮を崩壊させてやったら......と本気で夢想したくなるのである。しかし、丈の場合、それは単なる夢想ではすまなくなるのだ。
丈は汗をかき、息を弾ませながら、誘惑の強い吸引力を振り切らねばならなかった。
もし、丈が恣意的な報復と断罪の誘惑に身をまかせれば、彼は検事と裁判官と処刑人を全て兼ねなければならなくなる。そんな権利は丈にはないし、彼の〝力〟は神を代行して処刑を行うためのものではないだろう。
丈は、〝GENKEN〟を宗教団体にする気は毛頭なくなった。丈がなそうと志しているのは、宗教とはなんの関りもない、少くとも既成宗教がなしている業とは一切無関係である。
もし〝GENKEN〟を税金対策という安易な理由で宗教法人化すれば、世間は〝GENKEN〟を新興宗教として扱い、それを避けることはできないであろう。
しかし、丈の考えは、平山圭吾の理解を超えているようであった。いわゆる世間智に富んだ大人からすれば、丈の考えは純粋すぎ、世間知らずの子供っぽい理想ととられがちだということがわかる。税金対策のためだと割りきるのが、大人の現実主義であった。
もっとも、平山にしてみれば、丈の考えている組織は宗教団体と変らないように見えるし、超能力者としての丈は、霊力の強い行者、祈禱師と大差ないのかもしれない。かつて通力を持つ行者を後援していたように、平山は丈を後押ししているとも考えられるのだ。
丈は平山にとりワクワクと興奮させられる刺激的な存在であり、それ以上のものではないのかもしれぬ。その証拠に彼は、丈が組織を発展させ、やがては大教団の実力ある開祖におさまることを期待しているようである。
平山が、丈やその組織を巨大化させることによって生じる利益を目的としているかどうかはなんともいえない。今のところは有望な、先行は大物としての丈に肩入れしているという段階であろう。具体的な見返りを期待するよりは、後援することにより、丈らが育つことを楽しむ境地にあるようであった。不動産会社の社長であり、他にも複数の企業を経営している平山は、一種の道楽として、財力を丈に注ぎこんでいると見られた。
もちろん、一人娘の圭子が丈を崇敬し、心酔しきっていることもある。いずれは圭子の女婿にと考えての上のことかもしれない。
丈は、アメリカ合州国でルナ王女たちのバックについているメジャー石油資本の大立者ミスタ・メインのことを思い浮べずにはいられなかった。平山もそうだが、ミスタ・メインも悪意のない人間だ。しかし、超能力者を後援する裏には多少なりとも、不透明なものが介在することは免れないようだった。
神信心をするのは、御利益という反対給付があるからなのか。もし、まったく神が己れの頼みを聞いてくれなければ、そんな神には用がないというのだろうか。
丈は、一種の擬似宗教として、〝GENKEN〟を捉え、接近してくる大人たちに、懐疑心を抱かずにはいられなかった。不透明で不純なものを感じてしまうのだ。後援を申し出る人々はしだいに増えているが、丈は平山以外には承諾を与えていなかった。
大人たちと較べて、若者たちには俗気が当然ながら少いようであった。純粋な気持でボランティア活動を志している者が多い。一生懸命にやっているのだが、見ているとどうも危っかしい。
丈が感じているように、身体的劣等感から超常能力に関心を持ったという若者が目立ちすぎるのだ。
丈に対しては巨大な超能者としての畏怖があるが、同じ会員同士間では、わだかまりや反目がかなり存在し、人間関係の難しさを丈に痛感させた。
特に高校文芸部〝GENKEN〟から来た旧会員は、明らかに優越感を抱いているのがわかる。新しい会員に対する態度でそれは明白である。
丈の親しい側近としてのエリート意識がまともに露出する。新会員は遠慮もするし、楽しからざる気分にもなる。あからさまに差別されては当然のことである。
旧会員では久保陽子など、さすがにそんなことはないが、他の会員には多少なりとも見られる傾向であった。特に井沢郁江などは、丈に敬称すらつけず、友人扱いしているというので、旧会員からも白眼視を受けている。
軋轢が生じないように、丈もしばしば注意をうながすのだが、効き目は薄いようであった。人間の好悪は、頭でいけないとわかっていても、どうにもならない難しさがあるのだ。
丈はできるだけ公平に振舞い、側近を権力者に仕立てないように務めていたが、平山圭子などは父親が後援者であるという背景もあり、特殊な待遇を受けるようになっていた。大人の会員が持ちあげてチヤホヤすれば、若い会員もそうせざるを得ない。不満が溜まれば陰湿な陰口がカビのように増殖することにもなる。
わずか数か月で、丈は組織運営の困難さを思い知らされた。もちろん、大人の目からすれば些細なことであり、どこでもありふれたことで、目くじらを立てるほどのものでもないということになる。
そんなつまらぬ些事に拘泥しなくても、組織は順調に拡大しつつある。必要なのは先行の拡がった組織をあずかる幹部を育成することだ、というのである。
丈は、そうした大人の意見に対し、ことごとく懐疑的であった。丈がこれほど懐疑的になるのは初めてのことであった。平山を初め、大人たちの考えが全ていかがわしく感じられるのだ。固定観念そのままであり、他の宗教団体で現にやっている因習をそっくり踏襲して、反省もなにもないと思える。
エリート階級を育成し、組織拡大を計ったところで、特権階級を産みだすだけであり、会員を差別し搾取する現在の教団となんら変りがないということになるのだ。
頭の硬化した大人はだめだ、と丈は悟ったが、さて若者たちは──となると、これまた頼りないのである。全員が、丈の一顰一笑を気にして、仲間と張り合い、内心は嫉妬と反目で敵視しあっている始末だ。
丈は贔屓と取られないように、特定の相手と必要以上の口をきかぬよう、そこまで気を遣わなければならなかった。
こんな組織がいくら大きくなったところで仕方がない、と丈は思う。高校文芸部分科会である〝GENKEN〟時代の方がまだよかった。新生の〝GENKEN〟が渋谷に正式にオフィスを構えたばかりで、ろくさま核もかたまっていないというのに、早くもこの有様なのである。
〝スーパー・ブラック〟のソニー・リンクスが以前指摘したように、組織を束ねるボスが肝心だ。自分にはボスの資格がないのかもしれない、と丈は思う。民主的に談し合いのルールによって、組織がまとまって行くなんてことはありえないのではないだろうか。
丈は学級委員ではないのである。〝GENKEN〟は生成発展する組織でなければならない。強力な指導性を必要とするはずなのだ。強力な独裁制を敷くことも必要なのかもしれない、と丈はひそかに思っていた。
会員の多くは、超常現象や〝奇蹟〟に関心を持つがゆえに、丈の下に集まってきていることは否めない。はっきりいえば、丈の強大な超能力にのみ関心があるのだ。丈の説く〝愛と友情の宇宙的連帯〟は彼らにとってつけ足りであるのかもしれなかった。もちろん、例外はあるが、旧会員の井沢郁江や平山圭子にしたところで、丈に対してどこに魅力を見出しているかといえば、怪しいものである。丈の講演は、会員たちに大きな感銘を与えたが、意地悪いいい方をすれば、それもその場の雰囲気に陶酔しただけかもしれないのだ。
丈は、組織が形を成してくるにつれて、思い悩むことが増えてきた。このまま組織を拡大すべきではないという気が強くする。
しかし、現実に〝GENKEN〟を訪れる人々は増加し、会員数は着実に増している。組織自体が命を持ち、意志を備えたように動き始めているのだった。
このままでは、いずれ丈の手に負えなくなってしまうのではないかという予感があった。今のうちに軌道修正を施さなければ、丈の最初の意図とはおよそかけはなれた代物に化けてしまうだろう......
エレベーターで七階に降りると、真正面に資料室の小部屋があった。丈が真先に設立を実行したものだ。
実情はスクラップ室である。ボランティアの資料整理係が、ハサミとノリで、新聞、雑誌類から切り抜いた記事をスクラップ・ブックに分類整理している。度の強いメガネをかけた中年女性とそれを手伝っている学生たちである。
丈は、オフィスに顔を出すと、必ず真先に資料室のドアを開ける。丈の関心が強いので、資料室はいつもだれかが詰めている。現金なものだ。いかにも文献好きといった学者タイプのメガネの学生が、同じく近視の中年女性を手伝っていることが多い。超常現象研究家のタイプだ。可愛い女の子と会えるのが楽しみで通ってくるような連中とは肌合が異っている。
「いつもご苦労様です」

という丈の声に、一同が礼を返す。丈が姿を現わすと、とたんにその場の空気に緊張感がみなぎる。それはどのセクションもそうだが、中には丈が姿を見せなければ、お茶菓子をつまんでお喋りばかりということもあるようだ。若者が多いので、雰囲気は楽しげだが、学生サークルと大差ないのが、丈にとっては問題だ。
「なにか変ったニュースはありませんか?」
と、丈が椅子の一つに座りこんで質問を発する。中年女性が丈にお茶を淹れようと腰をあげるのを、手で制する。
丈のお決まりの質問である。そこで資料整理係は、これはと思う切り抜きを丈のお目にかける。
超常現象関係の記事は、最近目立って増加の傾向を辿っているのがはっきりしている。
「東京の下町に砂漠ができたというのがあります」
と、超常現象研究家の大学生がしかつめらしく、早口でいった。
「砂漠?」
「ええ。もっとも五平方メートルの子供の砂場みたいなものですけど。実際に子供が遊んでいるようです」
「だれかが砂を捨てたというんじゃなくて?」
「はい。勝手に砂が湧いてくるらしいんです......初めはもっと小さかったようで、この三か月の間にずいぶん成長したそうです。警察では何者かが砂を不法投棄したとみなしてますが、付近住民はそうじゃなくて、砂地が自分で成長して行くんだと主張しています。両者のいい分は平行線を辿り、一方、砂漠は確実に毎夜拡大しつつあるそうです」
「それが本当の東京砂漠だな」
と、丈はいった。
「しかし、成長する砂漠って、どんどん拡がって行ったらどんなことになるんだろう? 東京中が砂だらけになるのかな?」
「でも、拡がるといっても、実際はたいしたことはないようですね。毎日計っているというのでもないようだし......」
「時間があったら、現場を直接見に行きたいな。所番地をメモしておいてくれませんか?」
「わかりました......最近ネズミが凶暴化しているという記事が載っています。赤ん坊や幼児、家畜の被害が急速に増加しているということです」
「そういえば、前にも、東京のネズミが横暴になったという記事があったな」
「はい。ネズミ害の記事が激増してます。特に東京では犬や猫までやられています」
メガネの学生は生真面目にいった。
「犬猫がネズミに咬まれるなんて、話が逆だ......」
丈は眉根を寄せながらいった。姉の三千子がなにかネズミのことをこぼしていたような気がする。やはり、ネズミが非常に態度が大きくなり、乱暴になったといわなかったろうか。
「外電ですけど、アメリカで大きな超常現象研究機関が設立されました」
と、中年女性の秋津女史が意外に可愛い声でいった。野暮な黒縁のメガネでずいぶん損をしている女性である。
「メイン財団から三千万ドルの基金が提供されて大がかりに研究が進められるそうです。超能力者の検定までやるようです。やっぱりアメリカって進んでるんですね」
羨望をこめていった。たしかにメジャー石油資本の大立者ミスタ・メインのやることはケタ違いだ。日本では超能力などといっても、だれもが眉唾と思いこんでいるし、公的な研究機関など絶無だ。逆にいえばしかし、〝GENKEN〟が設立されただけでも、大幅な進歩といえるかもしれない。
「先生も、この超能力者検定をお受けになってみてはいかがでしょうか?」
と、秋津女史がいった。
「アメリカ最大の権威ある研究機関からお墨付をもらえば、日本でも先生を見る目がぐっと大変化するんじゃないでしょうか? なにしろアメリカっていうと、日本では箔がつくお国柄ですものね」
部屋に居合せた者がいっせいに同意の声をあげた。
「そうよ。東君、アメリカへ行ってらっしゃいよ。東君なら世界一の大超能力者として公認されると思うわ!」
と、郁江が勢いこんでいった。
「日本は逆輸入でないと、自国の優れた人材をなかなか認めませんもの」
と、秋津女史が得意げに呟いた。
「先生がアメリカで高い評価を受けられたら、日本でも放っておくわけには行きませんでしょう?」
丈は苦笑した。メイン財団のミスタ・メインならよく知っている、と口まで出かけたが黙っていた。最近は雑談であっても、不用意な発言はしないように心がけている。窮屈な自己規制だが、やむを得なかった。〝先生がこういわれた〟という噂は恐ろしいスピードで伝搬される。その間にどんな尾ヒレがつくかわからない。
マスコミ関係が、そうした風聞を聞きつけて取材申し込みが日を追うにつれ増えている。すでに数誌が丈のことを記事にしている。小さい記事だが、こうしたことは俗耳に入りやすい。
〝美少年の高校生教祖?〟というイメージをマスコミは無責任に使いたがる。丈はインタヴューの申し入れを受けていないが、向うが勝手に取材して記事にすることは止められなかった。
マスコミ関係からの問合せには特定の分別ある会員しか受け答えしないようになっている。半可通の新会員がうっかり電話口に出て、いい加減な返事をしないように、その点は徹底させている。
しかし、会員たちは、丈がマスコミの取材をかわしていることを不審に思っているようであった。
マスコミで名前が売れれば、〝GENKEN〟も有名になる。〝GENKEN〟は発展を重ねて大組織になり、大きな発言力を持つようになる......会員たちはその程度の認識しか持ち合わせていない。
東丈は巨大な超能力、素晴らしい魅力の持主であり、稀に見るような美少年である。大スターになる資格は充分であるし、マスコミと手を握れば、あっという間に超大スターとして人に知られる存在になれる。彼らはそう確信し、なぜ丈がそうしないのか不思議がっていた。
新聞雑誌からインタヴューを要請され、TVからは出演依頼があるというのに、それらをことごとく蹴ってしまうのが不思議でならないのである。
もちろん、丈には丈の考えがあるのだろうと思う。平凡な登場の仕方では、彼らの主宰はあきたりないのかもしれない。あっと度肝を抜く、彗星のようなデヴューを丈はひそかに考えているのかもしれない。彼らはいつもそのように語り合っているのだった。
だから、秋津女史のアイデアがみんなの心を新鮮なショックをもって捉えたのは当然の成行だったのである。
しかし、丈は微笑するだけで、なにもいわなかった。皆が考えているように、丈は有名になろうとはまったく考えていない。有名人となり、組織が巨大化したところで、現在抱えている問題が不治の病根になるだけだとわかっている。
けれども、丈の考えを理解しうる人間は、〝GENKEN〟には一人もいなかった。久保陽子ですら本心から丈のいうことをわかっているかどうか疑わしい。ただ陽子にとって、丈の言葉は絶対であり、一も二もない。そのまま受け容れはするが、それを理解したと呼ぶことはできないだろう。まして、批判をこめて理解するというところまで、だれ一人到達していない。大人たち──たとえば平山圭吾などは丈の〝力〟には心酔するものの、世間知らずで心許ない、と丈を見ていることは確かである。
もちろん、彼らが丈を誤解するにはそれなりの素地がある。丈はルナ姫をリーダーとする組織がメイン財団のバックを得て活動していることを人々に告げていなかった。それを知れば彼らの態度も変ったであろう。
そして、丈がなぜルナ姫たちの有力な超能力集団に参加しないのかと疑ったに違いない。あるいは丈が、ルナ姫らに反撥し、傘下に入るのを潔しとせず、日本において別組織を造り、張り合おうとしていると解したかもしれない。
彼らがそう思うとしても、もっともであった。
丈はマスコミへの漏洩を防ぐという意味もあり、ルナ姫たちについては口外していなかった。なにもかも知っているのは、姉の東三千子ただ一人である。久保陽子はある程度知っているが、丈により厳重に口止めされている。あまりにもセンセーショナルに過ぎると丈が判断したからだった。マスコミに漏れれば、あらぬ空想妄想、デッチ上げのタネになる、と恐れたのだ。
丈の口から事実を知った江田四朗が、超能力エリートによる世界支配という被害妄想の虜になったのがいい例である。四朗はいまだにそれを丈攻撃に使用している。
もし、丈がマスコミ有名人として華々しくデヴューすれば、江田四朗の発言も必ずクローズ・アップされるだろう。
四朗の偏見と敵意に満ちた妄想を、面白おかしくでっちあげるマスコミが必ず登場してくる。丈には最初から見当がついてしまうのだった。
人々は、丈の慎重さが理解できないだろう。大人の平山などは必ずこういう。
──有名になったら、なんかかんか書かれるのはしょうがないですよ。こりゃ避けようがありませんよ、先生。いってみれば、有名税ですな。マスコミが悪口でもなんでも書くというのは、有名人である限り止めようがありませんからな。
平山の得々とした世間智の披露が耳に聞こえるようであった。
──なにも書かれなくなったら、かえってえらいことです。マスコミに忘れ去られた過去の人ということになりますからな......
ある意味で平山の言にも一理はある。しかし、〝敵〟にとっては、丈を攻撃するのにマスコミは使いやすい武器になるということを平山は知らない。四朗が丈を攻撃するのに使ったヒステリックな論理は、丈に対して平山らが考える以上の大きな被害を与えるであろう。
超能力とは、スケープ・ゴートに仕立てるのに格好の標的なのだ。それを不可解で、しかも危険な力──すなわち〝悪の力〟とする偏見はたやすく人々の心に広がるであろう。
政治的な勢力が利用にかかることも充分に考えられる。己れの陣営に抱きこむこともありえようし、あるいは政治的危機から国民の目をそらすための仇役に仕立てあげられることもあるはずだ。
戦前、戦中と徹底的な弾圧を受けた大本教の例がある。
青林学園という一つの地域社会で、江田四朗が行なったヒステリックな反宣伝にかなりの生徒たちが乗ったというだけで、意図的な攻撃が超能力集団に対していかに効果的かわかる。丈はその点を充分に学んでいた。
総会で一敗地に塗れたとはいえ、江田四朗はますます憎悪を燃やし、丈の悪口をいい続けていた。反・東丈グループを江田四朗の下に糾合する動きすらあるようであった。
高校内に限っても、反対勢力は下火になるどころか、逆に勢力を伸ばしつつあるのだ。
理解を絶した存在に対し、人々は崇敬か憎悪のどちらかに分割されるようであった。
超能力を、危険な忌わしい力とする論理的な組立を、超能力を持たざるものが成すのは簡単である。
超能力を悪用すれば、いかなる恐ろしい状態を招来するか、おぞましい幻想を作りあげ、人々の心に恐怖を与えればよい。
江田四朗は、丈を〝悪魔の超能力者〟と大仰に名付けている。恐るべき惨事の犯人として名指しで告発している。アメリカで生じた黒人暴動数千の死者まで、丈の仕業と断じている。
これらの名誉棄損罪を構成するに足る誣告を信じ、受容する人間たちがいるのである。〝火のない所に煙は立たない〟ことを唯一の論拠として、彼らは丈を攻撃する。江田四朗の丈への憎悪が金切声でまきちらされるにつれて、集団ヒステリーが形成されて行くのである。
江田四朗はさながら〝魔女裁判官〟であった。彼が〝東丈は悪魔だ。人間にない力を持っている。全てが彼の有罪を証明している。なぜなら東丈は悪魔だからだ。悪魔は殺されなければならない〟と演説する。すると彼の信徒たちは唱和する。
〝東丈は悪魔だ! 悪魔は殺せ!〟
非人間的な力を持つ者は悪魔だ、という叫び声は、人々の感情に強い訴求力を持つようである。恐怖と憎悪はシャム双生児だ。
やがてマスコミ世界における〝江田四朗〟は必ず出現するだろう、と丈は読んでいた。オピニオン・リーダーとして登場し、丈を破滅させるべく戦いを挑んでくる闘士だ。
〝敵〟を知るためにも、丈は江田四朗の動きに注目していたのである。
現在の状況は、丈にとり全てが演習であった。かならず、問題は深化し、あるいは拡大して前途に立ち塞がってくるからだった。
それゆえ、丈はだれの理解を得られなくとも、暴走する愚だけは犯すまいと決心していた。現在の誤まった一歩が、将来回復不能のダメージと化して返ってくることがありえたからである。
組織拡大に、丈が徹底して反対の意向を表明するのもそのためであった。
3
丈を迎えて、夕刻六時から幹部会が開かれた。
幹部会といっても、丈が指名した人々が委員として出席するというだけのことである。形式が厳密に固まることを丈は阻んでいる。平山たちは定款をきちんと作り、それを守って〝GENKEN〟が発展することを期待しているようだ。組織を宗教法人として体裁を整え、認可を受けようという発言と無縁ではない。
平塚の会員石丸一郎を交えて、六名がこぢんまりとした会議室兼応接室におさまった。いずれも大人で、若者たちは含まれていない。しかし、丈は秘書として久保陽子を同席させることにしている。今夜は陽子が不在なので井沢郁江が代理だ。
「おかげさまで、〝GENKEN〟も大発展の基礎がしっかり固まりましたよ」
と、平山圭吾が上機嫌でいっている。最近の平山の打ち込み方は熱心を通り越したもので、彼の複数にわたる企業経営に支障を来すのではないかと思われるほどだ。
「この辺で、石丸先生の胆煎で、平塚に湘南支部を開設していただくのも、いいかもしれませんな」
中野で商店を経営している大林がいった。いかにも大店の旦那衆然としている。なぜ〝GENKEN〟に興味を持つのかよくわからないところがある。彼らに共通しているのは、以前、宗教に関ったことがあるという経歴だ。それで超能力や心霊現象に強い関心を持っているのであろう。
一様に彼らは霊的な現象が好きである。己れの霊的な体験談をすると止まらなくなる。しかし、丈はあまり霊的興味に走らないように彼らに釘を刺してあった。委員になっているのは、それでも正常な社会人と認められる人々であって、会員には超能力、霊力を自分でもつけたいという一念で来ている連中も少くない。そういう手合は狂信的であり、丈が強く忌避するところであった。子供が奇術を見たがるように〝会長先生〟の超能力を実見することを求めてやまなかったからだ。
委員は他に都庁職員の高村と高井戸で歯科医をやっている奥野だった。高村は博識で超常現象に詳しいだけでなく、一種のサイエンス・ディレッタントだ。奥野歯科医はいつもびっくりしたような目付をしていて、あまり喋らない無口な人である。歯科医としての腕はいいのか悪いのか、だれも知らない。外国製の高級オーディオ装置を持ちこむために家を改造したという話をするところを見ると、商売繁昌しているのであろう。
「おかげさまで、平塚の方でもだいぶん人が集まるようになりまして......」
と、実篤な風貌の石丸が汗を拭きながらいった。
「湘南支部ということで旗上げしても、なんとかやって行けるのではないかという見通しがつきまして」
「何人ぐらい集まりましたか?」

と、都庁の高村が質問する。丈と郁江を除いて全員が喫煙者なので、小さな会議室はひどく煙がこもってしまう。真冬なのに七階の窓を開けなければならない。もっとも人いきれと暖房で、窓を開けっ放しにしなければ、それほど冷えることはないが、丈や郁江にしてみればいい迷惑であった。
「ええ、三十人は集まると思います」
「三十人? それはたいしたものだ」
と、大旦那風の大林が大仰に感心する。
「私の仲間に好きなのが沢山おりましてね......もし会長先生に一度平塚の方にお越し願えるならば、たいへん活気づきますし、新会員も一挙に増えるのではないかと思いますが、いかがでございましょうか?」
「それはいい!」
と、大林が即座に賛成する。旦那衆の気分があって、いい顔をしたいのだろう。
「お忙しい会長先生には申しわけないが、初めての支部の旗上げでもあるし、せっかくこうして石丸先生が上京なさったことだし......」
委員はいつの間にか先生を互いにつけて呼びあう習慣が出来ていた。なにが先生だかよくわからないが、組織の実力者として自他ともに認めるという意味あいがあるのであろう。
「しかし、会長先生はまだ学業がおありの身で、それはちと問題があるかもしれない」
と、平山がいった。自分をさしおいて大林が賛成にまわったので、一言しておこうという気分らしい。
「しかし、平塚といえば、ほんの目と鼻の先ですよ、平山先生。ものの二時間とかからないし......日頃お忙しい会長先生もピクニックのつもりでお出かけになればよろしいのではないですか」
と、大林がいい張る。もちろん大スポンサーの平山には遠慮があるが、性格的に頑なな自己主張が目立つ旦那衆だ。
「しかしですよ。この調子で次々に支部が出来ていってごらんなさい。会長先生は、前例があるということになって、支部が新設されるたびに引っ張りだされることになってしまう。それはもちろん、支部会員は、会長先生が見えれば喜ぶに決まっているし、私も人情としては実現させてあげたい気持は山々だが、しかし、我々はなによりもまず会長先生ご自身のご意志を大切にしなきゃなりません」
平山圭吾は大スポンサーであり、丈の信任著しいという自信があるせいで、常にリーダーシップを取った。旦那衆の大林とそこはかとなく衝突するのは、互いに自己主張が強固だからであろう。
「しかし、これは前例とさせずに特例ということにすればいいじゃないですか? 一回だけというように徹底させておけば、慣例にはなりませんし、会長先生もご安心だし、石丸先生もわざわざ平塚から上京なさって顔も立つということになりませんか」
大林が執拗な性格を現わして頑張る。石丸のためを思っているのではなく、自分の面子のためだ。
丈はこうした大人たちに失望していた。馬齢を加えるという意味が最近よくわかる。人間的な英知が加わらねば、年齢などなんの意味もないということだ。人生の垢がいたずらに付着するだけで、本質的に幼稚な大人がどんなに多いことか。
丈はちらりと隣りに座っている郁江に目を投げた。郁江は無表情におし黙っている。感想を尋いてみれば、鼻の付根にシワを寄せて、──馬鹿みたい! というに違いないと丈は思った。それともなんの興味も持たず、ひたすら退屈しているのかもしれなかった。
自身、退屈を抑えきれず、時間潰しだと思わないでもない。しかし、全ては演習だ。組織がどんな代ものか、最初からじっくりと知るには絶好の機会であろう。そうとでも思わなければ、愚劣な応酬に耳を傾けていられるものではない。
いい大人が自分の利害や面子に拘泥して、どうでもいいことをえんえんとこねまわし、飽きる気配もないのだ。こんな時、丈はルナ王女のことを考え、小国トランシルヴァニアの王女を苦しめた因循姑息ぶりは、この比ではなかったに違いないと同情せずにはいられなかった。
「ひとつ質問があるんですが、よろしいですか......?」
と、都庁職員の高村が発言を求めた。どうでもいいようなことで発言し、自己の所在を顕示するという嫌味な性格がある男であった。
「たとえば、どこかに支部を造る場合ですが......会員のおさめる会費は支部で集めるわけですなっ、そして上納金という形で、本部の金庫に収まるわけでしょう? すると、その分配の比率など、どうなりましょうかな?」
まさにどうでもいい質問であった。黙っていては影が薄れるので、敢えて発言を求める。場を白けさせてもなんとも思わぬらしい。問題の本質から必ずはずれているので、討議に水をさすことになるのだが、本人はそれに気づいているのかどうかわからない。
「ま、それは会の定款なり会規なりで明確にすべき問題だと思いますがね」
と、平山が苦笑気味にいった。いつも高村の一言居士ぶりには混乱させられるのだ。
「ははあ、なるほど......」
高村は喉をくすぐられるような猫撫声でいった。
「すると、支部の問題もそうですな。定款も会規もはっきりしていないから、どうとでも決められるわけだ......ところで、自分も支部をやりたいから、まかせてもらえないかという希望者が現われた時、会としてはどんな条件で認可するわけですか? いや、これは石丸先生の場合ではありませんよ。石丸先生は地元の名士でもあるし、文句のつけようのない立派な方だとは重々承知しておりますが......一般論としてですね、今後申し出があった時、幹部会としてはどうするかということですな。やはり明瞭な会則が必要なんじゃありませんかね?」
高村の発言で、議論がいつも方向性を失うのだった。時には振出しに戻らねばならない時もある。さぞかし、勤め先の都庁では疎じられているのではないかと陰口がささやかれているほどだった。
「しかしですね、問題は会長先生に、支部の開所式にご光臨願えるかどうかということでして、そんな大仰なことではないんですがねえ」
と、石丸が汗を拭きながらいった。汗っかきの石丸は真冬でもハンカチを何枚もポケットに入れていた。
「そうはおっしゃいますが、会則はいずれにせよ必要ではないですか? 討議だけでもしておくべきだと思う」
と、高村が猫撫声でいう。
「まあ、会則はいずれきちんと作らなければならんが、今は石丸先生の問題を優先的に考えてあげたらどうかと私は思いますがね」
と、大旦那衆の商店主がいった。
「いや、しかし、高村先生のおっしゃる通り、会則のことも考えておかねばなりませんな」
今度は平山が高村のカバーにまわった。中野の商店主大林とは、どうもそりが合わぬようである。
「奥野先生はどうお考えですか?」
平山は無口な歯科医にも意見を吐かせようとした。
「いや、私はもう少し......その皆さんのご意見をおうかがいして......」
と、奥野歯科医が細長い活気のない顔を横に振りながらいった。覇気に欠けた人物だ。
いつ果てるともない論議の応酬が続きそうだった。
いきなり、半開きだった窓が激しい音をたてて閉まり、一同の尻を宙に浮かせた。
「なんだ......風か」
苦笑しながら、一同は腰を椅子に再び降ろした。郁江が横目で丈の顔色を窺っていた。丈が見返すと、急いで目をそらす。
「会長先生。いかがなものでしょうか......」
と、汗だくになって石丸が尋ねた。ようやく丈の存在が意識の表面に上ったらしい。
「いろいろ問題はあると思いますが、是非とも支部の開所式に錦上花をそえて頂けませんでしょうか? みなも欣喜雀躍です......」
会長である丈に直接交渉した方が、話が早いと気付いたのだろう。これだけ一生懸命やっているのだから、まさか悪い返事はしまいという驕りが仄見えていた。
「いや、石丸さん、それを先生に直接交渉というのはまずい」
さすがに平山がきっとなっていった。
「今後、だれもかれもが、会長先生に直接交渉ということになってしまうじゃないですか? それは控えて頂かなければ......」
「しかし、今回に限り、特例として......」
と、石丸がしぶとく始める。
窓が再び、激しい音を立てて弾けるように全開した。冷気がたちまちなだれこんでくる。一同は今度もまたぎょっとした表情になった。窓の外はすでに真暗になり、風が唸っている。
「もうまっくらですね」
と、丈は静かな声でいった。ひそめた怒りはだれにも感知できなかった。
「まるで、地球の未来のように暗い......皆さんはあまり感じておられないようですが、僕には焦眉の急です......もう時間がない、急がなければという強い灼けつくような気持がこみあげてきます。みなさんにとっては、時間はまだいくらでもあるように思えるかもしれませんが、それはわかりませんよ」
「申しわけありません、会長先生。どうもみっともない小田原評定をお目にかけましたようで」
と、平山が恐縮したようにいった。
「みなさんに、この機会にはっきり申し上げておきたいのですが、僕は会員も支部もなにも要りません」
丈は抑えた低い声音でいった。
「組織も要りません。一人でも二人でも、僕を本当に理解してついてきてくれる人がいれば、それで充分です。僕が〝幻魔大戦〟のことを語っているのは、冗談でも脅かしでもありません。どんなに会員が増え、組織が巨大化しても現実べったりで安穏に構えている人々ばかりなら、なんの意味もないからです」
一座は声もなかった。度肝を抜かれてしまったのだ。
「会長先生が、そんなにお腹立ちとも存じ上げず、みっともない我の張り合いばかりお目にかけまして、まことに申しわけありません......」
平山がおずおずと口を開いた。
「お腹立ちはまことにもっともかと存じますが、にわかに会を潰すとかお止めになるというような過激なことだけは......われわれも大反省いたしまして、悪いところは改めてまいりますから、ひとまずお怒りはおさめていただけませんでしょうか......」
「僕は、みなさんがなさることにほとんど口を出さず、客観視してきました。おかげさまでいい勉強をさせてもらいました」
と、丈は穏やかにいった。しかし、そのきっぱりした口調には、その場の全員が慄然とせずにはいられなかった。
「このまま〝GENKEN〟がどんなに巨大化したところで、それは空洞化、空疎化を招くだけでまったく無意味です。〝GENKEN〟にとって、真に必要な人々は反対に近寄らなくなってしまうでしょう。皆さんは僕が子供だということで、なにもわかるまいと高をくくり、大人の巧妙な処世術を教えてやろうとか、大人にまかしておけばよいとか、大きく構えておいでらしい。だが、僕には皆さん一人一人の思惑がはっきりわかっているのです。名指しでは申し上げないが、〝GENKEN〟を巨大化させて、それに伴う利権を狙っている方もおいでのようです。また会員の若い女性に不謹慎な誘惑をかけている人もいる。
私が何もわからない子供と思ったら大間違いですよ。そのような不純な動機と心で入会した人間が、どのように陰で立ち廻ろうとするか、私はじっくりと観察させてもらいました。心当りの方はすぐにこの場を去った方がよいでしょう。私はそのようなよこしまな人間を放置しておくつもりはありません!」
「会長先生!」
平山が愕然として叫んだ。
「どうかお許し下さい! まさかそのような忌わしいことがあろうとは夢にも思いませんでした! これはまったく私の手落ちでございます。誓いまして、ただちに会の浄化運動に取りかかりますので、是非とも解散だけは思い止まって頂きとうございます!」
丈の瞳はまるで黒い炎のように燃えあがっていた。その光のあまりの強さに、だれ一人直視すらできなかった。全員、顔を伏せ化石化したように動かなかった。石丸のみならずみなが汗をしたたらせていた。
暑いのだ。部屋の温度が異常に上昇していた。暖房装置が壊れたのではないかと思うほどの急激な上昇ぶりであった。しかも、窓が全開になり、真冬の寒冷が容赦なく流入しているにもかかわらず、火事のような熱暑が立ちこめてきていた。
「あ、東君!」
と、堪りかねて郁江が叫んだ。
「なんだか変よ! 東君ったら!」
郁江は丈の肩を揺った。彼女の顔にも玉の汗がみるみる噴きこぼれてくる。
「し、失礼!」
と、呻くようにいって商店主の大林が席を立ち、よろめくように部屋を立ち去る。都庁職員の高村も続けて後を追う。
「どうかしてる! この暑さは変だ! 部屋が燃えだしそうだ!」
石丸が滝の汗をしたたらせ、ふらふらと上体を揺りながら部屋を出て行く。無言で歯科医の奥野も立ち上り、小走りに去った。
後には平山と丈、郁江の三人だけが残った。すると、あっという間に室温が低下した。一瞬にして全身が燃えだすのではないかと思える熱気が消えてしまった。
入れかわりに、全開の窓から寒気が吹きこんでくる。
丈はゆっくり立ち上り、窓に近づいた。真白な息を吐いて窓際に立ち尽す。今頃になって丈の額から汗が条を引いた。
「奇蹟だ。なんだか知らないが、奇蹟だ......」
と、平山が呆然として呟いていた。
「どうしたの、東君......? とても寒いわ、だって窓が開けっ放しだもの」
丈の背後に近づいた郁江がいった。丈はゆっくり振り返ったが、彼女のいうことがわからないようだった。
「風邪引くわよ、東君。窓を閉めてもいい?」
少女は優しく尋いた。丈の受けた衝撃がわかっているように、その声はいたわりに満ちていた。
郁江は頰をそそけだたせて、窓を閉めた。掛金をしっかりとかける。
「先生......あの連中はやっぱり......」
と、平山がいいかけた。彼は呆けたような表情で座りこんでいた。
「あの人たちはもう帰ってこないかもしれませんね......僕としては追いだすつもりはなかったんですが。しかし、平山さん、ああいう人たちがどんどん増えて、会の幹部になって、切り廻すとしたら、そんな会は作ってもむだじゃないでしょうか? 会は利権追求の場になり、権力争いの場になります。若い女性を支配するのが目的となり、結局はなんのために組織を作ったか、わからなくなってしまいます。
平山さん。僕はそれをはっきり確認するためにしばらく発言をしないで会の変りようを観察してきたんです。会を大きくしたり、会員をいたずらに増やそうとするのは止めましょう。大きく育つ前にもう腐敗は始まってしまうんです」
丈の瞳から燃えるような強い輝きは消え失せていた。悲しそうなきれいな瞳だ、と郁江は思った。胸が熱くなってくる。彼は人々から認められるにつれて、ますます孤独になって行くようだ、と郁江は思っている。
彼の悩みはあまりにも大きく、深いものであるために、だれも分担し、分けあうことができないようだ。もし、自分ができたら、どんなにいいのに......
少女らしい思いがこみあげて、胸が焦げるように熱くなってしまうのだった。むろん、久保陽子を初め、邦子も圭子も、みんながそう思っているだろう。けれども、自分にしてあげられることが、ほんの少しでもあればいいのに、と郁江は願わずにいられないのだった。
「しかし、先生、あの中に若い女性が目当てで来てた奴がいるとおっしゃいましたが、まったくけしからん奴ですな!」
平山が人心地がついたのか、憤慨の声をあげていた。改めて腹が立ってきたのであろう。
「そういえば心当りがある。先生の学校の若い女の子たちを妙な目で見てるので、変だなと思ったんですが、先生がおっしゃるまではまさかと思っていました。とんでもない奴だ! 追い出してやる!」
「追い出さなくても、自分でやめて行きますよ。他にもかなりいるようですし、若い会員にも、それが目的のようになって来ている者が沢山います。どうするか、むずかしい問題です」
「そりゃあ、まあ、男と女がいれば、ふわっとなってくるのは人間だから、仕方がないといえば、そうなんですが......」
「若者のサークルじゃないので、楽しくわいわいやろうというのが目的の者たちには遠慮してもらおうと思っています」
「ごもっともです」
平山は額の汗を掌の付根で拭いた。
「平山さんはものわかりがよいというので、会員たちに人気があるようですが......」
「恐れ入ります......」
「しかし、オフィスでビールや酒を飲むような行為を黙認するのは、問題があるんじゃないでしょうか?」
丈がやんわりと釘を刺す。
「反省しております。会社で打上げパーティーをやったりする癖が出まして、つい......」
平山は汗をかいていた。
「オフィスに遊びにくるつもりの人々には、今後遠慮してもらいます。本当のボランティアだけに限って下さい」
「わかりました。そのことは必ず徹底させます」
「今度のミーティングでは、僕も強く話します。僕がきびしすぎるというので、反撥して辞める会員も多く出るでしょうが、組織には贅肉はいりません。本気でやろうとしている人たちだけ残ればいいと思っています」
「よくわかりました......」
平山はひたすら恐縮していた。丈のこれだけ毅然とした態度に初めて接したからだ。もちろん、異常な天才と信じ、子供扱いはしていないつもりだったが、いつしか人生経験が乏しいということで、軽視するようになっていた事実は覆いがたい。自分の娘の圭子より年下なのだ。つい、年長者らしく、己れの人生経験の豊かさにものをいわせる態度になってしまう。──なんのかんのいっても、まだやっと高校生の子供じゃないか......そうした不遜さが大人の会員の心に潜在していたのは確かであろう。
だが、そのとんでもない思い違いを、今夜の丈は断乎とした遣り口で排したのだった。
「もちろん、一生懸命やろうとしている会員たちもいます、僕はその人たちと力を合わせて行くつもりです。芯の腐った組織はいくら巨大化しても、害毒をもたらすだけですよ。〝GENKEN〟は小さくても構わない。なりは小さくても、大きな起爆力は持てるんです」
「よくわかりました、先生。私が考え違いをしておりました。いつの間にか会を大きくすることだけが目的にすり変っていたんですな。そのことに私の肩入れの面子がかかっているような気がしてしまって......きっと娘の圭子にも叱られますな。そういえば、圭子もいっておりました。最近の会員の人たち、感じが悪いと......やっぱり、感じでわかるものなんですな」
「彼女のいう通りです。みんなが感じていることなんですよ。雰囲気が悪くなっているのは、だれにでもわかります。しかし、会の幹部が女性の体に変にさわりたがるとか、妙な真似をするということは、なかなかいいにくいことでしょう。陰にこもって組織全体の空気が荒んでくるんです。だから、今夜は手術をやりました。近いうちにまた次のをやるつもりですよ」
平山はぎょっとしたようであった。しかし、思い直して神妙に頭を下げる。お手やわらかに、と最初はいいたかったのであろう。
「先生のおっしゃる通りです。今のうちに腐ったリンゴは取り除いていった方がいいと私も思います。なんでも私におっしゃって下さい。いわれた通りにいたします」
「しかし、平山さん。こういう風紀の乱れは、大人のあなたがぴしっと釘を刺して下さるべきではないんですか? まず最初に大人がしっかりしていただかなければ、しめしがつきませんよ。大人はだめだといわれてしまうかもしれない......」
「いや、まったくです。大人のだらしなさには赤面の至りですよ。もちろん、私も含めての話ですが......」
平山は照れ隠しに大声をあげて笑った。
4
オフィスでの丈の仕事はいくらもあった。出版部では、月刊誌の編集会議に顔を出さなければならない。記事原稿に目を通し、掲載写真をセレクトし、レイアウトにまで注文を出す。
むろん、主幹である丈は自らも原稿を書かざるをえない。今のところは、丈の個人誌にも等しかった。まともな文章を書ける編集委員が少いのだ。丈はその添削までを背負いこまなければならなかった。もちろん、文章書きは好きでもあるので、さほど苦にはならない。
休日には高校文芸部の連中が手伝ってくれるが、それだけでは手が足りないのだ。丈は機関誌のみならず、PR誌まで構想しているので、有能な出版部員が幾人も必要だった。会員は多くても、ものの役に立つボランティアはいくらもいないのだ。
丈は〝幻魔大戦〟について、本を著す気だったが、遅々としてはかどらなかった。多忙すぎて、思うように資料を集め、読んでいる時間がない。くだらぬ雑用に徹底的に手を取られてしまうのだ。
会員が電話を長々とかけてくることもあるし、直接オフィスや自宅に押しかけて居座ることもある。丈を教祖的に扱い、病気を治してほしいと訪ねてくる病者もいた。中には完全に気の触れている者もいて、大神霊に感応して、〝幻魔退散〟の神示を受けたと称し、丈と霊力比べを競おうという手合が少くなかった。
そういう馬鹿者に限って、追い払うのに手を焼くのだった。野放しになっている異常者はいくらも巷にあふれているのだ。
そうした類いがオフィスに押しかけ、頑張っているのを、丈自ら相手をしなければならなかった。若い女の子など怯えきってしまうからだ。それどころか、大人の会員も逃げ腰になってしまう。相手はとにかく変質的で執拗だからだ。若い男子会員であれば、暴力沙汰にもなりかねない。
目にあまる場合は、躊躇なく警察に引き取ってもらうように、と指示を下さなければならなかった。もっとも始末に困るのが、こうした連中だった。中には異様な念の強さを示す厄介者もいたからだ。──念力で鳥を空中から落してみせる、とか、人間を金縛りにできる、といったように、爛々と狂気の双眼を光らせて喰ってかかってくるのだ。
オフィス責任者の平山でも手古ずってしまうことがある、まるで道場破りのように意気ごんで押しかけてくるからだ。
変質人間の相手を務めるのも、丈の仕事のうちだった。
そして、仕事はまだいくらもある。十二月末に予定された講演会の準備も、丈自ら指導しなければならなかった。要するにアマチュアばかりで、万事につけてその道のプロは一人もいない。
丈だとて、いちいちプロではありえないのだが、わけのわからぬ新会員たちを指揮する責任がある。いいつけられなければ、なんの仕事もできないし、まして自主的にきびきびとこなしていくなど夢物語という新会員たちがほとんどだ。
勢い青林学園高校旧〝GENKEN〟の機動力が目立ってしまうのだった。組織されていて、仕事の割り振りがうまく、手際がいいのだ。久保陽子が特に有能だということもあるのであろうが、ことごとく旧会員に牛耳られてしまい、劣等感に捉われ、陰にこもった反撥の空気が生じてくるのだった。
才能の優劣はもちろん存在するはずだが、それ以上にやる気を失くして陰湿な確執を生む土壌に問題があったのだ。
しかも、丈の一言で躁病的に浮かれたてる人間もいれば、意気沮喪してしまう者もいる。〝教祖様〟という意識が強いのかもしれないが、丈が直接指導する際に起こりやすい難点であった。
特に年長の、宗教遍歴のある会員は、宗教の垢がついていて、会には馴染まなかった。〝生神様〟扱いにし、両手を合わせて拝みだしたりすると、年若い会員たちとの間に、大きなギャップが生じてしまう。入会資格をきびしくすれば問題は起こらないが、〝愛と友情の連帯〟の〝GENKEN〟精神に違背することになる。
会の現状は、丈に心酔する若い会員と、奇蹟、霊的現象好きの大人の会員が混淆し、雑然とした雰囲気を作り出していた。
いずれにせよ、丈が直接動けば、一方を排除するものと受け取られやすかった。それゆえ、丈は慎重を期して情勢を読んでいたのである。
今夜の幹部会の丈の行動が、重要な一石であることは疑問の余地がなかった。黒い心の持主たちが浮き立つことは必至であった。
「最近、久保陽子が全然顔を出さないな」
と、丈が顔ぶれを見ながらいった。講演会準備委員のメンバーに入っているが、久保陽子は実質的に丈の右腕であり、その有能さはだれでも知っている。高校文芸部〝GENKEN〟の主催の講演会をみごとに成功させたのも陽子の功績である。
「彼女、風邪を引いたとかで、ずっと元気がありませんでした」
と、大学生の委員がいった。
「当分休養するので、出席できないと電話が確かありました」
「流感かな。しかし、陽子は学校には出て来てるんだろ?」
と、丈は傍らの井沢郁江に尋ねた。
「ええ。でも、やっぱり元気なかったみたい」
と、郁江が答える。
「だれか、陽子にお見舞いの電話をかけた者は?」
丈は委員の顔を見廻した。いずれも一様に首を横に振る。
「だれもいない?」
「あんた、あたしの所へ電話して陽子のこと尋いてきたじゃない」
と、郁江がぞんざいな口調で大学生のボランティアにいった。大学生は顔を赤くしていた。
「電話番号教えてあげたのに、どうして電話しなかったの?」
「時間がなかったもので......忙しくなっちゃって......」
「へえ、感心だなあと思ってたのに。なあんだ......」
郁江は気易い口調で喋っていた。相手が年上の大学生であることなど、気にもとめていないようである。
「せっかく褒めてとらそうと思っていたのに......」
「そりゃ、郁姫に電話する秀男君の口実じゃないのか」
と、年かさの委員がいった。三十ぐらいの会社員だ。この年輩なら、まだ若い会員と話ができる。四十、五十になると、丈は〝生神様〟扱いにされてしまうのだ。
「これ、やんごとなき身のわが姫君に、無礼であろうぞ......」
と、女子大生の委員がふざけた口調でまぜっかえす。郁江は〝姫〟とあだ名されているのだった。なにをいわれても気にしない気性、丈を〝東君〟呼ばわりする図太さのせいであろう。周囲の全てが〝先生〟に変っても、郁江だけは、〝東君〟と呼び続ける。生れが旧華族ではないかとだれかがいい、それ以来、郁姫とニックネームがついた。いわれてみると、郁江にはどことなく、姫君という趣きがあるようである。
おっとりしていて、そのくせ妙に図太いのだ。強気の姫君である。当てこすりのように、みなが姫と呼び始めても郁江は一向に動じなかった。
姫、と聞くと、丈は否応なしにもう一人の姫君を思いだす。こちらは正真正銘の姫君である。トランシルヴァニアのルナ王女だ。
王女からは依然としてなんの音沙汰もない。まるで丈のことを忘れ去ってしまったみたいだ。日本を訪ねて、姉の三千子に逢うという約束も反故になっている。
おそらくルナ王女のことだから、メイン社長のバックアップの下に、着々と組織造りを進めているだろう。丈のように不手際を重ねて、なおかつ小さな組織すら満足にまとめられぬということはあるまいと思えた。
ルナ王女は天才である。丈のように鈍重なところはひとかけらもない。丈と異り、ルナ王女は人の心が潜在意識まで読めるスーパーのテレパシストだ。まるで〝神の眼〟を持つようなものであろう。丈のように暗闇を手探りで遅々と進み、しかも方向の正しささえ把握しえぬような歯がゆさを味わうことはありえないであろう。
なぜ自分はこんな愚かしい真似をしているのかと何十回となく丈は懐疑をくり返し持った。ルナ王女が巨大な資金をバックに素晴らしい組織を造り上げているというのに、今更自分が手探りで這いまわるような真似をしなくてもよさそうなものである。
しかし、いつも解答はわかっているのだった。自分だけが無為に時を失うわけにはいかないからだ。自分に可能な限り、一瞬一瞬を充実させ、可能性を引き出していかなければならない。
全ては演習だ。その中から何か重要なことが摑めるはずだ。
丈を行動に押しやるのは、その気持以上になかった。ともすれば崩れ落ちそうな徒労感の中で、丈を支えるのは、残り時間が秒読みに入っているという切実感に他ならなかったのである。
久保陽子が風邪を口実に、オフィスに顔を出さなくなったというのは、丈にとって衝撃的であった。丈は陽子に絶対の信頼を置いていたからである。
高校文芸部〝GENKEN〟でも、陽子は彼の忠実な秘書を務めていたし、〝GENKEN〟が校外にオフィスを構えた後も、丈にとって陽子の重要性は変らぬ位置を持っていた。平山がオフィスの責任者となり、渉外担当になった現在は、高校生に課せられた制約もあって、従来通りというわけにはいかない。高校生がオフィスに顔出しできるのは、週に二日の活動日という限度が設けられている。
その制約のために、久保陽子が丈の秘書役を完全に務められなくなったのは事実であるが、丈がなぜ高校生に活動日を指定したか、その真意はわかっているはずだから、陽子が気落ちし、意欲を失ったというのはうなずけない。
また、陽子の才能は覆いがたいものがあり、彼女が欠席した準備委員会は明白に不活発化し、頼りなくなるのだ。大人であっても、陽子の発揮する行動力、機敏さ、渉外能力には及びもつかないものがあった。月末に予定された一般公開の講演会は、一人陽子が脱けただけで成功の不確かさを漂わせ始めていたのである。
要は責任感の問題であり、他の準備委員はだれ一人、心構えとして陽子の堅忍不抜の責任感、丈に対する忠誠心を持ち合わせている人材はいなかった。互いの顔色を窺いあう、めりはりのきかない連中ばかりであった。〝GENKEN〟に精神の共鳴を持ったというより、郁江のような美少女にばかり目が走り、それが楽しみで出てくる大学生といったタイプである。
会に対する熱意も忠誠心もまるでない。大学のサークル活動に顔出しするのと、意識においてはまるで変らない。校外に〝GENKEN〟がオフィスを開き、一般会員が加わっても、かえって志気は後退している。なし崩しに意識面での空洞化、通俗化が進行して行く事実に、丈は激しい焦慮を覚えずにはいられない。
演習だと自分にいい聞かせるのだが、あまりのギャップに焦りが生じてしまうのはどうしようもない。
丈は組織運営の困難に直面し、早くもデッドロックに達したような気がしていた。いつか、スーパー・ブラックのソニー・リンクスがいっていたように、ボスはその組織によって力量を計られる。
とすれば、丈のボスの資格は哀れなほど卑小なものであるかもしれなかった。
丈は、会の〝民主的運営〟にしだいに疑いを抱き始めていた。
渋谷のオフィスからの帰り、丈は井沢郁江を送って行った。
郁江の自宅は丈の杉並の家の近くであり、帰路にも当たる。夜遅くなった時は、丈自ら送り届けるのが習慣になっていた。淋しい道をかなりの間歩かなければならないので、郁江を一人で帰すわけにはいかない。
丈と郁江が連れだって帰るのを、オフィスに居残った会員たちはなにかしら屈折した眼の色で見送った。同方向に帰る人間がいれば、郁江のエスコートをまかせるのだが、彼らは異った受取り方をしているようであった。
気がつけば、郁江をもっと早い時間に帰宅させるのだが、どういうわけか郁江は丈の目につかないところへ姿を消してしまうのだった。買物やお使いに出ていたというのだが、口実としては怪しげであった。
丈もオフィスにいる時は超多忙なので、郁江の姿が目につかなければ、帰宅をうながすことを忘れてしまう。そのために、遅くなってから連れだって帰ることになってしまうのだが、会員たちの特殊な視線は、厄介事の予感を丈にもたらした。
もちろん、だれも表立ってそんなことを丈にいいはしないが、陰でささやかれている内容は丈にも予想がついたからだ。彼らが丈と郁江の間に特別な間柄を想像したとしても不思議はあるまい。
会長として特殊な関心を一身に集めている丈が、会員たちに妙な想像の余地を与えることは望ましくないとわかってはいる。あらゆる面で丈は身を慎まねばならぬわけである。しかし、面と向って郁江に切りだしにくいことでもあったし、〝姫〟とあだ名されるだけあって、郁江には少々のことではさっぱり応えないのだった......
丈は元来、郁江と二人になると言葉少なになる。郁江も無口な方なので、行き帰りの電車の中など、ほとんど口をきかず、黙っている。
別に無愛想なのではないが、互いにあまり喋らないのである。丈が他人の目を意識するということもあるだろう。郁江はぱっと人目を惹くほどの美少女なので、笑ったり喋ったりしていれば、それだけ他人の興味津々の視線を集めることになる。丈と彼女が二人きりでいるだけでも、絶えず視線を浴びているからだ。
二人とも気になる存在であり、昼間の非行少女グループもそれゆえに接近を計ってきたのであろう。
久保陽子や他の少女たちといる時は、決してそんなことはない。丈も気楽に喋ることができる。特に陽子が相手なら、帰途の間喋りっ放しということにもなる。郁江のように相手を特に意識して気詰まりということはない。
夏以来、陽子が右腕として切り廻してきただけに、陽子の落ちこぼれは異様でもあり、淋しくもあった。それ以上に不便で仕方がないのだ。陽子がどんなに自己犠牲を払い献身的に務めてくれたか、よくわかる。しかも彼女の働きは目立たず、表に出ない。〝姫〟と呼ばれる郁江のように華やかに目立ちはしないが、丈にとってはだれよりも重要な存在であった。
「陽子がなぜ会に来なくなったのか、見当がつかないか?」
と、連れだって駅前の通りを歩きながら、丈はやっと切りだした。電車の中でさんざん考えぬいたのだ。
「さあ......風邪じゃない。風邪を引いて元気がないんじゃないの」
郁江はきらりと眸を光らせて丈を見、さりげなくいった。
「もう少し、真剣に考えてくれないかな......陽子が会に来るのが嫌になるようなことがなにかあったんじゃないか......思い当たるようなことはないか? 大人の会員になにかいわれたり、されたりしなかったか、どうか」
「さあ......。別になんにもいってなかったけど」
郁江には多少素気ないところがあるようであった。
「陽子は照れ屋で恥しがりで、緊張過度だから、他人にいえないようなことがあったんじゃないかという気がするんだ。でも、君もなにかあったんじゃないかって感じるだろう? あの頑張り屋の陽子が、風邪を引きこんだぐらいで黙って休むはずがないんだ。学校には出てきているんだから」
「じゃ、東君、陽子に直接尋いてみたら? あたしって、あんまり人のことに気がつかないのよね。他人は他人、自分は自分って思っちゃうものだから......」
郁江はけろりとしていった。そのあたりが〝姫〟というイメージになるのであろう。
「それとなく尋こうと思うんだが、最近陽子は僕を避けてるみたいだ......」
向うからは話しかけてこないし、こちらから声をかけようとすると、身をかわされてしまうのである。以前の陽子からは考えられないことであった。
「陽子の家はきびしいだろう? 女の子が電話をかけてもいちいち問いただされる。まして僕が電話したり訪ねて行ったりはできないよ。非行少年として警察に突き出されるかもしれない......」
丈は冗談めかしていった。
「陽子も、男から電話があったりすると、詰問されて厄介なことになるらしい。きびしいのもいいけど、程度問題だな......で、君に頼みがあるんだ。陽子と遭って、彼女の考えを聞きだしてほしいんだ。友だちだから、君が陽子に電話したり訪ねて行ったりしても、大丈夫だろう」
「あら、あたし彼女とそんなに友だちじゃないのよ」
と、郁江はけろりとしていった。
「仲よしだったこともないし、遊びに行ったことも一度もないの。〝GENKEN〟ではいっしょになったけど、あたしは邦子に誘われてついてっただけだし。そんな友だちじゃないのよね」
「知らなかったな。みんな仲のいい友だちかと思ってた」
丈はいささかショックを受けた。
「あれだけいっしょに熱心にやってるから、みんな親友同士かと思ってたよ」
「あら、そう見えた? でも、女の子同士って、そう簡単にはいかないのよね。顔と心の中身はバラバラだし。仲がよさそうに見えてもうわべだけだし。あたしって、小学校時代から一人も親友がいないの。親友らしきものはいるけど、完全に心を割って話せる人っていないわ。でも、だれだってそうじゃない? 本当の親友だったら、あっさりと喧嘩別れなんかしないものね。でもみんな、平気でやっているじゃない。真の親友じゃなかったからでしょ? でも、それは男でも女でも同じじゃないかしらね? だって、東君の悪口をさかんにいってる江田って奴、あれ東君の小学校からの親友だったんじゃない?」
「江田は僕を憎んでいる」
と、丈はいった。郁江の指摘に打ちのめされた思いだった。相手がまさかというほどのハードパンチャーだった気分だ。郁江は可愛い外見に似ず、心の苦しみを多く味わっているのではないかと丈は感じた。鈍感に見えたが、そうではなくてニヒリスティックであるのかもわからない。
「その理由は、誤解もあるし、曲解もある。だが、一度は親友だったんだ。誤解がとければ、元の友人に戻れるんじゃないか」
「それは甘いわ、悪いけど......」
と、郁江はゆっくりといった。常の郁江らしからぬ苦い味がこもっていた。
「人間て、そう簡単に友だちなんかになれないわよねえ? その人のためなら自分の命も惜しくない。それが本当の親友でしょ? いったい本当の親友を持ってる人がどれだけいるの?」
屈折した心情がうかがわれる言葉だった。丈はこれまで真の郁江を知らなかったような気がした。突然目がはっきりと見え始めた感覚だった。
郁江はただのぽっちゃり型の愛くるしい女の子ではなかった。外見からは想像もつかぬ、人生の苦さを肌身で知っているきびしさの持主だった。いささか素気なく無情なところが感じられたのはそのためであろう。
「確かに君のいう通りだが、〝GENKEN〟は、そうした非情な世界を改革するために作られた会じゃないか? そうだろう? 君の指摘は間違っていない。だが、それですまされる問題じゃない。もし君が人間などどうしようもない駄目なものだと本気で信じているのなら、〝GENKEN〟になど入らなかったはずだ。そうじゃないか?」
丈はいつしか足を停めて、郁江の顔を覗きこみ、熱心にいった。夜の冷え切った空気に呼気がくっきりと白く浮きだす。
「あたしは、ただ東君に興味を持ったのよ。会のみんなに親しみや友情を持っていたわけじゃないわ。それは、普通につきあうけどね。でも、必要もないのに密着してベタベタするのは好きじゃないの。互いに家を用もないのに行き来したり、電話をかけたり、そんなのいやなの。いつもサラッとしてベトつかないで清潔な間でいたいわ。だって、あたしはみんながそんなに好きじゃないんですもの」
郁江はいつになく雄弁だった。可愛い口から容赦ない言葉が白い息とともに飛び出してくる。
「陽子だって、悪い人じゃないと思うけど、そんなに無理してまで仲よしになりたくないわ。そんなに気が合うわけじゃなし。他のみんなも同じよ。あたしはそれでいいと思うの。親友なんて作ろうと思っても作れるわけじゃないんだから」
「しかし、君はずっと〝GENKEN〟で一番熱心にやっていたし、今だってそうじゃないか。講演会の時だって、招待席を不法占拠したゴロツキどもに食ってかかる勇気を持っていたのは君だけだ。今も他のみんなより一生懸命やっているくらいだ。会に来るのがつまらなかったら、やっぱりそうはいかないだろう」
「それはそうね。面白くないとはいっていないわよ、あたし。興味がなかったら、こんなに無理してまで自分の時間を使わないもの。でも、会がなにもかも気に入っているわけじゃないのよ、東君。気に入らないことだって沢山あるし、それが我慢できなければ、辞めてしまうかもしれない......」
「君はいつも、なにもいわないから、そんな風に思っているとは意外だった......たとえば会のどういうことが気に入らない?」
「みんなが東君のことを〝生神様〟か〝教祖〟扱いにしすぎるのがいや。〝先生〟と呼んでチヤホヤして持ち上げて、そのくせ東君のことを本気で思っているわけじゃないのよね。表面的には仲良しクラブみたいに振舞ってるけど、内心は嫉妬や張り合いで大変。あの人の方が東君にひいきされてるとか、ゴマをすって家にまで押しかけてとか......そのくせ親友同士みたいに口先では振舞ってるのよね。あたし、そういうのって大嫌いなの。だって口先だけ立派で腹の中は大違い、やることもインチキなんて、偽善者じゃない。〝愛と友情の宇宙的連帯〟なんて絶対いえないはずよ。あたし、そういうの一番大嫌いなの」
いつも無口な郁江が迸るように一息に喋った。
「あたしは、東君はそういうのと違うと思ってる。口先とやることがバラバラじゃないもの。偉いと思って、ある程度尊敬もしてる。でも他の人たちなんか、インチキよ。東君を〝先生、先生〟って呼んで、さも立ててるようだけど、自分から進んで東君のために何かしてあげようとする人が何人いて? だれもかれも東君におんぶにだっこですがってるだけじゃない。
だから、結局東君がなにもかも自分一人でしなきゃならない。〝先生〟と呼んで立てるなら、〝先生〟のために自分も一生懸命尽すのが当然でしょ。だって弟子だもの」
「............」
丈は言葉もなかった。可愛い郁江がこれだけ激しいものを秘めているとは予想外だったのだ。
「あたしはだから、東君を〝先生〟なんて呼ばない。だってそんなに東君のために尽してあげる自信もないし、多分できないもの。いつか東君に失望して離れることもあるかもしれないし、たとえ今は尊敬していても、〝先生〟とは呼べないわ。でも、そうすると、みんなはすごい非難の目であたしを見るのよ。そんなことは平気だけど、よくあんなに偽善的になれるなと思って......」
「君は正直なんだ。真摯なんだ。他のみんなのようにムードに流されるってことがない。いつも大きく目を見開いて、真実を見ようとしている。しかし、狭量にもなるし片意地にもなることがあるだろうな。でも、僕は君が間違っているとは思わないよ」
「あたしもそう思うわ」
と、郁江は平然といった。
「他の人たちは好きになれないけど、東君はずっと尊敬していたいわ。本当いうと、いつか尊敬できなくなるんじゃないかと思うと、とても怖い。絶望的になってしまうかもしれない。そんなことにはなりたくないから、今まで、だれも尊敬なんかしないできたんだけど......
今だってすぐに辞めてしまいたいの。好きになったり愛したり、この人こそ親友だと思っていた人を失くしたくないから。だれにも縛られないで生きていけたら、どんなに気が楽かしら......」
「君は正直だが、臆病だ」
と、丈はいった。
「もちろん、あたしは臆病よ。他人から傷つけられるのがいやなの。だから、あたしはだれも好きになったり愛したりしない」
「歩こう。こんな夜に長々と立話をしていたら凍死しそうだ」
丈は、郁江をうながして歩きだした。
「いつか君も心を開く時が来ると思うよ。人間は一人では生きられない。人間の心も肉体も、そんな風に造られていないんだ。君にも必ずそれがわかる」
「そうかしら? あたしには信じられないけど......」
冷めた口ぶりで彼女はいった。
「東君を自分が尊敬してるってことさえ、時々耐えられないほど苦しくなるの。いつか東君の正体がぱっとわかって、なあんだと思う......それが堪えられないの。東君もただの人間、ただの男だった......そう自分が思うことに耐えがたいの。そんな時がいつか来るかもしれない......こんなことだったら、いっそ〝GENKEN〟を辞めようかと何度も考えたわ」
「なぜ辞めなかった?」
「わからないわ......」
郁江は驚いたようにいった。
「思い切りがつかなかったからかしら?」
「しかし、君は他のだれよりも熱心だ。尽す気はないといいながら、だれよりも尽している」
「そうね。あたしって矛盾してるのね」
郁江は小さく笑った。彼女はあまり笑わない少女であった。
「つまり、君が愛や友情の連帯を求めていないわけじゃないんだ。ただ臆病なだけだ。しかし、君が他人から傷つけられることがあるように、君自身意識しなくても他人を傷つけていることがあるかもしれない。それを忘れないほうがいい......」
「あたしが......?」
郁江はいくらか驚いたようだった。考えてもいないことを指摘されたかのような反応であった。
「ああ......そういうこともあるかもしれないわね」
他人事のような口ぶりだった。〝応えない郁江〟に戻ってしまっていた。しかし、丈の言葉が殻に閉じこもらせたのだから、応えないわけではなかったはずだ。
「僕が宇宙に触れた時、考えが変ったように、君も必ず変るだろう。僕が人類という豊饒な絆から人間は孤立して生きられないと悟ったように、君もすでに豊饒な愛の中にあり、ただそれに気づけばよかったのだと悟るだろう。もし、僕が君を宇宙に連れていってあげることができればいいんだが......」
丈は躊躇し、言葉を跡切らせた。郁江がどこか虚無的な大きな瞳で丈を見ていた。
「でも、東君はあたしを連れてはいかないわ」
それは質問ではなく断定であった。丈は夕刻の渋谷駅でなぜあの虚無的な瞳の非行少女が郁江を襲ったのか、理解したような気がした。二人には等質なものがあったのかもしれない。
「全ての人類に、宇宙に触れさせたい......その時そう思ったんだ。許されるなら、そうしたい。しかし、僕の力には限りがあるし、そんなことは許されることじゃない......」
「だれが東君に許すの? どういうことを許し、許さないのはどういうことなの?」
郁江の追及は鋭かった。
「宇宙意識? それとも宇宙全体の神? でも、そうした存在が東君にあれこれ命令したり指示したり、禁じたりするわけじゃないでしょ?」
「そうじゃない......良心だよ。僕の良心がそうすべきであり、そうすべきでないというんだ。たとえ不満でも僕は従う。それが本当に正しいと僕にはわかっているからなんだ。僕は〝力〟を自ら封じた。言葉でみんなに語りかけて行こうと決心した。みんなの心がそれで開かれて、みずから宇宙に触れることができるなら、その方がはるかにすばらしいとわかったからなんだ」
丈の言葉は熱を帯びてきた。
「なぜなら〝力〟は単なる道具にしかすぎないからだ。〝力〟に憧れ、〝力〟を欲し、〝力〟を行使したいとみんなが思うようになるならば、恐ろしいことになる。みんなの心は欲望に捉われてしまうじゃないか? 〝力〟を単なる道具として使い始めたら、必ず闘争が始まる。〝力〟はスパイ行為に使用され、他人を殺傷したり、強制的に支配する道具として用いられるだろう。
もし僕が〝力〟を誇示するならば、みんなは必ず自分も手に入れたいと思うようになるだろう。すでにそこで争いが始まるんだ。だから僕は〝力〟を封じた」
「でも〝力〟を見せなければ、だれも〝力〟の存在を信じないし、東君の言葉を信じないかもしれないわ」
「そうかもしれないが、やってみなければなんともいえない。多少は信じる者もいるんじゃないだろうか。君は僕を信じるかい?」
「わからない。信じてるかもしれないし、そうでないかもしれないわ」
郁江は珍しく戸惑ったように答えた。
「信じたい。だが、裏切られるのが恐ろしい......そうだろう?」
と、丈はきびしくいった。
「君はだれも信じたことはないのか?」
「ないわ......」
彼女はぽつりと答えた。
「裏切られたことがないのに、なぜ裏切られることを恐れる? それは矛盾しているぞ」
「信じるのがこわいの。ただそれだけ」
「君は人に信じられたくないのか? だれも君を信じなくても平気なのか?」
「平気だわ。あたしはあたしだもの。人を信じなくたって、人に信じられなくたって生きていけるわ」
「僕は君を信じている。君の裡にある良心を信じてる。もちろん、君は信じられたくないだろうけど......僕は君が裏切ったとしても許す。なぜなら、君を信じたのは僕の責任において信じたからだ。君がどんな行動をとり、僕を裏切ったように見えても、君の裡にある良心は決して裏切ったりはしていないとわかっているからだ」
「あたしには良心なんてないんじゃない? 気まぐれな心があるだけだもの」
郁江は依怙地にいった。
「いつ気が変るか、自分でもわからないわ。今好きで夢中でも、ふっと気が変れば、嫌いになってしまうかもわからない。裏切りたくないといくら思っていたって、ふっとその気になれば裏切ってしまうかもしれない。それが嫌だし、恐ろしいのよ。だって、自分に良心があるとは思えないもの」
「そんな自分の嫌な性質が君にはわかってる。嫌だなあと思ってる心が、とりもなおさず君自身の良心じゃないのか?」
郁江は不思議そうに丈を見た。
「へえ、そうか......そういう考え方もあるんだな」
と、彼女は男の子みたいな口調でいった。
「でも、あたしには良心があるとはやっぱり思えないな。その証拠に東君を裏切るかもしれないもの......いざとなれば、悪いなあと思いながら裏切ると思うの。だから、あたしなんか信じないで。がっかりするだけだもの。あたしって物凄く我儘で自己本位なの。自分でもそれはよくわかっているの」
「都合で信じるわけじゃない」
と、丈は黒い瞳でじっと郁江を見返しながら、強くいった。
「人を信じるというのは、口でいうほど簡単なことじゃない。激しくつらい努力がいるんだ。都合で信じたり、信じなかったりするのとはまったく違う。全責任を持ち、全力を挙げて愛することと同じなんだ。努力もせずに人を愛することはできない。君にもそれはわかるだろう。人を愛するのがつらいことだから、人を信じるのは苦しいことだから、君は逃げだす。なにもしない方が楽だからだ。裏切られるのが恐いからという口実があるからだ......」
「それでは、東君はあたしがどんなことをしても信じてくれるの?」
と、郁江は瞬きもせず眼を据えて尋ねた。
「たとえ、あたしが東君を裏切っても?」
「もちろんだ......君は僕の友達じゃないか。友達というのは、一時の気まぐれのつきあいじゃないはずだぜ。君は本当の友達というのは、その人のために命を投げだせるはずだといった。その通りだと思う。だれでも心の底ではそれが本当だと思っているはずだ。自分にもそれができるならば、そうしたいと願っているはずなんだ。それが人間の本質なんだよ。決して自分の欲得ずくで他人を踏みにじって幸せになれる人間なんて存在しないんだ」
「じゃあ、約束して」
と、郁江は足を停め、丈を見詰めながらいった。そこは郁江の自宅へ入る路地の入口であった。
「なんの約束?」
「あたしが東君の本当の友達だってこと......」
「約束するまでもない。もう事実、そうなんだから」
「でも、約束してほしいの」
郁江の眼は真剣だった。
「わかった、約束する」
彼女はじっと丈の顔を見詰めていたが、その瞳にはなにかしら丈を不安にさせるものがあった。丈にはそれが何であるかわからない。丈はまだ若く、女がなにを考えているのか理解することは容易ではなかった。
「おやすみ」
郁江は短くいい捨てて、足早に路地に入っていった。鋭いものを感じさせる硬い靴音であった。門の開閉する金属の軋る音がした。丈は街灯に照らされたまま、その場を動かなかった。
不安が心に生じていた。郁江が残していったものだ。人間の内側を見るというのがどんなに大変なことか、丈には真冬の鋭い寒気にも増して身にしみた。
遠感能力により、人の心の動きがある程度わかるようになった丈にしても、郁江の秘めた内面性にはほとんど無知に等しかった。人間の心ほど一筋繩では行かないものはなかった。
郁江は愛くるしい人目を惹く美少女といった生易しい存在ではなかった。その外面との大きな落差に目がくらむ思いを味わった丈は、己れの思い上りを思い知らされ、頭から氷水をぶちまけられたショックを経験していた。
いかに遠感があろうと、人の心などそう簡単にわかるものではなかった。いい気になりすぎていた、と丈は感じた。

他人を真に理解することは容易なことではない。それは郁江のみならず、久保陽子にしたところで同じことだ。
まったく同じことが、丈自身についてもいえる。数か月間努力を重ねてきて、どれだけ人々の理解を得ることができたろう。理解者と思った久保陽子にしたところで、丈の苦境をよそに非協力の姿勢を暗にとっている。
丈自身が、理解を得る努力を欠いたということではないはずだ。他人を理解することはそれほど至難であるという証左であろう。まして相互理解が口でいうほどたやすく成し遂げられるはずがない。
丈は突如、心に重みがのしかかるのを覚えた。
他人を真に理解すること。もしそれを成し遂げることができないならば、丈がこの先なにを成そうと欲しても、それは画餅に終る......不意にその事実がずしんと心に落ちかかった重みに他ならなかったのだ。
5
帰宅した丈を、玄関の見慣れぬ靴が迎えた。男靴である。卓のものではない。卓はもっぱらスニーカーだ。サイズからいって父親の東龍介でもないようであった。龍介は一か月に一度も帰宅しない。
丈の帰宅の音を聞いて、三千子が迎えに出てきた。丈は格子戸を閉め、凍てつくような外気を閉め出した。
「だれだい?」
と、丈が三和土の靴に目を向ける。
「田崎さんよ。ずいぶん長い間、お待ちになってるわ」
三千子は活きいきした表情だった。弟の丈がはっとするほど美しく新鮮だ。自宅にこもりがちの彼女には珍しいことだった。
「田崎宏?」
「ええ。田崎さんて、とっても面白い方ね。ずいぶん笑わせられちゃったわ」
高校の〝検事総長〟といわれる田崎であった。総会で丈をバックアップし、〝反対同盟〟を追い出すのに力を貸してくれた、いわばスーパー番長である。しかし、その後は校内で顔を合わせてもうなずきあう程度の交流しかなかった。
「どこにいる?」
「応接間。今、卓ちゃんと話がはずんでいるみたい」
「そうか......」
「それから夕方、久保陽子さんが見えたわ」
丈はぎくりとして姉の顔を見詰めた。靴を脱ぐ動作が一瞬停まってしまう。
「なにかいってた?」
「ええ、いろいろね。後で話すわ」
「............」
丈は無言でうなずき、式台へ上った。洗面所へ行き、手と顔をざっと洗う。田崎の用向きも久保陽子のそれも、ぴしりと思い浮ぶものがなかった。陽子はなにをいうために、姉を訪ねてきたのだろう。丈が渋谷のオフィスに廻るので不在だと知っているはずである。
気がかりだったが、田崎を待たせておいて姉から聞きだしているわけにもいかない。一方田崎の来訪にも興味があった。
卓と田崎の歓談の声が廊下からもよく聞きとれた。二人は面識があるし、卓は田崎に好感を持っているようである。歓談の中に割り込むのが悪いような気がするほどであった。
応接間に入ると、すかさず田崎が起立して丈を迎えた。武道をやるせいか、動作がきびきびしていて、小気味がいい。
「夜遅く、どうも......」
と、田崎は精悍な顔をほころばせ、白い歯を見せていった。
「じゃ、僕はこの辺で、失礼します」
卓はきちんと挨拶して席をはずした。田崎の前だと、わが弟と思えないほどメリハリが効いている。颯爽たる武道少年といいたいほどであった。
「渋谷の事務所の方が、だいぶ忙しいらしいな」
と、田崎はいった。
「そっちの方へあまり顔出ししたくないので、こちらへ伺わせてもらったが......お宅はきょうだいに恵まれてるな。羨ましい......素晴らしいお姉さんだし、弟もいい。おれは兄弟がいないんで、ずいぶん損をしてるよ」
「この前みたいに、大勢の前で先生呼ばわりはやめてくださいよ」
と、丈はいった。闊達な田崎が相手だと心がほぐれてくる。最近は緊張の連続の毎日が続いている。
「先生と呼びたいんだが、あんたがいやがるんじゃないかと思ってな。しかし、最近はみんな正面きって、先生と呼んでるなあ」
「田崎さんのせいですよ。先生と呼ばないと田崎さんに睨まれると思ってるんじゃないかな」
二人は笑った。
「そうか。悪いことしたな。しかし、あの時は本気でそう思ったんだ。こいつは本当に偉い奴だ、人類の師になる奴かもしれんと......こいつだの奴だのといっちゃいかんな」
「先生と呼ばれて迷惑している。僕はまだ出来上った人間じゃない」
「一度あんたと話してみたいと思ってたが、どうも照れくさくてな」
田崎は逞しい手で精悍な顔を撫でまわしながらいった。
「あんたには取巻が沢山出来たし、つい声をかけそこなってしまった......」
「遠慮なく遊びに来てくれればいいのに」
「いや、そうもいかん。おれはあんたは尊敬してるし、気に入ってもいるが、あんたの取巻には女が多くて閉口する。女臭いのはどうも苦手だ」
「それは僕も同じだ。だけど辛抱している」
丈は笑った。田崎と話していると心が晴れてくる。
「しかし、いっちゃ悪いが、あんたの囲りには、これというのが集まらないな。男のくせにしんねりした頼りない奴ばかりじゃないのか?」
田崎は少しも遠慮せずに辛辣なことをいってのけた。
「おとなしくてひ弱なタイプが多いことは確かです。なぜだかよくわからないが......自分が非力なので、超能力などに興味を持つのかもしれない」
丈は正直にいった。
「田崎さんは自分の力に自信があるから、興味はないでしょう? 力のない弱い奴が、もし自分に〝力〟があったら、威張っている強い奴をやっつけてやるのに......と夢想するんじゃないかな」
「男は気力だ。体力じゃないさ。胆っ玉がでかくない奴はだめだ。おれがあんたを気に入ってるのは、その凄い気力に押しまくられたからさ。火のような誇りだな。おれにとっちゃあんたがイエス・キリストみたいな超能力者だというのは二の次なんだ」
「僕はそんな偉大な人間じゃないですよ、田崎さん。ただ僕に出来ることをやって行こうとしているだけです」
「イエスだって最初から大人物だったわけじゃないだろ? 構うもんか、あんたはもっと偉大な存在になって、人類を救え。今はそうじゃなくても、いずれは救世主になればいい。おれはこの通りのがさつな人間で、なにもしてやれないが、それでも声援だけは惜しまないつもりだぜ。東丈は偉い奴だとみんなにいい続けてやる」
田崎は照れを忘れ、力強い声でいった。
「ありがとう、田崎さん。あなたのことを考えると、元気が出てくるんです。あなたが睨みをきかしているので、学校の中はうんと静かになった......あれ以来、東丈は色魔だとか女たちを催眠術で操ってる悪魔だとかいわれなくなりましたから」
「しかし、あんたの取巻は頼りなくていかんな!」
と、田崎は大声でいった。本質的にシャイな性分なので、それを隠すために力んだり凄んだりするのであろう。
「まあ、女どもはしょうがないとして、なにか荒っぽいことが起きれば、あんた一人を残して一目散にずらかっちまう奴等ばかりじゃないのか?」
「そうかもしれない。いや、もちろんそうでしょうね。イエスの弟子たちペテロやシモン、ヨハネ、みんな先生が捕えられた時、かばうどころか必死に逃げましたからね。まして僕はイエスでもなんでもない。逃げるのは当然かもしれない」
「そんなことじゃ困るんだ。友だちだったら、体を張ってかばうのが男というもんだろ? まして相手は友だちどころか、自分の先生じゃないか。そんなのは男の風上にも置けない根性の腐った奴だ!」
田崎は興奮して拳で自分の膝を打った。二千年も前の事件に対して、義憤に燃えているのがいかにも彼らしかった。
「もっとも、イエス・キリストが処刑された後、弟子たちも勇気を振るい起こしましたけどね」
「先生が殺されちまった後じゃ遅いんだ! おれは気にくわん」
「しかし、イエスの処刑はあらかじめ定められていたことで、預言もされているし、イエスもあえて運命を避けなかったんです。イエスは自分が十字架の上で殺されることも、弟子たちが逃げてしまうことも、充分知り尽していたわけです。ペテロなんてふだんは大きなことをいっていたが、いざとなると一番みっともない逃げ方をした。人間というものは、そういうものだと思う。不断は立派なこともいえるが、やはり自分の身が可愛いし、恐怖に駆られれば、後先も考えずに逃げだしてしまうんですね......」
「おれは最初ミッション・スクールへ行かされたから、キリスト教のことは知っている」
と、田崎は気むずかしげにいった。
「あいつらは口先と腹の中がまるで違う。おれは嫌いだ。十字軍とか異端虐殺とか魔女裁判とか、ひどいことを山ほどやってる」
「イエスが説いたことと、後で教会がやったことは大違いですよ。イエスはきっと嘆いてるだろう。時間はなにもかも腐蝕させてしまう。イエスの心はもう教会にはない」
「その通りだ」
田崎は力をこめていった。
「あんたがもう一度やり直せ。あんたの偉大な〝力〟で世界を変えろ。地球をひっくり返し、揺すぶって、愚かなことばかりやってる人類の目をさまさせてやってくれ」
「田崎さんは、本当に僕を救世主だと思っているんですね」
丈はおかしそうにいった。
「僕は〝力〟を隠そうと努力している。イエスとはちょうど正反対です。僕は自分を救世主だなどとは思っていない。偉大な人が出てきた時、少しでもお手伝いをしたいと思っているだけです。だから、僕は〝力〟を示さずに人々の共感を集めて行く。甘いと思う人もいるはずです。僕が持てる〝力〟を全て発揮して、強烈なパンチを人類社会に喰らわすべきだと......それくらいしないことには、だれも覚醒しないと。僕の〝力〟を見なければ、だれもついてこない......そうかもしれません。時には僕もそう思うことがある。しかし、もっともっと努力しなければ、と思うんです。いきなり力ずくで押しまくり、拳固で殴りまくる真似はしたくない。なぜなら、それが一番簡単だからです。もっとも安易な道で、僕が本当はやりたいことです。というか、易きにつくという人間の最大の弱点が、実力行使にあるような気がするからです」
「先手を打たれたな」
田崎は苦笑した。
「本音を吐けば、あんたに実力行使を勧めに来たんだ。あんたは一度は〝力〟を見せた方がいい、いや、見せるべきだと思っていたからだ。さもないと、愚かな奴等は決してあんたを信じないだろうと思ってな......あんたの〝力〟なんて噓だといっている奴が沢山いる。あんたにはそんな超能力なんて奇蹟の力はないんだといってる。とにかく、奴らは現実に自分の目で見ない限りなにも信じないんだ。そんな奴等には力ずくでわからせてやるしかないだろう......そう思って、あんたを説き伏せに来たんだよ」
「顔を見たとたん、そんなことじゃないかなとぴんと来ましたよ。しかし、田崎さん。江田四朗のように僕の〝力〟を認めた上で、魔王の力だといいふらしている人間もいますよ。唯物論から超能力を認めない連中が、〝力〟を目のあたりにした時、どう反応すると思いますか? 江田四朗に与みするかもしれませんよ」
「そんな奴は元々馬鹿なんだから、力ずくで降参させてやればいいんだ。恐れ入って何もいわなくなるに決まっている。江田の奴だって、あんたが実力行使すれば、いいたいほうだいの悪口もいえなくなるだろう」
田崎は腹立たしげにいった。
「江田はなかなか恐れ入りませんよ。あれでなかなかガッツがありますからね。この間の総会でも恐れ入るどころか、ますます闘志を燃やしている。僕が実力行使すれば、死物狂いで反撃してくるでしょうね」
「窮鼠、猫を咬むか......」
田崎は短く刈りあげた頭をごつい手で撫で、唸った。
「おれも、あのひょろひょろした野郎を見直してるんだよ。実にどうして、しぶといからな。へこたれるかと思ったら、捲土重来って奴だ。あの野郎、勢力を盛り返してるぞ」
「知っています。本気になると人間ってこわいものですね。僕が憎いものだから、死物狂いでやってる。人間の一念って、凄いエネルギーがあるもんです。僕をやっつけ、滅ぼすために死ぬ気でやってるみたいです」
「正直いうと、おれはあいつが無気味だ」
田崎は精悍な顔に翳を作りながら呟いた。
「恐いもの知らずのおれだが、あの野郎だけは変にぞっとする。こう、化物じみた薄気味悪い所がありやがるんだな」
彼の言葉は乱暴になってきた。
「うっかり手出しをしたら、野郎祟りやがるんじゃねえか......そんな気がするんだよ。昔、餓鬼の頃、でかい青大将を殺して池にほうりこんだことがあるんだが、さっそくその夜から祟られたことがある。体中に発疹が出来て、四十度の熱が続いて、うなされてな。てっきりとり殺されるんじゃねえかと思ったよ。親類のだれかが拝み屋を呼んで、払ってもらったけどな」
田崎は軽く身震いし、それに照れたような顔をした。
「ま、そんなこともあるもんさ。ところが、あの江田の野郎、あの青大将みたいに祟りそうな目付をしていやがるんだな......しかし、放っておくわけにもいかねえだろう」
「江田がなにか動きだしたわけですね?」
「あの野郎、もしかするとあんたと似たような〝力〟を持ってるんじゃねえかな? 校内の悪どもに接近したと思ったら、どうも奴らを操りだしたんじゃねえかと思える節がある......」
「しかし、江田はどっちかといえば、ガリ勉家で、不良グループとはまったく水と油だったはずですが......連中とはほとんど口をきいたこともないはずです」
「前はそうだったかもしれんが、今は違うぜ......なんというか、江田の野郎は教祖的になってきたんだな。総会の時、反対派の奴らを焚きつけたのも江田だったし、今はもっと密接な関係が出来てるらしい」
「以前の江田四朗だったら、とうてい考えられないけど......確かに人柄が変わったんだな。僕を憎む一念で......」
丈は暗い気持になってきた。丈にはそれだけの憎悪のエネルギーを燃焼させる四朗の気持が理解できない。自分が巨大な超能力を授ったからといって、四朗に憎まれる筋合はないと感じていたのだが、それはむろん丈の浅慮に他ならなかった。
人間は自分にないものを恵まれている他人を、もっとも強く憎悪することができる。その原動力は嫉妬という底知れぬ情動である。
「嫉妬というものは、恐ろしいもんだな」
と、田崎宏は正しく問題の本質をいい当てた。直観力、洞察力においては並みなみならぬ資質の持主なのであろう。
「あの野郎、なにをやりだすかわからんぜ。どうも、あんたと似たようなことをやりだす気じゃないかという気がする。つまり、あいつは人を集めて、自分の思い通りに動く組織を造る気じゃないか? あんたと目的は違うかもしれんが、組織造りという点じゃ同じだろう。あいつの狙いは、あんたを滅ぼすことにあるとおれは睨んでるがね」
田崎は実にきちんと姿勢よく座っていた。角ばった頑丈な肉体が重量感にあふれている。若年だが、すでに堂々たる男という印象だ。学校の愚連隊まがいの非行グループとは雲泥の差がある。
およそ恐怖など感じたこともないような田崎が、率直に江田四朗への恐れを語っているのだ。虚勢を張らない性格の田崎が評価するところを見ると、江田には尋常ならざる変化が生じていることは間違いなかった。
「ただ僕をやっつけるためにだけ、命がけでやってるんですか? 非行グループを抱きこみ、手馴づけて......ご苦労なことだ」
丈は頭を振りながらいった。馬鹿ばかしくて話にならない。偏執狂の遣り口だ。
「もっとくだらないことに命をかける奴はいくらもいるさ。これから救世主になろうとする男を叩き潰すのも、それなりの大仕事じゃないか。あいつはいい所に目をつけているのかもしれん」
田崎はじりっと目を光らせた。
「だが、心配することはないさ。あんたにはおれだってついてる。あんたが天の命を受けた男なら、おれも体を張ってあんたを護る。おれもちっとは喧嘩の仕方を心得てるからな。江田の手下の悪どもとは年季の入れ方が違う......江田の思い通りにはさせんさ」
「しかし、僕はもう〝GENKEN〟を校外に出してしまった......学内の文芸部〝GENKEN〟は開店休業だ。江田が非行グループを抱き込んで妨害を企てても、学校の外にある〝GENKEN〟には手が出せないでしょう。世話人は社会的地位もある企業経営者です。愚連隊まがいのチンピラには手が出ないはずです」
「おれも最初はそう思ったよ。しかし、江田はなにか企んでいやがる。それは間違いない。もしかすると、あの野郎、あんたのやり方を真似て、組織を校外にも広げる気かもしれんだろうが?」
丈は一瞬、言葉を失った。田崎の指摘は、丈の心を横切った予感と一致したからだった。
「もし、江田の野郎が、あんたに似た力を持ち始めたとしたら、あんたと似たやり方をするんじゃないかと思う」
「江田は本当に〝力〟を持ち始めたんでしょうか?」
丈はようやく気持を立て直して尋ねた。恐ろしく底深い無気味な冷寒が、急速に心を侵蝕しだしていた。異様な恐怖が冷たく心を侵している。まごうかたなく、それは恐怖であった。
田崎でさえ恐怖を感じているのだ。外見よりはるかに鋭敏な彼は、まっさきにそれを感じとったのであろう。
江田四朗は狂いかけている。四朗の執念深さは常人のものではなかった。偏執狂のそれであった。四朗はみずから異常者となることにより、〝力〟を獲得しつつある。
丈の直観は、田崎のそれと同一だったに違いない。
江田四朗は精神の正常さを失い、その代償として、超能力者に変貌しようとしている。なんといい換えても、内容は同じだ。
目的は丈を滅ぼすことであり、動機は丈への憎悪である。
しかし、そんなことで、人間は簡単に超能力者へと変身することが可能なのだろうか。
丈はまっさきにそれを疑い、答を見出そうとして悪寒の虜になったのだ。
「あんたでも身震いするかね?」
と、田崎は見逃さずにいった。
「おれもぞくぞくとしたよ。自分がひどく臆病になったような気がして、いやだったんだが......しかし、あんたのような偉大な人間がこわがるのはよくない」
「恐怖を知らない人間はいませんよ。まして僕は偉大ではない。しかし、恐怖と戦うことはできます。江田四朗は人柄が変ったという評判が立っているようですね。元の友達はみんなはなれてしまった。彼をこわがっているらしい。理由は、田崎さんや僕が感じている無気味さが人柄に出てきたからでしょう。まともな人間だったら近寄りたくない、暗く重い、いやな雰囲気の持主になってしまったそうです」
「変ったのはあんた自身もだろう。みんなそういってる。しかし、江田とは方向が正反対だ。あんたは善く変り、江田は悪い方へ変った。善い方に変れば、みんなも引っ張られて善い方向に向いて行く。しかし、江田のように悪く変ると、友達がみんなそっぽを向いちまう。奴が今度近づいたのは、愚連隊みたいな奴等ばかりさ。類は友を呼ぶっていうが本当だな。嫌われてる連中は連中同士で固まってしまう」
田崎は感慨に耽りながら呟いた。
「そんな愚連隊みたいな嫌われ者たちが、よく江田四朗について行きますね」
「連中は力に弱いんだ。かさにかかってくる力には徹底的に弱い。強い奴にはへつらって、弱い奴には横暴に振舞う。野良犬の群れみたいなもんだな。江田四朗って奴は、怪僧ラスプーチンみたいな所があるらしい。無気味な影響力で連中を金縛りにして支配している。江田のいうことをきかない者は重い病気になって苦しんだ挙句に死ぬ、といって脅かしているらしい。
連中はまた、粗暴なくせに臆病だから、もろに信じこんじまったようだな。
事実、江田に背いたり反対したりして、病気になった奴が何人も出ているらしいんだ。手足が麻痺したり、耳から血が出たり、体の中から針が出たという奴もいるそうだ」
田崎はどんな情報網を持っているのか、よく知っていた。
「それじゃ、呪いとか祟りといった、気味の悪い黒魔術みたいなものですね。江田の虜にされたら最後、奴隷のように思い通りに操られて逃げだせなくなる。逃げれば死ぬといって脅かされているから、恐怖で足枷をかけられてしまう」
「その通りだ。やっぱり、あの野郎はただ者じゃないぞ。乱暴で性質の悪い奴らが、家来になってへいこらしているんだからな。よっぽどこっぴどく脅しつけたに違いないし、本当に一人二人、死んでるかもしれんな」
「死なないまでも、ひどい病気になったりしているでしょうね。もし本当に〝力〟があれば、それくらいは簡単にできるはずです」
「どうだ、あんたにもできるか?」
田崎がじっと丈の顔を見詰める。丈は苦笑した。彼があまりにも真剣な顔をしていたからだ。
「やったことはありません。人間、良心があると、なかなかできませんよ。物凄い憎悪のエネルギーで良心を圧倒してしまわなければならない。しかし、〝力〟自体はエネルギーですから、善くも悪くも働く。病気を治すこともできるし、病気にすることもできるはずです。普通のごく当り前の人間だったら、他人の病気を治してあげる方が好きでしょうね」
「おれもそう思う。他人を呪って病気にするなんて、邪悪な奴のやることだ。心が腐ってなきゃ、そんな陰惨な真似はできん。おれが心配してるのは、江田の奴が、あんたに向けて呪ってるんじゃないかということだ」
「江田が僕を......? なるほど、それが〝力〟のもっとも有効な使い道ではありますね」
丈は頭をかしげていった。少年っぽい動作であった。落着いているようでも、丈には年齢相応の少年らしさが随所に見受けられた。
「吞気なことをいってる場合じゃないぜ。大丈夫か? なにか異常は感じないか? 江田の奴が送ってる呪いの想念波は感じないのか?」
田崎は真剣そのものであった。
「呪いの想念波というのは凄いですね。田崎さんの口から出ると、なんとなくおかしくなっちまうけど」
「冗談事じゃないぜ。奴が必死に呪ってるとしたら、ほうっとくわけにはいかない。やり返してやっつける方法はないのか? 呪いをするとか、護符を貼るとか......」
「護符を体中に貼ると、耳なし芳一みたいになりますね」
丈が笑いながらいう。田崎は憤然と精悍な眉をしかめた。
「おれは本気で心配しているんだぜ。わからんのかね、もう......」
「すみません。僕が恐がってはいけないというから、話を笑える方向へ向けてみたんですよ。とにかく陰気な、いやあな話でしょう? でも、大丈夫です。おおむね良好ということで、元気よくやっています」
「そうか。それを聞いて安心したよ。今夜はそれを確かめたいということもあって、いきなり訪ねさせてもらったんだ。家族の人たちもいたって元気だしな。本当によかった」
田崎はあっさりといって席を立った。
「忙しいだろうから、これで失礼する。いきなり来て悪かった」
「ありがたく思っていますよ、田崎さん。いつも心にかけてもらって、本当に嬉しいんです......」
丈は生真面目にいった。
「おれはどうも組織が苦手で、一匹狼が性に合ってるから、あんたの組織に入って協力できない......いつもそれが心苦しいんだよ。すまんと思ってる。あんたは一人で苦労しているからな......」
年上の友人の情は心にしみるものがあった。
「なにごともなくて本当によかったな」
「僕はむしろ、田崎さんの身の方が心配ですよ」
と、丈はとっさにいった。
「目立つから、狙われやすい立場にある。頼みますから、自重して下さい。江田が目障りでも、一人でなんとかしてやろうなんて思わないで下さい。体に注意して下さいよ」
「おれだったら心配ない。おれは不死身なんだ。風邪だってひいたことがない」
田崎が豪快に笑う。
「今夜はあんたの身に何事もないとわかればそれでいいんだ。安心して帰れる」
素早く応接間を出て行った。廊下で三千子に大声で挨拶している。お茶を換えに来た姉と鉢合せしたのであろう。
田崎は出処進退が実に鮮やかであった。ぐずぐずせずに、さっさと引上げてしまう。
丈は玄関の外まで見送った。
「充分気をつけて下さいよ、東先生」
と、田崎がわざと大仰にいう。
「先生の身に万一のことがあれば、世の中は闇になるからね」
笑って大股に立ち去って行く。
「さよなら!」
と、わざわざ見送りに出た卓が叫ぶ。三千子も外に出てきた。田崎は人気があるようだった。
「丈、ちょっと話があるんだけど......」

と、夜目にも白々と息を吐きながら、三千子がいう。夜空には星々が凍てついていた。卓は急いで家の中に引込んでしまった。
「陽子のことだね?」
「ええ......でも、お腹が空いたんじゃないの? なにか作りましょうか?」
三千子が寒そうに肩をすくめる。
「オフィスで店屋物を食べたから、大丈夫だ......」
「いつも晩御飯に店屋物じゃ、栄養が片寄ってしまうわよ」
「このところ、詰めきりなんで仕方がないな」
「今にオフィスに居っ放しということになるのかしら?」
三千子の吐く息が心細げに白く揺れる。
「悪いな、姉さん。ただでさえ親父はちっとも帰ってこないのに......」
丈が詫びるようにいう。
「あたしのことはいいのよ。学校もあるし、あまり根を詰めると、体の方が大丈夫かなと思って......あまり寝ていないんでしょ?」
「心配ないよ。前とはエネルギーの量が違うようだから。あまり寝たり休んだりすると、かえって疲れてしまうんだ。やることは沢山ある。本も書かなきゃいけないし......」
「田崎さん、丈のことをずいぶん心配しているみたいね。あんないい人が、前は丈を憎んでやっつけてやろうと思っていたなんて、とても信じられない......」
「快男児、というのは彼みたいな男のことをいうんだろうな」
丈は、田崎が懸念している江田四朗の変貌のことを姉に告げた。
「四朗はどうも、おかしくなっちまったらしいよ。まあ、向うもそういってるかもしれないけど......おれをやっつけるために、校外組織まで造っているらしい」
「それで、丈を呪って弱らせるなんてこと、本当にできるのかしら?」
三千子は白い小さな顔を凍りつかせていった。
「たぶん、できる。ほら、おれに超能力が生れたあの夏の夜......おれのドッペルゲンガーが現われたってことを姉さんに話したよね? そいつはおれをそそのかして、ルナ王女に呪いをかけさせようとした。おれが念をかければ、王女は全身麻痺で這うこともできなくなると教えてくれたよ。確かに強い念力があれば、他人を病気にすることはもちろん、命を奪うこともできるんじゃないかな......おれはいやだといった。でも、我を忘れるほど怒っていたり、殺してやりたいと思うほど憎んでいたら、誘惑に負けてしまったかもしれないな」
「でも、丈はやらなかった。それは丈がすでに意識で宇宙の真の姿を見せられて、心が目覚めていたからだわ。宇宙と自分、人類と自分という関係をはっきり把握したからでしょう。人類が宇宙エネルギーの根元では一つの存在だとはっきり悟ったからでしょう? だからこそ丈はその真実を他の人々にも伝えたいと願った......私怨にまかせて王女を呪うなんて卑しいみっともないことはできなくなっていたのよ。丈はそこで大きく自覚したのだとあたしは思うの」
三千子は寒さを感じなくなったように熱心にいった。
「人類は一つだ、全ては同胞だと頭で考えて抽象的概念をもてあそぶのと、宇宙の中で実感するのは大違いだわ。本質的に異ることなのよ。丈はある意味で、宇宙意識と交感して啓示を受けたアブラハムやモーゼ、ゾロアスターや釈迦やイエス、そうした人々と同じ立場に立ったのだと思うの。それは悟りといってもいいんじゃないかしら?」
「でも、僕に意識を通じて宇宙を見せたのは、ルナ王女なんだ。宇宙意識〝フロイ〟と交感したのは王女で、僕じゃない......」
「〝フロイ〟はそれさえも心得ていたと思うの。結局、ルナ王女の意識を通じて、丈に宇宙の真実を示し、啓示を与えたのは〝フロイ〟そのものなのよ。王女自身の意志ではないのよ。宇宙意志とはそうしたものだと思うわ」
「僕にコンタクトしたのは、確かに王女よりもはるかに巨大で精妙な意識だったことはいえると思う......僕は〝神の意志〟というべき力を感じたよ」
「人間の個人的な意志の力なんて、高が知れていると思うの。もし、それに宇宙意識のエネルギーが流入してきた時だけ、人間は偉大なことができるのじゃないかしら? 〝フロイ〟に触れる前のルナ王女はとてもきれいかもしれないけど、ただの超能力者じゃなかったかと思うの。高慢で心が狭くて、女性のいやな性格を沢山持っていたと思うのね......でも、王女は変ったでしょう? 丈、あなたも大きく変ったのよ」
「僕は自分がそんなに変ったという自覚がないんだよ。あいかわらず心が狭くて、他人を許せずにかっかと心が燃えてしまう。努力しているつもりなんだが、人はあまり僕のいうことに耳を傾けてくれない。正確に意図することを他人に伝えることも満足にできないんだ」
「丈は今、大きなエネルギーを持っているわ。けれども、あなたがいくら熱心に、上手に話して、大きな感動を人々に与えたとしても、それはその場限りだと思うの」
「そうなんだ! みんな一時は熱くなって、その時はやるぞ! 頑張るぞ! と誓うんだが、すぐに忘れてしまうんだ。逆戻りしちまうんだよ! いつまでたっても、同じことを繰り返してるような気がする!」
丈は思わず熱くなって声高になった。
「これじゃ、いくら人が沢山集まったって無駄だ。堂々巡りをやってるんだよ!」
「口先だけでは人は変って行かないわ。丈の努力する姿を見ることによって、人々は変って行くのだと思うのよ。だとすれば、短時日でお手軽に、というのはどだい無理な話でしょう......みんなにも時間を与えなければ。だって、あなたが与えられたような経験は、みんなは得ることができないのよ。だとすれば、時間をかけて徐々にわかってもらうしかないでしょう? 焦っても無駄なんじゃないかしら?」
「それは、姉さんのいう通りだと思うよ。しかし、今までかかって、まだだれ一人、本当に理解してくれた者はいない......本当にどうしていいのか、わからなくなってくる。四朗が簡単に人を集めて、組織を造っていると聞くと秘訣を尋きに行きたいくらいだよ。もしかしたら、四朗が呪っているおかげで、何もかもうまくいかないのかな......」
「そういうことを四朗さんが呪ってるせいにしちゃいけないわ。だって、ちゃんと原因があるからでしょう? 責任は個人個人にあるので、なにもかも四朗さんのせいにし始めたら大きな間違いだわ」
と、三千子が真剣にいった。
「わかってる......ただ、四朗が直接僕に念をかけないで、周辺にかけ始めたら、と気になってきたんだよ。僕をまともに狙えば、念のかけ合いになるかもしれない。四朗は僕の念力の強さを知っているから、直接攻撃を避けて、僕の周囲の人々を的にするかもしれない......田崎さんもそれを心配していたんだ」
「もし、仮にそうだとしても、丈は決して相手のようなやり方はしないでほしいの。人を呪って傷つけたり病気にさせたりするのは、一番卑劣な、邪悪な手口だと思う。丈、それはあなたが決してしてはならないことよ。超能力者がそんなことを始めたら、人間であることをやめて、幻魔のようなお化けに変ってしまうはずだわ。だって、人を呪ったり祟ったりするのは悪魔や外道のやることでしょう? そんなことをしたら、その超能力を使った本人に恐ろしいことが起こるわ、きっと。丈、絶対に人を呪ったりしないとお姉さんと約束して?」
「もちろん、僕はそんなことはしない。夢にさえ思わないと誓うよ」
丈はゆっくりといった。三千子の比類ない真剣さに打たれていた。
「もし、災いが丈の親しい人、愛する人に及んだとしても、復讐するために、丈の優れた〝力〟を決して使わないと誓ってちょうだい! たとえ邪悪な超能力者が、悪魔的な〝力〟を振るって、あたしを死なせたとしても、復讐のためにあなたの〝力〟を汚さないと......」
「姉さんが死んでも!?」
丈は凝然となった。夜気の寒さよりも更に冷たいものが体を凍てつかせたようだった。激しい思いが心中にせめぎあって、丈から言葉を奪った。もし、江田四朗の呪詛の災いが姉の三千子に及び、彼女の命を奪ったとしたら、丈は黙っていられるだろうか。
自分に恐ろしい〝力〟が内蔵されており、それを相手に向けて解放するだけで、報復できるとわかっているのに、なお自分を抑制し続けることができるだろうか?
もし、姉が死んだら!
「............」
丈の口は封じられたようになり、ぴくりとも動かなかった。
「どうしたの、丈? 自分の〝力〟を悪用することは決してしないと誓ってほしいのよ。当然のことでしょう? あなたはすでにもう誓っているんでしょう? 人類は互いに争うべきではない......宇宙的な愛と連帯のために自分の魂をささげるって。お姉さんの前で、それをもう一度確認してほしいの」
「もちろん、そのつもりだ......」
丈は無理やり唇を動かして、ようやく言葉にした。しかし、声にも言葉にも確信が欠けていた。姉が死ぬというショッキングな考えにすっかり動揺しきってしまったのだ。
「姉さんのいう通りにする。自分の〝力〟を悪用することは決してないと誓います」
丈は口がこわばったようにぎごちなくいった。
「しかし、そんなことは考えたくないよ。考えるのもいやだ!」
と、彼は激情に駆られていった。
「姉さんが死ぬなんて、そんなことがあるもんか! そんなことは絶対にない!」
丈は荒々しく息をついた。自分の感情の昂ぶりに当惑していた。はっきりしているのは、姉が自分の死を語ったことに対して、異常なほどの恐怖を覚えたということだった。
「............」
三千子は沈黙していた。なぜか丈の断言を保証してくれなかった。丈は突如思いだした。まだ丈が幼いころ、ずっと昔、やはりたわむれのように三千子が尋ねたことがある。──もし姉さんが死んだら、丈はどうする? お墓をたてて、お詣りに来てくれる?
なぜそんな言葉を彼女が口にしたのか、いきさつは全く憶えていない。丈は非常に怒り、泣いたようである。
姉さんは絶対に死んじゃいけないんだ! 永久に生きていなければいけない......
その時、姉は決して死なないと丈と約束したはずだ。永久に生きて、丈を見護っていてあげると彼女はいったのだ。
姉の死ほど、丈にとって真に恐るべきものはなかったはずである。それは異常に悪いことであった。丈自身が死ぬことよりも悪しきことだったはずだ。
丈の最悪の悪夢は、姉を失うことだった。いなくなってしまった三千子を探して、暗く寂しい夜道を歩いて行く夢である。孤り黄泉路を丈は姉を取り戻すべく歩いて行くのだった。
これほど恐ろしい夢はない。ずっと後になり、中学生になっても冷水に漬かったように寝汗におびただしくまみれ、夜半飛び起きた後も、三千子の無事を確かめるまでは寝つけなかったものだ。姉の部屋の外まで行き、安らかな寝息を聞くまでは、胸を締めつける不安が去らないのだった。
神話のオルフェウスのように、暗い荒涼とした黄泉路を歩く夢は、幼時より丈につきまとってきた悪夢であった。
丈は甦ってきた恐怖に満たされた目で、姉の夜目にも白い顔を見詰めた。姉の顔は白い仮面のように丈の目に映じ、なにも丈に伝えてよこさなかった。
──もしかしたら、姉は予感しているのかもしれない......
その想念は言葉にならなかった。丈が激しく抵抗し、払いのけてしまったからだった。──姉は自分の運命を知っているのではないか......
丈は思わず呻いた。この寒夜にもかかわらず、汗がどっと額に噴きだした。強迫観念が育とうとしてうごめくのを感じていた。
「おーい、二人ともなにやってるんだい」
と、弟の卓ががらりと勢いよく、玄関の格子戸を開けて呼んだ。
「そんなところで風邪引くじゃないか! なにしてるんだ。寒くないのかい?」
呆れ顔で卓は、身動きもせず佇んでいる二人を眺めた。
「入りましょ、丈」
と、三千子がいった。
「まだ話があるの......久保陽子さんのことで。お風呂に入って、丈。体が冷えちゃったでしょう? 上ったら話すわ」
「大丈夫だ。応接間で話そう」
丈はほっと安堵していった。どんな話題であろうとも、今まで彼が直面させられていた〝姉の死〟に比べれば、なにほどのこともないと思われたのである。
6
久保陽子は〝GENKEN〟を辞めたいといって、三千子に相談に来たというのだった。
陽子の振舞いが気にかかっていたことは確かだったが、やはり丈にとっては寝耳に水の驚きだった。〝GENKEN〟は丈と陽子が二人で造ったものだといってもいい。まさかそこまで陽子が考えているとは、信じがたいほどだった。
「陽子さん、ずいぶん悩んでいるみたい」
と、姉は同情をこめていった。
「風邪が抜けていないといってたけど、顔色が悪くて、だいぶやつれていたわ。相談を持ちかけられちゃったけど、なんとも応えようがなかった......」
「なぜ陽子は辞めようって気になったんだろうか?」
丈は拳を握りしめながらいった。そこまで彼女を放置していた自責の念がある。
「なぜ、もっと早く僕にいわなかったんだろう......」
「丈には直接いえないから、それで悩んでいたんじゃない? 家庭の事情で活動に協力できないのが申しわけなくて、とかいろいろいっていたけれど、陽子さん、淋しいのだと思うのよ。手塩にかけたGENKENは校外の大きな組織になってしまうし、自分は協力して活動できない引け目があるし......丈がどんどん自分から離れて大きな存在になってしまうという寂しさなんじゃないかしら?」
「しかし、辞める必要まではないと思うんだ......別に彼女が疎外されたという事実もないし、校内のGENKENの会員で、活動できなくなった者は、陽子一人じゃないんだ。沢山他にもいるし、日曜祭日には顔を出したりしてる。気に食わないから辞めるなんていう会員は一人もいないぜ。それは親の反対で辞めざるを得なくなったというのは何人もいるけれども......」
「あなたも忙しすぎて、陽子さんと話す機会があまりなかったみたいね」
と、三千子が穏やかにいった。
「それはそうだ。陽子があまり出てこなくなったんで、変だなとは思っていたんだけど......しかし、なにが気に食わなくて辞めるなんていいだしたんだろう? 姉さんにそのことを話さなかったかい?」
「特にはっきりとはいわなかったわ。でも、陽子さんの口ぶりだと、今GENKENにはいろいろな問題が起こっているみたいね? 特に校外へ出て、一般の人々も会員になるようになってから......彼女、正義感が強いでしょ。いやな事がいろいろあって、それを丈にいえないものだから、余計屈託しちゃったんじゃないかしら」
「なぜ僕に直接、はっきりいわないんだろう......陽子らしくもないな」
丈は眉根をしかめて呟いた。
「今夜も、郁江にそれをはっきりいわれたよ。知ってるだろ、井沢郁江......彼女も腹に据えかねていることがいろいろあって、でも郁江は面と向ってはっきりといったぜ」
「陽子さんと彼女はまったく個性が異るのよ。陽子さんはあなたのことを本気で心配しているわ」
「それなのに、どうして辞めるんだろう? 矛盾しているんじゃないかな?」
丈は苛立たしげにいった。
「いったいなにが不満なんだろう?」
「陽子さんは、丈について行くのが自分にはむずかしくなったといっていたわ。自分には荷が重すぎるって......」
「そうか。おれの遣り方に反対なんだな。きっと校外に〝GENKEN〟を移したことも陽子は気に入らないんだろう。ずいぶん説明して向うも納得したと思ってたんだが......しかし、部活動の一端じゃ発展性がないということは陽子も賛成したんだけど」
「陽子さんの場合、もっと屈折してるんじゃないかしら? あなたもGENKENも自分の手を離れて、独立して動きだしてしまったので、淋しくなってしまったんでしょうね。自分は家庭の事情で参加できないし......あなたも陽子さんの気持をわかってあげるべきじゃないかしら?」
「それはわかってるつもりだけど、しかし、陽子だけを特別扱いするわけにはいかないんだ。どんなにみんなが僕に注目して、些細なことまで気にしているか......それを知ったら、きっと姉さん驚くよ」
「それは、気がついてるつもりだけど。なにも特別扱いするとか、そういう必要があるということじゃないのよ。陽子さんの気持はちゃんとわかっているというサインが不足していたのじゃないかと思うの」
「そういわれると弱いな。しかし、実際、嫉妬や反目は想像以上のものがあることは確かなんだよ、姉さん。校内〝GENKEN〟の時は創設時だったし、学校当局の認知を受けなければ存続が困難だという危機感があったから、会員みんなの気持が一つにまとまっていた。物凄く志気が高く、圧力をはねのけるための団結力も強かった。陽子はその時、一番活きいきしてたよ。
しかし、今は状況が違う。校外の組織として生れ変ったし、一般会員を受け容れて、どんどん大きく発展していってる。陽子がこれまでのように思い通りに副会長として切り廻せる時代じゃなくなったんだ。会の雰囲気も当然変化したし、それが陽子には面白くないんだろうな。しかし、組織は多数の人間の参加によって形成されるんだし、全て自分の思い通りになるわけはない。面白くないからといって脱退するのは、陽子が〝GENKEN〟を趣味的に捉えていた証拠じゃないのかな」
「陽子さんの場合はそれと問題が違うみたいよ」
三千子は陽子に対して同情的だった。
「陽子はなぜ僕に直接いわないんだろう?」
「丈は怖いんじゃないかしら?」
「僕が怖いって?」
丈はあっけに取られた。
「そんなはずはないよ。僕は陽子を叱ったり怒りつけたりしたことは一度もない。それなのになぜ怖いんだ?」
いささか憤然といった。
「丈は自分にきびしいけれども、他人にもきびしいからよ。陽子さんは自分があまりにも弱い人間なので、強いあなたにはついて行けないといっていたわ。あなたの提唱する〝宇宙的な愛と友情の連帯感〟には充分共感するんだけれども、自分のなかにはそれを拒むものがあるって......
陽子さんがいうには、自分自身が怖いんだそうよ。〝愛と友情の連帯感〟におよそ相反する毒々しい感情があって、それに堪えられない。このまま行くと、よくないことが起こりそうな予感がするっていっていたわ。だから、今の内に身を退きたいんですって」
丈は頭の横を打たれたように、頭を揺れさせた。
「そうか......陽子は前にいってた。陽子には昔からだれかを憎んだりすると、相手の身によくないことが起きるんだって。自分には邪悪な、魔女のような〝力〟があるんじゃないかと心配していたんだ。きっとそのことをいっているんだろう」
「人を呪ったり祟ったりして、害を及ぼす力が陽子さんにはあるわけなの?」
「そういう悪い魔女みたいな力が自分にあるような気がするといってた。昔から非常に気にしてたんだそうだ」
「それで、理由が吞みこめたわ」
三千子は頭をかしげてじっと考えこんでいた。その沈黙が、丈に不安をもたらした。
「陽子が姉さんに相談に来たというのは......陽子がだれかを憎んでるからかい? まさかそうじゃないだろうね?」
「陽子さんは、丈、あなたに特別の感情を持っているのよ」
と、三千子は静かにいった。
「だから、悩んでいるの。あなたにそんな感情を抱いてはならないという罪悪感があるのだと思うわ」
「それは......僕にはどうにもならない。頭を抱えこんじまうね」
丈は絞りだすような声音でいった。
「それは陽子自身の問題だが......僕はなにもいえないよ。こういう問題はまったく......実に困るな......」
「だから、陽子さんは悩んでいるのよ。自分で自分がどうにもならないでしょう? 陽子さんは嫉妬とか自分の醜い感情をもてあましてしまっているのね。自分の邪悪な気持が、他人を傷つけるのがとても怖ろしいと打明けてくれたわ。だから、今は丈からも〝GENKEN〟からも離れたいんですって......孤りになって静かに自分を見詰めたいといっていたわ。無理もないと思うの......だから、丈、陽子さんの気持を察して、しばらくそっとしてあげてね」
「参ったな......」
丈はすっかり意気消沈してしまった。
「いろいろと問題がありそうね?」
三千子は同情の眼差で弟を見ていた。
「会の方、思うように行かないんじゃないの?」
「問題がありすぎるんだ。会を大きくすること自体は簡単なことなんだが......ただむやみに大きくしたところで、なんにもならないということもわかってる。みんな各自の思惑があって、心はバラバラだ。新興宗教に入信したつもりの人もいれば、趣味のサークルに入った気分の者もいる。女の子とつきあうのが楽しみでくる者もいるし、自分のおかしな狂信的な理論を他人に吹聴して自己満足を得るのが目的の人間もいる。巨大組織に育ったら、自分の商売に利用する気で入ってくる奴もいる。とにかく、てんでに勝手なことを考えているんだ。こんな時に、陽子は会を放りだして辞めたいなんていうし、どうにもならない......」
丈は両手で頭を抱えた。
「お姉さんが会を手伝ってあげられればいいんだけど......」
と三千子は躊躇いがちにいった。
「なんとか時間を都合するわ。なにかあたしにできることがあったら......」
「いや、姉さんはやめておいた方がいい」
と、丈はあわてていった。
「どうして?」
「姉さんには仕事があるじゃないか。もし姉さんが会を手伝うので家を明けるようになったら、卓も困る」
「なんとかして遣り繰りできると思うわ」
「無理するのはよくないよ」
と、丈は懸命にいった。
「それに、お姉さんには客観的に組織を見ていてもらいたいんだ。内部へ入りこんでしまうと、どうしてもパースペクティブが狂ってくる。〝井の中の蛙〟になっちまうんだ。ちっぽけなことが世の中の一大事みたいに感じられて〝コップの中の嵐〟になりやすい。客観的な姉さんの目で会を観察してもらう方が望ましいんだ」
「そう......」
三千子はなんとなく胸落ちしないという表情だった。
「とにかく、今の会だったら、大きくする必要はまったくない。それどころか、存在する必要さえないような気がするんだ。せいぜい講演会の主催機関という程度の存在理由しかありゃしない。
超常現象を超心理学としてまじめに研究しようとする意欲もない。こんなものを今後苦労して続けていくだけの理由が果たしてあるのかといつも考える。ニューヨークではルナ王女がしっかりした組織造りをやっているだろうし、今さら僕なんかが中途半端なことをやらなくても......世界平和とか崇高な理念を掲げた団体が沢山あるけれども、別段どうという活動もしていないという理由がだんだんわかってきたよ。最初から遠心的な状態の組織はだめなんだ......構成員が各自の思惑を持ってる限り、決して有効に機能しない。いずれは内部抗争、分裂が起こる。中心人物が強い求心力を働かせない限り、必ずバラバラになったり官僚的になったりしてしまうんだよ」
「丈は、会がお荷物になってきたの?」
「いろいろな迷いが出てきたんだ。適当に会を運営するのは簡単だと思う。楽しくやりながら、組織を拡大するのもむずかしくないだろう......多少の醜いことに目をつぶって、いわゆる大人の、清濁合わせ飲むという行き方を選ぶことができれば、苦労はあまりないと思うんだ。でも、そうやれば、組織は自立し始める。組織のための組織に変ってしまうと思う。組織が存在し、自己を拡大するために、人が使われるようになる......僕が思い通りに組織を造り上げるなら、独裁するのが一番手取り早いし、効率もいいとわかっている。それは僕にも可能なはずだ......しかし、それでいいのかとなると疑問に悩まされる。人が育たないんだよ」
「でも、そうはいいながら、丈はこの数か月間でずいぶん組織のことを勉強したんじゃないの?」
三千子は丈の心を暗部から明へと向き直らせるようにいった。
「普通だったら、とてもできない勉強だわ。理想の組織がどんなものかも摑めてきたのじゃないかしら? 組織の指導者として、得がたい経験を今積んでいる、積みつつある、と考えることもできるわね?」
「それは勉強した......組織が人間と同じように理論だけじゃ取りおさえられないものだ、ということもわかった。組織は必ず内部から崩壊を始めるんだ。だから、今のうちに組織の実態について、とことんまで知っておく方がいいということもわかってる。
しかし、それでも僕には負担が重すぎるんだ。こんなことをしていて、果たしていいのかという気がしてくると、夜も眠れなくなるほど迷う。僕はルナ王女に協力して、超能力集団の組織化に協力すべきじゃないか......超能力を持たない人々を集めて、いったいなんになるんだ? こんな馬鹿なことはすぐにやめてしまえ......そんな内心の声に悩まされる。確かに僕は最初超能力者を、王女と張り合って自力で集めようと思っていたみたいだ。しかし、超能力者だけじゃ地球は救えない、人類の心が全て一つに融け合わなければ、超能力者も力を発揮できないのではないか......そういう気がしてきたんだ。普通の人々でも、あるいは超能力を持っているのかもしれない。超能力者だけが〝力〟の持主ではないのかもしれない......ふとそう気がついて、超能力現象自体も究明の対象にし、超能力開発も同時に施行できる組織を造りたい、というように考えが変ってきたんだ。
しかし、もちろん、超能力者として開発されるだけでは、ただの〝術者〟でしかないし、全人格的に陶冶される必要もあるんじゃないかと思うようになった。だって、徳性を欠いた超能力者は幻魔みたいな存在になってしまうからだ......しかし、それをやると宗教的だと非難も受けるし、〝行〟の好きな偏った人々ばかり集まってくる......先生はきびしすぎる、前の優しさとは人が変ったみたいだと不平不満も出てくる。道はどんどん険しくなってくる。
こんなことをしていていいのか......そう思うと焦りが生じるんだ。やはりルナ王女のように超能力者だけを選んで、才能を伸ばして行く方法が正しいんじゃないか。真に才能のある人間だけを選んで、徹底的な教育を施し、強力なエリートにし、人類を指導させる方がもしかしたら正しいんじゃないか......そう考えると心が揺ぎだす。こんな非能率的で砂のように各人の心がバラバラな組織は無意味だ。金もうけの種にしようとする奴、女の子とコネをつけ、享楽だけを手に入れようとする奴、みんな組織から叩きだしてやりたくなる。もし徹底的にやれば、一人残らず出て行ってしまうことにもなりかねないんだ。今まで自分は何をやってきたのか......そう考えると堪らなくなる......」
丈は憑かれたように内心を吐露した。自分の考えをあまさず話せるのは、やはり姉だけだ、と丈は感じた。
「でも丈......普通の人が造った組織も、超能力者が造った組織も、少しも変りはないはずだと思うのよ」
と、三千子は静かにいった。
「今、丈が学んでいる組織の実際は、必ず超能力者集団にも役に立つはずだわ。突きつめて考えれば、組織を形成する各人の心の問題に還元されると思うの。
だとすれば、組織における指導者の問題も、組織を腐敗させたり、分裂させたり、官僚化させたりする原因も全て、人々の心に起因することを丈は学んだわけだし、それは〝超能力者集団〟にも適合させうるでしょう?
むしろ普通の人々よりも、超能力者はエリートとしての優越感や権力意志が強いだけに、組織の脆弱化は非常に早いかもしれない。丈がいったように〝組織は内部から崩壊する〟わけじゃないかしら? もしかしたら、今丈が学んでいることは、将来非常に大切な問題提起として生きてくるかもしれないわ。
もちろん、ルナ王女もそれくらいきちんとわかっていると思うけれど、それは別として、丈が今ここで学んでいるのは、決して無意味でもなんでもなくて、それどころか一番大切なことじゃないかと、お姉さんは思っているんだけど」
「やっぱり姉さんを〝GENKEN〟に引っ張りこまなかったのは正解だったな」
と、丈は顔を歪めながらいった。感動の表出をむりやり抑えつけているためだった。
「姉さんは実に正確に物事を観察して、洞察する。おとなしくて内気な姉さんに、なぜそんな凄い才能があるんだろうな。時折、僕は姉さんこそ真の天才じゃないかという気がするよ」
「あたしはもちろん天才なんかじゃないわ。丈に相談されたら、どう答えようかといつも必死で乏しい脳細胞を働かせているのよ」
三千子はあわてていった。彼女は照れると少女のような顔付になってしまうのだった。

「いつも懸命に考えているの。少しでも役に立てるかしらと思いながら......でも、丈の心が揺れ動いた時に、多少なりとも参考になれば、姉さんも嬉しいわ」
「姉さんがいなかったら、僕はどうにもならないよ。こんなに依頼心を持っていいのかと思うくらいだ......姉さんに尋けば、必ず的確な答が返ってくる。しかし、僕は元々、人に教えたり、指導するような柄じゃない。今の会の現状だって、僕に指導者や組織者としての適性が欠けているからじゃないかという気がする。僕さえもっとしっかりしていれば、会もこれほどいい加減ではないんじゃないか......そういう気がしてならないんだ」
「反省はいいことだけれども、自虐的になるのはマイナスにしかならないわ。丈にできるのはベストを尽すことだけ。他にはなにもないわ。一瞬一秒を努力するほかになにができるかしら? 時間は残り少いのよ。もうすでに〝幻魔〟は侵攻を開始しているじゃないの。一秒一秒が丈にとってダイヤモンド一粒一粒よりはるかに貴重なはずよ。いざとなったらお姉さんも手伝うわ。でも、その前に丈はどんな逆境や苦境からも学び、吸収することが沢山あると思うの。
今後、もっと状況は悪くなるかもしれないわ。でも、スランプに陥ち込んだ時ほど、学ぶことは沢山あるはずよ。万事好調の時には逆に悪いことはなにも目につかなくなってしまうでしょう?」
「悪い時こそいい時だ! 元気が出てきた」
丈は大声でいった。
「険しい山ほど登り甲斐があるからな! だいたい万事、すらすらと思い通りに行くなんて元々思っちゃいなかった! 姉さんのいう通りだ。心のどこかに苦労したくない、楽にやりたいという気持があったんだ。だから、苦しくなると愚痴が出てくる。なんの苦労もなく、優れた人々、素晴らしい人々がどんどん集まって来て、見る間に理想の組織が造られ、大勢力となって世界を席巻する。そんな夢想があったんだよ。楽をしたいといつも心のどこかで思っているから、こんなはずじゃなかった、人材はちっとも集まらず、愚かしい自分勝手な連中ばかりだとひそかに腹を立てていたんだ......なんでもう少し立派な人間、才能のある優秀な人間が来ないのかと不平不満ばかりためこんでいた。
なんの苦労もなく優れた人材が雲の如く湧いてくるという幻想の虜になっていたからなんだ。でも、そうじゃない! 手持の札を大切にしてコツコツとやって行くしかないんだ! だって、もし優れた人々がやって来ても、今の会の有様を見たら、呆れ返って、さっさと帰ってしまうだろうしね!」
丈の顔には血の気が射し、瞳が輝き始めた。
「姉さん、飯! いきなり猛烈に腹が減ってきたよ! 胸のつかえがいっぺんに取れたみたいだ! 大急ぎで風呂を浴びてくるから、飯の仕度頼むよ!」
久しぶりに丈の小柄な体にはエネルギーが充満してきた。意欲があふれてきたのだった。弾むように椅子から跳ね起きると、廊下へとびだして行った。
が、すぐにばたばたと駆け戻ってきて、応接間に首を突っ込み、叫ぶ。
「姉さん! 陽子のことも心配いらないよ! じっくりと話せば、彼女もわかってくれると思うんだ! なんといっても創設メンバーだし、相棒だもんなあ。世界中が大変だというのに、他人を嫉妬したり呪ったりしていられないよ。そうだろ!?」
「そうね。きっと彼女も丈の気持をわかってくれると思うわ」
と、三千子が答える。丈は安堵したようであった。
「そうだと思ってた! だいたい人を呪うなんて気持のいいもんじゃないものな。呪いは自分に返ってくる。だって〝人を呪わば穴二つ〟っていうだろ? あれは墓穴のことだからね!」
丈は再びどたばたときしむ廊下を風呂場へ駆け戻って行った。三千子は弟がどんなに心を痛めていたか、いたいほど思い知った気分だった。
丈の顔付からは、人はあまり感じ取れないだろうが、あれでいて会員の一人一人に緻密な心配りを怠っていないことが三千子にはわかっていた。丈は、〝GENKEN〟という小さな組織から全てを学び取ろうと必死になっているのだ。彼はだれの指導も受けず、独力でやり遂げなければならない。
三千子にとっては、見ている方がつらかった。過重な学校と会の二重生活によって、活力を絞り取られ、日に日に体重を少しずつ失い、食欲も睡眠欲も低下し続けている弟を見ると、心臓を絞めつけられる思いがした。丈は心身ともに己れをいじめつけることで、心労を忘れようと努めている傾向さえあったからである。
これ以上、状況が悪化すれば丈はどうなってしまうのか、三千子は考えるのも怖ろしかった。しかし、彼は全力を挙げてあくまでも立ち向おうとするだろう。たとえ周囲が全て敵と化しても怯むことはないに違いない......小柄な瘦せぎすの体の中には、猛烈なマグマが煮えたぎっているのだ。
三千子は痛いほどの愛情と誇らしさを覚えずにはいられなかった。できるならば弟の苦しみを自分が代わってやりたい。けれども、それは許されないことだった。丈は自らを火中に投じて鍛えているのだ。彼の唯一の切札である巨大なPKを用いることを自ら封じ、言葉だけを武器に挑んでいるのは、丈の気迫の激しさを証すものであった。
彼がその恐るべき偉大なPK能力によって立てば、全世界は驚倒することは疑うべくもない。丈の〝力〟は文字通り山を移すことさえ可能な超絶レベルにある。造作もなくイエス・キリストやモーゼに比肩する巨大な奇蹟能力者として、影響力を行使することができるだろうに......
一身に集中するには巨大すぎる〝力〟を封じて、小さな組織を自ら造り、思うにまかせず四苦八苦している弟が哀れであり、いとおしかった。
彼の考えは正しいのかもしれないし、間違っているのかもしれない。三千子には判断の基準がなかった。人々は結局、丈の〝力〟を実見しない限り、信じないのではないかと思う。丈は己れの四肢を縛りあげて、なおも走ろうと試みているのかもしれない。わずかな例外を除いて、大部分の人々は丈に不信を抱くだろう。なぜなら、巨大な〝力〟を持ちながら、それを実証しないことは人々の理解を絶しているからである。〝力〟をもって人々を説得しなければ、だれが〝力〟の存在を信じることができるだろうか。
皮肉なことに、丈の否定者である江田四朗が、丈を否定する活動を通じて、丈の持てる〝力〟の証人になっている。四朗は丈を〝魔王〟と規定するために、丈の巨大な〝力〟を認めざるを得なかったのだ。
そして、人々が丈の〝力〟の証しを求める声はしだいに高まり、もし丈がそれに応えなければ、人々は彼を見捨て、離れ去るのではないか......
しかし、それでも丈はなおも困難な道を歩み続けようとするだろう。丈は信念に生きようとする人間であり、そう育てたのは、他ならぬ三千子自身なのだ。
三千子はあふれだしてきた泪を白い指先で払いのけた。弟が歩もうとする道の困難さを思えば、彼が哀れでならなかったのだ。
7
会員は急速に減り始めた。新入会員が加わる速度は衰えなかったが、旧会員の減少するスピードはそれを更に上まわっていた。
会員数減少の原因は、丈がきびしい方針を徹底させにかかったことが、会員たちを動揺させ、失望、落胆を招いたことにあるようであった。
幹部会員が一時に何人もごっそりと脱落し、中傷と誹謗をまき散らして行ったことも大きく響いていた。
東丈会長は、やはり恐ろしい〝魔王〟だという噂がマイナス情報となって、全会員に浸透したようである。丈は気にくわない幹部を念力で焼き殺そうとしたが果せず、追放したというのである。
クリスマスの講演会を控えて、顔馴染みの会員たちの顔がめっきり少くなり、講演会の開催自体が危ぶまれ始めた。準備の人手が不足してきたのだった。
会員が減ったことには、丈は少しも危機感を持たなかった。あやふやな噂だけで逃げ去る会員というのは、最初から夾雑物的な存在だったろうと考えられるからだ。丈が幹部たちの邪しまな内心を看破し、放逐したという情報は、同様の下心を持っていた連中を震えあがらせたに相違ないからだ。
会議室の気温が異常上昇したといっても、室温が四十度を超えたわけでもなかったろうが、丈の念力で今にも部屋中が燃えださんばかりに過熱した、と大仰に伝えられた。
逃走した幹部会員の恐怖体験が深甚だったことは、念力で焼殺されかけたという噂によく表わされていた。
急激な減少ぶりに、危機感を抱く会員たちも少くなかったが、丈はなんの手段も講じず、なるがままにまかせた。会員はいくら減ってもいい、と公言する。残る者だけが残ればいいのだ。
丈の目算通り、会員が減るにつれて、会の雰囲気も変化してきた。風通しがよくなり、鬱陶しさが乏しくなった感じだ。腹に一物ある連中が急いで退散したせいであろう。
確かに組織ばかり拡大しても得る所はないと実感できる。小人数の方がコミュニケイションが濃くなるのも当然だ。
井沢郁江は平然たる愛くるしい顔をオフィスに出していたが、久保陽子は脱会同然の有様であった。
学校で顔を合わせる機会があっても、はっきりと丈を避けている。それがまた噂を招いているようだった。不仲の原因をいろいろ取沙汰しているらしい。
丈も敢えて久保陽子に声をかけることはしなかった。他にも離れて行った会員は何人もいるが、なにごともなかったように振舞う。去る者は追わないのが丈の主義だ。後を追っても、傷口を深くするだけだ。
校内〝GENKEN〟の招来した〝疾風怒濤〟の時期が過ぎて、キャンパスは一応の平静さを取り戻した。丈は校内では一切、行動は行わない方針を徹底させている。学園内で活動する時代は短期間で終了したのだ。
江田四朗の率いるという反・東丈軍団も、表面的にはなんの動きもない。活動は続けられているのかもしれないが、地下へ潜ってしまったように静穏そのものだ。丈と同じように校外に活動の中心を移動させたのかもしれなかった。
田崎宏からの新しい情報も入ってこなかった。全てが平穏であったが、新しい葛藤が生じる前の休止期であることを、だれもが感づいていたようである。
外見だけの平和が、激しい底流を吞みこんで丈の前に展開されていた。丈の学園生活に関する限り、平常そのものといってもよかった。
十二月も半ばになって、丈は国本という教師に呼び出された。一年の時に教わったことのある数学教師である。それが、人目を避けるようにして、丈を空教室に誘い込んだのだった。
「まあ、そこへ掛けてくれよ」
国本教師は最初からそわそわしていた。なにかしらやましいことでもあるような態度だった。きわめて気が弱い人物であることを丈は知っている。
「東......君のやっている会は、その後どうだ、順調かね?」
通路をはさみ、丈と向い合って腰をおろした教師はいかにも緊張過多という状態であった。右手が頭髪を撫でつけたかと思うと、顎をさすり、すぐに上衣のポケットの中でもぞもぞしている。
「そうかそうか、よかった。あの大教室でやった講演会は非常に素晴らしかったそうだね、うん」
国本は丈の返事をろくさま聞いていないようであった。どうやって用件を切りだそうかと思って心がごった返しているのであろう。
「みんな先生方、激賞していたよ。私も是非聴きたかったんだが、どうしても抜けられない急用が起きてね、うん。大変残念なことをした......」
丈は黙って教師に喋らせておいた。およその見当はついている。丈になにかの頼み事があるのだ。
しかし、丈は今となれば単なる一生徒ではない。社会的な影響力を持つ組織の会長なのだ。教え子とはいえ、平凡な一教師にとって丈は眩しい存在であるに違いなかった。うわずったような饒舌は、彼の自信のなさの表われだったのだろう。
「しかし、東、君は凄い実力を隠してたんだなあ、こうなると、東なんて呼び捨てにしちゃいかんのかもしれないな。大人たちが沢山君のことを先生、先生と呼んで崇敬おくあたわざるそうじゃないか? なにか話を聞くと他の高校の先生やら、大学の講師まで会員になっているんだそうだね?」
教師は畏怖の念をこめて尋ねた。
「たいしたもんじゃないか、高二の君が会長先生とは......わが校も著名人を擁して鼻が高いよ、うん」
「東、と呼んで下さい」
と、丈はいささかうんざりしていった。教師の果てしのないだらだらした讃嘆を打切らせる。
「僕はただの生徒です。学校にいる限り、特別扱いをしないで下さい。校長先生にもそのようにお願いしてあります」
「うーん、偉いね、君は。これだけ大人たちにチヤホヤされ、崇めたてまつられても、君は増長したり慢心したりする所がひとかけらもないんだね! 奥床しいというのか、能ある鷹というのか、本当の大物というのは、それでなくちゃいかんのかもしれないな!」
教師はしきりに手を活躍させては感じ入っていた。
「先生は、どうもいいにくいことをお持ちのようですね?」
と、丈は核心に触れ、相手はきょとんとした目付で教え子を見た。仰天していた。
「さすがだね。やっぱり、わかるのか?」
「わかります。おっしゃってみて下さい。僕ははっきりした人間ですから、駄目なものは駄目とはっきりいいますから、ご遠慮はいりません」
「うーん、弱ったな。実は安受合しちまってね、困ってるんだよ」
と、教師は両腕で頭を抱えこんで唸りだした。とたんに意気消沈してしまっていた。
「いや、やっぱり無理だろうな。つい、酒の勢いで口に出しちまったのが悪かったんだな......実にまずいことをしちゃったよ」
教師は慨嘆のていたらくであった。
「とにかく、おっしゃってみてください」
「すまん、東、聞いてくれ」
教師はすがるような目付で丈を見た。
「先日、学生時代の仲間と逢って、まあ同窓会みたいなことになったんだがね......」
大学の同級生に、さる大手出版社に入り、今では月刊誌の編集長になっている男がいる、と教師はいった。
「その男が、突然、東、君のことを喋りだしたんだな。たいへん君に関心を持っているらしいんだ。ところが、君の会〝GENKEN〟か、あそこへ取材の申込みをしても一切応じてくれないというんだ」
教師は頭をかきむしり、渋い顔をした。
「つい僕も、君が教え子だってことを口走っちまった。校長からもあまり君のことは口外しないようにと釘をさされていたんだが、学生時代の仲間でもあるし、自慢がしたくなっちまったんだ」
国本教師は酒の勢いも手伝ってぺらぺらと喋りたてた。そして旧友の編集長に、教え子の東丈を取り持つという約束をしてしまったというのだった。
「その元の仲間が、本田というんだが、優秀な奴でね、人柄もいい人間なんだ。それが東のことをしきりに感心して話しているのを聞くと、つい嬉しくなって矢も楯も堪らなくなっちまった。はっと気がつくと君を本田に紹介すると約束しちまってたんだ。すまん、東、勘弁してくれ、君はマスコミには絶対出ないんだそうだなあ。売名をしないのは凄いと本田は非常に感心していたよ。とにかく、とんでもない約束をしちまって悪かった」
国本教師は両手を膝に突き、深々と頭をさげた。
「わかりますよ、それは。つい口が滑ったというのは無理もないと思います」
「そうか、わかってくれるか」
教師は大感激の声をあげた。
「一度だけ、お逢いしましょう。その本田さんという先生のお友達と」
「本当か!? いや、それはありがたい!」
国本は躍り上らんばかりであった。
「しかし、はっきり申し上げておきますが、一度だけですよ」
「わかってる、わかってる! すまん、東。矢の催促で、安受合してたものだから、ほとほと閉口していたんだ! なにしろ学生時代からエネルギッシュな奴でねえ、もう五、六年逢ってなかったんだが、エネルギッシュな所はちっとも変わってない。毎日まだかまだかと電話攻めにあって、ノイローゼになりかけてたんだよ。なにしろ思い込みの強い男で、君に物凄く入れ込んでいるらしいんだな。いやあ、よかった」
大喜びでとめどもなく喋る教師を中断させるのに、丈は苦労した。
「あっ、地震だ!?」
国本がいきなり叫んで腰を浮かす。不安そうにきょろきょろと無人の教室を見まわす。
「おかしいな、今グラグラッと揺れなかったかい?」
「いいえ」
と、丈は平然と答えた。国本教師はいかにも腑に落ちない顔をしていた。
「それで、本田さんという方は、いい人みたいですね?」
丈がさりげなく尋ねる。
「それはもう、凄くいい奴だったよ。気の優しい奴でね......しかし、今のは地震じゃなかったのか? グラッと来たような気がしたんだが?」
「いいえ。僕はなにも感じなかったです。先生に仲介していただくわけですが、お願いがあります。こちらの条件を提示しますから、それさえ吞んでもらえれば、特に今回だけ一度に限り、取材に応じてもいいと思います。その条件を必ず守るように、先生からも確認を取っていただけますか?」
「もちろんだ! 約束は必ず守らせるから大丈夫だ! まかしといてくれ」
教師は晴ればれといった。無責任に聞こえるほどの軽々しさであった。
国本教師の友人である編集者本田は、約束通り、単身で〝GENKEN〟オフィスに姿を現わした。
満月のように福々しい顔をした人であった。総体的にころころと丸い。メガネをかけていないので童顔がなおさらベビーフェイスになっていた。警戒心を起こさせないタイプの人物である。
受付にいた菊谷明子が丁重に、編集者本田を応接室に案内してきた。初めてオフィスの中に入れるマスコミ関係者であるだけに、緊張しきった表情をしていた。彼女は幼稚園の保母さんであり、マスコミ人種にはまったく慣れていない。緊張のあまり、目がくぼんだ感じになり、ぎょろぎょろしている。
編集者本田の物腰は丁重であった。年齢は三十すぎであり、丈より一まわり以上も年長だったが、丈を高校生として軽視する姿勢はまったく示さなかった。神経のこまやかな、穏和な人柄が伝わってきて、丈の緊張をほぐすのに役立った。
本田はまるまっちい指先で、持参した社名入りの封筒から、〝GENKEN〟で出している広宣用のリーフレットを取り出し、テーブルの上に拡げた。
「これをお書きになったのは......?」
「私が書きました」
と、丈はいった。本田は嘆息を漏らして、体をソファの背にあずけた。
「ああ、やっぱりそうですか......いや、すばらしい文章です。私、本当に感心させられました。目から鱗が落ちた思いです」
本田は糸のように細い目で丈を見ていた。
「是非お目にかかってお話を拝聴したいと思っておりましたが、マスコミはシャットアウトなさっているようで......大学の友人の国本君から先生のお話を聞いた時は、神仏の引合せではないかと思いました。どうも強引なお願いを聞き届けていただいて、恐れ入ります」
「生意気かもしれませんが、まだマスコミの方々とはお目にかかっておりません。まだ私自身も、会も未熟なものですから、あらぬ誤解を避けるためです。ですから、カメラマンつきの取材はご遠慮申し上げました。それをご理解いただければ幸いです」
丈は喋っているうちに気が楽になった。相手の本田が丈に好感を持っていることをはっきり悟ったからだ。なんの理由もなく悟ってしまったのである。
編集者本田に問われるままに、丈は会の設立意図について話した。話すほどに、最初の警戒心のこもった硬直が融けて行った。本田は聞き上手でもあり、的確に丈の話す内容のポイントを抑えることができた。相手が充分に理解し、受容する用意があることを知るのは、丈に大きな喜びをもたらさずにはおかなかった。
本田が理解者として出現したことを、丈は知った。浅薄な取材方針をあらかじめ決定事項として押しつけてくるタイプのマスコミ人間ではなかった。
井沢郁江が取り澄ました表情で、応接室に茶菓を運んできた。次いで平山圭子が現われ、お絞りを出す。みんなが最初のマスコミ関係者を緊張して迎えているのだった。
「世界的に、現在特異な、常識では考えられない異変が......各々は大きかったり小さかったりしますが、とにかくたくさん起こっているようです」
と、本田は背中をまるめてお茶をすすりながらいった。
「大きいのは、今年の夏、ニューヨークのブラック・ハーレムで起こった黒人大暴動ですが......あれも非常に不可解な、とうてい考えられないような超常現象がからんでいることは明白です。先生の説かれている〝幻魔〟という宇宙的巨悪が、こうした奇怪な大惨事に関係している......そんな話も聞かれますが、先生はどのようにお考えでしょうか?」
「それは、ありうると思います」
丈はあたらずさわらずといった感じで身をかわした。本田が江田四朗の流している情報を摑んでいる可能性を感じ、慎重を期したのである。
「しかし、今は可能性を指摘するだけに止めておきたいと思います。〝幻魔〟が襲来した、あれもこれも〝幻魔〟の仕業だ! と叫ぶことは警世というよりも、無用なパニックを惹起するかもしれません。〝幻魔〟が実在することを私は声高に叫び、人々に告げることはしないつもりです。甚しい人心不安が生まれ、ひょっとすると戦乱が起きるかもしれないからです。冷戦の中では、疑心暗鬼は非常に危険です。〝幻魔〟はもちろん恐ろしいけれども、人類の心に蓄積された憎悪や怨恨、欲求不満、人間不信などの爆発物の方がはるかに恐ろしいと私は思っています。ブラック・ハーレムの大暴動、人種戦争も溜まりたまった憎しみが噴出したものです。おそらく〝幻魔〟はそうした人類の相剋の上に巧妙に上乗せしてくる〝悪の力〟を使用するのではないでしょうか? 〝幻魔〟の脅威だけを声高に叫んでみても、人類自体の反省がなければ、おそらく救済はないと思うのです。
まず人類自体が長年月の間に、垢のように溜めにためた、もろもろのいさかいのタネを解消させることが必要だと思うのです。その努力、営為がなければ、いかに警世家が大声で警告しても、人々の耳には入らないでしょう......おそらく戦争が勃発するでしょうし、それこそ〝幻魔〟の思うつぼにはまりこむのだ......私はその危険を切迫したものとして受けとめています」
「おっしゃる通りだと思います」
丸顔の編集者は共感をこめてうなずいた。
「〝幻魔〟よりも恐れなければならないのは、まず人類自体の心だ、とされる先生のお考えにはまったく同感です。おそらく〝幻魔〟と戦うよりも先に〝世直し〟が必要なのでしょうね......
しかし、先生、そのためには釈迦やイエス・キリストに匹敵する〝救世の業〟がなされなければならないのではないでしょうか? 今回は、イエスの中近東の一画、釈迦のインドの一画と異り、全世界を同時に救っていかなければならぬというわけですね?」
「そのためにこれだけマスコミが発達し、地球をすっぽりと覆っているのではないのですか?」
と、丈は反問した。
「〝救世主〟が世に出れば、今度は異常なスピード・アップがなされるでしょうね」
「先生は、その救世の業を行なわれる用意がおありなのではありませんか?」
本田はさりげなく、ずばりと尋ねた。細い眼が期待に光っていた。
「............」
丈は沈黙した。こうしたストレートな質問がこの後、くり返されることになるだろう。多くは揶揄の意図をこめてなされるだろうが、本田のはそうではなかった。
「私は救世主ではありません。かつてそう語ったこともないし、今後もそのように告げるつもりもありません」
「しかし、先生がこの〝GENKEN〟という組織をお造りになったのは、宇宙的真実を世界の人々にあまねく知らせ、覚醒をうながす......つまり救世の業そのものではないのですか?」
「いや。私が行なおうとしているのは、真の救世主を迎えることです。私自身は救世主でなく、そのように偉大な存在ではありえません。人々に救世主を迎える用意を説くことが、私のなすべき使命だと思っています。ですから、私は会を闇雲に拡大発展させるつもりはまったくありません。根の腐った組織を救世主にゆずり渡したところでなんにもなりません。救世主は自らの力で組織を造るでしょう......私は救世主を迎える道を地ならしし、花をまいて迎えるだけです」
「先生のお言葉は私を非常に感動させますが......しかし、先生のお力は偉大だと伝えられています。その偉大な力をもってしても、なお救世主たる資格にはならないのでしょうか?」
「たとえ、陸地を動かし、海の形を変えることが可能だとしても、それは物理的な力でしかありません。人類はすでにそのくらいの土木工事をやってのける力を持っているはずです。いくら巨大な力を持っていたところで、人の心まで変え、動かすことはできません。人々は権力としての〝力〟をみずからも欲するだけではないでしょうか......?
救世主の業は、それとは根本的に異るものです。全ての人類の善き心を集中化できる存在こそ〝真の救世主〟の業です。全ての人々の良心を目覚めさせることです。それこそが〝真の救世主〟の行なう業、真の奇蹟ではないかと思います。私にたとえ噂される〝力〟があったとしても、単に物質的な力にすぎません。人々はそれを羨望し、嫉妬し、自分も得たいと思うでしょう。あるいはその〝力〟ゆえに私を崇拝し、盲従しようとするかもしれません。でも、それはヒトラーを崇拝した民衆の蒙昧さと少しも変らないのではないでしょうか?
私はそれを望みません。言葉によって〝宇宙的連帯の必要〟を語って行くだけです。しかし、私の語る言葉が真実であれば、人々は少しずつ耳を傾けてくれるはずだ、と信じています」
「では、先生はご自身の持たれる〝力〟自体は否定されないわけですね? デモンストレーションのためには〝力〟は用いられないにしても、〝力〟自体の存在は認められるわけですね?」
「それを否定しても肯定しても、得るところはないと思います。いずれにせよ、不信の目で見られるでしょう。だから私は否定も肯定もしません。ノーコメントです。申しわけありませんが......」
「先生を〝魔王〟と呼んで、その恐ろしい魔力を警戒せよ、と叫んでいるグループがあるようですが、ご存知ですか?」
「知っています。しかし、問題外です」
「相手に対して反論し、あるいは名誉棄損で訴えるというようなことは?」
「そんなことはしません。〝朽ちた木は自らの重みで倒れる〟というのが私の信条です。ゆえない中傷や誹謗は一時的に人々の注意を惹くかもしれませんが、長続きはしないはずです。どぎつく汚い、えげつない悪罵は耳をけがれさせます。聞く方が嫌になってしまうのです。執拗に悪罵を吐き続けるにしても、いずれはだれにも聞いてもらえなくなってしまうでしょう」
「〝GENKEN〟を脱退した人々が、いっしょになって先生の悪口をいっているようですが、気にはなりませんか?」
「それを聞いて動揺する会員がいたとしたら、気の毒だと思いますが......」
「会員でなくとも〝GENKEN〟に関心を持つ人々も動揺するのではありませんか?」
「そうかもしれません」
「では、きちんと反論すべきところは反論なさった方がいいのでは?」
「いや。それはやりません。相手の泥沼の中へ入って泥水をかけあうことになります」
「しかし、相当ひどい誹謗をされていますね? 殺人犯として糾弾し、美人会員たちを女奴隷にしているといった告発は、事実でない限り、法に訴えて審きを受けさせる必要があるのではないですか?」
編集者本田は社名入りの大判封筒から、ガリ版刷りのパンフレットを幾つか出して、テーブルの上に並べた。〝GENKEN〟発行のリーフレットに比べると、粗雑でいかにも下品な出来だ。しかし、粗暴ななりの迫力はある。
「これらに共通しているのは、非常に汚い、狂気じみた誣告です。筋は通らないし、論理的にメチャメチャで、反論するのはむずかしくないはずです。個人攻撃以外の何物でもないし、失礼ですが先生が肉体的に小柄だということまで非常にえげつない悪口を投げつけている......名誉棄損に持ち込むのは簡単なはずです」
丈は、相手がテーブルに置いた汚いパンフレットには手を出さなかった。
「こっちは、実録小説だそうで、先生が主人公になっています。内容はSMというのか、変質的ないやらしい、おそろしく下劣なものですが、ご存知ですか?」
「話には聞いています......」
丈は短く答えた。会員のだれかが手に入れたところでは、〝魔王〟である丈が、女性会員たちを次々に性的に征服していく実録小説だそうであり、丈と姉の三千子の近親相姦シーンまで微に入り細を穿って書かれているということだった。
「これは下手をすると、猥褻物頒布で警察の手が入るかもしれません。そうなると、先生の名前も出て、大きな迷惑をこうむることにもなりかねないのではないでしょうか?」
本田は熱心にいった。
「もし、警視庁の手が入れば、マスコミもいっせいに先生のことを面白おかしく書きたてるかもしれません。そうなれば先生にとっても〝GENKEN〟にとっても、計り知れざるマイナスにならないでしょうか?」
「昔、戦時中大本教が国家権力に弾圧された時、新聞がこぞって出口王仁三郎のことを魔王扱いにしたように、ですか?」
丈はかすかな笑いを浮かべた。
「大本教弾圧の一件をご存知でしたか......」
「本を読みました。しかし、私はまだ十七歳ですし、なにかあったとしても、名前は表面に出されないでしょう。この〝実録小説〟を書いた本人も知っていますが、やはり私と同じ少年法で保護される立場です。本田さんはこの〝実録小説〟をお読みになりましたか?」
「ええ、読みました......」
「感想はいかがです?」
「文章はまずいですが、変な迫力があるように感じましたね。先生が作者と覚しき人物を超能力でさんざん翻弄するところなど、他の猥褻描写が観念的で下手くそなのに比べると、堂に入っていて......面白いといっては語弊がありますが、泥臭い迫力がありました。東丈という〝魔王〟が悪魔の力を発揮しながら成長するくだりなぞ、ヘタな週刊誌小説より読み応えがあるくらいです」
「書いた本人は作家志望なんですよ」
丈は苦笑しながらいった。江田四朗もこの評価を知れば、さぞかし本望であろう。
「しかし、なかなか多彩な攻撃を仕掛けてきます。もし、私が目的を組織拡大や自分自身の売名に置いていたとしたら、かなりダメージを受けたかもしれません。しかし、私は平気ですよ。強がりでもなんでもなく、今の時点で、中傷や誹謗を浴びておけば、エクササイズとして役立つからです。攻撃に際して、どのような種々の反応が生じるか、よくわかります。己が自身を正すという、またとない教訓も得られます。中傷を受けるのは、それなりの油断があったからだともいえます。ほら、李下に冠を正さずということわざがあるでしょう。今の私が持つべきなのは、慎重さを欠くとどうなるかという生きた教訓です。誤解や曲解をシャットアウトするにはどうすればいいか、考える機会を与えてくれます」
「全てはエクササイズと......」
「その通りです。こちらが自若として揺がなければ、向うは早晩自滅します。こんなお粗末なエロ小説を攻撃のための武器に使おうとしても、逆に自分が怪我をします。こんなものを読んで品の悪い興味をかきたてられる人間がいるとしても、おおかたは人間的な尊敬をかちうるどころか、強い軽蔑を買うのが関の山です。世の中は、なによりもまず人間的尊敬をかちえることが大事だと思います。汚い手を使うのは、すでに自滅への道を歩んでいる証拠ではないでしょうか?
私は、ですから反論はしませんし、訴訟を起こすこともしません。それよりも、会を浄化する方が先決問題です。会を辞めて、私を攻撃する側へ走った人々が、どのような体質を持っていたか、明らかにする方が大事だと思うのです。どんな目的で会に入って来たのか、何を会に求めていたか──それらが求められなかったから会を脱退して、敵方に走ったわけですからね。それらを明らかにする方が大切です。ですから、反省を抜きにして、今回のことは考えられません。相手に非があるにせよ、こちらにもつけ込まれるだけの弱さがあったということです。〝反面教師〟という言葉がありますね。たとえ相手が悪い奴でも、それなりに学ぶべきことは多いということです......ずいぶんもっともらしく聞こえたかもしれませんが、これは私なりに考え抜いたことなんです。
マスコミ関係者の方々と接触を持たないようにしているのも、私自身も会もまだまだ未熟だからです。大きな社会的関心を寄せられるだけの実力の裏付がありません......超能力とか奇蹟といった物質的レベルで関心を持たれるのは、時期尚早ということです。そのことをお汲取りいただければ幸いと思っています。ご期待に添えず申しわけありません」
丈は頭を下げた。本田は両手を前に突きだし、押しとどめようとして躍起になった。
「そんなとんでもない......素晴らしいお話を伺わせていただいて、感激しています、本当に......いや、これほど心を打たれたことはありません。私はこんな丸い顔なので、あんまり感動したように見えないかもわかりませんが、本当に魂が震えるほど感激しているんです」
丈は笑い、本田も笑った。互いに心が通い合うのを覚えていた。
「先生が救世主であるかどうかは一応おあずけにしておきまして......世界各地で〝幻魔〟の仕業ではないかと思われる怪事件が続出しておりますが、〝実録小説〟によりますと、この夏のニューヨークの黒人大暴動や、日本における東京杉並の社長一家蒸発、邸宅爆破事件などは、先生がからんでいるとまともに書かれています。この〝実録小説〟はかなりマスコミの間にばらまかれていますし、どこかの週刊誌で面白半分に取り上げるかもしれません......その場合でも、先生は一切反論なさらず、沈黙を守られるおつもりですか? もし掩護射撃が必要であれば、私の所でも微力ながらご協力しますが......」
本田の好意は暖く、丈の心にしみ渡った。
「ありがとうございます。ご親切には感謝しますが、どんなことがあっても、私は当分動くつもりはありません。私を動揺させ、自滅に誘いこむための攻撃はいろいろかかってくると思いますが......」
「私はそれが気がかりですね」
と、本田はわが事のように熱意をこめていった。
「先生の信用を落すためなら、どんな悪どいことでも平気でやってのけるという、妄執のような狂った迫力を感じるんです。しかし、なぜそこまで徹底的にやらなければならないのか、動機がよくわかりません。〝幻魔〟でもとっ憑いて操っているんじゃないかという気がするほどです」
「しかし、向うは私のことをそういっていますからね。泥水のかけあいは避けたいんです。いずれ時期が来れば、もっと詳しくお話できると思うのですが......」
「それは楽しみです。しかし、時期到来というのはどれくらい先になりますか? おおいに待ち遠しいですね」
と、本田がくっくっと笑いながらいう。
「日本では、超常現象や超能力を研究する学問である超心理学は、欧米と異り、超科学として学者の世界から触れるのも恐ろしい危険とみなされ、相手にされません。しかし、この先、われわれの努力によっては情勢が変わる可能性はあります。海外でも超能力研究の巨大な潮流が起こりつつありますし......科学が超能力を容認するターニング・ポイントに向って努力を注いで行くつもりです。
今、われわれに加えられているのは、ヒステリックで狂信的な、宗教戦争まがいの攻撃で、それがゆえに〝魔王〟とか〝悪魔〟とか悪口をいわれているわけです。
しかし、いずれはおさまるでしょうし、超能力も本質的にただの物質的な力と変りないことがだれにもわかると思います。ただレベルが違う、はるかに巨大なパワーだというだけのことです。
となれば、大切なのは、力の大小ではなく、どんな力であろうと力を操るのは、人間に変りはないのですから、道徳性ということに還元されてくるはずだと思うのです。
私は宗教者ではないし、道徳教育の先生になろうとも思いません。しかし、巨大な力を握った人間がエゴティズムの化物で私利私欲しか念頭になく、他人を権力支配の道具としておとしめる、残忍で鈍感で恥知らずの悪党だったらどうでしょう? 幼稚でヒステリックな特殊なイデオロギーの狂信者が核兵器を握るよりも恐ろしい事態になってくると思うのです。強力な超能力者がヒトラーの如き化物であったとすれば、だれでも悪寒を感じずにはいられないのではないでしょうか?
私はそうした恐ろしい事態をなんとしてでも避けたいと思っています。宇宙的真実に対して、人類が大きく視野を展いた時、人間が人間として立派であることが、どんなに素晴らしいか、だれしも理解できると思うのです。
一方では、宇宙の破壊者である〝幻魔〟へと至る道も厳然としてあります。ヒトラー的な超能力者を〝幻魔〟は労せずして徴兵して行くことができるのだと私は信じています。
しかし、人類には、〝幻魔〟を退けることができる高貴な可能性があるはずです。さもなければ、人類はすでに滅亡したも同じです......
もし、宇宙的な危機を迎えた時、全ての人類が高貴な魂を目覚めさせていれば、〝幻魔〟といえども、一指も地球に触れることはかなわないでしょう。愛のバリヤーで地球が包まれている限り、〝幻魔〟は手も足も出ません。これは決して私の空想ではないんです。かつて地球で同じことが起こっています。〝幻魔〟の侵攻が企てられ、人類はそれを退けることができたのです」
「そんなことが起こってたんですか......? それはどれくらい前のことですか?」
「はっきりとはわかりませんが......。数千万年前のことかもしれません」
「数千万年!? それじゃまだ人類は誕生していないのでは......」
本田はいささか怯んだようにいった。
「しかし、人類が進化論に適合しない唯一の種であることをご存知でしょう? 人類は常識的に考えられているより、はるかに長い歴史を持った存在であることは確かです。それを証拠立てる遺跡のようなものが、必ず発見されるはずです。南米の超古代文明を見るだけでも、人類史の常識の噓が覆されているではありませんか。
〝幻魔〟が人類の目の前にはっきりと姿を現わした時、人類だけが宇宙で孤立して文明の頂点をきわめようとしているといった妄想はきれいさっぱり消し飛ぶはずですが......人類も、宇宙も、今の人類が思っているほど物質的な、ちっぽけなものではないんです。人類の本質は、宇宙エネルギーと等質のエネルギーであり、この肉体だけの卑小な存在ではありません。エネルギーは波動ですから循環します。われわれも現在このように肉体を持っていますが、一度こっきりで死ねばそれっきりということはありません。数多く生れかわるにつれて、しだいに記憶は薄らいで行きますが、われわれは〝幻魔〟の記憶の痕跡を持っているではありませんか」
「いわゆる悪魔が〝幻魔〟の記憶のことなのですか?」
「変形され、歪められていますが、人類の種族的な記憶の中に刻みこまれています。本能的に人類は魔を恐れますが、同時に魔を降し、追い払う力が自らに潜んでいることも知っているはずです。それはかつて人類が〝幻魔〟と戦い、退けた記憶があるからです。全ての人々が、己れ自身の本質に目覚め、自覚することができれば、〝幻魔〟など恐れるに足りないと私は信じています」
「輪廻、転生......生れ変わりを説いた釈尊の言葉は正しかったのですか?」
「釈迦が説いた、不生、不滅、不垢、不浄というのは、人間の本質としてのエネルギーのことだと思います。これはエネルギー恒存則のことだし、色即是空というのは物質とエネルギーは同じものだということでしょう。エネルギーは不増であり、不減であるわけです。人間の魂はエネルギーであり、宇宙エネルギーと同一だといっているのではないでしょうか......」
「本当に驚きました。わけのわからない般若心経が、物質とエネルギーの関係を説明しているとはね......すばらしいお考えです」
編集者本田は、雷に打たれたような顔付で茫然としながら呟いた。
「〝幻魔〟もまた不滅のエネルギーであるならば、〝幻魔大戦〟は果てしもなく続くということになるのではないでしょうか?」
「単なる同じ繰り返しにならないはずです」
丈は力をこめていった。
「無限の単調な反復地獄ではなく......われわれがその中に何を学び取り、いかにして賢くなり、宇宙的な調和の偉大さについて悟って行くかの貴重なプロセスなのではないでしょうか......」
「なるほど。繰り返しの中にこそ進歩があると......」
「そうです。〝幻魔〟は比類なく強い。宇宙の侵略者にして破壊者です。いかなる文明種族も〝幻魔〟に抗することはあたわずとか......しかし、宇宙の初めから存在し、破壊を繰り返している〝幻魔〟が、無数の侵略者が、いまだ宇宙全体を破壊するどころか、かつて超古代の地球上で戦い、おめおめと追い返されてしまった事実はなにを指すのでしょうか?
いうまでもなく、〝幻魔〟は最終的な勝利を約束されているわけではないということです。宇宙の摂理を支配する宇宙意識は、〝幻魔〟の勝利を認めるどころか、全ての宇宙生命体に真実を学ぶ機会を与えているのだと思うのです。〝幻魔〟によってわれわれが学ぶべきことは沢山あるはずです。連帯や愛や知恵、勇気、自己犠牲、献身......全ての善き規範は〝幻魔〟の容赦ない圧迫の中で、われわれが己れのものとなしうる機会を与えられている......私はそう確信しています」
「失礼だが、先生はほんものだ......私は心から大声でそう叫びだしたい気持でいっぱいです」
本田はわずかに涙ぐんでいるようであった。
「私は数多くの、導師と呼ばれ、自らもそう思いこんでいる宗教家を初めとする人々に遭いました......しかし、先生のように自らの言葉で、力強く、宇宙的真実を語る人には逢ったことがありません......受売りではなく、先生ご自身の裡から迸りでる言葉の重みと迫力を感じます。先生が真実を語っていることを、私は疑いません。心がそれを認め、同調し、そうだ、その通りだ! と大声で叫び続けているようです」
本田は前屈みに身を乗りだして一気に喋り、己れのエキサイトぶりに気づいて、照れたように笑った。
「と申しあげたのは、偽らざる私の気持です。こんな清々しい空気になったのは、大人になって初めてではないでしょうか......先生とお話ししていると、私自身、身も心も浄化されて行くようです」
「最初にやって来たジャーナリストの方に、ここまで理解していただけるとは思いませんでした」
丈は魂の奥深いところで、自分が感動しているのを知った。丈は感傷的な人間であるまいと決心し、努力している。安易な感動を自らに拒んでいる。安易なセンチメンタリズムは感情の表層を刺激し、涙腺の栓を緩めようとするものだ。しかし、真の感動は魂がぐっとふくれあがってくるほど底深い圧力に満ちたものである。
丈は言葉を跡切らせ、沈黙した。丈の強固なストイシズムは彼に泣いたり叫んだりすることを許さない。他人の目からすれば、丈は実にクールそのものであろう。泪ぐむことすらしないからだ。
本田も丈の沈黙に倣っていた。細い眼が赤くなっている。
その場の厳粛なほどの重みを持った沈黙を破ったのは、ドアのノックだった。
「先生、お話中のところ、まことに申しわけございません......」
菊谷明子が細めに開けたドアの向うで遠慮がちにいった。異常なほどの緊張が伝わってきた。
「恐れ入りますが、ちょっとお耳に入れたいことが......」
丈は菊谷明子の蒼ざめた顔を見るなり、席を立った。
「申しわけありません。急用ですので中座させて下さい」
「どうぞご心配なさらないように......」
と、本田がいった。ただならぬ気配を感じたのかどうか、満月のように円満な顔はいささかも変らなかった。
8
廊下へ出た丈を、菊谷明子は隅へ連れて行き、耳打ちするようにいった。
「今、とっても気味が悪い電話がかかっているんです。脅迫電話みたいなんですけど」
「脅迫電話?」
丈は廊下を見まわした。事務室のドアが開け放されていて、詰めている会員たちの心配げな顔が覗いていた。丈と視線が遭うとあわてて引込む。
「どういうことをいってる?」
「ええ、なんですか、ウチの会員のだれかを人質に取っているというんです。帰してほしければ会長を......東先生を出せといっているんですけど。どういたしましょうか?」
「人質? うちの会員を誘拐したといっているんですか?」
「ええ。なんだかそのようなことをしきりにいっているんですけど。警察へすぐに連絡した方がいいでしょうか?」
「待って下さい。本当に誘拐事件なら、相手と話をしてみるのが先だ。電話はまだ切れてないですね?」
「はい。でも、悪戯電話かもしれません。相手は女みたいです。声をむりに作ってますけど......」
「女?」
丈は眉をひそめた。菊谷明子はすっかりあがってしまい、ただわくわくしているように両手をもみしだいていた。保母さんのせいか人柄は優しいが、気が強くテキパキとトラブルを処理するタイプではない。顔面蒼白で総毛立ち、うわずってしまっている。
「わかりました。僕が電話に出て話してみます」
「会長先生が......」
「どこか部屋をあけて、そこへ電話を切り換えて下さい。人払いして、落着いて話せるように手配をお願いします。いいですね?」
「は、はい......」

菊谷明子は固唾を吞んでうなずき、事務室に駆け戻った。こういう事態になると、会員たちは簡単に度を失い、頼りにならなくなる。頭のおかしい手合が他流試合に来ても、丈自ら逢って決着をつけねばならないのである。その間、居合わせた会員たちは蒼くなって拱手傍観するだけだ。丈が不在の時は、追い返せなくて、何度も警察のお世話になっている。どういうわけか、頼もしいタイプの男子会員というのがほとんどいない。超能力に関心を持つなど、柔弱者の証拠というわけでもあるまい。
ただちに資料室の連中が追い出され、電話が切り換えられた。丈は狭い部屋に閉じこもり、電話の送受器を取上げた。さすがに鼓動が早くなってくる。
「もしもし......電話、変りました」
と、丈はそっと声を送受器のマイクロホンに吹き込んだ。全感覚を電話の相手に集中している。彼がルナ王女タイプの遠感能力者でないのが残念だ。しかし、丈にも微少なりといえども遠感は働く。
「会長の東丈です。なにか私にお話があるということですが......」
丈は耳を澄ませ、相手の呼吸音を捉えた。超常感覚を集中する。女だということははっきりわかる。丈の鼓動が動悸となって精神集中を邪魔している。
「どうぞ、お話し下さい。なんでも私どもの会員がそちらにいるということですが。その会員の名前を教えていただけませんか?」
「返してほしいか......」
と押し殺した声がいった。確かに女の声だった。丈の動悸は鎮まってきた。電話の相手に丈の〝力〟を及ぼすことはできる。金縛りにすることも容易だ。
丈は相手の出方を見ることにした。あわてることはない。
「もちろん、本当にうちの会員がそちらにいるのなら。しかし、本当ならその会員にこの電話で私と話させていただきたい」
「だめだ......」
押し潰した声がいう。丈はそれが悪戯電話でないと直感した。
「なぜですか? そうでなければ、そちらのいうことが事実かどうか、こちらにはわからない。そうでしょう? 悪戯電話でないという証拠に、そちらにいる会員をこの電話に出して下さい」
「だめだ......もし、返してほしければ、お前が一人で来い」
「どこへ来いというのかな? しかし、本当に人質を捕えているのなら、名前ぐらい教えてほしいな。そうでないと、そっちのいうことが信じられない」
「人質は女だ。お前が来なければ、返さない......一人で来い」
作り声の主は怒ったようにいった。声をむりに潰しているのだ。
「しかしね、うちの会員は女性も多いんだ。人質が女というだけではわからない......本当にそうなら、名前を教えてほしい。そうしたら、いわれた通り僕が一人で行くと約束する」
「だめだ......」
と、むりに潰した声の主は情容赦なくいった。
「黙っていわれた通りにしろ......そうすれば女は返してやる。だが、お前が来なければ、二度と返さない」
「返さないというのは? まさか殺すという意味じゃないだろうね?」
「............」
相手は沈黙していた。
「警察に知らせるな。そんなことをしたら、女は返さないぞ......」
「もちろん、警察には知らせない。必ず僕が一人で行くと約束する。だから、女性会員の名前を教えてくれないか?」
「これからすぐに来い......」
相手は丈のいうことを聞こうとしなかった。
「お前が本当はどんな奴か正体を確かめてやる。必ず一人で来いよ......」
声を潰しすぎたのか、相手は電話の向うで咳きこんだ。丈の口許にかすかに笑みが生じた。そのわざと潰した掠れ声は、丈との電話を切った後も、元には戻らないとわかっていた。丈がそうさせたのだ。
相手がだれであろうと、丈の意志が発動されれば、〝力〟は選択的に働く。電話の相手に〝力〟を発動させたのは初めてだったが、簡単なことだとわかった。
「どこへ行けばいい?」
「............」
相手は苦しげに咳をしながら、切れぎれに場所を喋った。喉の奥にふいに邪魔物が生じてしまったようだった。
「そっちにいる女性会員がだれだかわからないが、絶対に手を出さないでもらいたい。すぐにこれから出かけると約束する」
「よし......約束を守れよ」
今や本物になったひどい掠れ声で、相手はようやくそういった。咳が停まらなくなってしまったようだった。
「もし、約束を破ったら、僕は君を許さないからな。君の体は麻痺して動かなくなる。這って歩くこともできないようになるぞ。これは警告だ。忘れないようにしてもらいたい」
「やってみろ......」
と、掠れ声が嘲りをこめていった。丈はわずかに〝力〟を強めた。たちまち相手は喉を絞められるような声を漏らし、苦しげに喘ぎながら、電話を切った。
丈は、相手と心霊的なコンタクトが持続しているのを感じていた。それは丈が意志する限り、跡切れることがないとわかった。
丈が電話を切ったのを知り、事務室にいた連中が全員押しかけてきた。狭苦しい資料室がぎゅう詰めになってしまう。
「先生、お一人で行っちゃいけません!」
と、菊谷明子が叫んだ。
「警察に連絡しましょう。先生に危害を加えるのが目的に決まっています。わざわざ誘いだされるなんていけません! 会員が誘拐されたんですから、ここは警察にまかせるべきです!」
一同が菊谷明子の主張にいっせいに唱和した。みんな顔色が変わっている。
「会員が誘拐されたというが、それはどうか、怪しい......」
と、丈はいった。
「もし本当ならば、人質にした会員の名前をいうはずだ。しかし、そうじゃなかった。僕に一人で来させるための口実なんだ。また、あるいはそういう脅しをかけて、僕がどういう反応を示すか見てやろうと思っているのかもしれない。もし、相手の仕掛けたトリックに乗って女性会員の安否を調べ始めたら大騒ぎになる......相手はそれを狙っているのかもしれないんだ。
ともかく、脅迫者が人質の名前を明かさない以上、こちらもまともに受取る必要はないはずだ。僕が指定された場所へ行けばすむことだ」
「そんな、いけません、会長先生!」
「危険です!」
「行っちゃだめです! 先生、行かないで下さい!」
いっせいにけたたましい反対と抗議の声があがった。早くも泣きだす女性会員がいる。
「みんなが心配してくれる気持はわかるけれども、僕は一人で行かなきゃならない。心配しないで下さい。僕は大丈夫です」
「東君が行くなら、あたしもついて行くわ」
と、郁江がきっぱりといった。
「東君一人には行かせないわ!」
「わたしもごいっしょに行かせて下さい!」
「私もお供します!」
興奮しきった会員たちが廊下にまであふれて騒然となった。丈が両手で制止する。
「僕は一人で行く。もう決めたことです。それに皆さんは相手の指定した場所も知らないし、僕についてくることは決してできませんよ。だから、同行したり後をつけたりしようなどと思わないことです」
いっせいにあがった激しい不満の声を丈は無視した。
「会長が決定したことに反論は許しません。これからは会長独裁で行きますからね。文句があったら会を出るか、会長を追い出しなさい。各自、静粛に持場へ戻ること。それから、今の件は絶対に口外しないこと。たとえ会員にでも決して喋らないように。わかりましたか?」
彼らの答は散漫だった。不満でふくれあがっているのだ。
「返事が聞こえない。もっと大声で答えなさい。もう一度はっきりと」
今度は声が揃った。丈のきびしさに度肝を抜かれたのであろう。
「もう一度はっきりいいますが、私の身についてはなにも心配はいりません。私がオフィスに戻るまで、決して騒ぎたてずに静かにしていて下さい。定刻には女性会員は平常通り帰宅すること......」
丈の命令で、会員たちは渋々と持場へ戻り始めた。丈にこれだけきびしく命じられては抗うわけにもいかなかった。
「東君。あたしはいっしょに行きますからね」
と、郁江だけが居残って頑張っていた。
「たとえ、東君がなんといおうと、会を追い出されたって、ダニみたいにへばりついてあたしは行くわよ」
テコでも動かない決心を露わにしていた。さすがに〝姫〟の本領を発揮している。
「どうぞ、ご自由に」
と、意外にも丈はあっさりいった。
「本気なの?」
「どうせ君はついて来られないからさ。たとえ君がダニみたいにへばりついていても構わない。僕が超能力者だという噂を忘れたのかい? 僕はテレポートしてしまうかもしれないぜ」
丈はにやりとしていった。
「そんな、ずるい......」
「ともかく心配する必要はない。もうこっちも手を打ってある......みんなにはわからないやり方でね」
郁江は口惜しそうに唇を咬みしめていた。
「どんな方法で、手を打ったの?」
と尋く。同行はあきらめたようであった。
「教えてくれれば、残念だけど、あきらめるわ。だから、教えて......」
「相手に目印をつけたんだ。サイキックな方法でね。だから必ず僕にはわかる。知らん顔して、そらとぼけていたって無駄さ」
「目印って?」
「おでこに赤いバッテンをつけた......というのは冗談だけどね。とにかく相手がだれだか、僕には必ずわかるようになっている。それにしても、郁、人質にされたのが君でなくてよかったな」
と、丈は半ば冗談のようにいった。
「どうして、あたしが......?」
「一瞬、君じゃないかと思ったよ。オフィスにいるのを思いだしてほっとしたけどね。君は誘拐されやすい顔をしてるんだろうな。君以外にはいないと思った」
「ひどい......なんであたしが誘拐されなければならないの?」
と、〝姫〟が怒ったようにいう。
「理由はないさ。ともかく、郁じゃなくてよかったなと思ったんだ」
丈は郁江を置き去りにして、資料室を出、応接室へ戻った。編集者本田は冷えた茶を前に、まるっこい体でつくねんと座りこんでいた。
「ああ、どうぞご心配なく。私の方は構いませんから......」
本田は丈の弁解を快く了承してくれた。さきほどの廊下にまで人が溢れた騒ぎはむろん知っていたろうが、顔には出さなかった。
「では、私もこれで」
立上ってコートを着た本田とともに、丈はオフィスを出た。会員たちは後を追いたいのを我慢している顔で丈を見ていた。
「またいつでもオフィスをお訪ね下さい」
と、丈は別れ際にいった。マスコミの人間に対して口にするとは思ってもいない言葉であった。
「今日は素晴らしい一日でした......」
本田は改まっていった。
「たぶん一生忘れることのできない一日だと思います。なにか私にできることがありましたら、ご遠慮なくおっしゃって下さい。できるだけのことはさせていただきます」
「感謝します」
丈は頭をさげ、足早に坂を渋谷駅へ向けて下っていった。本田は丈の小柄な体が明るい商店街の雑踏の中に吞みこまれてしまうまで佇んで見送っていた。しかし、丈の前途が決して明るく平坦なものでないことを、彼は感じ取っていた。
廊下での騒ぎをほんの漏れ聞いただけでも、会は、丈の力量に見合うだけの人材に恵まれていないことがわかった。頼りになる男性会員はおらず、パニックに陥った女性会員だけが騒ぎたてているという印象であった。
どのような事故が生じても、会長の丈自らが手を染めて、処置に奔走しなければならないようだ。あまりにも盟主が傑出してしまうと、このようなアンバランスが生じるものか......と編集者本田は感慨をもって考えていた。
主宰者の丈が、並みはずれた、偉大と呼んでもいい才質に恵まれていながら、孤独の翳りを秘めていることに、彼はなにかしら危惧のようなものを覚えずにいられなかったのである。
9
夜空に星が凍てついていた。
多摩川の堤は真暗であった。付近は造成中の荒地ばかりで、飯場はあるのだろうが、暗くひっそりと静まり返り、人気はまったくない。
吐く息さえ白く凍りつきそうに、しんしんと冷えていた。まだ夜の十時になっていないが、荒涼として灯火がないので、まるで別天地のようだ。
コートを着ていても寒い。十二月半ばの夜寒だ。
しかし、体に熱を呼びさますのは丈にとって難事ではなかった。精神集中するだけで、全身にかっとエネルギーがみなぎってくる。体の全面から湯気が上りそうだ。氷点下の寒さでも、じっとりと汗ばんでくる。
荒地に灯火はないが、透視力が強烈に働きだすと、昼間と変らなくなる。それ以上に超知覚が作動し、周囲が立体的に把握できるようになる。肉眼による死角というものが消滅してしまうからだ。
丈は己れに超常能力があることを、改めてありがたく思わずにいられなかった。普通の人間であれば、この闇と寒さでまっさきに立往生してしまったであろう。
電話の脅迫者が、こんな場所を指定した理由を考えてみる。もし警察が通報によって動いても、逃走しやすい地の利を備えていることは確かだ。
夜ともなれば、人に見とがめられる危険はなくなる。
電話の脅迫者が悪戯を目的にしているのではないという確信が湧いた。人質を取っているかはさておき、丈をおびきだしたのは、冗談や悪戯ではない。
丈は暗闇に閉ざされた足場の悪い造成中の荒地を、確かな足取りで素早く横切り、堤防にたどりついた。
河原は広く、車道が走っていた。車で来れば簡単だったのだ。
丈は土手の上に立ち、心気を凝らした。人間の気配はまるでない。どんなに巧妙に遮蔽物のかげに隠れていても、丈の透視をかわすことはできない。肉眼とはまったく異ったスケールで丈は地形を知覚している。
丈は来るのが早すぎたようである。電話による脅迫者はいまだに姿を見せていない。
こうして暗闇に超知覚の眼を働かしていると、田崎宏と果し合いを行なった夜を思いだす。田崎の支持を得て、丈の生き方は変ったようだ。わずか数か月以前のことでしかないが、その間に流れた時間の濃密さからすると、何年も昔のことのような錯覚に襲われる。
数多くの人々が来たり、去って行った。めまぐるしい変化である。さすがに感慨を抑えることができなかった。
わずか数か月でもそうなのだ。今後、丈の考えも及ばない変化が待ち受けていることは疑うべくもなかった。丈が社会的に知名度を上げて行けば、どんなことが起こるかわからない。
今夜の電話による脅迫も、その大いなる変化の前ぶれとでもいうべきものであろう。恐れをなしているわけではないにしても、気が重かった。小なりといえども組織を背負って行くのは、自分にとって時期尚早なのかもしれぬという懐疑がいつもつきまとって放れないのである。
さまざまな攻撃が丈に、ひいては丈の率いる組織に襲いかかってくるかもしれないのだ。正直にいって、丈はそうした危機に対処すべき心の準備がなかった。戦いを回避するのか、立ち向うのか、まだ心を決めかねているのだった。
丈の内部には激しい闘志があり、対決を受けようとする傾きがあって、迷いの原因を作っていた。己れの闘志を矯めようとすれば、真に対決すべき時にも回避してしまうのではないかという疑いがある。かといって闘志を受容すれば、いつでも臨戦体勢になりかねない。丈には不屈の負けん気があって、幾多の経験にもかかわらず、一向に馴致された気配がないのだった。
かっとなれば、なにが起こるかわからない。丈の性格にはいくら試練を経ても不安定さは依然として留まっており、本人も自覚しないわけには行かない危険な発火物となっていたのである。
人格の陶冶とは、丈自身にとって必要なことだとわかっている。姉の三千子は、丈の努力を高く評価してくれているが、丈自身はとうてい安心するわけにはいかなかった。
丈の中には不安定な、恐ろしく危険なものがある、とルナ王女によって指摘されたことは骨身にしみていた。丈の裡に秘められた破壊的、盲目的な力は、いったん解き放たれれば、超高層ビルを根こそぎ倒壊させる猛威をすんでのところで発揮するところだったのだ。
オフィスで幹部たちを焼殺の恐怖に追い込んだ、室温の異常上昇も、丈が意志した結果ではない。
それは盲目的に、丈の心の深奥の暗がりから湧出したとしか考えられなかったのだ。真に恐れなければならないのは、他人ではなく己れ自身だった。その自覚は、丈にとり苦の種になっていた。
今の丈は、怒りにまかせて手を出すということは考えられない。それだけの自制力は身に備わったといってもさしつかえないようだ。
しかし己れの心に怒りの念が湧き起こることまでは、どうにも抑えがたい。怒りを鎮める努力を払うだけの自制心はあるつもりだ。
しかし、怒りの情念が噴き上げてくることまでは、いかんともしがたいのだ。人間の心は自由にコントロールできるほど単純なものではない。いかに自制心が強くとも、一瞬の心の揺動まで抑えることは不可能だ。
しかし、その一瞬の怒りが、丈自身コントロール不能の破壊衝動を引き出してしまうとなれば、いったいどうしたらよいのか。
それこそ、深山幽谷にでもこもり、他人と顔を合わせないようにして、あくまでも心平穏に、隠者か仙人のようにすごすしかないのではないか。
丈には、世捨人になることはできなかった。それでは宇宙の真実を世の人々に知らしめて行く、彼の使命は果たせなくなってしまう。
丈の心には、常に苦慮に満ちた二律背反が存在していた。己れの内部にある、破壊衝動を放棄することも馴致することもできないのだった。
姉に強いられた誓いも、堪えられない負担だった。三千子は弟に〝復讐〟を禁じたのである。行為に出ることはおろか、想念を持つことさえ許されないのだ。しかし、怒りが炎え上ったら最後、丈の内部に潜む底知れないパワーを擁する破壊衝動は、怪獣のように表面に現われてくるだろう。
丈にはまったく、根底的に自信が欠如していたのだ。
丈は河床の未舗装の道路へ向って土手をゆっくり降りて行った。脅迫者に指定された会合場所は、道路に面して立っている石の地蔵だった。
石地蔵のそばへ行きつくと、それは意外なほど大きく、丈よりも背丈があった。なんのために建てられたものなのか。災害の犠牲者の霊を慰めるために地蔵は彫られ、運ばれて、長年月を立ち尽しているのであろう。
恐ろしく静かだった。厳冬のさなかでもあり、立ち枯れた河原の雑草にすだく虫の音もない。悪戯電話に振りまわされたのではないかという疑いも頭をもたげた。丈をわざわざ多摩川まで誘いだし、待ち呆けをさせるのが目的だったのかもしれない。
そうではない、と丈は確信していた。丈をここへおびきだしたのは、悪ふざけや冗談ではないはずだ。それは、依然として丈と電話線で対峙した相手との間に断ち切られずにいる、心霊的なコンタクトが教えるもののようであった。
そのコンタクトは、空間的なものではない。従って相手がどの程度遠方にいるのかどうか知ることはできなかった。けれども距離に関りなく、丈は〝力〟を作用させることが可能なのだ。相手は丈から決して逃げることができない。
丈がルナ王女のように優れたテレパシストであれば、電話で話しただけで相手の全貌を摑み、相手がどこで何をしていようと、その心にあることを逐一読み切ってしまうかもしれないが、丈にはその能力がない。逆にルナ王女にはPK能力が欠如している。二人の〝力〟が相互補完的であるのは明らかだ。
丈は一人では不完全なのだ。だれか丈のために力を貸してくれる優れたテレパシストがいれば、丈は飛躍的に〝力〟を高め、より有効に用いることができるであろう。
指定された時間がすぎ去り、三十分、四十分と無益な時間が失われていく。
その間、内省的になり、組織の更に徹底的な浄化を検討していた丈は、夢中になって己れの考えに集中してしまい、なにもかも忘れてしまっていた。夜寒も、待たされていることも気にならなかった。丈はいつしか時間を無駄にしない性癖が身についてしまっているようであった。
気がついた時には、車のライトがかなり接近し、未舗装の荒れた道路に薄い光が射してきていた。
大きな車で、おそらく米国車らしい。荒れた道をフワフワと漂うようにやってくる。米国車は車高が低いので、悪路には弱い。簡単にデフを地面にこすって、ミッションを壊してしまったりする。
中古の米国車だろうと丈は考えた。さもなければ、惜しがってこんな未舗装の悪路に乗りこんでは来ないだろう。
ヘッドライトが、石地蔵と並んで立っている丈の姿を捕えた。相手もはっきりと視認したと見えて、車が停まった。用心深く丈の様子を窺っているようだ。七、八十メートルほど離れて停車したまま、動きを見せない。
丈は石地蔵を離れて歩きだした。車に向って無造作に足を運んで行く。
車が再び動き出した。両者の間隔は瞬く間に詰まる。悪路を躍りながらやって来ると、丈の前を行きすぎて停まる。五、六人乗っていることはすでにわかっていた。
図体の大きな米国車の中で、しきりに咳きこんでいるのが聞こえた。丈の頰に苦い笑みが溝のように浮き上ってきた。
咳が少しおさまると、車内の全員が降りてきた。
六人いて、一人が女だ。咳きこんでいたのはそいつだった。喉がどうかなってしまったように苦しそうだった。夜気に触れると、再び咳が出始める。

暖房の効いた車内から、氷点下に気温の下った吹きさらしの河原に出てくるのは、楽しい経験ではあるまい。白い息を大仰に吐き散らしている。男どもは革ジャンなど着込んでいきがっていたが、河原の寒さには閉口しているようだった。中には大きくくしゃみを飛ばす奴もいる。
連中は、愚連隊であった。年齢はいずれも二十歳未満であり、不良高校生であろう。中古の米国車をどこかから借り出しているのがご愛嬌であった。さぞかし、かっこいい気分を味わっているに違いなかった。
「おお、いたぞ、あの野郎!」
と、わかりきっていることを、無理に凄んだ声で喚く。
「なんだ、チビガキじゃねえか? やけにこまかいから、砂利かと思ったぜ」
「イキがるんじゃねえよ、お前ら。見かけはチビガキでも度胸はあるぜ」
と、兄貴を気取っているのが、仲間をたしなめた。
「お前ら、こんな暗い所で一人で待ってる度胸があんのか? ここはな、喧嘩で何十人も死んでる場所なんだぜ......ほれ、そこに目印の石地蔵があるだろう? あれは生き残った奴が、供養のために建てたんだ。わかったか、ここは血の海になって、何十人もの人間が虫ケラみたいにもがきながら、くたばった場所よ。知らなかったろうがよ......」
「本当かよ。てめえ、噓つくなよ!」
と、一人が抗議した。丈が一人だけなので、すっかり無警戒になっていた。全員が気味悪げに周囲の河原を見まわしている。
「本当だ。二十年ぐらい前のことだけどな」
と、兄貴気取りの不良高校生がいった。口にタバコをくわえ、喋るたびに赤い火口が踊っている。車を運転してきたのも彼であるらしい。
「ともかく、こいつは度胸あるぜよ」
少年たちに一人だけ混った少女はしきりに咳きこんでいた。喉から血が出そうな痛々しい音を立てて咳払いをする。
「やっぱり、君だったな......」
と、丈は落着いた声音でいった。少年たちと同じように黒の革ジャンを着た少女の顔にははっきりと見憶えがあった。渋谷駅で、井沢郁江と居合わせた丈に突っかかってきた非行少女集団のリーダーだ。その異様に大きな虚無的な瞳を丈はよく憶えていた。簡単には忘却できそうもない瞳の色だ。
「たぶん、君だろうと思っていたよ」
オフィスで郁江の顔を見た時、丈が安堵とともに異和感を持ったのはそのためだったのである。
「へえ、どうしてそう思ったんだい?」
と、少女が咳の発作の合間に喘ぎながらいった。
「勘だな。君の顔が頭に浮んだんだ......してみると、うちの会員を人質に取ったというのは、やっぱり出まかせだったんだね?」
「ああ。人質は取っちゃいないよ」
少女はあっさりといった。
「あんたをおびきだすために、適当なことをいったのさ。あんたの正体を知るためにね......警察へ届けたり、ここへ来なかったりすれば、あんたがどんな人間かわかるからさ......」
「そうだろうと思っていたよ。君は人質にしたといいながら、会員の名前をいわなかったからな」
「でも、安心するのはまだ早いよ。人質を取るのはわけないからね。この間、あんたといっしょにいたちょっと可愛い娘、ちゃんと目つけてあるんだから......」
不良少女はしゃがれた不逞な声でいった。いつも脅しつけるような口調でしか喋れないらしい。
「そんなことはしない方がいい」
と、丈は穏やかにいった。
「なんの罪もない人間を巻き添えにするのは汚いじゃないか。誘拐したり、人質にとったりというのは人間として一番卑劣なことだ。僕は逃げ隠れしないから、いいたいことがあれば僕に直接いったらいい」
「あたしはどうせ卑劣だよ!」
と、少女は嚇っとしていい、咳きこんだ。
「ちょっと待っといで......すぐにおさまるから......」
背中を波打たせて咳にむせびながら、彼女はいった。そばにいた少年が背中を撫でてやろうと手を出すのを、手ひどくはねつける。
「あまりひどい作り声をしたので、喉が潰れたんだな」
と、丈はいった。
「とにかく人質はいないとわかった。僕も警察に届けなかったし、約束通り一人でここにも来た。それで気がすんだのなら、僕は帰る......」
「まだ終っちゃいないよ!」
少女が喘ぎながら叫んだ。
「あんたがどんな人間か、もっと確かめてやる。あんたは立派そうなことをいって、人を集めてるんだろ? あんたがどの程度立派か、あたしは知りたいんだよ......」
後は咳にまぎれて言葉にならなかった。
「おめえ、生神様だって......?」
と、車を運転してきた兄貴気取りの不良高校生がいった。
「なんだか虫の好かねえことやってんな......信者をいっぱい集めて、拝ませたり、金を巻きあげたりしてんだろ?」
「僕はそんなことはしない。僕は生神様でも、新興宗教の教祖様でもない。君たちはなにか誤解しているんだ」
「なんだか知らねえがよ......おれたちはこの市べえに頼まれたんだ。ちょっとはたいてやってくれってよ......まあ義理もあるから引受けたよ」
と、不良高校生は肩をすくめた。
「市べえがいうにはだ、人間ってのは、ちょっと恐いおにいさんたちに寄ってたかってはたかれると本音を吐くっていうんだな。生神様気取りのおめえが、どんな地金を出すか、どうしても知りたいってんだ......おめえ一人を相手にこれだけ人手を集めたのもオーバーだけど、まあ、やんわりとはたいてやるからよ。悪く思わないでくれよな」
「生神様なんていうと、こいつ祟るんじゃねえか!?」
と、迷信深そうな非行少年がいった。
「なんだか気持悪りい野郎だなあ......」
と、他の一人もいった。あまり気が進まなくなったようであった。
「なにいってんだ。こんな野郎、ただのチビガキじゃねえか」
一人だけ元気のいいのが憤然と叫んだ。
「おれ一人だけで、かっぱじいてやらあ! 普段いきがってやがるくせに、みんなだらしねえぞ!」
寒い思いをして痺れを切らしていたらしい。早くけりをつけてしまおうと思ったのだろう。
「みんな見てろ! おれがかたをつけてやらあ!」
大きなモーションで丈めがけて走り寄り、殴りかかった。威勢がよかったが、丈が身をかわすと、あっさり転んでしまった。転倒ぶりも派手で、どこか急所を打ちつけたらしく、その場に転がったまま、唸りだした。起き上れない。
「あ、馬鹿野郎!」
と、兄貴気取りががっかりしたようにいった。呆れはてていた。
「てめえでぶっころびやがって......まったくドジな野郎だなあ」
「足許が滑るんだ」
と、丈は平然といった。
「祟りはしないが、足許には気をつけてくるんだな」
「おうおう、いうじゃねえか」
兄貴分の不良少年は、黒革のきっちりした手袋を両手につけながらいった。
「あんまり長びくと風邪を引くからな。袋叩きにしちまえ」
「おーし、やるか」
と、他の少年たちも呼応する。多少元気が出てきたらしい。
「適当にやれよ。殺すまでやるな」
喧嘩慣れした動作で、いっせいにかかってくる。一人が丈の腰に抱きつこうと勢いよく突進してきた。こいつも丈が跳びのくと、足を滑らして腹這いにべしゃりと潰れる。地表が固く凍っているので、ショックが大きい。
跳びかかってきた少年たちは一人残らず、自ら足を踏みすべらし、転倒していた。起き上れずに呻き声を出す。
「この野郎......おめえはやっぱり化物かなんかか?」
最後に残った兄貴株の不良高校生は、革手袋をはめた拳を握りしめて、唸るようにいった。さすがに余裕がなくなり、恐怖の虜になってしまったようだった。
「畜生......気色が悪い野郎だ!」
やけくそになって殴りかかってきた。丈に拳が触れる前に、両膝が砕け、ばったり四這いになってしまう。
「痛てえ! 畜生! おめえはなんだ、魔法なんか使いやがって! 汚ねえぞ!」
五人全員が凍てついた地表にころがり、唸り声をあげていた。転倒のショックで体が麻痺してしまい、立ち上ろうにも体が動かなくなってしまったのだった。
四肢が痺れて萎えてしまい、激しい寒さと動けない恐怖と苦痛で、不良少年たちの口を意気地ない泣き声が漏れた。
「おい、だれか助けてくれよう......凍え死んじまうよ......体が動かねえんだよう」
と、一番気の弱い少年がおろおろとすすり泣き出す。
「ばっかやろう! おい、汚ねえぞ! やっぱしお前、祟ったじゃねえか!」
と、兄貴株の不良少年が四這いになったまま罵声を張り上げる。
「祟らないっていったのに、汚ねえことするじゃねえか!」
ようやく咳の発作のおさまった少女は、異常に光る目付で丈を睨んでいた。丈に向ってゆっくり近づいてくる。慎重な歩き方だった。
右手に飛び出しナイフがきらりと光を弾き返し、少女は丈にしがみついてきた。転倒しないですむためにはどうすればいいか、咳をしながら考えていたのだろう。
だが、やはり力がまるで違う。丈はたやすく少女の手からナイフを取り上げた。少女は丈を蹴ろうとしたが、また咳の発作が生じ、丈にしがみついて体を痙攣させていた。不意に限りなく無力になってしまったようだった。
丈は、少女の革ジャンの背中を撫でてやった。丈の懐ろにしがみつき、体を波打たせて咳きこんでいた少女の発作がおさまる。
「もう大丈夫だ。咳は出ない」
と、丈はいった。
「おまじないをしてやったからね。咳の発作はどこかへ飛んで行っちまったよ」
少女はけげんそうな表情で、丈から離れ、両手で喉許にさわった。
「ほんとだ。むずむずするのが消えちゃった」
と、少女は驚きをこめていった。
「あんたが取ってくれたの? あんた、本当に不思議な力があるのね」
攻撃的な、危険なものがみるみる少女の裡から抜け出して行ってしまったようだった。
「あんたのこと、凄い力があるんだって、この間の女の子がいってたけど、本当だったのね。イエス・キリストみたいだって......」
かすかに畏敬の念をこめて、少女は呟いた。
「この連中、どうなるの? あんたに歯向うと、手足が萎えて、全身が生き腐れになると、あの娘いってたけど、やっぱりそうなっちゃうの?」
凍るような泥土の上にへばりつき、聞き耳だけを立てていた少年たちが、生き腐れと聞いて恐怖の泣き声をあげた。
「やめてくれよう......そんなの、いやだよう」
と、一番度胸のない少年が哀訴した。
「市べえ、頼んでくれよ......もう二度と楯突かないと誓うから、その人に勘弁してもらってくれよう」
「本当に体中が腐っちまうのかなあ」
と、地べたにへばりついている少年が情なさそうにいった。
「やっぱ、祟りがあったなあ......だから、生神様を袋叩きにするなんてやだって、おれがいったじゃんかよ」
「どうにかならない?」
と、少女が尋ねた。もはや敵意はないようだった。
「勘弁してやってくれない? あたしがこの連中に頼んだんだし、ちょっと軽くはたくだけだからって、来てくれたんだし......」
「先生! こいつらを勘弁してやっておくんなさい!」
と、四這いのままの兄貴株が言葉を改めて叫んだ。
「こいつらは義理で来たんで......おれが一人で罰を受けます! だから、生き腐れだけは許してやってくださいよ! それほど悪い奴等じゃないんで......まあ、親や先公は極道扱いにしますけんど、ちょっと世をすねただけの根はいい奴らなんで......まあ、時にはカツアゲやったりはしますが、そんなに悪気はないんで......」
「そうなんです。彼、ヤッちゃんていうんだけど、悪ぶってるわりには俠気もあるし、そんなに悪い奴らじゃないんです」
と、少女がいった。さすがに心配になってきたのか、虚無的なところが薄れていた。
「先生、あっしはどうなってもかまわねえ、この連中だけは助けてやっておくんなさい」
と、ヤッちゃんと呼ばれた不良高校生がいった。悲壮感を味わい、劇的な気分に酔っていた。
丈は彼に近寄り、四這いになっている腰を平手で軽く叩いた。
「もう起きられるから大丈夫だ」
不良少年は身じろぎし、地べたにぺったりと座りこんだ。硬直が解けたのだ。
「あっ、体が動いた! ありがてえ!」
と、不良少年はいった。両腕をぐるぐるとまわし、首を左右にひねる。体が支障なく動くのをこれほど新鮮な感動で受け止めたのは初めての経験であろう。身軽にひょいと跳び起き、体操を始めた。
「よかったね、ヤッちゃん」
と、少女が安堵をこめていった。
「元通りになって本当によかった」
「助かったよう......もう一生あのまま四這いかと思ったよ」
と、感動の声を絞りだす。
「おれたちはどうなるんだよう......」
「なんとかしてくれよう」
地面で麻痺状態に陥っている連中が泣き声で哀訴する。
「おめえだけ助けてもらうなんて、ひでえじゃねえか......恨んでやる」
「まあ、待て。おれが今、先生にお願いしてやっから、ガタガタ騒ぐんじゃねえよ。先生の前でみっともねえぜ」
と、仲間を叱り、丈に向き直って姿勢を正す。
「先生、おれは河合康夫といいます。この市べえ......市枝の知りあいです。どうもこの度はとんだご迷惑をおかけして申しわけありませんでした」
不良高校生、康夫は丈に向って口上を述べた。
「先生がそんな偉いお方とは露知らず、とんだご無礼をば申し上げました。不肖河合康夫、先生の寛大なるお許しにあずかり、光栄の至り、喜びに堪えぬところでございます」
「おい、なにをくどくどいってるんだ!」
と、地面から憤然と叫び声があがった。
「いくらお前が、議員の倅だって、親父みたいないい加減なことを吐かすんじゃねえよう」
「馬鹿、何をいう。まず先生にお礼申し上げるのは当然じゃねえか。それからお前たちの命乞いをするんだ。ものには順序ってものがあらあ。この礼儀知らずが!」
「いいから早くそいつに謝ってくれって。てめえだけ楽になりやがって汚ねえ」
「そいつとはなんだ、馬鹿たれ。先生にお許し願うんだったら、言葉に気をつけろ。この物知らずが!」
康夫が憤然と怒鳴り、丈に向って小腰を屈めて愛想笑いした。
「先生、どうも申しわけございません。口のききかたも知らない半端者揃いでございまして......あっしに免じて勘弁してやって下さいまし」
べつにふざけちらしているのではない。康夫という不良少年は、性格的に芝居がかったところがあるようであった。確かに根っからの悪ではない。顔にも愛嬌がある。元々三枚目の要素を持っているのであろう。
「今から三つ手を叩く」
と、丈は地面にころがっている少年たちに向っていった。
「三つ目が鳴ったら、体の麻痺が解けてみんな起き上れる。いいね、ひとつ。ふたつ。みっつ!」
少年たちは三つ目の音を聞くと、もそもそと身動きし、キツネにつままれたような顔で身を起こした。
「凄い力だ! まったく先生は凄い。イエス・キリストみたいだ」
と、康夫が叫んだ。心からの尊敬がこもっていた。
「生神様だ! たいへんなもんだ!」
少年たちは慄えながら立っていた。すっかり体が冷え切ってしまったらしい。大きなくしゃみを飛ばす。全員が畏敬の目で、丈を見詰めた。
丈は〝GENKEN〟の会員たちにすらも見せていない〝力〟を、不良少年たちの上に振るったのだ。
「先生......お願いがあるんですが」
と、康夫がいった。瞬きもせず瞳を瞠り、丈を凝視している市枝に向い、手を振ってみせる。
「市枝の弟が病気で......医者にはもう治らないといわれてるんですが、とにかく重い病気なんです。それを先生の力で治してやっていただけないでしょうか?」
「僕は生神様じゃない。病気を治したこともないよ」
「だって、先生。今、みんなを治してやったばかりじゃないですか! 先生の凄い力なら簡単じゃないですか?」
丈は、ごく短時間、彼らから生体エネルギーを取りあげ、後で戻してやったのだった。病気を治したというのではない。しかし、自分の体の中にみなぎっている精気を他人に注入すれば、あるいはエネルギーの転位現象が起こるかもしれない、と丈は思った。
「市枝の親は、それで新興宗教に凝りまして、金も家も教団にとられちゃったんです」
と、康夫が説明した。
「弟の不治の病気を治してやるからって、財産を取り上げたんですが、全然......すると教団の奴等に、信仰が足りないからだといわれたらしいのです。もっと勤行に励んで、献金しろっていうらしいんだけど、家も土地もとられちまった有様で......今は寝たきりの弟を抱えて、一家は細々と暮してるっていうんですが......結局、だまされたんですよ。病気を治してやるなんて、うまく口車に乗せられて......」
康夫の言葉が跡切れた。市枝が不意にガタガタと体を震わせだしたからだ。両手で体を抱きしめるようにし、歯をカチカチ鳴らしている。呪詛の言葉が色を失った唇の間から漏れていた。
「畜生......畜生......」
と、彼女は呟き、胴震いしていた。
「おい、市べえ、お前どうしたんだ!? 大丈夫かよ」
と、狼狽して康夫がいった。
「すいません、先生。いつもこの話になると、市べえ、ちょっと変になっちゃうんですよ。よっぽど口惜しかったんですねえ。だから、先生がイエス・キリストみたいな力を持った生神様だと聞いて、かっとなったんじゃないですか? もしインチキだったら殺してやるっていってましたよ」
丈は黙って、胴震いしている少女に歩み寄り、頭のてっぺんに手を当てがった。体内のエネルギーの放射を感じる。
同時に、少女の激しい胴震いが止んだ。驚くべき即効性であった。
「凄げえ......」
と、少年のだれかが嘆息を漏らした。
「暖くなった......」
と、少女市枝がいった。見違えるように血色がよくなっていた。青白い顔の陰気さが失せてしまっていた。
「不思議だわ。もう全然寒くない」
「おれもだ」
と、少年の一人が叫んだ。一番最初に丈に突っかかり伸びた威勢のいい不良少年だった。
「寒くなくなった! ぽかぽかしてらあ! 本当に凄え力だ! 先生、さっきはおれが悪かった......勘弁してくれ」
「そんな謝り方があるか」
と、康夫がたしなめる。
「こいつは関口勉ってドジな半端者なんです。まったくこんなドジな野郎はいません。金は落すし、傘は失くすし、車を運転すりゃ溝に落す。使いにやりゃ用を忘れる。落語の与太郎を威勢よくすると、この勉てえドジになりますんで」
「ああ......おれも暖くなったよ」
と、他の少年が感動的な声を出した。
「おれもだ! まるで湯上りみたいにのぼせてきたぜ!」
本当にその不良少年は赤くゆだった顔でご機嫌であった。
「先生......弟を治して」
と、市枝がいった。丈は少女の頭から手をおろして頭を振った。
「僕はイエス・キリストじゃない。だから、病人を治せるかどうかわからない。今までそんなことは試したこともないんだ」
と丈はいった。しかし、言葉とは逆に、妙な自信めいた気持の昂まりを感じた。
「でも、先生......今、みんなを治したじゃない? あたしだってひどい咳をしてたのを、先生がぴたっと止めてくれたわ」
少女が懸命にいった。
「あたし、先生をヤッパで突き刺そうとしたんだし、こんなことを頼める義理じゃないんだよね......でも、先生があたしの弟を治してくれたら、あたしなんでもする。先生の弟子か召使になってもいい」
「君の弟の病気が治るかどうか、なんともいえない。僕は医者じゃないからだ......しかし、できるだけの努力はするよ。僕を弟のいる所へ連れてってくれ」
丈は決心していた。もし、わずかにでも希みがあるのなら、賭けてみよう。自分の中には大きなエネルギーが潜んでいる。それを分け与えることで、他人が病苦から救われるなら、やってみるだけでも無駄とはいえないだろう。
少女が歓声をあげ、自分のしたことに驚いたように両手で顔を覆った。
「よかったな、市べえ」
と、康夫がいった。
「先生、どうぞ車にお乗り下さい。市べえの弟の所までお送りさせていただきます」
米国車は恐ろしくだだっ広い車室を持っていた。少年たちは前部座席にぎゅう詰めになり、丈のために後部座席を開けた。康夫がどうしてもそうしろといい張ったのだ。
「だって、そうじゃねえか。イエス・キリスト様のような先生といっしょに、お前らのような不良の半端者どもがリア・シートに乗れると思ってんのか。罰があたって、体が腐るぞ。ごいっしょに車に乗れるだけでもありがたいと思え! 文句のある奴は、この河原に捨ててくぞ。朝まで自分の足で歩かせてやろうか」
康夫は、少女市枝だけに親切だった。
「市べえは先生の隣りに乗りな。先生に弟さんの病気のことをお話するんだよ。遠慮することはないだろ、黒バラ会の女王がよ......」
市枝は非行少女集団のリーダーであることはわかっていた。しかし、女王と呼ばれるほど人気があるとは、丈を驚かせた。他の非行少女とは一風変ったところがあるのだろう。フランス人形のように端麗な顔立に、瞳が暗く虚無的だ。それは、なにかしら魂に空虚な虫食い穴でも生じているような、背筋に薄ら寒いものを感じさせる印象だった。
たしかに彼女は、他の少女たちにはない特異な印象を丈に与えた。彼女がそこに佇んでいるだけで、木枯しのうそ寒い音が聞こえてくるようだった。
美人であり、多くの非行少女たちのリーダーで、のみならず非行少年たちにも妙な人気がある。それでいて、底の知れない凄みを感じさせるのだった。深く掘り抜かれた井戸を恐わごわと見降す時のぞくぞくするスリルがあった。体の芯が妙に頼りなくなってくる感覚であった。
市枝が、丈の心を惹きつける何物を持っていたのか、はっきり語ることはできない。丈はまだ年若く、自分の心に対してさほど分析的ではなかった。ただひとつ、彼女が丈にとって目新しい存在であったことは事実である。丈はこれまで、不良と称される類いの人間と交わったことがなかった。丈の生活環境には無縁であった。そうした規格はずれの者たちが疎外され、中和された世界に丈は育ってきたのである。
不良とされる連中が、丈の知っている人間に皆無というわけではない。だが、それは間接的な知り合いにすぎなかった。幼いころの仲間が、思春期に入ってグレたという経験はある。
しかし、それらはあくまでも間接的なものにすぎず、いわゆる不良と接触したのは、今が初めてだった。もちろん、ニューヨークで知り合ったきわめつけの〝悪〟、黒人幼児のソニー・リンクスは別だ......
江田四朗が、非行グループを糾合して、ある種の闇の組織を造っているという噂が、丈に刺激を与えたせいかもしれない。丈は、非行少女市枝に並みなみならぬ関心を抱き始めていたのである。
車の中で、不良少女市枝はほとんど口をきかなかった。だだっ広いリア・シートに、丈から充分すぎるほど離れて座り、固くなっていた。
例によって、河合康夫が馬鹿でかい米車を運転しながら、代弁した。
「市べえの弟の病気は、ひどい難病なんだそうです。小児麻痺患者にちょっと見は似てるけど、もっとはるかに難病で〝進行性筋萎縮症〟というんだそうです。先生はご存知ですか?」
「いや、知らない。聞いたこともない」
「普通の開業医じゃわかんないらしいですよ。十歳ぐらいで発病することが多いようですが、治療は不可能だそうで......病状は止められずに進行して、全身麻痺で死ぬっていうんですが......」
康夫はぺらぺらと喋りかけ、言葉を跡切らせて黙りこんだ。市枝のいる前で、つい調子に乗って喋ってしまったのだろう。
「いいよ、本当のことなんだから......」
と、市枝がぽつんといった。
「はっきりいわなきゃ、先生にわからないからね」
「ひでえ話ですよ」
と、康夫は義憤に燃える声音でいった。
「御供養すりゃ治るといって、財産を洗いざらい巻きあげた後で、治らないのは信心が足りないからだ、お前たちの信心が濁ってるからだとこう来るんですからね。業が深いからもっと信心しなきゃ、子供の病気は消えないてんで、一文なしになった一家から、更に金を吐きださせようてんだから、ひでえや。こうなると、もう人間じゃないよね。市べえの親父はアル中から胃潰瘍になって、廃人同様になっちまったし、何度一家心中しかけたかわからないそうで......」
「だれが、死んでたまるもんか!」
と、市枝がいきなり激しくいった。
「あんな人鬼みたいな奴らに骨までしゃぶられたって、あたしは負けないよ。こっちが負けて、死んだって、あの鬼畜生どもには痛くも痒くもないんだ! あんなインチキ宗教に凝ったバカ親が死んだって、あたしは死ぬもんか! 思いきりふてぶてしく生きてやるんだ!」
髪の毛をふわっと逆立てるようにして、少女は毒づいた。その表情は激しく、暗く、美しかった。
「あたしは、だれにも絶対に負けない。神や仏がなんといおうと負けるもんか! 世の中にはなんの借りもないからね。それどころか、こっちには貸しがいっぱいある。それをあたしは取りたててやるんだ......」
「市べえがこんなになっちまったのも、無理はないですよね、先生」
と、康夫はいった。
「まあ、おれがいうのもおかしいけど、おれみたいなドラ息子とは、市べえは違うんですよね。まあ、おれの親もひでえバカ親だけどよ。市べえみたいなひどい苦労はしなくてすんだもんな。市べえの事情を知ったら、おれなんかチンタラ、グレてるのが申しわけなくなっちゃったくらいですからね」
「だけど、まだグレてるじゃねえか」
と、前部座席でギュウ詰めになっている少年の一人がまぜかえした。
「うるせえぞ。お前らだって、市べえほど苦労してる奴が一人でもいるかよ! みんなおっつかっつのドラ息子じゃねえか。なに不自由なく育ちやがって、それで親が悪いの先公が悪いの社会が悪いのと文句タラタラじゃねえか。ちっとは恥しく思えよ、おい。おれはこれで世をすねてるなんて、恥しいよ」
「恥しくて区議の親父からせびった金で遊んで、アメ車をころがしてんのかよ」
と、少年から痛烈な批判がなされた。
「文句ある奴は、車から降りろ」
康夫がどなった。
「世の中がつまんねえからグレてるってんだろ。車からおっぽりだしてやるから、夜明けまでハナ垂らして歩いてみろ! お巡りが不審尋問かけて、交番に泊めてくれらあ!」
「わかったよ。そうどなるなよ」
と、スシ詰めになった少年たちが口々にいった。
「先生、お願いしますよ。本当は市べえは頭もいいし、ズベッてなきゃいい大学にだって行けるはずなんです。前には医者になるのが志望だったんだそうで、中学の先公も市べえは頭がいいから大丈夫だって、保証してくれたんだそうです。これで、弟さえ病気が治れば、市べえもまともになって勉強する気になると思うんです。先生の〝力〟でなんとかしてやって下さい......」
「僕にどれだけのことができるかわからない......」
丈は口重にいった。自分の無謀さがじわじわと心に重くのしかかってきていた。〝進行性筋萎縮症〟など聞いたこともない重い難病が、果して自分になんとかできるというのか......出来る、という自信は確かにあったのだが、今はなし崩しになりつつあった。
「でも、出来るだけのことはやってみる。医者に見放されたそんな難病が、僕になんとかなるという保証はない。しかし、やるしかない」
「先生になら出来ますよ!」
と、康夫が保証した。
「先生は凄い力を持ってるもんな。体中にビリビリ電気が走りましたよ。先生に治せなかったら、もうだれにも治せませんよ、きっと」
「先生が弟を治してくれたら、あたしどんなことでもするわ」
と、市枝は思い詰めた声音でいった。
丈は、己れの〝力〟が、山脈を崩すパワーを秘めていることを知っていた。しかし、その〝力〟をもってしても、一人の病気の少年を療せるかどうか、まったく自信がなかった......
10
市枝の家は、立ち腐れのような老朽アパートだった。地震が来たら一堪まりもないと思わせるが、しぶとく耐えているのだろう。
アパートの建物の内部には異臭がこもっていた。生活臭に共同便所の臭気が混った、しぶとい悪臭だ。表を流れるドブ川の放つ臭気とあいまって、夏場には堪まらないだろう。しかし、今は冬の最中で、いくらかはしのぎいいに違いなかった。
少年たちは表通りに停めた米車の暖気の中に残り、康夫だけが白い息を寒そうに吐きながら、市枝と丈についてきた。これでも義理がたい所があるのだった。
もう深夜なので、アパートの部屋は残らず灯火が消えていた。ドアは建てつけが悪く、指を突っ込めそうな幅広の隙間が、痛んだパネルと抱柱の間に開いていた。鍵などあってもなくても同じだろう。
床は甲高く、大きな音を発して軋んだ。アパートの住人全員が飛び起きてきそうだが、だれも気にかけないようであった。
市枝は廊下の豆電球を点けた。そっと足音を忍ばせるが、床板は遠慮なく軋み続ける。無気味で不吉な物音だ。こんな廃屋同然の建物に居住者がいること自体、丈には不思議でならなかった。
幽霊のように老婆がいきなり廊下に姿を現わし、康夫は小さくひゃっと叫び声を圧し殺した。ショールで頭を覆った老婆だ。小用に起きて来たのであろう。市枝が小声で挨拶する。非行少女集団のリーダーである彼女も、己れの家では妙に礼儀正しかった。
老婆は犬のように白眼を剝きだして、丈と康夫を見やった。市枝の母親のことを、なにごとかぼそぼそと話す。いつも帰りが遅いといった内容のことを喋っているようである。
老婆が廊下の床板を軋ませながら、共同便所へ消えて行った。
「こっちだよ!」
と、市枝は乱暴になった声音でいった。二人に対してにわかに肩肘を張りだした印象があった。惨めな暮しを見られた屈辱感のせいかもしれなかった。
丈は倒壊寸前の廃屋に、居住者が居座っていることに驚異を感じていた。丈は貧乏というものを具体的に知らなかった。人間が塵芥のようになってしまう現実に、これまで触れたことがなかったのだ。この老朽アパートには胸が悪くなり、脂汗が滲んでくるような残酷な荒廃の波動が充満していた。寒さや飢餓、栄養失調、病気の臭いが、嘔吐を催させる物質的濃度でみなぎっているのだった。
「こっちだってば! どうしたんだい!?」
と、市枝が苛々とうながす。丈のみならず康夫も気分が悪くなった顔で、廊下に立往生していた。物質的な富裕さの中で退廃しかけている康夫にはおぞましいショックだったのであろう。

表通りに停めた車に逃げ帰りたいと思っていることが手に取るようにわかった。地獄の悪夢にでもさまよいこんだような、一種のカルチャー・ショックを味わっているのだった。それは丈自身が感じていることだ。
「行こう」
と、丈は康夫をうながした。市枝の白い顔が敵意に白く硬くこわばってくるのを見逃さなかったからだ。
市枝は、死んでも他人には見せたくない汚穢な恥部を敢えて、二人の前にさらしているのである。
市枝は、パネルがそり返り剝落しかけたドアを開いた。廊下の突き当りの、窓ガラスの代りにベニヤ板を打ちつけた裏口の戸の隙間から、遠慮なく寒風が吹き抜けていた。
部屋は一間しかなかった。市枝が笠のひどく汚れた薄暗い電球をつける。
夜具の中に寝ているのは、骸骨ではないか、と丈は初め思った。薄汚い白髪まじりの頭髪とひからびた皮をまといつけた骸骨だ。しかし、それは生きていた。光の刺激に反応してもぞもぞと寝返りを打つ。
ひどい年寄りに見えたが、市枝の父親だということは見当がついた。康夫の話では、廃人同様になっているという父親であろう。まだそれほどの齢ではないはずだが、病苦で老け込んでしまったのだ。
「いいよ、寝といで」
と、市枝があまり荒々しくない、といった声をかけた。骸骨じみた年寄りが起き上ろうとはかなげに身をもがかせ始めたからだった。
「ちょっと待ってて」
と、市枝はいい、煤で汚れた石油ストーブを点火しようと屈みこんだ。その間、丈と康夫は立ったまま待っていた。
部屋の中は、老朽アパートの外観ほど凄まじくはない。女手が入っていて、意外にこざっぱりしている。畳も頼りなくふわふわしているが、腐りきってはいないようだ。化繊の絨毯が敷かれている。
「そのへんに座ってよ」
と、市枝がいった。部屋の隅から座布団を持ってくる。
「今、お湯沸かして、お茶淹れるから」
「どうぞお構いなく」
と、康夫がいった。
「凄く汚いでしょ。でも、しょうがないんだ。病人が二人もいるんだから。いくら稼いだって、無駄さ」
市枝は歯ぎしりせんばかりにいった。石油ストーブがやっと赤くついて、悪臭を漂わせた。部屋中隙間だらけで、気密性はないに等しいから、煙がこもることだけはないようであった。
「弟は......?」
どこにいるかといいかけた時、丈は弟を見つけた。人間ではなく、猿ではないかと思ったほど、その顔は瘦せこけ、人間放れしていた。
弟はそこだけ大きな眼をあけて、丈を見詰めていた。病苦や貧困の苦痛はなく、異様に澄んだ大きな眼であった。
丈の黒い瞳を、弟は瞬きもせず直視していた。丈の瞳を目をそらさず直視できるのは、こうした子供の濁りのない眼だけであった。
丈は視線をそらさず、森林の奥の泉のように澄み切った明るい子供の眼を凝視していた。このじめじめした汚い廃屋同然の部屋に来る日も来る日も、身動き一つ許されず、横たわっていることの苦痛を感じとろうとした。
しかし、意外なほど苦痛は伝わってこなかった。少年の心からは、鮮やかに晴れわたった蒼穹、緑したたる森、といった巨大な自然のイメージが波動として流れ出していた。
そこに石ころのように転がり、汚い染みだらけの天井を見上げてはいるが、少年の心はそこに留まっていないのだった。想像力の翼を得て、心を遠方に投射する術を少年はわがものとしていた。
少年はただ無言で、丈の黒い瞳から眼をそらそうとはせず、見詰め続けた。その深奥にあるものを余さず読み取ってしまおうとしているかのようだった。
ルナ王女なら、テレパシストとして充全に共感を持つことが可能であったろう。しかし、丈にも完全とはいえないまでも、ある程度は可能であった。
丈は心を拡大し、そこをイメージで満たした。彼が飛行によって視ることをなしえた、地球の姿であった。丈が上昇するにつれて、地表は遠く沈み、雲塊の下に消えて行く。更に上昇を続けるに従って、地球が素晴らしい円弧を現わしてくる。
白い雲をまつわりつかせた、壮麗な地球が眼前いっぱいに立ち上ってくる。陽光を受けて、地球の一方の曲線は、ぎらぎらと凄まじいばかりに眩く輝きだす。
そして、大気圏の背後は、無限に詰めこまれた星の海だ。
丈が幾度記憶を甦らせても、感動に心が揺ぎだすのを憶える、壮絶な光景であった。
それは丈の心に投射され、克明に写しだされる。細部までを丈は完璧に再現することができる。
市枝の押し殺した叫び声が、丈を振り向かせた。市枝は丈の背後に中腰になり、今にも大声で叫び出しそうな顔をしていた。異様な驚愕の表情だ。
「明雄が笑ってる! 笑ってる!」
と、市枝はいった。声が慄えていた。
弟のやつれた猿じみた顔に目を戻した丈は、その表情の変化に目を奪われた。口許の両端が吊り上り、たしかに笑いの曲線を形造っている。そして、瞬きもしない眼は更に明るく、眩いような透明な光があふれだすようであった。
弟は、丈の心から投射された〝地球〟のシーンをキャッチしたのだ。テレパシックな共感が生じていたのである。
「明雄が笑ってる......もうずっと、笑ったことなんかなかったのに......」
市枝が慄えながらいった。
「先生の眼を、こうじっとまばたきもしないで見てたんだよ」
と、康夫がいった。
「本当に嬉しそうに笑ってるな......」
「静かに」
と、丈はいった。丈はこの瞬間、なにをなすべきかを悟った。それは自分の心をパイプとして、宇宙のエネルギーを、明雄という麻痺患者の心の中に注入することであった。
他に方法はない。
丈は己れの心の中に、ルナ王女から分け与えられた宇宙の姿を投射した。それはとりも直さず、王女と体験をともにすることであった。
丈は、そこに宇宙意識〝フロイ〟の実在を感じようとした。巨大な宇宙エネルギーそのものである〝フロイ〟の力を感じ取ろうとした。なぜか丈はそれが唯一の正しい方法であることを悟っていた。
宇宙意識〝フロイ〟とテレパシックな共感を持つこと、それが最も重要であった。その宇宙エネルギーは時空間を無視していつでも立ち現われる。ルナ王女の体験した〝今〟はいついかなる時も、丈にとっての〝今〟となりうる。それは弟、明雄にとっての〝今〟となる。
全ての人間にとっての〝今〟なのだ。宇宙意識〝フロイ〟のエネルギーはいついかなる時も、それを想う人間の心の中に転位され、立ち現われる。
丈は、その真実を確信した。
丈は〝白銀の光〟と名乗る宇宙意識〝フロイ〟を視ようと精神集中した。
脳裡に針の尖端で突いたほどの微細な光の点が出現した。
丈はその光点を辛抱強く、心の目で凝視し続けた。
眩く輝くピンの尖端のような白い光を、育てようと更に強く心を集中した。
微細な光点がぐいと拡がる。だが、まだ微かだ。遠い星のようでしかない。
丈は、ルナ王女から伝達された、〝フロイ〟の意識と遠感によりコンタクトを持とうとした。
宇宙意識〝フロイ〟に向ってメッセージを呼びかける。
宇宙エネルギーを自分に分かち与えてほしいと願う。
丈は突如、己れの蔵しているPKという巨大な力が、宇宙意識〝フロイ〟と無縁のものではないという透徹した認識を得た。宇宙エネルギーの根元は同一だった。
丈の巨大な物質的な力であるPKは、その根本から分岐したものであり、丈という意識を放射パイプとしているのだ。
そう悟った瞬間、眼底に視ている光点がにわかに拡大した。
正視できないほどの光輝が白銀の円盤となって炸裂した。丈はそれが、宇宙エネルギーの形象化であることを理解した。
宇宙エネルギーは物質ではないから、形態を備えてはいない。むろんエネルギーの物質化は行われ、恒星のような形態をとることはあるが、それは粗放な低次元のものだ。エネルギーの高次元の現われは、もはや物質ではなく、形を描くことはない。
人間が己れの意識を通じて交感を行う時、宇宙エネルギーは光球としてイメージ化される。暗黒を排して現われる白銀の光は、だれしもそれを神と感じざるを得ないものだ。
それは、邪闇を追い払う白銀の光だ。
丈は全身全霊を、不可思議な光の精霊の如きものが通過して行くのを知った。びりびりと痺れるような波動が全身を振動させていたから、決して錯覚ではなかった。
堪えきれないほど体が熱くなってきて、丈は心を白銀の光からそらそうとした。眼底に十円硬貨ほどの大きさで、白銀の円盤が留まっていた。いつでも心を集中すれば、たちまち視野いっぱいに広がることが丈にはわかっていた。めくるめく白光の滝の中に吸い込まれて行くだろう。
「暑い......」
と、康夫が丈の精神集中がとけたのを見てとっていった。それまで息を詰め、体を硬くしていたのである。
「暑い! 堪らねえや」
室内は真夏のように暑くなっていた。康夫があわてて黒い革ジャンを脱ぐ。ハンカチで汗だらけの顔を拭った。
「ストーブのせいじゃないよな。ほら、まだあんまり熱くなってないから」
康夫は背後の石油ストーブに手をかざして確かめてからいった。
「まったく凄いな、先生のちからは......真冬でも暖房なんか要らないですね」
丈はコートを脱いだ。康夫ほどではないが暑い。体中が汗ばんで火照っている。
「お父ちゃん......」
と、市枝がいった。布団をはねのけて、老いさらばえた父親が身を起こすところであった。
「お父ちゃん!」
市枝が愕きをこめていう。老人は夜具の上にきちんと正座した。体が揺ぐが、転げてしまうことはなかった。
「ありがたいことで......」
と、父親はもつれる口でいった。先刻の生ける骸骨のようには見えなかった。
「お父ちゃん! 自分で起きられたの!?」
と、市枝が声を慄わせながらいった。
「ああ、起きれた。力が体に戻った......」
父親は意外にしっかりした声でいった。
「もう二度と自力じゃ起きれないと思ってたがなあ......市枝、このお方は生神様だ、ありがたいことで......ありがたいことで......」
彼は上体を前に倒し、平伏した。両掌を合せて丈を伏し拝む。
「先生、飛ばっちりで、親父さん治っちまったみたいですよ」
康夫が目玉をぐりぐり剝いていった。仰天していた。
「魂消たなあ、本当に! 飛ばっちりで病気が治るなんて、おれ初めて聞いたよ」
「先生......明雄はどうなんですか?」
と、市枝が尋いた。顔に汗が条を引いて流れ落ちていた。
「急には治らないかもしれない......でも、そのうちに徐々に治ると思う」
と、丈はいった。
「また弟に遭いに来る。きっとそれが必要なんだろう。お父さんの病気が軽くなれば、家中の雰囲気が明るくなる。それが弟の病気には大事なことなんだ」
「今すぐには治してもらえないんですか?」
と、市枝が不満げにいった。
「僕は病気など治さない。病人は自分で自分を治す力を持っているんだ。君の弟もそうだ。本気で治ろうと思えば、必ずよくなってくるはずだ」
「でも、先生は生神様だから......」
「僕は生神様ではない。そんなことより、君は弟を力づけてやらなければいけない。一日寝たきりの弟を置き去りにして、外をほっつき歩いている君の気持がわからないわけじゃない......家にいるのが堪えがたいという気持は僕にもわかる。だけど、君の弟は自分が死ねば、みんな楽になると思っている。早く向うの世界にいって、みんなを楽にさせてあげたいと願っているんだ。それだけが弟の望みなんだ。動かない体で一日中、天井を見上げながら、君の弟はみんなが幸せになるように祈っている。彼には治ろうという気持がない。みんなの迷惑になりたくないのだ。
君が本当に治ることを願っていると弟に知らせなければ、弟は治らない。だから君が弟を治すんだ。僕が治すんじゃない......」
うっという声をあげて、市枝は顔を抑えた。棒立ちになったまま、両手で顔を覆い、声をしのんでいた。
「また弟に逢いに来る。それまでに、弟に君の本当の気持をよく話してあげるといい」
丈はコートをとりあげ部屋を出た。病床では平伏した父親が誦経していた。
丈の後を康夫があわてて追ってきた。
「先生......市べえ泣いてましたね」
と、康夫はしゅんとした声でいった。
「あの娘が泣くなんて思わなかったな。なにしろハードボイルドでね。痛いとか苦しいとか、どんな目に遭っても一言もいったことがないっていうんですがね......突張ってるけど、やっぱし女なんだなあ」
丈は黙っていた。口をきく気になれなかった。不思議な感動が胸に詰まり、口をきけばそれが雲散霧消してしまうような気がしていた。
老朽アパートを出る。気なしか荒廃したアパートの建物が前とは異る明るさをもって目に映った。前ほど荒涼としていなかった。
「胸がすっとしましたよ、先生」
と、後ろからついてくる康夫が話しかけた。
「こんなにスカッとした気持になったのは初めてだ......やっぱり人が病気で死にかけてるのはいやなもんだし、それが見違えるように治って元気になるってのはいいもんですね。おれはやっぱり奇蹟を見たんだなって、しみじみ思いましたよ。市べえの一家もこれで幸せになるといいですね......」
「彼女の母親はどうしてる?」
と、丈が質問した。
「場末のキャバレーに勤めてるらしいですがね......」
康夫の言葉が浸水したボートみたいに重くなった。
「もう四十幾つのおばさんだから......金を稼ぐのも楽じゃないようです。今夜もまだ帰ってなかったし......おれはどうもこういうの弱いですよ。市べえはあの通り佳いお面してるし、金にはなるだろうけど、体を売るくらいなら、カツアゲでもなんでもやるってわけで......カミソリを隠して突張ってきたんですよね」
「君は彼女に弱いらしいな?」
「べつに惚れたとかそういうんじゃないけど、なんか気になるんだな。もちろん惚れたなんていおうもんなら、ふざけんじゃないよてんでぶっとばされますけどね」
康夫は喉で笑った。
「とにかく彼女は黒バラ会の女王ですからね。おっかないおねえさんたちのアタマになってやって行くのは、並大抵のことじゃないですよ。でも、親父さんが治り、弟がよくなったら市べえも足を洗うでしょうね。もともと医者志望なだけに頭はいいんです。もっともおっかねえ女医さんになるだろうけどね......これで一家が幸せになれば、それも夢じゃないですよ、きっと」
「君自身の家庭はどうなんだ?」
「うちは親父が悪党ですから......どうして悪党ってのは議員になりたがるんですかね? 汚職で利権漁りはやるし、金もうけのためなら、人は瞞すし、首吊りの足は引張るし......情婦が三人もいて、いずれどっかの情婦の家でぽっくり行くんじゃないかと思いますけどね。お袋はまるっきりの馬鹿だし......息子のおれがどう転んだってまともに育つはずがねえ......しかし、市べえの一家を見ると、多少は後ろめたくもなりますよ。おれたちはまったくどうにもならねえドラ息子だもんね。だから、市べえのためなら、という気にもなるんでしょう」
「君は気の優しい男だな」
と、丈は振り向いていった。
「彼女も、そのうちに君に救われたと思うだろうね」
「へへ......先生にそんなことをいわれると、体がこそばゆくなります」
康夫は照れて顎をやたらに撫でまわしながら呟いた。
「おれなんか、親父みたいな悪党にもなりきれない半端者ですから......でも、こんなおれでも先生に弟子入りしたら、ちっとはましになるでしょうか?」
「君は今でも立派だ。世間ではそうは思わないだろうけど......これまで市枝君が頑張ってきたのも、君の気持が頼りになったんだと思うよ。君は見かけもやることも不良少年そのものだろうが、本当は純粋なものを持っている......
僕は君と知りあいになれてよかったと思ってるよ、康夫君」
「ヤスと呼んで下さい。先生のためなら、水火も辞せずですぜ」
と、彼は勢いこんでいった。
「おれみたいな半端者じゃ、あんまし役に立たないかもしんないけど。先生はなにしろ、イエス・キリストの生れ変りだから、おれみたいな悪を子分にしちゃ、具合が悪いでしょうが......」
「僕について来るのは簡単なことじゃない。それだけは最初にはっきりといっておく。死んだ方がましだと思うかもしれない」
「おっかないな」
といって、康夫は後頭部を撫でた。
「でも、しょうがねえや。おれは先生が死ねといったら死にますよ」
あっさりといったが、われながらおかしくなったのか、くすっと吹きだした。
「まさか、このおれがこんなことをいうとは思わなかったな......おれはなにしろ日和見のヤスって呼ばれてるくらいなもんで。みんなきっと魂消ます。そしたら、おれいってやろう。人間ってもんは変るもんなんだって......」
「僕に逢いたければ、オフィスに来るといい......オフィスがいやだったら、市枝君の家だ」
と、丈は康夫に背中を向けながらいった。
「彼女の弟をあと何回か見てやらなくちゃならない。そんなに長くはかからないと思うが......」
「先生。お帰りになるんだったら、車でお送りしますよ」
と、康夫はあわてていった。丈が車の停まっている表通りとは反対側の路地へ入って行こうとしたからだ。
「そっちは方向が逆です。車はこっちです」
「いろいろ考えごとをしたいんだ、孤りになってね」
丈は振り返らず路地を歩き去って行った。
「先生、待って下さい! 先生!」
康夫が後を追った時、すでにドブ川に沿った路地に丈の姿はなかった。凍りつきそうな夜気の中で、ドブ川の水面だけが仄白く光っていた。人の気配はまったく感じられない。
「先生......」
康夫は耳を澄ました。遠ざかって行く足音は聞こえなかった。暗い路地の上には、凍りついた星が凄愴だ。
丈が一瞬の間に、星の光点と化し、夜空に溶けこんでしまったような気がして、康夫はぶるっと大きく身慄いした。寒気が背筋を走り抜けたのだ。
康夫は大急ぎで表通りへ戻ろうとして歩きだし、しまいには夢中で走りだしていた。
本書中には「チビ、アル中」という差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
クリスマス講演会の三日前に、東丈はひどい風邪を引きこんだ。
三十九度の高熱が出、クシャミと咳でさすがの丈も見るかげもなかった。それだけ高い熱があっても、寝込むわけにはいかない。鼻をぐすぐすいわせながら、事務所へ顔を出さなければならなかった。多忙とは恐ろしいことだった。
どうしてタフな丈が風邪を引きこむことになったのか、理由がわからない。生体エネルギーに不足しているわけではないからである。
他人の病気など生体エネルギーを注入するだけであっさりと軽快させる〝力〟を持つ丈が、今は風邪のために徹底的に苦しめられていた。
高い熱を発しているため、悪寒がして体がだるく、気力がない。しょっ中ハナをかんでいるため、鼻の下が赤くなってしまっていた。事務所の人々は心配して、丈に帰宅をうながしたり、売薬を買ってきてくれたりして気遣ってくれた。
「どうして東君、帰って寝ないの?」
と、率直な井沢郁江が不思議がって尋いた。
「そんな、ハナ垂らして頑張っていても、なんにもならないじゃない? 凜々しい美少年のイメージが台なしだしさ。事務所のみんなも気を遣っちゃうじゃない......早く帰って寝なさいよ、馬鹿みたい」
馬鹿みたい、というせりふで囲りの人々が鼻白むが、郁江はいっこうに平気であった。彼女にとり、丈は会長先生という雲上人ではない。あくまでも友達としての〝東君〟なのだ。最初は会員たちも郁江の遠慮のなさに呆れかえっていたが、今は諦念を持って彼女を眺めている。丈がいっかな彼女の傲慢さをとがめないし、郁江も翻意する気配を永久に見せそうもないからだ。
しかし、〝馬鹿みたい〟と会長の丈に向って連発するのはやめてもらいたいというのが、会員たちの衷心からの願いであった。
「お願いですから、お家にお帰りになって下さい」
と、必死になって頼むのが平山圭子を初め、郁江以外の全員だった。郁江は、馬鹿じゃないの? という顔で黙っている。
「事務所はもういいですから、お家にお帰りになって、よくなるまで休んでいらして下さい。お願いですから......」
「風邪は万病の本っていうでしょう? もし先生のお体に万一のことがあったら、取り返しがつきません......」
「東君ともあろうものが、風邪でダウンとはなんてザマなの。それくらいで参っているようじゃ、世界を救うなんてとうてい出来やしないじゃない?」
郁江はつむじ曲りの本領を発揮して、会員が懸命になると、今度は反対のことをいいだす。
「それくらい自分で治したらどうなの? 不治の難病をどんどん治したイエス様が、風邪でぶっ倒れたなんて聞いたこともないわ」
故意に侮蔑的にいう。
「そうなんだ......これしきでぶっ倒れてはいられない」
丈は鼻声でいう。
「それに家で寝ていると苛々して、かえって疲れてしまうから健康によくない。みんな、ちゃんとやっているかなと気になってしょうがないんだ......変なのがやって来て、みんな応対に困っているんじゃないかと思うと、思い切ってオフィスに出て来てしまったほうが心身ともに楽なんだ。こんな風邪ぐらい、どうってことはないさ」
郁江が気まま者として、会員たちからやや白眼視される趣きがあるのはやむをえなかった。丈の〝お気に入り〟だというので、辛うじてみんなから許容されているのだった。
しかし、平気で憎まれ口を叩く井沢郁江も、丈が白いマスクをかけ咳こみながら、外出しようとするのだけは制止した。
「いくらなんでも無茶よ」
と、彼女はきつい声でいった。
「家へ帰ってお姉さんに看病してもらうならともかく、そんなザマでふらふら外を歩きまわるなんてとんでもないわ。あたし、知ってるんだから......」
郁江は鋭い目で丈を見詰めながらいった。
「知ってる? 何をだね?」
「この間の脅迫電話よ......」
と、彼女はさすがに声を忍ばせていった。会員たちの耳に入らないような配慮を、郁江が示すなど、ありえないほど不思議なことだった。
「それがどうかしたのかい?」
「とぼけないで。脅迫電話の相手と遭ってるんでしょう?」
郁江の勘は怖いほど的確だった。
「だいたい見当もついているわ......この間、渋谷駅でアヤつけてきたズベ公でしょう?」
丈は一言もなかった。先日、脅迫電話で呼び出された一件は、実害のないイタズラ電話だったとみなに説明したが、郁江にだけは通用しなかったようである。
「そんなことを大きな声でいうなよ」
「だれも大声でなんかいってやしないわよ。内証にしてあげるから、あたしにだけ話しなさいよ」
「いずれ、そのうちにね......」
いい捨ててオフィスを出た丈は、後を郁江がついて来るのに気付いた。平然とした顔で後ろを歩いてくる。
「だめだ。帰れ」
「だめだといわれても、あたしついて行くの」
郁江はけろりとしていい、丈は咳こんだ。郁江には丈の威光はまったく通用しない。
「そんなひどい熱がある東君を一人で出歩かさせるなんて、あたしにはできない。みんなどうかしてるわ」
「しかし、君はそれくらいの熱がどうしたといったじゃないか」
「みんなが口先だけで心配してるからよ。本気だったら東君をむりやり車に載せてお家へ連れ帰ることだってできるはずよ」
例によって郁江の会員批判は手きびしい。白眼視されるのも無理はなかった。
「ついて来られると困るんだ。帰ってくれ」
「じゃ、事情を話してくれる?」
「今はだめだ......」
ひどい咳が出て、丈は言葉が続けられなくなった。
「ほら、ごらんなさい。やっぱり無理よ」
「約束があるんだ......」
「電話して断わればいいわ。あたしが電話してあげる」
「電話はないんだ。僕が行くのを待ってる」
「じゃ、あたしが代りに行って断わってきてあげる」
「だめだよ...... 入り組んでいて、君にはわからない」
「じゃ、いいから行きましょ。東君は病人なんだから、あたしが介添について行くの。当り前のことよ」
「場所がひどいんだ。相手が君に来られるのを喜ばない......」
「そんなこと、いちいち気にしていられないわ。東君は病人なのよ。介添がついてるのに文句をいう馬鹿がどこにいるの?」
郁江はいつも相手をやりこめてしまうところがあった。反論を許さないのだ。
「わかった......あんまりガミガミいわないでくれ。めまいがして気分が悪いんだ」
「ほら、ごらんなさい。タクシーで行きましょ。大丈夫、それくらいのお金は持ってるから......」
郁江は、ちょうど通りかかった空車のタクシーを停め、丈を中に押しこむようにして載せた。強引で丈のいうことなど頭から受付けない。愛くるしい顔にそぐわない押しの強さがある。
が、そうかと思えばひどくクールでもあり、丈には郁江という少女がよくわからない。もちろん、郁江だけに限らず、女性心理は丈にとり難解である。
なにがあってもたじろがない井沢郁江も、倒壊寸前のような老朽アパートの惨状にはびっくりしたようであった。丈と同じ中産階級に属する郁江にとり、腐ったようなスラムを見るのは初めての体験だったのであろう。
「なに、これ......凄いわねえ」
と小声で囁いた。それでも夜だから、あまり凄惨さが目立たないのだ。昼間の光で見れば、人間の棲む場所とは思えないほどの物凄さだ。
郁江は異臭の猛烈さに閉口していたが、風邪で完全に鼻がつまっている丈は一向に平気だった。
老朽アパートに足を踏み入れると、異様な雰囲気に郁江は思わず丈の腕に摑まった。両側の部屋の扉が残らず開いて、人々の光る目が二人を迎えたからだった。
怯えて、郁江が丈にしがみつく。
「大丈夫だ......」
と、丈はいい、郁江を押しやった。人々は別に害意を示してはいなかった。異様なほどの関心と好奇心を示しているだけであった。各部屋にぎっしり人が詰まっているらしい。それが、声も出さずに視線だけで丈を迎えたのだから、郁江が怯えるのも無理はなかった。
丈がノックするより早く、市枝の部屋の扉が内側から開けられた。どてらを着た、市枝の父親が深々と頭を下げる。
父親はもはや骸骨のようには見えなかった。病後のやつれは見えるが、肥って血色がよくなっている。もう立って歩くなど日常のこともかなりできるようになったようであった。
「お元気そうですね?」
と、丈が尋く。父親は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげさまでこの通りでございます。買物にも行けるようになりました......」
丈と郁江が上ると、父親は二人の履物を部屋の中に上げ、新聞紙を敷いた。なかなか実直な人であるらしい。
父親は二人に座布団を勧めると、改めて平伏した。
「よかったですね、お父さん」
と、丈はいった。
「これからは変な宗教に凝っちゃいけませんよ。触らぬ神に祟りなしというでしょう? 無闇に人に信仰を強制したり、金を巻きあげたりするような宗教に関り合ったら、不幸になるだけですよ。明るい気持で元気に生きて行って下さい。お父さんもまだ若いんですからね」
「本当に先生は生神様でございます......ありがとうございますありがとうございます」
と、父親は伏し拝んでいる。郁江は皮肉な目で丈を見た。
「ご家族の皆さんはどうしていますか? 明雄君も大丈夫でしょう?」
「おかげさまで明雄も寝返りが打てるようになりましたでございます......カタコトですが、ものをいうようにもなりました」
父親の言葉を裏書きするように、夜具の中で寝返りを打った男の子が体を弓なりにそらせ、澄んだ目で二人の客を見上げた。明雄も猿の顔から人間に戻っていた。子供らしく肉付がよくなっている。澄んだ目が表情をたたえて丈を凝視している。丈は男の子にうなずいてやった。明雄が嬉しげに笑う。その笑みは暗い陰気な部屋を光で満たすほどの力があった。
「市枝は勤めに出るようになりましてございます。まるで人が変ったみたいになりまして、真面目に働いて、昼間は学校へ行っております。これも先生様のおかげでございます」
母親だけでなく、市枝も勤めに出るようになったとすれば、彼ら一家がこの最低のスラムを出るのも間もないことだろうと思えた。
「お父さん、なんだかこのアパートにはやたらに人が沢山いるようですね?」
と、丈がお茶を淹れに立った父親に尋いた。
「どの部屋にも人がいっぱいいる。前はそんなことはなかったと思うけれども......」
「へ、へえ......」
父親は手に急須を持ったまま、へどもどと小腰を屈めた。
「僕が来るのを待ち構えていたみたいに見えたけれども、なにかあるのですか?」
「ええ...... 実は、うちの明雄を、偉い生神様が治してくださるために、しょっ中来てくださると知れわたってしまいまして......」
父親はおどおどといった。
「飛ばっちりで、この私が悪い体をいつの間にか治していただいたという噂が広まり、この辺の病人がアパートに集まり......先生のおいでをお待ち申し上げているわけでございます。先生様の霊力はまことにもって広大無辺、アパートに集まった病人たちもお裾分けを戴いて感謝しておりまする次第でございまして......」
「じゃ、部屋にいるのはみんな病気の人たちなんですか?」
丈は呆然とした。異様な雰囲気を感じたのも当り前だった。
「飛ばっちりで、病気がよくなった人はいるんですか?」
「もちろんでございます。寝たきりの病人が何人も起きられるようになりましてございます......噂を聞いて、近所の病人はみんな集まってくるようになりまして」
「そうですか。本当に病気が治った人たちがいるんですね」
波及効果のようなものだろうか、と丈は思った。現にこの父親も、思念の集中を受けたわけでもないのに、いわば〝飛ばっちり〟で廃人同様の体が軽快している。
「セロひきのゴーシュみたい」
と、郁江が沈黙を破って、ぽつんといった。
「なるほど......」
ゴーシュのすさまじいセロの音を聞くと、病気が治るというので、動物の患者たちが集まってくるというのだ。宮沢賢治の童話を丈は思いだし、苦笑いを浮べた。
「今に、世界中の病人が治るかもね」
「とんでもない」
丈は父親の差しだすお茶を、礼をいって受取った。出がらしではない。市枝一家の生活向上は顕著であるらしい。
「どうやって、病気を治すの?」
と、郁江が尋ねた。
「お祓いでもやるの、呪文を誦えて?」
「そんなことはしない。病人が自分で自分を治すんだ。宇宙エネルギーに感応してね」
「東君の生体エネルギーを使ったんで、東君こんなひどい風邪を引きこんだのじゃないのね?」
「僕は自分の力はなにも使ってない」
「でも、他人の病気が治るのに、自分がこんなひどい風邪を引くなんておかしいじゃないの?」
郁江の疑問追求の態度は容赦がなかった。
「だから、わからないんだ」
丈は気分悪げにいった。顔は火照っているのに、体は氷塊を抱いているように冷たくなっている。目の前に霞みがかかっているみたいだった。
「先生様、お加減がお悪いのでございますか?」
と、市枝の父親が心配げにいった。
「まさか、私どもを治してくださったので、代りに私どもみんなの業をお背負いになったのでは......」
「そんなことはありません。どうか心配しないで下さい」
丈はきっぱりいったが、あいにくひどい鼻声だった。
「そんな、風邪の時ぐらい休んだらいいじゃない?」
郁江はいつものような、多少苛立ったようにいった。馬鹿みたい、とまではいわなかった。
「大丈夫だ。だからこそ来たんだ」
「どうやって心霊治療をやるの? なにか手伝おうか?」
「頼みがひとつある」
と、丈は小声でいった。
「いいわよ。なあに?」
「お願いだから、少しの間、静かに......、黙っていてほしい」
「!」
郁江は呆れて黙ってしまった。
丈は、夜具の中から体をねじ曲げて見上げている少年に合図した。もう二人とも、このエネルギーの交流のやり方にすっかり慣れていた。
なにが始まるのかと目を皿のようにして注視していた郁江は、やや失望していた。丈が精神統一のため化石のように動かなくなってしまい、とくに心霊治療のための手続きをなにも見ることができなかったからだ。
丈は沈黙している。体は微動もしない。病床の少年もおとなしくしている。丈が、超能力を発揮するための所作を見せるのかと期待していた郁江にとっては、息ごんでいただけに肩透かしとしか思えなかった。
父親は正座して合掌し、もぐもぐと口を動かしていた。お経でもあげているらしい。くぼんだ瞼の下で、眼球がきょろきょろと動いている。
最初は、目の錯覚かと思われた。薄暗い裸電球が一箇、黄色くぼんやりと点っている部屋の中が、しだいに明るくなってきたからだ。
目の錯覚を疑って、郁江は天井を仰いだ。錯覚ではなかったし、トリックでもない。裸電球が照度を増しているわけではなかった。
にもかかわらず、大きなシャンデリアでも点ったように、陰気な暗いすすけた部屋がみるみる明るくなって行くのだ。
郁江は息が停まるほどの驚きに捉えられた。真昼の光がいきなり導入されてきたようであった。しかし、光源はわからない。部屋中が明るく強い光に満たされているのである。
丈がその原因となっていることに、郁江はなんら疑問を持たなかったが、しかし、どんな力が働いているのか見当もつけられなかった。
強い光だが、刺激的ではない。光が射してくると、居堪まれないほどの陰惨さを詰めこんだ老朽アパートの不快な雰囲気が追い払われ、薄れて行くようだった。
郁江には想像もつかない、大きなエネルギー波動が、部屋の中に流れこんできて、渦巻くのが感じられた。郁江は自分には超感覚的知覚など無縁だと思いこんでいたが、その彼女ですらもはっきりとわかるエネルギーの充足感であった。
この不思議な光がどこから射してくるのか見当もつかないが、郁江にも、病気が自然に治ってしまうというのが実感できるような気がした。どこも体に異常のない郁江自身も、体が暖く和ぎ、ほぐれてくる温感を自覚していたからだ。
郁江はこれまで、話にはいろいろ聞いていても、丈が超能力を振るう場面に直接立ち合ったことは一度もなかった。意図的に丈はそれを避けているのではないかと思うことすらあった。丈には〝力〟がないのだと思いこみ、失望して会を辞めていった人間たちを沢山知っている。
彼女には、丈が本来持っている〝力〟を行使せず人々に失望を与える、その理由がわからない。持っているものなら、出し惜しみをせずにどんどん公開すればいいではないかと思う。熱望している人間になぜ見せてやらないのか不思議でならない。信じきれないでいる人間たちに、己れの持っている〝力〟を見せてやり、信じさせてやるのも親切ではないかと思ってしまうのだ。
丈には妙な気取りでもあるのかもしれない。〝力〟を使用せずに人々を心服させようという気取りだ。その気取りのためなら、人々が失望して去って行き、会が不活発になり、縮小してしまっても、丈は一向に平気らしいのだ。
だから、郁江には丈が本物の超能力者かどうか判断のつかないところがあった。ずいぶん沢山の人々が丈を否定し、離れ去っても、郁江が側近として残ったのは、超能力者としての丈にではなく、丈の人間性に興味があったのかもしれなかった。
なんで、あんなにカッコつけて気取っているのかよくわからない。側近にすら〝力〟を見せることなく、そのくせ〝力〟の有無を明確に肯定も否定もしない。みんなをいつも中途半端な宙ぶらりんの立場に置いている。
信じる者だけついて来いという態度だ。そのくせ、信じさせるほどの行為はなにもない。マスコミには出ず、ほとんど会うことすら断わってしまう。これではみんなががっかりして去って行くのも当然という気がする。去った者にしてみれば、丈が気にも止めていないことがなおさら腹立たしいであろう。
そして、なにもしないのかと思えば、非行少女の家族にこっそりと心霊治療を施したりしてやっている。会員の中で、丈の〝力〟を見たいと熱望しているタイプではない郁江などに同行を許して、〝力〟の行使を実見する機会を与えたりしているのだ。
郁江には、丈という相手が不可解だった。わからないから、なおさら興味をかきたてられるのかもしれない。容易に正体を見せないところに、魅力を覚えるのかもしれなかった。正体がわかってしまえば、これほどつまらないものはない。郁江はいつでもそうだった。そのとたんにそれまでの関心をきれいさっぱり失ってしまうのだ。
だから、彼女は丈が正体を見せることを望んでいると同時に怖れていた。激しい失望と落胆を覚悟しながら、丈の正体知りたさに、側近としてへばりついているのだった。そんな対立感情がわれながら不思議でならない。郁江は時として、自分がなにを考えているのか理解しがたくなった。自分の奇怪な分裂ぶりにうんざりすることも多かった。
丈を〝落ちた偶像〟にすべく、彼の側近になっているのだが、丈の不可解さ以上に自分に対して懐疑的になってしまうのだった。わけがわからないのは自分なのである。丈以上に自分の言動は理不尽であり、筋が通らなかった。
たった今、眼前にまぎれもない超常現象、〝奇蹟〟を見ていながら、郁江の心は感動すると同時に疑っていた。他の会員たちが激しく丈に惹きつけられ、狂信的な信仰を持つ時、彼女はいつも心が半分醒めていた。そのくせ、熱烈な会員たちが、憑き物が落ちたようにけろりと心変りし、去って行った後にも郁江は半ば醒めた心で残っていた。
そんな自分がいやなのだが、どうにもならないのである。常に醒めていて熱狂的になれない。他人の狂信的なぎらつく目付を見ると慄然とする。自分は絶対に、そんなキチガイじみた目付にはなりたくない。いつも冷静でクールな判断力を残した自分でいたい。
にもかかわらず、郁江の中には忘我の熱狂への憧れもこっそり内在していて、己れの不可解な分裂と対立にうんざりとしてしまうのだった。
郁江は今、興奮を感じてはいたが、それが何を意味するのか疑ってもいた。丈がイエス・キリストばりの〝奇蹟〟を演出しようとしていることを知ってはいたが、丈の神性についてなおも許容することができなかった。
もし、これが疑う余地のない奇蹟であるにしても、丈を〝救世主〟として受け容れることはできなかった。生神様として崇めたてまつることなど考えられなかった。
自分は多少、歪んでいるのかもしれないとも思う。会員の中で、丈の正体を突き止めてやろうなどという不遜な動機を持って側近になる人間など他にいようとも思えない。
自分はユダなのかもしれないと郁江は時折思わないでもなかった。イエスの十二使徒の一人、師を敵に売った最悪の裏切者の代名詞〝ユダ〟だ。
しかし、丈は彼女が不信を持っていることをよく知っているし、そのことで彼女を疎外しようとは決してしない。むしろ会員たちの疎外の試みから彼女をまもっているほどだ。
郁江は自分が丈の神秘性の仮面を剝ごうとするほどに、逆に神秘性が深まって行くのを経験していた。そのために、彼女は丈に惹かれ、魅せられながら、同時に反撥しているのだった。
丈は、女性としての郁江にはまったくなんの関心も示さない。その清浄さが果して本物であるかどうかを知りたかった。丈が偽善者でないと完全にわかるまで、あくまでも偽善を剝がしてやろうと郁江は決心していたのである。
しかし、郁江が丈に強く惹かれているのはまぎれもないことだったし、それを否定する気はさらさらなかった。ただ、自分で自分がわからないのだった。なんのために丈の仮面を剝がしたいのか、それすらもわからない。彼女が自分の裡にひどく危険なものを感じているのは当然のことだった。
2
「もういいよ」
と、丈がいうまで、郁江は気付かずに座り続けていた。心霊治療が終ったことを告げたのだとわかるまでに、しばらくかかった。
知らないうちに催眠術にかかったように、放心状態になっていたらしい。こんなことは初めての経験であった。まるで魂を抜き取られてしまったみたいだ。
妙に気分がすっきりして、空気までが清浄化されたように清々しかった。老朽アパート全体に立ちこめている堪らない臭気が気にならなくなっていた。
丈は、夜具を開いて、仰臥した少年の四肢をゆっくりと撫でていた。まるで糸のように細くなり、筋肉が萎縮してしまった手足だ。郁江は正視に耐えず、目をそむけた。
「進行性筋萎縮症というんだ。非常に重い難病だよ」
丈の言葉に、郁江はいやいや視線を戻した。
「治療不能のまま、症状が進行して、全身麻痺で最期に至る......この子は一週間前は、一人で寝返りも打てなかった。今は少しずつ体が動くようになってきた。自分の意志の力だ......人間には自分で気付かない巨大な力が埋れているんだよ」
郁江は、少年が丈の言葉に応えて糸のように細い四肢をのろのろと動かしているのを見ていた。
「これでも筋肉が徐々に回復しつつあるんだ。信じられないかもしれないけどね。だが、しばらくすれば見違えるようになる。この子が自分の筋肉を使って普通の子供と同じように歩いたり走ったり、ボール投げをしたりしようと決心している限り、必ず治る。
この子はしばらく前まで、なにもかも自分の人生を諦めていたんだ。だから身動きすることもできなかった。だが、今は違う。普通の子供と同じように元気になって、人生を生きようと決心しているんだ。だから、メキメキとよくなっている」
「まるでイエス様みたい......」
と、郁江は呆然としていった。
「それじゃ、東君は救世主じゃないの」
「人間の裡には、宇宙エネルギーにつながる通路がある。それに気付いて、エネルギーを引き出すことさえできれば、だれでも同じことができるはずだ。この子はそれを今覚えようとしている。君だって、はっきりと自覚すれば同じことができる」
丈は楽々と喋っていた。郁江は彼が風邪のひどい鼻声でないことに気付いた。
「東君、声が元通りに治ってる! どうして? どうしてなの?」
「さあね......」
丈自身、首をひねっていた。
「わからないな。これも〝飛ばっちり〟なのかもしれないね」
「でも、そんな力がありながら、どうして自分のために使わないの? 他人の重い病気が治せるんなら、自分の引いた風邪ぐらい簡単じゃない?」
郁江は不審そうにいった。
「なんでもその〝力〟を使えば、思い通りになるんでしょう?」
「君はそう思うかもしれないけど、〝力〟は自分のためには使ってならないものだという気がするんだ。欲望を満たすために〝力〟はあるんじゃない」
「でも、なにも重い風邪を引きこんでいるのに、無理することないんじゃない? しんどい思いをしたりして、馬鹿げてるわ。そういうのストイシズムとか禁欲主義っていうんでしょ? そんなくだらない我慢したり、無理したりして、人間らしくないわ。馬鹿みたいよ」
郁江は自分でも驚くほど強い言葉を吐いた。
「あたしはそんなのいやだな。第一、くだらないと思う」
「欲望というのは歯止めがきかないから物騒なんだよ。僕は自分が怖いんだ。もし歯止めを自分にかけておかなければ、〝力〟をずるずると私物化してしまうかもしれないからなんだな」
丈は思いがけぬ郁江の語気の鋭さに戸惑った顔をした。
「そんなの、東君に自信がないからでしょ? だから、自分の欲望から無理やり目をそらしているのよね? そんなの、偽善的じゃない? 東君がしゃっちょこばってキリキリしてるの、そのせいじゃないの?」
「僕は偽善者だというのか?」
「偽善的だといっているのよ。なんだか自分をぎりぎりと絞めあげて、必要もないのに自虐的になってるみたい。もう少しおおらかになれないの?」
郁江はなおも強くいった。父親は彼女の剣幕におろおろし、立ったり座ったりをくり返していた。
「東君がそんなに禁欲的になるから、会だって萎縮しちゃうじゃない? みんなやる気も覇気もなくていじけてるじゃない。会員はどんどん辞めて行っちゃうし、心ある人はみんなどうなるのかって心配してるわ。今残ってるのは、禁欲的になって自己陶酔したりできる連中ばかしなのよね。もう灰色一色で塗り潰されたみたいなんだから」
「しかし、君は、欲望に流される恐さを知らないんだ」
丈は反論しようとした。

「〝力〟を私利私欲のために使いだしたら、もう破滅へ一直線だ。人間が悪魔になる一番手取り早い道なんだ。イエスだって釈迦だって、必ず誘惑されている......人間の最大の弱点は欲望だからだよ。〝力〟を自分のために使いだしたらきりがない。必ずエスカレートが始まる。これくらいはちょっとだからいいだろうと正当化を始めて、とめどがなくなるんだ。だから、僕は歯止めをかけた。それをはずすわけにはいかないんだ」
「だって、そんなの、人間らしくないわ」
郁江が可愛い顔に似ず頑張る。
「東君、人間的にとても狭く、小さくなって行くみたいだわ。以前はもっと寛大で鷹揚だったわ。そんなのおかしいと思わない? あたしは変だと思うな。超能力だってかげに隠れてこそこそ使う必要ないと思うな。なぜもっと堂々とできないのかと思うのよ。だって東君の力は偉大で素晴らしいんだもの。もっと人々のためにこそ使うべきじゃない?」
「君のいうことはわかるが......」
「この際だからいっちゃうけど、しんき臭くて息が詰まっちゃうのよね。マスコミが取材に来るのを恐れて、みんな針鼠みたいに警戒心の塊りになってるし、もう風通しの悪いことといったらないわ。なんでそんなに臆病で弱気なのかしら? 自信がないから、こんなに禁欲主義的で狭量なのよ。他に考えようがないわ。もっとおおらかに、開放的にできないものかしら。こんな有様じゃ、いくら東君が大きな力を持っていたって、それが発揮できないし、有効に使用できないものね。ネズミみたいに小心者の気の弱い連中がおどおどしたり、びくびくして互いの顔色を窺いあっているだけじゃない? それはトップに立つ東君が禁欲主義でみんなを抑圧しているからじゃないの?
この際だからいわせてもらうけど、今の会にも会員にもまったくなんの魅力もありゃしないわよ。覇気も積極性もなんにもない。いったいこれで、行く先なにができるのかしら? 悪いけど、なんにもできないと思うわ。活力がまるでないんだもの。今度のクリスマス講演会だって本当にできるかどうか怪しいものよ。みんな抑圧されてるから、なにもしないのが一番だと思ってるものね」
「君は考え違いをしている。なにもこのまま、なにもせずにすごすつもりはない」
と、丈はようやく郁江の弁舌の隙間に入りこんだ。一度喋りだすと郁江はひどく雄弁なのだ。迫力もある。
「威勢よくやるのはやさしいんだよ。勢いにつられてみんなついてくる。ますます活気づく。人々がどんどん吸い寄せられてくる。この繰り返しで会は発展する。だけど、内容は低下し、お粗末になる一方だ。組織が大きくなるというのは、腐敗することなんだ。
内容もろくにないのに、組織がどんどん拡大され、マスコミで賑やかに取り沙汰されたらどうなる? 腐った建材で家を建てるようなものじゃないか? それに僕のちっぽけな力をイエス・キリスト並みだと思いこむ人々が増えたらどうなる? 僕は生神様に祀り上げられてしまう。病気を治してもらいたい人々が山ほど押し寄せてくる。僕にはなにも仕事ができなくなってしまう......考えてみてほしいんだ。
僕はなにも好きで禁欲的になっているわけじゃない。超能力や奇蹟が大好きな好事家が集まってきても仕方がないからだ。今会に残っている人々は、君にいわせれば、小心者で退屈で魅力がないかもしれないが、少くとも誠実でまじめだよ。覇気がないのは認めるが、それは僕が積極性を発揮することを抑えているからだ。やる気を出して活動することを認めていないから、みんながおとなしくなってしまうのは仕方がないことなんだ。それをわかってくれないか」
「わかるわよ。だけど我慢できなくなってくるのよ。だって、いじいじしてる東君って魅力がないんだもの。前はもっと颯爽としていたわ。それが、今は人の顔色ばかり窺って、萎縮しているんだもの。東君にはもっとおおらかで逞しく、闊達になってもらいたいのよ。こそこそしてる東君なんて嫌いだわ」
と、郁江が息もつがずにいい切る。いったん彼女が喋りだすと手がつけられなくなってしまう。
「それが、先生にいう言葉なの?」
と、だれかがいった。丈と郁江が同時に振り返る。
「市枝......」
と、父親がおろおろと手をもみしだきながら哀願するようにいった。
市枝が部屋の入口に、蒼白い顔を殺気立たせて佇んでいた。思いつめた美しい顔だが、眉宇に稲妻のようなものがあった。
「やめれ、市枝......」
父親が這って行き、少女の手を摑もうとする。市枝はじゃけんに手を振り払った。
「自分の先生に向って、そんないい方ってないんじゃない?」
「............」
郁江は無言で相手を見詰めていた。たじろぐ風もなかった。この二人の少女には好勝負という趣きがあった。二人とも規格はずれだが、個性はまったく異る。そのくせ、共通の土壌に立っている印象が強いのだ。
「みんなはどうか知らないけど、東君はあたしの先生じゃないわ」
郁江は平然としていった。真似のできないクールさだ。
「だから、あたしは東先生なんていわないわ。先生だなんて思ってないし、師弟関係なんか全然ないもの。それに、先生って大嫌いなの。先生なんて呼ぶに足る人間が世の中に一人でもいるなんて思えないわ」
「じゃあ、あんたにとってなんなの?」
と、市枝が詰問する。彼女はもはや非行少女グループの頭には見えなかった。ジーンズを穿いたごくあたり前の女の子だった。
「東君は友達よ。彼のやってることに興味があるから手伝ってるだけよ。彼は一度だって自分のことを先生と呼べなんて強要したことはないわ。そんな思い上った人間だったらつきあわないけど」
「へえ。あんた、お友達なの?」
市枝は瞬きもせず、目を郁江の顔にあてたままいった。
「あんたってとても偉い人なのね。お見それしました」
「誤解しないで。あたしは人間対人間として東君とおつきあいしてるだけ。人間はみな同じだと思ってるわ」
「じゃ、あんた、人間対人間としてあたしとつきあえる?」
「もちろんだわ。でも、あなたはあたしが嫌いなんでしょう? それじゃどうしようもないんじゃない?」
「嫌いじゃないわよ、可愛いわよ」
「あなたに可愛がられると、大変なことになるんじゃない?」
と、郁江は平気でいった。
「嫌われてる方が、まだ無難だったりして」
「あんた、あんまりいいすぎないほうがいいんじゃないの?」
市枝は激したものを体中に充満させ、その扱いに苦しんでいた。これまでのように、たやすく煮えこぼれさせることができないからだ。非行少女としてのマナーは捨てたが、新しいマナーはまだ身についていなかった。郁江をどういうスタイルでやりこめていいのかわからないのだった。しかし、郁江が強敵であることは理解していたようである。
「悪いわね。あたし今日は東君にいいたいことを全部いっちゃったから、勢いづいてるらしいのよね。でも、東君はなんとも思ってないわよ。噓と思ったら、彼に尋いてみたらどう?」
「そう。先生だと思ってないのなら、しょうがないわよね」
と、市枝は稲妻の光るような目で、郁江を凝視しながらいった。丈は危険なものを感じたが、郁江は鈍感なのか度胸がいいのか、苦にしなかった。市枝はつい最近まで凶暴な非行少女グループの頭領だった存在であり、並みの少女とは違う。
「あたしは、他人を先生と呼ぶの、おぞましくていやなのよね。だって、そんなに偉いとも思えないし、尊敬もしていない人間を、先生と呼ぶなんて、偽善的なんだもの、東君だって並みの男の子じゃないかもしれないけど、やっぱり東君だわ。そりゃ、みんなが先生と呼ぶのは勝手だけど、やっぱり十七歳ぐらいの男の子を摑まえて、先生、先生とみんなが呼ぶの、不自然だし滑稽なのよね」
「そうは思わないわ。先生と呼ばれるだけのことがあれば、先生と呼ぶの当然じゃない」
「東君は、まだ自分が人類の指導者で、救世主だってことを少しも証明していないわ。まだまだ先のことじゃない? たとえそれだけの資質があったとしてもさ。もっともっとおおらかで寛大で包容力があって、素晴らしくなってからならともかく、今の東君を先生だなんて、あたしは呼べないな。だって自分が恥かしくなっちゃう。自分がおもねっているようで......」
「じゃ、あたしが先生におもねっているというの?」
「そうはいってないわよ。ただみんなが先生先生っていってるのを聞くと、自分にはできないと思うだけ。だって、あたしは彼を先生なんて思ってないもの。他人がみんなそうしているとしても、あたしはいやだし、したくないってことあるじゃない。あたしから質問したいんだけど、なぜあなたは東君を先生と呼ぶの? みんながそう呼んでるから? 自分も呼ばないとみんなに白い目で見られるから、右に倣えしているの?」
「違うわよ」
思いがけぬ郁江の反撃に、市枝は動揺したようであった。市枝にとっても、郁江という少女はあまりお目にかかったことのないタイプであり、難敵という感じが強いようであった。
「あたしは会員なんかじゃないし、会員になる気もないよ。あたしが先生と呼ぶのは尊敬してるからじゃない......他のだれが呼ぼうが呼ぶまいが関係ないわ」
「だったら、あなたは彼を先生と呼ぶし、あたしは呼ばない。それでいいんじゃない? そうでしょ?」
郁江が相手の論理の乱れを的確に衝く。
「屁理屈よ、それは。あんたはだいたい先生の素晴らしさを全然知らないくせに。いつもくっついて歩いてるくせに、あんたにはなんにもわかってないのね」
市枝が躍起となって応酬する。
「あんたはいったいなにを見てるの? その目は節穴なの? あんたは洒々として先生について歩いてるけど、先生を馬鹿にしたり批判したりすることしかできないじゃないか! いい気なもんじゃない? それじゃ先生が可哀そうだわ」
「だってあたしはあたしだもの。図々しいとかあつかましいってみんなは非難するけど、じゃ東君について歩くかというと、だれもしないのよね。あたしは東君に興味があるから、彼が本当に偉大な救世主の器かどうか知りたいから、いつも機会を逃さないように努力してるわ。でもあたしを非難する人たちって、本当になにもしないのね。彼を独占するとかベタベタまつわりつくって、かげで非難したり悪口をいってるだけ。そんなに先生が大事だったら、できるだけついてまわればいいでしょ、自分だって。先生のためにもっとお役に立ちたいと思ったら、もっとやることが違うはずよ。かげでコソコソいってなんになるかしら?
あなたも彼が好きだったら、堂々とやればいいんだわ。他人に文句つけたりする前に、先生のためになにかできることをしてあげればいいじゃない? 大事な先生でしょ? なにかあるはずよ」
「あたしはあんたと違う......勤めてるし、時間がないから、なんにもしてあげられない......」
突如、市枝の声音が乱れた。一言一言抑えつけるように喋る。崩折れようとするものを必死に抑えつけているのだった。泣くまいとして顔がひきつっていた。
「なんにもしてあげられない......先生がこんなに無理してまで、明雄を治してくれているのに......あたしには......」
顔を伏せて、息を乱していた。
「ごめんなさい」
と、郁江があっさりと詫びた。
「やっぱりそうよねえ。みんなそれぞれに事情があるものね。わかってるんだけど、ついいいたいことをいってしまうの。でも、そんなにあわてることないんだし、いつも心に思っているだけでも、やっぱり違うと思うの。あたしが不満に思うのは、そんなに思っているわけでもないのに、心にもないのに、口先だけでいいことをいう人たちのことなの。たいして尊敬もしてないのに、みんながそうするから自分もとか、別の動機があって、先生と呼んだり、持ち上げてみたりチヤホヤする連中のことなのね。だから、誤解しないで......市枝さんのことをいったわけじゃないのよ」
「............」
市枝はブルー・ジーンズのまま正座し、石のように姿勢を崩さなかった。うなだれ、顔を伏せたまま、息もしていないようだった。力いっぱい握りしめた手のように、激情が凝固したような姿勢だった。
「市枝さん......」
と、郁江が呼びかけたが、なんの反応もない。さすがに困惑をこめて、郁江の目が丈を見た。助けを求めているような珍しい表情が愛らしい顔に浮んでいた。
丈は無言のままでいた。父親が例によってどうしていいかわからず、おろおろしている。操り人形みたいな動きで、首を廻し、市枝と郁江、それに丈を交互に見比べている。真剣勝負のような市枝の気迫に押されて、言葉もさしはさめなくなっていた。
呼吸困難になるほどの、この場の凝固した緊迫感に突如、荒々しい物音が踏み込んできた。
老朽アパートの廊下が乱暴に踏み鳴らされ、凄まじく家鳴り震動した。老朽アパート全体がメキメキと異音を発しつつ揺れ動いた。
いきなり、部屋の扉が裂けるような音とともに開いた。気違いじみた粗暴さであった。
3
「ここかっ」
と、闖入者が怒声を発した。その場の全員の視線を集めて、仁王のように立ちはだかっているのは、白装束の異様な風袋の男であった。酒気を帯びているのか、血を噴かんばかりに顔が真赤だ。
いわゆる行者の白装束である。右手には大きな数珠を摑んでいる。白髪混じりの頭は丸刈りで、額に鉢巻を締めている。
「おのれかっ、生神様とかぬかす小僧はっ」
行者は丈を怒鳴りつけた。気分の悪くなる粗暴さで喚きたてる。恐ろしく醜く引きつった怒面だ。
あまりにも唐突であり、気違いじみた言動に、なんのことかわからずにいたが、どうやら丈を繩張荒らしとしてみなし、対決に駆けつけてきたらしい。丈が一銭の報酬も取らず、近隣の病人たちを治してしまうというので、行者の客が激減し、商売をだいなしにされたというので怒鳴りこんできたのだった。
「おのれは生神様などと聖人ぶりおって、他人のことはどうでもいいとぬかすのかっ。おのれのおかげでみんな大迷惑だわ! 今日という今日は、こうして現場をとっつかまえたからには許さん! 徹底的に勝負をつけてくれるから、覚悟せい!」
行者は唾を飛ばし、大きな数珠を振りまわして怒号した。丈も郁江も、これほど理不尽で居丈高な人間に逢ったことがなかった。ヤクザに等しい凶相の持主である。いわゆる拝み屋と呼ばれる行者であろう。
「あなたはそのようにやたらに怒鳴っておいでですが、私にはなんのことかわかりません」
と、丈はきちんと座ったままいい返した。たじろがぬ黒い瞳で行者の真赤な怒面をまじまじと眺めている。
「私は病人など治したことは一度もありませんし、あなたのいうショバ荒らしなどまったく無関係です。あなたはなにか誤解なさっているのでしょう」
「誤解だと、この小僧が、盗人猛々しい!」
行者はますます怒りを強めたようだった。
「こんなに病人を集めおってからに、それでも病人など治したことはないと、抜けぬけとほざきよるのか!」
「待って下さい。私はただここにいる小さな子供に逢いに来ているだけです。病気の人々が沢山集まっているということも知りませんでした。それがあなたのご商売の邪魔になっているということですが、私には関りのないことです。私は拝み屋でも祈禱師でもありません」
丈ははっきりといった。
「あなたのおっしゃることはいいがかりで、大変迷惑です。土足で踏みこんできたのも、この家の人にとっては大変失礼でしょう。お帰り下さい」
「おのれ、ほざきよったな!」
行者は怒り心頭に発して、大きな数珠で丈に殴りかかろうとする気勢を見せた。
「小僧! 生意気な口を叩きよって、懲らしめてくれる! ここへ頭を出せ! 頭の鉢が割れるまで叩きのめす!」
「なにするんだい!」
鋭い声をあげて、市枝が立ち上りざま行者を突きのけようとした。だが、相手は大男で体格が違う。反対に突きとばされて大きくよろける。
「勝手な真似をすると承知しないよ! ここをどこだと思ってるんだい! 他人様の家へ土足で踏みこんで、勝手ほうだいの口をたたきやがって、無事にすむと思ってるのかい、この乞食坊主の拝み屋が!」
非行少女の地が出て、市枝は凄みのきいた啖呵を切った。
「笑わせるな、この豚小屋が他人様だと?」
行者は歯を剝きだして嘲罵した。
「豚小屋の臭い豚娘が、人並の口をきくな。おのれだな、小僧を引き込みおったのは! 尻軽の小娘がなにをほざくか! おのれなどろくに毛も生え揃わぬうちに、腐れぼぼで男をくわえこみよって商売に励んでいたろうが! おのれらは先祖供養もせずに好きほうだいをしよるから、豚小屋住いをしたあげく、子供まで生き腐れのざまだ! 罰が当るのも当り前よ! 天罰てきめんとはこのことだわ!」
「ぬかしたね!」
とびかかる市枝の手首を摑むと、頑丈そうな体軀の行者は力まかせにねじあげ、突きとばした。泥酔し、酒乱の本性をむきだしにしているから、容赦のない乱暴さだった。
いかに非行少女の首領とはいえ、ほんの少女だから一堪りもない。羽目板に叩きつけられ、建物全体が爆撃をくったようにぐらぐらと揺動する。天井からバラバラと砂埃が降ってきた。市枝は呻き声をあげて体をまるめ、うずくまったが、弾けるように跳び起きた。負けん気で体に火がついたようだった。
「ゆるさないよ、畜生!」
市枝は台所から出刃包丁を摑み取った。目がギラギラと輝いた。怒り狂った山猫のような目が凄かった。
「このけだもの野郎! 殺してやるから!」
「笑わせるな。刃物など荒行で鍛えあげたこの体に立つと思ってか!」
行者は大見栄を切った。なにしろ酒乱なので、出刃包丁に恐怖など感じないらしい。
「わが法力で、おのれなど金縛りにし、封じ込めてくれる! 小娘風情が生意気にも歯向いおって、たっぷり後悔させてくれるぞ! 神様の恐ろしい罰を当ててくれる!」
行者はいきなり、右手の大数珠を市枝めがけて投げつけた。大数珠が切れて、珠がバラバラと降り注ぐ。顔や目を打たれて、市枝は両手で頭をかばった。
行者は両掌を合わせて指を組み合せた。左右の人差指だけをぴんと伸ばした。それを指鉄砲みたいに市枝に向け、うん! うん! と唸り声をあげながら、力いっぱい九字を切り始めた。

顔は血を噴かんばかりに赤く、物凄い形相である。
市枝は逆に顔面蒼白になってきた。四肢から力が抜けて、出刃を取り落してしまう。気分が悪くなったらしく、両手を胸元にやる。体が思うように動かなくなってしまったようである。恐怖に目が光った。
「どうだっ、この淫売が!」
行者は喚いた。勝ち誇って跳びかかると市枝を殴りつける。悲鳴をあげる市枝の頭髪を摑んで引き倒すと狂ったように拳打ちを浴びせた。その乱暴さは度肝を抜くほどのものであった。
「やめなさい!」
と、丈が叱咤した。バネが弾けるように行者が振り返る。憎悪で狂った目と丈の黒い瞳が火花を散らす激しさで合った。
「ようしっ、おのれもわが法力で封じこめ、取りひしいでくれるわいっ」
行者が喚いた。
「なにが生神様じゃ! はなたれ小僧が! 三十年真冬の滝行できたえあげた、この隆元様の法力、受けてみい! 不動金縛りにしてくれるわい!」
行者は赤鬼さながらの凶相で、丈に挑みかかった。両手の指を組みあわせて伸ばした人差指の尖端を丈に向け、九字を切り始める。しきりに呪文を誦えている。
丈はそのまま動かず、正座し続けていた。行者が伸ばした人差指を向けて、うんっ、うんっ、と唸り声をだすにつれて、目に見えない思念の波が、網の目をなして体にからみつき、圧迫してくるのを感じていた。
九字を切ることによって、念力の集中と指向性を高めているのだとわかった。豪語するだけあって、行者の念力はかなりのものだった。心臓の上をぐいぐい圧搾される異和感が圧力を増してきた。この圧迫で、市枝は心臓が苦しくなってしまったのであろう。
一度動揺すると、恐怖心が湧いて、いっそう相手の加える圧力が強力に感じられる。恐慌状態になれば、完全に相手につけこまれることになるのだ。
丈はしばらく相手のなすがままにまかせて、案外それが単調であることに気付いた。心臓部への圧迫感も、気にしなければどうということもない。我慢できる程度の不快さである。しかし、はっと驚愕したとたんに、実力以上の脅威として感じられるのだろう。
ヤクザと同じで、恫喝によって相手を支配するのだ。相手が恐れなければ、ヤクザは並みの喧嘩をやらなければならない。相手が腕の立つ人間であれば、素人に反対にやられてしまうこともあるだろう。
行者はだらだらと汗を流し、満面に朱を注いでいた。
渾身の力で、念力をかけ続けているのだが、丈にはうまくかからないのである。念が空転してしまう。大きな滝に向って、水道のホースで水を浴びせているようだ。なんの効果もなく、弾き飛ばされてしまう。
体中が割れそうに苦しくなってくる。それに堪えて更に九字を切り続ける。だが、相手にはなんのダメージも現われてこない。
ほんの尻の青い小僧と見えていたのが、違うものに見えてきた。大瀑布のとてつもない巨大なエネルギーを蔵した、人間放れした化物だ。
相手が足許も定まらずひょろひょろしているなら、水道ホースで水を浴びせても転倒させることができるだろう。自ら足をもつらせて転ぶように仕向けることもできる。あとは好きなだけぶちのめすことができる。
しかし、念力の強さが自慢の行者も、今度ばかりは勝手が違った。いかに念をかけても上滑りしてしまうのではどうにもならない。汗が目に流れこみ、目をあけていることもできなくなった。動悸がしてきて、体中が爆発しそうに苦しくなる。もはや見栄も外聞もなくなってきた。
「苦しい......く、苦しい......」
行者は唸り始めた。子供の指鉄砲のように丈に向って突きつけていた両手もぐんにゃりと垂れさがってしまった。
「し、しんぞうが苦しい......むねがくるしい......くるしい......くるしい......」
単調な声で唸る。もはや九字を切るどころではなかった。自分の方が心臓を締めつけられ、塗炭の苦しみを味わっているのである。自分の発した他人を害する念力が、全て還ってきたのだった。
居合わせた者は、全て深甚な驚きと興味を持って、行者が白装束の胸元をはだけ、のろのろと両手で胸を搔きむしるのを注視していた。あれほど居丈高だった酒乱の行者が、猛烈な勢いのあとかたもなく、病人の弱々しさでもがいているのである。赤鬼まがいの顔色はチアノーゼを呈し、黒紫色に変ってきた。今にも絶息しそうだ。
丈が片手で風を送るような動作をすると、行者はぐらっと揺いだ。それがきっかけで、全身を狭窄する圧迫から解放されたようである。大きな音を立てて喘いだ。夢中で空気を貪る。
「もういい加減にして、帰ったらどうですか?」
と、丈がいった。何事もなかったように、黒々と瞳が光っている。
「夜中に土足で人の家に踏み込むような真似はやめることです。あなたの念力を見せてもらいましたが、法力どころか〝猫だまし〟程度のコケ脅しの代物じゃないですか。念力を人を脅すのに使うから、自分もひどい目に遭うんです。せっかく修行して念力を得たんだから、もっと人のためになるように使ったらいかがですか?」
「畜生め......小僧のくせに味な真似をしくさって......」
行者は口惜しさにまみれて唸った。これほどこっぴどい恥を搔いたことはないだろう。子供のように小柄な少年の前で、大の男が手も足も出ないのだ。
「帰れ帰れ、バカ行者!」
と、市枝が叫んだ。
「お前なんかのムジナ通力が、先生に通用するわけがないじゃないか! さっさと帰れ、ムジナ憑き!」
市枝が顔を赤く脹らし、髪を振り乱して罵った。
「赤っ恥かいて、コソコソと逃げだすといいんだ! お前みたいなインチキ拝み屋の所へ通うバカは一人もいるもんか!」
「畜生!」
行者は怒髪天を衝き、地団駄踏んだ。家鳴り震動し、こまかい砂埃が降り注ぐ。
「体中ザクザクの肉袋になるまでどづいてくれる! この糞!」
行者は大手を広げて丈に跳びかかった。体格が大人と子供ほども違うし、本来粗暴な行者は通力が通用しない以上、暴力に訴えるしかなくなったのだ。相手は子供じみたチビだし、膝の下に組み敷いて堪能するまで殴りつけてやろうと思ったのだ。
まさに一堪りもないとだれの目にも映った。相手は大兵肥満の大男でしかも酒乱だ。あっという間に摑まってぶちのめされてしまう。
丈は行者がしたように両手の指を組合せ、左右の人差指だけ伸ばして指鉄砲のように尖端を行者に向けた。
それだけで、殺到する大男の行者の勢いがぴたりと停まってしまった。念動力のバリヤーの中に捉えられてしまったのだ。
丈は、行者を真似て九字を切り始めた。行者が唸り声をあげた。不動金縛りになってしまったのだった。
「やめろ、やめんか、人殺し......」
と、行者が呻いた。顔が脂身のように白くなり汗が流れだす。
「ちょっとあなたの真似をしてみただけですよ。あなたはこれで人を縛るのが大得意なんでしょう?」
丈がやさしげにいう。
「やめろ......苦しい......苦しい......」
「そんな苦しいことをどうして他人にするんですか? 女の子をいじめて喜んでいたじゃないですか」
「助けてくれ......もうやめる......」
「やめるって、なにをやめるんですか?」
「もう拝み屋はやめる......法力も使わん......だから、許してくれ......」
「どうして、そんな気に突然なったんですか? 商売の邪魔をしたと怒って僕をやっつけに来たんでしょう? なぜ商売をやめるんですか?」
と、丈は追及の手をゆるめない。
「参った、降参した......あんたには完全に負けた。そんな物凄い法力を持っているんじゃとてもかなわない。わしは負けを認めて退散する。二度と商売はしない......誓うよ」
「でも、またよそへ行って、人々を騙すんじゃないですか? 病気を治してやるとか、運勢をよくしてやるとか、うまいことをいって金を巻きあげるんでしょう? 先祖供養が足りないとか神様が怒っているから不幸になったとかいって、気の毒な人たちを脅しているんじゃないのですか?」
「もう拝み屋は今夜かぎりやめた! お山に戻って今度は本格的に修行をする。今度こそ衆生済度に邁進する! だから勘弁してくれ......法力で金縛りにするのは許してくれ。一生涯足萎えになるのはご免じゃ......頼む! もう二度と悪いことはいたしません」
行者は泣き声になって哀訴した。全身麻痺の廃人にされてしまうと恐怖に駆られたらしい。
「市枝君、どうする? 君にひどい乱暴をしたこの拝み屋さんを勘弁してやるかい?」
と、丈が尋ねた。
「もし君が望むならば、この人は一生涯全身麻痺で動けなくなるかもしれない。わずかばかりの念力を悪用して人々をいじめたり、金を巻きあげたりした悪い奴だ。もしそうなっても自業自得じゃないかな?」
「助けて下さい......もう不始末は二度といたしません」
行者が不動金縛りになったまま、泣き喚いた。両手首が手錠をはめられたように、胸の前で合わさったまま、微動もしないのだ。満身の力を渾めても一ミリと動かない。全身麻痺と同じであり、呼吸も困難になり、生きながらの死人同然となる恐怖が激しい。
「た、助けて......」
しまいに行者は口もきけなくなってしまった。口をパクパク酸欠の魚のように動かすが、まるきり声が出てこない。
市枝は青黒い打ち身になってきた顔に手を当てて、身じろぎもしなかった。稲妻が光るような青っぽい瞳で、金縛りの行者を見詰めている。
「こんな奴......もういいわ」
と、市枝は吐き捨てるようにいった。
「こんな奴が全身麻痺で施設に入ったら、面倒見る人が気の毒じゃない。本当に面倒見るのって、大変なんだから......」
ぷいと横を向いた。行者が溜息のような唸り声を漏らす。
「どうせ明雄みたいにおとなしくなんかしてないで、看護婦の手を焼かすにきまってるんだからね」
と、市枝がつけ加える。丈は組み合せていた両手の指を解き、金縛りの行者にふっと息を吹きかけた。とたんに相手の腰がヘナヘナと砕け、大きな音を立てて尻もちを突いた。
「もう大丈夫だから帰りなさい」
と、丈がいった。行者は手足が動くのを知ると、悲鳴のような声をたてた。夢中で這いずるように部屋を飛び出して行く。
「二度と来るんじゃないよ!」
と、市枝が叫んだ。老朽アパートを家鳴り震動させながら、行者が死物狂いで逃げ出して行く気配だった。
ぷっと郁江が吹き出した。笑いの発作に摑まれ、きゅうきゅういいながら笑い転げる。普段あまり笑わない郁江には珍しいことであった。
「あっ、明雄が笑ってる!」
と、市枝が甲高い声で叫んだ。えっと声をあげて父親が寄ってきて、夜具の中を覗きこんだ。
「本当だ......明雄が笑っている」
笑いがいまだに停まらない、郁江の笑声とは別に、子供の笑い声がはっきりと聞こえていた。
今まで一言の声をあげたこともない子供が、夜具の中で笑い転げているのだった。いかにもおかしそうな明るい笑声がだれの耳にもはっきりと入った。
「先生、明雄が......なにかいおうとしています!」
と、市枝が丈に祈るような目を向けていった。丈は正座したまま、膝で進んで、夜具の中の子供に顔を近づけた。子供が夜具の中から手を出そうとしていた。丈に向って差し出す。
「なんといったの?」
と、後ろから覗きこんで、郁江が尋ねた。
「あの人が、動けるようになってよかったねって」
と、市枝が答えた。もはやわだかまりは忘れられていた。
「拝み屋さんが、自分のように体が動かなくなってしまうんじゃないかとずいぶん心配していたらしい」
と、丈がいった。
「動けるようになって、とても嬉しかったといっているんだ」
「ふうん......この子、優しいのね」
と、郁江が感心したようにいった。感動のため泪ぐむような時でも、平然とクールにいってのけるのが、郁江らしいところだった。
「先生......起きたいといってますけど、いいでしょうか?」
と、市枝が尋ねた。
「もちろん。なにをさせてもいいですよ。明雄君はもう起きて歩くつもりなんでしょう」
丈が微笑していう。
姉の介添えで、少年は夜具の上に両足を投げ出して座った。体がぐらぐら揺れるが、かなり足腰に力が戻ってきたようである。
少年はみんなの顔を見まわし、郁江の顔に目を止めて微笑みかけた。とっさに郁江も笑い返し、ついで自分のしたことに照れたようであった。
「先生! もう大丈夫ですよね!?」
と、市枝が泣きそうな声音で丈に問いかけた。市枝のように突張った少女が出すとは信じられないほど生々しい声音だった。期待と不安が張り詰めていた。
「明雄君は、はっきりと自分でよくなろうと決心したんだ。だから、もう起きて歩くつもりだ。そうだね、明雄君」
「うん」
と、少年は郁江にもはっきり聞きとれる声音で答えた。
「ぼく......歩く......」
「わあ......喋ったわ、この子! 本当に喋ったじゃない!」
と、嘆声を漏らし、郁江はそんな自分にびっくりして赤くなった。市枝が鋭い目で彼女を見たが、その目には抑圧された敵意の光が消えていた。
「よかったわね、弟さん......」
「ありがと。なにもかも先生のおかげよ」
市枝は弟の瘦せた体を抱きしめながらいった。泣くまいとする努力で顔がひきつってしまっていた。
「そろそろお暇しよう」
と、丈が郁江に目配せして立ち上った。
「明雄君はもう大丈夫と思います。本人の努力で、元通りの健康なお子さんに必ず戻ります」
丈はかしこまって叩頭している父親に向っていった。
「念のために申し上げておきますが、僕が明雄君の病気を治したのではありません。僕は医者ではないし、人の病気など治せません。明雄君が治ろうと自ら決心しただけです。だれでも自分で自分の病気を治すのではないでしょうか......」
失礼します、といって丈は部屋を出た。スニーカーを穿く。全ての部屋の扉が開き、人々の目が丈に集中していた。中には平伏し、伏し拝んでいる者もいる。
丈は素早く、するすると歩いて老朽アパートを出た。アパート中の緊張した雰囲気から脱出するようなタイミングであった。
「東君! 待って!」
郁江があわてて後を追いかけてくる。それほど丈の動作は速く目にも止まらなかった。
「どうして、そんなに急いで行っちゃうの!?」
ようやく路地で丈に追いついた郁江が息を切らしながら、文句をいった。
「感動的な場面が苦手なんだ」
と、丈は足速に歩き続けながらいった。
「君みたいに平然と泪一滴こぼさないでいる真似ができない。男の子がおいおい泣いたらみっともないだろ」
「泣いてもいいわよ。どんな時でもあたしって泣けないから、損な性分だなあって思ってるの」
郁江は息をはずませて、足の速い丈を追いながらいった。
「東君も照れ屋なのね。あの家の人々がもっとお礼をいいたがっているんだから、ちゃんと聞いてあげればいいのにさ。自分のやったことはたいしたことじゃないってばかりに大急ぎで帰っちゃうんだから......」
「本当にたいしたことじゃないんだよ、僕のやったのは。でも、あそこに長居をすれば、生神様扱いされるに決まっている......あそこにいた人たちが全て殺到してきて、僕を拝みだしたかもしれない。それがいやだったんだ......僕はなにもしてないんだから」
「本当に東君は生神様じゃないの?」
と、郁江が大きな期待をもって尋ねた。
「イエス・キリストの再臨じゃないの?」
「冗談でもそんなことをいうと、絶交だぜ」
丈はきびしい声を出した。
「もし、君がそんなことをいいふらしたら、口をきいてやらないからな」
「あら、東君、完全に風邪が治ってる!」
と、郁江が話をそらした。
「あれっぽっちの間に、あんなひどい風邪がケロッと治っちゃったじゃない。ちょっと額にさわらせて?」
郁江の子供のように小造りの可愛い手が丈の額にあてがわれた。
「熱、下ってるわ。奇蹟じゃないのかしら、これも?」
郁江はいつまでも小さな柔い手を丈の額からはなそうとしなかった。
「本当だ」
丈は顔を振って、郁江の手をはずした。
「治そうと思わないのに、治っちゃったじゃない?」
「そうだ......自分のために使おうなんて考える必要はない、そういうことかもしれないな」
と、丈は呟いた。
「もっと楽々と生きていけばいいんだ」
「そうよ、東君、ものすごく無理してるもの」
郁江はきっぱりといった。
「コチコチになって、肩を張って歯をくいしばって生きてるわ。もっと余裕があってもよさそうなものなのにね。すごいストレスがたまってきそう。なんだか、今にもぶつん! と切れそうな感じがするの。本当に切れちゃったらどうなることかと思うわ。ものすごい反動が来るかもしれないわね」
「反動?」
「うん。もう、地球なんか、人類なんか、おれの知ったことか! と居直ってさ。おれは自分のやりたいようにやる! 禁欲主義なんかもう止めだ! 思い通りにガンガンぶっ叩いてでも考えを押し通すんだ! そんな風に開き直ったら、東君うんと魅力があるだろうな......そんな気がするんだな」
「僕はそんなに無理してると思うか?」
丈はショックを受け、郁江の平然とした顔を見返した。
「うん。もう突っぱらかっちゃっているわよ。そんなに深刻な思い入ればかりしてたら、結局、たいしたことはできないんじゃないかと思うな。だから、東君の周囲に集まってくる連中って、みんな緊張過多で面白くない人たちばかりなのよね。人間として魅力があんまり感じられないの。だいたい、人を惹きつける魅力がない人間に、大きな業ってできないような気がするんだけど......ううん、これは東君のこといってるんじゃないのよ。東君だって、もっとゆったりとすれば、幅の広さが出てくるんじゃないかと思うの。そんな百メートル全力疾走みたいなすごい顔していなければね......」
「やっぱり、僕は無理しすぎてるんだろうか......みんな、離れて行くのは、そのためなんだろうか?」
「ほら、すぐそう悲愴ぶっちゃうからいけないのよ。もっと肩から力を抜いて、スイスイとやったらいいのに......」
と、郁江が丈の肩を叩く。
「僕は人間が甘くて、出来ていないから......自分にきびしくしなければ、どうにもならないんだ。僕はもともと寛大でもないし、親分肌でもない。人に慕われるようなところもない......指導者としては適性がなくて、もともと失格なんだろう。狭量で、人の間違いが見逃せなくて、包容力がない。他人の落度がすぐに目についてイライラしてしまうんだ。こんな僕が指導者としての立場に立つのなら、よほど自分にきびしくするほかはない......そう思って僕なりに必死でやってきたつもりだけど、君の目にはそんなにカチカチで面白くない人間に見えるのか?」
「面白くないとはいってないわよ。こうしてあたしだって、受験勉強もほうりだしていっしょにやってるんだし......東君が無味乾燥のおよそ魅力に欠けた人間だなんて、一言もいってないでしょ。もっとリラックスした方がいいんじゃないっていってるだけ。だけど、それをいうと、東君はすぐに歯止めがきかなくなるとかいって、禁欲主義的になっちゃうのよね。どうせやるなら、もっと人間らしく、楽しくやれない?
なにか風変りなことをいったり、ちょっと反対意見を吐いたりすると、すぐに白眼視が返ってくるような会って、実際楽しくないのよね。親切心かもしれないけど、それがこっちの考え違いだとこんこんと説いてわからせようとしたら、どうもピントが狂ってて、歯車が嚙み合わないのよね。あたしのことを、突拍子もないばかげた意見ばかり吐く、わかってない娘だとみんな思ってるけど、こっちからすると、みんな石頭の画一主義者ばかりで、バッカみたい! っていいたくなるわ」
「僕はたぶん、指導者の器じゃないんだ」
と、丈は呟いた。
「誤解しないで。そんなことはいってないわよ。そんな、ひがまれるとなんにもいえないじゃない」
「いや、それはおそらく事実だ。今に本当の指導者が出てくるのかもしれない。たぶんそうだろう。しかし、それまでは僕がなんとかしてつないでいなきゃならない......もともと器じゃないんだから、たいしたことはできない。してみれば、精一杯やるしかないじゃないか......口笛を吹きながら、朝飯前にスイスイとこなしていく能力は、僕には縁がない。僕が無理をしているとしても、しかたがないんじゃないか......」
「東君がどれだけの器なのか、正直いってあたしにはわからないわ。ただ、あまりにも無理をしてると思うだけ。無理が重なると、東君、どうかしちゃうんじゃないかなって、心配してる。もう少し人間らしくできないかなって思うんだけど......」
郁江はやや突き放すような口ぶりでいった。深刻になるのが嫌いなのだった。相手が深刻になってくるのはもっと嫌いだ。
「あたしのいいたいのは、それだけ......どうってことないわ」
先に立ってどんどん歩きだした。
「あたしって、深刻なのって大嫌いなの。深刻になったからって、どうにもなりゃしないんだから。むずかしそうな顔して、苦しがってたって、事態はなんにも変らないのよね。それに、馬鹿な人間って、すぐに大仰に深刻ぶるみたい。本当はどうってことないのにさ......」
腹を立てたようにぶっきらぼうないい草であった。
「そうかもしれないな......本当はどうってことないのかもしれない。大勢に影響はない......だけど、僕にはどうしようもない。愚かなことかもしれないが、もうスタートしてしまったんだ。自分にできることをしゃにむにやるしかない。他に方法はないんだ。だからこの道を行くさ」
と、丈はいった。しかし、怒ったように先に立って歩いて行く郁江には聞こえなかったようだった。
4
その夜、珍しく父親の東龍介が帰宅していた。
最近は二か月間に一、二度程度しか家に足を踏み入れない。ますます足が遠のいていく気配がある。それも、昼間、間隙を縫うようにしてやって来るので、学業のある丈や卓はまず父親の顔を見ることがない。
大新聞の外信部に勤める関係で、海外へ行く用事も多いようだが、仕度などは全て愛人宅でやらせているようである。もはやその辺も公然たるものだ。
丈は、父親にさほど興味がなかった。昔は怒りや恨みを持ったが、今となってはなんの感情もない。赤の他人に対する無関心な気分があるだけだ。血族という意識がきわめて稀薄である。
「お父様、お帰りになってるの」
と、玄関で姉の三千子が小声でいった。いわれるまでもなく三和土の靴でわかっていた。父親の龍介は英国仕込みのお洒落に、身分不相応なまでの金のかけ方をする。家族にはケチだが、わがことには贅沢を惜しまない。最近はろくに生活費も入れていないようだが、別に愛人宅を構えているためもあるだろう。
「丈になにかお話があるみたい。後でご挨拶してね。あまり逆らっちゃだめよ」
姉は多少心配しているようだった。丈は父親とまったくソリが合わない。昔からずっとだ。丈は「生誕以来」と称している。エゴイストの父親龍介は子供たちには無関心だが、わずかに弟の卓とは対話を持てるようだ。
「逆らうつもりはないけど、しかしいうべきことだけはいわないとね」
丈はスニーカーを脱ぎながらいった。
「それをいわないで! お怒りになっちゃうから!」
三千子があわてていった。最近の丈は、父親などまるで恐れない。人間的に成長し、逞しさを増したせいであろう。対等に話し合うに違いないが、神経質な父親を激怒させるかもしれない、そんな危惧があった。
「大丈夫だ。姉さんが心配することはない」
平然といいきる弟が頼もしくもあり、不安でもあった。三千子はいつも父親と弟の板挟みになる。冷淡で利己的な父親に反抗する弟に理があると思わざるを得ないが、父親はやはり父親だ。古風かもしれないが、三千子はそう思ってしまう。
丈は洗面すると、奥の間に行き、父親に挨拶した。まず尋常な挨拶ぶりといえた。以前の丈であれば、父親になど話をする必要はないとてきびしく拒み、三千子を困らせたであろう。それを思うと、丈は別人のような変貌ぶりであった。
東龍介は和服に着替え、床の間を背負ってウィスキーを飲んでいた。スコッチ・ウィスキー一本槍で、決して日本酒やビールはやらない。それもジョニー・ウォーカーやホワイト・ホースといった日本人に人気のある有名スコッチではない。そんなものは軽蔑しているのだ。
「そこへ座れ。話がある」
龍介はじろりと丈を見て、素気なくいった。頭ごなしな口をきくが、丈はびくともしなかった。前だったら突立ったまま反抗的な目で、父親を睨みつけるところだ。
「わかりました」
いわれるままに正座する。だが、かしこまっているわけではない。ゆったりと座り、父親を落着いた目で見詰める。

龍介は長身の神経質な顔立ちの男である。美しい口髭を貯えていて、いささか癇癖家風の顔に威厳を添えている。元々不機嫌な顔で、人前ではあまり笑わない。とくに、子供たちの前では歯を見せたことがなかった。
龍介は、丈を正座させたまま、自分は無言でストレートを飲んでいた。気障だが、決った手つきである。少しも愛着など覚えないのだが、英国紳士風の気取りが様になっていることは事実であった。
丈は、以前と異り、そんな父親に威圧されたり、反抗したりすることはない。反抗したくなるのは気圧されるからだろう。龍介が、うとましい息子を前に、ぎごちない気分でいることがわかるからかもしれない。うとましくてしかたがないのだが、一応話をつけなければと思っている。丈の顔など見たくもないのだ。子供たちに対してはいずれも疎遠な気持しか持っていないが、とりわけ丈に対しては不快感が強い。反抗心が旺盛で、いつも白い目を父親に向けるからだ。どちらかといえば、鷹揚な卓の方が好ましい。高校生柔道家として有名だし、父親に面と向って逆らうこともない。卓は如才ない性格だ。
それにひきかえ、丈は可愛げがない。父親を憎んでいるのがはっきりわかるからだ。その目はいつも父親の不行跡を責め、責任の放棄をきびしく非難している。
敵意をみなぎらせている家庭に帰る気が失せるのは人間の情だし、それが当り前だ。愛人宅は居心地よく迎えてくれるというのに、冷たい子供たちしかいない家に帰る必要がどこにあるだろう。
父親が常にそうした自己正当化を行う心理にあることが、今の丈には明白だった。やはり遠感のせいもあろうし、会を作って以来、人間心理を学び、敏感になったこともあるのだろう。
龍介はきびしい心で武装していた。他人にきびしく、己れに寛大な心だ。さもなければ丈に対して叱責を加える余裕など持てるはずがなかった。子供たちに対しては、いつも心に引け目があるのだ。父親の責任を放り捨てて、義務を果していないという引け目だ。だから、いつも非難の目を向けている丈を疎んじるのかもしれない。
「どういうご用でしょうか?」
と、丈は自分から切りだした。父親がきっかけを摑めないまま、グラスを重ねているのにうんざりしていた。
「どんなお話か、お尋きしてもいいですか?」
龍介はきびしい目で、息子の不遜さをとがめるように睨み、グラスを卓の上に置いた。
「お前は話に聞くところによると、新興宗教まがいのことをして、人を集めているそうだな」
高圧的な口調は、丈の予期した以上のものだった。息子の丈に話す時は、いつも傲慢で威圧的な態度に出るのが癖になっている龍介だが、今夜はひときわそれが激しい。
それで息子が恐れ入ると思っているわけでもないのだが、穏和に話し合うということができない性分なのだ。居丈高になり、強権的になり、いたずらに息子の反抗心をさそいだしてしまう。
自分でもまずいと思っているのだが、感情の抑えがきかなくなるのだ。とくに丈に対した時、この傾向が著しくなる。勤め先ではそのようなことはないようである。父親の側にあるかなり深刻な近親憎悪なのかもしれなかった。
「そういうくだらないことはすぐに止めることだ。いいな? ただちに手を引き、正常な高校生のあり方に戻りなさい」
うむをいわせぬ口ぶりだった。
「お前も来年は受験だ。こんなことをしていると、どうなるかわかっているだろう。お前の学業成績は非常に芳しくない。こんなことではまともな大学に入れるわけがない。もっとましな成績が取れない限り、大学進学の意味がないだろう......
お前がアルバイトで学資を稼ぐ気ならともかく、二流、三流大学に入ってのらくらすることは許さない。そのつもりでいるといい......いいたいのはそれだけだ。妙な会はすぐに脱けなさい。わかったな?」
「お父さんは、それをどこで聞かれたのですか?」
と、丈が尋ねた。父はその声音の穏やかさに意表を突かれたようであった。息子が強く反抗してくることを予期していたのであろう。
「社で聞いた」
龍介はぶっきらぼうにいった。
「高校生の教祖が評判になっているという噂だ。よくよく聞いてみれば名前は東丈で、学校は杉並の青林学園高校というから、なんのことはないお前のことじゃないか。社の連中は、みんなわしの息子だということを知っていた......お前のおかげで、いい赤っ恥をかかされた」
目が怒っていた。彼が恥辱と感じたのは事実であろう。龍介はユーモア感覚のない人間であることはわかっている。英国かぶれのくせに、真の意味のユーモアはない。カビの生えたような古臭い諧謔を重々しく弄することをユーモアと感違いしている。傲慢さだけは本物である。
とにかくそれで、丈を怒りつけに渋々と家に足を向けたのであろう。本当は丈などと口をききたくもないのだ。丈もそれはよくわかっている。
「どうも誤解があるようですね」
と丈はいい、父親の出方をうかがった。
「誤解? なにが誤解だ!」
父親はすかさず乗ってきた。
「三千子にも事情を聞いた。お前が怪しげな新興宗教まがいの組織を造っていることは事実じゃないか! とにかく、高校生教祖といえば、かなりの評判になっている。それもいい評判じゃない。インチキ教祖という悪評だ! 当り前のことじゃないか。お前のような子供に教祖など務まるわけがない。だれかにそそのかされて、わけもわからずに教祖気取りになっているのだろう!」
「お父さんの社からも、取材を申込みに来ましたよ」
丈は落着いていった。父親がなにをいおうと腹は立たない。前だったら反撥心に顔を青くして喰ってかかるところだ。それとも無言の行で、黙殺しにかかったかもしれない。
今は父親が反抗すべき対象に思えない。大新聞社に禄を食むジャーナリスト、というより、とうの立った中年男として等身大に丈の目には映るのだ。
「なんだって......? それでどうした? だれが取材に行った?」
龍介はちょっと顔色を変えてあわただしく問いかけた。なんとかして記事をさしとめなければと思ったのであろう。
「ご心配は要りません。取材は丁重にお断わりしましたから。今は新聞だけでなく、取材申込みは全部謝絶しています。ですから、お父さんのご心配になるようなことはないはずです」
「なぜ取材を断わった?」
龍介は丈の誘いにうっかりと乗った。天下の大新聞の取材申込みを断わるとは生意気だという、大新聞特有の意識がとっさに働いたのだろう。
「誤解を避けるためです。僕のやっている会は宗教とはなんの関りもありません。いわんや新興宗教などであるはずがありません。それははっきりとした事実です」
「噓をつくな!」
龍介は声を荒らげた。
「お前のやってることが、怪しげな宗教まがいの活動だということははっきりしている! わしをごまかせると思っているのか!?」
早くも感情が荒れ始めていた。丈の前では、どういうわけか感情が不安定になる性癖が龍介にはある。丈を強く疎んずるのもそのためであろう。丈の黒い瞳を見ているうちに、気が昂ぶり、かっとなってしまうらしいのだ。
合性が悪い、というのだろう。三千子に対しても龍介の感情は冷やかだが、気分が荒れるほど極端ではない。丈に対する時だけ、特殊な反撥力が働くのである。
「べつに噓をついて、お父さんをごまかすつもりはありません」
反対に丈は水のように冷静になってきた。感情的になった人間は劣位に立つことになる。空威張りや威嚇が役に立たない人間に対しては、感情的になるほどに敗北感が増加してくる。
「僕は超常現象に関する研究会を主宰しています。少数ですが会員もいますし、大学などにも理解者が増えてきています。報道関係でも、各社に理解を示してくれる人々がいます。けれども、興味本位で、高校生教祖などのイメージをもって、先入観を拡大する意図の下に取材申込みをするマスコミはお断わりしています。たとえば、協力を申し出てくれている出版社はいくつかありますが......」
丈は大手出版社の名と理解者の役職名を次々にあげた。ハッタリではない。父親にもそれは通じたようであった。
「決して怪しげなものではありません。会員には著名人も、社会的地位のある人たちもいます。新興宗教ではありませんから、布教活動も、組織拡大のための活動も一切やっていません。お父さんがどのようなニュースソースをお持ちか知りませんが、きわめていい加減なものであることは確かです」
「天下の大新聞をいい加減だというのか!」
龍介は青くなって怒声を放った。
「生意気をいうな、馬鹿者! 高校生の分際でなにをいうか!」
「大新聞だからといって誤報はいくらもあるはずです。しかもお父さんは、最初から先入観を持ち、ある種の依怙地な偏見を持っておいでのようです。ジャーナリストとしては、著しく公正を欠くのではないですか?」
「ジャーナリスト? 馬鹿っ、わしはお前の親としてものをいっているんだ! 非行に走っている子供を矯正するのは、親の当然の義務だ!」
龍介は声を慄わせて怒鳴った。
「わかったか! お前のやっているなんとかいうおかしな会をやめろといっているんだ! いいな!」
摑んだウィスキー・グラスがブルブルと震えて口許に運ぶことができなかった。
「親に向って口応えするな! 承知せんぞ! この馬鹿者が!」
怒鳴りたてるほどに己れの興奮に駆りたてられて、激昂してしまった。
「貴様は昔から陰険な奴だった! 子供のくせに親を親とも思わん、とんでもない奴だ! 親に従えないなら、この家から出て行け! お前のような奴はおれの子ではない! 昔からおれの子だと思ったことは一度もない! なんだ、ふてくさった面をいつもしおって! その面を見たくないから、家から足が遠のくんだ」
龍介は額に青筋を立てて罵り続けた。もはや止めようのない勢いであった。
5
丈はややうつ向いて、罵詈雑言を額で受け止めるようにして聞いていた。父親とは思えぬいい草だが、不思議にショックはなかった。他人事のように平静な気分であった。怒りも憎しみもまるで遠かった。
「親のいうことが聞けぬ人間はこの家を出て行け!」
龍介は喚いているうちに泥酔してしまったように、同じことを何度もくり返すようになった。
「お前のような奴はおれの子ではない! お前はまるでホトトギスみたいな奴だ! 昔からそう思っていた!」
「お父様、それではいいすぎです。そんなことをおっしゃっては丈があまりにも可哀そうです!」
いつの間にか奥の間に入ってきた三千子が叫ぶようにいった。彼女は顔面蒼白になり、畳の上に直接正座していた。
「黙れ! お前は余計なことをいわず、引込んでおれ!」
龍介はますます逆上して怒声を張り上げた。
「こいつがおれの子ではないということははっきりしていたんだ! こんな奴はおれとはなんの関係もない、取換えっ子だ!」
「お父様、おやめ下さい! いくらなんでもものごとには限度があると思います」
三千子は毅然としていった。
「お父様の今おっしゃっていることは、親が子供にいうことの限度を超えています! いくら親でも、決して口にしてはならないことがあるでしょう。お父様は間違っておられます。そういうことは二度とおっしゃらないで下さい!」
三千子が普段は決して見せることなく蔵している鋼鉄のような毅よさだった。人間としての品格であり、威厳である。三千子のこの毅よさに触れてたじろがない人間はいない。相手が風にも耐えぬ弱々しい女性どころか、火のような烈しい誇りを秘めた女神であることを思い知らされるのだ。三千子のような女性が示す軽蔑ほど応えるものはなかった。
「きさままでおれに歯向う気か!?」
龍介は死人のような顔色になり、唸るような声をあげた。
「歯向っているのではありません。道理をおまもり下さいとお願いしているのです。お父様、子供としての丈をお叱りになるのはけっこうです。けれども、子供にも人間として絶対に譲れない誇りがございます。それはたとえ親でも決して冒すことは許されないものです。お父様は今それを冒していらっしゃるのです」
三千子は父親の怒号に対して、一瞬もたじろぐことがなかった。顔色こそ蒼ざめているが、態度は一点の卑屈さもない。こんな時の姉ほど気高く美しい女性はまたとない、と丈は確信した。
「ホトトギスなどと二度とおっしゃらないで下さい。わたくしからもお願いいたします」

「黙れ! いつからきさまは親に意見ができるほど偉くなった!? 売れ残りのくせしおって生意気な! きさまらはどいつもこいつも穀潰しだ! きさまらなど、おれの子供ではない! その憎さげな忌々しい面を見ると、胸が悪くなる! きさまらなど、鬼の取換えっ子だ、おれとはなんの縁もゆかりもない! なんだ、偉そうに......」
「そういえば、お父さんは昔から怒るといつもそうやって、取換えっ子だとかホトトギスの子だとか怒鳴っていましたね」
と、丈が静かにいった。
「小さい子供にとって、それがどんなにショックかご存知だったんですか? 泣いて止めるお姉さんをひどくぶったり蹴ったりしましたね、お父さん。これほど口惜しく悲しかったことはありませんよ。後でお姉さんはいつも僕を抱きしめて長い間泣いていた。お姉さんをこんなにいじめて泣かせるお父さんは絶対に許せない。いつも僕はそう思っていましたよ」
「なにっ、貴様、親に手向う気かっ」
「丈! やめて!」
龍介と三千子が愕然として同時に叫んだ。丈はうっすりと笑った。
「大丈夫です。なにも仕返しなどしようとは思いませんよ。第一、幼い子供をそこまで傷つける人間はどうかしている。そんな異常な人間に対して仕返しなどしたところで仕方がない。今やっと、本当にそういう気になれました。だからお父さん、あなたがどんな悪口雑言を吐こうと気にしません。僕も反抗的でいじけている、感じの悪い餓鬼でしたからね。しかし、お姉さんに対してひどいことをいうのはやめて下さい。お姉さんはあなたに残酷に取り扱われるような人ではありません。お姉さんは本当にいい人だし、素晴らしい人です。それを悪しざまにいうのは見苦しすぎます。ご自分の人間性を卑しくおとしめるだけですよ、お父さん」
「なにを吐かす、生意気な!」
龍介は気違いじみた動作で、やにわに卓の上のウィスキー・グラスを摑むと丈の顔めがけて叩きつけた。
厚手のウィスキー・グラスは丈の額に激突して皮膚を裂き血飛沫をあげるかと思われたが、丈はさりげなく手をあげ、顔前まで来たグラスを捉えた。
何事もなかったように、手を伸ばして丈はグラスを卓の上に戻した。厚手のカット・グラスは一滴のウィスキーもこぼしていなかった。琥珀色の美しい液体がわずかに揺れている。
龍介は呻き声を漏らした。顔中に汗が滲み出てきた。体中が硬直したようになり、身動きもできなくなったようだった。
恐怖に満ちた目を丈に向け、口は言葉もなくわなないていた。しんそこから度肝を抜かれてしまったのだ。
「どうなさったんですか、お父さん?」
と、丈は平静な声のトーンでいった。
「手向いしたり、仕返ししたりはしませんから、ご心配なく。そんな化物を見る目で見ないで下さい」
「化物だ......」
龍介はわなわな慄える手で、丈を指さしながら、尻でいざって離れようとしていた。
「やっぱり、お前は化物だ......人間じゃない......」
滑稽なまでに、声が慄え、歯がカタカタと鳴った。体中の骨がてんでんばらばらに踊りだしたようだった。
「化物......お前がおれの子でなんかあるものか......」
「それはひどすぎるんじゃないですか、お父さん?」
「お父さんなどと呼ぶな! この外道の化物めが! おれはきさまの父親なんかじゃないんだ!」
龍介は死物狂いで喚いた。豚が喉を絞められるような奇怪な声音が漏れ出た。逃げだしたいのだが、足腰に力が入らないのだ。尻でいざって、床の間に乗りあげてしまった。
「冷静になって下さい。お父さん。どうやらよく話し合いをした方がいいようですね。乱暴は止めて、静かに話しませんか......」
「うるさい!」
龍介は床の間の青銅の置物を摑んだ。虎の置物で、かなり大きく殺人的な重量があった。龍介はそれを丈に向って投げつけようとしたのだ。
「そんなことはお止めなさい」
と、丈がいった。龍介は力をこめたが、置物を持ち上げることができなかった。突如として何十貫もの重量を備えたかのようだった。満身の力を渾めても同じことだった。微動だにしない。
龍介は喘ぎながら、青銅の置物から手を離さざるを得なかった。顔中から汗をしたたらせていた。渾身の力を振るったことが徒労に終り、それとともに激怒の発作も静まってしまったようである。全身の力が抜けて、がっくりと床の間に座りこんでしまった。
「お父さんにお水を」
と、丈が姉に向っていった。三千子があわてて、タンブラーに水注しの水を注ぐ。完全に丈の手に主導権は移っていた。
もはやだれの目にも父親と息子の立場の逆転があるのは明らかだったろう。丈の落着きは父親の権威を凌いでいた。そのような年齢的な権威主義のもたらす格差は、丈の前で意味を失っていた。
龍介は息を弾ませて、三千子に手渡されたタンブラーの水を飲んだ。荒々しい激情はあとかたもなく体から抜けだしてしまっていた。
「僕はお父さんを蔑しろにするつもりは毛頭ありません」
と、丈はむしろいたわりをこめていった。
「ことさらに反抗したり、歯向うつもりもありません。もしお父さんがそのようにお考えでしたら、誤解を解いて下さるようお願いします。もし、僕の態度に不遜な所がありましたらお詫びします。ごめんなさい」
丈は素直に頭を下げた。
「過去にどのようなことがあったとしても、やはり、あなたはお父さんだし、僕にとってその事実は変りません。これまで育ててくださった恩義もあります......だからお願いします。昔なにがあったのか、なにがお父さんにそのようなわだかまりを作ったのか、教えてもらえませんか?」
「本当に、なにをいわれても構わんのだな」
龍介は口の傍を手の甲で拭いながら、吐きだすようにいった。激しい興奮はさめていたが、丈らに対する嫌悪の情は澱のように重く残っていた。
「構いません。前から一度じっくりとお聞きしたいと思っていたんです」
「よし、話してやろう」
龍介は陰気な目を丈と三千子に交互に向けながらいった。子供たちに心理的な優位に立たれていることが面白くないのだった。不貞腐れているようだった。
「僕を化物とおっしゃいましたね?」
「化物だから化物だ! お前が確か二つ三つのころだったと思うが......お前は庭で大きな石燈籠を宙に飛ばして遊んでいたんだ」
龍介は嫌悪に堪えぬといわんばかりに、口の右隅を歪めていった。丈と三千子は目を見合わせた。
「全然憶えていません。そんなことがあったんですか!?」
「あったさ。お前はやることが化物だった。お前は寝ながら宙に浮いていることがしょっ中あった。なんにも支えがないのに宙に浮んでいるんだ!」
「空中浮揚だ......そんな小さなころから、超能力が目覚めていたとは思いませんでした......」
「超能力かなにか知らんが、お前はやることがいちいち気持悪かった。お前は大きな蛇だの狼だのといった化物を呼び出してはいっしょに遊び、また消してしまうことができたんだ。母さんはそのため一時ノイローゼになった。化物の子供を持った親の気持にもなってみろ......」
「それはきっとものごころがつく前のことではないですか? 僕はまったく記憶がないんです」
「通りすがりの行者のような人間が、家へやってきて、お前には鬼神が憑いているといったことがある。恐ろしい大きな鬼神で、お前の後に見えるといった。お前にしっかりとり憑いているから祓うことはできないと......お前は人間のように見えるが、そうではない、本当の子供ではなく、ホトトギスのような取換えっ子だと教えて去った。確かにその通りだった。お前はおれの本当の子供とすりかえられた、取換えっ子なんだ。その証拠に東家にはお前に似た者は一人もおらん。おれの本当の子とすりかえられた化物だからだ......死んだ母さんもそう思っていた。あれは自分の腹を痛めた子供じゃないといっていた。病院ですりかえられたに違いないと......」
「お二人が冷たいのは、本気でそう思われていたからだったんですね。生れた時からずっと......僕はさんざん出来そこないとお二人からいわれて育ってきましたが......」
「化物とわかっている者をだれが可愛がれるものか」
と、龍介は毒々しくいった。もはや全て腹中に蔵していた毒念を吐き出そうと決心したようであった。
「幸い、化物じみた力を発揮したのはほんの一時期で、後は体も心も、弱い子供になった。病気ばかりしていて、育たないかもしれないと医者がいうほどだった」
「死ねばよかった......そうでしょう?」
丈は静かにいった。龍介は恐ろしい渋面で応えた。
「そうだ! その通りさ! そんな気味の悪い生物と親子として一つ屋根の下で暮すのはかなわないからな! そう思ったが悪いか! お前はまったく本当に気味の悪いいやな子供だったんだ!」
「その気持はわからないでもありませんが......しかし、僕と三千子姉さんは似ているとだれでもいいます。東家でだれも似ている者がいないというのは間違っていると思いますが......」
「三千子だって、本当におれの子供かどうかわかりゃせんさ」
と、龍介は荒々しくいい捨て、三千子がはっと息を吞んだ。
「なにしろ戦争中のどさくさだからな。それに東家はだれかに呪われているみたいに、いろいろ気味の悪い怪異がよく起こる。三千子が生れた時も、頭がぼうっとしてなにが起きたのかよくわからん時期が続いていた。おまけに戦災だ......子供がすり変えられたとしてもわからんほどひどい混乱が続いていた」
「そんなこと!」
と、三千子が思わず声をあげた。
「いくら戦争中でひどい混乱状態が続いていても、親が子供を取り違えることがあるでしょうか!? そんな、病院で生れたての赤ちゃんならともかく......」
「だからいったろう。頭がぼんやりしていた時期だったと」
龍介は苛々と怒鳴った。
「話はよく聞くもんだ、馬鹿! なんだか非常に変な、わけのわからん時期だったんだ。催眠術にでもかかったように、意識がはっきりしない......いまだにあのころ、本当になにがあったのか思い出せんのだ」
丈と三千子は顔を見合わせた。龍介の過去にはなにかしら触れられたくないものがあるようだった。記憶が定かでないというのはまんざら逃口上ではないらしい。父親の龍介はもちろん、亡母にも奇妙な人格的欠損の如きものが明らかに存在していたが、それと無関係ではなさそうに思えた。
「今さっき、東家は呪われているとおっしゃいましたが、それはどういうことですか?」
と、三千子が質問した。丈は黒い瞳で射るように龍介を凝視している。父親はその視線の圧力に堪えがたいようだった。
「東家にあるいい伝えだ。くだらん迷信だ」
父親は嫌悪をこめていった。
「迷信といいますと、どんな?」
「東家には代々取換えっ子が起きるというのだ......本当の子供を鬼神が攫い、化物の子と取り換えるというのだ。東家は鬼神に呪われているそうだ」
「そんな話、初めて伺いました」
三千子は丈に目をやりながらいった。
「江戸時代の末期になにかあったらしい。おれも詳しいことは知らん。昔、年寄りに聞いた。どうせ迷信だと高をくくっていた......」
「お父様のような英国にまで留学した知識階級の方が、なぜ鬼神の取換えっ子みたいな迷信を本気になさるのですか?」
三千子が不審に堪えぬという口ぶりでいった。
「東家に伝わるいい伝えを、くだらない迷信だとおっしゃっていながら、なおかつ、それを信じていらっしゃるのですか?」
「迷信は迷信だ! おれはくだらん迷信など相手にはせん! 鬼神の取換えっ子などだれが信じるか!」
父親はまたぞろ感情的になり、怒鳴りだした。子供たちと話していると、奇妙なほど気が荒れ、感情が波立ってくるらしい。
「でも、お父様は、わたしや丈を、ご自身の子供とお考えになっていないのでは? 鬼神の取換えっ子は迷信でも、本当の子供たちとすりかえられたと思っていらっしゃるのでしょう?」
「そうだ!」
父親は荒々しく喚くようにいった。
「その通りだ! お前たちはおれの実子ではない! そういう疑いがどうしても心を離れん! 他に考えようがない。勘でわかるのだ! 親子とはいいながら、昔から心が通い合ったことなど一度もない! この家に足を踏み入れるのもいやだ、自分の家でありながらだ! お前たちがこの家を乗取って我物顔でいると思うと、腹が煮えくり返る! おれはこの家の主人だ! それがこの家では下宿人同然じゃないか!」
「お父様がそのようにお考えになっているというのは、とてもつらいし、悲しいことです......でも、それはお父様の思いすごしではないでしょうか?」
「思いすごし!? 子供三人で結束して、いつも父親を蔑しろにしておきながら、なんといういい草だ、馬鹿っ、おれはいつだってこの家では針の筵に座らせられ、お前らの非難の目を浴びせられていたんだ! 馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
龍介は逆上して大声で喚きたてた。内心の煮えたぎるマグマを残らず吐露せねばおさまらぬ剣幕であった。
「お父様のおっしゃる通り、わたしたちにも至らぬ点が沢山ありました。お父様のお気持をお察しすることができなかったことは、本当に申しわけございませんでした......わたし自身、子供としてお父様に対し、尽すべきことは尽しているという思い上りがございました......」
三千子が深く頭を垂れた。
6
「でも、わたしたちにとり、お父様はあくまでもお父様です。たとえどのような誤解があろうとも、その気持に変りはございません。どうかそれだけは信じていただけないでしょうか......」
「その通りです」
と、丈もいった。
「子供として至らぬ点は改めます。姉のいっていることは本当です」
「............」
龍介は黙りこんだ。姉弟が強く反撥してこないのがかえって誤算だといった沈黙であった。子供たちがこれほど低姿勢だとは思いもよらなかったのであろう。
龍介には別宅で愛人に子供を産ませているという強い引け目がある。子供たちが反撥している時だけ、自己正当化が可能なのである。しかし、子供たちが反撥せずに折れてくると、かえって龍介の立場は悪くなった。
「一つお伺いしたいのですが、お父さんがぼくたちを取換えっ子だと疑われた、なんらかの事実があるのでしょうか?」
と、丈が質問を発した。
「もしいい伝えがくだらぬ迷信だとお考えだったとすれば、なぜそれが崩れたのでしょうか? なにかきっかけのようなものがあったのですか?」
「............」
龍介は険しい顔で黙っていた。子供たちの方が己れよりもはるかに理性的であり、論理的でもあることに気付いていたのだった。しかも感情的になり雑言を吐く自分を、怒らぬばかりかいたわる姿勢を見せていることを知り、改めて深甚な衝撃の虜になっていた。親と子の立場が逆転していた。
「たとえば、血液型とか......?」
「血液型は調べた」
龍介はぶっきらぼうにいった。あまり見苦しくはなれないと観念したようだった。もはやみなぎるような敵意は影を潜めていた。
「血液型は問題にならなかったわけですね?」
「そうだ。実子であることを否定する材料はほとんどなかった。今の科学のレベルでは、それを判定するのは困難だ」
「では、もっと情緒的な理由だったわけですね。亡くなったお母さんも同じお考えでしたか?」
「伸代は、最初から違うといっていた」
伸代とは亡母の名である。龍介の語気は最初と比べるとずっと柔いできた。姉弟が反撥しないので、荒れた感情を保持することが困難になってしまったのだろう。
「伸代は最初から変だといっていた。自分の産んだ子ではないといい続けてきた。あれは東家のいい伝えを真に受けたところがある。おれもそれを聞いているうちに、疑惑が芽生えてきたようだ......病院で過誤があり、取換えっ子になったと伸代は本気で思いこむようになったらしい」
「親というものは、よく冗談で拾い子だとか取換えっ子だとかいうようですけれども、お母様の場合は本気だったのですね」
と、三千子が感に堪えたように呟いた。
「お母様は、子供自体があまりお好きではないと感じていましたけれども」
「丈はお前が母代りになって育てたようなものだからな」
と、龍介はすっかり感情が鎮静した口ぶりでいった。これほど心穏やかに親子が対話するなど久し振りだ、というよりも初めてのことではないかと思えた。
「伸代は丈を気味悪がっていた。人間の赤ん坊のようではないと訴えた。取換えっ子の証拠だというのだ。赤ん坊の丈が、寝かした場所に寝ていないとよくいったものだ。茶の間に寝かしておくと、風呂場などとんでもない場所にひとりでに移動してしまうというんだ。おれも馬鹿なことをいうなと叱って取合わなかったが、あれは本気だった......」
「そのことはわたしも憶えています」
と、三千子がいった。
「お母様はとてもヒステリックになっていました。気の弱い方でしたから、ノイローゼ気味になってしまったようです」
「あれは自分がまだ子供のようなところがあって、未熟児だといわれていたくらいだからな......子供を育てるのは不得手だった。子供嫌いといってもよかった」
龍介は珍しく過去を回顧する口調でいった。子供たちが初めて見る父の表情だった。きびしく不機嫌で無口な父親しか知らなかったからである。
「はっきりいって、お前たちにはいい母親ではなかったようだな。死んだ者のことを悪くいうつもりはないが......子供っぽくて自我が強くてそれなりの美点はあるが、母親としての自覚に欠けていたかもしれん。いや、もしかして、三千子がよく出来すぎていて、そのために劣等感が強くなったのかもしれない......」
「お母様が家庭向きの方でなかったことは確かかもしれませんけど、わたしのために劣等感など......」
三千子は愕きの色を浮べていた。父親が正面切って自分を褒めるなど考えられないことであるに違いなかった。
「いや、お前が幼いころから、本当にしっかりしてよく出来た娘だったことは、だれにも否定はできんだろう。伸代にはそれが苦の種だったらしい。成熟しきらぬうちに母親になってしまったのだな。だから、子供をどう育てていいかわからず困惑し、うろたえていた。子供とのつきあい方がわからなかった。おれも報道記者として多忙になっていたから、あまり相談相手にもなってやれなかった」
龍介はしみじみといった。気分が和んで、人間らしい心が甦ってきたのであろう。
「今にして思えば、可哀そうなことをした。ちょうど年寄りが次々に死んでしまい、伸代は子育てを学べずに、育児ノイローゼになってしまったのだな。子供嫌いになってしまったのはそのためだろう」
「お気の毒なお母様......」
三千子は泪を浮べた。母親の記憶が薄い丈にはぴんとこなかった。
「僕が幼い頃から、超能力が顕在化していることは今のお話ではっきりしましたが、なぜその話を僕は聞かされなかったのでしょう?」
と、丈が尋ねた。
「それはタブーだ......」
父親は渋い顔でいった。
「そういうことを口にすれば、せっかくおさまっているのを刺激して、再発させることにもなりかねない......だからタブーとして口にしなかったんだ。もう二度とあんな思いを味わいたくなかったからな」
「しかし、姉さんはなぜそれを知らなかったんでしょう?」
丈は、姉を見た。三千子はかぶりを振った。
「僕が大きな石燈籠を浮かしたり、飛ばしたりしていれば、姉さんはもう小学校高学年になっているんですから、はっきり記憶しているはずだと思うんですが......?」
「わたしはなにも憶えていません。お父様が今おっしゃったことは全部初耳です」
と、三千子は頭を振りながらいった。
「あの時、確かお前は家にいなかった」
と、龍介は考えこみながらいった。
「丈の身に起こった怪異は一週間ぐらい続いたが、ちょうどお前は家にいなかったんだと思う。どうしてだかわからんが......もしかしたら、〝神隠し〟にあっていたのかもしれん」
「神隠しというと、姉さんが行方不明になっていたということですか?」
丈は驚きを隠せなかった。それもまた、まったくの初耳である。
「三千子は、小さいころはしょっ中、〝神隠し〟に遭っていた。戦争中のことだから、それほど評判にはならなかったが......いなくなって数日たつと、またひょっこり戻ってくるのだ。最初は大騒ぎをしたが、しまいにはまたかという感じになった。そういうこともあって、死んだ母さんはノイローゼになったのかもしれんが......戦後、三千子が小学校に上ってからはほとんど起きなかったようだ。とにかく、東家は江戸時代から続く古い家だから、いい伝えにはこと欠かない。年寄りがよく話していたものだ......お前たちはもう何も知るまいが、昔は〝神隠し〟など珍しいことではなかったらしい。三千子の場合も、鬼神が子供を取り返しにくるのだと年寄りは大まじめでいっていた。鬼神からの大切な授りものだから大事にしなければいかんといってな......」
「東家には鬼神伝説があったのですか? 全然知りませんでした」
丈は溜息をついた。親子の対話がありさえすれば、今更初耳という話でもないだろう。
「東家の遠い先祖が鬼神に助けられて約束したといういい伝えだ。東家は遠く源平時代まで系図をさかのぼれるからな。とにかく、取換えっ子といういい伝えは、それくらい古いものらしい。おれも昔、年寄りに聞かされた話で、あまりよくは憶えていないが......旧家には伝説がつきものだ。くだらん迷信だと思って、おれはほとんど関心がなかった。おれは合理主義者だし、この手のおどろおどろしい話は大嫌いだ。そんなわけで、詳しい話をお前たちにしてやれなくて悪いが......」
龍介は最初とは別人のように穏やかになっていた。頭から嫌っていた、丈という息子が、思ったほど不快な子供ではないということがわかってきたからだろう。険しい顔付まで和やかになっていた。
「しかし、丈。お前の力は超能力というのか......不思議な代物だな。やはり赤ん坊の時のように、石燈籠を飛ばしたり、空中に体を浮かしたりできるわけか?」
自分の方から質問する。まんざら興味がないわけでもないらしい。
「不可能ではないと思いますが......」
「赤ん坊のころには力があって、いったん失くしたわけだな?」
「はい。もっとも赤ん坊のころのことはなにも憶えていませんが」
「力が戻ってきたのはいつごろだ? 最近のことか?」
「今年になってからです。お父さんとはほとんど遭えないので、お話しすることもできませんでした」
丈の言葉に、父親は苦笑した。丈のいう通りだ。
「お前の力は、人間の心を自由に操ったり、読心したりできるのか?」
「僕の力は、超心理学の用語でいうと、PK──サイコキネシスといいます。日本語でいえば念動とか念動力といったところでしょうか。念力で物体を動かすわけです。空中浮揚といって、念動で体を空中に浮かすこともできます。人間の心を自由に操る力というのは、超心理学では適合する言葉がありません。おそらくそういう力自体存在しないと僕は思います。人間の自由意志はそう簡単に奪えるものではないからです。
もちろん催眠術というものは存在しますが、それを心を自由に操る力と呼ぶことはできないはずです。読心というのは、遠感と同意語ですが、僕にはないといってもいいほどです。感がいいといった程度でしょう」
「なるほど、確かに感がいい。おれの質問の意図をがっちり捉えているからな。しかし、それは遠感じゃないのか?」
龍介は薄く笑いながらいった。
「お前はなかなか用心深い。おれは今もしかしたら、お前に催眠をかけられたんじゃないかと思ったんだ。それがお前にはすぐにぴんと来たようだな」
「無用な誤解は避けたいからです。しかし、お父さん。多少感のいい人間なら、今のお父さんの質問ですぐに感づきますよ、きっと。ただでさえ超能力者は他人に誤解されやすいのです。どんなに用心深くても用心深すぎるということはありません。僕は他人を超能力で支配しようなどと露ほども思いません。しかし、他人はそうは思わないかもしれないんです。大魔王のような独裁者を想像して、恐れおののく人も出るかもしれません。もし自分に〝力〟があるならば、他人を〝力〟で支配し、従えてやろうと思うような権力意志の強い人間には、〝力〟を持っていても、そうしない人間がいるとは信じられないでしょう。ですから、猜疑の目で超能力者が見られるのは、ある程度は止むを得ないことではあります。僕を見て大魔王と感じる人間は、自分自身の裡に大魔王の影が落ちているのです。
ですから、僕としては時間をかけて、僕という人間をじっくりと人々に知ってもらうしかありません。己れの言動を見てもらい、人々の信を得るほかはないんです。しかし、猜疑の目で見れば、それすらも人々を瞞しにかける手間暇のかかった陰謀と映るかもしれません」
「まるで、マスコミ批判をされているようだな......」
父親は何度目かの苦笑を浮べた。
「おれも猜疑心の強いマスコミの人間だからな。だが、やはり父親として、お前の人柄が非常に変ったことはわかる。人間的成長を認めざるを得ない......」
「ありがとうございます。お父さんにそういっていただけると、なによりも嬉しいです。他のだれに認めてもらうよりも......」
父親の龍介が、子供を褒めるなど、およそ考えられないことだったのだ。生れて初めて......といってもよかった。
「正直にいうと、こんなに心穏やかにお前たちと話せるとは夢にも思わなかった......心がいつになく和いでいる。ストレスがきれいに拭われたようだ......実にのびやかな、楽々とした気分だ。おれは神経質な人間だから、簡単にリラックスできないタチだ。それがどうしたことか......だから、お前には人間の心を自由に操る力が、ひょっとしたらあるのかもしれぬと思ったわけだ」
「わかります。でも、それはお父さんの思いすごしです。僕たちが素直になって、お父さんに対する自分たちの非を認めたから、それで雰囲気が変ったのではないでしょうか? 口でなんといおうと、内心思っていることは雰囲気になって出てしまいますから」
「雰囲気か? そういえば、確かに雰囲気が変ったな。これが前の家かとふっと異和感を覚えるほど、感じが変った。それは確かだが、してみると住んでいる人間の心次第で、家の雰囲気というのは大違いということになるな」
龍介は感に堪えたように呟いた。
「お前はなかなかいいことをいうな、丈。とにかくお前が変ったことは確かだし、驚かざるを得ない。どうしてだ? どんなきっかけがあって、そんなに変った?」
「最初からお話しすると長くなりますが......」
「構わん。最初から聞こう......三千子、お茶をくれんか」
「お茶でよろしいのですか?」
三千子が瞳を瞠り、父親は幾度目かの苦笑いを顔に押し上げた。
「そんな大事な話を、酒を飲みながら聞くわけにもいくまいじゃないか......」
初めて見るような人間味を、この夜の龍介はのぞかせていた。普段の不機嫌な父親が信じられないくらいだった。心穏やかな父とこれまでの長年月、無縁ですごしてきたということが改めてわかった。
「今年の夏、ニューヨークで黒人の大暴動が起こりましたね」
と、丈がいった。もちろん外信部の父親は詳しい情報ソースを持っているはずだ。
「あの黒人大暴動には、非常に奇妙な側面があったと思われませんでしたか?」
「ああ......狂信的な黒人宗教団体がからんでいたようだな」
「日本の大新聞はかなり意識的に報道を避けましたが、あの黒人大暴動には、科学合理主義では割りきれない面があったはずです。狂信的黒人宗教指導者の煽動によるものとされていますが、それは事実ではありません。あまりにも巨大な超常現象がからんでいるので、特に日本のジャーナリズムは報道に当ってひどく困惑し、狂信的黒人宗教などと事実をねじ曲げてしまったわけです。
現在でも海外誌では、しつこくニューヨークの黒人大虐殺を取りあげていますが、日本では素知らぬ顔をしています。海外ではあの大虐殺を、〝宇宙からの侵略〟と堂々と報道しているじゃありませんか......日本でなぜ報道されないかといえば、理由は一つです。超常現象など日本の大新聞はまったく認めていないからです。だから、真相追及を棚上げし、無視と黙殺を決めこんでいるのです。〝宇宙からの侵略〟などといっては、大新聞の権威主義に傷がつくからです。従って、〝狂信的黒人宗教指導者の煽動〟などという馬鹿げた理由づけを出さざるを得ないのです」
「丈! お前はなぜそんなことを知っているんだ!?」
龍介は愕然としていった。
「それはお前の想像か......?」
「想像ではありません」
「では、だれに聞いた?」
「だれにも聞きません。僕はあの時、現場にいたんです。なにが起こったのか、だれよりもよく知っているんです」

「どうしてだ!? お前がニューヨークにいたとはどういうことだ?」
「僕は当事者だったんですよ」
龍介は、丈の言葉がにわかに信じられないようであった。
「まさか......どうやってニューヨークへ行ったんだ? そんな金がどこにあった?」
「航空機で行ったんじゃありません。自分の力でアメリカへ渡ったんです」
「自分の力で......?」
「空を飛んだんです。僕にはそういう力があるんです」
「............」
龍介は茫然として丈を見つめていた。自分の耳が信じられないのだった。丈の言葉は、彼の理解力の外にあった。
「お父さんは、役行者小角をご存知ですか?」
「修験道の開祖の役行者か?」
「役行者は〝神変大菩薩〟と呼ばれていますが、弘法大師空海と並ぶ大超能力者だったようです。伝説では、神通力で鬼を退治し、従者にしたり、念力でものを動かしたり、役行者自体空を飛んだりしたそうですが、PK能力という点では僕にも同じことができるのです。僕は念動力で手を触れずにものを動かせますし、空を飛ぶこともできます。僕が赤ん坊の時に石燈籠を浮かしたりしたのをご存知なら、お父さんにはおわかりいただけるのではないでしょうか?」
「たしかに、石燈籠のことは、目に焼きついているが......」
龍介は口ごもった。
「しかし、空を飛んで北米大陸の東海岸まで渡ったというのは......」
「姉に聞いて下さい。姉が証人になってくれます」
丈は、お茶を淹れている三千子に目をやった。三千子は茶碗を父親に勧めながらいった。
「丈のいっていることは本当です、お父様。あたくしはこの目で、丈が空を飛ぶのを見ました。丈にとってはべつにむずかしいことではありません。丈が今やっていることは、もっと困難で、しかも大きなことですから......どうぞ丈のいうことを信じてやってくださいませんか? 石燈籠を宙に飛ばしている赤ん坊の丈を憶えておいでなら、今の丈がどれだけ大きなことができるか、想像がつくのではないでしょうか?」
「なるほど......」
父親は気を鎮めるべく、茶をすすった。今は癖になってしまった苦笑を見せる。
「丈が空を飛んで北米大陸へ渡ったくらいでは驚いていられないわけだな。そんなことでひっかかっていては話が進まない。とにかく話してくれ。質疑応答は後まわしにして......」
龍介は茶碗を卓に置き身構えるように座り直した。新聞記者としての意識が働きだしたのであろう。丈はちらりと三千子に目をやった。やはり多少の危惧は隠せなかったのだ。一呼吸してから口を開いた。
「だれが聞いても、とうてい信じられないような話です......しかし、全て真実です」
7
講演会の前日、クリスマス・イブ。〝GENKEN〟のオフィスでは、恐慌が生じていた。その日発売された、大衆週刊誌に、東丈と会のことが、〝昨今評判の高校生教祖の三筋道〟と題されて煽情的に取り上げられていたからだった。
むろん題名からいって、内容が好ましいものであるはずはなかった。三筋道とは、〝色・金・権力〟のことだそうであった。
〝GENKEN〟を新しいスタイルの新興宗教と断じ、丈を無理やり〝高校生教祖〟に仕立てたものである。取材申込みを断わられたので、全て伝聞で書かれている。編集部の悪意が見え透いていた。
オフィスに出た時の丈は、すでに記事に目を通していた。昼前にオフィスから電話で注進があったからである。
オフィスの雰囲気は異様だった。大半の者がショックを隠せない顔色をしていた。泣いている女性会員もいた。これまでに幾度か週刊誌のタネにされているが、いずれもゴシップ程度であり、これほど正面切った攻撃は初めての体験だったからだろう。
青ざめて顔を硬ばらせた菊谷明子が、問題の週刊誌を応接室に落着いた丈のところへ持ってきた。会員たちは鳴りを静め、息を殺すようにして丈を見まもっていた。丈に話しかける者もいない。
丈がオフィスに出たのを知って、事務局長役の平山圭吾があたふたとやってきた。これも血相が変っている。世慣れてはいるが、マスコミで叩かれた経験はないから、深刻になってしまったのだ。
「先生! お読みになりましたか?」
声がうわずっている。
「読みました」
丈は涼しい目をしていった。丈が自分同様に衝撃を受けていることを予想していたのだろう。平山はとっさに丈の沈着さがぴんとこないようであった。
「ひどいことを書かれましたね。どうも大変なことになりましたな」
深刻な思い入れで続ける。
「これは大急ぎで善後策を検討しなきゃなりません」
「そうですか?」
と、丈はむしろ鈍感な返事をした。
「そんなに、これは大変なことですか?」
「先生! そんな吞気なことをおっしゃって......」
平山は呆然として、丈の沈着冷静な黒い瞳を冴えざえと光らせている顔を見返した。
「こんな根も葉もない、デタラメを書かれて......ひどい悪口ばかりで、これは告訴ものですよ。名誉毀損もいいところです。さっそく先生とご相談の上、手を打とうと思ってやってきたんですがね」
「告訴すれば、勝てますか?」
と、丈は無邪気にいった。
「それはもう絶対ですよ。なにからなにまで噓とデタラメで固めてありますからね。先生が高校生美少年教祖で、側近はみんな美少女ばかりで固めた、花園教団なんてもうメチャクチャですわ! 先生のことを〝美と理知の天使ルシフェルの化身〟なんて書いてあるけど、こりゃ大魔王サタンのことじゃありませんか!? 本当に馬鹿にしてる」
「愚弄するのが目的の記事なんですよ」
と、丈が穏やかにいった。
「こちらが怒れば、思うツボです。ますます面白おかしく書かれます。こちらを刺激して相手の土俵に引張りだすのが目的なんじゃないでしょうか?」
「そうですかね?」
平山は不満気だった。丈の意図が理解しきれないのだ。
「今のところ我々はマスコミには一切出ません。だから伝聞で書くしかないわけです。しかし、それでは記事として迫力に欠けるし、決定打にはならない。だから、こっちをつついて挑発し、引き出そうとしているんだと思います。告訴などすれば、マスコミの介入を拒否できませんからね。今度の記事はいってみればボクシングでいうフェイントじゃないでしょうか?
もしかすると、こちらに同情するふりをして、こちらのいい分を書いてあげると持ちかけてくる週刊誌が出てくるかもしれません。ところが、それは最初の記事を載せたこの週刊誌と狎れ合いだったりするんです」
「............!」
平山は呆然として丈の顔を見詰めていた。
「どうして先生、そんなことをご存知なんですか? 確かに今先生のおっしゃった通りのことをいってよこした週刊誌があります」
彼はその週刊誌名をいった。
「こちらのいい分を載せるから、先生と遭わせろといってきましたよ! 驚いたな......」
「マスコミのことはだいぶ勉強しましたからね。父も新聞記者ですし」
丈は父親の龍介と和解をすませた幸運を思った。もし、充分に話し合い、相互理解を果していなければ、トラブルは必至だったはずである。
長時間をかけた話合いが効を奏して、父親は丈の理解者となった。親子の間がこれほど親密になったことはかつてなかった。
「そういえば、先生のお父様は大新聞の......こういう時はどうすればいいか教えていただけるんじゃありませんか?」
平山は多少冷静さを取り戻したようだった。丈の父親が大新聞の記者だからといって、大衆週刊誌に顔が効くわけではないのだが、なんとなく頼もしさを感じたのであろう。
「辞めた元会員の人たちが、だいぶネタを提供しているようですね」
と、丈は声を低くしていった。会員たちが聴き耳を立てていることはわかっている。オフィスでは会長室などないし、全てオープンになっているので、内密な話をしにくい。
「それは私も感じました!」
平山は険しい表情だった。
「元会員の一人が売り込んだんじゃないですか。だいたい見当がつきますけどね」
と、丈は小声でいった。
「えっ、だれですか? やっぱり、あの......」
「詮索は止めにしましょう。どうせニュースソースは明かさないし、抗議したところで仕方がない。見当がついたところで、あくまでも臆測でしかありませんから......編集部としても、裏を取っているわけではないし、こっちを土俵に引張り出そうという意図が丸見えです。文句があるなら取材に応じろというわけです。あくまでも伝聞は伝聞でしかないし、それだけで何度も続けて記事を書くわけにはいきませんよ」
「そうすると、先生は、この記事は相手になさらないという......」
平山は半信半疑であった。
「黙殺します。どのように反応したところで、相手の思うツボにはまるだけだからです。知らん顔をしていましょう。われわれが、要するに動揺しなければいいんです」
「しかし、先生。告訴すれば勝てるんじゃないですか? ここで思い切った態度をとっておけば......一罰百戒という奴で、マスコミに一発かませてやって......」
「放っておきましょう。もう少し様子を見た方がいいと思います。向うもまず一石を投じて、こっちの反応を窺っているんですから」
「でも、先生。こっちが黙っていれば、書かれた記事が本当だからだと思われるかもしれませんよ。だから抗議できないんだと......」
「多少はそうしたこともあるでしょうね」
「多少ならいいですが、みんながそう思いこんでしまったらどうなりますか?」
平山は承服できないようであった。彼が肩入れしていることを知っている世間に対して面子が立たないということであろう。なんらかの反撃を示さない限り、顔向けできないと考えているのだ。
「抗議すれば、問題が大きくなりますよ、平山さん。より多くの視線が集まります。弁解すればするほど、疑いを持たれ、さらに大声で弁解しなければならなくなります。今こちらが騒げば、好奇の目がいっせいに集まります。しかし、黙殺すれば、たいしたことはなかったんだということになるはずです。あまりにもばかばかしいから相手にしなかったというこちらのポーズが説得力を持つはずです......実際、その通りなんですからね」
「しかし、先生、会員の動揺はおさまりませんよ! みんなまさかとは思うでしょうが、活字というのはまるっきりの大噓でも、本当らしさがありますからね!」
平山は躍起になっていった。
「もう問合せがずいぶん来てるんですよ、先生! 退会するという会員も何人か電話で通告してきています。会員たちにはいったいどうやって説明したらいいんですか!?」
「だから、明日の講演会があるじゃないですか」
と、丈は落着いていった。
「僕から会員たちに話します。必ずみんな納得してくれるはずです」
「講演会か!」
と、平山は声をあげた。
「しかし、明日はマスコミがずいぶん来るようですよ! 入場制限はありませんから、断わるわけにもいかないでしょう?」
「もちろん、断わったりはしません」
「でも、それじゃ取材をシャットアウトできないじゃありませんか、先生?」
「講演を取材する限りはね......でも、勝手なことを書けなくなるはずですよ。インタヴューが危険なのは、こちらが喋りもしないことをでっちあげられるからです。向うの書きたいことを、まるでこちらが喋ったように捏造される危険が大きいわけです。僕が一番恐れるのはそれです......しかし、講演ならそうはいかないでしょう。他社のマスコミが来ているなら、なおさらです。しかも、僕が喋りたいことを充分に喋れる......ですから講演会でマスコミと接触する分にはかまわないわけです」
「なるほど。そのようなものですか......」
平山はわかったようなわからないような顔色をしていた。マスコミに関しては疎いのである。
「こんなことぐらいで驚いていてどうしますか、平山さん。〝GENKEN〟はまだ小さくてだれの目にも止まらないうちからもう悪口を書かれているんですよ。これが社会的影響力を持ち始めたら、どんなことを書かれると思いますか。しっかりして下さい」
「え......今後はもっとひどい記事を書かれますか?」
平山はうんざりとしていた。よほど大きなショックだったのだろう。
「もちろんです。でも、味方もできますから、安心して下さい。事実無根のことをでっちあげて書くことはできなくなります。しかし、こちらもよほど心を引きしめておかなければなりませんね。マスコミにつけこまれるようなことがないように......若い女性会員の尻を追いまわすようなヒヒ親父的幹部がかつて存在しましたね。あのまま会が無制限に組織拡大をやっていたらどうなったと思いますか? こんな記事どころじゃすまなかったかもしれませんよ」
「なるほど、そうでしたか」
平山はやっと得心が行ったらしい。娘の圭子が熱心な会員であるだけに、風紀の乱れは気にしていたのだ。
「しかし、先生はさすがにすばらしい先見の明をお持ちですなあ。マスコミの取材を全て断わって、講演会に来てくれるように依頼していたのは、こうした記事が出ることを、予知していらしたわけですな」
平山は感服していた。いかに丈を尊敬していても、丈が若年であるということは心に灼きついていてはなれないらしい。ことあるごとに不安の種になるのだ。丈が見かけ通りのハイティーンの子供ではないと頭でわかっているのだが、得心が行かないのだ。
「してみると、明日の講演会は非常に重大な意味を持っていることになりますな。先生と会の将来がかかっているといえるんじゃありませんか?」
「おっしゃる通りです。マスコミの注目の的になっていますからね」
「それじゃ、なんとしてでも成功させなきゃなりませんな。不祥事が起きて、中止なんてことになったら一大事だ! みんなに発破をかけて、明日の講演会の成功を期さなきゃなりません!」
平山はにわかに興奮しはじめた。もともとお祭りが好きな性格なのだ。
「皇国の興廃この一戦にありって奴ですよ」
と、古臭いことをいった。ぞくぞくしてきたらしい。
「各員一層奮励努力せよってね! ご存知ですか?」
平山は会員を集めて、気合を入れ奮起させるべくあたふたと部屋を出て行った。明日の講演会の準備でオフィスはごったがえし始めていた。会員が続々と本部に詰めかけてきているのだ。週刊誌記事の衝撃もあって、だれもが異常興奮にとり憑かれているようだった。
原稿をせっせと書いている丈に、会員たちの意識が焦げつかんばかりに集中しているのが感じられた。会員たちはみな、居ても立ってもいられぬ思いでオフィスに出てきたのであろう。
しかし、丈がいつもと変らぬ顔をしているのを見て、週刊誌記事のダメージ皆無なのを知り、安堵の胸を撫でおろしているのが、丈にはわがことのようにわかった。なにが起ころうとも中心人物が泰然自若としていることの大事さが肌身で感じられた。全員がデマや虚報で浮足立っていても、中心人物に冷静さがあれば動揺はわりあい簡単におさまるものである。
丈はそのためにも、会員の視線を集めながら書きものを一日続けた。みんなの見ている前で不動心を披露しなければならないのだった。
そうやっていると、確実に会員たちの動揺が静まり、落着きを取り戻していくのが皮膚感覚で捉えることができた。
丈がK──社から書きおろしで著書を刊行するという噂は、全会員が知っていた。実際は本決りではなく、出版部で丈に打診してきたという程度にすぎない。しかし、丈が大量の原稿を書き続けていることは、だれもが知るところだった。
会員たちは、週刊誌の暴力的な臆測記事に対して、丈が毅然と反論するという期待を持ったのであろう。丈が強大な超能力者だという風聞は、むろん会員のだれもが知り尽していたが、それにもまして丈が知的な腕力の持主であり、論客として外部の攻撃に堂々と渡り合うという期待は大きかった。
講演会で東丈がマスコミ関係者に目にもの見せるという観測が会員たちをなだめ、希望をふくれあがらせたのである。
8
主宰の丈に直接電話はかかってこない。必ず途中でチェックを受けて、丈が出なければならない電話だけセレクトされる。だから、丈の知人であっても、場合によっては検問を突破できない場合もあるのだ。
こうしたシステムを採用しないと、丈は一日中電話の相手だけをさせられることになってしまう。オフィスにかかってきた電話を、その場に居合わせたからといって、会員のだれもが受けることはできない。相手が百戦錬磨のマスコミであれば、うまく誘導される場合もなきにしもあらずだからだ。トレーニングを受け、応答法をしっかり身につけた特定の会員だけが、かかってきた電話の受け応えができる。
なにも知らない新会員が電話をとれば、直接主宰の丈につないでしまうこともありうるからだ。何度も同じケースが起きて、採用された電話のチェック・システムであった。訪問者にも同じような応対がなされる。
しかし、このチェック・システムで、丈に用事のある友人知己がひっかかることも多かった。友人知己と称して電話をかけてくるマスコミ関係者がいるためだった。事務局の会員が知らない丈の知りあいはチェックされてしまうことにもなる。
井沢郁江が電話をまわしてきたのは、夕刻になってからだった。
「木村市枝さんからだけど。彼女、ずいぶん何度も電話したみたい」
と、郁江は事務局の電話母機を使っていった。
「あたしが今日はずっと外に出ていたから、チェックされちゃったのね。だいぶ重要な話みたいよ」
郁江は早口にそういって、電話をつないだ。
「先生! ヤッちゃんが......河合康夫が先生とどうしても話したいってことがあるんですけど」
と、市枝の非常にあわてた声がいった。挨拶すらも忘れていた。
「あたし、連絡とれないで、どうしようと思って......」
声が掠れてしまった。心痛のためであろう。
「用件は電話じゃ話せないってヤッちゃんはいうんです。だけど、それじゃ先生に電話をとり次いでもらえないし、そしたら今、郁江さんが......」
「わかった。康夫君の話は直接遭って聞くことにする。場所を指定してくれないか? このオフィスは今とり混んでいて具合が悪いんだ......」
「あたし......わかりました。康夫が今からオフィスまで車で迎えに行くそうです。すみません、よろしくお願いします」
声がうわずっている。さすがの不良少女の元首領も勝手が違うのであろう。あるいは初めて丈と電話で話したせいかもしれなかった。
市枝の電話が切れると、郁江が応接室に入ってきた。
「東君。市枝さん、どうかしたの? ものすごくうわずってたわね......これから彼女と遭うの!」
例によって郁江はひどく勘がよかった。遠感の能力でもあるのではないかという気がするほどだった。
「河合康夫という不良少年が、僕と大急ぎで話したいんだそうだ。今、車で迎えにくる」
「あたしも行くわね?」
「来るなといっても無駄だろうな。こんなことになると君は活きいきとしてくるね」
丈は苦笑気味にいった。
「もめごとがあると、一番張りきるのは君じゃないかな」
「そのかわり、なにが起こっても、怯えたりはしないわよ、東君。ますます元気になるわ」
「たしかにその通りだ。君は非常時向きの人間らしいな」
「そんなに頼りにしないで。いざとなったら、あたしは逃げだしちゃう人間だから」
「そのうちにわかるだろう......このことはみんなにオフレコだ。気づかれないようにしてくれ」
「わかってるわ」
会員たちも、今は井沢郁江を丈の秘書役として考えざるを得なくなっていた。最初、秘書役だった久保陽子が遠ざかって以来、もっとも積極的な郁江が強引に後を襲ったという感じである。
初めのうちは反撥も相当に強かったようだが、会員の新旧交替が大きく行なわれ、新陳代謝が進むと、いつの間にか既成事実になってしまった。
郁江のように押しが強く実行力に富んでいる人間でなければ、丈の補佐役は務まらないと会員たちは思いこんでしまったようだ。
丈は口実を作って、オフィスを出た。明日の講演会の準備で、事務局はごったがえしていた。相当に気合が入っている。世間から注目を受けているという自覚がもたらすものであろう。ふだんの事務局とはまったく違う雰囲気になっていた。いささか現金だといえないこともなかった。
いつもはあまり顔を出さない〝幽霊会員〟まで甲斐甲斐しく立ち働いている。週刊誌記事が刺激になり、逆に発奮したのかもしれなかった。
丈が郁江を伴って、ビルの外に出るまでに、何十回も会員の挨拶に応えなければならなかった。みな心配はしているが、丈に対する信頼は揺いでいないという印象を受けた。丈が落着き払っているので、会員たちの動揺も抑えられてしまったのだ。
「みんな、東君の顔を見て安心したみたい」
と、郁江がビルの外へ出るまで待って囁いた。なにしろ狭いオフィスなので、私語はすぐに人の耳に入ってしまう。
「東君ていつも沈着冷静な顔をしてるものね。おろおろと取乱す顔は持っていないの?」
郁江はいくぶん意地悪そうにいった。
「一度見てみたいなあと思ってるの。小憎らしくなっちゃうのよね」
「よしてくれ。取乱すような目には遭いたくないよ」
丈は通りに、康夫の車を捜しながらいった。
「君は治にいて乱を好むってタイプだな。そんなことを人前でいうなよな」
「わかってるわよ。今だってボイコット食ってるんだものね。みんなに聞こえない場所でなければ、本音は絶対に口にしないことにしてるの。あたしってただ正直なだけなのにね......ほら、〝裸の王様〟よ」
「つまり、君の目に、僕がどのように映っているかということだな」
「みんなとは同じように映っていないのは確かね。市枝さんとも全然違うわ」
と、郁江は平気でいった。
「あたしにとってみると、東君ってとても面白いのよ。正義の味方って感じで、とっても無理してるところがね。自分一人で全て受けて立って、悪戦苦闘するでしょう? それでもって他のみんなは実に他力本願なのね。正義の味方に全部おまかせで、悠々とお茶を飲んでたりする感じなのね。なにもかも自分でやってしまうから、そうなるんじゃない?」
「しかし、だれも他にやってくれる人がいないよ」
「やらせるようにしないからよ。東君が一人でキリキリ動いてるのを見ると、みんな遠慮しちゃうものね」
「率先してやらないとだめだと思っていたんだが......」
丈は、スーパー・ブラック、ソニーの指導者論を思いだした。不適格者のボスはなにもかも自分でやってしまうというのである。優れたボスは、自分が眠っていても、部下がキリキリと働くようでなければならないという。ソニーの指導者論からいうと、丈は失格するだろう。
「でも、人材がまだ集まってないのかもしれないわね」
と、郁江は慰めるようにいった。
「あたしみたいないい加減な女の子じゃなくて、本当に優秀な人たちが補佐につけばいいのにね。きっと明日の講演会で、優れた人材が集まってくるのかもしれないわ」
「君だってよくやってくれてる。来年は受験なんだろう? もう今までのようにはいかないんじゃないか?」
「東君だってそうじゃない。あたしも一応受験で行くつもりだけど......でも、場合によったら東君のお手伝いをしようかなとも思ってるの」
「僕の場合は、大学へ気楽に通ってる余裕はないかもしれない。昔は、といっても半年しか経ってないが、東大一本槍だったんだから、信じられないような心境の変化だよ」
「お釈迦様だってイエス様だって、大学へなんか行っていないわよ。大学へ行った救世主なんか一人もいないわ。本当に凄い人間は東大なんかに入っちゃだめよ。だから東君も止めた方がいい」
郁江の意味するところは、わかるような気がした。人間のもっとも感受性の鋭敏な時代を受験一本ですごせば、精神の貴重な部分が発育不全に陥るというのだろう。
「ねえ、もしお釈迦様が現代に生れたら、絶対に東大には行かないわよね。そう思わない? いってみれば東大ってバラモン階級だものね。お釈迦様はバラモンより低い武士の出だし、バラモンは知識と形式ばかりだからだめだといったんでしょ? お釈迦様が悟りを開こうとしている時、バラモンからさんざん馬鹿にされ、邪魔にされたのよね」
「よくそんなことを知ってるな」
「救世主ってなんだろうと思って勉強してみたのよ。イエス様だって、当時のユダヤ教から、無知な田舎者がなにをいうといって嘲けられているわ。本当に偉大な人が出る時は、権威主義者はこぞって敵にまわるのね。ケチでつまらない人間は権威にすがらないとやっていけないのよ。だから、今度東君の敵にまわるのは、いってみれば東大が象徴する、権威主義で固まった日本の学界じゃない。超心理学なんか問題にしないし、超常現象は絶対に認めないものね」
丈は郁江の知的な把握力にびっくりさせられた。郁江のいう通りだった。父親の龍介と話し合った時にも明瞭になったが、日本の現体制は丈をことごとく排除する方向に動くだろうという結論だった。丈が起こそうとしている運動は、体制の基盤に亀裂を走らせる危険な力とみなされるというのである。
郁江も女の勘なのかどうか、的確に丈の抱えた問題を見抜いていたのだった。
見憶えのある大型車が通りの向う側に停まった。馬鹿ばかしいほど巨きなアメ車である。河合康夫の運転するクライスラーだ。窓越しに市枝の顔と運転席の河合康夫の顔が見えた。丈たちを見つけて手を振っている。Uターンして来ると、二人の眼前に停まる。
「どうも、先生、お久し振りで......」
と、クライスラーをスタートさせながら、不良少年の康夫がのんびりといった。丈と郁江は後部座席に乗りこんでいた。実に広大な車室だ。
「すみません、突然呼びだしたりして」
と、市枝が前の座席から、体をよじって振り向きながら詫びた。
「明日、講演会でお忙しいんでしょう? でも、どうしてもお話しておきたいことがあって......」
光の強い瞳がキラキラしながら丈を見た。
「どこへ参りましょうか、先生?」
と、康夫が尋いた。楽しそうに大型乗用車を運転している。
「どこでもいい。話ができれば......」
「じゃ、おれの巣にご案内します」
康夫は運転が巧みだった。高三の不良少年とは思えない。市枝は前を向いたまま黙っていた。車の中で、用件を喋る気はないらしい。郁江の存在を気にしているのかもしれなかった。その郁江は丈の隣りに座ったままなにもいわない。
市枝と郁江の間には、目には見えない電磁場のようなものが働いているようだった。敵意や憎悪とは異るが、ボルテージの高い感情的な対立だ。互いに相手を強く意識している。
無責任に観察している限り、スリリングなところがあった。つねに超然としているはずの郁江が、市枝のことになると、目が覚めたようにボルテージを高めてくるのだ。引力にしろ斥力にしろ市枝との間に働くものは、常の郁江に決して見られないものであった。
「話を聞いておったまげたけど、先生は物凄い力を持ってるんですってね!?」
と、運転しながら康夫が陽気な声で話しかけてきた。二人の少女のただならぬ緊張関係を緩和しようと気を遣っているのであろう。
「先生はミサイルみたいに速く空を飛べるんですって? まるでアトムだな」
康夫はそのころ流行していたTVマンガの主人公の名前を口にした。
「アトムはロボットだから、スーパーマンかな? スーパーマンてのは、宇宙人でしたよね? 力は機関車よりも強く、高いビルも一っ跳びってさ、前にテレビでやってたでしょう。そうすっと、先生も宇宙人なのかな? 凄い念力を持ってるもんな。市枝に聞いたけど、悪い念力を使う行者を、先生簡単に金縛りにしてやっつけちゃったんだってねえ?」
丈は黙っていた。市枝の方が気にしていた。
「やめてよ、そんな馬鹿みたいなこと」
「だって本当のことだろう? 市べえがそういったんじゃん?」
と、康夫が不平そうにいった。
「スーパーマンみたいに空を飛ぶなんて、いった憶えないよ」
「そうか、行者のことを市べえから聞いたのか。でも、先生が凄い力持ってるというのは本当だろうよ」
「空を飛ぶという話はだれから尋いた?」
と、丈がいった。
「へえ。ひょんなことから先生の噂が耳に入ってきましてね。なんでも先生は今、高校生教祖といってえらく有名なんですってね。おれ、ちっとも知らなかった」
康夫は運転を続けながら、頭を搔いた。
「実は、今日先生にお話しようと思ってたこともそれなんですがね。先生についていろんなことを聞きましたよ......」
「話は後でいいから、ちゃんと運転してよ。危くてしょうがないよ」
と、市枝がきびしくいった。
「先生をお乗せしているんだから、もっと安全運転でやってよ」
「へいへい、かしこまりました」
康夫は権高な市枝に弱いようだった。
「先生、もうすぐ着きますから。わりと近いんですよ」
大型のアメ車は渋谷の高台を走っていた。屋敷町である。
「そこです。ちょっと門を開けてきます」
「いいよ、あたし開けてくる」
市枝は敏捷にクライスラーを降りると、車のついた鉄門をスライドさせた。大きなアメ車が数台入れる車寄せが門の向うに現われた。
「凄い大邸宅じゃない」
と、郁江がいった。渋谷の高級住宅地の中でも、目立つほどの豪邸だ。
「へい。なにしろ親父が悪い奴でして、金もうけがうまいんです」
康夫はけろりとして答えた。
「まあ、気にしないで下さい、先生。親父はひでえ悪ですが、倅のおれは至ってお人好しでして」
「自分でいってりゃ世話ないわよ」
と、車に戻ってきた市枝が呆れたようにいった。
「本当の悪党でなきゃ、こんな大邸宅に住めないわよね。あんたもそのかたわれじゃないの」
「大悪党から金をむしり取って散財するのも悪くないことで。そう思って、日夜励んでおります」
康夫は不良少年には違いないが、悪気はないようだった。
「親父はいるか?」
と、康夫は迎えに出た若い女中に尋いた。
「いるわけないよな、金もうけにとち狂ってやがるんだから。お袋はどうした?」
これもいないという返事だった。
「程度の悪い双親を持つ子供は不幸でござんすよ......どうぞお上り下さい」
女中が忍び笑いしていた。
「馬鹿親どもがおりましたら、先生に叱っていただこうと思ったんですがね......」
「自分のことを棚にあげて、なにをいってるのさ」
と、市枝がいう。しかし、若い女中は康夫に好意を持っているようであった。不良少年だが、人好きがするのだろう。

三階建ての鉄筋コンクリートの豪邸の中は馬鹿げているほど金がかかっていた。丈たちにはぴんとこない骨董品が邸内のあちこちに置かれている。いかにも成金趣味であった。
康夫が案内した自室は三階にあった。南向きの室はサンルームのように広々として窓が大きい。壁はいたる所に名車の写真が貼られていた。
「ふうん、いい部屋じゃない?」
と、郁江が感想を述べた。
「不良の部屋とは思えないでしょ」
と、市枝がいう。きつい言葉を吐く癖があるようだった。
「ま、ま、どうぞ皆さん、お座り下さい」
康夫が応接セットに一同を座らせた。ソファが足りないので、自分はライティング・デスク用の回転椅子を引きずってきて腰を据える。
「ここにはあまり人は連れてこないんです。お袋というのがまたいやな女でね、疑い深い上にドケチで、しょっ中息子のおれが金をくすねるんじゃないかと見張ってるもんですから、人を連れてきても落着かなくてね」
「本当。あたしもあんまり来たことないんです。いくら金があっても、雰囲気が悪いものね」
と、市枝が遠慮なしにいった。
「ヤッちゃんが骨董品を持ちだしちゃ売りとばすものだから、みんな泥棒扱いされちゃうんです」
「偽物が多くてね。うちの馬鹿親父なんざ、あんなにがめついのに、骨董品だけは簡単にインチキなのを摑まされて、もうけた、いい買物をしたって喜んでるんですから、イカサマ野郎にも上には上がいるもんです」
丈は黙ってソファに座っていた。セントラル・ヒーティングで部屋の中は暖かい。しかし、確かに邸の雰囲気は暗く寒ざむとしていた。
それだけでなく、市枝と康夫の呼びだしには底冷えのする予感が最初からつきまとっていた。
「市枝君。アルバイトの方は、今日はいいのかい?」
と、丈は尋ねた。市枝は夕方からスナックにアルバイトで勤めている。不良少女の頭領から足を洗い、大学進学もまじめに考えているようであった。もともと根性はあるので、夜のアルバイトも苦にしていないらしい。
「今日はバイトどころじゃないので......」
と、市枝はよく光る瞳を丈に向けて答えた。前ほど虚無的な趣きはその大きな瞳から薄れたようである。
「だから、休んでしまったんです。どうしても先生にお話しなきゃならないことがありますから」
「............」
康夫が口を開きかけた時、若い女中がお茶を運んできた。紅茶とケーキである。
「へえ、珍しいことがあるもんだ。大サーヴィスじゃん」
と、康夫がからかう。
「やっぱりまともなお客さんだと元子にもわかるもんかね?」
「それはわかりますとも、もちろん」
元子と呼ばれた若い女中が答える。
「いつもの坊ちゃんの変なお客様でなければ、いつでもサーヴィスいたします」
女中はちらりと丈を見て会釈した。丈は康夫の仲間の不良少年とはまったく異るらしい。女中の目には好意があった。
「いい娘なんですよ、元子は」
女中が立去ると康夫は相手を褒めた。
「こんな悪党の巣に置くのはもったいない娘です。糞親父が彼女を狙ってましてね、お袋の目を掠めちゃ手を出そうとするんです。ひでえもんでしょ。こないだは元子を手ごめにしかけてる現場を摑まえて、金をむしり取ってやりましたがね」
と、彼は平然といった。
「お父さんからお金をゆすりとったの?」
と、郁江が尋いた。さすがの彼女もいささか驚いたようであった。
「ばっちりと......あんな悪党から金をむしり取るのは正義の行為ですからね。元子に半分やると申し出たら、いらないというので、おれが全部頂戴しましたけどね」
「いくらゆすったの?」
郁江が興味深げに尋く。
「五十万......百万と吹っかけたんだけど、親父にねぎられまして」
「驚いたわね。そんなお金を出すお父さんもお父さんだわ」
「そう、やっぱり狂っておりますな。金もうけの天才の悪党となりますと......やはり倅のおれが天敵になってやりませんと」
「で、あなた、そのお金どうしちゃったの? やっぱり無駄遣いしたんでしょう?」
郁江がづけづけと口をきく。康夫は、丈の秘書役ということで彼女に一目置いているようだった。
「へえ。これでも金の使いどころはいろいろありましてね......」
康夫は気取っていった。
「福祉事業もやっておりますからして」
郁江が吹きだした。金持息子の不良少年という康夫のイメージにはあまりにもそぐわないせりふであった。
「ヤッちゃんはなかなかいいところがあるのよ」
と、市枝がいった。
「この通り、馬鹿みたいな顔してるし、実際馬鹿なお坊ちゃんなんだけど、へんにおとこ気があるのね。頼みこまれるといやといえない性分だし......そのくせ、妙に抜け目ないところもあって、金の使い方はツボを抑えててうまいわ。ただ金をばらまくだけじゃないの。どうしてなかなかの政治家の素質があるみたい。康夫を金持のドラ息子だと思って金をむしろうとする奴等もいるけど、一筋繩じゃいかないところもあるし」
「蛙の子は蛙ってわけね」
郁江がけろりとしていう。
「お嬢さんは手きびしいなあ」
康夫はにやにやしながらいった。怒ってはいないようだった。あまり腹を立てない性格なのであろう。
「小学校のころ、お嬢さんみたいに手きびしくて痛烈な先生がいたなあ。若くてきれいでね、おれ、憧れてた。おれもひどい悪ガキだったから、よく叱られるんですよね。それがスカッとして小気味よかった。こう、ほっぺたをぴしゃって打たれると、ジーンと走る痛みが鮮烈でして」
「あんた、変態っぽいわね。マゾじゃないの?」
と、市枝が顔をしかめていった。
「おれが市べえを好きなのも同じことだよ」
「あたし、郁江というの。お嬢さんというのはやめてほしいわ」
と、郁江がいった。康夫が気に入ったのであろう。郁江は人の好悪が激しい方であり、気に食わない相手には名乗るどころか、口もきかないことが多い。独特の目つきをして見返すだけである。
郁江にはもともと、人を人と思わないところがあるのだ。傲慢というよりは、狷介でいささか虚無的に感じられる。もっとも愛くるしすぎる顔立ちだから、およそ砂糖漬でない辛口の性格がかえって鮮烈で心地よいと丈などは思っている。
「で、ヤッちゃんは」
と、郁江は気易くいった。
「不良少年グループのスポンサーをやっているわけね」
「スポンサー? ははあ、そういうことになりますかね」
康夫は面白そうにいった。郁江が気に入ったようだった。
「不良といっても、ヤクザになるような奴ばっかりじゃないんです。ちゃんとおとこ気のある者もいるんですよ。この受験地獄の世の中で、型にはめられるのが嫌だってわけです。ロマンチックなんですよ、本当は。学生のうちから、退職金の計算までできるような世の中だから、ちっと世をすねてみるって感じなんです。もちろん馬鹿で低能で、ケダモノみたいな悪だっていますがね。今はグレてたり、イキがって番張ってたりする奴等の中には、将来、案外でかいことをやる連中だっているんじゃないかって思っているわけでして」
「あなた、そんな先のこと考えて、不良たちの面倒見てるの?」
郁江が驚きをこめていった。
「まあ、おれだって行く先どうなっちまうかわかりませんが、なんかでかいことをやってみたいと思っております」
康夫は額をこすりながら、照れ臭げにいった。
「人は見かけによらないって本当ね。そんな空っとぼけた顔してるけど......あなた政治家になったら成功するわ、きっと。高校生のうちから人脈を作っとくなんて、用意周到だもの......先生に近づいたのも、その人脈作りのうちでしょう」
ぴしゃりと郁江がきめつける。
「先生が大物だと見抜いて、今のうちにコネをつけとこうという魂胆ね」
「違いますよ。そんないい方をしたらミもフタもありゃしません。先生が凄い人だし、この先どんな大人物になられるか知れないってのは確かですがね」
康夫はやや憤然と抗議した。
「先生を利用しようとかそんなことじゃないんですよ、誓って本当です。こう先生が先行き、どんな凄いことをなさるか、それが知りたくて、くっついて行きたい......できればちょぴっとでもお手伝いしたいってのがおれの本心です」
「康夫のいうの、本当なんですよ」
と、市枝が丈に向っていった。
「先生は凄い人だ、先が楽しみだっていつもいってるんです。康夫って馬鹿みたいな顔してるし実際いうこともやることも馬鹿げているけれども、わりと純粋なところがあるんです。おっちょこちょいで、お調子乗りなんだけど、わりあい実があるっていうのかしら。自分がいうほど先のことを考えてやしないと思うんですけど、先生にぞっこん惚れこんだっていうか、私淑してるのは本当なんです。どうか信じてやって下さい」
「市べえ、お前いいこというな。そう、その通りなんです。おれはたいして利口じゃないし、馬鹿っていえば馬鹿なんだけど、大人物が好きなんです。てめえは英雄になれないけど、くっついて行ってなんかかんか手伝うっていうのが、昔からの理想なんで」
康夫は真面目くさっていった。郁江がくすくすと笑った。
「笑わないで下さいよ。やっぱ、口にすると恐ろしく馬鹿げてるから、あまりいわないことにしてるんですがね。しかし、先生の前なら構わないよね。おれは先生のことを英雄だと本気で思ってるんですから。おれもいっしょの方向に歩いていきたい、そう思っているんですから」
「馬鹿ばかしいとは思わないわよ。でも、早くいえば、ヤッちゃんは、東君の子分になりたいというんじゃないの?」
「子分というより、弟子になりたい、押しかけ弟子なんで。もう先生のためなら、糞親父を売りとばすぐらいわけはありません」
「あんたは真面目なのか冗談をいってるのかさっぱりわからないんだから」
と、市枝がいった。
「先生の弟子にしてもらいたかったら、もっと折目正しくしなきゃだめじゃないの」
「だっておれは押しかけ弟子だから。いやだといっても弟子になっちゃったんだから」
「いっとくけど東君は、簡単に弟子は取らないわよ。ものすごくきびしい試練を受けなければ、本当の弟子にしないわよ」
と、郁江が脅す。
「それはもう覚悟の上でして。先生のためなら、逆さハリツケ、火あぶりぐらい覚悟しております。おれも馬鹿な男ですから、簡単に逃げやしません。みんながいっせいに逃げ散ろうとも、この私だけは最後まで残る決心を固めております」
「カッコいいこというじゃない。さっそくテストされたりして」
「逃げたりしたら、あたしが承知しないもの」
と、市枝が静かな声でいった。
「それがなによりも怖い! 市べえに火あぶりにされるのが!」
康夫は大仰にいったが、まんざら本心でないこともなさそうだった。
「それで、康夫君が僕に用だというのは?」
と、丈が尋ねた。
「康夫君の情報網になにか引っかかってきたのかい?」
「そうです、その通りなんです! 先生は人の心をお見通しだというけど、本当だなあ」
康夫は興奮したようである。
「先生はなにか人に恨まれてるようなことはありませんか? 先生を親の仇みたいに思ってる敵がいるんじゃないですか?」
「いる......やっぱりそのことだったのか」
丈は呟いた。しかし、顔色は変っていない。
「先生は講演会のようなものを、明日おやりになるんでしょう?」
丈はうなずいた。康夫は真剣な目で丈を窺いながらいった。
「その講演会を開かせない......ぶっ潰してやるといってる連中がいるみたいですよ」
9
沈黙が一瞬落ちかかった。丈は底冷えのするような予感の正体を知った。
「どうして!? いったいだれが......」
郁江が色をなして喰ってかかるようにいった。
「講演会を開かせないなんて、そんな偉そうなことを、いったいどこのだれがいってるの!?」
いつもはどうでもいいような顔をしている郁江だが、こうした時は素地が剝きだしになるようである。
「いや、そういう話をちらっと聞いたんで、先生のお耳に入れようと思ったんで......」
康夫は郁江の剣幕にうろたえてしまっていた。いざとなると彼女は迫力があるのだ。
「江田四朗だよ。江田がいよいよ動きだすつもりらしい」
丈は落着きを取り戻していた。
「そうそう、その江田っていう奴で。先生の講演会を潰そうとしてる奴は......」
「康夫君の情報源から、その話は入ってきたんだね?」
「へえ。ここんところしばらく、番を張ってる連中が妙な動きを見せてるってことはわかってたんですが......つまり広域暴力団ってありますでしょうが。あんな具合に番長組織が広域組織に育って行く気配がありましてね。どういうこったろうと首を捻っておりましたんですが、その裏には今いった江田四朗という奴が黒幕になってたらしいんです」
「番長組織って、本当にあるの?」
と、郁江が質問する。
「ありますよ。学校によってあるところとないところに分かれますがね。しかし、地域的なもんだし、メンバーが卒業するから、毎年中身はくるくる変っちまうんですけどね。でも、番を張ってた奴がOBになって、ガッチリ組織を締めてるところもあります。大番長なんていっても、やっぱり地域的なもんだし、たとえば杉並区全体の番長組織を統一するなんてできないんですが、今度の江田って奴は、黒幕になってじわじわと勢力を広げてます。杉並から世田谷にかけて、ずいぶん番を張ってた奴らが、江田の支配下に入ったらしいです」
「すると、江田が大番長ってわけなの?」
郁江が尋ねる。目がキラキラ光りだしていた。エキサイトしているのだ。
「いや、やっぱり黒幕といった方がいいらしいんですけどね。通力っていうんですか? 催眠術みたいな変な力があるらしいです。化物みたいな奴らしいですよ。さもなきゃ、番を張ってる喧嘩自慢だけが取柄の極道どもがひれ伏すなんてことは考えられないですからね......」
「江田四朗って、本当に妖術でも使うのかしら?」
と、郁江がいった。よほど興味を覚えているのか、目がキラキラと光って物騒な感じであった。
「それで、江田が明日の講演会を潰してみせると公言しているわけだね?」
丈は常の沈着冷静な態度を崩さずに尋いた。
「先生の面子を潰すためらしいですよ。先生には講演会を二度と開かせないといっているようですぜ。なんか気持の悪い野郎です」
「どうやって講演会を潰すつもりなのかしら? 子分の番長組織を会場に潜りこませて、騒ぎを起こさせる気かしら? この前の学校で総会をやった時みたいに......」
「まあ講演会を潰すぐらいわけないでしょう、普通だったら......三十人も会場に入れて騒がせればいちころですからね。警察に警備でも頼めば別だろうけど、講演会にそんなに沢山警官が来てくれるかどうか......しかし、先生の講演会じゃ、何十人どころか何百人も来ようが、みんな金縛りにされちゃうんじゃないですか?」
「先生だったらわけないわよ」
と、市枝が力をこめていった。乱暴者の行者が眼前で不動金縛りに遭ったのを目撃しているから、絶対の信頼があるのだった。
「じゃ、あんたたち、そんなに心配することないじゃないの」
と、郁江がけげんそうにいった。
「東君は念動力で、暴徒を封じることができるんでしょ?」
「でも、肝心の講演会にだれも人が来なかったらどうする?」
と、市枝が反問した。
「ヤクザの殴り込みがあるといって噂を流せば、怖がって聴衆がだれも来なくなるかもしれないじゃない? 見るからに凶暴そうな極道どもが会場の囲りを何百人もウロウロしてたら、普通の人は怖くなっちゃうんじゃないかな?」
「あ、そうか。そういうこともあるわね」
郁江がはっとした顔で、丈を見る。
「おれも、三十人ぐらいはなんとか動かせると思うんですが」
と、康夫は丈の顔色を窺いながらいった。
「しかし、あっちは番長連合を作ってるとすれば、何百人も動員してくるんじゃないですかね。会場の警備ぐらいはできますが......」
「康夫君の申し出はありがたいけど、乱闘にでもなれば、警察沙汰になってしまう。番長連合が何百人何千人だろうが、大量動員してきても、僕には自信がある。講演会に来てくれる人たちを脅すような真似はさせない」
丈はきっぱりといった。市枝がぶるっと体を慄わせるほど、丈の言葉には気力がこもっていた。そうしたエネルギーには一番鋭敏な市枝がもっとも強く反応したのだった。市枝は丈の精神エネルギーの放出にひどく敏感らしかった。郁江は無表情な目の色で、市枝の反応を観察している。
「さすがに先生は凄いや。相手が何百何千人でも、びくともしないんだから」
康夫は感嘆をこめていった。粗暴な若者の、過剰な闘争心に満ちた集団の恐ろしさを、康夫は肉体感覚として知っているらしい。子供の喧嘩ではない。木刀を初め、鉄パイプ、メリケン、自転車のチェーンなど、物騒な武器によって武装した集団の果し合いは、死者や廃人を出す物凄さだ。ヤクザまがいに真剣を持ち出す手合いもいるし、こうした武装集団が襲撃するとなれば、流血の惨事になる。普通の巡査では歯が立たず、警視庁機動隊が出動しなければおさまらないだろう。
「でも、本当にそんなヤクザまがいの番長連合が、なんの関係もない東君の講演会を潰しに押しかけてくるかしら?」
と、郁江が疑わしげにいう。
「そうですよね。おれもそこんところは変だなと思ってぴんと来なかったんですが、その江田四朗のやってることを見ると、案外本気じゃねえかなと思える節があるもんですから......」
「江田四朗はいったいどうやって、ゴロツキ高校生の集団をコントロールしてるの? 本当に妖術でもかけてるの?」
「今、生証人を呼んだんですがね。杉並のS──高校で番を張ってた奴で、松田っていうんですが、江田四朗に組織を乗取られたんだそうで。やっぱし催眠術をかけるようなことをやったらしいです。江田が連中を集めては寺の本堂で三日ぐらい眠らせないで特訓をやるんだそうで、そうなるともう前とは人柄が変っちまって、江田に心服してロボットみたいになっちまうらしい......その松田ってのは危く頭をパーにされかけてずらかったんです。だけど今は仕返しが恐くて、学校にも行かず、ヤサグレになってます」
「江田は〝洗脳〟を始めたんだな」
と、丈が考えこみながら呟いた。
「〝洗脳〟って薬品を使ったり拷問したりして人格を変えてしまうこと?」
「人間は眠れないと精神状態がおかしくなってくる。被暗示性が高くなるんだ。そういう時、よってたかって異質な思想を吹きこまれると、それを受け容れて、前とは人柄が変ってしまうんだ。精神改造だな。ある種の宗教団体や政治団体で〝洗脳〟をとことんまでやるらしい。両親や家庭を捨てて、狂信者になってしまい、教祖を生神様として崇めるようになる。キツネが憑いたようになって、正常な生活ができなくなる。行商を強制され、利益を残らず教祖に巻きあげられてしまい、食うや食わずの生活をしなければならない。しかも、罰が降るのを恐れて、組織から逃げだすこともできない......若者を悲惨な狂信妄信の徒に仕立てて、教祖を初め教団幹部は高級外車を乗りまわし、城みたいな大邸宅に住み、贅沢三昧をしては信者の若い女性たちをもてあそんで性的奴隷に仕込んだりする。こういう鬼畜みたいな人間が〝救世主〟とかイエス・キリストの再来とか名乗って、人々をたばかり、有金を吸い上げているんだ」
「東君、よく知ってる!......じゃ、江田四朗は、そういう新興宗教みたいなことを始めたというわけ?」
郁江は驚異の目を瞠った。あれだけ多忙の丈がどうやって学び、情報を蓄積する時間を得ているのかさっぱりわからない。
「どうも、そうらしいです! 今先生のおっしゃったことは、松田から聞いたこととそっくり同じです!」
と、康夫は興奮していった。興奮すると鼻の頭にブツブツと汗の玉を浮べる癖があるようだった。
「江田って奴は、番長連合を使って、奴隷化を進めてるらしいです。ズベッてる娘も沢山引張りこんでるとか......。市べえもその話は聞いたといってました」
康夫が市枝を見ながらいった。
「でも、ズベッてる娘だけじゃなく、普通の娘も引きずりこんでるみたいです。凄いことをやってるらしいですよ......区会議員とか警察まで手を伸ばして、若い女の子と金で目と耳を塞いでいるというんです。なんか遣り口がえげつないというか、天才的というか、あの江田って奴は並みのタマじゃないですね。天海僧正とか妖僧ラスプーチンとか、そんな気味悪さがあって、将来、悪の大物になりそう」
「信じられない......そんな、ゴロツキ高校生だけじゃなくて、大人の、しかも議員とか警察まで喰いこんでるなんて! どうやってそんなことができるの!?」
郁江が大きな声を出した。
「やっぱり妖術? 東君! 江田って本当に人間の心を自由に操る気味悪い妖力があるのかしら? だって、大人をそんな餌で操るなんて、人間放れしてるわ。だってまだ高校生なんでしょ!? 悪の天才じゃない。悪魔みたいだわ!」
「本当よ。話に聞いただけでも、江田って奴、悪魔じみてるんですよ、先生」
と、市枝が思い詰めたような声でいった。
「顔をじろっと見られただけで、なんか魂が抜けたみたいにフワフワとして、自分が自分じゃなくなるみたいなんだそうです。あたしが前にいた、黒バラ会の娘からついおととい、聞いたばかりなんですけど......物凄い催眠術をかけられたみたいになるらしいんです」
市枝は、強く張ったひたむきな眼差を丈の顔に据えていた。丈なら、そんな悪魔的な江田四朗にも負けることはない、と確信しているのだった。眸が語りかけていた。
「ふうん......それじゃ、東君とどっちが強いかな?」
郁江が平然としていう。
「だって、東君だって、みんなに魔王だの、催眠術を使ってるだのっていわれているじゃないの。もし、江田四朗が東君に一騎打ちを仕掛けてきたら、受けて立つ?」
「............」
丈は無言だった。郁江の心に危険なものが湧きたっているのを感じていた。
「受けて立たないっていいそうだけど、結局はそうなっちゃうのよね。東君って本当はとても負けず嫌いなんだから。でも、そうなれば、江田四朗はもちろん、東君の本当の力が見られそうね? だれも想像もつかないような恐ろしい力が......こういっちゃ不謹慎といわれるだろうけど、あたしとっても先が楽しみになってきたわ。やっぱりあたしって、野次馬で無責任なのかしら?」
「先生は絶対に負けないわ!」
と、市枝が強くいった。自分の確信がそれだけ丈の〝力〟を強めるという信仰があるように力がこもっていた。
「先生はだれにも負けない。もし先生がそんな邪悪な悪魔みたいな奴に負けたら、この世の中には神も仏もいないってことになるもの......」
「あなた、神や仏を信じてるの? いつから信じるようになったの?」
郁江は別に市枝を揶揄しているわけではなかった。真面目に尋ねているのだった。
「もちろん、前は信じなかったわ。新興宗教にひっかかって家中ひどい目に遭ったもの。神も仏もないと思ってた......だから、いくらでも無茶苦茶なことができたけど......でも、先生にお遭いしてから、気持が変ったわ。人間もまんざら悪いものじゃないと思うようになった。先生のように偉大な人が存在するなら、神や仏だって、と思えるようになったの」
市枝は淡々といった。もちろん、それはポーズだったのかもしれない。
「本当に市べえは変りましたからね」
と、康夫がいった。
「人が変ったように優しくなった......優しくなったといっても、女だてらにヤッパを抜いて大暴れしなくなったという......いや、ウソウソ、ぐっと女らしく優しくなりました」
「あたし、先生のためならなんでもやる」
と、市枝は決心を見せていった。
「もう二度と荒っぽいことはやめたと誓ったけど、もし先生を守るためなら、誓いを破ったっていい」
「偉いなあ。あたしにはとってもそんな風にできないな」
と、郁江が羨望をこめていった。
「市枝さんて、本気なのね。東君のためにもう命がけになってる......あたしはだめだわ。なんか馬鹿ばかしくなっちゃうの。危い目に遭ったら、あたしだけ一人でさっさと逃げちゃうわ。それが最初からわかってるのね」
「いつもそういうんだ」
と、丈は笑いながらいった。
「僕を置き去りにして、すたこら逃げだすってね。正直なことこの上もない」
「彼女は口ではそういっても、本当にそうはしないと思う」
と、市枝は強く張った目を郁江に向けていった。
「口でいうほど冷淡じゃないみたい」
「あなたって、人の腹の中までわかるの?」
郁江が嘲笑うようにいった。
「まるで超能力者じゃない?」
「それくらいわかるわ。もしそうじゃなかったら、先生についてまわるようなことしないんじゃない?」
「あたしって好奇心が強いのよ。あなたみたいに忠犬型じゃない。あたしは物見高い猫型の人間だから」
「郁江さんって偽悪家ね」
と、市枝は素気なくいった。
「いい娘ぶるのが嫌いなのね」
「どういたしまして。あたしは自分の得になることだったら喜んでやるわよ。偽悪なんて、市枝さんのことじゃないの? あたしはただ自分に対して正直なだけ。ほしいものがあったら遠慮なんかしないし、どんどんとって自分のものにしちゃうわよ」
「............」
市枝は黙ってしまった。どうも郁江に対して苦手意識があるらしい。市枝らしくもない弱気ぶりだった。郁江は一度喋りだすとひどく雄弁で、丈さえもたじたじとなるほどだ。元不良少女としては腕力に自信はあるかもしれないが、口ではとうてい勝目がないようだった。
しかし、いつものことだから、丈は笑っていた。郁江はかなり言葉のすぎることをいっても陰湿さがないので腹は不思議にたたない。それが郁江の人徳なのであろう。不思議な娘であった。
その時、女中が部屋にやってきて来客を告げた。
「さっき話したでしょう、松田といって、江田のことを知ってる奴です。元、番を張っていた......江田のことを先生にお聞かせしようと思って呼んでおいたんです」
と、康夫がいった。市枝と郁江の間の緊張に水が入って、ややほっとした気配だった。二人の娘は合性が悪いのか、置いておくだけで反撥する斥力が働くようであった。
そのくせ、郁江はとくに相手を嫌っている風ではない。市枝にしてもそうなのである。市枝の気性からいって、しんそこ嫌いであれば殺気を漂わせそうな気がした。
10
やがて、女中に案内されて、松田という不良高校生が入ってきた。大きな体をしている。百八十センチは優にある上背だ。がっちりと肩幅も胸板も厚くて、体がすっかりできている。
しかし、松田という少年には、名状しがたい卑屈さが全身に糟のようにへばりついていた。雰囲気が暗い。臆病そうな目付はネズミのようないかがわしい小動物に似ている。オドオドと卑屈な目は、一転して狂的な猛々しさを帯びる。情緒が不安定であることは一目瞭然であった。
若い女中はいかにも松田が気にくわないようであった。先刻の丈らに対する時と態度がまったく違う。不良のようないかがわしい少年が嫌いなのであろう。
「おう、そこに座ってくれ」
と、康夫は背の低い革張りのストゥールに向けて顎を振ってみせた。大男の不良少年は逞しい顔を卑しげな表情に歪めて、いわれるままにストゥールに尻を据えた。小さな傷の多い顔は陰気で目が怯えている。
康夫は、松田に対しては大きく振舞っているように感じられた。逃げ歩いているという松田に小遣い銭でもやっているのではないかと丈は思った。金をもらっている人間は、どうしても卑屈さが物腰にしみついてしまうものだ。
「こちらは東先生、秘書の井沢さんだ」
と、康夫はそんな紹介をした。丈らが名乗る。
「松田だ......」
不良少年はむっつりとしていった。虚勢を張っていた。
「おれは、あんまり話したくねえんだ。おれが口を割ったことはすぐにばれる......やばいからよ」
松田という大柄な不良少年は、体がにおった。体が汚れているのである。入浴もしていないのであろう。
「先生に話す時には口のききかたに気をつけろよな」
と、康夫がハードボイルドな口のききかたをした。
「先生はお前なんか見たこともねえだろうが、凄い力を持っていなさるんだぜ。お前は態度がでかいよ」
「凄い力ってなんだ? これで江田の奴にかなうのか? とうていそんな風にゃ見えねえがな......おれは高飛びしてえんだ。北海道でも九州でもできるだけ遠くへずらかりてえんだ。江田の奴に見つかったら、命がねえんだ。おれはこんなことしていられねえんだよ。わかってくれねえか」
松田は、丈を問題にもしていないようであった。康夫から話を聞かされていたにしても、丈の小柄な体を見て失望してしまったらしい。うわずっている松田の目には、子供のように小さな丈が映るだけだ。臆病風に吹かれてしまい、頭の機能が正常に働かないのである。
「口のきき方に気をつけろといっただろう、松田」
康夫は冷やかにいった。彼も松田に好意的ではないらしい。
「お前の知ってることを先生にお話するんだ。九州に逃げたいんだろう?」
「話しゃ本当に、切符代をめぐんでくれるんだろうな。だったら先に金をくれ、喋った後で反故にされたら目もあてられねえからな」
「先生にすっかり話した後だ」
康夫が素気なくいう。
「いや、今くれ、でなきゃ話せねえよ」
松田が執拗にいい張る。
「あなた、そんなに江田四朗が恐いの?」
と、郁江がいった。ものに臆さない愛くるしい顔でじっと松田を眺めている。
「体も大きいし、喧嘩も強そうなのに、どうして江田ごとき弱っちいモヤシみたいなのが恐いの? あんた、どうかしてるんじゃない?」
松田は初めて郁江に気がついたというぽかんとした顔をした。うわずっているために、なにも目に映っていなかったのであろう。
「江田の奴を知ってんのか、お前?」
松田はおずおずと尋ねた。
「もちろん知ってるわ。同じ青林学園だもの」
と、郁江は落着き払っていった。
「江田四朗なんて、簡単にやっちゃえばいいじゃないの? あんた学校で番を張ってたんでしょ? 強いんでしょ?」
郁江は巧みにそそのかした。郁江のように愛くるしい美少女の煽動は実に効果的である。牡の本能が搔きたてられてしまうのだ。
「そりゃ、腕には自信があったけどよ......だけど、江田って奴は化物だ。人間じゃねえんだ......それは同じ学校なら、お前にもわかるだろうが」
松田は誇りを甦らせ、背筋を伸ばした。どもりながらいう。
「あら、そう? どうってことないじゃない、江田ぐらい。江田四朗は彼にあっさり負けちゃったんだから」
郁江は平然といい、丈を指差した。
「彼の力は凄いわよ。江田なんかメじゃないわ。江田は彼には面と向って逆らえないくらいなのよ。知らない?」
「知らねえな......本当か?」
松田は猜疑深くいった。端然と座っている小柄な丈を見たが、胸落ちしないようであった。丈には威圧的なところはまったくないからだ。静かで控え目な態度と小柄な体しか目に入らない。
「江田四朗は彼に負けちゃったから、不良高校生を集めて仕返ししようとしているんじゃないの。それくらいあんたにわからないの」
郁江は体の大きい不良高校生に向いづけづけといった。恐いもの知らずなのだ。
「江田四朗なんか恐がることないわよ。だから安心して話しなさい」
「信じられねえよ」
松田は不信をこめて嘲るようにいった。
「証拠を見せてもらわねえとな。江田の下には五百人からの命知らずの気違いどもがついてるんだ。やれと江田に命令されれば、人殺しだって平気でやる。だからおれは高飛びするんだ。悪魔みてえな江田の面は二度と見たくねえ。なぶり殺しにされるかもわからねえんだ......」
松田の顔色はしだいに悪くなってきた。ますます心が臆してきたのだろう。
「証拠を見せろって、どうしろというんだ?」
と、康夫が尋ねた。松田が顔をしかめて、肩を揺った。
「なんか江田の奴に負けねえような力を見せろというんだ。口先だけじゃ信用ならねえからな。念力を持ってるというんなら、そいつを見せてもらおうじゃねえか?」
松田は粗暴で愚鈍で猜疑深い性格を露呈していた。体格だけはいいが、臆病で肝っ玉などなきに等しい。むやみに勘定高くて、卑しいのだ。
さすがの康夫も興醒め顔で丈を見た。どうしたものかと窺う表情だ。
「どういう証拠が見たいの? なんなら、あなたの足の骨でも折ってもらう? わけないわよ」
と、郁江が平気な顔でいった。
「東君の念動力は東京タワーだってへし折っちゃうんだから......せっかくだから、どこか都合のいい骨でも折ってもらったら? 首の骨でも背骨でもいいわよ」

「ふざけんじゃねえよ! 黙って聞いてりゃ人をおちょくりやがって!」
松田は血相変えてストゥールから立ち上った。狂暴な怒りに駆られていた。臆病者のくせに、激発しやすい癇癪の持主だった。
粗暴性格者なので、かっと逆上すると乱暴を働き、番長などといわれて自己満足していたのだろう。
バネが弾ける迅い動作でテーブルの上の大きなガラスの灰皿を摑みとる。本能的にそれを武器にしておそいかかろうとする動物じみた猛々しさだった。
「おい、やめろ!」
康夫が仰天して跳び上った。市枝と郁江が同時に立ち上る。市枝は反射的に得物を捜して周囲に目を走らせた。郁江は二人の動作につられただけだった。
「なにするんだ。松田! お前、約束を忘れたのか!? ここではおとなしくしてるといったろう!」
康夫が狼狽に駆られ、後退りしながら叫んだ。
「うるせえ! はした金ででけえ面しやがって! てめえの目腐れ金で、こんなチンケな奴らにいいようにおちょくられて、黙っちゃいねえぞ! ふざけんじゃねえ!」
松田は嚇怒の発作の虜になっていた。怒りだすと半狂乱になる性質らしい。
「てめえ、ぶち殺してやる!」
丈だけを残して、みな部屋の隅へ後退した。
「東君! 気をつけて!」
と、郁江は甲高い声で叫んだ。市枝はゴルフクラブを摑んでいた。アイアンだ。それで松田を殴りつける気なのだろう。郁江は本棚からできるだけ表紙の固い重そうな本を抜きとりやにわに松田めがけて投げつけた。
本は煉瓦のブロックみたいに飛んだ。松田の顔にぶつかった。偶然とはいえ、みごとなヒッティングだった。松田は喚き声をあげてぐらりと後退った。鼻血がみる間にあふれだし、したたり落ちる。
「やりやがったな!」
松田の目が狂的になった。己れの血を見ることにより、抑制を失ったらしい。
「てめえら、ぶっ殺してやる!」
松田が喚く。康夫は戸口に跳んで逃げた。郁江がなにごとか叫びながら、本棚から抜き出した本を次から次に投げつける。
「畜生!」
両腕で顔をかばって突進しようとする松田の足を、市枝がアイアンで払った。鈍い音がして、悲鳴とともに松田は横転し、ソファを摑もうとしてソファごと床に転げた。
そこを市枝がしたたかアイアンを振るって打ち据え、松田は痛そうな息の詰まった悲鳴をあげた。市枝は容赦ない表情で、二度三度と松田の体を叩いて、絶叫を絞りださせた。
丈が椅子から立ち上ったので、市枝はびっくりしたようにアイアンを引いて、後にさがった。自分の思い切った乱暴さにおどろいた顔付をしていた。
「畜生......痛てえ......痛てえよ......」
と、松田は泣き声で呻いた。少女たちにやられた屈辱もあるが、本当に参ってしまったらしい。あとかたもなく闘志が脱け落ちてしまっている。
丈は屈みこんで、松田の腕をとり、引き起こして椅子にかけさせた。松田は逆らわなかった。気を抜かれてしまったのだ。
「すげえ女どもを連れてんだなあ、おめえ......」
と、松田は唸るようにいった。口で息をしている。鼻血が喉に流れこむらしい。鼻柱は青黒く脹れあがってきた。郁江の投げた本がもろに命中したのだ。
「まるで女番長だ......」
といって、松田は咳こんだ。鼻血でむせたのであろう。
「体中の骨が折れたみてえだぜ......参ったよ」
松田は情けなそうにいい、唸りだした。
「医者へ連れてってくれ、頼む......畜生、死にそうだ」
「九州へ逃げるんじゃなかったのか?」
と、丈がいった。
「江田四朗に見つかったらどうする? 江田は妖力を持ってるんだろう? 病院までお前を摑まえに来るぞ」
「江田に摑まったら、殺される!」
松田は泣きそうな顔になった。丈の腕を両手で摑む。
「頼むよ、逃がしてくれ! 江田の所から逃げようとする奴は摑まったら、ひでえ目に遭わされる! 殺された奴だっているんだ!」
「しかし、病院に入院しなきゃならないんだろう? 警察へ行って訴えたらどうなんだ?」
「だめだ、警察は江田とグルになってる! 江田の奴に抱きこまれたんだ! それくらい奴は凄い力を持ってるんだ......」
松田は苦痛と恐怖で見るも無惨な顔付になっていた。
「痛てえよ......これじゃ、どうにもならねえよ......どうしたらいいんだよ......」
泣き声でいった。狂暴なくせに根は弱虫なのだ。相手が強くて歯が立たないと見ると、とたんに腑抜けのようになってしまう。
「大丈夫だ。もう痛みは止まっているから」
と、丈が落着いた声でいった。
「鼻血も止まった。もう痛くない。体はなんともなくなった......」
「痛てえよ! 他人のことだと思いやがって!」
と、松田が自棄的に怒鳴る。
「あれだけぶん殴られたんだ! 骨だって折れてらあ! 痛くねえわけがねえだろう! 体中痛てえにきまってるじゃねえか!」
「それにしては元気よく怒鳴ってるな」
と、丈は笑いながらいった。松田はその笑いを見て、ますます怒りだした。
「頭に来たぜ! けったくそ悪いったらありゃしねえ! 痛くない痛くないって、てめえ他人の体のことまでわかんのかよ! 医者でもねえくせしやがって、いい加減なことぬかしやがって!」
「そうか、痛いのか? じゃ、どこが痛い? 鼻血はまだ出てるのか?」
丈は逆らわずに尋ねる。
「鼻血?」
といって、松田の表情が変った。ひっきりなしに喉に流れこんでいた鼻からの出血が止まっていることに気がついたのであろう。
「どうした、鼻血は?」
「鼻血は、停まってやがる......」
松田は渋々といった。
「じゃ、体のどこが痛い? 向う脛か? それとも脇腹か? 背中はどうなんだ?」
丈の言葉につられて、松田は脛を撫で、脇腹に恐るおそる手をやった。
「痛くなくなってらあ......」
と、彼は不承ぶしょういった。
「だけど、どうしてなんだ? なぜ痛くなくなったことが、おめえにわかったんだ?」
丈はただ黙って笑っていた。
「なにいってんだ、馬鹿!」
と、康夫がきめつけた。騒ぎがおさまったので、もう逃げ腰ではない。
「先生がお前の鼻血を止めて、痛みを取って下さったにきまってるじゃねえか! 松田、お前低脳じゃねえか。先生が病人を手も触れないで治した話をしてやったじゃねえか!」
「あんたの与太だと思ったんだよ......」
松田はいささかしょげていった。
「そんな、医者でもねえのに、薬も使わず手も触れねえで、病気を治せるなんて、できっこねえ......あんたのハッタリだとばっかり思ってた」
「よっぽどの馬鹿野郎だな、おめえは。人の世話になるんだったら、話はきちんと聞くもんだ。先生がどんな力をお持ちか、これでやっとわかったか!?」
康夫はそっくり返っていった。
「わかったよ......この人が人間放れした力を持ってることはわかった」
「先生を化物みたいにいうな」
「すまねえ。そんな気でいったんじゃねえんだ......でも、先生は医者なんだろ? 江田にはとうていかなわねえんじゃねえのか?」
「江田なんかメじゃねえといってんのに、まだわかんねえのか、この馬鹿!」
康夫は威勢がよかった。
「洗面所へ連れて行って、顔を洗わせてやってくれないか」
と、丈が頼んだ。赤黒く凝固した鼻血で顔の下半分を汚した松田は捨て犬のようにうらぶれて情ない姿だった。
「先生はな、とても心があったかくて優しいんだ。お前みたいな極道の馬鹿たれにも気を遣って下さるんだ。ありがたいと思えよ、この。さもないと罰が当るからな......こっちへ来い。そっちじゃねえよ、お前の汚ねえ面を洗わしてやろうっていってるんだ」
康夫は口うるさく、松田を小突きまわしながら、部屋から連れだしていった。
「ごめんなさい、先生」
と、市枝が青白い顔で詫びた。
「先生を灰皿で殴るんじゃないかと思ったら、つい嚇っとなって......もう二度としません。乱暴をして申しわけございませんでした」
「そんなの当り前よ。あたしだって、ゴルフクラブで思う存分殴ってやればよかった」
と、郁江が恐ろしいことをいった。
「気にすることないわよ。でも、ぴったし呼吸が合ったわね」
「松田は女番長といってた」
と、丈は苦笑しながらいった。当時はスケバンという言葉は知られていない。
「僕を護ってくれようとしたのはわかるが、ボディガードに腕っ節の強い女の子を連れているという噂が立つかもしれない」
「でも、やっぱりあんた、先生を護ったじゃないの」
と、市枝は郁江に向っていった。
「いざとなれば、先生を捨てて逃げだすといってたけど......」
「自分の身を護ろうとしてやっただけよ、誤解しないで」
郁江はびくともしなかった。
「それより、やっぱりあなた流石ね。敏捷なこと、喧嘩の強いこと、目が覚めるようだったわ。あんな大きな体の不良をあっという間に叩きのめしちゃうんだから」
「ああいうのは見かけだけでヤワなのよ。すぐ泣きを入れるしね......」
市枝は額に垂れかかる髪を指で払いのけた。まだ殺気の残る瞳が美しかった。
「それより、あんた、いい根性してると思った。いざとなると、思い切ったことをやってのけるし」
丈も市枝に同感だった。
「二人とも喧嘩がうまいってことはよくわかったけど、もうこれっきりにしてくれないか。怪我人が続出しそうだからな」
人は見かけによらない。郁江が固く重い本を松田の顔面へ投じた呼吸の鋭さは、丈がひやりとするほどだった。松田がその一撃で昏倒しても不思議はなかったのだ。
市枝にしても、凶器に等しいアイアンで滅多打ちにして、もう少しで松田を救急病院の重病棟へ入れてしまうところだった。
その松田が洗面所から戻ってきた。いきなり床に正座すると深々と頭を下げた。
「どうも失礼ばかり申しあげて、お詫びのしようもございません」
康夫に懇々と説教されたらしい。だいぶ神妙になっていた。だが、目はあいかわらず卑しげにきょときょとしている。隙を見せればつけ上ってくるタイプだ。
「おねえさんがたにもたいへん失礼いたしました。そのような方々とは少しも気付きませんで......どうか勘弁してやって下さい」
「先生に失礼があると、おねえさんたちに殺されると教えてやったんで」
と、康夫がニヤニヤしながらいった。たしかに今の少女二人の喧嘩っぷりを見れば、番長崩れの悪でもカブトを脱ぐであろう。
「先生に対しても、なに一つ隠さず話すと申しておりますから、どうか勘弁してやって下さい。おれからもお願いします」
大男の元番長は床に額がつくほど幾度も叩頭した。
11
今度は、元番長松田は素直に、質問される通り答えた。康夫によって脅されただけでなく、金を摑まされもしたらしい。反抗心はあまり表だって見せなくなっていた。簡単に痛みを療してくれた丈を、ある種の超自然的な医師だと思いこんだのであろう。
手を触れることなく傷を癒すなら、同様にして骨を砕くこともできるのだと、康夫が吹きこんだのかもしれなかった。
杉並区内の高校で番を張っていた松田が、江田四朗に遭うことになったのは、一か月ほど前のことだったらしい。
「知り合いの奴から使いが来まして、呼び出されました」
と、松田は述べた。知り合いというのは、他校でやはり番長組織を束ねている中西という不良高校生で、松田は中西と遭い、江田のことを知らされた。
「とにかく凄い人物だというんです。警察にも政治家にも大変な影響力を持っているから、遭っておけと勧められました。その人と知り合っておけば、危いことになっても大丈夫だというんです。警察も目をつぶってくれるし、万一捕っても、大丈夫だ。学校の方にも睨みがきくから、なにをしでかそうと退学にされる気遣いもないし、ヤクザだろうが愚連隊だろうが完全に保護してもらえるって......」
松田が中西から聞かされたのは、そうしたいいことずくめのうまい話だった。
「ヤー公とかそういうんじゃ、ヤバイからって断わったんですが、暴力団とかそういったバックじゃない、むしろ、そういった大人の連中からの被害を受けないようにしてくれるというんで......しかも、江田って人は総番長とかそういうこまかいのじゃなくて、警察はもちろん、政治、経済、各国の大立者を沢山信者に持っている、教祖みたいな人だっていいまして......だから、子分にされて、偉そうに命令されてへいこらしなきゃいけないってんじゃなくて、顔見知りになって、相手を先生と立てておけばいいと聞かされたんです。
それはもう気楽なもんだし、ただの知り合いになっとけば、完全に保護されてやりたいほうだいのことができる......それで、おれが知ってる奴を連れて行けば、金をくれるって聞かされたもんですから、つい......」
番長、松田は欲につられて、中西に誘い出され、世田谷の古い寺、観音寺という場所で江田四朗と遭ったのだった。
「初めはそんなに凄い人だと思わなかったんです。ただの学生みたいで、こりゃ瞞されたかなと思ったんですが......ただ目が変に光って気持悪かったです。ところが、そんなおれの考えてることをズバズバ当て始めるじゃないですか。
だれも知らないはずの、おれしか知らないヤバイことをみんないいあてられちゃったんです。これにはやっぱり青くなっちまいまして......」
心中をいい当てられ、だれも知らないはずの悪事を暴露された松田はいっぺんに浮足立ったらしい。
「なんかかんかいって口実を作って、逃げだそうとしたんですが......どういうわけか体が動かなくなっちまったんです。頭も体も、麻酔にかかったみたいになっちまって......なにぶん場所がおっそろしく古ぼけた寺だし、夜で燈明がついてるだけだし、あんなに無気味だったことはありません。なんか自分が違う世界へ連れてかれちまったみたいで......いつの間にか、案内してくれた中西も、いっぱいいた信者みたいな人たちもいなくなっちまって、なんだか化物みたいな爬虫類みたいな顔の物凄い連中が同じ場所に座って、おれを見てるんです......
夢でも見てるのかと思ったら、どうもそうじゃないらしい。大昔のでかいトカゲみたいな、爬虫類の顔になっちまっているのが、中西たちなんです。体は動かないし、あんなに怖かったことはないです。
江田って人が、また物凄い感じになってましてね、化物っていうのか悪魔っていうのか、そういうものの王だってことが、おれにはよくわかるんです。
もうおれは摑まっちまったから逃げられないんだ、と江田って人がいいました。仲間になればいい目が見られるし、きれいな女といくらでも姦れる、金も入ってくる。なにも苦労はないっていうんです。ただ、おれは江田って人の信者ってのか、家来になって、なんでもいわれる通りにしなきゃいけない......人を連れてこいといわれれば、おれが中西にされたみたいにうまく誘いこんで、観音寺に連れこまなきゃならない。
そういう命令だけを守れば、楽しいことだらけだっていわれました。そしたら、あんなに気味悪いと思ってたのに、だんだん気にならなくなってきたんです。それどころか、幸せな、愉快な、ふわふわした気分になっちまいました。もうその時は、中西や、ずらりといる信者たちも化物みたいじゃなくなって、まともな姿に戻ってました。
で、やっぱり目の錯覚だろうと思ったんです。頭がぼうっとして、目を覚したまま悪夢でも見てるような感じになったんだろうと......もしかしたら催眠術にでもかかったんじゃないかな、そう後で思いました。
江田って人も、もう悪魔王みたいじゃなくなって、優しい口をきいて、おれの機嫌をとってくれるし、周りの信者たちも思ったより親切でチヤホヤしてくれました。おれは見所があるから出世して、江田先生の側近になれるかもしれないといわれました。そうなれば、どんな欲望でもかなわないことはないって......
でかい家に住んで車を乗りまわして、きれいな女を何人も妾に持って、国会議員になり、大臣になるのも夢じゃないっておだてられました。
そのうちに酒を飲まされて、いい気持になってるうちにわけがわからなくなっちまいました。おれは体がでかいし、酒は強いんですが、いつの間にか酔い潰れちまったらしいんです。それほど飲んだ覚えもないのに変だと思いました。中西がおれを自宅まで連れて帰ってくれたようです......」
もちろん、酔い潰れる前に、観音寺の集会についても他言することは禁じられた。一度信徒になった以上、教団の内部のことを部外者に漏らすことは厳禁されていた。
「でも、そんなことはあんまり気になりませんでした。変に幸せなフワフワする気分が続いていたし、教団からはまだきついことはなにもいってこないもんですから......とりあえず、校内で番を張ってる仲間を、観音寺に連れて行くのが仕事だと中西にいわれました」
教団に勧誘した者は、〝親〟となり、された者は〝子〟となる。この場合、中西は彼の〝親〟で、松田は〝子〟である。松田自身が仲間を誘えば、今度は松田が〝親〟となり、仲間が〝子〟になるわけである。
確かに、中西がいう通り、教団の影響力には薄気味悪いほどのものがあった。松田はその時、高校教師を相手に暴力を振るい、放校されかけていたのだが、それがばったりと沙汰止みになってしまったのである。
どこをどう経由して、影響力が行使されたのか見当もつかないが、松田が中西にその件について相談して一週間後には、学校当局は松田の放逐を取り止めにしたようであった。
それきりになってしまったのである。
松田が中西に指令される通り、喜々として働いたことはいうまでもない。せっせと仲間を説得しては観音寺に送りこんだ。某教団でやっている折伏と同じことだった。要は欲心に訴え、利をもって吊るのである。
しかし、松田の場合、幸福幻想はさほど長続きはしなかった。中西を経由して下される〝教団〟の指令がしだいに過重になり、エスカレートし始めたからである。
信徒勧誘のノルマが定められ、上納金を納めることを強制された。驚くほど高額な上納金がかかってきたのである。もちろん、〝子〟を造れば、〝子〟の納入する上納金の数パーセントを報酬としてもらえるのだが、それではとうてい足りなかった。毎月何十人も信徒勧誘に成功し、己れの〝子〟を造ればともかく、番長組織のたかだか十数名を入会させてしまえば、後は外部の者を誘い込まねばならない。
もともと柄が悪く、強もてだけで信用などまるでない番長組織の者であれば、話術だけで誘いこみ、〝子〟に仕立てる能力があろうはずもない。非行化の徴候を見せている一般生徒を脅しつけてでも引きずりこむほかはない。番長組織は〝子造り〟に狂奔し、手当り次第に手を出した。
中西を通じて〝教団〟から、信徒獲得は女生徒でもよいといってきた。
「できるだけ美人がいいというんです。ヤー公が女子高校生をひっかけさせて、売りとばすためにそんなことをいってきたんじゃないかと思ったくらいです。やっぱり江田っていうのは暴力団と関係があるのかと勘ぐりました。でも、そうじゃなかった、江田は暴力団なんか問題にならないほど悪くて、恐ろしい人間だったんです......」
松田は喋っているうちに胴震いを始めた。恐ろしさが甦ってきたのであろう。
「〝教団〟の締めつけは日増しにきびしくなってきたんです。こっちにもだんだん不満が溜まってきて、不平を口にする奴が出始めました。上納金ばかり取られて、こき使われるから、みんな頭に来ちまったんです......いくら警察や学校の先公が目じゃないといっても、これじゃとっても割に合わねえ......そういってるところへ、おれたちは観音寺へ呼び出されました。そこで物凄いものを見せられちまったんです」
松田たちは、私刑を見せられたのだった。受刑者は彼らの知らない学生だった。罪状は上納金を自ら納めるのを怠ったばかりか、〝子〟の納める上納金を横領したというのである。のみならず、〝教団〟に対する悪口をつき、不平不満の言辞を吐いて〝教団〟に対する不信を煽動させたというのである。
「初めは、そいつもふてくされて居直ってました。どうせ私刑ったって高が知れてると思ったらしいです。体のでかい頑丈そうな奴で根性がありそうな面構えをしてました。いざとなれば仲間が味方をしてくれると甘いことを考えたのかもしれません。度胸を決めて一暴れしてやろうと思ってたんでしょう。薄笑いさえしていました......」

ところが、そいつの思惑はみごとにはずれた。頼みにする仲間たちがだれ一人擁護に動かなかったのである。臆病風に吹かれたのか、あるいは事前に抑えられていたのか、一人として呼応する者はなかった。
「その野郎は、〝教団〟がどんなにあこぎで、上納金を巻き上げるために、どれくらい無理強いしてるか数えたてて、こきおろしたんです」
と、松田は状況を詳細に物語った。反乱者として、そいつは〝教団〟の凄まじい内幕を暴露し、告発しようとしたのである。〝江田総裁〟を初め、教団幹部が吸い上げた上納金を使って、どんなに贅沢な生活をしているか、信徒の若い女性を、セックス奴隷に仕立てて獣のように扱っているさまを、列挙し、醜悪な内幕を新聞、週刊誌などのマスコミに流してやると、あっぱれな恫喝をやってのけたのだった。
「だけど、江田を初め、教団の幹部連中はみんな平気なんですよ。平然としてるんです。そうすると、その顔がだんだん気味悪く見えてきたんです......前の時と同じです。でっかいトカゲの化物みたいな凄い面になってくるんで、なんだかわけがわからなくなりました。目の錯覚かなと思うんだけど、どうしても化物面に見えるんです。本当に鱗の生えた面で、人間の顔じゃねえんですよ。
それに江田の面も、また物凄いんです。完全に魔物の面構えなんです......目玉がへんにぎらぎらと緑色に光ってましてね、口なんかこう、サタンの口っつうのか、耳の方に切れあがってやがるんです。それが、すうっと音もなく笑うんです。その凄いことといったらなんの、おれも小便をチビりそうになるくらい、ぎゅっと下っ腹が縮みまして、こう腰が抜けたみたいに重くだるくなっちまったんです......本当に怖いんですよ、もう。恐がってるのはおれだけじゃなくて、それまで威勢よく喚きたてていた奴も、草っ葉みたいに顔が青くなっちまいました。だって、いくらあおりたてて凄んでも、仲間はだれ一人、ウンともスンともいわねえんですから......」
喋っている松田の顔色も悪くなり、額に噴きだした汗を手の甲でべったりと押し拭った。
「とにかく、今こうやって喋ってるだけで、思いだすとわあっと大声で喚きだしたくなるんです。もうあの時のことは忘れちまいたいが、どうしても忘れられない......心にこびりついちまってるんです。ふっと思いだすと、きんたまがぎゅっと腹ん中にもぐりこんじまう......
江田の奴が、そいつに向って、偉そうなことを吐かしたが、本当にやれると思ってるのかっていうようなことをいったんです。つまり、そいつが〝教団〟の内幕を新聞にばらしてやるといったからです。
それで、江田はこの場を無事に去れると思うなら、やってみろといいました。そいつも度胸の据った奴で、隠し持ってたヤッパをぎらりと引っこ抜きまして、止めだてする奴は穴をあけてやると啖呵を切ったんです。江田なんてチンケなイカサマ野郎にいつまでも瞞されてる阿呆じゃないんだと、今から江田の化けの皮を剝いでやるといったもんです。江田が持ってるという化物じみた〝力〟なんか迷信なんだから信じないといってました。江田に呪い殺される前に殺ってしまうと......そいつはどうやら江田をぶちのめして〝教団〟を乗取るつもりだったんでしょう。いい度胸だし、おれも手を貸してやりたくなったくらいで......江田なんていう陰気な面の化物野郎に奴隷扱いされるのはまっぴらだと思ってたんで、よし、ここはその野郎に味方して、江田をぶちのめし、虫の息になるまでやってやろうって気になったんです。
その野郎もヤッパがあるし、腕も度胸もある奴だから、一暴れすれば、みんな逃げだすだろうと軽く踏んでたようです。
だけど、当てにしてた仲間がだれ一人動かないんです。それどころか、江田たちと同じ化物面でじっとそいつを見てる。
そいつも、仲間に見捨てられたのを知って腹を決めたようでした。ヤッパを構えて江田に体当りしたんです。その勾配の速さといったらたいしたもんで、思わずあっと声が出たくらいでした。やっぱりたいした玉だと思って、男惚れしたくらいです。
そいつは狙い通り、ヤッパを江田の太腿に刺しました。江田を殺っちまうまでは考えなかったんでしょう。太腿をずぶっと刺せば、もうひっくり返って動けなくなっちまいます。年季の入ったヤクザがやる手口です。
やったと思いました。江田はもう動けないし、ヤッパをずぶずぶ突っ込んで、穴だらけにするのも思いのままですから。もうそいつが勝ったと思ったんです。
ところが、江田の奴が倒れないんです。そいつの両肩をぐっと摑んでいるので、そいつも動けません。ヤッパを江田の太腿に突っ込んで、柄にしがみついたままです。ニッチもサッチも動かなくなっているんです。
それどころか、そいつが唸りだしました。いかにも苦しそうに唸るんです。どうしてかっていうと、江田の奴がそいつの肩を摑んで、両手で握りしめているからです。
そいつは全然動けなくなっちゃったんです。だけど江田って奴は瘦せてひょろっとした奴だし、力だってそんなに強そうじゃない。なのに、肩を摑まれると動けないんです。そいつの顔色がだんだん青く、鉛色になってきて、死人の顔色になってきたんです。どうしてだかわかんない。
なにか喚こうとして口を開けたんですが、声は出てきませんでした。もうその時は気が狂ってたのかもしれません。
江田の奴が凄く笑ったのをよく憶えてます。なんかいったようですが、よくわからなかった。呪いみたいなもんをかけたんじゃないかって思います。
なんだかぞっとするような音がしたとたん、そいつの首がぐるっと廻って、真後ろを向きました。人間の首は絶対に百八十度も廻らないんで、目がおかしくなったのかと思ったくらいです。人形の胴に顔を後ろ前につけたようになっちまったんです。いやな音がしたのは首の骨がグキグキいって潰れたんだとわかりました。
死人の顔が後ろ前になって、背中についてるんです。別に江田が手をかけて捻ったわけじゃないのに、自然にそうなっちゃったんです......首が攣ったりすると、筋肉が異常に痙攣するでしょう、あんな感じで、首の筋肉が物凄い力で縮んだかどうかして、頸骨がへし折れちゃったんだと思うんです。
でも、見た目には、目に見えない化物がいて、そいつの首を摑んでねじ曲げちまったようでした。そいつの両腕がゴキゴキいいながら、関節の所で曲らない方へいっせいに捻じ曲って行くんです。筋肉という筋肉に物凄い力がかかったんで、関節が砕けて変型して行くんです。あんなもの、見たことがありません。あっという間に、人間の腕とは思えない変な恰好になっちゃいました......」
松田は両手をあげて、顔中に浮んだ脂汗を押し拭った。口中の唾が乾いてしまったような声音になっていた。
「そいつは江田から離れて、床にひっくり返ると、ゴキゴキとなんともいえない気味悪い音を立てながら、どんどん形が変って行くんです。体中の筋肉がいっせいに異常収縮かなんかし始めたんで、体中の骨が砕けて行くんです。逆エビみたいに体がそり返って、背骨がへし折れる恐ろしい音がすると、座布団みたいに二つ折りになっちまいました。
ほら、インドのヨガって奴で、人間の体がなんかとんでもない、常識じゃ考えられないポーズを作ったりするでしょう。あれよりもっとメチャクチャで凄いんです。人間の体がオブジェっていうか、変な生花、あんな風になっちまった。人間の体にいくつ骨があるか知らないけども、骨という骨が全部骨折してよじれて、グチャグチャになっちまっていたんですよ......
江田の奴は手を触れたわけでもなんでもない。でも、そいつの体はひとりでに人間とは思えない、グシャグシャに圧し縮められたみたいな、残骸になっちまったんです。母親が顔を見たってだれだかわかんないでしょう。......筋肉がメチャクチャに縮んだり伸びたりしたから、ササラみたいに全身の骨が砕けちまって、肉を裂いてあちこちで針みたいに尖がった骨がとびだしているんです。呆然として見てたから、よくわかんないけど、十五分か二十分ぐらいかかったらしい。その間に、一人の人間が似ても似つかない変なものに変っちまったんですよ。もちろん、もう完全に死んでたはずです......
あんまり凄いものを見せつけられたんで、頭がぼうっとなって、少し気が変になってたのかもしれない。江田の奴は太腿をヤッパで刺されたのに平気な面をしてました。血だって出てなかったし、痛そうにもしないで歩いてましたから......
江田の奴は寺の本堂の中にいるおれたちに向って、裏切者はひとりでにこんな目に遭ったんだと吐かしました。勝手に罰を受けたんだというんです。江田自身が手を下すまでもない。裏切者は心に反抗の思いを持っただけで、自動的に業罰が下されて、裁かれてしまうと......江田自身が本当に手を下す時にはこの程度の罰じゃすまないって吐かしたんです。
一度信徒になったら最後、絶対に反抗することも裏切ることも、逃げだすこともできないんだ、と奴は脅すんです。一日中二十四時間見張られていて、なにかあればすぐに江田にはわかるんだと......逃げようとしたって逃がさない、地球の果てまで逃げても追いかけて必ず連れ戻す。そして恐ろしい罰が下るんだと江田はいいよりました。
しかし、裏切りの心など持たず、忠実な信者でいれば、いつもいいことばかりだし、なにをやろうと邪魔立てする者はいないと、警察も軍隊も止められないんだと、〝教団〟は無敵の力を持ち、信者はみんな江田みたいに不死身になるといいました。
確かに江田の奴は、刃物で刺されたのにけろっとしていやがるんです。服は破れてるのに、血なんか一滴も出てやしない。本当の化物だとおれは思いました。あのトカゲみたいな化物面が本当の顔で、人間の面はお面みたいなもんに違いない......信者はみんな江田みたいにトカゲの化物にされてしまうんだ、とはっきりわかりました。
化物になるのはいやだ! だけど、心を見抜かれたら、おれも殺される。だから、なにも考えないで、ポケッと馬鹿みたいにしていようと思った。心の中を読まれたら最後だから、こっちも必死でした。なにか違うことを考えようと死物狂いになって、なんだか頭が半分狂っちまったみたいでした。
悪夢でも見てるようなことが長い間続いてたようです。瞞されて連れこまれ、無理やり信徒にされた女どもが素裸にされてました。おれたちも女を連れこんでまわしたりするけど、あんな変なことは考えたこともなかったです......江田たちは気味の悪い、気違いじみたことを女どもにいっぱいしてました......仲間を増やすための儀式だとかいってました。女のあそこから血を吸うとかいうんです。胸が悪くなったけど、やっぱり頭が少し変になってたんで、なんとかもちました。もうみんな、どいつもこいつも、気が狂った化物みたいになってるんです。女の血を吸うっていうだけでも、気持悪いのに、もっといやらしい気持悪いことばかりやっても、平気になっちまっているんです。江田の奴が、妙な薬でも使ったのかもしれない......みんな江田のいう通りにしました」
郁江や市枝が不快を表わして、ぞっとするような目で松田を見た。おぞけを振るった表情だった。無気味な変質者を見る目だ。
「おれも本当に頭がおかしくなったんじゃないかと思ったくらいです。物凄いものを見せられても、麻酔がかかったみたいに、なんにも感じなくなって平気になってくるんです。
若い女をどうやって攫ってくるのか、沢山いるんです。おれたちも命令されて二人ばかり渡しましたけど、まさかあんなに沢山いるとは思わなかったです。みんなきれいな娘ばかりでした。その女たちを道具みたいに使って、江田や教団幹部の奴らは物凄い、信じられないようなことをやってるんです。自分たちの小便を女たちにじかに飲ませたり......」
郁江たちは嘔気を感じたように、松田から目をそらした。気違いの乱痴気騒ぎを、松田はえんえんと物語る。
「なんだか知らんが、やることが気が狂ってて、そこにいるとそれが伝染するのか、どいつもこいつも気違いの目付になっちまうんです。でも、おれは最初に江田たちが化物の顔になるのを見ちまったせいか、みんなとどうしても同じようになれなかったんです。
そのままだと危い、本当に気が狂ってラリ公になっちまう、なんとかして逃げなきゃ、とそればっかり考えてました。もちろん、心を読まれないように気を遣って、おれも気違いになったふりをしてたけど......」
松田は、娘たちの目付に気付かずに喋り続けた。市枝にしても郁江にしても、並みの女の子ではないのだが、松田の話の物凄さには辟易したようだった。
しかし、松田は吐露する衝動にとり憑かれており、詳細を物語った。康夫はとっくの昔に音をあげて、部屋を出て行ってしまっていた。次いで市枝が立ち上り、逃げだして行く。郁江は気分が悪くなった顔付だったが、なんとか我慢していた。陰惨で奇怪で、およそ化物じみた話だった。丈はなんとなくサタンの黒ミサという儀式を連想した。これも若い娘の全裸に剝いた肉体を道具に使い、糞便や精液や、月経の血などさまざまな汚穢物を用い、瀆神の秘儀を行うのだ。反キリストたる悪魔王につかえる黒魔術の徒たちの不潔な祭祀である。
松田の話は、そうした黒ミサ奇譚を超えるとてつもない異様さ、突飛さを備えていた。単にグロテスクであったり汚穢であったりする域を超えていた。松田の話を聞くだけで、江田たちの集団が人間放れした、暗黒の眷属に変化し、妖怪、化物の類に堕していることがはっきりわかるのだった。
「江田って奴は、本物の化物です。奴の陰茎は長さが一メートルもあるんですよ、信じられますか、先生?」
と松田は口辺にねっとりと白い泡をへばりつけて、憑かれたようにいった。
「弓なりにそり返っていて、そいつが江田の思い通りに動くんです。まるでぶっとい蛇なんだよな......さきっぽはでかくて、黒紫のバラの花みたいになってるんです。そんな人間がいるって、考えられますか、先生? いくらなんだって、そんなことありっこない。いたとしたら人間じゃなくて化物ですよ。だってそうでしょう?......そんな化物みたいなもんをあそこに突っこまれたら、女は一発で気絶しますよ。さきっぽが女の口から出てくるんです、信じられますか? そんなこと、ありっこないですよね、先生? だけど、おれはこの目で見ちまったんだから、どうしようもねえんだ......
奴らおかしいですよ、絶対おかしい。ひょっとするとおれが見たのは幻覚かもしれねえが、それだってちっとやそっとで信じられることじゃねえもの......とにかく江田の奴らは人間じゃないってことは確かなんですよ。いくらいい目を見させてくれるからって、とてもじゃねえが、おっかなくていっしょにはいられねえ。おれは女とやるのは嫌いじゃねえけど、そんな気違いのやるような気持悪いことは嫌なんですよ......裏切ったら体中の骨がバラバラに砕けてササラみたいになってくたばるっていうのも嫌だ。いくら恐いもんなしといったって、それじゃ化物の手下だし、そのうちにてめえまで化物に変えられちまう......」
松田は声が奇妙に掠れてきて、胴震いしはじめた。ものに憑かれたような顔貌になってきて、郁江がそっと丈の肘に摑まった。さすがに不快というよりも怖くなってきたのだろう。
「化物に変えられるのはいやだ。なんとかしてずらかりたい。だけど体中の骨が折れて死ぬのはごめんだ......なんとかして江田の下から脱けたい。もう、そればっか考えてました。江田たちのトカゲの化物みたいな面を見ちゃってから、もうだめなんです。寝ても覚めても、あの凄い面が目についてはなれないんで......もしそれさえなきゃ、おれもだんだん慣れて平気になってきて、奴らの仲間になっちまって、けっこう楽しくやってたかもしれないんですが。
だけど駄目だ。他の奴等みたいにどうしても気違いになれねえし、化物と乱痴気騒ぎやってたって、おっかねえだけでちいとも楽しくありゃしません。それに女どもだって、面や体は佳いが、まともなのは一人もいねえ。江田の手にかかったら、頭がトコロテンみたくぱあになるんじゃねえかな......
そんな気持悪い化物になっちまった女といくらやれるといったって、おれはもうご免なんで......やっぱり女はまともなのがいい。だからおれは寺の本堂へ行くのがいやで仕方なかった。
なんせ、周りにいるのがみんな化物になっちまった奴らなんですから......だけど江田の奴はおれの心が薄々わかってるのか、毎晩寺へ来いと吐かしやがる。もっと頑張らなきゃ本当の仲間にはなれねえっていいやがるんです。
確かに脱けたい脱けたいって思ってるこっちの心が江田に読まれてるんです。できるだけうまく芝居して、あっちに合わせてるんだけど、江田は瞞されねえ。
上納金はきびしいし、勧誘のノルマは上りこそすれ下がりっこねえし、女の方は行き当りバッタリじゃなくて、名指しになってきました。住所と名前を教えられて、その女をうまく連れてこいってんで......でもこれは、〝教団〟への忠誠心を強めるためのテストみたいなもんらしかったです。
もうとてもじゃねえが、続かない......けど、こっちの家もバッチリ知られてるし、逃けるわけにもいかねえんです。まったく弱りました......
もうこうなったら高飛びでもして、ほとぼりを冷ますしかねえって思いました。それで、やっとダチ公に本当のことを話す気になったんです。いっしょに悪いことはなんでもやった仲で、寺にも行ってるダチ公です。
だけど、江田たちの面が化物面に見えるって話をしたら、駄目なんです。全然乗ってこない......そんな、おれに見えたように江田たちの顔が凄いトカゲの化物に見えたことなんかねえって吐かすんで......
こりゃあ、ヤバイって思った。シラッとした目付で、今まで見たこともないような面でおれを見てるんです。悪いことをなんでもやった、兄弟分のダチ公が......
あんまり妙なことはいわねえ方がいいぞってさりげなくいいましたよ。だけど、おれにはもうわかってた。こりゃ売られる、もうこいつは元のダチ公じゃねえ。今はすっかり化物に変っちまってるんだ。
で、おれはすぐに遁走したんです。こうなったら、寺へなんか行けねえ。裏切者ってんで体中の骨がササラみたいに砕けちまうんじゃ堪らねえもんね......
江田の奴らがあのままでいる限り、もうおれはずっとヤサグレですわ。東京にいるのは絶対危ねえし、できるだけ遠くへ逃げるしかありません。できたら日本から逃げだしたいですよ......」
「江田はもちろん、君を捜しているだろうな?」
と、丈が尋ねた。郁江が呆れるほど平静な表情をしていた。ポーカーフェイスである。
「そりゃもちろん......おれをとっ摑まえて見せしめにする気だろうから......もうこっちは逃げの一手ですよ。化物相手に喧嘩などしていられねえもんね」
松田は顔を思うさましかめていった。粗野な面構えが恐ろしく卑屈になっていた。
「もうこれでいいね? おれはこの辺にウロウロしていられねえんでね......こうなったらトラックの定期便にでももぐりこんでずらからなきゃならねえ......」
「君の悪事仲間の友達は、君がどこへ逃げるか、立ち廻り先を知ってるんじゃないのか?」
「だからよ、だれも考えもしねえところへ行かなきゃならねえんです。一分一秒でもグズグズしてたら、それだけ足元に火がついてくるんで......」
「君が河合康夫に遭うってことは、向うにはわからない?」
「そう思いますがね......だけど、ダチ公が全部江田についちまったから、なんともいえないですよ。知らないうちに、なんか口走ったかもしれねえんだし......とにかく早いところ高飛びするしかねえんです。これでいいですか?」
丈がうなずくと、松田はあわただしく立ち上り、部屋を立ち去った。逃走の衝動以外、心にはなにもないらしかった。きな臭いような臭気が後に残ったようだった。
松田は恐怖に追われる逃亡者として、残りの人生をすごすことになるのだろう。見るからに逃亡する犯罪者の雰囲気が濃かった。
12
「ねえ東君。話聞いてみると、江田ってサタンそっくりね」
と、郁江が沈黙の圧迫に堪えきれないようにいった。彼女には珍しいことだった。
「全身、青銅色で、角が生えてて、目が黄色く光っているような印象だわ。でも、あの子本気で喋ってたけど、幻覚を見たってことないの? だって、とうてい信じられないような化物奇談だもの」
「とにかく、松田にはそう見えたんだ」
丈は慎重にいった。郁江は両手で丈の肘に摑まっている。恐いもの知らずの彼女でもやはり恐いのだ。
「江田四朗はやっぱり、元の江田じゃない。なにかが奴の身に起こったんだ」
「江田は本当に化物に変っちゃったの? 東君、そんなことって本当にあるの?」
「否定はできないな......松田は幻覚かもしれないが、何かを見た。だから死物狂いで逃げだしたんだ。松田は本人は気がつかないにしても、一種の霊視能力の持主で、江田の本性を視てしまったのかもしれない。だから、暗示にかからなくなってしまった......江田の奴隷になることを拒否したんだ」
「江田はどうしてそんなことができるの? あいつは超能力者なの?」
市枝と康夫が部屋に戻ってきていた。二人とも青く血の気の引いた顔になっている。丈はちらりと目をやったが、声はかけなかった。
「〝洗脳〟を巧妙にやっていることは確かだと思う。麻薬のようなものも使うのかもしれないが、物凄い催眠力を持ってるとも考えられるな......意志の力で、他人をコントロールできるのかどうか、そこまではなんともいえないけど。被暗示性の高い人間には、遠隔催眠で操作できるのかもしれない。
人間を奴隷化、ロボット化するのは、大きな新興宗教でもやっていることだ。狂信者に仕立てて、教団のいうことしか耳に入らず、理性的な思考ができないようにしてしまう。これも奴隷化と同じだろう......だけど、江田がやっているのは、あるいは超能力に関係があるのかもしれないね」
「江田は超能力で〝教団〟を武器に変えて、東君をやっつけるつもりなんじゃないかしら? 警察も手を出せないような凶暴な武闘グループにして、東君にさし向けたりはしないかしら?」
郁江が不安に駆られていった。
「だって江田は非行少年ばかりを集めて、化物に変えているというじゃないの」
「驚いたなあ、まったく......まるで悪い夢でも見てるみたいだ。松田の奴、あれ本気なんですかね?」
と、康夫がいやな顔をしていった。いつも陽気な彼が、病気にでもなったように気分の悪そうな顔つきをしていた。
「本当に、そんな悪夢みたいなことがあるんですかね、先生? とうてい正気じゃ聞いていられませんよ。馬鹿ばかしくてどうにもならない......人間がそんな化物になっちまうなんてさ。話がちょっと飛躍しすぎてやしませんかね。おれはこういうケッタイな馬鹿話に弱いんだなあ」
「でも、先生。松田は本気だったんじゃないんですか?」
と、市枝が丈の目を直視しながら尋ねた。
「頭がおかしくなって、夢や幻覚の話を必死にしているとは思えなかったけど」
「松田は本気だったと思うな」
と、丈はいった。彼らの感じている恐怖と不安を鎮める必要があった。
「松田は真剣にそう思いこんでいるんだ。だからこそ、死物狂いで逃げ歩いているんだろう」
「じゃ、松田の思い違いということもあるわけですか?」
「そうだ。松田がこんな話をだれにしても、信用はされないだろうね。病院で精神鑑定を受けさせられるかもしれない」
「ふうん、やっぱり。確かにあいつは精神鑑定を受けた方がいいですよ」
と、康夫が安堵をこめていった。
「ノイローゼになってる。本気で九州か北海道へ行きそうだな。とにかく、おれにそう思いこませようと必死になってましたよ」
「先生は恐くないんですか?」
と、市枝が尋ねた。例によって思い詰めたような口調だった。
「恐い」
「うそ! 先生は恐がってないわ」
市枝は断定した。
「でも、先生が恐がらないのなら、あたしも恐くなくなりました。でも、あたし松田のいうことは本当のような気がする」
「あいつはそう思いこんでいるだけだよ。ノイローゼなんだ。そうでしょう、先生?」
「あたしも本当だと思うわ」
と、郁江がゆっくりした口調でいった。康夫は明らさまにいらいらして、異を誦えたそうに口をとがらせた。
「よせよ......先生だって松田の思い違いだといってるじゃないの」
「そんなこと東君いってないわよ。とにかく江田にはなにかとんでもないことが起こってるわ」
郁江はいささかも意に介さずにいった。
「江田は東君を狙って着々と準備を進めてるみたいね。手を広げていろんなことをやってるけど、本当のターゲットは東君なのよ。東君もそう思うでしょ?」
「そうだろうな。君のいう通りだと思うよ」
丈はゆっくりといった。
「どうして? どうして江田って奴は先生をつけ狙うんですか!?」
と、市枝が逆毛をたてるような反応を示して尋いた。市枝は暴力的な波動には恐ろしく敏感であった。
「江田は先生に、なにか恨みでもあるんですか?」
「恨みといっても、ただの恨みじゃないわね。なにか物凄く無茶苦茶な確執っていうのかしら、宿敵とか不俱戴天の敵、怨敵とか、そんな関係みたい」
と、郁江が答える。
「だって、そんな、先生がひどい恨みを買うようなことするはずがないでしょう? 江田はなんで先生をそんなに恨んでるの?」
と、市枝が抗議するようにいった。
「さあ......それが問題なのよね。あたし、前から思ってるんだけど......ね、東君。江田って幻魔じゃないかしら?」
「!」
丈は無言で郁江の顔を見返した。冷たく痺れるような感覚だった。郁江は思いきったことをいってのけた。もはや丈の禁止に服する気持はないようであった。自分のいいたいことはあくまでもいってのけるという迫力があった。
「東君はいうなっていうけど、こうなったらいわずにはいられないわよ。江田のやってることが幻魔じゃなかったら、いったいなんなの? やっぱり本当のことは本当のことだもの。遠慮なくいわせてもらうわよ。江田って奴は不死身だと松田はいったじゃない。幻魔ってやっぱり不死身なんでしょう?」
「しかし、まだ証拠はない」
「証拠なんて捜せば見つかるわよ。ただ、こっちも腹をきめておいた方がいいって思うわけよ。相手が幻魔なら、タラタラしていられないでしょ。違うかしら?」
「しかし、完全に疑問の余地もなくそうだと確言できるまでは、その幻魔という言葉は使っちゃいけない」
「そう東君はいうけど、みんな、こうなったら吞気にしていられないと思うの。非常事態だわ。そうじゃないかしら?」
「............」
丈は黙っていた。郁江のいったことは、丈がこれまで検討を加えなかったことではなかった。しかし、確かめようはないのだ。対決して死闘になりでもしなければ、丈は真実を知りえないであろう。ニューヨークにいるルナ王女ならそれは可能かもしれない。しかし、この東京ではいまだに丈は一人のテレパシストにも遭遇していない。正しくいえば、ルナ王女クラスのテレパシストのことである。己れのサイキック能力を完全に使いこなすには天才が必要だ。ルナ王女はその稀な天才の一人であった。
「あの、幻魔ってなに?」
と、市枝が遠慮がちに郁江に尋ねた。耳慣れない言葉だったのであろう。
「東君のやってる会の〝GENKEN〟っていうのは、正しくは〝幻魔研究会〟っていうのよ。人に尋かれた時は、もっともらしく超常現象研究会、なんていってるけど。だったら略しても〝GENKEN〟にはならないんだけどね......幻魔の本質を研究し、その脅威に対応して人類の存続を考える会っていうわけ。今はあまりいわないけど、〝GENKEN〟が青林学園高校の中で非公認クラブとしてスタートした時の会員なら知ってることだわ」
「幻魔って、悪魔とか、魔性の鬼とかそういったもの?」
「非常に似た所があるって、東君いってた。でも、幻魔って実体のないわけのわからないものじゃなくて、物質的存在みたい。東君がいうには、宇宙全体の破壊者なんだって......そうでしょ? 最近はマスコミを気にしてあんまり具体的なこといわなくなっちゃったけど」
「なんだか得体の知れないお話で」
と、康夫がいった。生理的不快感をあらわにしていた。妄想じみた怪奇話が極端に苦手らしい。
「もうよしましょうや。そんな、悪魔だの幻魔だの、メラニョロした気色悪い話は......そんなのは迷信にきまってる。幽霊だの化物だの、あたしはご免ですねえ」
「あら。幻魔は迷信なんかじゃないわよ」
と、いって郁江は丈の顔を見た。
「東君が、初めのころはよくいってたもの」
「幻魔は悪魔とは違う。悪魔のようにいるのいないのと議論するような性質の心霊的な存在じゃないんだ」
丈は重苦しくいった。
「今年の夏、ニューヨーク市で黒人大暴動が起きたのを憶えているだろう? あれは幻魔の仕業だ。日本の新聞はほとんど書かないが、外国の新聞は詳しく報道している。何十万人もの黒人たちや州兵、警官を殺したのは幻魔だった。
それもただ一匹の幻魔がやってのけたんだ。決して妄想でもないし、迷信でもないんだ。僕は幻魔の実在を人々に知らせるために、会を作った。もちろん、広報だけが目的じゃないけれどもね」
「じゃ、なぜもっと大々的に世の中に知らせないの?」
と、郁江が好奇心と疑問をふくれあがらせた表情で丈に質問する。
「そういう以上、東君は実証を握ってるんでしょう? ただの推測や空想ではなくて」
「そうだ。外国の新聞に出た以上のことを知っている」
「やっぱりね。そうじゃないかと思っていたんだ......」
と、郁江は男の子のような口調でいった。
「東君、現場にいたんでしょう。それで真相をよく知っているんでしょう?」
「幻魔というものが、どんな代物か、だれよりも知っているつもりだ」
丈は否定も肯定もせずに答えた。
「ずるい。いつもそうやって東君は質問をはぐらかすんだから......」
郁江は不満そうにいったが、口ほどでもないようであった。
「でも、だいたい東君がどんな種類の超能力を持っているか、見当がついてきたわ。PK(念動力)に空中浮揚、遠感、透視......心霊治療もあるわね。それにもしかしたら催眠術も。それに超心理学や心霊主義の用語にはないけれど、〝目的達成力〟とでもいったような超能力があるんじゃないかな?」
「なんですか、それは。えらくへこむずかしい用語ばかりですが?」
と、康夫が不思議そうにいった。市枝の顔はよく理解できない自分をもどかしがっているようであった。
「東君が持ってる超能力を分類したのよ。今度会で出してるパンフレットあげるから勉強してね」

と、郁江が軽くいった。
「密教の偉いお坊さんや行者が持ってる法力とか通力というのも、いわば超能力なのね。彼の力は特に凄くて、他人を金縛りにするどこじゃないの。スーパーマンみたいに空を飛んでアメリカまで飛んで行っちゃうくらい、凄い力らしいわよ」
康夫は目を輝かせた。しかし、TVのスーパーマンと眼前の東丈とではあまりにもイメージの食い違いが甚大である。スーパーマンは筋肉願望の化身の如き逞しい大男だ。それにひきかえ、丈は少女のようにほっそりとスレンダーな体つきをしている。
「でも、失礼ながら、アメリカのスーパーマンさんとはだいぶ筋肉の量が違いますようで......」
「だから、東君は筋肉の代りに超能力を使うのよ。大きなゲンコツばかり振りまわす、力自慢の大男とは出来が違うわよ」
「へえっ、先生が空を飛ぶってえのなら、是非その飛行ぶりを拝見したいですなあ。先生、一度拝見できませんか? こう、郁江さんのような美女を連れて、空中遊泳と洒落れこんだりして......上空でスカートがぱっと花のようにひるがえったりして、いいでしょうなあ」
「バカ」
と、郁江がいった。
「市べえでもいいですが、こっちはジーパンばっかご愛用で面白くない。いやいや、それも噓。ごく真面目にいって、先生の超能力にかかれば、江田の化物野郎だって怖くないってわけでしょう? しかし、なぜ先生はご自分のお持ちの超能力をちっともひけらかさないんですか? もったいない」
「あんたみたいな目立ちたがりとは違うわよ」
と、市枝が手きびしくいった。
「あんただったら、超能力を自分の得になるように使うことしか考えないでしょ。先生は違うの」
「超能力は劇薬のようなものだ」
と、丈はいった。その黒い瞳は眼前の三人を見てはいなかった。行く手を阻む幻魔の威嚇的な影に据えられていた。
「正しい時に正しく使用しなければ、害毒しか生れない。高度に倫理的な資格が必要なんだ。恣意的にもてあそべば、劇薬と同様に、他人も自分も傷つけるだろう」
「ひえー、先生はおそろしくむずかしいことをおっしゃるんで、なんのことか、あたしにはさっぱり」
「悪人が超能力を持ったら大変だってことよ」
と、市枝が解説した。
「ああ、そうか。現に江田の奴がやってるもんな。つまり、あんなひでえことになっちゃうと、こういうわけですか」
「超能力者は、ただでさえ恐れられる力を持っているのだから、幻魔とひとしなみに扱われる危険が潜在している。もしかしたら、幻魔の狙いはそこにあるのかもしれない」
「ははあ、なるほど。てめえと抱き合わせで相手の株も下げてやれ、というわけですな」
康夫が納得した。
「こりゃ、相当な悪の考える手口ですよ、先生」
「なにいってんのよ、相手は悪にきまってるじゃないの。幻魔なのよ」
と、郁江がきめつけた。康夫はよほどきめつけやすい相手のようであった。
「本当にとぼけてるんだから」
市枝が同調する。逆らわず康夫は受け流した。
「とぼけない、とぼけない。先生、で、どうなさるんです。それじゃ、相手が悪いや。うっかり喧嘩もできないじゃないすか?」
「喧嘩をするつもりはないさ......相手のペースに引っぱりこまれたら敗けだ。喧嘩両成敗って知ってるかい? 日本ではそういう変った習慣がある。非理曲直を徹底的につけようとしないんだ。喧嘩を売った方も、買った方も悪いという......ヤクザに喧嘩を売られて、やむを得ず防いでも、警察は正当防衛を認めようとしない。ヤクザの方が一方的に悪くても、お構いなしだ。つまり、ゴタゴタを起こしたこと自体が悪いという理屈に合わない理屈なんだ。そうしたことが日本の社会では通用する。だから、理がどちらにあろうと争ったという事実だけで責められる。
今度のこともそうだ。挑発に乗れば、そこを叩かれる。相手にならずにすますしかないだろう......」
「でも、そうはいかなかったら、どうするんです?」
康夫は不服げに食いさがった。
「殴られたら、殴られっ放しでいるわけですか?」
「そうだ。殴られるままにするしかない」
「会の事務所へ殴り込み、かけられたらどうするんですか? あそこは若い女の子が多いんでしょ?」
「警察に頼むしかないな......空手道場ならともかく、事務所に屈強な警備を置く余裕はないから......」
「面白くねえな。なぜやっつけちまわないんですか!? そうするだけの凄い力があるというのに、警察沙汰になるのが恐いから使わないっていうのは、どうも納得できませんよ、先生!」
康夫はいささか興奮してきたようだった。丈は頭を振った。
「我慢するしかない。超能力が幻魔と同じ恐ろしい悪魔の力だとみなされてしまうことはどうしても避けなければ......そのことは僕もずいぶん長い間、考えたんだよ、康夫君」
「そんな、弱っちいじゃないですか、先生、あんまりですよ! そりゃ卑怯だ! 会の女の子たちが目の前で乱暴されてるのに、警察を呼んで、パトカーが来るのをのんびり待ってるんですか!? それはない! それはないですよ、先生! 男だったら、命がけで闘うべきだ。美女のために体を張るのが男の子の意気地じゃないですか! そんな臆病な、弱虫のやることをしたら、絶対に先生の株がさがっちゃいますよ! 回復不能のダメージだ! 警察が恐くてイエス・キリストの再来が務まりますか!? イエスは兵隊に殴られながら、十字架にはりつけられちゃったじゃないですか!」
「............」
丈は黙っていた。丈が初めて見せるような苦渋の表情だった。
「あんたには先生の気持がわかってないよ」
と、市枝が強い語気で康夫を攻撃した。
「先生は、そんな目先のことだけを考えているんじゃないもの。あんたなんかにはわからないわよ。長い間考え抜いたと先生がおっしゃっているじゃないの! 思いつきで、あんたものをいうのはよくない癖よ!」
「しかし、やっぱ、男らしくないって感じが......」
「なにいってるのさ! 先生の弟子だったら、それなりの腹をきめておくのは当然じゃないか! 命がけで先生を護るのが弟子の務めじゃないか! あたしだって会には入ってないけど、先生のためならいつだって命をかけるよ! だってあたしは先生の本当の弟子になりたいって思ってるから! 先生のために死ねない弟子なんてインチキじゃない!」
「わかったよ、そう怒るなよ......」
市枝の剣幕に押されて、康夫は毒気を抜かれてしまった。
「おれだったら、会員のために命を張るといってるだけだよ」
「先生はあんたと違うよ! ヤクザみたいに安っぽい喧嘩をしてたら、信用なんかゼロになっちゃうじゃないか! 先生は自分が殴られてもこらえるとおっしゃってるのよ、あんたってなぜそんなにわけがわからないの!?」
市枝は仮借なかった。思い詰めた人間の気迫でぐいぐい押して行く。
「そりゃ、市べえのいうことはわかるよ。だけどさ......相手は幻魔っていう害的化物だろう? 警察なんかじゃおっつかなかったらどうするんだ? ニューヨークの暴動だって、警察どころか軍隊が出てもおさまらなかったというじゃないか......そりゃ市べえが先生を護るっていうのはよくわかるが、化物には通用しないんじゃないかと思ってさ......」
「そうよ。康夫のいうことにだって一理あるわ。相手が人間でなく、物凄い力を持った幻魔なら、なにをするかわからないもの。東君の超能力でなければ歯が立たないかもしれないでしょう? もしあたしが江田の手に落ちたら、東君助けに来てくれるかな?」
と、郁江がいった。例によって平然とした貌だったが、言葉は熊蜂のように丈を刺した。
13
「そりゃ、助けに行くにきまってる」
と、康夫がすかさず答えた。
「先生はどこにだって出かけて行くね、たった一人で......おれたちの時だってそうだったからな」
彼はうっかりと喋ってしまった。
「おれたちって?」
と、郁江が尋く。
「いや、その......先生は必ず郁江さんを助けだしに行きますよ、絶対間違いない」
「それはわかんないわよ。彼、返事に困ってるじゃない」
丈は黙っていた。郁江の挑発に乗ることを用心していた。彼女の真意がわからないからだった。
「先生、そんなことないでしょ?」
と、康夫が念を押すようにいった。丈の沈黙に不安を覚えたようだった。
「そんな......なんとかいってくださいよ、先生!? まさか警察を呼ぶというんじゃないでしょう」
「いずれわかるわ」
と、郁江は平然といった。
「えっ、なにがわかるんです? 郁江さんが本当に江田に攫われるっていうんですか?」
康夫はなにを感違いしたのか、愕然としていった。
「違うわよ。それは仮定の問題......彼は今悩んでるのよ。不戦を選ぶべきかどうか......」
郁江は容赦なく丈の心をあばいた。彼女には妙に鋭いところがあり、丈の心の中がわかってしまうようであった。
「江田と今戦えばマイナスが大きい......世間に知れれば、幻魔と同じような化物扱いにされる。だから、不戦で行きたい。でも、もし相手が直接、会に攻撃をかけてきたらどうするかってところね」
「化物扱いがなんだっていうんですか。やるべき時には断乎戦わなきゃ、人間おしまいですよ」
と、康夫がいきりたっていった。
「めめしいことをしといて、後でなにをいったってだめですよ。世間じゃだれも耳を貸してくれやしませんよ! 化物といわれようが、馬鹿だといわれようが、やることだけはきちんとやらなきゃ! それが男ってもんじゃないですか! 絶対に逃げちゃだめですよ、先生! 凄い力を持ちながら、敵に後ろを見せた卑怯者、臆病者って必ずいわれますからね! 道場破りに遭った空手道場が警察に助けを求めるようなもんじゃないですか!?」
「あんたは気楽でいいよ」
と、市枝が彼の話の腰を折った。
「そうやって元気よく咆えたててりゃいいんだから......でも、さっき松田が暴れた時、あんたは廊下へ跳びだしてったじゃない? あれはなに? 百十番するためだったのかい?」
「あれは......」
康夫はいっぺんにひしゃげた。
「なんとかしようと思ったんだよね、わかってるよ、ヤッちゃん。消火器持ってうろうろしてたけど、火事と間違えたのかと思った」
「泡をかけて頭を冷やしてやろうと思ったんだよ......」
「先生は平気で椅子に座ってたわよ。だからさ、ヤッちゃんが咆えたてなくても、先生はそれくらい考え抜いてると思うんだな......あんたみたいに威勢のいいことばっかいってると、必要もないのに喧嘩しなきゃならないことになるのよ。先生は卑怯なことなんかしないよ。そんな人じゃないってことぐらい、あんたにはわかんないのかい?」
「そりゃ、そうだなあ......」
と、康夫は首をすくめ、素直に詫びた。
「先生、すみません。妙なことばっか口にしちまいまして......先生が卑怯なことをするなんて、全然思ったこともないんですよ。ただ、その、先生が黙っていると、つい心配になっちまったもんですから」
「先生には大きなお考えがあるのよ」
と、市枝がぴしゃりといった。
「上に立つ人間でないと、それはわからない......考えてもごらんよ。先生はこれから日本だけじゃなくて、世界を舞台にして大きな仕事をなさる方じゃないの。必要もないのに先生自ら争っていたら、傷がつくよ」
市枝の丈に対する信頼は絶対だった。康夫は困って頭を搔いていた。郁江はいつものように真意のわからない顔で丈を見ていた。
丈はやはり黙っていた。無言の丈にはなにかしら恐いほどの緊張感がみなぎっていた。
「ご免、東君」
と、帰りに郁江が詫びた。彼女らしくもない気配りだった。黙りこんでしまった丈に、よほど手を焼いたのであろう。
「あまり気にしないでよ。ほんの冗談でいったんだから......東君、怒ってるの?」
「............」
丈は依然としてなにもいわなかった。
「市枝さん、凄く気にしてたわね。今ごろ康夫のこととっちめてるんじゃないかな。彼女一本気だし、東君のことになると目の色が変ってくるものね。あたしなんかじゃなくて、彼女が東君の側近をやった方がいいかもね。あたしっていい加減だから......彼女にそういってあげようかな?」
「今はまだやめた方がいい」
と、丈がようやく言葉を発した。
「やっと口をきいてくれたわね」
「考えていたんだ」
丈は歩きながらいった。丈は足が速い。郁江は懸命に後を追わなければならなかった。
「まさか、今日松田から話を聞くまで、江田四朗がそんなにひどいざまになってるとは考えもしなかった。僕は考えが甘かったかもしれない」
「考えが甘いって?」
「いずれ敵が出来ることは覚悟してた。しかし、江田がやろうとしてることまでは考えに入れなかった......」
「つまり、江田があたしを攫ったらどうするかってこと?」
丈は足を停めて、郁江を振り返った。午後八時をすぎたばかりの時刻なのに、屋敷町はひどく静かだった。康夫たちが車で送るというのを、なぜか丈は強く断わり、歩いて帰る途中だった。歩きながら考えをまとめようとしたのだろう。
「そういうことを考えないでもなかったけど、まさかと軽く考えていた。だが、江田四朗がそこまで変貌しているとなると、僕が会を持ったりするのは考えものだ。危険が多すぎる......会員の一人一人がこっちの弱身になってくる。手枷足枷だ」
「会を解散するの?」
郁江がいきなり核心に触れた。丈ははっとしたような目で彼女を見返した。
「でも、解散しても、問題は解決しないわよ......江田は明日の講演会を潰してやるといっているんでしょ? 解散したりしたら、江田の思うつぼになっちゃうじゃない」
「江田の思うつぼにはまっても、犠牲者は出したくない......」
丈の顔はひどく暗かった。郁江が初めて見るような表情だった。
「講演会を中止しても、会を解散しても問題は解決しないわよ。江田の狙いは、東君そのものを潰すことなんだから......」
郁江はきびきびといった。
「そんな弱気になるのはやめてくれない? 東君らしくないわよ。ここで引退ったら東君の負けよ」
「負けでもなんでもいい。とにかく僕のために犠牲者は出したくない。会が江田の攻撃目標になるなら、解散して僕一人でもう一度やり直す。とにかく、みんなに被害が出ることは堪えられないんだ」
「そんなの、敗北主義だわ。せっかくみんなが頑張ってるのに、ここで東君が投げだしたらどうなるの? もっとみんなの気持を考えてよ」
郁江はいつになく強硬にいった。どうでもいいといった日頃の彼女らしくなかった。腹を立てたきつい語調だった。
「そんなの卑怯だわ!」
「卑怯でもなんでもいい。取り返しのつかないことが起こる前に、僕が責任を一切ひっかぶればすむことだ......会は解散する」
「あたしは絶対反対だわ。もし、今東君がいったことを撤回しないとここで大声で叫ぶわよ! 東丈の卑怯者って大声で叫んでやる。警察が来るまでやめないから!」
郁江の目は怒った猫のようにぎらぎら光った。丈は呆然とした。
「本気なのか?」
「もちろん本気よ! 東君がそんな弱気になることを、あたし絶対許さないから!」
「しかし、実際に危険があるのに、会のみんなをどうする? どうやって護ればいいんだ......もし会員の一人一人が、危険を承知で、なにが自分の身に起きてもいいと覚悟して入会したんならいい。だけど、実際はそうじゃないんだ......君だって会を辞めて逃げて行くだろう? みんなにも同じ機会を与えなくちゃならない。みんなを逃がしてやらなきゃならないんだ」
「あたしは逃げないわよ」
と、郁江はきっぱりといった。丈はあっけにとられて、郁江のきつい表情を見返した。
「しかし、君はいつだって、なにかあればまっ先に逃げると広言しているじゃないか」
「気が変ったのよ」
郁江は平気でいい放ち、可愛い小造りの手で、丈の背中をいやというほど叩いた。
「さあ、しっかりして、東君。こんなことぐらいでへたばってたらだめじゃないの! いざとなったら、江田四朗如きやっつけちゃいなさい! 東君にはみんなを護る力があるはずよ。そんなにびくびくすることなんかありゃしないわ。あたしは東君の偉大な力を信じてるわ」
郁江の可愛い小さな手が丈の手を摑み、意外な力で握り締めてきた。痛いほどの握力であった。
「みんなを護りなさい、東君。それくらいできなくて、どうして世界を救えるのよ! 何も起きていないうちに怯気づいてたら、この先、東君に何ができるの!? そんなざまじゃ、市枝さんだってがっかりするわよ。彼女にとって東君は神様なんだからさ!」
「彼女には関係ないよ」
と、丈は感情をこめない声でいった。郁江は初めて見せるような興奮を示していたが、丈はそれに巻きこまれてはならなかった。
「僕はみんなにとって一番いい方法を考える。たとえ臆病者と思われても、必要ならそうしなきゃならない」

「なにをいってるの?」
郁江の声が甲高くなった。
「臆病者と思われたら、もうだれも信用してくれなくなっちゃうじゃない。ほんの数百人の会員を護れない人間に、いったいどうやって世界が護れるのよ!?」
「僕は僕なりのやり方を考える。無責任なことはできない......僕は何百人もの会員に責任があるんだ。会員の一人にでも危険が及ぶようなら、僕は会を解散する」
「もし本気でそんなことを考えているんだったら、あたし東君を軽蔑するわよ!」
郁江は鋭い声でいった。
「そんな弱虫だと思わなかった! 物凄く大きな力を持っていながら、それを使うのが怖いのね? どうしてなの? なぜ使うのが怖いの?」
「君にはわからないよ......〝力〟というのは恐ろしいものなんだ。僕は自分の力が恐い。〝力〟の性質も、限界もわからないからだ。ほんのちょっとだけ、と思っても、そうはいかないかもしれない。マッチに火をつけるつもりで火薬庫いっぱいの爆薬に火がついてしまうかもしれない......そんな無責任な恐ろしいことは、僕にはできないんだ。君は超能力を簡単に考えすぎてるんだ。僕はすでに警告されてる......僕は火薬庫の中をくわえタバコで歩きまわっている軽率な番人に似ていると......」
「だれがそんなこと、いったの?」
「ある超能力者だ。それは本当だ。なにも知らない子供が、火薬庫の中で火遊びをしてるようなもんだからだ。僕は超能力というものの性質をほとんど知らない。そう簡単にはわからないだろう......だけど、火薬に火をつけるようなことはしたくない。大勢の犠牲者が出たら、いったいどうするんだ? 申しわけないといってすむのか?」
丈の口からは、激した感情が迸り出た。沈着冷静なポーズに破れ目が生じたのだった。まるで怒鳴るように話す。静かな屋敷町でその高声はびんびんと響いた。しかし、二人とも感情的になっているので気付かない。
「だったら、自分の〝力〟の限界を確かめりゃいいじゃないの!? そんな、自分の力を恐れて、イジイジしてることなんかないわ。思いきり試してみりゃいいのよ! 最大限、試してみたらどうなの?」
「だから、君にはわからないといっているんだ! 〝力〟は意志だけじゃない。感情でも動く。かっとなった時に〝力〟を放出したら何が起こるかわからない! 恐怖でも怒りでも〝力〟の引金を引いてしまうことがあるんだ! もし、そんなことになったら、事故だったといってすませられるか!?」
「東君には〝力〟がコントロールできないというのね? そんないい加減なことじゃどうしようもないじゃないの! なぜ、もっときちんとできないの?」
と郁江は理不尽なことをいいだした。
「もっとしっかりしてよ! みんなが信頼してついて行こうとしているのに、そんな頼りないことじゃだめじゃない。だから、そんなに腰がきまらずにフラフラしてるのね? そんなことだから、江田が出てきたら、会を解散して逃げだそうというのね? 江田ぐらいなによ、あんなのきちんと処理できないでどうするの? それこそ無責任じゃないの! そうよ、東君は無責任でいい加減よ! あたし見そこなってた!」
「だから、君にはわからないといってるじゃないか! 君には本当のことがわかってない! なんにも知らないんだ! 今、世界がどうなってるのか、なにも知らないから、そういう無茶なことがいえるんだ!」
丈は興奮していた。郁江のようなわからず屋は見たこともないと思った。彼女も日頃の郁江に似ず、まともにくってかかってくる。
二人ともそのために、パトカーがそばに来るまで少しも気付かずにいた。もちろん、サイレンも鳴らさずにこっそりと忍び寄ってきたのだ。
二人が声高にいい争っているので、屋敷町のだれかが百十番に電話をかけたのであろう。
二人は口論を止めて、パトカーを振り向いた。パトカーのドアーが開き、警官の一人が降りて、こちらにやってきた。まだ若い警官だった。底意地が悪そうに口の右隅が歪み、目が冷たく光っている。
「そこでなにをやってるんだ、そこの二人」
と、警官が横柄な声でいった。丈も、郁江も黙っていた。とっさに高ぶっている感情の切換えが出来ず、戸惑った沈黙だった。しかし、警官の顔はとげとげしくなった。黙殺されたという劣等感がふくれあがったのであろう。
「なにをしとるかと聞いとるんだよ」
「なにもしていません」
と、郁江が答えた。充分感情が切換えられていない声になった。頭ごなしに出られてむっとしたのだろう。
「なにもしていないってことがあるか」
「二人でただ話をしていただけです」
「話してただけ? 大声を出して話してたのか? 近隣から苦情が出るほどの大声で?」
警官は見かけ通り底意地が悪かった。小役人特有の、劣等感の強いタイプだ。
「二人で立止って話してただけだけど、それがいけませんか? なにか法律に触れるんですか?」
と、郁江がくってかかった。感情的になっているので、小役人の空威張りに嚇っとなったのだ。
「お前たちが大騒ぎするので、喧ましいと苦情が出てるんだ。今時分、こんな所で何をやっていた? 痴話喧嘩か?」
「失礼ね。卑しい想像をしないで下さい。関係ないわ!」
郁江はかんかんになっていった。普段の彼女らしくない荒れ方だった。
「お前らがここでいちゃついていたり、痴話喧嘩をしたりしてると、ここの住人の人たちが迷惑するんだよ」
警官はいっそう高圧的になり、侮辱的になってきた。
「お前ら、どこの非行高校生だ? 学校はどこだ?」
「非行高校生とはどういうことですか!? あんた、警官のくせに口のきき方も知らないの? そんな品性下劣な人間がよくパトカーに乗っていられるわね! あんた、本当にそれでも警官?」
郁江は猛烈な剣幕でまくしたてた。相手の顔が底意地悪いだけでなく、陰惨な表情に変った。
「名前と住所をいってみろ! おい、早くしないか!」
「そんな必要ないわ! あんたみたいな無礼な人間にだれが教えるもんですか! あんたなんか警官の資格がないじゃないの! 警官って公僕でしょ? 公僕がサーヴィスする市民に向って、いきなり頭ごなしにどこの非行高校生だっていい草がある!? あんたはいつもその調子でだれにでもものをいうの? だとしたら、あんたは頭がどうかしてるわ!」
「うるさい。名前と住所を早くいわんか!」
「だれがいうもんですか! それよりあんたはどこの何様よ、偉そうに! 人にものを尋く時は姓名と階級と所属の官公庁名をいいなさいよ」
郁江はよほど虫の居所が悪いのか、とめどもなくエスカレートしていた。警官に頭をさげる気は毛頭ないのだった。最初に謝まっておけばすんだのだろうが、もはやフェイル・セーフ点を越えてしまっていた。
「名前と住所! いわなければお前ら、本署まで引張ってって、一晩泊めてやるぞ! そうされたいんだろう!」
と、警官が恫喝の口調になる。パトカーの中のもう一人の警官は外に出てこなかった。外は冷えこんでいるし、相棒が馬鹿なことをやっていると思っているのだろう。さっさと追っ払って苦情を百十番した住人を満足させてやればいいのだ。しかし、若い高校生のアベックをいびって寒さしのぎをやるんなら、それも相棒の勝手だ。
「冗談でしょ? あたしたちがなにをしたっていうの......なぜあたしたちが警察へ行かなきゃならないのよ! あんた、本当に頭がどうかしてるわね」
「いいから、いっしょに来い!」
警官はやにわに手を伸ばして、郁江の腕を摑んだ。
「なにするのよ、いやらしいわね! はなしてよ!」
悲鳴をあげて郁江がもがく。
「おい、お前も来るんだ! 警察に一晩泊めて頭を冷やさせてやる!」
乱暴に郁江を小突きまわしながら、警官が怒鳴った。郁江の手を背後にねじあげる。それまで沈黙していた丈の顔色が変った。
「やめろ! 女の子に乱暴するな!」
「なにい! きさまも一晩泊めてやろうか!」
警官が歯を剝きだして喚く。
「なぜそんなに偉ぶるんだ?」
と、丈はいった。
「なぜそんなに他の人間を思い通りに支配したいんだ? ちっぽけな権力を行使して威張りちらすのが、そんなに楽しいのか?」
「なんだと、この野郎!」
と、警官が腰に吊った警棒を抜いた。ゴタゴタが大きくなったので、パトカーの中にいた相棒の警官が面倒臭げに出てきた。
「こいつら、しょっぴいてやる! 手をかしてくれ!」
片手で郁江の手を乱暴にねじあげながら喚く。
「こいつら怪しいんだ! 身体捜検頼む!」
「やめないか!」
と、丈がいった。パトカーから降りてきた警官が感電したように跳びあがり、棒立ちになった。パトカーの前部のボンネット・カバーがいきなりばん! と烈しい勢いで跳ね上ったのだ。後部のリア・トランクの蓋も弾けるように開いた。エンジンが異音とともに白い蒸気を吹きあげ始めた。
警官は棒立ちになったまま、異様な驚きの表情で、奇現象をさらしたパトカーを呆然と見詰めた。その眼前で車がずるずるっと滑り始めた。坂道でもないのにバックで路を滑って行くのである。
郁江の手をねじっていた警官は、顔面を灰色にさせて手を離し、後退りした。なぜ手をはなしてしまったのか、己れでも解せないようだった。だが、丈が彼を恐れさせたことは事実だった。
「おい、大変だ!」
相棒の声で我に返ったように振り向くと、パトカーは後向きのまま、加速して走り去って行くところだった。
「車を停めろ、早く!」
二人の警官は郁江を構うどころではなくなった。パトカーがバックで走って行くのを夢中で追いかける。
丈は郁江の手を摑んだ。
「行こう! 今のうちだ」
郁江を引きずるようにして、パトカーを追う警官たちとは反対側へ歩きだす。郁江は息を弾ますようにしてついてきた。警官はまだ必死で走り去る無人のパトカーを追いかけている。丈はそれには構わず、歩を緩めなかった。顔面は石のように冷たく硬ばっていた。
14
ようやく丈が口をきいたのは、道玄坂の事務所に帰りつく直前であった。それまでは郁江がどういって話しかけようが、頑として口をつぐんでいたのだ。
「約束してくれ」
と、丈はいった。その声は顔と同様に青白く引き締り、硬ばっていた。
「今夜のことはだれにもいっちゃいけない......いいな!」
「いわないわ」
郁江は反射的にいった。彼女は丈が慄えているのに気付いた。
「本当だな? もし約束を破ったら、君とは絶交する」
思い詰めたような声の響きだった。
「でも、どうして......?」
「君はわざとパトカーのお巡りを挑発した」
「挑発なんかしないわ。あんまり態度が悪いから、文句をいってからかってやっただけじゃないの」
「噓だ。君は僕に〝力〟を使わせるためにゴタゴタを起こした」
丈は歯ぎしりせんばかりにいった。彼が体を慄わせているのは怒りのためだと気付き、郁江は怖くなった。
「違うわ! そんな気はなかったわ! たまたまあんなことになったけど、それは東君の思いすごしよ!」
「二度とするな! さもないと、もうこれまでのように君とはつきあえない」
「誤解よ! 本当にそんな気はなかったんだったら! 成行であんなことになっちゃったのよ!」
郁江は必死で抗弁した。丈はどうかしていると思った。いつもの沈着冷静な丈ではない。今にも爆発せんばかりに煮えたぎっている丈を見るのは初めてであり、それだけに恐ろしくもあった。
「ご免なさい、もう二度としないわ! あたし、軽率だった」
「君はいつも僕の本当の〝力〟を見たがっていた。だから、あんなことになった。しかし、僕が自分を抑えられなかったらどうなったと思う!?」
丈の顔は冷肉のように白く硬ばり、汗に濡れていた。
「でも、東君は、そんなたいしたことはしなかったじゃない」
「それは抑えたからだ! 必死で抑制したからだ! もし嚇っとなっていたら、どうなっていたか、僕には自信がない! なにが起こったかわからない!」
「自信がない? 東君が......!」
郁江は信じられぬという口調でいった。
「そうだ! 僕は火薬庫の内部で火遊びをしている子供だ。自分がなにをしでかすか理解できない! 僕は嚇っとなって自制を失ったら、〝力〟をコントロールできない......それが君にはわからないんだ!」
「わかったわ。もう二度としない、誓うわ。でも、わざとやったわけじゃない、ついあたしもあの警官に嚇っとなったの。本当にただそれだけなのよ。信じて!」
丈は彼女のいうことを聞いていなかった。
「僕には大きな欠陥がある。自分の持てる力の全容がわからないことがそうだ。自制を失うとコントロールがきかなくなることもそうだ......嚇っとなると、その気もないのに他人を傷つけてしまうかも知れない。僕は自分の力の強さを知らない巨人のようなものだ。力をセーブできない......今さっきも、僕は警官に大怪我をさせてしまったかもしれないんだ」
「でも、させなかったわ。そんなに自分を責めないで......本当にあたしが悪かったのよ。東君に迷惑をかけることになるなんて、嚇っとなっていたものだから、気がつかなかったの......」
郁江は後悔に駆られていった。丈の怒りが彼女に対するよりも、自分自身に向けられているとわかったからだ。こんなに自虐的な丈を彼女は見たこともなかった。
「たぶん、僕には資格がない。僕みたいに未熟で欠点の多すぎる人間が、会を指導して行くなんて、どだい無理なんだ。会員たちに迷惑をかけるだけだ......やっぱり会はやめる。もっと自分を鍛え直さなきゃだめだ」
時折、丈を捉える憂鬱がもっとも大きな振幅をもって襲ってきたのだった。自信も自負も根こそぎ失せ、どこかに閉じこもり両手で頭を抱えてうずくまっていたくなるのだ。
「だって、東君! 明日の講演会はどうなるの!?」
郁江が愕然としていった。こんなに打ちのめされ、滅入っている丈を見たこともなかった。別人のような自信喪失ぶりだ。
「中止だ。中止しかない......」
「そんな、中止だなんて! 今まで一生懸命準備してきた人たちになんていうの?」
「正直にいうさ、僕にはその資格がないって......今まで無理をして、背伸びをしてやってきた。その足許が崩れてきたんだな」
丈はもの憂げにいった。口をきくのも億劫そうだった。
「今さらそんなこと、駄目よ! しっかりしてよ、東君! 東君がそんな力抜けしちゃったら、みんなどうしたらいいかわからなくなるわ!」
と、郁江は懸命にいった。顔が蒼白く血の気を失っていた。容易ならぬことだという実感が迫ってきたのである。
「講演会は中止で、会は解散だなんて、徹夜で準備してる人たちにどうやっていえるの......? そんなこと、できないわよ。駄目よ......」
「しかし、他にどうしようもない。正直にいうさ。会員に危険が及ぶ限り、そうするしかないんだ」
丈は郁江を残し、足速に事務所のあるビルへ向って歩きだした。郁江はあわてて追いすがり、丈のコートの袖を懸命に摑んだ。
「待ってよ、東君! お願いだから、考え直して! 態度を決める前に、もう一度相談して。平山さんや東君のお姉さんに......」
丈は足を停め、けげんそうに郁江を見ていた。
「どうしてそんなに止めるんだ! ただ面白いから、見物してる......君は前にそういったじゃないか? 君は傍観者として自己を規定してるし、今までもそうしてきた。なぜそんなに感情移入するんだ?」
彼は心から不思議そうにいった。
「君らしくもないじゃないか? 君はクールで皮肉屋で客観的だから、僕はいつも君の意見を取り上げてきた。今になってなぜ、そんなにオロオロする? 会が解散になろうと、講演会が中止になろうと、君は超然としていればいいんだ。君が考えているように、会は失敗だった。発展させても、結局は僕が教祖になり、会は新興宗教まがいのものになるだけだ。僕にはそれがわかってた。そんな会のために、会員たちを無用な危険にさらすことはできない。違うか!」
「でも、明日の講演会を中止したりしたら、東君の名に傷がつくわ!」
郁江はなおも懸命にいい張った。
「今後、東君がやっていく活動に支障を来たすわ。だってそうじゃないの!? いい加減な、信用できない人間という評判が一度できたら、そういうレッテルを貼られたら、取り返しがつかないはずよ。そんな過激なやり方はすべきじゃないわ。会を解散するにしたって、もっと穏便なやり方があるでしょう! 東君が今やろうとしてるのは乱暴すぎる。東君への不信や猜疑心が広がって、だれも真意を理解しようとはしなくなる。だって、唐突すぎるし、乱暴すぎるもの。だれも東君のやり方についていけないわよ!」
「君はなぜ、そんなに心配するんだ......僕はそれが知りたいな。君は傍観者なんじゃなかったのか?」
「傍観者よ。そりゃ、傍観者だけど、東君の秘書みたいなことをしてたから、やっぱり見ていられなくなったのよ」
と、郁江は顔を赤くしながらいった。
「でも、今だけの気分なのかもしれないけど......」
「そうだ。そういってる方が君らしくていい......」
丈はやや気分が落着いたようだった。溜めていた息を吐きだす。夜目にも白い。
「今決めずに、もう少し考えた方がいいわ。お姉さんに相談してみてから、会をどうするか決めてもいいじゃないの」
郁江は丈の緊張がふっと緩んだのを見てとり、すかさずいった。
「とにかく、今のような会は無意味だってことはわかってる」
丈は、凍るような夜気に真白な吐息を吐き続けた。気が鎮まってきたことは確かだった。
「それに、会員を利用するようなことはしたくないんだ。危険を承知で、命をかけられるような人間たちでなければ......もちろん、君もそうとわかれば去って行くだろう?」
「わからないわよ。あたしって好奇心が強いから......」
郁江は気が抜けたようにいった。緊張がほどけて、にわかに夜気の膚寒さがしみてきたのか、ぶるっと肩を慄わせる。
「風邪を引かないうちに早く帰った方がいい」
と、丈はようやく余裕の生じた言葉を吐いた。
「今夜はもう、事務所にいても、君のすることはないよ」
「だって......東君はどうするの?」
「心配か? 会を解散するとか講演会は中止だとか、いうつもりはないよ。今夜のところは......一人になって頭を冷やして考えたいんだ。まだ時間が早いから、一人でも帰れるだろ?」
「あたしはいつだって一人で帰れるわよ」
と、郁江が強くいった。
「東君がいつも心配して、いいといってるのに送ってくるんじゃないの」
丈はぽかんとした顔で郁江を見た。
「そうだったかな?」
「そうよ。他の娘は送らないのに......特別扱いされると気まずいものよ」
「そうかな? まったく気がつかなかった......」
返事は適当に合槌を打っているのだが、頭はまったく他のことを考えているのだった。
「あたしのことが好きなの?」
「そうかもしれないな」
と、丈はまったく気付かずにいった。郁江は喉で笑った。
「どれくらい好き?」
「どれくらいって......えっ!?」
といって、丈はあっけにとられた顔をした。自分の口にしたことが、頭にしみこんでこないのだった。
「あたし、帰るわね」
郁江はにこりともせずにいい、丈に背中を向けた。振り返りもせず、道玄坂を下って行ってしまう。郁江には、後姿にさえも妙に刺激的な魅力があった。男をなぜか凶暴な気分に誘うほどの愛くるしさがあるのだ。他の少女たちにはないものである。丈が郁江に危険なものを感じるとすれば、そうした愛らしさだった。周囲の男たちの目がへんにギラついてくるのである。
郁江に性的な誘惑をかける衝動に負けて、会を出て行く破目になった、中年の会員が何人かいる。手を出さずにはいられなくなってしまうらしい。
もちろん郁江の方には寸毫も男を誘惑する気などないわけであり、丈が彼女を秘書のように扱っているのは、郁江をトラブルから護るためでもあった。しかし、そのためにデメリットも多く生じている。陰湿な嫉妬の感情が、会の内部には黴のように這いまわっている。
──おかしな奴だ! なにをいっているんだ......と、丈は舌打をしたい気持で郁江を見送った。しかし、考えることがあまりにも多すぎて、それ以上郁江について頭を悩ましている余裕はなくなっていた。
見上げると、ビルの七階を占めた会の事務所は全ての窓に灯が煌々とともっていた。明日の講演会の準備を徹夜で行なう会員たちが残っているのだった。
丈の胸は重苦しく締めつけられた。彼らに対する慚愧の念がこみあげてきた。一生懸命やっている彼らにすまないと思った。
会員たちは、会に属することによって生ずる甚しい危険をだれ一人教えられていない。江田四朗の変貌が意外なものであったにせよ、いずれは生じてくることが決定的な危険といってもさしつかえなかった。ただ丈が予想するよりもずっと早く生じたということだ。
丈には彼らを危険にさらす権利はなかった。彼ら会員たちがあらかじめ、会に参加することで生じる危険を承知していない限り、丈はこのまま会を率いて突き進むわけにはいかない。
丈を苦しめているのは、会員のみならず、会もまた丈にとり、ダミーにしかすぎないという事実であった。丈が真に必要としているのは、丈の考えに賛同することによって参集する人々というだけにはとどまらない。
会を造り、組織運営を学ぶことも重要だったが、真の目的は超能力者──それも〝超能力戦士〟を得ることにあった。いかに人間として優れており、魅力があったとしても、超能力を欠いていては、真の同志たりえない。超能力を持たぬ限り、それは戦士たりえないのである。
真の目的を隠して人々を集めていることが、丈の良心にとがめていた。会員たちの希望に反して、会の不拡大方針をとり続けているのも、丈の悩みと戸惑いの表われといえた。自分が会員たちを利用しているという意識が、絶えず念頭を離れなかった。
丈は、ある一点で恐ろしく曖昧にならざるを得なかった。それは、己れが指導者として適格でありうるかという疑念である。ルナ王女が指摘したように、丈の超能力の源泉にはひどく不可解なところがあった。己れが己れではなくなる感覚がいつも存在していた。強大なPK(サイコキネシス)を、己れの意志で制御できないという恐れであった。
情動的に丈が激発した時、同時に丈の蔵するPKは怒りによって解き放たれ、津波のように暴発するのではないかと、ルナ姫は危惧していた。丈は己れの内部にコントロール不能の危険な爆薬を抱えている存在だと彼女は考えていた。
丈が王女たちと離れようと決心したのはそれを知ったからである。王女たちに迷惑をかけてはならないと思ったのだ。自己制御不能の物騒なPK能力者が彼女たちと行動をともにすればなにが起こるかわからない。
現に丈の怒りは、一同の上に超高層ビルの倒壊として現われようとしたのだ。丈はその意味で、生ける爆薬庫であった。いつ暴発して一同を吹き飛ばしてしまうかわからぬ甚大な危険をはらんでいたのだ。
丈は未熟すぎた。なんとかして、自分を成長させなければならなかった。人間を年月が熟成させる、そうした時間経過をのんびりと待つ余裕が丈にはなかった。他人が十年かけるところを一年なり半年でやり遂げねばならぬという使命達成の烈しい焦慮があった。
しかし、いかに努力し、頑張っても、丈が若年であることを脱却することはできないのだった。丈は依然として未熟であり、それどころか指導者に必要な人格的熟成は、いかなる努力からも生れてこなかった。
一挙に完熟をめざすのは丈の背伸びであったが、丈が必要とし満足するだけの熟成度は、たとえ何十年かかろうが訪れないという事実を見抜く力は、若い丈には縁のないものだった。
丈が欲するような意味で、完熟ということはありえないのだが、丈にはそれがわからなかった。
丈は、他の若者が十年かけて徐々に脱皮するのを、がむしゃらに一息でもって脱ぎ捨てることを欲したのだった。その背伸びは当然丈におびただしい流血を要求したはずである。
生来、感情家の丈が、自己の心身を抑制すべくどれだけの努力をこの半年間費したか、知る者はいない。心身が爆発せんばかりの内圧が高まり、孤りになった丈が苦しみにさいなまれ、床をのたうちまわるほどの悲惨を味わっていることを、だれも知らない。姉の三千子ですら、丈がそれほどの苦しみにさいなまれているとは想像もつかないであろう。
丈は床を転げまわり、大声で絶叫を絞りだしたい狂気の衝動の虜になり、それを抑えるべく、拳を喉にまで押しこんで涙を流しのたうちまわる。十七歳の少年である丈にとって重圧は世界全体の重みのようであり、とうてい堪えることはできぬと思わせる。
丈を堪えさせているのは、ただ一つ、同じ重圧を背負う立場にある、ルナ王女を思うことだった。その苦しみを思いやるだけで、丈は辛うじてのたうちまわる苦しさに堪えて体を起こす力を授けられ、勇気を奮い起こすことができるのだった。
むろん、才能が違うことはわかっている。ルナ王女は、丈のような情緒不安定な、指導者の適性に欠ける人間ではない。強靭な意志と使命感で鎧った、生れながらの指導者である。
王女は異常な天才に恵まれたテレパシストであり、丈のように人の心がまったくわからない存在ではない。苦もなく理想的な組織造りを行ない、大富豪のバックアップを得て、苦もなく育てあげていくであろう。
彼女は丈のような無器用な、才能乏しい人間ではない。それだけは丈がいかに努力しても及びもつかぬと思われた。もともと才能に恵まれないからこそ、努力をなすことができる......と丈は考えなかった。寝る時間をさえ惜しんで努力すればするほど、未熟ぶりが露呈され、丈を徒労感と絶望の苦痛に誘いこむのだった。
けれども、丈はこの苦しみに孤りで堪えねばならないことを知っていた。だれに教えられたわけでもなかった。それは脱皮の苦しみであり、他人への依存心が生じたが最後、脱皮は失敗に終るのだと本能的にわかっていた。それには己れの手で己れの面皮を引き剝がす凄絶さがあった。
だれにも、今の丈を教え導くことはできない。姉の三千子にさえそれは不可能だった。
他人に教えられ育てられて真の指導者になることはできない。もし丈が人類を支える力となるならば、この苦しみの時を飛び越えてしまうことは決してできなかった。
なぜならば、もし丈が己れの裡にある巨大な〝力〟を完全な制御下に置くすべを学ばなければ、その爆薬としての力は、丈ともども全てを滅ぼしてしまいかねないものだったからだ。
自分で自分を完璧に制御すること──それはもしかすると釈迦がなし遂げたような解脱と大悟そのものではないか。だとすれば、そんなことが自分にできるだろうか。
丈は凍るような冷たさを身裡に憶えた。そんなことは望むべくもない。不可能だ、と悟ったからだった。
本書中には「キチガイ、気違いじみた、乞食、低脳」という差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
ぎらぎら輝く真赤な火炎の壁が丈余の高さで四方八方に立ち上っていた。
恐ろしい高熱を輻射する真紅の丈高いカーテンが無数のひだをもって折り重なり、切れ目もなく包囲し、彼女を閉じこめてしまっている。
火炉と化した路面には人体がごろごろと散乱し、青い炎をあげて燃え上っている。数百度に熱された路床は、逃れようとする人々の足裏を捉え焦げつかせて投げ倒し、火炉の燃料に加えようとする。
轟々と咆え猛る大気の流れは、もはや火炎流と化している。逃れようとあがきまわる者たちを吹きまくっては、青い炎を生えさせて行く。
ああ、夢だ......と、彼女──東三千子は気付いた。幾百度も繰り返し見る大火炎の悪夢の中に三千子は閉じこめられている。
三千子はまだ大人ではない。三歳かそこらの幼女だ。大人たちとはぐれ、恐ろしい猛火の中に取り残されてしまったのだ。周囲では防空頭巾やもんぺ姿の大人たちが生きながら燃え上り、火葬されて行く。
生ける火炎が作りだす、真紅の業火の世界、全てを燃やし尽す高熱世界の中を、三歳の三千子は一人駆けて行く。
つい先刻までバラバラと雹でも降るように降り注いでいた焼夷弾の雨も止み、三千子の周囲は鉄をも溶かす火炉そのものだった。
高熱の大気は衣服を発火させ、人を火だるまに変える。肺に流れこんだ高熱の空気は肺胞を灼き、窒息死させてしまう。もはや周囲を見わたす限り、生きている人間は一人も存在しない。人形の炎が烈しく燃えさかっているだけだ。
その焦熱地獄の中を、わずか三歳の幼女である三千子がそろそろと駆けて行くのである。凄絶な炎も彼女を捉え、押し倒し、貪り食らおうとはしない。三千子には手を出すことが許されていないかのようだ。
──お母さん!
と、三千子は火炎の中で立ち止って叫ぶ。火炎は優しくひるがえり、彼女を抱き締め、愛撫し、赤い大きな舌で舐める。いかなる高熱の火炎も三千子を寸毫といえども傷つけることはできない。彼女を別の世界に連れ去るだけだ。
真赤な炎の丈高い壁の向う側に、三千子の捜す人がいる。限りなく懐しい女の人──三千子の真の母親だ。だから三千子は人々の体が幾つも青い炎を生やしている、灼け焦げた路面を恐れもせず走って行く。
この巨大な溶鉱炉と化した街で、寸秒も人間が生きられるはずはない。人体はマッチ棒よりもあっさりと火を噴くのだ。火炎が舐めれば露出した皮膚はたちまち脂をしたたらせ焦げて行く。それどころか、もはや呼吸すべき空気は、風速五十メートルを超す火嵐によって奪い尽されてしまっている。人間が生き伸びることは絶対に不可能だ。
しかし、その生存不能の火嵐の中を、三歳の幼女である三千子は走って行く。この不条理な夢の感覚。三歳の幼女でありながら、その意識には成熟した三千子の意識が混入している。
──こんなことが何度もあった......
と、三千子は走りながら、夢見る人の大人の意識で考えている。時間空間は異なっているが、自分は幾度もくり返し同じ経験をしている。
いっしょにいた人々が全て倒れ、青い炎に包まれ、焼けぼっくいのように燃え尽きてしまっても、自分だけはただ一人、恐ろしい火炉の中をさまよい続け、そして思いがけない人にめぐりあうのだ。
いつの時も、いつの場所でも、それは決まって起こるのだ。三千子にとり、それは疑う余地もないことだった。
そして、彼女の期待はかなえられた。ギラギラと強烈な真紅の光を放射する火炎の幕の中から一人の人影が現われる。
それは防空頭巾、もんぺ姿の小柄な女性である。黒い張りのある瞳がキラキラ光って三千子を認める。
「お母さん! こわかった!」
三千子は声を限りに叫び、小柄な女性にとびついて行く。奇妙なことに、その女は三千子の実母とは似ても似つかぬ女性である。しかし三千子はその女こそが本当の、ただ一人の母親だということを知っている。
小柄な美しい女性は、幼女の三千子をきつく抱きしめる。
「お母さん! もうどこにも行っちゃだめ! こわかった!」
と、三千子は叫び、訴える。だれよりも慕わしく懐しい女である。不思議にも、その女は成人した今の三千子にそっくりである。生きうつしのように酷似した黒い瞳、繊細な顔立ち。
轟々と咆え猛る火嵐の中で、三千子とその女は再会を遂げる。
なぜこんな不思議な夢を繰り返し見るのだろう、と夢見る人である三千子は疑っている。こんなことが現実にあったはずはない。三千子にそんな記憶はまったくないのだ。
にもかかわらず、真赤な火炎の夢は昔から何百回となく三千子を訪れて、なにごとかを訴えかける。
さあ、目をおさまし。お前はこの世の人ではないのだ......同じ町内の人が何百人も焼け死んだのに、幼児だったお前は掠り傷一つ火ぶくれ一つなく元気で生き延びた。それはお前がこの世の人ではないからだ......
お前は再び大火炎の中に還って行く。火から生れた不死蝶のように紅いに羽搏いて、お前の本当の世界に還って行く......お前が自分の務めを果たしたならば、お前には還るべきふるさとが待っているのだ......
わたしが還るべき故郷がある......それがわたしのずっと持ち続けた異邦人意識の根元なのだ、と三千子は夢の中で考え続けた。
わたしは、この現実の世界に所属する者ではない。この世界はわたしにとり仮の宿だ。わたしが務めを果たせば、真実の母親が迎えに来てくれる。あの恐ろしい火炎世界で別れ別れになったわたしそっくりの母親が......
──しかし、それでは丈はどうなるのだろう、と不意に夢見る人である三千子の意識は固く凝集し、疑いをこめて考えた。
では、丈はわたしの弟ではないのか? わたしが火炎の中から生れた不死蝶であり、真の東三千子ではなかったとしたら、丈はわたしの真の弟ではないということになる......
──その通り。丈はお前の弟ではない。
光のように訪れた考えが、三千子に衝撃を与えた。
そんなはずはない! やっぱりこれは夢だ! ばかげた夢なのだ......丈がわたしの弟ではないなど、そんなことがありえようはずがない。丈はわたしの愛する弟だ。わたしがなによりも愛し、貴重と思っている弟なのだ。わたしは丈のために命をなげうつことすら容易になすだろう。
──丈はお前の弟ではない。お前の子供だ......
と、不意に訪れた考えが告げた。
丈はお前の愛児なのだ。弟ではない......なぜ丈がお前にそんなにも似ているのか。それは丈がお前の体から分れた存在だからなのだ......
そうだ、確かにその通りだと、夢見る人である三千子は思った。夢によって与えられた啓示だった。丈はわたしの子供なのだ。昔からわたしは無意識のうちにその事実を知っていたような気がする。わたしは丈を自分の子供として育ててきたのだ。
するとにわかに三千子は気が軽くなり、心が晴ればれとしてきた。
自分が昔から抱いてきた疑いはことごとく晴れた。やはり丈は自分の愛児だった。自分たちは東家の人間ではなく、寄寓しただけにすぎない存在だ。いつだったか父親がいったように、自分たちは異世界から連れてこられ、この世界で務めを果たすべく移植された者たちなのだ。しかし、自分たちを連れてきたのは、父親がいった鬼神などではない。このわたしと生き写しの美しい黒い瞳を持った小柄な女性なのだ。それは間違いないことなのだ。
いつか自分が務めを果たした時、その女は迎えにやってくる。
恐ろしい大火が中天高く燃えあがり、世界を高熱の火炎によって洗礼し、浄化する時に、あの女はやってくる。
真赤の猛火の壁の奥には、奇妙な通路がある。恐ろしい大火こそ自分にとっては、異次元通路そのものなのだ......
けたたましい開幕のベルの如きものが鳴り響いていた。真赤な世界を覆う火炎は、それと同時にみるみる縮小し始め、退いていった。踊り狂う猛火の色彩に変り、焦土のような暗い寝室の闇が戻りつつあった。
この前は、夢ではなく、幻としてこれを見た......と三千子は考え続けていた。それは真夏の白昼、突如として彼女を訪れた。
奥目の刑事になりすました幻魔が、三千子を襲った時のことだ。絶体絶命の危地に立った時、その幻覚はいきなり訪れ、そして現実に恐ろしい火炎を導き出した。それは神聖な火であり、瞬く間に不浄な幻魔を灼き尽し、死灰に変えてしまった......
あの火炎は三千子の味方であり、寸毫も彼女を傷つけはしなかった。不動明王の背負った火炎のように神聖な火であり、邪悪な幻魔をあとかたも残さず焼いたのだ。
三千子の真正の母である、輝く黒瞳の小柄な女性──その女の属する世界から送りこまれた破邪の炎だったのだ、と三千子は考え続けた。けたたましい開幕のベルが彼女の思考を妨げた。
火炎の彼方にその女とともに行く......それが三千子の願ってやまないことだったが、いつも夢ではそれがかなえられたことはなかった。
恐ろしくも美しい真紅の火炎を通って、自分はその女といっしょに行ったのだ、と三千子は確信を持っていた。そこでなにがあったかは思いだせない。しかし、限りなく懐しいことどもがそこには存在していた。三千子の絶えず抱き続けてきた不条理な異邦人意識が何に起因しているか、全て説明されるはずであった。
もし、火炎の彼方に行けさえしたら。
いつか必ず自分はそこへ行くだろうと三千子は信じていた。彼女の本当に帰属する真の世界へと辿りつくだろう。この現実の世界は本当のものではない。仮りそめの世界、偽りの世界なのだ。
執拗に鳴り続ける電話の呼び出しベルが、三千子の思考の邪魔をした。彼女が辛うじて摑もうとしていた彼岸が、にわかに無限の遠方へ退いて行ってしまった。
焦土のように黒い寝室の闇に、三千子は夜具をはねて、はっと起き上った。
深夜の静寂を電話のベルが破り続けている。丈ら弟たちが目を覚ましてしまうかもしれない、と三千子は思った。いや、丈はまだ帰っていないらしい。丈は渋谷の事務所に詰めているはずだ。
三千子は電話のベルに引きずりだされるようにして夜具を出た。室内でも気温は氷のように冷えきっている。夜衣の浴衣の上にショールを巻きつけて、三千子は寝室をとびだした。電話は廊下の隅でけたたましく、身をよじるようにして金切声を立て続けている。
凶事を思わせずにはおかない執拗な鳴り方であった。
低血圧のため寝起きがよくない三千子は体をあちこちぶつけながら電話に辿りついた。送受器を取りあげた時は、それでもはっきりと目が覚めていた。
「東でございます......」
声が掠れて、咳払いをしながら、三千子はいった。凶事の予感で鳥肌が立っていた。丈がどうかしたのかと考えずにはいられなかった。
送受器の奥から聞こえてくる声は、女のものらしかったが、なにを喋っているのか三千子には理解しがたかった。
「恐れいりますが、なにをおっしゃっているのか、よくわかりません。もう一度、最初からお願いします。なにも聞き取れませんので......」
三千子ははっきりと発音しようと努力しながらいった。相手は甲高く声が割れている上に、変に遠かったのだ。ただ、電話の向う側の取り乱しよう、動転ぶりだけは明確に伝わってきた。
すでに鳥肌が立っている上に、ぞくりとする冷たい悪寒の波動が重なった。
「夜分遅く、恐れ入りますが、こちらは久保陽子の母親でございますが......」
と、非常にせきこんだ調子の大声がやにわにとびだしてきて、三千子はあわてて送受器を耳から遠ざけなければならなかった。
「東丈さん、おいででしょうか? ちょっとお話させていただきたいんでございますが」
三千子は相手がやや精神失調を来していることを感じずにはいられなかった。割れるような大声で話している。
「久保陽子さんのお母様でいらっしゃいますか? あたくしは東丈の姉でございます。丈はまだ家に戻っておりません。渋谷の事務所の方にいるはずでございますが......」
「渋谷の方にはもう電話いたしました」
陽子の母親は割れがねのような大声で続けた。
「もうお家にお帰りになったということですので、そちらへお電話したんでございますが」
「いつごろ帰ったと事務所では申しあげたんでしょう? まだ戻っておりませんけれど」
「事務所では、夕方お帰りになったとお聞きしたんでございますが。まだお戻りになっておられないのでございますか?」
なにかしら不快な声音であり、口のききようであった。含むところがあるのは間違いないようだった。
「まだ帰宅しておりません。もしよろしければ、ご用件を承わっておき、戻りましたらさっそくお伝えいたしますが」
「申しあげにくいんでございますが、どうやら娘の陽子が、弟さんに呼び出されまして家を出たきり、戻らないんでございますの。弟さんに陽子を帰して下さるようにお願いしようと思いまして、それでこんな時間ではございますが、お電話した次第でございます」
「丈が陽子さんを呼び出したとおっしゃるのですか? それはいつごろのことでしょう?」
三千子はとめどもなく湧出する悪寒の虜になっていた。丈がトラブルに巻き込まれたのは確かである。
「今日の夕刻らしゅうございます。わたくし全然存じませんで......参考書を本屋さんに買いに行くといって出たまま戻りませんので、心配しておりましたのですが......
それが、お恥しい話でございますが、本当に参考書を買いに出たとばかり思いこみまして、まさか娘が噓をついて、弟さんに呼び出されて会いに行ったとは夢にも思いませんで......陽子の妹がそれを知っていたのでございますが、黙っておりまして......先刻ようやく白状したというわけでございます」
三千子の頭は素早く透明さを回復した。凍るような冷気が足許から這い上ってくるが、体の慄えは意識しなかった。丈がまたしてもトラブルの渦中に巻きこまれようとしている......その予感は三千子の全能力を開放させるものだった。寝起きの不透明な鈍さはたやすく吹き飛んでしまった。
「失礼ですが、それは確かなお話でございますか?」
と、三千子は尋ねた。
「つまり、弟からの電話を直接、陽子さんの妹さんが受けたということでしょうか?」
「はい......いいえ......」
相手は混乱した。三千子の意味することが理解できないようであった。
「どちらでしょう? つまり弟の丈からの呼び出しが、丈本人によってなされたのかどうかということをお聞きしたいのですけれど」
三千子は逸る心を抑えて説明した。
「妹は......陽子からそのように聞いたと申したようでございますが......陽子がでございますね、夕方外出しようとしているのを見とがめまして、お姉ちゃん、どこへ行くのと尋ねましたら、お宅様の弟さんから呼び出されたんだと、でも、これは内証だから、だれにもいわないでとこのように申したそうでございまして......」
陽子の母親の話はくどくなり、しかも要領を得ないものになってきた。
「わかりました。陽子さんは妹さんに、丈から電話で呼び出されて出かけるとおっしゃったわけですね?」
三千子は母親の話を途中で引き取って要約した。
「なぜお母様たちに内証にしてくれるようにと陽子さんが妹さんにおっしゃったのか、あたくしにはちょっと納得が行かないのですけれども。失礼ですが、お宅様では、陽子さんと弟の交際と申しますか、おつきあいを禁じておられたのでしょうか?」
「はあ、あの......交際を禁止するといいますか、男のお友達とはあまり親しくしないようにと注意しておりましたのですが......とくにお宅様の弟さんに限ったことではございませんで......」
「わかりました。それで、以前から弟は夜そちらに電話して陽子さんと話したり、昼間遭って夜分遅くまで引き止めていたりしたような事実がございましたでしょうか?」
「いいえ......それはなかったと存じますが......なにしろ妹が、弟さんの呼び出しで陽子がこっそりと遭いに出かけたようだと申しますものですから」
「ちょっと、お待ち下さい、お母様。はっきり申し上げますけれども、弟の丈は男女間の交際に関しては非常にきびしいルールを守っております。ご承知かと思いますが、弟は今ある会を主宰しておりますが、女性会員は必ず九時までに帰宅するという会規を守らせております。確か陽子さんはそれすらもお母様がお許しにならず、会をおぬけになったと聞いておりますが......」
「はい......それは私ども親が陽子を説得いたしまして、やはりまだ高校生でもあるし、来年は受験ということで、陽子も納得いたしましたので......」
「弟はそれほど、女性会員に関しては気を遣っております。女性会員とは一対一で同席することさえないように、必ず立合人を入れて話をするようにしております。ですから、弟に関する限り、お母様が心配なさるようなことは決してございません。その丈が、もう会をお辞めになった陽子さんをこっそり呼び出して、深夜になっても引き留めておくなど、わたくしにはちょっと考えられないのでございますが......」
「ですが、妹がそのように聞きましたし、陽子は弟さんに呼び出されて遭いに行くけれども、絶対内証にしてと申していたといっておりますから」
と、母親は頑くなにいい張った。
「ですから、弟さんに陽子を帰していただきたいとお願いしておりますのですよ。警察には捜索願を出しておりますのですが、その前に陽子を帰していただけるなら、穏便にすませたいと思ってお電話しましたのに......」
「警察に捜索願をお出しになったのですか?」
三千子は虚ろなショックを背筋に覚えた。あの幻魔の化けた〝奥目〟の刑事のイメージがまざまざと甦ってきたのだ。
「はあ。まさか弟さんに呼び出されて出かけたとは夢にも思いませんでしたので......すぐに陽子を帰していただければ、警察に出した捜索願は取り消させてもらいますですが......」
母親の声音が最初から帯びている不快な、高圧的な調子はますます歴然としてきた。母親は、三千子に向い、丈が陽子を帰さなければ警察沙汰にするぞと恫喝を加えているようなのだ。
丈が陽子といっしょにいると頭から信じこみ、その不自然さにはまったく目が向かないのだ。女親だけに了見が狭く、思い込みが強い。三千子がなんといおうと耳には入らないであろう。
「警察に捜索願を出していらっしゃるならば、取り消す必要はないと思います」
と、三千子は腹をくくっていった。
「たぶん丈は、陽子さんとはいっしょにおりません。と申しますのは、丈は明日講演会を控えておりますし、そのようなことはありえないからです。陽子さんはなにか別の理由で、帰宅が遅れているのだと思います」
「でも、陽子はお宅の弟さんに呼び出されて出て行ったんですよ......」
母親の剣幕が常軌を逸してきた。まずいなと思ったが、どうにもならなかった。
「わかりました。さっそく手配して、丈を捜します。丈の居場所がわかりましたら、さっそくご連絡いたします」
これ以上話を続けても無益だと判断して、三千子はやや強引に電話を切った。ヒステリックになった陽子の母親は、娘が丈といっしょにいると頭から決めこんでいる。陽子を取り戻そうとして警察に泣き込むかもしれなかった。
三千子は寒さを忘れていた。丈に降りかかった災厄が並大抵のものではないと直感していたからかもしれない。
陽子の母親がなんといいつのろうと、丈が母親のいい草のように、陽子とともにこの夜をすごしているなどと考えることは、あまりにも馬鹿げていた。明日のクリスマス講演会は、丈にとり初めてマスコミと接触するという意味でも大事なものである。丈がいつになく神経質になっているのを三千子は薄々と感づいていた。最初の接触として試練は大きい。
この丈が、すでに脱会して関係者ではなくなっている久保陽子を夜中に呼び出して密会するなどおよそ考えられない。丈の秘かな呼び出しで陽子が家を出たというのは、額面通り受け取ることは不可能である。
丈と連絡がつけば、一切は氷解すると三千子は信じていた。
電話のダイヤルを渋谷の事務所の番号に廻す。
深夜にもかかわらず、張り切った若い声がすぐに出た。徹夜で講演会の準備を進めている若い会員であろう。
「あっ、先生のお姉様ですか! こんばんは!」
と、電話の向うで叫ぶ。元気がよく、快活だ。
「先生は、夕方、六時ごろでしたか、お帰りになりましたけど......はい、それきりお電話も事務所になかったです。ですから、もうご自宅の方へお帰りになったとばかり思ってました。さっき別の人から問合せがあったので、徹夜組のみんなに聞いて確認とっています」
別の人とは久保陽子の母親であろう。しかし、それだけではなんの手掛りもない。
「丈がどこへ行ったか、行先を聞いている方はいらっしゃいませんか?」
「ええ。それも確かめてみたんですけど、だれも聞いていません」
そうだ、あの女の子、と三千子は閃きを感じた。最近、丈についてまわっている同じ高校の少女がいた。確か井沢郁江といったはずだ。
「郁江さんですか? 彼女は先生といっしょに事務所を夕方出ました。そのまま帰宅したんじゃないかと思いますけど」
「郁江さんの電話番号、教えていただけますか?」
「今すぐ調べさせますから、少々お待ち下さい」
三千子は事務所に顔を出したことはないが、会員たちは彼女についてよく知っているらしい。電話の相手もいろいろと親しげに話しかけてきた。
「明日のクリスマス講演会においでいただけるなら、お席を確保しておきますけど」
「ええ、ありがとうございます」
講演会どころではない心境だが、もちろんそんなことは口にできない。三千子は苛々していた。丈は、姉の彼女に講演会に来るかどうか一度も尋いたことがない。彼女に来てほしいのかどうかもわからなかった。会のことはなんでも話すが、姉が会に関与することは希望していないのだ。あるいは会で、先生扱いされていることを照れ臭がっているのかもしれなかった。
「翻訳のお仕事でお忙しいと思いますけど、是非講演会にもおいで下さい。みんな喜んでますます大張切りすると思います......お待たせしました。井沢郁江さんの電話番号、お知らせします......」
電話口の若者が読みあげるナンバーを、メモ帳に書き取る。局番は自宅と同じである。思ったより近い場所に住んでいることがわかった。
丈と連絡がつきしだい、自宅へ電話させるように頼み、三千子はあわただしく送受器を架台に戻した。居間に入って照明をつけ、ガス・ストーブのバルブを捻る。部屋の掛時計は午前一時半を廻っていた。
にわかに寒気が体を絞めあげ、慄えが来た。氷のように体が冷え切ってしまっている。がたがた慄えながら、いったん寝室に戻り、服を着替えた。
しかし、寒さは無視することができる。三千子の心は、この場をどのように収拾するかという想念でいっぱいになっていた。
どう考えても丈がいま、どこにいるにせよ、彼が久保陽子といっしょにいるということは、まったくありえないと思えた。
三千子はむしろ、丈に呼び出されてこっそりと久保陽子が自宅を脱け出したということにひっかかっていた。もちろん母親のいうほど事実はさだかではない。丈の呼び出し、というのが事実無根だったらどうだろう。三千子は凶まがしい予感を覚えていた。
そんなことはありえないと思うが、むしろ丈が久保陽子と密会している方がより望ましいのではないかという気さえしていた。
三千子は分厚いバルキー・スウェーターをかぶって寒冷に備え、再び廊下の電話口に引き返した。送受器を取り上げるまでに、彼女は逡巡を繰り返さなければならなかった。こんな遅い時間に、未知の相手に電話をかける非常識が心を重く閉した。話の内容を口の中で誦えてみるリハーサルを何度か行わなければならなかった。もちろん郁江はなにも知らぬという可能性が大きかったからである。
長い溜息をついてから意を決し、送受器を取り上げる。
呼び出し音を数十度数えることは覚悟していた。今ごろは一番眠りの深い時間だ。呼び出し音を一回二回と数えるごとに体がすくむ思いがした。
しかし、意外に早く相手が出た。わずか五回目であった。

2
いきなり郁江が出た。思ったより低い声音で答える。
「いいんです、起きてましたから」
と、郁江は三千子の詫び言に対して、あっさりと答えた。感情の振幅が少ないという印象だった。一筋繩では行かぬ少女のようだ。丈から話は聞いているが〝しぶとい〟とか〝したたか〟という感すらある。丈の姉からとわかっても、声音はまったく変化しない。
「いつも四時ごろまで起きてます。本を読んだり受験勉強もしたり......あたし、あまり寝ない方がかえっていいんです」
郁江は感情のない低い声でいった。
「それより、東君、どうかしたんですか?」
いきなり、ずばりと尋いた。手強いタイプだと三千子は思った。しかし、癖は強いが、きっと聡明なのだろう。丈は鈍重なタイプとは性が合わないからだ。相手の切れ味が鋭くないと、丈は苛立ってしまう癖がある。最近は自制もきくようになり、そうでもないらしいが、郁江が丈の一番身近にいる存在なら、必ず犀利なタイプであるはずだ。
「東君は、陽子を呼び出したりしませんよ」
と、郁江は言下にいった。くどい説明を必要としない女の子だった。
「今夜は九時近くまで、あたし東君といっしょにいました。人と遭いに行ったんです。ご存知ですか。木村市枝っていう娘ですけど」
「丈に聞きました。ちょっと風変りな方のようですけど」
「変ってるどころか、不良少女グループのボスだったんです。陽子は、東君の名を騙っただれかに呼びだされたんじゃないでしょうか? 今ぴんと来たんですけど」
直截な物言いが小気味いいほどだった。
「わたしもそういう気がしているんです。丈は明日講演会を控えているし、久保陽子さんをこっそり呼び出すような理由はなにもないはずですから......」
「お姉さんはまだご存知ないんですね」
と、郁江ははっと気がついたようにいった。
「え? どういうことでしょう?」
「明日のクリスマス講演会を潰してやるといっている連中がいるらしいんですよ。それで東君は木村市枝に遭ったんです。でも、この話はちょっと長くなりそうですね」
「講演会を潰す?」
三千子は、胸騒ぎが的中して行く予感に襲われた。
「長くなっても構いません。どうか話して下さいません? だれが講演会を潰すというのでしょうか?」
「江田四朗......ご存知でしょ?」
「四朗さん!?」
三千子は凍てつく冷感の虜になった。ただの寒さではなかった。心が感じている特殊な肌寒さだった。
「江田四朗、とっても変なんです。そりゃ、前から変だったですけど、本当にただごとじゃない変り方をしたらしいんです」
「学校でやった講演会の時も、不良生徒を使って妨害したそうですけど、今度も同じことをやるというのでしょうか?」
「同じことというより、もっとひどい手を使うかも知れないんです。江田四朗はしんそこから変質者になってるみたいですから」
「変質者?」
冷たい波紋が胸中に無限に拡がった。
「ちょっと長くなりますけど、最初からお話しますね」
郁江は簡潔に要を得た話しぶりで語った。不良少年河合康夫の得た情報によれば、江田四朗は警察まで巻き込んだ、奇怪な闇の組織を造りあげ、東丈の講演会を潰す意図をもって動いている。江田四朗の反社会的傾向を持つ分子で形成された組織は、世田谷の観音寺という寺を本拠にした、淫祠邪教の類いであり、その長である江田は、魔的な影響力を行使して、結社の構成員を指唆している。
「東君は、会員の身に危険があると知って、ショックを受けたみたいです。本当に大ショックだったんじゃないかしら。会は解散する、明日のクリスマス講演会も中止すると一時は本気でいってました。会員が一人でも危険な目に遭うのはとうてい堪えられないっていってました」
「講演会も中止......?」
「あたし、止めたんですよ。そんなことしたら、東君の社会的信用がゼロになっちゃうって......だって明日はマスコミがいっぱい聞きに来るんでしょう。これまで取材はみんな断わって、講演を聞きに来てほしいといってきたんですもの。今になって中止したら、あいつはなんだということになっちゃうでしょう?」
「それで、丈は、なんといってました?」
「一人になってよく考えてみるといってました。事務所にもお家にもまだ帰ってないとすれば、それからずっと考え続けているんじゃないかしら?」
郁江のいう通りだろう、と三千子は確信した。丈が帰宅しないのは、結論がまだ出ていないからに違いなかった。
「それで、丈の居所ですけど、わかりませんかしら?」
「わかりません」
と、郁江はあっさりと答えた。
「困ったわ......久保陽子さんのお宅では、警察に捜索願を出しているんです。お母様がとても感情的になられていて、丈が陽子さんを連れだしたと頭から信じこんでしまって、......陽子さんをすぐに戻さなければ、警察沙汰にするとおっしゃっているんです」
「そんなの、おかしいわ。馬鹿みたい」
と、郁江は初めて感情を声に表わした。
「東君がこっそり陽子を連れだすわけないのにね。きっと江田四朗が東君の名を騙って誘い出したんです。そうに決まってるわ」
「陽子さんを誘い出して帰さないのは、講演会を潰すために? でも、そのためにわざわざ誘拐までするでしょうか? 重大な犯罪行為だし、大変なことになるでしょう?」
三千子はまだ胸落ちしなかった。あまりにも突飛すぎ、現実から遠く遊離していた。
「だから、江田四朗は変質者なんですよ。陽子は前に東君と仲がよかったでしょ、だから狙われたんだと思うんです。東君の名を騙れば誘いだすのも簡単だし。陽子は東君に夢中ですから」
「でも、陽子さんは今はもう、会をお辞めになってるんでしょう? お家がきびしくて許可が下りないとかで......なぜ、現在活動中の会員の方を狙わずに、陽子さんを連れ出したんでしょうか?」
「あたしが誘拐された方が納得が行きますよね?」
と、郁江はみずから平然といった。
「あたしは今、東君の腰巾着やってますから。今お姉さんがおっしゃった時、あたし自身も変だなと思いました」
いったいどういう心理構造を持っているのか、と三千子は呆然とした。なにを考えているのか、推しはかりがたかった。
「彼と今夜、そのことをちらっと話したんです。もしあたしが江田に誘拐されたら、東君救けに来てくれるかって......きっと予感がしたんですよね」
「............」
この娘は、久保陽子が誘拐されたので嫉妬しているのではないかと三千子は思った。それほど郁江は恬淡としており、陽子の身を心配する気ぶりも見せなかった。
「やっぱり警察に届けるべきなんでしょうね」
と、三千子はいった。郁江と話していると少からず失調感が徴してくるようだった。
「でも、江田四朗が陽子を拉致したという証拠はなにもないんじゃないですか?」
「それはそうですけど......」
「警察にいっても取り合ってくれないんじゃないかと思うんです。陽子はもう会員じゃないし、講演会を潰すために陽子を誘拐したといっても、ちょっと筋が通らないんじゃないですか? 江田がはっきりと東君に要求を突きつけるまでは、どうしようもないと思います。でも、江田が名前を名乗って、要求するかどうかもわかりませんよね」
頭が切れるという三千子のファースト・インプレッションは的中していたようである。丈が秘書のように連れ歩いているだけのことはありそうだと三千子は思った。
「でも、丈は帰ってこないし、どうしたらいいかと頭を悩ましているんですの。陽子さんのお母様はもう半狂乱ですから......」
「そんなの、知らぬ存ぜぬで突放しておけばいいと思います。大丈夫ですよ。そのうち東君が帰ってくるでしょう。そうしたらすぐに解決しますよ」
「解決するっていいますと......?」
三千子はすっかり相手のペースに乗せられていた。
「だって、東君は凄い力を持っているんですから。それはお姉さんだってよくご存知じゃないんですか? 江田の所へ行って、陽子を連れ戻せばいいんです。そんなの、東君にしてみれば簡単ですよ」
郁江は当り前のことをいう口調だった。
「でも......」
三千子は二の句が継げなくなった。この娘は丈のことをどれだけ知っているのだろう?
「だって、そう思いませんか? 東君って、救世主かどうかという大きな力の持主なんでしょう? それくらいできなかったら、かえっておかしいと思うんだけどな......だから、誘拐されたのがあたしだったら、東君が来るのを楽しみに待っていると思うんです。お姉さんもそう思いませんか?」
「............」
三千子の口から言葉がつっかえたようになり、うまく出てこなかった。自分は郁江のように、丈に信頼を持っていないのかと疑わしくなってきたのである。
「だから、心配しなくても大丈夫ですよ」
と、郁江は励ましをこめていった。
「東君は、自分の力があまりにも大きすぎるので困っているんですから。彼の口からそう聞いたんです。相手がだれだろうと、東君は負けませんよ。本当に誘拐されたのがあたしだったらなあと思って、口惜しいわ」
「でも......」
でもばかりいっている、と気付きながら、三千子はやはりいってしまった。
「丈はどこにいるかわからないし......もし、帰るのが遅くなれば、久保陽子さんはそれだけ恐ろしい思いをしなければならないでしょう? いったいどうしたらいいのか......」
「お姉さんが遠感で、東君を呼んでみたらどうかしら?」
郁江は突拍子もないことをいいだした。
「東君のお姉さんだから、超能力があるんじゃないかと思うんだけど」
「あたしには、超能力なんて......」
この娘はなにをいうんだろう、と目を瞠る思いで三千子はいった。これほど人の意表に出る相手は初めてだった。ずっと歳下の郁江に翻弄されているような気がした。
「わかりませんよ。東君のお姉さんだったら、かなりの確率で、超能力が潜在してるとあたし思う。それに東君は、テレパシー能力ありますからね、お姉さんが呼べばわかるんじゃないかしら?」
「でも、呼ぶといっても、どうすればいいんですの?」
「簡単ですよ。心で念じればいいんです。一念を凝らすというでしょ? で、東君に、帰ってこい帰ってこいって思念で呼びかけるんです。一心不乱にやらなければだめですよ。他のことに気を取られたりしちゃ......」
「それで、丈に通じますか?」
「だろうと思うんですけどね......あたしもやってみます。お姉さんと競争だったりして。案外あたしのテレパシーが通じるんじゃないかな?」
「どうしてですか?」
「だって、あたしいつも東君に思念を送ってテレパシーの練習してるから。やっぱりしょっ中やっていると、能力がついてくるんじゃないかなあ」
と、郁江は平然としていった。生意気なと思うよりも、そのあけ放しな態度にはすがすがしさがあった。
「テレパシーを一生懸命送っていると、東君が急にこっちを向くのね。彼、テレパシー能力あるから、とても敏感なんですよ。そして、君の誕生日、もうじきじゃないか、なんて尋くんです。やっぱり通じちゃうのね」
そんな他愛もないことを、と三千子は考え、はっとなった。知らぬ間に、相手の少女に対して競争心の如きものを抱いていることに気付いたのだった。顔が赤くなる感覚が三千子を襲った。
「そういうことでしたら、丈は昔からとても感のいい子でした。あたしが包丁で手を切ったりすると、家にいない時でも外から電話をかけてくるようなことがありましたから......」
「それが、東君の遠感なんですよ。彼、お姉さん子ですって?」
郁江がいきなり尋ねる。
「ええ......そんなこともいわれます」
三千子の顔に徴した紅潮はいっかな消えようとはしなかった。相手の少女に、心を読まれているような、奇妙な感じさえ受けとめていた。
「じゃ、やっぱりお姉さんと一番心が通じやすいかも。あたし、お姉さんにはかなわないんじゃないかな......彼、お姉さんを一番愛してるでしょ?」
少女の口調には、核心を衝いてくる鋭さがあった。しかし、三千子はすでに立ち直っていた。少女の鋭角な肌触りを好意的に受けとめる心の余裕が生じていた。
「丈がまだほんの子供だったころ、母が亡くなったものですから。お姉さん子といわれるのはそのためでしょうね。年もずいぶん離れていますし」
「お姉さんが憎らしい」
と、少女は衝動的にいった。そんな自分にびっくりしたように、一瞬息を吞む。
「ごめんなさい。でも、東君、女性が愛せないんじゃないかと思っていたんですよ。つまり、女性に対して求めようとするものが感じられないのね......その理由を考えていたんだけど、今夜お姉さんとお話できて、はっきりしたわ。思った通り、東君には、お姉さんがいる限り、女性には関心がないのね。東君って、普通の男の子とやっぱり違ってるもの。変にぎらぎらしてるところが全然ないの。時々思いきり構ってやりたくなるくらい」
「丈は確かに変ったところがあります」
と、三千子は静かにいった。
「でも、それはあなたがお考えになっているのとは少し違っているかもしれません」
「ううん、あたしにもわかっていると思うの。彼は一人の女を愛して結婚してっていうタイプじゃないのね。いわば永遠の少年かしら......彼には大きな力があって、それは一人の女性で受け止めるには大きすぎる......そんな気がするの。だから、時々、彼がとても憎らしくなることがあるの」
郁江は妙に心の内を覗かせる生々しい声でいった。彼女には珍しいことであった。
「どこまでも彼についてってやるぞ! と思うの。彼の正体を見届けるまで......あたしって思いこむとしつこくなっちゃうから。彼が平凡なつまらない人間だとわかったら、がっかりするだろうな、と思いながら......あたし、もしかすると彼は何億人に一人のすごい人間だと思っているんだけど、でも、男って突然どうしようもない駄目さ加減をさらけだしたりすることってあるでしょ? それまでは尊敬しきっていたのに、フォーリング・アイドルでもうメチャメチャに崩れて。あたし、自分の父でそれを経験してるから......東君がもしみっともないところを見せたら、あたし、彼に殺意を覚えるかも」
「あなたにお願いしたいことがあるの」
と、三千子は堪りかねていった。どうしてもこれだけは、この風変りな少女にいっておかなければ、と強い焦りの如きものに支配されていた。
「お願いですから、丈を試さないで下さい。丈はまだ歩き方も知らない幼い子供が、綱渡りを強いられているのと同じなんです。一足ごとに常人が一年かかることを急速に学んでいかなければならないんです。それだけの恐ろしいプレッシャーが彼にはかかっています......もし、あなたが丈を愛しているなら、決して丈を試さないで。丈の愛や、丈の力を試したりしないで下さい......試したり測ったりするのではなく丈に力をかしてやって下さい。それをどうしてもお願いしたいんです」
三千子は衝動に駆られるままに、一気にいった。電話の向うで少女は沈黙をまもっていた。相手の出方がわからないだけに、その沈黙は三千子を不安にさせた。
「あたし、東君を愛しているかどうか、よくわからない。だいたい、愛するってことがどんなものなのかさっぱりわからないから......あたし少し変だってみんなにいわれるけど、やっぱりそうなのかも。自分で自分がわからないから、とっても荒々しい気分になってしまうのね。それまではとっても可愛がっていたのに、いきなりわけもなく憎らしくてしょうがなくなることがあるの。犬でも猫でも......あたしってエゴイストで自己本位だし、愛するよりも愛される方が好きなのね。いつもチヤホヤされていたいの。でも、東君はそんなことはしない。自分で自分の性格がいやだなあと思う......それで、東君から離れようかと思うんだけど、それができないの。あたしって執拗なところがあって、一度始めると、途中で放棄できなくなっちゃうものだから......だから、陽子の気持もよくわかるのね」
この少女は本当は正直なのだと、三千子はわかりかけてきた。自分を偽ることが嫌いな気性の持主なのだ。しかし、この青春前半の若者はだれでもそうだが、自分で自分がわからない。自分が何を欲しているのかさえもわからぬ曖昧さの中で、自己認識を得ようとして苦しまなければならない。常に衝動的で気まぐれであり、その結果いつも傷つく。いわば、脱皮のために不可避の苦痛だ。
彼らは大人のように、合理的な動機付け、理由付けをする能力がない。結果だけがあって、原因は常に不明の霧の中にある。大人とは人生の明確な方程式を持った人間なのだ。
「久保陽子さんも丈を......?」
「陽子の方があたしより純粋かもしれない。それだけにつらかったんじゃないかな......最初、陽子は東君の一人きりの弟子で、彼のことを独占していたのね。〝GENKEN〟を造って、東君と二人で育てて、彼の秘書みたいになって活躍してた時が、陽子は一番ハッピーだったの。会員は激増したけど、自分は特権的な立場を守っていたから......
でも、会が学校外部の組織になって、普通の会員がどんどん増えてくると、やっぱり高校生って制約がきびしいでしょ? 前みたいな具合にはいかなくなってしまったわけね。それに陽子の家はとってもきびしいから、渋谷の事務所にも来られなくなってしまって、彼女は会にも出なくなり、遠ざかったの。
だけど、本当は時間的制約とか家がうるさいからというのじゃないのね。東君を独占できないから、もうどうでもいいって自棄的になってしまったわけ。オール・オア・ナッシングなのね。あたしが今は東君の秘書みたいにしてるわけだけど、本来なら陽子がやるべき役割なわけ」
「丈を独占できないから、それが口惜しくて会を止めてしまったということですか? でも、それは郁江さんの推測でしょう?」
「でもさ、それはあたしだって同じだもの」
といって、郁江はさすがにはっとしたのか詫びた。
「ごめんなさい。つい気易い口をきいてしまって......あたし、とっても行儀が悪いんです。いつも東君に注意されます」
性格の悪い子ではないと三千子は思った。本当は素直な子なのかもしれない。自分でも口にした通り、父親に対する尊敬を一挙に失うというアクシデントがあって、それが彼女の性格を屈折させているのだろう。丈にもしまやかしがあるのなら、この少女は決して許そうとしないのではないか。そうした一途な思い込みが、少女に不似合いな迫力を産んでいるようであった。
「もし、いろんな制約があったとしても、普通ならなんとかして時間をやりくりして、会に出るんじゃないでしょうか? だって自分が苦労して造った会ですもの。家の者にいくら制止されたって、そう簡単にはやめられませんよね。だから陽子が会をやめて、東君から遠ざかったのは、理由はたった一つです。可愛さあまって憎さ百倍......」
「そんな......想像で勝手なことをいったら、陽子さんに失礼ですよ」
と、三千子はややきびしくいった。
「別の理由があるかもしれないでしょう? ただ未練がましいのが嫌いなのかもしれないし」
「でも、あたし陽子の気持がわかるんです。独占できないものを愛してしまったら、いったいどうしたらいいのかってことですよね? 小さいころ、大好きなオモチャがあったのだけど家に遊びに来たいとこに貸してあげなさいって母にいわれたことがあるんです。それであたし、とても腹が立ってオモチャをこわしてしまったんです......東君に対しても、ふっとそんな凶暴な愛情というのかな、そんな気持を感じることがあるんです」
「でも、それは愛ではなく、違うものでしょう。独占欲とか執着と呼ばれるものではありませんか? 子供を猫可愛がりする親が、本当に子供を愛しているとはいえないはずです......子供に立派な人間になってほしいと願う心が、真の愛じゃないでしょうか? あたしはそう思います」
「それをいわれると痛いんだな......」
と、郁江は憮然としていった。
「うちの親がだいたい、その猫可愛がりの口ですので......まあいいや、お姉さんのいうことに間違いはないと思いますけどね。でも、女だったら好きな男性を独占したいと思うし、その点じゃ陽子もあたしも変りはないと思うんです。本当の愛じゃないといわれればそれまでだけど、正直なところ、本音を吐けば、だれにも渡したくない、一人占めしたいんですよね。相手の男の人を殺してしまっても、他人には渡したくない。それができないのだったら、もう離れるしかないし、忘れられるかどうかわからないけど、必死で堪えるしかないでしょう? お姉さんはきっと立派すぎる人なんです。東君のお姉さんだから、それは当然かもしれませんけど......嫉妬で死ぬほど苦しい思いをするなんてことは、お姉さんにはないんでしょう? でも、当り前の女はそうは行かないんです。自分で自分がいやになるくらい嫉妬深くて、毒々しくていやらしい心を持っているので、いつもうんざりしてしまうんです。
陽子もあたしも、その当り前の女に属するものですから、あたしは陽子の気持がよくわかるんです。東君は浄らかな人だから、そういうことになると、まったく疎いみたい。女っていやだなあ、と自分でも思います。でもしょうがないですよね」
「でも、愛する者を死物狂いになって守れるのも女なんです。そう思いませんか?」
「そう......お姉さんて迫力ありますね。おっかないみたい。あたしみたいにずるずるべったりで生きている人間とは気迫が違うみたい。羨しいな、と思います。本当なんですよ。死物狂いって凄い言葉ですよね? 男の人は見栄や体裁があるし、理性が勝っているので、死物狂いにはなれないんじゃないでしょうか? 男は女のために死ねないっていうけど......」
「その通りです。でも、妄執のために死物狂いになることの方が多いようです。あなたは妄執でなく、本当に丈を愛してくださる女ではないでしょうか......今までお話して、そんな気がします」
と三千子は静かにいった。
「あたしは妄執の方ですよ、きっと。なぜってあたしはあまり取柄のない女なんです。我儘で身勝手で、図々しくて底意地が悪くて、狡くて抜け目がなくて、ちゃっかりしていて自己保身が達者なんですから。あたしぐらい厭な女はないなって、いつも思います。女の悪い所ばかり収集している......こんなお喋りばかりしていたら東君に遠感が通じませんね!」
と、郁江が声をあげた、まるで少年のような雰囲気になっていた。
「でも、お話ができてよかった......」
三千子は心をこめていった。
「自分を偽らない正直な方だということがわかりましたし、こんなことを申し上げたら、突拍子もないですけど、あたくしはあなたが好きになりました」
「やめて下さい!」
と、郁江はうろたえて口走った。
「あたしはそんな人間じゃないんですから! あたしを信用するなんて大間違いですよ! なぜって、あたしはユダかもしれないって東君にもいってあるくらいだし......裏切られてから地団駄踏んでも遅いわよって。あたしって本当にやりかねないんですよ!」
「郁江さんのおっしゃるように、一念を凝らして、丈を呼んでみます。あたしにはテレパシーなんかありませんけど......郁江さんもお願いします」
三千子は、相手の少女の露悪家ぶりには取り合わずにいった。
「これは競争なんかじゃなく......どちらの思念が通じてもいいんですから。丈が緊急の用があるとわかればいいんです」
「精々、頑張ってみます。でも、あたしはお姉さんのおっしゃるような〝いい子〟じゃありませんよ。たぶん悪女だと思うんです。それをお忘れにならないで下さい」
郁江は捨ぜりふのようにいって、あっさりと電話を切った。
話しているうちに、しだいに少年ぽい雰囲気を強めてくるのが奇妙だった。露悪趣味も含羞も女のものというより、少年の感覚であった。風変りな少女だったが、特殊な魅力があった。その心の底にあるものを、もっと確かめて味わってみたいと三千子はふと思った。もちろん、それは衝動的なものであり、三千子には余裕が残されていなかった。
それは限りなく神秘的で繊細な感覚であり、三千子が味わうことなく少女時代を通過してしまったせいかもしれなかった......
3
三千子は居間に戻って正座した。いつしか寒さは感じなくなっていた。三千子の場合はいつもそうだ。意識を集中する能力に優れているのかもしれない。
一念を凝らすといっても、三千子には遣り方がわからなかった。おそらく方法があるのだろうが、三千子はなにも知らない。
ふと思いついて、鏡台の前に席を移した。鏡を凝視することにしたのだ。いつ読んだのかわからないが、そんな遣り方が、本に記されてあったのを思いだしていた。水晶球や水面を凝視することにより精神集中をする方法の一つなのであろう。
暗い鏡の中に、蒼白い自分の顔が浮かび上っている。見慣れているはずの顔が、妙によそよそしい表情をたたえていた。緊張しているせいかもしれない、瞳が異常なほど大きくなっていた。
自分であって、自分ではないようだった。今にも鏡の中の顔が口を開いて、自分に話しかけてくるような妖しい雰囲気を備え始めていた。午前二時である。特殊な時刻のなせるわざかもしれなかった。
鏡の中の三千子の貌は、ますます別人のような気配を強めだした。
──あなたはだれ?
と、三千子は思わず問いかけたい衝動に駆られた。
自分に酷似した若い美しい女が、鏡面の向うから自分を凝視している。それは暗い鏡の産みだす蠱だと彼女の理性が告げる通りだ。そんなものは決して現実ではありえない。
しかし、相手が自分ではなく、次元を異にした世界における存在だという幻想がどうしても三千子の心につきまとい、離れようとしなかった。
視野とともに意識野が狭まり、女性の白い顔だけが中央に留まった。他にはなにも見えなくなった。
これは自己催眠だ......と、ひそかに心にささやくものがあった。鏡の自分を凝視しているうちに、自己催眠が生じてしまったのだ......
いつしか三千子は、鏡の中の女性の視野で、居間にきちんと正座している自分自身を凝視しているような気がしてきた。意識は、夢でも見ているように暗く狭い。狭隘な隙間から暗いトンネルの彼方に目を凝らしているような心地がした。
彼女は立ち上った。しかし、居間に三千子は座り続けているのがわかった。膝を崩さずきちんと正座したまま凍りついている。まるで人形と化してしまったかのようだった。
時間ごと、その三千子は活動を停止してしまい、異次元に属する彼女は、鏡の虚像たることを離脱して、自由に動けることを、にわかに発見したようであった。
──これは自己催眠による幻覚だ、と鈍い意識の底で理性が考えていた。自分は夢を見ている。これは現実ではない。
そうだ、丈を捜さなければ、と三千子は思った。思ったとたん、彼女は家の外に出ていた。どうやって出たのかわからないが、いつの間にか家を出て、暗い庭に佇んでいることに気付いた。
時間と空間がなにかしら、ひどく混乱しているようだった。確かに自宅であるはずの家が、見慣れない形をして三千子の目に映っていた。納得が行かなかった。まるで家の形が変ってしまっている。古い木造の家ではないようだった。
しかし、そんなことにいつまでもこだわっていられなかった。弟の丈を捜さなければならないのだった。
いつしか、三千子は暗い夜道を一人で歩いていた。静かで寂しい、虚ろな世界だった。丈を捜して歩いているのだった。なぜ、こんな夢を見なければならないのだろうか、と理性が疑問を提出していたが、黙殺した。丈を捜しだすのが先なのだ。
道の彼方には、気味の悪いものが沢山集まっているようだった。しかし、三千子は構わず歩き続けた。
異様に変型した、おそろしく奇矯な世界であった。しかし、現実ではなく、夢なのだから仕方がない。
わずか数歩で、何キロメートルも歩いてしまう現実離れした奇異な感覚がつきまとっていた。
気づくと、この世界は気味の悪い〝物の怪〟だらけであり、悪しき霊気を持ったものにおびただしく汚染されていた。
大目玉をぎょろつかせた〝物の怪〟が、三千子を取り囲み、脅かすような身振りをしてみせた。見るだけで気持が悪くなる、醜悪でおぞましい奴らだった。
ここは化けものの国なのか、と三千子は疑った。あまりにも不快な汚穢なもので埋まっていた。ここは心霊的な汚物溜なのだ、と彼女に教える概念があった。
しかし、彼女は丈を見つけださねばならなかったし、怯えたりひるんだりはしていられなかった。
三千子は意志の力で、前に立ちはだかる心霊的な汚物を払いのけた。彼女の裡から〝力〟が出て行って、〝物の怪〟どもを追い払うのが感じられた。彼女はそれだけの〝力〟を蔵しているのであり、それまで三千子自身気付かなかった〝力〟であった。
心霊的汚物は、高熱の炎に吹かれたようにあわてて飛散し、逃げ去ってしまった。
己れの内部に発見した〝力〟が三千子を心地よくさせた。一刻も早く丈を見つけて、助けてやらなければならない、と三千子は思った。
新しい〝力〟の利用法を発見して、三千子は宙に浮かび上り、飛んだ。丈が行なう空中浮揚と同じである。それは夢だからこそ可能なのだ、と理性がいう。
たとえ夢であっても、空中を飛行することは快かった。三千子は空中を高速で飛び、丈を捜そうと試みた。瞬く間に、恐ろしいほどの高山の連なった山岳地帯の上空を飛び越えた。
光る胞子のように空を飛んでいる無数のものを見かけた。非常に遠方であっても、三千子は超望遠レンズでズームアップするように視野に映じたものを拡大する視力を有していた。
それらは無表情な貌をした、見知らぬ人々だった。三千子と同様に空中を高速で飛行しているのだった。いずれも夢見る者の虚ろな表情が顔面にこびりついていた。三千子が合図を送ってみても、だれ一人応答しようとはしなかった。夢遊病者のように認識力を欠いているのがわかった。
三千子は丈を求めて引き返した。この世界のどこかに丈がいるはずなのだ。きっと捜し方が悪いのだろう。だれかに尋いてみようと彼女は考えた。
しかし、だれに尋けばよいのか、丈の居所を知っている者がいるだろうか。彼女は地上にだれか尋ねるべき者を求めて舞い降りた。
それは人間ではなく、巨きな犬であった。信じがたいほど巨きく、ライオンのような巨軀を持った犬だった。
巨犬は人間のような理知の覗く目で、三千子を見返した。穏やかであり、うさん臭げに匂いを嗅ぐこともしなかった。
──あたしは弟の丈を捜しているのです。
と、彼女は巨犬に向っていった。まるで童話のようだ、と思った。夢だからに違いない。さもなければ、犬と話ができるはずはない。
──弟がどこにいるか知りませんか?
──呼べばよい。
と、巨きな犬は思念で応えた。彼女の心を読んでいるのだった。
──自分はここで看視している。
巨犬はいった。
──なにが起きようとしているか、見張っている。あなたもそうしてはどうか?
──でも、わたしは弟を捜さなければなりません。
──あなたも視るがよい。そうすれば、世界の真の姿がわかる。弟は呼べばすぐに来る。その前に、よく視ておくとよい。
犬のくせに、なにをいうのだろう、と三千子は不審を覚えた。犬でありながら、人間以上にかしこそうに見えたからだった。
──心配ない、弟はすぐに来る。
巨犬は三千子をなだめた。
──ここをまっすぐに行くがよい。古い寺がある。そこにあなたが視るべきものがあるだろう。
──あなたも来るのですか?
と、三千子が尋ねた。巨犬がいかにも頼り甲斐がありそうに思えたからだ。
──わたしはここで看視している。あなたは心配せずに行くがよい。
まるで人間のような威厳を持った巨犬は重々しくいった。よく見ると、それは犬ではなく人間であるように思えた。あまりにも深い叡智が犬にふさわしくないからであろう。しかし、よくよく見れば、やはり巨大なセントバーナードのような犬であった。首に小さなワインの樽をさげたアルプスの救助犬として有名な巨犬である。
──教えて下さい。
と、三千子は巨犬に向って頼んだ。
──さっき空中浮揚している人々を沢山見かけました。でも、だれ一人あたくしの問いかけに答えてくれず、魂が脱けたように見えました。この世界の住人たちはみな魂の抜殻なのでしょうか? だれも他人が目に映らないかのように見えます。
──彼らは心が開いていない。
と、巨きなセントバーナード犬は答えた。心が開いた人間の数は多くはない。己れ自身のことにかまけすぎるあまり、他人のことが目に入らないのだ。彼らの意識は閉ざされている。
しかし、心が開いている人々は、あなたの存在を認めることができるだろう。あなたが望めば、どんな人間にも一瞬にして遭うことができる。全てはあなたの心のままだ。
あなたは私とここで看視してはどうか?
──あたくしには、その時間の余裕がありません。けれども、なにを看視するのですか?
三千子は、巨犬のいい草が不審でならなかった。道に座りこんで、なにをしようというのだろうか?
──世界が変り、真の世界が現われてくるのを見張るのだ。あなたもいずれはここへ来て、そうするだろう。しかし今は行くとよい。あなたのなすべきことをなすがよい。しかしあなたは戻ってくる。
三千子は巨犬が語るにつれて、その場が最初に思ったような路傍ではないことに気がついた。そこには異世界の断面があり、巨きなセントバーナードに見えるものは、確かに別の存在だった。
──ここから視るがよい。ルナ王女が今なにをしているのか、よく視ることができる。彼女と話を交えることもできる。ルナ王女はまだ充分意識が開かれていないが、しかし、それでも話をすることは可能だ。
──今はやめておきます。丈を捜すことが先ですから......
と、三千子は強く心を惹かれながら、辛うじて誘惑を振り切った。巨きな犬には、人を魅するものがあった。飄々とした仙人じみた雰囲気を備えている。
──あなたはまたここへ戻ってくる。
と、巨犬はいった。
──その時に、あなたは真の世界を視ることになるだろう。あなたは看視者になるのだ......
看視者とはなんなのか。三千子には巨犬のいうことが理解できなかった。また、ここへ戻ってくるとはどういうことなのだろう。
彼女は巨犬に別れを告げて、再び路を辿り始めた。いつしか路の一方は切りたって深い谷底に陥ちこみ、霧が漂い始めていた。険しい山道は山腹を巻き、三千子はそれを辿って行かねばならないらしい。
一瞬のうちに世界が変貌を遂げてしまうのだ。夢だから仕方がない、と諦めの気持が湧いた。
しかし、彼女は弟の丈を捜しているというのになぜ、こんな峻険な山道を辿っているのであろう。古い山寺がある、と巨犬は彼女に告げたが、それが彼女にどのような意味を持っているのか、まったく見当もつかないのだった。三千子は疑いながら歩いて行った。
またしても、おびただしい〝物の怪〟の気配が立ちこめてきた。暗い物凄い山門が前方に立ちはだかり、無数の〝物の怪〟の毒々しい大目玉が敵意に満ちて、三千子を山門から見降ろしていた。
モモンガーなど奇態な生物のように、おびただしい〝物の怪〟が山門の上を群れ飛び、入り乱れていた。奴らは三千子に悪意の波動を投げかけ、奇怪な生殖器官を誇示しては嘲弄しようとした。
しかし、三千子はすでに経験があるので驚かなかった。〝力〟を放出し、高熱の炎を浴びさせてやる。〝物の怪〟たちは周章狼狽して騒ぎたてながら逃げて行く。文字通り、火がついたような慌しい逃散ぶりであった。

山門を抜けると、寺院の伽藍が怪奇な魔神の殿堂の無気味さで、三千子の眼前に出現した。濃厚な霊気が立ちこめており、初めて三千子を恐いという気分にさせた。恐ろしい悪夢の雰囲気であった。
が、三千子は引返しはしなかった。彼女をこの場へ導いてきた意志は、彼女にきびすを返すことを許さなかった。そして、巨犬はここに彼女が視るべきものがあると告げたのである。
三千子は足を緩めず、伽藍の中に入って行った。そこが何千畳もありそうな、だだっ広い本堂であるということはわかっていた。
正面には祭壇があり、気味の悪い黒光りする仏像が何体も据えられていた。普通の仏像ではなく、なにかしら邪悪な魔神像であることは明らかだった。
本堂には鬼気が満ちていた。と、三千子はいつの間にか黒衣をつけた者たちが黙々と座していることに気づいた。だだっ広いばかりで空虚だった本堂が、黙りこんで座している数百名の者たちによって埋められていたのである。
三千子はそれらの者たちに包囲され、佇んでいる自分に気付いた。
彼らはみな、人間の顔をしていなかった。前世紀の恐竜を想わせる爬虫類の顔をしていた。歯だらけの大口が目立った。それが彼らの正体だったのである。
恐ろしい沈黙が三千子に押し寄せてきた。凶悪きわまりない害意の雰囲気であった。赤く燃える無数の目が彼女に肉迫するようだった。
「江田さん......江田四朗さんはどこですか?」
と、三千子は声高にいった。自分は四朗と話しあいに来たのだ、とにわかに胸落ちした。
「四朗さんに話があります。どこにいますか? わたしは東三千子です。丈の姉です......」
──なんの用だ......
陰々とした声音が答え、三千子はその声に向き直った。祭壇の前に江田四朗が立っていた。陰々滅々とした貌だった。四朗は人間の顔をしていたが、その顔は奇妙な不安定さでメラメラと火炎のようにゆらめいていた。
──帰れ。あんたに用はない......
四朗の声音は人間放れしていた。陰気な銅鑼の音が響くようだった。
「あなたにお聞きしたいことがあります」
と、三千子はきっぱりいった。凜然とした声の響きが、痛烈な波動のように拡がり、爬虫類の面貌を持つ化物たちをひるませたようだった。
──大きな声を出すな!
と、四朗が苦痛を見せていった。三千子の声音が彼にも著しい不快をもたらしているのだった。強酸の霧が、三千子の口から吐きだされているかのような反応であった。
──早く帰れ! われわれはあんたに用はない!
──こちらには用があります。四朗さんにお尋きしたいことがあるのです。あなたはなぜそれほどまでに丈を憎むのですか? 昔は丈とあなたは親友だったではありませんか? それが仲違いしたのはともかく、なぜ今のように、丈を徹底的に憎み、攻撃しなければならないのですか? わたしはその理由が知りたいのです。
──あんたの知ったことじゃない。丈はおれの敵だ。だから、倒すか倒されるかの闘いをするんだ......
──でも、丈は四朗さんを敵とも思っていないし、攻撃をそちらから加えられこそすれ、丈が反撃したことはありません。倒すか倒されるかの戦いなど明白な噓ではありませんか?
丈は四朗さんに対して、なにも危害を加えるようなことはしていません。それなのにあなたはなぜ、丈を滅ぼそうと執拗に攻撃するのです。その理由を教えて下さいませんか?
──あんたには関係ない......帰れ......
江田四朗は顔をそむけ、不快に堪えないようにいった。火勢の強さに面を向けられないといった素振りであった。
──理由を教えていただくまでは、帰るわけにはいきません。
三千子は力をこめていった。
──四朗さん、あなたはこんな古い寺で、よからぬ人たちを集めてなにをやっているのですか? あまりにも汚らしいことばかりしているので、ここにいる人たちはもう人間の顔さえしていないではありませんか! みんなお化けの顔になってしまっていますね。
四朗さん。あなたは丈のことを、悪魔の王だとさんざん罵り、非難攻撃しましたけれど、これはいったい何事ですか? あなたたちこそ人間ではなくなっているではありませんか? あなたがたの心は、そんな爬虫類の顔になってしまっては、もうだれにも隠せませんよ。
──あんたはここへ来るべきではなかったんだ!
と、江田四朗は醜く顔を歪め、憎悪をこめて呻いた。そのフチなしメガネをかけた細面の陰気な顔はメラメラとゆれ動いた。
──あんたがここへいきなりやってきたのは誤算だった!
──四朗さん。あなたは丈を罠にかけようとしていたのでしょう? 濡れ衣をきせて丈を葬り去ろうと計っていましたね。あなたがやっている悪魔じみた邪悪な行ないを、全て丈に転嫁しようという企てが、わたしが来たためにだめになった......そうなのでしょう?
──おれの目算はずれだ! 畜生!
江田四朗は恐ろしい憎悪の唸り声をあげた。
──あなたの思い通りにはさせませんよ、四朗さん。あなたが誘拐してここへ連れてきた久保陽子さんはどこにいますか? あなたが丈の講演会を潰すために人質にした陽子さんを返しなさい。あなたの計画は全て破れたのです......もう諦めてはいかがですか?
──だれが諦めるものか。あんたの弟の丈は、おれが必ず滅ぼしてやる!
四朗が軋るようないやな声音で嘲笑を吐きつけてきた。
──陽子さんを返しなさい。
と、三千子はきびしくいった。四朗は奇妙な仕草で、両手で顔をかばいながら後退りした。三千子の声で顔を灼かれるといった激烈な反応ぶりであった。
──返してやるさ......陽子は祭壇の上だ。連れて行け!
四朗はますます人間放れした声で喚いた。三千子が祭壇に目を向ける。そこには久保陽子が全裸で横たえられていた。仰臥した胸部の双つの隆起と下半身の黒々とした翳りが目を引いて、三千子は思わず顔をそむけた。同性であっても見るに堪えなかった。血の気がなく蒼白く、いたましかった。
三千子が祭壇に近づくと、黒衣をつけた奇怪な者たちはいっせいに立ち上った。詰め寄るのではなく、彼女の接近を怖れるかのように後退し、道を開ける。
三千子は苦もなく祭壇に達し、蒼白い皮膚の久保陽子を見降ろした。陽子の瞼があがり、苦悩に満ちた目が現われた。三千子を認めて、その目は狂ったように動転した。
──起きなさい。もう大丈夫だから......
と、三千子はいった。彼女が救けようと手を差し伸べると、久保陽子は慌しく身を起こし、祭壇から滑り降りた。
その動作があまりにも激しく、三千子自身を恐れているようなので、彼女はと胸を衝かれた。
──こっちへいらっしゃい。もうあなたをひどい目に遭わせようとする者はいないわ。この人たちはもうなにもあなたに出来はしないから......
と、三千子は少女に声をかけた。迫害を受けていたはずの少女が、彼女にすがりつくどころか、かえって三千子を恐れているようなのが不可解だった。
──あなたをここから連れて行くわ......
──いやよ。
と、少女がはっきりといい、三千子は驚愕に身を硬くした。少女は憎悪と怒りに目をぎらつかせて三千子を睨んでいた。
──だれがあんたなんかと行くもんですか! ほっといて!
──どうして、そんなことをいうの?
三千子が近づこうとすると、少女は慌しく後退った。
──あたしはあんたなんか大嫌い。いっしょになんか行くものか!
少女は憎悪の金切声を吐きつけてきて、三千子はくらくらと体が冷たく痺れる心地がした。少女の吹きつけてよこす憎悪は、強酸のように三千子の心身を灼いた。
──なぜなの? わたしはあなたを連れ戻しに来たのに!?
──あんたなんかに来てもらいたくない。余計なお世話だわ!
少女が甲高い罵り声を放つ。本堂を埋めている異形の者たちがどっと笑った。むろん三千子を嘲り笑っているのだ。
三千子は呆然とした。少女の憎悪と憤怒は本物だったが、あまりにも不条理であり、三千子の理解を超えていた。
──なぜ、わたしを憎むの?
三千子は懇願するようにいった。少女の火のような憎悪の目が灼きついてきていた。
──お願い。教えて......
──遅すぎたからよ! もうなにもかも遅いのさ!
少女が狂おしく絶叫する。三千子は両手で耳を塞ぎたくなった。全身に灼熱感と悪寒が交互に襲い、堪えがたかった。
少女はすでに久保陽子ではなく、他のものに変わりつつあるかのようだった。蒼白い膚の色も奇妙に黒ずみ、変色してきた。おぞましい青インクの色のようであった。
三千子は震えた。忌わしい記憶がどっと甦ってきた。少女の身になにがあったのか、三千子は悟ったような気がした。
三千子は江田四朗にくるりと向き直った。火勢が急激に強まったように、異形の者たちは慌しく散った。三千子は自分が人の形をした炎のように燃えているのを漠然と意識した。
──四朗さん。あなたは陽子さんに何をしたの?
彼女が鋭く詰問する。江田四朗は答えようとしなかった。
──答えなさい。あなたは彼女の心を縛りつけ、奴隷にしたのね?
──それがどうした? したが悪いか......
と、江田四朗が不逞くされたようにいった。その顔はやはり三千子を嘲笑していた。
──丈に復讐するために、陽子さんを攫い、自分の奴隷にしたのね......
──そうだ。奴を苦しめるためだ。これからも、お前の弟の丈を罠に陥してじわじわと苦しめてやる。一思いに殺してくれと哀願するほど、真綿で首を絞めてなぶり殺しにしてやる。
お前の弟の丈をしたって集まってくる馬鹿な奴らを痛めつけて、丈を苦しめるんだ。手足を順々にもぎ取るようにしてな......丈の下に集まった人間どもは残らずおれの奴隷に変えてやる。
その上で、一人ずつ殺して行き、丈の苦しみをあおりたててやる......
丈は一人ぼっちになり、だれも寄りつく者はいなくなる。血の涙を流して苦しむことになるんだ。
お前もおれの奴隷にして、なぶりものにしてやるぞ。いろんなことをして、お前を可愛がってやる......
──お前の正体がわかったわ。
と、三千子は静かにいった。冷感がひときわ強まった。
──お前はもう江田四朗じゃない。彼の心身を乗取った〝異形の者〟......わたしは知っている、お前が宇宙の暗黒から現われた者、〝幻魔〟だということを......
──お前にはそれが証明できまい。
と、江田四朗を乗取った幻魔が嘲るようにいった。
──わたしの弟の丈が、お前たちの仮面を剝ぎ取るわ。丈は強い。お前たちの正体をあばくことぐらい簡単だもの。
──だが、そうはさせないさ。おれたちの仕業は全てお前の弟の丈がやったことに転嫁される。お前の弟が異常に大きな〝力〟を持っていることは有名になる。人間にはできないことができる。だからこそ、おれたちのやったことの後始末もお前の弟がすることになるのだ。
わかるか? お前の弟は強い。異常に強力な人間だ。しかし、その強さが命取りになる。
江田四朗の顔をした幻魔が平然とうそぶく。
──おれたちは仲間を増やし、大きな異変をどんどん起こして行く。大量の人間どもが苦しみながらくたばって行く。その尻を持ちこまれるのはお前の弟だ。全ての悪い事の責任がお前の弟にかかって行くのだ。
おれたちは正体を現わさず、凶事を次から次に起こす。そしてなにもかも悪いのは、お前の弟だと人間どもは思いこむ。おれたちはそれを見て、かげで大笑いしてやる。お前の弟は、全ての人間どもに憎まれ、呪われるだろう。だれもが不吉で凶悪な、地獄の大魔王だと思いこむだろうからな......
──そんなことはさせないわ。
と、三千子はきっぱりといった。
──わたしは丈を護る。わたしはお前が幻魔だと知っているし、お前の企みを全て明かしてしまう。お前がどこに逃げ隠れしようと追い詰めて正体をあばいてしまう。
だから、お前はなにもできやしない。わたしがお前を見張っている限り、お前は決して丈を陥れることはできないし、丈はやすやすとお前を隠れ家から引張りだしてしまうわ。
──畜生!
江田四朗の顔をした幻魔は金属が軋るような憎悪の叫びをあげた。
──だから、お前をやっつけてしまうべきだったんだ! もっと早くお前を喰らい尽してしまえばよかったんだ! お前がまだ目覚めないうちにやってしまえばよかったんだ!
──お気の毒ね。あたしはお前が幻魔だということをもう知ってしまった。おそらく丈も感づいているわ。丈は、お前が久保陽子に手を出したと知れば、ここへやってきて、お前を捉え、封じこめてしまう。もうお前の企みは失敗したわ。お前は丈の進路を妨害することなんかできやしない。そんなことはわたしが許さないから......
三千子は怒りに熱くなってきた。江田四朗の顔をした幻魔は火炎を浴びせられたように慌しく後退りした。三千子の怒りが顔を焼いてしまったように、江田四朗の顔貌は溶解し、異形のものの無気味な素顔が現われてきた。
悪魔的な恐竜の顔、顔面の三分の二が鋭い歯列だらけの大口をした化物が、三千子の放射する怒りから逃れようともがいていた。
広い本堂の至る所に火炎が現われ、赤い貪婪な舌をゆらめかせたかと思うと、乾き切った紙にでも燃え移るようにぐわっと一気に火の手があがった。
異形の者たちもいっせいに体から閃光を噴き出し、激しく燃えあがり、巨大なネズミ花火のようにキリキリ舞いを始めた。その数が多いだけに、その旋回の速さ激しさは複雑精緻な群舞のように、異様な迫力を持つ観ものであった。
寺の建物は瞬く間に業火の荒れ狂う火炎地獄と化した。
三千子はその火勢の猛烈さが自分から発したことを知り、呆然とした。彼女の怒りはそれ自体が高熱の火炎であり、その場に居合わせた異形の者たちを残らず捉えて発火させてしまったのだった。
三千子は驚きに痺れたようになりながらも、久保陽子を捜した。少女は必死に踊り狂う火炎の中をかい潜って逃げようとしていた。三千子の怒りは少女まで及ばず、発火させることはなかったのだろう。
火炎はどんなに熾烈であろうと、三千子にとりこの上なく親しいものであった。火炎こそ彼女の同族であり、この神聖な火の中から三千子は産れたような気がした。
それは、不浄なものを焼き尽し、浄化する炎だ、と三千子は思った。汚穢な悪を詰めこんだ伽藍は猛火に一掃され、抹殺されて行く。江田四朗を乗取った異形のものは火薬のようにあっけなく燃焼したが、三千子はそいつが死滅したという手応えは感じなかった。幻魔は不死身だ。彼はまた再起の時を待ち、思わぬ攻撃をかけて来るだろう。
あの猛暑の夏の日、三千子を襲った幻魔は決して死滅したのではない、と彼女は確信した。彼らは人間のように死ぬことはありえないのではないか......
あの耳鳴りするような油照りの猛暑の午後の沈黙が甦ってきて、三千子は凝然とした。幻魔は不死身だ。彼らはあらゆる人間の中に入りこみ、丈に仇なそうとするだろう......幻魔が疫病のように人間を劫掠し、はびこるならば、いったい丈はどうやって幻魔と戦えばいいのだろう......
三千子の目は、炎の中を這うように逃れて行く少女に止まった。久保陽子はすでに幻魔の手に落ちたものだ。彼女はもはや以前の久保陽子ではない。幻魔によって汚染され、異形のものに変じようとしている存在だ。
発火させ、焼き払ってしまうことはたやすかった。その体は花火のように毒々しく燃えあがるだろう。
三千子は凝然となっていた。久保陽子が生き延びれば、丈に仇することは間違いなかった。彼女はすでに人間以外のものに変貌しつつある。
しかし、それがわかっていても、彼女を焼いてしまうことは、三千子にはできなかった。丈から聞いた久保陽子にまつわる一切が立ち返ってきて、三千子を制止した。陽子が愛すべき少女であることが三千子を縛った。もちろん、そんなことは今となればなんの意味もない。久保陽子はもはや以前の少女ではないからだ。
陽子は丈の行手をさえぎる有効な障害物として選びだされたに違いなかった。
冷徹にならねば、と己れ自身にいい聞かせても、三千子にはできなかった。陽子がもはや異形の者同様に邪悪に染まり、非人間と化しているのだとわかっていても、どうにもならなかった。
三千子は目をそむけ、苦しい息をついた。いったいどうすればいいのか......
「姉さん!」
丈の声が聞こえた。丈が呼んでいる。早く決断を下さなければならない......久保陽子は丈を陥れるべく強力な道具として使用される......憎悪の化身となった少女は、丈を葬るためにはいかなる虚言も吐くだろう。そして世間はその偽証を信じようとするだろう。だから、いっそのこと......
「姉さん! どうしたんだ!」
丈の叫び声とともに、激しく体を揺すられて、三千子は薄目を開けた。激しい勢いで意識が飛び返ってきた。
居間の鏡台の前に正座している自分を、三千子は鏡の中に見出した。
蒼白い顔をした丈が膝を突き、三千子の肩を揺すっている。
「姉さん! しっかりしてくれ! どうしたんだよ......」
三千子はぼんやりと弟の顔を見返した。
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丈の顔には恐怖の表情があった。鼻の周囲が青白く血の気が引いてしまっている。
「大丈夫よ、丈」
と、三千子は弟をなだめるためにいった。声が自分のもののようではなかった。鏡台を前にしたまま、意識を喪失してしまっていたことがわかってくる。
「ちょっと、ぼうっとなっていただけよ。心配しないで......」
「よかった......どうかなっちまったかと思った。いくら呼んでも、わけがわからなくなっているんだから......」
丈はがっくりと力が抜けたように畳の上に座りこんでしまった。
「全然気がつかなかった。丈が帰ったのも......」
「まるで魂が抜けたみたいだった。生きてるんだか死んでるんだか、わからなかった」
丈はコートを着たままだった。顔がぐっしょりと冷汗で濡れている。よほどのショックを受けたのであろう。
「もう大丈夫よ。どうしたの?」
「なんか、胸騒ぎがしたんだ。家へ帰らなきゃいけないという気がして、どうにも居堪れなくなった。今まで田崎さんと話をしていたんだけど、急いで帰ってきたら......姉さんの身に大変なことが起きたのかと思った」
「田崎宏さんと?」
三千子はぼんやりと尋き返した。まだ意識が多少ぼやけているようだった。
「そうだ。車で家まで送ってくれた。今、玄関で待ってる」
「そんな......玄関に待たせておくなんて。応接間にお通ししなくちゃ」
三千子は急いで鏡台の前から立ち上った。丈が呆然としてそんな彼女を見上げる。
「姉さん、本当にどうしたんだ? なにかあったんじゃないのかい? なんだか知らないけど、ただごとじゃないよ」
「............!」
三千子ははっと電気に打たれたようになった。自分はどうかしていると思った。大事なことが完全に念頭から消え失せてしまっていたのだ。
「久保陽子さんのお母さまから電話があって......」
と、三千子はいった。自分はまったくどうかしている。こんなに大事なことが、まるでどうでもいいことのように感じられる。緊迫感がまったく失せてしまっているのだった。頭の中から完全に消えてしまっていたのも、考えると異様なことであった。
「陽子さんが丈に誘い出されたまま帰ってこない。帰さなければ、警察沙汰にするって......」
三千子はうまく働かない頭に苦労しながら事情を説明した。まるで脳裡が太陽光にさらされたフィルムみたいに白くなってしまっているのだ。
「そんな、馬鹿な! おれは陽子なんか呼び出しちゃいない!」
丈はショックを隠せなかった。せきこんだ声音で、弁解しようとする。
「いいのよ、わかってるわ。話は郁江さんから聞いたから。でも、丈がどこに行ったか全然わからないものだから、事務所に電話を入れたり、郁江さんと連絡をとったりして、大変だった......」
「田崎さんと逢っていたんだ。頭の痛いことが起きたもんだから......しかし、陽子はだれに呼びだされたんだろう?」
「陽子さんのお母さんは、丈が誘いだしたと確信しているわ」
「しかし......」
丈の顔は力いっぱい握りしめた拳のように青白く緊張し、腱が浮かびあがった。息もつけない感情に堪えているのだった。
「陽子さんを連れ戻してこなければ......」
と、三千子はいった。丈がぎょっとしたような目で彼女を見る。
「郁江さんは、明日の講演会を潰すために、江田四朗が陽子さんを連れだしたと思ってるわ」
「姉さんもそう思うか?」
「わたしもそう思ってる。丈を苦境に追いこむために、陽子さんは道具に使われるのよ。陽子さんは、江田四朗が使う生贄だわ」
三千子は言葉の選択に苦労しながらいった。
「江田四朗は明日の講演会を潰すのだけが目的じゃない......丈を葬り去るための爆弾のようなものよ、陽子さんは」
丈は姉の顔を恐怖に打たれたような顔で見返した。
「見かけは陽子さんだけれど、中身は全然違ったものに変ってしまっているの。江田四朗が返してよこすのは、もう元の陽子さんじゃないわ」
「姉さんは、陽子を取り戻しに行くなというのかい?」
丈は苦しげにいった。姉の言葉を理解できないのだった。
「そうはいわない。丈は取り戻しに行くんでしょう?」
「行く......どんなことがあったって、行かずにはいられない。しかし、陽子が元の陽子じゃなくなっているというのは、どういうことなんだ?」
「陽子さんは心を変えられてしまっているということ......江田四朗のためにね」
「四朗はまるで妖術使みたいじゃないか」
「彼は沢山の人間を変えつつあるんでしょう? 妖術使どころか、もっともっと悪いものだわ」
丈は姉の言葉を聞きたくないような反応すら見せた。しかし、思い直す。
「じゃ、四朗はいったいなにものなんだ?」
「彼が今や、幻魔の手中にあることは歴然としているんじゃないかしら?」
三千子ははっきりといった。
「しかし、姉さんはこの前おれが同じことをいった時、激しく僕を叱りつけたじゃないか! おぼえてないのかい?」
丈は三千子に反抗したくてたまらないという語気でいった。
「滅多なことをいっちゃいけないって、僕はひどく叱られた......無闇に他人を幻魔呼ばわりしちゃいけないって......」
「確かにいったわ。でも、今はあの時と状況が違う......丈は、現実を受け容れることを怖れているのよ。でも、そんなことはありえないという振りをしてみても、現実は変らないわ。江田四朗はもはや前の彼ではないし、別人に変ってしまっている。それも邪悪なおぞましい魔人のようなものに。わずかな間にどうしてそんな変化が生じたというの? わたしは彼が幻魔の手中にあると確信をもっている。彼だけでなく、陽子さんも......」
「しかし......陽子は救いださなきゃならない......」
「もちろん、そうでしょうね。でも、彼女が元の陽子さんじゃないということを忘れないで......彼女は江田四朗が丈に送り届ける爆弾に変っているのよ」
「姉さんにどうして、そんなことがわかる......?」
「議論は後でもできるわ。陽子さんをこれから取り返しに行くんでしょう? お姉さんもいっしょに行きます」
三千子は立ちあがり、うずくまっている丈を見降ろした。
「いや、お姉さんは家にいてくれ。僕が一人で行ってくる」
丈はあわてて立ち上り、三千子についてきた。
「おれがいっしょに行ってきますよ」
と、玄関に立っていた田崎宏がいった。いがぐり頭のように短く刈りこんだ頭を右手で撫でまわしている。愛嬌のある笑みを口許に浮かべていた。
「すみません。話を全部聞いちまいました。勝手に耳の中に入ってきちまったもんで」
太い黒々とした眉の下で、精気のある大目玉が光っていた。革ジャンを着こんだずんぐりした巨きな体軀は分厚く、いかにも頼もしげだ。
「おれがお姉さんの代りに行ってきます。先生のことは引き受けましたから、心配しないで下さい」
三千子は玄関の上り框に膝を突いた。
「丈のこと、お願いいたします......」
「いやだな。そんな、手をあげて下さいよ」
田崎はにわかにうろたえて、うわずった声でいい、頭をがりがりと搔いた。
「おれなんか、先生の用心棒にもなりやしないんですから......本当に、先生の〝力〟は凄いですから。おれなんか、ほんの使い走りです。先生の代りに、ちょっと乗りこんでいって女の子を連れ戻してきましょうか。先生の名に傷つくようなことはしない方がいいですから」
田崎は気が早かった。喋っているうちに高揚してきて、ぺこりと頭を下げ、さっさと一人で出て行こうとする。
「待ってくれ、田崎さん!」
と、丈があわてて呼び止める。
「やはり僕が行く。相手が江田四朗だったら簡単にはいかない」
「しかしね、先生。江田の奴は、先生を引張りだすのが狙いなんだ。どんな汚いはめ手を用意してあるかわかりやしない。先生はここで待ってて下さい。おれが押し込んで行くぶんには、どんな騒ぎになったって、どうってことはない......どうせおれは悪名が高い男だからね。よしんば警察沙汰になったって、なんとかなりますから」
「田崎さんだけを行かせるわけにはいかないよ」
丈は、田崎の思い込みの強さに苦笑を浮かべながらいった。
「これは僕の受けた挑戦なんだから......しかも、これはほんの手初めなんだ。この先、どんどん攻撃をかけられて、そのたびに人まかせにして逃げまわってすむようなことじゃない」
「ちっぽけな喧嘩に、いちいち大将が出ていく必要はありませんよ。おれにやらせて下さい」
田崎は活きいきとした声音でいった。活力がその頑強な体軀から迸り出るようだった。
「田崎さんにお願いがあります」
と、正座した三千子がいった。田崎は反射的にハイ、と子供のような返事をした。三千子に対して畏敬の態度を露わにしていた。
「丈はこれからも、避けて通れない問題にいくらもぶつかると思います。たとえ不利だとわかっていても、逃げてはいけないことがあると思うのです。たとえ罠だとしても、踏みこまざるを得ない場合があるんじゃないでしょうか。
もちろん安易な乱用は許されないでしょうけれども、丈の〝力〟はそうした時のために与えられているのだ、とあたくしは思っています。今度の場合が、そのような緊急事態でなかったら、警察にまかせるのもいいでしょうし、合法的に始末できるかもしれません。
でも、今度はやはり丈が自らぶつかり、処理すべき問題だと思うのです。だって久保陽子さんは、丈のために犠牲になったんですから......あたくしは、丈が江田四朗と対決すべきだと思うのです。なにも暴力的な形でしろというのではありません。でも、いかなる形であれ、丈には相手と堂々と渡り合ってもらいたいのです。悪魔が相手だとしても、たじろがず取り引きできる人間になってほしいと思っています。あたくしの考えは乱暴で、間違っているかもしれませんけど、丈が歩く道はいかなる既成概念でも破らざるを得ない道ではないか......あたくしはそう思わざるを得ません。田崎さんはどうお考えでしょうか?」
「お姉さんのおっしゃる通りです」
田崎はカチカチに固くなって答えた。
「先生は、相手が悪魔だろうと幻魔だろうと、堂々と渡り合ってやっつけなきゃいけません! 江田が幻魔なら、ぶちのめして邪魔させないようにしてやります!」
三千子の言葉は女神の命令といいたげな張り切りぶりだった。
「では、まいりましょうか」
と、三千子がいった。
「姉さん、本当に行くの? 家にいた方がいいんじゃないかな?」
丈は不安そうに躊躇を見せていった。
「行った先でなにが起こるかわからないし」
「丈の〝力〟を信じてるもの」
と、三千子は少しも力まないでいった。
「それに、もしなにかが起こった時の証人になれるかもしれない。丈が恐れなければならないのは、どんな問題でも濡れ衣を着せられることだと思うの。いつでも証人を用意する注意深さが今後は必要になってくると思うわ」
「お姉さんのいう通りだと思うな」
と、田崎がどもりながらいった。
「先生をおびき寄せるからには、江田の野郎、なんか企んでやがるだろうからな」
「わかった......姉さんにも来てもらって、三人で出かけよう」
丈は諦めたようにいった。姉の思慮深さをよく知っている彼は、危惧があるからといって、彼女の申し出を退けることはできなかった。三千子にはなにか考えがあるのだろう。
その時、呼び鈴がけたたましく鳴った。
「ああ、愕いた......」
と、田崎がたまげたようにいった。
「今ごろ、お客さんか?」
三千子が動くより早く、田崎は玄関の戸をがらりと開けて、外を透かし見た。
「門の所にだれか来てるようです」
あの、すみません......という若い女の声が聞こえて、三千子と丈は顔を見合わせた。
「郁江さんじゃないかしら?」
「そんな気がしてたんだ。しかし、今ごろよく家を脱けだしてこられたな」
と、丈はいった。
5
「夜中に家を脱け出すのは簡単なんです」

と、郁江がいった。
「あたしの部屋、二階なんですけど、窓を開けて庇の上に出ると、ちょうど大きな柏の木の枝が突き出しているんです。それを伝わって下に降りればいいんですから」
「見かけに似ずお転婆さんなのね」
と、三千子がいった。
「これでも運動神経はあるんですよ。木登りは大得意なんです。でも、いつも夜遊びに脱け出しているわけじゃありません。受験勉強に飽きあきすると、お月見に出かけたりしますけど」
「痴漢がこわくないんですか?」
「もう明け方に近くて、痴漢なんかもいないころです」
こんな時に、女たちはよく悠長な会話を交わしていられるものだ、と丈は感心していた。あるいは呆れていたのかもしれない。田崎の車に乗りこんでから、二人は他愛のないお喋りをずっと続けているのだった。まるで緊張感が欠如していた。
田崎の車はスカイラインGTRだが、四人なのでさほど窮屈ではない。彼女たちは後部座席に陣取って、旧知の仲のように会話を交わしていた。
田崎は苦労しながら車を運転していた。この深更に複雑な世田谷の道路を辿って、観音寺という古寺を捜し当てるのはたやすい芸当ではない。
車を幾度も停めては、地図と首っぴきで調べるが、見当もつかないようだった。ダッシュボードの夜光時計はすでに二時半を過ぎていた。時間ばかりが無益に失われて行く。
田崎の額はぐっしょりと汗で濡れていた。ハンドライトで地図を照らす手が、焦慮に震えている。
「おかしいな......確かこの辺の見当なんだが、寺がない!」
「夜だから、見当が狂うんじゃないかな。冷静になってゆっくり捜してみよう」
丈はいった。田崎の苛立ちが伝染してくるのを防がなければならなかった。確かに彼が焦燥感に身を灼かれているのも無理はなかった。
丈自身、異和感の虜になっている。なにか気配がおかしいのだ。地図と道路が全く合致しない。虚しく同じ道路を幾度も行きつ戻りつを繰り返しているような気がする。不可解な感覚の混乱が積み重なって行くばかりだった。
座標感覚が狂っているのではないか、と丈はふと思った。目標を見つけても、それが手がかりとならず、車を観音寺に導いてくれないのはそのためだ。
「やっぱりお姉さんのテレパシーが通じたみたいですね」
と、後部座席で郁江が話していた。
「あたしのはやっぱりだめ。遠感にちょっぴり自信があったんだけどな......東君はお姉さんにやっぱり感情的に一番近しいんですよね」
「あたしは、丈を遠感で呼ぶより、ぼうっとなってしまっていたみたい。丈の方が心配して帰ってきたみたいよ。あたしと違って彼には超能力があるから......」
「鏡を見ていると自己催眠がかかるんですか? あたしも試してみようかな」
「やめた方がいいわ。なんだか変な幻覚を見てしまうから」
二人の会話が、苦労している田崎の神経を苛立たせるのではないかと、丈は心配していた。
「おっかしいな......先生。どうしてもこの辺になきゃいけないんだけど、どうしても見つからないんですよ」
田崎が太い吐息をつきながら、道路地図をガサガサ鳴らした。汗をしたたらし、困惑しきっていた。
「なんか化かされてるみたいだ......うしろでお姉さんたちが超能力のことをなにかいってますが、先生の超能力でなんとかなりませんか?」
拳で顔の汗を払いながら、田崎がいきなりいいだした。
「こういう時なら、超能力を使っても、お姉さんにお叱りを受けなくてもすむんじゃないですか?」
「そうだ......本当に〝力〟が自分にあることを忘れてしまうんだ。いつも封じこめているせいかもしれない」
丈は両手の指先を左右のこめかみに当てながらいった。
「今夜は解禁されているんだった。それすらも忘れていたよ」
「東君、お姉さんに超能力を封じられていたの?」
と、郁江がいった。
「それで〝力〟を使わなかったわけ?」
「自分の欲望を満たすために使うなとはいったけれど......丈が〝力〟を使うのも使わないのも丈自身が判断することだと思っています」
と、三千子はいった。
「お姉さんの命令には絶対服従なのかと思っちゃった」
「そんなことないわ」
と、三千子は抗議するようにいった。
「それは思い違いですよ」
「だって東君は〝いい子〟すぎるもの。お姉さんのいうことは絶対で、男の子らしい反抗心ってないでしょ?」
「おれだって、お姉さんのいうことなら絶対にきくな」
と、運転席の田崎宏がいった。
「あなたもお姉さんを崇拝してるわけ? いやんなっちゃうな」
郁江は有名な暴れ者の〝検事総長〟を少しも怖れていなかった。
「あなたが最近、〝いい子〟になったのは、やっぱりお姉さんの影響だったの?」
「おれは先生の弟子だ。押しかけ弟子だけどな。先生の絶対的に尊敬するお姉さんのいうことは、おれにとっても絶対なんだ」
と、田崎は少しも悪びれずにいった。
「お姉さんは、おれにとっても女神様なんだ。お前みたいな娘っ子にはわかるまいけどな」
「男の子って年上の女性に弱いのよね」
と、郁江はいった。いささか忌々しげでもあった。
「あたしなんか崇拝してくれる年下の子がいたって、ジャリばっかでつまんない」
「そんなこったろうよ」
「付文してくるのは中学生ばっかなんだな。こないだなんか小六の男の子に待ち伏せされちゃって」
田崎は大声で笑いかけ、あわてて笑声を逆戻りさせた。
「静かに......」
と、太い首を捻って後部座席を振り向き、警告する。
「大丈夫だ」
と、丈はいった。
「わかった。この先を左に折れて、少し入ったところだ」
「しかし、先生。そこは何度もさっきから通ってるんですよ」
田崎が不審そうにいった。
「いや。透視してみたけど間違いない。そこの竹藪の向う側になるんだよ、田崎さん」
「そうですか? おかしいな......ま、いいや、先生がおっしゃることだ」
田崎はクラッチを踏み、ギヤをシフトして車を動かした。丈のいうことはなにごとによらず絶対に信奉しているのだった。
「なんだか、物凄い雰囲気ね」
と、三千子が呟いた。
「姉さんにもわかるかい? さっきと全然違ってきたろう? さっきまでは一種の結界を張って近づけまいとしてた。それが見破られたから、とぼけるのはやめて、居直っているんだ」
「近づけまいとしてたとか、とぼけてたとか、観音寺ってお寺のこと?」
と、郁江が尋ねた。
「そうだ。いわばお寺全体が隠れていたんだな。だから、見つからなかった」
「でも......お寺全体に結界とかを張って隠しちゃうなんてことが、本当にできるの!?」
「できる。意識誘導で、人間の心を縛り、錯覚を起こさせるんだ。遠隔催眠の一種じゃないかと思う。いま、田崎さんが化かされてるみたいだといった時、いっぺんにわかってしまったんだ」
「そうすると、もうその〝結界〟は破れたわけね。東君が透視して見破ってしまったから......」
「その通り」
と、丈はいった。
「本当にその通りだ!」
と、田崎が声をあげ、車にブレーキをかけた。
「先生! 観音寺がありましたよ!」
彼は唸るような声でいった。
丈高い土塀をめぐらせた古寺だった。さほど大きいとは思えないが、観音寺の門は鉄を打ちつけた樫板の頑丈な代物であった。
恐ろしく閉鎖的、自己防衛的な雰囲気を、寺全体がみなぎらせていた。それは丈の超常感覚のみならず、だれもが等しく感じ取るところだった。もちろん深更の寺社は無気味なものかもしれないが、この古寺にはまさに鬼気があった。
「行ってくる、姉さんと郁はここで待っててくれ」
と、丈は車のドアを開け、滑り出ながらいった。
「冗談じゃないわ。あたしもいっしょに行くわよ」
郁江があわてていった。
「だけど正直いってなにが起こるかわからないんだ。女性は外に残っていたほうがいい」
「あたしたちも行った方がいいわ」
と、三千子がいった。
「離れない方がいいと思うの」
「その方がいい」
と、田崎までがいった。
「しょうがないな。まあ、残して行くのも心配だから......だけど、何が起こっても胆っ玉を据えててくれよ」
丈は諦めたようにいった。コートを脱いで車の中にほうりこんだ。寒さは感じない。生体エネルギーのレベルが上昇してきたのだ。やはり緊張しているのであろう。体が熱くなり、クリスマス・イヴのきびしい冷えこみが逆に爽快だった。
「しかし、先生、これはどうやって入るんですか? 今ごろ門を叩いても、開けてくれますかね?」
「開けないだろうな......」
「じゃあ、塀を乗り越えますか? 彼女は木登りが得意だっていうけど、しかし、お姉さんは......?」
と、田崎は戸惑ったようにいった。
「門を開けて入ればいい」
丈は久しぶりに〝力〟を放出し、体の内部でなにかが捻れる感覚を味わった。意識的にPKを操作するのは数か月ぶりだったが、〝力〟はスムーズに働いた。錆びついているという気はしなかった。
脇の潜り戸ではなく、大きな樫板の門全体が動き始めた。太い閂がはずれ、音もなく左右に門が開いて、丈ら一行を迎え入れようとする。
「うわあ......こいつは凄えもんだ」
と、田崎が驚嘆の呻き声を絞り出した。丈の本格的な〝力〟の一端に触れるのは、これが初めてだったのだ。
「驚いたでしょう? でも、彼の力はまだまだこんなものじゃないんだから」
と、本人も初めてなのに、郁江が自慢げにいった。
丈を先頭に四人は門を潜り抜け、境内に入って行った。丈以外の三人は身慄いを禁じえなかった。それほど内部に充満している鬼気は濃厚であり、慄然とさせずにはおかなかった。
背後で、大きな門が軋みながら閉まった。まるで罠の戸が閉まるように感じて、郁江が声をあげた。彼女のみならず、三千子もそして田崎も悪寒を禁じえなかった。
巨人の国に入ったような感覚が全員を捉えていた。
背後の門と塀は恐ろしいほどの巨大さでそびえたっていた。どう考えてもスケールに狂いが生じていた。まるで自分たちが夜の底で矮人になってしまったようだった。
「なんだか様子がおかしいわ」
と、三千子がいった。郁江の手をしっかりと握り締めていた。郁江がパニックに陥るのを心配していたのであろう。
「さっきと同じ意識誘導作用だ」
丈は答えた。
「こっちの感覚に混乱を起こそうというのが狙いなんだ。目に映るのは本当の姿じゃない。こっちの感覚をかき乱して、幻覚を見せようとしているんだ。なにも心配は要らない。自分の目を信用しない方がいい。こんなことはありえないという理性を信じるんだ。これは心理的な攻撃で、こっちが動揺したり、恐怖に陥ったりすれば、向うの思うつぼにはまる。真実を見ようと努力するんだ。僕がいる限り手出しはさせない」
丈は自信に満ちていった。事実、彼はいかなる圧迫感も受けていなかった。体内に満ちてきたエネルギー感は、それほど厖大なものだった。なそうと思うならば、この怪異な古寺を一瞬にして地上から掃蕩できるという不動の自信だった。
体が凄まじいほどの充実感に熱く火照っている。みなぎってくる強大な〝力〟がもたらす酩酊感だった。
とはいえ、異次元世界に入りこんだような失調感覚は丈にも他の三人と同じように生じていた。恐ろしいほどスケールが狂っていた。
寺の外部から目測したよりも何倍、何十倍も境内が広いのである。広大な前庭が、はるか彼方の伽藍との間に横たわっており、それを横切るのは容易なことではないと思わせた。
錯覚だと心にささやくが、視覚に生じているスケール感覚の異変は依然として存在を続けている。
門脇の愛染堂は文字通り聳え立っている。堂内の愛染明王は怪奇な魔神像だった。魔神の巨顔が無気味に黒光りして、境内の四人を見降ろしている。
「馬鹿な......こんなことがあるもんか」
と、田崎が呟いた。
「まるで大仏じゃないか。まるで巨人国にでもまぎれこんだみたいだぜ」
それがみなの実感だった。
「まるで悪夢の中にまぎれこんだみたい。これが本当に錯覚なの? でも、東君、どうしたら幻覚を消せるの?」
と、郁江が尋ねた。声音には不安がこもっていた。
「気にするな。こんな光景は噓なんだ。ひどく気落ちした時などに、望遠鏡を反対に覗いたみたいに、景色が妙に小さく遠く見えることがあるだろう? あれといっしょだ。おれたちを動揺させるために、遠隔催眠をかけようとしているんだろう」
「遠隔催眠って、江田四朗が?」
「たぶんな......気にしなければ、なんということはないんだ」
丈はさりげなくいったが、言葉ほど確信があるわけではなかった。
「江田四朗が妖術をかけてるのかしら? でも錯覚というよりまるで異次元へ入りこんだみたい」
「幻術とかめくらましとかいう奴かな」
と、田崎が不快げにいった。
「虫が好かんな」
「この寺全体が、物凄い想念の磁場みたいになっているんだ」
丈が説明した。
「この寺に入りこんだ者は、だれでも磁場の影響を受ける。強い磁石に近づいた鉄が磁化されるのと同じだ。門を潜ったら、急に気が滅入って、心が重くなったろう? だから、ノイローゼになったような異常感覚が生じてくるんだ。だから、気にするなといったんだ。錯覚がいやなら、目をつぶって歩けばいい。そうすれば視覚的な異常は消えるはずだ」
「江田四朗が、その磁場とやらを作ってるのかしら? なんだか魔王みたいな奴ね」
「恐れることはない。心理的なトリックだ。心が平静なら、たいした害はないだろう。ちょっと不愉快だが......」
しかし、足を運ぶにつれて、感覚に生じた擾乱はさらに増大し始めた。いくら歩いてもはるか彼方の伽藍は一向に近づいてこないような気がするのだ。それにつれて、境内はますます広くなり、拡大して行く。
まるで自分たちが小さな虫けらのようにどんどん縮まり、必死になって歩いて行くような焦燥感と不安感が蓄積されて行く。
懸命に足を運べば運ぶほど、前方の寺院の建物は逆に遠ざかって行くようなのだ。
「さっき車でぐるぐる廻りをさせられた時と同じですよ、先生!」
田崎が堪まりかねていった。
「畜生! また化かされたらしい!」
「なんだか頭がぼうっとなってくるわ」
と、郁江がいった。
「夢うつつって感じ」
「丈。このままだと、相手の術中にはまってしまうんじゃないの?」
と、三千子が指摘した。
「本当に催眠がかかり始めたみたいよ」
「ようし、みんな手をつなぎ合わせてくれ」
と、丈がいった。
「目をつぶるんだ。さっきからみんなが見ているのは幻覚なんだ、今からそれを消してしまう」
丈の指示で、丈を中心に一行は横一列になり、手をつなぎ合った。
瞑目するが、薄気味悪い薄明は瞼を閉じても消えなかった。新月で夜空はひどく暗いのにもかかわらず、境内が異様に明るかったのが怪異そのものだった、と一同は悟った。
丈の両手を伝わって生体エネルギーが流入し、一瞬にして意識を覆っていた、薄明に似た被膜が消失するのを、三人は感じた。
意識に貼りついていた薄紙が、一瞬にして剝ぎ取られてしまったようであった。
あっと田崎が声をあげた。目を開けると、いきなり眼前に伽藍が聳え立っていたからだった。
「目くらましが消えた! いったいおれたちは今まで何をやっていたんだ?」
「まだ手を離すな」
と、丈が鋭く警告した。
「攻撃はずっと続いてるんだ。手を離すと、また意識誘導を受けてたぶらかされるぞ」
「これからどうすればいいの?」
三千子が尋ねる。丈からのエネルギーの注入が意識を鮮明にしただけでなく、肉体の疲労を除き、強壮感をもたらすのを感じていた。丈の心霊治療に用いるサイキック・パワーが一同を賦活化しているのだった。
「このまま、手をはなさないでいるんだ。手をはなすと向うの磁場に意識を持って行かれるぞ。深い穴に落ちるように......なにがあっても手をはなすなよ!」
「わかったよ、先生! でも、これからどうすればいいんですか?」
「今から江田四朗を呼びだす。少々荒っぽくやるが、驚かずに手をつなぎ合っていろよ」
言下にそれが生じた。嵐の最初の烈風が轟っと咆えて寺院の上空を駆け抜けたようであった。
冷寒の妖気に満ちた邪悪な霊域に、別の力が作用しだすのを一同は感知せずにいられなかった。それは一種の力感であった。とてつもないエネルギーが圧力を高めて行き、帯電するように、大気がジイジイと唸り始めた。今にも放電が開始されそうに、刺激的なパワーが皮膚をくすぐる。
その〝力〟は、寺院全体に充満している妖気を浄化しているようだった。強烈な殺菌力で消毒するという印象であった。呼吸するのもうとましい陰惨さ厭らしさが大気から薄れて行くのがわかった。
むろん、磁場の邪悪さをすっかり変えてしまうというのではない。磁場の一部に干渉し、力場を造り変えてしまい、こちら側の橋頭堡にしてしまったのであろう。
むろん、それだけではなく、丈が放出する〝力〟は一種、嵐の雰囲気をみなぎらせ、伽藍をゆっくりとした波動で揺すりだしていた。無気味な力感をもって、伽藍が緩やかに揺動し、軋みだした。
丈は一気に寺院の建物全部を粉砕し、消し飛ばすこともできるのだ、とだれもが確信した。丈がレーザー光線のように意識の焦点を伽藍に向けただけで、伽藍は内に蔵した罪科の重みに堪えかねたかのように、おのずと揺ぎ始め、その揺動は次第に大きくなって、雪崩を打って崩壊への途を進んでいた。
なんだか前にもこんなことがあったような気がする、と三千子はデジャ・ヴュに捉えられた。あれは夢だったのだろうか......
伽藍のどこかが開き、狼狽したような足音が走りまわり始めた。高欄をめぐらした本堂の回り廊下をがたがたと人がやってきた。褞袍に着ぶくれているが、僧侶であることは明らかだった。観音寺の住職であろう。
坊主はずんぐりとした肥満体を揺すって走ってくると、高欄越しに一行を見降ろした。青黒くむくんだ顔だった。ふくれた瞼の下の、裂け目のような細い目が鋭い油断のならない光をたたえていた。僧侶の目ではなく、職業犯罪者の目だと三千子はとっさに感じた。
「やめろ! やめろ! やめんか!」
と、住職はやにわに怒号を発した。夜目にも白い呼気を吐いて喚き散らす。
「建物が壊れる! やめろというのにわからんか! なにをするのだ、たわけ!」
恐ろしく高圧的に眼下の四人にどなりちらした。
「出て行け! 勝手に入ってきくさって! さっさと出て行かんか! さもないと叩き出すぞ!」
「品の悪い坊さんだなあ」
と、田崎が呆れていった。その間も坊主は下品な怒罵をがなりたてる。伽藍の家鳴り震動はますます熾烈になり、坊主は高欄にしがみついて、悲鳴のような喚き声をあげた。地面はぴくりともしていないのに、寺の建物だけが轟音とともに揺れ動いている。
まるで、巨大な規模のポルターガイストのようだ、と三千子は思った。
「まるでポルターガイストみたい!」
と、丈の左手をしっかり握りしめている郁江が汗ばんだような声音で叫んだ。
「どんどん揺れが大きくなって行くわ!」
驚異のこもった声だった。このまま揺動の振幅が大きくなって行けば、全ての建物がカードの家のように崩落するのは必至であった。
「やめろって、いったいだれに向っていっているんですか?」
と、丈は高欄にしがみついて喚いている褞袍姿の住職に向い、何食わぬ顔で尋ねた。平然としており、これだけの〝力〟を放出していながら、力んだところがどこにも見受けられなかった。
「おのれだ! おのれに向っていっておるんだ! この......」
と、坊主が罵声をあげる。揺動が更に激しくなり、後は意味をなさない動物的な絶叫になってしまった。
「気は確かですか、お坊さん? 寺の建物が揺れるのと僕となんの関係があるんですか? 地震は天変地異じゃないですか。僕がなにをしたというんです?」
「とぼけるな! この餓鬼が!」
住職は歯ぎしりしながら毒づいた。
「おのれの仕業だってことは先刻承知なんだ! おのれはここへ仇しに来くさったろうが!」
「なんのことかわかりません。そんなにおっしゃるなら、警察を呼んだらどうですか? 僕が地震を起こして寺を潰滅させてしまったと訴えてみたらどうですか?」
「貴様! 寺を全部こわすまで止めん気か!? この気違い! 気違い小僧が!」
「お坊さんたちのやっていることが、神仏の怒りに触れたんじゃありませんか? 寺が壊れてみんな潰れて死んでも、それは仏罰で、僕の知ったことじゃありませんよ」
丈は冷やかにいい放った。
「人殺しが! 皆殺しにする気か!? 助けてくれ、やめてくれ! 頼む!」
今は、褞袍姿の住職は身動きがまったく取れなかった。本堂全体が巨浪にもてあそばれる船さながらに上下縦横に揺動し、止まるところを知らないのだ。凄まじい異音が轟きわたる。濛々たる土埃りが降り注いでくる。それを頭からかぶって、住職は咳こみ、悲鳴をあげた。高欄にしがみついたまま、一歩も歩けないのだ。
しかし、住職の眼下にいる丈ら四人はなんの影響もこうむっていない。身をよじり呻いている伽藍を痛めつける〝力〟が注意深くコントロールされている証左であった。
寺院が崩壊するまで激化するかと思われた揺動がぴたりと止んだ。噓のように静まりかえった。
しかし、依然として揺れの感覚が続いているらしく、褞袍姿の住職は高欄に両腕でしがみつく必死の形相を演じ続けていた。その恰好が郁江の笑いを引きだした。褞袍の裾がはだけて見るもぶざまなありさまになっていた。
郁江のけたたましい笑声でやっと我に返ったのか、住職は静止状態が信じられないようにきょろきょろと周囲を見廻わしていた。用心深く、両手は高欄を抱きしめたままだ。
「まだ生きているのが不思議ですか?」
と、丈が頭上の住職に呼びかけた。
「なんとか寺が潰れずにすんだようですね?」
「なにをぬかす、この糞餓鬼!」
住職は口汚かった。揺れが止んだことを納得して、とたんに元気づいたようである。
「出て失せろ! 不法侵入罪で警察を呼ぶぞ! とっとと失せろ!」
再びぐらぐらっと揺動が襲って、住職は罵るのをやめ、またもや高欄に必死でしがみついた。
「話を聞いたらどうですか?」
と、丈は大声で呼びかけた。伽藍は大きく右に左に振動し続けている。
「な、なんの話だ!?」
住職が喚く。
「僕は江田四朗に用がある。彼と話をさせてください。江田がここにいることはわかっているんですよ」
「なんのことだかわからん! そんな人間は知らん! 早く帰ってくれ!」
住職は必死の形相でどなりたてた。
「では、そこでとぼけていなさい。寺がぺしゃんこに潰れてしまうのを見物するんですね」
「やめろ! わしの寺を壊すな!」
「丈! このお坊さんは滑稽すぎる」
と、三千子が鋭く警告した。
「いくらなんでも、こんないい加減な僧侶がいるかしら? まるで狸が化けているようだわ」
「僕もそう思っていた」
丈ははっとしたようにいった。
「狸とはなんだ!」
と、高欄の住職が居丈高にどなる。
「人を馬鹿にするな! 小娘のくせに生意気な!」
「彼はわたしたちのことを知っているわ。丈、あなたがここへ何をしにきたのかもわかっているのよ。ごまかされないで!」
「なにか企んでいるというのかい? この坊さんが僕たちをたぶらかしている間に......しかし、これだけ揺すっていれば、だれにも逃げられないよ。歩くのはもちろん、這って逃げることだってできない」
「お坊さん。おれたちはここへ連れこまれた女の子を捜しにきたんだ」
と、田崎がぎょろりと大目玉を剝いていった。
「女の子をすぐに返せ。さもないと警察沙汰になるぞ。ここがとんでもないエロ寺だとばれてもいいのか?」
「知らん、知らん! 女の子など知らんぞ!」
と、なおも住職が頑強に否定し続けた。しかし、夜目にも顔を冷汗でびっしょり濡らしているのがわかる。伽藍の揺動は依然として止まない。
「よし、おれが踏み込んでやる!」
と、田崎が隣の郁江の手を振り切った。背中に隠した木刀を抜いた。
「先生! おれに行かせてください。おれが江田に逢ってきっちり話をつけてやる!」
「待ってくれ、田崎さん! まだ手をはなすな」
丈が慌しく警告した。
「向うもちゃんと待ち構えていたんだ。どんな反撃があるかわからない。うっかりしたことをしないでくれ!」
「しかし、先生。このままじゃラチがあきませんよ! この糞坊主と果てしなくいい争っていなきゃならない!」

「糞坊主とはなんじゃ!」
と、住職がすかさず咬みつく。
「おのれら、女子供餓鬼の分際で生意気な」
「連中は必ず出てくる」
と、丈は住職を相手にせずにいった。
「この坊さんは江田四朗のロボットだ。魂を抜き取られて操られているんだ。なにかあれば住職として前に出てきてごまかすのが役目なんだ。警察沙汰になるようなことでも、僧侶が前面に出てくれば、ごまかしが効く。まさか寺が悪魔じみた連中の巣窟になり、僧侶がその手先だとは、世間も気がつかないだろう。実態を知っても信じられないに違いない。それが連中の付け目なんだ!」
「じゃあ、構うことはないから、こんな腐れ寺はぶっ潰してしまえばいいんだ!」
田崎がエキサイトして、野太い声を張りあげた。
「先生、やっつけちまいましょう! このまま潰れるまで揺さぶってやれば、奴ら居堪まれずに飛び出してきますよ!」
言下に無気味な大音響が伽藍を揺すり、屋根瓦が数十枚吹っ飛んで境内に降り注ぎ、微塵に砕け散った。目に見えない巨人が体当りしたような猛烈さだった。
相次いで、ずしんずしんと伽藍が凄まじく鳴動し、庫裏の方でなにかが崩壊する大音響とともに地響きが大地を揺すった。
田崎さえも怯んだのだから、住職の顔色は灰よりも白くなった。郁江が力いっぱい丈の手にしがみついてくる。あと一撃で伽藍が脆く崩落を開始することをだれしもが予感したのだった。
大きな亀裂が伽藍のどこかに入ったのか、無気味に軋む音が続いていた。
「わかった! いう通りにする! だから建物を壊さんでくれ! わしがいってみんなをここへ連れてくる! 頼むから壊さんでくれ! わしが悪かった! な、謝まる! この通りだ!」
凄まじい異音はいまだに続いている。丈は大きく深呼吸をした。最後の一撃で止めを加えようと身構えたようだった。巨きな梁にでもひびが走ったらしくビシビシ、バキバキという恐ろしい家鳴りが止まない。
「やめてくれ! 江田は今わしが連れてくるから!」
住職は泣き声でいった。
「四朗、こっちへ来い!」
と、丈が大声で叫んだ。
「逃げ隠れするな! なにもかもこっちにはわかっているんだ!」
高欄をめぐらした回り廊下を人影が歩いてくるのが他の三人にも見えた。ひょろりと丈高い瘦身は鬼気をはらんでいた。人間放れした雰囲気を漂わしているのがはっきりとわかる。
瘦身の人影は、実体を持たないかのように音もなく近づいてきた。
6
「だれも逃げ隠れはしていないよ。丈」
と、江田四朗は嘲笑の基調を持った声音でうそぶいた。以前の四朗とはまったくの別人だということが、丈ら四人にはあまりにも明瞭だった。それは単に人格の変化という生易しいものではなかった。
冷嘲に満ちた蒼白な顔が、高欄の上から、境内の四人を見降ろす。無気味にぎらつく暗い目、そげた頰、冷笑を浮かべた口。悪夢さながらの顔貌だ。よく見知っていた人間の顔がこれだけ変貌してしまうとは信じがたい。恐ろしい不条理を覚えずにはいられないのだった。
「大袈裟なことをするもんだ」
と、江田四朗は冷やかにいった。蔑みがこもっていた。
「おれが出て行かなければ、寺を壊すつもりだったのか? 馬鹿力はあるが、頭の足りない大男のやりそうな真似だ」
「お前に用事があってきたんだ、四朗」
丈は相手の挑発を無視した。
「お前と話し合ってみる必要がありそうだと思ってな」
「くだらない。お前と話し合うことなどない」
と、四朗が言下に一蹴する。
「お前は超能力をひけらかして、精々得意がっていればいいんだ。だがな、丈。お前の得意の絶頂時代はたいして長続きしないぞ。そんなものはすぐに過ぎる。お前は害獣のように大衆に嫌われ、追い立てられて、抹殺されることになるんだ。それまで精々楽しむがいい」
「お前が考えていることは見当がつくよ。だが、それは今はどうでもいいことだ。おれはお前と話をつけに来た。逃がしはしないぞ。今夜はそれだけの覚悟をして来ている。お前は力自慢といったが、そんなものではない。やるならもっと徹底的にやってみせる。お望みなら、それでもいい」
「ほう。おれを脅かす気か?」
「覚悟があるってことを知らせたまでだが、必要とあればもっと強烈にしてもいい」
「どうしようというんだ?」
「おれは話をつけに来たといったんだぞ、四朗」
「よし、わかった。用をいってみろ」
「わかっているだろう。彼女を返せといっているんだ」
本堂の屋根瓦が数枚いっぺんに滑り落ち、砕け飛んだ。江田四朗はそれに見向きもしなかった。そげた頰に冷笑が滲んでいる。
「なんのことをいっているんだ?」
「おれの名を騙って連れ出したろう? 許せないことだぞ」
「なんのことだかわからん......」
四朗が薄く笑いながらうそぶく。四朗が摑んでいる高欄の手摺りが烈しい音とともに割れた。大きな斧を打ちこんだようだった。
四朗はよろめいて後退した。しかし、冷笑は貼りついたシールのようにその瘦せこけた蒼白な顔から消えない。
「わかったよ。彼女は自分の意志で来た。ここに留まるのも帰るのも自由だ。しかし、お前が暴力を振るって連れて行くというんなら、勝手にするがいいさ。お前はわれわれを皆殺しにしてもやってのける決心らしいからな......」
「でたらめをいうな。お前が汚い手を使ったことはわかってる。だが、彼女を返すなら、今日のところはおとなしく帰ってやるといっているんだ。だが、それで帖消しになるわけじゃないぞ」
丈の言葉を聞きながら、三千子は再び強い既視感覚の虜になっていた。また同じことがくり返されようとしている......三千子はぞくっと身慄いした。この先どうなるか、わかっているような気がしたのである。
「どうやら本気らしいな。逆らえば大暴れして皆殺しか? だが、いつまでもそれが通用すると思うなよ」
「能書きは沢山だ。早くしろ!」
丈の声は鞭を振ったように激しく響き渡った。
江田四朗は鼻で笑い、瘦せた肩をそびやかして、引き返して行った。住職は目をぎょろつかせて手摺りにしがみついていた。斧を叩きつけたように深い亀裂の入った手摺りはいまにももげて取れそうにぐらついている。
「先生、あいつは本当に江田四朗ですかね?」
と、田崎が緊張した声でいった。
「違うみたいですよ......まるで江田の死体の中に化物が入って動かしているみたいだ」
「いやっ、そんな怖いこといわないで!」
郁江が叫び、手を摑む力が倍加した。
「丈......あれはやっぱり四朗さんじゃないわ」
と、三千子がささやくようにいった。
「わかってる......」
丈はつぶやいた。
「しかし、陽子を無事に取り戻すのが先だ」
それは簡単なことではない、と三千子は考え、恐ろしくなった。丈は確かに人間業ではない巨大な〝力〟を所持している。しかしその〝力〟をもってしても、どうにもならぬ事態は明白に存在するのだ。丈は超能力の巨人、〝スーパーマン〟的存在である。けれども、実際に〝スーパーマン〟になにほどのことがなしえよう。
巨大な〝力〟をもってしても、動かせず自由にならないのが人間の心ではないか......
なぜ自分はそんなことを考えてしまうのだろう、と三千子は疑った。まるで成行をあらかじめ心得ているようだ。
江田四朗は、丈の要求に屈して陽子を返してよこすだろうが、それは見せかけだけにすぎないのだ......
三千子は胸を絞られるように苦しくなってきた。この場に居堪れぬ思いがした。彼女は我知らず顔をそむけていた。
「陽子!」
と、丈が声をあげるまで、三千子は目を向ける勇気がなかった。
「大丈夫か......?」
三千子は気力を奮い起こして、視線を高欄に戻した。久保陽子が廻り廊下に幽鬼のように佇んでいるのが目に映じた。なんともいえず不快なもやっとしたものが漂ってくるようであった。
まるで幽鬼だ、と三千子は心に繰り返し思った。
生気がないのである。真蒼な顔のまん中あたりがもやっとしたものでかすんでいるように見えた。まるで生きている死骸のようだというのが、三千子の受けた正直な印象であった。
久保陽子とは幾度か遭ったことがある。緊張過度の生真面目な女の子だが、精気にみちみちていたことはよく憶えている。
「陽子、どうしたのよ......」
と、郁江が息を吞むようにして呟いた。生きている人間のように見えなかったのは、だれしも受けた強い印象だったのである。
久保陽子は無言のまま顔をそむけた。言葉もないというよりは、強い拒否を感じさせる動作であった。
「彼女を連れて行くといい......」
と、陽子の背後に立っている江田四朗が嘲りをこめていった。
「彼女はいやがるかもしれないが、無理にでも連れて行け......こっちは少しも構わないから。彼女は自分の意志でここへ来た。ここに留るのも帰るのも彼女の勝手だ。しかし、帰らないと警察沙汰になるというんでは、こっちがご免こうむる。さっさと連れて行ったらどうだ、丈」
「貴様、陽子に何をしたんだ」
丈は愕然としていった。冷汗の臭いのする声音だった。
「いってみろ、四朗! 陽子に何をしたんだ!?」
「何もしない。陽子は自分の意志でここへ来たんだからな」
「噓をつけ!」
丈は振り絞るように叫んだ。
「貴様は、陽子に何をした!?」
恐ろしい高圧電流が丈の体にかかったように見えた。丈の放つ怒気が大気中に帯電の気配をもたらした。ビリビリと頭髪がよだち、皮膚が痺れる感じが強まって行く。
「答えろ、四朗!」
稲妻が走るように丈が怒号した。
「彼女に尋けばいいだろう。なにを疑っているのかしらないが......」
と、江田四朗は平然といった。
「彼女に尋いてみろ、遠慮はいらない」
彼は丈をまったく恐れていなかった。むしろ嘲弄の気分に満ちて、丈と対等以上の心理的優位を占めていた。
「陽子......迎えに来たのよ、みんなで」
と、郁江がいった。
「いっしょに帰ろうよ」
陽子は無反応のまま立っていた。顔を依怙地にそむけたままだ。
「どうやら、彼女は帰りたくないようだ......」
と江田四朗がうそぶく。
「先生! あの野郎に勝手なこといわせとくんですか!?」
田崎が咆えるようにいった。その逞しい体は怒りに胴震いしはじめた。
「おれにやらせて下さい。こんな悪魔野郎、鉄槌を下してやる!」
「陽子を連れ帰るのが先だ。僕にまかしておいてくれ。みんなここを動くな」
と、丈はいった。
「僕が行って連れて来る」
彼は三人を残してゆっくり伽藍に近づいて行った。屋根瓦が滑り落ちて頭上に降ってきたが見向きもしなかった。瓦は丈の体を自ら避けるように大きく弾け飛んだ。彼のPKシールドを初めて見て、田崎と郁江は目を瞠った。
丈は登り口から、高欄をめぐらした廻り廊下に登った。慎重に見えるほど緩やかな足取りで久保陽子に近づく。
陽子は丈を見向きもしなかった。かたくなに反対側に顔をそむける。──気をつけて、丈! と三千子は掌が汗ばむ思いで祈った。高欄の内側の丈、陽子、江田四朗の三人がまるで舞台の上の人のように見えてきた。
しかし、舞台の上はあくまでも暗く、陰惨な気配で満たされている。
丈の動きが鈍いのは躊躇のせいもあるようだった。用心深く全感覚を総動員して探っているのだ、と三千子は悟った。江田四朗が張りめぐらした陥穽の気配を探り当てようとしているのである。
三人の動きはほとんどなかったが、張り詰めた気配の高圧ぶりには、想像を絶するものがあった。三千子の手を探り当てて、郁江のぽってりした小さな手が意外なほどの力強さで握力を加えてきた。二人とも汗ばんでいる。
丈は用心深く、右手を陽子の肩に廻した。その目は江田四朗の
惨な嘲りの目に釘付になったままはずれない。
四朗が手出しをする気ぶりはなかった。彼の意図はそんなところにあるのではなく、もっともっと陰険なものなのだ......
「帰ろう、陽子」
と、丈がいった。声がややしわがれてしまっている。
「心配するな。もう奴らには手を出させない。おれが約束する......」
三千子は喉許にまで叫び声がせりあげてきた。陽子はともに帰ることを拒む、と直感したのだ。いや、直感ではなく、あらかじめ知っていたのかもしれなかった。陽子は、丈を拒む。彼女はすでに変えられてしまっており、元の陽子ではなくなっているのだ......
が、三千子の確信はあっけなく裏切られた。陽子は丈を拒まず、素直に肩を抱かれたまま歩きだしたからである。
こんなはずはない!
三千子の体はかっと熱くなり、次いで反転し、寒気が襲ってきた。これはなにかの間違いだ、と彼女はなんの理由もなく考えた。
陽子の振舞いはありうべきものではなかった。彼女はあくまでも丈を拒まなければならない。
なぜなら、そのためにのみ、江田四朗は丈の許に久保陽子を帰してよこすのだから!
陽子はすでに魔鬼の祭壇にささげられ、内面は食い荒らされて、元の久保陽子という少女ではなくなっている。陽子が丈を拒むことこそ、江田四朗のもっとも悪意に満ちた嘲弄であるはずだ......
二人を冷嘲している江田四朗の表情がその事実を証している。彼がおとなしく陽子を返したのは、丈の巨大な〝力〟を恐れたからでは絶対にない。
いけない! と三千子は危うく叫びだしそうになった。その娘は陽子さんじゃない! 彼女はもうなにか別のものに変えられてしまっているのよ! 丈、騙されないで! 気をつけなさい!
三千子はすんでのところで、火のかたまりのようにこみあげてきた衝動を抑えつけた。あまりにもその考えが奇矯であることはわかっていた。彼女の理性が頑強な枷となっていた。
にもかかわらず、三千子はその真実性を疑えなかった。口にはできない。しかし事実なのだ......
丈は陽子の肩を抱きかかえるようにして、廻り廊下から降りてきた。江田四朗は高欄越しに恐ろしい嘲りの表情を覗かせた。
「陽子! 大丈夫!?」
郁江が駆け寄り、丈の反対側から、友人の少女の肩に手を廻した。陽子の体は冷たく硬く、石のようであった。そして石と化したように沈黙していた。郁江がはっとしたように丈を見る。丈は無言で首を振った。
「これで文句はないだろう......」
と、江田四朗が彼らを見降ろし、嘲り声でいった。その嘲弄の表出は、彼の基本的なマナーと化しているようであった。
「帰ってもらおうか......お前の気違いが戦車に乗ってくるような〝超能力〟とやらいうのはもう沢山だからな」
「先生。こいつに天誅を下してもいいですか?」
と、田崎が血相を変えていった。
「こんな奴、ほっといたらためになりませんよ! 世の中に害毒を流すだけだ。おれが制裁を加えてやります」
「類は類を呼ぶだな。お調子乗りが......」
江田四朗が鼻で笑う。田崎のずんぐりした逞しい体に衝動がたぎりたった。体が一まわり大きくふくれあがったようだった。
「田崎さん! 江田の誘いに乗るな!」
と、丈は鋭く制止した。
「彼は挑発しているんだ。江田の狙いは僕であなたじゃない!」
「しかし、先生......」
田崎の巨体は激情に慄えた。
「おれにはこういう奴をほっとくことはできませんよ。この野郎が先生を狙っているなら、おれが相手になってやりますよ。おれにやらせて下さい!」
咆えるような声だった。
「田崎さん。僕と江田四朗との間でいずれ決着はつけなければならないんです。どんな形でつけるかはまだわからない。しかし、江田が望んでいるような、暴力的な形でやるのは間違いなんだ。それこそ彼の思うつぼにはまってしまうんですよ......」
「しかし、先生。このまま引き下る手はないですよ! 頼むからおれにまかしといて下さい! あっという間に決着をつけてやりますよ!」
田崎は猛りたつ牡牛のようになっていた。興奮はますます高まる一方だ。
「あの野郎を叩きのめして、寺の本堂に隠れてる奴等を一人残らず追い出してやる! 奴等のしてるおぞましいことをなにもかもぶちまけてやるんだ!」
「だめだ、田崎さん。江田と決着をつけるのは僕の仕事だ。腕ずくでかかっても江田は平気なんだ。あの面を見ればわかる......奴はなにかを狙っているが、それはこっちが嚇っとなって理非曲直を忘れてしまうことなんだ! 僕にまかせてください、田崎さん。僕は必ず決着をつける。しかし、それは江田がもっとも好まない形でつけてやるんです」
「............」
田崎は呻いた。口惜しさで歯ぎしりせんばかりだった。しかし丈の言葉を押して行動することはさすがにできない。
「悪運の強い野郎だ!」
と、吐き捨てる。ぎらぎらと燃える目で、高欄越しの江田四朗の顔を睨みつけていた。江田の蒼白な顔が嘲笑を投げかけている。それは人間放れした悽愴な蒼白い笑いであり、さしもの田崎もぞくっと身慄いするほどだった。
「いっておくが、クリスマス講演会は邪魔させない」
と、丈は廻り廊下の江田四朗を見上げていった。断乎とした決意の表明であった。
「妨害は許さない。そのために僕は全力を振り絞る。いいな、手出しをするなよ」
「強がるなよ、丈。決着をつけるといっていたが、そんなことはおれの知ったことじゃない......お前がなにをしようと、おれに関りないからな」
「今更とぼけるのか? お前の意図はこっちに丸見えだというのに」
「講演会でもなんでも、好きなことをやるがいいさ、丈。お前には気違いじみた強力な超能力がある。それを使ってせいぜい有名になり、出世しろよ。馬鹿な奴らがお前を生神様と崇めたてまつるだろう。お前ならきっと〝救世主〟と呼ばれるようになれるさ......権力も金も女も、お前の欲するがままになる。大教団を造り、大神殿を建てろ。きっと全世界がお前に従うだろうよ。お前の超能力ならきっとやれるさ」
「あいにくだが、おれにはそんな考えはまったくない」
と、丈は冷やかにいった。
「それはお前の考えだろう。お前はおれの超能力を羨むあまり、自分にも〝力〟が授ったら必ずそうやって世界を己れの前に従えてやると誓ったんだろう。違うか? だが、お前はこんな古寺で、欲呆けした住職を騙して寺を乗っ取り、心の不浄な人間を集めて、なにやらこそこそと汚穢なことをやってる。そんなしみったれたことでは、世界をお前の前に這いつくばらせることなんかとうていできないぞ、四朗」
丈の瞳はきらめき、声は熱した。
「できるものなら、やってみろ! 世界をその不浄な手で摑み取ってみろ! お前にはそんなことは決してできやしない。お前はケチな小物だからだ。僕はお前の正体を知っているんだぞ。わかってみれば、お笑い草だが......」
「勝手なことをいうな」
江田四朗の冷嘲する調子が初めて破れた。初めて感情を表わしたのだ。
「お前なんかに何がわかる。おれが狙っているのは、頭の悪いお前などには見当もつかないことだ......お前なんか、いざその時になってから驚き慌てるんだ。お前などに、こっちの考えが見すかせるわけがない」
「大きく出たな、四朗。エリート意識の強いお前らしさが残ってるいい草だよ。しかし、なにをお前が企んでいようと、その前に必ず挫折するだろう。決着をつけると僕がいったことを忘れるな」
「好きなようにするがいいさ。おれはお前など相手にしていやしない......」
しかし、江田四朗は動揺を隠せなかった。丈の言葉に衝撃を受けていることは間違いなかった。
「お前の恐ろしい悪魔のような力で、皆殺しにされては堪らないからな。お前は自分に楯突く者をかたっぱしから殺してしまうんだろう......お前にはその力がある。お前は偉大だよ、丈。この地球は偉大な英雄、東丈のものだ。お前は絶大な権力を握って世界を支配しろ。おれは邪魔などしないよ。元は友だちだった仲だからな。お前の出世を喜んでやる。お前が巨大な超能力で世界を支配し、独裁者となるのを、おれは大いに期待しているんだぜ、丈。噓偽りはないよ......」
江田四朗は立ち直ったのか、再び声音に嘲笑のトーンを帯び始めた。
「心にもないことをいうな」
と、丈が吐き捨てるようにいった。が、三千子にはそう思えなかった。嘲弄に見せて、江田四朗は本心を明かしているのではないかという気がした。彼は単純な敵対者ではない。彼が狙いとするものは、もっと大きな獲物である。
江田四朗は複雑な攻略を用意してかかっている。丈はともすれば、足をさらわれがちになるだろう。丈はまだまだ純真で一本気だからだ。よほど気をつけなければならない......三千子は息苦しくなってきた。
江田四朗は、丈の反応をすべて計算ずみなのではないだろうか。その真の意図は単純な田崎はもちろん、丈にも計りがたいものを秘めているはずだ。
江田四朗は絶えず丈を挑発し、刺激し、怒らせ、過激な反応を引きだそうと目論んでいる。まるで、それは自己破壊衝動のように、丈を怒らせて自分を攻撃させることにより、破滅することを望んでいるかのようだ。まるで自己破滅を強く願望しているかのようだ。
しかし、決してそれは彼の真意ではありえない、と三千子は思った。それは彼の計画の一部であり、自己の破綻さえも充分に練りあげられ、用意されているのかもしれないのである。
丈はどれほど用心しても、用心しすぎることはない。彼はルナ王女のように卓越したテレパシストとは程遠い。江田四朗がどのような悪意を秘めているか、看破することは難しい。丈には悲愴なほどの気負いがあり、江田はそれを丈の弱点として利用することを知っているに違いない。
三千子は不可思議な洞察の光をもって、透視することが可能になったような気がした。江田四朗は元の彼ではない。それは丈が昔の彼ではありえないという意味合いではなく、もっと徹底した変化であり、事実上彼は別人ともいえる存在であった。
「四朗。お前は今後も、徹頭徹尾おれの邪魔をしぬき、滅ぼそうとするだろう。おれはその理由を知ってる。それは以前のお前がおれに反撥し、憎んだように、おれがお前にない〝力〟を持っているからというのじゃない。今はそんなものではないんだ......」
「じゃ、いったいなんだと思ってるんだ?」
と、江田は冷笑とともに尋ねた。
「お前の被害妄想では、おれをいったいどんな仇役に仕立てたんだ? 今のおれはお前に敵対心などまったく持っていないんだぜ。お前が思うようなもんじゃないんだ......」
「そうだ、四朗。今のお前は、前のようにおれの〝力〟に対する羨望や嫉妬から、おれを憎んでいるわけじゃない。なぜなら、もうお前は〝力〟を持っているからだよ。お前も超能力を手に入れたんだ。だから、おれを憎むお前の動機はもう別のものになった」
「いったい何をいってるんだ?」
江田四朗は馬鹿にするようにいった。
「丈、頭の悪いお前にいったい何がわかってるんだ?」
「お前が〝幻魔〟だということはわかっていたよ、四朗」
と、丈は静かにいった。
「ほう、幻魔だって......?」
江田四朗は白々しい顔でいった。
「お前が神懸りになって宇宙の悪魔をやっつけろと吠えていることは知ってるが、お前は気に食わない相手は全部〝幻魔〟にしてしまうらしいな......」
「お前が〝幻魔〟でなければ、決着をつけるなどとはいわないよ、四朗。おれにはわかっているんだ。いずれにしろ、お前とは闘わなければならない。お前の正体を暴かなければならない。その決着の時が来るといったんだ」
「〝幻魔〟だとなれば、お前は平気で殺すんだろう。お前は正義の味方だから、宇宙の悪魔である〝幻魔〟を殺すことは正義にかなっているというわけか? お前は悪魔狩りの狂える十字軍だよ、丈。だが、おれは〝幻魔〟なんかじゃない。正義気違いのお前に殺されるのはご免だね......」
江田四朗は唇の端をねじ曲げてにんまりと笑いながらうそぶいた。妖気がその蒼白な笑いの仮面から噴きだしてきていた。
「隠したとしても、〝幻魔〟の素性は自ずと顕われる。今のお前はみんなから目をそむけられるじゃないか。あまりにも無気味で正視するのもおぞましいからだ......お前が〝幻魔〟であることは間違いないし、お前がこの寺を根城にして、〝幻魔〟の仲間をせっせと増やしていることはわかっている。いずれ、なにもかも明るみにでることだ」
「〝幻魔〟だのなんだのというが、なんの証拠がある」
四朗は食ってかかってきた。
「おれが〝幻魔〟だというなら、それを証明してみろ! どうやって証明するんだ!? おれを殺せばわかるとでもいうのか? それなら、おれを殺してみろ!」
「審くのはおれの仕事じゃない。お前が〝幻魔〟だとわかっていても、封じこめないのはそのためだ......しかし、決着の時が来れば、お前は自分で自分を審くんだ」
「たわ言をいうな! おれのことを〝幻魔〟と誹謗するなら、それを証明する義務があるはずだぞ!」
江田四朗が激しくなじる。
「お前こそ〝幻魔〟だという評判が、いずれ深く静かに拡がるだろうよ。お前の力は人間のものじゃない。だからお前は〝幻魔〟なんだとな......そしてお前こそ正真正銘の〝幻魔〟になって行くんだ。それを予言してもいいぞ、丈。お前は〝幻魔〟殺しと呼ばれながら、仲間をどんどん虐殺して行くことになるんだ。〝幻魔殺し〟の英雄として、お前は人殺しをやる。まず手始めにおれを殺して血祭にしてみろ。お前が偉大な英雄となる第一歩をおれの死骸に刻め!」
「............」
丈の体に不意に力がこもるのを、三千子は不安とともに感じた。丈の怒りが爆発するのかと思ったが、力は発揮されないまま、静かに丈の体から脱け出していった。
「今は決着の時でない。さもなければ、この寺は潰れ去って残骸だけになったはずだ」
と、丈は穏やかにいった。
「お前の挑発には決して乗らないよ、四朗。お前が何を望んでいるかわかっているからだ......この先もお前が大喜びするようなことをするつもりは決してない。残念だろうが......」
「きれい事がいつまで続くかな、丈。おれはお前の性格を知ってる。お前がそうやって落ち着きこんでいられるのは、優越感を持っているからだ。しかし、優越感はくるりと引っくり返って劣等感に変る。その時のお前は〝幻魔〟に変るんだ。いずれお前はだれよりも偉大な〝幻魔〟として自他ともに認めるようになるだろうよ......」
「............」
丈は無言で、久保陽子の肩にかけた手に力をこめた。その肩はあくまでも冷たく硬かった。
「行こう。この不浄な場所にはもう用がない」
と、丈はみなに声をかけた。
「逃げるのか、丈!」
と、高欄の上の江田四朗がどなった。
「お前の敵に後ろを見せて逃げるのか、この卑怯者! 自信喪失して腰が抜けたのか!? 逃げずにお前の力を出してみろ! おれが〝幻魔〟だというんなら、おれを殺してみろ! それでも逃げ出すのか、恥知らず!」
「先生、あんなことをいわせておいていいんですか!?」
田崎が血相変えていった。木刀の柄を握り締める手が慄えていた。
「おれにまかしてくださいよ! 決着なら、待たなくてもたった今、おれがつけてやります!」
「彼が、〝幻魔〟なら、そう簡単には行かないよ、田崎さん。彼はおれに挑戦しているんだ......おれが彼の挑戦を受けるとしたら明日の講演会で人々の心を開かせ、目を開かせることだ。江田四朗を力ずくで叩きのめすことじゃない」
「そういえば、先生は明日、講演会があったんですね。明日じゃなくて、もう今日だけど......」
田崎は残念そうにいった。木刀を振るえないことがいかにも心残りらしかった。しかし、江田四朗は田崎の木刀など歯牙にもかけないだろう、と三千子は思った。四朗には奇怪な自信がある。それは彼が丈の〝力〟さえ怖れていないことでも明らかであった。それどころか、丈に〝力〟を発揮させることにより泥沼へ引き込むのが彼の目的と感じられた。江田四朗は、丈の〝力〟を破壊的なものとして印象づけようと目論んでいるのだ......
そして、丈は本能的にその危険に気付き、うまく回避したのだ。──三千子は安堵感で体が萎えるのを覚えた。またしても、丈はみごとに試練を切り抜けて見せた。彼には信じがたいほど精緻なバランス感覚が備わっているようであった。それは仕掛けられた陥穽を鋭敏に見抜き、避けて行く勘の如きものだった。
それは、丈が平静を保ち、充分に理性的である限り実に巧妙に働くようだった。以前から彼がこれほど鋭い勘の持主であったわけではない。むしろ、突如として付与された超絶的感覚の一種ではないかと思えた。

弟の成長ぶりを誇らしく思う反面、三千子は重苦しい危惧を振り払えずにいた。
丈はまだ本物の試練に遭っていない。それに不可避の運命として直面した時、彼の真価は問われることになる......
丈が味わっている辛酸はまだまだほんの序の口にしかすぎない。本物の試練はいずれ避けがたい障壁として彼の前に立ちふさがる。その時、丈の平静さは否応なしに崩れ去るだろう。彼の忍耐のレベルを凌駕した心の激動、悲苦や憎悪、憤怒に見舞われた時、丈はいったいどうするのだろうか......
久保陽子を両側から抱くようにして立ち去る丈と郁江の後ろからついて行きながら、三千子は首をねじって背後を振り返った。舞台の上に立っているように廻り廊下の江田四朗が憎悪の目を送っているのが見えた。闇の中でさえ、その目は吊りあがり異様な光を放っているのが克明に見てとれた。
今更のように、月もない真暗な夜の境内での遣り取りが全てくっきりと見えたのが不思議に思えた。なにもかも現実ではなく、蠱であったような幻想的な思いが彼女の心を捉えた。それはふとめまいがする感覚であった。
よろめいたのかもしれない。田崎のがっちりした骨太の手がすかさず伸びて三千子の肘を支えた。三千子は礼の言葉を口ごもりながら、なおも首を捻じ曲げて、高欄の上の江田四朗の幽鬼のような蒼白な顔を見詰め続けていた。
恐ろしいのは江田四朗ではない、と彼女ははっきりと悟ったような気がした。四朗など恐れるに足りない。彼がたとえ幻魔そのものであり、いかに強力な力を秘めていようと、丈はそれを打破る〝力〟を秘めていることは間違いない。
恐るべき敵は他にある。それがなんであるか、口に出して確言することはできない。が、それは三千子が今感じている危惧、不安の念とわかちがたくからみあったものであった。
それを言葉にできないのがもどかしかった。なんとかして明確な警告として、丈に与えてやらなければならない。丈の心が試練に堪えがたく折れくじける、そうした可能性を彼女はすでに垣間見ているのだった。
「お姉さん、大丈夫です。先生にはおれがついてますから」
と、田崎が声を忍ばせていった。その逞しい偉軀からは、忠誠と愛情の波動が脈打って三千子の手に伝わってくるようだった。
捻じ曲げていた首を戻しても、憎悪に満ちた江田四朗の目は背に首筋に灼きつき、焦げているように思えた。その憎悪の目はどこまでも追ってきて、彼女の心に烙印を捺し、いつまでも灼熱している感覚と化してしまった。
7
冬の長い夜が白々とした暁光に明るんできたころ、三千子と丈は杉並の自宅に帰った。田崎宏が車で送ってくれた。強靱で精力的な田崎は疲労など無関係という顔色をしていた。一晩や二晩の徹夜ではなにも感じないのかもしれなかった。
「お姉さん、お疲れになったんじゃありませんか?」
と、手をとって三千子を車から降ろしながら、田崎は太い猪首をすくめ、心配げにいった。三千子の顔は青白く早朝のきびしい寒気の中でそそけだっていた。
「大丈夫ですから......」
といいかけながら、三千子は咳こんだ。体がだるく重く、微熱でもあるのか悪寒がした。徹夜で疲労したというよりも気疲れしたのであろう。風邪の引き初めと似た感じであった。
「いかんな。風邪を引かれたんじゃないですか。すぐに暖くして休んで下さい」
田崎は目を丸くして真剣にいった。どうしていいかわからず、ごしごしと頭を搔く。無骨な硬派の彼は自分の感情を表現できず、もて余してしまっていた。年上の美しい女性に対する敬愛をこめた目をして、巨きな犬みたいに三千子を見ている。
「先生もどうか早く休んで下さい。今日は先生講演でしょう。大丈夫ですか、声は出そうですか。おれも必ず聴きに行きます」
田崎はぺこりと頭をさげて、車に戻って行った。スカイラインGTRが豪快な排気音を残して走り去るのを、姉弟は玄関口に立って見送った。
庭土や庭木の葉にびっしりと霜が降りている。清冽な朝の大気の中に車の排気ガスが漂った。
「クリスマスなのね」
と、三千子が今初めて気がついたように呟いた。長い暗い、凍てつく夜はただ去ったというにはあまりにも重いものを二人の心の内に残していた。
「クリスマス・イヴにしては重すぎたな」
と、丈がいった。偽らざる感慨のようであった。
「家へ入ってお茶を淹れるわ」
玄関の錠を解きながら三千子がいった。その前屈みになった肩を見て、姉はまた瘦せたな、と丈は思った。もともと繊細な三千子は夏以来、失った体重を回復することなく更に瘦せほそって行くようだった。むろん、丈が姉に与え続けている心労の重さと無関係ではないだろう。
それを指摘しても、芯の強い三千子は否定する。しかし、丈のことを一番気にかけているのが姉であることはわかりきっている。丈を護ろうとする姉は、弟にかかる外圧の強さ、芯の疲れる重みをまっさきに引き受けてしまうのであろう。
常に三千子だけは丈の心労を無条件で理解してくれる唯一の味方であることに変りはなかった。もし姉がいなかったら、と考えるだけで丈は鳥肌が立った。彼はどこにも慰藉を求めることができないのだ。
「大変な夜だったね」
と、居間に落ち着いてから、丈は姉をねぎらうようにいった。彼女は台所でお湯を沸かしていた。ポットのお湯がすっかり冷めてしまっていたのだ。芯の疲れる、辛いきびしい長い夜だった。
薬罐を提げて居間に戻ってきた三千子は無言で急須に熱湯を注いだ。分厚いバルキー・スウェーターのえりに白い顎を埋めた三千子は、はるかに年若く、少女のように見えた。郁江とたいして年の変わらない少女の貌をしていた。徹夜の疲労があっても、いささかも老けていない。それを指摘しようとして丈は思いとどまった。三千子は深刻なことに頭をゆだねているのだった。そうした時、普通の少女は大人びた表情になるのだろうが、二十六歳の三千子は逆に少女めいてくる。一心に思い詰めた表情がおさなく愛らしくなってくるのだった。
「陽子さん、大丈夫かしら?」
急須からお茶を注ぎながら、三千子がぽつりといった。丈には答えようがなかった。陽子がどのような思いを味わったのか、それを話しあうのは姉弟の仲では特に困難が存在した。
「なにか力になってあげられるといいんだけど......でも、むずかしいわね」
「............」
丈にはどうすればいいのかわからない。初めから手に負えない問題だった。陽子に対してどのような態度をとっていいのかもわからない。慰めるべきなのか、なにごともなかったような振りをするべきなのか。そのどちらもあまりにも不自然でとってつけたようであり、堪えきれないものがあった。
丈には大きな失敗を犯したという自覚があった。もちろんそれが丈の失敗であるのかどうかさだかではないが、そう考えたところで自責の念を拭い去ることはできなかった。
「僕はまずいことをしたような気がする......」
と、丈は熱い茶をがぶりと一口飲み、熱さにも気付かぬ風にいった。
「まずいこと?」
「うん......僕が一人で行かなかったことだ。姉さんだけならともかく、田崎さんや郁江までも連れていったことだ。大失敗だったような気がしてならないんだ」
丈は、氷のような久保陽子の家族の態度を思いだしていた。陽子自身もものもいわず息もしていないという感じで、氷そのものだった。
陽子の家族には、遂に詳しい説明はできなかった。丈が誘い出したのではないということを郁江や田崎の証言も借りて説明しようと試みたが、家族、両親の誤解を解く力はまるでなかった。
肝心の陽子が一言も喋らず、ぴったりと口を閉した貝になってしまっているのだ。いかに説明しようと厚顔な申し開きとしか受取られなかった。丈はもちろん、姉の三千子までが、容赦ない面罵を浴びる有様であった。
──本当なら警察に娘を誘拐されたと訴えるところだ、と陽子の母親は感情を剝きだしに罵った。丈は徹底的に悪どい非行少年として糺弾され、焦げるような憎悪の泥を浴びせられた。
丈はもちろん囲りの者の弁解は何一つ受け容れられず、一方的にこきおろされた。
──本当ならば、警察沙汰にしたい、と父親までが青ペンキを塗りたくったような怒面でまくしたてる始末であり、冷静な話し合いの余地はなかった。
堪りかねて怒りだしたのは郁江であり、短気で激発しやすいと思われた田崎の方がしゅんと沈みこんでしまっていた。
郁江は喋りだすと能弁であり、ともすれば言葉に詰まりがちな丈と三千子の代りに、陽子の両親をみごとにいい負かし、完膚なきまでに論破した。
「陽子さんをご心配のお気持はわかりますが、なぜ東君たちの話をきちんと聞いてあげないんですか?」
郁江は外見からは信じがたい猛烈な論客である。いい合いになると恐ろしく論理的な冴えが出てきて、無類に切れ味の鋭い舌鋒を駆使する。学校教師でさえ圧倒され、ぐうの音も出なくなるほどだ。
火の気のない冷えきった久保家の玄関先で、郁江は理路整然と両親のいいがかり、誤解を明らかにし、反論を許さなかった。
「東君が、陽子の失踪と無関係なことはいくらも証人がいるんです。東君が電話で呼び出しをかけたとおっしゃる時刻には、わたしが秘書としてずっとついていましたから、そんなことは決してなかったと証明できます。他にも証人はいくらでもいます。この田崎君もその一人で、彼は有名な長老政治家のお孫さんです」
郁江は保守党にあって法務大臣などを幾度も務めた田崎の祖父の名前を持ち出し、権威に弱い両親のガードをあっさりと打ち崩した。驚くべき気転のきかせ方であり、三千子は聞いていて舌を巻いた。女の子とは思えない論客であった。
「東君は、この田崎君の家でずっと話し合っていたんですよ。お祖父さまとも逢って挨拶しています。いつだって必要があれば、すぐにそれを証明できるんです。それなのに、あやふやなことを鵜吞みにして、他人を責めたて悪口雑言の限りを尽すとは何事ですか? まず第一に自分の娘に何があったのか問いただすのが先じゃありませんか? 陽子さんが行方不明になったというので、この真冬の夜中かかって捜し出し、連れ戻してくれた東君やお姉さんや、なんの関係もないのに車を運転して走り廻ってくれた田崎君に対して一言の礼の言葉もなく頭ごなしに悪しざまに罵るのが、あなた方は正しいと思っていらっしゃるんですか?」
久保陽子の両親は一言もなかった。政権政党の長老政治家が出てきたのでは具合が悪いようである。その政治家の孫にあたる少年が陽子捜しに協力してくれたというのが殺し文句だった。
「いや、どうも......家内が異常に興奮しておりまして......」
失礼しました、と父親が切れぎれに口ごもった。母親は瞳孔が開いてしまい、心神喪失という表情になっていた。郁江の反論に気合負けし、参ってしまったのであろう。
「失礼しましたですみますか?」
郁江は仮借なく追撃の手を緩めなかった。
「東君を不良だのゴロツキだの人間の屑といって面罵したのが、失礼しましたですむんですか? おっしゃった通りに警察に訴えてみてはどうなんですか?」
郁江はいつでもやりすぎる傾向があった。軽く一本取っておいて引き上げるということをしない。徹底的に容赦なく打ちすえる。
田崎宏が啞然とした顔で、苛烈な追撃を行なう郁江を見ていた。びっくりするくらい可愛い丸顔のくせに、まるで検事そこのけの追及ぶりだ。田崎は畏怖の目差で美少女を見るようになった。
「もういいんだ。ご両親がわかって下さればそれでいい」
と、丈は沈黙を破って、郁江の告発をさえぎった。
「だって東君。ここではっきりさせておいた方がいいわ。陽子を呼んで今夜何があったのか、陽子の口から聞きだせばいいんだわ」
陽子は家に連れ戻されるなり、自室に引き上げてしまい、後は両親の面罵が始まったのである。郁江がもっとも不満に思っているのもその点にかかっていた。陽子が一言二言でも両親に説明すれば、誤解は生じなかったはずと郁江は考えているのだ。
「いや、その必要はない。彼女も気が鎮まれば、きちんとご両親に説明するだろう。誤解は解ければそれでいいんだ。郁もあまり感情的になるな......」
「だって、あまりといえばあんまりな仕打だもの」
郁江はいまだに憤懣がおさまらなかった。
「陽子も陽子だわ。黙って引っ込むってことないと思うけど。みんなが一晩中かかって死物狂いで捜し出してくれたことに、一言ぐらいなんとかいってもいいんじゃない?」
郁江は陽子に対してあまり同情心を持っていないようであった。相手の非常識さに、たちまち吹っ飛んでしまったのかもしれない。陽子がどんな経験を経てきたか、それに思い及ばないのであろう。
「ご無礼ばかり申し上げて、まったく皆様には申しわけございませんでした」
さすがに父親が世慣れているところを見せて、態度を変えた。母親は感情が出尽して枯渇したのか、死人のような顔色になり、慄えているばかりだ。
「改めてお願いいたしたく存じますが、今夜陽子の身にどんなことがあったのか、お話し願えませんでしょうか? 知らぬこととは申せ、娘を皆さんで連れ戻して下さったこととも知らず、大変ご無礼を働きまして、お詫びの申し上げようもございません。どうぞお上りになって下さい......」
父親はようやく彼らが考えていたような容易な事態ではないと勘付いたらしい。非行少年がうちの娘を連れ出して夜遊びに耽っていたというようなありきたりの事ではないと悟ったのだ。
「もう遅いので、これで失礼させていただきます」
丈は父親の慫慂を固辞した。両親の感情が充分に鎮静するまでは話すべきでないと判断したのである。
「陽子さんが話すと思いますが、本人がその気になるまで、あまり問いたださないでやって下さい。今は話すべき時ではないと思いますが......しばらくして本人の気も鎮まったら、改めてご両親ともお話しするつもりでおります。どうかこれで今夜はご了承下さい」
丈は重い口調でいった。三千子が初めて聞くような苦渋に満ちた声音であった。
「生易しい経験ではありませんし、僕たちとしても軽々しく口にすることははばかられます。心を整理した後で、改めてお話するつもりです」
「しかし......」
父親は息を吞んだ。大変なことになったと実感したのであろう。顔がみるみる老けこんでしまった。
三千子は遂に口を出す機会がないままに、久保陽子の家を辞し去ったのだ。丈はもはや庇護者を必要としないまでに成長していた。見かけは少年であるが、内実はそうではない。むろん、少年らしさ、初々しさが消えたわけではないが、それは彼の感性の問題であり、すでにその判断力や慎重さ、思慮深さは確実なものであった。
郁江もそうだ、と三千子は思った。明らかに丈の影響が表われている。その年齢の少女よりもはるかに人柄の厚みが感じられる。おそらく最初からそうだったわけではあるまい。郁江は丈の秘書として多くのことを学びつつあるのだろう。
もう丈は姉の自分を必要としていない、と幾許かの淋しさとともに三千子は悟った。すでに丈は成人したのだ。それは年齢やその他形式的なものとは関りがない。月並な大人以上の成熟をもって丈は巣立ってしまった。
後は郁江や田崎のような助力者が、丈を支えて行くだろう。
にわかに己れの人生が空白になるのを知っても、三千子は驚かなかった。自分はもう務めを果たしたという感覚がつきまとっていた。丈が巣立った時、自分の人生が完了したのだと感じていた。
むろん、それは一時的な感慨にすぎず、ちょっとした気落ちであろう。人生の務めを終ったなどということがあるはずはない。三千子はまだ二十六歳であり、いわゆる適齢期の内にあった。自分の新しい人生を選択することができるはずだ。
しかし、三千子にはどうしてもそう思えないのだった。それは昔からの予感であった。弟の丈のためになにもしてやることがなくなった時、自分の人生は終りを告げるのだ......それはいわれのない漠然とした予感であり、確信めいたものであった。母親代りに幼い丈の面倒を見ながら、十代初期の三千子の胸にいつしか棲みついた秘かな考えであった。
むろん、それはずいぶん馬鹿げた奇矯な考えに違いない。が、ごく自然に少女であった三千子の心に醸成されて、今まで根をおろしてきたのである。
それは彼女が若い女性には珍しく、結婚生活に対して幻想を抱いたことがないという事実とわかちがたく結びついているはずであった。
いうまでもなく、理性的に考えれば、それらにはなんの根拠もないとわかる。むしろ、三千子の両肩を絞めつけていた義務感と責任感の重圧を物語るものであろう。精々小学校高学年の少女にとり、幼い弟たちを母親代りに育てることは、容易ならぬ重責であったからである。
もちろん、そんな考えは馬鹿げている、と三千子は思った。このような気落ちした時にもてあそぶ考えではない。今は充分に理性を働かすべき時で、他愛もない幻想に気を取られていてはならない。
丈が苦難の途を歩む限り、姉として補佐すべきことは沢山ある。
8
居間のガス・ストーブがかなり音高い燃焼音を響かせていた。熱いお茶で体は暖まったが、心には冷えびえとしたものがわだかまっていた。
早朝の牛乳配達がガラスの触れ合う音を外で立てている。白々とした冬の朝だった。寝不足で体が噓寒いが、そんなことは関心の外にあった。
丈は深い縦じわを一本秀でた鼻梁の上、眉根に刻み、いっしんに考えこんでいる。今日は講演会だから、もうお寝みなさいと口まで出かかったが、丈の表情にはそうした容喙を許さないほどのきびしさが立ちこめていた。
「姉さん......」
と、丈が唐突にいった。その呼びかけの調子で、三千子は彼を苦しめている心痛の深さを知ることができた。
「やっぱり僕は失敗した。みんなとではなく、一人で行けばよかった。僕は陽子を傷つけてしまったらしい。考えが浅すぎた!」
「でも、あの時は......」
「仕方なかった。陽子のことを心配して家を脱けだしてきた郁江をそのままにして行くこともできなかった。田崎さんにしても同じことだ......」
丈は息を停めるようにして黙りこんだ。三千子は言葉もなかった。丈を苦しめている自責は、慰めてすむようなものではなく、彼自身が解決しなければならぬ、と心にささやくものがあったのだ。
「もっとよく考えるべきだった。僕だけ、一人で迎えに行ったら、陽子のショックも少なかったかもしれない......特に郁江を連れて行ったのは失敗だった。陽子は完膚なきまでに傷ついたんじゃないか。それを郁江に知られるということは、実際に受けた体験よりもダメージが大きかったかもしれないんだ。姉さんはどう思う?」
「あたしもよくわからないけど、陽子さんは丈のことで、郁江さんに特殊な感情を持っていたということなのかしら?」
丈は苦しそうな表情でうなずいた。三千子は同情に堪えなかった。こんなことで、といっては陽子に申しわけないが、本筋とは違った苦労で精魂を擦り減らしている丈が気の毒でならなかった。女性関係で不行跡が多いというのと次元が異なるのだ。
「陽子は、郁江のことが原因で会を辞めた。僕にはわかってた。引き止めることもできたが、やらなかった。陽子が嫉妬やそうした厭な感情で苦しんでいるとわかっていたから、なおさらだった......それは陽子自身の問題なんだ。自分で解決しなきゃならない。離れて行く者に声もかけないというのは冷淡のように思えて、ずいぶん考えたが......」
「陽子さんは、やっぱり郁江さんに?」
「嫉妬というのはどうにもならない魔物だね、姉さん。身を灼き焦がすように苦しい感情だ......それに陽子は郁江に対して劣等感を持ってたんだと思う」
「だって、そんな必要はないのに......」
郁江の愛くるしさはとびぬけたものかもしれないが、陽子は陽子なりに愛らしいし、劣等感を持つなど無意味なことだ、と三千子はいいかけてやめた。丈はそんなことは百も承知だろう。
「陽子だけじゃない。他の女の子たちも幾人か会を遠ざかった。郁江のことが全ての原因ではないにしろ、面白くないことがいろいろ溜まったんだろうな」
「でも、それは、丈の責任なのかしら?」
と、三千子は堪りかねていった。
「自虐的になっちゃいけないわ、丈。それは本人の自覚とか、そうした責任の問題なのよ。そんな、郁江さんのことが原因で会を辞めたり、遠ざかったりするなら、それは本人に資格がなかったということじゃないかしら。
そうした人々はもともと自覚が充分でなく、情熱も責任感も、敢えていうなら使命感も不足しているから、いつかはなれて行く人たちだと思うの。去る者は追わずというのは、そのことだと思う。人間の心には各自の比重があって、比重の大小により分離が行なわれるのは不可避のことなのじゃないかしら?
だって、丈は最初から、会を少数精鋭主義で行くと宣言したじゃないの。それは、不適格者を分離するという意味だったはずでしょう? 陽子さんたちには、少し無慈悲ないい方になるかもしれないけれど、彼女たちが不適格者だという事実を自ら証してしまったということだとお姉さんは思う。
だって、郁江さんは何を考えてるのかわからないとか、虚無的だとか、図々しいとかいわれながら必死についてきているでしょ? 本人は懸命に努力しているのよ。脱落した人々に、郁江さんほどの努力があったかしら?
郁江さんもストレートな性格じゃないけれども、見栄は張らないで、なりふり構わず食いさがって行くひたむきな精神は、あたし買うんだけど......」
「姉さんはいざとなるとシビアーだな」
と、丈は微かに苦笑を浮かべた。
「でも、陽子がいなければ、会は発足しなかったんだ。彼女の尽力にはいくら感謝しても感謝しきれない。それを思うと、魂が痛むんだ」
「陽子さんがひたむきな心を持つ、すばらしい人だということを否定するわけじゃないわ。丈が彼女に負い目を感じているのも、よくわかる。あれだけ尽力してもらったのに、形としては冷たく突放し、見捨てざるを得ないという負い目を感じるのも、当然だと思うの。今の郁江さんが受けている不評も、陽子さんを追い出して秘書の座を乗取ったという、いわれのない会員たちの非難の感情がもたらしているんでしょう?
でもね、丈。陽子さんはやっぱりあなたにとても甘えがあったと思うの。こんなに尽してあげた、一生懸命やってあげたんだから、特別扱いにしてもらって当然だという甘えでしょう。最初の同志なんだから、後から入ってきた人たちといっしょに扱われたくない、特に郁江さんと同じ扱いはいやだ。自分だけはいつも丈から特別の感謝と賞讃を受け取っていたい。
うがった見方かもしれないけど、陽子さんの心にはいつも期待と甘えがあったと思うのね。それが満たされないなら、いっそのこと......可愛さあまって憎さが百倍というでしょう。陽子さんはそんな自分が怖かったのかもしれない。
陽子さんのことをよく知りもしないのに、こんなことをいうのはおかしいけど、お姉さんは自分なりにずっと考えてきたことなの」
三千子は静かにいった。彼女が丈に対して常に大きな説得力を発揮するのは、こうした諄々とした説き方が可能だからだった。感情にまかせて怒り声を張りあげることは、まずない。
一度、江田四朗を宙吊りにすることによってPKの存在を証明している現場を見つかり、目から火が出るほど激しく叱られたことはあるが、それはごく例外的なものだ。
姉の激怒がどんなに正しかったか、それは江田四朗が丈を憎悪し、現在もっともタチの悪い〈政敵〉となっていることでも明らかであった。
三千子は声を荒らげることなく、他に叱責を加え、あるいは反省をうながすことが楽々とできるのだった。
「姉さんのいう通りだと思う......」
丈は苦い感情をこめて呟いた。
「もちろん、陽子自身に問題がある。それはよくわかってる。充分に熟慮しながら、進めてきたつもりだったけど、落ちこぼれてしまう。ロスを見込む統計学的な数字ですませられることじゃない。こっちにも悔いが残るし、胸の痛みが残る。やはり全力を尽さなかったという後悔なんだろう。なんとかしなければと思っても、時間がない。だから、やむを得ず切り捨てることになってしまう......
しかし、こんなことをいっていても仕方がない。今は陽子に何がしてやれるかということなんだ。姉さん、僕はどうしたらいい? 陽子のためにいったい何をしてやったらいいんだろうか?」
丈は両手の拳を力いっぱい握り締め、緩め、また握り締める動作を繰り返していた。
「難しいわね......」
三千子は呟いた。姉にしては珍しく困惑の表情を露わにしていた。
「とても難しい問題で、お姉さんの手には余るわ。でも、本当に残酷な、非道なことを口にするようだけど......お姉さんの人格を疑われてしまうかもしれないけど......」
三千子は躊躇していた。丈は瞠いた目をまばたきもさせず、姉の顔に据えていた。
「丈、あなたは本当に、お姉さんの意見を聞きたい?」
「もちろん、聞かせてもらいたい。どんなことでも......」
と、丈は力をこめていった。
「じゃ、あたしの考えをいうわ。丈は、なにもしない方がいい......あたしはそう思う」
「............」
丈は無言で姉を見詰めた。
「物事には、なにもすべきでないという時があると思うの。今の陽子さんがそれだと思う......丈が陽子さんに救いの手を差し伸べようとする気持は美しく高貴だとお姉さんは思う。
でも、考えてみて。人が他人を救うというのはどういうことなのかしら? 本当にそんなことができるのかしら?」
「............」
丈はただ目を大きく瞠っていた。

「溺れている人を救うとか、行き倒れの病人に救いの手を差し伸べるとか、そういう具体的な行為のことをいっているんじゃないのよ。
でも、人がもし苦難の場にある時、その本人が全ての責を他人のせいにして、悪いのは他人だったから他人は自分を救けるべきだとなんの疑いもなく信じこんでいる。......そんな甘えに埋没した人間を、どうやって救けることができるか、ということなの。たとえば賭け事に凝った挙句、一文なしになった人間にお金をあげることが、果たして本人を救けることになるのか、ということ。そうしたことが本当に人を救けることかしら?
あたしは、人が他人を救けることなんか、もしかしたらできないんじゃないかと思っているの」
「じゃ、人を救うのは自分以外にないというわけ?」
「そう。苦難にある時、自分を救うのは自分以外にないとはっきり自覚したら......だって原因がなければ、結果はないものでしょ。その苦難を全て外的に求めず、自分自身が原因を造ったんだとはっきり認識して、自分の誤りを正そうとする意識的な努力がなければ、なにも問題は解決しないと思うの。
悪いことは全部他人のせいにする、そうした甘えの構造、苦難を安易に他人に肩代りしてもらおうとする他力本願的な発想をなんとかしなければ、苦難の原因は決して失くならず、次から次に新しい苦難の原因を造り出して行くことになるはずよ。
そういう意味で、人を救うのは、自分以外にはない。お姉さんはそう思うんだけど。他人を救うというのは、ただ単に他人の頭にたかる蠅を一時的に追ってやるだけのことじゃないかしら? 苦難の原因を断ち切るのは、本人以外には出来ないのだから......
欲望に狂い、欲望の虜囚になっている人間の欲望を充足させてやることは、ただの一時凌ぎにしかすぎない。かえって悪い状態を引き寄せていることになる。だとすれば、他人を救うなんて考え方は、傲慢にすぎるのじゃないかしら? もし、自分の頭の蠅も追うことのできない人間がそんなことをいいだしたら、滑稽なだけでしょう? 他人を救けるなんて、できっこないわよね?
自分を救う者は自分しかない、といったのは、そういう意味なの。苦しみの原因は他ならぬ自分が造りだしているのだ、とはっきり自覚した時、人は苦しみの原因を取り除くことに気がつくでしょう。〝人を救う〟というのは、その真理に気付かせることで、他人の苦難を肩代りしてやろうということではないと思うのだけれど......」
丈の大きく瞠いた目は驚きの色をたたえていた。
「それは本当だ。自分で気付かなきゃ、なんにもならないんだ! 悪いことは全部他人のせいにして、他人に救けてもらうことだけを求めている人間を救けようとしたって、なんにもならない! 本当に救けることにはならないんだ。競輪競馬で一文なしになった人間に金をやれば、すぐに勝負を続けにすっとんで行くものな」
丈は啓発を受けた者の感動をこめて、叫ぶようにいった。
「姉さんのいうことは真理だ。真の救済は、欲望を充足させてやることじゃない。自分を救う者は自分以外にないと知らせてやることなんだな! なぜなら物事は常に結果であって、結果は原因なしに存在しないからだ! 苦しみには原因が必ずあり、その原因を切りはなさなければ、苦しみは決して消えない。そして、原因を造りだしているのは、他人ではなく他ならぬ自分自身だからだ......
なんでおれはこれに気がつかなかったんだろうな!? 姉さんのいう通りだ! おれは他人を救ってやるという傲慢さの虜になって、自分でも気付かなかったんだ。考えてみると、おれほど傲慢な人間はいないみたいだ。自分の頭の蠅を追うこともできない人間が、他人を救済しようなんて......」
丈の顔は歪んできた。自分の感情をもて余しているのだった。
「もちろん、他人のために救済をと思う心根は高貴だと思う。お姉さんはその気持を否定しているわけじゃないのよ」
と、三千子は急いでいった。
「丈が、陽子さんのために心痛し、なんとかしてあげなければと思う心を否定するつもりはないの。誤解しないでね。ただ、陽子さんの苦難の原因が、自分の心で造りだされている以上、丈が無原則で動くことは、とても危険じゃないかしら......
丈が苦しい気持でいるのはよくわかるけれども、今は待つことも必要なのじゃないかと思うの。陽子さんのためにも......やはり時が解決するとしかいいようのないことがあるし、今度の場合もそうだと思う。だって、このようなケースは一度だけではなく、今後もどんどん増えてくるかもしれないのよ。
それでも丈は前進を止めるわけにはいかないのだし、どんなに辛い目を味わったとしても後退は許されないはずよ。もともと丈がやろうとしていることは、生易しいことではないのだから......
だとしたら、今度のことは、丈自身腹をきめて、おろおろせずにかかるべきではないかしら? もちろん陽子さんのために、丈ができることはしてあげるべきだわ。でも、それが陽子さんにとって、本当にいいことなのかどうかよく考えぬいた上ですべきね。一時の衝動的、発作的な感情にまかせて動いてはだめ。もっと大きな広い視野で見て、なにをすべきか決めることが大事だとお姉さんは思うんだけど......」
「冷却期間を置くべきだというんだね?」
と、丈は尋ねた。
「そう。今は陽子さんにとってはとてもショッキングなことが起こったばかりだから、特に慎重にすべきだと思う。ご両親にはもっと早く打ち明けて、陽子さんが傷ついていることをよく理解していただく方がいいわね」
「............」
丈は沈黙した。陽子の身にいったいどんなことが生じたのか、本当のところはだれにもわからない。しかし、それを陽子の口から聞き出すことはできないであろう。灼きつくような焦燥感が、丈の心身にうごめいていた。それはいかに姉に説得され、納得が行ったとしても消えようのないものであった。
久保陽子は、江田四朗の餌食になった。それが異常に変質的なものであることは、想像がつかないわけではない。それはだれも口に出せない類いのものだ。陽子がどれだけ傷ついたか、丈には本当に理解しえないのかもしれなかった。
しかも、それは丈に対して行なわれた凌辱行為だった。江田四朗が陽子を餌食にしたのは、丈の存在を抜きにしてはありえないことだったのだ。
それを思うと、丈の心は強酸のような苦悶が沸きたち、それを抑えようとする努力で、顔面は石のように硬化してくるのだった。陽子を犠牲にした悔恨は、強酸に灼かれた皮膚さながらに激痛となって丈を苦しめた。
三千子はそんな丈の心を見抜いて、説得のためいつになく長広舌を振るい続けているのであろう。姉の思いやりはよくわかるが、丈の受けた痛手を救済することは不可能であった。
三千子のいうことは、まったく一から十まで正しい。完璧な正当さを持っていた。しかし、それだけに丈はどうにもならない気持に追いやられた。
賢明な姉は、彼の罪障を軽減すべく、明快な論理性をもって、責任の真の所在を明確にさせた。その論理を辿るかぎり、今回の陽子の奇禍の責任は丈にはまったくない。事実その通りなのだ。だれをも首肯させ、丈の免責を納得させるであろう。
しかし、丈にとっては、論理で終始し、完結する問題ではありえなかった。理屈がどうであれ、それが丈の責任にかかわることを、彼は心で全面的に感じとっていたからである。
なによりも、丈は久保陽子を愛していた。彼の最初のひたむきな助力者としての彼女に感謝し、彼女が離反した後も、気遣う思いが薄れたことはなかったし、彼女を放置しておかねばならぬことにやましさを覚え、心が痛んでいた。
丈がどれだけのエネルギーを費して、今の己れを支えているか、姉の三千子にも考え及ばないことだったであろう。
丈は全身が麻痺し、石化して行く虚ろな感覚の中にあった。あまりにも強度の抑圧を己れに課しているがためだった。
己れの感情の激発を恐れるがためだった。瞋恚は丈の魂を灼き焦しているが、激情の奔騰への恐怖は更に大きかった。
傍目には、丈は水のような冷静さを保持し、遂に動じることがなかったと見えようとも、丈自身は己れがいかに脆弱な崖淵に立たされているかを知り尽していた。
王女ルナは、丈の弱点を完全に見抜いていたのだ。
丈は火薬庫の番人である。それも不注意でうかつな、だらしのない番人である。丈が火薬庫に火を入れ、全てを宙天高く吹き飛ばしてしまう事態を、どんなに容易に招来するか、ルナ王女は的確に指摘した。
丈が激情に我を失った時、その火は顕われる。そして丈の底知れぬ巨大な潜在的PKを天変地異の如く発動させてしまうのだ。
その恐怖が丈を縛っていた。自分で自分にかけた呪縛であった。
観音寺の境内に入り、伽藍にPKを及ぼした時も、丈が薄氷を踏んでいたことに、三千子ですら気付かなかった。わずかにでも抑圧が緩めば、伽藍はあとかたもなくカードの城のように潰え去っていたろう。
丈の裡には、すでに火があった。それが火薬に燃え移るのは実にたやすかった。呪縛を解き放つ誘惑は、あまりにも巨大すぎた。
ルナ王女の鋭い禁忌をもたらす声音ですらも、丈を抑えておくことは不可能だったかもしれない。丈はほとんど爆発しかけていたのだ。
なにかが丈を押し止めた。江田四朗が丈の暴発を待ち望んでいるという洞察もあった。四朗には、丈の読み切れない企みがあったのは確かである。しかし、それだけではない。彼の激情に辛うじて抑圧の歯止めをかけたのは、責任感だったようである。未来の多くの人々に対する責任の重み、丈が崩れることによってそれらの人々を見捨てる結果を産むという自覚、それだけが彼を危く支えた。
今となれば、そうとしか思えないのだった。未来の時制において遭遇するべき人々が、現在の丈に対して寄せる想いの重みというものを、丈は実感として持ったのである。
私情に負けることはできない。その自覚が彼に克己の力を与えた。それらの人々は、未来の時点で丈を待ちわびている。彼らのためにも丈は、いかなる苦しみに堪えることを要求されたとしても、対価を払い、そこへ行きつかなければならない。
しかし、その洞察はおそらく最初からあったはずだ。さもなければ、姉たち、多すぎる同行者を伴って、久保陽子を取り戻しに出かけた理由が見出せなくなる。
さもなくば、丈は単身で陽子を奪還におもむき、その恐るべき〝力〟を全面解放する破目に立ち至ったかもしれないのだ......
試練はまだ少しも終っていない!
そう思うと体に汗が滲んできた。久保陽子の問題もさることながら、江田四朗との対決はこれからだ。相手が汚い反則のやりほうだいであるのに、丈はまったく〝力〟を封じられた状態で立ち向わねばならない。
そして、久保陽子の問題も将来に向けての禍根として残る。丈にはそれがほとんど確定した事実のように感じられた。おそらく未来透視の力が作用しているのかもしれない。
陽子は、丈の前途に容易ならぬ難題を投げかけるであろう。それは不吉な黒雲が体を包みこみ、からみついてくる無気味な圧力として感じられる。
現実が不条理な悪夢世界にみるみる変貌するお馴染みの不快感のため、丈は体中にねっとりした冷たい汗を搔いた。体が冷たく汚れて臭っているような気分になった。
「お風呂に入って、一眠りしたら?」
と、三千子が勧めてくれた。
「午後からの講演会に備えて、少し体を休めておかないと......」
眠るどころではなかった。講演会場での準備が早朝から始まっているはずだ。とうてい眠ってなどいられない。
「お風呂、まだぬるくなっていないと思うの。今お湯加減見てくるわね」
と、三千子が立上る。彼女も眠気がさしている気配はまったくなかった。それは井沢郁江にしても田崎宏にしても同じであろう。
丈は寒さを覚え、身をすくめた。生体エネルギーが減退しているのを感じた。疲労ではない。気分が陥ちこんでいるからだ。ネガティヴな心境は生体エネルギーを萎えさせる。よくわかっているのだが、そう簡単に精神状態を転換することはできない。
うっかり風邪を引きこむのもこんな時だった。生体エネルギーの低下は、即座に体調の低下としてはねかえってくる。数日前までひどい風邪を引いていたのも、心を悩ますことが多すぎたからであろう。
しかし、その重い風邪は、他人のために生体エネルギーを注入することで完全に治ってしまった。己れ自身のことにこだわり、気にしていると生体エネルギーのポテンシャルはてきめんに低下する。自己に固執することをやめれば復する。それは明らかな相関関係を有していた。
丈はニューヨークのルナ王女たちに思いを馳せた。彼らの計画は順調に進展しているだろうか。それを祈りたい気持だった。彼らからはなんの音沙汰もない。まるで縁が切れてしまったような気分にすらなる。
しかし、彼らがどうあろうと、丈は丈で計画を進めていかねばならない。さもなければ、徒らに時間が失われて行くばかりだ。
丈は精神の焦点を、今日のクリスマス講演会に引き戻した。絶対に失敗は許されない。マスコミの関心が今日の講演会に集中しているからだ。どんなことがあろうと成功させなければならなかった。
もちろん、マスコミのためではない。未来の時制において丈がたどり着くのを待ちわびている多数の人々のためであった。彼らはまだ丈のことを知らず、知る機会も持っていない。しかし、それでもなお彼らは丈が到着するのを熱烈に待っているのだ。
そして、丈が宇宙の真理を、彼らにもたらした時、多くの人々は目覚める。けれども、丈がもし挫折を迎えるならば、その人々の期待、切望は空しくなってしまうであろう。
講演会の会場に集まる者たちが全てではないのだ。丈の到着を待っている人々はまだこの世に生れていないかもしれない。そうした無数の人間たちに、丈はどうしてもメッセージを届けなければならなかった。
その責任の巨大さを思えば、心を陥ちこませているなど、とうてい許されないことであった。最善の状態を作りだし、講演会を成功に導くことこそ、丈のなすべき絶対の責務であった。
「丈。お風呂ちょうどいいわよ。お入りなさい」
三千子の声が湯殿から響いてきた。丈は返事を返し、吐息をついて身を起こした。どんな重大な責務があろうと、その前に風呂に入らなければならない。単純なことが大事なのだと丈は思った。すると、片頰に笑いが浮いてきた。
最初になすべきなのは、気力を回復することだ。活力を呼びさませば、おのずといい智恵も湧いてくるだろう。青筋をたてて、必死に頑張るだけが能ではない。
まったくその通りだった。
9
結局、丈は一睡もせずに、渋谷の事務所へ出ることになった。井沢郁江も同様だったらしく、寝不足の顔で事務所へ出てきた。しかし、若いだけあって、さすがに疲れはたいして目立たない。
係員のほとんどは、中央区の会場へ出払ってしまい、事務所はがらんとしていた。電話連絡の要員たちが残っているだけだ。しかし、講演会の問合せは多く、朝から跡切れ目もなく電話のベルが鳴り続けていた。
丈は応接室に閉じこもって原稿を書いていた。丈の最初の本はほぼ書きあげられた状態にあった。しかし、版元の出版社はまだ決まっていない。K──社の編集者本田が、是非とも原稿を読ませてほしいといっている程度で、具体的なものではない。
しかし、丈には確信があった。必ずこの原稿は本になり、反響を呼ぶだろう。もちろん丈は文章に関してはアマチュアでしかないから、構成などの技術的な細かいことはわからない。おそらく未熟であることは止むをえないことだろう。が、それでもなお、内容的には絶対の確信があるのだった。
なによりも夏以来、五か月をかけて四百字詰六百枚に達する原稿を丹念に書き上げた事実が、丈に経験のもたらす自信を与えていた。それだけのことが自分になしえたという発見は、驚異であり、大きな感動を呼び起した。
午後の講演会の前に、原稿を全部書き上げようとしていたのだ。期せずしてそういう廻り合せになったのである。
デスクの上に積み上げた六百枚の生原稿の重みがペンを推し進めるように、最終パートの文章は飛ぶようにはかどった。十枚、二十枚とまたたく間に過ぎて行き、その間丈は一度も腰を上げなかった。ペンに霊魂が宿ったように、めまぐるしいスピードで文字が自ら生じて行くようである。
結びの文章を書いた時も、ごく平静な気分のままだった。これで終ったという想念だけで、格別の感慨はなにもない。意識はすでに午後の講演会に向いている。
原稿があがったことを、K──社の編集者本田に知らせようと思いたって、丈は応接室を出た。もちろん脱稿したら見せる、というだけの口約束であり、その他にはなにもない。なによりも本田が丈のよき理解者だということであり、真先に知らせてともに喜んでもらいたいと思ったのだ。
事務局にいた郁江は、丈の顔色を見ただけで察したようであった。最近は秘書役も板について、勘がよくなっている。
「原稿、あがったの?」
と、尋く。丈がうなずくと、事務局にいた会員がいっせいに歓声をあげた。丈が執筆に難渋していることをみな気にかけていたのであろう。
「おめでとう、東君。出版記念講演会になったわね!」
郁江は声を弾ませた。菊谷明子がお茶を淹れて、どうぞと差し出す。丈が応接室に閉じこもり、原稿と格闘している間は、遠慮してだれも入ってこなかった。お茶を運ぶことも控えていたのであろう。
丈はお茶を一口飲んで、湯吞を机に置き、K──社の代表番号を廻しにかかった。
「それは、素晴らしいですね!」
と、本田はいった。訥弁であることが、逆に彼の感動をより熱っぽく伝えてきた。
「それは、是非、拝見させて下さい! 今日の講演会、出席するつもりだったんですけれども、できればその前にお目にかかって原稿を拝見させていただけないですか?」
「原稿は本田さんにおあずけします」
と、丈は無造作にいった。
「読んでいただければ、僕も嬉しいです。なにぶん素人の書いた生原稿ですから、読みにくいと思いますが......」
「ご心配には及びません。生原稿は読み慣れていますから。それより私こそ、東先生の最初の原稿を拝見できるなんて、光栄ですよ」
本田はすぐに事務所に向うといって、気忙しく電話を切った。
「御本が出るんですね、先生!」
と保母の菊谷明子が声をうわずらせていった。丈には、ぴんとこないほどの感動ぶりであった。本が刊行されるのは、そんなに大変なことなのかと彼は思った。
「まだ出版社も決まっていない。原稿を書きあげただけだから」
「でも、K──社から出るんでしょう?」
「まだ、そうと決まったわけじゃないんだ。本田さんには原稿を見せるという約束があっただけで......」
「先生の御本なら、どこの出版社でも喜んでとびついてきますわ」
と、菊谷明子は絶対の確信をこめていった。
「ああ、早く読みたい......」
他の事務員たちも同じ思いをこめて嘆声を漏らした。
「来年早々ぐらいには本になりますか、先生?」
「まさか、そんなに早くは出ないだろう」
丈も出版界のことは詳しくない。原稿を書きあげたからといって、簡単には本にならないという基本的な知識はある。
それに、丈には書きあげたばかりの原稿がどの程度の出来なのか、判断がつかない。どうしても他人の目による判断が必要なのだ。けれども、上梓されれば大きな反響を呼ぶであろうという予感はある。自信は少しもないが、そうした不合理な確信だけは存在しているのだった。
そこへ田崎宏から電話がかかってきた。タフな田崎はいうまでもなく睡眠不足などおくびにも出さなかった。
「先生......実は祖父が、先生の講演会のことを聞いて、是非聴きに行きたいといっているんですが......」
田崎は神妙にいった。照れくさげでもあった。
「祖父は、おれがちょっと話したら、たいへん先生に関心を持ちまして、なんとかして先生にあわせてくれといいだして、今手古擦ってます」
田崎の祖父は、保守党の大長老で、法務大臣を何度もやった大物である。丈には予想もつかないことだった。まさかという感じだ。
「今日の講演会、祖父の席をなんとか都合していただけるとありがたいんですが......どうもいきなり我儘をいって申しわけありませんが......」
田崎は恐縮していた。丈は電話を井沢郁江に渡した。郁江が招待席をやりくりするだろう。
「先生、凄いですね」
と、話を聞いていた菊谷明子がいった。田崎の祖父が何者かもちろん知っているからだ。
「今日の講演会は大成功疑いなしですわ。すばらしいお天気ですし。なにもかもとんとん拍子に行くみたい」
彼女たちは、昨夜何が起きたかなにも知らない。前途多難であるとは夢にも思わず、ごく単純に喜んでいる。丈は全身にからみついてくる黒雲のような切迫感、不安感が杞憂であってほしいと願わずにはいられなかった。
事務局の中は、講演会のきれいなポスターがべた一面に貼られ、気分を盛りあげていた。東に面した窓からは、明るい午前の陽光がいっぱいに射しこんでいる。彼女たちがおおいに気分をよくするのも当然であった。なにぶん公開講演会の皮切りなのだ。講演会の聴衆の入りは天候によって大きく左右される。好天を祈った心が通じたということであろう。
会員はトータルでも七百名足らずである。この数か月間、目減りが続いたから、五百名程度にまで落ちこんでいるかもしれない。中央区の会場は二千名を収容することが可能だ。会員だけでは半分も埋まらない。
マスコミ関係の問合せは多かったが、彼らがいかに大量にやってきても、会場の空きが埋まるはずはなかった。
当日が雨模様であれば、悲惨なことになりかねない、と事務局員たちは大いに気をもんでいたようである。
高名な政治家が来ると知って、百万の味方を得た心強さを覚えたのであろう。
丈は田崎が祖父に無理やり頼みこんで、出馬を要請したのではないかという気がした。乱暴者の孫を溺愛している老政治家は、腰をあげるしかなかったのではないか。
丈にとってはその程度のことでしかなかった。もちろん、田崎には感謝している。しかし老政治家が義理で来てくれるからといって、丈がエキサイトする理由はなにもない。
丈は応接室に戻り、原稿の整理をしようとした。原稿箋にまだナンバーも打っていないのだ。章題も考えなければならないパートが幾つも残されている。
「あたしがやるわよ、東君」
郁江が丈の仕事を取り上げて、ナンバーを振り始めた。郁江は血色が悪かった。気が張っているので疲れは表に出ていないが、さすがにいつもの精気は見られない。
「大丈夫か?」
丈は郁江の顔を真正面から見詰めながら尋ねた。
「大丈夫よ。決まってるじゃない。まだ若いんですからね」
と、郁江は強い調子でいった。しかし、普段の弾力のある声音と多少違うようだ。
「無理するなよ。体調がよくないと思った時は、あまり頑張らない方がいい」
「なによ。東君だって、ちょっと前までひどい風邪を引きこんでいたじゃない。今日の講演会、大丈夫なんでしょうね」
郁江はやり返した。しかし、丈はその気強さの裏にどす黒い疲労がよどんでいるような気がして、落ち着かなかった。なぜか、郁江のことが気がかりでならないのだった。
「郁のことが気になるんだ」
と、丈は黒い瞳で、彼女の顔を凝視しながらいった。
「今日はあまり無理するなよ......少し仮眠でもした方がいいんじゃないか」
「本当に、なにいっているのよ。だから大丈夫だといってるでしょ。なぜそんなことをしつこくいうの? あたしはタフなのよ」
郁江は少し怒ったようにいった。丈のいい方が執拗だと感じたようである。
「だけど、心配なんだ......」
丈はなおも言葉を重ねた。彼には珍しいことだった。彼は執拗な性格ではない。
「東君こそ昼寝でもしたら? 人を病人みたいにいわないでよ。なんだか妙な気分になってきちゃうじゃない......ま、いいや。病気になったら、東君に治してもらうから」
郁江は丈の視線の圧力に堪えかねたように顔をそらした。
「どこも、なんともないわ。だから、心配しないで......それより、東君、今日からいよいよ東先生と呼ばなきゃいけないみたいね。元大臣の政治家がやってくるようじゃ、東君なんて、気易く呼べなくなっちゃったわね」
彼女は気をそらすようにいった。
「あたしも、先生って呼ぼうかな。ねえ、東先生」
「東君でもいいよ。郁がそんなにかしこまったら、肩が凝ってくる。本当は先生呼ばわりは好きじゃない。特に年長者から敬々しく呼ばれるのはね」
「本当は、あたしみたいなのがくっついてない方がいいのよね。もっと年長者で、賢い適任者が必要だと思うの。だって、今日から東君はまた一廻り大きな存在になってしまうから......もうあたしみたいなガキじゃあだめね」
郁江らしくない情感がこもっていた。
「ねえ、そうでしょう。東君?」
「郁はそのままでいいよ......しかし、どうせ郁は頑張るつもりだろう? お前のような子供じゃだめだといわれたとしても......」
「ううん。そんなことないの。かなり本気で考えているのよ。やっぱり頑張ってみても、あたしじゃ決定的に力不足だもの」
郁江はひどく真面目な顔をしていた。
「だから、あたしね、陽子の気持がわかるようになったの。どうしても能力不足で、他人に席をゆずらざるを得ない破目になったら......あたしも陽子みたいにひがんじゃうかなって」
顔をうつむけて、原稿箋にナンバーを振る作業に熱中するふりをしていた。
「この本が出たら、東君は決定的に有名人になってしまうでしょ。どう考えても、あたしには秘書なんか務める資格はないなと思ってしまうもの」
「郁らしくないな。なにくそと頑張る精神が取柄だったんだろう?」
「あたし、本当に東君のそばにいてもいいのかしら?」
「それは郁が決めることだ。僕はもう用ずみだからといって追っぱらったりしたことはないよ。全ては本人次第だ。陽子だって自分で決めて去っていったんだ。だれも一生懸命やっている人間を追い出したりなんかしない。自分の値打は自分で決めるんだ」
「陽子のことを考えると、堪らない気持になるの。あたしを恨んでいるだろうなと思って......」
郁江はうつむいたままいった。
「なぜそう思うんだ?」
「考えてみると、会は最初、東君と陽子で造ったんだし、後から入ったあたしが、東君の秘書役を取り上げてしまったようなものだもの......結局、それで陽子はがっかりして会を辞めたわけでしょ。あたしって、つくづくいやな女だなって思う。なにさ、馬鹿みたい、なんて思っていたから......だれも辞めろなんていってないし、追いだしたりしたわけでもないのにさ、なんて......
やっぱりあたしってよっぽど専横だったのかなあって思う。陽子に恨まれてもしょうがないわよね」
「陽子は君を恨んでなんかいないよ」
と、丈はぎくりとして反射的にいった。悪寒が生じていた。なぜだかわからない。
「やっぱり、人間って同じ目に遭わないと他人の悲苦なんてわからないのかしら? 今となれば、とっても陽子の気持がわかるの。これで、素晴らしい秘書の適任者が会に入ってきて、隅へ追いやられたら、ずいぶん苦しい思いをするだろうなあと思って......」
「君は陽子と違うさ。この数か月で、視野が広くなったし、成長もしている。陽子と同じように振舞うとは、僕は思わない」
「わからないわよ。東君はきっとあたしを買いかぶってるもの」
「もっと自信を持てよ、郁」
と、丈は力をこめていった。郁江はうつむいたまま、くすりと笑った。
「もちろん、あたしは辞めやしないわ。こう見えても執念深いんだから。出ていけといわれても、カキみたいにへばりついているから」
「そう。それでいい。陽子のことは、僕にまかしておけよ」
「陽子、どうするの?」
郁江はちらりと上眼遣いに彼を見た。その目の動きが、妙に女性を感じさせた。以前の郁江にはなかったことだ。〝郁姫〟と会員たちに呼ばれていた彼女は、傲然と専横なものを感じさせる眼付で丈までも見下していた。
今の彼女は屈折し、気弱になっているのがわかる。
「いずれ、折を見て説得するつもりだ。昨夜は話をする機会もなかったから......」
「説得なんて通じるのかしら?」
「よく話して聞かせれば......しかし、時間がかかるかもしれないけれどね」
丈は依然として悪寒を感じつづけていた。とめどもなく湧いてくる寒気だ。郁江に気付かれるのではないかと気になった。たぶん鳥肌を立てているに違いないからだ。
「東君。もしあたしが陽子と同じ目に遭ったら、どうすると思う?」
「しかし、郁はニセの電話の呼び出しでフラフラと夜中に出かけて行くか?」
丈が反問をする。もう陽子の件には触れたくなかった。心が乱れて、講演会にも支障が出る。そんな功利主義がしきりに働いている。しかし、それが逃避だということもわかっていた。陽子にかかずらう煩わしさを避け、心から払いのけてしまいたいという逃避願望があるのだ。
「でも、考えてみれば、そんなのはおかしいわ」
郁江が反論した。
「だって、陽子はとても慎重だもの。それに東君から直接電話で呼び出されるのならともかく、ニセ電話でフラフラと誘いだされるかしら? 話を聞いた時、真先におかしいなと思ったの。だって、小さな子供じゃないんだもの......それに陽子は東君のことをよく知ってるし、夜中に呼びだすようなことをするはずがないと思うんじゃないかな......それがフラフラ出て行くなんて、催眠術にでもかかったみたい」
催眠術? 丈の意識は激しくその言葉に集中し、灼きついた。なおも郁江が喋っているが、耳に入らないほどだった。
「電話に気をつけろ、郁」
と、丈はいきなりいった。
「いつも相手を慎重に確かめるんだ。だれかが誘い出そうとしても絶対に乗るな。怪しいと思ったら、必ず逆に電話をかけて確認しろ。僕の名前を騙る奴には特に注意するんだ。三千子姉さんなり僕に必ず連絡するようにしろ。いいな......」
「どうしたの、東君。血相を変えて......やっぱり陽子は催眠術をかけられて、誘いだされたの?」
「催眠術だ。江田の奴はあの観音寺でも、僕たちに催眠をかけたじゃないか。江田は催眠が得意なんだ。陽子をおびきだしたのも、催眠をかけたに違いないんだ......」
丈は激しい興奮に突き上げられながら、口走った。催眠の業の名手はルナ王女であり、その恐ろしいほどの威力は、幾度も目のあたりにしている。
江田四朗がなぜ、同じ業の使い手だと即座に認識できなかったのか。それは丈の裡に、彼に対する軽視、蔑視が存在したからであろう。
確かに丈は、江田四朗を見くびっていたのだ。どうせたいしたことはできまいと、頭から思いこんでいたのである。
「そんなことが本当にできるのかしら?」
「できる。もっと凄い催眠力の持主を僕は知ってる。催眠術というのは、心に対しておよぼす強制力なんだ」
「そうだとしたら、あたしも危いわね。いつ催眠術にかけられて、ふらふらと誘いだされるかもしれないもの。もし、やられたのがあたしだったら、とさっきいったでしょう? 恐ろしいほどの催眠術で心の中に、他人の考えを植えつけられて、外見ではまったく変らないけれども、東君を陥れるように指令を受けた、〝刺客〟に変えられて、何食わぬ顔で戻ってきたらどうなのかしら?」
「君は恐ろしいことを平気でいうな」
丈は思わず慄然として、郁江の愛らしい顔を見返した。
「もし、外見は変らず、中身は化物になっていたとしたら......」
「僕にはすぐわかるだろうな」
そんなことはありえないと即座に否定できないのが恐ろしかった。
「中身は一目でわかる。だから、心配しなくてもいい」
「もし、あたしがそんな化物に変えられてしまったら......中身は穢らわしい得体の知れない化物に変えられてしまったら......」
否応なしに、〝幻魔〟によって中身を貪り喰らわれ、皮膚一枚を残して化物に変えられた死せる恋人、沢川淳子の強烈な恐怖の記憶が甦り、丈は胴震いしていた。
「いやだ、東君も慄えるのね」
と、郁江は目ざとくいった。
「東君もこわがることってあるの? そんなに落ち着いて頼もしそうで、物凄い超能力を持っているのに......変ね」
「変じゃない。僕だって恐ろしいことは恐ろしいんだ。しかし、君はそんなことをよく平気でいえるな」
「平気じゃないわ。でも、東君に頼んでおきたいことがあるの。もし、そんなおぞましいぞっとする化物にあたしが変えられたら、殺してほしいの」
殺す......その言葉は郁江の愛らしい紅唇からすらりと滑りでた。笑う、泣く、その程度の語感しか感じさせなかった。
「そんな顔しないで。その時はその時なんですもの」
と、彼女は微かに笑っていった。
「東君の超能力で、二度と出てこられないように地底深く埋葬してほしいの。東君にならできるでしょう? 東君には、化物に変る前のあたしを憶えておいてもらいたいから。きれいで可愛い郁姫をね。こうしてみると、あたしって自分で思っていたよりロマンティストみたい」
「............」
丈は言葉を見失った。こうした凄まじい言葉を平気で吐ける郁江に畏怖を覚えていた。そして言外に托している意味も、彼を居すくめるだけの力を有していた。
「でも、これはあたしだけじゃなくて、女だったらだれでもそう思うんじゃないかなあ。やっぱり一番すばらしかったころの自分を憶えていてもらいたいと思うはずよ。不浄な化物に変ってしまう以前の自分の記憶を、好きな人に焼きつけておきたい......化物になった自分は見ないで焼き捨ててしまってもらいたい......東君、これだけは絶対に憶えていてね」
「............」
「でも、考えてみたら、なんだか吸血鬼伝説に似てるわね」
と、郁江はくすりと笑っていった。
「吸血鬼に血を吸われた人間も、死んだ後に吸血鬼に変ってしまうというんでしょ?」
「もうこの話はよそう」
丈は堪りかねていった。
「そんな心配はしなくていい。郁は俺が守ってやる。俺がついてるんだ。江田なんかに絶対に手出しはさせない。絶対にだ!」
「もちろん、東君が江田四朗なんかに負けるとは思わない。今あたしがいったのも、一時の気まぐれかもしれないから、気にしないで」
と、郁江はいつもの若干無責任な郁姫の調子に戻っていった。
「あたしってすぐにころりと気が変るから。心ってコロコロ変るからココロだっていうの本当かしら?」
「陽子のことはもう禁句だ。だれかに聞かれても、まずいことになる。君も二度と口にするな。とにかく心配はいらない......」
「じゃ、東君は本当に江田と対決してやっつけるつもりなの?」
「君や田崎が期待するような、乱暴な対決じゃないかもしれないが、対決から逃げだすようなことは決してしない」
「でも、結局は東君もやらざるを得ないんじゃない?」
と、郁江はきらきら光る目で、上眼遣いに丈を見ながらいった。丈は彼女が前のようにひたすら愛くるしいだけではなく、いささか凄みを感じさせるような、成熟した美しさを備え始めたのに気付き、愕然とした。
〝応えない郁姫〟も徐々に変貌しつつあるのだ。しかし、その心の裡でなにが変りつつあるのか、丈の理解を超えるものがあった。依然として、女の気持ほど不可解なものはないのだった。
「やらざるを得ないというのは、力ずくの対決のことか?」
「東君には、どこか危険なものがあるわ」
郁江の言葉は、丈の心を重くさせた。彼女もまた洞察しているのかもしれなかった。
「あんまり我慢しない方がいいんじゃないの? 前はあんなに苛々して怒りっぽかった東君だもの。とっても無理してるみたい。そのうちに大爆発するんじゃないかな」
「そう見えるか?」
「うん。やっぱり東君って活火山なのよね。それがちょっと一時休止していただけ。絶えず小爆発を起こしたり噴火したりしてるから無事なので、あまりおとなしいと大爆発の前兆という無気味さを感じるわ」
「............」
丈は言葉が見当たらなかった。おそらく彼女は、ルナ王女と同じものを丈の裡に見ているのかもしれない。自分はやはり危険なのだ、と丈ははっきりと知った。自分の穏和さは本物ではなく、付焼刃にすぎない。簡単に抑制を吹き飛ばして大噴火するマグマが自分の内側に蔵されている。
だからこそ、姉の三千子も、自分の死さえ引合に出して、彼の自重を求めずにいられなかったのであろう。見るものが見れば、自分の抑制がいかに頼りないものか、一目瞭然なのだ......
「だから、あまり感情を裡に押しこめて、我慢しない方がいいわよ、東君。怒る時には、ガンガン怒った方がいいと思う。でも、あたしにだけは怒っちゃだめ」
丈の深刻さに驚いたのか、郁江は珍しく道化てみせた。
「甘やかせば、人間はつけあがるわけ。あたしみたいに増長して、もはや手に負えなくなるでしょ。だから無用な我慢はしない方がいいのね。最初に鼻面へ一発喰らわして、鼻柱を折っておけばよかったのよ。さもないと、後で必ず後悔することになるものね。江田四朗だって同じよ。もっと前にきっちりとケリをつけておけばよかった。そうすれば、今度みたいな被害者も出なかったんじゃない?」
「しかし、僕は裁判官じゃない。検事でもないし、警官ですらもないんだ......それなのに江田四朗を審くことはできやしない」
「でも、それは自己弁護みたいに聞こえるわ。もちろん、あたしの考え方が間違っているかもしれないし、それは認めるけど。東君が、江田四朗の〝力〟を封じられるのに、そうしないことで、彼を元気づけさせたとしたら......それでも僕は裁判官じゃないなんて、東君はいうの?」
丈は呆然として郁江を見つめた。彼女がこれほど仮借なく鋭いものを秘めていようとは考え及ばなかったのだ。
まるでルナ王女が、郁江の裡に宿っているような気がした。あの可愛い郁江とは信じられない鋭気をもって、丈は追及を受けていた。
「もちろん、東君が責任逃れをやるような人だとは思っていないわ」
と、郁江は調子を落していった。
「でも、やる時には決然としてやってほしいの。犠牲者をむやみに出さないうちに......やっぱり東君は、指導者としてとても大きな責任があると思うの。行動しないですむ、決断を下さないですむ、そんな理屈を考えだすようなことはしないでもらいたいの」
「僕が行動しないために、陽子は犠牲者となったと君は考えているわけだな?」
舌がもつれるような気がした。
「この先のことをいっているのよ。江田四朗が東君を陥れようと努める限り、犠牲者は次々に出るもの。東君が我慢している限り、同じことがどんどん起こっていくかもしれない......でも、これはあたしの浅い考えでいっているんだから、気にしないで。犠牲者なんかいくら出たって、東君のやっていく仕事はそれに替えられないのかもしれないから。辛抱しなきゃいけないのかもしれないものね。でも、東君はどんどん傷ついていくわね。さっきあたしが危険だっていったのは、そのことなの」
丈の口に再び重い沈黙が宿った。抱えこんだものがあまりにも重すぎて、身動きできない。そんな沈黙であった。
「ナンバリング終りました。全部で六百枚ぴったりです」
と、郁江は別人のような声音でいった。同時にドアがノックされ、事務局の女性が声をかけてきた。
「K──社の本田様が見えました、先生。こちらへご案内してよろしいでしょうか?」
「そうしてください......」
と、丈は掠れ声でいった。郁江はいつもの平然とした貌に戻っていた。
「この件については、また後で話す。重大な問題だから、すぐには答えられない......いいね?」
と、丈はいった。相手は何事かという目で彼を見返した。
「あたし、べつに回答を迫ったつもりじゃないんだけど......誤解しないでね」
「いや、君は回答を迫ったよ」
丈は吐息をついた。いかに巨大なPK(念動)を持っていようと、それが通じない問題がどんなに多いことか、PKでは人の心を動かすことはできないのだ。
旧約聖書の中の英雄モーゼが、最大の奇蹟能力を授りながら、イスラエル民族を率いてエジプトの圧制を逃れて以来、実に四十年も放浪したことを、丈は思いだした。超絶の〝力〟を持つモーゼにしたところで、人々の心をまとめあげることはできなかったということだ。

モーゼはシナイ山に登り、エホバから十誡を授る間、彼のあずかるイスラエル人たちは信仰を忘れ、黄金の神牛を鋳り、享楽にうつつを抜かしていた。
超能力では人々の心は決して変わらない。つまり聖書は、痛烈な自己認識をなしているわけだ。どんなに凄絶な奇蹟を見せられても、三日もたてば人々は忘却してしまう。
どれほどの苦痛を強いられても、丈もまた同じ自己認識に到達しなければならないのだった。
郁江が会釈をして立ち上り、ドアを開けた。編集者本田が、丸顔に笑みをたたえて入ってきた。
10
原稿を見て、本田は本当に喜んでいた。ひどく口下手であり、言葉もなく原稿の山を見ているのだが、それでも彼の喜びは伝わってきた。
丸っこい体を前屈みに、原稿を覗きこんでいるだけで、なかなか口をきかない。それも原稿をめくるのではなく、〝幻魔の標的〟と記されただけの一枚目の原稿を飽くことなく覗きこんでいるのだ。
秘書役で一人だけ同席した郁江は、本田の沈黙を判じかね、そわそわと丈の顔に目を走らせていた。編集者がただ原稿の山を眺めているなんて変だ、と思っているのであろう。
「いや。本当に素晴らしいです」
と、ややあって、本田は息を吞むようにしていった。
「でも、本田さん。まだお読みになっていないじゃないですか?」
丈はびっくりしていった。郁江も目を真円にしている。度肝を抜かれたのであろう。
「いや、私、原稿に関しては第六感が働きましてね。ビリビリと電流が背筋を伝わって流れるんです」
本田は真面目な顔でいった。
「ですから、素晴らしい原稿の時は、読む前にわかってしまうんです。まさかと思われるかもしれませんが、私の勘はまずはずれたことがないのですよ」
「本田さんも超能力者じゃないんですか? でも、その霊感が当たるといいですけどね。なにしろ僕は素人だし、初めて書き下した本ですから」
「いや、東さんが年齢に関りなく優れた達意の文章の書き手だということはわかっています。パンフレットや会の機関誌を読ませていただきましたから。これが本になると、おそらく世界を変えることになるでしょう」
「なんの自信もないんです。今の僕にはこれで精一杯です。読んでいただけるだけでも幸いと思っています」
「じっくりと心をこめて読ませていただきます。この本がもっともふさわしい形で世に出ることを祈りたい気持です」
本田は敬々しいといえるほどの口調でいった。
「さっそく社へ持ち帰らせていただきます。東さん、今の私の気持がおわかりになりますか?」
丈は笑って頭を横に振った。
「ああ、このために自分は編集者になったんだな、とはっきり胸落ちしたんですよ。生甲斐というのとも違う......果たすべき使命をようやく捜し当てたという安心感でしょうか。ともかく長年の胸のつかえが一度におりた、そんな気分ですよ」
訥弁の本田が一気に喋って、再び黙りこんでしまった。郁江が笑いの衝動を抑制しているのがわかった。放っておけば、泪を流して笑うだろう。人の大きな感激は、傍目には滑稽なものである。
しかし、ことごとく本田が心からいっていることは明らかだった。丈には、本田のような経験を積んだ、おそらくはすれっからしのベテラン編集者が、これだけ本気で自分に帰依することが不思議でならなかった。
丈は自分がルナ王女のような天才ではないことをよく知っている。巨大なPK能力を除けば、幼稚で愚鈍な自己への認識が歴然として存在する。
鋭利さに欠けているがゆえに、組織造りも難行し、優秀な人材も集められないという自覚がある。あまりにも自分は幼稚すぎるという、それは確信である。
本田の言葉は褒めすぎであって、自分の文章は素人くさく、拙く、論理性に欠け、舌足らずである。以前の自分の方がよほど才走っていて、達者な文章を書き殴っていたような気がする。わずか六百枚の原稿を書くのに四か月もかかり、ろくに睡眠時間もとっていない。少し前の自分であれば、数百枚を書くのに一週間もあれば充分だったろう。まるっきり能力が低下してしまっている。
どう考えてみても、本田の賞讃に価する己れとは思えないのだった。
「実は、今日の講演会ですが......」
本田はもう喋るのを忘れてしまったのではないかと思うころ、恐ろしく間隔を置いてぽつりといった。
「板倉俊彦さんをご存知ですか? 国際的な学者の......今は国際政治学で大きな業績をあげられて、日本よりはむしろ海外で評価が高い方ですが......その秘書の方と私、ちょっと知り合いなんですけど、実は板倉先生がですね、今日の東さんの講演会を是非とも聴きたいとおっしゃってるそうなんです」
丈も名前ぐらいは聞いたことのある、高名な学者だった。著書も沢山出ている。日本の風土には合わないと噂され、日本の閉鎖的な学界の主流からはずれているが、その分、海外での評価は高く、ノーベル賞をいずれ取るだろうとされている人物だった。
丈はまだ不勉強で、まったく疎いのだが、その高名な学者である板倉俊彦が、丈の講演会に興味をもつとは思いがけないことであった。
「実は板倉先生の秘書の、杉村由紀さんという人が、東さんに大変関心を持っておられるんです。凄く頭の切れる、しかも非常に美貌の......いわゆる才媛という言葉じゃいい尽せない女性ですが、その杉村由紀さんが板倉俊彦先生に話して、という順序なんですけどね。
実は今日、杉村由紀さんに是非とも東さんを紹介してほしいと頼まれているんですけれども、よろしいでしょうか?」
本田は訥弁の上にどもりながら、ようやく言葉を絞りだした。その苦労がよくわかり、聴く方はいい加減に聞き流すことができなくなってしまうのかもしれなかった。
「もちろん、お遭いします。本田さんが紹介される方なら喜んで」
と、丈はあっさりいった。
「それはどうも、有難いです」
といって、本田はまた黙りこんでしまった。だが、丈はもう慣れていた。本田の沈黙は、〝間〟であって、決して不愉快な緊張をもたらすものではなかった。だから、丈もあわてて沈黙を埋めようとせず、その間黙っている。
「その杉村由紀さんという人は、海外生活も経験して、各国の大立者との知遇もあります。英語、フランス語、スペイン語など数か国語を自由自在に喋れて、読み書きも達者です。今後の東さんの活動が海外へ発展していく際になにかとお役に立てるのじゃないかと思います。是非ともどうか逢ってやって下さい」
本田はつっかえながらいい、山と積まれた原稿を持参した紙袋に入れようとしたが、分量が多すぎて困難だった。それでも首をかしげながら、無器用な努力を続ける。
見かねて丈は、郁江に大きな紙袋を用意させた。しかし、本田は礼もいわなかった。頭が他のことでいっぱいになっているのだった。
「その杉村さんは、とてもいい人です」
と、本田は長い間かけ、おそろしく平凡な人物評を絞りだした。
「とてもいい人なんです。ハートのある人で、東さんに非常に関心を持っています。私がちょっと話して、会のパンフレットを見せただけなんですが、もう夢中になってしまって逢わせてくれ、逢わせてくれと毎日のようにいわれています。もう、逃げようがなくなりまして......」
「いつでもお逢いします。なんなら、講演会の後でもかまいません」
「そうですか。なにぶんによろしく......」
感動のあまり鈍い動作になって、本田はぺこりと頭をさげた。言葉を探して、そのまま丸っこい体で前屈みになり座り続けている。郁江がたまりかねて席を立とうとした。このままでは笑いの発作を抑えがたいと感じたのであろう。
菊谷明子が緊張した顔付で現われたのと同時だった。
「お話中のところ、申しわけございません。あの、先生......お姉様からお電話です。なにか緊急のご用件だそうです......」
丈はこの前も、本田が訪れている時、緊急の電話が入ったことを思いだした。あの時は市枝が脅迫電話をかけてきたのである。初めてのジャーナリストとの会見であるだけに、鮮明な記憶が残っていた。
「すみません、また中座させていただきます」
丈は断って応接室を出た。背中を押すようにして郁江がついてくる。
「どうしたのかしら?」
「わからん」
「きっと陽子だわ」
と、郁江は断定をこめていった。丈はぎょっとした目で彼女を振り向いた。悪寒が背中を走ったのだ。
「それをいうな。そういったろう?」
丈は声を押し殺した。
「すみません」
郁江は思わず口走ったのだろう。あっさりと謝まった。菊谷明子にも聞こえたに違いないが、察しのいい彼女はなにもいわなかった。郁江たちよりはずっと年かさなので信頼できる女性である。
丈は資料室に入って電話をとった。今日はさすがに空室である。係が会場に出払っているのだ。
「丈......陽子さんがまた家を出たんですって」
姉の三千子が懸念をこめた口ぶりでいった。
「これから講演する丈に向って、こんなこと教えたくなかったんだけど。陽子さんのお母さんが気違いみたいな電話かけてきて......娘を返せっていうの。もしかしたら、講演会にも押しかけて騒ぎたてるんじゃないかと思って......どうしたらいいかしら?」
「陽子がまた居なくなった......また観音寺へ行ったのか。しかし、もう連れ戻してる時間がない」
丈は腕時計に目をやった。胸が圧搾されるように重く苦しくなってきた。
「それはやめた方がいいわ。いちいち連れ戻してみたところで徒労だもの。陽子さんがどうしても行こうとすれば、止めようがないでしょう。まさか座敷牢へ閉じこめるわけにもいかないでしょうし」
「陽子の母親は、昨夜なにが起きたのか知らないんだろうか?」
「知らないみたい。とうとう陽子さん何も喋らなかったのね。お母さんも病院で静養した方がいいみたいよ。もう人の話なんか全然耳に入らないの。娘を返せの一点張り」
「父親はどうなんだろう? まだ話がわかりそうな気がしたけど?」
「それが、お父さんは過労で倒れて、入院したらしいの。なにもかも丈のせいだとお母さん、喚きちらして......もう頭からそう思いこんでしまっているらしいのね。どうしたらいいかしら?」
「どうしようもないだろうな......」
丈は憮然として呟いた。
「困ったわね。あのままだと本当に騒ぎを起こしかねないわ。娘をかどわかされたといって講演会の会場で騒ぎたてられたら......」
懸念で声音が曇っていた。
「その時は、その時だ。心配するな、姉さん。それはなんとかする。それより陽子をどうしたらいいか、そっちの方が大変だよ。陽子はもう虜囚になってしまって、いくら引き戻しても、また引張られて行ってしまうのかもしれない」
陽子は心身ともに江田四朗の奴隷にされているのではないかと丈は思った。昨夜の江田の落ち着きぶりは、それを確信していたからかもしれない。
「とにかく、今は講演会を成功させるのが先だと思うわ。陽子さんのことは後で、みんなで考えましょう。お母さんのことだけ、気をつけて」
三千子は講演会に丈を動揺させることだけは避けたかったのだろうが、どうしても警告せざるを得なかったのだった。
「ひょっとすると、事務所の方にも電話をかけるかもしれないわ。でも、そんな妨害には負けないで、講演会を成功させてね」
「大丈夫さ、姉さん。この程度のことでぐらついていては、この先なにもできやしないからな」
丈は電話を切った。姉が講演会に来るかどうか、敢えて尋かなかった。
講演会どころではなかった。心に大きな波が立って、静まりそうもない。すぐに陽子を捜しに飛び出して行きたかった。しかし、姉の言葉には理がある。幾度連れ戻したところで同じことなのだ。なにも変らない。陽子の心が変らない限り、どうにもならないのだった。
丈は心に黒雲のように湧きたってくる無気味な暴力衝動を抑えつけた。PKでは問題は解決しない。そうとわかっていても、つきあげてくる疼きに堪えるのは容易なことではなかった。
今は講演に心を集中しなければならない。他のことは後まわしだ。陽子が再び家出したのは、丈に動揺をもたらすためかもしれないのだ。背後で江田四朗が糸を引いている。江田は丈の講演会を潰すと広言していたではないか。
今は動揺を静め、心を集中することに専念する時だった。心が波立ち騒いでいるままでは、講演どころではない。丈は深呼吸をくり返した。これが一つの山場なのだ。心して乗り切らなければならない。
「東君、大丈夫?」
そっと資料室に入ってきた郁江が尋ねた。いつになく声音に懸念が感じられた。控え目であり、おずおずしていた。
「陽子のこと?」
こわごわといった。しかし、尋ねずにはいられないのだった。青白い顔が引き緊まり、ただでさえ大きな眼が更に大きくなっていた。
「陽子がまた居なくなった。母親が大騒ぎしている。講演会に怒鳴りこんでくるかもしれない......」
丈は簡潔に事実だけを述べた。改めて、陽子という存在が、大きな障害と化して行く予感が育って行った。彼女は丈にとり災厄の爆弾である。いつ爆発して、丈の足場を吹き飛ばしてしまうかもしれない。しかし、丈にはそれを回避するすべもないのである。
「それだったら、あたしにまかしておいて」
と、郁江は元気づいていった。母親に対しては自信があるのであろう。
「でも、陽子、またあの化物寺へ出かけて行ったのかしら? 江田の奴に呼び出されて......」
郁江は額に薄いシワを寄せ、嫌悪の表情を形造った。
「なんで、そんなにいいのかしら? なにか堪えがたいおぞましさだけど、悪魔的な吸引力があるのかしら? 吸血鬼ドラキュラが犠牲者を夜になると呼び出して、犠牲の女の子が魂を抜かれたみたいにふらふらと家を脱け出して行くでしょ? ああいった感じなのかしら?」
「わからん」
丈は吐き捨てるようにいった。
「やっぱり、何が陽子の身に起こったのか、徹底的に突き止めなきゃならないようだ。別の犠牲者を出さないためにも、究明しなきゃならない」
「あたし、陽子を連れ戻してこようか?」
「だめだ!」
丈自身、びっくりするような大声が出た。郁江が心臓を跳びあがらせるような顔になった。
「絶対に一人で手を出すな! 陽子に一人で逢いに行ってもいけない! 絶対に自分の判断で動くな! 勝手なことをしたら許さないぞ!」
丈は怖ろしい目をしていた。黒い瞳が爛々と光り、さすがの郁江も目を合わせていられなかった。
度胆を抜くような苛烈さ、きびしさであった。滅多に丈はそうした烈しさを露わにしないが、いざとなると、恐いもの知らずの郁江でも慄えあがるほどの猛烈さがあった。家長の威厳だと郁江は思っている。日頃穏和な丈が別人のように雷雲を伴った凄まじいほどの威迫を示すようになる。
「はっきり約束しろ、郁! 陽子には絶対に自分の狭い了見で手を出さないと!」
「約束します。勝手な判断では動きません......」
郁江は痺れたような口で、むりやりに誓った。こうした際の丈は、いつもの彼ではない。なにかしら巨大な、ギリシャ神話の父神ゼウスでも稲妻を飛ばして現われてくるようなのだ。怒っているときの丈は甚しく魅力的であった。
もっとも、叱られている最中には、それどころではない。
「陽子のことは、僕にまかしておけ」
彼は調子を落していった。再び元の丈に立ち返っていた。穏和で思慮深い丈である。どちらの彼も、本当の丈の一面にすぎないのかもしれない。たとえば、講演中の丈もまた、オクターブの高い、輝きわたるような冴えを持つ別人の丈なのだ。
「それより、陽子の噂が広がらないように気をつけてほしい」
丈は席を立ちながらいった。
「いずれは知られることだけど、今は抑えておきたいんだ。せめても......」
「わかりました」
と、郁江はようやくいった。丈は悩んでいる。それはいってみれば丈の人間的な弱点である。しかし、その弱みのなんと優しく、魅力に満ちていることだろう。
丈はやがて弱さを超え、不決断を克服し、強靭な指導者に育って行くのだろうか。しかし、そうなった時でも、この魅力的な優しさを残しておいてほしい、と郁江は願わずにいられなかった。
さもなければ、まったく父神ゼウスそのものの雄性と恐しいほどの権力の権化となってしまうような気がした。丈はたかが一人の女の子のために夜の目も眠らず悩んでいる。考えてみれば奇妙なことだ。彼の巨大な使命の前に、たかが一人の女の子など意味をなさない存在なのだから、と郁江は思った。それなのに彼は、自分の責任ともいえない女の子の運命の破綻が、まるで彼の大きな使命と等価であるかのように悩んでいるのだ。
それが彼の優しさという魅力的な弱点なのだ。けれども、彼がそのために大事な講演会もおろそかにするようなら、きわめて愚かなことだ、と郁江はきびしく考えた。
丈はもちろん、それほど愚かな人間ではないはずだ。彼はどんなに悩みを背負っていたとしても、講演会は成功させるだろう。それだけは毅然としてやり遂げてほしい。彼には言葉に尽せないほどの巨大な責任がある。もし、彼が私情に流され、責任を放棄するようなことがあれば、それはもともと彼に資格がなかったということになる。自分のめがね違いだったということになるのだ......
自分は、彼が〝救世主〟ではないかと思っている。確信はあるが、それでも一抹の危惧をも否定することはできない。それは、彼が人間的な弱点を持ちすぎているようにさえ見えることだ。彼はあまりにも優しく気弱で、いかにも優柔不断で、時には臆病であるかのように思えることすらある。それらは、彼の巨大な〝力〟とはあまりにもそぐわない、人間的弱点ではないのだろうか。
もちろん、彼は戸惑いに満ちた青年的なアポロニウスから、雄大なゼウスへと育ちつつあるのかもしれない。それらの人間的弱点を徐々に失うことにより、〝救世主〟へと変貌して行くのかもしれない。
それにしても、アポロニウス的な丈はあまりにも危うすぎ、脆すぎるように思われた。彼が果たして〝本物〟であるかどうかを試したいという欲求が妖しい誘惑をもって、ともすれば頭をもたげてくるのだった。
彼が〝本物〟であれば、いかなる苦難や試練にも負けることはないだろう、という期待だった。彼が試練にうちかち、〝本物〟であることを証明するさまをみたいという、身慄いするほど魅力的な誘惑が、郁江の心の底に潜んでいるのだった。
自分はもしかすると、〝ユダ〟かもしれない、とかつて彼女は丈に告げたことがある。わずかな金のために師イエスを敵に売った十二使徒の一人ユダだ。ユダはイエスがキリストたることを疑って敵に売ったとされているが、本当はイエスの神の子としての〝力〟を試したかったのではないか、と彼女は感じたことがある。
もしかしたら、自分にもユダと共通した心が潜んでいるのかもしれない。それゆえに、丈が苦難に遭うたびに、心をもみつつも、一方では圧倒的な期待に満ちた興奮を覚えているのかもしれなかった。
そして、その妖しい感情は自分だけに限らず、他の人間たちにも、あるいは久保陽子にも潜んでいるのではないか......郁江の心は暗く熱っぽい高ぶった気分にさいなまれていた。
ユダの心は、だれの裡にもひっそりとうずくまっているのかもしれない。それは、〝彼〟を本物であるかどうか試さずにはいられない猜疑の心だ。もし神が本当に存在するなら、〝彼〟を救け、己れを証明するはずだ。それを確かめずにはいられない、暗く不吉な情熱の虜になったのがユダなのだ......
自分のみならず、久保陽子もそうでないとどうしていえるだろう。
郁江がはっと己れの暗い刺激的な考えから脱した時、丈はすでに部屋を出て、ドアが閉まるところだった。編集者本田の待つ応接室へ戻って行ったのだ。
彼女は、全身の皮膚が冷汗で覆われているのを知った。それはやはり、暗く妖しく、熱っぽい汗であるかのように思われた。
このユダ的な猜疑心を完全に追い払い、除去することはできないのではないか。なぜならば、彼女は絶えず丈がその巨大な〝力〟を証かすことを望み、彼の使命を明らかにすることを求めているからだ。
それは決して、限度を知らず、満足することがなかったのである。
11
編集者本田が辞去した後、丈は電話のない応接室に閉じこもり、全てシャットアウトして瞑想に入った。
瞑想といっても、精神統一を計ることにより、心を鎮めるだけである。特に深遠なものを求めるわけではない。
しかし、今のように惑乱に襲われている時には、黙って座っているだけでも効果があるようであった。しばらく前から、丈が採用している瞑想法だ。心に浮かんでくる雑念をただ払いのけるだけではない。そんなことをいくら拘泥してみても、所詮無念無想になれるわけではないとわかっている。
雑念は払いのけようとするほどに、静電気を帯びたように執拗に心にへばりついてくる。そんなものは無視するに越したことはなかった。
丈はこの瞑想を利用して、反省を試みることにしていた。反省の材料は無数にある。いくらやっても尽きることはない。
久保陽子に関してのみ反省を絞ってみる。陽子との間のたてひきを綿密に記憶層を掘りだし、再現してみる。彼女が最初から、丈に特別な関心を抱いていたことはわかっている。それゆえに彼女は丈のために献身的に働いたのである。
丈は、陽子の気持を利用するだけ利用して踏みつけにしたのかもしれない。たとえ丈自身意識していなくても、結果的にはそうなってしまったのかもしれない。そうでないとはいえないのである。陽子は必ずそう感じているに違いなかった。自分の気持をもてあそばれたと感じていたとしても不思議はない。
丈はいかに己れが陽子の心を無視してきたかに気づいて驚愕した。無意識であっても、他人を利用し、用ずみになればほうりだして目もくれない。そうと取られてもやむを得ない行動が自分にあまりにも多いのに驚く。
むろん、多忙のせいもある。心に止まっていても、そのままになっているのである。
人使いの難しさを痛感せざるを得なかった。どうしても形としては、他人を利用することになってしまう。人々には縁の下の力持ちや汚れ仕事を押しつけ、自分だけが実を取り、脚光を浴びるという形になる。
あるいは陽子のみならず、郁江も同様に感じているかもしれない。人間はだれしも我身可愛さに、被害者意識を持ちがちである。用済みになればお払箱という気分になるのであろう。
いうまでもなく、陽子自身を丈から遠ざけたのは甘えの感情であり、それを否定することはできない。しかし、彼女を全く慰撫しなかったのは、多忙だけではすまない丈の手落ちといえるだろう。お前のことを忘れたわけではないと一声かけておけば、結果は違ってきたかもしれないのだ。
もちろん、結果論でしかないのだが、丈の側に思い遣りが欠如していたといえないこともなかった。
黙っていても、心が通じると思いこむのもまた甘えだ、と丈は思った。陽子に対しては彼はいつもそうだった。言葉に表わし、改まって感謝したことは一度もない。なにもいわずとも、心は通いあっているという思いがあったからだ。
丈は改めて陽子が哀れでならなくなった。講演会など放り出しても、彼女を捜しに行くべきではないかという強い衝動がこみあげてきた。
しかし、それが感傷であることも、同時にわかっていた。郁江が念を押した通りだ。郁江には彼の心の動きがわかっているようだ。むろん大きな目で見れば、講演会の方がはるかに大切である。彼の衝動に発する行動は、なんの意味ももたらさない。丈は陽子を救うことはできないからだ。それは姉のいった通りである。いくら丈が彼女を捜しだし、家に連れ戻してみたところで無駄なのだ。自己破滅を選んでいるのは陽子自身であり、丈はそれを阻止できない。
どんなに巨大な超能力を持っていても、たかが少女一人の心をも変えることはできないのだ。
それは丈にとり、痛烈な自己認識であった。超能力では人を救えず、世界の命運を変えることなど不可能である。江田四朗や陽子は、それを手ひどいやり方で、丈に教えてくれているようであった。
別の方途を模索することを、丈は迫られていた。超能力ではない。もっと高次元の途である。しかし、そのためには陽子が提示した巨大な難問を突きぬけて行かねばならないと丈にはわかっていた。
超能力では、世界は変らない。いかに巨大な奇蹟の超能力者といえども、一人の人間をすら救うことができないのだ。人間を救うのはその人間自身だ。だとすれば、平凡な人間といえども、山を動かす大超能力者よりも偉大であるということができる。人間はだれしも、自分で思っているより、はるかに大きな存在なのだ。

それはまるで、一人一人の人間が神のように不可侵の聖域を有しているかのようだ。そうだ、人間には巨大な宇宙エネルギーにつながる〝場〟があるのだ、と丈は思った。全ての宇宙エネルギーは、根元において同一だと宇宙意識〝フロイ〟は語った。すなわち、それこそが宇宙の造物主、大宇宙意識であるのかもしれぬ。〝フロイ〟はそれを宇宙の邂逅の時ルナ王女に教示したのではなかったか。もしすべての人間の意識エネルギーが同一のベクトルを持つならば、その〝力〟は幻魔をすら破る宇宙エネルギーとなり、ふくれあがるであろう。
それが〝フロイ〟の真に伝えたかったメッセージではなかったか。
超能力が実は、本質的な意味で無力だという認識に到達し、丈ははっきりと覚醒した気分になった。
丈が真に大事にしなければならないのは、人間の心だ。もし、人々の心が己れの蔵する偉大さに目覚めるならば、超能力など要らない。
人々が本来の宇宙エネルギーとしての自覚を持つならば、幻魔は無力だ。幻魔の振るう力がいかに強大であろうとも、彼らはこの地球に一指も触れることはできないだろう。
久保陽子は自分で自分を救済する力を秘めている。もし彼女がそれを悟れば、陽子は今後、丈らの推進していくムーヴメントにおいて大きな力を発揮してくれるだろう。
それは人間が真の己れの姿を証かすことに他ならない。人々に自らの姿を悟らせることこそ、丈が今後なして行かねばならぬ営為なのだ。
それは、幻魔の脅威と戦い、人々を救済するという華々しい行為より、はるかに地味であり、人目につかないとしても、比較にならぬほど巨大な比重を持っているのだ。もし、それをやり遂げたならば、世界は確実に変る。
超能力をある意味で否定することにより、丈は一つの悟りに到達したことを知った。熱気が湧出し、丈を包み、熱した涙が瞼の内側にしみた。
久保陽子はその心に蔵した無明の闇により、丈を苦しみに追いやったが、同時に救済の道をもさし示してくれたようだった。
陽子も、そしてまた江田四朗も、彼ら自身計り知れぬ意味を持たされて動いているのかもしれない、と丈は突如、啓示を受けたように感じ取った。それは彼らの意志とは無関係だ。丈やそして人類全体の運命にとり関係を持ち、意味を有する。彼らはその憎悪の黒い意志をある計り知れぬ力によりあやなされているが、それすらもはるかに巨大な意志により許容されているのだ。
その洞察は、光と化して丈を訪れた。
むろん、全人類を囲繞した大いなる意志の全貌を透視することは、人間である丈にはなしえない。それがなしえるのは、〝フロイ〟のような宇宙意識かも知れず、あるいは〝フロイ〟そのものであるのかもしれなかった......
事務局の者たちは、郁江もふくめてだれ一人、丈の瞑想を妨げる勇気を持たなかったが、丈の送り迎え用に自ら車を運転して、事務所に乗りつけた平山圭吾は、遠慮せず丈の閉じこもった応接室のドアを叩いた。
いかにも平山らしいせっかちさだが、もっとも丈が会場へ出かける時間になってもいるわけだった。
「先生! 会場にたいへんな人数が詰めかけていますよ!」
と、平山は張り切った大声でいった。
「凄まじい人気です。長蛇の列が出来ていて、整理の者がたいへんです! や、どうも失礼いたしました、ご瞑想中でしたか......」
「いや、もう終ったところです」
丈は床から立上っていった。絨毯の上にじかに座りこんでいたのである。
「実をいうと、ちょっと動員の点で懸念がございましたが、どうして、どうして! そんな懸念なんか吹っ飛びました。会場は二千名収容できますが、満員になることは絶対に間違いございません! ひょっとすると立見ですらあふれてしまうかもしれません。とにかく、天気は上々だし、物凄い出足です。いやあ、さすが先生の人気はたいへんなものですわ! たいして宣伝も出来なかったのに、どこで聞きつけたのか、どんどん詰めかけてきています。もう開場しているころですが、マスコミ関係も大勢来ていますよ! いよいよ先生の晴舞台ですな!」
平山は満悦の体で、大きな肉厚の掌でせっせともみ手しながらまくしたてた。
「会場周辺の先生のポスターがだいぶ盗られちゃいましたよ! やはり若い女性のファンが多いってことでしょうかなあ。大あわてでまたぞろ貼って歩いたんですが......いや、どうも年甲斐もなく興奮してしまいまして、申しわけありません。なんでも圭子からそっと耳打ちされましたが、トラブルが持ちあがったとか......?」
丈は噂の早さに愕然とした。久保陽子の件はすでに会場にいる平山圭子の耳にまで入っているらしいのだ。郁江に口止めさせたが、一瞬手遅れだったらしい。
「大丈夫です。それより会場の方のトラブル対策は大丈夫ですか? おかしな連中がまぎれこんだり、騒いだりする心配はないのですか?」
「それはご心配ないようです。念入りに見張らせていますが、それらしい人間たちは見当りません。管轄の警察にも話をつけてありますし、ご懸念には及びません」
「とにかく警戒を怠らないようにして下さい。不穏な傾向が見えたら、すぐに僕に連絡して下さい」
「しかし、先生にご迷惑をかけては......」
「事故が発生した時、今の警備陣じゃ抑えられませんよ。混乱を拡大させずにストップさせるのは僕にしかできません」
「なるほど......」
丈のいう通りだった。警備はまったく手薄なのだ。暴漢にしてみれば、学芸会へ乱入するようなものであろう。少数の人間で、講演会を混乱させるのに充分だ。腕節の強い警備係向きの青年はほとんどいない。いずれも胃弱で青白いタイプばかりだ。
「しかし、今日は大沢先生がご光臨給わるそうで、まったく思いがけないことになりましたなあ」
と、平山はわくわくと胸が躍るのを隠さずにいった。大沢代議士は保守党長老政治家で田崎宏の祖父である。田崎が丈の帰依者であることは知っていても、まさか講演会にまで足を運ぶとは思いもかけなかったのであろう。
「有名な国際学者の板倉先生もお見えになるとか......先生の第一回講演会のこけら落しとして申し分ありませんな」
丈としては、長老政治家や高名な学者が講演会に来ると聞いても格別の感銘はないのだが、権威に弱い平山としては身震いするほどの大感激なのであろう。彼はマスコミ、報道関係者がどんなに関心を持ち、多数集まっているかを丈に直接告げたくて、自ら車を運転し、丈を迎えに駆けつけたわけだった。
平山は年甲斐もなく、足が地につかないほど興奮していた。まさか商売ではそんなこともなかろうが、講演会になるとお祭り好きの素顔が剝きだしになり、いささか軽躁症状を呈していた。無我夢中になってしまっているのである。商売をみな臨時休業にして、従業員たちを講演会に総動員したそうであった。
講演会の入りを心配してのことであろうが、それが裏目に出て、超満員の盛況となり、従業員たちの席を一般客に解放しなければならない騒ぎになった、と平山は嬉しげにいった。
平山にしてみれば、中小企業の親父にとりこれほど晴れがましいことはないというわけだろう。娘の圭子が機縁となり、後援を申し出た東丈が、いよいよ世に出て、眩しい脚光を浴びるのだ。わがことのように興奮するのも無理はなかった。
平山の気持がわかるだけに、丈はこの場は水を注す気になれなかった。今はそれでもいいと思った。いずれは難題が続出してくるのであろうが、今は平山の軽躁ぶりをとがめても仕方がなかった。
丈と秘書役の井沢郁江だけを後部座席に乗せて、中央区の会場へ向う間の車中で、平山は一人浮かれて喋り詰めであった。喋らずにはいられない高揚の虜になってしまっていた。
精神統一をする予定だった丈にしてみると、かなり煩わしいのだが、無下に突き放すわけにはいかない。分別のあるはずの平山ですら、我を忘れてしまっているのだった。
そこが、若年すぎる丈にとり、難しいところだった。大部分の会員は十七歳の丈よりははるかに年長者なのである。丈があまり先生風を吹かしていては息苦しくなる。丈と彼らの間に入り緩衝材の役割を務めてくれる人材が必要であった。
ある程度丈より年かさで、人間として成熟度を持ち、きちんと見識を備えた人物でなければならない。男女の性別は問わないが、専従的な秘書の役割を果たしてくれねばならない。それだけの資格を持つ人間がおいそれと見つかりもしまいし、適格者がいたところで当然それなりの評価を得て、職業人としても自己を確立しているだろうから、それらをなげうってまで丈に仕えてくれると安直に期待することはできない。
陽子や郁江は、やはり秘書をするには適任者ではない。あまりにも若年すぎるという点では、丈と同じマイナス点を持っていた。専従秘書の補佐なら務まるだろうが、本命として育つにはまだ数年を待たねばなるまい。
郁江では、平山の軽躁的お喋りが丈を煩わせていることを察して、巧みにストップをかける気働きが足りないのだった。そこまでは気がつかないのだ。しかし、そんな些事にまで、いちいち丈自身が気を遣ってはいられない。丈の口からいえば、角が立ってしまうのである。
姉の三千子なら適任であろうが、それはそれでステージ・ママ的色彩を帯びてくる。適任者さえ見出すことができれば、丈は現状よりもはるかに効率よく活動することができるのだった。平山の車中いつ果てるとも知れぬお喋りに悩まされながら、丈は秘書の適任者を見つけようと決心した。
講演会会場にあてられた施設に着くと、丈は平山に頼み、会場の周囲をぐるりと廻ってもらった。異変の徴候がないか、己が目で確かめるためであった。
江田四朗の配下の妨害者グループが集結している気配は感じられなかった。もっとも聴衆の中にまざりこんで、すでに会場に侵入し機を窺っているのかもしれない。
平山のいった通り、会場は満員の聴衆を吞み、正面ロビーにまで人が溢れる盛況であった。信じがたいほどの集まりのよさである。
車を降りた丈は、早くも拍手に迎えられた。迎えに飛び出してきた係員だけでなく、一般の聴衆までが拍手している。係員たちは凄まじく高揚している。想像も及ばぬ盛況によって、早くも講演会の大成功を確信しきっているのであろう。イベント慣れしていないせいもあるはずだ。
丈はロビーの人垣を分けて造られた通路を通りながら、拍手している聴衆の中に、河合康夫ら不良少年たちを見出した。木村市枝も人垣の中で伸び上るようにしている。顔に見憶えのある女の子たちは、以前市枝が率いていた〝黒バラ会〟のメンバーであろう。渋谷駅構内で因縁をつけてきた連中だ。しかし、今日はまともな身なりで、一癖ある不良少女たちとはとても見えない。
押しあいへしあいする群衆の中を、丈はようやくすり抜けて通った。警備などあってなきに等しい。これだけ人が多くては、なまじの警備など通用しないであろう。
思った以上に、雑多な人が詰めかけていることがわかった。小中学生の年若い年齢層から、高齢の老人にまでわたっている。
青林学園の顔見知りの生徒たちも多かった。拍手のみならず歓声をあげるのは彼らだった。拍手がしだいに二拍子になり、リズムをあらわしてくる。丈がロビーを横切り、仕度部屋に入った後も、ロビーでは整然たる二拍子の拍手が続いていた。リズムをとり手を打ち鳴らしているうちに熱狂が生じてくるのである。
ロビーの興奮が伝染して、会場の建物全体がどよめいているのを、丈は感じていた。凄まじい盛り上りの予兆がすでに存在していた。二千名を超える聴衆の期待がハイレベルの思念エネルギーとなり、渾然一体となってゆっくり渦巻いているイメージだ。
その期待の凄まじさも、丈の予想を超えるものであった。なぜこれだけの方向性を持つエネルギーが湧出しているのか、判然としない。好奇心や物珍しさは予想していたが、これだけの切迫した期待感はとうてい考え及ばなかった。
明らかに聴衆の大部分は、丈の登場を切望しているのである。水底から潮流が盛り上ってくる巨大な質量とそれがもたらす壮大な轟きを丈は感じずにはいられなかった。
まるで彼らは〝救世主〟の登場に立ち合おうとして待ち受けているようであった。
救世主?──それはずっしりと胸に落ちかかる重い思念であった。人々は、丈を〝救世主〟として待望しているというのだろうか?
むろん、丈は己れが〝救世主〟ではないことを知っている。そんなことはありうべきはずもない。丈はただ、いずれ現われるその人の下に仕える助力者の一人でしかない。
その人は、あるいはルナ王女であるかもしれない。あるいは別の人物であるかもしれない。しかし、いずれにせよ、丈自身では決してありえなかった。丈は自分がそのような天才中の天才ではありえないことを、よく知っていた。
自分はあまりにも鈍すぎて、天才の鋭い切れ味とはまったく縁がない。愚鈍すぎて、目には被膜がかかったように、世界の姿がよく見えない。人々の心もろくにわからない。足首に鉄球をつながれた虜囚のように、重い足取りで歩一歩と歩むしかないのである。
そんな鈍重な己れが、どう翻ったところで、救世主と呼ばれるにふさわしい稟性を持ち合わせているはずがなかった。
人々はすぐに、丈がその人でないことを知るだろう。
期待の重圧を感じながらも、丈は落ち着いた気分で、仕度部屋にたてこもり、服を着替えた。純白のブレザー・スーツに着替える。三千子が翻訳仕事の乏しい報酬によって仕立ててくれたもので、平山ら帰依者の喜捨によるものではない。丈は深夜のタクシー代ですら、会の会計から受け取らないのだ。
公私のけじめのつけ方のきびしさは、無類のものだった。そうせずにはいられないのだ。さもなければ、組織が崩壊するという危機感に迫られているかのようだった。
まだ学業にある身だが、収入の途を講じなければならないとひそかに考えている。姉に苦労をかけるのはしのびない。できれば、文筆の道で、と思っているが、こればかりはあてにならない。三千子の翻訳仕事を通じて多少は知っているが、原稿料は一流の文筆家を除き、お話にならぬほど低額なのが普通だ。
もちろん、本を出版してベスト・セラーにでもなれば別だが、そんなことは夢想の域を決して出ない。肉体労働でもやった方がまだしも能率的であろうと思えた。
郁江が仕度部屋に入ってきて、苦手のネクタイと格闘している丈を見て笑いだした。これほどの緊張感が電気のようにみなぎっている中でも笑えるのは、いかにも郁江らしかった。他の連中はみんな顔が引き攣ってしまっているのだ。
郁江が手伝ってくれて、なんとかネクタイの形がついた。怪しげな結び方だが、丈のよりはましだ。
郁江は目をまるくして、ドレスアップした丈を見ていた。純白のブレザー・スーツが清楚であった。輝かしい黒い瞳が映えて、ぞっとするほど美しい貌が衝撃的だった。
「どうした?」
と、ドレッサーを覗きながら丈が尋ねる。
「うん......」
郁江はどぎまぎしていた。丈が美少年であることは承知しているが、まさかこれほどとは思わなかったのだ。
「よく似合うわ......」
彼女は喉が乾いたような声でいった。なにかしら妬ましさのような情動が胸に疼いていた。丈は多分に神話的であり、幻想的だった。時として生身の人間とは思えなくなる。
青林学園で行なった総会での講演の時もそうだった。まるで誕生したての若い神のように美しいのだ。
並みの美少年ではない。あまりにも並みはずれた、手のつけられない美を見ると、悲しくなる......とだれかの言葉にあったような気がした。丈は美しすぎる。それは不吉なことであるかのように思えるほどであった。
しかし、丈にはさほど己れ自身には関心がなかった。郁江の複雑な心のゆらめきになどまったく気がつかない。彼の視線は常に未来の時制に据えられているのだった。
スタッフが大いに緊張してやってきて、打合せに入った。とはいえメインは丈の講演だけで、他にアトラクションは一切ない。丈がプログラムをきれいに整理してしまったのだ。寸劇やパネル・ディスカッションなどは学芸会じみていて、一般講演会向きではない。それが青林学園での総会との大きな相違であった。
最初に主催者代表として、事務局長の平山圭吾が登場し、挨拶することになっていたが、丈はそれをステージの袖でさせ、しかもほんの数語に限らせることにした。開会宣言だけでいいのだ。
平山は巻紙にごっそりと美辞麗句を連ねて来たが、丈は全部捨てさせた。中小企業のおやじのセンスで数十分も喋る気だったらしい。せっかくの緊張感がだれてしまうに決っている。大張切りの平山はしょげたが、丈は同情を示さなかった。
「聴衆の期待感はすでに一点に集中しているんです。それをわざわざ分散することはないでしょう。だから司会者もなにも必要ありません。すっと核心に入ればいいんです。ゴテゴテとやらずにスマートに行きましょう。平山さんの開会宣言の後は、すぐに僕の講演に入ります。いいですね?」
「しかし、それだと時間が大幅に余ってしまうんですが......」
と、スタッフの大学生がいった。
「プログラムの変更もこれからやらないと......開会までに間に合わないんじゃないでしょうか?」
「余った時間は、僕が講演に使います。プログラムの変更は場内アナウンスでやればいいでしょう。舞台のプログラム掲示は引込めてしまえばいい。とにかく、臨機応変にやるのが一番大切なんです。聴衆の雰囲気がわかりませんか? みんな講演を聞きに来たんですよ。プログラムにこだわるよりも、大切なのは聴衆の心をしっかり摑むことです」
反論はもうなかった。丈の声音はびーんと響くほど調子の高いものになり、反論を許さない高圧のエネルギーをみなぎらせていた。
スタッフは気もきかず、融通もきかなかった。おそらくどこかの宗教講演会の古臭いイメージがあるのであろう。そうしたカビ臭い荘重さで、丈の講演会を取り行なおうとした気配があった。古くさい固定観念がしみついているのだ。
一生懸命やっているが、素人ばかりだから垢抜けしないのは仕方がない。丈が指示を細かく下しているにもかかわらず、それが徹底せず、飾りつけを初めスマートさが総体的に欠如していた。
久保陽子がいれば、もっときりっと引き緊ったのに、と思わずにいられない。マネージャーが優秀でないと、万事がだらりとして締まりのない散漫さを呈してしまう。
しかし、不平不満を今になって口にしていたところでどうにもなるものでもない。もはや開会十五分前である。
打合せを終ると、人払いをして精神統一に取りかかる。瞑想に入ると、ルナ姫のことが念頭にのぼってきた。彼女は天才である。自分のように小さな組織も扱いかねていることはないだろう。
ルナ姫が今の自分を見たらどう思うだろうか。さぞかし冷やかな美しい顔に軽侮の色を浮かべるだろう。なにをやっているのかと思われても仕方がない。
しかし、これが精一杯のところだ、と丈は思った。ちっぽけな才能では、これ以上高望みは許されない。宇宙意識体〝フロイ〟のような存在が天降り、人間の肉体を持つならば、巨大な救世の業が当然なされるだろう。それこそが真の救世主だ。
しかし、丈はそうではないのだ。貧しい才能を遣りくりしながら、己れの知った宇宙の真実を人々に伝えようとしている平凡な人間にすぎないのだ。これだけは人に誇れる巨大なPKを恵まれているが、それは自ら封じてある。
〝真の救世主〟は後からやってくる。それまでは、自分のような小さな人間にもなしうる営為を積んで行かなければならない。これは自分のみならず、全ての人々に通じることであるだろう。
他人がやらない以上は、自分がやるしかない。どんなにきびしく辛い努力を強いられ、遅々として事は進まず、成果は目に止まらないほど貧しくとも......
しかし、その人──〝真の救世主〟とはどんな人だろう、と丈は不意に思いついた。それまで漠然と心にあっても、形になったことのない疑問であった。偉大な宇宙意識はどのような人の子の形をとって出現するのであろうか?
その人は今、どこでどうしているのだろう? もうこの地上に姿を現わしているのだろうか?
だとすれば、どんな顔立ちをし、どのような姿形で生れついているのだろう。何を考え何をなして生きているのだろうか?
その人はすでに己れの使命に気づいているであろうか?
丈は、黄金の髪を燃えたたせているルナ王女の姿を想い浮かべた。もし、その人にめぐり逢っても、自分にはすぐにそれとわかるだろうかと疑った。
どうすれば、自分はその人の下へたどりつくことができるか?
その人は、自ら〝真の救世主〟であることを高らかに名乗りつつ、人々の前に姿を現わしてくるのか?
さもなければ、どうやって自分にその人であることを見分けることができるであろうか......大いなる宇宙意識フロイよ、と丈は祈った。われにその人を正しく見定める目を与えたまえ。願わくば、その人を見すごし、または見あやまることのないように......
12
時間が来て、郁江が迎えに現われた。廊下にもう人の姿はなかった。全て会場に詰めかけているのだった。舞台裏に入る。そこはしんと静まり返り、緊張がはりつめていた。挨拶に立つ平山がそわそわしている。足が宙に浮いているようであった。あれでちゃんと開会宣言ができるのかと心配になってくる。娘の圭子がしきりにネクタイを直してやっていた。
そこからは舞台が一目で見通せた。客席までは視界に入らない。しかし、大きくうねっているような波動──雰囲気は体で感じ取れるほど圧力の高いものであった。
場内放送機器のコンソールの前に座っているミキサーがキューを出して、マイクに向う進行係がアナウンスを開始した。
──長らくお待たせいたしました。ただいまより東丈講演会を開会いたします。講演に先だち、主催者代表といたしまして、GENKEN事務局長平山圭吾氏がご挨拶いたします......
すっかりあがっている平山は娘の注意も上の空だった。丈は手を出して、平山の肘を摑んだ。平山ははっとした目で丈を見た。虚ろだった目がやっと焦点が据る。
「一言だけ。気楽に」
と、丈がささやく。泳ぐような足取りで舞台に出て、つまずいたりしてはぶちこわしである。
「は、一言だけ」
平山は正気に戻ったような顔をした。海千山千の中年男でも、こうした特殊な場に上ると、まったくわけがわからなくなってしまうものである。会場にみなぎっている聴衆の想念の高圧の磁場で、思考能力が空白化してしまうのだ。
丈に活を入れられ、平山はなんとか無事に舞台の袖へ出て行った。拍手が湧いた。平山にしてみれば、これだけの聴衆を前に、話すというのは初めてのことだろう。
「ただ今より、GENKEN主宰、東丈先生の第一回目の講演会を開催いたします......」
平山は一語ずつ区切るようにしてぎごちなく喋った。それだけ喋ると頭を下げて戻ってくる。大任を果たしたような顔をしていた。これで巻紙にいっぱいの挨拶を並べたてたら、どういうことになったろう、と丈は思った。
拍手が平山の後を追ってきた。まさかそれだけで引き上げてしまうとは思わず、意表を突かれたのであろう。
「先生......」
と、平山が喉のつかえたような声音でいった。丈は彼の腕を叩いてやり、舞台へ歩み出した。
拍手が湧きだした。しかし、それは熱狂的なものでも儀礼的なものでもなく、なにかしら厳粛さがこめられていた。二千名を超す聴衆は息をひそめるようにして丈を迎えた。
視力の異常に優れた丈は、この聴衆の中からでさえも顔見知りを一人ずつ見分けることができた。気分は平静で、なにも昂ぶったものはない。友人知己の一人一人に声をかけたい気分であった。

秋に行なった青林学園総会の時とは異なり、明白な妨害グループは見当らない。江田四朗やその配下の顔はなかった。二千人以上の顔の中で、なぜ一瞬にしてそれが判別できるのか、われながら不思議だった。
透視の一種だと気がついた。マイクのセットされた演壇へ向って歩くごく短い間に、きわめて濃縮された時間が流れている。
舞台に強烈な光が射してきたように、みるみる明るくなってきた。最初の総会の時にも生じた現象である。照明係が操作しているのではない。どこからか光が射してきて、照度が大幅に上って行くのである。その証拠に舞台のみならず、客席まで同様に明るさを増している。
光がどこからやってくるのか、それは丈自身にもわからない。丈の生体エネルギーが光に変換されて発散されるのかもしれない。しかし、光源は不明である。異次元から照射されたように、光耀のシャワーが上方から降り注いでくる。
聴衆の目にもそれとわかったらしい。うねりのように驚嘆の声がいっせいに湧き上った。中にはみごとな演出だと感違いした者も存在したようである。
純白のブレザー・スーツに身を包んだ丈は小柄には見えなかった。均整のとれた体つきのためであろう。にわかにあふれでた光耀に包まれて、輝く美しさだった。それは清浄な美であり、奇妙に胸をうつものがあった。
とりわけ黒々と輝く瞳は二千名以上の聴衆の心を一気に捉えた。数百メートル隔てていても、視線をはっきりと捕捉できる驚くべき目であった。会場の最後尾の壁際に、ぎゅう詰めになっている立見の聴衆すら、丈が自分の目を覗きこんだと確信できた。それは単に光を反射する人間の瞳ではなかった。虹のような光芒を引き光を送りだしてくる瞳だった。
一瞬にして、会場は催眠術にでもかかったように陶酔した。二千以上の雑然とした取りとめもなく移ろう心が、瞬く間に一定の方向を向いた。その指向する先には、丈の輝く黒い瞳があった。
いうまでもなく、最初は会場の一定部分が丈の熱心な帰依者であり、その数は数百名程度であったろう。それが、丈の登場と同時に急激にふくれあがった。丈の輝かしい姿に完全に心を奪われてしまったのである。疑惑や猜疑心はその新星現象のような磁場の急変動に吞みこまれ、消えてしまった。
驚嘆のどよめきが再び会場のいたるところで沸騰した。彼らはなにかを見たようであった。そこまでは、丈にはわからない。
光はますます強くなった。なにが起こったのだろう、と丈は思った。何かが起こっている。しかし、それは丈自身の〝力〟の発動によるものではない。もしかしたら宇宙意識フロイかもしれない、と心にうなずくものがあった。
この輝きわたる光の波動は、フロイの贈物なのかもしれない。丈の出発へのはなむけであり激励であると考えて悪かろうはずがなかった。
丈はずいぶん長い時間をかけて、演壇にたどりついたような気がした。その間に宇宙の生成流転が幾つもサイクルを終えたような、特異な時間感覚があった。それはとりもなおさず、悠久の時が丈自身の裡におさまっているという感覚であった。己れが未熟な幼い存在だという自覚とは遠く隔たった、完熟し、叡智に満ちた巨大なものが丈の裡にひしめいていた。
それは、丈自身が次元を違えてはいるが、とてつもなく壮大な、そして宇宙全体を包含するほどの破格な存在と直接つながっており、丈はその一部分ではあるが、望めばその巨大な力を全て使用することが可能なのだ、という実感であった。丈はその壮大な宇宙エネルギーと結ばれたエネルギー・パイプであり、必要なだけの〝力〟を引き出して用いることができるのだ、と彼は直観した。丈は単なる壮大なものの観照者ではない。壮大なものの駆使者であった。
丈は、宇宙を包含する存在の証明者であった。会場にあふれた聴衆は、丈が一言も発するまでもなく、それを見せつけられ、悟らされたようであった。
丈はマイクに向い、聴衆を見わたした。大自然と向いあった時のような、重厚な沈黙があった。聴衆の全ての顔が同時に見える。そんなことはありえないはずなのだが、表情の一つ一つを見分けることができる。
とりわけ前から五列目の中央に座っている女性の顔が丈の心を捉えた。欧亜混血風の美しい顔立ちの若い女性だ。若いといっても三十前後であろう。クールで知的な顔がなぜか丈の心を惹きつけた。
二千名を超す人々の顔の海の中から、一人だけ特定の人間の顔が浮かびあがって意識を捉えるというのは、奇妙な経験である。
丈の輝かしい黒い瞳に捉えられていることを悟って女性は反応を示した。魂を奪われたような眼差で丈を見返す。酔ったような讃美がたたえられていた。
丈の裡から見えない〝力〟が出て行き、女性の裡から放出された生体エネルギーのような磁場と交わったようだった。丈は一瞬にして、彼女が〝力〟の持主であることを知った。今、二人の間に生じたのは、サイキックな共鳴とでもいうべき作用であった。
丈はわずかの間に不可思議な経験を数多く味わった。その女性と丈の間には深い結びつきがあり、昔からよく知っている存在だといういわれのない確信が根をおろしたのである。
もちろん、初対面なのだが、はっきりと見憶えがあるのだ。長い間逢わなかったが、今ようやく再会した旧知の友人に違いない、と丈は不合理な信念の虜になっていた。
丈がこの数瞬、同時併行で経験したことは、数年分のそれに匹敵するかと思われた。舞台裏から、舞台中央の演壇に向って歩く、わずか十秒足らずの時間に生じた異常感覚は、丈に時間が不確定であることを悟らせるのに充分であった。
丈は、その女性との霊的交流を行なうと同時に、会場に散らばっている敵対者も抜かりなく探知していた。害意を抱いている敵対者の顔はそこだけ磁場が異なるように青白く妙に歪んで見えた。丈は会場のそこここにぽつんぽつんと異質な光をもって浮かんでいる青い顔が警戒を要すると知った。
警備スタッフはなきに等しいほどの無力さであり、仮りに教えたところで無駄であろう。暴漢を制圧する勇気もなく、実地をこなした経験にも無縁である。
しかし、丈は心に留めただけで、気にはしなかった。ハイレベルのエネルギーが心身を支配しており、常の丈ではありえない。丈の裡から形のないエネルギーが無限に迸りでて、会場を埋める聴衆を浸して行く。彼らが光の波動として知覚しているエネルギーであった。
光の波動の渦巻が会場全体にふくれあがって行く。それは舞台の丈と、客席の聴衆との間に生じた霊的交流の物質化現象だったかもしれない。
丈がまだ一語も発さないごく短い時間に、それらは生じてしまった。青林学園の総会で生じたものとは比較にならぬパワフルな霊的現象であった。
「みなさん、ようこそ。私が東丈です」
と、丈は冴えたバリトンで告げた。声にならない嘆声が津波となって押し寄せた。この大がかりで緊密な霊的交流が持続している限り、多弁は必要でなかった。
「今、私から皆さんに告げたいことがあります」
丈は深く息を吸いこんだ。全ての視線が一点に集中している。今なら彼らは丈の告げることを全てそのまま受け容れるとわかっていた。
「皆さんは再臨した救世主と遭うために、ここへ来られたはずです。皆さんが意識していようといまいとに関らず、心の奥底で救世主を切実に求め恋い慕っていることはまぎれもない事実です。それは皆さんの裡に、降臨した救世主を助力しなければならぬという熱い使命感が潜んでいるからに他ならないはずです。
皆さんはある大きな期待をもって、ここへ参集されました。しかし、私は皆さんの求めておられる救世主ではありません」
聴衆は言葉もなかった。思考停止が彼らを襲っていた。まさか、そのような言葉を、丈の口から聞くとは思わなかったのであろう。
「世直しを行ない、人々を苦しみから救い、全ての悪を制し、人々を幸せにする......それが皆さんの待望する救世主でありましょう。
私は救世主ではありません。私が救世主であると、かつて一度も告げたことはなく、今後も一切そのようなことを口にはいたしません。
私は皆さんを救済に来た救世主ではないのです。私は宇宙の真実を告げに来た者であり、人々に真実を知らせ、目を開かせ、人にとっての救世主とは己が自身に他ならないと知らしめることだけを目的にする者です。
私はこれから、大宇宙で何が起きているかを人々に告げて行きます。私は宗教者ではありません。地位も権力も財力も、私にとっては無縁です。そんなものは必要としないのです。
私はただ宇宙の真実を告げる者であり、〝真の救世主〟は後から出現することでしょう。私はただ、〝真の救世主〟が何をなさねばならないかを知っている人間です。人々の心を〝真の救世主〟に向けさせ、その人が本物なのだと悟らせる、その手助けをするだけの者にすぎません......」
聴衆はようやく丈のメッセージを理解しはじめた。最初の衝撃が強すぎたのだ。だれ一人として、丈が救世主であることを否定するとは夢にも思わなかったのである。
それはめまいのするほどの衝撃力をもって聴衆を襲った宣言であった。
「それは皆さんも同じことなのです。私は皆さんと同じです。決して救世主ではありえず、救世主に助力する者でしかありません。
しかし、私は〝真の救世主〟がどのような存在であるか知っていますし、それを皆さんにお伝えすることができます。
〝真の救世主〟は大いなる〝力〟を備えた存在ではありますが、その逆はまた真ではありません。〝力〟を持っているから〝救世主〟であるとはいえないのです。
皆さんに是非とも告げたいことがあります。大宇宙意識の心を具現化するために現われる〝救世主〟にとり、〝力〟などさしたる意味をもつものではなく、それはその人の属性の一部にしかすぎないということです。
むしろ〝力〟を誇示するものに気をつけるべきです。〝力〟の誇示により人々を恫喝し、惑わせる者は、必ず〝救世主〟とは正反対の立場に立つ者であり、〝悪の救世主〟とでも称すべき存在だからです」
丈は聴衆に向けて、諄々と説いている己れの声を聞いていた。地声とはまったく異なる、張りのある素晴らしいバリトンである。自分の喉から出るとは信じられない。普段は出そうと意図しても決して出ない声であった。
丈の精神状態が講演によって高揚した時、声帯に特殊な物質化現象が生じるのかもしれなかった。
再び、意識の複重構造化が行なわれていた。講演を続けている丈と、それを観察している丈と二重に存在を始めたのである。観察者としての丈は、己れの美しい声の響きがいかに聴衆を魅了しているか、充分な余裕をもって見届けることが可能なのである。言葉をつむぎだす努力も払うことがない。あらかじめ選び抜かれ、考え抜かれているように、言葉は後から後から渋滞を見せることなく送りだされてくる。
言葉や語句がどのような感銘を聴衆に与え、どのような反応を引きだすか、詳細な観察がなすことができる。丈は、己れが完全に聴衆の心を掌握し、〝悪の救世主〟について警告を発するのを、いつもながら驚嘆をもって聞いていた。どのような啓示が丈をして、このように語らせているのだろう。一度語り出すと丈の言葉には光と熱がみちあふれた。その声音だけで、人々の心を惹かずにはおかないのだった。
「〝真の救世主〟も、それに対抗する〝悪の救世主〟も、形としては非常によく似ております。それは、両者ともにまるで強力な磁極ででもあるかのように、その言葉をもって人々に訴えかけ、人々の心を動かすことができるからです。人々は強力な磁極に吸引される砂鉄のように両者を中心に引き寄せられ、群がってきます。大群衆はこの善悪正反対の二人に対して強度の愛着を示し、崇拝し、酔ったようにその名を呼ぶでしょう。
皆さんは、ナザレの人、イエス・キリストとナチス・ドイツ第三帝国総統ヒトラーとの間に、奇妙な類似点があることにお気づきでしょうか?
この正反対の歴史的評価を受けている二人の人物は、人心を収攬する天才において、実に奇妙な相似性を示しております。
イエス・キリストが命を賭して聖地エルサレムに入った時、群衆が熱狂してホザナ、ホザナと歓呼したさまと、ヒトラーの臨む大群衆が煮立つようにハイル、ハイルと絶叫するさまと、なんと似ていることでしょうか?
両者は善と悪と、位相こそ正反対でありながら強い磁場に似た力で、人々の心を集め、まとめあげる点では、双生児のような相似性を示したのです。
しかし、むろん、形状が似ているからといって、イエスとヒトラーを等しなみに語ることはできません。私が申し上げたいのは、〝悪の救世主〟は優れた心理学者であり、卓越した洞察力をもって、〝真の救世主〟をそっくり模倣し、形としての〝救世主〟を盗むという事実です。
その心根において、天と地、雲泥の差こそありますが、〝悪の救世主〟はその天才をいかんなく発揮し、人々を瞞し、自らを〝救世主〟と信じさせる辣腕の持主であります。彼は必ず人々の熱狂的気分を最大限に高める技術的背景をもって精力的に活動し、人々の欲望を高め、献身的な行為を引きだし、巨大な政治的勢力の潮流を作りだすでしょう。
〝悪の救世主〟は、〝真の救世主〟が人心を魅了するすべをよく模倣し、巧妙で大がかりな集団催眠を駆使することでしょう。彼は帰依する群衆を圧倒的な狂信妄信に巻きこみ駆りたて、魂をさえ収奪することができるのです。
むろん、歴史的時間は彼の正体をあばきだし、明らかにしていきます。しかし、その人物が今まさに活動する時点において、両者を正しく見分けることは容易ならざる作業といえます。沸騰するような狂熱の興奮にみちみちた大群衆の作りだす大がかりな磁場の中にある時、どれだけの人間が正しく真実を見抜くことができるでしょうか?
その、〝時代の気分〟ともいうべき圧倒的な潮流の中に巻きこまれた時、皆さんは皆さんの全ての親しい人々、肉親や友人たちがこぞって一つの方向をめざして動き出した時、果たして踏みとどまることができますか? 真理と信ずるもの、己が信念を声の限りに叫び、〝時代の気分〟を否定することができますか? 圧倒的多数の人々の親身の説得や叱言、あるいは反感や嫌悪、軽蔑の表明によく耐え、踏みとどまることができるでしょうか? 真実を明らかにすることに己が命、名誉をかけ、抗しがたい潮流に抗して踏みとどまり、警告を発することが果たして可能でしょうか? 過去の大動乱の時代に、自らの良心にかけて抵抗した人々がどれだけ存在したでしょう。ヒトラー総統を讃美することを拒み、ユダヤ人虐殺に敢然として反対した人々がどれだけ当時いたでしょう。それが己れの破滅、死に直結するとわかっていても、なおかつ真理を説き続ける勇者が、決して多くなかったことは、まぎれもない歴史的事実であります。
再び恐怖の時代、大動乱の時代が襲ってくるならば、現在の時代に生きる皆さんはどう対処なさるでしょうか? 巨大な〝時代の気分〟の潮流に押し流されるがままに、良心に目をつぶり、心ならずも悪に加担なさるでしょうか? それとも〝時代の気分〟にそのままずっぽりと染まり、生き易いがままに生きて行かれるでしょうか?
このようなことを私が皆さんにお尋ねするのは、再び動乱の時代が迫りつつあることを予告するためであります。これは決して脅しではありません。今日この日、この会場にお集りになった皆さんは心の奥底で〝救世主〟を求めておられる。そのような希求を心に秘めた人々こそ、〝悪の救世主〟の好餌になり易い人々であることを、私は皆さんに警告したく思います」
衝撃の波紋が客席を揺がしていた。観察者である丈にすら思いがけない発言であった。しかし、聴衆がすでに丈に対し、救世主を迎える期待の虜になっているのなら、それは的確な発言であることを認めざるを得なかった。講演者の丈はいわゆる〝救世主信仰〟に一石を投じたのだ。
「総体的にいうならば、人々は本質的な叡智を備えているということができます。しかし、ある短時日に限っていえば、その叡智が充分に発揮されるとはいえません。巨大な波動である〝時代の気分〟に惑わされ、瞞される場合も往々にしてあるわけです。けれども長い目をもってすれば、すなわち歴史的見地をもってするならば、人々の叡智は必ず発現していることがわかるはずです。
しかし、今、終末の時を予告して現われ、強力な波動により〝時代の潮流〟を造りだそうと企てる者たちの中に、あるいは〝悪の救世主〟が目覚めつつあるかもしれません。
今度現われる彼は、〝真の救世主〟を叩き潰し、世界を再生のない破滅へ導こうとすることでは、前例のない強大な悪の覇者となりえます。それこそヒトラーなど比較の段ではない悪の波動をもって、世界を催眠に陥れる真正の〝悪の救世主〟である可能性が強いのです。
かつて地上にこれだけ強大な邪悪が存在したことはないと記されるほど、彼は悪の波動を全世界に伝播させるでしょう。彼は巨大な魔性の〝力〟の持主です。それはまことに〝悪の救世主〟にふさわしい〝力〟といえます。
私は皆さんに〝悪の救世主〟を見分けるだけの鑑定眼をもっていただきたいのです。感情に曇らされない冷徹な、洞察力をもって彼の偽りを見破っていただきたいのです。皆さんがそうした目を備えることにより、〝悪の救世主〟は巨大な竜のように成長するすべを失うかもしれません。やはり〝悪の救世主〟といえども、徐々に自らを育てていかなければならないからです。もし、人々が早い時期に彼の正体を看破してしまうならば、彼は育ちそこねた悪竜として、無害な存在のまま終るかもしれません。
皆さん。〝悪の救世主〟が必ず要求するのは地上の栄光であり、権力であり、財力です。このことを銘記しておいて下さい。彼がどのように立派な崇高な言葉をもてあそんだところで、それはうわべだけのものでしかありません。
彼は恐ろしく強力な電波を発射する放送局のような存在です。その言葉は、耳に甘く、魅力的であり、もっともらしく聞こえるかもしれません。事実、軽はずみな人たちは先を競って彼の下に引き寄せられて行くでしょう。彼は魅力がある存在です。巧妙な言葉を操ります。まさかと思うような知的な人まで魂を虜にされます。それを見るならば、いろいろ悪口をいわれ、非難されても、さすが大物だと感じさせられるかもしれません。
事実、彼は大物なのです。ただし悪の大物である〝悪の救世主〟です。彼は有識者と世にいわれる人々をも魂を奪い、手許に引き入れるでしょう。彼は盲信狂信を煽りたてる大天才といえます。教養があり知的と思われる、指導的立場にある人々といえども、真実を見分ける目がなければ、簡単に彼の誘惑に敗れ、彼の手中に落ちることになります。
くり返して、皆さんに警告し、印象を深めておきたいと思いますが、〝悪の救世主〟が必ず要求するのは、〝地上の栄光〟であります。これだけは決して忘れないで下さい。
美辞麗句をいかに巧妙に誦えようとも、人間の品性は隠しがたくその行為に現われます。これだけは隠しようがありません。たとえ不品行を人々の目から秘匿しようと試みても、いつかは間違いなく漏れて行きます。〝隠すより表わるるはなし〟ということわざ通りになってしまうのです。
彼は己れの名声、地位、権力をいやが上にも拡大しようと計ります。なぜなら、彼の真の目的は栄耀栄華にあるからです。彼は全人類に、己れを神となすことにより、個人崇拝を強制し、偶像崇拝者として己れ自身の肖像を礼拝させることに喜びを見出すでしょう。
大神殿、大殿堂が彼の栄光を証すべく建てられます。それは彼が生ける神であることを人々に強制するためです。彼は口でなんといおうと、人類に幸せをもたらすために来たのではありません。まさにその反対です。人々に圧制の苦難をもたらし、理想を封殺し、喜びを奪い、苦患を与え、精神の暗黒で塗り潰すために現われたのです。
彼は、〝真の救世主〟とはまさに正反対の業を行ないます。〝愛〟の代りに〝憎悪〟を与えます。〝光〟の代りに〝闇〟を与えるのです。彼の下には貪欲、憎悪、愚昧さのもたらす悪があふれだします。彼に支配された人々は全て、一瞬といえども心の安息を得られなくなります。
なぜなら、彼は世界を滅ぼし、人々を魂にいたるまで破滅さすべくやってきた〝悪の救世主〟だからです」
聴衆は、熱狂の代りに鎮静を与えられ、戸惑っていた。別種の感動は覚えているのだが、それは熱狂とはほど遠いものだった。
火を発するばかりの熱弁で、人々を高揚に誘い、興奮のるつぼと化す......そんな期待がはずされて、感銘は受けているものの、失望は拭いがたく聴衆の胸に沈んでいることが、舞台の丈には手に取るようにわかった。人々が丈に求めているのは、〝若き救世主〟のイメージだったのだ。
「これだけは決して忘れていただきたくないのです。〝悪の救世主〟とともに、世界の破滅的な状況は必ずやってきます。しかし、皆さんにはそれを防ぎ、危機を回避する力が付与されております。それは真実を見分ける目であり、〝真の救世主〟を見定める目であります。
けれども、皆さんが〝救世主〟に求めていることを今、問題にしなければなりません。皆さんはなぜ〝救世主〟を求めておられるのでしょうか?
もし、その人が現われて直ちに、さながら特効薬のように、この乱れた世界、長年月にわたる怨恨と憎悪の土地に平和がもたらされ苦患は去り、人々は安楽のみを与えられる。
もし、皆さんがそのように期待しておられるならば、その人が万能の特効薬であることをのみ期待しておられるならば、その期待ははかなく裏切られることを、私ははっきりと確言します。
〝真の救世主〟は、人類に物質的繁栄・安楽をもたらすために来るのではありません。もし、その人が来るならば、だれ一人自ら努力することなく、全ての悪は払われ、悪人は悔悟し、自動的に全人類が救済される、ともしお考えならば、それは決定的な考え違いであります。〝真の救世主〟はそのような他力本願の恐ろしく安易な期待に応えることは決してしないはずです。そのような過大な期待は、〝間違った救世主信仰〟以外のなにものでもありません。
〝真の救世主〟は人類を甘やかしに来るのではないのです。人々に覚醒を促し、宇宙の真実を教え、人間の目的と使命を教え、勇気をもって己れの過誤を正し、古い物質的欲望の桎梏を脱して立ち上ることを呼びかけに出現するのです。
その人は人々に宇宙の法を教え、真実の愛を教えます。しかし、歩むことをおぼえようとしない人々を背負い、高処へと登る、そのような甘やかしは決してしません。人々は自ら目覚め、自らの足で歩まねばならないのです。その人は人々の自覚を促しに来たのです。なぜなら、真に救いの道へと至るのは、人々が自ら足を運び、努力のうちに通過する以外にすべがなく、他人に背負われて、なんの苦労もなく、安楽のうちにたどりつくということは決してありえないからであります。
皆さん。子供はどうやって自分で歩くことを憶えますか? 自力で歩こうと努力する以外にどうやって学ぶことができるでしょうか? もし愚かな親が子供を歩かせることなく、抱いて運び、背負って運んでいたら、子供は歩けない人間になってしまいます。
甘やかすのは決して真の愛ではないということです。真の親の愛は、子供にとってはいささかきびしいものなのです。
〝真の救世主〟もまた、人々に自力で救いの道へと歩むことを望んでいます。それ以外に人間が、本当に救われる道はないからです。その人は、人々にきびしい態度で接し、寸毫の甘やかしもなく、ひたすら努力することを望むでしょう。徹底的な努力を要求するでしょう。
そこには抜け道も近道もないとはっきり告げるでしょう。甘い言葉をつらねて、安易な救いを約束することは決してありません。そのような安易な救いなど、絶対に存在しないからです。
そのような甘言を口にするならば、それは偽物の証拠です。もし皆さんが大魔術のような奇蹟による救済を望んでおられるならば、自らなにひとつ努力することなく、〝救世主〟が来ただけで救われると甘い期待をお持ちであるならば、必ず偽救世主の餌食になることでしょう。
〝真の救世主〟は地上の権力者ではありません。奇蹟をもって悪人どもを打ち滅ぼすようなことは決してしないのです。なぜなら、悪人といえども学ぶことを許されて、存在しているからです。〝救世主〟が意のままに人々の心を変え、人々を操ることをやってのけるならば、人間は結局、学ぶ機会を奪われた子供のようになってしまいます。
〝真の救世主〟は人々の本質的な叡智を目覚めさせることを目的としています。どうして人々から努力する機会、学習する機会を取り上げてしまうでしょうか? そんなことは決してありえないのです。
〝真の救世主〟が巨大な奇蹟をなす力を所有しているとしても、それをもって人々を直接的に救済することはありえません。
正義を望む人々が、世にはびこる悪人を滅ぼしてほしいとその人に望んだとしても、天から稲妻と火を降らせて悪人たちを焼き殺すことは絶対にしません。〝真の救世主〟は絶対にそんなことはしません。偉大な力はそんな使い方はされません。〝真の救世主〟は、悪がどこから生まれるかを明らかにし、それがいかなる人間とも無縁ではないことを知らせるでしょう。正義の遂行を望む人々もまた悪と無縁ではなく、もし〝真の救世主〟が悪人を焼き滅ぼす火を解放するならば、その火はとりも直さず正義の味方自身の頭上にも降りかかってくるからです。
〝真の救世主〟に向かって地上の権力者に望むことを望むのは間違いであります。それは間違った期待なのです。なぜなら、皆さんは己れの独善的な、自分勝手な価値基準をもって〝救世主〟を迎えようとするならば、必ず期待ははずれ、失望し、彼は偽者だ、と怒りにまかせて叫びたてることに終るからです。
しかし、その人は地上の権力者になるために来るのではありません。絶対の権力者、地球の帝王となるために来るのではないのです。人々の魂の教師として訪れるのです。
皆さんがもし、〝真の救世主〟が偉大な奇蹟能力をもって、安直に戦争や疾病やありとあらゆる苦悩をなくし、安逸を地上に満たすために来るのだとお考えなら、それは大きな誤解です。そんな安易なものではありません。恐るべき巨大な動乱の時代にこそ、〝真の救世主〟はやって来るということを忘れないで下さい。
〝真の救世主〟は、世界の汚穢を焼き払う浄化の炎とともに現われるのです。その人は優しいだけが取柄の八方美人ではありえません。炎のように烈しい気性を備えた、厳格な教師として出現するのです。
さもなければ、全世界に火の手があがる動乱の時代に、どうして人々を導くことができるでしょうか。八方塞りの恐ろしい苦しみと悩みの時代にこそ、〝真の救世主〟は光を投げかけるのです。
再び銘記して下さい。口あたりのいい言葉、甘言を弄する者は偽者です。他力本願を人に教え、自分に頼る者は救われると説くのは偽者です。金や財物を自分に差し出せと命ずる者は本物では決してありません。人を狂信妄信に走らせ、家族や両親から遠ざけ、洗脳した挙句、肉親の絆を無視させる者は偽者です。〝真の救世主〟は絶対に人々の頭を狂信妄信で狂わせたりしません。自己覚醒を教える者がどうして人の頭を狂わせ、ものの道理もわからぬ失調者を造りだすでしょうか。
〝真の救世主〟は、世界の破滅を声高に喚きたて、人々を恐怖に陥れ、自分を信じ愛する者だけを救ってやるなどと脅迫と要求を使い分けたりはしません。それらはみな偽者です。口先だけ衆生への愛を誦えながら、心には貪欲だけを持つ徒輩であり、魂の詐欺師であります。
今後は、これらの偽者が世にあふれんばかりにはびこるでしょう。彼らは口々に甘言を弄し、人々の自分さえよければ、という我欲につけこみ、人々を苦しみの道へ引きこみます。そしてこれらの徒輩こそ〝悪の救世主〟の誕生を促す土壌であることを、皆さんは心に留めておいて下さい。
もし、皆さんが自己覚醒を成し遂げることなくば、〝悪の救世主〟はこの世の黄昏のように静かにやってくるでしょう。そして世界を彼の脚下に置き、かつてない苦しみの時代が到来することになるのです」
聴衆は今や、全身を耳と目だけに化したようになり、心を奪われていた。丈が冒頭に自ら救世主であることを否定した失望や期待はずれは一掃されていた。
これだけのことを、熱と光をもち、高い格調をもって語れるのは一体、何者だ? この美しい若者には想像を絶した深さがあり、年齢とのおどろくべき落差をもった叡智がある。彼はまさしくただものではない。
この圧倒的な説得力をもって迫ってくる美しい若者は、自ら否定してはいるが、やはり〝救世主〟ではないのか? さもなければ、ハイティーンの若者、ほんの子供でしかない彼にどうしてこれだけの聡明さがあるのか納得ができない。彼は確かに天才少年であろうが、ありきたりの天才ではない。魂の教師としての天才なのだ。すなわち、それは彼が〝救世主〟であるという証拠ではないだろうか......
聴衆のそうした心の動きは、魂を魅せられたように壇上の丈を見上げる目に表われており、丈はそれをはっきりと読むことができるのだった。平常よりもはるかに遠感がレベルアップしているのであろう。あらゆるサイキック感覚が異様な鋭敏さを増しているのだった。もし望むならば、聴衆一人一人の心の中を視ることさえ可能であろうと思えた。
──彼が自ら救世主たることを否定したとしても構わない。彼が救世主であろうとそうでなかろうとどうでもいいのだ。彼が宇宙の真実を衆生に告げる者であることは疑いなく、それがゆえに自分は彼について行く......
そのような焦点の合った明確な意識を、丈は遠感によってはっきり捉えることができた。それらは複数の意識がさながら一箇のものに結合を遂げたように力強く明確に響きわたっていた。
むろん猜疑心に満ちた想念がないわけではなかったが、それはごく低いレベルの騒音でしかなく、圧倒され、微弱なものと化していた。
丈はそれらを慎重に把握した上で、更に講演を続けた。それまで鳴りをひそめていたマスコミ関係者の席で写真撮影の閃光がにわかに激しくなってきた。丈の言葉に圧され、職業意識さえも忘れ去っていたのであろう。
13
丈はカメラマンの放出する閃光が一応鎮静するのを待ち、それから本題に入る機会を摑んだ。報道関係者の取材活動により、聴衆の意識が拡散するのを避けたのだ。聴衆の注意が再び一本化し、演壇の丈に集中するのを待ち、〝幻魔大戦〟のテーマが丈の口を経て鳴り響き、轟きわたった。〝幻魔〟と口にするだけで、名状しがたい緊張、不吉な予感が人々の心を捉えて行く手応えが明確にはねかえってきた。聴衆は魔性の存在への強度の関心をいまやむきだしにしていた。
彼らは、それを聴きに来たのだ、と丈ははっきり悟った。彼らは世界全体を覆う闇の正体を知りたがり、大いなる破滅を警告する若き救世主を求めて集まってきたのだ。なぜならば彼らにもまた不吉な破滅の予感があるからだった。まがまがしい予兆の轟きを心耳で聞き、それが来る、と強く感じているからだった。
「宇宙には、悪の根源ともいうべき巨悪が存在します。それは物質ではなく、物質を超えた想像を絶するエネルギーです。純粋な悪の意志を備えた計り知れぬ巨大エネルギーなのです。彼らを今、仮りに〝幻魔〟と呼びましょう。〝幻魔〟は人間の想像を超える〝宇宙の巨悪〟、単に地球的な規模のイメージである〝悪魔〟などでは、とうてい律することのできない〝超巨悪〟といえます。
〝幻魔〟は宇宙の破壊者であり、この宇宙の在る前から在り、この宇宙が滅びた後も在り続けるといわれる、宇宙の創造主への敵対者であります。彼らは無敵の覇者であり、何百億年にわたり、大宇宙の全き破滅のみをやみくもに求めて驚くべき破壊力を宇宙全域に及ぼしています。
それは大宇宙の端から端までに渡る深淵であり、その超巨大な深淵には永遠の苦悩の常闇だけが満たされ、一点の救いの光明も存在を許されません。
まことに〝幻魔〟は大宇宙を蝕む悪性の癌組織といってさしつかえありません。人間の肉体を滅ぼす癌が根こそぎに美しさを奪い、苦痛と苦悩をのみもたらすように、〝幻魔〟もまた造物主、大宇宙意識の肉体、神の肉体であるこの大宇宙に醜怪な毒素を放出しつつ無残に損って行きつつあるのです。
それを言葉で表現することは不可能です。皆さんの心に描いていただくしかありません。皆さんの最愛の美しい人が悪性の癌によって蝕まれ、むごたらしく破壊されて行くさまを想像してください。
たちまち全世界から光は、暖かさは消え薄れ冷暗が荒涼として心にのしかかり、世界を苦悶の充満した闇と化して行くことでしょう。
そんなことはいやだ! と声を限りに叫び、否定せずにはいられないでしょう。皆さんのもっとも愛する大切な人が、美しさの全てを奪われ、正視するに堪えない醜悪な残骸と化してしまうのです。自分の命にも替えがたい人が、見も知らぬ腐臭を放つ奇怪なむくろと化して行く時、世界には愛なく喜びなく、心を暖める光明はもはやなく、絶望の苦しみだけが心を食い荒し、無力な拒否と怒りの悲鳴のような叫びが口を衝くばかりでありましょう。
一切の美しいもの、価値あるもの、素晴らしいものが根こそぎ失われて行く時......最愛の人を奪われる時に人々はそう感じるでしょう。その人にとり、最愛のものはこの全宇宙と等価なのです。
皆さんがもし、そうした経験をされたならば、その苦痛の甚大さは今思うだに、心身を悪寒に満たし、慄然とさせるものがあるでしょう。
皆さん、その絶望と苦痛の真暗な心の深淵こそ、大宇宙を蝕む〝幻魔〟のとてつもない闇の深淵につながっているのです。〝幻魔〟とは〝虚無〟であります。至上至高の価値、真善美を一点も持たない心の癌的な状態こそ、〝幻魔〟の巨大な波動をよりよくキャッチする受信機といってさしつかえありません。
われわれはすでに今、そして太古から〝幻魔〟の受信機となっているのです。〝心の闇〟とは、〝宇宙の巨悪〟である〝幻魔〟から放出される巨大な闇の波動であります。それは世にいわれる〝悪魔〟などといった卑小な存在ではありません。この壮大な大宇宙の隅々にまで恐ろしい波動を行き渡らせている悪の根源こそ〝幻魔〟なのです。
今、皆さんが〝心の癌〟である〝虚無〟の恐ろしさを心に思い描き、実感することが可能であったならば、大宇宙全域を破壊しつつある〝幻魔〟の実体をかなり肉迫して理解することをなしえたといえます。
私は啓示をうけることにより、宇宙における〝幻魔〟の実態を知らされました。それゆえ私は確信をもって語ることができます。
〝幻魔〟は闇であり、大宇宙意識に包含される全ての宇宙意識体は光であります。光は闇と戦わなければならないのです。闇を光で満たさなければならないのです。〝幻魔〟が宇宙のエネルギー状態における心癌であるならば、全ての光は彼らを浄化し、いやさなければならないのです。それが大宇宙意識の壮大な意図なのです。
これは決してマニ教の古い教説を再説したものではありません。空想的な言説を弄しているのでもありません。
私は〝宇宙の巨悪〟〝幻魔〟の実在を証明する者です。宇宙で何が起こりつつあるかを知らせるのみならず、大宇宙を二分する光と闇の壮絶な戦い、〝幻魔大戦〟が今まさにこの地球上にも波及したこと、いいかえれば〝幻魔〟の侵攻が開始されたことを人々に知らせる義務を負う者です。そのために私は皆さんに呼びかけているのです」
会場内が大きなどよめきに揺れ動いた。たとえ予想し、わかっていることであっても、丈の口から直接告げられることは甚しく衝撃的であった。
「大宇宙では、過去数百億年の間、無数の星々が〝幻魔〟によって破壊され、むごたらしく消去されて行きました。そして今もなお、この瞬間、宇宙のどこかで、われわれの地球同様、美しい豊かな生命を満載した惑星たちが、幻魔の手にかかり、〝虚無〟のさなかへ消え失せて行く、恐ろしい恐怖と苦痛の〝叫び声〟が聞こえるかもしれません。それは間違いなく、この瞬間も起こっている大いなる破滅なのです。もし、皆さんが心の耳を研ぎ澄ましているならば、その万斛の怨みをのんだ〝叫び声〟が......宇宙の同胞に救いを求める叫び声が宇宙の深淵を渡り、皆さんの心の耳に谺するかもしれません。
それは、いつか明日、われわれ地球人類の口から発せられる、救いを求める必死の叫び声のように聞こえ、われわれを慄然とさせるはずです。皆さんにはっきりと告げますが、それは決して他人事ではないということです......」
場内に大きな動揺が生じていた。それはきわめて興味深い反応といえた。なぜなら、聴衆の中には、〝叫び声〟を聴きとった者たちがかなり存在し、それがために動揺に見舞われているのだった。それは単に幻覚であるのかも知れず、暗示作用で生じた幻聴といえるかもしれなかった。
しかし、あるいは本当に〝叫び声〟を聴いた者もいるかもしれぬ、と丈は思った。聴衆を見舞っているショックはただごとではなかった。多くの人々は中腰になり、動揺の正体を突きとめようとしていた。
丈は彼らの注意を引き戻しにかかった。
「皆さん。これは他人事ではないのです。広大な宇宙にも、他人事などというものはなに一つ存在しないのです。
なぜなら、宇宙エネルギーの根源は同一だからです。宇宙における生命体の意識は全て同じ一つの根源を持ち、相互に結ばれているからです。だからこそ、光の速度でも何百万年何千万年隔てられた宇宙のわだつみを超えて、今この瞬間放たれている〝叫び声〟を、われわれは心の耳で聴き取ることができるのです。
他人事などとはとんでもないことです。宇宙のどこか遠い所で起こっていることなど、絵空事同然、無意味なものだ、とお考えならば、とんでもない思い違いです。地球世界は今この瞬間も〝幻魔〟の侵攻を受けており、皆さんが破滅を迎え、絶望と苦悩のうちに〝叫び声〟を発するのは、須臾のうちであるかもしれません。
もし、人々が〝叫び声〟に耳を貸さない冷淡で無慈悲な硬い心のままでいるならば、必ずいつかは己れの口から出る〝叫び声〟を聞くことになるでしょう。その冷淡で酷薄な心の状態はまたとない〝幻魔〟の波動の受信装置だからです。〝幻魔〟はその心を通路となし、すみやかな侵攻をかけてきます。
先ほど、私は〝悪の救世主〟に関して話しました。そうです。もはや皆さんには説明の要もないでしょう。〝悪の救世主〟こそ、〝幻魔〟の最大最強の受信装置となるまがまがしい人間だということです。
動乱の時代に入る時、人々の心には、自分さえよければ、他人はどうともなれという、冷酷無情な〝見殺し〟の〝時代的気分〟がみちあふれています。これこそが、〝幻魔〟の巨大な悪のエネルギーを雪崩れこまさせる、〝幻魔〟にとっては願ってもない心的な通路を造りだしてくれるのです。
〝幻魔〟が放出する憎悪のエネルギーは、情愛深い豊かな人々の心に侵入することは困難です。
〝幻魔〟にとっての困難とは、このように人々の間に相互理解が成立し、情愛がみちあふれ、心が通じあっている状態に他なりません。
そして、心の砂漠的な状態にある人々の心こそ、〝幻魔〟はその憎悪のエネルギーのパイプとしてもっとも効率よく使用することができる、〝幻魔〟にとっての最高の橋頭堡なのです。
〝悪の救世主〟はまさに〝幻魔〟の権化として立ち現われるでしょう。私が先刻から、くどいと思われるのを承知で、〝悪の救世主〟出現への警告をなしているのは、それが〝幻魔〟の侵攻と期を一にして行なわれるからであります。
これは決してフィクションではありません。空想によるいい加減な作り事ではないのです。
〝幻魔〟はすでに侵攻を開始し、地球の各地では、規模の大小こそあれ、変事が次々に生じつつあります。〝幻魔〟はすでに活動を始めています。奇怪な事件は今後もますます多発し、規模を拡大し、いずれは人類の生存をも危うくする大きな凶事として育って行きます。
皆さんは、〝幻魔〟を地球の伝説中の〝悪魔〟と同次元で捉え、姿形もなく捉えどころのない存在、幻想的な存在とお考えになるかもしれませんが、それは違います。〝幻魔〟の基本的な状態はエネルギーであっても、彼らは物質化現象を容易に操ります。それゆえに彼らは〝宇宙の癌〟なのです。彼らが意図するならば、一人の人間を、肉体を備える〝幻魔〟に変えることは造作もありません。事実、〝幻魔〟の物質的現象としての宇宙の侵攻軍はそのようにして生じた癌の細胞組織の大増殖といえます」
丈は大きく息を吸いこんだ。二千名を超す聴衆はいまや、丈の一言一句により思うがままに揺れ動いた。丈が意図するままの反応を引き出すことが可能であった。丈によって集団催眠をかけられたように感じられた。いや、彼らはオーケストラであり、丈はその指揮者だった。特殊な共感作用が、聴衆と丈との間を緊密に結びつけて、外見的には集団催眠のような状態を造り出しているのかもしれなかった。
丈は己れの造りだした共感の場に驚嘆し、己れの〝力〟に畏怖をすら覚えた。自分には聴衆をどのようにでも煽動する力があるのかもしれない。しかし、それは危険だ、と丈は感じた。彼は聴衆の裡にひそむ厖大な盲目的な〝力〟を引き出すことができる。いったんそれが溢れだしたならば、丈のコントロールすらあっさり超えるであろう。彼らは丈を偶像崇拝の対象に祀り上げてしまうかもしれないのだ。
それは丈が常に感じている危険であった。
「しかし、皆さん、恐れることはありません。恐るべき凶変を予告しておきながら、恐れるなというのは矛盾しているように聞こえるかもしれません。〝幻魔〟は宇宙において最大最強の侵略者、暴虐者であることは事実です。凶暴無類の宇宙からの侵攻軍が逆落しに襲いかかって、世界を劫火に変える、そのようなイメージを持たれた方々がおられると思います。
もう駄目だ、逃げ場がない、そのように圧倒的な宇宙の侵攻軍が攻めてきたならば、地球は瞬く間に壊滅する! もう人類は滅亡するしかない、なにもかももうおしまいだ!
皆さんがそうお考えになったとしても不思議はありません。けれども私は、恐れることはない、まだ希望は残されている、と皆さんに告げます。
本当に恐れることはないのです! 〝幻魔〟が直接大軍団を派遣するのはよくよくの場合です。
〝幻魔〟はこの広大な宇宙全域で敵対するもう一つの大勢力である〝大連盟〟と永劫に近い長期戦を演じております。戦いはあまりに長きにわたっているため、辺境の星であるわれわれの太陽系へいきなり大軍団を送りつけることはまずないといっていいはずです。
その代りに彼らは得意の戦法を用います。われわれ地球人類の中に走狗を捜しだし、その者をエネルギー・パイプとして暗黒エネルギーを送りこむことです。それが先ほどから私がくどいほど強調している〝悪の救世主〟であります。〝幻魔〟の代理人は暗黒エネルギーを駆って、地球を悪の花園に変えて行き、奇怪で醜悪な悪の花々で満たします。〝幻魔〟は労せずして、太陽系世界を己が掌中に落すことができるのです。恒星間宇宙の深淵を渡り、派遣軍を送るよりもはるかに安易な労少くして実り多い侵攻といえるのではないでしょうか?
それゆえに皆さん、私たちは〝幻魔〟を退ける望みが少からず残されています。
それはわれわれ地球人類が光の勢力を結集させ、〝悪の救世主〟の誕生を促す土壌を取り除いてしまうことです。人類の心に、長年積もりつもった憎しみ、蔑すみのもたらす怨恨を取り除き、心のススを払うように薄く透明にして行くことです。
人類の心から憎悪、憤怒、怨恨の凝りが除かれた時、〝幻魔〟は地上に手先を存在させる基盤を失います。〝幻魔〟の送りこむ暗黒エネルギーをキャッチすべき受信装置が存在しなくなってしまうからです。
これは決定的な勝利といえます。人々が武器を取って立ち上り、戦うのは絶望への道へとつながっていますが、〝幻魔〟の暗黒エネルギーをカットしてしまうことは、おそらく宇宙全域での〝大連盟〟の勝利にも結びついて行くからです。
なぜなら、人類がもろもろの大量に蓄積した心の毒念、カスやススを除去することは、つまり光の勢力を結集することであり、この大宇宙を存在させている巨大な宇宙エネルギーを自由自在に導入することを許されるということを意味するからであります。
全人類は宇宙エネルギーを大結集させ、苦もなく〝幻魔〟の大軍団を退けるでしょう。おそらく、宇宙全体の〝幻魔〟全軍団がかかっても、この小さな地球一つに手を出すこともかなわなくなります。
われわれ人類は、その一人一人が宇宙エネルギーの根源とつながれており、光の勢力となった時、創造主の無尽蔵の宇宙エネルギーをひきだして用いることが許されるからです。
〝幻魔〟がこの辺境の星、地球での会戦に敗れ去った時、〝幻魔大戦〟ははっきりと傾きを変え、さしもの常勝将軍〝幻魔〟も永遠の敗北へ向って雪崩れ落ちて行きます。
われわれ小さな辺境の星に生を享けた地球人類が〝幻魔大戦〟の趨勢を決定する機会を迎えたのです。
なぜなら、〝真の救世主〟は他ならぬこの地球上に誕生することを定められており、その人は、今まさに到着しようとしているからであります。
むろん、〝真の救世主〟のなす業は、口でいうほどたやすくはありません。長年人類が蓄積した毒念の土壌は凄まじい厚みを誇り、その人の努力をせせら笑うでしょう。そんなこと無理だ、出来っこない! とだれしもが考えるかもしれません。
しかし、それをなし遂げることこそ、真の奇蹟であり、〝真の救世主〟のなすべき業です。月を、地球を、太陽を動かす〝力〟があったとしても、それは単なる物質的奇蹟に他なりません。そんなものはすぐに忘れ去られます。
〝真の救世主〟が行なう業は、そんなに物質的に限定されたことではありません。人々の心を覚醒させることです。人々に己れの本質を教え、人間とはちっぽけなこの肉体だけが全てではなく、宇宙エネルギーの根源と直結した壮大な存在なのだ、と悟らしめることにあるのであります。
皆さんはご自分を小さな貧しい非力な存在だと思いこんでおられるのではないでしょうか? 哀れな虫ケラのようにちっぽけなもので、わずかな生を生きる間、はかなくもがいて死んで行くのだ......そのような自己を卑小化する考えにとり憑かれておいでなのではないですか?
とんでもない思い違いです。人間はいつしか物質的肉体の殻に閉じこめられ、自分がちっぽけでみすぼらしいものだとする思いこみに慣らされてしまったのです。
本来の人間はそんなものではありません。美しく巨大な、豊かなエネルギーそのものなのです!
もし、人類がわずか十人の本質に目覚めた人々を持つならば、〝幻魔〟は地球に一指も触れることを許されなくなります。それほど個々の人間は巨大な宇宙エネルギーを蔵している存在です。ただ長年かけて形成した固定観念という強固な殻ゆえに、自ら動きが取れなくなってしまったのです。頭からそんなことは不可能だと思いこんでしまったのです。
〝真の救世主〟は私たち一人一人に誤まてる固定観念を捨て去ることを教えるでしょう。自覚した人間がどんなに偉大であるかを証明するでしょう。その日は近づきつつあります。
私は、まこと神ではないかと疑わせる巨大な宇宙意識、〝フロイ〟......人の言葉で〝白金の光〟と呼ばれる大いなる宇宙意識と接触したことがあります。今、私が語っていることは、全て〝フロイ〟の啓示を受けたことがらであります。
大いなる〝フロイ〟は、恐れるなとわれわれに告げております。〝真の救世主〟は必ずわれわれのもとへやって来ます。大いなる宇宙意識と直結した光のエネルギーこそ〝真の救世主〟です。
われわれはその人を迎える用意をしなければなりません。われわれは、〝真の救世主〟を助力するために送りだされた者たちです。光のエネルギーとして結集すべく、われわれは出たのです。皆さんの胸の深みには、私の呼びかけに呼応し、立ち上ろうとするものがあるはずです。それこそが使命を持つ者の証しであります。
〝真の救世主〟が立ち上り、宇宙の真理を告げる日のために、われわれは準備しようではありませんか。その人がいつ訪れてもいいように、迎える用意に取りかかろうではありませんか。
それは、自覚さえすれば、決して困難なことではないはずです。われわれは本来、巨大な宇宙エネルギーそのものを本質としており、自覚さえすれば、それに立ち返ることができるはずです。
全ての地球人類が、〝真の救世主〟を迎えるべく、選ばれて今ここにあるのです。〝幻魔大戦〟の趨勢を一気に覆すべく、自ら志願し、選び抜かれて、今地球に集結しているのです!
それは大宇宙の始原の時より定められた、大宇宙の意志によるものであります。われわれがいかに偉大な光栄をまかされているか、自覚してみれば知ることができるでしょう。
くり返して申しあげますが、わずか十人の本質に目覚めた人々を得るならば、〝真の救世主〟は大業を成就することができるのであります。少なくとも私はその人の到来に備えて努力を重ねることを誓います。皆さんの中に〝真の救世主〟に助力することを自ら喜びとする方は、私とともに歩みませんか? 全ての人類が〝真の救世主〟とともに歩むことを誓って地上に出たのですが、その約束は忘れ去られてしまっています。
皆さんに一日も早く、自己覚醒をなし遂げられんことをお願いします。われわれは大きな責任を負っているのです。それはわれわれが自ら志願し、奮いたって遂行すべく誓ったことなのです。
〝真の救世主〟は間もなく到着します。われわれ助力者たらんとする者は、全ての人々にその人を迎える準備をさせる責任を持っているはずであります。
皆さん。私とともに道を整備し、掃き清め、花を撒いて、〝真の救世主〟を迎えませんか! その時にこそ、われわれは自分が今、生きてこの地球にあるまことの意味を、真の幸せを知ることができるでしょう!」
静かな拍手が湧いた。静かだが、力のこもった拍手だった。それは浮わついた熱狂ではなく、静かに燃えていた。拍手は会場全体に拡がって行った。無我夢中ではない。静謐さを持ち、しかも力強い感動の表明であった。
それは不思議な現象だった。湧きたつ興奮が一歩のところで抑制されていた。声を限りに歓呼するかわりに、聴衆は静かな力の渾った拍手をいつまでも送り続けていた。たぎるような感動の高揚を解放する代りに、抑制し、ストイックになることで更に奥深い感動を味わっているようであった。
人々は一人、また一人と席を立ち、拍手を続けながら通路に出て、丈の立つ舞台の下に静かに進んで行く。それは丈の呼びかけに応える人々の応答であった。丈とともに集い、歩むという強い決意の静かな表明であった。
舞台の下はみるみる潮のように寄せてきた人々で埋った。顔見知りの会員たちだけではない。聴衆のほとんど全てが席を立っていた。丈の下に集おうとして動きだしているのだった。丈自ら、〝救世主〟ではないと明言しているにもかかわらず、丈を盟主として選び、盟約を交わそうとしているのだった。
拍手はいつまでも続き、それはさながら海鳴りを思わせた。人々の心は全ての宇宙エネルギーの海につながっていると証しているかのようであった。丈は口をつぐみ、身じろぎもせず、誓約を交わすべく参集してくる人々の群れを見おろし、その瞳は澄明な光にあふれていた。
今は言葉は必要なかった。参集する人々と丈の間には緊密な魂の結びつきが生じているからだった。
報道関係者の撮影用のストロボが再びせわしく活動を開始した。しかし、人々はまったく無関心であった。彼らがそこでなにをしていようと興味がないのだった。彼らの全注意は壇上の輝きわたるような美しい若き盟主に向けられ、集中していた。
椿事はその時起こった。突如、舞台の袖に若い男が駆けあがり、演壇の丈に殺到しようとしたのである。
丈の瞳がきらりと光を弾くように、若者を捉えた瞬間、相手の動きがぴたりと静止した。とびかかろうとする不自然な体勢のまま、凝固してしまった。
拍手の音は大きく、聴衆の中には、この動きに気付かない者も沢山いた。気づいていても、なにが起こっているのか理解できない者もあった。丈にとびかかろうとした若者が舞台の上で進退の自由を失い、不動金縛りになってしまったことを知るには、あまりにも唐突すぎたようである。若者は凶器を手にしたまま置物と化していた。まばたき一つする自由が失せているのだった。人々の不審の目をよそに、苦悶の汗をだらだらと冷肉のように白くなった顔面にしたたらせているだけだった。
丈は若い凶漢には目もくれず、演壇を去り、人々の詰めかける中へ自ら降りて行った。人々は畏敬に満ち、丈を迎えた。丈の顔は引き緊まり、むしろきびしい表情をたたえていた。幼児のような小柄な弟を両腕に抱いた木村市枝が祈るような目を向けて佇んでいた。
丈の顔が初めて和み、市枝たちに向けて歩み寄る。小柄な弟は大きな澄んだ瞳で丈を見詰め、細い小さな両手を差しだした。自分が回復し、動けるようになったことを、丈に伝えたいと願っているのだった。
丈の差し出した手を、市枝の弟は両手で捉えた。生命綱にすがるような懸命な把握であった。
拍手は場内が割れるばかりの音量に高まり、いつ果てるともしれず、続いていた。意味も知らず、幼い少年と丈との結び合いが人々を感動させていた。熱いものが胸にこみあげるのを覚えさせるのだった。市枝の顔は涙に濡れて光り、その大きな双眸は更に澄明に光り輝いている。市枝の熱い想いはその双眸に全て表われていた。
彼女の隣りで米つきバッタのように頭を下げ続けている老人は、再起の成った市枝の父親だ。その横で頭を垂れている中年女性は彼女の母親であろう。
丈は人々を見わたし、河合康夫や関口勉などの顔見知りの不良少年、〝黒バラ会〟の不良少女たちなどに目を止めた。彼らの顔は浄化の涙に濡れ光っていた。それを押し拭いもせず、耳の痛いほどの拍手を続けているのだった。
丈には、今自分がなにを成したのか、はっきり認識することができなかった。講演会が成功したのかどうか、それさえもよくわからなかった。人々に語りたいことの百分の一、千分の一も告げ得なかったような気がする。しかし、彼を取り囲む人々の泪が、彼の心を和ませた。
表面的な一時の熱狂ではなく、静かに水が燃えるような心からの共感を得ていることが、人々に囲まれた丈に実感となって迫った。彼らがしんそこから、丈とともに歩むことを望んでいるのだ、と丈は知った。
顔見知りの会員たち、顔も知らない一般聴衆たちが一団となって、丈に拍手を送り続けていた。
──よし、やれるぞ。
と、丈は初めて思った。自分の無器用な歩みが決して道を誤まっていなかった、と自信が湧き出した。奇蹟や超能力をのみ求めるもの好きや刺激を求めるだけの変物ではなく、丈の呼びかけに応え、彼とともに歩もうとする人々が少なからず存在していることを、彼らの浄化の涙が確信させたのだった。彼らは一時的な熱狂による帰依ではなく、丈の真の盟友として、世界の浄化をめざし、ともに歩むであろう。そして彼らの中からは、丈がもっとも必要とする素晴らしいスタッフたちが現われてくるだろう。

丈は双腕の中に市枝の弟を抱きとった。びっくりするほどの軽さ、だが、小さな体にはしっかりした芯があった。少年の裡に生命力の根源が戻ってきたのだ、と丈は知った。弟は熱い手を丈の首のまわりに巻きつけ、体のバランスを保持した。病いの臭気は去り、健康な子供の生気が小さな体に満ちていた。
丈はそのまま、人々が道を開ける座席の間の通路を、ロビーに向けてゆっくり歩いて行った。聴衆は座席から立ち上り、拍手をいつまでも続けていた。打ち合わせる両掌が真赤に脹れあがっているのも気がつかないようだった。
丈は通路を歩みながら、再びあの女性の顔に目を止めた。なぜか講演の間、彼の注意を惹きつけた女性の顔であった。クールで知的な、美しい顔であった。彼女は手を叩きながら、他の人々と同様に熱意にあふれて、丈を見詰めていた。その心は更に明確に、丈の胸に意志を伝えていた。
──あなたとともに歩みます......
と、彼女の心は告げていた。それは明瞭なはっきりと指向性を持ったメッセージとして丈の心を打った。
──あなたについて行きます。わたくしの命が燃え尽きるその日まで......わたくしがおわかりでしょうか?
──僕は気がついていた。
と、丈は胸の裡に語りかけた。彼女の想念はそこで丈と交換された。
──あなたが来ており、僕にメッセージを送っていることにすぐ気づいた。
──もしかしたら、わたくしの遠感をわかってくださるのではないかと願っておりました。気付いていただけるなんて、まるで夢のようです。
丈と女性の唇はぴくりとも動かなかった。かつて、ルナ王女と丈がそうして言葉を介さず交信したように、彼らは遠感という超常能力で語り合っているのだった。
──僕はあなたが来るのを待っていた。超能力を持つあなたを......
──わたくしの遠感はそんなに強いものではありません。なぜこんなに強く、はっきりと働いてお話することが可能なのでしょうか?
──僕の遠感もそうです。なぜ突然、こんなに強まったのか......しかし、それはどうでもいい。
──あなたを見つけました、先生。
──あなたを歓迎する......
二人は遂に一言も肉声による言葉は交わさないまま、丈は歩きだした。しかし、彼女の心はずっと丈の胸の裡に留まっていつづけた。
──メリー・クリスマス!
と、背後になった彼女が喜びにあふれてささやいた。
──イエス様、あなたに感謝を! わたくしはその人を見つけました! わたくしは彼に従ってまいります!
なおも海鳴りのように拍手が湧き続けている会場に、優しいクリスマス・ソングのメロディが流れ始めた。
──ボクはあの人がずっとあなたに呼びかけているのを知っていたよ。
と、明確な意識波が身近で語りかけた。それは丈が双腕に抱きあげている幼い少年の心から発されていた。
──だから、ボクは強くしてあげた。あの人の声があなたによく聞こえるように......
それは、市枝の弟が語っているメッセージであった。丈は少年の心がいつしか、生命力を解放することにより、己れの病気を治し、のみならず、精神の特別な使い方を憶えてしまったことを知らされた。
──そうか。君はそういうことができるようになったのか!
丈は無性に笑いたくなった。少年のしなやかな熱い意識が喜悦に満ちて息づいているのを感じた。
──お姉さんにも教えようとしたけど、できなかった。でも、あの女の人はもともと少しできたから、とても楽だった......丈お兄さん、メリー・クリスマス!
──メリー・クリスマス!
弟は、丈に最高のクリスマス・プレゼントをくれたのだった。
丈は、会員たちが待ちかまえている会場ロビーへ、彼の新しい分身のような幼い少年を抱いて分け入った。
歓声をあげかけた会員たちは不意に沈黙し、神聖なものを見る目で、畏敬に満ちて、二人を迎えた。
「メリー・クリスマス!」
と、丈は不意にいい、会員たちは堰を切ったように躍りあがって歓呼した。肩や背中を叩きあい、手を握りあって口々に叫んだ。
「メリー・クリスマス!」
一九六七年のクリスマス講演会は終った。
本書中には「気違い」という病気を差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
師走の街が乾いていた。
埃っぽい寒風が体を殺ぐように渋谷の街を吹きまくっている。重い鈍天が頭上を圧するようにのしかかっている。が、歳末大売出しの最後の商戦で、商店街はひときわ華やかに気合が入っていた。鋭い寒風に硬ばった顔をしかめさせた群衆が通りにあふれている。
喧騒は、背後から追いたてられるような気忙しさを更にあおりたてる力を持っていた。
早くしなければ、もう時間がない......
タイムリミットが刻々と迫っている、切迫感はいつも歳末にはつきものだ。
早くしないとそれが来る......早く早く!
なにものかが金切声をあげて叫び、警告しているようであった。その叫びは肉の耳には聞こえない。心耳を澄ませて、意識を集中した者にだけ、その切迫感みなぎる警告は意味を表わしているのだった。
渋谷の〝GENKEN〟事務所では、静かな雰囲気でパーティーが開かれていた。ごく小規模なパーティーであり、参加者は事務局に常駐しているボランティアが中心となっていた。アルコールは出ない軽食パーティーだった。それでも、手狭な事務所の内部は人があふれかえっていた。
馬鹿騒ぎを演じて、歌い踊るパーティーではないが、クリスマス講演会の興奮は余熱となって残っていた。大成功を収めた実感が、むしろ当日よりも後になって、じわじわと増大しているといってもよかった。
東丈が、〝GENKEN〟の主宰として、短いスピーチをすませたところへ、事務局員の菊谷明子が耳打ちにやってきた。
「先生、杉村由紀さんという女性の方からお電話がありました。なんでも、今日お逢いするというご約束だとか......」
「忘れていた。そうだった、本田さんの紹介で今日逢う約束をしていたんだ」
丈は躊躇いがちにいった。しかし、パーティーのさなかに呼びつけて逢うというのもはばかられた。
「郁姫様がお休みですから、わたしがもっと気をつけていればよかったんです。すみません」
と、菊谷明子が申しわけなさそうにいった。
「どういたしましょうか?」
「階下のレストラン......あそこで逢います。席を予約しておいて下さい」
他に方法がなかった。パーティーの最中では話をするどころではない。
「わかりました。すぐにお席を取ります。でも、お約束の時間が二時からというと、もう時間がありませんけど」
「しょうがない。僕が忘れていたのが悪い。パーティーとまさか重なるとは思わなかったから......」
秘書の井沢郁江が病欠してしまったための手落ちであった。しかし、そんなことをいってみても始まらない。パーティーを中座するしかなかった。
会場にあてられた事務局の部屋はデスク、椅子の類が取り払われ、ぎっしりと人間が詰めこまれていた。廊下にまで収容しきれない人々があふれでている。内輪だけのはずだが、聞き知った会員たちが駆けつけてきたためであった。
会員たちは、床に直接座りこんでいた。丈のスピーチのあと、平山圭吾事務局長が挨拶に立ち、快調に喋っていた。講演会の開会宣言では硬くなったものの、本来饒舌家で、喋り出すととまらない方であった。
平山が会員たちをしきりに笑わせるのを後に、丈は会場を抜けだした。菊谷明子が素早く耳打ちしたのか、平山の娘、圭子が丈についてきた。
「〝なすか〟のお席、取れたそうです。すぐいらっしゃいますか?」
と、圭子は丁寧にいった。菊谷明子は彼女に秘書代行を指名したのであろう。彼女は控え目で決して表面に出ない女性であった。
「郁江さん、やっぱり風邪ですか、先生?」
平山圭子がエレベーターを待ちながら尋ねた。ほっそりした長身の彼女は高三で、丈より一学年上である。受験生のはずだが、ボランティアの常連だ。父親が会の後援者だからであろう。久保陽子や郁江同様、もっとも初期からの帰依者である。
「風邪だと本人がいってる。伝染すといけないから、当分じっとしてるそうだ」
「お見舞いに行かなきゃ......」
「来るなというんだ。風邪が治るまでは......」
圭子はちらりと丈を見た。敏感に丈の鬱屈を感じ取っていた。エレベーターのケージが昇ってきて、二人だけで乗りこむ。圭子は意識しすぎて、体が硬くなってしまった。棒を吞んだようになってしまうのだ。畏敬のあまりだが、圭子には更に丈を意識する理由がある。
父親の圭吾が、丈を娘の女婿にとひそかに望んでいることは衆知の事実だからだ。圭子自身はそんなことはありえないと思っているが、それでも丈と二人きりになると、平静ではいられない。
しかし、だれでもそうであろう。ごく自然に丈は他人の平静さを奪うところがある。〝救世主〟と信じる人とともにいて、平気でいられる人間があろうとは思われない。平山圭子にとり、丈は男性を超える存在であった。肉体的にはまぎれもなく男性ではあるが、それは現身にしかすぎない。
「郁江の家の人たちがあまり喜ばないらしい。だから、〝GENKEN〟の会員として見舞いに行くのじゃない方がいい」
と、ケージの中で丈が呟くようにいった。
「というと、学校の友人として、ですか?」
「そうだ。家族に神経をたてさせるのはまずい」
「郁江さん、お家で反対だったんですか? 会に入ってやること......」
「君の家は特別なんだよ。郁江の家族は心配している。娘が妙なものにひっかかって夢中になってるとね。どこの家でもそれは大同小異だ。特に高校生や大学生の両親は、気が気じゃないだろう」
「郁江さん、反対されてるんですね?」
「そうらしい。彼女は強情だから、家族を説得するより、やりこめちまうんだな。その代り、家族は会や会員たちに好感情は持たない。特に僕に対して、娘を狂わせたという気持を強く持っている」
「むずかしいですね......わたし、ちっともそんなこと考えませんでした。父の方が熱心でわたし負けそうですから」
圭子は赤くなっていった。
「でも、講演会の時、郁江さんのお母さまがご挨拶に見えてらしたんじゃありません? そんなに変な風には感じられませんでしたけど......」
「うわべはね。しかし、僕にはよくわかったんだ。郁江は強引にやってるだけで、家中大反対だってことがね。これからも好転させるのはむずかしいだろう」
「そんなこと、全然気がつきませんでした」
「他にもいくらもいるよ。講演会の時、親がだいぶ来てたから、それとわかった」
「でも、あの素晴らしい講演を聞いても、わからなかったんでしょうか?」
「理解しようという気は初めからないんだ。だから悪い風にばかり解釈する。敵意を持っている人間を説得するのはむずかしい」
エレベーターが地階に着いた。レストランと小料理屋がある。丈はレストランのドアを排する前に、わずかに躊躇した。とっさの判断で、場所を選んだが、高校生の身である彼には、レストランでの支払いはいささかヘヴィーすぎた。〝GENKEN〟の主宰であっても、財力に関しては一介の貧乏高校生にすぎない。
「悪いけど、圭ちゃん。いくらか持合せあるかな?」
と、丈は小声でいった。圭子がびっくりしたように目を大きくして見詰める。
「ここのお勘定ですか? そんな、先生、いくらでもツケがききますのに」
「しかし、僕はツケをきかしたことなんかないし......」
丈は少し赤くなっていった。
「ご心配なく、先生。父の名でいくらでもツケておけますから」
「それはまずいんだ......」
「どうしてですか?」
圭子は丈のいっていることがよくわからなかった。無理もない。平山圭吾はビルの六階の全フロアーを会に提供し、のみならず電気、ガス料金など必要経費を全て面倒見ている。正規に借り受ければ、会費だけではとうてい払い切れない。会費があまりにも安すぎるのだった。
しかし、丈は個人的には平山からも、あるいは会からも一銭たりといえども得てはいなかった。交通費に至るまで自弁だ。が、収入のない高校生にとっては、それすらも重荷であった。
「いやなんだ。そういうことまで君のお父さんにおんぶするわけにはいかない」
「だって、先生。お客様は会のお客様でもあるわけでしょう? そんな心配することはないと思います。父は先生のためなら、全財産を投げだしてもいいといっているんですから......」
「それは困るんだ。どうせなら、圭ちゃんにポケット・マネーを借りた方がいい。後で返すよ」
「そんな。父が聞いたらがっかりします。それにあたしだって二千円ぐらいしか持ち合わせていないし」
「それだけあれば充分だ。僕なんか小銭しかない」
「本当ですか?」
信じられないという眼で圭子は丈を見ていた。
「僕は貧乏なんだ。いつも金には苦労してる。アルバイトする時間があればいいんだけどね。会があるとそうも行かない。定期が買ってあるから、渋谷までならいいけど、ポケットには百円玉が一、二枚さ」
「どうしてですか? 父にいって下されば、ご不自由などさせないはずですのに!」
圭子はショックを受けたようにいった。
「会に出してもらうのはいいとしても、僕個人がもらうわけにはいかない。僕はそういうことだけははっきりさせておきたいんだ。今、僕は世間の注目を浴びだしている。どんなにアラ探しされてもびくともしないように身辺を清潔にしておきたい。君は頑固すぎると思うかもしれないけど、額に汗して得た以外の金を遣ってると、人間は堕落するもんだよ。性根が腐る。贅沢が平気になって、ありがた味がわからなくなる。僕はそういうのはいやなんだ」
「............」
「君のことをとやかくいってるわけじゃないよ、圭ちゃん。君のお父さんは金持なんだから仕方がないさ。僕は自分を戒めているんだから......」
と、丈は笑っていった。圭子が罪障感の虜になったような顔をしていたからだ。
「会員の納めた会費はもっと有効に使った方がいい。主宰の僕が会費を使えば、みんなが手をつけるようになる。理由はなんとでもつくからね」
「先生は本当にご自分のことにはきびしいんですね」
と、圭子は感に堪えたようにいった。
「わたし、反省します。会に出なきゃならないからといって、お小遣いを倍に増やしてもらってたんです」
「そんなこと、気にするなよ」
丈は圭子の腕を軽く叩いた。電気に触れたように彼女が緊張する。丈はわずかに後悔した。ただ親愛感を表現したつもりでも、相手によってはそれ以上のものを意識するかもしれない。丈自身が必要なだけの澄明さを得ていない証拠だ。彼が女性に対してなにも感じないかといえば、もちろんそんなことはない。丈は外見よりも多情多感な少年であった。魅力的な異性は彼の血を熱くする力を有していた。
それが秘書役の井沢郁江に対しては、特に丈を困惑させることにもなった。郁江は特別の磁力のようなものを持っており、丈といえども感応しないでいるわけにはいかなかった。
彼女に魅せられて会へ集まってくる若者は決して少くない。成人の男子会員ですら郁江を見る目には一種のぎらつきが感じられた。郁江本人は無邪気なのだが、その性的な磁力は傍迷惑なほどであった。
丈が性的意識を克服しているかといえば、そんなことはなかった。更に巨大な目的達成に意識を集中しているため、性的意識が希薄になっているだけなのであろう。そんな丈でも、時として郁江に対して気持の昂ぶりと懊悩に摑まれてしまうことがある。
恥しいが仕方がない。十七歳の丈は性的ポテンシャルが最高調に向う年齢にあった。頭だけで克服を考えても、それだけに留まってしまう。丈は聖人君子ではないのだ。生身の体が時として過熱してしまうのはとどめることができなかった。
自分があまりにも清浄そうに人の目に映ることを知って、疚しさを感じることさえあった。全てを見通してしまう〝力〟を持ったルナ王女の前に出ると、丈がぎごちなくなってしまうのはそのためであろう。清浄ならざる心を見透されているのに堪えがたくなるのである。
それは平山圭子たちが丈の前で固くなるのと同じことであった。
2
地下レストラン〝なすか〟は空いており、訪問者の杉村由紀を見分けるのに苦労することはなかった。
むろん、丈は無数の客があふれていたとしても造作なく見定めることができた。
なぜなら、杉村由紀はクリスマス講演会場で不思議に丈の視線を捉えた女性に他ならなかったからである。
席から立ち上った杉村由紀は目許に微笑をたたえて丈を迎えた。平山圭子が同席しているので、まず尋常な初対面の挨拶を交わす。
「K──社の本田さんがごいっしょのはずだったのですが、ご都合が悪くなったらしく、わたくし一人で伺いました。お忙しいところを申しわけございません」
わずかにハスキーな声だった。教養の感じられる喋り方である。落着いており、人間の幅が感じられた。丈の惹かれるタイプの女性である。

欧亜混血児を想わせる顔立ちは冷やかというよりはクールというべきだった。清潔で知的で、いくらかメタリックな感じがある。美しいが女臭くない。しっかりした眼でまっすぐ丈を見て話す。話をする時、相手の目を直視するのは欧米の習慣である。日本人には珍しい。おそらく海外生活が長いのであろう。
彼女は飲みさしのコーヒー・カップを前にしていた。丈は紅茶を頼んだ。平山圭子はなにも注文せずに水だけもらった。父親のコネで我儘がきくようである。丈はなけなしのポケットを気にしていることが恥しくなってきた。経済力に欠けていることは、やはり肩身が狭いものである。一人前の人間としての資格が欠けている。
しかし、今の丈には才覚がない。有能なスタッフがいても、雇用して報酬を支払うことができないのだ。会にもそれだけの財力がない。会費があまりにも安すぎるせいもある。必要なだけの財政を得るためには会員を何十倍も増やさねばなるまいが、それでは本末転倒になってしまう。
丈が恥かしがったのは、杉村由紀が遠感能力者だとわかっているからだった。たぶん、レストランに入る前にゴタついていたことを感知されてしまったに違いない。〝GENKEN〟主宰は文なしの貧乏高校生なのだ。なんともお寒い内幕であった。恥じる必要はないとわかっていても、それでも体中が火照ってくる。
しかし、講演会の時のように明確な力強い波動は、杉村由紀から感じとれなかった。遠感の増幅器のような、特別な〝力〟の所有者、木村市枝の弟、明雄がこの場に立ち合っていないせいであろう。
丈の遠感はもともと微弱なものであり、よほど意識を集中しないとものの役には立たない。スウィッチを入れたからといって、すぐに作動するとは限らないのだ。
レストランのテーブルをはさんで、さし向いになっていても、丈は相手の意識を読めなかった。彼女がひどく緊張し、気を遣っている気配が伝わってくるだけだ。
「本田さんとも話しておりましたが、講演会、本当に衝撃的でした。自分で見聞きしなければ、とても信じられなかったと思います。わたくしもそうなんですけれども、まだ夢うつつという方々がとても多いんじゃないでしょうか?」
と、杉村由紀はごく控え目な讃辞を呈した。絶讃ばかり会う者ごとに聞かされた丈にしてみれば、かえってそれが新鮮に響いたことは否めなかった。
「どうしても我慢ができなくなって、本田さんにご無理をお願いしてしまいました。お忙しいのは、重々承知しておりますのですが......」
「お待ちしていたんです。講演会の後、お逢いできるかと思っていました」
もちろん、それどころではなかった。会員たちの熱狂が爆発したようになり、丈は田崎宏の祖父の大沢代議士に挨拶するのさえやっとという有様だったからだ。
「お忙しいと思って、遠慮させていただきました。ごったがえしていましたし......」
「お帰りになったと聞いて、がっかりしました......」
丈は意識を相手の心に集中しながらいった。会話を肉声で続けながら、遠感で交信するのは思ったほど簡単ではない。相手は遠感を働かしていないことがわかる。まるで巣にひっこんでしまった栗鼠みたいに、手応えが感じられなかった。
「本田さんからお聞きした、杉村さんという方がまさかあなただとは思いませんでした」
平山圭子がけげんに思っているな、という方がぴんときた。二人がさながら顔見知りのように話しており、初対面という雰囲気ではないからであろう。
圭子が感じる通り、丈と杉村由紀は初対面ではない。口をきくのは初めてだが、遠感による交信によって、すでに互いを知り合っている。
「ずっと連絡をお待ちしていたんです......」
丈は年長の美しい女性を黒い瞳で瞬きもせずに見詰めながらいった。彼女は姉の三千子より歳上である。三十を幾つか出ているだろう。申し分なく知的であり、成熟した美しい女性でありながら、丈にとってはさほどの年齢差を感じさせなかった。奇妙なことだが、意識の上では、丈より歳下である。杉村由紀にとっては十七歳の丈など、ほんの子供でしかなさそうだが、相手もそうは感じていないようである。
もっとも、丈は今は年齢による格差や、そうした年輪や世間知がもたらす圧迫感というものを無視できるようになっていた。人間の尺度は肉体年齢ではなく、精神の成熟度や見識だ。
田崎の祖父である長老政治家、大沢代議士にすら、丈は気圧されるものを感じなかった。もはや己れの十七歳という若さは負担でもなく、気負いの原因でもない。あるがままの自分で人に対することができる。
とはいえ、自分の裡に人生経験や年輪に匹敵する重みが生じているのかどうか、丈にはわからない。他人が勝手に丈を過大評価することで、相対的に本人自身の重みを減らしているとも考えられる。
大超能力者というイメージは、ある種の人々にとっては甚しく眩惑的であるらしいからだ。
しかし、丈よりもはるかに年長の美しい女性、明らかに姉の三千子よりも人生経験豊富な杉村由紀が、丈を目上として遇しており、丈自身それを奇異に感じない状況は、考えてみれば不可解なものであった。
「ずっと考えていました」
と、杉村由紀はいった。
「わたくしにとって、これが人生のターニング・ポイントであることは、よくわかっていたのですが、やはり自信がありませんでした。信じられない人生の転換が一瞬の間に生じてしまって、自分のなすべきこともよくわかっているのですけれども、まるで夢のような気がして、決断がつかないのです......いえ、決心はついていても、現実感がないんです」
圭子にはなんのことかさっぱりわからないだろう、と丈は思った。丈にはわがことのように彼女のいう意味が理解できた。
「その気持はよくわかります。戸惑われるのは当然です」
「親しいお友達にも話しました。どうかしているといわれました。そんなことはやめるべきだと反対されました。でも、反対されたからどうってことはないんです。かえって自分の決心が固まって行くんです。みんな社会常識の上で生きているのですから、その軌道からはずれようとするわたくしに、危惧の念を持ち、引き止めようとするのは、当然のことだと思います。もし、わたくしが先生のご講演に触れる機縁がなかったら、わたくし自身常識の枠に捉われ続けていたでしょう......」
「板倉俊彦先生の秘書のお仕事はどうなさるのですか? 杉村さんがお辞めになれば、先生がお困りじゃないのですか?」
と、丈は尋ねた。平山圭子にとって二人の会話は理解を絶していた。彼女は目を真円に瞠り、わけのわからない会話を聞いていた。
「板倉先生には、早く良縁を得て結婚するようにと勧められていましたので......秘書の後任も心配はありません」
「これが良縁といえるかどうか......」
「どのみち結婚する気はございませんでしたから......自分の人生が生甲斐を求めて、空転しているのを感じ、焦慮で身を灼いておりました。本田さんから先生のお話を伺った時、これだ! これなんだ! と危く大声で叫びだしそうになりました。やっと見つけた、自分が求め続けていたものにたどりついたんだ! そう思うと安堵で気が遠くなりそうでした。講演会の時、先生がステージから、ずっとわたくしをご覧になっているように思えて仕方がありませんでした」
「事実、その通りだったんです。杉村さんの顔ばかりが周囲から浮き上って見えました。その時に僕も気がついていたのかもしれません」
圭子がはっとしたような表情で丈を見た。ようやくなにごとか、感じるものがあるようだった。
「先生のおそばへ参りましても、よろしいのでしょうか?」
「しかし、僕にはあなたにふさわしい報酬をさしあげることができない......会も貧乏だし、僕自身一文も収入のない身です」
「そんなこと......わたくし、アルバイトだってなんだっていたします」
「僕がスタートするのは早すぎたのかもしれません。僕はまだ未成年で、制約があまりにも大きすぎる」
「本田さんが、先生は文筆家として素晴らしい才能をお持ちだとおっしゃってました。間もなくご本もお出しになることですし......」
「本田さんがそんなことを?」
「ええ。本田さんは先生を〝真の救世主〟だと信じておられるのですね」
「僕はそのようなことは一言もいっていません。問われれば否定しています。あなたも信じないで下さい」
「人がそう信じていることは、たとえ先生でも変えられないのですね。それがその人の心の王国であるならば......救世主とは人を物質的に救うものではなく、人々自身が己れの〝心の王国〟の統治者たることを自覚させる者、でしたわね」
丈はびっくりして杉村由紀を見た。彼女が引用したのは、丈自身が著した原稿の一節だった。
「本田さんにお願いして、お原稿を読ませていただきました。その人を発見したという思いはますます強まるばかりですわ」
と、杉村由紀は落着いていった。
「どうしても、おそばへ行ってお手伝いさせていただこうと決心したのです。お許しを頂いたら最後、雷が鳴ってもおそばをはなれません」
「あなたのように優れた才能を持たれた方に、当分報いることができないのは、心苦しい限りです。しかし、あなたに手伝っていただけるのは、百万の味方を得た思いです」
丈はまっすぐ黒い瞳で杉村由紀を見据えたままいった。
「あなたが来てくれるんじゃないかな、と思った時、それが実現するように祈り続けていました。祈りはかなえられたわけです。必ず来てくれる、と信じていたんです」
平山圭子の口からほっと溜息が漏れた。全てを了解したのだった。丈は圭子に顔を向けた。
「この杉村由紀さんが、新しく秘書として仕事を手伝って下さる。杉村さんは経験を積んだ方だから、君たちも秘書グループとして教えてもらうといい」
「あたしも、先生の秘書を?」
圭子は面食らっていた。
「秘書をさせて下さるんですか? 郁江さんも?」
「君も郁もだ。今後は秘書グループとして仕事を手伝ってもらう。杉村さんが筆頭秘書としてすることをよく見て勉強してもらいたいんだ。いいね?」
「そんな......夢みたいです!」
平山圭子は声を吞んだ。とっさにぴんとこなかったのであろう。複雑な気分を抑えきれないようであった。喜ぶというよりも当惑しているのだった。
丈には圭子の心の揺れがわかったが、この場では口に出さないことにした。
「できれば今夜、自宅の方へ来てくださいませんか?」
と、丈は杉村由紀に向き直っていった。
「姉にお引き合わせしたいんです。姉もきっと喜びます」
「でも、そんなこと、本当によろしいんでしょうか?」
杉村由紀はいくらか怯んだようにいった。
「いきなり、先生のご自宅へお邪魔するなんて、会員の方々がどう思われるか......あまりにもさしでがましくて」
「ご心配には及びません。杉村さんは僕のスタッフです。スタッフであるからには、責任も重大です。あなたはスタッフ第一号なんです。僕にとってスタッフは盟友です。会員たちのことを気になさる必要は少しもありません。だれにもスタッフになる機会は平等に与えているのですから......」
平山圭子に聞かせるためにいっているのだった。圭子はどことなくおどおどしているようだった。
「では、後ほど自宅でお逢いします。駅まで来たら電話を下さい。お迎えに行きます」
一階まで送って杉村由紀と別れぎわに丈はいった。彼女はすらりとして丈よりもかなり背が高かった。ハイヒールの高さもあるだろうが、実にプロポーションのいい女性で、ファッション・モデルにしても務まりそうに思えた。長身だが、日本人にありがちな猫背ではない。颯爽として歩くのは、外国生活で身についたのだろう。
「どう思う?」
と、丈は圭子に尋ねた。
「素的な女ですね......」
圭子は口重に答えた。完全に気圧されてしまっていることを隠せなかった。十八歳の女子高校生にとっては、キャリアの懸隔は超えがたいまでに映じたのであろう。
「なんだか、こわいみたい、立派すぎて......」
「これから沢山の人々がやってくる。僕がなにを気にしてるか、圭ちゃんにわかるか?」
丈は顔を師走の寒風に吹かせながらいった。もう杉村由紀の後姿は路地に見えなくなっていた。
「ええ......それは、前にも先生、おっしゃいました。後の烏が先になることがあるよって......前からいる人間も頑張らなきゃいけないって」
「僕は差別はしない。でも会に入ったのが先だからといって、愚にもつかない先輩気分に安住していたら、後から来た優秀な人たちに差をつけられてしまう。僕は公平にスタッフを選ぶつもりだ。杉村さんが来るなり、いきなり秘書になったので、君はショックを受けた。なぜだ?」
丈は平山圭子の心を見通していた。
「すみません......」
「謝る必要はないが、後から来て、いきなり......という気持だった?」
「はい」
圭子は素直に認めた。丈の前で隠し事をしても始まらないと観念したのであろう。身を切るような冷たい風に吹きさらされて、顔が白く硬ばってしまった。
「たぶん、そう感じる者が多いだろうな。組織には排他的な面がある。上下関係という固定観念があるんだ。新参者として見て、素晴らしい仲間がやってきたとは考えない。古参の者はまるでカサブタみたいになっている。そのカサブタというのは特権意識や優越感なんだ。組織自体が古びて活力がなく、目的意識が乏しいほどそうなる」
「でも、それだけじゃないんです。郁江さんがどう思うか、気になって......」
と、圭子は躊躇いがちにいった。
「郁江が杉村さんに秘書のポストを奪われたと思うんじゃないか......そうだろう?」
「はい。彼女が病気で会を休んでいる間に、そうなってしまったら、ショックじゃないでしょうか?」
「郁江はちゃんとわかっているよ。本格的な秘書が必要だといっていた。自分は未経験だし、まだ高校生だし、充分に活動することができないからと郁江が自分でいったんだ」
「それならいいんですけど......」
しかし、圭子の顔の曇りは晴れなかった。
「陽子のこともある。自分は陽子みたいに会を辞めたりしたくないといっている。お姫様みたいな顔をしてるけど、あれでもいろいろ考えてるんだよ」
「それはわかってます。郁江さんが意外に繊細だってこと......だから、余計に気になってしまって」
「この先、秘書は一人だけじゃなく、グループにして育てていこうと思っていた。だから秘書としてキャリアのある杉村さんが来てくれたのは、本当にありがたい。君たちも杉村さんから学ぶことが沢山あるはずだ。圭ちゃん、そう思わないか?」
「はい、そう思います。よくわかっているつもりなんですけど、気になってしまって......」
「郁江には僕からよく話す。しかし、心配することはないと思うよ。心配なのはむしろ、郁江じゃなくて君たちの方だった。素晴らしい仲間を素直に喜んで迎えられない人間は、結局自分から会を離れて行ってしまうんだ。そうだろう?」
「はい......でも、なぜそんな風に思ってしまうんでしょうか? 頭ではわかっていても、実際には心が全然違う方向へ動いてしまうんですね」
と、平山圭子は悲しそうにいった。
「結局、嫉妬なんです。自分では他人を見ていやだなと思っていても、いざとなると、心がむらむらっとなってしまうんです。どうしたらいいんでしょう?」
「目的意識が充分に固まっていないからだろうね。それに努力すべきことを努力していないからだ。そのことについては、改めてみんなに話そうと思っている」
すっかり冷えてしまった圭子の体を押すようにして、丈はビルへ戻り始めた。圭子のように素直な気性の娘でも、動揺を免れないのだ。郁江が口にするほど達観していると考えるのは間違っているかもしれなかった。
郁江を、先の久保陽子のような立場に立たせたくない、と丈は思った。しかし、陽子も変調を示しはじめた時、風邪を引いたことを口実にし、会を遠ざかっていったのである。今、郁江が同じ風邪を口実に引きこもっていることに対して、いやな予感めいたものを感じてしまうのはどうしようもなかった。
もちろん、郁江は久保陽子と違う、と強いて考えたかった。郁江は己れの力の限界を痛感しているから、キャリアのある有能な秘書が加わることを歓迎するだろう。彼女は杉村由紀に喜んで学ぶだろう。
そう考えてみても、丈の心は安らぎを得なかった。平山圭子のいう通り、郁江が病気で休んでいる間に、秘書の座を取り上げるのはまずいかもしれない。人間関係ほど複雑微妙で荷厄介なものはなかった。丈のエネルギーの大部分はそうした配慮で費されてしまうといっても過言ではなかったのだ。
3
事務所では、パーティーが依然として続けられていたが、丈はもはやそれどころではなかった。
久保陽子の母親から、また電話がかかってきたというのだ。
「こちらには来ておられませんといくらいっても駄目なんです。娘を返せの一点張りで......もう頭から娘を会に取られたと思いこんでいるんですね。いったいどうしたらいいでしょうか、先生?」
菊谷明子はつくづく閉口したといわんばかりだった。
「また電話をかけてくるはずです。いくら話して聞かせてもまったくだめなんです。もうパラノイアというんでしょうか、ほとほと困り果てました」

菊谷明子がこうまでいうのはよほどのことに違いなかった。
「それでは、事務所まで来てもらえばいい。娘がいないのを自分の目で見れば、納得するかもしれない」
「でも、先生。こんなこというと失礼なんですけど、少し頭の方が錯乱していらっしゃるようなんです。警察にいって娘を返してもらうとくり返して何度でもいうんです。もう常軌を逸しています」
「警察沙汰になるかもしれないな......」
丈は眉をひそめた。陽子の母親は確かに精神失調を来しているが、警察は訴えを取上げざるを得まい。厄介なことになるのは、避けられそうもなかった。丈自身、警察へ呼ばれて、事情を聴取されるかもしれない。マスコミがそれを放置しておくはずはなかった。
「今度電話がかかってきたら、僕が話そう」
丈はいった。久保陽子の母親に対しては、郁江が妙に強いことを思いだす。狂的な母親をいい負かし、やりこめてしまったのだ。しかしそれは向う気が強く論客である郁江だからできたことで、気の優しい保母さんの菊谷明子に同じことを要求する方が無理だった。丈自身うんざりするが、仕方がない。今の会には、そうした類いの外患をテキパキとさばける人材はいない。
杉村由紀なら充分務まるだろうと思う。しかし、その前に受容れ体勢を作っておかなければならなかった。せっかく来てもらっても、事務局で彼女を疎外するような雰囲気が醸成されていてはなんにもならない。
やはり〝根廻し〟が必要なのか、と丈は思った。平山圭子の反応一つを見ても思った以上に複雑微妙であることがわかる。
パーティーが終了した後、平山圭吾を初め事務局の主だった幹部を集め、ミーティングを試みる。平山自身は、丈の事務局強化策としての専従秘書を置く案にあっさり賛成した。
「今後は、先生の社会的な影響力も上りますし、専従秘書も必要じゃないかと思っておりましたんですよ」
と、平山はいった。
「これはどうしても経験を積んだ、しっかりした秘書役が要りますな。社会的地位のある、いわゆる名士で先生にお逢いしたいとだいぶ希望されている向きが多いようで......」
「しかし、これ以上専従者を雇用するのは財源がないでしょう」
丈は一同の反応を見ながら探りを入れた。
「ちゃんとしたキャリアのある秘書をスカウトするにしても、それ相応の報酬が要るんじゃありませんか? ボランティアの人で未経験の人に専従秘書は務まらないですし......」
「それは、私が何とかいたします」
平山はあっさりいった。
「しかし、平山さんにそこまでお願いするわけにはいきません」
「いや、心当りがないこともないんです。それはどうか私におまかせ下さい」
丈は、平山が秘書を捜してくるつもりなのかと一瞬狼狽した。
「いや、専従秘書を頼みたい人がいるんです。ただその人の報酬の問題で頭を悩ませているわけです」
と、丈はいい直した。無用な誤解は避けなければならなかった。
「本当は僕の個人秘書ということにしたいんですが、僕個人は無収入なので......そのうちになんとかしたいと思っていますが」
「先生、そんな水臭いことをおっしゃらないで下さい」
平山は真剣な顔でいった。
「もう、先生が受け容れて下さるなら、いくらでも出させて頂きますものを......その秘書のお目当の人をすぐに紹介して下さい、先生。すぐに報酬も納得頂ける線を出しましてですな、明日からでも来ていただくようにいたしますから」
「そんなに急ぐ話ではありません」
丈は相手の性急さに苦笑しながらいった。平山はすぐにでも飛んで行って、契約を交わしかねない勢いであった。
「いやいや。その、先生のおめがねにかなった方と是非お目にかからねば。一昨日の講演会の折も、このままの体制ではいかんと痛感いたしました。先生の代理として、社会的にきちんと接渉できる人材が絶対に必要だと......〝GENKEN〟は小粒なりに最高のスタッフを擁さねばなりません」
平山はわくわくしていた。講演会の大成功が、どうやら彼に壮大なヴィジョンを植えつけたようである。丈に釘を刺されているので、単なる組織拡大欲の迷妄からは醒めたようだが、今度は会の社会的な機能という夢にとり憑かれたらしい。最近の平山は、会員たちに向い、会は先生の乗物として機能すべきだと説教している。会という基盤の上に立ってこそ先生は立派なお仕事ができるのだから、会員一人一人の自覚が必要だと説いているのだが、会員たちが本当に理解しているかどうかはわからない。
丈が具体的にどんな活動をするのか、見当がつかないのであろう。講演会が成功をおさめると、馬車馬のようにもう講演会のことしか考えられなくなる。
「とにかく、スタッフの報酬のための財源は心当りがございます。すでに何人かの篤志家が後援を申し込んできておりますので」
「後援は安易に受けないで下さい」
「それはもう、いかなる意味でのヒモツキもないことを確認いたしておりますから......反対給付はなにもないと当人にもよく納得させておりますから、ご安心下さい。で、先生、こうした財源をスタッフの報酬に充てるというのはいかがなものでございましょうか?」
「本当はあまり後援や寄付は受けたくないんです。会費だけでやって行きたいし、安すぎる会費も改正すべきだと思うんですが......それに僕個人に収入があれば、個人秘書だけは個人的に報酬を支払うようにしたいんです。今は夢物語ですが......」
「先生はご潔癖でいらっしゃるから」
と、平山はへんに素直に納得した。
「会からお手許金を支出するのを認めていただけませんし......しかし、先生、講演会以来、二、三箇所から先生に講演依頼が来ておりますが。お引受けになれば、講演料といいますか謝礼は先生個人の収入になります。近いうちにご本も出版されますし、そうなればそちらの方の収入も増えてくるのではないでしょうか?
もしよろしければ、私の経営する会社の顧問になっていただき、正当な謝礼をさしあげられるのですが......まあ、先行はおおいに楽観視していただいてよろしいかと思います」
「わかりました。近いうちに、僕が考えている人......秘書候補と遭っていただくようにします。報酬や待遇など、まだ全然煮詰めていないので......」
菊谷明子など主だった事務局員は、丈の個人秘書と聞いて関心を隠せなかった。特に排他的な雰囲気ではないので、丈はほっとした。
「ね、先生。どんな方ですか? 教えて下さい......」
「プロの秘書をやってらした方ですか?」
「先生がスカウトしていらっしゃったんでしょう?」
口々に質問してくる。
「先生が見込んだ方って、ものすごく優秀な方なんでしょうね? 英語なんてペラペラで......」
「そういう方が来て下さるといいなあと思います。今、事務局には英語を話せる人が一人もいないので」
と、菊谷明子がいった。
「いずれ、外人からも問い合せが来るんじゃないかと胸をドキドキさせているんです。この間、英語で間違い電話がかかった時は、大変だったんですから」
「フランス語なら話せるんですけど」
と、資料室のメガネをかけた秋津女史が冗談をいって笑わせた。
「近いうちに皆さんにもお引合せしたいと思います。具体的にもう少し固まったら、もっと話せるんですが。その人は今勤めている所を辞めなければならないし、あやふやなうちは控えたいと思っています」
「待ち遠しいですわ」
と、秋津女史が頓狂な声でいった。いかにも生真面目な女史タイプのくせに、案外さばけていて冗談好きなのだった。
丈は、片隅に座っている平山圭子をちらりと見た。圭子はなにも漏らしていませんよという顔をしてみせた。口止めはしていないのだが、心理的にはそう思いこんでしまっているのであろう。
結局、その場ではだれも、井沢郁江のことは口に出さなかった。気を遣いすぎて、口に出せなくなってしまったようであった。気にはかけているのだが、論じ合う雰囲気ではなかったのだろう。だれもが郁江の身に生じた変化を感じ取ってはいても、触れないように配慮しているのだった。まるでそれは禁忌でもあるかのようだった。
4
講演会以後、丈と逢い知遇を得たいと希望する人々は激増した。マスコミ関係にとどまらず、いわゆる知名人、名士の類が人伝てに申し入れてきていた。取材は方針として謝絶するにしても、丈と逢いたいという申し込みは別個にして、考慮する余地を残しておいてもいいのではないかというのが、平山たちの意見であった。
田崎宏からは、祖父の大沢代議士が講演に大きな感銘を受けて逢いたがっていると伝えてきた。すでに政財界人の中には丈の噂を聞き、興味を抱いている向きもあるということであった。
「今後は、人に逢うというのも先生の重要なお仕事になるかもしれませんな」
と、平山はいった。やむを得ないことかもしれない、と丈は思った。有力な人々と知り合うのも必要になってくるだろう。それに、杉村由紀は編集者本田の紹介である。必要なスタッフが集まるには、人伝てという経路が不可欠なのかもしれない。つまりそれが〝人脈〟というものであろう。
人と人が出遭うことにより、新しい展開がなされて行く。講演会の後、田崎宏と不良少年の河合康夫らは丈の紹介で知り合い、〝GENKEN〟とははなれた所でむすばれが生じた気配があった。彼らは既成の会にはなじみにくい性質を持った、丈の帰依者だったのである。
田崎らは会とは無関係に、どこかで会合を持ったようだった。丈は全てを会に収束させる意図はないので、彼らにまかせておいた。そんなことで一九六七年がどんづまりになってから、にわかに丈のスケジュールは過密状態を示し始めた。高校が折よく冬休みに入ったからいいが、明くる年は、丈にとり重大な生活の変化をもたらしそうであった。来年は高三になるのだが、大学受験はおろか、学業も満足に続けられないのではないかという予感があった。
すでに会の主催する講演会は二月以降、毎月のように開催が予定されている。クリスマス講演会の大成功で急遽決定したのだ。
平山圭吾は更に会主催のセミナーも計画していた。丈の示唆を受けたものだが、幹部研修会のみならず、一般会員を対象に数百名の規模でやろうというのだった。時期尚早という意見がないでもなかったが、今となればのんびりとやっているわけにもいかないという気がした。一気に丈自身、急流に乗った実感があったからだ。
いざとなれば、受験どころか学業も中途で放棄ということにもなりかねなかったのである。
その晩、丈は早目に自宅へ帰った。珍しいことだった。いつも事務所で遅くまで仕事に追われているからだ。講演会が一つ終ったからといって息を抜くなどまったく許されない。研修会のプラン造りが即座に始まっている。来年一月に発刊する会誌の編集も、大部分が丈の手にかかっている。本を書きあげたから、一時的にでも楽になるということは決してない。
常に脳裡には無数の案件がひしめいている感じだ。心配事も多い。とりわけ久保陽子と井沢郁江の件は頭が痛かった。これといった対応策が浮んでこないのだ。特に久保陽子の件は大問題に発展しかねない危険な火種のような気がした。陽子の母親は狂気に駆られ、誣告に出てこないとも限らない。いかにしても彼女の誤解をとくことはできないのだ。
丈は迷いの裡にあった。〝家長〟としての責任を負ったがゆえに、行動の自由を失ったようにも感じていた。以前であれば、もっと早い時期に江田四朗と対決し、禍根を取り除くことが可能であったかもしれない。
会を組織し、社会的責任を負ったがために、有形無形の桎梏に縛られ、万事、影響を考慮に入れずには身動きすることもかなわなくなってしまっていた。
責任の多大さを思えば、いかなる無謀も許されなかった。それが〝家長〟というものであった。しかし、考えようによっては、今後丈にかかる責任の重圧は増大の一途をたどり、彼をがんじがらめにしてしまうかもしれない。
今が、わずかに残された行動のチャンスであるのかもしれなかった。
自分は戦士だ、と丈は己れを規定していた。〝救世主〟ではなく、ベガと同様に戦士なのだ。自分に与えられたPKは、まぎれもなく戦士のための〝力〟である。戦士たるものが〝力〟によらず、言葉によって務めを果そうとしていることに、今の丈の苦しみがあるのかもしれない。しかし、それが誤まった道だとは考えなかった。
一歩一歩足を運ぶことでしか、解答は得られないのであろう。ルナ姫が丈を必要としない限り、たとえ見当違いであり、道を誤まっているとしても、己れの務めを果そうと努力するしかないのだ。いつか時が熟する時まで、このまま進み続けるしかすべはなかった。
杉村由紀、そして木村市枝の弟と、二人の超能力者と巡り逢ったことが、丈に転機をもたらすのではないかという予感があった。遂に超能力者がやってきたのである。それは、丈に帰依しようとする人々が参集するのとはおのずと異った感動があった。丈は孤り目覚めた者の責任の重さに背中がひしゃげるほどの苦渋を味わっていたのだ。彼らはその重圧から丈を解放すべくやってきたのだ......そうした期待が、丈の心をいつになく浮揚させていた。十七歳の丈があまりにも過大な責任感で縛られ、どれほどの苦しみを味わっているか、だれにも想像が及ばぬことだった。わずかに姉の三千子だけが、丈の心情を思いやることが可能だった。
丈は濃い夕闇の底に燈火が点る家並に、ある新鮮な懐しさを感じながら、家路をたどった。
明るく灯の点る窓々を眺めることは、不思議な感動を丈にもたらした。そこに一つ一つの家庭があり、人々が生活している実感をなににも増して明確に与えてくれるからだった。
通りを歩んで行くと、夕餉の匂いがあちこちから流れてくる。丈がしばらく忘れていた生活感覚であった。
そこに人々がそれぞれの家庭を持ち、人生を持って生きている。これ以上の現実感はなかった。丈は目を夜空にあげて、凍てつくように光る真冬の星の一つを己れの視点となし、世界中の人々の生活の営みを見降すことができた。
それは頭だけで考える抽象的な人類という概念ではなく、生活者としての人間たちの実像であった。
銃声の中であかあかと炎上しているニューヨーク・ブラック・ハーレムの惨状が甦ってきて、丈はぞくりと慄えた。同じことが、今彼の住んでいる東京にも起こるかもしれない。いつ、この平穏な日常が木っ端微塵に砕け散り、根こそぎ人々の平和な生活が消えてしまうかもわからないのだ。
丈は思わず足を停めて、異様な驚きに打たれ、灯の明るい窓々を見廻した。この楽しげで人懐しいたたずまいが、偽りの安定の上に築かれていると知るのは、目まいのするほどの驚きであった。それは文字通り、あっという間に失われてしまうほどのものだ。〝幻魔〟にとっては造作もない。
丈は、明るい灯の点る光景と二重映しに、冷たい暗黒の充満する廃墟を見たような気がした。その荒涼たる廃墟を照らす、人工の灯はすでに一点もなく、上空に広がる静かで冷やかな星辰の瞬きばかりが凄まじいまでに圧倒的だ......
我に返って、丈は足早に再び歩を運んだ。未来に待っている敗北のあかしを垣間見たように、心はしんと冷えていた。人々がどんなに努力を傾けても、廃墟の未来を変更することは不可能なのではないか、と凍るような疑いが心に芽吹いていた。
全ての人類、全生命体を失った荒廃の地球がぞっとする冷暗の内に、永遠の悲嘆と絶望を神に訴えている......その凄まじいイメージが心に灼きついたようになってしまっていた。それは、人々のいかなる努力も営為も、時のもたらす荒廃の中にあっては、ただ虚しいとする虚無主義の恐ろしい味わいであった。〝幻魔〟とは、ひっきょう全てを滅し、荒廃させる〝時〟そのものだ......と、丈の心に芽吹いた〝疑惑〟はささやきかけていた。
人が永劫の支配者たる〝時〟と競い、争ってなんになる。〝時〟こそ永遠の不敗者にして破壊者そのものなのだ......
人々の貴重とする、愛も、喜びも、幸せも、全ては絶対の破壊者である〝時〟が奪い去り、永遠の虚無の中に還してしまう。丈よ、〝時〟と争うのは止めよ......〝時〟こそ最高の神そのものだ。すなわち〝幻魔〟こそ宇宙の支配者にして、破壊者である神そのものなのだ......
丈は魅入られたように心をよこぎって行く不可思議な〝疑惑〟の正体である想念に気を取られていた。
愛も喜びも、幸せもひっきょうはかりそめのものだ。それは一瞬の光芒を曳いて闇から闇へと消える流れ星のように空しいものだ......絶対の支配者たる〝時〟はやがて、宇宙自体をも腐蝕させ、虚無に還してしまう。
唯一、絶対の真実とは、〝虚無〟そのものなのだ。
──違う!
と、丈は心に叫んだ。心を満たしている冷暗の戦慄を力の限り振り捨てようとするように、その叫び声は危く唇を漏れるところだった。それほど〝疑惑〟の想念は強い力で襲いかかり、心のバランスを失わせにかかってきたのである。
一時的な気の迷いだ、と丈は自分にいい聞かせた。高をくくっていたものが、意外な力の強さで足をすくったような感じだった。
なぜそのような〝疑惑〟が突如として心に入りこみ、激震を招いたのか、丈には理解できなかった。
なぜなら、丈は、宇宙の真実を宇宙意識〝フロイ〟によって見せられ、知っているはずである。絶対の虚無こそが〝宇宙的真実〟だなどと、今更丈が考えることこそ不思議であった。
それは真実を否定する考えであり、根も葉もない猜疑心であった。宇宙意識〝フロイ〟の存在をすら否定に導く考えであった。
〝フロイ〟など架空の存在にすぎないかもしれない、と〝疑惑〟はなおも主張を続けようとしていた。そんなものは単なる錯覚にすぎない。それが存在する証拠などどこにもないではないか......ルナ王女が交感したというが、精神病者の妄想といったいどこがどう違うというのか? ひょっとするとルナ王女は頭がおかしいのではないか?
一切が幻想ではないという証拠がどこにあるのか?
丈よ、お前はルナ王女の抱いている妄想を投射されたにすぎないのかもしれないのだ。王女は幻想を他人に転位するという特異な超能力の持主であるのかもわからない。それを無批判にまるごと受容するなど、あまりにも馬鹿正直であり、幼稚で愚かな行為ではないのか......
ルナ王女は確かに巨大な〝力〟を有する超能力者であっても、誇大妄想狂であり、己れの造りあげた幻想を、人々に投影し、みなを幻想で汚染しているのかもしれない。そうでないという証左はどこにもないはずだ。
丈よ、お前もルナ王女の狂気の犠牲になっているかもしれないのだ。
〝疑惑〟の想念がしだいに毒々しく凄まじくなってきたので、丈は愕然とし、汗が滲むのを覚えた。それは奇怪な毒ある植物のように、芽吹いたかと思うと見る間にぐいぐいと成長して行くのだ。
そんなことはありえないと否定しながらも、丈は妙に足許が頼りなく、ふわふわと漂いはじめる錯覚に捉われていた。
確かに〝疑惑〟が主張する通り、丈が信じていることには、即物的な証拠はなにもないのである。それは物質ではないからだ。丈はただ心で受容しているにすぎないのだ。目で見、手で触れて確かめることは決してできない。
丈は心で感じ、そしてまぎれのない真実と信じているのである。物質的な証拠などありえようはずがない。
丈は冷暗のまっただ中に吸い込まれるのを感じ、無気味な冷感に心身ともに慄えた。思いがけぬ陥穽に足を取られたようだった。
家並の灯火を見て、人類を実感したと思った瞬間、恐ろしい虚無感をもたらそうとする〝疑惑〟の虜になってしまっていたのだ。
その〝疑惑〟には、非常に不可解なわけのわからぬ侵蝕を感じさせるものがあった。それまでは考えたこともなかった疑いの念が、だしぬけに心の中に出現したのである。
それはぞっと底冷えのする思念であり、丈には馴染みのない膚触りをもたらすものであった。
丈は元来、懐疑家である。しかし、今、心に生じている〝疑惑〟は、丈がいつも慣れている懐疑とは明らかに異質であった。検証のための手続きではなく、明白に否定のみを目的とする、毒々しい破壊的な想念、全てを腐蝕させる猛烈な強酸を思わせる〝毒念〟そのものであった!
──これは違う! こんなものは、おれの考えではない! こんなものは出て行け! 消えて失せろ!
丈は強く念じ、〝毒念〟を追い払おうと努めた。
丈は夜の冷寒の中に、体の芯まで冷えきり、べったりと脂汗に濡れて立ちすくんでいる己れを見出した。体が慄えだし、とどめようがなかった。
〝毒念〟を放逐すると、生体エネルギーを充たして、体を暖める。慄えも停った。
しかし、氷塊が触れていたように、心は冷たくなったままであった。丈は一度は追い払った〝毒念〟が折につけて再び舞い戻ってくることを予感した。
それは、たとえば神の存在を物質的な証拠によって証明しろと挑む唯物論者の論法に似ていた。至上至高の価値の存在を、物質の中で卑小なものに還元しようとする術策そのものであった。唯物論者の過誤は、卑小なのが己れ自身であることを知らず、その卑小さを基準にして全宇宙を計量しようとする浅墓さであった。しばらく前の丈自身が、他ならぬその唯物論者そのものだったのだ......
しかし、今丈を襲ったのは、単なる唯物論者の論法以上のものだった。それどころか、魔的な虚無主義者のいい草そのものといえた。丈にとりショックをもたらしたのは、そのような破壊的な陰惨さを自身の裡に見出した驚きであった。
日頃、考えてもみなかったことだった。それはたとえば、醜怪な寄生虫が己れの体内に潜りこみ、巣食っていると知った時の、無気味さ、おぞましさ、生理的な厭悪感に通じていた。
お前が何をいおうと、そんなことに耳を貸す気はない......と、丈は己れの裡に潜んでいる破壊的な毒念に向けて強く宣告した。そうせずにはいられなかった。丈はいつしかその毒念を、己れに対置する他者の思念として捉えていた。異物と捉えざるを得ないほど、強度の異和感をもたらしていたからである。
そいつは、さながら、丈の心にこっそりと送りこまれた破壊工作員のようであった。たとえてみれば、丈の心の市民の中に変装してまぎれこみ、破壊活動を行なう〝敵〟の波動を丈に感じさせた。
同じ毒念が再び襲ってきたなら、もっと徹底的に観察してやろう、と丈は思った。この毒念には非常に不可解な納得できないものがある。
もし、丈以外の人々にも、同じ毒念が生じているとしたらどうだろう。丈のように宇宙意識〝フロイ〟と交感を持った者でさえも、それを否定する毒々しい想念に捉えられるなら、丈の経験を持たない他者にあってはどうであろうか。
全ては幻想だとする、頼りない不信の虜にされてしまい、脱出不能にまで陥れられてしまうことはないだろうか。
もしかすると、久保陽子はこうした毒念にやられて再起できず、落伍していったのかもしれない、と丈は気がついた。
もし、そうであるとすれば、今後も同じ現象が起こるだろう。同じ毒念の内部からの攻撃を受けて、不信に心を侵蝕されていく人々が必ず出るはずだ。あるいは、井沢郁江にもすでに久保陽子の心に生じたことが再びくり返されているのかもしれない。
おそらくこれは、全ての人々の心に仕掛けられた陥穽なのだ。不信の侵蝕に堪えて生き延びる信念を、だれにでも要求することはおそらく不可能である。
もし、この突然の落し穴のような攻撃を経験しなければ、自分には久保陽子の心に本当は何が起こったのか理解することはできなかったに違いない。
丈は深い溜息をついて再び家路をたどりはじめた。家並の燈火は、もうただの燈火にしか見えなくなっていた。
5
丈が自宅に帰り着いた時、来客の杉村由紀はすでに到着していた。
彼女がエプロンを甲斐がいしくつけて、三千子を手伝い、夕食造りをやっているのを見て、丈は目をまるくした。
「びっくりしたでしょう?」
と、三千子がからかうようにいった。
「杉村さんにお料理を教えていただいたの。杉村さん、なんでもとってもお上手」
「そんな......ちょっとお手伝いしているだけなんですよ、先生」
と、杉村由紀が照れたように弁解した。
「ご飯、もうすぐよ、二人がかりだからとても早いわ」
と、姉が活きいきした声でいった。丈は年長の女性たち二人の気の合った様子に、奇妙な暗合のようなものを感じざるを得なかった。初対面というよりは、ファミリーの女性たちの親密さを見る思いがした。
合性というのもあるのであろうが、それよりも旧知の間柄であることを、期せずして二人とも発見したという一致ぶりがあった。
丈が洗面して戻ると、居間にはもう食卓が用意されていた。三人で食卓を囲む。弟の卓は部活動で帰りが遅いようだということだった。
「杉村さんから、いろいろと面白いお話を伺ったの」
と、三千子がいう。食卓には前菜やサラダなど、日頃あまり見かけないタイプのものが並んでいた。杉村由紀は料理にも優れた才能を持っているらしい。鋭敏な感覚の持主という点では、三千子と通じるものがあった。
初対面の客が来ているというぎごちなさをまったく感じさせない夕食であった。三千子と杉村由紀は年齢的に五つほど違うのだが、共通点が多いためか、年齢差をさほど意識していないようであった。
むしろ歳上の杉村由紀の方が、感情的には三千子に依存している気配が感じられ、丈には興味深かった。キャリアや幅広い人生経験では、三千子をはるかに凌いでいるはずの彼女がむしろ歳下に思えるのだ。それは杉村由紀が子供っぽく、幼稚であるということとは全く異る。三千子が長姉として常に庇護するという立場にあることと無関係ではないのかもしれなかった。肉体年齢に関りなく、三千子には庇護者、長上者の格というものがあるようであった。
「さっき電話でちらと話したんだけど、今度杉村さんには僕の秘書をお願いすることになったんだ、姉さん」
と、丈は折を見計っていいだした。杉村由紀は箸を置き、居住いを正した。
「望める限りの最高の秘書だと信じている。やはり天の計らいだと思う......僕が、優れた秘書が居てくれないとどうにもならない、二進も三進も行かないと救いを求めるような気持でいたところへ、杉村さんが現われてくれたんだ」
「不出来でございますが、わたくしのような者でももしおそばへ置いて頂ければ、これ以上の幸せはございません」
と、杉村由紀はいった。
「長い間、本当に長い間捜し続けて、やっとめざす目的の地にたどりついた気持がいたします......クリスマス講演会の時、先生とお目にかかった感激は一生に一度のものだと思っております」
「やはり、丈がいっていた方は、杉村さんでいらしたのね」
と、三千子はいった。
「とうとう超能力者と逢った、と丈から聞いたことをすぐに思い浮かべました。こんなに早く来て頂けるとは思いませんでしたけど。杉村さんに来て頂いて、あたくし肩の荷がいちどきにおりた気がいたします。なんともいいようのない安心感なんです」
「そんなこと......わたくしなど先生にはまったく不釣合な不出来な秘書ですもの。お姉様に安心して頂くわけにはまいりません。どうぞ買い被らないで下さい」
「丈をよろしくお願いいたします」
と、三千子は深い声でいった。丈がはっとするような響きが声音にはあった。
「丈に力を貸してやって下さい。丈にはあなたの助力がどうしても必要です。もし、なにもかも投げだしたくなるようなつらい時が来たとしても、あなただけは丈を見捨てないでやって下さいませんか......だれもが丈を誤解して、憎まれ、疎まれて、総攻撃を受けるような時が来ても、丈を支えてやって下さい。あなたさえ丈を信じ、助力して下されば、丈は必ず踏み止まり、立ち直ることができるはずです。ですからそのためにも......」
「わたくしにはとてもそのような大きな力はございませんけれど、力の限り尽してまいります」
丈は戦慄を禁じ得なかった。姉の三千子が急迫した死に臨んで、後事を杉村由紀に托しているような気がしたのだ。その怯えは、丈に口をさしはさむことを許さなかった。不意に口がたとえようもなく重くなり、喋る機能を失ってしまったかのようだった。
三千子の声は平静であり、少しも感情の激したところはなかったが、冗談事にまぎらわすことのできない真摯さがあふれていた。姉は未来を視ているのだ、という考えを抑えることができず、丈は深いところから湧出してくる戦慄の虜になっていた。力の限り振り払ってしまいたいのだが、その考えは執拗にまとわりつき、心にへばりついて離れようとはしないのだった。
「もちろん、軽々しい気持で参ったわけではございません。わたくし、もっとずっと若いころ、結婚しないと決心した時に、自分の人生にはもっと重要なことがあるのだ、と予感いたしました......」
と、杉村由紀は姉の真摯さを避けずに、正面から受け止めていった。
「その重要なことのために、自分の全人生を集中して行こう......燃焼させて行こうと心を決めました。ずいぶん長い間、待たなければなりませんでした。さまざまな意味で遍歴を重ねました......正直申し上げて、途中心がくじけて男性経験も幾度か積み、一時は家庭に入ろうかと迷ったこともございます。
でも、こんなことをしているわけには行かない。これは道草だ、自分は大急ぎで出かけなければならない、さもないと決してたどりつけなくなるだろうという声が自分の内部のどこかから聞こえてきて、はっと目が覚めたようになるのです。もし自分がたどりつけなかったら、その大切なこと、重要なことがだいなしになってしまう......人に聞かせても笑いものにされるだけの、わたくしだけの特別な理由によって、なにもかも振り捨てて再び遍歴に出る......わたくしの人生はそんなことの繰り返しでした。
そのために、いろいろ誤解も受け、大事な人たちを失うような破目にもなりましたけれど、どんなにつらい時でも、不思議に心がくじけませんでした。薄情な人でなしのように周囲の人々にさんざん罵られるようなことがあっても、心は変らないのです。自分を待っている大事なことのために早く行かなければ、一刻も早く辿りつかなければ......その一念しかありませんでした。
まるで自分を、女ではなく男ででもあるかのように感じました。目的のためには何もかも振り捨てて、無慈悲な情知らずとそしられても、泣いて止められても、初志を変えずに発って行ってしまう、そんな毅よさが自分にあるのが不思議でなりませんでした。
いつまでたっても、真に自分の求めるものに出逢うことはできませんでしたし、それが何であるのか、イメージを描くことすら出来ないのです。滑稽なことに、自分をこんなに烈しく駆りたてているものが、想像すら許されないんです。
でも、途中で挫折することさえなければ、必ず出逢える......それは絶対不動の確信でした。もうだめだ、と諦めかけ、放棄しようとすると、心の中で立ち直ってくるものがあるんです。
さあ、出かけよう......そういう声を、わたくしは幾度も聞きました。はっきりした声なのです。肉声ではなく、心に直接響きわたる声なのです。強烈な信念に満ちた声で、わたくしには決して抗うことができませんでした。
もう結婚の日程も決まり、新居も決まって、家具やカーテンを細々と買い揃えていながら、その声に導かれて、いきなり解消を強引に押し通してしまい、アメリカへ渡ってしまったりいたしました。
十五年間も、わたくしはその声に導かれてきたのです。さあ、出かけよう......という声を幾度聞いたかわかりません。もうお馴染みの声で、すっかり気がゆるんでしまっている時でも、いつ声がかかるか心待ちにしているほどでした。
いつも同じように、出発を促す声が、もし異ることをいったとすれば、目的地に着いた時だとわたくしは確信していました。そしてクリスマス講演会の時、わたくしの期待は遂にかなえられました。あの声が初めてささやいたんです。あれがその人だって......もう二度と、出かけようという声を聞くことはない、とその時わたくしははっきり悟りました......わたくしはとうとう目的の地に着いたことを知ったんです」
杉村由紀は一気に喋り終って沈黙した。安らぎに満ちた沈黙だった。己れの中の肩肘張ったものを解き放ってしまった者の安息だった。丈は喋り終えてから杉村由紀の顔に生じた変化──柔和さを見てとって胸を打たれた。彼女がどれだけ張り詰めたものを抱いて生きてきたか、実感することができたからである。
他ならぬ丈自身に遭うために十数年間を、息を抜くことも己れに許さず、ぎりぎりの状態で生き抜いてきた杉村由紀には、確かに一種の宗教的な信条があったに違いなかった。さもなければ、そのような凄絶な生き方はできるものではないと思えた。
「いつごろから杉村さんには、超能力が芽生えたのですか?」
と、丈は尋ねた。
「十六歳の時だったと思います。もっと以前から潜在していたにせよ、自覚したのは十六歳でした。白く輝く光球がいきなり降ってきて頭にぶつかったんです。死ぬんじゃないかと思ったほどのショックがありました。その光球がなんだったのか、いまだにわかりません。その後、他人の心の動きがなんとなくわかるようになっていることに気付きました。他人の口に出す言葉と内心がとても大きな食い違いを持っていることを発見したんです。でも、この〝力〟は自分のために使ってはならないものだ、という気が強くしました。もっともっと大事なことのために使わなければならない......なぜかそんな気がしたんです。さあ、出かけよう、とささやく声を聞くようになったのはそれからです。普通なら、他人の心の中がわかるなんて気持が悪いし、偽りや裏切りばかり見出して悩んだり、苦しんだりしてノイローゼになってしまうかもしれません。
でも、この〝力〟は自分のためのものではないとはっきりわかっていましたから、とても気が楽でした。自分にはなにごとかなすべきことがある。〝力〟はそのために役立てなければならない......この〝力〟がいつか自分を目的地に導いてくれるに違いない。その信念が、いつも崩れそうになった時、わたくしを支えてくれました。十五年といえばずいぶん長い時間のようですけれど、今となると一瞬にして折りたたまれてしまったような気がいたします......」
「自分に生じた〝力〟が遠感だということに気付いていましたか?」
「はい。心霊主義や超心理学の本を読んで、そう確信しました」
「〝力〟を使ったことは?」
「何度か使って、危険を免れたことがございます。警報のように危険を探知して教えてくれましたから......危機一髪で危険を免れたこともありました」
「自分に超能力があることを、他人に話したことはありますか?」
「家族や親しい人は幾人か知っていますけれど、それ以外には話したことはございません。妙な目で見られたり、疎まれたり嫌われたりするのではないかという気がしておりましたから......でも、勘がよすぎるということはいつも人にいわれました。意識しないで〝力〟を使ってしまうことがありますから......」
その言葉は、杉村由紀の本質的な怜悧さを表わしていた。彼女を徹底的に信頼しても大丈夫だという確信が生まれた。彼女は〝力〟の行使において、充分慎重であり、聡明であった。超能力はある種の権力である。それを行使せずにいるには並みなみならぬ自制力がいる。
あらゆる意味で、杉村由紀は合格といえた。単に合格以上の存在であった。〝力〟と人格的な円熟がみごとな均衡を保持しているからだった。
彼女なら、郁江たち若い娘らをうまく教育してくれるのではないか。丈の目や耳として補完してくれるのではないか、と期待せずにはいられなかった。
「わたくし、本当にそんなに大きな〝力〟の所有者ではないんです」
と、杉村由紀はくり返して弁解するようにいった。謙遜というよりは本気で信じているようだった。
「あまり期待されても困ってしまいます。わたくしのは先生の〝力〟とは違って、本当につつましやかなものなのですから......」
「〝力〟の大小は問題じゃないんです。〝力〟の所有者の目的意識や使命感、そして倫理性の問題なんです」
と、丈は生真面目にいった。
「今、お話を伺って、なにも問題はないという見きわめがつきました。あなたが来てくださったことを心からうれしく思います。あなたの出発を促していた声が、再びあなたをどこかへ連れ去ってしまわないことを祈りたい気持です」
「そんなことは絶対にありませんわ。だってわたくしは長年かけて捜し求めていた目的地へやっと辿り着いたんですもの......」
杉村由紀はちょっと抗議するようにいった。自分の真摯な気持をそのまま信じてもらえないのかと思ったようであった。
「もちろん、あなたが心からそうおっしゃっていることはよくわかります。しかし、これからが本番だといいたかったのです。あなたは安住の地へ着いたわけではないんです。むしろ、僕とともに歩むことは並大抵ではない苦労を意味します。ですから、気を緩めないでほしいといいたかったんです」
丈はやわらかに、しかしきっぱりといった。
「思いもかけぬことが起き、苦労もするし、つらい思いもしなければならないでしょう。しかし、ここで挫折したら、それこそこれまでの苦労や忍耐が全て水の泡になってしまいます。僕には歯の浮くような甘いことはいえません。むしろ、平凡な人並の生活を選んだ方がよかったと思うかもしれないんです。おそらくあなたは時には後悔するんじゃないでしょうか? あなたが僕についてきたとしても、僕は世間並の物質的な報酬や幸せはさしあげられないかもしれません。あなたが得るとすれば、それは心を互いに結んだ友がいるということだけかもしれないんです。しかもそれが大きな喜びであるかどうかは、まったくあなた次第なんです。僕にはなにも確実なものは約束できません」
「わかりました。先生はわたくしに最後の選択のチャンスを下さったのですね」
と、杉村由紀は落着いていった。
「わたくしは甘い幻想を抱いていたわけではないんです。どうぞご心配なさらないでください。わたくしには自分が正しい選択をしているということがよくわかっているんです。もう大きな喜びは自分のものになっているんですから......その喜びを失わずにいるのも自分の努力次第だということもわかっております。
先生が一度よくきてくれた、と迎えて下さった以上、わたくしは決して先生から離れはいたしません。先生が去れとおっしゃっても、そのおいいつけには従いません。なんのために生きてきたのか、わからなくなってしまいますから......」
杉村由紀の語調はあくまでも平静であり確信に充ちたものだった。丈は女の強さ、したたかさを見るような気がした。それは思い込みの強さであり意志の強さであるだろう。丈に畏怖の念を覚えさせる一途さであった。
杉村由紀を知る全ての人々にとって、彼女は不可解な謎めいた女性だったのではないかという気がした。彼女をひたすら導く使命感はだれにも理解できないものであったに違いないのだ。
丈が地上に生を享けるのとほぼ前後して、杉村由紀という一人の少女が、丈と出遭うべく使命感を帯びてまっすぐに歩き続けてきたというのは、強い神秘感をもたらさずにはおかなかった。
いったいだれがこの出遭いを定め、十六歳の少女に示唆を与え、導き続けてきたのだろうか。彼女が路を誤まろうとするたびに、進路の修正をささやきかけてきた〝声〟とはどんな存在だったのだろう。
ただそれを運命と呼ぶのははばかられる気がした。もっとはるかに明確な意志が介入している感を抑えることができなかった。
「覚悟をお持ちなら、それでいいのです」
と、丈はあっけないいい方をした。それきり口をつぐんでしまった。神秘的な黒い瞳をきらめかせている。
「丈は、一時の熱狂的な帰依に対して、疑問を抱いているんです」
と、三千子がいった。
「熱狂が冷めた後の気持が本物だと考えています。ですから、しばらくは突き放した冷静な態度をとります。熱狂はすぐに冷めるものですし、一時的な高揚感では所詮長続きはしません。だれもかれも興奮した人々を連れて行くのではなく、最終的な選択を経た人たちとともに歩みたいと願っているのではないでしょうか」
「わたくしの決心は変りません。どうかそれを証明させていただけないでしょうか。一時的な熱狂では決してありません」
杉村由紀はきっぱりといった。
「どうかわたくしをいっしょにお連れください......さもなければ、わたくしの人生は無意味になってしまいます」
「本当に、逃げだすなら、今のうちですよ」
と、丈は黒い瞳をきらめかせて、冗談のようにいった。
「だれに対しても、くどいほど念を押すことにしているんです。だから、気にしないでください。一度出航してしまえば、下船するのは容易じゃありません。今のうちなら間に合います......」
「そうやって先生は人を脅されるのですね。気の小さな者が二の足を踏むようにわざと......でも、わたくしは平気です。これでも胆っ玉はすわっているといつも人にほめられるんですから」
「まだしばらくは下船するチャンスがありますよ」
と、丈は冗談とも本気ともつかずにいった。妙に相手の自信をぐらつかせる力を持った語調であった。
6
夕食が終った後も、話は終らなかった。話すことはいくらもあった。杉村由紀はなにもかも知る必要があったからである。
トランシルヴァニアのルナ王女の航空機事故に始まり、宇宙意識フロイによる王女の招聘、戦士ベガの参加、地球へ戻ってからの超能力者捜し、幻魔のからんだニューヨーク・ハーレムの黒人大暴動......と順を追って話して行くだけで一時間、二時間は飛ぶように過ぎた。
丈は、経緯をできる限り正確に話そうと努めた。私情が混入することをできるだけ排除すべく、三千子の確認を求めながら話しつづけた。
そうやって詳細を話すことによって、丈は己れの心の軌跡を追体験するのを味わった。話すという行為が曖昧さをそのままにとどめておかないのだった。
丈がルナ王女たちの許を離れ、帰国してから始めた組織造りに動機として王女への対抗心や反撥が潜んでいることは否みがたい事実だったのだ。むろん競争心だけではなかった。王女がメイン財団から豊富な資金を引きだし、他者を利用し、完全に依存したままに組織造りを行なうことに、抜きがたい危惧を覚えたからでもあった。
組織造りこそ、幻魔大戦の帰趨を決定する、と丈は洞察していた。その洞察ゆえに彼は王女と袂を分ったのである。もし、完璧な組織を造ることに失敗するならば、勝ち目はまったくないと悟ったからだ。
しかし王女の遣り方に批判があっても協力することなく、分離を計った丈の行動の裏に、王女への対抗意識がひそんでいることは明白であり、それが自分の負い目になっていることを、丈は杉村由紀への事情説明を通じて、はっきりと知った。
彼はあのまま、帰国することなく、ニューヨークへ留まって王女に協力すべきではなかったかといつも心を悩ませていたのである。明白に意識しない悩みであるがゆえに、それは常に丈の足をからめとり、歩みを妨げていたのだった。
分裂行動をとっている負い目が、丈の迷いの根元だったのだ。
そう悟った時、丈は自分自身を更に客観視する視野を得た。大きな運動を展開しようと計りながら、社会的に沈潜しようとする矛盾は、すべてそこにあった。丈の〝力〟は、ルナ王女に協力することにより、初めて巨大な意味を持ってくるのだった。
もちろん、最初からわかっていることだったが、つまらぬ意地やこだわりが丈を素直にさせなかったのだ。王女から連絡がないことを理由に、こちらからも一切コンタクトを計らなかったのもそのためであった。
これを機会に、つまらない行きがかりは一切捨てなければならない、と丈は決心した。
最初から脈絡を追って事実関係を明らかにすることがどんなに大切か、丈は今更のようにはっきりと知った。脈絡のない、断片的な反省を繰り返していても効果はない。
自分の心ほど捉えがたく不可解なものはなかった。恐ろしく幼稚で身勝手な自分がもう一人いるように振舞い、肝心なことから目をそらしてしまうように仕向けるのだ。
幼稚であるだけでなく、そいつは狡猾であり、凶々しくもある。さっき家路を辿る丈を突然襲った毒念は、そのもう一人の自分に関係があるかもしれない、と話を続けながら丈は並行して考えていた。これは後で杉村由紀に話しておく必要がある。忘れないようにしなければ......
彼女は遠感能力者だ。丈の心の奇妙な分裂に解答を与えてくれるかもしれない。その心理的な仕組がわかれば、久保陽子の心に生じた変化の理由を解明することができるかもしれないのだ......
心の中に潜りこみ、メタンガスの泡のように毒念を放出するものの正体をどうしても突きとめてやりたい。丈はそれに執念を燃やしていた。
途中で弟の卓が帰宅し、杉村由紀と挨拶を交わした後、席を応接間に移して、更に話は続いた。
丈は休む必要を感じないままに語り続けた。自分がルナ王女たちと袂を分った後、なぜ〝GENKEN〟という組織を造ろうと思いたったかを率直に語った。途中で全部をテープに採録しておけばよかったと気付いたほど、詳細を物語った。
久保陽子の件に関しても、一切隠しだてしなかった。今は正真正銘の敵と化した江田四朗の計りがたい危険についても、語り漏らさない。杉村由紀が間違った現状把握をしてはならないからだった。
江田四朗はとりわけ過小評価してはならない敵だという気がしていた。江田が想像を超えた力によって動かされていることは、おおいにありえた。彼が久保陽子に対して行なったように、会員に個別攻撃をかけてきた場合、いかにして対処するか、丈の考えはまだ固まっていない。
丈は杉村由紀に対して、自分が未熟すぎることを隠蔽する気はなかった。彼はまだ十七歳なのだ。いかなる意味でも、未熟でないと強弁することはできない。一番身近な存在に対して肩肘張ってみても仕方がないのだ。
「僕はこれだけの人間です。それ以上のものはなにもありません」
丈は繰り返しそういった。
「超能力は、人間の倫理性とは無関係に存在する傾向があります。僕の超能力は、僕の人格を高めてはくれません。むしろ、常に傲慢になり増上慢になる危険をはらんだ落し穴です。
知らぬ間にエリート意識が目覚めているのかもしれないんです。自分は平凡な普通の人間とは違う......大きな〝力〟を授けられた選ばれた者なのだ......そんな考えが心のどこかに隠れているかもしれません。意識しない思い上りが生じてくることだってありうるでしょう。
もし、そうした感情を放置しておくならば、超能力者はエリート意識の権化となってしまうはずです。自分を特別な存在、特別な権力者として、全ての者の上に置くことだってありえます。そうした退廃、堕落は急速に進行して、自分を神の座に置く超能力者が出現するに違いないと僕は思っています。
彼は他者を全て〝力〟で従えようと計るでしょうし、ある程度は成功するでしょう。その時はすでに、彼は幻魔に徴兵される資格を全て備えているほどに充分退廃しているはずです。
エリート意識はすでに己れを他者の上に置いているので、放置しておけば必ず雪ダルマ式に肥大して行きます。権力者がより大きな権力を求めることと全く同一です。より大きな〝力〟を欲するのは、他者を支配するためです。
おそらく江田四朗は魔性のものと盟約を結び、より大きな〝力〟を得ようとしているのではないか。そんな気がしてならないんです。なぜなら、江田の動きは僕の軌跡をそっくり真似て追っているらしいからです。
組織造りを行ない、その頂点に立ち自らを権力者として偉大ならしめるために、組織を飽くことなく拡大して行くはずです。邪教的な新興宗教が必ず使う手口です。全ての力は頂点に立つ権力者に集中するんです。上納金を絞りとられる下部組織の信徒が食うや食わずの貧窮に喘いでも、ピラミッドの頂点に立つ一握りの特権階級はとうてい信じられない王侯貴族の奢りを特権として行使するわけです。
僕には江田四朗が何を成さんと欲しているかよくわかります。〝世界の王〟にしてやると幻魔が僕に持ちかけてきたことがあるからです。僕はその誘いを拒絶したが、江田はそれに応じた。僕を憎悪する一心で、自分の魂を売り渡したんです。
つまり、江田四朗はヒトラー型独裁者の妄想に向って足を踏みだしたわけです。全世界を踏みしだく軍靴の響きを彼は聞いている。それは次第に彼の頭の中で大きく鳴り響きだしているんです。
妄想には違いないが、幻魔が力を貸せば、江田四朗には実力以上のことができます。僕もぐずぐずしているわけにはいかない。しかし、江田に関するかぎり具体的な方法論は僕の裡でまだ固まっていません。江田の手に落ちた久保陽子の問題一つ、どうすればいいのか考えがまとまっていないんです」
と、丈は苦渋を眉宇に刻んでいった。
「僕には久保陽子を救済することはできない。それは姉にも強くいわれました。人を救済するのはその人自身でなければならない。人にはそれだけの〝力〟が秘められているのだという姉の意見は正しいと思います。人間は自分で思っているよりも巨大な存在なんです。
どうやって人間の蔵した潜在的エネルギーを引きだすかということなんです。その〝力〟は幻魔すら易々と退けることができる......僕はそれに絶対の確信を持っています。
今後われわれがなそうとしているのは、人々に自己の蔵した偉大な〝力〟を知らせることです。もしそれが成しうれば、幻魔に対して直接戦いを挑むことよりも、はるかに素晴らしいことが起きるわけです。幾人かの人々の心が本当に目覚めただけで、地上に侵攻した幻魔はあっさり追い払われてしまうことは間違いありません。
しかし、それは簡単には望めないかもしれないんです。その間、幻魔の侵攻は功を奏して、久保陽子のような犠牲者はどんどん増えて行くでしょう。その人たちをなんとかしてやれないものか......いや、まず第一に陽子のような罪もない犠牲者を見捨てておいていいのか......それを考えると、身の置き所のない懊悩に責められてしまうんです。
真の解答はまだ出ていない。自らの意志で去って行ったからには、それは仕方がないという考え方もあります。首に繩をつけて引き戻すわけにもいかないではないか......そうした無理は、再びあらぬ中傷、誹謗の因になる......実際その通りです。久保陽子は自らの意志で会を脱け、僕から遠ざかった。それを引き留めることはできません。陽子がなにをなそうと、江田四朗と結びつこうと、僕はなにもできない。周囲の誤解が深まるばかりです。
しかし、それなら、陽子を見捨て、成行にまかせればいいのか。その通りです。僕は組織の長として無思慮な行動は許されない。それははっきりわかっています。陽子は江田四朗の手に落ちた。だからといって、僕はスーパーマンのように己れの正義になんの疑いも持たず、奪還を試みることは許されないんです。
それが陽子の意志であるならば、彼女が地獄に堕ちることさえ妨げるわけにはいかないんです。そんなことはよせ、と制止することはできる。しかし力ずくは無意味です。おそらくは神ですらも、陽子の自由意志を尊重するしかないんじゃないでしょうか......
まして僕はただの人間です。僕が無敵の力を持っていたとしても、退廃へと向う人間の心を引き留めることはできません。人間が人間でなくなっている大都会の犯罪地区を力ずくで清掃することはできません。蠅の大群に向ってガソリンを浴びせ、焼き払おうとしても根絶が不可能であるのといっしょです。山を移す超能力があっても、人の心を動かすことはできないんです。
わかっているのに、僕の心は疼き続ける。陽子をなんとかしてやりたいんです。陽子一人にかまけていることは許されない。だとしても、手を尽すことはできないものかと考える。彼女を最終的に救うのは、自分以外にない、と気付かせてやりたいんです。
たとえ、彼女が僕を憎み、避けていても、首根っ子をひっ摑んで目を覚まさせてやりたい。しかし、やっぱりそれは許されないことなんですね......かつての僕は巨大な〝力〟さえあれば、なんでも解決できると思っていた。〝力〟は権力だから、地球を動かすほどの〝力〟さえあれば、全ては問題解決すると思いこんでいたんです。
しかし、今は〝力〟がいくらあっても、なんにもできないんだと気づきました。たとえ万能の人間が存在したとしても、他人の心だけは自由にならない......それを発見した時から、僕の生き方は変ってしまいました。
なぜなら、僕が〝力〟を発揮すれば、それは破壊にしかならず、それは幻魔の遣り口と等しい......そう気づいたからです。二千年の昔、イエス・キリストがなぜ十字架に登ったのか、わかるような気がします。イエスは自らの巨大な奇蹟能力を封じたんです」
丈は内に激したものを鎮めるかのように沈黙した。そのまま内部に沈潜したように口を開こうとしない。
それは、この弱冠十七歳の少年がどんなに悩み多い日々を送っているかを物語っていた。むろんそれは一般の少年の持つ悩みとは全く異っているであろう。世間並の少年の悩みがほとんど自己に関るのに比べ、東丈のそれはそれとは逆である。丈の悩みは、他人のための悩みだ。そこには自他の区別というものがなくなっている。
いったい今の世のどこに、これだけ巨大な悩みを負った人がいるだろう、と杉村由紀は思った。彼がもしも、〝その人〟でないとしたら、地上のどこに〝その人〟がいるのだろうか。わずか十七歳にして、人々を救済する己れの使命に目覚めてしまい、その持てる偉大な〝力〟さえ、救済の切札にならぬと知ってしまった彼の悩みを、本当に理解できる人間が地上に果して存在するのだろうか。
いるとすれば、その人こそ〝真の救世主〟以外の何者でもないであろう......
「久保陽子さんの問題は、おそらく一つの原点なのではないでしょうか?」
と、杉村由紀はいった。
「今後も、もしかしたら同じ傾向の問題が生じてくるかもしれないわけですね?」
「その通りです」
と、丈は由紀の理解の早さを喜ぶようにいった。
「江田四朗が存在する限り、同じことは起こりえます。今後、GENKENを敵対視する組織は増加するかもしれませんが、江田四朗のそれほど凶暴で危険な〝暗黒教団〟は考えられません。江田はたぶん、非合法な攻撃をも避けないでしょう。会員には常に危険がつきまといます。ローマ帝国の迫害にさらされた初期キリスト教徒ほどの覚悟が要るかもしれません。会員たちが可哀そうです......しかし、僕がなにをなすべきかはまだ結論が出ません......僕は危険を承知で会に留まれとはどうしてもいえない」
「江田四朗の〝暗黒教団〟が、暴力集団として警察に監視を受けるようになれば、また状況は変ってくるのではないでしょうか?」
と、由紀が尋ねた。
「確かに警察に睨まれれば、表立った活動は封じられるでしょう。しかし、地下へ潜行して、一層凶悪化することだってありえます。問題は、江田四朗が常人ではないことです。彼は今でも、警察などの一部を抱きこんでいるという情報があります。これは決して口外できませんが、もし江田が幻魔と化しているならば、更に巨大な影響力を得て行くでしょう。彼が魔王の〝力〟を振るうのをだれにも止められません......」
「先生以外には、ということですわね」
杉村由紀は聡明な眸をみひらいていった。
「でも、先生は力ずくで彼を制圧するおつもりはない......けれども彼が幻魔であれば、法律は無力です。ブラック・ハーレムで幻魔が発揮した〝力〟は、軍隊ですら抑止することができなかった......では、わたくしたちはどうすればいいのでしょうか?」
「幻魔を抑える力は確かに存在するはずなのです。力ずくで抑えこむのではなく、平穏に封じ込めてしまう〝力〟が......しかし、僕にはまだそれがどんなものなのかわかりません。時間をもう少し貸してほしい、と祈るほかはないんです。もし幻魔と真向から対決して、力押しに押して行くならば、測りがたい惨害が生じてくるでしょう。僕はニューヨークでそれをいやというほど味わいました。無用な犠牲者を大量に出すことだけは避けたい......僕が乏しい知恵をふり絞って模索しているのはそのためなんです」
「幻魔を封じてしまう〝力〟を、近い将来、わたくしたちが得ることは可能なのでしょうか?」
「獲得しなければならないと思います。しかし、それがどんなものなのか、展望がないんです」
丈は苦しげにいった。
「早くそれを摑みたい。必ず方法はあるはずです。しかし、まだそれはイメージの中にしか現われてこない......」
「それはどんなイメージなのですか?」
尋ねる杉村由紀もわれ知らず眉をしかめて苦しげな表情になっていた。丈の苦しさをキャッチしているのであろう。
「それは、地球全体が白金の光で包まれるイメージです。かつて一度、そういうことがあったような気がするのです。いつの時代かわかりませんが......幻魔が完全に力を失い、封じられる真の奇蹟が起こったことがある。僕にはそう思えてなりません。
今度も、それを再び起こさなければ、地球が生き延びることはできないでしょう。地球を愛の光で包む......言葉でいうほど単純なことではありません。地球全土に充満した怨恨の土地を浄化することが必要となるからです。これほどの大事業はまたとないでしょう。〝真の救世主〟にとってすらたやすい業ではないはずです。
その人を迎える前に、われわれに出来ることをやり遂げなければならない。少くとも、その人が活動しやすい素地を築くことが、われわれに課せられた使命です。どれほどの努力を必要とするか、ちょっと想像もつきません。
われわれは大きな苦難に遭うでしょうし、それを避けて通ることはもちろんできません。世界は大変動に見舞われるでしょう。想像もつかないような激動が襲いかかってくるでしょう。われわれのなそうとしていることは、大嵐の中で小さな灯を消さぬよう護持するようなものです。
これは杉村さんだから、話すのです。われわれの歩むべき道は、会員たちが考えているほど平坦ではありません。むしろ考えられないほど険しいものかもしれない......恐ろしい嵐の中で、必死に身を寄せあって堪えていかなければならないはずです。それは宇宙に吹き荒ぶ大嵐である〝幻魔大戦〟のまっただ中へ地球が突入するからです。
しかし、いつの時も、希望はあります。それは宇宙意識フロイの啓示です。われわれが小さな灯を消さないことにより、幻魔の圧倒的な攻勢に転機が訪れるという預言です。
われわれの裡には、苦難に堪えていけるだけの〝力〟が......宇宙エネルギーと通底する巨大なエネルギーが秘められているはずです。さもなければ、宇宙意識フロイのように偉大な存在が、どうしてわれわれのように小さな者たちに希望を托すでしょうか? われわれには幻魔の加える容赦ない圧迫をはね返す巨大な〝力〟が蔵されているんです。それは絶対に間違いありません。僕には揺ぎのない確信があります」
丈の顔は輝き、声は熱した。なんという美しさだろうと由紀は驚嘆した。これほどの迫力を持った美を人のうちに発見するのは初めてだった。この美しい少年は、宇宙意識と交感することにより、信じがたいレベルに己れの精神の活力を押し上げたのだ。
痺れるような感動が波動となって由紀の全身を満たした。一流の男性と呼ばれる人々と遭い、話も交えたが、だれ一人この美しい少年に及ぶ男はいなかった。美しさ、迫力、使命感、魅力、だれ一人としてこの十七歳の少年には及びもつかないのだ。彼の裡には巨大なものが蔵されていた。それが丈のいう宇宙エネルギーと等質のものであることを由紀は悟った。丈はそれゆえに宇宙意識フロイとつながっているのであろう。それゆえに彼は偉大なのだ。
彼女は丈がその人であることを一瞬も疑いはしなかった。
「僕が真実を語っているとしても、恐れないで下さい」
と、丈は力をこめていった。
「恐れはしません。どんなことが起きても」
杉村由紀は幸福感に胸を浸されながら呟いた。講演会以来、幾度も味わっている至福の感覚が彼女を暖く豊饒な喜びとともに包みこんだ。もし、愛する男とめぐりあったとしても、これほどの無上の喜びはありえないだろうと彼女は思った。自分は女として欠けたところが確かにある。しかし、それはこの時のために用意されたものだったのだ。
自分がもし、夫との平穏な人生を至上とする女だったら、その人の許へ決して辿りつけなかったろう。講演会の席上で、丈と心を直接触れ合い、彼が自分を必要としていると悟った時の歓喜は、由紀の感情生活のレベルがあまりにも低すぎ、比較ができないと知ったほどであった。
それまでの由紀は、ほとんど生きているとはいえない感性レベルにあったのだ。
「われわれは決して孤立はしません。それは絶対に間違いありません。われわれとともに生きる人々が続々集まってくるでしょう。その結束の〝力〟はいかなる大嵐にも堪えることを証明するはずです。大きな宇宙的嵐は、地球を浄化するプロセスであるかもしれないんです」
「われわれにはそれに堪える〝力〟が秘められているとおっしゃるのですね。それを聞いて本当に安心しました。ほっとして心が暖まる思いがいたします」
と、由紀は陶然としていった。
「もちろんです。さもなければ世界は神の怒りに触れて滅びると恐ろしい声で脅迫する狂信的警世家と同じことになってしまいます。これは杉村さんだからお話したのですが、実際に浄化へ至る道は生易しいものではないかもしれません。いたずらに人々を動揺させるのは本意ではないので、これまでだれにも告げたことはないんですが......」
「先生を心から信じていれば、それほど動揺しないのではないでしょうか? 会員以外の人たちはパニックに陥るかもしれませんけど......」
「僕はまだ本当に未熟です。人々の結束の要になる資格などないのかもしれません。これだけ多くの人々が僕を信じて指導を望んでいる、僕のあとについてこようとしている......それが重荷です。怯えをさえ感じてしまいます。しかし、やらざるを得ない......本当は孤りで逃げだしてしまいたいほどです」
「どうしてですか!? そんなことをお考えになるなんて、信じられません!」
杉村由紀は茫然と目を瞠った。
「しかし、それが偽らざる気持なんです。もちろん逃げたりはしません。しかし、救世主でもなんでもない僕にとっては荷が重すぎる。早く〝真の救世主〟がたどりついてくれないものか、〝よくやったね、あとは僕が引受けるよ〟といってくれないものか、そればかりを考えてしまいます。それを唯一の頼りにして死力を振り絞っているというのが本当のところです。あともう少しで来てくれる、あと一日がんばれば......毎日そればかりを考えています。世界を破滅の運命から救うなんて、僕の手には負えない......」
「では、先生以外のどなたがおやりになるのでしょうか? もし〝真の救世主〟がまだこの地上に生を享けていなかったら......先生がおやりになるしかないのじゃないでしょうか?」
杉村由紀は思わず熱くなっていった。彼を激励せずにはいられなかった。彼が人間的な弱さを見せていることに失望するよりも、自分を信頼して真情を吐露してくれているという喜びの方が強かった。それに由紀は男の強さというものに幻想を抱く年齢ではなかった。どんな立派な男にもそれなりの弱みはある。それは人間であるかぎりやむを得ないことだった。信念強固な実に見事な男であっても、アキレスのかかとのような弱みを必ず秘めているものである。さもなければ、男には女が必要ではなくなるであろう。
たとえその人であろうとも、苦しみに堪えきれず血の泪と汗を流して神に祈ったではないか。神に救いを求めたではないか。その間弟子たちは泥のように疲れて居眠りしていた。
その人は一瞬といえども、自分が救世主であることを疑わなかったろうか?
そんなことはありえないのではないかと杉村由紀は思った。もし自分が堪えきれないほどの重責を負っていると感じなければ、その人は血の汗を流して神に祈る必要はなかったはずである。その苦しみは、自分のための苦しみではなかったはずだ。自分が挫折すれば人々を救済不能になると恐れたからこそ、血を流すほど苦しんだのだ。丈の苦しみは、イエスの苦しみと少しも変らないはずである。
「杉村さんのおっしゃる通り、僕は自分にできることを力の限りやって行くしかありません。一方では恐れることはないと人々を励まし、他方では尋常な苦労でないと覚悟を促す、きわめて矛盾した立場にあるのが僕です。だから僕は杉村さんにともに歩んでほしいと頼むことができませんでした......」
「先生が駄目だとおっしゃっても、わたくしはお供します。わたくしの全ての忠誠は先生のものです」
由紀は日常の会話にはそぐわない言葉を用いて忠誠を誓った。奇妙なことにそれは不自然さがひとかけらもなく、もっとも適切な言葉として響いた。抑えがたい熱い泪が目を刺激した。不思議な奥深い感動だった。
由紀は自分がここ何年も泪を流したことなど憶えがないのに気がついた。いや、それどころか十何年ぶりかもしれない。彼女は泪脆ろくないことで友人たちに知られていた。無感動ということではないが、泪と無縁なのであった。感動を味わい、鼻の奥がつんと熱くなることはあっても、涙腺が緩むことはない。女並みに他愛もないことで泣くことは決してなかった。
それが、丈と対面していると、いとも簡単に泪が流れてくるのだ。しかも恥しいとすら感じなかった。今は姉の三千子が中座しているから、更に抵抗を覚えなかった。

丈は真面目な顔で、杉村由紀の泪を見詰めていた。その真面目くさった顔を見ると、由紀は笑わずにはいられなかった。
「そんな真面目なお顔をしないで下さい、先生。泪がつっかえてしまいます......」
「しかし、どんな顔をすればいいかわからないんですよ」
と、丈は困ったようにいった。
「見て見ぬふりをして下さいませ......あんまり熱心に見られてしまうと、ちっとも泣けなくなります」
「なるほど。せっかく気持よく泣いていたのに、ですか?」
由紀はとうとう吹きだして笑った。十数年ぶりの泪どころではなかった。
7
杉村由紀と話すことは、それこそ無限にあるようであった。姉の三千子を交えて、話は深更に及び、それでも終らずに朝方まで更に続けられた。
由紀は見かけによらずタフな女性で、少しも疲れが顔に出なかった。この数日、徹夜に近い生活が続いている丈も一向に疲れを覚えなかった。本当に大事な話をしている時は、決してだれたりはしないものだ。
三千子が杉村由紀のために床を取ってあったが、由紀は辞退して応じなかった。こんな時に眠ってなどいられないというのだった。
「だって、世界の運命を変えようとする先生のお手伝いをするんですもの。もったいなくて、眠れるはずがありません」
と、由紀は本気でいった。
「わたくしは本当に大丈夫ですから、お話を続けて下さいませ。もし、先生さえお疲れでなければ......」
「僕は疲れないんです。それも超能力の一部らしい。生体エネルギーのレベルをいつも一定に維持しておけば、眠る必要もないんじゃないかと思うくらいです」
「丈は本当に寝まなくなってしまいましたのよ」
と、三千子がいった。彼女は顔色が悪く、疲労が白い皮膚の下によどんでいた。このところ、彼女の健康状態があまり良好でないことはだれの目にも明らかであった。
「いくら勧めても、二、三時間ほどしか寝みません。寝ようとしてもだめなんですって」
「寝るとかえって疲れてしまうんです。一時間ぐらい横になるだけで充分すぎるほどです。やっぱり気が逸っているせいかもしれない」
「寝ると疲れるって不思議ですわね。でも、そういう超能力があったら、わたくしも是非とも欲しいですわ」
「そのうちに、みんなそうなるんじゃないかな?」
と、丈はいった。
「超能力者がどんどん集まってくるような気がする。杉村さんがそうだし、明雄くんというあの少年がそうだ。彼は木村市枝の弟です。最初から宇宙エネルギーを素直に受容したので、なにかあるなと思っていました。彼はその時すでに透視ができていたんじゃないかと思います。汚いスラムのゴミ溜のような部屋に寝たきりでいながら、心は違うものを視ていた。その時は透視しているとは気づきませんでしたが......しかし、彼は己れの意志で進行性筋萎縮症という不治の難病を、非常に速いスピードで克服してしまったんです。明雄君は相当なハイレベルにある超能力者だった。僕と遭うことで、それが一挙に表面化したらしいんです」
「あの子は本当に素晴らしい〝力〟を持っていますわね。あの子が介在していると、わたくしの遠感がとっても強まるんです。後でそのことに気付きましたけど......他人のテレパシーを増幅し、強める、そんな〝力〟なのでしょうか?」
「はっきりとはわかりませんが、そうかもしれない。非常にユニークな超能力らしい」
「でも、それも、先生がお遭いにならなければ、顕在化しなかった〝力〟なのですね。今後、どんどん超能力者が集まってくるような、明るい気持がします」
「僕もそれは感じています......」
丈と杉村由紀は同時に気のさす感じを受けた。同席している三千子に対して後めたいものを感じてしまったのだった。三千子は超能力と無縁である。華やいだ気分で、超能力について語り合うことが、三千子を疎外していることにはっと気付いたのだ。それも二人の間のテレパシックな交感であることは疑いを容れなかった。
三千子の表情にはなんの変化も表われなかった。静かな動作で、丈と杉村由紀の飲みさしのお茶を淹れかえていた。
「そろそろ、わたしは寝ませていただきますので......」
と、三千子は穏やかにいった。彼女の疲労はまぎれもないし、二人は引止めることもできなかった。三千子が疲労を口実に中座することはわかっていた。
「せっかくお話が弾んでいるのに、水を注すようで申しわけないのですけど......」
「おやすみなさい」
と、丈はいった。他になんともいいようがなかった。
「僕と杉村さんは朝までもう少し話してる......といっても、もう朝だけど」
「遅くまで、申しわけございません」
と、杉村由紀は恐縮しきっていった。
「よろしいんです。今後は徹夜のミーティングなどありきたりな普通のことになるでしょうね。杉村さんもたいへんな仕事をなさらなければならないんですから」
と、三千子はほおえみながらいった。おやすみなさいと挨拶して静かに立ち去る。
しばらく丈と杉村由紀は無言で対座していた。言葉にならない複雑な想念が二人とも渦巻いていた。そして互いに相手のそれがよく理解できるのだった。
杉村由紀の感じている当惑の方が大きいことは確かだった。彼女は三千子と丈の親密な姉弟の関係の中に、初めてきわめてぶしつけな形で割りこんだのだ。
それを意識しているだけに、杉村由紀を襲った困惑は大きかった。超能力者同士としての丈と彼女の関係は、必然的に姉弟関係の間に割り込み、その重要性を相対的に軽くさせるように思われた。
超能力者でない三千子はその新しい関係の中で不可避的に疎外されてしまうだろう。
三千子の気持を思うと、杉村由紀は面も上げられぬ困惑の虜になってしまうのだった。
〈そんなことは気にしなくてもいいのに......〉
と、丈の想念が呟いていた。
〈姉さんはよくわかっている。そんなことを気にするほど狭量な姉さんじゃない〉
〈でも、わたくし申しわけない気持がしてしまって......お姉様こそ、このお仕事にふさわしい方なのに〉
〈すばらしい助力者が現われたことを、姉は喜びこそすれ、不快に思うようなことは決してありません。姉の意識には、集まってきた助力者を排除する心の狭さが一片もないのは確かです〉
遠感の交感はすぐに滑らかなものになった。
互いに相手の想念が己れの意識の中に湧出するのを興奮した思いで受けとめていた。実にストレートで明確な遠感であった。胸の中央に相手の意識が光のように瞬き、躍るのが感じられる。
自他との想念の差は互いにはっきりとしていた。自分の意識が言語というコミュニケート手段を介さず、相手のそれに触れあっているのを感じるのは、これほど刺激的でエキサイティングなものはなかった。
〈あなたの想念がとてもはっきりと感じとれます! まるで自分のものと同じように強く、はっきりと!〉
杉村由紀は当惑から心を移し、テレパシーの交感に慄えるような想いを味わい始めていた。
〈それはあなたの遠感がレベルアップしてきたからだと思う。慣れれば更にもっと明確になる......ルナ王女のように〉
〈ルナ王女はそんなに強いテレパシーの持主だったのですか? 人の心に自分の想念を植えつけてしまうほどに......?〉
〈ルナ王女はそこまでは意識的にやらなかった。しかし、遠隔催眠の〝力〟を相手に及ぼして、己れの意志に従わせることはできた〉
〈それはなんだか、よくないことのように思えます。人の心を自分の意志で縛りあげるなんて......とても暗い、いやなことではないでしょうか〉
杉村由紀の意識が嫌悪をこめた否定を示した。
〈いいことではないが、やむを得ない場合もあった〉
丈は、杉村由紀の否定的な想念に対してルナ王女を擁護しようとした。由紀の否定には微妙な要素が含まれていた。同性に対する本能的な反撥がひそんでいるように想えたのだった。
〈相手が非常に邪悪な人間であるような場合には......やむを得なかった。だれに対しても無制限に使うわけではない。その〝力〟の発動はきわめて限定されている......そう思う〉
由紀の意識が、好奇心に満ちて、丈のルナ王女に対する感情を検索しているのが感じられた。つい我を忘れてしまったのだ。プライバシーに対する意図しない侵害は、テレパシストの陥りやすい過誤だった。
〈申しわけありません!〉
はっと気がついて、由紀は慌しく謝罪した。火に触れたような驚きとショックの虜になっていた。
〈そんなことをするつもりはなかったのです! お赦し下さい、二度と無礼なまねはいたしませんので!〉
〈別に構いません......〉
丈はわれながら意外なほど冷静に由紀の謝罪を容れた。
〈僕の心のどこを見てもらっても構わないのです、むしろよく知ってもらった方がいいのでしょう。もちろん、他人に見せられないような汚れた部分もありますが、驚かないで下さい。やっぱりみっともないところを沢山持っている人間なんです〉
〈そんなこと!〉
杉村由紀は丈の勇気に感嘆を禁じえなかった。心を全て明らさまに公開することを恐れない人間がいるとは、まさに驚異以外のなにものでもなかった。己れの蔵した汚れさえ他人の視線にさらして臆さないのは、信じがたい勇気だ。
杉村由紀にはとうていそんな勇気はない。自分が不浄で卑しい面をあまた蔵していることを知り尽しているからだ。他のテレパシストの超能力の視線にそれらをさらすことは、死ぬよりもおぞましい恥辱だった。
少くとも、丈に自分の恥ずべき部分を見せる自信はない。相手が丈であるだけに、それは堪えられないことだった。
丈の黒く輝く瞳がそれを見詰めることを考えただけで、死ぬほどの恥しさの虜になってしまう。見ないで下さい、と思わず懇願したくなった。こんな恥しい、ふしだらな心の中をあなたにとうていお見せできません。もっと心を浄化し、きれいに整理するまで待って下さい、お願いです。
杉村由紀はそう願わずにはいられなかった。不浄な濁った心の襞を見られることは、肉体を白日の下にさらすよりも強く忌避の衝動に誘わずにはいられなかった。
〈大丈夫です。あなたが見てほしいと願わない限り、あなたの心の中にまで踏みこむようなことはしません〉
丈の意識が保証を与えても、変に顔があからみ、杉村由紀は面も上げられぬ羞恥心に捉えられてしまっていた。最初に相手のプライバシーに踏み込んだのが、彼女自身であるにもかかわらず、妙なことだった。
丈のように十七歳の透き徹った心と較べれば、三十一歳まで人生を生きてきた杉村由紀には、それ相当の心の垢が溜まる、と簡単にいいきれない、炎えるような羞恥が彼女を摑まえてはなさないのだった。
〈そんなことを気にしなくてもいいのに〉
丈は慰めるように考えた。考えることは、今はそのまま己れの想念を相手の心に伝達することだった。
丈は、初めて自分のあからさまな心でテレパシスト、ルナ王女と対面しなければならなかった身も世もない惑乱を想起した。今の杉村由紀と同じ苦しい困惑を味わわなければならなかった。
あるいは由紀以上の苦しさであったかもしれない。ルナ王女は冷徹な観察者として振舞っていたからだ。
〈僕は決して見ない。約束する......〉
羞恥心が限界を超えたように、にわかに心がすっと楽になった。それが杉村由紀の女としての強さかもしれなかった。
〈いいえ、見て下さい〉
と、彼女は己れの心の思いがけぬ反転に驚きながらいった。
〈わたくしはあなたの助力者ですもの。なにもかも知っていただくのは当然です。心の全てを知っていただかなければ......確かにこれまで恥しいみっともないこともしてまいりました。でも、それは過去のことです〉
彼女は自分の心に向うようにして、丈に語りかけた。
〈でも、驚かないで下さいね。わたくしはただの人間ですし月並な女なんです。人間としての欲望も沢山持っていますし、自己嫌悪に陥るほどいやな堪まらない記憶も山ほど溜まっています......わたくしは肉欲に捉われやすい愚かな女なんです〉
杉村由紀は、ともすれば頭をもたげようとし、必死に抑えつけてきた、醜い肉欲の記憶を抑圧する心の手をはずした。それは抑えようとすればするほど、強い弾力をもって甦ってこようとしていたのだ。
清浄な丈に死んでも見せたくなかった、過去の男女関係の記憶であった。その卑しく、最悪の淫猥な光景が、抑圧しようとするほどに猛烈に抵抗し、ひもとけようとするのだ。由紀に冷汗をじっとりとかかせる、内的な格闘だった。
しかし、杉村由紀が抑圧をゆるめ、執着心を失うと、その忌わしい記憶は溶解するように消え失せてしまった。
「わたくしは、卑しく醜い心の持主なものですから......」
と、由紀はハンカチをまさぐりながら口ごもった。
「先生の前では、いつも冷汗をかくことになりそうです」
肉声で語ることは、ある意味で楽であった。遠感による想念の交換はなにひとつ隠せず、おびただしいエネルギーを費やしてしまう。緊張でぐったりと疲れてしまうのだった。
「冷汗をかくのは僕です」
と、丈は苦笑しながらいった。杉村由紀は自繩自縛に陥って消耗しているが、丈には彼女の意識の細部にまで立ち入る才能はない。テレパシストとして由紀は丈を凌駕しているのだが、それに気づくほどの余裕がないのであろう。
「先生になにもかもお見せして、恥しくないまでに心を浄化するのは大変ですわ」
由紀は溜息まじりにいった。丈の黒い瞳の前では、自分が卑しく淫らな女であることを強く意識せざるを得ない。
「いったいどうしたらいいのでしょうか?」
彼女は真剣だった。丈の心はまるで磨きあげられた鏡のように、由紀の正体を余すところなく映しだしてしまう。それに対面し、直視することは、容易ならぬ努力が、必要であった。
「気にしないことでしょうね」
と、丈はあっさりいった。
「おそらく、人間の精神というのは、ある種の磁場を持っているんです。悪想念の磁場ができると心は重く汚れてくる。だから、磁場を浄化するには、やはり悪いことは考えない方がいいし、悪想念を溜めこみ、蓄積しないようにすることが大切だと思うんです。つまり、心をいつも軽く、薄くしておくことですね。
僕は〝幻魔〟というのは、そうした悪想念の物凄い磁場ではないかという気がしているんです。つまり宇宙の悪念のゴミ捨場ですね。この宇宙が誕生するはるか以前から〝幻魔〟は在る。とうてい想像できないような超過去から蓄積された悪念の磁場というわけです。
しかし、人間一人一人の心の中にも、その悪念の磁場は小さな形で潜んでいる。もろもろの悪念、嫉妬や憎悪、怨恨、貪欲など、そうした悪念の磁場は、もしかしたら宇宙の〝幻魔〟とある次元でつながっているのかもしれない。
宇宙の破壊者〝幻魔〟が尽きることのない拡大をめざしているのも、彼らが宇宙の悪念のゴミ捨場であるからかもしれない」
「〝幻魔〟は、では、強大化する一途ですわね。宇宙のあらゆる悪念を集大成したものが〝幻魔〟であれば......わたくしの悪い心も、〝幻魔〟を肥やしているわけでしょうか?」
杉村由紀は真剣な面持でいった。
「もし、僕の考えが正しければ、そういえるかもしれない。つまり無敵〝幻魔〟のエネルギーの供給源は他ならぬ我々自身でもあるのだということです。おそらく、悪のエネルギーは我々と〝幻魔〟との間を循環している。〝幻魔〟の悪は、他ならぬ我々から逆照射されているともいえます。
この悪循環を断ち切るには、我々の側の努力しかないわけです。すなわち、〝幻魔〟のエネルギーの根源を断つことが我々には許されている。不敗の〝幻魔〟といえども、致命的な弱点があり、それを握っているのは我々である......あるいは〝幻魔〟の敗北の預言は、このこととは無関係ではないのではないか......そういう気がしてなりません」
「驚くべき、素晴らしいお考えだと思います......」
杉村由紀は呆然と呟いた。このような考えが果して十七歳の少年の心に宿るものだろうか......もし自分が人伝てに聞くならば疑わないわけにはいかないだろう、と彼女は思った。おそらく、己れの目と耳で確かめなければ、だれの思いも同じであろう。
「でも、我々の努力で、宇宙全体を侵攻している〝幻魔〟を抑止できるものなのか......〝幻魔〟はあまりにも巨大すぎるのではないでしょうか?」
「もしかすると、それが発端になるのではないかということです。むろん、〝幻魔〟は我々だけの手には余ります。しかし、我々の努力が宇宙全体の〝神のシステム〟に連動しているとしたらどうでしょうか? 宇宙の全ての正のエネルギーが一時に結集したらどうでしょうか?
〝幻魔〟のエネルギーの根源は一挙にして干上ってしまうはずです。不敗の〝幻魔〟といえども、凋落への道へ向うのではないでしょうか? 〝幻魔〟がいかに強大であろうとも、エネルギーの循環を打ち切られることは、敗北の急坂を転がり落ちる結果を意味するに違いないんです」
丈の語る言葉には熱と光があり、杉村由紀を魅了せずにはおかなかった。宇宙大の巨悪、〝幻魔〟に対して、いかに英雄的な人間の営為といえども通用しないのではないかという気持は拭うことができず、幻想的な感覚がつきまとってはいたが、それでもなお、丈の真摯さには心をうつものがあった。彼女は丈の信念をそのまま受け容れられない自分の器の小ささに恥じた。
丈は本気で〝神のシステム〟に思いを馳せている。その〝神のシステム〟を作動させうると信じているのだ。なんという精神の純粋さだろう。純粋であるのみならず、精神の器が大きいのだ。純粋で大きくて、愛さずにはいられない素晴らしいものだ、と彼女は思った。本質的に偉大なのだ。しかし、彼が夢想的に思えるのは、こちらが卑小な器しか持ち合わせていないことを意味する。
なにもかも信じられないとしても、自分は彼を信じる、と由紀は強く思った。丈の全てを受容するなら、それが当然のことだ。
「もちろん、我々だけで〝幻魔〟を敗退に導くことができるといっているのではないですよ。そんなことはできっこない。最初の小さなきっかけを産むことができるといっているんです。
地球を〝幻魔〟の侵攻から護ることが、おそらくその小さなきっかけになるのではないか......そういう気がするんです。しかし、それさえも生易しい業ではありえない。そんなことはわかりきっています。おそらく、僕はさんざんの嘲笑を浴びることになるでしょう。
そんなことができるわけはない。〝幻魔〟が本気で攻めてきたら、かなうはずがない。宇宙の巨悪である〝幻魔〟に対して、我々が何をやっても通用するはずがない。逆立ちしたって勝てっこない。早く降参した方がいい......多くの人々がそう叫びたてるでしょう。〝幻魔〟の奴隷に自らなり果てても生き延びようとする人間たちも出るでしょう。そういう裏切者たちは、〝幻魔〟と戦おうとする人々を嘲笑し、馬鹿者扱いにするでしょう。
我々の敵は、〝幻魔〟だけではない。同じ地球人類さえ敵にまわさなければならない破目に陥ります。そんな混乱の極に達した時には、いったいだれの言葉が正しくて、だれが誤っているのかわからなくなるかもしれません。
そんな時、信念を持っていないばかりに、みすみす〝幻魔〟の側にさらいこまれてしまう人間たちが沢山出るはずです。
我々の努力が、逆転のための小さなきっかけを造りだすのだ......そう心から信じることさえできれば、逆境の中にあり、激しい攻撃にさらされる破目となっても、踏みとどまることができるはずです。
それは熱い信念でなければならない。簡単にぐらつくものであってはならない。そうした不動の信念を造りだすことこそ、我々のやらねばならないことなんです」
「わたくしにもその熱い信念が持てるでしょうか?」
杉村由紀は心細げに尋いた。にわかに頼りなく不安な心地になってしまったのだ。
「どうやったらそれを持つことができるでしょうか?」
「信念は自分で造りだすものです。他人にもらうものではない......やはりそれは心の問題だと思うんです。いつも頼りなくぐらついている心には、必ず原因がある。自分も他人をも信じられない心に起因しているんじゃないでしょうか?
不断、どんな心の状態で生きているかということです。悪いことは全て他人のせいにし、責任は転嫁し、自己本位に、勝手気儘に生きている態度に理由があるはずです。他人が信じられないというのは、結局自己を他に投影していることであって、自分を信じていないということでしかないんです。
エゴのままに、貪婪な欲望をむきだしにあざとく生きている人間は、それが自分であっても信じられないんです。他ならぬ自分がそんな厭な奴であれば、他人もそうに違いないと思いこむのは当り前じゃないでしょうか? 我々はいつも自分を他者の中に見つけだしているんです」
「先生のおっしゃることはよくわかります」
と、杉村由紀は打ちのめされたようにいった。
「自分を信ずることがまず先だとおっしゃるのですね。でも、わたくしには自信がありません。わたくしは本当にエゴのままに生きてきたどうしようもない人間ですから......いったいどうしたらいいんでしょう?」
「大丈夫です。杉村さんは頑張り屋ですから......きっとだれよりも強い信念を造りあげますよ。僕にはわかっているんです。杉村さんが僕のところへやってきたのは、自分のエゴを満足させるためではないんですから......」
「本当に、そうお思いになりますか?」
杉村由紀は真剣そのものであった。
「もちろん、そう思います。しかし、証明するのは杉村さん自身です。それをこれから成し遂げていかなければならないんです」
丈は窓を見た。暁光が雨戸の隙間に白く射していた。立ち上って窓を開け、雨戸を繰る。鮮烈な朝の冷気が渦巻いて流れこみ、室内によどんでいた温気を押しのけた。
「とうとう徹夜してしまいましたね」
と、丈はいった。杉村由紀も椅子から立ち上り、硬くなっていた背中を伸ばした。丈と並んで窓際に立つ。冷気が肺に流れこむと、刺激されて咳こんだ。
徹夜明けに感じる鈍い脱色したように白茶けた朝ではなかった。端々しく爽やかな冬の朝であり、彼女はその相違の甚しさに驚いた。これだけ熱中して話しこみ、おびただしいエネルギーを消費したはずなのに、少しの疲れも覚えていなかった。
「徹夜麻雀をした時とは大違いですわ」
と、由紀は思わずいった。
「杉村さんは麻雀をなさるんですか?」
と、丈は興味深げにいった。
「ええ。とても強いといわれています。麻雀だけではなくて、競馬なども」
由紀は赤面していった。
「きっと超能力を使っていたんでしょうね。よく私利私欲のために超能力を使って、罰があたらなかったものだとぞっとします」
「これからはもっといいことのために超能力は使って下さい。やっぱり超能力を悪用すると悪い結果になると思いますよ」
と、丈はさりげなくいった。
「杉村さんはご自分の超能力を磨くようにして下さい。いずれ必要な時がくるような気がします。市枝君の弟の明雄が杉村さんのパートナーになってくれるんじゃないでしょうか......彼はまだ小さな子供で、重い病気から治りかけている途中だけれども、なにか非常に重要な役割を持っているんじゃないか......そんな気がします。超能力は磨けば磨くほど光るものですよ。麻雀や競馬で無駄遣いしてはいられませんね」
「もうやめます」
杉村由紀は顔をあからめたまま呟いた。丈にはとうていいえないが、彼女には親密な男友達が何人かいて、ギャンブルを初め、悪習の源となっているのだった。そうした、かつては不可欠と思われた人生の道連れの一切を切り捨ててしまえる自分の強さが、今の杉村由紀には不思議でもなんでもないのだった。
「あの子のことですけど、昨夜はずっと気配を感じていました」
と、彼女はギャンブルや酒や男のことを心から押しのけていった。
「仲間入りをしたいんじゃないかと思いますけど、先生がなにもおっしゃらないので、黙っていました」
「僕も気付いてましたよ。しかし、今は杉村さんとの話合いが先です。明雄の番はまだこない。だから抑えていたんです」
丈は平然といった。
「まだまだ、話合いは徹底的にやる必要があります。子供の出番はない。だから、気にすることはありません。それより、まだ元気があるようでしたら、また始めましょうか。姉が起きてくるにはしばらくありそうだし」
「わたくしでしたら大丈夫です。少しも眠くならないんです。このまま、幾晩でも徹夜を続けられそうです......もしかしたら、あの......先生がエネルギーを送って下さっているのじゃないですか?」
「エネルギーを受けられる状態に、杉村さんがなっているからでしょう。しかし、こんなことは序の口ですよ。人間の潜在能力には凄い力がありますからね。例の明雄だって、医者の治せない難病を自分で治してしまったんです。人間がもし、宇宙エネルギーと交感することができれば、どんなことでも起こりえます。明雄が難病を克服したのは、その証明の一つにすぎないんです。どんな人間の身にも起こりうることなんです」
丈は開け放った窓から流れこみ渦巻く冷気に白い呼気を際立たせて喋った。その顔は徹夜明けとは思えず、すっきりと爽やかだった。杉村由紀は思わず自分のねっとりと脂の浮いた顔に手を伸ばした。
「大丈夫、膚荒れはしていませんよ。洗面所へ行っていらっしゃい。洗顔の用意がしてありますから」
と、丈は笑いながらいった。
「徹夜のたびに膚荒れの心配はさせたくないですからね。そうでしょう?」
「でも、もうおばあさんですから、仕方がありません」
由紀は自分の三十一歳という年齢を改めて腹立たしく意識しながらいった。
「杉村さんがそう思いこんでいるだけです。肉体年齢なんてきっとたいしたことじゃないんですよ、きっと。今にそれが杉村さんにもわかります」
「お姉様が起きてらしたみたいですわ」
と、杉村由紀が耳をそばだてるようにしていった。
「まだほとんど寝てらっしゃらないのに、大丈夫でしょうか」
「姉も睡眠時間が短いんです。僕とよく似ています。最近はますます短くなってるみたいですよ。寝すぎると疲れるといって......」
「お姉様を見ますと、なにか命ぎりぎりという感じがいたします。やはり先生のために精魂こめて尽していらっしゃるからでしょうか......?」
「姉はいつでもそうなんです。自分を酷使することをなんとも思いません。でも、いってもきかないので......」
丈は珍しく眉宇をかげらせて呟いた。
「僕は姉に苦労をかけすぎました。来年はなんとかするつもりです。これまで甘えすぎてきたんですよ......」
確かに東三千子には、見ていて息苦しくなるほどの突きつめた感じがうかがわれる、と由紀は思った。己れの生命を削り、燃焼させている凄愴なほどの印象であった。若く美しい盛りの三千子が、病身でもないのに、なぜそんなにぎりぎりの張り詰めた気配を持っているのか、彼女には理解できなかった。
わけもなく圧倒される気分を味わうのは、自分に生きる必死さがないためではないか、と由紀は考えた。しかし、東三千子がなぜそんなにまでも張りつめた必死さを発散させているのか、由紀には考え及ばなかったし、それを知るのは恐ろしいことのように思えてならなかったのだ。
8
〝GENKEN〟事務所に年末年始の休みはなかった。むしろ休みで自宅に引きこもっているのは馬鹿げたことであった。

丈は一日も休まず、事務所に顔を出して、新しい秘書の杉村由紀を初め事務局員たちもそれに従った。クリスマス講演会で、会員たちの志気はかつてないほど上昇した。入会希望者は一日百名に達するほどウナギ登りの激増ぶりを示した。
さまざまな手蔓を経て、丈に逢いたいと望む人々の申し入れがひきも切らなかった。田崎の祖父の長老政治家大沢代議士の紹介で、現政府の閣僚を務める政治家、関西の大政商といわれる財界人などが目白押しだったし、K──社の編集者本田の押す高名な知識人や作家が丈との対話を希望していた。
むろん、それ以外にも講演会を聴いたマスコミ関係者たちが、取材活動抜きで丈との接触を求めていた。むろん、取材を要望するジャーナリストたちは事務所に日参するほどの熱意を見せていた。
丈は依然として、取材に応じない姿勢を崩さずにいた。しかし、面会を要望する人々との接触はある程度許容せざるを得ず、綿密な配慮を相手に求めた上で、面接のスケジュールを組まざるを得なかった。むろん、そう頻繁には逢わない。丈の仕事時間を全部充てても足りなくなってしまうからだ。
原稿書きも大量に続けなければならず、夜は朝方までミーティングが続くので、時間は決定的に不足していた。
もし、杉村由紀が専従の秘書を務めてくれなければ、いたずらに事務局は混乱する一途を辿ったであろう。
杉村由紀の事務処理能力はさすがに素晴らしかった。プロの秘書だけあって、システムというものを事務所に持ちこんだからだ。
事務局員たちは、突然の秘書の出現に戸惑い、丈が案じたように心理的な抵抗が多少は生じたようだが、実力の相違に目をつぶるわけにはいかなかったようだ。
わずか一日で、杉村由紀は事務局の全員から頼りにされ始めた。また頼らざるを得ないほどの変化が生じてもいたのだ。有名な政財界人の名前を出して電話がかかってきたりすると、今までの事務局では周章狼狽する以外なくなってしまうからだ。
そうしたことでは、杉村由紀はいささかも動ぜず、平然と滑らかに処理して一同の尊敬を集めた。いささか精神状態のおかしい人間が事務局へ押しかけてきても、杉村由紀はびくともしなかった。
「ニューヨークへ単身出かけて、身寄りも知りあいもいない所で三年間もまれたせいか、恐いものがなくなってしまったらしいんです......」
と、彼女は気丈さの秘密を明かして、ひとしお事務局員の尊敬を集めた。十八歳でろくに言葉もわからぬ異国へ渡り、若い女の子の身で頑張ったというのを聞けば、常人ではないとわかる。確かに杉村由紀には美貌に似合わぬ落着きがあった。たいていのことには驚きそうもなかった。
真先に、平山圭吾が彼女に惚れこみ、高い評価を与えた。今まで平山がまったく知らないタイプの国際派、知性派の才女であるせいもあったろう。べた惚れといった有様であった。
「いや、彼女は凄いです。まさに先生にぴったりの秘書ですよ」
と、平山は興奮して激賞にこれ努めた。
「杉村さんはまったく超一流の大企業の社長秘書でも難なく務まりますな。失礼ですが、彼女があんな安い給料で来てくれるなんて、信じられないほどですよ」
「給料が安すぎて、気が重いです。もっとちゃんとした待遇にしたいんですが......」
丈は顔を曇らせていった。二人の専従事務局員がいる限り、彼女の待遇に極端な差をつけるわけにはいかない。他の二人にしたところで、アルバイトの日当とたいして変らないのだ。〝GENKEN〟の財政難は情けないほどであった。会費がひどく安い上に、会員数の拡張を抑えているからだった。
「ですから、先生。それは私の方から出させていただければ、問題解決するんですが......あれだけの人にアルバイトと変らない安給料ではどうも......」
平山は熱心にいったが、丈はそれを容れるわけにはいかなかった。講演依頼を引受けることになっても、杉村由紀の報酬は丈自身で賄いたかった。
それは、会や平山に対して丈自身が依存を嫌う気持と同じだった。来年はなんとかして、個人的な収入の途を計らなければならない。いかなる依存からも自分を切り離して、経済的な独立を維持しなければならない。まだ未成年だからとか学業半ばだからというのは甘えでしかないと思う。
来年になれば、もはや高校生であり続けることも不可能になるかもしれないのだ。激務はもう通常のことでしかなかった。いかにして限りある時間を有効に使うかという問題が残っているだけだ。
人と逢うのも、丈の重要な仕事となった。杉村由紀がスケジュールを作成すると、一月上旬だけで十指を超す人々と面会しなければならなかった。いずれも知名人である。正月休みを返上してまでも、丈と知遇を得たいという人々ばかりだ。むろん、丈のスケジュールに合わせてそういう段取りになったのだ。
年内はもはや三日しか残されていないが、それでも二人の人間に逢わなければならなかった。一人は編集者本田の推す画家であり、もう一人は杉村由紀の旧ボスの国際学者、板倉俊彦である。
興味がないわけではないが、時間があまりにも乏しいので荷が重かった。相手に関する予備知識がまるで欠如しているのだ。今後はもっと大きな問題に発展して行くだろう。このままでは機械的にだれだかわからない相手と面会することになる。
しかし、平山圭吾は大いに意気上っており、個室を持たない丈のために、わざわざ一階の不動産事務所を移転させて提供してくれた。かなり広いスペースが、丈と秘書の杉村由紀の専用になる。会の事務局が手狭になっているだけに、平山の好意を受けざるを得なかった。二人では広すぎるので、事務局の分室も収容することになる。
専用室が確保できて、書き物の能率は大いに上りそうであった。これまで原稿箋を抱えて、事務局や応接室などを転々としていたのだった。
事務局分室には平山圭子など若い秘書見習いがやってきた。若い娘が三人も入ったので、なにやら華やかな雰囲気になった。その代り会員たちは気軽に入ってこられない。丈に時間を確保させるために、平山が計らったのである。不満は湧くだろうが仕方がない。丈の時間は限られているのだ。
「郁江はどうだった? 何をしていた」
と、丈は平山圭子を摑まえて尋いた。
「郁江と逢ったんだろう」
「はい......」
平山圭子は怯えたような眼をして、もじもじしていた。
「どうしたんだ? 事務所で起きたことはちゃんと話してくれたんだろう? 杉村さんのことやいろいろ......」
「ええ。話したことは話したんですけど」
平山圭子は固くなっていた。杉村由紀を気にしているのである。丈は居抜きのままで借り受けた元不動産事務所の応接セットに、圭子を呼んで座らせた。杉村由紀にも同席してもらう。由紀は丈から説明を受けて、郁江に関する経緯を心得ていた。もっとも井沢郁江がずっと病欠しているので、まだ面識はない。
「申しわけありません。すぐご報告しようと思っていたのですけど、事務局が引越しでゴタゴタしていたものですから......」
と、圭子は詫びた。
「そんなことはいいんだ。郁江と逢ったんだろう? 風邪はもういいのか?」
丈は性急にいった。このところ時間に追われっ放しでわれながらせっかちになっているのがわかる。
「ええ......逢うには逢ったんですけど......」
圭子の歯切れは極端に悪かった。なんといってよいのか、表現に苦しんでいるようであった。
「どうしたんだ? はっきりしないんだな? 圭子らしくもないぞ......」
「すみません......」
圭子は少し青い顔になってきた。目に泪が溜まってきたようだ。
「どうした......そんなに話しにくいことなのかい?」
丈は言葉を和らげた。杉村由紀がしきりにサインを送ってきていた。丈の態度がきつすぎると注意を喚起しているのだった。
「郁江、とっても変なんです」
と、圭子は思い切ったようにいった。重く鋭いものが丈の胸に刺ったようであった。
「変だって? 風邪を引いているだけじゃないのか?」
「はい。どうも風邪じゃないみたいなんです......」
陽子のことがあるだけに、丈の顔色は変ってきた。思わずぐっと身を乗りだす。圭子は怯えたように身をすくめた。
「頼む、もっとわかりやすく話してくれないか? 郁江はどういう風に変なのか......」
「あの......郁江さん、風邪じゃなくて、もっと重い病気なんじゃないかと思うんです。そんなに詳しく話してくれたわけじゃないんですけど......」
「重い病気?」
丈はいいかけて絶句した。不意に黒く恐ろしい重いものが全身にのしかかってきたようだった。戦慄を抑えきれない。
「郁江さんと逢うの、大変だったんです。何度も家まで行ってはお母様に玄関払いをくってしまって......でも、何度目かに郁江さんが直接電話に出て、やっと遭えたんですけど......」
「重い病気だとすぐにわかるほどだった?」
「ええ。顔色が真蒼で、これが郁江さんかと思うほど面変りしてしまって......全然元気がありませんでした」
「僕が心配していると話してくれた?」
「はい、もちろん......事務局の変ったことなどいろいろ話しました。杉村さんのことも......でも、あまり......」
「関心がなかった?」
「はい。なんだか気力も体力もなくなってしまっていて......あんなに可愛かった郁江さんがとっても老けてしまって、お婆さんみたいな感じになってしまっているんです。あたし、なんともいえない気分になってしまって......」
圭子は目をしばたたいた。涙が転げ落ちる。
「しかし、いったいなんの病気なんだ? そんな重病なら、なぜ僕に知らせてこない?」
「ええ......それが......」
圭子は躊躇した。口に出しにくいという困惑がありありとうかがわれた。
「ちょっと男性の前では申しあげにくい病気......そうでしょう?」
と、杉村由紀が口をはさんだ。圭子はほっとした顔色でうなずいた。
「そうなんです......だから、郁江さんも黙っていたんじゃないかと思うんです。あたしに対してもはっきりとはいいませんでした。先生には黙っていてくれと頼まれてしまって......あたし、どうしようかと......」
「わかった。事情はなんとか吞みこめた」
と、丈はいった。彼の頰骨のあたりが鳥肌立っているのが杉村由紀の目に映った。口ほど平静さを留めていないのは確かであった。
「僕が見舞いに行くのを嫌がってるんじゃないのか?」
「はい。やっぱり病気のことを先生に知られるのが恥かしいし、苦痛らしいんです。だれにもいわないでって必死に頼まれてしまいました。それが日頃の郁江さんらしくなくって......とにかく風邪なんかじゃないって一目でわかりますから......」
穏和で優しい圭子は辛そうに口ごもりながらいった。
「先生、どうしたらいいでしょうか? あんな郁江さんを見ていると、どうにも堪らない気持になってしまうんです。体中が鉛みたいに重く冷たくなってしまいます......なんとかしてあげられる方法はないでしょうか?」
「わかった。郁江のことは僕がなんとかする......だから、圭ちゃんはこのことはだれにもいわないでくれ。人に尋かれても、風邪だととぼけていてもらいたいんだ」
「わかりました。先生、お願いします。郁江さんのことを思うと息が詰まって眠れなくなってしまうんです」
と、圭子はすがるようにいった。
「杉村さんには見当がついたようだけど?」
と、圭子が去ったあと、丈は重い口を開いた。
「どうも並大抵の病気じゃない......圭子がいいにくそうにしているんで、僕もなんとなく見当がついたような気持になりましたが......」
「はっきり申し上げて、女性生殖器の病気だと思います」
と、杉村由紀はもじもじせずにいった。十八歳の平山圭子のように、いいだしかねるということはなかった。
「わたくしの勘ですと、やはり子宮癌のような病気じゃないでしょうか? 若い女の子には、ちょっと信じられないような話ですけれども......」
「子宮癌?」
丈の横顔からは鳥肌が消えなかった。体中に冷感をもたらす波動が這い続けている。人一倍健康で可愛かった郁江にはあまりにもそぐわない病名であった。中年以上の婦人がかかる病気というイメージが抜きがたく存在するのだ。
「やっぱり圭子にはいいにくかったわけだ......」
「でも、ちゃんとした医師の診断を受けたんでしょうか?」
と、杉村由紀は不審げにいった。
「今の平山さんのお話では、それがはっきりしていませんでしたけれど......ただ本人が子宮癌だと思いこんでノイローゼになっているだけかもしれません。癌ノイローゼって最近増えていますものね。それに、十七ぐらいの娘さんだと、産婦人科の医者にかかるのは大変なことだと思うんです。恥かしいし、勇気もなくて、一人悶々としているということも考えられますけど」
「いや、そんな容易な事態じゃないという気がします。気にはなっていたんですが、そんなに具合が悪ければ、本人からいってくると思っていたんです。やはり、男の僕にはいえない病気なので、黙っていたんでしょう」
「では、どうなさいますか、先生? お遭いになるのですか? 郁江さんの方は先生を避けているんでしょう?」
「僕の方から遭いに行きます。本心から避けているはずはないんですから......」
と、丈はきっぱりといった。
「でも、先生。郁江さんのお気持には、もう少し複雑なものがあるかもしれませんわ」
杉村由紀は警告するようにいった。
「若い女の子の気持は、単純には動かないんです。わたくしにもかつては経験がございます。郁江さんが心の奥底では、先生の救けを待ち望んでいることは確かだと思いますけれど......でも、表面に出る時は、思いがけない形をとることもあるはずです。そんな恥かしいことを知られるくらいなら、死んだ方がましだと少女は考えがちなものなんです」
「死んだ方がまし?」
丈は引き攣ったような顔をした。丈には珍しいことだった。苦渋の表情を他人に見せるほど、丈はだらしないスタイリストではなかった。
「女の子って、そんな筋の通らないことを考えたりしたりするんですか?」
丈にとってもっとも難解なのが、女性心理である。
「子宮癌を僕に療してもらうことよりも、知られることが嫌で、隠しだてをするもんでしょうか?」
「隠しだてをすると思います」
「杉村さんもそうですか? 僕が......病気を治す〝力〟を持っていても......?」
「わたくしは今はもうおばあさんですから、恥かしがることもないと思いますが、十七歳の時でしたら、先生には黙っていると思います」
「そんなものですか......?」
丈は茫然とした。
「それじゃ、いきなり郁江の家へ乗りこむのは考えものですね?」
「はい。もう少し方法を考えた方がよろしいのではないでしょうか......」
「僕が逢わない方がいいですか?」
「できれば、今は......わたくしがお遭いしてまいりましょうか?」
「いや。それはやめた方がいい」
丈ははっきりといった。丈の正式な秘書となった杉村由紀の訪問を受けるのは、郁江にとり、二重三重の衝撃に違いなかった。陽子における取扱い方の失敗は骨身にしみていた。精神失調を起こし、会に憎悪を向けてくる陽子の母親は事務局の頭痛の種子である。いずれ更に問題は深刻化するであろう。その覚悟をしておかねばならなかった。
「僕の代理が務まる人間は一人しかいません。明雄です。できればあの子に行ってもらおうかと思うんです」
「でも、先生! あの子はまだ......!?」
由紀は絶句した。丈の発想はとてつもなかった。超常識的であった。木村市枝の弟、明雄は進行性筋萎縮症という難病からようやく回復しかけているところだと聞いている。数年間寝たきりですごしたため、まだ立って歩ける状態ではない。クリスマス講演会にも姉の市枝に抱かれてやってきたほどである。
とうていそんな大役が果せそうにもなかった。
「いや、彼にはできます。彼には僕の代役が務まるとわかっているんです。あの子は、僕の送るエネルギーを受ける力がある。もちろん一人では動けないし、市枝君の助けを借りないとなりませんけど......」
「わかりました。さっそく連絡をとってみます」
と、杉村由紀はわかりの速さを見せて電話に手を伸ばした。丈の言葉に間違いはないと思ったのだ。明雄には他人の超能力を増幅する〝力〟がある、と前に丈が口にしたことを思い起こしていた。
「あの子に連絡をとるのに、電話はいりませんよ」
と、丈は笑っていった。
「忘れたんですか? それに木村市枝君のところに電話はないんです。できれば、これから逢いたいといって下さい。市枝君もいっしょにね」
一時間後、明雄をねんねこのようなものにくるんで抱いた木村市枝が、一階の新しい分室に姿を見せた。大胆不敵な非行少女の頭領であった市枝にふさわしくなく、やや物怯じした雰囲気を漂わせていた。丈に遭う時はいつも臆した態度になってしまうようであった。
ちょうど平山圭吾が新しい分室にやってきて、話しこんでいる時だった。会に対していささか抵抗を抱いている市枝にとっては気易く足を踏みこみにくかったのであろう。
大きな瞳にはもはや虚無の影は消え薄れていた。しっかりした美しい顔だ。激しいものを裡に秘めていることはだれの目にも見てとれた。
尋常な挨拶をする様子からは、彼女がつい最近まで凶暴な非行少女グループの頭領であったことを偲ばせるものはない。平山圭吾は興味深げに市枝を見て、席をはずすべく立ち去った。平山はまだ詳しいことを知らされていない。
明雄の美しい瞳が丈と由紀を認め、嬉しそうに輝いた。まさに天上の笑顔であった。これほど汚れのない笑いを由紀は知らない。
「ありがとう、お姉さんに言づけしてくれて」
と、丈が謝意を表する。
「ボク......いった......姉ちゃんに......」
と、明雄がたどたどしくいう。遠感と異り、発声器官を用いて意志を表示するのは、まだ訓練が必要であった。よほど気が長くないと聞いていられないが、明雄は一生懸命に喋った。肉体を再起させるのは、いまや少年にとり最大の喜びなのだった。
「姉ちゃん......わからなかった......なんのことか、わからなかった......でも、ぼく、話した......」
「そうか、お姉さんは信じられなかったわけだね?」
と、丈がいった。アームチェアーに座る市枝の膝の上に載った少年は、細い手を必死にのろのろと動かしながら、情熱をこめて喋っていた。
「ご苦労さんだった。明雄のおかげで助かった。よく役に立ってくれた」
「ボク、また......なんでもやる......」
明雄が喜ばしげに満足を表明した。頭ばかり大きく四肢は異常に細く、市枝の膝の上にいるところはまるで腹話術の人形じみているが、その善意の笑いはたとえようもなく美しかった。見ているだけで心が和んだ。
「あたし、なんのことだかわからなくて......」
と、市枝が呟いた。
「でも、明雄がどうしても事務所へ行くからというので、お電話してみたんですけど......本当だったんですね、明雄のいうこと」
いまだに自信がないために、物怯じしているように見えるのだ。
「本当だったんだ。ずいぶん戸惑ったと思うけど、どうしても話したいことがあって、わざわざ来てもらった。夕方からアルバイトがあるというのに申しわけなかったけど......」
丈の黒い瞳を見ている市枝の顔から物怯じの色が消えた。
「アルバイトなんかいいんです。先生のお役に立つなら、どんなことでも明雄といっしょにさせて下さい......なにをしたって、ご恩返しなんかできないんですけど」
市枝は激情を圧し殺したような声で呟いた。凄んだ掠れ声で喋っていた〝黒バラ会〟の女王とは信じられないほどだ。
「恩返しなんて考える必要はないんだよ。僕らは友達だ。友達の間で、恩だとか義理だとか、そんな言葉はないはずだ。君たちに余力ができた時、困っている人に力をかしてあげればいい。ギブ・アンド・テイクなんて僕は嫌いだ」
と、丈はいった。市枝は恩返しのことで頭がいっぱいなのだとわかっている。忠誠を尽す機会を探し求めているのだ。以前、丈の奴隷になってもいいといったのは、本気だったのだろう。
「君と明雄の力が借りたいんだ。ある人を助けるのに、どうしても明雄の〝力〟が必要になった」
「ある人......?」
市枝は不思議そうな目をした。丈が何をいいだすのか予測もつかないのだ。
「井沢郁江だ。君とはもしかすると、仲が悪いかもしれないんだけど」
「郁江さんが、どうかしたんですか?」
「重い病気なんだ。明雄と同じくらい重いかもしれない」
明雄の顔から笑みが消えた。悲しそうな顔になる。それがどんなものか、超感覚で悟ったのであろう。
「郁江さんが......?」
市枝は声を吞んだ。その表情で、丈は彼女が決して郁江を嫌っていなかったことを知った。反撥こそしているが、憎悪はない。
「郁江さん、どうしたんですか......?」
「君と明雄とで、郁江に力をかしてやってもらいたいんだ」
「だって、病気を治すのなら、先生がおやりになれば簡単なのに......」
「事情があって、簡単にはいかないんだ。君と明雄で、僕の代理をやってもらえないだろうか」
丈は事情を説明した。市枝は息を吞んでいた。苦しそうな、どうしていいかわからないという顔になる。頰に鳥肌が立ってきた。同年齢の少女が子宮癌に冒されたと聞くのは、異常な衝撃だったようである。
「でも、まさか、そんな......」
「郁江は僕に遭おうとしない。人にも口止めをしているんだ。だから、僕が出かけていって無理に遭うというわけにいかない......もし明雄と君とで郁江に遭ってくれるなら、パワーはこっちから送る」
「そんなことができるんですか、直接遭われなくても......?」
「明雄は心が開かれているから、僕のパワーをうまく受けられる。そして、僕の代りに、エネルギーを郁江に注入することができるんじゃないかと思う。つまり、明雄には受信器になってもらうんだ」
「ボク、やる......」
と、明雄がいち早く決意を表わした。
「ボク、きっとうまくやる......」
「わかりました、先生。あたし明雄と郁江さんのお家へ行ってきます。でも、郁江さん、逢ってくれるでしょうか......」
市枝は少し躊躇いながらいった。
「あたしの方は、そんなことないのですけど、郁江さんがあたしに悪感情を持っていたら......」
「大丈夫だと思う。郁江も君のことは嫌っていないという気がするんだ。反撥していながら、相手の姿が見えないと淋しいという仲もあるんじゃないかな? 確かに郁江は強情だし、屈折もしているけど、本当はホットな人間なんだと思う。なんとなく、君たちは似ているという気がしていた。だから、反撥もするが、惹きつけられもする。そうじゃないかな? 市枝君自身は郁江のことをどう思っている?」
「嫌いっていうんじゃないんです。ただ、とっても気になるんです。それにはいろんな理由があるんだけど、お互いにずいぶん突張ってるんだなあという気がして......よくわからないけど、一度ゆっくり話してみたいと思っていました」
市枝は素直にいった。彼女らしくなく、正直に心の裡を明かしているのだとわかる。
「郁江さんが重い病気と聞いて、とてもショックだったんです。なぜかよくわからないんですけど、自分の姉妹の身に起こったようなすごいショックでした」
市枝の大きな眼に濡れた光が浮かんだ。みる間に泪が溜まる。
「君の気持は、郁江にも通じると思うよ。だから心配しないでもいい」
と、丈は力をこめていった。
「郁江は君を嫌っていない。郁江が嫌っているのは偽善的な人間なんだ。彼女には友達がいないのもそのためだし、それに一番近いところにいるのは、市枝君ではないかという気がしていた......僕の勘はおそらく間違っていないと思うんだ」
「............」
市枝は黙りこみ、青白く突きつめた、必死に堪えているような貌を見せていた。
「ボク、いってくる......」
と、明雄がいった。
「いってくる、早く......」
感じやすい少年は目に泪をいっぱい溜めていた。
「頼むぞ、明雄。僕と杉村さんがいつも視ているから心配いらない。こっちから送る光を郁江お姉さんの体の悪い所へ注ぎこむんだ。明雄、今度はお前が病気で苦しんでる人を救ける番なんだ」
「うん。ボク、いっしょうけんめい、やる」
「どんな気持がする、明雄?」
「すばらしい! 青く晴れた大きな空みたいな気持......」
小さな瘦せた子供はにっこりと笑った。垂れこめた密雲の間から太陽が現われたようなぱっと心を明るくする笑みであった。
「よし。頑張ってくれ、僕と杉村さんがいつもついてる。なにも恐がることはないんだぞ」
「はい」
少年は喜びを放射しながらうなずいた。
「先生......明雄はどうしてこんなに素晴らしい力を授ったんでしょうか?」
と、市枝が尋ねた。
「先生から頂いたんでしょうか?」
「明雄の心が開かれていたからだ」
と、丈は慎重に答えた。
「どんなに悲惨な環境にあっても、心を閉ざしてしまうことがなかったからだ。この子の心はいつも素晴らしい光の方を向いていた。だから、宇宙エネルギーと感応しやすい心の状態にあった......明雄は自分の意志を働かせて、自分の病魔に冒された肉体を癒した。その〝力〟が今働いている明雄のものなんだ。同じ〝力〟だから、僕やここにいる杉村さんの心と直接つながることができる」
「どうしたらあたしも、明雄と同じ〝力〟を得られるでしょうか?」
市枝はなにかしら必死なものを漂わせて、質問した。
「心を開くって、どうすればできるんでしょうか?」
「心をいつも光に向けておくことだ。しかし、なぜそんなに〝力〟を欲しがる?」
「〝力〟が欲しいんです。そうすれば、先生たちとごいっしょに働けますから......」
「〝力〟のあるなしは問題じゃないんだよ、市枝君。僕の姉は素晴らしい人だけど、〝力〟はない。例の江田四朗は悪の権化だが、〝力〟の持主だ。〝力〟をむやみに欲しがっちゃいけない。〝力〟よりも大事なことがあると君は知っているじゃないか。
くり返していうが、〝力〟の有無は二の次なんだ。おそらく君には〝力〟よりももっとふさわしいものがある。それを見つけるのが大事なことで、闇雲に〝力〟を求めるのは絶対にやめた方がいい」
「はい......」
と、市枝はいったが、もちろん心から納得しているわけではなかった。
「市枝君が〝力〟を授りたいと願う気持はよくわかる。決して自分の利益のためじゃないということもわかっている......」
丈は優しくいった。
「しかし、〝力〟だけに気を取られるのは、きわめて危険なことなんだ」
「あたしも先生にお手伝いしたいんです。ですからどうしても〝力〟がほしいんです。先生のお役に立ちたい、それだけなんです」
市枝は、必死の語調でいった。
「市枝君はもう僕のために役に立ってくれているじゃないか。アルバイトも休んで、こうして明雄を連れてきてくれたし、次は郁江のために力をかしてくれる。ちゃんとお手伝いをしてくれているじゃないか。そうだろう?」
「はい......」
市枝が虚を衝かれたように答える。
「自分にできることをするというのが、一番大事なことなんだ。僕の姉は僕にとってもっとも信頼できる相談相手だ。僕にしてみれば、超能力のあるなしは、信頼の基準にはならない。今に〝力〟を持った人間たちが幾人も集まってくるだろうが、その人々が杉村さんや明雄のように信頼できるとは限らない。むしろ、心配のタネになるかもしれない。君にも今にそれがわかる」
「はい......」
「市枝君に、今度僕の姉に遭ってもらいたいと思っている。何度でもくり返していうけれども、僕は超能力の有無で人を差別したり決してしない。超能力者だけを特別に扱うこともしない。みんな平等なんだ。なまじ超能力を持っているばかりに、エリートだとうぬ惚れて、仲間に入らない者もいるに違いない。素直な心が一番大切なものなんだ。このことは、後でまたゆっくり話そう」
「はい」
市枝は言葉少なにいったが、多少は丈の真意がのみこめてきたようであった。明雄の心から安心した波動が伝わってくる。姉の市枝の心の動きは、少年にとって手に取るようにわかるのだ。
丈は平山圭子に来てもらい、郁江の家まで姉弟を案内してくれるように頼んだ。
理由を知らされていない圭子は不思議そうに姉弟を見ていた。郁江が果して二人に逢うだろうかと懐疑的になっているようであった。
「圭ちゃんは、ただ二人を案内してくれるだけでいい。大丈夫だ。郁江は必ず二人に逢うよ」
丈は自信に満ちていった。
「わかりました。では、ご案内してまいります」
平山圭子は腑に落ちない面持ながらも、姉弟を丁寧に案内し去った。丈にとって二人が大事な客であることを察していたのだろう。
9
「圭子さんて、とてもいい娘ですね、先生」
と、杉村由紀がいった。
「素直だし、頭もいいし、気転もきくし、いい秘書になりますわ」
「みんないい娘です。杉村さんを先輩として尊敬しています。みんな一生懸命ですよ。今の市枝君もそうです。彼女がちょっと前まで刃物を持ち歩いていたおっかないおねえさんには見えないでしょう?」
「本当に......ごく普通の娘さんにしか見えませんわ。先生のお力って、凄いですね。人間の心をすっかり変えてしまうことの方が、本当は先生の巨大な〝力〟よりも本質的に素晴らしいのかもしれませんわね」
「その通りです。どんなに巨大な〝力〟でも高が知れてる。荒涼とした淋しい心にとってなんの役にも立たないんです。だれかが自分のことを想ってくれている、とわかる方がどんなに素晴らしいかってことですね。しかし、彼女が〝力〟を求めているように、この先もどんどんそうした人々が増えてくるでしょう。やむを得ないのかもしれないが......杉村さんの〝力〟を内証にしてあるのはそのためもあるんです。いずれはわかってしまうでしょうけどね」
「確かに、ある程度はやむを得ないといえるかもしれませんわね。だってみんな、先生の〝力〟に魅力を覚えて近づいてくるということは間違いないんですから......特に市枝さんの場合は、弟さんが優れた超能力者でもあるし、お父様も先生の〝力〟で救われたということもあって、余計に自分も超能力が得たいと思うんじゃないでしょうか」
杉村由紀は怜悧な眸を瞬かせていった。
「先生のお姉様に市枝さんをお引合せするというのはいい考えだと思います。お姉様が納得のいくように話してくださるんじゃないでしょうか。お互いに優れた超能力者の弟さんをお持ちですし......」
「それを期待したいですね。彼女は思い込みの強い女の子なので、少し心配なんです。〝力〟を欲しがりすぎると本当に危険が生じるんですよ。〝幻魔〟が呼び寄せられてくるかもしれない」
丈の言葉に、由紀はぞっと身震いした。両掌で鳥肌立った膚をおさえる。
「〝幻魔〟は江田四朗やその部下たちだけでなく、〝GENKEN〟の会員たちもターゲットにしているのでしょうか?」
「もちろんです。我々一人一人が〝幻魔の標的〟です。四六時中つけ狙われているといってもいい。気を抜くことなんかとてもできませんよ」
「でも、先生。それでは〝幻魔〟は底なしの〝力〟を持っているといえるのではないでしょうか? 地球人類全体を制圧し、一人一人を虜囚にするなんて、そんなことが可能なんでしょうか?」
「可能だと僕は思っているんです。〝幻魔〟のエネルギーにはそれだけの余力が充分にある。精緻で巧妙な精神コントロールのシステムさえ持っているかもしれない......最近はそう考えたりします」
「そんな......だって〝幻魔〟は少数の尖兵を送りこんでいるだけではないのですか?」
と、杉村由紀は顔色を変えていった。
「前はそう思っていましたけどね。今は考えが変りました。〝幻魔〟はもっと大量に......こちらが考えている以上に大量に存在しているような気がしてきたんです」
「といいますと......」
「地球上の全ての民族には魔物や妖怪、悪魔悪霊といった邪悪な存在についての語り伝えがあります。それらは〝幻魔〟と関りがあるのではないか......超古代に行なわれた幻魔大戦の記憶の残滓ではないか。そう考えてみたのです。化物、妖怪どもはいわば〝幻魔〟の残党であって、あまりにも長年月放置されていたため、彼ら自身記憶を失っている。しかし今回、〝幻魔〟の尖兵が地球に送りこまれてきたため、それが刺激になって、いっせいに残党が活性化してきたのではないか......
だとすれば、我々はごく少数の〝幻魔〟を相手にするのではない。地球全土にわたって糾合され再編成された〝幻魔〟軍団を相手にしなければならないのかもしれない」
「恐ろしいことを考えられたものですわね、先生」
杉村由紀は戦慄を抑えきれなかった。全身が粟立っていた。
「もしそうだとすると、我々は圧倒的に優勢な〝幻魔〟の攻撃を受けるということになりませんか?」
「そうです。しかし、〝幻魔〟もまだ充分に統制されていないのかもしれない。他にもいろいろ〝幻魔〟側にも内部事情があるのかもしれない。だから、我々もそう恐れる必要はないという気がします。もちろん時間はそんなに残されていないが......」
「〝幻魔〟というのは物質的な存在なのではありませんか? 先生が対決された〝幻魔〟は幽霊みたいに得体の知れないものではなく、実体を持っていたのでは?」
「そうです。しかし、宇宙における〝幻魔〟は巨大な想念エネルギーです。宇宙意識フロイと同様に、意識エネルギーなんです。おそらく〝幻魔〟にとって実体化、物質化を遂げるのは簡単なのではないでしょうか。
ですから、〝幻魔〟の危険さは、実体を持っていようと持っていまいと関りがないといえるんじゃないかと思います。地球上の残党である落ちぶれた連中が、尖兵によって活性化すると、甚しく危険になってくることは、当然予想されます。悪戯のような悪さをしていた魔物連中が、本性に目覚めて、軍団として組織されるわけです。今、〝幻魔〟の尖兵はそれを画策している。江田四朗を手先に使いながら、もっと大がかりな工作を目論んでいる。僕にはそう思えるんです。
我々が地球人類全体のエネルギーを糾合しようとしているのと、同じことを〝幻魔〟側でも意図している。そんな気がします」
「どうしたらいいのですか、先生? こんなことで勝てるのでしょうか?」
杉村由紀は不安を全身に滲ませて尋ねた。
「人類にはまったく備えがないのではないでしょうか? だって人類の有力な部分、つまり文明化されている先進国では、物質万能主義が強いわけですから、幻魔の存在など信じられないのでは? だとすれば、幻魔との戦いなどナンセンスと受取られますし、まったく人類の用意が整わないうちに、幻魔の侵攻を受けることになってしまうのではないでしょうか?」
「おっしゃる通りだと思います。人類には幻魔大戦の用意がまったくありません。我々がなして行かなければならないのは、人々の自覚を促すことです。それをなんとしてでもやり遂げなければならない。責任重大なんですよ、杉村さん。しかし、恐れることはないんです。幻魔にも我々同様、大きな問題があるという気がします。まだ手遅れではない。これはおそらく競争です。幻魔もきっと焦っている。我々の力が充分に大きくならないうちに叩いておかなければならないからです。彼らは焦って失敗を犯すかもしれない。致命的な失敗を犯すことだって考えられるわけです。
僕の考えが正しければ、彼らの作戦の手の内を読み取ることが可能かもしれません。いずれにしろ、まだ我々は小競り合いしている緒戦の段階なんです。相手がどう仕掛けてくるか、読み取ることです。
おそらく、井沢郁江の病気も、向うから仕掛けてきた小手しらべじゃないか......そういう気がします」
「幻魔は、人間を病気にすることもできるのでしょうか?」
杉村由紀は頰を粟立たせてしまった。丈の言葉は深奥に応えるような衝撃をもたらしたのだ。丈は手を伸ばして、がっちり彼女の肘を摑んだ。
「恐がっちゃいけません。幻魔にそうした力があるとしても、こちらにも対抗策があるんですから。幻魔の送ってくる破壊的な悪想念の力をはね返すことは可能です。そのために明雄と市枝君に行ってもらったんです。こんなことぐらいでびくついてちゃだめですよ、杉村さん」
「暖くなりました、先生。ありがとうございます」
杉村由紀は感謝をこめていった。肘を把んだ丈の手から熱い生体エネルギーが脈動するように流れこんでくるのが感じられた。全身がかっと熱くなり火照りだすようだ。冷たいパニックの芽はどこかに吹き飛ばされてしまった。彼女は限りない信頼の絆を丈との間に改めて意識した。丈がそこにいるだけで感じる無上の充足感であった。丈の存在を感じるだけで照明の明度が上るように心が暖く明るくなってくる。
薄暗かった電球がしだいに輝きを増すように、由紀の超感覚が冴え渡ってきた。それも丈から送られた生体エネルギーと無関係ではなかった。
丈は、他の超能力者を活性化する力を秘めているのだ。
「先生、あの子から通信が来ています」
と、由紀はいった。遠感をキャッチするのは頭ではない。常に胸の中央の部分である。人間の感情が頭脳で感じられるのではなく、内臓感覚であるのと同じことだ。
遠感は自分自身の想念と同様に湧出してくるので、時には自他のそれの区別が困難なことさえある。
しかし、杉村由紀にとり、木村明雄の想念波はかなり異質なものであるため、交感は容易であった。コールサインのように晴れわたった蒼穹のイメージが送られてくるからだった。
ぱっと心に広がる青空を視れば、それが明雄の呼びかけであることがわかる。自分が他のことを考えている時でも、そうしたコールサインさえあれば、他者の交信であることに気がつくのである。
他にもテレパシストの仲間が増加してくれば、それぞれがコールサインを持たねばならないようになるだろう。
杉村由紀は、広野にそびえる背の高い杉をイメージとして送り返した。その杉の木のイメージを見れば、明雄もすぐに見分けることができる。
すみやかに明雄が嬉しげに感応してきた。由紀の認知サインを受信したのだ。もう幾度となく交信しているので、考えるまでもなく互いに相手の周波数の如きものがわかってしまう。精神波にも重いものと軽いものがあり、明雄のそれは濁りがなく軽々として白い光として感じられる。東丈のそれは強く明るく光っている。精神エネルギーの強さを示しているのであろう。しかし彼はPK者としては比類なく巨大であっても、遠感の方は微弱である。杉村由紀が中継し、時には通訳の務めを果すことも必要であった。
丈は、事務局分室の秘書見習にいって電話をつながせないようにさせた。遠感による交信が続く間は、妨害が入らないように処置を講じておかねばならない。しかし、杉村由紀が超能力者であることを知らない秘書見習たちには理解を超えているであろう。
遠感に専念してしまうと、杉村由紀はトランス状態に入ったように、外界のことはわけがわからなくなってしまう。おそろしく微妙にして細心な手際を要求される作業に、精神集中するのといっしょだ。
電話のベルや話し声などで、精神集中を邪魔されないように、丈が注意を払ってやらなければならない。まるで杉村由紀が〝神おろし〟を行なう巫女になり、丈が審神者になったような印象を他に与えるに違いなかった。
「あの子たち、郁江さんの家に到着したようです」
と、小さな応接テーブルをはさんでソファに腰をおろした由紀がいった。顔をやや伏せ、目は閉じている。激しい精神集中で面変りした顔は更に彫りが深く見え、日本人放れしてきた。垂れさがったストレート・ヘアーが黒いカーテンのように彼女の顔を左右から半ば覆い隠そうとした。
胸の中央に湧出する明雄の想念と送ってよこすイメージを隈なく受信しようと心を研ぎ澄ましているのだった。
「お母さんが出ていらして......郁江さんはだれにも逢わないといっています。このままでは断わられてしまいます、先生!」
由紀は強い危機感を丈に伝えた。膝の上に置いた両手が握りしめられ、血の気が引いた白っぽい握りこぶしになった。
「お母さんは強硬のようです......引き取ってほしいといっています。どうしたらいいでしょう、先生!? 同行した圭子ちゃんも困ってしまっています」
「ねばるんだ。市枝君にもっと頼むように伝えさせてくれ。その間になんとかならないか、考えてみる」
丈は、娘の郁江に少しも似ていない母親のイメージを脳裡に浮べた。理知的というよりしっかりした抜け目のなさそうな母親の顔だ。彼女とはクリスマス講演会の後で逢った。向うから名乗り、挨拶してきたのだ。
丈の講演にさほど印象を受けた様子はなかった。娘の郁江を奇矯な道に引きこもうとしている張本人を見て、観察し、探りを入れるために来たようであった。最初から心が硬いため、拒絶的態度に終始し、なんら感銘を受けなかったらしい。
東丈が想像していたような、奇矯な高校生教祖でないことはわかったようだが、決して納得したわけではなかった。郁江の心を狂わせようとしている危険人物という先入感は充分に修正されなかったし、心を許すどころではなかった。
郁江と母親の間には意志の疎通が欠如していると一目瞭然であった。おそらく郁江は母親を見下しており、ろくに丈のことを話したこともなかったのであろう。
山脈を移すことができても、母親の心を変えることは困難だ。彼女は東丈とその使いの者に対して容易に心を許さぬきびしい警戒心と猜疑心で鎧っている。それは郁江が培ったものであり、母親に反感を持っている彼女は母親の心をとかす努力をいっさい払ったことがなかったのだ。
「明雄にいって、家の中を透視させなさい。郁江の部屋を透視させる......」
丈は自ら超知覚に集中し、明雄の透視した光景を受けようと努めた。丈自身は無理な業だが、杉村由紀がちょうど増幅器の役割を果してくれる。丈は井沢郁江との心霊的なつながりを得ようと欲した。明雄の送ってくる超知覚によるイメージが助力してくれた。
寝台に腰をおろしている郁江の姿が脳裡を掠めたような気がした。丈はそれを頼りにPKの手を伸ばし、郁江を捉えたと思った。
何かが落ちた。テーブル、デスクのようなものの上から額縁のようなものが落下した。明雄の透視がそれを捉え、写真立てであることを丈に知らせた。

心の焦点が定まったのか、イメージが明確になった。青林学園の〝GENKEN〟で撮った会の写真だ。丈を中心に郁江を初め久保陽子、平山圭子たちが映っている。それを四切りに引伸ばしたものだ。
暖い感情が明雄の心から伝わってきた。少年は郁江の心情をキャッチしていた。それが鍵になることを少年は悟り、丈の超知覚にその発見をもたらした。
丈はすかさずPKで写真を摑み、重力の干渉を切り離した。郁江の目がその動きを捉え、ショックに揺れた。
何が起こっているかを理解したのだ。手を伸ばして空中に浮んでいる写真を取る。明確な心霊的接触が生じて、郁江が慄えるのを丈は明雄の超知覚を通じて感じた。胸が慄える感覚が郁江を襲っているのだった。
「どうぞ、お引取りを......」
と、母親が式台の上にきっちりと正座し、玄関に立ったままの市枝たちに申し渡した。妥協のない厳しい口調であり、これ以上押し返して何をいっても無駄だと感じさせるものであった。
市枝にはもはや言葉がなかった。相手の断乎とした女の強さの前に無力感を味わっていた。市枝がそうなのだから、同行した平山圭子など消え入りたい風情であった。
もうだめだ......市枝は絶望感に捉えられ、ただ丈に対して申しわけないと思った。やはり自分は高の知れた小娘にすぎないと思った。不良少女の首領なぞと突張ってきたが、世間に出てみればまったくなんの役にもたたないことを思い知らされるだけだった。
「そこをなんとか、お願いできないでしょうか?」
と、市枝は絶望的な思いでくり返した。しかし、彼女の意に反して、その声音は低く無感動になり、執拗さを帯び、相手の反感をかきたてる以外に役にたたないようであった。ただでさえしゃがれ気味の声が、不敵で不遜な響きを感じさせてしまうのだった。
「いいえ。なんとおっしゃられましても、娘はどなたとも、お逢いしたくないと強く申しておりますし、病状も芳しくありませんので、お逢わせすることはできません。何度も申し上げますが、どうぞお引取り下さいまし。ご厚意だけは有難くお受けしておきますので......」
取りつく島もないとはこのことだった。
市枝はうつむき、むきだしになっている白い額から絶望的な気配を立ち昇らせた。ひたすらねばるしかないというものの、いったいどうすればいいのか、途方に暮れてしまう。丈の依頼でなければ、自尊心の強い市枝には数分と居堪まれなかったことだろう。
母親はそんな市枝を、いかにも憎々しい者のように冷えた目で見ている。市枝が何といおうと取り合わない決心を固めているのだ。市枝にもそれがわがことのようにわかる。自分には他人の反感をそそりたてるものがあり、それは身にこびりついてしまっているようだ。〝黒バラ会〟の女王などといわれているうちにいい気になり、習い性になってしまったのであろう。
もう後は、このまま棒のように立ち尽しても頑張るしかないのかと思った。どんな侮辱を受けても、仕方がない。丈のために自分にそれしかなしえないのなら、堪えるほかはないと思った。居堪まれないでいる平山圭子には報告に帰ってもらい、自分はここで許しを得るまで堪えて堪えぬこう......
「圭子さんは戻って下さい。なんとかしてあたしはお願いしてみますから......」
と、市枝は感情のこもらない低い声でいった。
「いえ、なんとおっしゃられても、こればかりはお受けできませんから」
と、式台に正座した母親がぴしりという。もともと依怙地な性格の人なのであろう。それが意地になっているのだ。
「もっと常識というものをわきまえておかれてはいかがでしょうか」
母親は容赦なく言葉を重ね始め、市枝は更に深々とうなだれた。かつての市枝を知る者が見れば、己が目を疑うであろう。彼女は他人に高圧的なものいいを許しておく性格ではなかった。
平山圭子は帰りそびれ、おろおろと気をもんでいる。こういう状況になると、圭子の出る幕ではない。どうしていいかわからず、身動きが取れなくなってしまう。
「どうかわかって下さい。あたしはどうしても郁江さんにお目にかからなければならないんです。せめて郁江さんに取次いでいただけないでしょうか。お願いします」
口にへばりついて離れない言葉を、必死で送りだす。取りつく島もない断乎たる相手に空しい嘆願をくり返しているのだ。
「もういい加減にして下さい。娘は病気で、他人には逢いたくないといっているのですよ。あなたは本当に娘のお友達ですか? 失礼ですけど、あなたのようなお友達がいるとは、一度も娘から聞いていませんよ。いつ、いったいどこでお知合いになったお友達ですか? 娘はあなたのような非常識な人をお友達には持っていないはずです」
母親は冷厳にいい、さらにいいつのろうとした。その時、市枝の腕の中で、明雄の体が急にはねるように動いた。
「いいえ、お友達よ、母さん」
と、階段の上で郁江の声がした。部屋着に身を包んだ郁江が幅広の手擦りを把み、そろそろと降りてきた。
「市枝さん、ご免ね。まさかあなたが来てくださると思わなかったものだから......明雄もいっしょだったのね。圭ちゃんもありがとう」
と、郁江は掠れ声でいった。
「上へあがってちょうだい。いいのよ、この人たちは、母さん」
「そんな勝手なことばかりいって!」
と、母親は激しくいった。
「母さんの立場がないじゃないの! 絶対、人には逢わないからってあれだけいっていたのに!」
「もう逢ってるわよ」
郁江は母親が激しくなじるのを、少しも意に介さなかった。
「いったいどういうつもりなの!? 病院には行かない人には逢わないといって、勝手なことばかり! 母さんにどれだけ迷惑かければ気がすむの!?」
「お友達の前で、あんまり見苦しいところを見せないで」
と、郁江は相変らずの調子でいった。
「明雄、すっかり元気になったわね。もうお姉さんといっしょに外に出ても大丈夫なのね、よかったわね」
「ボク、元気......先生が行けって......」
と、明雄が一生懸命に喋った。
「ボクは先生の代理で......きたの」
「そう、代理できてくれたの」
郁江は、明雄に対してだけはしなやかな口調で喋った。他のだれも聞いたことのない愛らしい口調であり、いかにも郁江にふさわしかった。いつもの郁江の辛口の喋りは、故意に作られたもののような印象を与えるほどであった。
「さあ、みんな早く上って! 早く気がつかないでごめんね」
「勝手にしなさい! 母さんはもう知らないから!」
母親が鋭くいい放ち、敵意を露骨にヒステリックな動作で奥へ消え去ってしまった。
「ごめんね。いいんですか?」
と、市枝が呆然としたようにいった。
「先生の代理だから、あたしずいぶん強引にねばっちゃって、お母さんの気を悪くさせちゃったみたい」
「いいのよ。いつもあんな調子なんだから。驚いたでしょ。さあ、圭ちゃんもあがって」
郁江は屈みこんでスリッパを並べにかかった。
「さっ、早く」
と、せきたてる。
10
郁江の二階の部屋は贅沢な間取りの洋間であった。十二畳はたっぷりある。しかし、冬なのに窓が大きく開かれていて、冷たい空気が流れていた。
「ごめんね、部屋が寒くて。今すぐ窓を閉めるから。一人でいると息苦しくなってきて、どうにも堪らなくなっちゃうの。すぐガス・ストーブだから暖まるわ」
郁江は窓を閉め、ガス・ストーブの炎を調節するためにくるくると動きまわった。
しかし、市枝は、彼女の顔にあらわになっている荒廃の印象に胸を衝かれていた。フレッシュな花のような顔色、愛くるしさのかわりに、どんよりと淀んだ顔色の悪さ、ふくよかさを殺ぎとられた顔は、わずか数日の変化とは信じがたいまでに顕著であった。
郁江がこの真冬の寒空に窓を開け放している理由も、そのむざんな荒廃の印象と関りがある、と市枝は直感した。彼女自身、つい最近まで家族に重病人を二人までも抱えていたのだ。病疾がもたらすむごたらしい荒廃の雰囲気はよく知っていた。
室内に立ちこめた異臭は堪えがたいおぞましさで心を毒し、荒びをもたらすものである。
郁江は三人の客をソファに掛けさせた。平山圭子もどことなく怯えた気配で、ソファに浅く腰をおろす。
市枝は腕にずっと抱いてきた明雄をおろして、痺れかけていた腕を休ませた。発育不良で小児のように軽い明雄だが、最近はめっきりと肉がつき、体重が増している。もう体もしっかりして首も座り、椅子に腰かけていることもできる。
「明雄を抱いて出歩くものだから、腕がすっかり太く逞しくなっちゃって......まるでボディビルをやってるみたい」
と、市枝は冗談めかした口をきいて、垂れこめてくる沈黙を追いちらそうとした。
「明雄ももうじき歩けるようになるわ」
郁江がいった。寝台に一人だけ腰をおろして、三人を見詰めている。肉が落ちた顔にはあの瑞瑞しい愛くるしさはあとかたもなく、市枝の胸を刺した。その愛らしさは彼女に凶暴な感情をもたらしたほどだったのだ。
同性が見てさえ胸苦しくなるような郁江が東丈の側近であることが、市枝にどんなに痛みを与え、虚ろさを駆りたてたかもしれない。
その郁江が老女じみた印象で目の前に座っている。
正視しがたい悼ましさに胸を嚙まれて、市枝は目をそらした。とてつもない重量物に心を圧し潰されて行くようだった。
「先生の使いできたの」
と、市枝は言葉の端をちぎるようにしていった。ただひたすら単刀直入であるしか、今の市枝にはなすすべがなかった。
「東君が......? 行けといったの?」
郁江は声を吞んだ。顔色も変ったようである。
「あたし、なにも知らなかった!」
市枝は、必死の努力で、眼を郁江に戻した。荒廃した郁江の顔を正視しようと死物狂いで努める。
「先生が明雄を遠感で呼びだしたわ。明雄は心で先生とお話できるの......それであたし先生に、あなたのこと聞かされた」
「そうだったの。明雄はテレパシストだったの! やっぱりそうだったのね。明雄には他の子にはないようなものがあったもの」
郁江は微笑しようと努めた。
「東君と明雄は、心がつながっている......前からそう感じてたわ。今初めて聞かされたけど、不思議でもなんでもない、ごく当り前みたいに思える......」
「先生は、明雄があなたの病気を治すっていったわ」
「明雄が......?」
郁江は言葉を吞み、平山圭子を見た。圭子はなすすべもなくうなだれて座っていた。
「先生にいろいろ訊かれてしまって、どうしても話すほかなくって......」
圭子は消え入りそうな声音でいった。
「先生はなんでも知ってるわ」
と、市枝はいった。
「郁江さんの身に何が起こっているか知ってる。郁江さんの心の中も全部わかってるんだと思う」
「............」
郁江は黙って座っていた。
「なんで先生をもっと信じないの!?」
と、市枝は直情径行さを露わにしていった。
「先生はとってもあんたのことを心配しているのよ! わかるでしょう? それなのにどうして重ねがさね心配をかけるようなことをするのよ」
「あなたにはわからないわよ」
郁江がぽつりと呟く。
「そんなことないわよ! あたしだって先生の気持もわかるし、あんたの気持だってわからないわけじゃない。あの新しい秘書の杉村さんのことだって......」
郁江は無表情な顔で市枝の言葉を受け止め、市枝は絶句した。
「ごめんね。あたしって遠まわりないい方ができないものだから......でも、他にいいようがないんだもの......秘書の杉村さんのことは、あたしもショックだった。みんなもそうだと思う。だっていきなりだもの......」
市枝は顔を伏せている平山圭子に一瞥を向けていった。
「あたしはべつに気にしてないわ」
と、郁江がどこかしら遠い声音で呟いた。
「噓!」
市枝が鋭角な声音で応じた。欺瞞や偽善を容赦しない市枝らしい鋭さだった。
「そんなの、絶対に噓! あんたが病気で休んでいる間に、正式の秘書が決まってしまうなんて、あたしだっていやだなと思ったもの」
「あたしね、陽子のこと考えてたの」
と、郁江は彼女らしくない穏やかさでいった。
「陽子ってあたしの前に、東君の秘書をやってた人なの。彼女が風邪を引いたといって来なくなってしまって、あたしが代りに秘書みたいな役目を果していたわけだけど......嫉妬って辛い感情よね。これ以上辛いものはないと思う......陽子がこんな辛い気持に追いこまれてたとわかってたら、あたしも違う態度をとってたと思う。でも、あたしはその時は、なによ馬鹿みたいって思ってた。一人で嫉妬して一人で苦しんで自棄になるなんて、馬鹿のやることだって、冷たい目で陽子を見てたわ......」
郁江は淡々といった。市枝の方が顔を伏せてしまっていた。
「もちろん、今は陽子の気持がわかる。嫉妬がこの世で最悪の、一番辛い感情だってこともよくわかる。人と人の間を切り離し、遠ざけてしまうのに、どんなに効果的かってことも......でも、今の本当の気持をいえば、杉村さんという素晴らしいプロの秘書が来てくれてよかったな、と思ってる。だって、もうあたしみたいな中途半端な素人の女の子じゃ、とても追っつかないところまで東君はきているから......
やむを得ないんだって、自分にいってきかせたこともあるけど、今ではもう納得してるし、高望みはしてないわ......」
「高望みって?」
市枝が息詰まるような声音で尋ねた。郁江はかすかに笑った。
「彼を独占するなんてできないってこと。そんなことは、太陽や月や星空を独占するようなものだなってわかった。東君は、東君であるだけでなく、それ以上のものなのよ。陽子は彼を独占したかった。自分だけを大事にして、特別扱いにして、可愛がってもらいたかったのよ。あたしもそれと同じことをしようとしてた。こうやって一人で最初のころからのことをよくよく思いだしてみたら、それがよくわかったわ」
「それで、心から納得した......?」
「聖書を読んでいたの」
と、郁江は枕許の分厚い書物に手を伸ばしていった。
「別にクリスチャンじゃないし、そんなに興味もないけどね。弟子たちがイエスの許に集まってどうしたかを知りたくなったものだから......イエスが〝後の者が先になる〟って人々にいってるのね。つまり、先にイエスの許に来た人間が先輩面して偉そうに、後から来た人々を差別したことがあったからなの。
イエスを信じるってことは、先に来ようと後から来ようと関係ない。人間は神とイエスの前に平等だ......けれども、人間というものは、必ず自分だけは特別扱いを求めるってことがわかる。イエスの当時でもすでに高弟ぶった弟子たちがイエスの私物化を始めていたのね。
ああ、これなんだ、とあたし気がついた。陽子もあたしも、他のだれかれもやっぱり同じ罠に足を取られてるのよ。あたしも陽子や他の人を鋭く批判したり悪口をいったりしてたけど、結局は同じことだった。東君にこれだけ一生懸命に尽しているんだから、東君だって......ごく自然にそう思ってしまうのね。見返りなんか求めていないつもりなのに、いつの間にか求めてしまっている......そんな自分がとっても情けなくて自己嫌悪に駆られてしまったのね......」
「あんた、病気だっていうのに、そんなことを考えてたの」
と、市枝は呆然として呟いた。もう自分が死ぬということを自覚したみたいに、従容と聖書を読んだりしている。
「わからない! 先生が心配しているというのに、病気になったことをいわないし、圭子さんに知られても先生にいわないように口封じをしたりして......どうして!? なぜ、先生に治してもらおうとしないの?」
「あたしだけ特別扱いにされるのが厭なのね。だって東君がやろうとしてることは、もっと大きなことで、病人を治すことじゃない。どんな難病でも超能力で治すって噂が広まったら、重病人が沢山押しかけて来て、東君の時間をみんな取上げてしまうわ。それなのにあたしだけが特別扱いを受けるわけにはいかない......そんなことは厭なの。いつも正義の味方で恰好いいことばかりいってるのに、いざとなると真先に救いを求めてすがろうなんてしたくない。死んでもしたくないの。そんなみっともないこと、できない......」
「だって、もし死ぬような病気だったらどうするの!? あんたはそういうけど、先生はどうなるの? 秘書のあんたを見捨てた、見殺しにしたっていわれるかもしれないじゃないの!?」
市枝は叫ぶようにいい、郁江ははっとした貌で彼女を見た。静謐さが破れ、驚きと途方に暮れた表情が浮んできた。
「そんなこと、考えもしなかった......だって病気治しは東君のなすべき仕事じゃないもの。秘書のあたしを治して他の人の頼みを断るわけにはいかないじゃない」
「だけど、世間の連中は先生を非難するわよ、必ず。秘書のあんたを見殺しにした、冷酷非情な人でなしみたいにとがめだてするに決っているじゃないの!」
「そこまで考えなかった......」
郁江はただくり返した。苦渋の色がさっと表われてきた。
「ずいぶん考えたつもりだけど。でも、あたしの考えは間違ってると思う? もし病人ばかりが集まってきて、東君の仕事の妨げになるようなことになったらいけないって、あたしは思った。もし、あたしが東君にすがって治してもらえば、必ずそうなる......」
「あんたは自分の方の筋を通すことばかり考えて、先生の気持をちっとも考えてないわ」
と、市枝ははっきりいった。
「それじゃ、先生が堪らないわよ。だってそうじゃない? そりゃ、あんたのいってることは恰好いいし、筋が通ってるみたいだけど、でも、やっぱりすごく独善的よね。先生があんたのことを心配して心を痛めていることを少しも考えに入れていないんだものね。それにあんた、先生に逢おうともしないし、先生のいいつけで来た圭子さんにまで口止めしてしまうんだもの。そんなことってある? あんたがとっても潔癖だってことはわかるけど、でも、考えが狭すぎるんじゃないの」
「そうね。あたしって馬鹿みたいね」
郁江は笑おうとし、半ば成功した。
「でも、本当いうと病気でやつれて醜くなった自分を東君に見られたくなかった......腐ってしまったような自分の姿をさらすくらいなら、死んでしまった方がいい。そう思ったことも確かだわ」
「その気持はわかるけど、間違ってると思う。ずいぶん身勝手じゃない? あんたみたいに美人で可愛くて頭のいい女の子以外の子はどうなるの? みんな死んだ方がましだってことになるじゃない」
「そんなこと考えもしなかったけど......」
「いい気なもんだって思うわよ、本当に。あたしみたいにみっともなくてぶすだと、浮かばれなくなっちゃうじゃないの」
「市枝さんが冗談をいうなんて信じられないけど......でも、やっぱり東君にはどうしてもいえなかった」
「先生はあんたの心の中は全部お見通しになっているわよ」
「それで、東君は明雄を送ってきたわけね」
郁江は静かにいった。二人の遣りとりがわかっているのかどうか、明雄は明るい顔に笑みをたたえていた。
「明雄にはそれだけの〝力〟があるって、先生はおっしゃってた......明雄は先生の分身のようなものなんだって。心が開かれているからだって......」
「心が開かれるって、簡単なことじゃないのね。恨みや嫉みや怒りで、心が泥沼みたいに汚れちゃっているから......あたしなんかどうやっても心がきれいにならない。どうしても許せない人間が幾人もいて......市枝さんが羨ましい。もうきれいな気持で、東君の所へ行けるでしょう?」
「あんたは贅沢で我儘すぎる」
と、市枝はいきなり強い調子でいい、平山圭子はぎくりと身をすくめさせた。
「あんたには自分の幸せがわかってない。だから感謝もなんにも知らないのね。あんたがどんなにつらい目にあってきたとしても、あんたは先生に逢って、秘書までさせてもらったじゃないの。今だって先生はだれよりもあんたのことを気遣ってる。あんたのやってることは身勝手というより、馬鹿ばかしくてとても信じられない。あたしだったら、明日死ぬとしたって、嬉しくて満足して死ねるわ」
「いいわよ。なんといわれても」
と、郁江はおとなしくいった。以前の郁江には考えられない穏和さだった。
「あんた、死ぬつもりなの?」
市枝の率直さは、自らを駆りたてての代物だった。額に脂汗が滲んできていた。
「死ぬのはやっぱり厭だなあ、と思う。苦しいし辛いし淋しいもの。やっぱり死にたくないなと思う。でも、覚悟はしとかなきゃと思ってるわ」
郁江は信じがたい素直さでいった。
「あたしって意地っぱりだもんだから......でも泣き喚いて死にたくない。あくまでも恰好よく、と思っちゃうのね」
「そんなに調子悪いの?」
「不正出血してるの、しばらく前から」
「ひどいの?」
「ひどいわ」
郁江は気取りもてらいもなく、あっけらかんとしていった。
「やられたな、となぜかすぐにわかっちゃった。親類で何人も悪性の子宮癌で死んでるから、だいたい素質があるのね。従姉がやっぱり十八で手術をして、でも助からなかった。あたしもいずれはそうなるかもしれないって覚悟してたから」
「でも医者には診せてないんでしょ? どうして!?」
「だって自分でわかってるもの。従姉と同じ症状だし、悪性の子宮癌だってことは。入院して、子宮をえぐりとられて、そんな死に方は厭。どうせ死ぬなら、覚悟して死ななきゃみっともないでしょ?」
「それで先生には黙ってたのね? でも死ぬと決ったわけじゃない。みんな自分の一人決めじゃないの!」
「でも、自分でわかってるもの」
「何がわかってるもんですか! あんたって本当に手の焼ける娘ね! 先生にあんまり迷惑かけちゃだめじゃないの! そのベッドに寝て!」
と、市枝は立上り、相手に命じた。
「寝てどうするの?」
「なにいってるの。わかってるでしょ。明雄が先生の代理で来たんだから」
市枝は叱りつけるようにいい、郁江を寝台の上に横にさせた。その手つきはきびきびとしていて権威があり、相手に非服従を許さなかった。
「あんたも先生の遣り方を見ているから、わかってるでしょ? 明雄は先生と同じようにやるわ。明雄を先生だと思って、素直におとなしくしてるのよ。いいわね?」
「まさか、自分の身に起こるとは思わなかった」
いわれる通り、素直に従いながら、郁江が溜息をついた。
「気持を楽にして、穏やかな気持を保ってなさい......眠くなったら、寝ちゃってもいいわよ」
市枝は弟を抱き上げ、横たわった郁江の隣りのベッドの上に座らせた。体のしっかりしてきた明雄はぐらつくことなく安定して座っていた。小さな子供の手を伸ばして、仰臥した郁江の下腹部のふくらみの上に掌を置いた。
だれにも教えられることなく、明雄の手はスムーズに動き、病患部の上に置かれたのだった。
「なんだか恥しい......」
と、郁江は仰向けになった顔を両掌で隠した。
「なにいってるの! 今更恥しがることないでしょ!」
市枝が叱りつける。
「そんな馬鹿みたいなことばかりいってるから、こんなありさまになっちゃったんじゃない!」
「こわいお姉さん......」
と、郁江がいった。しかし、早くも顔に赤みが射してきていた。下腹部にぴったりと置かれた明雄の小さい掌から、信じがたいほどの熱が放射されてくるのを感じていた。熱いが灼けつくような苦痛はなく、むしろ心地よかった。
「圭子さん。どれくらい時間がかかるかわからないから、折を見計って引き上げてもらって構わないわ」

市枝が背後の平山圭子を振返っていった。ベッドの上に座った明雄の肩に手をあてがい支えている。
「いえ。待っています。なにかお手伝いすることないかしら?」
平山圭子は初めて見る心霊治療に興奮を禁じえないようであった。そうした超科学的な治療法があるのは知っているが、眼前でそれが行なわれるのを見るのは初めてなのだ。
「先生が、だれでもできるって」
と、明雄がひどく明確な言葉を口にした。少年はリラックスしており、なんの疑念も感じていないことがわかる。
「今、先生がそういってる」
「東君がテレパシーでそういってるの?」
と、郁江が身を起こしそうになる反応を示して、尋ねた。
「うん」
「明雄は今、テレパシーで東君とつながっているのね?」
「うん。心配するなって......先生は今、お姉さんのお腹の中にある黒いボールを、白い光で消そうとしてる......」
「黒いボール......?」
それが子宮癌であることは間違いなかった。
「ぼくの手にどんどん光を送ってくる......手がとても熱い......でも、黒いボールはなかなか消えない」
冷えきっていた室内の温度が急上昇し、汗が滲むほどになってきたのは、ガス・ストーブの火熱のためばかりではなかった。
明雄は、郁江の下腹部の内部にある無気味な黒い球を浄化し、抹消するべく、意識をビームのように集中させていた。丈から送られてくる生体エネルギーが灼熱しながら黒いボールに浴びせられている。そのエネルギーはしだいに増加してきている。
明雄自身がエネルギーと化してしまったように、少年は肉体の存在感を失い始めた。もはや掌が熱いという感覚すら消え去ってしまう。意識自体が白熱する光の奔流となっている。
〈この黒いボールはなんだ?〉
丈の意識が、少年の意識そのものとなった。
〈わかりません......とても強靱なボールです。生体エネルギーをいくらでも吸い込んで行くみたいです〉
と、杉村由紀の意識が答える。
〈これは、ただの子宮癌のような変質した細胞組織じゃない! 負エネルギーの磁場なんだ!〉
〈でも、それがどうして彼女の子宮の内部にあるんですか?〉
〈わからない......郁江が自分で作ったのか、それともだれかが入れたのか。とにかくこれは異常な黒い想念のボールなんだ! これだけ生体エネルギーを注入しても、変化を見せないのは、ただの癌なんかじゃない証拠だ!〉
〈この黒い想念の磁場の中へ入って、探査することができないでしょうか?〉
と、由紀の意識がある決心を持って尋ねている。
〈だめだ! そんなことは危険すぎる! 杉村さん自身が摑まってしまう恐れがある。とにかくこいつをなんとかしなければ!〉
〈そんなに生体エネルギーを注入して、大丈夫なのですか、先生? エネルギーを吸い取られてしまい、先生自身に危険があるということはないのですか!?〉
由紀の意識が危惧を帯びる。しかし、丈の意識は凄まじく輝き始めた。大エネルギーの駆動で高揚しているのだ。
〈大丈夫だ! こいつが底なしだとしても、こちらのエネルギーが種子切れになることはないはずだ。いくらでも注ぎこんでやる! こいつがどんなにしぶとくて貪欲でも、宇宙エネルギー全体を吞み尽すほどの容量はないはずだ!〉
〈でも、平然としていますわ! いくらでも持ちこたえそうです!〉
由紀の想念が恐怖の色あいを濃くしてくるようだ。しかし、丈はますます激しく輝き、目がくらむばかりだった。
〈恐れるな! 宇宙意識〝フロイ〟がわれわれとともにある! このエネルギーは〝フロイ〟からもたらされているんだ! 杉村さんにも関門が開いて光エネルギーが無限に供給されようとしているのがわかるだろう! たとえ相手が〝幻魔〟だとしても!〉
〈先生! 黒いボールの様子が変りました!〉
明雄の当てがった小さな掌の下で、黒いボールが炸裂したようだった。
次の瞬間、部屋全体が青光りする闇に閉ざされたようになった。丈や由紀らだけが感じたのではない。市枝や平山圭子など超感覚を持たないはずの者たちまで同じ感覚異常を味わうことになったのである。
怒り狂い群がりたった蜂の大群が部屋を襲ったようであった。わーんと凄まじく唸りたてながら顔面へ襲いかかってくる。
圭子や市枝たちは思わず両掌で顔を覆った。それほど殺気立った凶暴な気配は凄まじく、肉体的危害の急迫として感じられたのである。
しかし、両掌で目を覆っても青光りする闇はそのまま見え続けた。頭がおかしくなったのかと思うほどだ。
丈たちにとって、それが負エネルギーの磁場であることは明白であった。黒い想念のボールが炸裂して、部屋全体に拡大し、一同をすっぽり包みこんだのだ。
青光りする闇は視野狭窄の感覚そのものであった。意識が暗く狭く、じりじりと圧搾されてくる。
〈気をつけろ! 向うは想念エネルギーの中にこっちを閉じこめて、封鎖しようとしているぞ!〉
丈が鋭く警告する。
〈われわれ全員に憑依しようとしているんだ! 意識を持っていかれるな! 気をしっかりと張っているんだ! 今に敵が正体を見せるからな!〉
青光りする闇によって意識はますます絞られ、狭くなって行く。その狭い視野を左からくるっと廻って正面に〝貌〟がぴたっと停まった。
それは青光りする凶悪なトカゲの顔を想わせた。死滅した古代の巨竜ティラノザウルスの歯だらけの凶暴な口をさらに陰惨、貪虐な悪相に変えたような、凄まじい〝貌〟であった。
〈幻魔だ!〉
と、丈の思念が閃いた。これが〝幻魔〟か!? 杉村由紀は全身の毛がよだつ脅威の虜になった。
冷寒な波動が意識を慄わしている。
〈怖れるな! 〝幻魔〟にはなにもできはしない! こちらに手も足も出ないと思わせようとしているんだ! これはただの恫喝にしかすぎない。こちらのエネルギーを押し破る力などありはしないんだ! 〝幻魔〟がどんなものかよく見ておくといい。恐怖を持つな! 恐怖を感じると、相手はそれにつけ込んでくる。気を強く張って、向うの心理的攻撃をはね返すんだ!〉
しかし、由紀の意識は怯え、揺いでいた。怖れるなといわれても、青光りに包まれて、こちらを睨んでいる〝幻魔〟の凶穢な歯だらけの〝貌〟は恐ろしすぎた。
目が眩んだようになり、意識が小さく狭くシャッターのように絞られて、青光りする闇に吸い込まれてしまいそうだ。
明雄が〝貌〟に向ってエネルギーを投げかけた。光の幕が音もなくはためくようだった。白金の光が青く光る闇と激突する。
青く凄まじく光る〝貌〟が、白金のシャワーに触れて炸裂した。
無形無音のエネルギー渦動の中に全員の意識が吞まれる。
激烈な旋回の感覚の中で、青い闇がちりぢりに引き裂け、ちぎれ飛んだ。
めまいの感覚は残ったものの、青い闇は去り、再び元の部屋のたたずまいが復帰した。はっと意識の凝集がとけ、いっぱいに広がる。
「今の、なんだったの!?」
と、市枝が思わず高い声をあげた。
「今の見た!?」
今更のように愕然として平山圭子を振り返る。
「え、ええ......部屋の中が急に青く冷たくなって、化物の顔が」
と、圭子がとぎれとぎれに答えた。超感覚などないはずの二人がはっきりと目撃した異変事であった。
「今の化物、みんなにも見えたのね?」
と、ベッドに仰臥している郁江が、尋ねた。
「あたしだけじゃなかったのね......恐龍みたいな青い物凄い顔。とがった歯だらけの大口をしてる......」
「先生が、想念の糸をほどくって......」
と、明雄が伝えた。
「こわがっちゃいけないって、先生いってる......今のは、お姉さんのお腹の中に入ってた黒いボールを、先生が、出したって......」
「黒いボール? あたしのお腹の中に入ってた?」
郁江が気味悪そうにいった。しかし、わずかの間に、彼女の顔には生色が戻っていた。顔の肌にも張りと艶がもどり赤みが射してきている。この目で見ても信じがたい奇蹟だ、と市枝は思った。
「黒いボールってなんなの?」
と、市枝が質問する。
「憎しみ、怒り、嫉み、怨みの想念......先生がそういってる......知らない間に、お姉さんの中に入れられた」
明雄の言葉遣いも喋るにつれて、しっかりしてきた。口の麻痺がとければ充分喋れるのだ。発育不全で、体こそ幼児並みに小さいが、明雄は十歳であり、普通なら小学校四年生の歳である。最初はカタコトだったが、杉村由紀との交感が進むにつれ、言葉遣いまでしっかりしてきた。
「これから毎日、光のエネルギーを入れなさいって......きっとよくなる......先生がいってる」
「明雄、今東君と話してるの?」
と、息を詰めるようにして、郁江が尋ねた。仰臥した胸が大きく上下している。
「はい。先生が、もう安心しなさいって......」
「東君にありがとうっていってね......」
「どういたしまして......僕たちは友だちだ......先生がいってる」
郁江は両手をあげて顔を覆った。ふっくらと肉付きのよかった両腕から痛々しいほど肉が落ちている。
「本当にひとりぼっちの人間はだれもいない......いつでも、どこにいても、君のことを想っている......友達がいることを忘れるな」
と、明雄が暗誦するような口調でいった。
「われわれが、心から理解しあい、互いの身を想い、助力しあわなければ、われわれにいったい何がなしえるだろう。敵は強力な〝力〟を持ち次々に襲いかかってくる。もしわれわれがバラバラに離れ去っているならば、一人ずつ倒され、餌食にされてしまうだろう。しかし、われわれが本当に心と心で結ばれるならば、力は飛躍的に増大し、敵はもはや手出しできなくなる。どんなに強力な〝幻魔〟といえども、その力をわれわれに及ぼすことは不可能になる......しかし、われわれが怒りや嫉み、怨み、憎しみの心で互いに離れるならば、われわれはすぐに〝幻魔〟の手に落ちてしまうだろう。今度のことは、その教訓の一つにすぎない......」
明雄は少しもつかえずに一息にそれだけを伝えた。
「われわれが大きな犠牲を伴わずに、それを知ることができたのは、幸運だった......われわれは自分で思っているよりも、緊密なつながり、結びつきを持っている。われわれの体が細胞組織によって、しっかりと結びついているように、われわれの心もまた、強いつながりを持っている。それを切り離すことは、われわれの肉体の一部を切り取るようなものだ......われわれは今、それをはっきりと悟った」
「............」
少女たちは声もなく畏敬の念に心を満たされて、少年を見ていた。この全身麻痺の業病から甦ったばかりの弱々しい四肢を持った少年の口から漏れる言葉は、少年のものでは決してありえず、啓示とすら受け取ることができるものであった。
それは東丈の言葉のみにとどまらず、更に巨大な意識からのメッセージを感じさせた。三年間も学業から遠ざかっていた明雄には、これだけの語彙を駆使する能力はない。
「われわれが再び魂の一部、肉体の一部を失うことのないように、われわれは更に大きな努力を払わなければならないだろう。それは一人の個体としての人間が失われるだけではないのだ。かけがえのないわれわれの一部が失われるということなのだ。
結局、他人事ということはないのである。だれか他人の身に起こった事柄ゆえ、自分には関りがないと思うほど大きな誤りはない。それは我身に起こったことと寸分変りがないのである。われわれ一人びとりの肉体、魂はより大きなものの一部であり、個人を見舞う運命はより大きな共同体としてのわれわれに降りかかってくるからだ。
肉体を持つ個人としての人間は、長い目で見るということができにくい。個体としての人間を見るならば、バラバラの相互に無関係な存在として見えてしまうだろう。しかし、精神エネルギーとしての人間、魂としての人間から見るならば、全ての人間は別々のものではないと納得できよう。われわれ人間は一つの大いなるエネルギーであり、友人を失うことは、われわれの手足を殺ぐに等しいのである......」
明雄は沈黙した。今、自分と接触していた意識を探っているようだった。
「今のは東君なの?」
と、郁江がおずおずと尋ねた。
「自分じゃないって、先生がいってる......もっと大きな......〝フロイ〟かもしれないって......」
「宇宙意識〝フロイ〟が......明雄の口をかりて話してくれたのね」
「大きくて明るい感じ、だった......」
と、明雄はいった。
「でも、もういない。いってしまった......」
「〝フロイ〟ってなんなの?」
市枝が不思議そうに尋ねた。
「神様のようなものなの?」
「巨大な宇宙意識体......東君に〝幻魔大戦〟のことを教えたんだって......その〝フロイ〟が今、明雄の口をかりて話してくれたのよ。とても信じられない......」
三人の少女は、自分たちが今、大いなる奇蹟に立合ったことを理解した。彼女たちの顔には驚きとともに恍惚とした表情が貼りついていた。
「そんな神様みたいに偉大な存在が、あたしたちのために話してくれたわけなの?」
市枝は茫然として呟いた。
「そんなことって、あるのかしら......」
「われわれが大事な仕事をしているからだって、先生がそういってる」
と、明雄がいった。
「それをおねえさんにはっきり知らせるために、〝フロイ〟がわざわざ話してくれたんだろうって......とても幸運なことなんだって......先生も初めてのことだといってる」
「なにか、とっても不思議な気持がするわ」
と、郁江が喉の詰まったような声でいった。
「胸がいっぱいになる......人間がもしだれでもみんな、この気持を味わえたら、だれも自分が一人ぼっちだ、孤独なんだ、寂しい、そんな気にならないと思う。自分がこの上なく愛されていて、すでに幸せなんだって、そう気付きさえすれば......」
「あたしもそう思った」
と、市枝がいった。
「あたし、これまであんまり有難いとか感謝したいとか思ったことがないのね。どうしてもそんな気持になれないの。恩に着せられるのが厭だし、それくらいだったら、どうでもいいわって思っちゃう。お礼をいったり感謝したりしなきゃいけないのなら、奉仕なんか受けたくない......でも、今やっと素直な気持になれそう」
と、郁江がいった。
「自分は心が強くできてる人間だから、他人に親切にされたりしなくたって、平気で生きていける、そう思ってた。死ぬ時だって、一人ぼっちでも平気だって......だから、今度も、だれも知られないうちにひっそりと死んじゃおうと思ってたわ。病気で汚らしく醜くなって、病院でみんなに見られながら死ぬなんて厭だった。だから、風邪だといい張って、家族にも教えなかった......ひどい不正出血があって子宮癌らしいってことも。
死ぬのなんか怖くないって思ったし、その前に自殺しようと思ってた。でも、本当は、突張ってるだけで心の底では東君助けてっていつも思ってたのかも。東君、助けに来てよ......手遅れにならない前に、自殺しちゃう前に、助けに来てっていつも思ってたのかもしれない。圭ちゃんに、黙っててと頼んだのは本気だったけど、やっぱり噓だったのかしら? あたしはやっぱり、東君を試してたのかしら?
東君に迷惑をかけたくないという気持も噓じゃなかったつもり。でも、東君の気持を試したかったのかも......そうじゃないっていう自信がないの」
「よくわかる......あたしだって、きっと同じだと思う」
市枝は顔をこわばらせていった。息もつけない感情に堪えているようだった。
「あなたたち、市枝さんや明雄や、圭ちゃんを見て、本当にほっとしたわ。ああ、よかったって心から思った。東君が決して見捨てやしないんだってことがわかって......みんなの顔を見て、しんそこから嬉しかった。ありがとうって素直にいえる気持になったの」
「先生が直接来ないで、明雄とあたしに行ってくれといわれた時、とても不安だったんだけど......あんたが違うふうに受けとるんじゃないかと思って。でも、来てよかった」
市枝は口ごもりながらいった。感情の昂まりをどうしてよいかわからないのだった。
「あたし、あんたに嫌われてるんじゃないかと、ずいぶん心配だったから」
「あたしだってそうよ、いつも市枝さんは憎らしそうな目であたしを見てたもの」
郁江は感情を制御するすべを発見し、遂に泪っぽくならずにすました。
「あたしは人に好かれるような性格じゃないしね。東君と呼ぶことでも、あなたは腹立ててたでしょ」
「腹立ててなんかいなかった。でも、あたしは好きな人間に対してどう振舞っていいかわからない......昔からとても無器用なのね」
「市枝さんがあたしを好いているなんて全然知らなかった。人が病気だからって、無理しなくてもいいのよ」
郁江はからかうようにいった。市枝は言葉に詰まり、顔を赤らめて首を横に振っていた。
「ごめんなさい。あたしってこの通り生意気で傲慢で突張っていて、可愛気がないのね。人に好かれないってことはよくわかっているの。人に好かれたくなくて、わざと横柄に振舞っているみたい。だから、人に好きだなんていわれると、とても狼狽してどうしていいかわからなくなっちゃう。でも、市枝さんが男性でなくて残念だわ。あたしのことを好きといってくれたただ一人の人なんだもの」
「あんたのいうことは本気なのか冗談なのか、よくわからないわ」
と、市枝が諦めたようにいった。感情表現の無骨な彼女は、相手の変りようにうまくついて行けなかった。郁江のそれはあまりにも魅惑的で目を瞠るばかりだった。
11
しかし、その場の感情の昂まりに一気に水をかけるような事態が生じた。
部屋の戸をいきなり、声もかけずに開けて、郁江の母親が姿を見せたのである。嚇怒で顔色は変り、目はつりあがっていた。
「あんたたちは、いったい何をやっているんですか!?」
と、母親は鋭い声音で詰問した。怒りをいきなり叩きつけられて、平山圭子などは棒立ちになり、ただ目をぱちぱち瞬かせた。とっさに声が出てこなくなってしまったのだ。
「何をやってるんです!? いいなさい!!」
母親の声は耳を割くばかりであった。
「あたしはただ......郁江さんに光のエネルギーを入れていただけで......」
市枝すらへどもどし、口ごもった。こうした荒れた感情には場慣れしているはずの市枝さえ、不意を衝かれてうわずってしまったのだった。
「光のエネルギー!? 何事ですか、それは!? うちの娘に妙なお呪いまがいのことをするのはやめなさい! なんですか、いかがわしい真似を平気で......いっておきますが、うちの娘はあんたがたとつきあうようになってから、おかしくなってしまったんですよ! あんたがたの教祖の東丈とかいう人にいっといて下さい! うちの娘はもう一切お宅の教団とは関りを持たないからって! さあ、帰って下さい! 帰りなさいよ!」
母親は凄まじい早さで一息にまくしたてた。言葉をさしはさむ余地もなかった。最初から怒りを発しており、いいたいことだけをまくしたてて、追いだしてやろう、と固く心を決めているのだった。
「ちょっと待って下さい......」
と、市枝が口をはさもうとする。
「あたしたちは何も......」
「なんですか、いけ図々しい! 帰れといってるのが聞こえないの!? 今度来てごらん、警察を呼ぶからね! 本当になんて厚かましい連中だろう!」
いっさいの反論を許さない猛烈さでまくしたて、血相変えて地団駄踏む。誤解をとくことはとうてい許されそうもなかった。
郁江が笑いだした。体を慄わせ、腹を抱えて笑っていた。寝台の上で体が弾んでしまうほどだ。
「何がおかしいの!?」
と、母親が恐ろしい剣幕で怒鳴りつける。
「何がおかしいのよ! あんたという子はいつも親を馬鹿にして! 病気なら病院へさっさと行けばいいのに、親のいうこともきかないで、こんな連中を......こんな連中を......」
母親はせいせいと息を切らし、絶句した。それなり言葉が続いて出てこなくなってしまった。
「親を親とも思わずに......この親不孝者......たんと親を馬鹿にしてるといい......親をどれだけいじめれば気がすむの!!」
「別に馬鹿になんかしていないわよ」
と、郁江はようやく笑いをおさめて、苦しげにいった。脇腹がきゅうきゅうと引き攣るのを手で抑えながら、身を起こす。
「あたしはだれも馬鹿になんかしてやしないわよ。それはあなたの劣等感じゃないの?」
いつもの郁江の調子に戻っていた。論客になった郁江と口論するのは、愚の骨頂だと平山圭子も市枝も知っている。しかし、彼らは郁江が母親をあなたと呼ぶのに目を瞠っていた。
「あなたはいつも、あたしがそうやって自分をいじめるとか馬鹿にするとかいって、一人でいきりたっているのね。とんでもない間違いだわ。あたしはそんなことにちっとも興味がないんだから。あなたをいつまでもいじめてみたってなんにもならないじゃないの。被害者意識が甚しすぎるわ。第一、あたしは当てこすりとか皮肉はいわないタチよ。面と向って本質的なことだけをいつもいってきたつもりだけど」
郁江はにこりともしないでいった。奇妙なことに、母親は娘が正面から立向ってくると、たじたじとなり、空気が抜けてしまったようになった。満面の怒気がどこかへ消え去ってしまった。
「いいわよ、あんたがそう出るなら......」
と、母親は狼狽を現わし、退却の色を濃厚に見せていった。娘を恐れているのがよくわかった。

「好きなようにすればいいでしょ。どうせ親がなんといおうと頭から馬鹿にしてかかっているんだから......もう何もいわないわよ! 好きなだけ勝手なことをやればいいでしょ。本当にいったい何を考えてるんだか、母さんは何もわからない! あんたはこの家で一番偉いんだから、なんなりとどうぞご勝手に!」
激昂が引くと、狼狽と不安、怖れが入れかわったようである。にわかにいうことはじめじめして愚痴っぽくなった。
「この人たちは、あたしのお友達よ。大事なお友達なのよ」
と、郁江はへんに穏やかにいった。
「その大事なお友達に向って、ひどいことをいわないでもらいたいの。あたしの身を心配してわざわざ来てくれたのに、あんまり失礼すぎやしない?」
「............」
母親は黙ってしまった。わなわなと頰肉を慄わせ、なすすべもなく棒立ちになってしまっている。一度、論難を始めた時の郁江の猛烈さを知り尽しているからであろう。
「あたしが急に元気になってしまったのが、そんなに意外? 病気ですっかり元気がなくなってしまったから、この時とばかりに挽回しようと思ったんでしょう?」
「なにをいうの。母さんはただあんたの体が心配で......」
母親は力なく反論しようとした。
「噓ばっかり。いつもいじめられてると思ってるから、やり返す機会だと思ったくせに。そのいじめられてる、馬鹿にされてるというのも、あなたの被害者意識なんだけどね。
あなたがもし、本気で心配してるなら、力ずくでもあたしを病院へ連れて行くはずじゃない? でも、いいの、そんなことは......あたしには東君やこの人たちみたいな素晴らしいお友達がいるってことが、あなたにわかってもらえればいいの。
あなたは東君や会のことを、いかがわしいとか邪教とかさんざん悪口をついてくれたけど、べつに怨みに思ってるわけじゃないわ。ただあなたや父さんのことをいじめて楽しんでるなんて、とんでもない思い違いだし、そんなことはありっこないの。どんなことでも話せるし、相談できる大事な友達がいるというのに、家族の中でいじいじして楽しんでるわけがないでしょ? そう思わない......」
「............」
明らかに母親にとっては痛烈な発言がなされているようであった。彼女は顔色を変え、ぶるぶる慄えながら立っていた。捨てぜりふを投げて立去ることもできず、その場に釘付けにされてしまったようだった。
「あんた、そんな、家庭の恥になるようなことを、外でぺらぺらと......」
「そう、ウチには恥が沢山あるものね」
と、郁江は平然といい、母親ははっきりとだれの目にも歴然と動揺に色青ざめた。
「でも、心配しなくてもいいわ。今のところはまだだれにも話していないし、話す予定もないから。それよりもあなたは仮にも親でしょう。子供のあたしの友人がいる前で、もう少し常識というものをわきまえて、きちんと振舞ってもらえないかしら? べつにあたしが過大な要求をしているわけでもなんでもないでしょう......ごく普通にしていてもらいたいの。わけもわからず頭ごなしに金切声でどなりつけるなんて、あまりにも非常識だし、いい大人がすることじゃないでしょう」
娘が母親にきく口調ではなかった。懇々と諭すという調子であり、それがこの不調和な母親と娘には、妙にふさわしくもあった。
「でも、これ以上あなたをとがめだてしても仕方がないから、これでよすわ。でも、お友達に失礼なことがあってはならないし、それだけはやめてほしいの。とにかく、あたしや会に関して、あなたが心配することはなにもないし、あれこれ狭い了見でいってもらいたくないわ。父さんに伝えてもらいたいのだけど、なにか尋きたいことがあるのなら、きちんと申し開きするから、といっておいてくれないかしら」
「あんたはいつも、その調子なんだから」
と母親はいった。もはや感情が激発して猛り狂っている風ではなく、愚痴っぽい老女のようにかきくどく、といった印象であった。郁江に対して引け目が沢山ありすぎて、どうしても卑しく媚びるという調子になってしまうのだった。
母親がくどくどと何やらいうのを、郁江は眉根にしわを寄せて聞いていた。
「もう大丈夫だから、向うへ行ってくれない。あたしがここで何をしていようが、それはあたしにとって一番大切なことなんだから、絶対に邪魔をしないで。それから失礼を働いたあたしのお友達にちゃんと無礼を詫びて行ってちょうだい」
郁江は毅然としていった。相手が母親であることを考えると、いささか毅然としすぎていた。まるで歳下の娘の不心得をたしなめるような態度だったからだ。
市枝たちは名状しがたい驚異の念に打たれて、口をぽかんと開けたまま、母娘の遣り取りを聞いていた。この耳で聞いても、信じられない異様な驚きだった。
母親が打って変ったように、しおしおと、一同に詫びて引き取って行った。まるで憑き物が落ちでもしたような変り方で、これも一同を驚愕させるのに充分であった。
この家庭ではなにがどうなっているのか、さっぱりわからなかった。理解できるのは、郁江が権威者として一家の上に君臨しているという事実だけであった。
「あんた、いつもお母さんにあんな口をきくの?」
と、市枝が息を詰めたような声で尋ねた。啞然としてしまったのだ。
「気にしないで。見苦しいところをお目にかけちゃったけど、あれだけきちんといっておけば、大丈夫だと思うから」
郁江はいつもの調子で平然といった。顔色もぐっとよくなり、生気が甦ってきていた。驚くべき変化というべきであった。ただ一度の心霊治療の効果とは、だれにも信じられないであろう。無気味な消耗の気配が拭ったように消え去っている。
「でも、自分の母親でしょう? あんなひどいことをいっていいの?」
市枝は納得がいかないようであった。
「時々、自分が親だってことを忘れるんじゃないかな? というより、親らしくきちんと振舞うことができないみたい」
郁江は〝こたえない〟本領を発揮していった。
「だから、きびしいことをいって思いださせてやらなきゃならないのよ。でないと、ますます幼稚になってくだらないことばかりいいだすから」
「でも、正直いって、あんまりいい気持しなかった。仮にも親だったら、あんな口をきかない方がいいんじゃない?」
市枝は直情ぶりを露わにいった。
「ウチはとっても複雑にできてるの。それはわかるでしょ? 親が親だから、あたしみたいに親を親とも思わない子供ができるのかもね。でも、もう見苦しいところは見せないですむと思うわ」
郁江は意外なほど反撥を示さずに、おとなしくいった。
「ごめん。余計な口をきいて......あたしって古いんだね。親はやっぱり親なんて思っちゃうもんだから......」
「そうね、あんたは意外に古風なのね。あたしは逆立ちしても、そうはなれないけど......」
と、郁江はやや苦しげにいった。
「非道な親でも、やっぱり親は親なんて思えない。もうやめましょう、こんな話。きっと東君も呆れてるんじゃないかな?」
「まだ、全部終ったわけじゃないって......先生がそういってる」
明雄は、いさかいが過ぎ去ったのでほっとしたようにいった。繊細な感受性を持ったこの子供には、親子のいさかいは堪えがたいものであり、その間じっと身をすくめていたのだった。郁江は詫びるように手を伸ばして、子供の髪を撫ぜた。
「そうでしょうね。いくらなんだって、癌が簡単に治るわけないもの」
「明雄を連れて、毎日来るわ」
と、市枝が真剣にいった。
「医者にだめだって見放された明雄だって治ったんだもの。あんただって絶対に治ると思う」
「心配しないで。おとなしく入院もするし、手術だって受けるわ。今まではそんな気になれなかったんだけど、あんたたちのおかげで気持が変って、とっても楽になったの。手術を受けて死ぬくらいなら、このままでと思っていたんだけど......」
郁江は別人のように柔らかさを見せていた。
「もうなにが起きたって平気」
「黒いボールを抜き取っちゃったんだから、絶対に大丈夫。医者になんかかからなくたって必ずよくなるわ」
市枝は熱心にいった。
「だけど、その黒いボールって、どうやって入ったんだろう? 怒りや怨みや憎しみの想念のボールだといってたけど、やっぱりあたし自身の心が造ったものなのかしら?」
「その原因は今にわかるって......一日のうちで特に気分が悪くなる時間はないか......先生がそう尋いてる」
明雄が伝達し、郁江は首をかしげた。
「そうね......やっぱり午前二時ごろかしらね。とても気分が悪くなって、ぞくぞく悪寒がしてくるの。それで、もしかしたら風邪かと思ったんだけど......でも、なぜそんなことがわかったのかしら?」
不思議そうな顔をしていた。
「それが何か関係あるの?」
「とても関係があるって......先生にはわかるんだって、いってる。今度は午前二時に何が起きるか知りたいって......」
「だって、午前二時までまだ五時間以上もあるわ」
と、郁江が抗議するようにいった。
「明雄が疲れてしまうわ。まだ体がよくなったといっても日が浅いんだから」
「今夜でなくてもいいって......でも、午前二時という時刻に気をつけなければいけない。なぜか、今にわかる......」
「午前二時って、丑の刻でしょ? なにか関係あるのかしら?」
と、郁江が面白そうにいった。もはや自分の病気のことなど忘れてしまったようだった。
「先生とお遭いして出直してくる」
市枝は思い詰めた面持だった。
「だから、心配しないで、まかしておいて。絶対に郁江さんの病気は治ると思う。きっと黒い想念のボールを送ってくる奴がいるのよ、午前二時になると」
市枝自身、自分の言葉に驚いたようだった。
「でも、そんな気がするんだ。もし、相手がだれかわかれば、郁江さんの病気の原因が取り除けるわ。勘だけどね......」
「............」
郁江は無言で考えこんでいた。驚きの色はなかった。むしろ腑に落ちたという表情だった。
「じゃ、午前二時に待っていれば、だれか、郁江さんを病気にしている相手がわかるということなの?」
と、平山圭子がおずおずと尋ねた。
「そう。そういうわけ。あの黒いボールをどうやってかしらないけど、送ってくる奴がいるのよね。そいつを先生が摑まえて、追い払ってしまうってことじゃないかな......」
「だれか郁江さんに向けて、丑の刻詣りでもやってる人がいるのかしら」
平山圭子は身震いしながらいった。声まで頼りなく慄えていた。ぞくぞくする冷感が身裡に戻ってきたのであろう。
「でも、郁江さんをそんなに怨んでる人間っているかしら? 丑の刻詣りまでして執念を燃やしている人間が......郁江さんはそんなに怨まれる人じゃないわ」
「だから、それを今度突き止めるのよ。とにかくあんな恐ろしい黒いボールが送られてきていることは確かなんだから......」
市枝は、沈黙している郁江の表情には気付かずに強くいった。
「明雄がきっと相手を突き止めるわ。だから、郁江さん、心配しないで。今夜はこれで帰るけど、先生と打合せして、次に来る晩をすぐに決めるから」
郁江はうなずいたが、やはり何もいわなかった。
「これで帰るけど、郁江さん気をつけてね」
と、平山圭子が慄え声でいった。鎮静剤が要りそうな顔色だった。
「なにかお守りでもあるといいんだけど......」
「お守りなんかなくたって、先生が守ってくださってるわ。だって明雄をここによこしたのも先生だもの。先生にはもうきっと何もかもわかってらっしゃるのよ」
市枝は自信をこめて断言した。
「先生の心はいつもあんたといっしょにあるんじゃない。それを忘れないで」
彼女は寝台の上の明雄を抱きあげながらいった。
「明雄を見て。この子は先生を絶対に信じきってる。だから、先生の〝力〟を全身全霊でキャッチすることができるようになったのよ。あんただって同じことができるんじゃない」
「それは市枝さんも同じじゃないの?」
「あたしはだめ。心が汚れきってるもの。だって物凄く悪だったの、あたし。そのころのことを考えると、夜も眠れなくなるほど後悔する」
「そんなこと、気にしない方がいいわよ」
と、郁江はあっさりといった。
「東君もきっと気にしてないわよ。彼ってあんたにとっても関心を持ってるみたい。彼の知らないタイプの女の子だしね。だから、市枝さんらしさを失くさない方がいいと思うな。あんまりいい娘になっちゃうと興醒めよ、きっと。その点じゃあたしもそうだけど」
「あたしはどう転んでもいい娘になんかなれっこないけどね......先生にだけは迷惑をかけたくないんだ。そう心から思ってる......だから会には入れない」
「そんなこと、気にする必要ないのに......」
と、平山圭子が心からいった。
「だれも気にしたりしないと思うわ。みんな大歓迎するわ」
「やっぱりやめとくわ......だって、いつマスコミがほじくり返しにかかるかしれないし。そんなことになったら、先生に大迷惑がかかるもの。そんなことは考えただけでも堪えられない......外から先生を見まもっていた方がいい」
市枝はきっぱりといった。二の句を継がせぬ強い調子だった。
「あたしは郁江さんや圭子さんたちとは全然違うもの。とてもいっしょにやって行くことなんかできないわ。やっぱり過去があるって大変なことなのよ」
「だとしても、東君のお手伝いをする意志はあるんでしょう?」
「あたしが出来なくても明雄がする。その時は明雄を仲間にしてやってね、お願い」
と、市枝は明雄を両腕に抱きあげながらいった。市枝らしくもない情感のこもった声音であった。
郁江は部屋着を着て、市枝らを階下まで送りに出た。玄関ホールには、母親の姿は見えず、背広を着たままの父親が一行を迎えた。帰宅して着替えもせず、待っていたのだろう。
「郁江の父親です。先程はこれの母親がご無礼申し上げたそうで、まことに申しわけありませんでした」
さすがに父親は社会的訓練を受けていない母親と異って世慣れていた。感情は表に現わさない。
「郁江が大変お世話になりましたようで......」
恰幅のいい人物であった。いかにも高級官僚といった臭いがある。
「いいのよ、父さん、無理しないで」
と、郁江がいった。母親に対するほどの容赦なさはなく、むしろ思いやりを感じさせた。
「どう、父さん。ずいぶん元気になったでしょ? お友達が励ましに来てくれたおかげよ」
「おお......」
と、父親はいった。信じがたいという目で娘を見ている。確かに先刻の郁江とは見違えるばかりに血色がよく、精気を漂わせていた。重病の無気味な気配は拭い去ったように消え失せている。
「本当に元気そうだ......」
「お友達にお礼をいってちょうだい。それだけのことはあるでしょ」
郁江は父親に対しては、突っかかるような口はきかなかった。無遠慮で彼女独得の露悪的ないい廻しだが、毒気はない。全て母親に対する時と大違いであった。
父親が改まって頭頂の薄くなった頭を下げ、礼を述べ始めた。市枝たちが応対に窮するほどの丁重さであった。
「父さんはあんまり人に頭を下げないのよね。なにしろ官僚の偉いさんだし、禿げてるところを他人に見せたくないから」
と、郁江が平気でいった。父親は苦笑いしたが、腹を立てる気配もなかった。娘の前に鞠躬如としている気配があり、家における権威は郁江が一枚上だと市枝たちにも感じさせるところがあった。
「彼女たちは東君のお友達なのよ。今夜は東君のお使いで来てくれたの」
郁江はさりげなくいい、市枝たちをはっとさせた。しかし、父親はさすがに男親だけあって、動揺は見せなかった。
「この男の子は明雄といって、東君の弟子なの。医者に見放されてもう死ぬしかないといわれてた子で、東君に治してもらったの。この前話したでしょ。あの子よ」
「おお、そうか......」
と、それだけ父親はいった。
「この子もまた、東君と同じように素晴らしい〝力〟を持っているの。明雄は東君の使いで、あたしの病気を治しに来てくれたのよ。母さんがひどく誤解して、失礼なことをさんざんいったんだけど」
「郁、お前はやっぱり病気だったのか!?」
父親はひどくショックを受けたようにいった。
「何もいわずに閉じこもったきりで、はっきりとはわからなかったが、あんまり瘦せて顔色が悪いと聞いたので、心配しとったんだよ。病気なら医者に診せねばなるまいと思ったが、なにぶん母さんが、不逞くされてるだけだというものでな......」
「確かに母さんはそう思ったんでしょうよ」
と、郁江がいった。
「不逞くされ娘がいつもの癖を出しただけだってね」
他人の家庭のいざこざの渦中に入りこむことほど居心地の悪いものはない。平山圭子など消え入りそうな風情だった。居堪まれないのだ。
「あたし、失礼するわ」
と、市枝が気を取り直していった。
「待ってよ、市枝さん。今のことを父さんによく説明しておかなきゃ、またゴタゴタが後で起こるから、ちょっと我慢して、お願い。父さんには本当のことを話しておくわ」
「本当のこと?」
「ええ。実をいうと......こんないい方はおかしいけど、あたし、癌なの」
父親は顔の真中を痛打されたような表情になった。白っぽく粉を吹いてしまったような顔色であった。
「子宮癌なの。大田の慶子さん、あの人とそっくり同じ症状。しこりは大きいし、出血はひどいし、これは入院して手術しても慶子さんの二の舞いだなと思ったから、あたし黙ってた」
「なぜ......どうしてそんな大変なことを......」
父親は呻くようにいった。顔中にプツプツと大粒の汗が滲み出してくる。
「早く医者に診せなければ、手遅れになってしまう......」
「どうせ結果はわかっていたから、手術なんかで体を切り刻まれたくなかった。慶子さんが病院で死んだのは、十八の時だった。あたしと一つしか違わないわ......」
「しかし、そんな無茶な、お前......」
父親は真蒼になり、わなわな慄え始めた。卒倒しかねない顔色になってきた。
「あたし、だれにも知らせなかった。風邪だといって閉じこもっていたの。でも、東君はさすがね。ちゃんとあたしの病気が癌だとわかって、この子を送ってきてくれたの。この子がいうには、大きな黒いボールがあたしの子宮の中に入っていたんだってよ。それを追い払ってくれたから、たぶん病気は治ると思うわ。自分で触っても、しこりがうんと小さくなったのがわかるもの」
「しかし、郁......医者へ行かなければ......」
父親が焦りながら、いった。
「あたしの病気は医者じゃ治らないの。慶子さんと同じよ。あたしが体の中をみんなえぐりとられて死ぬなんて、父さんも厭でしょう? この子も、進行性筋萎縮症という難病で、医者に見放されてたの。それを東君が手も触れないで治しちゃったのよ。東君はつまり、そんな凄い〝力〟の持主なの。父さんはあたしの話を聞いても信じなかったけどね。でも、今は信じざるを得ないんじゃないかしら? あたしの子宮癌が治れば......そうよね?」
父親の表情はさまざまに変化し、翻転していた。彼が足許を頼りなくするほどの大きな衝撃の虜になっていることは事実だった。郁江が手を出して支えなければ、よろめき倒れてしまったかもしれなかった。平山圭子が手を貸して父親を支え、立たせておくことに成功した。
「この子が、あたしの癌を治してくれるから心配しないで。この子は、遠く離れていても東君の送ってくるパワーを受けて、いわば中継することができるの。それがどんなに素晴らしい奇蹟か、父さんにもそのうちはっきりとわかると思うわ」
「しかし、病院で診察を受けなければ......」
父親は苦しみもがくように、力を振り絞っていった。
「検査は受ける。でも、心霊治療がきちんと終った後にね」
「そんなことをして、手遅れになったらどうする......」
「もうどうせ手遅れなのよ。二、三日遅れたって、どうってことないでしょう。それに入院したら最後、即手術よ。病院が心霊治療を許してくれるはずがないわ。幾度開腹手術を受けても、どんどん転移して行くのよ」
「しかし......」
「あたしが慶子さんみたいになって死ぬの、厭でしょう? 入院したら必ずそうなるわよ。よれよれの老婆みたいになって死ぬなんてご免だわ。そう思わない?」
父親はもはや何もいえなかった。娘を溺愛していて、娘のいいなりに支配されていることが一目瞭然であった。
「病院へは必ず行くわ。でも今じゃなくて、もう大丈夫だと確信ができてから。東君が行ってもいいと許可をくれたら行くわ」
「その東君を、郁はそんなに信じているのか?」
父親は身を立て直し、手の甲で額の汗を押し拭いながら、辛うじていった。
「彼が、お前の癌を治してくれる、と本気で信じているんだな?」
「彼には本当にそれが出来るのよ。イエス・キリストが業病の患者たちを、手も触れずに治すようなことが、東君にもできるの。この子供がその証人だわ。今度はあたしの番なのよ。父さんにも今に、奇蹟が自分の娘の身に起きたということがはっきりわかるわ。父さんは今、目の前に奇蹟を見ているのよ!」
「その東君に逢ってみたいものだ......」
と、父親は呻くようにいった。
「彼がそんなに素晴らしい人間なら、父さんも是非遭わねばならん。彼が郁の命の恩人だというなら、なおさらのことだ......」
「そうよ。彼はあたしの命の恩人なのよ。どんなにお礼をいっても、いい足りないくらいだわ」
と、郁江は晴ればれといった。
「彼がただ病人を治すだけじゃなくて、もっともっと大きな存在だということが、父さんにもわかると思うわ。だから、母さんを説得するのは、父さんの責任よ。母さんをあんなにわからず屋にしてしまったのは、やっぱり父さんの責任なんだから......さもないと東君を父さんに引き合わせられないもの」
こうなると、郁江の独壇場であった。父親がなぜ娘のいいなりになっているのか、だれの目にも明らかであった。郁江は目がくらむほどの魅力も持った生来の雄弁家であり、その威力はとくに男性において顕著であることが明白だったのだ......
12
サイキカルな交感には余韻というものがある。超常感覚の世界から脱して現実へ復帰した後も、感覚のズレがあり、即座には補整できにくい。
杉村由紀は汗まみれになって座っていた。こめかみから汗が条を曳いて流れ降っている。全身全霊をあげて、明雄との遠感の交信に打ちこんでいた余波だ。それがどれだけ精神集中度を必要とするか、余人には想像もつかないものがあるようであった。
由紀はハンカチを探ることも思いつかないようにぼんやりと座りこんでいた。丈が声をかけても、急には反応できず、ぼんやりと見返すだけである。
「ご苦労さまでした......」
と、丈はくり返していった。しばらくしてその意味がやっと浸透したように、由紀は大きく目を見開き、しきりに瞬きした。
「すみません。なんだか急に気が抜けてしまって......なんだか夢を見ているみたいで......」
彼女はのろのろした口調でいった。
「ひどい汗だ」
と、丈がいった。由紀はハンドバッグを開けてハンカチを捜した。
「あれでよかったんでしょうか? なんだかあたくし、自信がなくて」
「素晴らしかったですよ。明雄との交感も完璧でした。杉村さんの顔があの子に見えてきたくらいです。完全に杉村さんを通じて明雄にコンタクトできました。こんな、超常能力の中継が可能だとは考えたこともありませんでした。明雄と杉村さんが遠感でがっちりとコンビを組んでくれれば、僕の〝力〟はどこへでも送れるという証明です」
丈は汗もかいていなかった。真赤に上気して汗ばんでいる杉村由紀とは対称的だった。
「疲れましたか?」
「大丈夫です。少し頭がぼうっとしていますけど。今は熱くて仕方がないだけですわ」
由紀はハンカチを畳み、顔をあおぎながらいった。彼女のようにきりっとしたタイトスカートの似合う女性にはいささか艶めかしい姿態といえた。
「疲れてはいないはずです。少し僕が生体エネルギーを送りすぎたのかもしれません。あのブラック・ボールとの対決の時はちょっと危なかった。吹き飛ばしてしまうのにレベルアップしたものですから。窓を開けてあげましょう」
丈は立ち上り、背後の小さな窓を細目に開けた。たちまち寒風が吹きこんでくる。それを受けても、杉村由紀の顔の火照りは消えなかった。体内でかっかと高温で燃え盛っているものがあるようであった。
「恐れ入ります。先生にそんな、窓まで開け閉めさせてしまっては申しわけないですわ」
由紀は立上り、窓に近づきながらいった。体が汗臭いのではないかと気になった。それくらい大量に発汗したのだ。下着が膚に汗で貼りついてしまい、居心地が悪い。かといって着替を用意してきているわけでもなかった。
体が汗臭くなったことを、丈に感づかれそうな気がしてむしょうに恥しかった。丈は驚くほど敏感であり、由紀の心を読むのが巧みである。やはり彼の持つ超常感覚とは無縁ではないのであろう。
寒いのを我慢しても、汗が乾くのを選ぼうと思ったのだ。
「だめだめ。そんなことをしたら、風邪を引いてしまいますよ」
丈は窓を閉めてしまった。その心遣いが逆に恨めしかった。
「しかし、窓を開け閉めするのに、なぜ僕がPKを使わないのかと不思議に思っているんじゃないですか?」
と、丈は楽しげにいった。
「そういうことができたら便利だなあ、と思っていたでしょう? なにも立上って窓に近づいて手をかけ、よっこらしょと開けなくても、椅子に悠々と座ったまま、ちょっとPKを使えばいいのに......」
「はずれました。そんなこと、全然考えてもおりませんでした」
と、杉村由紀はいった。丈に遠感能力が乏しいのは、なぜかほっとさせるところがあった。由紀の心の細かい襞々までことごとく知られてしまうのは、いささか堪えがたいものがあるのだ。丈に対する女心はやはり、かなり複雑微妙な代物である。丈がそれらを全て見抜いてしまう力を持たないのは、一つの救いだった。
その代り、丈の黒い瞳で凝視されると狼狽を感じるのは避けられない。そんな時は、やはり丈はなにもかも看破しているのではないかという畏れの虜になってしまう。
「しかし、だれでも同じことを考えるんですよ。機械化や自動化は、その願望の現われです。けど、体を使わないと、人間の体はなまりますからね。人間の体は使うためにあるし、調子よく働かすためには、よく使いこんでおかなければならない。超能力はやはり一つの劇薬ですよ。日常的に使用してはならないものです」
杉村由紀は爽かな気分になってきた。体の汗臭さなど、どこかへ消えてしまったようだった。それどころか、芳香がどこからともなく漂ってくるようである。化粧品の匂いとは異るいい香りであった。
「でも、先生は、超能力は磨かなければ光らないとおっしゃいましたわ。いつも遊ばしておくわけにはいかないのではないでしょうか?」
「もちろん、必要とあれば、使用するのは自由です。しかし、自分のためには決して使わないという倫理観がほしい。超能力は他人のためのもので、自己の利益のためにあるのではない。しかし、杉村さんには何度もいう必要はないでしょう」
「他人のためなら、先生も超能力をいつも磨いていらっしゃるのではありませんの?」
杉村由紀は部屋中に漂っているいい香りを、鼻孔をぴくつかせて嗅ぎながらいった。
「いい匂い......とても爽やかな気分になりました。おかげさまで」
丈はそしらぬ顔をしていた。しかし、どうやって丈がいい香りを漂わしたのか、由紀には突きとめられなかった。ひょっとしたら、由紀の悩みに感応して、意志の力で芳香を創りだしてしまったのかもしれない。丈の持てる〝力〟には不可解な謎が沢山あるらしいのだ。
「人間の想念には物質化能力があるんです」
と、丈はさりげなくいった。
「あの黒いボールは、まぎれもなく幻魔の〝力〟が造りあげたものだが、大本は人間の想念です。幻魔は人間の毒念にエネルギーを与え、いわば増幅することができるのだ、とわかりました。つまり、江田四朗は幻魔に魂を売って、幻魔の〝力〟を受け容れたんです」
「では、郁江さんの子宮......の中に黒い毒念のボールを入れたのは、江田四朗なんでしょうか?」
杉村由紀は露骨な言葉を使いかけて、いそいでいい直した。東丈が見かけ通りの美しい十七歳の少年ではありえないとわかってはいるが、それでも眼前にしていると、微妙な抑制や遠慮が働いてしまうのだった。
「江田四朗の差し金かもしれませんが、やったのは彼自身ではないと思います」
「では、だれがそんなことを......」
「それを今度は確かめるんです。もう黒いボールは出しましたから、そんなに焦ることはありません。午前二時の訪問者を待てばわかることです」
丈は落着いていったが、遠感能力がハイレベルにある杉村由紀は、彼が言葉通りの平静な心境にないことに気付いていた。
「でも、あまりお気が進まないのではありませんか?」
「どうしてです? 杉村さんも黒いボールを引き抜いた時の化物の面を見たでしょう? あれが〝幻魔〟なんです。あんな奴を放置しておけますか......〝幻魔〟はこうした呪いの想念の物質化現象で、われわれの仲間に攻略をかけてきている。こっちがやられっ放しでいないこと、それをはね返す力があることを思い知らせてやらなければならない。それなのに、僕が臆するはずはないでしょう......
われわれがそんな攻勢を苦にもしないと相手にわからせてやらなければ、犠牲者が続出しますよ。ここで打ち切ってしまわなければならないんです」
丈は自分自身に向っていいきかせているようであり、杉村由紀がそれに気がつかないはずはなかった。口では否定しているが、明らかに由紀の洞察した通り、躊躇と苦渋があった。井沢郁江を救うために、それを押し切って断行することは疑うべくもないが、それでもなお丈が苦衷を抱いていること、それを明かそうとしないことに対して、杉村由紀が無関心でいることはできなかった。
丈ともあろう人間が恐れているのである。それがゆえに彼は心の内を、杉村由紀に明かすことができないのだった。それらは双つながらに由紀にとって衝撃的であった。
丈のような人間は、恐れてはならないのだ、と彼女はいいたかった。彼が恐れるかぎり、彼に従う人間たちはだれ一人恐怖から自由でいることはできなくなってしまうではないか。
が、丈が口を閉して、拒んでいる以上、秘書の杉村由紀には何もいえなかった。丈が独りで苦しんでいる時、秘書といえども立ち入ることはできないのだ。それは彼自身が選びとったことだからだ。
どんなに助力したくても、それは役に立たない。丈の苦衷を解決するのに、秘書は無力である。だれよりも大事な人間が苦しんでいるさまを傍観しながら、手も足も出せないのだ。
由紀は慄然とせざるを得なかった。丈と彼女の間は、普通のボスと秘書の関係ではなかった。世間一般の事務的な雇傭関係ではない。魂で結ばれた同志的な間柄であった。しかし、それでもなお、由紀が丈の心の裡に踏み入ることは許されていないのだった。それは禁忌だったのだ。
しかし、杉村由紀が深いショックを受けたのは、禁忌が存在するということではなく、この先二人の間がどんなに近しくなったとしても、丈の苦しみに対して彼女が一指も触れることはできないという冷酷な事実の発見であった。
丈が由紀に対して隠しだてをすることが問題なのではない。彼の苦しみは巨大すぎて、他人が救済したり慰めたりすることがかなわないものだ、と不意に気付いたからであった。
彼女は、突如、丈が限りなく遠い存在と化してしまうのを感じた。沈黙している丈は美しくひたすら神秘的で、その心の内を忖度することは人間には不可能ではないかと思えるほどであった。丈がたとえ恐れているにしても、それは普通の人間の感じる恐れとは全く異質の感情だ、と杉村由紀は思った。
彼は並みの人間が決して見ようとしない光景を真正面から見据えようとしているのだ。それは恐るべき非日常の光景であり、だれもが意識的に目をそむけ、心を他にそらしてしまう、凶々しい地球破滅の光景であるに違いなかった。
13
一九六七年が最後の秒読みに入る段階に入っても、丈の多忙さは小揺ぎもしない有様であった。
面会を求める人々は更に急増し、丈はできる限りの時間を割いて、事にあたらねばならなかった。人と逢うという仕事は複雑で変化に富んでおり、魅力がないとはいえなかったが、なにぶん時間を取られすぎた。もっぱら社会的な影響力を備える人々が対談の相手であり、向うが辞を低くして丈の教示を乞うという姿勢で来ている以上、時間が予定を超過したということであっさり追い返すわけにもいかなかった。
彼らは例外なく丈に魅了されたように、己れのスケジュールさえも忘れ、なかなか腰を上げようとはしないからだった。
丈は、自分よりはるかに歳上であり、社会的に大きな存在である知名人たちが、それほどまでに頭をさげて、自分に逢いたがるのか、しっくりこないところがあった。
よくある霊能者と同一視されているのではないかという気がしていたからだった。しかし、そうした一種の霊的術者として丈に関心を抱くのは例外的存在であるということも、場数を踏むうちにわかってきた。
丈が霊的な話を一切しなくても、また相手の誘い水に応じなくても、彼らは魅了されてしまうようであった。丈の超常識的な〝力〟を見たさにやってきた者はごく少数といえた。
丈はそれが不審でならなかった。相手が丈の〝力〟以外のものに魅力を覚えるという事実がぴんとこないからだった。その点、丈にはナルシシズムが欠如していたのである。他人が自分の人柄に魅せられるなど、彼にとりとうてい信じがたいことだったのだ。
有名な音楽家や画家、学者、政治家、実業家と、丈は一日にたて続けに数人というスケジュールで逢い続けた。面会した人間が、再度の対話を求めてくるだけでなく、友人知己を紹介してくるので、容易ならぬ先行を思わせた。
いくら逢ってもきりがないのだ。明くる一九六八年は丈にとって、あらゆるプライベートな時間を失う年であるかもしれなかった。多忙なのは覚悟の上だが、はたしてどれだけの成果を上げられるかは想像もつかなかった。
「逢う前は物凄く緊張するんだ」
と、丈は秘書の杉村由紀にいった。
「なにしろ有名人ばかりだし、みんな歳上で親子以上の年齢差があったりするから、こっちは口もきけないくらい、あがっちゃうんじゃないかと想像する。でも、実際に逢ってみると、普通の人なんだな」
「それは当然ですわ、相手は普通の人々なんですから」
杉村由紀がおかしそうに答える。
「いくら社会的に有名人だとしても、あの人たちは普通の人間なんですもの」
「しかし、その世界ではそれぞれ一流の立派な業績をあげている人たちなんだから、こっちはてっきり圧倒されるかと思ってた。なにしろ、弱冠十七歳のヒヨッコなんだから」
「立派な才能があって、素晴らしい業績をあげていて、貫禄もあるし、押しだしもいいですけど、ただの人間であることに変りないんです。失うものを多く持ちすぎているし、羨望や嫉妬や欲望でいつも心を苛立たせている点では、普通の人々とちっとも変りませんわ。未来になにが起こるかわからないし、人生が不安で満たされていて、死ぬのは恐ろしいし、なにか頼りになる人生の指針が欲しいわけです。不思議な目に見えない〝力〟の持主にすがろうとするのは本質的に弱いからですし、先生のように人生の目的を定めた人間とは当然迫力が違いますわ。先生はわずか十七歳でも、宇宙的真理に目覚めた、いわば覚者ですもの。きっとあの人たちは先生の前に出ると、年齢差なんか忘れてしまうのだと思います。先生とお話して、とても喜んで帰りますもの」
「僕を霊能者扱いした人もいる」
丈は苦笑した。霊感占いのつもりで丈と遭い、自分がいつ死ぬかを教えてもらおうとした実業家のことだ。丈がそんなことはしないし、できないと知ってひどく失望したものである。まったく霊媒扱いで、亡母に是非逢いたいと頼んだものだった。丈は苦笑するしかなかった。
霊媒ではないことを知ってがっかりはしたものの、その実業家は丈の人間性にはたいそう感心したようである。とうてい十七歳とは思えないと褒めちぎって帰った。しかし、とうとう丈の説く宇宙的真実はぴんとこなかったようである。
何人もいる妾の管理について、霊能者に相談を持ちかけるタイプの人物だから、それも当然といえるかもしれなかった。
「今後、あんな人物に逢ってもしょうがないな。もっとも、人間は社会的地位や肩書じゃないとわかって勉強になるけど」
丈は時間潰しをどうやって避けるかを考えなければならなかった。
「でも、先生、人と逢うお仕事はお嫌いじゃないようですわね」
杉村由紀の観察は当っていた。丈はしだいに自信をつけてきたようである。人間の外形的部分、地位や名声や貫禄やそうしたものが、内容と必ずしも一致せず、むしろ落差が大きいという発見は、今に始まったことではないが、まことに興味深いものがあった。
「面白い仕事だと思う。人との出遭いには、なにかしら神秘的なものがあるしね。次々に連鎖して思いがけない人々が引き寄せられてくるというのが、なんともいえず不思議な感じがする。だから、霊能者、占い師扱いされても、怒る気もしないけどね。そのうちに本当の仲間が現われてくるんじゃないかという気がする......杉村さんのような〝魂の仲間〟がね」
「わたくしもそれを祈ってますわ。社会的な実力のある人々が先生の同志になれば、それだけ大きくはかどりますから」
「本当は、仲間探しはもっと地味なもので、有名人と逢うことだけが能じゃないと思うんだけど......ただあの人たちが機縁になってくれるということはある。真の仲間を引き寄せる媒介者になってくれそうな気がするんだな。それに、やはり一芸に秀でた人々だから、話すことがそのまま勉強になる」

「来年はいろいろと大変な年になりそうですわ」
杉村由紀の言葉に、まったく同感であった。
「マスコミ攻勢が物凄くなりそうです。今でも、こんなに暮れが押し詰まっているのに、取材やインタヴュー申し込みがひきも切らないんですよ。今にオフィスの前に取材記者が張込みでも始めるんではないでしょうか? 先生の学校......青林学園にも押しかけるようになったら大変ですわね」
「第一、学校へ行けるかどうかわからない」
と、丈はいった。実際にその言葉通りになるような気がしていた。
「学校は休学しても、やり始めたことはやめられない。杉村さんも覚悟しておいて下さい。それから、会の基本方針だけど、来年は拡大方針はとりません。むしろ縮小します」
「えっ、縮小ですか!? というと、会員数を減らしておしまいになるんですか?」
杉村由紀が驚きの声をあげる。
事務局長の平山圭吾の驚きは、由紀のそれよりも更に大きかった。
「先生、今一日の入会希望者は四十人もいるんですよ。講演会の直後は百何十人もいて、それから五日もたつのに、まだそんなに入会希望者がいるんです。これからどんなに増えるかわかりません。講演会をやるたびに、団塊をなして殺到してくるんじゃないかと思いますが......それでも縮小方針をお取りになるんですか? つまり、いまいる会員すら減らすというわけで、入会希望はいっさい認めないとおっしゃるのですか?」
平山は呆然として、額の汗をハンカチで拭いていた。地声が大きいので、秘書室の娘の圭子が心配そうな顔を覗かせていた。
「前にもお話したように、僕は会を大きくするつもりはありません。規模は小さくても、筋金入りの会員だけで固めたいんです。そのためには、現在の会でもまだ水肥りだし、人数が多すぎます」
「それはよくわかりますが、しかし、先生、これだけ大人数にのぼる入会希望者になんといってお断りすればいいんですか?」
平山は困惑しきって首を振った。
「会員募集はしていないといえばいいのです。現在の会員もできるだけ辞めて行くような方針を取るつもりです」
「先生......それはちと厳しすぎるのではないですか?」
「少しも厳しくありません。今までが甘すぎたのです。その証拠に、僕がもっとも信頼する助力者たちの多くは会員外の人たちです。そんなことであれば、会員などなんの意味もないじゃないですか。違いますか、平山さん?」
「それはおっしゃる通りです」
平山は汗を拭いていた。
「前にもいいましたが、会は少数精鋭でいいんです。今後は現在の会員に対して、更に厳しくするつもりです。それでも辞めない人々にだけ残ってもらいます。新入会員はいっさい取りません。ただし、それなりの努力が見られる場合は別です」
「別といいますと......?」
「会員は募集していないというので、すぐに諦めてしまう人々は論外ということです。どうしても入りたい、ともに歩みたいという熱意......僕にいわせれば、覚悟のある人間だけ、特に迎え入れるということです。今後、会には大きな試練があります。試練を受ける覚悟がない人たちをいっしょに連れて行くのは、かえって無慈悲です。わかりますか、僕のいわんとすることが......?」
「試練と申しますと、どういうことですか?」
平山には、丈の意味するところが理解を超えているようだった。無理もないことだった。彼はまだ江田四朗の脅威は知らされていない。丈は平山圭子にも口止めしているからだ。
「現在の状態からは、とうてい考えられないようなことが続々と起こります」
「ははあ......」
平山は不安そうな顔になった。
「マスコミに叩かれるとか、そういうことでしょうか?」
大衆週刊誌に書きたてられたことが、心理外傷になっているようだった。商売人としては海千山千だが、まったくマスコミ慣れしていない。
「それもあります。とにかく、何が起こっても驚かず、泰然としているだけの覚悟が会員の一人一人に望ましいんです。しかし、現状はまったくその逆ですからね」
「では、今来ている入会申込みは全部ダメというわけですね」
平山は腑に落ちないようであった。数百名の入会申込者をあっさり袖にすることが、もったいなくもあるし、相手に気の毒でもあるのだろう。丈の考えを理解するのは容易ではなさそうであった。
「そうです。新入会員は一切受け容れません。平山さんにはピンとこないかもしれませんが、僕は会を解散しようと一時は考えたんですよ」
「えっ」
平山は口をぽかんと開けて、丈の顔を見詰めた。利に敏そうな顔が一瞬呆けたようになってしまった。
「ど、どうしてですか、先生!? いったいどんなお気に入らないことがあったんですか!?」
平山はせきこんでいった。ようやく丈の決心が容易ならないことがじんわりと頭にしみこんできたようだった。
「お気に入らない点はいくらでも改めますが、先生、もう以前のようにだらしないルーズな連中は居なくなりましたし、これから心をひき締めて大発展と思っていましたが......いったいなんで、またいきなりそのようなお気持に?」
「前から考えていたことです。会が水ぶくれの状態になることに対して、大きな危惧を覚えていたんです」
「それはわかります、先生。わかりますが、あまりにも唐突すぎて......講演会は大成功だったし、先生は有名人たちと毎日逢っておられる......いや有名、無名を問わず、先生にお目にかかりたいという人々は引きも切りません。先生のお説きになることに共鳴して、人々はどんどん集まってきておりますし、先生とともに歩みたいという願いを持った人々はますます増加する一途を辿っていくはずですが、今となってそれを全部閉めだし、門前払いというのは、あまりにも、なんと申しますか、冷たい仕打では......」
「冷たくはない、その反対です。会には入らないが、僕の大事な助力者が何人もいることをご存知でしょう。だから、会に入る入らないは問題じゃないのです。そんなことは形式的なことにしかすぎません。しかし、会の現状から見て、まだまだ問題は多すぎます。会を推進する力とはならず、反対に足を引張る会員たちが大部分です。僕はそういう人たちがきちんと自覚できないならば、早く辞めて行ってほしいのです」
「そんな、先生、会から追い出すなんて、殺生な......」
平山は哀願調でいった。どうしても、丈のいうことが納得できないようであった。江田四朗のような、恐るべき幻魔の支配下にある敵対者の存在を知らないのだから、丈の決心があまりにも過激だと思うのはいたしかたないといえるだろう。
しかし、今はまだ平山圭吾に全てを打明けるべき時期ではない、と丈は判断していた。平山自身、覚悟ができているわけではない。マスコミ問題でキリキリ舞いを演じているようでは、幻魔が攻勢に移った事実を知れば、いっぺんに怯気づいてしまうであろう。
なにものも恐れない覚悟を、平山に要求するのは無理だ、と丈は感じていたのだ。
「今に、辞めるべき者は自分から辞めて行きますよ」
と、丈は無表情にいった。
「こっちから追いだすわけではありません。ごく自然に分離して行くでしょう。だから、平山さんが心配なさるようなことはありません。そして何事が起こっても動じない、不動の心を持った人々だけが残ります。それが僕の求めていることなんです。平山さん、僕は決して冷たい仕打を会員たちに向って加えるつもりはないんですよ」
「それは充分わかっておりますが、難儀ですなあ......あれだけの数の入会希望者に冷たい門前払いとは......」
平山はすっかりしょげかえっていた。
「しかし、会を解散するということにしてもいいんですよ。それならば入会も退会もなくなりますからね」
「そ、それはちょっと待って下さい!」
丈がまんざら脅しでもなさそうに、さりげなくいう言葉を聞いて、平山はいたく狼狽した。それが丈の本心だということに感づいたようであった。
会を解散されては、後援者である平山の面子は丸潰れになる。今や丈の後援者であることは平山の誇りであり、また生甲斐になってきていたのだ。
これだけ大きく育ってきた丈があっさりと会を解散するなど、信じがたいことだが、また丈だからこそやりかねなかったのだ。
丈は名声、社会的地位、権力、金、多くの人々が求めてやまぬものに対して、少しも執着を持っていない。よほどの大物である証拠だった。天命を受けた救世主であっても少しも不思議はないのだ。
「わかりました! 先生、あまりそういっぺんに、短兵急におなりにならないで下さい、お願いします!」
「解散するとはいっていません。その方が望ましいと思ってますが......その代りに、会を縮小の方向に持って行こうとしているわけです。どのような方法をとるか、それはいずれゆっくりお話します」
「よくわかりました。しかし、先生、この入会希望者の人たちは、さぞかし残念でしょうなあ......悲しいと思いますねえ......憧れの尊敬する先生をお手伝いしたいという気持で、一生懸命申し込んできたんでしょうからねえ......」
と、平山は悲しそうな表情でいった。入会申請を却下された人々に感情移入しきっている悲痛な面持であった。
「平山さんは、先生がなんでこんなに過激なことをするのか、と疑問に思っていらっしゃるようですわね」
と、後で杉村由紀が小声でいった。秘書室の平山の娘、圭子の耳をはばかっているのであろう。
「しかし、今は事情を明かさない方がいい」
「そうなると、他の人たちも、先生を過激すぎると思いこむでしょうし、誤解が重なって行くのではないでしょうか?」
「たぶん、そうだと思う。しかし、今は幻魔が攻勢に出て、会がそのターゲットになるなんていえない。その方がはるかにショックが大きすぎる......心を許した人々にしか打明けられないんです。平山さんには申しわけないが、まだ話せない。覚悟のない人たちは会の外に出してあげるのが慈悲だといっても、ぴんとこないのは無理もない。平山さんにはせいぜいマスコミで叩かれることぐらいしか見当がつかないんだから」
「もし、本当のことを、平山さんがお知りになったら、どうなるでしょうか?」
「大ショックだろうね。大変なものを抱えこんだとひどく後悔して、ノイローゼになってしまうかもしれない。平山さんには覚悟がないからそれも当然といえば当然だ。僕がやろうとしていることを、本当には理解していないからだ。楽しいお祭りみたいに考えているんだろうね。平山さんにとっては、僕が有名になり、会がどんどん発展するのを見ることが、最大の楽しみなんだ。それでこそ、自分が後援した甲斐があると考えている。
僕がアッピールしていることにも関心がないわけじゃないけど、やはりわかっていない。こうして会を存続させ、僕が活動することが、会員たちにとって生命の危険すらもたらしかねない......それがわかったら、仰天して寝込んでしまうだろう。追いおい真実を話していくにしても、あの人が最後まで行動をともにするかどうか、僕は期待していない」
丈はクールに、真似手のないような淡白さでいった。
「平山さんのお嬢さん......圭子さんはどうなるでしょう?」
杉村由紀は息を詰めるようにして尋ねた。
「彼女はついてくる。僕はそう信じてる。やはり父親と違って、女だからかもしれない。女の強さを持っている人だ。だけど、本音を吐くと辛い。圭ちゃんだけでなく、ついて来ようとしている人たち全員のことを考えると、辛くてしょうがなくなる......」
「どうしてですか!? そんなことおっしゃらないで下さい!」
杉村由紀は仰天したようにいった。
「みんな自分の意志で、先生について行こうとしているんですのよ。危険のことも充分にわかっています。それでも平気だし、先生とともに歩むのは、みんなの喜びなんです。さもなければ、他の人たちのように離れ去って行ったはずです。辛いなんておっしゃらないで下さい。そんな......こっちこそ、もっと辛くなります」
由紀は声を慄わせこそしなかったが、ショックを隠せない面持だった。
「すまない。感傷だということは、自分でもよくわかっているんです。ただ、苦労させるのが辛い......やはりそう思ってしまいます。僕はみんなを愛しているし、辛い思いはさせたくない。それでもいい、といってくれるのはわかっているが、先のことを思うと胸が搔きむしられる思いがする......」
「そんなことは決しておっしゃらないで下さい。先生とともに歩もうとする者なら、だれも苦労が辛いなんて思うはずがありません。どんなことが起きたって、先生のことを思えば勇気を搔きたてられるんです。それがみんなの本心だと思います。もし苦しい目に遭ったとしても、先生の方が十倍も百倍も辛いということがわかっているはずです。ですから、そういうことは二度とおっしゃらないで下さい。お願いですから......」
「わかった。もう二度といいません」
丈は微笑を浮べた。
「しかし、僕は今後、もっともっと厳しくなりますよ。みんな、ついてこられないかもしれない。そうした方が本人のためなんです」
「どうぞ、お手やわらかにお願いいたします、先生。病気が治りたての人たちもいるんですから。郁江さんが充分回復してからにして下さい」
明雄、市枝姉弟による心霊治療は連日行なわれており、郁江は噓のように元気になりつつあった。幻魔の黒い想念のボールを最初に取り除いてしまったことが、奇蹟の回復をもたらしていることはまぎれもなかった。
しかし、明雄はまだしばらくかかるといっていた。回復はするのだが、必ず逆戻りするのだという。従って、最初に考えられたほどのめざましい快癒ぶりとは遠い経過を辿っているようであった。
「今夜、僕が郁江の所へ行きます」
と、丈はいった。
「だいぶ遅い時間になりますが......午前一時半ごろと、郁江に電話しておいて下さい」
「では、いよいよ〝午前二時の対決〟をなさるのですね」
杉村由紀はいささか緊張したようだった。
「やはり、これは僕が直接行った方がいい。明雄もずいぶんパワフルになっているが、やはり子供だから......相手が幻魔だと危険があります」
「やはり、郁江さんの〝午前二時の訪問者〟は幻魔なのですか、先生?」
「たぶん。しかし、対決してみるまではなんともいえない......」
丈は言葉を濁した。丈にはなにかしら心理的な抵抗があり、杉村由紀はそれを審しく感じていた。郁江の問題になると、丈はなぜか内向的になり、躊躇が多くなるようであった。
いわば丈らしくないのだ。
しかし、いかに杉村由紀が秘書であってもそこまで彼の心情の裡に立ち入ることは許されない。
「さっそくお電話しておきます」
と、由紀は席を立ちながらいった。
「でも、郁江さんのお父様が認めて下さってよかったですわね。お母様は相変らずのようですけれど」
「あの家庭は、だいぶ複雑らしいから」
と、丈は呟いた。郁江は自分の口から決して語らないが、市枝の話では相当に屈折したものがありそうだった。どこの家庭にも、それなりの不幸や悲苦は隠されているものだと丈は思った。
丈自身にしてからがそうだったのだ。今は父親の東龍介と折合いをつけて、好転しているが、しばらく前までは他所に子供まで作った龍介は、杉並の自宅に寄りつきもしない有様であった。
父との和解を遂げて以来、丈は気持の上で楽になり、幅が出てきたような気がする。もっとも嫌悪してやまない人間が、自分の肉親だというのは、残酷な経験である。それが失せて、凝りかたまっていた肩がほぐれたような安らぎを覚えたのは事実だ。大きな苦しみを一つ脱したというはっきりした自覚があった。
次の面会の合間に、丈は原稿を書いた。機関誌の原稿で、多忙にまぎれてこれまでずっと遅れに遅れていたものだ。まったくのところ、時間が数分あれば、やることはいくらもある。勉学と部活動に明け暮れていたかつての自分は、目をあけたまま白日夢に耽っているようなものであった。
原稿といえば、K──社の本田編集長は、出版を引受けてくれる適当な出版社を紹介したいといってよこした。K──社自体は、〝幻魔の標的〟出版に不適当だというのが本田の意見であった。出版部のお偉方の頭が固すぎて本の真価を理解する能力に欠けているというのである。
新興の力のある出版社を是非紹介したいと本田はいった。〝幻魔の標的〟の真価を知り、刊行に意義と情熱を見出す出版社こそふさわしいというのである。
丈を除く者は、特に平山圭吾が失望した。K──社は出版界の一方の雄であり、全国知らぬ者はない。それにひきかえ、本田の紹介するという新興出版社はベストセラーの通俗書を出しているとはいえ、出版社としての格はずっと低く、比較にならないからだ。
「どうしてK──社で出すといってくれないんですかなあ。どうも話が違うんじゃないですか、先生」
と、平山は不満を訴えた。
「私はてっきりK──社で先生のご本が出るもんだとばかり思いこんでしまいまして、あちこち触れまわって、とんだ赤恥ですよ」
多くの会員も平山と同意見であるようだった。大出版社という権威主義は、年配の人間ほど深く根差しているようであった。
「本田さんの判断なんですから、いいんじゃないですか?」
丈はまったく拘泥しなかった。自分の本が出版されるということだけでも不思議なのだ。出版社の格など最初から問題ではなかった。
「本の売り方もうまいし、出版社自体にエネルギーがあるそうですから。それに本田さんが推薦してくれる編集者なら、僕は安心してまかせられます」
「しかし、先生、大新聞社と地方新聞ほどの差があるんじゃないですか? いくらなんでも話が違いすぎますよ」
「本田さんは最初からK──社で出すと約束したわけではありません。本田さんがK──社は不適当だというのであれば、その通りなんでしょう。なにも不適当な所から出す必要はないのじゃありませんか」
「しかし、ねえ、先生。本田さんはK──社の編集長だし、本田さんが原稿を持って行けば、こちらは当然、K──社で出ると思いますわなあ」
「それは平山さんの早吞みこみです。僕は本がどこから出ようと構いません。本田さんは商売としてではなく、僕の助力者として動いてくれているんです。僕は本田さんを信頼しています」
丈は強くいった。平山はそれでも釈然としないようであった。大新聞社、大出版社に対する信仰はよほど深いものがあるのだ。これは平山だけではあるまい。日本人の国民性といえるのかもしれない、と丈は感じた。
しかし、いずれにしろ本は出るのだ。本田は来年の仕事初めに、その新興出版社の編集長を同道して丈を訪ねるといった。本田とはまだ電話で話しただけだが、彼は本の出版が成功をおさめることを確信しているようであった。
自分の書いたものが、現実に本となって姿を現わす。それが彼には不思議なスリルを伴った幻想であるかのように思えた。すでに相手の編集者が丈の原稿を読み、OKしていることがおよそありえない非現実のようだった。
本が世の中に出て、どのような影響をもたらすのか、彼には想像がつかなかった。本田が、大きな反響を保証していることさえ、まるで夢のようだ。
平山圭吾のように、本が大出版社のK──社から出ないので不満を漏らすなど、丈には考え及ばないことであった。
しかし、それで次の本への弾みがついた。丈は寸暇を縫って構想を追い始めた。自分の身に生じたことを、体験記としてまとめてみようと思いたったのだった。文章を書くのは嫌いでないから、わずかな時間の合間に書き進めるつもりだった。
杉村由紀が執務室に入ってきた。幾分緊張した面持であった。井沢郁江と時間を打合せて予約を取ったことを報告する。
「郁江は厭がってなかったかな?」
「最初は渋ってましたけど。やはり先生とお遭いするのが恥しいんだそうです。もっと美貌を回復してから来てほしいのにといってました」
「いかにも郁姫らしいせりふだ」
「でも、嬉しかったみたいですよ」
と、杉村由紀は笑いながらいった。
「両親の方もOKだそうです。お母様は座敷牢に入れたから大丈夫と笑ってました」
「杉村さんはどうする?」
「あたくしもおさしつかえがなかったら、お伴させていただきます。市枝さんたちはどういたしましょう」
「時間が遅すぎる。杉村さんと二人で〝午前二時の訪問者〟と対決することにしよう」
「わかりました......それから今、六階で座りこみがあるそうです」
〝座りこみ〟とは外来者が丈に逢わせろといって座りこんでしまうことである。熱心すぎるというだけではなく、〝GENKEN〟の場合には、かなりの割合で精神異常者が混っている。神やら霊やらの指示を受けてきたり、あるいは霊能、霊力比べに来る道場破りもいる。
「六階でだいぶ手を焼いていますから、あたくし行って話をして参ります」
「大丈夫かな。僕が行こうか?」
「そんなことをなさったら、〝座りこみ〟を喜ばせるだけですわ。会へ押しかけて騒げば、先生が出てくるという評判が立ってしまいます。手に負えないようでしたら、また警察のお世話になりますから」
杉村由紀のいう通りだった。暮れも押し詰まっているというのに、丈に面会を求めてひっきりなしに訪問者が六階へ足を運んでくる。その多くは会へ行けば、すぐに丈に逢えると思いこんだ人々である。事情を説明されれば、入会希望者に変じて、申込み用紙に記入し、素直に引きあげる。
そうでないのが、精神異常者を含めた〝座り込み〟となるのだった。先生に逢うまでは帰らないといって頑張るのである。
「だけど、もうじき次のお客さんが来るんじゃないですか?」
「急いで行ってきます。圭子さんに頼んでおきますから。六階で菊谷さんがだいぶ閉口してるようなので......」
杉村由紀が出て行くと、ほぼ入れ代りに来客が訪れ、平山圭子の案内を受けて執務室へ入ってきた。
14
顔を見ればだれでもそれとわかる、高名な映画女優であった。ぱっと室内が明るくなるほどの強いオーラに似た雰囲気を全身から放っている。付人に手伝わせて、高価な毛皮コートを脱ぐ。
案内してきた圭子はひどく上ってしまっていた。このところ別世界の住人としか思えない知名人たちがひっきりなしに訪問してくる。今夜の来客はそのもっとも華やかな一人だった。
映画女優は夜なのにもかかわらずかけていたサングラスをはずし、丈を見やった。中学生のように小柄な少年でしかない丈がまず彼女の期待を裏切ったようであった。態度には表わさないが、失望の気配が波動となって放たれている。
来客の多くが最初に示す典型的な反応だ。人伝ての話によって、よほど壮大なイメージを丈に対して作りあげてやってくるのだろう。
しかし、丈の黒く輝く瞳を見て、と胸を突かれ、会話を交えているうちに、失望は消え薄れてくる。
高名な映画女優も、その例に漏れなかった。それどころか丈が立ち上り、黒い瞳を向けたとたん、電気で打たれたように激しく緊張し、漠とした失望などどこかへ消し飛ばせてしまった。
「どうぞおかけ下さい」
と、丈はいった。相手の女優はものものしい感じの美人であったが、丈はなにも感じないような貌をしていた。
「来客が非常に多くて、お一人ずつに対して思うように時間を割けないのが残念です。あまり遅刻なさると、次の来客と重なってしまいますから」
女優は三十分ほど約束の時間に遅刻してきていた。遅刻などあまり気にかけないタイプらしい。秘書の杉村由紀がその点を徹底してもこの始末であった。
「なんですか、お客様が多くて大変のようですわね」
と、女優は平然としていった。
「会っていただけて、本当に幸せに思っております」
「人に会うのも、僕の仕事です。しかし、時間は有限です。その中で会うことができる人間はやはり限られています。これほど神秘的なものはありません」
丈は女優の権高さには無関心のようにいった。好奇心の強い相手であることはわかっている。押しの強さも一流だ。紹介者の画家が彼女の押しの強さに負けて、丈に泣きついてきたのである。丈にはあまり興味の感じられない相手であった。
丈のクールな態度に、女優は惹きつけられると同時に反撥も感じたようである。彼が自分に魅力を見出していないことを本能的に察知し、癇にさわったのであろう。女優の職業病であるナルシシズムが傷ついたのだ。
二十代の終りにさしかかり、己れの女優としての魅力に絶大の自信を持っている彼女にしてみれば、ハイティーンの丈のクールさは楽しからざる経験だったのであろう。自分に対して熱心な注意を向けない男の存在は、彼女にとって一つの挑戦なのだ。
「話にはお聞きしましたけど、本当にお若いのですわね」

と、女優は挑むようにいった。
「失礼ですが、お幾つになられますの」
「十七歳になります」
丈は穏やかに答えた。相手の内心の葛藤も充分承知していた。
「皆さんどなたも僕の年齢にひっかかります。あまり若すぎるので、不安になるのでしょう」
「とんでもない、不安なんて......」
女優は微笑した。こんな子供に何か素晴らしいものがあるなんて、不思議というほかはなかった。確かに稀に見る美少年である。その美しさは刺激的でエキサイティングだ。
しかし、紹介者の画家がいうように、この少年が世界の命運を変える奇蹟の人とはとうてい思えなかった。画家はなにかを勘違いしているのではないか、と彼女は思った。
「素晴らしい才能をお持ちになっていると伺いました。それで矢も楯も堪らなくなり、どうしても、とご無理をお願いしたわけですわ」
「自分でも、まだ時期尚早なのではないかと思わないでもありません。しかし、一度真実を悟ってしまえば、もう年齢など無関係になるのです」
「素晴らしい奇蹟の力に、年齢は関係ありませんものね。いつも、その〝力〟はお使いになっていらっしゃるの?」
「使いません」
「まあ。どうして?」
女優の言葉は気易くなり、崩れはじめた。相手がやはり子供だという意識がどうしても出てくるのだ。女優の弟たちよりも、丈はずっと若い。
「〝力〟は他人のためのもので、自分のためには使いません。使ってはならないものなのです」
「わからないわ。どうしてなのかしら? なぜ自分のためにはいけないの。だって、自分の〝力〟なのに」
「全ての力は自己制御なしには使えないものです。自分の欲望を満たすために〝力〟を使うのは明白な堕落です。退廃してしまうんです」
「むずかしいことをおっしゃるのね。そんなきれいなお顔をなさって。ごめんなさい、つい慣れなれしくなってしまって......」
美しい女優は婉然と笑った。ますます好奇心を昂まらせていた。丈が鹿詰らしいことをいうのに、可愛らしさを覚えたのであろう。もう反撥心は消えていた。
「お噂にたがわぬ、生真面目なお方。すると、あたくしのためなら、そのお力を貸して下さるわけね」
「............」
「だって、そうでしょう? 自分のためには使えないけれども、他人のためなら使っても構わないわけでしょう? それならば、あたくしがお願いして、あなたのお力を貸していただくのは一向に構わないことになるわ。そうじゃないかしら?」
女優は、平山圭子が運んできた茶菓には目もくれなかった。驕慢で我儘な自我が顕われていた。
「他人のためといっても、いろいろあるでしょう」
丈は、相手の見せている媚には気付かない表情でいった。女優は世慣れない初心な少年を赤面させ、そそりたてるテクニックを沢山心得ているつもりだったが、あてがはずれた。
「よからぬ目的を持っている人間が〝力〟を貸せといってきても、お断りするしかありませんね。極端な話、競輪競馬などギャンブルに勝ちたいから、手伝ってくれ、儲けは山分けにしようといってくる人もいるかもしれません。商売の邪魔者をかたづけてくれという者もいるかもしれない」
「それは極端すぎるんじゃないかしら?」
「そうですね。しかし、お寺や神社へでかけて、そういった頼み事を神仏にする人間は沢山います。神や仏がギャンブルで儲けるのに手を貸すでしょうか? 怪しげなキツネやタヌキの霊ならいざ知らず......」
「あたくしはそんな頼み事はしないつもり。それならお力を貸して下さるでしょ? それとも、あたくしの頼み事じゃだめ?」
言葉の端々に媚をのぞかせた。丈はびくともしなかった。
「なぜそんなに〝力〟にばかり興味を持つのですか?」
「だって、やっぱりそれは、普通の人にはない〝力〟を持っている人って魅力がありますもの。先生だって、お友達のためには〝力〟を用立ててあげるんでしょ?」
「誤解ですね、それは」
「あら、そうかしら。先生が病人を治したりした話を聞いてますわよ。それに、先生はどんな人間でも自分の思い通りに動かせるんですってね」
「それも誤解です。僕は医者ではないので、病人など治せません。治った人がいたとしても、それは自分で自分を治したんです。宇宙と人間は目には見えないエネルギーでむすばれています。それを自覚した人間は、宇宙に充満するエネルギーと交流できます。病気が治るというのは、その結果にすぎません。
それから、僕が他人を自分の意志に従わせる力を持つというのは、どこでお聞きになったのか知りませんが、事実ではありません。そんなことはこの世の中にありえませんよ」
「あら、そうですかしら? 先生はとっても評判ですわよ。先生とお友達になれば、どんな望みもかなうって......」
「あいにくですが、僕は豊川稲荷ではありません。あそこには芸能人の参詣者が多いそうですが......」
「先生をべつに豊川稲荷扱いする気はありませんわ。先生はとてもチャーミングでいらっしゃるし、お話していても楽しいし、お友達になりたい、とだれでも思うんじゃありません?」
「今度出る本をお読みいただければわかると思うのですが......」
と、丈は女優の臆面のなさにうんざりしていった。
「僕が皆さんにお話しているのは、宇宙と人間の結びつきについてであって、僕の〝力〟だの〝ご利益〟だの、まったく関りがないのです。あなたは誤解していらっしゃるのではないでしょうか?」
「あら、本をお出しになるんですの?」
女優は妙な反応ぶりを示した。
「どちらからお出しになります?」
丈は出版社の名をいった。女優は感銘を受けたという顔で、丈をあらためてしげしげと眺めた。
「たいしたものですわね、そのお年で......凄いじゃありませんの。あたくしなんかも、よくライターの方が自伝を書いてあげるといってよこしますけど、まだとても、とても......」
「自伝を? 他のライターが書くんですか?」
丈の質問に、女優の方がかえって不思議そうな顔をした。
「ええ。先生はご自分で、本を書かれたんですか......?」
「もちろん、自分で書きました。しかし、自伝は自分で書くものじゃないんですか?」
「噓ォ......」
といって、女優は丈の顔を穴のあくほど凝視し、それから小娘のようにケタケタと笑い崩れた。
「ご免なさい、先生......あんまり意外だし、不思議だったから......先生のそのお年で、ゴーストライターも使わずに、ご自分一人で全部お書きになったなんて、本当に信じられなかったんですもの......」
丈は、芸能界やその類いの世界では、スターの文章と称する代物はほとんど例外なくゴーストライターの手によって代筆されるのだと知った。女優も、その例に丈もまた漏れないと思いこんだわけだった。
十七歳の少年が宇宙と人間にかかわる書物を自らの手で顕わすなど、とうてい信じがたい部類に属するのであろう。
「それじゃ、先生は本当の天才だわ」
女優は今度こそ尊敬の眼差になった。
「本をまるまる一冊、自分一人でお書きになるなんて信じられない天才......本当にだれにも手伝ってもらわなかったんですか?」
「清書すらさせていません。しかし、あなたがそんなに驚かれるとは思いませんでした」
「十七歳というと、高二......本当に噓みたい。やっぱり超能力で、先生はお書きになったんじゃありません?」
女優はすっかり丈に心服してしまったようである。文筆をものする文化人に対する憧れは強いものであり、霊能者や超能力者に対する評価よりもはるかに高いようであった。みる間に、態度、物腰まで変った。
「ただ単に物珍しさ、好奇心で僕に逢いに来る人がいます。占い師の所へ行くつもりで、運勢や投機について尋きに来る人もいます。しかし、僕は占い者でもないし、生神様でもないので、金もうけに協力したり、病気を治したり、開運の援助をすることはできません。それは大きな感違いです。あなたも僕が霊能者だと感違いなさって、今度の映画の役柄や恋人との仲をどうするかについて、僕の助言を求めに来られたにしても、僕は役を引受けろとも恋人と別れろとも助言することはできません。僕はそのようなことをするために、人々に逢っているのではないんです」
女優は啞然とし、次いで畏怖の目を丈に向けた。
「よくご存知......やっぱり先生は人の心などお見通しなんですのね」
「とんでもない。僕はなにも知りません。適当なことを口にしただけです。誤解なさらないように......」
「いいえ。先生のおっしゃる通りです。あたくし、ちょうどそのことで先生にご相談しようと思って、無理やりお願いに上ったんですもの。今度の役を引受けるかどうか、とっても迷っていまして......今おつきあいしている男のこともそうなんです。先生、ご相談に乗っていただけないでしょうか?」
「僕にはあなたの相談相手になるような能力はありません。それより、なぜあなたは見も知らぬ人間を相談相手にしようとなさるんですか?」
「だって、先生はとても素晴らしい霊力の持主だと伺いましてよ」
「あなたが道を歩いていて、とても立派で頼り甲斐のありそうな人と行き遭ったとします。あなたがご自分の相談事をその人に持ちかけたら、なんといわれるでしょうか?
私はあなたのことをなにも知りません、とその人はいうでしょう。そのような一生にかかわる大事な問題は自分でお決めになるべきだというに違いありません。僕にしても同じです。他力本願はお止めになった方がいいと思います。自分のことは自分で決めるべきです。他人に決定させるべきことではないんじゃないでしょうか?」
「でも、先生は超能力者でいらっしゃるし、人の心はお見通しだし、なんでもよくわかっていらっしゃる超天才でしょう?」
と、美しい女優は不満気にいった。丈が韜晦していると思ったようであった。
「はっきり申し上げて、僕はそのような者ではありません。僕はただ自分の知りうる機会を得たことを、人々に伝えているだけです。あなたは思い違いをなさっています。あなたが逢おうとなさっているのは、いわゆる霊能者でしょう」
「ええ......先生がそうだと聞いてきましたから......普通の人間にはない素晴らしい力をお持ちなのに、どうしてそれを役立てて、他人を助けてやろうとなさらないんですか?」
彼女は抗議した。丈のいい草に失望し、肥大した自我を傷つけられたのだ。思うようにならないとすぐに腹をたてる病癖家だということを露呈していた。
「なぜ、そんな意地悪なことをなさるの? 素晴らしい力を沢山お持ちになっているのに、困っている人に見せびらかすだけで、助けてあげないなんて......そんなの、けちんぼじゃありません」
感情的にきらきら光る目で、美しい女優は丈を見詰めた。
「困っている人を見たら、助けてあげようとなさるのが、先生のように素晴らしい才能に恵まれた方のなすべきことじゃありませんかしら?」
「僕がいっているのは、それとは意味が違います」
丈は落着いていった。
「意味が違うって、どう違いますの?」
女優はくいさがってきた。相当に理屈っぽい性格であるらしい。六階の事務所から戻ってきた杉村由紀がいささか心配そうな顔をちらりと見せた。女優はなんの関心も払わなかった。目先のことしかわからない熱中癖の持主なのであろう。
「僕がいうのは、こういうことです。この力は非常に危険な性格を含んでいるために、日常生活の次元で軽々しく用いるべきではない。特に、人間の欲望を充足するために決して使ってはならない。それは悪の力となりやすいからです。力を使う者の側からいえば、これは絶対に守らなければならないことです。
超能力とは本質的に巨大な力、宇宙エネルギーと同じ力なんです。いわば公共の目的で用いられなければならない、巨きな性質を持ったものであり、それを個人的な目的で用いることは、公共物を私的な目的で盗用するのに等しいということです」
丈は反論しようとする女優を制していった。
「僕のいうことを最後まで聞いて下さい。確かにあなたが今おっしゃろうとしたように、世の中には霊能をもって人々に力を貸し、商売にしている人々が沢山います。彼らの多くは詐欺師でありペテン師ですが、中には力を持っている者もいます。しかし、彼らは本来公共に用いられるべきである力を盗用し、金儲けの道具にしています。この連中にかかれば、詐欺師に遭う以上のひどい目にあわされます。
なぜなら〝力〟を盗用する者は──欲望を充足するために〝力〟を用いる者は、幻魔の支配下に引きこまれるからです。自分のものでない力を盗んで使用するのは、一種の犯罪に他なりません。いわば個人営業の犯罪者です。幻魔はいってみれば、見えない〝力〟を悪用する犯罪組織、マフィアのようなものです。個人営業の犯罪者は、マフィアの餌食にされてしまうんです」
「幻魔ってなんですの? 悪魔とか悪霊みたいなものなのですか?」
「幻魔は宇宙の巨悪です。悪の源泉です。悪魔や悪霊と呼ばれている存在は、ナイアガラの滝からはね飛んだ水しぶきの、水の分子のようなものです。幻魔の本体ではなく、影のようなものです。それでも、なお巨きな悪の力を備えていますが......霊能者と称して金儲けに励んでいる連中は、コソ泥ですが、幻魔の手先といってさしつかえありません。
霊能者の所へ相談に行く人々は珍しくないでしょう。しかし、その多くはひどい目にあわされているはずです。金を残らず巻き上げられ、家財産までとられた哀れな犠牲者も少くないはずです。開運などといっても最初のうちだけです。病気が治ったというのも同じです。金を儲けるのを手伝ってもらえば、当座はよくても、後が大変なことになります。幸せになりたいから、霊能者や生神様の下へ頼って行くのに、結局は反対に不幸になってしまうんです。
彼らはマフィア配下の暴力金貸と同じです。なにも知らない人々が駆けこんでくるのを、ほくそ笑みながら迎え入れるんです。マフィアに力を借りに行く人々の末路はどうなると思いますか? 暴力団ヤクザが自由に自分の家に出入りするようになり、ついには自分の家から追いだされることになります。目に見えない〝力〟の世界でも、それと全く同じことが起こります。あなたが、霊能者を探しては力を借りようとしていれば、あなたはボロボロにされてしまいますよ。財産は残らず巻き上げられ、仕事はなくなり、その美しいお顔は苦労と心痛で無惨に沢山のシワが寄ってしまうでしょう。これが僕の忠告です。もしそうした運命をどうしても選びたいというのであれば、それは本人の自由意志です。どうぞご自由に、というほかはありません」
丈の物腰は柔らかかったが、目と声は厳しくなっていた。自ら意識しない威厳が、彼に美しい若い神のイメージを与え、女優は身慄いを禁じえなかった。はるか年下の少年にしんそこ圧倒されてしまった。
「実を申しますと......頼りになる霊能者をいろいろ捜していたんです。その矢先に先生のお噂を聞きまして、どうしてもとお願いに上ったわけですの」
女優はおどおどした声でいった。別人のように驕慢さをそぎ落していた。
「実は、世田谷の方にも、先生と同じようにとてもお若い、生神様の力を持った霊能者がいて、先生を紹介されなければ、そちらへ行っていました......」
「どんな霊能者? 名前は?」
丈は驚きの表情こそ浮かべなかったが、顔は引き緊まっていた。
「江田四朗じゃありませんか?」
「あら、よくご存知。そうですわ、確かに江田四朗とか聞きました。映画の方の知りあいが何人もいって、凄い霊力があると大評判になっていますわ」
女優はなにかしら腑に落ちぬ顔をしていた。
「僕がお断りしたら、さっさと江田四朗の所へ相談に行くつもりだったのですね?」
「ええ......おっしゃる通りです。でも、そんな怖いお話を聞いてしまっては......ちょっと行く気がなくなりましたけれども」
「大変なことになるところでした......」
丈は冷たい波動を覚えながら呟いた。江田四朗は、丈に劣らず精力的に活動しているのだ。彼の霊能者としての盛名は異常に速いスピードで広まっているようである。
「本当に物凄い力を持っているとか......当てもの失せものは百発百中だし、生神様にお願いすれば、どんな願い事でもかなうそうですわ。愛人を作って家を出た旦那さんを取り返そうとして生神様に頼んだら、三日後に愛人がポックリ死んで旦那さんが帰ってきた奥さんの話とか、いろいろ聞きました」
「なるほど。あなたも頼みに行きたくなるわけですね。競争相手の女優が死んで、あなたのほしがっていた主演映画が転がりこんでくるかもしれない......」
「なにもそこまでは、考えていません......」
女優は怯えたように顔をこわばらせて呟いた。改めて恐ろしくなってきたようである。
「ヤクザにものを頼めば、後が大変です。冷たくなった愛人を取り戻すために生神様のふりをしたマフィアに頼んで、荒っぽい手を打ってもらう。凶暴なヤクザのことですから、愛人が親しくなっている女性を始末するのに殺してしまうかもしれません。しかし、そのツケはあなたの所へまわってくるんです。ヤクザはあなたにつきまとい、脅し、徹底的に絞ります。あなたが全てを失うまで、それは続くんです。しかし、これを聞いても、あなたはまだ目がさめないかもしれませんね。今はショックを受けて怖くなっても、しばらくたてばショックもさめる。僕に大仰に脅されたんだと思い、ものは試し、と江田四朗の下へ行こうとするかもしれません。
だれかあなたの友人が、東丈は生神様の商売仇だから、あることないこといったんだとあなたの耳に吹きこみ、あなたはその気になるかもしれません。しかし、その友人は生神様の奴隷にされていて、あなたを引込む役目を負わされているんです。あなたは言葉巧みに誘われ、江田四朗の所へ行こうとします」
「先生......それは予言ですか?」
美しい女優は体を硬直させ、顔を青白くさせておずおずと尋ねた。
「そうかもしれません......行ったら最後、あなたはおしまいです。もし、勇気を振るい起こし、いやだ! といわない限り、そこから逃げださない限り、あなたはもう二度とスクリーンに甦ることはなくなります。それをよく憶えておいて下さい」
丈は淡々としていった。なんの気負いもてらいもない口調だった。
「あなたに断乎として誘惑を拒否する勇気があることを祈ります。しかし、あなたがそういう目に遭うのも、自分さえ得をすれば他人はどうでもいいという欲望だけを充足させようとする気持があるからです。あなたの愛人にしたところで、妻子を捨ててあなたと結びついた人じゃないですか。同じことがあなたの身に起こるのは許せないとなぜ思うのですか? 女優としてのプライドが全てだからですか?」
「先生って怖い方ね」
と、女優は息を吞むようにしていった。
「なにもかも見通していらっしゃるのに、わざとわからないような振りをなさったり......あたくしはその恐ろしい生神様の所へ行く運命なんでしょうか? どんなに行くまいと決心していても、結局は気が変って行かざるを得なくなるんですね? もし、それがあたくしの運命ならば......」
頰が青白くなってしまっていた。
「今のままであれば、そうなってしまうだろう、ということです。運命が神の定めたもので、人間の手では変えられないという考え方に僕は反対です。人間には自由意志があり、選択の自由があります。善悪いずれを欲するのも、人間の自由な意志によるものです。しかし、人間が生きる上には、慣性の法則が働くのではないでしょうか。毎日を酒浸りになって生きている人間は、昨日も今日も酒を飲み、明日も明後日も飲まずにはいられないはずです。これは人間の生き方全てについていえることで、仏教でいう業とかカルマは、この慣性の法則のことではないでしょうか。
自堕落な生活を送っている人間は、突然自己改革を行なうことは困難です。しかし、充分な動機と強固な意志があれば、不可能ではありません。ですから、運命論者のいう、いわゆる運命というものはない、と僕は思っています。自覚がなく惰性に押し流されて行く人間にだけ、〝運命〟はある。しかし、自由意志を強く働かせる人間にとり、人生のコースは変えられるはずです。しかし、自覚もなく押し流されて行く人間の先行きはある程度は、だれにも予測がつくのではないでしょうか?
つまり、女漁りに浮身をやつす男は家庭を破壊する〝運命〟にあるということがいえます。女から女へ蝶のように渡って行く男を愛人にした女性の運命もまた同じ破局を用意されている。超能力者や霊感者でなくても、冷静な目で見れば、予測のつくことは多いというわけです。
あなたの運命も同じです。もし自覚することがなければ、急速な破滅へ滑り落ちて行くはずです。それはあなたの自己充足だけを求めてやまないエゴティズムがもたらす当然の結果です。〝運命〟を変えるというのは、生き方を変えるということです。さもなければ、あなたが破滅をどんなに恐れても、破滅に向って吸い寄せられるように歩んで行きます。自分で自分が止められない。
しかしそれは自ら求めた結果なんです。あなたは今は、絶対に生神様の所へなんか行くまいと決心しておいでですが、しばらくたてばころりと気が変りますよ。ひどい宿酔いにかかった者が、もう二度と酒なんか吞むものかと誓っているのと同じだからです。〝喉許すぎれば、熱さを忘れる〟ということなんです......」
「まさか、自分よりずっと年下の人に、こんなことをいわれるとは思いませんでしたわ」
女優はこわばった顔に苦心さんたんして苦笑を押しあげた。
「でも、あたくしもそんな馬鹿じゃありませんから、みすみすひどい目にあうとわかっている所へ行ったりはしません。どうぞご心配なく......」
心中穏やかでないのだった。丈の率直な指摘がプライドに抵触し、傲岸な自尊心が甦ったのであろう。
「損得の問題ではないんですよ。人間はだれでも恐ろしいほど愚かになれるんです。あなたは今はどうであれ、必ず生神様の所へ引き寄せられて行きます。予言してもかまいません。蟻地獄と同じです。じたばたもがくほど深みへ落ちて行くんです。〝わかっちゃいるけど、やめられない〟というスーダラ節の歌の文句と同じです。
あなたは今、自分はそんな馬鹿じゃないと考えて、怒っていらっしゃる。しかし、人間は気が変るものなんです。現にあなたは、気分屋だとかお天気屋だと人にいわれたことがしょっ中あるはずです。今は今、明日は明日なんですね。後になれば、ずいぶん大袈裟なことをいわれた、と必ず思うようになります。そして、生神様の所へ行こうという友人の誘いに心を動かされるんです。あなたは今、自尊心を傷つけられて、怒っていらっしゃる。僕に対する反感がむらむらと甦って、友人の誘いに乗せられます......」
「そんなこと、絶対にありません!」
女優は語気荒くいった。丈は彼女のいいかけようとする言葉をさえぎった。
「これは予言です。お聞きになってはいかがですか? それとも予言を聞くのが恐ろしいのですか?」
「いいえ、もちろん聞きますわ。聞かせて下さいな」
と、女優は目をきらめかせ、挑みかかるようにいった。
「あたくしは、絶対にそういう風にはならないという自信がございますけど」
「今にわかりますよ。ああ、東丈のいう通りだった、とあなたは必ず思います。しかし、その時はもうすでに手遅れですが......助けて下さい! とあなたは叫ぶでしょう。自分が間違っていた、助けて、と。しかし、それはあなたが自ら求めたんです。他のだれにも責任があるわけではありません。お気の毒には思いますが......」
「こちらこそお気の毒ですけど、絶対にそうはなりませんわ! 先生の予言は必ずはずれますわ!」
感情家の女優は力をこめていい切った。
「冗談じゃありません。あまり人を馬鹿になさらないで下さい! あたくしをよっぽどの馬鹿者と思っていらっしゃるのね!!」
丈は無言で微笑していた。女優は真紅に塗った長い尖った爪先を苛々と動かした。まるでそれで丈を搔きむしってやりたいと思っているようだった。しかし、彼女の怒りは、恐怖で裏打ちされていた。丈の不可解な超常能力への恐れが潜んでおり、いかに力をこめて否定しても完全に拭い去ってしまうことは不可能だとわかっているようであった。普通の人間は未来を視ることができない。しかし、それを可能とする人間は一部に存在する。そうした人間の存在は畏怖すべきことであった。女優は怒りにまかせて強く反論しながら、心の底では怯えを持っていた。
「いいわ。先生の予言がはずれたらどうなさいます?」
女優は挑戦した。
「あたくしは絶対に予言が的中しないようにします。生神様に夢中になっている友人はもう寄せつけません。誘惑しようとしてもできないようにします。そうなれば、先生の予言ははずれるでしょう? もしはずれたら、あたくしは先生を笑いものにする権利があるんじゃございません?」
「けっこうです。僕の予言ははずれません」
「その言葉をお忘れにならないようにね!」
勝ち気な女優の大きな美しい眼はぎらぎら輝いていた。
「もちろん忘れたりはしませんよ」
丈は平然と保証した。
「それより、絶体絶命の危機に陥ちないようにすることですね。失礼ですが、あなたには本当に頼りになる、真の友人が一人もおられないではないですか。もし一人でもいれば、命拾いできるかもしれませんが......」
「失礼な! あたくしを何だと思っていらっしゃるのですか」
女優は本気になって怒りだした。我を忘れるほど嚇っとなったようである。
「あなたのようなほんの子供に、いいたいことをいわれてるなんて、あたしって本当におめでたいわ! なんでわざわざ子供に馬鹿にされに来なきゃならないのか、さっぱりわからない!」
「本当に僕があなたを馬鹿にしているとお考えですか?」
丈は女優の嚇怒に取り合わず、冷静に尋ねた。彼女にとってはいかにも小面憎い態度に映ったようである。
「先生ほど上手に年上の人間をおちょくる子供さんにはお目にかかったことがありませんわ。こまっしゃくれた子役はいくらもいますけれどもね。先生は素晴らしい超能力をお持ちですから、それをかさに着て、相手が怒るに怒れないのを承知の上で、大人なぶりをなさるんでしょうけどね......」
彼女はいっかな腹の虫がおさまらないようであった。もともと抑制がきかない感情家なのだ。一度は血の気の退いた白い顔が、今はみごとなまでに真赤になっていた。
「必ず先生を笑いものにしてさしあげますことよ! 今に見ていらっしゃるといいわ! 予言がみごとはずれたと大笑いしてさしあげるから!」
女優は怒りをつのらせて、すっくと立ち上った。怒気をみなぎらせているが、怒った猫のような目が美しかった。いついかなる時でもナルシシズムを失わない女性であり、その点をよくわきまえた怒り方であった。
「もうこれ以上の予言はけっこうですわ。何をいわれるかわからないんですもの。先生の大人なぶりのお相手はまっぴらごめんですわ! お礼を申し上げるのは厭なので、やっぱりいいません。今日のお礼はいかほど差し上げればよろしいんですの?」
女優はハンドバッグを開けて、嘲るようにいった。秘書室では息を吞んでいるようだった。相手がこれほど非礼になるとは夢にも思わず、はらはらと気をもんでいたのであろう。
「ご心配はいりません。僕は霊感師ではないので、謝礼は受取りません。あなたが立腹なさったのは残念だし、また無理もないと思うのですが、あなたに対して告げるべきことは告げたつもりです。最後に一言だけ申し上げておきますが、あなたが絶体絶命の危機に陥ちた時、助けを差し伸べてくれる真の友人を作っておくことですね。その人がきっとあなたを助けてくれるでしょう。本当にしんそこから信頼できて、あなたのために自分の生命をなげうってくれる人......それが真の友人です。あなたが怒りのあまり、僕の忠告を忘れないことを祈っています」
「ご親切なことですこと!」
映画女優は突立ったまま吐き捨てるようにいった。大スターの誇りを取り戻すべく苦労していた。目のさめるような退場のせりふを考えているのだった。
「またいずれ、お目にかかりますわ。その時は先生のお名前を聞いただけで、みんなが笑いだすようなことにならなければいいですけれどもね。それとも喜劇映画に出演なさるといいかも。その節はあたくしが口ききしてさしあげてもよろしいですわ」
「笑いものにされるのはいっこうに構いません」
丈は軽く頭を下げた。女優は勝ち誇ったようにあざ笑い、付人に声もかけずに部屋を出て行った。二十代初めの若い女性の付人は畏怖の目を丈に向けて頭をさげ、おどおどしながら映画女優の後を追った。
しばらくして、杉村由紀が白い顔で執務室へ入ってきた。かなり感情的になっていることが顔付きでわかった。
「さんざん怒られてしまった」
丈は軽くいったが、相手はにこりともしなかった。
「どうして先生、あんなことをいわせておくのですか」
杉村由紀は詰問するようにいった。
「もっとぴしゃりとお叱りになればよかったのに......いくら有名な女優かしれませんけど、無礼すぎますわ。先生が大切な時間を割いてお会いになったのに」
「しかし、要するにあの人が、江田四朗という生神様のところへ行くのをやめればいいんだ。そうでしょう?」
杉村由紀ははっとして丈の顔を見詰めた。
「それで、あんなにきびしいことをびしびしとおっしゃったのですね。でも、予言がはずれたら、彼女は大喜びでいいふらすんじゃないでしょうか。先生なんかあてにならないって......」
「インチキだというだろうな。でも、その方が彼女にしてみれば幸せなわけです。僕としても、こんないやな予言ははずれた方がいい......」
「でも、先生、もしはずれたら、先生のお仕事の大きな支障になるんじゃないでしょうか? そりゃはずれた方が、彼女にとってはいいに決ってますけど」
「あの人は不運に向って大きな力で引寄せられているんです」
と、丈はいった。顔が曇っていた。
「では、予言ははずれないと......?」
「はずれません」
杉村由紀は口の中でまあ、と嘆声を漏らした。
「では、あの方はもう......」
「破滅する運命にあるのかというんですか? しかし、まだ運命は変る余地がある。だから、彼女を怒らせたんです」
「わざと怒らせるように仕向けた、とおっしゃるのですか? なぜ、そんな......」
「印象を強めるためです。彼女はなかなか我の強い女性だから、簡単には忘れないだろう。いずれ自分には真の友人がいないと気付けば、また状況も変化するはずだと思う。今はかんかんに怒っているけど、やがて気付かざるを得なくなるはずです」
「やっぱり江田四朗の許へ行くことになるんでしょうか?」
「行くだろうな......まるで磁石のように引きつけられて行くんです。ぞっとすることだけれども、人間は邪悪なものに引きつけられやすいところをだれでも多かれ少かれ、持っているような気がする。あの女優は、悪女の役をよくやるでしょう? もちろん演技だけれども、それを蓄積しているうちに、邪悪なものに対して共鳴しやすい性質が生じてきているんですよ。僕に反撥したのと同じ度合の強さで、生神様の江田四朗に吸引されて行くんじゃないかと思う」
「江田四朗が引き寄せている人たちには、そうした点が共通しているんでしょうか?」
杉村由紀は思い切ったように質問した。丈の答はしばらくなかった。
「おそらく共鳴しやすいものがあるんでしょうね。心の中にそうした要素が存在しているんです。外見的にはそうは見えなくても、心はいつも欲望に燃えていたり、嫉妬や憎悪や憤怒をぎゅうぎゅう心の奥底に押しこんでしまっている人間......そうした人たちは共鳴しやすいんじゃないかと思うんです」
「すると、あの女優さんも?」
「あの人の場合は明らかです。しかし、今日話したことで、少しでも自分の状態に気付けば、まだ逃れるチャンスはある。それは本人次第です。彼女は、僕がまだ子供だという観念が強いので、どうしても抵抗が強かった。心を打ち割って話すことができなかったんです。本当はもっと深刻な問題があって、相談したかったんだけど、自分の弟より年下の、子供同然の僕には打ち明けられなかった。やはり、僕にはもう一つ信頼性に欠けるところがあるように思う」
「そんなこと、ありませんわ! 信頼性に欠けると思うのは、そう思う相手に問題があるんですから」
杉村由紀は強く抗議するようにいった。
「いや。確かに僕は年齢が若すぎるし、子供だという固定観念は抜きがたいものがあると思う。しかし、一足跳びに年を取れない以上、こればかりはどうしようもない......彼女を説得できなかったのは、やはり僕の負けです。彼女が子供に説教されたと苦笑するのは無理もないんだ......僕には深刻な悩みのカウンセラーなんかとても無理だから」
「あの方が、先生の外見に惑わされて、先生を理解できなかったのは、あの方の不幸です」
と、杉村由紀はきっぱりといった。
「それにしても、江田四朗のような存在をなんとかできないものでしょうか? あんな邪悪な存在が大手を振って横行しているのに、だれもそれを阻止できないなんて、あまりにもひどすぎると思うんです。悪の権化として江田四朗が成長して行き、多くの犠牲者を続出させているのに、手出しをできずに黙って見ているしかないんでしょうか? だれかが彼をなんとか抑えてしまう、そんな方法はないのですか?」
「日本の警察も、法律も江田四朗を抑えられない。だれかが彼をなんとかすべきだ......杉村さんがそんな考えをもって、僕に期待をかけるとすれば、みんなもそう考えるだろうな。僕は巨大な〝力〟を所有している。邪悪な江田四朗を僕なら制圧できるはずだ。なぜさっさとやらないのだろう、と......」
「先生が実力を行使して彼を制圧すべきだと思っているわけじゃありません」
杉村由紀は弁解した。
「ただ、じれったくてヤキモキしてしまうんです。先生でなくても、だれかがなんとかできないものだろうかと......」
「杉村さんのもどかしい気持はよくわかる。現に邪悪な存在が勢力を伸ばしているのに、それを黙過していいのか。江田四朗が幻魔だとしたら、僕は戦うべきではないのか、たとえ実力を行使しても......それは僕自身、何百回となく考えたことだ。そして、結論を得た。何があろうと、今は動かないということです。江田四朗の動きには不審な点がある。僕のやり方を非常に意識的に模倣しているということがそうです。おそらく江田は、僕の持っている〝力〟をイメージダウンさせ、核兵器並みの危険な力として一般に認識させることで、世論を僕の敵に廻させようとしているんじゃないか......
彼は僕を刺激して、〝力〟を使用させようと今後も挑発をくり返すに違いないと思います。僕の〝力〟が破壊的な恐ろしいものであり、〝人類の敵〟に他ならないと印象づけるのが目的です。だから、僕は絶対に彼の挑発に乗るわけには行かない。どんなことがあっても、です。
それに、江田四朗はもう一つの封鎖を僕に加えようとしているらしい。僕とそっくりの遣り方で大超能力者として名を売り、極悪の所業を働くことで、超能力者が〝人類の敵〟に他ならないと印象づけることです。彼がたとえ破局を迎えるにしても、同じ超能力者として僕は大きなダメージをこうむる。彼は僕を抱きこんで破滅することを狙っている......」
「では、いずれにしても先生は追い詰められざるを得ないのではないのですか?」
杉村由紀は顔色を変えていった。
「そんなお話、初めてお聞きしました......」
「だってそう簡単に口外するわけにはいかないから」
丈は、相手の受けているショックを緩和しようとした。
「みんな聞いたら最後、心配で眠れなくなるかもしれないんでね」
「あたくしも眠れません。なんとかして打開する方法ってないものでしょうか?」
「僕もそう簡単にやられてしまうわけにはいかない。まだ自分の仕事を始めたばかりなんだから......安心して下さい、杉村さん。なんとかしますから。江田四朗が本格的な攻勢をかけてくるのはまだこれからです。彼を封じこめる方法は必ずあるはずです。僕を信じて下さい......まず第一に杉村さんが僕を信じてくれなくては、どうにもならない」
「もちろん、あたくしは先生を信じます」
彼女はいそいでいった。
「先生がそう簡単に参ってしまう方であるはずがありません。だって、偉大な宇宙意識フロイが先生に力を与えているんでしょう? 江田四朗ごときに先生がやられてしまうはずがありませんもの。彼は先生に正面攻撃をかけても勝てないと知っているんですわ、きっと。先生との〝力〟があまりにも違いすぎるからです。
だから、陰謀をめぐらして、搦め手から攻めるしかないんです。先生がそれを見抜いてさえいらっしゃれば、なんの効果もなくなります。だって底の割れているトリックじゃ、だれもびっくりしませんものね」

「その通りです。いたずらに疑心暗鬼になって心配したってしょうがない。まずこっちは水肥りになっている組織を引締めるのが先決問題です」
杉村由紀はさすがに急速に平静さを回復していた。すぐに浮足立たないところが、彼女の得がたい美質であった。しかし、それでもなお、彼女にさえも話せない悩みを丈は数多く抱えこんでいた。
丈は改めて全身を拘束衣のように強く締めつけてくる心労の重みを感じた。それは彼が江田四朗との対決を回避している限り、切り落せない心配事の種子であった。相手は今のところ、軽いジャブを送り続けている。しかし、丈の反撃がないと見てとれば、図に乗ってくるだろう。それをどうやって封じるか、解答を見出すことに丈は全精力を注ぎこまなければならなかった。
まず組織を縮小し、相手のつけ入る隙を与えないことだ。
「六階の〝座り込み〟はだいぶ手がかかったらしいですね?」
と、丈は話題を変えた。
「なかなか戻ってこないので気をもんでました。うるさいお客が来てる最中で、様子を見に行けなかったし」
「大学生の男の子でした。ちょっと変った面白い子で、つい話しこんでしまったんです。どうも申しわけありませんでした」
「理由を話して、帰ってもらったんでしょう?」
「ええ。でもなかなか納得しないんです。頭がよくて理屈っぽいタイプなので、六階の人たち、困ってしまったんです。入会を受付けていないということを納得するように話すことができないものですから......」
「杉村さんもだいぶ手古摺った?」
「といいますか、相手のいい分の方に理があるように思えてきてしまうんです。つまり、先生の講演の主旨からいえば、当然来る者は拒まずでなければならず、入会拒否はありえないし、それは間違っているとあたくしもう少しで反対に説得されてしまうところでした」
「面白い大学生だったらしいな?」
「理路整然として、大変な論客なんです。しかもこうちょっと、魅力もありますし。六階ではなぜ新入会をストップしているのか理由がよくわからず釈然としない雰囲気もありますし」
「なるほど。六階のみんなを味方につけたわけだ」
「そうなんです。こういう人が入るといいなとみんな思うような、男の子なんですね。それで、あたくし、新入会の受付を停止しているのは組織改革のためだと説明したんですけれど......」
「自分はその組織改革のために必要な人間だと売りこまれたんじゃないのかな?」
「実はそうなんです! 先生、遠感で話を聞いてらしたんじゃないのですか?」
「それどころじゃなかったですよ」
丈は苦笑した。
「杉村さんもだいぶ売り込まれてしまったようですね?」
「実を申しますと、心が動きました。面白い子で魅力がありますし、今までの会員にはいないタイプです。才気煥発という感じなんです。彼のような男の子が入ると、ぱっと会全体が活気づく......そんな感じがいたします」
「それで、諦めそうですか?」
「諦めるどころか、六階にそのまま居ついてしまいそうですわ」
杉村由紀はくすりと笑っていった。
「どうやら、杉村さんをまるめこむことに成功したらしい」
「そうですね。わりとあたくしの好きなタイプの子です」
と、杉村由紀は認めた。
「行動的でガッツがあって、憎めない愛嬌もあって、これまでの会員のタイプとは全然違うんです。どっちかっていうと、おとなしくてまじめで、あまり能動的でないという感じの子ばかりでしょう?」
「そう簡単には入れませんよ」
丈は原稿を書き始めながらいった。
「会員を減らしにかかったばかりですからね」
「あたくしも彼にそう申しました。これは先生の方針で、先生はとてもきっぱりした方だからって......」
「そうしたら、どうしました?」
「笑ってました。ちょっとこう不敵な笑顔で......」
「............」
丈はいささか興味を覚えたようにちらりと原稿から顔を上げたが、それ以上は何もいわずにペンを走らせ続けた。
杉村由紀はそれを会話打切りのサインと知り、静かに秘書室へ戻って行った。物問いたげな平山圭子に軽く頭を振ってみせる。
精神集中力の優れた丈が、原稿を書きだすと数時間は凄まじい勢いで書き続け、その間いかなる干渉も受付けなくなることを秘書たちはよく心得ていた。
丈がなにを考えているのか、杉村由紀にしたところで忖度のしようがなかったのだ。
本書中には「混血児」という差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
もう時間がない、時間がない、時間がない......
マントルピースの上に置かれた置時計が、執拗に繰返し続けているように聞こえた。
無表情で無機的な、単調なセコンドが、ひどく切迫した訴えとなって耳についてしまってから、しばらく経つ。
歳末となり、一九六七年が最後の秒読みの段階に入ったこととは無関係であった。置時計の音が耳につきだしたのは、たしか十一月ごろである。
最初はなんで時計のセコンドが〝時間がない〟と訴えるように聞こえるのか、わけがわからなかった。もともとセコンドの音がやけに大きな置時計なのである。大理石でできていて、クラシックな文字盤には翼を広げた天使がいる手巻き時計である。
その天使の顔がなぜか東丈に見える。銀座の服部時計店で見つけた時、どうしても欲しくなって、無理やり買ったものだ。丈にプレゼントするつもりだったが、結局贈る理由も見出せず、手離せなくなったこともあって、手許に置くことにしたのだ。女子高校生が友人にプレゼントするような気易い代物ではなかった。郁江に甘い父親もさすがに渋面になり、躊躇したほど高価な輸入品だ。
そのお気に入りの置時計が、郁江に向って〝時間がない〟と執拗に告げ続けている。
初めは気にもとめなかった。十七歳の少女にとり、時は無制限に存在するものである。自分が無常の人生を生きていると実感することは困難である。
今の郁江には、置時計の警告が自分の生命についてなされていることがはっきりわかる。自分の生命だけでなく、この地上の一切について告げているのかもしれない。
〝もう時間がない〟と聞こえ始めたのは、体の変調に気付く以前からだった。自分にもはや時が残されていないと悟るより前からだった。
もしかしたら、自分の未来を予知していたのかもしれない、と郁江は思う。さもなければ、時計のセコンドはただ単調に音高く響きわたるだけのはずである。
従姉の慶子が十八歳で、子宮癌──というよりは卵巣癌の大手術を数回行なった挙句、内臓をほとんどくり抜いたようになって亡くなったのは三年前のことだった。他にも子宮・卵巣癌の手術を受けた身内が三人いて、一人を除いていずれも他界している。子宮癌のみでなく、身内には癌で他界した者が多い。
年齢的にも近く、親しかった従姉の急死は当時中学生だった郁江に異常なショックを与えた。
自分もいずれ卵巣癌で死ぬのではないかという強迫観念がしばらくの間、郁江を虜にしていた。死んだ慶子は、郁江と非常に体質が似ており、容貌から体格まで酷似していたからである。
まだ若すぎたし癌ノイローゼになる性格でもなかったが、慶子の発病から死に至る短い経過は詳細に心に灼きついていた。もし自分が慶子のように発病したならば、絶対に手術だけは受けまいと決心を固めていた。従姉の場合、内臓ごと腹の中をくり抜くような大手術にも拘らず、いたずらに苦痛を長びかせるためにのみ、わずかに延命させたにすぎなかった。
自殺した方がどんなにましかもしれず、郁江は以来、睡眠薬をこっそり蓄めはじめたほどだった。男に生れればよかったとくやむほど行動力に恵まれているので、あっさりと死ぬ自信は充分にあった。
この十一月に変調が始まった時、いよいよ来たなと思ったものの、不思議なほど恐怖感はなかった。死はさほどの現実感を持たず、遠方を吹き荒れている嵐のようだった。
東丈の秘書役を務め、彼の描く軌跡に興味を持ちすぎていたせいかもしれない。昔から醒めやすく、どこか投げ遣りな性格の郁江には珍しく、東丈のやることに熱中していたのである。
不正出血が続き、その経過は従姉の慶子と恐ろしいほどそっくりであった。従姉も若い女性というよりはまだ少女の年齢にあり、専門医にかかることを忌避し続けて、その挙句手遅れになったのだ。生殖器系統の病気は、少女にとっては両親に対しても告げることを躊躇わせる性質のものである。
慶子がそうしたように、郁江もまた病状を徹底的に秘匿することに努めた。母親との間には抑圧された敵意ともいうべき緊張関係が存在し、日頃から疎遠なので、感付かれることはなかった。
いかに不仲とはいえ、一つ家に住む母親である以上、病状を知られれば、病院へ送られることになるだろう。父親は母親とは反対に、徹底的な偏愛を娘の郁江に示している。
〝もう時間がない〟とささやく置時計の秒読みの意味がようやくわかって、死んだ従姉が教えてくれたのではないか、と郁江は迷信的な考えに捉われた。
残り少い時間をどうするか、彼女は真剣に考えた。生れてはじめて真剣になったような気がするほどだった。
しかし、特にこれといった考えは生れず、体力がなくなるまでは丈の仕事とつきあおうと決心するにとどまった。特に変わったことはしない。秘書の仕事も容易ではないのである。
乏しい残り時間をより有効に使おうと郁江が本気になると、時間は濃厚に流れ始めた。これまではさらさらと無抵抗に指の間をすり抜けて流れ去っていた同じ時間とは思えなかった。
やることはいくらでもあるのである。与えられる仕事ではなく、自ら探しだす仕事は比重が重く手応えがあるように感じられた。
どこかで見かけた〝一日一生〟という言葉がありきたりの凡庸な格言ではなく、恐ろしいほどの意味を持ち始めていた。時間に比重の軽重を与えるのは、自分自身の目的意識であり、仕事をなす意欲だという真実を実感できるようになった。充実した多忙な一週間は振返ると一か月にも一年にも感じられるのだ。
だらだらと無為にすごす時間が、その当座は恐ろしく悠長に長く感じられるのに、過去になってしまえば瞬く間であるのと、同じ根を持った時間感覚に違いなかった。
郁江がこれまで味わったいかなる時間にもまして、一瞬一瞬が新鮮なものと化した。黒雲が地平線から広がってくるように、重苦しい恐怖を未来に意識しないわけではなかったが、多忙さの中でその圧迫感は稀釈されてしまうのだった。
まったく丈の秘書役は、いくらでも仕事を発見することができたからだ。受動的に命じられたことをこなすのではなく、己れから見出し関りあおうとする以上、普通では考えられないほど細々とした仕事ができた。丈宛の問合せの手紙を整理し、代筆するだけでも、うっかりすると一日仕事であり、自宅へ持ち帰って深更に至るまで続けなければならなかったからだ。
しかも、そんなことは丈の感謝をことさらに期待するような類いのものではない。郁江は他に献身することが可能な自分を見出してひどく驚いていた。そんなことは利己的な自分には決してありえないと信じていたからだ。
献身、自己犠牲......そんな言葉は自分にあまりにもそぐわず、照れくさく、恥しいことだった。郁江にはむしろ男の子のような偽悪的な倨傲が存在した。昔から〝良い子〟にはなれず、そうあろうと考えただけで死ぬほど恥しくなってしまうのだった。
世の中に偽善ほど厭なものはなかった。口先だけの道徳家ほどうとましく、憎むべき卑怯者はまたとなかった。うわべだけの〝良い子〟になるよりはむしろ、利己主義に徹底した冷酷な乾いた人間でありたかった。
だれもが人間は我身可愛いエゴイストなのだ。ならば、それを昂然とかざして生きる方がはるかにましであった。体裁だけをとりつくろった偽善者にだけは絶対にならない。
東丈とつきあったのは、彼の正体を見抜いてやろうとする息ごみがあったせいである。丈の説く言葉に影響され、帰依したわけではなかった。それは丈に対してはっきりと告知していることである。
丈の人間的内容については、いつも疑念をたっぷり持ち、検討を怠らないできたつもりだった。
丈の秘書役を買って出たのも、彼を崇拝し、献身の衝動に駆られたからではない。丈の身近にいれば、必ず彼の正体を看破する機会があると思ったからだった。他の女の子のように魔蠱にかかったような、憧憬の霞のかかった目ではなく、意地悪な透徹した目を決して失わないつもりだった。
その点は丈に断わってあるので、少しも陰湿であったり陰険であったりすることはないはずだ。郁江はいたって正直な気質であり、陰険にはなろうと思ってもなれなかった。
献身など生来、自分には無縁と思いこんでいたが、そうではないことを郁江はすぐに発見した。それどころか、献身はひどく居心地がよく、自分の性に合っているのである。
もともと飽きっぽい性格なはずが、献身するとなると、集中力はいっかな衰えず、いくらでもエネルギーが湧出してくる。郁江をこれほど驚ろかした発見はなかった。自己の利益のためであれば、とうてい精力が続かない仕事である。もしアルバイトの賃仕事であれば、自宅へ持ち帰り、深更に至るまでせっせと単調な仕事に打ちこんだりするはずがないのだ。
他者への奉仕だからこそ長続きするのだった。献身というのは、人間をもっとも活性化する仕組かもしれないと郁江は思った。彼女自身、思いこんでいたようなエゴイストではないようだった。他者への奉仕に情熱を燃やすのは、エゴイストとはもっとも遠地点にある行為であろうからだ。
だからといって、丈に対する懐疑的態度は捨てていない。頭から無条件で人を信じることは、彼女にはできなかった。そんな行為は不誠実だと思ってしまうのだった。
久保陽子たちのような絶対の帰依を熱烈に誓い、丈を不可侵の聖地に置き、神と父親の中間に祀り上げておきながら、気が変るとほうりだしてさっさと立ち去ってしまうのは、誠実さに欠けている。相手が自分の勝手に造りあげた幻想に合致しないからといって失望するのは身勝手だ、と思ってしまうのだった。
だいたい相手のことをよく知らずに熱を上げ、崇拝するなんてどうかしている。軽率さの極致ではないか。
相手の長所も短所も見きわめないうちから、神の座に祀り上げてしまうなど、阿呆としかいいようがない。東丈は確かに興味深い男の子であり、特別な〝力〟の所有者ではあるが、丈は自分が神聖不可侵の存在であることを少しも証明していないのだ。
一度は熱烈な帰依者でありながら、丈から離れ去ると掌返したように彼の悪口をいいだし、自分の与えた神性を剝脱する人間を、郁江は軽蔑した。
自分は懐疑主義者であり、そのことで激しい非難を受けたし、丈の身辺から遠ざけようとされ、強く疎外もされた。ところがもっとも懐疑的な自分が丈に献身を惜しまず、かつての熱烈な帰依者は、丈を魔王呼ばわりし、悪口の限りを尽している有様であった。
久保陽子はそうでなかったかもしれないが、一見熱心な帰依者は、実は献身などなにもしていなかったのが事実である。ただ時間を無用なお喋りで浪費したにすぎず、丈にとっては無為そのものであったはずだ。
今となっては、丈の敵対者にまわったかつての帰依者たちへの腹立たしさもなくなったが、当時は冷徹であるべき懐疑主義者としては、ずいぶん激昂を覚えたものだった。丈に対して知らぬうちに感情移入を遂げ、肩入れをしていた証拠であろう。
むろん、郁江は今でも懐疑主義を失ったつもりはない。それは丈への愛情とは次元の異る、基本的な彼女の生き方なのだ。いつも冷静さを失うことなく観察を続けざるを得ない。丈の言動に少しでも、胡乱なところはないかと神経を張り詰めている。
なぜそこまで疑わなければならないのだろうと思う。しかし、いつでも異議申立ての権利を留保していたいのだ。それが自分の任務でもあるかのように感じているのかもしれなかった。
郁江の冷やかな懐疑主義は、最初からずいぶん会員たちの非難を浴びた。異分子どころか裏切者扱いされ、白眼視を受けてきた。そのために彼女自身、意地になってしまったのかもしれない。
東丈が偽善者でないことを明らかにするまでは、決してなにも信じまいとしてきた。そのために、丈が落ちた偶像であることをあばいてやろうと決心でもしているかのように、郁江の目は容赦ないものと化していたようである。
自分の仮借ない批判の目に堪えれば堪えるほど、丈は本物としての輝きを増すのだ......と彼女は使命感をすら抱いていたのかもしれない。
むろん、郁江の心は、単純な言葉に還元できるほど筋が通ったものではなかった。矛盾し、分裂していた。時として、自分で自分の心がわからなくなってしまうのだった。ある時は疑いながらも信じている。またある時は、丈に対して自分に信じさせてほしい、と必死な切望を抱いていた。
信じたいのだが、信じられないのだ。自分の裡に強固に居座っている懐疑心を圧倒する強さを丈に求めて止まないのだった。
そして、今となってさえ、郁江は疑いの気持を完全に消し去ったとはいえない自分を知っていた。
真冬の寒空に、部屋の窓が開け放しにされているので、室内は戸外同様に冷えきっている。
木枯しが冷暗の闇から喚声をあげて乱入してきては、カーテンを鳴らし、棚に並んでいる小物をカタカタ鳴らした。
異臭が鼻についてしまって、部屋にこもった空気が我慢ならないのだ。それで真冬の冷寒にもかかわらず、窓を開放しておかずにはいられない。
寒冷は嗅覚を麻痺させてくれるので、暖房はつけない。ノイローゼかもしれないが、異常感覚が生じていて、己れの肉体が発している異臭が嘔気を催させるのである。
肉体を蝕んでいる癌の腐臭がはっきりとわかる。
家族は部屋に入れないので、郁江が冷えきった自室でなにをしているか知らない。彼女が凍えたようになって、身辺整理をしたり、遺書を書いたりしているとは知らないのである。
夜衣の上に部屋着を羽織っただけなので、寒さは堪えがたいほどきびしい。しかし、肉の腐敗した異臭を嗅いでいるよりは、はるかに清冽で心地よかった。
置時計が相変らず〝時間がない〟と切実に訴え続けている。遺書を書くのがはかどるのは、このささやきの督励のおかげに違いなかった。
死が真近に来ていて、待機しているのが感じ取れる。
市枝、明雄の姉弟は毎日来訪して、治療を続けてくれている。効果がないわけではない。下腹部の裡にある巨きな癡りは、心なしか縮小したようである。自分の手で触ってみても、それとわかる変化がある。
しかし、顕著な変化が見られたのは初日だけであり、後は一進一退の病勢が続いているのだった。明雄が生体エネルギーを注入した直後は確かに調子がよくなるし、手で腹をさわってみても癌細胞組織が縮小したことを実感できるのだが、一晩とそれは持続されない。翌朝になれば、また元通りになってしまうのだった。
明雄姉弟が一生懸命やってくれていることは疑いもないが、これ以上好転するという望みは持てなかった。悪液質の段階に入った卵巣癌を連日の生体エネルギーの注入により、抑制しているというのが本当のところだったのだろう。もし、心霊治療を中止すれば、すかさず病勢はぶり返し、郁江は二か月と生きられないはずである。
一度死を覚悟する心境に到達した身にとってみると、生と死が一進一退の綱引を演じている有様は煩わしい限りであった。郁江の裡には生き延びようとする強い意志が欠けていた。死に対する恐怖が他人ほど強くないらしいのである。欲望については淡白な性格であり、もういいやと思ってしまうのかもしれなかった。
振り返ってみると、自分の人生にはこれだけは石にしがみついても生きていたいという執着がない。面倒くさくて、虚ろだったような気がする。ただ一つ、東丈の行く末を、もう少し長生きして眺めていたいという気分がある。
しかし、彼の秘書として務めるという燃えるような執念はなかった。もともとそんなものはなかったのかもしれない。
素晴らしいプロの秘書が丈についたと聞けば、なおさらのことだった。もう自分のなすべきことはなくなった、とさらりと思いこんでしまうのだ。嫉妬が皆無とはいわないが、それで苦しむことはない。
昔から自分は虚無的だと思い、人にいわれもしたが、本当は虚無的なのではなく、欲望が薄いだけなのかもしれなかった。何事によらず、飽和するのが早いのだ。
むろん、それほど物事は単純ではなく、もっと屈折しているに決っているのだが、世の中にどうでもいいことばかりが多いという点では共通していたかもしれない。丈の活動にしても、もう充分つきあったので、ああ面白かったですんでしまったといえないこともないのである。
父親が、郁江を一刻も早く入院させ、手術を受けさせるべく腐心しているが、これほど煩わしく迷惑なことはなかった。衝動にまかせて本当のことを告げなければよかったと悔んでいるほどだ。
久保陽子のことは、今でも馬鹿だと思っている。同情は感じているし、憎んでいるのではないが、やはり愚劣だと思ってしまう。
それほど執着が強いのなら、丈にへばりついて離れなければよかったのだ。だれも陽子を丈から遠ざけ、追い払おうと策謀したわけではない。勝手に嫉妬の虜になり、被害妄想で苦しんだ挙句、会を出て行ってしまったのだ。
きっと陽子は、側近第一号の座を奪おうとしている(!)郁江たちを憎み呪い、それを制止しようとしない丈さえも恨んだに違いない、と思えるのである。
陽子が特に自分に対して激しく嫉妬したと知って、郁江は驚いた。彼女ははっと人目に立つ愛くるしい美貌にもかかわらず、ナルシシズムというものがない。陽子が自分に対して狂うほど嫉妬するという気持が、やはり郁江にはわからない。
郁江自身、新しいプロの秘書、杉村由紀に対して、まったく嫉妬がないというわけではないが、陽子のように自己破壊的な行動に走るまで追い詰められる心境が、どうしても理解できないのである。
一方的に嫉妬し、丈の関心を奪いあうこともせず、逃げるように一人で離れ去って、自分を滅茶滅茶にしてしまうというのは、郁江の理解を超え、気違い沙汰以外の何物でもないような気がする。
気の毒だと思い、憐愍を覚えないわけではない。しかし、その前に、女の妄執だとか業だとかぞっとするような言葉が浮んでしまうのだった。
そして、あれこれ考えるのも煩しく、面倒になってしまう。自分はたぶん、薄情なのだろう、と彼女は思うのだった。
何事によらず、深く関与するのが厭で、どうでもよくなってしまう。たぶん、薄情で無感動なのだ。
生きるということさえ、どうでもいいと昔から思っていたからだ。陽子がこんな自分のことを知っていたら、嫉妬妄想の虜になるなどありえなかったろう。郁江は陽子と異り、東丈を独占したいと露ほども思っていなかったからだ。そんな面倒なことは、およそ考えられなかった。
だからこそ、東丈に対して狎れなれしいと他人が思うほどの気易さで接近し、気兼ねなく東君呼ばわりで顰蹙を買いながらも、伸びのびと振舞うことができたのであろう。およそ郁江には底意というものが欠落していたからこそ可能だったのだ。
しかし、久保陽子には、郁江の闊達さが大きなショックだったようである。陽子には丈に対する熱く濁った不透明さがあるがゆえに、郁江の真似はできなかった。郁江を激しく嫉妬し、久保陽子は自ら苦しみを造り、自分で自分を追い詰めていったのだ。
陽子が丈に対して熱く濁った情熱を抱いているなど、郁江には計りようがなかった。信じられないことだった。彼女自身性的な情熱を燃やすタイプではないので、まったくぴんとこなかったのだ。
馬鹿みたい......という気持が今も抜きがたく胸の底にある。嫉妬すること自体がそうであり、自己破壊的になり、黙って丈から離れ去る行為となると、郁江の理解を絶している。まったく筋が通らず、不条理そのものだ。肝心の東丈は、腹心を失って困惑する以上に、何のことかわからないであろう。
丈に対する求愛を退けられたというならもちろん筋が通る。そうではなくて久保陽子の行動はことごとく矛盾しており、分裂している。それが可愛さ余って憎さ百倍ということなのかもしれないのだが......
たぶん、丈が強く引止めればよかったのだろう。しかし、陽子は風邪を口実にして出てこないようになってしまったし、丈もそれ以上は慰留の態度に出なかった。それがまた悪化の原因となったのかもしれない。
とにかく面倒臭くて、馬鹿みたいで、まるきり話にならない、と考えてしまう。そういえば、風邪を口実にして陽子が会に出てこなくなった時、丈は郁江に様子を見に行かせようとしたことがある。その時は鬱陶しいのであっさり断わってしまった。
今となれば、あの時丈の依頼を引受けておけばよかったと思わないでもないが、当時は久保陽子の屈折ぶりを疎ましく感じるだけだった。まさかこんな激変がやってくるとは夢にも思わなかったのだ......
2
東丈が来るのなら、部屋に強い香の花でも生けておけばよかった。
部屋はあまりにも寒すぎて、吐く息がそのまま白い霜と化して落ちてしまいそうだった。体の深奥に氷の柱が生じているような気がした。
窓を閉めて、オード・トワレでもスプレーしようと思うのだが、体が一向に動かなかった。重く冷たく麻痺してしまっている。手がいつしか下に伸びて、下腹部の無気味な固い癡りを探っていた。
卵巣に生じている腫瘍であり、従姉を殺した癌であることは疑いを容れない。腹腔内に転移するのは瞬く間であり、並みの子宮癌とはまったく異なる。
手がその固い手触りにすっかり慣れてしまっているようだった。もう長い間、共棲している仲のような気さえする。今となっては、それが存在しなかったころが、想像しにくくさえなっていた。
明雄姉弟の連日の努力にもかかわらず、それはある程度大きさを減じたあとは、びくともしなくなってしまった。恐ろしい爆弾のようにそこに居座って反撃を試みようと窺っているのだった。明雄たちといえども、永久に治療を続けることはできない。ある日、それは爆発して、なにもかもけりをつけてしまうはずであった。
もう起きて、仕度をしなければならない、と郁江は十数度目の意志を働かせた。間もなく丈がやって来る。丈にあまりみっともない顔を見せるわけにはいかない。
こんな時間になぜ丈が来るのか、わけがわからない。午前一時半だ。病人を訪問する時刻ではない。まったく丈は風変りだ。世界を破滅の運命から救おうと大真面目で努力しているなんて、やっぱり変り者に違いない。
来なければいいのに、と郁江は思った。こんな病気でやつれて醜くなった姿を見られたくない。そんなありきたりの気持が、自分に働くのが腹立たしくもある。
来てほしくないが、同時に来てほしいという矛盾しきった気持もあった。
なぜもっと早く来てくれなかったの、とのっけからなじりそうな気がした。いくら人気者になったからって、お見舞いに来てくれたっていいじゃない。
その方が理不尽で、いかにも郁姫らしくていい。めめしくなるのは厭だ。さすがの郁姫も病気で気が弱くなったといわれたくなかった。
しかし、それにしても時間が遅すぎる。やはり午前二時に気分がひどく悪くなると教えたからだろうか。忙しくてきりきり舞いしているだろうに、わざわざやってくるなんて......他の会員が知ったら、決してよくはいわないだろう。我儘者の郁江をどこまで甘やかすのかと、批判の目で見るに違いない。
やはり丈も久保陽子のことを気にしているのだろう。陽子が離れ去るのを追わず、突っ放してしまったことを後悔しているのかもしれなかった。
しかし、それはあくまでも陽子の身勝手であり、丈が悩む筋合いではないという気がしていた。
大勢の会員の中には、さまざまな理由で心変りして、会を離脱して行く者も少くないだろう。それらをいちいち未練がましく追いかけ、慰留してどうなるというのか。久保陽子など好きなようにさせればそれでよかったのだ。陽子が、江田四朗の誘い出しにまんまと乗ったのは、信じがたい愚劣さであり、馬鹿さ加減だった。あいた口が塞らないとはこのことだろう。災難には違いないが、丈の責任ではないし、丈が気に病むなど愚の骨頂といえる。
気の毒と思わないこともないのだが、郁江には陽子を見舞った災難というものが、実感を伴わないのだった。それも当然といえたろう。郁江は性的好奇心は稀薄で、疎いという以上に知識は持ち合せていない方である。
久保陽子が、江田四朗に誘い出され、世田谷のあの古ぼけた寺院に連れこまれ、どんな目に遭ったのか、想像することもできないのだった。
相当という以上におぞましいことがあったのだろうが、あれこれ想像する気にもなれなかった。彼女が久保陽子に対して、あまり同情心を発揮できないのも、そのせいかもしれない。性的な暴行を受けたとか、その程度のイメージしか湧いてこないのだ。実感がないので、大変だったろうと思うが、その程度で止まってしまう。
感情移入というものがうまくできない。郁江自身は我身に置きかえてみても、たいしたことはないような気がしてしまうからだった。たぶん自分の想像力が欠如しているのであろう。
以前、河合康夫の家で、番長崩れの松田という少年の奇怪な話を聞いた。江田四朗が化物じみた存在になり、変質的ないやらしい悪習に耽溺しているというのだ。しかし、その時も怪奇談を聞かされているようで、少しも現実感がなかった。陽子はいったいどんな経験をしたというのか。悪夢のようなものかもしれないが、やはり郁江の想像の外にあることは否みようもなかった。
たとえば、江田四朗の男性器が太い蛇のように長大なものと化して、若い娘の胎内に侵入し、娘の口から先端が赤黒いバラの花のように咲くなど、いかに努力してもイメージを喚起することができない。あまりにも奇怪すぎる。郁江はポルノ写真ですらも一度も見たことがないのだった。材料がなければ、想像は目鼻立ちを持たないものである。
さんざん想像しようと苦心した挙句、郁江は諦めた。久保陽子に対してあまり想像力が働かず、その結果、同情心が稀薄になるのかもしれなかった。
卵巣癌と知っても動転する衝撃もなく、死に対する恐怖が徹底的でないのも、想像力の欠乏のせいに違いない、と彼女は結論せざるを得なかった。
しかし、気が狂うほど懊悩することもなく、いかにも郁江らしく恬淡として死を迎えることができるなら、それもいいではないかと思った。
もっとも、末期の癌のもたらす劇甚な苦痛だけはご免であり、その前に薬を服んでけりをつけてしまう気だったのだが......
窓を開放してあるので、家の前に車が停まる気配ははっきりわかった。さすがに今度は体に力が入って、郁江は起き上り、体のあちこちを椅子やテーブルにぶつけながら、窓際へ駆け寄った。
タクシーが前の道路に停まり、丈が降りてきた。もう一人女性が姿を現わす。それが新しい秘書の杉村由紀と知って、郁江は凝然となった。まさか丈が連れてくるとは思わなかったのだ。背の高い美しい女性である。郁江は部屋のドアに鍵をかけてしまおうかと思った。
そのとたん、道路の丈が目をあげ、窓に立つ郁江を見上げた。夜目にもはっきりとわかる黒い瞳の光は、そんな彼女の心底を射抜くほどの強さと明るさがあった。
まるでスポットライトを顔に浴びせられたほどの視線の驚くべき強さだ。有無をいわせないところがある。
もう彼は久保陽子が離れ去った時の東丈ではないのだ、と彼女ははっきり悟った。丈はどんどん変って行く、日一日と自信を深め、一まわりも二まわりも大きくなって行く。
丈の変貌ぶりには、もうだれも追いつけないだろう、と郁江は確信した。自分はたぶんそれを予感していたのだろう。自分がもう用ずみになるとひそかに予知していたに違いなかった......
郁江が部屋着にスリッパをつっかけて、階下へ降りて行くと、すでに父親が応対に出て、東丈と秘書に挨拶していた。
丈は例によって学生服だけという薄着で、この寒夜に平然としていた。寒さなど生体エネルギーのポテンシャルが高いので感じないのであろう。丈の身辺にいる者までエネルギーの放射を受けてか、寒さに強くなってしまう。
遅くまで起きていて待機していた父親は、なにやらくどくどと挨拶の言葉を口にしていた。丈は口数少く、重厚に黙っている。年齢や人生経験、社会的地位など無意味なものに還元してしまう力が丈にはある。人格的迫力というべきもので、丈のような十七歳の少年にしては信じがたいほど稀有な人間の厚みである。
母親はもちろん出てこない。不逞くされてしまっているのだ。自室に閉じこもったきり一切顔を出そうとしない。父親がその分だけ責任を感じておろおろしていた。高級官吏として役所では重厚であろう父親も、丈の前ではまったく落着かなかった。扱いなれない相手に対しては、人間の重みが外見ほどでないことを露呈してしまうようであった。
郁江はショールで顔と頭を半分以上隠し、そろそろと階段を降りていった。目は否応なしに秘書の女性に灼きついてしまっていた。
長身の美しい女で、神秘的なものを強く感じさせた。一目で月並な美女でないことがわかる。瞳に特殊な輝きがあり、その視線を受けただけで敗北感に捉えられてしまった。丈も秘書の女性も二人ながらに、郁江の決して立ち入れぬ世界の住人だとはっきりわかったのだった。
丈は礼儀正しかったが、父親のくどすぎる挨拶にうんざりしているようだった。
「お父さん、もういいわ。また後にして......」
と、郁江は声をかけた。父親は声を吞んで、階段に立っている娘を振り返った。
赤いショールで顔を半分隠した娘は、なぜか老婆のように見えたのだ。
丈は表情を変えずに郁江を見た。たとえショックがあったにしても、その端然とした顔にはなにも浮かばなかった。
「来年三月に、本が出る」
と、丈はいきなりいった。どうしている、ともなんにもいわなかった。先刻の続きという感じだった。彼は出版社の名前をいった。
「K社から出るんじゃないのと君は尋かないのかい?」
「どうして?」
と、郁江は吊りこまれて、ごく普通の調子でいった。
「みんなが同じことを尋くからさ。みんな、K──社から出るとばかり思っているらしいんだ」
「あたしもそう思ってたわ。でも、どこから出るんでもいい。おめでとう」
「それを君に教えたかったんだ」
丈は平常の口調で続けた。
「こちらは、秘書のチーフになった杉村由紀さんだ。秘書の仕事をいろいろ教えてもらうといい」
「杉村です、よろしく」
と、由紀も丈にならってごく普通の声音でいった。起伏のない日常の一点景という感じだった。劇的なものはなにも感じさせなかった。
「あなたは超能力者なんでしょう、杉村さんは......」
と、郁江はまっすぐに相手に目を当てたまま尋ねた。
「すぐにわかったわ。とっても特殊な雰囲気だから」
「そうはならないように気をつけているんですけど」
と、杉村由紀はいった。
「杉村さんのような人が東君の秘書になってくれてよかったと思います。この先、大変だなあと思って心配してたから......やっぱり天の配剤って言葉があるけど、東君にはあなたのようにしっかりした人生経験のある秘書が絶対に要ると思ってたわ」
郁江は淡々といった。
「杉村さんならぴったりです。非の打ち所がないと思います」
「ありがとう。そういっていただけると嬉しいんですけど......ご期待に添えるかどうか心配です」
「どうぞ上って下さい」
と、郁江はいった。父親はいっしょについて二階へ上るかどうか迷っていたが、郁江にその気はなかった。
「じゃ、お父さん、また後で......」
素気なくいい、くるっと背中を向け、先に立って階段を登って行ってしまった。初老の父親は未練がましく玄関ホールをうろうろしていたが、もはや目もくれなかった。
丈と杉村由紀は、部屋の寒さには何もいわなかった。窓は閉じられ、ガス・ストーブは点火されているが、まだ全然暖まっていない。急いでまき散らしたオード・トワレの香が立ちこめている。その方が感覚の鋭敏な丈には気に障ったようであった。
「匂いがきつすぎる」
と、彼はいった。
「窓を少し開けるよ」
さっさと窓を開けてしまう。そのまま窓際に立ち、考えこむような表情で、郁江を見詰めていた。
「病状がはかばかしくないようだな? 明雄がいっていた......」
「せっかく一生懸命やってもらっているんだけど」
と、郁江はベッドに腰をおろし、顔にショールを巻きつけたまま答えた。丈にやつれた顔を見せたくないという気持が働いているのかもしれなかった。しかし、ショールをおさえた手は、かつての郁江のまるぽちゃの手ではなかった。老いさらばえた老婆のように瘦せた手になっている。
杉村由紀がさりげなく視線を、自分の手に向けるのを見て取り、郁江は相手の超知覚の鋭さに驚いた。超能力者であることがわかっていなかったら、同席するのに堪えられなくなったろう。
「光のエネルギーが充分に入らないようだと明雄は考えている。それに一晩たつとすっかりエネルギーが脱けてしまう。普通だったら考えられないことだ」
「ごめんなさい、ご迷惑かけて......」
郁江らしくもない素直な調子だった。丈は背後の窓を閉めて、椅子のそばに戻ってきた。
「だいたいの原因はわかってる。その原因をそれぞれ取り去らないと、根本的な解決にならない」
「そうね......」
郁江はぼんやりといった。気乗りの感じられない調子だった。
「あたしにはよくわからないけど」
「杉村さんは僕の助手だ。つまらないことをいちいち気にするなよ」
丈はきっぱりといった。
「別に気にはしていないけど......」
「気にしてるさ。そんなことぐらいわからなくてどうする?」
「でも、あたしにはどうしようもないわ。だって、初対面だし」
「どんな親友でも、初対面は必ずあったんだ。今の杉村さんは、いってみれば看護婦みたいなものなんだ。気にするのはよせ」
「でも、心の内側をよその人に見られるなんて、あたしは慣れてないしね。どうしても固くなってしまうのね」
「必要でなければ、杉村さんも僕もそんなことはしないさ」
「だから......別に見られたっていいんだけど、あんまり汚れてるから......それでやっぱり抵抗を覚えてしまうのね」
「見てほしいと頼まれても、あたくしにはそんなにたいした力はないんですよ」
と、杉村由紀が穏やかにいった。
「なにもかもわかってしまうような、そんな〝力〟はないんです。相手が遠感能力を持っていて、自分から進んでなにもかも見せてくれるならともかく......あたくしはそんなに優れたテレパシストじゃありません」
「ルナ王女のような......」
と、郁江は挑むようにいった。
「いいの、全部見られても。見られるくらいなら死ぬなんて突きつめた気持はないから。いえ、見てもらいたいの。なにもかも......でもいやな臭いのする溝みたいだから、かえって悪いみたい」
「見てくれといわれても困るんだよ。それは君自身が一つずつ解決する問題なんだ......」
「思い切って、何もかも見てというと、反対に断わられてしまうのね」
ショールからわずかに覗いた郁江の瘦せて肉が落ちた片頰に苦笑が滲んだ。
「ずいぶん悩んで、やっと決心したのに」
まんざら噓でもなさそうな口調だった。
「最初から君はそのつもりだったんだ。さもなければ、人間は自分から超能力者に近づいたりしないんじゃないか。どうしても心を他人に見せられない人間は、決して超能力者に自ら接近したりしない。君は最初からそのつもりで僕のところへやってきたんだ」
「ひどい。それじゃまるで露出狂みたいじゃない......」
「助けを求めている声が僕には聞こえたんだろう。君はいつも僕に訴えていたよ。もちろん言葉じゃなかったが」

「そうかもしれない......」
郁江はぽつりといった。
「ずいぶん素直になったもんだな。まるで別人みたいだ」
「やっと自分に対して正直になれたの。それで、気持がすっとしてしまったのね......」
重い沈黙が一瞬落ちかかった。郁江がいいかけて吞みこんでしまった言葉は、丈らにとっては明白だった。──もういつ死んだっていい......と郁江はいおうとしたのだ。その言葉はあまりにも生々しすぎた。体がにわかに冷たくなるようだった。
「解決すべき問題はいろいろあるが、みんな後まわしだ。きっとうんと冷汗を流してもらうことになるだろうな」
丈は無頓着な口調でいった。
「今まで自分がどうやって、どんな心で生きてきたか、いちいち思い返してみると、汗をかかない人間はいないよ。君だってそんな悟り澄ました顔じゃいられない......
いつも午前二時ごろになると調子が悪くなるんだって?」
「ええ。なんか変になってくるの......」
郁江は丈のさりげなさに合わせていった。
「眠っていても、いつも目が覚めるの。それが決まって午前二時」
「毎晩かい?」
「うん。十一月ごろからずっと続いてるわ。時計を見て、午前二時だ、来るな、と思っていると本当に始まるわ。まったく狂いがないの。本当に規則正しくて、定期便といってもいいくらい......でも、なぜだかわからない。気のせいじゃないの。変になってきて、はっとして眠りから覚めても必ず午前二時だから......」
「どんな感じになる?」
「そうね。最初になんというか、とっても恐ろしい、無気味な頼りない気持になるわ。居たたまれない、どうしていいかわからない気持。ただむしょうに苛立たしいっていうのか、胸の裡が腐蝕してボロボロになって行くみたい。苦しくてやりきれなくて、なんだか最悪の絶望感に陥ちこんでしまったみたいなの。それこそ酒を飲もうとなにをしようと、決してそんなことではごまかされないっていう、ひどい精神的苦悶なのね。
思わず、助けてっていいたくなってしまう。でも、どうしようもないもの。一人でじっと堪えているしかない......それこそ火で焼かれ、油で煮られているみたいな、最悪のどうにもならない焦燥感っていったらいいのかしら。体中からどっと汗が噴きだして、心臓がどきどきして、居ても立ってもいられないし、それこそ横になっていることもできないの。
なぜ自分がこんなひどい惨めな陥ちこんだ気分になるのかさっぱりわからない。よっぽど悪いことでもしなきゃ、あんなひどい気分にならないと思う。他人にもの凄い意地悪をしたり、陰謀で陥れたりして、良心の呵責で居たたまれなくなる......もしかしたら、そんな気分なのかもしれないわ」
郁江は単調な声音で喋った。話がとぎれると、大きなセコンドを刻む音が響きわたり、念頭に昇ってきた。
マントルピースの上の置時計は午前一時四十七分あたりを差している。
「毎晩、そんな気持に責めたてられて、よく我慢できたな」
丈は息を殺すようにいった。
「あたしって、わりと辛抱強いのね。冷汗を全身に滲ませながら、じっと辛抱しているの。どうせ永久に続くわけじゃない。もう少し我慢すればおさまるって自分にいい聞かせながら......でもその時はどうにも堪らない精神的苦痛が永久に続きそうな気がするの。胸の中が濃硫酸でボロボロに焦げて崩れていくみたい......でも我慢するしかないんだし、頑張るしかないわ」
「なぜ僕に電話しない?」
丈は堪りかねていった。
「僕にいって、相談すればいいじゃないか」
「だって、東君に悪いもの。ずっと忙しいのをよく知ってるし......」
「肝心な時だけ、遠慮っぽくなるんだな」
丈は頭を振った。
「会員たちにさんざん図々しいとか厚かましいとかいわれた郁が......で、それからどうなる?」
「それから悪寒がしてくるわ。高い熱が出る時の悪寒じゃなくて、もっと気味が悪いやつなのね。体中のエネルギー......生命力がどんどん吸い出されているみたい。全身の血液が失くなってしまうのかと思うくらい......もうこれで死んでしまうのかといつも思うわ。いつ心臓がすっと停まってしまっても不思議はないくらい。もう自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなる......」
「それが、今も毎晩続いてるのかい?」
郁江はうなずいた。
「黒いボールを、明雄が毎日取り除いているのに、次の日になるとまた入ってるというんだな?」
「そうよ。なんだかキリがないみたい。自然に湧いてくるのかしら? 凄く調子がよくなったのは最初の日だけで、あとはイタチごっこって感じ......」
「黒いボールが自分のお腹の中に入っているっていうのは、自分でわかるか?」
「ええ......」
郁江は躊躇した。丈が明雄のように腹部に手を触れるという考えの虜になってしまったようであった。
「冷たくて重くて、とっても調子が悪くなるの。腰が冷えて痛くなるわ。ああ、またあの黒いボールが入ってるんだなって思う。明雄が何度出してくれても、またすぐ入っちゃうのね。明雄や市枝さんに悪くて......いくらやっても無駄みたいだから」
「無駄なんてことはないさ」
「あんなに一生懸命やってくれてるのに、結果がはかばかしくないと悪くなっちゃうの。それに明雄はまだ体が充分に回復してないし」
「ぶり返してしまうのには原因があるんだ。だから、今夜はこんなに遅く訪問したわけだ。原因を除去してしまわないことには、明雄がいくら努力しても甲斐がない」
「午前二時に起こることと、黒いボールとなにか関係があるのかしら?」
「そうだ。だから、今夜はそれを突き止めるつもりだ。もうじき午前二時になるな」
置時計は午前一時五十五分を差していた。期せずして郁江と杉村由紀がぶるっと身慄いした。
「黒いボールって、正体はなんなの、東君? 黒い想念のボールだとか聞いたけど」
「人間の悪念──毒念のかたまりだ。一種の心霊的な磁場なんだが、霊能者には黒いボールに見える。ボウリングのボールみたいな感じだ。破壊のサイキック・エネルギーだから、心も体も悪い影響を受ける。気分が悪くなって、苛々したり、病気になったりする。その黒いボールが体の中に入っているわけだから、君がひどい病気になるのは当り前なんだ。そいつを徹底的に追い出して二度と近寄れないようにしないと、君は元通りにならない。つまり、明雄が何度黒いボールを出しても、すぐにまた入りこんでしまう。それが午前二時の訪問者に関係がある」
「午前二時の訪問者って、スリラー小説の題名みたい」
と、郁江はいった。丈が身近にいるだけで、エネルギー放射を受け、元気が出てきたようだった。顔に赤みが射してきている。
「でも、それは幻魔の黒い想念のボールなんでしょ? なぜあたしみたいな者が標的にされることになったのかしら? 真先に狙われるんだったら、東君のはずよね?」
「............」
丈は口を閉して、郁江を見ていた。
「でもさ、東君には歯が立たないから、あたしにお鉢が廻ってきたのかしら? だとしたら、東君の身替りだから、光栄みたい」
郁江はいつもの調子を取り戻していた。歯に衣着せずづけづけという。
「どうしてあたしが身替りになるのかわからないけど、いつでもなってあげるわよ。東君にいっぱい貸しが作れるもの。どうやって貸しを返してもらうか、ゆっくり考えるわ」
「その調子だ」
と、丈はいった。微かな笑いを顔に浮べる。
「それが郁らしくていい。病気でしょげこんでるなんて郁らしくないからな。とにかく、もうじき午前二時だ。二度と起こらないように決着をつけてやる」
丈は両手を開いて前に差しだした。目の前に右手を突きだされた郁江はいささかたじろいだようであった。
「手を摑まえているんだ。何が起きても放すなよ......僕のサイキック・エネルギーでガードするから。杉村さんも反対の手に摑まって。そう、しっかり摑んでるんだ、二人とも」
郁江と杉村由紀は躊躇いがちに、丈の左右の手をそれぞれ両手で摑んだ。何が起こるのかという期待と不安で、胸が高鳴ってくる。目はマントルピースの上の置時計に吸い寄せられた。
3
午前二時二分前であった。
丈のあたたかい手から生体エネルギーが二人の体に流れこみ、充満した。たちまち精気が旺溢して、体が暖くなり、軟くほぐれて行くようだった。体に巣食っていた不快感がみるみる溶解し、蒸発し、消え去って行ってしまう。噓のように体が楽になってくるのだ。
体調に異和感を持たない杉村由紀にしてもそれは同様であった。みるみる活力がレベルアップして行くのがはっきりとわかる。四肢に潜み、意識されることなく隠れていた不快な癡りや歪みが一掃されて行くのがわかるのだ。強い浄化作用を持つ〝力〟が四肢の隅々にまで流れこみ、夾雑物や不浄物をすべて洗い流してしまうようであった。
これなら、難病とされていた明雄の進行性筋萎縮症もいやされてしまうのは当り前だ、と杉村由紀に思わせる高エネルギーの充実感だった。
体が暖くなり、楽になるとともに、安息感が広がった。ゆったりとした和やかな気分である。強い日射しの夏の一日が終り、涼風が吹く夕暮れの平原をゆったりと眺めているような、充足感、満足感があった。なにかしら根元的な安らぎというものを与えてくれるのだった。
杉村由紀は強い幸福感に捉えられ、恍惚感の波がうねってくるのを覚えていた。なにかしら地上的なしがらみの全てから己れが切り離され、高みへと浮揚して行く至上の幸福だった。
おそらく、自分だけではなく、井沢郁江もまた同じ解放感と充足感を得ているのであろう。蒼ざめていた顔に赤みがさし、光を底から放ってくるような貌になっていた。固い体の線もほぐれて柔軟になっている。少し前までは棒を吞んだような姿勢であり、体中が凍りついている鈍重な感じだったからだ。
体が熱く火照り、上着を脱いで窓を開け、冷たい外気に触れて涼みたいような気持になった。活気が充満して、それを放出せずにはいられない衝動が高まってきた。
部屋の空気には、微妙な細かい振動が満ちみちているようだった。高エネルギーの磁場が生じているのか、大気がビリビリと震え、白っぽく発光しているような気がした。耳を澄ますと、非常に高い音波が唸っているようであった。
丈のサイキック・エネルギーがすっぽりと三人を包みこみ、部屋を満たしているのだと杉村由紀は悟った。丈がこれほど強い〝力〟を行使しているのは初めての体験だった。
彼女はわけもなく笑いたいような気分になってきた。世の中の厭なこと、不快なことがことごとく無限に遠ざかって行くのを感じていた。
体中の細胞が柔かく瑞々しくほぐれて行く。心身ともに硬化し、角質化した部分が新鮮さを回復して行く。
丈が人の病いをいやすことなど造作もないのだ、と彼女は悟った。それは彼の〝力〟のごく自然な流露なのだ。なぜなら、〝力〟の本質は、宇宙と人間が直接結ばれているというとてつもない安心感をもたらしたからである。
突如、ぶんと不快な唸りが部屋中を震わせた。荒々しい粗暴な波動が体当りしてきたようだった。
杉村由紀は反射的に置時計に目をやった。ぴったり午前二時であった。
いよいよ始まったのだ。
不快な波動が部屋に侵入を計ろうとしていた。が、目に見えぬ障壁の如きものに阻まれて、ぶんぶん唸っている。
実際に唸りが生じているわけではないらしいが、はっきりと感じられるのである。巨大な熊蜂の如きものが、凶暴な怒りに狂いたって、しゃにむに障壁を突破し、潜りこもうとしていた。
ぞっとするような憎悪と怒りの波動が伝わってきた。体当りを繰返し、狂いまわっているのがわかる。しかし、丈の築いた高エネルギーの力場は、邪悪な激怒の波動を阻んでびくともしなかった。それどころか、ますますエネルギー感は強烈になり、レベルが高まって行くのが手にとるようにわかる。
杉村由紀はなんの不安も覚えなかった。郁江の頰からも赤みが消える気配はない。丈の〝力〟は圧倒的に強く、凶暴な波動を寄せつけもしないとほとんど肉体感覚でわかっているからであろう。
邪悪な波動は阻まれる都度、怒りをつのらせ、死力を尽して攻撃を加えてきた。いつしか部屋の四囲の壁が青い闇に包囲されていた。無気味な底知れない青い闇である。それがじりじりと圧縮されて究極に達すると、あの黒いボールと化すのだ、と杉村由紀は直感的に理解した。
このぞっとする非現実的な青い闇は、毒念そのものの形象化なのだと知った。
丈は平然としていた。己れの発揮している〝力〟になんの懸念もないらしい。充分に余裕を持って青い闇の圧迫に抗している。
四囲の青い闇に厭らしい顔がぽっぽっと浮かび始めた。青黒い鱗を持った、恐竜に似た顔中鋭い歯だらけの邪悪なもの......その目は真赤な憎悪に燃えあがっている。
「あれ、なに!?」
と、郁江がさすがに恐れをなして声をあげた。声音は非常にあわて、怯えていた。力いっぱい丈と結びあわせた手にしがみついてくる。郁江だけではなかった。丈の左手を握った杉村由紀も、まるで命綱のようにすがりついている。
「幻魔だ。幻魔の想念が物質化現象を起こしているんだ! 僕のサイキック・シールドと激しく衝突している」
丈の声はさすがに驚異の念がこめられていた。
「だが大丈夫だ! 心配するな。奴等は入って来られない。食い止められてしまって、びくとも動けないんだ」
「これからどうなるの!?」
郁江が怯えた声でいった。
「奴らは動くに動けない」
「でも、東君が力を抜いたら、また攻めてくるわ」
「力比べでは負けない。奴らの力はたいしたことはない......それがわかった」
「でも、東君が帰ったら、またやってくるわ!」
「大丈夫だ。今に見てるがいい。相手がどんな動き方をするか、様子を見ているんだ」
丈は冷静にいった。
「弾きとばしてしまうことはいくらもできる。恐がることはないんだ。郁江さえちゃんとしっかりしていれば、こんな奴らを寄せつけないだけの力があるはずなんだ」
「だって、あたしには〝力〟なんか全然ないもの......」
「いや。できるさ......やり方さえわかっていれば、奴らを阻止できる」
青い闇の圧力には波があった。激烈に締めつけるかと思うと、すっと波となって退いて行く。そして再び力を盛り返し、容赦ない圧迫を加えてくるのだった。
四囲の青い闇に浮いている幻魔の陰惨な歯だらけの顔も、圧力の強弱によって螢のように瞬いていた。
「今からちょっと実験をやる」
と、丈はいった。
「実験って......?」
「相手をもう少し引き寄せてみる。サイキック・シールドをわざと弱めれば、向うは図に乗って力まかせに絞めつけてくるだろう」
「それで、どうするの!?」
「相手をもっとよく観察する。できるだけ引き寄せてやって、相手がかさにかかり、油断するところをじっくり見たいんだ」
「なぜ、そんなことを......?」
「考えがあるんだ」
丈が〝力〟を緩めたらしく、青い闇がすっと前進してきた。包囲が狭まったのだ。
「厭っ、こわい!」
郁江は悲鳴をあげて自分の肩に顔を伏せてしまった。確かにそれは正視に堪えないおぞましい面をしていた。特に正面に浮いている貌の陰惨凶暴さは丈ですら目をそむけたくなった。妖異さも迫力も図抜けた代物であった。
「先生......」
と、杉村由紀までが慄え声になった。青い闇は、丈の抵抗が弱まったのを知り、勝ち誇ったようだった。弱みにつけこむ貪虐さを発揮し、かさにかかって容赦ない圧迫を加えてきた。
「恐れるな、杉村さん。相手をよく視ておくんだ! 奴を手許に引き寄せて充分に観察するのが目的なんだから! 奴は今後もしょっ中出てくるようになるぞ。これは両方ともにとって、小手試べなんだからな! 杉村さん、幻魔って奴はこういう面をしているんだ。邪悪で貪欲で、愚鈍で醜い。こういう奴が地球に侵攻してきているんだ。これからも戦いは続く......」
「先生! どんどん近づいてきます!」
杉村由紀が悲鳴をあげた。あまりの凄まじい邪悪な貌に堪え切れず、顔をそむける。
「目をそらすな! この青い闇をどんどん圧縮して行くと、例の黒いボールになる。郁の体の中にはこうやって黒いボールを入れたんだ! この想念の闇を寄せつけないようにすれば、問題は解決する」
「でも、先生! どんどん顔が近づいてきます!」
「心配ない! よくあの貌を見るんだ! 正体がわかるぞ!」
丈に励まされて、杉村由紀はおずおずと面を上げた。間近に迫っているおぞましい醜貌に悲鳴をあげて目をそむけようとし、辛うじて思いとどまる。
「見ろ! 顔が変った!」
正面にあった青黒い恐竜の醜貌がくるりとひっくり返り、別の貌がそこに現われてきた。はっと杉村由紀が息の詰まったような声をあげる。
それは青黒く光る女の顔であった。裂け目のように細く開かれた目が燃えている。正視に耐えない無気味な表情だ。由紀は力いっぱい丈の手を握りしめた。
「先生! この顔は......!?」
彼女は喘いだ。恐ろしい貌に目が吸い寄せられたようになり、視線をはずすことができない。悪寒が体を揺った。
「............」
丈は瞬きもせず、青く光る女の顔に黒い瞳を向けていた。苦渋の表情は底に沈んだようになり、むしろ無感動な顔付きになっていた。
郁江は自分の左肩に顔を伏せて、固く目を閉じ、見まいとしていた。しかし、その強い拒否の姿勢にもかかわらず、郁江が視てしまったことは明らかだった。体は固く冷たくなり、息さえしていないようだった。
その女の顔は、久保陽子のそれに他ならなかった!
青光りする凄惨な表情、瞋恚に燃える目は、人間とは別物の迫力をはらんでいたが、その変貌にもかかわらず、その顔が久保陽子であることは一目瞭然だった!
「でも先生......あの顔は人間じゃないみたいです......」
「幻魔と合体しているんだ」
と、丈は息を吞むようにしていった。
「本人の怨念と幻魔の想念エネルギーが合体してしまったんだ。だから、幻魔の力をかりて恐ろしいエネルギーに成長している。本人の力だけでは力不足でできないことでも、幻魔の援軍を得て可能になったんだ」
「先生......彼女には先生のおっしゃっていることがわからないんでしょうか?」
「認識はないと思う。本人の怨みの想念エネルギーだけが送られてきているんだ。だから、われわれの存在はまったく気付かない。こうやって毎晩、午前二時になると、郁江を呪っていたんだ......それに幻魔が手をかしていた。幻魔は今や彼女の助力者なんだな......」
「昔から死霊とは意志疎通できても、生霊とは通じないといいますけど......ああやってこっちを見ているけれど、何もわかっていないんですね......」
杉村由紀は震え声でいった。少女のあまりにも無気味な表情を見て、まいってしまったらしい。
「こうやって毎晩、呪っていたんでしょうか......?」
「見当はついていたんだけど、確かめるまではと思っていた」
「先生......これからどうなさるんですか?」
「想念エネルギーを弾き返す。ちょうどゴムヒモを引張って、いきなり放すと勢いよくはね返る......あんな具合になるだろうな」
丈は落着いていった。もはや動揺はなかった。
「すると、どうなるんでしょうか?」
「呪いの想念波は本人の元へはね返ってしまうはずだ。明雄には無理だが、僕にはやれると思う」
「本人の元へはね返ると......?」
「............」
丈はそれ以上は言葉にしなかった。しかしその胸の裡は由紀に充分に通じた。丈の心には外面からは想像もつかない苦渋があった。
「始めるぞ」
と、丈はいった。同時に丈の蔵するエネルギー・レベルが一挙に何十倍も何百倍もあがった。それは圧縮し、絞めつけてくる幻魔の磁場をいきなり圧倒的な力ではねのけ、振り飛ばしてしまった。
鋼鉄のロープでもちぎれるような衝撃があって、青い闇はそこに浮かべた異様な貌もろとも爆発したようにちりぢりに裂け、いっぺんに遠方に吸い込まれるように消失した。
その変化はあまりにも急激に生じ、まさにぎりぎりに引き伸ばされた輪ゴムが弾け飛ぶ、猛烈な速さであった。
杉村由紀は肺の中いっぱいに溜めていた空気を、思わず吐息にして吐き出してしまった。ひゅうと音させて吸い込む。信じがたい急変だ。部屋は何事も起こらなかったようだった。しかし置時計の針は二十分以上も過ぎ去っている。まさに一瞬のうちに生じた異変のように思えた。
「終りだ......」
と、丈がいって杉村由紀の手をほどいた。郁江は依然として自分の肩に顔を伏せたまま凝然と身じろぎもしなかった。しかし、手は丈の手を固結びにしたロープみたいにしっかり摑んだまま放さない。
「もう帰ったよ、〝午前二時の訪問者〟は......」
丈は郁江の手をほどこうとしたが、逆に彼女は力をこめてぎゅっと握ってしまった。
「東君......陽子だったの?」
と、郁江は息切れしたような声で尋ねた。顔は肩に伏せたままだった。
「ああ......そうだ」
丈ははっきりといった。
「久保陽子だった。幻魔が陽子に手を貸していたんだ」
「やっぱり、陽子はあたしのことを......」
「僕のせいだ。僕が軽率だった。観音寺へ出かける時一人で行けばよかった。君を連れて行ったのは僕のミスだった」

「ううん、そんなことない!」
郁江は激しく頭を振り、叫ぶようにいった。
「東君のせいなんかじゃないわ! 陽子はその前からあたしに恨みを持ってた。あたしがでしゃばったりしなければ、こんなことにならなかったのよ」
丈に向けた目に泪はなく、逆に強く乾いた光を放っていた。
「いや、僕の責任だ。これが軽率さの報いなんだ。考えが浅かった......陽子だってことは見当がついてたんだが」
「あたしもぼんやりとだけど、そうじゃないかなと思ってたわ。でも、どうにもならないことだからいわなかったけれど......」
郁江は静かにいった。
「でも、やっぱり東君のせいじゃないわ、だって異変が......自覚症状が現われたのはもう二か月も前だもの。それはここのところ、急激に重くなったけど、東君が思ってるより、ずっと前からなのよ」
「陽子には〝力〟がある。人を憎んだり恨んだりすると、相手の身に不幸が起きると前に本人から聞いたことがある。陽子はとてもそれを恐れていて、知らないうちに自分がその呪いの〝力〟を使ってしまうのじゃないかと気にしていた......自分の正体が悪魔じゃないかと恐がっていたんだ。僕はまっさきにそれに気がつくべきだった」
「陽子さんに幻魔が〝力〟を貸したのでしょうか?」
と、杉村由紀が尋ねた。
「江田四朗と同じケースだ。江田は僕を滅ぼすために幻魔と盟約を結んだ。憎しみや恨みを幻魔に利用されたんだ。それはそうした人を憎悪する破壊的な心が、幻魔の本質と一致するからだ。幻魔は宇宙の根元悪で、あらゆる破壊の意志、破壊の波動の宗家だからだ。他人を憎む者、嫉む者、呪う者、恨む者は全て幻魔によって徴兵されて行くという証拠だと思う。
久保陽子もまったく同じだ。怨み、嫉みの心を利用されて、幻魔に食いこまれた。幻魔は手を貸すふりをするが、その実は相手を乗っ取るのが目的なんだ。身も心も幻魔そのものに変って行ってしまう。江田四朗がちょうどその実例だ」
「でも、東君。このさき陽子はどうなるの?」
「わからない!」
東丈の瞳は一瞬、燃え上るようにきらめき、次いで悲愁の色に覆われた。
「また襲ってくるようなら、撃退しなきゃならない......目が覚めて、幻魔ときっぱり手を切ればいいんだが」
「幻魔が陽子を放すと思う?」
「わからん。本人がこれで自覚すれば、立ち直れるかもしれない。簡単には行かないと思うが......」
「陽子が助けを求めてきたら、助けてあげる?」
郁江は瞬きもせずに丈を凝視しながらいった。彼女が見違えるように元気を回復しているのは明らかだった。郁江はいまだに丈の手を握りしめたまま放そうとしなかった。
「答は聞くまでもないわね。東君のことだから、頼ってくれば助けちゃうに決ってるもの」
「陽子のことはともかく、お前がなぜこんなにひどくやられたのか、それはお前自身にも問題があるんだぞ」
と、丈はきびしい口調でいった。表情も目もきびしくなっていた。
「普通だったら、こんなにひどくやられないはずだ。人間の生体エネルギーは強い磁場だから、黒い想念の磁場を押し返す力があるはずなんだ。なのに、何度も体の中に黒いボールを入れられたのは、郁にも問題がある」
「わかってるわ......」
郁江は呟くようにいった。
「いや、わかってない。幻魔の黒い想念波がどんどん入ってくるのは、家の中に問題があるからだ。憎悪を受け容れる隙間があるからなんだ。お前がだれかを激しく嫌っている心が、幻魔の破壊的な想念を誘導しているんだぞ。人間の心は、想念のアンテナなんだ。愛の心は愛を誘導し、憎悪の心は憎悪を誘導する」
「東君、お説教癖がついたみたい」
と、郁江はいった。杉村由紀がはっとした顔で丈を見る。
「そう思うか?」
「うん。まるで道徳教育のお時間って感じ。お説教になると、みんなシラけちゃうんじゃないの?」
「シラけるのは本人の勝手だが、命がかかってたらどうする? 幻魔の標的になるには理由があるし、その原因を取り除かないことには、どうにもならないんだぞ。明雄が毎日一生懸命サイキック・エネルギーを注入しても、孔があいていたんじゃしかたがない。郁、お前の心には孔があいてるんだよ」
「でも、あたし一人の問題じゃないもの。家庭って相手がいろいろといますからね」
杉村由紀は、郁江のしたたかな反撃ぶりに驚いた。そこが郁江らしさなのであろう。
「いずれにしろ、問題は解決しなければならないんだ」
丈は怒らずにいった。
「さもないと、きりがない。これは久保陽子だけをどうこうすればすむってことじゃないんだ。郁江、お前が心にあいてる穴を塞いでしまわなければならないってことだ」
「どうにかできるものならね。とっくにそうしてるけど......」
郁江は再びショールを引寄せて顔を覆い隠した。由紀はさっきまで命綱のように握りしめていた丈の手を、彼女がはなしてしまったのに気付いた。
「なるほど。問題解決は容易じゃなさそうだ。お前は我が強いし、問題がこじれているわけだな......僕としては他人の家庭のいざこざに介入するわけにはいかない......やっぱり郁が自分の努力でなんとかしなくちゃならないんだ」
「努力はするわよ。でも、努力が実るかどうかはなんともいえないし、正直いって自信はないわ......」
「他人事みたいないい方をするなよ。他人のためにするわけじゃないだろう。自分の命がかかっているんじゃないか」
「だって、自分の命なんて、たいして値打があると思えないもの。もうどうでもいいみたい」
郁江は突き放すようにいった。にわかに心が荒涼としてきたようだった。感情の振幅が大きく、いつも心が揺れ動いているのだ。
「なんで、そんないい方をするんだ? みんなが郁のことを心配して気をもんでいるのが迷惑みたいだな」
「正直いうと、くたびれちゃったのね。みんなが気を遣ってくれるのはもちろんありがたいけど、負担だといえばその通りだわ」
「心に孔があいてると、そんないじけた気分になるのさ。感謝の気持が起こらなくなる。他人が自分に関心を持つのが煩わしくてたまらなくなる」
「あたし、覚悟してたの。それがぐじゃぐじゃになって、ひょっとすると助かるかもしれないと思うと、猛烈に死ぬのが恐くなってきたり......でも、どうせだめなら、取り乱さずに平然と死にたいと思う」
「だめだなんて一言もいってない。こうなるのは結果であって、結果をもたらす原因というものが必ずある。幻魔はそれを利用しているといっているんだ。しかし、郁がそれを取り除かないかぎり、われわれがどんなに努力しても、穴のあいた容れ物に水を注いでいるのと同じだ。その穴っていうのは郁の心にあいてる穴だし、われわれにはどうしょうもない。郁が自分で塞ぐしか方法がないんだ」
「だから、もうそれが面倒臭いの」
郁江は目をつぶって、だるそうにいった。
「疲れてるのね。やろうっていう気力が湧いてこない。どうせ自分なんかたいしたお役にもたてないお荷物みたいなものだと思っちゃうし......」
「なぜそんな風に思うんだ? みんな、君が元気になってほしいと願ってるんだぞ」
「そうは思えないわ。あたしって憎まれっ子だもの」
丈はつくづくと郁江の顔を眺めた。郁江は本気でいっているようだった。
「それは不幸だ。そんな考え方しかできないのは......」
「そうなの。あたしっていつもそう」
杉村由紀は気をもみながら、二人の間に交される応酬を見まもっていた。郁江のことをただ単に一筋繩でいかない女の子と評することは簡単だったが、それだけではないようにも思えた。ひたむきで一途なのだが、それでいてひねくれ屈折している。そうした複雑さは、もちろん郁江だけではなく、青春そのものの属性であるのかもしれなかった。
「そういえば、郁はしばらく前に、感謝ができない性格だといっていたな」
と、丈がいった。荒立っているわけではないが、真剣勝負の気迫といったものが感じられた。
「やっぱりそうなのか?」
「うん。そうだと思う。他人に恩恵を受けるっていうのが凄く厭だし、優越感を持つ相手と関りを持ちたくない。手を貸してなんかもらいたくないの。どんなに深く陥ちこんでいたって、自分で這いあがるから」
「他人に恩恵を授けたと思って優越感に浸るような人間ばかりじゃないだろう。君は明雄や市枝君、僕までもそんな人間だと思っているのか?」
「そうは思ってないけど......やっぱり厭なの。他人に手間をかけさせたくない。負担になるから......」
「郁は人を愛したことがないのか?」
「どうかしら?......よくわからないわ」
「もし、だれかを好きになったことがあったとすれば、何か自分にできることをしてあげたいという気持はわかるはずだ。恩恵を施すことも優越感も、そんなことは関係ない。どうでも、そうせずにはいられなくなる。そうした気持をもし拒否されたら、君は悲しいんじゃないだろうか?」
「でも、しょうがないんじゃない。だって向うには向うの事情があるだろうし......そんな自分の勝手な気持は通らないんじゃないかしら」
郁江は少しもたじろがずにいった。丈は首をかしげていた。説得のすべに詰まってしまったようだった。
「だけど、僕が明雄に逢いに通っている時、郁は僕がいいと拒否するのに、無理やりついてきた。僕がひどい熱を出してフラフラしてた時だ......僕が世話にならないと拒否したのに、君はどうでも世話を焼くんだと無理を押し通したじゃないか。君のいっていることは、君自身の行動と矛盾しているぞ」
「あの時は別よ。東君がひどい熱で、いつ倒れるかわからないんだもの。だからついて行ったんじゃないの。他の人はだれも動こうとしないし......」
「同じことなんだ。今度の君の場合の方がはるかに深刻なケースだ。そうじゃないか? 君は僕たちのやることを拒否できないはずだ。たとえ迷惑だろうとなんだろうと、やることはやらなきゃいけないはずだ」
「でも、死にたい人間をむりに止める必要はないんじゃないかしら?」
「............」
丈は思いがけぬ反撃にたじろいだ。郁江は昔から手に負えない論客なのだ。
「君は死にたがっていたのか?」
「それは別にして、死を望んでいる人間を、どうしても引き止め、翻意させなきゃならない理由ってあるのかしら? だって、人間には生きる権利があるなら、死ぬ権利だってあるはずでしょ?」
「............」
丈は無言のまま、黒い瞳で郁江の目をじっと覗きこんでいた。郁江はその強い視線を受け止め切れず、目をそらした。
「別に、親に頼んで生れてきたわけじゃない......そういうんだろう?」
と、丈はいった。
「だから、生きようと死のうと自分の勝手だ......ほっといてほしい、と」
「そうよ、その通りよ」
郁江は投げだすような口をきいた。
「そんなこと、自分の勝手だもの。親だって何も崇高な目的があって子供を産んだわけじゃないでしょう? いわば快楽の報酬だし、年老いてから子供の世話になろうという魂胆もあるんじゃないの。つまり各自の身勝手さによって家族や家庭って構成されているのね。そんなものたいして意味がないわ。自分の意志ではっきりと摑みとった人間関係でなくちゃ」
「こんなに夜遅く、疲れている郁を相手に議論する気はないよ」
「逃げるの? 東丈ともあろうものが......」
郁江は挑戦した。丈は笑いを浮かべ、杉村由紀にほっと安堵の息をつかせた。
「また元気になったら話そう。もう午前二時半だ。あっという間に過ぎてしまったな」
「あたしに議論で負けたから逃げるんでしょう?」
「議論などする必要はない。だれかが救いを求めていれば、駆けつけずにはいられない衝動が人間の心にはごく自然に湧いてくる。君もこの間はそれに素直に従っただけだ。僕もそうだし、明雄も市枝君も同じだ。君にはその気持がよくわかっている。だから理屈をこねる必要はない。人間はどうしたって、優しい気持が溢れ出てしまうものなんだ。君は口では否定しているが、心ではその優しさを人と分ちあうことを望んでいる」
「よくそんなことがわかるのね。他人の心が東君にわかるの? 自分のことでもないのに......」
と、郁江は皮肉な口をきいた。丈はびくともしなかった。
「もちろん、郁の心の中はわかってるさ。だから議論する必要はないといったんだ。必要とあれば、郁が本当は何を考えているのか、ここで話して聞かせようか?」
「やめて!」
郁江は叫んだ。
「そんなの、陰険だわ! 超能力を使って、人の心を読み取るなんて! そんなの、悪辣じゃないの。アンフェアだわ!」
「必要とあれば超能力を使うさ」
「そんなの、必要じゃない!」
しかし、郁江の敗色は濃厚であった。
「もちろん、超能力はある種の切札だ。しょっ中使うわけにはいかない。むしろ使わないですめば、それに越したことはないんだ。だが、やむを得ない場合には使う」
「わかったわ。じゃ、使わないで」
「切札を引っこめろというのか?」
「そうよ、超能力なんか使う必要はないわ。でも、狡い......議論でかなわなくなれば、超能力でくるなんて、アンフェアじゃない」
郁江は口惜しそうにいった。
「超能力に恐れをなす人間は、最初から僕に近寄らない。恐ろしいものから逃げるように必死に逃げまわってる。だけど、郁はそうじゃなかったろう。君は超能力に惹かれているんだ。つまり君は真の理解者を求めて、僕に近づいてきたんだ」
「そんなの、飛躍しすぎてるわ! 超能力をちょっと面白そうだな、と思っただけかもしれないし、そんな人間はいくらもいるわ。それなのに、どうしてあたしだけが救いを求めてるだの、真の理解者を求めてるだのっていわれなきゃならないの?」
郁江は体勢をたて直し反抗的にいった。
「そうじゃないというのか?」
「あたしはだれにも救いを求めてなんかいないわよ。東君は正義の味方のスーパーマンで、使命感と義務感に駆られて、手当りしだい救済しようとしてるんじゃないの。お門違いってこともあるわよ」
「超能力を使うというのは、簡単なことじゃない。複雑な問題をさらに複雑化してしまうことだってある。よくよく考えて使わなきゃならない......」
「その通りだわ」
「とことん話し合った方がいい場合もあるだろうし、あるいはそんな余裕がない、急迫した場合もあるだろう」
と、丈は己れの考えを追うように続けた。
「本当は使わない方がいい。超能力で驚かされて説得されてしまったことが、後になって腹立たしくなるかもしれない。心を読みとられて、手も足も出なくなり、降伏せざるを得なくなれば、後で、簡単に心変りすることだってあるだろう。僕にはやはり人間の心というものがよくわからない。自分でさえも思い通りにならないのが心だから、無理もないんだろうけど......」
「ずいぶん自信がなくなってきたのね」
と、郁江は嘲るようにいった。
「いつも揺れ動いているんだ。自分のしたことが正しかったかそうでなかったか、確信が持てない。しかし、結果というのはいつでもそういうものかもしれない。時間経過とともに変ってくる。いい結果と初めは思ったのが、悪い結果に変るかもしれない。その逆の場合もある......その意味でも結果論というのは間違いなんだ。だとすれば、問題は動機に求めなければならない。結果はくるくる変って行っても、動機は不変だ。良かれと思ったことが、時間経過で動機まで変ることはありえない。たとえどんな結果になろうとも、その気持はいつまでも生きているはずなんだ」
「ずいぶんまた哲学的になってきたものね。超能力を使う動機がそんなに重大なの?」
「その通りだ。人間の心は一筋繩じゃいかない。素直になりたくても、そうはなれない。なにかが邪魔している。むしろ逆の方向に引張る力がある。良心に逆らう力がある。心にもないことをいわせたり、させたりする力だ......心というものは目に見えないから、一番わかりにくいんだろう。心理学なんかでは解明できないものが働いているんだ」
「あたしが素直になりたがってるのに、それを邪魔するものがあるっていうの? 何よそれ......? 幻魔?」
「わからない。しかし、人間の心には目に見えない〝力〟が作用していることは確かだ。時折ふとその〝力〟の存在に気付く。しかしすぐに注意をそらされたようになって、忘れてしまう。まるで妨害電波が発射されているようだ。人間にそのことを気付かせまいと努めているみたいなんだ。もしかしたら、その〝力〟は幻魔とも関係があるのかもしれない......」
「そんなこと、信じられないわ。だって、そんな目に見えない強い〝力〟が働いているんだったら、人間は思い通りに操られてしまうじゃない? まして、それが幻魔だったら、人間がかなうはずはないわ。幻魔にそんな力があったら、もう人間の敗北は決定的よ。とっくにみんな幻魔の奴隷にされちゃってるわ。つまり、人間の心を操る力なんて、存在しないってことじゃないの。そんなの考えすぎよ」
郁江は依怙地な口のきき方をした。丈に対して反抗したくてたまらないようであった。むやみに突っかかって行く。
「ルナ王女は遠隔催眠の超能力を持っている。他人の意志に反した行動をとらせる〝力〟がある。喋るまいという意志を縛りあげて、自己告白をさせてしまう〝力〟だ。どんなに真実を隠そうとしても、隠しきれなくさせてしまう。幻魔はそういう〝力〟を悪用しているのかもしれない。巧妙な意識誘導を行ない、本人の意志とは全く違ったことを考えさせたり、させたりしているんじゃないか......最近そう気がついた」
「気持が悪い。そんなことができるとしたら、ルナ王女だって怪しいもんだわ。幻魔かもしれないわ......」
「久保陽子のことを考えていたんだ」
と、丈は、郁江の悪意を無視して続けた。
「陽子がなぜ心変りして離れていったのか、今まで腑に落ちないところがあった。しかし、〝意識誘導〟のような〝力〟が陽子に作用していたとすれば、納得が行く」
「まさか、あたしもそうだっていうんじゃないでしょう? そんなの、考えすぎだわ。悪霊がとり憑いたとか、そんな感じじゃない。東君は考えすぎよ。被害妄想気味になってるのよ。少し休んだ方がいいんじゃない?」
郁江は少しどうかしている、と杉村由紀は思った。さっきから様子がおかしいのだ。丈に対して執拗に突っかかり、挑発しようと試みているようだ。まるで喧嘩を売っているような尖った雰囲気であった。
「〝意識誘導〟は、心に孔のあいている人間に効果的に働くんだ」
丈は黒い瞳をまっすぐに郁江の目に向けていった。
「もともと心にある黒い要素をあおりたてて、育てあげてやればいい。怒りや憎しみや嫉妬は火種だ。それらに油を注いでやればいい。黒い波動を送って、共鳴作用を起こさせるんだ。心にある黒い想念はどんどんふくれあがって行く」
「まるで、あたしのことをあてこすられているみたい。陽子のことだと思って聞いていたら、そうじゃないわけね?」
「他人事じゃない。人間はみな同じだ。平等の条件を与えられ、同等の立場に立っているんだ。心に孔があいているのは、何も陽子一人じゃない。みんなそうなんだ。大事なのは早く自分の立場に気づくことだ。他人事みたいに陽子の話なんかしていられないんだ」
「あたしは別に救けを求めてなんかいないわ。東君は早く陽子を救けに行けばいいんだわ。今度は一人で出かけて、江田四朗をやっつけて、陽子を救けだしてくるのね」
郁江はとげとげしくいった。ショールを引きつけた手は真白になり、顔はほとんど隠れていた。
「郁は、陽子と同じ立場に立ちたいのか?」
丈は静かにいった。
「冗談じゃないわ! あたしは陽子と違うわ! 東君を一人占めできなければ、死んだ方がましだなんて思わないわよ。あたしは孤りだって生きていけるもの。いつだってそうしてきたし、死ぬ時だって孤りでも平気だわ。あたしは陽子みたいな甘ったれとは違いますからね! 感違いしないで! あたしが心細がってメソメソしてるなんて思ったら大間違いよ!」
激しい拒否を鎧った姿勢だった。郁江は一転して、手を差し伸べられることを強硬に拒絶していた。
「あたしはだれにも救けを求めてなんかいないわよ。そう思うのは、東君の勝手だけど、相当な思い上がりじゃないの!? あんまり好き勝手なことを他人に押しつけないで。そりゃ東君は大超能力者かもしれないけど、他人の心の裡に土足で踏みこむ権利なんかないわ!」
「だれでも昔は幸せだった、そんな記憶を持っているんだ」
と、丈は静かにいった。その深い声音は、郁江の鋭さをくじくのに充分だった。
「昔は平和で幸せだった......心には安らぎがあった。君にも憶えがあるはずだ。思いだしてごらん。昔は楽しいことばかりで、いつも幸せだった......それがいつからか、不幸がやってきて棲みつくようになってしまった。
昔は君はだれからも大切にされ、愛され、いつくしまれていた。しかし今はそうは思っていない。心には孔があいてる。いつも自分は孤りだと感じている。いったいいつからそうなってしまったんだ?
必ず理由があるはずだ。君にはその理由がわかってる。そうじゃないのか?」
「............」
郁江は黙りこんだ。とっさに反論できない沈みこみようであった。
「僕にいわせれば、そんなのはたいした理由じゃない。だれだって大なり小なり似たような経験をしているんだ」
「なぜそんなことが、東君にいえるの? わかりもしないくせに!」
郁江は猛然と反論しようとしたが、それは持続しなかった。力抜けしたように黙りこんでしまう。
「わかるさ。それくらいわからないでどうする? 郁が思ってるほど、自分の不幸は大きな不幸でなく、悩みは大きな悩みではないかもしれない。自分のことで心がいっぱいになっていれば、小さな取るに足らない悩みだって人生の一大事に感じられる。
君は自分で思ってるほど不幸でもないし、孤りでもない。郁は今、すでに幸せなんだ。ただそれに気付かないだけだ。それは自分の不幸のことで頭がいっぱいだからだ。ただ気付きさえすればいいんだ。それで郁は幸せになる」
「またお説教?」
郁江はせせら笑うようにいったが、さすがに声には力がなかった。自棄的な力さえ脱けだしてしまったようだった。
「癌で死にかけてる少女に向って、道徳教育の先生ぶってみせるつもり?」
「もうその手には乗らないよ。君は、僕がどの程度の友人か計ろうとしている。どれくらい君を想っているか、友情や愛を計ろうとしている。だだをこねてみせて、僕がどの程度の友人か知ろうとしているんだ。本当の友達かどうか計ってる。そのくせ、僕が怒りだして、見捨てられるのを心の底では恐れている。でも、やめられないんだ。君はそうやって、いつも他人の愛を計ってきたから、それが習い性になってるんだ」
「............」
「僕が今どうすべきか教えてやろうか」
丈は、目をぎらぎらさせている郁江に向っていった。
「君をひっぱたくことだよ。君の父親はもっと早くそうすべきだった。そうせずにスポイルした。そうして〝落ちた偶像〟などと君にいわれてる。しかし、僕は友達を甘やかすようなことはしないよ」
「じゃ、殴ったら?」
郁江は挑むようにいった。
「殴りなさいよ。東君にそんな勇気があったらね......あたし、喜んでぶたれてあげるわよ」
郁江はショールをはずして顔を突きだした。痛々しくやつれた顔をさらけだし、挑みかける。
丈はその左頰に鞭のような一撃をくれた。杉村由紀が制止する暇もない果断な素速さであった。郁江はぐらっと揺れ、寝台の上に危く仰向けに倒れそうになった。それほど容赦のない思い切った平手打ちだった。
「ぶったのね、本当に......」
郁江は驚きのためか、子供っぽい調子でいった。のろのろとした動作で手を挙げ、打たれた頰にあてる。
「もう一つどうだ?」
と、丈はいった。平静な顔をしていた。
「先生!」
と、杉村由紀が思わず声をかける。それほど丈は平然としてなおもやりそうな気配だったのだ。
「郁江さんは病人なんですから......」
「わかってる」
丈は由紀を見向きもしなかった。郁江は傷ついた鹿のような目で丈を見ていた。
「しゃっきり目が覚めるように、反対側にもう一発いらないか?」
「もういいわ。東君たら本気で力いっぱいぶつんだもの」
郁江は毒気を抜かれた語調でいった。手をどけると、掌の形に頰が赤くなっていた。
「僕は手抜きをしない主義なんだ。友達は甘やかさないことに決めてる。だけど、この次は郁がもっと元気になってからにしよう」
「もう沢山、親にも手をあげられたことがないのに......東君は本当に徹底的にやるつもりなのね」
郁江はまだショックから脱しきれない口ぶりでいった。突っかかる勢いは失せてしまっていた。
「もちろん、そのつもりだ。どうだ、郁。少しは目が覚めたか? 光を入れてやったんだ。だいぶ元気になったろう」
「ショックで眠れそうもない......東君が女の子を殴るなんて、とても信じられないもの......」
郁江は茫然としていた。しかし、顔色はずっとよくなってきていた。
「そうだ。今夜は眠らなくていい。徹夜で反省するんだな。きっといい薬になる」
丈はお構いなしに乱暴な口をきいた。相手が癌の進行した患者であることなど、気にもかけていないようであった。
「もう帰るの?」
「用はすんだからな。道徳教育なんて皮肉をいってないで、今夜のことをよく考えておくんだ。あまり我儘をいってると、見捨てるぞ」
「噓。東君は見捨てたりしない」
「それが甘いんだ」
といって、丈は初めて笑った。
「早く元気になって、会へ出てこいよ。みんな待ってるぞ」
年齢相応の口調だった。
「明雄や市枝君にも我儘をいって困らせるなよ」
「うん」
と、郁江は思いがけず素直にいった。丈の年齢相応の口調がもっとも自分にぴったりすることを発見したようであった。
「おとなしくいい子でいたら、また見舞いに来てやる」
「きっとよ」
杉村由紀は、少女の感情の振幅の激しさに驚かされた。噓のようにおとなしくなり、従順になって、丈に約束をせがんだりしている。不思議な人格の多重性とでもいうほかはないものだ。
自分にもあんな少女の時代があったのだろうかと思い返してみる。思い切った反抗まで神秘的で繊細だ。
郁江はどうしても見送るのだといいはり、丈たちの拒絶を無視して門の外まで見送りに出てきた。着替えもせずに待っていた父親が、戸惑いを全身に滲ませて、娘についてきた。いろいろ質問したいことがあるのだろうが、うまく言葉にならないようであった。丈がそれをうまく避けたこともある。
「また改めて、今度は日中にお訪ねします」
と、丈はいった。何事もなかったような冷静さがみごとだった。病人の娘に平手打ちをくらわせたなどおくびにものぞかせない。
杉村由紀はまだショックがさめやらず、心臓がドキドキしているが、当の丈も郁江もけろりとしていた。
いいのかしら、とも思うが、丈には丈の考えがあるのだろうと強いて自分に思いこませる。彼が前後の考えなしに乱暴なことをやってのけるはずがない。
しかし、異和感が残るのはどうしようもなかった。これが表沙汰になれば、また一騒ぎあるかもしれない。やはり彼が重病の娘を殴りつけるなど、外聞が悪いに違いないだろうからだった。
むろん殴られた郁江もかえって迷いが晴れたようなさっぱりした顔をしている。杉村由紀の目で見る限り、たいしたこととは思われない。
それでも彼女は一抹の危惧を拭い去ることはできなかった。
彼らが通りの角を曲るまで、郁江は家の中に引込まず、しきりに手を振って別れを惜しんでいた。元気は元気だが、真冬の午前三時にほど近い時刻なのだ。杉村由紀は心配になってしまった。
丈の熱気やバイタリティーというものは常識の枠で律し切れるものではないのだろう。しかし、常軌を逸している、狂気の沙汰だという世間の誤解や曲解を受け、非難を浴びることにもなりかねないという気がした。
もちろん、常識の線内にちんまりとおさまる凡庸さ、穏健さで、丈のなそうとしている仕事が低エネルギー状態におさえられてしまうならば、それはかえってありえないことだという気がした。凡人や事なかれ主義者の目には気違い沙汰と映じるような白熱した高揚がなければ、何事もなしえないはずだ。
その疑念はふと胸をよぎる冷風のような感触をもたらすものだった。
4
大晦日だった。一九六八年を目前にして、〝GENKEN〟オフィスは活況を呈していた。大掃除が行なわれているのだ。
会員たちは気合が入っており、活気にあふれていた。来年こそ、会が大飛躍を遂げる年だという確信がだれの心にもあるからだった。現金なもので、大掃除をするには多すぎるほどの人数が詰めかけていた。かえってそのために七階は混乱状態になっていた。ごった返してしまい、人間が邪魔で掃除もできない有様であった。
一階の分室では、丈が杉村由紀に手伝ってもらって英文の手紙を書いていた。
ルナ王女、ソニー・リンクス、ベガへの手紙である。丈は己れの近況を知らせるのに骨折っていた。英作文の怪しい所は由紀が手直ししてくれるが、内容の方が問題であった。現状を説明するのは簡単ではなかった。
丈が、〝GENKEN〟という会を組織したことに対抗して、旧友の江田四朗が勢力を糾合しており、それが幻魔の動きと無関係でないことを説明しなければならないのだ。
「大変だ。いくら書いてもうまく書ききれない」
と、丈は天を仰いでいった。
「最近、英語にご無沙汰してたので、ちっとも出てこないんだ」
「どうぞ日本語でどんどんお書きになって下さい」
と、杉村由紀がいった。
「あたくしがどんどん翻訳いたしますから。その方が手っ取り早いですわ」
「いや、英文で書く」
丈は負けず嫌いの本領を発揮して頑張った。
「日本語だと、どうしても冗漫になるから......そうだ、最初にシノプシスを作っておけばいいんだ。構成をちゃんと考えておけば、過不足なくおさまる」
「でも、あまり時間がありません。六時から七階で納会があります。今年最後なので、先生も出席してご挨拶すると平山さんに約束してありますから......」
「こうしてみると、わずか半年足らずとは思えないな。十年分ぐらいの密度で、いっぺんにいろんなことが起こったみたいだ。生活が激変してる......とにかく箇条書きにしてみようか」
丈が思いつくままに数えあげ、杉村由紀が口述筆記をとった。傍らではアシスタントの平山圭子が小型のオープンリール・テープレコーダーを操作している。
「今度から先生のお話はできるだけ記録を取っておくことにしたんです」
と、杉村由紀が丈の質問に答えていった。
「ただ聞き流してしまうのは、あまりにももったいないですもの。講演会もテープに採っておけばよかったんですけど、そこまで手が廻らなくて......」
気が廻らないという方が正しい表現だった。杉村由紀が秘書を務めて以来、丈の身辺は目覚ましく整備されてきた。プロの秘書はそこまで細心でなければならないのか、と平山圭子などはいつも溜息をつくほどであった。
もちろん、秘書の仕事はシステム化されている部分が多いので、圭子がいたずらに畏怖する必要もなかった。しかし、細やかな気遣い、気働きの冴えは、年少の平山圭子に吐息をつかせるのに充分であった。
「テープに採るんじゃ、あんまりうっかりしたことはいえないな」
丈は、メイン社長の超高層ビルの一室で生じた盗聴騒ぎを思い起こした。醜悪な日本人を戯画化したような小男──それもカトーという名だったが──が引きおこしたお家騒動の一幕だった。今となればあの盗聴騒ぎすら懐しい記憶となっていた。無心に回転しているテープレコーダーのリールを眺めていると、あの日、ルナ王女が透視能力で看破した盗聴用の大型テープレコーダーのリールの回転が甦ってきた。
あの暑い夏の日から、丈だけが一人分離してずいぶん遠くまで来てしまったような心地がした。今もまだルナ王女たちは、あのぎらつく猛暑の夏、ニューヨークの真夏の光景の中にはめこまれているような気がした。
その懐しさが丈を駆りたて、ルナ王女たちに手紙を書かせる気になったのだった。
口述を続ける丈の心の裡に、なぜかあの小男、カトーの醜貌が灼きつき、心のわだかまりを作っていた。
気になってたまらなくなったのだ。なんの理由もない。しかし、小男カトーはひらべったい日本人じみた面ににんまりと嘲笑を浮かべていた。
心に灼きついている小男の冷笑が、なぜか丈の平静さを奪い、苛立たせる力を有していたのである。それはふとしたことで、心に灼きついてしまう、くだらぬメロディーの一節のように執拗につきまとって放れようとしないのだった。
「先生、どうかなさいました?」
敏感な杉村由紀が顔を上げて、速記用の鉛筆をおろし、丈の顔を見詰めた。
「いや、ちょっと気になったことがあって......そうだ。質問も入れよう。メイン社長の腹心でカトーという小男がいたが、今はどうしているか、消息を知りたい......」
丈はなぜ自分が胸騒ぎを覚えているのか、はっきり考えようとせずにいった。
「カトーといいますと、日本人の加藤、あるいは加東という姓でしょうか?」
「いや。日本人じゃないんだ。イギリス人の姓でサトーというのがあるけど、それと同じだ。最初はだれでもそう思ってしまうが......」
ルナ王女たちがなにもいってよこさないのは、やはり何かあったのではないか。丈は不安の羽毛で背筋を撫でられたようにぞくりとした。
自分は会のことにすっかり気を取られて、滅多に思い出しもしなかったが、やはりルナ王女も順調とはいえず、組織造りに苦しんでいるのかもしれない。この長い沈黙にはやはり意味があるとしか思えなかった。
ルナ王女は稀に見る強大なテレパシストである。東京─ニューヨーク間の距離など苦にもならない。いつでも好きな時に、国際電話をかけるより早く、丈にコンタクトをとることが可能なのだ。
「どうかなさいました?」
鋭敏な杉村由紀はすかさず丈の気分の変化を感じ取り、心配そうな目を丈に向けた。特に超常能力を発揮するまでもなく、彼女は丈の気分に感応することがたやすくできるのだった。

「向うには向うの問題が山ほどあるんだろうと考えていたんです。いかに強力なバックがついていたって、簡単に行くことじゃない。同じようなレベルの超能力者が何人か集まったら、まず第一にそれをまとめることだって容易じゃないはずだから......」
「やはり先生のような超レベルの〝力〟を持った超能力者がまとめていかなければならないのでしょうね」
「しかし、ルナ王女クラスの超能力者が三人も現われたら、だれがリーダー・シップをとるかということです。互いに自分が適任だと信じていたら、摩擦が生じる。もはや分裂の萌芽です。並みはずれた大超能力者でなければ、自負心の強い超能力者をまとめて行くことすら覚つかない。そう考えると、ルナ王女にとっては僕が離脱したのはいいことだったような気もします」
「でも、だれかがまとめ役を引受けなければならないのでしょう? さもなければ、超能力者はみな一人一党になって、大同団結なんてそれこそ覚つかなくなってしまいますわ」
「確かにその通りだが、ルナ王女がどう考えているか、それはわからない、王女にとってやりたいようにやれるということが一番大事なのかもしれないし......」
「王女は、先生が邪魔だったということはないでしょうか? 先生がいなければ、自由に組織造りができますし......」
「勘ぐってみても仕方がない。王女には王女の思惑というか、考えがあるのは事実です。だから、王女が僕を必要としない限り、僕は僕でできることを頑張ってみるしかないんだ。この先、どうなるかわからないが、ともかくやれるだけやるしかない。そうでしょう? 僕のやってることは、ちっぽけなことだけど、いずれはルナ王女にとって役に立つかもしれない。杉村さんと明雄という素的な超能力者の仲間もできたし、不平をいうようなことは一つもないっていうのは素晴らしいことじゃないですか」
「でも、あたくしには、王女の気持が理解できません。先生を突放してしまうのは、王女にとっても不利ではないかと思うんですけれど......王女は非常に専制的な気質の持主で、少しでも自分に批判的な人間は容赦なく遠ざけてしまうのかもしれない、なんてそんなことを考えてしまいます」
いつもは控え目な杉村由紀が思い切ったことをいった。丈の立場に与みすれば、だれもが王女に対して批判的にならざるを得ないようだ。そうでないのは、姉の三千子ただ一人である。
「まあ、勘ぐってみたって仕方がない。王女には王女の道があるし、僕には僕のやり方があるということです。とにかく、こちらの近況を報らせてやるだけでもいい。そのうちに向うもなんとかいってくるでしょう」
「先生はとても寛容でいらっしゃるのですね」
と、由紀はいい、丈を苦笑させた。
「でも、この先、うまく協調して行けるかどうか心配ですわ。王女が専制君主的な態度をとれば、必ず摩擦が生じますもの。やはり指導者の稟性が問われる時が必ず来ると思います」
「ソニー・リンクスという黒人の天才児は、指導者というものは他人が決めるのだといいましたよ。むやみに権力意志が強いのは資格に欠けるというんです。そういうのは馬鹿だからだめだというんです。公平にいって、僕には指導者の稟性はないような気がします」
「そんなこと、絶対にありません!」
杉村由紀は声を高めて反対の意を表した。
「先生は控え目でいらっしゃるから......それが先生の美質だとあたくし思いますけれども、指導者の資質や稟性は本人にはわからないというのが正解ではないでしょうか。先生は努力の人ですし、それが一番大切なことだと思います。天性の才能だけで大人物といわれる存在に成長するというのはありえないんじゃないでしょうか。わたくしの見た超一流といわれる人々は例外なく激しい克己の人ですし、努力の人なんです。先生がご自分を卑下する必要はまったくございません」
平山圭子が目を丸くして、まくしたてる杉村由紀を眺めていた。いつも冷静で抑制のきいた彼女の情熱の発露に度胆を抜かれたようであった。
「うちの姉を除くと、例外なくルナ王女に対して批判的になる。しかし、批判を浴びない指導者は逆にいうと無能なのかもしれない。組織を率いて行くリーダーが強い牽引力と統制力を発揮すればするほど、強い反作用が生じるのは当然じゃないかとも考えられる......僕が王女を批判するのを避けるのはそのためなんだ。指導者には特別な責任の重圧がある。王女は小柄な体と必ずしも強健でない肉体で、精一杯努めているんだ。偏りのある人だし、必ずしも理性的な人とはいいきれないが、それでも公正であろうとする努力は怠らない。僕がだれかに王女のことを話す時、どうしても私情が混って、王女への悪印象を植えつけてしまうのかもしれないんです。しかし、公平にいって、王女は傲慢さや偏見や、無知さの虜になりやすい人だけど、それらを克服しようと努力する人ではあるんですよ」
「申しわけありません」
と、杉村由紀が顔を赤らめていった。
「あたくしも感情的になってしまいまして......女性は同性に対して厳しいといいますけれども、真実ですわね。どうしても欠点を洗い出す方に力が入ってしまいます」
「おそらく僕も、今後は王女と同じ試練を受けることになる。強い批判を受けることになるだろうし、それは覚悟の上です。たぶん、僕はそれを通じてのみ、王女を本当に理解することができるようになるのかもしれません......」
部屋をしばらく沈黙が支配していた。テープレコーダーのリールが回転する音だけがリズミカルに響いていた。
「とんでもない話を録音しちゃったな。これは後で消去しておいて下さい」
と、丈は調子を変えて、明るい声音でいった。
「こんなことを話していると埒があかない。早く手紙の文面を書き上げてしまわなくちゃ......こんなところでいいかな。ちょっと箇条書きを見せて下さい」
「走り書きで読みにくいですけど......」
「いや、杉村さんの字は素的ですよ。本人の印象とかけはなれて素晴らしいユーモアがある。見ていると楽しくなります」
「酔って書くと、きちんと書けるんです。不思議でしょう? 素面の時はかえって酔払ったような字なのに......噓だとお思いでしたら、ウィスキーを二本ほど差し入れて下さい。ビールなら三ダースほど」
と、杉村由紀が欧亜混血風の顔にそぐわない冗談で応酬していた。平山圭子はいつまでもこの雰囲気が失われなければいい、と思っていた。丈も杉村由紀もにこりともしない生真面目な顔から一転してジョークを投げあうのだ。一般の会員たちは、丈の魅力を半分しか知らないといえるだろう。
しかし、丈は日毎に厳しい印象を強めつつあるようだ。特に会員歴の古い者たちから、不満の声が聞かれるようになりつつある。
彼らが、重病人の井沢郁江に対して丈が手をあげたなどという噂を聞きつけたら、なんというだろう。もちろん一部の者しか知らないし、丈の口から直接聞けば、充分に納得させるだけの内容を持っているのだが、事実だけを取り上げて取り沙汰すれば、ずいぶん過激な、無茶なことをするという印象を帯びてくるだろう。重病人に手をあげたという一事で、前後の事実関係は無視され、丈は非難にさらされることにもなりかねない。
平山圭子には、丈のしたことは当然であり、なんら非難すべき余地はないが、他の人々にとってはそうではないかもしれないのだ。彼女はそれについて、ひやりとする経験をつい最近したばかりであった。
青林学園〝GENKEN〟時代からの会員、岩田邦子にその話をしてきかせた時、話し手と聞き手の大きな食い違いに気付かされたのだった。邦子は肉厚の顔に表情を浮かべず圭子の話を聞き、ぽつりといった。
「郁江も大変ねえ。陽子もそうだし、彼と深く関りあうと、大変なことに巻きこまれるみたいね」
高校〝GENKEN〟以来の会員は、内輪では、東丈を先生呼ばわりせず、彼と呼ぶことも多い。しかし、岩田邦子のニュアンスでは、丈に対して心が冷めつつあることを感じさせるものがあった。なんとはなしに距離を置いたよそよそしい調子だ。最近ではこの種の口調が旧会員に多く見受けられるようであった。
「結局、彼は幻魔に狙われているから、周囲にいる者が飛ばっちりを受けるのよね。先輩も気をつけた方がいいんじゃないですか? あんまり深入りすると、どうしても郁江みたいに飛ばっちりが行くし......おまけに重病人なのにぶたれたりしたら、割が合わないものねえ」
「重病人なのにぶったというのとは違うみたいよ」
と、平山圭子は弁解したが、相手の反応ぶりに白刃を突きつけられたように心が冷えるのを覚えていた。
隔意が生じつつあるのは、なにも岩田邦子だけではないようである。なぜ心が離れてきてしまったのか、圭子にもぼんやりわかるような気がする。
要するに、東丈が大きな存在に育ちすぎ、自分たちの手の届かない所に離れて行ってしまうような気持がしているのであろう。実際はそんなことはありえないのだが、丈がもはや自分たちにはなも引っかけてくれないというひがみの虜になっているらしい。
丈に対してしらけてみせたり、ことさらに皮肉な態度をとるのも、古い会員に多いのである。古いといっても、わずか数か月の違いでしかないのだが、高校〝GENKEN〟創設以来の生え抜き会員という優越感もあるし、それが逆に出れば、岩田邦子のように、変形した嫉妬心を示すようにもなるのだった。
結局は、会を離れた久保陽子と同じで、独占欲を満たせなかった、不満足の表明なのだ、と平山圭子は思った。
それゆえ、高校〝GENKEN〟を構成していたメンバーはほとんど去って行く破目にもなってしまった。若い女の子のファン集団と変らず、内部の軋轢のためバラバラに離散してしまったのである。
丈が校外に〝GENKEN〟を拡大したのは正解だった、と圭子は思う。彼には女の子の崇拝者グループの成行を正しく読む目があったのだ。
しかし、淋しいと思わずにはいられない。わずか数か月前には熱狂を示していた友人たちが憑き物が落ちたように平板な顔付で、もはや興味もないといわんばかりなのだ。
あれだけ強烈な感動に酔っていたのが、一時の気の迷いということだったのだろうか。人の心ほどはかないものはないという気分になってくるのだった。
もちろん、そうした会員たちばかりではない。最初の真剣さを持続させ、現在の会にも参加している者は何人もいる。圭子自身もそのうちの一人である。
しらけた表情で、心を離反させていった者たちを責めるつもりはないが、それではあの時の真摯さは偽りだったのかとつい、いいたくなってしまう。
そんなに簡単に、志を投げ捨ててしまっていいものか。なぜ自分が決心を投げ捨て、丈や仲間から顔をそむけ、離れて行くのか、本気で考えてみたことがあるのだろうか。
もちろん、去る者は追わずということもあるだろう。しかし、そんないい加減な人間たちを安易に同志として受容したのも、あるいは間違いではなかったのだろうか。
とすれば、丈が現在とっている会の不拡大方針、新入会の停止は正しいということになる。
そこまで圭子は考えてしまうのだった。丈の絶対的帰依者であることを誇っていた岩田邦子の変心に対して、よほど腹を立ててしまったらしい。いい加減にも程があると思ってしまう。
久保陽子の一件もうっかり気を許して話すのではなかった。どんな尾鰭をつけて吹聴されるかわかったものではない。岩田邦子の口ぶりでは、東丈の側近はひどい災厄に見舞われる運命にあると決めこんでいるようだったからだ。一応口止めはしておいたが、もはや信頼関係は失せたと判断してしかるべきだった。岩田邦子が会員として留まるのも、長いことではないだろう。
しかし、会員であり友人でもある人々を信用できなくなったのは、情けないことだった。なぜそんなことになってしまうのか、と慨嘆の声をあげたくなってしまうほどだった。
彼等の心理的屈折はわからないでもないが、あまりにも自分勝手だと思うのだ。いってみれば趣味的である。主体性に欠けている。丈を自分の背丈に合わせた矮小な存在として留めておきたい執着の表われだ。
盟主の丈がどんどん成長して行ってしまうのに、自分たちはなんの進歩も成長もないので、やっかんだ連中が掌返して、丈の悪口をいいだしているのだ。
なんの偏見もひがみもない新入会員の方がよっぽどいいと思える。彼らは素直に感嘆の眼差で盟主を仰ぎ見る。丈が自分たちのレベルを抜きん出てしまったので、不愉快な目で見たりはしない。
カサブタのように剝離して行く連中は、さっさと消え失せてしまえばいいのだ。
もともと穏和な平山圭子でも、最近の旧会員たちの言動には、穏やかならざるものを感じてしまうのだった。
平山圭子の思いをよそに、丈と杉村由紀は二時間ほどかかって、やっと英文の手紙を書き上げた。圭子は何の手伝いもできず、テープレコーダーを操作していただけだが、二人は一つの仕事を協調して仕上げるのを楽しんでいた。
重苦しい気分がきざしてきて、平山圭子はこれも嫉妬ではないかと気がついた。自分が手伝えないという引け目があり、心を重くしていると感じていたのだが、やはりこれもひがみなのだ。
自己を疎外して行く人々を強く批判しながら、自分も同じことをしている。
自分のことは盲点に入り、なかなか自覚できないものだ。最初杉村由紀が来た時、それを東丈にそれとなく指摘された。気重く滅入ってしまうのだが、それが嫉妬という情動であるとは気がつかない。
以来、反省を怠らないようにしているが、つくづく人間とはむずかしいものだと思わずにいられない。一階の秘書室にいる自分たちを、七階の会員たちが、どんな感情で見ているのかと気になる。
おそらく、岩田邦子の感情も、七階の会員たちの中で特に珍しいといったものではないに違いない。もっと屈折した目の色で杉村由紀を見ている会員たちが多数存在する。圭子などは世話役の父、平山のひきでまだしも許容されている方だ。
こんな小さな組織の中でも、あまりにも人間的な、あまりにも人間臭いどろどろした感情が垂れこめ、透明度を下らせ、視界を鬱陶しいものにしてしまっている。しかも、この現状でも一頃に比べると著しく改善されたというべきなのだから、平山圭子のひそかな鬱屈は晴れなかった。
「圭ちゃん、これ読んでみておいてくれないか」
と、丈が手紙の下書きを渡してよこした。
「ちょっと手書きなんで読みにくいけど、スペルなんか怪しいところをチェックしておいてくれ」
「あたし、英語は弱いんです。すみません」
と、圭子は顔をあからめていった。丈が気遣ってくれていることがぴんときたのだ。彼は他人の感情生活にひどく敏感である。
「そんなことじゃだめだ。秘書になるんだったら英語を猛勉強すること」
と、丈は厳しい口調をよそおっていった。本当は圭子は英語が好きだし、得意でもある。しかし、英文速記までこなす杉村由紀の前では、手も足も出ない気分になるのはしかたがない。丈はそれもちゃんと知っている。
「七階へ行ってくる。そのへんの紙切れはちゃんと始末しておいて下さい」
丈は圭子にいい置いて杉村由紀をつれ、風のように執務室を出て行ってしまった。いつでも彼は風のように去ってしまうのである。
丈がいなくなると、そこはにわかにぽっかりと大きな空洞があいたようになってしまう。おそらく、丈が体のみならず、放射している磁場を持ち去ってしまうからであろう。部屋を満たしていた明るい活気が丈とともに失せてしまう。丈の姿が見えなくなると、いいようのない寂しさを圭子は感じてしまうのだった。
おそらく、それを感じるのは、圭子だけではないだろうと思えた。すでに彼の存在しない生活など、考えられなくなっているのだった。
今、彼女にとって考えうる最大の恐怖は、丈がいなくなってしまうことだった。そんなことはありえないはずであるが、丈が急死してしまうことだった。
丈が存在を止めて、どこにもいなくなってしまうこと。それは極限の破滅的状況であり、本気になって考えられないことではあった......
5
七階では、拍手が丈を迎えた。会員たちは手が痛くなるほど力をこめて、彼らの盟主を讃美することに熱中した。
七階は会員たちを収容すると、きわめて手狭であることを明らかにしていた。小集会であっても、事務局の部屋を会場にあてると足の踏み場もなくなる。
丈は一目で、見慣れぬ顔が増えていることに気付いていた。現在新入会員は受付けていないので、新参者ではない。かといって、入会しっ放しでこれまで出てこなかった、いわゆる幽霊会員でもない。
いってみれば、もぐりの顔ぶれであった。正規でない会員がまぎれこんでいるのである。会員たちはそれをとがめだてることはなく、むしろ黙認という形で受容していることがわかった。
丈は、足の踏み場もなく人で埋っている床をようやく少しだけあけてもらい、前に進んだ。事務局の壁には、丈の大きなパネル写真が飾られていた。クリスマス講演会の折に撮影したものらしい。純白のブレザー・スーツをつけた丈が凜々しく、迫力のあるパネルであった。モノクロ写真だが、丈の黒い瞳がさながら生きているように強烈な光を放っている実在感を持っていた。
大拍手の中を丈は登壇し、短い挨拶をすることになった。会員たちの熱心な視線が吸いついてくる。会が大きな活力を持ち始めていることが一目でわかる。クリスマス講演会の前までの活力の乏しさとは対称的だ。
会員たちがやる気を出しているのだった。
彼らの活気はなによりも目に表われていた。目が活きているのだ。目の光のよどんだ人間は一人もいない。彼らの盟主である東丈の姿を見たことが、彼らを興奮させていた。部屋の空気の粒子が立っているような、爽やかな緊迫感があった。全員が丈の少しでもそばへ寄ろうと詰めかけてくるような高揚した雰囲気だ。
丈は、会員たちをねぎらい、短いスピーチをしようとした。来年がどんなに重大な意味を持つ年であるかを強調した。
簡単に切り上げようとするのに、会員たちの目の光に催促されるように、講演の調子になってしまうのだった。つい力が入って、オクターヴの高い講演調が出てきてしまう。丈の裡に組み込まれているものが、聴衆を前にすると解発されてしまうようであった。
丈は苦心して、スピーチを打ち切ろうとした。軽い座談の調子を身につけるべく学ばなければならないと思った。
「先生。実はお願いがあるのですが......」
と、青年の一人が挙手をして、丈に発言を求めた。おとなしい会員が大多数を占める中では際立った積極性の持主といってもよかった。
大学生といった年代で、丈の知らない顔である。目にきらめきのある、きかん気そうな顔立ちをしていた。しかし、愛嬌がないわけではない。
「先生に是非とも質疑応答をお願いしたいという声が多数ありまして、さしでがましいのですが僕が配布した質問用紙にそれぞれ書いてもらい、まとめてみました。もしよろしければ、適当なものを先生に選んでいただき、回答を頂ければと思っているんですが、お聞き届けいただけるでしょうか?」
盛んな拍手が湧いた。なかなか青年は人気があるようだった。長身のスマートな若者で、才気があるのは明らかだった。
「君は?」
と、丈が尋ねた。
「申し遅れましたが、高鳥といいます。高鳥慶輔です。よろしくお願いいたします」
若者がぺこりと頭をさげる。丈は瞬きもしない黒い瞳で高鳥と名乗る若者を凝視していた。魂の底まで見透してしまおうとしているような凝視であった。
「K──大文学部一年です。クリスマス講演会の時に、お話を聞かせて頂きました。最高でした......先生にお目にかかるのは、これが初めてです」
恐れげのない態度だった。伸びのびとして闊達といえようが、どこかに不遜なものが潜んでいるようだった。外向的な若者の衒気といえたかもしれない。どこへ行っても気に入られ、よろしくやるといったタイプである。頭がよく、目はしが効くのだ。青年が百名いれば、必ずすぐにリーダー・シップを取り、頭角を現わす。生来のオルガナイザーで、世話好きということもある。組織の創設者の中には必ずこのタイプが混っている。
高鳥という大学生は、丈の黒い瞳の凝視にいささか怯みを覚えたようであった。しかし何くそという風に気を張って、丈の目を見返す。負けん気なのだ。
「いきなり失礼なお願いを申し上げたので、お気を悪くなさったでしょうか......」
高鳥はうわべだけへりくだっていった。
「でしたら、お詫びします。みんなに聞いてみましたら、平素、先生とあまりお話しする機会がなくて、質問が沢山溜まっているようなので、つい出しゃばった真似をしてしまいましたが......」

おとなしい口をきいているが、目がそれを裏切っていた。挑戦的にきらきらと光っている。丈を試すいいチャンスだと思っているのだった。
「高鳥君は会員ではないのでしょう?」
丈の指摘が、相手の顔をこわばらせた。一気に緊張したようだった。丈がこれほどストレートな反応を示すとは思っていなかったらしい。
「そうです、会員ではありません。しかし、それは新入会をストップしているためで、会員になりたくてもなれないでいるわけです」
高鳥は声音を抑えていった。
「会は今、入会を認めていません。それが僕の方針だからです」
丈は瞬きもせずに相手を見詰めていた。会員たちは息を詰めるようにして静まり返り、この〝対決〟の成行に目をみはっていた。胸を締めつけられる緊張感を味わっていた。
「会員でない僕が、こんなことをいうのは僭越かもしれませんが、先生のそのお考えは甚だ残念です」
と、高鳥はやや力んだ調子になっていった。丈の黒い瞳に圧迫感を抱き始めているのだった。
「僕がこの場に入りこんで、このような発言をするのはご迷惑でしょうか?」
「迷惑ではないとはいいませんが、聞いています」
「ありがとうございます。では、質問を許して頂いたと思ってよろしいでしょうか?」
大学生は抜け目なくいった。
「いや。質問は僕にさせて下さい。高鳥君はどんな目的を持って、今ここにいるのですか? その答を聞かせて下さい」
高鳥は意表を衝かれたようだった。
「それはですね......」
とっさに言葉が出てこなかった。
「では、会に入って何をしたいのですか?」
「入会して、会員の皆さんと同じように、先生のお手伝いをすることです。先生のご講演に大変感動したので、どうしてもいっしょにやりたい......やらせていただきたいと思いたったんです」
高鳥は滑らかさを失い、つっかえながらいった。丈の凝視が平常心を失わせているようであった。
「手伝ってくださろうというお気持はありがたいのですが、具体的にどういうことで手伝って下さるおつもりですか?」
「その......僕はこういう会が好きなので、お手伝いできることがあるんじゃないかと思ってきたんです。もし、お許しいただければ、学生ですし、時間の余裕もありますから、仲間に入れていただきたいんですが......」
気圧されてしまっていた。滑らかな口調ではなくなった。丈の真意をはかりかねているのだった。
「今の会をどう思いますか?」
「会員の皆さんはいい人ばかりです。とても親切で感じがいいです......」
「それだけですか?」
「でもどことなく活気が乏しいような気がします。やる気はあっても、どうやればいいのか、迷っているような感じです。具体的な活動が限られてしまっているのではないかと思います。リーダーがあまりいないので、うまくエネルギーを汲み上げられないんじゃないですか......」
「なぜ、そうなるのだと思いますか?」
丈は次から次に質問を繰り出した。
「さあ、よくわかりません。まだ内情もわからないし......なにしろ正式の会員ではないんで」
「いや、君にはわかっているはずですよ」
丈はひどく断定的にいった。高鳥は丈を見返し、目をそらした。
「高鳥君ほど積極的な人なら、わずかな間に会員よりも会について詳しく知ってしまったんじゃないですか?」
「とんでもありません。それは元々図々しい方ですから、入会も認められないのに、会員の皆さんに混ぜてもらって、なんかかんかやっていましたけど......」
「僕はたとえ顔を出さなくても、今会がどうなっているかわかるのです」
と、丈は高鳥から目をそらさずにいった。
「高鳥君は喫茶店や下宿に会員の若い人たちを集めて、研究グループを作ろうと提唱していますね?」
「え、ええ、まあ。気の合った仲間で、もっと突込んだ話し合いをしてみようじゃないかと提案しただけですけど」
高鳥はすっかり防禦的になっていた。丈の意図がさっぱり摑めないのだ。
「僕の会の運営のやり方について、いろいろ疑問を話しあったんじゃないですか?」
「疑問はあります。会員の人たちに尋ねても、だれも答えてくれません。だから、若い連中で話しあい、考えてみようと思ったんです」
「それで、今日はこうやってわざわざ質問用紙を配ってみんなに書いてもらい、僕に質問を受けさせようとしたわけですか?」
「意志の疎通が何もないように思えたからです。会員の皆さんはみんないい人たちばかりですが、おとなしいというのか、まるで対話がないみたいです。もったいないと思ったんです。せっかくこうやって会があるのに......」
「なぜだと思いますか?」
「よくわかりません。しかし、先生が会員にそうさせている......静かにして、何もしないことを望んでいる......そんな感じがするんです。これは考えすぎかもしれないので、間違っていたらお詫びしますけど......」
「高鳥君はどうすべきだと思うんですか? 意見を聞かせて下さい」
「先生は講演会でお聞きしたように、あれだけ素晴らしい考えをお持ちなんですから、会もそれを具現化する方向に動いているのかと思っていたんです。しかし、内部へ入ってみると、その反対でした」
「失望したでしょうね?」
「なぜなのかな、と思いました。不思議でたまりませんでした。だいたい入会したくても受付けていないというし......」
「入会は受付けていません。この先も受付ける予定はありません」
と、丈はきっぱりといった。
「どうしてですか!?」
高鳥の声が高くなった。
「なぜ入会を認めないのですか!?」
「僕にその意志がないからです」
その場の全員は息を潜めてしんとなり、目を見開いていた。
「しかし、先生、それじゃこの、〝GENKEN〟は閉鎖的団体なのですか?」
「そうです。新しい会員を入れるつもりはありません」
「なぜですか!? そんなことをしたら、会が老化する一方だし、停滞してしまうんじゃないですか!? そんなの、おかしいですよ! 僕はおかしいと思うな!」
高鳥は目を爛々と光らせ、顔面を紅潮させて喰いさがった。
「おかしいですか? しかし、僕には僕の考えがあります。僕は会の主宰です。新入会を制限しているのも、主宰としての考えです」
「でも、しかし、先生! その考えはおかしいと思います。絶対におかしいです」
激情的に若者はいった。
「それは間違ってますよ!」
「どこがどう間違っていますか?」
丈はきびしく問い返した。
「高鳥君に、僕の考えていることがわかりますか? では、僕の考えのどこが間違っているのか教えて下さい」
「それは......」
若者は詰まった。丈は黒い瞳を瞬きもさせずに待っていた。
「先生が講演会で話されたことと、会を閉鎖的団体にしておくことは、ひどく矛盾していますよ。だって、そうじゃないですか」
高鳥は学生っぽい議論に熱くなってきた。
「宇宙的な連帯の必要を説きながら、そのくせ連帯を拒否し、閉鎖的態度に終始するっていうのは、ひどい言行不一致ですよ! 自己撞着も甚しい。大動乱の危険を説いて、人々の覚醒を促しながら、集ってくる人々を拒絶するなんて、どう考えたっておかしいじゃないですか。それじゃ先生は、ただ単に無責任な煽動家でしかない! しかし、そうではないと主張するなら、当然会は覚醒して集まってくる人々を受け容れるべく開かれていなきゃならないはずです。
先生だって、その主旨で会を造られたんでしょう? その会が閉鎖的団体で、門を閉しているというのは絶対的な自己矛盾じゃないですか!? どう考えたって、先生の方針は間違ってるとしか思えないです!
宇宙的連帯を説くからには、来る者は拒まずという態度を一貫して取らない以上、どうしたっておかしなことになりますよ。だって両手を拡げて招き寄せながら、足は蹴り返しているという無茶苦茶な分裂状態じゃないですか!?」
「僕がその程度のことを考えていないと思うのですか?」
「............」
高鳥はうん、と息が詰まったような顔をした。丈が手強い論敵であることに不意に気がついたようだった。
「いや......先生のお考えはわかりませんけど......」
「わかりませんか? よくわかっているので批判しているのじゃないんですか? さもなければ、僕の考えの間違いを指摘できるはずはないと思いますが」
「では、こういいかえます。講演の主旨と会の現状の間には大きな自己矛盾が見受けられる、と......僕にはそれが納得できません」
高鳥がなんとか体勢を立て直した。
「矛盾でしょうか? 僕の考えに賛成しても、必ずしも入会する必要はないんじゃありませんか? 現にそういう人たちは沢山います。それに僕は、自分の考えに賛同された方はご入会下さいと呼びかけたことは一度もありませんよ。
高鳥君に一つ考えてみてもらいたいのですが、このままネズミ算式に増加していった場合、どうなると思いますか?」
「大組織になることは間違いないと思います!」
高鳥は力をこめていった。
「先生の活動が続く限り、入会者はどんどん増えるでしょうし、やがてはS学会のような巨大組織に成長しても不思議はないと思います」
「〝S学会〟のような大組織になった会が、何をやるのですか? 新興宗教化して、組織拡大のために折伏でもやるわけですか?」
「いや、別にそういうわけじゃありませんけど......」
「では、何をやりますか? 何百万の人々が会員になり、それからどうするというのですか? 高鳥君、それを僕に教えて下さい」
丈の追及は仮借がなかった。
「しかし、先生のお考えを世界中に知らせて行くのに役立つはずです。それに会員となって地道に活動することにより、先生に協力したいという人々にとり、活動の場を提供できます。巨大組織は、巨大勢力ですから、大きな影響力を世界中に行使することが可能です。カトリック教会のように、世界政治の動向を修正することだってできるはずです。巨大組織は力です。組織がなければ、実際には何もできないんです。ですから、組織拡大は会にとっての歴史的必然です!」
「高鳥君は会を造ったり、組織が好きなのではないのですか?」
「好きです。いろんな会を造りました。趣味の会や研究会ですが。超常現象を探究する会も造ったことがあります」
高鳥は威勢よくいった。
「では、その沢山造った会はどうしていますか?」
「今ですか?......それは、もうなくなったり潰れたりしたのもあります。発展的解消を遂げたものもあるし、いい会員が集まらなくて、自然消滅したり......」
「飽きて潰してしまったのもあるんじゃないですか? 高鳥君はどうも熱しやすく冷めやすいタイプの人のようですから」
「素質のある新会員が集まらないと、会はだめなんです! 新陳代謝がないと、会はすぐに停滞して、腐ってきてだめになるんです! だから僕は新入会を認めるべきだとさっきから一生懸命いっているんです!」
高鳥は元気づいてきた。丈を説得すべく意欲が湧いてきたのであろう。
「会のことはよくご存知のようですが、何百万もの会員がいるとなると、飽きたから潰してしまうというわけにはいかないんじゃありませんか?」
「それはもちろんです! 会員に対しては責任がありますから......」
「そうです。自分の思い通りにならないからといってほうりだすような無責任な真似はできないわけです」
「それはそうです......」
「いろんな会を造ったり潰したりした、高鳥君ならご存知のはずですね。会員にやる気がなく、目的意識のない会はどうなりますか?」
「それはもちろん、潰れるでしょうね」
高鳥は躊躇いがちにいった。丈にどうやって誘導されているのかわからず、自信がそこなわれてきたのだった。
「会員にやる気のない会はだめだ......その通りだと思います。そんな会がどんどん大きくなっても仕方がないんじゃありませんか?」
「そうですね......」
「会員に活気がなく、やる気に乏しい会というのは、どこに欠陥があるのだと思いますか? たとえば、リーダーが具体的に指示を下さなければ、何一つ動かないという会の場合ですが」
「まあ、会員に主体性がないんだと思います......でも、だいたい会というのは、やる気満々の会員はほんの一握りじゃないですか。後はただ籍を置いているだけとか、退屈しのぎとか、幽霊会員とか、そんなのが多いみたいです。でも、会っていうのはどこでもたいていそうです。リーダーはやる気満々でも、会員は場所塞ぎで、ただ与えられるものだけ受取ろうとする非活動的会員がほとんどです......本当の活動家は一割もいないはずですよ」
「だから、会は潰れてしまうわけですね? リーダーが疲れてしまえば、それでおしまいということでしょう?」
「そうですね......やっぱり情熱が続くうちはいいですが......」
「いつまでも情熱は続かない?」
「ですから、力のある新会員がいつでも必要なんです! 後継者をいつでも養成しておかなきゃならないんです! だからですよ、僕がこんなに力をこめていっているのは......閉鎖的になって力のあるフレッシュな人材を入れなくなったら、もう会はおしまいなんです! 先生がいくら頑張っても、このままではじきに終りがきますよ。それだけは間違いありません!」
「つまり、今の〝GENKEN〟には活気がない......やる気がないということですね。さっき高鳥君がいった通り......だからこそ、高鳥君を新入会員として迎え入れるべきだ、そう主張したいのでしょう?」
「活気がないのは事実ですから......しかし、それは何をやっていいかわからないからですよ」
高鳥は慎重さを取戻していった。会員の反応に気を遣っているのだった。
「つまり主体性がないわけですね?」
「というか、プログラムがないからだと思うんです」
「では、高鳥君がもしリーダーだったら、今の会をどうやってリードして行きますか?」
「まずプログラムを考えます。いろんなプロジェクトを組んで、やる気のある会員から活力を汲み上げます」
高鳥は自信をこめていった。
「どんなプロジェクトですか?」
「会員の主体性を引き出すためのプロジェクトです。ただ会員であるという自己満足だけではしょうがありません。先生の活動を助力できるように、力を結集して行きます。また青年には青年の活動の場があると思いますので、青年部というのを造ってはどうかと思います。職業を持っている人々に比べると、学生はかなり時間が自由になりますから、大きな力が発揮できると思います......」
「ここには、高鳥君と同じように未入会者が六人ぐらいおいでのようですが、今のプロジェクト・チームというのはもう始まっているわけですか?」
丈は黒い瞳を人々の顔に移しながら尋ねた。
「ええ......まだ、みんなで話しあってみようじゃないかという段階で、プロジェクトとまでは行っていませんが......」
高鳥は言葉を濁した。
「しかし、先生はさすがになんでもよくご存知ですね? 七階にはほとんど上っていらっしゃらないのに......」
「どこにいたって、だれが何をしているかわかりますよ」
「ああ、そうですか......先生は超能力者だから......」
「高鳥君の話はよくわかりました。だいたいにおいて正論であると思います」
「それじゃ、僕たちの入会を認めていただけますか!?」
高鳥が喜悦でぱっと顔を輝かし、せきこんでいった。まさか丈が譲歩してくるとは予期していなかったのであろう。
「いや。今のは高鳥君にとっての正論です。君の立場に立ってみれば、当然のことでしょう。だが、僕には僕の立場というものがあります。高鳥君はなぜ僕が主宰として、新入会に否定的であるのか、その理由を考えてみたことがありますか?」
「もちろん、考えましたよ! 先生には会を大きくする意志はないらしい。どんな組織者だって自分の組織拡大欲は当然持っています。なぜ、先生がそれを否定するのか......いろいろ考えました」
「ではその考えを幾つか教えて下さい」
「でも、まるっきりの推測ですから......」
「推測でも構いませんから、いってみて下さい」
「失礼なことを申し上げるかもしれませんから......」
「構いません。君の考えを聞いてみたいのです」
「一つは、先生が会の運営に恐ろしいほど慎重だということです......」
高鳥は丈の追及に観念したという顔でいった。
「しばらく前に、脱会者が大量に出たという話を聞きましたし、それで会運営に慎重なのかと思いました。失礼ないい草ですが、それだけでは新入会を一切認可しないというのは過激すぎます......ひょっとすると、先生には自信がないのではないか、そんなことまで考えました。会運営の自信がないので、極度に閉鎖的になっておられるのではないか......」
「会員たちと話しあってみて、そういう結論に達したのですか?」
「いや、話しあう前です。だから結論ではなく、予断の一種です......でも、会員の皆さんは先生を大変に尊敬しておいでですし、会の内部分裂や内部抗争が激しいので、先生が閉鎖的になったとは考えにくくなりました」
「では、どういう風に考え直したのですか?」
「僭越ですが、先生が自分の指導力に自信を喪失して、というのはあまり考えられません。あれだけ凄い講演をやり、聴衆を感動させ、熱狂させるのは、普通の人間にはできませんから......しかし、なおかつ先生は会を閉鎖的にし、むしろ縮小の方向へ持って行こうとなさっているように見受けられる......ちょっと考えられないことです。入会希望者が殺到し、会がいくらでも発展できるのに、そうしないというのは......で、会に無断で潜りこみまして、話を聞いたりして考えついたのですが......」
「なんです?」
「これは僕の勘なんで、間違っているかもしれませんが、この入会者の締め出しは、一種の入会試験じゃないか、そう思ったんです」
高鳥はいささか自信なげにいった。
「入会試験?」
「そうです。昔の武芸者や師僧はよく入門希望者を試すでしょう? どれだけ本気なのか、やる気があるのかってことを......門前に何日も立って待っているくらい熱意がある人間でないと弟子入りさせないとか......」
突拍子もない発言、と感じたのか、軽い笑いが湧いた。それは失笑に近かったので、高鳥は顔を紅潮させた。負けん気なので、すぐむきになるのだろう。
「馬鹿みたいですけど、もしかしたら、そうじゃないかなって考えたんですよ。だって、入会者の締め出しは先生一人のお考えだっていうでしょう? なんかあるなと思うのは当然じゃないですか。それで、僭越なこととは承知の上で仲間たちと話しあってみたわけです」
「それで、今日のような機会を待っていたわけですか?」
「そうです。こうなったら、直接先生に質問をぶつけてみるしかないと決まりまして......で、失礼を顧みず、いろいろ申し上げたわけです」
高鳥は自信を回復してきていた。丈を眼前にすると感情の振幅が大きくなるようだった。
「で、僕と話しあってみた結果、どうでしたか? どんな結論を得ましたか?」
「結論というのじゃないですけど、やっぱり何かあるな、という気がしました。先生に会運営の自信がないわけじゃなくて、なにか別の理由で、会の発展を抑えようとしていらっしゃるんじゃないか......」
「入門者を試す武芸者の話はどうなりました?」
「あっ、やっぱりそうなんじゃないかな、と非常に希望を持っています。先生、お願いします。みんな本気ですし、やる気充分です。どうか会に入れて下さい」
高鳥はぺこりと頭を下げた。仲間を振り返って目で促す。いずれも大学生らしい若者たちが立ち上って頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
と、声を揃える。好意的な笑声と拍手が湧いた。期待をこめた視線が丈に集まる。
「今のところ、僕の考えは変りません」
と、丈はきっぱりといった。ほうっと失望の波動が広がる。
「しかし、高鳥君たちが、会に出入りするのを制限するつもりはありません。今まで通りにやっていただいてもけっこうです」
「先生......できましたら、やっぱり理由を教えていただけませんか......会に出入りするのを許可していただいたのは嬉しいんですけど、なにかこう、さっぱりしませんので......」
高鳥の顔に失望の色は覆いがたかった。
「理由の一つは、皆さんが〝GENKEN〟の存在意義を軽く見すぎているということです。〝GENKEN〟は部活ではなく、趣味のクラブでもありません。それをはっきり悟った人だけが、本当の主体性を持った人といえます」
「でも、先生。だれもここにいる人は、会を軽視しているとは思えませんけど......」
「いや、だれ一人、本当にはわかっていません。それは間違いない事実です。〝GENKEN〟は明るく楽しい仲間が集まっただけの会ではありません」
丈はきびしい目と声音でいった。高鳥がはっと顔色を変えるほど丈はハードになっていた。
「明るく楽しい仲間を求めているだけの会員は、一年後にはだれ一人、会に残っていないはずです。〝GENKEN〟の本質とは合わないからです」
「でも、先生。先生のお話を聞いている者なら、会が明るく楽しいだけのものだとは思っていないんじゃないでしょうか?」
高鳥は蒼白い緊張の表情で質問した。
「先生は、会員のみんながふやけていて、無気力なので、失望なさっているのですか? でも、そんなことはありません。具体的な目標があれば、みんな力を出せるんです。決して無気力ではないんです。さもなかったら、こんな大晦日にわざわざ会へ集まってきたりしないはずです。皆さん、そうじゃないですか!?」
拍手と歓声が会場を埋め尽した。丈はなんの反応も示さず、神秘的な表情を一同の前にさらしていた。
「いっておきますが、来年から僕は本格的に走りだします。ついてこられないと思った人はついてこなくてもけっこうです。たぶん皆さんの多くは途中であきらめてしまうでしょう。しかし、それでもいいのです。体力のない老人や子供に、マラソンに参加しろと強制するのは無慈悲なことですから......
今日お集りの皆さんが最後まで、何人ついてくるかわかりません。もしかすると、一人もいないかもしれません。〝GENKEN〟の活動はそれくらい苛酷な努力を強いるものになるでしょう。
歯をくいしばり、力を振り絞ってついてくる人だけ、僕は連れて行きます。来年はそれほど大変な、敢えていうならば、激動の年、動乱の年になるからです」
6
沈黙は水のように人々の間に浸透した。人々は度胆を抜かれてしまったようだった。彼らの華やいだ気分に、丈の発言は思いもかけず冷水を浴びせるようなものだったのである。
「ついてきたい人だけついてきて下さい」
と、丈は重ねていった。人々のぎょっとしたような沈黙には無関心のようなきびしい口調であった。
「これは決して脅しでもなんでもありません。心構えのない者を連れて行くことは、僕にはできません。無慈悲と批判されるのを承知の上で、はっきりと宣言しておきます。心構えのない人間を無理やり追いたてて行くことこそ真の意味で無慈悲であると僕は思っていますので......」
依然として、人々は声もなかった。冷水のように恐怖が忍びこんでいた。
「しかし、そうはいったからといって、戦争や大地震など天変地異を連想されなくてもけっこうです。動乱はまず人間の心の中に始まります。今、僕の警告を聞いて、さあ大変だ、どこへ逃げだそうかと反射的に考えた方々に申し上げますが、どこへも逃げる必要はありません。恐がらなくてもけっこうです。
襲いかかってくる動乱は、各人の心を己れ自身で試す機会だからです。各人がどのような信念を持ち、あるいは持たずに生きているか、それを知るまたとないチャンスです。浮足立つ必要はまったくありません......」
人々は緊張を緩め、ざわつきだしていた。苦笑に近い感情が見受けられた。丈の唐突な警告で心臓が停りそうなショックを受け、それがほぐされて照れ臭さを覚えているようであった。脅さないでほしいといいたげな苦笑いがどの顔にも浮んでいた。
「しかし、自分がどの程度の主体性を持っているか、これを機会によく考えていただきたいと思います。ちょっとショッキングなことを聞いただけで浮足立ち、周章狼狽するようであるならば、主体性があるとはとうていいえないでしょう。ひっきょうGENKENは楽しい趣味のサークルではないのです。それどころかもっともきびしいハード・トレーニングを自己に課す場であるといってもいいのです。
高鳥君。今のが君の質問への回答になったと思います。そうは思いませんか?」
「でも、先生。いきなりショッキングなことをいわれれば、だれでもドキッとするのではないかと思いますけど......」
高鳥は苦笑いとともにいった。彼自身、浮足立ったことを認めていた。
「だれでもどうしようかと思いますよ、きっと。幻魔が攻めてきたら、地球上どこへ逃げても同じだろうし......」
「つまり、最初から敗北していることを認めているということでしょう。なにが主体性かはなはだ疑問です」
「わかりました。もう二度と動揺したりしないように努力します。とにかく、会へ出入りすることだけでも黙認していただいてありがとうございました」
高鳥は恐ろしく勘がよかった。丈のいわんとするところを真先に読み取ってしまった。丈に反論しかけていたのをあっさり引込めたのもその敏感さを証していた。
「先生に置いてけぼりを喰わされないように、みんなで頑張ります。今、おっしゃったことでやっぱりこれは試されているんだなあということがよくわかりました。こんなことでビクビクしていたら、入会など許可していただけないとわかりました」
彼は真面目な顔でいった。
「高鳥君に一つお尋きしたいのですが、君は会を造ったりするのが大好きなのでしょう? なぜ自分で会を造り、人々を集めてやって行こうと思わなかったのですか?」
丈は人々の反応には無関心のような顔付で質問した。
「なにもGENKENへ入会する必要はなかったんじゃないですか? 会がどんな状態か一目でわかったでしょうし、自分で新しく造った方がましだと思わなかったのですか?」
「それはちょっとひどい質問ですよ、先生」
と、高鳥は不服そうに頰をふくらました。そんな若者らしい表情が意外に新鮮であった。
「僕たちは先生の素晴らしい講演に大感激して、是非とも仲間に入れていただきたいと思って飛んできたんです。自分で会を造るなんて全然考えませんでした。だって先生といろいろお話をしたいし、教えていただきたいことが沢山あるし......なによりもともに歩んで行きたいと体が熱くなるくらい感動したんですから!
それが、会を訪ねてみれば、入会は受付けていないっていうでしょう。どんなにがっかりしたか、もう口もきけないくらいですよ。なぜ入れてもらえないのか、先生の方針だというだけでさっぱりわかんないし、もう頭に来ました、正直にいって......
でも、なんとか頑張って、ねばりにねばって会に潜りこんで、会員の人たちともやっと口をきいてもらえるようになったんです。ここにいる未入会者はみんなこのビルの前を、そうやってウロウロしていたんですよ。僕が口をきいて、こうやってこの場にいるわけですけど......それを、よそで会を造ればよかったなんて、いくら先生でもひどすぎますよ! 僕たちの熱意だけでも認めて下さいよ、そうでないと目の前がまっ暗です! 正直にいえば、あんまりだ! そういいたいですよ!」
「熱意はわかります。もちろん、いろいろ会員たちが励ましたんでしょうけどね。しぶとく頑張って熱意を見せれば、必ず入会できる......違いますか?」
「まあ、それは励ましてもらいました......その通りです。しかし、先生は本当に何でも会の中のことはご存知なんですね!」
高鳥は感嘆を隠さなかった。
「やっぱり超能力なんですね。なんでもお見通しだものな......やっぱり先生はこわいです。かげでこっそりといえません......」
「他にもわかっていることがありますよ」
丈は淡々としていった。
「高鳥君がいわなかったことです。最後の切札として使うつもりでいわなかったんでしょう。僕はいついいだすかと待っていたんですけどね」
「............」
高鳥は呆然とした表情で丈を見ていた。とっさに発するべき言葉が見出せないようだった。
「先生には、なにもかもおわかりなんですか......」
彼は固唾を吞んでいった。不意に緊張に囚われたようだった。
「僕がどうしても入会を認めなければ、切札として使おうと思っていたのでしょう?」
「そ、そうです。先生のおっしゃる通りです」
「なぜ最初からいわなかったのですか?」
「それは......先生の〝力〟に比べたら笑いごとみたいなものだし、ちっぽけで貧弱で、自分でも気が引けてしまったからです......もっと開発するとか、育てるかしなければ、とても人前でいえるようなものじゃなかったので......」

高鳥は固くなっていった。
「先生に比べたら、もう未熟なのはしょうがないですけど」
「いつからその力に気がついたんですか?」
「ずっと前からあったと思うんですけど、はっきりしたのはクリスマスの講演会の時です」
「僕の講演を聞いたのがきっかけですか?」
「そうです。なにか光のかたまりのようなもので頭をがんとどやしつけられたみたいでした。前から勘はいい方だったんですが、自分には遠感があるとはっきり自覚しました。念動力も少しだけどあるみたいです。過去認知もちょっとだけならできるし、予知もできます。透視能力もあるらしいです。ゼナー・カードを使って確かめてみたんですけど」
「凄いですね。なんでも超能力は揃っているようじゃないですか。高鳥君は超能力の万能選手というわけですね」
高鳥は丈の意を判じかね、顔面を紅潮させた。
「もちろん、先生のような傑出した、ずばぬけた超能力じゃありません。でも、微弱ですけど、自分には確かに超能力が存在するし、なにか〝GENKEN〟でお役に立てるんじゃないかと思ったんです。でも、来てみたら、まるっきり相手にされませんでしたけど......先生自体、超能力なんてたいしたものじゃないとお考えのようですし......」
「しかし、仲間にはずいぶん実験してみせたんじゃないですか? 仲間内で超能力開発もやっていますね?」
丈の指摘は、相手をたじろがせるのに充分であった。高鳥も、仲間の学生たちも責められたように丈の視線を避けようとした。
「先生の凄い超能力に比べたら、みんなゼロに等しいような哀れなものですけど、あることはあるんです。それは確かです。トレーニングによって強化したり、開発することも可能じゃないかと思います。そういうことも含めて、プロジェクトを計画してみたらどうかと思っているんですけど......」
「そういう超能力の開発や強化訓練に、どのような意味、あるいは価値を見出せると思いますか?」
「先生の説いておられることの一部を証明することができると思います。つまり超能力は実在するという証明です。日本ではまったく迷信や手品扱いを受けていますけど、今後はそうは行かないはずです。現にアメリカで大がかりな超能力検定システムが発足しましたし、このことには大きな意味があります。もし、開発や強化が可能だったら、だれもが超能力者への道を開かれることだと思うんです」
高鳥は情熱的に喋りだした。頭もいいし弁も立つ。スマートな好青年であり、会員たちに好感を持たれているのは明らかであった。これまでの会員に見当らなかったタイプである。切れ者という印象を強く他に及ぼす若者であった。
「超能力について簡単に論じ尽すことはできないと思いますが、高鳥君は超能力が今後の世界を変えて行く切札のように考えているわけですか?」
「そうです。超能力の実在が証明されることは、世界を変革する力を持つと思います。その認識自体が強力な力です。先生の説いておられることに疑いを持つ人々も、疑問の余地もなく超能力の実在を証明されれば、必ず考えを変えると思います。超能力が架空のものでないとわかれば、幻魔の実在性も認められるようになるはずです。大きな力を持った超能力者たちが大衆の目の前で超能力を実証し、啓蒙して行けば、世界は変革されるはずです。人々は目から鱗が落ちて、世界の真の姿を見ることができるようになります」
「僕にはそうたやすく行くとは思えませんが、超能力が奇術扱いされたり、逆に悪魔的な恐ろしい力として恐怖され、排撃される可能性は考えないのですか?」
丈はさりげなく反問した。しかし、議論となると、高鳥は奮起したようであった。もともとの論客なのであろう。
「日本で超能力が否定されたのは明治時代の話です。外国から科学というものを輸入して移植する過程で、日本の国情に合わぬものは排除されたんです。つまり、日本文化の根幹は徳川以来の儒教であって、君子は怪力乱神を語らぬものという精神に、超心理学や超常現象研究は馴染まなかったんです。だから、日本の官学は外国で許容されている超常現象研究を容赦なく押し潰してしまったわけです。日本という国の土壌は唯物主義が馴染むんですよ。儒教というのは、支配者の道具ですからね。支配体制を崩す恐れのあるいかがわしい、革新的な思想は許さないんです。超常現象研究というのは儒教と対立しますから、権威主義者が許容するはずはないんです。
ソ連で超心理学が盛んなのは、儒教的背景が欠如しているからなんですよね。もちろん唯物主義の国ですから、物質科学上の見地から、超常現象を追いかけています。物質科学の範囲内で全て超能力も取りおさえられると考えています。しかしそれでも、日本のように、歴然と存在する現象を、迷信扱いにして完全に否定してしまうほど非科学的じゃありません。
つまり儒教は科学的権威主義だけを容認するのであって、科学精神というものとは相反するものなんです。儒教はやはり宗教同様の非合理的信念体系であって、科学や哲学のように真理それ自体を追求するものではないんです。民衆を支配する道具は、その権威主義を崩壊させる危険のある革新的思想をいつも攻撃し、排除しようとするものなんです。
現状も超常現象に関する限り、明治時代の福来東大教授追放のころと少しも変りません。日本の官学が採用したのは儒教と馴染んだ科学的権威主義であって、科学精神そのものではなかったからです。考えてみれば、科学者の世界が徒弟制度で出来てるなんて、絶対の矛盾じゃないですか!? 先生の学説を批判する弟子が学界から追放されるなんて、気違い沙汰ですよ。これは儒教であって、科学でもなんでもありません。弟子が師を超えることを許さずに、いかなる発展が許されるんですか。日本の学界が根底から停滞して腐敗しているのは当り前です。明治以来、日本の学界がやってきたのは、ことごとく海外の業績のいただきであり、受け売りなんですからね! 逆にいえば、現在海外で超常現象研究の巨大な動きが出てきたのは、大きなチャンスです。舶来崇拝の連中がそろそろ飛びつくタイミングを窺っているところですからね。ここで大きな力を持った超能力者が幾人か出て、アメリカの超能力者検定で成果をおさめてみせれば、一気に日本でも超心理学が市民権を認知されるんじゃないかと思うんです。
これは絶好のチャンスですよ、先生! 先生がもし超能力者検定を受ければ、一も二もないんじゃないですか!? 先生、この腐ってよどんだ日本の事大主義、権威主義的土壌に痛撃を浴びせるチャンスですよ! 先生の強大な超能力をもってすれば、あっさりとやれるんじゃないですか? 日本中の権威主義者どもの度胆を抜いてやろうじゃないですか!!」
盛大な熱気のこもった拍手が送られた。熱弁を振るう高鳥は魅力的なアジテーターの素質を有していた。論旨は鮮やかであり、丈が初めて耳にするような目新しさがあった。
自分の頭で考えたならば、たいしたものである。しかし、どこかで聞きかじってきたという匂いも感じられた。この年頃の若者は、他者から受けた刺激で高揚し、自己陶酔しがちなものだ。意識的に剽窃するわけではないが、他人の考えを自分の才能と勘違いしてしまうのである。有能な若者ほど成長の過程でこの種の倒錯を繰り返すのかもしれない。
「面白い考え方です」
と、丈はいささか相手の熱気に伝染している自覚を持ちながら呟いた。
「大筋としては正鵠を射ていると思います。しかし、今の高鳥君のお話で大きなことがすぽんと抜けているような気がします」
「抜けているって、何がですか?」
すっかり議論好きになった高鳥は目をキラキラさせて喰いさがってきた。
「日本における権威主義の堅忍不抜さは豊臣秀吉の築いた大坂城みたいな代物です。高鳥君はそれを力押しにして攻め落そうとしているんじゃないかな? 相手の守りはかたく、しかも日本における権威主義の牙城を総動員できるんですよ。たとえば、日本の大新聞がどちらの肩を持つと思いますか?」
「明白な事実の前には、どんな権威主義者もたじろぎますよ」
と、高鳥は負けずにいい返した。
「歴然たる事実を鼻先に突きつけてやれば、だれしも認めざるを得ないんじゃないですか? 大新聞だろうとなんだろうと、白を黒といいかえることはできないはずですよ!」
「失礼ですが、高鳥君の考えは甘いと思います」
丈は穏やかに、しかしきっぱりといった。
「権威主義者にとっては体制の秩序こそもっとも大事なので、それに合致しなければ抹殺するくらい平気なはずです。このマスコミ社会では世論操作が可能です。大衆はマスコミを濾過した情報しか手に入れられません。たとえば大新聞が警察発表をそのまま紙面に載せることによって、体制の秩序が維持されるようなものです。黒白を決定するのは、生の情報に接することのできる人間であり、それは例外なく権威主義の擁護者なんです。一般大衆は真実を見定める視力を持っていません。それは最初から奪われてしまっているんです」
年齢は近いが、丈の人間的な奥行と厚みがもたらす迫力は、高鳥慶輔にはるかに優っていた。高鳥は丈より二歳年長である。鋭気のある若者だが、丈が経てきた経験の質、量ともに無縁なだけに、いかにも理論だけの軽量さが目立った。丈は十七歳だが、だれも経験したことのない修羅場を踏んでいる。それだけでも、人格的迫力には決定的な差異があった。
黙っているだけでも、丈には確かな存在感がある。高鳥が気圧されまいと頑張っても、努力するほどに圧力が増大する。自分がいかにも未経験で幼稚な若造という劣等感がいやましてくるのだ。それは同年輩の若者にとっては屈辱感ともなりうるものであった。
「僕の考えは甘いでしょうか?」
と、高鳥は不服そうにいった。
「甘いですね」
丈は平然といった。容赦のない気力の充実がだれにも感じとれた。丈は他者を説得するのにいい加減な手抜きはしない。
「はっきりした証拠を、公平な第三者の証人の前で見せてもですか?」
「公正な第三者とは、どういう存在ですか?」
「それは......学識者とか有識者といわれるような連中です......」
「公平な第三者として立合ってくれるなら、ということでしょう? しかし、社会的地位のある学識者、有識者という人種は、大衆側というより権威側に所属しているんではないでしょうか? 公正なアンパイアーであることをどれだけ期待できると思いますか? そうした人々にとって超能力という問題に触れるのは、火中の栗を拾うのと同じです。
大新聞というのは、保守、革新を問わず、文化人といわれる有識者たちに大きな力を振るうことができるんですよ。日本において、文化人のランキングを定めるのは、いわゆる大新聞なんです。大新聞にはそれだけの自負があります。文化人の資格審査権を持つ大新聞は、日本における権威主義の牙城なんです。僕にいわせれば、高鳥君は検事の中に判事を求めようとしているようなものです。
権威主義にとって真の脅威は、共産主義なんかでは決してないはずです。異った価値体系こそ権威主義にとって、真の敵なんです。超能力はまさにその真の敵なんですよ。過去のいかなる権力構造にも吸収できない異質な価値体系の尖兵だからです。たとえば、超能力は、物質文化の背骨である権力機構を根底から破壊してしまうかもしれない。高鳥君、仮りにもし君が権力機構のどの階梯に座っているにせよ、建前と本音の使い分けが通用しなくなったらどうなると思いますか?
遠感という異常な力を持った人間たちが、君の本音をことごとく暴きだしてしまうとしたら......もし君が一国の総理大臣だとします。強力な超能力者グループが、君の腹の中を一切暴露しようとしたら......これほど危機感と恐怖感をあおりたてるものはないんじゃないでしょうか?」
「まるでSFみたいなお話ですね」
と、高鳥は辛うじて笑いを浮かべた。見栄があるので理解するのに困難だとは口が裂けてもいわないが、聴衆の大部分の理解力の限度を超えていることは明らかだった。
丈の先見性は、あまりにも会員との間に大きな落差を造りだしていた。彼らには想像することもできないほど、著しく空想的なものなのだ。
「超能力は万能の特効薬ではありません。いってみれば超能力文化というべき総体的なものが必要なんです。たとえば密教という体系から法力だけを切り離せないのといっしょです。法力をただ道具として利用しようとすれば、呪いといった邪悪な術に堕落します。同様に超能力には高度な精神性が不可欠です。高度な倫理性、精神性から切り離してしまえば、超能力は邪悪で魔的な力に落ちぶれてしまうんです。
超能力は高度な精神文化の一環でなければならず、ただ世間に向って実在を証明するといった、技術的な問題ではないんです。それは僕が折にふれて説いていることです」
「でも、先生。超能力というものが存在するんだということを世間に認識させなければ、いくら説いても納得はしないんじゃないですか? 有識者の中には、権威主義に囚われない自由な精神を持った人だっているはずです。そういう公正な人々の理解を深めて行く努力が必要なんじゃないでしょうか?」
高鳥は丈の説得を受け容れる気配を見せなかった。議論のための議論に走るのが、論客らしいところだった。若者らしい客気だが、これだけ聴衆がいると引っ込みがつかなくなってしまうのだ。相手をやりこめ、屈服させるためにのみ議論する癖がついているので、ああ言えばこう、ととめどがなくなる。
「もちろん、地道に理解者を得て行く努力は必要です。しかし、高鳥君のいっていることは、それと次元が異ります。権威主義に対して超能力だけを抜きだしてぶつけるのは、戦略的にも戦術的にも下策だといっているのです。僕が説いているのは超能力文化の確立であって、超能力者だけのスタンド・プレイでは事足りません。超能力は決して道具として使用すべきものではないのです。
高度な精神文明としての超能力文化の証明にすぎないのです。人間が超能力だけに目を奪われ、超能力だけを欲して生きるのは、欲望に囚われてしまうことであって、明白な堕落です。その点は、賢明な高鳥君にはおわかりだと思いますが」
「それはもちろん、そうだと思います。しかし、僕たちが超能力を得たり、あるいは開発を望むのは間違いなんでしょうか? それは先生はすでに巨大な超能力をお持ちですから、なんとも思われないでしょうが、われわれ一般人にしてみると、超能力はものすごく魅力的なんです。もちろん、それだけじゃなくて、超能力を持っていれば、先生のおやりになる運動にも協力できるんじゃないかと思います。
もちろん、高度な精神性を持つこと、心を高めることは一番重要だと思いますが、超能力は超能力でなおざりにしていていいものでしょうか? せっかく与えられた超能力なんですから、大切にすべきだと思いますし、磨きをかけることも必要なんじゃないかと思います」
目的を見失った議論は無意味である。議論に勝つための議論は時間潰し以外の何物でもない。他人に説得されることを、自我に傷手を負うことだと勘違いしているのは、なにも高鳥一人ではないだろう。
「高鳥君にはどうも建前と本音の使い分けが目立つようですね」
と、丈は射るような黒い目で相手を見据えていった。
「口ではなんとでもいえますが、超能力にはそれを見破る力があるんですよ。自己顕示欲と超能力が結びつけば、きわめて危険な状態がもたらされます。だからこそ、僕はさっきからその危険を問題にしているんです。
人間にはだれでも本音と建前があるかもしれません。さっきから高鳥君が熱心に喋っているのは全て建前です。
だからこそ、君の本音を超能力者が全て暴きだしてしまったらどうしますか、と敢えて質問したんです。君はそれをSF的だといって答えるのを避けたでしょう」
「僕は、そんなに建前ばかりのつもりじゃなかったんですが......」
高鳥は茫然としていった。丈の仮借なさに圧倒されてしまっていた。
「確かに超能力には妖しい魅力があります。それは魔力とさえいえるほどです。超能力は権力にもなるし、暴力にもたやすくなりうるんです。超能力者はだれしも、〝力〟を私物化する誘惑に駆られます。超能力は匿名性があるだけにそれは危険な誘惑なんです。それは暗闇から石を投げつけるように使用することが可能だからです。
超能力をほしいままに使いたいという誘惑には非常に強いものがあって、超能力者はだれ一人この誘惑から無縁でいることはできません。僕自身、経験があるからいえることです。
超能力は人を生かす力であるよりも、たやすく人を支配する力、権力として用いられやすいってことです。わかりますね? しかも人間には自己顕示欲があります。普通の人間が持たない力を授っている超能力者が、それを見せびらかす衝動を少しも感じないといえば、全くの大噓になります。
超能力を高度な精神性、つまり、釈迦やイエスの示した倫理性から切り離し、その奇蹟能力だけを道具として使用したくなるのは、ごく当り前の人間的弱点であるかもしれません。
しかし、超能力を道具として使えば、必ずそれは暴力と堕してしまうのです。正義なき超能力は暴力そのものです。僕がこれまで超能力について語る時は、必ずそのことを強調してきたはずです。会のパンフレットにもそう書いてありますが、高鳥君はあまり丹念に読まなかったのでしょう」
「先生、お言葉を返すようですが、僕は超能力を暴力として使うつもりは毛頭ありません」
高鳥は抗議をこめていった。
「それは先生の誤解です。僕らは超能力の存在を証明する方法論を考えていただけで、超能力を権力として行使するなんて、少しも考えていませんでした......」
納会を楽しむつもりの会員たちは、この予期せぬ緊張のみなぎる一幕に固唾を吞んでいた。丈がなぜ高鳥らに対し、かくも厳しいのかよくわからないという表情も多く見受けられた。多少、丈の話はむずかしすぎたのかもしれなかった。高鳥のような頭のいい知的訓練を受けた大学生と議論になると、どうしても一般会員のレベルからは遊離しがちになってくる。
実際、女性会員などなにが話し合われているのか摑めないでいるようであった。
「考えていなかったのではなく、はっきり気付いていなかったのではないですか?」
と、丈はいささかも手を緩めずにいった。高鳥のような闘争心の強いタイプの若者に対しては、軟弱さを示すのは禁物であった。徹底的にあらゆる面でリードして行かないと、軽蔑を生むだけだと丈はわかっていた。尊敬を生むのはしたたかで手ごわい難敵により、手ひどく追いやられ、完敗を悟った時だけなのだ。
高鳥には競争心がある。自分より歳下の丈に引けを取るまいという意欲に満ちているのだ。いかに表面的にそれを隠しても、丈には見通しであった。
「はっきり申し上げて、高鳥君は超能力についてかなり認識不足です。超能力を一般社会に認知させるという方法についても、非常に安易に考えておられます。しかし、なによりも高鳥君は自分が超能力者であることに、エリート意識を持っています。自分の力を誇示し、相手を畏怖させ、自己の存在を認めさせるということに力点がかかりすぎています。だからこそ、相手を力ずくでねじ伏せるという独善的な考え方に走ってしまうんです」
「しかし、先生! 僕はそんなことを少しも考えていなかったんですよ! 公平な第三者を証人にして、超能力を実証するということをいっただけです!」
高鳥は躍起になっていった。
「先生のおっしゃる世の権威主義なるものをどうやって崩すか、方法論として考えてみただけです。それがどうしてエリート意識にまで結びつくんですか!? 僕には先生のおっしゃることがよくわからないです!」
彼は救いを求めるように仲間たちの顔に目をやった。
「超能力の使い方について、友だちといつも話し合っているじゃないですか。TV番組に出演すれば、大評判になるとか」
「!」
高鳥はしまったという顔で口をつぐんでしまった。仲間の大学生たちも気まずい表情で丈の視線を避けている。
「TVで有名人になり、超能力ブームを作って、公開実験をいろんな場所でやろうと相談していたんじゃないですか?」
「そういう話はしましたが、本気で計画したわけじゃありません」
高鳥が弁解する。
「そういう遣り方もあるんじゃないかということです」
「超能力で有名人になり、スターになれば、どんどん金もうけができるといったのも、本気じゃなかったわけですね?」
高鳥の目は完全に怯んでいた。
「そんな......冗談をいっただけですよ......超能力で金もうけを計画したわけじゃありません。ほんの冗談だったんです」
「この中で、高鳥君の超能力実験に参加したことのある人、手を挙げて下さい」
と、丈は会員に向っていった。
「正直に手をあげてみて下さい......ほう、ずいぶんいるんですね」
高鳥の仲間のみならず、若い会員の手が十本ほどあがっていた。若い女性会員も数名おずおずと手を挙げている。
「高鳥君が冗談で、金もうけをしようといったのを聞いた人」
だれも手をさげなかった。そのまま挙げ続けている。
「はい、おろしてけっこうです。高鳥君、君の冗談はずいぶんしょっ中くり返されてたんですね。用心しないとそのうち、本気になってしまいますよ」
「わかりました。もうつまらない冗談はいいません」
高鳥はやや蒼ざめた顔色でいった。
「高鳥君は、さっきから何度も、僕の目はお見通しだといっていましたが、それも本気ではなかったようですね。まさかそんなことはあるものかと高をくくっていたのじゃありませんか?」
「............」
「まあ、それはともかく、高鳥君の超能力というのを、僕に見せてもらえませんか?」
「えっ、今、ここでですか?」
「そうです。今ここで」
「でも、なんの用意もないし......」
「用意がなくてもやれるものを見せてください。簡単なものでけっこうです」
「しかし、ゼナー・カードも持ってきていないし......また今度、用意してきた時ではいけませんか?」
と、高鳥は逃げを打っていることを露わに示していった。
「透視実験だったら、ゼナー・カードがなくてもできるでしょう。それに高鳥君は透視よりもPK(念動)の方が得意なんじゃないのですか? マッチ箱ぐらいの大きさのものなら自由に動かせると自慢していたのでしょう?」
高鳥はぎくりとしたように丈を見た。丈が彼の手の内を読んでいるのは明白であった。しかし高鳥はだれかが丈に御注進に及び、内幕をばらしたのではないかという疑いを捨てきっていなかった。
「PKは先生の得意業じゃないですか......そんな僭越なことはできません。いくら僕が厚かましくても、顔から火が出ます......」
と、高鳥は殊勝な口ぶりでいった。
「しかし、君は僕のPKを見たことは一度もないはずです。あるいは君のPKの方が大きいかもしれないと考えなかったのですか?」
「とんでもない! 先生は空中浮遊やもっと凄いことを平気でなさるんでしょう? それに比べたら僕のPKなんか赤ん坊並みですから......」
「しかし、君は実際に見たわけではないし、僕と超能力の力比べをしてみたいと思いませんでしたか?」
「とんでもない! 僕がいくら図々しくてもとうていそんな厚顔なことは考えられませんよ!」
高鳥は大あわてで否定に努めていた。逆に丈に〝力比べ〟を挑まれたのではないかと恐慌に駆られていた。丈はまさしく彼の心中にある考えを読み取っていたのである。
「ほんの子供騙しですから......」
「遠慮なくやってみせてください。だれにでもできるという業じゃないんですから、遠慮することはないでしょう」
丈は譲る気配を見せずにいった。
「そうだ、高鳥君、マッチを使ったのをやってごらんよ!」
と、仲間の一人が意を決して呼びかけた。やはり大学生であろう。一同の視線を集めて、顔を赤くしていた。
「マッチを使うというのは、どういう風にやるんですか?」
と丈は尋ねた。相手の名前も尋く。
「中野です。高鳥君とは同じ未入会の者です」
と、学生は声をうわずらせながらいった。
「マッチに念力で火を点けるんです。マッチ箱を動かすのよりむずかしいらしいですけど、何度も成功させています。ぱっと火が点いて派手なので、TVの公開実験にもってこいだといってました」
「念力でマッチを発火させるんですか? もちろん、離れた場所から手を触れずにやるんでしょうね?」
「そうです。もう五回ぐらい成功させてます。これをやると意外に疲れるんだと高鳥君、いってました。でも、たいていは成功させます......一度だけ失敗しましたが、その時はお酒が入ってたので、そのせいじゃないかとみんなでいってました」
「だれかマッチを貸して下さい」
と、丈が会員たちに呼びかけた。前列に座っていた初老の会員がマッチを持った手をさし上げる。丈は礼をいって受取った。
マッチ棒を数本、箱から取り出し、アルミの灰皿の中に入れる。
「中野君、ここへ来て手伝って下さい。いつも高鳥君がやるような手順で実験をやってみせてくれませんか?」
大学生中野は人々に道をあけてもらい、丈のそばへやってきた。一同の注視を浴びて、いささかあがっているようであった。
「六回試みて、失敗が一度だけというのはたいしたものです。高鳥君がTVへ出演して、公開実験をやりたいと思うのは無理もありません」
と、丈がいった。
「では、高鳥君。ここがTV局のスタジオだと仮定して、そのつもりで実験をやってみせて下さい。実際はTV局だと明るすぎたりTVカメラが狙っていたりして、もっとものものしい雰囲気なんでしょうが、ここをTV局のつもりでやって下さい。いつものように、当り前の感じでお願いします。みんな見ているだけで、だれも邪魔はしませんから、安心してやって下さい」
「しかし、先生がじっとご覧になっているんじゃ、ちょっとやりづらくて......」
と、高鳥が後頭部を搔いた。
「しかし、TV局なら、全国の視聴者が君の実験に好奇の目をいっせいに注いでいるんですよ。こんな身内ばかりの実験と違って、君の超能力を手品だといってインチキを見破ってやると公言する科学者や本物の奇術師が目を皿のようにしているんです。TVカメラに何台も睨まれていることを考えれば、別にどうってことはないでしょう」
丈は相手の逃げを封じた。
「さあ、高鳥君。こっちへ来て下さい。皆さん拍手で迎えてあげて下さい」
大きな力のこもった拍手にせきたてられ、高鳥は後頭部を搔きながら前へ進み出た。
「困りますよ......先生は案外、人が悪いんだなあ」
照れてはいるが、自信が仄見えている態度であった。
「君にチャンスを与えただけです。TV局の公開実験だと思って真剣にやって下さい。実際はこの程度の緊張感ではないわけです。もっともっと心理的な圧力がかかっているはずです。もし失敗すれば、それみろ、インチキだ、やっぱり超能力なんかあるものかとボロクソにいわれるんです。それを承知でやって下さい」
「しかし、先生。そんなことをいわれたら、やりにくいですよ......」
相手が抗議するのを丈は歯牙にもかけなかった。
「甘ったれたことはいわない。もしこれが公開実験だったら、当然それくらい緊張するでしょう。自分を信じてやってみてはどうですか。六回やって一回しか失敗しなかった自分を信じたらどうですか? 公開実験はもっともっと神経を酷使する場でやるんだから、もしここでやりにくいなどといっていたら、公開実験などできるわけがないでしょう」
「わかりました。先生のおっしゃる通り、やってみますよ。うまく先生に乗せられたような気がするけどな......」
高鳥は度胸が据ってきたようであった。目が挑戦的に輝いてきた。自分の〝力〟を人々に見せることに情熱が湧いてきたのであろう。客気たっぷり衒気たっぷりの若者らしい大胆さであった。
「じゃあ、やります! うまくいくかどうかわからないけど、精神集中をするんで、みんな静かにしてて下さい!」
「うまくいくかどうかわからないなんていわないで下さい。超能力の市民権がかかっている公開実験なんですよ。もっと真面目にやってもらいたいですね」
と、丈はきびしい口調でいった。
「高鳥君が失敗すれば、超能力なんかインチキだといわれる。いい加減な態度は許されません。そのつもりでやって下さい」
「先生、そんなにいわれたらやりにくくて......」
高鳥は抗議しかけたが、丈の目のきびしさに言葉がつっかえてしまったようである。
「わかりました。とにかく一生懸命やります......」
彼はそれ以上は口にせず、灰皿の載ったテーブルに向い合った椅子に座った。一同がよく見えるように、姿勢は横向きになっている。灰皿の中のマッチとは充分にはなれており、小細工の余地のないことが明らかであった。
「始めて下さい」
と、丈がいった。その瞳は黒々と澄んでいた。その場に腰をおろす。
一同は息をひそめて、発火実験を見守った。高鳥は、灰皿の中のマッチ棒を凝視し、息を詰めていた。両の拳はまるめられ、両腿の上に突き立てられている。
期待の満ちた沈黙が続いた。これだけの人間がいるとは思えない静けさであった。咳払いさえ聞こえない。電池式の掛時計が微弱な音を発しているのがわかるほどの静寂であった。
しかし、沈黙には物質的な濃厚さがあった。期待感が張り詰め、時間経過とともに濃度が増し、圧力が加わるのがはっきりとわかる。
五分が経過した。
灰皿の中にはなんの変化も生じない。
高鳥は棒を吞んだような体の硬さを見せたまま動かなかった。顔は赤くなり、じわじわと汗が粒となって額に浮きあがっている。
満身の力を渾めた精神集中であり、見ている方も息苦しくなってくるほどだった。口の中がカラカラに乾いてしまう。
一分......また一分と掛時計の秒針が滑らかにすべって行く。
しかし、変化は依然として現われない。観衆はようやく焦慮の色を態度に表わし始めた。凝集した静止と沈黙が破れ、身じろぎしたり、座り直したりする動きが頻繁になってきた。緊張感は崩れていないが、やや疲れが見えてきたのだった。
高鳥は体が揺ぎだしていた。顔面は真赤になり、幾筋も汗が頰を伝わり落ちている。息切れ寸前であった。
丈は黒い瞳を瞠り、身じろぎもせず座り続けていた。緊張はなく、実に自然な座り方である。そのまま何日でも座り続けていられそうな静けさがあり、人々の視線を引きつけていた。
高鳥の体がぐらぐらと大きく揺れだし、人々の失望はまぎれもないものになった。
灰皿の中のマッチ棒にはなんの変化も生じていない。
高鳥が姿勢を崩し、大きな音をたてて喘いだ。息が切れてしまい、口もきけない有様であった。失意と疲労で体が泳ぐように揺れ動いていた。
観衆がざわめき、口々に私語をささやいた。期待はずれの色は覆いがたかった。高鳥が気負っていただけに、期待が大きくふくらんでいたからだ。
十分間だった。十分間、必死の精神集中を続けたが、なんの成果もなかった。人々は失望の色は隠さなかったが、つつしみ深く批難や悪口はひかえていた。
立合人を務めた中野はしょげこんでしまった。こんなはずではないといいたげな顔で、気まずそうに灰皿の中を覗きこんでいる。
「やっぱりだめでした......すみません」
と、高鳥が詫びた。息を切らしているが、悪びれたところもなく、率直に失敗を認めるところは好感がもてた。
「調子は悪くなかったんですけど......やっぱり、これじゃ公開実験なんかやれません......自信はあったけど、うまくいかないってこともあるんですね」
ハンカチを出して満面の汗を拭いながら、高鳥は淡々といった。敗北を素直に認めていた。
「先生のおっしゃった公開実験の意味がやっとわかりました。仲間内で気楽にやっているうちはいいけど、いざTV局で公開なんていったら、凄いプレッシャーがかかりますね、きっと。どんな悪い条件でも百発百中の絶対の自信がなければ、やれませんよ......先生のご忠告がやっとわかりました。今後はもっと地道にやります......皆さん、どうもお騒がせして申しわけありませんでした」
散発的な拍手が起こったが、大方はざわついていた。気がさしたのか、拍手も止んでしまう。白けた雰囲気の中で、ざわめきがしだいに大きくなる。
「皆さんが今ご覧になったように、超能力とはたいへん不安定なものです」
と、丈はいった。ざわめきが静まりかえる。
「スウィッチを入れたから、即座に安定した働きを示すといった安直なものではありません。それは高度な技術を必要とし、微妙な条件の変化によって影響される精神状態が関わってくる、たとえば射撃競技などに似ているかもしれません。練習で完璧にできたから、本番でも成功するとは限らないのです。競技大会の圧迫感や緊張感によって、実力が充分に発揮できず、あるいは失敗するかもしれません。
超能力とはそれ以上に精神状態によって左右される困難さを持っていると思います。いつも簡単にできるからといっても、精神的なプレッシャーがかかるとどうなるかわかりません......高鳥君もたぶん小人数のリラックスした実験の場では思い通りに超能力の存在を実証することができるのでしょう。
しかし、多くの人々が立合っている圧迫感の中では何もできなかったのは、皆さんが今ご覧になった通りです。もしこれが公開実験であれば、それどころではなかったでしょう。
超能力とはこのように不安定なものなのです。大向う受けを狙ったTV局の公開実験などで試すにはあまりにも危険すぎるといえるでしょう。できませんでした、失敗しましたと弁解するだけでは事がすまないからです。それみろ、超能力なんかあるものかという否定論者の勝鬨をあげさせるにとどまります。
よくいわれるように、否定論者の想念が邪魔をして不成功に終らせたのだという弁解が情けない泣き事として人々の耳に届くでしょう。事実その通りであったとしても、ダメージを回復することは容易ではありません。
超能力の存在を実証するのは、もっと地道な努力が必要だし、ケレン味たっぷりのTV局を利した公開実験など百害あって一利なしです。マスコミを利用しようとしても、逆に利用されてしまうのが関の山です。向うは海千山千のしたたか者であり、素人を踊らせるのは赤子の手をひねるより簡単だということです。
それを皆さんにわかっていただくために、高鳥君にお骨折りいただきました。高鳥君が有能な超能力者であればあるだけ、陥穽にはまりこむ危険は増して行きます。公開実験で多少うまくやってのけたとしても、本物偽物論争を巻き起こし、世間の大きな注目を集めたところで致命的な大失敗をやってのけるかもしれません。僕にはその成行が見えてしまうのです......
いつも僕が力をこめて説いているように、超能力はさほど大事なものではありません。超能力は物質至上主義が誤まりだということの証明でしかありません。超能力にこだわるのは危険です。目に見えない、出所不明の力であるだけに危険なのです。もし超能力を得て、それを私欲のために使おうとする心があれば、いつの間にか邪悪な力が忍びこんでくるかもしれないのです。知らぬ間に、魔性の存在と盟約を結び、魔性の力を借りているかもしれないということです......」
「魔性の力とは、幻魔のことですか?」
と、高鳥が質問した。丈はこの若者の柔軟なしたたかさに驚かされた。大失敗を演じてしょげ返っているどころか、丈の話にもっとも鋭敏な反応を示している。立ち直る心の弾性というものが大きいのであろう。めげないのである。
「幻魔がどのように人間の心と関りあっているか、それは今後明らかになって行くでしょう。超能力と同様、幻魔は物質的に束縛されない〝力〟を駆使します。僕は超能力を道具として使えば、必ず魔性の〝力〟に堕落して行くと確信しています。だからこそ、うかつに使ってはならないものだと説いているんです」
「先生、幻魔のことをもっとよく教えて下さい!」
と高鳥は熱意をこめていった。
「僕らは邪悪な魔性の力について、あまりにもなにも知りません。先生がご存知の幻魔のことを話して下さいませんか! 僕たちは幻魔について、もっとよく学ばなければいけないと思うんです。僕たちはもっともっと沢山のことを知りたいんです! 先生、よろしくお願いします!」
「お願いします!」
と、高鳥の仲間たちが声を揃えた。高鳥に向けて熱っぽい視線を注いでいる若い女性会員も見受けられた。すでに彼を中心にした高鳥グループとでも称すべき存在が核をなしつつあるようであった。
「幻魔については、また時と場所を改めて話すことがあると思います」
「しかし、先生、せっかくの機会ですから、是非お願いします」
高鳥は喰いさがってきた。ねばり強くファイトがあるというべきか、あるいは性格の執拗さというべきか複雑なところだった。リーダーの資質充分なところは疑いを容れなかった。
「せっかくの機会かも知れませんが、こちらにはちょうどいい機会ではありません」
丈ははねつけた。高鳥という青年に対して、甘いところを見せるのは禁物だとはっきりしていた。
「しかし、高鳥君の別の提案については、検討してみます。会に青年部を作る件ですが、一応三十歳未満の会員を対象にして募集してみるのも一案かと思います。内村君! いらっしゃいますね?」
はい、と返事をしてメガネをかけた弱々しそうな大学生が立ち上った。
「内村君に準備段階で、責任者をやっていただこうと思いますが......やっていただけますね?」
「はあ......しかし、僕なんかでは務まらないのでは......だれか他に適任者がいるんでしたら、僕はお手伝いさせていただきますけど......」
内村は気弱そうに呟いた。メガネの奥の目が自信なげにそわそわしていた。
「会長の指名です。引受けて下さい」
「わかりました......頑張ってやってみます......」
丈の合図で拍手が湧いた。高鳥たちはなんとなくあて外れという表情をしていた。高鳥は自分が提案しただけに、自分こそ適任という自信があったのであろう。
「高鳥君たちが青年部に参加することは構いません。みんなで責任者の内村君に協力してあげて下さい。内村君が協力を得て立派にやっていくことを僕は信じています」
「よろしくお願いします」
と、高鳥がまっ先にいった。内村は気弱げに瞬き、頭を横に振った。いかにも機敏でエネルギッシュな高鳥に比べると、無気力で頼りなげだった。
「こちらこそ、よろしく......全然自信はないし、なにをどうやればいいか見当もつきません。どうか皆さんで助けて下さい」
「お手伝いさせて下さい......なんでも遠慮なくいって下さい。協力してやって行きましょう」
高鳥が近寄って行き、握手を求めた。役者が違っていることはだれの目にも明らかであった。内村は熱心なボランティアの会員だが、才気はとうてい高鳥には及ばない。
なぜ丈が青年部の責任者に内村を選んだのか、頷けない者が大部分のようであった。しかし、他ならぬ丈が選んだのだから、という表情で一同は拍手を送った。丈の黒い瞳から、その真意を窺い知るよしもなかったのである。
7
事務所を出る丈を、会員たちは総出で見送った。五十名以上がビルの前に黒山のようになる。
平山圭吾が自ら車のハンドルを握っていた。丈が乗りこむと、どっと車に群がり歓声をあげた。大晦日の夜の寒気にもめげず、いずれの顔も火照ったようになり、輝いている。
平山の娘圭子と秘書の杉村由紀も同乗している。丈は窓ガラスを下げ、顔を覗かせた。
「先生、よいお年を!」
と、高鳥慶輔が近々と顔を寄せて叫んだ。彼はもはや会の主のように闊達に振舞っていた。びっしりと車にたかった会員たちが大声で唱和する。
「先生! 頑張ります! 握手して下さい!」
高鳥が手を伸ばしてくる。今までのおとなしい会員にない活気だった。丈はかすかに笑って握手に応じた。
高鳥は電気に触れたように体を硬直させ、何か叫びだそうとするように口を開けた。事実感電したようなショックがあったのであろう。だが、とっさに振り放さずに頑張り、にやっと笑う。根性があることだけは間違いなかった。
丈に握手を求めて、どっと人垣が崩れかけた。高鳥が大声で制する。会員たちははっと気がついて後退った。
「皆さん、よいお年を。来年は大事な年です。頑張って行きましょう」
と、丈は窓をいっぱいに開けて、目を輝かしている会員たちに呼びかけた。わっと大歓声があがる。
平山が緩やかに車をスタートさせた。どっと人垣が崩れ、会員たちが車の後を追ってきた。道玄坂まで追いかけてくる。跳びあがるようにして手を振っていた。先頭に立っているのは高鳥たちのグループである。元気がよくて全てに能動的だった。それに引きずられて会員たちまで活発になっている。
「非常に活気のある青年たちが入ってきましたな、先生?」
と、ハンドルを握りながら、平山圭吾がいった。
「やっぱりクリスマス講演会の前と後とでは、やってくる若者の感じがだいぶ異ってきたみたいですが、先生はどう思われますか?」
「そうですね」
と、丈は慎重にいった。
「彼......高鳥君、今夜はみごとに大失敗したようですが、本当に超能力者らしいですね? 先生はどう思われますか?」
「超能力者であっても、別に不思議はありません」
「やっぱり先生の講演を聞いて、超能力が出てきたという人が何人かいるみたいですが、そういうことがあるんでしょうね」
「講演がきっかけで潜在能力が現われてきたということはありえます。いろんなショックが触発するようですから」
「してみると、この噂が広がれば、先生の講演会には前にも増して、沢山押しかけてくることになりそうですな」
「超能力めあてにですか?」
「先生のご講演を聞くと、自分にも超能力がつく......そういうことになれば大評判になるでしょう」
「平山さんはどうですか? 自分にも超能力がついたらと思いますか?」
「思います!」
平山は言下にいった。
「自分にも超能力がついたら、と思わない人間はいないんじゃないですか」
「圭ちゃんはどう?」
と、丈は助手席に座っている平山圭子に向って尋ねた。
「あたしですか? やっぱりあったらいいなあって思います。持っている人は羨しいなと思ってしまいますし......」
と、圭子は控え目に答えた。
「超能力があったら、どういう風にいいと思うのかな? たとえば遠感で、試験問題を見抜くとか、予知するとか......」
「いいえ。そんな風には思いません。できたら便利だなって気はしますけど、自分にもしそういう超能力があったら、もっと沢山お手伝いできるのにって思うんです。自分があまりにも平凡なのが残念でしかたがありません」
「そうそう、それですよ」
平山が娘の言葉に触発され、勢いこんでいった。
「もし自分に超能力が授れば、先生にもっとお手伝いできると思うんですな。それは商売にも役立ててしまうかもしれませんが......たぶんそっちも大いに動機になってるといわざるを得ませんがね」
「平山さんがそんなことでは困りますね。超能力は道具ではないとさっき話したばかりなんですよ。あの席にはおいでにならなかったので、聞きそこねたんでしょうが」
「いや、それは存じませんでした。超能力は道具には使えないんですか?」
「超能力を道具として私利私欲を満たすために用いる者は、魔性の力の虜になるという話をしたんです。密教を学んで、法力だけを盗む者は外道、魔道に落ちます。超能力はもっと大きな目的のためでなければ使用することはできないと話しました。実際ちっぽけな超能力を持っても、それに囚われてしまうぐらいなら持たない方がはるかに幸せなんです。高鳥君という大学生がどの程度わかったか、心配です。まあ、自分の超能力がどんなに小さいかわかれば、誇大妄想の虜にはならないと思いますが」
「彼は念力でマッチに火を点けられるとかいってるようですが......本当にそんなことができるんでしょうか?」
「不可能ではないと思います」
「そりゃ大変な力だ。真言密教の方では、なんでも念力で火を焚く行があるそうじゃありませんか? 開祖の空海以来、ほんの数人しかできないという......それをあの大学生は気軽にやってのけるんでしょう!? してみると、あの子は天才じゃないですか?」
「彼には自分の力が思ったほど大きなものでないと今夜わかったようです」
「そりゃ、先生ほどの力はないに決っていますが......」
平山は圭子に小突かれ、やっと気がついて声を落した。こんなことになると、超能力好き、霊能好きの本性が露呈してしまうのである。
「申しわけありません......つい声が大きくなりまして。やっぱり先生、超能力というのはむずかしいものですな。不断は気軽にできても、先生のようなお方の眼前でとなると、上ってしまってまるきり駄目になってしまうらしいですね」
「個人的な力などたいした意味はないんです。少しぐらい超能力があるからといって、何もできません。超能力があれば何でもできると思うのは、金さえあれば何でもできるというのと同じ滑稽な錯覚です。平山さん。金さえあれば、と思ったことはありませんか? 若いころ、大金を握ることに成功なさったことがあるとお聞きしましたが」
「お恥しい話です......二十代のころ、一山あてましてね」
平山はハンドルから片手をはなして、頭を搔いた。
「天下を取ったような気分になりました。もちろんこの圭子が生まれる前でしたが......もう泡金に埋まっているような得意の絶頂の日々が続きましてね。そりゃもう若気の至りで、ずいぶん無茶をやりました。結局、程なくスッテンテンになり、莫大な借金まで背負って、一から出直しになりましたが......今でもあのころを思うと冷汗が出ますよ」
「金さえあれば、何でもできると当時は思っておられましたか?」
「それはもう、得意の絶頂で札束をチリ紙同様に思ってましたもので......馬鹿遊びもずいぶんやりました。後から考えると、ひどく虚しい気分になりましたが......」
「で、実際に金さえあれば、何でもできたのでしょうか?」
「とんでもない。いくら金があったって、何にもできやしません。いっしょに一山あてた仲間は、千円札に火をつけてそれでタバコに点火したり、そんな馬鹿な真似をやったりしたものですが、あれは何ですな、金を持ち慣れない、使い慣れない者に限って、大金を摑むと気が狂ったようになって、そうした馬鹿遊びにのめりこむものですな。昔から三業地では、そういう馬鹿が来ると判で捺したように同じような馬鹿遊びをやるようです。
結局、悪銭身につかずで裸かになってみると、憑きものでも落ちたような気分になります。あれくらい虚しいものはありません」
平山は慨嘆するようにいった。
「なぜもっとましなことに金を使わなかったかと後悔しても、後の祭りでして......」
「大金を使うというのは、大変な才能が必要なのかもしれませんね。才能だけでなく見識も経験も、全人格的なものが必要なのでしょう」

丈は考えこむようにいった。
「超能力の場合も、それと同じことがいえるんじゃないかと思うんです。力だけあってもなんにもならない。今、平山さんがいわれたように愚劣なことに金を使い果すように、力を使い果してしまうのかもしれません。やっぱり本当の意味での見識というものが必要なんでしょうね。その真の見識は簡単に右から左に手に入れるわけにはいかない。やはり全人格的なものを超能力に賭けるという決心、気迫が要るのだと思うんです。
超能力の場合も、本質的にはなんら特殊なものではない。煎詰めていえば、人間が人間として立派であること以外にないのではないでしょうか? 平山さんはどう思われますか?」
「それは、先生のおっしゃる通りですわ。いくら大きな超能力を持っていても、札束で面をはたいて芸者に裸踊りをさせるのと同じことをしたら、こりゃもうしょうがないですからねえ」
平山にも、丈の意味するところは通じたようであった。
「先生のおっしゃる通り、人間として立派であること、これに尽きます。金を生かすのも殺すのも人間次第ですからなあ......なるほどそうか。超能力も金も、使い方というのはこりゃ同じだわ」
平山は一人で感服の体であった。
「お父さんは昔、そんな遊び方をしてたんですか?」
と、圭子が尋いた。
「千円札に火を点けたり、芸者さんに裸踊りさせたり......」
「いや、それは友達の話だ......」
「でも、いっしょに遊んだんでしょう?」
「いや、こりゃ参った。とんだところで旧悪露見だ。時効だよ、時効!」
平山は額を叩いて弁解にこれ努めた。語るに落ちるといったところであろう。
「しかし、先生。なぜあの大学生たちを会員として認めておやりにならないんですか?」
娘の追及をかわすためか、平山はいきなり話題を変えた。
「なかなか覇気のある、元気な青年たちじゃありませんか? 彼らが混っていると、会の雰囲気もぐっと活気が出て、いい感じになっていると思うんですがねえ」
「入会受付は中止になっていても、ああやって頑張っていれば入会が認められると会員のだれかが知恵をつけたようですね」
と、丈はいった。
「武芸者の弟子入りだなんて、知恵をつけられない限り、湧いてくるものじゃありません」
「元気がいい若者って、いいもんですなあ」
と、平山はごまかした。
「ぱっと事務所が明るく活気づいていますよ。これで彼らがいないと、お通夜みたいにしんとなっちまうんでしょうなあ」
平山は高鳥グループがひどく気に入っているようだった。
「すばらしいエネルギーを感じますね。本当は彼らのような元気な若者が会としても必要なんでしょうな」
「僕が青年部の責任に指名した内村君に比べてみて、どうですか?」
「そうですね。いっちゃ悪いですが、内村君はおとなしすぎて、いるかいないかわからないってタイプですからね......まあ、熱心に会に出てきているようですが、まるで目立たんですな。正直いって、先生が彼を責任者に指名なさったのは、意外でした......」
「高鳥君ならよかったと思いますか?」
「彼なら適任でしょう。バリバリやってのける、いわゆるやり手のタイプですからね。将来、大きく育った会を背負って行く人材じゃないでしょうか」
「企業経営者として人をお使いになっている平山さんから見れば、結論ははっきりしているというわけですか?」
「まあ、適材適所ですからな。内村君にだって取り柄がないわけじゃありませんが、高鳥君でしたら、企業の後継者として是非欲しいという気がしますね。もちろん、彼のように優秀な学生だったら、官庁か大企業に行くことになるでしょうが......」
「圭ちゃんは、高鳥君をどう思う?」
丈はいきなり尋ねた。圭子はどぎまぎして赤くなったようである。
「あたし......活気があって、会が楽しくなるような人じゃないかと思います」
と、圭子は自信なげにいった。
「積極的で鼻柱が強くて。でも、会をひっかきまわすタイプかもしれないと思います。なんでも自分の思い通りにやらないと気がすまない人じゃないでしょうか?」
「そうですね......」
と、丈はいった。
「しばらくたつと、もっとはっきりわかると思います。会にとって、どんな人間が必要なのか、あの二人が証明してくれるはずです。内村君もきっと期待にこたえてくれるんじゃないかな」
「しかし、先生。あの高鳥君は超能力があるようじゃないですか。彼をうまく育てれば、先生のよき補佐役になるんじゃないかという気がしますが......それとも、彼じゃだめですか?」
平山は、バックミラーに映った丈の顔を窺うような視線を投げた。
「だめとはいってません。しかし、さっきもいったように、超能力なんかたいしたものではないし、超能力を生かすのも殺すのも本人の人間性しだいです。予言してもいいですが、内村君はきっと立派にやってくれますよ。僕には確信があります」
「素晴らしい超能力をお持ちの先生が、超能力なんてたいしたことはないとおっしゃると、説得力がありますが......先が楽しみになりましたな」
「まあ、見ていて下さい」
と、丈は落着き払っていった。
「来年は、きっと平山さんがあっと驚くような年になりますよ。人間の値打が魂で計られる時代になるんです。外見や見せかけはなんの役にも立たなくなります。
人間にとって一番大事なのは、学校の成績や立身出世、金もうけの才能ではなく、真心でありハートだということが、だれの目にもはっきりします。それだけ世間的常識というものが通用しない、きびしい時代になるということです」
「やっぱり動乱の年になるんですかねえ」
と、平山は不安げにいった。
「戦争とか金融恐慌とか、疫病......大地震、大飢饉のような天変地異が、来年は起こるんでしょうか?」
「幻魔が本格的に動きだしますから......しかし、恐れることはありません。逆にいえば、われわれの運動が大きな意味を持ち、人々に迎えられるということだからです。平山さんのいう男子の本懐の年ですよ」
「まあ、先生が張切っていらっしゃるなら、私も恐いものなしですが。いよいよGENKENの飛躍の年となりますかな」
平山は、強いて自分を納得させるように呟いた。丈の動乱の予言は、彼にとって楽しいものではないようであった。
もし、これがメジャー石油資本のメイン社長であれば、まったく異った反応を示すような気がした。大動乱は商人にとってまたとないチャンスとなりうるのだ。メイン社長は丈の予言をどのように生かすか、さっそく頭を絞り始めるであろう。恐れるどころか奮い起つに違いないのだ。
それが企業家として、メイン社長と平山の器の相違になるのだろう。もちろん、平山が商人として凡庸であるからといって、見下げるということではない。動乱を利して金もうけに励むのはやはり人間として見苦しい行為に違いなかった。
平山親娘は、丈を杉並の自宅に送り届けて帰って行った。東三千子がしきりに慫慂したが、結局家には上らず、多事多忙を口実に辞去した。
「これが、ご自宅で年越しされる最後の機会になるかもしれませんから」
と、平山は別れ際にいった。
「先生もおっしゃられた通り、来年からはちょっと大変な、大忙しの年になりそうです。まあ、今回だけはごゆっくりと年越しなさって下さい。どうぞよいお年を......」
親娘は頭を下げて、車に乗りこみ、走り去った。弟の卓まで出てきて見送っていた。
三千子の手で古びた門にも、門松と注連繩が飾りつけられていた。それが丈の目にはひどく新鮮に映じた。
「今年は、なんだかあっという間に終っちゃったような気がするな」
丈は星のきらめきが鮮烈な夜空を仰ぎながらいった。
「来年はいよいよ本番の年だ......平山さんのいう通り、自宅で年越しなんてこれっきりかもしれない」
「来年、兄さんは学校へ通ってる時間なんてあるのかい?」
と、卓が白い息を夜気に浮きたたせながらいった。
「大学受験、どうするんだい? だいぶ怪しくなってきたな」
「両立させるように努力してみるが......杉村さんが来てくれたから、だいぶやりやすくなった。昼間も事務所に詰めていてくれるからね......」
「どうぞ杉村さん、お上り下さい。そんなところでお寒いでしょう?」
と、三千子が、門前に立ち、コートのえりに顎を埋めて白い息を吐いている杉村由紀に声をかけた。
「いえ。すぐ失礼いたしますから......ちょっとまだお話をし残したことがございますので」
と、杉村由紀が遠慮がちにいった。
「どうぞ、そんな遠慮をなさらないで下さい......こんな所で立話はできませんもの。それに、しばらくすれば大挙してお客様が見えますし」
「だれか来るの?」
丈がけげんそうにいった。
「田崎さんたちよ。丈にご挨拶したいんですって。このところ、全然逢って話したりする時間がなかったでしょ。だから、田崎さんたち皆さんで除夜の鐘とともにおみえになるそうよ」
「彼らは事務所には近寄らないものな。ちょうどいい、杉村さんにもご紹介しますよ。会とは無関係にやっている仲間たちがいるんです」
「そのことはおうかがいしました。では、少しだけ寄らせていただきます」
杉村由紀はようやく門を潜った。彼女が高輪のアパートに一人暮ししていることを三千子も知っていた。むろん年越しの準備などしているはずがないし、それもあって彼女を引き留めたのであろう。
家の外も内も、すっかり新年を迎える用意がなされていた。
年が改まるということに、これほどの感慨を覚えるのは、丈にとって初めての経験であった。大変な一年だったと思う。これまで無造作に過してきた年月とは、質も量も大違いであった。丈の実感ではこの半年ほどの間に、優に四、五年に匹敵する密度の高い時間が濃縮されていた。
時間の使い方からいって、その実感が生じるのは当然だった。睡眠時間はわずか、三時間足らずだし、残りは学業と会の活動、そして原稿書きに費やされていたからだ。ほんのわずかな息抜きの時間もなかった。私用に供する暇は、ただの一瞬もなかったようである。
きわめて充実しているといえるが、反面、余裕がないともいえるかもしれない。
しかし、遂に息を抜かず最後まで走り通した満足感はまぎれもなかった。こんな生き方があるとは考えたこともなかったし、まさか戦時体制のような緊張を、自分が持続できるとはわれながら信じられないことだった。
この生き方はまさに非常時のものだ、と丈は思った。事実、非常時なのだ。丈はさきがけて幻魔と交戦状態に入っているのだった。暮も正月もないのは当り前のことなのだろう。
丈は杉村由紀と二人で、熱い年越し蕎麦を食べた。
「どうぞご遠慮なさらないで下さい」
と、給仕しながら三千子はいった。
「杉村さんは、もう身内も同然の方ですもの。丈の仕事をこれから親身になって手伝っていただくわけですから......丈は物凄く張切っているんですよ。杉村さんに来ていただいて、万全の備えができたといって......丈にとって杉村さんは本当に理想の方なんです。注文通りなんて申し上げたら失礼なんですけれども、こういう人がやってきて、仕事を手伝ってくれたらなあ、と日頃から丈が口癖のようにいっていた理想像に、杉村さんはぴったりなんです。
丈には願望を達成する〝力〟があるんじゃないかと思うくらいですわ。丈の願う通りにどんどんかなって行くみたいです。やっぱりこれも超能力の一種なのかしらとはたで見ていて思います」
「なんでも自分の思い通りに物事がかなうんなら、苦労はいらないけどね」
と、舌を火傷するほど熱い蕎麦をすすりながら、丈がいった。
「しかし、強い願望というのは、やはり念力と同じで、杉村さんを引き寄せてしまったような気がする。僕が願っていた人間像は杉村さんと寸分変らないんですよ。僕の願いが人の形をとって目の前に現われたんじゃないかという気がするほどです」
「じゃ、まるで丈の念力が杉村さんを造りあげたみたいじゃないの」
と、三千子がお茶を淹れながらいった。
「でも、もしかすると本当にそうなのかもしれません」
と、杉村由紀が真面目な顔でいった。
「想念の力とは、時間空間を超えて働くと聞きますし。あたくし自身を振り返ってみますと、運命と呼ぶしかないような力に動かされていたのを感じるんです。もし結婚していたら、ニューヨークへ渡らなかったら、と人生の大きな節目が来るごとに強い力で引かれて、今のあたくしに近づいて行きましたもの。先生のとても強い想念の力に引き寄せられたと考えても、少しも不思議に思いません。こんなこと、心で思っていても、今まで人前では話せませんでしたけれど......」
「もしかすると、おっしゃる通りかもしれませんわね。丈の力には、ただ超能力と呼ぶには不思議すぎるところがありますもの」
と、三千子はゆっくりといった。
「人と人のつながりというのは、ただ外面的に見るだけのもの以上の不思議さがあるような気がします。運命とかさだめとかいいますけど、なにかもっともっと奥深い、神秘的な計画性があるように思えてならないんです。占星術とかその他の占いのように浅薄で物質的なものでは捉えられないという気がいたします。人が肉体を持ってこの世に出生する以前に、目に見えない大きな意志というべきものが、綿密な計画を立てていて、人間はその計画に沿って生きている......そんな気さえしてしまいます。それをさして、神の意志というのかもしれません。人と人とのつながりもそうした精密なプログラムに従って引き寄せ合ったりするのではないか......丈にしても必要な人がただ必要な時にひょっこり目の前に現われるということではないような気がいたします。もちろん、これはあたくしの勝手な想像ですけれども......」
「姉さんがそんな壮大なことを考えているとは気がつかなかった」
丈はお茶を飲みながらいった。
「お姉様のおっしゃることは本当なのかもしれません。人間はそれに気付かないので、自分勝手に生きていると思いこんでいるのかもしれません。あたくしも先生にお目にかかってから、そういう気がしておりました。先生とお逢いした時、本当に安心いたしましたもの。ずっしりと重い肩の荷がおりたようにすっとしてしまって、やっと辿り着いたのだということが実感できました。あんなに沢山危い目に遭ったけれども、とうとう足を踏みはずさずに着いたのだ、と......それがとても素直にすっと胸落ちいたしました。もちろんそれは自分一人のちからでやってのけたのではなくて、今お姉様がおっしゃった、大きな意志によっていつも危いところを救けられた......絶体絶命の危機を、不思議な援助を受けてするするとすり抜けてきた......それはあたくしが先生の許へ辿り着くために差し伸べられた援助の手だったんだな、と今でははっきりした自覚がございます」
「そうでしょうね。人と人が引寄せ合う時には必ず目に見えない大きな力が働いているように思います。だって、それまでは一面識もなく、互いに相手が存在することすら知らなかったというのに、一度逢ってしまえば、ずっと昔から知り合っている仲だという気持になってしまうのは、なにか言葉では説明できないような理由があるのではないでしょうか......決して偶然などではないという気がいたします。でも、それは自分の関知しないところで勝手に他の存在によって定められた運命ではなくて、自分の意志によって組みあげられた計画を、自分では知らずに実現したという気がするのです......生まれる前はよく知っていたのに、肉体を持ちこの世に出生してしまうと、なにもかも忘れてしまう。でも、それは決してなくなってしまったのではなく、この胸の深いところに埋れているのだ、とあたくしには思えてならないのです。ちょっとおかしな考え方ですかしら?」
丈は姉の話に感銘を受けた。姉がこのような話を他者にするのは初めてのことだった。三千子がよほど杉村由紀に心をゆるしているということがわかる。
「おかしいなんて、とんでもございません。素晴らしいお考えだと思いますわ。実際、今おっしゃったようなことでないと、自分の人生というものがとても納得できませんもの。自分が計画を踏みはずさずに歩んでいると実感できるほど安心なことはありません。
ですから、あたくし、今はなにも苦にならないんですの。安心立命の境地なんていったら、古臭い表現ですけれども、まさにその通りなんです。なにをしていても楽しいし、嬉しくて仕方がないんです。辛いことや苦しいことが全部よその世界へ消えてしまったみたいで......今はたとえ何事が起きようとも、びくともしない、そんな気がいたします。なんの不安もないし、障害を障害とも感じないのかもしれません。もし、あたくしが万一、先生を疑ったり、おそばをはなれようと望むようなことがあったら、それは全てが崩壊することだとわかります。完全な破滅とはそれ以外にはありえない......あたくしにはそれがはっきりとわかっております」
二人の年長の女性には奇妙な共通点があるのが感じられた。まったくの他人とは考えにくいような、よく似た波動を二人とも有していた。
それは肉体的な相似性ではなく、魂の波動における共通の基調とでも称すべきものであった。二人の女性がまだお互いによく知り合う時間もないのに、すでに旧知の間柄の親しさを通いあわせていることからも、二人が同属だということは明らかなようであった。
実際、三千子と杉村由紀は肉体的外面的にはいささかも似ていない。
三千子は小柄でほっそりとしていて繊細であり、杉村由紀は日本女性としては長身といえる。肩が張って筋肉質の体形であり、脚が長い。強壮でエネルギッシュな感じが迫ってくる。顔も欧亜混血風でバタくさく、ヨーロッパ白人の雰囲気が濃厚である。
「うちの姉とはずいぶん気が合いそうですね」
と、丈は姉が座をはずしたあと、杉村由紀にいった。
「素的なお姉様ですもの、お話していると、なんだかわたくしの方が歳下みたいな気がしてきます。ずっと昔からよく知っていたみたい」
「まさにそんな感じですね。僕はこのごろ、よく考えるんですが、人間には魂の系列があるんじゃないかと思うんです。つまり同じ集団に属しているわけです。姉がさっき人と人が互いに引き寄せあうといっていましたが、その魂の系列のことなんじゃないかな。
肉体的にいうと血縁集団のようなものだけど、それほど物質的に縛られたものではない。魂の系列の場合はバラバラに散らばって生れるし、肉体的にはなんの血縁もなく、赤の他人だけど、しかし、見ず知らずの間でも引力が働くわけです。お互いに気になるし、引かれずにはいられない。短時間のうちに親密な間柄になってしまう。
それは魂が同じ集団に属するために、同じ目的や使命を持って生れるせいではないか。ただ単に気が合うとか合性がいいというだけではすまないんじゃないでしょうか。
表面意識では知りあったばかりの、つきあいの浅い仲でも、表面意識の奥底、潜在意識では互いに相手がだれだかわかっている。だからこそ、得もいわれぬ親しみが湧いてくる。もし、相手が大の親友だったら、意気投合してしまうわけです。
魂の系列で、チームやコンビを組む予定がある場合には、最大の強い吸引力が働きます......たとえ障害があってもはねのけてしまう、強力な力が互いに引き寄せ合うわけです。最近、僕はそれがただの空想じゃないという気がしてきました。表面意識では、杉村さんはまだ知り合って一週間足らずの人だけど、感じとしてはもう十年もいっしょにやっているという実感があるんです。こんなことは、僕も初めての経験です。今では、杉村さんがうちの姉のように、心を打ち割って話すことのできる幾人かの信頼できる人の一人になりました。こんなこと、普通だったらありえないと思うんだけど......」
「おっしゃる通りだと思います」
杉村由紀は低い声音でいった。
「お姉様とも、もっとじっくりとお話しする時間があるといいんですけれど」
「姉も同じことをいっていますよ。杉村さんとお話ししたいことが沢山あるんだそうです。時間があったら、是非話を聞いてやって下さい」
「とんでもありません。わたくしこそ......」
二人は黙りこみ、ガスストーブの燃焼音に耳を傾けていた。
「今に少しずつ、魂の系列のことがわかってくるんじゃないかと思います。潜在意識が教えてくれそうな気がするんですよ......表面意識と潜在意識の中間には、ブロックというのか、隔壁がある。それをしだいに薄くすることさえできれば、潜在意識の持っている記憶を引きだせるような気がする。エドガー・ケイシーのいっていた前世の記憶というのも、そこにあるんじゃないかな。たぶん魂の系列がどんなものかわかるようになります。たとえば、杉村さんと姉、そして僕とのつながりがわかる日がやがて来るかもしれない」
「本当にそれがわかったら、素晴らしいですわね。人間全体の生き方が変るんじゃないでしょうか。そうなれば、もう超能力とか霊能とかいった言葉で表現できない、まったく新しい世界が現われてきそうな気がします」
と、杉村由紀は慎ましやかな情熱を見せていった。決して大仰にも派手にもならない感動ぶりが好もしかった。
「幻魔と戦うためには、人類はそこまで往き着かなければならないんじゃないかと思うんですよ」
と、丈はいった。
「人間──人類の歴史は何度も分断され、中絶してしまっている。かつて地球上で戦われた幻魔大戦の記憶は失われ、伝説や神話にその形骸をとどめているにすぎない。実際に何事が生じたのか、今となっては歴史的時間の分厚い埃にさえぎられて知るすべもありません。堕天使や悪魔、古き蛇として、幻魔の記憶も痕跡をとどめているだけです。
しかし、天界と魔族たちが激しい戦いを展開したという神話伝説は世界中の民族に残されている。事実はどうだったのかを知るために、時間を超えて太古の往時に戻ることは困難かもしれませんが、われわれ人間の潜在意識の中に全てがあるとすれば、それを甦らせればいいわけです。
かつて地球人類と幻魔は激しく戦った。そして幻魔は敗れた。大宇宙意識フロイの化身が人として肉を持ち、人類を導いて、幻魔を退けたのだと僕は思うんです。そして幻魔の司政官はフロイによって封じられ、大魔王として今も名を残している。幻魔の軍勢は敗北して、幻魔たる出自も忘れ、魔道の者、悪魔として全世界に散り、過去の栄光を失って土寇化した。もはや魔族には幻魔たる記憶は一片もなく、理知もなくいたずらに彷徨している。今はただ習性によって、人間をからかい、いじめるなど攻撃的行動に出ている。低級な魔族は、愚鈍で衝動的な攻撃に出るが、高級な魔族は、少くとも一つの思想性を持ち、方向性を持って、組織的に人間に攻撃を加え、人間を瞞し、堕落の道へ引き込もうとする。過去の幻魔大戦で、幻魔の組織は粉砕され、四散したが、辛うじて残された組織の一部が、いまだに機能しつづけている......
過去を振り返ると、大量虐殺の流血事件など、物凄い迫害が繰返し起こっています。古代ローマ帝国によるキリスト教徒弾圧、モンゴル軍の大虐殺、大流血、中世の異端虐殺、魔女狩り、ユダヤ虐殺は何もヒトラーのナチス・ドイツがやっただけではなかった。アメリカ大陸ではインディアン皆殺しが計られた。第一次世界大戦、第二次世界大戦と罪もない人々が虫ケラのように大量に殺されています。革命や内乱で虐殺された人々は世界中で何億人もいるはずです。大きな流血が起るたびに、何百万人、何千万人もの人間が大量死して行く......
考えれば考えるほどおかしい。なぜ人間同士がこんなに頻繁に争い、凄惨な殺し合いをやらねばならないのか。人類の歴史に少しでも関心を持った人間は、必ず疑問にとりつかれるんじゃないでしょうか?

これほど悲惨な殺戮を幾度でも繰返して、歴史からなに一つ学ぶことのない人類はどこかおかしいんじゃないか。根本的な欠陥を蔵した種なんじゃないだろうか。
人類がまだ地球上から絶滅していないのは、よほどの幸運に助けられているせいかもしれない。これほど凶暴で、同種内攻撃を無制限に行なう生物種は人間だけだし、人類が今まで絶滅せずにやってこられたのは、それ自体が大きな奇蹟です。
人類史を学べば、だれしも感慨に捉えられずにはいられない。とにかく人類になんらかの大きな欠陥がなければ、歴史上無数に散見される物凄い大殺戮を説明することができない。
しかし、欠陥が明白であるとすれば、人類が絶滅して地球上から消滅しなかったこと自体が納得できない。
やはり、人間たちの心に風のように吹き込んでくる猛悪な、破壊と殺戮の意志というものが考えられる。ある時期の人間集団は一種の憑依を受けて、狂暴な意志のままに荒れ狂い、死体のピラミッドを築き、流血の運河を掘る......やみくもな憎悪と激怒、暴虐な衝動のままに悪鬼、阿修羅と化して、無制限な同種内攻撃に走る。そして憑き物が落ちた時、呆然自失したまま己れの築いた死体の山を見ていることになる......
僕にはそう思えてならないし、それが事実だということがニューヨーク・ハーレムの黒人大暴動を通じて経験的にわかります。
人類の歴史に干渉を加えているのは、こうした目に見えない凶暴な暗黒の波動なんです。ハーレムで幻魔が暴れた時、僕はそれを感じ取りました。人間はこうやって過去無数に、暗黒エネルギーの攻撃に曝されてきたっていうことが......憑依現象というのは、個人だけでなく集団的にも、ある民族、国家ぐるみで起こるんです。今も日本の学生たちがたとえば原子力空母の寄港で不穏な動きを示していますが、もっとはるかに大きな、巨大な波動のうねりの前触れなんですよ」
「やはりそれは、幻魔の暗黒の波動がもたらしているのでしょうか?」
杉村由紀が熱心に尋ねた。
「地球上で、土寇化した幻魔が新しい刺激を受けて、活性化しているんじゃないかと思うんです。宇宙意識フロイとルナ王女の宇宙の邂逅を知って、幻魔は地球外からの尖兵を送りこんできた。その刺激が引き金になって、覚醒が進み、旧幻魔の再編が進行しているのかもしれません。今後、集団的な憑依現象は日本に限らずアメリカでも、中国でも至るところで拡大して行くような気がします。それは破壊だけを目的にするやみくもな、無意味な暴動、破壊活動、テロ行為などに突走るんじゃないでしょうか。幻魔の性格からいって、恐ろしく虚無的な、破壊のための破壊が地上に横行し、荒廃を人心に及ぼして行くことは間違いないと思います」
「そのやみくもな闘争のための闘争は、人種間世代間というところですでに始まっているような気がいたしますけど、本当は政治的信条や理念の衝突などではないということでしょうか?」
「憎悪や怨恨の軋轢、緊張のあるところは、世界中いっせいに火を噴くことになると思うんです。差別・被差別の問題、政治的抑圧の問題も全て同じです。つまり人間が複数である限り、対立関係は必ず生じ、幻魔の暗黒の波動が入りこむ余地を持つということです。
身近な所では肉親、親子きょうだい、夫婦から始まって、緊張と軋轢が激化し、人間関係が根本的な部分から破壊されて行くはずです。人間不信が拡大し、個人個人は砂粒みたいに何の結合力も粘着力も持たず、バラバラになります。孤独な〝砂の民〟になってしまうわけです。肉親ですら憎悪と軽蔑の対象でしかないとすれば、もう社会を支配するのは、人間不信の行動原理だけになる......無意味なテロや破壊活動が横行して、人間には安らぎというものが失せてしまうでしょう。全ての他人が敵と化す社会なんです。肉親は厭うべき敵であり、男と女は互いに蔑みあい、全ての人間関係は間断ない恐怖と敵意で充満してしまう......杉村さんにはそうした社会が想像できますか? それが幻魔の暗黒の波動が充満した世界なんです」
「幻魔が覚醒した社会では、人間は人間として生きて行けないということですね」
「だから、それをなんとかしなければならないんです。僕はこうした人間関係が根本的に損われた世界は、戦争や疫病の荒廃よりも更に恐ろしいものだという気がするんです。もちろん、こんなことは公けにはいえないけど......戦乱が不幸な状態を人間にもたらすのは間違いなくても、やはりそこには、人間同士の愛や連帯が存在することは間違いないと思う。だれもが同じ苦しみにあるという認識が人々を結束させるんじゃないか。事実、戦争体験を持った世代の人々に聞いてもその通りなんです。戦火のさなかにあって、絶えず生命の危険に直面し、毎日のように知人や友人が死んで行き、ひどい生活物資の欠乏に苦しんでも、人々は助けあって生きていたんです。貧乏のどん底にあっても、戦乱の中にあっても、人と人が信頼しあえるならば、それは最悪の状態ではない。互いの安否を気遣いあい、思いあう心があれば、人間は相当きびしい状況にあっても頑張っていけるんじゃないでしょうか?」
「わたくしも戦争中、空襲を毎日のように経験しましたから、先生のおっしゃる意味はよくわかります」
と、杉村由紀はいった。
「確かに辛いけれども、心を結びあっている人たちがいれば、堪えていけるんです。生活必需品どころか食べるものもろくろくない有様でしたし、いつ爆弾で死ぬかわからないような毎日でしたけれども、見栄を張る必要もないし、貪婪な欲望から一切きりはなされているので、不思議に軽い生き方をしていたように思うんですの。なにしろ欲望といえば、腹一杯白いご飯が食べたいという単純なものでしたし......戦争が人間にひどく惨めな生活を強いた事実は変わりようがないとしても、わりあいに戦火の中で人々が軽い生き方をしていたことは、本当のことなんです。戦争は厭だ、戦争反対! という掛け声ばかり大きくて、そんな本音は正面切ってだれも口にしませんけれど......でも、あの悲惨な戦争の中でも、人々は透明に軽々と生きる部分を持っていたのは否定できないはずです。人間が互いに助け合い、いたわりあう心を持っているならば、苦難はその度合を減じるといえるんじゃないでしょうか」
杉村由紀は熱くなっていった。その熱っぽさは、必ずしも彼女の年齢にふさわしいとはいえなかったかもしれないが、好もしいものであった。学生っぽくて真摯でひたむきだ。
「先生のおっしゃることは真実そのままのことですわ。平和は戦争のように単純じゃないんですね。戦争時には、人間の目的は生き伸びるという一事に集約されますけど、平和時にはもっと複雑になりむずかしくなると思うんです。価値観が多元化して、欲望がどんどんふくらんでしまい、とめどがなくなる。限りない貪欲さの追及が人生の目的にすりかわってしまいます。戦時中の澄明な美しい青空は、産業廃棄物でどろんと赤茶けた汚いカサブタのような空に変わってしまい、人の心はあの透明な軽い生き方などかつてあったことさえ信じられなくなってしまう。他人の生活ばかり気にして、見栄ばかり張って生きなければならなくなる。かつてはボロボロのツギだらけの服をなんの気兼ねもなく着ていたのに、今は何十枚もの美しい良質の衣服が洋服ダンスに詰まっていても、一枚も気に入らないという浅ましい足ることを知らない貪婪さの虜になってしまうんですわ。
これはわたくし自身にもあてはまることですけれど......平和な時にこそ人間は大きな不幸を持つという傾向が確実に存在すると思います。それは人間の貪婪さに起因することだし、平和運動、反戦運動の単純なスローガンから大きく脱落している部分ではないでしょうか? 人間が真に高貴になれるのは、平和時よりも戦乱の時代だというのは皮肉にすぎるかもしれません。
でも、真の洞察を欠いた、政治的スローガンだけの平和運動、反戦運動には建前だけの大きな噓があるはずです。人が人とのつながりを失い、真の威厳を失うことほど悪い時代はないんじゃないでしょうか? ある場合には人間が真の威厳を持って死ぬことの方が大切であるかもしれないんです。建前だけの安易なヒューマニズムでは律しきれないことの方がはるかに多いとわたくしは思います。一人の人間の生命は地球よりも重い、という決り文句が空疎なヒューマニズムをよく表現しているのであって、理念としても馬鹿げています。正しくは一人の人間の魂の重さは、というべきだと思うんですけれど......人間の命は貴重だけれども、その人命に代えても護るべき貴重なものは沢山あるはずなんです。むしろ物質的肉体的な生命を過大なものに視すぎて、本当に貴重な人の魂のことを忘れているのだとわたくしは思うんですけれど、やはりいいすぎでしょうか?」
「いいすぎでもなければ、奇矯でもない、まさにその通りだと僕も思います。近代ヒューマニズムには大きな噓もあるし、けれんもあるはずです。ヒューマニズムはおそらくいつの時代も過渡期にあって、常に開発途上という妙な言葉があてはまるかもしれない。しかし、その不安定なものを、ある種の政治的スローガンを掲げた連中は、絶対の真実、不可侵の神聖としてヒューマニズムを振りかざす。むろんそれは建前であって、本音ではない。自分に不利なことは目をつぶり、建前だけを武器として振りまわし、他者の非を攻撃する。
たとえば公器と自負する新聞が、自分の身内の犯罪は報道せず、むしろ隠蔽する。物価の値上げを激しく非難する新聞が、新聞料金の値上げについては知らん顔をする。こういう建前と本音の使い分けは、社会的な慣習であって、もはや偽善が偽善であるという認識もない。エセ・ヒューマニズムを武器に使う徒輩ほど軽蔑すべきものはないが、しかし、武器として依然として有効ではあるんです。
だから、杉村さんの指摘は正当なのだけれども、エセ・ヒューマニズムの使い手には恰好の獲物になる。戦争にもいいところはあるなど、ヒューマニズムに反する。戦没した数百万、数千万の犠牲者がそれを聞いたらどう思うか考えてみよ。......たちまちうむをいわせず非道な人非人扱いにされることになるでしょう。エセ・ヒューマニズムは政治的スローガンですから、真理と合致する必要はない。むしろそんなものは必要ないんです。
だから、僕たちが進めて行く運動は、エセ・ヒューマニズムとの戦いに他なりません。私利私欲でエセ・ヒューマニズムを凶器として振り廻す徒輩に空を切らせながら、宇宙的真実を人々に伝えて行かなければならない。
人間を物質的規範から解き放つ作業が、エセ・ヒューマニズムの攻撃を免れることはできないんです。一歩間違えば、僕は大魔王として糾弾を受ける。人命よりも大切なものがある、と僕がいえば、たちまち総攻撃を受けることになるでしょう。世を惑わし、若者たちを狂わせる狂信的指導者として指弾を浴びるのを免れません......
ですから、こういうフリー・トーキングの場でないと、うっかりしたことはいえないわけです。慎重の上にも慎重を期さなければならない。最近、レトリックが大切だと気がつきましたよ。政治家が決して物事を具体的にいわず、曖昧な抽象的言辞を弄するのは理由がある。慎重さを欠くと命取りになりかねないからです。
僕の場合も同じです。今後は一言一言、揚げ足取りされることを覚悟しなければならない。まるで地雷原を歩くようなものです、真実を告げるということは......しかし、なんとしてでもやり遂げなければならない。レトリックを使えば、パワーがなくなり、誤解も増えることを承知でやらなければならないんです。
たとえば、江田四朗が幻魔かあるいはその走狗だとわかっていても、それを公けの場で口にすることは許されない。しかも、会員たちには警告し、注意を促さなければならないんです。僕は時折、自分で自分の手足を縛り、がんじがらめにして全力疾走しようと努力しているような気がするんです。これほどの矛盾はないし、困難もない。しかし、やってのけなければならない......」
「必ず先生の協力者たちが出てきます!」
杉村由紀は力をこめて断言した。
「今の試練は、先生にとって演習だと思うんです。孤立無縁で立ち向うことが、いつまでも続くとは思えません! ですから、さっき先生のおっしゃった魂の系列で、先生を擁護し、バックアップする使命を持った人たちが必ず出てくると思うんです。たとえば、K社の本田さんがそうだと思います。〝幻魔の標的〟にしても、わがことのように懸命に奔走して下さっているし......ですから、先生が孤立する時代はいつまでも続かないはずです。わたくし、それを確信していますわ! ですから〝笛吹けど、民踊らず〟ということだけはおっしゃらないで下さい!」
懸命さがこもっていた。
「もちろん、杉村さんが来てくれたので、百万の味方を得た気持なんですよ。わずか一週間ほど前は、はるかに見通しが暗かったんです。必ずしもやれる、といい切る自信はなかった。しかし、今では自信があります」
「よかった!」
と、杉村由紀は思わず声をあげた。自分の声の高さにびっくりしたようだった。
「申しわけございません。先生のお話を聞いていると、つい夢中になってしまって......時間も忘れてしまうし、何もかも忘れてしまうんです。こんなことでは、秘書落第ですわね。もっと冷静でなければなりませんのに......」
「杉村さんがいなければ、僕は手も足も出なくなりますよ。来年はそういう年になるんです」
と、丈は歳上の秘書の目を見詰めながらいった。
「杉村さんに申しわけないような気がする」
「どうしてですか!? なぜ、そんなことを......」
「杉村さんの人生を、本当にこれほどささげてもらっていいのか、と考えると恐ろしくなるんです。杉村さんには、もう人並の女性としての幸せは何もなくなってしまう。おそらく恋も結婚も、子供を生み育てることも、縁がなくなってしまうはずです......女性としての楽しみも、ちょっとした気晴らしさえも遠くなってしまうかもしれない。それなのに、僕には、杉村さんに何も報いてあげられないんです......僕にはあげるものが何もない。なのに、生きることさえ苦しいような日々がこの先、待っている。それを思うと、胸が詰まるんです......」
丈の声は静かだったが、絞りだすような哀しみがあった。
「先生、そんなことをおっしゃらないでください」
杉村由紀の声はわずかに慄えた。が、平静に続ける。
「わたくしの決心は前にもお話しした通りです。ですから二度とは申し上げません。でも、今のような先生のお話を聞くと、わたくし、とても辛いのです。なぜって、先生のおそばにいられるだけでも、無上の幸せなんですから......それどころか、本当に自分には、先生のおそばにいる資格があるのかと考えると、慄然としてしまうんです。わたくしが真に恐れているのはそれだけです。わたくしは今無上の幸せを持っていますし、他には何も要りません。それを先生にわかっていただきたいんです......」
「わかってはいるけど、気がすまなくなってしまうんです。申しわけないと思っちゃうんですね。杉村さんに何かしてあげられることはないかと考える。徹夜続きでろくに眠る暇もないから、せめて休ませてあげようと思う。しかし、ついこうやって引き留めては長々と話しこんでしまう......」
「でも、それはお仕事ですから......さきほど先生のおっしゃった人類史に繰返される暗黒の衝動ということも、大事なテーマだと思うんです。大体要点はメモしましたけれど......先生は大切なことをお話しになっているのですから、どうぞ、遠慮なさらないで下さい」
杉村由紀は速記ができるのだ。丈は彼女がメモを取っていることさえ気付かなかった。
それにしても、異常な集中力というべきであった。丈は驚きの目で彼女を見ていた。杉村由紀には何度も驚かされる。なによりも女の身でこれだけ丈に追随してこられるというのが驚異だ。丈の体力は並みのものではないし、ほとんど睡眠さえとらずにすませることができる。
その丈のエネルギッシュさに伍しているのは、杉村由紀自身が常人でないということを意味している。あるいは、丈との間に生じている心霊的なつながりが、エネルギーの転位現象を示しているのかもしれなかった。
「わたくし最近、疲れないんです」
と、杉村由紀は丈の想念を読みとって答えた。
「全然疲れなくなってしまったんですよ。二時間ぐらい眠るだけで睡眠は充分ですし、それ以上眠ったりすると、かえって疲れてしまいます。やっぱり先生のサイキック・エネルギーの影響を受けているんでしょうね、きっと」
彼女はごくあたり前のことをいうように平然といった。
「わたくしだけじゃなくて、圭子さんも同じことをいっています。特にわたくしなんか、お肌の曲り角をとっくの昔にすぎて、睡眠不足は一番肌にこたえるはずなのに、かえって調子がいいくらいなんです。前からあったソバカスさえ消えてしまいました......若い時分でもこんなことは一度もなかったし、やっぱり今はサイキック・エネルギーで日夜充電しているせいではないでしょうか? さもなければ、先生にはついて行けないと思うんです。これも天の配剤ということではないでしょうか?」
「杉村さんのタフさには、僕だってカブトを脱ぎますよ」
と、丈はいった。ようやく緊張がほぐれて、楽しくなってきていた。しかし、杉村由紀には負い目があまりにも多すぎた。たとえ、彼女がすでに充分に報いられているから、といってくれたところでその負い目が消えるものではなかったのだ。
8
三千子は台所で洗い物を終えて、茶の間に入った。茶の間では弟の卓がTVセットの前に巨体を据えて、NHKの紅白歌合戦を見ていた。来客があるので、ボリュームは絞ってある。
「どうした、姉さん? 兄貴たちは......」
と、卓は画面の園まりを眺めながら尋いた。
「熱心に話しこんでるわ。いくらでも話すことがあるみたい。毎日、徹夜で話しこんでいるんですって......」
三千子は電気ゴタツに膝を入れた。ポットのお湯を急須に注ぐ。
「そりゃまた、えらく気が合うんだな......」
卓はブラウン管の画面に目を向けたままいった。園まりの出番が終ったので座り直し、姉の淹れてくれたお茶をすすった。
「杉村さんて、すごく素的な女だね。なんかこう、特別って感じだな。そういう女が、兄貴の秘書をやってるというのも、考えてみるとえれえ不思議な話だよ......姉さん、今年はずいぶん妙な年だったねえ」
卓のいう通りだった。
「ほんと......」
感慨が身にしみこむようだった。あまりにも多くの事がいっぺんに起こった。一つ一つがとてつもなく異常なことばかりであった。
「夏ごろまではどうなるかと思ったけど、こんな静かな大晦日になるとは想像もしなかったな。兄貴は高校生教祖なんて呼ばれる有名人になっちまったし......」
「でも、来年はもっともっと大変な年になるかもしれないわ」
「参ったなあ、脅かさないでくれよ、姉さん。姉さんまで巫女みたいになって予言なんかするんじゃ、まったくこっちの立つ瀬がない」
現実主義者で四次元嫌いと自らいう卓は浮かない顔をした。
「予言じゃないわ。ただそんな気がするだけ......」
「それ、それが嫌なんだ。姉さんまで超能力者って感じがしてくるからな」
「心配しないで。あたしは超能力なんてひとかけらもないから」
「超能力者は兄貴一人で沢山だよ。とにかく来年は何事もなく平穏無事であってもらいたいね。幻魔だかエンマだか知らないが、もう真平だ」
卓は苦々しげな顔をしていった。
「丈だって好きで幻魔のことをいってるわけじゃないわ。自分が起ってやる以外にないから、必死に頑張ってるのよ。もともと、内省的な丈には向いてない仕事なのかもしれないけど、幻魔の脅威は現実であって、空想でもなんでもないから......」
「姉さんは兄貴びいきだからな。しかし、前から不思議に思ってるんだけど、どうして姉さん、会を手伝ってやらないんだい? 兄貴の意向だっていうけど......」
「客観的な立場から、会や丈のやることを見ていてほしいと頼まれているからよ。それに丈の肉親があまり深く関与するのも見苦しいかもしれないし......」
「ステージ・ママみたいになるからかい? そういえば、姉さんと兄貴は一卵性姉弟みたいなところがあるものな」
テレビの紅白は、美空ひばりが毒々しい厚化粧の印象で画面を占領していた。三千子も卓も画面には目をやらなかった。
「丈には丈の往く道があるのよ。もうあたしの出る幕じゃない。そんな気もするの」
三千子は両掌で湯吞を包みこみながら呟いた。陶器の肌のぬくもりを味わっているようだった。
「うん。そうかもしれない」
と、卓はあっさりといった。
「姉さんもそろそろ結婚しなよ。いい頃合だぜ。これで兄貴も一人立ちして手がかからなくなったし、姉さんが結婚すれば、父さんも安心するだろう」
「結婚するといっても、そんな......相手もいないのに」
と、三千子が笑う。
「だって、浅井さんもいるし、岡田さんだっているじゃないか」
「みんなただのお友達よ、馬鹿ね。結婚なんて考えたこともないわ。そういうものは、縁のものなのよ」
「兄貴と、秘書の杉村さん、なんとなく縁があるみたいだね。互いに一目惚れだったんだろ?」
と、卓がいきなり話を変えた。
「すごく息が合ってる。杉村さん、まるで兄貴の奥さんみたいに見えるぜ。あれ、いずれ結婚することになるのかな?」
「だって、杉村さんは丈よりも十四も歳上なのよ」
三千子はあきれたようにいった。卓がとんでもないことをいいだしたと思ったようであった。
「だって、そういうのは縁のものなんだろ? だったら歳なんか関係ないさ。あれだけ素敵な女はそんじょそこらにいるもんじゃないぜ」
「まさか......二人ともそんなこと、考えてもいないわよ」
「しかしさ、二千人以上も人間のいる会場の中で、互いに一目惚れしたっていうじゃないか。つまり、よっぽどの縁があったってことになる。その証拠に、杉村さんは有名な学者の秘書を辞めて、さっさと兄貴のところへ来ちゃうし、秘書といったってろくに給料も出ないっていうんだから......二人ともお互いに無我夢中って感じだぜ」
卓の指摘はなぜか三千子の胸を圧搾する力を秘めていた。
「姉さんには、二人が恋人同士とか夫婦とか、全然思いつかなかったけど。二人はもっと次元の高いことで、意気投合しているのよ。卓ちゃんの見方は、二人に対してとても失礼だと思うわ」
彼女は語気を強めていった。
「そうかなあ......」
「俗っぽくて厭、そんなものの見方は。二人が熱中しているのはそんな通俗的な恋愛沙汰とは全然無関係よ。男性と女性がお互いに強く惹かれあったとしても、それをすぐに恋愛に結びつけるのは、俗悪すぎるわ」
「どうせあたしは通俗的に出来ておりますよ」
と、卓は拗ねて頰をふくらました。
「しかし、通俗的でも俗悪でも、あたしの目にはそう見えちゃうんだから仕方がないざんしょうが」
紅白が終って〝行く年来る年〟が始まっていた。
「卓ちゃんの目にはそう見えたとしても、そんなことは、他人には決していわないでね」
と、三千子はきびしく釘をさした。
「事実無根のことでも、丈の肉親からそんな噂が出たら、大変なことになるわ。ただでさえ、丈の立場は微妙でむずかしいのよ。どうしても年頃のお嬢さんが秘書なら、男女関係の噂が立ちやすいし、その点、杉村さんなら十四も歳上のしっかりした方だからって、みんなの見る目も違うでしょう。それなのに、卓がそんな馬鹿なことをいいだして、どうなるの?」
「なるほど、そうか」
卓はあっさりと己れの非を認めた。
「そういう深謀遠慮がございましたか。そうとも知らず、浅墓なことをいっちまって」
三千子はすっと沈みこむような気分の虜になった。自分が妙に気落ちしているのを感じ、それを否定しなければならなかった。最近、頻繁に襲ってくる気分の変動であった。
丈が自分の手をはなれたこと──それが寂しさの原因に違いなかった。もはや使命を果してしまった......そんな漠然とした失意を追い払うのには、かなりの努力が、必要であった。
卓がこんな時、自分に結婚を勧めるのも、そうした気配を感じとっているためかもしれないと思った。どうにも処理のつかない寂寞が裡に存在することは、傍の目にも明らかになっているのだろうか。
「冗談でも絶対に口にしないで。そんなことであらぬ誤解が広がったら取り返しがつかないから」
自分の声音に必要以上の鋭い響きが加わっているのを感じる。卓が逞しい首をすくめていた。ただならぬ剣幕と思ったのであろう。
しかし、三千子は弟の言葉にあおられ、胸苦しさの虜になっている自分が腹立たしかった。卓の指摘する通り、丈と杉村由紀の息は異常なほどぴったりと合っていることを認めざるを得なかった。わずかな時日の間に、緊密な心のつながりが生じたことがはっきりとわかる。
それは二人が超能力者同士だからであろう。霊的な交流が二人を結びつけており、長年かけて仲のいい夫婦が作りあげる、ぴったり合った呼吸をあっさりと丈らは獲得してしまっているのだった。わずかな目配りや短い言葉で、相手の意を汲んでしまうのだ。
それを、卓は男女間の結びつきとして捉えてしまったのであろう。確かに三千子が見ても丈と杉村由紀との間に流れる気配の緊密さにはただならぬものがあると思える。しかしそれは超能力者独得の相互理解であり、不透明さに欠けるものだった。男女間を結ぶ性愛の生臭さは毫もなかった。
それがわかっているのに、胸郭を圧搾する息苦しさは去ろうとしないのだった。まさか二人に嫉妬しているはずはない。嫉妬だとは思いたくなかった。そのような不快で陰険な感情ではない。杉村由紀は好きである。ひたむきな心根に好意を持っている。彼女は三十歳を過ぎても、童女のようなところを残している女性だ。賢さと思いやり、機知やユーモアなどを十全に持ち合わせており、卓のいう通り素的な女だ。嫌いになれようはずがない。
しかし、どのように考え方を変えてみても、息の詰まる苦しさは去らないのだった。これはどうしたことか、と彼女は疑った。体の大部分は冷たく、一部分は火のように熱くなっていた。奇妙な体の変調が生じていた。
体だけではない、心身ともに変調を来している。それは、もう自分の使命が終るという予感とともに訪れていた。務めを果して任地を去ろうとしているのか。丈をすでに杉村由紀に托したからか。
こうやって旧い年が去るように、自分も去って行こうとしているのだろうか。それを知るがゆえの気落ちなのか。
熱い塊が胸中にせりあがってきて、三千子は思わず、ああと呻きたくなった。肉体が己れの死を察知して反抗しているように思えた。三千子はまだ若く、活力をいささかも失ってはいない。その肉体が力をこめて死を拒んでいるような気がした。
自分は本当に死が迫ったと感じているのか......三千子は胸苦しさに堪えながら考え続けた。まさか本気であるはずはない。自分にとり死は縁遠い。死などとりわけ意識したこともないし、恐れたこともない。だから、死を恐怖して心身の変調が生じたはずはありえなかった。
ただの気鬱であり、一時的な気の迷いなのだ。そうに決っている。しばらく我慢していれば、過ぎ去ってしまうだろう。彼女がいつもしているように堪えるしかないのだから......
TV番組も耳目から消えて、三千子はいっしんに考え続けていた。
卓の声が三千子を瞑想に似た深い穴の底から引き出した。
「車の音だ! 田崎さんだな!」
卓はすでに立ち上っていた。車のエンジンの音が夜気を震わせている。予告通り、田崎たちが訪ねてきたのであろう。
三千子は体を起こしたが、まるで自分のもののようではなかった。もはや体と心が分離してしまったように自由にならない感じがした。
彼女はふっと先夜の夢を思いだした。いや、夢ではない。暗い鏡を見入っているうちに生じた幻覚だ。自分が肉体と分離して異次元の世界へ入り込んだ奇怪な幻覚が甦ってきたのである。
あの幻覚の中で、自分はだれかに逢い、そして教えられた。自分がやがて行くべき世界を教示されたような気がする。
あの時もこうやって茶の間の鏡台の前に座っており、田崎と丈がやって来て、幻覚の世界から引き戻されたのだ......
田崎宏を先頭にして、顔見知りの不良少年の河合康夫や関口勉など六、七名が玄関先に姿を現わしていた。
三千子が出て行くと、一同はぴたりと静まり返り、固くなって挨拶を述べた。田崎を除いて初対面だが、みんな神妙な面持をしていた。
「新年のご挨拶を申し上げに来るつもりだったんですが、ちょっと早く来すぎちまって、申しわけありません」
と、田崎が恐縮していった。少年たちの中に少女が一人だけまざっている。激しさを秘めた美しい顔立ちの少女だった。
「木村市枝さんでしょう?」
と、三千子が声をかけた。少女ははっとしたように三千子を見た。まさかそんな風に、丈の姉から声をかけられるとは思わなかったらしい。気後れの色が大きな瞳にのぞいた。
「木村市枝です......初めまして」
と、市枝は非常に低い声音でいった。
「いつも丈とお噂しています。お逢いしたいと思っていました。きょうは弟さんはごいっしょじゃありませんの?」
「今夜は遅いので、置いてきました......」
フランス人形のような顔立ちをしている、と三千子は思った。日本人ばなれした美少女だ。なぜこんな美しい子が、凶悪な非行少女グループの頭領におさまっていたのか想像もつかない。
虚無の暗い色を大きな瞳にたたえた市枝を知らない三千子がそう疑うのも無理はなかった。今の市枝には凶暴な雰囲気は拭ったように消え去っている。
「弟さんはその後お元気ですか?」
「おかげさまで......今は一人で歩く練習をしています。とても信じられないくらい回復も早いんです。なにもかも先生のおかげです」
尋常な挨拶だった。大きな瞳に輝きが宿っている。人懐しげな輝きだった。三千子を見てから宿ったものである。
「この次は是非、弟さんをお連れしてくださいね」
と、三千子はいった。河合康夫らは目をまるくして、三千子を盗み見ていた。畏敬の表情になっていた。
招じ上げられて、少年たちは恐縮しながら丈たちのいる応接間に入った。彼らは杉村由紀にも圧倒されたようであった。口々に挨拶の言葉を口ごもり、へどもどしている。
さして広くもない応接間は椅子が足りず、余った少年たちは床に直接座りこんだ。
「ええ......われわれの方も、やっとなんとかまとまってきまして」
と、田崎宏はそんな挨拶の仕方をした。
「先生になにかお手伝いしようじゃないかということで、会みたいなものができました。畏れおおいので会の名はまだつけてないんですが......先行きは、先生の会にはあまり波長の合わない、われわれ半端者ですが、なにか少しでもお手伝いさせていただこうかと思っております......」
田崎の口上で、一同はよろしくお願いしますと声を揃え、頭を下げた。
「まあ、先生に私淑したといっても、こういう半端者どもではいきなりGENKENに入会するのは無理のようだし、ひとまず集まって錬成してみようかというわけでして......」
田崎は大目玉をぐりぐりさせながらいった。
「まあ、いってみればこの連中は浪人みたいなもんなんですな。いや、山賊といった方がいいか」
「山賊はひどい! いくらなんでも田崎さん、それはないですよ!」
と、関口勉が抗議した。
「まあ、山賊でもなんでもいいや。お釈迦様の弟子にも山賊だの人殺しだのが沢山いたっていうからいいじゃないか」
と、田崎がいった。
「とにかく錬成道場みたいなもんですな。心身ともに鍛えようってわけです。この連中も町をごろついて喧嘩をしたりタカリをやったり、よからぬことを繰り返しているだけでは気がすまなくなったということで、やる気を出したわけです。いずれ、性根を入れかえたら、GENKENへ行ってお手伝いしたいという者もいるでしょうが、その節はどうかよろしく」
「先生のご講演を拝聴しましてね」
と、河合康夫がいった。真面目な顔付だが、持ち前の軽薄さは拭いがたい。
「みんな生き方を反省させられたっていうんです。幻魔がとっくの昔に来襲して、暴れ始めているのに、こっちものんびりしているわけにはいかない。もっとピリッとしなきゃいけないっていってるうちに、こちらの田崎の師匠の下でまとまってしまいまして、人生の方向が変ったという次第です」
「先生もご存知のように、俺はどっちかというと一匹狼の方が性に合ってるんですが、しょうがないので一肌脱ぐことにしました」
田崎は太い眉をしかめていった。
「ま、いろいろ考えるところもありまして、先生にお手伝いするとなると、こんなことしかないんじゃないかと......この連中も意外と本気でしてね。なんでもいいから、先生のお役に立ちたいという志に燃えてるわけですよ。放置しといたら、見当違いの方向へ暴走するかもしれませんので......」
いかにも田崎らしい言だった。ずっと丈に協力するすべはないかと考えていたのであろう。しばらく前までのスーパー番長として暴れていたころの彼とは別人の落着きぶりだった。人間の幅が何倍にも広がっているようである。
「今のところ二十人ぐらいいますかね。入りたいというのはもっといますが、やる気のある者だけに絞ったわけです」
と、田崎は丈の質問に答えていった。
「先行きはもっと増えるんじゃないかと思います。入れてくれって女もだいぶいるんですがね。今のところ、女はどうも具合が悪い......」
硬派の田崎らしいことをいった。
「市枝君は入ってるんじゃないんですか?」
と、丈が尋ねる。市枝は顔を赤らめて頭を横に振った。
「市枝君には、先生の会に入った方がいいと勧めているんです」
と、田崎はいった。
「しかし、本人には異存がありそうで......確かにGENKENは規格はずれの者には入りにくいですな」
「そんなことはないと思いますが......固苦しいとか気取っているとか、そんな印象があるわけですか?」
と、丈が質問した。

「仲間はずれにするとか、新入会員をいびるとかそんなことはないはずですけどね。それでも入会するのは抵抗がある?」
「やっぱり先生に迷惑をかけちゃいけないと思うわけですよ。なにかの時に、前歴がばれて問題になるかもしれない。ここにいるみんなはそれを心配しているわけです。だから俺としても一肌脱ごうという気になったわけでして......」
「そんな心配はいらないんですよ」
と、丈はいったが、心をうたれていることは隠せなかった。
「先生には決してご迷惑をかけません。それだけは絶対に護りますから、安心してください!」
田崎は力んだ語調でいった。逞しい肉の固そうに張った顔が赤くなっていた。
「われわれは、先生に対して防波堤の役目を果そうじゃないかと誓い合ったんです。何か起きても全部われわれで引っかぶって、累を先生とGENKENにまで及ぼすまいと......だから、江田四朗が何か先生に仕掛けてきても、それを喰い止めるのはわれわれがやります。先生にはご迷惑はかけません! つまり先生とGENKENを護るのが、われわれの役目だと思っているんです......」
少年たちは息を詰めて、丈の反応を窺っていた。丈がどう応えるか予測がつかないでいるらしい。田崎でさえ喋りながら緊張を隠せないようだった。
「ありがとう......」
と、丈はいった。少年たちは溜めていた息をいっせいに吐きだした。丈が即座に拒絶することはないとわかったからだった。
「聞くところによれば、GENKENも会を縮小の方向へ持って行っているようで......やっぱり江田四朗のことが原因になっているんじゃないですか?」
田崎は会の内容をよく知っているようであった。情報網を動かすのに長けている田崎らしい細心さである。
「当然のこととして、江田の奴もスパイを送りこんで来るでしょうからね。スパイどころか会を潰しに手先が入ってくるかもしれません。先生のことですから、そのあたりはちゃんと見抜いておられると思いますが」
「............」
丈は無言で頷いた。
「先生は慎重ですが、江田は違うんです。どんどん組織を拡大してます。もう七、八百人も手下がいるんじゃないですかね......」
「急成長しているわけですね」
感心するに価いした。江田四朗が率いるのは暗黒教団であり、邪悪な秘儀を伴うため、公開されていないのだ。団結力を保つだけでも並みなみならぬエネルギーを要するはずである。一般の犯罪結社同様、組織内の秘密を保持するために、構成員の離脱は許されないはずだ。
組織を締めながら、同時に拡大するのは矛盾がある。丈には江田四朗の狙いがはっきりしなかった。巨大な暗黒教団への道を江田が歩もうとするならば、自己矛盾を解決しなければならないのだ。
フリー・メイソンという中世の石工組合から発したという巨大な秘密結社の存在が時折噂に登るが、同様に丈は疑問視せざるを得なかった。組織を巨大化するほど、秘密保持は困難をきわめる。人の口が増えるというのは、それだけ秘密漏洩孔の増大を意味する。
従って秘儀を守るためには、組織が大きくあってはならない。組織の緊密さが絶対に必要なのだ。巨大組織は常に内部紛争、内部分裂の火種を抱えて鳴動しているものだ。教団、結社のみならず、国家にしたところで同様ではないか。
「江田の所から逃げだす奴も相変らず出てるようです。例の松田みたいに命がけで脱走しなきゃなりませんがね」
と、河合康夫がいった。
「組織がどんどん大きくなっているんで、秘密もポロポロ漏れてきてます。まだこっちの手先というか情報員を送りこむというところまでは行きませんが......」
「危険なことは絶対に止めて下さい」
と、丈は語気を強めていった。
「子供のスパイごっこじゃないんです。江田の組織は危険すぎる。ヤクザなんかよりはるかに危険で恐ろしい相手なんです。大冒険気取りでだれかを送りこみ、情報を流すなんてとんでもないことですよ! 江田はもう人間とはいえない存在になっているんですから!」
丈の語気の激しさに気を吞まれて、田崎も河合康夫も口をつぐんでしまった。
「そんなとんでもない軽率なことを考えているのなら、僕はご免です! 犠牲者を出すくらいなら、いっそのこと何もしないで下さい! 皆さんのお力添えは辞退させていただきます!」
こうした時の丈のきびしさは無類のもので、三千子ですら口をさしはさめなかった。全員が胆を潰したように声もなかった。
「わかりました、先生......」
と、田崎がようやくいった。幾度も固唾を飲み下している。
「無理やり、仲間をスパイにして、江田の所へ送りこもうというわけではなかったんです......どうも言葉が足りませんでした。向うにこっちの同志になってくれる人間を見つけようということだったんです。決して無茶をするつもりはありませんでした......」
「皆さんを危険にさらすことには堪えられません」
と、丈は顔色をやわらげていった。
「江田四朗にはそんな値打はありません。冒険心に駆られて無用な危険を冒すことだけはやめて下さい。今は江田は幻魔の力によって動かされています。おそらくプロの諜報関係者にとってすらも、生還することはむずかしいのではないかと思います。江田にはおそらく人間の心を読むことが可能です。幻魔の備える〝力〟が江田にも許されているんです。そんな所へ潜りこんだらどうなると思いますか? たとえ超人的な力を持ったスパイでも帰れなくなってしまうはずです。スパイもののテレビ映画じゃないんですよ。僕が会を縮小の方向へ進めているのは、江田のもたらす危険がどんどん増大して行く一方だからです。
田崎さんが考えているよりも、江田四朗は巨大な暗黒の力をふるうことができるんです。絶対に彼を軽視しないで下さい」
「軽視はしていません。しかし、先生のお考えはよくわかりました。決して軽挙妄動することのないようにします」
田崎はおとなしくいった。以前の彼の激しい剝きだしの我儘ぶり、唯我独尊ぶりを知っている人間には信じがたいほどの穏やかさだった。
「先生がわれわれの身を心配して下さっていることはよくわかります。自分でも少し甘いかなという気がしていたので、お叱りを受けていい薬になりました......」
井沢郁江がいれば、遠慮のない寸評を加えるところだ、と丈は思った。同様に彼女は丈自身に対しても、きびしい批評の言を吐いたに違いない。
──そんなに感情的になることないじゃない......
そんな郁江の声が聞こえるような気がした。
──東君、最近感情的になりやすいんじゃないの? どなりまくるもんだから、みんな、ほら、シュンとしちゃってるじゃない......
──半分は芝居だよ......
と、丈は想像上の郁江に答えた。辛辣そうに瞳をきらめかしている少女が見えるようだった。
──みんなにショックを与えるためにやったんだ。みんな血気に逸る年齢だし、リーダーが他ならぬ田崎宏だからね、どう跳ねあがるかわからないだろう。武闘グループになって江田四朗の所へ殴り込みをかけるかもしれない。彼らを牽制するのは楽なことじゃないんだぜ......
──東君も人が悪くなったわね。顔色を変えてまで一芝居打つなんて......
──僕だって何も好きでやっているんじゃないさ。必要だからこそやっているんだ。ともすれば暴走しかねない彼らに釘を刺しておくには、時には芝居も必要なんだ。人が悪くなったといわれればそれまでだけど......
丈は、杉村由紀の眼差に気付いて想像上の郁江を消した。まるで現実の郁江がそこにいて、会話を交わしていたような錯覚が生じていたのだ。
「皆さんのお気持はよくわかります。わかりますが、今は微妙な時期です。こちらもそうですし、江田四朗の組織も大きな飛躍に備えているはずです。あるいは江田は巧妙な誘いの罠を作って、誘導しているのかもしれないんです。僕には今江田をどうこうするよりも皆さんの安全の方が大切なんです。こちらが実力を貯えた後なら、何が起こっても僕は心配しません。しかし、今、皆さんが軽率な行動に走って、江田の待ち受けた罠に落ちたりしたら、取り返しがつきません......皆さんにそれをわかっていただきたい。肝に銘じておいていただきたいんです」
「よくわかりました......どうも申しわけありません」
田崎がいい、少年たちはいっせいにぺこりと頭を下げた。丈の示した激情ぶりに感動していた。
「慎重の上に慎重を期してやります。決して先生にご心配をかけないようにやりますから......」
「江田四朗側に味方が見つかったとしても、安易に心をゆるめないようにして下さい」
と、丈は重ねて念を押した。
「こちらが想像する以上に、相手は巧妙かもしれないといつも考えるようにしてもらいたいんです。幻魔に動かされる手先の人間は、信じられないくらい狡猾になるかもしれないからです」
「お言葉を肝に銘じておきます」
田崎は神妙にいった。大目玉が赤くなっていた。感動が生々しく丈にも伝わってきて、丈はふと鼻の奥がつんと熱くなった。丈の言葉は田崎たちにとって絶対なのだ。郁江がいれば、さぞかし笑いをこらえるのに苦労するだろう、部屋を逃げだしていって笑い転げるかもしれない。
郁江はいつも客観性を崩さず、情に溺れることがない。感情に押し流されることなく、滑稽さを見逃さず笑うことができるのだ。
田崎は更になにかいいたげな気配を漂わせていた。しかし、いいだしかねているうちに、除夜の鐘の音が遠くから響いてきた。いよいよ年が新たまろうとしているらしい。
田崎が居ずまいを正し、少年たちもそれに倣った。
「新年おめでとうございます」
と、田崎が音頭をとり、一同が唱和した。どっと拍手と喚声が湧く。
「本年もよろしくご指導下さい......今年は正念場だと思って頑張ります。先生に少しでもお役に立てるように......」
田崎は風を巻くような印象で立ち上り、辞去を告げた。
「ちょっと新年のご挨拶に寄っただけですから......また改めて報告に伺います」
田崎はいかにも颯爽としていた。折り目正しさを田崎に学んで、少年たちも非行グループの自堕落さがすっかり姿を消していた。田崎によほど心服しているのであろう。
「市枝君はまだお話があるそうで、残ります。われわれはこれで......」
少年たちは頭を下げて、応接間を出て行った。風のように現われ、風のように去るという感じだ。いささかもねばついたところがない。
二台の車に分乗して、田崎たちはすみやかに引き上げて行った。夜気が硬いとさえ感じられる痛烈に引きしまった寒さの中を、排気音を残して走り去る。
戸外にいると除夜の鐘がよく聞こえた。これほど印象的な鐘の音を聞いたことがない、とだれも思ったようである。
下駄の音が聞こえていた。寺社へ初詣に出る近隣の人々であろう。田崎を見送りに出てきた卓が大きなくしゃみを飛ばした。あわてて暖い家の中へ引っ込んでしまう。この厳寒のさい中に、初詣へ出かけるなど、卓には信じがたいことのようだった。
「不思議だな。除夜の鐘も初詣も、これまで気にかけたこともなかった」
と、丈は白い呼気とともにいった。
「しかし、幸せになりたいと願っている人間が沢山いるわけですよね。みんながそう願っている。全ての人間の願望なんだ。それなのになぜ実現しないのか。これまで考えてみたこともないが、不思議なことですよね。地球上に、真の幸せを持っている人々がどれだけいるか......全ての人間が幸せを願えば、全世界から一切の苦しみや悩みが消えて、幸せが来ないはずがない。全人類の精神エネルギーにはそれだけの力があるはずです」
「人々が、自分だけの幸せを願うからでしょうか?」
と、杉村由紀が尋ねた。
「今年こそいいことがあるように、と初詣にいって祈る。金儲けができるように、受験がうまく行くように......自分だけいい目が見られるように。人々が寺社へ参詣してそう祈るんだったら、幸せの奪い合いになる。自分の我欲を満たしてくれと神仏に祈るわけです。僕は昔からそれが嫌で、初詣なんか行ったことがなかった。お賽銭をあげて頼みに行く人間をひいきにするなら、そんなものは本当の神仏ではないはずだと思ってました。今でもその考えは変らない。しかし、人間が幸せになりたいと願うのはごく自然なことだとも思います。だれだって病気になりたくない。家族や友達と仲良くやりたい。健康で元気でいたい。商売繁昌は好ましい。
しかし、どうして他人を蹴落し、踏みつけにしてまで幸せになりたいと思うのか。どうして神仏に対して、儲けの半分をやるから金儲けさせてくれと取引を持ちかけるのか。憎い恋仇が不幸になるようにと祈るのか。長患いの病人が早く死んで厄介払いするように手をかしてくれと神仏に頼むのか。悪魔に魂を売って引き換えにするような邪悪な願いをどうして神や仏の所へ持ちこむのか、僕には不思議でならない。
欲望や快楽を満たすことが幸せだと思いこんでいる人間が大多数なんじゃないだろうか......だとすれば、真の幸せなんか決して地上に来るはずはない。欲望のままに生きることこそが正しい人生のあり方だという考えが、人々の頭の中にはびこれば、そんなものは真の幸せとなんの関係もないと叫んでも、だれ一人耳を貸さなくなるかもしれない。そして万人の幸せなど決して来ない。たとえ何十億年待っても......弥勒菩薩など決してやって来ない。人々が気付かなければ、だれもが確固不動と信じているこの大地......地球さえも間もなく消滅してしまうだろう。それは遠い未来ではなく、瞬く間に生じるだろう。それが僕には今わかった......」
「先生、そんなことおっしゃらないでください」
と、杉村由紀が堪りかねたようにいった。三千子も木村市枝も茫然として丈を見ていた。
「しかし、事実です。大きな波動が人類の心を捉え、縛りあげている。それは人間を物質の桎桔の中でがんじがらめにし、身動きとれなくさせる強大な波動なんです。その波動は、この物質世界で生きなければならない人間の物質的性格を巧妙にそそりたて、拡大させる意志を持っている。それが僕にははっきりとわかった......だからこそ、肉の身を持って生きることはそれ自体罪であり業罰だと昔の人々が考えたんだ。生きるかぎり、人間は物質の桎桔から逃れることはできないのだ、と......」
「でも、先生。それは先生がこれから人々にお説きになることではありませんか」
と、杉村由紀は懇願するようにいった。
「先生はまるで絶望なさっているようにすら聞こえます。そんなことはないとわかっていても、とても不安になります」
「このままでは、人々が自覚することは決してないだろう、と気付いたんです、物質的快楽を血眼になって追及している人間が、どうして不吉な予言者の言葉に耳を傾けるだろう......黙れ、気違いめ、と罵られるに違いない。向うへ行け、消え失せろ、と喚きたてるだろう。苦しみの時が至らない限り、欲望追求はやまず、警告に耳を貸すことはない。
しかし、苦難の時が来た時には、もはや手遅れかもしれない。恐ろしい動乱の時、艱難の時は必ず到来するが、その時までは警告を聞くことはない......」
「少しずつでも、先生の警告に耳をかす人々は増えて行くはずです。今ですらかなりの人たちが先生の言葉を聞きたいと望んでいるではありませんか」
「本当に、間に合うのか、と思ってしまうんです。間に合わなかったら地球は滅びる......」
「間に合わせるのが、先生のご使命です」
杉村由紀の言葉のきびしさは一同に息を吞ませた。それを口にした由紀自体がはっとして口に手をあてたほどだった。
「申しわけございません。出すぎたことを申しまして......」
「いや、杉村さんのおっしゃった通りです」
丈は痺れるような寒気で顔が無感覚になっているのにようやく気付いた。このところ、丈を周期性をもって襲う懊悩が新年早々に訪れたのだった。全身が焦慮で満たされ、どうにもならなくなってしまう。懊悩が巨大な掌のように心身を握りしめ、人目がなければ、窒息感で転げまわりたくなるのである。だれにも口外できなかった悩乱であった。
まるで発作のようにそれはやって来る。姉の三千子すら知らない、激烈な苦しみであった。
「杉村さんのおっしゃる通り、なんとかして間に合わせなければならない。その通りです......」
丈は大きく息をついて心を静めようとした。姉たちが度胆を抜かれたようになっているのを感じた。もし杉村由紀がきびしい言葉で覚醒させてくれなければ、どこまでも懊悩に沈んでいったかもしれなかった。
「おおい、外で何やってるんだい!?」
と、卓が再び外へ出てきて叫んだ。常識人の卓らしい言動だった。
「風邪を引いちまうぞ! 話があるなら中へ入ってしたらいいじゃないの......」
吐く息も凍りそうにきびしく冷えこんだ夜に、外で何をやっているのかと疑っていた。
「中へ入りましょう......卓のいう通りだ」
と、丈はいい、女性たちを促した。懊悩がいつもと異り、一頓挫を来したのを感じていた。たぶん杉村由紀にはそれがわかっていたに違いない。
懊悩が育ちきらないうちに芽をつまれて、引きさがっていくのが感じられた。こんなことは初めての経験であった。
苦しみを他に見せてはならない、と丈はいつも己れに命じていた。苦しむのは自分だけでいい。もし自分が苦しみあがくさまを人に見せれば、人々の間に動揺と不安を増大させるだけだろう。
血の汗を流して苦悶することを味わっても、他人には決して見せたくない......その思いが丈に塗炭の苦しみを一人で堪えさせているのだった。丈がそんな悲惨な状態にあることを知れば、人は恐れるだろう。盟主の丈ですら、堪えがたい苦悩にさいなまれるという発見は、恐慌さえ呼ぶかもしれなかった。
偉大な力を所有する丈でさえ、未来の凶々しさに脅やかされ、血の汗を流すとすれば、無力な者たちはいったいどうすればいいのかと怯えるだろう......
9
「おかげさまで引越しができることになりました」
と、木村市枝はいい、深々と頭をさげた。
「今度はもう少し清潔な所に移れます。父も起きれるようになりましたし......明雄も歩く訓練をしています。みんなすっかりやる気がでてきまして......みんな先生のおかげです。本当にどうもありがとうございました」
口上は拙いが、真剣な喋り方であった。ジーンズの上下を身につけた市枝は、瑞々しい清潔さにあふれていた。〝黒バラ会〟の女王だった時代とは別人の雰囲気を身につけている。丈はその清楚な若々しさに胸が締めつけられるようなセンジュアルな想いを味わわされた。
自分が多感な十七歳の少年であることを意識せずにはいられない。わけのわからない官能的な情念で胸がいっぱいになってしまうのだ。
「それはよかった......」
としか丈には言葉がなかった。やはりこんな官能的な情感に満たされているのを、杉村由紀にキャッチされるのは恥しいと思った。しかし、どうにもならないのである。丈は徹底的な自己訓練を積んだ聖人君子ではない。官能的な情感が迸るのを制止する力は丈にはない。
「どちらへお引越しなさるのですか?」
と三千子が尋ねてくれた。
「浜田山です。安アパートなんですけど、環境がいいので......」
市枝は畏敬の目を三千子に向けながら答えた。彼女は丈によく似た姉に崇拝というべき感情を抱いたようであった。
「それではご近所同士になりましたのね。どうぞいつでも遊びにいらして下さい......弟さんはどうなさいましたの?」
「置いてきました......あの......来たがったんですけど、夜はいけないと先生にいわれてますから」
と、市枝は丈にちらりと目を向けていった。危惧の色が大きな深い瞳に宿っていた。怯えているようでもあった。
礼をいうだけで、田崎ら一同と別れ、後に残ったのではないと丈は思ったが、黙っていた。胸を満たしているどうにもならない情念のたかぶりに堪えるだけで精一杯だった。市枝にはなぜか丈の心を乱すものがあった。それは井沢郁江が彼に及ぼしていたちからと等質のものであるかもしれなかった。
どこかへ飛びだして行き、全身に満ちた昂ぶりを力いっぱいの咆哮に変え、吐きだしたい、と丈は思った。体の内圧が高まって、排け口がなかった。

羽目をはずしてみればいいのに、と前に郁江にいわれたことを思いだした。あまりにも抑圧が強すぎるのではないかと指摘されたのだ。そんなことは不自然だ、という意味のことを郁江はいった。いつか大爆発を起こして、何もかも吹きとばしてしまうのではないか、と彼女は危惧していた。
しかし自分が羽目をはずせない性質だということもわかっていた。どうやって羽目をはずせというのか。他人にとっては抑制を解くことであっても、丈にとっては少しも自己解放にはならない。いわゆる遊興がそうであるなら、自己解放どころか、焦燥が深まるばかりだ。なさねばならぬ仕事は山積している。高校生でありながら学業の時間さえままならないのである。
旅行やウインター・スポーツに費している時間の余裕は少しもない。映画や読書、TV番組を観ること、それすらも覚つかない。好んで忙しがっているのではないが、どうにも時間の遣り繰りがつかないのである。時間の管理が拙いのかもしれないが、とにかく今は一日が四十八時間欲しい。
そんな丈が羽目をはずすなど望むべくもないし、空白の時間は激しい懊悩を招き寄せるだけに終るとわかっている。逆効果になるに決っているのだ。
羽目をはずす......丈には無縁の言葉であった。抑圧がどんなに巨大なものであろうと、逃げることなく、正面から立ち向って克服する以外にはない。正面突破以外にない、と丈は知っていた。堪えて堪え抜くだけだ。どこまで続くか、われながら心もとない。しかし他に途はないのだ。
自分には青春など縁がない、と丈は自分にいいきかせた。地球世界が幻魔大戦の宇宙的大嵐に突入したからには、もはや猶予の時はない。青春などという甘美な幻想に用はないのだった。自分に遠いからこそ、甘美にも思えるし素晴らしく見える。
そんなものは忘れてしまえ、と丈は思った。激烈な戦いのさなかにあっては、青春など贅沢すぎる。
なによりも自分には全身全霊をうちこむべき使命がある。それで充分ではないか。他に何を望むことがある......
自分の思念に気を取られている丈は、市枝が何事かいいだしかねているなどとは気付きもしなかった。
市枝は姉の三千子と当り障りのない会話を交わしているが、それとは裏腹に緊張を深め、態度に落着きが失われてきていた。三千子も気付いたらしく、それとなく丈に会話をゆずろうとするが、丈は気付く気配もない。
こんな時の丈は黒い瞳が神秘的に光り、沈黙を乱すのにはよほどの勇気が必要だった。人間放れした雰囲気になっているからだ。
「先生......」
と、沈黙を破って、杉村由紀が声をかけた。丈が黒い瞳を動かして彼女を見るが、何もいわない。まだ我に返っていないのだった。
「先生......」
と、杉村由紀は再びそっと呼びかけた。三千子と木村市枝は黙りこんで、由紀を見ていた。
「なんでしたっけ?」
と、丈が尋ねた。時折、自分の内宇宙に閉じこもってしまう彼は、水面へ急浮上したスキン・ダイバーのように平衡感覚を失った顔を見せることがある。杉村由紀はもうそれに慣れていた。
「さっきの田崎さんたちですけど......」
「うん?」
「なにかいいたげにわたくし感じましたけれど」
「?」
丈は不審げに杉村由紀を見詰めた。やっと現実に還ったようである。夢想家として内宇宙に親しむ幻視者の丈は、じょうずに現実へ引き戻してやらなければならないのだ。
「田崎さんたち、先生に何かお話ししたいことがあったみたいです。先生はそうお思いになりませんでした?」
「しかし、話さなかった......」
「迷っていたみたいですわね。市枝さんはご存知かしら?」
杉村由紀は巧妙に丈の注意を市枝に誘導した。市枝の顔がぱっと朱を刷いた。
「はい、あの......」
口ごもる。市枝にとって杉村由紀は眩しい存在のようであった。
「なにかあったのかい?」
と、丈がいった。今夜の彼は少し鈍いようであった。懊悩に気を取られているせいであろう。遠い表情をしている。
「あの......田崎さんたち......」
市枝は差し出がましいことをするように躊躇していた。
「超能力がついてきたらしいんです......」
丈はまっさきに三千子に目をやり、それから杉村由紀を見た。なにかぴんとこない表情であった。
「超能力が?」
と、尋ねたのは杉村由紀だった。
「はい......この間の講演会の時以来、出てきたらしいんです。田崎さんと康夫......それにあと二人います」
「田崎さんが......講演会っていうと、高鳥君と同じだね」
丈はようやく事態を悟ったのか、せきこんだ声を出した。
「杉村さん! 講演会がなにかのきっかけになって、超能力が顕在化してきたのかな!? どう思う?」
「市枝さんの弟さんもそうですし......」
「杉村さん自身もそうだ! やっぱりあの講演会は超能力者を目覚めさせるきっかけになったんだ」
市枝ははっとして、驚きの目で杉村由紀を見たが、丈は無関心だった。
「しかし、どうしてなんだろう? なぜあの講演会がきっかけになったんだろう? 人々の潜在超能力を触発するひきがねになったんだろうか? それとも何か他に理由があるのかな......」
「先生が、超能力者のスタッフを必要となさったからでしょうか。でも、そうすると他にももっと出ているかもしれませんわね」
「杉村さんと明雄だけだと思っていた。しかし、高鳥君が名乗りをあげて驚いていたら、今度は田崎さんたちか......いったいどうなっているんだろう?」
「会員の方で、どなたか超能力者がお出になったの?」
と、三千子が尋ねた。市枝もくいいるような目で丈を見詰める。
「高鳥君という大学生なんだけどね......それで田崎さんたちは、なぜそれをいわなかったのかな?」
「たいした超能力ではないし......先生に話すのが恥しいって田崎さんおっしゃってました......さっき、いうかな、と思ったんですけど、いわないで帰っちゃいました。あたし、余計なお喋りしたでしょうか?」
市枝は不安そうに、自信なげなたどたどしい喋り方をした。杉村由紀に逢ったことが、市枝の自信を蒸発させてしまったようであった。由紀は有能で美貌であり、超能力者である。何をとってもかなわない手強い相手だという敗北感が市枝を萎縮させたのかもしれなかった。
年若い市枝にとり、丈の専従秘書である杉村由紀の出現は、手も足もでない無力感をもたらしたようだ。非行少女グループの頭領を廃業してからの市枝は、自信を失い、おどおどしているのがだれの目にも明らかであった。新しい自分のありかたに不適応の徴候を見せていた。
「余計なお喋りなんてことはないさ。いくら恥しいからといっても、そんな大事なことはきちんと話してくれなければ困るな」
「きっと先生が超能力なんてたいした意味はない、超能力に捉われるなっていつもおっしゃってるので、話しづらくなっちゃったんじゃないでしょうか」
市枝は無意識に田崎をかばう口ぶりになっていた。
「田崎さん、ずいぶん照れくさがってましたから......康夫はそうでもなくて、喜んでいましたけど」
「で、どんな超能力がついたんだ?」
「田崎さんは昔、生れる前に自分が何をしていたか思いだしたといってました。あの、生れ変りっていうんですか? 今の田崎さんとして生れる前の、前世......」
「輪廻、転生?」
丈は呆然として、姉と杉村由紀の顔に目をやった。二人とも息をのむようにして市枝の口許を見詰めている。
「田崎氏が転生の記憶を取り戻した?」
「ええ......江戸時代に自分は武士だったっていってました。その時も先生といっしょだったそうです......」
「江戸時代に? 僕もその時いっしょだったと、そういってたの?」
丈はうまく頭がついて行かなかった。超能力と聞いたので、遠感や念動、透視などを連想していたからだ。転生の記憶というのは唐突であり、飛躍しすぎていた。
「で、自分の名前や身分もわかったわけかな?」
「いいえ、まだそこまで具体的じゃないみたいです。江戸時代の光景がぱっと目の前に浮んでくるんだそうです......ああ、自分はこの時代に生きていたんだなっていうことがわかるんですって......田崎さんは槍を担いで歩いている。隣に先生が並んで歩いていらっしゃるのが見える......今の先生ではなくて江戸時代に生きておられた時の先生だといってました」
「面白いな」
と、丈はいった。
「田崎さんが武道好きなのは、やはり前世で武士だったからというわけか......それで、僕はなんだったんだろう?」
「やはり田崎さんの先生だったそうです。でも武士のようではなかったといっていました......髪を長くして両肩に垂らした、総髪っていうんですか? 今の先生とそっくりだったそうです。まだそれくらいしか思いだせないそうですけど、絶対間違いないっていってました」
「康夫君たちは? やっぱり前世を思いだしたわけ?」
「康夫はそうです。田崎さんと同じように江戸時代のことを思いだしたといってました。先生にもお逢いしたことがあるそうです......でも、康夫は武士ではなく、坊さんか山伏じゃないかって......両手の指でこうやって印を結びますね? 忍者が呪文を誦えて印を結ぶみたいに......康夫はあれができるようになったといってました。思いだしたんですって......」
丈は興味深いと思いはしたが、その域を出るものではなかった。やはり自分の懊悩で頭がいっぱいだったせいかもしれない。
「でも、関口勉のはそうじゃないんです。霊視がきくようになったんですって......普通の人には見えないものが見えるようになったといってます。まだそんなにはっきり見えるわけじゃないですけれども、過去認知とかいうんですか? 人間や物の過去の姿がわかるんだといってました。あともう一人、井上君という田崎さんのお友達が天耳っていうのかしら、絶対聞こえるはずのない遠方の音が聞こえるようになったんですって。まだみんな微弱ですけど、先生のお話をもっと聞くチャンスがあれば、強めることができるんじゃないかといっています......」
「なるほど......」
杉村由紀や三千子がびっくりするほどのあっけなさだった。丈はそれ以上何の論評も加えようとしなかったからだ。
「先生。今後も講演会などがきっかけになって、超能力に目覚める人たちが増えてくるのでしょうか?」
と、杉村由紀が尋ねた。
「ありうるかもしれません。しかし、それがあまり宣伝されるのはよくない」
「それが目あてで来る人たちが増えるからですか?」
「そう。たいした超能力でもないのに、それだけが目的になってはなんにもならない。まずいことになるかもしれない」
丈の口調は不機嫌なほどであった。
「でも、先生。正しい超能力のあり方というのもあるのではないでしょうか? この先、超能力の目覚める人たちが増加していくのなら、そうしたあり方について考えておくことも必要なのではないかと思うのですけれども......」
丈の不機嫌さを恐れず反論する杉村由紀に、市枝は愕きの色を目に浮かべていた。
「それはもちろん、そうです。しかし、今のところ超能力は本人にとって毒になる方が圧倒的に多いと思う。理由は僕がいつもいっているように、超能力者のエリート意識、優越感をあおりたてる結果になるからです。よほど謙虚さの持主でない限り、必ず頭のぼせることになる。これは間違いありません。とくに年齢が若いほど危険が増します。超能力者がいくら輩出しても、傲慢さに足を取られて、堕落への道へ引き込まれるのだったら、なんにもならない。江田四朗のように、幻魔の側へ転落することだってありえるからです」
「でも超能力者の輩出が現実にある以上、なんとか対応策を講じなければならないのでは......? そうした人々に、先生からよくお話ししてはどうでしょうか?」
杉村由紀に対する、市枝の驚きの目は、しだいに感嘆のそれに変っていった。これだけしっかりしたものの観点がなければ、丈の補佐など及びもつかないということがわかってきたのだろう。
「そうですね......じっくり考えてみなければならない......いずれにしろ、難しい問題です。超能力者が杉村さんのように謙譲の美徳を持っている方が珍しいんではないかな。とくに宗教心と切りはなされたところで発生してくる超能力は物凄く危険です。そうした超能力者は、自分こそ人の上に立つ存在だと必ず思いこむ。そうなったら最後、権力意志の虜ですよ。自己破滅へ向って一直線です」
「だからこそ、先生が充分理を尽してお話しになることが大切なのではないでしょうか? もちろん超能力に目覚めたての時は、自分自身ショックでもあるし、物珍しくもあるし、超能力に夢中になると思うのですけれども、それと同時に畏れもあると思うのです。粗末に扱うとどんな報いが来るかわからないという、ごく自然に湧いてくる畏怖心です。わたくし自身もそうですし、さっき田崎さんたちの態度を見ていても、それは感じました。
先生が、超能力は劇薬と同じだ、使い方一つで人を活かしも殺しもすると力をこめて説かれれば、どんな性格の人でも必ず耳を傾けると思います。そのことが今一番大切なのではないでしょうか......」
「姉さんはどう思う?」
と、丈はいきなり尋いた。三千子はさっきから一言も口にしていなかった。
「杉村さんのおっしゃる通りだと思うわ」
三千子はさりげなくいった。
「杉村さんご自身が、丈と同じように超能力の持主でいらっしゃるし、超能力が持主にどんな負担をかけるか、よくご存知なんじゃないかしら?」
「だれしも超能力に無関心でいられる人間はいない。幸か不幸か僕は超能力を持っているが、幸運だと思う人はいくらもいても、不幸だと思う人はまず一人もいないだろうな。
僕がなまじ超能力なんか持たない方が幸せだと説いても、だれも受け容れる気にはならないんじゃないだろうか......有産階級が無産階級に、なまじ財産なんか持たない方が幸せだよと説いているようなものだから......だれも耳を貸すはずはない。だって現に僕は超能力を持っているんだし、それを羨む人たちは持っていないんだ。超能力を持たざる者はどうしたって持つ者に激しい羨望や嫉みそねみを持つことになるだろう......それは江田四朗が僕の超能力を見た時の反応でよくわかっているんだ......」
「では、先生......これから先、どのように超能力問題にあたっていかれるおつもりですか? わたくしは先生のご発言は大部分の人々によって必ず熱心に傾聴されると思いますし、今先生のおっしゃったことはいくらか悲観的ではないかと思うのですけれども......」
杉村由紀は緊張を顔に浮きたたせて、懸命にいった。
「先生は、全ての人間に潜在超能力があるとおっしゃいましたし、つまり、それはいいかえればだれでも超能力に目覚める可能性があるということです。それだけでも、階級闘争という物質主義から生れる現象とは異ります。超能力はだれにでもあるんですから。ただなんらかの理由によって、それが顕在化したりしなかったりするだけです。こんなことを申し上げると釈迦に説法とお叱りを受けるかもしれませんけれど、超能力者には普通の人々以上にきびしい自制心や節度が必要であること、高度な倫理性が不可欠であること。さもなければ、幻魔の陥穽に落ちるということをいくら強調してもしすぎることはないと思うのです。
生意気なことをいってご免なさい。でも、密教などでは、そうした倫理性の保持をきびしく求めているのではないでしょうか? やはりそれは絶対に必要なことだからだと思うのですけれど......」
丈は無言で聞いていた。焦慮の色は彼の額から消えなかった。
「杉村さんのおっしゃる通りだと姉さんも思う」
と、三千子がいった。力がこもっていた。丈はなにも答えない。眉の間に深い縦皺が寄っていた。丈には珍しいことであった。
丈が超能力問題にどれほど憂慮と危惧を持っているか、杉村由紀は初めて悟った。彼女自身が超能力者であるため、丈は口に出しにくかったのであろう。もちろん彼女がいうほど超能力問題が単純であるはずもなかったのだ。何十人、何百人もの超能力者が今後続出することもありうる。丈にはその成行が見えているのかもしれない。
「明雄はどうしてる?」
と、丈は唐突にいった。さっき市枝から聞いたことをすっかり忘れてしまっているようであった。
「その後、元気でやってるかい?」
「はい......おかげさまで、もう歩く練習を始めました......」
市枝はなぜ話題がいきなり弟の明雄に飛んだのか理解しかねているようであった。さっきも同じことを答えたのだ。
「どうして今夜は連れてこなかったの?」
「今夜はもう遅いので......」
と、市枝はおそるおそるいった。丈はどうかしている。
「ああ、そうか......も、遅いからな」
と、丈はあっけにとられたように呟いた。別の思考で頭の中がいっぱいになっているようであった。

「元気ならいいんだ......超能力の方はどうかな?」
「あの......あたしにはよくわかりませんけど、変りはないみたいです。話すのも急激にしっかりしてきました......もう壁に伝わって歩けます。まだ赤ちゃんみたいですけど......」
丈は黒い瞳を市枝に向けているが、何も見ていないのが杉村由紀にはわかった。
「よかったね......郁江は明雄が好きらしいな」
「はい......」
市枝は戸惑った目で、三千子と杉村由紀をちらりと振り返った。
「じゃ、郁は明雄にまかしておけば、安心だね。仲よしらしいから......」
「あの......そのことなんですけど」
と、市枝は意を決したようにいった。
「もっと早く先生にお話しすればよかったんです。でも、郁江さんが、お正月になってから先生に話してほしいとあまりいうもので......」
「?」
丈は呆然とした顔で市枝を見た。
「つい、いえなくなってしまって......すみません」
「何がいえなくなったんだって?」
「あの、......郁江さん、入院なさったんです、今日の午前中に......大晦日のことですけど」
「入院した?」
「はい......」
丈は愚かしいほどの表情をしていた。丈の頭を満たしている考えとせめぎあって、よくわからないという表情だった。入院という言葉はわかるのだが、その意味することが摑めないのである。
「病院へ入院なさいました。やっと決心がついたんだとおっしゃってました」
市枝の言葉は緊張のあまり丁寧になりすぎたほどだった。
「手術する気になれたのは、先生のおかげだとおっしゃってました......でも、手術がすむまでは先生に内証にしておいてほしいと頼まれてしまったので、あたし......いつお話しようかと迷っていました」
「手術?」
丈の顔に深甚な驚愕の色が拡がった。ショックが表情を奪った。
「卵巣癌の手術か!?」
「ええ。思いきって切ってもらって、さっぱりするとおっしゃってました。とても元気で、笑ってらっしゃいましたけど......もう何も怖いものはないって......手術も平気だって......」
「しかし、手術をしたら......!」
丈は叫ぶようにいって、かろうじて残りの言葉を飲みこんでしまった。歯をかみしめてただ頭を左右に振る。開腹手術で卵巣や子宮を切除してしまった郁江を想像するのは恐ろしかった。
「手術なんかしなくても治せたかもしれないのに......」
丈の語気は弱々しくなった。万力で締めつけられるように胸が猛烈に苦しくなってきたのだ。
「先生のお力を疑っているからじゃないって何度もおっしゃっていました。でも、家族の方々にあまり心配をかけたくないから、入院しますって......入院して手術を受ける勇気は先生にいただいたものだからっておっしゃいました。手術はきっと成功すると信じてますって......」
「............」
丈は言葉もなかった。市枝は丈のあまりの衝撃ぶりにショックを受け、色青ざめておろおろしていた。
「郁江さんがどうしてもとあんまり一生懸命頼まれるので、あたし、なんにもいえなくなってしまったんです。お正月になったら一番に話そうと思って......」
「............」
丈は顔も体も痺れてしまったように感じていた。思考停止に陥ってしまっていた。
「申しわけありません。やっぱりもっと早くお話した方がよかったでしょうか......でも、郁江さん、笑ってました。必ず生還する自信があるから、心配しないでといって......」
「丈!」
と、三千子がいった。市枝や杉村由紀がはっとするほどのきびしい声音だった。
「市枝さんの責任じゃないのよ。郁江さんが自分で決定したことなのよ、ご家族を心配させたくないと思ってのことじゃないの」
「しかし......手術をしないでも治ったはずなんだ......ちゃんと手を打ったし......」
丈は切れぎれにいった。喉が塞ったようになって、滑らかに言葉が出てこなかった。
「でも、丈、ご家族の人たちの身になってごらんなさい。手術もしないで癌が治るなんて信じられるかしら? 郁江さんはもちろん丈を信じていると思うけれども、手遅れになると心配しているご家族の人たちのことも考えなければならないのよ。郁江さんがそこまで配慮できるようになったのは、お姉さんとても偉いと思う......郁江さんだって好きで手術を受けるんじゃない。丈の力を信じていればなおさらのことよ。でも、家族は毎日を火であぶられるような思いですごさなければならないのよ。丈だってそれはわかるでしょう?」
「それはわかる。しかし、入院したら、明雄が行って生体エネルギーを注入することはできなくなる。病院が小さな子供のやる心霊治療なんかを受けつけるはずがない。もちろん、子供でなくて、僕だとしても同じことだ」
「それはそうだと思うけれど、なによりもまず丈は郁江さんの勇気や思いやりを褒めてあげるべきじゃないかしら? 丈がそんなに動揺しちゃいけないわ。郁江さんは最善と信じる途を選んだのよ。丈を信じる信じないの問題じゃないの。だって勇気を出すことができたのは丈のおかげだと感謝しているんでしょう......もちろん市枝さんや弟さんの尽力もあるわ。郁江さんは人間として立派に振舞おうとしているのよ。それを忘れないで......」
三千子は熱をこめていった。杉村由紀は感嘆にみちて三千子を見詰めていた。丈に対してこれだけストレートに説けるのは姉の三千子を除いて一人もいないだろう......
「申しわけありません。あたし、もっと早くお話しすればよかったんです。たとえ、郁江さんとの約束を破っても......」
と、市枝が蒼い顔でいった。
「丈。市枝さんを責めないで。郁江さんはご自分の信念があって決めたことだし、市枝さんも約束を守らざるを得なかったのだから。丈がショックを受けるのはわかるけれども、郁江さんが一概に間違っているとはいえないでしょう?」
「わかるよ、姉さんのいうことは......市枝君を責めたりしやしない。しかし、堪らない気分なんだ。自分を責めてる。自分が力及ばなかったんだから......」
丈は振り絞るようにいった。
「簡単に考えすぎてた。確かに甘く見てた。郁江の決定の方が正しいのかもしれない......しかし、手術を受けたら、郁江はどうなる!?」
「感情的にならないで! 愚痴をいったってものごとが好転するわけじゃないと、いつも丈自身がいってることじゃないの!」
丈ははっとして姉を見た。顔が歪んでいた。
「愚痴か......そうか。愚痴なのか」
呆然とした声音だった。市枝も杉村由紀もこれほど打ちのめされている丈を見たことがなかった。丈は常に毅然として振舞うものだといつしか思いこんでいたからだった。その発見は彼女たちを動揺させずにはおかなかった。
「最善の途を考えるべきだと思うわ。郁江さんの決定は尊重するしかないでしょう。丈がこれから病院へ乗り込んで入院患者の郁江さんを奪い返しに行くわけにはいかないのよ。それとも、病院へ行って、郁江さんに退院を勧める? 医師たちと論争して、丈の〝力〟を誇示する? 丈にはそんな非常識なことは許されないでしょう......」
三千子は仮借なくいった。他の二人は息を詰めて見守っていた。放電現象のように、鮮烈な肉親の愛が迸るのを見るようであった。口もさしはさめない緊迫感だ。
「僕には何もしてやれないのか......」
と、丈は苦しい面持でいった。
「郁江が自分で選択したことだから......それが間違っていても、僕にはどうしようもない......間違っていると教えてやることも許されないのかい、姉さん?」
「郁江さんは自分の選択が正しいと知っているわ。こうするしかないということよ。丈は丈で間違っていないとお姉さんは思う。あなたには奇蹟を起こす力がある。でも、丈は自分でそれを封じてしまったんでしょう。丈の信念がいかに正しくても、家族たちの苦しみはどうなるの? あなたは家族や医者を説得することを許されていないのよ」
「だけど姉さん、郁江は治るんだ! 手術で卵巣や子宮を切り取らなくても、治るという自信が僕にはあるんだ。一度手術をしてしまったら、もう取り返しはつかないんだよ」
丈の声音は絶望的だった。
「郁江さんはそれも承知していると思うわ」
と、三千子は穏やかに声の調子を落していった。
「丈は最善の途を考えなさい。郁江さんにとって一番いいように......姉さんにもどうすればいいかわからないの。でも、丈にとって大きな課題であることは確かだと思う......郁江さんのために今のあなたのできる最大の努力を払いなさい。姉さんには今はそれしか忠告できないわ。この問題は容易なことでは解決できないと思うの。必ず後々まで尾を引いて行くわ......」
「あの、あたし、病院へ行って手術の前に郁江さんを連れだしてきます。そうしてもいいですか?」
と、市枝がただならぬ覚悟を漂わせていいだした。その言葉の突拍子もなさを笑う余裕はだれにもなかった。
「大変な大騒ぎになるのはわかってますけど、郁江さんがみすみす手術をされてしまうよりはましだと思うんです。だって手術を受けたら最後、郁江さんは子供も産めない体にされてしまうんでしょう? あたしだったら、どうせ悪名高い女だから、バレたって平気です。警察沙汰になるのも覚悟してます。先生はこれから先のある身で、お名前を大事に、汚さないようにしなきゃいけませんけど、あたしならどうなったって......」
市枝はうつむき、唇を引き結んだ。血の色が額に浮んでいた。
「市枝君なら度胸があるから、やりかねないな」
と、丈がいった。驚きも動揺もないただの声だった。
「郁江さんをどこかに隠して、明雄と二人で頑張って治します」
「君は乱世向きの人だな」
と、丈はいささかの揶揄も混えずにいった。
「世の中が乱れてる時には、大胆不敵なことも通用するが......」
「だめでしょうか?」
「無理だな。入院患者を病院から攫ったりしたら、騒ぎが大きくなりすぎる......両親を初め家族の迷惑も考えなきゃならない。それに肝心の郁江が承知しないだろう」
「そうですか......」
市枝は口をつぐんで顔を伏せてしまった。白い露わな額から鋭いものが立ち昇っているようだった。
本気なのだということがだれの目にもわかった。丈がはっきりと否定しなければ、実行に着手したに違いなかった。
「でも、明雄は治していただいたのに、このままだと郁江さんは......」
後は言葉にならず、吞みこんでしまう。市枝は慄然とした表情になっていた。
「先生、なんとかならないでしょうか? 郁江さんが可哀そうすぎます......」
振り絞るように声を出す。
「手術を喰い止める方法はないでしょうか? やっぱり手術はむごすぎます。あたし、もっと一生懸命止めればよかった......」
「いい方法を考えよう」
と、丈はいった。
「手術はいつごろになるのかな?」
「はっきりしませんけど、お正月になってすぐにするようです。できるだけ早い機会にとご家族の方がいってらっしゃいました」
「今日あすということもあるのか......」
丈は呟いた。一瞬、鳥肌が丈の顔に立った。市枝はそれに強い印象を受けたようである。その巨大な使命に比べれば、ほとんど比重を持たないような少女一人の運命に、彼がこれだけ深く関与しようとしていることが、大きな感銘をもたらしたのだ。
「手術の正確な日どりと時間を、家族から聞き出してもらえないか」
「はい......でも、どうなさるんですか?」
「考えてみる。郁江にとって何が本当にいいことなのか、今はわからないんだ......だから、頭を絞って考えてみる。しかし、もう時間が残り少いかもしれない」
丈は椅子から立ち上った。緊迫感が全身にみなぎっていった。元旦なのに、と杉村由紀は思わずにいられなかった。もちろん、丈が一瞬の間も、息を抜くことを許されていないのはよくわかっていた。しかし、他の同年齢の少年たちに比べて、丈があまりにもかけはなれた立場にあることは、ある種の痛ましさを感じさせずにはおかなかった。
丈にしてみれば、休息は苦痛以外の何物でもないのであろうが、正常な感覚の持主からすれば、倒錯心理に他ならないであろう。そうした見地からすれば、丈は自分で自分を窮地に追い詰めていく被虐心理の持主にすぎないかもしれない。
頭で丈を理解することはできないのだ。一見平和なこの元旦の朝、地球と人類の未来を見はるかす力は、この弱冠十七歳の少年以外にはだれ一人持っていないのだから......
「市枝君を家まで送って行く」
と、丈はいった。
「あのう......田崎さんが車で待ってくれているんです」
市枝が躊躇いがちにいった。
「君を送り届けるために、ずっと待っていたのか?」
「ええ......」
硬派の田崎らしからぬギャラントリーであった。あるいは丈の身辺にある女性に対してだけ発揮されるものなのかもしれない。
「あたくしもこれで......」
と、杉村由紀が身を起こそうとするのを、丈は手で制止した。
「杉村さんはもう少し残っていて下さい。すぐに帰りますから......」
彼女が帰宅しても、正月の用意が何もしていないことを丈は知っているのだった。
10
丈は市枝を見送って、家の門を出た。ますます寒気はきびしく、晴天が星群を凍てつかせている。道は固く凍りついていた。
「先生、どうぞ......もう結構です。お風邪を引かれたら、大変ですから」
と、恐縮した市枝が幾度もいった。丈は薄手のスウェーター一枚で家を出てきたのだった。もともと丈は薄着なのだが、この元旦の朝の極端な冷え込みには薄着すぎた。
「どうぞお家に戻って下さい......」
「少し頭を冷やしたいんだ」
と、丈はいった。
「田崎氏の車はどこ?」
「路地を出た通りの所で待っていてくれるといってました」
市枝はジーンズの上下だけで、手袋もマフラーもなく、夜寒に体を慄わせていた。顎が寒気で硬ばってしまったような喋り方だ。
「郁のことだけど、僕にまかしておいてくれ」
と、丈はいった。市枝が足を停め、夜目にも真白な息をせわしく吐きながら、丈を見詰めた。
「郁江を病院から連れだすなんて、物騒なことは考えないでくれよ。うっかりすると田崎氏も乗りかねないからな」
「わかりました。やめます」
市枝は歯を鳴らしながら喋った。丈は手を出して、彼女の肩を摑んだ。生体エネルギーが流れこみ、すみやかに慄えが止む。いつもながら、迅速な効き目であった。
「僕が方法を考える。なんとかして郁を助けたい。まだ方法は思いつかないけど、きっとなんとかするつもりだ......」
「あたしに何かできることはないでしょうか?」
「祈ってくれ」
と、丈はいい、自分の言葉に驚いたような表情を浮べた。
「人間の力ではどうにもならないことがある......超能力なんてたいしたものじゃないんだ。どんなに大きな〝力〟でも高が知れている。神でもいい、宇宙意識でもいい、人間を超えた大いなる存在に祈ってくれ。人間の力でどうにもならなくなった時は......」
丈は少女の肩を摑み続けたままいった。
「人間て存在はなんて矛盾してるんだろうな。神のような巨大な視野で自分自身を視ることもできる。宇宙のサイズからすれば、細菌やウイルスよりも小さな小さな人間が、辺境の小さな星の表面にしがみついて、営々と生きていることを自己認識できる。ウイルスよりもちっぽけな存在のくせに、愛したり憎んだり、一生懸命生きてるんだ......小さな地球のほんの一角にうごめいて、おびただしく生れたり死んだりしている。
こんなにちっぽけな生物のくせに、他を愛することを知ってる。戦いあったり殺しあったり、領土を奪ったり奪られたりする有様を、宇宙的な視野から見れば、雑菌が繁殖したり死滅したりするのに似ているだろう。地球全土を覆っている三十数億の人類も、宇宙から視ればカビがはびこってるようなものかもしれない......
こんなに小さくて哀れな、塵のような人間でも、必死に生きてる。宇宙の全てを心の中に容れることだってできる。素晴らしい星空を見上げて、もの思いに耽ける人間は、宇宙の彼方まで旅をすることができるんだ。
何百億何千億という人間がこれまでこの星の上で生れては死んでいった。瞬きする間のようなはかなく脆い人生だ。それでも、人間の心は宇宙を吞みこむことだって、望みさえすればできた......なんという矛盾なんだろうな。肉体は塵に等しいが、心は宇宙大なのが人間なんだ。きっと僕らには、宇宙意識、神に通じる通路が与えられてる。それはこの心の中にあるんだ。姿形は塵に等しくても、人を愛し、想う心は宇宙と同じくらい大きいんだ。
僕たちは矛盾のかたまりだ。人間の生死の問題など昔からありふれていて、くしゃみするほど月並だということを知り尽していながら、今郁の問題にこれほど心を痛めている。生き延びてくれ、死なないでほしいと必死に願っている。郁の幸福がまるで宇宙の運命を左右でもするみたいに......」
丈は白い息を吐いて、凍てついた星空を見上げた。
「人の死ほどありふれた日常茶飯事はないと知っていながら、その人が死ねば、この世界も太陽も月も星も、全て滅び去るのと同様の大きな衝撃と悲嘆を味わわずにはいられない......まったく何という矛盾なんだろう。
こんなちっぽけな人間の生死に、神といい宇宙意識といい、偉大な超越存在が関心を持つはずはないと思いながらも、祈らずにはいられない。その人の生命を救ってほしいと頼まずにはいられない......人間の生命とはこの無常な肉体だけではない、こわれやすい物質である肉体を超えて、巨大なエネルギーである魂は不滅の存在なのだ、とわかっていても、人間は親しい者愛する人の死に堪えがたい悲しみや苦しみを免れない......人間ってなんという滑稽な、矛盾した、奇妙な存在なんだ......しかし、いくら宇宙的真実を悟っているからといって、愛する者の死を恐れ、悲しまないとすれば、本当の人間じゃないはずだ! 宇宙の涯まで思う大きな心を持ちながら、つまらない些事に思い惑うのが人間というものなんだ......」
丈は身裡に高まった内圧に堪えきれないように大きく息をついた。その白さが闇にくっきりと際立ち、鮮烈であった。鬱屈したものを力の限り払いのけようとしているようであった。
「人はだれでも生れて、そして生きて、死んで行く......長生きしたってたかだか百年だ。だれでも必ず死ななければならない。だからいつどうやって死のうが、同じようなものだ......しかし、それは理屈だ。真に愛する者を失う悲嘆を味わった人間には、そんな空々しい理屈は口にできないだろう。愛する者の死ほど恐ろしいものはない。これは理屈じゃないんだ。愛する人、大切な人たちを次々に失って行くのを見るくらいなら、自分が死ぬことの方がずっとましだ......考えただけでも息が詰まって苦しくなる。この胸を引き裂きたいほどだ......僕は性根が甘いのかもしれない。しかし、これから宇宙的大嵐が吹き荒んで、無数の人々がイナゴみたいに大量死して行く......地球はその運命を免れることができないんだ。しかし、そうだとしても、僕は今、郁を失いたくない。だれ一人失いたくないし、自分の命に替えても守りたい。だれも死なせたくないんだ。体中が張り裂けそうに苦しい......」
丈の声音は跡切れとぎれになり、息は荒く、喘ぐようだった。
「なんとかしなければと思うと、夜も眠れない......まったくどうしようもなくなってしまう。しかし、だれにも救けてもらうことはできない。堪えるしかないんだ。死物狂いで堪えるしかない......」
市枝の体が不意に力を喪った者のように、揺れ、丈の腕の中にもたれかかってきた。彼女の体から力が抜け出していた。丈は反射的に少女の体を両腕の中に抱いた。少女の体の軟かさ、体の匂い、せわしい呼吸音が灼けつくような感覚を呼びさました。
丈は目を閉じ、目をあけた。激しい懊悩が彼を誘い、力のかぎり少女の体を抱きすくめさせようとした。圧倒的な巨波が通過して行くように感じつつ、丈は衝動に堪えた。痛いほどの情欲が体の隅々に旺溢し、丈にはただ堪えることしかできなかった。息を詰め、目を瞠っていた。
危険なうねりが通りすぎて行った。血が奔騰し、腰で鈍く疼きながら鋭角に立ち上ってくるものをどうすることもできなかった。それが腕の中の市枝に知れることを彼は怖れた。懊悩が自分を心理的にも生理的にも倒錯させている、と感じた。強い憐愍が同じ度合をもって欲望と化していた。
おそらく市枝がすでに男を知っているという考えが、丈を余計に刺激したのかもしれない。灼けつくような鋭い欲望が鬼のように体の芯で育っていた。
丈は呻き声をあげたいほどの慚愧の念に打ちのめされた。これまで彼は市枝を浄、不浄という観点から見てはいなかった。それが突如として、腕の中にある少女の体が、男の生理をよく知っているのだという考えによって、丈の裡に情欲をかきたてたのである。
井沢郁江に対してさえも覚えたことのない異様な昂りが丈の心身を揺れ動かさせ、丈は自分の不浄さにやりきれない自己嫌悪を感じた。
己れの欲望の奔騰を、市枝に悟られるのではないかと怖れ、そしてそんな自分の偽善ぶりが堪えがたかった。自分がこれまで行なってきたこと、口にしたことを全て、この一事で裏切ってしまったと感じていた。
丈は荒い息をつきながら、市枝を押しやった。市枝はいまだに喪神したような表情をしていた。彼女が丈の体の興奮状態に気付いているかどうかはわからなかった。
丈は夜の暗さが、自分に生じている一切の変化を覆い隠していることを密そかに感謝せずにいられなかった。
「祈ってくれ......」
と、丈は口中が乾いているような掠れ声でいった。
「今、必要なのはそれだけだ......」
「お祈りします......」
市枝は聴きとれないほどの声で呟いた。茫然自失していた。自分が丈の両腕の中にあったという自覚だけはあり、その感情をどのように処理してよいかわからずにいるのだった。彼女にとってはあまりにも信じがたい非現実そのものだったのだ。
そんなことはおよそありえない夢としか思えないのだった。
「田崎さんが待ってる。早く......」
「はい......」
市枝はささやくようにいい、足許を乱しながら丈を離れた。くるりと背を向け、通りへ向ってよろめくように歩いて行く。
丈は口をあけて、忙しく喘ぎながら、少女の後姿を見送っていた。目にはほとんど恐怖というべき色が表われていた。自分で自分が制御できぬ恐怖が万力のように彼を捉え、締めあげていたのである。
──救けてほしい......
と、丈は祈った。それは切実な祈りであった。体の裡に高まった懊悩の内圧は、彼を粉々にして中天高く吹き飛ばしてしまいそうな異様な力をみなぎらせ始めたからだった......
静寂の中、二人の女性は向い合って座っていた。緊張感が手で触れるほどの濃さをもって、二人の間に立ちこめていた。
「わたくし、弟にきびしすぎたでしょうか?」
と、三千子はいった。息が詰まるような声音であった。
「頭ごなしにいいすぎたでしょうか? わたくし、つい子供扱いにしてしまったような気がして......長年の癖で、子供だという思いが抜けないのかもしれません。丈がもう子供ではなく、沢山の人々のリーダーであることをすぐに忘れてしまうのです。杉村さんはどうお考えでしょうか?」
「なんと申しあげてよいのか......」
杉村由紀は悩ましげにいった。口が重くなっていた。
「むずかしい問題だと思います。お姉さまは先生の肉親でいらっしゃるし、母親代りの方として、先生に何でもいえる立場におありでしょう......」
「本当は、丈が自分で気付くべきことだと思うのですけれど、つい口を出してしまうのです......」
「お姉さまが先生に対してきびしすぎるとは思いません。あたくしからはなかなか申し上げにくいことですけど、先生にはまだまだ未完成の部分があって、さっきお姉様が指摘なさったのも、そのうちの一つだと思います」
「おっしゃる通りですわ。丈はまだ未完成なのだと思います。わずか十七歳で一挙に何もかもわかってしまい、完熟してしまうことを期待する方が無理なのでしょう。弟は異常なまでの才能があるのかもしれませんけど、まだまだ未熟です。それを丈自身が忘れてしまうのはとても危険なことだとわたくしは思うのですけれど......」
「それを先生にはっきりおっしゃることができるのは、お姉様だけです。先生もそれを望んでおられるのではないでしょうか?」
「丈はめざましいスピードで成長しておりますけれども、心にはまだ子供らしさが残っております。過度の愛着や依存心がございます......育ちきらないところがあるように思います。わたくしにはそれがよくわかっています。丈は感情的にとても子供っぽいところを残していて、それが将来の禍根になるような気がしてなりません。わたくし、それがとても心配で......」
「それはどのようなことでしょうか?」
と、杉村由紀が尋ねた。
「あたくしには、先生が大人も及ばぬ真の叡智をお持ちのように思えるのですが、お姉さまの目からご覧になると、どのような弱点がお見えになるのでしょうか?」
杉村由紀は丈の帰依者であり、年齢を超えて師弟の関係にある。たとえ三千子が姉であっても、丈の批判を口にすることに対して、抵抗があるに違いない......三千子はそう思っていた。しかし、丈への批判は正しくなされなければならないという思いが、三千子の眉宇を緊張させていた。
「丈は愛憎の激しい性格です、それは今でも変っておりません。愛する者への執着が激しすぎるのです。丈の立場を考えれば、当然克服されねばならないはずですけれど......執着ゆえに、叡智が曇ってしまうこともありえます。先ほども、郁江さんのことで、丈はあれほど感情が揺れてしまいました。こちらが啞然とするほど感情的になり、揺れ動いてしまったことは、杉村さんもお気付でしょう。
決して叡智を曇らせるべきでない時に、我を失ってしまう......それが丈にとって計りがたい危険をもたらすのではないでしょうか?
もし、丈にとってもっと大きな愛着の対象が失われたら......それが丈にとり正念場である時期に起こったらどうなるでしょう。わたくしが一番心配しているのは、そのことなんです。丈はそれを知ってはいますが、自制をきかすことができるかどうか、まったく自信がないようです......」
「もしかすると、それはお姉様自身のことでしょうか?」
杉村由紀は息を吞むようにして尋ねた。顔色が変っていた。
「ええ......当然起こりうることですから。丈にとってはそれが心痛のタネのようです。それを怖れる気持が、弟の心に重いしこりを作っています。いつも時限爆弾のように、内心の恐れを持ち歩いているのだと思います。でも、丈は早く、それを克服しなければなりません。それはいつでも起こりうることですもの......」
「そんな......先生にとって、それはむごすぎます」
と、杉村由紀は堪りかねていった。抗議の口調だった。
「でも、本当のことなんです。昨年の夏、幻魔はわたくしを襲いました。その時は失敗しましたけれど、次は成功するかもしれません。いつでも起こりうることですし、わたくしも覚悟はしております」
「お姉様は立派すぎる方なんです!」
杉村由紀は頭の中がかっと灼熱してしまった。
「お姉様はそれでよろしいかもしれませんけど、先生にはひどすぎます!」
「丈も当然、覚悟していなければならないはずです。それができないのは、弟の子供っぽさ、育ちきらない弱さのためではないでしょうか」
三千子は重苦しく呟いた。
「まさか、お姉様は......」
杉村由紀は声を吞んだ。顔色が蒼くなり、身慄いする。
「わたし......そうなんです。もうあまり長い間、地上に留まらないのではないかという気がしてならないんです」
「でも、どうして......お姉様はまだお若いのに......」
「予感が一日ごとに強まってまいります。丈を置いて立ち去る時が近づきつつあるということが......杉村さんになら、この感じはおわかりいただけるのではないかと思って、お話しする気になりました。わたしがもし突然いなくなることがあっても、取り乱さないように、と丈にはいってありますけれども、まだ本人の覚悟はできていないように思えます」
「そんな......残酷すぎますわ......先生にとってお姉様は絶対の砦なんですもの。お姉様はまだお若いし、お元気なのですから、そんな悲しいことはおっしゃらないで下さい」
「丈にはもう杉村さんの助力がありますもの。丈がさらに成長するためには、姉のあたくしはもう必要ないと思うんです。丈があたくしに依存していることはとてもよくない結果をもたらすはずです......もう弟はわずかにでも他に依頼心を持ってはならないと思います。きっと、そうした時期が来たのでしょうね」
「おやめになってください!」
と、杉村由紀は声を励ましていった。
「そんなお話は、お聞きしたくありません。お姉様にはまだまだなさるべきことが沢山あるはずです。むしろ先生が大をなされるこの先こそ、お姉様の助力が先生には必要なんです。わたくし、今のお話は何も聞かなかったことにいたしますから......」
「これから難しい局面が次々に丈の前に立ち塞がると思いますが、どんな場合も、心の準備が必要だと思うんです」
と、三千子は静かにいった。
「非常に親しい間柄だった方が裏切って、向うにくみするということもあるでしょうし、仲間のはずの人々が丈に背を向ける事態も起こるでしょう。官憲が敵となって攻撃をしかけてくることもあるかもしれません。丈が孤立してしまい、人類の敵として指弾を受けるという状況もありえるはずです。愛する人々を次々に失うという丈にとって最悪の打撃も襲いかかるでしょう。どれほど苦しい目に遭うかわかりません。でも、杉村さんが激励してくだされば、丈は切り抜けて行くことができます。もうだめだ、立ち直れない、と絶望に駆られても、きっと丈は立ち直ることでしょう。全ての人々が丈に背を向けたとしても、杉村さん、あなただけは丈を支えてやっていただきたいのです......大きな苦しみの時ですらも、あなたの変らない信頼だけが、丈を支え、奮い起たせることができると思うのです......でも、丈が大きな苦しみの時を免れることは決してできない、弟は性格的な弱々しさや幼稚さを全て灼きつくしてしまわなければならないからです。
丈はどうしても時限爆弾のように心に抱えこんだ恐怖を克服しなければならないんです。丈に決して尻込みをさせないで下さい。決して無益な慈悲や憐愍で、丈の心を挫けさせないで下さい......もし丈が怯んだ時は、強い言葉の笞で、決意を思い出させてやっていただきたいのです。杉村さんがなによりもつらい思いをなさることを重々承知の上で、お願いします。それはあたくしたちの義務なんです。どんなにそれがむごたらしい、つらいことか、あたくしにはよくわかっているのですけれども......これ以上残酷なお願いはないと承知の上で、お願いするのです」
「先生が、わたくしを嫌悪するようになるかもしれないとおっしゃるのですか?」
杉村由紀はさすがに息を吞んでいた。思うように声が喉から出てこなかった。体を痺れさす衝撃を受けていた。
「丈は愛憎の振幅の激しい性格です。一時的に杉村さんから離れたいと思うかもしれません。でも、それは決して本心ではありません......そんな時でさえも、丈を見離さないでやっていただきたいのです。丈は必ず自らを克服しますし、あたくしには確信がございます。けれども、杉村さんがつらい思いをされることは免れようがないんです。こんなことをお願いするあたくしをどうか許して下さい......」
「お姉様は予言をなさっているのですね」
杉村由紀は愕然としていった。
「この先、何が起こるか、お姉様にはおわかりなのですね!?」
「さあ......予言かどうかあたくしにはわかりません」
三千子は首をかしげて呟いた。その黒い瞳には烈しい憂悶の色があり、それが杉村由紀の胸を痛くさせた。
「でも、あたくしにはわかっているんです。丈の辿る運命が見えてしまうんです。なぜなのかあたくしにはわかりませんけれど......あたくしがいなくなったあと、丈のことをくれぐれもよろしくお願いいたします」
「............」
由紀は沈黙していた。その沈黙はあまりにも重すぎ、五体を絞めつけて、息もつけない気持にさせた。
「きっと、時が過ぎ去れば、何もかもこんなことがあったと笑い話になるのではないでしょうか......」
と、由紀は喉を圧搾する力に逆らって、ようやくいった。
「きっとそういう日が来ると思うんです。今は真冬のきびしさが続いていて、もう二度と夏の陽光なんか来ないという絶望的な気持になっていても......いつか必ず冬の時は終るはずなんです」
「おっしゃる通りだと思います」
三千子は静かな語調を崩さなかった。由紀は今、自分が容易ならぬ予言を聞いたことが信じられなかった。三千子があまりにも物静かだったからである。その黒い瞳に表われた憂悶の深さに比べ、声音はあくまでも淡々としていた。その言葉が事実上、遺言そのものであることが、信じられぬ思いであった。
なぜ三千子は突然、そんなことをいいだしたのだろう。丈は疾風怒濤の勢いで起ったが、まだ端緒に着いたばかりといってもよかった。まだ社会的な、急激な変化は、徴しは見えても、実際には始まっていない。
しかし、三千子の目には、丈を襲う運命の急峻な傾きが視えてしまったのだろうか。
体の深奥からとめどもなく戦慄が湧き起こり、その波動はくり返し何度も由紀を襲った。丈には決して漏らしてはならないと思った。禁忌が重く心の一隅に居座ってしまっていた。
行手に立ち塞った濃密な黒い雲の如きものが無気味な膚触りで全身にからみついてきて、体の動きを封じ、重く鈍くしてしまう心地を由紀は味わっていた。それは恐怖感だったが、自分のためのものではなかった。丈にとって最悪の未来が用意されているという深刻な思いが、彼女の目には黒雲の如きものに見えたのだった。
「元旦にふさわしくないことばかり申しあげました......」
と、三千子はいい、急須に熱湯を注ぎ、お茶を淹れ直そうとした。眼前のその姿がいきなり異様な変化をもたらし、杉村由紀はあっと小さいが驚きに満ちた声をあげた。
「どうかなさいました?」
三千子は眉をひそめて、由紀を見詰めた。
「いいえ......」
杉村由紀は頭を振った。心臓が早鐘のように鳴っており、この静寂の中では三千子に聴きつけられてしまうのではないかと怖れるほどだった。
一瞬だが、三千子の周囲の空間に真赤な炎が現われるさまを幻視したのであった。その火炎があまりにも凄絶で凶々しく美しいために、由紀はくらりとめまいを覚えたのだ。
世にも華麗で凄まじい真赤な衣裳のような火炎に包まれた三千子が、みるみる赤い不死蝶と化して昇天してしまう幻視が、杉村由紀の瞼の裏にくっきりと刻印されて残った。
繰り返し強烈な悪寒が体を貫き走り、杉村由紀は総毛立った。ああ、と生々しい苦渋の呻きが口を衝いて出そうになり、彼女は必死に堪えた。これだけは絶対に、丈にいってはならないと蒼ざめる思いを心の底に押しこめた。
由紀は、三千子の未来を真紅の火炎の幕の中に幻視したのだった。
本書中には「気違い」という病気を差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
一九六八年正月──
杉村由紀の幻視は依然として続いている。昼夜を分たず、幻視は突如として彼女に襲いかかり、正常な視界を奪ってしまう。決して長くは続かない。たいていはほんの数秒であり、長くても五分、十分と持続することはない。
それは夢想癖のある人間が、ふっと精神に生じる空間を夢想をもって埋める日常的な性癖に酷似していた。他人と話しているさい中でもその現象はやって来る。適当に受け答えてはいるが、由紀の意識は現実にはなく、幻視に集中しているのである。
勘のいい人間には見破られてしまうが、幸い短時間なので、多少ぼうっとしていると思われるだけですんでいた。しかし、意識は完全に別世界へ入りこんでしまっている。
なぜ、そんな奇矯さの虜になってしまったのか。由紀には理由がわかっている。もともと自分は超常感覚を持ち合わせており、この現実というものが一枚岩のように確固不動の存在ではないと知っていたせいもある。
超感覚者にとっての現実とは重層的なものであり、物質的現象との間には不可視の超常現象がはさまっている。幻視を行なっている当人にとり、現実は非常に曖昧な不安定なものと化す。時間軸をはずしてしまった時、彼女には視ているものが現実、非現実の区分を失ってしまう。非現実とわかっていても、それが過去の姿を見せているのか、あるいは未来透視を行なっているのか、判然としないのである。一見、でたらめで無秩序だからといって、まったく無意味であるとは限らないのだ。
炎の中にいる三千子の姿を幻視したショックだけではない。杉村由紀の精神にショックをもたらし、現実の時間空間座標からわずかにずれを生じさせる原因となったのに、東丈の失踪があった。
失踪といっても、長期にわたるものではない。あの大晦日の夜、木村市枝を送って家を出た丈は、すぐに帰るといいながら、そのまま帰ってこなかった。元旦は遂に姿を見せず、次の夜になってようやく戻ってきた。ごく短時間の失踪だったが、杉村由紀に衝撃を与えるのに充分であった。
丈は記憶が定かでないというだけで、多くを語らなかった。ひどく疲労していて、ぼうっとなっているようだった。〝神隠し〟に遭ったのではないか、と三千子はひそかに杉村由紀に漏らした。
丈がいうにはいつの間にか、雪の深い山中に自分がいるのを発見し、そのまま一日をすごしたのだそうである。いろいろ考えることもあり、心を整理するのにちょうどよかった、と彼は簡潔に述べた。
「祈っていたんだ......」
と、丈はいった。一昼夜、飲まず食わずですごしたため、疲れてはいるが、顔は雪焼けで浅黒くなっていた。結局、どこの山中だったかわからずじまいだったようである。
祈っていたというのは、いうまでもなく井沢郁江のためであろう。そこまで丈が追い詰められている心境を察して、由紀は胸が痛んだ。さすがの丈も他にどうするすべもなくなったのであろう。
丈はさらにやつれ、寡黙になって戻ってきた。彼が努力を重ねるほどに、障害は更に険しさを増し、苦しみを増していくとはどうしたことか、と杉村由紀は疑わずにいられなかった。要求される努力は果てしもなく、しかも報いられるものはあまりにも少ない。
郁江を救おうとするほどに、丈の前に立ちはだかる困難は巨大化するようであった。しかし、丈の性格からいって逃げをうったり、断念したりすることは決してあるまいと思えた。命をすり減らしても、あくまでも努力を払い続けようとするだろう。
しかも、丈を足止めさせようとする困難は郁江の問題のみに限られたわけではない。いっせいに上った火の手を幻視している由紀にとり、容易ならない事態が待ち受けていることは明らかであった。とりわけ炎の中に幻視した三千子の姿は絶対に口外できないものだった。
加うるにそれに続く丈の失踪は、彼女に堪えがたい心労の過負荷を負わせたのかもしれない。由紀は現実と幻視の間隙に陥ちこんでしまったようになり、回復しなかった。重い風邪を引きこんだ時、耳が聞こえなくなり聴覚異常が生じるのに似ていた。現実が虚ろに遠方へ遠ざかってしまう感覚である。
正月の二日に丈は戻ってきたものの、振舞いに変化が認められた。すぐに単身で姿を消してしまうのである。しばらくすると舞い戻ってはくるが、これまでのように秘書に所在を明らかにしておく習慣は崩れ去っていた。一時的な変化かもしれないが、丈と杉村由紀の間には意志疎通がこれまでのようにうまく行かなくなっていた。由紀自体、口外できない秘密を抱えこんでしまったためかもしれない。
双方ともに隔意や遠慮が生じたというほどではないのだが、多少ぎくしゃくした間になったのは否めない事実であった。由紀は、遠感者でこそないが鋭敏な勘の持主である丈に、己れの幻視を感づかれることを恐れていた。
それが由紀の態度を不自然にしていることは明白なのだが、幸い丈は気付かないようだった。己れの抱えこんだ問題で手いっぱいであり、そこまで気が廻らないのであろう。
渋谷事務所一階の執務室に姿を見せても、丈はすぐに姿を消してしまう。七階へ出かけたのではなく、外出してしまうのである。失踪とまではいかないが、事務所に落着きこんでいる心境ではないらしい。
由紀としては問い質すこともできなかった。幸い松がとれないうちは、丈が事務所をあけていても支障を来すことはなさそうだった。面会の予約は五日から入っているが、まだ多少の余裕はある。
幻視感覚に心をゆだねている限り、丈との間に生じた隔りを絶えず意識せずにすむということもあって、由紀は自己逃避を行なっていたのかもしれない。悩みが消えてしまうわけではないが、麻酔薬がきいたように、疼痛が鈍くなり、意識の表層から遠のいていくことがわかる。
もし、幻視を中止すれば、一切の現実はすかさず立ち返ってくる。炎の中に視た三千子の幻視、丈に生じている奇矯な振舞いの全てと対決しなければならない。
秘書室の平山圭子たちも、丈の変化は感づいているのだが、口に出せずにいるようであった。丈がどれほどの苦衷にさいなまれているか、彼女たちには知る機会がない。知っていたとしても、彼の苦しみをやわらげるための方法はなにもない。なすすべもないのである。
女優から電話がかかってきたのは、そんな時であった。まだ三か日もあけていなかった。
「よかった、事務所が開いていて!」
と、女優は安堵の声を出した。事務所は元日から開いていて、正月休みなど関係ないのだが、そんなことは知らなかったのであろう。
「先生いらっしゃる? すぐお会いしたいんだけど」
例によって、相手の都合などものともしない調子だった。新年の挨拶すら口にしない。身勝手なのはわかっているが、気が急いているのであろう。
「先生は今外出しておりますが......ご用件をお承りして、伝えましょうか?」
「いいえ。直接お遭いして話したいの。どうしてもお遭いしたいんですけど、連絡つかないかしら?」
強引で一方的なものいいだが、切迫したものが感じられた。杉村由紀は決してこの女優に好感は持っていない。以前の由紀であれば、しっぺ返しの対象にしたかもしれない。女性的な悪意や意地悪を喚起させる相手であった。
「申しわけございませんが、出先がわかりませんので、連絡がつきかねます」
「だってあなた秘書でしょ。秘書なのに、主人の出先がわからないなんておかしいじゃないの。そんなことじゃ秘書は務まらないんじゃない」
「申しわけございません。連絡がつきましたら伝えますので......」
由紀は腹も立たなかった。特殊な遊離した精神状態にあるせいかもしれなかった。相手の高圧的、理不尽な態度がかえって哀れに感じられた。由紀も女だから、時として感情的になることもあるのだが、丈の下に来てからは、あまり怒らなくなったようだ。
「ちょっとあんた、そんな無責任なことってある!?」
女優の声音が鋭く甲高くなった。あてがはずれて腹が立ってきたのだろう。思い通りにならないと簡単に逆上してしまうのだ。気位ばかり高くても、子供っぽいのは隠しようがなかった。
「申しわけございません。でも、先生の首に繩をつけておくこともできかねますので。いつ戻るかわかりませんけれども、ご用件だけはしっかりお伝えいたします......」
「ねえ、そんなに意地悪しないでよ......」
さすがにまずいと思ったのか、女優はトーン・ダウンした。
「どうしても大至急先生にお目にかからなくちゃならないのよ。お願いだから意地悪しないでくれない? あたし本当に困ってるんだから......先生の立ち廻り先、なんとか見当だけでもつかないかしら?」
勝手に困れ、といいたかったが、由紀は意地悪そうに笑うだけで我慢した。暮れに丈と遭った女優が、どんなに思うさま侮辱的言辞を弄したか、本人はけろりと忘れてしまったらしい。それとも女優にとっては、感情のおもむくままに振舞うのを特権と信じこんでいるのかもしれなかった。
「申しわけございませんが......」
「それ、やめてくれない。その決まり文句聞くと頭がカリカリしてくるから......どうしても先生に遭わなきゃならないのよ。さっきからこんなにいっているのに、どうしてわかってくれないの!?」
「なにぶん先生はたいへんご多忙なものですから......別に意地悪を申し上げているつもりはありませんのですが、もしあなたが事務所においでになっていれば、その実情がよくおわかりになると思います」
杉村由紀は、多少知能の低い人に告げるような神経を使っていった。女優には理も非もないらしい。それでも務まるような特殊な職業なのだろうか。売れっ子の有名女優の増上慢で、世の中のことは何でも思い通りになると錯覚しているのかもしれなかった。
「いいわ、あたし、そっちの事務所へ行って先生をお待ちするわ。それならいいんでしょう!? まったくもう親切心がないんだから!」
杉村由紀がそれは困ります、と口にする前に、送受器を叩きつける激しい音とともに電話が切れてしまった。
2
「大変。〝クレイジー・キャット〟がこれから事務所へ押しかけてくるわよ」
と、杉村由紀は秘書室の女の子たちに向って告げた。
「えっ、またあの女が!?」
〝クレイジー・キャット〟というのは、事務所で女優についた仇名である。猫に似た顔立ちをしているので、ぴったりだと定評ができている。猛りたって狂いまわるという印象がよほど強烈だったのであろう。ハナ肇率いる同名のコミック・バンドとは関係がない。
「だって、彼女いったい何をしに来るんですか?」
と、平山圭子が尋ねた。
「この前はあんなに怒って、先生に失礼なことばっかりいって帰ったのに」
「二度と来られる義理じゃないんだけど」
野沢緑という秘書見習がいった。その時は居合わせなかったが、話を聞いて憤慨していたのであろう。目の大きな瘦せた娘である。蚊とんぼのように体が細くスマートだ。
「どうするんですか? もちろん追い返しちゃうんでしょう?」
「一応、話だけは聞いてみるわ」
と、由紀はいった。
「そんな! 事務所に居座っちゃったら、どうするんですか!?」
「だって先生はお留守中なのに」
二人の若い娘はいっせいに非難の合唱をあげた。驕慢な女優への反感は激しいようである。
「先生がお帰りになった時、あんな女が事務所で待っていたら、気分が悪いんじゃないですか?」
と、野沢緑がはっきりといった。歯に衣着せない所は、前任者の井沢郁江によく似ている。しかし、郁江ほど屈折していず、万事はっきりした少女だ。くっきりした目鼻立ちが浅黒い膚によく合っている。体つきも動作も少年じみていて活発である。
「面会の予約はないんですから、追い返しちゃうべきです」
「野沢さんははっきりしてるわね」
と、杉村由紀が笑う。圭子はおっとりしており、緑は積極果敢で、二人の娘は対称的である。
「だって、何様かというほど思い上っているんですもの。杉村さん、もっときっぱりと断わってやればよかったのに。あたし、門前払いくわしてやりましょうか?」
「いいわ。一応遭って話を聞いてみるから。先生もあの女優さんはまた必ず来るとおっしゃってたし......七階へ来てもらって遭うからそれならいいでしょ」
「七階ならいいです」
と、野沢緑が威張って許可した。
「でも、空っ茶だけで帰してやって下さい」
「野沢さんは厳しいわね。七階へ行って、応接室が空いてるかどうか見てくるわ」
由紀は椅子から立上った。タイトスカートのよく似合う彼女を、二人の娘は尊敬と讃美の目で見ている。杉村由紀が超能力者であることはいつの間にか、みなの間に知れ渡ってしまっていた。今や由紀は丈の次に崇拝の対象となっているようであった。もはや嫉妬したり、張り合ってみたりしてもはじまらないのだ。
「あたしもちょっと七階まで行きます」
野沢緑は由紀についてきた。
「杉村さん!」
と、明るい声がした。背の高い少年が翳のない笑いを見せてエレベーターの前に立っている。高鳥だった。
「今日は先生はお留守でしょう?」
と、少年が尋ねた。
「あら、どうして?」
由紀はこの屈託のない長身の少年が嫌いでない。めげない性格で、入会受付停止中にもかかわらず、GENKENに入りこんでしまった実行力には感心している。高鳥がいるだけで、その場の雰囲気が明るくなる。だれにでも好かれる人徳の持主なのであろう。
だれかれなく人気を集めているが、丈だけは高鳥に対して妙に素気ない。
高鳥が接近しようと試みるのを意識的に避けているようである。合性のせいかもしれないが、高鳥の方は一向に気にしていないようである。
丈が何を考えているのか、由紀にも捕捉しがたい。いかに遠感者でも、丈の思考の奥へまで踏み入るのは禁忌に等しい遠慮がある。丈が伝達することを欲していない想念についても同じことだ。
「どうして先生がお留守だとわかるの?」
「そこが超能力ですよ。透視してみたんです......」
と、高鳥はけろりとしていった。
「建物の外からだって、ちゃんとわかります。先生の波動は凄いですからね。滝に打たれるくらいショックがありますよ」
「残念でした。先生はちゃんと一階にいらっしゃるわ」
と、由紀が高鳥に負けず平然としていい返した。
「あれっ、そうかな? まあいいや、僕はどうせ透視は苦手なんで......その方が女性は安心しますよね。先生はお元気ですか?」
高鳥が洒々としているので、野沢緑がくすくす笑った。
「いい加減なのね、高鳥君の超能力って」
と、緑がいった。
「その方がいいだろう? 覗き魔だと誤解されたら、女性は口もきいてくれなくなる」
「いやね。まさか本当にやってるんじゃないでしょうね」
野沢緑は笑いこけた。目に高鳥への好意がある。好もしい異性へのごく自然な媚があふれていた。二人が意外なほど親しいということがわかる。
いつの間に親しくなったのだろう、と杉村由紀はふと引っかかるものを覚えた。なぜかわからないが、気になったのだ。
三人はエレベーターのケージに乗った。高鳥は背が高い。女性にしては長身の由紀も、ハイヒールを穿いてさえ及ばなかった。百八十センチ以上ありそうである。
「高鳥君は背が高いのね」
と、野沢緑が感嘆をこめていった。

「どれくらいあるの?」
「百八十二センチ......」
「うわあ、いいわね」
緑は羨しげにいった。彼女も背は低い方ではない。杉村由紀には緑が大仰すぎるような気がした。
「先生よりも二十センチも高いじゃない......」
「............」
高鳥はさすがに受け答えかねてしまった。馬鹿なことをいうと由紀は思った。なにも丈の身長を引き合いに出すことはない。さすがにはっと気づいたのか、緑は赤面した。突拍子もないことを口走ったとわかったのであろう。
「ご免なさい、変なことあたしいったみたい......」
「先生は超能力にかけては巨人ですからね。僕なんか本当に小人みたいなもんだから」
高鳥は上手に処理した。気転がきいているのである。野沢緑の具合悪さはその一言で緩和されたようだった。
「僕も高校時分はそんなに高い方じゃなかった。普通でしたよ。普通より小さかったかもしれないな」
由紀は更に感心した。高鳥は如才ないといってもよかった。丈が肉体的に小人のようだといわんばかりの印象をやわらげることに成功している。大学一年にしては実によく気がつく青年であった。
「高鳥君、最近超能力の方はどうなの?」
由紀は尋ねた。彼女にとり、高鳥は年齢相応の子供である。頭がよく知的だが、三十二歳の由紀から見れば、男のうちに入らない。丈に対する時とまったく感じが違う。高鳥にたとえ超能力があろうが、特別視する気には毛頭なれない。
「まあまあです。先生にばっちりと釘を刺されちゃいましたからね」
と、高鳥は笑った。いささか不敵な笑顔であった。確かに魅力は充分で、野沢緑が惹きつけられるのは無理もないと思えた。女性にモテすぎて本人が食傷するタイプの若者である。
「埃がかぶらない程度です。でも、杉村さんも超能力者なんですってね、今度ゆっくりお話を聞かせてもらえませんか?」
人懐っこい態度である。杉村由紀に対する憧れを隠さない率直さだ。ハイティーンの若者にとり、由紀のような年長の美しい女性は特殊な魅力を持つものである。
「今は忙しくて食事をする暇もないの......そのうちに時間ができたら、ね」
と、由紀はいなした。高鳥にはなにかしら危っかしいものがある、と思わずにはいられない。快活であり闊達だが、気儘すぎるようである。もっとも奔放なところが人を魅するのかもしれない。
「お願いします! きっとですよ、杉村さん! みんな杉村さんのお話を聞きたがっているんです。先生はお忙しくてとうていお時間はないでしょうが、その代り、先生の右腕の杉村さんに是非お話を......」
若者は熱心にいった。顔が活きいきとなり、若さの持つ美しさが映えるようであった。丈とは全く異質なタイプだが、指導者の資質は備えているようである。
気がつくと、野沢緑が嫉ましげな目をしていた。疎外されたと感じているのであろう。若い子は気を遣わされて、扱いにくい。
「でも、超能力にはあまりこだわらないように、と先生にいわれているから」
「では、そのことをみんなに話してやっていただけませんか?」
高鳥は巧妙にくいさがってくる。エレベーターを降りてもはなれず、応接室までついてきた。ねばりのある性格のようである。簡単には諦めない。
「先生のお許しを得たら......」
と、由紀はいわざるを得なくなった。高鳥は欣喜した。
「きっとですよ! みんな喜びます! ずっと先生と接触がないんで、みんな辛抱がきかなくなっているんですよ。だって同じ建物の中にいるのに、先生のお顔が見られないんですから......先生と同じ一階に詰めている杉村さんにはわからないでしょう、こんな気持は」
「わからないことはないわ。でも、先生にはお仕事が沢山おありになるし、今はお考えがあって七階にはあまり顔出しされないのだと思うの」
と、由紀はいった。弟に対するような口調になっていた。
「まあ、僕らには先生のお考えは、簡単にはわかりませんけどね。杉村さんなら、先生の身近にいるから、わかるんじゃないですか? 先生が今後、どのようにやって行かれるおつもりなのか......」
「あたしにだってわからないのよ、先生のお考えはとても視野が広いし......」
「だって、杉村さんは遠感能力者でしょう? 先生と一心同体で、同時に二人とも同じことを考えるっていうじゃないですか?」
高鳥は目をきらきら輝かせていった。由紀は笑った。少年の熱心さが愛すべきものに思えた。
「そんな伝説がもう出来たの?」
「伝説っていうと、事実じゃないんですか?」
「ものすごくオーバーになっているのね。そんなことって滅多にありはしないのよ。先生はほとんど超能力を日常的にお使いになることはないわ」
「しかし、時にはそういうこともあるわけですね?」
「先生があまり超能力にこだわっちゃいけないっておっしゃった意味がわかるわ。高鳥君は朝起きた時から一日中、そういうことばかり考えているんじゃないの?」
由紀は応接室をかたづけながらいった。野沢緑は話に入れず、いくらか拗ねたようになって戸口に突っ立ったまま手伝いもしなかった。若い娘なので、あまり気はきかない。
「あ、僕がやります」
と、高鳥がかえって気が付き、手伝ってくれた。タバコの吸い殻の入った灰皿を手にして戸口の緑を振り返る。
「緑ちゃん、お願い。これ捨ててきてよ」
人使いは巧いようだった。野沢緑がいそいそと従う。由紀は苦笑いを顔に浮べそうになった。しかし、野沢緑が高鳥に惹かれるのは決して不自然ではない。若い娘にとって、高鳥のような美しい若者がどれだけの磁力を及ぼすか、由紀にはよくわかる。
だが、彼女が高鳥に感じている危なっかしいものはしだいに増大していくようであった。野沢緑は高鳥に充分すぎる親近感を持っており、それは顔見知り程度の浅いものではない。高鳥はとぼけているが、彼女は高鳥のグループに出入りしているのであろう。
その気があれば、高鳥は油断のならないプレイボーイになるだろう、と由紀は思った。
「そんなに朝から晩まで、超能力に狂っているわけじゃありません。先生にも釘を刺されているし......だけど、やっぱり超能力者のあり方というものを考えざるを得ないんですよ。先生は超能力をいじると危険だとおっしゃってるけど、具体的にいうとどういうことなのかわからないでしょう?」
由紀はたじろがない目で高鳥の目をしっかりと直視していた。たいていの日本人はこうしてまともに目を覗きこまれることに弱いようである。高鳥も例外ではなかった。一度気弱に目をそらし、それから負けん気を奮い起こして、由紀の視線を受け止めた。
「野沢緑さんと仲よしみたいね」
と、由紀はいきなりいった。彼女は望めばいくらでも他人を混乱させる意地悪を発揮することができるのだ。
「そんなことないですよ!」
高鳥ははたしてうろたえた。意表を衝かれたのだ。
「一回、集りに来ただけです。しかし、杉村さんはテレパシーでわかっちゃうらしいですね。みんな見抜かれちゃってやばいなあ」
狼狽を押し隠すように笑った。
「じゃ、僕が杉村さんに憧れていることも、みんなわかっちゃってるでしょうね......まあ、本当のことだから、隠してもしょうがないですけど」
「超能力の目覚めた高鳥君のような人がずいぶん増えてきてるようね」
と、杉村由紀は平然として話題を変えた。小娘ではないから、高鳥は逆に翻弄される方に廻ってしまうのだ。
「そうなんです。もう七人ぐらいいます。だからこそ、超能力者のあり方を早く考える必要があると思うんだけど。だって、この先どんどん増えて行くかもしれませんよ。だから、先生の代りに、杉村さんに心得を話してもらいたいんです。超能力にあんまり熱中していじりまわしてると、幻魔が来るそうですね。してみると、幻魔を呼び出すことだって出来るんじゃないですか? あの五芒星というんですか、悪魔の入れない印形を床に描いて、呪文を誦えると悪魔が現われるというやつ。あれ、本当なのかな?」
「そんな危険な真似を、集りでやっているんじゃないでしょうね!?」
由紀はさすがにきっとなって質した。
「違いますよ、いやだなあ。そんな危険な真似をするわけがないじゃないですか」
高鳥は雑巾を摑んだまま、目をまるく瞠った。傷つけられたようだった。
「絶対にそんなこと、しませんよ。僕ら、真面目なんです。だから杉村さんに来てもらって話を聞かせてもらいたいと望んでるんじゃないですか。いやだなあ......そんな誤解されるとまいっちゃいますよ」
むきになっていた。少年ぽくて可愛らしかった。
「わかったわよ。そういきりたたないでも......でも、超能力は本当に要注意なのよ。取扱いに気をつけないと危いのよ」
「本当に幻魔が来るんですか? 江田四朗という先生の宿敵は幻魔だそうですね。なんか先生の向うを張って、生神様とかいって大評判になってるそうじゃないですか?」
「高鳥君、なんでそんなことを知っているの!?」
杉村由紀は、若者の目のきらめきに危険なものを覚えた。これは一筋繩ではいかない相手かもしれないと心を引き締める。頭がよくて切れ者という印象はだれしも同じで、高鳥の評価はGENKEN内で非常に高い。一週間足らずで、声望を高めたといっても過言ではない。加うるにかなりの超能力者だということで、あるいはすでに会において主宰の東丈に次ぐ人材と見なされているのかもしれなかった。もちろん、杉村由紀の考えではない。由紀はそんなことは夢にも思わない。しかし会の内部の雰囲気は、それほど高鳥を特別視しはじめているのである。
「超能力ですよ」
「まさか......ね、なぜそんなこと知っているの? だれから聞いた?」
「だれでも知ってますよ、それくらい。先生は江田をいつだって潰してしまえるんでしょう? それなのになぜ生神様なんてやらせておくんですか? その辺がどうもわからないんだなあ」
杉村由紀は眉をしかめて、高鳥を見詰めた。彼のいったことは、会員全ての意見といってもよい。会員のいずれもが同じ疑問を抱いているのだ。彼らが丈を理解していないことは驚くほどである。
由紀は改めて危機感を抱かずにはいられなかった。
「杉村さんなら、先生が本当は何を考えておられるかわかるんじゃないですか?」
「先生は、あたしたちと違って、長い目で物事を見ていらっしゃるのよ。浅い考えでは決して動かれないわ。江田四朗の問題にしても、先生が軽々しく動かれたとしたら、超能力戦争になってしまうでしょう? 大変なことになってしまうわ」
「だって、幻魔大戦がもう始まっているんでしょう? 大変も何も、当り前のことだと思うんだけどな。江田がもし僕らに攻撃をしかけてきたら、防衛しなきゃならないでしょう?」
杉村由紀は胸が冷たくなった。高鳥はずばりと本質を衝いてきている。この頭のいい若者にはいい加減な遁辞は通用しそうになかった。
「先生には先生のお考えがあるわ。高鳥君のいう超能力戦争なんて、普通の人から見たら、ヤクザの喧嘩みたいに受取られるかもしれないでしょう? 超能力者が化物か魔物のように誤解される素地は充分にあるわけだし。安易な考え方は絶対に禁物だと先生はおっしゃってるわ」
「それが聞きたいんですよ、僕らは。疑問だらけ、わからないことだらけなんです。江田がもし幻魔であれば、我々が無防備でいられるはずはありませんよ、どうやって自衛するか方法を考えなきゃならない。もし超能力戦争になったら、犠牲者続出でしょ? 先生はそれをどう考えていらっしゃるのかなって、みんな不安に思ってます」
「先生は超能力戦争に踏み切って、犠牲者を出すようなことは絶対になさらないわ! 高鳥君はとんでもないことを考えているようね」
杉村由紀はきびしくいった。高鳥には事の本質を見抜く目があり、先行を見てとることができるようだ。やはりこれまでの会員たちとは違って一癖も二癖もある。ただ者でないことは確かであった。
「しかし、杉村さん。江田の方から攻撃してきたら、今のままではどうにもならないでしょう? もう犠牲者が出たという話を聞きましたけど、本当なんですか?」
「滅多なことをいわないで! だれがそんなことをいいふらしているの!?」
由紀の顔色はさすがに変った。高鳥はけろりとしていた。
「いや、ただの噂ですけど。僕は直接知らないけど、郁江さんという先生の秘書をやってた人が、重い癌になって余命いくばくもないとかいってますよ」
高鳥は声を潜めはしたが、それほど大変なことを喋っているという自覚はないようだった。
「先生が、郁江さんの癌を心霊治療で治せるかどうか、みんな夢中になってますけどね。事実上は、先生と江田四朗の超能力戦争なんでしょう? 江田が念力をかけたんで、郁江さんが癌になったんだって、会員の人たちはみんないってますよ」
「ちょっと待って! そんなことがみんなの間で噂になってるの!?」
「ええ。でも、先生なら負けっこないですよね。すごい難病で死にかけていた子供を、先生は心霊治療で治してしまったんでしょう?」
なぜ、そんなことまで高鳥は知っているのか、と由紀は愕然となった。超能力だと彼はいうが本当だろうか? しかし、彼に遠感能力があるとは思えない。もしそうであれば、由紀にはそれとわかるはずだ。
「高鳥君、どこでどうやって、そんな噂を聞きこんできたの?」
「みんな知ってることですよ。超能力で、なんて今いったけど、あれは噓です。やっぱり小さな会のことだし、いくら秘密にしても漏れてしまうんじゃないですか? でも、杉村さんがそんなに顔色を変えるところを見ると、噂は本当みたいですね。そうすると、江田との超能力戦争は、現実に始まっているわけじゃないですか。なぜそんな大事なことを、会員に隠すんですかね? 僕にはわからないなあ......」
「まさか高鳥君がその噂を流している大元締じゃないでしょうね? もしそうだとすると......」
「違いますよ! 噂の大元締だなんて誤解ですよ! 噓じゃありません、誓います!」
真剣な顔でいうところを見ると、まんざら噓とも思われなかった。
「僕はただその噂がどの程度信憑性があるのか確認しようとしただけですよ。みんなは噂の裏も取らずにひそひそ耳打ちしてるだけだから......」
「噂話はあまりお手軽に持ち歩かない方がいいんじゃないかしら」
杉村由紀は警告するようにいった。
「超能力戦争なんて興味本位の噂がもし外部に流れたら、とみんなどうして考えないのかしら? 鵜の目鷹の目のマスコミがたちまち飛びついてくるじゃないの。先生は今やマスコミの注目の的なのよ。何を書きたてられるかわからないし、今は一番慎重にしていなきゃならない時でしょう? それなのに会員自ら、そんな興味本位の噂を流していたら、どうなるの」
「すみません......それは確かにそうだと思います。杉村さんのおっしゃることは本当だと思います......」
と、高鳥は神妙にいった。由紀の叱責を甘受するという態度だった。
「だから、杉村さんにどうしてもお話してもらいたいんですよ。今は会員たちは無責任な噂話だけに気を取られてますけど、それには原因があると思うんです。何が真実なのか、みんなわからずにいるんです。先生は新入会を認めないし、むしろ会員数を減らす方向へ持って行こうとしてるでしょう? 疑心暗鬼が生じてくるのも無理はないと思うんですよね」
高鳥は応接室の片付も忘れて熱心に喋っていた。由紀もすっかり手許がお留守になっているのに気付く。
「もしかしたら、先生はこういう噂が広がって、臆病風に吹かれた連中が自分から辞めて行くことを期待しているんじゃないかと思ったりもするんですよね。だって幻魔を怖れずに勇気を持って立ち向う会員でないと、先生のお役には立てないんじゃないかという気がするんです。だって、幻魔が怖かったら、こんな幻魔に楯突く会にはいない方が本人のためにも、会のためにもいいですよね」
杉村由紀がふと高鳥の視線を追うと、大テーブルの上で喫茶店のマッチが糸で操られるような奇妙な動きを見せていた。ひょこっひょこっと起き上っては、表、裏、と交互にひっくり返っている。
PKだ、と由紀は悟った。高鳥が無意識のうちにPK(念動力)を発動させ、マッチ箱を遠隔操作でもてあそんでいるのだ。高鳥はそれに気付いていないようである。話に気を取られていて、無意識にやっているからであろう。
「わかったわ。先生のお許しを得て、集りに出られるようにするわ」
由紀は意を決していった。彼らの集会を放任しておくのは危険だとはっきり悟ったのだった。
「あ、本当ですか! ありがたいです」
高鳥がPKの手をはなしたのか、テーブルの上のマッチ箱がころりと横倒しになり、動かなくなった。しかし彼はそれに最後まで気付いた様子もなかった。
丈もこうやって無意識のうちにPKをもてあそぶことがあるのだろうか、と由紀はちらりと疑念をはさんだ。今まで、丈の超能力に対する態度には、高鳥に見るような恣意さは見た覚えがないようである。
高鳥はいつもこうやって、己れのPKを他者に発動せずにはいられないのだろうか。無意識のうちにPKを使うことに、由紀は危惧を抱かずにはいられなかった。
高鳥は自覚がないままに、PKをもてあそぶ態度を身につけてしまっているようだ。むろん超能力の巨人である丈に比較すれば、取るに足りないといえようが、由紀の感じている不安は、高鳥の内省の不足した軽率さに起因しているのかもしれなかった。
「どうしたんだ、緑ちゃん?」
と、高鳥が戸口に向っていった。由紀もそれで、野沢緑が応接室に入りそびれていることに気付いた。確かに高鳥には透視力があるのだ。ただ鋭敏な勘の持主というだけではなかった。
半開きのドアを押して、緑がおずおずと入ってきた。見透された気まずさに、体の線が硬くなり、動きもぎくしゃくしていた。まだ若いので、感情がすぐに露呈してしまうのである。
「すみません......お二人ともお話に熱中していらっしゃるので、なんだか入りにくくなってしまって......」
野沢緑は頰骨の下を赤くしていった。なにやら生理的な生ぐさい赤面だった。
「なんでそんなこと、気にするんだよ。みんな仲間じゃないか。馬鹿だなあ」
と、高鳥が闊達にいった。
「だってえ......」
と、野沢緑が甘えるようにいう。それで由紀は一切を了解したような気がした。高鳥に対して、なぜ自分が危険なものを感じているのかも胸落ちした。むろん野沢緑を責める気にはなれない。若い男女の間に引力が働かないことこそ不自然かもしれないのだ。だれにでも覚えのあることだろう。
緑は、由紀の視線に気付き、胸元の飾りボタンをいじっていた。女臭いはにかみ方をしていた。由紀の好みではない。由紀は女の子がしなを作るのを見るのが嫌いである。その点、平山圭子はさらりとした清潔さがあり、由紀の贔屓するところだ。もう一人夏本幸代という秘書見習がいるが、中でも野沢緑がもっとも皮膚がべとつく感じだ。悪い子ではないのだろうが、由紀の肌に合わない。
高鳥は、緑の悪照れとは反対に恬然としていた。生理的な爽快さはいささかも崩れない。
「これから来客ですか、杉村さん?」
と、野沢緑を無視して尋ねる。そのぬけぬけした顔に由紀は苦笑を禁じえなかった。相当なプレイボーイなのかもしれない。長身でハンサムで頭がよく人好きがする。これで女の子の注意を引かないはずはなかった。
由紀にはとうてい丈と高鳥を比較する気はしないが、緑は明らかに較べている。丈より高鳥が二十センチも背が高いとすらりと口に出るのが隠せぬ証拠である。
「どんなお客様ですか? 今日は一階は使わないんですね?」
活きいきした瞳をきらめかせていった。
「しかし、先生はお留守なんでしょう? 杉村さんが応対するんですか?」
好奇心旺盛で、実によく気が廻る若者である。悪感情は持てないが、いささかうるさい。丈が不在であることもちゃんと知っているところを見ると、透視したというのも、まんざらデタラメではないのかもしれない。
「野沢さんが知ってるわ。教えてもらったら......」
と、由紀はいった。女くさい意地悪だと思わないでもなかったが、高鳥はさすがにはっとしたようである。照れくさそうな笑いを浮かべた。野沢緑は真赤になっている。
「先生がいつもどうなさっているのか、なにもかも知りたいんですよ。僕の師ですから......自分の先生がどうしているのか何も知らないというのは恥しいでしょう。別に何も他意はないんです。だから、野沢君には責任はありません。悪いといえば僕が全部悪いんです」
高鳥は真摯にいった。切り抜け方がスマートすぎると思わないでもないが、感じは悪くなかった。
それに引きかえ、野沢緑の方はどうにも救いがたい。一度は真赤になったが、今度は蒼白くなってきた。由紀の目のきびしさに怯えていた。
「高鳥君、席をはずして下さい」
と、由紀はうんざりしながらいった。野沢緑にある程度はきびしく注意しなければならない。しかし、それも面倒なことだった。緑の方は、由紀が嫉妬まじりに意地悪すると思いかねないのだ。自分が高鳥と仲良くしているのを、杉村由紀がオールド・ミスのひがみから、悪意を向けてくると勘違いされてはかなわなかった。
野沢緑の意識には、そう曲解しかねない傾きが存在していた。高鳥が杉村由紀をチヤホヤしていると思いこんでいるのである。嫉妬の炎を燃やしているのは緑自身なのだ。
遠感を働かすまでもなく、由紀にはそれが自分の手の内のようにわかった。女の陰湿さというものであろう。
しかし、丈の秘書グループで、気持がもつれていてはどうにもならない。秘書見習を指名したのは丈であり、由紀ではないが、いささか人選を誤まったようにも思える。
「あ、悪いのは僕なんです。緑君を叱らないで下さい。叱られる必要があるのは僕なんですから」
と、高鳥がすかさずいった。
「情報を集める癖があるものですから......さっきも杉村さんからもいろいろと聞き出そうとしたでしょう? 質問するのは僕の癖になっているんですよ、なにしろ知りたがりですから......緑君にも沢山質問を浴びせましたけど、そんなに喋ってはいません。本当です。ただ僕は感がいいですから、答えなくても素振りでわかってしまうんです。超能力を使っているのかもしれないけど......だから、余計なことを喋ったと緑君を叱らないで下さい。やっぱり僕の責任なんですから......」
「高鳥君には全然関係のないことなのよ」
と、由紀は柔く、しかもきっぱりといった。芯の強い女にしかできない芸当だった。
「そんなに気を廻すことないわ。ただ、席をちょっとはずして、とお願いしているだけなのだから」
「そうですか......」
相手は他人の気持を読むことに長けていた。無理押ししても逆効果だと知っているようであった。こざかしいといえば、これほどこざかしいものはないかもしれない。
「でも、杉村さん。今日の来客がだれだか当ててみましょうか?」
高鳥は爽やかな笑顔でいった。少しも居心地の悪そうな顔は見せない。
「これは僕の勘のよさを証明するだけのことですけど......来客は去年一階に来ていた女優でしょう?」
彼は女優の名をいった。彼の勘の冴えには感嘆するしかなかった。野沢緑から尋きだしたのではない。そんな機会はなかったと由紀は確言できる。
「ですから、緑君をとっちめるのは勘弁してやって下さい。本当に僕は質問を浴びせるだけで、答えなくてもわかっちゃうんですから......じゃ、失礼します」
高鳥は二人を応接室に残し、きっちりとドアを閉めて立ち去った。
3
野沢緑は、由紀の叱責を覚悟していた。顔が蒼白くなり、目が怯えている。
高鳥慶輔がせっかく弁護してくれたのに、彼女の顔が有罪を認めていた。平気で噓をつけるタイプではなかった。
すっかり観念して、由紀の前に立っている。可愛いほっそりした女の子だが、それ以上のものは何もないようであった。楽しく遊ぶのが好きで、秋霜には堪えられそうもない。ハンサムな高鳥に熱をあげて、彼のいいなりになるのも無理はなさそうであった。
彼女のどこに長所を見つけて、丈が秘書見習に選んだのかわからない。丈が〝美少女好き〟と噂を立てられる材料の一つにすぎないと思えた。丈にもちろんそんな嗜好はひとかけらもないが、世間ではそうは思わないであろう。
可愛いことは可愛いが、さほど才能があるとは思えない。同性のシビアな目で見るかぎり、秘書の適性はあまりなさそうである。
「すみません、杉村さん」
と、野沢緑は先にあやまってしまおうと思ったらしい。
「でも、そんなに喋ってはいません。今後は気をつけます。彼、とっても知りたがりで、根ほり葉ほり質問するんです。でも、少しは喋りました。ごめんなさい」
「高鳥君には気をつけなさい」
と、由紀は軽い調子でいった。緑がきょとんとしたまるい目で彼女を見詰めている。
「彼にかかったら、心にあることを洗いざらい喋らされてしまうかもしれないわよ。彼は天才だわ」
叱られるのではないとわかって、少女は安堵したようである。顔が明るくなり、頰に血の色が戻ってきた。
「ええ......あたし、彼の前ではいつも用心しているんです。だって、わかってしまうんですもの、こっちがたいしたことはいわないのに......でも、杉村さんがおっしゃった、〝秘書とはボスの秘密を守るもの〟という定義は忘れていません。本当です」
「野沢さんは、高鳥君が好きなんでしょ」
と、由紀はさりげなくいった。声もなく緑が真赤になる。
「彼の集りにも参加したいんでしょう? 彼の会はとても楽しそうね?」
「はい、楽しいです」
と、少女は子供のようにあどけなく答えた。
「みんな高鳥君みたいに元気がよくて、面白くて、のびのびとしているんでしょう? わかるような気がするわ」
「杉村さんも、今度集りにお顔を出されるんでしょ?」
と、緑は元気づいていった。
「今までの会とは全然違うんです。少しも陰気じゃないし、覇気はあるし、本当に楽しいんです。杉村さんも是非メンバーになって下さい」
「でも、そうはいかないと思うわ」
と、由紀は穏やかにいった。
「先生の秘書のお仕事は、これからが大変になって、他に割いている時間はないと思うの。野沢さんもどちらかを選ばなければならないと思う」
「どちらかといっても......」
野沢緑ははっと目を瞠って、手を口にあて、杉村由紀を見た。
「高鳥君のグループでいっしょにやる方が、野沢さんには向いているかもしれない。あなたもその方が楽しいし、性に合っているんじゃないかしら?」
「............」
野沢緑は黙りこんでしまった。秘書失格と宣告されたように感じているのだろう。
「彼といっしょにいる方が楽しくて幸せなら、その方があなたに向いているということだわ。今後先生のお仕事が忙しくなれば、高鳥君の集りには出られなくなるわよ。いずれにしろ、両方ともというのは無理よ」
野沢緑はかきあげた額を見せて、考えこんでいた。どちらに心が動いているのか、由紀には一目瞭然だった。
「考えてみます......」
と、少女は低い声でいった。考えてみるまでもないことなのに、と由紀は思った。少女にとって高鳥のもたらす引力は丈のそれよりもずっと強いのだ。
「それに高鳥君は会員じゃないわ。会長の秘書が非会員の高鳥君たちとグループ活動をするというのも問題があるし、高鳥君みたいに鋭い勘の持主が先生の機密を、秘書を通じてみんな知ってしまうというのは、本来許されないことだと思うの。あなたが口を閉じて喋らなくても、高鳥君にはみんなわかってしまうんだもの。先生が許可されるはずはないでしょう?」
「そうかもしれません......」
野沢緑は口重にいったが、顔は晴れてきた。心が定まったのであろう。やめるな、と由紀は感じた。心はすでに高鳥に傾いているのである。選択を迫られれば一も二もないだろう。
「考えてみて」
と、由紀はいった。もうこの件は落着したような気分になっていた。丈には申しわけないが野沢緑は秘書には不向きなのだ、と思った。ボスに対する忠誠心が不足していては、秘書は務まらない。秘書の護るべき秘密はことごとく、高鳥の耳へ筒抜けになるにきまっている。
間もなくして有名女優が事務所を訪れた。高鳥が七階の応接室へ女優を案内してくるのを見て、由紀は驚いた。来客を見張っていたらしい。出すぎているというべきなのかどうか迷う。
高鳥は正規の事務局員ででもあるかのように、実に如才なく振舞っていた。親切でハンサムな好青年の案内を受けて、女優も悪い気はしなかったようである。
わずかの間になれなれしい態度が生じて美しい女優ははすっぱな口をきいていた。
「ありがと......」
と、女優は戸口で振向いていった。
「あなた、なんてお名前なの?」
「高鳥といいます。帰りもハイヤーですか?」
「そうなの。一応帰しちゃったんだけど、また後で呼んで下さるかしら?」
「すぐに呼べますから、いつでもおっしゃって下さい」
高鳥は丁重にいった。
「すみませんわね。高鳥君はまだ学生さんなんでしょ? しっかりしていて、偉いわね」
女優はお世辞をいい、嫣然と笑った。美少年趣味でもありそうな雰囲気であった。高鳥が少し苦味走った笑顔を見せる。
「では、失礼します。何かありましたら、声をかけて下さい」
礼儀正しく立去る。いったい何を考えているのかと由紀は思った。知りたがりで好奇心が強いだけなのだろうか。
有名女優は、付人を連れていなかった。美しく装ってはいるが、心細げに見えるのはそのためであるかもしれなかった。
杉村由紀に対して権高な会釈をくれたが、それすらも前回の明白な無視に比べると、甚しく自我を屈しているといえた。心が弱くなっていることは明らかであった。
「困ったわ。先生はまだお帰りにならないのですか?」
人もなげな口をきくのだけは相変らずであった。化粧ののりが悪く、目元の小皺が目立った。いささかやつれていて、凄艶とでもいうべきものを漂わしている。

「電話でお話した通り、先生は外出しております。いつお帰りになるか見当がつきません。秘書のわたくしがお話を承ります」
と、由紀はいった。女優は恰好よく座って脚を組み合わせ、香水の匂いを狭い応接室に充満させた。高価そうなハンドバッグをあけ、いやに細長い外国タバコを出して口にくわえた。火を付けてもらうのを待つようにしばらく口にくわえたままにしていたが、由紀は知らん顔をしていた。
「本当に参っちゃったわ」
女優はがっかりしたようにいい、仕方なさそうに宝石のはめこまれた黄金のライターでタバコに火を点けた。真紅に塗られたマニキュアの長い爪が血にまみれているようだ。
「先生が居留守を使っているんじゃないかと思ったのよ。そしたら本当にお留守だったのね。さっきの学生さんに聞いたんだけど」
「............」
由紀は黙っていた。美しい女優は苛々としたようにタバコをふかしている。
「ね、先生にどうしてもお遭いしなくちゃならないの。どうしたらいいかしら? 教えて下さらない......」
ようやく秘書に対して高圧的に振舞ってみても損だと自覚したらしい。杉村由紀は端然として物静かであり、有能そうで、人格的にも気圧されるものがあると感じるに至ったようである。目先のことに全部血の気が集中してしまう、きわめて感情的な性格であることは前回の例でよくわかっている。
丈に対する無礼さは目に余るものがあり、由紀は女優を許してはいなかった。権高で驕慢な美貌と、女優のお高さを剝ぎとれば、中身はひどく瘦せこけている。同性の意地悪い目を杉村由紀は備えていた。有名な映画女優などという人工的なオーラは、由紀にはまったく通用しない。いくらでも辛辣になることができるのだ。
「申しわけありませんが、わかりかねます。先生はご多忙な方ですので......」
語気が冷淡になるのはどうしようもなかった。相手が下手に出てきたからといって、応対を変える気はさらさらない。
「ねえ、意地悪しないで、教えて下さらない? あたくし本当に困ってるの。先生だけが頼りの綱なんです。お願いだから、先生に遭わせて下さらない」
甘ったれるな、といいたかった。前回の丈に対する罵詈雑言のひどさは、許せる域を超えたものであることは確かである。
「あたくしってこんな口のきき方しかできないものだから、よく他人から誤解されるけど、そんなに悪気はないのよ。つきあってみればよくわかるわ」
と、有名女優はぬけぬけといい、由紀は啞然として相手の顔を見返さずにはいられなかった。映画界、芸能界というのは特殊な閉鎖社会であるらしいが、その自我肥大ぶりには呆然とさせられるものがあった。特別な閉鎖社会で通用する異常なマナー、身勝手ぶり我儘ぶりが、一般社会でも通用すると本気で思いこんでいるのである。
おそろしく幼稚で、視野が狭いのだ。
──つきあってみれば、自分だってまんざら悪い女じゃないわよ、といわれても、由紀には元々その気がないのだから答えようがない。とうてい交際欲をそそりたてるようなたまではないのだが、本人はまさかそうとは夢にも思うまい。高名な美人女優は、自らを一般の庶民たちとはまったく格が違うエリートである、とごく自然に頭から信じこんでいるのだ。
奇怪な思い上りの虜になった女優の目には、杉村由紀の困惑など、庶民の恐懼感激としか映らないのであろう。貴人から親しくお言葉を給わり、当惑して身の置き所がないのだと思いこんだようである。
「あなたは先生の秘書だからいうけど、あたくし、とっても困ってるの」
女優は親しさを押売りする態度に変じた。お高くとまるのはマイナスと判断したらしい。由紀のボスの東丈は特別な霊能者であり、文筆家であり(今度本を出版するのだ!)己れの属する世界とごく近縁にあるわけだから、先生に連なる杉村由紀もお仲間として遇してやろうという腹であった。
「あたくしの命にかかわるかもしれないのよ......だから、どうしても大至急、先生にお目にかかって、相談しなくちゃならないの。こうしている間にも、一分一秒ずつ、命がけずりとられているの。あたくしって、意地っ張りだから、あまり表には出さないけど、やっぱり命がかかってるから、こっちも一生懸命なわけなの。だから、押しが強いとか、妙に誤解しないでもらいたいのよ」
杉村由紀は腹立ちを忘れ、珍奇な生き物でも見るような目で、美人女優を眺めざるを得なくなった。あまりにも身勝手で奇矯なのが興味深く思えてきた。──世の中にはこんな人間もいる、という驚異の感情であった。
「だから、ね、お願い。先生の居場所を教えて下さらない。あたくしがここへ来て待っていると先生に連絡していただきたいの......」
「申しわけありません......という言葉はお嫌いとのことですけれども、他に申し上げようがないんです。先生の出先も、お帰りになる時刻も、皆目見当がつきかねます。秘書の不行届とお叱りを受けましても、こればかりはどうにもいたしかねますので......」
「............」
美人女優は猜疑の目を光らせて、じっと由紀の顔を凝視した。噓をついているならば、見破らずにおかないという視線であった。
「仕方がないわね......」
と、女優はしぶしぶいった。まんざら由紀の言葉が噓ではないと思ったようである。眉をしかめ、縦皺を寄せて、細長いタバコをふかし続ける。心定まらず苛立っているのだが、これ以上、由紀に喰い下がっても無益と悟ったようであった。
「それでは、先生がお帰りになるまで、ここで待たしていただくわ。場所塞ぎで悪いですけど」
顔色の悪さがしだいに際立ってきていた。化粧のせいでさほど目につかないが、顔面蒼白なのかもしれない。
──困ります、とは、由紀はいわなかった。女優はちょっぴりたたらを踏む気分になったようである。てっきり由紀が同性の意地悪さを発揮すると思いこんでいたらしい。そんなものは無視してやろうと息ごんでいたのであろう。女優は同性の悪意には慣れているようであった。気位の高さも虚勢も、護身のためのテクニックのひとつなのかもしれない、と由紀は思った。
「どうぞ......」
と、由紀はあたりまえの声でいった。
「いいのかしら、ずっとお邪魔していても。先生のお帰りはいつになるかわからないんでしょ?」
「はい。遅くなるかもしれませんけど、お待ちになるのでしたら、どうぞ」
「ありがとう、と申し上げておくわ」
女優は、手強い敵を見る目で、由紀を眺めた。ただ者でない、と突如気づいたらしい。芸能界にいない知的なタイプの美貌に興味と敵愾心を同時にそそられたようである。野沢緑がお茶を持ってきたが、例によって会釈すらしなかった。気がつかなかったのかもしれない。熱中癖があり、一つ事に気を取られると、他のことはなにも目に入らなくなってしまう性格なのだろう。
本当に緑は空っ茶を出したのかと由紀はおかしくなった。もっともお高くとまっている美人女優は粗茶になど手を出さない。
「あなた......いつから先生の秘書をやっていらっしゃるの?」
女優は身許調査に取りかかった。
「まだお名前をお尋きしていなかったわね」
「杉村と申します......先生からご用件をお伺いしておくようにといいつかっていますけれども、よろしゅうございますか?」
「いいえ。先生に直接お話しするわ」
女優はとんでもないという顔でいった。
「あら......でも先生はあたしがここへお伺いすることをご存知なわけなの!?」
顔がきびしく怖くなった。丈が居留守を使っているのかと勘ぐったのだ。
「いいえ」
「でも、それじゃおかしいじゃないの。あなたは先生の行先もわからないし、連絡もつかないといったじゃない!?」
「早合点なさらないで下さい。先生はこの前あなた様とお目にかかった時、近々あなた様がもう一度足をお運びになると予言されました......お忘れですか?」
由紀はたじろがずにいい返した。
「!」
女優ははっと胸を突かれたように沈黙した。
「必ず先生に助けを求めてくる......そう先生はいわれたはずです。憶えていらっしゃいますか?」
「そんな気もするけど......」
「あなた様は、先生に対してそんな予言は決してあたらないし、はずれたら笑いものにすると大見得をお切りになりましたわね」
「............」
相手は不逞くされたように黙っている。
「でも、先生はご存知だったわけですね。あなた様が必ず助けを求めにいらっしゃるということを......違いますかしら?」
と、由紀がとどめを刺す。
「そうね。そんなことを聞いたような気もするわ」
相手はむっつりといった。自己主張を封じられてしまい、ふくれているのだった。彼女の幼児性には度しがたいものがあった。
「あたくしがこういうことを申し上げるのは、先生のおいいつけだからです。先生には、あなた様がまたお出ましになることはわかっていらっしゃいましたし、ご用件もおわかりでした」
「用件って、なにがわかっているというのかしら?」
女優は飽きあきしたようにいい、顔をそむけた。一度曲ってしまうと素直になれない性格なのだ。
「先生の予言された通りのことが、起こったのはわかっています。だからこそ、助けを求めて、ここへ来られたのでしょう?」
「ねえ、先生でないと申し上げられないこともあるの。あなたは秘書でしょう? それは普通の秘書よりもずっと偉くて、〝お秘書様〟かもしれないけどね......やっぱりお医者さんには話せても、看護婦さんにはちょっと、ということあるでしょう。それと同じことなのよ」
「あたくしが出すぎているとおっしゃるのですか?」
「そうはいわないけど、こればっかりはいくらお偉い〝お秘書様〟でもねえ......あたしは人気商売だし、うっかり話をしてよそに漏れたりしたら、たちまち週刊誌の餌食になってしまうものね......」
美人女優はわざとらしく、由紀を値踏みするように見ながらいった。まったく馬鹿にしている。しかし、由紀は不思議に腹が立たなかった。
「お話になりたくなければ、それでも結構です。先生が帰られるまで、お待ちになるのはご自由ですけれども、もしかすると遅くなるかもしれません。そのことはご了承下さい」
「いいわよ。いくらでも待ちますから......」
女優は厭味な口のきき方をした。
「おもてなしなど、なにもいりませんから、どうぞお構いなく」
「失礼ですけど、今日は付人の方はごいっしょじゃございませんのね?」
と、由紀が尋ねた。
「お正月休みですからね。実家へ戻してあります......」
女優は、由紀の視線を避けて呟いた。
「もう戻らないのではないでしょうか?」
「えっ?」
「新しい付人をお捜しになった方がよろしいのでは?」
「何をおっしゃるんですか、失礼な」
女優は唇を慄わせて抗議した。
「付人があたしに愛想尽しをして戻らないとでもおっしゃるの!?」
「怯えてしまって、逃げだすだけのことはあったはずです」
由紀はあくまでも平静にいった。
「だからこそ、あなた様もここへいらしたのではありませんか?」
「あなたも人の心が読めるんですか? さすがに〝お秘書様〟だけのことはあるわ」
しかし、顔色が変り、声音の震えを隠せなくなっていた。虚勢が破れて、恐怖が心に侵入しはじめたのであろう。
しかし、向う気だけはさすがに人一倍強くて、なんとか堪えていた。いつまで続くかと由紀は皮肉な目で見ている。
「先生からご用件を承わるようにと申しつかっておりますが、あなた様がお話になりたくなければ、それでも結構でございます」
「なにもあなたと喧嘩するために来たんじゃないのよ。勘違いしないでくださらない? あたしは先生とお逢いして、お力を借りたいだけなの」
美人女優は講和の必要を感じたらしい。彼女にしては精一杯の努力を払って、微笑を顔に押し上げようとした。大変な努力を必要としたに違いなかった。
「あたし、困っているのよ。お願いだから、意地悪しないで......」
「あたくしが意地悪していると本気でお思いですか?」
由紀は内心啞然となりながら反問した。
「まさか、あたくしが故意に先生とあなた様をお遭わせしないように取りはからっているとお思いなのではないでしょうね?」
「まさか、そんな......」
口ではそういったが、内心は見え透いていた。
「あたくしが本気で意地悪したとしたら、まず先生にお取次すること自体いたしませんわ」
「そうでしょうね」
「こうやって事務所にお入りいただいていること自体、あたくしが意地悪でないことの証明だと思いますけれども......」
「ええ。そうでしょうね、本当に」
合槌は打つが、まったく誠意がこめられていなかった。
「皆さん、会員の方々、とても親切だわ。いい方ばかり。もちろんあなたもね......」
「あたくしはこれで失礼いたします。なにかご用がありましたら、ドアを開けて、事務局員をお呼び下さい。お茶でもお帰りの際のお車の手配でもなんなりと......」
由紀はさすがに我慢が切れてきた。時間潰しもほどほどにしてほしいといってやりたかった。
「事務局員は午後九時ごろまでおりますけれども、後は事務局を閉めて帰ります。ここには宿泊の設備はございませんので......」
「徹夜してでも、先生を待ちますから」
と、美人女優は比類ない鈍感さで応じた。
「徹夜は慣れてますから、どうぞご心配なく......」
箸にも棒にもかからないというのは、この女優のことだった。
「では、どうぞごゆっくり」
由紀は言葉だけ丁重に残し、さっさと応接室を出た。振り返りもしなかった。
事務局では、みんなが期待を目に宿らせて由紀をいっせいに見た。
「先生のお帰りを一晩中でも待つんですって」
と、由紀は素気なくいった。追い返せないのが残念だった。丈がいれば決してそんなことはしないであろう。江田四朗との間に何が生じたのか、女優は丈が相手でなければ話さないに違いなかった。
「おやおや」
と、保母さんの菊谷明子がいった。
「本当に一晩中ですか?」
「さあ、どうだか。相当なものよ、とにかく。あのままにしておいて下さい」
「わかりました。時々お茶ぐらい淹れかえましょうか?」
「粗茶ではお口に合わないみたい」
由紀は、自分も女だな、と思った。女優の件では常にないほど感情的になっており、そんな自分が制御できない。丈に対する無礼さで本当に頭に血がのぼってしまったようである。丈がほとんど気にもかけていないので、なおさら腹の焼ける思いがする。どうしても丈のように寛大になれないのだ。ことが丈にかかわるから、これほど腹立たしいのであろう。
事務局員たちは、事情をほとんど知らないので、好奇心だけが目立った。有名な美人女優が〝座りこみ〟をやっているのだ。
「先生、いつごろお帰りになるんですか?」
「それがわからないの。なんの音沙汰もないものですから......」
「こんなこと、珍しいですね」
「ええ。とにかく、待つといっているんですから、待たしてあげればいいんです。徹夜でもお待ちになるそうですから」
よろしく、といって由紀は事務局を出て、一階へ戻って行ってしまった。すっきりした杉村由紀の後姿を見送り、事務局員はひそひそとささやきあった。由紀があまりにも不機嫌であり、それを隠そうともしないのが奇異に感じられ、それがさまざまな臆測を生むことになったのだった。
会長の東丈が正月以来、事務所に不在がちになり、それに付随するさまざまな噂が頭をもたげていた。さきほど高鳥が口にした、井沢郁江が癌だという情報もその一つだった。郁江は、幻魔の仕掛けた攻勢による犠牲者の一人であって、その対応策のために丈は事務所をあけて走りまわっているという噂を、事務局の人間はだれもが耳にしていた。
その陰湿な悪い噂にからめて、秘書の杉村由紀の不機嫌さも取沙汰される材料となることは必然的な成行であった。
丈の秘書になったものは、非業の運命に見舞われる、とこっそりささやかれるようになっていたのである。
4
女優は応接室のドアを細目に開けて、ちょうど通路を通りかかった会員に呼びかけた。
「ちょっと、すみませんけど......」
「はい。なんでしょうか?」
女優はほっとしたように笑顔を作った。相手がハンサムな学生、自分を案内してくれた高鳥という若者だと気づいたからだった。大きな張りのある瞳を持ってはいるが、美人女優は強度の近視だった。よほど間近でないと、他人を弁別できないほどなのだ。
「あら、高鳥君っておっしゃったわね......」
「ええ、そうです。どうなさったんですか?」
高鳥は人なつっこくいった。その爽やかな笑顔が女優の心をくすぐった。
「あのね、先生のお帰りを待ってるの」
と、有名女優はトーン・ダウンした声音でいった。このハンサムな若者は彼女の好みに合っていた。とにかく感じがよく、可愛いと思った。
「お一人で? 先生はいつお帰りかわからないみたいですよ」
「そうなの......しばらくここでがんばることにしたけど」
彼女は相手の同情を誘うようにいった。女らしい狡さで、相手の若者が利用できると計算したのだった。あの杉村というお高くとまった秘書は同性の反撥が作用してだめだが、このハンサムな若者ならまるめこめるという自信があった。
「ちょっとお願いがあるのだけど......」
と、しなを作ってみせる。相手はあっさりと乗ってきた。
「なんでしょうか? おっしゃってみて下さい」
「あの、タバコを切らしちゃって......申しわけないんですけど、買ってきていただけるかしら?」
「いいですよ」
高鳥は快諾した。
「どんな種類のタバコですか? 渋谷駅の方へちょっと行けば、外国タバコの売店もありますよ」
なんという気のきく子だろう、と女優は思った。このまま連れ帰って付人にしたいくらいだった。この若者なら何一つ仕込む必要がなさそうだった。
「すぐ買ってきます」
タバコ代を渡すより早く、若者は姿を消してしまった。その小気味よい動作が、彼女の鬱屈をいくらか吹き払ってくれたようだった。杉村秘書がこざかしくも指摘した通り、新しい付人を見つけなければならない。なぜ杉村は、付人が逃げだしてしまったことを知っているのだろう、と彼女は思った。杉村のいう通り、怯えきった付人は、彼女が制止するのも聞かず逃げ帰ってしまったのだ。

たかが馬鹿な小娘と思うものの、見捨てられた屈辱と腹立たしさは彼女の胆をじりじりと灼いていた。急いで後任を探さねばならない。コネはあるが、付人には合性があり、そう簡単に後任が定まるわけでもないのだ......
そうか、東丈が予言していたのだ、と女優は今更のように気がついた。口惜しいが、東丈のいう通りになってしまった。二度と頭を下げる気になどならないと思っていたが、丈があらかじめ明快にいい切った通り、彼の前に膝を屈する破目に追いこまれてしまった。
しかし、あの秘書は、前回のことを根に持っているらしい。女の底意地の悪さで丈との間を阻もうとしているのではないか。故意に丈に遭わせまいとはからっているのではないか。居留守というのは勘繰りすぎにしても、丈の出先もわからず、連絡もつかぬというのは噓に違いない、と女優は思った。
意趣返しに自分をいじめて楽しむ気なのだ。あの尊大な秘書の目には、隠せない悪意の色がある。今の自分の置かれた無力な立場につけこんで、徹底的に仕返しする気なのだ。
女優の被害者意識は高ずる一途だった。悪いことに勘繰れば勘繰るほど、恐怖は肥大してくるのだった。ありとあらゆることが凶兆に思えてくるのだ。
丈がもし帰ってこなかったら......と考えると、全身が虚脱したように冷たくなってくる。秘書が丈との間に立ち塞って、カットしてしまえば、自分はこのまま夜明かししなければならなくなる。自宅へは戻れないし、友人の家へ行っても追手が追いついてくるだろう。ホテルへ宿泊しても孤りでいることには堪えられない。冷たい無機的な四囲の壁の中にいるだけで、恐怖が何十倍何百倍にも育ちそうな気がした。
体が冷たく硬ばってきて、冷たい汗の被膜に覆われ始めた。昼間のあいだはなんとか封じこめておけた強迫観念が、束縛を脱し、怪獣化しているのを、恐怖の冷風とともに感じとった。
彼女は苛立たしくハンドバッグの中を捜し、タバコを切らして、若い会員に買いに行かせているさい中だということを思いだした。灰皿には自分の細長いタバコの喫いさしがうず高く山をなしている。その喫いさしを拾いあげて喫いたい、喫わずにいられない焦燥感が堪えがたくつきあげてきた。
抵抗しがたい欲望につき動かされて、女優は浅ましくも灰皿の喫いさしに手を伸ばそうとした。
「お待ち遠さまでした」
明朗な若者の声が、辛うじて女優の鮮血のように刺激的なマニキュアの手を引き戻させた。みっともない図を見られたという屈辱がかっと体を灼熱させる。しかし、彼女は顔には表わさずにすました。慣れているのだった。感情家ではあるが、表に現わす時は計算された演技でなければならなかった。
高鳥は注文したタバコを三箱も買ってきてくれた。
「ヘヴィ・スモーカーとお見受けしたので......先生のお帰りが遅れた時に備えておいた方がいいような気がして」
高鳥は真白な形のいい歯を見せて笑った。清冽な印象だった。女優は改めてまじまじとこの若者を値踏みした。美貌からいえば、東丈の方がはるかに上である。丈のようなタイプの美少年は芸能界にはいない。ぞっと背筋が寒くなるほど神秘的だからだ。
とりわけ、丈がつくねんと沈黙している際の美しさは人間放れしたものがあった。若い神アポロニウスの美だ。おそろしいような気持さえ起こさせる。
それにひきかえ、眼前の若者は、ただハンサムという域に留まった。顔の道具立てもひとつひとつじっくり見れば、さほど念入りなものではない。目も左右不揃いだし、鼻柱もちょっぴり曲っている。殴り合いでもして、ずれたという感じだ。しかし全体として見ると、うまく均衡が取れており、人好きのする容貌になっているのだった。実際以上にハンサムに見えるのは、この若者の備えている魅力のせいであろう。
爽やかにいつも白い歯を覗かして笑っているという印象だ。
女優はハンドバッグを開け、紙幣を出した。少し余分に高鳥に渡す。
「これ、タバコ代......どうもありがとうね」
「今、お釣りを持ってきます」
「いいのよ。取っておいてちょうだい。お駄賃」
「そうは行きません」
高鳥は笑顔を消し、女優はいくらかあわて気味にいった。
「あら、どうして?」
「当然のことだからですよ。僕はここの使用人ではありません。会員として来客をもてなすのは当然のことです。サーヴィス業ならチップはつきものでしょうが......」
「あ、そうだったわね、ご免なさい!」
女優はちょっと赤くなっていった。
「つい失礼なことをしてしまって......ボーイさんと間違えたみたい。つい癖が出ちゃったのね」
「ご用があればなんでもいって下さい。フレンドシップにサーヴィス料金はありませんから」
「フレンドシップね。気に入ったわ」
女優はまんざらの馬鹿でもないので、高鳥のプライドの高さを了解した。いい家の子らしいと思った。アルバイト学生という思いこみがあったのだが、そうではないようだ。身につけているのは裕福な階層のものを想わせた。いかにも良家の子弟という雰囲気であった。
高鳥はきっちりと釣銭を持ってきた。女優は礼をいって受取り、ハンドバッグに蔵った。こうしたことが何かしら重要な手続きに感じられるのが奇妙だった。必要以上に、この高鳥という若者の存在を意識させられるようであった。
「あなたはこの前も、ここにいらしたの?」
彼女は高鳥をただこの場に引き留めておくだけの質問を発した。一人になりたくなくて、彼があっさり立ち去ってしまうことを恐れていた。
「暮れに見えたそうですね。先生にお逢いになったんでしょう?」
「そうよ。でも、高鳥君には遭わなかったみたいね。遭っていれば、顔を覚えているはずだもの」
高鳥は足を止めて、女優を見ていた。ひっかかってきたぞ、とほくそえみたくなる。彼をここに足留めして、話し相手にしてやろうと思った。この若者にはなぜか三十間近の女優の貪婪な好奇心を刺激するものがあった。
「あの時、僕は七階にいたんです。あなたは一階の会長室で、先生とお逢いになっていたんでしょう?」
高鳥は興味深げにいった。
「そうよ。だから遭えなかったのね」
女優は普段であれば、はなも引っかけないような若者、大衆の一人である高鳥に対して、自分でも驚くほどの媚を示していた。退屈しのぎだと思っていたが、この若者といっしょにいるとなぜか恐怖が緩和されることに気付いてもいた。
「今日は、なぜ七階にいらしたんですか? 社会的な有名人の人々は一階で先生と面会するんですよ」
「今日は先生との予約がなかったの。つまり飛びこみね......」
女優は肥大した自我をちくりと刺されて、ざっくばらんな自分を急いで演出しようと努めた。有名女優の自尊心が傷ついていることを相手の若者に感づかれまいとしたのだ。
七階が庶民用であることを彼女は敏感に感じとっており、それを高鳥に指摘されることは大きな痛手であった。あの美人秘書の意地悪であることを彼女は信じて疑わなかった。
「急なご用件だったわけですね。残念ですね、先生はこのところものすごくお忙しいようなので......」
高鳥は女優の傷ついた自我を慰める呼吸を心得ているようであった。
「この正月は、元旦からほとんど事務所にお顔を出されないらしいです。無駄足になるかもしれないですね」
「え、本当......?」
正直に感情が顔に出てしまったようだった。
「そうすると、今日は先生、お帰りにならないかもしれないわけね」
「それはわかりませんけど。でも、なぜ連絡が先生とつかないんですかね」
高鳥は首を傾げていた。いかにも不審げな顔をしていた。
「そうでしょう!? あたくしもね、それがおかしいなと思ってるの。だってボスの居場所がわからない秘書なんて、変だと思うわ。そうでしょ?」
女優は百万の味方を得たような気分になり、一息に不満をまくしたてた。
「秘書の杉村さんて方、意地悪してわざと先生に遭わせまいとしているんじゃないかしら?」
「まさか。そんなことはないですよ」
「まあ、そうでしょうけどね」
さすがにはっと気づいて、女優はしぶしぶいった。
「雑誌か何か、読むものを捜してきましょうか?」
高鳥がいった。彼女は若者を引き留めるべく頭を絞った。なんとかして手なずけようと必死である。今にも、じゃあね、といって立ち去ってしまいそうなのだ。
「ううん。いいの......先生は物凄い霊力を持っていらっしゃるそうだけど、どうなのかしら?」
「どうなのかといいますと?」
高鳥はけげんそうに美しい女優を見返した。いかにも無邪気そうな顔つきをしていた。
「疑うわけじゃないけど、どの程度本当なのかしら? みなさん会員の方々は、先生の霊力はしょっ中ご覧になってるわけ?」
「いいえ......先生はご自分の超能力を人に見せることに積極的じゃないんです。話は聞きますけど、ほとんどの人は見てないようですね。僕もまだ、これはというものは見ていません」
高鳥は真面目くさって説明する。
「ふうん......でも、それはちょっとおかしいんじゃない。先生は会長でしょう? それなのに、会員の方々が会長の超能力も見ないで、信じているなんて......とっても変よ」
「直接見たわけじゃないですけど、凄い超能力らしいですよ。ミサイルのように空を飛ぶこともできるし、とにかく山を動かすほどの念力のパワーだそうです。病人なんかもどんどん治しちまうらしい。ただ自分の目で見たわけではないんで、こうだと自信をもっていえませんけど」
「失礼だけど、それはみんなお話だけでしょう? だれも先生の超能力を見てもいないのに信用するって、どういうことかしら? 自分の目で見なければ、本当かどうかわからないのじゃない?」
女優は故意に高鳥を挑発にかかっていた。自分のペースに巻きこんで、若者を熱くさせるのが目的なのだ。坊やのような高鳥を籠絡することには自信を持っていた。
「先生は会員が超能力に囚われてしまうことを嫌っておられるんです。超能力というのは囚われると術者になってしまうからです。そうなれば、通力を道具にして金もうけをする行者や拝み屋と変りがないといっておられます。超能力だけを振りまわしても、結局は見世物になっちゃいますからね」
「でも、超能力があるんだといくらいっても、口だけじゃしょうがないでしょう? 本当はそんなものはないんだといわれても仕方がないんじゃないかしら? 超能力は見世物じゃないといっても、元々ありもしないものを他人に見せないですむための口実といわれないかしら?」
「現にそういっている人はいますよ。元の会員で超能力なんか本当はないんだと失望して辞めていった人たちが沢山いるみたいです」
高鳥は挑発を感じないかのように平然としていた。小面憎いほどの冷静さだった。自分の師をけなされ、おとしめられて、かっとなるのではないかと思っただけに、とんだ期待はずれだった。
「だから......こんなこというと恐れ多いかもしれないけど、先生には本当は超能力なんかないんだ、と疑う気にならないのかしら、高鳥君は?」
「いや、そんなことはありません。僕は全然疑ってないです」
「あら、どうして? だって高鳥君、先生の超能力を見たことないんでしょ? なのにどうして信じられるの?」
女優はやや意地になっていった。相手の片意地さをゆるがそうと、ちょっと躍起になって言葉を重ねる。
「先生のお口がお上手だからなの? それとも先生を信仰しているから、なんでも先生のいうことは絶対なの? 高鳥君はそんな狂信者みたいに見えないけど......」
「先生は信用できる人だと思っているからですよ。それに先生は自分には凄い超能力があるなんて一言もいってません。とても謙虚で誠実な人で、偉そうなことは決して口にしません。だいたい他人の言葉を信じるというのは、その人が信用できる人間だという確信があるからでしょう? あれだけの若さで、大勢の人々の信頼を得ているというのは、大変なことですよ。そうじゃないですか?」
「ああ、結局、高鳥君は先生を信じきっているというわけね」
女優はあてはずれの多少の忌々しさを味わいながらいった。相手の若者はせっかくの挑発にも乗らず、落着き払って彼女を説得にかかっている。翻弄する楽しみははずされたが、高鳥を引き留める目的は達したようだった。彼女が少しずつ異をとなえれば、高鳥は彼女を説得すべく意を注がねばならないだろう。
それも面白い、と女優は思った。
「先生がいうことは、一から十まで何もかも無批判に信じて、鵜吞みにするってわけなのかしら? でも、高鳥君はとても頭がよさそうだし、インテレクチュアルだし、そんなこと信じられないわ。どこかの新興宗教の信者が教祖を狂信するのと、どこがどう違うのかしら?」
「そんなことはありませんよ。先生は矛盾するようなこと、無茶苦茶なことは決していいません。全て理にかなっていて、素直に納得できるんです。だから信頼の気持が起きるんですよ」
高鳥はびくともしなかった。まるで女優の心底を見抜いているかのようだった。心を掠めたその考えは彼女をひやりと冷たくさせた。
「それに、超能力の存在自体、僕は全く疑っていません。疑問の余地がないんです。どこのだれが、どんな権威が否定しても、その確信は揺ぎませんよ」
「だって自分の目で見ていないと、さっきいわなかった? そんなの狂信的じゃないかしら?」
女優は力を振り絞るようにして挑発を続けた。
「いや、そんなことはありません。超能力なんて、ごくありふれた力なんです」
「え......?」
「だって、僕にだって超能力があるんですからね。となれば、ちっとも超能力は珍しいものじゃないでしょう?」
と、高鳥はあどけないほど爽やかな笑みを見せながらいった。
「まさか! 噓でしょ、そんなこと......」
女優は嘲笑うようにいった。性分でついそうなってしまうのだった。猜疑と嘲笑が薄められているが、彼女の基本的なマナーと化していた。
「噓じゃありません」
「だって、まさか、あなたが......」
女優はいいながら、新しいタバコに火を点けようとして、テーブルに手を伸ばした。ライターがするりと指先から逃れるように滑った。テーブルの縁からライターが落ちそうになり、女優はあわててぶざまに腰を浮かし、摑もうとした。
ライターがまるで生物のように逃げようとしたのを感じて、女優はぞっと冷たいものを覚えた。細長いタバコをくわえて、ライターを発火させようとしたが、生ガスが吹きだしてくるだけで、火は点かなかった。フリントがなくなった手応えではないのに、まったく火花が散らないのである。
気取り屋の女優は顔が熱くなった。さすがに赤面こそしないが、これほどカッコの悪いことはなかった。
「ライターがこわれて......マッチお持ちかしら?」
女優は高鳥に目をやって、熱い恥辱の感覚に囚えられた。明らかに女優の演ずるぶざまさを面白がっていた。
「マッチは持っていません......でも、ライターはこわれていませんよ」
「こわれてるわよ、何度やっても点かないもの」
女優はやや荒っぽくなった口調でいった。高鳥にからかわれているのを感じ、癪でならなかった。ほんの子供に嘲弄されているような気がした。感情的に不安定な女優は些細なことで、すぐに揺れてくるのだ。
「点きますよ、今度は」
と、高鳥が断定するようにいった。その自信に押されて、女優は手にした宝石象嵌の黄金製ライターを鳴らした。
一度で明るく強い炎が燃え伸びた。高鳥のいう通りだった。
「なぜなの? なぜ火が点くとわかってたの?」
女優はライターを何度も点けたり消したりしながら詰問するようにいった。
「僕がそうさせたからですよ。ライターに火を点けるな、と命令したんです。つまり超能力があることを証明してみせたんです。あなたは僕の言葉を信じていないようだから」
「あなたが超能力でやったというの? そんなの、偶然だわ。ライターの調子がたまたま悪かったというだけじゃないの」
女優は嘲るようにいった。高鳥のいいぐさが気に障っていた。子供のくせに生意気な口をきくと思ったのだ。
「偶然だと思いますか?」
高鳥の目がきらりと光った。女優の手の中からライターが引き抜かれるように跳びだし、テーブルの上に転がった。
「あ......」
女優は凍りついたようになった。今のライターの動きが決して偶然などといってかたづけられるものでないことは明白であった。掌中から強引に引き抜かれるのをはっきりと感じたのだ。
胸許を飾るエメラルドのブローチの留め金がカチリとはずれ、ずるずると金の鎖ごと、女優の膝の上に滑り落ちた。生命あるもののようにひょいと跳んで、テーブルの上に乗ってしまう。
「これでも偶然ですか?」
高鳥の目は挑むようにキラキラ光った。
「こんなつまらないものでも、超能力ですよ。これでも僕のいうことは信じられませんか?」
目にはプライドを傷つけられた者の怒りがあった。女優の巧妙な挑発にまんまと乗せられてしまったのだ。
「わかったわ......」
女優は固唾を飲んだ。相手の腹立ちがわかると、逆に心が落着き、余裕が生じてきた。高鳥はまだ若い。ちょっとした挑発が有効なのだと知った。
「でも、その程度なのかしら、超能力って......まるで手品みたい。それじゃ、たいしたことはできないんじゃないの?」
「あなたは超能力の存在を疑っていたじゃないですか? だから、証明してみせてあげたんですよ」
「でも、その程度じゃ、あってもなくてもたいして変らないんじゃない? 超能力ってもっと素晴らしいものかと思ったわ」
「それはたまたま僕の超能力がちっぽけなものしかないからです。しかし、あるということがわかればいいでしょう」
潜めた怒りが感じられた。しかし、その怒りさえも新鮮で可愛らしい、と女優は余裕をもって考えた。所詮は子供なのだ。利口そうで気がきいているが、ナイーブでこそあれ少しもすれっからしたところがない。
「ご免ね、つまらないことをいって。せっかくあなたが超能力を見せてくれたのに......」
女優は出方を変え、優しい声音を出した。若者の傷ついたプライドをいたわり、愛撫してやる。
「先生の超能力はこんなものじゃないですよ。僕の超能力は手品みたいなものかもしれませんけどね。それでもって、先生の超能力を低く見ないで下さい。先生に申しわけないですから......」
「ううん。本当は驚いたのよ。でも、あたしって強情っ張りだから、すぐに口先だけで心にもないことをいうの。本当はとてもびっくりしちゃって、ほら、心臓がまだドキドキしてるわ」
女優は甘えるような声を出した。こうした演技はお手のものであった。まず相手を少しだけ傷つけ、それからたっぷりと謝意を表する。相手が世なれない男なら、あっさりとまるめこむ自信があった。爪でちょっぴり引っ搔いておき、それから舌で傷を舐めてやるのだ。この駆け引きで、世なれぬ男はすっかりいい気持になる。
高鳥の目から怒りが消え、恥しそうになった。腹を立てたことを後悔しているのであろう。仲直りするのは簡単だと思った。
「ライターを取ってくださる。また逃げだすような気がして恐いの」
彼女は臆面もない甘え声でいった。若者を手許に引き寄せ、虜にしてしまうだけの魅力があると自負する声だった。
「すみません。妙な悪戯をしてしまって」
高鳥はテーブルに歩み寄り、黄金のライターを取り上げた。女優に向って差し出す。
「もう一度超能力で動かして、あたくしの手に戻してみて下さる?」
「もうやりません。超能力を見世物にするなと、先生からきつくいわれているんです。つい調子に乗ってしまいました。勘弁してください」
高鳥はかすかに赤くなった。照れているようだった。
「あら、いいじゃないの。素晴らしい力をお持ちなのだもの......じゃ、タバコに火を点けて下さる?」
「はい......」
女優は相手のライターを持つ手に顔を寄せた。相手の手首に軽く自分の手を添える。むろん意識的にやったことだった。しっとりした手の触れ合う感触を相手に意識させてやる。
ライターの炎がかすかに揺れ動いているようだった。女優は上眼遣いに若者の顔を窺った。
「まだ心臓がドキドキしているわ......ひどい方。いつも超能力でこんなに人を驚かしていらっしゃるの?」
「いや、滅多にやりません。先生にきびしくいわれていますから......だから忘れて下さい。超能力なんて、本当にたいしたもんじゃないんですよ。大袈裟に吹聴してまわるような代物じゃありません。手品みたいなもので、最初はちょっと驚きますけど、所詮はそれだけのものですから......」
「いいえ、充分に驚かして下さったわ。ショックであたくし、幾晩も眠れなくなるかもしれなくてよ。そんなきれいなお顔をしているくせに、とても意地悪い方なのね」
「どうもすみませんでした。つい調子に乗りまして......僕の悪い癖なんです」
「いいえ、そう簡単には勘弁してあげません......ほら、心臓の動悸がまだおさまらないのよ、わかるでしょ?」
女優はライターを持つ高鳥の手を強く握りしめておいてから、ゆっくり手をはなした。高鳥は少し赤くなり、急いで手を引っこめた。女優の挑発的な眸から視線をそらしている。
「僕は、超能力なんて大仰に騒ぎたてるほどのものではないと証明したかっただけなんです。あなたが超能力を疑い、ひいては先生まで疑うようなことをおっしゃったからです」
若者は目をそむけたまま、少し怒ったような声でいった。しかし、女優はもう彼を恐れなかった。高鳥は丈と違う。丈のように神秘的でおそろしいような感じはまるでない。超能力は持ってはいるものの、年齢相応の可愛らしい少年だった。
「あら、あたくしは別に先生を疑ってなんかいませんよ。その証拠に、こうしてご相談に伺ってるじゃありませんか? あなたは何か誤解なさってるのよ。あたくしはただ超能力が本当に存在するのかどうかを問題にしただけ。そうしたらあなたがショッキングな方法で証明して下さったんじゃない?」
女優は笑った。
「早吞みこみして誤解なさらないで。なにもあなたが超能力であたくしを死ぬほどびっくりさせたなんて、先生にいいつける気持はありませんから」
「............」
「だから、このことはあなたとあたくしだけの秘密にしておきましょう、ね? 先生に知れたら怒られちゃうんでしょ?」
「あなたの目的は、先生に個人的な相談を受けることなんでしょう?」
高鳥は考え深そうにいった。もう立ち直ってしまっていた。
「だとしたら、先生の超能力を疑うようなことをいうのはおかしいんじゃないですか? それなら先生にもう一度遭う必要もないはずです。あなたは緊急に先生の力を借りるために来たんだから......どうもあなたのさっきからいっていることは辻褄が合わないですね......」
「あたしには名前があるのよ、元子というんだけど......」
「元子って、本名ですか?」
高鳥の目がきらりと瞬いて、女優の顔を窺った。彼を味方につけよう、と女優は決心していた。鋭敏で利口な若者であり、しかも超能力者である。きっと頼りになる、と素早い計算が働いていた。
「ええ、本名なの。芸名は仰々しくて好きじゃない。だから親しい人は本名で呼ぶわ、元子ちゃんって......」
「先生に大至急、会わなければならないんでしょう?」
若者は、女優の思惑にうまく乗ってこなかった。ここぞ、というところで体をかわされてしまうのである。摑みにくい相手であった。もしかしたら、自分の意図を読み取られているのかもしれない......それはひやりとさせる思念であった。
「そうなのよ。とても緊急な用事なの」
「すると、こんなところで先生を待って、時間を失っていていいんですか?」
「だって、しょうがないじゃない? 先生を捜して歩きまわるわけにはいかないでしょ。やっぱり先生のお帰りをここで待つしかないもの」
女優は少し不機嫌さを表わした。相手の若者が何を考えているのかと思った。
「いや、なにか......どこにも行くあてがないという風に見えたものですから。失礼ないい方かもしれませんけど」
「あたくし、そんな風に見えるかしら?」
「なにごとか、恐れているように見えます。何か恐ろしいものに追いかけられて、先生に助けを求めてきた......しかし、先生はいない。だから帰るに帰れない。どこへ行くあてどもなくて、ここにいるしかない」
「あなたにはそういう風に見えるの?」
女優はむっつりと冷やかにいった。図星をさされて、恐怖の冷寒が甦ってきた。思わずぶるっと身慄いする。
「すみません。また調子に乗りすぎました。あまりばかな失言をしないうちに、このへんで失礼します」
高鳥は顔から親しみを消して、頭を下げた。後悔と自己嫌悪の虜になったような表情であった。
「待って!」
女優は叫んだ。
「行かないで! ここにいてちょうだい、お願い......」
「しかし、さっきから僕は馬鹿みたいなことばかりいって、お客様に失礼ばかり働いているようで......」
高鳥は苦い声でいった。
「お願い、ここに座って! あたくし恐いのよ。高鳥君のいう通りなの。恐ろしいことがあって、あたくし大急ぎで先生に会いに来たの」
「やっぱりそうなんですか?」
「ええ、そうなの。高鳥君のいった通り、あたくしには行く所がない。助けが必要なの。高鳥君、あたくしに力を貸して下さる?」
女優は若者に手を差し伸べ、すがるようにいった。まんざら演技ばかりではなく、彼の心を動かしたようであった。
「しかし、力を貸すといっても、僕なんかでは......」
「いいの。あなたといっしょにいると、とても力強い気持になるわ。どうぞ座って......お願い」
若者は躊躇いがちに、女優の慫慂に従い、椅子に腰をおろした。困惑や猜疑、そして勝利感などの入りまじった表情であり、その複雑精緻な表情のたえまない変化が女優の心を惹きつけた。このハンサムな若者は天性の演技者のようであり、不思議な魅力の持主だった。
「あなたといると、まるで心をすっかり読まれているようで......もしかすると、あなたも先生のように人の心がお見通しなのかしら?」
女優は心を昂ぶらせながらいった。若者のそばに近寄りたかった。相手を庇護者に選ぼうとする女の本能が目覚め、無意識のうちに媚が発散していた。相手の男を性的な磁力で縛り、引き寄せようとする天性の武器であった。
「とんでもありません。僕には、先生のような巨大な超能力はありませんから......でも、あなたが怯えていることはよくわかるし、どこにも行くあてがなく、助けを求めていると最初に一目見た時からわかりました。先生が今日は一日中出ておられて、帰られないとなると大変だな、と思っていたんです」
高鳥はぎごちなく呟いた。女優の大きな瞳に凝視されて、いささか照れているようでもあった。彼女の美しく張った瞳は演技力も加えてますますきらめいた。若者を虜にせずにはおかないという意志が女優に気力を与え、全身から放つオーラを強く大きく発光させたようであった。
人気女優として映画界に君臨する自信が甦って、彼女をハロー効果で包みこんだ。みるみる眼前の女優が何倍も美しさの眩惑を増すのを知って、若者ははっとしたようだった。圧倒されたような表情が顔にへばりついていた。
丈には効かないかもしれないが、この高鳥という青年になら効果がある、と女優が計算した通りであった。若者は好奇心が強く、女優の手管に乗りやすいタイプだったのだ。
「お願い、高鳥君。あたくしを助けて。あたくしは今つけ狙われているの」
「だれに狙われているんですか?」
高鳥の顔に緊張が白っぽく浮かびあがった。若者らしい闘争心の表出であった。今までの愛想のよさが拭ったように消え失せてしまった。反応の速さもこの若者の特質といえた。切り換えが早いのだ。鈍重なところはひとかけらもない。
「ちょっと、一口ではいえないんだけど、とても怖い相手......」
「ヤクザとかそういうのじゃないでしょう?」
高鳥の直感力の鋭さはたいしたものであった。掌を差すようだ。
「偏執狂とか、気違いじみた人間につきまとわれているんじゃないですか? 異常者につきまとわれるのは恐ろしい経験ですからね」
「え、変質的な人間には違いないんですけど......」
女優は、ハンサムな若者の顔が突如顕わした骨太な闘争心に驚き、同時に頼もしさも覚えた。見かけ通りの可愛い少年ではないらしい。
「先生に相談にきたとなると、もっと気味の悪い奴が相手なのかな? 悪魔的な力を持った化物みたいな奴につきまとわれている......それでどこにも行くあてがなくなった。そうでしょう?」
「正解だわ。でも、なぜそんなことがわかったのかしら?」
女優は目を大きく瞠った。眼前の美少年が異った存在になった。彼女の高鳥に対する評価が変化したのだった。
「超能力かもしれません......で、その悪魔じみた奴は、どうやってあなたを脅しているんですか?」
「本当に悪魔みたいな奴なの。人の心の中はなんでも見抜いてしまうし、心を縛りあげて、恐ろしい厭なことをさせようとするの......わかるかしら? 本当にそんな恐ろしい無気味な人間がいるのね。あたくしがそんな悪魔じみた奴の所へ個人相談に行ったりしたのが馬鹿だったのだけど......」
「それは、先生に相談する前ですか、後ですか?」
高鳥は興奮を抑えつけた声音で尋ねた。
「それが、後なの......先生に警告されて、絶対に行くなといわれていたんだけど、つい行ってしまって。何もかも先生のいった通りだった。相手につきまとわれて、逃げまわるだけで精一杯なの」
女優は体がこまかく慄えてきた。美しい女が恐怖に囚えられるさまを見るのは、ひどく刺激的なものであった。
「江田四朗だ」
と、高鳥はいった。自分の声で更に興奮を昂まらせたようだった。
「そう! その江田って奴! でも、なぜあなたそれをご存知なの!?」
女優は愕きに揺れた。信じられなかった。若者が超能力という神秘的な力の持主であることが改めて畏怖となり心に覆いかぶさってきた。ぞっと全身が鳥肌立ってしまう。
「江田四朗は先生の敵です。だから、わかったんです。江田は幻魔なんですよ。先生が制めたのに、なぜ江田なんかの所へ行ったりしたんですか?」
「先生が予言した通りになってしまったの......自分でもどうにもならなかったのよ。まるで目に見えないロープで引かれているみたいに江田の所へ行ってしまって......」
彼女の顔は蒼ざめ、血の気がなくなり、そのためか年齢並みの落着きが失せて、稚い感じが強まってきた。恐怖は人間を幼稚に変えてしまうと高鳥は知った。
「なぜそんな馬鹿なことを......それじゃ、先生にせっかく相談しても、なんにもならないじゃないですか!?」
「後悔してるわ。先生にひどいことを感情にまかせていったことも後悔しているの。でも、やっとのことで逃げだしてきたのよ」
喋ると余計に怖ろしくなったようである。女優は目に見えるほど震えていた。
「それで、江田に追いかけられているんですか? でも、どうして警察に助けを求めないんです?」
「駄目よ。人気商売だし、週刊誌に書きたてられてしまうから......それに警察では相手にしてくれないわ。あたくしのお友達がみんな江田のいうなりになって、あたしを江田の所へ連れ戻そうとするんですもの」
「友達がもう江田の奴隷にされているんですか!? そんなひどい有様なんですか......」
「そうなの。あたくし、もう行く所がないの。江田があたくしをどうやって連れ戻すかわからないんですもの。自宅にもいられないし、ホテルにだって一人では怖くていられない......もうどうしようもなくて、ここへやって来たの」
「江田が先生の宿敵だってことは知ってましたが......しかし、先生に遭えなかったら、どうするつもりなんですか? 先生が帰ってこなかったら、いつまでもここで待つんですか? 正月の間は午後九時で閉めるんですよ。そうすればみんな帰って、だれもいなくなっちまうし......」
「そうなの?」
女優は顔を曇らせて手首の時計を見た。午後八時にほど近くなっていた。あと一時間余りだった。
「それまで待つつもりだけど。先生がもしお帰りにならなかったら......」
「どこか安全な場所はないんですか? 親しい友達の家かどこかに?」
「だめよ。江田の手がまわっていたらと思うと、恐ろしくて......思いがけない人まで江田の手先にいつの間にか変ってしまっているんだから!」
女優は発作的に手を伸ばして、高鳥の腕に置いた。
「高鳥君、お願い! もし先生がお帰りにならなかったら、今夜あたくしの護衛になっていただけないかしら? 先生の代りにあたくしを護って! お願いよ!」
「だ、だけど、僕は、そんな先生の代りなんて......」
高鳥は戸惑ったが、美しい女の懇願にはすでに充分心を動かされていた。女優は懸命の力をこめて、若者の腕を握り締め、揺った。それは若者の英雄心を揺らさずにはおかない力を秘めていた。男は、異性の前で雄性を示さずにはいられぬ衝動に脆いものだ。
高鳥の目に大胆で荒々しい光が宿った。それはこの若者の本質的な冒険心の表出に他ならないようであった。
「高鳥君も超能力者でしょう? 素晴らしい念力をお持ちじゃないの......その力であたくしを護って」
「僕の力などたいしたものじゃありません」
しかし、若者は歳上の美しい女のそそのかしに乗っていた。
「それは先生に比べてのことでしょ? 高鳥君の力だってたいしたものだわ。先生以外の他のだれにもできないことですもの。あなたといっしょなら、あたくしちっとも恐くないわ」
女優は高鳥を捉えた手を放そうとしなかった。
「僕にできるだけのことはしますけど......でも本当に僕なんかでもいいんですか? 他に頼りになる人はいないんですか?」
「他にはいないわ。あなただけが頼りよ」
若者にとり、このような言葉を歳上の美しい女から聞くのはまたとない甘美な経験であった。しかも相手はただの女性ではない。美人女優として日本中に知られた、魅力的な存在であった。これほど英雄心と虚栄心をくすぐるものはなかった。
「もし、先生がお帰りにならなければ......しかし、ここで夜明かしするわけにはいかないんじゃないですか? ビルのシャッターを閉めてしまいますから」
若者の声音には躊躇があった。不安もあって平静ではいられなくなったのだ。しかし、冒険の期待が胸を高鳴らせる興奮を誘った。これまでに、かくも刺激的な興奮は味わったこともないような気がした。
「あたくしの部屋へ来てちょうだい。四谷のマンションなの。詳しいことはその時にお話するつもり。いいでしょ?」
「しかし、先生にお断りしなくてもいいかなあ......」
「だって、お帰りにならなければ、どうしようもないでしょう?」
女優は高鳥の示している躊躇を力づくでも押し切りたいという欲望に駆られた。
「ビルを閉めてしまうのに、ここで夜明かしするわけにもいかないし。明日、先生に連絡がついたら、あたくしから先生に説明するわ。だから高鳥君は心配しないで。あなたは人助けをするんですもの。疚しいことなんか少しもないはずよ......
だって、江田って先生の宿敵だって、さっきあなたおっしゃったじゃない? 先生の宿敵からあたくしを護ってくださるのに、そんなに気兼ねする必要ないわ。だって、そうでしょう?」
「先生が不在ならしょうがないな」
と、若者は自らにいい聞かせるように呟いた。
「わかりました。できるだけのことはしますからまかせといて下さい!」
高鳥は一度決心すると、にわかに自信を増してきた。美しい女を保護するというヒロイズムで精神が高揚してきたのだ。
「でも、秘書の杉村さんにだけ話しときましょうか? 先生と連絡がつくかもしれない」
「あの秘書はやめて! あたくしから直接、先生にお話するから!」
女優は自分でもはっとするほど烈しい語調であった。
「そんなに嫌いなんですか?」
高鳥はあっけにとられていた。
「でも、杉村さんはそんなにわけのわからない女じゃないですよ。他人に意地悪するような人じゃありません」
「気が合わないの。きっと合性が悪いのね......」
彼女は昂ぶりを抑え、トーンを下げていった。
「この間、あたくしが先生に失礼なことをいったと思いこんで、あの人はあたくしを怒っているみたい。感じでそれがわかるの」
「そんな失礼なことをしたんですか?」
「あたくしって短気なものだから、つい相手構わずポンポンいっちゃうところがあるのね。でも、先生は別に怒っていないみたいだった。秘書の人がかえってツンケンしてる......きっと恨んでるのよ」
「そんなことないですよ。杉村さんは気性のさっぱりした女ですから......」
「彼女に憧れてるのね......? とにかく、彼女にいうのはやめて! 先生にはあたくしから直接報告したいの」
女優はきっぱりといった。高鳥は彼らしくもなく、曖昧な顔をして黙っていた。女優が二人の間に秘密を造りあげようと腐心していることには気づいていないようだった。二人きりの秘密を造ってしまえば、若者は否応なしに彼女の側に加担するようになる。女優は幾多の恋の駆引がもたらした狡智を身につけていた。若者の英雄心や反逆心を巧妙にそそりたて、彼の本来属する場所から離反させることは、彼女に喜びをもたらした。
この美しい若者を手管を弄して引きこみ、思いのままに動かすことは、女優にぞくぞくする魔性の楽しみを約束するものだったのである。
5
午後九時を過ぎても、東丈はGENKENオフィスへ帰ってこなかった。連絡もまったくない。
正月の間は、午後九時でビル全体の出入口にシャッターが降りる。それを知っている丈が定刻以降に帰ってくるとは思えなかったし、杉村由紀も丈の帰りを待って居残ることはできなかった。シャッターをおろされては、朝まで事務所で夜明かしをしなければならない。
杉並の丈の自宅に電話を入れたが、三千子が出て、丈からなんの音沙汰もないと聞かされた。
「気になさらないで、杉村さん」
三千子は杉村由紀を慰めた。
「この前もお話したように、丈は祈っているのだと思うんです。これからもさまざまな壁に突き当るでしょうし、なんとかして丈はそれらの壁を超えていかなければならないわけでしょう? 傍から援助することはできませんし、ただ見守っているしかないんですね。丈が壁を突破することを信じて、見守ってやることしか、こちらにはできない......女って損ですわね」
「こちらでヤキモキしても、どうにもなりませんものね」
と、杉村由紀は溜息をつきながらいった。
「本人よりも杉村さんの方が辛いということがあるかもしれません......」
それは三千子の偽らざる気持でもあるのだろう、と由紀は思った。
「もし、よろしかったら、こちらへ来ていただいて、丈の帰りをお待ち下さいます?」
「ありがとうございます。でも、いろいろ片付物が溜まっておりますので......」
父親の東龍介が三日になって帰宅していることを知っている由紀は、三千子の勧めを辞退せざるを得なかった。
それにしても、丈はいったいどこで何をしているのか。三千子も知らぬとあれば、由紀には見当のつけようがなかった。木村市枝の弟の明雄なら丈の居場所を捜しだすことができるかもしれない。
しかし、丈が三千子にも知らせずにいるのであれば、それも出過ぎた真似とはばかられた。
三千子は、丈が祈っているのではないかと推測していたが、どこへ出かけて、どのように祈っているのか、由紀には想像もつかなかった。三千子のいう通り、もどかしい気持を抑えて、見守るほかはなさそうである。
丈との間に格別の齟齬をきたしたわけではないと無理に考え、彼女はわずかに安心感を得ようとした。姉の三千子ですら、黙って見守るしかないといっているのである。

由紀もそうするしかなかった。しかし、とろ火であぶられているような堪まらない焦燥だ。正月などという気分はまったくしない。
おかげで、七階の応接室で待っている女優のことなど、念頭からすっかり消え失せていた。好きなだけ待てばよいなどと、冷淡な気分でいたからだろう。
「帰られたみたいですよ」
と、秘書見習の夏本幸代がいった。冷静で慎重なタイプで、野沢緑とはまったく肌合いが異る。怜悧な瞳をしている。へんに落着いていて、悪く大人びていると嫌う向きもあるようだ。何を考えているのかわからないという批評もあるが、杉村由紀は決して嫌いではない。慎重で動じないのは夏本幸代の美質だ。少女らしさはないかもしれないが、彼女が秘書室にいると信頼感がある。由紀がもっとも高い評価を与えている秘書見習である。
「知らなかった......いつ帰ったの?」
由紀は完全に忘れていたことにちょっぴり疚しさを覚えた。
「あんまりおとなしいものだから、けろりと忘れてしまったわ」
「国際のハイヤーを呼んで帰ったようです。でも変だな......」
と、夏本幸代が呟く。
「変って?」
「あの〝クレイジー・キャット〟があまりにもおとなしすぎたんじゃないかと思って。しょっ中、先生は帰ったかって階下へうるさく尋いてくるんじゃないかと思ってたんですけどね」
「そういえば、そうね、夏本さんのいう通りだわ。あのうるさ方が静かすぎたものね」
杉村由紀はにわかに気になってきた。
「待ち呆けで怒ってなかったのかな?」
「全然怒ってなかったみたいですよ。それどころか、へんに愛想がよかったんですって」
「へんねえ......そんなことって考えられない」
「ずっと高鳥君がお相手をしてたんですって。それでご機嫌がよかったんじゃないかしら。彼って如才ないでしょ。愛想がよくて親切だし......彼女がタバコを切らしたら、わざわざ駅の近くの外国タバコの売店まで行って買ってきてあげたんですって」
夏本幸代は一階にいても、七階で何が進行しているかちゃんと知っていた。もっともそれはこの娘だけに限られたことではなかった。
「それで彼女、すっかりおとなしくなったわけなの?」
由紀は納得した。高鳥は天才的な社交家で、うるさ方の我儘な女優相手にはおあつらえ向きといってもよかった。
「高鳥君、ハイヤーを呼んであげたり、大サーヴィスしたみたい。七階ですっかり評判になっていますよ。あのくらいの若い男の子って、歳上の美女に弱いのかしら?」
夏本幸代は面白そうに笑った。この娘にも女の意地悪さがあることを、杉村由紀はよく知っている。
「道理で、緑ちゃんが落着かずに苛々してました。やっぱり気になるのね」
「野沢さんはどうしたの?」
今更のように由紀は野沢緑の少年のように細っこい姿が見えないのに気がついた。
「高鳥さんの所じゃないですか。あんまりやいのやいのいわない方がいいと思うんですけど」
夏本幸代が意地悪さを押し隠してさりげなく呟いた。背の高い平山圭子が目を伏せて、後かたづけをしている。聞いてはいるが、何も感想は述べなかった。控え目なのが圭子の美質だが、高鳥にさほど関心がないせいかもしれない。平山圭子の念頭にはいつも丈しかない。由紀でさえ、その真摯さには時折はうんざりし、時には嫉ましくなるほどだ。
「高鳥君はそうでもないんでしょ?」
「彼はうまいですもの。一人に対して熱々になったりしないでしょ。博愛主義者って感じ。物凄くもてるから、自然にそうなるんだと思うけど......でも時々、女の子の方が夢中になりすぎて具合が悪くなることもあるみたい。彼、高校時代から超スターだったみたいですよ。噂ですけど」
「でも、彼はプレイボーイじゃないんじゃない?」
「そうでもないみたい。緑ちゃん、彼のアパートへ遊びに行ったんですって」
「でも、一人きりじゃないんでしょ? 高鳥君のグループといっしょなのじゃない?」
「一人で行ったみたいですよ。緑ちゃん、友だちで同棲してる人がいるんですって。それにあこがれてるんじゃないかしら?」
「もうそんなに進行してるの?」
夏本幸代は目をきらめかせて頷いた。沈着冷静で慎重派というタイプだが、心の中身はおのずと異るものがあるのであろう。
「高鳥君はその気じゃないらしいですけど。彼は深入りするような男の子じゃないでしょう?」
「夏本さん、どうしてそんなによくご存知なの?」
「緑ちゃんが話してくれたんです。彼女、一階の方は辞めて、七階に戻るんだっていってました。高鳥君のそばにいたいんですってよ」
やはり思っていた通りだ、と杉村由紀は思った。しかし、由紀が見る限り、高鳥は野沢緑に特別な関心は持っていない。緑の一方的な思いこみだろう。
若い男女がいるのだから、この種の問題はいくらも起こる余地はあるが、丈が知ったらどう思うであろうか。ストイックな丈には好ましくないことに違いないのだ。由紀が参加するしばらく前にも、丈が会を大掃除したことがあると聞いている。会の中の浮わついた恋愛沙汰は許さないというきびしさが丈にあることは確かであろう。
しかし、野沢緑にとっては丈の思惑は、なんの制約にもならないはずだ。緑の視野にもはや丈の存在は入っていないかもしれない。一階の秘書室を辞めて七階の事務局へ戻るのは緑の自由だが、その先は容易ではなかろうと由紀は見ている。
おそらく、高鳥は緑の求愛など歯牙にもかけず、退けるだろうからだ。恋愛などよりも、高鳥は丈の思想性や超能力に強い関心を抱いている。彼を燃えさせるのは異性などでは決してないだろう。丈の備えている吸引力は、異性のそれよりも、高鳥にしてみれば何百倍何千倍も強いのだろう。
高鳥が野沢緑に興味を抱いたとすれば、それは彼女が丈とともに一階の秘書室にいるせいではないか、と由紀は推察していた。緑が丈の身近にいればこそ、丈に関する情報も取れる。それが目的で高鳥は彼女に接近したのであって、七階に上ってきた緑は高鳥の関心をつなぎとめる資格をみずから捨ててしまうことになる。
馬鹿な娘だ、と由紀は苦々しい気分になった。もちろん、それだけではない。丈の秘書になる機会をあっさりと捨てる緑が不可解である。そんなことであれば、会に入る必要もなかったのではないか。
「まあ、好きなようにすればいいでしょう」
杉村由紀は素気なくいった。心が白々と醒めてしまっていた。
「一階へ来たい人はいくらでもいますもんね」
と、夏本幸代も不快さを隠さずにいった。
「一階の情報が、七階へ筒抜けになっちゃうので、おかしいなと思っていたんですよ。緑ちゃんて、高鳥君の秘密情報部員みたい」
「七階へ上ってしまえば、もうすんだことよ」
と、由紀はさりげなくいった。
「そのことは、もういわないことにしましょう」
が、夏本幸代の目にも、高鳥が油断のならぬ存在に映っていたことを知って、頼もしい気分になった。もちろん高鳥には悪意はないであろう。抜け目のない機敏さをただ発揮しただけかもしれない。丈に関する情報を少しでも入手したいのはだれでも同じだ。ただ高鳥には機略と実行力が備わっているのである。
緑が七階へ去って情報員を失ったら、高鳥は次にどういう手を打つだろうか、と由紀は少なからず興味が動くのを覚えた。
「先生はどうなさったんでしょう?」
そんなことより、という気持を露わにのぞかせて、平山圭子がいった。不安の色が目にあった。このほっそりした長身の美少女は、最初期からの丈の崇拝者だった。他の帰依者たちの多くが去った後も、圭子だけは変らない。むろん父親の平山が丈のもっとも強力な後援者ということもあるだろうが、杉村由紀はおどろくほどの芯の強さ、誠実さを圭子の中に見出していた。かといって、狂信的というのでもない。思いこみの強さは当然あるだろうが、丈はそれを女の強さだと評したことがある。
圭子のようにおっとりした控え目な若い女性が、裡に何物にも侵蝕されない強靱さを秘めているのは驚異であった。圭子の、丈を信ずる心の強さはだれにもひけをとらないものがあった。
圭子を見ていると、由紀でさえかなわないという気持になってしまう。絶対に揺がない芯のようなものが彼女の裡にあるらしいのだ。丈に帰依し、そして徐々に信がゆるみ、結局離反して行った少なからぬ数の人々を考えると、信ずるということが頭で考えるほど生易しいものでないということがはっきりわかる。
ひたむきな信望をささげていた帰依者たちの心が醒めるについては、さまざまな原因があるだろうが、狂信といいたいほど熱狂的な帰依を誇示していた者たちが、突如憑き物が落ちたように白々しくなり、掌返して大批判を始め、離反するさまを見ると心が冷たくなってしまう。
いつ自分の心にも、その奇妙な侵蝕が始まるかと冷風の感触に体を這われるのである。絶対にそうはならないと断言できない弱さが自分にはある。侵蝕と変化への恐れを退けてしまうことは不可能なのかもしれない。
──なぜ、そんなにひたむきに彼を信じていられるの? と尋きたい気持がこみあげてくる。
しかし、平山圭子にとっては、丈を信ずるのは呼吸をするように自然なものなのかもしれなかった。由紀も自分が丈を離れる時があるいは来るのではないか、と危惧するだけ、確信に脆さを持っているように思える。
そんなことはありえない、と体が冷えるが、狂信的帰依者の豹変ぶりを見ていると、全ての可能性を排除するほどの信念が自分にあるかどうか、しだいに疑わしくなってくる。
それとも、圭子自身、心の揺れがあっても、それを人目に見せないだけなのかもしれない。自分だけが脆弱な信念しか持ち合わせないと感じるのは、実に心細いものであった。
「先生は、どこへ行かれたのでしょうか?」
その平山圭子が不安を抑えきれぬ面持でいった。
「こんなことって、今までに一度もなかったし......お正月になってから突然でしょう......」
「先生のお姉様もご存知なかったわ。だから、先生お一人のお考えでなされていることでしょうね」
「あたし、とっても気になるんです。郁江さんのことで先生は心を痛められていて、そのせいじゃないでしょうか。それなのに、あたし、なんにもしてあげられないと思うと、居ても立ってもいられない気持がして......」
圭子は目をしばたきながら、抑えた声音で呟いた。
「それはお姉様もおっしゃっていたし、だれしもみな同じ気持なのよ。本人よりも傍で見ている者の方が辛いのかもしれないって......でも、先生はこの後も、辛いこと苦しいことを数えきれないほど迎えなければならないだろうって、お姉様はおっしゃってた。それはきっとあたくしたちも同じだし、堪えて行くというよりも克服していかなければならないことなのね」
恰好よすぎるいい方かもしれないと思ったが、他にいいようがなかった。
「他人のために苦しい思いをするのは、おそらく世の中で一番辛い経験だわ。だって、自分のことなら辛抱するし、我慢もできるけれども、他人のための心配は始末が悪いものでしょう。諦めてしまうことができないから......」
「でも、他人のための心配どころか、自分の先生のことを気遣いもしなくなったら、もうおしまいですね」
圭子の眸には潜めた怒りがあった。穏和な彼女には珍しいことであった。野沢緑の無責任さに対して、よほど腹に据えかねるものがあるのだろう。
「人間は心が一つのことで占領されると、同時に他のことは心配できなくなってしまうのよ。恋は盲目っていうじゃないの」
またしてももっともらしいことを、と思わぬでもないが、真実でもあるし、他にいいようが見出せなかった。
「でも、不謹慎です!」
きつい声音でいい、平山圭子は自分でも驚いて目を瞬かせた。
「確かにそうね。でも、それはいわない方がいいと思うわ」
と、由紀は穏やかにいった。
「人は人、我は我よ......野沢さんが後で後悔するにしろしないにしろ、とがめだてすることじゃないでしょう。自分の責任でなす限りは、制約を加えるべき事柄じゃないもの。あたくしたちは不謹慎と思うけれども、野沢さん本人は真面目なのかもしれないでしょ」
「でも、自分から望んで、どうしてもといって一階に来たんですから......」
「そして気が変ったのよ。とにかく出て行きたいというのを止めることはできないものね。いいじゃない、圭ちゃん。あなたは一生懸命やっているんだし」
「でも、とっても腹が立つんです!」
平山圭子は珍しく感情的になり、目に怒りの涙を溜めていた。野沢緑が秘書の座をあっさり捨て去ることにより、圭子自身の人格まで否定されたように感じて傷ついていることがよくわかった。ひいては東丈までを蔑ろにされた屈辱を覚えているのだ。
「気にしないことね。こんなことぐらいで腹を立てていたら、この先怒り疲れちゃうわよ」
由紀はわざと軽くいった。彼女自身、腹立たしくないでもないが、やはり圭子のように真正直に感情的にはならない。
「気疲れして、気が立っているのよ。お正月早々からカッカしていたらこの一年が思いやられるわ。もっとのんびりとして行きましょう。心配というのは少しも役に立たないものだから......」
「では、杉村さんはなにも心配なさらないんですか?」
切口上というのではないが、圭子は不審そうにいった。
「先生のことが少しも気にならないのですか?」
「もちろん気になるわよ、圭ちゃん。でも、あたくしは物事を悲観的に取らないことにしているの。だって、人生、あまり気疲れしたくないもの。楽な明るい気持で生きる方がいいでしょう?」
「でも......どうしても心配になっちゃうんです。先生の身に何かあったんじゃないかと思うと、不安で居たたまれなくなるんです」
圭子は抗議するようにいった。
「それはあたくしも同じよ。でも、もの事を悲観的に見始めたらキリがないということ。そのことはお姉様もおっしゃってたわ。先生は今苦しい闘いをしていらっしゃる。先生は自分の行くべき道を知ろうとして努力なさっているのだと思うの。道をさえぎる障害や苦難は限りなく出てくるでしょう。今のあたくしたちには想像もつかない苦しい道だと思うのね。でも、先生はそれを乗り越える方法を探していらっしゃるの。
だからこそ、今のあたくしたちにとっては理解できない行動もあるはずだし、今後はもっと増えてくるかもしれない。それは、先生の高い次元での闘いであって、傍のあたくしたちにはなすすべもない。どうしてあげることもできない......そうお姉様はおっしゃってた。
だから、あたくしたちは自分たちにできるだけのことをしなければならないでしょう? いたずらに心配したり、沈みこんでくよくよしていても、なんの役にも立たないもの。結局は自分にできることを精一杯果すことしかないんじゃないかしら。
だから、あたくしたちまで事務所を陰々滅々の雰囲気にして、ひたすら心配していても得るところがないと思うんだけど......いつだって明るい雰囲気でいるに越したことはないのよ。でも、あたくしの考えって楽観的にすぎるかしら?
いつも暗い湿っぽい雰囲気でいて、溜息をついたり、そっと泪を拭ったりしている方が、先生がお帰りになった時、喜ぶかしら? みんなが自分のことをこんなに心配してくれていたのかって......圭ちゃんだったらどう思う? 事務所が沈みこんで、メソメソしてる方がいい?」
「さあ......陰気なのも厭かもしれません。だって自分も悩み事がいっぱいあったら、もう鬱陶しいかも......」
圭子は首をかしげながらいった。戸惑ってしまったようだった。
「それとも、圭ちゃんが先生だったら、事務所が陽気に朗らかにわいわいやっていたら、面白くなくて腹が立つかしら? 人がこんなに悩んでるのに、人の気も知らないで、なんて鈍感な身勝手な奴らだって......?」
「そうですね。あたしだったら、そう思って少し腹が立つかもしれません。」
と、圭子は正直にいった。夏本幸代は無言で聞いている。自分の考えは聞かれないかぎり口にしない女の子だ。何を考えているのかわからないと悪口をいわれている。
「でも、それはあたしの心が狭いからで、先生はそう思わないかもしれませんけど......やっぱり事務所がお通夜みたいに陰気でじめじめしていたら、先生も気分が悪いでしょうね。あたしなんか、人に自分のことを心配されるのが厭でほっといてもらいたい方なんですけど、きっと身勝手なんですね。あんまり自分の悩みに知らん顔をされるのも不愉快で、結局、ほどほどってところかしら、落着けるのは......」
単純すぎるような発見に驚いたような顔をしていた。
「結局は、あたくしたちが先生を信じるとはどういうことなのか......それに還元されるのじゃないかな」
「それはどういうことですか?」
「口で信じるといいきることは簡単ということよ。なんのエネルギーもいらないんですもの。でも、本当に信じるとなったら、そうは行かないわよね。心というのはいつも揺れ動いているのだから。調子のいい時はあっさりと信じていられても、猜疑心が雲のように湧いてきた時は、そうはいかないでしょ。疑う気持を払いのけて、信じきるというのはたやすいことじゃないわよ。
もしかしたら......という疑惑は強酸のように心を侵略して、ボロボロにしてしまうでしょう?
GENKENが結成されて以来、沢山の人々が会を離れていったわけだけど、結局は信じきることができなかった、自分の猜疑心に負けたということだと思うのね。その人たちは、先生のおっしゃること、なさることはおかしいんじゃないかと疑心を湧きたたせて、もう信じられない、と先生を否定するところまで行きついたわけでしょう。なぜ、そうなったと思う?」
「あたしは絶対に先生を信じています! 決して疑ったことはありません!」
と、平山圭子は頰を鳥肌立たせて叫ぶようにいった。
「先生のことを心配しているだけなんです! おかしいんじゃないかなんて、思ったこともありません!」
「圭子さんのことをいっているわけじゃないのよ。あなたが深い信を持っていることはわかっているわ」
由紀はなぜこんな話になってしまったのだろうと疑いながらいった。この場の成行だ。しかし、丈の不可解な行動でみながこれだけ心が揺れ動いている事実は覆いかくせないし、またそうするべきではない。丈が不在とあれば、秘書室だけでも心を固めておくことは必要だろう。
自分なりの考えを、圭子たちに話しておくべきかもしれない。
「圭ちゃんたちは、もちろん、先生の考えや行動がわからないといって会を辞めていった人たちが多いってことは知っているわね。それはたとえば、先生が超能力を持っているのに人に見せないことで、信じられなくなり、超能力なんて存在しないんだ、あるいは先生は口先ばかりで超能力なんか持っていないんだ、とひどく失望して悪口をいいながら辞めるということになるわけね。
そしてまた、先生が会を拡大させる方針を取らないということだけを捉えて、先生はたいした人じゃない、これっぱかりの組織に満足してしまうなんて、所詮は世界を救う救世主の器じゃない、と断定して離れて行った人も少なくないでしょう。あるいは、来る者を拒むやり方は救世主ならしないはずだと判断して辞めた人たちもかなりいると思うの。
その人たちは、結局、自分の期待と先生が合致しなかったから、先生を否定したと思うのね。つまり、救世主ならかくあれかし、という幻想が最初にあって、それにあてはまらないから、あんなものはだめだということになる。巨大な霊力を持った教祖のイメージを持ち、病人をどんどん治したり、水の上を歩いたり山を移したりという奇蹟を求めていれば、先生の方針は期待に背くでしょう。
巨大教団で世界を席巻し、組織の力で世界を制するというやり方こそ、救世主のなすべき業だと思いこんでいる人からすれば、会員を制限して、徹底的な不拡大方針を取る先生は完全に落第ということになるでしょう?
人間にとっては、常に現実を認めることよりも、幻想が優先されるといういい証拠じゃないかしら。そういう人たちは先生の考えや行為が理解できないから否定する。つまり自分の貧しい理解力の限界を超えたものは否定してしまうのね。
蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るという諺があるでしょう。自分なりの基準は人間、だれしも持っているわけだけれども、自分の判断の基準が最高のものだとはだれにもいえないはずだわ。小さな子供は、成熟した大人の判断の深さが理解できないし、目先のことしか見えない浅墓な人間は、先見性のある人を誤解しやすいといえると思うのよ。
狭い了見で、大きな広い心を持った人を計るのは間違いの元だわ。つまり幼い子供からすれば、たとえば自分に教育を授けようとする大人は、押しつけがましく不愉快な存在だと思うのじゃないかな。その場かぎりの小さな欲望を満足させることだけを求める子供は、それを妨害する大人は理由を問わず理解不能の否定すべき存在になるでしょう。
他人を自分の狭い了見で、しかも絶対正しいと信じているちっぽけな価値判断の基準で推し測ろうとする人間は、必ず間違いを犯すんじゃないかしら。人を誤解するというのは、蟹が自分の甲羅に似せて穴を掘るのと同じ発想から生じるんだとあたくしは思うの。人間は自分より大きなサイズの他人を計りにくいのよね。せせこましい固定観念、間違った通俗的な既成概念の虜になっていれば、それを破る者は狂人か背徳者として非難したくなるでしょう。コペルニクスとかケプラーとかガリレイ、そうした社会的偏見の犠牲者は無数に存在するわ。
つまり、自分の判断力を絶対と過信してしまえば、相手の人間的なサイズが大きければ大きいほど誤解も大きくなるはずなの。もしもその人が素晴らしい先見性や判断力、広い心の持主で、先の先まで見通して、最善と判断した行為をとっても、目先しか見えない小さな心の持主は理解できず、相手を否定しようとするでしょう。小さな子供は、大人のやることを理解困難なのよ。
先生のやることが理解できないから、あんなのはダメだ、ニセモノだといって辞めていった人たちは、もしかしたら自分の考えの方が浅くて間違っているのかもしれないと考えたことは一度もなかったのかしら?
あたくしたちが先生を信じる、というならば、そうした人々と同じ間違いを決して犯してはならないはずだわ。そうじゃないかしら?」
「............」
平山圭子も、夏本幸代も無言で聞いていた。
ふと由紀は若い娘たちに向って自分が得々と説教しているような気がして後ろめたくなった。彼女が若い人々に対して指導的な立場を丈からおおせつかったのは、最初は気苦労のたねであった。有能な秘書であっても、由紀は後輩を持ったことがない。秘書見習として仕事を憶えようとする圭子ら若い娘たちに技術だけを教えるのは、丈から釘を刺されているので、控えなければならない。
技術ではないのだ、と丈はいった。娘たちに知ってほしいのは、杉村由紀の持っている忠誠心や誠意、正確な判断力などであって、単に仕事を巧みに技術的思考でこなしていくことではない。秘書は、東丈という人間を代表していることを彼女たちに教えてやってほしい、と丈は由紀に頼みこんだ。
自分の性格からして、後進を指導するのは必ずしも適任ではないと思っていたが、他ならぬ丈の依頼であれば無下に断われなかった。
しかし、圭子たちにあれこれと秘書心得をしつけているうちに、しだいに興が乗ってきたのも事実であった。とうてい適任ではないと思っていたが、いつの間にか乗せられてしまって、あれこれと自分の体験などを話してやっている。気がつくと精神訓話めいた話をしていたりして、赤面の感覚を味わったりもした。
由紀自身、昔からお説教ほど疎ましいものはない。奔放なほど独立不
の精神を持っているせいもあって、道学者風の得々としたお説教は虫唾が走るほどだ。己れ自身信じてもいず実践もしない道徳訓をもったいぶって話す偽善者がいかに多いことか。
学校教師など、道を説く機会の多い人間ほど偽善に満ちた本音と建前の乖離が甚しいことを、鋭敏な洞察力に恵まれた由紀は、幼いころからさんざん見聞してきた。超常感覚のもたらす洞察力により、あっさり噓を看破してしまうのである。
美少女だった彼女は、いとわしい偽善者タイプの学校教師にいい寄られた経験が幾度もあり、道学者風の偽善は特に強く憎み、嫌悪するところだった。由紀の経験によれば、偽善のとくに甚しいのは教師、警官、宗教家などの〝聖職〟に就いており、衆生に道徳訓を説く輩に圧倒的に多いようである。体面を気にする立場にある者は抑圧が強く、偽善に陥りやすいのであろう。学者の秘書を務めていた彼女は、大学教授など尊敬に価する人物がむしろ少数派だとよく知っている。口に出すのもいとわしい陋劣な人格しか持ち合わせない手合がいかに多いことか。
高潔ぶっている人間ほど心はどろどろに汚れているものだ。
それを知ってるだけに、道徳教育の先生めいたことはいいたくない。相手がどう受け取るかと考えると、身も世もないほど恥しくなってしまう。
けれども、丈の要望とあらば、心理的抵抗を押し切ってでも、やらざるを得ない。
しかし、由紀にとってもっとも具合が悪いのは、平山圭子たちが由紀の話をあまりにも素直に受け容れようとするのを見ることであった。彼女たちは由紀を尊敬している。吸取紙のように吸収しようと待ち構えているのである。
由紀はいつの間にか自分が得々といい気持になってお説教しそうな悪い予感がしてくるのだった。慣れというのは自分で自分に仕掛ける陥穽に他ならないであろう。
「とにかく、今の先生のなさっていることが、自分の理解力の限界を超えているとしても......」
由紀は不意に重くなった口でいった。そんな躊躇が言葉にからみついて重くしてしまったようであった。最近、へんに長広舌を振るう傾向があるようだ。つい熱が入ると、ビルが閉ることさえも忘れてしまう。
「性急に判断を下すべきではないと思うの。だって、先生がどんなことを考えて、何をなさっているのか、あたくしたちには判断の材料がないんですものね。だから、いったい先生は何をしているのか、と他人に尋かれても、軽はずみなことは答えないようにしてほしいの」
「わかりました」
と、圭子と夏本幸代が同時に答えた。
「でも、なんと答えたらいいんでしょうか? 知りませんといっておけばいいのかしら?」
「そうね、とてもお忙しいようです、ととりあえず答えておいたらどうかしら。あまりにも当り障りのない返事すぎるかもしれないけど......」
「秘書の務めだから、仕方ないですね」
と、夏本幸代がいった。
「やっぱりみんなに尋かれるんですよ。彼女が......緑ちゃんが喋ったことがもってまわった噂になってますから。ぼやかして答えると、とても不満そうな面白くないという顔をされます」
「責任がとても重いから......先生に代って外部と接渉することが多いし、秘書のマナーが悪いと、先生ご自身が誤解されてしまうものね、自分の立場を利用して知ったことを他人にむやみに話すなんて、とんでもないことだわ」
「やっぱり、緑ちゃんに強くいうべきだと思うんです」
平山圭子が常になく強硬な言を吐く。よほど腹に据えかねているのであろう。
「あまりにも無責任すぎます。あの調子だと、七階へ行っても、また問題を起こすんじゃないでしょうか?」
「そのうちに話そうと思っていたんだけど......野沢さん、どうしちゃったのかしら?」
由紀が秘書室を見廻して声をあげた。
「全然断りもなく行ったまま、帰ってこないじゃない?」
「ハンドバッグもコートもないから、もう帰ってこないんじゃないですか? ひどい無責任......呆れました」
圭子が顔を真赤にしていった。
「しょうがないわね......でも、秘書室を追いだしたといわれないだけマシかもしれないわよ」
「不始末のため秘書室を出てもらったと七階のみんなにも知らせた方がいいと思います!」
まずいな、と由紀は思った。丈が不在だというのに秘書室がすっかり揺れ動いてしまっている。圭子が怒るのは無理もないのだが、問題が大きくなれば、不適格者を秘書室に入れた責任が問われることになるであろう。丈が野沢緑を指名したのだが、まさか丈に責を帰するわけにはいかないから、秘書室責任者の由紀が泥をかぶることになる。
とはいえ、丈の筆頭秘書の監督不行届が表沙汰になってはまずいということで、結局はうやむやに事を荒立てず納めるという政治的解決がもたらされることになるのだろう。
由紀はうんざりしてきた。つくづく自分は組織向きでないな、と考える。
わずか四人の秘書室でも、組織となると運営が官僚的になり、面白くもおかしくもなくなる。
事を荒立てずに巧妙に始末するという能吏的な手際が要求される羽目になるのだった。組織においては、ただ単に不適格者を排除するというだけではことがすまないのである。
確かに丈のいう通り、〝組織が大きくなることは腐敗することだ〟とわかる。
「野沢さんにはあたくしからよく話してきかせるわ。きっとわかってくれるでしょう。だから、事務所はできるだけ和やかな雰囲気にしておいてね」
溜息をつきたい気分でいった。丈のためだと思わなければ、とうていこんな泥をかぶるような真似をする気にはなれない。
「杉村さんも大変ですね」
と、夏本幸代がねぎらうようにいった。しかし他人事という気分は隠せない。人は人、我は我に徹底して、冷淡な利己主義者になりかねないのがこの娘だ。野沢緑を譴責するのは杉村由紀の仕事であり、自分の知ったことではないと思っているのである。
自分の役割はしっかりと過不足なく務めるが、他人事に関り合う気はさらさらないという顔だ。一匹狼の気質の由紀にはよくわかるが、それでは丈の秘書は務まらない。
それを娘たちに教えることが、丈によって期待されている由紀の役目といえた。心は重いが投げだすわけにもいかない。
「シャッターを閉めるんですが!」
と、ビルの管理人の大声が、重くなった秘書室の空気に飛びこんできた。
「今出ます。七階の方はどうしてますか?」
「皆さん、もう出られましたよ」
と、管理人はあっさりいった。
「もう一人も残っておられませんよ」
野沢緑は、秘書室には断りもなく帰ってしまったようだ。圭子と夏本幸代の視線を、由紀は重苦しい思いで受け止めなければならなかった。
6
応接室は広かった。二十畳近くあるだろう。天井から二抱えもあるシャンデリアがさがって、威圧的なものを感じさせる。昼間ならば広大な庭園が視界におさまるのだろうが、今はどっしりしたカーテンが窓を覆っている。
広間のような応接室は、高級ホテルにまぎれこんだような、異次元の雰囲気をもって木村市枝を圧しつけ、萎縮させようとしていた。
気持を猛々しくさせて、威圧されまいと努めても、空気の抜けて行くゴム風船のように心が萎えてしまいそうだ。市枝の内部には、かつて〝黒バラ会〟の女王であった時代の高圧の憤怒、憎悪、怨恨がすでに失せてしまっている。死物狂いの突張り、自暴自棄がもたらす命知らずの虚無主義が、もはやあとかたもなく消えてしまっている。
市枝は最近、自分が臆病になったのを感じている。衝動的にカッと燃えあがり、無思慮な行動に走る、無謀なエネルギーが枯凋してしまった。もはや命知らずの酷薄な蛮勇というものから見放されてしまっている。
なにをするにも、まず他人に気を遣うようになってはおしまいだ。無茶ができないという思いは、妙に力を萎えさせる。思慮分別は人間から行動力を奪うと聞いたことがあるが、その通りかもしれない。他人に気を遣う分だけ、気が弱くなり、おろおろと判断に迷うようになっている。
自信というものと無縁になってしまったような気がしている。
権力や金の力に対して、体を張って死物狂いで抵抗していたころの活力が自分でも信じられないほどだ。
気が弱くなったせいか、体が一廻りも小さくなり、体中の皮膚までが薄く脆くなってしまった心細さだ。情ないと思うが、どうしても外圧に抗して突張り抜く迫力というものが甦ってこない。
東丈に迷惑をかけてはならないという自制心が過度のブレーキをかけているのだろうか。それでこんなに心が小さくいじけてちぢこまってしまったのかもしれなかった。
市枝は隣りに座らせた弟の体に腕をまわし、それによって自分の心を辛うじて支えていた。弟のかよわい小さな体がこれまでとは逆に、外圧への防波堤になってくれる心強さがあった。
東丈によって心を開いてから、弟の明雄はめざましく変った。その変化は市枝に生じたものの比ではない。
小さな体が自信と落着きにあふれている。いつでも宇宙エネルギーと直結している実感がもたらす確信であろう。おずおずした心身のひよわさ脆さはもののみごとに消え失せてしまった。
いまだに他の健康な子供たちと同等とはとてもいえないが、体も急速にしっかりしてきて、筋肉が再生してきていた。今は介添なしでも一応は歩ける。走れるまでにさほどの時日は必要としまい。わずか数週間前まで全身麻痺で緩慢な死を待つだけの重症児とは、だれが見ても考え及ばないであろう。
弟は日一日と変りつつある。その急速な変貌ぶりが頼もしさとともに、置き去りにされる心細さ、不安感を市枝に与えずにはおかなかった。
弟は素早く成長を遂げて、姉の自分には足を踏み入れることもかなわない境地に、自分を置いて立ち去ってしまうであろう。そこは東丈や、秘書の杉村由紀や、明雄のように特別な選ばれた人々だけに許された新しい世界、超能力者の世界なのだ。
置き去りにされる強迫観念はしっかりと市枝の心にとり憑き、それはたとえ東丈の口からはっきり否定されても消え去ることはなかった。
超能力だけが全てではないと丈の口から聞いてさえも、必ずしも胸落ちしないのだ。現実に丈自身比類ない超能力の持主であり、弟の明雄も素晴らしい力を開花させている。秘書の杉村由紀は明雄に劣らぬ超能力を持ち、丈の身近にあって仕えている。
市枝だけがなんの力も与えられず、一人取り残されてしまっている心地がする。そんなことはないと頭でわかっていても、寂しさと無力感がいや増すのを振り払えない。
どうしても超能力がほしい。〝力〟を得て丈に尽したい。自分のために〝力〟を求めているのではない。丈に尽す〝力〟がほしいのだ。もし丈にその〝力〟をもって尽せるならば、他に何もいらない、と市枝は強烈な願望に心身の揺らぐ心地がする。〝力〟を得るために何を犠牲にしてもいいとさえ思う。生命すら代償に差し出すだろう。
それは身も世もない切望であった。しかし丈は超能力を欲しがるなとはっきり禁止している。幻魔の罠にかかるからだという。丈のいうことはわかるが、なお切望はもだしがたい。弟の明雄に〝力〟があって、なぜ自分にはないのか。
丈は彼の姉三千子を引合いに出して市枝を説得しようとする。超能力が全てではないと論証する。しかし、姉の三千子なら自分のこの切ない願望をもっともよく理解してくれるのではないかと思えてならない。超能力を持たないことが、どんなに苦しく切ないことか、わかってくれるのではないだろうか......
隣りに座っている弟が身じろぎして、市枝ははっと我に返った。敏感な明雄は、姉の心中の葛藤に鋭敏な反応を示す。弟に対して心にあることを何一つ隠せない事実を思い起こさせてくれる。
天使に等しい心を持った明雄は、姉の心に生じる陰惨さを忌避する。明雄を見ていると、まるで自分の心の明るさのバロメーターを見せられているような心地がする。
「おじさん......」
と、明雄が告げた。
「田崎のおじさんが来る......」
弟にはやってくる人間が何者かあらかじめわかってしまうのだ。遠感でキャッチするのだろう。
「おじさんじゃなくて、おにいさんだろ」
「おにいさん......」
明雄は田崎をおじさん呼ばわりする。幾度訂正させても、決して直らない。弟にとっては十八歳の田崎宏がおじさんに感じられるらしい。
「おにいさんって呼ばなきゃだめよ、いいね?」
「はい」
同じ年齢の不良少年河合康夫などをおじさん呼ばわりすることはないのだから、田崎はくさってしまう。十八でおじさん呼ばわりはひどすぎるというのだ。
同年代の市枝には、田崎がとくに老けて見えることはない。精悍そのもの、恐ろしいほどの活力をみなぎらせた若者だ。重電機械が近くに寄ると唸っているような迫力を覚える。彼女がこれまで知っている粗暴きわまる非行少年も、田崎の発散する迫力にはまったくかなわない。
市枝にとって、彼は好もしい若者だった。もちろん丈に対する気持とはまったく異なる。丈は彼女にすれば神だ。ひたすらに崇拝し、愛慕している。丈のためなら生命を捨てることなどなんでもないと本気で思っている。
それゆえ、丈に対して自分をありのままに曝しても恥しいと思わない。自分の貧困な境遇や汚点にまみれた経歴などなにもかも知られてしまっても観念していられる。丈は決して軽蔑したり哀れんだりしないとわかっているからだ。丈は神の目をもって真の自分の全てを見通し、よく理解してくれると感ずるがゆえに、己れを飾ったり偽ったりする必要を覚えないのだ。
が、田崎に対してはそうはいかない。自分の貧しい身なりや育ち、過去を強く意識せずにはいられなくなるのだった。むろん田崎本人は気にしないかもしれない。しかし彼の社会的階層を現わす、この応接室の権威、財力や権力の匂いは、市枝を不可視の甲殻の如きものに閉じこめずにはおかなかった。
市枝は座り直して田崎を待ち構えた。自分の身なりの貧しさが気になって、それを念頭から追い払うのが一仕事であった。真冬でも上下のジーンズでおし通しているのは、安物のコートを身につけたくないからだ。自尊心を守るためなら、真冬の寒さも我慢する。自分でもそんな見栄っ張りが厭なのだが、どうにもならない。田崎はそんなことを気にするはずもないから、いささか馬鹿げている。
応接室のドアを排して、田崎が入ってきた。紋付を着て堂々たる男っぷりだ。和服がひどく似合う若者であった。袴のさばき方も堂に入っている。潑剌とした精気を放射し、目を強く張って、市枝を見た。
挙措動作が実に見事である。武士の折り目正しさを連想させられて、風圧のようなものを心に感じる。ともすれば萎えかけている心を奮い起こして、対抗しなければならなかった。
「明雄、元気だな」
と、年頭の挨拶のあと、田崎は白い歯を見せていった。固く張った頰肉に深い溝が出来て笑うさまが市枝には好もしい。いかにも男っぽい爽快さである。
「もう走れるようになったか。今年は俺が剣道を教えてやるからな」
「はい」
明雄は嬉しげにいった。
「こっちへ来てみろ。筋肉のつき具合を見せてみろ」
明雄は、市枝の隣りからはなれ、大きなテーブルの向う側に座した田崎に向って歩いて行った。それが危っかしくて市枝は思わず腰を浮かせたが、明雄は危げなく田崎の横に辿りついた。一度もテーブルにつかまろうとはしなかった。田崎と市枝の心を読んで、期待に応えたのである。
「よし。偉いぞ。手を出してみろ」
田崎は、差し出した明雄の手首を摑んだ。上腕に向けて筋肉の付き具合を押したり把んだりしながら確かめる。
「うん。だいぶ実がついてきたぞ。俺が教えたようにいつも両掌で押しっくらをやってるか? あれをやると凄い筋肉がつくんだぞ」
「はい。それから、立って、しゃがむのも、やってる」
「よし、いい子だ。もう少したったら今度は腕立て伏せと腹筋だ。やり方は憶えてるな?」
「はい。少しずつやってる......もう五回ずつできます」
「OKだ。その調子でトレーニングをやってれば、だれにも負けない体を持てるぞ。頑張れよな」

「はい」
田崎は手をあげて、明雄の尻を軽く叩き、姉の所へ戻れといった。弟が活きいきと目を輝かせて戻ってくるのを、市枝は泣きそうになって迎えた。いい加減もう慣れたはずだと思っても、弟が何事もなかったように歩いているのを見ると泣けてしまう。泪が止まらなくなり、気まりが悪い。突張った気持が春の雪のように溶けてしまってから、市枝はつまらないことで泪ぐむようになってしまった。涙腺が緩んでしまったようである。泣くのはあまり慣れていないので、市枝の泪はひどく無器用な手つきで取り扱われることになった。普通の女の子のように上手に泣けないので、泪を指先でこねまわすようになってしまう。
田崎は目の遣り場に困っていた。意味もなく天井を見上げたりしている。気まりが悪くて、もっと近しい仲であれば、泣くな! と叱りつけたい気分だった。市枝に劣らず、田崎も感情表現にひどく無器用であった。
陶器のフランス人形のような顔立ちをした市枝が指先で泪をこねているのを見ると、どうしていいかわからなくなり、乱暴な気持になりかねなかった。顔が赤くなってくるようなのである。
「俺はな、ちょっとした計画があるんだよ」
と、田崎はぶっきらぼうないい方をした。自分の喋り方があまりにも素気ないし、乱暴なので、少し気がさしたような顔になった。
「喋り方が乱暴なのは勘弁してくれ。俺は女の子と喋るのに慣れてないんだ。かちんと来るかな?」
それでも相手に気を遣っているのだった。
「いいんです。そうやって喋って下さい」
と、市枝はいった。そんなことでいっぺんにこだわりがすっと溶けて行くような感じがした。互いに無器用なのがわかって、共感が生じたのかもしれなかった。
「で、今日はそのことをあんたに相談しようと思って、正月早々来てもらったんだが......迷惑じゃなかったかな?」
「いいえ。どうせアルバイトは正月休みですから......」
「この近くに引越してきたって、康夫から聞いたよ。浜田山だって?」
「ええ。歩いてもそんなにかかりません」
市枝は自分がごく自然に田崎を立てて丁寧な言葉を使っていることに気づいた。以前だったらありえないことだった。ひよわな若い男など眼中になかったからだ。しかし、眼前の田崎は若年ながら堂々たる男の貫禄というものがあった。それに気圧されてとも思えないが、不思議に腹は立たなかった。この応接間に象徴される、田崎の属する社会的階層に圧されて、卑屈になったとは思えない。田崎には、東丈とはまた別種の〝格〟の如きものがある。
ドアにノックがあり、女中が茶菓を運んできた。押し隠してはいるが好奇の目を意識せずにいられず、市枝は心が小さく殻をかぶるのを忌々しく思った。真冬にジーンズの上下を着ただけの少女が、この種の召使の軽侮を買わないはずがなかった。安く値踏みされたに決っている、と市枝は信じた。
生来、感情家の市枝は、相手の蔑みに敏感であり、すぐに心が揺れてしまうのだった。貧困の辛さは、屈辱をまぎらわす何物も持たないことである。市枝のように自尊心が強い少女にとり家運が傾き極貧に零落した屈辱はいやしようがないほど根が深いものであった。市枝の凶暴な自我は、丈に遭うまではまったく馴致できないものと思われたほどのものだったのだ。
女中が立ち去るまで、市枝は息もつかないほど固くなって座っていた。田崎も怖い顔をして黙っていた。ひどく気詰りだったのであろう。
田崎が女の子を前に、当惑しているのを知ることは、逆に市枝の気分を楽にさせた。相手も自分と同じなのだ、と思った。どうやって話を切り出そうかと迷っている。自分の気を悪くさせないかと心配なのだ。いかにも精悍な男っぽい顔はしているが、決して無神経なのではない。相手の心を傷つけないように上手に話すにはどうすればよいかと思い惑うほど気が優しいのだ。
少しも自分は傷ついたりしないから、安心するように、といいたくなって、市枝は驚いた。自分はまるで田崎の心がわかってでもいるように感じている。いや、わかっているのだ。非常に親しい人間の気持がわかるように、市枝は田崎の心が読めてしまうのだった。
なぜだかわからない。田崎はまだ市枝にとり数回遭っただけの、未知に等しい存在なのに......
「最近、郁江はどうしている?」
田崎は本題からそれてしまった。照れ臭さを免れようとしたのだろう。
「手術を受けるために入院してしまったので......」
と、市枝は田崎の気持を掌にとるように理解できる己れをいぶかしがりながら答えた。
「明雄が遭って彼女に直接生体エネルギーを入れることができなくなってしまったんです。面会謝絶ですから......でも、離れていても、光は送れると明雄はいってます。明雄なりに努力しているみたいです」
「入院したというのは聞いたが、手術はもうやっちまったのか?」
「まだのようですけど、郁江さんの生体エネルギーに変化が起きていない、と弟はいっています。でも、手術はしない方がいい、と考えてるようです......郁江さんが手術を受けると決心した以上、どうにもならないんじゃないかと思いますけど」
「先生も手術は受けない方がいいという考えなんだろう? なのに郁江はなぜそれを押し切って手術を受けるんだ? 先生の力を信じてないのかな?」
田崎は憂わしげに黒々とした眉をひそめていった。どうにも郁江の気持が計りかねるという腹立たしさがあるようだった。
「郁江さんはそうじゃないって......でもご両親を安心させるために、手術は嫌だけど受ける、そういっていました」
「けど、子供が産めない体になっちまうんだろう? 手術がたとえうまく行ったとしても......わからねえな。先生を信じているといいながら、正反対のことをするんだから......女ってのはどうしてこうわからないことをするのかな」
「あたしも手術は反対なんです。なによりもまず先生が手術はやめるべきだとおっしゃっているから......でも郁江さんは両親のことも考えなきゃいけないって......自分がこんな気持になれただけでも、もう充分なんだっていってました。先生からはもう充分にしていただいたって......本気なんです」
「わからん」
田崎の口調は沈んでいた。
「あいつはへそ曲りだからな。先生にいつも楯突いてやがるんだよな。まったく何を考えてるんだか......謎だな!」
「あたしには少しわかるような気がします。これ以上はもう先生の負担になりたくない、と考えているんだと思います。もう充分していただいたといってますから。他の人たちが病気を治してもらいたさで殺到することを心配しているんです。でも、先生はあくまでも手術せずに治るといっているんですから、郁江さんも先生のご意向に従えばいいと思うんですけど、彼女はとっても頑固ですから......」
「頑固すぎる! あんな可愛い顔してるくせに、思いこんだら頑としていうことをきかなくなっちまうんだからな!」
田崎が憤然という。
「ひっぱたいてでも、いうことをきかせてやりたいが、病人じゃなあ......どうにもならんよ」
逞しい体をむず痒さに堪えているように押しもむのを見て、市枝はこんな際なのに笑いの衝動に摑まれそうになった。壮漢といってもいい逞しい田崎がなぜか可愛らしいと感じたのである。男を可愛いと思ったことなどない市枝には驚異であった。
「まったく、どうしたらいいのかね!? 力づくでというわけにもいかんし、とにかく郁江が決心を変えない限り、手術は行なわれることになるんだろ?」
「ええ。外科医が心霊治療の効果を認めるはずは絶対にないから、説得は無理だと先生はおっしゃっていました。後はご両親を説得することですけど、郁江さんはご両親の気持を汲んで、手術に踏み切ったわけだし......」
「それじゃどうにもならんじゃないか! 両親は先生の力を信用しないわけだな?」
「信用しないというよりも、手術を受けることが唯一の気休めなんじゃないかと思いますけど......手術という方法がある以上、心霊治療を受けていて時期を遅らせたら、なまじ助かる命も助からなくなる、とご両親が考えるのもしかたがないんじゃないかと思うんです」
「そうか......先生の力を信じなければ、仕方がないか。手術を受けても助かる保証はないとわかっていてもか......」
「先生のお力を信じさせることができれば、ご両親の態度も変わると思います。明雄を見せて説明したんですけど、本気にできないようでした。もう手術以外にすべはないと頭から信じこんでいるし、あたしなんかの説明では全然、説得力がなくて......」
市枝は面目なげに顔を伏せた。自分の非力さがこれほど口惜しいことはなかった。非行少女の突張りなどいざとなれば、世の中にまったく通用しないのである。
「先生でも説得できなかったんだから、気にするなよ......世の中は肩書とか社会的地位とか権威には弱いが、本当のことはなんにも見えねえんだからな」
田崎は吐き捨てるようにいった。本気で腹を立てているようだった。
「先生がもっともっと有名になって、世界的に知られた救世主ともなれば、自分の方から頭を下げて頼んで行くだろうがな......もっともそうなれば、郁江のいう通り、病人という病人が山ほど押しかけることになっちまうかもしれないが......」
「とにかくご両親を説得する以外に、手術を中止させる方法はないと思うんです。もう、いつ手術が行なわれるかわからない有様だし......」
「そうだ、なんとか手を廻して、両親と話をつけられるかもしれんぞ」
不意に田崎の眉宇が晴れた。何事か思いついたのだ。
「それはいくら先生が偉大でも、世間の奴らが見りゃほんの子供だろう。まともに話を聞く気にはならんかもしれんが、それならこっちもコネをきかして、話をつけるという手がある。それなりの代理人を送って説得させるってわけだ。あんた、どう思う?」
「ええ......それもいいですね。だけど、先生のご様子が変なんです」
市枝は田崎の考えにあまり興味がなかった。心にわだかまっていたものを口にする機会をようやく得たのだった。
「先生はGENKENにも出ておられないらしいな」
田崎はすでに知っていた。
「ご自宅の方にも電話してみたが、おられないようだ。正月以来、一度も帰宅されていないとお姉様がいっておられた」
「どうしてでしょうか? 何が起こったんでしょう。やっぱり郁江さんのことでしょうか?」
市枝らしくもなく縋るような語調になっていた。
「そうかもしれない。だが、本当のことはわからん......」
「先生は悩んでおられるのでしょうか? 先生でも、どうしていいかわからず、悩んでしまわれることがあるんですか?」
「そんなことを尋かれてもわからんよ」
田崎は苦笑を浮かべた。
「あんな偉大な、素晴らしい先生でも、そんなことがあるなんて、信じられないんです......」
「だが、偉大な人間だからといって、悩まないはずがないと思うよ。偉大な人間には偉大な悩みがあるんじゃないか」
「でも、先生でもそうだとすると、とても不安です。あたしなんか、どうしていいのかわからなくなります」
「俺はそうは思わん。先生は神様じゃないんだから......何も悩まないとしたら、それは人間じゃなくて神様だ。だれだって悩み事とは縁が切れるもんじゃない。ちっぽけな人間は自分のことばかり考えて悩んでるが、先生はそうじゃないだろう。郁江をどうやって救えばいいかということで悩んでおられるんだ。先生には大きい事から小さい事まで悩み事が沢山あるんじゃないか。郁江の問題もその一つだ。しかし、先生はいつも全力をあげて問題にぶつかる。文字通り自分の体を張るんだ......だから俺は先生が大好きなんだ。セコいことはせず、体当りで行くからな」
「でも、先生のお力をもってすれば、郁江さんの癌を治すことはできるんじゃないでしょうか。病院に入ってしまったからといって、遠慮することはないと思うんです。人間の命がかかっているんですから......」
市枝は目を大きく瞠り、抗議するようにいった。内攻していたものを一度にぶちまける快さがあった。
「ただ、悩まれてるだけなら先生らしくないと思うんです。そうじゃないでしょうか?」
「でも、本当のところは我々にはわからんからな」
「先生のことがとても心配なんです。先生が何か壁のようなものに突き当ってしまって、それで悩んでおられるのではないかという気がして......先生がどこで、何をなさっていらっしゃるのか皆目わからないし......どうしていいのかわからないんです。自分にできることだったら、命をかけてもやりますけど、何をどうすれば先生のお役に立てるのかわからないんです」
かすかにしゃがれ気味の声で感情を圧し殺しているだけに、凄みともいうべき迫力があった。こいつが命をかけても、というのは本気だな、と田崎は思っていた。フランス人形のような白い綺麗な顔をしてるが、いい根性をしていやがる。こいつは、先生のために死ぬといったら本当に死ぬだろう。
「先生がこれだけ深刻に悩んでいらっしゃるのは、やはり今年は本当に大変なことが起きるからでしょうか......郁江さんのこともそうだけど、先生が会にも行かれないほど悩んでいらっしゃるのに、会員の人たちもあたしたちも、何もしてさしあげられないんですよね......それがもどかしいし、腹が立って......」
「まあ、待てよ。あんたのいうことは正しいと思うし、正月に入ってからの先生のことは俺も気になってる。おそらくみんな、だれでも心配したり気をもんでると思うんだ。しかし、それだけじゃどうにもならない」
我にもなく田崎は、眼前の少女の熱っぽい人格的迫力に押しまくられていた。ひたむきで命がけなのだ。ちょっぴり暗い翳はあるが、大きな瞳は清冽で神秘的だった。いい女だな、と田崎は硬派らしくもなく考えた。いや、いい女になるだろうなと表現を変える。
しかし、市枝は普通の娘とは異っている。べたべたしたり、変にからみついたり、拗ねたりして、男の気を惹こうとする厭らしい心根がない。自分の弱さを武器にして、男にすがりつき、罠に誘いこもうとする陰険さが欠如している。男と対等の女だ。毅然として己れの誇りを守っているから、男に優越感を持たせない。真正直で小狡さがない。
田崎は硬派なだけに、迫力のある相手が好みだった。気力を充実させて火花を散らすような人間のつきあいが好きなのだ。市枝はそういう点でも、田崎の好きな人間になった。決して逃げたり、引いたりする小技を弄せずに正面からひた押しに押してくる。いい女だな、と思うと、田崎の眼光鋭い大目玉は不思議なほど優しくなった。
「先生がいったろう! 自分にできることを一生懸命やればいいって......確かにその通りだ。何もしないでただ一日中気をもんでいたってしょうがないからな。何か俺たちにもできること、先生のために役立つことを捜しだして、そいつをやればいい。違うか?」
「ええ......でも、何をすれば......」
「だから、郁江の親父を説得できるようなだれかを送って、手術を延期させるんだ。さっきそのことをいったろう?」
「ええ......」
市枝は聞いていなかったのだ。
「代理人を送って、両親に先生の偉大さを説かせるんだ。両親が耳を貸さざるを得ないような、社会的地位を持った人間だ......うまく行けば、先生が心霊治療を施す時間的余裕が稼げる。つまり、これは政治的な駆引というわけだな。今までこんなテを使うなんて、あまり考えたこともないが......」
「............」
市枝は驚いた目をして、田崎を見詰めていた。照れたように田崎が目をそらす。
「俺のじいさまが智恵を貸してくれるだろう......どういうコネを使うかだな。断っとくが、俺は好きじゃないんだぜ、術策を用いるというのは......先生のために何ができるか、と考えていたら、ひょいと思いついたんだ。俺のじいさまは保守党の大物政治家で、コネをきかすのは達者だってことをな。先生のためだからやるんだぜ。わかるだろう?」
「ええ......」
と、市枝が曖昧に頷く。
「これは内証にしといてくれないか! 先生にもだ......あんただけの胸に畳んでおいてくれ。田崎宏は、何かあるとすぐに祖父の大沢代議士に泣きついて、じいさまの人脈を動かしてもらうという噂が立つかもしれないんでな。俺はいやなんだ。だれでもそうに決ってると思ってるだろうし、そんなこと弁解したくない」
「はい」
本当にわかってくれたか、という表情で田崎は少女を鋭く凝視した。なぜ市枝にだけは理解してもらいたいと自分が強く望んでいるのか、彼にはよくのみこめなかった。
「あんたがもしテレパシストなら、俺の胸の中をきれいに見せてやるんだが」
と、田崎はいった。市枝は大きな瞳でちらっと彼の顔を見、すぐに顔を伏せた。微妙なものが交流するのを二人とも感じていた。
「俺の考えをどう思う? あんたの意見を聞こうと思っていたんだ」
「あたしにはよくわかりません。先生のことで頭がいっぱいになってしまっているので......でも、先生にとっていいことなら、やるべきだと思います。何かできることを思いつく人が羨ましいんです。あたしには何もできないし、自分の無力さがどうしようもなく口惜しいんです」
市枝はしんそこから口惜しげにいい、弟の明雄が心配そうに姉の顔をうかがっていた。
「そうだ、そのことで、今日はあんたたちに来てもらったんだ」
田崎は溜息をつき、初めてお茶をがぶりと吞んだ。もうすっかり冷めてしまっていた。市枝たちに茶菓を勧めるほど彼はもの慣れていず、自分の考えに気を取られすぎていた。
「今度、俺たちは塾を作ろうと思うんだ。もちろん目的は、先生を助力することにあるわけだが、GENKENとは直接関係は持たず、独立してやって行きたい。先生の活動の支えになるような若い連中を、塾で育てていきたいんだ。いってみればGENKENからはみだした俺や河合康夫やあんたのような連中にも活動の場がほしいというわけだ。GENKENとは直接のつながりはなくても、先生を支える下部構造の一つになれるはずだ......あんたも手伝ってくれないかな、市枝君」
市枝の名を呼ぶのに、田崎はかなり努力を要した気配を見せた。
「はい。あたしでよかったら手伝わせて下さい......でも、時間の点でちょっと苦しくて......夜アルバイトをしているものですから......」
「そのことで考えがあるんだけどな」
田崎は必要以上に力んでいった。
「うちの親父の事務所に来てくれないか。今のスナックのアルバイトはやめて......一応給料も出るし、保険なんかもある。市枝君も今年は卒業だろう? もし就職するつもりなら本式に勤めてもらってもいいし、大学へ行くんなら、アルバイトでもいい......とにかく俺たちの塾を手伝ってもらえるような体勢にもって行きたいんだ。条件の方は後で決めるとして、どうだ、承知してくれるか?」
「でも......あんまり突然なので......」
「先生には去年もう話してOKをもらった。先生は市枝君にとって一番いいようにしてくれとおっしゃってたよ」
市枝ははっとして、一瞬田崎と目を合わせた。少女の大きな神秘的な瞳にふるえてやまぬ光が走り、田崎はぞくりとした。市枝が他の少女たちと異っているのは、神に仕える巫女のようなところがあるせいではないか、とふと彼は思った。巫女の心は人間が所有することはできない。神の所有に帰するからだ。市枝にとり、東丈こそ神なのであろう。少女は神聖な巫女として心を若き神にささげてしまっているのだ。
その考えは束の間、田崎を息苦しいような情念に誘った。こんな突飛なことを考えるのは自分らしくない、と己れ自身を叱りつけなければならなかった。
「先生がおっしゃるなら、喜んでそうさせていただきます。まるで夢みたいです......あたし、こんなに幸せになっていいのかと怖ろしくなってしまうんです」
市枝は傍らの弟の体にしっかりと手を廻しながら呟いた。
「本当にいいんでしょうか。だれか迷惑する方がいらっしゃるんじゃないですか?」
「そんな者はいるわけがない」
と、田崎は笑った。市枝はしばらく沈黙し、感情の昂まりに堪えているようだった。しだいに白い顔に血の色がのぼってきた。
「どうだ、引受けてくれるか?」
辛抱しきれずに田崎は尋ねた。神託を受けるような気分の虜になっていた。市枝がなんと答えるか彼には見当もつかない。期待と正反対の答が得られるかもしれない。大丈夫だという気はするものの、自信はないのだ。
求婚するというのはこんな気分のものかな、と田崎は見当違いの考えに頭をゆだねた。いずれにしろ、彼には相手の少女が何を考えているかわからないということだ。女性の思考は筋が通らず糸がもつれていて飛躍しがちだということだけわかっている。これほどスリリングなことはなかった。
「本当にいいんでしょうか、あたしのようなものでも......」
と、長い沈黙の挙句、市枝はぽつりといった。
「もちろんいいに決っている。あんたに来てもらいたいんだ」
田崎は溜息をついた。安堵のあまり大きな長い溜息になった。
「よろしくお願いします。あたし口下手でうまくいえないんですけど......後悔するんじゃないでしょうか」
「後悔するって?」
「あの、田崎さんが」
「するわけがない。康夫も、市枝君は芯が強いから大丈夫だといってた。まあ、いろいろごついのが、塾だから来るかもしれないけど、市枝君ならびくともしないというんだ。俺もそう思う......安心してまかせられる」
「そんな......」
市枝は顔を赤くして、首を横に振っていた。
「最近はだめなんです。気が弱くなってしまったもので」
「よし、話は決った!」
大声で田崎はいった。それがおかしかったのか、明雄が笑った。
「どうした、明雄。嬉しいのか?」
「はい。姉さんが喜んでいるから......ぼくも嬉しい、です。姉さんはつらくて、夜も眠れなかった......何の役にも立てないとつらがってたので」
と、明雄は一生懸命に喋った。今ではかなり長いフレーズも一息で喋れると証明したいようだった。
「そうか。明雄には姉さんの心の中がみんなわかってしまうわけだな?」
「はい。わかります......」
「そうすると明雄に尋けば、姉さんが何を考えてるかすぐにわかるな?」
「はい。でも、それをいうと、姉さんが泣くので、いえません。でも、少しだけなら......」
「明雄、やめて!」
と、市枝が弟の口をおさえようとし、田崎は笑った。
「そうか。明雄が喋ってしまうと、姉さんは泣いてしまうものな。それなら、喋らなくてもいい」
「はい」
と、明雄は嬉しげにいった。首を動かして田崎と姉の顔を交互に見上げる。少年の心から輝くような喜びが二人に伝わってきた。この天使のような心を持った少年は、他者の喜びをわがものとする稀有な才に恵まれていた。
「しかし、明雄なら、今先生がどこで何をなさっているのか、わかるんじゃないかな?」
ふと思いついて田崎がいった。
「先生と明雄の心はテレパシーで結ばれているんだろう? 先生の気持が明雄にはすぐにわかってしまうんじゃないのかい?」
「ええ。でも、いつもじゃないんです」
と、市枝が答えた。
「時には物凄く明確にわかる時もあるんですけど、そうでない時は全然つながらなくなってしまうんです。先生が意識的にテレパシーで明雄と接触しようとする時は、とてもうまく行きます。でも、そうでないと......」
「だけど、それは先生が杉村さんのテレパシーを通じて、明雄と接触しようという場合じゃないのか? 明雄は、素晴らしいテレパシストなんだから、いつでも明雄の方からは先生のことがわかるんじゃないのかい?」
「ところが、そうじゃないんです。先生は相手のテレパシーを閉めだしてしまうことがあるんです。なぜかわからないけど、そうなると全然通じません。杉村さんも同じことをいってらっしゃいました。先生がトンネルの中に入ったみたいに、何も通じなくなってしまうって......明雄も、だから、今は先生とまったく連絡がつかないんです。明雄は、先生が一人でいたがっているからだといってますけど」
「一人でいたいって? やっぱり郁江のことが原因になってるんだろうな。よし、さっそく俺は動くぞ。今夜はこれくらいにして、家まで送って行こう」
田崎は素早い動作で立上った。一度決定を下すと無類に行動が迅速なのが彼の特徴だった。
「なあ、先生が悩んでるってのに、弟子が黙って見てるってわけにはいかんからな。〝GENKEN〟にはできないが、俺たちにはできるってこともあるんだ。そいつをやってやろうじゃないか?」
「あたしたち、ちゃんと帰れますから、大丈夫です」
と、市枝は弟の手を取りながらいった。
「どうせ俺も出かけるんだ、じいさまの所へな。だから車で送ってやるよ。仲間だろ、遠慮なんかするな」
田崎は応接間を出ると、玄関へ風を巻くように跳んでいった。あの紋付、袴でスカイラインGTRを運転するつもりなのだろうか、と市枝は弟の手を引いて、後を追いながら呆然としていた。
仲間だろう、と投げつけた声の響きが耳に残っていた。自分の直情径行ぶりを田崎に見たような気がして、市枝は笑いたいような泣きたいような、得体の知れない情感に囚えられた。一年前の正月に、この人生の急変を毛一筋ほども予感するすべはなかったのだ。
丈と遭うことによって、自分は救われた、という鮮烈な実感がこみあげてきた。十六歳にして人生の破産者になってしまった市枝であった。暗黒の凶暴な自我のような刃物を秘めて巷をさまよっていた自分の姿が、暗い一枚の絵のような心象風景として市枝は振り返ることが可能になっていた。その虚無の淵をさまよっていた市枝に、鮮烈な光を投げかけ、足許を照らしてくれた丈が今、彼女の知らぬ世界の知らぬ場所を彷徨している。
もし自分の心臓をえぐりだすことで、丈の役に少しでも立つならば、そうするのに、と市枝は熱風のような渇仰の思いに心を灼かれながら考えていた。この一徹なところを持つ少女は、絶えず己れの死場所を捜すという異常に突きつめた心を抱いていたのである。丈が彼女にとって生ける神であり、市枝は巫女として仕え、己れの心と体もささげ尽す神事に似ているという田崎の直感は正しかったのかもしれなかった。
7
そのころ、杉並の東家では珍しく父親の東龍介が帰宅し、丈の帰りを待っていた。
普段は、子供までなした愛人の別宅におり、滅多に杉並へ帰ってくることはない。丈と和解したとはいえ、やはり愛人宅の方が居心地がいいのだろう。杉並の子供たちと和解することにより、公然と愛人宅ですごせるようになって、父親の態度はますます和いでいた。
子供たちも龍介をとがめはしなかった。姉弟で暮すのに慣れきっているし、父親のとげとげしい不機嫌な顔を見ずにすむので、内心はほっとしている。
もっとも、最近龍介は不機嫌ではなかった。たまに帰宅しても、以前のような仏頂面を見せず、それどころかたいそう愛想がよい。無理にも家長であらねばならぬという桎梏から解放されたせいかもしれない。
「姉さん、驚いたよ」
と、巨体で台所に入ってきた弟の卓が、アイスペールに割った氷を詰めている三千子に向って、こっそりといった。三千子は器用に掌に載せた氷塊にアイスピックを振るい、氷を細かく砕いた。氷の砕ける音が快い。
「どうしたの?」
「おやじがお年玉をくれた。いったい何年ぶりかね。久しぶりにお年玉なんて拝んじゃったよ」
卓は目をまるくしていった。
「今年は何か驚くようなことが起こりそうだなあ」
「そんなこというもんじゃありません。ちゃんとお礼をいったの?」
「いったけど、口ごもっちゃったよ。人間、変われば変るもんだなあ」
卓のいう通り、龍介の心境の変化には著しいものがあるようであった。極限まで悪化を遂げ、殺し合いでも始まるのではないかと三千子を心痛させた丈と龍介の角逐がきれいに治まってしまったのである。
丈が折れなければ、永久に不変の角逐が続いたろうが、人間関係は一方的なものではないということを証明するように、父親も譲歩してきた。それまでは怠りがちだったが、毎月きちんと生活費を入れるようになった。帰宅の回数こそ以前とさして変らないが、前のように苛々と癇をたてて怒鳴りちらすこともない。
友好的という言葉は、家族の間では滑稽かもしれないが、父親の態度はまさに友好的そのものだった。
「兄貴のことをしきりに気にしてるよ、姉さん。まだ本当のことをいってないのかい?」
丈は年越しの夜姿を消し、二日の夜に一度戻ってきたが、再び出て行ったまま事務所にも姿を見せていないのだ。
「今夜、帰るかどうかわからないんだろう? 父さん、兄貴が帰るのを待ちかねているようだけどな。なにか話があるんじゃないか。そんな感じだぜ」
卓は巨体に似ず、人の気持を読みとるのがうまい。
「苛々していらっしゃるかしら?」
「まあ、喧嘩しに帰ってきたんじゃなさそうだけどね。俺、いろいろ兄貴のことを根掘り葉掘り尋かれて参っちまったよ。兄貴が何やってるか、あんまり知らないもんな」
GENKENに対し、全く無関心・無干渉なのが終始一貫して取り続けている卓の態度である。彼は〝四次元オンチ〟だと自称しているほどだ。
「悪いけど姉さん、おやじのお相手してやってよ。おやじさん、へんに超能力のことに詳しくなってるんだ。あれはどっかでこっそり仕入れてきたんだな。俺にはとっても相手が務まらないよ」
「逃げだしちゃだめよ。お父様もせっかく折れてきてらっしゃるんだから......」
座敷から龍介の呼ぶ声が聞こえて、卓は太い首を縮めた。柔道で鍛えた筋骨逞しい巨体だが、こんなところはまるで子供だ。
「はあい、ただ今!」
と、三千子は答え、アイスペールを突立っている卓に渡した。
「これをお持ちして。お姉さん、今おつまみを出すから」
「早く来てよ、本当に俺じゃ話が持たないんだから」
卓は念を押し、渋々とアイスペールを運んで行った。
しかし、三千子が行ってみると、卓は父親からグラスをもらい、高級スコッチ・ウィスキーを飲んでいた。どこで飲み慣れているのか、初心者の飲み方ではなかった。けっこううまそうに飲んでいる。巨体なので酒を飲むという気負った感じではなく、水でもあおっているようだ。
「やっと来たか。三千子、お前も一つどうだ?」
龍介はオールド・パーの真四角なボトルを持ち上げてみせた。たいそう機嫌がよく、愛想を振りまいている。いつも険のあるぎろりとした目が別人のようであった。愛人宅での父親の貌はこんなものかもしれないと三千子は思った。
いつも威厳を保持するのに汲々としている見慣れた渋面ではない。父親にしてみれば、反抗的で敵意に満ちた不肖の息子の丈が、改心し詫びを入れたことがよほど嬉しかったのであろう。
三千子はほほえんで頭を横に振った。父親は日中から飲み続けているのか、相当の聞こし召しようだ。
「どうだ、卓、もう一杯」
と、龍介が大男の次男にボトルを突き出す。
「は、いただきます」
卓は臆せずにグラスを吞みほした。信じがたい光景といってもいい。東家で、父親と息子が酒を汲み交わすことがあろうなどと、家族のだれ一人想像したこともなかったはずである。
だから、三千子は敢えて弟をたしなめずにおいた。卓はまだ高一であり、彼が酒をなめらかに飲むなど、これもまた信じられないことであった。
「お前は体も恐ろしく大きいし、相当いけそうな口だな」
龍介が卓の飲みっぷりを褒める。
「身長、体重は今どれくらいあるんだ?」
「百八十三センチに八十五キロです。背丈はもう少し伸びたかもしれません」
「この分なら、まだまだ伸びそうだな。目標はやはり柔道日本一か? ヘーシンクに取られた世界一をお前なら奪還できるかもしれんな」
「できれば、狙って行きたいと思いますが」
卓は巨体のくせにきちんと正座して、父親に如才なく受け応えている。妙なもので龍介は嬉しそうだった。酒気を帯びた面がてらてら光っている。丈の最大の功徳はこの父親に対してなされたのではないかという気がするほどだった。龍介はすっかり世間並みの父親におさまってしまっている。
たとえ丈が超能力をふるったとしても、父親の心を変えることはできなかったろう。丈の心から長年の憎悪と敵意が消えたことが、父親のこの変化を産んだのだ。
「ところで、丈はどうしたんだ? ばかに遅いな」
父親はふと気がついたような顔で、わざと大声をあげた。やはり照れ臭さはあるのであろう。
「相変らず会の方が忙しいのか? しかし正月ぐらいは休んでもバチは当らんだろうに。事務所の方に電話して、わしが話があって来ているといってくれんか」
「丈は事務所にも行っていないようですけれど......」
躊躇がちに三千子が答える。
「なんですか、元日からとても忙しいということで、うちにも一度顔を見せたきりなんです」
「そんなにひどいのか!? まさか、また空を飛んでアメリカへ行ってしまったというんじゃないだろうな」
龍介はあからさまに失望の色を見せた。
「アメリカではないようですけれど、どこかの深い山奥にこもっているみたいです。なにか思うことがあるのではないかと思いますけれども......」
どの程度、父親に明かしていいのかと迷いながら三千子はいった。父親とはいえ、龍介はジャーナリストである。詳細を語るには丈の判断を待たなければならないだろう。
「役の行者みたいに深山幽谷へこもってるというのか? そういえば丈の力は役の行者のようなものだと前にいっていた。修行のためかどうかこの真冬に大変なことをやっているな......いつ帰ってくるかわからんのか?」
「はい。二日目の夜にちらっと帰ってきたのですけど、大変のようでした。飲まず食わずで何かしているようで......でも、丈のことですから、いつひょっこりと帰ってくるかわかりません。戻りましたら、お父さまにすぐご連絡いたしましょうか?」
「うむ。飲まず食わずでやっているのか......この正月にな......」
龍介は呟いた。いささか粛然とした気分になったようである。
「驚いた奴だ。厳冬期の山といえば、ひどい寒さだろうに」
「思いたったら、止められる弟ではありませんので」
「なんとか連絡はつかんものかな?」
いくらか弱気になった口調だった。
「テレパシーとかいう超能力でなんとかならないか? 会には超能力者が他にいないのかな?」
「会の方の皆さんも、丈のことを心配して下さって、幾度も電話をかけてきました。やはり連絡がつかないようです」
「そうか......では、丈が戻るのを待つしかないわけだな」
諦めたように首を振った。
「急いで丈とお遭いにならなければならないことでも?」
「うむ。実は社の重役が、丈の話を聞きつけてひどく興味を持っている。丈がわしの倅だということも知っていてな......丈に会ってみたいといってきたのだ。与党の大沢代議士に丈のことを聞いたらしい。外信の局長もいっしょに会わせてくれといっている。幻魔の話が聞きたいのだそうだ」
「では、お断りするわけにもいかないわけですわね?」
「直接の上司だからな。向うもまさか嫌とはいうまいと思っている。丈はジャーナリストとは会わないと説明したのだが......新聞社の重役ならいいだろうといわれた。まあ、記者とは違うということでな......」
三千子の目には父親がいささか卑屈に見えた。大新聞社の重役から直接名指しで、となると、昇進にも関係してくるという意識が丸見えになっていた。彼がいかに立派そうに見えようとも、猿山の位階に等しいものを背負って生きているということがよくわかる。
それに引き比べ、丈はだれにも腰をかがめたりはしない。全ての人間と、地位や肩書抜きで対等に対話することができる。丈は真の意味で自由な人間なのかもしれない。
「それで、先様は急いでおられるのでしょうか?」
「正月明けに会いたいといっている。スケジュールを調整してくれといわれた」
「でも、お父さま。もし丈の都合が悪かったり、会えないということになったら、どうなさるおつもりですか?」
「丈に頼むしかあるまいな。三千子、お前からも口添えしてもらえないか?」
「話に聞いたところでは、丈のスケジュールはものすごく詰まっているようです。やっぱり人と会う用事が目白押しに詰まっていると聞きましたけど......」
「そのようだな。大沢代議士が丈に遭って褒めちぎっているそうだ。親子のよしみで、なんとか割りこましてもらえると助かるんだが......」
父親はますます弱気になってきた。父親の卑屈さを見るのは、子供として楽しいことではなかった。
「それはいくらでも口添えはいたします。ただ、今の丈は、わたくしの弟というより、もっと大きな存在になってしまっておりますので、はっきりしたことは申し上げられないのですけれど」
「そうだろうな。しかし、三千子のいうことだったら、丈もうんというだろう。あれにとって昔からお前は神様のような存在だからな。なにぶんよろしく頼む」
卓もびっくりしたような目をしていた。こんな父親を生れて初めて見たからである。傲然と構え、人を見下すような目をした父親しか記憶になかったからだ。
「もう一杯どうだ」
と、父親が勧めたが、さすがに卓は辞退した。卑屈な父親は見るに堪えないと思ったのかもしれない。
「僕はまだ高校一年ですから......」
「そうか」
父親はいいにくいことを口にしてしまったので、急に力抜けしたようになった。体から張りが抜け、にわかにだらしなくなってしまう。
眠くなったから、床を取ってくれ、と龍介はいいだした。睡魔に囚えられたのであろう。隣りの父親の寝室に三千子が急いで床を展べているところへ電話が鳴りだした。
「丈かもしれんぞ」
と、父親がいった。電話は卓にまかせて、三千子は大急ぎで布団を敷いた。父親のいうように丈かもしれなかったが、なぜか心臓が跳びあがるようなショックを覚えた。廊下の電話口で卓の話している声は聞こえなかったが、ひどく気になった。
「丈か?」
と、父親が酔漢の声で尋ねる。
「違います。姉さんにちょっと......」
卓は曖昧にいい、床を展べている三千子にささやいた。
「井沢さんという男の人から電話なんだけど......急用らしいよ」
察しのいい卓は、なにごとかただならぬものを感じているらしく、神妙な顔をしていた。
「井沢さん?」
とっさに思い当るものがなかった。しかし、電話に出てみるしかない。父親は座椅子にもたれ、頭をぐらぐら振っていた。陥落寸前だった。
「お電話代りました。東三千子でございますが」
「夜分遅くどうも申しわけありません」
年輩の男の声が伝わってきた。
「井沢郁江の父親です。郁江がいつもお世話になっておりまして......」
「郁江さんのお父様でいらっしゃいますか!?」
ずきんと胸が痛んで、火の気のない廊下の冷たさが消え失せた。入院中の郁江の容態に変化でもあったのかととっさに感じたのである。
「郁江からかねがねお噂は聞かせていただいております。東丈さんのお姉様でいらっしゃる......」
郁江の父親はいいだしかねているように、余計なことを言葉にしていた。それがいかにも重大事を感じさせて、三千子の動悸は更にひどくなった。
「失礼でございますが、郁江さんの身になにかあったのでございますか?」
三千子は堪りかねて、単刀直入に切りだした。相手は愚かしいような反応を示していた。
「は、ちょっと......東丈さんはご在宅でしょうかな? できますれば、お話しさせていただきたいのでありますが」
「弟は今、出かけております。郁江さんに関することで何かお話がおありでしたら、わたくしが代りに承わっておき、後ほど丈に申し伝えますが」
「お留守でしたか、それはどうも......」
まともに喋っているようだが、声音が空ろであった。三千子は尋常でないと感じたことが間違いではないと確信した。
「東丈さんの出先と連絡がつかないものでしょうか? 大急ぎでお目にかかり、お話ししたいことがありまして......」
相手は三千子のいうことが、ろくに耳に入らないようだった。
「申しわけございませんが、ちょっと連絡がつきかねます。郁江さんがどうかなさったのでございますか? ご入院中ということは丈から聞いております。丈が何もかも話してくれましたので。郁江さん、大丈夫なのでしょうか?」
「はあ、ちょっと......」
郁江の父親は呆けたような声音で呟いた。丈に聞いたところでは高級官吏の偉いさんということであるが、その気配もうかがえなかった。少し頭がぼけているという印象であった。
「よろしかったら、お話しいただけませんでしょうか?」
三千子はつい声高になってしまっていた。気づいて声を落す。
「丈は、郁江さんの身をたいへん案じております。郁江さんのためならば、どんなことでもするはずです。どうかお話下さいませ」
「はあ......」
父親はぼんやりといった。自分の考えで頭がいっぱいになっており、なにをいわれてもぴんと来ないようであった。
「実は......郁江が病院からいなくなりました」
と、父親は気が抜けたように呟いた。
「!」
三千子は送受器を反射的に強く握りしめた。
「でも、どうやって!? 重病棟に入院なさっていらしたのでは?」
「はあ、そうなんですが......看護婦も気づかぬ間に病院から消えました......」
「いったいどうやって......郁江さんご本人の意志で病院を抜けだされたのですか?」
「わかりません。ごくわずかの間に姿を消しました」
「書き置きとかは? 着替えをなさって病院を脱け出されたのですか?」
「書き置きはありません......寝巻のままいなくなりましたようです。郁江が出る所を見かけた者もおりません......これは東丈さんにご相談するしかないと思いましたわけで......郁江から聞いた〝幻魔〟とやらいうものに関係あるのではないかと......」
「手術をなさる前だったのですか?」
「実は明日、四日に予定されておりました。それで病院では、手術を嫌って脱走したのではないかというのですが......この真冬の夜に、寝巻のままスリッパもはかず抜けだすものでしょうか? 是非とも東丈さんにご相談したいと思いまして、夜分お電話させていただいたのですが」
〝幻魔〟という言葉が冷たい鉛の感触で体の芯に沈んで行くようだった。
「もちろん、ご帰宅はなさっていないわけですね?」
「はあ。帰宅しておりません。私は......郁江が病院を脱け出したのではなく、病室から消えてしまったような気がするのですが......」
「消えてしまった......? それは確かなことでございますか?」
「いや、それはなんともいえません。しかし、あまりにも奇怪なので......」
郁江の父親は口ごもった。自分があまりにも異常なことを口走っていることに、ようやく気づいたのであろう。
「付添いの方がいらしたわけではありませんのでしょう?」
「付添いはついておりません」
「病院は夜間、正門は閉めても、職員の専用出入口はあるのではないでしょうか? そこを通って郁江さんはお出になったのかもしれません。ですから、ドアに錠をおろしてずっと見張っていたのでもない限り、抜け出すのは可能なのではないでしょうか? 煙のように消えてしまったというのは、考えすぎではないかと思うのですが」
「そ、そうです。消えたというのは穏当ではありませんでした......〝幻魔〟ということが頭にあったもので」
父親は狼狽していった。
「それで、警察にはお届けになったのですか?」
「いや、まだ届けていません。八方手を尽してからでないと......なにぶん郁江の病気が病気ですので、大騒ぎになって本人に知れますと......」
父親は理屈に合わないことを口走った。世間態ということをまず気にしているのであろう。警察に届けて新聞沙汰にでもなれば、高級官僚としての立場に傷がつく。それに郁江は自分が癌であることを知っている病人である。自ら望んで手術を受けようとしているのだ。
その郁江が手術を嫌って病院を脱走したというのもおよそありそうもないことではあった。
「病院では、郁江が癌であることを知り、絶望してとびだしたのではないかといっておりますが、私にはそうは思えません。今日も見舞いに行ったところ、たいへん機嫌よくしておりまして、そんな節は少しも見られませんでした。郁江はきっぱりした性格の娘でして、見苦しいことは嫌う方ですので、手術を恐れたり、絶望したりして病院から逃げだしたとはとても考えられないわけで......
ですから、これは東丈さんにご相談するしかないとお電話をさしあげたのですが......会のほうには他にも超能力ですか、霊感者の方がいらっしゃるとか聞きましたが、そういう方のご協力を仰ぐわけにはいかないものでしょうかな? 秘書をなさっている杉村さんも霊感者と承っておりますが」
「わかりました。郁江さんの問題は確かに容易ならぬことだと思います。さっそく杉村さんにも連絡を取り、弟の丈を捜すようにもいたします。でも、あまりお父様もご心配なさらぬように......郁江さんはしっかりした気性のお嬢様ですし、お父様が案じるほどのことはないかもしれません......それよりも、幻魔というような言葉をお口になさったり、消えたとか蒸発したというような超自然的なことはおっしゃらない方がよろしいのではないかと思いますが......」
三千子は自分が冷静な声を出していることをありがたく思った。胸は大きく波打っているが、相手に知られてはならなかった。
「はあ、わかっております。しかし、郁江から幻魔の話を聞かされておりますので、つい不安になりまして」
父親の声音にようやく芯が戻ってきた。三千子に相談したことで心が多少は鎮まってきたのかもしれない。
「どうぞ、落着かれて事後処理をなさって下さいませ......こちらでも手を尽しますので。肝心のお父様がどっしりと落着かれていないと、大変なことになりかねませんから......郁江さんはきっと大丈夫です。すぐに何事もなくお戻りになる、そんな気がいたします」
「そうでしょうか。そうだと本当に有難いのですが。失礼ですがあなたも超能力とかをお持ちなのですか?」
「あたくしは違いますけれども、先日そちら様へおうかがいした杉村さんは優れた超能力をお持ちです。明雄ちゃんという超能力児童もいますし、必ず郁江さんを捜しだしてくれると思いますから、どうぞ......」
三千子は寒さも感じず、冷えきった廊下に佇んだまま、電話で郁江の父親に説得を加えた。
後ほど連絡する、といって、ようやく電話を切った。父親は高級官僚らしさを一片もうかがわせない取り乱しようだった。社会的地位のある男性の頼もしさどころか、終始彼にしてみればほんの小娘にすぎないであろう三千子にリードされ、子供のように他愛なく彼女の働きにすがりつく始末であった。
しかし、三千子は批判よりも、郁江の安否に心を向けていた。それは郁江の父親が、電話一本で彼女の両肩にあずけてきた、ずっしりと重い責任感であった。今は丈のためというよりも、三千子がやらねばならぬ仕事になってしまっていた。
丈という〝家長〟が不在の時は、女たちが代って責任を果さなければならないのだ、と三千子は思った。
身も心も冷えきって、三千子は座敷へ戻った。
「どうした、だれから電話だ......丈か?」
龍介はグラスを摑む手も怪しげになり、体をぐらぐら揺っていた。わけがわからなくなっているくせに、しつこく電話の相手を尋く。丈ではないと答えるたびに、そうかと納得するのだが、しばらくするとまた同じことを尋くのである。
こんな父親の酔態を見るのは初めてだった。泥酔に近い状態になっても、龍介はしきりに丈のことを気にしていた。
三千子は相手をしかねて座敷を逃げ出していた卓を呼び、手伝わせて龍介を床に就かせた。酔いすぎていて寝巻にも着替えられない有様であった。たちまち遠雷のような鼾をかいて寝入ってしまう。脳溢血でも起こしたのではないかと心配になるほどの大鼾であった。
「電話、どうかしたのかい?」
と、龍介を寝かしつけた後、卓が尋いた。
「ええ。ちょっとね......」
「兄貴が留守していると、大変だね、やっぱりいくら秘書がいても、姉さんが兄貴の代理にならなければならないものな」
卓は同情を表明したが、例によって関り合う意志は毛頭ないようであった。おやすみ、といって自室に引き上げてしまう。卓のマイペース主義は実に明快そのものだ。
冷えた体を暖める間もなく、三千子は再び寒い廊下で電話をかけなければならなかった。杉村由紀には相談相手として頼もしさがあり、助かる。もちろん、二人で知恵を合わせてみても、どうなるかわからない。
改めて心に冷たく霜がおりるような心地を味わった。井沢郁江はまたしても久保陽子の二の舞いになるのだろうか。手術も及ばぬ卵巣癌の責め苦を負いながら、その上更に二重三重の苦しみを受けなければならないのだろうか。
それではあまりにもひどすぎる、と三千子は体が慄えてきた。これを知って、丈は果してどう思うであろうか。それでも彼は堪えることができるだろうか。
彼の激しい巨大な怒りが激発するのを、自分はそれでも諌止しなければならないのだろうか。
もし丈が遂に暴発することになったら......三千子は胆が冷えるような恐ろしさを味わった。自分の裡に丈の憤怒が解き放たれるのを期待し、快哉を叫びたくなるような、凶暴な気分が存在することを感じ取ったからだった。
それでもなお、丈が怒りに我を忘れ、巨大な〝力〟を解き放つことは許されないのである。たとえ郁江のみならず姉の三千子自身が同じ悲運に見舞われたとしても、丈は絶対に暴発を己れに許してはならない。それを姉の自分に丈は誓ったのだ。
彼が忍耐の封印を破り、復讐のために、持てる巨大な〝力〟を振るった時、丈は相手の幻魔と同じレベルに堕するからである。
幻魔は、労せずして丈を土俵に引きずりこみ、好きなように料理できる。なぜなら、もはやそれは勝敗の問題ではない。幻魔は勝つ必要さえない。たやすく丈と自己同一化を遂げることにより、丈を征服することができるからだ。復讐心に憑かれた丈は、おのが自身、幻魔と化していることを知るであろう。
それこそが幻魔の狙いに他ならない、と三千子は鮮明な悟りを得た。それは真紅の閃光のように彼女を襲った認識だったのだ。
幻魔は圧倒的な攻勢に立ちつつある。
なまじ、それは過激でなく直接的攻撃でないだけに、真綿で首を絞める効果を発揮していた。
幻魔のじわじわと加えてくる圧力を、三千子は膚で実感する思いだった。
幻魔と化した江田四朗は、丈が激怒に燃えて報復に出ることをかえって歓迎するであろう。〝力〟と〝力〟の対決になれば、丈は圧倒的な勝利を得るかもしれない。江田もまた丈に対しては勝ち目がないことを認めているはずだ。
にもかかわらず、幻魔は丈を武闘としての〝力〟の戦いに引きこもうとする。幻魔にしてみれば、戦いで江田四朗を損耗することを何とも思っていないのではないだろうか。江田など単なる使い捨ての消耗品にすぎない。それどころかどんな犠牲を払っても、幻魔は丈を征服することに価値を見出しているのかもしれないのである。
なぜなら、丈を幻魔が得た時、地球における幻魔大戦の趨勢は決定的に幻魔側に傾くからだ......
8
美人女優の四谷の高級アパートは、洋画で見るそれにそっくりであった。アメリカ・スタイルというのか、建物の入口は鍵を持たない場合は、内部の者に頼んで遠隔操作で開放してもらわなければ立入ることができないようになっている。居住者の確認がなければ、足を踏み入れることができないのである。
美人女優のような人気商売の人間は、こうでもしなければ、ファンの無遠慮な侵入から己れを護ることができないということらしい。
高鳥慶輔は、日本においては非日常的な世界に踏みこんだスリルと興奮の虜になっていた。この冒険心の強い若者は、聡明なようでも、大人の判断力とは無縁であった。女優の巧みなそそのかしに乗って、素地にある無鉄砲さ、奔放不
さがむきだしになりつつあった。
男には無軌道で衝動的な本能が潜んでいるものらしい。かつてない刺激的な興奮が若者を囚え、とてつもない高揚感をもたらしていた。未知の経験に足を踏み入れる期待が、高鳥から思慮を奪い、大胆不敵にしていた。
腕には、彼の庇護を求める美しい女がしっかりとすがっている。その豪華な重み、柔媚な感触、蠱惑的な香水の匂いは、彼女が体をぴったりと密着させてくるにつれて、強く意識せざるを得ない刺激であった。
胸がどきどきして、居堪まれない衝動が身裡にふくれあがる。それは己れの雄性の優越を、この美しい女に対して誇示しなければいられぬ熾烈な衝動であった。
相手は見れば見るほど美貌の女優であり、特にその大きな蠱惑に満ちた美しい瞳は、彼女のかちえている人気のほどを納得させるに足るものだった。
もともと高鳥はこの美人女優にさして関心がなく、彼女の出演した映画など一本も見ていない。洋画ファンなのである。従って、相手をチヤホヤする気など毛頭なかったのだが、こうなれば成行というしかなかった。
今となれば、彼の庇護を求めている女優は、彼自身を英雄的に感じさせてくれるという点でにわかに親密なものと化した。社会的な名声を博している女優の存在は、高鳥が己れを大きく強く、雄々しいものに感じることを手伝ってくれた。
高鳥が正気を喪っていたわけではないが、美人女優は彼を賞讃し、そそのかすことにより、彼の実像よりもはるかに大きい、己惚れという虚像を作らせることに成功した。それは意図的になされ、魅力的な美しい女だけに許された方法で、高鳥の自己顕示欲を肥大させることに拍車をかけた。
その点、美貌の女優は実に巧妙であり、信じがたいほど狡猾であった。高鳥の若者らしい聡明さを曇らせることなど、造作もなかった。わずかな暗示をかけることで、若者は雄々しく勇ましくなり、とめどがなくなった。自信満々の雄鳥が周囲を睥睨し、闘志にあふれてうろうろと歩きまわるのを見るようであった。
むろん、高鳥が女優の作為に気づかぬほどおめでたかったわけではない。しかし、おだてられていると察したところで、ヒロイズムがしぼんでしまうわけでもなく、これほど高名な美人女優が他に頼ることができず、自分を庇護者に選んだという満足感の方がはるかに大きかった。
なぜなら、彼は並みの人間ではなく、天賦の才を持つ超能力者だからだ。
若者の体は血の騒がしさに満たされ、更に筋肉が厚みをまし強くなり熱くなったような高揚に押し上げられた。こうした若者の興奮は特殊なものであり、ヒロイズムの極致であって、言葉に表現すれば、
〝人生はこんなに面白いものか!〟と大声で叫びたくなるほどのものであった。
たとえ、抑制心が働いていたとしても、この夜の高鳥を自制させるには、あまりにも非力であった。
何かねっとりした熱い粘着物の如きものが頭にとり憑き、五官の働きを制限してしまったように、頭がうまく働かなくなっていた。高鳥の生来の奔放さがまともに表面化してしまったとしかいいようがない。全力疾走、跳躍の感覚の中で思慮分別は無用であった。
今の高鳥の念頭には〝GENKEN〟もなく東丈の存在もなかった。超能力の戒めなど意味をなさなかった。
廊下を歩きながら、エレベーターのケージの中で、女優が体を巧妙に押しつけてくるたびに、パワフルな感覚、優越感を味わわされていた。
この女は俺の庇護の下にある。俺一人を頼っているのだ。ならば、俺はこの女を護ってやろう。俺の力を示すことにより、この女に俺の能力の素晴らしさをわからせてやろう。彼女は俺を崇拝し、俺の支配下に服するだろう。俺は世界にも稀れな〝力〟を持った超能力者なのだから......
彼は思惟としてめぐらしているわけではなかったが、高揚感を言語にしてみればおよそそのような昂ぶりに満たされたものであった。
この女は俺の虜だ。なぜなら、恐怖にとり憑かれた彼女が救いを求めるのは、大きな〝力〟の持主である俺しかいないからだ。
英雄心が心を昂らせる一方、女に対して優しい気分をももたらした。力強い雄として、雌に対して大きな責任を負っているという自覚に他ならなかった。
高級アパートの建物の内部は静かで、行き遭う人間は一人もいなかった。しんと静まり返って、ひと気を感じさせない。廊下の照明だけが白々と明るかった。八階で二人を降ろしたエレベーターのケージが自動的に降りて行く音が静寂の中で際立っていた。

あまりにも静かすぎるのである。女優が帰りたがらないのも無理はないと思えた。無人境のような静寂が不安と孤独をかきたてるのであろう。
しっかりと高鳥の腕をとり、体を密着させて女優は廊下を歩いた。ひどく神経質になっている気配が伝わってきた。彼女が高鳥から手を放したのは、自室のドアの前で立ち止まり、ハンドバッグを開けて鍵を取り出した時だけだった。
「ドアを開けてちょうだい......」
と、女優は小声でいった。
「何を怖がってるんです......」
高鳥はからかうようにいい、女優の頼みに従った。
「部屋の中に何かが待ち伏せしてるとでもいうんですか?」
「いや、こわいこといわないで!」
女優は怯えた声でいい、強い力で高鳥の腕にしがみついた。頰が蒼ざめ、そそけだっていた。若者は相手が真剣に怖れていることを知り、少しぞくりとしながら、ドアのロックを解いた。
「大丈夫ですよ。僕がついてますから。先に僕が入りましょうか......」
女優が無言で強く頷く。若者は重く頑丈な鉄扉を引き開けた。相手の怯えに影響されて、いくらか緊張気味になっていた。
「大丈夫らしい......なんともないですよ」
室内は空気がこもっていた。女優がしばらく帰宅できずにいたせいであろう。勘のいい高鳥は教えられずに照明スイッチを捜しあてた。光を満たして闇を追い払う。
「ほら、なんともないでしょう?」
玄関を入ると、広い居間になっていた。インテリアの専門家の手が入っていて、みごとなものであった。大学生の高鳥にしてみれば、高級紙を使用した雑誌のカラー・ページでしかお目にかかった憶えのない豪奢なたたずまいが広がっていた。家具は北欧製らしい高級なものだ。床には毛足の長い絨毯が全面敷き詰められている。タピストリが壁面に飾られ、巨大な飾り棚には女優のコレクションらしい各国の人形が数百も並んでいた。
天井からさがるシャンデリアは切子ガラスの凝ったもので、何百キロもの重量がありそうであった。高鳥は感銘を受けるよりも責任感を優先させていた。彼はインテリアに興味を持つ年齢ではなかった。あまりにも現実生活とかけはなれているせいかもしれない。
女優もまた自分のインテリア趣味を若者に誇る心境にはなかった。自分一人でいることに堪えきれず逃げだしたのだ。彼女が関心を抱いているのは、部屋が安全かどうか確認することに尽きた。
「寝室を見て、お願い......」
「わかりました。見ましょう」
女優は高鳥のコートの袖を摑み、恐るおそるついてきた。
寝室は非常に凝ったもので、特大サイズのダブルベッドがスペースを占有していた。女優の経験豊富さを培ったベッドであった。
ベッドカバーは除かれており、寝室の照明は微妙に刺激的であって、明白な性的雰囲気がたちこめていた。
「戸棚も調べてちょうだい」
と、女優が若者について歩きながらいった。
「そうしましょう......」
高鳥は衣裳戸棚を初め、女優の指示する戸をかたっぱしから開放していった。何百着もある衣裳にはさすがに度肝を抜かれたが、異常は何一つ見られなかった。あらかじめ高鳥が予想した通りだった。美しい女優は神経質になっているだけなのだ。
彼は巨大なベッドの下まで覗かされ、次いで浴室、洗面所、トイレット・ルームと全て確認することを要求された。
もちろん、何事もあるはずがない。女優はようやく気をゆるめ、高鳥の袖から手をはなした。しかし、体を遠く離してしまうわけではなかった。
「ごめんなさい。こうでもしないと安心して落着けないの。何かが隠れているような気がして......自分の部屋なのに馬鹿みたいだと思うでしょう?」
美しい女優は、異常に接近した位置に立ちながらいった。真剣な表情をたたえた顔がすぐ目の前にあり、刺激的すぎて、さすがの高鳥もどぎまぎした。
「そんなことはないです。ちょっと神経質になっているだけじゃないですか?」
「そうね。やっぱりそう思われてもしかたがないかもしれないわね」
女優はわずかに気落ちに似たものが感じられる語調で呟いた。間違いないと確信していたものが揺いだという風でもあった。
「あなたには理解できないのは無理もないわ」
「なんだか化物が待ち構えていなかったのが不満だといわんばかりですね」
と、高鳥は屈託ない笑い声をたてた。張り切って身構えていたのに空を摑まされた自分をおかしがってもいた。自分を笑いものにできるのがこの若者の爽やかさだった。
「笑いごとじゃないのよ。あなたが護衛して下さらなかったら、今夜だって絶対この部屋には近づかなかったわ」
ちょっと気を悪くして女優はいった。
「でも、まだまだ安心できないわ。この先、何が起こるかわからないんだから......」
女優が毛皮コートを脱ごうとするのを、高鳥はすかさず手伝った。この若者の機敏なところだった。実に軽くスムーズに体が動くのである。
しんと静まり返った室内にエアコンの音だけが耳についていた。沈黙をいっそう深める響きだった。
「音楽でもかけましょうか?」
と、高鳥は居間を見廻し、マントルピースの横に据えられた高級ステレオ装置に目を止めていった。
「FENかけてちょうだい。やり方わかる?」
「わかると思います」
高鳥は初対面の装置に難なくスイッチを入れ、ダイアルを合わせてFENのミュージック・プログラムを小さい音量で流し出した。
「高鳥君って器用なのね」
女優は感心していった。
「いっそ、あたくしの付人になってくださらない? ボディガードだけじゃもったいなくなってきたわ」
まんざら冗談ばかりでもない口ぶりであった。高鳥はけろりとしていた。重厚に黙っていることも心得ているのだった。この若者は女の扱いに慣れていた。変に照れたり、粗暴になったりすることが決してない。女性にとっては逆に油断のならない若者かもしれなかったが、女優はもちろん頭から無視していた。男と女の駆引きに自信を持っているのだった。
「高鳥君もコートをお脱ぎになったら、いかが?」
女優が勧めるまで、高鳥はコートに手をかけなかった。一応礼儀は心得ている。
「ちょっと待って。今、何か飲物をお持ちするから......」
女優は居間につながっているキッチンの戸を開け放したまま、電気冷蔵庫を開けて何やら始めた。高鳥の姿が見えないと不安なのか、しきりに目をあげて、居間の若者の姿を確かめている。
「付人が逃げちゃったんで、何もおもてなしできないんだけど、許してくださる......」
女優はトレイの上に即席のつまみを並べて持ってきた。飾り棚から洋酒の瓶やグラスの類を取り出す。
「ウィスキーの水割りでいいかしら?」
「僕がやりましょうか?」
慣れた手つきで、若者は水割りを二つ作った。
「バランタインですか。さすがにいいお酒を飲んでいらっしゃいますね。僕なんかにはもったいないんじゃないかな? 大学のコンパで安酒しか飲んだことがないので......」
「あら。こんなお酒でよかったら、いくらでも召し上って」
女優はいった。ボディガード料とすれば、スコッチぐらいいくら振舞ってもさしつかえなかった。二人で水割りのグラスをささげ、乾杯のポーズを取る。「あなたの永遠の美しさのために」
こんなせりふがすらりと出るところが高鳥らしいスマートさであった。豪華な美女を相手に平然として振舞えるのは、並みの十九歳の少年には無理な芸当であろう。相手は並みの女ではなく、高名な映画女優という特別な光輝を身にまとった存在であった。
彼は低い椅子に座り、高々と組んだ女優の美しい脚にも心を動かされた様子はなかった。彼女はかなり大胆であり、目の角度によっては太腿の奥まで視線が入って行けることを計算していたからだ。
若者の目は強い輝きを帯びていたが、それは情緒的な高揚というよりも、冒険心のもたらす興奮によるものであった。女の美しさや魅力に無関心なわけではないが、もっと強烈な関心をそそりたてるものに、心が向けられてしまっているのである。
ボディガードとして若者を連れこんだものの、それは女優のプライドに対する挑戦として受け取られるべきものとなった。自分の蠱惑に対して積極的な関心を持たない雄性を許せないのだった。
女に関してよほど場数を踏んでいるのかと思ったが、そうではなくて、関心が幻魔に向いてしまっているのであろう。
「江田四朗のところで、何があったのか話してくれませんか?」
と、高鳥は水割りのグラスをテーブルに置いて切り出した。女優がそのグラスに手を出す。
「今度はあたくしが作るわね」
「話してくださる約束ですよ」
と、高鳥は芯の強さをのぞかせていった。
「それもあって、僕はここへ来たんですから......」
「ちょっと待って。心が落着くまで待って下さらない? あなたも短気な方ね」
女優は甘えるようにいった。目的は異っていても、性急に迫ってくる男をかわすのは手慣れていた。
「もう少しお酒を頂かせて......ね? 心も体も板でできているみたいに緊張でカチカチになってしまっているの。わかるでしょう? もっと心をほぐさないと......」
「でも、早く話してしまった方が楽になるし、こちらも対策を考えやすくなります。江田がどんなやり方で、あなたを責めつけ、いじめるのかわからなければ、僕にしても手のほどこしようがありません。そうでしょう?」
若者は理路整然としていた。女優は溜息をつきながら、新しい水割りを作った。
「そうね。あなたのおっしゃる通りだわ。でもね、あたくしにしてみると、とても話しにくいことなの。だって、あなたは初対面の男性でしょう? いきなりあたくしのプライバシーにかかわることを気楽に話せというのは無理だわ。そうでしょう?」
「でも、それは必要なんです。僕を医者とか弁護士とか、ちゃんと秘密を守ってくれる職業の人間だと思ってみてはどうですか? 僕もあなたの秘密は必ず守ります」
「でも、それは無理だわ。いきなりそう思えといわれても......もう少しあなたとあたくしが親しい気持になれるまで、時間を貸してほしいの。ね?」
甘えるような声音で女優はいった。高鳥は納得しなかった。
「しかし、それではこっちも対策の講じようがないですよ。具体的にどんなことが起こったかわからなければ......アウトラインでもいいから話して下さい」
「話せないわ、今は......もっとお酒を飲んでちょうだい。そのうちに話す気になれるかもしれないから」
「酒はあまり飲みません。酔ってしまうと、精神集中がむずかしくなるので......酔って超能力を使うと、ひどい頭痛がするんです。いざという時に困りますからね」
「そう。それじゃあまり勧められないわね」
女優はわずかの間躊躇し、それから心を決めたようだった。
「じゃ、お酒はあまり飲まないようにして。あたくし、服を着替えたいのだけど、ついてきて下さる?」
「寝室のドアを開けておけばいいんじゃないですか?」
「だめ。すぐそばにいて下さらないと、安心できないの。ね、お願い......」
逆らうわけにもいかず、若者は手にしたグラスをテーブルに置いて立ち上る。いささか戸惑い気味だった。
「そこにいて。部屋から出ちゃだめよ」
女優は背中のファスナーに手をかけながら若者に念を押した。

「わかりました。後を向いていますから」
「だめ。あたくしから目を放さないで。ちょっとでも目をそらされるのがとっても不安なの。だって何が起こるかわからないんですもの......」
「でも......」
「申しわけないけれども、背中のファスナーをおろして下さる? 引っかかってしまったみたいなの」
「............」
高鳥は躊躇したが、女優は有無をいわせなかった。
「お願い。礼儀とかそんなものにあまり気を遣わないでほしいの。遠慮ばかりしていたら、幻魔からあたくしを守りそこねるかもしれないでしょ?」
「わかりました......」
高鳥は溜息をついた。自分が戸惑っていることに対して、屈辱と腹立たしさを覚えたようでもあった。
手を伸ばして、ファスナーを摑み、引き降ろす。女優は少し体をくねらせるように反応した。男をどのように刺激して奮い起たせるかをよく心得ていた。
女優の体は細身だが、要所は充分に発達していた。意外なほど胸部は豊かであった。若者に背中を向けているので、それが余計に目につく。
高鳥はすでに当惑から立ち直っていた。下着姿になった女優の体から発散する熟れた女の匂いにも気づかないような顔をしている。女優は成熟しきった女の濃厚な媚をあらゆる波動で振りまいていた。体臭のみならず、体全体に表情というものがあった。目に見えない触手のようなものを無数に伸ばして高鳥を捉え、やわやわと包みこみ、引き寄せようとしている。ブルーの下着姿になった女優は凄まじいほどの色気を立ち登らせていた。若者には目の毒というしかなかった。
しかし、それを挑戦と受け取った高鳥はもはや目をそらそうとはしなかった。向う気の強い若者であり、当惑したり狼狽したりすることを己れに禁じるだけの気力の持主であった。
女優は若者の視線を浴びたまま、あわてもせずに部屋着を羽織った。彼女はそれらにたっぷりと時間をかけて演じ、高鳥はさすがに喉が乾いてしまった。しかし、固唾を飲むのを悟られるのが癪で我慢している。
振り返った女優は、若者が平然とした顔をしているので、いささか失望した気配を見せた。挑発が通用せず、あてはずれだったらしい。
──いったい何のつもりなんだ?
と、高鳥は内心ひとりごちた。自分を部屋まで引っ張りこんで、誘惑でもするつもりだったのか。それともその気もないのに挑発してみせて、からかっただけなのか。
その手には乗らないぞ、と心の中で呟く。彼はプライドの高い若者であり、歳上の女の誘いを受けたのはこれが初めてではなかった。年長の女はつまみ喰いが目的で彼に誘惑をかけてくる。その下心は、ひひ親父が若く美しい娘に持つのと同じ脂ぎった醜悪なものだ。
高鳥は男女を問わず、そうした薄汚い漁色家を軽蔑していた。もちろん爽やかな皓歯をのぞかせた笑顔には、内心の翳りを少しも感じさせない。
だが、女優はいつもの連中とは異り、充分すぎるほど美しかった。漁色家というよりはゲーム・ハンターといえた。高鳥に見せている媚態も、好色さというよりも、彼を身近に引きつけておくための手管だ、と高鳥は感じていた。
高鳥を離さないために、女優は必死になって蠱惑的な女を演じている。彼女が何よりも恐れているのは、彼が女優を残してこの部屋を立ち去ってしまうことだった。そうさせないために、彼女は懸命にあの手この手を演じているのである。
それを悟った時、若者は優位に立った。きびしく光りかけていた目も愛嬌を取り戻した。
女優は必要以上にベッドルームを若者に意識させようとしている。性的雰囲気の中に彼を引きこみ、主導権を握ろうと試みているのだった。──いい子にしていれば、楽しいことをしてあげるかもしれなくてよ、とささやいているようだった。
──あたしの気に入るようにしてくれれば、この美しい体を思い通りにさせてあげるかもしれないわ......
女優はありとあらゆる方法で、そうした曖昧なサインを送り、高鳥の気をそそりたてようと試みていた。
そうはいくものか、と彼はそっとささやくように考えた。思い通りに翻弄され、操られてたまるものか、どんな時でもリーダーシップを取るのはこの俺でなければならない。
あいにくだが、あんたの心底は見え透いている。あんたは俺が超能力者だということを忘れているんだ。
そんな子供騙しに引っかかるような俺じゃないさ。
しかし、心でふてぶてしく呟く高鳥の顔はひどく明るかった。
「もういいですか? 居間へ戻りましょう」
と、彼は少しも昂ぶりを感じさせない声音でいった。くるりと背を向けて寝室を出てしまう。
「あっ、待って!」
女優はあわただしく室内履きを足の爪先から振りとばすような勢いで、高鳥を追ってきた。高鳥の思った通りだった。彼女の手の内は透けて見えるようだ。これが遠感だったとしても不思議はなかった。なぜなら俺は超能力者なのだから。女優の本心を見破るぐらい、俺にとっては造作もないのだ。
「やはり、若いきれいな女性の寝室は苦手です」
と、高鳥は明るい声でいった。
「僕にはこっちの方が落着ける。しかし、僕みたいな者を寝室なんかに入れたりしていいんですか? 大事なプライバシーなんでしょう?」
「あなたにもっと親しい気持を持っていただきたかったのよ。虚像ではないあたくしを見てもらいたかったわけなの」
「でも、人間はそう簡単に理解しあうというのは無理じゃないですか?」
若者はソファに戻り、氷の半ば溶けたグラスを取り上げた。乾いた喉を潤おす。忌々しいことに体の裡に生じている疼きと呼応している動悸はなかなかおさまりそうもなかった。
「それよりも、あまり焦らさないで話してくださいませんか? 僕はこれでも短気な方ですから、焦らされるとかっとなって跳びだして行っちまうかもしれませんよ」
明るい声音にやんわりと脅しをこめた。まんざら本気でないこともなかった。女優のその気があるのかないのかわからぬ曖昧さに腹が立ってきていたからだ。
「いやっ、帰らないで!」
女優は反射的に叫んで腰を浮かせた。両手で高鳥の腕を摑もうとする。
「しかし、いつまでもこんなことをしていても仕方がないじゃないですか? 一晩中、こうやっていても時間の無駄ですよ。だって、江田四朗の危険というのは、今夜だけじゃないんでしょう? 問題を解決しない限り、いつまでも続くんじゃないですか?」
「でも......やっぱり思い切りがつかないのよ。うんと酔っ払うとかして踏んぎりをつけなければ、とてもお話できないわ」
女優は哀願するようにいったが、高鳥はその手には乗らなかった。
「では、酔っ払うまで飲んで下さい。僕はちっとも構いません。とにかく僕はこうやってダラダラしていることがいやなんです。僕を信用できないとおっしゃるのなら、僕はこれで帰ります」
「待って! わかったわ。お話するわ」
女優は観念したようにいった。
「でも、その前にお風呂に入らせて。昨夜も入れなかったから、とても気持が悪いの」
「お風呂? しかし、ただ話をするだけなのに......」
高鳥は呆れていった。
「お風呂に入ると、あたくしは決断が下せるようになるの。リラックスするせいかしら? ああでもない、こうでもないと考えていたことが吹っ切れるのよ。だから、お願い。お風呂に入らせて?」
「どうぞ、お入り下さい」
高鳥はうんざりしたことを隠さなかった。
「僕はここにいますから」
「だめよ。浴室のすぐ外にいてほしいの。ドアを開けておくから、何かあった時、すぐに来られるように......」
「いい加減にして下さい。僕をなんだと思っているんですか!」
「怒らないで、本当なの。これでもあたくし努力しているのよ。別にあなたをからかっているわけじゃないわ」
女優はあわてていった。若者を本気で怒らしてしまうわけにはいかない。相手が思ったほど初心な扱いやすい若者ではないこともわかってきた。下着姿を見せたくらいで、かっと頭に血が昇り、むしゃぶりついてくる相手ではなかった。
超能力者だからなのか、年齢に似合わぬ自信を持っている。十九歳の学生と軽く見て、翻弄する自信が女優の裡からなし崩しに失せてきていた。
さすがにあの東丈の弟子だけはある、と彼女は思った。手許に引き込み、じらしながら思い通りに操るテクニックは通用しないらしい。簡単に乗ってきそうでいて、うまく乗ってこないのだ。もしかしたら、心を読み取られているのかもしれない、と戦慄が体を走り抜けた。しかし、高鳥はあの東丈と異り、何もかも彼女の心を見通しという怖さがないことも確かだ。
「お風呂に入るのは自由ですが、話をしてからにして下さい。僕は護衛を引受けた以上は果すつもりですけど、いい加減なことはしたくないんです。話をちゃんと聞かせてくれた後なら、なんでも好きなようにしますけどね!」
若者の怒りを鮮烈なものに感じて、女優は身震いが止まなかった。確かに彼女の誘いに簡単に乗るような甘い若造だったら、あまり頼りにならない。彼の抵抗ぶりは、心地よい安心感をもたらすものだった。
「ごめんなさい。あなたを怒らせるつもりはなかったの......あたくし、混乱してて、どうしたらいいのかわからなくなっているみたい......だから、怒らないで気を鎮めて。今、一生懸命、努力してみるわ。でも、それくらい大変なことだということをわかっていただきたいの......」
女優は懇願の演技を演じ、ほんの若造に平身低頭する屈辱を感じずにすました。
「お願いだから優しくして。あたくしはあなた以外に頼れる人がだれもいないの、江田がみんな取り上げてしまったのよ。あなたが今夜来て下さらなかったら、ここへ帰ることだってできなかったわ。自分のお家なのに......」
「じゃあ、話せることから話して下さい」
高鳥も態度を軟化させた。
「僕も焦らないで聞きますから。なぜこの部屋にも帰れないでいたのか、理由を聞かせてくれませんか?」
「ちょっと待って。お水を持ってくるわ。それくらい待って下さるでしょ?」
女優は媚と懇願をミックスさせて、軽く高鳥の二の腕のあたりを摑んだ。
高鳥は女優が立上り、キッチンに入って行くのを見送った。彼女があまりにももったいぶっていると思っていた。曖昧なことばかり並べて、気をもたせている。怖ろしい経験をしたのは確かだろうが、なぜそれを率直に話せないのか。口外できないようなことだとでもいうのか。
疑惑が高鳥の心にきざしていた。女優が高鳥に何を求めているのかよくわからない。ひょっとすると相手は、彼の超能力など通用しないほど凶暴な敵なのかもしれないのだ。巨大といわれる東丈の超能力でもなければ歯が立たないほどの敵だとしたら......
そんなことがあるものか、と高鳥は強いて闘志をかきたてた。自分にはかなり大きなPK(サイコキネシス)がある。PKの使い方によってはかなりのことができると見当がついているのだ......
それとも、女優が言を左右にして質問に答えようとしないのは、真実のことを話すと、高鳥が恐れをなして逃げだしてしまうと思っているからかもしれない。
その考えは、彼の体に灼熱感を与えた。鋭い恥辱が燃える火の矢のように心に突き刺さった。
が、キッチンで女優のあげた激しい悲鳴が彼の体を氷柱に変えてしまった。恐怖が高鳥を鷲摑みにし、一瞬身動きもできなくなった。ガラスの割れる音が響いた。
高鳥が跳びあがるようにソファをはなれた時、女優はキッチンで棒立ちになり、意味をなさない叫び声をあげ続けていた。ジェット機のあげる金属音にも似た、慌しい切羽詰まった悲鳴であった。
「どうしたっ」
高鳥の声もうわずった。女優が体当りするように抱きついてくる。火がついたように慌しく何事か訴えかけるが、言葉にも声にもならない。
女の体を振りまわすようにどける。キッチンの床の強烈な赤い色が目を射た。
とっさにトマト・ジュースでも落したのかと彼の脳裡に閃いた。ガラスの鋭い破片がどろりとした赤い液体に浸っている。
血の臭いを嗅いだ時も、女優がガラスの破片で手を切ったのかと日常的な思考から脱することができなかった。振り返って、彼女の両手首を摑む。出血を停めなければならないと思ったのだった。
「怪我は!? どこを切ったんですか!?」
「どこも、切らない!」
女優は唇を震わせ、首を激しく振った。
「怪我はしてない!?」
「ええ......そうよ! 怪我じゃない! 壜の水が血に! 血になってる!」
「!?」
「冷蔵庫のミネラル・ウォーターが、血になってるのよ!!」
「そんなことが......」
あるものか、といいかけて、高鳥は言葉を吞み、床に散乱するガラスの破片と鮮血を見降した。そんなことはありえない。ばかばかしい悪戯だと思った。
「冷蔵庫のボトルの水が、みんな真赤になってる!!」
女優が泣きながら高鳥の体を揺すぶった。彼女のいう通りだった。冷蔵庫のドアを開放すると、庫内は真赤な色で満たされていたのである。
生臭い臭気が勢いを増して鼻を衝いた。胃袋がぎゅっと収縮し、固く握り締めた拳のようになった。
高鳥は勢いよく冷蔵庫のドアを閉め、異臭を閉じこめた。冷たい汗が全身にどっと噴き出してきた。
改めて、容易ならぬことだという認識が心に忍び寄ってきた。
「今、気づいたんですか、これに?」
女優はむせび泣きながら幾度も頭を頷かせた。
「さっきはなんでもなかった......今、冷蔵庫を開けたら、真赤になってたの!!」
「もう大丈夫です。床にこぼれた血は拭いてしまえばいいんですから......僕がやります。これくらいなんともないじゃないですか」
高鳥は相手をなだめながら、床を掃除した。トイレット・ペーパーに血を吸わせて、水洗便器に流してしまう。ガラス破片は大きいものだけ拾い集め、細かいのは掃除器で吸い取った。後は化学雑巾で空拭きする。高鳥の手際は素早く、五分とかからず始末を終えた。
冷蔵庫の内部は放っておくしかなかった。何もかもどっぷりと血で浸っているのだった。掃除にかかれば何時間も必要だろうし、女優をまずなだめて気を落着かせてやらなければならなかった。
女優は泣きじゃくりながら、高鳥の腰ベルトの後ろに摑まり、離れようとしなかった。煩わしいが、憐れでもあった。高鳥でさえ、いきなりの鮮血の出現には胆を潰したのだ。女優の神経にはよほど痛手だったに違いなかった。
「もう大丈夫だから、手をはなして下さい」
高鳥は初めて女優に対して優しい気持になるのを覚えた。それは相手に異性を感じることであった。
女優は手をはなすどころか、逆に全身を投げつけるようにしがみついてきた。強い力で若者の体を締めつける。
泪に濡れた小さな冷たい顔がこすりつけられ、高鳥は女が全身で庇護を求める仕草に心を動かされずにはいられなかった。本能的に女の細っこい体を抱き締めた時、相手が唇を求めてきた。
高鳥の体の中の何かに──おそらくはやみくもな若さに火がついた。とどめようのない勢いで火は燃えあがり、自制心を虚しいものにした。女の唇が開き、可憐な動きで高鳥の唇を吸い、ついで大胆に変容し、舌がうごめきながら送りこまれてきた。火をどこかに押しつけられたような悔恨が一瞬留まり、官能の奔騰の渦にかき消されてしまった。高鳥の手は部屋着の割れた裾からのぞく眩いほど白い腿に這い、身震いするほど蠱惑的な滑らかな肌の感触に酩酊した。
9
心が醒めた後は、自分がこの上なくぶざまに感じられる。高鳥は情事のすんだ後の自分が厭わしかった。
まったく何もかもみっともなく感じられるのだ。情緒的な高揚が去り、理性が甦ると、客観的な第三者の目で自分を見てしまうからかもしれない、全身の体毛をさらけだしている自分が獣的で醜いものに思えて疎ましい。
相手の女に対して、妙に冷やかな気分になってしまうのも嫌だった。自己嫌悪を他者に投影するからなのであろう。
女は酒と同じように悪酔いさせるものだ。
高鳥の美意識は相当に強固なものであり、幸福な性体験を持たせるには偏狭すぎるところがあるようであった。彼は性の持っている醜悪で滑稽な側面をひどく嫌っていた。自分の中にも潜んでいる貪婪、陰惨な欲望の深淵がとりわけ厭悪感を駆りたてた。
高鳥という青年は、己れの像を絶えず鏡面に投影しているような自己検閲の性癖を持っていた。自分が醜悪な、みっともないポーズや動きを取ることのないように、間断なく見張り続け、訂正を加えているのだった。
高鳥の念頭にはいつも、鏡に映った自己像が存在している。この若者が鮮やかさや爽やかさを常に保持していられるのは、そうした性癖のなせる業だったかもしれない。
高鳥にとり、自分の全てがカッコいいものでなければならなかった。全ては血肉化した演技であり、わざとらしく鼻につくものではなかった。彼はごく自然に自己を演出できる天才といえたかもしれない。
高鳥にしてみると、セックスは本能的なものであるだけに、もっともぶざまに滑稽になり易いものであった。セックスの行為を逐一鏡面に映写してみれば、それが美的でもなくロマンティックでもないことは明らかだ。滑稽で猥雑で、みっともない行為にきまっている。
それを美しいものにするには、常人にはできない努力と天才が必要なのではないか、とこの若者は信じていた。欲望の奔騰に攫われ、溺れてしまわないだけの強烈な克己心が必要なのだ。
とはいえ、高鳥が常に己れの美意識に殉じているわけではない。若いだけに一度欲望がきざせば、歯止めがきかず深淵に引きずりこまれてしまいがちだった。そうした弱さよりも、自分が滑稽なものに堕してしまうことを高鳥は恐れていた。
たとえば、情事の後、毛だらけの脚をさらけだして、もそもそと無細工にズボンを引き上げるという行為が、高鳥にしてみると疎しくてならないのである。いささか偏執的な拘泥の仕方だと思わないでもないが、そうした男の姿がいかにぶざまか、いやというほどわかっているからだった。
他人から見れば特異な心理状態かもしれないが、高鳥にしてみれば、真剣そのものであった。全ては美しく、スマートなものでなければならない。自分をおとしめるあらゆる醜悪さ、滑稽さは忌避されねばならなかった。
今、高鳥は閃くような動作で、きびきびと衣服を身につけながら、自分にいじましさ、みっともなさが鵜の毛で突いたほどもないことを点検していた。
高鳥にしてみると、女優と交わしたセックスの情緒的な面よりも、それが何を意味するかということにも増して、美意識を満足させることこそが最優先になるのだった。
足許の長椅子には、女優の白く細い体が胎児のように体をまるめていた。その体はいまだに高鳥の心をそそりたてる魅力を持っていた。彼は年齢的にも精力絶倫であり、たやすく萎えてしまうことはなかった。朝まで交り続けることも可能だった。
しかし、彼はすでに理性を取戻し、自己嫌悪の翳りに囚われつつあった。今夜はそうした陰湿さを払いのけてしまわなければならなかった。
高鳥は床に落ちていた真紅の部屋着を拾い上げ、長椅子の上の白い女体の上に広げた。美しいブルーの下着を手にしたまま、彼は女優を見降ろしていた。
硬直しかけていた冷たさが心から退き、憐愍がゆっくり戻ってきた。まだ危険が去ったわけではないという認識が、自己嫌悪を追い払ったようである。
女優を護ってやらなければならぬ、という思いはいまなお存在していた。怯えきっている女に、慰藉を与えようとして、彼は相手の求めに応じたのだ。
憐愍が留っている限り、女の白く細い体は高鳥をそそりたてる力を有していた。
女優は大きな瞳をもの憂げに開けて、傍らに立つ若者を見上げた。
「寒いわ......」
と、彼女は呟いた。甘え声だった。
「もう着てしまったのね?」
高鳥は頷いた。女優は手を伸ばして、若者の締まって逞しい筋肉を持った腿に巻きつけた。その動作にはもはや狎れがあった。
「大丈夫?」
と、高鳥が尋ねる。
「ええ。それよりお風呂に入りたいわ」
女優は細い華車な手を伸ばして、若者の手を探った。
「わかった。今、お湯を出してくる」
「いいの。それより抱いて連れていって......」
高鳥の裡には女優に対する弱みがあった。女との間に憐愍から生じた関りは、他のどんな場合よりも強いものである。それは男の本能的な弱点かも知れなかった。女を護ってやらねばならぬという思いは、男女の結合を強いものにする。
まして高鳥は、気のいい所を持つ若者であった。女優は自分の優位を充分に利用することを心得ていた。
女優の細い体は噓のように軽かった。高鳥は軽々と女の体を抱きあげて、己れの若い筋肉の強靱さを誇らしく思った。女優が巧妙に自分をコントロールしていることなど、もはや気にもならなくなっていた。
結局、女優は高鳥を思い通りに動かす秘密のボタンを捜し当てたようだった。高鳥は彼女のいうがままに下僕のように動いた。
入浴を終えた後、入念に化粧した女優は新鮮な美しさを回復し、すでにショックを克服したようにすら見えた。高鳥を掌中におさめた自信がもたらす気力なのかもしれない。前ほど怯えているようには見えなかった。
高鳥は女優の現わし始めた美しさに目を瞠った。自分が思いがけぬ陥穽に足を取られたことはわかっていたが、それさえも気にならなくさせるほどの鮮らしい魅力であった。心がしだいに自由を失って行く感覚をおぼえていた。
「約束ですよ、話して下さい。僕は充分待ったんですよ......」
と、高鳥は女優の名を呼んだ。
「元子と呼んで。そうでないと厭......」
女優は、ソファに座った高鳥の足許の絨毯に猫のようにうずくまり、顔と手を若者の膝の上に載せていた。大きな蠱惑的な瞳は、潤んで妖しく光っている。
高鳥は再び欲望の内圧が高まってくるのを意志の力で抑えようとした。さもないと同じことの繰り返しになるとわかっていた。女優が細い指先でゆるやかに彼の腿を撫でている。
「やめて下さい。気が散るから......」
あれをするために来たのではないとまではいえなかった。
「気が散ってもいいのよ。あなたはあたくしといっしょにいてくれればいいの」
「よくはないです。さっき台所で起こったようなことは、しょっ中起こるんですか?」
女優は身震いし、顔を曇らせた。再びくつろぎが失せて、神経質になり始めていた。
「話したくないの」
「しかし、約束ですよ。だって僕はこのままずっとあなたといっしょにいるわけにはいかないんだから」
「いっしょにいて。元子のボディガードになってちょうだい」
女優は彼のズボンの腿に小さな顔をこすりつけた。ぞくりとして、高鳥は唇を咬んだ。彼女はどうやれば男を刺激し、火をつけられるか、よく知っているのだ。
「話してくれないと、僕にはあなたを護れないかもしれないんですよ」
「元子と呼んでくれれば、話してもいいわ」
と、彼女は高鳥の腿にほっそりと尖った顎を載せていった。
「もっと親しく呼んでほしいの。もっともっと親しくなった方が話しやすいから」
「わかった......」
高鳥は男のプライドをくすぐられ、手をのばして女優の豊かに波打った美しいロング・ヘアーを撫でた。どうしても欲望が水位をあげてきてしまうのだ。
「話してほしい。今夜みたいなことは、いつもあるの?」
「その調子よ」
女優は、高鳥の左手をとり、小指を口に入れた。ぞっとするほど柔媚な舌の感触を与え、ついでちくりと咬む。さっき彼の欲望を巧妙に誘い出した同じ手際だった。
「まともに答えてくれ。どうなんだ......」
高鳥は背筋を硬くして堪えながらいった。女優は恐怖を忘れるために、彼をセックスの快楽の中に誘いこもうとしているのか。
「そうよ。トイレの水洗を流すと真赤な血が流れ出したことがあるわ。それ以来、怖くてトイレにも行けないの。お風呂にも入れない。だから、さっきあなたにずっとついていてもらったの」
彼女が高鳥の小指を摑んだまま答える。女の体が再び冷たく固くなってきたようだった。
「そうやってあたくしを脅していることはわかってる。体中から一滴も血がなくなるまで流してやるといわれてるから......」
「そんなことを江田って奴はいったの!?」
思わず体を固くして高鳥はいった。にわかに冷たい無気味な霧のようなものが、体に湿っぽくまつわりつき、体熱を奪い始めたような感じに襲われた。
「ええ。体中の穴から血が噴き出して、停まらなくなって死ぬようになるだろうって、脅かされたの」
不意に女優は高鳥のしなやかな腰に両手をまわし、力いっぱいしがみついてきた。
「脅かしだ! そんなことができるわけはないよ。そういって何も知らないあなたを脅かしているだけだ!」
全身を覆ってくる湿っぽい冷気に反抗するように、高鳥は力をこめていった。
「そんな脅かしに乗っちゃいけない。自分が馬鹿を見るだけだ。知らん顔して、気にしなければいいんだ!」
「でも、怖いの。江田は本当に何をするかわからない無気味な奴なの。まるで悪魔だわ。あなただって、あの気味の悪い顔を見れば、あたくしの気持がわかるはずだわ!」
「大丈夫だったら! 気味の悪い脅し文句を並べて、あなたを暗示にかけようとしてるだけだよ! そんなこと、どんな奴にだってできっこないんだ!」
高鳥はかっと熱くなっていった。
「僕が護ってあげる! 絶対にあなたにそんなことはさせない! 江田はただ脅しをかけているだけなんだから!」
「だって、江田は物凄い力を持っているわ。あたくしのお友達は、みんな江田の奴隷になってしまって、いいなりになっているのよ。前と同じ顔をみんなしているけれども、中身は全然知らない化物になってしまったみたい......江田に魂を抜き取られて、操り人形にされているんだわ! みんなで寄ってたかって、あたくしを江田の所へ連れて行こうとしているの!」
「君を力づくで連れて行こうとするの?」
「そうよ! 顔はにこにこ笑っているけど、あたくしのいうことなんか一言も聞かないわ!」
女優は豊かな長い髪を振り乱させ、激しく首を振った。
「彼らはあたくしを捜してるわ。摑まえて、江田の所へ連れて行くために......いつこの部屋へやってくるかもしれないわ!」
「だから、僕がついているんじゃないか! 絶対にあなたを江田の所へ連れて行かせたりなんかしない!」
「あたくしを護って! あなただけしか頼れる人はいないの!」
恐怖が甦ったのか、両手を高鳥の腰に巻きつけ、体を密着させた女優の体から激しい鼓動が伝わってきた。
「絶対に僕はあなたを護ってみせる。この部屋には一歩も入れない。自信があるんだ!」
力をこめて若者がいい切る。
「この部屋には近寄せない。僕の〝力〟で足が動かせないように縛りあげてしまってやるから!」
「あなたにそんなことができるの?」
「もちろんできるさ。念力で縛ってしまうんだ! 飛んでいる鳥だってバラバラ落せる。まだやったことはないけど、人間を気絶させることだってできるはずだ! 念力で心臓を締めつけてやれば、簡単だと思うんだ」
高鳥は喋っているうちに、己れの〝力〟に対する自負が甦り、活気づいてきた。体にからみついていた冷たい湿気がすっとほどけ、消え失せてしまう。
「だから、江田なんか怖れることはないんだ。もしあなたをいじめようとしたら、僕がやっつけてやる! 本当は超能力はこんな使い方をしちゃいけないのかもしれないが、緊急の場合には許されるはずだ。先生だって、きっと僕と同じようにあなたを護ろうとするに決ってる!」
高鳥を超自我のように規制していた、東丈の禁止の声が遠ざかっていくのを感じた。超能力を自分のために使うのでなければ構わないはずだ。天賦の才能を人助けのために用いるのであれば、神でさえも自分を制止するいわれはないのではないか。
自分の〝力〟は使用するためにこそ与えられているのだ。今、この時のために用いられなければ、なんのために持っているのかわからなくなってしまう!
「でも、江田は恐ろしい男よ。彼は人間に化けている悪魔だわ。他人を奴隷にして操ることもできるし、呪いの力で人間を病気にしたり、殺したりすることもできる! 江田は〝GENKEN〟の者たちを残らず呪い殺してやるといっていたわ! もう癌になって死にかけている者もいるって!」
「井沢郁江だ!」
と、高鳥はぞっと戦慄しながら呟いた。
「先生の前の秘書だった娘だ。子宮癌でもう長いことはないといってる......」
「江田には本当に人を呪い殺す力があるのよ!」
女優は泣き声をたてて、長い髪を振り乱し、高鳥の腿に顔を伏せた。
「東丈先生は、江田には気をつけるようにとあんなに注意してくれたのに、あたくし信じなかった......でも、江田の所には行かないつもりだったの。だけど、江田はあたくしを念力で引き寄せたの。絶対行くもんかと誓っていたんだけど、結局は東先生の予言した通りになってしまったわ。友達に騙されて、あたし、江田の所に連れて行かれた......はっと気がついて死物狂いで逃げ出したけど、江田はどこまでも追いかけてくるの......」
女優は力いっぱい高鳥にしがみつきながら、切れぎれに語った。
「本当に東先生のいった通りになってしまったわ! 江田は絶対に諦めない!」
「でも、一度は逃げだしたじゃないか。江田がどんな奴か気がついたんだろう?」
「だけど、江田は決して逃がさないと大声で笑いながらいったわ! 本当に東先生のいった通りだった! あたくし、もしかしたらもうだめなんじゃないかしら? 運命にいくら逆らっても無駄のような気がする......」
女優はいつか泣きやんでいた。その妙に無気力な声音が高鳥をぞっとさせた。
「あたくしは、江田の所へ戻って行くしかないのかもしれない......江田はそういったわ。体中の血が穴という穴から流れだして死ぬことがいやなら、あたくしは江田の所へ戻るしかないのだって......江田の女奴隷になれば、死なないですむって......」
「それは脅かしだ! あなたを引き戻そうとして恐ろしい脅迫を口にしているんだ。そんな脅しに乗せられちゃいけない! 東先生だっていったろ! 本当の友達があなたに一人でもいれば、助かるって......」
ふっと灼熱するように高鳥は力をこめていった。
「僕はあなたと先生が何を話しあったか聞いてる。先生はあなたに助かる方法があることをちゃんと教えたじゃないか!」
「だって、あたくしには真の友達なんかいないわ......東先生のいう通りだった! 遊び友達はいくらもいたし、相談相手だっていたけど、本当の友達は一人もいなかったわ! 友達だと思ってた人たちは、いつの間にか江田の操り人形にされて、あたくしを摑まえようとして向ってくるのよ!」
「しかし、先生はあなたが助からないとはいわなかったはずだよ! 本当の友達がいれば助かるといった! あなたのために命を賭けてくれる友達が一人でもいれば助かるといったじゃないか!」
「だから、そんな友達はいないのよ! あたくしには命を賭けてくれる、本当の友達なんか一人もいなかった! あたくしを心から好いてくれて、愛してくれて、命がけになってくれる人は、だれもいない......」
「しかし、今僕があなたといっしょにいるじゃないか!? そうだろう?」
女優は呆然として、高鳥の顔を見上げた。途方に暮れた、不意に稚く幼くなってしまったような顔だった。
「あなたは友達? あたくしのために命を賭けてくれるの?」
と、彼女は信じられぬというように尋ねた。
「よくわからない。だけど僕は今、あなたといっしょにいるし、ともに危険に立ち向ってあなたを護る気でいる。僕はあなたがとても気の毒なんだと思う......若くて美しくて、有名で、チヤホヤされる。それなのにだれ一人、本気であなたのことを心配してくれないし、助けを求めることもできない。気位が高くて気が強くて、傲慢で、他人を見下げていて、だけどあなたは本当はとても孤独な人なんだな、と思った......可哀そうだなと思ったんだ。こんなことをいうと気を悪くするかもしれないけど......あなたはもう、僕みたいな若造にでもすがりつかざるを得ないほど気が弱くなってた......だけどあなたは僕を庇護者に選んだんだし、僕はその責任を果すつもりだ。いってみれば悪竜から美しい姫を助ける若い騎士が僕なんだ! そうじゃないかな?」
高鳥は笑った。晴れやかな笑みであり、この若者らしい無鉄砲さの現われであった。
「もし、あなたが本当のお友達なら、あたくしは助かるかもしれない。先生が予言したようになるわ」
ぼんやりとした声音で女優は呟いた。
「あたしたち、これからどうなるのかしら......でも、もし今夜を乗り越えられたら、何かしら大きなことが自分に起こりそうな気がする」
高鳥は無言で女優の顔を見詰めた。彼女の顔には恐怖以外のものが表われてきていた。
「もし、今夜が無事にすごせたら......」
「それはどういうこと?」
「自分が変るような気がする。今までの自分とは違って......」
「わからないな」
若者は首を振った。彼女が不意に瞑想的になり、不思議な存在に変ってしまったようであった。
「何がどういう風に変るのか」
「このまま何事も起こらず、生きたままで朝を迎えられたら、生き方が変ると思うの。先生にずばずばといわれたように、自分の欲望だけを優先させて、強引に生きる。そんなどぎつい生き方をやめられると思う。
考えてみると、これまで自分で自分を追い詰めてきたように思うのね。あたしってガリガリ亡者だったから......物凄く醜い生き方をしているんだけど、自分ではそうは思わなかった。時にはそう思ったとしても平気だった。恐ろしいほど思い上っていたものだから......世の中のことは何でも自分の思い通りになると思っていたわ。
それを先生にずばりと指摘された時、子供が何をこざかしいことをいってる、と嚇っとなったけど、今はそれが本当だとわかる。自分の卑しい醜い本性を暴かれてしまったから、どうにもならないほど腹が立ったのね。
でも、孤りぼっちになって、自分には本当の理解者もいないし、いざという時、体を張っても護ってくれる人は一人もいないんだ、とはっきり気がついた。本当はそれを知っていたけど、自分で認めまいとして目をつむり、死物狂いで我を張って来たような気もする。
今度のことがなかったら、本当のことは何一つわからないまま、あのまま少しも変る機会が摑めなかったろうな、という気がする。あたしって、本当はだれも心の底から愛したこともなかったし、愛されたこともなかった......そんな人がいるとは信じられない。愛されなくたって平気だ、そんな人間はいなくたっていい。そう本気で自分に信じこませようとして、自分の囲りに高い塀を積み上げて、他人が踏み入れられないようにしていたのね。先生が本当のことをえぐるようにいった時本当に腹が立って、殺してやりたいくらいだった......」
いきなり電話が呼び出しベルのけたたましさで、女優の言葉をぷつりと断ち切った。
「しっ、放っといて!」
彼女は身を緊張させて、高鳥の両膝をしっかり抑えつけた。
「電話、出ないの?」
「いいの! 知らん顔、してて!」
電話に話し声を聞きつけられるのを恐れるかのように声音を潜めていった。
電話は十回ベル音を鳴らして、静まり返った。
「こっちの様子を探ってるのよ。だから、知らん顔してればいいの」
彼女は息を殺すようにして呟いた。高鳥は腕時計の時刻を読んだ。十二時を数分すぎていた。まだ朝までには長い道程があった。
「朝まで、こうやってがんばってる?」
と、彼は尋ねた。朝が来れば、万事うまく行くという彼女の信念が乗り移ってきたようだった。が、それまでの夜の暗さ深さ、長さは何十年もあるような気がした。簡単にはすぎないという妙な確信が居座っていた。
「眠いの?」
女優が頼りなげに尋ねる。
「眠くない。眠いわけがない。あなたこそ朝まで大丈夫かなと思ったんだ」
「慶輔君がいてくれれば大丈夫だわ。でも、この先どうなるかしら......」
「冷蔵庫の内部を血だらけにしてくれるくらいなら、どうってことない。このままでいいのかい? 抱いててあげようか?」
「このままでいいわ」
と、女優は顔を高鳥の腿にあずけ、両手で彼の腰を抱きしめながら呟いた。
「寒くなってこないか? 毛布でもかけようか?」
高鳥は寒気が増してくるのを覚えた。体感温度はさほど変化ないが、首筋や背中が局部的にひどく冷たい風になめられているような感じがしていた。
「いいの。このままにしていて」
彼女は腕に力をこめ、若者を立たせまいとした。
「部屋の温度をあげたいんだ。ちょっとだけ手をはなしてよ」
「だめ。このままでいるの」
幼女じみた頑なさだった。肌を合わせた時から、女優は幼児っぽさをむきだしにしてきていた。愛らしくないとはいえないが、高鳥を困らせる幼児的な我儘ぶりであった。
「いいさ、それなら......」
高鳥は、膝に頭をあずけている女優の美しいロング・ヘアーをもてあそびながら、頭をめぐらした。エア・コンディショナーのパネルを見つける。
〝力〟を放出するのは、なぜか今夜は造作もなかった。温度調整の目盛をPKの手で摑み、くるりと廻して最大にする。
実に簡単だった。精神集中をする必要もない。気儘にPK(サイコキネシス)が使いこなせる確信が快く身裡に広がった。
もっと大きなことであっても、自由にPKを使いこなせそうに思えた。昨年、東丈の眼前でPKの実験をみごとに失敗してしまったのが不思議でならない。
その後は、百発百中で幾度試みても、ただの一度たりとも失敗しなかったのだ。衆人環視の中での失敗が悪夢じみていた。
東丈がマイナスのPKを発揮して、高鳥のPKを抑え、失敗に導いてしまったのではないか、と後になって思いついたほどだった。丈にはそれぐらいはわけもないことかもしれないのだ。
そんな気がしてくるほど、高鳥は自由に超能力を駆使できる自分を見出していた。次の機会には決して失敗しないだろう。もっとも丈がまた妨害するなら別である。
丈がいうように、超能力をもてあそぶことの危険は理解できる。確かに公開の席での軽率な実験は避けた方がよさそうだった。失敗の危険が必ずつきまとうことを教えるために、丈は故意に高鳥のPKを妨害したのかもしれない。
やはり、さすがに丈はたいしたものだ、と思う。そう素直に感嘆できる度量を、高鳥は持っていた。超能力だけではなく、たいへんな人物だ。丈には妙に奥行の深いところがあり、考えが読み取れない。あっさりとカブトを脱ぐしかないのだった。
年齢の近い点もあって、高鳥の裡には必然的に丈への競争心があり、否定のしようがなかった。もちろんかなうはずはないが、降参して這いつくばってしまう気はない。
なによりも東丈は、高鳥をこの上なく刺激し、興奮させる存在であった。じっとしていられないほど活気づいてくるのだ。張り合おうと意識しているのではないが、おそろしく意欲的になり、なんとかして丈に自分の存在を誇示し、認めさせずにはおかなくなる。ひとかどの人間だと丈に思われたいのである。
もし、女優を護り、超能力によって幻魔を撃退することが可能なら、丈は自分に注目せざるを得なくなるだろう。自分を無視するようなことはできないはずだ。
なぜなら、丈がことさらに超能力を過小評価し、取るに足りない力のように人々に告げるのは、人々が超能力を所持しないからだ。持たざる者が〝力〟を持つ者を嫉妬し、羨望することのないように、丈は予防線を張り、超能力に重きを置かないふりをしているのではないだろうか......きっとそうに違いない、と高鳥は自分の洞察力を確信し、誇らしく感じた。
丈と自分は同じ超能力を持てる仲間同士なのだ。〝力〟の内容は格段に違うかもしれないが同じ超能力者であることに変りはない。
丈が自分に対して無関心なほどの態度をとっていることには必ず理由があるはずだ。もしかすると、超能力を持たない人々に対する遠慮があるのかもしれない。高鳥はしばしばそうした考えをこねまわしてきた。
どう考えても、超能力になぞとりたてて意味はないといわんばかりの軽視の仕方は不自然だし、疑問がある。丈は故意に高鳥を軽視しているのではないか。
高鳥が己れの超能力をどのように扱うか、突き放した上で観察しているのかもしれないのである。彼が超能力を私物化しないと見きわめた上で、丈は仲間として受容しようとしているのではないか。
楽観主義者の高鳥にふさわしく、常に幻想は挫折を知らず幸せな結末を迎えるのだった。
丈は素知らぬ顔で、高鳥を試している。今のこの状況も、高鳥に与えられた試練であり演習ではないか、彼は超能力の容量や、態度を試されているのだ。幻魔と対決した時の、彼の勇気や機略をテストされているのだ。
なぜなら高鳥は、超能力を備えた戦士なのだから。あらゆる点で、彼は東丈と同じ立場にあり、そして今、力量を試されているのだ。
高鳥は己れの幸せな幻想により、活力を与えられ、気力の汪溢を覚えた。彼はあまりにも独善的であり、己れにとって都合のいい幻想のみを展開することに気を取られていた。丈は自分の超能力の容量、そして勇気や胆力や機略にのみ注目しているのだと思いこみ、丈がもっとも重視している、超能力者の倫理性などけろりと忘却してしまっていた。
高鳥は挫折など真剣に考慮した憶えがなかった。陽気で明朗な気性で人々に好かれ、頭もよくスポーツマンでもあり、人好きのする容貌も手伝って、挫折を重大視する状況に落ちこんだ経験がなかった。たいていのことはちょっと肩をすくめ、さしたることではないと呟いて、ことがすんでしまうのだった。
楽観的であり続けることは、高鳥にとって呼吸のようにたやすいごく自然なことだった。自分に敵意や悪意を持つ他者の存在が信じられないのである。認識はあっても、実感がもてない。
たまたま、相手はむかっ腹でも立てているのだろうと納得してしまう。陰湿な敵意を他人に抱いたことがないので、裏を見ることができないのだ。屈託なく、何事も深刻になることがない。他人から強い敵意を向けられたとしても、驚きこそすれ、傷つくことはなかった。
善良な人間の無神経さや鈍感さが高鳥にもつきまとっていたが、悪気がないのでとことん憎まれ、疎まれることがないのだった。
だから高鳥はいつでも白い歯をのぞかせて笑っていた。彼の楽天家ぶりは堅忍不抜のものであり、テストに合格すれば、東丈は否応なしに自分を親友として迎えざるをえなくなるのだ、と確信していた。丈はそのために自分にさまざまな試練を与えて、見守っているのだ。
それどころか、丈は自分に大きな期待をかけているのだ。
高鳥は身裡に暖く力強い自信が湧き、快く満たされるのを意識しながら、手で女の細く華車なうなじを愛撫していた。庇護を求めてきた女優との間に、こうした肉のつながりが生じてしまったことに、多少の後ろめたさがないでもないのだが、気にしないことにして心から追い払ってしまっているのだった。
丈に対してバツは悪いが、丈も気にしないだろうと思った。丈は杉村由紀などの美しい女性たちに囲まれている上に、比類ない美男であり、その点は自分よりはるかに優れている。もてた試しのない醜男とは違うのだ。まさか嫉妬や羨望で不健全な心理状態になることもあるまいと思えた。
手の速い男だと苦笑いするかもしれない。しかし、別にこっちには野心がなかったことはわかってくれるだろうし、その場の成行だったことを認めて、不問にしてくれるだろう。
楽天家にふさわしく、高鳥はことごとく自分にとって都合がいいように考える癖を持っていた。自分が女優とできてしまったことも、褒められたことではないが、さしたることではないと本気で考えていた。
彼にとり、人生は深刻な渋面を見せるものではなかった。楽々と生きていけばよいのだ。いわばマラソン競技ではなく、優雅なワルツを踊るようなものだった。何事にも享楽を見出すという稀有の才能ゆえかもしれない。
人生が彼に背き、歯向ってくるなど、およそ高鳥の念頭にはなかった。むろん、不快なこと気に食わないことが皆無というわけではなく、気にせずに口笛を吹いていることで、他愛なく忘れてしまうのだった。この若者ほど日本人的なマゾヒズムと無縁の存在はなかったろう。
それゆえ、彼は軽々と生きていた。生きることが、呼吸をするようにとくに意識することもなく、自然に楽々とできるのだった。丈が自ら願ってやまない軽々とした生き方が、高鳥の場合は生得のものであった。
部屋は暖まってきたが、体にまとわりついている冷気はしぶとく去って行くことを拒んでいた。
気にしない高鳥でさえ、奇異を感じるように、局所的な寒冷が生じていた。部分的にひやっとするほど冷たいのである。
「寒い......」
高鳥の膝にしがみついている女優が、ぶるっと身慄いして訴えた。
「空気が循環しないでムラになっているんだろう」
そうとしかいえなかった。エア・コンディショナーから吐きだされている暖気は、室温を二十三度まで上げているのに、二人の周辺には息が白くなりそうな冷気がしつこくわだかまっている。
──では、かきまぜればいいんだ。
ごく自然にその考えが頭に浮んだ。PK(念動力)を用いて空気を攪拌し、温度のムラを解消すればいい。
意識を向けただけで、室内の空気がゆっくりと動きだすのが感じられた。風が生じていた。
疑問の余地はない。高鳥のPKが風を呼んだのだ。精神集中し、空気を動かそうと努力する必要すらなかった。意識を投射すると同時にPKが働きだし、空気を攪拌にかかっていた。
具体的にどのようにしてPKが空気を動かしているのか、高鳥にはわからなかった。ただ考えただけなのだ。
まるで魔法を使う召使がいるようだ、という考えがちらと頭の隅を掠めた。
風が生じて、温気が頭上から降りかかってきて額にじっとりと汗が滲んできたが、体の節々を絞めつけている冷気は去らなかった。まるで頑強にしがみつき、あるいは牙を埋めているような鈍い痺れるような痛みが消えようとしない。
──やればできるんだ。
意識を投射すると同時に筋肉の深部に食い入っている神経痛のような痛みが離れ去った。そこに咬みついていた顎が開き、獲物をはなした、そんな感じがした。
驚きとともに喜悦が湧き上り、心地よい自信が充満してきた。これまで、高鳥は物体をPKで遠隔操作するといった単純なテクニックばかりに気を取られており、このような高度な業が自分になしうるとは思い至っていなかった。マッチ函や鉛筆のようなごく軽い物体をPKで動かし、マッチを発火させる単純な現象に夢中になり、興奮していたのだ。東丈のような境地にはほど遠いものとばかり思いこんでいたからだ。己れの幼稚なPK現象を丈のような超絶サイキックの高度な超能力と比較することさえおこがましいと本気で信じこんでいた。
ところが、どうだろう。自分には丈のような業が可能だと高鳥は発見したのである。
ただ意識を向けるだけで、現象を生じさせ、意志に従わせることができる。額に汗をべっとりかき、呼吸を詰め、顔面を朱に染めて力んだり頑張ったりして、精神統一したり集中したりする必要はまったくない。
自分には丈のように心霊治療家として病人を治してやることが可能なのではないか、と高鳥は戦慄に等しい快感の虜になった。神経痛のような無気味な痺れる痛みは、彼が念を投射しただけで消えた。
女優だって同じことだろう。消えろ、と念を送るだけですむ。話に聞いた丈の心霊治療のやり方よりもはるかに簡単で効果は大きいのではないか。丈は精神エネルギーを病人の体に送りこみ、いわばバッテリーに充電するようなやり方で、生体エネルギーを補充するのだ、と秘書室の野沢緑から聞いている。
自分のやり方はそれよりもシンプルで強力といえるのではないか。
「どう、暖くなったろう?」
と、高鳥は尋ねた。どこか高飛車で狎れなれしい波動が口調に加わっていた。
「うん......楽になったみたい」
女優がぼんやりと答え、高鳥を満足させた。にわかに確固とした自信が出現し、彼の裡に座りこんだようであった。
これで、東丈と対等に話ができるかな、と考え、急いで打ち消した。丈の〝力〟はこんなものではないのだろう。空中浮揚はおろか、ICBMのような高速でアメリカ大陸まで渡ったという話を聞いている。まるで役の行者の再来だ。おそらくパワー・レベルがケタ違いなのだろう。
とはいえ、丈も、高鳥にこれだけの超能力を駆使できると知れば感嘆するのではないか......杉村由紀は遠感だけだが、高鳥にはもっと大きな〝力〟が行使できるのだ。
高鳥が感じているのは、初めて女性の体を知り、ひとかどの男になった時の熱っぽい誇らしさに似ていた。にわかに男性としての自信が生じ、体がひとまわり以上も大きく逞しくなったようだった。これで世間へ出ても通用するという気分だ。
その時、彼の腿に顔を伏せていた女優の体が固く冷たくなったようであった。
「どうしたんだ?」
「だれか、来る! こっちへやってくる!」
と、女優は再び怯えた声音を取り戻してささやいた。
10
高鳥は耳を澄まし、室内に小さく漂っているFENの音楽を邪魔にした。PKが働き、ステレオ装置の音がふっと絶える。後にはエアコンディショナーの音が残った。ファンが廻り室内に暖気を送りこむ雑音だ。
それも停めて、静寂を完全なものにする。ソファに座り、女優の頭を膝に載せたまま一度も起たず、無造作にやってのけたのだ。もっと大きなことであっても、苦もなくできるだろう......
静寂の彼方から、エレベーターの音がかすかに伝わってきた。ケージがこの階に停まり、扉が開く音。女優も高鳥も耳だけの存在になったように化石して、聴覚を研ぎ澄ましていた。
「きたわ! あたくしを連れにやってきたのよ!」
女優は非常に低いあわてた声音でいった。力いっぱい高鳥の膝にしがみつく。尖った爪が肉に喰いこんで痛みを覚えるほどだった。
「あたくしを連れて行かせないで! お願い、あたくしを江田から護って! 江田の手先になった友達が、あたくしを連れ出しにやってきたのよ!」
「わかった! 静かに!」
高鳥は手で女優の口を抑えた。廊下を靴音が鳴らしながら、近づいてくる。女優の部屋は角部屋であり、廊下を通りすぎて靴音の主が去ってしまうということはありえない。
高鳥は靴音の接近に対して、興奮を覚えているが、恐れてはいなかった。無鉄砲な気性が血を熱くざわめかしていた。
どうして女優はあんなに早くから、だれか来るということがわかったのだろう、と彼は考えていた。まるで超能力だ......恐怖が神経を研ぎ澄まし、超知覚をもたらしでもしたのか......
靴音は隣室の前の廊下を過ぎた。訪問者が女優の部屋に用があることは明らかだった。やがて、ドアの前で停まり、ブザーを鳴らす......高鳥は唇を舐めながら考えていた。訪問者をどのようにもてなそうか......
靴音が止み、静寂が深まった。高鳥は座ったまま、相手の呼吸音までを聴きとることができたと感じていた。やおら手を伸ばし、ブザーの押しボタンに指を押しつける。
透視能力が働いているように、活発化した想像力が、高鳥の脳裡に訪問者の不吉なイメージを形造った。
邪悪で凶意に満ちた、黒衣の鳥を想わせるイメージが生じた。青銅色の肌、裂け目のような黄色い目、凶々しい大きなねじれた口。だれかれに聞いた、幻魔=江田四朗の風貌だった。冷気が鋼鉄の扉に孔をあけて、白煙をあげ吹きこんでくるような錯覚が生じて、高鳥は身慄いした。
なにくそ、と全身に力を渾め、対抗心を燃えあがらす。生体エネルギーがみるまにレベル・アップする。
負けて堪るものか、と闘心が彼の全てを虜にした。闘争好きの若者が、闘争だけに精神を集中し、引きしぼったのだ。抑制されることのない闘心の波動が迸り出るようであった。
ブザーは鳴らなかった。戸惑ったように小さくコトリと音をさせただけだった。高鳥のPKがブザーを停めてしまったのだ。
訪問者が幾度もブザーの押しボタンを押しているが、何の反応もない。
高鳥は女優の口を右手でしっかりと摑んだまま、超感覚そのものと化していた。どうやって相手を撃退してやろうか、と闘心を凝らしている。
相手はブザーを諦め、鋼鉄扉を叩いた。繰り返し叩く。彼らが部屋の内部にいることを知っており、どうしても引きずりださずにはおかぬという意志を感じさせる執拗さが渾められていた。
ドアのノックはいつまでも続いた。諦める気配もない。その荒々しい仮借のない攻撃性が、高鳥を苛立たせ、怒らせた挙句、反撃に転じさせた。
彼の意志力が、怒りと憎悪の波動によって変調されると同時に、ドアの執拗なノックがふつりと止んだ。
重苦しい苦痛と驚きの想念が、鉄扉越しにやってきた。相手が不意に生じた苦痛感覚にショックを覚え、我を忘れてしまったことを、高鳥は明確な手応えとして受信した。
ぞくぞくするような喜悦、報復者の感じるような陰湿で暗い、それだけに恐ろしいもののある快感が高鳥の神経をくすぐり、息が詰まり、めくるめく気分に誘った。それは後ろめたい喜悦であり、無気味な慄えの感覚を伴っていた。
しかし、高鳥はそれに堪えて、意志力をゆるめずに保持しようとした。
鉄扉の向う側で、相手が感じている重苦しい苦痛のレベルが更に上昇し、忍耐の限界を超えるのを悟った。相手は渦巻く激しい苦痛に堪えきれず、体を二つ折りに曲げた。深く体を前屈させて、両手で患部を抱きかかえようとした。
高鳥は更に意志の圧力を加え、攻撃を強化した。かさにかかるという容赦なさだった。
相手は遂に屈伏し、足許を乱し、左右に体をよろめかせながら、鉄扉の前を離れた。体の中で荒れ狂う苦痛に、体液の全てを脂汗に変えて絞りだすようにしながら、必死に逃げ去って行く。
高鳥は圧力を高めこそすれ、意志力から相手を解放しようとはしなかった。万力の間にはさみこんだ相手を徹底的に圧搾するようにぎりぎりと念の圧力で締めあげ続けている。

高鳥は自分の裡に飽くことなく苛烈に徹することのできる己れを見出していた。相手を徹底的に叩き、完膚なきまでに打ちのめして絶対に再起を許さないという驚くほどの酷薄さ猛烈さだった。
高鳥はいつしか歯を剝きだし、恐ろしい顔になっていた。信じがたいほど加虐の衝動が全身に内圧を高めつつあり、掌の摑んだ柔い雛鳥をぐしゃりと握り潰し、それが血泥の塊と化しても更に握力を加えて行く、そんな凄まじい執念の衝動が、彼を虜囚にしているようであった。
相手がエレベーターに乗って降下し、高級アパートの外へ出て行くまで、超感覚で高鳥は追い続けていた。距離が開いても、意志の力はさほど減衰せずに働くことが手にとるようにわかった。
高鳥は画期的な〝力〟を己が手に握っていることを知った。その力は、彼に比類のない権力を与えるものであった。彼は幻魔と対等に渡り合い、駆逐することが可能なのだ。この〝力〟を振るうかぎり、幻魔=江田四朗でさえ、敵ではないであろう。
高鳥は切り札に等しい懲罰権を手に入れたのである。もはや江田如きは、不動明王の足下に踏み砕かれた邪鬼に等しい無力な存在だった。江田に対して、高鳥はいつでも好きな時に断罪を下し、木っ端微塵に打ち砕くことができる。東丈がそれを知ればどんなに驚くだろう。高鳥は丈にとり、またとない頼もしい味方となったのだ。
いつしか高鳥の唇には炎のような昂ぶった笑いが刻みつけられていた。高圧と化した意志力が体内で脈動しているようであり、彼をじっとさせておかなかった。
彼は超能力において、巨大な存在となったのだ。東丈と比較すれば及ばないかもしれないが、丈を除外するならば、超能力の巨人と呼んでもさしつかえない存在であるはずだった。
高鳥は、乱暴者に喧嘩を売られ、やむを得ず身を守ろうとして、自分が思いもかけぬ強大な力の持主であると自覚した人間に似ていた。異様な興奮が突きあげ、心身が昂ぶりざわめきたって、己れの〝力〟を確認せずにはいられない荒々しさに支配されかけた。
ああ、俺の〝力〟!
高鳥は咆哮したい情念の昂ぶりに目がくらんできた。まるでこれまでとはケタはずれの〝力〟だ! 俺は今まで餓鬼の遊びをやっていたようなものだ。俺のこの〝力〟は幻魔を倒す〝力〟であり、超能力などという子供騙しのものではないのではないか! 幻魔と闘うための戦士の力なのだ!
これで東丈は俺を認めざるを得ないはずだ。なぜなら俺は子供騙しの超能力者ではなく、超能力戦士として、丈の前に立つことになるからだ! 戦友として俺は彼と肩を組んで、幻魔大戦に立ち向うだろう。
身裡に高まる圧力は堪えがたく、高鳥は本能的な排け口を求めずにいられなくなった。猛々しい火照りを消す方法は一つしかなかった。それは恐ろしいほどの剛性を持ってそそり立ち、生け贄を求めてやまぬ猛々しい火柱と化していた。
高鳥は膝に顔を伏せている女優の肩を摑んだ。ぐいと引き起こす。牡としての力を誇示せずにはいられなくなったのだ。
「おいで!」
と、彼はいった。相手は曇りのかかった瞳で茫然と彼の顔を見返す。なんのことかわからないのだった。
「さあ......行こう!」
苛立たしげにいい、高鳥は女優の体を引き起こし、苦もなく両腕に抱えあげた。華車な体は羽毛の軽さであった。それとも若者の体に充電されたエネルギーが、女体の重量を無視させるほど高まっていたのかもしれない。彼は両腕に抱いて女体が跳ねるのを抑えるように、顔を女の胸許に埋めこみ、かぐわしい匂いを胸一杯に吸い込みながら、寝室へ運んでいった。
高鳥にはもはや何の躊躇もなかった。自分の大きさ強さに疑いの余地はなく、それを解放し、確かめたいという欲望だけがあった。
若者は女優を巨大な寝台に投げ出すと、鋼鉄と化した己れの分身で一気に女体を貫いた。悶え逃れようとするように跳ねる女体を腰の一点で釘付けにし、抑えつけた。牡の狂おしいほどの優越だけが存在した。
高鳥はすでに何一つ気にしなかった。彼の全てを規制する美意識すら今は遠ざかっていた。それは彼が新しい生き方を発見し、圧倒的な流れに乗ってしまったことと無関係ではなかった。
これまで高鳥を律し、制約を加えてきたあらゆる規範が彼を解放し、退いてしまっていた。強大な超能力者として生れかわった彼を、いかなる過去の制約が力を及ぼすことができるというのか。
高鳥は自己の規範のみならず、全ての社会的規範を超えた存在になったと感じていた。自分が突如として人類であることを超えてしまったのだ。超人的存在と化した自分を律するのは、天のもたらした新しい規範でなければならない。自分は人類という種から射出され、新しい高次の階梯へと昇ったからだ。それは人類が仰ぎ見るだけで決して到達することのできない高みなのだ......
言葉にすると、そういった過激な感動が高鳥を根底から揺すり、ある種の転倒を生じさせてしまったようであった。
高鳥は自身若い神と化した東丈と重ねながら、更に高処へ浮揚し、世界が新しい面を見せるのを楽しんだ。血が沸騰する酩酊感の中で変質が始まっていた。女の細い体をもみしだき、逞しい動きで女体を穿ち続けながら、女の唇を塞いであふれだしてくる叫び声の塊まりを圧し潰した。若者のマナーは一瞬にして変ってしまっていた。彼が本来持っていたソフトネスや優しさは消え失せ、荒々しい貪欲さが現われていた。
与えるのではなく奪う、という劇的変化をそれは意味していた。女優は快楽を心身に植えつけられ、容赦なくそれを汲み出されながら、相手の圧倒的な力、酷烈な力の流露に対して恐怖をすら覚えていた。若者は彼女に挽回の機会を決して許すことなく、一方的に攻めたてていた。彼女の体を自在に屈曲させ、四肢をおし拡げて恐ろしい精力で穿ち続け、やむことがない。若者の腰は強靱な鋼鉄の鞭のように撓い、疲労を知らないバネとなって彼女の開かれた腰の基底部へリズミカルな打撃を加えてくる。
彼はまったく機械のように倦むことがなく、女がいかに哀願しても攻撃を緩めることがないのだ。間断のない刺激は快楽の域を超え、責め苦に等しい異様なものに化してきていた。女優は泣き叫び、攻撃から逃れようとして果せなかった。若者が彼女の体の中から汲み出し続ける快楽はしだいに変質し、悪魔じみた恐ろしさ無気味さとして育ち始めた。いかに哀願し、許しを乞うても、若者は許そうとしない。肉体が間断のないあまりにも強い刺激に溶解し、どろどろに融けて、異形のものに変ってしまうようであった。
自分が今狂おうとしている恐怖に囚えられ、女優は力の限り若者を押しのけようとし、それがかなわないと知り、両手で滅茶めちゃに若者を打ち、搔きむしろうとした。若者の顔は平然として彼女を見下していた。その眼は残忍な光をわずかに残して、冷徹な探究心をたたえているようだった。あの優しい若者が立ち去ってあとかたもなくなっているのを知り、女優は苦悩の叫び声をあげて意識を失った。
女優が心神を喪失しても、若者はなおも許そうとしなかった。彼にとっての性はもう相手に慰藉を与えるものではなく、勝利者の掠奪となっていた。
あくことのない好奇心にとり憑かれ、動かされるままに無抵抗の女の肉体を研究する。若者の目に優しさの欠如した歓喜の色が浮かんだ。鉄扉ごしに相手をさいなみ、甚大な苦痛をもたらすことが可能ならば、眼前の女体にも、同じ意志力を行使して、この世のものとは思えない快美感を植えつけることができるのではないか......
その考えは、眼前の美しい女体のとっている淫らな姿態にもまして、若者に強烈な快感を与えた。全身が痺れる魔的な期待がにわかに広がり、若者は窮極に達し、強烈な溢水感の中で体を痙攣させた。
11
狂風の吹き荒ぶ轟音が遠方から伝わってくる。それは恐ろしい威嚇の喊声を想わせた。
──ああ、幻魔が来る!
と、彼女は思った。人類の滅亡の時が遂に始まったのだ。殺戮と破壊が全世界に至ったことを告げる鬼畜の鯨波が、今轟き渡っている。もはや容赦ない人類皆殺しから、だれ一人逃げることはできない。
夢の中にすらも、既視感が存在していた。この凄絶なハルマゲドン、人類絶滅の時を何度も繰り返して経験したような気がする。夢だからだろうか。夢という時間トンネルを通って、彼女は繰り返し、世界の破滅に立ち合ってきたのだろうか。
幻魔が恐ろしい狂った憎悪の叫喚で夢の全世界を囲繞している。暗い不吉な轟きが暗黒トンネルを伝わり、殺到してくる。どこに隠れても無駄だ、出てこい、と幻魔が恫喝の金切声をあげている。
彼女は地球世界の全域に渡り、死滅の時が至ったのを眠りの中にあって感じている。万物が死に絶えた地表は固く結氷し、幻魔の喊声だけが、狂風と化して荒れまわっている。山のような氷塊が小砂利同然、死の疾風に巻かれ狂瀾怒濤の中で唸り飛んでいる。
人間はもちろん、いかなる強大な生物も生存を許されない凍結した死の世界だ。それはブリザードの荒ぶ厳冬期の極地ですら小春日和と感じさせる恐怖の世界である。
またしても幻魔の喊声が──狂風の唸りが侵入してきて、彼女を眠りの中で威嚇し、慄えあがらせた。
彼女を包囲する夢の世界の全てが、暗黒トンネルと化してみる間に縮小し、彼女の五体をぐいぐいと絞めつけようとした。
彼女は呻き声をあげ、胎児の姿勢に四肢をまるめてちぢこまり、幻魔の襲撃から逃れようと努めた。
狂風の凄まじい叫喚はやまず、それどころかいきなり現実そのものと化した。
彼女は意識に加えられる打撃を、顔を打ちすえられる殴打として感じ、起き上って逃れようと反応した。意識がにわかに鮮明化し、暗黒トンネルが周囲をかこむ洞窟の岩肌と化していた。
彼女は慌しく半身を起こし、体にかかっていた毛布をかき集めた。自分の身に生じているあまりにも異様な環境の激変は、気が狂ったのかと疑わせるほど衝撃的であった。
見も知らぬ場所──どころか、あたりの岩肌でわかる通り、洞窟なのだ。なぜ自分がそんなところにいるのか、皆目見当がつかない。
夢が現実になったのか、と現実感、日常性がよろめき転倒してしまい、彼女はすんでのところで信じこみそうになった。
夢ではなくて、現実に全世界は死滅の時を迎えており、彼女は荒廃した世界の隅に隠れて、平穏無事だった時代の夢を見ていたのではなかったか。
そうだ、幻魔の攻撃の前に地球はあっけなく死滅への道を辿った。世界中に生き残っているのは自分一人きりだ。
狂風の叫び声が耳を打って、彼女は体中にべったりと汗をかきながら座り直した。違う! と心に叫んだ。そんな馬鹿なことがあるはずはない。
自分はまだ夢の中にあるのだ。夢の続きを見ているのだ。すぐに夢は果てて、彼女は自室の寝台の中に目覚める自分を見出すだろう。全世界が死滅する悪夢から逃れ出るのだ。
彼女は立上り、意外に洞窟が広いのを知った。天井に頭を打ちつけることもなく、頭上には充分な空間が余っている。
裸足が岩の床に冷たかった。自然に穿たれた岩窟に違いないが、内部は思いの外清潔で人工的なものを感じさせる。空気は暖かであり、薄着でも寒くなかった。
彼女は自分が薄い一重の衣を身につけているだけなのを意識した。木綿のネグリジェをまとっていることを知り、両腕で露わな胸をかばった。どこから入ってくるのか、微光が岩窟を満たしている。採光のための隙間が天井の岩肌のどこかに開いているのかもしれない。
狂風の轟音が岩窟の中を駆け廻り、彼女を脅やかした。記憶がつっかえたようになり甦ってこないままに、彼女は両腕で体を抱き、そろそろと歩きだした。
そうして計ってみると、洞窟は思ったよりもずっと広大であった。頭上に何メートルもの高さに空間が展けている。まるで大広間のようである。
不審ではあったが、恐ろしくはなかった。何かを確かめなければならない一心で、彼女はすべすべした岩床を踏み、足を運んで行った。
記憶の脱落が気になっていたが、それにもまして強く彼女を導き、惹きつける力が働いていた。彼女は慎重に滑らかな岩肌の上をそろそろと進んだ。自分が洞窟の入口ではなく、奥へ向って進んでいることに漠然と気づいていたが、歩行を止めることができなかった。
脳裡の記憶の充塡されている部分が、白々と曝されるように光を引いてしまっていた。自分が何者で、どこで何をしているのかわからないのだ。記憶喪失を起こしていると自分でわかっている。
自分に関する記憶はきれいに剝落しているのに、幻魔が何を意味するか、なぜかわかっていた。凍結した外部世界で荒れ廻っているのは幻魔の喊声だ......
違う、と彼女はその考えを打ち消した。幻魔ではないはずだ。あれは夢だったのだから......
自分はここに以前、来たことがあるのではないか、と彼女は感じており、それがデジャ・ヴュであるとわかってもいた。
行手をさえぎった岩肌に何かしら大きなものが見えてきて、彼女の足を停めた。人がたをしたもの......岩肌に浮彫りされた大きな仏像のようなものであった。巨大な頭部が彼女を見降している。
非常に奇妙な仏神のようなものである。角ばった頭部には鰭のような突き出したものが幾枚もついているようだ。ヘルメットのようなものを想像させる。
これは仏神ではない、と彼女は思った。インドから渡来した仏神とはまるで異るのだ。逞しい両手はさながら銃を思わせるものを摑んでいる。全身を覆っているのは衣ではなく、西洋騎士の甲冑ではないかという気がした。
石彫りの顔面はひどく人間放れしてはいるが、アメリカ・インディアンの戦いの化粧を施した戦士の顔を連想させる。
異形の巨人像は、まったく仏神などとは似ても似つかない代物であり、彼女のあらゆる想像を超えていた。
甲冑をつけたインディアン戦士、という奇矯な印象であった。しかし、そんな岩の浮彫がなぜそこに存在するのか。
微動もしない岩の戦士を眺めていると、妙に親しいデジャ・ヴュが湧き起こってくるようであった。
気が狂ったのではないかと思うような、奇矯なイメージが次々に脳裡を満たした。岩の戦士が岩肌からすっと抜けだして動きだす錯覚が心を襲ったのだ。
何度も繰り返し、その不思議な錯覚はやってきた。はっと目を凝らすと、岩の戦士は再び岩壁にはりつき、凝然と微動もしない、だが再びまた動き出し、岩壁から抜けだしてくるのである。
感覚の奇妙な擾乱が生じていた。岩の戦士はいつか青黒く光る金属の質感を備えた巨軀となって、眼前に立ちはだかっている。仄青く光る異妖な丸い目が瞬く瞼さえ持たず、大きく見開かれたまま、彼女を見降している。
ロボットだ、と彼女の心が呟いていた。この異形の巨人像は生きた人間ではなく、古代のロボットだったのだ......
混乱した感覚の中で、岩壁から抜けだした金属の肌をした巨人は、ゆったりとしかも流れるようなスムーズさで歩み去ってしまうのだった。
異常に擾乱した感覚の中で、彼女は巨人の後を追おうとした。錯覚であることがわかっているのに、依然として巨人は前方を歩いて行くのである。
異形の巨人が、彼女をこの閉塞状況から連れだし、導いてくれるような気がして、彼女は懸命に後を追った。
どこをどう歩いたのかわからない。閉ざされた空間である岩窟の中で、それほど長い間歩き続けられるはずもないのに、と彼女は頭の隅で考えていた。
巨人の幻覚は岩壁を突き抜けると消えてしまった。岩窟の外部へ出て行ったとしか思えなかった。
巨人の幻影が足を停めた地点で、彼女も立止った。外へ出る方法を見つけようとしたのだ。
足許は岩床がそこだけ均質ではなく、ぐらぐらする岩盤が埋めこまれていた。彼女の裸足の足が動く岩に載ったとたん、変化が生じた。
眼前の岩壁が左右に滑りだしたのである。
前方に展けた空間から恐ろしい勢いで白煙が吹きこんできた。面をあげさせぬ凄まじさで彼女をあっという間に白い気流が巻きこんだ。
白煙と見えたのは雪煙であった。疾風に乗って億千万の雪片は轟っと渦巻いて、彼女の体を包みこみ、鋭い刃物で切り裂く激痛をもたらした。
雪嵐であった! 夢の世界で荒れ狂っていたブリザードが今、岩壁の空隙から噴出してきた。零下数十度の極低温が、薄い夜衣一枚の彼女の体に無数のメスとなって突き刺さってきたのである!
両手をあげて顔をかばったが、そんなことでブリザードの猛烈な襲撃を防げるものではなかった。ナイフを突きたてられる激痛は一瞬にすぎ、無感覚がそれに代った。目も鼻も口も痺れてしまった。
全身の神経に刺しこまれた氷の針が、痛覚の一切を麻痺させたようだった。無感覚になった肉体はすでに凍結が始まっている。急速な死が彼女を手中におさめようとした。
視野は白皚皚に塗り潰された。狂声をあげて狂いまわるブリザードがすっぽりと彼女を包みこみ、感覚を奪ってしまったのだ。
岩窟の奥に逃げ戻ろうという考えすら浮かばなかった。思考がブリザードの強打で停止してしまったのである。
意識が粉々に打ち砕かれ、億千万の氷片ともに舞い狂い、吹き飛ばされてしまったようであった。
あらゆる方向の空間が狂い飛ぶ氷片で充満した。もはや岩窟さえ存在しなかった。彼女は真白なものが凶暴に乱舞し、叩きのめす力に逆らい、素足で凍りついた地表を歩いていた。
死が急迫しているという認識だけがどこかにひっかかっていた。もう後わずか一、二分間のうちに、体温を奪われ尽して死ぬだろうとわかっていた。それは奇妙に透徹した認識であり、思考力が失われてしまっても、確固として留まっていた。
視界はゼロであり、白一色の世界を彼女は進んでいった。思考は停止していても、彼女を動かす意志だけは、何物にも損われず存在していた。

いつしか彼女の意志そのものは肉体と分離してしまっていた。そのままどこまでも進めば、求めるものと遭遇できるという不動の確信であった。
このまま進めば、彼がいる。それは信念であり、意志そのものであった。
彼女の意志があまりにも強かったためか、眼前のブリザードが垂れ幕のように真二つに割れ、開いてしまった。彼女の意志は、求めるものをそこに存在させたようであった。
ブリザードがあとかたもなく消え去った。輝きわたる白雪が覆った世界が現われた。全てが雪に覆い隠されている。
いつしか吹雪は止み、しんと静まりかえった凄壮な光景が雪明りで目の前に現出した。むろん、思考を停止させている彼女が特別な感慨を持つはずもなかった。
凍結した雪の表がガラス板のように硬質の輝きを放っている。全てがガラスで覆われた幻想の世界である。足許の起伏は大きく、前方は超巨神が斧で断ち割った垂直な断崖となり、まっすぐ落ちこんでいる。彼女がわずかに前進するだけで容易に吞みこんでしまう、貪欲な顎だ。
しかし、今の彼女は身震いさえもしない。彼女はもはや生者といえない相貌を呈し始めていた。彼女は意志だけの存在として、そこに在った。
峰々の岩肌はガラスの被覆を施され、深沈とした光を放っている。彼女は数歩進めば、深淵に吸いこまれる断崖のきざはしに立ち、自身ガラスの彫像と化して佇んでいた。
眼前に広がった峰と峰との虚空に、ぽつりと人影が現われた。それは彼女の意志が念じ出したような趣きであり、ほとんど氷結している彼女に意識があるならば、迷わずそれを確信したであろう。
虚空に目に見えぬ支点でも持つように人影は佇んでいる。凜冽な美しい顔に愕きの色をたたえて、彼──東丈は黒い瞳を見開いていた。ただならぬ驚愕が丈を囚え、金縛りにしてしまったようである。
丈は虚空に体を浮揚させていることを一瞬忘れてしまったようであった。思わずぐらりと体を傾かせる。
彼女は氷の彫像そのままであった。体の全面がガラスの被覆に似た氷膜に覆われている。それが雪明りの中で輝き、彼女がこの世の者ではなく、他の惑星からの訪問者でもあるかのように幻想美をみなぎらせていた。
凄いほど澄み切った月のない夜空には圧倒的な星群の光輝が溢れており、それが氷結世界に夢幻の輝きをもたらしているのだった。
丈は一瞬にして深淵を越え、彼女の眼前に現われた。が、氷像のような彼女は仄かな星明りに凍てついてしまい、身動きもしなくなっていた。
丈は両腕の中に彼女を抱き取った。動きにつれて氷の薄膜が微かな涼しい音を発して砕けた。
「郁江......どうしてお前が......」
と、丈はいった。
12
激しい勢いで血が沸騰するようだった。流入する生体エネルギーはまるで彼女を煮立たせるのではないかと思われた。
彼女──井沢郁江の意識はいまだに煉獄の辺境を漂っているようであった。脳裡は曇り、歪んでいて、不鮮明であり、ものの輪郭がくっきりとしなかった。
記憶が、なぜかひどく不明確になっているのである。それは郁江が意識を回復した後も続いていた。
「あたし......どうしたのかしら?」
と、郁江は頼りなげに呟いた。体中が燃えるように熱い、生体エネルギーが過大にすぎて溢れだしているようだった。
「暑いわ......暑くてどうにかなってしまいそう......」
うわごとのようにいい、彼女は身を悶えさせた。丈の手が体中を摩擦しているのがわかる。丈の手は火を発するようだった。郁江の肉体細胞が、丈の手に接触すると火が燃え移ったようにたちまち灼熱してくるのだ。それはたちまち全身に燃え広がり、郁江は自分が人がたをした炎になったような気がしていた。
それほど、丈の両手を伝わって流れこんでくる光と熱は力強いものだった。丈自身の高いポテンシャルを持ったオーラが、そっくり彼女の身裡に入りこみ、重なり合うかのような圧倒的なエネルギー感であり、これまで彼女が明雄から受けた心霊治療とはまったく次元の異るものだということが、実感できるのだった。
それは穏和な心地よさをもたらすものではなく、苛烈すぎて体中が燃えあがる苦しさを伴っていた。苦痛を訴えるのだが、丈はそれを取り上げてくれなかった。
──我慢しろ。
そういうだけである。いや、丈の口から直接聞いたのではなくて、そんな気がしただけなのかもしれなかった。丈の意志は確固としたものであり、いかに彼女が身悶えし、苦しみを訴えても、決して手を緩めてしまうことはなかった。
しかし、丈の手が与える灼熱の感覚は、ただ苦痛のみをもたらすものでないことも明らかだった。それはただの凶暴な掠奪者の火ではなく、なにかしら不浄の深部を灼き切ってしまう。浄化の炎だ、と郁江は感じていた。
そのきびしく鮮烈な浄化の火は、丈の本質と分ちがたく結びあっているような気がしていた。
それゆえに、丈はこの腐臭を漂わす世界を敢然と浄化することができるのだ、と郁江は擾乱の感覚の中で、確実な支柱にしっかりとすがりつく思いで考えていたようである。
なぜなら〝真の救世主〟は、腐乱しきったこの世を浄化すべく立ち登る炎とともにやってくるからだ。この腐爛した土地を浄化することができなければ、どうして救世の業を行使することができるだろうか。
丈は、自分の裡にある不浄なものを残らず灼き払い、再生させるために、今自分を生体エネルギーの炎で燃やしているのだ。
苦しみに身をもがきながらも、郁江はなぜかそう確信し、平穏な気分を回復した。そのまましばらく彼女は眠ったようである。
狂風の叫喚の記憶が夢の中に甦ってきて、郁江は目を覚ました。
もはや幻魔の喊声はどこにもなかった。恐ろしく底深い静寂があるばかりだ。
燃えあがる生体エネルギーの狂瀾はおさまっていた。快い充実感が全身にみっしりと詰まっている。
郁江ははげしく瞬きをした。体が丈の膝の上にもたれている。丈の両腕は彼女が転げ落ちないように支えていた。
丈の体温が背中や体の側面から伝わってくる。暖くて気持がいい。丈の呼吸や心臓のしっかりした確実なリズムがはっきりと伝わってくる。
これまで郁江はここまで他人と体をぴったりと接触させた経験を持たなかった。むろん幼いころは別だ。しかし、ある程度成長してからはたとえ同性でも、これほど密着した憶えがない。
自分が薄い木綿の夜衣一枚で、下着もつけず丈の手に抱かれている......しかし、なんの心理的な反応も生じてこない。くつろいでゆったりした落着きを感じているだけだ。まるで日だまりの中の猫みたいに。
体中に丈の手が強く摩擦を加えたことが念頭に昇ってきた。凍結しかけた体に生体エネルギーを注入するためだった、と今ではわかる。全身に丈の手の記憶がある。普段であればとうてい考えられないことだ......
なぜ下着をつけていないのだろう、とぼんやりした疑いが生じた。もちろん、それは入院中だからだし、明日は手術を受ける日だからだ......
手術!
突如バネがバチッと弾ける勢いで、記憶が甦ってきて、郁江は烈しく体を緊張させた。
そうだ。自分は卵巣癌の手術を受けるために入院していたのだ。明日が手術日だった。それがなぜこんな場所に丈とともにいるのか?
きっと丈が病院から自分を攫ってきたのだ、と郁江は考えた。それ以外には考えようがなかったし、その考えは彼女にとり好ましいものだった。
なんという烈しい野蛮なことをするのか。丈にそんな思い切った野性味があるということを郁江は素直に喜んだ。
自分は丈によって掠奪されたのだ。夢のようにロマンティックであり、非現実的であった。
むろん丈に攫われるのは、病院の手術室の冷たい人工燈の下で、解体される魚みたいに鋭利なメスに切り裂かれるよりははるかに素晴らしい。
暖く心地よい平穏な気分であった。それはやわらかい官能的な感覚でもあった。性的な高揚について無知な郁江にしてみると、それは最高の満足感といえた。
もういつ死んでもいいと思った。もとより覚悟はしているのだが、これで至高の満足を味わったと信じた。暖い日向水に全身をゆったり漬けているようであり、その快さは現実に立ち返ればたちまち冷えきってしまうものだと、彼女は知っていた。
このまま、じっとしていよう。そうすれば丈はいつまでもこうして抱いていてくれるに違いない......
郁江は女らしい狡猾さを働かした。こうして暖く和やかな快感をいつまでも引き延ばすこと以外に、望むものはなにもなかった。こうして丈の腕に抱かれたまま死ぬことは、むしろ望ましく楽しいものに化していた。冷やかな人工燈と手術台上から逃れることを得たのだ。他に何を望むことがあるだろう。
もはや、自分がどこにいるのか、どうして連れてこられたのか、少しも気にならなくなっていた。それはどうでもいいことであった。
快適な睡気が忍び寄ってきて、このまま身をゆだねれば、それがもっとも望ましい死に方といえた。
郁江の心が死を望んだ瞬間、蠱が破れ去った。
「目が覚めたのか?」
と、丈の声が睡気から郁江を引きずりだした。厭々ながら、郁江は目を開けた。丈はとても鋭敏なのだ。彼女の心が安逸としての死を欲した瞬間を的確にキャッチしたに違いなかった。
仄かな微光に浮かびあがる丈の顔を、彼女は仰ぎ見た。丈の顔は静かだった。これほど思い切ったことをやってのけた者とは思えなかった。荒々しい心の猛りが少しも感じられないのである。
覚醒していることを悟られた、と思ったとたん、恥しさが目覚めた。彼の視線をさえぎるものは薄い木綿のネグリジェだけだ。しかも前開きの恐ろしく無防備な、シンプルきわまるネグリジェの下には、下着一つつけていない。
手術前夜、リンゲル液を点滴しながら仰臥していたのが、最後に留っている病院での記憶であった。後は何も憶えていない。特別な感慨は何一つ浮ばなかった。明日になれば研ぎ澄まされた外科用メスで切り裂かれ、女性としての機能を喪失してしまうのだとわかっていても、心が動かなかった。今頃、だれかれはどうしているのだろうと思いをめぐらしただけである。
丈のことももちろん考えた。黙って入院しているので怒っているだろうな、と思った。来院した両親に尋いてもみなかったが、丈が何かいってよこしたのならば、それを自分に伝えるはずだ......だから丈は沈黙しているのだ、と悟った。もしかしたら、愛想を尽かされ、見捨てられてしまったのかもしれない。
だが、心の深奥部では、丈が決定的に見捨て、自分を放置するはずはない、と信じていたようである。間に合うように必ず丈はやってくる、とやみくもに期待していたような気がするのだった。
「東君。なぜあたしを攫ってきたの?」
郁江は自身思いがけないことを言葉にした。口にしてみると詰問であり非難であるような気がしてくるのだった。
「攫った? 僕が......?」
丈は不思議そうにいった。
「そうよ。どういうつもりで、こんな無茶なことをするの?」
とぼけている、と思った。すると心にもなく口に出した言葉につられて、なおはっきりと非難の調子が明確になってくるから不可解であった。心にあることと正反対のことを喋り、丈をとがめようとしているのだ。
「こんなことをして、何もかも滅茶滅茶じゃないの」
いつも自分はそうだ、と郁江はうんざりする。内心と心が乖離しており、あせればあせるほど亀裂が深まって行く。自分で自分がどうにもコントロールできない。奇怪な分裂を呈して行く自分が疎ましくてならなくなる。
どうしても自分自身に対して、素直になり正直になることができない。いやが上にも倨傲が甚しくなる。これも甘えの変型かもしれない。親しい者に対するほど、目を覆いたいほど乖離は大きくなってしまうのである。
「せっかくあたしが観念して、手術を受けようとしているのに、これじゃだいなしじゃないの。怖くなってもう二度と決心をかためられなくなる......ううん、そんなことはどうでもいいの! 東君が病院からあたしを攫ったなんて乱暴なことがもし表沙汰になったら、東君のやっていることは、回復不能の損害を受けるわ!」
郁江は喋りながら、両腕を体にまわし、足を縮めた。裸同然の体を見られている恥かしさで体が熱く火照ってきた。
「東君がそんな考えなしなことをしてのけて、どうして人々を説得できるの!? 世間の人々はなにをいうかわからないじゃない。東君とあたしの間に何かあったと勘繰られても仕方がないでしょう......」
いったい何をいいだす気なのか、と自分の舌を嚙みたくなった。
「馬鹿なことはやめて、すぐに病院へ帰してちょうだい。今ならまだ間に合うかもしれないから......こんなネグリジェ一枚の女の子をベッドから誘拐してくるなんて、ひどすぎるわよ。だって、お嫁に行けなくなっちゃうじゃない......」
郁江は憐愍に駆られて泣きたくなった。感情が乱れ、自分が何を口走っているのかわからなくなった。可哀そうなのは、自分ではなく、丈だとわかっていた。なんというひどい非難を自分は丈に浴びせているのであろう。丈はこんなことをすべきでないと思った。丈は大きな存在であり、自分には彼の立場を傷つけるほどの値打ちはない。つまらない、みすぼらしい存在でしかないのだ。彼は結局のところ、自分を置いて自分のついていけない高次元の世界へ立ち去ってしまうだろう。
もしかすると、自分がしんそこ気落ちしてしまったのはそのためかもしれない。
「こんなことをして......お嫁に行けないじゃない......」
郁江は泣きながらいった。泪は甘美であり、心を慰めた。心にもない馬鹿な女の子のいいそうなせりふをいっているのが、自分には似合っていると思った。そうだ、自分には前からわかっていた。もう丈にはついて行けないということが......彼は急速に成長して立ち去ってしまう。超能力者でもなく、格別優れた存在であるわけでもなく、凡庸な人間でしかない自分は、丈にはついて行けない。丈には杉村由紀や木村明雄などの優れた超能力者たちがおり、彼らとともに丈が進む高次元の階梯に凡人は進むことが許されないのだった。
それを知って、自分は深く気落ちした。世界がいっぺんに空虚になり、冷たい死灰と化してしまった虚無の冷風に吹かれたのだ。
もしかすると、癌が生じたのは、心の空隙を冒した虚無の風と無関係ではないのかもしれない。おそらく、久保陽子の怨念と自分の癌は直接的な因果関係を持たない。陽子が自分を強く憎悪しているとしても、自分を殺すことはできないのではないだろうか......
郁江は陽子が自分に呪詛の殺人的な想念を送っていると知っても、相手を憎み恐れる気持に不思議なほどならなかった。なぜなら自分は陽子の心を冒した虚無の冷たさが理解できるからだ。陽子が丈を離れたのは、やはり丈とともに最後まで歩むことができないと知った絶望感のためではなかったろうか。単に、丈を独占できないための嫉妬ではありえないように思える......
それがために、郁江は陽子をどうしても憎むことができないと感じていた。自分ほど陽子を深く理解できる者はいないのかもしれない。なぜなら、今は〝虚無〟の冷風の恐ろしさを体で知っているからだ。今ならば、陽子とよく話しあってみれば、互いに理解しあうことができる......
「何も憶えていないのか?」
と、丈がいった。郁江はとめどもなく目から溢れる泪を両手で拭った。
「憶えていれば、東君にこんな真似はさせなかったわよ。だってこんなみっともない恰好してるんですもの......」
「違うんだ。僕はここへ来て、ただ祈っていた......」
丈は思いがけないことをいった。
「違うって?」
「郁の考えているようなのとは違うということだ。僕は君が自分の意志で、手術を受けるために入院したと聞いた時から、迷いが生じた......」
「どういうこと!?」
郁江は反射的に体を起こしていた。丈の体の暖さから離れることは厭だったが、それどころではなかった。丈の手を振り放して床に座りこんだ。深い失望がじわじわと滲んできて、唇が歪み、そり返るのがわかった。
「どうしようかと迷った。君の意志にまかすか、あるいは結果はどうなっても、病院へ乗りこんで医者と談判しようかと迷い抜いた。実力で郁を病院から連れ出すことも考えた......」
「だけど、しなかったの?」
悲しみが郁江を捉え、声は聞きとれないほどかすかになり沈んだ。
「祈ったんだ。どうしていいかわからず、僕は祈った。ここへ来て、血の汗が滲むほど死物狂いで祈った......」
丈は星のように光る瞳で郁江を見詰めていた。身も世もない恥しさが襲い、郁江は身を縮めた。失意のあまり消えてしまいたいとさえ思った。丈は自分を病院から攫ったのではなかったのだ。頭からそう信じこんだ自分はどうかしている。あまりにも深く思い上りに支配され、疑ってみることさえしなかったのだ。
「僕は生れて初めて、あんなに真剣に烈しく祈った......しまいには意識が失せてしまって、なにもわからなくなったほどだ。どうすればいいのか教えてほしい、と宇宙意識フロイに頼んだ。力を与えてほしいとも祈った。何十時間も祈り続けた。自宅には二日に一度帰っただけで、またすぐここに来て、祈り続けていたんだ」
「じゃ、東君は、一度も病院には来なかったの?」
それを尋くのがやっとだった。気落ちのあまりなにをするのも面倒な脱力感が生じていて、郁江はその場に横になってしまいたいと思った。
「病院へは行っていない。君がどの病院へ入院したのかも知らなかった。祈るだけに精魂渾めていた」
「だったら、どうやってあたしはここへ来たの? 東君が連れ出したんじゃないとしたら......」
郁江の声は聞きとれないほどかすかになった。
「わからない。郁は何も憶えていないのか?」
「ええ、なにも......気がついたら、ここへ来てたの」
「郁が雪嵐の中で凍りついてるのをたまたま発見したんだ。とても信じられなかった。こんなことが起こるなんて......生体エネルギーを注入して息を吹き返させるのが大変だったよ。死んでいるのと変らなかった。本当に凍結してしまっているんだから......」
「そのまま死んでしまえばよかったのよ」
郁江は思いがけず激しくいった。怒りと悲しみでいっぱいになっていた。
「そうすれば、手取り早くけりがついたじゃない!」
「何か、とてつもないことが起こったんだ。奇蹟と呼んでもいいようなことが......」
丈は落着いていった。
「今、こうしていられるのも、奇蹟のおかげだ。そう思わないか?」
「死んじゃえばよかった!」
郁江は叫ぶようにいった。泪がこめかみを伝わって流れ落ちた。
「こんなところで東君と遭いたくなかった! あたしは病気で醜くなってて、こんなみっともない恰好をしているんだもの!」
わずか数分前の満ち足りた幸福感があとかたもなく消え、信じがたいものと化していた。どうにも泪が止まらず、情けなく口惜しかった。
「ははあ、そうか」
と、郁江をまじまじと眺めていた丈がいった。
「なにが、ははあ、そうか、よ!」
地団駄を踏みたい思いで叫んだ。丈のしたり顔がむしょうに癇に障り、腹が立ってどうにもならなかった。
「俺が郁を病院に攫いに行かなかったというので怒っているんだろう」
と、丈は許せない無神経さでいった。
「そんなのじゃないわよ!」
「いや、そうだ」
丈が断定する。
「俺が郁を攫ってここへ連れてきたと思いこんでいたんだ。だから、そうでないと知って猛烈にがっかりして腹を立てているんだ」
「違うわよ!」
「違わない」
郁江は丈を両手でぶちのめしてやろうと思った。こっぴどく懲罰を加えてやらなければ腹の虫がおさまらない。
「馬鹿だなあ。最初から病院に自分を攫いにきてと頼めばいいじゃないか。それなら考えてやったのに」
「馬鹿はどっちよ!」
郁江は跳び上って闇雲に走り出そうとした。この忌々しく腹の立つ丈から少しでも遠ざかりたかった。しかし、丈の動作の方が素早く──というより、郁江の体は動きを封じられ、びくとも動かなくなってしまった。丈は少しもあわてずに郁江を捉えた。
「卑怯者! 超能力をこんなことに使うなんて! 離してよ、恥知らず!」
丈がPKを用い、自分の行動を封じたと知って郁江は逆上し、叫んだ。
「こんな時だけ超能力を使って、なによ! 普段はなんにもできない臆病者のくせに、女の子を摑える時だけ元気がいいのね!」
「郁は口でいうことと腹の中がバラバラだ。なぜ病院へ攫いに来てくれなかったと恨み言をはっきりいわないんだ」
「そんなこといえないわよ。いえるわけないじゃない......」
郁江は口惜し泣きを始めた。
「でも、そう信じてたのに......こんな所でただ祈ってたなんて......」
人を馬鹿にするにもほどがある、と郁江はいいたかった。滅茶めちゃに丈を殴りつけてやりたかった。
「正直にそういえばいいんだよ。入院する時だってそうだ。こっちに無断でさっさと入院しちまったろう。こっちがどんなに参ったか、郁にわかるか?」
「やめさせてくれればよかったじゃない......なのに、全然来てくれなかった......」
「面会禁止だというのにか?」
「面会禁止でもよ! 東君の力なら強引に入ってこられたはずじゃない......」
「むずかしいことをいうんだな。無理やり郁を連れだそうとしたら、大騒ぎになるじゃないか。警察沙汰になるかもしれない」
「警察沙汰になっても!! 東君は来なくちゃいけなかったの!」
郁江は理不尽そのものだった。
「もっと可愛くなれよ。病院から攫ってくれと頼めば、そうしてやったかもしれないのに......」
「そんなこと、いわなくてもわからなきゃだめじゃない! あたし、どうせ可愛くなんかないもの!!」
郁江は真剣な顔で、丈に摑みかかってきた。
「もう本当に、懲らしめてやるんだから......」
丈は大声で笑った。郁江が可愛い小さな手で乱打するのを受け止める。小さな拳固が丈の頰骨の下にあたり、郁江はびっくりして乱暴を中止した。
「ごめん......痛かった?」
自分で殴ったところをさすろうとして手を伸ばしてくる。
「それで重病人だなんて、だれも信じないね」
丈は笑って溜息をつき、郁江の手首を捉えた。郁江は赤くなった。激情は噓のように離れ去っていた。自分の言動が信じられなくなってしまう。
「まだ腹が立つかい?」
「ううん......本当はそんなこと、ありっこないとわかってた。でも、もしかしたらと思ったものだから......」
郁江は小声でいった。
「だって他に考えようがないし、あたし、夢見てたのかしら? 病院へ東君がやってきたような気がしてたの」
「でも、夢なんだろう?」
「わからない。他にもいろんなことが起きたような気がする......ここはどこなの?」
「僕にもよくわからないんだ。もしかすると、大峰山脈じゃないかと思うんだけど」
「大峰って、奈良県の?」
郁江は不意に目が覚めたような顔になって、周囲を見まわした。粗末な朽ちかけた山小屋のようである。床板はそり返って浮いており、天井や羽目板は隙間だらけだ。崩れかけた廃屋にも等しかった。寝具も何もない。火の気すらないのである。
しかし、隙間だらけの廃屋には凍てつく風が吹きこんでこない。ガタガタの歪んで傾きかけた山小屋がカタリとも鳴らないのだ。
零下十数度にも達するはずの低温の夜気は忍び寄ってきていない。耳を澄まさなければ、風の唸りさえ聴き取れぬほど静かなのだ。
こんなことはありえない、と郁江は改めて悟った。この厳冬期の雪に埋れた山中で、夜寒に火の気もなくすごせるはずがない。体は快適な暖さに包まれていて柔軟であり、寒さなどまったく感じていない。薄いネグリジェだけでこの山中の酷寒にすごせるはずはないのである。
「なぜなの?」
と、郁江は尋ねた。答はわかっていても、尋かずにはいられなかった。
「僕の意志の力でシールドしているらしい」
「PKで? らしいというのはどういうことなの?」
「意識的に精神集中しているわけじゃないからだ。郁を安全に暖く、護ってやりたいと思ったんだ。そうしたら、こうなってしまった。祈りの〝力〟かもしれないな」
「信じられないみたい......寒さも、風の音も閉めだしてしまったの?」
丈は頭をかしげていた。
「結果的にそうなってしまったんだ。郁を最初に見つけた時は、ほとんど凍ってしまっていた。生体エネルギーを入れている時も、間に合わないかと思っていたよ。死んでいるとしか思えなかったんだから......」
「東君を捜しに行ったの。寒くて恐かったわ。吹雪でなにもかも真白になってしまったから......」
郁江はなぜか子供っぽい調子でいった。
「でも、東君が必ずいると信じてた......なぜかしら?」
「僕はこの数日間、郁のことばかり考えていた。寝食を忘れて祈り続けていた......だから意識がつながってしまうということも起きるのかもしれない」
「やっぱり、東君があたしをここへ呼んだんだと思うわ。だって一人じゃとても来られないもの」
「何かが起こったんだ。奇蹟と呼んでもいいようなことがね」
「あたしは、東君があたしを攫って、ここへ連れてきたと信じている方がいいわ。だって他に考えようがないもの。他人に聞かれてもその方が説明しやすいでしょ。あたし自身が空を飛んで、東京から奈良県まで行ったというよりも......」
「郁はどうでも、僕に誘拐されたということにしたいらしいな」
丈は苦笑して、郁江の手首を握った手をはなした。郁江は手首の握られたあとをゆっくりと撫でた。
「だって、冷凍されたかと思うと、今度は火焙りにされるような目にあったんだもの。これほど壮絶な体験ってないんじゃないかしら......なんだか体がバラバラに分解されて、もう一度組み立てられたような気がする」
「しかし、郁は自分の力で、ここへ来たのかもしれないんだぜ」
「?」
愕きの表情で、郁江は丈の顔を穴のあくほど見ていた。
「そんなの、厭!」
「しかし、僕はここへ呼んだ憶えはないんだから......郁が自分の意志で、自分の力で来たのかもしれないじゃないか?」
「あたしにそんな力があるわけないでしょう!? あたしが超能力者だとでもいうの!?」
「そうでないという保障は何もないだろう」
「そんなこと......」
ありっこない、といいかけて郁江はぞくぞくと身慄いを全身に走らせた。
「寒いかい?」
「ううん。でも、自分にそんな〝力〟があるなんて少しも感じられないもの。信じられもしないわ。どうやれば、その〝力〟を使えるのかわからなければ、どうにもならないでしょう?」
「必要になれば、また使えるのかもしれない。だれだって自分の裡にどんな〝力〟が埋れているのかわかりゃしないんだ」
「そんなの、説明になりゃしないわ。なんでもかんでも奇蹟だといってすませるのと同じことじゃないの」
郁江は反論しようとした。丈が自分を攫ったのだと考えなければ納得できないものが己れの心の裡に潜んでいて、強硬にいいはっているのだとわかってもいた。
「でも、そんな〝力〟があったら素晴らしいかな? いつでも東君の居場所を突き止めて、飛んでこられるのだとしたら......」
それもいい、と思った時は気分がころりと変っていた。自分も丈や、杉村由紀、木村明雄のように超能力者の仲間になったのだ、と考えることは、彼女を元気づかせた。
「自分には超能力なんて無縁だとばかり思っていたから、考えたこともなかったけど、超能力が本当にあれば、東君のお役に立てるかしら......? あたしにあった方がいいと思う?」
「もちろん、あった方がいい。役に立ってもらうさ。でも、なくてもいい。超能力があってもなくても、郁江自身には変りがないことなんだ」
「でも、市枝さんが知ったら、ショック受けるわね、きっと。彼女本当に超能力を欲しがってるのよ。東君のお役に立ちたいから......彼女に超能力を半分あげるなんてこと、できないかな? あたしは半分ずつでいい......」
「超能力は物質的なものに限定されないんだよ」
と、丈は優しい声音でいった。
「その人がいると、囲りが楽しく明るくなる。それも超能力の一種なんだと僕は思う。空気に張りや活気が出てきて、ああ、彼女がいるんだなあと感ずる。それも立派な超能力なんだよ。
その人がいないと、ぽかっと空洞ができてしまって、日の光があせて空気まで重く沈んでくる......みんなそれは超能力じゃないというかもしれないが、僕には立派な超能力者に思える。だから、郁、君がいなくなって僕は心が空虚になってしまったよ。日の光がかげって冷えびえとしてしまったみたいだった。郁がどんなに大事な存在だったか、改めて気がつかされたんだ......」
「みんながそれに気がついたの? それとも東君がなの? そこをはっきりさせてほしいわ。東君の心が空虚になったんでしょ? 可愛くてキュートな郁姫がいないと、この世は闇だとはっきりいいなさい」
と、威張って要求する。
「わかった。郁がいないとこの世は闇だ。それは本当のことだ」
「まあ、圭ちゃんにも市枝さんにも、いざとなれば同じせりふを使いそうだな。でも、許してあげる......東君が幾日も飲まず食わずであたしのために祈ってくれていたことに免じて」
郁江はいかにも彼女らしい若干無責任な、臆面のなさでいった。
「でも、うれしい。たとえばだれにでも同じせりふを使うとしても。安心して、東君。今のが愛の告白だと誤解はしないから......でも、だれにでもいわない方がいい。だって、あたしみたいにわかってるとは限らないもの。きっと自分だけ特別にいってもらったと勘違いして、のぼせるにきまってるわ」
丈は黙って笑っていた。郁江のいうことはまことに正しかった。
「でも、せっかく超能力が目覚めても、遅すぎたみたい......だって、もう使ってる時間もないし」
郁江の高揚しきった気分は、反転して下降線を急速に辿り始めた。
「だって、あたし、そんなに長い時間、この世にいられないもの」
「本気でそう思っているのかい? だったらなぜ......」
「これ以上、迷惑はかけたくなかったのよ。あたしって、そういう特別扱いに堪えられない人なの。それに東君はあたし一人を特別扱いにして、それですみはしないでしょう......それなのに、幾日も幾晩も寝ないであたしのために祈ったりして......あたしの気持をちっともわかってくれないんだなあ」
郁江は嘆くようにいった。
「あたしにはそんな値打はないといっているのにな。それは東君が少しも心配してくれないのは厭だけど、ちょっとだけでいいの。
こんなにあたしに時間を割くなんて、正直いって、東君は気が優しすぎるわ。もっと冷やかにクールにやらないと、大事業って成せないんじゃない?」
「そうかもしれない......だけど僕には他に選びようがなかった。もう一度同じことが起きれば、同じ選択をするだろう。とにかくこれほどエネルギーを集中して祈ったことは一度もないんだ......」
丈は爽やかな顔をしている、と郁江は思った、なにかしら吹っ切れたような、血を流す苦しみの果てに己れの面の皮膚を剝ぎとることに成功した、そんな爽快さが感じとれた。
新しい面を持った丈は、自信というべき確かさを身につけているように思われた。己れの下した決断にいつまでも自信が持てず、遅疑逡巡していたかつての丈とは波動が異っていた。
まだ確固たる自信として現像されるまでは、しばらくかかるのかもしれない。だが、今の丈には、揺らめきが失せているのは確かだった。
「何かが起こったんだ。真の奇蹟と呼ぶに価いするような何かだ......」
丈は確信をこめて呟いた。
「まだはっきりとはわからない。しかし、それは僕が精魂渾めて祈っている間に起こった。僕もまったく記憶にないし、郁も憶えていないというが、郁が呼び寄せられて、今ここに来ているというのがその証拠だ。二人とも何も憶えていないとしても、今にきっとわかると思う。郁にはやっぱり思いだせないか?」
「............」
無言で頭を横に振り、郁江はほとんど習慣になっている動作で、下腹部の凝りを探ろうとした。丈の視線にはっと気付き、あやふやな動きで手を停めた。薄い夜衣一枚の体を丈の目に曝していることが突如意識に灼きついたのだ。
「どうした?」
と、丈が尋ねた。郁江は黙っていた。
「どうかしたのか?」
尋ねる声に懸念がのぞいた。郁江は黙ったままゆっくりと手の動きを再開した。
指先が、すでに慣れ、馴染んでしまってさえいる下腹部の無気味にふくれあがった硬い凝りを探りあてようとする。一日のうちに何十度となく手をやって確かめずにはいられないのだ。
郁江はひとしきり撫でたり押したりする動きを止めた。深い吐息が口から漏れる。
「郁......大丈夫か?」
「............」
郁江はうつむき、しばらく無言で呼吸をととのえていた。それから顔を上げる。
「なんだかよくわからないけど、小さくなったみたい......」
子供っぽく戸惑った顔をしていた。
「触ってもわからないほどか?」
「うん。前とは全然違うみたい......前は光を入れてもらって、小さくなったといっても触ってみればはっきりわかったんだけど......」
「今はわからない?」
「うん。柔くて、どこがどうなってるんだかわからない。脹れて固くて、ちょうど手榴弾でも入ってる感じだったんだけど......」
「それが、今はなくなったんだな?」
「そうなの......東君、どうなっちゃったのかしら? 腫瘍が消えて失くなっちゃったのかしら?」
郁江はかえって不安そうになり、泣きべそをかきながらいった。
「............」
「ちょっと東君、確かめて!」
郁江はいきなり衝動に駆られ、丈の手を摑んだ。ぐいぐいと引っ張り寄せ、己れの下腹部の高まりの上に丈の掌を押し当てようとする。不意をつかれた丈は無抵抗だった。
「触って! 東君、わかる!?」
丈は、少女のふっくらした陰阜の上の腹部に掌を押しつけられたまま、かぶりを振った。
「わからない......」
「どうして、わからないの......? そこに物凄くゴリゴリした硬いものがあったでしょう? ほら、わからない?」
「ああ」
「じゃ、横になるから上から押して確かめてみて! 絶対にわかるんだから......あんな無気味に固いものだったら、だれにだってすぐわかるはずだもの!」
「いや、どうせ僕にはわからないよ」
丈は、薄い木綿の生地越しに、無理やり郁江によって押しつけられた掌が柔い茂みに触れるのを感じ、あわてて引っ込めた。火に触れた慌しさで郁江の手を振り切る。
「だって、前に腫瘍に触ったことがないんだから......君は明雄と間違えているんだ」
「あ、そうか」
郁江の顔に血の色が滲んだ。
「そうだ、そうだったのよね。馬鹿みたい......」
今度は少女の目が火に触れた慌しさで、狼狽に翻転した。丈は居心地悪げに手を後にまわして郁江の目から隠した。柔軟な体毛に触れた感覚が鮮明に残っている。丈は舌打ちしたくなった。こんな際だのに、まったく自分はどうかしている。俗悪な意識からいまだに逃れることができないようだ。
「ごめん、東君。でも、いいわよね? 東君は結局、医者みたいなものなんだから......歪んだ心や平衡を失った心を、東君は治してくれる、魂の医師だもの。あたしがどんな過ちを犯したとしたって、許してくれるわね? 東君のいうことをちっともきかなくて、間違いばかりやって、東君を困らせたとしても......東君はあたしの心の中まで全部知っているんだから、何もかも見られたとしても平気よ。ちっとも恥しくないわ」
郁江は熱に浮かされたように喋った。異常なほどの心身の高揚が訪れたようだった。
「あたしの心も魂も、東君にあげる......でもあたしはこうやって命を助けられて、魂まで東君に救ってもらったけど、相変らずどうしようもない人間なの。きっと東君に叱られるようなことばかりしでかすと思う......だってあたしは欠点だらけで、絶対に完璧になれない人間だもの。それでも、東君に連れて行ってもらいたいの。素直に決してなれないから、やっぱり反抗するだろうし、いい子にはなれないとわかってるけど、それでもいっしょに連れて行ってくれる?」
この時ほど、郁江が美しく見えたことはなかった。異常な美しさであり、霊光に包まれているのがはっきりわかった。精神の高揚が、郁江に迸るような光耀をもたらしたのであろう。
しかし、こんな際でも、いささか偏りのあるせりふが平然と出てくるところが、郁江の好ましさかもしれなかった。精神に硬直したところが見られないのだ。
「本当に治ったとしても、それは僕の力じゃない。いつもいってるだろう......郁の心の状態が変ったからだ。ただ光を入れただけでは、心に隙間があれば漏れてしまう。そのことは知ってるじゃないか」

「東君としては、そういわざるを得ないわけよね」
こいつ、といって丈は手を伸ばし、郁江の髪の毛をかき廻し、ついでに引っ張った。丈のこれまでにしたことのない仕業であった。郁江は丈の心が吹っ切れていることを再確認した。
「東君、前とはちょっと違うみたい。前は張り詰めた絹糸みたいにぴんと張って、今にもぷっつり切れそうだったけど......」
「それがどう変ったというんだ?」
「余裕ができたっていうのかな。おどおどして緊張しきっているところがなくなって、大人びてきたというのかな......図太くなって、悪落着きに落着いてる......そうでもないか」
「勝手なことをいってるな」
丈は苦笑した。少年ぽいところのある郁江があらん限りの讃辞を呈していることはよくわかっていた。
「その方がいいわ」
「そうかな。僕にはよくわからないけど」
「でも、あまり自信家にならないで。自信たっぷりで大物ぶって、だれでも自分にひれ伏すという感じは厭」
「僕がそうなりそうに見えるか?」
「ううん。もっとがんがんとやってもいい。頼もしい偉大な〝父〟になって......みんなをぐいぐい引っ張って、牽引していってもらいたいの。みんなを甘やかさないで......あたしは別だけど」
「どうしてだ?」
「だって、もう余命いくばくもないから。うんと親切にしてもらうの」
「もうその手はきかないんだ。気の毒したな」
丈は笑って、再び少女の髪を引っ張った。
「精密検査は受ける必要があると思うけどね......郁江が前のような暗い気持に戻らなければ大丈夫なはずだ」
「お医者さんは信じないわ」
「しかし、存在しない癌を切るわけにはいかないんだ。たとえ、信じなくてもね」
ふうん、といって郁江は黙りこんだ。
「今ごろ、みんなどうしてるかしら? あたしたち、ここにいつまでいるの?」
「いつまで、いたいんだ?」
「ずっと......噓よ、噓。東君を独占してたら、罰があたるものね。卵巣癌が治っても治らなくても、本当はもういいの。みんなをあまり心配させたくない。帰ってもいい?」
「もちろん。どうぞご自由に」
と、丈は平然といった。
「僕はまだ当分の間、山にこもってる。気をつけてお帰り下さい。大台ケ原に近い山中だから、帰りがけに狼に遭うかもしれないよ。きっと狼が人里まで送ってくれる。送り狼という奴さ」
「いじわる! あたし一人に帰らせる気?」
「しかし、君はここまで一人で来たんだろう? だったら一人で帰れるんじゃないか?」
「いいわ。それならあたしもここで頑張っちゃう。東君といっしょに修行して山姥になっちゃう」
郁江は両腕で、丈の手を抱えこんだ。こんな時間の存在することが、あまりにも幸せすぎて、夢の中にさまよっているに違いないと恐ろしさが心をよぎったのだ。丈の体に触れて肉体感覚を得ても、まだ安心ができなかった。
「正直いって、ここで幾日かすごしたことは、とても役に立った。自分の気持をぴしりと定めるのにとても効果があった。郁江の病気に対しても、お礼をいいたいほどだ」
確かに以前の丈にはない落着きがあった。
「いろいろ困難はあるにしても、克服して行ける自信が湧いてきた。今度の郁の病気の件にしてもそうだ......我々は奇蹟によって助けられている。そんな確信が湧いた。僕が病院から郁を実力行使で連れだせば、大問題になるのは避けられなかった。ところがどうだ......郁は自分の意志で、ここへ来た。どうやってか、方法はわからないが......」
「東君が念力であたしを病院からここまで引っ張り寄せたのかもしれないわよ」
「郁が遠隔移動を行なったとも考えられる。結論は今出す必要はないんだ」
「その方が東君にとって、都合がいいものね。責任を取らなくてもいいし......でも、あたしがそんな凄い超能力者だなんて、やっぱり考えられないけど。両親には自分の力で大峰山脈までテレポートしちゃったと告げた方がいい?」
「正直にいえばいいさ。気がついたら、大峰山脈に来ていたって......奇蹟が起こったことは確かなので、それさえ納得してもらえればいい」
「本当は、東君が病院に攫いに来たといいたいんだけど......」
「どうぞ、お好きなように」
と、丈は平然といった。もはや郁江に関しては何も心配していないようであった。それがちょっぴり郁江には嫉ましいという気持を起こさせた。
「家まで送ろう。おぶって行くか、それとも抱えて行くかどっちがいい?」
「どっちでも......」
「奴凧みたいに郁を飛ばすこともできるんだけどな。もう二度と超能力は見せないかもしれないから、一回だけご要望に応えるよ」
「じゃ、手をつないで飛ばしてくれる?」
いいとも、と答えるより早く立ち腐れになっていた板戸が音もなく倒れ、郁江は山小屋を抜け出していた。夢幻の滑らかさであった。
展けた戸外はまだ暗かった。霧氷で真白く染まった木々が、雪煙を吹きつけてくる強風に騒いでいる。
軒の傾いた山小屋のトタン屋根が強風にあおられ、どっと吹きつけるたびに今にも吹きちぎられそうに翻った。丈の〝力〟が山小屋を離れたからだということは明瞭であった。暴風のように吹き荒れる烈風の中でも、ゴトリとも山小屋は鳴らなかったのだ。
吹雪の強さ、凍える冷寒も丈の〝力〟によりさえぎられ、郁江には届かない。完璧に保護されている安心感だった。
山は暗く奥深く、恐ろしいばかりの濃密な霊気が充満していた。人どころか野生動物の気配すらない。丈はこんな恐ろしい山奥で幾日も、食事をとることもなく眠らずにすごしたのだ。
山の霊気が丈に何か特別な〝力〟をもたらしたのだろうか、と郁江は疑った。丈はもはや以前の彼とは異っている......
そうだ。ここは彼にとり特殊な場所なのだ、と声にならざる声が郁江にささやきかけているような気がした。彼はいつもこの場所へ惹きつけられてやってくる。そして浄化され、本来の心に目覚めるのだ......
郁江は、丈に告げなければならないことがあるような気が強くした。自分はここで何かを経験したことがあるように思える。しかし話そうとしても、それは意識の表層へ浮かび上ってこない。
郁江が心を手探りしているうちに、地表ははるか下方へ遠ざかり、自分が空中浮揚していることに気付いた。支点を失った恐怖に捉われ、あわただしく丈の手を力いっぱい握りしめる。
甲高い風切り音が唸りたてていた。山肌が無数の襞をたたみこみ、吹雪が埋める白い夜の底へ沈んで行く。想像したこともない広大な山岳地帯が眼下に拡大されて行く。肝を冷やす空中浮揚の失調感覚と、丈の絶大な〝力〟への信頼がせめぎあい、しかし、郁江は遂に目を閉じることなく、力いっぱい丈の左手を命綱さながらに握り締めた。
こんな壮大な経験は二度とないのだ、と郁江は己れ自身にいい聞かせた。絶対に目を閉ざしてなるものか。
丈の想像を絶した偉大な力への揺るぎない信頼の裡に彼女は今あった。しかし、丈を信じつつも、その信を離れて自分を衝き動かそうとする力が自分に内在していることを、今この瞬間にも郁江は意識せずにいられなかった。
他の人々は全て、そうでないかもしれない。しかし、自分には丈の偉大さに全面依存することはできない。丈の力を離れ、逆らおうとする意志を圧殺することはできないだろう。
それが自分にとっての翼なのだ、と彼女は感じていた。丈の翼は巨大だ、自分の翼は小さく比較するすべもない。しかし、それは自分にとり〝魂の自由〟を保証する唯一のものなのだ。
それがゆえに、自分は丈の巨大な羽交いの下から脱出しようと真剣にあがくであろう。しかし、それは一見、丈から離れようとする無益な努力のようではあるが、本当は丈に限りなく接近することでもあるのだ。
その洞察は清冽な一条の光とともに訪れた。一瞬、空の一角が燃え上った。雲塊を突きぬけて丈と郁江は大天蓋に臨んでいた。
その広大な天空を燃やすバラ色の輝きは計り知れず巨大であり、郁江は神を感じずにはいられなかった。その神とは神殿や神棚に封じこめられたりする卑小な存在ではなく、無窮の天、大宇宙にみなぎりあふれている生気の巨大な波動そのものであった。
純白に敷きつめられた雲海に、赤い閃光と化して迸った日輪のきらめきが、飛翔する二人を打ち、脈打って脳裡の中に注ぎ込まれた。若い魂の戦きが全身を満たし、二人は聖なるものが姿を現わすのを敬虔に見まもった。
天空は不浄を灼き尽す火と化して一面に燃え上った。日輪の輝きはあまりにも圧倒的であり、恐ろしい光耀の中にあっさりと眼下の地球を吞み尽してしまった。
二人の少年少女は、自分たちが期せずして黙示録の世界の光景に立合っていることを知った。
本書中には「気違い、小人」という差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
東洋病院は、個人病院だが地上七階建てのビルディングにおさまっていた。経営者が辣腕であることは一目でわかった。玉川通りに面していて、所在地を確かめるのに苦労はいらない。
医師は院長を入れて六名の陣容だが、大学病院からパートタイムの医師が三名通っており、医師の水準は高く評価されていた。特に外科医は、日本でも最高級とされる技量の持主という評判が高かった。
井沢郁江の父親、謙吉が娘を個人病院としては大手とされても、信頼度では大学病院に及ばない東洋病院に入院させたのは、外科医の笛川医師の腕を買ってのことだったようである。
杉村由紀が東洋病院へ着いたのは、定刻の十分ほど前であった。外来待合室はがらんとしてひと気がなかった。日中の受付時間は五時までである。今は五時五十分で、病院の中はしんと静まり返っていた。笛川医師は午後六時、と時間を指定したのだ。
待合室に、郁江の父親の姿はない。まだ到着していないのだろう、と思って、由紀はベンチに腰をおろした。受付や薬局は窓を閉めており、すりガラスの向うに人影が動いているのが見える。
声をかけられて振り向くと、看護婦が立っていた。受付時間のすぎた待合室に座っている杉村由紀に不審を覚えたのであろう。色白の賢そうな顔に意志的な眉をしている。正看護婦の帽子をつけている。
由紀は外科の笛川医師に逢うために来たのだが、定刻より早いため待合わせている、と答えた。
「笛川先生ですか?」
と、看護婦はいった。切れ長の眼に強い光があった。厳しくて油断のなさそうな眼の色であった。
「そうです。六時にお訪ねする約束ですので......」
「笛川先生にどういうご用件でしょうか?」
と、看護婦が尋く。由紀は相手が何をそんなに警戒しているのかわからなかった。笛川医師にごく個人的な関心があり、それで由紀に対して問い質す口調になるのかもしれなかった。その質問は、単に看護婦の職業意識から出ているものとは考えにくかった。
「それは笛川先生に直接お目にかかった上でお話し申し上げます」
杉村由紀は病院正面のガラス戸を開けて入ってくる井沢郁江の父親を認め、ベンチから立上った。
由紀は長身である。百七十センチの身長に気圧されたように、看護婦は少し後退った。由紀にはどこか日本人放れしたものがあり、ヨーロッパ白人の血がまじっているのではないかと必ず人に尋かれるほどのバタくさい雰囲気を身につけている。きりっと引き緊まって、プロポーションが優れ、タイトスカートがよく似合う。知的で清潔な印象が濃い。
看護婦は我にもなく気圧されたことを悔やむように唇を嚙んだ。何かいいたいのだが、言葉が出てこないようであった。
「や、どうも、遅れまして申しわけございません」
井沢謙吉が息を切らし、ハンカチを握りながら急いで足を運んできた。彼は恰幅がよく、仕立てのいい高級服をきちんと身につけており、ひとかどの人物であることをだれにもわからせる雰囲気の持主であった。
井沢は通産省の高級官僚である。運転手つきの高級外車が正面の車寄せに着いているのが見える。
看護婦は、井沢の貫禄を見て、不審尋問を続ける気を失ったようであった。由紀は相手の制服の胸についているネームプレートを読んだ。松代という姓であることがわかる。
「おそれいりますが、笛川先生にお取次ぎ願えますか。こちらは井沢様、わたくしは杉村と申します。笛川先生とは前もって電話でお話ししておりますが」
松代看護婦はなにかしら、はっとした面持で井沢を見た。思いあたることでもあったのであろう。
「ちょっと、お待ち下さい」
あわてて受付のガラス戸を開け、中へ入って行った。大病院というわけではないのだから、彼女が郁江の一件について知っているのは当然のことといえた。
すぐに看護婦は受付から出てきた。
「笛川先生がお待ちです。ご案内します」
彼女は素気なくいった。足早に先に立つ。ついて来いというのであろう。
「おお、それは......」
すみません、といいかけて、井沢はあわて気味に看護婦の後を追った。看護婦は足が速く、肥満した井沢が調子を合わせるのは大変のようであった。
由紀はあわてずに後を追いながら、看護婦の態度には笛川医師の感情が投影されているのを感じていた。井沢に対して快い感情を抱いていないのは確かである。それも、医師の立場に身を置いてみれば、無理もないことかもしれなかった。
看護婦は井沢と由紀を二階の医局へ導いた。ノックして、笛川先生、と、声をかける。
「お二人をお連れしました。よろしいでしょうか?」
その態度には充分という以上の尊敬がこめられていた。返事があるのを待ち、医局のドアを開ける。
「どうぞ......」
二人を見る看護婦の目には抑えてはいるが反感というべきものがあった。あなた方は本来なら、笛川先生の前に顔出しできる義理じゃないんですよ、といいたげであった。井沢は礼をいったが、由紀はわざと看護婦を無視した。相手が由紀に対して妙な警戒心と敵意を持っているのがわかっていた。それがひどく歪んでいるようで厭だった。
笛川医師はソファに座り、医学雑誌を読んでいた。診療時間は終っていたが、まだ白衣のままだった。
「笛川です」
医師はソファから立上る気配も見せなかった。軽く会釈しただけで、医学雑誌も手離さない。
「どうぞ、おかけ下さい」
無表情な声でいった。ひどくプライドの高い人物であるらしい。相手が高級官僚であることなど気にも止めていないという態度であった。そんなものは外科医師の自分にとって無意味であり、とるに足りないものだということを誇示しようとしているようであった。
無愛想な顔を、戸口に立っている看護婦に向ける。にこりともしない男っぽい顔付だった。
「ご苦労さん。もう引取ってくれていいよ」
「はい......」
看護婦はちょっと躊躇した。
「あの、お茶でもお出ししましょうか?」
「いらない。お二人ともすぐにお帰りになる」
笛川医師の声音はきびしく、看護婦の要らざるお節介をとがめだてしているようであった。看護婦は赤面し、失礼します、と呟いて医局を立去った。
「お電話をさしあげた井沢です」
郁江の父親は、まだ若いといってさえもいい三十代半ばの笛川医師に対して、萎縮していることが明らかであった。白衣を着た外科医には、通俗社会の次元を跳び超えた知的で冷厳な権威というべきものがある。井沢のように社会的階梯の上位に位置する人間でも、特殊な遠慮が生じてしまうのだった。
「こちらは、娘の郁江と親しい、いろいろ教えて下さっている杉村由紀さんです」
「よろしく」
とだけ由紀はいった。由紀を見た笛川医師は微妙な動揺をうかがわせた。どういう態度をとるべきか迷ったらしい。美しく好もしい異性に対する時の男のギャラントリーが自然に動いてしまうのである。
「今度の娘、井沢郁江の不始末の件では笛川先生に大変ご迷惑をおかけいたしまして、そのお詫びと釈明のために、お忙しい中、お時間を拝借した次第でして......」
と、井沢は汗を拭こうとハンカチを手探りしながらいった。官庁にいればボス猿であろうが、こうした場所では自信がなくなってしまうのだろう。
「まあ、どうぞ」
笛川医師はようやく医学雑誌をはなして、ソファを指差した。いかにも面倒臭げであった。井沢の自信欠乏ぶりに比べて、こちらはいかにも自信満々だ。外科医としての自分の腕によほどたのむところがあるのだろう。

「お宅の娘さんがまた舞い戻るとでもいうんですか? しかし、ここは鉄格子がないですから、脱走しようとすれば簡単だし、監視をずっとつけるわけにも行かんし、たぶん院長がいい顔をせんでしょう」
医師はソファの背にもたれかかり、タバコに火をつけた。
「ま、率直に申し上げると、娘さんが手術を受けたとしても、期待はほとんど持てんのですよ。実際、最初に娘さんを診察した中倉先生は手術してもむだだとおっしゃっていたほどだし......転移している手遅れの卵巣癌を切っても死期を早めるだけだというわけです。切っても切らなくても、覚悟はしていただきたいと申し上げたはずですがね。
ですから私としては、娘さんが病院を脱走したことについては、何とも思っていません。無理もないと同情していますよ。いかに本人が癌であることを承知しているとはいえ、刻々と迫る死を待つのは、堪えがたいでしょうからな」
笛川医師はタバコの煙を吐きながら喋った。必ずしも不機嫌ではないようだった。もともと傲岸そうに見える顔をしているのであろう。
「本人が切りたくないとあくまでもいい張るならば、それでもよろしい。私が手術をしたところで、なんら保証はない。気安めにもならんし、よした方がいいというのが同僚たちの意見です。しかし、可能性が皆無でなければやろう、と私はそういう主義です。しかし、娘さんが病院に戻ることを納得したとしても、院長がいい顔をせんでしょう。正月早々大騒ぎで、えらく憤慨してましたからな。お引受けはできないと断わるんじゃないですかね」
「そのことなのですが......」
と、井沢がいいかける。
「私が取りなしてもいいですが、しかし、うんとはいわんでしょうな」
笛川は先廻りしていった。
「ま、しかし、一応私からいっておきますよ。娘さんは自宅にいるんですか?」
「はあ、その......」
「大晦日の夜、寝巻のままでどうやって脱け出したんですか? スリッパも穿かずに裸足のままだったそうですが......」
笛川は、郁江の病院消失のミステリーの方に関心を持っているようであった。
「実は、......娘はもう回復してしまったようなのでして......」
井沢はハンカチで額を拭いながらいった。
「回復した?」
笛川医師はきょとんとした目で相手を見返している。何のことかわからないのだ。
「はあ、その......癌が治ってしまった......自然治癒してしまったらしいのです。こんなことをいきなり申し上げると、気違い沙汰と思われるかもしれませんが」
「それはまた突拍子もない話ですな」
医師はむすっとした顔になり、乱暴にタバコをもみ消した。井沢がふざけたことをいっていると思ったようであった。
「まあ、こんなことを申し上げるのは気が引けてなりませんが、別にふざけているわけではありません」
「手遅れの癌がどうして自然治癒するんですか? 私はこういう悪い冗談は聞きたくないですな!」
笛川は腹が立ってきたようである。
「そうお考えになるのは無理もありません。私自身とうてい信じられませんでした。しかし、奇蹟が起きまして、娘が元気いっぱいで帰ってきたわけですから、信じないわけにはいきません」
「しかし、癌がどうやって治ったんですか? いや、治ったとわかったんですか? 素人診断で治ったなんていうのは、およそ馬鹿げてますよ!」
「いやいや。T大学病院で検査を受けまして、癌はまったく見当らないと診断されました。どうぞこれを......」
井沢は携行していた鞄をあけ、茶封筒に入った診断書を笛川医師に渡した。笛川はむずかしい顔で診断書に目を通した。ぽいとテーブルに投げる。
「馬鹿な話だ! こんなことが本当にあったとしたら、まさしくおっしゃる通り奇蹟ですよ! イエス・キリストが現代に甦って娘さんの癌を治したとでもいうんですかね!」
恐ろしく不機嫌な顔でタバコに点火し、煙を大量に噴き上げた。心中の動揺と必死に闘っていた。
医師として承服しがたい事象に直面し、それを合理的に解釈しようと悪戦苦闘しているのだった。
「とにかく、これだけではわからん! レントゲン写真や病理学的検査報告を見なければ、なんともいえんですよ!」
と、叩きつけるような口調でいう。
「とにかく問合せてみんことには......T大の医局には友人がいるから......」
「............」
井沢はいつの場合も賢明な策を取った。沈黙したのである。笛川医師は高ぶった気を鎮めようとするようにたて続けにタバコをふかし続けた。井沢は居心地悪げに身じろぎし、咳払いした。では、これでと辞去のせりふをいいかけたのかもしれなかった。
「で、娘さんの具合はどうなんですか?」
医師は気が進まないことを尋くように、克己の努力を示してからいった。
「娘は大変元気でおります。ああ、そうでした、無断で病院を脱け出したことを、先生やお世話になった看護婦さんたちにくれぐれもお詫びしてほしいと申しておりました」
「別にお詫びしてもらったところで仕方がないが、実は娘さんから手紙をもらいましたよ」
笛川医師はぶっきら棒にいった。
「改めて謝りに来ると書いてありました」
「そうですか。娘も大変申しわけないことをしたと後悔しておりまして......」
「しかし、娘さんの癌が治ってしまったというのなら、後悔する必要もないわけですがね」
医師は苦い笑みを唇の端にひっかけるようにしていった。
「まあ、出来たら、もう一度診察してみたいので、娘さんをよこしてもらいたいですな。やはり自分で確かめるまでは、どうも信じきれませんよ。いや、私だけでない、どんな医者でも信じられんでしょう」
「はあ。やはりそうでしょうな。娘にはそのように申し伝えます」
井沢は腰を浮かせ気味にいった。
「とにかく、笛川先生にはお世話になっただけに、どうしてもお詫びをと思いまして......娘が入院の時お世話いただいた院長先生にも、改めてお詫びにうかがうつもりですが......とにかく今日はお目にかかってきちんとお話しせねば、と......」
「失礼ですが、あなたは娘さん、井沢郁江君の学校の先生ですか?」
と、笛川は由紀に向っていった。
「いいえ、わたくしは......」
「杉村さんは娘がいつもお世話になっている方でして」
井沢は由紀の返事を引取るようにして答えた。
「ほう? すると、郁江君の手紙にあった、〝GENKEN〟の人ですか?」
「さようでございます。この度の郁江さんの件ではまんざら無関係というわけでもありませんので、郁江さんのお父様とごいっしょにお伺いしました」
由紀は答えながら、笛川の態度がまんざら敵意ばかりでないことに気付いた。不機嫌ではあっても、敵意というよりは興味を抱いており、それを扱いかねているという印象であった。
「あなたも、心霊治療とやらをやられますか?」
「いいえ......わたくしは違います」
唐突な質問に由紀はやや面食った。
「郁江君に聞かされていましたよ。お宅の教団の教祖の東丈という人は、凄い霊能というか超能力を持っているそうですな? 郁江君の手紙だと、彼女の体に奇蹟が起きたとか......病院から消えたのもそうだし、癌が完全に治ってしまったのもそうだと書いてありました。杉村さんも超能力者なんですか?」
「郁江さんは、そんなことを先生へお手紙に書きましたの?」
「入院中、話にも聞かされましたよ。〝GENKEN〟の素晴らしさをたっぷりとね......」
笛川は結局のところ、それほど不機嫌ではないようであった。
「そういえば、高校生教祖の話は何かで読んだことがある。東丈という教祖さんは、そんなに凄い力を持っているんですか、杉村さん?」
「ただ単に現象的な力のことを申し上げると、誤解が生じ易いものですから......東丈先生はたしかに偉大なお力をお持ちですけれども、いわゆる教祖ではございません。ご自分は宇宙の真実を告げる者であり、超常的な〝力〟は、その証明にすぎないといつもいわれています」
「郁江君もそれと同じようなことをいっていましたよ。とにかく彼は......彼はなんていっちゃいかんのかもしれんが、東丈氏は、進行性筋萎縮症の少年を完全に治してしまったそうですな?」
「先生はご自身の〝力〟で治された、とは決して申されません。人間はだれでも精神の裡に強大な宇宙エネルギーを秘めている。その存在に自覚すれば、いわゆる奇蹟は起きるだろう、とおっしゃっています」
杉村由紀はあくまでも慎重にいった。
「まるで、イエス・キリストの再来じゃないですか? 進行性筋萎縮症もそうだし、郁江君の癌もそうだ。卵巣から子宮、腹腔へ転移していることは確実で、手術を主張したのは私だけです。郁江君には他の癌患者にない精気があって、もしかしたら、と思ったもんですからね。しかし、癌を摘らずに治る見込みはまったくなかった。その点は、郁江君に生じた奇蹟を認めざるを得ないわけですよ......」
笛川は渋面になり、タバコを口にさしこんだ。自分の喋ったことが、気に食わないようだった。
「あなたは、〝GENKEN〟で何をなさっているんですか?」
「わたくしは、東丈先生の秘書を務めさせて頂いております。郁江さんもずっとお手伝いをしておられました」
「東丈先生か......」
笛川医師は眉をしかめてタバコの火口を見詰めていた。
「杉村さんは、板倉俊彦先生の秘書をされていたと聞きましたが」
「そんなことまで郁江さんは話したのでございますか?」
「元気のいい患者でね。自分が癌であることを知っていながら、少しも気にしていなかった。患者の癖に医者の私に向ってさかんにお説教を垂れるんですよ。医者が病人を治すなんていうのは傲慢な考え方だと説教された。医者と患者は、心のつながりが一番大切なんだと郁江君は主張した。私のようにいつも不機嫌な仏頂面で患者を恫喝するのはよくないといわれましたよ」
笛川医師は口のはたを曲げて苦笑いらしきものを浮かべた。
「人間の精神がどんなものか知っているかと尋かれました。医者の癖に人間の心のことはなにも知らないのかと軽蔑されてしまいましたよ。〝GENKEN〟へ行って東丈氏の話を聞くべし、というんです。もし本当の自分に目覚めたら、メスを握らなくても、私の顔を見ただけで、患者はみんな治ってしまうだろう、と郁江君にいわれましたよ。彼女のように面白い、ユニークな女の子には逢ったことがない......自分の生死など超えていた。癌の患者とはとうてい思えない、澄んだいい顔をしていましたよ。自分が癌で助からないと知っていながら、あんなに明るい顔をしているのが不思議でならなかった。だから、郁江君が突如、姿を消したのはショックでしたよ......」
笛川医師は、郁江の父親には見向きもせず、まっすぐ由紀に向って話した。通俗的な人間には興味がないということをあからさまにしていた。
「あれだけ素晴らしいことを話してくれた郁江君が病院を脱走して、自殺でも決行したのかと、ひどくがっかりしました......妙なものでね。転移した癌を抱えながら明るく陽気な郁江君を見ると、心が安まったんですよ。人間がここまで執着を脱して透明になれるとは素晴らしいことだと思った。ご存知ですか? 医者というものは、不治の病いに犯された病人とつきあうのが一番苦手なんです。自分の目の届く所で死なれるのが、まったく参る。心に穴があく感じがするものです。治しようのない癌の患者で、それが若くてきれいな、可愛い郁江君みたいな娘さんだと、これはもうだれか他人に押しつけてしまいたい。本当にかなわんのです......どうにもならない怒りと情けなさで、本当にやる瀬なくなってしまうんですよ。
だから、郁江君の明るい透明さは、救いでもあったんです。死に臨んでいながら、元気で快活で、しかも精気がある。なぜなのかと考えざるを得ませんでした。彼女の信じている宗教のせいなのか......東丈氏という教祖の力なのか。医学では人の心を救うなど、とうていできないが、その至難の業を易々とやり遂げる東丈氏の力とはなんなのか。私としても考えざるを得なかった。
杉村さんは有名な国際的学者の秘書を辞めて、東丈氏の下へ行かれたそうですが、やはり何かを見出されたわけですか?」
笛川医師は真剣に尋ねた。
「人間とは外見だけの存在ではない、裡に偉大な精神エネルギーを内在させている、巨大な〝力〟そのものだ、と東丈先生に教えていただきました。人間という物質的な容れ物は小さいけれども、内部には永遠不滅の宇宙エネルギーとつながる通路、〝神への道〟があると......人間の苦悩や悲しみは、人間自身の心が作りだす仮象のものだということも、先生にお逢いしてから知ったことです」
「郁江君のいう通り、ますますもって東丈氏は奇蹟の人、救世主そのものじゃないですか......郁江君の話だと、東丈氏は自分の持てる力、巨大な超能力を自ら封じているそうですが......超能力では人を救うことはできないということで?」
「それは、先生はいつもいっておられます。超能力とは、人々がその心の裡に根元的宇宙エネルギーとつながる通路を持つことの証明にすぎないとおっしゃっておられます。やみくもに超能力に囚われることは執着でしかないとも......ですから先生は人々の心を超能力で惑わせることを惧れて、超能力を封じておられるのだと思います」
「しかし、今度の郁江君の場合には、超能力が用いられたのじゃないですか? 郁江君の身に起こったことは、常識ではとうてい説明できない......」
「奇蹟としか申し上げようがございません。郁江さん自身にも何が起きたのか、よくわからないのではないでしょうか?」
あくまでも由紀は慎重さを崩さなかった。あらゆる意味で誤解は避けたかった。
「郁江君はテレポーテイションを行なったんじゃないですか? 病院を歩いて出て行ったのではない。だから、スリッパさえ穿いて行かなかった。病室から消えてしまったように見えたが、実はそれが正しかった。なぜテレポーテイションなんて言葉を知っているのかというんですか? 郁江君に入院中教わったんです。サイコキネシスとかテレパシー、ポストコグニション、クレヤヴォヤンスとか、いろいろ......郁江君は教師向きですよ。わずかの間に超心理学を講義してくれましたからね」
笛川はにやっと笑った。杉村由紀の驚いた顔が面白かったのであろう。
「郁江君は気がついた時は、奥吉野の大峰山脈のまっただ中にいたというじゃないですか? 彼女は人里はなれた山奥で、非常に驚くべき体験を持ったらしい。郁江君にいわせると、癌なんか治るのはあたり前ということになります。しかし、それは東丈氏の〝力〟ですか、それとも郁江君自身の内在された精神エネルギーのもたらした帰結ですか?
いずれにしろ、奇蹟には違いないが、郁江君自身の〝力〟なら、彼女は大変な超能力者だ。彼女は何百キロもテレポーテイションで飛び、真冬の雪の積もった山奥で寝巻のまま一晩明かし、おまけに癌を治してしまった。これはもう奇蹟の人といわざるを得ない。杉村さんはどうお考えですか?」
「人間にはそれだけの精神エネルギーが内在していても、少しも不思議はないと思います。でも、真実がどうであったのか、わたくしにはよくわかりません」
「郁江君の手紙にも、それははっきりと書かれていなかった......」
このお医者さんは、郁江が会いに来ないので機嫌をそこねているのではないか、と由紀は感じた。癌の治ったという郁江にいろいろ尋きたいことがあるのだろう。
「郁江君はいったいどんな奇蹟の体験をしたのか、是非知りたいですよ。東丈氏が超能力を振るって病院から攫ってくれなかったのが非常に不満だったと手紙に書いてあります」
そんなことまで郁江は医師への手紙に書いたのか、と啞然とする思いだった。
「彼女が大峰山脈の山奥でどんな神秘的体験をしたのか、是非知りたいですよ。郁江君が黙って姿を消してしまったのは勘弁するから、何があったのか話してくれ、と彼女に伝えてくれませんか?」
「わかりました。必ずそう申し伝えます」
この不機嫌な顔付をした、日本有数の優秀な外科医が意外なほど郁江を通じて〝GENKEN〟に、ひいては東丈に関心を抱いているのを知り、由紀は不思議な気分になった。もし郁江が入院しなければ、笛川医師の関心は生じなかったろう。これが〝縁〟というものなのだろうか。
「今月の中ごろに、東丈氏の講演会があるそうですね? 郁江君に是非一度聞きにくるように、といわれているんですが、私みたいな部外者でも講演を聞けますか?」
「それはもちろん......よろしければ御案内状をお送りさせていただきますけれども」
「それは是非ともお願いしたいですね」
笛川は顎を搔きながら、照れくさげにいった。
「できたら、東丈氏とお話しできますか? ちょっとでいいんですがね......少し東丈氏に質問などありましてね。郁江君が是非逢うべきだと主張するもんですから」
「それもお取りはからいできると思います。事務所に戻りましたら、さっそくスケジュールを調整いたしましてご連絡いたします」
「すみませんな。東丈氏は恐ろしく多忙だから、そのうちに折を見て、なんて郁江君にいなされていたんですがね」
笛川医師は初めて大きく笑った。
帰途、井沢は杉村由紀を車で送るといい張ってきかなかった。運転手つきの高級外車はあまりぞっとしなかったが、井沢とは多少話すべきこともあり、彼の勧めを受けることにした。
「郁江さんは大変な説得力をお持ちですのね」
と、高級外車の広い車室に、井沢と並んで座ってから由紀はいった。制服、制帽の運転手の耳が気になって、あまり立ち入ったことは話せない。
「笛川先生がご機嫌ななめだったのは、郁江さんが直接報告に来ないためだったんですね。わたくし、びっくりしました。郁江さんはすっかりあの先生の心を虜にしているんですもの」
「いや、驚きました」
井沢謙吉は口重げにいった。
「我が娘のことながら、あまりにも何も知らないことにびっくりしました。子供だとばかり思っていましたが、まるで別人のようです。知らぬ間に大きく成長してしまっている......」
「それも、この数か月の間に急激に成長なさったのではないでしょうか。お家の方では、今いかがですの?」
運転手の耳を意識して、由紀はやや曖昧な尋ね方をした。ぼやけた質問だが、井沢には通用した。
「娘が優しくなりましたのでね。以前は徹底的に厳しくて痛烈で、圧倒的でしたが、今はまったく違います。なんと申しますか、氷河期が去ったという感じでしょうかな......」
井沢は感慨に堪えないという面持であった。
「では、奥様も、もう......?」
「うちでは昔から郁江の方が精神的には大人で、優位に立っておりましたから......」
井沢のいい方はさっぱり要領を得ないが、幼稚なところのある母親も、娘が変ったので小康状態にあるということであろう。
「一度改めまして是非とも東丈先生にお礼を申し上げたいのですが、どこか席を設けましてお越し願うというわけには参りませんかな?」
井沢は頭の中でさんざん暖めていたことをやっと言葉にした。
「いや、郁江に聞かれますと、お父さんまた馬鹿なことをいって! と叱られそうなので、杉村さんに直接お願いしたわけですが......実は家内も過去のご無礼をお詫びしたいと申しておりますので......」
「お気持はよくわかります。いずれ、機会があれば、と思いますけれども......料理店とかそういった会席の場ではなくて、ご自宅で郁江さんの快気祝いのパーティーをおやりになれば、先生もお気軽に出かけられるのではないでしょうか?」
「なるほど! それはいい考えだ! それなら郁江にも叱られないですみそうです」
この高級官僚は、自分の娘の機嫌を取ることが何より重大事のようであった。
「よろしければ、そのパーティーにさっきの笛川先生もお呼びしてはいかがでしょう?」
「それはいいですな!」
井沢は一も二もなく賛成した。
「しかし、杉村さん。実を申しますと、郁江は我が娘ながら、少し近寄りがたいという感じになってしまいまして......じっと目を見られると気圧されてしまうほどです。こんなことを親の口から申し上げると妙なものですが......なにか神懸りでもしているのではないかと。神隠しにあったこともそうですし、こう何か高貴な神様でも娘に降りているのではないかという気がしてならないのですが......」
「それはお父様のお気のせいではございませんか? 郁江さんはとてもお元気ですし、変なところは少しもございません。もちろん、人間的に厚みや幅が出たということはいえますけれども」
「そうですか......どうも、娘が家に戻って以来、気のせいか神々しく見えましてね」
井沢は苦笑しながらいった。正月以来の神秘体験が郁江を多少は変えたとしても、由紀には郁江が神懸りの神秘性をまとっているとは思えない。むしろ、神秘性を強めだしたのは東丈本人である。丈に生じた変化に目を奪われているので、郁江のことまで気が廻らないのかもしれない。以前にも増して元気になり活発になったとしか感じていない。
井沢は娘の郁江を崇拝しているらしい、と由紀は思った。単なる溺愛ではないのだろう。〝神懸り〟と口にする時も、少しも厭そうではなかった。美しく神秘的な巫女として郁江を見、傾倒しているのかもしれなかった。
由紀の中には不透明なものがあり、郁江に対する反撥の芽生えがないとはいえなかった。郁江を競争相手として捉え、気色ばむものがあることを否定できなかった。それが嫉妬であることはわかっている。主人の寵を争う動物の本能じみたものが、由紀の心を不透明にさせ、息苦しくさせるのだった。
しかし、自分にこうした不透明さ、濁った部分がなければ、他人のそれも理解できないのかもしれない、と由紀は思った。だとすれば一概に否定すべきものではないといえるのではないか。
それは肉を持つ身、生き物としての生臭さ、汚濁、不浄さと等質の精神的な汚穢さなのかもしれなかった。
2
一九六八年は着実な速度で時間のハブの中に巻き取られて行った。東丈や杉村由紀たちにはそれがぞっとするほどの速さに感じられた。〝GENKEN〟は昨年にも優る活気に満ちて動き始めている。
一月半ばの講演会の準備がめざましい勢いで展開され、正月気分など吹き飛ばしてしまった。月末には、会員の希望者を集めて、セミナーが、土、日の両日にわたり箱根のホテルで開催される。そのための準備も併行して進められているのだった。
新設された青年部はその原動力となって、事務所にほとんど詰めきりの熱狂的ムードが盛り上っていた。学生が主力なので、ボランティアには事欠かないからだった。
会長の丈も、寸暇を割いて人々と逢い続けていた。一月八日は月曜日であり、高校の始業日だが、顔を出している余裕がまったくなかった。午前中から来客が詰めかけている有様である。
丈は平山圭子たち高校生は通学のため事務所から追い出すことにした。特に圭子は二月には大学入試がひかえており、本来ならば事務所に顔出しする余裕などないはずだった。丈や郁江にしても、入試まであと一年だ。
しかし、受験どころでないのは明らかであった。高校の授業に出席することさえままならない。このままだと、出席日数が足りず、留年となるのは目に見えている。
スケジュール表は恐ろしい稠密さで、予定がぎっしり詰まっている。とくに一月八日はK──社の編集者本田が、丈の〝幻魔の標的〟の版元となる出版社の人々を伴い訪ねてくることになっていた。事務所を空けるわけにはいかなかった。
丈は、前夜の日曜日からの続きで、執務室のデスクに向い、原稿を書いていた。機関誌が月刊となり、第三種郵便物の認可を受けたので、刊行を遅らすわけにいかない。刊行が遅れたり休刊になったりすると、せっかくの認可が取消されてしまうのだ。
秘書の杉村由紀たちは、丈にできるかぎり高校の授業に出席することを勧めていた。だが、丈はデスクにへばりついて離れない。前夜からろくに食事も摂っていないし、むろん眠ってもいない。由紀たちが見かねてパンや牛乳を買ってきたが、牛乳を喉に通しただけだった。
丈はもともと瘦身の体が更に肉を落して細くなっていたが、ことさらに病的でもなく弱々しくも見えなかった。身裡にたぎっている精気のためだ。細身の鋭利な刃物のようにこわいほどの迫力に満ちている。
ここ数日、事務所に詰めたきりで、入浴もせず、精々洗面する程度だが、なぜか丈は薄汚くならない。下着は替えて、髭も剃っているようだが、洗髪まではできないはずだ。それなのに、丈は端然として清冽でさえある。生物的な汚れが、丈の場合極度に稀薄になっているのかもしれなかった。
事務所の七階で雑魚寝し、風呂にも入らないで頑張っている大学生ボランティアたちが薄汚くなり、異臭をさえ放っているのと対比的であった。その間、丈は彼らを集めて何時間もミーティングを続けたりしているのだから、薄汚れてくるのに条件の大差はないはずなのである。
月曜日になって七階の髭面になった若者たちはひとまず帰宅し、清潔になってくることを命じられたが、命じた本人の丈は依然として一階の執務室で仕事を続けていた。
執務デスクに向い、熱心に書き物をしている姿は端然として美しく、とうてい高校生には見えない。
あまりにも迫力がありすぎる、と杉村由紀は思う。静謐で神秘的で、人を近寄せない冷厳さに満ちているとさえいえるほどである。
元旦の夜から四日の朝にかけて、丈に何があったのか杉村由紀は詳しく聞いていない。むしろ話してくれたのは井沢郁江である。しかし、大峰山脈の中で二人が遭遇し、丈に助けられて郁江は連れ帰られたというが、あまり明確な説明とはいえなかった。
郁江が噓をついたり、話を適当に端折ったりしている風でもない。ただ実際に起きたことを淡々と話しているだけだ。まさに奇蹟としかいいようがない。
しかし、丈自身はほとんど何も語らなかった。寡黙になり、しんと静まり返っている。だが、それは彼の自信の現われであるかもしれなかった。説明したり弁解したりする必要はないと考えているのかもしれないのである。
杉村由紀は一切表には出さなかったが、元旦の夜以来、異和感が胸郭の裡に居座ってしまっていた。丈との間にそこはかとなく距離感が生じてしまったようだった。裡に生じた不透明な異和感が嫉妬であることは感じている。わかっていても、どうにもならないことがあるのだった。
むろん、そんなものは無視してしまえる。さもなければ、馬鹿げた嫉妬の情に胸を咬まれるなど、自己嫌悪の対象以外の何物でもない。そう思っても、不透明感は心から振り払えなかった。ともすれば、寂寥が胸の裡に広がってしまう。
子供ではないから、丈に背を向けて拗ねたりする愚かな真似はもちろんできない。しかし、丈が自ら話してくれないという奇妙な隔意は意外でもあり、由紀を淋しい気持にさせるのに充分だった。何か理由でもあるのだろうと、強引に自分に思いこませようとする。しかし、心から払いのけようと努めるほどに、疑いは静電気を帯びたビニール片のようにへばりついてきて、いっかな離れようとはしなかった。
いっぱしの大人であるはずの自分が、こんなつまらぬ些事に拘泥していてどうする、と己れを叱りつけるのだが、効き目がない。理性はこんな際、少しも役に立ってくれないことがわかる。
自分の裡にひどく幼い、育ち切らない心が潜んでいて、それが丈によって不公正な仕打ちを受け、傷ついたと訴えて止まないのだった。成熟した大人としての由紀の理性とは咬み合わないギャップがあり、いかになだめても、決して承服しないのである。
それは、どうにもならない女の性のように思えて、由紀は正月以来、ひそかな鬱屈に囚われてすごしていた。
郁江のように率直に己れをさらけだし、不満を丈に訴えることがどうしてもできない。それは自制心でもあり、長年かけて造り出した心の殻でもあった。
そうした杉村由紀の鬱屈を感じているのかどうか、丈は沈黙を守り続けていた。何事も起きなかったという態度だ。
「そこにいるのか〝郁姫〟」
と、丈は執務室で書き物に専念しながら、いきなりいった。
「いるんだろう。隠れたってだめだ。ちゃんとわかってる」
「おんまえに......」
と、郁江は秘書室から姿を現わし、悪びれずにいった。
「学校へ行け、とあれほどいったろう」
丈は小言をいった。ペンを休めて、瞬きもせぬ黒い瞳で郁江を見たが、なんの効き目もなかった。郁江には通じないのである。〝応えない郁姫〟の面目躍如としている。
「東君が行かなければ、あたしも行かないのよ」
と、郁江はけろりとしていた。一度落ちた肉が完全には戻っていないが、きわめて健康そうであった。むしろ以前よりも澄んだきれいな膚をしている。ニキビなどどこにも見当らなくなってしまった。この年齢の少女のあぶらぎった生理的な濁りというものから、切り離されてしまったようであった。ぼってりした重苦しさがとれて、妖精のような感じが現われている。もともと抜群の美少女だったのだが、今は透明な感じの美しさに脱皮していた。
「杉村さんも来て下さい」
と、丈は呼んだ。由紀は伝票整理の手を休めて、執務室に入った。
「杉村さんからも、郁がいうことをきくように叱ってやって下さい」
丈はきびしい表情を装っていった。郁江は平然としている。顔色は新鮮な花のようであり、爽やかそのものだ。由紀は胸が締めつけられるような思いがした。丈は郁江を文字通り、死の深淵から奪還してきたのだ。これほど素晴らしく感動的なものはまたとないだろうが、やはり多少は嫉ましくもある。
「だって東君は、学校へ通うよりもここでの仕事を重要視しているでしょ? あたしもそうなんだもの」
と、郁江が抜けぬけという。〝GENKEN〟で、丈に対しこんな厚かましい態度をとる者は、郁江を措いて一人として存在しない。しかし、怒るに怒れないのが〝郁姫〟のゆえんであった。
「しかし、郁以外はみんな学校へ行ったんだろう? なんで郁はいうことをきかない?」
「では、お伺いしますが、東君はどうなさったのでしょうか? 確か高校二年生だったと記憶しておりますが」
「僕は、人と逢わなきゃならないからだ」
「東君は特別なのですか?」
「僕は別だ......仕事がある」
「あたくしも別なのでございます。東君は休学するんでしょ?」
「そういうわけでもない」
「あたくしは一年間、休学届を出しましたの」
と、郁江は気取っていった。
「そんな無茶なことを!」
丈は啞然として、郁江の澄ました顔を見詰めた。
「高校で勉強するよりも、大事なことが学べるという理由で、休学することにしたの。もちろん両親の承諾も取りましたからね。どこからも文句は出ません。それにあたしは一度死んだ人間だもの。今度の人生は目いっぱいがんばって生きたいの。これはもう他人にとやかくいわせない強力な理由になると思うんだけど、いかがでしょうか?」
「あいた口が塞らない」
と、丈はいった。
「両親が本当にOKしたのか? まさか脅かして無理にいうことをきかせたんじゃないだろうね?」
「脅すなんてとんでもありませんわ。ごく普通に、静かにお願いしただけですからね。噓だと思ったら、両親にお聞き下さいましな」
「ああ、聞いてみる」
郁江は丈の執務デスクの上の電話に手を伸ばした。送受器を取り上げ、外線ボタンを押した。
「今、父の役所に電話します。父が電話口に出ましたら、なんなりとお尋き下さい」
「わかったよ」
郁江がダイアルを廻し始めたので、丈は折れた。
「郁のいう通りなんだろう。電話しなくてもいいよ」
「信じていただけますのね?」
「そういうわけでもないが......」
郁江が再びダイアルを廻しかけるのを見て、丈は降参した。
「もういい。〝郁姫〟様にはだれもかなわない。なにしろ〝奇蹟の人〟だからな。好きなようにしてくれ」
丈はさじを投げるようにいった。
「〝郁姫様〟が無事にお帰りになったことをお祝いして、講演会の後、パーティーを開くことになりました」
と、杉村由紀はようやく口をはさんだ。
「わかってる。出席させてもらう。さもないと、郁姫が生還したのをあまり喜んでいないように思われるといけないからな」
「まあ、当分はあたしの天下よね」
と、郁江は元通りの若干無責任な調子に戻っていった。
「奇蹟の生還を遂げたとなると、だれも逆らわないわ。みんなが飽きるまでは精々威張り散らさなきゃ」
「しっかり監督して下さいよ、杉村さん。びしびし仕込んでやって下さい」
と、丈はいった。さすがの丈にしても、当分の間は、大目に見るしかないのであろう。郁江はまさに〝GENKEN〟に君臨しているといってさしつかえなかった。彼女が致命的な癌から甦ってきたことは、いつの間にか〝GENKEN〟中に知れ渡っていたのである。一同は畏怖の目で郁江を見た。死人が甦るのを見る目に似ていた。
「まず最初に乱暴な言葉遣いをしつけてやって下さい。もう高校生じゃないというんなら、人前できちんと話せないといけない。ボクなんていうのはやめてもらう」
「東君は本当に耳がいいんだから。地獄耳といいたいところだけど......このビルのどこにいても、喋ってることが聞こえちゃうみたいね」
郁江は首を縮めて舌を出しかけ、あわてて真顔に戻った。もうそのような少女っぽい仕草と縁を切ろうと決心しているようであった。
「正月に入ってから、なんだか事務所の波動が変り始めている」
丈は郁江の冷やかしは聞き流していった。
「杉村さんはそれを感じませんか?」
「さあ。波動が変ったといいますと......」
杉村由紀は首をかしげた。
「特に思いあたることもございませんけれど。とても活気づいていることは感じます。皆さん、去年以上に張切っていらっしゃるのですね」
「それくらいしか感じませんか? 杉村さんももう会のお客様じゃないんですから、もっと全体に気を配って下さい。必ず、波動に変化が生じていることに気がつくはずです。杉村さんは僕の秘書だけど、一階だけでなく七階全体もカバーしてもらいたいんです」
「はい......気がつきませんで、申しわけございません」
由紀は意外な丈のきびしさにひやっとした。注意を受けたのはこれが初めてである。由紀は叱られた、と感じていた。正月以前にはないことだった。明らかに丈はシビアーになっている。由紀に対しては特にそれが顕著のような気がする。
「変わったというと、どういうことなの?」
臆さぬ調子で郁江が質問する。
「新しい人たちが入って、物凄く活気づいてるでしょ? 空気がビンビンいってる感じ。まさか、そのことじゃないんでしょ?」
「違う。郁は暮れからずっと引きこもってたからわからないかもしれない」
「高鳥君という大学生が入って、だいぶ変ったというのは知ってるわ。高鳥グループというのができて、会をかき廻して、とうとう青年部が出来てしまったんでしょ?」
郁江は癌騒ぎで休んでいた間のブランクをすでに埋めてしまったらしい。
「郁は何か気づいたかい?」
「そうね。凄く元気がいいけど、なんか上っ調子だな、という気がする。空転してる勢いのよさね......お祭り騒ぎに夢中になって、地道なことを忘れかけてるというかな。なんかこう、けたたましいのね。高鳥君ってとっても遣り手みたいじゃない? 青年部の部長は内村君だけど、みんなは高鳥君をリーダーとして従っているみたい。内村君がなんだか一人でボソボソやってるのね。気の毒だった......もっとも内村君って、なにやっていても、ボソボソと一人でご飯を食べてるって感じなんだけどね」
「うまい表現だ、それは」
丈はちょっと笑いかけた。
「ああ、そうか、東君のいってる意味がわかったわ」
「わかったか?」
杉村由紀にはいっこうにぴんとくるものがなかった。胸がひやりと冷たくなる。
「つまり、みんなが青年部部長の内村君をちっとも立てないってことでしょ?」
「その通りだ。冴えてるぞ」
丈は嬉しそうにいった。
「みんなが内村君を浮きあがらせて、高鳥君をチヤホヤしている。それは間違っているわけね。だって、部長を内村君に指名したのは東君なんだから」
「ますます冴えてるな〝郁姫〟は。正月以来、冴えっぱなしだ。偉い。よく気がついた」
「つまり、七階には中心が二つ出来てしまっているのね。東君が部長に指名した内村君と、みんなが自然に持ち上げて部長扱いにしている高鳥君と......」
「実力の相違だから仕方がないと考えてる人たちもいる。内村君よりも高鳥君の方が適任だから、自然にみんなにかつがれてしまうのはやむを得ないと......郁はどう思う?」
「そうね。もっともらしく聞こえるけど、やっぱり間違ってると思う。だって、内村君は正式に指名された部長でしょ。だったら内村君を部長として立てて、協力するのが当然じゃないかな?」
「リーダーが内村君じゃ、ちっとも能率が上らないし、元気が出てこないという声もある。その点、高鳥君だと勢いづいて、どんどん作業がはかどるんだといってる人もいる」
「うーん......」
郁江は白い可愛い額に薄いシワを寄せて考えこんだ。
「なんだか変だな。そんないい方って。そりゃ、組織にリーダーシップや能率が必要だというのはわかるけど、それが目的になるのはおかしいでしょ? だって、〝GENKEN〟はいつも東君がいっているように、理想の組織を模索するためにあるんだから、既成の組織と同じようなことを目的にしたら、変なことになるわ。組織が能率よく活発に動いたとしても、それだけじゃしょうがないわよね。内村君に協力もしないで疎外して行って、中心を二つにしてしまったら、会は分裂の方向に向うものね」
「郁のいう通りだ。まったくその通りだ。ところが半月もブランクがあった郁にはそれがわかるのに、会のみんなにはわからなくなっているんだ。〝GENKEN〟が何のために作られたか、すっかり忘れてしまっている。リーダーシップの強力な高鳥君に闇雲に従って、能率アップで働けば働くほどすばらしいことだと思いこんでしまっている。今、郁がいうまで、だれ一人それを指摘した者はいないよ」
杉村由紀にとっては痛烈な笞に等しかった。丈のいう通りのことを、由紀自身考え、疑問すら持たなかったからだ。郁江の前でそれを指摘されたことは、更に痛い笞だった。郁江があっさりと看破することがなぜずっと年長の、しかも、遠感者の由紀に見抜けなかったのか。
「あたし、内村君にハッパかけたの。しっかりしなさいよ、あんたがリーダーなんでしょって。でも、彼自信がないのね。高鳥君にすっかり位負けして、かなわないんだと頭からきめこんでいるみたい」
「みんながそれに気がつかなきゃいけない」
「だけど、高鳥君って超能力者だし、それでみんなが一目置いちゃってるのね。ほんと、彼の超能力ってかなりのものみたい。もちろん東君の力に比べたら、子供の遊びだと高鳥君自身も認めてるけどさ。だけど、もう一も二もなく高鳥君がリーダーに自然発生的になってしまったのね。彼が〝GENKEN〟のナンバー・ツーだとだれもが認めているみたい。そのくせ、彼、まだ正式な会員じゃないんですってね」
「そうだ。まだ入会を認めていない......しかし、超能力なんか二の次だ、といくらいってもみんなにはわからないようだな。早い話、こういう本当に大事なことは、超能力があってもわかりゃしない。目先のことに目を奪われたり、固定観念に囚われていると、本質的なことがわからなくなってしまうんだ。人間にとって一番大切なことは、超能力には無関係だ。遠感能力があって、他人の心が読めたとしてもだめだ。本当に大切なことの価値基準は自分の心の中にしかないんだから」
杉村由紀は面を上げられない気分になってしまった。丈が自分に聞かせたいことを仮託して話していることは明らかであり、由紀の心と体は恥かしさのために熱く燃えた。
まったく丈のいう通りだ、と思った。自分としたことが、なぜそんなことに気付かなかったのだろう......
郁江が簡単に気付くようなことが、なぜ自分の目には視えなかったのだろう。
「あたし、高鳥君にいってやろうかな。内村君をもっと立てなさいよって......」
「それはまだしない方がいい」
「あら、どうして? いわないとみんな気付かないんじゃない?」
「そのうちにいやでも気付くだろう。もう少し様子を見よう。それより内村君がもっとしっかりしなくちゃいけない」
「それはそうだけど、彼は全然自信がないみたい。気が弱いので、みんなにはっきりというべきこともいえないのね。七階のだれかが内村君を助けてあげればいいのに、そんなことじゃ内村君がとってもやりづらいわよっていってあげる人がいるといいのよ」
「では、郁がいってくればいい」
「あたしがいってきてもいいの? 一階から先生の威光をかさに着たのが来たと思われそう」
「ほう、〝郁姫〟にもちゃんとわかってるじゃないか」
「東君はあたしがよっぽど鈍感だと思ってるのね。これでもセンシティヴなところもあるのよ......いいわよ、七階へ行って、内村君をチヤホヤしてくるから。でも内村君が自信過剰になっても、あたしのせいだといわないでね」
なんと二人は楽しげに話していることか、と由紀は息をひそめるような気分で思わずにいられなかった。丈にとり、郁江は明らかに特別の存在であった。魔性の悪竜と戦ってかちえた騎士の賞品──それが美姫である郁江なのだ。
郁江に向ける丈の顔はやわらかい光でやわらげられているように、由紀には思えた。丈は郁江の全てを許容するという寛大さを見せている。郁江がただ一人、東君呼ばわりで友達づきあいすることを許し、その友達づきあいから生じる、我儘や横柄さ(と由紀には感じられる)を全て許容している。郁江がきわめて率直で正直であり、憎めない性格の持主であることを、由紀も認めないではないのだが、郁江の振舞いは闊達という許容度を超えており、これでは他のものにしめしがつかないと感じてしまうのだった。
丈が郁江を特別扱いするのは自由だが、会の内部に要らぬ波乱を起こすもとではないかと思う。丈が〝お気に入り〟を持てば、嫉妬や迎合から生じる反目が生じないはずはない。〝GENKEN〟中で、郁江は現に特別の位置を占め、迎合や追従を集める、第二の権力者になりつつあるのだ。郁江は丈の側近であり、彼女自身意識しなくとも、大きな影響力を有している。
丈はその弊害に気がついているのだろうか、と由紀は疑う。冗談のように郁江自身、〝虎の威を借る狐〟という意味のことをいっているが、決して冗談事ではないということだ。
丈と郁江の結びつきは、過度の密着を想わせて、決して見よいものではない。久保陽子という女の子は二人の間に激しく嫉妬して会を離れ、幻魔の手にかかったと聞いているが、ある意味で無理もなかったといえるのではないか、と由紀はひそかな思考をめぐらした。
特殊な指導者の立場にある丈は、決して安易な姿勢を示すべきではないはずである。もっときびしく身を処すことを要求されているはずなのだ......
「どう思いますか、杉村さん?」
と、丈がいきなり物思いに耽っている由紀に尋ねた。不意打ちを食ったほどのショックだった。
「はい......おっしゃる通りだと思います」
由紀は辛うじて取りつくろった。丈の黒い瞳が正視できない思いであった。丈に考えを読み取られてしまったように感じていた。
「やはり、父親をちゃんとたてない家庭は、家族がバラバラになってしまうようですから......」
と、由紀はなんとか論理的なつながりを保つことができた。
「杉村さんのいう通りです。郁のいうことも間違ってない。結局、他人をきちんとたてることを知らない人間はなんにもできないということなんだ。杉村さんも時には七階へ出かけて、青年部の子供たちに教えてやって下さい。多忙でしょうから、しょっ中とはいわないけれども、時折でけっこうです。やはり大人は経験が深いし、肌身で人生を知ってますからね。子供はどうしても、頭でっかちになります。人生の経験だけは、いろいろ苦労してじっくり対価を払いこんできたわけで、子供には一足飛びに自分のものにできません。
杉村さんも、この一階の秘書室だけが自分の領分だと思いこまないで、七階の若い人たちにもできるだけ話してやって下さい。お願いします」
「わかりました。そのように努力いたします」
由紀は答えながら、丈が七階で何が起きることを期待しているのか、考えずにはいられなかった。
由紀は高鳥の優秀さ有能さを高く評価しているが、丈はまったく違うらしい。郁江との対話を聞かせることで、さりげなく由紀に悟らせようと計ったようである。
丈が自分に何を求めているのか、不意に見失ったように感じて、由紀は苦しくなってきた。そんなことはありえない、と理性では否定するのだが、丈と郁江が二人がかりで自分の不明を指摘し、とがめているような気がしてくる。そのために、二人で故意に芝居をしているようだ。
強迫観念の一種に違いない、と由紀は必死に否定した。いつの間にかこんな被害者意識が心に忍びこんできたのか、さっぱりわからない。丈は皮肉や厭味を口にする姑息な性格ではないはずだ。
しかし、丈は元旦の夜から四日の朝まで、何があったのか由紀に直接話そうとしない。郁江を捜し出して連れ帰ったとだけ、簡潔に告げただけだ。〝奇蹟〟が生じたことは、郁江の口から聞いたのだ。
これだけ重大なことを、秘書の自分になぜ話してくれないのか......それは自分が軽んぜられているせいではないか、とつい思ってしまうのである。いつの間にか丈にとって自分は比重を軽くしてしまっている......いや、そうではなくて、最初から丈にしてみれば、秘書などとるに足りない存在なのかもしれない。丈には三千子という姉さえいれば事足りるのではないか......
考えこむほどに、思惟は暴走を始める。妄想に近い勘繰りが出てきて、由紀を慄然とさせるのだった。自分らしくもないと自らを叱りつけるが、拘泥わりが除けない。
丈の態度が不可解であるということから、さいげんもなく猜疑心が黒雲となって湧出してくるのだった。
由紀はこれまで自分を冷静であり、常に自己分析を怠っていないと信じてきたが、まったくそれが過信であり、頼りにならないことを発見した。わけもなく泪が出そうになり、一度そうなればとめどもなく自己憐愍に溺れそうな気がするのである。
「七階に行って、内村君に話してきてくれないか」
と、丈が郁江に頼んでいた。
「いいわよ。もっと自信を持ちなさいってことをいえばいいんでしょ?」
「そこをうまくいってくれ。郁姫に上手に褒められれば、内村君もがぜん自信が出てくるんじゃないかと思うんだ」
「今すぐに?」
「そうだ、早い方がいい。頼むよ」
「では、さっそく」
郁江は身軽に立上った。動作が若々しく魅力的だ。奇蹟の生還と本人がいう通りだった。
いってきます、といってあっという間に執務室を出て行ってしまう。
「凄い張切り方でしょう?」
と、丈がいった。誇らしげでもあった。
「ええ、本当に。奇蹟という以外にありませんわね」
「奇蹟なんです。僕にも他にいいようがない。他人に説明できず困ってしまいます。郁江の身に何が起こったのか、ずっと考えてきたんだけど、どうしても説明がつかない」
「............」
由紀はとっさに言葉が出ずに身を固くした。丈に見抜かれたのではないか、と恐ろしくなったのだ。
「郁江の力なのか、僕の力なのか、それもはっきりしない。神の力だとか、そんないい方になるのかもしれません。とにかく僕は祈った。あれほどエネルギーを集中して祈ったことは一度もありません。そして、奇蹟は起きた。すると、祈りの力だということになるんでしょうか。
僕は郁江を助けてほしい、とそれだけをしゃにむに祈ったんです。僕自身の〝力〟を使おうとか働かしてなんとかしようとは、まったく考えなかった......でも、祈りながらこう考えていた。もしこれまでの自分の遣り方が間違っていたのなら、郁江は死ぬだろう。もし、間違いではなかったら、郁江は死の淵から甦ってくるだろう。どうか解答を与えてほしい。僕の行くべき道を啓示して下さい......僕は夢中で宇宙意識フロイに祈ったんです」
「そして、解答は与えられた......そういうわけですわね」
由紀は痺れたような口を動かして必死に言葉をつむぎだした。
「先生の行くべき道は提示された......」
焼けつくような感動が襲ってきて、由紀は必死に泪をこらえようとした。
「そのことを、杉村さんにどうやって話そうかとずいぶん考えました。人に話せば、神懸りになったと誤解されそうな気がして、杉村さんにもなかなか話せなかった......」
底が抜けるような安堵とともに大きな歓喜、そして慚愧が一時にこみあげてきて、由紀はどうしていいかわからなくなった。自分の狭量さ、丈を疑った愚かさが情けなかった。
「だけど、やっぱりこれでいいんだ、としだいに胸落ちしてきたんです。僕のやっていることは間違っていない。宇宙意識フロイが支持してくれている。郁江に生じた奇蹟は、その解答だ......それがやっと納得できたんです。今年は、杉村さん、僕は思い切ってやりますよ! これまでいつもグラグラしていた心がやっと落着きました。これを不動心というのかな......」
丈は少しはにかんだように笑った。
「まだ姉にもいっていないんです。今、やっと納得がいったので、真先に杉村さんにいいました。僕がむっつりと考えこんでいるので、どうしたのかと心配してくれていたんじゃないですか?」
「はい......」
体が暖いもので溢れ、融けていくようだった。とうてい丈と視線を合わせていられない。もう二度と丈を疑ったりすまいと心に誓っていた。郁江に対して嫉妬している自分がはっきりと視えた。あまりにも情なくみすぼらしい自分だった。
「とにかく、それを杉村さんに真先に告げたかった。いろいろあるかもしれないけど、お願いします。辛いでしょうが、僕についてきて下さい」
「はい......」
顔が上げられなかった。幸福感が心に溢れて、官能的な歓びに身をくねらせたいような奇妙な衝動を覚えた。それは熱愛する主人の賞讃を受けた犬が感じるようなものであり、自分は前世で丈の愛犬だったのではないかと由紀にふと想わせるような、センシュアルな体験であった。
「本田さんたちが見えるまでに、もう少し書き物に精を出します。電話はつながないで下さい」
と、丈がいっていた。由紀は夢見心地で頷き、執務室を出た。足が宙に浮いている感じがした。自分がどんなに愚かであるかを認識しても、不思議に自己嫌悪はなかった。浮揚するような強い幸福感だけがあった。
3
午後一番に、本田は、光年社の編集長らをともなって、一階の執務室に姿を見せた。
背の高い精悍な編集長と針のように瘦せた部下の二人を、本田は丈に引き合わせた。
「いや、今度のことでは、大変喜んでもらえまして......」
と、訥弁の本田は言葉を絞りだすのに苦労していた。
「私も鼻が高いです......本当はこちらの光年社ではなく、ウチで出したいんですけども、やはりタイミングというものもあるでしょうし、いろいろ揉んでいて、時機を逸するようなことがあっては、と思ったものですから、非常に残念な気持を抑えまして......」
「本田さんのおかげです。とんでもない大魚が飛びこんできたという気持がしています」
と、精悍な編集長の池内がいった。アメリカ・インディアンの戦士の風貌を想わせる人物である。
「正直に申し上げますと、最初本田さんにお話をお聞きした時、どうかな、大丈夫かな、という懸念、危惧がありました。本田さんの言葉を疑うわけではないのですが、先生の十七歳という年齢にひっかかってしまいまして......しかし、お原稿を拝見して、自分の不明にすぐ気がつきました。本田さんがウチで是非出したいといっておられるのは当然です。そして、愛社心や編集者としての欲や野心を超えて、先生のお原稿を私どもに出版する機会を与えて下さった本田さんに、心から感謝と尊敬を惜しみません。本当に、本田さん、どうもありがとうございました」
池内は、本田に向き直り深々と頭を下げた。お伴の瘦せた編集者小浜があわてて自分も一礼する。
「私、お原稿を拝見して目を洗われる心地がいたしました。この本は世界の運命を変える本だと確信いたします。私ども光年社で出させていただけるなら、まさに編集者冥利、出版社冥利に尽きます。東先生、私どもにおまかせ願えますでしょうか?」
「本田さんに申し上げた通り、この本がもっともいい時期にもっともふさわしい形で出版されることになったことを、私も大変喜んでおります」
と、丈は淡々といった。はるか年長の男たちに囲まれて、丈の存在感はむしろ増してきていた。波動の強さがまったく異るのだ。ほっそりした小柄な少年の丈が、世慣れた大人たちの中で気圧されるどころか、逆に圧している。太陽の光芒の中で星が精彩を失くすのに似ている。
「ありがとうございます」
池内は欣然としていった。
「ご承諾いただきまして、本当に嬉しく思います。先生から直接OKを頂戴しませんと、甚だ不安でして......本田さんの気が変ってやっぱりあれはウチで出すなんていいだされるのじゃないかとビクビクしておりまして」
一同が笑う。
「まあ、そういう可能性もないわけではないので、池内君に急いでもらったわけです」
本田は笑いながらいった。まんざら噓でもなさそうだった。
「無理しても、よっぽどウチで出そうかと、......しかし、時機を逸しては先生に申しわけないので、結局涙を吞みました」
「さっそくで恐れ入りますが......いやまだ本田さんの変心が心配なので、急がせていただきますが、出版時期は四月初め、体裁はB6判ハードカバー、初刷りは三万部ということで、ご了承願えましょうか? もしご希望でしたら、印税は前渡し金としてさっそくお支払いするようにさせていただきますが......」
「この場合は、そんなものでしょうな」
と、本田がいった。
「ウチで出せば、初版は六千というところでしょう。頭の固いお偉方を説得するのに成功してですが......しかし、この本は必ず大反響を呼びますよ。それは絶対に間違いありません」
「一つだけ除いて、異存はありません」
と、丈はいった。
「出版時期ですが、もっと早くしていただきたいのです。三月初めに書店に並ぶようにできませんか?」
「うーん、それは今からですと、ちょっと......四月初めというのも大急ぎでやってなんとか間に合うという状態ですから......」
「三月初めに出しなさいよ。光年社ならできるじゃないですか」
と、本田がいってくれた。
「全力挙げればできますよ。この本はそれだけの価値があります。先生がおっしゃるなら無理でもやるだけの価値はありますよ」
「本田さんにそういわれると、弱いですな」
池内は精悍な顔に苦笑いを浮かべた。
「前にも二か月で出したことがあるじゃないですか? 頑張って今度もやって下さいよ」
「しかし、きびしいな......」
「お願いします。どうしても三月初めに出していただきたいんです」
と、丈はいった。池内は真剣な表情になり、丈を見詰めた。
「わかりました。先生がそこまでおっしゃるのなら、やらせていただきます。今から大車輪でやって、なんとか間に合わせます」
丈は無言で頭を下げた。
「やあ、よかった。本当によかったですよ」
と、本田がいった。
「池内君が一度引受けたからには、なにがなんでもやり遂げるはずです。その点、安心されて大丈夫です」
「大変なことになってしまった......」
「しかし、地球や人類の運命がかかっていると思えば、これくらい楽な仕事じゃないですか」
「とんでもない。責任重大です。この本が地球の運命をあずかっていると思うと、夜も眠れませんよ」
丈は言葉少なに黙っていた。その寡黙さが、杉村由紀の見る丈の新しい面であった。やはり自信が備わってきたのかもしれない。
あわてて、なにかコメントしなければならないという焦りが今の丈にはない。昨年まではそうした気の弱さ、サーヴィス精神が色濃く感じられた。なんとか喋って場をもたせなければ、という気分が吹っ切れてしまったのだろう。重厚に沈黙していられるのは、やはり自信の表われである。おどおどと人に気を遣う必要はない、と悟ったようだ。
「それで結構です」
と、丈はぽつりといったきり、沈黙している。
「ご連絡は、この小浜がいたします。いろいろ細いことをご相談したり、お願いしたりすることになるかと思いますが、よろしく」
と、インディアン戦士のような池内がいい、小浜がぺこりと頭を下げた。
「なにかありましたら、秘書の杉村さんにいって下さい」
丈は小浜に向っていった。小浜は意外そうな目で丈を見る。
「杉村さんになにもかもまかせてありますから。本田さんも何かありましたら、コンサルタントをお願いできますか?」
「それはもう、私にできることなら、なんでもお手伝いさせていただきます。小浜君、なにかわからないことがあったら、相談に乗りますから」
本田はわかりがよかった。丈がすでに本に関りあっている時間的余裕がないということをすみやかに理解していた。丈の関心はもはや本をはなれている。
「杉村さんは板倉俊彦先生の秘書をなさっていたんです。だから、出版についてはよく心得ていますから」
と、本田は光年社の編集者たちに杉村由紀を紹介した。
「東先生に秘書がいるというのは伊達ではないんですよ。最高の秘書さんです」
「板倉先生には何度かお世話になりました。その時、電話でお話しした秘書の方が杉村さんだったわけですね」
池内は驚きの目で由紀を見ていた。
「はい。わたくしも記憶しております。今回もよろしくお願いいたします。先生が非常にご多忙なものですから、わたくしが多く代理を務めさせて頂くと思いますが、至らぬ点はお許し下さい......」
池内はともかく、小浜はなにやら不満そうな面持であった。丈が秘書の杉村由紀に本をまかせてしまうというのが釈然としなかったのであろう。全くの素人が初めて本を書いたのに不遜だと思っているのかもしれなかった。
その点、池内は、本田と親しい間柄であり、かねがね丈の話を聞かされて、最初から崇敬の態度を隠そうとしなかった。
「東先生、お原稿を読んで本当にショックだったのですが、幻魔大戦はもう始まっているという......」
と、池内が質問した。恐るおそるという態度であった。
「始まっています。多くの人々はまだ気付いていませんが、もう始まっているし、どんどん拡大してきています。今年は沢山の異変が続々と起こって、だれもがいやでも気付かざるを得なくなります。ですから早く人々の心構えが必要なんです。本を出版するのを急ぐのはそのためです」
「先生は、悪魔も幻魔の一部だとお書きになっていますが、読者は、幻魔というものは悪魔のことかと思うのじゃないかという気がしますが......」
と、小浜が無感情な声音でいった。
「つまり、幻魔とは悪魔のいい替えにすぎないのではないか、と読者は考えるんじゃないですか?」

「そんなことはないと思います。本の中で幻魔と悪魔の相違ははっきり指摘してあります。よほどうっかりした読者でない限り、悪魔のイメージで幻魔が律しきれないことはわかるはずです」
丈はきっぱりといった。
「しかし、読者は、なんだ、悪魔のことか、と思って、あまり真面目に読まなくなるんじゃないでしょうかね? 悪魔はサカトゲの生えた尻尾や大きなフォークを持っていたりして、ふざけたおとぎ話のイメージがありますから。悪魔というのはできるだけ控えた方がいいと私は思うんですが」
「人類の間には民族を問わず魔性の伝承があります。決して悪魔は滑稽な幻想的なイメージだけではありません。それはあなたの誤解です。魔性の存在が、宇宙の巨悪である幻魔といかなる関りを持ち、機能性を付与されているかを証明するのが、この〝幻魔の標的〟の大きな目的の一つです。あなたのお考えは、失礼ですが的はずれです」
杉村由紀は丈がこれほどの自信を持ち、相手が大人であることを気にも留めず振舞うのを初めて見た。正月以来の丈に表われた変化であった。ともかく、波動の強い自信が放射されている。
「しかし、悪魔というのはどうも非合理的だし、幻想的すぎて、よくないと思うんですがね。読者は非常にいかがわしい本だと誤解するんじゃないでしょうか。真面目に先生の本を読者は読まなくなると思うんですが」
小浜は三十近い編集者であり、針のような瘦身にもかかわらず、頑固であった。由紀には頑迷とすら思えた。まるで丈のいうことがわかっていない。
「失礼ですが、あなたはこの原稿を読まれましたか?」
と、丈が率直に尋く。
「もちろん、読ませていただきました。仕事ですから、正月を返上しまして......」
「小浜さん。あなたはこの本に書かれたことを、少しも信じていらっしゃらないのでしょう? 馬鹿げた他愛ない空想物語と思っていらっしゃる」
由紀ははっとした。丈はかつてない鋭気を見せていた。仲間内では時にはあったが、外部の者には決して示さなかった圧力をかけている。相手の心を読みとり、明らかにしながら追い詰めて行く、仮借ない論客の態度であった。
「そんなことありません。何度もくり返して拝見しましたから。ただ常識と背反する事が沢山書かれているので、苦労はしました。なかんずく悪魔というのにひっかかってしまったものですから、申し上げたんです。やはり読者もひっかかるだろうと思います」
「何度お読みになりましたか?」
「三度、四度、くり返して読みました」
「飛ばし読みで、それも一回だけではなかったのですか?」
「とんでもない! なんで、そんなことを......」
小浜は顔色を変えた。ただでさえ悪い顔色が灰色と化した。
「この原稿がそういっているんです。小浜さんは一度しか手を触れていない、と。池内さんは五回以上お読みになっています。それもわかります。そうですね?」
「八回読ませていただきました。多少手擦れしてしまいましたが......よくおわかりですね、東先生」
と、池内は精悍な顔に妙な表情を浮べ、うろたえている小浜を見た。
「手を触れただけでわかるのです。小浜さんは一度だけとばし読みに読まれただけで、それも途中幾度もほうり出しています。こんな気違いじみた神懸り的なものはかなわないと思われたのでしょう。最初に原稿を開いてみて、悪魔という言葉が目に触れただけで、ほうり出したんです。だから、ろくに読まれていません。私にはそれがわかってしまうんです」
「しかし、それは......」
小浜は抗弁しようとし、丈の黒い瞳に触れて力なく視線を落した。あくまでもいい張る意欲が急に失せてしまったようであった。
「最初から非科学的、非合理的、妄想、迷信、そうきめつけておいでだったのでしょう。それでは読む気にならぬことは当然です。仕事なので、やむなく飛ばし読みした。それはともかく、読みもしないものに論評を加えるのは、偉い評論家先生もやっておられるとはいえ、つつしむべきことではありませんか、小浜さん。あなたは神も悪魔も信じないと常々公言していらっしゃる。超自然現象などあるはずはない、と。だから、私の書いたものなど仕事とはいえ読む気になれない。どうせ多少頭のおかしい霊能少年の書きなぐった駄文だと何人かの人に漏らされている。あなたが超能力も信じず、目に見えないもの手で触れられないもの非物質的なものはすべて否定される方だということはわかっています。しかし、この本は、そういう人たちに気付いてもらいたい本なんです。頑迷な既成概念の殻を破ってもらうことを目的にして書かれた本なのです。いかが思われますか、小浜さん?」
「小浜君......」
と、上司の池内が気色ばんでいいかける。丈は手をあげてそれを制した。
「小浜さん。私はあなたに恥をかかせるためにこのようなことを申し上げたのではありません。あなたが超常現象や超能力についてとっている態度は、かなり一般的なもので、別に異とするに足りないものと思います。事実、この本を読んで、あなたと同じ態度をとる読者は少くないでしょう。しかし、この本にはそうした誤解や偏見を打ち破る力が内在している、と私は信じています。
もちろん、そうした偏見を持った人々がまともにこの本を読むことを期待するのは困難があると思います。しかし、なんとかしてそうした人々が心に築いている偏見のバリヤーを貫き通す力はないものか、と考えています。つまり、小浜さんがそうしたように、頭から馬鹿にし、冷笑を浮かべながら、拒絶的態度で飛ばし読みし、途中でほうり投げてしまう......それはつまり、その人たちが心に築いている偏見を崩されたくない、超常現象などが割りこんでくる余地のない、この現実に安住したいという保守性であって、だからこそ、自分の世界が引っくり返り崩壊してしまうことを恐れ、最初から拒否的態度に終始するわけです。この保守性を突破するのは容易なことではないはずです。
小浜さんが考えられたように、ちょっとおかしい霊能少年の書いた馬鹿ばかしい本、ときめつけてしまい、まじめに読む気のない読者たちをどうしたらいいか......それを小浜さんに考えていただきたいんです」
小浜は気圧されて、最初は丈と目を合わせることもできずうつむいていたが、しまいには意外なことを聞くという表情で丈に目を向けていた。
「小浜さんが、ご自分を説得し、まじめにこの本を読ませるためにはどうすればいいか、担当編集者として、考えて下さいませんか」
と、丈は繰返すようにいった。小浜があまりにも面食った顔をしているからだった。
「すると、私が、この御本の担当を......?」
急におどおどして、ちらりと上司の池内を見る。池内はむずかしい顔で小浜を見詰めていた。
「もちろん、そうです。小浜さんこそうってつけだと思います」
「彼は自分がもう担当をはずされたと思っていたんですよ」
と、池内がいった。
「これだけ心の中をお見通しでは、いかになんでも、顔向けできんからでしょう」
「申しわけありません」
小浜は頭をさげた。観念したようだった。
「参りました。ぐうの音も出ません......これだけ完全に心を読まれ、見透かされては、弁解もできません。先生を疑っていた私が馬鹿でした。どうか勘弁して下さい」
「彼が一言もないというのは、よくよくの場合ですよ。なにしろ一言居士で、頑固なことは天下一品ですから」
池内は多少、顔色をやわらげた。
「先生の前ではマナイタの上の鯉になるしかありません。たぶん弁解すればするほどボロが出て、更にそれを見透かされてしまいますから......先生は手に取るように人間の心がおわかりなのですか? テレパシーとかいう超能力ですか?」
「ただわかってしまうだけです。私は超能力はほとんど自分からは使いません。しかし、必要な時には、わかってしまうんです。もちろん、テレパシーで人の心を読もうとすれば、できないこともないでしょうが......しかし、許可もなくテレパシーで他人の心を読むのは、盗聴のようで、気分のいいものではありません。今、私が自分の超能力を使って小浜さんの心を読んだとお考えなら、それは間違いです」
「ははあ......ただ自然にわかってしまうんですか?」
小浜は不思議そうに呟いた。
「それは超能力ではないんですか?」
「人と人の心は大本のところで全部つながっています。だから、小浜さんの考えが自分のことのようにわかるのだと思います。つまりその大本というのが意識の海のような、宇宙意識です。個々の人々の意識は、潜在意識の根元で全てつながりあっています。それはちょうど全ての河が海に注ぎ、蒸発した水が更に雨となって海から河へと還流するのに似ています」
「それは、原稿にちゃんと書いてある」
と、本田が口をはさんだ。
「つまり、東先生の意識は、宇宙意識のレベルに達しているからですよ。だから、小浜君の心なんか己が手を見るよりも簡単なんですよ。テレパシーというのは、もっと物質的で技術的なものなんだ。いってみれば盗聴器を仕掛け、耳を澄まし心を凝らして聞き取ろうとするようなものでね......原稿をきちんと読めば、小浜君にもわかるよ」
「つまり、先生はご自分の心が考えるように、小浜君の考えていることがストレートにわかるってことだ。急いでお原稿を最低十回は読み返すこと。これは業務命令だ」
と、冗談にまぎらわしてはいるが、裡にきびしいものを潜めて、池内がいい渡した。
「わかりました。さっそくそうします」
小浜はいさぎよく頭をさげた。最初とはまるで態度が一変していた。冷笑的な波動が消えてしまっている。
丈が意図的にやってのけたなら、たいへんなものだ、と杉村由紀は舌を巻く思いだった。頑固な不信と敵意を潜めていた年長の編集者が別人のように素直になってきている。
「先生、妙なことをお伺いしますが、先生には人類のだれの心でもそっくりわかってしまうことになりますね」
と、小浜が尋ねた。
「早い話、アメリカ大統領の心でも、ソ連首相の心でも、我がことのように......」
「自分から求めてわかろうとするわけではありませんから。必要ならば、わかってしまうこともありえます」
「その、必要というのは、だれが認めた時なんですか? 先生ご自身ですか?」
「私自身ではありません。それが物質的性格を持ったテレパシーとの相違です。テレパシーは技術的に操作し、私自身の意志によって働きます。しかし、この場合は私の潜在意識とつながっている宇宙意識の意志ではないかと思います。私個人よりも、はるかに巨大で精密な意識です。それは、おそらくなんでも知っているという存在です」
「すると、それは神ですか......? 世をしろしめす神?」
「私は宇宙意識と呼んでいます。神とはもっと巨大な宇宙全体をカヴァーする巨大な意識体で、造物主のことでしょう。私とつながりを持ち、啓示を与えてくれる宇宙意識は恐ろしく巨大で高次元存在ですが、自らは神ではないと告げています」
「先生は、その宇宙意識と話をしたことがありますか?」
小浜はすっかり魅せられたようになり、たて続けに質問を浴びせる。
「時には啓示を受けます。宇宙意識は時間空間を超越する存在なので、未来、現在、過去を同時に見通し、的確な判断を下します。人間のように物質に心を縛られていないので、判断を誤ることはないようです」
「すると先生は、神のようにかしこい宇宙意識の命ずるままに動かれるわけですか?」
「宇宙意識は、ああしろこうしろと命令したりはしませんよ。それは人間世界の考え方です。支配者が被支配者に命令し従わせるという図式とはまったく異ります。もし、私が素晴らしい判断を下した場合は、たぶん宇宙意識の判断を受け容れているのです。もし、まずい、間違った判断の場合は、狭い了見に捉われていたからそうなったので、自分自身の判断といえるでしょう」
「でも、それだとまるで人間は宇宙意識の操り人形かロボットのようですが」
「全ての人間が宇宙意識の操り人形なら、世界は平和で美しく調和しており、醜い争いや戦争はありませんよ。人間には自由意志が与えられているからです。己れ自身の意志で摑み取った愛や自由、平和こそ本物です。人間は肉体を持っていても、本質は偉大な宇宙エネルギーです。この肉体という精神を制約する殻を持ちながら、己れの本質を知り、本質に近づこうとするのが人間です。
宇宙意識と魂で交感し、偉大な宇宙の調和に参加することが、肉を持った人間にも許されています。大いなる意志に添って私も生きようとしているだけです。そのことは今度の本にも書きました。しかし、現代人が心に築いてしまった強固な既成概念のバリヤーを打ち崩さない限り、私のなそうとしていることは大きな障害によってさえぎられるでしょう。この本にはバリヤーを崩す破砕槌になってもらいたいのです。この本はそれだけ大きな任務を担っているのです」
「先生のおっしゃることは、なんとなくわかります。全部というわけじゃありませんが......一つ、気がかりなことがあるのですが、もし先生が必要ならば、どんな人間の心でも奥底まで見抜いてしまうということが知れれば、敵が出来るんじゃないですか? だれだって自分の心は人に見られたくない。汚れちまってますからね。もし、どうしても秘密を守らなければならない人間が大きな権力を所有していれば、先生は命の危険にさらされることになります。イエスみたいに殺されることだってありうるんじゃないですか?」
「おっしゃる通りです。幻魔は現実に私を滅ぼしにかかっていますし、この先幾度でも、抹殺を試みるでしょう。それを恐れていては何一つ出来ません。数限りない困難が前途に待っていても、私は前進しなければならないし、決して前進を止めることはしません。逃げ道は最初からないんです。
幻魔の力は、それを信じようと信じまいとにかかわらず現実のものです。巨大な天変地異や戦争が続発してくれば、いかなる人間も無関係な場にはいられませんし、自分は幻魔の存在など信じない、と否定してもむだなことです。幻魔の侵攻から逃れられる人間はだれ一人いません。自分は無関係だ、知っちゃいないと思うことが、どんなに大きな間違いであるか、人類の一人一人が知らなければならないんです」
「幻魔というのは、地球の悪魔なんか問題にならないほど強いらしいですが、先生は怖くないんですか?」
小浜は真剣な顔付で尋ねた。
「怖いと思うことも時にはあります。しかし、怖がるのは幻魔を喜ばせるだけですから......」
「先生は正直なんですね......」
小浜は感心していった。
「先生は幻魔に負けないような巨大な力をお持ちだそうですが、それでもやっぱり怖いですか?」
「自分に弱い心が出てくることが怖いのです。幻魔のために人々がひどい目にあわされるのを見ることが怖いんです。そして恐怖を心から振り払うことはなかなかできません。自分が苦しい目にあうのは覚悟していますし、使命遂行の途次、死ぬこともあるいは避けられないかもしれません。しかし、みんなのことが心配です。
小浜さんもご家族や親しい人々がおありでしょう。もしこの瞬間、核戦争が起きたらどうなさいますか? ご自分のことよりも、ご家族の安否が心配でたまらないのではないでしょうか? 私もそれと同じなんです」
「なるほど......わかりました......」
小浜は吐息をついた。身じろぎして、分厚いメガネを細い鼻梁に押し上げる仕草をした。
「どうも、先生を誤解しておりまして、申しわけありませんでした。やっと目が覚めてきた気分です。失礼なことばかり申し上げて、お許し下さい」
杉村由紀の見るところ、彼が本当に理解しているというにはほど遠かったが、己れの間違いを認め、頑固な先入主を改める気になったのは真実のようであった。
「まだいろいろお尋ねしたいことがあるんですが......」
「それは小浜君、お原稿を十回くり返して読んだ後にした方がいいね」
と、池内がたしなめる。小浜は恐れ入って後頭部に手をあてた。
「小浜さん。いろいろ失礼なことを申し上げてしまいました。本意ではなかったのですが、あなたに理解していただくためには止むを得ませんでした。私に力を貸して下さいませんか......小浜さんなら、幻魔も神も関係ないと考えている人たちの気持がわかるでしょうし、どうやって心理的バリヤーを突破するか、いい知恵を出して下さるのではないかと思うのです。小浜さんが担当者になって下さったという幸運に感謝したい気持でいっぱいです」
丈は立ち上り、編集者たちに深々と頭を下げた。
「とんでもないことです......」
小浜がうろたえ気味に口走る。
「私など、どうしようもない馬鹿で、今やっと少し先生のために目を開かせていただいたのに......」
「私の拙い最初の本で、皆さんのように素晴らしい編集者の方々に恵まれたことをありがたいと思っています」
編集者たちも跳び上るように立ち上り、最敬礼を返した。みごとだ、と由紀は思わずにいられなかった。丈がこれほど人あしらいに巧みさを発揮するとは信じがたいほどであった。
丈は変った。丈から発する波動の強さは、昨年の丈にはないものであった。自分の選んだ道が誤まりでないという確信が、大きな自信をもたらし、優柔不断さを丈から拭い去ってしまったようであった。
その結果、丈のもつ人間的迫力は高圧のものとなり、彼が若年ではあっても、特殊な人格の持主であることを顕らかにしていた。
講演会のステージの上で丈に訪れる、光耀が放たれるような圧倒的な迫力が、今は日常化したのを杉村由紀は感じていた。
いわば意識圧が、並みの人間とは比べようもなく高いのである。だれもが気圧され、一目置かざるを得ない、高圧の霊気が丈から発散していた。
由紀は讃美の気持とともに、一抹の不安も心にわだかまらせていた。丈は脱皮を遂げ、みごとな存在となっていた。それを否定することは出来ない。不確かで頼りない、惑いがちな若い神アポロニウスの趣きが、丈から拭ったように消え失せていた。
惑いは消えさり、代りに権威ある者の自信に満ちた説得力を駆使する丈がそこにいた。
むろん、由紀は崇敬を深め、痺れるような讃嘆の虜になりこそすれ、批判がましい気分は一点も持ち合わしていない。それでもなお不安は澱のようになって存在した。普段は忘れ去っていられるが、決して消却することのできない不安であった。
4
東丈の〝意識圧〟が上昇していることを感じているのは、もちろん秘書の杉村由紀たちだけではなかった。
七階の事務局に詰めている会員たちも、それに感応しているからこそ、凄まじいほどボルテージを高めているのだった。新しい青年部の若者たちは正月以来、事務局に泊り込んでろくに眠りもせず、あらん限りのエネルギーを注ぎこんでいた。
若者たちは一九六八年がどれほど重大な年であるか、本能的に察知しているようであった。突如、やるべきことを数限りなく発見したように、彼らは勢いこんでいた。それまでの彼らが半分惰眠を貪っていたことに気付き、本格的に覚醒したというめざましい奮起を示しているのだった。
七階に彼らが詰めかけているだけで、ビル全体が興奮に沸きたっているような、凄い高揚ぶりであった。まだ正月気分の抜けていない人々には眩惑的な雰囲気だったに違いない。
平山ビルは雑居ビルなので、さまざまな企業や団体の事務所、営業所が入居しているのだが、そうした人々は〝GENKEN〟の会員たちを眩しいものでも見るような目で見た。会員たちは活発で礼儀正しく好もしい態度を身につけている。〝GENKEN〟の何であるかを知らない他の階の人々も、会員たちには好意を見せ、しきりに話しかけてくるようである。中には見学を申し出たり、入会を申し込む向きも出ている。
なぜ会員たちが、それほど活きいきとして楽しげであるのか知りたいと思うのも人情であったろう。丈の教育方針がめざましい効果を上げ始めた。会員の一人一人が会長の丈の代理でなければならない、とミーティングの都度、丈は繰り返してきたのだ。正月以来、丈は本格的に会員たちの意識教育に取りかかったようであった。
丈によって帰宅命令を受け、三日間連続で泊まり込んでいた青年部会員はほとんど七階から姿を消していた。風呂にも入らず薄汚くなったという理由で追い払われたのだ。
資料室では、青年部の責任者内村久雄が一人でセミナーのプログラム・ブックの割付をやっていた。部屋に入ってきた井沢郁江を見て、内村は気弱げな目をメガネの下で瞬かせた。郁江の姿は彼にとって眩しすぎるもののようであった。
「あら。帰らなかったの? 会長命令違反じゃない」
と、郁江は例の調子でいった。頭ごなしであり、会長の丈に対する時も変らない。
「東君にいいつけてこようかなっと。東君、ここのところシビアーだもんね。叱られるから......」
「違いますよ! ちゃんと家へ帰ったんですよ!」
内村はあわてふためいて弁解する。
「ちゃんと入浴もしたし、髭もあたりました。命令違反なんかじゃないです! 僕の家は近いんで......」
「ああ、そうか。内村君の家はここから歩いて帰れるんだったわね」
郁江は承知の上でからかったのである。
「内村君、元気?」
郁江はテーブルをはさみ、反対側に座りこんで、組み合わせた手の上に顎を載せた。もの怯じしない目でじっと若者を眺める。
「はあ、元気でやってます」
内村は戸惑って目をパチパチさせた。彼は高二の郁江よりも四歳も年長なのに、まるで年下のような口をきき、畏敬の目で郁江を見ていた。丈の側近であることが郁江に眩ゆい光を与えているらしい。郁江の前では固くなり畏まってしまう。
「あ、あの、井沢さんも元気になられたそうで......」
と、内村は口ごもりながらいった。喉が詰まるような声音だった。
「ふうん......あたしが病気だったこと、内村君知ってるの?」
「い、いや......ちょっと人伝てに噂を聞いただけで......」
内村がうろたえる。顔に汗が滲み出てきた。
「ずっと会を休んでおられたから......どうしたのかな、と......」
「そうよ、病気だったの。でも、内村君お見舞いに来てくれなかったわね。冷たいのね」
「い、いや......僕は......行きたかったんですが......どこに入院なさってるのかわからなかったので......」
若者はうろたえきって口走った。眼前の眩しいほどの美少女が自分をからかっているなどとは夢にも思わないようであった。生真面目で律気な若者だ。
「だって、杉村さんに尋けばそんなことわかるじゃない?」
郁江は涼しい目で、大学生の狼狽ぶりを見据えていた。
「す、すみません......行きたかったんですけど......本当です」
「冗談よ、気にしないで」
くすっと笑って少女は年上の大学生に赦免を与えた。内村は真赤な顔をしていた。
「この通り、前にもまして元気になってしまったから......あたし瘦せたでしょ? ぐっとスマートになったと思わない?」
「はあ......」
若者は眩しげな目をして、妖精のような蠱惑をたたえている美少女を見た。胸が痛くなるような情念を感じさせる存在だった。
「瘦せましたね、少し......でも、元気そうです」
「四キロも瘦せたのよ。でも元気。どこも悪いところはもうないの。前はあたし、肥ってたでしょ?」
「いや......そんなことないです」
「あたしが病気だと聞いて、少しは心配してくれた?」
「もちろん......みんな、どうしたのかなっていってました。井沢さんが病気になるなんて信じられないって、心配してたんですよ」
内村は力をこめていった。それだけは信じさせなければならぬと切望しているように、ひどく力んでいた。それがおかしくて、郁江がくすっと笑う。
「内村君、あんた秘密守れる?」
慣れなれしくいった。まるで年下の少年扱いだ。
「はあ」
「じゃ、教えてあげる。あたし、癌だったの」
「癌?」
しかし、内村のいい方は彼が先刻承知であることを物語っていた。
「そう。うんと進行した癌だったの。卵巣癌......もう赤ちゃんのできない体になるところだった」
郁江はけろりとしていった。内村は息が詰まったような顔になる。郁江は自分のいい草がおかしかったのか、声をあげて笑った。
「それどころか、死ぬわよ。赤ちゃんどころじゃないわ......知ってた、内村君?」
「いや......」
大学生は苦しげにいったが、噓のつけない性格であることは明らかであった。
「内村君って、正直ね。知ってたって顔に書いてあるわよ」
「............」
「でも、治っちゃった! どうしてだと思う?」
「奇蹟です......」
「そう、奇蹟。だって、医者だって手術しても死期を早めるだけで無駄だからっていったのよ。でも、今はきれいなものよ。癌細胞といっしょに体のきたないものが全部灼き切られたみたいに、すっきりしちゃったもの。本当に奇蹟よね? よかったと思ってくれる?」
「ええ! 本当によかったってみんないってますよ!」
「みんなじゃなくて、内村君の気持を尋いてるの」
「もちろん、僕もです。なんか本当に聖書に出てくるみたいな奇蹟ですね! 先生の力はまったく凄いです!」
「よかったな、といってよ」
と、郁江が要求する。なんて気のきかない子だろうという目で内村を見ている。会員一同が高鳥慶輔に傾いてしまうのも無理はない。生真面目なだけが取り柄というタイプだ。こんな青年を恋人に持ったら、いつも苛立っていなければならないだろう。
「あ、すみません。井沢さん、本当におめでとうございます。お見舞いにも行かないですみませんでした。行きたかったんですけど、癌でもう長いことはないという噂なので、どうしようかと迷っていたんです。でも、奇蹟が起きて、安心しました。先生は必ず井沢さんを救けてくれるとは信じていたんですけど、やっぱり心配は心配で。本当によかったですね。井沢さんの顔がまた見られて、嬉しいです......」
内村は決してすらすらと喋ったわけではない。真赤になって悪戦苦闘しながら、ようやくそれだけ喋ったのだった。
「ありがと。内村君って優しいのね。でも、今度あたしが入院したら、癌だと聞いても来てくれるわよね?」
「えっ、またなんですか!?」
内村はあんぐりと口をあけた。その顔が郁江を噴き出させた。こんなにコチコチの真面目な男の子は見たこともない。
「冗談よ、馬鹿ね。あ、馬鹿なんていってご免。ちょっと内村君をからかってみただけなの。内村君って本当に真面目な性質なのね」
「はあ......気がきかなくて、だめでどうしようもないんです」
内村はにわかにしょげこんでいった。
「自分でもわかってるんですが。小心者で臆病だってことはどうにもならないんです。子供の時からずっとそうですから......みんなにドジでグズでだめな奴だと思われてるのはわかってますけど、どうしようもなくて。みんなに迷惑ばかりかけて申しわけないと思ってます......」
「そんなことないわよ。東君は、内村君のこと、とても高く買ってるわ。自信がないから力を出せないだけで、本当はとてもいいものを持ってるって......あたしもそう思うわ」
郁江は熱意にあふれていった。内村はにわかに信じられぬといった反応を示した。
「僕がですか......? そんな、信じられないです」
「あら、どうして?」
郁江は無邪気そうにいった。
「東君だって、昔、まだ自分の〝力〟に目覚めないころは、目立たない平凡な男の子だったのよ。同じ学校だから知ってるんだけど、一年の時からやってた野球部もついにレギュラーになれなかったしね。こんなこといっちゃ悪いけど学業成績だってせいぜい中の上よ。そのころの彼からは、とうてい今の東君は想像もつかないわ。
だれがどんな〝力〟を秘めているか、自覚してみないことには、なんともいえないのよ。うわべだけを見てたらどんな目ききが見たってわかりゃしないわ。内村君だってそうよ。自分の真価はこんなもんだ、なんて内村君自身にだっていえやしないでしょ。どう、内村君。自分の本質ってものがあんたにわかる?」
「そうですね......でも、僕はだめなんです、なんの自信もなくて......」
内村は小さい声で呟いた。消え入りたいような風情であった。こりゃ、だめだ、と郁江は内心思ったが、もちろん顔色には出さなかった。
「ねえ、内村君。なぜ東君があなたを青年部の責任者に選んだと思ってるの?」
「え、ええ。それが僕も不思議で......高鳥君の方がはるかに適任だし......」
「そうじゃないでしょ。東君が内村君を適任と認めて指名したんだから」
「しかし......みんなも高鳥君を適任だと思ってるし、だれが見てもそうだと思うんです」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、東君よりも会員のみんなの方が正しいわけ?」
「いや、そういうわけじゃ......」
「あなた自身も含めて、会員の皆さんの方が、東君よりもよくものがわかっていて、見識があって、人を観る目があるというわけ? これは大変なことよ。そうじゃない? 先生と呼んで師事しておきながら、自分たちの方が東君より上だと思ってるわけね?」
「いや、そういうわけじゃないんです」
内村は郁江の鋭い語気にうろたえて弁解にこれ務めようとした。
「僕は自分のことだし、よくわかっているんで......」
「なにがわかってるの? 先生よりも自分のことに関しては見識が上だというわけ?」
「違うんですよ! 困ったな......僕は昔からこんな性格でいじいじしてきましたから、先生がそうおっしゃったとしても、即座に胸落ちしないということなんです。決して先生より人を見る目があるとか、そういう意味じゃないんです!」
さすがに内村は顔色を変え、躍起になっていった。
「内村君は自分のことだし、謙遜もあって、自分が適任だなんて、自分からはいえないというわけね?」
「ええ、まあ、それもあります。先生が僕を高く買って下さったというのは、驚きだしショックなんです。ぴんと来ないんです。絶対に先生の判断を蔑しろにしてるわけじゃありません! それだけはわかって下さい!」
「そう。つまり内村君は戸惑ってるわけだ。先生がいったからといって、即座に自分は適任で優れた素質を持ってるんだなんて、厚かましくはいえない」
「そ、そうです」
「じゃ、他の人たちはどう。東君のいうことを受容れないということは、つまり自分たちの見識の方が先生より上だと信じているからよね? だってそうでしょ? 彼らには内村君みたいな謙遜は関係ないんだもの。
だとすれば、彼らは先生のいうことを無視し、あなどっているのよ。なにいってんだ、そんなこと信じられるもんかという意志の表明なのよ。そうじゃない?」
「いや......そんなことはないと思います。みんなが僕を不適任と思うのは当然で......」
「待ってよ、内村君。君自身のことだから判断がつきにくいけど、第三者の立場に立ってみたらどうかしら?
もしあたしが東君から責任者に指名されて一生懸命やっているのに、みんなが不適任だと思って無視してたら、内村君はどう思う?」
「ああ......」
内村のきょとんとした顔が、しだいに納得の表情を表出し始めた。
「そうか......自分のことなんで、ぴんと来なかったんだけど、いわれてみるとそうですね。先生のいわれたことを蔑しろにしたことになります。故意に無視するっていうんじゃないにしても、先生を信じてないのかといわれれば、一言もありません」
「そうでしょ? おかしいわよね。自分の見識の方が先生より上だと思っていることだもの。もし疑問があったとしても、責任者のあたしに協力しなければならないわけよ。
さもなければ先生のいうことには納得できませんから従う必要はない、と行動に表わしているのと同じだわ。内村君だったらどうする?」
「おかしいんじゃないか、とみんなにいうと思います。先生が井沢さんを責任者として適任と認めた以上は、井沢さんに協力すべきですから」
内村は目が覚めてきたようだった。
「井沢さんのいう通りですね。みんなが先生以上にものを見る目があって、深い見識を持ってるなんてありえないんです。それなら、先生以上の存在になります。〝GENKEN〟を先生に代って指導する資格があるということですから。でも、そんな者は、もちろん一人だっていませんよ。先生の足許にも及びません!」
「もしかりに、先生が間違ってると思ったら東君と議論すべきじゃないかしら? そして東君を堂々と論破してみればいいのよ。それができなければ、東君以上の存在だなんて、絶対にありっこないじゃない。
東君は、どんな論争だって受けて立つわよ。東君がどんなに大きい器を持った偉大な存在か、みんな知ってるじゃないの。だからこそ彼を慕って会に入っていっしょにやりたいと願ってるわけよね?
でも、先生と呼んで敬いながら、口と行動が全然違う人間に、弟子の資格があるかしら? 東君を批判するのも論争をしかけようとするのも自由だわ。だけど、それを堂々とやらずに、かげでこそこそやるとしたら、卑劣じゃないかと思うんだ。内村君はどうする? みんなの誤りを指摘する勇気がある? 先生のために弟子が誤りを正すのは当然よね?」
「僕は先生を尊敬してます。先生の後について行きたいと本気で願っているんです」
内村のメガネの奥の目は泪でぎらぎら光りだした。
「もちろん、みんなにいってやります。先生の判断よりも自分たちの方が上だと思っているのか、と......井沢さんは素晴らしい人だし、先生が認めておられるなら、それだけの器を持っていることは間違いないと僕は信じる、と。女だからといって差別するなといってやります。それだけの素晴らしい実力があるからこそ、井沢さんは選ばれたんだって」
「あたしじゃないのよ。内村君なのよ、東君が選んだのは」
郁江は大魚をつりあげた快心の手応えにうっとりした。
「内村君の裡に先生が大きな可能性を見出しているってことを忘れないで。彼には成行がちゃんと見えているのよ。そりゃ、高鳥君も素晴らしいものを持っているかもしれないけど、先生は会員のみんなのように、外見だけでは人を見ないの。ちゃんとその人の本来の魂の持っている〝力〟まで見抜いて、内村君を青年部の責任者に選んだのよ。
内村君が先生を本当に心の底から信じているなら、その〝力〟は必ず出てくるわ。先生にはちゃんとそれがわかってるわけ。内村君も早く自覚しなきゃだめよ。青年部のみんなにもっと協力をアッピールしなきゃ。それをやらないで、自分一人でボソボソとやってるから、みんなは内村君が先生の指名した責任者だってことを、うっかり忘れちゃうのよ。そうじゃない?」
「はあ......」
「みんなに訴えかけなきゃだめよ。できるでしょ?」
「やります......」
内村は目をしきりにしばたたきながらいった。火つきは悪いが、ようやくゆっくりと燃えだしたようであった。しょぼついていた眼に輝きが宿っていた。彼が今、初めてといっていいほど清新な感動を覚えていることが、郁江にもわかった。
郁江に励まされたことが、彼の魂の向きを変えるために、大きな力となったようであった。内村にしてみれば、天使が降臨して激励してくれたほどの興奮を覚えたのであろう。寝呆けていたような内村が、にわかに覚醒し、しゃっきりしてくるのを目撃して、郁江自身驚いていた。自分の煽動がこれほど効果があるとは夢にも思わなかったのだ。
郁江はこれまで少年じみた突張り癖があり、他人を慰撫したり激励したりするような気恥しい真似はしたことがなかった。相手をやっつけ、やりこめるためにのみ、彼女の雄弁は駆使されてきた。それが東丈の頼みとはいえ、気恥しさや照れを克服して、他の目的に用いた時、己れの口のうまさ、抜群の説得力に郁江は愕きの念を味わうことになった。
内村が生きいきと変貌するのを、郁江は内心魂消た思いで眺めていた。
「内村君が一番最初になすべきことは、青年部のみんなを説得することだわ。きちんと話をすれば、きっとみんなだってわかってくれると思う。高鳥君を気にすることなんかない。先生に対して責任を負っているのは、内村君なんだもの。あたしも、内村君にはきっとできると信じてる」
「ありがとう、井沢さん、話を聞かせてくれて......なんだかとっても燃えてきましたよ」
内村は初めて見せるような笑いを浮かべていった。こんなに簡単に人を煽動することができるものかしら、と郁江は思った。自分にそのような力があることが不思議であり、信じがたいことのように思えた。
内村が溢れるような喜びで活きいきと変貌するのを見るのは、郁江自身にも大きな感動を誘ったが、反面、いささか気懸りでもあった。相手が特殊な憧れや感謝の気持を郁江に抱き、それがポテンシャルを高めて行くことが推測できたからだ。自分が内村に対してやりすぎたのではないか、と一抹の不安が生じていた。
郁江の心配が根拠のないものではないというのは、内村が崇拝の目で、郁江を仰ぎ見ていることでも明らかであった。
内村が見違えるばかりに、波動を強め、活気を帯びてくるのを見るのは、見応えがあったが、それだけではすみそうもないような気がした。丈ははたしてそこまで見抜いていたかどうか、心もとなくなってきた。
内村が以前から郁江に対して憧れの気持を持っているのを知った上で、丈は激励のため彼女を送ったのだろうか......
5
一九六八年一月の初旬が瞬く間に駆け去り、〝GENKEN〟は一月十四日の新年講演会に備えて白熱化していた。
昨年のクリスマス講演会である程度の経験を積み、準備委員たちは自信を備えてきている。もはや結果を恐れるあまり、食欲もなくなるという緊張過多もない。
なによりもイベントを用意する熱気で、会は沸騰するばかりだった。部外者が魂消るほどの活気が間断なく唸りたてている印象だ。人の出入りも激しく、関りを持たぬ人間には目まいがする慌しさであった。全速で突進を始めたという高速感覚が全ての会員をまきこんでしまっていた。
一月八日の始業式以来、東丈はただの一度も登校していなかった。そんな余裕がまったくないのである。登校どころか帰宅すらしていない。事務局で寝泊りしている青年部の会員のために、炊き出しが始められ、丈も会員たちといっしょに食事を摂った。ボランティアの女性会員が軽食を用意してくれるのだ。
こうした共同生活は、隔意を減らし一つ釜の飯を食う仲という連帯感を醸成するのに役立った。最初は青年部の大学生だけだったが、しだいに社会人の参加も増加し、彼らは〝GENKEN〟事務所から出勤するという新しい生活のパターンを造り始めた。
狭い事務所は常時三十名を超す会員がイベント要員として寝泊りしていた。会員相互の間の心理的な密度は一日ごとに濃くなり、昨年暮れとは比較にならないほど緊密なものとなっていた。
主宰の丈には、大量の仕事があり会員との共同生活は生活の一部を占めるものでしかなかったが、それでも丈が七階に滞在する時間はしだいに長くなってきた。
東三千子が丈の下着や衣服の替えを届けに、〝GENKEN〟事務所を訪れたのは、新年講演会を三日後に控えた、北風の吹きまくる日であった。
だれもが意外な顔をするだろうが、三千子が渋谷の平山ビルを訪ねるのは、これが初めてなのである。丈は、姉の自分が会に近づくのを喜ばないのではないかという気がするほどだった。
講演会を聴きに来るようにともいったことがないし、会の事務所に招いたこともない。姉には第三者の客観的な目で、会の現状を観察してほしいからだという。条理が通っているようだったが、それでも会に姉を近づけさせたくないというひそかな意志を感じてしまうのだった。なぜだか、三千子にも理由が吞みこめない。三千子にステージ・ママ的な色彩を付与するのを嫌っているためではないかと考えたりもした。
それとも、姉を人目に立たせずに隠しておきたいという気持があるのかもしれないと思ったりする。
しかし、正月以来、三千子は弟にほとんど会っていなかった。平山ビルにこもったきり、自宅には寄りつきもしない。電話では一日に一度は話しているが、それも姉の様子を確かめるだけで、自分のことはろくに話さない。
「大丈夫」
というだけである。元気でやっているから心配するなということらしい。実際にはどうなのか、三千子は秘書の杉村由紀や郁江に電話で尋かなければならなかった。
事務所はなにやら恐ろしく多忙そうであり、長々と電話するのは気がひけた。まるで火事場のような慌しさが伝わってきて、ろくに話をしていられない。こちらまで火が移ってきたような気分になる。
ともかく丈が当分、帰宅しない気構えでいることは確かであり、丈の顔を見るためには、三千子の方から渋谷の平山ビルへ出かけて行くほかはなかった。
別に自分が疎外されているとは思わないが、寂しさを感じていないとはいえない。しかし丈がもはや巣立ってしまった以上はやむを得ないと思う。姉の羽交いの下におさまりきれぬ大きな存在になってしまったのだ。それを喜びはしても、自分が抜殻になってしまったような空虚感は否定しようがなかった。
渋谷の街は久しぶりであった。東横デパートに入って、差し入れのためのお茶菓子を買い、埃っぽい空っ風の中を、道玄坂を登って行った。平山ビルへ折れる道を捜していると、いきなり声をかけられた。
「東先生のお姉様じゃありませんか?」
振り向くと、背の高いダスターコートを着た青年が立っていた。若々しいハンサムな顔に快活な笑いを浮かべている。しかし、目に油断のならないきらめきがあり、ふと三千子の警戒心を誘った。
「あなたは......?」
「僕は〝GENKEN〟に出入りしている者です。あ、やっぱりお姉様ですね。そうだと思った。先生とそっくりですから」
若者はやや得意そうに笑った。他意はなさそうである。やはり目に鋭気がある。感じのいい明るい顔だが、なぜか三千子の口中には金属の気味の悪い味わいが拡がった。ぞくりと身慄いが出た。
「僕は高鳥といいます」
若者はものに拘泥しない口調でいった。
「いつも先生にはシビアーに教えを受けています。武芸者の入門試験といっしょなんです。きびしい試験に合格したら、〝GENKEN〟に入れてもらえるんです......この話、お姉様はご存知ですか?」
「あなたが高鳥さん? お名前はお聞きしています」
三千子は慎重なゆっくりした口ぶりで答えた。口中に徴した金属の味はもう消えている。
「本当ですか!? 僕のことを、先生は話題にして下さったんですか? 嬉しいなあ」
素直な喜び方であり、翳が感じられなかった。三千子はなぜ最初にあれほど警戒心を覚えたのかわからなかった。
「〝GENKEN〟にいらしたのでしょう? それ、お持ちします」
高鳥は手を伸ばし、断る暇を与えず、三千子の手から着替えの詰まったボストン・バッグを取り上げてしまった。
「軽いですから、けっこうです......」
後から口にするのが、気が引けた。
「先生のお姉様なら、僕たちにとって大事な方です。どうぞ、こちらです」
高鳥はバッグを提げ、スマートな長身で先に立った。見事な若者だ、とだれでも高い評価を下すだろう。高鳥はそんな若者であった。明るくて親切で感じがよく、如才がない。さっぱりとして清潔であり、知的だ。
丈や杉村由紀の話を聞くかぎりでは、素直な性質のいい青年に思えた。まず、申し分のない好青年といったところであろう。
なぜ出逢い頭に、いきなりかんばしくない印象を受けたのだろう、と三千子はひそかに疑っていた。まったく油断がならない相手、と直感したのだ。話をしてみれば、そんな第一印象の悪さが信じがたいものになってくるのだった。
「お姉様はもしかすると、〝GENKEN〟の事務所へいらっしゃるのは初めてじゃありませんか?」
と、高鳥が後を振り向いて尋ねた。
「ええ、そうですけど」
「じゃ、会員で、お姉様とお逢いした者はあまりいないでしょう?」
「あまり存じ上げません。でも、弟の丈からはいつもいろいろな会員の方たちのお話を伺っております」
「先生のお姉様が素晴らしい方だということはみんな知っているんですが、だれも当のご本人にはお目にかかったことがない......伝説的な、女神様のような方だ、とみんないっています。本当にお姉様は、女神様みたいな方ですね」
高鳥は率直な物いいをし、憧憬の目を三千子に向けた。
「とんでもございません......わたくしはただの平凡な女ですから」
「でも、お姉様は先生と生き写しのようじゃないですか。お姉様ももしかしたら、先生と同じ力をお持ちなんじゃありませんか?」
きらきら光る憧れの目で三千子を見詰めながら高鳥は尋ねた。子供のように夢中になっている目であった。三千子はそれに偏執的なものを覚え、やや異和感を抱いた。
「わたくしには、いわゆる超能力はまったくありません。とても平凡に出来ていますので......それに弟は、人間はなまじの超能力など持たない方がいいと口癖のようにいっておりますから。あたくしもそう思っています」
「そうかなあ。僕はお姉様は必ず超能力をお持ちになってると睨んだんですけどね。ビリビリと背筋に電気が走ったんです。先生を最初に見た時と全く同じです」
高鳥は快活にいって笑った。そういえば、この子は超能力者だったのだ、と三千子は気がついた。それで〝力〟に偏執する傾きを示しやすいのだろう。しかし、それは危険なことのように思えた。
三千子は最初に丈が〝力〟に目覚めた一年前の夜のことを思い出した。あの時の丈は、異様な〝力〟に酔ったようになり、昂ぶりの虜になっていた。居ても立ってもいられない危機感が三千子を襲い、苦しめられたものである。
眼前の高鳥は、あの時の丈の異常な高揚とは比ぶべくもないが、やはり同じような不安定さ、落着きのなさを蔵しているようであった。三千子が彼に不安を感じたのは、そのためだったのだろう。
高鳥の目にきらきらと躍っている落着きのない危険な光に三千子が危惧を覚えたのも無理はない。〝力〟を得て気を昂らせていた丈の目の中にも同じようなきらめきがあったのだ。
「あたくしは、超能力の話はあまり好きではありません」
三千子はおだやかに、しかし誤解しようのない明解さでいった。
「弟の丈ともその話はしません。超能力というのは、興味本位で触れるべきではないと思っていますから」
「先生が超能力について、非常に慎重なのはやはりお姉様の影響だったんですね。先生を母親代りに育てられたお姉様は素晴らしい方だ、是非お姉様のお話をお聞きしたい、とみんないっています。今度、是非ともみんなに話して下さいませんか? みんな大喜びすると思います!」
「とんでもありませんわ」
この子は何をいうのだろう、と胆を潰す思いで三千子は改めて高鳥を眺めた。いったいどうやってこんな突拍子もないことを思いつくのだろう。
「いや、そうじゃありません。先生がずっとごく普通の少年として育って来られ、どうやって目覚められ、今の先生になられたか......どのようにして先生の才能が開花されたか、それを先生の一番身近にいて、よくご存知のお姉様からお話をお伺いするのは、みんなにとって物凄く有益だと思うんです。
僕は、新しい青年部の企画委員をやっているものですから、前々からお姉様にお話を聞くチャンスはないかな、と思っていたんです。今、ここでお会いできたのは、千載一遇のチャンスなんです。先生が偉大な覚者として目覚められるまでの道程は、先生の口からはおっしゃいませんし、お姉様にお聞きする他はありません。でもこれは、決して落すことのできない重大なポイントだと思うんです。平凡な人間として生きてこられた先生が、どうして自覚されたか。それは今同じように平凡な人間である僕たちにとっては、最も大きな問題だといい切れると思うんです」
高鳥はとうとう足を停めて喋り出した。喋り出した若者は大変雄弁であり、説得力に富んでいて、魅力的であった。
「超能力を目覚めさせた者は、慎重でなければならない、と先生はおっしゃっています。また一方では、超能力などさしたるものではない、囚われてはいけないともいわれています。しかし、一度超能力を覚醒させた者はどのように生きるべきか、それについては先生は何もおっしゃっていません。
僕は先生が無自覚な人間からどのように自覚へと超克してきたかを知りたいんです。先生のご自覚については、どうしても身近にいらっしゃるお姉様にお尋きするしかありません。いかがでしょう? 僕たち若者のお願いを聞き届けては下さらないでしょうか?」
「でも、なぜ弟に直接、尋いてみないのですか?」
持て余し気味になり、三千子は反問した。高鳥はねばっこさがあり、喰い下られると手強いという感じがあった。
「先生はご自分のことですから、なにかと省略されてしまうのではないかと思うんです。やはり照れ臭いと思います。自分はこのように悟りを開いたんだ、そんなもったいぶった感じで先生はお話しになるのを嫌われますから......でも、お姉様なら客観的に、具体的な事実に即して話して下さるんじゃないでしょうか? 〝力〟に目覚めた先生は、以前の何もない先生とは変られたはずだと思うんです。僕たちはその経緯を知りたいんです」
「あたくしには、他人様にお話しするような僭越な真似はとても......」
「とんでもない。お姉様を知る限りの人は、杉村さんも平山さんも、井沢さんも一人残らず尊敬しきっています。お姉様は奥床しい方だから、そのように謙遜されますが、何よりも先生を育てられた方ではないですか。どうかお姉様のお力を僕たちにも貸して下さい。何も何百人何千人もの前で講演をお願いしているわけじゃないんです。ごく少人数の者たちに、お気軽に話をしていただければと思っているんです。いかがでしょうか」
三千子は根負けしてきた。高鳥はただ者ではないと感じた通りの人間だった。高鳥が全力をあげて取り組めば、たいていの人間はみごとに説得してしまうであろう。優秀なセールスマンの条件を彼はことごとく備えているようであった。
しかし、それでも三千子は説得されることから身を避けようとする心の動きを感じていた。高鳥の説得は巧妙すぎる。そのために三千子はかえって素直な気持になれなかった。
「お話はよくわかりました。弟の丈に相談しましてご返事申しあげます」
三千子の返事は、高鳥にいたく不満をもたらしたようであった。
「でも、お姉様が先生の許可を取らなければならないようなことではないと思うんですが。本当に少人数の集りですし、もっと気軽に考えていただけませんか? 本当にそんな大袈裟なことじゃないんですから......」
「弟はあたくしに、会と距離を置くことを望んでいます。組織の中の人間にはどうしても客観視ができなくなる。物事が等身大にしか見えず、世間とのスケールの相違がわからなくなりやすいという理由からです。ですから、あたくしは会には近づきません。いつでも第三者の立場を保持することが、弟の望みだからです」
「先生は本当によく考えておられるんだなあ......」
高鳥は感嘆の声をあげた。心から感じ入ったような表情をしていた。
「さすが先生ですね。そんなところまで念を入れて考えていらっしゃるとは、とても考えつきませんでした。お姉様がなぜ〝GENKEN〟で活動なさらないのか、といつもみんなの議論のタネになっているんですよ。僕はお姉様が奥床しい方なので、会に参加なさらないのかと思ってました。先生を育てられたお姉様となれば、会員みんなの見る目が違いますものね。何か、聖母なんて感じになるでしょう?」
「とんでもないことですわ」
「でも、お姉様が会に無関心でいられるわけではないとわかって安心しました。お姉様にお願いがあります。僕の個人相談にのっていただけないでしょうか?」
「個人相談?」
冷たい空っ風がまともに吹きつけ、高鳥の顔色を粉っぽくさせて、ダスターコートの裾を激しくはためかせているが、高鳥は自分の考えに熱中し、まったく感じていないようであった。
「ええ。ご存知かもしれませんけど、僕も超能力を持ってるんです。先生のようにケタはずれの巨大な〝力〟ではありませんけど......だから、僕は先生が自覚を得られた時のプロセスをどうしても知りたいんです。〝力〟が巨大であればあるだけ、先生はむずかしい問題に突きあたったんじゃないかという気がします......先生が〝力〟を得た時の心理状態はどうだったのか、どのようにして〝力〟を管理することを覚えられたのか、超能力者はいかにあるべきか......いずれも僕にとっては重大な、切実な問題です。是非とも助言してくれる人がほしいんです。先生は全然悩まなかったんでしょうか?」
高鳥は熱心に尋ねた。彼は何も感じていないらしいが、吹き曝しの寒風の中に立たされている三千子にはいささかこたえた。健康状態のすぐれない彼女はたやすく腰が痛み、立ちくらみがしてくるのだった。
「高鳥さんは超能力をお持ちなのですね」
三千子は歩きだしながらいった。鈍痛が腰に疼いていた。
「今度お伺いしてもいいでしょうか?」
と、高鳥は並んで歩きながらいった。
「え?」
「ご自宅の方へ伺ってもいいですか? 僕はどうしてもお姉様のお話を聞かせてほしいんです。超能力者ってとても悩みが多いんですよね......ひどく不安になってきます」
高鳥は訴えるようにいった。
「悩んでいるのは、僕だけじゃありません。超能力者は他に幾人かいるんです。みんな悩みを抱えています」
「弟になぜ質問なさらないのですか?」
三千子は高鳥の訴えにともすれば動かされがちな心を引き緊めていった。
「弟なら、的確な答を出すことも、助言することも可能なはずです」
「先生は、会に超能力者がいることを好ましく思っていらっしゃらないのではないかと思います」
若者は悩ましげにいった。
「他の多くの会員たちが、超能力に気を取られて動揺してしまうと考えておいでなのではないですか? だから、僕たちはまだ正規の会員じゃないんです、会に出入りを許されているお客様なんです」
「弟には弟の考えがあるのだろうと思います。弟は思慮が深いタイプなので、弟の考えを簡単に推測することはあたくしにもできません......でも、その件については弟の考えを尋いてみます。今はそれしか申し上げることができないのですけど......」
「お姉様にそういっていただけると、ほっとします!」
高鳥は喜色を浮かべていった。
「お姉様とお話しができて、本当によかったです。僕には姉がいないので、先生のお姉様だとわかっていても、何か本当の姉という感じがしてならないんです......ご迷惑かもしれませんけど」
結局、この子は見かけ通りの快活な素直な若者なのかもしれない、と三千子は思い直した。なぜ最初、あんなに異和感を抱いたのかわからなくなった。高鳥は憧れをこめた輝く目で三千子を見ていた。まさに仰ぎ見るという眼差であり、三千子としては気恥しくはあっても、不快な気持になりはしなかった。
「こちらです。このビルです」
と、高鳥がいった。思ったよりもずっと小ぎれいなビルであった。
「事務局は七階ですけど、会長室は一階です。こちらへどうぞ」
高鳥は先に立ち、きびきびと案内してくれた。部外者には、感じのよい有能な申し分のない若手会員として目に映るであろう。
ビルのエントランスの大きなガラス・ドアをドアマンよろしく開けてくれる。さぞかし女性には人気があるだろう、と思った。きらきらしていて、やや落着かぬ所はあるにしても、魅力は充分であった。
6
ご免下さい、失礼します、と明るい声をかけて、高鳥は会長室のドアを開けた。入ったところは秘書室になっており、井沢郁江ともう一人の若い子がはっと目をまるくして椅子から立上った。
「お姉さん......!」
郁江が駆け寄ってくる。身軽な動作であり、重苦しい気配はまるでない。子供のように可愛い小造りの手がしっかりと三千子の腕をとった。
「今、道玄坂でお姉様とばったりお遭いしたので、案内してきたんです」
と、高鳥がボストン・バッグの置き場所を捜しながらいった。
「とっても感激しましたよ。女神様に逢ったという感じで......」
「ふうん......高鳥君のことだから、ひょっとすると張り込んでいたんじゃないの? お姉様が〝GENKEN〟へいらっしゃるというのを予知するか、遠感で情報入手するかして......そうじゃない?」
郁江はいかにも〝郁姫〟らしい遠慮のなさでづけづけといった。
「偶然ですよ、偶然。僕は凄く幸運がついてるんですからね」
高鳥が陽気に笑う。
「あなたは油断がならない人だもんね。でも、お姉さんを案内してくれたことには、お礼をいうわ。だいぶ木枯しの中で吹き曝しになってたんじゃないの? 顔が粉吹いてるわよ」
郁江はぐいぐいと三千子の腕を引張って導き入れた。甲斐がいしく三千子のコートを脱がせる。それを高鳥はニヤニヤ笑いながら見ていた。
「夏本さん、お茶、お願いするわ」

と、もう一人の若い秘書見習に声をかける。
「すみません、せっかくいらしたのに。今、先生と杉村さん、お客様とお逢いしてて......しばらくお待ち下さいます?」
「ええ。でも忙しいようでしたら、また改めて......」
「いえ、すぐおわります。だからお待ちになって下さい。先生としばらくぶりなんでしょう?」
郁江は精気が汪溢していた。以前にも増して元気なだけではない。どこかに変化が徴していた。眸の光が違う、と三千子は感じた。妖精のように美しいが、それだけではなく、郁江には確固とした権威のようなものが備わっていた。
それは同じ秘書室の郁江より幾つか歳上の女の子と比べれば歴然たるものがあった。生死のかかった修羅場をかいくぐってきた者の自信だろうか。
「ああ、どうも、高鳥君、ご苦労さま」
と、郁江は如才なくいった。さりげなく秘書室に入りこんできた高鳥を撃退する意図が明らかであった。
「野沢緑ちゃん、お元気? ちゃんと七階でやってる?」
「ああ、やってるんじゃないですか。僕は企画班なんでよく知らないけど」
高鳥が空とぼけている。野沢緑という少女には逢ったことはないが、秘書見習の一人だと丈から聞いたことがある。三千子は興味深げに高鳥を見まもった。
「ちゃんと面倒を見てあげてよ。緑ちゃんは高鳥君がいるから、わざわざ一階から七階へ移ったんだから......」
「ええ? 僕は知りませんよ、そんなこと」
高鳥は鼻白んでいた。さすがの彼も郁姫の正面からのアタックには弱いようである。
「ふうん、そうなの。そうだ、高鳥君、今度ちょっと話したいことがあるの。いいかしら?」
「話ですか?」
高鳥は少しそわそわし始めた。
「井沢さんはなんかおっかないからなあ。お叱言か何かですか?」
「あら。あたしがどうして叱言をいったりするの? ちょっと折り入って相談があるだけよ。それならいいでしょ?」
「相談ねえ......やっぱり怖いな」
しかし、高鳥は今はそれほど怖れていなかった。郁江の心を遠感で読んだのかもしれない。なにかしら不遜な光が目に宿っていた。
「後で連絡するわ。今はお客様が見えてるから......詳しい話はその時にまた。七階で仕事してるんでしょ?」
「ええ、一応ね」
高鳥は愛想よく三千子に挨拶し、秘書室を立ち去った。感じのいい若者には違いないが、不遜さや客気を帯びているのが多少気になった。
「彼はかなりの〝力〟があるんですよ」
と、郁江がいった。
「わかるでしょ、お姉さんには? 用もないのに秘書室へやって来たがるんです。今もお姉さんが見えるのを、道玄坂で張り込んでいたんですよ。間違いありません」
郁江こそ超能力に目覚めたのではないか、と三千子は思った。独特の鋭い感受性が更に研ぎ澄まされているようだ。
「そうかもしれません。郁江さんにいわれてみてなるほどと思いました。高鳥さんってとても機敏なタイプのようですね」
「あれは機敏なんておしとやかなものじゃなくて、抜け目がないんです。目から鼻へ抜けますわ」
郁江は彼に好感を持っていないようであった。
「東君は、彼とあまり口をききません。黒い瞳でじっと魂の底まで見抜くように見るんです。あれをやられると、普通の人間だったらかなりめげるんですけどね。あの高鳥君ってわりと平気。物凄く図々しいところがあるから......踏んでも蹴られても平気な強い子良い子って感じ。だからあたし、顔見るたびにいびってやるんですよ」
そんなことを郁江は平気でいった。陰湿ではないので、言葉ほどどぎつくは感じない。もう一人の若い秘書見習、夏本幸代がくすくす笑っていた。〝郁姫〟がもう一人の〝こたえない〟高鳥をいびるのは同士討ちだと思っているのだろう。
「でも、彼は人気あるのじゃありません?」
「あります、とても。ここで秘書見習をやっていた野沢緑ちゃんなんか、彼に憧れて一階を見捨て、七階へ登って行ってしまったくらいですから。でも、結果はあまりよくなかったみたい。彼を見ると巧言令色っていうのを思い出すんですよ。外面だけ見ると、いかにも真面目で熱心そうでしょう? そこが曲者なのね。仕事熱心でよく働くってイメージだけど、汚れ仕事は他人にうまく押しつけて、自分は上手に花と実だけを取るって感じなのね。そういう抜け目がないのって、わりあいいるでしょ? 今日だってちゃっかりと抜け駆けして、お姉さんとコネをつけようとしてましたよね。生き馬の目を抜く商売人って感じ。自分は絶対損はせず、マイナスは全部他人に押しつけて尻拭いをさせるのね」
郁江の批評は手きびしいどころのものではなかった。痛烈無比だ。しかし、郁江はどこでこんな鑑定眼を身につけてきたのだろう、と疑わずにいられなかった。容赦なく高鳥の面皮をひき剝した感があり、三千子が漠然と感じていた異和感の正体を明かしてしまったようであった。
「今にきっと彼、化けの皮が剝げるわよ」
と、郁江は夏本幸代に向っていった。
「緑ちゃんのことだってそうでしょ? 結局、彼が緑ちゃんに近づいたのは、先生の情報を取るのだけが目的だったわけ。だから、緑ちゃんが秘書室を出てしまえば、もう用済みってことじゃない。ハナもひっかけなくなるから、緑ちゃんだって大ショックよ。こんな馬鹿なことってある?」
「でも、緑ちゃんは一人で夢中になってたようだから......」
と、夏本幸代が冷静な口ぶりでいった。物事にあまり動じないというタイプの娘であった。
「それが高鳥君の手よ。彼の狡いところよ。うまく焚きつけておいて、いざとなると責任回避を実に巧妙にやるのよ」
「郁江ちゃんは、女たらしの手口をよく知ってるみたいね」
夏本幸代が笑う。
「まあ、見てらっしゃい。彼の化けの皮が剝げるのは、そんなに先のことじゃないから。だいたい東君が......失礼、先生が彼のことを知らん顔してるのがとても不思議だわ。そう思わない? あれだけ会員みんなにきびしく注意する先生が、高鳥君のことになると、眼中にないという態度を取るじゃない?」
「それもそうね......」
夏本幸代はあたらずさわらずという態度だった。郁江のいうほどのこともないと思っているのだ。高鳥はいまや〝GENKEN〟のナンバー・ツーになりかねない急上昇ぶりであり、東丈のもっとも親密な側近である郁江が、高鳥を好ましく思わないのも無理はない。東丈にしても、高鳥が超能力者であることやめざましい人望を集めていることから、彼を煙たく思っているのかもしれない。高鳥に対して冷淡であり、ほとんど無視に近い態度を取っていることは、考えてみればいかにもわざとらしいのだ。しかも、高鳥はいまだに非会員のままであり、入会を許可される気配はない。正月になって、準会員というべき未公認会員は二十名近くにふくれあがり、高鳥はそのリーダーとしての地位を固め、縦横に〝GENKEN〟を揺ぶっている。青年部責任者の内村もよくやっているが、華やかな高鳥の前ではかすんでしまい、汚れ役を一手に引き受けさせられている有様である。
やはり才能や器量が段違いなのだから仕方がない、と夏本幸代は現実主義者らしく考えていた。郁江のように高鳥に反感を抱いてみたところで得るものはない。高鳥は歴然とした実力者としてのし上りつつあり、東丈の主宰としての位置を脅やかすところまで行きかねない。
東丈には神秘的な魅力があるが、高鳥にはスターとしての要素がある。今に多くの支持者を得て〝GENKEN〟を離れ、独立することになるかもしれない。高鳥にそれだけの〝力〟があることは明らかだからだ。
野沢緑は、郁江のいうように高鳥に利用されたのかもしれないが、それは緑自身が望んだことで、一方的に高鳥を責める筋合ではないと夏本幸代は思っていた。簡単にのぼせた緑も悪いのだ。東丈びいきの郁江や平山圭子は高鳥を非難するが、要するにどっちもどっちではないか。
自分だったら、高鳥が巧妙に誘いをかけてきたところで、簡単には乗らない、という自負が夏本幸代にはあった。自分から高鳥のアパートへ押しかけて行くような馬鹿な振舞いはしない。高鳥が情報採取に、野沢緑を選んだのは正解だったのだ。自分なら反対に高鳥をじらし、翻弄し、決して彼が望むようなものは与えないだろう。
高鳥はちゃんとそれを知っており、野沢緑に対するような狎れなれしさは見せない。ちゃんと敬意を払っており、気易い態度は決して取らない。つまるところ、高鳥には人を見る目があるということだ。
夏本幸代はそうした自己満足の気配を漂わせていた。クールで落着いているように見えても、内実とは大きな落差がある。他の秘書見習たち、郁江や圭子と比べると、なにか鈍い被膜のようなものをかぶっており、それが彼女をぼってりした肉厚の感じにしていた。
丈の波動をよく受けられる者は、杉村由紀を初めとして、爽やかで透明な印象を備えることが、今は顕著になっていた。三千子にはそれが一目で見分けられるような気がした。軽くて透き徹ってくる感じだ。郁江など妖精じみてしまっている。
丈の発する波動を受容する者しない者が、はっきりと分離されるに違いない。おそらく第二次の分離が行われようとしているのであろう。
丈はなぜ高鳥という若者を許容し、会の内部で気儘に活動させているのだろう、と三千子は不思議な奥行の深さを感じずにいられなかった。これまでの丈であれば、きびしく排除するに違いないのである。少くとも最初の大掃除で不適格者を会から追放した時の丈とは全く違う遣り方をしている。腐敗した会員たちを排除にかかった丈の容赦なさ熾烈さは、瞬く間に七百名近い会員を半減させてしまうほどだったのだ。
今の丈には自信や余裕が生じているに違いない。敢えて異分子をも抱えこむ度量の広さが育ったということなのか。
「あたくし、会をお訪ねしたのは初めてですので、七階の皆さんにご挨拶したいのですけれども」
と、三千子は考えてもいなかったことを口にした。着替えを届けたら、すぐに帰宅するつもりだったのだ。
しかし、今は会の現状を見ておきたいという気になっていた。久しぶりに意欲的になっている自分を意識する。もう丈のためにしてやれることは何もない、と感じて気分が陥ちこんでいたのだ。
「あたしがご案内します。夏本さん、七階へ電話しておいてくださる? 先生のお姉さんが行きますって」
郁江はすかさず立上り、三千子の腕を取った。ふわりと羽毛のように軽い感触である。以前のように、どん、と体をぶつけてくる感じではない。
「郁江さん、本当におめでとうございます」
エレベーターの中で、三千子は改めていった。身近にいる郁江の呼吸は爽やかで、いい香りがする。全身の細胞組織が浄化されてしまったせいではないかという気がする。体質が一変してしまったのではないだろうか。
「あたし、一度死んじゃったんですよ」
と、郁江は三千子の腕にからませた手を引き緊めていった。
「死んだ?」
「ええ。一度死んで、よその世界へ行っちゃったんです。だれにもいわないけど......そして生き返ったんです。体なんか前と全然違います。ほら、あたしの体、とても熱いでしょ?」
三千子の腕をしっかり握っている郁江の手からは、ただならぬ熱さが伝わってきていた。郁江が発熱しているのではないか、と一瞬思いこんだほどであった。
「違うんです。熱なんかありません。いくらでもこうしていると熱くなってきますよ、ね?」
三千子の体は火照ってきた。体中の鈍い、油の切れたようなぎごちなさが薄れて行く。郁江の熱い掌から流入してくる熱エネルギーの如きものが、三千子の体の不快な癡りや冷感を瞬く間に駆逐してしまった。それは一階から七階までエレベーター・ケージが上昇する間に起こったのだ。
「とても暖くなりました、ありがとう」
と、エレベーターが停まった時、三千子は感謝をこめていった。郁江には大きな変化が生じている。それは丈や明雄がやってみせる心霊治療者としての手を郁江が獲得したということなのかもしれなかった。
郁江もまた超能力者の一人として、戦線に加わったのかもしれない。郁江の小造りの可愛い手から流入してくる熱い生体エネルギーは、三千子にひそかな確信を抱かせた。
これでいい、と三千子は思った。多くの優れた人々が助力者として丈を扶けて行くだろう。もう自分のなすべきことはほとんどなくなった......
エレベーターのドアが開くと、歓声と拍手が三千子を迎えた。七階の事務所にいた会員たちが残らず集まって、彼らの尊敬する主宰の姉を迎えていた。
顔見知りの菊谷明子が短い歓迎の辞を述べ、手を取るようにして事務室へ導いた。廊下に並んだ会員たちは手が痛くなるほど拍手し続けている。
四十人ほど居合わせた会員たちは、熱烈な歓迎を表わして、事務室の中へみんな詰めこんできた。いずれの顔にも、心からの親愛の情がこもっている。
杉並の自宅を訪れた会員だけ、顔を知っているが、そうでない者は名前と顔が一致しなかった。丈たちの話だけで、三千子が勝手に造りあげていたイメージとはかなり違うようである。
資料室のメガネをかけた秋津女史など、話に聞いたほど滑稽な変人奇人という印象ではない。ごくまともな、快活な女性である。
「それぞれ自己紹介をやっていたら、きりがないわ」
と、郁江が三千子をかばうようにいった。
「どんどんボランティアがやってくる時間ですもの。お姉さんもお忙しい体だし、そんなに時間もないの。だから、お姉さんに簡単なご挨拶でもしていただいて、自己紹介はまた別の機会にしましょうよ」
拍手が湧いて、郁江の提案が承認された。しかし、三千子は思わぬ時にスピーチをしなければならなくなって当惑した。
「なんでも構わないんですよ、お姉さん。みなさんがんばってね、と一言だけでもいいんです」
と、郁江が取りなした。
会員たちは期待に満ちた沈黙を事務室に満たして、待ち構えていた。いずれの目も輝きがあって、顔色はぱっと目につくほど明るい。これほどの活気を人々の心に呼びさますのは大変なことだ、と三千子は思わずにいられなかった。人生が楽しくて喜ばしくてならないと顔にかいてある人々を街で見かけるのは稀なことである。それが数十名も眼前に参集しているのだ。
これはもしかすると、大変なことなのかもしれない、と三千子は思った。そして、それをやってのけたのは、他ならぬ丈なのだ。彼らは一人残らず丈の影響を受けて、人柄が変ってしまったのかもしれない。
「皆さん、こんにちは」
と、三千子は固唾を飲んで待ち構えている人々に向って呼びかけた。いっせいに、こんにちは! と返事が返ってきた。まるで幼稚園児のようだ、と三千子は思った。気取りや照れがあるとなかなかできることではない。純粋で熱心な人々であることを証していた。
不思議なことだ。丈に接した人々は、その複雑な心情の屈折を捨てて、みな素直になってしまうようだ。それは井沢郁江を見ても明らかだ。明るくて透明で素直だ。性格の歪みがどこかで濾過されたように消えてしまっている。
そうしたナイーヴさが眼前のどの顔にも見受けられるのだった。しかし、それはまっさきに丈自身に適合されることだ、と三千子は思った。あれだけ偏りが強く、依怙地で劣等感の塊りで、反抗的にぎらぎら光っていた丈が、最初に変貌してしまったのだ。
自覚とはそれほど強いものなのだ。むろん丈は己れ自身を火で灼き、挾雑物を灼き尽してしまうような凄絶な経験を積んできている。そうした強烈な経験が眼前の人々を変えたとは思えない。
郁江はそれに近いかもしれないが、他の人々にはおそらくいまだ近寄ったこともない試練であろう。
それにしても、彼らは明るく幸せそうに見えた。暖い親愛の波動が寄せてきた。彼らは丈が姉の三千子を女神の如く崇めていることを知っているのだ。
「いつも、弟の丈の仕事をお手伝いしていただき、ありがとうございます。皆様のご好意に心から感謝しています......弟は皆様を指導する立場にありますし、姉のあたくしがこのようなことを申し上げるのは、もしかしたら公私混同であるかもしれません。弟はすでに公人でありますし、あたくしにとって弟であるのは、私人の立場に立っているのにすぎないのですから......でも、あたくしは一度皆様にお礼を申し上げたい、といつも考えていたのです」
自分はいったい何を話しているのだろう、と三千子は疑った。思いがけずに人々の前で挨拶する羽目になり、よほどあがってしまったのだろうか。
「あたくしは姉として弟の丈を、小さいころから母親代りに育ててまいりました。あたくし自身、若年で未熟者であるにもかかわらず、弟を教え導くという困難な義務を果さなければなりませんでした。弟を産んだ母が、まだ幼稚園に丈が通っているころ急逝いたしまして、九つほど年のはなれている姉のあたくしがごく自然に母親の役目を引き受けなければならなかったのです」
聴衆は寂として声もなく聞き入っていた。全身を聴覚にして一語漏らさず聞き取ろうという意欲が溢れていた。
「今はもう、あたくしが弟を教え導くことは何一つなくなりました。弟は多くの人々から師として仰がれ、皆様を教え導く立場に立っております。年の若い弟にしてみれば、大変に責任の重い仕事です......あたくしももはや弟を肉親として、幼いころから母親代りとして育てた弟の丈として考えることがむずかしくなっております。すでに弟は自覚を得て宇宙の真実を全世界の人々に説くという大業に手を染めておりますし、今後は人々の前で丈と呼び捨てにすることを控えなければなりますまい。
イエス・キリストは、〝預言者は故郷に容れられず〟という悲痛な言葉を残しております。イスラエル中に大預言者として知られ、人々に耳を傾けさせたイエスも、故郷の地でだけは、住民たちに拒まれました。
それは人々が幼いころからのイエスをよく知っているだけに、小僧っ子としてのイエスのイメージに縛られてしまい、巨大な悟りを得て預言者として目覚めたイエスを、どうしても受け容れることができなかったからではないでしょうか?
同様に、親にとって子供はいつまでも子供です。お乳を与え、おむつを取り換えて赤ちゃんから育て上げた自分の子供が、人々に尊敬される偉大な預言者となっても、親にしてみれば、わけのわからぬことを廻らぬ舌でいう赤ちゃんの時の感覚から脱しきることは、これほどむずかしいこともないのではないでしょうか?
事実、イエス・キリストの家族たちは、預言者として立ったイエスを、自分の息子、自分の兄弟であるイエスを、救世主として認めることができず、目を覚まさせ、正気に戻させようと強くいさめ続けていたようです。
神懸りで頭がおかしくなり、世の権威に歯向う痴れ者、と当時のユダヤ教の司祭たちは嘲り悪口をいっておりましたが、その判断をイエスの肉親たちはそっくりそのまま受け容れて、イエスをいさめ、引止めようとし、足を引張り続け、大業を果そうとするイエスを妨害し抜いて苦しめたのです。
聖母マリヤと後世に崇められた母親は、最後までイエスが救世主たることを信じることはなく、可愛い自分の息子のイエスが神懸りになり頭がおかしくなってしまったと嘆き悲しんでいました。
ことあるごとに、イエスの仕業を制止しようと妨害を加えるマリヤに、イエスはどれほど苦しめられたことでしょう。実の母親をどうしても説得し理解を得ることができず、反対に足を引っ張られるのです。
イエスが救世主であることを信じないマリヤの心ない言動により、イエスはどれほど苦しめられ、行く手を妨げられたかしりません。
堪まりかねたイエスは、自分の実の母親であるマリヤに向い、女よ、そなたは私にかかわりなき者だ、とまでいっているはずです。マリヤは少しもイエスの真価を理解することなく、それゆえに聖母などではありえなかったのではないでしょうか......イエスの没後、長期間にわたり聖母信仰など存在しなかったのです。聖母信仰が生じたのは中世になってからのことです。
マリヤのことを考えるのは、あたくしにとって本当に有益です。あたくしにはマリヤの気持がよくわかるのです。自分の愛し子が道を誤まったと感じたマリヤの恐怖と苦悩は、母親にしかわからないかもしれません。イエスを深く愛するがゆえに、マリヤは愚かな行為を重ねて、イエスの大業を妨害する所業を働いてしまったのでした。
視野の狭い愛は、人を愚かしくし、誤まらせることがあります。女の浅知恵でイエスを判断したのがマリヤの誤まりでした。強い母の愛は、愛する息子を苦しめ抜くだけに終ってしまいました。
思慮のない愛、盲目的な愛は、真の愛とはほど遠いということでしょう。あたくしはマリヤの悲劇に同情いたします。愛しい者を死物狂いで守ろうとするのは女の本能のようなものかもしれません。母親にとって、幾つになっても子供は可愛いもので、壮年となったイエス、偉大な預言者となったイエスの姿はマリヤの目に入らなかったのでしょう。
イエスは道を誤まっている、と司祭や身近の人々に吹き込まれたことを真に受け、愛し子のイエスを救おうと必死になったのでしょう。
マリヤの悲劇は、あたくしにとって大きな教示です。あたくしもマリヤと同じ愚かな誤りを犯しかねない立場にあるからです。丈が歩もうとしている困難な道を思えば、胸がせまり、息もつけぬ心地になります。夜も眠れずに思い悩みます......」
人々は思わぬ言葉を耳にし、固唾を飲んで聴いていた。驚きの目を三千子に向けている者もいる。彼らは丈を本当には理解していないからではなかったか。偉大な指導者をいただいた〝明るく楽しいGENKEN〟だけではすまないことに、彼らはまだ気付いていないのだ。
「皆様は弟の丈が、最初から宇宙の真実に目覚めた素晴らしい存在だと、もしかすると思っておられるかもしれません。先生に従って行けば、素晴らしい奇蹟が夢のように次々に起こり、世界はすみやかに変って行く......そのようなバラ色の明るく楽しいイメージをお持ちかもしれません。皆さんが弟を──いえ、これからは先生と呼びましょう。皆さんにとっては弟の丈ではなく、指導者として仰いでいる先生なのですから──そうです、先生を信じ、ともに歩んで行くならば、次々に奇蹟が生じて行き、道は展け、美しい花々で飾られる、ともし皆様が思っていらっしゃるならば、あたくしには大きな危惧がございます。
先生はなんの苦もなく自覚を得、宇宙の真実を知ったのではないことを、あたくしはだれよりもよく知っているからです。
子供のころの先生は、ひ弱で腺病質で、病気ばかりしていて、お医者様までが無事に成長できるかどうか疑問に思っておられたようです。とても気が弱くて泣き虫で、年下のもっと小さな子供にもいじめられて泣くばかりでした。
今の先生からは、とうてい考えられないことだ、と皆様はお思いになるでしょう。親の目から見ても、鬱陶しいほど取り柄のないどうしようもない子、と思われていたかもしれないのです。
子供のころの先生は、子供らしい生気もなく活発さもない、陰気なすぐに泣く、子供仲間にも嫌われ疎まれる、魅力のない子供だったのです。姉のあたくしの口から申し上げるのですから、これほど確かなことはありません。
先生は子供であっても、それを痛く感じていたのでしょう。劣等感が異常なほど強い子供になって行きました。自分は駄目なんだ、取り柄がないんだ、といつも先生は思っていたようです。
本当に気の弱い子で、ちょっと叱られてもすぐに泣きました。だめよ、と一言それほどきびしくない調子でいわれても、簡単に泣いてしまうほど気が弱かったのです。
その弱い弱い子供だった先生があることを境いに変わりました。ある時、姉のあたくしがつまらぬことで親の怒りを買い、手ひどい叱責を......折檻を受けたことがございます。すると、気の弱いことでは天下一品の、親から負け犬とまでいわれていた弱い子供が、突如目が覚めたように、折檻を加える親に向っていったのです。
あれほど信じられぬ驚きはございませんでした。したことは決してよいとは申せませんが、あたくしに折檻を加えている、怖い父親に向って打ちかかったのです。
当時の先生にとって父親ほど恐ろしい存在はありませんでした。声を聞くだけで小さく萎縮してしまうほどでした。その世の中で最も恐ろしい父親に向って行かせたのは、なんだったのでしょう。姉のあたくしを守りたいという一念が動かしたのです。先生は本当に目が覚めたようでした。愛する者を守ろうとした時先生は勇気に満ち奮い起ったのです。それは絶望的な勇気でしたが、先生を変えるには充分でした......
以来、先生の性格は変りました。弱い負け犬の先生はもうどこにもいませんでした。もちろん、全てが善い方向に変ったわけではありません。先生は人が変ったように強い自己主張を持つようになりました。恐ろしいほど負けん気になり、人に遅れをとることを何よりも嫌い、恥とするようになりました。
先生は一つの極端から極端へと走ってしまったのです。先生はひどく負けん気の性格に一変しましたが、その中で強い劣等感が優越感へ、そしてまた劣等感へとくるくる廻るのがはっきりと目に見えるようでした。そのことが、どんなに先生を苦しめ続けたかわかりません。強い自負はあっても、自信そのものではないのです。ひっきょう自負と自信はまったく似て非なるものなのです。
自負とはいつも自分を他人と比較する心です。いつも比べ続けて気をもみ続け、優越感と劣等感がくるくる廻り、一刻として心を休ませることができません。ぎらぎらするように戦闘的で他人に圧迫感をもたらしますから、他人にはそれとなく疎まれます。見ているだけで気疲れしてしまうのです。でも本人には不思議でしかたがありません。
自負に見合うほど、他人が自分を認め、敬意を払ってくれないからです。自己に関する限り、他者と自分で下す評価はいつも食い違ってしまうのです。これほど心外であり、また不愉快なものはありません。いかにいいところを見せても、他人はあまり感心してくれないのです。
結局、自負とはそのようなものです。本当の自信とは全く違います。自信とは人々との心の結びつき、調和の中で培われるものであって、自他を比較し優劣を競う心の中からは決して生れてこないものではないでしょうか?
人並優れた才能を持つ人間が人々から大いなる賞讃を受け、自他ともに己れの才能に大きな評価を下したとしても、それは一時的な一致にしかすぎないようです。自負心は本人の進歩を妨害し、知らぬ間に評価は食い違って行きます。本人はいつまでも限りなく優れているつもりでも、他者の目はどんどん冷えて行ってしまいます。自負は決して長続きしないのです。
先生はその自負心にずっと苦しみ抜いてきました。いつも自分と他者を比較し、優劣を計り、心を波立たせているのです。真の自信がないからです。自己中心、自己本位の心に自信は縁がありません。
先生がどれほど孤独であったか、皆様には見当もつかないのではないでしょうか。先生が最初から理想的な、人々の尊敬を受けるに足る指導者だとお考えなら、それは幻想にしかすぎません。
先生はいかに努力しても、人々の信望を集めることが出来ない自分に深く悩み続けてきました。事実、先生はいつも苛立っており、先生の傍にいるだけで他の人々まで心が落着かなくなってしまったからです。
皆様は、そんなこと信じられない! とお思いになるでしょう。そんなに人間って変るものなのだろうか、と......でも、それは本当のことなのです。先生は長所は沢山あるにしても、人間的に圭角のある少年でした。いくら努力しても人々の敬意を集めることができず、それどころか反対に敬遠され疎まれるばかりで、いつも傷ついていました。見ていて、いたましいほど悩んでいました。
あたくしが皆様に申し上げたいのは、真の自覚が人を変えるということなのです。先生は昔からあれほど素晴らしかったわけではありません。何度も屈曲しながら、苦しみ悩みながら、今の先生になったのです。
でも、一瞬にして変り、今の先生になったわけではないのです。先生があれだけ苦しんだり傷ついたりしてきたのは、真の自分を捜すための苦しみだったと思うのです。もし先生がなんの努力もせず、のんべんだらりとして生きてきたならば、決して自覚など得られなかったでしょう。巨大な〝力〟を得た時、これで世界を従え、足許に跪かせ、覇者として君臨してやろう、と思いたつことなしに、〝力〟では人々の心は変えられないのだ、と悟ったのは、先生がそれまで味わった苦しみが教えてくれたのかもしれません......
先生は自負を捨て、真の自信に至る道を選んだのだと思うのです。それこそが先生にとって本当の自覚だったのではないでしょうか。
皆様が今の先生を外面的にだけご覧になっている限り、それまでの過程は何も見えてこないと思うのです。先生は特別の存在であり、自分たちとは次元の異る存在だ、と頭から信じこんでしまうことがないといえるでしょうか?
先生は偉大な存在であり、指導者だ。自分たちはただ黙って先生について行けばいいし、それで間違いないのだ......そうした他力本願的な考えが皆様の心の間に芽生えていないと果していい切れるでしょうか?
皆様が東丈を師として仰ぎ、先生と呼び、従おうとするならば、師のように生きることが何よりも大切なのではないでしょうか? 先生は最初から偉大であり、自分たちは違う。つまらない平凡な人間なのだという考えが、もし皆様の心の内にあるとしたら、それは決定的な間違いだとあたくしは思います。
それを皆様に申し上げたくて、敢えてあたくしは先生のダメだった頃のことをお話しいたしました。
一口に自覚といいましても、これだけ自覚したから、もうこれでいい、ということはないのではないかと思います。次の段階の自覚、更にその上の段階の自覚、と限りがないもののように思えるのです。先生はもう次の段階の自覚に向って努力しているのです。
もし皆様が先生を上方に仰ぎ見ているだけで、自分たちは及びもつかない、とお考えでしたら、それは大きな思い違いではないでしょうか。
もしかすると、この場にいらっしゃる皆様の中で、自分はダメな人間で、とうてい先生にはついて行けない、とお考えの方がおられるのではないかと思って、このような内幕の話をさせていただきました。先生は最初から優れた指導者であったわけではありません。皆様と同じなのです。同じ立場に立っていたのです。
今後、先生とともに歩もうと望まれる人々は更に増えてくることでしょう。でも、先生の外面だけをご覧になっても、真実は決して見えてきません。なによりも大切なのは、先生の心をともに生きることではないでしょうか......
さもなければ、たとえ先生の素晴らしい講演や、偉大な奇蹟に触れえたとしても、実になることは学べないのではないかという気がしてしまうのです。先生は皆様に真の自覚を促しているのであって、自分を崇めたてまつることを望んでいるのではないと思います。
偉大な指導者とともに歩み、同時代を生きることは人間として最高の幸せです。けれども師の心を自らもともに生きなければ、なんにもなりません。口先だけで素晴らしい言葉を受け売りしたとしても、行動が伴わなければ、実践がなければ、つまりそれを画餅というのではないでしょうか。
苦しいことが少しあっただけでへたばってしまうならば、いくら先生を崇めたてまつってもなんにもなりません。人生は明るく楽しいことばかりではなく、必ず波風が立つのです。苦しいことに出遭った時にどうするかということです。満ちれば欠けるというのが世の習いと申します。満月は必ず欠けて行くのです。
先生がどのような過程を経て来たか、どのような苦しみを克服して来たのかを、肉親の立場からお話し申し上げました。皆様にも同じ試練が巡ってくるかもしれません。けれども苦しみの時こそ、自覚の時であることを先生は証明しています。皆様も同じことだと思うのです。先生は決して特殊な条件の中で自覚を得たわけではありません。
それを申し上げたくて、あるいは先生が聞けば苦笑するようなお話をいたしました。なぜならば、先生の真の値打は、その巨大な奇蹟の力でもなく、大群衆を熱狂させ、帰依させる講演でもなく、先生を指導者として仰ぐ皆様がどのような生き方をされるか、ということで評価を下されるからです。
皆様の一人一人の自覚が一番大切なのです。それは先生と同じような〝力〟を得ようと努力することでもなく、先生のお話を上手に受け売りすることでもありません。みなで集まって明るく楽しい仲間の雰囲気を楽しむことでもありません。一人一人が先生のしたように、己れの弱さと闘い、克服していくことではないでしょうか? つらいこと苦しいことが行く手をさえぎっても、恐れずに立ち向って行く勇気がもっとも必要なのではないでしょうか。
人生の波風が立った時、それを避けて逃げ廻ることなく立ち向うことだけが、人間に真の自覚をもたらしてくれるのだ、とあたくしは思います。とりもなおさず先生はそれを行ない、自覚を得たのですから......
今日は思いがけずに、ご挨拶だけをするはずがこのようなきびしいお説教めいたことを申し上げてしまいました。昔──はるか昔のように思われますが、自覚を得る前の先生に対してこのようなことを、夜を徹して話し合ったことを憶えております。
このような固苦しいお話を最後まで静聴していただいたことを感謝いたします。おそらくこれが最初で最後になると思います。どうもありがとうございました」
はっとするほどの拍手が湧き起こった。一同は手が痛くなるのも構わず力いっぱい拍手している。
三千子は凄まじい拍手にびっくりし、顔を赤らめて、後へしりぞいた。
前方に座って聴いていた会員たちが立ち上って、いっせいに群り寄り、握手を求めてきた。目が赤くなるほど感激している。差し伸べる手は強く打ちすぎたのか真赤に脹れ上っているほどであった。
ありがとうございます、と彼らは目を泪で光らせながら、先を競って三千子の手を握りしめた。三千子にしてみると、彼らの強い感動ぶりは意外であった。口を衝いて出る言葉をつむぎだしただけで、さほど感動的なことを口にしたという自覚が乏しかったからだ。
握手攻めにあっている三千子を見かねて、井沢郁江や内村が間に割って入り、彼女を救い出した。さもなければ、会員たちは飽くことを知らず三千子に感激を表明し続けたであろう。
「お姉様は急いでおられるので」
と、郁江は三千子の周囲にひしめいている会員たちを説得した。
「先生ともまだお逢いになっていらっしゃらないんです。また今度お急ぎでない時に、お話してもらいましょう」
「皆さん、お姉様を拍手でお送りして下さい!」
と、メガネをかけた内村が叫んだ。色白の顔が感激で真赤に染まっていた。どっと歓声が湧き、人々は拍手を再開した。郁江は三千子の手をぐいぐい引いて、人垣の中から抜け出した。菊谷明子がエレベーター・ケージを停めて、開扉ボタンを押し続けたまま待っていてくれた。
三千子は呆然としたまま、エレベーターに押しこまれた。会員たちは歓声をはりあげ続け、それは扉が閉まってケージが下降した後も上方でずっと聞こえていた。
「お姉さん、素晴らしかったわ!」
と、三千子の手をしっかり摑んだままの郁江がうわずった声音でいった。これほど興奮している郁江を見るのは初めてだった。
「さすがは東君のお姉さんですね! あたし痺れちゃった! あれっぽっちの人数の前でやるなんて本当にもったいない......東君の講演会でお姉さんもいっしょに講演して下さい! もっと沢山の人たちに聞かせないと、惜しいと思います!」
「とんでもない」
と、三千子はあっけにとられていった。
「あたくしはただ無我夢中で喋っただけですから......そんな恐ろしいことをおっしゃらないで下さい」
「いいえ。まったく、血は争えないもんだと思いました! 東君と本当にそっくりなんですもの! それは東君のより優しいですけどね、でも凄い迫力! じーんと痺れちゃった......考えてみると、東君があれほど尊敬しているお姉さんのことですから、当然といえば当然なんですけど」
「つい調子に乗って話してしまったんです。穴があったら入りたいですわ」
「東君に聞かせたかったわ。彼、きっと喜びますよ。だって孤軍奮闘なんですもの」
「余計なことをしたと怒られるかもしれませんわ。もう二度とはしませんから......」
「あら、どうしてですか?」
郁江はあっけにとられて三千子を見詰めた。三千子が本気なのを知り、ひどく驚いていた。
「あんな素晴らしい講演をなさったのに......そんなもったいないことおっしゃらないで下さい」
「やはり、最初で最後ということにしておきましょう」
三千子は目を真円にしている郁江に微笑みかけた。
「無断でつまらないお喋りをして申しわけなかった、と丈に伝えて下さいます?」
「えっ、このままお帰りになっちゃうんですか? 東君にも逢われずに? そんな......彼きっとがっかりしますよ!」
「今日はただ着替えを届けに来ただけですもの。仕事の邪魔をしたくありません」
「仕事の邪魔なんて!! お姉さん、もう幾日も東君に逢っていらっしゃらないんでしょ? ちょっとだけでもいいから、事務室へ寄ってお話してって下さい......」
エレベーターを一階で降りると、三千子は微笑しながら、きっぱりと郁江の慫慂をしりぞけた。郁江の手をほどく。
「丈はもう公人ですもの。姉だからといって貴重な時間を取りあげるわけにはいかないでしょう? 用事があれば、丈の方からいってくると思います。電話でだって話せますし。一期一会ですよ、郁江さん。あなたにはよくおわかりでしょ?」
「一期一会?」
郁江ははっとしたように三千子を見詰めた。瞳にはショックの色があった。
「では、皆様によろしくお伝え下さい」
三千子は頭を下げて、エントランスを出て行った。あっけに取られていた郁江が気を取り直して後を追う。外はすっかり暮れなずんでいる。
露出した膚を切り裂くような寒風が吹きまくる外で、三千子はコートの袖に腕を通していた。
「駅までお送りします」
「どうぞご心配なく......そんななりじゃお寒いでしょう? 風邪を引きますよ」
「平気です。あたし寒さに強くなったんです。これくらいだったら、シャツブラウスだけでも平ちゃらです」
言葉通り、郁江はけろりとした顔色をしていた。薄手のブレザーを着ているだけで、痛みさえもたらす寒風をまったく気にしていないようであった。
「それより変な送り狼が出てくるといけませんから、お姉様を護衛しなくちゃ」
「送り狼? 高鳥さんのことですか?」
「あたりです。あたし、彼のことをとても用心しているんですよ。みんなはなぜなのかよくわからないみたいですけど」
「なぜですの? 郁江さんはどういう風に高鳥さんを見てらっしゃるの?」
「もしかすると、お姉さんにもわかっていらっしゃるんじゃないかしら?」
「巧言令色ですか?」
「少なし仁、ですよ。お姉さんもぴんと来たんじゃないかと思います。でも、さっき夏本幸代さんにいっても通じなかったし、杉村さんでもあまりわかってないみたいです。でも、お姉さんなら必ずおわかりじゃないかという気がしていました」
「そういえば、ちょっと気になりますわね。気のせいかとも思うんですけれど」
三千子は躊躇いがちにいった。相手が郁江でなければ決して口にしなかったろうとわかっていた。
「そう! それですよ! 第一印象って物凄く大事でしょう。時間が経つに従ってわからなくなっちゃいますけど、第一印象はわりと純粋な勘が働きますもん。ぞくぞくっとしたんですよ、あたし。あんなに感じがいい男の子なのに、金属を舐めるような味がしたんです。あ、おかしいな、とすぐに思いました。それから用心するようになったんです」
自分も同じだ、と三千子は思った。郁江とそっくりの感じ方をしている。しかし、気のせいかと思っていたのである。
「彼、お姉さんに何を話してたんですか?」
「あたくしの話が聞きたいといってました。個人的な悩み事の相談に乗ってほしいって......それで、さっき丈が自覚するまでのお話を皆さんの前でしたんです。今度自宅を訪ねてもいいかと尋かれました」
「それで、なんと返事なさったんですか?」
郁江はただならぬ関心を見せて尋ねた。
「丈と相談してからお返事するって申し上げました。一存ではお答えできないって......」
「はん、それが手なんですね......」
郁江は唇を引き緊めて考えていた。ゆっくりと歩いているが、もう道玄坂を半ばまで降ってしまっていた。渋谷駅までは間もない。渋谷低部の盛り場はもうすっかり色づいていた。夕刻の慌しい雰囲気が人の流れによって運ばれ、渦を巻いている。
「でも、郁江さん。そんなに心配なさることもないのじゃありません。丈はしっかりと人を観ていますから。杉村さんが気付かれないというのは、ちょっと意外ですけど」
「彼は物凄く巧妙なんですよ。でも、お姉さんのおっしゃる通り、先生が騙されるってことはありえませんよね。ただ気になるのは......」
「気になるのは?」
「先生が黙っていることです。だから、これはひょっとすると、あたしがしっかりしなきゃいけないことかなって思ってしまって」
郁江が東君と呼んだり、先生と呼んだり微妙に混乱しているのが、三千子には興味深かった。以前には決して先生呼ばわりはしなかった郁江なのだ。心境の変化が生じ始めている証左であろう。
「でも、なぜ杉村さんが気付かないのでしょう? あの敏感な杉村さんが......?」
「超能力があっても、人は騙されるものじゃないですか? 相手はいい人間だと先入感を持っていたり、そう頭から思いこんだりすれば。人の心が読める力があっても、騙されたいと思っていれば、騙されてしまいますよね」
「でも、どうして、騙されたいなどと思うのでしょうか?」
「だって、たとえば男の子はきれいな女性に弱いでしょう? 虫も殺さないような優しい顔をしていても、心の中は凄まじい悪意が溢れてるなんて、考えもしないと思うんです。内心、美人がどんなことを考えているのか、男の子が知ったら腰を抜かしますよね。人間はありのままを見ないで、自分で自分を騙しているってことを普通にやっていると思うんです。だって真実より幻想の方が常に好ましいんですから。その点、男も女も変りはないと思うんです。
だから、杉村さんのような超能力者でもみごとに騙されるってことがありうると思うんです。杉村さんは〝GENKEN〟で数少い超能力者だし、周囲に対してちょっと気が引けている所があるんじゃないかしら? それで、高鳥君みたいな超能力者が出現すれば、頭から好意的に迎えようとする。彼は感じがよくて人あしらいが巧いですから、もう吟味するなんてことは考えもしないんじゃないですか? 固定観念の虜になれば、いくら超能力者だって弱いですよ。それに杉村さんはもともと、ああいうタイプに弱いんじゃないかな? 高鳥君って頭が切れてカッコいいでしょう......」
この子はなんという容赦のない鋭い目で人を見るのだろう、と三千子は感嘆した。もともと洞察力に優れているのかもしれない。しかし、このような鋭さは、前は郁江に感じられなかったものだ。
一度自分は死んで再生した、と郁江は自称しているが、もしかしたらそのことにも関係があるのかもしれなかった。全体の雰囲気も以前の郁江とは別人のように変っている。
「丈はそのことについては、何もいわないのですか?」
「何一ついいません。徹頭徹尾、無視しているみたいです。でも、まさか東君が彼の人気に嫉妬してるはずはありませんよね? 東君はそんなに心の狭い人じゃないし......だから、何かあるな、と思ってるんです」
二人は駅の階段を昇り、井の頭線の改札口の前に出た。まだ話したりないが、雑踏と喧騒の中では気が落着かなかった。三千子は埃っぽい騒がしい雰囲気にもっとも弱い。いつも家にこもって仕事しているせいであろう。
「でも、そのうちにわかりますよ!」
と、郁江は三千子の耳許に口を寄せていった。
「上から命令されて動くだけだったらしょうがないんですもの。会員の一人一人がどんな判断力を持つかということですよね」
「またお話しましょう、今度ゆっくりと......」
と、三千子はいった。郁江の話しぶりは好もしかった。妙なてらいやポーズがなく、率直で鋭角だ。女の喋り方ではなく、少年ぽいのだ。ハラハラするようなことを平然と喋る。だからといって無神経なのでもない。
「今度お宅をお訪ねしてもいいですか?」
「いつでもいらして下さい」
三千子は頭を下げて、改札口へと向う人の流れに乗って遠ざかって行った。郁江は背後から来る人波に背や肩を押され、見送りをあきらめて渦巻く雑踏の中を抜け出した。駅の構内は国電へと向う流れと私鉄から排出される流れが入り混り、ひどいごった返しぶりであった。大柄というにはほど遠い郁江などは人波の中に完全に埋没してしまう。
夕暮れ時のひどいラッシュの中にあっても、郁江の目は高鳥の姿を抜かりなく見つけだしていた。ダスターコートを着たスマートな長身が、真剣な表情で人波にもまれている。よほど何かに気を取られているのか、逆方向から来る郁江に気付いた様子はない。
郁江はほくそ笑むような表情でにんまりと笑った。高鳥は三千子に意図的な接近を計っている。帰途、再び三千子にコンタクトする機会を得ようとして果せなかったのであろう。いうまでもなくそれは、郁江が送りに出たためだ。高鳥にとって郁江は煙たい存在なのだ。
郁江はにっこり笑って、高鳥に声をかけるタイミングを計っていた。
7
杉村由紀が来客を送り出して、執務室を覗くと、東丈は依然として応接セットのソファに座り続けていた。何かしら困惑で頭を悩ませているようなぎごちない姿勢だった。
帰ったばかりの来客は光年社の二人組で、インディアン戦士のような池内と部下の小浜である。池内は二度目の来訪だが、担当編集者の小浜は毎日のようにこまめに足を運んでいる。
話し合いで何かまずいことでもあったのか、と由紀は気になった。しかし、編集者たちにそんな気配は全く見受けられなかった。池内などは上機嫌で引上げて行ったのだ。
「こっちへ来て下さい、杉村さん」
と、丈は気付いて由紀に声をかけた。
「はい。何か?」
杉村由紀はおっかなびっくり執務室に入った。
「そこへ掛けて下さい」
丈は改まった口調でいい、由紀を一層緊張させた。
「はい......」
やはり何かあったらしい。席をはずしていたので、編集者たちと何が話し合われたのか由紀にはわからない。装幀やイラストレーションの人選の件で先生にお会いしたいという申し入れを聞いてはいる。しかし、丈の態度はそうした件とは関りがないように思えた。もっとずっと深刻な顔付であり、重大なことを由紀に話そうとしているようで、彼女は胸をドキドキさせながら、テーブルをはさんで丈と向い合ったソファに腰をおろした。
「杉村さんにご相談があるんです」
「はい?」
由紀の顔は青白く引き緊まってきた。丈はそれにさっぱり気付いていないようである。
「これを見て下さい......」
丈は手にしていた事務用封筒をテーブルの上に滑らせた。出版社のネーミングが入った茶封筒である。光年社のものだ。
「内部を拝見してよろしゅうございますか?」
由紀はちょっと躊躇して尋ねた。
「どうぞ見て下さい」
由紀はおずおずとすでに開封されている封筒の中身を引き出した。
「小切手ですね?」
「そうです。その金額のところをよく見て下さい......」
丈は困ったようにいった。いわれるままに金額の数字に目をやって、由紀はまあ、と声をあげた。
「凄いでしょう?」
と、丈がいった。
「ええ」
金額は二百万円である。由紀もさすがに目を見張る思いを味わった。一九六八年当時はさほどインフレが進行していないせいもあって、大学卒の初任給は四万円にも達していない。丈が深刻になってしまうほどの金額といってもよかった。
しかし、池内から印税一括支払いの話を聞いているので、由紀には丈ほどの大きな驚きはなかった。
板倉俊彦の秘書のころにも、この程度の印税は扱い慣れており、珍しいというほどのこともなかった。板倉の著書がベストセラーに顔を出せば、印税はもっと巨額になる。
しかし、丈がショックを受けるのは当然ともいえるだろう。月額五千円足らずのお小遣いに慣れている高校生が、二百万円もの小切手を受取って目をまるくするのは当り前である。
由紀には目を瞠って驚いている丈が好もしかった。高級サラリーマンの年収に匹敵する金額をどう扱っていいかわからずうろたえている丈は、年齢相応に可愛らしかった。
「どうしたらいいでしょうか?」
と、丈は途方に暮れたようにいった。
「こんな大金、困りますよ」
「でも、正当な報酬ですもの。それに、〝幻魔の標的〟が池内さんの予想通りベストセラーになりでもしたら、この程度ではすまなくなりますわ」
「すまないって、どうなるんです?」
「これより一ケタ多い印税が入ってきます」
「冗談じゃないですよ。僕はそんな沢山の印税は要りませんよ」
「でも、出版契約書では、本の定価の十パーセントを印税として支払う、と明記されていますもの。先生が要らないなんておっしゃったら、光年社の方で困ります。それに、この印税は先生の収入ですから、税金を払わなければならないんですよ」
「面倒だな......税金なんてどうすればいいんですか?」
丈は顔を曇らせた。考えたこともない障害が出現したという顔であった。
「板倉先生のところで、あたくし税務をまかされて公認会計士を知っていますから、話をしてみましょうか?」
「そうして下さい」
丈はほっと安堵の吐息をついた。
「杉村さんがいて本当に助かります。全部杉村さんにおまかせしますから、よろしく頼みます」
「全部まかされても困りますわ。銀行に口座を作ったりしなければならないし、預金をどうするかという問題もありますでしょう? 定期預金にするとか、なさいますか?」
「僕はわからないので......適当にやって下さい」
「そうおっしゃられても......ではお姉様とご相談の上、進めさせていただきますから」
「そうして下さい」
丈は金銭のことが鬱陶しくてならないようであった。
「僕は金なんか要らないんです。考えてみると物凄く僕は恵まれていますからね。この会長執務室だって秘書室だって贅沢すぎるほどでしょう? 杉村さんのような素晴らしい最高の秘書が助けてくれるし、この上大金がどんどん入るなんて、空恐ろしくなりますよ。こんなことで本当にいいのかと思ってしまいます」
「天が先生に助力の手を差し伸べているからですわ。そんな恐縮なさることはございません。先生に対して必要なだけ、天はバックアップするという意志表明ではないでしょうか? お金は必要だから入るとお考えになって下さい。先生はこれからもっと積極的に活動なさらなければならないんですから......会に遠慮しないで必要経費をお使いになれますわ」
「ああ、そうですね......その小切手は杉村さんがあずかっておいて下さい」
「では、とりあえず銀行に先生の口座を設けまして、預金しておきます」
小切手を由紀に手渡してしまうと、丈の関心は突如失せた。けろりと忘れてしまったようであった。由紀は小切手を封筒に戻して、ソファを立った。
「申し遅れましたけど、先程、田崎宏さんからお電話がございました。至急お目にかかってお話したいことがあるそうです。だいぶ急いでおられましたが、どうお返事いたしましょうか?」
「田崎氏とは元旦以来逢ってないな。じゃ、今夜、塾の方へ行く、と返事して下さい。塾の様子も見たいので......」
「先生がお出かけになるのですね? わかりました......何時ごろがよろしいですか?」
「八時ごろ......そう伝えて下さい」
「かしこまりました」
立ち去ろうとする杉村由紀を丈はあわただしく呼び止めた。
「郁姫は?」
「今、外出しています。今夜お連れになるのですか?」
「さすがに察しが早いですね。元気になった郁を、田崎氏や市枝君たちに見せてやらないとね」
丈は笑いながらいった。
「では、郁江さんが戻りましたら、そう伝えます」
由紀は小切手の入った封筒を手にして、秘書室に戻った。時計を見ると、まだ銀行が開いている時刻であった。秘書見習の夏本幸代がもの問いたげに由紀を見た。
「郁江さんはまだ?」
郁江はまだ戻らないという夏本幸代の返事であった。
平山圭子は現在定期テストのさなかで、会へは顔を出していない。二人が欠けていると、秘書室は火が消えたようだ。
夏本幸代は性格的に地味な娘で、一人でしんと静まり返っている。自己充足の気味があって、鈍重で、切れ味はよくない。郁江とは正反対の持ち味だ。丈の好みとはおよそ合わないはずである。丈がなぜ夏本幸代を秘書見習に指名したのか、よくわからない。もう一人の野沢緑もおよそ独善的な女の子で、高鳥に熱を上げて秘書室を離れて行ってしまった。
由紀が志望者から選べば、違う結果が出たことは明らかだった。夏本幸代は適任とは決していえないのである。秘書室にいるという自己満足だけで終始しているように思える。自覚も忠誠心も乏しい。ボランティア活動を半ば趣味的に捉えている。郁江や圭子のレベルとは明白に格落ちしている。
会員のカッコいい大学生などに声をかけられると、仕事のことなど、とたんに脳裡から消えてしまうという無自覚さが、夏本幸代の場合にもうかがわれる。野沢緑が高鳥にのぼせあがり、一階を去ったことに夏本は批判的だが、自分も同じことなのである。
丈の意図は摑めないが、この指名にはなんらかの意味があるのだろうと考えて従うほかはない。しかし、気もきかず、真摯さも足りないというのでは、由紀が苛立ってしまうことは免れない。平山圭子たちが驚くほど優秀であるだけに、資質の相違が目立ちすぎてしまうのだ。
杉村由紀が教師肌でないだけに、よけいに夏本幸代の自己充足的な鈍感さがもどかしく苛立たしくなってしまうのかもしれない。何もかも自分でやったほうが手取り早く正確な結果が得られるからだ。
自分に教師は務まらない、とつくづく思う。その不適格な自分に、丈はどうやら教師役を務めることを期待しているようであり、それが由紀の気苦労のたねであった。加うるに、この数日、郁江が勝手な行動で秘書室の統制を乱す傾向があり、由紀の気を重くさせた。注意すれば素直に謝まるのだが、すぐにまた同じことをする。私用で秘書室を勝手にあけてしまうのだ。用事を頼もうとしても、どこにいるのかわからない。平山圭子は丈の命令で休んでいるし、秘書室は無秩序のきわみであった。
一匹狼の気質がある上に、完全主義者の気を持つ杉村由紀は、丈の真意が摑めずに懊悩の火種をあちこちに造っていた。自分がもっとも苦手なことをやらされているという気がしている。他人を育て、教育するなど、自分には無理だ。管理職は自分に全く向いていない。
せめて、自分に秘書見習の志望者を選ぶことをまかせてもらえたら、もっとやりようがあるだろうに......
なによりも杉村由紀を気重くしている最大の原因は、丈の真意が把めないということだった。丈がまさか、自分のやりにくいようにわざとしているとは思えないが、まさにそう解釈する他はなくなってしまうことが、あまりにも多すぎた......
「ちょっと銀行へ行ってきます」
と、由紀は夏本幸代へ向って声をかけた。
「いってらっしゃい」
と、夏本が応える。それがいかにも鈍重で由紀は安心できない。留守中に電話がかかってきても、まともに処理できそうもないのだ。まるで小学生の少女に留守番させるような心許なさがある。
この女子大生には気働きというものが欠け落ちている。真摯な誠実さが足りないので、何をやらせても満足に出来たためしがない。
そのくせ、本人は変に自己充足した猫みたいに満足げなのだ。由紀が秘書室をあけている間、丈が何事か用事を思いついたら、と思うと気が気でなくなる。早い話、お茶の淹れ方一つ知らない。玉露に平気で熱湯をかけたりしている。家庭で甘やかされて、何一つ自ら手を染めたことがないらしい。
批判的になりすぎてはいけないと思いつつも、その気配り気働きのなにもない、のっぺりした平板な精神構造には嫌悪を禁じえない。肥満猫のような鈍重な、薄膜で覆われたような顔を見ていると腹が立ってきてしまう。
自分の感情を放置しておくと〝気がきかない〟〝礼儀知らず〟〝口のきき方、敬語の使い方を知らない〟〝不誠実でいい加減〟と、ありとあらゆるあらを数え上げている自分に気づき、自己嫌悪に陥ってしまうほどだ。女の底意地悪さを自分にも見出してしんそこ疎ましくなってくる。いったい丈は何を考えているのだろう、と嘆きたくなってしまうのである。
東丈のお膝元というべき秘書室で、この有様なのだ。むろん、最大の責任は自分にあるとわかっている。わずか四名の秘書室もまとめられなければ、結局は丈の恥になる。そう思って、由紀は心を立て直した。温室育ちの女子大生が、魔法ではあるまいしにわかに有能な秘書に早変りするわけもない。一人でもいい、平山圭子のように優秀な秘書が育っていれば満足すべきなのかもしれなかった。
己れの完全主義を他にまで押しつけようとしているのが、最大の誤まりなのかもしれないのだ......
杉村由紀はコートを着て、寒風の中に出て行った。気分が陥ちこんでいる時は、てきめんに寒さが体にこたえる。暗く鉛色の鬱陶しい空が頭をぐっとおさえつけてくるような圧迫感をもたらす。
丈は秘書室で生じている軋轢など気付いてもいないように振舞い、由紀の責任を問う気ぶりもない。野沢緑が秘書室を辞めるという報告も無関心のような顔で聞いていた。なぜなのか、と尋ねることすらしなかった。おそらく一切承知しているのであろう。あるいは由紀が報告するより先に、井沢郁江が話したのかもしれない。郁江は丈にとり、もっとも親しい腹心なのだから......
丈が自分をとがめないことでも、由紀は気が重かった。秘書室をまかされた責任者としては、むしろ責任を追及された方がさっぱりする。もっとも丈は、野沢緑を秘書見習として指定した手前、由紀をとがめにくいのかもしれない。
こうした屈折感を持ち、いじいじと思い悩むことが厭で仕方がない。自分の本領は一匹狼なのだからと、自己正当化の思いがともすれば湧いてくる。
もともと自分は、煩瑣な人間関係に堪えられない人であり、組織にはとことん不向きなのだ......
対等な人間関係でありさえすれば、野沢や夏本幸代、そして郁江に対しても快くない感情を持たずにすむのである。とくに郁江が統制を乱すたびに叱らなければならないのが厭でならなかった。郁江は丈と特別な結びつきを持った存在であり、それがあって恣意的に振舞いがちになるのは、人間心理としてやむを得ないだろう。しかし、それなら丈がたしなめてくれればいいのに......と思わずにいられないのだ。丈がうらめしくなる。
むろん、こんな感情が馬鹿げており、愚痴でしかないのはよくわかっている。三十を越した自分でさえこの有様なのだ。この複雑で位相のバラバラに異る人間たちの心を、丈はいったいどうやってまとめあげて行くのか、心許なくなってしまう。
丈はいったい何を考えているのだろう、と由紀の考えは堂々巡りの末にそこに舞い戻るのだった。
それさえわかれば、もっと他にやりようもあるのに......
渋谷駅前の銀行へ向って、道玄坂を下って行く杉村由紀の足がぴたっと停まった。大通りをはさんだ、百軒店の入り口に井沢郁江の姿を認めたのだ。この寒空にコートも着ずにブレザーの上衣だけで寒そうにもしていない。彼女は明らかに昨年までの郁江とは体質までも変ってしまっている。強大な生体パワーの持主で寒さ知らずの丈とよく似てきている。
しかし、由紀を足止めさせたのは、郁江の連れが高鳥だと気付いたからであった。スマートな長身の高鳥はダスターのポケットに両手を突っ込み、小柄な郁江を覗きこむようにして、何事か熱心に話しこんでいる。
無断で秘書室をあけて、高鳥と逢うような用事でもあるのだろうか。野沢緑の二の舞いではないか、と由紀は苦い思いをかみしめた。まさか郁江が高鳥に熱を上げるとは考えられない。
郁江は体を揺って笑っている。まったく由紀の目から見てさえ、嫉ましいほどの魅力的な美少女である。高鳥が長身を二つに折るようにして熱心に喋っている。
杉村由紀はなんとも形容しようのない気分で、通りの対岸の二人から目をそらし、再び坂道を下り始めた。信じられない気分で、まさか、と心に数回繰り返していた。郁江がなんのために高鳥を追い廻しているのか、見当もつかなかった。心に密雲が拡がってくる心地がした。
丈はこのことに気付いているのだろうか......
8
「こちらです、先生」
と、運転手を務めている河合康夫がいった。
「みんな、お出迎えに出てきてますよ」
車のライトの光芒に、出迎えの若者たちが手を振っているさまが照らしだされた。十数名も道の両側に並んでいる。顔見知りが多いが、知らない顔も見える。
「あれが塾? ずいぶん立派な建物だね」
と、丈がいった。
「そうでしょう!? 田崎の師匠ってやることがでかいですよね。先のことを見越してるから、七、八十人は入れますよ」
と、河合康夫はわがことのように得意気にいった。大邸宅である。敷地も広く、何千坪もあるだろう。高い植え込みで四囲はかこまれている。
「どこかの大企業の寮だったらしいです。だから設備は至れり尽せりですよ」
河合康夫の運転する車は、大きく開かれた門の間を通り、邸内に入った。車寄せは広々としていて、ばかでかいアメリカ車も窮屈げではなかった。
塾生はバラバラと走ってきて、玄関先に整列した。固唾を飲み、目を瞠って待ち構えている。田崎が自ら車のドアを開けて、郁江、杉村由紀、丈の順番で下車をたすけた。
いっせいに拍手と歓声があがった。小柄な子供が身の丈ほどもある花束を抱えて走ってくる。よく見ると木村明雄であった。
「明雄! もうお前、走れるのか!?」
丈が声をあげた。明雄は両頰を真赤にしていた。真白い息を忙しく吐きながら、大きな花束を丈に向って差し出す。
「ありがとう!」
丈は花束を受取り、明雄と握手した。だれかがストロボを光らせて、せっせと写真を撮っている。明雄は次いで、由紀と郁江とも握手を交わした。真面目くさって歓迎の辞を述べる。
盛大な拍手が鳴りわたり、玄関の扉が大きく開かれて、丈一行を迎え入れた。丈は田崎と握手を交わし、並んでいる塾生たちと次々に握手した。河合康夫の仲間だった不良少年たちが神妙な顔をしている。
最後に真赤な顔をして目に泪を溜めている木村市枝と握手する。
「おめでとう! 明雄が学校に復学するって聞いたよ。明雄はすぐにブランクを回復するだろう。あれほど物凄い勢いで病気を治してしまったんだ。学校の勉強だってすぐに追いつく。明雄は凄い力を持っているんだから」
市枝は何かをいいかけたが、うまく言葉にならなかった。泣き顔になってしまい、両手でそれを隠す。
「さあ、どうぞお入り下さい。ずっと中へ!」
と、田崎が大声でいった。丈は会釈して玄関へ足を踏み入れた。手をつないだ郁江と明雄が続く。玄関はちょっとしたホテル並みの広さを持っていた。ロビーの扉は全て開放されて、大広間の広がりが見える。
「先生を最初にお迎えする光栄ある日ですので、ひとまずホールで、うちの連中の顔を見てやって頂けませんか?」
と、田崎がいった。背広を着ている恰幅のいい体が大人びていた。田崎よりかなり年長の若者は幾人もいるが、田崎の前ではひ弱な若者に見えるから妙なものであった。驚くほどの貫禄である。
大広間はテーブルが並べられ、式典の雰囲気が整えられていた。丈一行に続いて大広間に塾生たちが入る。総勢二十名ほどで、大広間にはたっぷり空スペースが出来た。河合康夫のいう通り、七、八十名はたっぷり収容できそうである。
田崎は本気で塾造りを進行させ、軌道に乗せてしまったようだ。建物だけでも、田崎の実行力の逞ましさを想像させるに足りた。〝検事総長〟とあだ名されていたころの田崎の面影はまったくない。丈に働いたのと同じ力が田崎にも作用し、別人に見えるほどの不可解な成熟をもたらしてしまったようであった。
「諸君の尊敬して止まない東丈先生が、今夜思いがけなく、わが無名塾にお越し下さった。諸君がどんなに感激しているか、俺にもよくわかる。俺も諸君と全く同じ感激を味わっているからだ......」
田崎は張りのある堂々とした声音で、気取らずに喋った。これは立派な〝男〟そのものだ、と杉村由紀は舌を巻く気持で、田崎の言葉を聞いていた。
少年とか若年という固定観念を払い飛ばしてしまうほどの気力の汪溢が感じられる。丈に影響を受けた若者たちは、郁江もそうだが、不思議な人格的熟成を見せて、猶予の時を飛びたち、巣立ってしまう。かえって大人たちの方が既成概念に縛られるあまり、未成熟さに足を取られるという、奇妙な逆転現象が生じてくるようだ。
杉村由紀は自分自身に対する痛烈な皮肉を抱かざるを得なかった。成熟した大人として思考し振舞わなければならないはずの自分が、かえって逆に未熟さを日ましにさらけだしている。自分の幼稚な心が自分でままならないのである。
なぜこんなに幼稚で未熟になってしまったのかわれながら理解できない。しかも東丈の筆頭秘書を務めていながら、この有様なのだ。己れの超能力も、秘書としての能力も少しも助けにならず、自分があまりにも未熟だという自覚が深まって居たたまれなくなる。人里はなれた禅寺にでもこもって自分を鍛え直さなければならないのではないか、と強迫観念に苦しめられる。由紀はまるで自信がなくなってしまっていた。
丈が挨拶したが、単なる自己紹介でしかなかった。青年塾生たちを励ますのかと思ったが、一言もそれらしいことは口にしなかった。それでも塾生たちは目を瞠り、息を詰めて丈をまじまじと見詰めていた。
田崎宏は丈の言葉を期待しているようであり、由紀も一同の期待に応えてやってもいいのではないかと思った。しかし、丈は沈黙し、例によって黒い瞳を冴えざえと光らせているだけだ。

時として、丈の考えることは由紀の理解を絶する。その都度、自分の立つ基盤が揺いで突き崩されるように感じ、由紀は心細くなってくるのだった。
「先生!」
と、塾生の一人が思い詰めたような面持で挙手した。カチカチに固くなり、必死の形相をしている。眉が濃く精悍な顔立ちの若者である。武道青年といった折り目正しさが感じられた。大学生の年輩で、丈の知らない顔であった。
「**大二年の松岡高志です。先生に質問させて下さい! 僕は、先生のご講演を聞き、先生が大宇宙意識の具現者、権化だと確信しました! しかし、他の者にいくら説明しても納得してくれないんです! 先生がどんなに素晴らしいことをいわれたかを話しても、信じてくれません! どうしたら他の者を説得し、信じさせることができるか、教えて下さい! お願いします!」
塾生の松岡は一息に喋り、ぺこりと頭を下げた。喋る内容を暗記していたみたいだ。
「質問は後にしよう」
と、田崎がいった。思い詰めた顔付の松岡によく光る大目玉を向けて説得する。
「先生にお逢いしてあれも聞きたいこれも聞きたいという気持は当然だと思うが、先生はお忙しい。貴重な時間を割いて諸君に逢って下さったんだ。質疑応答はあらかじめ先生のお許しを得てから、次の機会にしたい」
田崎は神秘的な黒い瞳で沈黙している丈に気兼ねしていた。
「いや、構いません。とりあえずその質問にだけお答えします」
と、丈はにこっとしていった。白い歯が覗いて形容しがたいほど親しみぶかい貌になった。張り詰めていたものがふっと緩んで、一同は安堵に揺れ動いた。
丈は滅多に見せないが、自分の笑みの魅力を知っているのだろうか、と杉村由紀は思った。心を暖いもので満たし、融かすような笑顔だ。人々をどれほど惹きつけるかわからない。神秘的な黒い瞳で黙念としている時の丈と、あまりにも落差が甚しいからだ。
「一言でいいますと、松岡君。あなたは友達や知りあいの人々に、そのようなことを信じさせようとしなくても構いません」
「............」
松岡は何のことかわからないという顔で丈を見詰めていた。
「つまり、松岡君は僕が救世主だと思っているのでしょう?」
「はい! そうです! 僕は先生が救世主であることを否定されても、そう信じています!」
松岡は叫ぶように答えた。
「先生は救世主です! 僕の心がそうだと認めているのですから、仕方がありません!」
「人はだれでも心の奥底に救世主のイメージを秘めています。それはイエス・キリストのイメージかもしれないし、釈迦のイメージかもしれません。もし、真の救世主が世に出たとしても、そうした固定観念であるイメージにそぐわなければ、人々は信じたり、受容したりしようとはしないでしょう」
「はい......」
「クリスマス講演会でも確かいったと思いますが、人々が間違った救世主信仰を持ち、自分のイメージにかなった人物に跳びつくのは危険なことです。むしろ、たやすくは信じないという方が正しいありかたなのかもしれません」
「では、先生は人々が信じない方がよいと......?」
「僕は救世主信仰そのものが間違っているとは思いません。人々の心の奥底に、真の救世主とともに歩もうという決意があるのは確かですし、それがなければ、真の救世主は大業を成し遂げることができないはずです」
「............?」
丈の言葉は松岡の理解を超えているようであった。松岡だけではなく、その場のほとんど全員が、丈のいわんとすることの意味がわからずにいた。
「真の救世主は必ず自ら救世主たることを証明していきますから、ご心配には及びません。松岡君が僕を救世主として信じている以上、いかに僕がそうではないといっても、松岡君の心を変えることはできないでしょう。こればかりはどうにも仕方がありません」
「では、僕はそう信じていても構わないわけですね?」
「それは松岡君の心の王国で決めてしまったことですから......しかし、僕にいわせれば、この問題は、救世主ということと切り離して論じることが必要です」
「?」
「松岡君の友だちの方々は、なぜあなたの言葉を信じないのだと思いますか?」
丈は得意の質問を開始した。質問者の方がいつの間にか、丈に質問攻めに合わされることになるのだ。
「それはみんなが、東丈先生を知らないからだと思います。先生にお逢いしたり、講演を聞けば、必ず僕のいうことが正しいとわかるはずなんです......もちろん、僕のいい方が悪くて、話し下手なので、納得させることができないんだと思いますが......」
「ただ話し方が悪い、下手だという理由だけでしょうか?」
「救世主なんていったって、ほとんど通用しないんですよね。お前、頭がどうかしたんじゃないか、とか宗教狂いになってとかいわれます。僕がどんなに一生懸命話しても、こっちが熱心になるほど逃げ腰になります。変な新興宗教に凝るのは止せ、と親友からは忠告されてしまいました。どうやってもうまくいかないんです。ちゃんと話を聞いてくれたのは二人ぐらいしかいません」
「松岡君の話をまともに聞いてくれる人間が少いのはあるいは当然ではないでしょうか? 怪しげな宗教に凝って、むやみやたらに人々を折伏してまわり、迷惑をかけている人たちが沢山いますからね。松岡君が熱心になればなるほど、狂信的なぎらつく目をして、独善的なわけのわからない屁理屈を強引に押しつけてくる〝折伏〟といっしょにされてしまうのではないでしょうか?」
「はい。折伏はよせといわれてしまいました。お前は熱しやすいから、面白そうな新しいものにすぐに跳びつくともいわれました」
松岡は面目なげにいった。
「どうやったら、うまく説得できるでしょうか? それを先生にお聞きしたくて」
「ですから、説得する必要はありません。つまり説得というのは一つの技術です。セールスマンが商品を売りつける話術といっしょです。しかし、話術で人々の心を動かそうとするのは間違いです。松岡君。あなたの友達が幽霊なり空飛ぶ円盤を見た、と告げにきたら、あなたはそれを信じますか?」
「わかりません......」
「何いってんだ、寝呆けんなよ、と友だちにいいませんか?」
「あ、そういうと思います。前に実際にそんなことがありました」
「なぜ、松岡君は、友人の言葉を信じなかったのですか?」
「それは......いつも冗談ばかりいっている奴だし、幽霊を見たなんて与太話をして面白がるつもりだと思ったからです」
「つまり、普段から松岡君にあまり信用がなかったわけですね?」
「はい。人をおちょくるのがうまい奴なんで......」
「しかし、幽霊を見た、というのがもし普段から冗談をいったりふざけたりする人間でなく、信用のおける人だったらどうですか?」
「考えます......」
「あの人のいうことだったら間違いない、人格的にも優れて尊敬できる人だ、と松岡君が思っている人だったら?」
「やっぱり、そういうこともあるのかなあ、と思うと思います。他のことで信用できて、しっかりしてる人だったら、僕も信用するんじゃないかと思います」
「そうでしょうね。もし松岡君がしっかりした信用できる人だとみんなに思われていたら、今度のことでも、みんなの反応は違ってきたかもしれませんね?」
「あっ」
と、松岡は目と口をかっと開き、絶句した。
「わかりました! 先生のおっしゃることがやっとわかりました! みんなを信じさせようとしたら、自分が信用できる人間でなければいけないってことなんですね!!」
「人間の信頼関係は、立板に水で喋る口の上手な相手だからといって簡単には生じません。むしろ口の達者な人間は人々に警戒されます。昔から巧言令色といいますから......一流のセールスマンはむしろ口下手な人だそうです。人間は相手の内に、誠意や誠実さを見つけださないかぎり、心を開かないものなんです。
もし僕が〝真の救世主〟といわれる人を判断するとしたら、まず弟子たちを見ます。もし弟子が口先ばかり達者な受売りしかやらず、口でいうこととやることがバラバラだったら、信用しかねるでしょう。つまり師を見るにはまず弟子を見るにしくはない、ということです。もし師がいい加減な人間であれば、弟子もそうなるでしょう。弟子自身、師より優れているなど、とうてい考えられません。
もし弟子が金銭欲や名誉欲、権力欲の虜囚であれば、先生の本性も怪しいものです。もちろん不肖の弟子ということはあるでしょうが......
ですから、その人が〝真の救世主〟であるならば、弟子たちも決してダメ人間ではないのではないかと思います。世間の人々はまず弟子に接するのです。弟子の責任ほど重いものはありません。もし自分がいい加減で、だらしのない人間だったら、多くの人々を悩ませ、迷わせることになります。もしも弟子たちがそうした自覚を持たないならば、師もまた本物ではないといえるのではないでしょうか?」
「わかりました......」
と、松岡はいたく打ちのめされたように呟いた。
「僕が愚かでした。自分が人に信用されない人間なのに、先生のことをぺらぺら喋って受け売りしたりして、先生の信用まで落してしまいました。申しわけありません......」
「そんなことはどうでもいいんです。大事なのは、松岡君が今後どれだけの努力をするかということです。僕は師ではないし、弟子など持っていません。僕はそんなに大それた人間ではありません。
しかし、松岡君にこれだけはしっかりと胸に刻んでいてもらいたいことが一つあります」
「はい......」
「自覚には限度がないということです。これだけ自覚したから、もうこれでいい、ということはないのです。ああ、素晴らしいことを知った、と思っても、それはその時ばかりで、人間はすぐに忘れます。人間の心はいつもコロコロと転がって変って行くものなのです。素晴らしいことを自覚したぞ、といい気持で一晩寝ればそれで終りです。人間とはすぐに気が変るものなんです。
自己満足すれば、それで終りです。急斜面を必死に這い登っているようなもので、やれやれと一息入れた時はずるずると滑降している最中なんです。
僕自身、人を教導する資格などありません。必死で急斜面を這い登っている人間の一人でしかないんです。でも、がんばれよ、と励ましあうことはできます。だから、僕のいうことはお説教ではなく、励ましの言葉なのだと思って下さい。
類は類をもって集まるといいますが、これは真理だと思います。邪悪な心の人間たちが邪悪な集団を作るように、素晴らしい人たちは素晴らしい集団を作るでしょう。この〝無名青年塾〟が、世の中の土台となって支えよう、縁の下の力持ちになろうという志を持って造られたことを僕は知っています。僕の望んでいることも、まさにそれと同じです。〝真の救世主〟が目覚め、到着した時は、僕もこの〝無名青年塾〟の仲間に入れて下さい。お願いします......」
高揚した精神には泪がつきものであり、若者たちはよく泣いた。感動が噴きこぼれてしまい、自制がきかなくなるのだった。
そんな時、杉村由紀はへんに冷静になってしまい、いっしょに泣くということがなかった。人々の感情の沸点が低いのか、あるいは由紀自身の沸点が高すぎるのかさだかではない。しかし、感情的にあっさりと沸騰してしまい、たやすく泪を流す人々を見ていると、由紀は後ろめたくなると同時に、異和感を持たざるを得なかった。
いかにも自分が冷淡な人間に思える反面、他愛もないことでだらしなく泣いている人々が異様な自己陶酔の波動に溺れているようにも思える。雰囲気だけに左右されている、集団催眠の虜囚ではないかという疑念がひそかに徴してくるのだった。
むろん、急いでそうした疑念は追い払おうとする。邪念を抱いてしまったような罪悪感が生じてくるからだ。内心の葛藤でぐったりと疲れてしまうのはそんな時だった。泪には浄化作用があるから、若者たちは心を洗われて清々しい顔をしている。孤り由紀だけがすえたような心地を味わわなければならなかった。
自分が泪を催さないのは、心が冷やかに硬化しているせいだという気もする半面、つまらないことでいちいち噴きこぼれるほど、やすっぽい泪は持ち合わせないと抵抗したくもなる。
いずれにしろ、泪っぽくはならなかったし、みんなが泣き濡れていても、孤りだけ超然としていたって構わないのではないかと思ったりする。しかし、居心地がよくないことだけはどうにもならなかった。大勢に順応するのは日本人に顕著に見られる心理で、自分だけはずれるのは義理が悪いということかもしれない、と由紀は思った。海外で長期間すごしたせいか、大勢に逆らって孤り異を立てることの困難な日本的状況がとくに不快感をもたらすのかもしれなかった。
せめて、〝郁姫〟と呼ばれるほど応えないことで有名な郁江が超然としていてくれれば救いがあるのだが、その郁江すら流されてしまい、取り残されたように由紀だけ具合の悪い思いをしなければならなかった。
広間で塾生との対面がすんだ後、丈一行は奥の和室に通された。新しい畳の青さがいかにも新鮮であった。むろん、そこまで塾生たちはついてこない。木村市枝、明雄の姉弟と河合康夫の三人が田崎とともに同席した。
「先生、どうもありがとうございました」
と、田崎宏が改まって礼を述べた。彼は畳に座らせると際立って居ずまいが鮮やかであった。武士の折り目正しさだ。十八歳の若者とはとうてい信じられぬ荘重さが加わる。
転生輪廻の記憶が甦り、過去世は武士だったというが、そのせいなのか、と由紀は思った。動作や態度があまりにもぴしっと決まりすぎている。
「井沢郁江さん、おめでとうございます。ご病気の方も、病魔退散と伺いまして、重畳至極です」
田崎は改まった口調で口上を述べ、郁江を照れさせた。いつもは郁江と呼び捨てにして、互いにづけづけといい合っている間柄なのである。
「ええ、おかげさまで......この通りすっかりよくなりました」
などと郁江も真面目くさっていっている。
「先生、昨年は本当に素晴らしい奇蹟ばかり起きましたね!」
田崎は感激癖をまるだしにしていった。
「郁江だけじゃなくて、明雄もこんなに元気になりましたし、河合たちも、市枝もすっかり生れかわったし、なにもかも先生のおかげです。いや、俺自身のことももちろん忘れちゃいけません!」
すかさず呼び捨てに戻ったが、その方がお互いに居心地がよさそうであった。
「本当に奇蹟の連続です! 郁江のこともみんなで大心配しました。市枝と明雄など毎晩二時間も三時間も祈りっ放しで、凄かったようです。市枝など朝まで祈ってたことがあったみたいです」
「先生にただ祈りなさいといわれたもので......」
と、一同の視線を集めた市枝は赤面していった。白い肌がルビーのような赤さに染まって美しかった。
「祈りが通じたんだ。そう思う」
と、丈がいった。明雄が嬉しそうに美しい眼を輝かせて笑っている。このひ弱だった子供は命が輝きわたるような精気を発散していた。少年の体の周囲が錯覚ではなく、明るくなっているようであった。
「なにもかも先生のお力です。あたしなんか何もできませんから......」
と、市枝は喉の詰まるような声音でようやくいった。
「いや。市枝君の祈りが通じたんだと思う」
丈は力をこめていった。
「むろん、郁江のために一生懸命祈ってくれたみんなの祈りが通じたということなんだ。僕の力だけではない......祈りは〝力〟なんだ。驚くべき〝力〟を持っている。郁江の幸せを朝まで祈ってくれた市枝君や明雄の想念エネルギーが、宇宙エネルギーと通じて関門を開いたのだと思う。昔からいい古されてる言葉だけど、愛の力は何よりも強いというのは本当だ。宇宙エネルギーの関門を開く唯一の鍵は愛の想念なんだと僕にはわかった。
そして奇蹟は生じた。郁江は前の郁江じゃない。郁江がいうように、彼女は一度死んで甦ってきたのかもしれないんだ」
「おかげさまで、この通り生れかわらせていただきました。心から感謝しています」
と、郁江が殊勝げにいった。
「どんなに惨めに陥ちこんでる人に対しても、あたしを見てっていえるわけ。つまり奇蹟は本当にあるんだということの証人よね」
郁江は一瞬後には元の調子を取戻していった。
「その点は明雄も同じ。ただ不治の難病が治ったっていうだけじゃないのね。そんなことは、本当に素晴らしいことのごく一部でしかない。人間が偉大な宇宙エネルギーと同通した時には、どんなことでも起こりえるって証明できたことの方が、本当はもっと凄いことだと思うの。人間は宇宙エネルギーと別々のものではないと本当にわかれば、人間は何一つ恐ろしいことがなくなると思うの。
本当に自由に、楽々と生きられるようになるんだもの。それがどんな幸せなことか、経験者として、あたしはだれにでも大威張りで確信をもって教えることができるわ」
「郁江のいう通りだ。もっともあまり元気がよくなりすぎても、困る人がいるかもしれないけどね」
と、丈がいった。
「人間は頭でわかっても、郁江のように本当に体を張って実感することはあまりできないんだから......だれでもかれでも一度癌になりなさいと勧めるわけにはいかないものな」
一同が笑い声をたてた。やはり丈はよく気がついている、と杉村由紀は思った。郁江は自信満々になりすぎていると感じていたからだ。
郁江の前では、自分が奇蹟を経験していないことが引け目に感じられてしまう。由紀ですらそう感じるのだから、他の会員たちにしてみればなおさらであろう。
郁江は丈と直結した奇蹟体験により、権威を持ち始めている。人々はみな郁江を畏敬の目で見るようになる。
危険なのは、郁江自身がその仮象の〝権威〟を当り前のものとして受容してしまうことだ、と由紀は感じていた。生死の間を潜ってきた劇的な体験は感嘆するに足りようが、それに対して他者が引け目を持つべき筋合のものではない。
奇蹟により致命的な癌を克服したからといって、それが郁江の人格を偉大なものに高めたというわけではないのだ。
由紀は自分がことさらに郁江に対して批判的な気持になりだしていることに気付いていた。ことごとく批判の目で否定的に見るのはよくないと思うが、どうにもしかたがない。
道玄坂で高鳥と親しげに談笑していた姿が重い澱のようになって心に残っていた。郁江があまりにも気儘に走りすぎるようになったのも、彼女が高鳥とつきあうようになったせいかもしれない。一階の秘書室を去った野沢緑が同じように高鳥慶輔とつきあっていたことが気にかかる。
野沢緑の身勝手な脱落は、秘書室をあずかる由紀にとり、大きなショックであった。そんなことはだれに対しても口外しないが、盟主の丈を、高鳥ごときに見かえられたという無念さが由紀にはあった。
高鳥は魅力を持つ好青年かもしれないが、所詮丈とは比較にならない。高鳥に引かれて、せっかくの側近の座を思い切りよく棒に振るなど、由紀にはとうてい考えられない。むろん、由紀が秘書見習として選んだ人材ではないから、めがね違いの口惜しさはないが、愚かにもほどがあるという腹立たしさはどうにもならなかった。
丈に対する申しわけなさもあり、正月以来の由紀の鬱屈はそこに起因していた。加うるに郁江が高鳥に接近している事実の発見は、由紀を気重にさせ、不機嫌にさせるには充分すぎたようである。
郁江があまりにも気儘すぎ、上調子すぎると思えてならない。しかし、それを口にすることを妨げるものが存在した。それは、郁江が新たに獲得した〝権威〟であるのかもしれなかった。
会においては、杉村由紀はほんの新参者にすぎず、おのずと最古参の郁江たちに対しては遠慮がある。馬鹿げたことだと思うが、さりとて無視するわけにもいかず、気にせずにはいられない。
組織は厭だな、と由紀はつい思ってしまう。自分は組織によほど馴染まないのだろう。あまりにも気を遣いすぎ、思慮深いことを要求されるので、へとへとに疲れてしまう。丈のためだという気持がなければ、とても長続きしないだろう。自分を支え、自分にそぐわない仕事に堪えさせるのは、ただ丈に対する忠誠心だけなのだった。
本当は会などとは無関係な立場にあり、丈に協力できたらどんなにいいだろう、と考えてしまう。もしそうであるなら、高鳥が会を攪乱しようと、郁江が気儘勝手に振舞おうととがめだてする気分も持たずに眺めていられそうな気がする。
他人に対して批判的な気持を持ち続けるのは、由紀にとり楽しいことではなかった。しかし今は、当の相手から遠ざかり、無関係になることで心の平静さを保てるというわけにはいかないのである。会から離れるということは丈から離脱するということであり、そんなことはとうていできはしない。
杉村由紀は丈たちの間に続いている歓談を遠い谺のようにぼんやりと聞いていた。自分の想いに気を取られて、注意がおろそかになっていた。
不意に慰藉の暖い光が心にさしてくるのを感じて、杉村由紀は己れのうとましい思念から解放された。
目をやると、明雄の澄んだ綺麗な目が由紀を見まもっていた。彼の気遣いと同情と励ましの気持が、暖い光として由紀には感じられたのである。孤り沈みこんでいる由紀の気重さに気付き、明雄は光を送り続けていたのであろう。
由紀がこっそりと笑顔を見せると、明雄はにっこりとし、類いない美しい笑顔を見せた。乾いて瑞々しさを喪った心が、明雄の思いやりでいやされていくのを感じるようだった。
由紀の意識にははっきりとそれとわかる光が満ちてきた。とげとげしく苛立った心が噓のように消えて行く。
明雄が手をさしのべてきて、由紀はそれを握った。精神感応はさらにレベルアップし、由紀の心は和み、慰藉の暖さで溢れた。明雄がどんなに心を痛め、気遣っていたかを今ようやく知り、彼女は泪ぐむほどの慚愧の念と感謝の想いで満たされた。
しばらくの間由紀は己れの超常感覚を封じていたのである。丈が〝力〟に封印するのならば、自分もそうしなければならないとごく自然に思いこんでいたのだ。
〝力〟に依存していては、大きな活動の進展は望めない、と彼女もまた信じていた。丈の考えを己れのものとして、何の疑問もなく受容していたのだった。
それゆえ、明雄との遠感による交流は忘れ去っていたのだ。この小さな子供がどんなに彼女を愛しているかを思い知って、由紀は感動せざるを得なかった。
自分が他愛のない些事に拘泥している恥しさを感じてしまうほどであった。心が暖いもので充たされ、柔軟になってくる。知らぬ間に硬化していた心が融かされて行くのを感じていた。
9
「実をいいますと、今日はあまり楽しくないお話しを申し上げなければなりません」
と、田崎が居ずまいを正していった。その一言で緊張が電気のようにみなぎりあふれた。一瞬前の楽しげな雰囲気が噓のように消え失せてしまった。
しかし、丈は端然としていた。他の人々のように顔色を翳らせることもない。人々は息を潜めて、田崎と丈の顔を交互にうかがった。
「話を聞かせて下さい」
と、丈は淡々といった。不吉なものを何も感じてはいないようだった。
「俺の祖父はご存知のように、法務大臣を何度もやりまして、その関係で警察官僚には人脈があります」
田崎は大目玉を据え、眉をひそめていった。
「今からお話しするのは、そうした人脈から出た話でして、ほぼ間違いありません。実は警察では、先生の身辺を内偵にかかっているようです」
「内偵?」
と、郁江が声をあげた。
「東君のことを内密に調べているというの? どうして!?」
「昨年の夏に、社長一家が蒸発して、邸宅が大爆発で吹っ飛んだ事件がありましたね。あの一件です。なんでも、その社長一家の娘さんが先生の親しくされていた方だったとか......」
「ああ。江田四朗がさかんにいいふらしてたやつ。東君がやったというんでしょ? でも、そんな馬鹿な話を警察は真に受けているとでもいうの?」
郁江が憤然としていった。
「マスコミには伏せられていますが、捜査員の刑事が二人、その後行方不明になっているらしいんです。警察は非常に慎重になっていますが、捜査は打ち切られたわけではありません」
田崎は重苦しい口調であった。
「それどころか、秘密捜査になって執念深く、徹底的に洗い上げにかかっているようです」
「そういえば、あの事件を調べてる刑事が二人も行方不明になった、とあの総会の時に江田が喚いてたわ」
郁江は懸念を目に満たして、沈黙している丈を見た。
「なんでそんなことを知ってるのかな、と引っかかってたんだけど......それで、警察は東君を内偵して、捕まえようとでもしているの?」
「とにかく徹底的に洗い上げて、なんらかの確証を得たら一気に手入れするという方針らしいんです。祖父は先生にたいへん関心を持っていますし、俺は俺でこういうことになってるくらい先生に私淑してますから、それを知ってる警察幹部がこっそり祖父に耳打ちしてくれたということらしいです。最近、祖父はどこへ行っても、先生の話を持ち出してますから......警察幹部はあまり深入りしないように、と好意的に教えてくれたんでしょう。つまり、内偵はかなりの段階まで進んでいるということになるらしいです」
一座はしんと静まり返ってしまった。田崎の持ち出した話が容易ならざることだとわかったのだ。部屋の空気は重苦しい金属の味わいのする恐怖と不安で汚染された。
「刑事が二人失踪したというのは、マスコミに伏せられていたんでしょ? 江田四朗はなぜそんなことを知っていたのかしら? 江田が警察を抱きこんでるとかいう噂があったけど、そのためなの?」
郁江は気力を見せて質問を続けた。他の者たちが鉛を吞んだような重さに胸をふたがれているのを感じないようであった。その強さには驚嘆すべきものがあった。生死の境を超えてきた毅よさかもしれなかった。
「いや、警察では江田四朗の方も調べ始めているようです。江田が警察を抱きこんでいるというのは、どうせ所轄署の下っ端程度でしょう」
と、田崎は沈黙している丈をまっすぐ見ながらいった。
「先生にはあまり深入りしない方がいい、と祖父は忠告されたわけです。だから、警察は本気で動いているわけです。聞き流せることではないので、是非とも先生のお耳に入れたいと思いまして......」
「わかりました。こうしたことは、いつか起こってくると思っていました」
と、丈はいった。声音には何の動揺も現われていない。一同は息を詰める思いで、丈の表情をうかがった。丈の苦衷をともに味わう顔付になっていた。
「先生......どうなさいますか?」
田崎が苦しげに尋ねた。
「どうもしません。警察がどのように動こうと、こちらのやることは決まっています。変更すべきことは何もありません。これまで通りにやるまでです」
「しかし......先生。もし警察が重要参考人として先生を呼んで、事情聴取ということにでもなったら......だれもが先生を疑いの目で見るようになりはしませんか? そうなれば先生のおやりになることは滅茶めちゃになっちまいます。先生を犯人として逮捕しないまでも、容疑者扱いに一度されたら、汚名はこの先ずっとついてまわりますよ」
「大沢先生は田崎さんにそうおっしゃったのですか?」
丈が尋ねた。特別なものを感じさせない、普通の声音だった。
「東丈とはあまり深入りするな、と大沢先生はおっしゃいましたか?」
「いや。祖父はそんなことはいいません。やはり底が深いですから、腹にあることはそう簡単には人に覗かせません......祖父にはいろいろと援助してもらっていますし、その話をしてくれた後も、こちらの我儘をきいてもらいました。何よりも祖父は先生が好きなのだと思います。ですから、俺にこの話をしたのも、なんとかして先生をお助けしたいということじゃないかと思うんです。俺はそう信じています。祖父は〝法難〟という言葉を使ってました。やっぱり先生を信じてるんです。
で、俺は決心しました。今まで先生にご迷惑をかけないように、この塾も先生とは無関係に作ったわけですが、考えを改めました。この無名青年塾の塾長になっていただけないでしょうか?」
田崎は熱した口調でいった。顔は興奮で赤くなっている。
「しかし、そんなことをしては、大沢先生にご迷惑をおかけすることになるじゃないですか? 警察が僕を容疑者として内偵していることが明らかになった今では......」
「構いません。俺は祖父を徹底的に巻きこむつもりなんです。そう腹を決めたんです。それで先生のお役に立つなら、俺は何でもします」
田崎の思い込みは巌のようだった。一度腹を決めたら揺がないという重みがあった。
「祖父は、俺に腹をきめさせようとしたんだと思います。でなければ、〝法難〟なんて言葉は出てこないです。簡単に使える言葉じゃないはずです。祖父は先生を本心から信じているんだな、とわかりました。祖父もひとかどの男です。俺がどんな馬鹿な真似をやっても決して怒りませんでしたが、それは俺を信じてくれていたからだ、とわかりました」
田崎は熱誠を顔に輝かして、丈に向い膝を進めた。
「先生。俺は身命を賭しています。先生と一蓮托生です! どうか塾長になって下さい。先生のために必ずお役に立ちます」
「............」
丈は沈黙をまもっていた。心の裡をだれにも覗かせずに黒い瞳は神秘の光をたたえていた。
「東君。彼の願いをきいてあげたら?」
と、郁江が堪りかねたように口を出した。
「だって、あたしたちは一蓮托生の同志でしょ? 東君はそういったじゃないの。田崎氏はもう東君のために体を張るどころか、何もかも張っておじいさんまで巻きこんでしまおうという決心なんだもの。東君だってそれに応えなきゃいけないんじゃない。変な遠慮なんかしたら水臭いわよ。だって、地球とか人類とか全ての存亡に関ってくるんでしょ?」
「その通りです、先生」
と、田崎がいった。
「ここが第一の正念場だと思うんです。だからこそ祖父も〝法難〟といったんだと思ってます。これを突破しなきゃ、何もかも水の泡です! 先生の身に警察の手が及ぶことは、絶対に回避しなくちゃなりません!」
丈が何を思いめぐらしているのか、杉村由紀にも汲み取れなかった。しかし、警察関係に顔のきく元法務大臣の大物政治家の力を借りて難を免れるという考えに、丈が心染まないことは確かだ、と由紀は思った。
田崎や郁江のように、単純な考え方を丈がするはずはない。政治家の力を借りるのは一時凌ぎだ。もし大沢代議士の影響力により警察を抑えた事実が判明すれば、丈の立場はもっと悪くなるかもしれない。いわば政治権力と密着して手を汚したことになるのだ。もしなんらかの形で暴露が行なわれた時、丈の信用は地に落ちるであろう。
それはあくまでも清廉潔白であるべき丈のとる身の処し方ではない。由紀はなぜかそんなことまで考えた。丈が清浄な神に近い位置にあることを望んでいるからだという自覚はなかった。
「東君!」
郁江は大胆にも丈の膝を揺ぶりにかかった。
「頭の固いことは考えないで! 田崎氏のおじいちゃんは東君が大好きだから、手を貸そうとしてくれてるのよ。東君の地球と人類を幻魔から救うという考えに賛成して、助力してくれるといってるのよ! それこそみんなの心に汚い動機なんかこれっぱかしもないわ! 田崎氏のいう通り、ここで警察が東君を呼び出して調べたりしたらどうなるの? 恐ろしい魔力で人殺しをした大魔王みたいなレッテルを貼られちゃうわよ! 警察は東君を犯人に出来ないかもしれない。でも、マスコミは面白がって書きたて、大騒ぎして東君を悪魔の王にしてしまうわ! それこそ、江田四朗の思う壺じゃないの!?」
「先生!」
と、木村市枝が思いつめたような声音で叫んだ。
「お願いです。郁江さんのいう通りだと思います! 警察なぞに手を出させないで下さい!」
「みんな、同じ意見ですか?」
と、丈は口を開き、一同の顔を見廻わした。
「どうも、そうらしいな」
「先生、政治家は評判悪いけど、一から十まで悪事ばかり働いてるわけじゃありませんよ」
と、河合康夫が剽軽な声でいった。
「時には正義に力も貸すわけで......あ、こんなこといったら大沢先生に悪いな。まあ、俺の悪党の親父を含めた世間一般の政治家のことですが......先生みたいな立場の方は、たとえ相手が悪人でも堂々と渡り合って、使ってやることも必要なんじゃないでしょうか?」
「康夫のいう通りです」
田崎が膝を叩いていった。
「先生には私利私欲はひとかけらもないんですから! そういうのが本当の清濁合せのむっていうのじゃないですか?」
「わかった。ありがとう」
と、丈はいい、一同は歓声をあげた。
「塾長は引受けます。大沢先生にもお目にかかってご挨拶しようと思います」
「やったあ!」
と、河合康夫がいい、みんなの視線を浴びて首を縮めた。市枝の陶器のように硬い表情にも安堵の笑みが浮んでいる。
由紀だけが一人、意外さの虜になっていた。まさか丈がこれほど安直に引受けるとは思いもかけなかったのである。
慎重な上にも慎重な丈が、これほど即断即決するとは信じられない。重苦しいあてはずれの気分が由紀の胸裡に淀んでいた。
軽率ではないか、という気すらした。そう簡単に決めるべきことではないはずだ。
しかし、政治家を動かすという行為自体が杉村由紀の美意識に抵触しているのだとまでは気付かなかった。丈が自分の意見を尋かなかったことも、心を重くさせていた。
郁江や田崎があっさりと結論に跳びつくのはわかる。彼らは若くて性急だからだ。丈に利するとあれば、手段の是非は目につかなくなるのであろう。
表情には出さないが、由紀は眉根を寄せる思いだった。ここで判断を誤まれば、更に禍根を将来へ向けて残すことになる。かといって代案を思いつかない以上、反対にまわることもできない。軽挙妄動をいましめようとする言葉さえも、彼女の舌を動かさせようとはしなかった。
なぜ、このように心に引っかかってしまうのか、と情けない思いがする。このところ、屈折だけが目立って、素直さや率直さと縁がなくなってしまったようだ。
暖いものが明雄と握りあった手から流れこんできた。〝全てがよくなるように〟というメッセージを由紀は感得した。少年は彼女の心の乱れを感じて、慰めようとしているのだった。
その通りだ、と由紀は思う。全てがよくなってほしい。しかし、それがわかっているのに、なぜ自分の心が粗々しく揺動してしまうのかわからない。正月以来、自分はどうかしている。
心がまるで定まらないのだ。平穏さを得たと思った一瞬後には、心配事や心のわだかまりが平静さを奪い、だいなしにしてしまう。まるで限りない波濤に心を揉まれているようである。
しかし、先を思えば、心が揺れ動いてしまうのはやむを得ぬことかもしれない。予知能力がおのずと働いて、心を波立たせる不安な雲行を自然に視てしまうのかもしれないのである。
これでは平常心など持ちようがなかった。なぜこんなに心が落着かず、苛立ってしまうのか。
まるで目に見えぬ巨大なエネルギーの波濤が絶え間なく殺到し続けているようだ。
〝全てがよくなるように〟という明雄の祈りが由紀の心を暖めてくれた。荒んでひびわれた心に小さな子供の愛情がしみわたるようだった。
明雄に対して恥しいと思う。だれよりも分別があり理性的でなければならぬ年長者の由紀が、まっさきに心のバランスを失い、失調をきたしているのである。それがもっとも歳下の明雄に慰められている有様なのだ。
明雄の心にはこれほど豊饒な愛が溢れているのに、自分の心はまるで砂漠のように乾いて、荒涼としてしまっている。
それもこれも、丈に絶対の信頼を寄せられなくなった自分を発見したからなのか。丈が何を考えているのか理解できなくなった苦しみゆえなのか。まるで心に隙間が生じ、そこから吹き入ってくる恐ろしい虚無の狂気が、心の潤いを奪い、かさかさに乾燥させて行くようだ。十代の若い娘である自分に還りでもしたように、自分で自分がわからなくなっている。
その苦しみを察知して慰めてくれるのは、明雄の心の暖かさだけだった......
10
「警察は、江田四朗の〝教団〟も内偵を始めているようです」
田崎は朗報を知らせでもするようにいった。
「こっちは現にひどいことをいくらもやっていますから、確証はいくらでも摑めるんじゃないんですか。ですから、江田の方がまっさきに挙げられても不思議はないです。強制捜査が行なわれるのは、そんなに先のことじゃないという感じでした。警察が江田の方に行ってしまえば、こちらは無事にすむんじゃないでしょうか?」
「そうは簡単に行かないですよ、田崎さん」
丈は黒い瞳をきらりと光らせた。
「僕の考えでは、江田は自分が破滅することなど少しも恐れていないんです。彼の狙いは僕を破滅さすことだけに絞られているし、それが幻魔としての江田の使命でもあるわけです。
だから、江田は僕を抱きこんで破滅しようとするだろうし、そのためにはむしろ強制捜査を待っているかもしれない。江田は必ずあることないことを供述しますよ。警察は江田にかかればあっさり攪乱されてしまいます。江田は今は幻魔の〝力〟を持っているからです。逆に警察を操り、こちらへ攻撃を仕掛けてこないとも限りません。
江田は公然と悪を働き始めています。全てはどう転んでも、江田にとり有利になるように計算されているんです。こちらはあらゆる意味で不利に立たされています。つまりこちらは攻撃を完全に封じられているのに、向うは反則はもちろんあらゆる手で攻撃をかけられるからです」
「じゃ、江田は警察の内偵を歓迎するというわけ?」
郁江は不思議そうにいった。江田が己れの破滅をものともしないという丈の指摘がぴんとこないようであった。
「自分たちのしているおぞましいことが、全部バレちゃっても平気なのかしら?」
「江田というよりは、彼と合体している幻魔はね......といっても今は江田は幻魔そのものになっていて、どっちがどっちともいえなくなっているんだが」
「でも、警察が江田たちのやっていることを明るみに出してしまったら、幻魔の活動はやりにくくなるんじゃない?」
「幻魔はいつでも江田四朗を捨てて、新しい宿主に乗り換えることができるんだ。僕を陥れるためなら、どんな噓でもつくだろう。超能力者は悪魔だという汚れたイメージを造り出すのが目的かもしれない。全ては僕をやりにくくさせ、足をすくい、転倒させるために計画されているんだ。今にそれがはっきりとわかる時が来る」
「でも、江田は自分が幻魔に利用されて役に立たなくなれば捨てられると知っているの? それでも平気なのかしら?」
郁江には納得が行かないようであった。
「江田四朗はもう自分の魂を幻魔に売ってしまった。僕を憎悪するあまり、僕を倒すことと引き換えに、自分の魂を幻魔に食わせてしまったんだな。だから、江田と幻魔の区別はもはやつかなくなってる......本来の江田四朗は幻魔に魂を食い荒されて、中身は失くなってる。幻魔の意志によって動くロボットと同じだ。魂も肉体も幻魔によって奪いとられてしまった。わかるかい? おそらくそうなった人間は江田四朗だけじゃない......」
期せずして、久保陽子という名が人々の頭に浮かんだ。郁江は身慄いし、目を閉じた。頰から血の気が引き、鳥肌立っていた。
「恐ろしいわ。幻魔の虜になったら、もう二度と逃げ出せないものなの? 魂を生きながら幻魔に食い尽されてしまって......」
総毛立ちながら人々は丈を見詰めた。丈が唯一の光明でもあるかのような必死の表情が一様に彼らの顔を彩っていた。
「わからない......逃げだすのが絶対に不可能かどうかはなんともいえない。もしかしたら、可能なのかもしれないが......暴力団員になった若者が組を抜け出すよりはるかに大変なことじゃないかな。よっぽどの決心がなければ無理じゃないか。一度は逃げても、すぐにまた捕まる、そんなこともあるだろう。
とにかく、幻魔の実態をもう少し知らなければ、はっきりしたことはいえない。僕は幻魔がどうやって犠牲者を食いものにするか、まだよくわからないんだ。もっと幻魔について学ばなきゃならないことは沢山ある。向うはこっちのことを知り尽しているのに、こっちはろくに幻魔の実態がわかっていないんだ。このギャップをどうするかという問題がある。
わかっているのは、幻魔は僕たちの心に、まず波動を送って揺さぶりをかけるということだ。幻魔に対する不安、恐怖感を増大させることもそうだし、僕たちの結束にクサビを打ちこむために、精神的に動揺させるという手も使うだろう。仲間同士が信頼できなくなる気分を造りだすんだ。
嫉妬や不信、猜疑心をどんどん煽りたてるのに、特別な心霊的波動を送りこむことができるんじゃないか。これはまず間違いがないと思う。郁江はどう思う?」
「最新の犠牲者として感想を述べよ、というわけね」
郁江はこだわりのない口調でいった。
「皆さんもご存知のように、あたしはつい最近、あちらの世界へ連れて行かれるところでして......危いところで奇蹟が起こって、それを免れたんですけどね。まあ、経験からいいますと、向うはこっちの弱点を本人以上に心得てるんじゃないかと思います。
つまり、どうやって攻めれば、もっとも効果的にダメージを与え、攻め落せるか充分にご存知ってことですね」
郁江は率直さをもって語った。心に穴のあいた人間に対し、幻魔がいかにして効果的な攻撃を加えうるかについて、己れの経験に基き、ぞっとするほどの迫真性をもって話した。
「心にあいた穴というのは、他人に対する憎しみや恨みつらみ、嫉妬や嫌悪、人を押しのけ排除しようとする気持のことなんだと思います。あんな奴、いなくなっちゃえ! 死んでしまえ! という憎悪の心がアンテナになって幻魔の波動をどんどん呼びこむんですね。
日ましに自分の黒い想念がどんどんふくれあがって行くのがわかります。心にあいた穴から幻魔のどす黒い陰惨な波動がとぎれ目なしに流れこんでくるのが、自分でもわかりました。幻魔がどうやって心を真黒にして行くのかなって、とても興味があったから、よく観察してやろうと思っていたんです......」
「ひえ......」
と、河合康夫がいささか軽薄な嘆声をあげた。
「じゃ、郁江さんはわざと幻魔の〝力〟を自分の心の中に誘いこんでたんですか!? そりゃ凄い精神力だなあ! えらいことだよ」
「そんなたいしたことじゃなくて、へんに度胸がすわっちゃったのね。ああ、こうやってたらどうなるかな、とか、この気持がどういう風に変るかな、よく見ててやれって、妙に客観的になっちゃって......明雄に毎晩、生体エネルギーを入れてもらってたせいかもしれないの。だから、余裕ができてしまって、そんな真似をしたのかも。今から考えるとぞっとして、よくそんな大胆な真似ができたなって、われながら呆れたり身慄いしたりするけど。自分を実験動物みたいに扱って、幻魔のやり口をよく観てやれって、ずいぶん不遜な気持でいたのね」
「そりゃ、凄い勇気ですよ」
と、田崎が感嘆をこめていい切った。
「勇気なんてものじゃないの」
郁江は珍しく、少し赤くなっていった。
「思い切った乱暴なことをしでかしただけ。精神力でも勇気でもなんでもない。そのことは自分でもよくわかっているの......
あんな恐ろしいことはないし、他人には絶対に勧められないわ。自分の心がだんだん自分のものではなくなって行くわけ。ぞっとするほど狭く、凍りついたようになって、他人への敵意や嫌悪でいっぱいになって行く。その他のことはなにも考えられなくなって行くのね。自分の心が自分でどうにもならない、コントロール不能になってくる。車のハンドルをいつの間にか他人の無気味な手が握ってしまって、自分は押しのけられてしまう。口惜しいとか憎いとか思うのはそれだけになる。
これは自分じゃないんだ、こんな憎悪の気持をもっているのは自分じゃないんだって、それだけを必死で念じ続けていたわ。自分の心を今、幻魔に乗っ取られているので、こんな凶悪な、恐ろしいことを考えているのは自分じゃない、幻魔なんだって......
つまり、それを崩してしまったら、全て幻魔に乗っ取られてしまって、自分が自分でなくなる。その一点を護り抜くことによって、辛うじて幻魔の支配下に置かれないですむという感じなんですね。
その時の心の状態は、あたしがずっと嫌ってきた肉親や、絶対に許せないと思ってきた人々に対する憎悪が再び生々しく燃え上るだけではなくて、だれも信じられる人々がいないという絶望的な気分なの......」
「信じられないって......先生もなの?」
と、木村市枝がおそるおそる尋ねた。信じられぬという表情が顔に貼りついていた。
「そう、東君も」
郁江は素直に認めた。
「信じられない......」
市枝は真青になった。
「今から思うと馬鹿げているけど、猜疑心や不信の気持がとめどもなく湧いてくるの。小さな取るに足りないことまでこねくりまわして、もしかしたら東君はあたしのことなんかどうなろうとなんとも思っていないんじゃないか、いなくなってしまった方がいいと思っているんじゃないか。つまりそういう疑いの気持が、もしかしたらに始まって、きっとそうだ、そうに違いない! という断定の気持にすりかわって行くんです。
明雄が市枝さんにつれられて、東君の指令で心霊治療に毎日来てくれているのに、それすらも疑わしくなってくるのね。なぜ東君は自分で来てくれないんだろう。もしかしたら、もうだめだと見放しているから、気休めに明雄を送ってきているんじゃないかしら。東君には治す力なんかなくて、逃げているんじゃないか、とか、普通だったら絶対に考えられないような疑惑がいくらでも雲のように湧いてくるわけ。
つまり、それが幻魔が送りこんでくる黒い想念なのね。猜疑の心や嫉みの心がふくれあがってきて、正しい判断が下せないように邪魔してしまう。馬車馬みたいに目隠しして、幻魔の都合のいい方向へ誘導するの。
だから、普段自分が思ってもいないことを考え始めて、それが暗いいまわしい想念だったら、一応幻魔の意識誘導じゃないか、と疑う必要がある、とあたしは思うんです。これはあたしの経験したことで、だれもが同じとはいい切れないけど、幻魔はこういうやり方で攻めてくる場合もある。井沢郁江のケースでは、こうだったということなのね」
「意識誘導というのは?」
と、田崎が尋ねた。
「この場合は心を幻魔の好きな方向へ引っ張るということ。最初は東君がいいだしたの。電気工学で、電磁誘導というのがあって、それととても似てるんですって。つまり想念というのは磁場を作るわけ。心を誘導する力が働くわけだけど、つまりその人の想念の磁場に、幻魔が電流を流すとモーターが廻るように、人間を行動させる力が作用するってこと。
あたしにもよくわからないけど、幻魔は憎悪の念を人間の心に吹きこんで操ることができる、という意味らしいの。そうでしょ、東君?」
郁江は追認を求めるように、丈を見やった。丈は頷いてみせた。
「電磁感応という電気現象が、精神感応に非常によく似ているのは確かなんだ。だから、意識誘導はなにも幻魔だけの専売特許じゃない。他からの刺激を受けて、人間が行動を起こす場合には全て適合する。だから、幻魔のそれは、悪の意識誘導といった方がいい。郁江は、幻魔の意識誘導にはっきりと気付いた最初の人間なんだ。気付いたから頑張ることができた。ずるずると流されずに、踏み止まれた。もし、郁江が気付かなければ、幻魔の思い通りに操られることになったかもしれない。
つまり、それが憑依という現象になってくるのだと思う」
「久保陽子のように?」
と、郁江が尋ねた。一同は声を吞んで、郁江と丈を交互に見まもった。
「そうだ。郁は、陽子がどのように心を犯されていったか、だれよりもよく知ってるはずだ。幻魔は全く同じ手を使った。郁はそれに気付いたから、切り抜けることができた。
この教訓は物凄く大きいんだよ。郁江がどのような攻撃を受けたか、みんながよく知れば、同じ手は通用しなくなってしまう。だから郁に頼んで話してもらったんです」
と、丈は一同に向っていった。
「郁は少しも気取らずに、自分の恥になるようなことを正直に話してくれた。郁は幻魔と真正面から戦うことによって素晴らしく成長したんだ、と僕は思う。もし自分が彼女と同じ立場だったら、と皆さんにも考えてもらいたいのです。これは決して他人事ではないし、皆さんの上にすでに起こりかけている現象かもしれないんです。よく自分の心を洗い出して確かめてみて下さい。僕自身、郁に教えてもらってありがたく思っているんです」
丈は、一度も杉村由紀に顔を向けて話さなかったが、当の由紀は顔も上げられぬ思いだった。丈が自分に向けて語りかけていることがよくわかっていた。顔が火照ってくるのを覚えた。
丈はやはり自分の心を見通している。さりげなく、何も気付いていないように振舞ってはいるが、その実、わがことのように由紀の心のゆらめきを察知しているのだ、と感じずにはいられなかった。それは遠感などという技術的な末梢的なことではない。丈の遠感能力はたしかに乏しいが、その洞察力ははるかに次元の高い、巨大なものの顕われかもしれなかった。
丈の心には、由紀の心をよぎって行くゆらめきが逐一、影を落しているのではないか。それは遠感という超能力に頼るよりも、はるかに本質的で重要な洞察にかかわってくるのかもしれない。
遠感があるからといって、その特殊能力は本人の徳性をいささかも高めることはない。むしろ、窃視的な覗き見の欲望をかきたて、本人を堕落させることに役立つかもしれないのである。超能力は私利私欲がからめば全て堕落し退廃するとさえいえるのだ。
しかし、丈の示している洞察力は個人的な欲望を脱したところから生じてくるものであり、他人の気持、他人の心の働きがわがことのようにわかる、自他の区別を超越した心境に丈を推しやっているのかもしれない。
それは、いわゆる超能力などよりはるかにまさる素晴らしい心の働きなのではないか、と杉村由紀は感じた。その証拠に、遠感者の由紀自身も、他人の想念のごく浅薄で皮相的な部分しかわからないのである。他人の魂の深みにまで達し、理解するなど遠感ではとうていかなわない。その意味で、超能力とは全て浅薄なものだ。丈はその巨大なPKをもってしても、人の心は動かせない、とはっきりいい切っている。
その浅薄な〝力〟をもって、全て力ずくでやろうとしているのが幻魔なのかもしれなかった。それゆえ、丈は幻魔の本質は愚鈍さにある、と見抜いたのかもしれない。邪悪の本質とは愚昧さだ、と丈はいったのだ......
11
その夜の〝無名青年塾〟におけるミーティングは、参加者全員に大きな感銘を残したが、とりわけ井沢郁江にとっては、まったく新しい進展を意味するものだった。
東丈は、郁江に対し〝幻魔問題担当〟とでもいうべき役割を与えたのである。
「幻魔に関して一番経験が深いのは郁だから......」
と、丈はいった。
「この先、幻魔が持ちこんでくる問題提起は全て郁が扱ってくれないか、つまり、幻魔の遣り口、手口の研究担当というわけだな」
「でも、あたしは幻魔に一方的に攻められて、いびられただけだもの。幻魔担当なんて務まるかしら」
「ちゃんと務まる。その点、問題はない」
と、丈は断言した。その口調には自信が溢れていて、だれも反論できなかった。
「郁には元々、そういう役割があるんだという気がする。幻魔のかける攻勢をキャッチする感覚があると思う。それに、更にいえば、幻魔の猛烈な攻撃をかけられて、しぶとく堪えて生き残ったということで、耐性、免疫性のようなものができてるはずなんだ。だから、郁はもう幻魔が怖くないだろう?」
「うん」
といって、郁江はあわてていい直した。
「ええ、そうね。もう何があっても平気って感じ。一度死んで、復活したという実感があるせいかしら? 不思議なくらい、なんとも感じないの。でも、これはあたしだけなのかしら?」
「当り前ですよ」
と、河合康夫がいった。
「正直いって、幻魔は怖いですよ。何を仕掛けてくるかわからないし、無気味です。まあ、他の者が怖くないといったら、それは空威張りだと思いますがね。でも、郁姫様なら、俺も納得しますけどね。どうですか、田崎の師匠?」
「俺も怖い」
と、田崎は率直にいった。
「郁江みたいに芯が強くないんでな。正直いえば怖くないって顔をしてるだけさ」
「ふうん。そうかなあ? みんなそうなのかしら?」
「もちろん、そうよ」
と、木村市枝がいい、一同は異口同音に同感を表明した。
「でも、東君は平気でしょ? まあ、こんなこと尋くまでもないかもしれないけど......」
郁江はその場の一同の顔を見まわし、なんとはなしに不得要領に呟いた。
「郁ほど平気ではいられないだろうな」
と、丈はいった。
「そんな! 噓でしょ!?」
「郁みたいにばっちりと免疫ができていないからね......幻魔には誘惑もされたし、攻撃も仕掛けられたけど、郁みたいな〝死闘〟は経験していない。その意味でも、郁はすごく有意義な経験を積んでいるんだ。だから、きっと郁はその貴重な経験を生かして、幻魔問題の専門家になることを要求されているんだろう」
「そんな、噓みたい」
「幻魔とどうやって対決するか、みんなが知りたがるだろう。教えてやれよ」
「教えてやるなんて──そんな口幅ったいことできないわ」
「さっき幻魔がどうやって心の中に黒い想念波を送りこんでくるか、話してあげたじゃないか。みんな有益だったはずだよ。そうじゃないですか、皆さん」
「有益でした!」
「すごく役に立ちましたよ!」
と、一同が口々に答える。
「とても大事なことを話していただきました」
杉村由紀は心中の抵抗を排除していった。口にするとすっきりと首筋の凝りがとれたような心地になった。明雄が喜んでいるのがわかる。
「このことは、詳しく記録して、会員の皆さんの啓蒙に役立てる必要があると思います」
「確かにその必要はあるでしょうね」
と、丈が裏書きしてくれた。
「そうかしら? あたし自身はポケッとしてるのが生れつきなので、あまり幻魔の脅威を感じないんじゃないかという気がしてるんですけど」
郁江はけろりとしていった。本気でそう思っているのかもしれなかった。
「いや、郁の心理的な洞察はなかなかどうして、たいしたものだと思うよ」
丈は真面目にいった。
「特に、猜疑心がどうやって生れてくるかという洞察は凄い。もしかしたら、という猜疑の芽が、絶対にそうだ、そうに違いない、という断定にすりかわるところなど、どうしてもみんなに知ってもらいたい。本当にその通りだと思うんだ。自分の心に黒い波動が入りこんで来る過程を逐一観察して、幻魔の波動の使い方をうまく把握している。この一事だけでも、幻魔問題の専門家になる資質があると僕は思う。
他の者は、郁のように〝幻魔の標的〟そのものの経験を積んでいないから、同じような憶えがあっても気付かずに見過してしまっているんじゃないだろうか? しかし、自分の心をじっくりと注意深く振り返ってみれば、必ず思いあたるところがあると思うよ」
「あるある、あるよ、あります!」
と、河合康夫が頓狂な声を張り上げた。
「ずばり、その通りです! なんか気持悪いほど核心を突いてるなあ」
「俺も、郁江の話を聞いて、すっと胸が晴れましたよ」
田崎もいった。
「なるほど、と思った。しかし、幻魔というのも味をやりますな。江田四朗みたいに陽動的に動くだけじゃなく、敵は本能寺って奴で、黒い波動を送ってこっちの内部攪乱をやり、団結を崩す。内部分裂を計るっていうのが手なんでしょうか」
「田崎さんのいう通りです。僕は本当は江田四朗などより、内部を攪乱される方がずっと大変だと思っています。仲間同士の猜疑心や不信感がどんどん増大してきたら、組織なんて砂の城同然に崩れてしまいますからね。江田が陽動作戦をやり、こちらの目を惹きつけているという田崎さんの洞察は正鵠を射ているはずです」
「敵は本能寺というと、組織の破壊工作はもう始まっているわけですかね?」
と、河合康夫が尋いた。
「始まっています」
一同は息を吞んで、丈の顔を見詰めた。丈は特に深刻な表情を浮べていなかった。しかし、一同に徴した不安と危惧は急速にふくれあがってきた。
「それは、たとえば幻魔が会に手先を送りこんでくるという形で行われるわけですか?」
と、田崎が質問した。
「そうです」
「じゃ、もう幻魔の手先は、会に入りこんで活動しているわけですね?」
「活動しています」
由紀ははっと郁江を見やり、視線が合うとわけもなくぎくりとして目をそらした。郁江がなぜ自分を見たのかわからなかった。高鳥、と心に浮んだ想念に、郁江が鋭敏に反応したような気がしていた。まるで郁江は自分の心を読み取っているようだ、と由紀は感じ、体が噓寒くなってしまった。
「それはだれですか? 先生には幻魔の手先がおわかりになっているんですか?」
と、田崎が気色ばんだ声音でいった。
「だいたいわかっています。だけど、大丈夫ですよ」
「すると、もう手は打たれているわけですか? 会から手先を追放できるわけですね?」
「追放はしません」
丈の答は意外であった。田崎たちは呆然として丈の顔を見詰めた。
「相手がわかっていても、追放はしないんですか? そんなことをしていたら......」
「だから、郁江を担当に任命したわけですよ、田崎さん。免疫というのは個人だけではなく、組織にも必要だと思うんです。そのためには一度、病毒を組織の中に入れなければならない。幻魔というものを観念的にではなく、肌身で知る、抵抗力をつける、というのがつまり僕のいう免疫です。荒っぽいいい方ですが、会は無菌室の中で育つわけではない。病原体がうようよする中で、しぶとくしたたかに育って行かなければならないんです。
会の中に幻魔が横行していても、みんな平然と笑っていられるというのが僕の理想とするところです。外部で江田四朗がどんなに陽動作戦を派手に展開しても、だれ一人心を奪われず、心動かすことがない。そうなれば、会は小揺ぎもしないでしょう。そのためにはみんなが幻魔をいずれ肌身で知る、さしで対決するという経験を積むことが必要だと思っているんです」
「幻魔とさしで!? 俺はどうも弱いなあ」
と、河合康夫が情けなさそうにいった。
「俺、なんだか負けそうな気が......」
「何いってるの!」
と、木村市枝がきびしい口調で叱った。
「だらしないこといわないで! あんた、男でしょ!」
「そうよ。女のあたしだって幻魔とじっくりさしで対決したんだから! 根性据えてやりなさいよ」
郁江が平手でいやというほど康夫の背中を叩いた。康夫が呻いて目を白黒させる。
「真正面からぶつかれば、思ったほど強敵でないとわかるわよ。怖いと思えば道に落ちてる枯枝だって怖いでしょ。想像してるほど恐ろしいものじゃないの。絶対に逃げないで、正面突破よ。真正面からぶつかって、相手が思ったほど強くないとわかれば、とたんに元気百倍じゃない。幻魔って恫喝がうまいのよ。相手を怯えさせて自滅させるのがね......ほら、ヤクザが使う手よ。わかるでしょ」
「あ、なるほど。幻魔はヤクザですか? ヤクザの気合に吞まれちまえば負けってわけですね。なるほどなあ、郁姫様はうまいこというなあ。幻魔ヤクザ説だな」
河合康夫はむやみに感服に浸っていた。
「ヤクザは後が怖いからって、自己暗示にかかってしまうわけよね。だけどヤクザだって決して自信があるわけじゃないのよね。もし相手が手強かったらって、いつもビクビクしてるのよ......だから威嚇して自分を強く見せかけようとするわけ。幻魔だってそれと同じだと思う。相手を暗示にかけて、自分を実体以上に大きく恐ろしげに見せかけるのね。
でも、幻魔が本当に強くて無敵だったら、あたしたち今ごろこんなことをのんびりと話していられないと思う。幻魔はとっくの昔に大攻勢をかけて、こっちをぐしゃぐしゃに押し潰していると思うの。だったら、なぜそうしないのかってこと。
つまり幻魔はそう見せかけようとしているほど強くないってことね。だって、東君の率いる〝GENKEN〟もそうだし、この〝無名塾〟も日ましにしっかりと確立されてきつつあるんでしょ。幻魔はあれこれ攪乱を狙っているけれども、うまく行っていないじゃない。だから、康夫もあんまり怖れる必要はないということよ。そうでしょう?」
内心、杉村由紀は舌を巻く思いだった。郁江は実に的確に幻魔の実体を把握している。幻魔が、被害妄想に通じる恐怖感、威迫感を通じて、人々の心に毒を蒔こうとしていることをはっきりと理解しているのだ。
由紀自身、郁江の説明を聞いて目から鱗が落ちる思いだった。己れの心の葛藤を、郁江により見抜かれ、図解されている心地がする。事実、突如視界が鮮明化する感覚を由紀は味わっていた。郁江は、由紀の心を犯しにかかっている毒念の手口をあざやかに絵解きしてくれたのだ。
由紀の目には、郁江が自分以上の成熟度を備えている存在として映りだした。郁江は年齢が示すような小娘ではない。それは丈と同じことだ。年齢に関りなく幼稚なのは由紀自身といえるであろう。
「さすがに幻魔問題専門家だけのことはあるな」
と、田崎が感心していった。
「たいした洞察力だ。あの郁姫様がこうも変身するとはな。俺も幻魔と命がけで対決しないといかんのかもしれんな......実は先生、今日もう一つお話したかったことがあるんですが、江田四朗のところにいる奴で、こっちに内通して、情報を流してもいい、とこっそり申し出ているのがいるんです、それをどうしたらいいか、ご相談しようと思いまして......」
「江田四朗の配下? それがどうして江田を裏切ろうとするわけですか?」
「親分の江田が気にくわないということらしいです。こちらが反・江田四朗の旗上げをしたことを知ってるらしくて、向うから連絡をつけてきました」
「名前は?」
「名前はいいません、だからミスターXと呼んでいます。時々電話してきて、江田のことをなんかかんか喋ります。内密に東丈先生に逢ってもいいなどといっていました。江田のことで知らせたいことがあるそうです」
「どんな感じですか?」
「わりあい軽薄で、ぺらぺらとよく喋って友好的です。康夫に感じがよく似てるので、〝江田の所の康夫〟と呼ぶこともあります」
「それはない、それはないですよ」
と、河合康夫が苦情をいった。
「俺にしてみると、ひどく気色が悪いですよ。なにしろ向うは幻魔ですからね」
「だから、〝幻魔の康夫〟ともいうんです。報酬はなしで、情報提供者になってもいいと申し出ています。もちろん、どの程度信用できるものやらわからないし、油断はできませんが......」
「もちろん、江田四朗が糸を引いているに決っています」
と、木村市枝が力を渾めていい、丈はゆっくり頷いた。
「こっちに食いこむ手じゃないでしょうか? 情報提供を持ちかけて、こっちを徐々に信用させようとする手だと思うんですけど」
「まあ、本音はどうかわかりませんけど、先生にお逢いして話がしたいといっています。その時は顔も本名も明かすそうですが」
「かなり怪しげな感じですね」
と、丈はさほど興味を示さなかった。
「いずれ、そのうちに機会があれば、逢ってみるかもしれません」
「では、先生はご多忙だといっておきます。しかし、もし本当に江田を裏切る気ならば面白いんじゃないですか?」
「適当にあしらっておくのがいいでしょう。そのうちに向うから焦って尻尾を出してくるかもしれないし......」
「幻魔も仲間を裏切ることってあるんでしょうかね、先生?」
と、河合康夫が不思議そうに尋ねる。
「それはあるだろうね。幻魔が一枚岩だと僕は思っていない。人間同様、仲間内の対立も分裂も混乱も全てあるだろうと思う。幻魔の中枢はしっかりしてるかもしれないが、末端となると相当な綱紀の紊乱は生じてくるという気がする。しかし、今度のミスターXがどうなのかはわからない。郁江がそのうちにテストしてくれるんじゃないかな」
「幻魔問題担当となると、いろんなことを勉強しなくちゃならないから大変ね」
と、郁江が他人事のような口ぶりでいった。
「今度、〝幻魔の康夫〟に逢ってみるから、連絡があったらこっちに廻して......なにが狙いかわからないけど、とっても興味あるわ」
「そんな面白半分でやらないで下さい。相手は幻魔なんですから。それに恐れ入りますが、〝幻魔の康夫〟っていうのはやめてくれませんかね」
康夫が苦りきった顔でいう。
「郁姫様がそういうと、それに決まりって雰囲気になっちゃうから」
「いいじゃないの、愛嬌があって。最近は幻魔もこわもてばかりじゃないって感じよ。江田四朗みたいに陰々としてるより、愛嬌のある方がつきあって面白いわよ」
「郁江にお前は褒められてるんだよ」
と、田崎がいった。
「まあ、そう思っとけ。しかし、こんなに恐いもの知らずになってもいいんでしょうかね、先生。幻魔のとこでも何でも平気で出かけて行きそうで心配です。うちの塾生で腕っ節の強いのをボディガードにつけましょうか?」
「お宅は〝GENKEN〟と違って、腕の方も立つって感じね。やっぱり田崎氏の関係だからかしら。あっぱれ武道少年って感じの子が沢山いるみたい。さっき東君に質問してた松岡クンなんてどうなの?」
「松岡は拳法の方をかなりやります。もしよろしかったら、松岡を郁姫のボディガードにおつけしましょうか?」
と、田崎は丈に向って尋ねた。丈は首をかしげて郁江を見る。
「それは郁姫しだいですね」
「彼なんかいいわね。松岡クンは昔、田崎氏の関係で武芸者かなんかやってた過去世を持ってるの?」
「ええ、まあ......そんなものです」
田崎は照れ臭げにいった。
「彼も田崎氏みたいに、前世を思い出しているわけ?」
「まあ、どの程度のものなのかわかりませんが......」
田崎は丈を見ながらいった。
「ねえ、田崎氏。前世を思いだすって、どんな感じがするものなの?」
「そうですね。ぼんやりと夢の記憶でもたぐってるという感じなのかな。しかし、時にははっきりと明確な記憶が甦ってくることもある。ああ、こいつと前の世でもいっしょだったな、とわかるんです。その時には相手が今の姿ではなく、前世の武士だったら、武士、僧侶だったら僧侶の姿に見え始めたりします......松岡もそんな感じで、やっぱり昔の仲間だし、武芸者だったんじゃないかという気がしますね」
「転生輪廻って本当なのかしらね」
郁江は丈の代りにしきりに質問を重ねていた。
「あたしもそんな感じ、わかるような気がするわ。前世では仲が悪くて仇敵同士だったなんてことの方がありそうだけど......だから今でも顔を見るだけでも、むらむらと腹が立っちゃうなんてね。昔の仇敵同士が今は肉親に生れたりしたら、家中で喧嘩が絶えなくなっちゃうわよね」
「なるほど。そういうこともあるんですかね」
と、田崎は大目玉をぎょろりと剝いていった。その目は郁江を見ずに、丈を見ている。
「先生に一つお尋きしたいと思っていたんですが、昔、つまり前世でグループになって出た仲間がいるとします。一つの目的を持って活動していた団体です。それがまたこの現世でも、同志となって集まってきた。輪廻、転生というのは、個人だけではなく、団体にも起きるわけですよね? こういう輪廻というのは、前世とそっくり同じことを繰り返すということでしょうか? つまり、前世でも失敗していたら、現世でも失敗を宿命づけられているものでしょうか?」
真剣な口調だった。
「僕は転生輪廻のことは、まだよくわかりません。深く考えてみたことがないので......僕は前世の記憶というものがないし、田崎さんにはある。そうすると、田崎さんの方がこの問題に関しては突っこんで考えられるということでしょうね。しかし、前にも失敗したから今回も失敗するというのは、それを宿命というんでしょうか? どうも進歩がないという気がしますが......」
「先生におわかりにならないのでは、我々がいくら考えてもわからないのはしょうがないです」
田崎はやや無念げに呟いた。
「でも、前回失敗した理由がちゃんとわかっていれば、今回は失敗しないですむんじゃないの?」
と、郁江がさらりといった。
「田崎氏はどういう失敗の記憶があるわけ? 具体的にわかれば、失敗を繰り返さずにすむじゃない」
「俺の場合は酒ですよ。酒好きでだらしがなかった。酒が入ると口が軽くなり、大失敗することになった......」
「で、今は? 現世ではどうなの?」
「酒は好きで小学生の時から吞んでました。やっぱりこれが宿業ってもんですかね!?」
田崎は頭を振りながらいった。
「酒は好きだし、やたらに強い。昔と同じですよ。吞めばいくらでも吞める。しかし今は止めました。前と同じ大失敗はくりかえしたくない......」
「では、ちゃんと訂正がきいているじゃないの。お酒が好きで大失敗のもとになるとわかっていても止められなければ、それは宿業ということになるだろうけどね。そういう風に、失敗の原因を取り除いて行けば、また失敗しなくてすむんじゃない? ちゃんと進歩しているわよ、心配しなくても」
「なるほど!!」
田崎は目が覚めたような顔になった。ぱっと明るい光が射してきたようだった。
「郁江、お前うまいことをいうな! ちゃんと進歩してるか! そうだ、失敗の原因を取り除いて行けば、また失敗はしなくてすむわけだよな!」
「少くとも同じ失敗はね。田崎氏が前世の記憶を取り戻す必要は、そこにあったのかもしれないわよ」
「お前、頭がいい! 冴えてる! 先生の代理を務めるだけのことはある!」
田崎は顔を真赤にし、唸るようにいった。心の鬱屈が一気に消しとんだような感激ぶりであった。
「いやあ、驚いた。郁江、お前がそんなに賢いとは思わなかったよ!」
「郁江は復活して以来、ずっと冴えっぱなしなんですよ、田崎さん。もう信じられないほどです。びっくりするくらいいいことをいいますよ」
と、丈がいった。
「だから、幻魔問題を一手にまかせたんです。なにかあったら何でも彼女に相談してやって下さい。昔の郁江とはだいぶ違いますから」
「前はよっぽどどうしようもないダメ娘といわんばかりじゃない」
と、郁江は不平そうにでもなくいった。
「田崎氏、前世でも東君といっしょだったというんでしょ? その時、東君は今の彼と比べてどうなの?」
「ん......今の先生とそっくり同じだったという記憶はある。もっと年が行っていて、髪型や身につけるものが違っているが......」
田崎はどことなく彼らしくない曖昧さで言葉を濁しているようであった。
「その時の東君は、いったいだれだったの?」
と、郁江が真似手のない率直さで切りこんだ。
「田崎氏、知ってるんでしょ?」
「いや、そのへんが、もう少しはっきりしないので......もっと記憶が戻ってこないとなんともいえなくて......」
「江戸時代だったんでしょ?」
「だと思うが......ま、そのうちにはっきりしたことがいえると思うんだ」
「なんだか、あんまりいいたくないみたいね。最近は田崎氏、前世のことをいわなくなっちゃったんだって?」
一同と同じく杉村由紀もはらはらする思いで、郁江の追及を見まもっていた。田崎の逡巡は意味ありげであり、不吉なものさえ感じさせて、これ以上は知りたくないという拒絶反応を裡に生じさせていた。何かよくないことが起きた、と感じさせるのに充分であった。
「そのことは、僕自身聞きたくない」
と、丈がいった。
「今は知る必要がないと思う。そのうちに必要になれば、僕も思い出すようになるという気がする。今は過去に捉われず、今できることを努力するしかないんだから......郁もあまり追及しない方がいい」
「東君がそういうのなら、いいけど。きっとあたしにとって大切なことなのかもしれないわね。だって幻魔というのは地球上に大昔から存在していて、ただ己れの素姓に気付いていなかっただけなんでしょう?」
「幻魔問題は郁にまかせたから、おおいに研究してくれ。みんなの心があまり幻魔に捉われないようにするのも、郁の役目なんだよ」
「そんな一身に荷なうなんて、荷が重すぎるわ」
「みんなが幻魔にばかり朝から晩まで気を取られていては、やるべきことがおろそかになってしまうからさ。だから郁は幻魔問題に関して、僕の代理になってもらう」
「わかったわ」
と、郁江は渋々といい、一同に安堵の波動をもたらした。いわれはないが、それ以上郁江に追及してほしくないという感情がだれの心にも動いていたのである。それは好ましくないことのように思えた。だからこそ、丈は今は知る必要がない、といったのであろう。
「〝無名塾〟には松岡君に限らず、頼もしそうな若い人が多いですね。〝GENKEN〟とは大違いです」
と、丈がいった。青白くて弱々しい繊細なタイプばかりの会とはまさに対称的だった。
「なぜか、武道とかボクシングとか格闘技をやってる連中ばかりなんです。まあ、やはり前世の関係だと思いますが......よろしければ先生。講演会の警備をうちの塾生にまかせていただけませんか? 警備の方法なども本職の指導を受けて練習中ですので、お役に立てるのではないかと思ってるんですが」
「ありがとう。そうお願いできたら何よりです」
丈の言葉は再び杉村由紀をはっと驚かせた。今年に入ってからの丈はめざましい変貌を示しつつある。今まで優柔不断に見えるほど慎重だった彼が、にわかに目が覚めたように果断になり始めているのだ。
自信がついてきたのかもしれない。もはや臆病なほどの慎重派ではない。素速く決断を下すその姿勢には自信が溢れている。
郁江を死の深淵から奪還したことが、丈を自信家にしたのかもしれない。
しかし、由紀にはいささか即断即決にすぎるような危惧がないでもなかった。多少頭ごなしのもの言いも増えてきたようである。その分、頼もしいと他人の目には映るようだし、由紀も例外ではないのだが、気にならないわけではない。
独断専行に転じた丈は強力な指導者に育って行くだろうが、最初由紀の惹かれた繊細さが影をひそめて行く懸念があるからだった。
しかし、それはもちろん由紀の自分勝手な願望なのであろう。
「やっぱり前世の縁生なんでしょうな」
と、感激癖の田崎が顔を染めながらいった。
「〝無名塾〟に集う連中は、先生の護衛役じゃないかと思うんです。松岡の通っている拳法の師範が、是非先生に逢いたいといってるそうです。全国に門弟が何万人もいる大きな団体ですが、そこの事務局長が先生のクリスマス講演会を聞いてひどく感激したんだそうです。明後日の講演会には事務局長が会の幹部をぞろぞろ連れてくるとかいってました。
やっぱり先生、昔の弟子たちがまた大集合ってことになると思うんです。それが俺にはとても楽しみです」
丈は過去において、よほど大きな集団の指導者だったのだろうか......由紀は自分が田崎のように過去世の記憶を取り戻せないことが残念になってきた。
丈はいったいどのような指導者として、過去の時代に生きたのだろう。その黒耀のように冴えざえと輝く瞳は、その時も今と少しも変らなかったのだろうか。
「あたしはだめ、思いだせないわ」
と、郁江が由紀の思いを代弁するようにいった。
「転生輪廻でいっしょに東君と出たとしても、江戸時代なんかじゃないような気がする。もっとうんと昔......あたしには今の東君でいいわ。こうやって現に今、目の前に存在しているんだから、それで充分よ。江戸時代だったら、男女差別がひどくて、まともに東君と口をきいたりできなかったかもしれないものね」
「いや、我々がなぜか郁姫と呼ぶ理由がわかるような気がするよ」
と、田崎がにやにや笑っていった。
「その頃、郁江は本当にどこかのお姫様だったんじゃないか? 手に負えないやんちゃなお姫様でな、さんざん悩まされた記憶が今出てきて、それで郁姫様と呼んでるんじゃないか。そのうちによく思いだしておくから、楽しみにしててくれな」
「そうだ、大名の御息女だったりして」
と、河合康夫が喜んでいった。
「それがひでえ我儘な姫君だったりしてね。妾はどうしても張孔堂の講義を聞きます! なんちゃって、家老が、姫、それはなりませぬ! 張孔堂先生は生涯不犯のお体、張孔堂屋敷にはたとえ猫なりとも雀なりとも女は全く立ち入れぬきびしい女人禁制、こればかりは姫様のおいいつけであろうと、どうにもなりませぬ......」
堂に入った演技であり、一同は啞然として康夫の一人芝居を見まもっていた。
「それを何とかせよと申しておるのじゃ! いや、この儀ばかりは平にご容赦......そうじゃ三太夫、いいことがある。妾は男装して張孔堂の講義を聞く。張孔堂を一目、この目で見たいのじゃ。若衆姿で出かけるゆえ、用意してたも......」
「何をやっているんだ?」
と、田崎が呆れていった。
「あいや姫様、それはなりませぬ。張孔堂は女人禁制で生涯不犯でも、衆道ばかりはおのずと別......それではつまらぬ、妾は行くのは止めた」
「康夫、お前は落語家になった方がいいんじゃないのか」
「教えるのは軍学ではなく儒道で、それで忠孝道、ちゅうこうどう......」
「くだらねえさげだ。でも、お前、意外に教養があるな。しかし、今の時代では通用しないよ。衆道の洒落なんかわからん」
「まあ、昔だったら通じましたけどね。やっぱりこうしてみると古いですな」
「張孔堂ってなに?」
と、郁江が尋ねた。
「それが、東君と何か関係あるの? 張孔堂って人の名前なの?」
「ずっと昔にいってた冗談ですよ。まあ、あんまり追及しないで下さいよ。郁姫様が本当にいたら、こんな調子だろうって冗談......」
康夫がなだめるように手を振りながらいった。郁江は腑に落ちない表情ながら、納得したようであった。
「ふうん......妾もなんだかそんな気持がしてきたぞよ」
と、郁姫がいい、それが堂に入っていたので、一同がわっと笑って拍手喝采した。
丈も笑って手を叩いたが、その瞳は黒々と底知れず光っており、そっと注視していた杉村由紀はぞくりと鳥肌が立った。郁江はなんのことかわからなかったようだが、張孔堂というのは、江戸時代の牢人軍学者で、慶安事件の張本人として名高い由井正雪のことではなかったか、と由紀は考えていた。正雪は徳川の世を覆そうと計った大謀反人として知られている。実在はしたが、謎に包まれた史上の人物である。
その由井正雪が、なにか丈の前世と関係あるのだろうか......田崎と河合康夫はなにかしら口に出せないことを暗示しているようにも思えた。それは正雪が大志ならず、悲劇的な死を遂げた人物だからだろうか。
そのために、田崎は、転生、輪廻は同じ失敗を宿命づけられているのか、と丈に向って尋ねたのではないか。もしそれが宿業であるならば、丈の前途には正雪と同じ挫折が待ち構えていることになる。
田崎たちが口に出せないのは、宿業が繰り返されることを恐れているせいかもしれない。輪廻には訂正が効くと丈はいったが、それでも彼らを本心から安堵させることはできなかったように思えた。
そして、丈が前世のことを思いだしたくない、と口にした時、期せずして人々の間を同じ波動が走り抜けたのは、やはり大きな危惧が潜在しているせいではなかったろうか......
12
一九六八年一月十三日。
渋谷の街々には相変らず空っ風が吹きまくっていた。体中が埃っぽくなる寒風だ。
道玄坂を登ると右側に名を知られた恋文横丁の雑然とした一画があり、そのやや先を右に折れる小路は、渋谷大映の前へと抜けて行く。
その小路は渋谷でもただ一軒の台湾料理店があることで通人には知られているが、台湾料理店の隣にある喫茶店は何の変哲もなくてだれにも見向きもされず、たいていは空いている。
土曜日など趣味の団体客で一時的に混雑することはあるが、まずフリの客が入りこむことはない店構えであった。
七時すぎ、店に入ってきた若い男女の二人連れは、客たちの視線を集めるのに充分だった。とりわけ女性客が人目を惹いた。妖精を思わせる素晴らしい美少女であり、他の客に無関心な団体客でさえも、はっと息を吞み、目を吸い寄せられたのだ。
美少女は井沢郁江であり、連れの長身でハンサムな大学生は高鳥慶輔であった。店内の三分の二を占めた団体客の注視を浴びながら、二人はカーテンのかかった窓際の席に腰をおろした。
郁江には確かに眺め甲斐というものがあった。人形じみた美少女ではなく、見飽きがしない。ちらちらと光が躍っているように瞳がきらめき、表情の一つ一つの変化に堪らない魅力がある。だれもが心を惹かれて、目をはなしがたい心境になる。
郁江を見たことで、なにかしらひどく儲けたような気分になり、一日中倖せな気分でいられるのだった。以前のような官能的な蠱惑美ではないが、今の郁江には透き徹った、この世の存在ではないような神秘性が加わっていた。心の琴線をくすぐられているように、奇妙なスリルを覚え、ぞくぞくしてくるのだった。
だれが見ても、郁江は常人でないということがわかる。特別な光耀を帯びた特別な存在であった。
ウェイトレスが注文を聞いて去った後、高鳥はポケットから出したアメリカタバコを口にくわえた。郁江はさりげなくテーブルの上にほうりだされた緑色のパッケージを見ていた。高鳥はよほど富裕な大学生であるらしい。金貼りのカルチェのガス・ライターで点火する。動作の一つ一つが形よくサマになっている。恰好よすぎるといってもさしつかえないほどであった。
金貼りのカルチェをテーブルのセイラムのパッケージに重ね、高鳥はハッカの香料の匂いのする煙を吐いた。
身につけているものも垢抜けしていた。服地も仕立ても高級なブティックの製品であり、貧乏大学生にはふさわしくない。高鳥は富裕な匂いを漂わせており、それが郁江には奇異に感じられた。
高鳥は名古屋から上京したK大生で、学生専門の安アパートに住む身分であり、本来さほど経済的に恵まれているわけではない、と郁江は知っていた。とくに現在は〝GENKEN〟へ出入りするためアルバイトからも遠ざかっており、高価なアメリカタバコを喫っていられる身分ではないはずである。家庭も特別に富裕とはいえず、高鳥に学資や最低限の生活費を仕送りするだけで精一杯だ。
高級なカルチェのライターなど無縁にきまっている。
郁江の貌はそのような思念を少しも反映していなかったが、高鳥は彼女の関心を感じとったのか、手を伸ばしてカルチェをとりしきりにもてあそび始めた。高鳥に遠感能力があることはわかっているが、やはりその鋭敏さには驚かされる。決して偶然ではない。敏感に察知し、感応しているのだ。
「ところで、今日はどういうご用ですか?」
と、高鳥は白い歯を見せ、愛嬌のある笑いとともにいった。愛想よく親しみを見せているが、誠意がどことなく欠けている。なにかしら上の空という印象である。
「郁江さんがいろいろと僕に話しかけるもんだから、みんなが気にしちゃって困るんですよ。郁姫様は〝GENKEN〟のマスコットだから......どうしたんだとみんなに尋かれるから参っちまう」
「そんなこと気にすることないんじゃない」
と、郁江はけろりとしていった。
「あたしは高鳥君に興味があるんだから。だってあなたは超能力者でしょう? とっても面白いわけよ」
「僕は東先生とは比べものになりませんよ」
高鳥はプライドをくすぐられた気配も見せずにいった。
「たいした力はないんです。なぜ僕なんかに郁姫様ともあろうものが興味を持つのかわからないな。だって、先生を身近に見てる郁江さんにしてみれば、どうってことないわけで......」
「あたしが高鳥君に興味を持ったらいけない? 東君は別に何もいってやしないわよ」
「いや。僕なんかが相手じゃ、おそれおおいってことで......」
「そんなことないっていってるでしょ。高鳥君は高鳥君で、〝GENKEN〟の人気者じゃないの。みんな、高鳥君に夢中になってるわ。あたしが高鳥君のことに興味を持ってもちっともおかしくないでしょ」
「いや......郁江さんて、なんだかこわいものな。生身の人間じゃなくて、天使が降りてきたみたいでね。背中に羽根でも隠しているんじゃないかって、気になっちゃう」
高鳥は機嫌を取るようにいった。なぜか郁江の前だと平常の己れを持していられないのだ。相手に迎合する口調になってくる。後で赤面したくなるほどだが、郁江を前にしているとどうにもならない。
ごく自然に圧迫されて、機嫌を伺う姿勢になってしまうのである。こんな経験は、丈以外の相手には味わったことがない。東丈もまた高鳥を圧迫して、いつの間にか迎合し、媚びるような真似をしでかしている自分に気付くことになる。後でかっと体が灼熱する恥辱感の虜になり、自尊心がずたずたになってしまう。
それ以外は、たとえ相手が秘書の杉村由紀であろうと臆することはない。上手に機嫌をとる自信がある。それは丈の姉の東三千子でも同じことだ。完全な感情移入をもって、彼女たちの崇拝者になりきることができる。
その自己暗示が効を奏さず、あっさり破れてしまうのは、丈と郁江の二人だけだ。相手が醒めた目でじっと自分の魂の深奥まで覗きこんでいるという強迫観念から逃れられなくなる。
丈の神秘的な黒い瞳にそれだけの力があるのは当然としても、わからないのは郁江だ。丈に対する時と同じく気圧されて、われながら稚拙な媚態を示し、後でかっと恥辱感に灼熱して孤りのたうちまわりたくなってしまう。
郁江が丈にとって特別な存在だという意識のなせるわざだろうか。死の業病から甦ってきた奇蹟の体現者だという噂のためなのか。
〝奇蹟の復活〟を成し遂げた少女という後光効果に威圧されているのかもしれない。
圧迫されまいと懸命に身構えても、郁江はいつの間にか高鳥を片隅に追い詰めている。意図的なものではなく、ごく自然にじりじりと圧迫を加えてくるのだった。
ただのちょっと可愛い女の子じゃないか、と己れにいい聞かせる。他の女と少しも変りはしないのだ。凄い超能力があるわけでもなんでもない。癌を一夜で治してしまったというが、確かに奇蹟ではあっても、それは丈の力であり、郁江自身の力ではあるまい。
だから、畏怖することはなにもない。〝聖少女〟なんてイメージは後光効果のためであって、まやかしにすぎない。他の可愛い女の子と少しも変らないのだ。すぐに濡れて発情する他の女と全く変らないはずだ。
己れに強い自己暗示を与えて、自信を得たと思っても、郁江の光耀の躍る眸の前ではあっさりと破れる。いわれもなく、たじろぎ、畏怖してしまい、相手に迎合しようとしてしまっている。
まるで犬が主人を見ると無意識にひっくり返って腹を見せ、追従すべく行動してしまうようだった。
まるで郁江が丈と特別な深い精神的つながりを持っており、郁江の眸をかりて丈があの恐ろしいほど深く黒い瞳で魂の奥底まで覗きこんでいる......そんな強迫観念が高鳥を捉えてはなさない。
腹の底を見透かされてしまう、という怖れから自由になれないのだ。愚かしいことだとは思う。郁江が杉村由紀のような超能力者でないことは明白だ。郁江を前にして、どんなに冒瀆的な思惟に心をゆだねても、看破されるはずはないのだ。想像で郁江の衣服を剝いで全裸にし、好きなだけもてあそんでも、超能力者ではない郁江には、彼のやっている冒瀆行為をわかりうるはずがない。
ところが、それができないのである。心に思い浮べただけでも、恐慌の虜になり、汗がじっとりと滲み出してくるほどだ。他の男は老若に関らず、郁江のような美少女に対して同じ冒瀆を行なっているはずだ。心であくことなく彼女を犯している。郁江には間断なく不可視の射精の飛沫がかかっているはずだ。高鳥にはそれがわかるのである。男たちが胸を高鳴らせながら、郁江を盗み見し、想像上の性行為に耽るさまが、白日夢さながらに視えてくるほどだ。
なにが〝聖少女〟なものか、と自分にいい聞かせ、反抗的に考える。簡単に手馴づけ、高鳥を見ただけで熱いバターのように溶ける女にしてみせる。わけはない。自分の念力で性中枢を刺激してやれば、どんな女でも自分の前に喜んで体を開くはずだ。
高鳥は自分の〝力〟に自信がある。幾人もの相手に己れの性的な影響力を行使し、思うがままの反応を引き出すことに成功しているのだ。
女は全て高鳥の前では忠実な下僕になる。女奴隷となって彼に仕えることに歓びをさえ見出すのだ。
それが見知らぬ通りすがりの女であっても、高鳥の〝力〟は自在に働く。心に念じるだけで、夢遊病者のように己れの意志を喪失し、ふらふらと尾いてくる。
もっとも、高鳥が〝力〟を試すのはそこまでであり、己れの限界をみずから設けてある。だれが見ているかわからないし、つまらぬことで問題を起こすことは避けたい。
女には不自由していないからだ。くだらぬ漁色で生体エネルギーを消耗するのは愚かなことだとわかっている。それに女などいくら自由にしたところで、その場限りの快楽を貪ることでしかない。高鳥は自分の力をもっと大事にすべきだと考えていた。無駄費いしてはもったいない。
己れの〝力〟に絶大の自信があっても、郁江の前で高鳥は汗をかいていた。気後れしてしまう自分をどうにもならなかった。
「郁姫様といっしょにいると、汗が出てきますよ。畏れおおくて......」
高鳥は冗談めかしていいながら、ハンカチを出して汗を拭いた。美人女優がくれたハンカチでフランス製品だ。安物ではない。
「どうも固くなるな......」
郁江の前ではやはり自己暗示が効かないことを再確認した。郁江を通じて、丈の視線を感じるのだ。丈の黒い瞳が郁江の眸に宿っており、高鳥の心を見抜いているという強迫観念をどうしても振り払うことができない。
だから高鳥は郁江の前で秘かな冒瀆行為に耽る自信がどうしても持てなかった。禁忌を破ろうとしているような圧迫感が心を絞めつける。そして汗が滲み出てくる。敢然と禁忌を押し破る勇気が持てない。
郁江ともども丈に見破られてしまうという確信が育ってくる。丈には不可解な畏怖すべきものが厳然として存在するのだ。
淫猥な冒瀆行為を心から追いやろうとしても、今度はへばりついたようになり、離れて行かない。淫らな想念が心に灼きついてしまっている。
すると焦慮で心が煮立ってきて、更に汗が流れてくるのだった。一人相撲を演じている不毛な消耗感が心に徴してきていた。郁江を前にしているだけで、ぐったりと疲れてしまいそうだ。
郁江がなぜ自分につきまとうのか、真意が摑めない。高鳥自身が常にやっていることを、郁江にそっくりコピーされているような気がする。巧妙に接近して、自分に好意を持たせるべく振舞う。相談を持ちかけて、相手の心を開かせるのだ。それが高鳥の常套手段であった。〝GENKEN〟でも同じ手を使って人々の好意を獲得し、失敗したことがない。
むろん、相手は慎重に選ぶ。杉村由紀に対しては自信があるが、郁江は対象外である。平山圭子も敬遠する人間の中に入っている。最初から成功が覚つかない相手は勘でわかるのである。
超能力のせいだろうと高鳥は思っている。甲斐のない相手に労力を無駄遣いする愚を回避させてくれる。超能力ほど有益なものはない。これぞと思う相手には、全精力を集中できるのだ。相手を征服し、いいなりにした時の快感は忘れられない。漁色家がこれはという女を落した気分に似ているかもしれなかった。
しかし、むろん高鳥にとっては、女を征服することなど二の次でしかない。後の煩わしさを思えば、漁色などあまりにも愚劣であり低級だと思っている。
しかし、郁江が自分の手口をコピーしているのがわからない。納得できないのだ。遠感で心を読もうと試みても、なぜかうまくいかなかった。
当の郁江が自分にどんな感情を抱いているのか、それさえも捕捉できなかった。郁姫と呼ばれる平然とした貌から何も摑めないのといっしょである。
「野沢緑ちゃん、会へ来なくなっちゃったらしいわね」
郁江はこだわりのない口ぶりでいった。陰湿な底意が少しも感じられない。しかし、高鳥には手痛い正面からの打撃に感じられた。こんなことを平気で、まともにいいだす人間は郁江以外にはないといってもよかった。
「高鳥君、緑ちゃんを呼び戻してきてよ。あなたにはそうする責任があると思うんだけどな」
「やっぱり、それが目的だったんですか?」
高鳥はむっつりとしていった。しかし、すぐに快活さを取り戻す。彼が長い間憮然としているさまを見た者は一人もいない。
「でもねえ、郁江さん、それは誤解なんですよ。僕と緑ちゃんの間に何かあったと思ってるんでしょう?」
「あたし、誤解なんかしてないわよ」
と、郁江が恬然としていう。
「みんな僕のことを、よっぽどのスケコマ師だと思いこんでるんだなあ。でも、郁江さん、誓ってもいいです、僕は女性に対して野心はまったくありません。少くとも会の中で、風紀を乱すようなことは絶対にしていません。東先生に誓ってもいいです! 僕は異性のことよりも、東丈先生の説かれること、成していかれることにしんそこ惹かれているんですよ! こういっちゃ失礼だけど、先生に比べたらいくら美人がやってきたって、目移りなんか決してしないですよ! 僕は先生を崇拝してるし、夢中なんです。他の存在は眼中にないんです......信じてもらえないかなあ」
高鳥は妙に切実さをこめて、訴えるような口ぶりでいった。噓をいっているのではないと郁江にもわかった。
「高鳥君が先生に熱中してることは本当だと思う。だからこそ、先生のことが知りたくて、情報を取るために、緑ちゃんに近づいたんでしょ。それを否定できる?」
郁江の口調は変らなかった。妙に重くなることは決してない。
「いや......緑君が先生のことを話してくれると期待してたことはあります。しかしそれが目的で緑君に近づき、誘惑したというのは誤解です。僕は緑君に手は出していません。みんなが何といっているか知らないけど......」
「緑ちゃんの方が夢中になって、熱をあげたというわけ?」
「ええ、まあ......」
高鳥は口を濁したが、いわんとするところは明らかであった。
「僕もよくなかったんです。誤解のタネを作ったかもしれないから......」
殊勝にいった。自分が真摯であり誠実であることを、郁江に印象づけようとする。
「緑ちゃんは何度も夜遅く、高鳥君のアパートへ訪ねて行ったんじゃない?」
「夜中に二人だけで逢うのはまずいからよそうといったんですが......」
噓ではないが、必ずしも真実の全てではない。しかし、聞く者の耳には、高鳥がいかにも慎重に振舞ったように響くであろう。
が、高鳥は郁江がそうした騙し方をされるようには思えなかった。かえって彼の狡猾さを郁江は見抜いてしまうような気がした。
「僕が悪かったんです。先生のことが知りたさに、緑君に近づいたんですから......」
「どうするの? 責任でも取るなんていいだしそう」
「そうじゃないんですけど、緑君に謝罪して連れ戻します。あやまらなきゃいけないと思ってたんです」
「でも、彼女は高鳥君に振られたと思ってるんでしょ? 連れ戻しに行って、彼女の求愛を受け容れるわけ?」
「いや......でも、やっぱり悪いのは僕だから謝罪して、誠意を示すほかはないですよね。僕は軽率でした。彼女に何といわれてもただあやまるしかありません」
どうもまずいな、と高鳥は危機感を持った。郁江から全て丈に筒抜けになるのは目に見えている。最初はよくあることで、気にもとめなかったが、〝GENKEN〟では、この種のトラブルは大いにまずい結果を産むかもしれない。丈が高鳥に対してスケコマ師の印象を持つかもしれないのだ。野沢緑が彼に熱中しすぎたのが間違いのもとである。女の扱いには慣れているはずだったが、どうも軽率にすぎたようだ。会員たちは一方的に緑がのぼせあがっただけ、と認めているが、丈はごまかせそうもない。高鳥の自己正当化の工作などであざむかれたりはしないだろう。現に郁江も、彼の心を見通していそうだ。
ここで丈に睨まれたら、もはや正規の会員として認められる機会を失うことになりそうな気がする。なんとかして、丈の心証を良好にしておかなければならないのだ。
「責任は必ずとりますよ」
と、高鳥はきっぱりした口調でいった。
「緑君は必ず連れ戻します......先生もそのことを気にしておられるんでしょう?」
探りを入れた。郁江が東丈の指示を受けて、自分につきまとっていることを、高鳥はまったく疑わなかった。
「東君はなんにもいってないわよ」
郁江はさらりといった。
「でも、彼の目は何も見逃さないものね。会のだれが何をしてるか、全部知ってるみたい。やっぱり凄いなあと思う。ただの超能力者じゃないわよね。遠感で会員の一人ずつ心を探ってたらどうなると思う? 他のことをしてる時間なんか全然なくなっちゃうと思わない?」
「四百人もいたら、ちょっと無理じゃないですかね......相手が少数でも考えを探るっていうのは凄くエネルギーを使うし、ぐったり疲れますからね。でも、先生はどうやってみんなの心をいっぺんに摑んでおられるんですか?」
「彼にはただわかるらしいわ。超能力といっても、遠感だとか想念伝達だとかと限定できないものみたいね」
「ただわかるんですか?」
高鳥は首をかしげ、セイラムに火をつけた。カルチェのライターを二、三度もてあそび、テーブルに置く。そんな高鳥を上眼遣いに見ながら、郁江はコーヒーを飲んだ。上眼遣いになった時の彼女の眸の美しさは尋常なものではなく、考えに気をとられている高鳥は気がつかないが、店内に居合わせた客たちはいっせいに目を惹きつけられた。
目を離せなくなるほどの蠱惑美が、この妖精じみた少女にはあった。
「しかし、それは何の力なのですかね?」
と、高鳥が考えあぐねて尋く。
「きっと救世主の力なんじゃない。彼自身、遠感はあっても弱いっていってるわ。秘書の杉村さんの方が、遠感だけに限ればずっと上......でも、必要となると、遠感などとうてい及びもつかないほど、何もかもわかってしまうのね。講演会なんか、何千人いても、いっぺんに一人一人の顔が全部わかるし、向うから意識が来るので考えてることも、なにもかもわかるといってるわ。こうなると、特別な力よね」
「凄いなあ......」
高鳥は茫然として呟いた。こんなことを今までだれ一人彼に話してくれたことはない。秘書室の野沢緑もだ。きっと郁江ほど丈のことを深く知らないのであろう。人選を誤まった、と彼は思った。しかし、郁江が相手では簡単に取り入ることはできまい。
「東君は、超能力を自分から意識的に使うことはほとんどないわ。気象や天候のコントロールも自由にできるけど、祈禱師みたいにお祈りしたりしない。でも、いくら天気が悪くても講演会になると必ずカラッと晴れ上っちゃうのね。素晴らしい秘書がどうしても必要だとなると、杉村さんみたいに最高の秘書が向うからお手伝いしにくる。世の中のことはなんでも東君の思い通りになるんじゃないかな? だから、限定された超能力なんか使う必要がないのね。
かえって彼が超能力にこだわってたら、みんな頓挫してしまうかもしれない。超能力ってやっぱりうんと技術的で末端的なことだと思うのよ。だから東君の使う力としては、低級だし、限定されたものだと思う」
「じゃ、郁江さんの癌を治したのは、先生の超能力じゃないんですか?」
高鳥が好奇心をむきだしにして尋ねた。
付近にいた客たちは耳をそばだてて盗み聴きしていた。二人ともことさらに大声で話しているわけではないが、店内が静かになったので、会話が浮き出してくる。まだ気付かずに奥の席では自分たちのお喋りに気を取られているが、郁江たちの近くの席では必死に耳を澄まし一言一句聞き逃すまいと努力していた。
「そうね。超能力なんて生易しいものじゃないと思うわ。あたし、体質から何からみんな変っちゃったもの。体形や顔立まで変ったらしいわ。癌だった時のあたしと何もかもすっかり変ってしまったみたい。だからただ単に超能力で癌が治ったなんて現象的なことじゃないのね。一度完全に消去されて、再生されたみたい。これは真の奇蹟であって、超能力なんてつまらないものじゃないと思うの」
「まったく物凄いな......郁江さんは病院から蒸発しちゃったそうですが、やっぱりテレポートしたわけですか?」
「その辺はどうか、よくわからないけど」
郁江はさりげなく言葉を濁した。
「手術するはずだった外科医が、今度先生に逢いにくるとかいってますね?」
「どうかしら? あたしはよく知らない」
「しかし、それほどの奇蹟が起こると、医学の立場がなくなっちゃうんじゃないですか? 心霊治療であっさり癌が消滅したりすると」
「東君が望むと、何が起こるかわからない。心霊治療かどうかあたしにはなんともいえないわ。あたしがいいたいのは、つまりそういうことよ」
「郁江さん自身も、超能力が出てきたそうですが......? 病院から消えたのは、郁江さんのテレポーテイション能力じゃないんですか? 先生の超能力を郁江さんは分け与えられたんだって、みんな噂してますよ」
近くの客たちの表情はみものであった。好奇心で慄えだしそうだった。郁江たちのすぐ隣席にいた図抜けた大男と対照的に小男の若者ら二人など、顔中にじっとりと汗を光らせていた。恐ろしく背の高い逞しい若者は手許に〝ウェアード・テールズ〟と読める英文の古雑誌を抑えつけていた。小柄な青年は下駄を穿いて指をまむしにしている。
「そんなこと、どうでもいいじゃない。みんなは超能力に夢中になりすぎてるわ。もっとも高鳥君は自分が超能力者だから無理もないかもしれないけど。相変らず超能力をトレーニングしてるの、高鳥君?」
「いや......先生とは比べものになりませんから。一度超能力のあり方というテーマで、先生が話して下さるといいんですけどね......僕ら、はっきりいって、自分の超能力をもてあましているんですよ。それは先生みたいに超能力に捉われず解脱した境地でいられればいいですけど、こっちは何分未熟者ばかりですから......」
「東君が何もいわないのは、超能力だけに気を取られるなっていう意味じゃないの? 彼は、超能力じゃたいしたことはできないと考えていると思うな。あたしもそれに賛成。超能力の有無なんか問題にしないわ。そんなこと、忘れちゃった方がいいわよ」
「しかし、才能を最大限に生かすってことは必要じゃないんですか? 超能力だって、せっかくあるものなら、十二分に生かした方がいいと思うんですけどね」
高鳥の目は意図せずに、挑戦的に輝いた。彼の内心が、言葉ほど謙虚でないことは明らかであった。
「今後、超能力者が増えてきて、それもかなりの超能力の持主だったら、あまり野放しにはできないんじゃないかと思うんですけどね。そのことを僕はいつも主張しているんです」
「一度ゆっくりと高鳥君の超能力を見せてもらおうかな。だってずいぶん自信がありそうだから......」
郁江が澄ましていい、高鳥はちょっぴり鼻白んだ。
「いや。僕の超能力なんか、たいしたことはありませんよ。郁江さんにお見せするほどのものじゃありません......」
「そうかな? 凄く自信があると思ってたんだけどな」
「ないですよ、自信なんか。郁江さんは先生の超奇蹟を見慣れてるんでしょう......僕のなんか見たって、どうってことはないです。お粗末なもんですから......それより、例の江田四朗の方、大丈夫なんですか? だんだん無気味な凄い勢力になってきてるそうじゃないですか? 政治家や警察まで動かしてる〝闇の帝王〟だとか......それに対抗して、先生は何か手を打ってるんでしょうか? いや、信頼してないわけじゃないけど、あんまり気味の悪い噂を聞くと、つい大丈夫かな、と不安になっちゃうんですよね。先生の偉大な力はもちろん信じてますけど......
江田四朗は人間を思い通りに操る奴隷みたいにしてるらしいですよ。強烈な催眠術で心を縛りあげて、がんじがらめにして、本人の意志に逆らうことまでむりやり強制するらしいです。そのことを、先生はご存知なんですか?」
「知ってるんじゃないかしら。彼は何でも知ってるみたいだから」
「どうして江田の奴を封じこめてしまわないんですか? 先生だったら、それくらいのことやってやれないこと、ないんじゃないですか?」
高鳥は本心から歯がゆそうにいった。人当りの良さにかくされた闘争心がちらりと覗いたようであった。人なつっこいように見えるが、この若者が外見通りの感じのいいだけの青年ではないと感じさせる代物であった。
「東君って、考えがあっても底を見せないところがあるから......でも、高鳥君だったら江田四朗に敢然と挑戦しそうね。武者震いが抑えきれないって感じ。向うが攻めてくるのを待ち構えてるみたいね。さあ来い、来たれって腕まくりをして......」
「まさかそんなことはないですよ。明日の新年講演会、江田がちょっかいをかけてきそうな気がしませんか?」
「そんな気はしないみたいよ。講演会はもう終ったような感じで、一月末のセミナーのプログラムのことを内村君に指示してたわ。内村君ももう張切っちゃって大変」
「内村氏、がんばってますからね。でも、警備の方は大丈夫ですか? クリスマス講演会だって、頭のおかしなのがペインティング・ナイフを持って舞台に上ってきたんでしょう? 頭の変になった美大生だったらしいけど。先生のPKで金縛りにされて何もできなかったそうですが、今度だってそういうことがないとはいえないはずですよ。江田がどんな手を使って妨害にかかるかもしれない。だけど、警備の方は、内村氏まったく手を抜いちゃっているんだなあ」
「東君が、警備の方は心配するな、と内村君にいったみたい。ちゃんとなにもかも考えているのよ、彼は。もしだれかが手抜きをしてたら決して見逃さないと思う」
「そうですか......」
淡々と郁江は受け答えているが、明らかに高鳥は圧されて旗色が悪くなってきていた。郁江の真意を勘繰るあまり一人相撲になっているのだが、本人は気付かない。
郁江はあまりにもあっさりしていて透明で、底意などおよそありそうではないのだが、高鳥にはどうしても意図が摑めないのだ。なにを考えているのか、妖精じみたキュートな顔から推量するすべはまるでない。
「東君はどうかしらないけど、あたしはやっぱり江田四朗に関しては心配してるわよ。高鳥君、あの女優さんとおつきあいしてるんですってね」
郁江は女優の名をいった。きれいな蠱惑的な目でまっすぐ高鳥の目をのぞきこんでいる。
「............!」
高鳥の目が激しく瞬いた。思わず動揺し、怯んでしまったのだ。郁江に対して気後れを覚えるのはこうした思いがけぬ奇襲があるためだ、と高鳥は体が熱くなる恥の感覚の中で悟った。
まるでずばりと匕首を突きつけてくるような呼吸だ。しかし、その瞬間も彼女はけろりとしている。謀ったという陰湿さがまるでない。
「ええ。つきあってます。自宅まで送ってほしいと頼まれて......先生に逢うのはもうあきらめたようですけど」
「高鳥君とおつきあいしてるから、もう先生と逢って相談しなくてもいいってわけね?」
「さあ......たぶん気がすんだんじゃないですか。心配事や愚痴を聞いてくれる人間が欲しかったんでしょう......僕がいろいろ相談事に乗ってやっていますから......」
それだけを口にするのに顔面にじっとりと汗が滲み出してきた。タバコが猛烈に吸いたくなったが、指が慄えそうな気がして我慢した。郁江のきれいに澄んだ目の前にさらせば、何もかも読み取られてしまう強迫観念が彼を捉え、絞めあげていた。
郁江の目はそこだけスポットライトをあてられているように強くきらめき、高鳥の口中をカラカラにさせた。彼女がとてつもない超能力者で、心を隅々まで見通しているというパニックだった。
そんなはずはない、と必死で自分にいい聞かせる。タバコでこの緊張をほぐしたくて気が変になりそうであった。
「相談事っていうと、あの女優さん、江田に今でもつきまとわれているの?」
「今は大丈夫らしいです。僕が彼女の相談を聞くようになってからは、音沙汰がぷっつりなくなったといってました......」
落着け落着け、と高鳥は自分にいい聞かせた。相手は何も知っちゃいない。ただ無邪気に好奇心を満足させようとしているだけだ。自分と女優の間にあることを逐一読み取っていれば、こんな平然とした顔ではいられないだろう。女優がどんなに色情狂めいていて、普通の女が絶対に承知しないことでも彼にやらせるということを、こいつがもし読んでいたら......
隣席にいた恐ろしく背の高い大男の若者が、ぎょっとして体を伸ばした。フチなしメガネをかけた目が跳び出してきそうになった。その目はテーブルに置かれたカルチェのライターに吸いつけられていた。
黄金貼りのライターが、直立しては横たわり、直立しては横たわるという行動を幾度も繰り返していた。まるで己れの意志を持った生物と化したようにきらっきらっと黄金の光を踊らせては直立と仰臥を反復しているのだった。
ただそれだけの単調な動きにすぎない。しかし、これほど衝撃的で奇怪な見ものはなかった。物理学の法則をすべて破り、世の中の常識を衆人環視の中で踏みにじっているのである。
メガネの大男と向い合って座っていたメガネなしの小男の青年が次いでその奇態なライターの踊りに気づき、しゃちほこばった。下駄の音が足許でガタガタと鳴った。
声にならないどよめきがあがったようだった。体を乗り出して客たちが、テーブルの上で踊るカルチェのライターに目を奪われている。大学生のくせに中年男のような肥り方をした若造が身を乗りだしたはずみにテーブルが傾き、滑り落ちたコップが床で割れて鈍い音を立てた。
コップの破砕音と同時にライターの踊りが止み、同時に郁江の手が伸びてカルチェを取り上げていた。客たちはふうっと息をついて、体を元の位置に戻した。皆は非難の目で中年男じみた大学生を見ている。こいつがコップを落したから、といわんばかりだ。ウェイトレスがチリトリを持って掃除に来る。
「素的なライターじゃない?」
と、郁江はカルチェを手にしたまま、客たちに目を向けた。きらっと鞏膜までが光を弾くような眸だ。団体客たちは明らかにそわそわして目をそむけた。
「彼女のプレゼント?」
「ええ、まあ......江田を追っ払ってくれたお礼だというんで......」
「無理に押しつけられた?」
「断わると気を悪くするんでね。彼女は凄く気位が高くて我儘だから」
高鳥はようやく動揺から抜け出すことに成功した。居直った感じだった。ヘドモドして口ごもりながら弁解することがどんなに恰好悪いか意識したとたんに、しゃっきりとしてきたのだ。いかにも高鳥らしい立ち直り方であった。もう混乱も動揺もきれいさっぱり払い落してしまっている。
「つきあってみると、けっこう面白いですよ。芸能界って本当の仲間も友達もいないところだってよくわかりますね。だから、江田に追いまわされている間、どんなに心細かったかといってます。今は元気ですよ」
「そう。高鳥君が頼もしいボディガードになってるから?」
「まあ、多少は心強いんじゃないですか?」
東丈に知れるなら、その時はその時だ、と高鳥はふてぶてしさを取り戻していた。ライターなど、女優がくれる細ごまとしたプレゼントも自分がねだったわけではない。女優との仲もありふれた男女関係であり、丈があれこれいう筋合ではなかろう。自分は何一つ拘束を受けているわけではないのだ。女優が自分に溺れこみ夢中になっているからといって、他人の口出しすることではない。
しかし、郁江は恐ろしく勘がよくて、要所になるとすかさず指摘してくるのが不思議だ。本人は否定しているが、やはり超能力が発現しているのではないだろうか。あの眸の輝きなど普通の女とは全く違う。眼の部分だけスポットが当っているみたいに強く光っている。
カルチェをテーブルに戻して、郁江はいきなり立ち上った。
「出ましょう。もう秘書室に戻らないと、どこで油を売ってるのかと叱られちゃうから」
「へえ。郁江さんでも叱られるんですか?」
東丈の指令で自分を探っているわけではないな、と高鳥は急に呼吸が楽になる感覚を味わった。さもなければ、彼女がいくら出歩いても叱られるはずがなかった。
郁江と高鳥が喫茶店のドアの向うに姿を消すのを待ち構えていたように、団体客たちはいっせいに私語で沸き返った。
「伊藤さん、見ましたか!?」
と、大男の青年がやや年かさの、小肥りの青年に向っていった。
「今の見たでしょ!?」
「見た見た。だけど、奇術だろう」
と、年長の青年が頰をふくらませて答える。
「いや、絶対奇術じゃないですよ! 俺、すぐ隣でずっと見てたんだから!」
大男の青年が力をこめていった。
「横田さん、そばでしっかり見てたでしょ」
「いや、僕はあの美少女ばかり見てたもんだから、ライターが踊ってるのなんか全然気付かなかったな」
と、下駄穿きの小柄な青年が答える。
「やっぱり見てたじゃないですか!」
「いや、凄いんだよね。二人とも超能力のことを話してるんだけど、実によく知ってるんだ。あんまり真に迫ってるから、ぞっとしちゃったな」
「俺たちのことをからかいに来たんだよ」
「芝居だよ」
「いや、絶対に芝居じゃないですよ」
「テーブルの下から磁石で操って、動かしてたんだ」
「いや、そんなことはない。俺は二人とも手の動きはずっと見張ってたもの」
「あの美少女が怪しいよ。みんなあの娘の顔ばっかり見てたんだろ? 一杯くわされたんだよ」
「そうだ、奇術で助手の美人がミスディレクションをやるのといっしょだ」
「もう少し観察していればわかったと思うんだ。俺と鏡が一番あの二人に近い席にいたんだから」
「そうだ、コップを落した奴がいけない」
「豚饅が悪い! コップなんか割りやがったからだ」
一同の非難は中年男のように肥った大学生に集中した。
「みんな、からかわれたんだよ。どこかの大学のSF研の連中の冗談だろう」
「どこのSF研にあんな美人がいますか」
「二人とも、ちょっとこう神秘的な感じの美男美女だったじゃない、根木さん?」
と、髪の毛の長い若い女がほっそりした年長の女性に向っていった。
「あれ、本物じゃないかしら? 千秋どう思う?」
「あの美少女、この辺で最近よく見かけますよ」
と、まるまるとした女の子みたいな青年がいった。
「この間林石隆が見とれてて転んだって女の子じゃないか」
「でも、超能力のことは付焼刃じゃなくて、本当によく知ってるみたいだった」
と、横田という小柄な青年が力をこめていった。
「凄い話してましたよ、伊藤さん。心霊治療で癌を治してもらったとか、病院からテレポートしたとか......」
「本当、凄かった。あの女の子ただものじゃないですよ。超能力なんか真の奇蹟じゃないなんていってるんだから。なんだか話聞いてると、渋谷のこの近くに超能力者の団体があるみたいですよ」
「フィクションだろう。どうせどこかのSF研だよ」
「宇宙気流に載せよう」
「野田さんに電話して......」
客たちの私語が喧騒に移って行き、関心の渦はばらばらに崩れて行った。
「あ、牧村さんが来た」
「気の毒......飲んでくるから悪いんだ」
彼らはどっと笑った。
13
喫茶店の外の小路では、その時騒ぎが起きていた。
台湾料理店の前あたりで立ち話していた郁江と高鳥に向って、酔った若い男が五人ほどいきなりぶつかってきたのである。
刃物じみた目をギラギラ光らせた若いチンピラどもは郁江の美しさと高鳥のハンサムぶりに強く刺激されたのだろう。ものもいわずに体当りしてきた。酔っているというだけではすまされない狂気の理不尽さであった。
高鳥は機敏な反射神経で辛うじて顔面を狙ってきた拳を左肩で受けよろめいた。郁江は避けようとして手を伸ばすと、ちょうどそれが相手の顔の真中にぶつかり、ぱっと鼻血が飛んだ。脳震盪を起してその場にうずくまってしまう。
「野郎っ」
とおめき声をあげていっせいにチンピラどもが襲いかかった。眼をつける、因縁つけるといった手続きが一切無視されているのが異様だった。狂気がとり憑いたとしかいえない乱暴さだった。
高鳥は数発殴られ、それから猛然と反撃に移った。闘争好きの不穏さが顔付を不逞ぶてしく変えた。力のこもったフックを使って殴り返す。ラグビーでもやっていたような長身の体は強靱で活力があった。体格でかなり劣るチンピラは高鳥のフックを受けると大きくぐらつき、よろけて尻もちを突いた。
一人だけ郁江にかかってきたが、とっさに郁江がその場にしゃがみこむとその体に足をさらわれ、前へ泳いで電柱に頭をぶつけた。厭な音がしてくたくたと崩れ落ちてしまう。驚くほどの血が頭部から噴き出して顔が真赤になる。
郁江が立ち上った時は、もう喧嘩は終りかけていた。一人だけ残してチンピラは四這いになっており、最後の一人と高鳥が殴り合っていた。
殴り合いといっても、相手のチンピラは体の自由がきかないようだった。股間を蹴り上げられでもしたように、両手でしっかりそこを摑んでおり、無防備の顔面を高鳥が左右の拳を振るって殴りつけていた。
パンチを打つフォームは恰好悪く無器用だが、滅多打ちの都度血しぶきが飛ぶ猛烈さだった。革手袋をはめた両拳で力まかせに殴っているのだ。
高鳥の思いがけない獰猛さを垣間見させる光景だった。建物の壁に追い詰めておいて、思うさま乱打している。チンピラの顔はおそろしく変形し打撃を食うたびに鼻孔と口から血飛沫が飛び散る。手加減のない物凄さであり、郁江が見ている前でわずかな間に十発ほど殴った。
郁江の鋭い声を聞いて、高鳥は最後の強振で相手をぶちのめした。振り向きざま、路上に這っているチンピラの脇腹を力いっぱい蹴こむ。高鳥の顔は獰猛な闘争の喜悦に輝き、別人のようだった。牙を剝いた野獣の印象であり、日頃の感じのいい好青年の趣きはどこにもない。
高鳥は郁江の手を摑むと強引に、引きずるように走り出した。道玄坂には出ずに、右への傾斜を駆け登って行く。
彼は恐ろしく喧嘩慣れしているように振舞っていた。だれかがパトカーを呼んだことを計算に入れているのであろう。目撃者は多いが、だれも追ってこない。血反吐を吐いているチンピラどもを気味悪そうに見ているだけで同情の色もなくささやきあっている。
実際には長くても三分とかからず生じた出来事であった。五人のチンピラが一人残らず叩き伏せられ、血だらけになって唸っているのだ。高鳥に乱打されたチンピラよりも、しゃがんだ郁江の体につまずいてコンクリ電柱に頭から激突したチンピラの方が重傷を負ったらしい。仰向けに伸びた血まみれの顔は口をあんぐりとあけて、鼾のような音を立てている。赤い血の色をした鼻提灯を鼻孔からふくらませ、それが鼾とともに震えている。小路に沿った店からは人が大勢出てきて野次馬になった。
小路から小路を走り抜けて現場を離れた郁江と高鳥は息を切らせて人目をとりつくろい、ゆっくりと歩きだした。冷たい夜気をあまりに急激に呼吸したので、喉が灼けるように痛んだ。
周囲を歩いている人々は騒ぎをなにも知らないが、パトカーのサイレンが響きだすと、不安げな好奇心をこめて振り返った。

「手袋、取った方がいいわよ」
と、郁江が小声でいった。
「血がついてるから。コートの袖にも染みがついてるんじゃないの」
高鳥は茶色い革手袋を脱いでコートのポケットに押しこんだ。まだ呼吸が荒く、白い呼気をせわしく吐き続けている。郁江がけろりとして息も乱していないのと対比的だ。
「どうするつもり?」
郁江が尋ねる。高鳥はにやっと不敵に笑った。
「どうもしませんよ。相手はチンピラですからね。警察だって気にしやしませんよ」
「だって、みんな伸びちゃってたわよ。高鳥君がKOしたんでしょ?」
「気にすることはないですよ。郁江さんだって二人もやっつけたでしょ。僕は三人だけだから」
「やっつけたりしないわよ。避けたら向うで勝手に転んじゃったんだもの。ね、警察へ届けた方がいいと思うけど」
「それはやめといた方がいいですよ」
と、高鳥は明快にいった。
「明日は講演会でしょ。僕らが警察に調べられたら厄介なことになりますよ。沢山マスコミ・ジャーナリズムの連中が来るんでしょ。どうせ売られた喧嘩だ。知らん顔していればいいんですよ。そうでしょ?」
「でも、警察の方から捜してきたら、問題が大きくなるんじゃない?」
「大丈夫ですよ。ここらじゃ喧嘩沙汰なんかしょっ中のことだし、まともな務め人や学生がやられたんならともかく、のされたのはチンピラですからね。警察ってヤクザだのチンピラが怪我しても、やったのはだれかなんて捜したりしませんよ。大丈夫、心配いりません」
自信たっぷりであり、説得力があった。高鳥は闘争の余燼が熱くしているように、ぎらつく顔をし、不敵な表情を浮べていた。
「高鳥君、いつもあんな喧嘩してるの?」
郁江が平静な声音で聞く。
「とんでもない。いつもなら逃げますよ。だけど、今夜のはいきなりかかってきたから。俺だけじゃなく、郁江さんにまで向っていったじゃないですか。この野郎っと思ったら、もう殴り合いになっちまってた」
両手をあげて、多少打撲傷で色変りしてきた頰骨の上を撫で、高鳥は笑った。
「気にしないことですよ。絶対大丈夫です。チンピラなんか人間のうちに入らないから」
郁江はちょっと瞬きし、考えこむような目付になった。
「いきなりかかってきたっていうのがおかしいわね?」
「酔っ払っていやがった。もしかしたら、幻魔に操られてたのかもしれない。幻魔が憑依してたんだ。だからいきなり、猛烈な勢いで襲ってきたんだ。そうだ! きっとそうですよ! でなきゃ、出遭い頭ってことはない。チンピラだってちゃんと因縁をつけるのが当り前なんだからな!」
高鳥は興奮した声音でいった。自分の考えに夢中になっていた。
「他に考えようがないですよ! 奴らが刃物でも持ってたら、いきなりブスッとやられたかもしれないんだ」
「高鳥君、超能力を使ったでしょ?」
と、郁江が静かに尋ね、高鳥を絶句させた。
「PK(念動)で動けなくさせたんじゃないの?」
「そりゃ使いましたよ。なにしろ多勢に無勢なんだから」
高鳥は気を取り直し、ふてぶてしくいった。
「でも、動きを鈍くさせただけですよ。やろうと思えば息の根を止めてやることだってできたんだ」
「心臓を停めようと思えば、できるわけ?」
「さあね。試したことはないですからね。でもそこまでやる気はないですよ」
「ずいぶん痛そうにしてたわ」
「急所をぎゅうっと締めつけてやったんですよ。それで奴ら動けなくなりやがった......」
高鳥は思い出し笑いしながらいった。
「それで、あの連中ガニマタになっていたわけなの?」
郁江が平然として尋ね、高鳥は頰に浮かべていた薄笑いを消した。それが残忍な笑みであることを自分でも悟ったようであった。
「とっさのことでね......でも、超能力を使ったのは僕だけじゃない。郁江さんだってそうでしょう。電柱に頭をぶつけたチンピラ、相当ひどくやられたようだった......」
「あたしに超能力があるわけないでしょ。とっさに頭を抱えてしゃがみこんだだけよ。だって物凄い勢いでかかってきて、ぶとうとしたんだもの」
「最初のチンピラだって、郁江さんに鼻を殴られて血だらけになってた」
「よけようとして手を出したところに、向うからぶつかってきたのよ。ちょうど掌が鼻に当ったわけ」
「凄くタイミングのいいカウンターだった。偶然だなんていっても信じられない」
高鳥は口の隅をねじ曲げて、多少冷笑的にいった。
「やっぱり超能力だと思うな。タイミングがよすぎるんですよ」
「あたしは護られてるのかもしれないわ」
郁江は高鳥のいうことを気にもとめなかった。
「護られてるって、誰に!?」
「目に見えない力に......そんな気がする」
「東丈先生の力ですか?」
「さあ。わからないけど」
眉をしかめて郁江を見詰める高鳥の頰に鳥肌が立った。郁江を通じて働いている丈の力を垣間見たようだった。
自分がそれをずっと感じていたのは、やはり間違いではなかった、と彼は思った。郁江の眸の向うには丈のあの神秘的な黒い瞳が光っているのだ。郁江が視、そして感じていることは、同時に丈が知覚するところのものでもある。
それはまるで、郁江が丈によって憑依され操られているといった迷信的な膚寒いものを高鳥に与えた。
「これから、高鳥君どうするの?」
「平山ビルに帰ろうかな......」
「コートに血がついてるわよ。みんなに見られたら何といって説明するの?」
「そうか......」
高鳥は黙りこんだ。郁江が何を考えているのか見当がつかないのだった。
「じゃ、いったんアパートへ戻って、それから出直しますよ」
「それがいいわ。警察の手配を受けてるとすれば、ここで別々になった方がいいみたい」
「そうします......」
高鳥は足を停めた。躊躇っている。
「郁江さん。このことをどうせ先生に話すんでしょう?」
「どうして?」
「どうせ話すに決ってるけど、それなら正確に報告して下さい。べつにかばってくれなくてもいいですよ」
高鳥は強い言葉を吐いた。
「僕は、幻魔に操られてきたチンピラをやっつけただけだと確信してる。幻魔が相手だから、この先もまた同じことがないとはいえない。そしたら僕はまたやっつけてやりますよ。僕は自分が間違ってるとは思わない。だれだって僕と同じように戦うはずだし、さもなければ卑怯な臆病者だと思う。今夜逃げたのは、先生の迷惑になってはまずいと判断したからですよ。チンピラどもとまた渋谷で出食わしたら、また叩きのめしてやる!」
「そうね。またきっと顔を合わすんじゃない?」
郁江の返事は意気ごんでいた高鳥の虚を突いた。
「じゃ、気をつけて。あたしはビルに戻るわ」
郁江がくるりと背を向けて道を戻って行くのを、高鳥は呆然と見送った。この真冬の凍てつくような夜に、シャツブラウスに薄手のブレザー一枚だけでおよそ寒そうな気ぶりもなかった。手を摑んで走っている間、掌中にあった郁江の小造りの手の異様な熱さが甦ってきた。熱でもあってひどく体温が高いのかと思ったおぼろげな記憶がある──いったいあいつは何を考えているんだろう!?
高鳥を襲っているのは恐怖に近い感情であった。突張ってはみたが、正当防衛とはいえ不祥事を起こしたことはまぎれもない事実であった。それも〝GENKEN〟の平山ビルとは道玄坂をはさんだ目と鼻の先である。もしかしたら会員が目撃していたかもしれないのだ。
まずいことになった。これで正式会員への道は遠のいたという予感があった。チンピラと乱闘事件を起こし、超能力まで使ったと知れば、会員たちの高鳥を見る目はいっぺんに変りそうな気がした。郁江をチンピラの乱暴から護るためだとしても、イメージ・ダウンは免れない。
まあいいさ、その時はその時だ......
高鳥の唇に不逞な笑みが刻まれた。チンピラ五人を郁江と二人で叩きのめしたといってやる。結果的に郁江もまたチンピラ二人に血を流させているのだから、同罪には違いなかった。
郁江を抱きこんでおけば、会から追い出されるということもあるまい。よしんばそうなったとしても、一人では出て行かない。
高鳥はダスターコートの裾をひるがえし、昂然とうそぶくように顎をあげて歩きだした。顔は明るくなり、目には挑むような無鉄砲なきらめきが宿っていた。
14
一九六八年一月十四日。
渋谷、道玄坂の〝GENKEN〟事務局は二人の留守番を残してひっそりと静まり返っていた。
東丈の新年講演会が開かれるため、ほとんど全員が会場へ出払ってしまったのである。日曜日なので、平山ビルは人の気配がなくなっていた。八階建てのビル全体がしんとしている。
一階の事務局分室は閉され、七階にはクジ運が悪くて留守番の役目が廻ってきた事務局員二人が、時折鳴る電話の相手をしていた。
天気は上々で、嫉ましいほど抜け上った冬の空が青い。中央区の会場は前回を凌ぐ出足で聴衆が詰めかけていると電話連絡が入っていた。
電話のベルを鳴らすのは、もっぱら講演会の問合せだった。マスコミ関係者が多い。取材に詰めかける数は前回の比ではないようである。一月の二週目から発売になる週刊誌には、東丈と〝GENKEN〟に関する記事が載り始め、あらゆるマスコミ・ジャーナリズムがいっせいに丈へ関心を向け始めていた。正月以来、一日に十件を下らない取材、インタヴュー、対談などの申し込みが殺到し始めたのだ。
取材には応じないが、講演会の案内をする。それは前回と同じである。電話問合せの多さは目をみはるほどだった。当日になっても、問合せは止むことがない。
菊谷明子が不運な電話番の一人であった。今しもかかってきた問合せを片づけ、送受器を架台に戻すと、ふうっと溜息をつき、窓から覗く蒼穹の濃さに目をやる。
丈の講演を聞き逃すほど無念なことはない。だが、会員であれば、だれでもそれは同じである。クジ運の悪さを呪うほかはなかった。
壁の時計は午前十一時三十八分を差している。午後一時の開場までにはしばらくあった。ぎりぎりまで残って、それから事務局を閉めて会場へ駆けつけようかと考える。
今日の丈の講演が素晴らしい成功を約束されていることは間違いなかった。どうしても聞き逃したくなかった。
菊谷明子はその決心を伝えるべく、同様に留守番の悲運に遭っている同僚に声をかけようとした。資料室の秋津女史である。
菊谷明子が立ち上り、席を離れた時、電話が鳴り出した。戻ろうとすると停まった。資料室にいる秋津女史が出たのであろう。
事務局から廊下に出た時、資料室のドアーが開いてメガネの秋津女史がバタバタ飛び出してきた。あわてふためいている。普段の女史には見られない泳ぐような恰好だ。冷たく不吉なものが胸に広がった。
「明子ちゃん、大変!」
と、秋津女史は金切声で叫びながら走ってきた。
「大変よ! 大変なの!!」
「講演会がどうかしたんですか!?」
菊谷明子は顔色を変えた。秋津女史にしがみつかれると子供のように小柄な明子は体が浮き上り、身動きが取れなくなった。
「講演会? 違うわよ! 電話なの、英語で電話! 明子ちゃん電話に出て、お願い!」
秋津女史が揺すると、軽量の菊谷明子は軽々と振り廻わされた。
「だ、だって、あたしだって英語なんか話せませんもの! 秋津さんこそお願い!」
「あたしは駄目なの! 口がもつれちゃってフガフガしちゃうの! だから、明子さん電話に出てちょうだい!」
女史は菊谷明子を引きずるようにして、資料室へ連れこんだ。否も応もない。秋津女史は瘦せているくせに、驚くほどの力持ちであった。
「早く、早く! 急いで! ニューヨークから国際電話なんだから!」
「こ、困るわ! あたしは英語、まるで弱いんですもの!」
「なにいってるの! あんたなんか学校出たのつい最近じゃないの。あたしなんか二十年も昔よ」
菊谷明子は絶体絶命の気分で、押しつけられた送受器を耳許に持ち上げた。頭が空白になってしまったようだ。
明子が電話口に出たと知って、たちまち向うが喋り出した。何をいっているのか、皆目見当がつかない。明子の額にどっと汗が噴き出した。
相手は立て続けにまくしたてており、明子は失語症になったように、一言も出てこなかった。単語一つ出てこないのである。全身がみるみる汗で湿って行く。
英語の相手は何かしら問い質すように喋っている。明子は錆びついたように舌が動かない。
「どうかしたんですか?」
と、若々しい声が尋ねた。
「高鳥君!」
秋津女史が跳びつかんばかりに、若者に駆け寄った。
「ニューヨークから英語で電話なの! ちょうどよかったわ! 高鳥君、英語話せるでしょう!?」
「多少は話せますが、菊谷さん、大丈夫ですか?」
と、高鳥が尋ねた。菊谷明子は発熱したような真赤な顔で呆然と背の高いスマートな若者を見上げた。
なぜ、彼が今時分、こんなところに、とそれしか思い浮ばなかった。逆上してわけがわからなくなっている。
「電話代りましょうか?」
高鳥は必死にしがみついている明子の手から送受器を取り上げた。手をはなす時、彼女の指はポキポキと枯枝が折れるような音を発したほどであった。
どうかしたのか、と電話の相手が訝しげに尋いた。話のわかる者が出たことを歓迎していた。
なんでもない、OKだ、と高鳥が答える。
何かあったのかと心配した。OKならよろしい、と相手がいった。
「サムライ・ボーイはどうしているかね? 彼と話したい」
「サムライ・ボーイ? それはだれのことですか?」
「サムライ・ボーイを知らないのかね? ジョーのことだよ。君は何者かね?」
相手は少しばかり苛立ってきた。高鳥は相手が権威を振るうことになれている人物であることを悟った。サーをつけて名乗る。なんだか知らないが、丁重に振舞っておいた方がいいだろうと判断したのだ。
「タカトリー、私はジョーと話したいのだよ。そちらにジョーがいるだろう。アズマ・ジョーだ。さっきからそういっているのに、少しも話が通じん」
「失礼ですが、どなたさまでしょうか? もしかすると、ミスタ・メイン? メイン財団の?」
高鳥は興奮を抑えきれぬ声音でいった。
「そうだ、そのメインだ。ジョン・メインだ......さっきからそういっているのに少しも通じなかった。ジョーはいるのかね、いないのかね?」
ミスタ・メインは気ぜわしかった。さんざんたらい廻しにされたので、短気になっているようであった。アメリカで超能力者協会を彼の肝煎で作った大富豪のミスタ・メインなのだ。トランシルヴァニアのルナ王女の有力な後援者である。それを知って、高鳥慶輔の体はかっと熱いもので満たされてきた。汗ばんだ掌で送受器を握り直す。
「東丈先生は今外出中です。私は先生の弟子で高鳥と申します。英語が話せない者が電話に出て、たいへん失礼いたしました」
「返事をしてくれないので弱ったよ。ジョーはいつ帰るんだね? 私はたいへん忙しいのでなんとか早く連絡をつけたいのだ。返事をしてくれない者が電話に出るのは恐ろしいことだ......いや、それよりジョーと連絡はつけられないかね?」
「東丈先生は講演に行っています。夜はパーティーに出席するので、こちらには戻りません。お急ぎの御用件ですか?」
「ジョーから手紙をもらった。元気でやっているらしい。組織を作ったそうだが、ジョーをアメリカへ招こうと思って電話をかけたのだ。ジョーは真に素晴らしいスーパーサイキックだ。沢山サイキックを集めたが、彼に匹敵するような人間は一人もいないし、それどころか足許にも及ばん。我々の超能力者協会にジョーにも協力してもらいたいのだが、彼はそんなに多忙なのか?」
「たいへん多忙です。先生は本も書いて二か月後には出版されます。大勢の人間たちが先生の真価を認めつつあります」
「それは素晴らしい。サムライ・ボーイには見所があると思っていた。そちらでの仕事は忙しくて、アメリカへ来ることはむずかしいかね?」
「たぶんそうだと思います。先生は毎日ほとんど寝ていません。多忙すぎるのです」
「そうか......タカトリー、君は弟子だそうだが、超能力者なのかね?」
「はい、一度そちらの超能力検定を受けたいと思っていました」
滑らかに英語で喋っている高鳥を、菊谷明子たちは驚異と尊敬の眼差で見ていた。高鳥は天才だ、と彼女たちは思っていた。なんでもそつなくこなしてしまう。電話の相手と苦もなく英語で渡り合っている高鳥にはヒーローの後光がまつわっているようであった。
「タカトリー、君はどんな力を持っているのかね?」
と、ミスタ・メインが尋ねる。
「今、ひとつお目にかけましょうか、ミスタ・メイン?」
高鳥の頰にふてぶてしい笑みが刻まれた。
「ほう、何を見せてくれるんだ?」
ミスタ・メインは好奇心の虜になった声音で尋いた。
「これですよ!」
地球を半周する電話ケーブルの向うで、ミスタ・メインの驚いた叫び声が起こるのを、高鳥はにんまりと笑いながら聞いていた。
「驚いた! 電話の送受器がいきなり身をくねらせて、わしの掌の中から逃げ出しおった! まるで釣り上げたばかりの魚が逃げるようにだ! 君がやったのか、タカトリー!?」
少年じみた興奮の声音で、ミスタ・メインが叫んだ。
「その通りです。ミスタ・メイン。僕にはPKがあります。PKで物体を移動させたり、火をつけたりすることができます。できたら、その力をミスタ・メインの目の前でお目にかけたいと思っています」
願ってもない機会だ、と高鳥も熱くなっていた。ミスタ・メインに認められ、アメリカでの超能力者検定にパスすれば、否応なしに日本でも超能力を認める気運が動くことになるだろう。
「素晴らしい。君を見逃すわけにはいかんな、タカトリー。ジョーといっしょにアメリカへ来る気はないかね?」
そらきた!! 高鳥はまこと、目もくらむ心地を味わった。勝利感の血が轟音を発して体中を騒がせていた。
「行きたいです、是非とも! アメリカへ渡って検定を受けるのが僕の夢でした。必ずそっちへ行きます! 僕の力を見て、そして試して下さい!」
もう東丈のことなど念頭にもない。大超能力者として世界的に公認される期待が、光耀のシャワーのように全身を包んでいる。アメリカ行きの渡航費用を捻出しなければならない。そう思ったとたん、元子という平凡な本名を持つ美人女優の顔が浮んだ。そうだ、あいつに出させればいい。あいつなら必ず出すだろう。金を出させる方法を高鳥は知っているのだ。
「先生が行けなくても、僕一人で行ってもいいでしょうか?」
「ジョーが来られないのは残念だ。私はジョーに逢いたいし、力になってもらいたいのだ......」
「僕もお役に立てると思います。先生の代理として呼んで下さい。お願いします。僕も大きな力を持っています。他のサイキックに引けは取りません。充分に先生の代理が務まります......」
高鳥は必死になって喋った。なんとしてでもここはミスタ・メインを説得しなければならないと思った。
「オーケー、君の申し出はわかった。ジョーが来られない場合は、君をジョーの代理として招待する。ケースケ・タカトリーだな。すぐに航空機のティケットを送る。ジョーによろしくいってくれ。一日も早くジョーの顔を見たいとな。私は本当にジョーの偉大な力を必要としているのだ」
「ありがとうございます。必ず伝えます」
「また電話する。今度はタカトリーが出てくれることを望む。日本語の喋れる秘書がいないのだ。急いで捜さなければならん」
「大丈夫です。僕がそっちへ行きますから。必ずミスタ・メインのお役に立ちます」
高鳥は躍り上りたい気分を懸命に抑えた。ミスタ・メインは完全に引っかかった。彼は高鳥の名を決して忘れないだろう。自分はミスタ・メインにとって必要な人材なのだ。日本にいるよりも、ずっと自分の力量を発揮できることは間違いない。
東丈は〝GENKEN〟に手を取られ放しで当分は日本を離れられないだろうし、自分が代理としてミスタ・メインの招待を受けることはもう決定したのと同じだ。
ミスタ・メインが電話を切った後、高鳥は送受器を架台に戻すのも忘れ、恍惚とした笑みを頰に刻みこんだまま佇んでいた。その笑みは彼の顔を輝かす炎に似ていた。
あとがき
最近、うーんと呻りたくなるようなことが幾つか続いた。
一つは今年になってからの母親の唐突な他界である。はっと気付くと、一九六七年には父親が死んでいる。
一九六七年というのは、私が「幻魔大戦」を石森章太郎さんといっしょに手がけていた年であり、最初の作品集「虎は目覚める」を上梓して、SF作家として本格的に活動を始めた年なのである。
「幻魔大戦」に手を染めると、私を囲繞する運命的超次元空間から、得体の知れぬ怪魚的存在が出現して肉親を喰いちぎって行く......そんな怪奇的なイメージはぞっとしないのだが、やはり、うんと呻らざるを得ない奇妙で無気味な暗合を思わせるのだ。
「幻魔大戦」や「悪霊の女王」を手がけると近親者に災難や病気が続出したり、作者自身も奇禍に見舞われると前に書いたような気がするが、ひそかに戦々恟々としながら、それでも居直って、ここまで強引に進めてきたものの、やっぱりなあと溜息をつきたくなってしまうのだ。
堕天使ルシファー伝を書こうとするものは不慮の死に見舞われるという伝説があるという。私もいずれライフワークで挑むつもりだから、この伝説と真正面から対決しなければならない。
私もあまり長寿ではないという予感があるので、心構えはあるつもりだ。しかしまさかこの「幻魔大戦」がルシファー伝に関係あるとは思いもしなかった。
自分の生命で年貢を支払う覚悟はあるつもりだが、飛ばっちりが他に行くのはどうもつらい。災厄を私一手に引受けさせてもらいたいのだ。せめてもこの「幻魔大戦」を完結させるまでは生きていたいものだ、と考えざるを得ない日々が続いている。
いきなり陰気な話になってしまったが、本人はさほど陰々滅々に陥ちこんでいるわけではないからご安心いただきたい。正月早々のギックリ腰、消化不良、便秘などの三重苦にもめげず、顔をしかめながら原稿箋と格闘している。やはり私も日本人であって頑張るのが好きで性に合っているのであろう。
いや、そうではなくて使命感というやつか。自分の生命を削るだけでなく、近親者までを生贄に取られてなお頑張り続けるというのは、単に意地などという言葉ではおさまりきれない。
己れの内部に物凄く高圧のものが潜在していて、本人の意図も希望も無視し、ぐいぐいと押しつけ、押しまくり、せめても一息入れたいという哀れな望みも怠け心も圧し潰して、怒濤の如く仕事一筋に使役しまくる。この高圧の衝動とはいったい何なのか?
やはり使命感としかいいようがない。
私だって海外旅行をしたいし、取材も溜まっている。読みたい本、読まなければならない資料も山積している。切角買いこんだレコードもろくに針を通していない。この数年間、映画をいったい何本観たというのだ?
逢いたくても何年も逢えない友人たちばかりではないか。
過ぎてきた歳月は自分の裡に折り畳まれているばかりではない。書店へ足を踏み入れると、作家として描いてきた軌跡が、自著となってずらりと一線に並んでいる。
小説を書くことだけに全てを費してきた、私の人生が書物になって累積している。
全ての読者が時間的継起を追い、私の最初期からの創作活動にともにつきあってくれているわけではない。それは当然のことだ。
比較的新しい読者たちは、時間の流れを無視して手当りしだいに読む。十数年間の私の人生は、新しい読者たちにとっては、何の意味もない。私の本たちはただ一列にずらりと並んでいるだけなのだから。
こうした読者たちが手紙をよこすと、私はまたしても、うーんと呻らされる。
二十代の後半から四十代の前半に至るまでの私における時間の流れは、決して均質なものではない。人生には付物の四苦八苦にさらされてきたし、模索から覚醒感に至るめくるめくような激しい振幅によって、私の時間は織り成されている。
長く私とつきあって下さっている読者であれば、私が心頭に発する怒りに衝き動かされて書き続けてきた、〝人類ダメ小説〟の終焉と回心、再出発に至る揺動をご存知のはずである。
この激動の時期に、私は多くの読者を失い、代りに新しい読者の多くを得た。私が人類弾劾、人間悪追及の〝人類ダメ小説〟を捨てたことで、少なからぬ読者が失望し、腹を立てて去って行ったことを私はよく知っている。
過激な抗議状を突きつけ、去って行く読者たちに、私は一言の弁解も自分に許さなかった。私が追い求めてきたのは〝真実〟であって、もし自分の使命感に忠実であるならば、読者の大半を失ってもやむなし、と心を決めていたからだ。
私は闇に惹かれて闇を求める虚無主義者ではない。読者の心に闇を注入すべく、〝人類ダメ小説〟を書き続けていたわけではないのである。これは弁解ではないし、弁解など一切する気はない。どうしてもわかってくれなければ、それでもよい。
しかし、かつての私の〝回心〟あるいは〝変節〟を激しく非難した読者たちも、徐々に理解しはじめている傾向を私は感じている。
私がなぜ急激な〝回心〟へ向ったか、数年がかりで理解してくれた人々も少なからず存在するのである。
ひっきょう私は〝悪の追及〟を志したのであり、主義のような固定観念に陥り、大向う受けを狙って人類弾劾を展開していたわけではなかった。私を激しく非難したさまざまな読者たちの中に、一人でも私ほど目を凝らし、闇夜のような人類悪を透視した者がいるかといえば、これははなはだ疑問である。
まして十数年の軌跡を折り畳んでしまったように、書店の本棚に並ぶ私の本たちを、現在手に取る読者たちにとり、私の描いた激しい振幅がどのように受け取られるかというと、まったくもって見当がつかなくなる。
わずか数か月間で、私の四十数冊の著書を読み漁ってしまう新しい読者たちにしてみると、私の描いた振幅は理解を超えるのではないかという気がする。
新しい読者たちにとって、私の最初期の作品群も最新刊の大河小説も等しなみに受領されるものなのである。十数年の私の時間など、頭から無視されてしまう。時間的継起というものは存在せず、何もかもいっぺんに起こったものとして受け取られるのである。
たとえば、最初期の短編「レオノーラ」を書いた作者は二十三歳の青年だったのだが、現在それを読む若い読者は、四十代に入った今の作者のイメージで読むのである。そうではないのだと弁解しても無駄であろう。読者にとっては、時間的継起などまったく無関係なのだから。
しかし、時間は人間の意識を変える。〝彼は昔の彼ならず〟、私もまた変って行く。私にとっては必然的な〝回心〟であっても一部の読者たちにしてみれば、許しがたい〝変節〟であるかもしれないし、それは覚悟している。
イエス・キリストの圧制者だった使徒パウロの心に起こったのは〝変節〟だったのか。偉大な伝道者だったイエズス会の神父クリストファー・フェレイラが〝転びばてれん〟と化してから江戸忠庵と改名してキリスト教禁制の徹底的な走狗となったのは、果して〝回心〟だったのか、それとも〝変節〟だったのか。
これは決して相対的な問題などではありえない。人間の心が蔵した〝悪〟とは視座の変化で転換する程度のものではありえないのだ。そんなに〝悪〟とは単純なものではない。
魔的な拷問技術を駆使した圧制者として、初期キリスト教の弾圧を行ったローマ帝国と、魔女狩りを行なった異端審問者キリスト教会は同じ陣営に与している。けれども、千数百年後にキリスト教会が犯した過誤の責を、被圧制者として十字架上に死したイエス・キリストに帰することが可能かどうか、コンクリートの頭を持った人間でない限り判断することは容易であろう。
皮相な相対論などで、〝悪〟の問題は絶対に取りおさえられないものなのだ。私は今、気の遠くなりそうな大河小説「幻魔大戦」でそれを証明しようとしている。
最近の若い読者の中には、私が〝幻魔〟を宇宙の根元悪と呼ぶことに対し、過激な嚇怒を燃やしている向きがおいでらしい。私が〝人間悪〟をまやかしの〝根元悪〟にすり替えたという怒りがあまり文脈の定かでない抗議文から読み取れる。けれども私は己れを人間悪の追及者と規定したことはあっても、人間の裡なる獣性の語り部であろうとしたことなど一度もない。これこそ曲解というものであろう。
こうした平板な弾劾者たちには、私のような〝悪の追及〟体験はありえないし、むろん神秘体験も持ち合わせていないはずだ。己れの心の内部を徹底的に凝視する作業によってのみ、人の心の闇も光も見えてくるのだ。〝幻魔大戦〟とはその実践であり、報告書なのである。
若くて性急に結論へと跳びつく人々に、一つの言葉を贈りたい。
〝闇がなければ、星も光ることはできない〟
平井 和正
本書中には「気違い」という病気を差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
井沢郁江は異常感覚のうちにあった。
それは精神と肉体が分離する感覚であり、浮揚感覚でもある。ふわふわと心が体を脱け出し、漂って行きそうな心地に囚えられていた。
まるで自分が覚醒していながら、夢遊病にでもなったのではないかという矛盾した感じの虜になってしまう。現実の感覚がいっせいに遠ざかり、淡い夢幻の趣きを持ち始める。現実感がひどく稀薄になると、入れ替って強い波動が心身を襲い始める。小さな物音が轟音のように恐ろしい波動となって殺到してくる。普段は絶対に聞こえないような物音、壁の中で電線がジイジイと唸る音、あるいは、数十人もいる群衆の裡の、特定の人々の囁き声が明瞭に聞こえてきたりする。
嗅覚が異常に鋭敏になり、たとえば猫を飼っている人間を一瞥しただけでわかるようになった。猫の臭いがつんと鼻を衝くのである。それは猫に限らず犬でも鳥でも同じことだ。それどころか、体の器官を病んでいる人間がいれば、患部がどこか、たちどころに指摘できる。病いの臭気というものがわかるのである。
それは、郁江自身が幻魔の悪想念による生体細胞の変質により、卵巣や子宮を癌で冒されている時、異常に鋭敏化した嗅覚で悪臭をかいでいたのと同じであった。
そんなことはありえない、と思うようなことまでわかってしまうのだ。群衆のある人間は物凄く生臭い、卒倒しかねないほどの猛烈な悪臭を口から漂わせていることがある。嗅いだだけで顔を厚板で殴りつけられたほどのしたたかな衝撃が来る。満員電車の混雑の中で、向い合わせに立とうものなら、悪寒と嘔き気で気絶しかねない代物だ。
しかし、他人にはそれが少しも嗅ぎ分けられない。口臭があるということすらわからない。風邪を引きこんで鼻が利かなくなっているわけでもないのに、正常な嗅覚では何も捉えられないのである。
郁江にしてみれば、幻臭なのかと思うほどの差異が他人との間に存在する。異常感覚にある時には、警察犬の嗅覚の鋭敏さを実感することができるのだ。本人が自覚していない病患も百発百中で的中させる自信がある。
浮揚感覚が生じている時には特に、こわいほど五官が敏感になる。忍者は一丁先に落ちた針のたてる音を聴くというが、郁江にとってはその俗説が少しも荒唐無稽ではありえなかった。
真実そのものといっていい。あるいは、郁江の異常感覚からすれば、忍者のそれも低レベルといえたかもしれない。
浮揚感覚が起こった時は、五官のレベルが一挙に数万倍の高みに跳ね上るような気がする。これが日常的になれば、刺激の物凄さに発狂しかねなかった。
なにしろ、意図的にレベルをコントロールすることができない。ふとしたはずみに始まるのである。浮揚感にある時は異常感覚の洪水であるが、おさまる時には突如ぴたっとおさまってしまう。
まるで憑きものが落ちたという感じに似ている。
浮揚感がなく、普段の状態でも、さりげなくわかることがある。他人の病気がわかったりするのはそんな場合だ。病気でなくとも、死んだ蛇のようなひどい生臭い臭気を発散させている者があり、顔を見ると正常な精神状態にないことがわかってしまう。
深刻な怨恨や憎悪、嫉妬は生臭い悪臭を放つものだと郁江は知った。
いたんだ心はやはり有機物の腐敗臭を発散するものである。幻臭かもしれないが、それは物質の臭気とまったく異るところがない。
己れの意志ではなく、何者かが五官のレベルを操作している......それが郁江の実感であった。狂死しそうな悪臭を嗅がされても堪えて行けるのはそのためだ。
四六時中、異常感覚のプラトーにあれば、とうてい長生きできないという気がする。気が狂って衰弱死してしまうであろう。しかし、レベル操作を行なっている何者かは、郁江の限界をよく心得ているようであった。決して不必要な過度の刺激にさらすということがなかった。
その何者かは、たぶん郁江自身の潜在意識かもしれず、郁江は充分に庇護者として信頼しているのだった。
凄まじい波動が、郁江の心身を震わせ、翻弄し続けていた。五官に加わる刺激を、郁江は全て波動として受信し、認識しているのである。
郁江は奇妙な浮揚感覚のまっただ中にあり、足が地につかず一歩ごとに浮き上り、舞い上っていく心地に囚われている。
隣りを歩いている〝無名塾〟の松岡さえも風船のように漂っているように見える。意識が現実感から離れてしまっていた。まるで酔っ払っているようだ、と郁江は思った。しかし酔ってはいない。理性を失っているわけではない。
警備班の松岡と二人で、会場を視察しているところだ。東丈の講演会は今のところ支障なく進行している。大成功は疑いなしだ。
郁江を囲繞している凄まじい波動は、丈の講演がもたらしているものだ。丈の放つ波動、超満員の三千名を超す大聴衆の放つ波動が渾然一体となって会場に渦巻き信じがたい高エネルギーの波動と化している。
その波動は会場の外部にまで溢れ出し、大気の色まで染めかえてしまっているようだ。
郁江と松岡は、会場ロビーを歩いていた。異変をキャッチするために、郁江を浮揚感覚が訪れたのだ......彼女はなんの理由もなくそう信じている。
場内は超満員だが、ロビーは無人境だ。聴衆は一人残らず東丈の講演に吸い寄せられている。
丈の輝かしい張りのある声音がロビーにまで漏れてくる。高エネルギーの〝言魂〟で場内が強い光の波動に満たされているようだ。今日の丈の講演は前回にも増して、凄まじい気迫がこもっているようだった。ロビーにいてさえ、心身がビリビリと振動するようだ。
その波動はもはや凄絶という言葉がふさわしかった。ほとんど物質的な迫力をはらみ、ぐいぐいと圧しまくられるようである。場内の聴衆は滝に打たれる迫力によって茫然としているであろう。肺腑をえぐり、心臓を直撃するほどの圧倒的なパワーがある。
警備班の松岡高志は一秒でも早く場内に入り、丈の講演に直接接したいという願望を全身に現わしていた。ロビーのパトロールなど上の空である。
「井沢さん、もう中へ入りませんか?」
と、松岡は堪まりかねていった。
「ロビーにはだれもいませんよ。手洗所もちゃんと調べたし、もういいでしょう?」
彼は、郁江が特殊な異常感覚の中に入りこんでいることを知らない。郁江は妖精じみた雰囲気をまとっていて神秘的だ。薄い透き徹った羽根でも背中につけていそうな気がする。たとえようもなく魅惑的な郁江とともにいるのは楽しいが、それにもまして丈の講演は魂を吸引する力がある。
警備班としてパトロールする義務があることすら忘れてしまう。たとえばイエス・キリストがガリラヤで講演する時、現場に居合わせたとすれば、何をさしおいてもその機会を逃すことはありえないであろう。
松岡にとって東丈はまぎれもない救世主であり、その講演は絶対に聞き逃したくない。まさに歴史的瞬間だと自覚しているのだった。
彼には郁江がなぜ彼を伴い、ロビーをパトロールしているのか、さっぱりわけがわからなかった。もうすでに受付は閉鎖されており、聴衆の入場は締切られている。なにも無人のロビーを警戒する必要はないと思えるのだった。
それに、郁江がなぜ警備にまで参加してくるのか、松岡にはその理由が理解できない。郁江が東丈のある種の代理であることは聞いているが、郁江の行動には不可解なことが多すぎた。
田崎から郁江の護衛を命ぜられ、それは喜んで引き受けたものの、彼女が意図するものまでは教えられてはいない。わけもわからず、この妖精じみた美少女の後について廻るほかはないのだった。
郁江は大きく目をみはって、松岡を見返した。その光が溢れ出るような目の輝きに、彼は背筋に衝撃を覚えた。郁江が異常感覚にあることを松岡は知らなかった。光の靄がかかったような眸はまったく人間放れしている。明らかに光を反射するだけの普通の人間の眼とは異るのだ。
「井沢さん、どうかしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
若者はようやく郁江が通常の状態にないことを悟った。なにかしら特殊なことが起こっていると悟ったのは、松岡自身も過去の自分が甦ったりする霊的状態を経験しているせいだったろう。
不思議な霊的な気配が沈黙している郁江にみなぎっていた。郁江の内部に輝かしい光の如きものが入り、眸を透して内部の光耀が漏洩してくるかのような印象であった。
井沢郁江は足を停め、佇んでいた。首をかしげて、何事か考えこんでいるようである。あるいは松岡には聴き取れぬひそかな声を聞いているかのような仕草であった。郁江が超能力者であるとは聞かされていないが、あの偉大な超能力者東丈のもっとも身近な存在であるのならば、大きな力を備えているのがかえってふさわしいような気がした。杉村由紀はその一人である。郁江もまたそうであろう。
「待って。何かが来るわ......」
と、郁江がいった。普段の郁江の声音ではなかった。深く澄んだ声だった。眸は森の奥の泉のように澄んでいる。光耀のあふれだす眼ではない。わずかな間に眼の色まで変化してしまったようだった。
「え......?」
松岡は精悍な黒々とした眉をしかめて、周囲のロビーを見わたした。ロビーは相変らずの無人境である。東丈の講演が始まって三十分以上経ち、入場受付は閉鎖されている。会場からロビーへ抜け出してくる人間もいなかった。
「だれも来ませんよ、郁江さん」
「いいえ、来るわ。波動を感じるの。松岡さん、よく気をつけていて」
松岡はエントランスへ目を向けた。閉鎖された受付を通り抜けて、だれかが入ってくる。若者は機敏に反応した。体がスムーズに動いて、エントランスへ向けて走り出す。
「ちょっと待って下さい!」
と、松岡は制した。若い男女の二人連れが足を停める。
「もう入場はできませんよ。ご講演が始まっていますから! 申しわけありませんが、入場はご遠慮下さい」
若いだけに松岡は気負っていて、杓子定規であった。〝無名塾〟として警備をまかせられているので、責任感旺盛ともいえる。
「いや、いいんですよ。僕らは〝GENKEN〟の者ですから......」
と、長身のハンサムな若者が薄笑いを浮かべながらいった。
「会員の方ですか。それは失礼しました。では、会員証を拝見させて下さい」
と、松岡が四角四面な顔付でいう。
「会員証......? ああ、今ちょっと持ってないんです」
「会員証がないと困ります。僕らは警備をまかされてますので、規則を守っていただかないと......」
「だって、我々は本当に〝GENKEN〟の者なんですよ。あなたはどちらの方なんですか?」
「僕らは〝無名塾〟の者です」
「知らないなあ。そんな、聞いたこともない......」
「東丈先生の委嘱を受けて、僕ら〝無名塾〟が警備をまかされました。知らないのはしょうがないですが、会員の方なら、その証拠を見せていただかないと、お入れできません」
「そんな固いこといわないで下さいよ。困るなあ......まるで本職の警備員みたいだ」
「本職から訓練を受けているんです」
「そりゃ頼もしいな。あんたはとても腕っ節が強そうだし......とにかくなんとかなりませんか?」
押し問答を続けていても、長身のハンサムな若者の顔からは薄笑いが消えなかった。他人を小馬鹿にするような微笑であり、それが松岡を片意地にさせたようである。
その微笑には、妙に見る者の心を苛立たせるものがあった。愛想よく笑ってはいるが、誠実さが感じられないのだった。松岡にはそれが噓臭いものであることが一目でわかり、反撥をかきたてられてしまっていた。なまじ相手が笑みを浮かべていなければ、妥協したかもしれない。
「会員のだれかを呼んで下さいよ。責任者の内村君いるでしょ。呼んでくれれば、僕の身許証明はできます」
「しかし、もうご講演は始まって三十分以上経つんですよ。会場から呼び出すなんて、そんなことできませんよ」
松岡は強く目を光らせていった。相手の放っている波動は不愉快であり、彼を依怙地にさせるのに充分であった。
「じゃ、だれでもいいですから、会員を呼んで下さい。僕らはとにかく〝GENKEN〟の者なんだ。怪しげな者じゃありませんよ。なぜそれがあんたにはわからないのかなあ」
「とにかくご講演のさい中だし、途中からの入場は認められないんです。会員だというけど、その証拠もないし、警備の責任がある以上、入れてあげられないんです。規則を守らなきゃなりませんからね」
「あくまでも規則一点張りなんですか? あんたも相当わけのわからない人だなあ」
相手の目が挑戦的にぎらりと光るのを見て、松岡は闘争心をかきたてられた。武道で鍛えられた筋骨逞しい体が闘志でふくれあがるように反応する。
「わけがわからないとは何ですか。警備班がいい加減なことをしてて、先生が護れますか。頭のおかしな人間が先生に危害を加えることだってありえるんだ。規則を無視する人間を用心するのは当然でしょう!!」
松岡は怒気をはらんでいった。若いだけに血気盛んである。
「もういい。あんたといい争っていたってしょうがない。僕らは会の者なんだから、入る権利がある。外部の人間に邪魔立てされる憶えはない。そこをどいてくれないか」
背の高い青年は背後の少女を振り返った。
「さあ、行きましょう。こんなのとかかりあってたら、講演を聞き逃しちまう」
「おい、待てよ」
と、松岡は怒っていった。
「こんなのとは何だ。無礼じゃないか! そんなことより、警備責任がある以上、うろんな人間は入れられない。さあ、外へ出てくれないか」
「うるさいな」
と、背の高い青年は冷やかにいった。
「腕づくで止めるというのか? 君のような分らず屋はクビだ。君こそさっさと出て行けばいいだろう」
「なんだって?」
気色ばんだ松岡は顔をしかめた。両腕で腹を抱えこむ。不意に生じた腹痛に体が前屈みになり、しゃっきりと立っていることもできなかった。たちまち顔に汗が滲みだす。体を真直に起こそうと死物狂いの努力を払っていた。
「ほう、どうかしたのかい? 腹でも痛むのか?」
相手はハンサムな顔に冷笑を浮かべた。松岡は気力を振り絞っていい返そうとしたが、唸り声が口から出てくるだけだった。
「ふん、急病らしい。うちへ帰って早く休むんだな。さあ、早く行きましょう」
背の高い青年は嘲るようにいい、少女の肩に手を伸ばした。
「待て......」
と、松岡はいった。口をきくのも苦痛だった。顔は真蒼になっていた。
「まだ何か用があるのか......」
青年は薄笑いしながらいった。妙に残忍な貌になっていた。
「松岡君。何かあったの?」
と、郁江がいった。大柄な松岡の背後から音もなく突如現われた郁江を見て、青年の薄笑いが消える。
「今ごろずいぶん遅いじゃない、高鳥君?」
郁江は平然とした声音でいった。
「事務局の方に国際電話がかかってきたもので、ちょっと」
高鳥は拭ったように冷笑的な気配を消していた。真面目くさった顔付を取り戻している。
「こちらは、会員の方だそうで。外で出会ったものですから、ごいっしょに......郁江さん、ご存知ですか?」
高鳥慶輔は異様なものを感じたように、緊張した声音でいった。
「陽子、しばらくね」
郁江は何事もなかったようにいった。いつに変らず恬然としている。一瞬、顔を走った動揺の色も留めていなかった。

「しばらく......」
久保陽子は低い声音でいった。蒼白い顔にわずかに血の色が動いたようであった。
「元気?」
「ええ。おかげさまでなんとか......」
久保陽子は顔色こそ青白く緊張しているが、ひところのやつれ方ではなかった。むしろ以前より落着いていて、大人びている。緊張過多でそそっかしい、足が地につかない感じは消えていた。
「よかったわね。歓迎するわ......松岡君、どうしたの?」
と、郁江は体を二つ折りにして脂汗を滲ませている若者に目をやった。
「急に腹痛を起こしたらしいです。救急班の所へ連れて行った方がいいんじゃないですか?」
高鳥はけろりとしていった。郁江は頷いて手を松岡の背中にあてがった。
「あたしが連れて行くわ」
「久保陽子さんは僕が席にお連れします」
「お願い......じゃ、陽子、またあとで......」
郁江は二人を見送った。高鳥はいかにも彼らしいスマートさで久保陽子をエスコートしている。
「大丈夫、松岡君?」
郁江は小造りの可愛い手で松岡の背中をさすった。
「ちょっとあそこのベンチで休みましょう。歩ける?」
心配そうな顔になっていた。唸り声をあげる若者に肩を貸して、郁江はロビーの壁際のベンチに歩かせた。松岡は冷汗を流しながら必死に歩いた。小柄でなよやかな郁江の体が今にも押し潰されそうだった。
「ちょっと休めば大丈夫です」
松岡はベンチに崩れるように座りこみ、息を切らしていった。苦痛はいまだに去らない。腸を捻じ切られそうな苦悶だ。どんな姿勢をとっても苦しみは減じない。ただ冷汗を流して堪えるだけだ。腸捻転でも起こしたのではないかと思った。
「あたしが生体エネルギーを入れてあげる」
と、郁江がいい、しっかり腹を抱えこんでいる松岡の手をどけさせようとした。
「さっ、その手をどけて」
「いや......いいんです。少し休めば......」
治ります、とはいえなかった。代りに苦痛の呻き声が漏れ出て、若者は歯咬みをした。情けない醜態をこの妖精のような少女の目の前にさらけだしていることが無念であった。
「よくないわよ。さあ、早く手をどけなさい。あたしのいうことを聞くのよ」
「しかし......」
「あたしが先生の代理だってことを忘れたの? あたしの命令は先生の命令よ。さ、手をどけるの」
郁江の可愛い手が、松岡の大きな逞しい手の指をしっかり摑み、無理やりもぎとった。若者にはもはや逆らえなかった。ベンチの前にかがみこんだ郁江が彼の顔を見上げた。
「ベンチに寝るの。仰向けになって......だれも見てないわよ、気にすることないわ」
松岡は唸り声をあげながら、渋々と命令に従った。腸がちぎれそうな苦悶の前には逆らえなかった。
「そう。体から力を抜いて......先生の声が聞こえるでしょう? 先生の声に注意を集中していなさい」
郁江は両掌で松岡の胴体をはさみこむようにしながら命じた。左掌は背中側にさしこみ、右掌は腹の上に載せている。
「すぐ楽になるから......」
腹筋の緊まり発達した若者の腹は、苦痛で岩のように硬直していた。体中が痙攣し、汗が噴き出している。
郁江の異様に体温の高い、熱い掌が腹に触れる。松岡の蒼白になった顔が歪み、白い強靱な歯をぎりぎりと食いしばる。
切腹のため刃を腹に突き刺した激痛にそっくりだ、と松岡は思った。切腹の経験があるわけではないが、なぜかそう感じたのだ。
郁江の掌がどんどん熱くなってきた。若者は目をあけたり閉じたりして、間近に迫っている郁江の顔を見た。少女はひどく真剣な顔をしていた。こんな美しい貌は見たことがなかった。人間放れした美しさだった。まるみを帯びたなだらかな額にうっすらと汗が滲んで、滑らかに輝やいている。
全てが精巧に、繊細に造られた顔立ちであり、これは妖精か天使の貌だ、と松岡は確信した。透き徹った質感を持つ皮膚には、汗を滲ませていても、生物の汚ならしさが欠如していた。光が皮膚の底から滲んできているようだ。繊細な長い睫にかこまれた眸は、瞳だけでなく、虹彩や鞏膜までが光を放っている。
松岡はあまりにも間近に迫っている郁江の顔を思わずまじまじと凝視してしまい、見てはならぬものを見てしまったような畏れに囚えられた。戦慄を体に這わせながら、目を固く閉じる。禁忌をおかしたようなスリリングな戦慄であり、罪悪感を伴っていた。
神の宿った少女の顔を直視してしまったみたいであった。
恐ろしい苦痛が、いつしか郁江の熱い掌の下で融けてしまっていた。灼熱するストーブの上に載せた氷雪が融けるようにあとかたもなく失せていた。
松岡は目を開け、ロビーの無愛想な天井を珍しいものでも見るようにまじまじと眺めていた。
東丈の講演の強い波動がびりびりとロビーの空気を震わせながら充満している。言葉まではわからないが、張りのある強烈な〝言魂〟だけは五体にぶちあたり、浸透してくるようだ。
「痛くなくなった......」
と、松岡は子供のように驚きをこめていった。
「もう痛くない......痛みが消えてしまいました」
「よかったわ」
郁江は手を引いた。熱い掌がはなれ去るとにわかに松岡は恥しさに摑まれ、バネの弾けるような動作で身を起こしていた。ベンチに座り、自分の手でジャンパーの腹を撫でまわした。郁江の熱い手形が腹の筋肉に刻印されて残っているようであった。
「不思議だ。あれだけの痛みが噓みたいにとれてしまいましたよ。まるで魔法みたいだ」
「生体エネルギーを奪られて氷みたいにお腹が冷えきっていたわよ。だから、エネルギーを補充したの。もう大丈夫だと思うけど、念のために病院へ行くといいかもしれない」
郁江は立ち上っていった。両手をスカートのポケットに突っこんでいる。少年ぽい仕草だが、この妖精じみた美少女にはそれがよく似合っていた。
「もう大丈夫です。すっかりよくなりました......だけど、井沢さん、今のは心霊治療なんでしょう? 井沢さんも超能力者になったんですか?」
「さあ、どうかしら。先生に治してもらってあたしもやり方を覚えただけ。心霊治療の能力って伝染するのかしら......生体エネルギーといっても、宇宙エネルギーと同じものでしょ。東君から伝わってきたエネルギーかもしれないわ。なんていうのかな、充電したって感じかしらね」
「前よりもスキッとしてきましたよ。元気がもりもり湧いてくるって感じです」
「顔色もよくなったわ。もう大丈夫みたいね」
「ありがとうございます、井沢さん」
松岡は感謝をこめていった。ベンチから立ち上り力足を踏む。再び精力が汪溢する壮漢の雰囲気に戻っていた。
「こりゃ、もしかすると病院に救急車で担ぎこまれるかなと覚悟してました。こんなひどい目にあったのは初めてです。井沢さんがいなければ七転八倒してたかもしれません......腸に穴でもあいたんじゃないかと思いました。命の恩人ですよ、井沢さんは」
逞しい体付をした松岡は、彼の肩までしかない小柄な美少女に尊敬と憧憬にみちた目を向けた。郁江は特殊な光彩を帯びて輝いているように見えた。
「井沢さん。だれかが来るといっていたのは、さっきの二人のことだったんですか?」
松岡は声をひそめるようにして尋ねた。
「そうだったみたい。何かが起こりそうだなって感じていたの」
「でも、あの二人は、〝GENKEN〟の会員なんでしょう?」
「女の子の方は久保陽子といって、一番古くからの会員。最近ちょっとわけがあって来なくなっていたんだけどね。男の方は高鳥君といって会に出入りしてる子。でも、正式の会員じゃないわ」
「しかし、ずいぶん大きな顔をしていましたよ」
松岡の精悍な顔は翳りを作っていた。
「彼はいつでもそうなのよ。正式の会員じゃないけど、東君が会に出入りを認めているものだから」
「あれは、ちょっとおかしいんじゃないんですか、井沢さん?」
「おかしい?」
「ええ。他の会員の人と違って、どこか変な雰囲気がありますよ、絶対に。ちらっと見ただけで厭な感じがして、これは会員じゃないなと睨んだんです。女の子の方もそうです。いっちゃ悪いけど、雰囲気がひどく暗いんですよ。会員だなんていって潜りこもうとしているけど絶対に違うと確信をもって、それで揉めていたんです」
「松岡君って、さすがに鋭いわね」
と、郁江はいった。しかし、淡々とした口調は変らない。
「高鳥君は超能力者なのよ。なにかおかしいなと思ったのはそのためじゃない。松岡君もサイキック能力があるでしょ。だからぴんと来たのね」
「あいつはおかしいですよ、絶対に!」
と、若者は顔を赤く染め、力を渾めていった。
「ふざけた野郎だ! 俺の勘に狂いはなかったんだ! あいつ、俺に念をかけやがったんだ。そうでしょう?」
「あんまり気にしない方がいいわよ、松岡君」
郁江が平然としていう。
「だって、井沢さん! こんなひどい目にあわされて黙っていられますか! いくら超能力者だって他人にあんなひどい念のかけ方をして天下御免ってわけはないでしょう!?」
松岡は怒りに顔を真赤にしていった。声が自然に大きくなる。
「ひでえ野郎だ! このままほっとけませんよ!」
「やめなさいよ。彼に手を出さない方がいいわ。あなたは空手をやってるんでしょ? でも彼に手を出すのは、濃硫酸の入った瓶を叩き割るようなものだわ。松岡君も大怪我することになる......」
「しかし、井沢さん、あんな奴がのさばっていたら、この世は闇になりますよ! だってそうでしょ! あいつは自分の気に食わない奴には片っぱしから念をかけて、痛めつけるにきまってるんですよ! それを考えたら、ほっとけませんよ!
田崎の師匠だって絶対に見過しにするなというにきまってます! あんな奴には制裁を加えてやらなきゃならん! まったく幻魔みたいな奴だ!」
松岡は自分の言葉にはっと驚き、呆然とした顔を郁江に向けた。郁江は少しも表情を変えなかった。きらきらと光耀の躍る眸で彼を見返している。
「まあ、そういうことは、東君......先生にまかしておくのね。松岡君たちが手出しをすると問題がこじれて大きくなるわ。彼は制裁を加えられたってびくともしないし、反省どころか凄い復讐心に燃え上るだけよ。殺したって無駄。それこそ物凄い怨霊になってしまうわ」
「本当ですか......!? じゃ、手のつけようがないじゃないですか。たかが超能力を持ってるぐらいで、そんな物騒なことになっちまうんですか?」
「この問題は、あたしにまかしといてほしいの。ひどい目にあわされて、腹の虫がおさまらないでしょうけど、我慢して。勘弁ならんと思うのは無理もないけどね......今だけ腹をさすって辛抱してくれない、ね?」
「まあ、それは井沢さんのおっしゃることですから......」
松岡は渋々いった。怒りに充血した頑固な顔がほぐれてきた。
「いいでしょう。井沢さんにおまかせします。なにかお考えでもあるんでしょう?」
「まあ、ちょっとね。とにかく、これはとってもややこしい問題なのよね。我慢してくれてありがとう......先生の講演、もう終わりかけてるけど、最後の部分だけでも聞きに行かない?」
「行きます!」
若者は飛びつくように答えた。もはや不愉快なことは何もかも消し飛んでしまったようであった。子供のように喜々として顔がほころんでくる。東丈に意識を向けるだけで、気持がぱっと明るくなるのだ。郁江は微笑して大柄な若者の背中に掌をあてがい、押した。
「さ、行こ。フィナーレだけでも見逃さないようにしなくちゃ」
なんのわだかまりもない口調だった。郁江に背を向けて歩きだした松岡は、彼女が深刻な表情を浮かべていることに少しも気付かなかった。
2
新年講演会は恐ろしいほどの劇的な盛り上りを見せて、予定を四十分間も超過して終った。
聴衆の多くは、興奮の余燼が冷めやらぬままに、三々五々ロビーにたむろして熱心に話し合っていた。会場の前にも人々は散りもせず、東丈が姿を現わすのではないかという期待に満ちて待ち構えていた。マスコミの取材記者が走り廻り、人々に感想を尋ねたり、〝GENKEN〟の係員に食い下がってはあくことなく東丈との記者会見を要請していた。
東丈がもう帰ったと聞かされても信用せずに、会場の建物の中を、丈を求めて彷徨しているマスコミ関係者の姿が目立った。
会員たちはすでに会場の後片付けと清掃にかかっているが、聴衆の波はいっこうに退いていかない。
井沢郁江は、東洋病院の医師笛川治に摑まっていた。白衣を脱いで背広を着た笛川は、日本屈指の腕を持った外科医には見えなかった。いたって平凡な印象であり、街で出遭っても見過してしまうかもしれなかった。
「郁江君! 本当に君は郁江君か!?」
と、笛川医師は郁江を摑まえるなり、あたり構わぬ大声を挙げた。
「信じられん! まるで別人じゃないか! 今そこで会員の人に尋いて、やっと君が郁江君だということがわかったくらいだ!」
笛川は強い力で、郁江の手を把んではなさなかった。エキサイトのあまり、自分が傍若無人になっていることにも気づかないらしい。思いこむと一途になってしまう性格なのだろう。鬼才といわれるほどの手術の技量はその異常な精神集中力にあるに違いなかった。
「どうしてそんなに変った? 信じられない!」
周囲の目を気にせずに大声を出すので、さすがの郁江も閉口した。
「先生、そんな大声を出さないで下さい」
「それどころじゃないよ、君! 俺の人生観は今日で引っくり返っちまった! どうにもならん!」
冷徹で刃物のように切れそうな笛川医師が興奮しきって、怒鳴るような声音で話すのである。郁江は救いを求めるようにあたりに目を配り、笛川の背後に身を縮めるようにしている若い女性に気付いた。
「あ、松代さんじゃないですか!?」
東洋病院の松代看護婦であった。私服を着ているので、ずっと年若く見える。ほんの数日だが、松代看護婦には面倒を見てもらった仲であった。
「松代さん、先生とごいっしょだったの?」
「ええ」
と、松代直子は細い声で答えた。周囲の人垣から好奇の目を浴びせられて、顔が硬直するほどあがってしまっていた。傍若無人な笛川医師の分だけ人目を気にしている。
「郁江君! 是非とも頼む! 君の体をもう一度診せてくれないか!」
松代直子は、きゃっといって両手で顔を覆ってしまった。笛川医師の熱狂はあたり構わずエスカレートしている。
「笛川先生! そんな、人が聞いたら誤解するじゃないですか!」
と、郁江は堪りかねて抗議した。
「もう少し小さな声で話して下さい!」
さしもの〝応えない郁姫〟も辟易していた。周囲の好奇の視線を浴びたあげく、忍び笑いまで聞かされては堪らない。笛川は声を落した。
「失敬。僕は君の主治医として、医師として、確かめずにはいられないんだよ! 診察させてくれないか、な、頼む。病患部がどんな風になっちまったのか、どうしても知りたいんだ!」
「わかりました。とにかく先生、こちらへいらして下さい。松代さんもどうぞ......」
肝心な部分だけ小声でいうんだから、と郁江はぷりぷりしながら、笛川たちを控え室に案内した。東丈たちが楽屋に使用していた小部屋だが、もちろん丈の姿はない。
丈や杉村由紀たちは、いつ引き上げたのか風のように姿を消してしまっている。おそらくマスコミ攻勢を避けたのであろう。誘導係の係員すら気付かぬ素早さであった。
「こんな所でいいのかい?」
と、笛川は腕にしたコートをテーブルにおろし、殺風景な小部屋を戸惑ったように見廻しながらいった。
「やっぱり場所を改めて、病院の方へ来てもらった方が......」
「いったいなんのことですか!?」
「いや、診察のことだが......」
笛川はぽかんとした顔でいった。
「冗談じゃありません! いったい先生は何を考えているんですか!」
郁江は憤然として叫び、それからいきなり笑い崩れてしまった。身をもんで笑う。
「まったくもう、先生ったら......」
松代看護婦は真赤になった顔を両手ではさんでいた。
「人前も何も考えないのね、先生は! あんまり大声で露骨なことをいうから、この部屋へ来てもらったんじゃないですか。診察なら病院へ行きますよ......」
「俺はそそっかしいもんだから......」
笛川は照れかくしに大声で笑った。郁江は笑いが停まらなくなった。この医者は本気で、診察をする気だったのだ。しかし、笛川が郁江に施そうとしている診察は産婦人科のものであり、こんな場所ではとうてい無理だと即座に気付かないのがこの医者らしい、と郁江は思った。
松代看護婦が真赤になって笑っていた。
「なあ、郁江君、それもあるが、今日は東丈氏に秘書の杉村さんが引き合わせてくれるというので、楽しみにしてやってきたんだよ。ところがもう東氏も杉村さんも帰っちまったというじゃないか。いったいどうなってるんだろうなあ?」
笛川は心許なげにいった。超一流の外科医ではあっても、肝心なところでは世慣れていないのだった。どうしていいかさっぱりわからぬ、といった。
「松代君がどうしてもというのでいっしょに連れてきたんだが、講演を聞いてからポーッとなっちまって、さっぱり役に立たないんだ......」
「ご覧の通り、マスコミが沢山来ていますから混乱を避けるために、一足先に脱け出されたと思うんです。記者会見をしろといって騒いでるでしょ? 聴衆もちっとも帰らないので、会場の管理人が頭に来ちゃってるし......予定よりも四十分も講演が延びちゃったので、カンカンになっているんですもの。これ以上迷惑をかけたら、二度と借りられなくなりますから......」
「しかし、僕は東氏と会いそこなった」
子供じみた不満の表明に、郁江ははっはっは、と男の子のように笑った。そこへ部屋のドアが乱暴に引き開けられ、ノックも抜きでマスコミ関係者らしき男が首を突っこんできた。
「東丈さん、いませんか?」
「さあ、知りませんけど」
「あんたは、関係者じゃないの?」
乱暴な口のきき方だった。トップ屋らしく服装もだらしなくて品が悪い。もっとも横柄なところを見ると大新聞の記者かもしれない。
「違います。次の催しの用意で来てます」
郁江がけろりとして答えた。
「あ、そう」
男は赤く濁った目で好奇的に郁江をじろじろ眺め、失礼ともいわずにドアを閉めて立ち去った。
「ね、あんなのにどっとたかられたら、堪ったものじゃありませんよね」
郁江が平然としていう。笛川医師は目をまるくして、まじまじと彼女を見ていた。
「へえ......いい度胸してるんだねえ、君は」
「東先生なら、あたしが特別に会わせてあげますよ」
「えっ、本当かい?」
「うん、笛川先生には借りがあるから。今日、時間が空いてらっしゃいますか?」
「今日会わせてくれるのか!?」
笛川は反射的に両手で郁江の肩を鷲摑みにした。
「どこで逢わせてくれる? 事務所でか?」
熱狂にまかせて、郁江の体を揺さぶる。郁江の体は柔くたわみ、撓った。
「先生! 笛川先生!」
と、松代看護婦が堪りかねて制止した。
「ああ......すまん」
笛川は照れくさげに呟き、郁江から手をはなした。
「ああ、びっくりした! 先生、乱暴なんだもの。凄い情熱家ね」
と、郁江が笑う。
「今夜、拙宅の方へお越し下さい。東丈先生もお見えになりますから」
「拙宅?」
「ええ、我が家、自宅のことです。快気祝いのパーティーをやることになってますので。よろしかったら、先生も松代さんもどうぞ」
「パーティーに僕らも行っていいのか?」
「よろしければ、ごいっしょに......」
「もちろん行くさ! 行くとも!」
笛川医師は大声でいった。しかし、必ずしも胸落ちはしていないようであった。頭の中がごった返しているのであろう。
「で、診察の方はどうなる?」
「だから、いつでもと申し上げてるじゃありませんか。明日でもあさってでも、病院の方に伺います」
「ああ、そうか......」
笛川はぽかんとした顔をしていた。
「で、郁江君の家はどうやって行けばいいんだ? 僕は君の家を知らんのだ」
「今、お連れします。ちょっとここで待ってて下さいます? すぐ戻りますから」
郁江は身軽にさっと駆けだして、小部屋を出て行ってしまった。
「待ってくれ、郁江君!」
笛川が大慌てで怒鳴る。
「病院には明日来てくれ! 明日だよ!」
「先生、落着いてください」
と、松代直子が笛川医師の袖を引っ張ってなだめた。
「そんなにあわてておっしゃらなくても。すぐに戻ると郁江さんおっしゃってるじゃありませんか」
「しかし、そんなことをいったって、君。僕はすぐに忘れちまうんだ。頭の中がでんぐり返ってるんだからな。今の講演を聞いて、考えなきゃならないことが沢山ある! 東丈氏に尋きたいことがここん所でひしめきあってるんだよ!」
笛川は己れの胸を小突いた。
「だから、いちいち憶えちゃおれんのだ。ぱっと出た時に摑まえておかなくちゃ!」
「じゃ、わたしが憶えていてさしあげますから」
と、松代直子は駄々っ子をなだめるようにいった。
「安心して下さい、先生。でも、そう興奮なさらないで下さい。目が吊り上っておられますよ!」
「俺は興奮してる? それは確かだ! しかしこれが興奮せずにいられるか!? 俺が子供のころから疑問に思ってることが解けようとしてるんだ! なあ、松代君、これが興奮せずにいられるか」
笛川医師は看護婦の両肩を鷲摑みにしていった。だれかれ構わず摑むのが、この天才外科医の癖のようであった。
「先生、痛いです......」
「おお、そうか......とにかくわからんことが多すぎたよ。医者というのはな、患者が見れば偉そうに見えるかもしれんが、本当は何もわかっとりゃせんのだ。人前では取り繕った顔をしとるけどな......医者は自分が、医術が患者を治すのだと思ってる。とんでもないことだ。患者は自分で自分を治すんだよ。その点今の医学界は根底的に間違ってるし、大学病院なんか特にどうしようもない。人間の生命がどんなものか、なにも知らんのだ!」
笛川は早口で喋った。この日本で有数の天才外科医が医学界の黄金コースをはなれて、民間の一医師に甘んじている理由を、松代直子は薄々理解したような気がした。
笛川治は恩師のT教授の寵愛を失って大学病院を去ったと噂されているが、彼が今明かした考え方からすれば、それも当然のことといえた。日本の学界は徒弟制度の上に成立しており、医学界もその典型的な陋習で固められている。恩師と気まずくなった弟子はいかに優秀でも決して日の目を見ることができないのだ。
──笛川は腕は凄いが、無頼だ......と、大学関係者の風評を松代直子は立ち聞きしたことがある。はみ出し者という意味で使ったのであろうが、厳格な秩序からはみだした者は無頼扱いされるのだ、と胸が冷たくなり、笛川に同情した憶えがある。
恩師のT教授に詫びを入れれば帰参がかなうのに、という噂を耳にすると、彼女は錯綜した思いに囚われた。帰参がかなって大学へ戻れば、笛川は再び黄金コースに乗ることになる。しかし、そうなれば一介の看護婦にすぎない松代直子など、遠く高い峰を仰ぎ見るのに等しくなるだろう。日本医学界のカースト制度はおそろしく牢固としたものだからである。
かといって、笛川ほどの鬼才が大きいとはいえ個人病院の傭われ医師に甘んじているのはあまりにも可哀そうであった。金もうけ主義の経営者である院長のいうがままに、保険の点数のことまで考慮させられているのは、医道への冒瀆と感じられた。院長が押しつけてくる特権階級の患者の中には妊娠中絶までが含まれていたからである。
笛川医師を不可解なはみ出し者として、東洋病院の医務関係者はこぞって畏怖と蔑みの混り合った目で眺めたが、松代直子だけは彼の忠実な理解者のつもりだった。無器用な笛川を庇護する、そんな思い上った気持が働いていたのかもしれない。
笛川の内密の愛人のような立場に身を置いたのも、彼をこれ以上の蹉跌から護ってやりたかったのだ。東丈の講演会に、どうしても笛川について行くと頑張り通したのもそのためだった。彼が怪しげな宗教まがいのものに凝ってさらに、道を誤るのではないかと危惧したからであった。
笛川は単なる変屈者やへそ曲りではなかった。松代直子は涙ぐましいような思いで考えた。純粋すぎる魂の持主であるがゆえに、自ら医学的権威の階梯に組み込まれることを拒んでいたのだ。
笛川の素晴らしさは、単に手術の技倆が優れているというだけではない。確かに腕の確かさは驚くべきもので、経験を積んだ看護婦たちは、笛川の右に出る外科医は日本にはいないのではないかとまでいっている。技術的に恐ろしく優秀であるのみならず、ものの考え方が現在の医学界を超えてしまっているのだ。いったいどこの外科医が、手術などしなくても病気は治るなどと、自らのメスさばき、存在理由を否定するようなことを本気でいうだろうか......
彼には信念があるのだ、と松代直子は崇拝の気持をこめて考えた。彼を名外科医にしているのは決してメスの鬼才だからではなく、医学関係者にとっては理解しがたい、風変りな(あるいは気違いじみた)信念のゆえなのだ......
むろん、その信念は笛川を偉大にしてはいるが、現実主義者としての直子の目からすると、かばってやらずにはいられぬ、危いものに映ることも事実であった。
「郁江君はどうしたんだ? すぐ戻るといって、ちっとも戻らんじゃないか」
性急な笛川らしく不平をいった。一度思い立ってしまうと矢も楯も堪らなくなる性癖があるのだ。
「あたし、ちょっと見てきます」
松代直子はハンドバッグを取って小部屋を出た。廊下にはすっかり人が失せていた。場内もしんとしている。わずかの間にがらんと空虚になってしまっていた。係員たちもみな引き上げてしまったようである。
井沢郁江のしなやかな姿は見えない。人に尋ねようにも、さっきまで廊下に溢れたようになり右往左往していた人々が潮が引いたように姿を消してしまっている。みんな帰ってしまったのかもしれなかった。
場内は先程までの凄まじいばかりの熱狂と興奮の余燼が残っているように暖かった。無人の客席も舞台も、空虚な感じがしない。
素晴らしい講演だった。いや、素晴らしいなどという平凡な形容では輪郭さえ語ることはできない。まさしく超絶的な迫力を持つ前代未聞の超講演であった。火と氷の洗礼を受けたような気がした。
最初は偏見を持ち、東丈を排斥する底意をもって笛川医師についてきたのだが、ステージに立つ東丈を一瞥した瞬間、己れの先入主が間違いであることを知らせる強い電流が流れ、頭がくらりと痺れた。
あとは夢中であった。直子は生れて初めて忘我の境を味わい、丈の放射する稲妻、嵐のような圧倒的な波動に酔い痴れた。隣席に座っている笛川医師の存在まで忘れたほどであった。
ステージの東丈がどれほど輝かしかったか、力強く清冽な波動で自分の魂を直撃したか、今無人の場内にいて、直子は完全に再現することができた。
シネラマの大スクリーンに映像を投射するよりも迫真力と精緻さに満ちた記憶をプレイバックできるのだ。自分にこれほどリアルな映像喚起能力があったのかと信じがたいほどだ。
講演中の丈は、出所不明の光耀に包まれ、文字通り光り輝やいている。その黒い瞳の驚くべき輝きは自分の眼を捉え、魂の奥底まで射しこんでくる光だ。
東丈はまさしく生ける若き神だった。絶対に人間という範疇にちんまりとおさまってしまう器ではなかった。
彼があまりにも偉大なので、直子は涙をもよおした。人間がこれほど素晴らしい、偉大な存在になれるとは想像したこともなかったのだ。
その偉大さに感応した心が何十倍かにふくれあがり、泪が流れて止まらなくなった。清冽な滝に打たれ、身も心も洗い浄められる心地がした。もはや何千人もの聴衆の存在は心から消え、世界は東丈と自分の二人きりが対面しているかのようであった。
東丈の輝く力強い目が心を捉え、切りはなせない吸引力をもって自分を虜にしたのもはっきりと意識していた。
松代直子は無人の場内に佇み、最初から講演を追体験した。東丈の体に光耀をもたらしている熱く大きなエネルギーが自分の体内にも入ってくるのを感じていた。
記憶は現実そのものの大きく輝かしい比重を備えており、直子が自らを解放しない限り、果てしもなくプレイバックされるようであった。
彼女は苦労して己れを現実に引き戻した。聴衆の凄まじい拍手と歓呼が跡切れる。直子はその残響を聞きながら、会場のゆるい傾斜を持った通路を登ってロビーへ向った。
ロビーには後片付けの会員たちが忙しげに立ち働いているだけで、溢れるほどの人波はすでに退いていた。管理人が追い出してしまったのであろう。会場の前にはいまだに人々が未練がましく残っているようである。東丈が帰るのを辛抱強く待っているのであろう。
「あの、ちょっとすみません......」
直子は会員の一人に声をかけ、井沢郁江の居場所を尋ねた。
「さあ......さっき見かけたような気がしますけど」
会員は不審げに直子を見返しながら答えた。
「でも、事務局へ戻ったんじゃないですか? 係の者も大部分引き上げましたから......」
細い顔にメタルフレームのメガネをかけた青年は緊張し、同時に好奇心を動かしたようである。
「何かご用ですか? あの......マスコミの方ですか?」
「違います。あの......控え室で、郁江さんに待っててくれるようにといわれたのですけど、なかなかいらっしゃらないので......」
警戒しているな、と直子は思った。マスコミ・ジャーナリズムに対する警戒心が会員たちの心から立ち登っているようだ。あれだけの超逸材ならマスコミにどんどん登場して、いくらでも有名になりそうなものなのに、会員たちの反応は正反対であった。さっと雰囲気が固くなるのは、気配に気付いた貝が殻を閉じるのに似ている。
しかし、なぜ自分にはそんなことがわかるのだろう......
「井沢さんのお知りあいの方ですか?」
「ええ、ちょっと......」
この子は井沢郁江にだいぶ関心があるみたい、と直子は思った。電気のスウィッチが入ったようにボルテージが上ってくるのがわかった。相当熱っぽい気持を抱いているようである。恋情だけではない、崇拝もあるようだった。まるで女神のように思っているのだ。直子はなにかしら嫉ましさのようなものを覚えてしまった。GENKENの女性にははっとするほどの美女が多いようだ。東丈の秘書、杉村由紀も嫉ましさで胸がきゅんと詰まるような美しい女性だった......
「今夜、井沢さんのお家へお伺いすることになっているんです。井沢さんが連れて行って下さるというので、控え室で待っていたんですけど」
「あ、井沢さんのパーティーへいらっしゃるんですか!?」
青年は顔を輝かせ、心を開いてきた。
「僕、井沢さんを捜してきます。控え室でお待ちになっていて下さい! もし連絡がつかなくてもご案内するようにしますから!」
「そうですか。すみません......どうぞよろしく......」
直子は青年がなぜ急に親しみを示してきたのかわかった。今夜、郁江の快気祝パーティーに出席するのは、いわば身内なのだ。
「あの、あなたもいらっしゃるんですか?」
「ええ、僕も一応行きます。パーティーの実行委員なものですから」
「実行委員? そんなに大きな祝賀パーティーなんですか?」
「いや、ホーム・パーティーですから。僕たちお手伝いするだけです」
青年は笑った。心にイルミネーションが点っているようだった。
──郁江さんって、どんなひと? と直子は質問してみたくなった。
「井沢さんてとてもいい人です。そう思いませんか?」
「?」
なぜ青年がそんなことをいいだしたのかわからず、直子は戸惑った。まるで彼女の心に思い浮べた想念に対して、直接答えたように感じられたからだ。当の青年も自分のいったことに当惑しているようであった。
「そうですね......でも、あたしまだ郁江さんのことはあまりよく知らなくて......」
「あ、病院の方......看護婦さんですか?」
なぜこの青年はこんなに勘がいいのか、と直子は空恐しくなった。まるで心を読み取られているようだ。
「すみません。なぜかふっとそんな感じがしたもので......」
青年は恐縮したように頭に手をやった。自分でも気まり悪い思いをしているらしい。なんでそんな言葉を口走ったのか、理解できずにいるのだ。しかし、彼には直子が病院の看護婦であることがわかっている。どうやって知ったのかはともかくとして、わかってしまったのだ。
「わたし、控え室に戻ってますので、よろしくお願いします」
「わかりました。松代さんですね?」
「松代です。よろしく......」
おかしい、と気付いたのは、ロビーを横切り廊下を急ぎ足に歩いている途中だった。
なぜあの青年は、自分の名を知っているのだろう。郁江に聞いたのだろうか? しかしなぜ彼には自分が病院の看護婦であることがわかったのか?
不思議な気分だった。あの青年はテレパシーとやらで直子の心を読んだというのか? 東丈は偉大な霊能者、超能力者だと聞いている。GENKENの会員たちはみな彼の影響で超能力を備えているのだろうか......
松代直子がメタルフレームの青年に心を集中したとたん、警察という概念が心にひょっこりとこぼれ落ちた。水泡が生まれるのに似ていた。
今まで自分の考えていたこと、思惟と全く無関係な概念が、なんの脈絡もなく生じたのがなんとも不可解で、直子は思わず足を停めて振り返った。初老の男がロビーから廊下に入ってくるのが見えた。直子は歩きだした。
警察が何のために? と彼女は思った。警察が何の理由があって、講演会に入りこんできたのだろう? 警備のためか? しかし、だれも警備を警察に要請していないことはわかっている。今回は〝無名塾〟が警備に当っているのだから......
警察の方で独自に、警備の必要ありとして人員を配置しているのだろうか?
直子には、自分がなぜそのような無関係なことを考えるのか納得が行かなかった。自分の考えではないと思った。自分は頭がどうかなってしまったのか?
まったくわけのわからないことを、勝手に考え始めている。
あれは刑事だ、となおも勝手に思惟が生じた。私服刑事だ。警備のために来たのではない......
直子は心から雑念を振り切るように控え室のドアを開けた。
「何してたんだ? 遅かったじゃないか?」
と、笛川が呆れたようにいった。美しい花束のような印象で、井沢郁江の姿が目にとびこんできた。
「人を捜しにいって迷い子になるんじゃしょうがない!」
「ごめんなさい。あたしがちょっと手間取ってたものだから」
と、郁江が詫びる。その眸が大きく瞠られ、不審そうに直子の顔にあてられた。GENKENの人たちはなんと勘が鋭いのだろう。自分の心に生じているこの無気味な混乱に、郁江は一目で気付いたのだ。
──私服刑事がうろついているので、みんな心配して気重くなっている......
はっとして、松代直子は二人の顔を見返した。まったく自分は何を考えているのだろう。まるで無関係な思惟をつむぎだしている。自分の頭は少しおかしくなったのではないだろうか。さっきから考えることが混乱し、支離滅裂になっている。
重苦しい不安が直子を摑んだ。こんなに頭が混乱した経験は一度もない。まるで自分は変になりかけているようだ......
「大丈夫か?」
と、笛川医師が尋ねた。
「幽霊でも見たような顔をしているぞ」
「なんでもありません......」
直子は深呼吸した。自分はよほど混乱した顔をしているらしい。二人とも心配そうに自分を見詰めている......
──刑事は何をしに来たのだろう? いよいよ内偵が始まったのだろうか? 何人もの刑事が、講演会の聴衆にまぎれこみ、会の人間関係を探っている......
また始まった! 松代直子は頭を抱えこみたくなった。なぜこんなことを自分の頭は勝手に考え始めるのだ? 己れの意志に反逆し、およそ自分には考えられないようなことを、考え続けている。脳裡でおのずと思惟が形成され、語っている。まるで雲が湧くように生れてくるのだ。
気がつくと、郁江が奇妙な表情を浮かべて松代直子の顔をうかがっていた。
──彼女は警察のことに気付いている......まるで谺のように想念が返ってくるから......
直子はこれまで警察という概念にこれほど重苦しい威嚇と脅迫の黒いイメージを感じたことがなかった。警察とは秩序維持者であり保護者だったはずだ。
が、今その仮面がはずれ落ち、害意を秘めたどす黒いものが姿を現わしつつあった。警察が迫害する恐ろしい存在と感じられたのは、これが初めてであった。
「どうしたんだ? 出かけよう」
と、笛川が二人に声をかけた。郁江と松代直子が互いの顔を見詰め合ったまま動かないので、業を煮やしたようであった。

「はい......」
松代直子は我に返って答えた。顔が赤くなってきた。まったく自分はどうかしている......
ノックもなしで控え室のドアが開いて初老の男が顔をのぞかせた。さっき廊下を、直子の後から歩いてきた男だった。
「まだいたのかね?」
男はざらざらした不愉快な声音でいった。
「GENKENの人なんだろう? もう帰ってもらわなきゃ困るね。あんた、会の責任者かね?」
と、笛川に向って押しつけがましく尋ねる。いかにも会場施設の管理責任者といういい草であった。
「いや、僕は違う。僕は医師だ」
笛川は反射的にいった。
「お医者さん? どこのお医者さんだね?」
「渋谷の東洋病院だ、講演を聞きに来たんだ......」
笛川は素直にいった。相手の呼吸に乗せられたのだ。
「会の責任者と知り合いなのかい?」
「いや、そうでもない。僕は初めてだ」
言葉遣いが粗雑で、根掘り葉堀り尋こうという態度が異様であり、さすがに笛川も妙な顔をした。
「会長の東丈という人と親しいんじゃないのかね? こんな控え室にまで来るくらいだから......」
「まだ一度も直接話したことはないんだ。今夜、これから東丈氏に逢うことになってるが......」
笛川は余計なことまでいった。自分の感動を他に分け与えたいという善意に溢れているのだ。
「そうか、お医者さんか......先生の名前は?」
「笛川だ。外科の医者だよ」
「先生の知り合いが会にいるのかね?」
「知り合いというか、僕の患者だがね......この郁江君が東丈氏の秘書なんだ」
笛川はあくまでも無邪気であった。
「ほう、この娘さんが......?」
中年男は特殊な視線を放つくぼんだ眼で郁江を見た。郁江は何を考えているのかわからない顔付で相手を見返した。
「おじさんは講演を聞いたかね?」
と、笛川が尋ねた。
「ああ。少しね......」
「どうだった? 素晴らしかったろう。あれだけのことが堂々と語れる若者が存在すること自体、凄いことだと思わなかったかね?」
「さあな......わしにはよくわからなかったねえ。むずかしいことをいわれても、わしのような頭の悪いものにはちょっと......」
「そうかな? 僕は感銘を受けた。こんな素晴らしい講演は空前絶後だと思ったんだけどね。たとえば、どういうところがわからなかったのかな? 言葉遣いがむずかしかったのか、それとも内容がむずかしかったのか、どっちだね、おじさん? それとも宇宙エネルギーとか幻魔とかいう考え方がぴんと来なかったのかい?」
「わしら無学な者にはよくわからん話だったね。先生のようなインテリの偉いさんでなければ、わからないむずかしい話だったんだろう......」
「しかし、悪魔と神といえばわかるだろう? 宇宙の偉大な神はこの素晴らしい大宇宙を造り、人間を造った。神に敵対する悪魔はそれをぶちこわそうとする。神は光で、悪魔は闇だ。闇は全ての光を吞みこんで暗黒にしてしまおうとする。しかし、人間は偉大な神の子だから、神の素晴らしい力を分け与えられている。人間が迷いや苦悩から脱却して、神の光に心を向ければ、偉大な力は人間のものになり、悪魔である闇は光に満たされて、追い払われてしまうというんだ。
悪魔は大きな物凄い力を振るうが、真に目覚めた人間は、決して悪魔には負けることがない。しかし目覚めない限り、人間は幻魔という宇宙の暗黒星雲に吞みこまれて行ってしまう......東丈氏はそういう意味のことを講演でいったんだ。それならわかるだろう?」
「ほう、先生は頭がいいね。さすがにお医者さんだけあるわ......だけど、わしら頭が固くてね、そんな話はさっぱり受けつけられんわ」
と、男は茶化すようにいった。
「神も悪魔も、わしら会ったことがないからね。悪魔みたいな人間ならいないこともないが......この科学時代に神も仏も居心地が悪くて逃げだしちまったんだろうよ。わしは科学なら信じるが、神も悪魔も信じないね。超能力だとか霊感とか非科学的だよ。先生もお医者さんなら科学者だろう? 悪魔なんて信じていいのかね?」
「僕は、心の力というものを確信しているのだ」
と、笛川は生真面目にいった。相手の揶揄を気にも止めなかった。
「心には、目には見えないが物凄いエネルギーがある。たとえば医者を信頼している患者の治りは非常に早い。患者の信頼を集めている医者が名医なのだ。医者の仏心に感応して、患者は治る。薬や医者が病人を治すのじゃないよ。患者には病気を治すだけのエネルギーは充分に秘められている。それを引き出してやるのが医者の務めなのだ」
「お医者さんのいうこととは思えないね。それだったら、医者はまじない師と同じじゃないかね? メスも薬も何も要らんだろう」
「メスも薬も単なる道具だよ。大切なのは医者の患者をよくしてやりたいという真心だ。いろいろ修業するのはその心あったればこそじゃないか。最近は金もうけのために医者になる、地位や名誉を得るために医者になる奴らが多いがね。おじさんはそんな医者にかかりたいかね?
もし、おじさんが大怪我をして救急病院に担ぎこまれたとする。その時にどんな医者にかかりたいか? 点数をあげるために余分なところまでメスで切り取ってしまう医者に出食わしたら? そういう奴らは腕も悪いし、面倒臭がりで、何もかもいい加減にやるものだ......医者がきちっとやるべきことを見習看護婦にまかせてしまう。新米看護婦がヘマをやって死ななくてもいい人間が命を落すようなことだって現に起きているよ」
「わしは、そんなひどい医者がいるとは信じないね。先生はわしを脅かす気かね?」
「なぜおじさんを脅かす必要がある? 僕は医者だ。医道がどんな危機を迎えているか、だれよりも知っているよ。医者としてもっとも必要な心を持たない医者がどんどん造られている。そういう医者は欲に目がくらんで外道にも悪魔にもなる。医者が信じられない時代が来たら、患者は救われなくなる。治る病気も治らず、それどころか医者や薬が原因になって、病人がどんどん増える。本当は、医者の顔を見ただけで、患者はよくならなければならんのに、その逆になるのだ。
東丈氏が講演でいっていることは、一から十まで真実だよ、おじさん。人間の心こそ全てのエネルギーの元なのだ」
「そらまた、よくもそこまで信じこんだものだね。外科医といったが、先生はメスなんか使わないで、病人を治そうっていうのかね? そんなことじゃ患者がみんな手遅れになっちまうんじゃないかい?」
男がわざとらしく笑った。笛川に説得されまいと頑張っていた。必要以上に侮辱的になるのはそのためだった。
「先生を侮辱しないで下さい!」
と、松代直子はたまりかねて傍から口を出した。白い皮膚が赤く染まり、意志的な濃い眉が吊り上っていた。
「笛川先生は素晴らしい腕を持った、とても立派なお医者さんです。あなたなんかにそんなことをいわれる筋合いはありません! 笛川先生に是非お願いしたいといって、北海道からも患者さんがわざわざ上京してこられるほどです! 日本最高の外科医なんです。あなたなんかに何がわかりますか!?」
「ほう、こりゃ失礼したね。あんたはこのお医者さんの何なんだね? 看護婦さんかい?」
男が薄笑いを浮かべていう。松代直子は更に赤くなった。
「そうです。あたしは看護婦です。だから笛川先生の偉さがよくわかるんです。ちょっときびしくて怖いように見えますけど、だれよりも患者さんの身になって考えることのできる最高のお医者さんです。あなたなんかに馬鹿にされる方じゃないわ!」
「そうかい? あんたみたいな若い看護婦さんにはずいぶん人気がありそうじゃないか。恰好よくてモテモテだな」
「変ないい方は止めて下さい! あたしは笛川先生がどんなに患者やその家族の人々や、あたしたち病院関係者から信頼され、頼りにされているかということを証人としていってるだけです! あなただっていつか大怪我をしてウチの病院に救急車で運びこまれるかもしれないんですよ! その時のお医者さんが笛川先生だったら、どんなに頼もしく安心できるかってことをいっているんです! 最高の先生に診てもらえるんですからね!」
「わしはご免だね。腕が悪くてもいいから普通の医者にかかりたいよ。この先生はメスも握らずに、患者に向って、勝手に治れなんていいそうだからね。とても安心してかかれないよ」
「なんで、そんな人を侮辱するようなことを平気でいうんですか? 自分に理解できないことは、いつもそうやって拒否して、侮辱するんですか!?」
「もう止めたまえ」
と、笛川がくってかかる松代直子を制止した。
「わかる時が来ればわかるんだ。このおじさんが入院して不親切で突慳貪な看護婦に出くわせば、考え直すかもしれないさ。やっぱり医者や看護婦は、患者の身になれる人間でないと、患者は心細いものだ。このおじさんにはまだそれがわからないのだ......」
「わしはたとえ入院するにしても、お宅たちの病院には入らないようにするよ。注射も薬もなにも加療はしてくれないし、お呪いだけで手術なんかもちろんしてくれんだろうからね」
「ああそうですか。警察病院へ入院するからっていうんですか?」
「............?」
男はぽかんとした顔で松代直子を見返した。口があんぐりと開いて黄色くヤニで染まった歯列が見えた。
「だって、あなたは警察の人でしょう? 刑事さんでしょ?」
と、松代直子は追い討ちをかけるようにいった。
「ほう、刑事さんですか」
笛川はしげしげと相手の顔を覗きこみながらいった。
「僕はてっきりここの管理人さんかと思ったよ。管理人のいうようなことをいうから......どうして刑事さんが管理人の真似なんかしているんですか?」
笛川は無邪気に尋ねた。直子がたまたま相手の素性を知っていたと思ったらしい。男の顔はさまざまな表情の変化を遂げた。
「この講演会を探りに来たんですよ。警備なんかのためじゃありません。だってこの人は殺人事件を調べている刑事さんで、警視庁の人ですから」
と、松代直子がいった。
「あんた、なぜそんなことを知っているんだ......?」
刑事の顔は驚愕と猜疑の色に染めあげられていった。声音はしゃがれてしまっている。
「さあ......どうしてかしら? あなたを見たとたんに、ああ警察の人だなってわかってしまっただけですから......刑事さんがどうして管理人の振りをしてるんだろうって、不思議に思っていたんです。刑事さんは会のことを調べているんでしょ? どんな人間が今日の講演会に来たか、だれがどんな関係を持っているか、特に東丈先生との関係を主にして調べているんですね。でも、どうしてですか?」
「............」
刑事のしわの多い顔は怖れと不安の表情を膠着させ、青ざめていた。
「刑事さんが内密に会を調べているというと、何かあったわけですか?」
笛川が何の他意もなく質問する。事態が少しも吞みこめていないのだった。井沢郁江は沈黙したまま、この遣り取りの一部始終を観察している。
「............」
刑事は何をいっていいかわからず、頰肉を慄わせていた。松代直子が掌を差すように、刑事の意図を指摘したことに大きなショックを受けていた。なぜ彼女が刑事の正体を看破し、意図までさらけだすことができたのか、どうしても理解できなかった。だしぬけに一撃を鼻先にくらったようなきなくさい感覚であった。
「しかし、松代君。君はなぜそんなことを知っているんだ? この人が刑事だってことを前から知ってたのかね?」
と、刑事に代って、笛川医師が質問してくれた。
「いいえ。今日初めて逢った人です。でも、刑事さんだなってわかってしまったんです。なぜだかわかりません」
直子はくっきりと濃い意志的な眉をしかめて答えた。おかしいなと自分でも思っているのであろう。
「こんなことをいうと変なんですけど......講演会が終った後から、しきりに胸のあたりで、警察がいる、警察が来ている、なぜだろうっていう考えが湧き上ってくるんです。警備のためじゃないんだ、刑事がいろいろ調べまわっているんだって......私服刑事が三人も講演会に来て、こっそりと会の人間関係を調べている。どんな聴衆が講演を聞きに来たか、こっそり写真を撮ったりして、証拠集めをしているんだって......そういうことをいつの間にか考えているんです。だから、この人が私服刑事で、管理人の振りをしてるだけだってことも、すぐにわかりました」
直子は喋るにつれて、しだいに顔が赤らみ、火照ってきた。自分があまりにも突拍子もないことを喋っている、という自覚が生じてきたのだ。初めは奇妙にも思わなかったが、他人が聞けばこれほど奇矯な話もないであろう。
「しかし、なぜそんなことが君にわかってしまったんだろう」
笛川は不審でならぬようだった。
「まさか君が......松代君が超能力者ってわけもなかろうし......この人が本当に刑事さんだというなら別だが。おじさん、あんたは本当に警視庁の刑事さんなんですか?」
笛川が改まって尋ねる。
「いや、知らんね。わたしはそんなものじゃないよ。なんかの間違いだろうよ」
男はようやく立ち直り始めていた。徹底的に空とぼけることに決めたらしい。動揺の色を日焼けした険のある顔から消していた。
「わたしはここの管理をちょっと手伝っている者でね。あんたたちがいつまでも居残っているから注意しに来ただけだ......そこの娘さんは何か空想癖でもあるんじゃないのかい? いろいろ空想したり妄想したりしてるうちに、それが本当のことだと思いこんでしまうんだろう......」
「でも、あなたは刑事さんでしょう。秋元さんというんでしょう?」
直子の指摘に、もはや男は反応しなかった。石のように動じない顔になっていた。
「いや、知らないね。なんのことだね」
「しかし、おじさん。あんたはさっき、ひどくびっくりして、なんでそんなことを知ってるんだとこの松代君に尋いたじゃないですか?」
と、笛川。眉根をひそめていた。
「いや、知らんね。なんでそんなとんでもないことをいうのかと尋いただけだよ。あんただって、いきなり他人にお前は警察だのなんだのといわれたら、びっくりするだろうよ。そうだろ? わたしはともかくなんのことかわからんといったんだよ。この娘さんの空想癖にはたまげちまうね」
「なぜそんな噓をつくんですか? 自分の身元が知れてしまうとまずいから......内偵中だからですか?」
「なるほど、内偵中か?」
と、笛川医師が無邪気にいった。
「それで、刑事の身分を明かせないわけだ。そうなんですか?」
「想像を逞しくすることは、お宅たちの自由だよ。まあ、こっちの知ったことじゃないがね」
男は逃げ腰だった。控え室をあわてて出て行こうとする。
「そのうちに、またきっと刑事さんとは逢うことになりますね。そんな気がする」
と、松代直子がいった。
「ああ、今目の前にぱっと閃いたんです。刑事さんと笛川先生は必ずまた逢いますよ。刑事さんがウチの病院に来るんです......」
「なにが閃いたって?」
笛川がけげんそうな顔をする。
「光景が閃いたんです。なぜなのかしら? 物凄く鮮明に、はっきりと見えました。ほんの一瞬ですけど」
「未来予知かな?」
「娘さんのいう通り、また遭うかもしれないね」
と、男が意味ありげにいった。
「どこでどう再会するのか知らないが......」
「ウチの病院です。間違いありません。でも刑事さんは急患用のストレッチャーに載せられていますよ。救急車で運びこまれて、手術室で先生に遭うんじゃないですか? ストレッチャーに急患用って記されているのがはっきりと目に残っていますから」
「他人をおちょくるのもいい加減にせえよ」
男は吐き捨てるようにいい、控え室を荒々しく立ち去った。ひどく気分を害しているのがありありとわかった。
「いったい、どういうことだ、松代君?」
と、笛川が尋いた。
「あの......あたしにもよくわからないんです。すみません。なんだか変なことばかりいってしまって......」
松代直子は真赤になった両頰に手をあてがった。突如当惑と羞恥に襲われたようであった。
「まるで松代君は超能力者になったみたいなことをいってたじゃないか?」
「あたし、頭が少しおかしくなったんでしょうか?」
「普通の人から見れば、そういうことね」
と、井沢郁江がいった。笛川医師と直子は顔を曇らせて、郁江を見詰めた。
「松代さんは超能力が発現したのよ、間違いないわ。だから遠感で会場に刑事が来ていることを知ったし、あのおじさんが内偵中の私服刑事だってことも、わかってしまったわけよ。別に珍しいことじゃないわ」
「珍しくない?」
「ええ。東丈先生の講演会のたびごとに、何人か超能力者が出現するのね。思いがけないような人が超能力に目覚めてしまうのよ。松代さんもその一人になったわけ」
郁江が当り前のような顔付で説明する。
「そんなの、いや! こわい!」
直子の顔は蒼ざめてきた。全身が固く冷たくなり、恐慌の波に襲われた。えたいの知れぬ恐ろしさだった。
「大丈夫よ」
郁江の体温の高い、熱い手が松代直子の腕を捉えて支えた。
「こわくないわ。ほら、大丈夫でしょ?」
熱い掌の感触とともに慰謝の波動が流入してきて、総毛立つ恐慌の波をさえぎり、駆逐した。あたたかい光が射しこんで、寒さにかじかんだ心を熱くとかして行くようであった。
郁江の心は落着いていて穏やかであり、一種力強い波動に満たされていた。この年齢の少女がこれだけ安定し、揺ぎのない心を持っていることが奇蹟的だと直子は感じた。これはもっともっと経験を積み、どっしりと落着いた聡明な心のもたらす安定感であり、十七歳の少女のものではありえない。少しぐらい突つき、挑発したぐらいでは揺がない心だ。
直子は自分の心と比較してみることにより、井沢郁江が見かけ通りの美少女ではないことを知った。二十三歳の自分など、郁江に比べてみると小娘そのものだ。そんなことはありえないはずなのに、向うは自分よりずっと年長で、経験豊かで賢こく驚くほどの大きな存在感を持っているようであった。なにかしら想像もつかぬ巨きな偉大なものが、郁江の心に重なって存在し、松代直子はその高エネルギー存在を、井沢郁江の総体として捉えているのかもしれなかった。外見ではなく、郁江を魂としてのエネルギー存在として見ると、彼女は別人のように大きく素晴らしい存在だということが感得できた。
その高エネルギー存在が輻射熱のように放射している慰謝の波動を受けているうちに、松代直子の恐慌は去り、心は暖く平安に満たされてきた。
それはごく短時間のうちに起こり、直子は自分がいやされたのだということを感じないほどだった。それほどあっけなくすんでしまっていた。
熱があるな、と松代直子は看護婦としての職業意識で考えた。八度五分以上の発熱が生じているらしい。これほど熱がありながら、郁江はよく平気でいられるものだ......
そのとたん、彼女の体温の高さが発熱のせいでないことがわかった。郁江はレベルの高い生体エネルギーによって満たされているのだ。それは他ならぬ東丈から与えられたものであり、平衡を失った心や肉体にとって卓効を奏するパワーそのものなのだ、と直子は理解した。
その理解には言語の媒介を要さなかった。一瞬にして郁江の心から直子の心に転移してしまった情報であった。ただ、わかってしまったのだ。
「松代君、大丈夫か?」
「ええ......大丈夫です。ごめんなさい」
直子は首を振り、眩惑の感じを振り払おうと努めながらいった。
世界があまりにも底深く立体的で果てしなく、肉眼で見るように平板なものでないことを理解し、戸惑っているのだ、と自分でもわかっていた。人間を肉体として見るのではなく、精神エネルギー存在、魂として眺めると全く別物の視界が展けてくることに目が眩む思いを味わっていた。
しかし、それは精神エネルギー存在に目を開いたばかりの直子には眩しすぎ、刺激があまりにも強すぎた。くらっとするような波動が交錯し、充満し、砲弾が唸りをあげて乱れ飛んでいる戦場を思わせる烈しさ凄まじさで、初心者の彼女を圧倒してしまったのだった。
「そのうちに慣れるわ」
と、郁江は直子の体に手を廻して、かばうように肩を抱きながらいった。六歳も年下の少女が明らかに年長の保護者のように思えるのが奇妙といえた。
「超能力が出てきたばかりで、まだ慣れていないから、戸惑っているのよ、普通の人が感じないことまで、いっぺんに感じるようになってしまうんだもの。生れつき盲目だった人がいきなり目明きになったら、いろんなものがいっぺんに見えすぎて、刺激が強すぎてしまうと思うのね。超能力が目覚めた人ってみんな最初は戸惑うし混乱するみたい。でも、じきに慣れるから大丈夫......」
郁江の声を聞いていると心がなだめられた。穏やかでしかも力強い声音だ。高エネルギーの波動そのものであった。郁江の魂の関門が開いており、高エネルギーと直接つながっているのが見えるようであった。
「松代君が超能力者?」
笛川医師が呆気にとられて二人を見比べていた。
「いったいどんな超能力者なんだ?」
「それは、今にわかりますよ、先生。でも、あんまりこのことはおおっぴらにしない方がいいみたい」
郁江には先が見えているのだ、と直子は思った。この少女は驚くべき聡明さと叡智で心が満たされている......
「超能力者は普通の人から警戒されたり、嫉まれたり、疎まれたりすることがないとはいえませんから......このことは先生、伏せておいてあげて下さい。今夜、東丈先生がそのことは松代さんにお話しすると思いますけれど......」
「つまり、刑事の正体を見破ったのが、彼女の〝力〟だな?」
「そうです。あの刑事のおじさんが出している波動をキャッチしたんですね。でも、そのことは黙ってた方がよかったかもしれない」
「そうか......」
笛川はいいかけて口をつぐんだ。何事か懸念が彼を捉えたようであった。
「警察が東先生を内偵しているからですか?」
と、松代直子が素早く尋ねた。
「先生はなにか大きな面倒事に巻きこまれているのじゃありませんか?」
「そうかもしれない......」
と、郁江がいった。
「でも、東先生は、警察なんかにつきまとわれるような方じゃありません」
と、直子がきっぱりといった。
「東先生はとっても大きく明るく輝いている方で、暗いところなんか少しもないんです。それをもし、警察がつけ狙っているとしたら、邪悪なのは警察の方ですわ!」
その確信の強さは、郁江を呆気にとらえさせるほどのものだった。
「だって、さっき警察だ! と感じた時、とっても暗くて陰惨で、凶暴な感じがしましたもの! 恐ろしい真黒な怪獣が、隙を窺ってうろつきまわっているような気がしました! あたし、警察がこんなに邪悪だって感じたこと初めてです......別に悪いことさえしてなければ、ちっとも恐くないと思ってましたし......
でも、東先生をつけ狙っている警察って、物凄く悪いって感じがするんです。さっきの刑事さんだって、正義の味方って感じが全然しないでしょう!? ただもう、東先生や会の人たちを頭から悪者扱いして、嗅ぎまわったり探りまわったりして、なんとか尻尾を摑み、罪に落してやろう、やっつけてやろうというどす黒い気持しかないんですもの!
だから、あの刑事たち、明るい澄んだ講演会の雰囲気の中だと、汚い黒っぽい染みみたいなんです。笛川先生のいうことを頭から馬鹿にしきっていたでしょう? 東先生を犯罪者と頭から決めこんでいるからなんですよ!」
松代直子はまるで熱に浮かされたように喋った。目は怒りに燃えていた。
「あの人たちは東先生を罪に落そうとして嗅ぎ廻っているんです! あたし、絶対にそんなこと許せない! 東先生をいったい何だと思っているのかしら!? きっと天罰が下りますよ!」
「刑事だって職務でやっているんだから、そんなに腹を立てちゃだめ。疑り深いのはあの人たちの本能みたいなものだもの。徹底的に調べ上げようとしているだけよ。それに不愉快な態度をとったのも、自分には理解できないものにぶつかって、困ってしまったんじゃないかな?」
と、郁江は松代直子の体に手を廻したままなだめるようにいった。
「だって、ものすごく無礼なんだもの!」
「人を見れば泥棒と思えという商売でしょ。そのうちにもっと困ることになるわよ。そんなことより、超能力者は感情的になっちゃだめよ。超能力者訓第一条」
「そんなのあるんですか?」
「今あたしが制定したのよ」
郁江はけろりといった。
「超能力者はいつも心を平らかになし、目を光にのみ向けるべし......あんまり怒ったりするとポッと魔の波動が入っちゃうかもしれない」
「こわい! 本当に魔の波動が入ってきちゃうんですか?」
直子の頰はざらざらと鳥肌立ってきた。ぶるっと身慄いする。
「うん。だって超能力者は高感度のラジオ受信器みたいなものだから。ダイヤルが幻魔放送に同調すると、うわっと幻魔の波動が飛びこんできちゃうわけ。いつも正エネルギーの波動に努力して合わせておかないと、いつの間にか負エネルギーの幻魔放送局に占領されちゃうわけよ」
「よくご存知!」
直子が感嘆の目を郁江に向ける。
「あたし、東先生から幻魔研究担当者の委嘱を受けてるものだから。でも、超能力者がいつも特別の危険にさらされているというのは本当よ。暗黒波動はいつも人間の心に入りこもうと虎視眈々としてるし、超能力者は特別鋭敏なアンテナをつけて、キャッチしようと待ち構えているんだもの......
怒ったり憎んだり、怨んだりすると、あっという間にチャンネルが暗黒波動にぴったし合っちゃう。そうなると、凶暴な侵略者が心の中にわっと押し入ってきて、乗っ取られてしまう。本人はもう奴隷にされちゃうわけね。現実にいくらでも起こっていることだし、少しも珍しいことじゃないのよ。松代さんにも今にそれがわかるわ」
郁江は控え室のドアを開け、二人を招きながら淡々といった。
「とにかく松代さんには理性が一番大事じゃないかな? すぐかっとなる方でしょう?」
「ええ......短気なものですから......」
「そうでしょう! かっと怒る前に息を停めて六十まで数をかぞえて。感情的になったら絶対だめ」
「これから、そのパーティーとやらに直接行くのかな?」
と、笛川医師が尋ねた。
「そうよ。来たくない? なら松代さんだけ連れてっちゃうわよ」
「いや、そうじゃない! そうじゃないが、なにかお祝いの品物でもそのへんで買って行かなきゃいかんと思って」
笛川があわてていった。
「いいわよ、そんなこと。笛川先生は天才肌でポーッとしてるくせに変なところに気が廻るのね」
と、郁江が笑う。
「いや、さっきからそれが気になっていてね......」
「先生は手みやげの方が、松代さんの超能力より大切なんですか!? あきれた。先生っていったい何を考えてるのかしら!」
「私に必要なのは、いつでも現実家であることだよ。重しをつけておくことが大事なんだ......」
笛川はいかにも上の空という顔つきで説明した。
「祖母からいつもいわれてきた。とにかく今真先にすべきことを考えろと......それが重しになってうわずってしまう心を引き留めてくれる。とりあえずお茶を一服するのもいい......松代君、とにかく手みやげを見つくろってきてくれないか。いや、お茶をのむのが先かな......?」
「ははあ。きっとお祖母さまは笛川先生の性格をよく知ってらっしゃったんですね」
と、郁江がいった。
「夢中になると、一つことしか考えられなくなっちゃうんでしょ? で、マンホールに落ちても気付かずにずっと考え続けているのよね」
「郁江君は頭がいい」
笛川はいかにも感心したように首を振っていった。
「虎屋の羊羹でも買って行くかな? 祖母が大好きなんだ......」
「やっぱしだいぶうわずってるみたい」
と、郁江がいった。
三人が連れだって控え室を出た時、青年部長の内村が急ぎ足でやってきた。三人を見ると、何かいいだしかけて口を開けたままになってしまった。
「あの......」
「さっきはどうもありがとうございました」
と、松代直子がいった。
「控え室で井沢さんにお会いできました。ご心配かけて申しわけありませんでした」
「はあ、どうも」
内村は気が抜けたようにいった。メガネをかけた細い面が異様な表情を浮べていた。
「あの......井沢さん、彼女のこと、ご存知ですか? 彼女が来てたんです。戻ってきたんです」
「陽子でしょ。知ってるわ。あたしが最初に話をしたんだもの」
郁江が何事もなかったようにいった。
「でも、内村君。どうして陽子のことで、そんなにあわててるの?」
「いや、あわててるわけじゃありませんけど......みんな、こう色めきたってるんで......」
内村はへどもどしながら答えた。
「だって、陽子は一番最初の丈先生の弟子で、丈先生といっしょに会を造ったのよ。今まで事情があって休んでいたけど、彼女が出てきたからといって大騒ぎする必要はないんじゃない?」
「それはそうですが......」
内村は困っていた。久保陽子が禍いに見舞われたことは会員ならだれでも知っている。いつの間にか耳打ちで広まり、陽子が江田四朗の毒牙にかかったと知れ渡ってしまっているのだ。
井沢郁江がそれを知らないわけはない。郁江もまた癌という呪いを受け、危いところで奇蹟の生還を遂げたといわれている。幻魔と化した江田の呪いの想念エネルギーを打ち破ったのだ。
「しばらく休んでいた陽子が戻ってきただけよ。そんなに大騒ぎすることはちっともないんだって、内村君が皆に注意すべきじゃないの? 妙な噂や流言蜚語で会の中がガタつかないように抑えるのも、青年部長としての務めでしょう? その内村君が目をギョロつかせてうろたえていたら、だめじゃない?」
郁江は例によってつけつけといった。陰湿さがないので、叱言をいっても驟雨のような爽やかさがあった。
「しっかりしてよ、内村君。君は丈先生のエージェント、代理人じゃない。抑えるところはきちんと抑えてくれなきゃ」
「あ、そうですね。郁江さんのいう通りだと思います。いっせいにうわーっとうわずってしまったんで、僕までつられてしまって」
内村は色白の顔を真赤にして恥じていた。その背中を、郁江はよく撓う手でぴしりと叩いた。郁江の掌は小さくて可愛いのに、叩かれると痛いのは有名だ。スナップが効いているのであろう。
「しっかりしなさい内村君! すぐに火消しをしていらっしゃい!」
「わかりました」
相手は歳下の郁江のいうがままだった。大学生の内村は四歳も下の彼女を崇拝しきっている。まったく自信の欠如した内気な彼が、青年部責任者として目の覚めるような働きを見せるようになったのは、郁江に活を入れられて以来だ。彼は郁江を神聖な女神を見る目で仰いでいる。
松代直子は驚異の目で二人の遣り取りを見守っていた。内村というきゃしゃな青年の尊敬心が彼女の心にも移ってきたようになり、郁江という少女が神秘な女神のように感じられてくる。意外な奥深さを秘めた不思議な少女だ。東丈が光り輝く太陽であれば、郁江には神秘な月という趣きが確かにある。
「内村君、すぐに行って火消しをして来てちょうだい! 絶対に変な目で陽子を見たりしないこと!」
「はい! すぐに火消しをします!」
内村は跳ね返るように答え、笛川たちに会釈して大あわてで駆け去って行った。
「驚いた。郁江君はたいへんな権威があるんだなあ」
と、笛川がいった。
「まるでお姫様みたいだ。今の彼がそんな目で郁江君を見ていたよ」
「そうでしょう。〝郁姫〟とはあたしのことだもの。物凄く威張ってるの、あたし」
と、郁江がけろりとしていった。
「苦しゅうない、もそっと近う寄るがよい、なんてつい出てしまうのね。冗談なんだけど......」
「久保陽子さんはどうして帰ってきたんでしょうか?」
と、松代直子が尋ね、はっとしたように口許に手をやった。自分でも出過ぎていることに気付いたのだ。彼女が関与することでは全くない。
「そうね。きっと帰りたくなったんじゃない? だって〝GENKEN〟はもともと陽子の作った会だから......」
と、郁江はさりげなく答えた。その言葉が事実であることをだれよりも願っているのは郁江自身であった。
むろん、直子がそのような意味で尋ねたのでないことは百も承知している。直子は突如覚醒した遠感能力により、久保陽子を見舞った災厄を察知している。さもなければ、なぜ陽子が帰ってきたのか、とは尋きはしまい。その質問はあまりにも無気味な暗雲の如きものをはらんでおり、ものに拘泥しない郁江ですらと胸を突かれるものを覚えていた。
だれもがその問いを己れの胸に投げかけずにはいられなかったのだ......
3
久保陽子が帰ってきた。
その報らせは衝撃波と化して、〝GENKEN〟を揺がせ、走り抜けた。陽子を直接知るものも知らないものも、衝撃を免れることはできなかった。
講演会場に姿を現わした久保陽子を見た会員はさほど多くはない。しかし、目撃者の口から、噂はこの上なく刺激的なものとなり、伝わった。
久保陽子がどのような経緯により会を辞めたか、またどのようにして〝幻魔〟江田四朗の手にかかったのか、正確に知る者は少ない。それだけに噂は好奇心により変調され、口から口に伝えられた。
最初にだれの口から漏れたのか、もはや突き止めたところで仕方がない、と東丈は考えているようであった。少なくとも杉村由紀や平山圭子などの秘書たちにはそのように受け止められた。
「人の口に戸は立てられないっていいますからね......」
と、丈はいった。諦めの口調とすら感じられた。しかし、杉村由紀にはある程度、見当がつくような気がした。
東丈と久保陽子の感情的なしがらみをよく知っているのは、旧〝GENKEN〟会員たちである。青林学園高校において最初に会の輪郭を整えたのは久保陽子自身であり、旧会員たちはそのいきさつを十二分に心得ている。
陽子は丈とともに会の創設者なのだ。平山圭子や井沢郁江にしても、初期会員ではあっても創設者とはいえない。その点、丈は久保陽子に対して特殊な感情を抱いているようであった。
それは、久保陽子の名が話題にのぼる時、決って杉村由紀が受信する心の傾きであった。
東丈は、久保陽子に対して罪障感を抱いているのだ、と由紀は漠然とした印象を受けていた。それは遠感者としての彼女が本能的に受信しているものだった。なぜ丈がそうした罪障感の虜にならねばならないのか、さっぱり見当がつかない。
経緯はある程度心得ているが、由紀には久保陽子に対する同情はまったくない。むしろ幻魔の波動と結託して井沢郁江に呪詛行による危害を加えた、加害者としてのおぞましさ、いまわしさとしての悪印象しかない。
幻魔の手先に対して、同情心や憐愍など持ち合わせようがないのである。あるいはそれが心の狭さであるのかもしれないが、由紀にはどうにもならなかった。自分には敵への寛大さなど縁がないと最初から思っているからだった。
とくに、郁江を卵巣癌で殺そうとした陰湿さ無気味さは、同じ女の身としてどうにもならない厭悪感をもたらすものであった。考えただけで身慄いするほどであり、ごくわずかにでも許容できる相手ではなかった。
東丈は講演会会場からの帰途、車の中で杉村由紀からそれを知らされた。
「波動を感じていましたよ......」
と、丈は瞑目したままいった。火を発するような講演の余熱もとどめない静謐な横顔であった。
「陽子が来ていることは感じていました。講演中の方が、むしろよくわかるんです。今日は幻魔の波動も恐ろしく強烈だった......」
そうだろうか、と杉村由紀は思った。丈の講演のボルテージは、第一回のクリスマス講演の時とは比較にならぬほどハイレベルにあり、丈の熱気に圧倒された場内からは、幻魔の波動など感じることもなかった。
「で、陽子とはだれか話をしたんですか?」
「ええ、郁江ちゃんがお話ししたみたいです」
と、由紀に代って平山圭子が答えた。
「で、どうだった?」
「それはまだわかりません......郁江ちゃんとはちらっと帰りがけに顔を見合わせたぐらいですから。それに彼女、とっても忙しそうでした」
「そうか」
とだけ、丈はいった。その静かな表情からは、なにも読み取ることができなかった。どのような感慨があるにせよ、最近の丈は内心を杉村由紀に読ませなくなっていた。遠感を用いるならともかく、そのような不遜なことはとうてい由紀にはできない。丈は限りなく神秘性を深めて行くように思われた。
丈の意識圧は、常人には考え及ばぬハイレベルにあり、もし遠感で探ろうとする者がいても、意識がブレて消し飛んでしまいそうな気がするほどであった。
「先生は少しも驚いておられないのですね?」
と、由紀が尋ねた。ハイヤーを使っているので、運転手の耳を気にして、立ち入ったことまでは話せなかった。
「もしかしたら、先生は予期なさっておられたのでは?」
「ありうることだと思っていました。姉がそんなことをいっていたようです」
「お姉さまが?」
「そう......だから心づもりはできています。それより、みんなが色めき立つことの方が心配ですよ」
丈のいう通りであった。色めき立っているのは由紀にしても同じだ。
「久保陽子さんとお逢いになるのですか?」
「もちろん逢います。僕にとっては最初の同志ですからね」
丈は平然といい、杉村由紀は沈黙した。丈は少しも気にしていないらしい。彼女のように容易ならぬこととして受け止めていないようである。
「でも、お姉さまは気にはなさらないのでしょうか?」
由紀は三千子の心情を忖度することにより、辛うじて己れの気持を托そうとした。最近の丈に顕われているきびしさは、由紀をさえ気後れさせるほどであった。甘えを毫も許さぬというきびしい気迫がみなぎっている丈であった。
「姉はそうかもしれません。しかし、僕の考え方はちょっと違う。みんなが浮き足立たないように、杉村さんも抑えて下さい。くだらない噂やマイナス情報が流れないように抑えこむことです。大切な仲間が帰ってきたことに、色メガネをかけて見ることは許しません。僕の意志を徹底するように、すぐ内村君に伝えて下さい」
由紀がひやりとするほどの厳しさをのぞかせて、丈はいった。ここ数日来の丈に珍しくない鋭気であった。
丈はどんどんシビアーになって行くようであった。意識圧の上昇と連関しているのであろう。圧倒的な高圧のはり詰めたものをみなぎらせているようである。
どこがどう変化したと指摘することは困難にしても、確実に丈は変貌を遂げた。貌つきまでが変わってきたようだ。弱気な所が全くかげを潜めてしまった。
ただひたすらに厳しくなりハードになったというのではなく、魅力的な優しさが消滅したというのではないが、少なくとも甘さが失せたことは間違いなかった。
身近にいる杉村由紀には、丈の迫力が何十倍にも増し、圧倒的になったとしかいいようがなかった。これまでのように女の本能的な甘えというものを許さない緊迫感が丈にみなぎっているのだった。
「心配することはありません」
と、丈は語気を緩めていった。期せずして同時に由紀と平山圭子がほっと溜息をつく。
「心配ないですよ。陽子のことは、僕がきちんとやります。それより動揺を静める方が大事です。僕がいる限り、滅多なことは起きないんだ、とみんなにわからせてやって下さい」
ハイヤー運転手が聞き耳を立てているな、と由紀にはぴんと来た。好奇心で充満しているのだ。天才少年教祖への興味だった。滅多なことは話せない、と警戒心が動いた。
「詳しいお話は平山ビルへ帰ってからいたします」
と、由紀はいった。彼女自身の遠感能力はますます上昇していることがわかっている。ハイヤー運転手の好奇に満ちた心の裡が手に取るようにわかるのだ。制服制帽、白手袋の職業運転手が何食わぬ顔で聞き耳を立て、蓄積した種々の秘密が、彼の心の底にひしめいているのがわかる。
充分に注意力を集中すれば、そうした後ろめたい秘密の一つ一つを解きほぐすことさえ可能な気がした。丈の側近になって以来、由紀の超能力は鋭敏さを増す一途である。
しかし、その事実は必ずしも由紀の自信を増加させてはくれない。丈のいう通り、超能力などさしたる能力ではないという思いが強まるばかりである。
むしろ歯が欠けるように、由紀の自信は徐々に損なわれているようだ。そのように丈がしむけているのではないかという気さえするほどであった。
むろん、丈の考えは正しいのかもしれなかった。遠感でハイヤー運転手の心を読み取ってみたところで仕方がない。生活に疲れた中年男の心労やすえた欲望が河底に溜まる汚泥のようにわだかまり、積み重なっているばかりである。そんなものを探り出し、つつきまわしてみたところで得るものは何もない。
「高鳥君のことで、何かトラブルがあったようです。後ほど帰りましたら、圭子さんから報告してもらいますので......」
杉村由紀はそれだけ口にした。
「............」
丈はなんの関心も示さなかった。高鳥のことになると、彼は別人のように冷淡になり、他の会員に対するような繊細な気遣いを消してしまうのだった。
まるで故意としか思えないほど知らん顔をして、コメントを加えることは決してしない。なぜ丈が高鳥を徹底的に無視するのか、だれ一人見当もつかなかった。
何かしら思うところがあるのだろう、と考えるしかない。会員の一人一人に綿密な配慮をもって助言や注意を与えるよう、由紀たちに指示を下す丈が、会を好き勝手に揺さぶっているようにすら見える高鳥慶輔に対してだけは一切黙殺してしまっているのだ。
丈は無言で視線を前席に座っている平山圭子に向け、それを感じ取った圭子が身をすくめるようにして反応した。
平山圭子も驚くほど鋭敏になっていることを、由紀は認めずにいられなかった。圭子にももしかすると超常感覚が目覚めかけているのかもしれない。圭子の心の裡には、そうした自覚とそれに伴う困惑が芽生えていて、鮮やかな変化をくり返していることが、由紀の遠感には感じ取れる。
平山圭子のみならず、大きな変化が広範囲に渡って生じようとしているようだ。第一回のクリスマス講演会で、丈の波動に接した杉村由紀や木村明雄や、その他の人々が超能力に目覚めたように、今回の新年講演会でも、少なからぬ人々が超能力に目覚めたのかもしれなかった。
今回の丈の波動はそれほど強烈なものだったのである。そして講演会に集まった数千の聴衆は、心中それを期していた者たちが大半を占めたのではなかったろうか。
丈の強い波動に触れた人々が、片はしから超能力者に変って行く。それは由紀に恐ろしいような気持を呼びさました。あるいは丈が強い言葉で超能力の価値をおとしめようとし、あるいは否定的言辞におもむくのは、この超能力者の大量発生という現象を予知していたからかもしれない、と彼女は思った。
高鳥慶輔を徹底的に無視し、入会すらも認めないのは、あるいはそのためか......
4
渋谷・道玄坂の平山ビルの前の小路にハイヤーが入った時、杉村由紀は真先にまずいな、と思った。
マスコミ関係者が待ち伏せしている、と直感したのだった。なんの理由もなく、姿を見かける前からわかってしまったのである。遠感で、張り込んでいる報道関係者の想念波を受信したのであろう。
「先生、張り込みがビルの前に......」
とだけ、由紀はいった。今年になってから、丈との面会を求める報道関係者は飛躍的に増大を遂げている。
「いったんやりすごしましょうか?」
「いや、いいです」
丈はあっさりいった。最近の丈は、以前ほどマスコミジャーナリズムに対して神経質に忌避する態度をとらない。依然としてインタヴューや取材には応じないが、逃げまわるという印象は消えていた。
やはり丈の裡に生じた自信と無関係ではないだろう。それは確固とした強力なものであり、以前の丈にあったかもしれぬひ弱さを吹き飛ばしてしまったようであった。
「大丈夫です。車をビルの前に停めて下さい」
と、丈は躊躇いを見せたハイヤー運転手に向って直接いった。
「かしこまりました......」
と、ハイヤー運転手は丁重に答えた。この〝高校生教祖〟と呼ばれる美少年は、天草四郎みたいだ、と思っていた。大変な霊力があるらしい。大群衆が生神様扱いしているだけのことはありそうだ。
ハイヤー運転手が平山ビルの前に車をつけ、後部ドアーを開きに降り立つより早く、平山圭子は右側の前部ドアーを開けて滑り出ていた。左側の後部ドアーからは杉村由紀が降り立ち、マスコミ関係者から丈をカヴァーしようとする。
訓練を積んだわけではないが、ぴったり呼吸が合っていた。お互いにどう動けばいいか、言葉を交わさなくても、吞みこんでいた。
圭子がドアーを開けて丈の降車を手伝うさまを、マスコミ関係者と覚しき男は、ストロボを光らせて幾枚も写真に撮っていた。制止のため分け入る杉村由紀にまでシャッターを切る。困りますといわせぬ素速さだった。
「東丈さんですね。ちょっと一言だけお願いします!」
と、男は駆け寄りながらいった。まだ二十代後半の青年だ。アメ横で買ってきたような米軍放出品のジャンパーを着こんでいる。
「取材は困ります! お断りしているはずです!」
と、由紀は男の前に立ちふさがろうとした。しかし、男の動きは俊敏であり、その傍らをすり抜けて丈の前に廻りこんでいた。
「まあ、そう嫌わんで下さい」
男はにやにや笑いながらいった。ふてぶてしい笑顔だったが、まんざら愛嬌がないわけでもなかった。肉厚の顔はばかにサイズが大きく、若年の頃のニキビの痕が月面のような盛大なデコボコを作っていた。
「僕はトップ屋でしてね、ルポライターなんて上品めかしていうほどのもんじゃない。以後お見知りおきを......風間俊敏といいまして、強引なことでは定評がある口でしてね」
トップ屋風間は名刺を鮮やかな呼吸で差しつけ、丈はうっかりしたようにそれを受け取ってしまった。
「質問を一つだけ......江田四朗というのは本当に幻魔ですか?」
「............」
丈はただ黒い瞳で瞬きもせずに、風間を見詰めた。風間は困ったように顎を搔いた。丈の黒い瞳にはほとんど物質的な圧迫感というべきものがあった。
「答えて下さいよ、先生。僕もこれで飯を食ってるんでね。今、女房がお産をしようってところなんですよ」
「僕が何をコメントしようと、そんなものは無視して好き勝手なことを書くんじゃないんですか?」
と、丈はいった。
「それがあなたのいつもの手口でしょう?」
「そんなこた、ないです。時にはやりますがね、相手の出方によりけりですよ」
風間がふてぶてしくいう。
「では、どうするつもりです?」
「どうするって、先生はまだ何も答えてくれてないじゃないですか?」
「手を引きなさい」
と、丈はいった。
「僕のことを書くのはいいが、あなたは虎穴に入ろうという気らしい。これは忠告です。あなたに奥さんがいるとは信じていませんが......」
「忠告されちゃった......」
風間は顔をそらし、鮫のような口付をして笑った。
「どうなんです、先生? 江田ってのは、先生のごっつい敵らしいじゃないですか? 幻魔ってのはそんなに凄い力を持っているんですか? 先生が恐れおののくくらい......」
「先生!」
と、杉村由紀が丈の袖を引いた。
「先生は事務所へお入り下さい。何をこの方に喋っても不利になるばかりですから......」
丈は頷いたが、その場を動こうとはしなかった。
「しかし、この人が僕のことを書けるとは思えない。この人がやろうとしていることからすれば、そんなことをしている余裕というものがないんだ」
と、彼はあくまでも落着いていった。
「ほう? ひょっとするとそれは予言ですか?」
風間が平然としたしぶとい顔で尋く。
「虎穴に入ろうとしている人間がどうなるか指摘するのは予言のうちに入らないでしょう......三歳の子供にもわかることです」
丈はどうかしている、と杉村由紀は思った。こんな品の悪いトップ屋風情を相手に、浪費している時間はないはずだし、まさに愚の骨頂なのだ。
相手は低級な大衆週刊誌に愚劣な煽情記事を提供するのが商売であり、丈が今まで報道関係をかわしてきた努力が、このトップ屋にインタヴューを許すことで水泡と帰してしまうであろう。
「江田四朗はそんなおっかない相手ですかね?」
「いずれ、彼を構いに行くマスコミが出るとは思っていました。しかし、僕としてはおよしなさいと忠告するしかありません」
「あたしは何も先生から忠告してもらおうとは思ってないですよ。コメントはもらいたいが......」
風間はまたしても鮫の口付をして笑った。
「どうせ忠告しても、耳をかしてもらえそうもありませんが、どうせなら深入りしないことです。ヒットエンドランですよ」
丈はくるりと風間に背を向けた。平山ビルのエントランスに入って行ってしまう。待ち受けていた平山圭子が分厚い一枚ガラスのドアーを開ける。
「待って下さい、先生、それだけですか?」
風間はあわてて後を追おうとしたが、丈は振向きもせず、ドアーをくぐってしまう。
「先生! 江田は幻魔だっていうんですね!?」
トップ屋が大声でどなる。
「そう書いちゃっていいんですか!?」
「いい加減になさって下さい」
杉村由紀がビルに入ろうとする風間の前に立ち塞った。
「いや、どうも、あなたの怒った目は美しいですなあ」
と、風間は抜けぬけといった。
「あなたは会長先生の美人秘書さんでしょう?」
へらへらと笑いながらいった。いかにも下品、下劣そのものという顔付だが、本気で腹を立てにくいという顔でもあった。
「あなたは先生の講演をお聞きになったことがあるのですか?」
長身の杉村由紀は小肥り短軀のトップ屋を見降しながらいった。
「ないです。全然ありません。今日も会場へ行かずに、こっちに張り込んでたんでね」
風間は少しも応えない表情で答えた。
「一度講演をお聞きになってはいかがでしょうか? 失礼ですけれども、あなたが先生についてどれだけ理解なさっているか、たいへん疑問です。あなたは先生のおっしゃっている目に見えない力、宇宙の力など、どの程度信じておいでになりますか?」
杉村由紀はなぜこんな場所で、空っ風に吹きまくられながら、得体の知れぬトップ屋なぞと問答しなければならないのかと疑いながらいった。
天気はよいが、風は強い。両手で吹き乱されるロング・ヘアーを抑えなければならなかった。その女っぽい仕草を、トップ屋風間は感心したように眺めていた。
「たいして信じていないといえば、その通りですがね......しかし、お宅の会長先生のやることには興味がありますよ。あの若さにしては、ひどくしっかりしてるしね。講演も聞きそこねたが、そのうち聞きたいと思ってますよ。また近いうちやるんですか?」
「二月十八日にまた講演があります。是非いらして下さい。でも、先生はあなたに忠告をなさいました。もしあなたが目に見えない力、宇宙を動かす力など少しも信じない方だとしても、先生の忠告は無視なさるべきではありません。あなたは非常な危険に自らとびこもうとなさっているのです......」
「失礼ですが、あなたは実にきれいだ」
と、風間はまじめくさっていった。
「まるで女神様のようだ、そんなことをだれかにいわれたことはありませんか?」
「!」
由紀は呆然とし、ついで嚇っとした。まるで人を舐めきっている。彼女はきびしい目で相手を一睨みし、背中を向けようとした。
「おちょくったわけじゃない、本当です。僕の素直な気持を口にしただけですよ」
と、声が由紀を追ってきた。
「幻魔の江田四朗を取材したら、結果をあなたに知らせてあげますよ。どうすれば、あなたに電話が通じますか?」
由紀は思わず振り返った。一切口をきかず無視してやろうと思っていたのだが、そう出来なくなった自分を発見していた。
「では、どうしても江田四朗の取材はやめないとおっしゃるのですか?」
「僕はトップ屋ですからね。面白いトップ記事を作らないことには、存在理由がないんですよ。たとえ、余計なことをするな、さもないと命がないぞと脅されてもね」
「先生は、そんな、脅したりはなさいません! 未来を見通すことのできる目をお持ちなので、あなたに忠告なさっただけです」
「先生のことじゃないですよ。ヤクザを初めいろんな物騒な連中に脅されているということです。しかし、昔からキナ臭いことになると余計にのめりこむ因果な性分でしてね......」
「あたくしからも忠告してさしあげます。手をお引きなさい、と。先生の予知は決して無視できないんです。あなたが信じようと信じまいと、先生にはさまざまな未来の姿が見えていらっしゃるということなんです」
「何といって電話をかければいいんですか? 江田四朗とのインタヴューの結果を知りたいでしょう?」
「秘書の杉村です」
由紀は溜息をつきながらいった。どうにも手に負えぬ人物だった。由紀どころか、丈が何といおうと意に介さないにきまっていた。
「杉村さん......あなたも超能力者なんですか?」
と、風間がいきなり尋ねる。由紀は虚をつかれて一瞬言葉を見失った。油断のならぬ人間であることは確かであった。
「深入りは禁物ですよ、風間さん。先生の予知を無駄になさらないように......」
由紀は辛うじて体勢をととのえた。
「ほう、僕の名前を覚えてくれていたんですか」
風間は露骨に嬉しそうな顔をした。
「わたくしは記憶力がいいんです。つまらないことでもよく憶えています」
「どうですか、杉村さん。今度ゆっくりお話しできませんか?」
由紀のしっぺ返しなど気にもかけず、臆面もなく誘ってくる。
「あなたと話してみたいんですよ。僕は鼻柱が強くて頭のいい素的な女性が大好きでしてね」
「わたくしには私用時間がございませんので」
由紀は思いきり冷やかな顔をしてみせたが男性から誘いを受けたのがしばらくぶりであることを思いだした。かつての男友達の幾人かとはまったく縁が切れたようになってしまっている。
由紀自身が変貌してしまったので、交流が跡絶えてしまったのだ。今では所属する世界が違うとしか思えない。もう麻雀の誘いすらもかかってこないようになっている。
「杉村さんはこの十年間で出会った最高の女性です。なにか宿命的なものを感じるなあ」
風間はまったくなんの臆面もなく、由紀を口説き始めた。
「あなたという素晴らしい女性をもっと深く知りたい。これを霊感というのかな? 鮮烈な稲妻が走って、急に目の前がくっきりと鮮やかにクリアーされたみたいだ。杉村さんが光り輝いてみえる。さっき女神さまといったのは決して冗談でもなんでもないんですよ、杉村さん。信じて下さい」
風間はいかなる観点からも、好男子といっては美辞麗句にすぎる男である。むしろ明白な醜男といってもよい。ずんぐりむっくりした短軀に不釣合なほど大きな顔が載っており、それも秀麗というにはほど遠い鮫の笑いを浮かべる面構えだ。しかし、不思議に人を惹きつけるものがあり、憎めないものを感じさせた。
「失礼します。あなたの饒舌のお相手をしている時間はありません」
由紀は冷たい顔でいい、きびすを返した。
「じゃあ、とりあえず江田四朗の件だけで我慢しますよ」
と、風間が背後から呼びかけた。
「しかし、諦めませんよ。祖母の遺言があるんでね」
「!?」
由紀は振向いて、とぼけたトップ屋を一睨みし、平山ビルに入って行った。風間がビルの内部まで尾いてくるのではないかと心配したが、風間は米軍放出品のジャンパーのポケットに両手を突っ込み、見送っているのが、一枚ガラスのドアー越しに見えた。にやにや笑いを浮べているかどうかまではわからなかった。
安心するとともに、杉村由紀は自分の冷たい表情ほど内心が突慳貪でないことに気がついた。臆面もない口説き方だが、決して厭味なところがなく、むしろ新鮮なものにさえ感じていた。
相手がふざけ半分ではなく、本気で渇仰し、女神さまと呼んだことがわかっていたからかもしれない。
きびしく冷やかな表情がいつか融けかかっているのに気づき、由紀はふとうろたえた。自分が丈の秘書に徹していない証拠だと思った。己れの裡に停滞があり、そのためにくだらない人物の求愛などにうろたえたりする弛緩が生じているのであろう。
これまでの生活をなにもかも一新させたつもりだったが、他人から見ればやはり付け入る隙を沢山残しているのかもしれない、と由紀は考え、心が重くなった。もちろん、東丈にはそれが全てお見通しであろう。
心を浄化することがどんなに難しいか、自分の限界が思った以上に、はるかに手前にあり、その壁を超えることがいかに至難かを思い知らされるようであった。
5
執務室に戻った東丈はもはや一言も、待ち伏せていたトップ屋に関して言葉を費さなかった。忘れたというよりは、丈にとって何の意味も持たぬことが明らかであるようだった。むしろ杉村由紀が拘泥していることがおかしいのかもしれない。
トップ屋風間など、無数に群がってくるマスコミ商売の腐肉獣の一人でしかないといえる。丈にとっては何ほどのことではないのは当り前のことだ。
風間が由紀に残した印象など、考えてみれば意味がない。丈に関心を持つ全ての報道関係者が、丈の〝敵〟である江田四朗に注意を惹かれるのは、必然の傾きであるかもしれないからだ。トップ屋風間は単なる先走りにすぎないにきまっている。
由紀は己れの裡に生じている得体の知れぬ停滞、弛緩を頭を振る動作で振り払えたらどんなにいいだろう、とふと夢想した。
風間のことなどどうでもいい。
午後六時からは、杉並の井沢郁江の自宅で快気祝いのパーティーが催される。丈はそれに出席することを約束しているのだ。それまでの数時間を、丈は人と会ったり、今月末のセミナー計画を煮詰めることで費そうとしている。
しかし、丈はゆっくりと企画書に目を通している暇もあらばこそであった。七階の事務局で居残っていた菊谷明子が、丈の帰館を知って、留守中の国際電話の件を報告してきたからである。
「ニューヨークから国際電話? それで」
丈は興味深げに菊谷明子を見詰めた。
「あ、あの、お留守番のあたくしも秋津さんも英語が全然、だ、だめで......」
菊谷明子はどもりながらいった。責任感の強い彼女にとっては、重大な失態だったのであろう。
「ニューヨークというと、ミスタ・メインといっていませんでしたか?」
「そ、そうです! メインといっていました、ミスタ・メインって......そこへ高鳥さんが居合わせて......」
高鳥慶輔が意外に上手な英語を操って、ニューヨークのミスタ・メインと国際電話で渡り合った顚末を菊谷明子は物語った。

「ミスタ・メインなら知っています。で、ミスタ・メインの用事は何だったんですか?」
「それがよくわからないんです、高鳥さんに説明をろくに聞く余裕もなく、彼が飛び出して行ってしまったものですから」
「じゃ、用件はわからない?」
「はい......申しわけありません。高鳥さんとっても興奮していまして、こっちのいうことが耳に入らないんです......」
菊谷明子は恐縮しきっていった。留守番を果せなかったことに、大きな罪障感を覚えているような青い顔色であった。
「それで、高鳥君は?」
「まだ平山ビルには帰ってきません。さっきからずっと捜しているのですけど、連絡がつかないんです。申しわけありません」
「高鳥グループのだれかが七階にいるでしょう。尋いてみましたか?」
「はい。でも、国際電話のことは何も知らないようです。高鳥さんはどこかへ行ってしまって音沙汰なしだそうで......それより七階では、久保陽子さんのことが大問題になっています......」
「そのうちにまたミスタ・メインは電話をかけてくるでしょう。もし大事な用件だったら......そんなに気にしなくてもいいです。今度からは簡単な英会話を勉強しといてくれませんか?」
「はい? そういたします。英会話、勉強しようと思いながら、つい......」
菊谷明子は顔を真赤にして恥じ入りながらいった。
「心配要らないと秋津さんにもいっておいて下さい。それから、高鳥君の居場所がわかりしだい一階へ来るように伝えて下さい」
「かしこまりました......」
丈はすでに高鳥慶輔が久保陽子といっしょだったことを知っていた。高鳥には全く責任感のかけらもないようである。高鳥グループにすら無断で消えてしまったのだ。
「先生......だんだん高鳥さん、様子がおかしくなったようですわね?」
と、杉村由紀は菊谷が去った後、そっと丈に呼びかけた。
「そうですね......」
丈はそれだけいった。それ以外は高鳥について一言も論評めいた言葉は吐かなかった。
またしても由紀は失調感覚の虜になってしまった。丈が何を考えているのか、見当もつかないのである。これだけ高鳥に好き勝手な振舞いをさせて、シビアーな丈が黙過している。しかし、それが不可解な以上に、自分が丈に対して阿っているような不快感が、心を汚していた。
高鳥への批判を口にすることが、丈への阿諛追従でしかないように感じられる。丈が一言もコメントしないせいであろう。丈はただ黒い瞳をして黙っている。由紀はこれ以上語を継ぐ勇気を失ってしまう。
今の由紀にはまったく自信がない。井沢郁江が丈に対してのびのびと振舞っているのが信じられないほどだ。郁江は平気で高鳥の悪口をいい、丈の沈黙にも怯する気ぶりもない。
郁江の有する一種の無神経さ、それを闊達さと呼べるのかどうか疑わしいが、そんなものは杉村由紀には無縁のものであった。郁江には、丈の考えが摑めずに思い惑うなど、もともとありえないのであろう。平然として己れの考えを相手にぶつけられるのだ。
由紀のようにあらかじめ相手の考えがアウトラインだけでも捕捉できないと苛立ってしまうようなことはないらしい。相手の気持を読み取って対応するのでないと由紀のような仕事は務まらないと思うのだが、郁江は平気だ。郁江は郁江であることで、全ての人々から許容されるようであった。丈にしてからがそうなのだ。
それが由紀には理解できない。そもそも相手の気持を斟酌しないでも許されるというのが不思議でならない。それが郁江の人徳だという考えは、もっとも受け容れがたいものであった。
由紀は、ある一時期郁江がその真正直さによりいかに非難され排斥されたか知らなかった。郁江のような性格の少女が人々に受容されるのは容易なことではないのだが、プロセスを知らないだけに、由紀の目にはあまりにも不可解な現象に映じてしまうのだった。
杉村由紀にとり、郁江が理解しにくい気質の持主である以上に、丈の気持は摑みがたくなっていた。
由紀は遠感能力のせいもあずかって、他人の心を捕捉するのが巧みである。その由紀が最近の丈の考えがまったく読めない。摑みどころがないのである。
それを由紀は己れの責に帰して真正直に悩んでしまうのだった。それは肩凝りが生じてくるほどの心労であった。
6
東丈の多忙さを、外部の人間が想像することは困難である。
一分間の遅滞もなく、丈は絶えず仕事を続けている。しかし、決して仕事に追いまくられるという受身の印象ではない。時間を浪費せずに持時間を充実させていく積極性と、汪溢した精気が、むしろ滑らかさを見る者に感じさせる。大量の仕事を苦しまずにスムーズにこなして行く凄まじい切れ味といえるかもしれない。
丈は決して脂汗を流して苦吟するという雰囲気でなく文章を書き、人々と言葉を交わしていた。エネルギッシュであることは無類だが、少しも苦しげではない。しかし、もし人が丈の真似を試みれば数時間で疲労困憊してしまうことに気付くだろう。
秘書たちは慣れてしまい、少しも疑わなくなっているが、たまさか外部の者が訪れて丈の日常に接すれば、それが人間のなすべき業でないと気付くのだった。
郁江のパーティーへ送迎のため車を持ってきた元不良少年の河合康夫は予定時刻よりも早く到着したために、秘書室で待たされ、その実情に立ち合うことになった。
講演会の余熱があるために、問い合せ電話のラッシュは凄まじく、間断なく二本の電話ベルが鳴り続けるさまに、河合康夫は目をまるくしていた。
講演会場で記者会見もなく丈に逃げられたと思っている報道関係者はいきりたって丈に取材を申し入れ、秘書の杉村由紀と夏本幸代は応対に振り廻されていた。
そのただごとでない熱気に圧倒されて、河合康夫は秘書室の隅に小さくなって座っていた。
刷りあがったばかりの〝GENKEN〟機関誌〝コスモス〟を手にしているが、誌面にろくに目が行かない。火事場騒ぎのような慌しさで、息もつけない気分になっているのであろう。耳目を杉村由紀の電話応対に吸い寄せられてしまっている。
杉村由紀の応対ぶりは手なれており、鮮やかである。苦もなく処理を終えると、相手に食いさがられ、もたついている夏本幸代から電話応対を肩代りする。その手際はまったく比較の段ではない。大粒の汗を満面にかき、肩で息をしている夏本幸代と違って、余裕綽々の平静さだ。
河合康夫はいつしか尊敬の目で杉村由紀を見るようになった。ただものでないと考えたようであった。
ほどなく丈と面会していた者が帰って行き、それが有名な政権保守党の閣僚政治家であることに気付いた康夫は目をまるくした。〝悪党〟の区議を父親に持った康夫は政治家に関心が深い。
その閣僚政治家が、田崎の祖父大沢代議士の紹介で丈に逢いに来たことは想像がつくが、男性秘書を従えた政治家の丈に対する態度は充分に尊敬心の表われたもので、元不良少年を満足させるに足るものであった。
油断のならない策師として、政権保守党内部でも用心されている閣僚政治家は隔意のない笑顔で送りに出た丈に礼をいった。権謀術数のオイルにまみれているようなあぶらぎった顔が、妙に明るく爽やかなので、康夫は心の底からびっくりした。こうした権力者の多くは警戒心で心を鎧っているため、ひどく人工的な笑みしか持合わせていない手合が多いのである。破顔大笑しても、目までは笑わないし、まして腹の底まで見せるような笑い方は決してしない。
政権政党の実力者中でも策師とされるほどの人間ならば、決して腹の内は他人の目に曝すはずがない。
その常識を破る現実を目のあたりにして、河合康夫は口もきけないほど驚いた。が、同行している男性秘書の目の表情まで読み取れないほど驚愕しているわけではなかった。男性秘書もボスの閣僚政治家のさらけだしている率直さに胆を潰しているのだった。
「いや、どうも、先生の素晴らしいお話を聞かせていただきまして......」
と、閣僚がいった。この尊大な実力者が十七歳の少年に対してまかりまちがってもいいそうもないせりふであった。ボス猿社会にあっては、いかに才能が溢れていようと十七歳の少年はあくまでも〝子供〟として遇されるのだ。
閣僚は一瞬油断のない目で、秘書室の隅に座っている河合康夫を一瞥したが、笑顔は崩さずに部屋を出ていった。
ざまあみろ、と河合康夫は妙に高揚してきた。うちの先生の偉さがわかったろう。先生は見た目は子供でも、内容はイエスも釈迦もびっくりという超大物なんだ。先生の前ではだれもでかい面をすることなんかできやしない。
なぜなら、うちの先生は〝真の救世主〟なんだからな!!
だけど、あの油断のならない政権党の実力者が、何の用事があって先生のところへやってきたんだろう。ちょっとお門違いという気もするが......
しかし、政治家の多くが占い師や霊感者をひいきにしているのは事実であるし、政治家という人種が、己れの人生の浮沈に一般人以上の関心を寄せているのも顕著な傾向といえた。
康夫の悪党の親父である区議にしたところで有名な易断の門を幾度も潜っているのである。おそらく妾の始末をどうするか相談に行くのであろう。あの悪党はひっきりなしにごく年若い女を妾に持ちたがっているのだから......
閣僚政治家を見送りに出た丈が戻ってきたので康夫は立上り挨拶しようとした。しかしその時は、新しい客が丈と一緒であった。針のように瘦せた人物であった。康夫は知らないが、光年社の担当編集者の小浜章である。
丈は康夫に目顔で頷いて見せ、執務室へ入って行った。まだしばらく康夫はまたなければならないようであった。
康夫はぼんやりと秘書の夏本幸代を眺めていた。杉村由紀が執務室へ入ってしまったので、夏本幸代しか眺める相手がいなかったのである。
平山圭子や井沢郁江よりだいぶ落ちるなと思いながら眺めている。美人だが、平板な感じで鈍重そうだ。電話の応対ぶりも舌たるくてじれったい。
こういうのをひっかけると、後がだれて面白くない、と康夫は不良少年の意識で考えた。すぐに女房面をするに違いない。気はしのきかないとろい女に限って、一人前に女房面をしやがるのだ......
はっと気がついて、康夫は目をそらした。もう自分は不良少年ではないのだ。〝無名塾〟の立派な塾生の一員なのだ。こんなでれでれした気分でいるところを、木村市枝に見つかりでもしたら張り倒されるであろう。市枝は〝黒バラ会〟の女王であった時よりも、ある意味ではおっかなくきびしくなっている。まるで秋霜のように鮮烈だ。康夫がたるんでいたりしたら許さない。
不良少年であったころは、けっこう康夫も不良がかった少女をひっかけて遊んだものだが、市枝の率いる〝黒バラ会〟のメンバーにだけは手が出せなかった。市枝に対して遠慮があったからだ。どうせなら市枝本人と、と思っていたのかもしれない。
しかし、当時もそうだが、今はそれ以上に市枝は康夫の手の届かない所へ往ってしまったようであった......
夏本幸代が自分を意識しているのを感じて、彼は興を覚えた。康夫を〝無名塾〟の者だと知って、興味を持っているのであろう。
康夫の視線に気付くと、さりげなくしなを作り、髪の一房を手にし、いじり始めた。なんだ、普通の女子大生と少しも変らないじゃないかと康夫は思った。なんでこんなのが秘書室にいるんだろう? コナをかければ、一発で陥ちそうだ。
いかんいかん、と康夫は自分の頭を小突きたくなった。また色気を出してしまった。この女子大生の秘書はまったく男に飢えているという印象であり、それが康夫を不良少年の意識に押し戻してしまうのであろう。
しかし、幻魔が標的に選ぶなら、この夏本という秘書は恰好の獲物であるし、造作なく陥とせるであろう。どうしてこんな危っかしいのが先生のお膝元にいるのか、さっぱりわからなかった。
丈自身の口から、幻魔の手先が〝GENKEN〟に入りこみ蠢動していると聞いている。そいつが目をつけるとすれば、この女子大生の秘書見習が絶好の標的だ、と康夫は確信を持った。
夏本幸代はそれとなく康夫が声をかけてくれるのを待っているようであった。満々たる好奇心を康夫は受信していた。
「お茶、淹れかえましょうか?」
と、夏本幸代の方から声をかけてきた。我慢しきれなくなったのだ。
「はあ、すみません......」
と、康夫は殊勝げに応じた。
「康夫さんという面白い人がいるって、前から聞いてたのよ」
と、夏本幸代が狎れなれしくいった。歳下の男の子に対する態度である。
「はあ、そうですか?」
康夫は乗って行かなかった。
「郁江ちゃんから聞いたわ。あなた、有名な不良少年だったんですって?」
「ええ、まあ、そんなものでして......」
相手の露骨さにたじろぎながら、康夫は曖昧に答えた。これは郁江の率直さとは違っている。露骨な好奇心をみなぎらせているのである。郁江も露悪的といえるが、思いやりやデリカシーがないわけではない。ところが、この相手はぶしつけそのものだ。
「高校生なのに高級外車を乗りまわして、凄いんですってね? お金持の恰好いい不良少年だって......いつも何十万円もポケットに詰めこんで歩いているんですってね?」
夏本幸代は相手の感情にはお構いなしで喋った。淹れかえたお茶を運んでくる。どことなく挙措動作に品が欠けていた。むしろ不良少女だった木村市枝の方が品がある、と康夫は観察していた。
──なんか程度が低いなあ、というのが彼の感想であった。
丈先生はいったいどう思っているのかな、と康夫は思った。
「何もかも昔のことです。先生にお会いしてから、俺は改心しましたもんで......」
「改心? 面白い人......」
女子大生は笑った。ぐっと康夫に対して親近感を強めたようである。
「俺は悪でしたからね。悔い改めたんですよ......」
「悪って、どういうことしたの? 恐喝したり、女の子を騙して悪の道へ引っ張りこんだりしたわけ? 番長とか愚連隊とかそういうのなの?」
「昔のことはあんまり思いだしたくないんですよ。勘弁してくださいよ」
康夫は閉口していった。実に露骨な追及ぶりだ。そんなことを聞き出して、どうするつもりなのか。
「でも、渋谷で有名な不良少年だったんでしょ、軟派の......ひっかけた女の子を騙して熱海とか香港とかへ売り飛ばしちゃうなんてことした?」
「冗談じゃありません。そんなことだれに聞いたんですか? 郁江さんですか?」
康夫はさすがにちょっと顔色を変えた。
「いいじゃない、隠さないでも。お釈迦様にも山賊とか悪人だった弟子が沢山いたっていうでしょ?」
「............」
啞然として康夫は、相手の厚かましくも、親しげな顔を見返した。感受性の乏しい、透明な装甲を施したような顔である。
改心した〝元悪漢〟という存在が面白くてならないのだった。現役の悪漢と違って、毒性がないという安心感があるのであろう。
こいつは、つけ上ってくる女だな、と康夫は厭な気がした。しかし、顔には出さない。独得の呆け顔で韜晦する術を心得ているのだった。相手は鈍感で無神経でとろいのだ。昔だったら一発かましてやるところだ。
「木村市枝さんという女も、あなたたちの仲間だったんですって? 不良少女の女ボスでいつもカミソリを持ち歩いて、気に食わない相手の顔をズタズタに斬ってたっていうけど、今でも刃物を持ってるなんてことないんでしょう?」
「ご冗談でしょう」
まさか郁江がそんなことをいいふらしているとも思えなかった。しかし、相手は秘書室にいるせいか、へんに事情通というところもあるようである。
「市枝はいい娘ですよ。それなりのわけがあって突張っていただけです......」
思わず無愛想な声が出た。
「面倒見がいいんで、自然と人にたてられるんですよ。似たような立場の女の子が大勢、おねえさんと慕い寄ることになった......それだけですよ」
「そう、あなたたち仲よしなのね。おつきあい長いんでしょ?」
なんでこいつ、根堀り葉堀り尋きやがるのか、とうんざりしながら、康夫は相手の顔をじっと見返した。情報がごっそり集まってくる秘書室にいるやつが幻魔の手先だったらえらいことだと考える。機密は全部幻魔側へ漏洩してしまうではないか。
「今は、木村市枝さんもあなたといっしょに〝無名青年塾〟にいるんでしょ?」
「ええ、まあ......お手伝いさせてもらってます」
「ね、教えて。〝無名青年塾〟って何をやっているの? 右翼みたいな若い人たちが集まって、武闘訓練なんかしてるって本当なの?」
「え? どこからそんな話聞いたんです?」
「今日の講演会で、警備をやったんでしょ? なんだかおっかない感じの人たちばかりだったってみんないってるわ。非行少年や右翼の若い人ばっかりなの、〝無名青年塾〟って?」
「違いますよ。俺はその非行少年の一人でしたけどね。大部分はまじめな学生が多いですよ。武道をやってる者が多いけど......だけど、だれがそんなインチキな噂をまいているんですか?」
「あら、みんなそういってるわよ」
夏本幸代は厚かましい顔でいった。
「あんたもそう思ってるんですか?」
康夫はむかっ腹が立ってきた。彼は元来あまり腹を立てない若者だったが、相手はあまりにも鈍感すぎた。無礼といってもさしつかえなかった。
「あたしは別に......みんながそういってるだけよ。なんだかちょっと得体が知れないところがあるって......」
「得体が知れないっていうけど、塾長は東丈先生なんですよ。〝GENKEN〟の人たちがそんなこといっていいんですか?」
「あら、そうなの? 知らなかったわ」
夏本幸代がけろりとしていう。同じようにけろけろしていても、井沢郁江がえもいわれず愛嬌があるのに、こいつだとなぜこんなにかちんと来るのか。無神経な女だからだ、と康夫は思った。相手の気持を斟酌することなど念頭にもないに違いない。
みんながいっているなど怪しいものだ。しかし、〝GENKEN〟の一部会員の間には、〝無名青年塾〟に対して偏見が存在するのは事実のようであった。
やはり木村市枝が懸念していたように、自分たちの非行歴などは、東丈先生に迷惑をかけるのかもしれない。元非行少年少女が弟子だなどというのはかんばしからぬ噂のもとになっているようだ、と康夫はいささか暗い気持になった。〝GENKEN〟の秘書室でまで、こうした誤解が生じているのでは、先行きは暗雲がかかっているとしかいいようがなかった。
黒犬をいくら洗っても白くならない、と木村市枝がかつて自嘲的に口にした言葉を思いだした。非行少女だった前歴は、いくら後悔したところで消えない。市枝がどんなつらい思いでいるか、これまで康夫は本当に理解していなかったのかもしれなかった。
「ね、塾の人たち、転生輪廻の前世を思いだしてるって本当?」
と、夏本幸代がまたぞろ始めた。そのむきだしの好奇心は白い脂肪の塊のようであり、食えたものではなかった。
「転生輪廻なんて、どうも信じられないけどね......」
「そうですか」
「なにかの錯覚じゃないの? だって、前世を思いだしたのが、塾の人たちだけっておかしくない? 会には一人もいないし、先生だってそうだもの。あんまり信じられない感じね」
「そうですかね......電話が鳴ってますよ。出なくてもいいんですか?」
康夫ははかない希望をこめていった。室内の空気が足りないような気分になってきていた。
「どうせ七階で出るでしょ。あたしはあまり信じる気になれないけど、塾の人たちはみんな本気なんでしょ?」
「そうですね......」
「でも、錯覚とか夢みたいなものとどこがどう違うの? 前世があるなんて証拠は何もないんでしょ?」
「どうですかね」
康夫は軽薄な笑みとともにいった。むっつりとして口もききたくないのだが、そうできないのが自分の性格的な弱さだと思った。
「前世があると思ってた方が楽しいんじゃないですか? そんなものはないと断定できるわけでもないんだし......」
「でも、前世なんていってると、〝GENKEN〟が世間から誤解を受けるんじゃないかとみんな心配しているわけよ......だって、遠感とか透視とか念動という超能力と違って、転生輪廻なんていうと、古臭いというか、お線香臭いというか、時代遅れっていう感じだもの」
「古臭いですか。そんなもんですかね」
「そうよ。仏教臭くてカッコ悪いわよ。全然粋じゃないわ......前世なんて聞いたら、東先生のおっしゃることが噓っぽくなるわ。だって超能力となんの関係もないんですもんね」
夏本幸代は歳下の軽薄そうな康夫にすっかり気を許していた。お姉さんぶって説教調で続ける。
「会の心ある人たちはみんな心配してるのよ。塾の人たちがあんまり妙なことをいわないでくれるように祈ってるわ。だいたい塾なんて古いでしょう。〝無名青年塾〟なんていうと悪いけど、わあやめて、やめてっていいたくなっちゃうのよ。東先生のイメージがとってもフレッシュでカッコいいのに、〝無名青年塾〟じゃねえ......やっぱりみんな顔が赤くなるとこぼしてるわよ。塾の人にこんなことをいうと悪いけど、正直なところ、イメージが悪くなるのがとても心配なの......」
「もっとカッコいいネーミングにすればいいわけですかね?」
「そうなの。せめて赤面しないですむネーミングにしてくれればよかったのにね」
「なるほどね」
「塾の人って右翼みたいな感じでしょ? だからせめてネーミングぐらいはまともにしてもらいたいの。今こうやってマスコミの注目が大変だし、塾の人たちに足を引張ってほしくないって、みんな深刻になっちゃってるわけよ。あなただってわかるでしょ? 右翼なんかに関係があると思われたら、先生のイメージが凄く悪くなるかもしれないじゃないの......」
康夫はさすがに我慢しきれなくなってきた。相手の蔑視は偏見や誤解という域を超えていた。恐ろしいほどの思い上りだった。会の連中がまさか全員このような蔑視の目を塾に向けているとは思えないが、さすがの軽薄をもって鳴る康夫にも顔色を変えさせる侮辱を、この秘書は平然として吐いたのだ。
「先生のイメージが悪くなるのは困りますな......わけのわからないのが身近にいたりすると、余計に誤解がひどくなったりして......」
康夫はへらへら笑いながらいった。むかっ腹を立てても怒り顔になれないのが彼の弱点であり、今は、自己嫌悪すら感じていた。
「そうよ。だから、あなたたち塾の人たちはよっぽど気をつけてくれなくちゃ......」
この女子大生は稀に見る鈍感さの持主であった。康夫が自分のことをあてこすっているなどとは夢にも思わないのだ。鉄面皮の自信家というべきであった。
「あまり目立つことはしてもらいたくないというのが、みんなの必死の願いなの。会ではマスコミの取材は全部断っているけど、塾の方はどうかわからないでしょ。とんでもないことをぺらぺら喋ったりしたらどうしようって、みんな戦々兢々としてるのよ。まあ、先生が塾長になるんだったら、滅多なことはないと思うけど......」
彼女はまったく康夫をなめきっていた。何をいっても怒らないと思っているのであろう。それよりも自分のいい草がいかに相手を傷つけているか無自覚なのに違いなかった。
康夫が思い切ったしっぺ返しをしてやろうかと思っているところへ、執務室のドアが開いて、丈たちが出てきた。はっとして康夫が立ち上る。丈の黒い瞳がきらりと光を弾いて、康夫は心の裡を見透かされた狼狽と恥しさに摑まれた。
「ご紹介します、小浜さん」
と、丈はいった。
「こちらは河合康夫君といって、僕の大切な助力者であり、友人です。今さっきお話しした〝無名青年塾〟で活躍しています」
康夫はあわてて針のように瘦せた編集者に頭を下げた。小浜は名刺を出して、しげしげと康夫を観察していた。
「ほう、そうですか、〝無名青年塾〟の......」
康夫は自分が軽薄で迎合的な顔付をしているのではないかと気になった。丈は自分を〝大切な友人〟といってくれたのだ。体が嚇っと熱くなってくる気分であった。
「〝無名青年塾〟というのは、〝無名戦士の墓〟からとったものです。ひっそりと控え目で自己顕示的でないところがいいと思いませんか、小浜さん? 世の中の縁の下の力持ちをやろうという志がよく表われているでしょう?」
と、丈は黒い瞳を康夫と小浜に半々に振り向けながらいった。
「なるほど、そうですか......地味ですが、なにかしら心を洗われるような響きがありますね」
と、小浜は頷きながらいった。
「東先生の関係者はみな控え目で奥床しいですな。自分が自分が、という目立ちたがり根性が少しもなくて......今日の講演会もそうでしたが、係の方が皆さん、よくやっていらっしゃいました。すっきりと鮮やかで、凛冽というのがぴったりな、素晴らしい講演会でした」
「ありがとうございます。今日の講演会で、警備をやってくれたのが〝無名青年塾〟の面々なんです。芯の疲れる難しい役割を黙々と務めてくれる彼らに、心から感謝しています......彼らはプロのガードマンに頼みこんで、いろいろ勉強しているんです。なかなかできることではありません」
「私は聖書のことはよく知りませんが、そういう人たちのことを〝地の塩〟というんでしょうな」
と、小浜がいった。本気で感心しているようであった。
「その通りです。彼らのような助力者が黙々と働いてくれなければ、僕にはなにもできません。だれだって目立ちたいし、自分の功績を認めてもらいたいでしょう。自分を高く評価してもらうことを望んでいるはずです。そういう自己顕示の欲望を断ち切ろうという心意気の下に、〝無名青年塾〟は発足したんです。僕は彼らを誇りにしています」
康夫は、目を夏本幸代に向けずにいられなかった。ざまあみろと快哉を叫びたかったのである。相手は平然としていた。しかし、平静さを装う表情の下から、しだいに赤らみが顔全面に広がりつつあった。
悪いことをしたような気分になって、康夫は目をそむけ、神妙な顔をしていた。喜悦で体が熱くなり、じっとしていられなくなるほどであった。
──しかし、偶然なのかな?
と、彼は頭をひねった。偶然にしてはタイミングがよすぎるように思えた。やはり、先生は何もかもお見通しなのだ、と康夫は考えた。たとえ隣りの部屋にいて用談をしていても、先生にはわかってしまうのだ。
昔もそうだったと、康夫は不思議な二重意識で思惟を追った。先生はいつも隣室から出てくるなり、ずばりと心を読み取ったものだった。先生には何も隠し事ができず、みな閉口したものだ。
きっと今度もそうであるに違いない。
しかし、このおそろしく瘦せた小浜という人物はどこかで見た憶えがある......最近のことではない。ずっと遠い昔のことだ。
既視感が康夫の目を覆い始め、世界の模様が異って見え始めた。時折、彼を襲う不可思議な幻視であった。
丈はもはや丈に見えない。ずっと年かさの端然とした瘦身の人物に見え始める。総髪を肩にまで垂らした清冽な人物だ......自分は昔から東丈先生をよく知っていたのだ、と康夫はぼんやりと遠い夢の記憶を辿る感覚の虜になってしまう。
先生は昔も今も素晴らしい。その偉大な心には世界の行く末を案じる憂悶がある......
この小浜という人物にも馴染みがある。張孔堂の道場でいつも顔を合わせていた......
康夫の意識は二重構造であり、それに映る人々は異った姿を示し始めていた。
ああ、おみち様だ、と康夫は別人の意識で考えた。杉村由紀はもはや白人種の体形を持った姿に見えなかった。ほっそりと小柄で繊細な女性の姿として、康夫の心の目には映じていた。
──おみち様は、今こうやって先生のお傍に仕えているのか......念願はかなえられたわけだ。意志の力は時空を超えて、人々を互いに惹きつけ合うのだ......
姿形の異る全く別人としか思えない肉体存在が実は同一の魂で構成されている。それを見定めることが今の康夫には可能であり、なんら不可解なことではなかった。
それを見定めることが、彼に付与された超常能力であり、それを証明するのが他ならぬ自分の役割なのだ、と康夫は漠然と意識していた。
おみち様は満足だろう。しかし、その願いがかなえられるまで、なんと長い年月を必要としたことだろうか......
二重意識者として存在する時、彼は自分の認識していることが揺ぎない真実であることを確信している。決して幻覚や妄想の類いではないのである。
が、一度、特殊な時空を超える二重意識を脱した時、それを他者に説明し、納得させることは容易ではない。康夫自身、信じがたい想いの虜囚になってしまうのだから。
田崎宏のような康夫と同じ二重意識の持主同士の間でだけ、心おきなく話し合うことができるのだった。さもなければ、彼が真摯になればなるだけ、説明を聞く相手は奇異な印象の虜になり、しまいには精神異常者を見る不安と恐れの色を浮べて、猜疑の目を彼に向けるようになるとわかっていた。
そして、醒めた状態でいる時には、康夫自身己れに生じた二重構造の意識が夢のように頼りなく不確かに感じられてしまうのであった。
他人に説明することを避けるようになったのは、あらぬ誤解を生じさせないためにも必要であった。
「今日のご講演で、真の指導者を見分けるには、まず弟子を見よ、とずばりとおっしゃったのには本当に感激しました......」
小浜という瘦せた人物が喋っていた。徐々に現実感覚が甦ってきて、二重感覚が収斂され始めていた。それとともに既視感が消えてゆく。
「弟子たちがみんなダメ弟子なのに、師だけが偉大であるはずはない。これは真理だと思いますね。S学会なんぞ本当にひどい連中ばかりですからね。頭が悪くて狂信的で、条理というものがわからない。あんな学会員を大量生産している指導者の汚穢な品性が透けて見えます。言論弾圧問題では大ミソをつけましたが、内実はもっとひどいということでしょうね」
「会員たちに自覚を促すことは、今に始まったわけではないんです。いたずらに組織を巨大化してみても、死滅した恐竜と同じ道を辿ることになります。ですから、僕にとっては自戒でもあるわけです。僕は特定の宗教を攻撃するつもりはありませんが、小浜さんはS学会が大嫌いらしいですね」
「身内で一人いるんですよ。ああなると狂人と変りません。親が死ぬと遺骨も財産も全部学会に奪られちまって、もう大変な騒ぎです。狂人に等しい学会の奴らを見ていると虫唾が走ります。奴らがこのまま増え続けたら世界の破滅ですよ。地獄界の阿修羅どもが地上界にあふれだしたようなものですから」
小浜は血相を変えていった。憤怒が迸り出るような貌になっていた。
「小浜さんは無神論者で、神も仏も信じなかったんじゃありませんか? 地獄だの阿修羅というのは小浜さんらしくないですね」
丈は穏やかにいった。怒気をそらされて、小浜は目が覚めたようになった。
「最近は、先生の影響を受けて、カチカチの無神論者でもなくなりました。神や仏というのは宗教的表現でしっくりしませんが、先生のおっしゃる宇宙意識という表現や宇宙の予定調和という言葉はすっと素直に胸に入るような気がします。幻魔という宇宙的根元悪と、人間の造り出している悪との相互関係がまだぴんと来ませんが......考えてみるとわずかな間に、私もずいぶん変わったような気がします」
「そうですね。変わられたと僕も思います」
「女房や子供にまでいわれます」
小浜は照れて、後頭部に手をやりながらいった。
「お父さんは優しくなったって......私はよほど家庭において暴君だったらしいです」
「信念が強いとそうなりがちなんでしょうね。どうしても自分の一方的な立場に固執しがちですから。己れの立場から相手を全て断罪にかかるのは、強固な信念を持った人たちにありがちなことだと思います。ですから、僕は幻魔が宇宙の根元悪であるから、彼らを滅ぼせば宇宙は完全な予定調和に到達する、と単純には思えないんです。
幻魔と人間悪は相互照射しあっているのだという気がしてなりません。仏教には〝己心の魔〟という言葉があるそうです。幻魔が悪の一手専売をしているというのは間違いだと思います。己れの心の中に棲みついている魔が一番問題なんじゃないでしょうか? それは幻魔ではなく、己れ自身が造り出した悪です。だから全ての責任を幻魔に押しつけて、事がすむほど単純な話ではないんです。そこをはき違えると大きな誤りを犯すことになるんじゃないでしょうか。己れのみは絶対に正しく、それを妨害するのは全て敵であり、魔だと思いこんだら、もはや何ものも正しい姿では目に映りません。己れのみは絶対に正しいと思いこむのは狂信であり、妄信です。正しい判断の基準をすでに失っているのですから、もはや己心の魔の奴隷になってしまうと思うんです」
「なるほど。S学会がやっていることといっしょですね。学会の行手を妨げるものは全て魔だというんですからね。しかし、やってることを見れば、もうどっちが魔であるか、一目瞭然ですよ」
丈と小浜は秘書室に足を停めたまま、熱心に話しあっていた。康夫は感心して眺めていた。丈はまったく時間を無駄にしていない、と感じていた。
「しかし、そうした人たちも強固な信念の持主なんですよ、小浜さん。己れは絶対に正しいと確信している。しかし、正しい反省の基準を持っていないので、判断はずっと狂いっぱなしになり、ますます深刻な狂信にのめりこんでいってしまう。悪気はないんです。理性が働かなくなってしまっているんです。組織で徹底的に洗脳して、心に強固な殻をかぶせてしまい、世間一般の良識など受けつけなくさせてしまうんです。その挙句、強い信念の持主ほど悲惨なことになります。人の魂を狂わせてしまうんですから、これほど重い罪悪はないと僕は思います。反省という心の機能を奪われたら、もう良心の声は届かなくなってしまうんです」
「なるほど。反面教師という奴ですな、毛沢東のいった......私も信念だけはむやみに強い人間なので、S学会員のことばかり一方的に悪くいえませんね。まかり間違えば、同じ愚を犯すことになる......」
「反省というのはフィードバックですから、己れの犯した誤りを訂正するには絶対に必要です。さもなければ、妨害者は全て魔と頭からきめつけて、暴走することになってしまいます。今さっき弟子の責任のことをいいましたが、指導者の責任はもっとはるかに重大です。師たる資格のない人間が指導者として、巨大権力を握るほど恐ろしいことはまたとありません。その責任を考えたら、平然と組織を動かし、破壊行為を働くなど、正常な人間にはできないはずです」
「いや、わかりました。私も精々反省させていただきます。東先生のような偉大な方でも日々反省を怠っておられないのに、私のように愚鈍な人間が、自分だけは間違っていないとそっくり返っているわけにはいきません。
しかし、先生、〝幻魔の標的〟とはつくづく凄い本だと思います......タイトルも凄いです。我身に置きかえてみれば、だれしも慄然とするんじゃないでしょうか? もっとも最初はひどい拒絶反応の虜だった私ですから、あまり口幅ったいことはいえませんが」
小浜は真剣な顔つきでいった。
「全ての人間が他ならぬ〝幻魔の標的〟であり、例外はないんだということを全ての人々に気付いてもらいたいですね。しかし、狂信的なS学会のような連中は禁書にして、絶対に読まないかもしれませんが......」
「それでも、心ある人々はこっそり隠れ読むと思います。それに好奇心からも読む人々がいるでしょう。そして自分たちの狂信妄信に気付くかもしれません。心が正しいバランスを回復すれば、自覚への道は開かれるんです。この本は暗闇の中で燈台の役割を果してくれますよ。読んだ人たちは現在自分たちがどこにいるか知ることができるんです。誤まった航路にある者は引返してくるでしょう......
僕にとってすらも、この本は燈台の役割を務めてくれたんです」
「え......? 先生ご自身もですか?」
小浜の愕きを見て、丈は笑った。
「書き続けながら、気付くことが沢山ありました。自分で自分を教え導くことが一番大切なのだということも知りました。他人にいくら素晴らしい方法論を教えられても、無駄なんです。自分で自分に教えなければなんにもならない。他人に教えられて自覚はできないということです。自分の体と心で思い知らなければ、人間は本当のことが摑み取れないんですね。どうすれば上手なお説教ができるかと思い惑うより便所掃除でもしてみた方がよっぽどいい。
僕のような立場にある者は、もっとも巨きな〝幻魔の標的〟です。それを思い知ることが、この本を書くことの最大の恩恵でした」
「先生。今おっしゃったことを、この本のあとがきに頂戴できないでしょうか?」
と、小浜が原稿の入った紙袋を叩きながら熱心にいった。
「あとがきは書くつもりでいましたが、そんな内容でもいいんですか?」
「今おっしゃったことを、そっくりそのままあとがきに頂戴したいんです。きっと読者の心を打つあとがきになると思います......」
東丈と編集者小浜の立話はえんえんと続き、止むところがなさそうに康夫には思えるほどであった。なにも秘書室でお互いに突っ立ったまますることはないのである。が、その熱気は感嘆に価した。本を造るというのは大変なものなんだな、と素人の康夫にも身が引き緊まる思いが伝わってきた。
編集者小浜は、〝幻魔の標的〟の疑問点をただしに来たらしい。丈が事務所を出る時間を過ぎても懸命に話しこんでいるので、杉村由紀がさりげなくブレーキをかけた。
「どうも申しわけありません。つい夢中になりまして」
小浜は恐縮した。
「来週あたりからたぶんゲラが出始めますので、それまでお原稿のチェックを完全にと思っているものですから......先生の貴重なお時間をつい拝借してしまいまして......今度から気をつけます」
しきりに詫びながら、小浜は帰っていった。
「小浜さんもすごい仕事の鬼だな。休日まで仕事を持ち歩いているんだから」
と、丈があとでいった。
「ただの仕事熱心とは違うのではないでしょうか?」
杉村由紀が答えた。
「自分から講演を聞きにいらしてましたし。小浜さんは先生にすっかり夢中になっていらっしゃるんですね。初めてこの事務所に見えた時とは人が変ったみたいですわ」
「そういえば、前はもっとひねくれた笑い方をしてたような気がするな」
「そうですね、冷笑的な......でも今は、笑顔まで暖くて人なつこくなりました。本当に人間って自覚すると別人みたいに変るものですわね」
後部座席で丈と杉村由紀が話し合っているのに耳を傾けながら、河合康夫は大型のアメリカ車を夕刻の混雑の中で進めていた。
「みんな、どんどん変っていきますよ。小浜さんのようにわりあい極端な性格の人だと、よけいにそれが目立つんです。小浜さんは家庭で暴君だったといってたでしょう? それが普通の、人並の父親や夫に変化しただけでも、家族にとっては大感動でしょうね」
「先生に触れた人たちはどんどん変貌していきますわ。あまりにも目まぐるしくて、まるで魔法を見せられているみたいです。それがいっせいに起こっているんですものね......」
由紀の言葉に共感を禁じえないものの、康夫は道路を埋めた車の大群に苛立っていた。やはり編集者小浜に時間をとられて、計算が狂ってしまったのだ。井沢郁江の自宅へ、予定通りに辿り着くことは不可能であった。一時的な渋滞だろうが、車がさっぱり前へ進まないのである。対向車線を車が滑らかに流れているのが恨めしい。
「皆さん、どんどん変って行かれて、進歩されているのに、わたくしだけ......それが申しわけなくて」
由紀は思い切ったようにいった。自分の裡に生じている停滞について自ら口にするのは初めてであった。
「まるで今の車の渋滞みたいに、少しも前へ進みませんの。それどころか、逆に後退しているような気がして、ひどく不安になります」
「気にしない方がいいんじゃありませんか。焦るのはかえって自分を苦しめるだけですよ」
「それはわかっているのですけど......」
由紀は歯切れ悪くいった。丈にあまりにもあっさりといなされてしまい、かえって不安定さが増加したように感じていた。丈はまったく由紀のわだかまりを気にしていないようだ。
「人と自分を較べないことです」
丈は簡潔にしめくくってしまった。由紀が思い切って訴えかけようとしていることから身をかわしてしまったようにすら思えた。
「やはり予知感覚というのか、このまま進むと大きな変化が生じるぞと感じている人たちが世の中にはかなりいるものですね」
と、丈はさりげなく話題を変えた。敏感な丈が、由紀の内心の葛藤に気付きもしない気ぶりを示していた。
が、丈に逃げられた、と由紀は感じていた。わかっていながら話題を避けたとしか思えなかった。
「未来に対する鋭敏な感覚を持った政治家はやはり与党に多いようです。政権を担当している責任のせいでしょうか......」
「そうですね......」
杉村由紀はもともと心情的には革新に傾いている。丈の言葉は必ずしも納得できなかった。
「僕は反体制の方が性に合っていて、保守党は頭から腐敗政党と決めこんでいたんです。でも、大沢先生にお目にかかって、必ずしもそうではないと気付きました。偏見を持っていると、何もかも曲解してしまうものなんですね。保守党の主だった政治家の何人かに会って話をしてみると、先入感とはだいぶ違います。個人的には誠実で、人柄もいわゆる脂ぎった金権政治家というイメージでは律しきれない。彼らなりに未来を憂いているんだな、とわかります。既成概念とは恐ろしいもので、権力を握ったボス猿政治家など人の心を持っていない化物みたいに思いこんでいたんです」
「そうですね......」
由紀はそんなあいづちしか打てなかった。自己告白する機会をはずされたことが、心にこだわりを造っていた。丈は彼女の悩みにはあまりにも無関心だと思った。まったく気にかけていないようだ。
心が狭隘になり固着してきているのに気付いて、由紀ははっと気を取り直した。ともすれば、自分の悩みだけがふくれあがり、心をいっぱいに満たしてしまう。いくら自戒していても、いざとなると、己れの悩み事だけに囚われてしまい、精神的な視野が針の孔のように小さく絞られている。
その証拠に、由紀は丈が何を語っているのか理解困難になっていた。こんなことでは秘書失格である。
「左翼小児病ですよ......」
と、丈がいきなりいったような気がした。
「はい?」
頭が空白化しており、なんのことかわからず、恥かしさのためにかっと心が燃え上った。なぜこんなに心が波立ってしまうのか、由紀自身見当がつかず、途方に暮れてしまう。いっぱしの大人であるはずの自分がなんとしたことだろう......
「うちの父の紹介で大新聞社の重役たちに会ったでしょう。マスコミを牛耳っている新聞人たちが左翼革命をめざす共産主義者グループだなんて、僕は夢にも思わなかった。公器と名乗っている大新聞を、国全体の左傾化のために利用しているなんて......しかもそれが公然の秘密だとは。僕はものすごく無知なんですね。世の中のことがなんにもわかっていない。
しかし、マスコミって恐ろしいですね。公正、中立を大声で叫びながら、本音は世論操作による左傾化に全力を挙げている。そんな大新聞を、沢山の人々が頭から厳正中立と信じこんでいるんですからね。マスコミとは巨大な妖怪のような波動だ。
その巨大な波動を操作して、人々の心を動かし、一方的な方向に向けようと謀らんでいる人間たちがいる。まるで幻魔みたいな遣り口だなと思った......」
「共産主義者たちは幻魔なのですか?」
由紀は自分の質問にぎょっとした。丈が何をいわんとしているのか、まったく把握できないのだ。
「いや、そんなことはいっていません。幻魔がやるとすれば、大新聞を紙面操作して左傾化を秘かに進めている人々と同じ手口を使うだろうと思っただけです。マスコミという巨大波動の使い方は、もうヒトラーが先鞭をつけている。人心収攬テクニックにおいては、左も右も両陣営が共通しているはずです。僕は原則的にいって、いずれにも加担はしません。
でも、大新聞社の重役たちの話を聞いて、目から鱗が落ちたことは確かです。形として目に見えるものを信じることは間違いだということです。僕の裡にも恐ろしいほどの汚れた既成概念が沢山溜めこまれている。保守党の政治家は吸血鬼的悪人であり、クオリティ・ペーパーと称する大新聞は公正であり正義の味方だなどという思い込みのことです。そのくせ〝ブル新──〟ブルジョア新聞なんて父親の務めている大新聞の悪口をいっていたんですから、僕はまるきりの左翼小児病患者だったわけですよ。その上に、東大病患者で、大蔵官僚になって国を切りまわそうなんて思っていたんだから、僕は全く分裂しきっていた。
それも、大新聞の記者である父親を見返そうというのがそもそもの動機なんですからね。やはり主義主張というイデオロギーは妖怪です。本音の部分である人間の欲望にしっかりととり憑いて、美辞麗句の建前だけを他人に誇示しているが、中身はおぞましい煩悩そのものなんだ。
大新聞の良識を建前にしている共産主義者たちの中身は恐ろしくお粗末なものです。左翼政権の幹部をめざすごく低次なソシアル・クライマーでしかない。それがわかって本当にびっくりしたんですから、僕は幼稚なんですね。これからもあっと驚いては自分を子供だと思うことが、次々にわかって行くでしょう」
「でも......重役さんたちが先生に告げたことが真実かどうかわからないんじゃないでしょうか?」
由紀はわれながら呆れるほど愚かしい質問を発していた。すぐに気付いて、顔が真赤になる。
「申しわけありません。先生にはそれが真実かどうかすぐにおわかりでしたね......」
「そう、わかります。フロイが教えてくれる場合には即座にわかるんです。そして、国際共産主義勢力がある大きな波動に結びついて動いていることも、いっしょにわかりました......」
「............」
由紀はただ沈黙して、隣席の丈の横顔を見詰めていた。
「世界は決して肉眼に映るように単純なものではないということです。その大いなる波動は、たとえば巨大ユダヤ資本と国際共産主義勢力との間に介在して、両者を結びつけたりしているんです。そうした関係は、決して肉眼では見えない。大新聞を情報操作する左翼革命推進者のように知る人ぞ知るという公然の秘密とはわけがちがう。
しかし、宇宙意識フロイの持っている〝神の眼〟には、それらの複雑なからみあい、結ぼれが全て透視されている。僕もその光景をほんの少しですが垣間見させてもらいました。信じられないような大津波のような波動が放出されているんです。その大津波は地球全土を巻きこむ波動です。人類は不可避的に巻きこまれてしまう。逃げることも避けることもできない。もう第一波は到着しているのかもしれない......」
「それが幻魔大戦なのだということですね」
「つまり、ハルマゲドンといわれていたものだと思うんです」
丈は由紀を見ていなかった。その黒い瞳は未来に据えられていた。
「ユダヤ教の教義では、善と悪の最後の戦いということでしたわね」
イスラエルのメギドの丘で戦われる神と悪魔の最終決戦、と由紀は憶えていた。もちろん丈がいっているのは、そんなにローカルな戦いのことではないだろう。
「地球全体が地獄谷みたいになって、グツグツと煮立っている......そんなイメージです。それは間近に迫っている。大津波の轟音が僕には聞こえる。もちろん僕だけではなく、地軸を震わす喊声を聞いている者は沢山いるはずです。
さもなければ、僕のように小さな者に、日本の有力な人々が頭を下げて逢いに来るなど、とうてい考えられない。僕は今、ものすごい切迫感を覚えていますよ、杉村さん。もう間もなくそれは起ります......」
「核戦争が起こるのですか!?」
運転しながら聞いている康夫は体が冷たくなった。丈と杉村由紀はとんでもないことを話しあっている。
「たぶん、それだけではありません......」
「とおっしゃると、もっと他にも大きなことが......!?」
「やはり地球全体がこの宇宙から消滅するかどうかという大事件ではないですか?」
「!」
由紀は口中が音をたてて乾くような気分になった。
「それは絶対に避けられないものなのでしょうか!?」
「津波のような波動自体は避けられないはずです。しかし、それは人類全体の意識と共鳴することによって、更に巨大な惨害をもたらすこともありうるし、あるいは逆に、人類の意識による干渉によって弱めることも可能なはずです。全ての波動が重なり合ってしまえば、その力は一瞬にして地球を破壊し、宇宙から消滅させることができる。
つまり宇宙的な規模での危難、そして天変地異という地球自体の危険な震動、それに人類の起こす核戦争、大殺戮などが何もかもいっぺんに重なり頂点をきわめてしまうことになるんです」
「では、何もかもいっぺんに重なって起きると......」
「そうです。ジャックポットってあるでしょう、スロットマシンの......あれと同じです。ただし、人類が得るのは完全な破滅です。もう間もなくジャックポットは始まろうとしているんです」
ニューヨークに長期間いた杉村由紀は、スロットマシンと呼ばれる賭博機械が奔流のようにきらきら輝く硬貨を吐いてよこす大当りのシーンを脳裡に描くことができた。それはこの上なく興奮を誘う刺激的な光景ではあっても、丈のいう地球の全き破滅とはうまく結びつかなかった。地球全土が荒廃してマグマが煮えたぎっている破滅の光景と賑やかなジャックポットのイメージはまるっきり相反してしまっていた。
「先生、そのジャックポットはいつ起こるんですか!?」
と、運転手を務めている康夫がいきなり尋ねた。喉が乾いてしまったような掠れ声であった。
「それはわからない。全ての条件が揃う時というのは......」
「しかし、必ず起こるんでしょう!?」
「今のままであれば必ず起こるとしかいいようがない。しかし、人類の心が発している波動のベクトルが変われば、ジャックポットは免れる」
「そのベクトルって何なんすか?」
「つまり、人類の心がこれまでずっと育ててきた憎悪や敵意、怨恨の総和のことだ。人類が憎みあい、いがみあって同士討ちを止めなければ、このまま最終戦争へ突進して行く。そしてジャックポットの条件が全て揃うことになるんだ。核戦争と天変地異がいっぺんに起これば、人類はだれ一人生き残れなくなる」
「そんなに物凄いんですか?」
「そうだ。宇宙から物凄いものが地球めざして突進してくる。地球はこの宇宙から消滅してしまう......人類がかつて地球に存在したという証しは何一つ残らなくなる」
「そんな、ひどいですよ、先生......」
康夫は喉の詰まる声で辛うじていった。
「なんとかしてやって下さい......地球を先生の力で助けてやってもらえませんか......」
「このままで行けば、ということなんだよ、康夫君。だから、なんとかして破滅が来る前に、人類全体の意識のベクトルを変化させなければならない。僕たちが今やっているのはそれなんだ。間に合うかどうか、全力を挙げてやらなきゃならない......」
「そんな、先生、間に合うかどうかなんて、心細いですよ......先生、なんとかひとつ、この地球を助けてやって下さいな。地球はまんざら悪くない星だし、人類だって今は馬鹿なことをやってても、ちっとは取り柄があると思うんで......若い時はだれだってちょっと横道へそれるって憶えがあると思うんですよ。人類だってそれと同じで、ちょっとグレたかもしれないけど、根は悪い奴じゃないんです。だから先生、宇宙から地球ぐるみ消しちまうなんて恐ろしいことだけは、勘弁してやって下さい......」
「僕は宇宙意識フロイじゃないんだよ、康夫君。僕だって愚かしい真似ばかりしている人類の一人でしかないんだ。でも、康夫君のいう通りだし、人類だって長所も美点もあると思う。今は絶滅の崖淵へ立たされているけれども、なんとかして生き延びさせたい......僕自身、康夫君と全く同じ気持だ。だからこそ、破滅を切り抜けるために、こうやって夜もろくに寝ずに頑張ってる。人類全体が幻魔大戦について知り、心構えを改めれば、必ず道は展けると僕は信じてる」
「きっと人類はまだ若すぎて、無分別で無鉄砲だと思うんですよ、先生」
康夫は幾度も後部座席の丈を振向きながら懸命にいった。運転などすっかり念頭から消えてしまっているらしい。由紀はハラハラしていた。
「だから、やり過ぎたり、馬鹿な真似も沢山やっちまう。宇宙のちゃんとした大人たちから見れば、どうしょうもない馬鹿なガキどもだと思うんです。若すぎるから分別がなくてかっとなっては乱暴なこともするけど、根はそんなに悪い奴じゃない。自分勝手で甘ったれで、手に負えないどうしょうもない不良少年みたいな人類だけど、必ずそのうちに目が覚めて、立ち直ると思うんですよ。いろいろ悪いこともやったけど、分別さえつけば、今までやった悪事を償って行くに違いないんです。だから、ここで絶滅なんて冷たいことはいわないで、もう一度やり直すチャンスがもらいたいんです。今度こそしっかりやれよっ、横道にそれるなよっていってくれれば、絶対に頑張って根性を見せると思うんですよ、そうじゃないですか、先生!?」
必死にすがる語気だった。おろそかになった運転振りに気をもみながらも、由紀は感動させられた。いかにも元不良少年の康夫らしい懇願だと思った。
「今康夫君がいったのは、素晴らしい弁護だと思うよ」
と、丈は微笑しながらいった。
「これ以上の弁護はないんじゃないかな。きっと人類を見守っている宇宙的存在の心を動かすに違いないと僕は思う。横道へ幾度もそれて立ち直ってきた康夫君ならではの言葉だな」
「冷やかさないで下さい、先生。俺も必死なんすから......だから、先生、宇宙意識フロイですか? 宇宙の神様に先生からもお願いしてやって下さい! 先生のように素晴らしい人の頼みなら、宇宙の神様も聞き届けてくれるんじゃないですか? 俺みたいな出来損いが頼んでも通じないかもしれないけど......」
「いや。康夫君の願いはちゃんとフロイに通じているよ。全ての人間の心には宇宙意識フロイにつながる道があるんだ。だれであろうと心から念じれば必ずフロイにその声は届く。それどころか、フロイはもう康夫君の心をちゃんと知っている。康夫君がしてきたこと、思ってきたこと全てをフロイは知っているんだ。宇宙意識フロイはそうした巨大な存在なんだ」
「俺のような者でも、心から願えば聞いてもらえますかね?」
康夫は不思議そうな信じられぬという声音でいった。
「だって、フロイさんというのは、宇宙を支配している神様みたいなお方なんでしょう? そんな立派な、偉大な神様が、俺みたいな、チンケな半端者の頼みに耳を傾けてくれますかね? だってフロイさんにしてみれば、俺なんか蚊が唸ってるようなものなんでしょう?」
「僕はそうではないと思っている。宇宙意識はすでに我々に大きな援助を与えている......ただ我々人間はそれに気がつかないだけなんだと思う。人間が幾度も繰り返して情けない愚かな行状をやってのけて、何千万人も何億人も犠牲者を出すような大量の殺戮をやってのけても、宇宙意識はそれでも見放したりしない。
幻魔のような巨大な悪の波動にさらされ、気が狂ったような大殺戮を繰り返しても、人類がいまだに滅びていないのは、目に見えない宇宙意識の助力を受けているからだ、と僕は信じているんだ。康夫君のいう通り、人類だってまんざら悪くない。いい所が沢山ある。それは確かだ......それこそ宇宙意識の助力の手が差し延べられている証拠だと僕は思う。
宇宙意識こそ全ての生命体の意識の海で、全人類は大本のところでつながりあっている。宇宙意識とよりよく心を結んだ人間だけが、立派な存在になれる......僕はそう思っているんだ」
「じゃ、先生、どうやったら宇宙意識と心を結べるようになれるんですか? 俺みたいに半端な人間でもできますか?」
「人間として立派であること、これ以外にないと僕は信じている。だから、我々は今それを目差しているんだ。地位や名誉や権力とは何の関係もない。それこそ名もない庶民のおばあさんだって人間的に立派な人はいるだろう。むしろ、社会的に地位の高い人間、権力者階級には非常に少ないと思う。欲望に目を血走らせて狂奔している者が人間として立派でいられるはずがない。
一番単純なことが一番大事なんだ。しかし、現代は欲望ぎらぎら主義で、貪欲であることが恰好いいこと、人間的であると思われている時代だから、問題はむずかしくなっている。人々の多くは、人間として立派であるなぞ、馬鹿げていると思っているかもしれない。道で金を拾った人間が警察へ届ければ、今までは美徳だったが、逆に阿呆だと思われる時代になろうとしている。万引や窃盗をなんの罪悪感もなく、だれでもやりかねない時代になりかけているんだ。アメリカでは今、そんな荒廃した世界を迎えているし、日本でも間もなく追いついて行くだろう。
そんな荒んだ時代に、〝人間として立派であること〟が一番大切だといおうものなら、必ず嘲笑われることになる。〝良い子〟振るのもいい加減にしろ、と嘲罵を浴びるだろう。だからこそ、我々のやろうとしていることは限りなく困難なんだ。〝真実〟を見ることを恐れ、拒否しようとする人々に、それでもなお説いて行かなければならない......
我々は石を投げつけられることになる。石というのは迫害のことだ。笑いものにされ、阿呆扱いにされるなど、ほんの手初めだということを覚悟しておいた方がいい」
「しかし、先生。〝人間として立派であること〟をあくまでも貫ければ、宇宙意識と心を結ぶことができるんでしょう?」
「そう......宇宙意識とともに生きるには、他に方法はない」
「じゃ、俺はやりますよ。宇宙意識がともに在るとわかっていれば、恐れることは何一つありゃしないもの。ともかく、俺は先生について行くことさえできればいいんです。恐いものなしだ。ついて行けなくなって落ちこぼれることだけが、今の俺には一番恐ろしいですよ」
康夫はフロントグラスに顔を向けたまま、熱くなった声でいった。
「しかし、間もなく夜が来るんですね、先生。寒くて冷たい夜が......俺には暖みも光もある。けど、真暗闇の中で凍えちまう人たちが沢山出るんでしょう......?」
冬の日暮れは瞬く間に過ぎ、全き夜が覆いかぶさり、車群の行き交う光芒がひっきりなしに流れていた。それだけに康夫の言葉には真に迫った実感がみなぎっていた。
杉村由紀には、康夫が脳裡に視ている滅びの光景がわがことのようにまざまざと視えるような気がした。それは普通の人間にとっては長い間想像を持続できぬほど凄惨な光景であり、東丈がその黒い瞳でひたと見据えて、視線をそらさない未来そのものであったに違いない。
それを想うたびに由紀の胸は圧搾され、呼吸困難になるほどだった。
「寒い冷たい夜の中で凍てついている人たちに、康夫君が暖かさや光をあげるんだ......」
と、丈は深い声音でいった。
「俺が? だって俺にはそんな......俺は先生にくっついていくだけの人間ですから......」
康夫があっけにとられた声でいった。
「そうじゃない。真の己れに目覚めた者たちは、一人一人が凍えている人々に熱と光をもたらさなきゃいけないんだ。それが一番大切なことなんだよ、康夫君。もし僕が倒れたら、君たちみんなが、僕の遺志を継いで身代りを果してくれなきゃならない......」
「先生!」
と、康夫と由紀は同時に愕然と叫んだ。
「先生が倒れるなんて、冗談じゃないですよ......!」
「たとえ冗談でも、そういうことは決しておっしゃらないで下さい!」
「みんなで〝真の救世主〟を捜すんだ」
と、丈は二人の抗議には取りあわずにいった。
「その人がだれか、きっとみんなにはわかるだろう......僕はそのために、いつもみんなにその人の正しい見分け方を教えているんだから。いつかわからないけれども、その人は必ずみんなの前に姿を現わす。その人にどうやって助力するか、それを僕はみんなに教えている。欺かれることのない目で、しっかりとその人を見定めるんだよ。たとえ僕が倒れても、その人はきっとやって来るからね......」
「先生!」
由紀の声はしわがれてしまった。まるで丈が遺言を口走っているように思えたからだ。姉の三千子と同じだ。丈はすでに、自分を喪った後に残された人々のことを心配している。
「何もかも、始まったばかりじゃありませんか!? なぜ先生はそんな淋しいことばかりおっしゃるのですか?」
「そうですよ! 先生、絶対にそんな不吉なことをいわないで下さい! 先生に万一のことがあったら、もうこの地球はおしまいですよ! 滅びちまったも同じですよ!」
康夫が叫ぶようにいった。声が慄えていた。康夫らしくもないことだった。よほどショックを受けたのであろう。
「心配ない、僕はまだ死にませんよ。まだ使命が残ってますからね。それをやりおえるまでは死のうたって死ねないという確信があるから......」
丈は明るい声でいった。二人の受けたショックが深刻すぎたことに気付いたのであろう。
「そうですよ、先生! 宇宙意識のフロイさんがそんなことはさせませんよ! フロイさんが護っている限り、絶対にありえませんよ! 万が一先生が間違えて死んだって、フロイさんに摑まって生き返らせられちゃう!」
「康夫君のいう通りかもしれないね」
丈は笑っていった。
「そういうことは自分の意志では決められないのかもしれない。だから、心配は要らない......僕はみんなの心構えがちゃんと出来ているか、それだけが気がかりなんだ。いつもみんなが東丈の代理人としてきちんと振舞えるなら、僕はなんの心配もなく悠々としていられるんだが......」
「それはみんなわかってます! みんな精一杯頑張ってるはずです! だから、先生はたとえ軽いジョークでも、不吉なことは決して口にしないで下さい! お願いですよ、先生! そんなことを聞いたらみんなどうなっちまうことか......俺なんかもうちっとで座り小便しそうになりましたよ! 大切な先生を乗せている限り、運転だけはとちりませんけどね......」
「みんなまだまだ甘いんですよ、杉村さん」
丈は射るような黒い瞳を隣席の由紀に向けていった。
「はい......」
その黒い瞳のあまりの光の強さに、由紀はくらくらし、息が詰まった。
「みんなは時間はまだ沢山残されていると思っている。だから考えが甘くなるんです。しかし、残り時間はそんなにはない。それに気付かなければだめなんです」
「そんなに......」
由紀はささやくようにいい、声を吞んだ。
「そうです。皆さんが夢にも思わないようなことが次々に起きます。脅かすわけではないけど、それは必然的に起きるんです。みんなに性根を据えてもらわなければならないし、一刻も早く自覚してもらわなければ、もう間に合いませんよ......」
「わかりました......」
由紀は呆然として呟いた。体が痺れてしまったように感じていた。そんなに切羽詰まっていたのか、と改めて慄えが来る。
「びくびく怯えたり、おろおろと取乱している時じゃないんです。皆さん一人一人に、責任者として振舞ってもらいたい。もう思い惑っている時は過ぎた。明雄のように小さな子供だって、責任感に目覚めれば、なまじの年のいった大人よりもしっかりした頼もしい存在になれるんです。
この期に及べば、人間の年齢なんかさしたる意味はない。いち早く自覚した人間から立って、人々を導き、責任を果していかなければならないんですよ。もう人の目なんか気にしていられない。なり振り構わず突進しなくちゃ。
人目が気になるうちは、人間、必死になっていない証拠ですよ。もう時間がないってことを、どうしたらみんなの骨身にしみてわからせることができるんだろう......」
丈の口調は、由紀たちが初めて聞くような切迫感に満ちていた。血を吐くような、という形容が必ずしも大仰ではなかった。
のみならず、丈の言葉は一言一言が、由紀に加えられる容赦ない笞に他ならなかった。しかし、それでも揺れ動く心はどうにも自己制御のすべがないのだ。ともすれば由紀の手綱を振り切って、あらぬ方向へ逸れていってしまう。
丈の切実な訴えを聞いて、強い感動を受けていながらも、心はあらぬことを考えてとどまることがない。ここまで残り時間がないと訴えている丈が、井沢郁江のパーティーなどで時間を浪費していいのかと考えてしまう。
丈と郁江の過度の密着を人々に見せつけることで、種々の困難を招き寄せないとどうしていえるであろう。
郁江はあまりにも魅力的な美少女に過ぎて、口さがない人々の絶好のゴシップ種を作ってしまうに決まっている。欲望に汚れた曇りガラスのような心を通して、そうした好奇心の強い連中は当て推量であらぬ妄想を作り上げることを恥じないのだ......
マスコミがいっせいに好奇の目を丈の一身に向け始めた今、低級なジャーナリズムはまず醜聞を嗅ぎ出しにかかるであろう。あのトップ屋と自ら称する風間のようなマスコミのハイエナが跳梁し、清浄なものを根こそぎ覆し、全てを汚泥にまみれさせようとする。
こんな時にこそ、丈はもっと自戒し、慎重を期さなければならぬと由紀は思うのだが、逆に丈は慎重さを不徳でもあるかのようにかなぐり捨て、敢えて誤解を招くような行状に走ろうとしている。
金権政治家の代表のようなボス猿代議士と親しく面談したり、大新聞の重役の相談に乗ったりすることがそうだ。丈の車中の談話がもし外部に漏洩すれば、東丈は右翼だと少なからぬ数の人間が誤解曲解の火の手を燃え上らすだろう。
いかに内輪とはいえ、郁江のパーティーに出席するなど自粛すべきことではないか。
由紀の心は一方に偏り、そう主張して止まないのだった......
7
その夜、井沢家で開かれた郁江の快気祝パーティーは、杉村由紀の批判的な目にはかなり不可解なものであった。
井沢家には予想以上の人数が集まっており、豪邸と称してもよい大きな家屋にも収容しきれないほどであった。ホーム・パーティーと呼ぶには規模が大きすぎた。五十名を超す人数が家中に溢れてしまっていた。
青年部長内村久雄の率いるパーティー準備委員会が張り切りすぎた結果であろう。青年たちの気負いは、雰囲気を華々しく賑やかすぎるものにした。内輪のパーティーという印象からはほど遠いものだった。
近隣では、井沢家に時ならぬ椿事が出来したのかと思ったに違いない。住人たちが道路に出て、様子を見に来ているほどであった。
予定より三十分以上遅れて到着した丈の車を、青年たちは総出で迎え、その賑やかさは近所迷惑ではないかと由紀を心配させた。閑静な高級住宅地の夜が、大拍手と熱狂的な歓声によるコールでかき乱された。
東丈の姿を見たとたん、青年たちは抑制を失ってしまったようである。昼間の講演会の余熱がそのまま保存されており、興奮が再び高まってしまったのであろう。
全ての部屋に煌々と灯がともされた井沢家はさながらお祭り騒ぎの派手はでしさでくっきりと近隣から浮かび上っていた。苦情が出て、警察がやってくるのではないかと由紀は心を痛めた。彼らの配慮のなさ無神経さに腹が立ってくる。若さゆえとはいえ、度を超しすぎていた。
しかし、丈は彼らの過熱ぶりをとがめるどころか、気にする様子もなかった。それどころではない。笑顔さえ浮かべて、青年たちの熱烈歓迎に応えている。彼の繊細な配慮を知る由紀には信じがたい態度であった。
どうなっているのかさっぱりわからない。井沢家の後の迷惑を考えているのは由紀一人だけで、他の者たちはだれ一人そんなことを気にも留めていないらしいのだ。
恰幅のいい井沢謙吉が玄関の外まで出てきて、最敬礼せんばかりに丈たちを迎えた。痛々しいばかりに緊張し、気を遣っていることがありありとわかる。
郁江の母親も今夜は逃げ隠れせずに丈を迎えに出ていた。和服姿ですらりとした美人である。以前は不愉快な印象しかない郁江の母だが、やはり血は争えず郁江に面ざしの似た美貌だ。険のあるのが難点といえた。
しかし、郁江の母は今夜は尋常に、丈に向って挨拶した。緊張に顔が硬ばっているが、挨拶をすますと気が弛んだのか、笑顔も出た。丈に対する敵意は一応清算するのに成功したようである。
由紀はこの馬鹿げた、とさえ感じられるお祭り騒ぎに、両親がなんの抵抗感も持っていないことを感じとり、驚かされた。それどころか、浮き上るような華やかさ、喜悦の感情に二人とも完全に巻きこまれてしまっているのである。
底抜けに賑やかな雰囲気に馴染めず、沈下してしまっているのは由紀一人だけらしい。しかし、どう考えても、浮薄すぎ、度がすぎると思える。今はこんな華々しさに溺れている場合ではないはずだ。丈自身断言したように、〝嵐〟は目前に迫っているではないか。
が、由紀は心中の思いを口にしなかった。それを言葉にしてぶつける相手がいなかったのだ。孤り重くにがにがしい心で、パーティーにまぎれこんでいるのは、苦しい試練そのものであった。
心には染まないが、人々の挨拶には無理に笑顔を作り、挨拶を返さなければならない。それが、己れの誠実さを自ら裏切っているような気がして、心苦しいのだ。
以前はいくらでも己れを作り笑いで裏切ることができ、苦にもしなかったのに、今では信じられないほどの負担である。どうしてこんなに馬鹿正直になってしまったのか、自分で自分がわからない。
自分を無理に抑えて、由紀は用意してきた花束を郁江に渡した。
「ありがとう、杉村さん」
郁江は目を輝かせて、片手に花束を抱えこみ由紀の腕をとった。丈には一声かけただけだ。関心の全ては杉村由紀にあるといわんばかりの熱意に溢れていた。
「こっちへいらして......みんな杉村さんの到着を待ちかねていたんですよ!」
まさか、と思いながら、ほろりとさせられずにはいられなかった。
ドレスアップした郁江はまさに輝くばかりの美しさだった。特別の光輝が全身から溢れだしているようだ。さすがの由紀もこんな美しい少女は見たことがないと目を瞠らされる思いだった。人間とは思えない美しさだ。
手にとって導かれた広間は花で満ちていた。まるで花園であり、由紀は自分の贈った花のみすぼらしさに気が引けた。高輪にマンションの一室を購入したばかりの由紀は、借金こそあれ貯えはない。アルバイトに等しい会からの給料では生計を立てることすら困難なのだ。給料が少ないことはほとんど気にならないが、若い時分の貧しさと違って、一人前の社会人としての体裁を整えなければならぬ彼女の年齢にしてみると、手許不如意は恥を搔くことと同義語であった。
しかし、装飾品や宝石など換金できるものも多少は持っている。売り食いをしていけば当分はなんとかなるはずであった。いざとなれば、購入したてのマンションを手放してもいいのだ。
由紀は雑念を追い払って心を現実に戻した。パーティーの用意はすっかり整っていた。丈たちが三十分も遅刻してくれば、それも当然である。それより彼らの遅参で、暖い料理を出さなければならぬ賄い方の苦労は大変だったろう、と推察できた。大きなホーム・パーティーを何度も経験している由紀にはまずそれがぴんと来る。
進行係の内村が、丈と由紀を主賓さながらに正面へ招き寄せた。十五坪ほどのかなり広い居間は料理と人で埋まってしまっていた。人数は五十名をはるかにオーバーしているようである。〝無名青年塾〟からも田崎宏を初め木村姉弟など十数名が招かれている。
内村がマイクを片手に手際よく司会役を務めた。その活発さ巧みさに由紀は一驚した。まるで人柄が変わったようである。以前の内気で無器用な面影は拭われたようにどこにも見当らない。機智が効いて軽妙な司会ぶりであった。
人間とはいったいどこまで変るものだろう......? 由紀は不思議な気分になった。すぐに白い頰を赤く染めてへどもどとろれつが乱れ、ゲシュタルト崩壊に陥る内村を、青年部長に指名したのは丈だが、ここまで教育したのは郁江である。どんな魔法でも使ったのかと思わずにいられなかった。
郁江に巧妙におだてられただけで、こうも人間には自信がつくものであろうか。内村は目の光まで違っている。責任者としての使命感が人間性に熟成の重みを与えたようであった。
これだけの影響力を持っているからには、郁江には不思議な才能や人徳が備わっているのかもしれない、と由紀は思ったりした。ひるがえって彼女自身、わずか四名の秘書室をあずかっていながら、教育効果にはほとんど見るべきものがない有様である。
やはり人徳なのか、と思う。郁江の人気は、必ずしも美少女であるためだけではないようであった。
郁江は相変らず由紀の片腕を抱きこんで放そうとしない。丈よりも大切な賓客ででもあるかのように振舞い、人々の目に誇示している。
この子は気付いているのかもしれない、と由紀は察した。自分の心が揺れ動き、懐疑と信との間でぶつかりあって傷ついていることを洞察し、さりげなくサインを送っているのかもしれない。
それは、郁江らしくもない深みのある思いやりといえたが、今の郁江には当然のこととして身についているマナーなのかもしれなかった。見違えるように内村が変ったように、〝応えない郁姫〟も、由紀の気付かぬところで変貌してしまったのであろう。
全ての人々が脱皮し、変貌するめくるめく感覚の中で、由紀だけが一人重い錨をつけたように取り残されているようであった。
(みんな、あなたのことを想っている)
いきなり思念が来て、由紀はぎくりと身をすくめた。暖く、豊饒な善意に溢れた想念だったが、心を読まれたというショックの方が大きかった。
(ごめんなさい......でも、あなたの心が固いので......固くなったお餅のように......)
相手はすぐにわかったが、なりが小さいので捜さなければならなかった。白いテーブルクロスのかげに小さい体が没してしまっている。木村明雄であった。姉の市枝の手にすがりついている。頭のてっぺんがテーブルの上部に辛うじて出ていた。すっかり回復し、元気になっているが、幼児のように小さな躰だけは即座に伸びることはないようであった。
(大丈夫よ......すぐによくなるわ)
由紀は遠感で想念を返した。パーティーのさなかでも、テレパシスト同士にはなんの支障もなかった。
明雄は、彼女の意識が硬いといった。彼女の心が殻をかぶって拒否の姿勢をとっていると感じている。少年の超感覚にしてみると、由紀の心は硬くなった餅のようなのだ。本来柔軟なものがよそよそしく硬く、人を拒んでいる。
そのイメージの比喩はいかにも子供らしく、しかも的を射ているようであった。明雄は彼女が心から他と融和できないことを心配していた。その聡明な心にも、由紀が抱いている悩みは理解しきれない。自己閉鎖して人を拒否しているとしか考えられないのだ。
彼女が拘泥を捨てて、自ら築いた垣根を出て、人々と交わることを少年は強く望んでいた。
由紀の抱いている懐疑は、少年の心には拘泥にしか感じられないのである。それは早急に除去すべきものであった。
由紀もできるならばそうすることにより、少年の意に添いたい。しかし、自分でも思うにまかせないのが己が心である。
しかも、それがあくまでも正しい懐疑心であるならば闇雲に捨ててはならないと心に主張するものがある。さもなければ、由紀は己れの判断力を他者の基準にゆだね、すべての責任を放棄してしまうことになるだろう。
それがつまらぬ執着であり、こだわりなのか、それとも己れの主体性を保持しようとする無意識的な均衡作用なのか、由紀には判断がつかない。
たとえ少年に心が硬いと指摘されても、どうにもならないのだ。丈はいまだにそれを判断する基準を示そうとしていないように思えるのである。
しかも、丈といえども間違いを犯すかもしれず、それを危惧しているのは、姉の三千子を除けば、会では杉村由紀ただ一人なのであった。

反射的に人々の中に三千子を捜して、彼女がパーティーに参加していないことを思い出した。三千子は人前に姿を見せることを極度に避けている。
もしかすると三千子は人々と交われば、今の由紀のように孤立することを知っているのかもしれない、という考えが閃いた。三千子は丈のもっとも力強い擁護者であるとともにバランスのとれた批判者の姿勢を崩すことなく保持しようとしている。
丈を盲目的に崇拝し、盲従することを忠誠と心得ている会員たちの内部では、三千子は困難な立場に立つことになる。彼女はそれゆえ人々の前に現われることを避けているのだ......
杉村由紀ははっとしてパーティー会場を見まわした。それでは自分はまるで、三千子の代理を果しているようなものだ。今後、自分が極端に自己疎外する形で、会から孤立し、遊離して行くことを運命づけられているようなものだと突如悟ったのである。
由紀は悪事を働いたような罪悪感に息を詰めて身を固くしていた。明雄のみならず、他者の心が由紀の動揺に気付いているのを感じていた。遠感能力者だ。その心には驚愕と非難の感情があり、それが由紀を悪事の露見した犯罪者の心理に押しやったのだ。
目を動かして捜すより速く、相手がわかった。東洋病院へ笛川医師を訪ねた時に出遭った看護婦だった。確か松代看護婦といったはずである......
目をあげると、松代看護婦と視線が合った。もっとも今夜は白衣は着ていない。そのために平凡な印象である。濃い眉を吊り上げるようにして松代看護婦は由紀を見返した。
ぶしつけなストレートさで松代は遠感能力を働かし、由紀の心を覗きこもうとしている。彼女はその超常能力を働かせることに慣れていない。それゆえ子供のような露骨さで他人の心を凝視することができるのだ。遠感能力の使用にも礼儀作法があることを、この意志的な濃い眉をした若い女は知らない。
由紀の拒否と非難の感情にやっと気付いたように、松代看護婦は〝視線〟をそらした。頰骨の上が赤くなるのが見てとれた。由紀の拒否ぶりにショックを受けたのであろう。
今日の講演会で目覚めた新しいお仲間だ、と由紀はやや皮肉な気分で考えた。まさかというような人々が超能力に目覚めて行く。
しかし、超能力者たちが覚醒し、集合を遂げる一方でも、相互理解は必ずしも順調に進行はしない。高鳥の例もあるのだ。超能力者が自覚することは、その〝力〟がめざましいものであるほど困難が増してくるのではないだろうか。
丈は超能力をある意味で否定しながらも、講演を行なうことによって、超能力者を増やしている。自己制御の効かない力を所持する人間たちが増加したところでいったいどうなるというのか。丈はいまだ超能力者を育成するプログラムを手がけるどころか、会の内外の超能力者をことさらに無視してかかっている。これは大きな矛盾だと思うのだが、丈はそれに応える気ぶりもない。
由紀の視線が向いているのに気付いたのか、松代看護婦の隣りに佇んでいる笛川医師が小さく手を動かして認知のサインを送ってきた。嬉しそうな他意のない挨拶であり、病院でいつか会った折の傲慢さは影もなかった。無邪気な顔をしている。
笛川医師は自分が好きなのだ、とわかって由紀は妙な気持になった。あのトップ屋の風間に口説かれた時と同じだ。笛川は自分のそばに来たくてたまらないのだ。
自分にそうした性的吸引力があることが、妙に目新しい再発見であった。丈の秘書を務めている間に、かつて自分が身につけていたセックス・マナーや性的意識が剝落してしまったらしい。自分に男たちを惹きつける魅力があることが、いかにも不思議な信じられない気持になるのだった。
隣りの松代看護婦の嫉妬の雰囲気に気付いて由紀は目をそらし、進行中のセレモニーに注意を引き戻した。以前であればともかく今は、つまらぬことで角突きあうような真似はしたくない。女同士の生臭い感情の角逐はご免であった。
しかし、今となっても男性の求愛を感じることはやはり不愉快なものではなかった。
内村と青年部の竹居という若者が、かけあいマンザイの軽妙さで司会を進め、人々を笑いに誘っていた。竹居のように若者たちの中には必ず道化役がいて達者なところを見せるのだが、内村も負けずに軽口を叩いて張り合っている。目を瞠らさせられる芸域の進境というほかはなかった。
不思議なもので、最初はあれほど頼りなく見えた青年たちがいつしか重みを備え始め、信頼感を増している。仲間との結びつきの中で育まれた自信であろう。
笑いで華やかな楽しい雰囲気が更に高潮してくる。内村たちは雰囲気造りが実に巧みであった。大人にはその点とうてい及ばないであろう。
ワイングラスがそれぞれの手に渡され、郁江はそれまで抱えこんでいた由紀の手をようやく解放した。しかし、由紀の心がある程度鎮静したことを確かめてから手を放すという注意深さが感じられた。
この子はもしかしたら、と疑念が心にきざした。超能力が目覚めているのに、それを隠しているのかもしれない。由紀の心の動きがまるで鏡のように郁江の心に映っているような気持に捉えられたのだ。
しかし、彼女が遠感能力者であるならば、由紀にはすぐそれとわかるはずである。松代看護婦など夢中になって窓を覗いている子供さながらの露骨さであった。郁江がまるでそんな徴候は見せていないのに、由紀の心の動きと感応しているように思えるのとは大違いであった。
ただ察しがいいというだけなのか。それは超能力とは関りがないのだろうか。赤く彩られたワイングラスを掲げて微笑んでみせる郁江に微笑を返しながら、由紀はいつまでも戸惑っていた。
「われらの憧れの的である郁姫様のバースディーにあたり、かくも賑々しくご参集いただきましてありがとうございます」
と、竹居が真面目くさっていった。ひょろりと瘦せてメガネをかけた色白の内村とは対照的に、固肥りで浅黒いみるからにエネルギッシュな若者だ。語り口に天性の軽妙さがあり、当り前の口調で喋っても、ごく自然に人々の笑いを引き出すことができる。
「では、ここでごいっしょにハッピーバースディーを祝い、バースディー・ソングを大合唱いたしましょう。不肖私がリードボーカルを務めさせて頂きます」
竹居の合図で、バンドの若者たちがすかさず登場し、アコーディオンとギターでバースディー・ソングのメロディーが流れ始めた。竹居が思いがけぬ美声でリードし、参会者はすっかり乗せられて合唱になった。
「ちょっと待って下さい。いったいいつからバースディー・パーティーになったんですか!!」
ボケ役の内村がいい、はっと気がついて爆笑になった。巧みにバースディーの雰囲気に誘導され、参会者全員がなんの疑いもなくその気になってしまったのだった。
「つまり、これが皆さんよくご存知の〝意識誘導〟です」
と、竹居が澄ましていった。
「〝意識誘導〟という言葉はよくご存知でも、実体をよく知らない方々のためにお目にかけた〝実践編〟というわけです。本当はバースディーではなく婚約記念パーティーでやろうという案も一部ではあったんですけれども......」
「婚約記念!? いったいだれとだれが!?」
「もちろんわが憧れの郁姫様とやつがれの婚約記念です。でも、これはたぶんうまく行かないであろうと......」
「当り前です!」
内村が怒り声でいい、人々がどっと笑い崩れる。
「つまり、これが間違った意識誘導の一例でありまして、やってみても無駄だと......」
「そんなのにだれが引っ掛りますか!? もっと自分を振り返って見たらどうですか!」
「わかりました。反省します。釣り合わぬは身の不幸とか、郁姫様申しわけありません、この婚約は諦めて下さい」
「だれが!?」
人々が笑い転げ、由紀もその芸達者さに感心して拍手を送った。郁江も手にしたワイングラスが保てなくなるほど大笑いしていた。いつもはあまり笑わない丈までが笑っていた。心から笑えないのは由紀一人であるのかもしれなかった。しかし、〝意識誘導〟をネタにしてコントに仕立ててみせる芸には感服せざるを得ない。演劇化して舞台に載せれば、もっと効果的なのかもしれないと由紀は思った。
「ただ今のコント〝幻魔の標的〟、楽しく拝見させていただきました」
と、乾杯の音頭をとることになった東丈がいった。
「もちろん、今のがほんの冗談にすぎないことは皆さんよくおわかりのことと思います。しかし、冗談とはいえ、〝幻魔の標的〟がどのようなものであるか、ある程度のイメージを摑めたのではないでしょうか......私たち一人一人が己れ自身を充分に振り返り、誤まったコースにいるならばそれを発見し、正すという反省機能を発達させること以外に、〝幻魔の標的〟であることから脱出するすべはありません。
となれば、この他愛もない冗談にも学ぶべきことが見つけられるはずです。大切なことを冗談にして笑いのめすとはけしからん、とお怒りの方はこの場にいらっしゃらないと思いますが、僕は自分さえも敢えて笑いものにできる勇気と客観性が大事だと信じています。
しかし、これは身内だから通用するのであって、世間には四角四面の厳格な人たちが沢山おり、冗談やおふざけは不謹慎だと信じこんでいて、要らざる摩擦のタネにもなりかねない。それを念頭に置いておく方がいいでしょう。
我々仲間は今後大きな試練に遭って行きます。大きな困難を少しでも軽減するように努力して行かなければなりません。無益な摩擦や衝突を回避して行くには、我々一人一人が本来の聡明さを磨いていかねばなりません。
我々は人々に愛されなければならないのです。人々の共感を集め、人々の本質的な叡智や愛を引き出して行くことがもっとも大事なのです。若い仲間には冗談や洒落で通じることも、年配の人々には不快や敵意を与えるかもしれません。我々が聡明でなければならないという意味がおわかりでしょう。
現在の我々が大至急発達させなければならない心の働きは、反省機能であると同時に思いやりの心です。他人を思いやる気持がなければ、決して人々の心を捉えることなどできません。いつも人と接する時はTPOを心に置いて下さい。
性格が善良だから、善人だからといって、それだけでは許されません。善良で悪気はないけれども、鈍感で気がつかないために、人々を傷つけるということが少なくないのです。
大義名分を持った人間はたやすく独善的になり、思いやりを忘れます。我々がもっとも気付かねばならないのはその一事に尽きます。
善意に溢れているから、それだけではすまないのです。思いやりを持たなければ、我々はたちまち独善の虜です。相手が頰笑んでいるからといっても、それは顔だけであるかもしれません。こちらの心ない仕打ちに傷ついた心を押し隠して、顔だけで笑っているのかもしれないではありませんか。
相手の顔を外面的に見ているだけでは本当のことはなにもわかりません。自分を相手の立場に置き換えてみることにより初めて洞察の力は働きます。思いやりとはそうした心の働きなんです。
仲間内で楽しくやるという時代はもう終りました。我々は外部の人々とも接触しなければなりません。くり返しますが、我々が使命を果すためには、人々に愛されることこそ絶対に必要なことなのです。
幸い、郁江君も元気になって戻ってきてくれました。郁江君を見れば、人々に愛されることがどういうことなのか、よくわかります。そうじゃありませんか......?」
人々が拍手を始めた。いきなり名前を呼ばれて仰天したように、郁江は目をまるくしてみせた。その仕草が愛らしく、人々の拍手は更に高まった。
「人々に愛されるというのは幸せなことです。しかし、それ以上に人々を愛することができるのは幸せです。郁江君を見て下さい。幸せそうな顔をしています。ご両親も幸せそのものというお顔をしておられます。しかし、その幸せを郁江君はなんの努力もなくかちえたというわけではありません。その事実は、郁江君の笑顔に表われています。暖い笑顔です。
郁江君の示した努力は、今後我々が成して行かねばならぬ目標です。我々の素晴らしい仲間、郁江君の笑顔に乾杯しましょう。この井沢家にみなぎり満ち溢れている暖い幸せの雰囲気は、我々が何を成さねばならないかを教えてくれています。乾杯!」
「乾杯!」
と、人々は叫び、唱和した。由紀はワイングラスを目の高さに掲げながら、溜息が漏れてきた。安堵の吐息だった。丈はにこにこ笑っているが、本質的なことは何も見逃していないと確認し、それが心にのしかかった重みを払いのけてくれた。
丈は今の挨拶で、由紀が今夜のパーティーに抱いていた異和感の正体をみごとに代弁してくれたような思いだった。
由紀は手にしたワイングラスを一息に空けてしまった。もともといける口である。安堵で心が平らかになったためであろう。なんの変哲もない白ワインが天上の美酒のように感じられた。昨年からアルコールと遠ざかっているので、久し振りの陶然とした気分であった。
ボトルを手にしたほっそりした少女が、すかさず由紀のグラスを満たしてくれた。
「今日の講演会でちょっと大変なことがあったみたいですね、杉村さん」
と、圭子は声を忍ばせていった。高鳥慶輔のことだ。
「ええ。でも、その話は後で。先生はあまり大事にしないようにとおっしゃってるの......」
「はい。みんな心配しているようなので」
「大丈夫。圭ちゃんもみんなにそういっておいて。先生はなにも動じていらっしゃらないわ」
「はい」
平山圭子は安心したようだった。由紀も断言すると、自分まで心が落着いてきた。丈が平然と構えている限り、滅多なことはあるまいという気がしてくる。急に体がポッと熱くなり、空腹を意識した。
三十畳もある広い居間も人々がびっしり詰まって、息苦しいほどの混雑ぶりだった。
昼間の講演会の余熱が、パーティーの雰囲気をいやが上にも盛り上げていた。若者たちが多いので、用意された料理はめざましいスピードで片付けられて行った。次々に出される料理の皿が瞬く間に空になる勢いだ。若者たちが搔きこむ手を休めるのは、挨拶にまわる郁江をエスコートした丈が近づいた時だけであった。
最終的に参会者は六十名を超えたようである。ついに居間では収容しきれなくなり、廊下を隔てた和室が開放されて、一部が引越したほどであった。
由紀にとっての観ものは、丈と笛川医師の対面であった。しかし、これは由紀の思惑はずれに終ったようである。笛川医師は丈の顔を見たとたんに失語症に陥ってしまったのだった。
ただ顔を真赤にするだけで、ろくに言葉が出てこない。医師の白衣をまとった、あの傲岸さ権高さがまるで噓のようであった。必死に努力した挙句、笛川は諦めたように頭を振った。
「申しわけありません。なんにも出てこないんです」
と、笛川医師は右手の拳でコツコツと己れの頭を小突きながらいった。
「まるでいきなり中身を引き抜かれたように、この中がからっぽになっちゃいました。東先生にお遭いするまでは、あれも尋こうこれも尋こうと教えていただくことがひしめきあっていたんですが......今は何もお尋きすることが思いつかないんです。どうもすいません」
「僕は笛川先生のような方にお教えするほど立派な人間ではありません。どうぞあまり買いかぶらないで下さい......」
丈は微笑しながら答えた。笛川がもどかしげに手を振りまわす。
「いやいや、今日の講演、ショッキングでした。きっとあのせいだと思うんです。がーんと頭を思い切り殴られたようになって、まだ痺れています。しかし、人間がなぜあんな物凄い講演ができるのか、それが不思議ですな......空気がビリビリと帯電しているのがはっきりわかるんです。先生が話せば話すほど電位が上昇して行くんですね。失神した人が幾人も出たそうですが、当然だと思います。先生は本当に信じられないような力をお持ちだ......」
丈の目配せで、郁江は赤ワインのボトルを取り上げ、笛川が左手に摑んだまましきりに振りまわしているグラスに注いだ。
「いや、ありがとう。思うに先生のパワーはケタ違いに大きすぎて、あのような物質化現象を起こすのではないんですか? 禅宗のお坊さんで、くしゃみをすると全山がぐらぐら揺れたという名僧の話を聞いたことがありますが、先生の場合はもっと凄い現象が起こりそうだ......先生の講演を聞いただけで、人間が別人のように変ってしまうんですからね......まるで大きな滝に打たれたような気分です」
笛川は考え深げにグラスを見詰めながらいった。
「先生は人間の心を変えてしまう。この松代君はもう前の彼女とは違う。郁江君もそうだ......なんというか、奇蹟としかいいようがありません」
「僕の力ではないんです。僕には人を変えるような力はありません。自分の本質に気付くと、人間は変ってしまいます。気付かなければそれまでです。だから笛川先生、僕をあまり買いかぶらないようにお願いします。僕自身の力など、高が知れています」
「先生は謙虚な方だ......」
「それが真実なんですよ」
「しかし、先生のお力に触れて変わってしまった人間はどうすればいいのですか?」
笛川は松代直子を指差していった。直子は体が硬直してしまい、こきざみに慄えていた。東丈を間近にして、すっかり上ってしまったのだ。
丈の輝く黒い瞳を見たとたん、その硬直は生じた。まるで魔法でもかけられたように丈の虜になってしまっている自分を感じていた。
「松代君は超能力者になっちまったんです。他人の心をずばずばといい当てます。いきなりこんな超能力を授って、本人はすっかり怯えてしまったらしい。どうすればいいかわからないといっています。東先生、彼女はいったいどうなりますか?」
「超能力者であろうがそうでなかろうが、人間の生き方に大差があるわけではありません。笛川先生はもし超能力を得たら、ご自分がどのように変化するとお思いですか?」
「もしそうだったら......面食らうでしょうなあ」
と、笛川はそれこそ面食らったように呟いた。
「しかし、私は医者だから、やはり医者の仕事を続けるでしょうな。超能力が仕事に役立てば、それに越したことはないですが......」
「そうでしょう。それでいいんです。優れた医者としての才能を、超能力はバックアップしてくれるはずです。しかし、超能力はそれ以上のものではないと僕は思います。僕の考えでは、超能力などさして珍しいものではありません。笛川先生ご自身も立派な超能力者です」
「僕が!?」
笛川医師は啞然として丈を見返した。丈らの周囲には人々が詰めかけ、対話に耳を澄ましていた。
「僕が超能力者......? いったいどんな超能力があるんですか? 僕はちっとも気付かなかったが......」
「笛川先生の医師としての素晴らしい才能こそ超能力なんです。先生が患者の様子を一目見てぴんとわかることが、なぜ他のお医者さんにはわからないのか? 先生の握ったメスが恐ろしいほど巧妙に的確に動くのを見て、人々はまるで魔法だというでしょう? 同じように医術の研さんを積みながら、なぜ他の医師たちは、先生のようになんの苦もなく、神業といわれる技術を身につけられないのでしょうか? コンピュータよりも早く、正確な診断を下せるのは、ただの習練や経験の結果でしょうか? そうではないと僕は思います。先生の素早い手を動かしているのは、ただのトレーニングの成果ではありません。先生の肉体に流れこんでいる不思議な力が、先生を動かしている......そう感じられたことはありませんか?」
「............」
笛川は無言で考えこみ、ゆっくり頭を頷かせた。
「そんな感じを味わうこともありますよ、確かに......自分の手が奇妙な、自律的な動きを見せる。考える余地もなく次々に的確な処置を施して行く、そんな時は、自分でも不思議ないいオペになります......先生のおっしゃる通りだ。まるで神が乗り移ったように、自分でありながら自分でないという気持になる......しかし、それが超能力なのでしょうかね?」
「立派な超能力です。だれでも人間は、もっと偉大な存在の一部分なんです。肉体を持つ人間はいわばアタッチメントにすぎない。超能力とは、人間が目で見えるだけの肉体存在ではないという証明です。笛川先生を天才と呼ばせている力は、その深奥にある偉大な存在から流れこんでいるのです」
丈の声に渾められている確信は、笛川を圧倒した。顔に表われていた懐疑の色が消え去った。
「では、郁江君が前にいったんですが、患者が、医者の顔を見ただけで治ってしまうというようなことが本当に起こるんでしょうか?」
「起こります。郁江は笛川先生のことをいったんでしょう。先生にはそれだけの力が内在しています。先生が充分に自覚された時は、それ以上の力が発揮されるでしょう。笛川先生の真の実力からすれば、メスなど必要としないはずです」
「それではまるで心霊医師じゃないですか」
「先生の、患者をよくしてやりたいという愛情が超能力の根元なのです。愛情のない医師に何ほどのことができるか、先生はだれよりもよくご存知のはずです。最高の教育を長期間受け、最高の医療機械に囲まれていても、愛のない医師はコンピュータ以下です、それどころか悪魔にもなりかねません」
「確かにおっしゃる通りです」
と、笛川は力をこめて共感を表わした。
「東先生のおっしゃる通りです。常々私の考えていることと全く同じです。すると、現代医学が辿っている方向はやはり、間違っているのでしょうか?」
「間違った方向に向いつつあるのは、心ある医務家であれば薄々感じていることではないでしょうか? 心霊医師の存在は、そうした間違った医学へのアンチテーゼでもあり、警告でもあると思います。魂の欠けた医術は、単なる方法論にすぎないし、それについては、笛川先生がいつも力説なさっているのではありませんか?」
「そうです......しかし、外科などというのは、東先生の立場からすると、邪道ということになるのではないですか?」
笛川は恐るおそる尋ねた。丈は微笑した。
「そんなことは決してありません。僕は人間の魂の重要性について説いていますが、魂が大切だからといって、肉体的物質的なものを軽んじるつもりはまったくありません。現に我々は肉体を持っていますし、我々人間が人生を生きて行くためにはできるかぎり大事にしなければならない。その肉体を保全し保護するためには、外科も重要な方便です。なによりも大事なのは人間の精神であり、魂だから肉体などどうでもいいときめつけるのは、偏狭な精神主義です。
何事によらず独善的で偏ったきめつけ方には賛成できません。外科医術も方便として必要です。僕が郁江の手術に反対だったのは、その必要がなかったということと、人間の魂と肉体のあり方について、ひとつの証明が成されなければならなかったからです。巨大な宇宙エネルギーと同通した時、人間に何が起こるかということを、我々は目のあたりにし、教えられたんです。それは激励であり助力の証しであって、一概に外科医術を否定することではありませんでした。
ですから、笛川先生が心配なさることは何もありません」
「安心しました......」
「安心なさって下さい。笛川先生の努力の目標が提示されたとお考えになってはどうでしょうか? 病気の人々の面倒を見るのは先生の担当です。先生が宇宙エネルギーとよりよく心を通い合わせれば、先生の医師としての才能は更に巨大なものになります。おそらく笛川先生はそれに気付くことが必要だったんです。
だからこそ郁江君が患者として先生の目の前に出現することになったのではないでしょうか。偶然などではなかったと思います」
「偶然でないとすると、何者かの意志......つまり神の意志ですか?」
「そうかもしれません。僕は宇宙的存在の意志だといっていますが......全ては偶然などではない。我々は演習問題を与えられているんです。物質的な人生観を持っている人々の賛成は得られないかもしれませんが」
「そういう感じはわかります。なにもかも偶然だなどとはとても思えませんからね。すると我々は全て神の意志によって生きているわけですか?」
「神の意志といういい方は手垢のついた既成概念ですから僕はあまり使いたくありません。我々人間は目には見えない、魂に刷られたプログラムを持っていると思うんです。そのプログラムは我々自身、作成にタッチしている。顕在意識では何もわからないが、潜在意識はよく心得ている。人間はこの地上に生れる前に、すでにプログラム・ブックを持っていると思うんです。しかし忘却の泉の水を飲むと何もかも忘れてしまう。潜在意識の底に沈んでしまうといった方がいいかもしれません」
「プラトンですな。我々はイデアの世界から出てきた......」
笛川は考えこみながら呟いた。自分の考えにすっかり夢中になっていた。
「我々は影の世界に生きているのですか?」
「我々人間はいつもプログラムを自分で作り、それを実現させるために生きているんです」
「いったいどこで、そのプログラムは作られるんでしょうか?」
「我々肉体を持つ人間には見えない巨大な世界があるのかもしれません。それは高次元世界であって、この物質世界とは比べものにならないほど大きい。プラトンのいうイデアの世界です。我々は皆、その高次元世界から出てきたんです。精神エネルギーの世界ですから、肉眼では見えず、手で触れることもできない。心で触れるしかありません。物質世界に生きている人間には、あまりにも信じがたい存在です。物質主義者は存在を証明できない以上、そのような高次元世界などあるはずがないと否定します。
しかし、物質主義者は自分の心について何も知らないのです。心とはいかなる計測器からも検出されない。物質現象ではないからです。しかし、心が厳然として存在することはいかなる懐疑論者にも否定できません。コギト・エルゴ・スムですよ......
超能力が人間の精神作用であることは間違いありません。PKもESPも心が現わす力なんです。物質的肉体的な〝力〟ではない。つまり超能力とは、心が属する高次元世界の証明なのではないか......もっとも物質的な〝高次元の力〟の表出が超能力と呼ばれる形態になるのではないか。
僕は、超能力が宇宙エネルギーと分ちがたい存在であると確信しています。目には見えない宇宙エネルギーのもっとも低次な表われであるはずです。
従って超能力を認めることは、不可視の高次元世界の存在を認めることにつながるんです。それゆえに唯物論、唯物史観を根底から崩壊させる認識になるはずです。
しかし、低次な力であるだけに超能力には物質的な側面があって、物質主義者は、超能力を物質科学の枠内に取り込もうとします。超能力はあまりにも誤解されやすい性質を持っているので、僕はそれのみにスポットを当てることに反対しています。超能力をトリックと決めつける考え方は依然として強いものがあり、超能力の真贋論争という果てしもない泥沼に必ず引き込まれてしまうからです。
そして、超能力が高次元存在の証明にすぎないというもっとも重要なポイントがなおざりにされることになります。否定論者は一パーセントの偽の超常現象を明らかにすることで九九パーセントの真実を否定し、葬り去ることができるからです。肯定派否定派のいずれも、厳密な科学的手続きよりも感情的な泥のかけ合いに夢中になってしまうんです。
ですから、超能力を証明手段として大上段に振りかぶることは、かえって逆効果になりがちです。高次元世界は心を通じて触れるしかありません。それがもっとも正しい方法です。自分の心にぴったりとかぶせた物質的な固定観念の殻を脱することができれば、高次元の〝力〟が自分の心の中に入ってくるのが実感できるようになります。笛川先生はもうその巨大な〝力〟の根元については、疑っておられないのではないでしょうか?」
「疑ってはいません......ずっと前から、漠然とですが、感じていたような気がします。先生のおっしゃるプログラムとは、その高次元世界、イデアの世界に我々が存在した時に、自分で作り、計画を立てたということですか?」
「僕はそうだと思います。他に考えようがありません」
「キリスト教では〝受肉〟なんていいますな。神霊が人の子として肉に宿った存在が、つまりイエス・キリストだ、と......しかし、先生のお考えでは、全ての人間は天上界から降りてきて肉体に宿った天使たちだということですか? 先生のおっしゃる高次元世界が、宗教的にいうと天上界?」
「天使とか聖霊、天上界というのは宗教的表現そのもので、誤解のもとです。僕は宇宙意識といい、高次元世界という言葉を用いていますが、必ずしも同じ概念ではありません。しかし、宗教に関心を持つ人が、そのようにいいかえを行なった方が納得しやすいというのであれば、否定するつもりはありません。
キリスト教でいう大天使、天使が仏教の如来、菩薩と照応しあうように、全ての宗教は大本は同一のものだと考えることができる人ならば、好きなように解釈してもらってもさしつかえないんです。
僕は高次元世界の存在を証明できると思っています。人間がより巨大な存在の一部にすぎず、不生不滅の永遠の存在だってことを、人はだれでも自ら証明できるからです」
丈たちの周囲を埋めた人々は息を詰めて対話に聞き入っていた。パーティーは一時中断そのものであった。全ての参会者がひしひしと詰めかけ、鳴りをひそめて、丈の言葉を一言一句も余さず聞き取ろうと心を凝らしているのだった。
会員や塾生のみならず郁江の両親も心を奪われて、熱心に耳を傾けていた。
「それはどのようにして証明されるわけですか?」
笛川は真剣そのものであった。
「超能力の存在だけでは証明にならないと今おっしゃいましたが......やっぱり心で感じるしかないわけですか? しかし、それではあまりにも客観性に欠けるんじゃありませんか? 自分の心で感じるしかないと突っ放してしまえばそれまでですが......」
「いくら大量の知識を集めてもそれだけで、愛がわかりますか? 愛が肉眼で見えますか? 手で触われますか? 愛はやっぱり心で感じるものです。愛や友情がどうやって計測器に捕捉できるでしょう? 好きな人の顔を一目見るだけで心に湧いてくる楽しさ、嬉しさをどうやって数値化できますか? どんな超コンピュータでも理解できないのが心の世界に属する現象です。
人間にとって他者との関係で生じる好悪は、いったい何でしょう。二十年つきあっても、通りいっぺんの表面的な冷たい仲もあれば、瞬く間に意気投合してしまう人間関係もあります。一目見ただけで十年もつきあっている友人のような親しい気持がお互いにこみあげてくるというのは、なぜなんでしょうか? 一概に合性などといいますが、人間関係ほど不思議なものはありません。同じ両親を持った子供たちがなぜ別個の個性を持っているんでしょう。同じ環境で育ちながら、なぜ正反対の性格が生じるんでしょうか? 血を分けた親子が、互いに相手を理解できず、断絶状態になるのはなぜでしょう?
人間の魂は各々がはっきりした個性を持っている証拠だと思うんです。親子というもっともこい血縁関係でも、魂だけは別々な素材でできているからです。しかも、その個性は短時日でできたものではない。とほうもない時間をかけて形成されてきた、魂の歴史に他ならないんです。
我々の顕在意識は何も憶えていないが、魂の歴史をことごとく刻みつけている潜在意識は、たとえこの世では初対面であっても、親しい魂の友人を即座に見分けることができます。
だからこそ、一目見ただけでたとえようもない親しみを初対面の人に覚えるんじゃないでしょうか? それは理屈ではとうてい説明できません。心で感じるしかないんです。この場にお集まりの皆さんは、特にそうした感じを強く持たれているのではないでしょうか?」
人々の間を強い動揺が走り抜けた。それは感動の奔流であった。人々は互いの顔を新たな感銘を持って見詰め合った。新鮮な驚きがだれの目にも宿っていた。
「生れ変りのことですか? 輪廻、転生......?」
笛川はなおも質問を続けた。ものに憑かれたような気配を立ちのぼらせていた。凄まじいほどの精神集中がなされていた。
「そうです。しかし、僕の考えている生れ変りは一般的な仏教の思想とは違っているかもしれません。仏教では、前世の業報によって六道輪廻をなす。善業によって善い世界へ生れ、悪業によって地獄へ堕すといっているようですが、僕にはそれが輪廻の全てだと思えないんです。もちろんそうした因果の法則は否定できないかもしれませんが、それだけには留まらず、先ほどもいった宇宙意識による計画性を持って、人間の魂は高次元世界とこの地上世界を輪廻している......つまり人間はそれぞれの使命を持って、物質世界へ降り立つのだ。僕はそれが真実であると考えています。我々は相互に魂の配列を持っている。高次元世界で立てた計画を実現する目的を持って、地上へ降臨するんです。従って我々は、偶然によってこの場へ集合したわけではない。共通の目的を持ったグループ、そしてチームとして地上界で今、この場に集結を遂げたのです。我々は、想像もつかないほど長い間、チームメイトとして魂の歴史を築いてきたのではないでしょうか?
心で感じてみて下さい。互いに皆さんが感じている懐しさ、親しさは果してそんなに底の浅いものでしょうか? もっともっと深く、魂に根を張った愛や友情が心の底に隠されているのではないですか?
すでにそれが真実であることを証明できた人々もいます。前世記憶を取り戻したのです。互いに旧友であることを確認しあった人々が今、この場にいるんです!」
人々の視線は〝無名青年塾〟の田崎たちの上におのずと集まった。風聞はすでに会員たちの耳に入っているのだった。
「前世記憶を持つ人々がここにいるんですか!? まるで夢みたいだ!」
笛川は興奮を隠そうともしなかった。顔面が紅潮し、熱中癖がまともに露呈している。
「過去にどのような名前を持ち、どのように生きたか、ちゃんと憶えているのですか?」
「そうです。そうでなければ、前世記憶とはいえませんから。かつて自分がどのような目的を持って生きていたか思いだせば、世界が眼前にある物資的世界のみに限られないことをはっきりと知ります。人間が偶然に生を享けて束の間生き、死によって永遠の虚無へと消え失せて行く、はかない存在ではないことが明確になります。我々は不滅の宇宙エネルギーの一部だということが実感としてわかります。もはや人間は死によって滅び去るものだという虚無主義から自由になるんです。
それをはっきり悟った時、我々は自覚のステップを一段上ったことになります。物質主義という牢固とした束縛から解放されるんです。いわゆる仏教の輪廻転生という無限の堂々巡りとは違います。螺旋のようにぐるぐる廻りながら上方へと抜けて行くんです。宇宙意識は我々人間にそれを望んでいるのだと思います」
「この場に、前世記憶を持った人々がいるのですか? 是非その人たちの話を聞かせて下さい!」
笛川は逸っていた。もはや丈の言葉を落着いて聞いていなかった。熱狂してしまったのである。
丈はちらりと田崎たちに目を走らせ、彼らの顔に刻まれた当惑を読み取った。田崎たちは前世記憶を人々の前で披露することに積極的ではなかった。
「笛川先生のお気持はわかりますが、あまり好奇心を持ちすぎるのはよくありません。またの機会にゆずります」
と、丈はさりげなくいった。
「どうしてですか!?」
「あまりにも面白すぎるからです。転生輪廻の証明は、パーティーのアトラクションとしては重すぎます。もっと厳粛なものだと思うんです。超能力にしてもそうですが、絶対にアトラクションにしてはいけない。だから、今夜はやめておきましょう」
「しかし、先生! 私は好奇心でいっているんではありません! 神かけて誓います! どうしても知りたいんです! 前世記憶というのがどういうものか!」
「なぜそんなに知りたいんですか?」
「それは私が医者だからです! 医学では人間の生命と死というものが、単に現象的に定められているだけです。死期の迫った患者に対して、医者は実に無力です! わずかに延命措置を講じて、死を待たせておくしかできない! 患者が死の恐怖にさいなまれているのに、医者はまったく手を束ねているしかない......肉体的苦痛はやわらげられても、魂の苦悶は......! 私にも死期の迫った老母がいます。しかし、私は母親の恐怖と苦痛に対して何もしてやれんのです!」
しんと物音一つ聞こえないほど室内は静まりかえっていた。笛川は鋭く顔を歪めて、両手を捻り合わせていた。
「医術では人は救えない......それを私は痛感しています。いかに医学的な説明をしたところで、死期の迫っている患者には気休めにもなりません。だから、私は強く死を憎んできました......死によって人間の全ては無に帰してしまう。肉体も意識も虚無に吞まれてしまう......これは理不尽で恐ろしいことです。人間が営々と積み上げてきたいかなる努力も、死の手に摑まれば、一瞬にして空しくなってしまう。これは恐ろしい矛盾です。いかに努力しても結局は死が最後にチップを総ざらいしてしまうなら、これほどインチキなゲームはありません。死こそ常勝将軍なら、人間はなぜ生まれてこなければならないのか。いずれは無に帰す努力をなぜ営々と払わなければならないのか。
死が必ず勝つのであれば、医者など必要はないのではないか。患者が治ったといってもそれは束の間のはかない夢のようなものだ。死ほど無法で理不尽な存在はない......私はいつもそう思ってきました。
聖書を読み、仏典をひもときました。しかし、どうしてもわからず、納得もいかない。全ての理屈は死を恐れるがあまり、死を恐ろしくないものとする典型的な自己欺瞞としか思えないんです。
仏典では六道輪廻といい、聖書では神の国があるという。しかし、ほんの気休めとしか思えない。死は恐ろしくないと必死に自分にいい聞かせているようです。もし人間の意識や記憶が持続しないのであれば、転生輪廻したところで何になるでしょうか? それは死の虚無と全く同じことではないですか?
意識が消去されてゼロとなってしまうのなら、生れ替りなど無意味です。聖書にしたところで同じです。神の国が死後に用意されているといったところで、永遠に凍りついたような世界ではまるで意味がない。そんないい加減な曖昧なことをいったいどうすれば、人間は信じることができるのか?
まじめに考えれば考えるほど虚しくなってくるんです。ある者は理性の強靱さで、そうした宗教的な迷妄を払いのけ、絶対の現実である死と対決すべきだと説く。それが理性の勝利だという。
しかし、自分が絶対に死を免れられぬ病の虜になったと知った人間は、そんな理屈を百万べんも並べたところで何の役にも立たない! そんな理屈をいう人間が癌にでもなれば、恐怖のあまり狂うに決っているんです! いっそのこと狂ってしまえば楽だ! しかし狂えない人間は迫ってくる死の秒読みにどうやって対処し、己れを支えればいいのか!?
先生、助けて下さい、と死を悟った患者は絶望の目で私にすがりつく。もし死なずにすむのなら、一生かかって築いた財産を残らず助けてくれる人に差し上げる、と叫んだ患者を私は何人も見ています。
どうにもならない無力感、絶望感の中で、沢山の患者たちが死んで行くのを見なければならなかった。そして今は、私の年老いた母が死にかけています。助けて、と母は息子の私にすがりつく。しかし私にはどうにもならない。心を慰めることさえいってやれません。私はあまりにも無知で無力であることに愕然とするんです!
私は信じてもいないあの世やら彼岸のことを説いて、母に気休めを与えることなどできません。母は身も世もなく間近に迫った死に恐怖しています。自分はもうじき死ぬのだ、冷えた灰と骨のかけらを残してこの世から永久に消え失せてしまうのだ、と心臓をぎりぎりと絞めつけ、脂汗を流させる恐怖を、いったいだれが和らげてやれるのか......
だれでもいい、教えてほしい! そう叫びだしたかった。そこへ郁江君が入院してきた。郁江君は病にとり憑かれていながら、少しも死を恐れていなかった......」
周囲の人々は視線を、郁江と笛川医師との間に往復させていた。すっかり心を虜にされてしまっていた。
「そして、郁江君から東先生のことを聞いた時、ぼんやりとながら解答の糸口が見つかったような気がしたんです。宗教への妄信や狂信によって死の恐怖をごまかすのではなく、明晰な理性を保持しながら、恐怖を超えている郁江君を見ていると、これは本物だとしか思えない。郁江君が癌を克服したこともさりながら、それ以前に僕は東先生にお目にかかりたいと心から願っていたんです。思った通り、いや、それ以上の先生は覚者でいらっしゃる。
どうか、先生、僕に教えて下さい! 人間には永遠の魂があり、だれもが真の意味で死ぬことはなく、限りない来世に向けて今も旅を続けているのだと証してください!」
「笛川先生にはもうおわかりになっているはずです。心ではすでに真実に触れています。でしたら、もう証明を求める必要はありません。実感があるなら、他に何が必要でしょうか......」
丈は穏やかに説得の口調でいった。
「前世の記憶を取り戻した人々によって、過去を語ってもらい、転生輪廻の証明とすることはもちろん可能です。
しかし、それはあくまでも物質的な形象としての証明です。不信を心に抱いた人々から見れば、芝居にしか見えないかもしれません。あるいは自己催眠や想像力過剰といった、ありきたりな合理的解釈で片付けられてしまうかもしれない。
否定しようとすれば、どのようないいがかりもつけられます。超能力を証明しようとする試みと同じ弱点を備えているんです。それよりも笛川先生ご自身が、自覚を持たれることこそどんなに重要で、しかも素晴らしいことでしょうか?
そのうちに、笛川先生自ら、転生輪廻の確証を得るかもしれません。自分の心で摑み取った方がどんなに素晴らしいかわかりません......今の段階でも、先生がお母さまに対して、心から話してさしあげれば、きっとわかって下さるのではないですか?」
「話せば、母にわかるでしょうか?」
笛川は心許なげに呟いた。
「きっとわかります。先生がどう感じているか話してあげて下さい。知識や理屈では、受けつけないかもしれません。しかし、先生の真心から出る波動は必ず、お母さまの心に伝わります。先生の得られた自覚の波動は、安心立命の波動となって、お母さまに伝わります。それは間違いありません」
「わかりました。さっそく母に話してみます。ありがとうございました、先生!」
笛川が手を差しのべ、丈に握手を求めた。丈が強く握り締めると、笛川は明らかにぎょっとした表情になった。丈から伝わってくる生体エネルギーの強烈さがショッキングだったのであろう。人々は拍手し、笑い声をあげた。丈と握手して面食らった者が少なくないのだった。笛川のショックの表情が何を意味するか知っているのだ。
「すごいですね。電気に触れたみたいです」
と、笛川は苦笑しながらいった。
「しかし静電気じゃないんですね。先生は凄いエネルギーの持主でいらっしゃる......こればかりは他人に説明がむずかしいですね。病気なんか確かにあっさりと退散してしまいそうですよ。肩凝りまでいっぺんに吹飛んでしまいました。ひどい凝り性なんですが......」
「そうだと思いました」
丈はさりげなく笑っていた。
「笛川先生、よろしかったらあたしもごいっしょにお母さまとお逢いしましょうか?」
と、郁江がいった。
「現物が行けば、説得力も違ってくるかもしれないし......」
「それがいい。自分の体験を話してあげるんだね」
と、丈がいった。笛川は感激に顔がくしゃくしゃになってきた。傲岸な天才外科医の冷徹さなど一片もない。
丈たちは、転生輪廻の証明に積極的ではない。もしかしたら自信が欠けているのかもしれない、と杉村由紀は観察していた。
この前の〝無名塾〟のミーティングの時もそうだった。丈は転生輪廻の問題に深入りすることを明らかに避けたのだ。田崎たちにしても同じことだった。時期が至っていないという感じでもあったし、なにかしら不都合があるという気もしないではなかった。由紀自身、触れるのがなにか恐ろしいという気がしたほどだった。
転生輪廻に確証があることは間違いないらしいが、今はまだ公表すべき時ではないということなのだろうか......いずれにしろ、口外することを避ける気重いことがあるような気がした。
8
その夜のパーティーのハイライトは、東丈と笛川医師との対話に止めをさすようであった。会場の空気が緊張したのはそれだけに終り、華やかさ明るさが大勢を占めた。
杉村由紀は、丈がすぐに腰をあげるのかと思っていたが、結局丈はまるまる二時間を人々と話を交わすことで費してしまった。由紀には、パーティーで長居するなど時間の無駄遣いと感じられるのだが、丈はそう思っていなかったようである。
郁江の両親は、丈の話にたいへん感銘を受けたようであり、もはや丈に対して敬意を隠さなかった。とくに母親の態度は豹変というにふさわしかったようである。徹底的な反感から、これまた極端な崇敬の眼差しで彼女は丈を仰いだ。振幅の甚しさが由紀にはいささか気になるほどであった。
「郁江には小さいころからとても変わったところがございまして......」
と、母親は丈を摑まえて話し始めた。
「今思えば、霊感がございましたのですね。でも、私どもはそうは思わず、娘は異常なのではないかとずいぶん心配いたしました。恥を申し上げるようでございますが、そのころから、家の中にいろいろゴタゴタが続きまして、悩乱があたくしも大きゅうございました。ひどく神経質になっておりましたから、幼い娘の一言一言が心に突き刺さるのでございますの。そんな馬鹿げたことはあるはずがないと思いながらも、娘とそのゴタゴタがなにか関係があるという気がいたしまして......」
母親は狂信的な帰依者の露骨さで、人々の注意が集まっている場でそんな内輪話を始めてしまった。
「ちょっと腰をおろせるところでお話ししません?」
由紀はさりげなく誘導し、丈は頷いた。
「じゃ、応接間でお話ししましょうか?」
彼女は郁江の母親を導き、居間から連れ出した。他の者がついてこないように配慮する。
「主人が他に女性を囲ったり、相続問題で兄弟間がぎくしゃくしたり、揉め事がなにもかもいっぺんにやってきたようにゴタゴタばかり続きまして......」
母親は応接間のソファに腰をおろすより早く喋り始めた。告白の衝動にとり憑かれてしまったようであった。
「あたくしも神経質なものでございますから、一日中ピリピリしておりました。もう腹が立って腹が立って、気が変になるのではないかと思うほどでした」
「郁江さんがそのトラブルと関係があるとお思いになったのは、なにか理由があってのことでございますか?」
と、由紀が尋ねる。丈は黙って聞いていた。
「いえ、あたくしも多少頭が変になって、被害妄想気味になっていたのだと思いますけれども、娘が口にすることがあまりにもその通りになるものですから、もしかすると娘がそのゴタゴタを引っ張り寄せているのではないかという気がいたしまして......」
「郁江さんがそのトラブルを起こしている、と?」
「はい。今思うと、なぜそんな考えにとり憑かれたのかわからないのですけれども......その時は娘が魔性の者ではないかという恐ろしい気がいたしまして......いきなり、お母さんはお父さんを殺して死のうと思っているでしょ、と幼稚園の娘にずばりといわれたりするものですから、恐ろしいやら腹は立つやらで......」
母親は自己告白の衝動を満たすのに熱中していた。かなり偏りのある性格の持主であることは確かであった。思いこむと心理的な視野狭窄が生じるタイプなのであろう。
「それは本当にお母さまがお考えになったことをいい当てられたということでございますか?」
「ええ......どうしてやろうかとお腹の中がどろどろと煮えくり返って、恐ろしいことばかりとめどもなく考えてしまうんですの。それを幼稚園の娘がみんな知っているんです。お母さん、あたしはお母さんといっしょに死なないわよって、いきなり娘がいいだすんですから。あたしは暗くて恐ろしい所へ行くのいやよって......自分にはすることが沢山あるのだから、お母さんといっしょに死ぬわけにはいかないのだ、と五つぐらいの娘が理路整然と申しますの。お母さんは自分勝手で、自分のことしか考えていない、だからお父さんに嫌われるんだ、と心臓をえぐるような言葉をづけづけと吐くんです。あたくし頭がもうかあっとなってしまうし、空恐ろしいし、娘には魔物でもついているに違いないと思いこみました。もしかしたらこのゴタゴタは全部、娘が引き起こしているんじゃないかって......」
由紀は母親の言葉に、ブルッと体を慄わせずにはいられなかった。母親の過去から来る波動には恐ろしいものがあった。深淵を覗きこむような心地がしたのである。
「その時は本気で主人を殺し、娘を道連れにあたくしも死のうかと思っておりました。方法をいろいろ考えたりしまして、頭が変になっていたようでございます。でも、幼い娘があまりにも毅然として、自分にはやることがあるから死ぬわけにはいかない、ときっぱりいうのに気圧されてしまいまして......なんと申しますか、わずか五歳の娘ではなく、ちゃんとした大人がいうような口調で申しますものですから......」
由紀と丈は視線を交わした。丈の顔からは何も読み取れなかった。しかし由紀は自分の顔が鳥肌立っているのを意識していた。
「それ以来、娘がなんとなく恐ろしく感じられまして、あまり親子の情を濃密に感じないままにすごしてきたようでございます。妙な話ですけど、いつも娘の内側にもう一人の大人がいて、厳しい非難の目であたくしを監視しているような気がするものですから......」
「それは錯覚ではございませんの?」
「はあ......でも、娘にはそうしたひどく大人びたところが小さいころからあったことは間違いないようでございます。これはあたくしだけではなく、他の者もいつも申しておりましたし......主人も娘には全く頭が上りませんでした。主人は病的なほど女癖の悪いところがございまして、若いころから失敗ばかり繰返しておりましたんですの。後になってからは、病気なのだから仕方がない、役所の方さえちゃんと務めてくれればと思うようになりましたが、どうしても若いころは逆上しがちになって......ただ主人も娘だけは猫可愛がりにして、手のつけようのないほど甘やかしてしまいました。もっとも娘が大きくなってくると、娘が恐い主人は女癖の悪さを改めるようになりましたけれども......」
「郁江君が、トラブルの元凶といいますか、超自然的な方法で引き起こしていたとお思いだったようですが」
と、丈が初めて質問した。
「お母様がそうお考えになるような具体的なことでもあったのですか?」
「はい......いいえ、なんと申しますか......」
母親は著しい混乱を示した。
「魔性のものでもとり憑いたようだ、と先程おっしゃいましたが?」
「え、ええ。あまりにも大人びた口調でものをいいますし、眼付や表情がどう見ても五歳の幼児のものではないんですの。しっかりした大人の物腰なんでございます。そんなこと信じられないとおっしゃるかもしれませんけれども......」
「いや、わかります。郁江君とは別人の人格が宿ったように感じられたということですね。しかし、それだけですか? 他に何かお母様に確信させるようなことがあったのじゃありませんか?」
「ええ......そういえば......そのころ声が聞こえたようでございます。相手はわかりませんけど、どこからか声が聞こえてくるんですの。娘は悪魔にとり憑かれたんだ、あれは娘が喋っているのではなく、娘の口を通して悪魔が語っているんだって......」
「その〝声〟がお母様にそう話しかけたのですか?」
丈は異様なほど強い関心を示していた。
「はい。悪魔の娘だというんですの。もう娘は悪魔に乗取られている。あのままにしておくと、お前たちは悪魔の奴隷にされてしまうぞ。もうお前の主人は娘の奴隷になって何でもいいなりになっているじゃないか。気をつけないとお前も悪魔の娘にやられるぞって......はっきりと聞こえるんですの。錯覚じゃありませんでした。あなたはどなたですか? と恐る恐る聞いてみますと、あたくしの実家の守護神だというんです。今はあたくしを守護している。だから悪魔の娘からお前を守ってやるんだ、と......」
「その守護神とやらの〝声〟は何かをするように、とお母様に命令しませんでしたか?」
と丈が尋ねる。由紀は再び冷たい戦慄の波動に体を貫かれた。
「はい......何か申しておりました」
「どういうことを命令しましたか? お母様が躊躇するような恐ろしいことを命じたのではありませんか?」
「はい......このままではお前自身が娘にやられてしまうから......」
母親はさすがに口重に呟いた。
「郁江君をどうにかしろ、と〝声〟はいったんでしょう?」
「はい。郁江を殺してしまえ、と......悪魔の娘なのだから、心配は要らないって......娘を殺せば何もかもうまく行く、主人も女狂いを止めて帰ってくるって......包丁で娘を突き殺せ、と守護神様が朝から晩までしつっこく繰り返すんですの......」
由紀は息を吞んでいた。このような重大な告白をなすこと自体が信じられぬ思いであった。さすがに母親の顔色は青ざめていた。陰惨な過去が甦ってくるのを覚えていたのであろう。
「そして、郁江君にそれを看破されたわけですね?」
丈は冷静さを失っていなかったが、黒い瞳は強く輝いていた。視線を合わしていられないほどの物質的圧力を持つ輝きであった。
「さようでございます。もし娘に見破られなければ、あたくし大それたことをしでかしていたかもわかりませんの」
母親は丈の眼の輝きに押されるように告げた。
「まるで夢遊病にかかったようでございました。守護神様の声だけがはっきりと力強く聞こえますの。さあ、今だ、やれって......夢でも見ているように体が動いて、台所から刃物を取りに行くのがわかります。ああいけない、こんな恐ろしいことは止めなければ、と思っても、体が自由になりませんの。守護神様の声だけががんがんと聞こえて、その命令に背くことができないんです......
催眠術にかかっているのと同じなんですの。必死に拒んでも拒みきれないんです。命令通りに体が動いてしまいます。正体をなくして寝こんでいる主人の寝室へ、刃物を持って自分が鬼女のように忍んで行くのをどうにもできません。主人を突き殺したら、次は娘の番だ、と声が命じています。悪魔の娘を殺せ、殺せって......」
母親はわなわな体を震わせ始めた。汗がどっと顔面に噴き出してきた。その時の暗い情念を再現しているようであった。丈と由紀は息を吞んで彼女を見詰めていた。

「すると、娘が暗い廊下に立っていました。大人びた眼付をして、大人びた声で、あたくしの前に立ちふさがったんです。お止めなさい、そんなことしちゃいけないってあの娘がきびしい声でいいました。雷に打たれたような心地でした。お母さんにはそんなことはできないわって......あたしたちをその包丁で殺そうとすると、お母さんが死んでしまうわって、娘はいいました。あたくしは何かよくわかりませんが、別人のような口調で怒鳴り散らしていました。口が勝手に動いて、恐ろしい下品な言葉を吐いてしまうんです。自分で自分がどうにもなりません。喚きながら、刃物をかざして娘に跳びかかろうとしているんです。すると娘が叫びました。幻魔よ、退れって......体が痺れたようになって、あたくしは刃物を落してよろめきました。娘の叫び声にはそれほどの大きな力があって、大きな重い物に体当りされたようなショックがありました。後はもう何がどうなったのかわかりませんでした......でも、あの時の娘の声音は今でもはっきりと耳の奥に残っております。その声音だけで猛り立っている人間を打ち倒せる声でした。娘にはやはり特別な恐ろしい力があると思っております。
その夜以来、あたくし娘が恐ろしくて仕方がありませんでした。どうしても気圧されてしまいます。娘がいつも、あの夜のこと話してあげようかといいだすんじゃないかという気がして......同じ家に住みながら、いつもビクビクしてすごしてまいりましたの。娘の目が軽蔑と非難の色をたたえてあたくしを見ているかと思うと、身がすくみます。娘はあたくしの秘密を何もかも知っているという気がしてなりませんの。主人への復讐心からこっそりと犯したあやまちや秘密の仕返しを全部......つい最近まであたくし生きた空もなく暮してまいりました......」
「今でもよくその〝声〟を聞きますか?」
丈は考えに耽りながら尋ねた。母親が首を横に振る。
「いいえ、今はもう守護神様の声は聞こえません。前は時々、頭がぼうっとなっている時に聞くことがありましたけれども、あの恐ろしい夜のようにはっきりと圧倒的に力強く聞こえたり、命令に体が従ってしまって、自分の思い通りにならないようなことはありませんでした」
「今でもそれを、守護神の声だと思っておいでですか?」
「その時はなんの疑いもなく守護神様だと思いこんでおりましたけれども、今では......やはりちょっとおかしいという気がいたしましたものですから」
「そうですね。本当に守護神だというなら、人をそそのかして重い罪を犯させるはずがありません。もしお母様が声のいう通りにしていたら、大変なことになるところでした。今日のように幸せな日は決して来なかったんです。そうでしょう?」
「はい。今ははっきりとそれがわかります。本当の守護神様ではなくて、やっぱり魔性のものが化けていたんでしょうか?」
「間違いなくそうです。本当の守護神というべき方は、郁江君の口を借りて語ったんでしょう。だから、声の力だけでお母様を制止することができたんです。魔性のものを吹き飛ばし、退けることがわずか五歳の郁江君にできたというより、郁江君を守護している宇宙エネルギーがご家族を守ったという方が正しいいい方だと思います。やはり、郁江君にはなすべき使命があるので、大きな力によって守護されていたわけです。今度のことでもそれがはっきりと証明されたのではないでしょうか」
「では、やはり娘には、主人がいうように偉大な神様が懸っておられるわけでございますか?」
「それとはちょっと違うと思いますが、......宇宙を支配する大きな意識、お母様にわかりやすくいえば、宇宙を創造した大神霊の意志に従って郁江君は生きているために、大きな力で守護されているのだとお考えになってみてはいかがでしょうか? だからこそ、今日のように幸せな日が来たわけです。もうお母様も、郁江君の目に非難や軽蔑の色を見ることはないはずですが、どうでしょうか?」
「はい、本当に娘が優しくなりまして、あたくしもやっと重い荷物を降したように、軽々と息がつけるようになりました......これも本当に東先生のおかげでございます。先生はあたくしども一家の救い主だと主人とも話しておりますの。どんなに感謝いたしましてもお礼を申し上げても、とうていしたりないほどでございますわ......」
郁江の母は、改めて自ら喚起した感情の虜になっていた。
「僕はなにもしていません。郁江君が本来の自分の姿に気付いたからです。お母様との間の気まずさを吹っ切ろうと努力したからです。郁江君は人を愛し、人に愛されることがどんなに素晴らしいか、身をもって証明してみせたんです。僕の力ではありませんよ」
「さようでございますか......?」
母親は得心が行かないという表情だった。
「でも、娘は東先生にお目にかからなければ、あのように変ることはありえなかったはずでございましょう? 娘はなにもかも東先生のおかげと申しておりますし......それで、主人とも相談いたしまして、なんらかの感謝のしるしを表させていただきたいということになりましたのでございますが......」
「?」
丈は不思議そうに相手を見返した。なんのことかぴんと来ないようだった。丈にでもそういうことはあるのだな、と由紀は発見をしたような気分になった。由紀には相手の真意が一瞬でわかったのに、あれだけ洞察力に富んだ丈が理解不能なのである。意表を突かれると丈でもそうなのだ。
「お礼と申し上げてはなんでございますけど、私どもの感謝のしるしに、会の方へ寄附させていただけますでしょうか? 娘も今後、お世話になりますことですし......」
「いや、それはいけません。僕は、寄附のようなものは認めておりませんので、お心だけでけっこうです」
丈はあわてていった。丈が狼狽を示すなど滅多にないことだし、由紀は楽しく見ていた。
丈にはやはり子供らしいナイーブさが蔵されていることがわかる。それは普段の丈の冷静さや聡明さからは想像できないものだ。丈の内部の子供らしさは、こうした思いがけぬところで顔を出すのだった。
「でも、先生。平山さんは会にたいそうな後援をなさっているのでございましょう? 私どもにはもちろんそんな、たいしたことはできませんけれども、心ばかりの寄附をお許し願えませんでしょうか?」
「しかし、郁江君にもボランティアとして、無償奉仕していただいていますから......本来なら給料をお支払いしなければいけないんですけど、財政の方がまだまだしっかりしていないんで......」
「それでしたら、なおのこと寄附させていただけませんかしら? 本当にごくわずかでお恥しいような額なのですけれども、お納めいただければ、本当に幸いなんですけれど」
母親は見違えるように迫力を発揮して迫り、丈は困惑の顔を由紀に向けた。由紀は内心笑いを堪えていた。丈でも困ることがあるのだった。
「お母様、今先生は会への寄附申し出を全部謝絶しておりますの」
と由紀はようやく助け舟を出した。
「寄附集めに血道をあげる新興宗教まがいのことは絶対に避けるというのが先生のご方針ですので。ですから会を大きくすることもしませんし、高い会費や寄附を集めることもいたしません。現在の状態ですと、それほど多額の活動資金は必要としないからです。他にも寄附を申し出て下さる方は沢山いらっしゃるのですけど、みな辞退させていただいております。一つには寄附をいただくことに慣れると、お金の扱いに安易になるという先生のお考えもあるので......そういう先生の清潔さ潔癖さをどうかご理解いただきたいのですけれども。
ですから、会は今のところ、財政的にはぎりぎりの状態でやっておりますけれど、それは先生が基本的な姿勢を、会の内外に対してきちんと示すという意味ですので、どうぞご理解下さい」
「さようでございますか......」
母親は依然として腑に落ちぬ気ぶりであった。それも当然かもしれない、と由紀は思った。丈の姿勢は潔癖ではあるが、ある頑くなさが感じられる。自信のなさを感じてしまうのだ。寄附を受け容れることで、会の活動資金が潤沢になれば、丈はもっと大きな可能性を試すことができるはずだ、と思うのだ。海外に対して働きかけることも可能になる。丈のように巨大な人間は、たとえば米国などでより正当に評価され、受容されるのではないかと由紀は思っている。日本の伝統的社会は著しく儒教的であり、偏狭にすぎて、けたはずれに巨大な人間を許容できぬうらみがあるようだ。実力主義の米国などはもっとはるかに開放的であり、〝力〟を示す機会を与えることを拒まない。おそらくは丈はまず米国へ行って〝力〟を公認され、〝逆輸入〟という形で日本へ凱旋すべきなのである。権威のお墨付に極端に弱い日本のマスコミ社会はまっさきに東丈崇拝の旗振りをつとめるであろう。その熱狂ぶり興奮ぶりが目に見えるような心地がした。それは由紀自身の裡にも高揚をかきたてずにはおかなかった。
〝米国超能力者協会〟を設立したメイン財団の大立者メイン社長からじきじきに丈に対して電話が入ったというニュースが念頭に甦り、由紀のひそかな興奮をいや増しにした。丈は今まさに本格的に飛翔を開始した。丈の名が全人類の盟主として全世界に知られるのも遠い将来ではない。彼は真の意味で巨大な人間であり、彼にふさわしい乗物は、現在の会のようなちっぽけな組織ですむわけがなかった。
しかし、丈はいまだに足許を探るような慎重さで歩一歩とじれったい歩みを続け、走り出す気配もない。
自分は焦れているのだろうか、とふと由紀は疑った。自分の期待通りに丈が動かないので、苛立っているのだろうか。母親に向って丈を代弁しながらも、本音では異った期待を抱いている。
「では、先生、もし将来、先生が会を大きくなさって、資金を必要となさる時が来ましたら、私どもの寄附を許していただけますでしょうか?」
母親は引き退らずにからめ手から攻めてきた。
「そうですね......もし、将来、活動を拡大する時期が来ましたら」
と、由紀は丈を振り返りながらいった。
「ご好意を頂戴することになるかもしれません。いかがでしょうか、先生!」
そうしなければどうでも母親は気がすまないのだろう。あくまでも拒否するのは、相手に対して思いやりが足りないかもしれない。
丈が頷くのを見て、由紀はほっとした。丈があくまでも拒むのではないかという気がしていたのだ。潔癖なのはわかるが、あまりにも徹底すると片意地とも狭量とも取れる。平山からの後援を受け容れていること自体が自家撞着となってくる。
ドアにノックがして、郁江の父親の声がした。妻が丈たちと応接間に閉じこもったまま長引いているので、注意をうながしに来たのであろう。
「お話し中、失礼ですが」
と、父親は遠慮がちにいった。由紀は身軽に立って、ドアを開いた。パーティーの活気がノイズとなってどっと乱入してくる。
「今、お話は終りました。どうぞお入り下さいませ」
「家内がつまらぬ内輪話で、先生をお引きとめしているのではないかと気になりましてな。どうも申しわけありません。実はちょっとお客様がもうお一人見えまして......」
母親が何事かいいかけるのを片手で制していった。
「お客様?」
由紀ははっとした。父親は抑制しているが、ただならぬ雰囲気を放っていた。
「先生に逢いたいというお客様ですの? まさかこんな所まで......」
「いや、実は郁江に......でも、一応お知らせした方がよいと思いまして」
「お客様といいますと?」
「実は、久保陽子さんとおっしゃる方なんですが......たった今突然訪ねて来られまして」
「!」
由紀は顔色が変るのを感じた。冷たい感触が胸裡に触れ、息を吞んで丈に目を向ける。
丈の顔はいかなる動揺も表出してはいなかった。考え深げに頭をかしげている。
由紀にはとっさにどう対処していいのか見当がつかなかった。あまりにも思いがけない突発事に見舞われた狼狽だけがあった。おそらく郁江の父親も同じであろう。
「久保陽子は今どこにいますか?」
と、丈は尋ねた。少なくとも彼には、由紀たちが覚えているようなショックはないようであった。
「今、玄関に見えております......」
「郁江君にはまだ?」
「はあ、とりあえず先生にお知らせして、ご判断を仰ごうと......」
父親は丈に対して全面的に依存を示していた。自分の息子に等しい年齢の丈が、この高級官僚にはいまや精神的支柱になっており、それを疑う気配もない。
「とりあえず、空いている部屋に案内してはいかがですか?」
と、丈はごくスムーズに指示を下した。
「郁江には......?」
「知らせて下さい」
わかりました、といって父親は応接室を出て行った。何もこんな時、パーティーのさい中に来なくてもいいのに、と由紀は腹立たしくなった。パーティーがだいなしではないか。
しかし、丈がどう思っているのか、表情からは察しようがなかった。しんとした神秘的な表情で考えこんでいる。そうなった時の丈には言葉をうかつにかけられない気持になるのだ。丈が高次元意識との交感に心を集中しているなら声をかけてその神聖な沈黙を乱すことはできないと思ってしまうのだった。
「あの......久保陽子さんというのは......」
と、母親が不安げにいいかけた。怯えた色が面に広がっていた。不思議なもので、久保陽子が〝幻魔〟の手に落ちたことは、いつの間にか知らぬ者がなくなっていた。
由紀は母親に目配せをして、応接室から出た。
「大丈夫です。先生もいらっしゃることですし......」
妙な慰めようだと思ったが、そうでもいわなければ、母親に平静さを保持させるのはむずかしいかもしれなかった。
パーティーのざわめきが止んで、家中がしんと静まりかえっていた。久保陽子の来訪が一同に知れわたったのであろう。
「どうぞ、心配なさらずに......」
と、由紀は母親にささやいた。居間から郁江が現われ、頷いてみせた。引き緊まっているが、とくにあがっている風でもなかった。家中が胸を締めつけられるような緊張に摑まれているのに、郁江だけは淡々としていた。
「あたしが話します」
と、郁江が小声でいった。居間から内村など何人も出てきたが、どうしていいか迷っているようだった。
「陽子をあたしの部屋へ連れて行きます。パーティーは続けて下さい」
郁江は丈のことは一言もいわなかった。丈に依存しきっていないのは彼女だけかもしれない、と由紀は思った。由紀でさえ真先に丈の判断を仰ごうと反射的に動いてしまうのに、郁江だけは別の観点から考えることができるらしいのだ。それは小面憎いと由紀に感じさせるほどだった。その自信の線の太さに対して反感さえ徴してくる。郁江は自分には縁のない自信を持っているようだ。それは丈に信頼されているという不動の自信に違いなかった......
「じゃ、後をお願い」
といって、郁江は足早に玄関口へ出て行った。由紀は手を伸ばして、後を追おうとする母親の肘をおさえた。郁江にまかしておいた方がいいと判断が働いたからだった。感情に囚われやすい母親が出れば、またぞろもつれだすことが充分に考えられたからだった。
「郁江さんがうまくやりますから......」
と、ささやく。母親が不安げに躊躇した。
「でも......」
「前の郁江さんじゃありませんから。ちゃんとやりますわ。なにも心配はいりません」
その言葉通り、郁江はうまくやるだろう、と由紀は確信していた。おそらく何事が生じても郁江は動ずることなく切り抜けてしまうだろう。年長で経験を積んだ由紀よりもうまくさばいてしまうに違いないのだ。
その思念は嫉妬を伴っていた。それがわかっていても、振り払うことができなかった。郁江をこれだけ変貌させてしまうのに、いったい彼女はどのような経験を丈とともにしたのだろう......
9
一月下旬の第一回セミナーが目前に迫ってきて、その準備が会を白熱化させていた。
講演会と異り、合宿で二日間にわたるため、多様なプログラムを用意しなければならないのだ。数十名が常時七階に泊り込み、昼夜を分たず高速回転のエネルギッシュな雰囲気で充たしていた。いつも会員たちが小走りに右往左往して、ひっきりなしに声が飛び交っている。熱狂的な雰囲気が更に若者たちを高揚に駆り立てる。幾つも編成された班が絶えず車座になって床に直接座りこみ、ミーティングに熱中している。
共通の目標を有していることが、会員たちの心を緊密に結びつけていた。しかし、お祭り騒ぎの軽躁さがないわけでもなかった。興奮した若者たちは特殊なきなくさい波動を発散している。だれもが否応なしに巻きこまれてしまい、冷静さを保持するなど、とうてい不可能であった。全てを投げうっても、自らエネルギーの奔流に巻きこまれることを望むようになってしまうのだった。
そうした奔騰感覚に歯止めをかけるなど、だれ一人考えつかぬことだったのだ。
平山ビルの一階でも、加速感覚は七階のそれに劣らなかった。秘書室で扱う仕事は数日ごとに倍増して行くかに思われた。人手が足らずに新顔の秘書見習が二人入ってきた。フルタイムの秘書は杉村由紀と井沢郁江だけであり、とうてい仕事量の増加に追いつけなかった。
マスコミ対策には大きなエネルギーを集中しなければならなかったし、会員希望者の問い合せにも手間を取られた。多い日で、一日に十人以上も直接会を訪ねてくるのだ。電話や手紙の問い合せは引きも切らない。
東丈が新入会を抑えている限り、全くの労力の浪費と思われた。〝座り込み〟が七階どころか、一階のロビーでも行なわれ、管理人からうるさく苦情が出た。
しかしこれも、杉村由紀の感じるところではほんの手始めにすぎなかった。怒濤の前触れなのだ。マスコミはようやく東丈に注意を向け始めた段階にすぎなかった。この三月初めに東丈の最初の本が刊行された時、本格的なマスコミ攻勢が開始されるのである。
その怒濤を処理する体勢を作るどころか、前触れですでにパンク状態になっているのが現状であった。
〝幻魔の標的〟の初校ゲラが出はじめて、丈はもっぱら校正に追われていた。誤植の多い初校ゲラで、手直しの大部分をやってしまわなければならないのだ。再校から以後は著者校正をあまりしないようにと釘を刺されている。刊行期日が遅れてしまうと出版社はいうのである。
それで丈は書き直しを急ぎ、スケジュールは更に狂いっ放しになった。それに伴い、秘書の由紀の時間も押せ押せになり、プライヴェートライフが皆無に近くなった。
早い話、自慢のロングヘアを手入れする時間的余裕もないのである。美容院で何時間も費しているわけには行かない。由紀は生れて初めて髪を切り、スチュワーデスのようなショートカットヘアにしてしまった。とくに感慨は何もなかった。多忙とは恐ろしいことであった。
それは高速車を運転しているのに似ていた。前方に向けて目を瞠っているので精一杯であり、なりふり構ってはいられないのだ。
しかし、いかに多忙な時間で一日を塗り潰されても、忘却できない悩みは一つずつ溜まって行く。
由紀は間もなくマンション購入のローンが支払えなくなることに気付いていた。会から出るアルバイト料にも及ばぬ低給料ではどうにもならない。マンションの部屋を手放して安い民間アパートに引越しする他はなかった。しかし、そのために費すべき時間と労力が捻出できない有様である。
生活費を満たすためには宝石類を売らざるを得ない手許不如意ぶりであった。友人に借金に行けばいいのだが、〝GENKEN〟入りを強く反対された手前もあり、足を向けづらかった。
手許不如意というのはてきめんであり、ひどく肩身がせまくなってくる。心が小さくいじけてくるのかもしれない。由紀のようなシックな女性が、まともな食事がとれず、デニッシュパンだけをひとりで食べているなどだれにも想像のつかないことであろう。電車のある時間帯に帰宅できず、深夜、早朝タクシーで高輪の自宅へ帰ると、自炊をする余力もなくなってしまうのだ。由紀はごく若い時分にも、これだけの窮境は覚えがなかった。三十にもなって質屋通いはあまりにも気が引ける。
が、むろん文なしだからといって、いじけているわけには行かない。他に心配事はいくらもあって、ゆっくりと己れだけの悩みにかまけていられないのだ。
マスコミ対策の不備も気になるし、組織内外で生じているトラブルの芽も気疲れのもとである。体が幾つあっても足りない忙しさなのに、あれこれ気をもみ続けなければならないのだ。
一つには高鳥慶輔の問題があり、更には久保陽子の問題があった。いずれも重大なトラブルに発展しかねないと由紀は感じていた。しかし、他の問題でもそうだが、肝心の東丈はあまり気にかけていないようなのである。いかに由紀が気をもんでいても、丈がさほど関心を持たないと知ることは、ひどく彼女を気抜けさせた。
あるいは関心はあっても、そこまでは構っていられないということなのかもしれなかった。著者校正を始めた丈は、再び寝食を忘れてゲラを真赤に朱筆で埋め始めている。改めて由紀が彼の関心を惹くのは、この有様では容易なことではなかった。
トラブルの芽は、高鳥や久保陽子だけではないし、内憂外患の種は目白押しになっていた。
警察が丈に関して内偵を開始したことはまださほど噂となって広まっていないが、いずれは俗耳に入ることを覚悟しなければならない。一度漏れれば、マスコミは狂犬のように猛り狂って殺到してくるであろう。口止めはしてあるが、いつ何時野火のように広がりだすかわかったものではなかった。
久保陽子のケースがそうだ。いつの間にかだれ知らぬ者はないという有様になってしまった。さすがに会員たちは押し殺しているが、今にもはじけんばかりに好奇心が高まっていることははっきりしていた。
青年部責任者の内村などがしきりに注意を喚起しているが、人の口に戸は立てられぬというたとえ話そのままだった。陰惨な噂話が強酸のようにしみこみながら広がり、人心を腐蝕させにかかっていた。
丈がなんらかの警告を発すべきではないか、と由紀は思うが、丈はなにもいわない。不思議でならないが、彼の真意を忖度するなどおこがましくてできないし、敢えて進言する勇気もなかった。
丈には丈の考えがあるのだろうと思うしかないのである。陰惨な感情が会を腐蝕しているのに、放置しておくにはそれだけの理由があってのことだろう。丈は組織内部の動静はなんでも心得ているはずである。それを知れば、由紀に限らず、余計なことを丈に進言して煩わす気になれない。
気儘な郁江が、内村などを動かして噂退治にかかっているようだが、卓効はあがらないようであった。ずばりと釘を刺す以外に、風聞を制圧するすべはないのだが、微妙な問題だけに、内村たちははれ物に触るような手つきだった。
現に久保陽子が会に顔を出すようになっているのだから、ますます困難は増大した。由紀にしても、陽子がまさか会に復帰するとは予測もつかぬことであった。
だれもがまさかと思うようなことが現実に起きたのだ。
由紀はいまだにはっきりと判断を下しかねているところがあった。久保陽子の復帰が会にとって、どんな意味を持っているのかよくわからないのだ。
以前の久保陽子について知らない由紀には戻ってきた彼女がどれだけ変ったか、比較することができない。しかし、真先に感じたのは、心狭いかもしれないが、──なんで帰ってきたのか、という強い疑問であった。なにも今になって戻ってきて、問題を更に複雑化し、困難にすることはないではないか、と憤懣を覚えてしまったのである。
そんなことをいきなり考えた自分の冷酷さに気が引けてしまい、由紀はしばらく自己嫌悪にとり憑かれていた。己れのあまりの狭量さ冷淡さ......それは酷薄とさえいえるほどであり、後で考えるたびに全身が恥辱で火照った。
それゆえ、由紀は久保陽子問題を冷静に考察する立場になかったようである。頭から拒絶し、否定する態度は、いかなる観点からも会の精神と相容れない。〝人類の愛と友情の宇宙的連帯〟などと口幅ったいせりふを自分は二度と吐く資格がないと思った。
それに引きかえ、丈はいうまでもなく井沢郁江の態度のみごとだったこと。由紀は面を上げられない気分に追いこまれた。
あのパーティーの夜、井沢家の玄関に佇んでいた久保陽子の姿は忘れられない。顔には血の気がなく、寂しそうに見えた。こんなに孤独な少女の姿を由紀はいまだかつて見た憶えがない。華やかなパーティーで上気したヒロインの郁江とは実に対比的であった。
「ごめんね、いきなり来ちゃって......」
と、久保陽子は低い声で早口にいった。
「でも、どうしてもおめでとうといいたくて......来られる義理じゃないと思われるかもしれないけど、どうしても来たかったの」
久保陽子は丈に最初会釈しただけで、彼とは目を合わせないようにしていた。丈の視線を意識するらしく、顔色はますます蒼ざめてきていた。
「ありがとう、お祝いに来てくれて」
と、郁江はさらりといった。由紀にはそれが信じられなかった。自分をもっとも陰惨な恐ろしい方法で殺しかけた相手に対して、これだけ軽々と振舞える郁江が驚異的であった。顔には演技とは思えぬ明るい微笑が浮かんでいる。いったいこの美少女の心の中はどうなっているのかと疑わずにはいられない。神のように寛大な赦しを、己れの迫害者に与えようというのか。
人々が息を殺して、この〝対決〟を注視している気配が息苦しさを家中にもたらしていた。
「上ってくれない? こんな所では話もできないから......」
「でも......」
久保陽子が躊躇する。この場の恐ろしい緊張感に圧倒されているのだろう。
「二階のあたしの部屋で話そ」
と、郁江は軽みを持った口調でいった。
「ね。うるさくないし、静かに話ができるから」
郁江は何の躊躇もなく手を伸ばして、陽子の腕を捉え、引張り上げた。陽子をなだめながら、二階の自室へ連れ込んでしまう郁江の手際には、感心する他はなかった。
自室で、郁江は杉村由紀を久保陽子に紹介した。陽子は息もつけない風情で勧められた椅子に小さく固くなって座っていた。
「こちら杉村由紀さん。東君の秘書をなさってるの。あたしは杉村さんの下で見習秘書をやってるわ」
郁江の紹介はきわめてあっさりしていた。久保陽子が自分のいおうとする言葉で頭を占められており、余分なことを聞いても理解できないとわかっていたのであろう。
東丈は無言のままだった。郁江に全てをまかせた恰好である。
「あたし......こんなことをいうと馬鹿じゃないかと思われるかもしれないけど、なんか悪夢でも見てたみたいな気がするの。どんなことが起こってるのかわかってはいるんだけど、まったく現実感がなかったわ。それが急に、夢から覚めたみたいになって、こんなことをしてちゃいけないんだ、早く立ち直らなきゃ、元の自分に戻らなくちゃと気がついたの。
だから、自分がしてきたことや、経験したことの記憶はあるんだけど、全然実感がないの。自分が操り人形みたいになって、他の力に操られるままに動いてきたみたい」
久保陽子はそれこそ一気に喋った。言葉が先を競ってこぼれださんばかりだった。夢中で喋るので、話は前後し、脈絡を失ってもつれがちではあったが、それは〝悪夢の告白〟という性質を備えていたせいかもしれなかった。
「なんとかしなくちゃならないと思った。それで死物狂いで今日の東君の講演会へ行ったの。入口まで来たけど、どうしても入れなかった。足が進まなくて、体が動かなくなってくるの」
「そこで、高鳥君に逢ったわけね?」
と、郁江が尋ねた。
「ええ。彼に連れて行ってもらって、やっと会場に入れたの。一人じゃとても入れなかったわ」
「高鳥君は陽子のこと知ってたの?」
「どうしたんですかって声をかけてくれて......そういえば初めからあたしのこと知ってるみたいだった。どうしてかわからないけど」
久保陽子は戸惑いながら答えた。なぜ郁江がそんな質問をするのかわからないようであった。
「高鳥君は超能力者なのよ。だから、きっと陽子のことがすぐにわかったんじゃない」
「超能力者......?」
陽子は息を吞み、うつむいた。苦しい感情に堪えているようだった。
「あたし、目が覚めたような気がするんです......」
彼女は顔を上げると、丈に向っていった。
「ずっと、苦しいわけのわからない感じが続いていて......でも、目が覚めてみると、孤りでいるのがもっと苦しいんです。やっぱりどうしても帰りたい......自分のいる所はGENKENしかないとはっきりわかったんです。今は、どうしてあの時はなれようとしたのかわかりません。催眠術にかかったように頭がぼうっとなってしまって......でも、そんな時でも、本当は帰りたかった。ずっと長い間、高熱が出ているように意識が混濁していたんですけど、早く帰りたいとそればかり思っていたみたいで......」
「よく憶えていない?」
と、初めて丈が口を開いて尋ねた。
「ええ。ぼんやりとところどころ憶えていますけど......自分が自分じゃなくなってしまったみたいなんです。自分が何を考えているのかよくわからなくて。だから、余計に苦しくなってしまったんです」
「僕らが迎えに行ったことは?」
「少しだけ......」
陽子は体を石のように硬くして、蚊の啼くような声音でいった。
「本当に悪夢みたいなんです。恐ろしいことばかり続いて......」
「それで今は大丈夫?」
丈が質問を続ける。郁江は目を瞠ってやりとりを聞いていた。
「はい。去年の暮れごろから、だいぶ頭がはっきりしてきました。重苦しい幕が落ちたみたいになって。自分でものが考えられるようになったんです。それまでは邪魔ばかりされてしまって......」
由紀は痛ましい思いで、蒼白な顔をしている少女を見詰めた。やつれて肩は薄くとがり、全身に生気というものがない。〝午前二時の訪問者〟の青光りする凄惨な貌は記憶に生々しいが、眼前の少女の顔はそれとうまく重ならなかった。幻魔の破壊的な負エネルギーを借りて、郁江を呪いの想念で滅ぼそうとした猛悪な執念というものが、今の久保陽子にはいささかも感じとれないのである。
「会に帰りたいのね?」
と、郁江が尋いた。敵意も同情もない、ただの声だった。陽子は幼女のように首をこっくりさせた。
「帰りたいの。いつも帰りたくて仕方がなかった。でも戻れなかった......頭がぼんやりとなって、自分が自分でなくなってしまうし......でも、みんなのところへ帰りたい、東君のところへ帰りたい。そればかり思っていたわ。こんなことは悪い夢なんだ......だから目が覚めたらきっと戻れるって、そればかり思っていたわ。でも、自信がなかった......」
「悪い夢から覚めたんだ」
と、丈がいった。
「必死で帰りたいと思っていたから、その一念が通じたんだよ」
由紀ははっとして丈の顔を見た。驚きの念で心がいっぱいになった。丈は久保陽子をどうしようというのか? まさか今更、彼女を会に迎え入れるなど、できるはずがない。
「会へ戻りたいんです」
久保陽子は抑えてはいるが切望をこめて訴えた。
「こんなこといえた義理じゃないかもしれないけど、どうしても......みんなから白い目で見られるかもしれないけど、それでもいいんです。辛抱します、当然のことだから......郁江ちゃんにも他の皆さんにもなんといって謝まればいいかわかんないのだけど、でもあたし、他に行くところがないんですもの」
郁江までもがはっとしたように丈の顔を振り向いた。久保陽子はうつむけた顔の、蒼白い額から必死なものを立ち登らせていた。
久保陽子はどうかしている。今更どの面さげて会へ戻れるというのか、と由紀は悪寒とともに考えた。陽子が一度は幻魔と合体したことは会のだれもが知っていることだ。みなにそれを知られているのに、陽子はなおも会に復帰しようというのか。そんなことを認めたら、会は激動に見舞われ、計りがたい危機を迎えることにもなりかねない。久保陽子だけではなく幻魔が会の中に入りこむことになるのだ! マスコミがこの事実を嗅ぎつけたらどうなるだろう!?
由紀は激しい拒否の衝動につきあげられ、体を硬くした。いけない! と大声で拒絶したかった。
しかし、その感情が恐ろしく狭量な心から出ていることも、同時に認めざるを得なかった。直感であるとともに、異分子を排除しようとする自己防衛的な心理機制であるに違いなかった。
由紀は息もつけない硬直した気分で、丈の反応を見守った。丈がなんと答えるかあらかじめわかっていた。
「最初、会は君といっしょに作ったんだ。君の席はいつでもあけてある。陽子が戻ってこなければ、僕の方から呼び返しに行こうと思っていた」
郁江があっけにとられていた。なにもそこまでいう必要はないと思っていたのかもしれない。
「............!」
陽子の額に血の色が射した。強い感情の奔騰に堪えているように体に力がこめられ、小刻みに震えだした。泣くかなと思ったが、陽子は泣かなかった。かえって由紀は妙な気がした。世界中がなにもかも異和感で占められてしまったようであった。
丈は普通の人間とは異った考え方をする。それだけに彼の配慮の深さを推し測ることは簡単にはできない。それがわかっていても、踏み出した足の下に大地がなかったようなショックの虜になってしまうのだった。
「もちろん、君を歓迎するよ。君が自分の意志で戻ってきてくれて嬉しい。何も心配することはない......僕が保証する」
丈の口調は断乎としたもので、だれも誤解の余地がなかった。主宰の丈が自らの責任をもって認めたのだ。だれに反論ができよう。
由紀は蓄めていた肺胞の中の空気を、気付かれないようにそろそろと吐き出した。彼女にももはや異論はない。丈が保証したのだ。彼女が懸念や危惧を表明する筋合はどこにもなかった。
自分如き卑小な者に、盟主である丈の誤謬を指摘する資格がどこにあろう。
こんな大きな異和感を持つこと自体、丈への不信の表明であり、不遜にすぎることに違いなかった。由紀はそう信じこもうとした。自分に対して懸命に説得を加えていた。さもなければ、己れを保持することができないと感じていたのだ。
あのパーティーの夜から一週間以上も経つのに、杉村由紀の心にとり憑いた異和感はいっかな離れて行かなかった。
どう理性的に考えてみても、直感を否定することはできなかった。論理的でなく倫理的でないのが直感というものである。頭で考える限り、丈の決定は正しいとわかっている。むろん久保陽子の復帰で当然、会は動揺に見舞われたし、カビのようにはびこる噂をとどめようもなかった。
まさにそれは驚天動地といっても過言ではなく、だれもがえっと大声を出して尋き返さざるを得ない衝撃を味わった。
しかし、それでもなお、条理によれば認めるほかはないし、それはGENKENの精神に則っているに違いなかったのである。だれでもちょっと考えてみれば、陽子が会に戻りたいと希望するのを拒絶できないとわかる。一度は幻魔の犠牲になり、幻魔の制圧下から必死で逃れてきた不幸な少女を拒むとしたら、会はもはや倫理的基盤を失い、存続する意義を見失うことになる。
丈が躊躇せず、陽子を受容したことはさすがというべきであった。大人の感覚で思考する杉村由紀ですら、排除の衝動の虜になり、それから逃れられずにいる始末なのだ。
郁江もまた、丈の素早い決定に驚きの目を瞠っていたことは否定できない事実である。他の会員にしてみれば、そんなことが起こったこと自体、青天の霹靂であったろう。
むろん正面切って丈の決定に異議をとなえる勇気はだれ一人持ち合わせていなかった。会員は、丈の決定を疑いなく受け容れる派と、陰湿な風聞を取り沙汰する派と二つに分れた。丈に対して狂信的な態度を示す派は、噂を耳に入れること自体を強く拒否した。そうでない会員たちも、丈のやり方に異議を誦えるというわけではなく、会の前途にそこはかとない暗雲を見出しているに留まった。
ともあれ会の空気がぎくしゃくとしたことはだれにも否定できなかった。陽子の復帰は会を揺すり、その揺動は長く尾を引こうとしていたのである。
由紀としては、久保陽子が秘書室に入ってこないことで、安堵の息をついているというのが本音であった。建前がどうあろうと、久保陽子という一度は幻魔と合体した少女は無気味であった。
そんなことを口に出せば、丈の強い叱責を受けるであろうが、少女が幻魔と切れたという保証は何もない。法定伝染病の保菌者が会に入りこんだほどの不安感は否みようがなかった。由紀のみならずだれもが、少女に対して腫れ物に触わるような気分を抱いていたことは確かである。
由紀自身を含めて、会は建前と本音の間に分割されてしまい、息を潜めて推移を見守るという状態にあった。この次、どのような事態が生じるか、だれ一人不安から自由ではいられなかった。
黒雲のように無気味なものを、久保陽子は象徴していたのである。
10
一月二十四日、杉村由紀は私用で午前中三時間ほど事務所をあけた。由紀にとっては初めてのことだった。
この一か月間、休祭日も休むことなく事務所に詰めきりだったのである。東丈が姿を見せない時でさえ、由紀が秘書室を守っていなかったことはない。私用は溜まりたまって身動きがとれぬほどになっていた。
一か月が瞬く間に過ぎ去ってしまったのである。しかし昨年のクリスマス講演会この方、時間がこれほど濃密に流れたことは、かつてない経験であった。
顧れば、過ぎ去った時間の一分一分、一秒一秒に比重の大きな記憶が詰まっている。由紀の大判の手帖には、日記というほどではないが、一日のことがメモされている。それを開いただけで、恐ろしくぎっしりと詰まった中身がたちまち甦り、一か月が数年にも感じられるのだった。
凄まじいほど密度の濃い時間が己れを巻きこんで流れている。これまでの半生に匹敵し、あるいは凌いでいるのではないか。しかも、わずか一か月にすぎないのだ。
この調子で進んで行くならば、どういうことになってしまうのか。大質量ともいうべき時間が奔流と化しているのである。考えてみれば、平均睡眠時間わずか四時間足らずだ。丈などものの三時間も寝ていないであろう。
これまでの人生において、由紀は自分が目をあけたまま眠っていたような気がしていた。自己を充実させて生きていたなどととてもいえない。
半生は無為に消費された時間の残骸に埋め尽されていた。自分では一生懸命生きてきたつもりだが、まるで白日夢に等しかった。
東丈に仕えて以来、一日ごとに自分が幼稚になって行く気分の虜になったが、それも当然であった。三十二歳という己れの年輪にふさわしからぬ真の自分がはっきりと見えてきたからだ。
この異質な時間にあっては、浮世のキャリアなど何の役にも立たない。丈や郁江の方が、三十二歳の由紀よりもはるかに成熟した存在なのだ。
人間とは、肉体だけの存在ではないと思い知らされることばかりである。不可思議な成熟を見せる丈ら少年少女は、魂の本質を顕わし始めているのであろう。
彼らにあっては、人間の肉体年齢など無意味だ。馬齢を加えているにすぎず、真の成熟とはなんの関りもない。
かつての友人たちが電話をかけてきたりすると、自分がどんなに比重の小さな、軽薄な時間を生きてきたか、その都度思い知らされる。典型的な都会人女性のそれだ。人生を最大限、享楽に用いようとすれば、時間はさながら淡雪となってとけて消え去る。あとは虚空に漂っている自分を見出すだけである。
しかし、今の由紀には自分が本当に迷妄から覚めたのかどうか自信がない。まるで一つの夢を脱してもう一つの夢に入りこんだように、現実感を把握することが困難だからだ。
都会派のプレイガールだった自分が、まさかこんなに変るなんて、由紀自身にも信じられない......
わずか半日空けただけなのに、事務所ではメモの山が築かれていた。丈の代行者としての役割を、未熟な秘書見習たちが務めることはできない。
「郁江さんは?」
と、由紀はメモの山を崩しながら新参の秘書見習に尋いた。伴野静子という、これまた女子大生だ。由紀は菊谷明子のような人材がほしいのだが、保母さんの明子は学生のように自由な時間に恵まれていない。
「郁姫様は〝無名塾〟へ行きました」
と、女子大生があっけらかんとした答え方をする。何の用事で出かけたのか補足するほど気はしが効かないのだ。それをいちいち教えこむほど煩わしいものはない。由紀は新兵教育係の軍曹にはまったく向いていないのである。
「〝無名塾〟でも今度のセミナーに参加するので、その打合せです。すみません......」
注意されてもさっぱり応えない顔で女子大生が答える。
「でも、会と〝無名塾〟とどうして二つに分けておくんですか? 〝無名塾〟には超能力者だけ集めるんだって聞きましたけど、本当ですか?」
「そんなことはないでしょ。だれからそんなことを聞いたの?」
「夏本さんからです。あの看護婦さん......松代さんという人、〝塾〟の方へ入ったんでしょう?」
「だって、会は今、新入会を停止中だもの。それに松代さんの場合は、先生のお考えだし......超能力者だけ集めるなんてことはないと思うわ。〝塾〟にだって、そうでない人がいくらもいるし、こっちの会にだって......」
「そうですね、杉村さんも久保陽子ちゃんも超能力者ですものね。内村君や高鳥君だって......彼はまだ会員じゃないけど。いったいいつになったら、会員になれるんでしょう?」
女子大生の言葉には羨望と劣等感の屈折した心情がうかがわれた。超能力を持たない会員たちは〝塾〟に対して素直になれないようであった。
丈がいかに〝超能力お荷物論〟を展開しても、どの程度効果があるか疑わしい。超能力者を特別視し、羨望する風潮はとどまることを知らないようだ。超能力を渇仰する人々を説得することは、丈にさえ不可能なのではないか、と思われた。
新年講演会をきっかけに、青年部長の内村久雄が超能力に目覚めたことは、会員たちにとり大きな刺激だったのだ。東洋病院看護婦、松代直子の開花も衝撃的であった。クリスマス講演会では多くの超能力が発現し、〝無名塾〟発足の機縁となった。杉村由紀の参加もそうだ。
会員たちが今回のセミナーや二月講演会に大きな期待をかけるのは、避けがたい風潮であった。次は自分の番かもしれぬ、と思うのは人情であろう。
そんな願望は気ぶりも見せぬ夏本幸代にしても、内心は期待で波立っているようである。いや、だれ一人冷静ではいられないというのが真実なのかもしれなかった。
秘書見習の夏本幸代は、〝塾〟に対し反撥する心情を抱いている。〝塾〟が会の足を引張るのではないかと危惧を会員たちに漏らしているらしい。超能力に目覚めた者たちへの変形した嫉妬だと由紀は見ている。
「夏本さんは?」
と尋ねた時、執務室のドアが開いて、夏本幸代が老成した顔を出した。
「ちょうどよかった。杉村さん、先生がお呼びです」
なにかしら傲慢なものを感じさせる物腰で夏本幸代はいった。この女子大生はへんに大人びているが、時折、理由もなく傲岸な雰囲気を漂わせることがある。杉村由紀に対してもそうなのだ。
あまり切れはよくないが、自分では才知がありあまると信じている。ひどく独善的な気性の持主のようである。由紀がそれとなく注意する程度では全く通じない。多少きつくいわれても、一向に痛痒を覚えない鈍感さで鎧っているのだ。独善的、ひとりよがりな人間の通弊であろう。
「すみませんでした。私用で秘書室を空けてしまいまして......」
由紀は真先に詫びた。由紀がいず、更に郁江が不在では、丈が不便をかこったことは目に見えている。温室育ちの女子大生たちは、自分で判断できないし、気働きに欠けることは驚くほどである。いちいち注意していては口うるさい老婆みたいだし、顎がだるくなってくる。
その点、丈の心を汲みとるのは郁江が格段に優れている。郁江が超能力者であるという確認はないが、やはり愛情の深さが違うのであろう。平山圭子もそうだ。愛と忠誠の化身のような平山圭子は、時には由紀を凌ぐ気働きを示す。
「お帰りなさい」
と、丈が執務デスクから顔をあげた。相変らず朱筆を握っている。初校ゲラの著者校正に没頭しているのだ。書き直しに等しい訂正の分量であり、担当編集者の小浜が頭を抱えこんでいるほどだ。刊行日に間に合わないという。しかし、丈は最善を尽さなければ意味はないと譲らない。由紀には出版社の立場もわかるだけに、コメントの言葉がなかった。
丈はますます迫力を増大させている。今にだれにも反論ができなくなってしまうのではないかと一抹の危惧を覚えるほどだ。丈が頼もしくなるのは歓迎すべきことに決まっているが、反面なにやらおそろしくもある。由紀はそのあたり、自分の心にあまり触れたくない。自ら思考停止に陥ってしまう心の傾きが存在した。
「どうぞお掛け下さい」
と、丈が椅子に向って手を動かした。真面目くさった表情であり、由紀はぎゅっと胸の裡が引き攣ったような感じに襲われた。何か手落ちがあったのかと不安がこみあげてくる。私用で外出したことがまずかったのか......反射的にそんなことまで考えてしまった。最近の丈はシビアーになっており、由紀も叱責を受けることがないではない。むろんソフトだが、叱責であることはあやまりようのないものだ。しかし、青年たちに対しては、はるかに手きびしく容赦がない。
由紀は胸苦しい心地で、指し示されたソファに腰をおろした。丈に叱られても平気なのは郁江一人である。免疫でも持っているかのように振舞っている。
「実は、姉と平山さんに相談して決めたことなんですが......」
と、丈はいいにくそうにいい、由紀は鼓動が速くなってきた。丈が何をいおうとしているのかまったく見当がつかないのだ。わけもなく冷たい波動が背中を走り抜けた。
「杉村さんのお給料のことなんです」
「はい」
由紀の戸惑いは隠しがたいものになった。膝の上に組み合わせた手が慄えだしそうになり、懸命に堪らえた。背中に手を廻して丈の視線から隠してしまいたかった。
「今の給料では、杉村さんがやって行けないのではないかと姉がいうもので、平山さんに相談してみたんですが......」
「いいえ、そんなこと......」
声がしわがれているのが気になった。老婆のような声音であった。
「平山さんもそのことはひどく気になっていたというんです。僕が気がつきませんで、どうもすみませんでした。一応、今月分から上げさせていただきますから」
胸が急に展けたような気分だった。呼吸が楽にできる解放感である。
「いえ、どうぞご心配なさらないで下さい。わたくし、今のままでもちゃんとやって行けますから」
その言葉を聞いただけでもいい、と由紀は熱いもので体を充たされた。むろん、どんなにしてでも遣り繰りはして行けるが、丈が気付いてくれなければ、どんなに辛い思いをしたかわからなかった。もしかしたら、丈は結局、自分の苦境に気付いてくれないのではないかと惧れ、その考えを懸命に振り払い、否定し続けてきたのである。
「そんなにはとても頂けません。本当にお気を遣わないで下さい......」
丈の提示したのは、由紀がそれまで板倉俊彦の秘書として得てきたものとほぼ遜色がなかった。貧乏な会がそんなに出せるはずはないのである。
「会から出るんじゃないんです。僕の印税とかそうした財源からです。杉村さんはやっぱり秘書としてきちんとした体面を保つべきだと姉がいいますので......」
「お姉様が?」
「ええ。杉村さんは今後、海外にも僕の代理人として折衝してもらわなければならないし、不自由はさせられないと姉はいうんです。僕も同意見です。だから心配せずに受け取って下さい。超一流の秘書には不足だと思いますけど、今後も改善して行けると思っています。配慮が足りなくて、どうも申しわけありませんでした。姉にいわれてはっとしました。僕がもっと早く気付かなければいけなかった......みんなに配慮が足りないとくどいほど注意しているくせに、恥しいですよ」
「でも、こんなに頂くわけには行きません、本当です......」
由紀は、小切手を執務デスクの上に置いた。顔が上げられなかった。熱いものが今にも溢れんばかりに胸の裡に波打っていた。
「杉村さんは僕の秘書です。秘書が金策に走りまわっているのを放ってはおけません。杉村さんと質屋は似合いませんよ」
「ご存知だったのですか......?」
由紀は小さい声でいった。
「僕に隠しておけると思ったんですか? それくらいわからずにどうします」
「でも、慣れているんです。今度はちょっとピンチになりましたけど......とにかくこんなに余分に頂戴しては、他の皆様に申しわけありませんもの。この半分も頂ければ沢山です」
「杉村さんは会の専従ではなく僕の個人秘書です。会から独立した仕事もしてもらいます。だから、他の専従の人たちのことは気にしないでも結構です。だれも不服に思ったりはしません。それに杉村さんはそれ以上の仕事をして下さっているんですから」
丈の声音には権威があり、由紀にそれ以上の反論を許さなかった。
「小切手を蔵って下さい」
と、丈は執務デスクの向うで立ち上りながらいった。
「はい......」
由紀には逆らえなかった。丈にこれだけ強くいわれては反対のしようがなかった。由紀は丈の語気に押されるように小切手をデスクから取り上げ、ハンドバッグの内に蔵った。心許なく躊躇いがちな動作であった。
「郁江が今度、〝幻魔〟に遭うそうです」
丈はいきなりいった。押し問答の気まずさから逃れようとする唐突さがあった。由紀はあっけないほどころりと気分が変ってしまった。
「幻魔に!?」
「前に田崎氏から話を聞いたでしょう? 江田四朗の手下で、こちらに内通してもいいという下っ端の〝幻魔〟がいるという話をしてたじゃないですか」
「思い出しました。でも、郁江さん、危険じゃないのですか?」
「本人がどうしても遭ってみるといっているんです。なにしろ、郁江は幻魔問題専門家ですからね。危険がないとはいえないが、僕もカバーするつもりです」
「カバーといいますと、先生もごいっしょにお遭いになるのですか?」
「いや......僕がいっしょでなくても、カバーはできます。大丈夫だという自信があるんです」
丈は口辺に微笑を浮かべた。由紀は不意に目が覚めたようになった。
「もしかしたら、先生は〝力〟をお使いになるのでは......?」
「僕が超能力を使うのかという質問だったら、答はノーです。我々が互いに心を結び合っているのなら、必要な時にカバーにまわれるという確信が湧いてきたんです」
「それは、どういうことなのでしょうか?」
由紀は混乱した。最近は丈の心が読みにくくなっている。遠慮して遠感を用いないというだけではなく、遠感に頼ったとしても自信がない。
「ネットワークのようなものですよ。心と心を結ぶ、目には見えない網目が生じている。そのネットの下にあれば、守護を受けることができる」
「わたくし、よくわかりません。鈍感で申しわけございません......」
「たとえば、郁江が浄化を受けて癌から解放されたことにしても、僕が意図的に超能力を用いたわけではありません。僕は心から祈ったんです。自分の〝力〟でなんとかして救済しようとは全く思わなかった。にもかかわらず奇蹟は起きた。みんな、郁江のために祈ってくれた人々の心が結び合って、光のエネルギーを導くネットワークが生じたんだと僕は思います。フロイのような高次元の宇宙意識に祈りが届いて、加護を受けたということかもしれない。ともかく、我々の計算外の〝力〟が働いたことは否定できないんです」
「神の加護があったということでしょうか?」
「そう受けとれば、理解しやすいかもしれないですね。祈りというのは本当に通じるんですよ......光のネットワークという言葉が、ふっと心に浮かんだ時、ああ、これだと思いました。我々が心を結び合い、その緊密さが増すにつれて、ネットワークの〝力〟はどんどん増大してくるんです。それは間違いありません」
「先生がそうおっしゃると、なんだかホッと心が安まるような心地がいたします。先生がいつもともに居て下さるという実感が持てたら最高ですものね。それで、郁江さんは一人で〝幻魔〟と対決するのですか?」
「〝塾〟の人たちがついて行きます。郁江は一人でも大丈夫だと本気でいってますけどね。本当に怖いもの知らずになってしまって、ちょっとばかり心配ですよ」
「自信がありすぎるのでしょうか?」
由紀は郁江を批判する口調になることを気にしながらいった。
「自信過剰というんじゃないでしょう。ものごとに執着があまりないんです。だから恐怖心が稀薄なんですね。でも、充分に用心するようにと注意はしてあります。郁江は自分が、一度死んで甦った人間だと本気で信じています。だから、あんなにものにこだわらず、透明に振舞えるんでしょう......まるで妖精みたいになって人間放れしている。あれで平均睡眠時間は二時間もないというんですよ。普通だったら長続きはしないはずですけどね」
「本当に妖精みたい......でも、どうしてでしょう?」
「郁江は僕の〝力〟をよく受けられる心の状態にあるのだと思うんです。僕の〝力〟と連動しているんです、たぶんね......僕の、というよりはフロイの〝力〟かもしれないけど」
「郁江さんのようにだれもがなれるのでしょうか? たとえばこのあたくしも......」
由紀は勇気をふるってその問いを口にした。内心の葛藤をさしおいて、あまりにも不遜な質問に思えた。こんなに心が絶えず揺れ動いているのに、それを抑えられず、しかも丈の個人秘書として振舞わなければならない。己れの意志にさえ従わないのが、心という不可解な代物であった。
「つまり、それが僕のいう〝ネットワーク〟ですよ。心を集めて一つにするなら、想像もつかない偉大な〝力〟が湧出してきます。その時こそ、幻魔など恐れるに足りないとはっきり自覚できる。本当は郁江がそうであるように幻魔など怖くない。真の自覚を得れば、必ずそうなるんです。僕たちが今やっていることは、心の〝ネットワーク〟を組み上げることなんです。おろおろと迷ったり怖れたりしてはいられないんですよ、杉村さん」
「はい......」
丈はデスクの後ろから出てきて、ソファに座っている由紀の肩に手を置いた。丈が初めて見せる仕草であった。熱いほどの掌の感触を覚えると、由紀の体の硬直や凝りが融かされ、消えて行った。暖いうるおいが心に満ち溢れ、全感覚が透明化し、軽くなった。
由紀はその感覚の沸騰に必死で堪えた。思いがけない激しい情念が心の深みから湧き出し、我を忘れてしまう危険を覚えたからだった。そのために、酔いに抵抗するように息を詰めて堪えていた。
自分があまりにも丈を深く愛していること、そしてその愛が抑制を突き破るほど大きく激しく高まることを恐れているのだ、と彼女は知った。あまりにも危険すぎた。自分の心にはあまりにも生臭い汚濁がありすぎる、と感じていた。
その己れの生臭さは、丈の清浄さにあまりにもそぐわなかった。自分がこの場に居ることを許せなくなるかもしれないほどだった。
少なくとも、顕在意識において、自分は丈に対し生々しい性愛を覚えたことはないといえる。しかし、心の深奥から突き上げてくる波動は、そんなに生易しい取り澄ましたものではないようであった。それが由紀を怯えさせたのである。深みから湧出してくる情動が、彼女の官能を揺さぶり、女の業を目覚めさせてしまいそうな気がした。戦慄となって、それは由紀の肉体を突き抜けて行った。
「他にもいろいろ問題が起こっています」
丈は、由紀の肩から掌を放して、執務デスクの後ろに戻って行った。彼女は辛うじて息がつける思いであった。身裡にたぎりかけている情動を、丈に気付かせてはならないと思った。鎮静の努力のため、体中にじっとりと汗が滲んできていた。丈に知られては、恥しくて死んでしまいそうだった。
気付かれないように、由紀は長い息を吐き出した。動悸が丈に聞かれるのではないかと強迫観念に心を搾めつけられた。
「未入会のグループのことです。彼らをどうするかという問題があります」
丈は、体を棒のように硬くして座っている由紀に、なにも気付かないような口ぶりでいった。
「彼らの代表が僕に逢いたいといってきました......」
「高鳥君がそんなことを申し入れてきたのですか?」
由紀は多少気が楽になって、ハンカチを取り出し、小鼻に滲んだ汗を叩いた。
「高鳥君じゃありません。久松君たちです。高鳥君と彼らはどうも割れてしまったらしい。というより、高鳥君が一人だけ浮き上ってしまったらしいんです。その間の事情を僕に説明したいと申し入れてきたんですよ。杉村さんの留守の間のことですが......」
「先生はお逢いになるのですか、彼らと......?」
「いずれ、話は聞くと郁江から返事させてあります。杉村さんはどう思います?」
「でも、高鳥君は彼らにとってリーダーだったのでしょう? それがなぜ......高鳥君の指導で、未公認ながらも会に入ることができたのですし。内村君が力をつけてきたので、相対的に評価がさがってしまったのでしょうか?」
「内村君のこともあるでしょうが、高鳥君には問題がありすぎて、これ以上ついて行けないということらしいですよ。あまりにも気儘で、横暴だといっているらしい。高鳥君をこのまま放置しておくと、会のためによくないというのが、僕に対する申し入れのようですね。高鳥君と同じ未入会者グループから、この提言が出てきたのが面白い......面白いというより興味深いですね。むしろ会員よりも、彼らの方が強い反撥や危機感を持っているようです」
「でもあれだけリーダーシップを取っていた高鳥君がどうして......そんな不都合なことばかりあって、見放されてしまったのでしょうか?」
「それは彼らと話してみればわかりますよ」
丈はクールにいった。それは彼が高鳥慶輔に対して一貫してとっている姿勢であった。なぜなのかはだれも丈に尋いたことがない。質問をはばかるようなものが存在していた。
「高鳥君に、身内からそんなに反感が高まっているとは存じませんでした。むしろ会員でもないのに専横だという陰口が叩かれているのかと思いました。でも、先生は一度も高鳥君をお叱りにならないし......メイン会長からの国際電話の件も、こちらがいうまで報告もしなかったでしょう。先生が高鳥君を甘やかしているという気持がみんなにもあるのでしょうか?」
由紀は思い切っていった。情動の内圧が高じることから気持がそらされて、むしろほっとした気分になっていた。
「でも、批判が会員からでなく、高鳥グループという未入会者たちから出てきたのが不思議ですわね。なにかよほどのことがあったとしか思えませんけれど」
「高鳥問題は今後大きくなりそうな気がしますよ。身内からまず火の手が上るとは思いませんでしたけどね。彼は最初から辻褄を合わせることなど考えていなかったんだと思います。それで風呂敷がどんどん破けてきたんですよ」
丈のいうことは謎めいていた。
「杉村さんは高鳥君をずいぶん高く買っていた。そうでしょう?」
「はい。才能のある人だと思っていましたから。客気がありあまってしまって、みなさんに総すかんをくってしまったのでしょうか?」
「郁江などはそうは思ってないらしいですよ。血気が余ってるのは、塾の方にいくらでもいますからね。高鳥問題は会の一人一人の重大テーマです。どうしたらいいのか、杉村さんも真剣に考えてみて下さい」
「はい......でも、先生は高鳥君に対して、どのような態度をおとりになるのですか?」
「高鳥君は会員ではないんですよ」
と、丈はあっさりといった。
「高鳥君を仲間として受け容れたのは、会員の皆さんです。だから、高鳥問題はみんなが各自の問題として考え、解決しなければならないことなんです。杉村さんも有能なリーダーの有資格者として高鳥君に期待をかけていたでしょう?」
「はい......」
申しわけございませんといえずに、由紀は口をつぐんだ。丈の考えの脈絡をまたしても見失ってしまっていた。丈は高鳥が会に入りこみ、自由に振舞うことを黙認していた。むしろ無視していたというべきかもしれない。丈は彼が破綻をきたすことを予見していたようである。となれば、高鳥が会に何をもたらすことを期待していたのだろう。会がトラブルで激動に見舞われることを予知していながら、あえてそれを受容することで、何を望んだのであろうか。
由紀は思考が停止した空白の心地で、丈の顔を茫然と見返していた。
「高鳥君と内村君を比較して、みんなは同じ答を出したはずです。文句なしに高鳥君に指導者の資質があると思ったはずです。しかし今は、内村君がリーダーシップをとって、ちゃんと責任を果している。それはやはり内村君が自覚したからです。自覚というものが人間をどんなに変えるか、どれほど大きな力を発揮させるか、内村君を見ればわかります。そうですよね?」
「はい」
由紀は激しく戸惑いながら答えた。自覚の力を証明するために、丈は敢えて高鳥を自由に振舞わせ、放任していたのだろうか。高鳥が己れの才能に溺れ、増長し、気儘になり、自らをスポイルすることを見通していたということなのか。
しかし、それでは高鳥が可哀そうだ、と由紀は思った。丈が無視したことで、会員のだれも高鳥に注意を与えることをしなかったのではないだろうか。高鳥に対して批判的な気分を抱いたとしても、丈が何もいわないのだからと黙って批判を吞み下してしまったのかもしれない。
その結果、高鳥が身内からもボイコットされる有様になってしまったとしたら、同情すべき余地がある。丈が黙認しているというのに、だれがきびしく批判するなどこざかしい真似ができよう。高鳥はまるで主宰のお墨付をもらっているように、自由に振舞っており、みなもそれを黙認したのである。
丈がそこまで予見して、彼に対し冷淡な態度をとったのだとしたら、ますます気の毒であった。
丈は、高鳥問題は、会員たち全員の責任だと考えているらしい。事態が悪化するまで、だれ一人高鳥に忠告や苦言を呈さなかったのだから、確かにその通りだろう。しかし、みなにそう仕向けたのは丈自身ではないのか......
由紀は自分の考えていることがわからなくなり、激しく目をしばたたいた。まるで丈の責任を追及しているような思いになってしまったからだった。
むろん、そうではない。丈の真意は他人事という意識を会員たちに捨てさせることにあるのだろう。
丈は常に会員たちに向って、主宰の自分の代理人であれと要望し続けている。丈が黙っているからといって、高鳥問題から顔をそむけ、そんなものはないかのように振舞っていた会員たちの態度が、自分も含めて反省を促されているのだろう。
それでは自己の判断の放棄であり、丈への全面的依存に他ならない、と由紀は論理の脈絡を必死で追った。無理に自分にそういいきかせている心地がしないでもなかった。
丈はその依存心と責任放棄を指摘しているのだろう。自主的な判断力を持つことを会員たちに強く要望しているに違いない。それゆえ、高鳥問題は会員一人一人の問題だといったのであろう。
「先生......わたくし、高鳥君に逢って話をしてまいりましょうか?」
と、由紀は意を決していった。
「やはり、高鳥君がどんなことを考えているのか、どんな心理状態にあるのか、よく聞いてみた方がいいと思うのですけれど。一方的な立場からの批判だけでは、本当のことがわかりませんし......」
「いや、それは他に適任者がいるでしょう。杉村さんはただでさえ忙しいんですから、そこまでする必要はありません」
丈は明解にいった。
「でも、だれも高鳥君に直接いわないのでしたら、やはり先に気付いた者がすべきだと思うのですけれど」
「杉村さんには他にしていただくことが沢山あります。たぶんアメリカに行ってもらうことになりそうです......」
「アメリカへ? メイン財団のことでございますか?」
丈自身は渡米の意志がないのか、と由紀は不思議に思った。もう心は高鳥からはなれてしまっていた。
「そうです。しかし、僕は今のところ、日本を留守にできません。やるべきことが多すぎるので......だから杉村さんに名代として行ってもらいたいんです。ルナ王女にも逢って、僕が今日本で何をしているか充分に説明してきてほしいんです。杉村さんにうってつけの役目です」
「ルナ王女にわたくしがお目にかかるのですか?」
由紀は息を吞むようにしていった。
「いやですか? ルナ王女と逢うのは?」
「なんだか怖いような気持がいたします。だって、物凄い遠感能力者で人の心を何もかも読んでしまう力をお持ちなのでしょう? そんな方の前に出る自信がございません」
「杉村さんだってテレパシストじゃないですか? 最近はさっぱり使わないので、棚ざらしになっているようですけどね」
「それは先生ご自身が超能力を封じておいでになるので......」
「僕は、超能力を使うなとは一言もいっていませんよ。ただ、劇薬と同じだから、使用法に注意するようにといっているだけです。超能力を持つというのは、たとえば空手の有段者になるようなものなんですね。石を砕くような鍛え上げた拳でとかく人を傷つけやすいってことです。心が曲っていればたやすく暴力になってしまう。暴力団が空手の使い手だったら物騒で仕方がないでしょう。決して私闘のために超能力を用いないという覚悟がありさえすればね......僕は杉村さんに関しては何の心配もしていません。どうぞ自由に超能力を発揮なさって下さい」
「わたくしの超能力なんか高が知れていますもの」
由紀の脳裡に氷河のような碧い瞳をしたルナ王女の権高な美貌が現像された。それは圧倒的なイメージであり、畏れの念から自由ではいられないほどであった。丈の話を聞くうちにいつの間にかおそろしい女神のようにシビアーなルナ王女像を造り上げてしまったのであろう。
「もしかしたら郁江さんがお行きになった方がいいのではないでしょうか?」
「〝姫〟同士だからですか?」
丈は笑った。
「二人ともきかん気のお姫様ですからね。しかし郁江はけっこう大忙しなんです。笛川先生のお母さんを説得してきたり、〝幻魔〟と逢ったりなかなか大変ですよ。それに杉村さんは英語は堪能だし、パスポートも持っているし、超能力者だし、全ての面で適任ですよ。僕の代理としてメイン社長たちと話をしてきて下さい」
否も応もなかった。海外の動きと呼応して丈の活動は本格化しようとしている。まるで津波が移動して行くような空恐ろしい圧倒的迫力を感じずにはいられなかった。
いずれはそうなると思っていたが、予想よりずっと早く現実化してきたのだ。由紀としては、丈が直接メイン社長らと逢った方がいいと考えるのだが、丈にしてみればまず足許を固める方が大切なのであろう。
丈の代行を果すことに、由紀は全く自信がなかった。こんなにいつも心が揺れ動いている有様では、あまりにも情けなさすぎる。メイン社長はともかく、稀代の大超能力者というルナ王女はあっさりと看破してしまうであろう。そんなに心許ない人間が代行者というのでは、侮りを受けるのは丈自身ということになるだろう。
できれば辞退したい役目だったが、考えてみればこれはという適任者は見出せない。しばらく前であれば高鳥慶輔という名を挙げたかもしれないが、今となればそれどころではなかった。
やはり自分が行くしかないのか......しかし丈の許を離れるのは心楽しいことではなかった。特に、この濃密な時が流れている時は、一日でも秘書室をあけたくない。わずかにでも離れていれば、自分だけ取り残されてしまいそうな恐れを感じているからだった。
11
予感というものはあるものだ。朝から黒雲が立ちこめているように、心穏やかならざる気分で一日が始まった。
何かが起こりそうな心地がした。セミナーを二日後に控えて、急流の慌しさなのに、なぜか気分が乗らないのである。悪天候でもないのに、日の光がひどく乏しいように感じられ、空気まで稀薄になったように息苦しくてならない。
多忙さにまぎれることのない懸念が重く心に居据っていた。潜在意識がしきりに警告を発しているのかもしれない。
普段なら何でもないことが厭で仕方がなかった。その日も来客は三組予定されており、いつもであればさしたることではないのだが、その日だけは願い下げにしたかった。面会の予定をキャンセルしてしまいたいとさえ思った。
もちろん本気ではない。何日も前から予約している面会客を断わることなどできはしない。しかし、口実さえつけば、と思っているのは本心であった。
来客は増えこそすれ、減ることは決してない。波及効果とでもいうべきものがあり、人に会えば会うほど、面会希望者が増えてくる。東丈に逢った人間が再度の面会を希望してくるし、友人知己を紹介してよこす。噂を聞いて伝手を求め、申し入れてくる者もいる。
すでに予定表は、まだ一月であるのに二月から四月にかけて隙もなく埋まっている。もしも全てを受け容れるならば、丈は毎日間断なく人と逢い続けるだけで他に何もできなくなってしまうであろう。秘書の杉村由紀は、人脈を辿ってくる人々に対して大ナタを振わなければならなかった。それでもなお一月下旬の段階で向う三か月間、スケジュールが満杯になってしまったのである。
午前中は事務局長平山圭吾の紹介で来た企業経営者であり、何事もなく過ぎた。数百名の従業員を持っている経営者のあり方というものを丈に尋ねに来たのである。この四月でようやく十八歳になる少年に対して、本気でその種のことがらの示唆を仰ぐ人々が決して少なくないのだ。
しかし、企業経営者といえば、関西財界の雄と呼ばれる大立者がすでに面会を希望してきていた。東丈を巨大な力を持つ預言者とする噂が急速に広がっているのであろう。政権政党の閣僚政治家と遭ったのがきっかけで、政財界の大物からの申し入れがイモヅル式に増えつつある。野党からはまだ一人のアプローチもない。政財界の責任を負った人々が未来に向けて重苦しい展望を抱き、危惧しているのに比べると、ひどく吞気であるという印象は否みがたかった。
午後一番の来客は高名な作家であった。K──社編集長本田敏之の紹介なので断われなかった相手である。うるさ方の作家であり、丈も乗り気ではなかった。
その日は平山圭子も久しぶりに出てきて、秘書室は賑やかな雰囲気であった。気がまぎれて当然であるのに、鉛色の味わいのする予感は一向に去らない。
加うるにトップ屋風間からかかってきた電話が、杉村由紀の心を重くさせた。
逢ってくれという電話である。江田四朗に関する取材で、思わぬ聞き込みを得たから教えたい、と風間は例の押しの強い調子でしきりにプッシュしてきた。
「電話でお話し下さいませんか」
と、由紀は突っぱねた。あの愛嬌のある顔を見たくないというわけではないが、今日はそんな気分ではなかった。心が重いばかりでなく体調も狂っている。由紀は生理が重い方ではないのだが、それでも愛想がいいとはいえない心理状態になる。鬱陶しくてなにもかも煩わしくなるのだ。
妙なことに遠感などは冴えてくる。朝から不快なのはそうした超感覚のもたらす波動のせいかもしれなかった。
「とにかく多忙なので、ご希望にはそえません」
と、由紀はおそろしく単刀直入にいった。これで彼女の気が立っていることが通じなければ、相手は低脳としかいいようがない。
しかし、相手はそれでひっこむような腰の弱い人間ではないことがわかった。
「重要な聞きこみなんですよ。とにかくそっちへ行きますから、話を聞いて下さいよ」
しつこいマスコミ関係者にはいい加減、慣れているが、トップ屋風間の押しの強さはその比ではなかった。
「お出でいただいてもお目にかかれませんが、よろしいですか?」
「いや、必ずあたしの話を聞く気になると思いますよ。玄関払い覚悟でそっちに行きますから、ひとつ考え直してみて下さい」
こんな不死身の相手がいようとは考えたこともなかった。由紀が何といおうと耳を貸さないのだ。
「とにかく、絶対にお会いできませんので悪しからず」
秘書室が一瞬しんとなるほどの険悪な語気で、由紀は電話を切った。朝からの苛立ちが加わって、腹が煮えくり返る心地だった。トップ屋のとぼけ面に向い、大声で罵声を浴びせてやりたい。
「風間とかいう物凄くしつっこいトップ屋がいるの」
と、彼女は若い秘書見習たちに向っていった。
「煮ても焼いても食えないし、食いついてくるとスッポンみたいにはなれないから、みんな気をつけてちょうだい」
「どんな人ですか?」
と、井沢郁江が尋ねた。
「河馬みたいに肥っていて、鮫みたいな口をして笑う男よ。三十そこそこぐらい。絶対に寄せつけないように注意して。いくら話しかけられても、まともに相手にしないこと」
「そんなに突慳貪にしてもよろしいんですか?」
「絶対に気を許さないでといっているの。とにかくまともな人間と思ったら大間違いなんだから! 得体の知れないトップ屋だし、ちょっとでも気を抜いたらとことんまで図に乗ってくる相手よ!」
「わあ、迫力ありそう」
といって郁江が笑った。自分の言葉をまじめに受け取らないのか、と由紀はむっとした。
「今は一番大切な時なんですからね。マスコミがどうやって食いこもうかと目を光らせているんですから、みんなも気を抜かないでいてほしいの。相手は海千山千のしたたか者で、弱身があると見れば、平気でヅカヅカと奥座敷まで土足で入りこんでくるような手合なのよ。巧妙に持ちかけて、こっちの油断を誘い出そうとするかもしれないし、とにかく気を許さないこと」
「杉村さんによっぽど嫌われたんですね、その風間っていう人」
と、郁江が少しも応えない顔でまぜかえした。
「一度見てみたい」
「郁江さん! まぜかえさないで!」
由紀は稲妻が走りそうな目の色できびしくいった。
「つまらない言質を一言でも与えれば、百層倍にして何を書くかわからない相手だからいっているのよ。マスコミ関係者が礼儀正しい紳士だなんて思ったら大間違いよ! 丁寧で紳士的な態度をとっても、それはうわべだけでえげつなくて意地悪いことを平気でするのがマスコミだと思って間違いないんだから!」
「すみません。ちょっと好奇心が......河馬だなんておっしゃるから、つい......」
と郁江が詫びた。由紀がただならぬ雲行であることがわかったらしい。雷雲が湧いているのだ。杉村由紀は情緒的に不安定な方ではないが、それでも時折怪しくなることがないわけではない。むろん女性にはありがちなことだ。
しかし、稲妻の走りそうな目をした由紀を見るなど、若い秘書たちには初めてのことであった。
「相手にならないように、気をつけます」
「そうしてちょうだい」
娘たちが驚きの目で自分を見ているのが、面白くなかった。いわれもなく腹が立ってならない。
朝から感じている、とろ火であぶられているような焦燥感はいっかな減じなかった。それこそ居ても立ってもいられない苛立ちとなり、由紀を殺気立たせてさえいた。
一度捨てたタバコがむしょうに欲しくなった。この一か月間忘れてすごしたニコチンへの欲求が再び甦ってきていた。それどころか、この焦燥をなんとかするためには、酒でも飲めばいいのか、と本気で考えだしているほどであった。
もし本当に事務所まで風間が押しかけてきたら、思いきり素気なく、冷酷にあしらってやろうと決心した。男の自尊心を完膚なきまでに壊滅させる方法を少なくとも二十通りは心得ているのだ。
しかし、風間という男は、それくらいではへこたれないかもしれない。人間放れした鈍感さの持主だからだ......
相手が何をいいだそうと歯牙にもかけてやるまいと決心していながら、一方では気にかかって腹の底が氷塊でも吞んだように冷える心地がした。まったくのところ、分裂した心理状態の虜であった。
それもこれも予感のせいだ......しかも、その予感を丈に対して素直に話せないことが、一層由紀の鬱屈を深めていた。由紀は予知能力者ではない。予知を的中させた顕著な実績など何もないのだ。
他愛もない予感のため苛立っているなど、丈に知られたくなかった。そのくせ丈を含めてだれも自分の心中に気付いてくれぬことに焦燥を深めているのである。こんなに矛盾したことはなかった。おおかた、みんなは由紀の異常な心理状態を、女性特有の生理的反応とみなしているに違いなかった。
今日の杉村由紀はどうかしている。話しかけるのがこわいほど荒れているのがわかるのだ。
稲妻が走るような青っぽい目で見られると、胆が縮みあがるような心地がする。普段の杉村由紀とは大違いだった。
怖いもの知らずの郁江でさえ、触らぬ神に祟りなしという顔をしているのだ。由紀は全身から雷雲に似た雰囲気を発散していた。低い天井で頭を圧されているような、居心地の悪さだった。
なぜそんなに荒れているのか詮索したところで始まらない。女同士、話す必要もないのである。肩をすくめる思いで、目をそらすしかなかった。
だから、午後最初の来客が訪れて、杉村由紀が井沢郁江を伴い、執務室に入った時、残りの若い秘書たちはやっと息がつけるという表情になった。
最も新参の伴野静子など息を潜めて小さくなっていたのだ。不機嫌な杉村由紀はこわかった。郁江ですら一度叱られてからは、冗談を口にしなくなっていた。〝姫〟には考えられないおとなしさであった。
平山圭子と夏本幸代は、由紀が執務室に消えると期せずして同時に溜息をついた。雷雲は去ったが、圧迫感は残っている。
重苦しい焦燥をともなった圧力であり、由紀の気分が伝染してきたのか、と平山圭子は思った。夏本幸代が目配せしてくるのに気付かないふりをする。
今日の由紀が変だ、ということではこの女子大生と意見の一致を見るが、さりとてあれこれあげつらう気にはなれない。夏本幸代の陰口めいた人物評は聞きたくなかった。妙に老成した雰囲気があるくせに、彼女はひねくれた陰口を叩くのを好む。長上者に対してもっともらしい控え目な態度をとるのとはまったく違う。
由紀などは、夏本幸代の辛辣な人物評を耳にしたことは一度もないであろう。毒があってひねくれた見方を面白いと思う者もいるであろうが、平山圭子は苦手である。好きになれない。
だから、彼女は女子大生が何かいいかけようとするのをことさらに避けていた。しかし夏本幸代はひどく鈍感なところがあって、他人の気持を読みとることにまったく疎い。うとましいというほどでもないが、閉口させられることはしばしばである。
「これ、オフレコだけどね」
と、夏本幸代はそんないい方をした。
「風間とかいうトップ屋、杉村さんに気があるらしいのよ」
新参の伴野静子が目を瞠って女子大生を見ていた。
「何度も電話をかけてきたわ。圭子ちゃんは試験で事務所に出ていなかったから、知らなかったでしょ。杉村さんがどうしてるかって、電話に出たあたしにしつこく尋くの。その図々しいことといったら天下一品。杉村さんに一目惚れしたんだとか、自宅の電話番号教えろとか、ひたすら押しまくってくるの。わりととっぽいのよね。先生と杉村さんの間になにかあるのかって、しきりに勘繰ってたわ。姉さん女房じゃないかとか......杉村さんに一目惚れしたから、物凄く嫉けるんだって」
「そんなこというんですか!? 杉村さんはそれ、ご存知なんですか?」
平山圭子はびっくりしていった。
「知らないでしょ。あたしいってないもの」
「だって、そんな......滅茶苦茶じゃありませんか!? それで、夏本さんはなんておっしゃったんですか?」
「どうか知らないっていったわよ。だってそうでしょ? あんまり馬鹿ばかしいもの」
平気な顔でいう女子大生を圭子は呆然として見返した。
「でも......そんな得体の知れないトップ屋なんかに、どうか知らないなんていったら、好きなこと書かれてしまうじゃないですか!?」
「そうかしら......知らん顔してからかってやっただけよ。だって、そんなこといいながら、あたしにまでいろんなことを尋くんですもの。どうして会に入る気になったかとか、先生にはどんな魅力があるのかとか、いちいちまともに答えちゃいられないわ。女性会員には美人が多いけどどうしてかなんて尋かれたら、馬鹿じゃないのっていいたくなるわよ。先生はどうやって美人ばかり集めているのか、そんなくだらないことを尋くんだもの」
「それはだって、あることないこと書くつもりだからでしょう? 先生に特殊な目的があって女性会員を集めているような書き方をする気で、カマをかけているんじゃないですか?」
「あら、そうかしら? 圭子ちゃんもずいぶん勘繰るのねえ」
冗談ではないと圭子はいいたかった。顔だけは大人びた雰囲気を持っているが、これではまるで子供ではないか。考え深そうに見えるのはうわべだけで、内容は無責任な子供だ。
「夏本さんは、それを杉村さんに報告なさらなかったんですか?」
「どうして? 杉村さんに叱られるのがオチじゃない。最近ピリピリしているんだもの。そんなくだらないこといえやしないわ」
「だって、夏本さん......」
二の句が継げずに、圭子は救けを求めるように伴野静子を見た。新参の女子大生はあっけに取られた顔で目をまるくしている。
「じゃ、どうしろというのよ......」
夏本幸代は面倒臭げにいった。圭子の反応が意外であり、また腹立たしくもあるようであった。
「自分の判断できちんとやるように、と杉村さんからいわれてるのよ。忙しいんですもの、このくらいのことでいちいち杉村さんにお伺いを立てていられやしないわよ。馬鹿みたいなしつこい電話にまともに相手なんかできないじゃない」
きちんと判断できないではないか、と圭子はいいたかった。杉村由紀は何もかも秘書見習の才覚で取りしきれとはいっていない。そんなことは当り前である。夏本幸代がこれほど独善的とは思わなかった。まるで自分に独断専行の能力がありでもするようにうぬ惚れている。
「でも、夏本さん。手に余る電話は杉村さんに廻すようにいわれているんでしょう? 杉村さんがいなかった場合は、七階の菊谷さんにって......相手はしつっこいマスコミだし、いい加減にあしらうなんて、ちょっと問題があるんじゃないですか?」
おとなしい平山圭子も腹を据えていった。黙ってはいられない気分であった。
「問題って何よ。あたしが何をしたっていうの!?」
夏本幸代は眉をつりあげて反論してきた。日ごろおとなしい圭子がきびしいことをいいだしたので、むかっ腹を立てたらしい。生意気な、と思ったのであろう。
「ですから、マスコミと対応する時は、もっと用心しなければいけないんじゃないですか? 余計な言質を一言でも与えれば、相手は針小棒大に書きたてるからって、杉村さんがいつも注意されてるでしょう? マスコミ関係者の問合せに答える時は、マニュアル通りにするって決ってるじゃありませんか」
「そんなシャクシ定規にいつもマニュアル通りやっていられないわよ。なにしろ相手はとんでもないことを平気でいいだすんですからね」
「だからこそ、慎重に扱わなきゃいけないって、先生はおっしゃってますよ。先生はマスコミ関係者の扱いに一番神経をとがらせてらっしゃるし、相手はいろいろな手で情報を取ろうとするから注意するようにとミーティングの都度念を押されてますでしょう?」
「わかったわよ。圭子ちゃんならきっとうまくやるでしょうよ」
夏本幸代は腹が立つと同時に、怯じ気づいてきたらしい。まともに反論するかわりに拗ねた。
「圭子ちゃんならしっかりしているし、先生のお気に入りですもんね。あたしなんかと違って、なんでもちゃんとやれるでしょうよ。でも、あたしは一月は一日も休まないで秘書室に詰めているんですからね。くだらない電話で気がくさくさすることだってあるわよ。圭子ちゃんならそんなことないんでしょうけれどね......」
「問題をそらさないで下さい」
平山圭子はいつになく強硬だった。夏本幸代は肝を潰したらしい。常におとなしくて控え目な人間が一度腹をくくると、薄気味悪いものである。圭子は忠義一途なところがあって、忠誠を尽すとなると人が変ったように意志強固になってくるのだった。
「いくらうんざりしているからといって、マスコミ相手にいい加減なことをいって許されるはずがないと思います。夏本さんは杉村さんにもきちんと報告なさるべきです。夏本さんの一存ですむような問題じゃありません。そうじゃないでしょうか?」
「わかったわよ。報告するわよ。文書にして報告すればあんたの気がすむんでしょ」
夏本幸代は言葉をちぎって投げつけるようにいい、癇走った動作で椅子から立ち上った。
「どうせあたしは無責任でいい加減ですよ。杉村さんやあなたみたいに優秀じゃありませんからね! あなた方ならなんでもうまくやれるでしょうよ」
嚇っとなっていた。感情がもろに表に浮き上り、逆毛をたてた動物のような顔には、ふだんの老成した雰囲気はあとかたもなくなっていた。
あまりにもヒステリックな非論理、超論理的な反応であり、平山圭子は溜息が出そうになった。こうした女性的な陰湿ないさかいはもっとも苦手とするところであった。相手を怒らせてしまったのは不本意だが、いうべきことはいわなければならない。そんなやむにやまれぬ衝動が圭子を毅然と振舞わせていた。
「夏本さん、どこへいらっしゃるんですか?」
「報告書を書くのよ! わかってるでしょ!? そうすればあんたの気がすむんでしょ」
夏本幸代は荒々しい動作でハンドバッグを摑み、秘書室を出て行こうとした。もはや隣りの執務室で、丈らが有名作家と逢っていることなど念頭にない感情的な高声であった。
「夏本さん!」
圭子が後を追おうとした時、秘書室を出かける夏本幸代の体を突き戻すようにして、黒背広の男たちの一団が乱暴に入りこんできた。


1
後になって振り返ってみると、いざ急変事が突発した時は、予感などという脆弱なものは吹き飛んでしまっている。
異常心理の虜になっているから、予感のことなど忘れてしまう。ある程度、事がおさまって余裕が生じないことには思い出しもしない。
杉村由紀が予感について考えるようになったのは、事が落着してしばらく経ってからだった。
あの日、朝から自分が異様な苛立ちにとり憑かれ、他人に当り散らしたことなど、完全に忘れ去っていた。井沢郁江にそれを指摘されるまでは思いだすこともなかったのだ。
地平に黒雲が湧き立つ無気味な圧迫感といわれのない焦燥感で、とろ火に焙られる苦しみを味わったことが、変事突発と同時にあっさり消滅してしまった。憶えてさえいなかったのである。
そういえば朝からいやな予感に苦しめられていたのだ、と後になってから今更のような感慨を持った。どうにもならぬ、身の置き所のない煩悶であり、忘れる方がおかしいのだった。
もっとも、変事が起きた時、大きなショックであったはずなのに、実際にはさほど動転した記憶がない。その時の人々の身の処し方、振舞いなどを克明に憶えている。自分も冷静であったとはいえないはずだが、なぜか他人のことはよく憶えているのだ。
お嬢さん育ちの平山圭子の意外なしたたかさは感嘆に価いした。おっとりしていていつも控え目だから、おとなしすぎて頼りにならないかといえば、決してそんなことはなかった。
杉村由紀の方がむしろ冷静さを欠き、機転を欠いていたといえるようである。平山圭子は四人の黒背広の〝紳士〟たちを少しも怖れなかった。自分が東丈の秘書だという自覚がこのほっそりした少女を強固な筋金入りにしたのであろう。
記憶とは奇妙な働きを持ち、その時の光景が映画さながらに眼前に浮んでくる。実際は由紀が秘書として丈と有名作家の面談に同席していたにもかかわらず、平山圭子の視点で、事務所に侵入してきた男たちの姿がまざまざと思い出せるのだ。
見るからに粗悪な、気分が悪くなるほど恫喝的な波動を黒背広から発散している男たちであった。部屋の中に押し戻された夏本幸代が顔色を白っぽくさせ、体を硬くして平山圭子の傍へ戻ってきた。諍いのことなど吹っ飛んでしまったようだ。
男たちがあらゆる社会的観点に照らして、まともといえない種類の人間に属することは一目瞭然であった。皮膚感覚でわかるのだ。鳥肌が立ち、体が冷たくなってくる。
秘書見習の三人は棒立ちになって、黒背広たちと対峙した。相手は四人の屈強な男たちである。威圧されるのは仕方がなかった。
「こちらの会長さんにお目にかかりたいんですがね」
と、先頭に立った黒背広がいった。意外なほど穏やかな物腰であり、それだけに薄気味が悪かった。
「失礼でございますが、どちらさまでしょうか?」
と、平山圭子が立ち向った。夏本幸代は圭子の背後に隠れるように廻りこんでしまっている。
「あたしは山本と申しますがね......」
がっちりした体格の黒背広が低姿勢でいった。もみあげの長いお定まりのヤクザ面は精悍そのものであった。ギラギラと油が浮いているような恐ろしくアクの強い面構えである。しかし、高級ヤクザであり、下っ端ではないらしい。連れの三人はいずれも若く、凄みを効かせるのに精一杯という印象であった。
山本と名乗った黒背広には余裕があった。戦車みたいに厚みのある体格の中に、精力を抑制しているのが感じられる。剝き出しの凶器のような連れの若者たちとは貫禄が違うということであろう。
田崎宏とかみあわせてみるとぴったりだ、と由紀はいささか不謹慎な感想を抱いたのを憶えている。がっちりした幅広、肉厚の体格やしたたかで精力的な面相に類似点があるのである。タイプが似ているのだが、もちろん田崎は風格の点で格段の差をつけている。重厚な風韻とでもいうべきものだ。
「ここの会長さんは、確か東丈さんとおっしゃいましたね。実は重大な用件で是非とも大至急お目にかかりたいんでございますがね」
黒背広の紳士、山本はいんぎんな語調を崩さなかった。他の三人の舎弟分は陰惨な白目を使っている。浅墓だが、危険な存在であることを誇示しているのであろう。暴発すると前後の見境いがなくなるという粗暴タイプであることは明白であった。相手が女子供でも凄みをきかさずにいられない状態にあるのだ。
「申しわけございませんが、先生はとてもご多忙です。お約束のない方にお会いすることはいたしません......」
平山圭子は後退しない気構えを見せて、柔く、しかしきっぱりといった。
「ほう......」
ほっそりした長身の美少女の見せた外柔内剛の根性が、黒背広の山本には意外だったようである。一堪りもなく縮み上がるはずの小娘がへんにしっかりしていたからであろう。
「しかし、たいへん重大な用があって来たんですがね」
「では、ご用件を承ります。お聞かせ願えれば、後ほど先生にお伝えいたしますから......」
平山圭子は振り返らずに、夏本幸代に声をかけた。
「メモ用紙を取って下さい......」
「は、はい」
夏本幸代は慌てていわれた通りにした。もはや諍いどころではなかった。自分たちがまぎれもなく、暴力団組員たちと対峙していることがわかったのだ。
「どうぞご用件をおっしゃって下さい」
圭子は筆記の準備をして、山本を促した。
「いや、先生に直接あたしから申し上げますよ。大事な用なのでね。そうさっきからいっているでしょう」
「ですから、先生はお約束のない方とはお目にかかれません。先生に逢う約束をされている方は沢山おられますし、予約以外の方の割り込みを認めますと、お約束の方が迷惑されますので。秘書のあたくしがご用件を承りますので、伝言なさって下さい」
「あんたは会長さんの秘書ですか? ずいぶん若くて美人の秘書さんだ......羨しいですな」
山本という黒背広はもの慣れた口調でいった。
「しかしね、本当に重大な用件でして、是非とも会長さん直接に話さないと具合が悪いんですよ。約束しないで来たのは申しわけなかったが、会っていただけないと会長さんにも大変なことになるんですがね」
「とにかく、今すぐにとおっしゃられても無理です。先生は今、ご来客中ですから。ご用件をお話しになれないのでしたら、改めて予約して下さい」
平山圭子は懸命にいった。言葉は拙いが、一歩も退かない気構えは明らかであった。
「しかしね、お嬢さんは秘書なんだろう? 会長先生のご意向も聞かずに、そんなこと一存で決めてもいいんですかね? あたしは何も脅しやハッタリをかけているわけじゃないんだ。本当にお宅の会長先生にとって大変なことになるからいっているんだよ」
黒背広の言葉遣いはようやく崩れ始めた。多少苛立ってもきたのだろう。
「でも、こうしたことにはちゃんと決まりがありますので。予約外のお客様は決まってどうしてもとおっしゃいます。本当に大変なことだとおっしゃるなら、どうぞあたくしにお聞かせ下さい......あたくしは東先生の秘書です。先生の秘密を守るのが秘書の務めなんですから」
「おい!」
と、黒背広の若者の一人が恫喝的な恐ろしい声を出した。平山圭子のねばり強さにしびれを切らしたのだろう。もともと浅墓な若造であり、堪え性など持っていないのだ。
「これだけ丁寧にいっているのに、まだわからねえのか」
いきなり手近にあった観葉植物の鉢を蹴飛ばした。さっと凄惨な雰囲気が迸る。
「秘書なんかじゃわからねえ! 会長をここへ出せ!」
「乱暴するなら警察を呼びます」
圭子は蒼白い顔になったが、崩れなかった。
「夏本さん、すぐ百十番して下さい」
「............」
夏本幸代はすくんでしまっていた。唇を震わせているだけだ。目が恐怖に輝いている。
「おう、電話でもなんでもしてみやがれ」
と、黒背広の若者が凄んだ。夏本だけでなく伴野静子も金縛りのようになっている。
「では、警察を呼びますから、警官立合いで用件を話して下さい」
圭子はデスクに戻って、電話の送受器を取り上げた。わずかに指が慄えるが、それだけだった。態度は平静そのものだ。
「この女郎、なめやがって!」
黒背広の若者たちが殺気立って前へ進み出た。血相が変っている。恫喝の域を超え、暴発しなければおさまらぬという剣幕であった。
「まあ、待つんだ」
と、山本が若者の胸を突き戻した。
「このお嬢さんはしっかりしてる。優しくておとなしそうだが筋金入りだ。お前らには歯が立たんよ......」
顔が笑っていた。わざとらしく度量の広い所を見せつける気だろうか? 平山圭子は電話のダイヤルに指をかけたまま、山本を見詰めた。
「静かに話そうよ、お嬢さん。この若い連中にはガタガタさせないからさ......しかし、お嬢さんは秘書の鑑だね。まだ若いのに立派だ......」
彼は若者たちを振り返った。うんざりしたような貌だった。
「お前らは口を出すな。話がすむまでおとなしく待ってろ。わかったな」
「へえ......」
と、若者たちは異口同音にいった。ボス犬に一吠えされた若犬の卑屈さであった。苛々と体を揺りながら目をぎらつかせている。
「では、用件を承ります」
平山圭子は送受器を架台に戻した。相手の態度の穏やかさが信じられなかった。若者たちが今にも大暴れし、彼女自身乱暴されることを覚悟していたからだ。
「まあいいだろう。話そうか......」
黒背広の山本は腕組みをしていった。戦車を身近にしているような大質量の迫力があった。不意にぎらっと目を光らせて圭子を見る。風圧を感じて圭子は思わず体を後に引きかけ、辛うじて堪えた。
「お宅の会にとっては大変な問題で、表沙汰になれば、警察沙汰にも新聞沙汰にもなることなんだがね。実はうちの若い者が四人ほどお宅の会員にお釈迦にされちまったんだ。一人はひどく脳をやられて一生廃人になっちまった......やった奴の名前も顔も割れている。そこで、警察沙汰にするのも一つの方法だが、それではお宅の会に傷がつくだろう。その前に会長さんと話しあいに来たんだよ。礼儀正しく穏やかに話しあいがつけば、それに越したことはないからね。わかるだろう、お嬢ちゃん? 決して乱暴をしに来たわけじゃないんだ。この若い連中は簡単に逆上する奴らだが、こうやってわたしが抑えているから大丈夫だ......しかし、早く先生にお目にかかって話しあわないと大変なことになる。なにぶん仲間が大怪我させられて、若い奴等は荒れている。お先走りの馬鹿者が何をするかわからない。そうすれば、全部表沙汰になってしまうからな......
どうだろう。話は吞みこめたかね、お嬢ちゃん? わかったらすぐに会長さんに話を通じてくれないか?」
口はおとなしいが、時折目がぎらっと底光りするのが無気味であった。平山圭子は蒼白な引き緊まった表情で話を聞いていた。緊張した貌は美しかった。
「わかりました。お話は確かに承りました。でも、申しわけございませんが、会長はただ今来客があって面談中です。ひとまずここはお引取り願えませんでしょうか? 手が空きしだいご連絡申し上げますので、お名刺を頂戴できますか?」
「どうもうまく話が通じねえようだな」
と、山本は苦笑いしていった。
「意志疎通ができないもんかね? こうやって出張ってきたのに、玄関払いを食わされてはいそうですかと引上げるわけにゃいかんよ。どんな大事な用か知らんが、会にとってどっちがさし迫った重大問題かわからないでも、会長秘書は務まるのかい?」
「先生は逃げも隠れもいたしません。先生が逃げてしまうとお思いならとんでもない間違いです。先生はそのような方ではございません」
平山圭子はきっぱりといった。
「ただ、今は来客中なので、しばらく待って下さるようにお願いしているだけです。ここはひとまずお引取りいただけませんでしょうか......」
「そうはいかないんだよ、お嬢ちゃん。若い連中は跳ね返りが多いから、何をするかわからん。玄関払いを食ったなんて聞いたら、かっとなって手のつけようがなくなっちまう。では、先生の手が空くまで、ここで待たせてもらおう」
「それは困ります......」
「こっちも困るんだよ」
山本はにやりと笑った。
「じゃ、こういうのはどうだ? 先生にうちの事務所へ話しあいに来てもらうというのは......逃げも隠れもしない先生なら、来てもらえるんじゃないのかな?」
「そう申し伝えます......」
「それじゃ困る。確かに来るという保証がほしい」
「保証と申しますと?」
「今、わたしたちは引上げるから、だれか一人いっしょに来てほしい。お嬢ちゃんでもいいんだよ。事務所に案内するから、そこから先生に連絡して来てもらってくれ。それがつまり、保証というわけだな。どうだい、お嬢ちゃんが忠義な秘書さんだったら、それくらいできるんじゃないか?」
「............」
息を詰めて夏本幸代と伴野静子は成行を見守っていた。
「わたしもこちらの会や会長さんに傷をつけまいと気を遣っているつもりなんだがね。まあしかし、お嬢ちゃんが厭だというんなら、先生が逢ってくれるまでここで待たせてもらうしかないが......」
暴力団幹部の山本は、抑えてはいるが、明らかに圭子との遣り取りを楽しんでいた。
「どうする?」
「わかりました。あたくしが行きます」
圭子は蒼白い表情でいった。声はしっかりしていた。
「ほう!?」
山本が思わず感嘆の声を漏らし、二人の秘書見習は息を吞んでいた。
「どちらへ行けばいいんでしょうか?」
「事務所だ。そこから電話すればいい」
「ちょっと出かけてきますから、後はよろしくお願いします」
圭子はデスクの後ろのロッカーからコートとハンドバッグを取り出しながら、二人の女子大生に向っていった。
「杉村さんに今のこと、きちんと説明しておいて下さいますか」
黒背広の若者たちは神経の浮き出したような浅薄な顔に奇妙な表情を浮かべて、平山圭子をじろじろ見ていた。
「え、ええ......」
夏本幸代は満足に口をきくことができなかった。顔色が粉っぽくなり、唇が慄えている。一同の注視を浴びながら、圭子はコートの袖に手を通した。大胆ともなんともいいようがなかった。覚悟が決まってしまったのである。蒼白い表情だが、静かに落着いていた。
「出かけられます......」
と、圭子はいった。山本は多少圧迫感を抱いたようである。逆にうながされて慌てたのかもしれない。
「行こうか......」
山本はおい、といって舎弟たちに顎をしゃくって見せた。
執務室のドアが開いて、井沢郁江が出てきたのはその時である。
「あっ、こいつだ!」
と、黒背広の一人が思わず口走った。額に生々しいバラ色の傷痕のある若者であった。総毛立ったような顔付になって、郁江を指差す。
「山本さん、こいつです、この女なんだ、あの晩、義をやりやがったのは!」
郁江はたじろがない目で、山本を初めとする暴力団組員たちを見返した。そのきれいに澄んだ眸には驚きの色はいささかもなかった。それが〝郁姫〟の所以であった。普通の人間のようには決して反応しないのである。
今も黒背広の不穏な四人組が眼中にないような平然とした顔だった。
「そうかい、このお嬢ちゃんかい?」
と、山本はつくづくと郁江を眺めながらいった。感情を覗かせない顔になっていた。手をあげて額を搔く。何かしら困惑したような動作であった。手首の皮膚に刺青がちらりとのぞいた。
郁江はどうかしたのかとは尋かなかった。
「事情を説明する必要があるかい?」
と、山本が尋ねた。
「俺たちが来た理由も先刻承知だろう? 違うか?」
「圭ちゃんが行く必要はないわ」
と、郁江はいった。普通の声音であった。怯えてもいないし、虚勢を張っているのでもない。山本ら黒背広の男たちにも、それは通じたようであった。
「この人たちが、先生に逢わせろというので......」
と、圭子がいった。
「来客中だからといってお断りしたら、代りにあたしに来いって」
「大丈夫よ。先生の力を信じなさい」
と、郁江はいった。妙に会話がくいちがっている異和感をその場の全員が覚えていた。
「光のネットワークの話を先生からお聞きしたでしょ。いつ、どこにいたってあたしたちは護られてる。だれにだって指一本触れることはできないわ。だから、心配しないで」
「郁江ちゃんが行ったら何をされるかわからないわ。だから、あたしが行った方が......」
圭子と郁江の会話の順序が入れかわっていることがわかった。山本にもそれは理解できたようであった。
郁江が圭子の言葉よりも先廻りをして、問いに答えてしまうのである。郁江は圭子の意識を読んでいるようであった。
「先生には後で説明するわ。後をお願いね」
「でも、先生にやっぱりお話ししないと......」
圭子は口ごもった。驚きの色が目に光っていた。郁江は黒背広の若者たちの間をすり抜け、ドアを開けてさっさと出て行ってしまった。コートもハンドバッグも持ち歩かないのだ。
黒背広たちは気を吞まれたように、郁江の後に続いた。山本はちょっと躊躇しながら佇んでいた。
「後で事務所から電話させる。彼女が自分から来るといったんだ。ガタガタ騒がないことだな」
肩凝りがするというような仕草を一つして、山本は部屋を出て行った。圭子があわてて後を追う。二人の女子大生もこわごわと後についてきた。
平山ビルの前には大きな外車が停まっていた。リンカーンのようである。総じてヤクザは必ず大きな外車を乗りまわすことを好む。ヤクザにもステータス・シンボルが必要なのであろう。
郁江は黒背広の若者たちを従者のように従え、先に立ってリンカーンに歩いて行った。傲然として、従者が車のドアを開け、奉仕するのを待っていた。暴力団に拉致される態度ではなかった。
平山圭子たちは一同を追って出たものの、なすすべもなくおろおろしていた。思考停止に陥ってしまったのだった。彼女たちのだれ一人、米軍放出品のジャンパーを着た男がこの現場を撮影していることに気付かなかった。
「あの野郎、何してやがるんだ?」
と、黒背広の若者の一人が目をつけ、山本に伝えた。山本がおお、といって顎で命じる。たちまち黒背広が三人、風を巻く勢いで飛んで行き、米軍放出品のジャンパーの男を引張ってきた。
男は逆らう気配も見せなかった。おとなしげに振舞っているが、生来のふてぶてしい顔付はどうにもならない。
「なんだ、この野郎は?」
と、山本が濃い精悍な眉をしかめていった。黒背広の若者たちは、相手が男なので闘争心を解発され、殺気立ってきた。
「へえ、こっそり写真を撮ってやがったもんですから」
若者の一人が遠慮会釈なしに男のえり首をぐいぐいと引張り寄せながら答えた。
「痛てえなあ」
と、男がとぼけた調子でいった。
「乱暴しないでよ、お兄さん。僕、ギックリ腰なんだからさあ」
「なんだと、この野郎!」
若者たちが小突きまわし、男がひいひいと悲鳴をあげる。
「あ痛! 止めてよ、そこはでっかいおデキがあるんだからさあ、ひどいじゃない......」
「やめろ。お前さん、何だ?」
山本が若者たちを制した。郁江が面白そうに見物しているので、たぶんに意識していた。
「僕はルポライターなのよね」
と、男がいった。大きな幅広の顔をわざとらしくむっつりさせていた。
「仕事ですよ、仕事。それよりあなた方こそ何ですよ? 理由もなく引きずりまわしたりしてひどいんじゃないの?」
「ルポライター? トップ屋か?」
山本が口を歪めていった。
「そのトップ屋が何だって写真を撮ったりするんだ?」
「だから取材だといってるでしょ。ここに〝GENKEN〟っていう新興宗教団体があるのよ。教祖は凄い超能力を持った美少年でね。天草四郎の再来っていわれてる人。それでずっと張り込んで取材してるわけ。それをいきなり小突きまわすって法はないでしょ」
「こんなカメラで撮ってました」
と、黒背広が、男のジャンパーのポケットからオリンパス・ペンを無理やり引きずり出し、山本に渡した。
「何すんのさ、返してちょうだいよ。そんな強盗みたいじゃないのよ」
と、男が激しく抗議する。
「なんだ、おめえ、おカマか?」
と、若者たちが嘲笑った。
「カメラ返してくれないと、警察にいうわよ。もう訴えちゃう。あんたたち、どこの組かすぐ見当つくからね。大学の友達が桜田門に務めてて、写真台帳見せてくれるんだから」
「返してやれ」
と、山本がいい、カメラを若者に渡した。
「ありがとう、お兄さん、すみません」
と、トップ屋がシナを作り、若者がおぞけを振るったように後退った。
「お前さん、名前は?」
山本が尋く。
「風間っていうんです。風間俊敏。親分さんも、ここの東会長に用事があっていらしたんですか? いろんな有名人がいっぱい逢いに来てますからねえ。こないだなんか、竹川公一さんが来てましたよ。親分さんもそのご一統なんですか?」
「関係ねえよ。カメラは返したぜ、トップ屋さんよ。あんまりちょろちょろうろつかない方がいいんじゃないのか? そのおカマ言葉でごまかされない奴だっているんだ」
「そのきれいなお嬢さんは、東会長の秘書さんじゃないですか?」
トップ屋風間は目をまるくして、郁江を見ていた。
「東会長の秘書はみんな凄い美人ぞろいなんでびっくりさせられる。で、親分さん、今日はこれからどちらへ?」
踏まれても蹴られてもびくともしない弾力をうかがわせて風間は無邪気らしく質問した。
「それが無駄口というもんだ。俺はいっとくが親分じゃない」
「最近は、親分のことを社長とか会長とか呼びますからねえ。組はどちらですか?」
「お前さんはあまり懲り性がないご仁らしいね」
山本は鼻の先で笑い、黒背広の若者たちに顎をしゃくった。
「行くぞ。トップ屋をはなしてやれ」
男たちは敏速な動きでリンカーンに乗り込んだ。郁江はせきたてられることもなく、自ら乗って、若者たちの間に挾みこまれて座った。
「ちょっと待って下さいよ!」
風間が追いすがって車の窓を叩く。山本は窓を開け、底冷えするような目で風間を眺めた。
「余計なことにくちばしを突っこむな、トップ屋。二本の手で箸と茶碗が持てなくなるかもしれんぜ」
リンカーンが邪慳な動きでスタートし、小肥りのトップ屋をその場に置き去りにした。風間は薄笑いを浮かべて、オリンパス・ペンを車の後姿に向け、シャッターを押した。
「だせえ捨てぜりふだ」
と呟く。ポーズなのかどうかヤクザの脅迫を苦にもしていないようであった。
杉村由紀が平山ビルの玄関から走り出て来たのは、リンカーンが道玄坂に消えた直後であった。圭子ら秘書見習たちが跳びつくようにして口々に報告する。
「ど、どうして一人で行かせたの!? どうして......」
由紀は言葉もなかった。頭が一瞬空白化してしまったようであった。
「そんな無謀なこと......」
「先生が大切なお客様と逢っておられますので、時間稼ぎをしようとしたんです」
圭子が代弁した。圭子自身の考えでもあったことだ。
「でも、相手は暴力団でしょう!? そんな、簡単について行くなんて......」
「ですけど、部屋でヤクザたちが暴れだしたら、大騒ぎになりますし。それに郁江さんは〝光のネットワーク〟を信じてるから大丈夫だっていうんです」
「無茶だわ! そんなこと!」
由紀は吐き捨てるようにいった。若い娘たちはいったい何を考えているのかと思った。変事が起こったら、何よりもまず自分に知らせるのが当り前ではないか。若い子の浅慮で決定すべき軽々しいことではない。
あまりにも非常識に過ぎる。のこのこと暴力団と出かけた郁江も郁江だが、行かせた圭子たちもどうかしている。
「先生に早くお知らせしなくちゃ?」
由紀は甲走った声で叫んだ。すっかりヒステリックになってしまったのを感じたが、どうにも抑えがきかない。
「妙なことがあるもんですな」
と、風間の声がした。それを聞くまで、由紀はトップ屋がいること自体知らずにいた。度を失ったあまり、眼中になかったのだ。
「暴力団と会長先生の秘書さんが車に乗ってお出かけとはどういう雲行ですか?」
「............」
由紀は茫然と目を見開いて、カメラを手に近づいてくる小肥りのトップ屋を見ていた。風間の腫れぼったい瞼の下で細い目が鋭く光り、満面の愛想笑いを裏切っていた。
「いや、失礼しました、杉村さん。どうしても逢っていただこうと玄関先で頑張っていると、妙なことにぶつかっちまったもんでしてね......お宅の秘書さんが暴力団に連れて行かれちゃったんでしょ? 警察へ電話しなくてもいいんですか?」
「別に......あなたがお考えになっているようなこととは違いますから」
由紀は辛うじて言葉をつむぎ出した。泣きっ面に蜂とはこのことである。郁江が暴力団に連れ去られ、その現場をマスコミの腐肉獣ともいうべき、低級週刊誌のトップ屋に逐一目撃された挙句、写真まで撮影されてしまったのだ。
丈に、どのように報告すればいいかわからぬほどの大失態であった。このトップ屋はどこまでも食い下ってくるであろう。それもこれも、若い娘たちの無思慮で勝手な振舞いから生じたことなのだ。
「僕はまだ何も考えていませんよ」
と、風間は真面目な貌でいった。
「何のことやら見当もつかない。売り出しの新興教団GENKENと、暴力団の間にどんな関係があるのか、想像がつくわけもありません。事情を話してもらえますか?」
「あなた方は部屋にお戻りなさい。秘書室がからっぽよ」
と、由紀は娘たちに指図した。心を鎮めなければ、何一つまともな考えが浮かぶわけもないとわかっていた。
「話してもらえれば、何かお役に立てるかもしれないんですがね」
風間は由紀の傍へ寄ってきた。慣れなれしい犬がすり寄ってくるようだった。
「僕でよかったら力になりますよ」
と、彼は鼻翼をぴくつかせながらいった。いい匂いだ、と相手が思っているのがわかって、由紀は身を退けた。こんなしつこいトップ屋に岡惚れされても、少しも嬉しくなかった。
「申しわけありませんが、何もお話しすることはございません。取り込んでおりますので、失礼......」
「江田四朗のことで、聞き込んだことがあるんですがね」
それどころではない、といいたい気持が突きあげてくるのをぐっと抑えた。
「すみません。あなたのお話はまた別の機会に聞かせていただきますわ」
うわずってくる気持を抑えながら、それだけを喋るのも苦痛であった。郁江を救出するためには素早く手を打たなければならない。しかし、どのように対処すべきか、頭がうまく働かないのだ。こんな男と関りあっていては心を鎮めるどころか、逆にのぼせあがってくる。
「僕にできることがあったらいって下さいよ、杉村さん」
風間は意外に実のある声音でいった。由紀の苦境を知り尽しているようであった。
「暴力団につきまとわれて、困っているんじゃないですか? 事情を話して下さいよ。僕にだって何かお手伝いできるかもしれない。僕がトップ屋だってことは忘れて下さい。僕は友達としてあなたのために何かしてあげたいんですよ」
「............」
由紀はあっけに取られて相手のまじめな顔を見返した。
「僕は記事が書きたくて、あなたにつきまとっているわけじゃないんだ。あなたや会に興味を持っているからなんです。僕たちは友達にだってなれるかもしれんでしょう?」
「そういって頂けるのはありがたいのですけど......」
「僕は杉村さんが大好きなんですよ。惚れてるんです。あなたのことを考えると心が躍るんです。あなたは素晴らしい女性だし、そう思うのは僕だけじゃないでしょう。あなたが超能力者だったら、僕がいい加減なことを口先だけでいっているんではないとわかるはずだ......そうでしょ?」
こんな際なのに、自分を口説くつもりなのか、と由紀はあきれた。あきれると同時におかしくなった。彼女は余裕を回復した目で風間を見返した。臆面もない男だが、自分にとっては危険な男ではないと女の本能が教えていた。頼りにすることもできる男だった。
「風間さん。あなたは間違ったことに手を出そうとなさっているんです」
由紀は落着きを取戻していった。空っ風に吹き乱されるロングヘアーを両手で抑えようとしかけて、もう短く切ってしまったことに気付く。苛々するのはそのせいなのかもしれなかった。長い髪に未練があったのだ。
「あなたが関り合いになることは何もありません。あたくしとあなたは所詮住む世界が全く違いますから......」
「髪を短く切ってしまって惜しいことをした。素晴らしい髪だったのに。まるで別人みたいですよ、杉村さん」
風間はいかにも残念そうにいった。
「もったいない。しかし、友達になることぐらいはできるんじゃないですか? 杉村さんが忙しいのはよくわかっているが......」
「あなたには何もして頂かない方がよろしいんです、風間さん。余計なことに手を出すなとヤクザに警告されたのでしょ? その通りですわ。手をお出しにならないで下さい」
由紀はふと衝動にまかしていった。
「これは目に見えるよりもずっと根の深いことなんです。暴力団、ヤクザというのは表面的な関り合いです。手出しをなさらないで。さもないと脅しを受けるぐらいではすまなくなります。江田四朗のことも同じです。深みにはまりこんだら最後、抜け出せなくなりますわ。先生が警告なさったでしょ。噓ではないのです。相手を甘く見たら大変なことになってしまいます。よほどの覚悟がなければ......」
「覚悟はできてますよ。僕と友達になって下さい、杉村さん。そうすれば喜んで危険な橋も渡れる」
「止めて下さいとお願いしているんですよ、風間さん。わたくしは人を利用しようとは思いません......」
失礼、といって由紀は平山ビルに戻って行った。風間が追いかけてくるかと思ったが、彼はその場に佇んで由紀を見送っていた。厚かましく執拗なトップ屋、と考えようとし、由紀は自分にそれができなくなっていることを発見した。
幅広で肉厚のニキビ痕だらけのとぼけた面に、妙に暖いものを感じてしまうのだった。冷酷に心を引き緊め、そんな感情を追い払ってしまおうと努めたが、それは消え失せてしまいはしなかった。
友情を求めて差し出された手を打ち払ってしまうことは困難だった。少くとも風間が彼女に抱いている気持は偽りのものではないとわかっていた。それを知るのに超能力の必要はなかった。女の勘で充分だったのだ。
2
間もなく高名な作家は、東丈との面談をすませ、上機嫌で帰って行った。作家とはひどく思い込みの強い人種であり、丈の説いている宇宙的真理は、常々自分の主張していることと一致していると本気で考えているようであった。己れの持説を東丈という天才少年が補強すべく出現した。自我の強い作家は独善的な決めつけ方で丈を理解し、いい気持になったのだろう。
丈をしきりに賞讃し、感嘆の対象にしてはばからなかったが、煎じ詰めれば、宇宙の真理に到達している自分への自讃に他ならなかった。
高名な作家かもしれないが、その大部で冗漫な作品を丈はほとんど読んだことがない。その自己陶酔の強い大仰な作風は、丈の感性に合わなかったのである。丈にとっては、作家との面接は得るものが乏しく、ほとんど時間潰しに近いものであった。
しかし、紹介者の編集長本田は、作家の知遇を得ることは丈にプラスになると判断したのであろう。事実、高名な作家は己れの孫にも等しい年齢の丈に一方的に肩入れし、三月刊行の丈の著書〝幻魔の標的〟に彼自ら推薦文を書き、強力に推挽するといい張ってきかなかった。
権威主義的な大作家のひきを得ることは、出版社の商売としては常道かもしれないが、丈は内心苦笑いする思いだったようである。本田の親切には感謝を惜しまないが、他者の推挽で〝話題造り〟することには抵抗があるのであろう。
それでも丈はあくまでも礼儀正しく振舞い、引き上げる高齢の有名作家をビルの前の車寄せまで送りに出た。トップ屋風間が退散した後だったのは幸運であった。
「是非一度、わしの家へ遊びに来なさい」
と、大作家は機嫌よくお言葉を給わった。ちょうど階下へ降りてきた若い会員たちの見送りを受け、ハイヤーに悠然と乗り込む。
「東丈君。君は世の中の見識ある人々の話をもっと沢山聞いた方がよろしい。きっと心の糧になり、君の成長に役立つはずじゃ。わしが紹介の労を取ろう。どうじゃ、来週にでも遊びにおいで」
「ありがとうございます。人と逢う仕事がずっと詰まっていますので、一段落しましたら伺わせていただきます」
丈はあくまでも丁重さを失わなかった。
「うむ。待っとるぞ」
大作家は自己陶酔家らしい満足の仕方で頷いた。
「まんざら君を他人とは思えんのじゃ。君のような前途有為な若者をば鍛えてやるのは実に楽しみなことじゃな」
高齢の大作家を乗せたハイヤーが視界から消え去るまで若い会員たちは手を振り続け、老人をねぎらっていた。
杉村由紀は遂に老作家と丈の間に割り込む機会を得ぬままに、車を見送る破目になっていた。老作家はそれほど丈との対話に熱中し、他からの口出しを許さなかったのである。
「先生。お話が......」
と、由紀はそっと耳打ちした。丈の目がきらりと光って彼女を見返す。勘のいい丈が、秘書たちの尋常ならざる雰囲気に気付いていないはずはないのだが、それを気ぶりにも表わしていない丈だった。
「先生!」
と、若者が丈に向って呼びかけ、由紀はふと眉をひそめた。久松という名の若者は、正規の会員ではない。高鳥グループの一員の未入会者である。
「先生、実はちょっと折入ったお話があるのですが、お聞き願えるでしょうか?」
久松は若者たちを代表し、思い詰めた色を眉宇に漂わせて懸命に問いかけてきた。いかにも行動派らしい一種の迫力を持つ若者だった。
「秘書室の杉村さんに一応お話をしたのですけど、しばらく待つようにとおっしゃるだけで、なかなかお返事をもらえないものですから......。失礼とは思いましたが、こんな場所で」
「高鳥君はどうしてますか?」
と、丈は何事かいいかける由紀を制していった。
「はあ......彼はあの......」
久松は口ごもる。いきなり先制をかけられたと思ったのであろう。
「会には来ていないのでしょう?」
「はあ。彼は最近なんというか、物凄く身勝手なんで......それで我々は先生にお話が」
「高鳥君を捜して下さい。僕が逢いたがっていると伝えてもらえませんか。話があるといってもらいたいんです」
「はあ......」
若者たちは戸惑ってしまった。丈が何を意図しているのかさっぱりわからないのだ。
「連絡がついたら、一階に来るようにいって下さい。頼みます」
「先生。僕たちは......」
意を決して久松がいいかけた。
「君たちの話は後で聞きます。ちゃんと解決の方法は考えますから、君たちもそのことだけに気を取られないで下さい。なすべきことは沢山あるはずです」
丈はぴしりといった。最近の丈には珍しくない鋭気がみなぎっていた。だれにも二の句が継げなくなる。
「わかりました。こんな所で強引なお願いをしてしまいまして、申しわけありませんでした」
久松がいい、若者たちはいっせいに頭を下げた。丈にかかると、本来反抗的で負けん気の強い青年たちも一様に素直になってしまうのが不思議であった。由紀などは、ちょっと頭ごなしにすぎるのではないかという気がするほどだが、若者たちは平気らしい。
丈は無言で足早に部屋へ戻った。秘書室にいた平山圭子が由紀に首を振ってみせた。
「どうしても田崎さんに連絡がつきません。ずっと外出なさっているので......」
「郁江さんからは?」
「まだです。どうしたんでしょう?」
そう問われても、由紀には答えようがなかった。胸郭にかかる圧力がじりじりと増大してくるだけだ。
「話を聞きます。杉村さん、来て下さい」
丈は執務室に入った。由紀はそのまま続けるように指示して、丈の後に続いた。二人の女子大生はなすすべもなく席を立ったり座ったり落着きなく繰り返していた。
丈は由紀が簡潔に要領よく報告する間、問いをさしはさまずに聞いていた。
「申しわけございません。女の子たちに浅墓な真似をさせてしまいまして......わたくしの監督不行届です」
由紀は冷汗を体中に滲ませる思いでいった。
「なんでそんな愚かな真似をしたのかわかりません。わたくしにほんの一言でも耳打ちしてくれさえすれば......」
足擦りしたい気持が愚痴になったようであった。丈の感情が読み取れず、冷汗が更に湧いた。
「郁江は、その暴力団の事務所から電話するといったんですね?」
丈の声音や表情からは、内奥の感情が推し測れなかった。
「はい。圭ちゃんの話では最初人質のような形で、圭ちゃんが行くところだったようです」
郁江といい圭子といい、無思慮にもほどがある、と焦慮で体が焙られているようだった。
「郁江が出かけて、どれくらい経ちますか?」
丈は非難がましい言葉を一言も口にしなかった。
「もう四十分ほど経つようです。まだ連絡が入りません。相手の事務所に着くまで、そんなに時間がかかるものでしょうか?」
何かあったのではないかという言葉を、由紀は懸命に吞み下した。
「いずれにしろ、電話は来ますよ。暴力団の目的は、僕と話をつけることなんですから」
丈は冷静すぎる、と由紀は思った。郁江の身が心配ではないのだろうか、と考え、あわてて打ち消した。もちろんそんなはずはありえない。
「圭ちゃんの話では、高鳥君と郁江さんが、暴力団の組員たちに大怪我をさせたというんですけど......わたくし何も聞いておりませんので」
「............」
丈は無言で頷いた。その瞳は黒々と光っていた。由紀は大きく深呼吸し、うわずった心を鎮めた。丈の力を信じようと思った。それしかない。自分が一人でうろたえてみてもしかたがなかった。
「田崎さんにさっきから連絡をとっているのですけど、折悪しく外出中で......」
「田崎氏が話を聞いたら血の雨が降りますよ。あそこは血の気の多い連中揃いだから」
丈はこともなげにいった。
「でも、田崎さんなら大沢先生の人脈で、暴力団とでも話をつけられると思うのですけど......」
「暴力団の事務所へ殴り込みをかけるのがオチです。田崎氏は熱血漢ですからね。大沢先生のコネを使うのは、後始末だけです。穏便に話を通して、交渉でケリをつけるなんて、田崎氏には合わないんです。まず相手を叩いてしまうんです。性格は変らないもんですよ」
「でも、先生、では、暴力団相手の交渉はだれにまかせたら......?」
「暴力団は、僕に事務所へ来いといってるんでしょう?」
「まさか先生がいらっしゃるわけには行きませんし。わたくし、代理で行ってまいりましょうか」
「それでは、話がつきません。手間取るだけです」
「!」
由紀ははっとして丈の輝く黒い瞳を見詰めた。丈は頷いた。
「僕が行ってきますよ。それが一番話が早いから」
「でも、そんな! まさか先生を暴力団に会いに行かせるなんて、そんなことできません!」
「どうしてです?」
「危険すぎます! 相手は暴力団なんですよ! そんなこと、絶対にできません!」
「幻魔と戦う人間が、暴力団を恐れていてどうします? どのみち郁江を取り返しに行かなくちゃならないんですよ」
「警察にいって、郁江さんを取り戻します!」
もちろん、そんなことはできないとわかっていた。暴力団との抗争沙汰が明るみに出てしまう。マスコミが目の色変えて殺到してくるに決っているのだ。トップ屋風間の顔が目に浮んだ。
「郁江さんたら、本当にもう! いったい何のつもりで暴力団の巣なんかに!」
腹が立ってどうにもならなかった。馬鹿なことをするにもほどがある。暴力団などに関りあうのもそうだ。いったいどこまで馬鹿なのか。由紀は嚇怒の虜になり、自制が働かなくなってきた。
「圭ちゃんも圭ちゃんです! 自分で解決しようとなんかせずに、すぐにわたくしに知らせてくれればよかったんです! 自分では何も解決できないくせに、勝手なことばかりして......」
「だけど杉村さん、郁江も圭子も精一杯のことをしようとしたんです。お客様が来ているし、暴力団に暴れられては困ると思ったんでしょう。うるさ方の有名作家だし、暴力団が押しかけてきたなどと知られてはどんな印象を持たれるかわからない。だから自分の身を張っても穏便にすませようとしたんです。それをわかってやって下さい」
丈は懇願するようにいった。由紀の怒りをくじくのに充分な力があった。
「それはそうですけど......」
「もちろんベストの選択とはいえないかもしれない。しかし、若い女の子なりに必死で収拾しようとしたんです。押しかけてきた暴力団がそれを受け容れてあっさり引き上げたことの方が僕には不思議です。だって彼らはこの部屋に乗り込んでくることだってできたんですから。客が有名な作家先生であろうがなかろうが、そんなことで遠慮する連中ではないでしょう」
「そうですね......」
「二人を怒らないでやって下さい。とっさに自分にできることを必死でやったんです。やり方は間違っていたかもしれないが、勇気が必要だったことは確かです。僕にはとても責められません」
「............」
丈のいう通りだった。由紀の怒りは急速に冷めた。とっさのことでもあり、由紀自身良策が見出せたかどうか疑わしい。無事に事をおさめることはできなかったかもしれなかった。
「それより、次の来客、キャンセルできるかどうかやってみて下さい。暴力団の事務所へ出かけなきゃなりませんからね」
「でも、先生が直接会われるのは......」
「やむを得ないでしょう。警察に依頼して表沙汰にするわけにも行かないし」
「でも、大沢先生にお願いして、そちらの人脈で話をつけられないでしょうか?」
「姑息ですね」
と、丈はあっさりいった。
「そんな簡単なことも自分で始末できないのかと思われるに決っています。そんな弱々しさでは、この先何もできないだろうとね」
「先生、いらっしゃるおつもりですか?」
由紀は息を吞む心地で丈を見詰めた。
「行きます。だから、その準備をして下さい」
「でも、先生。もうこのことをマスコミに嗅ぎつけられているんです。先生もご存知のルポライターがちょうど張り込んでいて、郁江さんが暴力団と出かけるところを、写真にまで撮ってしまったんです」
由紀はいい忘れていたことを話した。頭が嚇っとなったとたん、トップ屋風間のことが脱落してしまったのだ。考えようによっては、当面の相手の暴力団よりも危険な存在といえた。暴力団問題が片付いても、そちらはどのように火が付き、拡大して行くかわからなかった。
「その風間という人と逢いましょう」
と、丈は躊躇わずにいった。
「でも、そんな信用できないトップ屋なんかに......後で何を書かれるかわかりませんし......」
「しかし、その人は杉村さんに非常に関心を持っているんでしょう? 会につきまとうのはそのためもある」
「申しわけございません」
身の縮む思いだった。体がかっと灼熱してきた。耳朶が火照る。こんな思いをしなければならないのが情ない。三十歳をすぎた大人の女のやることではない。
「これだけつきまとうガッツは並大抵じゃないですよ。最近のサラリーマン・ジャーナリストにはできっこない。フリーのルポライターだって電話取材でお茶を濁そうとするくらいですからね。こうなったら逃げ廻るばかりが能じゃない。そのうち風間氏に逢ってみます。この暴力団問題を片付けたら......」
「でも、危険すぎはしないでしょうか?」
「もちろん危険は危険ですが、克服しなくちゃならない危険もあります」
「風間氏と逢ったら、他のジャーナリストとも逢わなければならなくなるのではないでしょうか?」
「いずれはね......とにかく風間氏が先です。すぐに連絡をとってみて下さい」
「かしこまりました。でも、郁江さんの方は、暴力団から連絡があるまで待たなければならないのでございますか?」
「杉村さんの遠感で、郁と交信できませんか?」
「では、やはり郁江さんは超能力者だったのですか?」
質問するまでもないことだった。普段の冴えがないのは、うわずっている証拠であろう。
「わたくし、郁江さんとうまく心が通じないのです。だから、郁江さんに超能力があると感じなかったのかもしれません」
顔を赤らめながら由紀はいった。
「それに、遠感を封じているうちに、なんだか錆びついたように鈍くなってしまって......使ってはいけないものだと自分にいい聞かせていたためかもしれません」
「では、市枝君に連絡を取って下さい。明雄なら郁と交信できるんじゃないかな。もっともそんなにさし迫っているとは思えないけれども......」
「かしこまりました。さっそく手配いたします」
由紀が執務室を出る時、丈はデスクに両肘を突き、両手の間に頭をはさみこんで身動きもしなかった。精神集中の緊迫を感じさせる姿勢であった。
祈っているのだろうか、と由紀は思った。しかし祈ったぐらいで、今度の暴力団騒ぎがうまく片付くものだろうか。
丈は超能力を封じる必要はないと彼女にいった。それならば、彼自身の巨大な〝力〟を発揮してこの難題を解決してもいいのではないだろうか。丈には容易にそれだけのことができるのだから......
由紀は秘書室に出て、助手たちに指示を下す前に深呼吸をした。心の中で木村明雄に呼びかけ、チャンネルを開こうとしたが、うまく行かないことがすぐにわかった。精神集中が出来ないのだ。心がすっかり乱れてしまい、雑念でごった返していた。
3
荒涼とした心象風景がまず先に存在した。殺風景なビルの部屋だ。埃っぽく汚れているというだけではない。
荒廃の印象であった。舌を刺すような金属的な不快な味だ。空気が重く腐蝕しているようである。
超感覚が捕捉する雑多なイメージの断片は、いずれも悪臭のする汚水溜の色と感触に染まっていた。金属が腐ったような汚水の感覚であった。
超感覚の伝えてよこす印象が自分のものか、それとも他人のものかはっきりしなかった。混然としてまざりあってしまっていた。
井沢郁江は清潔とはいいがたい床から目を上げて、部屋を見まわした。コンクリートの壁が剝き出しの粗雑な部屋である。安っぽい大判のカレンダーが貼ってある。印刷のよくないヌードカレンダーは真新しいはずなのに一昨年のものでもあるかのように黄昏れて見えた。
低級な劇画雑誌が拡げられたままパイプ椅子の上に載っていた。下品な線で全てのコマが性交場面で埋められている。こんな代物をだれが煽情的だと思うのだろう。あまりにも無機的で白々としていた。
床には食いちらしたドンブリ物の空容器が雑然と並んで臭っていた。汁一滴残さずきれいに吞んでしまったラーメンのドンブリもある。この殺風景な花一輪ない部屋のわずかな生活臭といえた。
暴力団の事務所など生れて初めてだったので、最初は珍しかったが、すぐに飽きてしまった。下っ端組員の込み部屋なのであろうが、あまりにも貧困すぎた。兵舎であってもこれ以上に人間味があるのではないかと思えた。眺めるものが何もないのだ。窓にはカーテン一枚かけられていない。
小さなビルの三階である。この部屋に連れこまれて三十分ほど経ったのに、一人で放置されたまま何も起こらない。眺めるものはすぐに種切れになってしまった。鉄枠の窓からは、間近に迫った隣接ビルの薄汚い染みだらけの壁面しか覗けない。
退屈したが、汚らしい劇画雑誌を手に取って見る気にもなれなかった。画柄が不愉快すぎた。
監視がついているわけでもないし、立ち上ってそのまま帰ってしまってもよさそうだったが、郁江は退屈に堪えることにした。どうせ結着がつかない以上、暴力団は何度でも平山ビルに押しかけるに決っているのだ。
しかし、いつまで待たせるのだろう。
郁江は時間潰しに超感覚に心を集中し、自分だけではなく、他の意識が超知覚を用いて探っているのに気付いたのだった。
相手がだれであるかはわからない。郁江の超知覚は目的と用途を定めて用いられることがないからである。単なる漠然とした印象にすぎなかった。時により不随意的に鮮明になることはあるが、自ら求めてその特別な〝力〟を働かすことがないからだった。
しかし、面識のある人間ではないように思えた。時折、自分の周辺に来ている〝意識〟ではあるが知り合いとはいえない。少くとも意図的に交信した例しは一度もなかった。
いつもつきまとっているわけではない。不意に気配を感じるのだった。邪悪な意図や敵意があるわけではない。単なる好奇心かもしれなかった。
郁江に好意を寄せている会員のだれかれの意識が来るのを感じることもあるが、その相手はそうした関心の持ち方とは全く異っていた。
女かもしれない、と思う。特に理由はなかった。そんな気がするだけである。しかし、必ずしも一人だけに特定される意識ではないような気がする。
いずれにしろ格別の関心を向けたことがないので、鮮明な印象とはほど遠かった。
コンクリートの階段を足音が駆け登ってきた。下駄や雪駄の音が入り混っている。
「いた、いた......」
五、六人のチンピラが乱暴、粗雑をきわめた印象で入りこんできた。いた、いたもないものである。ラメの入った腹巻に黒背広をだらしなく羽織って、雪駄を裸足穿きしたりしている絵に描いたようなチンピラである。
平板な面つきは目がひっこんだようになっており、恐ろしく浅薄でもとより知性のひとかけらもない。卑しく醜い面である。常に凄んでいるのでいずれも怒り肩だ。習い性になっているのであろう。
暴力組織の最下層であるチンピラは、小遣銭もろくにないので、身なりは粗末で薄汚れている。薄着を強制され、真冬でも足袋を穿くことは許されない。欲求不満でむっと顔がふくれあがったようになっているのはそのためだ。高級幹部がりゅうとしたオーダーメイドの服を着、大型外車を乗りまわすのとまさに雲泥の差がある。
「凄え......」
チンピラたちは棒立ちになり、茫然とした表情で、郁江を眺めていた。郁江はパイプ椅子に腰をかけて、何事もないように汚れた窓ガラスの彼方を見詰めていた。薄暗い部屋の中で、妖精じみた顔が神秘性を強め、ひとしお人間放れした印象をかもしだしている。
「佳い女だなあ」
と、チンピラの一人がうっとりしたようにいった。異世界の存在を目のあたりにしているような感嘆がこめられていた。チンピラたちは息を吞んでいた。浅薄で粗雑な面に、魅せられた色が浮んできた。ごくっと音させて固唾を吞む。
「な、姉ちゃん。お前、名前なんていうんだ?」
と、一人が問いかけた。
「な、教えろよ......」
郁江は戸口にひしめくチンピラたちを振り向いた。大きな眸が不思議な輝きを帯びていた。瞳孔、虹彩のみならず、うっすらと青みを帯びた鞏膜までが光っている。ただ単に光を反射しているだけでなく、自ら光耀が溢れだしてくるような眸であった。
チンピラたちは電流が体を走り抜けたような緊張をいっせいに示した。彼らはこんな美少女を生れてから一度も見たことがなかったのだ。生身の人間の娘とは思えなかった。強い動悸に襲われて、彼らは体を固くしていた。
殺風景な、目をいこわせる何ものもない暴力団事務所に、これほど不似合な存在はまたとなかった。ドアを開けると広大な花園が地平の涯まで広がっているのを見たとしても、これほどのショックは覚えなかったであろう。
「郁江よ......」
と、彼女はいった。チンピラの何人かが身慄いを体に走らせて反応した。彼らの粗雑な面構えは恍惚感で浄化され、和んで見えた。
「イクエちゃんか......?」
「そうよ」
美少女の声音には特別な魅惑があり、若者たちの目は生き生きと輝き始めた。もっとその声音を聞きたいという欲求が、彼らの顔を輝かせた。
「お前、綺麗だな」

と、チンピラの一人が勇を鼓したようにいった。
「物凄く綺麗だ......」
「ありがとう」
郁江はかすかに笑った。チンピラたちはその笑顔に活気づいた。彼らの顔からしみついていた卑しさが薄れはじめているのが不思議な印象であった。
「お前、テレビに出てるのか?」
と、色黒の頰骨の張った若者が期待に満ちて尋ねた。
「ううん。出ていないけど」
「だけどよ、お前、普通の女の子じゃねえんだろう」
「あたし、普通の女の子よ」
「そうかなあ......」
若者たちは納得が行かぬという風に頭をかしげていた。
「どっかで見たことがあるんだがなあ......だって、お前みたいな娘っ子はそんじょそこらにいやしねえよ。見憶えがあるんだ」
「俺もだ」
若者たちは確認しあっていた。
「絶対どっかでお前に逢ってるよ。テレビで見たんじゃなかったら、どこでかなあ......」
「さあ。どうしてかしらね」
「思いだせねえ。でも、どっかで会って話をしたような気がするんだ。通りすがりに見かけたというんじゃなくてな......」
「なんだかこんなことが前にもあったっていう気がしねえか?」
色白の若者が興奮に頰骨の上を赤く染めて、思い切ったようにいいだした。
「俺。さっきからそんな感じがしてしょうがねえんだよ。ああ、こんなことがずっと前にもあったなって......」
「同じことをまたやってる......」
ドスの効いた声の若者がいった。
「俺もだぜ。いつだったか思い出せねえがよ、確かにそっくり同じことをやったって気がするぜよ」
「どっかで逢ったって気がするのといっしょだな」
と、色黒の若者が勢いこんでいった。
「みんなが同じ気分になるっていうのはよ、ずいぶん妙だと思わねえか。な?」
「そうだ! なんかこう、自分が生れる前にどっかで生きていて、で、彼女に逢ったんじゃねえかってな......凄く不思議な気持がしてきやがってよ......」
「俺も......」
と、無口なタイプの若者が精一杯の自己表現を漏らした。彼らはおずおずとした動作で近寄ってきて、郁江の囲りを取りかこんだ。その時の彼らはチンピラには見えなかった。年齢相応の無邪気さを持った若者たちでしかなかった。
「郁江ちゃん」
と、色黒の若者が面映ゆげに口にした。
「お前、学生かい?」
「そうよ」
「こんな所で何してるんだ?」
「待っているの」
「待ってるって、だれを?」
不思議そうに尋ねた。郁江のような少女が組の事務所にいるのが不思議でならないのだった。あまりにも似つかわしくないと思っていた。
「山本っていう男の人」
「山本さんを?」
若者たちははっと息を引いて、反射的に郁江から身を遠ざけた。
「山本って人がここで待っているようにといったものだから」
「あんた、山本さんの何かかい?」
「別に何でもないわ」
「山本さんの知りあい?」
「ううん、別に」
若者たちの口からほっとしたような溜息が同時に漏れ出た。郁江が山本の手をつけた女かと一瞬はっとしたのだ。彼らの心を掠めたのは激しい落胆であった。憧憬の高貴な星が地に叩き落されて汚されたような失意が、一様に若者たちの心を通り過ぎて行ったのである。
それは奇妙な心理反応であった。彼らはチンピラであり、機会さえあればゆすりたかりから暴行傷害、輪姦に至るまで小悪党のやることは遠慮しない手合である。暴力団のメンタリティーの根幹は反倫理的であり、女性に対する尊敬心は極度に稀薄だ。彼らにとって女は品物である。彼らは女を売買するし、使い捨てる。女性に対して崇高なものなど見出すわけがない。
組織構成員の間では友情も恩愛も忠義忠節も存在の余地はあるが、女は別だ。女に対してはいかなる人間的価値基準も適用されない、女は品物であるゆえに上玉とクズがあるだけだ。経済法則を適用すべき商品でしかないのである。彼らは己れの子供に対しては人並みの愛情を抱くが、妻には冷酷だ。たとえ男女間に愛情関係が生じても、それは逸脱行為であり、正常社会への回帰に他ならない。彼らは飼い犬を愛するほどには決して妻や情婦を愛さない。
チンピラのような準構成員といえども、決してそうした特殊な法則性からはずれていない。騎士道精神からはもっとも遠地点に存在しているのである。絶えざる欲求不満の虜であり、常に性的餓鬼である。
郁江を取り囲む若者たちは、あらゆる意味でチンピラの基準からはずれ、奇妙な偏りを示していたといえる。
「な、あんた、なんでこんな所にいるんだよ?」
「あんたのような女の子の長居するところじゃねえよ」
「早く帰んなよ」
若者たちは口々にいった。にわかに落着きがなくなり、そわそわと部屋の外の物音に聞き耳を立てたりしていた。どうにも気になって堪らぬ強迫観念に捉われてしまったようであった。
「でも、用事がすむまでは、ここで待っていないと......」
「いいから早く帰んなよ。こんな所にはもう来ねえ方がいいよ」
「悪いことはいわねえから、帰れったら。今の内だぜ......」
大きなニキビを顎に作った若者が声を殺していった。
「やばいよ、絶対に。この事務所は、こう、いろんなのがいるから」
「電話をかけて迎えに来てもらうことになっているの。ここには電話はないのね」
郁江はいささかも動じずにいった。若者たちがなぜ焦っているのかわからぬという無邪気な表情をしていた。
「電話は一階だ。けどよ、電話するんだったら外でする方がいい」
「早くしてきな! だがよ、もう戻ってくるんじゃねえぜ! ここはあんたみたいな娘は絶対に来る場所じゃねえんだからよ!」
若者たちに口々にせきたてられて、郁江はゆっくり椅子から立ち上った。
「心配してくれて、どうもありがとう。じゃ電話してくるわね」
「ああ、そうしな。急いで行くんだぜ」
が、階段を荒々しく駆け登ってくる乱れた靴音が一同を化石化させた。
「やばい!」
と、だれかが絶望的な声音で口走った。
「どうする!?」
「早く出るんだ!」
しかし、もう間に合わなかった。黒い革の背広を着た背の高い男が激しい勢いで、部屋へ跳びこんできた。
4
まさにバネの弾ける、猛々しい精気がみなぎっていた。猛烈に獣的なバイタリティーであり、それだけで他人を圧倒することが可能であった。サングラスをかけた顔には贅肉がなく、殺いだように荒削りの頑強な面構えである。
普通の人間であれば、見ただけで圧迫され、不快な恐怖を覚えるであろう。
「なんだ、手前らは!?」
黒背広の男はチンピラたちを一喝した。申し分なくドスの効いた、不快な波動そのものの声だ。恫喝的、脅迫的であるのみならず、その声音は〝応えない郁姫〟まで反応させる特殊な波動であった。郁江はぱちっと大きな眸を開けて黒背広の男を見詰めた。
「すみません、矢頭さん......」
色黒の頰骨の高い若者が精一杯の愛想笑いを浮かべて腰をかがめた。その猛悪さや貫禄の違いは圧倒的であった。矢頭と呼ばれた黒背広の長身の男は、黒豹のような邪悪さと粋さを備えていた。チンピラたちはまるで未経験な若犬といったところであった。
「ちょっと様子を見に来たもんで......」
「手前ら、この女に何か悪戯でもしやしなかったろうな?」
「と、とんでもねえ! 矢頭さん! 俺たちちょっと話をしてただけで......」
色黒の若者は怯え、激しく汗を流し始めた。他の若者たちもとっくにすくみ上ってしまっている。
「本当か? もし噓こきやがったら、手前らお仕置するがいいか」
「噓じゃありません! 俺たち本当に彼女と話をしてただけで......」
「よし。もういい......」
矢頭は、いかにも切れそうな年かさの若者二人を従えていた。チンピラと異り、服装もよく懐も暖かそうであった。ギラギラする戦闘的な顔色は、彼らが兵隊であることを明していた。拳銃射撃の訓練を受けたり、暴力団幹部の用心棒をするクラスの戦闘要員である。チンピラよりずっと階梯は上位だ。
「おう、佳い女じゃねえか」
と、矢頭は手を伸ばして、郁江のおとがいを恐ろしく無遠慮にしゃくり上げながらいった。まるで動物をいじるような手つきだ。
「こりゃ頂きだな。カモネギよ。わざわざてめえから舞い込んでくるとはよ......」
矢頭はサングラスで表情を隠した硬質な貌でにこりともせず、連れの若者たちに声をかけた。
「なあ、権よ......」
「まったくで」
と、用心棒らしい若者が愛想笑いしながら答えた。その目は羨望と嫉妬の色を表出しまいと硬く無表情だった。しかし隠し切れているとはいえない。
「早く頂いちまった方が勝ちだ。文句をぶうたれても手遅れってわけよ」
矢頭の大きな薄い口がにやりと笑った。両端が吊り上ったVの字の笑いであり、荒削りの迫力のある貌に奇妙に似合っていた。しかし、愛嬌があるわけではない。したたか、不逞というより、はっきり邪悪といってさしつかえなかった。
「おっ?」
と、矢頭が声をあげた。郁江が頰をはさみつけている男の大きな手を、断乎とした動作ではずし、押しのけたからであった。それには威厳があり、郁江が何も怖れていないということを証かすものであった。
矢頭は意外なものを見る目を郁江に向けた。郁江が並みの美少女ではないことを感じたのであろう。
「矢頭さん......彼女は山本さんを待ってるそうなんですけど......」
と、色黒の若者がおずおずといった。懸命な気持がこめられていた。
「............」
矢頭はものもいわず連れの若者に顎をしゃくって見せた。
「出て行きな、タケ」
と、精悍な用心棒が無愛想にいった。
「矢頭さんは、手前らに用はねえ。目障りだとおっしゃってるぜ。わからねえのか」
「へえ......」
タケと呼ばれた色黒の若者はまだぐずぐずしていた。何とかしなければならぬと必死になっているのだ。
「手前らもだ、早く出て行きな」
「へえ......」
若者たちはぐずついていた。郁江を残して去るに去れないのだった。
「でも、山本さんが......」
いいかけるタケという色黒の若者を、矢頭はいきなり張り倒した。獰猛な、火を発するばかりの猛烈な勢いであり、床に這ったタケは茫然としていた。矢頭の激烈さはまったく人間放れしていた。
「余計な口を出すんじゃねえ、この馬鹿が!」
矢頭は若者の横腹を蹴り上げた。若者は唸り声を上げて床に横倒しになり、胎児のように体をまるめた。
矢頭の思い切った残忍さ乱暴さに、若者たちは血の色を失い、後退りした。矢頭は恐ろしいほどの乱暴者であり、クレージーであった。嚇っとなって暴れ出すと火の玉になり、だれにも抑えがきかない。流血沙汰喧嘩沙汰のために生れてきたような男であった。組の戦闘部隊長であり、他組織との抗争になった場合、これほど睨みのきく存在もなかった。獣的な雰囲気は、粗暴タイプばかりの暴力組織にあっても並みはずれた代物だ。たとえ舎弟であろうとも逆鱗に触れた者は半殺しになるまで蹴りまくられる。抑制はきかなくなってしまうのだ。
タケは弱々しい悲鳴を漏らしながら、両腕で頭を抱えこみ、四肢を縮めて腹に引きつけていた。矢頭の制裁の物凄さを知っているのである。
続けざまにタケの背中を蹴りつけようとした矢頭は、いきなりよろめいてバランスを崩し、狙いをはずしてしまった。
郁江が両手で矢頭を押しのけたのだ。タイミングがよかったので、長身の矢頭の体もあっけなくぐらつき、押しこくられた。
「なんだ、こいつ?」
矢頭はあっけに取られた声を出した。郁江の遣り方が全く意表を突き、とっさに何のことかわからなかったようである。
「そんなことやめたら? 馬鹿みたい」
と、郁江は平然といった。
「仲間同士でやることじゃないでしょ? 陰惨なのよね」
「こいつ......」
矢頭は度肝を抜かれたようである。このような不可解さを持って振舞う少女に一度も遭遇したことがないのであろう。
「みんなで手を貸して起して上げなさいよ。何してるの。仲間じゃない。それくらいの気力を出しなさい」
郁江は茫然としている若者たちを叱りつけた。
「ほら、早く! 痛そうにしているのがわからないの? あんたたち友達甲斐がないじゃない!」
郁江の叱言は、若者たちの目を覚まさせたようであった。電気をかけられたように反応し、彼らはいっせいにタケを助け起こしにかかった。矢頭への恐れも一瞬忘れてしまったようだった。
「ひでえや、肋骨が折れてるんじゃねえか? 医者んとこへ運ばねえと......」
「そっとしろ、そっと! こりゃ歩かせるのは無理だ」
「どっかの戸板をはずして持ってこい。担架の代りだ」
若者たちは口々にいった。タケが苦痛の唸り声をあげた。
「あんたは兄貴分か何か知らないけど、あんまりひどすぎるじゃない」
と、恐れを知らぬ郁江が矢頭にくってかかった。
「同じ身内でしょ。しかも舎弟でしょ。弟分にこんなにひどくするなんて、いったいどういうことなの? ヤクザでも暴力団でも身内は大切にするもんでしょ。これじゃまったく逆じゃないの。理由もないのに身内に大怪我をさせておいて、組織がどうやってまとまるのよ? 暴力だけでリーダーが務まると思ったら大間違いよ」
若者たちはぞっと血の気が引いた顔色で、この手きびしい弾劾を見守っていた。
「このリーダーのためなら命もいらないと思わせるような人間でなければ、大きなことができるもんですか。あんたみたいな無茶な人間がリーダーをやってるようなら、もうあんたたちの組も長くはないわね」
郁江のように妖精じみた美少女の口から恐れ気もなく飛び出してくる非難の言葉に、若者たちはもちろん、当の矢頭ですらあっけに取られ、口がきけなくなっていた。
「予言してもいいわ。あんたはもう長続きしないわよ。もちろん組にもいられないし、あんたを受け容れるような所は、この世のどこにも存在しないわ。だって、あんたが威張りちらしている力は、もう何の役にも立たなくなるもの。いくら喧嘩が強くたって、脳の血管が破れたりすれば、身動きもできない廃人になるだけよ。そうなったら、いったいどこのだれがあんたを助けてくれると思うの? 仲間や身内に平気で残酷な仕打をするような人間の面倒をだれが見てくれるの? あんたが溝の中に落ちていても、だれ一人気にかけたりしないわ。あたしにはそれがわかる」
郁江は一気に迸るように喋った。だれも口をはさませない勢いで、言葉が可愛い唇の間からつむぎ出された。
矢頭は石のような顔付でそれを聞いていた。暴力衝動の化身のようなこの男が、まったくの無反応になっていた。それは恐ろしく奇異なことであったらしく、若者たちは固唾を吞み、郁江と矢頭を等分に見比べていた。
矢頭の用心棒である男たちも例外ではなかった。彼らは一種、畏敬に似た色を顔に浮かべだした。心と反しても、おのずと尊敬に傾いてしまうようであった。眼前の美少女はあまりにも平凡ならざる存在だったのだ。彼女は比類なく美しく、そして勇敢であった。
「ご託を並べやがってからに......」
矢頭はいったが、妙に足許が定まらぬという印象を与える語気であった。矢頭でも気力の点において圧倒されることがあるのだというのは若者たちにとり、異様な感慨をもたらす発見となった。火の玉と化す激越な気性が湿気を帯びてしまったようだ。
「この女はな、GENKENとかいう新興宗教の奴よ」
と、矢頭は若者たちに向っていった。
「お前らも知ってるだろう。義の野郎を脳天パーにしやがった張本人はこのスケなんだ。山本先輩が押しかけて、引っ張ってきたのよ。どうだ、わかったか」
そのいい草は妙に白々しく弁解がましく聞こえた。矢頭のような強引な人間にはふさわしくなかった。
「義は俺のあずかってる舎弟だ。舎弟をこの女に死人同然にされたんだ。この女を煮て食おうが焼いて食おうが俺の勝手よ。山本先輩には口を出させねえ」
「で、でも、山本さんに無断で、そんなことしていいんですか......」
苦痛を堪えながら、タケが床からようやくの思いでいった。その気力に若者たちは驚嘆した。いまだかつて、凶暴無類の矢頭に口ごたえしたチンピラなど一人もいない。
「やかましいっ」
矢頭は凄まじくどなったが、その殺伐さには先刻までの猛悪さが刃こぼれしているようであった。
「手前らの知ったことじゃねえ。この女が義の仇だってことをよく憶えとけ! 手前らの身内を脳天パーの廃人にした仇なんだぞ! わかったかよ!?」
しかし、矢頭の怒声にはまったく説得力がなかった。若者たちは硬く冷たく沈黙し、矢頭の怒声は空廻りし、はね返されてしまったようである。彼らが矢頭の威令に対し、今までのように服していないのは明らかであった。それは、矢頭の用心棒たちにもうかがわれる異和感といえた。
郁江がそれをやってのけたのだった。まるで魔法のように矢頭の絶対的な威令を根こそぎにし、一人だけ浮き草のように浮き上らせてしまっていた。
矢頭にはいかにもそれが承服しがたいことであった。今の今まで狂犬以上に恐れられていた己れが、組のチンピラたちに白い目で見られているのである。肋骨を折られて重傷を負ったタケまでが、恐れ気もなく彼自身の権威に挑戦しているのだ。
これほどの不条理はなかった。矢頭にとっては足許の地面が頼りなく傾き、ボロボロと腐蝕して行くほどの衝撃だった。
「わからねえのか、この馬鹿たれどもが! この女は仇なんだぞ! 八つ裂きにしても飽き足りねえ仇なんだ!」
「............」
若者たちは沈黙を守っていたが、それはさいぜんまでの恐怖に萎縮した沈黙ではありえなかった。
「手前らは何も知らねえだろうがな。こんな女にだまされやがって、馬鹿が! うまいことを吐かして、頭の足りねえ手前らをそそのかしやがったんだろうが!?」
「そんなこと、ないです」
顎にニキビのある若者が懸命にいった。
「ただ、ちょっと話をしてただけで、だますなんてそんなことは......」
「やかましい! それがたらしこまれたって証拠じゃねえか! 手前ら、この女に手馴付けられやがって、尻尾を振りやがったんだろうが! さもなきゃ腰抜けの手前らが揃って俺にタテつくわけはねえ!」
「タテなんかつきません......」
「うるせえ! いっとくがな、この始末はキッチリつけるぜ。山本先輩にも文句はいわせねえ。手前ら、徹底的に仕置してやるから覚悟しろ! その前にこの女をなぶり殺しだ」
矢頭はいきなりひきむしるような動作で、黒革の背広上衣を脱ぎ捨てた。後も見ずに肩越しに用心棒へ叩きつけた。
「木刀をよこせ! いや木刀は後だ。ベルトで体中赤剝けになって糞をひりだすまでぶっとばしてやる!」
腰に巻いた鰐革のベルトを一気に引き抜いた。幅広の恐ろしく頑丈そうなベルトであった。しかし、ベルトそのものよりも恐ろしいのは、火を噴きそうな粗々しい動作だった。
「裸に剝いてはらわたが飛び出るほどぶちのめしてやる! 見てやがれ!」
矢頭は大きな右手を伸ばして郁江を摑まえ、上衣を一息に引き裂いた。薄手のブレザーは凶暴な力に一堪りもなく上から下まで裂けた。
「権! 女を裸に剝いてやれ!」
と、用心棒に命じる。
「へえ......」
権は戸惑ったように答え、即座に動く気配を見せなかった。
「何をしてやがる!? もたもたするな!」
矢頭がどなりちらす。権はもう一人の若者に矢頭の革上衣を渡した。動作は躊躇いがちで、いかにも気乗りがしていなかった。
「この間抜け野郎!」
矢頭は怒号すると同時に、振り向きざま革ベルトを振るってやにわに権を殴りつけた。ぱっと鮮血が飛び散り、若者たちはあっと異口同音に叫び声をあげた。矢頭の遣り口は無体すぎ、凶暴すぎた。
権は両掌で顔をおさえ、よろめいて尻もちを突いた。しっかりと顔を摑んだ指の間から血が盛りあがり、溢れ出てきた。
「目が......畜生! 俺の目が......」
権は絶叫をあげた。
「兄貴、ひでえことを! なにも俺の目を潰すことはねえじゃねえですか!!」
「うるせえ! 手前まで俺に楯突きやがるからだ!」
矢頭は狂的な怒号を放ち、再び革ベルトが凶暴な弧を描いた。革ベルトが命中した権の背広の肩口から埃が舞い上り、若者は床にのたうって両脚をバタつかせた。悲痛な声を絞りだし続ける。
矢頭は正真正銘の狂人だ!
若者たちは恐怖に白っ茶けていっせいに後退った。逃走衝動の虜になっていた。矢頭の馬鹿力で革ベルトを振るわれたら、本当に撲り殺されてしまう。
もう一人の用心棒は戸口にもっとも近く位置しており、その地の利を活用した。バタバタと転げるように部屋を飛び出して行く。掠れるような悲鳴を間断なく漏らし、階段を駆け降りる。
後にのたうっている犠牲者を残して、若者たちはじりじり後退った。矢頭が戸口に近いので、逃げ場を塞がれているのだった。彼らは革ベルトを摑んだ矢頭を、狂犬を見る目で凝視していた。矢頭はこの上なく危険な存在と化した。もはや窓から跳び出しても逃げださずにはいられない衝動が若者たちを鷲摑みにしていた。
孤り、郁江だけがたじろがなかった。平然と屈みこみ、床にのたうっているタケに手を差し伸べていた。息もつけない激痛に堪えかねてもがく若者の脇腹をおさえてやる。
その郁江の頭上に、革ベルトを叩きつけようと矢頭が大きく振りかぶった。若者たちがいっせいに声を絞り出した。知らぬうちに漏れてしまう恐怖の感情発声音であった。郁江は矢頭が襲撃しようとしていることなど知らないようである。
バネが弾ける凶猛さで革ベルトを振り下す寸前、とてつもない大音響が部屋を揺り、ビル全体を揺った。ビルの地下から何かが急速浮上して頭突きを食わしたようであった。
部屋が激動し、天井からざーっと埃が降り注いだ。異様な青い閃光を噴いて裸電球が炸裂して飛び散る。振り子運動で天井に激突したらしい。
大地震と間違える激動だったが、ただの一度で終った。しかし、肝をひしぐには充分な一撃だったようである。
矢頭は足許をすくわれて、床にしたたか腰を打ちつけ、手にした革ベルトを飛ばしてしまった。そこへ降り注いだ裸電球の破片が顔や首筋を切ったらしい。手で顔をこすって傷を広げたのか、真赤な血の筋が頰から首へと走っていた。みる間に赤い太い紐を巻きつけたようになる。
矢頭は降り注ぐ埃に咳込みながら、よろよろと身を起こした。片手でサングラスをはずす。鉄鋲を打ちこんだように、気味の悪い据った眼が現われた。偏執者の暗いぎらつく目だった。肉を殺いだような硬い顔には、物の怪にでも憑かれた無気味な表情がこびりついていた。
この長身のヤクザには、鳥肌の立つような素顔があった。重傷を負った若者の傍らにうずくまり、矢頭を見上げる物怖じしない郁江にもそれは通じた。初めて郁江のビロードのような滑らかな頰に鳥肌が立った。この時の矢頭は、さいぜんの異常に攻撃的な彼よりも危険であり無気味なものをはらんでいた。
そこへ階段を駆け登ってくる一団がなければ、何が起こったか、郁江にも見当がつかなかった。
「矢頭、手前、何してやがる!?」
山本の声は驚愕を露わにしていた。矢頭の鮮血にまみれた凄惨な形相は、したたかなヤクザ者の度肝を抜くのに充分だったようである。
「気でも狂ったのか!? このざまはいったい何だ? 矢頭、いくら手前でもただはすまねえぞ!」
矢頭は血に汚れた無気味な顔に薄笑いを浮かべて、山本の糾弾に応じた。山本のしぶとい顔にすら鳥肌が立った。
「好きにしなよ」
矢頭は笑いながらいった。
「冗談じゃねえ! いくらお前でも慰みに身内の若い者を半殺しにして大怪我させるなんてことが通ると思うか!? 気儘な真似は俺が許さねえ。わかったか!?」
「だから好きにしなといってるだろうが......」
矢頭の笑い顔は悪鬼じみていて、正視に堪えない代物であった。
「その女に手出しをしたことも許せねえ。矢頭、いくら組長にかばいだてされていても、物事にはけじめというものがある。これを機にそいつをはっきりさせてもらうぜ」
矢頭は鼻の先で笑い、山本の頑強な分厚い体が闘争心をはらんで緊張した。矢頭が仕掛けてくると予感したのだろう。
「何もいうことはねえよ......」
矢頭はふらりと幽鬼のように足を踏み出し、組員が傍へ寄ってあけた道を通って、部屋の外へ出て行った。その瞬間、鳥肌を立てていない顔は一つもなかったといっていい。矢頭は何かしら人間放れし、理解を絶したものとなっており、わずかなきっかけで刃物が抜かれることになったかもしれなかったのだ。
「怪我人を医者に運んでやれ」
と、山本が手下に命じた。
「歩けないなら戸板をはずして持ってこい。あんたは大丈夫か?」
郁江に向って尋ねる。郁江は無言でタケから手をはなして立ち上った。真二つに裂けた上衣を脱ぎ、若者の体にかけてやった。
「ショック症状を起こしかけてるわ。だれか毛布を持ってきて、体をくるんであげて」
「わかった!」
若者たちが先を競って部屋を飛び出して行った。床に散った電球の破片を踏んでジャリジャリと鳴った。
「あたしは大丈夫よ」
郁江はスカートのポケットに両手を差し込みながら答えた。
「でも、若い人たちに悪いことをしたみたい。あたしの身代りに乱暴されたようで......」
「お前さんは例によって無傷というわけか? なんだか知らんが、やたらに運のいい女の子だな......階下へ来てくれ。こんな所で待たして悪かった」
「後で病院を教えてね」
と、郁江は毛布でタケの体をくるみこんでいる若者たちに向って声をかけた。彼らは固唾を吞み、こっくりと頷いた。山本は驚いてその有様を眺めていた。
上衣なしのシャツブラウスだけで寒そうな顔も見せずに、郁江は階段を降った。そのすっきりしたキュートな姿に続いて階段を降りながら、山本の頑強そうな面構えには、奇異な表情が貼りついてはなれなかった。
5
一階では組員が総出になって郁江を迎えた。敵意よりはむしろ好奇心が勝っている表情であった。郁江の並みはずれた美少女ぶりにあっけに取られているようでもあった。彼女が事務所に到着した時の五倍は人数が増えて、ラッシュじみている。
はずされた戸板に乗せられて、タケと権が運び降ろされてきた。そのまま表に待機している車に運びこまれる。組員かかりつけの医者がいるのであろう。先に降りたはずの矢頭の陰惨な長身はどこにも見えなかった。
郁江は一階の奥の応接セットのある部屋に通された。不動産屋の応接室に似ているが、あるいは表向きは一応商売をしているのかもしれない。ビルには〝塚田興産〟という看板が出ている。ありきたりの事務所ビルに見えるが、一歩内部へ入れば、黒背広、サングラスの男たちの巣だ。
「まあ、座れ」
と、山本がどっかりとアームチェアーに座りこみながらいった。郁江は振り返って開かれたドアに事務所に詰めた組員たちを見返した。人相の悪い男たちは、気味悪いほどの好奇心をみなぎらせて、応接室の郁江を凝視していた。
「ハクいスケだな」
という男たちの批評が聞こえた。表現の貧困さはどうにもならない。
「畜生、一発抜かせねえかな」
「堪らねえよ」
男たちの声ははっきりと通って、山本はさすがに苦笑いした。事務所中が熱気で煮立ったようになり、異様な興奮をはらんでいた。よだれを垂れ流さんばかりの男たちはギラついた目で飽かずに郁江の肢体を犯している。
「そこを閉めとけ」
と、山本が命じた。ドアが閉められて、郁江の体に突き刺さらんばかりの視線のシャワーをさえぎる。
「お宅はまるでウチの組にとっては疫病神だな」
山本は唇を曲げて笑いながらいった。
「あっという間に怪我人ばかり出やがる。あの連中の前にお宅をほうり出してみろ、たちまち奪い合いで血の雨が降るぜ......まったく物騒な女の子だよ、お宅は。なんでそんな度胸がいいのか......俺はお宅がちょっとばかし恐ろしくなってきたよ」
「今まで何をしていたの?」
郁江は取り合わずにいった。
「早く電話をかけさせてくれれば、あんなことにはならなかったのに」
「ちょっと用があったもんでね。それで待たせた」
「噓」
と、郁江はあっさりといってのけた。
「あたしがどうするか見たかったんでしょ? 怖がりでもすれば気に入ったの? それで、わざとほうり出しておいた......事故が起きたのはあなたにも責任があるわ」
「お宅は相当な怖いもの知らずだな」
山本は笑いを消していった。凄みがのぞいた。
「疫病神だからかな? しかし、こういう場所では女の子が小生意気な口をきかないほうがいい。滅茶滅茶にやられちまうぜ......この間も頭に来て、女の子のあそこに野球のグラヴを詰めこみやがった馬鹿がいる。まさかと思ったが入ったというんだ......ここはそんな場所だよ。何を始めるかわからねえ奴がいる。さっきの矢頭なんていう馬鹿もそうだ。あいつはまともな方法では女とやらない。刃物で女の体に割れ目を作って、チンボを突っ込むこともあるそうだ。ラリ公だよ。どんな突飛なことを考えだすか見当もつかねえ」
「............」
郁江は平然としていた。馬耳東風という貌である。虚勢を張っているのではないと知って、山本の目が鋭くなる。
「ウチの事務所に電話をかけるわ」
と、郁江はいった。
「いつまでも脅してみてもしょうがないでしょう?」
「本物の度胸があるかどうか見たんだ。もしかすると、頭がおかしいのかもしれねえからな。時々そういうのがいるのさ。何をされても怖がらねえと思ったら気が狂ってた。組の若いのが三十人ぐらいで輪姦したんだ。死にはしなかったがな......」
「電話をかけてもいいの?」
「もうしたよ。お宅の先生が直接こっちへ来るそうだ。お宅を引取りに来る」
「丈先生が?」
郁江は小首をかしげた。いささか動揺したようであった。その仕草があどけなく愛らしく、山本は戸惑ったように目をそらした。
「だから座って待ってな。もうじき着くだろう」
「丈先生がお一人で来るの?」
「まさか警察を連れてもくるめえよ」
「ふうん」
といって郁江は考えこんだ。
「責任を感じるか?」
「別に......」
「しかし、張本人だろうが。下手すりゃお宅の会は潰れる。そうなったらお宅のせいになるだろう。新興宗教の会長秘書が暴力団と争って瀕死の大怪我をさせたとあっちゃあな」
「そんなことで、あなたは丈先生を脅迫するの?」
「脅迫などしねえよ。断っとくがな。これは単なる話し合いにすぎねえ。お宅も、会長さんも自分の意志でここへ来た。なにも無理やり引張ってきたわけじゃないからな」
「でも、脅迫でしょう? 落度は組の人たちにあるとあなたにもわかっているんでしょ? それでもむりやりいいがかりをつけるのね」
あまりにも率直な郁江のものいいに、山本は面食ったらしい。正面から恐れげもなくひた押しにされるなど、あまり経験がないのであろう。
「それこそ、お前さんのいいがかりだろうよ。冗談じゃねえ。お宅に落度がなければ、わざわざこんな所には来るめえ。はっきりいってここは世間様でいう暴力団の事務所ってわけだからな」
山本は怒るに怒れないようであった。郁江のような娘は初めて遭遇するので、どうやって反応していいかわからないのだ。何度もむっと怒りかけるのだが、その都度うやむやに怒りをなだめてしまうのだった。ともすれば恫喝的になるのは彼の第二の天性なのだが、郁江が相手だとうまく機が摑めず、空廻りしてしまうようである。
怒りのエンジンが幾度もかかりかけては立消えになり、山本はとうとう諦めたようだ。郁江という存在は妙に彼の暴力衝動と波動が嚙み合わず、なしくずしになだめてしまうのだ。彼がしぶとい顔にくり返し苦笑を浮かべるのもそのためであった。
「あなたの考えているようなこととは違うわ。あたしがここに来たのは、暴力団がどんなものなのか興味があったから。もちろんあの時は有名な作家のお客様が来てたということもあったけど、あたしはあんまりそういうのは気にしないの」
「また強がりを......」
しかし、山本は郁江の恬淡とした透明さに少からず戸惑っていることは否めなかった。
「どうでもいいけど。でも、暴力団って、漠然と考えていたのとちょっと違うみたい。そりゃ想像が当っていた部分もあるけど」
「どういうことだ?」
「全部が全部、獣みたいな、悪鬼みたいな人間ばかりじゃないのね。そこがちょっと意外だったわ」
「暴力団だって人間だぜ」
山本はまた苦笑した。
「世間のはみ出し者だが、やっぱり人間なんだ。はみ出た奴をどこかでまとめてくくっておかないと、何をするかわからんだろう? 一箇所に集めておけば、統制がきく。暴力団を潰してみろ。悪い奴らがあっちこっちに散らばって悪さを働く。そうはならないようにするのが暴力団の役割だ。世間からは嫌われるが、これはこれでお役に立っているところもあるってわけだ」
「ずいぶん都合のいい理屈もあるものね。それで結局、いつも得をするのは、幹部とか上の方の人たちでしょ? 下の方の人たちはとても辛そうだわ。あなたは幹部なの?」
「幹部だ、一応はな......しかし、序列や階級はどこの世間にだってある。だれだって初めは下っ端で、下積みの苦労をしながら一人前になるもんだ。苦労は若い時にしておいた方がいい。年をくってからじゃ堪えられねえからな」
「それは勝手な理屈だわ。組員のだれもが上に行って幹部になれるわけじゃないんですもの。一握りの幹部が利益は独占して、甘い汁を全部吸ってしまうんでしょ。幹部の人たちも下積みで苦しい思いをしたんなら、少しは下の人のことを考えてあげるべきじゃない?」
「しかし、俺だって昔は辛い目にあったんだからな。真冬にシャツ一枚だぜ。今の若い奴はずっと楽をしてるさ」
「でも、それは姑の嫁いびりと同じじゃない。昔辛い目にあってそれをよく憶えているなら、なぜもっと若い人に親切にしてあげないのかしら? そんなことを繰り返していたら、いつまでたっても、怨みだのつらみだのがぐるぐる廻りをするだけだわ。順送りにされるだけで、少しも進歩がないでしょう? あなた方は下の若い人たちが可愛くないんですか? あの矢頭っていう残忍な乱暴者は、まるで若い人に怨みでもあるみたいだったけど」
「矢頭は別だ......しかし、若い者を甘やかしては示しがつかない。増長して悪くなるだけだ。締める所は締めておかんとな。しかし、お宅にはわかるめえよ」
「なぜそう思うの?」
「だって、お前さんはいい家に育ったお嬢さんで、苦しい思いなんか何もしたことがねえんだろう」
「外見だけで人を見るものじゃないわ。ちゃんと心まで見なければ、他人を判断なんかできないもの。あなたはだれか人のために死ねる? あなたのために命まで投げだしてくれる人がいる? ここの若い人でもいいけど」
「いるかもしれねえな......」
「じゃ、どの人がそうだか教えて」
「そんなこっ恥しいことがいえるもんか」
「恥しいかしら? それどころか自慢にできることじゃないかしら? だれか自分のために命までも投げ出してくれる人を持つって、大変なことよ。最高に素晴らしいことだわ。最高の愛ですもの」
「愛? くだらねえ。お前さんはやっぱりただの女の子だな、え、おい? そいつはな、心意気ってもんよ。まったくお前さんと話してると、体中がむずむずしてくるぜ。まったくお前さんは変ってるよ」
山本は内ポケットに手を突っこみ、タバコをつまみだした。粋な仕草でライターを点火する。
「何を考えてるのか、さっぱりわからん。度胸があるのか、それとも怖いもの知らずなのか知らんがね......じゃ、お前さんはどうなんだ? お前さんのために喜んで命を投げだしてくれる人間がいるのか? たとえばお宅の会長先生なんかはどうだね?」
「わからないわ。あたしにはそんな値打がないもの」
「じゃ、人のことはいうな。大口を叩く資格はないはずだぜ」
山本は太い煙を鼻孔から吐き出しながらいった。郁江から一本取ったのがいかにも嬉しそうだった。
「そうね、あたしってわりといい加減な人間だから」
「お前さんが会長先生の何なのかよくわからねえが、相当大事にされてるようだな?」
「それは、別にあたしだけに限らないわ」
「会長先生の秘書っていうが、本当は恋人か何かかい?」
「あたしにとってはそれどころじゃない、もっともっと素晴らしいものだけど。説明してもたぶん、わかってもらえないわ」
「つまり、会長先生ってのは生神様かい? で、お前さんは生神様に体も心もささげてつかえてるってわけか? お前さんに限らず、あの部屋にいた女秘書は上玉ばかりだったな。みんな生神様の女か?」
「そういう風に考えるのは、あなたにとっては自然なことなの?」
郁江はまっすぐに山本の目を覗きこみながらいった。あまりの眸の美しさに、山本はたじろぎを隠せなかった。
「ああ、そう思ったね、お宅の会長先生が羨しくなったよ。こん畜生と思ったが、そう思わない奴は男じゃねえ。しかし、本当のところはどうなんだ?」
「これから丈先生が見えるわけでしょ? 自分の目でよく確かめたら?」
「うまく逃げたな」
といって、山本は薄笑いを浮かべた。
「あなたは無償の行為とか自己犠牲なんてことは信じないんでしょう?」
「へこむずかしいことをいうなよ。お前さんの可愛らしい顔にゃ似合わないぜ」
「なんの報いも求めずに人のために尽せるかどうかってことなんだけど」
「そんな時代じゃないってことだな。暴力団だってビジネスの時代だぜ。かったるいことをやってた日にゃ、顎が干上っちまうよ。じゃ、お前さんはどうなんだ? 無償の行為とやらをいつもやってるか? 正直にいってみろ。人に尽すのになんの下心もないといえるか? 神に誓って本音をいってみろよ。お前さんは神を信じてるんだろうからな。どうなんだ?」
「あたしはいい加減な人間だから。でも、だれかに親切にしてあげる時、お返しを期待したことはないわ」
「そんなことじゃねえ。お宅の会長先生に仕えるのに、なにも期待していないと誓えるか? 先生とやらは凄い色男だそうじゃねえか? 本当のところはどうなんだ?」
「そうね。お返しをしてもらおうなんてことは一度も思ったことはないの。だって、先生のために自分のできることを一生懸命していること自体が喜びでもあるし、幸せでもあるから。でも、先生がちらりと見せる微笑とか、どうしてるっていう一言とか、そうしたことだけでとっても満足してしまうのね。先生といっしょに今、この時代に生きていられるってことの素晴らしさで胸がいっぱいになるわ。最高に幸せだなって思う」
「つまり、先生に恋をしてるわけだな? 惚れ切っているんだろ?」
「恋!?」
郁江は不意にぱちっと音がするほどの瞬きをした。顔がぱっと明るくなり、光が点ったほどの変化を示した。山本が電気に触れたように反応するほど、その笑顔には、瑞々しい情感に満ちた魅力が溢れた。
「素的ね、もし恋だとしたら! あたしは丈先生に物凄く夢中なの。朝から晩まで尾いて歩きたいくらい。ああ、丈先生がいるんだな、と思うだけで、世界中が明るく楽しくなってくるの。でも、恋じゃない。だって嫉妬を感じないんだもの。丈先生を独占しようなんて決して思わない。丈先生の素晴らしさ偉大さをもっともっと沢山の人に知ってほしい。丈先生に触れた人々はみんな変って行ってしまう。みんなが子供の時みたいに素直な明るい心を取り戻すことができるのよ。大人の醜い歪んだ心、自分さえよければいいという利己的な心が浄化されて、きれいになってしまうのね。だから、嫉妬なんかするはずがない。そんな厭な重い荷物から自分が自由になっていることに気付くのよ。つまりそれが、丈先生からあたしが受取ったものなの。最高の贈物というわけね」
「夢みたいなことを吐かすなよ」
山本は苛立って邪慳な口をきいた。
「俺がいってるのはそんなことじゃねえ。先生に抱いてもらったか、可愛がってもらったかってことよ。まさかお前だって、他の女が先生に抱いてもらってる時は嬉しくあるめえ。それとも寛容な心で許すかね? 俺には信じられないがね。自分の男が他の女を抱いている時、世界中が明るく楽しいなんて吐かす女がいたら気味が悪いね」
山本は腹が立ってきたようであった。郁江のいい草が彼の既成概念で固められた価値観に大きな衝撃を与えたのである。
「だから、説明してもわかってもらえないといったでしょう」
郁江のいい方は、山本にとって突き放すように響いたようである。
「じゃあ何だ? プラトニック・ラヴとでもいうつもりか? 冗談じゃねえ。どこの新興宗教だって、教祖が若い美人の女信者をはべらせてるじゃねえか。女奴隷みたいなもんだろうが。手当りしだいに手をつけてよ。お前んとこの教団だけはそうじゃねえってのか?」
山本の語気は荒くなってきた。
「どこでも教祖にころりと瞞されちまって、狂信者になっちまってるんだ。頭がイカれるように洗脳されてな。それで喜んで生神様の教祖の女奴隷になってやがるんだろう。お前だってそうじゃねえのか? 教祖のいうことは絶対で、尻を舐めろといわれればその通りに服従するんだろうが!?」
「なぜそんなに怒っているの?」
と、郁江は不思議そうにいった。
「どこかの新興宗教に怨みでもあるの?」
その問いを受けて、山本ははっとしたようであった。急速に昂まった興奮が速やかに鎮まって行った。しかめっ面でタバコを吸い続け、鉄の灰皿に捻り消した。
「新興宗教が嫌いなのね?」
「あんなもの、好きになる必要はどこにもないだろうよ。わけのわからねえご託を聞くと、むかついてくる」
山本は我を忘れて、怒気を示したことを悔んでいるようであった。
「じゃあ、本当にお前さんは教祖先生に抱かれたことはないってのか? 神に誓ってそういえるか?」
「ないわ」
郁江があっさりといい、視線を合わせた山本は噓を看破しようとする意気込みがなし崩しになって、自ら目をそらした。
「神に誓えというならそうするわ。でも、あなたにとってそれがそんなに大切なことなの?」
「気まぐれさ......」
山本は唇だけで笑った。居心地悪げに足を組みかえ、再び内ポケットからタバコをつまみ出す。
「神に誓ってもらったところで仕方がねえ。女って奴は器用に噓をつくからな......さっきお前さんは、だれか人のために死ねるかと尋いたな?」
「ええ」
「じゃ、お前さんは大事な会長先生のために死ねるか?」
「たぶんそういう状況になればね。どんな立場に立つかということもあるけど。でも、あたしって気まぐれな人間だから、その場になってみないとどうなるか、わからないみたい」
「妙な女の子だな。へんに醒めているところもあるんだな?」
「いつも醒めていたいと思っているわ。あたしの取り柄って、本当にそれだけだもの。しんそこ命がけというんじゃないのね」
「俺には、お前さんがよくわからねえ。お前さんみたいな女の子には遭ったことがねえ。雲みたいにフワフワしてて、摑み所がねえからな。性格がきついかと思うと、妙に気が優しいし、もの怖じしないでケロケロしてるから、馬鹿なのかと思うと妙に鋭いし......要するに得体が知れねえよ。しかし、お前さんは人に好かれるんじゃねえのか? だれにでも懐付かれちまうだろう......?」
「どうかしら? それより煙たがられる方が多いみたい。そんなことより、今さっき、あなたなぜ怒ったの?」
「怒りゃしねえよ」
「噓、あなたにしてみれば、男と女の関係というのはとても当り前なことで、プラトニックな関係なんてありえないと思っているんでしょう? だから、あたしが丈先生との間に何もないといったら、おちょくられたような気がして怒ったわけ?」
「さあな。もういいじゃねえか。そんなのはどうでもいいことだ......」
「うん。それがちょっと知りたかったの。だってあなたってあんまりカッカと怒らない方でしょ? それなのに妙なところで、急に怒り出したものだから」
「もう忘れたよ」
山本は目をそむけたまま話題を避けようとした。
「じゃ、改めて考えてみて。世界が違えば、別の常識があるという風には考えられない?」
「考えないね。男と女のやることはどこだって同じだ。一向に変りばえしねえよ」
「では、あたしが噓をついていると思う?」
「どうでもいいじゃねえか、そんなこと」
「でも、気になる。自分のいうことを信じてもらえないと思うと......」
「なんでそんなことが気になるんだ?」
山本は呆然として郁江を見た。
「信じようと信じまいと......そんなことがそれほど大事なのか?」
「うん。だって、もしあなたがあたしのいうことを信じたら、お互いにわかりあうことができるでしょ? あなたはあまり人を信じない人でしょ?」
「ああ、俺は人間なんて信じねえよ。口は調法なもんだからな」
「でも、もし心でわかりあえたら、信じることができたら、とても素晴らしいことだと思わない? 何の隠し事もしないで、自由に心にあることを話せたら、とっても素的だと思わない?」
「思わねえよ。夢みたいなことをいってるな......人を信じて裏切られるなんて間抜けな真似は、俺の性に合わねえ。瞞されるのは真平なんだ。だから俺はだれも人間は信じねえ」
「でも、言葉が信じられなかったら、心で感じてみたらどうかしら? きっとあなたにはわかるはずよ」
「俺にお前を信じろというのか?」
「そう」
「教祖の生神様とお前の間に何もないってことを信じろと?」
「そうよ」
「だが、信じたところでどうなる?」
「居心地よくなるわ。いつも肩肘張って居心地が悪いでしょ? すうっと肩の荷が降りて気持が楽になるわ」
「馬鹿くさい。俺にとっちゃ、どうでもいいことだといってるだろうが」
「でもお願いしたいの。信じてください」
「わかったよ」
山本は郁江のねばりに対して、怒るに怒れず、押し切られたという形であった。
「お前さんのいうことを信じるよ。これで気がすんだか?」
「ええ。ありがとう......」
「お前さんはまったく変ってるな」
と山本は溜息まじりにいった。彼にとって郁江はますます不可解さを増してくるようであった。
6
東丈と秘書の杉村由紀が、〝塚田興産〟と看板を上げた暴力団事務所に姿を現わした時、まるで喧嘩沙汰でもあるかのように、事務所のあるビルは組員で溢れ返っていた。
好奇心が組員たちに招集をかけたのであろう。丈たちは殺気立った雰囲気で迎えられることになった。
顎に大きな傷のある、絵に描いたような暴力団組員が、杉村由紀の来意を聞いた。
入れ、と横柄に傷のある顎をしゃくる。飛び出してきた数名の組員は、いずれも腹巻の中に手を突っこみ、短刀か拳銃でも握りしめているような恰好をしていた。
恫喝的という以上に殺気がみなぎっていた。組員の目は刃物に似ている。異常に興奮した犬そっくりであった。たとえ暴力団とはいえ男である以上、杉村由紀のような女性に対して示す態度ではなかった。
やはり東丈の存在が組員たちを刺激し、激越な過剰反応を生んでいるのであろう。
由紀は興奮した熊蜂の巣へ入り込むような特殊なきな臭さに全身を圧迫されたが、丈は平気であった。先に立ってつかつかと事務所の中に入りこんでしまう。由紀はもう少しで丈の袖を摑もうとするところであった。
組員をこれ以上興奮させたら、何をされるかわからないという恐怖心があった。それは丈への信頼とは関りない、本能的な恐れだった。
事務所の中は水を打ったように静まり返り、水銀のような比重の大きなどろりとした沈黙が丈たちを圧した。階段にまで組員やチンピラがメジロ押しになっている。
視線が丈たち二人に凶器のような感触で突き刺ってきた。憎悪や敵意だけではなく、好奇心が比重を大きく占めている。彼ら組員にとって恫喝は第二の天性のようなものだが、彼らはそれすらも忘れて、沈黙をもって丈たちを迎えたのだ。こんな際、口々に恫喝の声をあげないというのは、いたって奇妙な事態といえたであろう。
由紀はこれほど特殊な暴力的雰囲気をいまだかつて味わったことがない。ニューヨークの高名な犯罪地区ブラック・ハーレムへ足を踏み込んだ時でさえ、彼女自身女であるせいもあって、〝攻撃の波動〟からは免れていた。暴力的ではあっても、直接憎悪を向けられ、攻撃の心的対象にされることがなかったのだ。
自分でさえも、これだけ強く感じているのに、丈の超感覚にあってはどれほどの強烈さで受信されているであろうか。由紀は胸が寒くなっていた。
凶暴な野犬群に包囲されたのに似ている。ひしひしと絞めつけてくる圧迫感は、物質的な圧力そのものである。
が、丈はたじろがぬ黒い瞳で、興深げに事務所の造作などを見まわしている。むろん無神経なのだとは思わないが、丈の関心のありかたが常人と完全に異っているのは明白であった。詰めかけた組員の視線にはまるで無関心であるように見える。
余人であれば演技と思うだろうが、丈にはかえってその無関心さが自然であるのかもしれなかった。
いきなり丈が傍にいたダボシャツ、腹巻の組員に何事かを話しかけ、相手は戸惑ったようであった。猿のように額の狭い顔を当惑に歪めて体を硬くした。由紀には丈が何を話しかけたか聞き取れなかった。しかし、話しかけられた組員は明らかに敵意と異る表情で、丈を見るようになったようである。
丈が何をいったのかと、組員たちはいっせいに興味を惹かれ、目をそばだて、聞き耳を立てた。
由紀にとっては居心地の悪い時間だった。とうてい丈のように闊達には振舞えなかった。彼女の体に集まる組員の視線は著しく攻撃的であり、視線で輪姦されるという気分に誘った。不快な刺激で皮膚がピリピリと疼くほどであった。女性としての被害者意識が目覚めてくる。超感覚によって体中の皮膚が過敏になっているようだった。組員たちの攻撃的な想念によりよってたかって犯されているのである。
郁江はいったいどうしているのかと不安が心に重くのしかかってくる。内臓を掌で引き絞られるような緊張感だ。あれだけの蠱惑的な美少女を放っておくはずがないという気がする。厭な金属臭が立ちこめてくるようだ。
しかし、丈は何も感じないという顔をしている。由紀の危惧など愚かしいといわんばかりなのだ。時として、丈が何を考えているのかさっぱりわからなくなる。自分なりに、当然の心配だと思うのだが......
だから応接間に通され、大勢の組員たちの視線がドアによって閉め出された時はしんそこほっとした。情けないと思うが、緊張感で息もつけぬ気持になっていたのだ。
郁江の様子は常に変らなかったが、シャツブラウスだけで上衣を着ていないのが、ぎくりと胸を衝いた。が、その他に服装の乱れはない。
異変を嗅ぎつけようと目を皿のようにした自分にやりきれないものを感じた。
「郁江さん!」
由紀は跳びつきたい気持を懸命に抑えた。それにひきかえ郁江は平然と頷いてみせただけだった。どっちが暴力団の人質になっていたのかわからない。
「ごめんなさい」
と、郁江は立ち上って頭を下げた。
「勝手な真似をして、申しわけありませんでした。反省しています」
丈は微笑を浮かべて頷いた。相手が郁江だとどうしてこんなに優しい目をするのだろう、と由紀はいささか嫉ましかった。笑顔が違うのだ。それとも気のせいだろうか。否定したいのだが否定しきれないものがあるようであった。
「あんたが会長さんですかい?」
と、山本がいった。驚きを抑え切れないようであった。
「若いとは聞いていたが、それにしても若すぎる......まるで子供だ」
「山本さんですね、お電話を頂いた......」
丈は黒い瞳で山本を凝視した。山本の無礼な言語は気にも留めていない。
「なるほど。まるで天草四郎といったところだ。これなら、人が沢山集められるだろう」
山本は感に堪えぬといいたげに、丈をしげしげと眺めた。丈の黒い瞳に風圧の如きものを感じているのだが、それに気付かない振りをしているのだと由紀は思った。
「いや、驚いた。恐れ入ったといった方がいいかもしれんが......まあどうぞ、かけたらどうですか」
「ありがとう」
丈はいわれるままに、ソファの郁江の隣りに腰をおろした。由紀は肘掛椅子に座った。山本は革貼りのソファにルーズな姿勢で尻を据えている。角張った分厚い体がいかにも横柄に見える。しかし、暴力団に礼儀正しさを期待するいわれもなかった。

山本は両腕をソファの背の上に伸ばし、脚を組んでいた。右の足首が左の腿の上に載っている行儀の悪さだ。しかも貧乏揺すりをしている。郁江と話していた時よりもはるかに崩れた物腰になり、ふてぶてしく厚かましくなっていた。それを郁江が面白そうに見ているのに気づくと、咳払いをして、貧乏揺すりを停めた。
「電話をかけられなかったので、事情をお話しできなかったんですけど」
と、郁江がいった。
「話はこの山本さんから聞いた。だいたい吞みこめた」
丈は郁江に優しすぎる、と由紀は思わずにいられなかった。高鳥とともに災厄を招いた張本人なのに、丈はまるで責める気配がない。郁江がもっと早く事情を話していれば、対応の仕方も考えられたはずだ。丈が暴力団の事務所へ呼びつけられるような破目は避けられたはずなのである。
そう考えると、由紀は穏やかならざる気分になる。
「それなら話が早い」
と、山本が行儀悪い姿勢のままいった。
「脳がイカレちまって廃人になった若い者の始末をどうつけるかってことだね」
「でも、郁江さんが直接手を出して、暴力を振るい、大怪我させたというわけではないのでしょう?」
と、由紀が気力を奮い起こしていった。
「結果的にそうなったということだね」
山本はけだるげに呟いた。どうでもいい、といわんばかりの口調だった。
「まあ、彼女はもう一人、張り倒して鼻の軟骨をへし折っちまったがね......」
「それだって偶然そうなっただけなのでしょう? 高鳥君にしても、いきなり襲われたから身を護っただけなのではありませんか? もっとも高鳥君はウチの会員ではありませんけれども......」
「責任逃れをする気かい? 会員じゃないといっても、それじゃすまねえだろう」
「でも、本当に高鳥君は会員ではありません。名簿をお見せしてもけっこうです」
由紀は厭になってきた。あまりにも愚劣である。こんなことで、暴力団相手にいいあいをしなければならないなんて、つくづく情けないと思ってしまう。こともあろうに、郁江がチンピラを大怪我させ廃人に追いこむような真似をしたなど、まったく真実味というものがない。
高鳥はともかく、妖精のような郁江がそんな乱暴沙汰と関係を持つなど信じられない。いっそのこと警察にまかせてしまえばいいとさえ思う。しかし、やはりそうは行かないのだろう。
「杉村さん。山本さんはそういうことを問題にしているのではなさそうですよ」
と、丈が沈黙を破っていった。
「郁はただ攻撃を避けようとしただけだ。僕にはわかります。その時の光景が目に見えてくる。郁がとっさに屈みこんだので、相手は郁の体につまずき、頭からコンクリートの電柱に突っこんでしまった。自ら招いた災難です。そのことは、この山本さんもわかっておられる」
「わかってるさ。しかしだ。わかってても、それじゃすまんのだな」
山本は驚きの目を丈に向けていた。丈があまりにも的確に状況を摑んでいるからであろう。
「素人にやられたとあっちゃ、面子が丸潰れになる。脳がイカレた義には兄弟分がついているんだ。このまま放っちゃおけねえ......みんな殺気立つわけよ。下手人がわかってるなら、おとしまえをつけなきゃならん。さもないと今度はこっちが甘く見られる。この世界じゃ生きて行けねえんだ。わかるだろう? 塚田組は弱腰だと見られりゃ、シマを狙われる。食うか食われるかの稼業だからな。全国制覇をもくろんでる山口組が、ぱっくりと塚田組を丸吞みにしちまうさ......つまり、今度の一件は絶対に放っておけねえ」
「でも、非はそちら様にあるのでしょう? 理由もないのにいきなり襲ったりするから......」
由紀は山本の穏やかさに瞞されかけていた。丈の黒い瞳が警告を伝えてくる。
「俺も、ウチの若い者のやったことが上等だと思っちゃいねえよ。はっきりいやあ馬鹿だ。しかし、馬鹿だからこそウチの組なんぞにいるんだろう。とにかく、この可愛いお嬢ちゃんがバットでウチの義の奴の頭をブチ割ったというわけじゃねえんだから。お嬢ちゃんにしてみりゃ、とんだ災難だ。俺にはわかってるよ。
しかしな、暴力団にいる奴らなんて、たいていは馬鹿なんだ。ろくに理屈なんかわかりゃしない。兄弟分がやられたというだけで、カーッと頭に血が登る手合いばかりだ。頭は単純馬鹿だが、性格は凶暴で恨みは忘れねえ。怪我をした義の方が悪いなんて理屈は通用しないよ。とにかくしゃにむに仇を取りに行く。暴力団なんて、そんな頭の悪い、半分気違いみたいな奴らばかしだ。
わかるかい? つまり俺が一人で納得しても、馬鹿奴等どもには通用しねえってことだ......一つには理屈がわからねえ馬鹿だってことだし、もう一つ、さっきいったように、シマを守るためには甘く見られてはならねえという理由があるからだ。
俺としては、こんな可愛いお嬢ちゃんはいじめたくねえ。髪の毛一本だって傷つけたくねえと思ってるよ。しかし、他の馬鹿奴等はお嬢ちゃんを放っとかねえし、山の中へでも連れ出して埋めちまうかもしれねえんだ。俺は厭だね、そんなのは。しかし、凶暴なのが気が立って荒れ出したら、俺にだってどうにも抑えられなくなっちまう」
これが暴力団の論法というものか、と由紀は呆然とした。これほど無茶苦茶な理屈はない。しかし、本来柄のない所に柄をすげるのが彼らの遣り口というものであろう。因縁をつけるというのがそれだ。
むろんそんな無茶な理屈は正常世界では通らない。それを無理に横車を通すのが、彼らの暴力による恫喝だ。
由紀は改めて相手のヤクザを、人間の形をした昆虫を見るような目で見た。そんな無法なことができるならやってみるがいい、と生来の勝気な気性がぐいと頭をもたげてきた。むらむらと腹が立ってきたのである。
東丈は巨大な使命を持ち、大いなる〝力〟によって護られている。その彼の使命を人間大の昆虫の如き暴力団などに妨害できると思っているのか。
言葉にしてみるとそのような昂ぶった情念であった。ヤクザ如きが東丈の行手をさえぎれると思うならやってみるがいい。
「そんな無茶なお話は困ります」
由紀は感情を抑制しきれなくなってきた。丈の代弁をするという意識ではなかった。
「それでは恫喝です......」
「俺も無茶な話だと思ってるさ、実のところをいえばな。しかし、お嬢ちゃんも階上で矢頭という凶暴な奴に逢ったろうが。ああいうのは人間の形をした蟹みたいな奴だ。巨きな鋏で目の前にあるものはなんでもちょん切っちまう。たとえ人間の首でもな。
ああいうのは何をいっても通用しない。人間の言葉が通じねえんだ。その代り乱暴なことを始めたら、だれにも停められねえ。まあ気違いというしかねえな。だけど、暴力団では兵隊として役に立つから、こういう気違いが集まってくる。馬鹿と鋏は使いようとはよくいったもんだ。
あの矢頭なんて気違いは停めても停まらねえ。はっきりいうと、お嬢ちゃんは死神に見込まれたようなもんだ。正直いって俺も頭が痛いよ。どうやって停めるか、見当もつかねえ......しかしまあ、矢頭でなくても、放っちゃおかねえと息まいてる馬鹿が何人もいてな」
「あなたはいったい何がおっしゃりたいんですか?」
と、由紀は堪りかねて切口上になろうとした。そのとたん、強い水圧のようなものを心に感じ、反射的に口をつぐんだ。丈からかかってきた制止に違いなかった。最近、丈との間に遠感による交流はないが、丈の合図は見あやまるはずがない。
「その脳に大怪我をして、入院中という若い人......義さんといいましたね? その人はどこの病院に入院しているんですか?」
と、丈が尋ねた。山本のやんわりとした脅迫は何も感じていない態度だった。山本がじりっと眼を底光りさせた。
「それを聞いてどうするんだ?」
「郁江が見舞いに行きます」
「今更、見舞いに来てもらったところで、何の役にも立たねえよ。植物状態になっちまってるからな。そんなことより、この先どうするか、両者で協議しようじゃないか」
「では、おっしゃってみて下さい」
「義の奴は親一人子一人なんだ。母親はもう年で働けねえ。義が見るはずだった面倒をそっちで肩代りしてもらいたい。それに義の病院代を本人がすっかり回復するまでそっちで持つ。それとは別に慰謝料を払ってくれ。他に四人大怪我して入院した若い者の病院代もコミにしてもらう。そうでもしないことには、いきりたってる奴等が抑えられねえ。お宅の側の誠意をはっきり具体的に示してもらわないことにはな......」
論外だ、と由紀は反駁したかったが、依然として丈の圧力が心にかかっていて、口を出せなかった。
「金額をおっしゃってみて下さい」
丈は落着いていった。
「とりあえず二百万、払ってもらおうか。これは慰謝料と他の四人の分だけだ。義の母親の面倒を見るのと病院代は別だ。念のためにいっておくがね......」
馬鹿な、と由紀は激しい抗議の声をあげたかった。無法ないいがかりにもほどがある。高鳥の一件を除けば、会にも郁江にも落度はまったくない。出る所に出れば、山本のいい分など全く通らないし、逆に恐喝として司直の手が入ることになるのだ。弱身がこちらにない以上、黒白をはっきりつけることだ。
「二百万、お払いしましょう」
と、丈があっさりといった。
「先生!」
由紀は思わず声をあげた。己れの耳を疑っていた。丈はまったく弱腰すぎる! 払う筋合でない金は一銭といえども払うべきではない! さもなければ暴力団はあくまでも丈にくらいついて甘い汁を吸い続けようとするであろう。一度で始末がつくような淡白な相手ではないのだ。
「さすがに話がわかるな、え?」
山本は口を曲げて笑った。
「新興宗教ってのは、物凄くもうかるらしいからな。二百万ぽっち屁でもないか?」
「別にそういうのではありませんが......」
丈は、憤然としてまくしたてようとする由紀を心の圧力で抑えこんだ。由紀は口惜し涙に目を刺された。
「植物状態になった人には本当にお気の毒に思います。だからお払いするんです。脅かされて払うというのではありませんよ」
丈の口調は、彼が暴力団の脅威を無視する気力を持ち合わせていることを示していた。
「もちろん、こっちは何一つ脅かした憶えはねえよ。そうだろ?」
「はっきり申しあげておきますが、郁江のしたことに対して道義的責任を取るというつもりはまったくありません。しかし、そうはいっても一人息子が植物状態になってしまったお年寄りは気の毒です。だからこそお見舞い金を払うつもりです。その点をはっきりとわかっていただきたい」
「お宅もなかなかはっきりいうじゃねえか」
「高鳥君についても、会員でないとはいえ、会に出入りしていた事実は認めます。高鳥君のしたことも褒められたことではないが、郁江を無法な暴力から護ろうとしてやりすぎたのでしょう。他の理由もあるのですが、高鳥君にこれ以上手を出さないでいただきたい。今度の事件以上の大事にしないためにも、それが絶対に必要です。それを約束してもらえるでしょうね?
さもないと、この取引はご破算にします。警察沙汰にしてもらっても構いません。いや、こっちから表沙汰にするかもしれません」
「大きく出たな。しかし、そのお嬢ちゃんより、高鳥って若造の方を気にするのはどういうわけだ?」
山本は冷笑を浮べていった。しかし、丈の示している物凄く骨太な精神に、しだいに圧され始めているのは明らかであった。ただ絶世の美少年であるだけの若造ではないと気付き始めたのである。
「郁江は守られているからですよ」
「守られてる? お宅にかい?」
「目に見えない巨きな〝力〟に守られているのです。あなたにはわかりません」
「ああ、わからないね。しかし、さすがに教祖さんだけあって、えらく神がかってるじゃねえか。ウチの矢頭みたいな気違いがかかっていっても、びくともしねえってわけかい?」
「何の心配も要りません」
「そいつは凄いね。しかし、お宅は矢頭って奴がどんなに凄い気違いか知らねえんだ。女を責めさいなむのに、カミソリで鼻を殺ぎ落しちまったこともある。切り取った鼻のかけらを踏んづけて擦り潰しちまったんで、医者でくっつけることもできなかったぜ」
丈は山本の恫喝を無視した。
「義さんはどこに入院しているんですか? それを教えて下さい」
「どうしても見舞いに行くってわけか?」
「そうです。当然のことでしょう?」
「いいさ。隠すことなんか何もねえからな。東洋病院ってとこだ。知ってるか?」
「東洋病院?」
と、郁江がいきなり尋き返した。
「渋谷のですか?」
「そうだ......それがどうかしたのか?」
「東洋病院ならよく知っています。知りあいの医師がいるので」
と、丈が引き取って答えた。
「そうかい」
山本はそれにはもはや無関心であった。
「ただ生きてるってだけの植物状態だ。見舞いに行っても仕方なかろうが、この先ずっと死ぬまで面倒を見てもらうわけだからな。ま、よろしく頼むぜ......で、金の方は?」
「今すぐに小切手を渡します」
「よかろう。ま、ものわかりのいいところに免じて、今後うるさいことはいわないと約束するがね」
いい気なことを、と由紀は叫び出したかった。そんなのは当り前のことではないか。それとも話の次第では後々までゆすり続けるつもりだったのか。
由紀は切歯扼腕したかった。なぜ丈はこんな無法な相手のいいなりに大金を払おうとするのだろう。彼には一銭たりといえども支払う筋合はないのである。
二百万円という金額は丈があれだけ苦心して書いた本、〝幻魔の標的〟の印税と同額である。それをそっくりそのまま暴力団に奪われてしまうということが、余計に由紀をやりきれない思いにさせた。
たとえ警察沙汰になってもいい、暴力団の無茶な要求はきっぱりと拒絶すべきだ。山本のやっていることは巧妙なゆすりではないか。そんな恫喝に丈は決して負けるべきではなかった。
「杉村さん、小切手を切って下さい」
と、丈が繰り返して同じことをいった。由紀の耳には入らなかったのである。
「杉村さん」
丈は手を伸ばして、由紀の肩を揺った。由紀がはっとして蒼ざめた顔を向ける。
「小切手帳を下さい」
「はい......」
由紀は歯を嚙みしめ、のろのろとハンドバッグから小切手帳を取り出した。その動作は彼女の内心を如実に物語っていた。本当は大声で抗議したいのだ。しかし、そんなことをしても丈の決定を覆すことはできない。丈に恥を搔かせることになる。主宰の丈がすでに決めたというのに、秘書風情が反対したところで何になるだろう。
これほど無念なことはなかった。山本に対して殺意を覚えるほどだった。いい気なしたり顔に思うさま怒りと憎しみを叩きつけてやりたい。
全身の体毛がよだってきた。冷たい無気味な風を身裡に覚える。恐ろしく気味の悪い戦慄であった。再び水圧のような圧力を感じ、はっと目が覚める。丈が警告を加えているのだ。由紀は全身にびっしょり汗を搔いていた。気味の悪い慄えが這い登って来て、顔の皮膚を粟立たせる。
「僕が小切手を切ります」
丈の手が伸びて、小切手帳を取り上げた。由紀の手が慄えて字が書けないことを洞察していたのであろう。
丈は先太の万年筆を用い、しっかりした書体できっちりと数字を記した。由紀は見るに堪えず目をそらした。郁江が身を乗り出すようにして小切手の金額を覗きこんでいた。口が半開きになり、可愛い舌がのぞいている。ただ無邪気に感心しているようであった。丈にしてもそうだが、郁江もこれほどの金額になると現実感がないのであろう。東京近郊にちょっとした建売住宅が買える金額なのである。
しかし、郁江はやはり今度の事件の原因を造った人間なのだから、あまり無邪気にしていられると馬鹿らしくなる。やはり子供なのだと思うしかない。
丈は、初めての経験であろうに小切手を的確に振り出して間違えることがなかった。まるで慣れ切っているようだ。小切手の左上端に銀行渡の横線を二本引くことまできっちりとやってのけた。由紀に尋ねるまでもなかった。
それが丈の不思議なところであった。何をやらせても初心者の危うさがない。ぶっつけ本番の講演がそうだし、最初の本である〝幻魔の標的〟がそうだ。版元の光年社で一応用意したリライターは結局出る幕もなかった。それほど丈の原稿が完成されていたからだ。ズブの素人に出来ることではなかった。
〝GENKEN〟という組織造りも、常識的な目からすればずいぶん奇抜で型破りなのであろうが、不思議なほどうまく行っているようである。
その奇妙な予定調和が、実は丈のサイキック能力なのかもしれない。ただの早熟な才能というべきではない。傍目には恐ろしくあっさりとした思いつきの域を出ていないが、それがことごとく成功する。分析してみれば、充分に考え抜かれた結果だとわかるのかもしれない。あまりにも無造作なので、単なる思いつきに見えるのであろうが、〝天啓〟という思いつきもむろん存在するのである。
由紀は自分の考えに気を取られて怒りが冷め、指先に小切手を挾んでゆっくりと振りインクを乾かしている丈を眺めていた。そんなことをよく知っているものだと感嘆する。
今でこそろくに本を読む時間もないが丈は大変な読書家だったらしい。しかし読書で得た知識にしては堂に入りすぎていた。心霊主義的な考えかもしれないが、〝指導霊〟とでもいうべき天使が丈の傍らについていて、必要な時に必要なことを的確に教えているという気さえしてくる。
「確かに受取った......」
山本は薄笑いを浮かべて、小切手を眺めていた。心なしかその笑みは固いように思われた。
「ろくに毛も生え揃わねえその年にしてみると豪気なもんだ。それだけは認めるぜ。顔色ひとつ変えねえんだからな。お宅はひょっとすると大物になるかもしれねえ。まだ十七とかいったっけな」
丈はその讃辞とも揶揄ともとれる挨拶に見向きもしなかった。ソファからさっさと身を起こす。
「義という人の正確な氏名を教えて下さい。後はこちらで引受けます。どうせもうそちらでは用はないでしょうが」
「病院へ行けばわかる。俺も本当の名前は知らねえ。とにかく植物状態になったチンピラが何人もいるわけがねえからな」
かっとなって何かいいかける由紀を、丈は今度は手で抑えた。
「今度のことは恐らくなるべくしてなったんです。義さんのことは不幸なことですが......しかし、私たちが甘い人間だとは思わないでいただきたい。あなた方の物の考え方はだいたいわかりました。しかし、ちょっと脅かせば簡単に金を出したと思うのは、そちらの考え違いです。今度だけは授業料と思って払いましたが......」
「わかったよ。俺に関する限りは、これ一度かぎりでケリをつける。うるさいことはもういわねえ。しかしな、矢頭に関しては、俺の手に負えねえとはっきりいっておく。俺には抑え切れねえんだよ。みっともねえ話だがな......しかし、矢頭は本物の気違いで、止めだてすれば俺まで殺るだろう。お嬢ちゃんがどうもまずいことをやっちまったらしい。矢頭は絶対に怨みを忘れる奴じゃないんでな」
「そんな! 話が違うじゃありませんか!」
堪まりかねて由紀は大声を出した。山本はふてぶてしく体を揺った。平然とした顔付だった。しかし笑みは更に固くなってきた。丈の黒い瞳のせいかもしれない。
「こればかりはどうにも仕方がねえ。それより、会長さんは何やら凄い念力を持ってるそうじゃねえか。実をいうと、俺も多少気味が悪かったがね......その念力とやらで矢頭を抑えこんじまったらどうだね。本当にそんな〝力〟があるんだったらな。信者たちみんな、教祖先生の霊力に期待するんじゃねえのかい?」
「もしかすると、あなたはそれが目的で、矢頭という人をけしかけているんじゃないでしょうね」
杉村由紀は顔色が変ってきた。
「その気違いみたいな人間を、先生に向けてけしかけているんでしょう!?」
「とんでもねえ。俺はただ思いついたでたらめを口にしてるだけだぜ。しかし、教祖先生の霊力が本当なら、気違いの一人や二人、気にすることもねえだろう」
山本は抜けぬけといった。小切手をぴんと爪先で弾いて内ポケットに押しこむ。
「これで話は終りだ。もうゴタゴタいわねえから安心して帰ってくれ。なに、お嬢ちゃんの件だってしばらく遠くへやってほとぼりを冷ましゃ大丈夫だ。矢頭なんてラリ公から隔離しちまえばいいんだ。何のアフターサーヴィスも出来ねえから、せめてこれくらいはいっとかねえとな」
にんまりと笑う山本を、杉村由紀は火を発しそうな眼で睨んでいた。これほど口惜しいことは初めてだった。口惜し涙を必死に堪える。
「帰りましょう、杉村さん」
と、丈がいって由紀の肘を軽く叩いた。
「でも、先生......」
うまく口がきけなかった。由紀らしくない激昂ぶりであった。
「さっきもいったように、僕は何も心配していない。今度のことも、滅多にない勉強をしたと思えばいいんです。郁江も無事だったし、何もいうことはありません」
「人間がよく練れてるな」
と、山本が揶揄をこめていった。それには耳を貸さず、丈は郁江に目配せして、先に立ち応接室を出た。詰めかけている事務所の暴力団組員にはもはや目もくれない。由紀は郁江に腕を取られて、丈の後を追った。まるで立場が逆であった。郁江にいたわられてしまっている。
組員たちが口々に野卑な掛け声をかけた。わいせつな嘲弄を口にしながら、悪ふざけを女たちに仕掛けようとする。
かっとなった由紀がひっぱたいてやろうかと反応するより早く、郁江が悪さを仕掛けた組員の顔を平手で張った。冴えたいい音がした。郁江の手は小さくて可愛いが、スナップがよく効いているのは有名である。
事務所がにわかにしんと静まり返った。郁江の果敢さに度肝を抜かれたようであった。丈が立ち止まって振り返り、いざこざを眺める。
比重の大きな沈黙が落ちかかってきた。組員たちはぎょっとした表情で郁江を凝視している。
にわかにその場の空気が粘性を帯び、コールタールで充満したように、行動の自由を妨げていた。だれも、身動きもできないといった風にただ目を瞠り、息を詰めていた。
それは奇妙な沈黙といえた。顔に強烈な平手打ちを食った組員が黙って引っ込むわけもなかったのに、何かしら呆然とした表情で沈黙しているのだ。それは古めかしい〝活人劇〟そのままの光景だった。
異様な気配を察した山本が、奥の応接室から顔を出した時、〝GENKEN〟の三人はさっさと事務所から姿を消すところであった。が、組員たちはいまだに一人も動き出さず、その場にこわばりついて、三人を目だけで見送っていた。
「どうした!?」
と、山本は組員たちに向かって大声を出した。だれ一人答えず、彼を見向きもしなかった。魂を奪われたようになり、三人の去った事務所の入口を茫然と見やっていた。
山本の顔に鳥肌が立った。考えられないような異様な事態が生じていることを知ったのだった。事務所の中に三十名から詰めている組員が一人残らず気圧されてしまっていたのだ。気力を封じこまれ、口をきくことも動くこともならないほど気が萎えてしまっていたのである。
山本はいきなりむかっ腹が立って、手近にいた組員に拳骨を見舞い、ぶちのめした。活を入れるべく怒鳴りちらす。しかし乱暴を働くほどに己れの裡にある恐怖が芽吹き、育って行くのを感じていた。あの連中に関り合っていると暴力団塚田組は崩壊するだろうという冷たい予感のもたらすものであった。
7
「ごめんなさい」
と、郁江が事務所を出て歩きながらいった。
「杉村さんも。ずいぶん厭な思いをさせてしまって......申しわけありません」
「気にするなよ。圭ちゃんが暴力団に連れて行かれたら、もっと心配しなきゃならなかったものな」
と、丈がこともなげにいった。
「それはちょっとひどいいい方じゃありません?」
「信頼してるんだよ、郁を。そのタフな神経でどこへ行っても怖めず臆せず、僕の代理を務めてくれるってことがわかってるんでね」
「それもちょっと釈然としないみたい」
「まあいいじゃないか。郁が暴力団と渡り合ったのはきっと後世に残る武勇伝になるさ」
二人はまるで気にもしていないように見える。その闊達さが由紀には信じがたい。郁江はもっと責任を感じなければならないはずである。大金を暴力団にゆすり取られたのはともかくとして、主宰の丈を暴力団事務所にまでおもむかせたのは、軽々しい談笑の材料にできないはずだ。郁江が普通の人間と神経がかなり異っているのは確かであった。
余人であれば、こんなに洒々としていられないはずだ。もっと申しわけなさそうにしょげていて当然であろう。みずから謹慎するどころか、楽しい冒険でも丈とともに味わったように明るい顔をしている。
杉村由紀は憮然としていた。丈も丈だと思った。丈が郁江の不始末を責めるどころか、ともに楽しんでいるのではどうにもならない。こんなことではますます他の者への示しがつかないはずだ。郁江の責を問わないのであれば、高鳥慶輔を責めることもできないであろう。
「まあ、多少は責任を感じて謹慎してもらわなきゃな」
と、丈は由紀を気にしたのか、とってつけたようにいった。
「はい。謹慎します」
郁江が殊勝げにいう。狎れ合いがすぎる、と由紀はますます不機嫌になった。二人が屈託もなく心を通じ合わせているのが羨しく、嫉ましいのかもしれなかった。
二人が気を揃えて、自分のことを気遣っていることがわかると、更に心が屈折してしまう。嫉妬など馬鹿げているのだが、とっさに立直れない。自分のかなり幼稚な心を説得するという手間をかけなければならなかった。
やはり同年齢の若い二人同士の方が、苦もなく相互理解を成立させられるのだろう。自分のようなオールドタイマーにはやっぱり無理なのだ、とねじくれた考えで心がふさいできてしまう。いくら遠感能力があっても、丈と心が通じないのでは何にもならない。
丈たちがどんな気でいるのか、自分にはさっぱりわからないと由紀は思った。まるで楽しい経験ででもあったかのように振舞っている。このまま無事にすむのであれば、人生何の苦労も要らないではないか。
背後から声がかかって、三人とも同時に振り向いた。道路で行き合った大型外車が停まり、バラバラと数人のチンピラが跳び出してきたのである。由紀など、とっさに暴力団が仕返しに追いかけてきたのかと体が硬くなったほどであった。
「郁江さん!」
と、チンピラの一人が声をかけた。顎に大きなニキビを造った若者であった。しかし、その態度に敵意はなく、むしろ人なつっこげであり、由紀を戸惑わせた。
「病院に運んできたのね?」
と、郁江がいい、若者たちは首を頷かせ、目を瞠って彼女を見ていた。
「大丈夫だった? なんて変ないい方......命に別状はなかったんでしょ」
「一か月ぐらい入院することになってね」
と、ニキビの若者がいった。郁江と連れだった丈を気にしていた。美しい迫力のある若者への本能的な挑戦を感じているようであった。
「肋骨が四本折れてたもんで......でも、わりかし元気だった。あんたが見舞いに行くって話をして喜んでた......」
「郁江ちゃんが行ってやれば、タケの奴、すぐ治っちまうぜ」
と、色白の丸顔の若者がいった。
「権っていう若い人は?」
郁江が尋き、若者たちは陰気に首を横に振った。
「権の兄貴は、やっぱり左眼が失明だってよ......目玉がパンクして跳び出しちまってるんだもんな。ひでえよ......」
「そう。可哀そうなことをしたわね。たぶん明日、お見舞に行くわ。病院はどこなの?」
若者たちは口々に病院の名をいった。その一生懸命さは、奇妙に感動的であった。彼らは世間に忌み嫌われているチンピラである。集団になると人間放れした存在になり、残虐なことを平気でやってのける。しかし今、目の前にした一人一人は稚さを顔に残した少年たちであった。郁江や丈とほとんど年齢は変らない。
「じゃ、明日ね。二時ごろ行くかもしれない」
「あの......郁江ちゃん、これ......」
無口なタイプの若者が思い切ったように進み出て、きっちり畳んだ郁江の上衣を突き出した。
「裂けちゃってるけど、縫い目のとこだから......」
「ありがとう」
相手は真赤になって目をうわずらせながら後退り、仲間の嫉ましげな視線を浴びていた。これほど頰笑ましい光景はなかった。彼らはダボシャツ、銀ラメの腹巻といったチンピラの制服姿にもかかわらず、子供らしく純真にさえ見えたのである。
しかし、現場を通りかかった通行人はさりげない好奇の目を放って行った。一方が暴力団と明らかにわかるから、じろじろ見るわけではないが、由紀には苦痛だった。丈がチンピラと話しているところなど見られたくない。最近、丈は知名度が急上昇している。だれが丈の顔を見知っているかわからないのだ。
「こちら、あたしの先生なの。知ってるでしょ、丈先生なの」
と、郁江が丈を若者たちに紹介する。余計なことをと由紀は思わずにいられない。丈は、いかなる形でもこれ以上暴力団と関り合いになるべきではなかった。早く引き上げさせたい。それなのに郁江はいつまでも愚にもつかないことで、チンピラたちなどに引っ掛っている。
若者たちは一様に上眼遣いになり、ぎごちなくわずかに頭を動かした。反感と畏れがないまぜになっていた。
「東丈です。よろしく。うちの井沢郁江がお世話になりました」
丈はこだわりのない口ぶりでさらりといった。
「素晴らしい先生よ。今度講演を聞きに来て......」
若者たちは硬くなり、どうしていいかわからぬげに目を惑わせていた。
「じゃ明日ね」
と、郁江がいい、若者たちはほっとしたように頷いた。会釈して歩き去る丈たちをいつまでもその場に突っ立ったまま見送る。
タクシーに乗った後も、三人とも無言だった。が、同じ沈黙でも内容は異る。杉村由紀は己れの沈黙だけが重く沈みこんでおり、不快な波動を持っているのが厭でならなかった。しかし、心が狭く貧しく固定化されてしまってどうにもならない。気まずく黙りこくっているしかすべがないのだ。たとえ丈が何も気にしていなくても、自分は口惜しいし、こだわり続けずにはいられない。これだけ丈に大きな迷惑をかけながら、軽々としている郁江に腹が立つし、それを許容している丈に対してすらも穏やかならざるものを感じてしまう。
郁江を問責してやりたいが、丈の面前ではそれもままならない。だいたい丈が全て赦しているのに、自分がいきりたって問い詰めてみるのも妙なものであった。郁江は丈のお墨付をもらい、おのが意のままに振舞っているのも同じだ。独断専行と責めることもできなかった。
欲求不満だけがいたずらにふくれあがり、由紀の顔色を勝れぬものにしていた。
だんだん自分だけが浮き上り、遊離して行く、と由紀は胸の裡に呟いた。たぶん自分の考えは古臭い固定観念の虜であって、状況の変化に追いつけないのだろう。しかし、無理にそう思いこもうとしたところで、こだわりが融けるわけもなかった。
丈が思慮もなく郁江を放置し、好きなままに振舞わせておくはずがない。郁江はおそらく丈の意を汲んで動いているのであろう。自分にはただそれが無法則で恣意的に思えるだけなのだ。
全ては自分の貧しく狭量な心に起因する誤解なのだろう。自分もただ寛大な包容力をもって、郁江の無思慮で無鉄砲にさえ見える行動を許容すればいいのだ......
が、いかに努力しても、幼稚でヒステリックな怒りを示している自我を納得させることができなかった。胸をぐいぐいと圧搾してくる息苦しさ、窒息感に堪えるしかなかった。
同じタクシーの車内に座しながら、丈も郁江も、由紀の屈託には一片の関心も示していないように思えた。彼らの沈黙はふわりとしていて、楽しいことでも反芻しているように浮き立っていた。由紀だけが勝手に自己を疎外して行き、まったく立つ瀬がなかったのである。
杉村由紀は突如、まったく自信がなくなってしまった。
丈が郁江はもちろん、高鳥慶輔の所業さえ責めないとしたら、由紀はただ自虐的に自分自身を責めるしかない、とひどく倒錯的な罪悪感にのしかかられたのだった。なぜなら、由紀は丈の信任を得た秘書なのに、何も気付かぬまま事件を黙過することで、信頼に応え、責任を果すことができなかったからだ......
8
戦艦のようなグレイに塗られたスチールドアが重々しく開いた。
「入れよ」
と、高鳥慶輔がいった。隔意がないというよりも、そのいい方にはやや傲慢な響きが感じられた。平凡な女子高校生に向って、彼のように傑出した青年が口にするにふさわしい言葉だという思い入れがあるようだ。
スチールドアの向うは、まぎれもなく次元の異なる世界が広がっていた。高級人士の住む世界だ。照明一つでも北欧製であり、凝りに凝っている。金に糸目をつけない人間が揃えた調度である。一般家庭の子女のつつましやかな目からすれば、完全な別世界といってさしつかえなかった。金銭的感覚の断絶というものがある。
数十箇の電球を用いたシャンデリアなど、その経済性からは馬鹿げたものに映ってしまう。真先に電気料金が何万円もかかりそうだと思ってしまうのだ。
「さあ、入れよ」
高鳥の声音はそうした一般通念に支配された女子高校生を軽蔑しているように響いた。
玄関口に飾られた模写でない有名外国作家の絵に目を奪われている少女の背中に、高鳥はさりげなくもの慣れた手を廻して押した。
「スリッパ、穿けよ」
と、若者はソックス裸足で絨毯の上に立っている少女に対し、いささか苛立ったようにいった。そうした口調が、心細くなっている少女に対して更に身の置き所をなくさせることを、まんざら知らぬわけでもないのだった。
どうやれば支配権を握れるか、よく知っているのである。故意に頭ごなしに振舞っているのだ。
いかにも高価そうなスリッパを穿きかねて戸惑っている少女など、高鳥の趣味ではなかった。いかなる意味でも洗練されているのが彼の好みだ。イモは嫌いなのだった。
「さあ、遠慮しないでもいいんだから......」
高鳥はうんざりしたようにいった。ちょっと侮蔑を見せて相手を押しやる。しかし、相手の少女がどうにもならない無器用さを示しているというわけではなかった。イモとして蔑みたい衝動を誘われるほどではない。彼好みではないが美少女だ。しかも利用価値は多々ある。
「別にお城だの宮殿だのってわけじゃないんだ。成上りの芸能人の住いさ。それも美空ひばりの豪邸ってわけじゃないんだから......」
少女は高鳥のシニカルなせりふに力づけられ、おずおずと広いリビングルームに足を踏み入れた。
「あ、お帰りなさい」
と、居間にいた若者が数名、高鳥を迎えて立ち上った。話しこんでいて、彼が帰ったことに気付かなかったのであろう。
「だめだな、だらしないじゃないか」
と、高鳥が不機嫌そうに叱った。
「すみません、会長」
「鈍いんだよ。俺がマンションの外にいたって気付くようじゃなきゃだめだ。部屋の中に入ってきてからやっとわかるなんて、頓馬すぎるんだ。そうだろう、トンマ、じゃなくて本間?」
「すみません、話に夢中になってたもんですから」
若者たちはいずれもGENKENの青年部の会員たちだった。息を吞むような顔をして、少女を見、辛うじて会釈する。
「会長。さっき中野先輩から電話がありました。東さんが会長と逢いたがってるそうです。久松が会長を捜すのに動いてるといっていました。どうなさるんですか?」
「ほう、東氏が俺にね。珍しいことがあるもんじゃないの」
高鳥はにやっと笑った。白い歯を見せた笑いがしたたかな感じだ。高鳥はこの数週間で笑い声まで変った。自信たっぷりで物腰に権威の重みが出てきた。以前のように人当りがよく快活なだけの若者ではない。
「例の一件じゃないんですか、会長」
若者たちは、高鳥をそう呼んだ。声におもねりがある。しかし、充分に彼を尊敬し、リーダーシップを認めていることは明らかであった。
「久松が中野先輩を捕えて、会長の居所をなんとかして聞き出そうとしてるみたいです。もちろん何にも喋っていないようですけど」
若者たちは少女を気にしていた。いかにも喋りにくそうであった。高鳥はまったく平気である。それに力づけられて、しだいにはっきりしてくる。
「どうってことないさ。久松が東氏に接近しようとしてるのはわかってた。あいつは俺を売るってこともわかってたさ。久松はユダだよ。イエスを売ったユダだ。まあ、こっちにも武器はあるんだ。久松はそれを知らないのさ。哀れな奴だよ......あいつは今にユダらしく惨めな末路を遂げるんだ」
高鳥は確信をもって喋った。その自信が彼の人格を分厚く裏打ちしていた。見違えるほどの貫禄であり、若者たちに対して充分という以上の説得力を有していた。
「ま、みんな楽しみにしてるといい。久松なんてのは小物でどうってことはないんだから。いつだって片付けることができる」
高鳥とほとんど同年齢の若者たちは、圧倒されて、長身の高鳥を仰いでいた。身につけたものはすべて外国の超一流ブランドであり、後光効果を巧みに利用している高鳥は気品と威厳さえ感じさせた。ハンサムな堂々たる貴公子といったイメージである。とうてい十九歳の少年には見えない。年齢を超越した人間の重みを人々に与える。
自らをイメージアップする高鳥の技術は天才的であった。東丈とは異ったタイプの天才児として、高鳥に従う若者たちはみな認めている。
「今日、平山ビルの一階にヤクザが押しかけたんだそうです」
高鳥の落着きぶりに安心したのか、本間という若者がようやく少女を気にするのを止めて告げた。
「ほう?」
高鳥の表情はほとんど変らなかった。わずかに感興を惹かれたという貌になる。
「それで、暴れたのか?」
「いや、それが、井沢郁江を人質に取って、車で連れて行っちまったようです」
「郁江を連れてったというのか!?」
高鳥はさすがに驚いたようであった。真顔になり、目が鋭くなる。
「それで、どうなった?」
「まだその後はどうなったかわかりません。中野先輩が平山ビルにいて情報を集めていますけど」
「ヤクザって、どこの組かわかったのか?」
「塚田組とかいってました。東さんが彼女を取り返しに行くとか行かないとかいってますけど......それ以後連絡がないんで」
「塚田組といってたか?」
「はい。渋谷をシマにしてる暴力団らしいです」
「そんなことはわかってる」
高鳥の貌がこわくきびしくなった。闘争好きの骨太の骨格が、人当りのいい表情の下からぐっと浮かび上ってくる。
「どうしますか、会長。暴力団なんかに勝手な真似をさせといていいんですか?」
と、若者の一人が無鉄砲そうな目を輝かせていった。闘争好きというタイプでは高鳥と共通点があった。見るからにはしっこそうな鋭気のあるタイプである。
「しかし、東氏がなんとかするだろうさ」
高鳥がしぶとい笑いを口許に取り戻してうそぶいた。
「どうですかね......東さんて事なかれ主義者なんでしょう? 問題が起きるのをすごく嫌ってますよね。今度の一件なんか、大変なんじゃないですか?」
「しかし、東氏が片付けるしかないだろう。どうするか見ものだな」
「でも、暴力団は会長を狙ってるんでしょう? 会長にのされたチンピラが植物状態になっちゃったんだそうですよ。塚田組は会長にも仕返ししようとするんじゃないですか?」
「そうかもしれないな。だが、どうってことはないさ。この際、東氏がどうするか、お手並み拝見と行こうじゃないか」
「助けてやらないんですか? 会長なら暴力団を始末するくらい簡単でしょう?」
「おい、そうけしかけるなよ」
といって、高鳥は強靭そうな白い歯を見せて笑った。若者たちもつられて笑う。彼らの盟主の大胆不敵さを確認して、若者たちは心強くなっていた。
9
「でも、会長。会長が暴力団のチンピラを五人もノシて、それで塚田組が乗り込んできたことは、もう会の中で知れ渡ってますよ。それで井沢郁江が塚田組に連れて行かれちまったのに、会長が何もしないってことになると、いろいろいわれることになるんじゃないんですか?」
「そうですよ。会長が逃げたと思われたら、癪じゃないですか」
「ほうっとく手はないですよ」
若者たちは口々にいった。いずれも穏和なタイプではなかった。目がキラキラと光って落着きがなく挑戦的である。リーダーの高鳥自身が闘争好きなのである。類は類をもって集まるという典型的な例であった。
「暴力団なんていつだって叩ける」
高鳥は自信たっぷりにいった。本気なのである。
「今は東氏がどうやるか見たいんだ。本当に事なかれ主義なのかどうか、確かめるチャンスだからな。暴力団だって、本当の狙いは金だろう。郁江を連れてって仕返しするのが目的じゃあるまいからな。東氏が暴力団に脅されて、金を払うかどうかだ」
「しかし、会長。傍で見てる者がどう思うかわかりませんよ。暴力団とのイザコザの原因になった会長が、逃げ隠れしていると思うかもしれないじゃないですか!?」
鋭気のある若者がいかにも我慢がならないという口調で激しくいった。自制のきかないところがあるようだ。
「久松が会長を捜しまわってるのは、もう知れわたってます。久松がなんというかわかってるでしょう? 会長が問題を起こした張本人なのに逃げたっていうに決ってるんです。第一、井沢郁江は自分から進んで塚田組の事務所へ行ったらしいですよ」
「むりやり塚田組に連れて行かれたんじゃないのか?」
高鳥は少し意外そうにいった。
「だったら警察を呼ぶでしょ。誘拐になっちまうし、不法監禁になりますからね。井沢郁江は自分から進んで行ったらしいんで」
「なぜだ?」
事務所に高名な作家が丈と面談中であり、煩わせるのを怖れて郁江は自ら人質になったという説明を聞いても、高鳥は首を捻ったままであった。
「だから、このままほうっといたらまずいですよ、会長。会長の評判が悪くなります。なんとかしなきゃいけないんじゃないですか?」
鋭気のある若者には我慢がならないようであった。高鳥ほど思慮深くなく、ひたすら尖鋭に跳ね上ろうとしている。
「やる時はやるさ、心配するな、日下。とにかく今は、東氏の出方が知りたいんだ。お前たちと違って、俺は東氏をじっと見てるんでな......」
「東さんのやり方は姑息ですよ。超能力者かもしれないが、考えが狭すぎる。視野の中に世界が入ってないんだ。そりゃ講演はみごとだけど、行動が全然伴わないんじゃ、やる気のある人間だってそのうちダレますよ。今はみんな張り切ってますけどね。だんだん道徳教育の先生みたくなってきたし......
そのうちみんな、東さんを見限って会長の所へやってくるんじゃないですか? もっともその時は、会長はアメリカへ渡って大きな仕事をしてるでしょうけどね」
日下は本気でその言葉を信じているのであって、阿諛追従を弄しているのではなかった。狂信的なタイプの若者なのである。思いこみが強く迫力がある。この狂信者を持って以来、高鳥もまた性格の変化を来した。互いに影響しあっているのだった。自信と狂信が相互照射し、ますます大きく強力にふくれあがって行く。
「俺はもう少し、東氏を高く評価してるよ、日下」
高鳥は鼻翼をふくらまし、もったいをつけていった。
「東氏は東氏で仕事をするだろうからな。だから俺はGENKENの会員なんか欲しいと思わない。自分の力でいくらでも会員は増やせる。しかし、俺がアメリカへ行って仕事をしてる間は留守しなきゃならない。それを考えると、今はまだ大きな組織を作る必要はないんだ。わかるだろう? 留守の間、あまり余計な心配はしたくないからな。だから、今はこのままでいい。アメリカで成功したら、すぐにお前たちも呼び寄せてやるよ。アメリカが先だ。日本は後廻しだ」
「凄いですね。まずアメリカ征服ですね」
本間が陶然としていった。いかにも生真面目そうな若者だ。
「早くメイン会長から航空券が送られて来るといいですね。少し遅いんじゃないですか?」
「必ず来るさ。まだ十日ぐらいしか経ってない。心配いらないよ」
「だけど、東さんが行くってことはないんですか?」
と、日下が尋ねた。
「それが心配なんですよ。飛行機の切符を東さんが横取りするんじゃないかって......だってメイン会長と東さんは知り合いなんでしょ?」
「メイン会長は俺宛てに航空券を送るといったんだぜ。まさか東氏が横取りもしないだろう。それにアメリカ行きの金ぐらい、いつだって作れる。一番大事なのはメイン会長とのコネだ。お前たちが心配するようなことは何もないんだ」
「でも、東さんが邪魔をしたら......」
「東氏は渡米しないよ。その気があったら、日本にグズグズしてるはずがない」
高鳥は日下たちの不安を一笑に付した。
「みんなで平山ビルへ行って、塚田組の情報を取ってこいよ。井沢郁江の件で東氏がどう動いたか知りたいんだ。場合によってはこっちも動く。しかし、情報を取るのが先だ」
「はい......」
若者たちは互いの顔をうかがいあっていた。
「だれかが電話番に残った方が......」
「みんなで行けよ。俺は彼女と大事な話がある。わかったな?」
「はい、会長!」
と、日下が張りのある声で答えた。
「平山ビルへ行って情報を取ってきます」
「あっちにも超能力者はいるんだから、気をつけろよ。東氏なんかさすがに勘がいいからな。俺の居場所なんかさとられるな。杉村女史も要注意だ。いいな」
「わかりました。中野先輩から電話があるかもしれませんからよろしく......」
若者たちは、少女にも挨拶するかどうか迷い、結局黙殺してぞろぞろとリビングルームを出て行った。興味を圧殺しているのがわかるぎごちなさであった。
「座れよ」
と、高鳥は気忙しくいった。ジャケットを脱いで真白な革のソファの背に投げる。黒オニックスのテーブルの上には飲みさしのボトルが雑然と並び、お上品なクリスタルの灰皿にはタバコの吸いさしがいぶっていた。
「だらしのない奴らだ」
と、高鳥は顔をしかめて、テーブルの上を見降ろした。
「高価い絨毯には焼け焦げを作るし、クリスタル・グラスのタンブラーは平気で割っちまうし、若い奴らってどうしてあんなにだらしがないんだ?」
自分と同じ年代の若者たちを批判しているとは思えぬいい草であった。
「若い奴らを仕込むのは手間暇がかかってしようがないな。東氏の苦労がわかるよ」
「ここ、片付けましょうか?」
と、少女が躊躇いがちにいった。
「ああ、心配しなくてもいいよ......しかし、やっぱり汚らしいな」
「あたし、やりますから」
「じゃ、台所に下げるだけ下げてくれ。頼むよ」
高鳥はどっかりと白革のソファに体を埋め、長い脚を形よく組んだ。少女が濃紺のコートを脱ぎもせず、テーブルの上のものを台所に下げて立ち働くのを眺める。ごく平凡な印象であり、特に彼の感興をそそるものは、肉体的にはなんら備えていなかった。平凡な女子高校生そのものだ。野暮な制服とコート、それに白ソックスだ。
もし少女の名が、久保陽子でなければ、高鳥は一瞥さえくれようとしなかったに違いない。
「灰皿をくれないか」
と、高鳥はキッチンに向ってどなった。
「はい。今お持ちします」
高鳥は灰皿を待ち切れずにタバコに火をつけた。金貼りのカルチェをもてあそんでいる。久保陽子は手早く洗ったクリスタルの灰皿を持ってキッチンから現われた。凡庸な印象はいささかも変化しない。顔色はやや蒼白い。顔立ちは整っているが、生気に欠けていて魅力に富んでいるとはいえなかった。
井沢郁江と比較してしまうせいか、と高鳥は考えた。しかし郁江はとびぬけた美少女だ。郁江と比較すること自体、無意味というものであった。
しかし、久保陽子には常人にないものがあった。だからこそ、先ほどの若者たちが意識し抜いていたのであろう。近寄りがたいという固い気持になってしまうのである。
久保陽子について何も知らなければ、そんな反応は生じない。彼女が幻魔と交渉を持ったという噂は、少女を不可解な禁忌の領域に押し上げてしまったようである。
彼女の前では充分にリラックスして呼吸もできない気分になるのはそのためだった。
幻魔との接触が、少女にどのような痕跡を残したか、好奇心を持たない人間は一人もいないだろうが、それを心に思うこと自体がすでに禁忌に触れることだったのだ。
「座れよ」
と、高鳥は素気なくいった。胸中の抵抗を排除しているようないい方であった。
「ええ......」
久保陽子はおずおずと白い革のソファに腰をおろした。いまだに調度の豪奢さに圧倒されているようだった。
「......さんは、今、お留守なんですか?」
少女は美人女優の名を口にして尋ねた。部屋の空気さえ肌に馴染めないように、落着きなく室内を見廻す。
「今は撮影所だ。彼女は何も気にしやしないさ......だから君も気にするな」
「でも、お留守の間に黙って上りこんだりしたら、きっと気分を悪くなさるんじゃないかという気がして......」
「彼女の方から、この部屋を自由に使ってくれと頼んでいるんだ。俺がこの部屋で何をしようと彼女は認めてる。わかるだろう? 彼女は俺が離れて行くのが怖いんだ。だから、引き止めるためには何でもする」
高鳥は傲然とうそぶいた。
「つまり、俺が好き勝手なことをするのが、彼女を喜ばせるんだ。だけど、おれはいつまでも彼女を喜ばせるだけにかかずらっていられない。アメリカで大きな仕事が俺を待ってるからだ。だから、この部屋を使うのも、長いことじゃない......君が気にするなんてことは何一つないんだぜ。つまり、彼女は俺の......」
「帰依者?」
と、少女が尋ねた。その勘のよさが高鳥を心地よくさせたようであった。
「そう、帰依者だ。東氏に平山さんがついて後援するようなもんだよ。それだけじゃなくて、彼女は俺に頼ってる。俺が離れて行ってしまったら心細くなって大騒ぎするだろう。俺が励ましてやっているから、仕事をする気にもなったんだ。彼女は俺がいなけりゃ全然駄目になっちまうのさ」
高鳥は笑った。己れの強弁を強弁とも感じていないようだった。
「君は誤解してるらしい。きっと俺が強引に入りこんだと思ってるんだろう。事実はその逆だ。彼女は俺に奉仕するためなら、何でもするといってる。俺のいうことは何でもきくそうだ」
「あたし、別にそんなこと考えていません」
と、少女が小声でいった。高鳥は少女の反応に何の興味も示さなかった。長い脚を振ってソファから体を起こす。すっかり自分の考えに気を取られていた。
「彼女のような人間が、他人に何もかもささげて奉仕することを厭わないなんて、奇妙なことだと思わないか? 自分勝手で我儘で思い上っていて、男などオモチャ扱いにしていた驕慢な美人女優だからな。それが今では、シールみたいに俺にくっついて離れようとしないんだ。俺から捨てられることが最大の恐怖なんだ。自ら奴隷になって、俺にささげ尽そうとする。
彼女は自分から進んで俺の奴隷になりたがっているんだ。俺は別にそんなことは何も望んでいないが、彼女が望んでいるのは、俺の靴拭きマットになることなんだぜ......不思議だと思うだろう? あれだけ美貌の持主で、大衆人気を持ってる一流の女優が、なぜ他人の奴隷になりたいなんて思うんだ?」
高鳥はタバコを手にしながら、長い脚を運び、広い居間の中をしきりに歩きまわり、そして熱情にみちて喋り続けた。
「人間というものは概して、奉仕したいという願望を持っているらしい。一種の奴隷願望だな。人間の生れや育ちには一切関係ない。キリスト教で〝神の下僕〟なんていうだろう、あれだよ。たとえ王侯貴族でも、突如として奴隷願望にとっ憑かれちまうことがある。そうなったら最後、権力の全てをあげて、ラスプーチンとか天海僧正とか弓削道鏡みたいな生神様に入れ上げちまうんだな。
だから、彼女にしたって同じことだ。彼女にとって俺は生神様なんだ。俺が超能力者だからだ。ひたすら帰依し、奉仕しようと夢中になる。彼女をよく知ってる人間ほど驚嘆するだろう。
エゴと虚飾の塊りみたいな美人女優には考えられないことだからさ。しかし、生神様に絶対服従し、奴婢として仕えようとするのは人間にとってごく普遍的なあり方なんだ。別に彼女だけが特殊というわけじゃない......灰皿をくれ」
灰皿、と高鳥はごく当り前の口調で命じた。いつもそうしつけていることであり、何も疑問を持たないようであった。
少女があわててクリスタルの灰皿を差し出すと、彼女に灰皿を持たせたまま彼は無造作にタバコを捻り消した。礼もいわなかった。自分の考えに熱中しているというだけではなかった。高鳥のマナーには短時日の間に歴然たる変化が生じていた。
「確かに奴隷願望というものがあるんだ」
と、彼は力をこめていった。演説の衝動の虜になってしまい、少女の反応は気にも留めなくなっていた。
「それは東氏に仕える連中を見てもわかる。みんな東氏に無我夢中というところだ。家に帰らないで、平山ビルから出勤出社、通学するくらい入れこんでいる。
秘書の杉村女史にしたって、まるで女奴隷そのものだ。東氏に顎で使われて苦にするどころかかえって喜んでる。お話にならない安給料でも文句一ついわない。前は有名な学者の秘書をやって高給を取ってたそうじゃないか。
何もかも自分の人生を投げ捨てて、東氏の下で奴隷労働に甘んじてるなんて、異常だよ。友人知己はみんな杉村さんの気が狂ったと思ってるだろう。でもそれは、奴隷願望のしからしむるところで、だれにでも起こりうることなんだ。人間はだれでもぺったりと腹這いになって高貴な生神様の靴拭きになりたいという欲望を隠し持っているんだ......」
少女は目を瞠り、しきりに室内を歩き廻り、熱弁を振るう高鳥を視線で追っていた。
「人間は元々、卑屈に出来てるんだ。大部分の人間がそうだ。卑屈でいやしいのが人間の魂の素性なんだよ。犬のように主人に尻尾を振って媚びへつらい、足の裏でも舐めるのが人間の本性なんだ。だから、東氏の所へ集まって来た連中を見てみろ。完全な奴隷根性の持主だぜ。東氏には絶対服従だ。東氏がどんな無茶をいいだしても、おおせごもっともで決して逆らわない。這いずりながら東氏の命令一下どこへでも尾いて行く。東氏の残したコーヒーだのお茶だのを、みんなで争って飲むっていうじゃないか。まるで犬だよ。奴隷そのものだ。
俺はそれが人間の本性だと思うんだ。人間にはごく少数の支配層と絶対多数の奴隷がいる。奴隷っていうのは、魂がもともと奴隷なんだ。氏素姓、育ち地位名誉には全く関係ない。いざとなれば、奴隷の本性が出て来る。杉村女史もそうだし、彼女もそうだ。奴隷になるのが喜びなんだよ。
だから、全てを献げて尽すし、何をされても文句はいわない。それどころかいじめられること自体を喜ぶんだ。被虐願望という奴だな。君だってGENKENを見ればわかるだろう?
会で支配者の魂を持っているのは、東氏一人だけで、後は全部奴隷だ。そうでない者は離れて行くし、東氏が入会を拒む。
つまり、東氏が俺の入会を拒んだのは、俺が東氏の同類だってことを見抜いたからなんだ。俺が支配者の魂の持主だってことが、東氏には一目でわかったんだ!」
高鳥の目は猛々しく輝いた。演説することが彼を高揚させるというよりも、論理をたぐることにより、興奮が深まって行くのであるらしい。刺激的な考えを次々に発展させて行く喜びを味わっていた。
少女が一言も口をきかないことを、彼は気にも留めていなかった。
「俺も東氏も、ともに支配者の魂を持っているんだ。他の連中とはまるで違う。だから、話をして聞かせるだけで、他の連中は熱狂し、服従を誓う。主従の関係は、魂の質によって決定しているんだ。それを動かすことはできない。支配者の魂を持った人間が、奴隷の魂の人間に仕えるなんてことはできないんだ。互いに不自然そのものだからだよ。魂の本質が自然に現われてしまうから、そんな不自然な、転倒した関係には堪えられないんだな。
俺にはそれがはっきりとわかる。俺の魂の持っている支配者の本質を一目で見抜いたからこそ、東氏は俺を入会させず、客分として遇したんだ。さすがに東氏は人を見る目を持っているのさ。
支配者の魂同士となると、お互いに上下の位置関係を感じない。あくまでも対等ってことだ。
だから、東氏につく者もいるし、俺につく者もいる。俺は別に東氏から会員を奪い取る気なんかありゃしない。いくらだって人間なぞ俺だけの力で集められる。しかし、俺にどうしてもついてきたいという人間たちは拒めない。当然のことさ。東氏もそんなことで俺を恨んだりするほどちっぽけな器じゃないとわかってる。彼はやっぱりケチな人間じゃないからな。
俺はいつだって会を出て、旗上げをやろうと思えばできる。俺を会長と呼んで従っている連中はそれを望んでるけど、俺はまだそうしないつもりだ。それよりもアメリカへ渡って、名前を早くあげてしまうことの方が先だからだ......小さな会など作ってみたって仕方がない。俺が作るとすれば、世界中に会員が数億もいるような大組織だ! それくらいの大組織を作りあげなければ、世界の動向を変えることなんかとうてい無理だ。俺にはそれをやれるだけの魂のエネルギー量があるんだ。必ずやってみせる!」
高鳥の声は熱し、目はきらめいた。拳を振るって烈しいジェスチュアを示す。
「人間の魂の本質ってことに俺は気付いた。少数の支配者の魂と、多数の奴隷の魂だ。これは本質的なもので、後天的な教育なんかによって変えられないし、転倒もしない。生れた時からすでに定まっている。これは大発見なんだ。ニーチェやショーペンハウエルだって気付かなかった。ナチス・ドイツのヒトラーは優秀人種なんて誤謬を信じて国を滅ぼした。支配者としての人種や民族は存在しないが、魂の支配者は存在する。
この本質に気付かなければ、巨大組織を作っても無駄だ。組織は必ず硬直化して官僚化し、奴隷の下の階梯に支配者が組み込まれたりする。そんな組織は役に立たないし、砂上の楼閣だ。
俺が作る組織は絶対にそうした誤謬を避けなくちゃならない。だから、東氏がめざしている組織は大変興味深い代物なんだよ。彼が明確に意識化しているかどうか疑わしいけど、東氏はやっぱりある程度、人間の魂の本質を知っているらしいからだ。
組織を会と塾の二本立てにしているのも面白い。会は知性、塾は力という使い分けをやってる。塾がいずれ、東氏の警察力として機能するのは明らかだ。敵と正面切って戦う時、会じゃものの役に立たないからな。
会はあくまでもマスコミ向けの看板にすぎない。塾こそ本当の力として、東氏は使うことができる。さすがに東氏は切れ者で、凄く頭がいい。ただの大超能力者というだけには留まらない......
東氏の人材セレクトにも感心する。彼に敵対する人間はごく自然に浮かび上り、分離するシステムがちゃんと働いているんだ。
俺は東氏のおかげでずいぶん勉強させてもらったよ。東氏は大きな支配者の魂を持った人間だし、俺には最初からそれがわかっていた。うちの若い連中は、俺を持ち上げるのに熱心なために、つい東氏などたいしたことはないとおとしめるけどね。支配者の魂同士、よくわかるんだ。
俺には東氏の魂の器量の大きさも限界もわかってるつもりだ......」
「限界?」

沈黙していた久保陽子がぴくりと体を慄わせ、聞き返した。
「そうだ、限界だよ。東氏にも限界はあるんだ」
高鳥は歩き廻るのを止めて、白革のソファへどっかりと腰をおろした。自己充足の気配を漂わせている。
「つまり、東氏はみずから救世主とする自信がないんだ。あれだけの大きな力を持ちながら、彼にはまったく自信がない。俺は最初、東氏こそ本当の救世主かと思った。彼自身、口では否定しているが、救世主としての役割を果たすことによって、既成事実を造り上げて行くのかと思った。
しかし、そうじゃなかった。東氏は自らをイエス・キリストとして育てるのじゃなく、イエスに洗礼を施したヨハネとして自ら規定していることがはっきりしてきたんだ。ヨハネは救世主の到来を民衆に告知するのが役割の単なる洗礼者にすぎない。
しかし、救世主は自らを育て上げるものなんだ。救世主の役割を放棄した時、東氏の限界は明らかになった。東氏は自分で限界を設けてしまったんだ。
だから、東氏が会を作っても拡大を計らない理由もはっきりする。つまり彼は洗礼者ヨハネにすぎないから、大組織を作るのは僭上と考えているのさ。彼はあくまでもただの洗礼者として、人々に救世主を迎える心の準備をさせるのが目的であり、それ以上のものは何も求めてない。
つまり、彼の大きな力も洗礼者止まりだ。救世主として生かされることは決してない。それが東氏の魂の限界なんだ。彼は決して救世主たらんとしないし、それを考えることさえ僭越として退けてしまうに決っている。東氏の力は大きいが、魂の本質は救世主クラスじゃない。精々予言者クラスだ。数多くの人々の心を惹きつけることはできても、大群衆を率いて、全世界を改革するなど夢にも思わない。彼はただ人々に警告するだけだ。そもそも巨大組織の力を活用しようとしなければ、単なる警世家に終ってしまうに決っている......」
彼はタバコに火を点けたが、吸うのももどかしげに喋り続け、タバコは灰皿でいたずらにいぶり続けた。
「俺にとって、東氏は敵じゃない。少くともこちらから好んで敵対関係に入る必要は少しもない。それははっきりしてる......それどころか協力関係を持つことさえできるだろう。だから、俺は東氏の動静を知り尽しておく必要がある。
東氏が俺に対して敵対しないように、充分配慮しなきゃならない。東氏を敵とせず味方にするのは俺にとって絶対に必要だ。彼の協力を得なければ、俺が大きな仕事をすることは覚つかなくなるといってもいい......
俺はいつも五年先、十年先を見てものを考える。うちの若い連中みたいに目先だけで判断しないし、東氏が俺の競合相手などとは考えない。東氏は大きな力を持っているし、もし敵に廻せば死闘になってしまう。そんなことで時間と活力を損耗していては、世界統合などとうてい覚つかないからだ......
だから、東氏の敵は、俺にとっても敵なんだよ。できるかぎり東氏を掩護して行く必要がある。東氏を擁護することは、俺にとっての利益になる。東氏の敵は、俺にとっても共通の敵だ。わかるかい、俺のいってることが......
みんなは俺が会員たちを引きつれて別組織を作り、東氏のライヴァルになると考えているかもしれない。本当は違うんだ。俺は自分を本当の救世主として育て上げなければならない。それにはヨハネの協力が要る。俺がイエス・キリストの再来であるなら、ヨハネと戦うはずがないじゃないか。
それどころか、俺はヨハネの再来である東氏の敵を撃つつもりだ。君と話がしたいと思って、ここへ来てもらったのはそのためなんだよ」
高鳥は言葉を切って、久保陽子の顔を覗きこんだ。少女は膝の上でハンカチをしきりに折り畳んでいた。人形の形に折っているらしい。
「君に協力してもらいたいんだ」
高鳥は更にいい、伏せた少女の顔を深々と覗きこむようにした。
「協力?」
少女がかぼそい声で聞き返す。肌理の細かな皮膚をしている、と高鳥はふいに気がついた。蒼白いが滑らかな皮膚だ。手触りを確かめたいという衝動に駆られるほどだった。
伏せられた睫も長く、鼻の形もこぢんまりと恰好がいい。こんなに間近にこの少女を見るのは初めてであった。あまり関心を持ち合わせなかったので、しげしげと見た覚えもなかった。
にわかに官能的な波動が目覚め、細胞が沸き立つのを感じた。高鳥はタバコに火をつけて心を鎮めようとした。
これまで相手の久保陽子に魅力を見出したことなど一度もなかったのである。コンクリート・ブロックを見るほどにも情緒的でないと思いこんでいた。それかあらぬか高鳥は眼前の少女に少しも彼本来のギャラントリーを示していなかったのである。
「そうだ、協力してほしい......」
高鳥は咳払いした。喉が乾いていることに不意に気付く。産毛が見えるほど顔を相手のそれに近寄せていることが唐突に意識の表面に昇った。
彼にとっては別に珍しいことではない。自分の射程距離に入った異性は射止めるのが彼のマナーである。産毛が見えるまで近づいた女性は迷わず己れのものにし、後悔などしたことはない。
しかし、今回はいささか様子が異っていた。久保陽子を呼んだのは説得するためであり、他に目的はない。しかし、今度は普段の彼のセックス・マナーが逆に彼を規制し、縛ろうとしているのを感じざるを得なかった。
いわば条件反射であった。
高鳥は立上り、時ならぬ興奮を鎮静させようとした。自分が突如として得体の知れぬ官能的な昂まりにとり憑かれたことを、相手に知られまいとしたのだ。キッチンへ行き、冷水を一杯飲んだ。
するとアルコールへの渇望が目覚めてしまった。感覚的な擾乱が生じていた。
高鳥は丈の高いサイドボードへ歩き、ヘネシーのナポレオンを取り出した。ブランデー・グラスを出す。封は切ってなかったが、遠慮はしなかった。体の動きを不自由にさせる下腹部の重い膨隆感が、高鳥を粗暴な気分にさせていた。呼吸がへんに荒くなってくるのである。
ブランデー・グラスに半分ほど注ぎ、立ったまま呷った。喉から食道にかけて熱い火柱が立ち登り、目を刺激して涙をもよおさせた。彼は瞬きをして涙を乾かそうとした。
考えてもみなかったアルコールへの飢餓であった。突如としてそれは生じ、気分を鎮静させるのにアルコールが必要だと彼に自己正当化をさせたが、いざ飲んでみると、渇望を鎮めるのには何の役にも立たないものだった。
炎が血管を廻り、目の裏がポッと熱くなった。高鳥は焦りに似たものを感じながら、更にグラスにナポレオンを注ぎ足した。渇望を満たせないとわかっているのに、なおブランデー・グラスを満たす己れの行為に疑念を覚えていた。
内圧が上昇し、息苦しくなり、高鳥は苛立たしくシャツの上のボタンをはずし、くつろごうとした。何の役にも立たなかった。不可解な緊張感は昂まる一途であった。
グラスとナポレオンのボトルを持って、彼はソファに戻った。久保陽子はあいかわらず固い姿勢を崩さずきちんと座っている。その行儀のよさが反撥を誘い、高鳥は更に粗々しい気持に駆りたてられた。
破壊欲に似た凶暴な衝動が疼いている。彼は自分で自分がわからなくなった。わけもなく興奮し、自分が律しきれなくなっているのだ。自分を異様に刺激しているのが、色欲か攻撃欲かわからなくなっていた。
「君のことを話してくれないか」
と、高鳥は荒い息をつきながらいった。
「君が江田四朗のところへ連れ去られたことは、会のだれもが知っている。だけど、だれも尋こうとはしない......しかし、俺は知りたいんだ。江田が君に何をしたのか......」
少女は棒を吞んだように固くなり、うつむいたまま動かなかった。息さえしていないようだった。
「俺はどうしてもそれを知らなきゃならないんだよ。江田四朗が東氏に対して何をもくろんでいるのか、なぜ君を帰してよこしたのか、君に話してもらわなきゃならない。わかってるのか? どうなんだ......返事をしろよ」
高鳥は高圧的にいってから、グラスを一息に干し、吐息をついた。内圧はとどまることを知らず高まり続けていた。アルコールへの欲求に屈したのは明らかに間違いだった。しかし、彼はむろんそれを無視した。
「俺は個人的な興味でいってるんじゃないんだぜ。会の奴らはお上品ぶって一言も君に尋かないかも知れないが、俺は違う。俺は興味を押し隠してこっそり君を盗み見ることもしないし、お座なりな会話だけで肝心な話を避けることもしない。急所をずばりと突くんだ......」
「............」
少女は黙りこくり、化石したように動かなかった。
「俺は容赦はしないぞ。君だって、俺が声をかけて誘った時に、俺が何の用事で呼んだのかわかってたはずだ。今更知らないとはいわせない。
君だって俺のやってることに関心があるんだろう。さもなければ、ついてくるわけがないからな。俺はへんな同情なんかしない。君の身に何が起こったか、事実だけを知りたいんだ。江田四朗の奴が何を謀んでるか知るために、どうしてもそれが必要だ。俺に協力してくれ!」
高鳥はやにわに右手を伸ばして、少女の肩に置いた。石に似た手触りであった。どうにもならない凶暴な情念が煮えこぼれてきた。得体の知れぬ慄えが体を這った。
「話すんだ! 話したくなくても、君はこの俺に話さなきゃならない。俺を受け容れろ! 俺は君の救い主だ。俺は君の受けた汚辱を清めてやる! 話すことによって君は浄化されるんだ。何もかも俺に打ちあけろ!」
高鳥は命じた。猛烈な情念の高ぶりが彼に圧倒的な力を与えた。いかに固く硬直し己れの殻に閉じこもっていても、少女を圧倒して自己を開かせるとてつもない自信がこみあげてきた。それはアルコールの酔いとないまぜになり、彼を神懸った状態にまで押し上げた。
熱いものが猛烈な速さで体中を駆けめぐり、高鳥はじっとしていられなくなった。自制心が失せていた。
「俺を信じろ! 俺は救世主として生れたんだ! 俺の巨大な力は闇を打ち砕き、全てを光に戻すためにある! 俺を信じ、愛することによって君は救われる! 俺を愛し、信じるんだ。そうすれば俺も大宇宙の神の光を君に与える! 君の中の闇を、俺の光で満たしてやる! だが、それには俺を愛さなければならない! 俺を生ける神の光として崇め、信じなければならないんだ!」
高鳥は迸るように喋り、己れの言葉に刺激されて、沸騰する興奮に心身をゆだねた。
「俺は君を、霊と肉を同時に愛によって救ってやる! 君は俺を神として受け容れることによってのみ、完全に救われるんだ!」
もはや自分が何を喋っているのか、わけがわからなくなっていた。重く揺れ動く情欲と攻撃欲の混交した情動が全てとなっていた。
彼は左手を添え、化石のように硬直した少女の顔を己れに向け直させようとした。その冷たく固い体の中に、沸騰した情動を注ぎこみ、熱く煮えたぎらせずにはおかぬ、強烈な欲望が高鳥を操った。
彼は少女の体を無理やりに立たせ、唇を冷たく硬い少女の顔に這わせた。化石した娘を接吻でめざめさせようとするかのようであった。
熱い呼吸を吹きかけながら、高鳥は唇を少女の額に捺しつけ、睫を震わせながら瞼に、鼻筋へと下げていった。少女は瞼を閉じたまま微動もしなかった。少女の体の深奥に火を点じようと念を送りながら、彼の唇は少女の硬い唇に重なった。
マグマが遠い地底で鳴っているような響きがした。高鳥の右手の下で石のように硬い肩が突如、溶けた。石が軟く柔媚な女肉と化していた。
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高鳥ははっと驚いた。石が溶融したほどのショックだった。いや、あまりにも唐突だったからである。少女の心身を融かすにしても当然もっと手間暇をかけなければならないと思いこんでいたからであろう。
呼吸もせず、冷たく凝固した石像がいきなり軟く融け暖く血が通い息づく女体と化した。その変化の迅さは唐突であり、異常であった。
硬く息を潜めて、伏せられていた睫がぱちっと音をせんばかりに開いた。
その眸のあまりの妖しさが、高鳥の魂を奪い、息が停まるほどの衝撃をもたらした。
単に妖艶という以上のものがあった。高鳥の全身はざわざわと粟立った。少女の目の妖しさは、美人女優の造られたコケットリーや井沢郁江の蠱惑美とは全く異質のものであった。深淵を覗いたような妖しい無気味な戦慄があった。
高鳥は中学生のころ、若くて美しい独身の叔母と軽度の近親相姦的な関係を経験したことがある。その時の恐ろしい魔蠱を伴った無気味な戦慄が、数十倍に拡大され、増幅されて、今彼を襲っていた。体中がとどめようもなく慄えだした。禁断の罪を犯している、邪悪な快美感が、全神経をチリチリと灼きながら体中を波動した。
その魔的な快楽が今増幅され、強大な波動と化して、高鳥を捕えていた。なぜだ!?
彼は体液が退いて行く恐慌の中で激しく疑った。なぜ、こんな恐ろしい魔的な快美感が沸騰しなければならないのだ!?
魅入られた、と彼は感じた。しかし、それは遠い思惟であった。血液が変質し、煮こごりと化していく魔性の感覚が、彼を引きずりこみ、理性をかぼそい糸のようにした。それは息を吹きかけただけで脆く断ち切れそうであった。
少女は妖しい眸で、高鳥の魂を吸引し、あまさず吸い取ろうとしているようだった。堪えがたい奔騰感覚が彼を巻きこんだ。苦しい懊悩が彼をさいなんだ。その眸の妖しさは、彼の心身を倒錯に追いこみ、凶暴な下腹部の膨隆に堪えがたくさせた。そのあまりにも妖しい眸と交わりたいという実現不可能な渇望が苦悩を生んだ。
高鳥は呻くような声を漏らした。猛り狂う波動の中で己れを喪失してしまったのだ。挑むように凝視を射つける少女の眸だけが彼の意識野の全てとなった。
彼は喘ぎながら、少女の濃紺のコートのボタンをはずしにかかっていた。何事か口走っているが、己れの言葉はまるで意味をなさなかった。
少女は高鳥の目をじっと凝視しながら、セーラー服の真紅のネクタイをゆっくりはずした。その妖しく光る眸で、彼を縛りつけているようだった。その眸から目に見えぬ磁力線の如きものが迸り出ており、高鳥の心を縛り、意のままに操ることが可能になっているようだった。
少女はさいぜんまでの彼女とは別の存在に変貌していた。蒼白い顔の、石のように硬い体つきの少女はどこにもいなくなっていた。その落差はあまりにも極端であり、明らかに二重人格性を有しているとしかいいようがないものであった。
少女はいまや魔性の妖精として、きわめて積極的な誘惑者となりおおせていた。それは奇怪な逆転だった。高鳥はあっという間に誘い込まれ、翻弄される被害者の立場に陥ちこんでしまったのである。
仄青く光る妖しい眸をじりじりと高鳥の顔に近づけた少女は、彼の唇を奪った。まさに奪ったのである。
高鳥はもはや攻撃者として機能しえなくなっていた。魔性の妖精と化した少女に一方的にあやなされる受動的な存在でしかなかった。たとえ彼が行動したとしても、それは相手の少女の意志により解発され、誘い出されるものでしかなかった。
二人の体は白革のソファの上に折り重なって沈み、横たわったが、それすらも少女が引き込んだとしかいいようがなかった。主導権は全て、制服の少女の手に移ってしまっていた。高鳥は己れの劣勢に気付いて挽回を焦るように喘ぎ、呻いた。それはあまりにも大仰すぎたかもしれない。苦闘する格闘士が肉体の消耗に堪えかねて漏らす苦悶の呻き声に酷似していたからである。
常の高鳥のセックス・マナーにとってはおよそありえないことであった。彼はいかなる場合でも攻勢に廻り、主導権を手放したことはなかった。女体の快楽の水位を押し上げて行くのは、彼の一方的な営為であった。たとえ相手が年長者でセックスの手練れであっても、彼は一瞬たりとも主導権を手放さなかった。必ず圧倒し屈服させるのは彼でなければならず、相手に支配させることは許さなかった。
その高鳥が今、まるで初心の少年に返ったように、相手に高みにかざされ、翻弄されているのだった。
相手の性的技巧が長けているというのでもない。少女は決してあざとく技巧的なのではなかった。技巧など超越しており、こいつは人間じゃない、と焼きつくような恐怖と後悔を高鳥の半ば心神喪失した意識に刻印した。それは知らぬ間に強烈な麻薬に心身を犯された恐怖に酷似していたようである。
再び浮上することのない深淵へ沈んで行く戦慄と懊悩だった。しかし魅入られたように逃走の衝動が麻痺してしまっていた。高鳥は少女を着衣のまま犯しながら、己れ自身が犯し返されている奇怪な転倒を悟らずにはいられなかった。彼は少女と性交しているのではなかった。少女の肉体の形状を備えた幻魔の磁場とつながりを持ってしまったのだった。少女はまぎれもなく淫魔と化していた。
ただひとつ、高鳥を快楽の中で腐爛することを阻止していたのは、彼の恐ろしく硬質な誇りに他ならなかったようである。恐ろしい麻薬にむしばまれ、深淵へ引き込まれる恐怖にもまして、救世主たらんとする欲望、そして自尊心は強度の抗張力を有していた。彼が真の救世主であるならば、この程度のことで破滅してはならなかった。異様な快楽に溺死することなく、浮上し、再生しなければならなかった。魔性の波動に打ちかたねばならなかった。
その一念の強さが、高鳥に挽回の気力をもたらしたのであろう。たとえ相手が魔性の磁場そのものであろうとも、彼はそれに堪え抜き、己れの肉体と霊性により、幻魔に汚された少女の心身を浄め、救済しなければならなかった。
高鳥は底なし沼でもがき、脱出しようと苦闘する努力をもって、主導権を徐々に奪い返そうとした。彼の気力は超人的であり、勝利の予感をもたらした。それは悪夢を蜘蛛の巣のように引き破り、脱出するのに似ていたようである。
噓のように再度の逆転がなされ、高鳥は主導権を回復した。今は相手の忙しい喘ぎ、頂点を告知する熱い呻き声を柔肉から引き出している己れを取り戻した。世界が常態に復していた。
もしも高鳥が充分に理性的であれば、この再度の逆転に不自然ないかがわしさを発見していたかもしれない。相手の圧倒的な攻勢がなぜ突如として萎えたのか不審を覚え、陰湿な奸計を感じ取ったかもしれない。
しかし、高鳥は単純に勝利に酔い、それが故意に投げ与えられた餌であると考える余地はなかった。彼はあまりにも単純な自信家であったゆえに、敵が奸計を弄するなど想像もつかなかったのである。
高鳥の脳裡は鋼鉄のスプリングの蔵した弾力で攻めつける浅黒い腰と、それにまとわりついている蒼白い脚のイメージが占めているばかりだった。それはいつも変らぬイメージであり、果てしなく伸びる灼熱した真赤の弾道につながる幻想であった。
11
電話が鳴った。
高鳥慶輔は全裸のまま居間を横切り、サイドボードの上の送受器を取り上げた。彼は己れがいかに普段と異ったマナーを取っているか、ほとんど意識していなかった。
長身の高鳥の肉体は、引き緊まった若い筋肉がくっきりと層をなして隆起し、美しく鮮やかであった。脚が長く、均整のとれた体形は、男として羨望の目を向けない者はいないであろう。
いまだ萎えない男性器官はそそり立っているが、高鳥はむしろ誇らしげにそのままにしておいた。電話の相手にすらも、己れの若々しい美しさ逞しさを誇示しているようであった。
「だれだ、中野か?」
高鳥は目をきらめかせ、視線をソファの少女に投げた。少女は何一つ隠さない蒼白い肉体を白革のソファの上に展べ、高鳥を見詰めていた。地味な暗色の制服を脱ぎ捨てた少女の体は思いがけぬ成熟を高鳥の視線の前に露呈していた。膚の蒼白さが異様な魅力をはらんでいる。ほっそりした首に制服からはずした真紅のネクタイが巻きついている。
仰向けになって、電話中の高鳥は覗き上げる眸の妖しさから意識をそらすように、彼は体の向きを変えた。一瞬、高鳥の総身に鳥肌が立った。なぜ、たかが十七歳の少女がこれほど妖しい眸をするのか。どんな男でも、虜にしてしまうほどの力を秘めていた。高鳥でさえ戦慄が体を走り抜けるのだ。
真紅のネクタイだけを首にゆるく巻いた、全裸の少女は凄絶な色気というべきものを、強力な磁力のように放っている。
「もう少し要領よく報告しろ」
高鳥は電話の相手を叱りつけ、少女の体から無理やり視線をはずした。不自然な努力が必要だったが、さもなければ、中野の報告の内容に精神集中が困難なのだった。
「そうか......金を払ったのか......」
彼は唇を舐めながら呟いた。喉がひどく乾いていた。
「二百万......大金だな。そりゃそうだろう、東氏はともかく、他の連中はみんな参るだろうさ。しかも、相手は暴力団だ。金になると思えばいくらでも絞り取りにかかるだろう。一度ですむわけがない......考えが甘かったな」
──一階は今、お通夜みたいですよ、と電話の向うで中野が告げた。
「平山氏が駆けつけましてね、ガタガタやってます」
「お家の一大事ってとこだな、平山家老が......東氏はどうなんだ?」
「東さんは原稿を書いてるようです。あれは何なんですかね、会長? 金には興味がないという高踏ぶったポーズなんでしょうか? それとも本気で無関心なんでしょうか?」
中野は公衆電話からの通話にもかかわらず、東丈のことになると反射的に声をひそめ、ささやくようにいった。丈の〝力〟に対する畏怖は、中野でも拭いがたいものがあるのだった。
「それとも他の考えがあるかだな」
「といいますと......?」
「いずれにしろ、金のことは少しも心配していないってことだよ。東氏はなかなか奥行の深い人間なんだ。お前には見当もつかないようなことを考えてるのかもしれないぞ」
「そうでしょうかね......」
中野はいささか面白くなげだった。
「僕にはわかんないです。少し気違いじみてるように思えますけどね」
「確かに気違いじみてるさ。簡単に考えてることがわかるようだったら、天草四郎の再来なんていわれるもんか。彼が人の心を読めるってことを忘れるなよ」
高鳥は小さく笑いながらいった。
「彼は腹にあることを簡単に顔に出さない人間だぜ。何手も先を読んでいるんだ。もし中野が簡単に腹を読めるようだったら、彼は凡人だよ。
郁江はどうしてる?」
「郁江もけろっとしてます。わかんないですね、これも。全然態度が変んないですよ。今は塾の方へ行ったようです。田崎に相談に行ったんじゃないですか」
「田崎が動くかな?」
と、高鳥は呟いた。
「まさかな。東氏は田崎を動かさんだろう。塾を動かすのはもっと慎重にやるはずだからな」
「郁江って超能力を持ってるんでしょうか? よくわかんないけど、東氏は郁江が塚田組で監禁されている間、全然心配していないみたいでしたよ、会長。相手は暴力団ですからね、何されるかわからないと思うはずでしょう? ところが一向に平気で......それを考えると、郁江は超能力者じゃないかって気がするんですけどね」
「郁江というのもわけがわからない女の子だからな。ま、そのうちわかるだろう。他に何かないか?」
「今のところありません。でも、会長。本当にどうするつもりですか? もう塚田組の件は七階にも知れ渡ってますよ。問題を起こしたのは会長だってことも......郁江のファンが多いでしょ。どうもこのままだとまずいですよ。会長が平山ビルに近づかないのは、塚田組から逃げまわってるんだと思ってる連中がずいぶんいます」
「だろうな。塚田組のことで何かわかったことは?」
「組員は三百人ぐらいの暴力団のようです。事務所は塚田興産という看板をあげてる、四階建てのビルだとかいってました。物騒な奴が一人いて、こいつは矢頭という名の幹部らしいです。平山ビルの一階へ乗り込んできたのは、山本という、これも幹部です。これはもう日下から報告ずみのはずですけど、相当貫禄のある奴です。東さんの交渉相手はこの山本です。矢頭っていうのは、物凄く凶暴で、気に食わないと身内の組員も大怪我させるほどの暴れ者だといってました。今日も何人か組員を病院送りにしたそうで、郁江が入院先の病院へ見舞いに行くといってました......」
「見舞い? 何だ、それは? 塚田組の組員の見舞いか、もしかすると?」
「そうです。なんかおかしいと思いませんか、会長。郁江って変ってますね?」
「今更いう必要もないほど変ってるよ。用心しないと、中野、お前もたらしこまれるぞ。彼女は凄腕の男たらしかもしれないぜ」
「いやだな。僕は平気ですよ。内村や久松とは違いますからね」
中野が不服げにいった。
「ちゃんと用心してますから......だって彼女も超能力者で心を読まれる危険があるんでしょう?」
「彼女が相手にしてくれないってわけか。まあいい。塚田組の事務所はどこにある? 所番地はわかるか?」
ソファに目をやった高鳥は再び総毛立った。少女と目が合ったのだ。少女の眸が強くきらめいて、高鳥に魔蠱をかけ、引寄せようとしていた。
高鳥は彼らしくもなく、集中力を乱され、二度も中野にくり返し尋ねなければならなかった。体中に充満している精力が疼くような感覚を性中枢にもたらしていた。凋れることのない熾烈な欲望が再三にわたり水位を上げてきていた。男性器官はいささかも衰えを見せず、むしろ重い緊張感を強めている。
中野に勘づかれることを恐れる気持はまったくない。中野を初め、彼の帰依者たちは、いささかもそんなことを気にしないとわかっている。
むしろ、高鳥は彼らに対し、あらゆる面で己れが超人であることを証明しなければならぬ義務を覚えていた。強大な超能力者、東丈に拮抗するには、多くの試練を克服しなければならないのだった。
「日下や本間たちに、派手に動くなと注意しておいてくれ。まだ悟られるのは早い。日下たちは慎重さと臆病をごっちゃにして考えてるから、すぐに跳ね上る。情報収集は地味に控え目にやるのが鉄則だ。へんに聞き込みなんかやって目立つなといってくれ。わかってるな? お前を頼りにしてるんだぜ、中野。いざ動く時は疾風迅雷でも、それまでは処女の如く行くんだ。処女みたいに控え目に、そっと躊躇いがちにな......」
電話の向うで中野が笑った。
「そうだ、処女だよ、今のところは。それでちょうどいいんだ。本当に巣立つ時までじっと息を潜めていなきゃいけない。つまらないことで東氏や会を敵にまわす必要はまったくないんだ。その辛抱がきかない奴はアメリカへ連れて行かないとみんなにいってやれ」
「それは効きますよ......」
と、中野がいった。
米国超能力者協会のメイン会長から航空券が送られてきて、この手に摑むまでは、東丈と敵対するわけにはいかないのだ、と高鳥は心の裡に呟いた。先のことはわからないし、いずれは丈が敵に廻ることになるかもしれない。しかし、それは充分に高鳥が力をつけてからのことだ。高鳥に敵対する者が全て滅びて行く歴史的証明として、東丈もやがては高鳥とコースを再び交えることになるかもしれない。
その時は、高鳥は巨大勢力を擁した最重要人物として地球人類史に登場しているであろう。世界の歴史は高鳥の手によって転回点を迎えることになるのだ。東丈などはその他のさして重要でない登場人物の一員として、表舞台からは退くことになるだろう。
高鳥の夢想は急速に翼を得て、羽搏くのだった。この若者が凡百の夢想家と異るのは、超能力という具現化のための翼を持ち合わせていることであった。超能力を用いることに対して、高鳥は寸毫も、東丈のような躊躇や禁欲的な態度を持たなかった。彼は大胆で率直な若者であり、手の届く果実をもぐのに決して遠慮はしなかった。
欲望は巨大なほど、大仕事への原動力になる、と高鳥は信じていた。欲望のポテンシャルを下げ、いじけた日常の拘禁的な習慣の中に閉じこめてしまうほど、愚かな真似はありえなかった。それは肉体的にも精神的にも小人化することを意味しているではないか。
超能力もまた他の肉体的能力と同様に使用するために存在する。そのためには日頃から注意深いトレーニングによって充分に磨きこんでおかなければならない。伝家の宝刀として蔵いこんでおけば、それこそ宝の持ち腐れになってしまう。肉体的才能も錆びさせてしまえば、筋肉とともに萎えしぼんでしまうのだ。
高鳥は丈のそれのような禁欲主義は、人間を萎縮させる悪しき精神主義として強く排撃した。欲望は凡人には扱いにくい悍馬かもしれないが、己れの超人性により克服し、制御しうるものであり、またそうしなければならないものであった。
禁欲主義はマゾヒズムだと彼は信じ、広言した。彼の弟子たちにとって、丈の辛気くさい禁欲的態度に比較し、高鳥の闊達さがまったく魅力充分のものだったのは当然である。会の中で秘かに高鳥派に与する若者たちは例外なく高鳥の奔放な明るさに惹かれた者たちだった。荒削りだが人間的魅力はたっぷりある。人間の欲望を否定せず、むしろ活力源として肯定する。高鳥は全ての面で寛大であり、丈とは対比的であった。
人間的弱点を許容する彼の生き方はきわめて風通しがよく、爽快であり、愉快であった。きわめて内省的な丈の遣り方に対し、高鳥のそれは外向的で、伸び伸びとした活力を感じさせた。
人間的弱さは忌むべきものでなく、その点実に居心地がよかった。丈のように個々の努力や反省を最大限要求するのと異り、高鳥は自分の行動を支持し、従うことだけを大ざっぱに帰依者たちに求めた。巨大な指導者、奇跡能力者としての高鳥を信じ、ひたすら尾いてくることだけで、帰依者たちは救われる、と高鳥によって吹きこまれた。
ただ自分を信じ抜け、と高鳥は要請した。信じることは大きな力を生む。自分をいじめつけて萎縮させることなく、活きいきとエネルギーを結集させて生きろ。
欲望は活かして用い、活力源にしろ。溺れさえしなければいいのだ。快楽もまた宇宙の神により与えられた霊的な恵みだ。一方的に退けることはない。
高鳥は救世主であり、その神聖さを信じて従う者たちには、全てが許容され、世界は喜びだけに満たされる。高鳥だけを信じ、他の者に目を奪われるな。まっしぐらに高鳥を信じ奉戴し抜き、駆け抜けて行けばいいのだ......
高鳥が折にふれ、彼の帰依者たちに説いているのは、そうした欲望是認の現実主義に他ならなかった。若者たちは、彼の人間的魅力により説得され、追従を誓った。高鳥慶輔の超人間性を幾度となく目のあたりに見せつけられた彼らは、高鳥を真の救世主と確信し、超人的な指導者を信じ、愛し、従って行くことで、世界はみるみる変貌すると信じこんでいた。高鳥はその巨大な奇跡能力により、すみやかに世界を脚下に置き、もっとも偉大な世界的指導者として頭角を現わすであろう。なぜなら、高鳥慶輔はイエス・キリストの再来なのだから......
12
「今夜のミーティングはどうしますか?」
と、中野が尋ねた。ごく普通の先輩など長上者に対する言葉遣いであり、特別な敬語は使用しない。雌伏期間中はそうせよと高鳥自身が命じているからだった。GENKENという組織の中で雌伏する限り、高鳥が帰依者たちにより特別な崇敬を受けるのはまずいと判断したのである。それは東丈に対する不敵な挑戦と解されるであろう。
日下たち若い帰依者は跳ね上りからそれを求めたが、高鳥は決して許さなかった。東丈には一宿一飯の恩義がある。いざ旗上げするまでは、自分を先生と呼ぶことも禁じた。わずかに会長という呼称だけを認めた。GENKENでは東丈を先生と呼び、会長とは呼ばなかったからである。高鳥グループ内でのみ、その呼称は通用した。
東丈と敵対関係に入ることは徹底的に避ける方針を取り、彼は己れの権威によって帰依者たちにもそれを守らせた。若者たちはそれを不服としても、敢えて彼らの指導者に対し異をとなえることはしなかった。高鳥の意志は絶対であり、その点彼の権威は東丈がGENKENで確立しているよりも強大なものであった。
「ミーティングは、そちらの四谷でやりますか、会長?」
帰依者たちは、四谷の豪奢なマンションをことのほか好んだ。そこにはハイクラスの階層の富と贅沢が存在しており、高鳥が追従者たちに保証する未来のエリート階級の象徴だったからである。
「いや、今夜はやらない。俺にはちょっとやることがある」
高鳥には中野の心がそっくりお見通しであった。中野はグループの若い娘をマンションに連れて来て、ケタはずれの日本放れした豪華さを見せつけるのが楽しいのだ。いずれ中野本人もこうした贅沢さを己れのものとする夢想を吹聴することに楽しみを見出しているのである。
それは中野一人に限らない。グループの追従者全員にあてはまることだ。少々安っぽい目標だが、グループを結束させるのに役立つ限りは、それでもいい、と高鳥は思っていた。むろん高鳥自身の目標は、彼らと比ぶべくもなく巨大である。世界を己れの脚下に置く夢想に比すれば、この程度の奢侈など高が知れたものだ。
いずれ高鳥が、己れの神性を証明すべく築こうと夢想している、ギザのピラミッドを凌ぐ大神殿の建設など、小容量の帰依者たちにはあまりにも現世放れして、実感など何もないようである。
中野などは所詮、彼の右腕になれるほどの器ではない、と高鳥は思っていた。今の追従者はいずれも安っぽい無能な小物ばかりであった。先見性も実行力も何もない、ほんの使い走りだ。彼らが示している超能力などは、ほんの徴候にすぎず、高鳥本人の〝力〟とは比較の段ではなかった。
杉村由紀のような有能な人材は、まだ一人もいない。しかし、いずれ旗上げすれば、向うから選り取り見取りで集まってくるであろう。
高鳥の楽観主義はまったく歯止めの効かない代物といえた。世界は自分の思い通りになるという不条理な確信が存在するのだった。自分には願望達成能力があるのだ、と彼は信じこみ、吹聴していた。まったく本気で信じこんでいるのだ。その無邪気なまでの自己信仰は、高鳥に活力を保証するものでもあった......
「じゃ、今夜のミーティングは中止ですか?」
中野は不満げにいった。簡単に内心を露呈させてしまうのである。そうした底の浅さが高鳥の軽侮を買っているのだった。自分の思い通りにならないと、簡単に心を揺動させてしまう。
美人女優の豪奢な寝室で、自分の惚れているグループの女の子と恋をささやくのが中野の最大の願望なのだ。高鳥にはそれもお見通しだ。あまりにも卑小な根性に苦笑するしかない。しかし、強く締め上げれば、中野は失望して離反して行くことはわかっているし、そんなことをしても仕方がない。他の追従者も中野と大差があるわけではなかった。むしろ跳ね上りが強く思慮のない分だけ、中野より劣る。
人材があまりに乏しいのを痛感する。東丈の心境がよくわかるのだ。しかし、たとえ無能でも追従者は持つべきであった。自分の指導者意識を絶えずリフレッシュしてくれるからだった。
「ああ、今夜は彼女がお帰りなんですか。だからですか。それじゃしょうがないですよね。なんといっても彼女はスポンサーなんだし......」
中野はおもねりと不満を声音にまぜあわせていた。美人女優が高鳥の情婦であることは衆知の事実だ。ただの帰依者ではありえない。女優がマンションの部屋に帰って来るとなれば、想像できることはたった一つしかなかった。
「いずれにしろ、今夜はちょっと用があるんだ。だから、ミーティングは中止する。いずれ話して聞かせてやるよ」
「楽しみにしてますよ、会長。きっと話して下さいよ」
中野の声音が媚びのためにねっとりとした響きを帯びた。彼らは盟主と美人女優の間に交わされる情事に強烈な興味を持っているのである。
「でも、今夜は例の久保陽子がそっちへ行っているそうですが......?」
「ああ。日下に聞いたのか?」
高鳥は、視野にある少女を敢えて見ないようにしながら答えた。
「どういうお話だったんですか? 彼女はちょっと具合が悪いんじゃないですか? 会でも触らぬ神に祟りなしって感じでやってますよ。彼女から何かいってきたんですか?」
「違う。俺が呼んだんだ。聞きたい話があったからな」
高鳥は眉をしかめていった。中野は心配している。久保陽子に無気味なものを感じているからだ。しかし、それは中野のみに限らず、GENKENの会員全体にいえることであった。幻魔に汚染された少女は、得体の知れない畏怖の対象だったのだ。むろん、そんなことはだれ一人口にすることはない。他ならぬ東丈が少女の復帰を認めたのである。
表面的にはさりげなく扱っているが、内心は放射性物質をいじるような不安が、だれの心にもあるのは否めなかった。
「それがどうしたんだ?」
やや語気が突慳貪になった。たかが中野風情が反対を誦えようとしているのが不快なのだった。
「いや、ちょっと気になったもんですから......みんな心配してるので......」
中野は敏感に盟主の怒気を感じとり、あわてて弁解した。最近の高鳥は、少しでも異を誦えるとてきめんに機嫌が悪くなる。以前の愛想よく柔軟な彼とはだいぶ様変りしてきた。権威が身についてきたのだ。うっかり逆らえなくなった。
「心配することなんか何もない。そっちこそどうかしてるぞ。俺が何をやろうとちゃんと考えあってのことだ。それがわからないのか?」
「わかります、会長! もちろんわかります!」
「俺は幻魔について知らなきゃならないことが沢山ある。だからこそ、手を尽して情報を集めているんだ」
と、高鳥は少女のことを無視し、怒気をはらんだ声で続けた。
「お前たちにそれだけの力があるか? しかし、幻魔なんかを恐れていたら、何にもできないぞ。多少危い橋を渡らないで大仕事ができるか? とにかくお前たちがきちんと自分たちでやってみせるというなら、俺はもちろん手出しはしない。しかし、お前たちにやれるか? 危い危いといってるだけなら、テレビでも見物してろ。わかったか?」
「わかりました。申しわけありません、余計なことをいってしまいまして......」
中野は神妙にいった。
「もちろん、みんな会長を信頼してます。それは絶対です! でも、日下が胸騒ぎがするというし、僕も......」
「何も心配は要らないんだ。俺がそういうんだから確かだ、間違いない。みんなにもそういっておいてくれ。いずれみんなにも話す。心配というのは何の役にも立たないマイナス効果だけの感情だぞ」
「わかります。僕は会長を絶対に信じてますし、みんなもそうです。どうも申しわけありませんでした。余計な差し出口をしてしまいまして。お許し下さい......」
「お前がしっかりしなきゃだめなんだ。みんなが動揺したら、鎮めなきゃならない。それをお前が率先して揺れていたらどうにもならないだろうが......」
高鳥は多少語気を和げて叱った。頼りにならない追従者ばかりだが、それでも利用価値がないわけではない。鞭と飴で懐柔し、うまく働かせなければならなかった。時には痛烈な叱責も必要である。
「久保陽子は、俺にとって必要なんだ。だれにもとやかくいわせるな。お前がそうするんだ。日下がゴネたら叱れ。お前は俺の代理なんだぞ。頼りにしてるんだ......わかってるな?」
「はい。みんなにも強くいってやります」
中野たちの真意は、久保陽子が高鳥グループに入りこむことに排撃的なのである。グループの結束が乱れることを恐れている。彼らもさすがに鋭敏な勘を持っており、久保陽子の出現により、各自の地位に変動が生じることを感づいているのだった。
高鳥は何かいいかけようとして、口をあけた。声がつっかえてしまい、とっさに出てこなくなった。
少女が彼の足許にうずくまっていた。まるで猫そっくりの陰微な仕草であり、上目遣いに見上げる目も猫そっくりに妖しかった。首に真紅のネクタイを巻いただけの少女は恐ろしくセンジュアルであり、煽情的であった。その赤いネクタイをたわむれに巻きつけたのは高鳥自身なのだが、その効果には身慄いするものがあった。少女は美しいしなやかな猫の化身となったようであった。
少女は高鳥の足許に横座りになり、両手をあげて、若者の長い逞しい両脚に巻きつけた。少しずつ体を浮かし、滑らかな絹のような膚触りの頰を、彼の筋肉質の腿にすり寄せた。じりじりと頭部を上方へ滑らせて行く。
「どうかなさったんですか?」
と、電話の向うで不審そうに尋ねた。
「いや、なんでもない......」
どっと噴き出してきた汗を、高鳥は空いている右手で乱暴に拭き取った。体がかっと灼熱し、鼓動が速くなってきた。
少女がこれほどまでに官能的であるのは異常なことであり、驚嘆と欲望で口中がカラカラに乾いた。痛いほどの欲望がこみあげてきた。この少女はある種の天才であった。全身で淫らに嬌かしく男の欲望をかきたて、性の深淵へ誘うことができるのだった。セックスにおいて高鳥はその若さにもかかわらず決してビギナーではないのだが、手練れの美人女優を含めて、この十七歳の少女に匹敵する存在を知らなかった。
東丈は彼女がこんなに凄いセックス巧者だってことを知っているのか......くらりと電流に似たものが流れて頭を痺れさせた。もちろん、禁欲主義者の東丈は、女性たちに対してそうした興味を抱くことはないに決まっている。
少女の仕草につれて、高鳥の体は頭頂から爪先に至るまで痺れた。少女の蒼白い若さと繊細さに、その巧妙さはあまりにも対比的であった。もの心ついた時からセックス奴隷として仕込まれ、育てられた女でなければ、これだけの快楽の助産婦になることはできないのではないかと思えた。
高鳥は背筋を固くし、体をそらすようにして、異常な快楽の襲撃に辛うじて堪えた。全力を挙げて抵抗しなければ、あっけなく敗れ去り、放出させられただろうとわかっていた。危く女のような呻き声が漏れ出そうになったのだ。
歯軋りして平常心を取り戻そうとする。これは快楽の天才としての少女との、変型した戦いであった、あまりにも相手のもたらす快楽の波動は鮮鋭であり、魔的ともいえる恐ろしさをはらんでいた。
こいつはもしかすると、超能力の一種じゃないか、と脳裡に紫色の閃光とともに疑念がはしり抜けた。快楽を産む超能力......高鳥自身、念を集中して向けることにより、異性を刺激し、手許へ引き寄せる〝力〟の持主であった。この少女は、それよりもはるかに特殊な喚起力をもって、人間の快楽中枢に働きかけることができるのかもしれない......
高鳥は己れ自身を奮起させ、この奇妙な闘争に意志力を投入した。負けて堪るものかと思った。もしこれが快楽を産む超能力であるのならば、あくまでも戦って屈伏させてやるとふるいたった。
快楽に敗れることなく、平常心を保ち、相手の少女を屈伏させなければならなかった。少女の口腔と舌による甘美な攻撃に逆毛を立てて堪えながら、高鳥は平然と電話での会話を続けた。
相手の中野は、異様な気配を感じ取りながらも、最後まで疑念だけで終ったようである。それほど高鳥の克己力はしたたかなものであった。快美感の襲撃にあくまでも堪えて、呼吸を乱すこともなかった。
彼女が一度は幻魔の手に陥ちたのは、それなりのわけがあったのかもしれない、と高鳥は痺れを伴った感覚に抗しながら考えた。これは彼女の体質なのだ。幻魔はそれを目覚めさせ、利用したに違いない。麻薬の快楽で奴隷を縛るのに似ている。一度麻薬の恐ろしい惑溺の味に耽った者は、麻薬の奴隷と化し、いいなりになる。
江田四朗という奴は、どうやってこの少女にこれだけ味を覚えさせたのだろう。快楽の奴隷に仕立てて、東丈に返してよこしたのはどんな意図があってのことだろうか。人間は快楽の奴隷であることを証し、東丈の努力を嘲笑するための生贄に彼女を供したのかもしれない......
玄関で金属の触れ合う音が響いた。
「ああ、今ちょうど元子が帰ってきたところだ」
と、高鳥は電話の相手に向っていった。いささかも慌てた気ぶりはなかった。
「これで電話を切るが、今夜は一階の様子をよく見ていて、何か起きたら見逃すな。田崎がもしかしたら動くかもしれないから気をつけろよ」
彼は玄関口に瞬きもせず視線を向けながら命じた。
白貂の豪華なロング・コートを着た美人女優がドアを開けて入ってきた。居間を見やった彼女の顔が信じられない驚きに空白化した。ぽかんとした痴呆的な表情を、居間の高鳥と少女に向けている。全裸で電話の送受器を握っている丈高い若者と、その足許にうずくまり異常な唇と舌による奉仕を加えている裸の少女の構図が、何を意味するのか一瞬頭にしみこんで行かなかったようである。
高鳥と少女は、むしろ傲然とした目付で、玄関口の美人女優を見返していた。彼女に見られたことを苦にもしていないのは明らかであった。決して居直りの倨傲ではない。両名とも、美人女優の帰宅をあらかじめ知っていたようである。狼狽して隠し立てしようとする気ぶりは一切なかった。
「田崎が変に動く前に、こっちも手を打たなければならないからさ。それくらいいわなくてもわかれよな......盗聴器でずっと聞いていろ。東氏も田崎の暴走は抑えなきゃならないだろうから、必ず制止する。郁江はたぶんそのために塾へ行ったんだ。だから、盗聴をやめなければ、必ず報告が聞ける......今夜はご苦労だが頼むよ」
わかりました、と中野が答えるのを聞いてから、彼は送受器をサイドボードの上の架台に戻した。その動作には小憎らしいほどの自信がみなぎっており、玄関口で棒立ちになっている美人女優をまったく黙殺していた。
女優はようやく茫然自失からさめ始めていた。自分の目撃している光景の意味を理解しかけていた。あまりにも意外であったため、心が視覚の伝えてよこす情報に対して、拒絶反応を起こしてしまっていたのだった。歴然たる光景であっても、なんのことかはっきりわからなかったのだ。
美人女優の顔色が変わっていった。すっと青く血の色が退いて行く。大きな瞳は衝撃のあまりぼんやりとくもり、ただ瞠られていたが、ようやく焦点が定まってきていた。
「何をしているんだ? 早くこっちへ来いよ」
と、高鳥が何事も起きていないかのように声をかけた。

「............」
美人女優の顔は甚しい侮辱を受けた者の怒りと屈辱に歪んだ。それは演技ではないだけに生々しく迫力があふれ、ほとんど醜いとさえいえる表情であった。女優が常に演技者として振舞い、作為的な表情を造形する強固な習慣を、つい踏みはずしてしまった一瞬であった。自己検閲をごく短い時間ではあったが、完全に見失ってしまったのである。
「厭よ......」
美人女優は己れの声とも思えぬしわがれた声を聞き、自分がゆっくりと首を振っているのを他人事のような遠い感覚で認識していた。
「早く入ってこい」
それはうむをいわせぬ命令であり、その不当さが女優の怒りを煽りたてた。
「厭よ! ここはあたしの家だわ。あんたたちは何の権利があって......」
彼女の声はぞっとするような怒りと屈辱の苦悶に慄え、老婆のようにしわがれた。全身がとめどもなく慄えて、声音が頼りなく揺れてしまう。
「いいからこっちへ来い」
「命令なんかしないで!! けがらわしい......人をいったいなんだと思ってるの!?」
「こっちへ来いといっているんだぞ、元子」
高鳥は冷然といった。その目は冷たくきびしく光っていた。ぞっと悪寒を走らせながらも、勝気な女優の怒りは燃え上り、足踏みして叫んだ。金切声を上げた。
「人を馬鹿にしないでよ!! ここはあたしの家なのよ!! どこの馬の骨かわからない女の子を引っ張り込んで、汚らわしい真似を!! なによ、つけあがるのもいい加減にしてほしいわね! 出て行って! 二人ともあたしの家からすぐに出て行ってよ! この厭らしいけだもの!」
「お前は俺にそんな口をきけると思っているのか?」
高鳥の声音は氷柱からしたたるように冷たかった。
「それを思いださせてやろうか。お前は俺に借りが沢山あるはずだぜ」
「あんたなんかもう沢山だわ、この悪人! 甘い顔していればいい気になって、何よ! 厭らしいわね! よくもそんな浅ましいことが人前で出来るわね、けがらわしいけだもの! 人でなし!」
女優は小さな華車な両の挙が真白になるまで力いっぱい握りしめ、地団駄踏んだ。大きな眸は怒り狂ってぎらぎら光り、顔は真赤になっていた。
「けがらわしい? けがらわしいだと?」
高鳥は冷酷な怒りをこめて、ゆっくりといった。
「では、お前が俺にしたことは何だ? お前が俺にやらせていたことは何だ? それはけがらわしくないのか? どうだ、いってみろよ......」
無気味な悪寒が女優の体を揺り、怒りは一瞬にしてさめた。上気していた貌は一転して青白く凍りついた。
「俺はお前の何なんだ? お前がいつもいっていることを思い出させてやろうか。こっちへ来い」
「厭っ、あんたなんか大嫌い!」
女優はくるりと背を向けて跳び出して行こうとしたが、その動きは中途半端にひっかかり、停止してしまった。
「厭でも、こっちへ来させてやる」
高鳥は冷やかにいった。
「動けるか? 動けないだろう? 俺の〝力〟でお前の体は縛った。もうお前は俺のいいなりに動くしかないんだ......俺はお前のご主人様だ。それを今からお前に思い出させてやるぞ」
「厭っ、だれがあんたなんかの......あんたなんかの思い通りになるもんですかっ」
女優は低く掠れた声で叫び、不意に喉が狭窄したようになってぜいぜいと喘いだ。
「ご主人様だよ、俺は。お前がそういったんだ。そうだろう? 忘れたのか、元子? お前は俺の奴隷だといったじゃないか......奴隷は奴隷らしくしたらどうなんだ? 奴隷がご主人様に逆らったら、どういうことになるか教えてやろうか?」
高鳥の眸は凶暴にきらめいた。そのきらめきは女優の気力を奪い、反抗心を萎えさせた。高鳥という若者の底には何かしら恐ろしいものが横たわっていた。
「お前がそう望んだんだ。忘れたのか? 俺がご主人様になることを望んだのは、元子、お前なんだぞ。けがらわしいのはどっちだ? 俺はお前の望み通りの人間として振舞っているだけだ......だが、勘違いするな。俺は王の王たるべくして生れた人間だ。お前に奉仕することなどありえない。お前が俺に奉仕するんだ、女奴隷としてな......」
「厭......止めて......」
女優はぎくしゃくとした動きで、居間の中の高鳥に向けて歩き出した。かかとの高い靴を穿いたままだった。
「これはお前の好きなプレイじゃないんだ。わかるか? 本当のことなんだ。俺はお前のご主人様なんだよ」
高鳥は容赦なくいった。
「それを今から思い知らせてやる。これはお前の好きなちょっぴりSMがかったセックスプレイじゃない。人間には主人と奴隷が生れながらに存在するということの証明なんだ。奴隷は主人の思うがままに、何でもしなければならない。お前が奴隷の分際で思い上って主人に逆らった罪の償いをさせてやるよ、元子......お仕置だ。お前は自分の意に反して厭なことをしなきゃならない。それがお前の受ける罰だ。さあ、こっちへ来いよ」
「厭、お願い! ひどいことをしないで!」
女優はほとんど横向きになってそろそろとやってきた。高鳥の肉体に及ぼす強制力と彼女の逃亡の欲望が拮抗しているからだった。
「ひどいこと? 俺は優しいご主人様だぜ。血を流すようなことはしないさ」
彼は冷笑した。だが、目は依然として凶暴な輝きを帯びている。
「ちょっぴり懲らしめるだけさ。ご主人様に向って僭越なことを二度としないようにな。安心しろよ、元子。俺がこんなに慈悲深いご主人様でなかったら、お前を殺してしまったかもしれないんだぞ......簡単なことだ。お前は息が苦しくなって、もがき廻りながら死んで行くんだ。じわじわと呼吸が出来なくなってな......心臓がおかしくなって、乱れたあげくに心不全で死ぬかもしれない。もっともこれくらいは楽な死に方さ。そうだろ? お前が一番恐れているように、体中の穴という穴から出血して、血が停まらなくなり、血の海の中で死ぬというのだってあるんだ」
「お願いです、止めて下さい」
女優は哀願した。貌は絶望的な恐怖に蒼く凍っていた。
「あたしが悪うございました、許して下さい。もう二度といたしませんから......」
「お前は血が大嫌いで怯気を振るっているものな......体中の穴から血が流れ出して死んでしまう。これくらい恐ろしいことはないだろう。よくわかってるよ、元子」
高鳥はむしろ優しいほどの声音でいった。
「俺もそんな死に方はお前にさせたくない。本気でそう思ってるよ。本当だぜ......」
「助けて......もう絶対に生意気なことはいいません。ついカッとなってしまって、口走ってしまったんです......本当です。だからお願い、赦して......」
「安心しろよ。俺はお前を護ってやっているじゃないか。お前がそんな恐ろしいことにならないように、いつも見張ってやっているじゃないか。だからお前は元気が湧いて来て、また映画にも出演する気になったんだろ? 俺がいなかったらお前は駄目なんだよ。どうなっちまうと思う? 俺がついていてやって、〝力〟を送ってやっているから、そうやって元気でいられるんだろう? そうじゃないのか、元子?」
「そうです。ご免なさい。あたし、馬鹿でした......あなたがいなければ、あたしは駄目なんです。ついそれを忘れました......ご免なさい。あたしを見捨てないで......お願いですから」
女優の声は戦いた。恐怖の涙が目に光っていた。
「もちろん見捨てやしないさ。俺はお前が好きなんだ。気に入ってるし、大事にしてる。つまりお前は俺のペットさ。可愛がってるペットを死なせたり傷つけたりするようなことはしやしない。心配するなよ......お前は俺にいろんなことを仕込んでくれたしな。そっと大切にしてやるさ」
高鳥は明るく微笑したが、目までは笑っていなかった。しかし、声はあくまでも優しい。
「しかし、お仕置だけはしないとな。ペットや奴隷が思い上って、ご主人様に無礼を働くのは、嫌いだ、服を脱げよ、元子」
「服を......!?」
「そうだ。一枚残らず脱ぐんだよ。俺たちと同じようになるんだ。その物凄く高価な毛皮はお前の虚飾の象徴だな。全部脱げ。だいたいご主人様が裸でいるのに、奴隷が偉そうにしていることはないだろう......」
「そんな!」
女優のびっくりするほど爪を長くした華車な手が真白に腱を浮き上らせ、毛皮コートの前を搔き合わせていた。必死に我身を護ろうとしていた。大きな眸はこれ以上真円にならないところまで拡がって、懸命の拒否と懇願をこめて瞠られていた。
「拒否してもいいんだぜ......」
高鳥は残酷に微笑んだ。
「だが、お前は自分の意志に反して、自分で脱ぐんだ。厭でも脱いでしまうんだ。つまりそれがお前が奴隷である証拠さ。お前は支配者の俺の意志に決して逆らえない。お前は自分自身の肉体と心に裏切られるんだ......つまりそれが、思い上った奴隷の受ける罰というわけさ。自分が惨めな奴隷以外の何者でもないと骨身にしみて思い知るんだ......どうだ、手が自由にならないだろう? 自分の手でありながら、お前は裏切られるんだ。よく見ろ!」
「厭よ......」
女優は恐怖の苦痛にみちて喘いだ。
「そんなこと、できないわ......」
「だが、お前はやるんだ。お前は奴隷さ。だから犬のようにどんなに浅ましいことだってやるんだ、俺がそうしろと命令すればな......」
「やめて。こんなこと......お願いです」
「罰を受けろよ。しかしお前はすぐにこういう罰が大好きになるんだ。奴隷だからさ」
女優は喘ぎ、すすり泣きながら、毛皮コートのホックをはずし、片袖から手を抜いた。ふわりと滑り落ちて床にうず高い毛皮の山を形造る。
「見ろ。手がお前自身を裏切って、勝手に動き出したろう。さあ、続けろ!」
「こんなこと、噓だわ! こんなこと......やめさせて!」
「最後までいわれた通りにするのさ」
高鳥は優しい残酷さをこめていった。彼のいう通り、女優の両手は彼女自身を裏切り、衣服を次々に剝いで行く。女優は懇願し、慈悲を乞い、泣いた。少女は高鳥の足許にうずくまったまま、猫のような瞳をして屈辱の光景を視ていた。なんの感情も宿さない瞳であった。しかし、自尊心の極度に肥大した女優にとっては、実際に鞭打たれるよりも痛い苦しみだったろう。
二人の凝視を受けて、下着だけの姿になった女優は全身が総毛立っていた。目は吊上り顔面蒼白になり、歯がやかましいほど大きな音をたてて鳴っていた。
「俺はお前がどんなに色好みで恥知らずか知ってる」
と、高鳥があくまでも優しくいった。
「本当は、こんなことはお前にとって何でもないことなんだ。お前は快楽に対しては恐ろしいほど貪欲じゃないか。そうだろ? ただお前の肥大した自尊心が傷ついているだけなのさ。見物人がいて、お前の隠したがってる貧弱な体を穴のあくほど見てるからだ。虚飾を剝ぎ取った、お前の瘦せた貧相な肉体をな......そうだろう、違うか? 見物人がいて容赦のない意地悪な目で、お前の必死で隠したがっている部分を、それこそ形而下的にいえば尻の穴まで覗いてしまうわけだ。下品なことをいってすまないな。だけど、高価な毛皮を着こんで極楽鳥みたいに飾ってるより、そうやって鳥肌立てて慄えている素っ裸のお前の方が、より人間の本質に迫ってるぜ。醜悪でぶざまな姿さ」
女優の喉を絞め殺されるような悲鳴が漏れた。歯がギリッと鳴る。
「心配するな。人間はだれだって同じさ。いざとなればみっともなくなるし、浅ましくもなる。元々人間は醜悪なものなんだ。だからくだらない自尊心なんか捨ててしまえよ。裸で正直に、人間らしく生きるんだ。
みっともないのはお前だけじゃないさ、元子。東氏の美人秘書だってお前と同じことなんだ。いざとなれば、色好みで破廉恥な本性を剝き出しにするのさ。快楽を求めて泡を吹いて狂いまわるんだ。どんな女だってお前と大差はないさ。お望みとあれば、その事実を証明してやってもいいんだぜ。あのお澄ましの美人秘書......お前が目の仇にしている秘書さ。彼女もきっと自尊心が強いから、お前と同じように反応するだろうな。人間なんてみな魂の造りは同じさ。それを知れば、お前も安心するかな?」
「もう止めて......」
「予言してもいいけどな、元子。お前はいずれあの美人秘書を自分と同じ目に遭わせてくれと俺に頼むだろう。必ずそういうに決ってる。そうでないと安心できないからだよ。人間の本性はみな同じだ、下劣で醜悪だと確かめないと気がすまないんだ。その通り、奴隷とはそうしたものなんだ」
高鳥は恐ろしいまでに高揚し、饒舌になっていた。己れ自身の偏った考えに熱中してしまっているのだった。この若者はそうした特異な自己発振能力の持主であった。
美しい女優は最後の下着を落し、両掌で顔を覆って立っていた。しかし、覆い隠しようもなく全身の皮膚は鳥肌立ち、四肢は滑稽なほど慄えていた。
「お前は俺の奴隷だったことを感謝しなきゃならないな」
高鳥は考えこみながらいった。その眼はぎらぎら光って、女優の肉の薄い、細い四肢を無遠慮に見廻していた。瞳の奥から異常な興奮の光がとめどもなく湧き出してくるようだった。
「なぜなら俺はお前にどんな恥でも搔かせる力があるからだ。たとえば幻魔がお前を奴隷にしてやらせることなら、なんでも同じことが俺には出来る。生かすも殺すも自由なんだ。お前をこのアパートの八階の窓から跳び降りさせることだって出来る。俺が生殺与奪の力を持っているのは、お前にもわかるだろう?」
「............」
女優は無言で激しく体を慄わせた。高鳥の発揮する異常な強制力が、自分の心身に作用して、その言葉通りのことをさせるに違いないとわかったからだ。まさしく、この若者はその魔的な強い力によって、彼女の命を握っているのだった。
「返事をしろよ、元子。お前が自分の幸運に気付いているかどうか知りたいんだ。どうなんだ?」
「はい......」
女優は蚊の啼くような声音でいった。高鳥への深甚な畏怖は隠しようがなかった。彼がその奇怪な強制力、他人を支配し、意のままに操る魔的な力を、これほど明確に発揮するのを見たのは初めてであった。高鳥の〝力〟は恐ろしい速度で急増しつつあるようだった。
「はっきりいえよ。自分は幸運だと......大きな仕事にありついた上、何の不安もなく安心して生きて行けるのは幸運じゃないのか? 本来ならば、お前は幻魔にとり憑かれていたし、あの大仕事はお前にとってライヴァル女優が自分のものにしていたんだぞ。それが急に事故で役を降りてしまって、お鉢がお前に廻ってきたんだ......」
「あたしは幸運です。何もかも慶輔さんのおかげです......慶輔さんはあたしの守護神です......」
彼女は跡切れとぎれに呟いた。声が戦いて一気に喋ることができないのだった。
「その通りだ。それはお前が俺の奴隷になったからだよ。俺は自分の力で、お前の運命を変えてやったんだ。俺にはそうするだけの巨きな力がある。もしそれがわからなければ、お前が幻魔の奴隷だったら、どんなことになったか教えてやろうか......」
「はい......」
冷汗が女優の顔を底光りさせた。
「俺には幻魔と同じことができるんだ。簡単なことさ。おまえに苦痛を与えるのも、快楽を与えるのも自由自在だ。俺は神により近い超人類の一人だからな。さあいってみろ。どっちがほしい? 苦しみか? はらわたが全部ぐちゃぐちゃにねじれて、穴という穴から血を流し出す苦痛がほしいか? 江田四朗がお前に与えてやるといった恐ろしい死に方だ......」
「厭です! それだけは許して!」
「では、快楽がほしいか?」
「はい......」
「では、快楽を与えて下さいと頼め。俺は慈悲深い守護神だから、お前を苦しめずに、いつも幸福を与えてやっているじゃないか。そうだろ?」
「そうです......」
「では頼め。俺はお前の願いをかなえてやるぞ」
「お願いです。慶輔さん。あたしを苦しめないで下さい。どうぞ、そっとしておいて......」
女優は細い両手をもみしだきながら、哀願した。
「疲れているんです。もうこんな、責めさいなむのはやめて。お願いですから......」
「ほう?」
高鳥は冷やかに頰笑んだ。
「俺はいつもお前の頼みをかなえてやっているじゃないか? 違うか? お前のライヴァル女優が、事故でも遭えばいいとお前は願った。そうすれば念願の大役がお前に廻ってくるからだ。だから、俺はお前の願いをかなえてやった。いったいだれのおかげだ? お前につきまとい脅していた江田四朗の手先のプロデューサーや監督は病気や事故で入院した。お前はもう怯えないでもすむ。お前が邪魔だなと思っていた人間たちが次から次に居なくなって行く。ライヴァル女優で六人目だぞ。俺がお前の守護神だから、何でも願いをかなえてやったんだ。
お前の心の中を読み取って、願いをかなえてくれるなんて、こんな親切な守護神がいると思うか? ライヴァル女優が、割れた鏡の破片で顔に大怪我してしまうなんて、お前の願望そのままじゃないか......」
「あたしはそんなこと、お願いしませんでした......ただ、役がほしいといっただけですから......」
女優はとめどもなく慄えていた。両手を交差させ、己れの体を抱きしめる。
「心の中で、お前はそう望んだんだよ、元子。忘れたか? 思い出させてやろうか?」
「ふっとそんなことを思ったかもしれません......でも、まさか本当にそうなるなんて、夢にも思いませんでした」
「しかし、そう願ったのさ。たとえ一瞬でもな。だから俺はそれをかなえてやった。親切な守護神としてな。ライヴァル女優の首がもぎ取れて死ねばいいと願えば、そうしてやったかもしれないぞ」
「そんなこと!!」
全身の皮膚がそそけだつのが見えた。乳頭はみるかげもなく乳暈の中に陥没してしまっている。
「お前の気持を汲み取って、沢山の幸運をもたらしてきた守護神に、お前は出て行けと罵ったんだぞ。憶えているか?」
「あたくしが悪うございました。お赦し下さい!」
女優が叫ぶようにいった。
「実をいえば、俺はお前になど用はない。いつだって離れて行ってやるさ。出て行けと罵られて、その上お前に幸運をもたらしてやるいわれは何もない。そうじゃないか? 恩知らずのお前を幻魔の祟りから守護してやる理由がどこにある?」
「あたくしが心得違いをしていました......」
「いわれた通り、俺は出て行くよ。幻魔に後をまかせてな......俺が幸運をもたらしてやる人間はいくらもいる。お前などに構っている理由は何もないんだからな」
「ねえ、お願いです! 赦して!」
「今度はお前のライヴァル女優にでも幸運を与えてやるか。少しばかり負い目があるからな」
「何でもいわれた通りにします! どんな罰でも受けます!」
女優は絶望的な泪とともに叫んだ。
「だから、捨てないで下さい! これまで通り守護神でいて下さい! でないとあたし、生きていけない......どんなひどい目にでも遭わせて下さい! 罰を受けます! それだけの罪を犯したんですから!」
「ほう? どんな罪だ?」
「逆らった罪です......あなたに逆らった罪......」
「どうして俺に逆らうと罪になるんだ?」
高鳥はこの遣り取りを楽しんでいた。驕慢な女優が恥辱と恐怖にうちひしがれているのを享楽しているのだった。
「奴隷のくせに、反抗したからです......慶輔さんはあたしのご主人様です。それなのにつまらないことで嫉妬して、ひどいことをいいました......」
女優は蒼白な顔で一語一語を絞り出すようにいった。
「あたくしが間違っていました。二度といたしませんから......捨てないで下さい。どんな罰でも受けますし、どんなことでもいたしますから......」
「俺はお前をいたぶったりはしないさ。いつだって快楽を与えてやったじゃないか。お前をいじめたことが一度でもあるか?」
「いたぶって下さっても構いません。いじめて下さい......どんなにしてもいいですから、その代り捨てないで......」
「心配するな。俺はお前に喜びだけを与えてやるよ。とびきりの快楽をな」
高鳥は夢見るような声音と貌で呟いた。
「お前がどんなに快楽を必死に求めてとことんまで溺れるか知っているからな......彼女に快楽与えてやれよ。この世のものとは思えない快楽を教えてやるんだ」
言葉の後半は、足許にうずくまり、瞳をきらめかせている少女に向って告げられたものだった。少女は高鳥の顔を見上げ、忠実な犬のように命令に従った。
「厭! それだけは厭!」
女優は体をおののかせ、呻いた。嫌悪と拒否で体が固くなった。
「女の人に触られるのは厭なの! それだけは止めて下さい! 蛇にでも触る方がましだわ!」
絶望的な拒否の悲鳴であった。必死に首を左右に振り動かす。冷汗がこめかみから空中に飛び散った。
「そんなひどいこと......止めて!」
少女は女優の瘦せぎすの体の足許にうずくまり、両手をそろそろと上方に向って這わせて行った。女優の全裸の膚に、皮膚の収縮による波動が走り抜けた。
「お前はあくなき快楽の追求者じゃないか、元子。ソドムとゴモラの住人だよ」
高鳥は平然といい、少女が両手で女優から快楽を汲み出す作業をくり返すさまを見まもった。蒼白い少女の顔には血の色が射し、ぞっとするほどなまめかしくなり、反対に女優は凄絶なほど蒼ざめて、異常な神経に加えられる刺激に堪えていた。金縛りにあって体が思うように動かないのだ。辛うじて両手を挙げ、顔を覆った。堪えがたいような呻きと拒否の声が漏れ出た。
「そうだ。堪えるんだ......」
と、高鳥は青っぽい眼の色で女優を見ながらいった。
「その方が快楽は大きくなる。お前はちゃんとそれを知っているじゃないか。それはお前がソドムの住人だからだよ、元子。なにも恥じることなんかない......人間はだれでも同じさ。お前が嫌いな杉村由紀だって、お前と同じことになってしまうんだ。だれだって快楽には脆いのさ。快楽を得るためには、どんな浅ましい真似だってする。理性や教養なんて、ほんの付焼刃でしかないんだからな......みんなお前と同じなんだ。表面だけ取り繕い、口では厭と否定しても、本心は欲望の奴隷であり、餓鬼なんだよ。だから恥じるな。自分を解放してやれ。奴隷であることを認めた方が気が楽だ。
もっと自分に正直に生きるんだな。奴隷は奴隷らしくしろ。自尊心なんかくだらない。お前が快楽にどろどろに溶けて狂い廻っている時、自尊心なんか関係ないだろう? 快楽を求め、欲望を満たそうとして生きている人間が一番正直で正しいんだ。他の生き方はみんな噓だ。それこそ非人間的なんだ。
もっと素直になれよ。身のほどを知ることだ......そろそろ堪えきれなくなってきたらしいな」
同時に女優の喉から、異様な呻きが絞り出された。敗北と苦悶の呻き声のようだった。どろどろした生臭いマグマの如きものが、彼女の体内から噴出してきたように感じられた。女優は足を広げて立ちはだかったまま、電撃でも受けたようにガクガクと震え、体をくり返し躍らせ続けた。
「そうだ、それでいい。それが本当のお前なんだ。他の時のお前はみんな虚飾でニセモノなんだよ。お前は猥褻な色気違いの獣以下の存在だ。その姿が本当の自分なんだ。それをよく憶えておけよ......」
女優は全身から汗を噴き出させ、ぬめぬめと膚を光らせていた。劇甚な苦痛に堪え切れぬ者のように、長い豊かな髪を左右に激しく打ち振り、泣き呻き、絶叫を切れぎれに絞り出していた。歯がギリギリ無気味に軋み、獣の咆哮のような声が漏れる。
──あの女をこうして! あの女をこうやって!
と、女優は大声で叫んでいた。人間の声とは思えない咆哮であり、ほとんど言葉として聞きとれぬほどであった。それでも快美感の到来を告知する言葉と聞きまがうことはなかった。
「お願い! あのひとを......同じにして!」
女優は苦悶に近い快楽に歯がみし、狂ったように叫んだ。体が波打ち、汗の飛沫が飛び散った。
「俺のいった通りだな......」
高鳥は口許に冷やかな頰笑みを彫りこんで呟いた。
「他人も自分と同じ所まで引きずりおろしたいか? 自分だけが例外ではなく、他の全ての人間がそうだということを証明したいか? あのつんと気取ったお澄ましの美人秘書、教養があってお高い杉村由紀も、お前と同じ肉欲の奴隷だってことを、お前は証明したいんだ。そうだな?」
もの憂げな声音だが、眼は輝いていた。己れの洞察の正しさを誇り、喜悦に満ちているのだった。
「恥も外聞もなくよがり声をあげて、ぼんのくぼとかかとで這い廻るのは、自分一人じゃないってことを、あの美人秘書を同じ目に会わせて引きずりおろして証明したい。そうだろう?」
女優は人間放れした声音で立て続けに叫びたて、高鳥の洞察の確かさを証かした。彼は口許に小さな笑みを彫りつけたまま、女優を釘付けの姿勢から解放してやり、崩れ落ちるのを許した。
女優は全身を痙攣させ、のたうっていた。その体にからみつく少女の肢体はさながら白蛇の精のように妖しいものがあった。
淫魔だ、と高鳥は思った。このしなやかな少女は男にも女にもこの世のものとは思えない淫らな快楽を植えつけることができるのだ。その異様な魔的な力は、人間の性中枢にくいいっていく菌糸のように無気味な底知れぬ快美感に人を狂わせ、溺れさせるのだった。その証拠に、同性の肉体的接触に生理的不快感で堪えられないという女優が、どろどろの快楽にのたうち、呻いていた。
高鳥は心を犯してくる欲望の分厚い濡れた感覚の中で、杉村由紀の清楚な美貌を鮮明なイメージとして喚起させた。この淫魔の如き少女を杉村由紀に向けて放つ......その思惟は凄まじいほどの瀆神的スリルで心身を満たした。
女優の願望をかなえるということだけではなく、それは彼自身の邪悪な願望に結びついていた。彼の思想の正しさを証明してみせる──そんな衝動を駆りたて、興奮に誘う考えであった。
高鳥は明確に、杉村由紀に対する強烈な欲望を意識していた。一挙に欲望のレベルが数百倍、数千倍にはね上ってしまったようであった。
さもなければ、そのように歪んだ思いつきが彼の精神に取りつき、食いこんでしまうことはなかったであろう。それは偏執的な欲望として、異常な速度で成長しようとしていた。数時間前の高鳥には、そのような欲望が割り込む余地はなかったはずである。彼の目はすでに世界的な視野に向いており、個人的欲望など全く取るに足りなかった。
それが突如魔法のように、欲望のレベルが凄まじい超上昇を見せ、いつしか彼自身がしっかりと取り込まれてしまっていた。高鳥は自分が欲望には淡白であり、いつでも意識をそらすことで欲望のレベルを下げてしまえると信じていた。
自分は他の人間と違って、欲望に囚われ、溺れることなど決してない。果すべき巨大な使命と役割を持つ人間が、低次な欲望に囚われるはずがない。
それが高鳥の信念であった。恐ろしいほどの自信に満ち溢れていたのである。煩悩などは俗人のものだ。真の救世主である自分は最初からそのような重石を免れているのだ。
〝支配者〟にとって、欲望などは単なる道具でしかありえない。己れで自由自在にレベルをコントロールできるものだ。現に自分がそうであり、東丈もそうではないか。もっとも東丈は禁欲的な姿勢をとり、欲望レベルを低く抑えたまま固定化してしまってはいるが......それだって凡俗の徒には出来る芸当ではない。
ごく短い間に、高鳥は欲望にとり憑かれた身となり、しかもその事実を認識できなくなっていたのだ。邪悪な願望が大きくふくれあがり、己れの巨大な〝力〟を恣意的に駆使したい欲望と合体してしまっていた!
しかも、それには自己正当化が伴なっていた。
自分のこの素晴らしい卓見に満ちた「思想」の正しさを証明すること!
高鳥にとっては、絶対的な大義名分に他ならなかった。
所詮、奴隷は奴隷以外の何者にもなりえないことを証明してやる。欲望の泥沼に浸って快楽に呻く豚のように醜悪な人間の素性を、清浄ぶった〝GENKEN〟の連中に見せつけ、思い知らせてやるのも一興だ。
この淫魔の如き少女を刺客として放ってやれば、あの杉村由紀ですら陥せるのではないか。まして他の会員たちなど、赤児の手を捻るようなものであろう......
その考えはにやりと高鳥の口許を歪ませた。それがどれほど不吉で陰惨であり──邪悪というべき笑いであることに高鳥は気付かなかった。もはや高鳥は己れの心の鏡に己れ自身の像を投影する自己検閲を忘れ去っているようであった。
13
背広をつけた田崎宏は、未成年には見えなかった。いかに具眼の士といえども、彼がいまだ十八歳であり、高校に在学中だなどと決して看破できないだろうと思えた。
重厚な落着きが分厚い逞しい体を満たしている。ひょっとすると三十代半ばの人間的熟成が感じられた。惑い多き二十代など飛び越してしまっている。
大眼玉が炯々と光っているせいかもしれない。若年の戸惑いがちな頼りなさ、自信のなさとは縁がない顔だった。しかも、若者特有の客気や自信過剰というのでは全くない。やはり人間的な分厚さといった迫力である。どっしりと落着いていて頼もしげだ。
自分にはやはり縁のない本質的な迫力だ、と河合康夫は思う。あれは魂の本質から出てくる圧倒的な波動なのだ。まるで巨大な岩山の前に立った時のような、物質的な圧力をひしひしと覚えるほどだ。
恰幅がいいだけでなく、物腰にも武士の折り目正しさがぴしっと決まっている。やはりあたりを圧するのは気迫というものだろう。自分には逆立ちしても、この重厚な雰囲気をかもしだせない。余計に軽薄になり、滑稽な猿真似に終るだけだろう。
「本当に一人で行くんですか、師匠?」
と、元不良少年、河合康夫は気がかりそうに尋ねた。大型米車の座席から体をよじって後ろの田崎を振り返る。
「俺もいっしょに行った方がいいんじゃないですか?」
「あたしも行きます」
後部座席に田崎と並んで座っている木村市枝がもどかしげにいった。彼女は殺気立っているように落着きがなかった。
「よせよ。そんな服装で行く気か?」
田崎は苦笑した。無造作なジーンズの上下を着た市枝が体を固くする。
「銀座の高級クラブだぜ、これから乗り込もうっていうのは。だからこそ猿にも衣裳で、こんな背広を着こんできたんだ。まあ、市枝にはそのなりがよく似合うけどな。きりっとしてて悪くない......しかし、やっぱり場違いだ」
「やっぱり、目立ちすぎるでしょうか?」
市枝は悔いをこめていった。
「まあ、止めといた方がいい。その方が無難だな」
しかし、田崎の真意は他にあった。服装のことなのではない。木村市枝が久しぶりに殺意のごとき雰囲気を発散しているからだった。鋭いものが白い額から立ち登っている。
「俺も一応背広着てきましたから、いっしょに行きましょうか、師匠? やっぱ、いくらなんでも師匠一人で行かせるというのはどうも......」
「お前が来たら足手まといなんだよ、はっきりいえばな」
「そりゃひどい。これでも、多少はお役に立てるつもりですがね」
康夫が口をとがらせて抗議する。
「用心棒なら、もっと腕の立つ人間を連れて行くよ。松岡とか武田をな......」
「でも、師匠。相手は暴力団なんでしょう? 何がおっぱじまるかわからねえんですよ! やっぱり用心しとくに越したことはないんじゃないですか? いくら師匠が腕に憶えがあったって、向うはすぐに道具を持ち出してきますからね......ピストルなんか出されたら、一巻の終りですよ。こっちは東先生と違って念動力はないんだし......」
「心配するな。別にこっちから喧嘩を売りに行くわけじゃないんだ。まさか無名塾が暴力団と喧嘩をするわけにはいかんだろう。お前は何か誤解してるんじゃないか?」
田崎は男っぽい顔ににやっと笑いを浮かべて胸許に手をやった。
「どうだ、市枝、ネクタイ曲ってないか?」
「大丈夫ですけど......」
市枝はつられて、ネクタイを直してやり、顔を赤らめた。自分がまさかそんなことをやるとは思いもかけなかったのであろう。
「俺はただ、山本という奴に遭いに行くだけのことだぞ。身に寸鉄だって帯びちゃいない。お前は俺がすぐに荒っぽい真似をすると思うらしいな」
「そりゃ、前のことがあるからですよ。師匠の乱暴なことといったらなかったもの。先生だってびっくりするほどだったでしょ」
康夫は改めて不安になってきたようである。
「ねえ、郁江さんが先生に叱られるんじゃないですか? 田崎の師匠が暴力団相手に大暴れしたりしないように、郁江さんは先生からいいつかってきたんでしょ?」
「やっぱりあたしを連れて行って下さい。心配ですから」
と、市枝が思い詰めた口調でいった。
「どうも信用がないな。しかし、郁江は別に先生のいいつけでブレーキをかけに来たってわけじゃないんだぜ。詳しい事情説明をしに来たんだ。郁江は、乱暴は止せなんて一言もいわなかったけどな」
「本当ですか、信じられないけど」
「山本というヤクザに興味があるんだ。それだけだ。もし荒っぽい真似をする気なら、こんな洒落こんだ恰好をして来ると思うか?」
「それもそうだな。しかし、師匠、大成功してるどこかの青年実業家みたいですよ。人間って不思議なもんだ」
「市枝、お前にはどう見える?」
「さあ......わかりません。でも、とっても立派です。その背広、よくお似合いです」
市枝は口ごもりながらいった。
「木戸払いを食わなきゃ、それでいいんだ。ボーイの奴が臭いと睨んで追っ払おうとするかな?」
「大丈夫だと思います。態度が堂々として立派だし、とても落着いていますから」
「市枝にそういってもらえば、安心だな」
田崎は車のドア・ノブを押して、ドアを開けた。スムーズな動きで車を降りる。分厚い逞しい体が噓のように軽く動くのである。
冷えこんだ夜気に白い呼気を吐いて、市枝が降りてきた。おびただしいバー・ビルの看板を不安そうに仰ぐ。
運転席の康夫も外へ出てきた。寒気に肩をすぼめる。
「気をつけて」
と、市枝がいった。女たちに送られて出てきたサラリーマン風の酔客たちが、そんな市枝を厚かましくじろじろ見ながら通りすぎた。ひどく豪華な見かけを備えた大型の米車との取り合せに好奇心をそそられたのであろう。さりげないジーンズを着た市枝は、夜の銀座六丁目のバー街とは雰囲気が異質すぎた。酔客たちは逆に新鮮さを感じたようである。硬質な美貌はひどく鮮明に浮き立って見えた。そこだけスポットライトが当たっているようだ。和服や洋装のホステスたちがくすんでしまったようであった。
「電車通りに車を廻して待ってますから」
と、康夫がいった。田崎は頷き、歩き去って行った。電通ビルと通りをはさんだビルの一つに姿を消すまで、康夫と市枝は車の外に立って見送っていた。
「貫禄だなあ。絶対に年には見えねえや」
康夫がいった。広い肩、厚い胸板が悠揚迫らぬ完熟ぶりを示していた。閣僚級政治家や大企業経営者と並べてみても、わずか十八歳の田崎宏は見劣りせず、気圧されもしないのだった。
軽量級のところが少しもないのだった。あれは本物の男だと思わざるを得ない重みがある。こんな若者は世界中探しても見つからないだろう。むろん、東丈を除いての話だが......
「ね、ヤッちゃん。郁江さんにだけでも知らせとかなくていいかな?」
と、市枝が忙しく白い息を夜気に吐いて尋ねた。
「田崎さんは一度いい出したら聞かない人だしね。郁江さんに話しておけば、万一の時にすぐ先生に伝わるから」
「やらせておくしかないんだよな。師匠自身喧嘩はしないといってることだし......まかせておくしかないんじゃないの? 師匠もひとかどの男なんだから、それをいちいち先生にご注進するのも気が引けるんだよ」
「そうだね。田崎さんにもそれなりの考えがあってやることだもんね。あたし、明雄を連れて来ればよかった......明雄ならテレパシーで、田崎さんがどうしてるかわかるはずだから......」
「明雄はもう学校があるし、夜はだめだと先生に釘をさされてるんだろう?」
「そうなんだよね。あたしに超能力があったら本当によかったんだけど」
市枝は口惜しそうに唇をかんだ。
「どうしてあたしだけ、超能力に見放されちゃってるのかな?」
塾にはめざましい勢いで、超能力者が増加しつつある。東洋病院の看護婦、松代直子の参加で、超能力を持たない木村市枝は更に遊離した感じを味わっているのだろう、と康夫は同情した。
なにしろ、会ではやっかみ半分で、塾を〝超能力者の巣〟呼ばわりをしているほどだった。なぜかわからないが、自然にそうなってしまったのである。市枝など、弟の明雄が優秀な超能力者だけに、ひとしお疎外感が強いのかもしれなかった。
東丈は、市枝に超能力を持つ必要はないとはっきりいい渡したらしい。が、他のことでは東丈の言を絶対に遵守する市枝が、これだけは承服しがたいものを感じているようであった。彼女がどんなに深く悩んでいるか、康夫にはいたましさを覚えずに考えることはできなかった。
「なあ、明雄は市べえの心が読めるんだろう?」
と、康夫は思いついていった。
「一方通行で、市べえはだめでも、明雄の方はオープン・チャンネルなんじゃないか?」
「それがどうかしたの?」
「だったら、明雄を呼んで、田崎の師匠を見張らせたらどうだ? 明雄は遠感を使うとそれくらいはやってのけるんだろ?」
自分の思いつきに興奮して、熱心にいった。
「距離が離れてても、明雄は人の心が読めるようになったといってたじゃないか? 師匠の身に何か起きれば、明雄にはすぐにわかる。明雄は杉村さんとツーカーだしさ。即座に先生にも緊急連絡がつくってもんじゃないか。そうだろ?」
「ああそうか......でも、家には電話がないから、一度自宅へ帰って明雄に説明しなきゃ......」
「違うんだよ。市べえ。だからさ、今お前がここから明雄の心に呼びかけるんだ。市べえには明雄の心が読めなくても、明雄には姉さんの心が見えミエなわけじゃんか」
「でも、明雄がこっちの心を読んでるかどうかわからないよ。だって確認のしようがないもの。今この瞬間、明雄は他のことを考えてるかもしれないし、寝てるかもしれない。もう寝ちゃってるんじゃないかな」
「だけどよ、明雄は学校へ通い始めてから、遅くまで勉強してると市べえいってたじゃんか。いいから試してみろよ。明雄とは一番心が通じ合っているんだ。できないわけがねえと思うぜ」
「そうか......やってみようかね」
市枝の戸惑った顔にようやく納得の色が浮んだ。
「でも、自信ないよ。一方通行なんだもの。あたしに遠感があれば簡単なんだけどね」
「いいからやってみろよ。心の中にだな、出来るだけ明確な明雄のイメージを描くんだ。わかるだろ? 一生懸命呼びかけるんだ」
「ああ......」
「目をつぶって、シートにゆっくりもたれてリラックスしてみな。深呼吸する......そうそう。ゆったりした気分になってきただろう?」
康夫の誘導は堂に入っていた。いわれるがままに、市枝はシートに背中を伸ばし、目を閉じて深呼吸を繰り返した。長い睫、隆い鼻筋がエキゾティックだ。フランス製の陶器の人形によく似た顔立ちである。痛いほどの情念を胸の芯に感じさせる容貌だった。
「心を集中するんだ。明雄の顔をくっきりと思い浮べる......目にはっきり見えてくるまで、ことこまかに想像するんだ。どうだ、見えてきたろう?」
「うん......見えてきた......だんだん見えてきたわ。明雄は座ってる。卓袱台の前に座ってる......」
「勉強してるのか?」
「ええ。勉強してる。国語の教科書を読んでる......不思議だわ。映画みたくはっきり見えてくるの。漢字の書き取りやってるのがものすごく鮮やかに見えるわ......」
市枝は瞑目したまま、息を詰めるような声で呟いた。
「こんなこと始めて......本当に映画と同じよ......細いとこまでよく見える」
「もっとリラックスして。緊張しなくてもいいんだから......弟にゆっくり呼びかけるんだ。明雄は敏感だから、きっとすぐにわかるさ。姉さんから通信が来てるって、ぴんと来る。さあ、心に念じながら呼ぶんだ、明雄! 明雄! あたしのいうことをわかって! そうだ、口に出して呼んでみる......」
康夫は我ながら驚くほど手慣れたものを感じながら、更に誘導を加えた。こうしたことを過去何百度も演じて、熟練しきっているように指導の言葉が滑らかに口をついて出てくるのだった。催眠術師になったような気分であった。他のことはもう何も気にならなくなった。
市枝の顔は深い精神集中のために、白々と面変りしてきたようであった。完全に己れの想念の中に没入しているのだ。今まで見た憶えのない市枝の神秘的な貌であった。
「明雄......明雄! お姉さんだよ、わかる? 明雄、お姉さんのいうことが聞こえるかい......」
市枝はそっとささやくように呼びかけ始めた。
「明雄、そう、こっちを向いて......お姉さんのいうことを聞いてちょうだい......聞こえるね? そう、お前はとっても素晴らしい力があるんだから、お姉さんと離れていても、お姉さんのいうことが聞こえるよね?」
明雄がその場にいて、話しかけているのと同じ調子であった。康夫はふと、市枝には本当に明雄の姿が見えているのではないかという気がした。
「明雄。これからお姉さんのいうことをよく聞いて......明雄の遠感で、田崎のお兄さんを見張るんだよ。わかるかい? 田崎のお兄さんがどこで何をしているか、お前にはわかるはずだね? 明雄は心をその人に向ければ、今どこで何をしているか、ちゃんとわかってしまうといっていたよね......その力で、田崎のお兄さんを見張ってちょうだい。もし、お兄さんが危い目に遭いそうだったら、先生にすぐ知らせて......杉村さんでも郁江さんでも、心と心で話せる人にすぐ連絡するんだよ、明雄。わかったかい? お前は凄い力を持っているんだから、お姉さんのいうことが、遠く離れていたってわかるよね? お願いだから、お前の力で田崎のお兄さんを守ってあげてよね。
お姉さん、明雄にはきっと出来ると信じてるよ。お前は先生のおかげで立派な超能力者になれたんだから......その力で今度は人を助けてあげてよ......」
康夫は息を詰めて聞いていた。市枝の言葉は祈りそのものであるかのように感じられた。そうだ、祈るんだ、と彼は思った。市枝、お前の一生懸命な祈りなら、きっとフロイさんに聞き届けてもらえるさ。お前は本当に一途な、ひたむきな魂を持っているんだから......
康夫は涙ぐましい気分になり、なおも話しかける市枝の言葉に耳を傾けていた。大きな熱した感情が心の深奥にうごめいていた。
14
田崎宏は、〝ルイザ〟のボックス席に孤りで腰をおろしていた。店の中は暗く、通路を足しげく往復するボーイたちが、夜行性の獣みたいに感じられた。
ホステスは二十人以上いるようである。客のだみ声と嬌声、笑い声が交錯している。いわゆる高級クラブと称しているが、田崎には〝ルイザ〟がどの程度の規模の店であるのか判断する基準がなかった。
しかし、客たちの服装やホステスの質からすれば、それほど低級でもなく、また高級ともいえぬ気がする。むろん、料金は目の玉が跳び出るほどむしり取るのだろうが、どうせ客は社用族に決まっている。まともな人間は自前で飲んだりはしない場所だ。
ボーイたちは、突然やってきた田崎に奇異な目を向けた様子もなかった。紹介者を一応尋ねたが、田崎があらかじめ用意した客の名前で通用したようである。
「あら、こちらお孤り?」
黄色いチャイナ・ドレスを着たホステスがやってきて、田崎に声をかけた。顔をしかめたくなるほど掠れた、聞きとりにくい声音であった。カササギのような悪声だ。声を聞いていると、こちらまで喉に異和感が生じ、咳払いしたくなってくるのだ。
「ああ......」
ぎょろりとよく光る大目玉を動かして、田崎は穏やかにいった。しかし、無愛想に響いたかもしれなかった。
「ご免なさい、今夜は女の子が少なくて......」
悪声の女は、田崎のななめ前に座った。体つきはしなやかで形よく、顔立ちも悪くない。眸に魅力があり、笑顔に愛嬌がある女であった。あまりにも悪声との均衡が取れぬという印象であった。
「あたし、声が悪いでしょう? だから本当はこの商売むきじゃないの。いつも喋らないで、澄ましていられればいいんだけどね」
「うむ」
と、田崎はいった。何も喋らずに黙っていてくれと頼みたかった。
「この店は、初めていらしたの?」
「そうだ」
田崎は実に姿勢よく端然と座っていた。恰幅がよく、実に堂々としている。
「お客様を、入っていらした時お見かけしてハッとしたのよ。よく知っている方だと一瞬勘違いしてしまって」
「そうか?」
田崎は無口であった。その精気のあふれた大目玉はぎょろぎょろと動くことはないが、必要なことは何一つ見落さないという集中力と注意力を眼光としてはらんでいた。
「あたし、ミハルというんですの。お客様のお名前は?」
「田崎宏」
ミハルは営業用の小形名刺をくれた。田崎は無造作にポケットへ突っ込んだ。ミハルは当てがはずれて、小首をかしげた。田崎は当惑させる客であった。無口で無造作で、恐ろしいほど存在感がある。女にも酒にも興味がないことがあからさまなのだ。
「田崎さんのご商売をあてましょうか?」
ミハルは悪声でいった。黙っていろと叱りつけたくなるほどの声だ。自分でいう通りまったく接客商売には向いていない。
「空手とか剣道の先生でしょう?」
「ふむ?」
田崎はわずかに興味を惹かれて、ミハルを見た。
「当たったでしょう? 一目見てぴんと来たんですよ。凄く頼もしそう。田崎さんは物凄く強い男性でしょう? 喧嘩なんかさせたらだれにも負けないんじゃありません?」
「ふん......」
田崎は苦笑いして答えなかった。
「まさに武芸者そのものという感じ。目配り、体の構え、身のこなし、一分の隙もないんですもの。うわあ、と思っちゃいました。最近の男性にないタイプだなって......」
ホステスのお喋りが煩わしかった。目の前のテーブルに置かれた水割りのグラスを片手で摑むが、気がついて元に戻す。酒は断っているのだ。この種の店に来て、酒を飲まないでいるのも妙なものだが、仕事を控えて、今口をつけるわけにはいかなかった。
「ご免なさい、こんなひどい声をお聞かせして......あたし、ここへいない方がいいかしら?」
と、ミハルがいった。
「いてもいいさ」
田崎は、相手が真剣なのにふと驚いた。
「ある朝、気付いたら、こんな声になっていたんです。医者へ行っても何をしてもどうやっても治りません......」
「ほう? どうして?」
「心が潰れたら、声も潰れちゃったんです。人間って不思議ね」
「では、心が治れば、声も治るだろう」
田崎はあっさりといった。ミハルははっとして、一瞬黙りこんだ。
「そんないわれかたしたの、あたし初めて......」
彼女は息を吞むようにしてそっといった。
「本当のことをいったまでだ」
「そう......なんだか急に治るっていう気がしてきました。田崎さんのおかげで......」
「どうしてだ?」
「ただそんな気がしたんです。この方が治してくださるって......変ないい方ですけど」
「俺は病気なんか治しやしない。病人は自分で自分を治すんだ。どうしたんだ?」
田崎は、相手の目を覗きこんで尋ねた。
「あたし、なんだかとっても感動してるみたい......変なんです。田崎さんのおっしゃることが一言一言、ずしっと胸のこの辺に響くんですよ」
ミハルはチャイナ・ドレスのふくらんだ胸の中央にぽっちゃりした小さい手をあてがっていった。
「胸のここがぐうっと熱くこみあげてきて、わけもないのに泪が出そうになるんですの。今夜のあたし、どうかしているみたい。さっきお店にお入りになってきた田崎さんを見たとたん、電流が走ったんです、体を......変だな、変だなと思ってたんですけど......」
「妙だな」
田崎はぽつりと呟いた。太い眉をぴくりとさせて相手を見返す。しかし、それだけで後は何もいわなかった。むっつりと黙りこんでしまう。
「馬鹿みたいなこといって、ご免なさい。あたし今夜はどうかしているので......やっぱりここにいない方がいいかしら? だれか別の娘を呼びましょうか?」
「いや。あんたでいい」
ミハルは浮かしかけた腰を元に戻した。田崎が特に不機嫌なのではないとわかったようであった。
「お酒は召し上らないんですの?」
「ああ」
「でも、お強いのでしょ? そんな気がしますけど」
「酒は断っているんだ」
「武道の修業の邪魔になるからですの?」
「まあ、そうだ」
ミハルは戸惑っており、どうしていいかわからぬという気配を全身に滲ませていたが、それでも立ち去りがたいようであった。田崎があまりにも言葉少ななので、話題に窮してしまうのである。
それだけではなく、何かいいたいことが胸に詰まっているように、ミハルは妙に切迫した気配を漂わせていた。
そんな特殊な雰囲気が店の者の注意を惹いたようである。ボーイがミハルを呼びに来た。
「ちょっとすみません、失礼します......」
ミハルは立って行ったが、すぐに戻ってきた。
「厭なお客様に呼ばれたんですけど、断わってきちゃいました......」
彼女は作り笑いを浮かべていった。田崎は大目玉でわずかに頷いた。
「田崎さんとごいっしょしていると、声が治りそうな気がして......田崎さんはあたしの幸運の守り神ですわ、きっと。ご迷惑でなければ、ここにいさせて下さいね。お願い......」
「この店のママはどこにいる?」
田崎は取り合わずに尋ねた。
「あの日本人形みたいな感じの、和服を着た女......わかります? 博多人形みたいでしょ?」
「ああ」
「ママにご用なんですの? でも、どうせ後でご挨拶に廻ってきますわ。ほら、今ママが田崎さんの方を見てますわ。凄い美人でしょう? ママ目当てのお客様が沢山見えるんですよ。なにしろ独身ですから......田崎さんもやっぱりそうなのかしら?」
「人に遭いに来たんだ」
田崎は薄暗い店の奥に視線を注ぎながらいった。品のいい和服を着た女を見詰める。
「まあ、どなたに遭いにいらしたの?」
「山本という人だ」
「山本?」
ミハルは不意に石になってしまったようであった。表情も声音も軟かさを失う。
「そうだ。君は知ってるか? ここへ来れば遭えると思ってきた」
「それは、おっしゃらないほうがいいわ......」
ミハルはどぎまぎしながら、息を潜めていった。にわかに落着きが失われてしまった。
「なぜ? 君は知ってるのか、山本って人を?」
「お客様で、山本さんという人は何人かおいでですけど......」
「客じゃないさ」
「田崎さんは、それが目的でいらしたんですか?」
ミハルは小声でささやいた。顔色が変っているようだった。
「もちろん、そうだ。まだ客席にはいないらしいな。さっきから見ているんだが」
「どんなご用か知りませんけど、お止めになった方がいいわ」
ミハルは体を傾け、田崎にすり寄るようにしながらあわただしくささやいた。香料の匂いが迫ってきた。ミハルの目は、通路をやってくる和服の女に注がれていた。
「ねえ、駄目よ。絶対にママの前でそんなことをいっては......」
「なぜだ?」
「田崎さんの身が危くなるから......」
悪声が気にならないほどのささやき声だった。ミハルの息が首筋にかかり、くすぐったかった。
「だが、それじゃ用が果せない。俺はどうしても、山本に遭わなきゃならないんだ」
「あたしが教えてあげますから......ママの前で絶対にいっちゃだめ......大変なことになるわ」
「俺は平気だが......山本がヤクザで、ここのママの情夫だからか?」
「田崎さん、あなたはいったい......どういう方なんですか?」
ミハルは恐れをこめて呟いた。
「俺は武道の先生さ。いったろう?」
「でも......」
「お仲のよろしいこと」
しなやかな声が降ってきた。博多人形そっくりの美貌が、田崎を見降ろしていた。落着きのある女だった。ママの貫禄というものであろう。
「ウチのお店のママです」
と、ミハルが紹介する。和服のママはストゥールに恰好よく腰をおろし、名刺を田崎に渡した。吉田美奈子という名だ。田崎は平然としている。
「さっきから拝見してましたけど、とてもご立派なお体ですわね。まるで岩のようにガッシリとして逞しいというのかしら。やはり空手でもやっていらっしゃいますの?」
「どうして」
「空手の先生がウチにはよく見えますもの。逞しいお弟子さんを連れて......」
ママはその空手師範の名をいった。
「手の関節に大きなタコがありますでしょ? 田崎さんにもあるので、すぐにわかりましたわ」
ママが田崎の身許をそれとなく探りに来たことはわかっていた。巧妙に探りを入れてくる。なかなかの眼力の持主でありそうだが、田崎が十八歳の少年だとは夢にも思わないようである。
「山本という人がこの店によく来るというので、遭いに来たんだ」
田崎は無造作にいった。ミハルの体がはっと硬くなる。ママはぎくりとしたが、巧みにそれを押し隠した。
「さあ、どちらの山本さんかしら? 何人もいらっしゃるから、ちょっと見当がつきませんわ」
「俺に感じが似てるそうだ」
田崎はにこりともせずにいった。
「心当りあるかい? さっきからママは穴のあくほど俺を見てたろう? そんなに俺は似てるか?」
「確かにあなたによく似た方で、山本さんはよくいらっしゃいます。今夜はまだ見えておりませんけど......」
ママは平然と表面を取り繕おうとした。しかし、動揺はその目に隠しようもなく現われていた。
「遭わせてくれないか、ママ。その人に話があって来たんだ」
「店にお見えになれば、それはお引き合わせしてもよござんすけれども......どういうご用向きですの?」
「静かに話すだけさ。信用してくれ。そうでなければ、事務所の方へ行く。わかるだろう? 俺のいっている意味が?」
「さあ......何のことかちょっとわかりかねますけど......」
ボーイや女たちの客を迎える声がして、反射的に店の入口に目を向けたママの顔が更に硬ばったようだった。
「ほう? そうか、あの人が山本さんか?」
田崎が興深げにいった。肩幅が広く胸板の厚い、牡牛のような体格の男がクロークでコートをあずけていた。
「頼む、ママ。俺が遭いたがっていると伝えてくれ」
「ちょっと失礼します」
ママは落着きを失い、急いで立ち去った。すんなりとしたしなやかな後姿は、内心の混乱を隠し切れないでいた。
「やめて。このままお帰りになって」
ミハルが田崎の無骨な手を摑んであわただしく警告した。
「山本さんとママのことは絶対に秘密なんです。もしそんなことがバレたら......」
「美人ママのヒモがヤクザだとわかったら商売にさしつかえるか? しかし、そんなことは公然の秘密なんじゃないのか?」
「お店の人たちは知らない人がほとんどです。知ってるのは、ほんの何人か......だから絶対に秘密なんです。お客様が怖がってみんな逃げてしまいますから......」
「そうだろうな。ヤクザの情婦の店と知って通う馬鹿もいないだろう」
「ね、お願い、帰って! きっと手下を呼ぶに決まってますから! 大変なことになります!」
「心配か?」
「ええ! 田崎さんの身に何かあったら......」
「すまんな、気を遣わせて」
田崎は白い強靭な歯を見せてにやりと笑った。男っぽい笑顔だ。大目玉が不思議なほど和み、優しくなった。
「だけど、どうしてそんなに心配してくれるんだ?」
「だって、あなたはいい方ですもの......」
「たった今、逢ったばかりだぜ」
「でも、わかるんですもの。ね、お願い、帰って! 危い真似はしないで。相手はなんのかんのいっても、やっぱりヤクザなんですから......」
「それは承知の上だ。心配してくれて、ありがたいと思うが、人間はいつも平穏無事にしているばかりではいられないんだよ。時には修羅場を踏まなければならないんだ」
「あなたは本当にどういう方なの? あたし、さっぱりわからない。あなたみたいないい方がヤクザなんかと関り合うなんて......」
ミハルは驚きをこめていった。
「何かの因縁かな。俺だって好きでヤクザと関り合う気はないんだが......」
「ね、あの人は必ず手下を呼びます。もう呼んだかもしれません。だから、何かあったらすぐに逃げて!」
「用がすむまでは逃げられやしないさ。心配しなくてもいい。何も喧嘩をしに来たわけじゃないんだから」
田崎は大目玉を山本からそらさないままにいった。山本は入口近くの空席に座り、ママがさりげなく耳打ちしていた。お絞りを渡しながら、田崎のことを告げたようである。
圧力を感じさせる山本の目が動き、田崎の視線を捉えた。やはり常人の目ではない。異様な眼光がある。田崎は目をそらさぬまま、首だけ頷かせて会釈した。相互にほとんど物質的な圧迫感を覚えていた。
山本が何事かママにささやき、凝然と目をほそめて、しばらく田崎を見詰めていた。ママがしなやかな魚のように席を立っていく。
「いけない! やっぱりママが電話をかけるわ! 田崎さん、逃げて!」
ママの動きを注視していたミハルが、強い力で田崎の手首を握りしめた。
山本の逞しい体がゆっくりとした動きで席を立ち、こちらへやって来るのが見えた。重量感のある歩き方であった。田崎は身じろぎもせず、広い両肩を張って待ち受ける。
山本はボックス席の田崎を見降ろした。
「何か、わたしにご用がおありだそうで......」
まずは慇懃なものいいであった。だが、やはり凄味がきいている。ヤクザの波動には隠しようのないものがあるのだ。
「わざわざお運び頂いて恐縮です。どうぞお掛けになりませんか」
田崎がしっかりした声で丁寧にいう。山本はジリッと目を底光りさせた。相手が値踏みできずに当惑を感じているのだが、さすがに表には出さない。年季が入っているのである。
この両者には、外見的には奇妙な類似性があった。容貌や体格がよく似ていた。おそろしく精力的で、見る者に圧迫感をもたらす。どっしりと落着いていて、根っこが生えているような貫禄がある。
しかし、類似点はそこまでだった。人となりは隠せないもので、田崎の爽やかな風韻の代りに、山本には心身にこびりついたヤクザの陰惨な垢が匂った。
田崎の大目玉はよく光るが澄んでいて、たじろぎを知らない。山本の目はライオンの目のように黄色っぽい酷薄さが底に沈んでいる。同じように礼儀正しくわたりあっても、陰と陽の相異はあまりにも顕著だった。山本の礼儀正しさは表面の一皮だけであり、陰湿な警戒心と敵意で鎧われているのだ。
「では......」
山本は用心深さを感じさせる動作で、さきほどママの座ったストゥールに腰をおろした。無骨な銀の指輪をはめた手指は一本も損われていない。
「どちらさんと申されましたか?」
「田崎といいます」
「そうそう、田崎さん。前にお目にかかったことがありましたっけ?」
「ありません。少なくとも今生では」
「今生?」
山本は太い眉をしかめ、指先で顎を搔いた。いささか戸惑ったようであった。
「この世ではということです」
「なるほど......」
風変りな相手だと思ったらしい。警戒心は多少薄れたが、代りに好奇心が湧いてきたようであった。
「今生では初めてだが、前世では逢っているというわけで?」
ミハルがはっとしたような表情を田崎に向けた。
「そうかもしれません」
「お宅の正体、なんとなくわかってきたよ」
と、山本はがらりと態度を変えていった。いきなり慣れなれしく、気易くなる。
「前世とか今生とか、抹香くさいことをいったのでな」
「わかりますか?」
「すぐにわかった。あの天草四郎みたいな美少年の使いで来たのか?」
山本は口を歪めて笑った。緊張を解いて内ポケットに右手を差し込む。ミハルがぎくりと反応したが、山本の手がつまみだしたのはタバコであった。ケントだ。
「使いではないです。あなたに是非逢ってみたかったもので......」
「空手をやるのか?」
と、山本が鋭く尋ねた。
「たいしたことはないです。あれやこれや少しかじっただけで......」
「俺も実戦空手を十年やった。お宅もかなりやりそうだな」
山本は鋭く相手を凝視しながら、タバコの煙を吐いた。
「酒もタバコもやらんのか? 現役だな? 段持ちか?」
「黒帯じゃありません。しかし、そんなことに意味はないでしょう」
「そうだな。俺も段は取らなかった。喧嘩に黒帯は無用だからな」
山本は闘争心をそそられたのか、目をぎらりと光らせて笑った。
「一度見たい......敗け知らずという面構えだな」
「あら、もうお知り合いになったの?」
ママがやって来た。ミハルに耳打ちして席を立たせる。ていよく追い払ったのであろう。
「また後で......」
ミハルは頭を下げ、いかにも心残りという体全体の表情で離れていった。
「お近づきのしるしに、いかがですか?」
田崎はいって、ママを見た。彼女は内心の緊張を押し隠すのに容易ならぬ努力を強いられていた。
「それはいいわね......」
と、気のない調子で合槌を打つ。
「どうしてここがわかったのか......と尋かないのですか、山本さん? ここの経営者はあなたなんでしょう?」
「............」
山本は冷笑を浮かべたが、ママは蒼ざめた。注文を聞きに近づいてきたボーイに対して、とっさに言葉が出ない。
「いや、注文しなくてもいい。取消しだ」
山本が首を振る。
「場所を変えて話そう。いいな?」
「結構ですよ」
若い蝶ネクタイのボーイは不得要領な顔付で去って行った。
「別の部屋へ来てくれ。近づきのしるしに一杯やるのは、用談がすんでからだ」
山本は立上り、田崎を待ちもせずに先に立って歩いていった。田崎もあわてずに席を立つ。
「どうぞ、こちらへいらして......」
ママが田崎の案内に立つ。そわそわと落着きがなかった。これから起きることを予感し、怯えているのだった。
他の席についていた黄色いチャイナ・ドレスのミハルが通路を過ぎる田崎に激しい視線を送ってきた。田崎は平然とした表情を崩さず、見返しもしなかったが、妙な気分を味わっていた。逢ったばかりの黄色いチャイナ・ドレスの女が、彼のために胸も潰れそうなほど懊悩しているのだ。田崎はいつの転生も、無器用な硬派であり、女よりは酒の人生を繰り返している。女は苦手であった。それなのに彼女の方で勝手に縁生を感じてしまっているらしいのだ。
だが、前世で悪妻を持った記憶を持つ田崎は女に関り合いたくなかった。女とはうまく行ったためしがないのである。その点、田崎は他のいかなる剛胆さに似ず、ひどく臆病であった。
15
通された部屋は従業員用のロッカールームではなかった。ママの個室であるらしい。こぢんまりとして、居心地のよさそうなソファが置かれてあった。
ママは部屋まではついてこなかった。田崎は他のドアを使えば、再び〝ルイザ〟に戻らず外へ出られるのだろうと想像した。エレベーターではなく、階段通路を用いて出入りが可能なはずである。山本や田崎がママの個室へ入るのを店の従業員たちが何人も見ているのだ。二人が出てこなければ不審を買うであろう。ママは商談のために二人に個室を貸すのだと、ボーイにそれとなく告げていた。時にはそうしたことも本当にあるのかもしれなかった。
窓は一つもないが、快適な雰囲気が備わっている小部屋であった。
「まあ、掛けてくれ」
と、山本が気軽に勧めた。田崎がソファに腰をおろす。なんの警戒心もない態度であった。
「用件を尋こうか、小僧」
山本の逞しい手は、掌の中にすっぽり隠れそうな小型拳銃の銃口を田崎に向けていた。
「いや、その前に、俺とこの店のつながりをどうやって知ったか、喋ってもらうか」

山本の顔はどす黒い汚穢な表情に覆われ、田崎の爽やかな顔と対比的であった。田崎はびくともせずに山本を見返した。大目玉が子供のような明るい透明さを帯びて光っている。山本は苦笑を浮かべた。拳銃を恐れない人間に拳銃を突きつける行為ほど愚かしいものはなかった。
「どうせ射たないんだ。そんなものは引っ込めた方がいい」
田崎は気にも留めていなかった。
「なぜわかる? アクセサリーに持ってるんじゃねえんだぜ」
「わかっている。射つ気もないということも」
田崎はよく光る大目玉を山本に向けていった。
「なめるなよ、小僧。いつでも必要な時に使う気がなければ持ち歩くもんか。後のことはどうにでもなるんだ」
山本の声は低く凄味があった。
「ネズミの糞みたいな弾丸だがな、命とりになるんだぜ。わかったら、喋っちまいな。どうやって俺とこの店のことを知った?」
「あんたとこのママのことか?」
「そうだ。まずそれから喋ってもらおうか」
「そんなことは秘密でもなんでもない。だいたい人間には秘密なんてものは存在しないのだ。隠そうとしても無駄だ......第一、あんたは自分に秘密が持てるか? 自分に対して隠し事ができるか?」
「たわ言をいうな。喋りたい気持にさせるのは簡単なんだぜ」
「あんたは東丈先生に逢ったんだろう? 人の心を全て見抜いてしまう先生ほどでなくても、あんたの隠し事くらいわかる人間は他にも存在する」
「霊能だっていうのか? 馬鹿くさいことをいうな。そんなことをだれが信じるか。くだらないことを吐かさずに、本当のことを喋って頂戴よ」
「天知る地知る我知るということわざを知らないのか? あんたとママの関係など、とるに足りない隠し事だ。そんなことは問題じゃないんだ......俺にはあんたのことがいろいろわかってる。どんな人間か知ってるんだ。そんなアクセサリーは蔵ったらどうだ? 俺はあんたとさしで話しに来たんだから......なにも心配する必要はないさ」
「いよいよもって気になってきたね。いったいお宅は、俺の何を知っているというんだ? 聞き捨てならないぜ」
山本は目をほそめ、その間隙に冷酷な油断のない光を宿らせた。
「すっかりヤクザの垢が身についてしまったな。本当に俺を見ても、何も感じないのか? ぴんと来るものはないのか?」
「よせよ。お宅みたいな知り合いを持った憶えはないぜ。それとも俺の遠縁でまたいとこか何かだとでもいいだす気か?」
山本は顔をしかめて、田崎の顔を穴のあくほど凝視していた。おぼろげな記憶を辿り、田崎のような存在が遠戚にいたかどうかを思い出そうとしているのであろう。体格や容貌の類似点がにわかに気になってきたようであった。
「俺に見憶えがあるだろう。最初に俺を見た時、顔にそう書いてあった。どこかで見た記憶があると思って、昔を思い出そうとしてたはずだ」
「なぜ、そんなことを......?」
「ただわかるんだ。あんたがいつになく、妙に頼りない、不安な気持になっていることもわかるんだ。足許がフワフワして、いつも背後を振り返らずにはいられないような、心細い気分になっていることも......今日のあんたはいつもの自分じゃなかった。ふてぶてしく居直っているのは顔だけだ。心の中は、何か大変なことをしてしまった心細さと不安でワクワクしている。あんたはその理由を知ってるはずだ。そうだろう?」
「ラチもねえことを。お宅もまたあの天草四郎みたいな美少年教祖と同じで、霊能者だっていうのか? 他人の心を読んでご託を吐かそうってわけか? そいつはお宅の健康にいたって悪いぜ......」
山本の貌つきは凶暴になり、陰惨になってきた。が、たぶん演技であることは田崎にとり一目瞭然であった。
「あんたは、東丈先生のことをろくに知らずに恐喝したな。ただの新興宗教で、脅せば金になると思ったんだろう。しかし、先生に逢った後、ひどく不安になってきた。怯気づいてしまって、どうにも心が落着かない。とんでもない大間違いをしてしまったような気がしてならない......心がとがめるんだ。忘れようとしても忘れられない。とんでもないことをしたという思いがどうしても消えずに、心につきまとっている。
いくら心をごまかそうとしてもだめなんだ。あんたは先生の前で、当惑してどうしていいかわからず怯えたじゃないか。あんたがこれまでヤクザとしてやってきたどんな汚いあこぎなことよりも、あんたは厭な気持になった。恐ろしく罪深いことをしでかして、一生くやみながら暮さなきゃならない......そんな暗い弱々しい気分になったじゃないか。前にあんたがそんな弱気になったのはいつだ? 純な心を持った子供の時以来のことだろう?
このままでいれば、あんたは地底に沈みこんだようになってどうしようもなくなる。だから俺が来たんだ」
「やめろ!」
山本は恐ろしい恫喝の声音を出した。正視に堪えないような眼光だった。しかし、田崎はいっこうに平気であった。
「罪悪感だ。重い罪を犯したという思いがしっかりと心にとり憑いてしまったんだ。何をしようととれやしない。酒を飲もうと何をしようとますます心に食いこんでくる。俺は本当のことをいっているんだ......あんたはもう前のようなしたたかなヤクザではいられなくなる。絶えず良心がとがめ続けるんだ。あんたにも良心というものがあるんだよ。あんたを弱気にさせ、びくびくさせて、冷汗を流させるのは自分の良心なんだ。あんたはとんでもないお荷物をしょいこんでしまった......」
「よくもそんなくだらねえことを、べらべらと喋りやがって......」
山本は憎悪をこめていった。抑制の甲斐もなく呼吸は荒くなり、額には薄く汗が光っていた。
「気に食わないというのはわかっている。しかし、俺はあんたから荷物をおろしてやろうと思って来たんだ。他に目的はない。あんたが今感じている恐怖や敵意は、あんたの長年かけて溜めたヤクザの垢さ。ヤクザの垢が自分で自分を護ろうとしているんだ......俺を見てショックを受けたあんたが本当のあんた自身だよ。東丈先生に対してとんでもないことをしてしまったと罪悪感を覚えているのが、本当のあんたなんだ。わかるだろう?」
「そんな世迷い言がわかるわけはねえだろう! てめえは頭がどうかしてるんじゃねえのか? わけのわからねえことばかり吐かしやがって......もっと筋の通った話をさせてやるからな。とぼけようたって、そうはさせねえ。あいにくだが、俺は霊能だの生神様だなんてろくでもねえ迷信なんか信じちゃいねえからな!」
「では、なぜ俺があんたのことを知っていると思う?」
「だからよ、そいつを吐かせてやろうっていうのよ!」
田崎は少しも動じない眼で、山本を見返していた。陰惨な眼技を使うのに懸命な山本は、そのよく光る大目玉に圧迫されていた。
山本の落着きがほころび始めていた。田崎の自然体の落着きの前では、ボロが出てきてしまうのだった。彼が人格的迫力においても劣勢に立っていることは明らかであり、その自覚が山本を悩ませ、苛立たせていた。
「美少年教祖にいわれてきたのか?」
田崎は相手から目をそらさずに、ゆるやかに首を横に振った。
「金を取り返しに来たろう? 秘密をあれこれ嗅ぎ廻りやがってからに......」
「あんたならそう考えるだろう。そう考えるのが自然なことなんだろうがな......違うね」
「とぼけるな。霊能なんかなくたって、お前の腹の中なんか見えミエだぜ......」
山本の上唇の隅が吊り上り、歯が覗いた。凶暴な犬の示す怒りの表情に似ていた。
「それなら、俺の腹の中をもっとよく見てもらいたいな。俺はあんたという人間に逢って話がしてみたいと思ったんだ。他に目的はない」
「そのうち本音を吐かせてくれるさ。山の中に連れこんで、穴を掘って首だけ出して埋めるんだ。どんなに強情な奴でも、ぺらぺら喋り出して止まらなくなるぜ......」
田崎は瞬きもせず、山本の顔を見ていた。その視線は揺ぎないもので、山本のようなヤクザにとっては我慢のならない挑戦を意味していたようである。
「もちろん、それだけじゃねえ。濃硫酸を首にぶっかけてやるんだ。人相も何もわからなくなってくたばるぜ......」
よく光る大目玉はたじろぎもしない。山本はどうにもならない癇癪の虜になってきた。不可解な恐れと怯えが心の底に巣食っており、それが目がくらむほど癪にさわるのだった。
「てめえは、俺がただの脅かしをいってると思ってやがるな」
残虐な気分を駆りたてながら、山本は低い声音で唸るようにいった。
「俺がどんな人間か、すぐにわからせてやるからよ......」
カーテンが不意にさっと開いて、ママが入ってきた。黄色いチャイナ・ドレスの女の手首を握りしめていた。
はっと声を吞み、目を瞠って立ちすくむ。拳銃を摑んで突っ立っている山本の姿は、殺気をはらみ、恐ろしげに見えたのである。
「何だ!?」
山本は刺すような怒りをこめて小声でどなった。二人の女は棒立ちになり、凍りついてしまっていた。
「ここには来るなといったろう!? 何の用だ!?」
恐ろしい目であった。
「この娘が......やめないと警察へ連絡するというものですから......」
ママは怯えきり、声を戦かせながら辛うじていった。
「何だと?」
「警察へ何もかもいうって......だから、あたし......」
「貴様、何のつもりだ!?」
山本はミハルに向け、語気凄まじくどなった。ミハルは蒼白くなってしまっていたが、覚悟はきまっているようだった。
「田崎さんに乱暴しないで! 塚田組の連中を呼んだんでしょう!?」
ミハルは叫ぶようにいった。
「何を吐かしやがる......」
「田崎さんはいい人だわ! だから、乱暴するんなら、警察へ行って何もかも知ってることを喋るって、ママにいったのよ!」
「このカラス女が! 気でも触れやがったか!」
「だって、あんたはそんな、ピストルなんか出してるじゃない!?」
「この......」
山本は空いている左手でミハルの顔を張り飛ばそうとした。が、ソファに座っていた田崎の足がひょいと上るのを見て、素早く後退った。彼を蹴りに来たのではなく、あくまでも、山本の動きを牽制するためのものでしかなかった。
「やめろよ」
「動くんじゃねえ!」
田崎と山本は同時に言葉を発した。田崎はソファに腰を埋めたまま、動き出す気配は見せなかった。
「どうするの、あんた......!?」
ママが山本にすがりつくようにいった。哀願がこめられていた。
「お店で乱暴は厭よ! 大変なことになるわ......」
「どうってことはねえ。この拳銃はたいした音は立てねえからな」
山本は用心深く拳銃を構えていた。しかし迷いの色はその不逞ぶてしい面構えにもしだいに濃くなりつつあった。
「馬鹿な女だ。こんな奴にたらしこまれやがって......」
吐き捨てるようにいった。
「お前もそこへ座れ。その色男の隣りに座ってるんだ。じきにお迎えが来るからな」
「............」
ミハルはママに摑まれた手を振り切り、ゆっくり歩いて田崎の隣りに腰をおろした。顔色は蒼いが、態度は落着いていた。裾の切れ込みの深いチャイナ・ドレスから象牙色の脚が腰に近い部分まで覗き、こんな際であっても嬌かしさを発散していた。田崎は驚いたような目で彼女を見、急いで目をそむけた。
「あんた、どうするの......?」
ママが両手をもみしだくようにして訴えた。
「乱暴なことはやめて、お願い......せっかくお店だってうまく行っているのに......」
「お前は店へ戻りな。何事もなかったように愛想を振りまいてりゃいいんだ。疑われないように早く戻ってろ」
「でも、ミハルが......」
「お前の知ったことじゃねえ。早く戻らねえか」
山本が声を荒げ、ママは後髪を引かれるように躊躇いながら、カーテンを潜り、店へ戻って行った。従業員のロッカールームのドアが閉まる。
「二人とも似合いの間抜け同士だよ」
と、山本は油断なく拳銃を握りながら、嘲った。
「いったいどういう気か知らねえが......この先どうなるかわかってるのか? え、おい......こんな野郎にたぶらかされやがって......」
「あんたなんかに、あたしの気持はわからないわ」
と、ミハルがいった。妙に考えに沈んでいるような語調であった。
「しかし、いい腕だな、小僧。あっという間にこのミハルをたらしこむとはよ。まあ、少々頭のとろい女ではあるがな......お前を助けるためになら、警察にたれこむことも辞さねえというのは並大抵のことじゃねえ」
「田崎さんは心のきれいな、いい人だわ。だから何とかしてあげたかったのよ」
田崎は不思議そうに眉をひそめて、ミハルを見た。もうチャイナ・ドレスが強調している色っぽさが気にならなくなったようであった。
「お宅らは、他人をたらしこむのがえらくうまいらしいな。え、おい?」
山本は余裕たっぷりをよそおって、嘲るようにいった。
「美少年教祖の霊力ってやつかい? 郁江って女の子も凄い。ウチの組の若い衆をいっぺんに五人もたらしこんじまいやがった......お宅らには気味の悪い所があるな。今度はお前がミハルの番か......いったいどうなってるんだ?」
「東丈先生と逢ったんだろう? それでもあんたにはわからないのか? そんなことはないはずだぜ、山本さん。あんたは先生と逢った以上、もう以前のようにあくどく、あこぎな真似をして生きる自信がなくなってるはずだよ」
「あの美少年教祖が俺に呪いでもかけやがったというのか?」
山本は顔色を変えた。顔が陰気になり、醜くなってきた。
「やっぱり俺に呪いをかけやがったのか、おい? そうだろう、本当のことをいえよ」
「なぜ呪いをかけられたなんて思うんだ?」
「なんだか様子がおかしいからよ。気色の悪いことばかり起きやがるからよ......どうも変だと思ったら、畜生。やっぱり呪ってやがったんだな!?」
山本は薄く汗を滲ませていた。田崎が呆れたようにそれを見ている。
「呪うのを止めさせろ! さもないと、こっちだって......」
「あんたは、霊能も超能力も信じない人間なんだろう? それなのになぜ呪いなんてことを恐れるんだ? いうことが矛盾しているじゃないか。霊能の存在を信じないならば、呪いや祟りも信じないはずだ」
田崎が冷静に指摘する。
「東丈先生は他人に呪いをかけたりはしないよ。そんな邪悪なことは決してなさらない......信じられないような物凄い力を持っておられるが、不断はそれを封印してお使いにならない。人を幸せにすることでなければ、絶対に使われないだろう。だから、あんたは安心してもいいよ」
「しかし、〝力〟を持っているのは確かなんだな?」
山本が念を押す。依然として汗を搔いていた。
「持っていらっしゃる。それは間違いない。あんたも後できっと冷汗を流すよ。先生のように素晴らしい方に対して、何という浅ましい真似をしたのかと穴があったら入りたくなるだろうな。今でも、かなりそんな気分になっているんじゃないか?」
「冗談じゃねえや。とにかく、俺に念をかけてやがるなら、それを止めさせろ! 念がかかってることだけは絶対に間違いねえんだ! さもねえと、俺も自分の身を護らなきゃならねえからな......」
「身を護るというのは?」
「そいつはいえねえよ。秘中の秘だ」
山本はわざとらしく、顔を歪めるようにして嘲笑した。
「俺に念をかけたり、呪ったりできないようにしてやるといってるんだ......」
「先生は、他人に呪いをかけたりなさらないが、大いなる神の心を体現するためにこの地上に出ていらっしゃる方だ。世の中のことは何でも先生の思い通りになって行く。これは本当のことだ。先生の念の力はそれほど大きなものなんだ。俺はそれを断言する。あんたが呪われたと思っているのは、ただあんたの心がとがめているだけだ。良心が目覚めてしまったからだ......」
「くだらねえ! 俺は良心なんか母親の胎の中に置き忘れてきた男よ」
山本はうそぶいた。しかし、汗は、いまだに停まらず、顔を濡れ光らせている。
「その東先生って、そんなに素晴らしい力を持った方なんですか?」
と、ミハルが現在の己れの立場も忘れたように、熱心に尋ねた。
「田崎さんの先生?」
「そうだよ。俺の先生だ。世の中に先生ほど偉大な人間はいない。俺は先生と今、この時代にともに生きていられるだけで満足なんだ。心がワクワクしてとめどがなくなる。一口にいうと人間として巨きな、本当に素晴らしい人だ。いくら喋ったって、先生の素晴らしさを百万分の一ほどもいい表わせないんだけどな......」
「素晴らしいですね......」
と、ミハルは感に堪えぬというふうにいった。
「そんなにまで大事に、尊敬できる先生を持てるってことが、本当に素晴らしいですね。田崎さんがそんなに光っているのは、その先生のおかげなんですか?」
「俺はちっとも光っちゃいないが、東丈先生は本当に光ってる。光り輝いてるんだ。それはだれにだってわかるんだよ。たとえ尊敬しきって褒めたたえなくたって、絶対に無視できなくなってしまうんだ。中には悪口の百万だらをいって、懸命に否定しようとする奴もいる。しかし、それでも無視できないってことでは同じなんだ。必死で先生の悪口をいえばいうほど、本人が惨めになってくる。死物狂いで悲鳴をあげてるのと同じことだからだ......」
「あたしも、東丈先生にお逢いしたい......でもそんなこと無理でしょうか?」
「無理じゃないさ。俺が先生に逢わせてやるよ......先生に逢いたくても、逢えない人間たちは沢山いるが、縁があれば必ず逢える。不思議なルートで逢えるような仕組になっているんだ。逢えないとなったら総理大臣だって逢えないんだが......」
「本当に逢わせて下さるんですか!?」
ミハルはぱっと喜色に満ちて声をあげた。もはや彼女は山本や塚田組のことなど念頭にもないようであった。
「嬉しい! でも、怖いみたい......」
「怖い? どうしてだ?」
「だって、そんな清浄な方の前に出るには、あたし、自分が汚れきってしまっているから......」
「先生はそんなことは気になさらない。どんな人間も先生の前に出れば同じだ。神の前で全ての人間が平等なのといっしょなんだ......」
山本が大声で笑った。二人の会話がおかしくてならないようであった。
「そいつはちょっとかっこよすぎるんじゃねえのかい?」
山本は笑いながら、毒々しくいった。
「この女も、こんな所で商売してるんだから、あまりきれいな体をしてねえことも確かだがよ......兄ちゃん、お宅も妙な女に惚れられたらしいな、え、おい? こいつはとんだ安珍清姫になるかもしれないぜ」
「............」
ミハルは黙りこんだ。不意に輝いていた顔が暗雲に蔭ってしまったようだった。
「子持ち女に惚れられるってのも、乙なもんかもしれねえがな......こいつもあくどくスレてて悪がしこい奴で、男を幾人手玉に取ってきたかわからねえ女だ。案外、実のある所を見せて、ホロリとさせて、お宅をひっかける算段かもしれねえよ、兄ちゃん。ま、俺にいわせりゃ、この女も魔女クラスの凄いあばずれよ。思い切った手管も使ってみせるぜ......」
おかしくてならないようだった。ミハルは貝が口を閉じたように黙りこんでしまった。田崎は光る大目玉で、そんな彼女と山本を交互に眺めていた。
「東丈先生にお逢いしたいといったこの女の気持を、俺は信じる」
と、田崎はゆっくりといった。
「先生はどんな人間の心でもお見通しだ。心にやましいものがある人間は、先生の前に出られない。恐ろしいものから逃げ隠れするように必死で逃げている。今まで仲間だった人間でも邪な心の虜になると、コソコソと逃げて行ってしまうんだ。ゴキブリが太陽の光を避けるみたいに......この女は自分から先生に逢いたいといった。それはこの女の良心が求めていることだと俺は思う。この女はちゃんと先生にお目にかかる資格を持っているんだ。それはどんな生き方をこれまでしてきたとしても無関係なんだ」
「売女でもか」
と、山本の口調はますますどぎつくなった。
「俺も、東丈先生とやらにお目にかかったぜ。ついでに大金を頂戴してきた。生神様にしちゃ、馬鹿にあっさりと金を出したもんだぜ。生神様といえども、弱身はあるわけだ......まるで、金の成る木ってとこだ。ちょいとゆさぶれば、バラバラと金を落してくれる。神様もいざとなれば弱いもんよ。表向きはきれいな顔をして澄ましてるが、中身は大違いってわけだろう。俺はこんな神様を信仰してる連中がおかしくてならねえよ。生神様と崇めたてまつって、身の皮を剝がれてるが、肝心の神様ときたら暴力団に金を巻き上げられてやがる。信者が知ったらさぞかし魂消るだろう......
暴力団がちょいと乗り込んだだけで、オタオタしていいなりに金を出しやがる。これでないことにしてくれと拝みやがる。生神様が聞いて呆れるぜ。信者どもがいい面の皮だ......」
「噓をつけ」
田崎の声には凄みがあり、ずしっと胸を強打するほどの重量感があった。弛緩していた山本がはっとして拳銃を握り直したほどであった。
「デタラメをいうな。先生はあの金を、大怪我して廃人になったチンピラの見舞金として出されたんだ。それも会の金じゃない。先生個人の金だ。会は貧乏だからそんな金はどこをはたいたって出てこやしない。あの金はな、先生が今度出される本の前払い金なんだ。これ以上きれいな金はない」
田崎の大目玉はにわかに爛々と光り出し、逞しい分厚い体が厖大な内圧によりぐっとカサをまし、ふくれあがるような圧迫感をもたらした。彼の怒りに山本は総毛立った野獣のように反応した。後退りし、間合いを取って身構える。
「おい、よく聞いておけ。あの金は、先生が世界中を浄化し、人々の心をきよめて、地球ぐるみ人類を救って行くために必要な金なんだ。あの二百万は、先生が半年間も夜も寝ずに原稿を書き続けて、命を削った金なんだ。ヤクザ風情が手を触れたら、その手が腐れ落ちるぜ!
よく考えてから口をきけよ。俺はただでさえ承服できない気持でいるんだからな。インチキな新興宗教から脅して巻きあげた落し前といっしょにしたら、それこそ神罰が下るぜ! お前が植物状態になったチンピラへの見舞金をそのまま懐ろに入れでもしたら、天が赦さないし、俺も赦さないからな!」
「小僧にしちゃ、けっこうドスの効いたせりふを喋るじゃねえか」
山本は笑いながらいった。しかし、もはやよそおっただけの余裕も残っていなかった。動物じみた怒りを搔きたて、これを支えようとするしかなくなっていた。
「あんた......そんなお金を横奪りしたの?」
息を吞むようにしてミハルがいった。
「そんなひどいことを......そんなことをしたら、あんた、生きながら体が腐ってしまうわよ」
「うるせえ」
「あんたって、やっぱり骨の髄からのヤクザなのね」
ミハルは冷たい蔑みをこめていった。
「少しはいい所があるかと思ってたんだけど......やっぱり骨がらみなのね」
「俺はヤクザだ。どんな金だろうと、金は金、区別はしねえよ。銀行といっしょだ」
「お金、返しなさい。そうしないと体中生き腐れになって、物凄い腐った臭いをさせながら狂い死んでしまうわよ。あたしにはそれがわかるんだから」
女は人が変ったように毅然と宣言した。
「あんただって、少しは良心が残ってるでしょ。あんた、本当に地獄へ陥っこちちゃうから! 地獄の物凄く深い所へ落ちこんで、二度と永遠に出て来られなくなっちゃうから!」
「地獄、結構だね。上等ってもんよ。少くとも退屈しなくてすむ。もともと乙に澄ました天国なんぞへ行こうとは思っちゃいねえよ。さんざやりたいことを好き勝手にやってきたんだ。地獄行きもまんざら悪くねえさ」
「あんた、そんなこといってていいの......あんたがこの先どうなるか、予言してあげようか」
女は静かにいった。目は怒りに燃えているが、妙に穏やかな物腰になっていた。
「大きなお世話だ。きさまの世迷い言なんぞ聞きたくもねえ。黙ってろ!」
山本はどなったが、鼻白んでいることは隠せなかった。
「今に余計な口が叩けないようになるんだ。きさまなんぞのラリ公のご託宣をだれが正気で聞くかよ」
「その拳銃と仲間がいなければ、お前はただの雑魚だ」
田崎は底力のある声でいった。
「よくもそこまで落ちたもんだな。拳銃と仲間があったって、お前はいつもビクビクしてるじゃないか。体中に彫ったイレズミだってハッタリだ。勇気などほんのひとかけらだってありゃしないじゃないか。強くて凶暴そうに見せかけているが、本当の度胸なんぞありゃしない。この女の方がはるかに勇気があって立派だよ。
お前は命懸けで守る貴重なものが何一つありゃしないじゃないか。だから、いつもそんなに怯えていなきゃならないんだ。お前の心の中は丸見えだ。手に負えない人間にぶつかった時ほど、恐ろしいものはないんだ。ハッタリと恫喝が効かない時のお前たちヤクザほど哀れなものはないな、全く。
俺はヤクザってものをよく知ってる。虫ケラだよ、お前らは。本当の勇気も度胸も何もなくて、卑怯で臆病な虫ケラだ。俺に心の中をすっかり見破られて、一言もないだろう。おい、よく聞いておけよ」
田崎はますます巨大化する圧倒的な力感をもって告げた。その威圧感は人間ばなれしていた。ゆったりとソファに腰をおろしているが、不動明王が生きて動き出したような迫力であった。
「東丈先生は生ける太陽のようなお方だ。真の救世主として天上の世界から遣わされた、偉大な尊いお方なんだ。先生はこの地球世界を悪から救い、破滅から救うために、素晴らしい力を天から授けられている。お前は知らぬこととはいえ、天から下しおかれた御使いに楯突いたんだぞ。
卑しい虫ケラみたいなヤクザが、太陽に歯向ったんだ。どういうことになるかわかるか? 多少はわかっているんだろう。口ではなんといおうと、お前は臆病風に吹かれてオドオドしているからな。
目を覚ますんだよ、この馬鹿野郎が!」
田崎はいきなり大喝した。山本は虚を突かれて、躍るように反応した。ギヤを入れそこなった車のように体中がガクガクと揺れ動いた。危うく手にした拳銃を発砲してしまうところであった。それほど田崎の大喝には衝迫力がこもっていた。
「早く目を覚ましたらどうだ、この馬鹿が! お前だって先生に楯突くためにこの世に出てきたわけじゃあるまい。お前だって、とんでもないことをしたと心の底では思っているはずだ。その証拠にお前は先生を前にして、体の慄えが停まらなかったじゃないか!」
今は、二人の壮漢同士の格が違うということはあまりにも明瞭であった。田崎は不可視の不動明王の炎さながらに、怒りに燃えて猛烈であり、気迫だけでぐいぐいと相手を圧した。同じような逞しい体形を持っていながら、山本は怯え、萎縮し、みすぼらしく小さく見えた。
「今もそうだ! お前は偉大な太陽のようなお方に助力するために、地上界に出て来たくせに、骨の髄までヤクザになり下がってしまったのか!? どうだ、体が慄えて停まらないだろう! まだ目が覚めないか!? 自分の心に正直になってみろ! 心臓が躍って、体の慄えが停まらないわけを考えてみろ!」
「大口を叩くじゃねえか......」
山本は辛うじていった。手にした拳銃は何の役にも立たなかった。田崎を威嚇し、制圧下に置く力さえ有していなかった。田崎がそんなものを歯牙にもかけず、立ち上ってきた時どうするか、全く目算が立たないのだった。
「俺は、お前の目を覚まさすために来たんだ。わかるか......? 俺はどうでも目を覚まさせてやるぞ。お前は虫ケラ同然のヤクザ稼業で一生を終るために、地上に出て来たわけじゃない。しっかりしろ? いったい何でヤクザなんかに身を持ち崩した!?」
「動くな!」
山本は相手がソファから身を起こそうとする気配にあわてて喚いた。恐慌の汗の臭いのする声音となっていた。
「動くんじゃねえ! そこへ座ってろ! さもねえと風穴があくぜ!」
田崎は相手のしぶとそうな面構えが恐慌に白茶け、満面に汗をかいているのを見詰めた。ヤクザは怯えていた。拳銃を所持していても制圧する自信を持たず、相手の脅威に対処しかねていることを露呈していた。まるで年季の浅いチンピラのようにどうしていいかわからなくなっているのだった。
「いやだ、この人、怯えちゃってるわ......」
と、ミハルが驚異にみちて口走った。山本のようにしたたかなヤクザには考えられない弱気な醜態だった。
「本当にすくんじゃっているわ」
「拳銃など持っているからだ」
と、田崎がいった。
「ますます自信が失くなってくるのは当り前だ。なあ、そうだろう? 拳銃を出してから元気が失くなってきただろう? 拳銃がお前の活力をどんどん吸い取っているんだよ。わからないか? このままだとお前は立っている力もなくなるぞ。その拳銃が、お前の力という力を全部抜き取って、病人にしてしまうんだ。噓だと思うなら、そのまま立っていろ。今にどうにもならなくなるぞ......」
「畜生! きさま、俺に念をかけてやがるんだな......」
山本は真蒼になり、汗をしたたらせて呻くようにいった。
「念をかけるのを止めろ! さもないと、ぶち殺すぞ......」
恐怖と狼狽が、ヤクザの目をガラス玉に変えつつあった、精気を失い、どんよりと曇ってくる。
「俺にはそんな力はないよ」
田崎は笑った。
「犯人はお前自身の良心だ。お前の良心が、お前の力を抜き取り始めたんだ。良心はお前のやることをきびしくとがめ立てしているからな。拳銃を捨ててみろ。すぐに元気が湧いてくる。しかし、拳銃を放さなければ、お前は老衰した年寄りみたいにその場にへたりこんで、動けなくなるぞ」
「催眠術だ」
山本は脱力感と必死で戦っていた。体をまっすぐ立たせておくことも大儀な、疲弊感にとり憑かれ、体をふらつかせていた。掌に入りそうな小型拳銃が突如として大砲並みの重量感を備え始めたのだ。
「俺に催眠術をかけているんだ」
「そんな器用な芸当は出来んよ」
田崎が笑う。
「お前は自分の良心を裏切っているんだ。自分の心に正直になれよ。お前は心の底ではとんでもないことをしたと思っているじゃないか。それを素直に認めるんだ」
「うるせえ......」
山本の声には全く力がなかった。体は非常に疲れ切った人間のように筋肉が萎え、肩が曲り、四肢が縮んだ。己れをまっすぐ立たせておくことができず、ぐらっと揺れて後退り、部屋のドアに背中をつけた。ドアに体をもたれさせておくことで、必死に立っていようと苦闘していた。
田崎は平然として、その光景を見守っていた。相手の弱みにつけこむという考えは、彼とは無縁であるようだった。
「畜生! 止めろ! 止めねえか!」
山本の口からよだれがしたたり落ちた。もはや地球の1Gの重力は、彼にとり何十倍にも増加し、のしかかっているようだ。
「凄い......」
ミハルは感嘆しきって、田崎の服の袖を摑んだ。
「あれ、天罰を受けてるんでしょう?」
「拳銃を放せば、すぐ回復する。彼の良心は彼が拳銃を持っていることを許さないんだ。ただそれだけのことだよ。しかし、こんなのは初めて見た。人間は自分で自分に罰を与えるんだな......良心がある限り、たとえヤクザだって同じだ。こうしてみると、他人を罰するなんて必要は全くないんだな」
「天罰じゃなくて、自分で自分を罰してるんですか? 自滅ってこういうことなんですね......」
ミハルの顔は感動とスリルのためそそけだっていた。田崎ですら全身にぞくぞくする波動を覚えていた。
「しかし、彼にはまだ良心が残っていたってことだ。良心なんかとっくに失くした人間ならば平気でいるだろうからな」
「ふざけやがって......」
田崎の批評を耳に留めて、山本は泣き笑いに似た苦渋の表情を浮べた。その手の指が開き、把握をすり抜けた小型拳銃が床に転がった。
「この野郎......どこまでふざけたことを......」
山本は己れが拳銃を落したことすら気付いていないようであった。
田崎が動くより早く、ミハルは敏捷に立って、山本の落した拳銃を拾い上げに走っていた。その勘のよさ反応の素早さは、田崎の顔に感嘆の色を呼びさますほどだった。
ミハルは無言で拳銃を差し出した。田崎も黙って受け取り、ソファのマットの間に突っ込んだ。
「?」
ミハルは田崎の遣り方が理解できぬという目で見た。
山本は急速に回復し始めていた。田崎のいった通りだった。拳銃を手離すことにより、活力の〝放電現象〟が止んだからだ。喘ぐような呼吸も正常に近くなり、がっくり曲っていた背中も伸びてきた。萎えてきた足腰にも力が戻ってきたようである。
拳で額をびっしょり濡らした汗を拭き、山本は凝った筋肉をほぐすように、首を左右に廻した。一言も口をきかなかった。その目は田崎の光る大目玉を避けていた。
山本が背をもたれかけていた鉄扉が外から叩かれた。無神経な叩き方だった。
「山本さん、俺です、野方です」
と、ドアの向うで男の声がした。波動の悪いだみ声である。ミハルが田崎の袖を両手で摑む。逃げろというのであろう。田崎は首を横に振り、逆にミハルを押しやった。
「店に戻るんだ。こっちはいい」
「いや」
と、ミハルはいい、田崎の服の袖をしっかりと摑み続けた。
「山本さん、どうかしたんですか、開けて下さいよ」
と、だみ声が催促し、ガンガンと鉄扉を叩く。苛立ってきたようであった。
山本は深呼吸を一つして、ドアを開けた。見るからにヤクザとわかる男たちが三人、室内に足を踏みこんできた。もみあげの長い顔は狂犬のようである。殺気立った目玉が眼窠から跳び出してだれかれ構わず食いつくようだ。喧嘩仕度の気構えで駆けつけたのであろう。
部屋に入った時は、気忙しくすでに腹巻の中に手を突込んでいた。白鞘の短刀を摑み出す。
「相手はどの野郎ですか? この野郎ですか?」
三人の内の二人までが、左の小指が欠損していた。絵に描いたようなヤクザである。
「まかしといて下さい、すぐにケリをつけますから」
野方と名乗ったダミ声のヤクザが山本を振り返っていった。眼球がせり出してきそうなまさに狂犬の顔付である。
「ここじゃまずいでしょう。外へ連れてって始末してきます」
こういうことには、まさに慣れ切った物腰であった。
「野郎だけじゃなく、女もですか?」
山本は壁を背にして立ち、曖昧な顔をしていた。山本のように精悍でしたたかなヤクザには似合わぬ歯切れの悪い表情であった。
「どうしたんです、山本さん。体の具合でも悪いんで!」
「何でもねえよ」
山本は口を歪めていった。優柔不断さは拭っ切れなかった。
「女もいっしょに連れてってもいいんでしょう?」
山本は頷いた。野方が不審げに山本の顔面を濡らした汗を一瞥した。山本はポケットから大判のハンカチを出し顔面を押し拭った。その目は深刻な光をたたえて、考えに沈んでいた。
「気をゆるめるな」
と、彼は無感動にさえ聞こえる声音でいった。
「腕が立つぞ、こいつは」
「心配ないですよ。こいつはすくんじゃってますよ」
と、野方はいった。まるで鑑識眼など持っていなかった。
「いつもの所へ連れてって、焼きを入れてやりますか?」
山本はぼんやりとさえ見える緩慢さで、首を頷かせた。全く気が抜けているようであった。
「さあ、いっしょに来な、兄ちゃん。逃げようなんて考えるんじゃねえぞ。刃物がぐさりと横っ腹をえぐるからな」
野方がもの慣れた口調でいい、もう一人のヤクザが引きつるような笑声を立てた。陰惨に凄んでいるつもりなのであろう。残る一人は黙りこくっている。
16
田崎はゆっくりとソファを立った。その顔は無表情になっていた。大目玉を山本の顔に灼きつかせる。が、山本は彼の目を直視しようとはしなかった。
「さあ、兄ちゃん、行くんだ」
野方はいつの間にか抜いた刃物のきっさきを、田崎の横腹にぴったりと擬していた。底から陰火が燃えるような目をさしつける。気味が悪いほどすり寄ってきている。口臭が嗅げるほどだった。
「ずぶっと行くぜ、ずぶっと......」
しかし、田崎はそんな威嚇には見向きもせず、山本だけを凝視し続けていた。
「聞こえねえのか、歩くんだよ、ほれ......」
野方は刃物を持つ手を上に挙げ、田崎の首筋に刃先を押しつけた。浅く突き刺す。が、田崎はびくともしなかった。血が噴きだして首に赤い糸を引いたが、知らん顔をしている。
「野郎! 本当に死にてえのか......」
狂犬のような顔に殺意がみなぎった。
「田崎さん!」
愕然としてミハルが叫んだ。むろん威嚇だが、鋭利な刃物の尖端は、五ミリほども田崎の首の逞しい筋肉に減り込んでいた。
「手めえがその気なら......」
野方は唸るような声を出した。血を見たことが彼を異常興奮させていた。もはやもの慣れた威しではない。がらりと雰囲気が急変してしまっている。
ミハルが叫び声をあげて、野方に摑みかかった。腕にしがみつき、刃物を奪い取ろうとする。無口なヤクザがミハルを羽交い締めにして口をふさぎ引きはなした。女性の柔媚な感触を楽しみながら、彼女の首筋に顔を埋める。気味の悪い変質的な傾向が感じられた。長い赤い舌を出して、ミハルの首を舐めているのだ。
田崎は目をそらさなかったが、顔は赤らみ、血管はふくれあがり、筋肉は隆起して凄まじい力感をはらみ始めた。背広の縫い目が弾けそうに体がぐっとふくれあがり、ピリピリと異音を発した。怒気が紅の炎となって今にも燃え上りそうであった。口をふさがれているミハルの呻き声が漏れ出てくる。
「てめえ、そんなに死にたいなら、死にやがれ!」
吐き捨てるようにいって、野方は短刀の刃先に更に力を加えた。切先が一センチ以上も埋り、更に沈んで行く。
不快な声で笑っていたヤクザの笑声も止んでしまった。目をまるくして体を固くしている。野方の呼吸音が荒くなった。喘ぐような音を立て始める。
「やめろ!」
山本が横を向いたまま口走った。息が切れてしまったような声だった。
「やめろ、野方! もういい!」
「し、しかし、兄貴!」
「やめるんだ。この男には脅しは通用しねえ......無駄なんだ。鉄の野郎を止めさせろ! この色気違い野郎が!」
ヒステリックなほどの怒声になった。虚を突かれたように、野方は刃物を田崎の首から引いた。鮮血はさらに噴き出してワイシャツのえりを赤く染めて行く。
「わからねえのか、その色気違いをぶっとばしてやれ!」
「へえ......」
野方は抜き身の刃物を握ったまま、足を飛ばしてミハルに抱きついている無口な仲間の尻を蹴上げた。もう一人のヤクザが反射的に笑声を立てた。
「この野郎! 離れろといっているのがわからねえか!」
野方が頭髪を手荒らに摑んで、無理やり引き離す。変質的な男は唸り声をあげ、野方の手に咬みつこうと抵抗した。
「ちっ」
と、野方は怒声をあげ、拳で相手の顔面をまともに殴りつけた。鼻から血をしたたらせて、男はようやくミハルを解放した。ミハルは田崎に駆け寄ったが真蒼になって、首から溢れ出す鮮血を見ているだけだ。もう一人のヤクザは何一つ行為に出ることなく無意味な笑声を立てており、それが異様なほど神経に障った。頭がおかしくなりそうであった。
「いい加減にしねえか! おかしくもねえのに笑うな!」
山本はどなった。地団駄踏みかねない勢いであり、笑いカワセミのようなヤクザの笑声は、刃物で断ち切ったようにぷつりと跡絶えた。一瞬沈黙が落ちて、男たちの荒い呼吸音だけが騒々しく響きわたった。
「でも、兄貴。これはどういうわけですか?」
と、野方が詰問した。不満と驚きが、まさにそれを詰問にしていた。
「こいつは、どういうことです?」
「もういい! いいからお前らは帰れ!」
山本の声は荒々しかった。
「だって、兄貴! 山本さん......」
「もう用はすんだ。帰れといっているんだ」
「しかし、この野郎の始末は......」
凶暴な野方の顔は今にも山本に向けて咬みつきかねなかった。
「わかった。これを持って帰れ」
山本は内ポケットから数枚の紙幣を摑み出し、牙を剝くような面の野方に押しつけた。野方は塚田組の凶暴な兵隊で、荒っぽい仕事になると駆り出されるのであろう。野方を始め三人の男はいずれも変質者の匂いが濃厚であった。
「へ、こりゃどうも......」
野方はたちまち腰が低くなり、眼窠から眼球がせり出してくるような狂的な表情を消した。歯ぐきを剝き出して卑屈な愛想笑いを浮かべる。金にさえなれば、理由の是非は問わない人間なのだった。
「早く刃物をしまって帰れ」
「どうも、すんません、兄貴」
野方は頭をぺこりと下げ、変質者と笑いカワセミのようなヤクザをうながして、部屋を出て行った。鉄扉がずしんと建物を震わせるように閉まる。
弾かれたように跳びつこうとするミハルを田崎は腕を伸ばして制止した。
「大丈夫だ。これくらいどうってことはない......」
「でも、血がひどくて......病院へ行かなきゃ!」
田崎は刃物の残した傷口に手をやることもしなかった。まるで気に留めていない。顔面の紅潮は徐々に退いて行った。
「心配するな、血はすぐに止まる」
山本は顔をそむけ、田崎の眼光を避けていた。不逞ぶてしい体付が妙に寒々しく見えた。
「命知らずだな。あの野方ってのは気違い犬だ。本気で刺したかもしれねえんだぜ」
山本の声には覇気がなかった。
「あんな犬っころは問題じゃなかった」
田崎の迫力は一向に衰えない。
「あんたがどう出るか知りたかったんだ」
「俺も気が弱くなった。根太が緩んじまった......」
山本は自嘲的にいった。
「ど素人に気合負けするようじゃ仕方がねえや......」
「自分の良心に負けたんだ。そういったろう......」
「よせやい。ど素人相手にハジキまで出して、その挙句にこのザマだ。どうしようもねえ」
山本は壁際に体を向け、壁紙を貼ったコンクリート壁を平手で叩いた。
「俺も終りだな、まったく、どの面下げて......」
自己嫌悪に全身埋りこんでいた。なまじ頑強な体軀をしているだけに、全身からみじめさがにじみ出るようだ。決して田崎と目を合わせなかった。
「天罰じゃない!」
と、ミハルが鋭くいった。
「天罰が下って、半病人みたくなっちゃったんじゃない!」
苛烈な怒りがこもっていた。
「あんたなんか、本当は弱虫なんだ。お日様の光に当ったゴキブリじゃない! 気が弱くなるのは当り前よ! 天罰が下って、体中腐って死んじゃえばいいんだ!」
拳を固めて足踏みした。
「あんたなんか、ヤクザなんか虫ケラよ! 便所コオロギみたいなもんじゃない! 死んじゃえ! 半病人どころか全身麻痺で動けなくなったら、みんながツバを引っかけて行くわよ!」
「やめろ!」
田崎は、いいつのろうとするミハルの手首を摑んで制止した。女は体中を震わせて、怒りに燃えている。
「彼は自分の良心に負けたんだ。天罰なんかじゃないといったろう? 俺にはわかってたよ。彼の良心が彼からエネルギーを抜き取っちまうってことがね......」
「こんな奴に良心なんかあるもんですか! 最低のヤクザ者じゃないの!」
「いや、あるさ。あるからこそ参っちまったんだ。さっきの野方とかいう狂犬みたいな面つきのヤクザどもなら平気だったろうな」
「だって、それなら、この山本の方が上等だっていうんですか?」
ミハルはいかにも承服しがたいという口調でいった。山本が壁に手を当てがったまま、低い声で笑い出した。その笑声は力がなく自棄的であった。自嘲の笑いだった。
「彼だって、ヤクザになろうと思って、この地上界に出てきたわけじゃないんだ。落ちる所まで落ちたが、それでも縁というものがある。だから、先生の前に姿を現わすことになったんだ。自分でも知らないうちに、そうなってしまうのさ......先生に遭って、良心は激しいショック症状を起こした。ヤクザの彼にはわからないが、潜在意識にある良心は、先生をよく知っているからだ。良心とヤクザの心の間には凄いギャップがある。そのギャップに落盤が起こったんだな。それで彼は参っちまったんだよ」
「良心が先生をよく知っているって、どういうことなんですか?」
ミハルは解せないという風に小首をかしげて尋ねた。田崎はいつの間にか、彼女の悪声が気にならなくなっている自分を発見した。
「この世に生れる前に、良心は先生がどんな素晴らしい偉大な方か、よく知っていたということだ。人間は魂によって何度も生れかわるんだ。その魂の本質が良心なんだよ。魂の外側は人間として生きるうちに垢がついて汚れちまう場合もある。
しかし、魂の内側、つまり核心である良心は少しも変らないんだ。魂の外側はヤクザになって汚れちまっても、内側には良心が光ってる。泥でべったり汚れたガラスの向うには透き徹って光り輝くものがある。それが良心というものなんだ」
田崎は真剣になって説明し、ミハルは魅せられた表情で聴き入っていた。
「その良心というのは、どんな人間にもあるものなんですか?」
「まずたいていの人間にはある。芯まで腐っちまったような奴を除けば、だれだって心にとがめるものがある......」
「人間は本当に生れかわるんですか? 生れる前にお互いよく知ってる人同士だったら、この世で逢ってもぴんと来るものなんでしょうか? 良心が互いに相手を知っているから......?」
「君はわかりが早い。生れかわりは本当だし、時には昔のことを思い出すことだってできないわけじゃない。前世でよく知っている人間は、胸のあたりで特別な感じがするものだ。つまり、良心が相手をわかったということなんだな」
「その感じ、物凄くよくわかります! とっても!」
ミハルはチャイナ・ドレスの胸の中央に右掌をあてがい、叫ぶようにいった。
「最初に田崎さんを見た時、本当にその通りの感じがしたんです。泪が出そうになりました。昔のことを思い出すと、胸がきゅっと詰まることがあるでしょう? そんな感じが凄く強くしたんです......」
懸命な語気だった。田崎はいささか戸惑って目をそらした。毒を含んだ笑い声が響いた。山本が幅広の背中を二人に見せ、壁に顔を向けたまま笑声を漏らしていた。喉をこじるように毒々しい笑声が溢れ出してくる。
「くだらねえ......とんだお笑い草だ......良心に生れかわりと来やがら......ケツがむずむずしてくるぜ。こんなバカ話は聞いたこともねえ。良心なんておめでたいもんが本当にあるなら拝ましてもらおうじゃねえか」
「ヤクザに良心なんてあるわけないじゃない!」
ミハルが鋭く叫んだ。田崎へのものいいと山本への態度は別人のようであった。刺すような憎悪がこめられていた。
「人でなしのヤクザなんかに!」
「おめえのいう通りよ。あいにく良心なんて代物と無縁で育ってきたんでな」
山本がむせぶように笑いながらいった。平手でゆっくりと壁を叩き続けている。体全体に精気がなく、疲労だけが深かった。
「だから、良心なんかに関係ねえ。先生の念力とやらにやられちまったんだろう......ど素人にやられるようじゃ、もうおしめえだな。一度負け犬になったら、ヤクザだって務まらねえよ。もう気力も何もねえ、ぐしゃぐしゃだ......俺の負けだ。お前らの念力にやられたよ。そいつは認めるぜ......」
山本は内ポケットを探り、紙片を取り出すと後ろも見ずに放った。
「これは返すぜ。持ってけ......」
「小切手だわ」
と、紙片を拾い上げたミハルがびっくりしていった。
「ちょっと凄いじゃない? 額面二百万円よ」
「兄ちゃん、それを取り返しに来たんだろう? 先生の所へ持ってけ、お役目果しましたといって、意気揚々とな」
「ふざけるな!」
ぎくりとするほどの凄みをこめて田崎は一喝した。
「先生はそんなケチな方じゃない! 金を取り返せなんてだれがいうものか! 見そこなうな! 先生は俺がお前に遭いに来たことだってご存知ないんだ。先生のような偉大な方をお前のケチな了見で計るな!」
「じゃあ、なんでおめえが来たんだ?」
「お前の生きざまを見たかったからだ。ヤクザに陥ちたお前に、良心が残ってるかどうか確かめたかったからだ」
「じゃあ満足したろう。そんなものはありゃしねえ......いいからもう帰ってくれ」
吐き捨てるような苦々しさだった。
「小切手は持って行け。祟りはもうご免だぜ......」
「もっとすっきりした手がある」
と、田崎は落着いていった。
「立合おう。お前が勝ったら、小切手は持っていろ。俺が勝ったら受け取ってやる」
「立合う!?」
山本はよほど驚いたようである。思わず壁に向けていた顔をぐるりと振り向かせた。
「武器は何だ?」
「俺は拳法で行く。しかし、お前が得物を持ちたいんなら好きにしろ」
「自信がありそうだな」
山本はようやくにやりと笑った。凄みのある笑顔であった。
「もちろんだ。遊興で体のなまったヤクザなんか問題じゃない。こっちは現役なんだ」
「面白い。本物の喧嘩がどんなもんか教えてやるぜ」
山本は活気づいてきた。電流が体に再び流れ始めたようであった。
「年季の入れ方が違うからな」
「その通りだ。年季が違う。百倍も違う」
田崎はにこりともせずにいった。
「今にわかる。年季がどんなものかってことがな」
「道場仕込みの空手なんぞ、喧嘩の修羅場に通用するもんじゃねえよ」
と、山本がいった。
「河岸を変えるか。邪魔の入らないところに......心配するな。手足の一、二本はおっぺしょっても命までとろうとはいわねえよ」
田崎はただ白い強靭な歯を見せただけだった。ソファのマットの間に突っ込んでいた小型拳銃を取り出し、山本に向って差し出す。ミハルがはっと音を立てて息を吞んだ。
山本はわずかに躊躇い、それから肩を揺って拳銃を受け取った。握りを下にして内ポケットに突っ込む。
「ついて来な」
彼は幅広の背中を向けて、鉄扉を開け、外に出て行った。別人のように自信と落着きに溢れていた。田崎は平然とした大目玉で後に続いた。首の傷口の血は停まり、黒く凝固していた。
二人とももはやミハルのことなど気にも留めていなかった。女を残して、別の次元へ入りこんでしまったように見えた。
ミハルは自信なく頼りなげに後を追い、うろたえた目で、階段通路を黙々と降りて行く両名のよく似た頑強な後姿を見降ろした。
彼らは血なまぐさい争闘の場へ向う闘士というよりは、むしろ祭りのさんざめきに浮き立っている若者たちのように活気と精気に張り切って見えた。それは荒々しい野性的な男だけの神事に似て、女であるミハルを拒んでいた。
本書中には「気違い、小人」という差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
「それで、どうなさったのですか?」
と、東三千子が尋ねた。すっかり話に心を奪われてしまっていた。急須に湯を注ぐ手許がお留守になってしまい、溢れさせてからあわてて布巾を取った。三千子にはあるまじきことだった。
「しつこく尋いたんですけど、田崎さんあまり話したがらないんです」
と、木村市枝がいった。彼女はきちんと正座し、ジーンズの膝が窮屈そうであった。三千子の前に出ると、ひどく緊張してしまうのである。
しかし、市枝の顔色は明るく生気に溢れていた。色白の膚はぴかぴか光るほど肌理がこまかく、髪は黒く艶やかに輝いていた。彫りの深い顔立ちはあくまでも端正であり、はっと目を惹きつけるほどである。その姿態には、胸が痛くなるほどの情念を誘うものがあった。
「でも、田崎さん、お怪我はなかったのでしょう?」
三千子はかしこまって座る美少女の生真面目な顔を見詰めた。
「ええ。掠り傷一つなかったみたいです。あたしたち......康夫もあたしも全然そんなこととは知らずにずっと待っていました。ワイシャツが血で汚れているので、びっくりしましたけど、立合い自体は後で明雄に聞いてみたら、呆気なく終ってしまったようです。
問題にならなかったと明雄はいっていました。田崎さんは過去に修行した力が沢山出ているので、この世で修行した人たちとは力量的に比較にならないというんです。つまり田崎さんは現世で武道を学んで1の力を持っているとすると、過去の力は20も30もあるわけで、それが現在の田崎さんに導入された場合は、現世だけの力の人では太刀打ちできないんだそうです。相手の山本というヤクザは自分があまり簡単に負けてしまったんでびっくりしたんじゃないでしょうか......」
「では、相手の山本という人も、別に怪我をしたとか、そんなことはなかったのですね?」
「明雄は大丈夫だといっていました。力が違いすぎるので、大人がうんと小さな子供をあしらうようなものだったらしいです。なんといっても、田崎さんは相手のヤクザのピストルを封じてしまったくらいですものね。もうその時、ヤクザは完全に負けてしまっていたんです。心で負けてしまったんで、喧嘩にならなかったんじゃないでしょうか」
「でも、田崎さんもヤクザを相手に、ずいぶん思い切ったことをなさったのね」
三千子はお茶を市枝に勧めながらいった。
「相手は暴力団でしょう? 運よく小さな傷ですんだけれども、命にかかわるような大怪我をなさったかもしれないのに......」
「やっぱり田崎さんは気力が物凄いですから......」
市枝は無意識のうちに、田崎をかばう口調になった。
「それだけでもう、暴力団なんか居すくめちゃったんです。本気になればもちろん、指一本触れさせないでしょうけど。でも田崎さん、その時のことは本当に話したがりません。あたしと康ちゃんがいくら尋いても......やっぱり恥しがっているみたいです」
「弟は、そのことを知っているのでしょうか?」
「いいえ。たぶん......田崎さんは別に喋るなとあたしたちにいったわけじゃありませんけど。田崎さんはおじいさまの大沢先生の人脈とは関係なく塚田組に工作をしていたらしいんです。田崎さん自身関東のヤクザの大親分をよく知っていて、というか、大親分にとても気に入られていて坊ちゃんと呼ばれているらしいんですけど、その大親分の筋で、塚田組の山本に話をつける工作をしかけてたらしいんです。
田崎さんも最初から平和裡に山本と話をつける気で、どんな人間か下見に行ったようなんです。別に喧嘩を吹っかけに行ったわけじゃありません。それはわかってあげて下さい。お願いします」
市枝は少年ぽく頭を下げた。
「それはわかります。でも、山本という人と結局、空手で立合って、田崎さんが勝ったということで、遺恨が残ったりしないでしょうかしら?」
三千子は布巾で卓袱台の上をゆっくり空拭きしながらいった。
「ええ、それなんですけど......田崎さんにとって、相手の山本は、前世で縁のある人間だったらしいんです。田崎さんにはすぐにわかったらしいんです。田崎さんの昔の弟子とか仲間という間柄じゃないんでしょうか。田崎さんは最近、凄く霊感が冴えていて、そういう過去に縁の深い人を見るとすぐにわかってしまうようですから......」
「相手のヤクザは、田崎さんの昔のお弟子さんだったのですか?」
「そうだと思います。それで気合負けしちゃったんですよ、きっと。手も足も出なかったのは、最初から威圧されちゃったんですね。
それに大親分の筋で話が行ったことも山本にわかって、完全に態度が変ったと田崎さんはいってました。もう塚田組のことは何も心配ないと思います。山本は田崎さんの前で小切手を破ったそうですから......」
「そうですね。これでけりがつけばいいんですけど......」
三千子の口調は重く、吹っきれないものを残していた。
「山本のことは大丈夫だと田崎さん、いっていました。明雄も同じ意見のようですし、心配はないと思うんです」
市枝は力をこめていった。三千子を慰め、力づけようとしていた。三千子にはそれほど沈んだ波動が感じられたのだ。
「過去に蓄積した力が出て来ると、人間って本当にスケールが大きくなるものなんですね」
と、市枝はことさらに明るい口調でいった。
「田崎さん、素晴らしい貫禄ですから。堂々としていて、腹が据っていて、本当の武士って感じです。信じられないくらい人間の器が大きくて......相手の山本も、後で田崎さんの年齢を聞いてびっくり仰天したみたいです。二十七、八だと思ってたらしくて......でも、本当に今の田崎さん、年齢がわからない感じなんです。きっと過去の自分が出てきているせいなんですね」
「田崎さんは、今度のことを丈に内証にしておくおつもりなのかしら?」
三千子は自分の考えに気を取られているようだった。
「だと思います。小切手を破棄したことは、山本から連絡させるつもりじゃないでしょうか。田崎さんは自分がこうしたああしたなんて手柄は絶対にいいたてない人だし......縁の下の力持ちに徹するつもりなんです。もちろん、丈先生には自然にわかってしまうかもしれませんけど。田崎さんは本当に、自分の命よりも丈先生を大切に思っているんですね。あたし、じーんとしてしまって......」
「本当にそうですね......」
いつもの三千子とは違う、と市枝は感じざるを得なかった。重く沈んでいる。心中に大きな懸念、危惧があるようだ。端然として美しいが、蒼白い印象であった。逢う度に三千子は緊迫した感じを強めつつあった。生命を削り、ぎりぎりに心身を酷使して生きているという、苦しいほどの緊迫感であった。ほそい絹糸が極限まで張り詰めている危うさといえた。
なぜであるかはわからない。三千子の生き方はあらゆる面で、市枝の想像を超えるものだったからである。
東丈自身、もっとも尊敬しているのが姉の三千子である。巨大な指導者でありながら、丈は姉への尊敬心を隠そうとはしない。それは彼女が丈以上の指導者としての真価を備えているということかもしれない。三千子が丈の心の支えであることは、まぎれもない事実なのだ。
にもかかわらず、三千子はいかなる形でも丈の活動への参画を避けている。
──何か心配事でも?
と、問いたい衝動が身裡にふくれあがり、市枝はきちんと揃えた膝をもじもじさせた。緊張しているので、日頃不慣れな正座の苦痛も念頭にのぼってこない。三千子を前にしていると、丈の場合に劣らないほど固くなってしまう。
しかし、市枝はどうしても問いを口にのぼすことができなかった。
2
沈黙すると、にわかにガスストーブの燃焼音が高く耳ざわりに感じられた。今ごろ、セミナーに参加した一行は箱根の宿舎で合宿している。どんなプログラムが展開されているんだろう、と市枝はふと思いを馳せた。
参加できなかったのはむろん残念である。塾からはほんの数名が警備班としてセミナーに同行しただけだ。そのありかたは客分でもなくオブザーバーでもないから、市枝は選に漏れた。やむを得ないことだった。
丈の往く所には、どんな時でも影のようにひっそりと尾いて行きたい。杉村由紀や郁江のように側近として華やかなスポットライトが当らなくてももちろんいいのだ。目に付かない所で、ひっそりと丈のために尽すことを許してほしい。
もちろん、現実にはそのような願いが実現する可能性はない。それが許されるのは、側近という恵まれた立場にある者だけだ。市枝は塾における下働きの一人でしかない。
が、それが不満なのではなかった。東丈が塾長を務める一門の末端にでもつらなることを許されたのは、思いがけない幸せだったし、感謝している。弟の明雄の世話係としてでも、丈に結びついていられるのは、大きな幸せだ。不満など持ち得ようはずがない。
しかし、それでもなお身を焼くように苦しい切望が存在した。それはいかになだめようとも、決して肯じることのない希求であった。他のいかなる説得も受けつけない強さ激しさで市枝を苦しめるものだった。
「先生が、お姉様にお目にかかり、是非お話を聞きなさいとおっしゃったので......」
市枝は躊躇を押し切っていった。目を伏せていた三千子がぱっと視線を上げて、市枝を見る。その黒瞳の輝きが何と東丈に似ていることか。
ますます本音が切り出せなかった。初めは田崎宏がヤクザと渡り合ったことなど話す気はさらさらなかったのである。本心を明かせず、つい余計なことを調子に乗って喋ってしまったのだ。それを知ればさぞかし、田崎はまずい顔をするであろう。
含羞のある市枝にとっては、丈の姉である三千子は女神にも匹敵する高貴な存在であり、何か喋らねばと焦るあまり、埒もないことを口走ったようである。
むろん、質問したいことは山ほどある。丈の一番身近な存在である三千子に、丈が生れた時からの全てのエピソードを根掘り葉掘り尋きたい。丈について全てを知りたい。それは丈の帰依者として当り前のことだろう。
市枝自身の悩みにかかわることでは、尋ねたいことがいくらもある。偉大な超能力者を肉親に持ちながら、自身は力を持たない三千子がその事実をどう感じているのか知りたい。三千子は超能力を求めているのかいないのか、持たざる事実を苦にしているのかどうか。彼女が丈の心の支えでありながら、その活動に直接助力を与えない理由を尋ねたい。丈とともに歩むことなく、ひっそりと引きこもっているのはなぜなのか。
それは、やはり三千子自身が超能力を持っていないせいではないか......いつも市枝はどうしてもその答えが知りたくて、体が弾けてしまいそうな高圧の欲求に苦しめられるのだった。
しかし、想像の中では理路整然と語り、とめどもなく質問を繰り出しているのに、いざ三千子を前にすると何一つ市枝の口から出てこなかった。
三千子は言葉少なであり、そのために市枝は余計あがってしまったのかもしれない。思うことの万分の一も話せなかったが、埒もないことはいくらでも口を衝いて溢れ出た。田崎の一件がそうである。常になく市枝は饒舌になり、軽薄になってさえいた。
懸命に喋っていないと、保たないのである。そのくせ本当に話したいことからどんどん遠ざかって行く。
自分を疎ましくもてあまして、市枝はチラチラと柱時計に目をやった。腰をあげて辞去するチャンスがうまく摑めないのだった。
話したいことを何一つ話せず、すごすごと帰るなんて馬鹿みたいだ、と思った。自分の無器用さ鈍さが情なかった。井沢郁江の率直さが羨ましい。郁江はいつもずばりと核心を摑み出してしまう。だれに対しても、つまらぬ気兼ねや遠慮など決してしない。
夜の静寂の中に、私鉄電車の音が遠く響いてきた。ものがなしく郷愁を誘う音だった。今からでも箱根へ行きたい、と思った。先生の講演を聞き逃すことが何にもまさる大損失に思えた。明日、明雄を連れて、セミナーの宿舎を訪ねてみようか、とかなわぬことを半ば本気で考えた。
もちろん、GENKEN主催のセミナーだから、そんなことはできない。もし塾主催のセミナーだったら、参加を心から望む人々をだれでも迎え入れてあげるのに、と思う。
夜の電車の音は妙に幻想的な気分をかきたてるものを持っていた。
「このあいだ、電車でこんなことがあったんです......」
市枝は今のこの瞬間まで思いもかけなかったことを口にしていた。まったく忘却し去っていた記憶が、電車の音を聞いたとたん、ひょっこりと意識の表面に浮かび出してきたのである。
「あたしにそっくりの女の人に、電車の中で逢ったんです......」
三千子の美しい黒瞳が不審そうに瞬いて、市枝を見詰めた。体がかっと熱くなり、彼女は舌をもつれさせながら一気に喋った。
「通路をはさんだ向側の席に座って、あたしにそっくりの女があたしをじっと見ているんです。気がついた時、あ、なんだかどこかで見たような女だなって思いました。あたしって他人の視線に敏感なんですけど、ちっとも厭な気がしないで、なんだか懐しいような不思議な気分になってしまったんです。その女はただ黙ってじっとあたしを見てるだけなんです。なんだか小さいころに生き別れになったお母さんに逢ったような、そんな気がしました。
あたしには本当の母親がいるし、そんなことを考えるのは馬鹿げているんですけど......でも、その女のあたしを見る目が優しくて、なにかしら悲しそうで、とても懐しい気持がしてしまって、そんな馬鹿げたことを考えたのかもしれません。胸がぎゅっと締めつけられて、泪が出そうになりました......」
「その方は、市枝さんに似た方は、ずっと年上の女性なのですか?」
三千子が強い関心を示して質問した。
「ええ。だいぶ年上だったと思います」
「お幾つぐらい年上でした?」
「十かそれぐらいでしょうか。とても上品で優しそうでした。物凄く綺麗なんです」
市枝はアラバスターのように白い頰を紅潮させていった。
「信じられないくらい綺麗な女でした。なぜあたしをあんなに見ていたのかわかりません。それで、生き別れになったお母さんなんて馬鹿げたことを考えてしまったんですね、きっと。その女の目で見られているうちに、あたし、催眠術にかかったようになってしまいました。ぼうっと頭がなって、いつの間にか、自分自身の姿が見えるんです......その女を見ていたはずなのに、自分が見えるんです。凄く奇妙な体験でした」
「自分がというと、今の市枝さんの姿が?」
「ええ。電車の座席に座っている自分が見えるんです。ジーパンを穿いてこんな恰好、東急デパートの紙袋を抱いている自分自身の姿が見えてくるんです。あれ......と思いました。いつの間にかその女の視点で、その女の目を通して、自分を見ているんだと気付きました。目の錯覚かなって思いましたけど、そうじゃないんです。いつも鏡を見る時の自分の顔とは全然違っていました。懐しげな、少しぼうっとしている自分の顔が見えるんです。なんともいいようのない気持でした。なんといったらいいんでしょう、昔の素晴らしい時代、最高に幸せだった、思いだすだけで泪が出てくる懐しい時代を思い起こしている......そんな気持がこみあげてきたんです。
後、十年ぐらい経って、あたしが今の時代を振り返ったら、懐しくてそんな気がするんじゃないかな、そう思いました。ウチの親が新興宗教に凝った挙句瞞されて身ぐるみ剝がれて家も財産も奪られ、商売もだめになる前、明雄がまだ病気にかからず健康だった頃、あたしとっても幸せだったと思うんです。もちろん丈先生にお目にかかった今の幸せとは比較になりませんけど、世の中の罪や穢れをほとんど知らずに、あたしが中学生だった頃、幸せだった......それをじっと今のあたしが思い起こしているような、そんな感じがしました。もちろん、中学一年だったあたしは、自分の幸せを幸せと感じていない、ごく普通のことだと思っていたに決ってるんです。でも心は汚れていないから、明るい目をしていたはずなんです。自分が他人を傷つけたり、心と体を汚すような厭なことをまだ何もしていないし、世の中を憎んだり呪ったりしたこともないから......
それに気付いた時、自分の感じている懐しさの正体がわかったような気がしました。その女があたしに抱いている懐しさや優しい気持は、今のあたしが中学生の時の無垢なあたし自身に感じる気持と同じじゃないかなあって......わかります?」
「ええ、わかります」
三千子は深い声音で呟いた。
「あたしがもし、時間を跳び越えて、過去に戻れるとしたら、中学生の自分に逢った時、優しい目で見るだろうな、と思ったんです。昔のあたしはわりと照れ屋で恥しがりやでしたから、きっとあかい顔をしてもじもじしたに違いないんです。きっと初々しい感じであかくなったと思います。
でも、あたしはその初々しい柔い膚をした中学一年生のあたしが、その後どんな運命を辿るか知っているんです。家が破産して両親が青い顔をしていたこと、生まれた時から住んでいた家を追い出されたこと、天地が覆るようなショックが次々に襲いかかってくるんです。自暴自棄になって、心と体を汚した時の記憶......明雄がもう助からない重い病気だと知った時の絶望感......そんな運命が待っているとは知らない中学生の自分が哀れで堪らなくなると思います。
でも、その苦しみを乗り越えてきたから、今の自分がある。もし、何も苦労せずにぽーっと育って来たら、今のあたしは存在しないし、第一丈先生とお遭いできたかどうかわかりません。もし先生の存在を何かで知ったとしても、今のあたしのように強く大きく感じるかどうか......もしかすると、何も感じないかもしれない。ふーんと思うだけですましてしまうかもしれません。
もしかすると、あたしが死んでしまいたいと思った辛いむごたらしい経験があったからこそ、今こんなに幸せでいられるんじゃないでしょうか。地獄の中をさまよっていたからこそ、丈先生とお逢いして、ああこれで自分は救われたと感じた深い深い歓喜、自分は何があろうとこの方について行くんだという固い決心......最高の幸せを感じることができたと思うんです。月並な、ぬるま湯のような幸せに慣れ切っていれば、丈先生にお逢いした圧倒的な歓喜は自分のものにならなかったと思います。息もできない狭い、暗い墓穴に閉じこめられていて、それがパアーッと展けて素晴らしい光が射しこんできた、そんな物凄い感激は、幸せな中学生のあたしには想像もつかなかった......そう思うんです」
淡々と語る市枝の顔は引き緊まり熱を帯びて美しく、好もしかった。心が高揚し、波動が強まっているからだ。丈に影響を受けた少女たちはみごとな変貌を遂げる。逢うたびに更に美しくなっているのを感じる。精神に停滞がないせいなのだろう。その変化はとどまるところを知らないかのようだ。
三千子はすっかり話に引きこまれ、熱くなりながら、同時に讃美の気持を抱いていた。なんと愛しい少女たちだろうと思う。丈によって点された魂の燈が皓々と輝いているようだ。
丈はいったいどうするつもりだろうか、とふと思う。多感な丈は時にはときめきを覚えることもあるだろう。彼の禁欲主義は、そうした性愛を断乎として抑えこんでしまうのかもしれない。丈は己れの私生活を全て思い切りよく放棄し、強靭な意志の力で欲望を封じてしまっている。わずか十七歳で青春という猶予の時と訣別してしまったのだ。
丈や少女たちの魂の交流は美しく純粋だけれど、それは強い抑圧がかかっているだけに、いかにも危ういものがないでもない。少女たちは神と結婚した花嫁のように、人並みの家庭生活からは切りはなされてしまうのではないだろうか。
少女たちが美しく清浄であるだけに、あるいたましさを心に禁じえなかった。
むろん、それは三千子の考えすごしであろう。若者たちは、丈の掲げる巨大な価値観に共鳴し、肉体と魂の双方を使命遂行のためにささげようとしているのだ。肉体的欲望から切り離されて自由であるのだろう。市枝があくまでも透明に清々しく生きているのはそのためなのだ。彼女は五月の風のようにしなやかに光っている。
「その女の方とは、お話ししなかったのですか?」
と、三千子は尋ねた。市枝が夢見るような貌で首を振る。
「いいえ......気がついたら、その女は電車から降りて行くところでした。後を追いかけたかったのですけど、どうしてもできませんでした。お話ししたかったんです、とても......でも、いけないことのように思えました。その女があたしの......未来のあたしなら」
「やはり、その時もそう思われたのですか?」
「はい。わかりました、理由はなかったのですけど......意識がふうっと重なり合った時、ああやっぱりと思ったんです」
「未来の市枝さんが、今の市枝さんに逢いにいらした......そう思います?」
「ええ、そうだと思います。でも、不思議ですね、今の今までけろっと忘れてしまってて、全然思い出さなかったんですよ。お姉様とお話ししてる時、いきなり甦ってきたんです。なぜこんな不思議な経験をあっさり忘れてしまったんでしょうか?」
市枝ははにかんだように笑った。
「夢みたいですけど、絶対に夢じゃないんです。なぜ追いかけて行って、話しかけなかったかと後悔してます。今度逢ったら、絶対に話をしようと思ってます。いろいろ尋きたいことが山ほどあるんです。もしあの女が、十年後の未来のあたしだったら、沢山教えてもらえます。今、自分がどうしようと迷っていることがいくらもありますから......
でもやっぱりいけないことでしょうか? 未来のことを知ってしまうなんて、カンニングになるでしょうか?」
「そうかもしれませんね。未来の市枝さんがたとえ今の市枝さんに逢いにいらしても、そういうことは教えないかもしれません。もし今の市枝さんが、過去に戻って中学生のご自分に逢ったとしたら、どうなさいますか?」
「そうですね、やっぱり何もいえないと思います。可哀そうで胸が詰まってしまって......話を聞いても中学生のあたしは信じられないかもしれないし、頭が変なのじゃないかと思うんじゃないでしょうか? だって、中学生のあたしが夢にも思わないような恐ろしいことを経験してきて、今のあたしになったわけですから......でも、これでよかったんだと思う反面、強く後悔します。もう一度過去に戻ってやり直したいと思います。今のあたしの意識のままなら、今度こそうまくやれる......でも、やっぱりそうはいかないんでしょうね。だったら、今の自分に感謝して、大事にして行くしかない......丈先生がいて、素晴らしいお友達や仲間の人たちがいる。本当に幸せなんですもの。だから、それ以上の幸せを求めるのは貪欲だと思います。自分がもっと幸せになりたいと願いたくなると、自分を戒めるんです。幸せを貪っちゃいけないって......」
未来の市枝はなぜ過去の自分に逢いに来たのだろう、と考え、三千子はすっかり自分が相手の幻想的な考えに染まってしまっていることを悟った。奇妙な、とも思わないし、いささかの異和感も覚えない。いかにもありうべき話だと感じている。時間旅行が可能かどうかというより、ごく当り前な感覚で受け容れてしまっているのである。
他人が聞けばあまりにも奇矯であろうし、二人とも精神状態を疑われるかもしれなかった。白日夢と現実の区別がつかなくなっていると思われても仕方がない。
時間旅行者の存在をいささかも疑わず、平然として話し合っているのである。それは突飛で異常な精神状態の産物かもしれなかった。
しかし、そうは思えなかった。木村市枝はたいへんまともな少女である。充分、理性的な判断を下せる能力を有しているし、事実、話を聞いてみれば、終始、冷静な思考をめぐらしていることがわかる。椿事に遭遇した人間が、だれしも市枝のように深い思慮をもってあたれるわけではないだろう。彼女はそれが超常現象であることを見抜き、理性的に振舞っているのである。これだけ的確に過去と未来の関り合い──因果律をとっさの間に見抜くとは、素晴らしい成長ではないか、と三千子は思わずにはいられなかった。
市枝は自分では意識していないにしても、丈や郁江に顕著に見られる不思議な成熟を迎えているのであろう。
「その女が、十年後の未来のあたしだとしたら、忠告しに来てくれたような気がします」
市枝は柔らかな声で続けた。
「今の幸せを大切にしなさいって......時間を無駄にしてすごしちゃいけないよ、この一瞬一瞬を、一秒一秒を大事にして、充実させて生きなさいって。だらけたり、たるんだりしていたら後でどんなに後悔するかわからないよ、先生とともに生きるこの一瞬一秒は、世界最大のダイヤモンドよりも貴重なんだよ、それが後になれば、きっとお前にもわかる。もう時間は残り少ないんだから......
あの女は確かにそういおうとしたんだと思います。理由はないけど、そういう気がしてならないんです。あの女の目で、今のあたしを視ている間、言葉にはならないけど、そんな想いがしていました。それに、十年後のあたしだったら、きっと今のあたしに向ってそう忠告すると思うんです。ああ、もう時間がないんだから頑張らなきゃいけないんだなあと真剣に思っていましたもの。
もしかしたら、今夜、お姉様をお訪ねしたのは、その気持のせいだったかもしれません。箱根のセミナーに参加できなくたって、ふてくされたり、陥ちこんだりしてちゃ、いけないって自分にいい聞かせているうちに、ふっとお姉様にお逢いしたくて堪らなくなってしまったんです。いきなりお邪魔して、お仕事を妨げたりして申しわけありません」
「そんなこと、気になさらないで......とてもいいお話を聞かせていただきました」
と、三千子は心からいった。
「その時間がないって感じのことを、ちょっと話して下さらないかしら? それはただ切羽詰まってるという感じだけですの?」
「ええ。もうぎりぎりなんだっていう感じです。列車の時間を気にして大急ぎで駆けてるって感じ......わ、大変、間に合わない、あと十分しかない、急がなきゃ! でも、バスもタクシーもそういう時に限ってやって来ない......本当に大変だ、時間がないって、焼けつくような焦りの気持なんです。そうです、思い出しました。でもそれは列車に乗り遅れるような他愛もないことではなくて、この世の時がもうじき終るという切迫感でした。
ああ、あたしもう、あんまり長生きしないみたい、そう思いました。持時間がうんと少い、タイムリミットぎりぎり......だから、この一秒一秒が最大のダイヤモンド一箇一箇よりも貴重だってことがよくわかるんです」
「ご自分があまり長生きされない、そうお感じになったのですか?」
「そうなんです。でも、恐いとか怖ろしいとか、全然思いませんでした。だから、いわば列車に乗り遅れちゃうと焦ってる感じ。同じ死ぬにしても犬死にじゃなくて、先生のために少しでも役立ちたい。絶対、お役に立つような死に方がしたい! 結局、あたしが考えてるのはいつもそれだけなんです。死ぬこと自体はなんとも思いません。あたしみたいになんの能もない人間は、まさかの時にお役に立つことを考えなければ、とてもやりきれないんです。こんな考え方は、もちろん間違っているのかもしれませんけど、あたしの望みは先生のために少しでもお役に立ちたいという願いに尽きるので、すぐに焦ってしまうのだと思います。あたし、焦って焦って、もう焦りっ放しです。反省はしますけど、どうにもなりません」
「でも、十年後の未来の市枝さんが逢いにいらしたということは......そう簡単に死んだりなさらないということでしょう?」
「そうなんです! それに気付いた時、ものすごく安堵しました。なんだか矛盾してるみたいですけどね。死ぬのは怖くないなんていったくせに......でも、この世の時が本当に終るんでなくて本当によかったと安心したんです。
だって、あたし一人が死ぬんならともかく、この世がいっしょに滅びたりしたら大変ですから! 幻魔に世界が滅ぼされなくて本当によかった! 少くとも十年後まで世界は滅びずに続いているということでしょう? 十年後のあたしが現われるってことは......そうですよね?」
「もう時間がないという感じはずっと前からお持ちだったのですか? それとも電車でその女とお逢いになってから?」
三千子は妙に執拗に質問を重ねていた。彼女らしくないこだわり方だった。市枝もそれは感じたようである。
「ずっと前から感じてたような気がします。先生にお目にかかる前から......もう自暴自棄で生きていましたから、いつ死んだっていいんだと突張っていました。でも、それは漠然としたもので、今のようにはっきりした感じじゃありません。
もしかしたら、先生がいつも口癖のようにもう時間がないとおっしゃってる。そんな話を聞いたせいかもしれません。大変、急がなきゃって気持が根付いたのは、そのためじゃないでしょうか。
でも、世界が終るという意味じゃなさそうなので、とても気が楽になりました。未来の自分に逢ってから......でも不思議です。未来のあたしも、もう時間がないって感じを強烈に持っていたんですから。そのことがよくわかりません」
「とにかく、現在のこの一秒一秒を大切にしなさいと未来の市枝さんは教えにいらしたのでしょうね」
三千子は目を伏せて低い声音でいった。自分の感じている切迫感、終末の予感を少女に語っていいものかどうか激しく迷っていた。
「そうなんです。うかうかしていられない感じです。ヤクザのこともそうでしたけど、いろんな問題が一度に起こってますから。久保陽子さんのことも、高鳥って大学生の件も......江田四朗がどんな動き方をしているのかわからないし、警察が内偵に動いているのは間違いないようです。あれこれ考えていたら、頭がどうかなりそうです......本当に多事多難というのか、先生は今度アメリカへ行かれるのでしょう?」
「そうですか? それはまだ聞いておりませんけど。ここのところ、丈は全然家へ帰って来ないので、あたくし蚊帳の外なんですの。アメリカのルナ王女たち皆さんに、去年の暮れに手紙を書いたという話は聞いておりますけど、やはりそのことでアメリカ行きが決まったのでしょうか」
三千子は自分の体験について口を閉ざしていることにした。不吉な話題で、市枝を動揺させる心ない仕打ちは避けるべきだと思った。暗黒の未来を差し示す凶兆のことを喋ってみたところで仕方がない。そんなことは百も承知で、丈は人々を率い、未来に挑もうとしているのだから。
市枝は電車で経験した未来の自分との遭遇を幸せなものに感じている。それはそれでいい、と三千子は思った。三千子のように凶兆を感じずに生きられるならば、それに越したことはないではないか。
「あたしも詳しいことは知らないんですけど、アメリカのミスタ・メインから手紙が来たそうです。それで先生が渡米なさるという話になったのかもしれません。ちょうど箱根のセミナーにぶつかってしまったもので、中枢の人たちがすっかり出払ってしまって、まだ確認が取れていないんです」
「でも、留守番の人たちはいらっしゃるんでしょう?」
「郁江さんが残っているようですけど、はっきりしたことはわかりません」
市枝はすまなげにいった。三千子が蚊帳の外に置かれているということで、罪障感のようなものを抱いてしまったようであった。
「郁江さんはセミナーに行かれなかったのですの? どうしてでしょう?」
三千子は不思議そうに尋ねた。そんなことはありえないという気がする。
「それなんですけど......〝幻魔の康夫〟のこと、お姉様はご存知でしょうか?」
「〝幻魔の康夫〟? いいえ、存じません。なにか河合康夫さんに関係でもありますの?」
「それが、冗談でついた仇名なんですけど。江田四朗の所の手下が、こっちに内通してもいいということをいって、塾の方へ時々電話してくるんです。それがとても調子よくて、康夫に感じがちょっと似ているものですから、〝幻魔の康夫〟って呼ばれるようになってしまったんです」
と、市枝が説明する。
「江田が何をしているか、情報を流してやるというんです。それで、郁江さんがその〝幻魔の康夫〟に逢うことになったんです。たぶん、今日あたり逢ったんじゃないでしょうか?」
「でも、そんな幻魔の手先に逢ったりして、危険じゃありませんか?」
三千子は息をのむようにしていった。
「郁江さんお一人で逢いに行かれたのですか?」
「いいえ、塾から二人ボディガードがついて行きました。郁江さんは自分一人でいいって頑張っていましたけど、田崎さんがむりやり......彼女本当に度胸があるんです」
「でも、大丈夫でしょうか? 何といっても相手は幻魔の息がかかっているのでしょう?」
「郁江さんは平気でした。よくわかりませんけど、彼女は目に見えない力で護られているみたいです。塚田組っていう暴力団の事務所にも平気で一人で行ってしまいましたし......彼女は先生の意識と連動しているらしいんです。〝光のネットワーク〟とかいっていました。
やっぱり、郁江さん一度死んで復活したというの本当なんでしょうか? 前の彼女とは違うんです。見た感じも違いますし、やることも違います。暴力団に乗り込んで行って、そこの若い衆にすごく馴付かれちゃったらしいんです。早くいえば暴力団のチンピラなんですけど、病院に見舞いに行ったら、大怪我して入院中の若い子がポロポロ泣いたっていってました。とっても不思議なんですよね......例の山本っていう大幹部も、郁江さんに逢ったことでかなり心境が変ってたらしいんです。今の郁江さんはちょっと人間放れしてて、妖精みたいですから......」
「その感じはわかります。あたくしも正月にちょっとお目にかかりましたから。それでは、丈は郁江さんがその〝幻魔の康夫〟さんに逢いに行くことを承認しているわけですね?」
「そうだと思います。今の郁江さんは、先生の分身みたいなものじゃないでしょうか? だって、あたしですら凄いことをするなって思うようなことを平気でやってのけますから......〝光のネットワーク〟というのは、つまり先生と郁江さんが〝光〟で結ばれていて、郁江さんがどこへ行こうと、先生のお力で護られてるってことじゃないでしょうか......あたし、そんな気がするんです。とっても羨しいと思います。でも、だれだってそうだと思うんです。あの杉村さんだって、郁江さんみたいにできませんもの。先生の分身だからこそ、〝光のネットワーク〟で、郁江さんの身に〝光〟が中継されているんですね、きっと。
でも、羨しがっているだけじゃなくて、あたしも含めてみんながそうならなきゃいけない、〝光のネットワーク〟でお互いに結ばれなきゃいけないんだって思うんです」
「そうですね。でも、きっと市枝さんももうちゃんと護られているんじゃないでしょうか?」
と、三千子はいった。なぜか、そんな気がしていた。
「あたしもですか?」
市枝があっけにとられた顔をする。夢にも思っていなかったのであろう。
「ええ。必ずしも郁江さん一人だけではないような気がします。丈と心を結び合わせている人たちはみんな、もう〝光のネットワーク〟を形成しているのではないでしょうか?」
「あたしなんか、とても......せっかくお姉様がそうおっしゃって下さったんですけど、あたしにはそんな資格がないような気がします。超能力もありませんし......郁江さんとは全然違いますから」
市枝はどもりながらいった。
「郁江さんは超能力者になられたのですか?」
「はい。どうもそうらしいんです。自分からははっきりいいませんけど......本当は凄い〝力〟があるのかもしれません。さもなければ、先生がご自分の代理として、〝幻魔問題担当〟責任者に任命なさったりはしないと思うんです」
「でも、〝光のネットワーク〟は、超能力のあるなしに関係ないのではないでしょうか? もうそれはかなり大きなものに育っているという気がします。江田四朗たちの動きが停まっているのは、そのせいかもしれないでしょう? 幻魔としての江田四朗はなぜもっと全面的な攻撃をかけて来ないんでしょうか? 考えてみると、とても不思議です。丈たちが若芽のうちに押し潰してしまわずに、なぜ大きく育ち、強力になっているのを黙って見すごしているんでしょうか?
もしかしたら、したくてもできない、阻まれてしまっているのではないかと思うんです。攻勢の時期を待っているのかもしれませんけれど、みすみす相手が力を蓄え、巨大に成長してしまうのに手を束ねているのは、どう考えても不思議です。丈たちが強くなればなるほど、幻魔は手古擦るはずです。市枝さんはそう思われませんか?」
「そうですね......そんなこと今まで考えたこともありませんでしたけど、お姉様のおっしゃる通り、不思議ですね。今まで江田四朗がはっきり具体的に攻勢に出たのは、久保陽子さんの場合だけでしたし、郁江さんの時は、念を送ってくる間接的な攻撃でしたから......もっと明確な、形に現われた攻撃がなぜ多発しなかったか、たしかに変ですね、考えてみると......江田四朗には手下が沢山いるのに、ちっとも動かしてこない。だいたい塾を田崎さんが作った最初の動機は、江田の攻撃から先生とGENKENを守ろうということだったはずですから」
それは事新しい発見であった。今までだれ一人改まって考えたことがないのではないだろうか。市枝は感嘆をこめて、三千子の静かな顔を見詰めた。コロンブスの卵だ、と市枝は思った。
「江田四朗は配下を動かして、妨害に出ることだってできたはずです。講演会を妨害したり、平山ビルに厭がらせを仕掛けることだってできたはずです。塾と違って会は無力ですし、大変なことになったかもしれません。簡単にゆすぶれたと思うんです。だって江田には愚連隊のような非行少年グループの配下が沢山いるんですから......平山ビルの付近をウロウロさせるだけでも、大きな効果があったと思います。なぜ江田四朗は簡単にできることなのに、それをやらなかったんでしょう? 暴力的で殺伐な雰囲気は、普通の会員さんたちにはそれだけで凄く効果的だろうし、皆さん、平山ビルに足が遠のいたかもしれません。そうではないかしら?」
「そうですね......田崎さんもそれを一番心配していたんだと思います。普通の人たちだったら、やっぱり怖いし、厭だと思うんですよ。どんな乱暴をされるかわからないんですものね。あたしみたいに突張って生きてきた女ならともかく......」
「ですから、もうすでに江田四朗を封じる力が働いていたのかもしれないんです。直接行動を妨げて、会を護る力が存在していたのではないかしら? だれ一人気付かないうちに、その力は発動していた。皆さん、すでに護られていたんです。〝光のネットワーク〟は丈がいいだす前からちゃんと存在していたんです。だから、江田四朗は手を出せなかったわけです。
きっとその〝力〟は江田の意志をくじいたり、考えを妨げて、違う方向へ誘導したりする働きを持っているんじゃないでしょうか。幻魔の意識誘導があるなら、〝光の意識誘導〟が存在してもおかしくありませんでしょう?
丈には願望達成力のような、不思議な力があると思っていましたけど、それと〝光のネットワーク〟は関係があるのかもしれません。話に聞きますと、江田四朗は〝暗黒教団〟のようなものを作って、その中でとっても堕落した、退廃的な黒ミサのような秘儀に耽っているのでしょう? そんなことばかりしているうちに、丈たちはどんどん進展しているんですもの。江田四朗との間にどんどん較差が開いて行くばかりじゃないでしょうか?
おそらく江田四朗は泥沼のようなおぞましいみにくい快楽に溺れているのだと思います。そっちに耽溺してしまって、効果的な手は一つも打てずに、精々念を送って呪うという消極的な態勢に陥ってしまったのではないか......あたくしにはそう思えてならないんです」
「凄いですね、お姉様のお考えになることは......夢にも思わなかったことばかりです」
市枝は茫然といった。なぜ三千子はそんなことを考えつけるのか、不思議でならなかった。脳髄が痺れるほどのショックに頭がくらくらした。
「やっぱり先生のお姉様だからでしょうか......? あたし、江田四朗がいったいいつ攻撃をかけてくるのか、そればかり気になって、江田の内部事情なんて全然考えもしませんでした。それこそ満を持して、恐ろしい総攻撃をかけてくるとばかり......でも、そうじゃなくて攻撃をかけられないなんて。みんなも聞いたらあっというと思います。安心して、すうっと肩の荷が降りるんじゃないでしょうか?」
市枝の顔は明るくなっていた。不意に自分が軽々と呼吸できるのを発見した、そんな面持であった。
「ですけど、もちろん安心するのは早すぎます。江田四朗はもちろん他の方法で仕掛ける気なのでしょうし、今こうやってあたくしが気付いた以上、江田四朗も気付くチャンスはあるんですから。意識誘導が破れたら、猛然と挽回してくるかもしれません。とても安心などしていられませんよ」
三千子の口調はややきびしくなった。
「丈と江田四朗は互いに想念エネルギーで押し合っているんじゃないでしょうか。今はある種の均衡状態が保たれているのかもしれません......江田四朗が優位に立とうと打ってきたのが、たとえば久保陽子さんを返すという方法だったのかも......丈が陽子さんをどのように扱うか注目しているのかもしれませんし。それによって次の有効な手が打てるし、手詰りを解消できると踏んでいるのかもしれない......
それに、幻魔というのは何も江田四朗だけには限られません。もっともっと巨大な幻魔の波動が生じているとあたくしは思うんです。江田四朗はもちろん大本の幻魔ではないわけでしょう? 江田四朗を乗取った幻魔の手先にすぎません。小さく限定された幻魔の波動なんです。そうではなくて、もっと巨大な、地球全体をすっぽり覆う、幻魔の波動が生じていますし、丈はもちろんそれに気付いているはずです」
「敵は江田四朗だけじゃないとおっしゃるんですか!? もっともっと巨大な敵がいるって......たとえばそれはどういう波動なんでしょうか?」
一転して、市枝は鳥肌を立てていた。奈落の底に突き落された凄惨な心地が体を締めつけていた。
「江田四朗というのは、いってみれば、物質化された具象的な、人間的な幻魔の波動なんです。だれでも自分の目で見れば、すぐにそれとわかります。ああ、幻魔とはこういうものなんだなって......だれでも理解できて、納得できる幻魔です。つまり生物としての幻魔です。
でも、そうではなくて、目に見えない巨大な波動として地球全体をすっぽり席巻する幻魔もいるはずです。つまり超強力な放送局のように、地球全部を電波で包んでしまう......いわば幻魔放送局ね。幻魔放送を物凄い強力な波動で流し、人間の心に干渉して行く。人類の心は幻魔の波動で染め上げられてしまうんです。自分さえよければいいと思う、冷酷で無慈悲な心に変えて行ってしまいます......」
「それは、先生も講演でおっしゃいました! 幻魔の波動をよりよくキャッチできる状態を作りだすようになるだろうって......」
「そうですか......もちろん丈もわかっているはずです。その巨大波動は、江田四朗のように生物として限定された幻魔の力ではなく、人類そのものの心に直接働きかけていくんです。巨大な魔王のような存在を、人類の内に誕生させようとしているのではないでしょうか?」
「そのことも、先生はおっしゃっていました......」
「そうでしたか。もう丈と話し合う時間がなくなってから、かなりになりますけれども、丈にはやはりちゃんとわかっているわけですね」
「先生とお姉様は、同じことを連動して考えられるのではないでしょうか」
市枝は憧憬の眼差で三千子を仰いだ。
「江田四朗とは別に、巨大な魔王のような幻魔の波動が生じているわけですね? 先生のおっしゃった〝悪の救世主〟......それはもう誕生しているのですか?」
「それは、あたくしにはわかりません。丈にはわかるかもしれませんけど......ただ、影というものは、光をそっくり真似するものだと思うんですの。つまり、丈が活動を開始すれば、それに照応する闇の使徒も動き出すでしょうし、〝光のネットワーク〟が活発化してくれば、それに対する〝闇のネットワーク〟も猛然と活性化してくるはずです。何もかも〝光〟をそっくり模倣しようとするのが、〝闇〟であり〝影〟なのではないかしら?
江田四朗は無気味な敵かもしれませんけど、丈はあまり気にしていないように思えます。丈がこれまでやって来たのは、あくまでも組織をきちんとさせて、会員の皆さんに自覚を促すということだけに絞られています。江田が直接的に攻撃して来ないことをあらかじめ知っていたみたいです......丈は猶予の時を作り出したのかもしれません。丈は宇宙意識フロイに啓示を受けて活動していますし、丈の願望達成力ともいうべき念力は、何事によらず丈の願う通りに具現化していく〝力〟だと思うんです。
もちろん、この先はわかりません。幻魔の影響力に対して、ある程度会員の皆さんが防禦できるとなれば、つまり免疫ができたら、本格的に幻魔と対決して行くことになるかもしれません......それはもしかしたら、もう始まっているのではないでしょうか? それでアメリカにいるルナ王女たちと手を組む準備を始めたのかもしれません」
「もう幻魔大戦は始まってしまっているわけですね?」
市枝は体中にぎゅっと力をこめ、息を詰めるようにして尋ねた。
「もちろんです。人々の心の中にまず始まったのだとあたくしは思います。弾丸や砲弾が飛び交い、爆弾やミサイルが降る戦争と違って、目にはつきませんけど、それ以上に恐ろしい大変な異変が人の心に生じているはずです。
それは人の肉眼では見えません。人の心の中を戦場にして起こっているからです。でもそれはおびただしい破壊と殺戮とが行なわれ、死屍累々とする実際の戦場以上に、凄絶な戦争なんです。永遠不滅の魂が滅びて行く恐ろしい戦いなんです。ただの戦争と異り、人類には未来など残されません。幻魔という永遠の暗黒の中に吸い込まれて行ってしまうんです」
「もし、先生が敗れたら......? もう何もかもおしまいなんでしょうか?」
「人類の未来を幻魔に奪わせてはならない、と皆さんは決心なさったのでしょう? だとしたら、皆さんの責任はとてつもなく大きいものですわ。もうぐずぐずしてはいられないと丈はいつも説いているはずです。すでに幻魔大戦の渦中にある以上、思い惑ったり恐れたりしていられません。そうでしょう?」
「そうです。あたしにはもう時間がありませんし......つまらない余計なことで悩んでいる暇なんかないわけですね......」
市枝は目が覚めたような表情になってきた。
「つまらない相談事で、お姉様をわずらわせてしまってご免なさい。あたし、これで失礼します。能力なんかなにもなくても、自分にできることを精いっぱいすべきだとわかっているんですけど、すぐに心細くなってしまうんです。あたし、本当に何をしに来たんでしょう。わからなくなりました......」
にわかにうろたえて、市枝は腰を浮かした。いかにも市枝らしい生真面目さだった。
「いいえ、とんでもありません。あたくし、このところ情報に疎くなってしまっていますから、とてもありがたく思いました。丈も通学すらできないほどですから、いちいち家へ帰ってくるわけにも行きませんものね。仕方がないことだと思っていますけど......」
玄関口で物音と声がした。弟の卓が帰宅したようであった。それを潮に、市枝は腰をあげた。
「ちょうどお暇するところだったんです」
市枝は、茶の間に顔を出した巨漢の卓に挨拶した。ろくに口をきいたことはないが、顔見知りだった。丈や三千子と、きょうだいでありながら全くタイプが異る。
「どうも。兄貴、元気でやってますかね? しばらく逢ってないうちに、すっかり全国的に有名になっちまったらしくて、大変なんですよ。他人にあれこれ尋かれるんだけど、弟のくせに兄貴のことを何にも知らないんだな、これが」
卓は屈托がなかった。高一にしてはひどく如才がない。
「あたしもよくわかりませんけど、お忙しいようです」
市枝は反射的に公式的な返事をして、苦笑したくなった。相手は先生の弟なのだ。しかし今の丈は、肉親に対するよりも会の方に存在の比重を移しているのが事実だからであろう。
「僕も有名人の弟扱いされて、こそばゆいですよ。今度の全国大会もそっちの方で注目を浴びちまいそうだな」
卓は柔道でいささか名を知られている。高校柔道界の逸材として注目を浴びているのだが、〝高校生教祖〟東丈の弟として逆に関心が集まってきたということらしい。
「お前も超能力を柔道に使っているんじゃないかと疑われたりして具合が悪いですよ。どうもやりにくくなったな」
「丈先生のご兄弟なら、超能力を持っていても不思議はないとみんな思うんですね」
市枝はちらりと三千子を振り返りながらいった。
「大迷惑ですよ。そんなもの、全然持ってないんだから。しかし、不公平だと思うな。三人姉弟で、兄貴だけ超能力の一人占めっていうのは」
「でも、本当はあるのに気付かないだけじゃないんですか? お姉様も卓さんも......自分には超能力なんて関係ないと思ってた人がずいぶん講演会などで目覚めていますよ。お二人とも講演会にいらしたらいかがですか?」
「へえ。兄貴の講演を聞くと、超能力が出てくるんですか?」
興味を惹かれた顔の卓は思い直して、あわてて首を振った。
「やめた、やめた! どうも超能力は得体が知れなくて苦手でね! 僕は四次元オンチだから、それより市枝さんも超能力者なんですか?」
「いいえ、あたしは全然......卓さんといっしょです。きょうだいには超能力者がいますけど、こちらはなんにもなし」
「その方が気楽でいいじゃないですか。ないものねだりで生きる人生って、いかさないですよ」
卓は明朗にいった。三千子がはっとするほどの率直さであった。鴨居に頭をぶつける恐れからやや猫背になった巨軀を、市枝に向けて屈めるようにして喋る。
「卓ちゃん、失礼よ、そんないいかた」
と、三千子がたしなめる。
「まあ、いいじゃないですか。超能力が人間、生きて行く上に絶対必要で不可欠ってことはないんでしょ。だって、ないのが普通なんだから。病気や障害を持っている人だって世間には沢山いるんですよ。なのに、五体健全のくせに更にそれ以上のものをほしがるって気持、僕にはわからんな。市枝さんの弟、全身麻痺だったんでしょ? その時は、普通でありさえすればと祈るように思ったはずなんだ」
卓はひどくカラッとした、陰湿さの欠如した調子で喋った。
「だからさ、ないものねだりって、人間を不健全にするんだな。初心に戻るって大事なんだよね。僕なんか、万事恵まれてるんだから、これで超能力なんて、みんなに悪いよ。づけづけいってご免なさい。気にしないでね。でも、今の市枝さんを羨しがる人間は沢山いるってことは確かなんだよね。そうじゃない? そう思うでしょう?」
「本当ですね。おっしゃる通りだと思います」
市枝は素直にいった。なぜ卓がこんなところでいきなり率直さを開陳するのかわからなかったが、その言葉はひどく心にしみた。
「反省しないとだめですね。あたし、内を見ないで外ばっかり見ていたんですね。頭でわかっているだけじゃだめなんだって、よくわかりました」
市枝はくり返し礼を述べながら、辞去した。白磁のような肌理のこまかい顔が、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
三千子は門の外まで市枝を見送った。いい忘れたことが沢山あるような気がしたが、口にはのぼってこなかった。夜目にも白い手を振ってから、足早に歩き去って行く少女が愛しくてならなかった。脆い束の間の美しさをめでる情感が胸に迫った。絶望的なないものねだりで破壊的な運命を引き寄せたもう一人の少女、久保陽子のことを思い出さずにはいられなかった。
市枝が全身に漂わせている、必死な気配、死物狂いの切望が彼女の運命を狂わせなければよいが......そう思わずにいられなかった。
「なぜなんだろうな。つい口からポロッと出ちゃったんだよ」
と、卓は三千子に注意されてもけろりとして答えた。自分がきわめて無遠慮だったという自覚はあるらしい。
「そんな気はなかったんだけどね。ま、そんなによく知ってる人でもないし、立ち入ったことを喋るなんて、我ながら変なんだよね」
しかし、たいして気にしている様子もなく、風呂を浴びに湯殿へ入ってしまった。卓は非情緒的なほど頭の切り換えの早い人間なのである。
結局、卓の指摘は要を得ていたのかもしれない、と台所でガスのヴァルヴを捻りながら、三千子は思った。味噌汁を暖めにかかる。
市枝は超能力を欲するあまり、危険な道に踏みこみかねないことを、卓はなぜかあっさりと看破してしまったのである。結局、自分の代りに卓が忠告してくれたようなものだ、と彼女は思った。いささか率直すぎたかもしれないが、市枝にはそれが必要だったのかもしれなかった......
ガス・レンジにかかった鍋が加熱されるにつれて、味噌汁の香ばしい匂いが舞い上ってきた。丈はちゃんと食事をしているのだろうか、と心は自動的に考えを追う。今年になってから帰宅したのはわずか二回にしかすぎない。渋谷の平山ビルに詰めきりで仕事に没頭している。田崎宏の〝無名塾〟には毎夜のように訪れるようだが、自宅まで足を伸ばすことはしない。
忠実な杉村由紀を初めとする多くの人々が丈を世話している。何も懸念する必要はないとわかっているのだ。
もし丈がこの期に及んで、姉の三千子に助言を求めて駆け込んで来るようなことがあれば、それは異常な変事といわねばならなかった。丈はすでに偉大な預言者として離陸し、姉の助言など必要としない巨大な存在に育ってしまった。
箱根セミナーの会場で、今頃丈は何をしているのだろうか、と三千子はとりとめもない思念を追った。夕食や入浴をすませた研修参加者を集めて、質疑応答をやっているかもしれない。丈の育成しようとする弟子たちは、今後どのような活動を展開して行くのだろうか。
丈の意図は、やはり井沢郁江のように目覚めた超能力者を増やして行くことにあるのだろうか。しかし、一方では久保陽子や高鳥慶輔のように軌道を踏みはずし気味の超能力者も出ているはずである。のみならず丈の目的が、超能力の開発育成にあるのならば、多くの人々が追随できず落伍して行く羽目になる。
超能力を求めても得られぬ人々は、いったいどうなるのだろう。木村市枝は、屈折した心を抱きながら、三千子自身のようにただ丈の活動を見守るしかないのであろうか。
だが、超能力を持つ者はしょせんは少数派であり、持たざる者こそ圧倒的な多数派であろう。一握りの超能力集団で何ほどのことが可能か、丈にわからぬはずがない。木村市枝のような立場にある〝持たざるもの〟をどのように指導するかによって、今後の丈の活動は大きな転機を迎えるのかもしれない。
多くの事がいっせいに活性化し、沸騰して来たようであった。いったいこの先、十年後にはどうなってしまっているのだろう? 幻魔大戦はどのような趨勢を辿っているのであろうか?
木村市枝のように十年後の世界から訪問した〝未来の自分〟に是非とも尋いてみたいものだ、と三千子は思った。しかし、自分には十年後などあるのだろうか。
いかに目を凝らしてみても、未来は冷暗の中でぷっつりと跡切れ、消え失せてしまっているように思えてならなかった。そして、荒涼たる廃墟が平らに押し潰されて横たわっている光景が瞼の裏に映ってくるばかりであった。
それは三千子が幼時に見た、一木一草生えていない、戦火の吹き荒れた後の暗く冷たい焼跡の光景につながっていた。
燈火を一点も持たない荒廃の闇を、ただ風だけがもの悲しい叫びをあげて渡っている。三千子がいかに目を凝らしても、そうした〝未来〟しか映って来なかったのである。
3
一九六八年一月二十七日。箱根セミナーが週末の両日かけて開催される初日の土曜日、井沢郁江は池袋のデパートの屋上で〝幻魔の康夫〟と最初の接触を持とうとしていた。
真冬のデパートの屋上は、ひどく閑散として、寒風だけが吹きまくっていた。さすがに空っ風に吹きさらされることを苦にしない物好きな客はほとんど見当らなかった。
ピンクの柔らかいスウェーターを着た郁江は、閑散とした灰色の空間でひどく場違いに可愛らしく、可憐に見えた。まるで真冬の荒野に咲いた一輪の花に似ている。
あれでよく寒くないものだ、と同行したボディガード役の松岡高志は、ダッフルコートの立てたえりの中で首をすくめた。
拳法の寒稽古でみっちりと鍛えてきた松岡ですらも、この吹きさらしの屋上はやりきれない寒さである。防寒具でがっちりとガードしているならともかく、井沢郁江は寒風を全部透してしまうような薄手の上品なスウェーターと朱いミニスカートで平然としている。
スキー用の分厚いスウェーターではないのだ。ふわふわとけばだった可愛いピンクのスウェーターは、松岡に抱きしめたいような情念を喚起した。郁江を、ではなく、可憐なスウェーターを抱きしめたいのである。
郁江を抱くなど、松岡には畏れ多くてとうてい考えられない。それは神聖な女神を、肉と同列の低次なレベルに引きずりおろそうとする不遜な行為であり、敢えていうなら冒瀆行為に他ならない。
ふっと心がそうした夢想におもむく前に、松岡は罪悪感のきびしい圧迫を覚えてしまうのだった。郁江の肉体を考えるなど、赦されないことであった。そのかわり、松岡は軽度のフェチシズムに傾いていた。郁江本人ではなく、郁江の肉体が触れるもの、所持物にただならぬ憧れを抱いてしまうのだ。
空はどんよりと鈍色の密雲に覆われた雨模様である。ことによると雪でも降りそうな気配で、風は体の芯まで凍らせそうに冷たい。松岡など黙って立っているだけで、体に慄えが来そうなのに、郁江は平然として、寒そうな顔も見せない。まるで春風に吹かれているみたいに明るい顔色をしている。鈍い灰色の屋上で、郁江の佇む部分だけやわらかい光が射しているように華やいでいた。
革ブーツを穿いているが、スカートはミニである。可愛い膝小僧から上の腿の半ばまでが真冬の寒風に吹きさらされている。
生体エネルギーのレベルが常人より遙かに高いせいだと松岡にはわかっている。郁江は卓抜な心霊医師の才能があり、松岡はその卓効のほどを肌身で知っているのだった。あの高鳥が〝念〟をかけて松岡を痛めつけた時のことだ。腸がちぎれるような物凄い苦痛を、郁江は生体エネルギーを注入することで、あっさり療してしまった。
以来、松岡の女神に郁江はなったのだ。何事によらず、信頼は絶対である。
「こんな所に、本当に〝幻魔の康夫〟は来るんですかね」
と、松岡がこっそりとささやく。
「だって、向うから指示してきたんだもの」
郁江は生きいきした頰を松岡に向けたまま答えた。松岡がダッフルコートに着ぶくれていながら頰をそそけだたせているのと対比的であった。
屋上の片隅には緋鯉売場の大きなガラス水槽、対面の盆栽売場が向い合い、わずかな数の客と店員の姿が見られた。
〝幻魔の康夫〟はこの殺風景なデパートの屋上を会見の場所として指定してきたのである。時間は午後三時であり、郁江たちが到着してから数分過ぎ去っていた。
郁江は振り向いて、緋鯉売場を見詰めた。つるつる光るウィンドブレーカーを着た若者がこちらへ歩いてきた。松岡と郁江の視線を受けて首を振る。やはり塾生の井上修である。寒そうに粉を吹いたような顔でやってくる。
「いない?」
と、郁江が尋ねる。
「いそうもないですね。何も感じないですよ」
と、若者は顎の関節が油切れになったような口調でいった。
「人も少いし、すぐにわかると思ったんですがね。やっぱり悪戯で誘い出されたんでしょうか? こんな場所で逢おうなんて、おかしいと思ったんですよ」
「どこかで、こっちの様子を見ているんじゃないかな」
と、郁江がいった。
「松岡君たちがいるので、警戒して近づかないのかもしれないわ」
「しかし、郁江さんを一人にしとくなんて、できませんよ。向うの罠かもしれないし」
と、松岡がすかさず抗弁する。
「向うはおびき出す気かもしれないでしょう? 郁江さんを一人にしたら、僕らボディガードの意味がなくなりますよ」

「でも、相手に逢えなきゃ、ここに来た意味がないわ。大丈夫、まかしておいて。相手は臆病でビクビクしているんだと思うわ。それにあたしは〝光のネットワーク〟で護られているし、何も心配要らないわ」
「しかし、万一のことがあったら......」
松岡がしぶる。
「井上君だって超能力者でしょ。危険になればわかるわよ。そうじゃない?」
「まあ、わかると思いますが......」
井上は曖昧にいった。
「今のところ、全然何も感じませんから。〝幻魔の康夫〟が本当にここへ来てるかどうか疑問ですね。いったい何のつもりで呼び出したのか」
「彼は、江田四朗の方を警戒してるのかもしれないわよ。だって仲間の幻魔を裏切ろうとしているんですもの。用心深いのは当り前だと思うの。とにかく、この場をはずしてくれない? 建物の中に入って階段の所で待機していてほしいの。何かあったら、すぐ駆けつけられるでしょ?」
「ええ、まあ、そうですが......」
松岡は気が進まないようであった。
「せっかく来たんだもの。無駄足はしたくないわ。それに幻魔があたしを襲うとしたら、こんなに手間暇かけるかしら。一日中ボディガードがついているわけじゃないんですもの。あたしが一人になるチャンスをいつでも狙えるはずだわ。そう思わない?」
「そりゃ、そうですが、しかし......」
「いいから、相手に少しだけチャンスを与えてみましょう、ね? 五分間だけ一人で待ってみて、もし相手が現われなかったら帰るわ。いいでしょ、それで?」
「そうですか......」
郁江はしぶる松岡をようやく説得した。責任感の強い若者は満身で不同意、不満足を表明していた。
「五分間ですよ、郁江さん、今から五分間」
松岡は自分の腕時計を突き出して宣言した。
「五分経ったら迎えに来ますからね、いいですか」
「いいわよ。でも、相手が出て来てあたしと話していたら、邪魔しないでね」
二人の若者はようやく郁江を残して、離れて行った。
「井沢さんにまかしとくんだな。心配ないよ」
と、井上が気負い立って落着かぬ松岡をなだめている。井上修は松岡と同年だが、飄々としたところのある青年である。松岡のように嚇っと来ずに、いつも冷静だ。古風にも杖術などをたしなんでいるが、本人は絵描きの卵だ。変り種の塾生だが、やはり田崎や松岡とは過去の縁生を持っているらしい。井上の超能力は〝天耳〟だそうである。常人には絶対に聞こえるはずのない微小な物音を聴きとる能力だという。恐ろしく鋭敏な感覚の持主なのであろう。
郁江自身も時折、霊覚というべき五官の感覚拡大を経験することがあるから、その感じはよくわかる。波動に対して敏感になるのだろう。南半球で起きた地震をキャッチすることさえ可能になるのだ。他人には決してわからない地殻の変動が明確に感知でき、後で新聞報道によりそれを確認することが幾度となくあった。
一人取り残された郁江は、空っ風に吹かれながら、周囲を見廻した。何の変化も生じない。彼女に接近を計る人間もいない。強い寒風の吹き荒れる屋上へ出て来る物好きな客は彼女の他に一人も存在しなかった。屋上の各所に設置されているコイン式望遠鏡の一つに向って歩いて行く。
相手が接近して来るのを待つ他はなかった。しかし、五分間などすぐに経ってしまうだろう。
郁江は望遠鏡のコインを入れるスリットに十円玉を落しこんだ。カタリと音がして、レンズの前の覆いが開き、接眼レンズに光景が映り始めた。二分間だけシャッターが開いていて、望遠鏡の機能を果すのである。カメラのセルフ・タイマーのような唸りが聞こえている。
郁江は接眼レンズに目を近づけ、見たくもない展望を眺めた。これも相手の指定である。コイン式望遠鏡で景色を眺めさせて、どうするつもりなのか。その指定に従わないので、相手は姿を見せなかったのかもしれない。
「何か面白いものが見えますか?」
と、背後で声が聞こえた。
「そのまま、そのまま。振り返らないで。そのままでも話は出来ますから」
軽みのある声音であった。郁江は反射的に振り返ろうとする動作を停めて、望遠鏡を眺め続けた。
「あなた、〝幻魔の康夫〟なの?」
郁江は声を落着かせて尋ねた。さすがに後ろを振り向きたい衝動を抑えつけるのは容易なことではなかった。
「我々の間での、あなたの呼び名よ。仇名ってところ」
「へえ、そうですか。あんたが東丈先生の代理人の井沢郁江ちゃんね。うちの方でも、あんたはとっても有名ですよ、ほんと」
軽々しい喋り方で、たしかに〝幻魔の康夫〟の由来がわかる。軽薄であった。その分だけ警戒心を喚起しない。
しかし、その語調には基調ともいうべき嘲りのトーンが感じられた。人を小馬鹿にする喋り方である。
「別にありがたくもないわ。命が危くなるんですものね」
「久保陽子が帰ったでしょ。用心しなさいよ。彼女はいきなりコロッと変るから。ま、いってみれば、時限爆弾みたいなものよ。油断させといて、ドカン......ってわけ」
声はしだいに軽薄さを増し、おねえ言葉になってきた。振り向きたいのを我慢するのには、かなりの意志の力を必要とした。
「あなた、本当に幻魔なの?」
「そうよ。疑うなら証拠を見せてあげる」
「証拠って何?」
「その望遠鏡で、正面の高層ビルを見てごらんなさい。**火災保険って看板が出てるでしょ? その屋上を見てごらん。面白いものが見えるわよ」
ひどく女っぽい調子であり、本当は女なのではないかという気さえしてきた。郁江は望遠鏡の向きを動かし、いわれるままに高層ビルを探した。
屋上に人影が見えた。望遠レンズが妙にのっぺりと平板にした光景の中で、その人間はやはり写真のように二次元的な立体感の乏しさをもって視野に映じた。
あっという声が郁江の喉を漏れた。
「ね、面白いでしょ?」
と、悦に入ったように声が含み笑う。
屋上に佇んでいるのは郁江自身の姿だった。写真やその他のものでないことは、髪が風で吹き乱されて動いていることでもわかる。現実の存在なのだ。
郁江のドッペルゲンガーは、風に目をほそめるようにして、郁江本人を見返した。視線がはっきりとぶつかり合った。望遠時に起きがちな錯覚ではない。まぎれもなく向うはこちらを見返しているのである。
向うはブレザーを着ているので、ピンクのスウェーターの本人とは服装が異る。しかし、いつもの郁江の服装をそっくりコピーしているのは明らかだ。感嘆の声が郁江の唇を漏れた。
向うの郁江が笑いかけるのを見て、背中を冷たいものが波動した。妖しい微笑であった。ぞっとせざるを得なかった。
そのとたん、視野が暗く閉された。二分間が過ぎ、望遠鏡のシャッターが降りてしまったのだ。
4
郁江はあわてて、ポケットから摑み出した十円玉をコイン・スリットに押し込んだ。バラバラと屋上の床に何枚か硬貨が落ちたが、構っていられない。
「ね、面白い見世物でしょ?」
嘲りをこめた声がいう。それが常人と異る点であった。幻魔の属性ともいうべき波動かもしれなかった。
「ドッペルゲンガー......」
と、郁江はようやく呟いた。
「そう、ドッペルゲンガーよ。ドッペルゲンガーを見た者は死ぬっていういい伝えがあるんでしょ?」
声はすっかり女っぽくなっていた。甘い声音だ。女として聞いても異和感はまるでなかった。ざわざわと総毛立ってくる異妖さである。
「でも、心配しなくてもいいわよ。あんたは殺したって死にそうもないもんね、郁江ちゃん? 不死身なんでしょ?」
「振り返ってお話ししてもいい?」
郁江は望遠鏡の視野の中の己れ自身を茫然と見詰めながら尋いた。
「だめ。振り向かない方がいいわよ。このままだってお話しできるでしょ?」
「でも、逢った時に、名前も明かすし、顔も見せると約束したはずよ」
視野の中の郁江は、強風に髪を吹き乱されながら、デパートの屋上の郁江を見返している。ドッペルゲンガーではない、と郁江は思った。あれは別人が自分に化けているだけだ。自分とは雰囲気が違う。妖しくて無気味な感じが強い。
「だって、あなたは東丈先生じゃないもの。代理で来たんでしょ」
「そう代理よ。あたしは幻魔問題担当の代理というわけなの」
「面白いわね」
相手は含み笑っている。郁江は振り向こうという衝動を辛うじて抑制し続けていた。後ろ髪がふわっと逆立ってくるようだ。
「だから、あたしは今後ともあなたの担当ということになるわ。もう少し仲良くしてもいいんじゃないかしら?」
「でも、用心しないとね。だってあたしは江田四朗からすると裏切者だし、もしわかったら大変なことになるもの。当然でしょう? そのあたしにしてみると、東丈先生が直接来ないで、代理が来たというのはショックなわけよ。相手が誠意を示さないのに、こっちだけが危い橋を渡るわけにはいかない。そうじゃないかしら?」
〝幻魔〟の声音は完全に女そのものになりきった。しかも、その声音、抑揚には聞き憶えがあり、郁江をぞくりとさせた。
「あなたがもし本気で先生に逢いたがっているなら、こんな面倒なことをする必要はないんじゃないかしら? 直接先生に逢いに行けばいいんだもの。ということは、つまりあなたは本気じゃないということにならないかな?」
「本気よ、もちろん。でも東丈先生はばっちりと看視されてるし、もしあたしがのこのこ逢いに行けば、あたしの裏切りがすぐにバレちゃうじゃない。だから、いろいろ面倒な手順を踏んで安全を計るわけ。わかるでしょ? 今回のコンタクトは、そちらがどの程度誠意があるか、ちょっと試してみたわけよ」
「あなたに質問があるの」
と、郁江は構わずにいった。
「あなたがもし本当に幻魔なら、なぜ江田四朗を裏切って、あたしたちに情報を流してくれるのか、その動機を知りたいの。なぜなのか話してくれない?」
「なんとなく面白そうだからよ。あんたたちに興味があるのね。あたしが味方についたら、どんな風に形勢が変るか知りたいし」
「好奇心? ただそれだけ?」
「必ずしもそれだけじゃないけどね。江田四朗のバカに一泡吹かせて、鼻を明かしてやりたいということもあるわよ。江田のバカは、ボス風を吹かせてハナモチならないものね。だから、東丈先生に肩入れして、江田のバカが地盤沈下を起こすとこを見たいって、そういうわけ」
「江田四朗を憎んでいるの?」
「ダサイから好かないのよね。頭が悪いくせに、権力意識だけ強いってバカ、割といるじゃない? だから裏切ってやるわけ。江田のバカが泣きっ面搔くのを見るのって楽しいもの」
「それだけ? 他に何か動機はないの?」
「あんた、相当猜疑心強いじゃない、郁江ちゃんって」
相手はケラケラと乾いた奇妙な笑い声をたてた。
「ま、無理もないけどさ。そう簡単に信じろっていったって信じきれないわよね。ま、手初めに久保陽子のことを教えたけど、他に一つ二つ教えてあげる。あんたこの間ヤクザともめたでしょ? 気をつけた方がいいわよ。ちょっと危いのがヤクザを〝吹く〟から......それから、箱根でセミナーやるっていうけど、そっちにも江田が動くかもしれない。ま、たいしたことにならなければいいけどね。またそのうちに教えに来てあげるわよ」
声が跡切れた瞬間、松岡の太い声音が割りこんできた。
「郁江さん! どうしたんですか? 大丈夫ですか!?」
郁江は弾かれたように振り向いた。背後には長身の松岡とひょろりとした井上が立ち、危惧の色を目に浮かべていた。
「ね、今、ここにだれかいた!?」
郁江はあわただしく周囲に視線を走らせ、松岡のダッフルコートの前を摑んで揺すぶった。
「だれもいませんよ。郁江さん、だれと話してたんですか?」
松岡もつられて、屋上を見まわした。
「何か郁江さんが話しているのはかすかに聞こえました......だれもいないのに変だなと思ってたんですが」
「本当にだれもいなかった?」
郁江は井上にも確認をとった。井上が頷く。
「本当に郁江さんは一人で喋っていたんですよ」
松岡は顔を総毛立たせていった。寒風よりも冷たいものを感じているようだった。
「ちゃんと相手は来てたわよ。松岡君たちにはそれが見えなかっただけ......」
「まさか......」
郁江はポケットの十円玉をかき集め、コイン式望遠鏡のスリットに入れた。視野に映るビルの屋上にはもはや〝ドッペルゲンガー〟の姿はなかった。一場の幻を見せられたような心地がした。
郁江は望遠鏡から目をはなし、茫然とした面持で背後の若者たちを振り返った。
「ちゃんと来てたのよ、〝幻魔の康夫〟がここに......そうじゃなくて〝幻魔の郁江〟といった方がいいかもしれないけど」
相手の声音や抑揚、喋り方に憶えがあるのも道理だった〝幻魔〟は郁江の声音をパロディーとして演じていたのだ。望遠鏡の視野の中に郁江の〝ドッペルゲンガー〟を登場させたのも、〝幻魔〟の冗談であったに違いない。いかにも幻魔らしい毒々しい、えげつないおふざけといえた......郁江は初めて悪寒を覚えたように、ぶるっと体を慄わせた。
それはまったく無気味な冗談であった。
5
「幻魔が郁江さんのすぐ後ろにいたなんて、信じられない。だって、郁江さんの喋る声しか僕には聞こえなかったんですよ!」
松岡高志は躍起になったようにいった。
「それとも、幻魔の声は、郁江さんにしか聞こえなかったんですか?」
「いや、聞こえた」
と、寡黙な井上がぽつりといった。井上の耳はひどく大きい。いわゆる〝ダンボ耳〟である。〝天耳〟だというだけのことはありそうであった。
「郁江さんと話している相手の声は、ずいぶん遠くで聞こえた」
「松岡君には聞き取れないくらい微かな声だったわけね」
郁江は肩をすくめた。
「幽体で来てたのかと思ったけど、そうじゃなかったのね......でも、生体エネルギーをだいぶ吸い取られたみたい。ちょっと寒くなってきたわ」
「大丈夫ですか。顔色が蒼いですよ。そんな薄着だから......建物の中へ入りましょう」
松岡は張り切ってダッフルコートを脱ごうとした。郁江に着せかけようというのであろう。郁江は微笑して、松岡の手を抑え、首を振った。
「大丈夫。すぐに治るわ。でも、相手が幻魔だってことは間違いないみたい。本当に魔法じみたことをやってみせるのね......奇術みたいなものだけど、びっくりした」
「びっくりぐらいですめばいいですがね!」
松岡は郁江の肩に手を廻した。
「さ、急いで下さい。本当に風邪引いちまう! 雪がパラついて来たじゃないですか!」
「雪はパラつくじゃなくて、チラつくというんだ」
と、井上がいった。一言居士なのかもしれなかった。
「しかし、箱根の方は大丈夫かな?」
「それが、大丈夫じゃないみたい。幻魔のいい草だと、江田四朗が動いているらしいわ。どんな動き方をするのかわからないけど」
「しかし、幻魔が本当のことをいっているとは限らないわけだ」
と、井上が後についてきながらいった。吐く息が灰色になっている。
「真実と噓を交ぜれば、いくらでも相手を混乱させることができる」
体が冷えきってしまって、デパートの店内に戻っても、しばらくは慄えが停まらなかった。
「これも幻魔の手なんじゃないですか? こっちに風邪を引かせようっていう魂胆で......絶対に悪意がありますよ」
松岡が今更のように歯を鳴らしながらいった。逞しい長身の持主のくせに、寒さにはことのほか弱いらしい。
「そうね。幻魔の本質は悪意のかたまりだもの。親切心を期待する方が間違っているんじゃないかな」
郁江が笑っていう。もう寒さは追い払ってしまったらしい。顔色も生気を回復している。売場はうってかわった暖房過剰の温気でむっとしていた。土曜日なので混雑した店内の人いきれのせいかもしれない。
「こっちの不安をかきたてるのがとてもうまいのね。暗示的なことをいっては、こっちが想像力過多で悩んでしまうのを楽しんでいるのかもしれない。さすがに幻魔だけあって一筋繩で行かないみたい。でも、面白いけどね」
「面白い? あんまり吞気なことをいわないで下さい」
松岡は真剣であり、不安そうであった。
「すぐに箱根へ連絡して、警備を強化しなくちゃいけません。今回は講演会じゃないんで、塾からは五人行っただけですからね。心配ですよ」
「ま、滅多なことは起きないと思うけど」
郁江は落着きを取り戻していた。幻魔との接触はショッキングではあったが、興味深くもあったからである。
「どうしてそんなことがいえるんですか? セミナーだからというんで、あまり警戒していないはずなんですよ」
「幻魔の狙いが、こちらの不安をかきたてることにあったら、まんまと乗せられることになるじゃない?」
「ま、そりゃそうですが......すると、〝幻魔の康夫〟は江田四朗を裏切ってるんじゃなくて、本当の狙いは、こっち側を攪乱することにあるんですか?」
「なんともいえないけどね、それは。ただ非常に面白い動き方をしているということだけはいえる。調子がよくて、なかなか本音を摑ませないタイプね。陰々滅々の江田四朗なんかより、あたしは好き」
「冗談じゃありません。仮にも幻魔を好きだなんていわないで下さい」
生真面目な松岡が心配していった。
「もちろん、幻魔は幻魔よ。軽視なんかできないわ。ただはっきりわかったことは、幻魔はあたしたちの動静にものすごく詳しいということね。マン・ツー・マンで看視をつけられているかもしれないわよ。だから、弱身なんか作ったらすぐさまつけ込んでくると思う。お二人とも気をつけた方がいいんじゃないかな?」
「今も尾行されてますか!?」
松岡は緊張を逞しい巨体にみなぎらせて、客で混雑した店内を見廻した。
「べつにそういうわけじゃないわ。幻魔にはあたしたちが何をやっているか、お見通しという気がするの。向うには精密なモニター・カメラか何かがあって、こちらの動静をいつでも好きな時に見張れるっていう感じ。だから、だれも見ていないと思って、怪しげなことやいい加減な手抜きはできないわよ、松岡クン」
「僕は別に疚しいことはしてません」
松岡は赤くなり、郁江のきらきらと光の躍る眸から目をそらした。井上はけろりとしている。
「こうなると、プライバシーなんかなくなっちゃうわね」
郁江は笑っていった。
「でも、神様なら別に困らないし平気なのに、幻魔だと困っちゃうのってなぜかしら? 幻魔は弱身につけこんで来るのに、神様はやらないから、甘く見てるわけかな?」
「そうかもしれません......とにかく僕は疚しいことはしてませんよ。こっちの階段を降りましょう。人が多すぎるから......」
松岡は弁解がましくいい、郁江をエスコートした。
「もう幻魔と接触するのは止めて下さい。相手の狙いがよくわからないし、物凄く不安なんです。郁江さんをうまく誘い込むのが目的なのかもしれないし......僕らの力じゃ護りきれないのが心配なんです。だってどんな超自然的な手を使うかわからないでしょ? さっきだって、魔法じみたとんでもない手を使って接触を計ってきたし......何を始めるかわからないっていうのは、ひどく精神衛生上よくないですよ。ちょっとの間でげっそりと瘦せたような感じがする......」
「そんなに心配しすぎないで。向うの策略に乗ったのかもしれないわよ」
デパートの階段を下りながら、郁江が警告した。
「心配性になって取越苦労ばかりしていたら、大切な行動力を奪われてしまうじゃないの。時には火中の栗を拾う気概がなかったら、幻魔とやりあってなんか行けないわよ。松岡クン、天命を信じたら? 使命があったら、死のうとしたって天が死なせてくれないもの。あたしにはよくそれがわかっているの。萎縮したらだめよ......もっと天を信じなさい。あたしがびくともしないのに、松岡君が恐れててどうするの?」
「郁江さんは強い人ですね......」
「そうよ、あたしは強くなったの。一メートル五六センチ、四十三キロのこの小さな体で頑張ってるのよ。松岡クンみたいに大きくて強い男性がびくびくしててどうするの? そんなことじゃ、反対にあたしが松岡クンのボディガードをしなきゃならないみたい」
郁江はよく撓う可愛い手をひるがえして、ぴしりと松岡の幅の広い背中を打った。さすがに松岡は痛そうな顔は見せなかった。
「いや、そうじゃなくて、僕は郁江さんの身を心配しているんです。自分のことだったら、そんなに悩みはしません。いくら僕でも二十四時間、ずっと郁江さんのボディガードはできないし、幻魔が超現実的な方法で襲ってきたら、どう防げばいいのか......」
「だから、天を信じなさい。〝光のネットワーク〟がある以上、幻魔はそうしたくてもできないんだと信じなさい。幻魔は超現実的手段で襲わないのではなくて、襲えないの。しないのではなくて、できないのよ。取越苦労をやめないと、被害妄想になっちゃうわよ。天が信じられないなら、こんなに天を信じているあたしを信じなさい。どう、松岡クン、あたしを信じられる?」
「もちろん信じます! 郁江さんがそんなに強いのに、俺が弱っちいのは困りますから!」
松岡は力をこめて答えた。あまり大声で答えるので、階段を登ってきた女店員が振り返った。ぷっと吹き出して階段を駆け登って行く。
「あたしは、心配事は天におまかせという主義なのね。その分だけ頑張って努力すればいいんだもの。苦楽一如というけど、あたしって楽しいことを見つけだすのがうまいの。すぐに見つけだしちゃうの。さあ、これから箱根のセミナーだ、みんなが待ってると考えると簡単に嬉しくなっちゃう。小田急の特急で箱根へ行くなんて、遠足気分になっちゃうのね。やるべきことは山のようにあるけど、青筋立てたり油汗を流して、青息吐息でなんかやりたくない。めいっぱい楽しんじゃうの。その方がいいと思わない、松岡クン?」
「そ、そう思います!」
「箱根で何か大変なことが起こったらなんて心配するの、やめましょう。楽しいセミナーが待ってるんだもの。ね、〝光のネットワーク〟を信じましょうよ。〝信は愛、信は力〟っていうでしょ?」
「わかりました!」
松岡は他愛なく元気を回復した。郁江の存在はこの若者を限りなく賦活化することができるのだった。箱根まで特急電車で、この美少女と同行できるという考えは、現金なほど彼を活気付かせた。もともと郁江といっしょにいるだけで無上の幸せを感じることができるのだった。
「〝信は愛、信は力〟なんて箴言があったんですか?」
と、井上がいった。
「だれの箴言ですか?」
「さあ、知らないわ。ひょっこりと口を突いて出て来たから......でも真理はだれがいっても真理よね」
と、郁江はけろりとしていった。
「今から大急ぎで行けば、夕食に間に合うかしら? あたし、合宿って好きなの。囲りにいるのがみんな親しい仲間って感じが......とっても幸せ。みんな、長い長いつきあいなんだなって感じがシミジミして来るから」
「家臣団に囲まれてって感じかな?」
と、井上がいった。
「郁姫様と家臣たち......」
「あたしだって、地上に出るたびにお姫様やってたわけじゃないと思うけど」
「でも、その気位が、いや気品がやはり隠せぬお姫様の素姓で......」
「我々塾でも絶対にセミナーをやるべきだ!」
と、松岡が思い入れをこめていった。
「でも、塾は毎日がセミナーみたいなものじゃないの。合宿だって自由に出来るし」
「でも、郁姫様がいませんよ。本当は塾の方が縁生からいっても、郁姫様と関係が深いはずなんだ。それを会にとられてしまっているんです」
「会も塾も、あたしにとっては同じ。同じ比重を占めてるの。だって、先生が会長であり、塾長なんだもの」
「そりゃ、そうですが......」
松岡は何かしら不満そうにいった。
「では、塾でも研修を企画するといいわ。会からも参加できるようにして。そうすれば相互の交流ができるでしょ? あたしも必ず参加する」
「しかし......会の方で敬遠するんじゃないですか? どうも塾を一段低く見下げるという風潮があるみたいで......」
「そんなことないわ。もし、そんな気分を持つ会員がいるとしたら、丈先生の精神を全然わかっていない人たちよ。丈先生の説かれる宇宙観に共感して、ともに歩もうという者たちが、同じ同志を差別したり見下げたりしたら、全然資格がないということだわ!」
郁江は階段を下る足を停めて、強い調子でいった。
「松岡君もそんなことでひがんだり劣等感を持ったらだめ! 同志でありながら互いに排撃しあう心が生れてしまうじゃない。会と塾は丈先生にとって車の両輪みたいなものよ。両輪が互いに協力しなかったら、車は動かなくなってしまうじゃない。つまらない誤解を捨てなかったら、それこそ〝幻魔の標的〟よ。わかるでしょ? 幻魔がどうやって攻めてくるか、松岡君だって知ってるはずよ。あたしの身を心配するより、松岡君は自分の心がどっちを向いてるか点検すべきだわ。そうじゃないかしら?」
「わかりました、すみません!」
松岡は姿勢を正して素直にいった。長身で逞しい強壮な若者が小柄な郁江の前で、子供のようにかしこまっていた。
「僕の心得違いでした。反省します。丈先生もお忙しい中をいつも塾へ来て下さっているのに、つい馬鹿なことを考えてしまいました。申しわけありません」
二人のやりとりを、井上は階段の手すりにもたれ、茫洋とした表情で見ている。仙人風の雰囲気を持つ絵描きである。四角四面の松岡とは対照的だ。
「もし仮に、そんな心得違いの会員がいるにしても、必ずその不心得を訂正させられることになるわ」
郁江は真面目にいった。
「そんな浮わついた人間は、会にいられなくなるのよ。自分から去ってしまうわ。今までの会でもそうだったし、今後はもっとはっきりする。今回のセミナーに参加しなかった人たちに多いと思うけど、自分で自分を疎外してしまうの。電気分解の原理って知ってるでしょ、松岡クン?」
「ええ、一応は......」
「陽イオンと陰イオンにはっきりと分離してしまうわね? あれだと思うの。類は類を持って集まるという科学法則だけど、これは宇宙法則だと思うのね。心が〝光のネットワーク〟に向いていない、自ら反撥する人たちはセミナーに絶対参加しないわ。だから、高鳥君なんか誘われても断わってしまうわけ」
「彼は来ないんですか」
松岡の顔が明るくなる。
「他にもいろいろ。だから、気にすることないの。本当は、その人たちの心得違いを訂正させてあげる親切が必要なのかもしれないけど......」
「僕はあまりつきあいたくありません」
松岡は正直にいった。
「彼らが箱根に来ないのはありがたいです」
「そんなこといわないの。こちらから排除することなんかないのよ。向うから寄りつかなくなっちゃうんだから。あれはだめ、これは厭なんていちいち排斥してたら、心がとっても狭くなっちゃう。仲間だけでいることに満足して、そのうち物凄く独善的になってくるわよ。すでに素晴らしい仲間を持ってるなら、もっと寛大になってもいいと思うのよ。そうじゃないかしら?」
「すみません。自分の心にそういい聞かせているんですが、なかなかいうことをきかなくて」
松岡は頭に手をやって恐縮の意を表した。
「自分の心なのに、まったく自分の自由になりません。変なものですね。客観的で冷静な心と、物凄く我儘でエゴイスティックな心が同時に二つ存在するみたいなんです」
松岡は窓外に目をやり、郁江の顔から視線をそらした。郁江と向い合せの座席に座ったのは気がひけるばかりで、彼にとっては試練といえた。郁江のよく光る眸を絶えず意識する羽目になったからである。
郁江は鞏膜の部分が青みがかったきれいな眸でなんの邪念もなく彼を見詰める。それだけで松岡は他愛なく胸がどきどきして、汗が滲んでくるのである。それを箱根湯本までの一時間半ものあいだ、特急の向い合せの座席に膝を突き合わせているのは、まさに試練以外の何ものでもなかった。むろん苦痛をもたらす試練ではない。
郁江の体つきにはえもいわれぬ魅力がある。中肉中背だが、均整がとれているという以上に愛くるしい。だれでも目を強く惹きつけられずにはいられない。無類に愛らしいので、わけのわからない情念をかきたてられてしまう。それは男にかぎらず女性にも同じ反応を引き起こすようである。
妖精としかいいようのない郁江を目のあたりにしていると、松岡はしだいに困惑が高じてくる。目の遣り場がなく、どうしていいかわからなくなってしまうのだ。
淡々としている隣席の井上が信じられないほどであり、羨しい。井上には彼のように困ってしまうことはないようなのだ。
郁江は膝の上にルーズリーフのノートを広げ、しきりに読み返している。丹念に書きこまれた万年筆の字でノートが埋まっている。どうやら箱根まで一時間半を勉強ですごすようであり、松岡は多少気が楽になった。
6
灰色の冷たい夕靄に包まれた沿線風景が、広い特急の車窓の中を滑って行く。車中喫茶のウェイトレスがしきりに通路を歩き廻っている。
「何か飲み物でもいりませんか、郁江さん?」
と、畏るおそるお伺いを立てる。
「あたしはいらないけど、お二人ともよろしかったらどうぞ」
郁江がノートから顔をあげていう。
「俺はいいよ」
と、井上が首を振る。胸の前に両腕を組んで居眠りでもしているような恰好である。なぜそんなにリラックスできるのか不思議でならない。松岡など郁江の身辺にいるだけで、心臓を握りしめられているような息苦しい情念の虜になってしまうのだ。
「すみません、勉強の邪魔をしてしまいまして」
松岡が詫びる。大げさな奴だなという顔で隣席の井上が見る。この画学生には生ける女神への崇敬の念が乏しく、松岡を時折、憤然とさせる。実直な松岡の傾倒ぶりが可笑しいらしいのだ。もし井上が想像上で郁江の衣服を脱がせ、裸婦の素材として見ていることが松岡に知れたら、殴り殺されるに違いないのである。もちろん郁江は井上の視線は一向に気にしない。松岡のように視線の遣り場に困り、ぎごちなく上を向いたり、横を向いたりの首の体操をやるよりも、むしろ厚かましい視線の方が気にならないのである。
昔からぶしつけな視線には慣れていて、無意識の遮蔽の上を横滑りさせてしまうすべを心得ている。相手がどんな妄念を描いていようと関係がないのだ。
「いいのよ。セミナーで発表する研究の点検をやっているだけだから、別に学校のお勉強というわけじゃないの」
「セミナーというと、今やっている箱根のセミナーですか?」
松岡は不思議そうな面持で、郁江が頷くのを見ていた。
「郁江さん、研究発表するんですか?」
いかにもその両者がそぐわないといいたげであった。
「厭だな、そんな不思議そうな顔して。大学のゼミだって同じようにやるでしょ?」
「そりゃそうですが......」
「だから、幻魔に関する考察の発表というわけ。あたし、丈先生から幻魔問題研究担当を委嘱されてるでしょ、それで......」
「凄いなあ、それじゃ講師並みじゃないですか? 郁江さんも本を出版されるんですか」

「まさか。あたしなんかに本は書けないわ。あたしなりに幻魔について感じたり考えたりしたことを皆さんの前で発表して、参考に供するだけよ。そんな大げさのものじゃないの。みんな、幻魔のことをとても知りたがっているでしょ。得体が知れないから、必要以上に恐れるとも思うの。だから、幻魔についてもう少しきっちりと整理してみる。それが先生の希望でもあるわけ」
郁江は最近やっと丈を先生呼ばわりするのが不自然でなくなったところであった。どうしても東君という慣れた呼称が飛び出してしまい、それを切換えるのに相当な努力を要さざるを得なかった。
「箱根までしばらく時間があるから、ここでちょっとリハーサルをやってみたいの。お二人とも聴衆になって下さる?」
「是非聞かせて下さい」
「いいですよ」
松岡は熱意を表明し、井上は腕組みをしたままいった。
「どうせ暇なんだから......ここならボディガードの必要もまあないだろうし」
「暇潰しにでもなればいいわ」
不快そうな顔で井上をじろりと睨む松岡をあやすように郁江はいった。
「さっき、松岡クンが自分の心の中には、二つの異質な心が同時に存在するという意味のことをいったでしょ?」
「ええ、どちらも自分の心には違いないんですが......」
「一つは客観的で冷静で、第三者的に判断できる心で、良心ともいうべき心よね。感情的にならずに自分の考えや行動を批判できる心。自分が他人に噓をついてる時、ははあ噓をついてるなって観察できて、それはいけないことだという反省の基準になる心......つまり、決して瞞されないかしこい目をみひらいている良心というわけね。あたしのいう意味わかるかしら?」
郁江はルーズリーフを閉じて膝の上に置き、確認を求めて、向い側の二人の若者の顔をしげしげと見詰めた。井上がやや眠そうな顔で首を頷かせた。多少は興味があるという表情だった。松岡はもう夢中である。もっともこの強壮な若者は、郁江が九九を暗誦していても夢中になったであろう。
「自分自身に対して噓がつけないのは、この良心という看視者が見張っているから。どんなに噓の名人でも、他人に対して巧妙に噓をつけばつくだけ、良心にじっと視られていることを意識せざるを得ないでしょう? この良心という看視者は悪人でも持ってるのが面白い所ね。自分には良心なんかないという人たちも当然存在するし、何を隠そうしばらく前のあたしもそうだったんだけど......」
二人ともへえ......という顔で郁江を見た。
「やっぱり自分が何をやっているのか、それがいいことか悪いことかおのずとわかるわけよ。自分は善人なんかじゃないと自覚できるのは、やっぱり良心があるからでしょう。
つまり、あたしが思うには、人間の本質というか、人間を人間たらしめる共通項はこの良心じゃないかと思うんだな。まあ、動物ってあまり良心に関係なく暮してるしね」
郁江はしだいに話に熱が入ってきて、少年っぽい喋り方になった。
「善悪とか正邪とか倫理モラルなんて、しかつめらしく考えるのはやっぱり人間だからよね。あたし、しばらく前はよく自己嫌悪にとり憑かれてたの。他人に厭な感情をもったり、悪意のある仕打ちをしたりすると、自分が厭で堪らなかった。自分は良心なんてない人間だと思ってたけど、そんな自分が厭だと感じる心がとりも直さず、あたしの良心だったわけね。それではたと気付いた......目から鱗が落ちたの。実はそれを指摘してくれたのが丈先生だったのだけど、それをきっかけに自分の心に対して猛烈な興味を抱いたの。
自分がどんなに幼稚で阿呆な人間か気付いた時、その基準になる心こそ良心だとわかった。
ついでに心って多重構造というか、同心円みたいに多層で出来ているんじゃないかという気がしたの。円というより球といった方が正確かな。
とにかく、心が荒れて醜い感情が煮えくり返っている時、それは非常に表面的なもので、いわば波打ち騒ぐ嵐は海面近くだけで起こり、深みへ行けば実に静かになる......心の深部にあるのが確固として冷静で決して主観的にならない良心なんじゃないかとわかったの」
郁江はルーズリーフを開き、白紙にボールペンで手早く図解して見せた。リンゴを断ち割ったような図を描く。
「つまりね、あたしが怒ったり憎んだり、焦立っているのは、ほんの表面の皮一枚というところなのね......じっと心を鎮めて自分の荒れた情動を観察してみると、まさに上っつらだけで生じてる嵐なのね」
「へえ、怒りとか憎しみは、ほんの表面的なものなんですか?」
「そう。そこで、松岡クンのいったもう一人の幼稚な自分、いくらいい聞かせても納得しない我儘勝手な、理不尽な心なんだけど......そうこうしてるうちに、ふっと心というものが見えちゃったの」
「見えた? 心がですか!?」
「そう。風船みたいな形をした自分の心がね。そして幼稚で身勝手な、暴君じみた心が、実は本当の自分じゃないんだ、偽りの自我なんだということが見えてしまったわけ」
「............」
二人の若者は不審そうな、理解を絶したという目をしていた。
「本当の自分じゃないといういい方はおかしいけど、決して本来の自分じゃない。つまり良心こそ本来の自分であって、偽りの自我は心の表層に垢みたいに溜まってこびりついてるようなものだと気付いたの。変ないい方かもしれないけど、わかるかしら? 人間にはだれしも、小さな子供にだって、欲望があるわよね。もの心つく前からのことを、じっと想い起こしていると、欲望のままに動かされて生きてきた自分が見えてくる。自分の思うようにならず、欲望が満たされないと、怒ったり泣いたりして、自我を押し通そうとする幼い自分が見えてくる。
もちろん、嬉しいこと楽しいことも思い出してくるわ。だけど人間って欲望の塊みたいなもので、こんなにちっちゃい子供の時分から、無数に挫折を重ね、苦しみを繰り返してくるのね。お母さんは自分のライバルで、いつもお父さんを独占しようと取り合いをしていた。あたしはなんでも自分の思い通りにならないと我慢ならない性質だったから、挫折や敗北が許せないわけ。また父親があたしを猫可愛がりするものだから、あたしは物凄く傲慢になり優越感をもって勝ち誇っていたの。あたしを〝姫〟って一番最初に呼んだのは、父だったのよ。ちやほやされているうちに、本当にお姫様みたいに我儘になってしまったみたい」
「お父さんの気持、わかりますね。小さいころの郁江さんは、物凄く可愛い女の子だったんじゃないですか?」
と、松岡がいった。
「それでメタメタに可愛がってしまったんでしょうね」
「別に父のせいにするわけじゃないけど、そんな我儘な育ち方をして、挫折や失敗、敗北が自分に許せなくなってしまったのね。いつも自分が特別な存在、お姫様でなければ我慢がならない。もちろん良心があるわけだから、いつもブレーキがかかってくるけど、他人に対してチヤホヤすることを常に無意識のうちに期待しているのね。
あたしってスター的な要素があるものだから、小学校、中学校といつも主役を演じてきたの。いつも特別な存在として自分を意識してきた。だから親しい友人が一人もできなかった......あたしに対して強い関心をみんな持ってくれるんだけど、あたしは寄せつけないところがあるし、向うでもある程度以上は踏みこんで来ない。ちゃんとした人間同士のつきあいができないの。いわば、あたしが必要としていたのは讃美者であって、友達じゃなかったのね。
でも、中学三年の時、はたとこんなことをしていたら駄目になると思ったわ。普通にならなきゃいけないって思った。良心の声がやっと耳に届いたのかも。こんな歪んだ不自然な性格は直さなきゃいけないって決心したわけ。でも、それでもうまく行かなくて、やっぱり親友はできなかった。もちろん本当の親友なんて求めても簡単に得られるわけじゃないけど、人を突っ放す癖が、習い性になってしまってたのね。たとえば他人を一メートル以内の至近距離に入れることができないの。
やっぱり数十メートルも距離を置かないと心が安まらないのね。もうお姫様って気質がしみついちゃったみたい。相手が親しげに近寄って来ようとすると、すっとそっぽを向いてしまうの。ごく自動的にそうなってしまうの。だから、相手の立つ瀬がないわよね。愛想よくしていたあたしに近寄ろうとすると、態度が急変して冷やかになり、突き放されてしまうんだから......」
「噓みたいだ。郁江さんはそんなに性格ががらりと変わってしまったんですか?」
「以前のあたしを知ってる人なら、みんな信じられないって驚くかもね。でも、それは口でいうほど簡単じゃなかったわ。だって長年かけて形成した心の癖ですものね。どうしたって人が近づいてくると、自動的にというか反射的にすっと身をかわそうとする自分がいるの。心を開いて他人と波動を交わしあうということがとっても意識的な努力を必要とするわけ。
特に相手が長い間嫌ってきた人間だと、容易なことじゃないの。話すだけで自然に顔が硬ばってきてしまうでしょ。でも、勇気を出して頑張っているうちに、だんだん慣れてくる。思っていたほど辛くもないし、だいたい相手がそんなに厭な不快な相手じゃないとわかってくる。それでまず最初の難関を突破したわけね。次は、面倒だ、煩わしく疎ましいという気持がだいぶ弱まってくる。なぜ自分がそんなに相手を頭ごなしにわけもなく嫌っていたのかなって不思議な気分になってくる......それで自信がついたわけ。自分の気持をきちっとコントロール出来るという自信。そして自分にとり厭なこと、苦労を避けようとするのが自己逃避だったということがはっきり吞みこめるの。
一度苦労を避けて逃げようとすると、それが習い性になってしまうのね。苦労に対して想像力が活発に働いて、とっても恐怖心が高まってくるの。そうなるともう苦労と対決して片付けるなんてことが思いもよらなくなってしまう。いつも逃げて、他人に頼り、助けてもらおうという依頼心の虜になってしまう。自分自身をとめどもなく幼稚で無能な人間にして行ってしまう。
どこかで勇気を出して、逃避に歯止めをかけなければならない。さもないと自分自身の幼稚さ、愚かさから一生の間脱け出すことができないでしょう?
あたしにとってもっとも必要だったのは、勇気を出して、他人を許容することだった。最初はおずおずと、必死に勇気を奮い起こしたけれど、慣れるのは簡単だったわ。つまり苦労を避けようとする恐怖心が自分を萎縮させ更に大きな苦労を招き寄せるという悪循環が一方にはあり、他方にはそれと正反対に、他者との信頼関係が一層自信を強化する望ましい循環が生じてくるの。わかるかしら?
人々とうまく行ってる、信頼関係が育ってるという自信が恐怖心を克服させて、ますます楽になってくるの。もうだれと会っても恐くない。大嫌いだった人間と逢っても、顔が硬ばってくることもないし、心に余裕があるから、誤解を解消しようとする気にもなれる。
たいていは、相手を嫌う理由が無意味なもので、誤解や偏見から生じたということ、とりも直さず自分の身勝手さ我儘の産物だということがわかるわ。それどころか、自分が相手にとてもお世話になっているのに、そんなことは忘れて、相手の非を責めることばかりに熱心だった......感謝なんていう気持が薬にしたくてもなかったという事実に気付くことになるのね。
全ては自分の未成熟で幼稚な偽りの心が造り出した幻想だったとわかることもあるわ。自分でももて余していた性格の歪みの原因が、幼い時分にさかのぼって内省していると、次々にわかって解消されて行く。
滅茶めちゃにこぐらかって固いコブになっていた紐が、ひとつずつすっと解けてくる感じに似ているわ。もう手がつけようがないと諦めていたけれど、辛抱強くほぐして行くと、ちゃんと解けて行くのね......
紐がこぐらかってできた固いコブというのが、他人を憎む気持、恨む気持なの。丹念にほぐして行くには、その時の自分の気持を甦らせなければならないわけ。それは思いだしたくない、辛い苦しい気持だってあるわ。なんで忘れたがっている厭な記憶をわざわざ引っ張りださなきゃならないのかって、猛然と反撥する気持が湧いてくる。
それが性格の歪みの元凶であり根元でもある〝偽りの自我〟の反撃なの。でも、冷静な、公平に判断できる第三者の視点で、〝偽りの自我〟を穏やかに説得するわけ。聞き分けのない物わかりの悪いヒステリ女みたいな自分だから、手間がかかるし、大変だけど、腹を立てたり焦ったりせずに、いい分をよく聞いてやり、その上で説得するの......」
「大変なことなんですね」
松岡は驚嘆の色を浮かべていた。
「郁江さんは、それを全部一人で考えられたんですか!? どうしてそんな凄いことができるんですか......郁江さんはまだ十七なんでしょう?」
「丈先生だって十七だわ。それにあたし一人で考えたというより、先生に沢山示唆を与えられたから......あたしこれまで、徹底的に自分自身をうんと幼いころまでさかのぼって反省した、心を大掃除したって初めてのことなの。反省が嫌いというより、厭な記憶は心の奥底にぎゅうぎゅう押しこめてしまって、とにかく忘れてしまおう、それを今更掘り返すなんて愚の骨頂だと信じていたのね。
だから、大反省って今度が初めて。もうそれは目もあてられないというか、ひどいもの。まるで心がどぶみたいになっていて、なんでもかんでも汚い物が押しこめてあるのね。もう厭だ! と悲鳴をあげて抵抗し、猛烈に反抗するのが〝偽りの自我〟なの。それを諄々と説得しては引っ張りだして洗い浄める。過去のその時の記憶を甦らせるの。
物凄く辛く口惜しい、堪えきれないほど悲痛な記憶を引き出すと、その時の気持が甦ってくる。子供の時の意識がふっと出てくるのね。口惜しくて泪をポロポロこぼすわ。それはだれかに意地悪された心の傷で、今はもう忘れていたみたいだけど、本当は心の奥底でその時のままちゃんと存在しているの。
誤解され、意地悪されて身も世もないほど悲しく口惜しかった気持が、その時のままちゃんと出て来るのよ。これくらい驚くことはないわ。人間って本当に過去を忘却するってことは決してないのね。テープレコーダーみたいに何もかもそっくりに記録されているみたい。
で、心の中に惨めに深く傷ついた小さな女の子がいるの。その子が訴えることを聞いてあげるわけ。親切な相談相手として話を聞いてあげて、誤解があれば解いてやるし、相手の立場について考えさせるように助言を与える。徹底的に納得するまでいい分を聞いて、説得するの。自分が悪かったとわかるまで話してあげる......
相手との立場の違い、誤解、話の行き違いをはっきりさせて、徹底的に納得するまで話し合う。
もし、どうしても自分に非がなくて、一方的に相手が悪い、悪意をもって自分を陥れたというような場合は、相手を赦してやるというところに誘導するの。相手は哀れな、心の貧しい人間で、自分を抑えきれずに悪どいことをしたんだ......でも本当は可哀そうな人間なんだって。だれでも良心があることを否定できない以上、その相手の心は自分以上に深く傷ついているんだって......
自分自身も白紙のように潔白な人間ではないし、他人を沢山傷つけているのだから、良心のトガはわかっているわけ。だれだって思いだすとああ、と呻きたくなるようなひどい仕打の一つや二つは他人に対してしていると思うの。孤りでいる時、ふと思い出してしまうと大声で叫びだしたくなるような恥しい記憶がだれしもあると思うのね。
そのことを、他人に傷つけられ、こんなに惨めになったと訴えて止まない自分にいい聞かせる。自分だって同じことなんだ、同じように他人を傷つけ、今自分を恨んでいる人がいるかもしれない。
その人に対してはご免なさいと心から詫びるしかないじゃないか。人に赦してもらいたいと思ったら、お前も赦してあげなさい。その人だって本当は悪いことをしたと知っているし、お前の赦しを求めているんだから、って......」
松岡と井上は息を吞む思いで、向い合った座席の郁江の顔を見詰めていた。郁江が驚くべき思想を淡々と喋っていることが、彼らにも本能的にわかっていた。郁江がこれほど平易で明解な言葉を用い、語っていることは、人間の心を根底的に改革してしまう奇蹟そのものであった。
郁江の顔はなんの気負いもなく穏やかだった。自分がどんなに素晴らしい自覚への道を説いているか、まったく意識していないのではないかと思えるほどだった。
「うまく説得できることもあるし、失敗することもあるわ。どうしても厭だ、相手を赦したくないといい張って、説得を受け容れない場合もあるから。でも、ちょうど今の自分がその年頃の実在の女の子の相談相手になってあげるように、とことんいい分を聞いてあげると、だんだん自分の落度や過ちに気付いて行くものなのね。
相手ばかりが一方的に悪いわけじゃなくて、自分にも落度があってこうなったんだ、と心から納得すると、固いコブが解けて行くの。すうっと心のお荷物が消え失せて、心がその分だけ軽くなり、爽やかに清々しくなるのが実感できるわ。
どうしても赦せない、死ぬまで憎み続けてやるんだと固く決心していたのが、ちょうど大きな木の根っこみたいに掘り出してしまうと、それだけであっけなく消えてしまったことがあるわ。まるで幻影のようなものが恐ろしいほど心に重圧をかけていたのね。
それっきり噓みたいに素直になってしまったの、自分が......他人を嫌ったり排除するなんてまったく意味がないと完全にわかってしまった。同時に癌も消えてしまったのよ。
だから、あの癌というのは、これを自分に気付かせるために存在したんだなって、本当に無理なく納得できたわ。悪いことといえども、それ自体が啓示なんだってはっきりわかった。
もちろんそれを気付かせてくれたのは丈先生だし、自分一人でわかったわけじゃなくて、先生の悟りをあたしもお裾分けしてもらっているんだなって思うけど」
「お裾分け、ですか?」
松岡はつい一か月足らず前に、眼前の美少女が致命的な癌にむしばまれていたことを思い起こした。それは戦慄的な気分に若者を誘った。
「そう。丈先生の悟りというのは、宇宙エネルギー量の爆発的な増大を意味するわけだけれど、それが身辺にいたあたしにまで及んだ......それが悟りのお裾分けという意味。今思えば簡単なことなんだけど、簡単なことを悟るのが一番大切なのね。人間はだれでも目に鱗がはりついていて、単純な真実が見えなくなっているのよ。その鱗というのは既成概念のことなんだけど......その目の鱗を落すのは容易なことじゃないの。丈先生みたいに特別なエネルギーを持っている人でないとできない業なのね。
一度教えられてしまえば、あるいは人によってはなあんだというような単純な真理なんだけど、自分で気付こうと思ってもできることじゃないわ。そこが本当はむずかしいところなのね。もったいをつけないと有難味を感じない人もいるし、ちょっとひねくれていて冷笑的に受け取る人もいるから......
反省ひとつ取ってみても、なんだつまらないと思えば、それでおわりでしょ? 実行してみなければ、真価がわからないことなんだけど、頭からくだらない、つまらない、古いよと極めつける人がわりと多いんじゃないかという気がするの。画に描いたお餅をいくら見ても、味はわからないでしょ。実際に食べてみなきゃなんだって味はわからない。
反省、あ、もういい止めてくれという人たちをどう説得していいか、今のあたしにはわからないの。ただ自分の場合はこうでした、と一生懸命話すしかないんだけど......」
「きっとわかりますよ!」
松岡は熱くなっていった。
「今の郁江さんを見ていれば、だれだって必ずわかります? 井上だってこんなとぼけた面をしてますけど、本当はわかっているはずなんです。そうだろ、井上?」
「へっへ」
と、井上はつるりと顔を撫でた。
「まあ、おおよそのところは」
「ありがとう」
と、郁江はいった。
「あたしは努力なんて言葉は照れくさいし、使いたくないんだけど、嘲笑を覚悟でどうしても使わざるを得ないのね。そっぽを向く人たちの気持もわかるわけ。イモだな、スマートじゃないって感じもあるし、いい子振りやがってという反感もあると思うの。
反省、努力という言葉自体、手垢がつきすぎて古色蒼然としていて、衝撃力がないと思うのね。二宮金次郎的な、儒教的な刻苦勉励のイメージが強いし、どうしたって新鮮でない既成概念そのものなわけね。でも、これはいい換えても仕方がないし、斜に構えて冷笑的に世の中を見ようとしている人たちは、大真面目に、真正面から努力、反省とひた押しにされると、案外あっさりと狼狽して脆いんじゃないかという気がする。
現にあたしだって、丈先生のひたむきな直進力というかな、正面突破のエネルギーにあっけないほど動揺してしまって、皮肉で冷笑的なポーズが消し飛んでしまったもの。ここまで堂々と真正面から突っ込んで来られると、噓っぽかったり気障っぽかったりするニヒリズムなんていっぺんで根こそぎにされてしまうのね。気取りでしかないポーズなんて本当に脆いわ。それに心の底では、いつもこんなことしてていいのかなっていう反省の気持が動いている。イキがりやツッパリだけだと、正面突破のエネルギーで消し飛ばされてしまう。いつだって、本当は真正直な人間の方が強いのね。
だから、あたしも努力、反省でひたすら押すことにしたの。丈先生のやり方は正しいとつくづくわかる。本当のことをいっているんだなって相手にわからせるためには、口先だけじゃだめ。自信や信念の圧倒的なエネルギーがどうしても必要なのね。それは人間の生き方そのものだし、口先だけで調子よく喋ろうとする人間からは決して出て来ない波動だわ。全身全霊を挙げて生きている人間からしか、真実の圧倒的な波動は出て来ないのね......」
郁江の美しい眸はキラキラ光り、若者たちは息詰まる思いでただ頷いた。郁江は美しく迫力があった。人の心を捉え、魅する迫力であった。彼女の顔と同様、声音も熱して輝いた。郁江のいう〝波動〟が放射されており、それは物質的なエネルギー感をもって肉迫していた。
妙なことが起こったのは、その瞬間である。
7
──ちょっとびっくりしたわ、いきなりだったから、と後で井沢郁江は東丈に語った。
──いきなり松岡クンの座った座席の上から人の顔が覗いてね、何かいうのよ。強い調子だし、意味はわからないけど、こちらがあんまり大声で熱中して喋っていたから、苦情をいわれているのかなと思っちゃった。
でも、そうじゃなくて、素晴らしい! といってるらしいの。とっても感心したということを、座席の上から顔を出して一生懸命、表明しているわけね。こちらは何のことかわからずに困っちゃったけど......
──叱られたと思ったわけだね。
と、丈は面白そうにいった。
──その時の光景が目に見えるよ。郁江が大演説してる目の前に、おじさんの顔が、松岡君の顔と二段重ねになってニュッと出てくるのがね......
──特急がガラ空きだったでしょ。だから安心して話してたの。あ、いけないととっさに思ったわ。だってこう熱っぽく肉迫してくるような顔をしてるんだもの。威厳がちょっとあるけど、とても面白い人なのね。年配の立派な紳士なんだけど、あたしみたいな小娘に丁寧に頭を下げて、是非ともお話を拝聴させて頂きたいと申し出るんですもの、困っちゃった。
──困ることはない、僕も郁の車中講演を聞きたかったな。
と、丈はいった。
郁江は困惑したが、興味を感じてもいた。相手は六十年配の紳士だが、年寄り臭さはなく、矍鑠としている。頭はきれいに禿げているが、顔色は艶もテリもあり、元気いっぱいで活力があるとわかる。
体つきも逞しく、筋肉の存在を感じさせた。あとで七十三と聞いて、郁江を初め三人の若者は驚嘆した。その迫力ある老紳士が仁王立ちになって、郁江に讃辞を呈し、倦むことがないのである。
「いや、本当に素晴らしい話を聞かせてもらいました。私、感嘆いたしました。この年になるまでお嬢さんのように、たいへん平易な言葉で、大悟徹底した覚者にしか話せないことをわかりやすく話す方にお目にかかったのは初めてです。有名な師僧と呼ばれるお坊さんにも沢山逢いましたが、もったいぶっているものの全部受け売りとわかる説法で、少しも心を打たれるものがありませんでした。
お嬢さんのようにたいへんお若いのに、ちゃんとご自分の言葉で、だれにもわかるように正法を説かれる方にお目にかかったのは初めてです。これほど嬉しいことはありません」
以上のような内容のことを、老紳士はたいへん熱心に喋った。声音は大きく明快であり、迫力満点であった。背筋をぴんと伸ばし、ほとんど直立不動の姿勢で喋るのだ。
紳士の突然の出現で色めきたった松岡たちも、驚きは残るが警戒心をおさめ、老紳士の演説を聞くことになった。なにぶん郁江に対して大讃辞が呈されているので、ボディガードとして相手をとがめることに躊躇してもいた。
「お嬢さんはいい顔をしておいでだ。素晴らしいお顔です。まさに天女としかいいようがない。ただ美しいだけではなく、魂から出てくる輝きがある」
老紳士は感に堪えぬとばかり口走った。
「今日は家を出る前から、何かいいことがあるという気がしておりましたが、このことでした。ぱっと目の前にきれいな虹がかかるような感じがしておりましてな、予感はよくあたるのですが、まさかお嬢さんのような素晴らしい方にお目にかかれるとは夢にも思いませんでした......たいへん厚かましい話なのですが、ここへ席を移させてもろうて、お嬢さんの講話をいっしょに聞かせて頂けませんかな?」
老紳士は辞を低くして頼みこんだ。至誠ともいうべき色が興奮にあからんだ艶のいい頰に浮んでいた。
「あたしのような者の話でよろしければ、どうぞごいっしょに」
と、郁江はいささかも悪照れすることなくいった。
「でも、先ほどお坊さんの説法の受売りというお話をなさいましたけど、あたしのいっていることも同じなんです。あたしの先生の受売りなんです」
「それはちらりと小耳にはさみましたが、先生のお名前は?」
「東丈先生です。あたくしは井沢郁江と申します」
「東丈先生といいますと、高校生ということで有名な超能力者......昨今有名な大霊能者でいらっしゃる?」
「東丈先生は宇宙の真実について語っておられます。超能力や霊能は、物質を超えた巨大な目に見えない世界があるということの証明にしかすぎないといつも強調なさっています」
「それは素晴らしい考え方です。いや、お嬢さん......井沢さんを拝見していると、東丈先生がまぎれもなく本物の覚者だということがわかります。いや、これは信じられんくらい佳い日になりました。美しい虹が見えたのも道理、井沢さんにお目にかかるという前兆だったのですな......」
老紳士はひとりで喜び感動していた。
「いや、目の前が限りなくぱーっと展けて行く心地がします。これほど心が躍ったことは滅多にありません......何十年ぶりの大感動です。これだ、これだ! とさっきはつい大声を挙げてしまいました。では、失礼して井沢さん、隣りへ座らせてもらいます。なぜか体が慄えてなりません......お嬢さんが天女に見えますわ。こんな嬉しい晴れがましいことがこの世にあろうかという心地です」
郁江が笑い、若者たちも吹き出した。それほど老紳士は気取りがなく、無邪気だった。
「申し遅れましたが、私は高野といいます。孫娘にちょうど井沢さんの年ごろの子がおりますが、あまりにも違うのに驚きます。是非井沢さんのお話を聞かせてやりたい......井沢さんは東丈先生にお逢いしてから、人柄が変わったというお話でしたが、それは本当ですかな?」
通路側の空席に腰をおろした高野老人は、至誠と情熱をこめた口調で、質問した。
「本当です。あたしはひとりよがりな性格で、皮肉っぽくて、全然優しいところのない人間だったんです。自分は強い人間だから、だれの世話にもならず生きて行ける、友達なんて互いに甘ったれ合う人間なんて要らないんだと本気で思っていました。人嫌いで孤独な女の子だったんです。そのくせ人気はありましたけど、自分をチヤホヤしたり、すり寄ってくる相手が嫌いで仕方がありませんでした。
自分が本気になって生きていないことはわかっていましたけど、本気になるということが恥しいことでした。そうじゃないんだ、人間は本気になって生きた時に本質が現われてくる、その本質は明るくて素直でおおらかな魂の本質なんだ、と教えてくださったのが、東丈先生です。先生のおかげで、あたしは本気に生きるってことが少しだけできるようになったんです。今まで自分を締めつけて、息ができないような気分にさせていたのが、〝偽りの自我〟だということがわかりました。それがわかってから、本当に楽々と呼吸ができるようになったんです。恐怖もなければ、不安もない自分に、小さな子供のように素直で伸びやかな気持に、時々はなることができるようになりました。自分が何をすべきか、つまり人生の目的ということがはっきり吞みこめたからだと思います。ですから、躊躇らうこともなければ、拘泥わることもないんです。東丈先生を信じるということは、あたしにとって天命を信じるということなんです、わりと思ったことをそのまま口にしてしまっているんですけど、おわかりになりにくいというところはないでしょうか?」
「いやいや、よくわかります。井沢さんが真に執着から脱却しておられることがわかります。執われのない心で明るく自由に生きておられるのですな。ほんの年若いお嬢さんにそれができるとは驚くべきことです。この目で見、この耳で聞かなければ信じられない。純真なお嬢さんだから、それができるのかどうか......いやいや、やはり井沢さんが上根の方だからでしょう。たとえ受売りにしても、ご自分の言葉で、若い人たちにもわかりやすく法を説くというのは並大抵のことではありません。もはや受売りではない、ご自身の経験の中から出てくる教えです。法即行です。ご自分で少しも気張らず、正しい法をさらりと行じている......つまり実践しておられる。摩訶止観や脚下照顧という難しい密教の教えをだれにでもわかる言葉で説かれている。これは仏智というもので、仏教哲学を何十年も学んだ東大教授にだってわかるものではない。簡単なことほど大切なのだというのは、全く真理でありまして、難解な東洋哲学のボタ山の中では絶対に見つからない。前からそうではないかという気がしていたのですが、今日やっとそれが腑に落ちました......」
松岡たちはあっけにとられた表情で、高野老人を見詰めていた。郁江はにこにこして聞いている。
「まったくもって、ますます井沢さんの師でいらっしゃる東丈先生にお逢いしたくなりました。お弟子さんのあなたがこれほど素晴らしい方なら、東丈先生の偉大さは想像を絶しますな。期待で体が慄えて、年甲斐もなくわくわくしてなりません」
「きっとお逢いになれますよ」
と、郁江はいって、高野老人を更に喜ばせた。
「縁がある方なら、必ず先生にお逢いできます。縁がないとどんなに望んでも無理ですけど......高野さんは仏教のいろいろな難しい言葉をご存知のようですけど、お坊さんではないんでしょう?」
「いやいや、坊さんではありません。お布施などもらわずに生きております。ただわりあい昔から神だの宇宙的真理だのに関心がありましてな......それにこれはお坊さんではありませんが、たいへんユニークな面白い方、修験道をやっている〝だいかく先生〟という方にお目にかかり、いろいろ教えていただきました。風のようにひょっこりと私の会社を訪ねて下さいますが、こちらからはまったく連絡が取れぬという、常在定めがたい方でありまして、その〝だいかく先生〟がにこにこしながら、やあ! と入ってきてお話を聞かせて下さるわけです。まあ、仙人といった飄々たる風格を持たれた方でしてな......まあ私も仏教などという、葬式宗教、あるいは難解な煩瑣哲学と化した代物は好きではないわけですが、その〝だいかく先生〟が話して下さるのは、非常にわかり易くて面白い、ちょうど二千五百有余年の昔、中印度で釈迦牟尼仏が無知な民衆に説かれた時はこうだったろうと思えるような講話でして、今の印度哲学のコケ脅しの難解な奴を、当のお釈迦様にお聞かせしたら何とおっしゃるか......お前、馬鹿ではないかとおっしゃるに相違ない。当時のバラモン教が知と意だけにぬり固められ、庶民とは何の縁もなくなってしまった、それをお釈迦様がこんなものはだめだ、と大いなる悟りの中からだれにでもわかるやさしい言葉で法をお説きになったわけで、今さっきお嬢さんがご自分の体験を通して会得されたことを話されていたのが、まさに〝正法〟そのものだと思うのですよ。深遠なことをわけもわからずより難解にしてしまい、己れの権威付けに利用するのが坊さんや仏教学者の手合でして、こういう連中は難しいお経の文句は知っておっても、何もわかっていません。坊主でありながら、あの世なんてものはない、迷信だ、などと吐かす。迷信といいながら、平気で〝引導〟を渡してお布施を巻き上げている。これではまるで詐欺師そのものです。
今の宗教家はひっきょう知と意で固まっておりますから、知識だけは多いが、本当のことは何も知らん。一切合財、受売りです。言葉巧みに俗受けするように喋る奴ほど詐欺師同然の糞坊主です。〝空〟とは何かと尋いてもモニャモニャいうだけで答えられん。〝色即是空〟を尋いても同じです。わからないからありがたいんだ、写経をしろなどといいよります。あんなものいくら写経をしたって何の役にも立ちゃしません。だいたい釈迦牟尼仏は衆生の生きる道をわかり易い言葉でお説きになられた。それが文章になったのはお釈迦様が亡くなられて何百年も経ってからです。口伝えにされてきたものを、龍樹という印度の人が自分の頭でわかるものだけ選り分けて文章化しました。この男は学者ですから頭がいいだけあって、ここで難しくしてしまった。それが中国へ渡来して更にベラボーに難しくなっちまいました。お経といえば、日本ではチンプンカンプン、わけのわからぬものの代名詞です。もうお釈迦様が弟子に向ってわかりやすく喋ったこととは全く違う。枝葉ばかりがついて幹が見えない。わけのわからない方がありがたいということになってしまったんです。
お釈迦様の弟子といっても、無教養な連中が多い。そんなに難解な、哲学的な言葉を使って喋るはずがないんです。無知な民衆に講演するのだって、身近な例を引いてたとえ話をしてあげないと、なんにもわかりません。これだけ世の中が進んでも、深遠なる東洋哲学の講演会をだれが聞きに行きますか? 埃だらけの書物で肺を痛め目を悪くした碩学がですな、咳をゴホゴホやりながらモソモソ喋るのをだれが聞くもんでしょうかな。TVで〝ナポレオンソロ〟でも観る方がよっぽど面白いですよ。もう仏教など埃まみれになって死んでしまったといってもよい。胴欲な坊主の金もうけの道具にすぎません。
だいたいがですな、死人が出ますと、さっそく坊主が駆けつけて参りまして、枕許でお経をあげる。みんなあの坊さんのお経は下手だ上手だといっているが、意味なんかわかりゃしない。
わからないのも道理、当の坊さんだってわかりゃしないんです。それで当の死人が浮かばれますか? 生きてる時だってわけのわからんお経が死んでから急にわかるわけがない。
お釈迦様は生きている衆生に生き方を説いたので、死人に説法したんじゃありません。
もろもろの衆生よ、比丘比丘尼たちよ、よく聞きなさい、反省というのは大切なものなのだよ......という具合に説法しているわけです。さきほどお嬢さんが反省の仕方を話されました、あれを古代インド語に翻訳して、今の日本人が聞いても、なんのことやらさっぱりわかりませんな? それと同じことなんです。古代インド語、古代中国語でいくら素晴らしい法を説かれたって、現代の日本人にはわからない。まして死んだばかりで混乱してる新仏にわかりっこありません。だいたい日本では、だれでも死んだら仏になるといってますが、これくらい乱暴な話もない。
仏とは悟られた方のことで、生きている時、我欲だけで明け暮れて浅ましい執着のうちに死んだ人間が、死んだとたんに悟れるわけがありません。それをお経をあげれば救われる成仏できるなんてとんでもない話で、詐欺です。今の日本の宗教はほとんど全部が詐欺同然です。人間がきっちりと生きることがどんなことか、法を知って生きることがどんなに素晴らしいか、だれも説いていない。説けないんです。宇宙の真理を知らず、法を知らないからです。宗教家、僧侶は私利私欲の虜で根底から腐っております。末法の世だからです。
しかし、末法の世にこそ、真の法灯を掲げる覚者は現われる。これもまた真実です。だからさっき、お嬢さんのお話を伺った時、これだ! これだ! と感動のあまり叫んでしまったわけです」
高野老人は自分の長広舌に照れてしまったようであった。喋り出したら停まらなくなってしまったのであろう。
「その〝だいかく先生〟とおっしゃる方は、不思議な力をお持ちなんですか?」
と、郁江が尋ねる。
「そう、法力を持っておられます。物凄い霊眼の持主で、死者の霊や地獄霊がみんな見えて、自由に彼らと話をすることもできます。過去や未来もことごとく見通してしまうし、相手の人間の心もずばりと見破ります。もちろんそうした法力だけではなくて、法も説かれます......今の宗教はほとんど全部狂ってしまっている、滅びる時はS学会のような大組織のところでも一瞬だと申されていました。
私は最初、この方こそ正法を説きに来られた方だと思いこんだのですが、そうではないとご自身で否定されましてな。真の救世主、仏法でいう弥勒仏は間もなく降臨される、それはだれにも信じられないような形で行なわれる、と預言なされました。
年若い子供が大人たちに法を説き、導くだろうと申されたのです。その子供は古臭い間違った既成概念をことごとく覆すだろう......〝だいかく先生〟は私にそう教えてくれました。お前さんはきっと弥勒仏に縁生があるから、生きているうちにお逢いできるだろうと......」
「その方、〝だいかく先生〟は今どこにいられるかわからないのですか?」
「残念ながら......会社へお出でいただいたのも、もう二年も前のことになります。その時に弥勒仏が下生される日は間近いといわれました。どこの地にどのようなお方として出られるのかとお聞きしたら笑われましてな。今にわかるとそれだけおっしゃられました。お前さんの目が節穴でなかったら、と。それで先ほどご無礼したわけです」
「その方にお目にかかりたいですね」
と、郁江は呟いた。
「お話がしてみたい......」
郁江の頰に血の色がさしているのを若者たちは眩しい思いで見た。彼らにとっては、高野老人のいう〝仙人〟よりも目前の〝妖精〟の方がはるかに好もしく心惹かれる存在であった。
せっかくの貴重な車中の時間を、思わぬ跳び入りの老人に占拠されてしまった恨みの方が若者たちには強かった。老人は意気込んで長広舌を振るうが、郁江の話のように強い関心をそそられない。
──関係ないのに、という気分であった。とんだ迷惑であり、特に松岡などは正直なのでむっとふくれた顔になってしまった。特急はすでに小田原に近づいている。老人が小田原で下車することを痛切に願わずにいられなかった。
8
が、若者たちの期待は空しく、結局高野老人は終点の箱根湯本まで同席することになった。高揚しきっている高野老人は憮然たる若者たちには気付かぬげに独演会の様相を呈したが、郁江は終始、興味深げに聴いていた。
高野老人の話は面白く味があって、幾度も郁江を笑い転げさせた。郁江の研究発表のリハーサルは尻切れトンボになってしまったが、彼女は少しも気にしていないようであった。眸をキラキラ輝かして高野老人の話に聞き入り、屈托なく笑う。思いがけぬ人との出逢いを楽しんでいる郁江を、若者たちは屈折した目の色で不満げに見た。郁江を見知らぬ他人に奪られてしまった不快さと嫉妬を隠せないのだった。
郁江が活きいきとして新鮮で、楽しそうに見える分だけ、若者たちの意気は沈下した。
「そういえば、〝だいかく先生〟も人間には〝善我〟と〝偽我〟があるといっておられましたな」
と、高野老人は郁江の方に体をねじ曲げるようにして熱心にいった。松岡は老人が必要以上に郁江に体を近づけているのが気に食わず、むっとして睨んでいるが、相手は少しも気付かない。熱心さのあまり、郁江の体に手をかけかねなかった。対話する時に、相手の体のどこかを摑まないと気がすまないという人間がいて、高野老人もそうらしかった。
「〝だいかく先生〟には霊視すると人間の心が見えるそうで、ちょうどお嬢さんのおっしゃったように、まるくふくれた風船のようだといわれておりました。まあ、俗に円満な心といいますが、まさに円満な人の心は風船のようにまるく、怒りっぽい人間、恨みつらみの強い人間、ノイローゼのような人間は、本来まるい心が歪んでしまっているそうで、〝だいかく先生〟は相手の心を見ればどんな状態にあるか、一目でわかるといっておられました。面白いのは、現在恋愛中という男女は、風船のてっぺんがへこんで両側がふくらみ、ちょうどハート型そっくりの形になるのだそうで......」
「えっそれで恋愛とハート型は付き物なんですか!?」
郁江は目を瞠り、弾けるように笑い出した。
「恋をすると、心がハート型になっちゃうんですか!? 面白い......」
「まあ、昔から霊視のきく人はいたわけで、恋愛はハート型と、ちゃんとわかっておったのですな。見る人が見ればわかる......」
「でも、どうして、まるい心がへっこんだり、ふくれたりするんでしょう?」
「〝だいかく先生〟がいわれるには、心には本能、知性、感情、といったような部分があるそうで、知性が縮んで感情と本能が膨張すれば、例のハート型になるんではないですかな。〝恋は盲目〟というでしょうが......」
「本当! 面白いわ!」
郁江は喜んで手を叩いた。
「怒りっぽい人はいつも感情がふくらんでいるから、心が歪んでしまうんですね?」
「そうそう!」
「じゃ、冷酷な人間は、知性だけがふくらんで感情や本能とのバランスが崩れて、やっぱり歪んでしまう?」
「その通り。お嬢さんはさすがにわかりがお早い」
「では、あまりまるい心の持主って多くないんじゃないでしょうか? 現在は不平不満を持ったり、欲求不満で苛々している人間がとっても多いでしょう?」
「まさにおっしゃる通りですな。むっと腹を立てるだけで、みるみる心がいびつに歪んで来ますからな」
松岡はどきりとしたような顔になった。まるで自分の心を視られている、そんな狼狽にとり憑かれてしまったのだ。
「あたしなんかどうでしょうか? あたしってわりと頑固なので、あんまりまるくないって気がしますけど」
「お嬢さんの心はきっとまるくて、きれいな白い光が出ているでしょう。頑固というより意志強固なのではないですかな? 人間の心は形の他に色もありましてな、怒りにもえる心は真赤な炎の色です。ほら、後光というのがありますな? 仏像の背中に光が出ていたり、聖人や天使の頭に光の輪がかかっていますが、あれは本当にあるのだそうですよ。きれいな心の人ほど光は強くなるし、怒りに燃えれば光は真赤な炎になり、色情に燃えればピンク色の光になる。俗にピンクムードなどといいますが、霊視のきく人が見れば、ピンク色、桃色に見えてしまうんですな......」
「面白い......」
「そう、面白い。心の汚れた人間からは全然光が出て来ない。切れた電球みたいに真黒になってしまいます。世に偽善者ということがいわれますが、うわべだけを上手につくろって、内心は悪でドロドロという者など、霊視してみれば、後光など何もなくて、心は真黒です。これも見る者が見れば、すぐにわかります。人間は、やはり心が肝心で、だれにも内心はわからないと思ったらとんでもない大間違いです......」
にこやかな高野老人の眼がにわかに炯々と光った。松岡は思わず目をそらしてしまった。眼光ではだれにも引けは取らないと自負していたのだが、思わぬ不覚だった。こいつはただの年寄りじゃないぞと心を引締めて見返すと、もう柔和な目に戻ってしまっている。
「だれでも心の内まではわかるまいと高をくくっておりますが、決してそのようなことはありません。汚い心はそのうちに姿形にも現われてきます。ただちょっと時間がかかるだけなのです。しかし、人の心の中まで即座に見通す〝力〟の持主がいるとわかっていれば、だれしも己が心を引締めるでしょう」
「高野さんは、人の心が見えますか?」
と、郁江が尋ねた。高野老人が笑って首を横に振る。
「しかし、お嬢さんには見えるのではありませんかな?」
「わたしは見ようと思って見ることはないんです。思わぬ時にさりげなく見えることもあります。東丈先生が、霊的な力に頼ってはいけないといつもおっしゃっているので......わたしも気にしません。自分から見ようと思うことはないんです」
「ますますもって、東丈先生は真物ですな。霊力に頼る者は正法を見失いがちなものです。その方が面白いからです。しかし、いかに霊力に優れても、心が正法から離れては何にもなりません。多少霊視がきくからといって、それにばかり気持がいっていますと、化かされることがありますからな。人間を見きわめる基準というものは己が心に存するものであって、外にあるのではない。それを忘れると、地獄霊に化かされ、翻弄されることになります。地獄霊は巧妙に変化して如来、菩薩にも化けることがあります。自分には霊眼があるなどと気負うのは大変な間違いです。これを生兵法は大怪我のもと、というわけです」
郁江は熱心に頷いて聞いていた。
「先ほど、〝善我〟と〝偽我〟の話をなさいましたけど、それは霊視できるものでしょうか?」
と、彼女が質問する。
「いや、それは聞いておりません。背後霊はもちろん見えるわけでしょうが......やはり、〝善我〟〝偽我〟というのは、光の量のことではないかと思いますがな。すなわち、〝善我〟のよく顕われた人の心は、明るく強く輝き、〝偽我〟のふくらんだ人間の心は暗く光を失ってくるということではないですか」
「でも、〝偽我〟といえども、やはり自分自身ではあるのでしょう?」
「それはそうでしょうな。ただもの心ついて以来自分で育ててきた偽りの自分、我欲によって産み出されたもう一人の悪しき自分といえますな。お嬢さんのように若ければ、退治するのも容易だが、私のように年をとりますと心についた垢を取るのは大変なことです。なぜもっと若い時分に法に触れなかったかとうらめしくなります。このお二方のように若くして、偉大な法を知り、あなたや東丈先生から教えていただけるのは、素晴らしい幸運です。しかし、多少手遅れ気味ではありますが、私も頑張るつもりですが......」
松岡と井上は直接話しかけられ、照れくさそうに頷き返した。
「偽我というのは、今おっしゃったように、心の垢なのでしょうが、わたしの感じではとても幼稚な我儘でヒステリックな、育ちきらない人格という気がするのです」
と、郁江がいった。
「ことごとくわたしのいうことに反撥しますし、反抗していうことを聞きません。でも対話することはできるんです。──何いってんのよ、いい子ぶって......とあたしの偽我は必ず反撃してきます。──あたしはそんなことしたくないわよって必ず宣言するんです。ともかく楯を突き、自分をとことんまで主張します。その主張は全部が全部自己本位な、己れの生き易さだけをあくまでも貫こうとするものなんです。自分さえよければいい、という徹底的なエゴイストです。ちょうど理も非もわからない我儘な小さい子供と本当にいっしょなんです。
でも、辛抱強く説得しているうちに、あ、これがしばらく前の自分だった、と気付くんです。自分と合体していた偽我がすっと抜け出し、分離してしまっている、とわかります。心の垢が分離して浮き出してしまっているんですね。しばらく前までは、それは自分そのものであって、偽我も何もなくて、見分けもつかなかったものなんです。
ものすごく客観的にかつての自分を見詰め、対話することができるようになります。必死に楯突いて反抗し、自己主張している偽我が可哀そうになります。暗闇の中にいて、わけもわからずしゃにむに人に歯向い、傷つけようとしていた自分が哀れでならなくなるんです。なぜ自分がそうなってしまったかもわかります。
ですから、あたしには偽我というものは、ただ単に抹殺すべき心の垢ではなく、かなしいほど哀れに思えるんです。なんといったらいいのかしら、同情してしまうんですね。決して自己憐愍なんかじゃないと思うんですけど......もう一人の自分、偽我と対話していると、少しずつ目が見えるようになってくるという感じがします。偽我によって教えられているんです。
だって、偽りの自我といっても、そう生はんかに一朝一夕にして出来たものじゃないんですものね。やっぱり自分なんです。いろいろ教えられて感心したり、困ったりすることがあります。自分勝手で幼稚なんですけど、鋭い批判力は持ち合わせていて、すかさず突っ込んで来ますから。自分には寛大に、他には峻厳にという精神ですから。気が抜けません......ですから、心の垢ではあっても、わりにわたしにとっては有用なんじゃないかなって思います。本当に〝反面教師〟って感じなんです」
「郁江さんは、そんなに変ったの?」
と、井上が質問した。
「つまり、以前の郁江さんは、そんなに我儘勝手な、意地悪姫だったわけ?」
「今だって、あまり変りないかしら?」
郁江は楽しげにいった。
「そうかもしれないわ。あたしはあまり自分が変ったという自覚はないし......ひねくれていて素直でなくて、狷介というのかな、みんなの気持が合っている時に同調できないで、独りだけ異を立てる......違ったことをいい出すのね」
「なるほど」
「お前だって似たようなもんじゃないか、井上。一言居士でな......」
と、松岡が井上に向っていった。
「必ず一言あるだろう。へそ曲りだからな」
「やっぱり、こういうのは業だと思うのね」
と、郁江がいった。
「魂の持っている癖というのかな。業というと恐ろしげなやりきれないものに思えるけど、本当は〝癖〟といったほうがいいんじゃないかしら。群れに交わらずに孤りでポツンとしているカルマがあたしにはあると思うの。全員一致でみんなが勢いこんでいる時に、わざわざ水を注したりするから、あまり好かれない癖だけど......」
「でも、郁江さんは別に嫌われていたわけじゃないでしょう? 郁姫様と呼ばれるのも、悪口だけじゃないと思いますが......」
松岡が一生懸命いった。
「やっぱりみんな、気になって、郁姫様の意見も聞いてみなくちゃ、と思うところがあると思うんです。みんなカッと熱狂していても、郁姫様だけは冷静だから的確な判断を下しているかもしれない......東丈先生が郁姫様の意見を尊重しているのはそのためなんだ、とウチの師匠がいっていました。ひねくれているんじゃなくて、貴重な少数意見だと思うんですが。先生は、郁姫様には凄いユーモア感覚というかバランス感覚があるんだとこの間塾に見えた時におっしゃってました。会も塾もみんなカチカチに生真面目すぎて、冗談も通じない感じだから、郁姫様を見習った方がいいと......」
「あたしは無責任なだけ。大事なことほど茶化してふざけたくなる悪い癖があるの」
「そんなことはないです、絶対に!」
と、松岡がりきんでいった。
「そうとられると困るんだな。あたしって、〝良い子〟には逆立ちしたってなれないの。なりたくもないんだけど......人が真面目になって悩んだり、四角四面になっていると、もうむらむらしてふざけずにはいられない。我慢してるとジンマシンが出てきちゃうほど」
「そんなこと、信じられませんよ。そんなに郁姫様が意地悪だったなんて......でも多少そうだったとしても、それは過去の話でしょ? つまり郁姫様の〝偽我〟の部分だったんでしょ?」
「どういたしまして。今だってそう。全く同じことだもの。悪いことは全部〝偽我姫〟のせいにしたらちょっと可哀そうだわ。今のあたしも、意地が悪くて辛辣で、滑稽なことは絶対に見逃さないし、無遠慮にからかって笑いものにしてしまうの。
つまり、とことん真面目になりきれない人間というわけね。そんなに優しくもないし、親切でもない。相変らず皮肉な目で人のアラ捜しもするし......〝偽我〟じゃなくてあたしの本質なのよ。みんなが大感動してオイオイ泣いてたって、あたしは泣かない。反対に笑いの衝動を必死で抑えつけたりしてるの。
素直どころか反骨のかたまりみたい。だからあたしをいい人だなんて思って、信用したりしたらだめ。それは丈先生にもよくいってあるわ。
あたしがひねくれていて、どぎついところのある人間だから、丈先生は幻魔担当にしたんじゃないかな? 彼女なら幻魔に負けずにやりこめるんじゃないかなんて期待して......」
「信じられないなあ......」
松岡は茫然といった。
「やっぱりそれは噓でしょう? 口先だけなんでしょう? 先生も、郁姫様は冗談が多いひとだといってました......でも、それは照れ屋だから、逆にきついことをいったりするって......」
「まあ、郁姫と呼ばれてるあたしが、ひたすら優しくておとなしくて、いい子ちゃんであるわけがないわよ。松岡クンはなにか幻想を抱いているんじゃないかな。男まさりの気丈者でなければ、郁姫様はやっていられないということ」
「そうかなあ。そんなことないと思いますけど......」
「甘いあまい。もし松岡クンを下心のある女の子が瞞しにかかったら、簡単に引っかけられちゃうわよ」
と、郁江は笑っていった。
「気をつけなさい。女の子は巧妙に演技するものよ。猫をかぶるというやつ......しおらしく優しげなのに、男の子ってころりと瞞されるのね。でも、中身は全然違う。男性が女の子をあまりにも見る目がないのにびっくりするわ。本当に優しいのは、市枝さんみたいなひと。でも、あなたたちそう思わないでしょう?」
「ええ、まあ......康夫の旦那なんか市枝さんを恐れて、戦々兢々ですから」
松岡が頭に手をやって、いいにくそうに呟いた。
「我々も常に活を入れられてます。女丈夫って感じです。でも、それでなきゃ務まらないんでしょうけど」
「それは市枝さんの昔のことを知ってるからじゃない? おっかないおねえさんたちの頭だったってことを......でも、本当は市枝さんはとっても優しいのよ。あたしなんか問題にならないわ。あなたたちはやっぱりどうしても女の子を外形的に見てしまうからなのね。でも人間は魂で見ないといけないって、丈先生がいつもいってるじゃない。松岡クンたちのように、人間の転生輪廻の証人という役目を持っている人たちは、人を魂として見るということを大切にしないといけないんじゃないかな。そうでないと前世の経験が生かせなくなってしまうでしょ?」
郁江は隣席の高野老人を忘れたように、熱意をこめていった。
「はい。そうですね、そう思います。いつも自分にいい聞かせてはいるんですが......」
松岡は神妙な顔でいった。郁江の声音を聞いているだけで無上の幸福という顔であった。
「でも、僕はやっぱり郁姫様がご自分でおっしゃるような人だとは思いません。逆らって申しわけないですが......つまり意地悪で皮肉で、いい加減で無責任というのは信じないです。やっぱりだれよりも心には大きな愛がある人だと思ってます。丈先生のおっしゃったように照れ屋なんで、口ではきついこともいうかもしれませんが......」
「あたしは郁姫ですからね。それを忘れないで......松岡クンは芥子をそのまま食べたことある? 優しくかわゆいなんて思ったら大変よ」
郁江の口調は少年っぽくなってきた。それは郁江が照れている証拠かもしれなかった。
「お嬢さんは、郁姫様と呼ばれているのですか?」
と、高野老人が口をはさんだ。いかにも興深げだった。
「ええ、みんなそういいます。過去世の縁生じゃないかって」
郁江は老人の方に向き直るようにして答えた。松岡との気恥しい遣り取りを逃れることができて喜ばしげな気配であった。少年っぽい含羞なのだった。
「なるほど。では私も郁姫様とお呼びすることを許して頂いて......過去の縁生では案外私なども郁姫様の三太夫など務めていたかもしれませんからな」
高野老人はにこにこ笑いながらいった。みごとな禿頭がいかにも柔和に見えた。
「初対面なのに、これは! という強い感銘があるものです。先ほど郁姫様にお目にかかりご挨拶をした時など、少年のように胸がときめいてどうにもなりませんでした。今でももちろん無我夢中ではあるのですが......」
松岡は不快そうな目でちらりと老人を見た。年寄りのくせにといいたげであった。人前で平然と真情を吐露できる老人に、嫉妬しているようでもあった。
「何分この年寄りのことですから、お許し下され」
高野老人には何でもわかっているらしい。
「年甲斐もなく興奮して、元気が出てまいりました。私なども混ぜていただいて、我らの郁姫様とお呼びできれば、これほど嬉しいことはありません。
郁姫様は転生輪廻についてかなり関心をお持ちのようですが?」
「ええ。信じています」
郁江はゆっくり頷いた。
「真実だと思っています。人間には魂というものがあって、肉体は滅びても霊魂は滅びず、生れ変る......転生輪廻すると信じているんです。生れ変ると、前世の記憶は潜在してしまって何も思い出せなくなりますけど、それでも無意識のうちに、真の友人は見分けがつくと思います。波動でわかります。ぴんと響いてくるものがあるんです。これはだれでも同じじゃないかと思いますけど」
「そうですな......東丈先生も同じご意見ですか?」
「そうです。転生輪廻は否定できないといわれています。過去の記憶を甦らせている人たちもいますから」
「ほう、それは頼もしい」
高野老人はそんないい方をした。
「で、東丈先生も、過去世の記憶を取り戻していらっしゃる?」
「いいえ......先生は今のご自分には必要がないとおっしゃっています。今、一生懸命生きることこそ大切だと......」
「過去世の記憶は必要ない、とおっしゃっておられる?」
「でも、丈先生が過去において学ばれた偉大な知恵は、どんどん甦っているように思えます。あたしもそれが一番大事だと思うんです。丈先生は過去において偉大な方だったと思います。非常に有名な人物だったかもしれません。でも、今の先生にはそういう過去世は必要ではないんです、きっと。もしかすると、過去世に捉われてしまう危険だってあるのじゃないでしょうか?
今、ふっと思ったんですけど、もし丈先生の過去世が明らかになると、みんなも競って自分の過去世を知りたがるんじゃないかと思うんです。その挙句、家の系図に夢中になって、先祖に有名人を捜し出すみたいに、自分も過去世に有名人を持つことを望むようになりそうな気がします......イエス・キリストの生れ替りとか釈迦の生れ替りとか、そういう妄想にとり憑かれた人は珍しくないんじゃないですか?
もし丈先生がイエスの生れ替りだとご自分で気付いていても、決して口外されないように思えます。これは仮りの話で、丈先生がそんなことを考えていらっしゃるということじゃありませんけど。大切なのは現在生きて肉体を持っている自分なんじゃないですか。だって、今たいしたこともしていないのに、昔は偉大な過去世を持っているんだと主張しても、おちぶれた人が先祖は偉かったと自慢するような凄く滑稽なことじゃないかなって思うんです。恥しいと思います。もし、丈先生が過去世を明かすにしても、それは世界の運命の潮流がはっきりと変った時です、きっと。
丈先生にはそれだけの巨大な力がありますし、ご自分の使命を果すのに、過去世の威光なんか必要じゃないんです。もちろん、過去で学んだ素晴らしい知恵はいくらでも甦って来ます。ですから、丈先生は本当に一日ごとに違います。今日の丈先生は昨日の先生じゃありません。どんどん成長して、めざましいスピードで力強く逞しくなって行きます。諺で、〝男子三日会わざれば......〟というのがあるんでしょう?」
「そう、〝男子三日会わざれば刮目して見よ〟......」
高野老人は首を頷かせながらいった。
「偉大な人が真の姿を顕わす時に居合わせるほど人間として幸せなことはありませんな。おっしゃる通り、過去世にこだわるのは無用なことかもしれません。転生輪廻が存在するということの証明にしかすぎない......ますますもって東丈先生は尋常ならざるお方という感を深めます。郁姫様を見ているだけで、それはひしひしと感じますな。もちろん、ただの霊感少年、天才少年の類いではなかろうとは思っておりましたが......
しかし、郁姫様もまた実に素晴らしい。私のようにまず郁姫様の魅力に触れ、それからおもむろに東丈先生のお説きになる〝宇宙の法〟の真髄に触れるという機縁を持つ者も多いのではないですかな......」
「とんでもありません。あたしはただの意地悪姫、阿呆姫ですから、絶対に買いかぶらないで下さい。だいたい姫というのは、世間知らずで我儘な女の子のことで、ちょっと人間放れしているという意味ですから」
「いやいや、不思議なことに、人間には持って生れた〝位〟というものがあります。だれが見ても郁姫様は高貴な品格があり、それで姫君と呼ばれるわけでありますな......それは別に過去世でお姫様ばかりやっていたわけではない、貧しい境遇に生れたこともあるはずです。心を大きく豊かに肥やすために人間は転生輪廻でさまざまな国、さまざまな境遇に生まれ、数多くの経験を積むわけでありまして、同じお姫様稼業を地上に出るたびにおやりになったわけではないでしょう」
「お姫様稼業ですか?」
郁江はくすくす笑った。松岡たちもつられてにんまりと顔を崩す。
「まず間違いないところ、郁姫様の守護霊を務めておられるのが、かつて地上に肉体を持って生きられた時、高貴なご婦人であった方、つまり姫君だった方だと思いますな」
「守護霊?」
「肉体を持った人間を保護し、善導するのが役割の天上界の方のことを守護霊、指導霊といっております。肉体を持った人間は何も知りませんが、守護・指導霊の性格は不思議に出てくるものでしてな。女性なのに生れつき男っぽいというような場合もあります。そんな時は守護霊が男性で、そちらの性格が発揮されてしまうわけです」
「高野さんはよくご存知なのですね」
郁江は尊敬の眼差でいい、老人は照れた。
「いやいや、これは受売りですから、お気になさらぬようにお願いしておきます。しかし、だいたいこれは当っているようでして、郁姫様の守護霊が尊いあたりのお姫様だったことはまず間違いありません。たいへん霊力のあるお方で、決して性格の弱々しい方ではないようです。いざという時には男まさりの素晴らしい能力を発揮されたのではないですかな。
郁姫様に縁生のある男性は、わりあいに武張った人々が多いのではありませんか? かつては武士であるため、今生でも武道や格闘技的なスポーツをおやりになる男性が身近に集まって来るはずでありますが......」
「確かにそのような傾向はあります」
郁江は向い側の二人の若者にちらりと目を投げて答えた。
「でも、そんなことがよくおわかりですね」
「いやいや、当てずっぽうです。しかし、天上界の仕組み、転生輪廻のありかたを学びますと、ある程度は見当がつくようになります。人間は地上界に出る時も、一人ずつバラバラに出るのではないようです。役割を持った集団として地上に肉体を持ちます。
郁姫様をこうやって拝見しておりますと、失礼ですがたいへん目立たれるお嬢さんですから、同じ共通の役割を持った人間たちを集結させる役目をお持ちかもしれんと思います。つまり旗手というわけですな。ぱっと人目に立つので、見る者が見ればすぐに気付く。
郁姫様が男であれば、さだめし万軍の将と目されるところでしょうが、その点は東丈先生が出ておられるので、おのずと役目が異って来ている。
失礼ながら、郁姫様はもし東丈先生にお逢いになっていなければ、大本教の出口ナオさんのように、希有の才を持った女性教祖として多くの信者を集めるようになられたのではないかという気がします。それほど巨大な霊力をお持ちではないかと思います」
「冗談じゃありません。そんなの、厭です、とんでもないことです!」
「そう、それはたぶん不幸なことだったでしょうな。郁姫様は東丈先生をお助けするために地上に出られたので、もし行き違ってしまえば、ちからを持て余すことになってしまいますから。今、郁姫様は無上の幸福を得ておいでではないですかな?」
「そうです。とっても幸せです」
郁江は素直に認めた。
「それは郁姫様がおさまるべき所へおさまり、本来の務めを果されているからでしょう。人間は一つ間違うとはぐれてしまいまして、とんでもない迂回をしたり、道を誤ったりしてしまいます。これは大きな不幸です。人間というものは、軌道をはずしてしまいますと、常に不安で心満たされず、勢い我欲を満たすだけの道に走ってしまうものです......」
「守護霊や指導霊がいてもですか? 軌道をはずれないように、導いてくれているのでしょう?」
郁江が鋭く尋ねた。
「それはやはり、肉体を持った人間の方がエネルギーが強いのでそちらに引きずられてしまうからです。闇の方に惹きつけられたりすれば、闇の〝力〟が加わってきて、どうにも手がつけられなくなります。やはり、肉を持つ人間次第ということになるわけですな。これは同じ人間同士でもそうでしょう。一度悪の道に魅せられた者を、いくら友人がいさめてもなかなかいうことを聞くものではありません。力ずくではどうにもならないところがあります。人間にはだれしも守護・指導霊がついているのに、我欲我執に溺れて悪しき方向へ向う人間が絶えないのは、こうした事情があるからです。
しかし、たとえ悪に走った人間でも真我なる自分、善我なる良心を全て喪ったわけではありません。いつかは良心に目覚め、守護・指導霊の声に耳を傾けるようになりましょう。たとえ地獄界に陥ちて苦しい修行を積むことになっても、守護・指導霊を始め、天上界がその者を見放してしまうことは決してないのです」
「その守護霊とは話ができるのですか?」
郁江は興味深げに質問した。若者たちは戸惑った顔をしていた。宗教趣味はないので、守護・指導霊などといわれると、ひどく突飛な印象を持ってしまうのだ。東丈の説く宇宙観とはあまりにも異質な概念であり、古臭く宗教臭が強すぎ、受容するには抵抗が強い。
「どうやれば、話ができますか? やっぱり霊能者でないと無理ですか?」
郁江はさして気にしていないようであった。好奇心にかられているのだ。
「霊覚者にはむろんできる者もおりますし、自分のみならず他人の守護・指導霊と話し合うことができる場合もあるようですな。〝だいかく先生〟はおできになるようです......守護霊に尋けば、肉体を持つ本人がどんなことを考え、どのような行為を成して生きてきたか、すぐにわかってしまいます。私なども〝だいかく先生〟にかかると全てお見通しで、何一つ隠し事ができません」
「守護霊はどんな恰好をしているんですか? やっぱり人の形ですか?」
「守護霊は、かつて地上に肉体を持って生きた過去の自分です。ですから、日本人であるとは限らない。印度人や中国人である場合もあるし、ヨーロッパ人やアメリカ人である場合もあります。守護・指導霊も一般にいわれる背後霊でもあるので、肉体を持つ人間の後ろに立っています。もちろん、見る目がなければいくら一生懸命見ようとしても無駄ですがな」
老人は笑いながらいった。若者たちがすがめるような目付になったからだ。
「郁姫様の背後に立っておられるのは、尊いお姫様でしょうな。龍宮城の乙姫様のようなお方に違いありません」
「面白い......」
しかし、郁江は笑わなかった。
「でも、背後霊というのは、守護霊や指導霊だけではないんでしょう? いわゆる悪霊とか、さっきおっしゃった地獄......霊?」
「さよう、地獄霊です。天上界の方々はみな自らを悟った清浄な霊ですが、暗い世界で陰惨な状態にありますのが、悪霊、地獄霊です。人間の霊ばかりではなく畜生霊も沢山おります。光を嫌い、闇を好む連中です。こういう地獄霊が守護・指導霊の代りに背後にぴったりつくようになりますと、大変なことになります。いわゆる憑依......悪霊にとり憑かれるということになるわけです。地獄霊はこういう人間の心に乗り込んできて、肉体を占領してしまいます。いわゆる軒先を貸して母屋を取られるということになってしまうんです」
「憑依ですか? そうすると人格が変化してしまいますか?」
「もちろん変ります。ころころ変ります。悪霊たちの集団がいっぺんに入りこんで、一つしかない肉体をてんでに使おうとするので、収拾のつかない混乱状態になります。肝心の肉体の持主である人間は、追っ払われてしまって、占領軍の思うがままにされてしまいます」
「どうして憑依は起きるんでしょう? 防ぐ方法はあるんですか?」
郁江は真剣にいった。

「もちろんです。守護・指導霊が人間をちゃんと導いている状態では、人間の心は光に向いていますから、暗闇であるところの地獄霊たちは入りこめません。太陽光に照らされた場所にゴキブリが出てこないのといっしょです。しかし、人間の心が我欲に満たされ、怒りや憎しみ、怨みつらみ、そねみや愚痴などの暗いスモッグで閉されると、暗闇である地獄霊たちはどっと押し入ってきます。いわば、人間の心が闇を呼びこんでしまうわけですな。後は、地獄霊が主人になって、人間は奴隷にされてしまいます。肉体はもう自分のものでなくなり、地獄霊の支配下に入ってしまう、これを憑依といいます。これほど哀れなものはありませんよ。地獄の占領軍によって、自分は奴隷にされてしまうんですから......しかし、元はといえば、自分の心が闇に向いているので呼びこんでしまったわけです。
他人を呪ったりすると、てきめんです。たちまち占領軍が風のように現われて、最初は力を貸してくれますが、後が大変なことになってしまいます。地獄霊にとり憑かれたら最後、簡単には退散してくれません。土足で家を踏み荒し、ボロボロにしてしまいます。地獄霊に憑依されると体はガタガタになって、腐ったような死にざまを迎えるのはそのためです。
しかも死んだら最後、本人の魂も暗い恐ろしい地底の世界へ引っ張り込まれてしまう。地獄霊なんかと仲よくおつきあいしたら、これほど悲惨な運命はないということになります」
「一度、地獄霊に憑依されたら、もうどうしようもないんですか? 助からない?」
と、郁江はゆっくり尋ねた。
「絶対に助からないとはもちろんいえませんが、大変なことでしょうな。本人がよほど努力しなければならない。地獄の占領軍は簡単に奴隷を解放してくれませんよ。苦労して逃げだしても、追手がかかってすぐに捕まってしまいます。
ですから、地獄霊に乗っ取られて奴隷になどされないように、日頃の行いが肝心ということになります。日常生活における生活態度が一番大切です。それは先ほど郁姫様がおっしゃったように、日々反省を怠らず、一瞬一秒を大切にして、一日一生の心構えで生きることに尽きます。己れの良心の声に耳を傾けて生きるということは、とりもなおさず守護・指導霊の導きを受け容れて生きるということに他ならないのですな......」
「地獄霊に一度憑依されて、更生したというのか、逃げ出して立ち直った人をご存知ですか?」
郁江は道徳訓めいてきた高野老人の言葉には関心を示さずに、むきになって質問を重ねた。
「幾人か〝だいかく〟先生に悪霊を落してもらった人間を知っていますが、結果はあまり思わしくないようです。一時はいいのですが、じきにぶり返してしまうんですな。〝元の黙阿弥〟というやつです。これはやはり、本人の思うこと行なうことに問題があるわけでして、一時的に悪霊を追っ払ってもらっても、心が訂正されない限り、すぐ元に戻ってしまう。ぶんぶんたかっている蠅の群れを追い払っても、腐った汚い物をそのままにしておいては、何にもなりません。すぐに蠅は舞い戻ってきますからな。
本人が心の底から自覚して、強く決心し、己れの行為と想念を徹底的に改革しなければ、なんにもならないんです。要するに他力はだめというわけです。よくお祓いなど神主さんやお坊さんがやりますが、それといっしょですよ。一時的に埃を払うだけで、飛び散った埃はすぐにまた戻って来てしまう。
強い憑依を受けた場合は、道がついてしまっておりますから、地獄霊がリモート・コントロールできるようになるようですな」
「リモコンですか?」
「さよう。電波操縦で模型飛行機を飛ばしたりしますな。あれといっしょです。ですから霊眼の持主が見ても、背後霊に地獄の占領軍は見えない。しかし、リモコンで操作されているという場合があります。これなどは、逆にこちらに霊覚があるがゆえに、一杯くわされることになるわけです。
地獄霊も魔王となると邪智がありましてまことに抜け目がありません。こちらが霊覚者だからといっていい気になっていると、思わぬ落し穴に落されてしまいます。己れの〝力〟を恃み、鼻にかけるようになったりすると、いつの間にか、こちらも地獄霊のお呼びがかかっているという仕儀になるわけです......」
郁江は身慄いした。その仕草は妙に印象的であった。
「ふうん......」
と呟いて、郁江はしばらく考えこみ、沈黙が続いた。
9
「地獄界って、本当にあるんですか?」
と、郁江は再び口を切った。依然として考え続けているようであった。
「地獄界は目に見えませんが、存在しておりますよ。もちろん、お寺にある地獄絵図のように鬼が亡者をさいなんでいたり、閻魔大王が亡者たちを審いていたりするのとは違いますが......
物質ではなくエネルギーの〝力場〟で構成された深い底知れぬ世界といえばよいのでしょうか。巨大な強い引力で、死者の霊を引っ張り込んでしまいます。蟻地獄みたいな恐ろしい世界でして、一度落ち込んだらなかなか出てこられません。〝悪の力場〟とでもいいましょうか。暗闇の世界です。心に闇を満たした人間たちは、生きているうちから、地獄界と心が同通しているわけです。それが憑依でありまして、死んだ後は文句なしに地下の闇に引きずりこまれてしまいます」
高野老人は真顔で説明した。
「地獄霊、悪霊とおっしゃってましたけど、それは悪魔と同じですか? 違うとしたら、どのように違うのですか?」
「地獄霊、悪霊というのは、いわば迷っている霊なのですが......つまり生きているうちに我執我欲という亡執の虜になり、正しい生き方、宇宙の法というものがわからずに、そのまま暗闇に落ちてしまった霊です。自分さえよければいい、他人などどうでもいい、と互いに凄惨な喰い合いを続けている連中です。地上においては、醜い殺し合いの抗争を続ける暴力団員でも気を抜いて休むことが時にはできますが、地獄界ではそうは行かない。
一瞬も気が安まらない恐ろしい修羅の世界です。苦しみが間断なく続きます。こういう連中は堪えきれなくなると、地上界へ逃げ出してきまして、生きている人間にとり憑きます。生きている人間の安息を喰らって自分が楽をしようとするわけです。
こういう地獄界の悪霊は、自分が楽になるためなら、生きている人間をどんなに苦しめても平気です。思いやりや慈悲などひとかけらもありやしません。地獄から逃げ出す悪霊の多くは肉親など縁故関係を辿って、憑依します。思いやりも何もなく、肉親を苦しめても平気です。自分さえ楽をすればいいという冷酷さが地獄霊の特徴といえますな......」
「悪霊と悪魔の違いは何でしょう?」
「悪魔といいますか、魔王という代物は、並みの悪霊とは年季の入れ方が違います。大変な古強者で、地獄界の支配階級です。たいへん強い力を持っておりまして、苦しみに堪え切れず地獄界を逃げ出し、生きている人間にとり憑くなんて弱さは少しもありません。
いってみれば、プロフェッショナルで、マフィアです。頑強な地獄の軍団です。こういう古強者の魔王が人間に憑依するのは、ちゃんとした目的があり、計画性があるんです。つまり、地上界をそのまま地獄界に変え、完全支配しようという大計画の下に、魔王たちは動いているんですな。
従って、魔王はやみくもに弱い人間に憑依したりしません。地上界の人間社会に大きな影響力を及ぼすことのできる人間を選んで、憑依し、あるいはリモコンで動かし、己れの手先に仕立てて、人間社会を生地獄に変えて行こうと計画しております。彼ら魔王に比べたら、普通の悪霊など可愛いものに見えてきます。魔王は巨大な妖力を持っているし、そのふてぶてしさ、猛烈さはたいへんなものですよ。こんな代物に見込まれたら、大変なことになってしまいます」
松岡と井上は同時にブルッと体を慄わせた。鳥肌の立った顔で苦笑する。郁江は考えこんでいた。
「魔王たちの目的は、〝地球地獄化作戦〟とでもいうべきものですか?」
と、郁江が尋ねる。
「その通り、おっしゃる通りです。彼らはすでに作戦行動を展開中です。慈愛深い神が人間に与えられたこの地球を、彼らは総力を挙げて〝悪の惑星〟に改造しようと努めているのです。しかし、神の慈愛の波動と、悪の波動は全く相容れませんから、このまま〝悪の惑星化〟が進めば、地球は完膚なきまでに、ギャップの間で圧し潰され、自壊を遂げてしまうでしょう。むろん、人間はだれ一人生き残れなくなってしまうはずです......」
「今度、東丈先生が〝幻魔の標的〟という本をお書きになって、三月初めに出版されます」
と、郁江はいった。
「その本に、今、高野さんがおっしゃったことがそっくり記されているんです」
「そうでしたか......」
高野老人は息を吞むようにして、郁江の顔を見詰めた。
「それはいよいよ、東丈先生にお目にかからねばなりませんな。〝幻魔の標的〟というご著書をお書きになったのですか?」
「はい。東丈先生のいわれる〝幻魔〟が、今高野さんのおっしゃった魔王そのものではないかもしれませんけど、めざしていることは全く同じだとあたしは思います。東丈先生は幻魔が宇宙的規模の負エネルギーの巨大な磁場だといわれています。光を吞み尽そうとする暗黒波動だと......でも、東丈先生はまだいわゆる地獄界については説かれていません。あたしは、地球上にある幻魔の局所的磁場のことだと思うんですけど......先生は、かつて遠い昔地球上で〝幻魔大戦〟が行われ、光が勝利を占めた、そして幻魔は敗れて封じ込められ、魔族におちぶれたとおっしゃっています。
でも、地獄界ということには触れておられません。もしかしたら、あまりにも宗教的で誤解を招きやすいからかも......先生はいかなる意味でも、宗教イメージで見られることを避けておられますから」
「幻魔というのは面白い表現ですな。宇宙における負エネルギーの磁場というのも......さすがに東丈先生は若くてフレッシュなだけに、古臭い表現は避けて、若い人々の心を的確に捉える能力をお持ちのようです。我々老骨でもワクワクしてきますよ......これはいよいよお目にかからずにはいられなくなってきました」
箱根特急が減速を始めた。終点の湯本へ近づいたようであった。車内アナウンスがあり、若者たちは溜めていた息をふうっと吐き出した。それほどの緊迫感が、老人と美少女との間に立ちこめていたのである。
「このままお別れするのは、いかにも残念ですな」
と、老人は感情をこめていった。車窓は真暗になっている。
「私の車が駅に待っておりますので、宿舎のホテルまでお送りさせて下さい。いささか未練がましいですが、まだしばらくは話ができますし、もしかしたら東丈先生にちらりとでもお目にかかれるのではないかとさもしい期待を持っておりますのでな」
「今度是非、丈先生にお逢いになって下さい。あたし、なんとかして段取りを考えますから」
「それは、ありがたい! 郁姫様にお目にかかれたことこそ、まこと天の導きですな」
高野老人はことのほかの喜びようだった。ひときわ禿頭が色艶を増し、あからんだ頰が若々しくなっていた。がっしりした骨組の体軀が壮者の精気を放っている。
「〝だいかく先生〟の予言通りになりました。今年はいいことがあるよ、高野君、と前々からおっしゃっておられましたので......乙姫様のような美女に逢えるんじゃないか、などとご冗談を。私はもうそのような艶福とは縁遠い老骨ですからと申し上げておったのですが......郁姫様にお目にかかれて、なにかこう勃然と元気が出てまいりました。この年齢になりまして、ようやく真の使命に一歩近づいたという気分でおります」
老人は元気よくいった。松岡と井上はかなわないという面持で互いの顔を見ていた。高野老人は郁江の手をおし戴く感激ぶりであり、だれがどんな目で見ていようが平気な熱中ぶりであった。子供のように率直で、てらい気がない。
閉口している二人の若者を見て、郁江はくすっと笑った。とくに松岡はげんなりしている。もう高野老人は沢山だという顔であった。
「さあ、高野さんのお荷物をお持ちして」
郁江は号令をかけた。若者たちの狭量さはなんとかしなければならなかった。会、塾ともに仲間内の親密さをよそに、外部に向けて示す無意識的な排他性は、郁江がもっとも明確に気付いていたかもしれない。とくに松岡のように真正直な若者はそれを隠せなかった。排他的気分や嫉妬を露骨に表わしてしまう。
「素晴らしいお話を聞かせて頂いたお礼を申し上げなさい」
と若者たちに命じて、郁江は老人を照れさせた。
「とても勉強になりました。またお話を伺わせてください」
郁江は外交辞令ではなく、真摯さをこめていった。
「とんでもないことです。私のような俗物の話など、受売りにすぎないし、お役には立たんでしょう」
老人はあわてて手を振りながら、それでも名刺を郁江にくれた。
「私こそ郁姫様にいろいろご教示を乞わなければなりません......東丈先生に逢わせて下さるお約束、楽しみにしておりますから、なにとぞお忘れのないように......」
「こちらこそ、教えていただきたいことが沢山あります。今度お電話してもよろしいですか?」
「もちろん、いつでも......」
郁江は相変らず憮然としている松岡に老人の網棚の荷物を降ろさせ、改札口まで運ばせた。
箱根の駅は寒かった。しかし、東京より天気はいいようだ。雲間が広がり、星空が輝点を覗かせている。
老人を見つけて黒ぬりの高級セダンがドアを開けた。制服制帽のお抱え運転手と背広をつけた長身の青年が駆け寄ってくる。
「会長! お待ちしておりました」
と、青年が声をかけ、不審そうに郁江たちに目をやった。松岡と井上は互いの顔を眺めていた。高級セダンはベンツだった。会長という呼びかけといい、ベンツといい、老人が格式ある社会的地位にあることを証かしているに違いなかった。
「あたしたちは登山電車で参りますから、これで」
と、郁江がいった。うながされて松岡は老人の荷物を出迎えの運転手に渡した。すっかり態度が改まってしまっている。まさか大企業の会長とは夢にも思わなかったのであろう。
「宿舎までお送りさせて頂きますから、どうぞ郁姫様!」
と、老人が声をあげ、出迎えの青年と運転手は奇異の目で郁江を見詰めた。
「私どもの施設は仙石原ですので、通り道です。是非送らせて下さい」
「ありがとうございます。でも、少しこの連れの二人と話すこともありますから、登山電車で参ります」
郁江の態度ははっきりしており、だれにも誤解しようもないものだった。
「さようですか......では、お約束を忘れないで下さいよ」
名残り惜しげな高野老人と別れて、郁江たちは再び駅舎の内部に戻った。老人はいまだにベンツの中に入らず、手を振っている。まるで子供のようなひたむきさだ。
「まいったなあ」
と、松岡がいった。
「汗かいちまった......あのお年寄、そんなに偉い人だとちっとも思わなかったもんで。一人でひょこひょこ歩いてるから、てっきりそのへんのご隠居さんかと思った」
「喧しいお喋りじいさんだと思ってた」
と、井上がいう。
「お抱え運転手つきのベンツがあるんなら、なにも電車なんか乗ることないんだよな」
「あなたたち、ちょっと態度悪いわよ」
と、郁江が厳しくいい、二人の若者はぎょっとしたように沈黙した。
「相手に社会的地位があるなしで態度を変えるとはなにごとなの? あのおじいさんがとても素晴らしい話をしてくださったのに、あなたたち馬鹿にして、ろくすっぽ聞いていなかったでしょ?」
「すみません......」
背の高い逞しい松岡はすっかりしゅんとなっていた。
「自分たちの教わっていることだけが最高に素晴らしいんだと思い上ったら大間違いよ」
郁江は容赦なくいった。怒りをこめた眸が輝いて、若者たちは目を合わせていられず、下を向いてしまった。
「丈先生の説かれていることは、それは素晴らしいわ。でも、あなたたちはどうなの? 思い上って他人の話にハナもひっかけず、いい気なものじゃない? あなたたちは少しも素晴らしくないわ! これで東丈の弟子だなんて、恥しくて体が燃え上りそうよ!」
「............」
「年寄がくだらない話ばかりするという顔をあからさまにして、仏頂面で不貞腐れていて、あたしがどんな気持かわかる!? こんなに恥しかったことないわ!」
「申しわけありません......」
「申しわけないですみますか! 大会社の会長だと知ったとたんにころりと態度を変えて! あなたたち二人とも、これからすぐに東京に帰りなさい!」
「えっ」
声をあげて松岡と井上は愕然と郁江の顔を見上げた。
「あなたたち、セミナーに参加する資格なんかない! 今すぐ帰りなさい! 東京へ帰ってたっぷり反省でもしてるといいわ!」
郁江は怒りのあまり足踏みした。
「もうどうしようもないんだから! あんたたちなんか駄目、なってないわ! 馬鹿ばか! いい気にのぼせあがって他人を見下して! 二人とも塾なんか止めちゃいなさい! あんたたちなんか、丈先生の弟子でいる資格なんかない! 絶対にないわよ!」
閑散とした駅構内では、真赤になって怒っている郁江を売店の売り子がけげんそうに眺めていた。背の高い逞しい若者たちが、小柄でほっそりした美少女に叱りつけられて、蒼くなり悄然としているのである。改札口に急ぎ足に向う乗客たちが面白そうに振り向いて行く。
「私が心得違いをしていました。申しわけありません」
松岡は蒼白なった顔面を引きつらせ、必死にいった。
「でも、このまま東京に帰るのだけは勘弁して下さい! 宿舎へ郁江さんをお送りしたら先生にお詫びします。ですから、ここで帰るのだけは......それでは護衛の責任が果せません」
「弟子の責任も果せない人間がなにを甘いことをいってるの!?」
郁江の激しさを初めて思い知らされ、度肝を抜かれたのか、井上は一言も発さなかった。
「帰りなさい、今すぐ! あなたたちの顔なんか二度と見たくないんだから!」
郁江はくるりと向きを変え、二人の若者を残してその場をはなれた。登山鉄道の切符売場へ向う。一枚だけ買って振向き、恐るおそるついてくる二人を睨みすえる。
「帰りなさいっていうのに! ついてこなくてもいいからね!」
しおたれた二人の若者は、母親にこっぴどく叱られている悪戯子僧のように見えた......
10
見事な星空が広がっていた。硬質ガラスをきれいに拭ったように、みがきあげられた夜空のちりばめた無数の輝点が危うげに瞬いている。今にも星々がこぼれ落ち、降ってきそうだ。
それだけに寒気は鋭い。風はほとんどないが、夜になってからの冷え込みは強烈であった。息を切らせて走ってきた人々が足を停めると、いっせいに口許から呼気の真白な花が闇に咲いた。
坂道を駈け登ってきた人々の一団は激しく喘いで冷たい夜気をむさぼっていた。その数は十名ほどで、いずれもトレーニング・ウェア姿だ。スニーカーを穿いている。
視界は一挙に展けて、硬質な星空が頭上を一面に覆った。一同は足腰に鉛が詰まったように腰を屈め、上体を前に折り曲げて両手を膝に突き、荒い呼吸をついている。鋭い寒気も感じないようであった。
「だいぶ参ったでしょう?」
と、東丈がいった。彼だけは平常とほとんど変らない。一同と同じようにトレーニング・ウェア姿だ。
「もう少し走りたかったんだけど......」
「先生にはかないません......」
菊谷明子が息を弾ませて、切れぎれにいった。小柄で貧弱な体格の明子などまだましな方である。他の者は口をきくこともできない有様であった。
「だってものすごいバイタリティーなんですもの......」
セミナーのスケジュールでは夕食と入浴にあてられた時間、にわかに丈は外を走ろうといいだして、居合わせた中から希望者だけを引具し、宿舎のホテルを飛び出したのだ。
「風邪を引かないという自信がある人だけついてきて下さい」
丈はそういい捨てて、走りに走った。まるで時ならぬマラソン大会のようであった。十人ほどの人々は息を切らせて走った。もしセミナーの参加者全員が知れば、もっと大げさなマラソン大会の様相を呈したかもしれない。丈の居合わせた部屋に居たほぼ全員が丈を追って飛び出してきたのである。夕食と入浴の魅力も、丈とともに居たいという欲求に簡単に圧倒されてしまった。
冬の箱根はシーズンオフである。幹線ではない暗い道路を走る車は絶えていた。その道路を一行は四、五キロ走ったかもしれない。
きびしい寒気の中で人々は喘ぎ、白い湯気をあげた。全身が汗に漬かったようになり、うだっていた。その中で、丈だけは爽やかに恬然としている。やはり人間業ではないと畏怖の目が集まった。厖大な出力の発電機を体内に蔵したように、丈は疲れというものを知らない。ほとんど眠らずろくに食事もせず、大量の仕事をこなした挙句、数キロも走って何事もないという表情だ。やはり一種の超人としか考えようがなかった。
道路の面した一方は樹海が迫っているが、反対側は大きく視界が展けている。上空は星が降るようである。自然の息吹とともにある実感は、東京では味わいようのないものであった。人々は忙しく荒い息をつきながら、夜空を感嘆の色を目に浮かべて仰いだ。
こんなに星があったのかと一驚するほどの星群が夜空いっぱいに密集している。いつも東京で暮しているうちに、不透明な濁ったスモッグ空に慣れてしまい、星空の清新さなど長らく忘れ去ってしまっていたのだと気がつく。
巨大都市のどす黒い大気とは完全に異質の澄明さが地上の人々と星群の間を近しいものにしている。
驚くべき星の数であり、密度だ。丈がなぜいきなり宿舎を飛び出し、食事もほうりだしてマラソン大会を始めたのか、人々はようやく胸落ちした気分になった。
「先生! 平山さんが!」
甲高い女の声が静寂を破った。同様にトレーニング・ウェア姿の平山圭吾が路上に尻もちを突き、苦しそうに呼吸音を立てていた。やはり年配の平山には突然のマラソン大会は荷が重かったのであろう。若者たちに混り、青年気取りでしゃにむに走ったのだ。が、他の若者たちがわずかな休息で回復し始めたのに、平山だけは心肺の酷使に参ってしまったらしい。
「平山さんが大変です! 心臓発作を起こしたみたいです! 先生、どうしましょう?」
菊谷明子がうろたえて叫び声を上げた。
「心臓発作?」
夜の寒気よりも冷たいものが、ずっしりと人々の胸に落ちかかった。まさかこんな時に有力な後援者の平山が倒れるとは......GENKENは本格的な活動を開始した矢先なのだ!
人々は体中から血が引いた。
「お父さん、しっかりして!」
娘の圭子が切迫した声音で呼びかけるが、平山の声は唸り声であり、返事にならない。
「先生、どうしましょう!? どうやって平山さんを宿まで運んだらいいでしょうか!? でも動かしてもいいんですか?」
菊谷明子が冷静さを回復しようと必死に努力しているが、うわずっていることは隠しようがなかった。
「宿舎には笛川先生がいるじゃないか!?」
と、金沢という大学生が叫んだ。そうだと気付いて、一同は仮りの安堵に揺れ動いた。東洋病院の笛川医師は松代看護婦とともに、セミナーに特別に参加を認められている。
「笛川先生に診ていただければ大丈夫だわ!」
と、菊谷明子が元気づいて、父親に取りすがっている圭子を慰めた。
「僕が笛川先生を呼んできます!」
大学生金沢が走り出そうとした。
「大丈夫だ、心配ない」
と、丈がいった。丈は、路上に座りこみ、満面に冷汗を浮べている平山圭吾を黒い瞳で見ていた。平山は両手でしっかりと胸を摑み、心臓部の異常に冷汗を流し、声もろくに出ない。
「菊谷さん、生体エネルギーを平山さんに入れてあげて下さい」
丈は少しもあわてずに菊谷明子に命じた。
「生体エネルギーですか?」
狼狽に大きく瞠られた目を丈に向けて、菊谷明子が愚かしく尋ねる。
「そう。ちょうどいいチャンスだから、遣り方を教えます。右掌を平山さんの心臓の上にあてて下さい。左掌は背中にあてがい、両方の掌で平山さんの体をはさむようにします」
「でも、先生! あたくし、生体エネルギーなんか出せません!」
菊谷明子は恐慌に陥ったように、あわただしく抗議した。
「生体エネルギーなんて、あたくしにはないんですもの!」
「ちゃんと出せますよ。菊谷さん、僕のいうことをよく聞いてやれば大丈夫です」
「で、でも、あたくしに力がなくて、平山さんに万一のことがあったら大変ですもの!!」
菊谷明子は唇を震わせた。
「大丈夫、僕を信じて下さい。〝光のネットワーク〟を信じるんです。菊谷さんは信じるといったじゃないですか」
「それは信じますけど......でも......」
「〝光のネットワーク〟がどう働くか、知るチャンスです。僕の指示に従って下さい。圭ちゃんも僕のいう通りにするんだ。いいね?」
「はい!」
平山圭子は父親の背中を支え、必死の声音で応えた。
「さあ、みんな少し退って......菊谷さんがまずやって下さい。圭ちゃんはお父さんをそうやって支えていて......そうだ、それでいい。菊谷さんが心の底から〝光のネットワーク〟を信じ、平山さんを助けてあげたい、楽にさせてあげたいと念じれば、必ず生体エネルギーは出るんだ。わかりますね? 僕の言葉を信じますね?」
「はい!」
菊谷明子は平山の傍にうずくまり、懸命な声音で返事した。平山が苦悶のあまりしっかり胸部を摑んだ手をどけさせようと苦心する。
「平山さん、聞こえますか? 今から菊谷さんがあなたに生体エネルギーを注入します。あなたも〝光のネットワーク〟を本気で信じるなら、感謝して生体エネルギーを受け容れて下さい。そうすれば、平山さんの肉体的苦痛はより急速に療されます。安心して下さい。そして感謝して下さい。生体エネルギーは光となって、巨大な宇宙意識フロイから送られてきます。偉大なフロイの愛と慈悲のエネルギーです。光はネットワークによって菊谷さんの手から、あなたの肉体に注ぎこまれます。今からそれがはっきりわかります。はい、深呼吸して下さい。心を平安に落着けて下さい。大丈夫、死にはしません。圭ちゃんも心に念じながら、光を送ってあげなさい......」
丈の物腰は落着いて権威があり、全ての恐慌を追い払い、駆逐する力があった。丈先生がいれば大丈夫だ、何も心配は要らない......当の平山を初め人々の心は安堵で和み、慰藉で満たされた。
なぜ丈が居合わせるのに、自ら心霊治療を行わず、未経験な菊谷明子にまかせるのだろう、とその場の全員が強い疑念をわきたたせたことは間違いない事実である。
しかし、丈の冷静で的確な指導は、そうした人々の動揺を拭い去ってしまった。丈は終始平ぜいと変らず、一瞬も驚愕や動揺を表出しなかったのだ。
菊谷明子は満面から汗をしたたらせて祈った。丈に指示された通り、両掌で平山の胸部をはさみ、生体エネルギーを注入しようと死物狂いの精神集中を行なっている。菊谷明子の顔面は真赤になり、とがったおとがいから汗の滴がぽたぽたとトレーニング・ウェアの胸許にしたたった。
「みなさんもいっしょに祈って下さい。心の底から大宇宙意識体の慈悲である〝光のネットワーク〟を信じ、光を平山さんにお与え下さいと祈って下さい。みなさんの生体エネルギーもまた平山さんに注がれます。それは絶対間違いありません......」
丈が静かな声でいった。
「心から信じ、祈れば、光のエネルギーはネットワークを通り強い指向性をもって平山さんに到達します。我々の大切な仲間であり、愛すべき年長の友人である平山さんのために祈って下さい。平山さんがどんなに我々のために一生懸命尽してくれたか、思い出しなさい。平山さんがいなければ、我々は今ここに集うこともなく、もっと苦しい辛い模索を続けていたのです。大きな感謝をもって報いましょう。平山さんの苦しい肉体に安らぎがあるように祈って下さい。心をこめて誠心誠意祈るんです。必ずみなさんの祈りは大きな光、強い生体エネルギーを呼びこみ、平山さんの肉体に安らぎをもたらすはずです......」
人々はうずくまり、あるいは跪いて祈った。夜の濃密な闇、静寂の中で、不可視の大きな光が点り、広がる気配が確実にあった。光の波動が、あたかも巨大球場の夜間照明が点灯されたように箱根の山中に広がって行った。人々の意識が集中し、回路を形成し、目には見えない光のエネルギーを導入する場を生じさせたのである。
冬期の箱根山の寒気は和らげられ、みるみる融けて行くようであった。仄明るい発光が山肌に滲んで行くのが、人々の意識を染めていた。
「大いなる宇宙意識体フロイ、我らを見守る巨大なる父よ、あなたの下さった〝光のネットワーク〟に心から感謝いたします......」
丈の声魂が光球のように広がって行くのがだれにもはっきりと感じられた。
「我らに光のエネルギーをお与え下さい。この者平山圭吾の調和を喪った肉体に光を与え、安らぎをもって満たして下さい。我々はあなたの大いなるみ心に添い、人間として、もっとも人間らしく生きようと望み、努力しております。
大宇宙意識体フロイよ、私たちは暗闇の中に模索して生きる人間であり、肉体に閉された目は盲い、耳は聾して、あなたの巨大な光は見えず、お声を聞くこともできません。しかし、それでもなお、私たちはあなたのみ心を信じて、懸命に生き、あなたの大いなる意志を具現して行こうと懸命になっております......
あなたはいつも私たちとともに在られるのにかかわらず、肉体に囚われた愚鈍な私たち人間には何一つわからなくなっております。心の奥底ではあなたを慕い、乞い求めながらも、自我に惑わされ、欲望と執着に狂い、あなたから離れて行く者たちもおります。憎悪や怨恨や、嫉妬の暗闇に心をぬり潰され、良心の灯もすでに見失い、離反して行く多くの迷える者たちをどうかお赦し下さい。
私たちは暗闇を盲めっぽうさまよい歩く者であり、あなたの導きがなければ正しい道を一瞬にして踏みはずしてしまいます。しかし、どんなに間違った道を歩もうとも、全ての人間は、あなたの光を本当は求めて止まないのです。ただ闇に惑わされ、光が見えなくなってしまっているのです。
私たちはこれから、あなたの愛する子供たち、闇に踏み迷い、悲哀に泪を流し、怒りや憎しみ、恨み、嫉みの泥沼に足を取られているあなたの愛児たちに、あなたの巨大な光をもたらして行きます。
大いなる父、フロイ、どうか私たちに光を与えて下さい。力を与えて下さい。いかなる困難に遭おうとも、決して挫折することなく立ち上る力を与えて下さい。
私たちはいつもあなたの素晴らしい光を心の裡に感じております。あなたの無限の慰藉と激励を感じ、どんなに力づけられるかわかりません。行手は遙かに遠く、無限の苦難に妨げられようとも、私たちは決してくじけず、たゆまず、あなたの壮大な光を地球全土にもたらして行きます。〝光のネットワーク〟にあなたの祝福をお与え下さい。私たち仲間が一人として脱落することなく、全ての人類に〝光のネットワーク〟をもたらすことができるように見守って下さい......」
丈の祈りを人々は初めて聞いた。それは講演の熱と光のみなぎる圧倒的迫力の言魂とは異り、静かに力強く、心にしみこんで行くようであった。
しんとなりながらも、人々の心は熱いもので満たされ、波打っていた。既成宗教の陳腐なきまりきったお座なりな祈りではなく、彼の祈りは生きいきとしておのずと深奥から迸り出てくる趣きがあった。
丈の声音には輝きがあり、韻があり、その祈りは美しい詩を聞いているようであった。少しもいい違えたりつかえたりすることもなく、祈りの言葉は後から後から溢れ出してきた。それは即興的であることが明らかでありながら、みごとな構成を持った祈願文を幾度もリハーサルを積んで朗読しているように思えた。
人々は感動と驚異の念に満たされて、丈の声魂に吸い寄せられるように耳を傾けていた。祈りは約十分間ほど跡切れ目なしに続いたであろう。人々の全感覚は聴覚と化し、丈の一言一句を聞き逃さず、忘れまいと心に刻みこむことに集中した。
この夜の箱根山の祈りを、生涯忘れることはないと人々は感じた。どんなに巨大な奇蹟を目のあたりに見せられるよりも、心にしみこんで行く美しい記憶だと信じていた。
11
十分間が過ぎ去り、丈の祈りがとだえた後も人々は姿勢を崩すことなく、心にいまだ響いている風韻に聞き入っていた。
「はい、目を開いて下さい。体を起こしても大丈夫です。もう苦しくないですね、平山さん? すっかり楽になったでしょう?」
と、丈がいった。
「はい、起きてみて下さい。体はなんともありませんね? すっきりしたでしょう?」
平山は人々に助け起こされるようにして立ち上った。
「すっかり治りました。もうなんともありません。さっきまで苦しかったのが、まるで噓みたいです......」
左胸に手をあてがいながら、平山は不思議そうな口ぶりでいった。
「ものすごく苦しくなって、てっきりもうだめだと思いましたが......」
「前よりすっきりして、調子がよくなっちゃったんじゃありませんか?」
「本当だ......先生のお力です、前より若返って元気になってきましたよ」
人々の間から笑声があがり、拍手が湧いた。
「いやだ......お父さん心配させるんだもの」
と、圭子が深い安堵の滲んだ声音でいった。
「一時はどうなることかと思ったわ」
「そりゃ、こっちだって同じだよ。道半ばで倒れるのが残念でならなかった......」
平山はしゃっきりとなり、頭を下げた。
「先生、ありがとうございました。菊谷さんもありがとう、おかげで命拾いさせていただきました。皆さんもありがとう、平山圭吾、この通り、復活いたしました。いやもう、菊谷さんの掌から熱くて力強い光のかたまりが心臓にずしーんと入ってくるのがはっきりわかりましたよ。いまにもエンストしかけていたボロ心臓がどんどん元気になり、新品同様に真新しく、ピカピカになるのが本当に実感できました......しかし、菊谷さんの生体エネルギーというか、光の量は素晴らしいものですなあ。大砲の砲弾みたいに光のかたまりが次々にとびこんで来るんですから、もう、たまげておりました」
「あたしなんか、そんな力はありません! 全部先生のお力です」
菊谷明子は真赤になっていった。
「先生のおっしゃった通りに、あたしはしただけですもの。あたしの力なんかじゃありません!」
「菊谷さんには、生体エネルギーを集中しやすい才能があるんです」
と、丈はいった。菊谷明子は両掌で上気した頰をはさんだ。
「だから、菊谷さんにやってもらったんです。もちろん圭ちゃんにもできた。でも、菊谷さんのように小柄でわりとひよわな感じの女性にやってもらった方が、劇的な効果があるでしょう? あっという感じがしませんか?」
丈は笑いながらいった。
「意外性がありますよね。お父さん思いの圭ちゃんだと、なんとなく当り前のような気がするけど......生体エネルギーの注入は、郁姫が上手ですが、これで特定の人間だけの技術ではないことがはっきりわかったはずです。
本当は人間はだれでも同じことができるんです。僕や郁姫だけの特技ではありません。大宇宙意識からの光のエネルギーを受けて、生体エネルギーに変換すればいいわけです。つまり精神集中によって、意識を宇宙エネルギーに向けることなんだけれど、愛の心が強いほど、アンテナは強力になるわけです。わかりますか? 病んでいる人、傷ついている人に対して、本当に慈悲の気持を持てば、それだけ強力な生体エネルギーを発揮できるわけですよ」
「先生が祈っていらっしゃる間、素晴らしい光が見えました」
と、菊谷明子が泣きそうなほど感動した声音でいった。
「まるで、真昼のように目の前がどんどん明るくなってくるんです。夜なのに、信じられないくらいでした」
「私も光を感じておりましたよ、先生」
と、平山がいった。
「光がとめどもなく湧き上ってきて、体が暖くなりました。箱根山全体が光に包まれるのじゃないかと思ったくらいです。もうこれでぽっくり逝ってもいいと思いました。実に暖くて平安そのもののいい気分なんですな」
「お父さんたら!」
と、圭子が強くいった。
「まだまだ平山さんに逝ってもらっては困りますよ。やっていただくことが沢山あります。前から心臓が悪かったんですか?」
丈が尋ねる。
「若い時分から、死ぬ時は心臓でぽっくり逝くという気がしておりましてね......なにしろ体を酷使してきましたもので。前に医者に心臓をケアーするようにといわれたことはありますが......心筋梗塞なにするものぞ、という感じでやってまいりましたものですから。あっさり死ねて楽でいい、癌などよりよっぽどいいと思っていましたから」
「お父さん、そんなこと何もいわなかったじゃないの......」
圭子が泣きそうな声音で責める。
「お酒もタバコもちっとも止めないで、無茶ばかりしていたのね!?」
「しかし、いざ心臓がおかしくなると、日頃の達観などみごとに吹っ飛んでしまうもんですな。死の恐怖が真黒な壁のように現われて体中押し潰されそうになり、ただもう夢中でもがいておりました。死にたくない! まだ死ねない! ただそれだけしか考えられなくなってしまうんですな。もう口もきけません、先生助けて下さいという声も口から出てこないんです。いやもうこれで最期かと思いました......こうやって何事もなかったようにしていられるのが不思議です、やっぱりこれは奇蹟なんでしょうなあ」
「何いってるの、お父さん! 奇蹟に決ってるでしょう!? 先生のお力で助けていただいたんじゃありませんか!」
「そりゃそうだ。前よりもずっと元気で、強壮感が何倍にも増した感じですからな。二十代に戻ったような気分ですよ。先生。体中の不快なしこりや重みがきれいに消えてしまいました。体中に精気が噴き上る、汪溢感と申しますか......エンジンがブンブン唸っている気分です」
「わかります。でも、それは今、生体エネルギーでいわば充電されたばかりだからですよ、平山さん。このままずっと続くと思ったら間違いです。あまり調子に乗らないように自重して下さい。やっぱり平山さんの心臓には多少問題があって、無理は禁物です。生体エネルギーにばかり頼っちゃだめですよ。笛川先生に一度診てもらうといいんじゃないですか?」
「そうですか。もうすっかり治ったような気になりましたが、やっぱりいけませんか?」
「いけません。〝光のネットワーク〟があるからといって依存しちゃいけないんです。自分の体は自分できちんとケアーして、大切になさって下さい。〝光のネットワーク〟の根本はやはり自力であって、依存し頼るのは甘えであり、他力なんですよ」
丈は釘をさした。さもなければ奇蹟の恩寵にふれた平山が自信過剰になりかねなかったからだ。
「そうですか。残念ですな、便利なものなのに......」
「便利だなんて、とんでもないことですよ。〝光のネットワーク〟は私利私欲のためには決して使えないんです。便利だからちょっと使わせてもらおうなどと悪心を起こしたら大変です。恐ろしい反作用が生じてくるのは間違いありません......」
「反作用といいますと?」
平山はすっかり元気を回復していた。もう娘の圭子の介添も不要になって、手を放させている。
「〝光のネットワーク〟の裏側には〝闇のネットワーク〟もあるということですよ。つまり法力を悪用する術者は魔道に落ちるということと同じです。前にお話ししたでしょう、平山さん? 心に正しい法という基準がなく、己れの欲求を満たすために法力を用いる者は地獄に落ちるんです。呪術にかかわる人間にはもっとも恐ろしい落し穴です......〝光のネットワーク〟を自分の都合で使おうとすれば、いつの間にか〝闇のネットワーク〟にすり変わっています。気がつかないうちにそうなってしまうんです」
「気がつかないうちに? それは困りますよ、先生! いつの間にか〝闇のネットワーク〟なんて、それは勘弁して下さい!」
平山があわてていい、人々の間から笑い声が湧いた。
「気をつけないと、そうなるかもしれないということですよ。いつも自分の心がどうなっているか、ちゃんと〝光のネットワーク〟に向いているか、自分の心を点検していなければならないんです。これは大事なことですから、みんなも決して忘れないで下さい。自分の心をいつもすっきりと点検整備しておかないと、自分の心がどっちを向いているかわからなくなります。知らないうちに、心がどすぐろい情念に支配されてしまい、〝闇のネットワーク〟の方を向いてしまっているかもしれない。特に自分の欲得ずくで動こうとするなら、てきめんに〝闇のネットワーク〟に組み込まれ、身動きもとれなくなる。闇の奴隷にされてしまいます。我々はみな〝幻魔の標的〟ですから、一度〝光のネットワーク〟からはずれてしまおうものなら、物凄い反作用が起きます。別にこれはみなさんを脅しているわけでもなんでもありません。向うはしっかりと我々の一人一人に狙いをつけていて、一瞬も目をはなさないということなんです。だから、我々の自覚がどんなに大切であるかということなんです......」
「怖い......」
と、だれかがいい、それが真に迫っていたので笑い声は中途半端なものになった。
「私も急に恐ろしくなって参りましたが」
と、平山が圧迫をはね返すように力をこめていった。
「いったいどうすればよろしいのでしょうか? 自覚といっても私はこれきりの人間ですし、〝光のネットワーク〟にも頼れないとなると、心細くなってしまいました」
「平山さんがそんなに浮足立っては困りますね」
丈は強くいった。一瞬にして雰囲気が変り、噓寒く心細い雰囲気が流れている。依頼心を禁止されたとたん、心が他愛なく揺いでしまったのである。彼らは盟主の東丈に依頼しきっているので、本当の自信を持ち合わせてない。丈に突き放されると、迷い子のような心細さの虜になり、うろたえるのはそのためである。
「だからこそ、一刻も早く自覚してもらわないと困ります。今度のセミナーのテーマは〝自覚〟だったでしょう?」
「しかし、我々凡人には一朝一夕には自覚などとうてい及びもつきません。どうしたらいいのかさっぱりわからなくなりました。どうか、先生、我々愚かな弟子たちをお導き下さい」
「自覚とは自己確立です。他人に頼ったり依存しているようではとうていできませんよ。自分の責任に目覚めることなんです。本当に使命感に目覚め、自分の責任の重さを悟ったら、とうてい依頼心なんか起こしてはいられません。皆さんは僕に頼っている。導いてもらえば安心だと思っている。しかし、それは甘えです。甘えがあったらとうてい自覚など及びもつきませんよ」
丈の声音はきびしくなり、人々は丈の顔を正視できずにうつむいた。
「僕は今後は、甘えを許しません。早く自分の責任に目覚めてほしいんです。そんなに皆さんが弱々しい波動を出していたら、自己確立などとうていできませんよ」
「申しわけありません。一生懸命がんばってまいります」
と、菊谷明子が声を慄わせていった。
「でも、どうすれば自己確立できるのかわからなくなってしまったんです。ごめんなさい......やり方さえわかれば、皆さん必死にやると思うんです。どうやったら弱々しい波動が強くなれるでしょうか? それさえわかれば......」
「皆さんは日頃僕のいうことをどうやって聞いているんですか? 右の耳から左の耳へ抜けてしまっているんじゃないですか? 本気になって真剣に聞いていなければ、いくらノートを取ったって無駄ですよ。かたっぱしからみんな忘れてしまう。
一瞬一秒を努力して生きる、それしか自覚に至る道はないと僕は幾度いったかわかりません。しかし、それを聞く皆さんの態度はすでに自覚から大きくそれてしまっているんです。僕の言葉をノートにメモする。それで終りです。忘れるためにせっせとメモしているようなものだ。一瞬一秒を努力せよ、と僕がいった時、あなた方は少しも努力していないではないですか。
頭に詰めこんだ知識は役に立たないんです。即座に実践しなければなんの意味もない。僕が皆さんにもたらしているのは知識ではありません。ノートしてきちんと整理し、試験にうまく解答できたってだめなんです! 実践しなければ、所詮は絵に描いた餅だ。
だから、いざとなると、どうしていいかわからない。身についたものではないからです。自覚するにはどうしたらいいのか! と情けない質問をすることになってしまう。
いつも頭でばかり考えているからです。僕には学校の秀才は用がありません。要領よくやってペーパーテストでいい点を取ろうとする人間には用がないんです。日頃から懸命になって生きていれば、何が起きたって平気なはずです。死に直面してああしまった、死にたくないと思うのは、自分に努力が欠けていたことを知っているからです。いつ何が生じても心が揺がない、自分はやることだけやりました、と自信を持っていえる、それが自己確立なんです。わかりますか?
いざとなれば、だれかがなんとかしてくれる、そんな気持がひとかけらでもあれば、今すぐに東京へ帰りなさい! もうそんな甘ったれた人間には用がないんです」
「先生、ごめんなさい! 申しわけありませんでした......」
菊谷明子が泪声でいった。
「悪いところは改めます。今まで本当に、先生に頼りきってきました......いざとなれば先生が何とかしてくださると甘えきった心で生きてきました......先生のお気持もわからずに、先生の後について行きさえすればいいんだと思って......ごめんなさい......」
「先生、申しわけありません!」
平山は叫び、やにわに道路に正座してしまった。
「先生のお気持もわからず、いい年をしながら私ほどの馬鹿者はまたとありません! 私は本当に駄目な男です。私利私欲ばかり追い求めて、心の底では〝光のネットワーク〟が商売に役立てば、などと思っていたかもしれません。この馬鹿弟子をどうかこっぴどく叱って下さい! しかし、私が先生を尊敬し、慕う気持に噓いつわりはございません! 先生は私のただ一人の師で、先生のために少しでもお役に立ちたいというのが私の本心です。どうか信じてやって下さい!」
「先生、父のいう通りです!」
圭子も座ってしまう。それにつられて、全員が道路に正座し、丈を仰いだ。
「父も先生に従い、一生懸命生きようと努力しています。父はこの一年間で本当に変りました。まだ努力が足りない、変り方が足りないといえばその通りなんですけど、本当にびっくりするくらい一生懸命なんです。いろいろだらしない所も沢山ある父なんですけど、自分を改革しようと努力している父をあたし尊敬しています......あたしも頑張ります。大学へ行くのなんか止めて、秘書の勉強をもっともっと真剣にやります。ですから、東京へ帰れなんて、悲しいことはおっしゃらないで下さい......」
「私も頑張ります。一生懸命やります。ですから東京へ追い返さないで下さい!」
大学生の金沢が叫んだ。人々は口々に懇願し、すすり泣いた。新参秘書の伴野静子などは冷えた路上に突伏して泣いていた。感情が昂まり自制がきかなくなったのであろう。
感情過多になりにくいのは杉村由紀や郁江であり、彼女たちが不在だと一挙に感情が沸騰してきやすいのを丈は感じていた。
とくに若者たちは、噴きこぼれやすく、実に簡単に泪を流した。泪による浄化の経験を好んでいるのだった。感情がふくらんで、たやすく心の浄化を味わえるからだ。むろん感傷とたいした相違はないが、意識を己れの心に向けさせ、〝点検整備〟をさせるには役立った。
各自の心の状態に絶えず注意を払わせる方針をしばらく前から丈は打ちだしていた。〝心〟こそ全ての基盤だと丈は説いた。まず己れの心をコントロールしなければ、いかなる活動も無意味だと徹底させなければならなかった。
会員たちの間に高まった奇蹟願望、超能力願望は、セミナーをきっかけに会全体の空気をうわついた空騒ぎに押し上げようとしていた。講演会の都度生じる超能力者の輩出は、会員たちを軽躁的な期待によって充満させ、足が地につかない雰囲気を醸成させていたからだ。
自分も潜在超能力が目覚めるかもしれない......そうした期待ほど始末に悪いものはなかった。うわついた気分が蔓延し、地道な努力など蒸発させてしまうほどの威力を示したからである。
「もう時間がないんですよ」
丈は路上に正座している人々に向って告げた。瞳は夜闇の中でも黒々と光っていた。人々はその声音と瞳に現われた警告の重々しさに慄然とした。
「本当にもう時間がありません。だからことあるごとに、自覚を早くしなさい、自己確立こそ急務だといい続けているんです。我々は自己の責任に真に目覚めた人間がなにを成しうるか、世界の人々に示さなければならないんです。我々は大宇宙意識により大きな助力を受けていますが、実際に事をなすのは我々の双肩にかかっているんです。繰り返していいますが、もう時間がありません。悠々とマイペースで自覚しようという人は、勝手にしてもらうしかありません。
僕は皆さんにどうしても自覚してもらわなければならないんです。タイムリミットは迫っている。しかし、皆さんにはわからない。頭でわかっていても無駄なんです。だからこそ弱々しい他力の波動を出し続け、いざとなれば、だれかがなんとかしてくれると思っている。
他の人がやるんじゃない、皆さん一人一人が自分でやるんです。しかし、どうしてもだめなら、最後の手段ということになるかもしれない。イエス・キリストが十字架にあがったのは、そうせざるを得なかったからです。さもなければ弟子たちは決して自覚しないということがわかってしまったからですよ」
丈の口調には異様な切羽詰まったものがあり、人々は愕然と丈の顔を振り仰いだ。それは戦慄となって彼らの体をつらぬいて行った。
「先生......」
と、菊谷明子が呻くようにいった。
「先生もまた十字架にお上りになるのですか......!?」
「どうしても皆さんが自覚しなければ、そうせざるを得ないでしょう。もちろんイエスの時の十字架とは形が違いますが......僕がこの肉体を持って存在するかぎり、どうしても皆さんの心から依存心や甘え、他力が消えないのかもしれません。だとすれば、皆さんの自覚を促すために、僕は必要なことをするだけです。他にどうしようもありません......」
「先生、あたし自覚します! 絶対に自覚すると誓います」
圭子がひきつったような声音でいった。
「もし自覚できなかったら、死んでも構いません!」
鋭い苦悶の響きがあった。思い込みの強い圭子はまぎれもなく本気でいっているのだった。
「もし誓いが果せなかったら、あたし自分に死を命じます! 自分の手で!」
「わたしもそうします!」
と、菊谷明子が叫び、急激に興奮は一同の間に伝染し、沸騰したようになった。口々に誓いを叫びたてる。井沢郁江や杉村由紀がこの場に居合わせないことで、歯止めがきかなくなっていたのかもしれない。異常な高揚が一同を捉え、一種の狂気めいた雰囲気にまで急に上昇した。
突如スウィッチが入ったように、箱根山の上空に光が点った。みるみる光芒が射してきて、立ちつくす丈の顔を闇の中に浮き立たせた。
12
人々はどよめいた。またしても奇蹟が生じたことを知ったのだ。上空の星空に強い光源体が動いていた。それも一つ二つではない。十数個の光源は、突如星が真近に輝き出たように強い光を地上に降らせながら、急速に滑り、移動していた。
「光り物だ!」
と、平山圭吾が大声で叫んだ。まさにそれは〝光り物〟であった。地表すれすれに現れ出た巨星に似ている。しかも、それは螢のように乱れ飛んでいた。
「円盤だ! 先生、円盤じゃないですか!?」
平山はせきこむように丈に尋ねた。丈は無言で空を仰いでいる。その顔は夜空からの光を浴びて美しく壮麗に輝いて見えた。これほどの劇的な効果はなかったであろう。夜空には奇蹟が生じており、それは人々の精神的高揚とぴったり符節を合わせて、みごとな演出としか思えぬタイミングで展開されているのである。
夜空の一ダース近い移動光源体は不思議な滑らかさで、相互に無関係な動きを示している。しかし、衝突しそうで衝突しない。光芒をまき散らしながら夢幻のショーを演じている。
円盤......と平山はいったが、それは光球そのものに見えた。どんな原理で飛行するのかもわからず、サイズも不明である。しかしそれらは明確な光源体として存在し、目の錯覚で片付けることは不可能であった。
無秩序ででたらめな動きが止み、光球群は統率された動きを見せ始めた。みる間に一列縦隊を組むと、速い動きで一同の頭上に飛来した。人々の頭に接するのではないかと思える低空を次々に飛び過ぎて行く。それは直径二メートルほどの光球であり、眩しく輝き、内部構造や表面などを全く証かさなかった。人々は己れの両手で頭を抱えるようにしてひれ伏し、目をつぶり、とうてい観察どころではなかった。ただ一人、丈だけがたじろぎもせず凝然と佇んでいた。その瞳は光球に劣らないほど強い輝きを放っていた。
光球群は一同の頭上を低空飛行で掠め過ぎると一糸乱れぬ整然としたページェントに移った。人々は魂を奪われたようになり、鮮やかに制御された光球群の展開する光のショーに見入った。
「あの光り物の数は、僕たちの数といっしょだ! ちょうど十一個ある!」
と、大学生の金沢がうわずった声を出した。驚天動地の発見をした興奮ぶりであった。
「本当だ......」
「あの光り物は、僕らと無関係じゃないんだ、きっと! そうじゃありませんか、先生!?」
人々の視線を集めて、丈は身じろぎもせず、沈黙していた。光球群は隊列を崩して、素晴らしいスピードで一斉に飛散し、乱舞を始めた。箱根山の上空をいっぱいに使って〝曲芸飛行〟する。目が追いついて行けないほどのスピードであった。
人々の喉を驚異の呻き声が衝いて出た。それは想像を絶した光の芸術であり、狂喜乱舞を表現していることが、だれの心にもはっきりと浸透してきたからだ。
いったん地平の彼方まで四散して飛び去った光球は、再び舞い戻ってくると物凄い速度で集結を遂げ、人々から畏怖の叫び声を引き出した。光球群が一点で激突し、爆発を起こしたように感じられたからだ。
光量は凄まじいほど上り、真昼にも劣らぬ明るさが人々を照らし出した。その一団となった光芒は凄まじくギラギラと輝き、閉じた瞼も射しつらぬいて脳裡へ差し込んでくるのではないかと思われた。白光の奔流であった。全てが光の奔流に吞まれてしまった。
人々があまりの光の猛烈さに苦痛さえ感じ始めたとたん、光球群はかき消すように消え、強い残像だけを中空に残して去った。
一瞬にして消え失せてしまったのである。
圧倒的な光の波動に慣れた目に、星空が甦ってくるにはしばらく時間が必要であった。星空から地上間近に降りてきた星々が、また元の星空に戻ってしまった、と感じた者が大部分だったようである。
「先生......お教え下さい。今のは何かを意味していたのではないですか?」
と、平山がそっと丈に呼びかけた。一語も発さず沈黙している丈に、はばかっているような平山らしくない遠慮がちな声音であった。
「今のが奇蹟であることはわかっても、我々愚鈍な弟子たちには、それ以上のことはわかりません。どうか先生、お教え下さい......」
人々は息を詰めるようにして、丈の沈黙がとけるのを待った。魂が宙をさまよっているような心地がしていた。それほど光のページェントは強い残像を心に刻みこんでいた。
「物質的なものではない......それは確かです」
丈の声音はいつもと異り、夢見る人の趣きが感じられた。
「だれかがいったように、光球の数が我々の人数とぴったり一致していたことにも、大きな意味があるはずです。あの奇蹟は、宇宙意識が我々に大切なことを教えようとして見せたのではないでしょうか?」
「宇宙意識が我々に?」
と、平山が尋ねた。
「先生の昨年の講演会が終了した直後に、素晴らしい虹が見えましたが......?」
「あれは門出への祝福でした。今のは違います......あの光球は我々の本質を意味していたのかもしれない......そんな気がします」
「我々の本質?」
「そう。我々は自分のこの肉体を自分自身だと思っている。しかしこれは物質にすぎず、すぐに滅びて消失してしまうものです。肉体の死によって塵になって土に還ってしまう。だが、我々の本質は物質ではなくて、永遠不滅の存在です。
今の光球の出現は、その真実を我々に教えるためだったんじゃないでしょうか? 宇宙意識フロイは肉体を持った存在ではありません。その本質は宇宙の根元的な光です。我々の本質もまた光であり、この肉体ではありえない。もしかしたら我々の人数と同じ数の光球の出現は、あれこそが我々の本質であり、今ここに肉体を持って存在する我々は仮りの姿、仮相であることを教えに来たのではないか......高次元から投射された光がこの三次元の世界では、この物質である肉体になるんじゃないか。
僕のいっていることはわかりにくいですか? 我々はここにこうして、肉体を持って実在しているから、他に自分の本質があって、それは肉体的なものではないといきなりいわれても、頭がついて行けないかもしれませんね......突然、あの光球こそがお前の本質なんだといわれても納得できないかもしれない。しかし、今のこの肉体はいずれ滅びてしまうものなんですよ。人間は必ず死ぬものなんです。肉体はどうなりますか? 火葬場へ運ばれ、お棺ごと重油バーナーで焼かれて灰になってしまいます。我々の肉体は元素に分解されて消失してしまうんです。
それは近い将来、必ず我々を待っている運命です。絶対に免れることはできない宿命なんです......」
人々はしんとなり黙りこんで、ただ懸命に目を瞠り丈の顔を闇の中に星明りで見ようとしていた。
「さっきは、誓いを果せなければ死んでもいいといっていたのに、元気がなくなってしまいましたね......死ぬのはやはり怖いですか? しかし、怖がっていては何もできませんよ。人間は一時的に興奮状態になれば、死など怖くないと思う。でも、それはその時だけのことです。心が冷めれば、やっぱり死ぬのは怖い、自分の肉体が滅び、自分がどこにも存在しなくなってしまうのは恐ろしい......」
丈の瞳がきらりと光って人々の顔を見わたした。人々は顔を伏せた。一人、圭子だけが懸命に目を瞠って丈の視線を受け止めた。
「圭ちゃんのことをいっているわけじゃない。圭ちゃんが本気なのはよくわかっている。誓いが果せなかったら、圭ちゃんは本当に死んでしまうだろう......今は一般論をいっているんだ。高揚した雰囲気の中ではなんとでもいえるが、磁場が変れば、人間の心はまた変ってしまう。不動心とはそんなにコロコロ変るものではないはずだ。生病老死を本当に克服しなければ、恐怖心は決してなくならない。肉体の死を恐れていては、不動心など持ちようがない......人間の本質とはこの脆くて傷つきやすい肉体ではないと本心から悟れば、恐ろしいものはなくなってくる。そうじゃないだろうか? この脆い肉体があるからこそ、人間は恐怖心を持ってしまうんだ。自己の肉体に危害を加えるものが恐ろしくてならなくなる。
肉体的な恐怖を克服するのは並み大抵のことじゃない。その人のためなら死んでも惜しくはないとしんそこ思うような強い愛がなければ、恐怖心を乗り越えることはできない......」
丈は圭子の眸を見詰めながらいった。
「たとえば子供を想う母親の愛だ......しかし、全ての人間にそれを要求することは不可能かもしれない。しかし、我々は恐怖心を克服し、肉体への執着を離れなければならない。さもなければ、使命を果すことなど、到底おぼつかないからだ......
だからこそ、今我々は宇宙的な真実を見せられたんじゃないか......僕はそう思う。あの素晴らしく光り輝く光球たちが、我々の本質......本当の姿なら、この肉体は一時的な仮相だし、借り物にすぎない。何が起きたって恐れることはないんだ。たとえ今、この瞬間大地震が起きて我々が肉体の死を迎えても、光の本質は何一つ傷つかない。
恐れるな、と光球たちは我々に告げに来たんじゃないだろうか? 我々の肉体は、高次元世界からプロジェクターで投影されるようにして、今ここに存在している。しかし、これはあくまでも影にしかすぎない。本体は我々が見た素晴らしい光そのものなんだ」
「先生、まるであの光たちは天使みたいでした!」
と、菊谷明子が叫ぶようにいった。
「あたしには天使みたいに見えたんです! 光球の中に輝く天使の姿が透けて見えました、本当なんです!」
「すると、先生、我々の本体はあんなに素晴らしい光ということになりますが......」
と、平山がいった。彼はしだいに元気を回復していた。
「まさに光の天使ということになりますな。私など到底そんな立派な光とは思えないのですが......」
「浮世の垢をいっぱいつけてしまったので、そう思うんではないですか? 百ワットの電球だって煤がいっぱいつけば、光量が十ワットぐらいに落ちますよ。でも、本質的には少しも変らない光の持主なんです」
「なかなか信じられない気分です。皆さんいずれ劣らぬ素晴らしい光を出しておられましたな。私、感動いたしました。皆さんのような立派な光の天使たちとお仲間でいられて、本当に私は果報者です」
どっと笑声があがった。みんな気が楽になり、自信が湧出してきたようであった。
「皆さんは自分の本質を見ることができて幸せです。この奇蹟を無駄にしないで下さい」
と、丈はいった。
「これは宇宙意識フロイの大いなる慈悲だと思うんです。なぜ皆さんだけがこの奇蹟に立ち合う幸運を与えられたのか、各自でよく考えてみて下さい。宿舎に残った何十人もの人々はさぞかし残念がるでしょう......皆さんはよっぽどしっかりしなければいけないと思うんです。だからこそ、この奇蹟を見てちゃんと自覚しなさい、とフロイはいっているんじゃないでしょうか?
もう皆さんは何も恐れることはないんです。この瞬間山が崩れようと世界の終りが来ようとびくともしないはずです。この肉体はほんの借り物なんですから......その代り使命はひときわ重いということも自覚して下さい。わかりますか?」
はい、と人々は小学生のように唱和した。
「では、宿舎に帰りましょうか。食事と入浴の時間が残り少くなってしまったので急いで下さい。夜の部のパネル・ディスカッションに出る人がいたはずです。金沢君、君はパネラーでしょう?」
「そうです......大変だ! 飯も風呂も抜きになっちゃいそうだ。先に走って帰ってもいいですか?」
金沢は跳び上った。
「下り坂だから帰りは楽ですよ。平山さんも大丈夫そうだったらもう一走りしますか?」
「私は大丈夫です。新品同様になりました。それにもう肉体には執着しません」
平山が立ち上り、胸を張る。
「いや、やっぱり平山さんはゆっくり歩いて帰った方がいい。帰ったらすぐに笛川先生に診てもらって下さい。だれか平山さんに付添ってあげなさい......木下君、いいですか?」
丈は一同の顔ぶれを見廻し、素早く指名した。木下は大学生だが、正規の会員ではない。高鳥グループと時期を接して平山ビルに出入りするようになったボランティアの一人であった。現在、高鳥グループは分裂しているが、その反高鳥グループに属している大学生である。
「わかりました! 僕、残って平山さんを宿舎までお送りします!」
丈の指名を受けた木下は固くなって答えた。
「どうもすみませんな、お手間をとらせて......私は一人でも大丈夫ですよ。のんびりと星でも眺めながら歩いて帰りますから」
と、平山が遠慮がちにいった。
「いや、僕にお送りさせて下さい!」
木下は鼻が詰まったような声音で懸命にいった。丈の指名を受けることが、彼にとりどんなに大きな感動をもたらすかよくわかった。
「僕、平山さんをお送りしますから!」
「そうだ。ゆっくり歩きながら、平山さんに相談してみるといいよ」
と、丈はいった。
「きっと木下君には役に立つと思う......平山さんに教わることは沢山あるはずだ」
「はい......」
木下は泣きそうな鼻詰まりの声で答えた。丈の言葉は彼に胸迫る感銘を与えたようである。しかし他の人々はさほどにも感じなかったらしい。勘のいい圭子だけが、不審げに丈の顔を見ただけだった。
平山と付添いの木下青年を残して、一同は再び夜の道路を走り始めた。今度は下り坂なので足取りは軽い。
前方から車のライトの光芒が夜闇を貫いて伸びてきた。単車の爆音が迫ってくる。一行がマラソンに出てから初めて行き遭う車であった。
13
単車は一行とすれ違うと、くるりとUターンして戻ってきた。
「お晩です......」
と、屈托のない胴間声が投げかけられた。一行は足を停め、振り向いたが、ライトの光が眩しくてライダーの正体が摑めなかった。それでなくてもヘルメット、とゴグルで顔が隠れている。
「先生たちがジョギングに出たというんで、すぐ後を追っかけたんですがね、間違えて強羅の方へ行っちゃいましたよ......」
ライダーは単車にまたがったまま喋った。
「こっちへ引き返してくると、今度は......先生たちも見ましたか? 沢山円盤が物凄く光りながら飛んでたでしょ? 危く谷底へ飛びこむところだった......」
「ライトを消してくれませんか」
と、丈がいった。
「こっちへ向けないで下さい。ルポライターの風間さんでしたっけ?」
「当たりです。いや、先生は物憶えがよくて助かりますよ。それに引きかえ、秘書の杉村さんの忘れっぽいこと」
トップ屋の風間俊敏はぼやきながら、ライトを消した。ゴグルを額の上に押し上げ、ばんびろの顔を出してニヤニヤ笑う。お得意の鮫の口付をした笑いである。
「先生が一度、あたしに逢ってやるとおっしゃったんでしょ? それを杉村さんはけろりとお忘れでしてね。箱根へ出かけたとやっとわかって、すぐに飛んできたってわけで」
「一度会いますとはいったけど、箱根のセミナーへ来て下さいとはいいませんでしたよ」
「まあ、いいじゃないですか。こうやって来ちまったことだし、先生の日頃の活動ぶりを取材するには絶好の機会ですよ」
風間は平気でいった。押しの強さは超一流であり、他人の都合を気にするなど、ありえないことだった。そんなことでは商売にならないのである。
「ついでだから、あたしも参観させて下さいな。面白そうなセミナーだから、取材し甲斐がありますよ。円盤まで景気づけに大挙して到来するし、こりゃ先が楽しめそうですな。何が起こるかわからない。早雲山が爆発でもするかもしれない。だって、先生は凄い奇蹟の仕掛人なんでしょ?」
トップ屋はその特徴である無責任な面白がり屋ぶりを発揮して喋りまくった。
「セミナーの邪魔をされては困りますね」
丈はいっこうに嚇っとならず、冷静にいった。金沢が憤然として飛び出そうとするのを手ぶりで抑える。
「研修の邪魔になるので、取材は秘書の杉村がお断りしたはずです」

「しかし、それで引っ込んでいては、商売になりませんからねえ。当って砕けろってわけで、東京からこいつを吹っ飛ばしてきたわけですよ。ちょっとだけセミナーを覗かせて下さいよ、先生。いいじゃないですか......こっちだって当てずっぽ書くのはやっぱり厭なもんですからね。本当ですよ、先生。駄目って冷たくあしらわれると、こん畜生って一層燃えちゃうんですよ。ちゃんと扱ってくれれば、こっちだって人間なんだから、そう滅多なことは書きませんよ、本当」
「信用できませんね、それは......」
丈は笑いながらいった。
「あなたがこれまでやってきたことからすれば、相手がどうであろうが、あらかじめ書こうと設定したことだけを書くんじゃありませんか? 〝奇蹟の少年教祖〟扱いは願い下げです。天草四郎の再来なんてキャプションをつけられるのはご免です」
「先生はなんでもお見通しですな。他心通という奴ですか? テレパシーだな」
しかし、風間はいささかも応えた様子を見せなかった。
「先生の顕わす奇蹟について書きたいんですよ。先生のは本当に物凄い。空前絶後の奇蹟能力じゃないですか? 今の光る円盤の大襲来なんて、魂消ちゃって危く死ぬところでした......もちろん気を取り直してバッチリとカメラに収めさせていただきましたがね」
トップ屋は胸許に吊ったカメラを平手で叩いて見せた。
「いいじゃないですか、この期に及んで、そう逃げなくても......仲良くやりましょうよ。先生だって宣伝になるし、損はしないはずだ。持ちつ持たれつですよ......そうでしょ? お互いに利用しあえば、うまくやって行けますよ。そんなに邪魔にすることはないと思うんだけどな」
「芸能人と間違えているんじゃないのですか? 僕は宣伝なんかしてもらう必要はないんです。芸能週刊誌の売上げには協力できませんよ」
「まあ、固いことはいいっこなし。あたしは先生がスーパースターになると睨んでるし、さもなきゃ先生の仕事はうまくいかんでしょう? こうなったら、あたしは先生が拒否しようとしまいと、絶対に先生が有名になるのに協力しちゃいますぜ。これはあたしの執念ですよ。先生が厭だといっても、世間は先生をスーパースターにしちゃう。これは運命ってもんで、いい加減にあきらめたらどうですか? あたしだって、悪いようにはしませんよ......」
「僕はあなたの野望に協力できませんよ。あなたが名を挙げるのに利用されるのはお断りです。前にも忠告しましたが、あなたは自ら求めて墓穴を掘っている。僕に近寄らないことです。あなたの意図は私利私欲に基いたよからぬものなので、強烈な反作用を受けることになるんです。今夜は谷底へ転がり落ちずにすみましたが、同じような危険が幾度も起こってくるんです......」
丈は淡々といい、一行に声をかけ、走り出した。どうなることかと気色ばんでいた一同がほっとして後に続く。
「待って下さいよ!」
トップ屋はあわてて後を追おうとアクセル・グリップを開いた。すると、にわかに甲高い二気筒特有の爆音が止んでしまった。素知らぬ顔で丈は一行の先頭に立って坂道を走り去ってしまう。
「ねえ、ちょっと!」
風間は焦ってキック・ペダルを踏むが、いっこうにエンジンは生き返らない。
「ちょっとってば! 江田のことでも話したいことがあるんです! 話を聞いて下さいよ、ちょっと、先生! こっちだって命懸けでやっているんですぜ! そんな、冷たく去っちゃうなんて殺生だ!」
風間は単車から飛び降りてどなっていたが、だれ一人振り向こうともしなかった。
「あたしは諦めませんよ、先生! 先生のこと見込んじゃったんだから! あたしを追っ払おうってんなら、その超能力でも使うといいんだ! そんならこっちも書きようがあるんだから。糞っ」
風間は単車に八つ当りした。
「こんな所でどうしろってんだ、この馬鹿野郎! 凍え死んじまうじゃねえか! あ、もしかすっと、奴にやられたかな!?」
表現の及ばない複雑な喜びの表情が、風間の盤台面に浮かんだ。
「そうだ、きっと念力をかけたに違いねえぞ! 奴は何食わねえ面してるけど、相当油断がならねえからな......念力でエンストさせやがったんだ、きっと!」
彼はひとりごちた。にわかに興奮に堪えがたくなったように荒々しく笑った。独身生活が長いのか、独白する癖がついているようであった。
「やっぱり俺の思った通りだ。あいつは念力を使って人をよせつけまいとしていやがるんだ。いろんな悪さをして......こうやって事故を起こさせたり、人の困るようなことを起こして、諦めさせようとしてやがるんだろう......だが、この風間さんは諦めねえんだ! 一度喰いついたら離さねえピラニアの風間ちゃんてなもんよ。邪魔すればするほど燃えちゃうんだからな」
風間はもう一度、笑い声を立てたが、それは途中で立ち消えになってしまった。
「しかし、弱っちまったな。こんな重いもんかついで帰るわけに行かねえしな......どうするんだ。参ったなあ......」
そこへ遅れて歩いてきた平山と木下の二人が通りかかった。汗をかいてキック・ペダルを蹴りつけているライダー姿の風間を、遠い照明灯の光に透かすように平山たちは眺めた。
「どうかなすったんですか?」
と、人情深い平山が声をかける。
「故障ですか?」
「まあね......」
風間は忌々しげに呟いた。気もそぞろであった。
「こりゃ車呼んで運ばないとだめかなあ......そうだ、おじさん、お願いがあるんだけど、ホテルへ戻ったら修理屋に電話してもらえませんかねえ」
厚かましさを発揮して、風間は相手を口説きにかかった。
「こんな所にいたら凍え死んじゃうから、人助けだと思って、お願いしますよ、ねえ」
「ここからホテルまではずっと下り坂だよ。オートバイにまたがってトコトコ下って行けばすむことじゃないの?」
平山が呆れ顔でいった。そんなことは子供でもわかりそうなものだ。
「それが厭だったら、押してってもいいんではないの? 車と違ってオートバイなんだからさ」
「あ......そうだ......」
風間はぽかんとした顔でいった。そんなことすら考え及ばない自分に驚いていた。
「ま、お好きなように......じゃお先に」
平山は木下青年を促して坂道を下って行った。
「畜生、人をコケにしやがって! というのはまったくこのことだな。だいたいこの抜け目のないことでは定評のある風間ちゃんがってなもんだよ」
と、風間は独白とは思えない口調でいった。
「東丈先生、なかなかやるでないのよ、え? 他人の知能を下げて阿呆にしてみたり、手玉にとってくれちゃって......しかし、これくらいじゃ参らないからね。ますます闘志に燃えちゃって、お礼はたっぷりってなもんよ。しかし、敵さんもなかなかやるね。江田の奴と嚙み合わせる必要が絶対あるね。どっちも人間放れしたタマだからよ......こいつは面白いや」
風間はゴグルをおろしながらニヤリと笑った。己れの思考を声に出して喋ってしまう癖に少しも気付いていないのだった。興奮するとにわかにその癖は激しくなってくる。
「ま、お宅に喰いついていれば、こっちは楽して飯が食えるもんね。今夜の〝円盤寄せ〟の一件だけでも、〝奇蹟の高校生美少年教祖シリーズ〟の巻頭を華々しく飾れるってなわけよね。まあ、仲よくやりましょうや」
胸許から下げたカメラを叩いて、風間は孤りうそぶいた。が、急に心配顔になる。
「けど、あの野郎、カメラの方には手を出してねえだろうな......? 念力で単車をぶっこわす奴だから、何するかわかんねえぞ! 畜生、円盤の写真を撮ったなんていわなきゃよかった! どうも俺は口が軽いね。相手は物騒な超能力者だし、何するかわかんないんだから、用心しなきゃいけねえんだよな」
しまいには大声で喋っていた。このトップ屋の奇癖であった。
「しかし、あれは念力というより魔力だね。その気になれば、あの先生は相当凄いことやるんじゃねえかと俺は睨んだね。天変地異を起こすぐらい屁でもねえし、他人の心を自由自在に操ったりするんじゃねえか......念力で人間という人間をパーにしちまえば、何でもできるもんな! この賢い風間ちゃんだって脳天パーにされかけたんだからよ......救世主東丈変じて大魔王ってわけか。美しき大魔王なんていけるんでないの......」
不意に気がさしたようにトップ屋は黙りこんだ。不安を覚えたようであった。だれかが自分の思考に耳を澄まして聞き入っているような強迫観念に捉えられたのである。
14
天井の高い、広々としたホテル・ロビーで、東丈と井沢郁江は二人だけで話していた。二人の姿はどこからも丸見えだが、ロビーには他に人影はない。フロントのホテルマンが時折カウンターの内側に姿を現わすだけである。
ステージつきの宴会場では、パネル・ディスカッションが行われており、セミナーの参加者は全員そちらへ詰めている。他の客は数少なく、ほとんど姿が見当らず、広いロビーは丈と郁江のために貸切にされたようであった。
ゆったりした調度の中で、二人はくつろいでいた。とくに丈は相手が郁江だと目に見えてリラックスするようであった。やはり絶えず他者の視線を意識し、おのずと身構えてしまうからであろう。不可視の甲冑をつけたように、密度の濃い緊張感をはらんでいるのだった。これは秘書の杉村由紀がいても同じである。
常に身をもって具現せねばならぬという息苦しいほどの思いこみが、なぜか〝郁姫〟の前ではほぐれてしまうのだ。杉村由紀が郁江に対し嫉妬に近い感情を抱くのは、まさにその一点にかかっていた。
丈はトレーニング・ウェアだが、郁江は平服のままであった。ふわふわしたピンクのスウェーターと赤いミニスカートが息苦しいような情念を誘う。妖精が出現したように、あたりの雰囲気をたちまちにして塗り変えてしまうのだ。
「東君は、前の方がいい......前の人間的な弱点を持つ東君の方が魅力的だっていう人たちもけっこう多いのね」
と、郁江がお喋りしている。丈と二人きりだと東君という呼称に逆戻りしてしまう。しかし、二人とも気にはしていない。
「今の東君は怖いくらい立派で人間放れしていて、圧迫感があるんだって......前の東君はもっと優しくて繊細だった、弱点はあってもそれが魅力的だったというのね。ご本人のご感想はどう?」
「僕自身は特に変ったという自覚はそんなにないんだ」
と、丈は苦笑しながら答える。
「でも、多少は変ったという自覚はあるわけね?」
「それはもちろんある......猛烈な責任感の圧力に堪えて、それをはね返さなければならないんだ。他人にも自分にも甘くしていられないよ」
「でも、会を離れて行った人たちは、そんな東君の変り方に反撥しているのね。あまりにもお偉くなった東君にはついて行けないって、岩田邦ちゃんなんかはっきりいっているわ。物凄く高圧的で独善的なものを感じて厭なんだって。
前の東君、思い遣りがあって優しくて、可哀そうがりで、暖い東君はどこへ行ってしまったんだろうと嘆いてたわ。ま、嘆くというより白けてるわけだけど......今の東君は圧倒的で巨きな力をもって世界を変えて行くかもしれないけど、前の東君とは全くの別人で、邦子にとっては見知らぬ赤の他人というわけなのね」
「そうした批判の波動はいやというほど僕の所へ来てる。しかし、どうしようもない。甘えは許されないといい切った以上は、まず自分に対して峻厳になるしかないんだから......しかし、僕はそんなに人々に厳しいか?」
「べらぼうに厳しいわ。冬山みたいに峻烈って感じ」
「君も、岩田邦子たちと同意見か?」
丈は衝撃を隠せないようであった。このような率直な意見をぶつけてくる存在は、郁江をおいて一人もいない。
「ううん。そうでもない。必要であるならば、それもいいと思う。東君が厳しくがんがんやるのも嫌いじゃないの。前のソフトな東君も好きだけど......邦子たちのいい草って、負け犬の遠吠えに似てるのね。犬っていうより狐かな? ほら、イソップにあるでしょう? ブドウを取りそこなった狐が、どうせあんなのは酸っぱくて食べられないブドウなんだと悪口というか中傷する話が......邦子たちのもそれといっしょで口惜しまぎれって感じなのね。ついて行けないというよりか、独占欲が満たせなくなった腹いせだな。東君がもっと親切に引っぱって行ってくれたら、という恨みがあるみたい」
「僕の遣り方は間違っていると思う?」
「思わないわ」
と、郁江は明快にいった。
「親切に手取り足取りで運んでほしいという願望は、甘ったれがすぎると思う。彼女たちに、東君のお荷物になる権利なんかないもの。つまり、邦子たちは、ついて行けなくなった者たちも親切に拾い上げて運んで行ってくれることが慈悲じゃないかってわけよ。ついて来ない者はついて来なくてもいいと突放すのはひどい無慈悲だといいたいわけね。ところが東君は現にそうなんだもの。覚悟がある者だけ必死でついて来いと東君はいう。くじけて泣き言をいってる連中、優しくなだめすかして、甘ったれを許容してくれる東君を求めている邦子たちとは決して相容れないもの。他力の連中に自覚を求めてもだめね。冷酷だとか無慈悲だとかという大合唱をひき出すだけだもの。弱者を冷酷無残に捨てて行く人でなしなんていわれかねないわ」
「〝郁姫〟も厳しいな。まさかそんなことを邦子たちにいったわけじゃないだろうな」
「いったわ、もちろん。あたしの方が本当は東君よりずっと峻厳なんだもの。ビシビシいっちゃった。邦子なんか泣かせちゃったわ」
郁江は〝峻厳さ〟などおくびにも覗かせずにいった。
「郁姫も変ったといわれたろう。前の郁はこんなに冷たい人間じゃなかったって......?」
「もちろんいわれちゃった。でも平気。あたしは本当に東君より冷酷だし、それが役目だと思ってるもの。甘ったれもいい加減にしてとづけづけいっちゃうし、東君の足を引張るのはやめなさいときめつけちゃうこともできる。もうとっくの昔に幻魔大戦が始まってるのに甘ったれていられるわけがないでしょって......でも、邦子たちにはやっぱりわからないみたい。東君がどんなに苦労して峻烈になろうと努めてるか、あの人たちには絶対にわからないと思う。彼らの目はなつかしの〝古き良き時代〟に向きっ放しで、東君とともに未来に目を向けようなんてこれっぽっちも思ってない。恐ろしいものから目をそむけることで精一杯なのね」
「僕には、〝覚悟〟のない者を連れて行くことはできない......」
丈は苦渋の念を感じさせる声音で呟いた。
「みんなに優しい言葉をかけてやることのほうが、どんなに楽かしれやしない。だが、どうしてもそれができないんだ。岩田邦子たちの不満はもちろんよくわかるんだが......だけど、僕にはみんなに甘い幻想を与えることはできない。ついてくる者が一人もいなくなったとしてもだ......」
「東君、本当にそう思ってる?」
郁江は深々と丈の顔を覗きこんだ。
「いや......もちろん、ついてきてほしい。どんなに苦しくても......未来にどんなことが待っているか、みんなにはやっぱり信じられないだろう。だから、不平不満も出る。とにかく今回のセミナーに参加した人々は、真剣にやろうと思っていることは確かだ。不満分子は一人も参加してない。しかし、本気で僕について来ようと決心してる人たちだって、本当にわかっているかどうか......」
「東君は、みんなを甘やかしてだめにしてしまうことが怖いのね?」
丈は郁江の洞察力に驚いたように、目を大きく瞠って彼女の顔を見詰めた。
「甘やかす権利がないと思ってる......」
「それにしては、なぜ東君は、郁姫だけを甘やかして好きなことをさせるのかって、不思議に思ってる人たちもいるわ。たとえば杉村さん......」
「杉村さんが君に何かいったのか?」
「ううん。でもそうだってことはわかる。あたしだって時には不思議になるもの。なぜあたしだけ東君の峻厳さに免疫を持ってるのかなって......最近は東君、杉村さんにだってビシビシ厳しくいうでしょ? 杉村さんナーヴァスになってピリピリしてるじゃない?」
「杉村さんは完全主義者なんだ」
「可哀そうよ。もう少し手加減してあげなければ......杉村さんは責任感が過大だもの」
「そうかな?」
丈は首を傾げた。郁江の指摘が意外だったようである。
「特に杉村さんに厳しくしたつもりはない。みんなと同じようにしてるはずだ」
「だから、杉村さんはそれを過敏に感じるの。年長者意識が強いから、それだけこたえるのね。それに杉村さんには安全弁がないし」
「安全弁?」
「あたしなんか安全弁だらけで、全然こたえないけどね。失敗するのが当り前と思ってるから......でも、杉村さんは自分がミスしたら他の人たちにしめしがつかないと思うし、緊張感で参っちゃうんじゃないかな?」
「まさか。杉村さんはそんなに弱い人じゃない。それに、杉村さんに人前で注意するようなことはしていない。郁姫になぜそれがわかったのか不思議だよ」
「勘ね。杉村さんを見てると、可哀そうだなって思う。うまく自分を解放してやれないから、抑圧が物凄く高くなってくるでしょ? 相談相手がいないから、一人で悶々としちゃうのね。東君が、若い人たちにいろいろ教えてやって下さいなんていうから、杉村さん責任感過剰でがんじがらめになってるみたい。もっと気楽にやればいいと思うんだけど」
「それは郁姫の考えすぎだよ」
丈は頭を振りながらいった。
「杉村さんにはそれだけの力量がある。でも、あの人は一人で閉じこもってしまう性格があるんだ。いってみればそれがカルマなんだろうな。だから人と協調して行くことを面倒くさがる。大きな力量を持ってるだけに、人に頼らないし、当てにすることもしない。女には珍しいような一匹狼のカルマなんだ。杉村さんが悩んでいるのは、そのカルマを超克するための苦しみなんだと思うな。でも、杉村さんは必ずうまくやると信じてる......あの人は自分の本当の力がもっともっと大きいことに気付いてないんだ」
「でも、抑圧が強すぎると心配だわ。突然ガクッと来たりするでしょ。陽子みたいに......陽子も自分を抑えすぎたからだと思うの」
「陽子の場合はちょっと違う」
丈は急いでいった。
「杉村さんとはまったく違う。杉村さんは決して挫けないと僕は信じてる」
「杉村さんは東君を愛してるのよ」
郁江はおそろしく率直にすらりといった。
「だから抑圧が物凄いわけ。あのままだと心配になるわ」
「しかし、杉村さんは......」
丈は息を吞んだ。固い物で頭をどやしつけられたように茫然としていた。
「東君より十四も歳上だっていうんでしょ、わかってる。でも、そんなことは関係ないの」
「まさか、そんなことを他人に話したりしてやしないだろうな?」
「もちろんよ。でも、それは間違いないと思う。杉村さんはもちろん、自分自身認めないし、そんなことを許さないと思うのね。でも、抑圧が大きくなるのは当り前のことよ。そうじゃないかしら?」
「しかし......」
丈は幾度も何かいいかけては口をつぐみ、呆然と郁江の透き徹るような他意のない貌を見詰めていた。丈らしくないうろたえぶりであった。いつも黒い瞳で超然としている丈には考えられない動揺ぶりといえた。
「杉村さんには、自分が女として東君を愛するってことが許せないのね、きっと。そんなことはあってはならないと思ってる。だから、強烈な抑圧を自分にかけて封じてしまう。だって陽子のことだってあるし......杉村さんにとって何よりも怖ろしいのは、自分の本心を認めることかもしれない。今、東君はカルマってことをいったけど、杉村さんには東君との間にそうしたものがあるんじゃないかな? つまり長い転生輪廻の間に生じた傾向のことでしょ?」
「考えたこともなかった......」
丈の顔は衝撃のため空白になっていた。
15
「それは東君らしくないわ。そこまできちっと考えておかなきゃ。杉村さんと去年のクリスマス講演会で最初に出遭った時のことを思い出してみたら? やっぱり男女がそれだけ一目惚れに近い感じで意気投合するというのは並みなみならぬことだと思うのね。東君と杉村さんの間には深い関り合いがあって、肉眼では見えないけど、魂同士の強い引力が働いたわけでしょ?」
「強引すぎるよ! そんなことは考えすぎだ! 絶対にそんな勝手な空想は人前で口外しないでくれ、いいな?」
丈は厳しい口ぶりでいった。
「放恣な空想をもてあそんだりしたら、大変なことになる。過去世で自分はだれそれの妻だった、愛人だったから、今生でもそうなるべきだという妄想の原因になるぞ。自分の欲望を自己正当化する絶好の口実になるじゃないか」
丈の顔色はやや蒼ざめていたかもしれない。それほど郁江の指摘は衝撃的だったようである。
「あたしは杉村さんのことをいっているのよ。杉村さんがかつて東君と深い結びつきを持っていたとしても不思議はないし、事実そうだと思う」
「僕は、そんなこと考えたこともなかった......」
丈は声を吞んだ。
「もちろん、気にすることはないわ。だって今生ではそうじゃないんだもの。杉村さん自身、そんなことを考えることすら自分に許さないと思う。でも、抑圧は現に存在してるし、なくならないもの。緩和することはできるだろうけど......あたしは要するに東君がもっと杉村さんに気を遣ってあげるべきだと思うわけ。緊張過多がこれ以上続いたら、杉村さん参ってしまうわ、きっと。もう少し気を楽にしてと東君、いってあげなさいよ。あたしのいいたかったのはそれだけのことだったんだけどね......」
「ひどい奴だな。とんでもないことをいいだしたから、心臓が縮みあがったぞ......」
丈は苦心して小さな笑みを顔に押しあげた。それは硬ばった苦笑そのものだった。
「絶対に口外するなよ。冗談でもだめだ。たいへんなことになるかもしれない。みんなが杉村さんを見る目が変ってしまう。当の杉村さんだって大ショックを受けるだろう」
丈は真剣になっていった。
「だれにもいわないわ。東君だからいったのよ」
「僕も聞かなければよかった......」
「でも、それを聞いたからって、気持が変ったり、杉村さんを違った目で見るようになるかしら? 同性の目から見ても杉村さんて凄く魅力があるわ。女性として最高って感じ......ちょっと嫉ましいけど、完成度がとっても高いのね。それを聞いて、東君もはたと気がついたりして......」
郁江はにこりともせずに冗談をいった。丈はただ苦笑していた。
「東君とあたしの関り合いというものもあると思うの」
「もうやめてくれ。怖ろしくなってくる」
「よく考えてみたんだけど......」
郁江は丈の抗議をものともせずにいった。
「どうも妻とか恋人とか、愛情がもつれてくる関係じゃなさそうなのね。もしかしたら、肉親の関係かもしれないわ。たとえば母親とか......」
「母親? だれの?」
「もちろん東君のよ。お母さん」
「やめてほしい」
丈は笑いの衝動に摑まれ、苦しげな長い慄える溜息を漏らした。
「妄想はよせよ。それは縁生というものはあるだろうし、長い転生輪廻の過程で親しい友人関係だったこともあるだろう。だけど、いちいち肉親にこじつけるのは馬鹿げているぜ。まったく馬鹿らしい......それだけでなくあらぬ妄想に引っ張りこまれるきっかけになって危険だ」
「では、百歩ゆずって、妹なんてところでどう? わりと納得できる線じゃないかな? まあ、お姉さんでもいいんだけど......三千子お姉さんには敗けるから、妹で我慢しておくわ。その辺で手を打たない?」
「君は妙なことを考えるな」
「だって杉村さんみたいに深刻にならずにすむじゃない。あたしってとってもスムーズに東君を愛してる。呼吸をするように自然な感じでね......なぜかなって考えてみたの。その結論ってわけよね」
愛している......日本人にとってはぎくしゃくして不自然な表現を郁江はごく滑らかに使いこなした。
「意気ごんだり深刻になったりしないですむの。東君の愛を感じると、風がまざりあうような、とっても自然な気分になる。本当は兄妹なんかでなくてもいい。一番理解しあえる相手を持っている、これ以上の幸せはないと思う。
自分がこの肉体を脱け出して、東君の魂のなかにすうっと入って行ける、そんな自信でいっぱいになるの。でも、やっぱり人間は肉体的に表現しないと理解できないし、納得しにくいから、兄妹なんていうアナロジーを使うわけ。
あたしが東君に対して全然遠慮してないといったら、それは間違いで誤解だと思うけど、傍から見ると、東君があたしを甘やかして特権を与えているように思えるかもしれない。誤解を避けるために、最近はわざわざ東君はやめて丈先生といってるのだけど、あまり効果がないみたい」
「無理しなくてもいいんだよ」
「世間に対して、気を遣わなきゃならないことがとっても多いのね。こうして東君と二人きりで話すのだって、密室だと具合が悪いわけでしょ。公明正大なところで会って話さなきゃならないし......東君は最近、大峰山脈へ行ってるの?」
「時々はね......せいぜい二、三時間というところだけど」
「だれも気が付かないうちに往復してるのね。たとえば、明け方の散歩みたいに出かけるの?」
丈は頷いた。郁江はちょっと危険そうに目をきらめかして笑った。
「そう、だれも知らないわけね。そんな時に、杉村さんを連れて行ってあげればいいのに」
「どうしてだ?」
丈はぎょっとしたようにいった。郁江の言葉に意表を衝かれたのだ。
「杉村さんにとっても素晴らしい経験になるし......きっといい安全弁になるわ。ね、連れて行ってあげなさいよ。杉村さんは東君の個人秘書だし、いいと思うよ」
「まさか。杉村さんだけ、そんな特別扱いはできないよ」
「あら、どうして?」
郁江が無邪気そうに目を瞠る。
「どうしてってことはないだろう。僕はだれに対しても公平に、平等にしなくちゃならない。杉村さんがいくら秘書でも特別扱いしたらまずいことになる」
「それは建前じゃない。そうでしょ? 杉村さんをもっと大切にしてあげなさいよ。杉村さんは他の人とは違う。東君に対して特別な関り合いを持ってる人だわ。もっと気を遣ってあげて当然だと思う。だれもとやかくいったりしないわよ。もしそんな人間がいたら、あたしがとっちめちゃう」
「僕は、自分の身近にいる人たちに厳しすぎると思うか?」
丈は低い声音で呟くようにいった。戸惑いの色は貌にとどまっており、消えていなかった。
「三千子お姉さんのこと? ちょっと不自然だと思わないこともないな。今年になって、本当に一回ぐらいしか遭ってないんでしょ? いくら忙しいからといっても、それじゃお姉さんが淋しすぎるんじゃないかな?」
「わかってる。しかし、自分に対して徹底的に厳しくしなければ、人に対して同じことを求めるわけにはいかないだろ? 少し先には大変なことが待ち構えてるのに、みんなには覚悟がない。覚悟をみんなに作らせるのが先なんだ。僕が人並のことを悠々とやっていて、みんなに厳しくするわけにはいかない。杉村さんのことだってそうなんだ。杉村さんはある程度は自覚できてる。だが、まだ充分じゃない......吹っ切れないものがあるんだ。今優しくしていたら、自覚が更に遅れてしまう。杉村さんは必死にやっているが、すぐに心が揺れてしまうところがある。郁江がいったようにカルマが出てきてしまうのかもしれない......」
「だから安全弁が必要だといってるのに。もし杉村さんが東君の大事な女としての過去世を持っていたら、それをカルマなんていったらひどすぎやしない? 東君を愛するなといったって無理なことよ。愛ってごく自然に溢れてしまうものでしょ? 女にとってそれをせきとめるなんて、無理なことだし、むしろ破壊的になってしまうんじゃないかしら?」
「郁は杉村さんに同情的だな。なぜだ?......しかし、今はそんなうわついたことをいってる時期じゃないんだ! 愛だの何だの、贅沢すぎる。何もかもかなぐり捨てて、死物狂いにならなきゃいけない時なんだ。
三千子姉さんのことだって仕方がない。僕も姉さんには毎日だって遭いたいし、話をしたい。報告をして、助言を求めたいとしんそこ思ってる。今だって飛んで帰りたいよ......しかし、僕にはみんなに対して責任がある。指導者であるからには、どうしたって自分を厳しく律して行かなきゃならない。私情に負けていられないんだ。姉さんにはいつも心の中で詫びてる。きっと姉さんはわかってくれていると信じてる」
丈は迸るように一気に話した。真情を吐露せずにはいられない勢いがあった。相手が郁江である時だけ、丈は身構えを忘れるようであった。
「特別扱いはできない。全ての人間は平等なんだ。身びいきだけは絶対にできない......だれだって特別扱いにしてもらいたいだろう。しかしそれは我欲だ。僕が我欲を捨てろとみんなに説きながら身びいきしていたら、だれも僕に対して信を保てなくなるだろう......」
「でも、悪平等ということもあるのよ」
郁江はごく自然な呼吸でいった。
「人間にはそれぞれ機根があるというじゃない? それを忘れて全部平等に、特別扱いは許されないなんていっていられるかしら? 人によっては特別な配慮を必要とすることもあるでしょ、陽子みたいに? でも画一的にいえばやっぱり特別扱いになるはずよ。
もっとフレキシブルに、状況の変化に対応して行くことも必要じゃないかな? なにもあたしを特別待遇にしろといってるわけじゃないのよ、本音はともかくとして......
お釈迦様だって、人を見て法を説け、とか縁なき衆生っていってるじゃない? 人によって臨機応変に処方箋は変えるべきだし、人によってはいくらこっちが努力したって絶対にだめ、わからないって人間もいるわけでしょ? 高鳥慶輔のことじゃないけどさ......まあ、縁なき衆生といっても、今生はだめでも来世があるさって意味があるんじゃないかな。焦って無理するのは禁物よね」
「郁は不思議な知恵を持ってるな。いったいどこからそんな賢さが出てくるんだ?」
丈はしんそこ不思議そうな目で、相手を見ていた。
16
「だけど、郁とは議論をしたくない。いつの間にか黒が白に逆転してしまってる......」
「あたしは、東君も安全弁があった方がいいんじゃないかなって思ってるの。蒸気を抜かないままにどんどん圧力が高まっていくんだもの。責任感もわかるけど、それじゃいつか爆発するわよ、東君。みんなはどうしたって東君みたいに自覚できないんだし、おろおろと取り乱したり、逆に緊張過多でピリピリして目が据ってきちゃうと思うのね。今はまだいいとしても、先行ミスがどんどん増えて行きそうな気がする。別に杉村さんだけのことじゃなくてね......東君もどうしてみんなはこんなことがわからないのか、なぜもっとよく気がつかないのかって頭に来ちゃうんじゃないかな?」
「郁姫様の予言かい? 恐いね」
「ゼンマイをきりきり巻きすぎてるんじゃないかって気がするのね」
郁江は丈がまぜ返すのには構わずにいった。丈が逃げを打っているのはわかっている。
「東君って、凄く禁欲主義に馴染みやすいカルマを持ってるみたい。ごく自然に禁欲できるんじゃないかな? でも他の人はそうはいかないし、欲望に苦しみ抜いている。そのギャップが、東君にはぴんと来なくて、欲望を抑えられない人間が腹立たしく思えるということはないの?」
「それはないと思う。僕はみんなに禁欲主義を強制したりはしてない。郁がもしそう感じるとしたら誤解だよ......僕は物質に囚われるなと説いているだけだ。生きる目的をしっかりと持てば、おのずと心がすっきりしてくる。心が薄く軽くなって、物質的な欲望から解放されて行くようになる。しかし、欲望を抑えろとは一言もいってない。みんなは僕が禁欲主義だと思ってるのかな? だとしたら大きな誤解だ」
「みんなは、自分も禁欲主義にならなきゃいけないと思ってるみたい。欲望を持つことは少くとも善いことではない、否定さるべきだという傾向があることは確かね。でも、それは東君があまりにも毅然として立派に自分を律している......自己規律の凄さを目のあたりにすると、自分たちも見習うべきだと思っても当然でしょ? さもなければ、東君を師として崇拝する意味がなくなっちゃうから......
杉村さんなどはとくにその傾向がはっきりしてるわ。だって自分が年長者だし、東君にはいつも若者に教えてやってくれと頼まれてるし、規範とならねばならないという意識が強烈になるわ。だから、東君と同じように猛烈に努める。東君が二、三時間しか眠らなければ杉村さんもそれくらいの睡眠時間ですませようと努力する。東君は超人だけど、杉村さんはそうじゃない......まして女だし。それなのに東君は彼女に対してどんどん厳しくなって行く。杉村さんはもう禁欲主義の権化だわ。他のみんなもバスに乗り遅れるなって感じで禁欲主義に走り出す。でも、東君にとってはごくナチュラルなたやすいことでも、みんなにとっては物凄い無理がかかってくるような気がするけど......」
「みんながそんなに無理しているとは考えたこともなかった......」
丈は目をそらしていった。
「みんなは一生懸命やっている。必死に努力している......しかし、禁欲主義のために欲望を抑えてるとは思わなかった」
「しかもなお、自覚にはほど遠いから、東君は辛抱して待っているわけね」
郁江はとくに皮肉をこめずにさらりといってのけた。
「東君は天才だし、みんなはそうじゃないから格差が大きくなる一方なのよね。どうしてなんだろう、なぜみんなにはこんな簡単なことができず、わかりもしないんだろう? 東君はいつもそうした疑問に苦しめられているんじゃないかな? 違う?」
「そんなことはない。僕はみんなより一歩先んじているだけだ、そう思ってる。ただ、気付くのが早かったし、自覚する条件に恵まれていた。ルナ王女が手荒らに気付かせてくれたということだけど......」
「東君は本気でそう思ってる? 自分は他の人たちと少しも変らないって......?」
「そうだ。少しも変らない」
「ひとつ東君にとっても原始的な質問があるんだけど......馬鹿みたいな質問だけど答えてくれる? きっとみんなも知りたがってるだろうなあという質問」
「?」
「あのね、東君にも性的欲望があるんでしょ?」
郁江はあっけないような口のきき方をした。構えたところが全くない。東丈は急所を突かれたように、言葉に詰まってしまった。いつもの丈らしくもない苦吟ぶりで言葉を捜している。
「性欲のない人間はいないだろう」
「このさいフロイドなんか関係ないの。東君にも性欲があるって認めるわけでしょ? 東君は若くて健康で並みはずれて強壮なバイタリティーの持主だし」
「性欲がないとはいわないが......」
「だめ、話をそらさないで。大事な話なんだから。東君はその欲望を意志の力でぐっと抑えつけているわけ? 血みどろになって苦闘しながら」
「郁の表現は凄すぎるよ」
丈は救援を求めるように広いロビーの中を見廻した。あいにくだれ一人現われない。カウンターの中のフロント係さえ姿を消してしまっていた。
「だって若い男の子って、性欲地獄の中でのたうつんだって何かの本で読んだことあるわ」
「まあ、一般的傾向としては、そうしたことはあるかもしれない」
丈は目をそむけたままいった。郁江とのそうした談義はまったく歓迎していないようであった。
「東君のことを聞いているの。素直に答えてほしい」
「こういえばいいのかな......僕の心は今、一つの大きな事柄に向けて集中してしまっている。幻魔大戦のことで心がいっぱいなんだ。どうしたら人々に伝えて、覚醒させられるか、そればかり考えてる。夢の中でも考え続けているんだ。
だから、僕の心は大半の欲望から離れてしまっている。食欲も睡眠欲も、性欲も含めて、希薄になってしまっているんだろうな。心のエネルギー集中が猛烈になされているからそうなるので、特別に欲望を抑圧しているわけじゃない。そんなことは気にならないし、構っている余裕がなくなってしまうんだ。禁欲じゃない、無欲になるんだ」
「上手にいい抜けしたわね」
郁江は笑ったが、手はゆるめなかった。
「でも、希薄になったとしても、完全に無くなったわけじゃないでしょ。食欲や睡眠欲がなくなったら、生きていられないもの。東君は今、非常に魅力的な異性を見ても、何も感じない。ずきんと来ない?」
「そんなことを尋いてどうする?」
「もしそうなら、みんなの抑圧的な気分が少しはわかるんじゃないかと思って」
「だから、僕は今そんなことに構っていられないんだ。心がよそへ向いて......つまり違うチャンネルに合ってしまっている。僕には余裕がない。もし、そんなことが気になるようだったら、僕は必死になっていない証拠だ。しかし僕は必死だし、そうならざるを得ないんだ」
「それでは答にならないわ。つまりは禁欲主義の言い替えにしかすぎないみたい。で、東君は自分がそうだから、会や塾の人たちに対しても同じことを要求するわけ? セックスなんかが気になるようでは必死になっていない証拠だ。もっと必死になれ、必死になれる者だけをいっしょに連れて行くって......?」
例によって郁江の追及は手きびしいものがあった。彼女は丈もたじたじとなるほどの論客である。
「僕は人間が人間らしく生きることを否定するわけじゃない」
「それなら、修道尼みたいに性欲を断って生きることをみんなに求めているわけじゃないのね?」
「そうだ。そんな不自然なことは強制できるわけがないさ」
「でも東君、みんなが東君のようにセックスに対してもともと淡白で、物凄いエネルギー集中をやって、性欲なんかに心を囚われないようになると思う? 東君には簡単にできても、みんなには大変な苦行かもしれない。なのに東君はこんな簡単なことがなぜみんなにはできないんだろうっていらいらするんじゃないの? あたしにはそういうギャップがあるように思えてならないんだけど。みんなは、東丈先生は元々清浄な方だけど、自分は違う、どうしようもない不浄な厭らしい人間なんだと思うようになるかもしれない。東君が元々煩悩の量が小さいとしたら、煩悩を東君と同じようにすっぱり断てとみんなに求めることは、傲慢だっていう気がしてならないんだけど」
「待ってくれよ。僕はただ身をもって示しているだけだ。人間が必死になればどんなことができるか、みんなに見てもらいたいと思ってる。しかし、僕が生来、性的に淡白だなんていうのは誤解だよ。僕だって悩みの多い人間だ。多情多恨だと人にいわれたことだってある......のたうちまわりたくなるような苦しみだって経験してるよ。それは郁の誤解だ! 僕は悟り澄ました聖人君子じゃない。魅力的な異性を見て何も感じないなんてことはない......」
丈は珍しく顔面を紅潮させていった。
「しかし、幾度もいうように僕には大きな使命があるし、今はそれをどうやって遂行するかで心がいっぱいだ。僕と同じように使命感に目覚めたら、だれだってそうなるんじゃないか? 自然に欲望が希薄になり、煩悩が薄れてくる。今は自覚して使命感に目覚める人間が一人でもいいからほしい。だからこそみんなに自覚してほしいと説いているのであって、禁欲しなきゃいかんなんて馬鹿げたことは一言だっていってないし、今後もいうつもりはない」
「でも、みんなはそうは取らないわよ。東君がはっきりと禁欲主義じゃないんだってことを表明しない限り......考えてみて。みんなは東君と同じようにしなきゃいけないと思いこんでる。東君が二時間しか寝ないのなら、自分もそうしようとする。杉村さんが現にそうだわ。全ての欲望を抑圧しようとする。でもみんなが東君みたいにできるわけがないもの。もし東君と同じように出来ないとわかったら、自分を責めて、罪悪感と挫折感にとり憑かれちゃうんじゃないかな?
東君は自分がやっぱり煩悩と縁の切れない人間であることを認めて、禁欲主義が間違っているとはっきり表明すべきだと思うの。みんなを自覚させることは大事だし、東君にとって急務だと思うけど、人間にはそれぞれの機根があるし、平等と称して同じ条件を強いるというのはどうかなって思う。
たとえばだれかが東君を多情多恨といったそうだけど、あたしはそうは思わないな。東君はみごとにチャンネルを切換えられる人間だわ。ガチャッとダイヤルを廻して、薄くて軽い欲望にチャンネルを合わせてしまえるもの。でも、それができない人間だっているでしょ? 東君はおそらく過去世で欲望を抑える訓練をみっちりやった修行者だと思う。そんなカルマが感じられるのよ。それとは逆のカルマもあるでしょ? たとえば陽子みたいに特別情熱的なタイプもいるわけ。体質とかいろいろあるだろうけど、カルマだってあるでしょ。そういう特別な情熱家のタイプが、欲望を抑圧したらたちまち爆発しちゃうはずだわ。努力すればするほど物凄い反作用が生じてくる......東君はそういう人たちの苦しさが理解できるかしら? もう頭から無視してついてこない者はついてこなくてもいいよって冷たくいい放つ?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ! わからないかな」
丈はもどかしげにいった。
「僕は努力している人間を見捨てたりは絶対にしないよ! 自分に甘えて他人に甘え、だれか自分を助けてくれるべきだ、手を引き背中に負って運び上げてくれるべきだと信じこんで、一切の努力を放棄し、自覚を拒む人間たちに向って、ついてこない者はついてこなくてもいいといっているだけだ......少くともついてこようとして苦しい努力を続けている人間を遺棄したりはしない。もしそう思うなら、郁は大きな誤解をしてるよ」
「東君はよくいうでしょ、〝人間として立派であること〟がもっとも大切だって。でもその立派さというのは聖人君子のことじゃないんでしょう? 立派に悟り澄まして人々に訓戒を垂れる聖人君子って、あたしは厭だな。とってもいい気そうなんだもの」
「違うよ、僕だって聖人君子なんか大嫌いだ。僕は、努力する人間、努力のできる人間は立派だといっているんだ。郁は、僕が悟り澄ました聖人君子だと思っているのか? とんでもないことだ。僕ほど未完成な人間はいない、いつも痛感してる。だからこそ必死にならざるを得ないんだ......だってそうじゃないか? 超能力を別にすれば、僕は平凡な人間だ。苦しさに圧し潰されそうだ。毎日毎日の苦しさがこのままいつまでも続くのかと思ったら、とても正気じゃいられない......この一時間、この一日をなんとかして克服すれば、〝真の救世主〟が到着して肩代りしてくれる。それまでの辛抱だ、頑張れ、と絶えず自分を励ましてる。今日は来なくても明日は来るだろう、ともかく目の前のこの問題だけは片付けてしまわなきゃならない。いつも自分を叱咤している。毎日がその積み重ねなんだ。悟り澄ませるはずがない!
しかし、僕がそんなに苦しんでいたら、みんなはどうなる? 恐慌でやられてしまうかもしれない。自分を抑えるのに精一杯なんだ。たとえ苦しくても、顔は笑っていなきゃならない。みんなに心配かけたくない......」
「だけど、みんなには東君がどれほど死物狂いかわかっていないわ。東君が少しも苦労せずに軽々とやってのけているとだれもが思っている。だから、東君のように出来なければ、物凄い罪悪感に押しつぶされて挫折したり自己弁護でごまかしてしまったりする。
東君はもっとみんなを信用すべきじゃないかなあ?」
「僕はみんなを信用していないと思うか?」
「東君はもっと正直に、率直に語るべきだと思うの。失敗は少しも恐れることはないんだって......東君が苦労していることを知れば、みんな恐れるどころか奮い起つかもしれない。だって、親が苦しい思いをしているとわかれば、子供はなんとかしてあげたいと本気で思うものよ。親の辛さを少しも知らなければ、いつまでも甘えているかもしれないけど」
「郁もなかなかいうようになったじゃないか? 親をあれだけ蔑しろにしていた郁が......」
「東君はもっと自分をさらけだしてもいいと思う」
郁江はいっこうにお構いなしで続けた。
「人間的に豊かな内面を持っているんだってことをみんなにわからせるべきじゃないかしら? 東君は偉大な〝真の救世主〟で絶対に人間的な誤りは犯さないんだ、煩悩なんか全然ない完璧な人格の持主だとみんなに信じこませるのはとっても危険じゃない? 人間的な弱点は何もない偉大な指導者という幻想は有害だと思う。東君だって苦労しているんだとみんなにわからせなきゃ......」
「郁のいうことはわかった」
丈は無表情にいった。
「よく考えてみる。僕にも反省すべきことは沢山ある......だけど今は、みんなの心がようやく同じ方向を向きつつあるんだ。バラバラだった心がやっと揃ってきたところだ。今は混乱を起こすのはまずい......わかるかい? やっとやる気が出て来たんだ。郁のいうことは間違ってないかもしれないが、やはりものごとには時機というものがある。もう少し時間を貸してほしい」
「あたしはそんな偉そうなことをいったつもりはないんだけどな。杉村さんのことを心配してるだけなの」
「杉村さんのこともわかった。しかし、もう少し待ってほしい」
丈の言葉は素気ないほどであった。
「いろいろ考えていることもある。やはり物事は頭で考えるほど単純じゃない。一筋繩では行かないことばかりだ......」
丈の面貌は神秘的な色彩を濃くして、みるみる一変してしまったようであった。もう顔面を紅潮させたり、郁江の追及にたじたじとなるさいぜんまでの丈ではなかった。なにかしら大きくて分厚い人格的存在が、それまでの丈と重なり合ってしまったようだ。気兼ねなしにざっかけないことを話しあえる丈ではなくなっていた。
「傾聴すべき意見だとは思うが、みなには黙っていてくれ。時機が来たら、僕からうまく話す。いいかい?」
「ええ、わかっています」
郁江はおのずと言葉を改めて答えた。緊張感が生じて、がらりと雰囲気が変ってしまっている。今の丈は犯しがたく毅然としている。郁江の差し出口など遠慮せざるを得ない圧倒的な巨きさが戻ってきている。
意識圧がみるみる高まり、怖いほどになってしまう。つい数瞬前まで、おこがましくも対等に慣れなれしく語り合っていたのが幻覚だったのではないかと思えるほどだ。もうこうなっては、郁江にすらもうかつに口がきけない。
時折、丈はとほうもない巨大さをうかがわせる存在に変貌してしまうのだ。気弱な思い惑う丈ではない。峻烈としかいいようのない波動になってしまう。
17
郁江は席を立って振り向いた。
「杉村さんがいらっしゃいました」
と、丈に告げる。通路を通って奥から杉村由紀の姿がロビーに現われた。長身の由紀はやはりトレーニング・ウェアを身につけている。しかし、由紀にはやはりきりっとした男仕立てのスーツが一番似合うと郁江は思う。セミナー参加者は全員トレーニング・ウェアを着用しているが、郁江だけ一人異を立てるように平服のままである。画一主義に反撥するわけではないが、どんな服装でもいいではないかと思ってしまう。
なにもルーズな印象を与えがちなトレーニング・ウェアを着用しなければならぬきまりはない。丈がトレーニング・ウェアを着ているからといって、全員右へならえする気持が郁江には奇妙なものに感じられる。
杉村由紀も好きこのんで締りのない無恰好なトレーニング・ウェアを着けているわけではないだろう。それとも郁江の考え方の方がやはり異端なのだろうか。そうかもしれないが、自分のような変り種の存在が許容されない雰囲気になった時の会は、危険なありようだと郁江は思ってしまう。救いがたい独善的な画一主義に落ちこんだ証拠だからだ。しばらく前の会員たちがこぞって郁江を非難の目で見たことを郁江はよく憶えている。会員の意識統一を妨害する邪魔者扱いを受けたのだ。
杉村由紀は丈と二人きりで話している郁江の姿に、はっとして足を停めたようであった。親密な二人の間に割り込む闖入者の心理に落ちたことがわかる。郁江は構わず由紀に向って手を振り、呼びかけた。
由紀はちょっと躊らってから急ぎ足にやってきた。体の線が固い。しばらく前の彼女には見られなかった緊張感である。余裕をなくして神経質になっているのがわかる。丈の叱責を受けるようになってから、由紀は目に見えてゆったりした落着を失って行った。緊張過多で失敗が増えたことも、彼女から自信を奪っているようである。
しかし、郁江の見るところ、丈が若者たちに与える叱責の厳しさに比べれば、由紀に対する態度は遙かにソフトなものである。郁江自身なら叱られたと感じない程度のものでしかない。だが、由紀には手きびしい叱責に感じられるのだろう。感受性が鋭くてピリピリしているのだ。
由紀がロビーの丈たちのいるソファに辿りつく前に、丈はすっと立ち上り、ロビーの片隅にあるピアノに向って歩いた。巨きなコンサート・ピアノの鍵盤には蓋がおりて、鍵がかかっている。丈はピアノの前に座り、郁江を見た。由紀は丈が何を始める気なのか摑めなかったようである。
郁江は目顔で由紀に挨拶し、まっすぐフロントへ行き、係員を連れて戻ってきた。係員が手にした鍵でピアノの蓋を解錠しながら尋ねた。
「先生がお弾きになるのですか?」
丈は驚いたような目でフロント係を見返し、ぎごちなく頷いた。係員がやってきたことが意外だったらしい。
「ピアノを弾いても構いませんか?」
「シーズンオフですし、他にお客様もおられませんから、どうぞ......」
係員は丈に対して敬意を見せた。〝GENKEN〟の活動に興味を寄せているのだ。ホテル従業員の全てがセミナーに関心を持ち、こっそりと聴講したりしていた。〝高校生教祖〟として急速に知名度を上げてきた東丈が好奇心の対象になっても不思議はないが、このフロント係は奇妙なほどの厚意を示していた。
丈は礼をいって、開かれた鍵盤にさりげなく両手の指を置き、構えた気ぶりもなくいきなり静かな曲を弾き出した。
上手であった。丈がピアノを弾くと少しも知らなかった郁江は目をまるくしていた。日頃練習もしていないのに、実に滑らかに指が動く。郁江も六歳から始めてピアノのたしなみはあるが、とうていかなわない。丈には芸術家の感覚もあったのだと改めて納得する。素人の余技とは思えなかった。

しかし、曲名がいささか気にならないでもなかった。ショパンの〝別れの曲〟だった。そっと由紀の顔を振り返る。由紀も硬い顔に驚きの表情を浮べて、丈の演奏ぶりに目を凝らしている。こうして二人だけの聴衆に与えるにはもったいないと感じさせるほどであった。丈はさりげなく原稿を書き、本にして出版してしまうように、ピアノを弾かせてもひとかどのものだと感じさせるきらめきがあった。
丈は頭の中に譜面が全て入っているのか、ミスを感じさせぬ安定した技術で〝別れの曲〟を弾き切った。
最先に拍手したのは、カウンターの内のフロント係だった。郁江と由紀も急いで手を叩く。丈は軽く一礼して蓋を閉め、ピアノの前をはなれた。それ以上演奏する気はまったくないようであった。その瞳は黒々と光って、アンコールを拒否していた。
ピアノに近い席に腰をおろして、丈は由紀たちを招いた。
「素晴らしかった! 先生がピアノを弾くなんてあっという意外性があったけど」
と、郁江が勢いこんでいった。
「素敵でした......」
杉村由紀が遠慮がちに讃辞を呈した。長身の彼女がひとまわりサイズが小さくなったように見える。おとなしく活気に乏しいという印象であった。まったく元気がない。まさか無恰好なトレーニング・ウェアを着せられているからではあるまいし、と郁江は不審の目で年長の秘書を見ていた。
「手が小さいのでピアニスト志望を断念したんだ」
と、丈はいった。なぜ〝別れの曲〟なのかと尋きたかったが、郁江は黙っていた。今の丈には無駄口を許さない雰囲気が色濃かった。
「平山さんの様子はどうですか? 笛川先生は何といってました?」
丈はもはやピアノのことなど念頭にもないようである。
「はい。すっかりお元気になっておられます。笛川先生は大丈夫だろうとおっしゃっていました。月曜日に病院の方へ来るようにと......今部屋で休んでもらっていますが、厭がってなだめるのに圭子さんが大変でした」
杉村由紀が報告する。依然として顔も体も硬い。
「それはよかった。まあ平山さんは簡単には参らないとは思ったけどね。本人は生体エネルギーを注入してもらって、前より強壮になったと本気で信じているんだ」
「明日はスケジュール通り参加したいと熱心におっしゃっていますけど......」
「朝の体操とか、過激なことをしなければ、笛川先生のいわれる通り大丈夫でしょう」
「わかりました。きっと安心なさると思います。東京へ帰るように先生に命令されるのが一番恐いとおっしゃってましたから。今、東京へ帰れ、というせりふが物凄く流行しているんです。みなさん緊張しています」
「僕が少しきびしくいったんです。〝他力〟がどうしても吹っ切れないのでね」
傍で聞いている郁江はもう少しで吹き出しそうになった。箱根湯本の駅で、松岡と井上に対して同じせりふを使ったことを思い出したのだ。丈と郁江は最近、連動して生じることが多い。期せずして同じような言動に及ぶのだ。意識がどこかでつながっているのかもしれない。しかし、郁江には意識的な努力は一切ないのである。超能力者の杉村由紀にもできないことがたやすくできる。由紀はそれに勘づいており、焦りを感じているのかもしれなかった。
しかし、そのこつを教えてほしいと頼まれても郁江にはなんとも答えようがない。ごく自然にそうなってしまうだけなのだ。
「ルポライターは?」
丈は尋ね、それが風間のことだと郁江にもすぐぴんと来た。厚かましくも箱根まで追ってきてつきまとっているらしい。
「このホテルにちゃっかり宿泊しているものですから......」
杉村由紀は意気消沈していた。
「追い帰すわけにもまいりません。セミナーに断りもなく顔を出したり、妨害行為をしないように厳重に申し入れたのですけど、あの通りの図々しさですから......申しわけありません」
「杉村さんの責任じゃありません。まあ、よほど目に余るようなことさえしなければ、多少は大目に見てもいいんです。セミナーを覗かれても困るようなことはないんだし......仕方がないでしょう」
「本当に申しわけございません。話してもわかるような人間ではありませんので......」
由紀は顔を伏せていった。責任を感じてしまっているらしい。そのあまりの元気のなさが郁江には気になった。
「どうしても先生と話をさせろといい張って聞かないんです。独占インタヴューを狙っているのだと思います。本当に箸にも棒にもかかりません......しつこくてえげつないマスコミはいくらもいるでしょうけど、ちょっとどうしようもありません」
「彼のことは心配しなくてもいいです。こちらがしっかりしていれば、いつかは退散しますよ。いずれ時間を少し作って、話してもいいと思っています。このままだと杉村さんの方が参ってしまいそうだ」
「そんな......わたくしは大丈夫ですから」
長い髪を未練げもなくばっさり断ち落して、スチュワーデスのようなショートにしてしまった杉村由紀はもっと活発に見えてもいいはずなのに、その逆の印象であった。
「彼が杉村さんにごく個人的な関心を持っていたとしても、それは杉村さんに関りのないことです。だから、そんなに気にしなくてもいいですよ」
「でも、わたくし申しわけなくて......わたくしにやっぱりつけ入られる隙があったのかもしれません」
由紀は今にも消え入りたげであった。
「彼は色と欲の二筋道というやつですよ。だから簡単には引き退りません。しかし、杉村さんほどの女の人なら、男性に食いさがられる経験には事欠かなかったんじゃないのですか? 相手をいなすことぐらい慣れているんじゃないかな?」
「そんなこと......」
由紀はうなだれたまま溜息をついた。気の毒でもあり可笑しくもあって、郁江は自制に全力を挙げなければならなかった。
杉村由紀のようにしっかりした女性でも、見栄も外聞もない猪突猛進タイプの言い寄りには閉口してしまうのだ。
「ルポライターのことは忘れましょう。今のところは問題ありません。次々に難問が続出するのに、いちいち気を立てていられませんよ、杉村さん」
「はい......」
「これまた問題なんだけどね、郁」
と、丈は向き直っていった。
「妙なことが起きた。ミスタ・メインが高鳥君を招待するといってよこしたんだ。渡航費用から滞在費から全部向う持ちだ......すぐに訪米するようにといってる......どうした、驚かないのかい?」
「なるほど、彼ならやりかねないなと思ったのよ。講演会でみんな出払っている時、ミスタ・メインから国際電話が入って、高鳥慶輔が受けたでしょ。その時素早く自分を売り込んだのね。たいへんなもんだわ。やっぱり凄腕、ね?」
「彼のことは仕方がない。やりたいようにやらせるしかない」
丈はあっさりいった。
「ミスタ・メインに話して、招待を取り消さないの?」
「そんなことはしない。いろんな超能力者がいくらでも今後は輩出する。ミスタ・メインもそう簡単に瞞されやしないよ。向うにはルナ王女がいるんだから」
丈はいっこうに気にしていなかった。高鳥慶輔など問題外といわんばかりだった。しかしそれは、多少丈の認識不足ではないかという気もしないではなかった。高鳥はこれぞと思う人間に取り入る時は凄腕としかいいようのない手際を発揮するからだった。郁江はルナ王女について多くを知らない。丈があまり話したがらないのだ。丈のいうように慧眼の持主であればよいと思う。
先見の明を誇るわけではないが、最近になってようやく正体を顕わしだした感のある高鳥を最初から信じず、警戒を促していたのは郁江なのだ。それ見たことかといいたい誘惑に駆られないでもない。
「先生はどうして渡米なさらないんですか? ミスタ・メインはなによりも先生に来てほしがっているんじゃないんですか?」
「今が一番大切な時だからだ。まず今は日本で地固めをしなきゃならない。安心して渡米できるまでみんながしっかりしてくれるのはまだ先のことだ」
「でも、いらした方がいいと思うけどな」
「みんなが郁ぐらいちゃんとわかっていて頼りになれば心配はしないですむんだけどね。それとも、僕がいない間、郁が会と塾をがっちりと締めてくれる自信があるかな?」
「自信があるといいたいけど......でも、どうしてもとおっしゃるなら、やってみますよ」
「やめといたほうが無難だな」
丈は笑っていった。郁江は本気になりかけた自分に照れて苦笑した。
「会を乗取る絶好のチャンスだったのに」
「郁は会をぎりぎりと締めすぎてしまうかもしれない......郁にかかったらだれもかなわないからな。アメリカには杉村さんに行ってもらうことにした。来週早々出発する」
「そんなに早くいらっしゃるんですか?」
郁江はびっくりしたように杉村由紀を見た。
「ずいぶん急なんですね」
由紀が無言で頷いた。元気がないのはそのためだったのか、と郁江は思った。由紀はまったくアメリカ行を歓迎していない。しかし由紀は在米生活が長くて、慣れ切っているはずだ。
「杉村さんは慣れてるから大丈夫だ。杉村さんが行けば、高鳥君もあまり勝手な真似はできないだろう」
それはどうかな、と郁江は思った。彼女の観察するところでは、杉村由紀は高鳥に対してガードの甘いところがある。あっさりつけ込まれないとも限らない。
杉村由紀は黙って目を伏せていた。口には出さないが、悩んでいるのだろう。由紀は丈の意向に逆らえない。丈の決定に異をとなえるなど考えられないことなのだ。しかし彼女がなぜアメリカ行を嫌っているのか、そこまでは見当もつかなかった。
「杉村さんが渡米している間、郁に秘書室の責任者を代行してもらいたい」
と丈がいい、郁江は目をまるくした。
「あたしが? でも圭ちゃんがいるのに......」
「圭子は大学受験がある。責任が重いぞ郁姫」
「留守中よろしくお願いします」
杉村由紀がいった。声音にも張りがない。よほど丈の傍らを離れるのが嫌なのだろう。由紀は忠大ハチ公的な性格があり、主人のそばを離れることだけは精神的に堪えがたいものがあるようだった。忍耐強く、どんな難題からも逃げないが、主人との別離は彼女の精神を破壊しかねないものだ......
そんな勝手な空想をめぐらしている自分に気付いて、郁江は苦笑したくなった。杉村由紀は暴力団塚田組の闖入以来、ひどく神経質になっている。気を昂らせているかと思えば、陥ちこんで意気消沈してしまう。気分の変動がこの数日はなはだしいのだ。
もちろん、トップ屋風間の一件があって、より一層彼女を滅入らせているのであろう。しかし、由紀のように情緒の安定した、成熟した女性にはふさわしくない言動が多いことは事実であった。〝幻魔の標的〟になっているのかなという気がするが、もちろんそんなことはうかつに口に出せない。
「お留守の間、ご心配でしょうけどがんばります。安心して行ってきて下さいってあまりいえないんですけど......」
「郁江は大丈夫ですよ。これでもしたたか者だから」
と、丈が口を添えた。したたか者は余計だが、丈の信頼が感じられて嬉しかった。
「もう郁江さんにも大体のことはおわかりだと思いますけど、注意事項をリストにしておきますから」
杉村由紀は気を奮い起たせようと己れに強いながらいった。
「すみません......でも明後日出発となると、用意が大変ね、急がないと......」
「準備のために明日の研修は脱けてもいいといったんだけどね、聞かないんだ」
「慌しいのは慣れていますから。それに、郁江さんの初講演も是非お聞きしたいし」
由紀は苦労して硬い微笑を顔に押し上げた。ずいぶん無理しているとわかる。
「どうしても明日の郁江の研究発表を聞いて行きたいといって聞かないんだよ。だから、郁江の出番を予定変更して明日の午前中にしたいんだけど、構わないか?」
「うわあ、繰上げですか......?」
「そうすれば杉村さんは明日の午後いっぱい使って仕度ができる」
「はい......」
「すみません、勝手なことばかりお願いしてしまって」
と、杉村由紀がいった。まったくいつもの由紀らしくない。丈がソファからいきなり起ち上った。
「僕はちょっとパネル・ディスカッションを覗いてくる。自主研修をどんな具合にやってるか見てきたいんだ。二人ともここで打合せをしててくれないか」
丈は二人の返事も待たず、風のようにロビーを立ち去ってしまった。なんの打合せなのか、と郁江は思った。
18
二人に対してここに残れという意志を感じて、丈の後を追うわけにもいかなかった。
「お体の具合でも悪いんじゃありませんか?」
郁江は尋ねた。由紀はまるで老婆のような姿勢でソファに座りこんでいる。無力感の虜のようである。
「生体エネルギー、入れてあげましょうか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう......」
杉村由紀は額の髪をかき上げるようにしていった。蒼白い額だった。まったく由紀は蒼白な印象だった。
「疲れてらっしゃるんでしょ?」
「ええ、ちょっとだけ。でも、疲労というより気疲れなのね。心配なことばかりで......」
ほっと大きな溜息をつく。
「アメリカへ行きたくないんですか?」
「え? どうして?」
「そうじゃないかなって感じたんです。先生から離れている間に、何が起こるかわからない......そんな予感がするんじゃないですか?」
「ええ、それもあるけど。おかしいわね、アメリカには何年も住んで、日本と何十回往復しているかわからないのに、今度はそれがとても億劫なの。何が厭だってことじゃないんだけど」
「ルナ王女と逢うのが厭なんじゃありませんか?」
「え?」
杉村由紀ははっとした顔をし、急いで顔をそむけた。
「それは、確かに気が進まないけど......ルナ王女は最高の遠感能力者で、他人の潜在意識まで読んでしまうというから」
「さしもの丈先生も大の苦手だといいますもんね。でも、杉村さんのような方でも、ルナ王女が怖いんですか?」
「怖いというか億劫なのね。でも、そんなことはもちろんどうでもいいことだわ。先生にいいつかった大切なお仕事なのだから」
噓だ、と郁江は思った。杉村由紀はルナ王女との会見を怖れている。王女に心の底まで読まれることを怖れて、ノイローゼになりかけている。いったいなぜそんなに王女をこわがる必要があるのだろう?
王女には及ばないにしろ、杉村由紀も同様にテレパシストではないか。それとも彼女には王女に絶対に知られたくない秘密でもあるのだろうか。
「あたしがアメリカへ行って、王女に逢ってきましょうか?」
郁江はさりげなくいった。
「杉村さんはやっぱり先生のそばについていらっしゃる方がいいと思います」
「ありがとう。でも、先生のおいいつけだから、やっぱりそういうわけにはいかないわ。高鳥君だって同じ飛行機でいっしょに行くことになるし」
由紀は高鳥が郁江を苦手としていることを知らないようである。
「それに郁江さんだと、旅券もビザも何もかも新しく取らなきゃならないでしょう? 今からだと間に合わないわ。それに、言葉がちょっと不自由でしょ」
「ああ、そうですね。あたしも圭ちゃんぐらい英語が上手だといいんですけど。今、特訓中なんだけど、急場には間に合わないですね」
郁江は素直にいった。杉村由紀の心は動いたが、丈の命に違背するほどではなかった。彼女の忠犬的性格は不動のものなのだ。
「杉村さんが二人いるといいんですけどね。ルナ王女は、丈先生にアメリカに来るように要請しているんですか?」
「それがはっきりしないの。ミスタ・メインは先生に来てもらいたくて必死なんだけど、先生にはその意志が全然ないでしょ、だからわたくしの役目はその調整だと思うんだけど......」
「王女は先生に来てもらいたくないんじゃないですか?」
と、郁江が核心をえぐった。
「先生が来ると、ルナ王女がやりにくくなるから。だってアメリカの超能力者協会といっても、先生に匹敵するような人材がいるとは思えないもの。だいたい救世主が何人もいるはずはないし......だから王女は先生を歓迎しないんじゃないかなって思うんです。だって自分の主導権が脅かされるでしょ?
でも、ミスタ・メインは本当は先生に期待してると思うんですよ。王女には荷が重すぎるんです、きっと」
「あまり臆測を逞しくしない方がいいわ」
由紀がたしなめる。しかし、顔はますます蒼白の気配を強めだしていた。
「でも、先生がアメリカへ行かない理由は、その辺にありそうな気がして。なんか物凄い角逐がありそう。先生にはそんな渦中に入ってる暇はないでしょ。高鳥慶輔なんか、ちょうどお似合いかもしれませんね」
「............」
杉村由紀は蒼白い額を見せて考えこんでいた。まったく別人のように自信なげに見える。自信に溢れたキャリア・ウーマンらしさは、今の由紀には無縁のものであった。由紀は悩んでいる。しかも、己れの悩みを口にすることができず、一層懊悩を深めているのだ。
なぜそんなに率直さを喪ってしまったのか、と郁江は考えた。丈との間に齟齬を来したことが、杉村由紀にしてみれば足許が崩壊するほどのショックだったのか。
しかし、視点を変えれば、そんなものは食い違いでも何でもないはずだ。由紀自身が自繩自縛になっているだけである。丈はいつも由紀に対して自覚のチャンスを与えている。
由紀は本当は己れ自身の停滞に悩んでいるのだ、と郁江は洞察した。しかし、由紀は自分の力でその停滞を克服しなければならないし、他からの助力は彼女にとって一時凌ぎにしかならない。だからこそ、丈は一見、由紀を突き放すような態度を取っている。
それが由紀にしてみれば重大な齟齬の始まりとして誇大に感じられるのであろう。
杉村由紀は大人としての責任を果そうとするあまり、焦りにとり憑かれてしまっている。だれよりも賢く、ものがわかっており考え深い大人として振舞わねばならぬという思い込みが、彼女を苦しくしてしまっている。
杉村由紀のような女性ですら背伸びをしすぎると足許が崩れてくるのだ......その発見は郁江にとって目新しい感覚であった。
由紀は自己に対する要求水準が高すぎて、実像と虚像のギャップに落ちこんでしまい、苦しんでいる。責任感過剰のため、自己省察ができなくなってしまったのだ。それは有能で責任感の強い人間が時として自らにかける陥穽であるのかもしれなかった......
なぜそんなことが、自分にはわかってしまうのだろう、と郁江は疑った。洞察が向うから勝手に流れこんでくるような気分だった。
危いな、と郁江は思った。杉村由紀を苦しめているのはそれだけに留まらない。由紀を蒼白にするほど心悩ませ、渡米してルナ王女と逢うことを秘かに恐れさせているものが、他になければならなかった。
それは杉村由紀にとっての秘密であり、心に重圧をもたらしている荷重に他ならない、と郁江は思った。しかし、今の由紀は悩みに手をとられるばかりで、自己省察から遠ざかり、率直さや正直さを失ってしまっている。
杉村由紀のような有能な優れた女性でも、悩みに足を取られて身動きもできなくなるというのは、天の警告のような気がした。人間はいつまでも未完成であり、思い上りこそ最大の陥穽であるということなのかもしれない。もしかしたら、それは丈自身についてもいえることなのかもしれなかった。
郁江は心に高まってきて、口を開かせようとする重圧に堪えた。なにかしらとんでもないことを自分が口走ろうとしていることに気付いたのだ。
先刻、杉村由紀が現われる前、郁江は丈に対して恐ろしくストレートに、性的欲望に関する質問をした。それと同じことを、由紀に対しても尋ねようとする衝動に駆られたのである。
箱根特急の中で、高野老人に聞いたピンク色のオーラの話が脳裡に強く残っているせいかもしれなかった。それが、丈がうろたえるほどの突飛な質問となって飛び出したのだ。杉村由紀に向って、同じ質問をすれば、彼女はどう答えるだろうか?
しかし、それを押しとどめる強い力が心にかかり、郁江は辛うじて思いとどまったのである。胸がどきどきするほどの緊迫感が襲ってきた。由紀の反応が知りたくもあったし、恐ろしくもあった。杉村由紀の突きつめた印象は、郁江に赤信号の感じをもたらしたのである。
19
「高鳥君のことだったら、大丈夫......」
杉村由紀は覇気のない沈黙のすえに、ぽつりといった。郁江が高鳥について大きな危惧を持っていると思ったようである。渡米してから何をするかわからないとひどく心配している、と由紀は受取ったらしい。
そんな心配もあったのか、と郁江は逆に教えられた思いだった。なぜか丈も、高鳥のことはさして気にしていないようだ。頭から無視してしまっている。
郁江も高鳥はほとんど気にならない。心配なのは杉村由紀の方だった。しっかりした大人であるはずの由紀がまったく頼りなく感じられてならない。危っかしくて仕方がないのである。
こんな感じ方をするのは不遜なのだろうかと思えてくる。しかし、美しいロングヘアーを思い切ったショートカットにしてしまってからの由紀はどこかしら不安定さが急激に増加してきた。怒りっぽく感情的になりやすく、ひどく情緒的に不安定になってしまったようだ。
が、そうしたことを指摘しても、由紀は感情を害するだけだろうという気がした。郁江のような子供に落度を注意されるのは、大人である彼女にとっては堪えがたい侮辱であろう。
自分も以前ほど率直ではなくなったな、と郁江は思った。少し前の自分なら、相手がだれだろうが郁姫の本領を発揮し、てらいも遠慮もなくづけづけといってしまったろうという気がする。この変化が自分にとって後退なのかどうかよくわからない。
「高鳥君もよく話せばわかってくれると思う」
と、由紀は見当はずれのことをいった。
「彼だって根は悪い人じゃないし......ちょっと目立ちたがりで、スタンドプレイをやる癖があるだけだわ。才能のある優秀な人間にはありがちなことよ......アメリカへ行って大きな視野を身につければ、きっと成長するでしょう」
甘いな、と郁江は初めてはっきりと危惧を持った。杉村由紀は最初から高鳥慶輔に甘すぎるのだ。ことごとく高鳥側に偏し、好意的に解釈してしまう。そこには彼女が秘書たちに示している厳しさは寸毫もない。女性が好意を寄せた異性に示す寛容さとしか思えなかった。理性とは関りなく、高鳥サイドに与してしまうのは、ほとんど生理的なものとしかいいようがない。男が理非もなく美しい女性を許容してしまうのと同質のものだ。
丈がなぜ徹頭徹尾、高鳥を無視してきたか、杉村由紀には理解しかねるのではないか。そうした行き違いが、由紀を悩ませている元凶なのかもしれなかった。
「あたしから高鳥君によく話すわ。彼も井の中の蛙だから、GENKENの中で、多少いい気になっていたかもしれないけど、世界は広いということがわかれば、もう少し考え直す気になると思う。高鳥君がミスタ・メインに直接売り込んだということで、会の人々は反感を持つかもしれないけど、彼にしてみれば先生を蔑しろにするなんて意識はないと思うの。彼は日本人というより、むしろアメリカ人的な気質の持主なのね。自分の才能を売り込むことを、謙遜を尊ぶ日本人は嫌うけれど、アメリカでは美徳なのだから......彼なんかはアメリカの水に合うんじゃないかしら? 積極的で失敗を怖れないし、めげたりへこたれたりしないから......」
そうじゃないのだ、と郁江はいいたかったが、辛うじて思いとどまった。高鳥などどうでもいい、由紀のことが心配なのだ。しかしそれはさすがの郁江にも口にできなかった。このまま渡米したら大変なことになりそうな気がする。由紀はあまりにも危うげだ。
が、丈は彼女を行かせることに決めたのだし、異を立てるのもさしさわりがある。由紀は明らかに厭な予感を持っているが、郁江が制止にかかれば、かえって意地になってしまうであろう。
それが郁江にはわかっている。由紀自身どうにもならない心の不透明さが存在しているのだ。
そうした由紀の主人の寵を争う動物じみた不穏さを、郁江はとくにうとましさや嫌悪を持って眺める気になれない。それは他人事ではなく、煎じ詰めれば、己れ自身の裡にも発見できる不透明さかもしれない、と郁江は思った。
けれども由紀自身が気付かない限り、他から指摘しても無駄であろう。そして本人が自覚するためには、その有能さや才気や、超能力といえども少しも役に立たないのだ。
独善というものは、なんと人間の視野を狭くし、愚かにするものかと痛感する。いうまでもなく、郁江自身がそうなのだ。由紀の独善ぶりはことごとく滑稽に目に映るが、郁江自身の独善は盲点に入ってしまっている。
いかに努力しても己れの弱点は、等身大には見えてこない。それに自省とはまことに面倒であり厭なことばかりで、郁江は嫌いだ。苦労しながら、仕方なしにやっている。〝偽りの自我〟との間断ない格闘なのだ。超能力などなんの足しにもならない。むしろ内省という徹底した孤独な作業にとっては邪魔になるであろう。しかし、それを無理にでも行わない限り、由紀のように成熟した大人の女性にしても、己れの〝偽りの自我〟によって完全に主導権を奪われることになってしまうのである。
由紀に対しては、いかなる意味でも強行突破は禁物であり、助言をあたえるという意識は絶対に避けなければならなかった。杉村由紀の〝偽りの自我〟は、郁江を競争相手として認識しており、ことごとに敵視の傾向を示すからだった。
どんなに手間取ったとしても、由紀自身が〝偽りの自我〟と対決し、克服する以外に方法はないのだった。溜息が出るほどの迂遠さだが、無理押しだけは出来ない。おそらく丈も由紀に直接注意を与えないのは、同じ理由に基くゆえに違いなかった。
20
杉村由紀は自らの気を引きたてる努力を見せて、郁江と〝幻魔の康夫〟との対決について質問した。自分の蒼白な不機嫌さに気がさしてきたのであろう。
「あっというような意外性はありましたけど、恐いとか怖ろしいという感じじゃありませんでした」
と、郁江はそういった。池袋のデパートの屋上で行なった〝幻魔〟との接触について報告する。
「ですから、〝幻魔の康夫〟というより、今後は〝幻魔の郁江〟っていわなきゃいけないのかもしれません。だって、あたしそっくりに化けてやってきたんですから......」
杉村由紀が真青になるのを見て、郁江はびっくりして言葉を停めた。
「でも、別にどってことなかったんですよ、本当です。向うもこっちにあまり近づきたくなかったんじゃないかと思うんです」
「でも、その幻魔は、郁江さんそっくりに化けられるんでしょう?」
郁江は由紀の恐怖感があまりピンとこなかったのだが、それでようやく吞みこめた。
「ああ、幻魔があたしに化けて会へやって来たらと思っていらっしゃるんですか? そんなこと、なぜか全然考えてもいませんでしたけど......」
「幻魔が郁江さんそっくりに化けてやってきたら、恐ろしいわ!」
杉村由紀はぶるっと体を震わせた。
「郁江さんだけでなく、だれにでも化けて会に入りこむとしたら......考えただけで身の毛がよだつわ!」
「でも、〝幻魔の郁江〟が果して実体で現われたのか、あるいは霊体を見せたのか、はっきりしないんですよ。望遠鏡であたしに見させただけですもの。やっぱりあまり近くに来たくない理由があったんだと思います。きっとすぐに見破られてしまうからかもしれません」
「幻魔がもしどんな人間にでも化けられるとしたら、だれも信用できなくなってしまうわ! 幻魔の正体を見破る方法がない限り、みんながお互いに疑い合うようになってしまう!」
杉村由紀はろくに郁江の言葉に耳を貸さなかった。恐怖がしっかりと心にとり憑いてしまったようであった。この動揺ぶり一つをとっても、以前の由紀と違っている。自信が欠如しているために、すぐに心が揺れてしまうのだ。アメリカへ行かせるのはやっぱり心配だな、と郁江は思わざるを得なかった。
「そんなことないんじゃないですか。大丈夫ですよ。幻魔なんて身近に来たらすぐにわかりますから」
「先生にはもうお話ししたの? ちゃんとご報告したんでしょうね?」
由紀は郁江のいうことなど聞いていなかった。
「先生はなんとおっしゃっていらしたの?」
「先生、笑ってらっしゃいました。自分も〝幻魔の郁江〟を見たかったとおっしゃってました」
「だって、そんな......」
杉村由紀は郁江の言が信じられなかったようである。
「本当に何も心配していらっしゃらなかったの?」
「今度は是非、ご自分も見に行くからって......先生は昔、ご自分のドッペルゲンガーをご覧になったことがおありだそうです。あたしが自分のドッペルゲンガーを見たと申し上げたら、とても面白がっておられました」
「何も心配することはないとおっしゃってらしたの?」
疑いをこめて杉村由紀はいった。直接、丈にあたらなければ信用できないという口ぶりであった。
「全然気にしておられませんでした。きちんとご報告したつもりですけど、あまり関心もお持ちでないみたいでした」
「そう......」
杉村由紀は無意識のうちに今はないロングヘアーを搔きあげる仕草を見せた。
「ですから、幻魔が会員のだれかに化けて会に入りこむということは、丈先生は全く心配していらっしゃいません。それはすぐに正体が暴露されるからだと思うんですけど......」
しかし、郁江の言葉は少しも由紀を安心させるには役立たないようであった。郁江の判断などとるに足りないものに感じられるからであろう。
「最初から詳しく報告してちょうだい。幻魔はいったいどんな取引を申し出てきたの?」
郁江は話した。由紀の示している蒼白な緊張感はいっかな緩和される徴しを見せなかった。
「久保陽子さんは江田四朗が会に送りこんだ時限爆弾だといったのね?」
「ええ。後は箱根のセミナーで、江田がちょっと動くかもしれない......だいたいそんなところです。警備をもう少し強化した方がいいんじゃないかと申し上げたんですけど、何もおっしゃいませんでした。先生はとても自信がおありのように見えますけど、杉村さんはそう思いませんか?」
「江田が動くといったのね? いったい何をやるつもりなんだろう......ああ、あたしとてもアメリカなんか行っていられなくなったわ!」
由紀はみる間に平静さを喪った。彼女の示している抑制ぶりがきわめて脆いものだとはっきりわかった。
「どうしたらいいんだろう!? 警備を増やさなくっちゃ......今から塾の人たちを呼んだら来てくれるかしら!?」
杉村由紀は甲走った動作で立ち上った。瞳が動転している。
「落着いて下さい、杉村さん」
郁江は強い調子でいった。杉村由紀がはっとして郁江を見下す。
「先生はどうってことないとおっしゃって、何も指示は下されていないんです。もし警備の増強の必要があるなら、ちゃんとそうおっしゃっています。杉村さんにもきちんと相談なさったはずです。気を鎮めて下さい。お願いです」
「そ、そうね......」
杉村由紀は長い慄える溜息をついた。ようやく郁江の言葉が胸にこたえたようである。強い語気にショックを受けたようであった。郁江はいまだかつて、彼女に対して示したことのないきびしい態度をとっていた。
「そういわれてみれば、確かにそうね。先生のご意見も聞かずにうわずっていたわ」
「杉村さんは睡眠不足で、神経が疲労していらっしゃるんです。もう何日もろくに眠っていらっしゃらないんでしょう? アメリカ行の前に少し心と体をお休めになって下さい」
「大丈夫、ちゃんと寝ているから......それより郁江さんだって少ししか眠らずに頑張っているんでしょう?」
「杉村さんはお疲れになっています。今夜はゆっくりお休みにならなければだめです。丈先生も心配していらっしゃいます」
「先生が?」
杉村由紀は棒立ちになったまま茫然と郁江を見下していた。
「先生はだれよりも杉村さんのことを案じていらっしゃるんです。とても心配なさってます。慢性の睡眠不足でずいぶんお瘦せになったでしょう? もっとご自分のお体を大切になさって下さい」
「先生が何かおっしゃってらしたの?」
由紀は疑わしげに尋ねた。
「先生は杉村さんに対して特別の気遣いを表立って示すことができないんです。でもあたしにはわかります。このままだと責任感の強い杉村さんは参ってしまう......だから杉村さんにアメリカへ行ってもらおうと先生はお考えになっておられるんです。先生は他のだれよりも杉村さんを信頼なさっているし、大切に思っていらっしゃるんです」
「そんなこと......」
由紀は息をひそめるようにしていった。郁江の口からそのようなことを聞くのが逆に大きなショックだったようである。
「ですから、杉村さんもあまりご自分のお体をいじめつけないで下さい。そんなことは先生も喜ばれません。生意気な差し出口かもしれませんけど、先生は心配なさっているし、いえ、先生だけじゃなくてみんな杉村さんの身を心配しているんです。杉村さんがもし過労で倒れたりしたら、会はボロボロになってしまうんですから」
「万が一そうなっても、郁江さんがいるし、圭子さんもいるから、あたしは安心しているわ」
杉村由紀の口調には屈折感がうかがわれた。
「何がどうなろうと、今は精一杯努力するしかないんですもの。郁江さんも、先生が心配なさるようなことはいわないでね。あたしは大丈夫ですから。自分では無理をしているなんて少しも思っていないの。事実そうなんだし、先生に心配をおかけするようなことは決していわないでほしいの」
きっぱりした拒否そのものだった。烈しいものが額にふきこぼれてきそうだった。怒りが凛然とした毅よさをもたらし、由紀は老婆に似た疲労感を振り払っていた。
「あたし、余計なことを申し上げたと思っています。お叱りは甘んじて受けます。でも、そうせざるを得なかったんです」
「郁江さんが先生の意を体そうとしていることはわかるわ。でも、あなたにも的はずれということはあるのよ。郁江さんは神様じゃないんだから......もうそんな気遣いは無用にしてちょうだい。あたしにはあたしの役割というものがあるんだから」
怒りをはらんだ杉村由紀はスリリングなほど美しかった。それは一種の凄壮美ともいえるものだった。凛烈な威厳が杉村由紀を立ち直らせていた。
「申しわけありません」
「先生には二度とそうしたことはいわないでほしいの」
平手打ちでも飛んでくるのではないかという気がした。それほど由紀の語気は烈しかった。
21
そこへいきなり胴間声がホール中に響きわたり、ルポライター風間の短軀が現われた。相変らず精力的な動きで飛ぶようにやってくる。
「捜しましたよ、杉村さん! さんざん捜しまわってしまった!」
あたりはばからぬ高声に、杉村由紀は反射的に眉をしかめたが、ロビーに他の客がいるわけでもなかった。
「東丈先生って全く神出鬼没ですな。どうやっても摑まらない! あまりうろうろ捜しまわってたら、警備係につまみ出されちまいましたよ」
そんなことを臆面もなくいいながら、風間は近づいてきた。いかにも親しげな物腰であり、ちらりと由紀が郁江を見た眼つきで、彼女が気に病んでいるのがわかる。
「やあ、これは井沢郁江さんじゃないですか! せんだって塚田組の連中といっしょの所を拝見しましたよ。塚田組の事務所へ行ってなんともなかった? なにかされなかった? なんつってもあんたはきわめつきの美少女だし、こっちもずいぶん気をもみましたよ」
風間はニヤニヤ笑いながらいった。
「塚田組って調べたらすぐにわかった。車のナンバー控えといたしね。写真もしっかり撮ったから......でも、お元気そうね。それじゃ無事だったのかしら?」
「無事に決ってますでしょう。いったい何を考えてるのですか!?」
由紀がぴしりといった。
「いや、それは気になりますよ、やっぱり」
風間はいっこうこたえずヘラヘラ笑った。そんなルポライターを郁江は大きな眸で瞬きもせずに見詰めていた。
「そんな美しい目で人を睨まないで下さいよ。ゾクッとしちゃうじゃない。本当に心配したといってるだけ。なにしろ東丈先生の美しい女性秘書が暴力団に拉致されたんですからね。ちゃんと写真だって撮ってある。記事を読む読者たちだってうんと気になっちゃうんじゃないかな?」
「そんなことを記事にするつもりなんですか!?」
杉村由紀は鋭い声でいった。
「いやいや。暴力団塚田組と東丈先生との間にどんな行きがかりがあったのか、突き止めないうちは書きませんから、ご心配なく。杉村さんの想像するように、いい加減な仕事はしてないんですよ。ガッチリと裏を取るまでは、これでも慎重でしてね......いや、塚田組がなんで東丈先生に因縁をつけたか、調べりゃすぐにわかります。こちらの郁江さんが拉致されるぐらいだから、相当なことがあったに違いないと期待してますがね」
「拉致だなんていい加減なことをいってもらっては困ります! あなたが考えているようなこととは全く違うんですから!」
「しかし、あの時の杉村さん血相が変っていましたよ......写真をお目にかけましょうか?」
「!」
虚を突かれて由紀が黙りこむ。ルポライター風間は平山ビルの前に張り込んだ挙句、のっぴきならぬ写真を沢山撮ってしまったのである。簡単にいい抜けできる相手ではなかった。
「こちらの郁江さんのことを、えらく怒ってたじゃないですか? 暴力団の事務所へのこのこついて行くなんて、なんて馬鹿なことをしてくれた......杉村さんの声がまだこの耳にこびりついていますぜ」
「............」
杉村由紀は蒼白い石のような貌になっていた。
「杉村さんや東丈先生には関りないんですよ」
と、郁江が穏やかにいった。
「郁江さん! あなたは何もいわないで!」
杉村由紀が警告する。
「暴力団に関りがあるのはあたしなんです。塚田組の若い衆で大怪我をした人がいて、そのことで山本という幹部があたしを訪ねて来たんです」
「郁江さん、やめて!」
「事故だったんです。あたしがちょっと関わっていたんですけどね......」
「事故? なんの事故?」
「塚田組の若い衆があたしにぶつかって怪我をしちゃったんです。目下入院中なんですよ」
郁江は烈しい由紀の制止を押し切り、けろりとしていった。
「交通事故?」
「出会い頭のね......だから、塚田組はあたしに用があってきたんです。会にも丈先生にも関係ないんですよ」
「で、塚田組との話合いはどうなったの?」
「示談になりました」
「金を取られたの?」
「いいえ。入院中の若い衆を見舞いに行っただけです」
「病院はどこ?」
「東洋病院です、渋谷の。まだ入院中ですけど、回復してきてます」
「ねえ、調べりゃ事実かどうかすぐわかるのよ、郁江さん」
と、風間は笑わずにいった。
「いい加減な噓をついたら、こっちの気分を害するだけじゃない? そんな話は頂けませんねえ」
「では調べてみて下さい。東洋病院の笛川先生がこのセミナーに見えてますから。本当かどうかすぐわかりますよ」
いったい何をいいだすのかという杉村由紀の烈しい目に気づかぬように、郁江は喋った。
「へえ、本当......?」
「あなたは調べて必ず裏を取るんでしょ? あたしは別に噓なんかいっていません。だから杉村さんにつきまとって困らせるのは止めて下さい。風間さんは杉村さんを好きなんでしょう?」
「そりゃ、好きです。惚れてますよ」
風間は洒々としていった。そのいけ図々しさは真似手のない代物であった。
「本当に好きなら、杉村さんを困らせないで下さい。好きな人のために何か自分にできることをしてあげたいと思わないんですか?」
「そりゃ思う、思いまさあね。でも、杉村さんは相手にしてくれない。いい加減な氏素姓の知れないトップ屋なんぞ人間と思ってないんでしょ。これであたしが朝日新聞の記者だったら、杉村さんの態度もガラリと変ってくるんでしょうけどね。だから腹も立つし、可愛さ余って憎さ百倍ってわけね。郁江ちゃんにわかる?」
「わかります。でも、杉村さんはそんな差別をする人じゃありません。杉村さんの前の個人的なお友達で大出版社の編集長をやっている方からの取材申込みも、杉村さんはお断りになっています。風間さんがトップ屋だから差別されてるなんていうのは被害妄想です」
杉村由紀はもう制止の気配も見せなかった。呆然としていたのかもしれない。
「大出版社の編集長が個人的な友達なの? どこの出版社?」
郁江は代表的な出版社の名を口にし、風間の幅広の顔に複雑な表情を引出した。
「そりゃ強敵だ。闘志燃えちゃうね。で、個人的な友達って、昔の恋人とかいうやつ?」
「そんなこと気にする必要はありません。杉村さんは今はもう丈先生の個人秘書だし、そういうことには全然関り合いを持ってないんですから。先生の大事なお仕事を手伝うだけで精いっぱいなんです。私生活なんか一分間だってないんです。だから、風間さんも諦めたほうがいいですよ......」
「あたしが諦める? とんでもない、あたしはなにしろ〝ピラニヤの風間ちゃん〟と呼ばれてる男なんだから......おまけに杉村さんはあたしが生れて初めて見つけた〝女神様〟なんですよ。踏まれようと蹴られようと諦めるなんてことは絶対にありませんよ......」
「そう、お気の毒ですね。その〝女神様〟が来週早々からアメリカへ行ってしまうんですもの。丈先生のお仕事で、いつ帰れるかわかりませんよ。ご愁傷様」
「本当ですか、杉村さん? 本当にアメリカへ行っちゃうんですか?」
血相を変えて風間が由紀にくいさがった。由紀はしかたなげに頷いた。
「で、いつ帰るんですか?」
「さあ、わかりません」
「来月ぐらいには帰るんでしょう? 何か月もということはないんでしょう?」
「ですから、まだそれは......でも、当分風間さんとはお別れということになりそうです」
由紀は相手の必死の形相にやや気圧されながら答えた。
「どんな用なんですか? そんなに長期間滞在しなきゃいけない用なんですか?」
風間は哀れな形相で取りすがらんばかりにいった。
「丈先生の代理をなさるのよ、杉村さんは」
郁江は後でとっちめられるな、と思いながらいった。由紀の目は稲妻が走らんばかりのきびしい色をしていた。しかし、それは覚悟の上である。
「米国超能力者協会の最高幹部として丈先生は招かれているんです。メイン財団のメイン会長直接の招きなんだけど、丈先生はお忙しくて行けないので、杉村さんが代理として行くことになったんです」
「そいつは本当なの!?」
「風間さんは裏を取る人なんでしょ? メイン財団に問い合わせたらいかが?」
郁江が平然という。
「いずれメイン財団の設立した米国超能力者協会が丈先生を招いたというのは、アメリカで公表されます。そうだ、いっそのこと風間さんもアメリカへ行って超能力者協会のことを取材したらどうですか?」
「アメリカ行きの金なんかないですよ。そんな金があったら苦労しないよ」
風間は憮然といった。
「じゃ、杉村さんとは当分お別れですね。なんだかお気の毒みたい......〝女神様〟がいなくなったら、風間さんがGENKENへ押しかける理由もなくなっちゃいますね」
郁江はふわりとソファから立ち上った。ピンクのスウェーターと赤いミニスカートが、空虚な広いロビーを鮮やかな雰囲気で急に染めあげた。
「お先に......」
会釈してロビーを横切って行く。可愛く嬌かしい妖精そのものだ。足を止めてカウンターのフロント係となにやら会話を交わしている。フロント係の顔には、職業的な笑顔とは全く異質な好意の笑みが溢れている。
22
取り残された二人はしばらく茫然として郁江の姿を眺めていた。杉村由紀は、郁江の恐ろしい独断専行ぶりが信じられなかった。だれに許可されて、会の内部のことをトップ屋相手に喋ってしまったのか。
郁江は由紀の思惑など問題にせず、完全に無視していた。強い制止をものともしない。それは東丈先生に許可された特権であるかのようにのびのびと振舞っていた。
後で激しく問責してやらねばという思いがなし崩しになりそうな気分だった。杉村由紀が渡米中は郁江が秘書室をまかされることになる。それが丈の意志である。すでに彼女は秘書を代行している気なのかもしれない。さもなければ、あれだけ臆面もなく振舞えるはずがなかった。丈と郁江にとって、もはや由紀は渡米したも同じなのだ。杉村由紀を必要としないままに、会はすでに動きだしている。重い気持がのしかかり、由紀の心を支配していた。
これではアメリカへ追い払われるようなものだという秘かな恨みが存在した。
「本当に杉村さんはアメリカへ行っちゃうんですか......」
風間が情なそうにいった。
「郁江さんがいったように、あなたも渡米して取材なさればよろしいでしょう」
と、杉村由紀は衝動的にいった。丈たちに疎外された恨めしさがいわせた言葉かもしれなかった。
「しかし、そんな金がどこに......? いや、どこかの社で出すかもしれんぞ」
にわかに風間が元気づくのを見て、由紀は己れの気まぐれを後悔した。
「ひょっとすると本当に乗ってくるかもしれん! 少くとも半分ぐらいは出す社が見つかるぞ、きっと!」
風間はすっかり元気づいてきた。
「いや、杉村さん、いいことをいってくれました! うまく持ちかければ絶対にくいついてくるところがありますよ。まさか東丈先生とメイン財団設立の米国超能力者協会との間につながりがあるなんて思いもよらなかったですからね! 郁江ちゃんは全くいいネタをくれました、郁江大明神ですよ」
郁江の軽率さは信じがたいほどだが、風間を渡米させる思いつきを生んだのは由紀自身である。由紀は己れの浅墓さもまた信じられなかった。引き込まれるように口走ってしまったのだ。
「絶対にこの話、実現させますよ、杉村さん! そうすれば向うで杉村さんとも逢えるし、これはもう一念で岩をも通してみせますからね! まあ、見てて下さい」
風間は自信たっぷりに断言した。すると、風間に本当にニューヨーク行きを実現させてしまいそうな気がしてきた。彼のあくなき執念と行動力を知っている由紀にしてみれば、もはやそれは逃れようがないという気がした。
ニューヨークでも、風間はその恐るべきねばっこさで由紀にくいさがり、はなれようとはしないであろう。しかし、それは由紀自身の蒔いた種子なのである。
「なぜそんなにわたくしにつきまとうのですか?」
由紀は憮然とした面持でいった。隠しようのない敗北感が漂っていた。
「なぜほうっておいてくださらないのですか?」
「それはもちろん、杉村さんがあたしの〝女神様〟だからですよ。わかって下さいよ、惚れ抜いているんです。あたしは一度惚れこんだら、とことん惚れ切ってしまうタチでしてね。どんな障害だってはねのけてみせる。初志を貫徹するまでは、あらんかぎりのエネルギーをぶちこむんです。男の一念ですよ。思いを遂げるまでは、夜となく昼となく一念力を燃やし続けるんです」
風間はまじめな顔でいった。
「ま、あたしに見込まれたのが身の不運とあきらめて下さい。杉村さんを思う気持はどこのだれにも引けを取りゃしません。念力ですよ、念力。人間の念力ほど恐しい力を持つものはない。その証拠に、最初はハナもひっかけてくれなかった杉村さんが、今はこうして二人きりで話してくれているじゃないですか。これが念力の勝利ですよ」
「あなたのしつこさに根負けしただけです。確かにあなたの執念深さは超一流のものですわ。でもなぜ、それをもっと良いことに使わないのか不思議です。わたくしを追いまわしたってなんにもならないでしょう?」
「一世一代と思い込んだからこそ力が湧いてくるんですよ。僕は思いを遂げたら、命も要らないと思ってるんです。これは本気ですよ、杉村さん。僕は全てをかけている。杉村さんを自分のものにして思いを遂げるためなら、悪魔に魂を売ったっていい。僕は本気ですよ!」
「恐ろしいことをいわないで下さい」
由紀はぞくっと身慄いした。風間がしんそこから本気でいっていることは疑えなかった。彼女はいまだかつてこれほどの猛烈さで男から迫られた経験がない。恋の相手はいずれも洗練された都会人であり、彼女の拒否を無視してまで求愛してくる強引さとは無縁の男たちであった。
無理押しは由紀の強い嫌悪と反撥を引き出すだけとわかっていたのかもしれない。風間のように洗練されていず、彼女の意向を頭から無視してぐいぐい押しまくってくる相手は論外といえた。彼女につきまとうアメリカ人の男たちの中には、しつこい男も押しの強い男もいたが、風間の圧倒的な執拗さとは比較にならなかった。
最初から見栄も外聞もなく、強烈な押しの一手でかかってくる。災難だ、と由紀は思った。悪い相手に見込まれたという他はない。風間は強引に彼女の人生に踏みこんできて、決して自分からは出て行かないであろう。この男は都会人の自意識過剰とは無縁であり、それだけに感性的な不死身さを誇っていた。
「いや、僕は本気ですよ、杉村さん。悪魔が来たらすぐに取引をする。魂を売っとばして地獄へ落ちたっていい。これだけの決心がなかったら、杉村さんにつきまといやしませんよ。どんなことがあっても、一念で僕は杉村さんを我がものにしてみせます。最初は口もきいてくれなかった杉村さんが、今はこうやって二人きりで話をしてくれている。だったら杉村さんの体をこの腕の中に抱くことだって必ず実現しますよ。なにもかもかなぐり捨てた人間の念力の強さというものですよ」
「あなたが超能力者だとは知りませんでした」
由紀は皮肉をこめていった。
「でも、悪魔に魂を売るのだけは止めて下さい。冗談事ではすまなくなりますから」
「冗談なものですか!? 僕はとことん本気です。杉村さんの気持を必ず動かして変えてみせる。いやもうすでに杉村さんの気持は少しずつ変って来ている。杉村さんは僕のものになる運命なんです。二人はそうなることに決っているんですよ。わかるでしょう!?」
「馬鹿げたことですわ、こんなおばあさんを相手に......」
「なにをいうんですか!? 杉村さんは若い女の子の秘書たちよりはるかに魅力的ですよ。深みと厚みがあって、男を狂わせる......」
「冗談はやめて下さい。とにかくわたしには私生活がないと幾度も申し上げました。わたくしは一生をささげ尽す使命がありますし、神と結婚した尼僧と同じなんです。それは魂と魂で交わされた誓いなんです。ですから、わたくしには私用に供する時間は一瞬もありません。あなたがどんなに熱心にわたくしにつきまとわれてもそれは徒労だと前にも申し上げた通りです。無駄なことはお止しになるようにと忠告する他はありません......」
「まあ、今に見とって下さい。きっと杉村さんは僕を無視できなくなりますよ。あなたの方から僕の腕の中に飛びこんでくるようになる。必ずそうなりますよ」
「それは予言ですか? それとも暗示にかけようとしているのですか? いずれにしても無駄なことです。決してそのようなことは実現しませんから......」
杉村由紀は苦笑とともにいった。疲労を覚えていた。タバコが吸いたいとむしょうに思った。彼女の心が疲労して、逃避を求めている証拠だった。アルコールの欲求もぶりかえして身裡で疼いていた。
東丈に仕えることを決心して以来、全てを清算したつもりだったが、そうではなかったらしい。だとすれば、男を欲しいという気持もぶり返さない保証はないと考え、杉村由紀は急いでそれを追い払った。己れの心身をさいなんでいる欲求不満の原因を追及するのは恐ろしかった。彼女は性的に熟成した女性であり、結婚までは至らなかったが、同棲までした相手が一度ならず存在した。東丈との遭遇がもたらした浄化体験により、性欲は薄く軽くなったが、全て消滅してしまったわけではもちろんない。
〝幻魔の標的〟だ、と由紀は思った。自分は意識誘導を施されているのかもしれない。煩悩をかきたてられ、罠に誘導されているのかもしれない。風間など全く由紀の趣味ではないが、もっと彼女の嗜好に合致した洗練されたタイプの男が出現すれば、由紀は心動かされかねなかった。
風間などお笑い草にすぎない。しかし彼の出現は自分にとっての警告であろう、と由紀は思った。
自分には満たされない心の空隙が、確実に存在する。それは丈への独占欲ともいうべき執着であり、生臭い嫉妬の情念だった。
自分には浄化しても浄化しきれないものが恥垢のようにこびりついている。それは三十二歳の年になるまで蓄積してきた業念かもしれなかった。だからこそ、いつもこんなに自信がなく、不安なのであろう。
風間の言い寄りなど冗談にすぎないとしても、東丈の傍らを離れ、渡米した後の自分はいかにも脆く危うかった。心の空隙が限りなく広がりそうな気がする。セミナーの高揚した雰囲気の中にあっても、孤り心浮かず沈滞しているのは、そうした前途の暗雲の予感かもしれなかった。
「悪魔と取引してやりますよ!」
と、思いつめたように風間がいった。由紀の心が自分にはないことを察知したのであろう。
「悪魔を呼びますよ! 魂を売ってあなたを自分のものにしてみせる。本気ですよ、杉村さん。あなたを得るためなら、魂を地獄の劫火の中で滅ぼしたって後悔はしない。きっとですよ......」
「おやめなさい。本当に悪魔が来ますよ」
「だからこそ呼ぶんです。こうなったら本気だ。しんそこマジに悪魔を呼んでやる」
風間の語気は冗談やハッタリとは思えなかったが、由紀はもはや関心をつなぎとめる気力がなかった。勝手にすればよいと思った。それでなくとも、こっちは自分の悩みで手いっぱいなのだ。煩わしく疎ましいという冷淡さしかなかった。
「わたくしにはそんな値打はありません。自分の魂を滅ぼすなんて愚かなことです。あなたの気が知れません......」
杉村由紀は一瞬にして風間から遠い存在と化していた。
「わたくしはセミナーに戻ります。風間さんはどうぞここでごゆっくり......」
美しい女だけになしうる冷やかな優雅さで、杉村由紀は会釈し、ロビーを立ち去った。
「僕は絶対に諦めませんよ!」
風間は断言したが、もはや杉村由紀は振り向きもしなかった。風間を無視しきった冷やかな毅よさだった。後を追いかけても、警備の若者たちに追い払われるだけとわかっている。若者たちには武道の心得があり、風間をセミナー会場から断乎としてつまみだすことを遠慮しないのだった。
──絶対に杉村由紀をものにしてみせるぞ!
風間は熱風のような情念に揺ぎながら一念を燃やした。杉村由紀の冷たさが憎かった。よそよそしい美しさ優雅さがとろ火のように彼の心を灼いた。
たとえどんな代償を払っても、あの素晴らしい充実しきった女体を組み敷き、快楽に陶酔させ、あのクールな美貌が歪み、すすり泣くさまを見てやる!
風間をどうしても近寄せない透明なバリヤーをなんとしてでもぶち破ってやるのだ!
悪魔よ、来い! と風間は本気で念じた。俺はあの女体を手に入れるためなら、魂を喜んで売るぞ! 何がどうなろうと構うものか......
風間は異常な情緒的高揚の虜になっていた。それは杉村由紀が渡米して、彼の手の届かぬ遠方へ逃れて行ってしまうと知らされた瞬間に起こった。風間は猛然と奮い起ったのである。
魔的な感覚が湧いて風間を慄然と膚寒くさせた。自分が本気で悪魔と盟約を結ぼうとしており、再び引き返せない道に踏み込みつつあることを自覚したからだった。
23
幽霊が出る......そんな噂がセミナー参加者の間に広がっていた。だれが火元か知らないが、あっという間に知れ渡ってしまった。
セミナー会場のホテルの内外で、幽霊を見た者が何人もいるという。まるで冗談のようだが、背中をぞくっとさせずにはおかない幽霊話であった。
むろん耳打ちで伝搬されたもので、だれも公然と口にしはしない。くだらない幽霊の目撃談でセミナーの貴重な時間を浪費する者は、表立っては一人もいなかった。セミナーの雰囲気には時間潰しを抑圧する緊張感が漂っていたからである。
夜は更けて、大広間のスケジュールは終了したが、参加者は各々の部屋ごとに分れ、自主研修に熱中していた。明朝の起床時間は早いのだが、どの部屋の灯火も消えず、徹夜の気構えが強かった。参加者の年齢が若いので、睡眠不足など苦にもしないのだ。
東洋病院の医師、笛川治は部屋の外から女の声で名を呼ばれた。同じ病院の看護婦松代直子であった。声音は遠慮している。二人とも会員ではないが、東丈の招きを受けてセミナーに参加したのだ。
「先生、申しわけありません......」
部屋の外の廊下に立っている松代直子は心なしか蒼い顔をしていた。廊下の天井の照明のせいばかりではなさそうであった。
「ちょっとよろしいですか?」
「どうしたんだ?」
笛川は不審そうに尋ねた。トレーニング・ウェアを着た松代直子は中学校の体育の女教師のように見えた。
「お忙しいところをすみません......あたし困ってしまって......」
「どうした、また病人でも出たのか?」
平山の心臓発作が再発したのかと笛川は思ったようであった。
「先生......」
松代直子は人の耳を気にするように廊下を見廻しながら躊躇いがちにいった。
「あの話、お聞きですか?」
「あの話ってなんだ?」
「あの......幽霊の......」
口にして、松代直子はぞくりと体をすくませた。
「幽霊? くだらんことをいうなよ。セミナーで超能力が発顕すると幽霊が見えるようになるとでもいうのか?」
「え、そうなんですか? あたし、さっきからあれを見てばかりいるんです。それで困ってしまって......」
「あれって何だ?」
笛川はこうしたことになるとひどく鈍感であった。頭が別の思考で埋っているせいであろう。
「だから、幽霊ですよ先生」
「幽霊? 君は幽霊を見たのか?」
「ですから、そう申し上げているじゃありませんか」
直子はもどかしげにいった。わからない先生、といいたげであった。
「あたし、さっきからしょっ中見てばかりいるんです。どこへ行っても鼻をつきあわせんばかりで、ぎょっとしてしまって......」
直子の頰がざらざらと粟立ち、彼女は両掌で頰を抑えた。
「でも、他人にはいえないし......だから先生にご相談に来たんです」
「俺にいわれても困る。そういうことは杉村さんに相談したらどうだ」
笛川は無頓着にいった。凄いほどの天才肌の医師だが、男女の感情の機微には全く疎いのである。
「先生ったら、なんでも杉村さん杉村さんっておっしゃるばかり......」
直子は青いような目の色になった。
「しかし、杉村さんは超能力者だろう。君の相談相手になってくれるさ。我々を箱根に呼んでくれたのは杉村さんなんだから」
「だって、杉村さんは物凄くお忙しいんですよ。とても幽霊の話なんか持ちこめません。セミナーの妨げになるし、ホテルだって迷惑でしょう?」
「だったら、黙っていればいいじゃないか」
「だって気持悪いんですもの! だからこそ先生に話を聞いていただいているんじゃありませんか!? あたしの身にもなって下さい、さっきからずっとつきまとわれっ放しなんですよ」
「しかし、弱ったな。このホテルに幽霊が出るとは知らなかったし......僕にはどうにもならないよ。僕は医者で、お祓いの方法なんか知らんからな」
「先生はちっとも同情して下さらないんですもの!」
松代直子が苛立って声を高める。
「わかったよ」
笛川は廊下を見廻した。もう午前零時を廻っている。幽霊話をするには好ましくない雰囲気であった。しかし、他の部屋でも自己研修が夜っぴて続けられており、松代直子の高声で邪魔してはいけないと思ったのである。
「ねえ、先生、聞いて! あたしどうしたらいいんでしょう? 幽霊にとり憑かれてしまったみたい......」
「あまり大声を出すなよ。それじゃ、やっぱり杉村さんに相談するしかないじゃないか」
「杉村さんはいや、厳しくて怖いんですもの」
直子は両手で笛川のトレーナーのシャツに摑まった。直子らしくない甘え方だった。医師の白衣ではなく、トレーナーを着ている笛川はつけ入りやすい雰囲気なのだろう。女の甘い匂いが漂ってきて、笛川をふと狼狽させた。松代直子は、話が杉村由紀に触れると態度が急変した。男女間の機微に疎い笛川も、ある程度は悟らざるを得なかった。
が、そうした感情のもつれは億劫であり面倒臭い。いつも保護者ぶってリードする松代直子がにわかに荷厄介な存在になってしまうのだ。
「わかったよ。で、幽霊っていうのは、どんな幽霊なんだ?」
「そんな風にいわないで。本当に怖いんですから......あたし、今夜とても眠れそうもないわ」
では眠らずに起きていればいい......とはいわなかった。超能力の発顕している松代直子には、本当に不可視のものが霊視できるようになったのだろうと笛川は思った。
「いろんなものが沢山見えるんです。なにかこう灼けただれたような、崩れたような顔が沢山。凄く気持悪い顔がどこに行っても見えちゃうんです」
直子はブルッと大きく身慄いした。
「それから、女の人の顔......物凄く美しい女の人です。日本人じゃありません。金髪であおい目をした女の人......その女の人がじっとあたしを見てるんです!」
「金髪の白人女性?」
直子はせわしく頷いた。
「ものもいわずにじっとあたしを見てるんです! あたしに対してあまりいい気持を持っていないのがわかるんです。なんていうのかしら、不快さと嫌悪のいりまじった気持......とても自尊心が傷つく感じで、こっちをじっと見ているんですよ! なんともいいようのない気持です。辛いような苦しいような、嫉妬で胸が締めつけられるような、そんな気分。でも、それをぐっと抑えつけて歯をくいしばっているんです......」
「なんだ、それは? その幽霊の気持なのか、君の気持なのかどっちなんだ?」
笛川医師が呆れたように尋ねる。
「幽霊を見ていると、そんな気持になってくるんです。相手の心が伝染してくるのかしら? こう胸がぐっと押しつけられるように苦しくなってしまって......もどかしくて腹立たしくて居堪れないの」
「幽霊がそれを君に伝えたがっているのか? 金髪美女の幽霊が?」
「わかりません。でも、何か大変なことが起こりそうな気がして。こう、病状がにわかに悪化したような切迫感があるんです」
「悪化した? 相手の幽霊は病気なのか?」
「わかりません、そんなこと......でも、きっと何か大変なことがあるんです。でも、そんなことは人にいえないし......先生、どうしたらいいですか?」
「わからんな。郁江君に相談したらどうだ? 彼女なら杉村さんより話しやすいだろう」
「でも、郁江さんは杉村さんと同じお部屋にいるし、あたし話しづらくて......」
「じゃ、僕が郁江君に話してやる。ついてくるといい」
いざとなると、さすがに笛川は頼もしかった。先に立って足早に歩いて行ってしまう。松代直子はあわてて後を追いかけた。
「先生、どこへいらっしゃるんですか?」
「だから、郁江君の部屋へ行くんだ」
「でも、そっちは郁江さんのお部屋とは違います」
松代直子の声に笛川はようやく足を停めた。あっけに取られたように廊下を見廻している。直子は息を切らせて、笛川医師の腕につかまった。
「先生、どんどん行ってしまわれるんですもの......逆戻りしなきゃだめです」
「このホテルは継ぎ足しばかりでやけに馬鹿でかいからな、すぐに道に迷っちまうんだ」
深夜のホテルは鳥肌が立つような雰囲気をはらんでいた。数千人を収容できるスペースに、GENKENセミナーの一行八十名足らずしか宿泊していないのだ。直子は命綱のように両手でしっかりと笛川の左手を摑んでいた。
「こっちだったかな......そうだったな確か」
「そうだと思います......でも、部屋の番号が違うみたい」
無秩序に継ぎ足しを重ねて造られたホテルの棟はさながら迷路であった。深夜で、ホテル従業員の姿もなく、宿泊客もいないホテルは特殊な無気味さを湛えていた。
「先生!」
松代直子は総毛立つような声音を出し、笛川の腕を力いっぱい握りしめた。
「先生! 見て! あれを見て!」
廊下の前方を小さな人影が歩いていた。子供の足取りである。
「なんで今頃、あんな子供が歩いてるの?」
直子が息を殺していった。笛川は不思議そうに唸った。小さな人影は野球帽をかぶっている。
「先生、怖い!」
「しかし、幽霊じゃないよ。僕にもちゃんと見える。泊り客の子供だろう」
「でも先生......あの子、日本人の子供じゃないみたい!」
「声をかけてごらん。寝呆けて外を歩きまわっているのかもしれない」
「だって怖いんですもの」
「幽霊じゃなければ平気だろう」
そのとたん、野球帽をかぶった小さな人影が振り向いた。たどんのような真黒な顔に、目玉が爛々と黄色く輝いていた。
黒人の幼児だった!
松代直子が息の詰まる声を漏らした。吸いこんだ息が喉で引っかかってしまったようであった。
黒人幼児は突如として消えてしまったのである。瞬きするより早くホテルの廊下は空虚になり、人っ子一人存在しなくなっていた。
24
同じ深夜、けたたましい喚き声がホテルの静寂を破った。男の胴間声であり、その騒ぎ方はただならぬ事件でも出来したのかと思わせた。
自己研修で夜っぴて起きていたセミナー参加者はほとんど全員が部屋の外に飛び出した。人殺しでも起きたのかと思ったのだ。
ずんぐりむっくりした男がホテルの廊下で転けつまろびつしながら、喚きまわっていた。ルポライターの風間であった。ホテル備品の浴衣がはだけ、紐を引きずっている。はだしで走りまわっているのだが、恐怖のあまり体の自由がきかなくなっているようであった。腰が抜けてばったりと四つ這いに這ってしまうのだ。
部屋から跳び出してきた人々の眼前で、風間は恥も外聞もなく這いまわり、喚き叫んだ。声が割れて掠れ、何を叫んでいるのか判じがたかった。人々がとっさに近寄れないほど、彼の狂態は凄まじかった。
「どうしたんだ!? 何があったんですか?」
と、一人が思い切ったように声をかける。とたんに風間の体は跳ね上り、質問者に体当りする勢いでしがみついてきた。
「幽霊だ幽霊だ、悪魔が来た、助けてくれ!」
風間は恐ろしい早口で喚きたてた。声が潰れて聞き取りにくいが、彼が非常な苦境にあり、他の救援を求めていることだけは辛うじて判断することはできた。
「悪魔だ悪魔だ! 悪魔が本当に来た! 助けてくれ! 東先生に頼んでくれ! 早く追っ払ってくれ、早く早く!」
彼が異常な興奮状態にあり、まともな認識がなしえないことは明らかで、だれもが彼を狂人と思った。それほど風間の顔付、挙措動作は尋常なものではなかった。
「気狂いだ!」
声が上って人々はどっと揺れ、我先きに部屋へ逃げこもうとした。警備係の塾生たちが狂いまわる風間から、しっかりとしがみつかれた質問者をようやく解放した。
「抑えつけろ! あまり手荒らにするな!」
と、田崎宏が部下の塾生たちに命じた。セミナーの参加者たちに、部屋に戻るように呼びかける。
恐怖に狂った風間の膂力は異常に強く、腕っ節の強い塾生たちが四人がかりでもなお手古擦るほどであった。
「助けてくれ、東先生! 悪魔を追っ払ってくれ! 頼む頼みます! 悪かった! 東先生お願いだ! 悪魔が、悪魔が!」
折り重なって下敷きになりながらも、風間は若者たちをはねのけた。恐怖に狂った馬鹿力であった。その間喉も裂けよ、とホテル中に響く大声で絶叫し続ける。
「悪魔はもう呼ばない! もう厭だ、助けてくれ! 俺が悪かった! 東先生助けて下さい! 悪魔にとっつかれた、早く早く取ってくれ、お願いだ! 悪魔が背中に乗ってる! 助けてくれ、助けてくれ!」
その汗にまみれ、奇妙に歪んだ顔、白目を剝き出した顔は狂者そのものだった。田崎宏が手を貸すに及んで松岡ら四人の塾生はようやく風間をねじ伏せ、取り抑えた。そこへようやくホテル従業員が押っ取り刀で駆けつけてくる。
「さあ、もう大丈夫ですから、部屋へ戻って下さい!」
風間が連れ去られた後、まだ廊下に残って私語している人々に向って、田崎宏は呼びかけた。
「もう心配ありません。騒ぎたてる人間はもういませんから、安心して部屋に戻って下さい! いつまでも廊下で立ち話していると、他の泊り客の皆さんの迷惑になります。部屋に戻ってお静かに自己研修の続きを続けて下さい」
セミナー参加者たちは田崎の説得に従い、廊下に出ていた少数の他の泊り客たちも自室に引っ込んだ。この夜のホテルの宿泊客全員が、今の椿事で顔を揃えたようであった。ホテルの暖房やサーヴィスの都合で、全ての客を同じ棟に収容していたからであろう。
客が姿を消したホテルの廊下は、とてつもない騒ぎの残した興奮が残留しているようであった。
「平山さん......」
田崎宏はほっそりした背の高い少女を呼び停めた。
「先生はどうなさってますか?」
今の椿事が出来しておさまる間、東丈の姿が廊下に見えなかったことに田崎は気づいていた。
「先生はお出かけになりました」
平山圭子は少し固くなって答えた。ほっそりした長身にトレーナーがよく似合っていると田崎は思った。小学校の同級生である彼女に、以来特別な関心を圭子に持ち続けてきた田崎だが、今はきれいに吹っ切れている。むしろ圭子の方が田崎と対面すると緊張するようであった。
「出かけられた? こんな時間に......? またジョギングですか?」
午前二時近いジョギングとはあまりにも常識外であった。厳冬期の箱根の夜は凍結している。しかし、東丈は常に突拍子もない発想で人の意表を衝くのだ。
「いいえ......」
平山圭子が戸惑ったようにかぶりを振る。
「じゃ、車で? しかし康夫は今、顔を見たばかりだから......」
「車じゃありません。でも、急用でお出かけになりました」
「ハイヤーでも呼んだんですか? でも、車なら康夫でも俺でもすぐに出せるのに」
「乗り物はお使いにならなかったんです」
平山圭子の言葉が、田崎の頭にしみこむにはしばらく時間を要した。
「まさか、歩いて散歩っていうわけじゃないでしょう」
田崎は戸惑ったように首を振った。圭子が唇に指をあてて小声になった。
「先生は時々お出かけになるんですよ、乗り物はお使いにならないで......」
「じゃ、空を飛んで!? まさか......」
圭子が頷くのを見て、田崎は急速に納得した。それくらい先生には簡単なことだ、とにわかに思い当ったのだった。
「どちらへ行かれたのかわからない?」
「わかりません......でも、朝までにはお帰りになると思いますけど」
「知らなかったな」
田崎の逞しい体をくつくつ笑いが揺った。声をしのんで笑い続ける。
「正月に大峰山脈へ行かれた、と聞いたが、いつも行かれるのかな! 空を飛んで......」
「時々お出かけになるようです。禅定をなさるのによろしいんですって......」
「俺たちの先生は凄いな......」
と、田崎は固苦しい口調を捨てていった。
「常人には考えつかないことを平気でやってのけられるもんだな......」
「ええ、本当にそうね」
平山圭子の固い口調も柔いだ。
「先生が地上におられる限り、何が起きても大丈夫という気がするな。そう思わないか?」
「そう思います。でも、頼るなって先生はいわれますけど」
「もっと俺たちがしっかりしないといけないんだ。まだまだ頼りにならない。今夜は例の幽霊話でだいぶみんなの心が動揺してる。そこに今のトップ屋が悪魔にとっ憑かれたという騒ぎだろう......」
「今夜は何か様子がおかしいんです。心霊的感覚のレベルがみなさん、いっせいに上っているみたいなんです。なんだかとても鋭敏になってしまって......あたくしなんかでもそうです。このホテル全体の磁場が敏感なアンテナみたいになっているんじゃないでしょうか? 笛川先生や松代直子さんもそうなんです。さっき幽霊をごらんになったとか......あの風間って人もそうなんじゃないでしょうか? あたしもこのホテルに来てから、ずっと感じているんですけど」
平山圭子は田崎への信頼感を見せて、いつになくよく喋った。いつもはお互いに遠慮してほとんど言葉を交えたことがない二人だった。
「幻魔じゃないかって......言葉には出さないけれども、みなさんそう感じて、浮き足立っているような気がします。もちろん表立っては口にしませんけど」
「幻魔はいつだって我々から監視の目をはなしやしないさ。しかし、それは口にしない方がいいな。幽霊なんかどうってことないんだし......今年は先生が外国へ行かれる年になりそうだから、俺たちの責任はいっそう重くなる。秘書の仕事も大変だろう?」
「ええ。でも杉村さんがいるし、郁江ちゃんが驚異的にしっかりしてきましたから。あたくしなんかただ夢中でみなさんにぶらさがっているだけです」
「平山さんは、なんだか杉村さんに似てきたな。話し方や物腰がそっくりだ......」
「人真似お猿なんです」
圭子は顔にぱっと朱を刷いた。田崎にとってはたとえようもなく好もしい羞恥ぶりであった。
「尊敬している杉村さんの癖が移ったんだな」
「そういえば、田崎さんを訪ねて見えた女の方がありました」
圭子は話題を避けるように口調を変えていった。
「あたくし、話しかけられて......でも田崎さんにはいわないでほしいと頼まれたので黙っていました。いけなかったでしょうか」
「女の人が俺を訪ねてきたって?」
田崎は首を傾げていた。しんそこから不審がっていた。
「何の用事かいわなかった?」
「はい。田崎さんがいることを確かめればそれでいいんですって。今お泊りになっているはずです」
「わからんな......」
「田崎さんには黙っていてと頼まれたので、いいそびれていたんですけど」
平山圭子の口調は再び固さを回復していた。
「もしいけなかったらごめんなさい......」
「名前はいっていた?」
「おっしゃいませんでした。でも、田崎さんのことをよくご存知のようでした」
「............?」
田崎は不審げによく光る大目玉を圭子の顔に向けて放さなかった。圧迫感を覚えたのか、平山圭子は小さな咳払いをして目をそらした。
「二十五、六歳ぐらいの綺麗な方です。今の騒ぎで廊下に出ていらしてたんじゃないでしょうか......」
ああ、という太い声が田崎の分厚い胸郭から出た。苦笑が逞しい顔の下半分に溝をうがった。
「声の悪い女だろう? 顔と声が全然似合わない......カラスみたいな声をしてなかったか?」
「声に特徴のある方です。でも、とてもきれいな方でした」
「美晴だ。ちょっとした知りあいなんだ。きっと塾の方に問い合わせたんだろう......だれか口の軽い奴がセミナーのことを教えたんだな」
「そのことをお話ししたものかどうか迷っていたんです。田崎さんもお忙しそうでしたので」
平山圭子はすっかり他人行儀な口調に戻ってしまっていた。
「そのことをちょっとお話ししたかったんです。お引きとめしてごめんなさい。失礼します」
平山圭子は会釈し、杉村由紀にそっくりの歩き方で廊下を歩き去っていった。背筋の伸びたきれいな歩き方だった。しかし、田崎宏はどことなく欲求不満を覚えながら、ほっそりした長身の美少女の後姿を見送った。その満たされない気分が何に起因するのか、詮索することを田崎は嫌った。
平山圭子が自室のドアを閉めると、ホテルの廊下は田崎一人を残して無人になった。もっと彼女と話していたかったのだと気づき、田崎はそんな自分を叱った。今生の自分には女出入りの余地などないと強く考える。前世での失敗をくり返してはならないし、その要因をことごとく排除しなければならない。
しかし、なぜ〝ルイザ〟のホステス、白水美晴はわざわざ田崎を訪ねて、セミナー会場のホテルへやって来たのか。くだらないことをする、と思った。
それは悪しきことを予兆しているように女嫌いの田崎には思えたのである。


1
GENKEN箱根セミナーの二日目は、初日とは異る昂ぶりの中に明けた。
起床時からすでに騒然とした落着かぬものが漂っていた。前夜の幽霊談やルポライター風間の悪魔憑依騒ぎが尾を曳いている上に、睡眠不足で神経が立っているからであろう。
参加者の期待は午前中に繰り上げられた井沢郁江の講演に集中していた。もちろんハイライトは東丈の講演に止めをさすが、郁江が丈によって幻魔担当に任命されていることは、いつの間にか衆知の事実になっていたし、妖精のような郁江が何を喋るのかと強い興味を湧きたたせていても不思議はなかった。
それにしても、セミナー二日目の雰囲気はがらりと一変していた。苛立たしい不快な緊張感を隠しようがなかった。
朝起きぬけの体操時に、初日の爽やかな華やぎが消え失せてしまっていた。セミナー参加者全員が何も知らされぬうちに、上層部を襲った動揺を知り尽してしまっているようであった。
会員たちには奇妙な敏感さがあった。それはまさに超能力としかいいようがない。いかに隠し立てしても、真実はいつの間にか漏れて、知れ渡ってしまっているのだった。いつもそうなのである。
その現象は、会員の間に心霊的能力の持主が増加していることと無関係ではないのかもしれなかった。会の最高機密であることが、ごく速やかに秘書室の外部へ漏洩してしまうのだ。杉村由紀がどのように神経質になっても決して情報漏れをカットできない。肝心な秘密はいつしかこっそりと人々に耳打ちされていることになるのだった。
東丈が日本を離れることになったという噂は、前夜のうちに流れてしまっていた。幻魔の攻勢が急なため、今まで通りの地味な活動ぶりでは追いつかなくなり、東丈は米国の巨大組織の招聘を受け、渡米することになったのだ......全米一の大富豪が東丈のバックについたらしい......
しかし、東丈が離れた後の日本は、大きな危難に曝されることになる。東丈の巨大な庇護を失った日本は天変地異や大災害に襲われることになるだろう。GENKENは井沢郁江の手に後事を托されることになり、彼女の講演でそのことが明らかにされ、改めて会員一同の自覚と決意が求められるはずである。
東丈は渡米のための準備で夜のうちに帰京し、セミナーは丈抜きで行なわれることになるらしい......
その証拠に、東丈や杉村由紀らは朝から人前に姿を見せておらず、会の幹部たちはひどく動揺した気配を示している......
もっともらしい噂が人々の間に浸透していた。表立って質問がなされないため、噂は陰湿さを帯びてきていた。どのようなゆたかな想像力の持主が才のおもむくままにでっちあげたのかと感心するほどであった。
とりわけいかにももっともらしいのは、高鳥慶輔が東丈を出し抜き、米国の大富豪に取り入ることに成功したため、丈は急遽、アメリカへ飛ぶことになったという情報であった。丈が巻き返しを余儀なくされたため、昨夜来浮き足立っているのだという説である。
人々は東丈の渡米で心が揺ぎ、留守中の不安で満たされて、陰湿な風聞をせっせと取り込んでしまっていた。なによりも幻魔の攻勢が増大しているという直感が不安を搔き立て、沈んだ苛立たしい気分に満たされたまま、セミナー二日目を迎えたのである。
田崎宏は、東丈の不在がたちまち不安となって人々の間にはね返るのを肌で感じていた。ただの噂だけで他愛なく心がぐらついてしまうのだ。それほど丈への依頼心は強度であり、自覚にはほど遠いといわねばならない。
むろん、それは決して他人事ではない。田崎自身にも、丈の不在は不安をかきたてるものがある。力強い庇護の光が頭上から去り、裸になった心細い感覚だ。
東丈は昨夜からホテルに戻っていないようである。秘書たちはそれを隠そうとしているが、一種の皮膚感覚でだれにもわかってしまう。光が離れた空虚な感じであり、それはもはやだれもが霊覚を備えて察知しているとしかいいようがなかった。
「どうなってるんですか、師匠?」
と、河合康夫がこっそりと田崎に尋ねた。
「朝からざわついちゃって、どうしようもないすよ。注意力散漫になっちまって、どこの部屋も自己研修なんてムードじゃないみたいです。朝飯を食堂でくってる時に、へんにしんとしてたでしょ? 変にひそひそしてて、厭なムードですなあ」
ホテルの廊下での立ち話だった。
「本当に先生、昨夜からお出かけのまんまですか? 朝帰りもしておられない?」
「口が軽いぞ。先生がおられないとなれば、余計に俺たちはしっかりしてないといけないんだ。わかってるだろう?」
「そりゃわかってます。しかし、ひょっとしたらこのセミナー荒れるぞって予感してたら、その通りになっちゃった。先生がいないとすうっと陽の光がかげったみたいに冷たく荒涼となっちまうんだから」
康夫は顔をしかめていった。
「今はもう〝郁姫様〟だけが頼りってもんで......先生は昨夜のうちにアメリカへ飛んだっていうの、本当ですかね?」
「お前までそんな噂を持ち歩いたらいかんじゃないか。セミナーは予定通りちゃんと進行してる。先生がどこで何をしていらっしゃろうと、そんなことはいい。余計な揣摩臆測をしててどうする。だれかに質問されても、いい加減な推測は喋るなよ」
田崎は黒々とした眉をしかめていった。
「その点は大丈夫です。こっちが塾生とわかってるし、会員の方々は遠慮なさってあまりお声をかけて下さらないですからね」
「くだらん拗ね方はするな。まだ気心が知れてないし、遠慮があるのは当然だ」
「向うは塾をおっかない右翼だと思ってますよ。強もてしそうなのが肩そびやかして歩きまわってるから......」
大広間の研修会場へ向うセミナー参加者たちが、立ち話している二人に会釈して通りすぎる。好奇心はあっても、どことなく恐いという感じで、尻込みの気配が見える。互いに遠慮や隔意があって、さりげなさを装っているものの、態度が固い。
GENKEN会員たちには、膚合いの異なる塾生たちの逞しさや力強さが畏怖の念とともに差別感を生じさせるようである。右翼や体育部学生の非知性に対する軽蔑に通じるものが仄見える。
「しかし、郁江に本当に先生の代理が務まんですかねえ」
と、康夫が疑念を表明した。
「だいたい郁江はこれまで人前で喋ったことなんかないんでしょ?」
「心配するな。郁江はお前みたいに神経がかぼそく出来ていないよ。それに先生だって最初の講演をされるまでは、人前でぴしりとお話しになったことは一度もないとおっしゃってた」
「だってさ師匠、先生と郁江は違いますよ」
「いや、郁江は大物だよ。最近はこう、凄味さえ出てきた......お前は綺麗な顔に惑わされてるんだ。郁江はお前が思ってるように、ちょっとおしゃまな可愛い子ちゃんじゃないぞ。底の知れない骨太のところがある」
「そりゃ俺だって、ただの可愛い子ちゃんだとは思ってませんよ」
康夫があわてて弁解する。
「おいそれと先生の代役が務まるかどうか疑問を感じてるだけですよ。だってそうじゃないですか。先生のあの白熱した凄い講演の代りはだれにも務まらないでしょ?」
「そりゃ先生を真似ても無駄だ。各自の持味でやるしかない。こんなことで疑念を表明するより郁江を励ましてやれ。たかが百人足らずでも講演てのは大変だぞ。お前が自分でやると考えてみろ。みんながじいっと穴のあくほどお前の面を見てるんだぞ。喋れるか?」
「まあ、落語ぐらいならなんとか一席......」
「やっぱり郁江はだれよりも自覚して先生に近いからだよ」
と、田崎は重々しくいった。
「修羅場を踏むと、あんな可愛い子でも空恐しいほど、真の霊性が顕われてくる。その点は明雄も同じだ。ただ超能力がついたというだけじゃない。そんな超能力なんか屁の突っ張りにもならん。生病老死を超えるというのは、人間にとって第一関門の突破だ。全てはそこから始まるんだ。
俺たちなど偉そうなことをいってるが、郁江や明雄の足許にも及ばんかもしれんぞ」
「そらまたご謙遜を。あたしなどはまさに屁の突っ張りですが、師匠も修羅場を踏んだ数では鬼神も避けるという......」
康夫は、田崎の首筋の生々しい傷痕にちらと目を向けた。田崎はその傷痕の由来を話したがらないが、明雄の口を通じておおよそのことはわかっている。田崎がいつでも命を張って生きているという証明なのである。
田崎宏は自分のこととなると含羞の人であった。光る大目玉が照れでいっぱいになってしまう。
「俺などはまだ生病老死を超えていないよ。執われが多すぎて、どうにもならん......」
「師匠がそんな気弱なことをいってたら、どうなるんですか? 師匠が先生のためならいつでも死ねるってことは、だれでも知ってますよ。師匠は昔から恐いもの知らずで有名だったじゃないですか」
「頭が嚇っとなってしまえば、恐怖心はなくなるが、所詮はその時限りのものだ。平常心からしてそうならなければだめなんだ......ところが、俺なんかは普段は恐いものばっかしだ。不動心なんかとてもじゃないが、及びもつかない。物事に執着が多すぎる証拠だ。つまらないことで、すぐに心が騒いで揺らぎだす。そうなったらもう自制心なんかどこかへ消えちまう。すぐ頭に嚇っと血がのぼる癖が一番恐いといえば恐い。先生にどんな迷惑をおかけするかわからん......」
「師匠がそんな心細いことをいってたら、我々はどうなるんですか? 先生は、師匠を全面的に信頼してますよ。そんな気の弱いことはいいっこなしですよ」
「しかし、前世のことがある......」
「それはいいっこなしだ。前世は前世、今生は今生と先生もおっしゃってるじゃないですか? それこそ執われというもんですよ。もっとどっしりと自信をもって下さい。師匠が抑えをきかせていなかったら、先生だって存分に務めを果せなくなっちまいますよ......」
「まだ未熟すぎるんだ......」
田崎は実感をこめて、嘆息するようにいった。
「己が心がどうにもならん。軟弱ですぐにグラグラ揺れる心がな......」
「そんな絶対の不動心を持った人間がいたら気持悪いですよ」
と、康夫が抗議した。
「人間味がないですよ。それこそ神様か仏様だ。師匠は恐ろしく短気で、それをぐっと堪えて真赤になってるところが人情があっていい。先生だっていつも悟り澄ました聖人君子になる必要はないっておっしゃっているじゃないですか。師匠がぐっと堪えて口をへの字にして真赤になってるのを見ると、熱い湯に入って我慢してるみたいだって市枝もいってます。これもまた、なかなかチャーミングっていうんじゃないすか?」
「茶化すな」
田崎が苦笑する。
「師匠もどうして、隅に置けないですからね」
と、康夫は意味ありげにいった。
「しかし、まあ、女難ってこともあるんですから、くれぐれも気をつけて下さい」
「なんの話だ?」
そこへ、研修会場へ向う笛川と松代直子の二人がやってきた。二人とも医師と看護婦には見えない。トレーニング・ウェアを着た直子はやはり若い女教師のように見える。眉の迫った意志的な顔立ちが際立っている。その印象に引きずられてか、笛川も非凡な外科医のイメージはまるでない。
二人は引き寄せられるように、田崎たちに近づいてきた。
「お早うございます。いかがですか?」
と田崎が尋ねる。東丈の計らいで特別参加を認められた彼らは、ともすれば塾寄りの姿勢になる。会員とは馴染みにくいところが多少あるようであった。やはり開放的な塾と閉鎖的な会の気質の相違があるのであろう。
「昨夜は一睡もできなかったですよ」
と、笛川医師が寝不足の充血した目で答えた。田崎たちの顔を見て、安堵した感じは否めなかった。
「わたしも......眠ろうとすると目の前にいろいろな顔が現われて」
と、松代直子がいった。こちらは睡眠不足という顔ではなかった。若さの精気が底光りするように滲み出ている。どんな不都合があろうとも、享受すべき楽しみを見出している証拠であった。
「昨夜はいろんな騒ぎがありましたからね」
と、田崎はいった。最大の騒動の張本人、ルポライター風間は、今朝はまだ姿を現わしていない。狂態を演じた手前、面目なくて人前に出られないのか。あのトップ屋に限ってそんな気遣いはない、と田崎は思った。感性にかけては不死身性の持主なのだ。
「彼女は、夜っぴて金髪美女の顔が見えてうなされ通しだったようです」
と、笛川がいった。
「金髪美女ですか?」
田崎は太い眉をぴくりと動かした。
「ええ、それだけじゃなくて、とてもこわいものばかり見えてしまって......」
松代直子は唇を小さくすぼめ、いおうかいうまいかと迷っていた。
「こんなことをいうと、頭がおかしいんじゃないかと思われそうなんですけど、何かとても恐ろしいことが起きるような気がするんです。まだ現実には起きていないらしいけれども、物凄い未来の光景をくり返しくり返し見せられたような感じなんです......」
「恐ろしい顔が沢山見えたのですか?」
と、田崎が興ありげに尋ねた。
「ええ。めちゃめちゃに崩れた恐ろしい人間たちの顔です。焼けただれたり、骨が見えるまで傷ついた顔......真黒に炭化して目鼻立ちもわからない顔とか、むごたらしい、とても人間とは思えない顔ばかりです。その沢山の顔が、わたしに何か訴えようとしているらしいんです。わたし、そう感じてました。一晩中......」
「その金髪美女というのは?」
「それは傷ついてはいません。何もいわずにただわたしをじっと凝視しているだけです。でも、ひどく辛く苦しそうで、病気じゃないかという気がしました。苦しい、悩ましい気持が伝わってくるんです......」
「松代さんに何か伝えようとして?」
「いいえ。わたしにはただそう感じられるんです。どこにいても、あおい眸が目の前に浮んできます。目を閉じても見えてしまうんです。一晩中つきまとわれました。いったいどういうことなんでしょうか? どうも普通の地縛霊とは違うみたいなんです。それは相手の感じでわかります」
「つまり、意志伝達はなくて、ただその金髪美女に見られていただけなんですね?」
「ええ。でも一晩中ですから、疲れました」
しかし、口とは裏腹に松代直子の顔は若さが張り詰めていて、少しも疲れた様子ではなかった。
「まあ、松代君は霊視の能力があるんで、そういうことがあっても不思議はないですが」
と、笛川医師が口をはさんだ。参加者がすっかり会場へ行ってしまい、後にとり残された恰好になっていた。もう視線や耳を気にすることはなかった。
「僕まで見てしまいましてね......松代君といっしょです。あの悪魔が憑いたという大騒ぎの少し前、十分ぐらい前です。ホテルの廊下を、こっちとは丁度逆方向の棟になりますが、真夜中の廊下を黒人の幼児が一人で歩いているんです。松代君と二人ではっきり見ました。なぜ私までそんなものを見てしまったのか納得が行かんのですがね。私にはいわゆる心霊的能力はありませんから」
黒人幼児、と聞いて、田崎宏は鋭く康夫の顔を見た。康夫は一向に感応するものがないようであった。
「へえ? 子供が夜中に寝呆けていたんですかね」
と、康夫が若干無責任な調子でいった。
「そう思ったんですが、私と松代君の前で、いきなり消えてしまいましたから。こうスウィッチを切ったように、唐突に消失しました。私には、いわゆる幽霊とは思えなかったんですがね」
「黒んぼの子供がね、わからないな」
「確かに突拍子もないことは認めますがね」
笛川医師は弁解するようにいった。
「まあ、精神神経の異常興奮による幻視かもしれません。昨夜はいろんな幽霊話があったようですから、暗示による幻覚だったとしても不思議はないんですがね」
「あれは絶対に幻覚なんかじゃありません。ここにおいでの田崎さんや河合さんと同じくらい現実的にはっきり見えたんですから。金髪美女の場合とは違います」
と、松代直子が頑張る。康夫の懐疑的ないい草が気にさわったようであった。
「ま、昨夜から突拍子もないことばかり起きてますからね、光球が頭上を群れなして飛んだり......」
田崎はなだめるようにいった。
「まあ、金髪美女も、黒人幼児も一概に幻覚ではないかもしれません。しかし、それはいずれはっきりするんじゃないですか」
「そう。私も松代君にそういっていたんですよ。何か大きな事の起きる前兆かもしれないと......このセミナーに参加した人々は、心霊的に敏感な人が多いらしい。東丈先生が渡米されることを感づいて、動揺しているんじゃないですか?」
「先生が渡米されるといったことを、どなたにお聞きになりましたか?」
「いや、もっぱらの噂です。メイン財団のメイン会長が先生を強く招聘していることは、だれでも知っていますよ」
田崎と康夫は互いに顔を見合わせた。
「先生が日本を離れたら、その間に何が起きるかわからないという不安が皆さんの間にあるようです。みんな、かなり心細くなっているんじゃないですか?」
「............」
「先生は本当に渡米なさるんですか?」
と、笛川が尋ねる。
「すでに幻魔大戦は地球的規模で始まっているわけですから、先生が中心になって対処されるのは当然なことでしょうな。一挙に先生のご活躍は国際的なレベルにわたってなされることになる......」
「先生の深いお考えは、我々にはわかりません」
と、田崎は真剣な顔でいった。
「いわばそれは天界の意志、宇宙意識フロイの意志でもあるわけですから......先生が巨大な宇宙意志に添って生きられるかぎり、どのような行動をとられても、我々はついて行くだけです。先生が渡米され、日本を空けられようと、我々のやることは変りません。いたずらに心配したり恐れたりしては、先生のご活動を阻害し、足を引っぱることになります......」
「おっしゃる通りです」
笛川医師は力をこめていった。
「留守を守る者はよほどしっかりしなければいけない。どうもその辺、考え方が甘いというか覚悟が出来ていないというか、気持がぐらついているようですな。郁江君などしっかりした人もいますから、私はあまり心配しておりませんがね」
「私も同感です。要は自分がしっかりしているかいないかの問題で、先生の渡米説は、各自覚悟を計る試金石かもしれませんよ......もう会場に行かれないと、始まってしまいますよ。笛川先生」
「びくびくしたり、こわがったりしてもしょうがないんだ」
笛川医師は直子に向っていった。
「わたし、怖がってなんかいませんよ、先生。いやあね......わたしはこの通り元気いっぱいですからね」
松代直子が楽しげにいった。二人は会釈して廊下を会場へと去った。
「いったいどうなってるんですかね?」
と、二人を見送り、声が届かないと見きわめて康夫がいった。
「お二人ともいやに楽しそうじゃないですか。幽霊騒ぎもちっともどうってことはないみたいだ。黒ん坊の子供を真夜中に廊下で見たなんて、そんな時間に二人で何をやってたのかな」
「そんなことどうでもいい」
田崎はやや不機嫌そうであった。
「つまらんことに気を廻すな。それよりお前は金髪美女だの黒ん坊の子供だのと聞いても何も気にならないのか?」
「別に......でも、今回の参加者の中ではそんな話もずいぶん出てるらしいですよ。内村氏からちらりと金髪、碧眼の凄い美人の話は聞きました。松代女史だけじゃないです。見てるのは」
「鈍いな、お前は」
田崎はがりがりと頭を搔いた。
「しかし、先生の渡米はありうるかもしれんぞ。思ったより早い時期にな」
「師匠まで何をいうんです。会の方もまだすっかり軌道に乗ってない有様なんですよ。塾の方は師匠がいるからともかくとして......」
「世辞をいうな」
田崎は素気ない。
「だって、先生は力のある者はどんどん塾に入れてるじゃないですか。笛川先生と松代女史もそうだし。それに引き比べて、会の方は寥々たるものですよ。だから我々に対する風当りのきついこと。いくらサーヴィスしたって、異人種を見るような目付が戻ってくるだけじゃないすか」
「こまかいことを気にするな。我々はベストを尽しゃいいんだ」
「郁江だって最近は塾寄りですからねえ。塾の空気の方が居心地がいいんですよ。開放的で豪快で暖くて......師匠の性格がもろに出てる。世辞なんかじゃありませんよ、師匠を慕ってみんな寄ってくるんです。現に一人、そこで師匠を待ってる人がいるじゃないですか?」
「............!」
田崎は肩越しに首をめぐらせ、やや体を硬くした。康夫がにやにや笑っている。足を停めて会釈を送ってきたのは白水美晴であった。銀座の高級クラブ〝ルイザ〟のホステスだ。もっとも今朝はチャイナ・ドレスは着ていない。地味なニットの服をつけているが、やはり隠しようもなく色っぽい嬌かしさを発散している。
田崎の苦い顔を見て、康夫は笑った。田崎はあまり閉口しない男であり、彼が当惑するさまを見るのは愉しかった。
「では、お先に会場へ行ってます。きっと彼女は聴講を田崎さんに頼みに来たんですよ。塾の方に入りたいんじゃないかな」
「お前だな、彼女にセミナーのことを教えたのは!」
「私じゃありません。市枝ですよ、きっと」
康夫は素早く田崎の追及をかわし、逃げて行ってしまった。
2
美晴は躊躇いがちに、田崎に近寄ってきた。遠慮して硬くなっているのがわかる。〝普通の女〟をよそおっていても、婀娜っぽさはおのずと滲み出てくる。
田崎の固い頰肉の張った顔はいくらか赤らんできた。傍目はなくなったが、困惑は隠しようがなかった。
田崎宏は、転生の過程を通じて、女が苦手である。前世では悪妻を持ち、手ひどく懲りた経験がある。己れに近づく女に対しては、反射的に警戒心が働く。
特に婀娜っぽい女は願い下げであった。田崎がわずかに安心していられるのは、木村市枝や井沢郁江のように、本質的に少年っぽいところを蔵した異性だけだ。
「すみません......こんな所にまで押しかけてしまって」
美晴はしゃがれ声でいった。ひどい風邪を引きこんだブルース・シンガーみたいな声音であった。
「でも、どうしても......矢も楯も堪らなくなってしまったんです。ごめんなさい」
凄まじい悪声だが、今朝はまだ辛抱できる。慣れてきたのかもしれない、と田崎は思った。前のどうにも我慢できないという気分ではない。
「山本はどうした?」
と、田崎は尋いた。
「何をしているのかよくわかりません。しょげこんでいます」
美晴は、田崎の〝間合い〟の中に入りこんできた。商売柄、男の身近に行くことに慣れているのだ。田崎は後退りして〝間合い〟を取ろうとした。男を相手に闘うのならば間合いを取らずに接近戦に持ちこむが、女の場合には全く逆になる。女臭いのは苦手だ。刺激を受けるのが恐ろしいのかもしれない。
「もうヤクザは務まらないといってるそうです。本当にショックだったんじゃないでしょうか?」
「当分の間はしょげてるのもいいさ。そう簡単にヤクザの垢は落ちないからな」
田崎は人目を気にしていた。気もそぞろだ。彼には珍しいことであった。だれかが通りかかって、この婀娜っぽい女といっしょにいるところを見られるのではないかと浮足立っている。
「あの人はこの先どうなるんでしょうか?」
美晴は田崎を追い詰めながらいった。
「ヤクザを止めても、今更どうしようもないでしょう?」
美晴の口調は、彼女がさほど山本の身の上を心配していないことを物語っていた。ヤクザがどんなものかよく知っているのだ。なんの同情心も持ち合わせていない。ただ田崎と会話を交わすきっかけにしかすぎないのだ。
「山本だって、魂までヤクザというわけじゃない。だからショックを受けたんだ。さもなければ立合いに敗れたぐらいで寝込んだりはしないだろう」
「そういえば、そうですね」
まるで気のない合槌だった。
「ともかく、山本は良心が残ってたことを証明したんだ。さもなければ、俺もそうだが、君もこうして無事にはいられなかった。気違い連中に俺たちを襲わせることもできたんだから......」
「本当にそうですね。あたし、山本に感謝しなければいけませんね。こうして田崎さんにお逢いできるように機縁を作ってくれたのは山本なんですもの」
美晴の顔が明るくなった。田崎は肌がチリチリと粟立つ感じを味わった。美晴は全身がこれ女という雰囲気を放っており、田崎には堪えられなかった。恐ろしく粘性のある網で体をからめとられる心地がする。
こまかい顔の表情や動作の一つ一つが磨き抜かれた〝女〟であり、鳥モチのようにへばりついてきてこちらの自由をからめとってしまいそうな強迫観念がある。
〝ルイザ〟で逢った時は、山本との対決をひかえて緊張しきっており、美晴という女の怖さが充分に理解できなかったようだ。悪声ばかり気になっていたからかもしれない。
悪声がさほど癇にさわらなくなって初めて、彼女の婀娜っぽさが実感できるようになったのだ。田崎が過去、いかなる立合いからも味わったことのない圧迫感であった。じんわりとした蜂蜜の中に生き埋めにされてしまいそうな息苦しさだった。
助けてくれ、俺は苦手だ、と田崎は思った。祈るような思念であった。美晴が愕いたような目をして足を停めた。田崎が汗をかいて後退りするさまにやっと気付いたのであろう。
「木村市枝さんという女の方に、ここを教えていただいたんです。とても親切な娘さんでした......」
美晴はまるで田崎の心の内を読み取ったように、問われぬ先に答えた。
「市枝が?」
康夫ではなく木村市枝の仕業だったのは意外であった。
「ええ、無名塾をお訪ねしたら、ちょうど市枝さんがいらっしゃって、いろいろ教えて下さったんです。本当に決心があったら、勇気を出して強引にやらなければだめだとおっしゃっていました。市枝さんってまだ若い娘さんですけど、本当にしっかりした方ですね......死物狂いにならなければ、〝真理〟を摑み取ることなんか出来ませんよっていわれてしまいました。ですから、厚かましいのは重々承知の上で、ここへお邪魔したんです」
「市枝がそんなことをいったのか?」
「ええ。きっと得るものがあるでしょうといってくださって......田崎さんがご迷惑なのはよくわかっているんです。でも、どうしても来たかったんです。だめだといわれることも覚悟の上で......」
「子供はどうしたんだ? 子供、いるんだろ?」
田崎は自分の言葉にぎょっとしたようだった。山本の言が頭にこびりついていたのだ。
「ええ。でも、あずかって下さる方がいますから......」
「そうか......まあいい」
田崎は余計なことはもう一言も尋くまいと思った。その都度、美晴という女は内懐へ入りこんでくる。しまいにはどうなってしまうのか、考えることすら怖かった。彼女に子供がいようといまいと田崎の知ったことではなかった。酒場務めの女には珍しくないことであろう。
が、子供のことを持ち出されて、美晴ははっとしたようである。にわかに間合いが遠くなり、圧迫感が緩んだ。己れの立場を思い出して気後れしたのかもしれない。
躊躇と遠慮が美晴の体の線を固いものにした。今の今まで、彼女のもたらす圧迫感をあれほど疎ましく思っていたはずなのに、田崎は悪いことをしたと感じた。その気はなくても、相手の弱みをしたたかえぐったことに気付いたのだ。
「俺は約束を守る」
と、彼はぶっきらぼうにいった。それが彼の精一杯の謝意の表明であった。
「先生には必ずお逢いできるようにしてやる......」
「すみません。無理なお願いをしてしまいまして」
しかし、美晴は固く萎縮していた。身を閉じてしまった貝に似ていた。喜ばしげな輝きが全身から消え薄れてしまっている。田崎はどうしたものかと狼狽し、思案せずにはいられなかった。
「会場へ行ってみたらどうだ? 先生の講演が聞けるぞ......」
彼は自分でも思いがけないことを口にしていた。
「でも、あたしは......部外者ですから......」
「だが、講演を聞きたいんだろ? だったらつまらない遠慮をするな」
力をこめていった。会の連中への反撥心も手伝っているのかもしれない。
「先生の波動に触れることがそれほど大切だったら、なにも怖れるな。白い目で見る人間など気にするな。本心から自分が生れ変わろうと決心しているなら、勇気が出るはずだ......」
「でも......」
「死物狂いにならなきゃ、人間何も出来ないぞ。過去の汚れた自分を外套のように脱ぎ捨てるのは大変な勇気が必要だ」
田崎は熱をこめていった。その男っぽい迫力は、今度は美晴を圧していた。
「そんな曖昧な気弱なことで、何か大切なことができると思ったら大間違いだ! 血を流し痛い思いをして人間は脱皮するもんだ。つまり避けられない苦労だ......木村市枝だって死物狂いの努力をして脱皮したんだぞ。市枝はおっかない非行少女のボスだったんだ」
「市枝さんが......!?」
「そうだ。人生に辛いことはいくらだってある。しかし、それでへこたれないだけのエネルギーを、人間はだれだって持ち合わせているんだ。市枝にできるなら、お前にだって出来る。死物狂いになったら、何だってできるんだ。勇気を出してやってみろ! そうすれば必ず力を貸してくれる人間が現われる。その証拠に、市枝はお前にこのセミナーのことを教えてくれたじゃないか。お前の必死な気持がわかったからこそ、自分が叱られるのを覚悟の上で、お前に教えたんだぞ」
美晴の固い息もついていないような貌に、しだいに納得の色が現われてきた。
「わかるだろう? 天は自ら助くる者を助く、という諺の本当の意味が......必死でもなくどうでもいいと思ってる人間に、助けなんか来るわけがない。死物狂いの人間には物凄い想念の力が働くんだ」
「わかりました。あたし勇気を出します......」
美晴の顔付は一変していた。強固な殼から抜け出したような清新さがあった。劣等感で石のように硬くなった目の色ではない。
「係の方に、会場の隅でもいいから入れて下さるようにお願いしてみます。それでもだめだといわれたら、廊下で壁越しにでも先生のお話を聞きます」
「その意気だ」
田崎の大目玉が和み、不思議なほど優しくなった。炯々と光っている時には信じられないほどの愛嬌がある。
「係員が何かいったら、俺に聞いてきたといえばいい。しかし、そんなに心配することはないさ。ここのホテルの従業員だって、手の空いている者はこっそりと聴きに来ている。目立たないようにうまくやればいいんだ」
「それをお聞きして安心しました」
美晴は小さな笑みを浮かべた。
「自分でも、こんな厚かましくなれるのが不思議なんです。でも、止むに止まれない力があたしをここまで連れて来てしまったんです......こんな厚顔なこと、図々しいことと思って躊躇っても、それを強引に振り切ってしまう力が......でも、もう平気です。自分の心に忠実に、誠実に生きるってことがどんなことか少しわかってきましたから。田崎さんに最初にお目にかかった時、心と体が物凄く熱くなって、自分でも信じられないような力がでてきました。今度もそうなんです。心が本当に求めているならば、それを邪魔しちゃいけないって、強く思いました。
でも、それはあたし一人じゃなくて、木村市枝さんもそうだったと今お聞きして、本当に安心しました......」
「市枝はお前の気持がよくわかったんだよ」
田崎は相手の女っぽさが前より脅威でないことを発見し、安心して気分がよくなってきていた。
「死物狂いで求めている人間でないと、先生の真の偉大さはわからないのかもしれない。俺は時々そう思う。いつでも先生のお話は聞ける......そう安心してる奴には、先生の本当の価値はわかってないんだ。先生の許に最初に来て、高弟をもって自ら任じている連中には、驕りと甘えしかないのかもしれない。そういう思い上った連中には、切実に先生を求めている人たちの気持がわからなくなっている。先生が偉大だからといって弟子まで偉大ではないんだ。優越感をもって後から来る人々を見るようになれば、もう進歩は止まる。
これは俺にとっての自戒でもあるんだ。先生の偉大さ素晴らしさをたたえているうちに、自分まで向上して素晴らしくなったような錯覚を持たないようにな......」
「でも、あたしにはみなさんが一人残らず、光り輝いて素晴らしく見えます。あたしみたいに黒く汚れた染みみたいな女がまぜていただけるなんて、考えるだけでも不遜のような気がして......でも、田崎さんだけはあたしの汚さや醜さをご存知でも、もしかしたら気になさらないような気がして......本当に図々しいんですけど」
美晴は不意に上気していった。
「どうせ知られているからと居直ったわけじゃないんですよ。田崎さんはそんな小さなつまらないことにこだわるような方じゃないという気がして......田崎さんは大きくて心が寛い方ですもの。勇気を出して行ってみようと思ったんです。本当にここに来てよかったと思います。もしかしたら、生れて初めて大きく息がつける気分になれるんじゃないかなあという気がして......あたしみたいなくだらない汚れてしまった女でも、田崎さんや東丈先生は決して気になさらないし、蔑んだりしないって、本気でそう思えるようになってきましたから」
「先生はどんな人間も差別なさらない。人間の真の姿は肉体ではなく魂だし、先生には相手の魂がわかってしまわれるからなんだ。お前の魂が清々しく透き徹って、綺麗に燃えているのが俺にもわかる。先生に惹きつけられてやってくる人間はみな心が透き徹っているんだ」
「............!」
美晴はうなだれて、こみあげてくる感情に堪えようとしていた。とかく感情的になりやすく、泪が先行する若者たちを見慣れている田崎には、そんな美晴の感情の奔騰を抑えるストイックな姿勢は新鮮に感じられた。
その婀娜っぽさにも似ず抑制の効いた性格が田崎を安心させ、気分を軽くさせた。美晴という女の備えている性的な顕示が、職業的なマナーであり、必ずしも本質的なものではないとわかってきたからかもしれない。
あるいは田崎はただ、彼女の純粋な霊性を霊視しているにすぎないのかもしれなかった。
「子供は幾つになった?」
と、田崎はこだわりなく質問している自分を発見した。
「四歳です......」
「じゃ、幼稚園だな?」
「ええ......」
美晴は相手が自分の弱みにまともに触れてくるのに驚いていた。
「あたしが十七の時の子供なんです。両親に反対されて大変でした......勘当されて家を跳び出したんです」
美晴は自分が告白の衝動にとり憑かれ、思いがけぬことを喋り出したのに呆然としていた。
「お前、まだそんなに若いのか? もっと年がいっているとばかり思った......」
田崎は不思議そうにいった。
「あたしって昔から老けていましたから......」
「苦労したからかな?」
「............」
美晴は顔を伏せて、表情を読まれまいとした。自分が今どんな貌をしているか、見当もつかなかった。
「子供を可愛がってるか?」
「あまり......何もしてやれなくて......」
「今度、塾へ連れてこいよ。親父の味というのを教えてやる。まだ四つじゃ、塾に入るのは早すぎるかもしれないけどな」
田崎は楽々と喋っていた。自分の闊達さにびっくりするほどだ。相手の女にとって、子供の話題が、触れれば跳び上るほど痛いということはわかっていた。石のように硬くなってしまう反応で、それは明らかだったのだ。
「子供には父親が必要なんだ。子供が自慢できるような強い親父がな......きっと何かの縁生があるんだ。遠慮なんかしなくてもいいよ。人間は転生輪廻する間に沢山の縁生を作るものだ。見ず知らずの相手なのに、まんざら他人とも思えないという気持になるのはそのためさ。目の前に現われる全ての人間は、必ずなんらかの縁生を持ってる。出逢いというのは偶然なんかじゃない。必然なんだ。過去の縁生によって人と人は出逢う。世界には三十数億の人間がいる。その中でこうやって目の前に現われて口をきき、触れ合う人間がどんなに深い縁生を持ってるか、ちょっと考えてみればわかるはずだ......だから俺は出逢いというものを大切にする。
人間は一生のうちに、どれだけの他人と逢えるだろう。多くたって精々数千人じゃないか。なあ、奇蹟的な巡り逢いだと思わないか? それを無駄にするなんて、あまりにももったいなさすぎる。おそらく俺は過去で幾度もお前に逢ってると思う。俺はそういうことに敏感なんだ。
縁生の深い人間同士は糸に曳かれるように必ず巡り逢うようになっている。恐ろしく神秘的だ......お前だけじゃなくて、山本のことだってそうさ。たとえヤクザに身を持ち崩したって、縁生は動かせない。目に見えない運命の糸に曳かれて、出逢うことになったんだ。
俺は縁生の深い人間は一目見ただけでわかる。魂がわかってしまうんだ。お前が止むに止まれぬ気持に動かされて、塾を訪ねて市枝に逢った、そして、この箱根セミナーを教えられた。普通だったら、考えられないことだ......お前は自分の魂に動かされて、ここまでやってきた。本当の自分が求めているものが何なのか、是非知ってもらいたい。素晴らしいチャンスが今、目の前にあるんだ。それを無駄にしなければ、お前は生れてきた甲斐があったと思うだろう。これまで味わってきた辛い苦しいことが無駄ではなかった、と本当に心の底から納得できるだろう。
きっとお前にはそれが必要だったんだと俺は思う。苦労知らずでボサッと育った人間は、人生の真の値打がわからない。嬉しいこと楽しいことのレベルがうんと低くなる。歓喜なんてものがどれほど凄いかわからなくなってしまう。泪の河を渡ってきた人間だけが、全身全霊で大歓喜を味わうことができるんだと俺は思う。
だから、お前は劣等感なんか持つな。たとえ今生では無垢で、この世では罪穢れを知らない人間でも、過去では必ず身や心を汚してる。数限りない転生を繰り返す間、ずっと無垢でいられるはずがない。人間はだれだって同じなんだ。だれだって巡り合せが悪ければ、自分を汚して、地獄へ堕ちるような罪穢れを身につけてしまう。そうやって重ねてきた苦労を、どのように活かすかってことが一番大事なんじゃないか。沙漠をさまよい歩いている人間は一杯の水で天国を味わう。渇いている人間でなければ、一杯の水の恵みに心底からの感謝なんか湧いてくるはずがない」
田崎は常になく雄弁であった。言葉が迸るように胸の深奥から溢れ出た。自分の言葉によって、相手の女に洗礼を施している......そんな気がしていた。
「だから、お前は何も恥じるな! 自分の子供を隠すな! 子供はお前の恥の証しじゃない! お前の子供は大きな使命を持って生れてきたかもしれない。なあ、祝福されずにこの世に生れてくる人間なんて、一人だって存在しないんだぞ! 神は人間一人一人に使命をあずけ祝福して送り出される! だから、正式の結婚じゃなくて生れた子でも恥じるな。俺がそれを保証する!」
田崎の大目玉は光り、声音は熱に充ち溢れた。顔は赤くなってきた。その懸命さや高揚ぶりがどんなに好もしい印象を他にもたらすか、むろん田崎は気付いてはいなかった。
「全ての子供は天命を帯びてこの世に誕生する、先生はそういっておられる。そうした子供をきちんと大人は育てていく義務があるんだ。母親の辛さや悲しさをわかってやれる子供に育てなければならん! どんな境遇にいようとそいつを克服して、他人の気持がわかる人間になれ、と教えてやらなきゃならないんだ。お前の子供はそれを学ぶために生れてきたんだと俺は思う。だから、お前は何も心配するな。若いころの失敗で、子供に父親を与えてやれなかったとくやむことなんかない。この世で巡り逢う人間たちは、それこそ肉親以上に親しい魂の友人たちばかりだってことを、俺が教えてやる!」
田崎宏の気迫に、美晴は圧倒されたようになっていた。無口な彼がここまで熱情を吐露するとは、想像もつかないことであった。
田崎は気配を感じたように振返り、廊下を杉村由紀と平山圭子が連れ立ってやってくるのに気付くといささか狼狽したようであった。
「さあ、会場へ行けよ......」
彼は美晴の背中を押して促すような動作を示し、急いでいい直した。
「いや、待ってくれ。今、お前を会場へ連れて行ってくれるように頼んでみる」
美晴は二人の長身の女性たちの出現に怯んだようであった。
「これは美晴といって、今度塾に入った新参なんです」
いきなり前置なしに彼は由紀たちに向って紹介した。挨拶も抜きであった。
「こちらのお二人は、東丈先生の秘書をなさっておられる......」
二人の視線を受けて、美晴は息もつけぬほど固くなっていた。彼女たちはあまりにも知的で美しく、自分とは異質すぎて眩しく輝いているように感じられたのであろう。圭子と由紀が名乗って挨拶するのにも、ロボットのようなぎごちなさで頭を下げるので精一杯だった。余裕というものが美晴には皆無であった。
「平山さん、すみませんが、美晴を会場まで案内してやってもらえませんか」
田崎は辞を低くして頼んだ。圭子の目が何事か計るように己れと美晴の間を往復しているのに気付かないふりをする。
「わかりました......どうぞ、ごいっしょに。会場へご案内いたします」
平山圭子は爽やかな声音でいった。先夜は、この美晴という女が塾の関係者だなどと一言もいわなかった田崎なのだ。わずかな間に相当大きな進展があったものだと思っている。しかし、むろんそんなことを深く詮索するほど圭子は人間が擦れていなかった。田崎とこの素人放れしたきれいな女性の間に何があろうと自分のかかわり知るところではない。こだわるまいと思った。自分が拘泥する理由なぞ何一つありはしないのだ......いつの間にか自分の胸の深みに重く沈むものがあって、圭子はそんな自分に不快を覚えた。
「杉村さん、ちょっと......」
由紀を呼び止めている田崎を残して、圭子は美晴を促し、歩き始めた。相手がなぜこんなに固くなり緊張しているのかわからなかった。まるで石のようになってしまっている。
女っぽいひと......と歩きながら観察している。婀娜っぽいという表現は圭子の語彙の中にはない。まるで女のエッセンスみたいな女性だと思う。どちらかというと平山圭子自身もボーイッシュであり、女の嬌かしさとは縁遠い方である。そこに黙っているだけで強烈な女の存在感を発散する美晴のようなタイプは異世界の住人そのものであった。
「今度、塾へお入りになったのですか?」
と、圭子は半ば儀礼的に尋ねた。会場まで連れ立って歩く間、黙りこくっていてはつんけんした印象を与えるのではないかと思ったからだった。
「はい......いいえ......」
美晴は混乱した返答になった。田崎の出しぬけのいい草が本気なのかどうか計りかねていたからだった。田崎は東丈主宰に逢わせてあげるといっただけで、塾へ入れなどと一言もいわなかったのだ。
3
平山圭子はその混乱した返答に興味を覚えたような目を向けた。
「こんなことをお尋きしたら失礼ですけれども、白水さんもしかしたら超能力をお持ちなのでは......」
圭子は遠慮がちに尋いた。もしそうであれば頷けると思っていた。塾には目覚ましい勢いで超能力者が増加しつつある。白水美晴もその一人なのではないか。
「いいえ、あたしはそんな......」
美晴は案に相違して、急いで否定した。
「田崎さんが、東丈先生にお逢いできるように計らって下さるとおっしゃったので、お伺いしただけなんです。あたしには超能力なんて、そんな力はありません......」
「そうですか。でも、ふとそんな気がしたものですから」
平山圭子はなにか腑に落ちないという風にいった。
「平山さん......圭子さんはやっぱり超能力者でいらっしゃるのですか?」
今度は美晴が尋ねた。圭子が頰笑んで首を横に振る。
「いいえ、残念ながら......あたくしはそういう力とは縁がなく生れあわせたみたいです」
「超能力者って、あたし何だかよくわからないんですけど......」
美晴は年若い相手の穏やかさに少しずつ勇気を取り戻し始めた。トレーニング・ウェアを着てすらりと背の高い圭子に圧倒されていたが、言葉を交わすにつれて、相手が自分より歳下らしいと気付いたのである。東丈の秘書であるこの美少女が超能力者ではないと聞いても、畏怖の念は去らなかった。
「超能力って、念力とかそういうものですか?」
「ええ。念力も超能力の一種だと思います。でも、超能力はいろいろな表われ方をしますから。後で会で出しているパンフレットを差し上げますから読んでみて下さい」
「東丈先生は素晴らしい超能力をお持ちだとお聞きしましたけど、田崎さんもやっぱり超能力者でいらっしゃるのでしょうか?」
美晴がおずおずした調子で質問する。本当は質問自体よりも、平山圭子という美少女の反応に関心があるのだった。田崎が話題にのぼると、圭子には微妙な固さが生じてくる。無意識のうちに反応してしまうのだった。
それが何であるか、美晴には考える余地もなく的確に把握することができた。相手の清浄な美少女は、自分では気付いていないが、田崎宏に惹かれているのだ。平山圭子は無意識的にせよ、美晴を競争相手とみなしている。美晴が田崎のことを問題にのぼすと、反射的に体を固くするのはそれがためだった。まるで体を小突かれたように反応するのだ。
美晴はそれに刺激されて気色ばむよりも敗北感の虜になっていた。それは今になって始まったことではない。昔からこの種の清浄な美少女に対しては張り合う前に敗け犬意識にとり憑かれてしまうのだった。
ごく年若いころからそうなのだ。とうていかなわないと頭から思いこんでしまうところがある。自分は卑しい恥知らずな女なのだという劣等感がとり憑いて去ろうとしない。
実際に身を汚す前からそうだったような気がする。男を知ったのは中学三年生の夏だが、それ以前からセックスには大きな興味があり、快楽には早く目覚めていた。小学校時代にはすでに性体験を積みたくて、男の気を惹き、危うげな場面を数多く経験している。
自分は特別な色好みの素質があると自覚したのはいつだったろうか。少女とさえまだ呼べない青い時代から、身裡の淫蕩な火はちろちろと燃え、蛇のように舌なめずっていたような気がする。
だから、田崎宏の前でヤクザの山本が、己れのことを売女と面罵した時も、反撥する気力も持たなかった。色情狂といわれても仕方のない荒淫の生活を積み重ねてきたのだ。身裡に蛇としかいいようのない淫蕩な色欲の化身が棲みついており、変質的な客の要求に応じて、異常な奉仕を恥じない女に美晴を仕立ててしまっていた。
ヤクザの山本は、そんな美晴の凄まじい恥知らずな内面をよく心得ていたのだ。
汚穢な色欲地獄の泥沼でのたうっている美晴を、清浄な美少女の平山圭子は彼岸から憐れみの目でじっと眺めているような気がする。それが堪まらない屈辱というよりは、美晴ははなから諦めてしまっていた。魂の出来がそもそも違うのだ。ダイヤモンドと泥ほどの決定的な相異が最初から存在していた。
それゆえ、敵意などこの美少女に持ちようがない。惨めな敗け犬であるゆえんは、優越者に対して憎悪や敵意を持ちえないところにあった。
そんな自分が憐れで可哀そうだ。しかし、美晴自身不可解なことに、己れに完全に優越する敵である、圭子のような清浄な美少女に対して憧れを抱いてしまうのだった。もう一度幼いころの自分に戻って、何もかも一からやり直したい。そんな苦しいほどの切望が存在する。
もしそれが可能であったら、平山圭子のような美少女に変身し、田崎宏のような若者に純粋な恋をしてみたい。
中学三年生で脂切ったどすぐろい中年男の欲望にもてあそばれ、淫蕩な身裡の〝蛇〟を目覚めさせられた過去と潔く断絶してしまうこと。それが美晴の見果てぬ夢であり、切ない願望だったのである。
「田崎さんはある種の霊能をお持ちのようだと先生はおっしゃっています」
と、足を運びながら、長身の美少女がいった。会場はホテルの別棟にあり、かなりの歩きでというものがある。無秩序に継ぎ足しで拡張されたホテルの通路はまるで迷路である。慣れていなければ、たちまち道に迷ってしまう。
美晴は背の高い圭子に懸命について行きながら、この奇妙な道中がいつまでも続いてくれることを願う不可解な心理状態にのめりこんでいた。
自分はこの浄らかな美少女に乗り移り、全ての清浄さを己がものにしたいと願っているのだ......美晴はぼんやりと考えていた。不浄な自分を捨てて、この美少女になりきってしまいたい。
平山圭子はまったく美晴の憧れる〝美少女〟そのものを体現して彼女の眼前に出現したかのようであった。
「田崎さんは、人間の魂が永遠不滅であることの証明者なのだ......先生はそうおっしゃいました。人間はだれでも、さまざまな時、さまざまな場所に肉体を持って生れかわる。つまり転生輪廻という真実を証明する役割をお持ちだということです。それはとても広い意味の霊能ということで、念動力とか遠感という狭く限定された超能力ではないらしいんです。でも、人間は生れかわりを無限に重ねていくうちに、大きな広い経験を身につけます。
普通の人間はそうした生れかわる以前の記憶を持ちませんけど、田崎さんのような人はそれが可能になるんですね。過去学んだこと、身につけたことが、今生では何もしていないのに出てきます。霊的な記憶が甦ってくるんです。田崎さんがあんなに若いのに、あれだけ人間の厚みや幅を持っているのは、そうした前世の知恵がおのずと甦ってくるからなんですね。あたくしは、これほど素晴らしいことはないと思うんです」
圭子の声音にはおのずと輝きが溢れ、美晴は魅せられたような目で、ほっそりと緊まった横顔を見ていた。
「あの方はそういう方だったんですか。とても頼もしそうで、腹が据わっているというのかしら、一目見るだけで古武士のような男の方だなと思いましたけど......」
美晴は呟くようにいった。圭子はちらと驚いたような目で、この嬌かしい女性を一瞥した。
「とてもいい方だ、と直感的にわかってしまったんです。田崎さんのように本当に男らしい方は今まで見たことがありませんでした。あの方がじっと黙って座っていらっしゃるだけで、なんといったらいいのか、とても安心な気持になってしまうんですの。つまり......家の中に頼もしい素晴らしい父親がいてくれる、そんな安心感なんです。うまく口ではいえませんけど......それこそ嵐が襲って来ようが戦さが始まろうが、おろおろとうろたえずにすむ、あの方がずっしりした重い声で一言おっしゃるだけで家の中が静まり、あの方の下知通りにみんな心を揃えて動く......そんな感じなんです。馬鹿みたいなこというとお思いになるかもしれませんけど、本当にそんな気がする重厚な男性なんです。田崎さんのような素晴らしい、父親のような男の方には逢ったことがありません。この世には二人といないんじゃないかと思うんです」
美晴は夢中で喋った。己れの言葉の拙なさ、語彙の乏しさが悔まれてならなかった。しかし、田崎宏を讃美し、思いのたけを口にすることは浄化の感覚を彼女にもたらした。
彼女の憧憬して止まない、樫の木のように重厚で腹の据わった男性像を、田崎に托して讃美することは、かつて美晴の知らないカタルシスであった。
むろん、相手の平山圭子に遠慮して、父親像に仮托してはいるが、美晴がこれまで憧憬してきた男性像は、彼女の欲している恋人であるのみならず、昔から求めていた父親でもあるのだった。
自分は現実の親に充たされなかった理想の父親──〝真実の父親〟をこれまで捜し続け、彷徨し続けていたのかもしれない、と美晴は気付いた。
自分が〝真実の父親〟を持っていれば、こんなに身を持ち崩さずにすんだのに、という痛恨を持ち続けて来たのではなかったか。己れの裡の淫蕩な〝蛇〟にも負けずにいられたのに......宿酔いのすえた臭気を常に漂わしていた〝偽りの父親〟の記憶がメタンガスの泡みたいに湧き上り、束の間美晴の顔を曇らせた。酔いどれて、まだ胸もふくらまない実の娘の体をいじりまわしたがる忌わしい父親の酒気で真赤になった汚穢な顔が目のあたりに見えるようであった。
「田崎さんに初めてお目にかかった時、あ、どこかでお逢いしたことがあるって感じが真先にこみあげてきたんです。自分はこの方を知っている......とてもよく知っている方だ、となんの理由もなくわかってしまったんです、気狂いじみたいいかたですけど、生れる前からよく存じ上げている方だって、本気で思ってしまったんです。ですから、人間は魂によって生れかわるんだってお聞きした時、あ、やっぱりと思いました。目がさめるような気持になったんです」
「............!」
平山圭子は思わず相手の顔を振り返らずにはいられなかった。美晴の顔は浄化された感情で和み、美しかった。この嬌かしい女性が田崎に寄せる思いの深さがわかって、圭子は心が疼いた。しかし、それ以上に美晴が己れの霊性に目覚め始めているという発見はショッキングであった。
「白水さんも、転生輪廻の記憶が甦っていらしたのですか?」
「いいえ......でも、確信があるんです、心の内に。絶対に揺がない確信なんです。だって、生れかわりとか転生輪廻とか、一言もお聞きしないうちに、あ、この方とはずっと昔、生れる前にお逢いしたんだってわかってしまったんですから。そうすると、もう田崎さんは今の田崎さんじゃないんです。昔の武士の恰好をした田崎さんなんです。それがとても不思議です。二重写しみたいに見えるんですから......今の田崎さんにかぶさって武士の時代の田崎さんが見えてきます。これまで、気狂いじみているのでだれにもいいませんでしたけれども......」
「そういうことは本当にあるようです」
と、圭子は慎重な口ぶりでいった。

「あたくし自身は経験しておりませんけど、塾の人たちはよくそんなことを話していますから......」
「では、田崎さんの他にも、そういう方たちがいらっしゃるのですか?」
美晴ははっとしたようにいった。奇妙なことにその可能性については全く思い及ばなかったようである。
「そういわれています。GENKENにはおりませんけど、塾には何人かいらっしゃるようです。田崎さんもそれで白水さんを塾にお入れになったのではないでしょうか?」
「そうですか......」
浮き立つかわりに、美晴はなんとはなしに気持が沈んできた。
「でも、塾の方々はみなさん、田崎さんを始め素晴らしい人たちでしょうけど、あたしは......昔も今も少しも立派な生き方はしていないので。生れかわる前も、惨めでだめな女だったような気がするんです」
なぜ自分がこんなに馬鹿正直になり、あけすけに自己告白を初対面の美少女に向ってしているのかわからなかった。自分を惨めにするだけとわかっているのに、腹にあることを洗いざらい告白しなければ気がすまないのだった。
「あたしは卑しくて、身も心も腐ったような女ですから......塾へなど入れていただく資格なんか本当にないんです」
「そんな卑下の仕方はよくありません」
平山圭子はいきなり足を停めて、きびしい語気でいった。美晴は身体をすくめた。
「人の魂には卑しい魂も腐った魂もありません。人間の本質はみんな光り輝く素晴らしい光のかたまりなんだと先生はいつもいっておられます。白水さんも田崎さんの光り輝く魂に惹かれて、ここまでいらしたのですから、そんな度のすぎた卑下をなさるのはよくないと思うんです。白水さんも美しい綺麗な魂の目で、田崎さんの本質をご覧になったんです。
長い長い転生を繰り返すうちには、人間はだれでもその時のきびしい環境によって、悪に染まったり、悪習慣で体を汚したりすることがあると思います。でも、それは学びの時なんです。人の純粋な美しい魂まで汚れたり穢れたりすることは決してないんです。
人は長い間の生れかわりの過程で、みな同じように辛いきびしい目にあい、苦労するんです。でも、苦労するからこそ、他人の悲しみや苦しみがわかるようになるんじゃないでしょうか?
生れつき健康で病気なんか一度もしたことのない人は、病人に対して冷淡になったり無関心になりがちだといいます。病人の苦しみがわからないからなんです。病人を見ていたわりの気持を持てるのは、やっぱり病気をして苦しんだことのある人です。苦労をしなければ、人の気持はわからないんじゃないでしょうか?
ですから、白水さんがご自分を卑しめるのはとても間違ったことだと思います。ご自分を卑しい腐ったような女だとおとしめるのは、ご自分のように辛い苦しい境遇にある女性たちへの侮辱になるんではないでしょうか? だれも魂まで腐った人間なんか一人もいないと思うんです。電球の表面に煤が付着して曇っているように、心に汚れはつきますけど、その内側の魂はちっとも汚れずに光り輝いています。それが良心でしょう......
ご免なさい。自分よりも歳上の方にづけづけとお説教なんかしてしまって......」
圭子は顔をあからめて頭をさげた。
「でも、わかって下さい。あたくし厭なんです。良心を持った人間が必要以上に自己卑下して自分をいじめているのを見るのが......
人間はみんな同じなんです。あたくしだって前世では惨めな辛いきびしい経験をしてきたかもしれません。女として堪えられない侮辱的な境遇にあったかもしれません。でも、それは自分でちゃんと選んで、自分を育てるために敢えてきびしい経験を積むのだ、と先生はおっしゃっています。
今生で少しも苦労していないあたくしがこんなことをいうのは生意気かもしれませんけど、でも、やっぱり苦労は生かさなければいけないと思います......」
4
「それじゃ、人間は苦労をするために、わざわざ地上に生れてくるんですか?」
美晴は茫然としていった。
「惨めな、堪えられないようなひどい目に遭うのも、自分から選んでしているというんですか? とてもそんなこと、信じられない......」
硬ばった不信の靄が美晴の顔に降りてきた。
「いったいだれが自分から進んでそんなひどい境遇を選ぶんですか? いくら苦労といっても限度があるでしょう? 女として最悪の辱しめを自ら受けることを選ぶなんて、あたしには絶対にできない......」
あなたなどにこの気持がわかるものですか、と美晴の目は語っていた。鋭い拒否の目の色が平山圭子にぞくりと冷たい波動をもたらした。自分が大きなミスを犯したことを悟ったのだ。
「ご免なさい。白水さんが何か誤解なさったとしたら、あたくしの責任です」
圭子は率直に詫びた。
「そんなつもりはなかったんですけど、つい受売りをしてしまいました。全ての人間は、己れの意志でこの地上界に生れてくる、と先生はおっしゃっておられます。地上での境遇、人生はあらかじめ生れる前にある程度、魂としての人間にはわかっている......だから、何が起ころうとそれは覚悟の上だし、その経験を学びの時として生かすことも予定に入っているのだ、と。でも、その計画は肉体を持った人間にはすでにわからなくなっている、と先生はいわれます」
「でも、自分がひどい目に遭うことをわざわざ計画するなんて......」
美晴は全く釈然としなかった。決して受容できないものの考え方とぶつかったのであろう。それが苦労知らずのお嬢さんである平山圭子の口からいいだされたことだけに、余計に抵抗が大きかったのかもしれない。
「それはどうしても、あたしには納得できません。申しわけないのですけど......」
美晴はやや切口上でいった。潜めた怒りと敵意を感じとり、圭子は身が細まるような心地になった。
「申しわけないなんて、そんな......でも、白水さんが納得できないのは、あたくしが不遜な受売りをしてしまったせいだと思います。先生に白水さんから直接ご質問になってはいかがでしょうか? きっと納得が行くように答えて下さると思います」
と、平山圭子は熱心にいった。感情的になった白水美晴にも圭子の真摯さは通じたようであった。
「でも、東丈先生はあたしのような者の質問にも答えて下さるでしょうか?」
美晴はとたんに弱気になっていった。
「それよりも前に、東丈先生はあたしに逢って下さるでしょうか? 田崎さんは逢わせて下さるとおっしゃったんですけど......あたしなんかにそんな資格なんかないし」
「先生はどなたに対しても平等です。決して差別なんかなさいません。お金持でもそうでない人にも、男にも女にも......ですから、そんな心配はご無用です」
「あたし、東丈先生にお目にかかる自信がなくて......とても恐いんです。だって生神様のような方なんでしょう? 他人の心なんかなんでもお見通しなんでしょう?」
美晴は一転して、感情的になったことを後悔していた。それが圭子には手に取るようにわかった。感情的になりやすい女だと思った。しかし、女性には珍しいことではない。
劣等感の強い女性には充分に留意しなければならなかった。圭子はその配慮を忘れたのである。この悪声だが美貌の女性には、心の深部に腫瘍のようなむごたらしい悲しみが潜んでいて、絶えず彼女の精神状態を刺激する劣等感になっているのだった。
それは固いしこりであり、少からず無気味であった。圭子のような若い娘には正視に堪えない波動を放っていた。気味の悪い放射性物質のようであった。
自分でも驚くほど意識が鋭敏になっている圭子には、それが己れ自身に転移してくるようにさえ感じた。恐ろしい波動であり、気分が悪くなってきた。その精神感応による転移は、相手の美晴がむごたらしい記憶に意識を向けていることにより強まっているようであった。
数名の恐ろしい男たちのイメージが、圭子の心をよぎった。変質的で凶暴な波動が、その男たちのイメージからやってきた。全身が氷結し、異様な悪寒と嘔気をもたらす波動であった。
男たちの妖鬼じみた変質的な容貌が視えたようだった。嗜虐の衝動にとり憑かれた人間独得の無気味な化物めいた面貌であった。
嘔吐感がぐっと黄水を伴ってこみあげ、圭子は身慄いしながら胸許を抑えた。男たちがまるで圭子自身の下肢を拡げ、ある種のむごたらしい悪戯を加えているような感覚の虜になったのだ。
それは、白水美晴の過去からやってくる波動であり、圭子は精神感応によって美晴の無残な過去を追体験したのだった。
「どうかなさったんですか?」
と、不審げに美晴が尋ねた。圭子は自分がいつしか足を停めて、両掌で口を抑えて立ちすくんでいることに気付いた。
これまでにも感覚が極度に鋭敏化し、いわば超常感覚の芽生えを経験しているが、これほど深く強い精神感応を味わったことは初めてであった。
それが忌わしい強度の負エネルギーを圭子にもたらしたために、ショックは大きかった。まるで圭子自身が、男たちの変質的な性的侮辱を体験したかのように感じられたのである。
顔が真蒼になり、冷汗が全身に滲んでいた。美晴の味わった恐ろしい苦痛と恐怖が時空を超越して転移してきたようであった。
平山圭子は自分が優秀な受動型の遠感者として目覚めたことをまだ意識してはいなかった。が、それは彼女に大きな危険をもたらしかねないものだった。
「ご気分でもお悪いのですか?」
美晴は背の高い圭子の背中に手を廻していった。圭子の反応ぶりにショックを受けていた。
「ありがとうございます......大丈夫ですから......」
圭子は立ち直ろうと苦労しながら、ようやくの思いでいった。自分がいかに甘かったか、痛感する。口先ばかりで流暢な受売りだけは絶対にやるものではなかった。他人の苦痛もわからぬものが、どうして相手の心を本当に理解することができるだろうか。
相手にはそれが本能的にわかるものだ。口先だけでこざかしい受売りをお説教する人間をどうして信用できるだろうか。
平山圭子はショック症状の貧血と冷汗の中で、愕然としつつ美晴のむごたらしい過去に深く同情した。白水美晴は文字通り、生地獄を潜り抜けてきた女性であった。
──女として最悪の辱しめ、と美晴はいったが、その時は圭子には理解も想像も及ばなかった。異常な嗜虐者と化した男たちによって、恐ろしく残忍で悪辣をきわめた性的侮辱を美晴が受けたなどとは全く考えもつかなかったのだ。妖鬼の貌をした男たちは、美晴の性器に砂や異物を詰めこんだ挙句、ライターの炎で焼いたのである。
圭子は自分が大声で叫び出したい衝動に堪えて、激しく汗を流していることにようやく気付いた。彼女は美晴に同情するのみならず、尊敬さえ感じた。美晴はそれほどの生地獄の苦痛に堪えて生きてきたのだ。
自分だったら果して堪えることができたろうかと考えずにはいられなかった。言語に絶する苦悶に堪えて、それでもなお光を求める努力を失わずここまでやってきた美晴は素晴らしいと思った。美晴がどんな生き方をしてきたにせよ、彼女の示している懸命な生きざまは美しいと思った。その美しさが圭子に泪を催させた。
美晴のような人生の先輩に、わずかな知識を受売りし、得々とお説教したのだから、これほど愚かしいことはなかった。
「泣いていらっしゃるんですか? どうして......あたし、変なこといってしまってすみません」
美晴はおろおろしはじめた。一時の怒りにまかせ鋭い刺のある言葉を吐いたことをいたく後悔していた。
「何でもありません。あたくしこそ思い上ったことばかり申し上げてしまって、ごめんなさい」
圭子は指先で泪を払いのけ、明るい声音でいった。
「でも、先生のおっしゃったことは真実だとあたくし信じています。どうぞ、先生のご講演をお聞きになって下さい。きっと何かお感じになることがあると思います」
途方に暮れている白水美晴を導いて、会場に入る。自分の激しい感情の起伏を目のあたりにして、美晴はすっかり罪悪感の虜になってしまったようであった......
宴会場の大広間のステージではすでにプログラムが進行中であった。トレーニング・ウェアを着た参加者が大広間のステージ側だけに蝟集している。アトラク班がミニ・コンサートを開催しているのだった。
ステージの上に井沢郁江を見出して、意外な感に打たれながら、圭子は美晴を導いて行った。郁江は講演が予定されているので、その準備に追われているとばかり思いこんでいたのである。
まさか今ごろアトラクション・グループに混って前座を務めているとは予想もしなかった。それだけの余裕があるのも意外だったが、コンサートの主役におさまりこんで、それが様になっているのも、予想外の驚きを誘った。
野暮ったく地味なトレーニング・ウェア姿のアトラク班に一人だけ華やかなピンク色のスウェーターを着、モンペ・スタイルのパンツ・ルックの郁江は甚しく新鮮であり、魅力的であった。画一的なトレーニング・ウェア姿の中でははっとするほど刺激的で吸引力があった。
スタンドプレイだ、とは平山圭子は思わない。心が素直に出来ているのだ。いかにも郁江らしいと感嘆し、讃美の念を禁じえなかった。ひょっとすると井沢郁江は大変な才能を備えた大物ではないかという気がする。このまま世界に出せば、あっという間に超一流のスターになってしまいそうな気がする。
東丈はもしかすると、他のだれよりも郁江の才能を買っているのではないだろうか。GENKENという組織の中では、正しい評価がなしにくいのかもしれないが、魂からいっても郁江は大きな存在なのかもしれない、と圭子は思う。転生という過去の姿において、歴史上に有名な存在であっても不思議はないのである。圭子は以前から井沢郁江に対して理由のない畏怖の気持を持っていたことを思いだした。
「あの、舞台の上の方はどなたですか? 凄いみたいに綺麗なお嬢さんですね」
声を殺して美晴が問いかけてきた。
「プロの歌手じゃないんですか!? とっても信じられないみたい......」
美晴がそう思うのも無理はないと圭子自身が感じていた。アップライト・ピアノの弾き語りでフォークソングを歌う郁江はあまりにも堂に入りすぎていて、とうていアマチュアとは信じられなかった。
圭子は初めて井沢郁江の歌を聞いたが、声の質そのものに劇的なものがあり、アマチュアの発声の平板さとは雲泥の相異があった。郁江が歌のレッスンを積んでいたなどという話は一度も聞いたことがない。ピアノもお嬢さん芸とは思えぬほど巧妙で迫力がある。
要するに、郁江には〝迫力〟があるのだ、と平山圭子は今更のように気付いた。彼女を見ているだけで奇妙に刺激され、エキサイトしてくるのが〝郁姫〟の所以というものなのかもしれなかった。参加者たちは魂まで引き込まれたようになって、ステージ上の郁江をくいいるように注視している。郁江がすでにしっかりと人々の心を捉えてしまっているのがわかる。
今はわずか八十名ほどの聴衆を前にしているだけだが、数千名をステージ上から見降せば、郁江の魅力は更に輝きを増すのだろう。それは天性のスーパー・スターの輝きであり、例の美人女優の人工的なわざとらしいハロー効果など比較にならない、と圭子は信じた。
東丈はそんな彼女の類ない魅力を先に見抜いて、己れの代理人に指定したのだろうか。今日予定されている郁江の講演は恐ろしいほどの期待度を高めている。
東丈はこのまま箱根セミナーを井沢郁江にゆだねてしまう気かもしれない。何かしら大きなハプニングが起こって、東丈は昨夜からずっと手を取られているのだ......
5
「先生がどこにいらしたかわからない?」
と、田崎はおうむ返しにいった。男っぽい逞しい顔に危惧の色が雲のように群り立ってきた。
「じゃ、このセミナーは、先生抜きでやらなければならないわけですか!?」
杉村由紀は無言で頷いた。彼女の欧亜混血風の貌は血色が優れず、頰肉が落ちてやつれが目立っていた。だいぶ参ってるな、と田崎は思った。
この一か月間で杉村由紀はかなり体重が落ちたようである。激務が、日本人放れした彼女の強壮でエネルギッシュな長身から精力を奪い取ってしまったのであろう。ハードワークよりも心労でやつれたという感じだった。
気丈な由紀は抑制をきかせて内面の苦労は表に出さないが、内実を知っている田崎には痛々しく見える。極限までぴんと張り詰めたものを感じさせる。
ホテルの廊下は人通りが跡絶えていた。参加者全員が会場へ移動を終ったらしい。この様子ならある程度立ち入った話もできる、と田崎は見きわめをつけた。
「昨夜から、かなり大きなことが起こってるようですね、杉村さん?」
「やっぱり、わかりますか?」
杉村由紀は躊躇いがちにいった。慎重すぎるほど慎重なのだ。
「わかります......大きな動きを感じます」
田崎は大目玉で杉村由紀を見詰めながらいった。
「警備の関係で、全体の動きを把握していなければなりませんからね。よろしければ、話してもらえませんか? 昨夜来、金髪美女やら黒んぼの子供やらの幽霊騒ぎが続発していますが、先生のご不在と関係があるんでしょう?」
「ええ......」
杉村由紀は覇気のない表情で頷いた。
「俺も先生からルナ王女やミスタ・メインのことはある程度お聞きしてます。アメリカで今、何か起こっているんじゃないですか?」
「たぶん、そうだと思います」
「わりと沢山の人々が見ているようですが......金髪美女の幽霊というのは、例のトランシルバニアのルナ王女のことでしょう?」
杉村由紀は黙って頷いた。無人の廊下であっても、傍の耳を気遣っているようだった。
「ルナ王女に何かあったんですか? 王女の身に何か重大なことが起こったというような......まさか王女が死んだなんてことはないんでしょうね?」
はっと気付いて、田崎の声音はややせきこんだ。
「そんなことはないと思いますけど......」
由紀は相変らずの調子で答えた。
「ルナ王女の意識が昨夜からずっとセミナー会場に来てたわけですね? 霊覚が目覚めている人間がわりと参加者に多いので、ルナ王女の意識を霊視して、幽霊騒ぎになった......つまりそういうわけでしょう?」
「ルナ王女はとても素晴らしい透視能力をお持ちのようですから......」
当らず障らずという風に由紀がいう。田崎に対して、慎重という以上のものを感じさせる口ぶりであった。何かしら心が遠くなっている感じがした。
「笛川先生のところの看護婦さんがかなり霊視がきくようで、昨夜来ずっとルナ王女を視ていたそうです......彼女がいうには、あまりよくない感じ......不吉な感じを受けたといってましたが」
「............」
杉村由紀は遠い目の色をしていた。
「杉村さん、大丈夫ですか?」
「ああ......ごめんなさい」
由紀ははっとしたようにいった。
「ちょっと、ぼうっとしてたものですから。このところずっと眠っていないので......」
「話していただけませんか? 何かしら大きな変化が生じはじめている......それでルナ王女に呼ばれて先生はお出かけになったのですか?」
「そうだと思います。わたくしにはよくわからないんです。先生は突然お出かけになりましたし......何がどうなっているのか......」
「杉村さんにも、具体的なことはわからないわけですね?」
「ええ......」
杉村由紀が正常な状態にないことは明らかになった。
「しっかりして下さい、杉村さん。すると、先生は何の理由も告げずにお出かけになったままなんですか?」
「後を頼むとおっしゃったまま、いきなり......だから、何が起こっているのか、さっぱりわからないんです。わたくし明日渡米しますので、これから大急ぎで仕度をしなければなりませんし。でも、状況がさっぱり摑めないままでは......」
由紀はゆっくりと頭を振り続けていた。
「まるで太平洋をひとりぼっちで漂流しているような心地ですわ。依りどころが何もなくなってしまって......」
「杉村さん、しっかりして下さいよ!」
田崎は再び繰り返した。杉村由紀は見た目よりもずっとまいっているのだと悟っていた。
「先生がご不在の時こそ、秘書の杉村さんがきちんと采配を振るってくれないと、どうしようもないじゃないですか。杉村さんがそんな頼りないことをいっていてどうします? それこそ皆が全員心細くなって漂流しはじめてしまうじゃないですか? 後を頼む、と先生も杉村さんにおっしゃったんでしょう!?」
「それはそうですけれども......わたくし、このままだと渡米する意味がないような気がしてしまって......それに正直に申し上げると、今度のことで先生が何をお考えなのか、さっぱりわかりませんの」
由紀はどうかしていた。廊下の壁に寄りかかり、身をもたれかけさせて喋っていた。いつも毅然としている彼女が決して人前ではとらないポーズであった。
ごく自然に体が支柱を求めてしまうのである。それだけ体力を消耗している証しであろう。まっすぐ体を起こしていることが、非常な努力を必要とすることになっていた。
それどころではない。由紀は愚痴を口にしているのである。彼女が愚痴をこぼすなど、およそ考えられないことであった。そんな後向きの性格ではなかったはずなのだ。
「先生のお考えは、我々凡人にはわかりませんよ。そうでしょう?」
田崎は固く張った頰肉に溝を刻み、白い歯を見せて笑った。
「先生の意識は、宇宙意識フロイと同調していると思うんです。となれば、我々に先生の意識がなかなか読み取れないのは当然のことじゃないですか。先生の行動が唐突に見え、理解困難でも、それは我々の意識が低次元すぎるからですよ。あれっと思うようなことでも、奥には深い意味があるんだと俺は思います。杉村さんにこんなことをいったら、それこそ釈迦に説法でしょうけどね......正月にも先生がちょくちょく姿を消されるので、大変だったじゃないですか?」
「ああ......そうでしたわね」
由紀はぼんやりといった。田崎が指摘するまですっかり忘れ去っていたことに驚いていた。
「先生がどんなことをなさろうと、それは先生にとって必要なことだし、我々にとっても大事な必要なことだと俺は思うんですよ。宇宙意識フロイは大切なことを俺たちに気付かせよう、悟らせようとしているんじゃないですか?
となれば、先生がお出かけになってしまった後、俺たちの役割はぐっと重くなる。先生に代って守って行かなきゃならないものが俺たち弟子たちにはあるわけですからね」
田崎はこの年上の美しい女性を庇護しなければならぬ義務感に駆られていった。女は苦手だが、こうした際には、ごく自然に彼のギャラントリーは発揮されるのだった。
「杉村さんは疲れているんですよ。肉体的に限界に来ているんです。気疲れすることが多すぎたし、あまり眠っていないんでしょう? 体がまいってしまうのは当然です。少し休まなきゃいけません。昨夜のトップ屋のような半気違いにつきまとわれて、神経が消耗しちまっているんです。
もしかしたら、先生が杉村さんをアメリカへ行かせるのは、杉村さんを休ませてあげようという親心じゃないですかね!?」
田崎は啓示を受けた興奮を大目玉に光らせ、熱心にいった。
「杉村さんはもしかしたら、日本にいるよりもアメリカにいる方がリラックスできるんじゃないですか?」
あながち見当違いではないという自信があった。会における杉村由紀の激務は、だれが見ても人間の限界を超えているものがある。東丈がそれを黙過するはずがないと思えるのだった。杉村由紀は使命感に駆られて、過労で倒れるまで働き続けるだろうからだ。
しかし、由紀の反応は意表を衝くものであった。
「でも、田崎さん......もしかしたら、会も、皆さんの塾もこのままだと意味がないものになってしまうかもしれません」
と、杉村由紀は廊下の壁に背中でもたれかかったまま、覇気のない声音でいった。
「それは、どういうことですか?」
黒く太い眉をしかめて田崎が問う。
「確信があるわけじゃありませんけど、そういう気がいたします。先生はもう日本で、ご自分の思い通りに活動することが許されなくなっているのではないかと思うんです」
「杉村さんのおっしゃる意味がよくわかりません。先生が日本でおやりになっていることが許されなくなるというのは、いったいだれが許さないというわけですか? 先生にそんなことを指図できるほど偉い人間がよそにいるんですか? それはルナ王女ですか?」
むっと顔を赤くして田崎はいった。怒気をはらんでいた。
「しかし、ルナ王女に先生に向ってあれこれ指図するような権利があるんですかね? 先生は王女の下臣でも従僕でもなんでもないんだから」
「一般的な情勢として、先生が独自なご活動をされることが許されなくなるだろうということです。田崎さんだって、先生がいつまでも日本国内だけで活動なさるとは思われなかったでしょう? それでは〝真の救世主〟としての先生のお役目が果せませんから......」
「しかし、なにも今、急にそんなことをいわれても」
田崎は狼狽し、どもりながらいった。
「だって早すぎますよ! 先生が日本国内の活動を本格化されるのはこれからじゃないですか!? 国内もまとめていないのに、いきなり外へ出て行ってどうなりますか!?」
真赤になって抗議する。まるでその張本人が杉村由紀自身であるかのような勢いであった。
「そんなことは無茶ですよ! まず自分の足許を固めるのが先じゃないですか! 今先生に行かれたら日本はどうなりますか!? ガタガタになっちまいますよ! 先生には今、日本でやっていることが一番大事なことじゃないですか!?
だって、ここで組織造りをきっちりやっておかなけりゃ、世界へ出て行っても基礎がちゃんと出来ていないってことになるじゃないですか......まだ用意が充分に整ってないし、時機尚早ですよ、そうじゃないですか」
なし崩しに語気が弱まり、しまいに田崎は黙りこんでしまった。自分の激昂ぶりに気がさしたのだ。
杉村由紀は無言のままだった。遠い目の色は、田崎の昂ぶりにあっても一向に変化を来さない。自分の思念の中に閉じこもってしまっているようであった。
田崎は、杉村由紀の受けている衝撃は、自分のそれよりも巨きなものだということをようやく理解した。
「世界が、先生を必要としているなら......先生はお行きになるでしょう」
違い目、遠い声で杉村由紀は呟いた。
「わたくしたちにはどうにもできません。それが大いなる宇宙意識の要請であるのなら......」
「そうですね。今、俺がいっていたのは愚痴だ。先生には先生の進むべき道がある」
田崎は顔を真赤にしたまま、声を落していった。
「俺たちの都合で、先生を縛ることなんかできない。俺は恥しいですよ。今、先生に行かれてしまったら、俺たちはどうなる......そんな恐怖心でつい口走ってしまったんです。もちろん、こっちの勝手な都合で先生の行く手をさえぎることなんかできやしない。それはわかっているんですが......」
「皆さんがそれを知ったら、ショックでしょうね......」
しかし、由紀のいい方には実感が欠けていた。言葉だけがあって、魂が抜けているのだった。
「残された者たちはどうすればいいのか......ごめんなさい、わたくし今どうかしているんです。先生の使命の重大さに比べれば、そんなことはたいしたことではないし、喜んで先生を世界の表舞台に送り出すべきだとわかっているんですけど」
「しかし、杉村さんがそんなに気落ちしたり、がっかりするのはおかしいんじゃないですか? だって、杉村さんは先生の個人秘書だし、先生がどこにいようとついて行けるでしょう?」
と、田崎が指摘した。杉村由紀の立場は自分たちと全く異るのだ。彼女が〝先生を取りあげられてしまう〟ように反応しているのは納得できなかった。
「よくよく考えてみれば、先生が俺たちの手の届かないところへ行ってしまうように感じるのは錯覚ですよ。先生が日本にいようとアメリカにいようと、みんなの心がつながっていさえすれば同じですからね。先生が日本にいなくなってしまうのはショックですが、いずれはそうなることだし、俺たちがしっかりして留守を守って行かなければならないってことじゃないですか」
己れ自身にいい聞かせているような田崎の語調だった。
「それとも、それ以上のことでもあるんですか? 会や塾が無意味になってしまうようなことが......? さっき杉村さんはそうおっしゃったでしょう?」
「それは、無意味になるといったのは、いいすぎでしたけど。先生が階段のステップをのぼられるように、日本での活動をこんなに早く終えられてしまうのかと思うと、ショックだったんです」
「杉村さんは」
疲れているんですよ、という言葉を田崎は喉の奥に吞みこんだ。確かに疲労は甚しいものがあるだろう。が、それだけではない。杉村由紀はもっと重大なことを知っているのではないかという気がした。
「教えて下さい、杉村さん。先生の身に本当は何が起こったんですか? 杉村さんは知っているんでしょう!?」
文字通り田崎は詰め寄った。廊下の壁に寄りかかっている杉村由紀は苦しそうに頭を左右に振った。田崎の炯々と光る大目玉を直視する気力がないのだった。
「わたくし......存じません。先生は何も説明してくださいませんでしたから......先生のお考えはわかりませんし、推測なんかとてもできませんもの」
「しかし、杉村さんと先生は超能力者同士じゃないですか? 互いに遠感で話しあえるんでしょう? 先生がどこで何をなさっていようと、杉村さんにはツーカーでわかるはずじゃないですか!?」
「そんなこと、ありません。とんでもないことです。いくら遠感だって、先生がお考えになっていることがこちらに自由にわかるはずがありません。それは田崎さんの誤解ですわ。先生が何事か伝えようとなされば、それはわかります。でも、こちらから先生の意識を読むなんて、そんな不遜なことはできませんし、やってもむだなんです。先生は必要な時以外は決して遠感はお使いになりません。テレパシーで、わたくしや明雄がいつでも自由に先生と交信できるとお考えでしたら、それは誤解です。先生は電話を切るようにして、意識をわたくしたちから遮断してしまわれるのですから......」
「そうですか」
田崎は釈然としなかった。杉村由紀が何事か隠しだてしているという直観は強まりこそすれ、弱まることは決してなかった。彼女のいい草は全く筋が通っていない。東丈が何を考えているか、秘書の由紀に全く摑めないということがありうるだろうか。田崎は彼女と東丈が一心同体だと頭から信じこんでいた。彼女が丈の心を摑めずに悩んでいるなど、青天の霹靂にも等しい愕きであった。
いつものきびきびとした有能さの化身のような杉村由紀と、眼前の疲労困憊して壁に身をもたれかけなければ立っていられない彼女との間には別人の隔りが存在した。
「杉村さん、お願いします、教えて下さい。ルナ王女は何のために霊体で訪ねてきたんですか? 先生を世界の表舞台に引っぱり出すことだけが目的なんですか? 俺はそれだけじゃないという気がする。何か大変なことが起こっているんじゃないですか!?」
「昨夜、ソニーという黒人幼児の超能力者が来て、先生と話し合ったようです。わたくしは同席できなかったので、話し合いの内容はわかりません......でも、大きなことが起こっているのは間違いないと思います」
杉村由紀は後ろの壁に頭をもたれかけさせたまま、もの憂げにいった。
「もしかしたらルナ王女の身に何かあったのかもしれないし、メイン会長の超能力者協会に大きな変化が生じているのかもしれません......潜行していた巨大なものが今まさに浮上してくる......そんなイメージなんです。わたくしたちの日本でやっていることが、つまらない無意味なものになってしまう......そんな感じを受けました。先生がこの先、どうなさるのか、わたくしにはわかりません。見当もつきません。でも、結局は行かれるほかはないのじゃないでしょうか。世界が先生を必要として登場を待ち望んでいるのであれば......」
「しかし、我々はともかく、杉村さんは先生と行動をともにするんでしょう?」
「わからないんです、わたくし......状況が何一つ摑めませんし、この先は特に確定的なことは何もないという気がします。この一か月間、驚くほどの猛スピードで変って行きましたし、この先はもっと大きな変り方をするでしょうから......」
「しかし、杉村さん。我々の心の絆は固まりこそすれ、重要なことは少しも変りませんよ。だってそうじゃないですか? 状況はどんなに変化したって、魂の結びつきは深まりこそすれ、緩むはずはないじゃないですか? 〝光のネットワーク〟と先生はおっしゃった。時間、空間を超えてそれは働くと......そうであれば、我々が世界中にバラバラに散らばって生きなければならない状況になったって、本当に大事なことは少しも変らないはずだ。そうでしょう?
先生はアメリカへ行かれる。あるいはヨーロッパかもしれない。我々は日本に残り、ある者は先生について行く。しかし、やることは同じです。自分に今できることを一生懸命やるしかない。会や塾がなくたって、やることは沢山あるはずだ。組織は一つの方便にすぎないと先生はいわれた。組織のために人間があるんじゃない。会や塾がなければ、自分には何もできないなんて、そんな馬鹿なことはありっこない。
もし、先生が俺に向って、一人でアフリカへ渡って宇宙的真理を伝えてくるようにといわれたら、俺はすぐに行きます。何も日本で塾をやってるのが全てじゃない。世界中どこへ行ったって、やることは沢山ある。引っ込み思案になることなんかありゃしない。親しい仲間といなきゃ何も出来ないというのは錯覚ですよ。
どこへ行ったって仲間はすぐに出来る。伊達に転生輪廻してるわけじゃないですからね」
自分のいい草がおかしかったのか、田崎は笑った。
「ね、杉村さん、そうじゃないですか? 先生といっしょにアメリカへ行くのもいいし、日本に残って留守をしっかり守り、先生の意志を具現化するのも大切な仕事です。何がどうなろうとくよくよすることはないですよ、今さっき時機尚早だなんて喚いておきながら、悟り切ったようないい草だけど、やっぱり他に道はないんです。
杉村さんは疲れてる。消耗して心が陥ちこんじゃってるんです。渡米の仕度もあるんだし、すぐ東京へお帰りなさい。俺が駅まで送ります」
「すみません。わたくし、もう少しここで休んで行きます」
杉村由紀は謝意をこめていったが、その声には力がなかった。
「なんだか急に力が抜けてしまったようで、おかしいですわね。郁江さんの講演を是非聴いて行きたいと思っていたんですけど......」
「気を張りすぎていたんですよ。無理もないです」
田崎は同情を目に光らせていた。無骨な手ぎわで由紀の肘を取った。
「立ちくらみしたりするといけない。部屋まで送らせて下さい」
「本当に大丈夫ですから......」
大丈夫でないことはわかっていた。抑圧がとれて気が緩んでしまい、ばらばらにひもとけてしまいそうになっているに違いなかった。田崎に内情を打ち明けたために、いっぺんに自制の限界を超えてしまったのであろう。
必死に気を張って、何事もなく振舞っていたのに、にわかに一人では歩けなくなるほど気持の張りが失せてしまったのである。
田崎宏は、由紀の柔媚な腕の筋肉に触れ、突然、異性を感じた。それはひどく危険な感覚であり、硬派の彼をひそかに狼狽させずにはおかなかった。火に触れたようなショックを受け、戸惑いながらも、田崎はその〝危険〟が自分にとってのものではなく、杉村由紀にとっての危険であることを明白に悟った。
杉村由紀が精神的に揺れ動いており、ちょっとしたきっかけで崩れかけるかもしれないと田崎は直観したのである。ああ、危いな、という感じであった。杉村由紀のような成熟した女性に対して、若造の彼が抱く感想ではなかった。
にもかかわらず、由紀が精神的に危機に瀕しており、凶悪な黒いものの餌食になりかけているという直観は否定しようのないものであった。
杉村由紀は年長のしっかりした、知的な女性というイメージの確かさを今、根こそぎに失っていた。
危うく頼りなく、手で触れれば脆くも崩れてしまう、そんな不安定さが田崎を戦慄させた。
だれかを付添いに付けておかねばならない、と田崎は素早く頭を回転させた。しっかりした信頼できる付添いを捜さなければならない。由紀は甚しく危険な精神の空白状態を持っており、今の彼女につけこむのは実に簡単なことであろう。
木村市枝を付添いにつけよう、と彼は決心した。市枝なら信頼できる。先生の大切な秘書を護ってくれるだろう。
しかし、なぜ杉村由紀ともあろう才女が、こうまで精神的に揺れてしまったのか。まるで先生との間に信頼のギャップを生じたようにひどく動揺してしまっている。そして極限まで張り詰めたものがぷっつりと切れたように、異様な疲労にとり憑かれてしまったのだ。
本当のところ、いったい何が生じているというのか......田崎宏は不安を覚えた。このまま彼女をニューヨークへ孤りで渡らせてしまっていいのだろうか?
先生の信任もっとも厚い秘書の杉村由紀がここまで揺れ動いていることを、果して先生はご存知なのか。先生はいったい何を考えておられるのだろう......
不意に思考の脈絡を見失い、田崎は狼狽と恥しさに激しく瞬きをした。先生の考えが我々凡人にわかるはずもないと断言したのは、他ならぬ彼自身だったのだ。これではまるで大口叩きもいいところだ......
杉村由紀の腕を支えて、そろそろと部屋に連れ戻しながら、田崎は深く恥入り、孤りで赤面していた。
しかし、彼女ほどのよく出来た女性がこれほど精神的ダメージを受けるならば、他の連中は全く危いといわねばならない、と気付いた。
杉村由紀の心中に起こっている変化は絶対に黙過できない種類のものだ。同じ超能力者同士として、いやそれどころかもっと深い魂の絆を持つ親しい存在としての彼女の心を犯している危険な震動を、はっきりとえぐり出して、その正体を白日の下にさらしてしまわなければ、今後だれ一人、根元的な不安から免れることはできなくなるだろう......
それは言葉にしてみるとこのような直観であった。
先生のお姉さんに相談してみよう、と田崎は思いついた。彼にとり東三千子は女神そのものであった。彼女以上に素晴らしい女性の存在は全く考えられなかった。三千子なら必ず最良の解決策を提示してくれる、と田崎は信じて疑わなかった。
現金なもので、田崎はとたんに元気付いてきた。さっそく塾の木村市枝に連絡し、迎えに来させる。そして東三千子によく説得してもらわなければならない。このまま杉村由紀を単身渡米させることなど、とうてい考えられなかった。
しかし、これ以上はないと思えた、東丈と杉村由紀の間の固い結びつき、信頼の絆がかくも簡単に揺いでしまうことが本当にあるのだろうか? 一時的な心の迷いだ。きっとそうに違いない。由紀は疲労の極限に達し、異常心理の虜になったのだ。そうとしか考えようがない。
なぜなら、東丈と杉村由紀の結びつきはもちろんこの世だけのものではない。田崎は〝魂の証人〟としていつでも証言する自信があった。杉村由紀に自覚はないかもしれないが、魂として見ると、東丈にとり彼女は単なる秘書以上の深い関りを持っているのだ......
足許も頼りなげな由紀をエスコートして廊下を導いて行く田崎の眉宇は暗く蔭ってしまっていた。
何が起ころうと自分自身がしっかりしていなければならないとわかってはいる。だれの心が揺れ動き、崩折れてしまおうと、田崎だけは不動心を持ってもちこたえなければならない。それが彼の使命なのだ。盟主、東丈の精神的支柱になるべくして、田崎宏は地上に出てきたのだから......

前世では失敗したが、今度こそは己れに挫折を許してはならないのだった......
6
主役の東丈を欠いたまま、箱根セミナーは進行を続けていた。
参加者たちは内心、不安と疑惑を禁じえずにいたが、目先の井沢郁江の華やかさに眩惑されて、表面に出る暇がなかった。会場では私語を交していられないし、プログラムの進行によって気をそらされてしまう。
その意味では、井沢郁江はみごとにピンチヒッターの役割を果していたといえるであろう。
杉村由紀ほどのしっかり者が動揺を免れなかった以上、心霊的な敏感さで変事を悟ってしまう参加者たちが深刻な不安にとり憑かれるのは止むを得なかった。それを郁江が鮮やかな意識誘導により、雰囲気の沈下を防いでしまったのである。
予定にもないアトラク班に飛び入りで参加して、郁姫は聴衆の意識の浮上化に努めていた。
単に驚くべき才能という陳腐な表現以上のものをもって、彼女は人々の心を捉え、魅了してしまった。白水美晴が感じた通り、今の郁姫は常人にはない輝きを放ち、広い大宴会場を充塡してしまったのである。
参加者たちは、郁江の姿を見ているだけで満足感を覚えた。この一時だけでも、主宰の東丈の不在を忘れていられた。それほど井沢郁江は存在感と魅力に充ちていたといえるであろう。
彼女が東丈の欠落を埋めようとして意識的に大活躍しているのかどうか、平山圭子にも判断がつかなかった。あらかじめ何の打合せもなかったからだ。ただ、乗りまくっているにすぎないのかもしれない。郁姫には端倪すべからざるところがあり、その思考を読むのは容易なことではないのだった。
普段であれば、出すぎていると反撥が出かねないところだが、今は郁姫の独走にまかせておくほかはないようであった。
現に彼女は全員の心をしっかり摑んでしまっているのだ。東丈が郁江に後事をゆだねて日本を離れる気になっても無理はないと思わせるほどの素晴しい魅力が溢れていた。
手の空いているホテル従業員たちが遠慮がちに集まって来て、参加者のはるか後方で聴き入っていた。見知らぬ白水美晴がまぎれこんでいたところで、とがめだてする雰囲気ではなかった。それほど郁姫の放っている波動は輝かしく開放的といえた。
平山圭子は、郁江が東丈のスタイルで講演をするのかと考えていたが、そうではないことがわかった。
ステージ中央にデスクが据えられ、そこに井沢郁江が位置を占めた。両サイドにも席が作られて、左袖には内村と竹居のマンザイ・コンビが陣取り、右袖は塾の松岡と井上が占めた。後者の塾生たちの登壇は、参加者の意表を衝いたようである。
なぜ塾生が顔を出さなければならないのか、と不審げな雰囲気が会場の空気を気まずいものにした。それを敏感に感じ取り、平山圭子は体が火照るような恥しさに襲われた。
会員たちの、塾への差別意識は抜きがたいものがあるようであった。いわれのない優越感が心に巣食っているのである。同じ東丈が主宰と塾長を兼務していても、GENKENのいわば〝中華思想〟はいたるところで顔を覗かせるのだった。塾は右翼的で、非知性的であり、乱暴で怖いという偏見である。非行少年や非行少女が塾の幹部になり、大きな面をしているという誤解であった。
わずか数か月の違いしかないが、GENKENには伝統があり、権威がある、と会員たちは無意識のうちに信じているようだった。
ステージにあげられた松岡たちがその空気を感じていないはずがない。精悍な顔がむっと気色ばんでいるように緊張している。無理やり郁江によってステージに引っ張り出されてしまったのだ。郁江にかかるといかに辞退しても通じない。
「皆さん、こんにちは」
と、郁江は無類の愛らしさで挨拶し、歓声と拍手を引き出した。彼女はすでに人々の心をしっかりと捉えてしまっていた。
そんな郁江は、平山圭子の目にも新鮮に映じた。普段の郁江と一味違う愛嬌と親しみやすさがかもしだされている。いつもはどちらかといえば、近寄りがたいような神秘性を帯びている郁江である。
それがステージの上では、ふるいつきたいほどの可愛らしさに溢れている。どういうことなのだろうと圭子は思った。
「どういうわけか、今日はわたしが出ずっぱりになってしまいました。孤りではとても長保ちしそうもないので、今回はご覧のような方々に助けて頂きます。左袖の方は見慣れていて、またかという顔ぶれですけど、こちらの右袖はかなり新鮮だと思います。さっきから、嫌だというのを無理に頼みこんで、ステージに引っ張り上げてしまいました。無名塾からわざわざこの箱根セミナーの警備のために出張して下さった方々です。この頼もしいお二人のために、感謝をこめて皆さん、拍手で迎えてあげて下さい......」
郁江は巧妙だった。びっくりするほどの司会者の才能を示して、聴衆を前に楽々と喋っている。聴衆を自由自在に操り、大拍手を誘い出した。松岡たちは驚いた顔で立ち上り、答礼する。
郁江はワイアレス・マイクを支えた柔かそうな小さい掌で拍手しながら、中央デスクをはなれ、右袖の松岡たちの席に歩み寄った。
「今日はどうもご苦労様でございます。さすがにお二人とも武道の達人らしく、マナイタの上の鯉よろしく度胸を据えていらっしゃいます。どうですか、今のご感想は?」
「郁姫様の歌がうまいので、びっくりしました」
と、松岡が見当はずれの感想を述べ、拍手と笑声を誘い出した。
「いや、本当にうまいです。さすがに凄い才能なんだなあと思いました。七色の虹の才能で、何をさせても素晴らしいはずだと思ってはいたんですが」
松岡は真面目な顔でいった。七色の虹の才能という表現が参加者たちに、高鳥慶輔のことを思い出させ、ちょっとしんとなる。
「郁姫様は本当の才女なんですね、前世でもそうだったように......歌舞音曲の才能がそれで凄いんだと思います」
松岡は続けた。彼ら塾生たちの多くが、〝魂の証人〟と東丈によって呼ばれていることが記憶に甦り、聴衆は満々たる好奇心に溢れた。松岡が井沢郁江の前世を指摘するのかと早合点したのである。
「やっぱり昔は巫女としての才能と、神事における芸能がしっかりと結びついていたので、今生でもそれがおのずと出てきてしまうんだと思います。素晴らしい霊的才能です」
「あの、今日は一応、わたしの幻魔研究発表がテーマになっていますので......」
と、郁江はあわてたように松岡の弁舌をさえぎった。
「それはまたの機会にお願いします。人によってはわたしの前世は天鈿女命かもしれないと思うかもしれませんから......」
くすくすと笑い声が湧く。郁江はけろりとした顔で冗談をいう名人であった。
「ああ、そうですね、すみません。僕がうっかりしていました」
「そう真顔であやまられても困ってしまうんですけど、話を早く幻魔に戻したいと思います」
忍び笑いは伝染し、郁江の冗談に遅ればせながら気付いた人々が笑いに加わった。場内の気まずさやわだかまりがすっかり解消されてしまう。
うまいな、と平山圭子は思っている。郁江は会と塾の間にそこはかとなく漂っている反目の気分を解消させようとしているのであろう。会員たちは、塾に対し右翼、非行少年という差別意識とともに、超能力者、霊能者を擁することで劣等感をも抱いている。相互の尊敬はあまりというよりほとんど感じられない。会員の冷やかな感情は、塾生たちの反撥を引き出すからだ。
「でも、皆さんは前世が好きですね。生れかわり、転生輪廻について非常に関心をお持ちのようです。前世と聞いただけで、目がキラキラお星様のように光りだしますものね。竹居君、あなたもそうなんですか?」
いきなりほこ先を左袖の竹居に振り向ける。
「好きです! 大好きです!」
気転の利く小肥りのユーモラスな竹居はすかさず受け止めた。
「物凄く興味があります。とくに自分の前世と若い綺麗な女性の関係について。美人を見ると必ず前世では自分の奥さんだったんじゃないかという気がして」
聴衆はげらげら笑った。竹居はまさにずばりと核心を衝いたといってよかった。
「そういう人、とても多いはずですよ。みなさん、どなたも心当りがあるんじゃないですか? 女性の方は、ちょっと素的な男性を見ると、あっ、昔あたしの旦那様だったんじゃないか、なんて......」
郁江は身をよじって笑っている傍聴のホテル従業員の女の子たちに眸を向けていった。
「最近、そういう女の子の、ハント術もあるそうです。充分気をつけて下さい。昔、僕と君は恋人同士だった、夫婦だったなんてうまいことをいったりして......竹居君はまさかそんなテクニックは使っていないでしょうね?」
「いいえ! もちろん、だったなんて断定的にいったりしません。もしかしたらそうだったんじゃないかなあ、なんて」
「こういう具合にソフトに気を惹いたりするテクニックもありますから、若い女性の方は気をつけて下さい。内村君、何かいいたそうですけど、君もそうなんじゃないでしょうね?」
「とんでもありません!」
内村は色白の顔を赤く染めて弁解した。
「僕は綺麗な女性を見ても、そんなぶしつけなことは考えません。前世では妹だったに違いないと思ったりしますけど......おかげさまで前世の妹が沢山出来てしまいまして......でも郁江さんを見ると、前に僕が仕えていた主家の姫君に違いないと思っています」
盛大な拍手が湧き上った。
「同じ家中の方々が沢山いらっしゃるようでうれしいです」
内村は立ち上って答礼し、更に大きな拍手と歓声を引き出した。口下手でろれつのまわらない内気な青年の面影もなかった。
「前世の話はこの辺にしておきまして、皆さんがもっと好きな幻魔の話にいたします」
と、郁江がいった。
「皆さん、幻魔がお好きですよね? 前世の話に負けず劣らず目がキラキラと輝いちゃいますよね。皆さん、よくわたしにお尋ねになります。幻魔って怖い、どうしたら追い払えますかって。なかには幻魔と折合いをつけるにはどうしたらいいかって質問なさる方もいます」
どっと会場が揺れた。
「でも、本当なんですよ、皆さん。幻魔をむやみに怖がる人もいれば、何かワイロみたいなものをやれば、話がつけられるんじゃないかと考える人もいます。まことに人さまざまです」
中央のデスクに戻った郁江は軽妙な調子で話し続け、聴衆は笑いで揺れ動いていた。
「それにもう一つのタイプがあります。このタイプは、他人を見ると幻魔にやられているんじゃないかと心配する人です。精神的に動揺している人、陥ちこんでいる人を見ますと、あっ、あの人幻魔にやられている。気に食わない他人はみんな幻魔に憑依されていると思いこんでしまうんです。あれは幻魔憑きなんだわ、幻魔に憑依されてるのよ、きっと地獄行きだわ、なんてなんだか嬉しそうにいったりして......」
爆笑が湧いた。だれしも心当りがあったのであろう。
「こういう人も、ちょっと困りますね。このタイプに限って、自分だけは別で絶対に幻魔に憑依されたりしないと頭から思いこんでいたりします。
もちろん、そんなことはありません。他人を幻魔憑きだなんておとしめる人も、いつ自分の身に同じことが起こるかもしれないんです。全ての人間はみな平等なんです。
むやみに幻魔を怖がったりする人も、これも困ります。被害妄想になって、何でもかんでも悪いことは全部幻魔のせいにして、自分は幻魔にやられていると信じこんでしまうんですから......
幻魔というものが、結局なんだかよくわからずに、正しく理解されていないということが問題なのだと思います。幻魔の正体をよく知らなければいけないのに、ただ怖れたり恐がったりしていても仕方がありません。
で、今日は、幻魔とは何か......それをテーマに日頃わたしの考えていることを整理して、皆さんにお伝えしようと思うんです」
竹居と内村が熱狂的に拍手し、塾の松岡たちも張り合うように大きな音を立てて手を叩いた。対抗意識にはどうしても払拭しきれないものがあるようであった。
「このセミナーに参加なさっている方たちは、すでに東丈先生のご講演をお聴きになり、会誌〝COSMOS〟に先生がお書きになったものを読んで、幻魔について、一応の知識を持っていらっしゃるはずです。
幻魔とは宇宙における巨大な負エネルギーであり、暗黒波動だ、と先生はおっしゃいました。意識を持った波動、意志を持った波動です。邪悪な人格とでもいうべき、悪の意志そのものです。
あの人は悪魔みたいな奴だ、というような表現を私たちはごく日常的に使います。残忍で冷酷、酷薄、残虐、狡猾、奸悪といった悪いイメージを寄せ集めたみたいな内容を具現するのが、悪魔という言葉です。
ですから、奸悪、邪悪というのは、決して相対的な言葉ではないわけです。つまり、互いに利害が相反する人々が、他の一方を差して、相手を悪とし、己れを善と規定するのと全く違います。
人によっては善悪とは相対的なものだと思っています。自分の立場に拠って、自分に都合のいいものは善であり、都合の悪いものは悪である、というのです。つまり、相手の立場からすると、善悪は逆転するというわけです。
でも、邪悪というのは、人の勝手な都合によって基準が定められるものではないんです。はっきりした自己認識、邪悪の意志というものがあります。それが暗黒波動であり、幻魔の真髄なんです。
ですから、善悪問題を相対論にしてしまうのはとても浅墓な考え方といえるのではないでしょうか。
全ての人の心には、邪悪な意志といったものが否定しがたく存在しています。宇宙的巨大波動である幻魔の暗黒波動をうんと小さくした渦巻みたいな、邪悪な意志のヒナ型が、だれの心にも存在しているんです。たとえ天使のような心の持主といわれる人でも、肉体を持った人間である限り、その暗黒波動のヒナ型と全く無縁であることはできません。
魔が射した、という表現がよく使われます。どんなに善良な人の心にも、ある時、ふっと邪悪な波動が湧き出して小さな暗黒の渦巻を作り出してしまうんです......」
右袖の松岡が手を挙げ、郁江は言葉を切って彼を見た。
「さっそく質問ですか、松岡君?」
「はあ。どんどん質問してくれということでしたので......」
「わたしは東丈先生みたいに講演なんかとてもできませんから、こうやって松岡君たちをステージに引っ張り出して、質問してもらおうと思ったんです」
郁江は聴衆に向けて説明した。
「質問してもらった方が、わたしもやりやすいんです。後で質問なさりたい方は勇気を出してどんどん手を挙げて下さい......松岡君、そんな真剣勝負みたいな恐い顔をしないで下さい。こっちが怖くなっちゃいますから」
「申しわけありません......」
「何分、彼は前世が剣客なもんですから、気迫が凄いんです。詰め寄られちゃいます」
郁江は聴衆を笑わせてリラックスした楽しい雰囲気を作り出していた。丈の気迫のこもった講演と対比的だった。
「今のお話ですと、全ての人間の心の中には、小さな幻魔が棲んでいるということでしょうか?」
松岡は凛々しい眉を緊張させて、勝負を挑むように質問した。塾の名誉を担っているという気負いがあるのだ。
「すると、人間はいつでも幻魔に変ってしまえるということでしょうか?」
「今、松岡君がしたような質問を、最近よく受けます。それはわたしが幻魔にさんざんいじめられまして、その結果幻魔通になったとみなされ、東丈先生から幻魔問題研究担当を命ぜられたりしたものですから、彼女に聞けば幻魔のことはなんでもわかると皆さんに思われてしまったようです。あの子は幻魔とツーカーだから、なんて......」
爆笑を誘い出される聴衆を、平山圭子は息を詰めるように観察していた。つくづくうまいな、と思う。やはり特別な話術の才能なのだろうか? 以前の郁江だったら、こうはいくまいと思える。しかし、内村などの変貌を見ていると、なにかしら非常に不連続なものがあって、思いがけぬ才能が突如顕現し、以前の人柄と同一人物とは思えぬほどの変貌ぶりを示す。文字通りがらりと変ってしまうのだ。
人間の潜在意識には沢山の抽斗があって、表面的な人格など、氷山の一角なのだろうかという思いに駆られる。郁江など大輪の花が開花したような眩ゆさを感じさせる。
自分にも同じことが生じるのだろうか、と圭子はそこはかとない期待に満たされる。が、ステージに上った自分ががらりと別人に変貌するなど、圭子にはいささかの実感も持てない。
郁江によって思うさま反応を惹き出されている参加者たちは、己れ自身の変貌という眩惑的な期待を持っているのだろうか。東丈のような偉大な指導者の器に己れを比すことは不可能でも、郁江や内村に対してなら自己の可能性を見出すことができるからだろうか。
箱根セミナーの参加者たちが、己れ自身の潜在的才能の開発、神秘的な変身願望をもって集まっていることは、平山圭子の洞察するところであった。だからこそ、郁江が己れを語るプログラムに絶大な期待が集まっているのであろう。東丈の不在に表立った不満が聞かれないのはそのためなのだ。
東丈は超能力者を養成するために、この箱根セミナーを開催したのではない。それは初日の主宰挨拶で丈がはっきりと告げたことである。丈の真意は人々の霊性(それはもっとも人格的、倫理的なものだ)を高めることにあって、超能力の顕現など二の次というよりも、ほとんど無視されている。それは附随的なものであり、それらが目的化するなど、丈にとってはありえないことなのだ。
しかし、セミナー参加者たちにとっては、ごく自然に価値の転倒が行なわれてしまい、超能力の開発だけに意識が集中している有様である。彼らの超能力への傾斜はあまりにも強すぎるので、いかなる説得も効果がないのではないか、と圭子が常々感じているところであった。
超能力への偏執的な関心を去るように、東丈が説得してさえ無駄のように思えるのである。なぜなら、東丈本人が巨大な超能力者であり、その〝力〟こそが人々を惹きつける源泉だからだ。東丈の超能力は彼の〝霊性〟と不可分に結びついており、分割することなどとうていできそうになかった。
人々が井沢郁江に大きな関心を寄せているのも、彼女が東丈の巨きな〝力〟を分ち与えられ、幻魔の加える圧力を克服し、新たな霊性を目覚めさせたという点にかかっていた。〝力〟の裏付けのない者に対しては、人々はきわめて冷淡であり、無関心である。人々はひっきょう〝霊性〟よりは〝力〟に憧れ、〝力〟に惹かれるのではないか、と圭子は洞察していた。
そうではないと確信をもって否定できる人間はごく少数派に属するであろう。東丈が会を閉鎖的に留めているのは、その問題を克服できずにいるためかもしれない。会が示している一種の停滞はそのためなのだ、と圭子は思っていた。
7
ステージ上の郁江は、〝偽我〟について話していた。
「自我というものに二種類あって、真の我と偽りの我とあるというのは、不思議に聞こえるかもしれません」
郁江はワイアレス・マイクを左手に握ってデスクを離れ、背後に用意されたブラックボードに〝真我〟〝偽我〟と大書した。達筆ではないが趣きのある字であった。いかにも郁江にふさわしい書体だ。
「これはわたしが別に新発見をして、触れまわっているわけではありません。仏教の方では何千年も前からすでに説いていることかもしれません。でも、人間の我というものにはこの二種類があるのは、わたしの経験に即しても事実ではないかと思います。
真の自分、偽りの自分、と聞くと、何のことだろうと皆さんはお思いになるんじゃないでしょうか? 真の自分というのは、何となく感じでわかるような気がしても、偽りの自分となると、どうもピンと来ないのではないですか?
でも、ははあ、とピンと来る方も中にはおいでのことと思います」
郁江は場内を見廻しながらいった。
「さっきわたしがいった、自分の中の小さな幻魔の渦巻、それに関係があるんだな、と感のいい方は気付かれたかもしれません。
実際、そうなんです。でも、昔から、人間はだれでも自分の裡に、天使の心と悪魔の心を双つながらに持っているといわれますし、このたとえは、実感的に皆さん、よくおわかりなんじゃないでしょうか?
天使の心とは良心のことですし、悪魔の心とは、自分をそそのかし、自分の利益だけを優先させ、自分にとって都合のいいこと、勝手気儘な生き易さだけを求めさせる、自己本位な心のことです。他への憎しみや怨みつらみ、嫉妬などをかきたて、凶悪な衝動を駆りたて、普段の自分には考えられないような思念、行為に走らせてしまう、悪魔の心......
人間の心の中では、いつもこの二種類の心が相克を演じていると昔からいわれます。聖書でいうハルマゲドンとは、善と悪の決戦のことですけど、人間の心の中では絶えず、善と悪が戦っているんです。従って人の心はいつもハルマゲドンというわけです......
だれでも、人間なら自分の心を注意深く見詰める限り、天使の心と悪魔の心が戦っていて、他ならぬ自分自身の争奪戦を演じているということが、無理なく納得できるんじゃないかと思うんです。
〝真の我〟〝偽りの我〟というのは、結局それを分析的にいい換えたということなんですよね。
で、問題は、〝偽りの我〟である悪魔の心がどこから出てくるかということなんです。それを明確にしないと、人の心の戦場は永遠に続くということになります。いったいどうしたらいいかということなんですけど......はい、竹居君?」
郁江は挙手した竹居に注意を向けた。竹居は自分のテーブルのマイクを手に取った。
「それは、やっぱり、臭い匂いは元から断たなきゃ駄目というTVのCMの文句じゃないですけど、人間精神の根元に目を向けなければいけないと思います」
竹居は真面目くさっていった。
「幼い時分に戻って、人の心がどのように形成されて行くか、己れ自身の心に自己省察を加えることが大切だと思います。必ず〝偽りの我〟の芽生えが発見できると思うんです」
「それは素晴らしい卓見ですね......さすがは頭のいい竹居君、といいたいんですが、実は打合せ通りの発言なんです。しかも竹居君はもっと後で発言するところを勘違いしてしまいまして......」
聴衆は大笑いで揺れた。
「なにしろブッツケ本番ですので、すみません。今の竹居君の発言はとても重要なので、竹居君のいう〝自己省察〟とやらにスポットライトを向けてみたいと思います。竹居君は一晩中考え抜いて、〝人間精神の根元に目を向けよ〟とカッコいいスローガンを思いつき、それを披露したくて焦っていたらしいんですけど、とにかく本人の〝自己省察〟について話してもらおうと思います。どうぞ、竹居君......」
「どうもすみません。柄にもなくカッコいいことをいおうと試みたら、やっぱし失敗してしまいました。〝自己省察〟なんていいましても、別に目新しいものじゃないんです。東丈先生が日頃おっしゃっていることを、ちょっといい換えただけなんで......つまり、反省ってわけですよね。郁江さんにはあっさりと見破られてしまいました。言葉だけカッコよく飾ってもだめよって......」
固太りの浅黒い肌の、剽軽な竹居が真面目くさってもっともらしいことをいうと、その都度笑いが漏れた。
「結局、東丈先生がさりげなくおっしゃっていることを、今更のように気付いて大騒ぎするわけですよね。しかし、自己省察なんて言葉を使うと、みんなおっという顔で身構えて、こう非常に尊敬の眼差で見てくれるものですから、つい......」
「その通りです。言葉をいい換えただけで、斬新な発見をしたような気分になってしまうので気をつけねば、とわたしも思っています。実は〝偽りの自我〟なんて言葉を思いついて、孤りで得意になっていましたら、あるお年寄の方から〝真我〟〝偽我〟なんていう言葉を聞かされて、いっぺんでぺしゃんこになってしまいました......己惚れはやっぱりいけませんね。
東丈先生は、宇宙における巨大波動の幻魔よりも、自分の裡なる邪悪な部分、弱い心の方がずっと恐ろしいとおっしゃいました。けれども、何のことかよくわからずに、聞き流してしまった方も多いんじゃないかと思います。
わたしも実は、あまりピンと来なかった一人だったんです。幻魔というのは現実に存在し、宇宙的規模で超破壊を行なっている、超巨大な負エネルギーですし、そんなのが地球に攻めこんできたら、それこそ一堪りもないんじゃないだろうかと思ったものですから。自分の弱い心、悪い心が恐ろしいといっても、宇宙的破壊者の幻魔と比べたら、問題にならない......ちっとも恐く感じられなかったんです。
でも、その後、自分でいろいろ経験を積みまして、〝幻魔の標的〟になったりした挙句、やはり丈先生のおっしゃる通りだと気付いたんです。
人間は外側から攻められるよりも、内側から脆く崩れてしまうんですよね。外敵がある場合の方が、人間は強いんです。連帯や団結という強固な守りの姿勢を覚えるからです。でも、内側から崩れる、自壊作用が始まったら手がつけられません。戦う以前に敗けてしまうんです......」
8
「なぜ、丈先生は幻魔よりも己れの弱い心、邪悪な心を恐れよ、とおっしゃったんでしょうか?」
郁江は繰り返して強調するようにいった。
「それは、幻魔という敵を全て外部に設定し、何もかも悪いのは全て幻魔、悪の一手販売を行なっているのは幻魔なのだという錯覚に陥ることに対する警告だと思うんです。
自分は悪くなくて、悪いのは全部他人という責任転嫁。甘えの構造に先生は警告なさったんです。人はだれしも独善の虜になりやすいですから、幻魔を悪の宗家に仕立ててしまえば、幻魔はもはやスケープゴートと異りません。自分にとって都合の悪いことは、全部幻魔のせいにしてしまいかねないのではないでしょうか?
これは皆さんどなたも胸に憶えがあることだと思います。あっ、幻魔の仕業だな! 幻魔にやられてるな、と思ったことが幾度もあるはずです。悪いことは全て幻魔に責任を押しつける、そんな習慣がいつの間にかわたしたち一人一人の心に根をおろしているんじゃないでしょうか?
そうではないのだ、と丈先生はおっしゃっているのです。自分の悪い心、邪悪な部分は自分自身で造り出し、育て上げたもので、これは幻魔とは関りがない。それをしも幻魔のせいにするのは間違いだ、と先生はおっしゃいました。
自ら蒔いた種は、自分で苅らなければならないんです。では、己れの裡なる邪悪な部分とは、どのように蒔かれ、育ってきたんでしょうか? それを突きとめることが我々にとっては一番必要なんではないかな、とわたしは思ったんです。
先生は沢山のヒントをすでにくださいました。なにもかも先生に教えて頂くのではなく、自分の頭で考えて、気がつくことが大切だと先生はいつもいわれます。自分で自分に教えなさいって......先生のいうことをいくら丹念にノートしたって何にもならないんだ、学校でペーパーテストにいい成績を取るのとはわけが違う......先生はいつもそう繰り返されています。
でも、わたしたちはすぐにノートして、実践の方はおあずけ、そのうちにきれいに忘れ去ってしまう癖がついていますから、先生にいくら念を押されても、怪しいものです......
でも、わたしはちょっと深刻な経験を通じて、自分の邪悪な部分と徹底的に対話する機会を持ったので、先生のおっしゃることがわかるようになりました。
先生のおっしゃる通りでした。自分の都合しか考えない。徹底的に自己本位な心が、いったい自分の過去の歴史のどこから生れてきたのか、幾晩もずっと思い出し続けることによって、少しずつ解きほぐされてきたんです......そして我儘で幼稚な、意地悪で陰険な自分を、〝偽りの自分〟〝偽りの自我〟と呼ぶことにしました。
皆さんもその気になりさえすれば、〝偽りの自我〟と対話することができます。とても興味深い経験ですから、是非お試しになってみて下さい......」
聴衆の顔には好奇心がみなぎっていた。だれかが質問するのを待ち構えているのだった。平山圭子は更に感銘の度合を深めていた。郁江は天才だと思った。何の経験もないのに、いきなりステージに上って、これだけ人の心を摑むのは並大抵の才能ではなかった。
「たとえば、わたしが先生のお話を聞いて、非常に大きな感動を持ちます。そして、今後は己れの心と行いを改め、もっと努力して生きていかなきゃいけないって決心します。
すると、わたしの〝偽りの自我〟はどんな反応を示すでしょうか?
フン、と鼻でせせら笑うんです。本当に嘲笑うんですよ、皆さん」
郁江は言葉を切り、聴衆の顔を見わたす。場内がざわつき、忍び笑いが漏れる。
「フン、冗談じゃないわって、〝偽りの自我〟は冷たくいうんです。皆さんがもし遠感をお持ちで、他の超能力者と交信するとすれば、まさにこんな感じで対話がなされると思います。
自分の心の冷やかにうそぶいている部分と接触するんです。相手が何をいおうとしているのか、だんだんわかってきます。そうした冷淡な相手の〝気分〟に言葉を与えてみるんです。これは遠感と同じだと思いますよ、皆さん。相手は言葉を送ってくるわけではなくて、想念波、意識波を送ってくるんですから......その波動に言葉を与えてやる、つまり翻訳してやるってことですものね。
皆様がテレパシストになったら、他人の想念と交信するわけです。でも、この場合は、自分自身の〝偽りの自我〟と交信するわけです。テレパシストになったつもりで、試してみてはいかがですか?
すかすんじゃないわって、わたしの〝偽りの自我〟さんは冷たく嘲りをこめていい放ちます。──あんたはそうかもしれないけど、あたしはそんな気持になれないもの。まっぴらご免だわ......
〝偽我〟さんの想念に言葉を与えてやると、そういっているのがわかります。──いい子ぶるんじゃないわよ。あたしは〝彼〟が何をいおうと知っちゃいないし、全然興味ないわ。澄ました気取り屋のやけに上品ぶった連中なんかとつきあっていらんないわよ!
つまり〝彼〟というのは東丈先生のことで、やけに上品ぶった連中というのは皆様のことなんですけど......」
傍聴しているホテル従業員たちまで大声で笑った。こんなに笑わせても構わないのか、と平山圭子が思うほどであった。これではまるで漫談である。人々は間断なく笑いに身をよじっている。
もっと真面目に扱うべき大切なことを茶化してしまっている......そんな恐れさえきざしてくるほどであった。郁江はあまりにも芸達者すぎる。そのタレント性は驚嘆すべきものだ。しかし、軽々しいという非難を受けないだろうか、杉村由紀など決して快く思わないだろうという気がした。ここしばらく杉村由紀は蒼白な印象であり、抑制してはいるが常に苛立っており不機嫌であった。彼女を崇拝している平山圭子でさえ、うっかり話しかけられないほどの突き詰めた蒼白さで杉村由紀は満たされていた。
その杉村由紀が、この軽がるしくさえ思える郁江のステージを見たら、どんな反応を示すか怖くなってきた。恐るおそる場内を見廻すが、由紀の姿はなく、安堵感とともに不審な気分が湧いてきた。杉村由紀はいったいどうしたのだろう......あのままずっと田崎宏と立ち話を続けているのだろうか。
先夜来の騒然とした雰囲気にも動揺しなかった平山圭子の心が初めて波立ってきた。東丈がどのように不可解な行動を取ろうと、彼に寄せる絶対の信頼は揺がないが、杉村由紀を襲っている情緒不安定ぶりは気になっていた。彼女は満身の努力を自己抑制にかたむけ己れを封印しているようだ。が、その内圧が昨夜来、東丈の外出とともに異様に昂まっているのが感じられて、圭子は不安に囚われずにはいられなかった。
この不安を覚えている自我は、今郁江が話している二つの自我のうちどちらなのだろうか......?
「〝偽我〟さんは、わたしがどのように説得しても、いうことをきかないんです。頑として厭だ、といい張ります。ちょうど小さな子供みたいです。我儘で意地が悪くて、ひねくれた女の子がそこにいるんです。彼女は自分さえよければいい、他の者はどうともなればいいんだ、と本気で思っています。全ての判断の基準は、自分の快、不快であり、自分にとって都合がいいか悪いかなんです。
自分に利益を与えてくれる人間は気に入りますけど、自分に厭なことを強いる人間は大嫌いです。怨みや嫉みが強くて、不愉快な人間、恨んだ人間は絶対に許しません......
もし自分がこんな得手勝手な、自己中心の我利我利亡者だったら......自己嫌悪ですよ、それこそ! ところがそれは、本当に自分自身なんです。こんなに厭な人間が、なんともう一人の自分なんです。本当にがっかりしますよ。
皮肉で意地悪で、えげつなくて、猜疑深くて、いじけていて、図々しくて、ちゃっかりしていて、その癖、弱っちくてすぐに自己憐憫に溺れて、ひがみ根性の持主で、怨みっぽく憎たらしくて、少しも取り柄がありません。いったいだれが、こんないけ好かない根性の女の子を好きになってくれて、友達になりたいといってくれるでしょう?
そんな奇特な人間がこの世の中にいるはずがありません。わたしだって、そんな虫の好かない女の子とは口もききたくないし、道の向うからやって来れば、横丁へぱっと入って身を隠します、顔を突き合わせたくないからです。本当に大嫌い、あんな奴! と罵りたくなります。
ところが、その厭な女の子は、他ならぬ自分自身なんですよね。こんなひどいことがあるでしょうか」
聴衆はしんと静まり返り、まじまじと目を瞠って郁江の顔を凝視していた。笑いの影もなくなっていた。
「この厭で厭で仕方のない、自分の中の他人、不愉快なもう一人の自分、〝偽りの自我〟というのは、いったいどこから生れてきたんでしょうか? 生れた時から自分といっしょだったのでしょうか? そうではないと思います。本当の自分、良心と呼ばれる〝真の自我〟こそ、この世に誕生した時の自分です。霊魂として転生輪廻して行く本当の自分です。
その本当の自分に、いつしか影のように寄り添って生じて来たのが、〝偽我〟なんです。じっと胸に手を当てて、これまでの自分の人生を振り返ってみると、〝偽我〟がどのように生れて、影となって寄り添い、そのうち、〝真我〟を包み込み、あたかも己れが真の主人のように振舞い出したのか、少しずつわかるようになります。
今、影といいましたけれども、それは人間が生きて行くうちにこびりついてくる垢なのかもしれません。己れの欲望に操られて、自分中心に、我儘勝手に生きて行くうちに、だんだん積もりつもってきた人生の垢が、一人前の人格を待ったように振舞い出しているのではないでしょうか......?」
疑似人格? と平山圭子は思った。それは新鮮な概念であった。怨みや嫉みや怒りや、そうした負の情念が蓄積し、いつしか仮りの生命を得たように振舞いだす......人の悪しき想念、破壊的な情念が人の心の裡に、負の磁場を造り出してしまう。
それが小さな邪悪な渦巻の誕生なのか。その小さな邪悪は、宇宙の巨大な邪悪の波動の相似形として生れ育って行く。人の心の裡には、幻魔の小さなヒナ型が存在する、と東丈がいったのは、それを差してのことなのか......
「それは、偽似人格とでもいったものです」
と、郁江がいった。平山圭子ははっとして、自分が郁江の想念を読んだのか、それとも逆にステージの郁江が圭子自身の意識を読んだのか、と思い惑った。
「本当の自分をすっぽりと覆ってしまった垢なんです。でもちゃんと目鼻立ちを持ち、自分自身の意志を持っているようにさえ思えます。わたしたちの黒い想念がいつしか生み出してしまった影の自分なんです。
彼女の根源を突き止めるには、さっき竹居君のいった自己省察、つまり反省を徹底的にやるしかありません。自分の幼い頃、ものごころがついた頃にまで逆のぼり、自分の記憶を丹念に掘り起こし、探って行くんです。
すると、子供のころ悲しかったこと寂しかったことに突きあたります。今は忘れ去ってしまっていても、当時の子供である自分にとってどんなに深刻な、全世界が暗くむしばまれて行くほどの、大変な経験だったか、それを思い出して行くはずです。
子供は、大人には想像もつかないような、深刻な体験を持つものなんです。わたしの場合もそうでした。その時の記憶が甦ると、苦しくて悲しくて胸が詰まり、泪が流れて停まらなくなる......そんな記憶があります。孤りで家を出て、どこかへ行ってしまおう......子供のころ、わたしはいつもそう考えていたことに気付いたんです」
意外、という感銘が波動となり、いっせいに聴衆から返ってきた。
「そうなんです。傍目には幸せそうな何一つ不足のない子供に見えても、肝心の子供本人はそうじゃないんですね。大人にはわからない、他人には理解できない地獄を心の中に抱えているんです。わたしもそうでした。四つ五つの子供だったわたしの心の中には、癒しようのない苦しみ悩みがわだかまっていたんです。
なぜ、大人は、子供は無邪気だ、天使のようだなんて簡単にいったりするんでしょうね。親、兄弟、他人との軋轢の中で、子供はいつだって傷つき血を流しているし、その苦しみは大人になっても残り、死ぬまで続くんです。皆様も一人一人、幼い日のことをじっと胸に手を当てて思い起してみて下さい。
大人には何でもないようなことが、鋭敏な感受性を待った子供にはどんなに大きな痛手か、きっと思い当るはずです。皆さんの人格はもしかすると、その時の衝撃が尾を引いて歪みや偏りを作ってはいないでしょうか?
子供の日の記憶は鮮明な光と闇の交錯で織り成されています。子供の喜びや楽しみは大人のそれよりもずっと強いんです。喜怒哀楽はシャープでくっきりと際立っています。
子供のころの怨み、憎しみ、嫉みがどんなに激しいものだったか、皆さんは思い出すのではないでしょうか? ずうっと静かに記憶の底へ沈潜してみて下さい。
幼い日の自分が親兄弟の肉親や、友達や近所の人たちとの間にどんな関係を持ち、軋轢を造り出していたか、少しずつ甦って来るはずです。幼い日の自分が見えてきます。
その日、五歳のわたしも家を出て、どこか遠い所へ行こうとしていたんです。なぜそんなことになったのか......それは家庭の事情というものがあって、一概にはここでいい尽してしまうことはできません。堪えられない苦しみをもたらした軋轢があったということなんです。
五歳の子供のことですから、乗物に乗って遠くへ行くという知恵があるわけでもなく、夕暮れの街をどこまでも歩いて行こうとしていたわけです。とても辛くて寂しくて孤独で、どうしていいのかわからないけれども、本来自分がいるべき、所属しているはずの、遠い幸せの国、心の暖い人々だけの住んでいる国へ行こうと思っていたような気がします。子供心にも、自分がこの暗くて寒い、凍えるような国にいるのは何かの間違いだという気がするんです。
何かの手違いで自分は、この暗い寂しい世界へ落ちこんでしまったんだ、と子供のわたしは確信していたと思います。親も兄弟も偽りの人々で、本当の自分の肉親ではない、あれは偽物で、真の親たちはどこか違い国に暮している......それは絶対の確信で、つい最近までわたしは本心から信じこんでいたような気がします」
人々は真剣になって、体を前屈させ緊張して郁江の話に全神経を集中していた。漫談調の郁江とは別人のようになっている。その告白には人々をぐいぐいと惹きこんで行く力があった。
平山圭子はふと隣りの白水美晴という女性が異様な緊張を見せて、話に聞き入っているさまに気付いた。その目はくいいるようにステージの上の郁江に注がれている。心を奪われてしまった人の表情であった。郁江の告白が彼女の心に異常振動を生じさせているのである。
9
「わたしは本気で、真の親はどこかにいて、いつか必ず迎えに来る......今は事情があって遠く離ればなれになって住んでいるけれども、いつの日にかその障害がなくなったら、必ずわたしを迎えにやってくる......心からそう信じていたんです。
よくある、他愛もない子供の空想かもしれません。でも、わたしには真剣な思い込みでした。病院で取り換えられたとか捨子だったという子供らしい空想が存在する余地がなくなるまで成長しても、心の奥底では固く固く信じこんでいるんです。
本当にわたしの両親には申しわけのない話だったと思います。なにしろわたしは、一日千秋の思いで望郷の念に身を灼きこがしながら、〝真の両親〟が迎えに来てくれるのをひたすら待っていたんですから......
今にしてみれば、わたしが本当は何を求めていたのかよくわかります。自分には素晴らしい魂の友人たちが沢山いて、その友のいる国が本当の自分の所属する世界だ、とわたしにはわかっていたのですけど、その強い望郷の感情に適切な言葉を与えることが、子供ですから出来なかったんです......
五歳のわたしはこの暗くて寒い、寂しい国を捨てて、本当の両親の住む国へ行こうと思っていたんです。どうやって行くのかわからない、幸せの暖い国へ......
ちょっと家庭の事情で、差し障りがありまして、具体的に申し上げられないので、説得力がないかもしれません。でも、相当という以上に陰惨な、厭な事情があったということを頭に置いて聞いて下さい......
暗い寒い夕方で、氷雨が降っていました。五歳のわたしはカサも持っていませんでした。ずぶ濡れになって風邪を引き、重い病気になるかも知れないとわかっていましたけど、たいして気にもなりませんでした。心が怨みや憎しみや怒りでごった返していて、しかも頭の中が凍りついてしまい、どこか遠い所へ行くということしか考えられないんです。
まるで暗くて冷たい悪夢の中をさまよっているようでした。どこをどうやって歩いていたのかわかりません。心の中が嵐でどよめき続けているんです。
ああ、可哀そうだな、と今のわたしは思います。たった五歳の幼い女の子が人の世の醜さに触れて血を流しているんです。まるで遠い昔の映画を見ているようです。氷雨に濡れそぼっている女の子を何とかして助けてやりたい、守ってやり、心の苦しみをやわらげてあげたい......憐みで心がいっぱいになってしまうんです。
五歳の女の子がどんな気持で、凍えながら絶望的な彷徨をしているのか、わたしにはよくわかります。だって他ならぬ自分なんですから......今のわたしは十七歳で、五歳の自分とは違う。もっと幅広い視野をもって、幼い自分の抱えている問題を見ることができます。やっぱり少しはオトナになっているんですね。
可哀そうだな、と同情するだけでなく、彼女の問題解決に助力することも、今ならできるんです。事情はだれよりもよくわかっているけれども、家を出てどこか違い所へ行ってしまおうと思い詰めるよりも、他にいい解決の方法があるんじゃないかな......今のわたしならそう考えることができます。
今のわたしは、そういう立場から、五歳のわたしに話しかけることができます。あなたはそういう風に思い詰めているけれども、こういう考え方もできるんじゃないかなって......
大人たちにはこういう立場があって、こういう考え方をするんだ......そのように諄々と説いてきかせることもできるんです、今のわたしなら。できるだけ公平に、一方に偏らない善意の第三者の立場で、五歳のわたしと両親との軋轢の原因を探り、解きほぐしていくことができます。
もちろん、五歳のわたしは泣きながら猛然と反撃してきます。両親がどんなに無法でひどいか、自分がどんなに傷ついたかを訴え、激しく他人を告発します。自分には一点の非もないと主張するんです。自分は悪くない、悪いのは両親であり他の人たちだって......
その悲しさ口惜しさはよくわかります。だってそれは他ならぬわたし自身の味わってきたものなんですから。
にもかかわらず、今のわたしは他の考え方をすることができるんですね。憎しみや怨みに囚われず、他の考え方ができる。両親を初めとする大人たちは確かによくない。よくないけれども、大人たちがなぜそうなってしまったか、五歳の彼女にはわからなくても、今のわたしにはある程度わかります。
五歳の子供にとっては、理解不能の高い塀がこの世界には立ちはだかっています。五歳のわたしには背伸びしても跳び上っても、塀の向うは見えないけれども、今のわたしには見えます。
今のわたしには、醜悪な所業を働いている大人たちの気持が、なぜそんな行状に追い込まれて行くのか、大人の心理というものが読めるんです。それはわたし自身が、大人の汚れを身につけてしまったせいかもしれません。でも、純粋な意識の幅の狭い子供の目には見えなかったことが沢山見えてきます。
罪と穢れがはっきりとよく見えるんです。ああ、自分自身もそうなんだ、という気がしてきます。決して大人たちの罪穢れを許容するのではなく、それが人間の愚かしい〝偽我〟から生れてくるのだってことがわかるようになったんです。
罪や奸悪さというものは、人間の愚かさから生れるんです。英知というものと対極にあるのが愚鈍であり、罪穢れとは愚鈍そのものなんです。わたしには今、それがはっきりわかります。
人と人との絆が断ち切られてしまい、他人の気持がわからなくなってしまうところに、罪穢れは生じてきます。魂が〝人生の垢〟ですっぽり覆われてしまっているんです。
わたしはそれを五歳のわたしに説明してやります。大人たちにはこういう信じられないような愚かしさがあるということを......それは人間である限り、たとえいくら歳を取っても変わりようのない愚かしさで、はっきりと自覚するまでは決して取り去れない目隠しのようなものだって、五歳のわたしに説明してあげるんです......
でも、大人たちには各々、大人たちの事情がある。悪いのは全て大人たちだったとしても、それなりの理由があるんだって......
彼らが本当はとても可哀そうな人間たちだということを、五歳の子供が理解し、納得するのは容易なことではありません。大人たちにどんな事情があろうと、子供の知ったことではないんですから。大人たちは完全に悪いんです。それは動かしようのない事実なんです。大人は加害者であり、それによって血を流し傷ついているのは、他ならぬ子供自身なんですから。
どうして、あんな大人の奴等を許してやらなければならないの、と子供のわたしは泣き叫びながら喰ってかかります。赦せない! どんなことがあったって赦せるわけがない! 自分のこの苦しみや悲しみをいったいだれが償ってくれるというのか......怨んでやる! 憎んでやる! 死んだって絶対に許してやったりはしない。大人たちが死ぬほど後悔し、罪悪感で苦しむようにしてやる。悪い大人たちに罰を与えてやるんだ!
でも、憎悪や怨恨に凝り固まり、復讐心に煮えたぎって、その挙句、苦しんでいるのは自分自身なんです。自分で自分を苦しめているんです。
苦しんでいるのは他ならぬ自分自身なんですよね! 自分の心にしょいこんだ怨みつらみ憎しみで苦しんでいるのは、他人ではなく自分なんです。
他人を審いて苦しめてやろうと思っていながら、その憎しみで苦しんでいるのはわたし自身なんですね。自分で自分を審いてしまっているわけです。他人に向ける憎悪は、自分の心に突き刺す刃なんです。
だれだって辛い苦しい思いを自ら望んだりしないはずです。でも、他人を憎み呪っている時、人は自ら望んで苦しんでいるんです。楽になんかなりたくないんです。他人を憎み呪って、苦しみの中にどっぷり浸りこんでいたいんです。憎めば憎むほど、呪えば呪うほど、毒念が自分に返ってきて、更に苦しみは増して行きます。
それは地獄です。でも、地獄にいるのは、その者が地獄を好きだからなんです。だれが自分から苦悩をすき好んでしょいこむものか......人はそういうでしょう。でもそうじゃないんです。悪いのは全部他人だ、悪いのは自分じゃない! 自分がこんなに不幸になったのはだれそれのせいだ! 自分は少しも悪くないのに、犠牲になったのだ!
そういう心が敵意と憎悪で、自分の心を小さく狭く閉して行ってしまうんです。でも、苦しんでいるのは他ならぬ自分であり、他人ではありません。そしてその苦しみは自分自身で造り出しているってことなんです!
自分をこんなに苦しめている他人を憎んでやる! 呪ってやる! でも、苦しみはどんどん増して行きます。無限の悪循環で、苦悩は増殖する一途です。他人を罰しようと思えば思うほど、自分が罰を受けてしまいます。苦しんでいるのは自分なのに、どうしてそれをなんとかしようと思わないんでしょうか?
本当はだれだって苦しむのは厭なんです。平安が、心の安らぎがほしいんです。でも、悪循環を断ち切らない限り、苦しみは消えてなくなりません。そのためには大きな勇気が必要です。苦しみを断ち切る勇気が必要なんです。
どうしても厭だ、絶対に赦さないといいはっている頑固な五歳の自分を説得するのは容易なことではありません。でも、他人の悪を断乎として糺弾し、審こうとしている人間は、自ら悪とは無縁でしょうか? 決してそんなことはないんです。
五歳の子供のわたしだって、悪とは無縁ではありません。友達にひどい意地悪をし、いじめて泣かせたことも沢山あります。どうにもならない不機嫌と癇癪にまかせて、ひどい残酷なことをしたことだってあります。従順な飼犬をいじめたり、小鳥をおどして残忍な喜びに耽ったことがあるんです......翌朝、黄色い小鳥が篭の底に落ちて、固く冷たくなっているのを見た時の激しいショック、罪悪感を、五歳の自分はちゃんと味わっているんです。悪をすでに知っていながら、他人の悪だけをどうして責め続けることができるのか......五歳のわたしだって罪を犯しながら、口を拭って何食わぬ顔をし、そのくせ心がとがめて胸を轟かしていたじゃないか......
五歳の自分との対話は幾晩続いたでしょうか。彼女の気持を理解しながら、なおかつ己れ自身の立場に気付かせて行く。全ての人間が悪とは無縁ではなく、他人を糺弾する自分自身が審かれてしまうということ、他人を赦すということは自分を赦すことだと少しずつわからせて行くのは、とても骨が折れることでした。
それはちょうど地中に埋った根っ子を辛抱強く掘り起こして行くのに似ています。簡単には動きません。忍耐と努力だけの仕事です。でも、どうしてもやらなければいけないことなんです。
大人たちには大人たちの苦しみや悲しみがあるのだということを、五歳の子供にわからせてやることがどうしても必要だったんです。でも、人間が他人を理解するには、己れと同じように他人もまた苦しんでいるのだと気付くことがどうしても必要なんじゃないでしょうか......
三晩ぐらいかかったと思いますけど、ようやく固く深い根っ子が揺ぐ時が来ました。世界との間を隔てている高い塀が急に取れたんです。
大人たちが、自分と同じように苦しんでいて、愚かさゆえに間違いを犯しているのだ、と納得できたんです。五歳のわたしは大泣きしました。でも、それはもう憎しみの泪、口惜し泪じゃなかったんです......
本当に人を赦すということがどんなに心を軽くするか、こればかりは自分で味わってみないとわからないでしょう。堪えがたく全身をしめつけている重荷が自分をはなれて行くのを実感するんです。
片意地で頑固な自分が溶けてしまったのがその時はっきりわかりました。
十七年間、自我となってことごとに自分を律していた依怙地な、厭でたまらない底意地の悪さ、ねじ曲ったものが、その時すっと自分をはなれて行くのがわかりました」
聴衆は水をうったように静まり返り、息を吞んでステージの比類ない美少女を見詰めていた。その眼差には畏敬の色さえ滲み出していた。
しかし、郁江は自分が聴衆に与えている感銘の重さを少しも気にしていないようであった。
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「わたしは自分が本当に自由になった、と心の底から感じました」
郁江の言葉には実感がみなぎっていた。
「それまでのわたしは、物凄く重い荷物をしょいこんで身動きもならず、不貞腐れていたようなものだったんです。重荷をおろすことができるということさえ知らなかったんですよ。
ああ、自由ってこういうことだったのか、と生れて始めて知りました。真の自由って、物質的な自由じゃないんですね。心の自由なんです。心が何物にも囚われず、重荷をしょいこんでいないってことなんです。わたしは富裕な家庭に何不自由なく育ちました。望めばたいていのことはかなえられました。欲しいものは何でも買ってもらえました。物質的には恵まれすぎているほど恵まれていました。両親はわたしがやりたいと望むことには決して反対しませんでした。むしろ向うから煽りたてるほどでした。ピアノがやりたいといえばピアノ、バレエが習いたいといえばバレエ、何でも即、かなえられました。わたしが海外留学したいといいだせば、一生懸命奔走してくれました。
でも、わたしは不満でした。両親の寛容さを甘い人間だとむしろ軽蔑しました。子供を育てる自信がないから、子供の要求に何でもいいなりになるのだと思いました。わたしは物質的に自由であればあるほど、どんどん逆に不自由になって行ってしまうんです。
なぜなのかわかりません。でも、親が悪いんだと思いました。悪いのは全部他人だと思いこんでいました。何をやっても満たされないんです。わたしはこんな世界にいるべき人間じゃないんだといつも思い詰めていたんです。
真の両親がいつか自分を迎えに来るという幻想と全く根は同じです。いつだって〝ないものねだり〟なんですよ。すでに自分にあるものはみんな気に食わなくて、いつだってないものがほしいんです。
そのくせ、手に入れてみると、あっという間に興味がなくなってしまいます。いつも新奇なもの、自分の欲望や興味をかきたててくれるものを求めて、心が苛立っているんです。そのくせ、決して自分の心がそんなもので満たされないことを、あらかじめちゃんと知っているんです。
わたしは感謝を知らない人間で、本当に心から有難いと思ったことがありませんでした。愛されるのは当り前のことで、かえって煩わしいんです。他人が自分に関心を持つのがうるさくて厭なんです。
自分が恵まれているなんて少しも思いませんでした。いつも不満でした。与えられることに慣れ、与えられることを飽くことなく求め、少しも満足せず、自分から他人に与えようなどとは夢にも思わなかったんです。人を愛し、何かを与えるなんて、とても鬱陶しいことでした。
わたしの心はまるで砂漠の砂みたいに乾いていました。他人に与えられる愛はいくらでもさいげんもなく吸い込み、いつも乾いたままで潤いなどなく不毛のままなんです。
感謝がない心は砂漠といっしょなんですね。他人を拒否し、嫌悪し、疎外する気持しかないんです。いつだって他人が自分のために奉仕してくれることばかり求めて、カサカサになった心が苛立っているんです。
昨年九月、東丈先生が〝GENKEN〟を青林学園という高校でお始めになった時、わたしは跳びつく思いで参加しました。〝GENKEN〟が自分にとって大きな意味を持っていることを予感したからです。先生に対して物凄く惹きつけられるものがありました。でも、不安でした。先生が素晴らしいものをわたしに与えてくれても、わたしはすぐに飽きてほしくなくなり、放り出してしまうんじゃないかという恐怖がいつもありました。
ほしいものが手に入ると、すぐにしらけてつまらなくなり、捨ててしまうことがあまりにも多すぎたからなんです。すぐに幻滅してしまうんです。なんだ、こんなものか、この程度のものか、といつも虚無的になってしまうんです。他人に与えられるものはほしくないんです。求めても得られないものだけが本当に値打があり、自分のほしいものだという気がするんです。
自分でも驚くほど惹きつけられ、魅惑されただけに、醒めてしまうのが怖かった......先生が思ったほど素晴らしい人間でないとわかって、幻滅するのが恐ろしかった。偶像に祀りあげたものは必ず落ちるという確信が心の中にあるんです。だから、わたしは逆に居直って、先生の欺瞞性を自分の手で剝ぎとってやろうと決心しました。思いきり意地悪な目でいつも見張っていて、少しの偽善も許すまいとしました。もし彼が偽物であるなら、早く尻尾を摑んでやろうとさえ思っていたんです。
先生に惹きつけられればそれだけ、離れて行きたいんです。自分を守りたいからです。がっかりするのが怖いから......わたしぐらい矛盾した人間はいませんでした。
先生に帰依し、夢中になっている仲間たちをいつも皮肉な目で見ているんです。仲間が熱狂的なのが愚しく見えます。絶えずそんなものは盲信であり、狂信だと冷やかに他人を批判しています。そのくせ、本当は羨やましいんです。心から熱中できない自分に苛立っています。
わざと白けたことをいい、批判的な言葉を口にして仲間たちの熱中に水を注そうとします。当然仲間たちから白眼視されますけど、同化できない苛立ちがいつも逆に出てきて、自ら疎外されるようにしむけてしまうんです。
当時のわたしがどんなにひねくれていて、孤高を自ら選んで仲間との同化を自ら拒んでいたか、皆さんの多くがご存知の通りです。わたしはいつも先生に対して批判的でした。意識的に仲間たちの崇拝の感情に流されまいと頑張っていたんです。一人だけ敢えて異を立て、先生さえ無遠慮に扱いました。そのために皆さんがどんなにわたしに反感を持ったか、百も承知でした。わたしは自分を強い人間だと信じていたから、孤立するのは平気だといつも自分にいいきかせていたんです。
でも、先生はわたしに対して寛大でした。かえってわたしはそれに反撥して、傍若無人に振舞い、先生を刺激し、怒らせようとしたことさえあります。常に不安で堪らず、先生の気持を試し、計らずにはいられなかったんですね。
先生が本当に寛容なのか、それともカッコをつけてのポーズなのか、はっきりさせずにはいられない気持の虜なんです。先生が偽物であるならば、それを自分の力であばいてやりたい......そんなに昂ぶった気分がわたしにとり憑いていました。
わたしは自分がユダかもしれないとさえ思っていたんです。イエス・キリストを売った裏切者のイスカリオテのユダです......ユダはいつもイエスが本物の救世主かどうか知りたくて、心を昂ぶらせていたんじゃないでしょうか? 自分の小さな狭い了見で、イエスとその神を試そうとしたのがユダだったんじゃないかな......いつもそう考えていたのを憶えています。そんなことを考えてしまう自分が怖くなって、先生に警告したことさえあります。
もしかしたら、わたしはユダかもしれないわよ。だから気を許さないでって......
でも、先生は面白そうに笑っていました。それが強がりなのかどうかとわたしは悩みました。まるで一人相撲を取っているようでした。先生をキリキリ舞いさせてやろうと意気込んでいるのに、キリキリ舞いしてしまうのはこっちなんです。わたしは息せききって先生の囲りを駆けまわっているだけのような気がしました......
そのころから古い仲間たちで、離脱して行く人たちがどんどん増えてきました。先生が会のあり方に厳しい態度をとるようになり、もう甘えを許さなくなったからです。そんな厳しい先生の行き方にはついて行けないといって、やめる人たちはそれまでとは掌返して先生の悪口をいいだしました。あれだけ熱狂していた人々が、信じられないくらい百八十度転向して批判というよりもひどい悪口の限りを尽すんです。
わたしはもう本当に頭にきました。生神様のように祀り上げて崇拝し、先生の飲みさしのお茶まで競って飲んでいた、そんな人たちが、今度は悪魔だとか色魔だとか平気でいいだすんです。
それも何の根拠もない悪口です。先生が自分の思い通りに動かない、イメージを裏切った、期待に背いたというのが理由なんです。こんな勝手な話ってあるものか! わたしは怒り心頭に発しました。
勝手に自分で生神様、救世主に祀り上げておいて、都合が悪くなると掌返して叩き落し、魔王扱いするなんて! あまりにも勝手すぎる! 私利私欲で先生を生神様に仕立てたから、先生が思うように動かず期待はずれになると、信頼を裏切った! と金切声で悪口を喚きだすんです。
わたしは猛烈に腹を立てて、そんな自分にびっくりしてしまいました。だってわたしはいつだって先生の正体を看破し、偶像を引きずり落してやろうと虎視眈々としていたんですから......でも、悪口をいっている彼らにそんな権利はないと心の底から抗議したかったんです。
先生はあんたたちの手前勝手な期待に添うために、必死の生き方をしているんじゃない! と本当にいいたかったんです。あんたたちの甘えや思い上りを許容しないのが裏切りだというんなら、あんたたちが先生を信じていたというのはどういうことなのか? 自分たちだけを特別扱いにし可愛がってくれ、と真の救世主と信じる人によくも要求することができるなって......
あんまりかんかんに腹を立てたので、やっと気付きました。やっぱり自分が先生を信じていたんだということに。さもなければ、掌返して離反する人たちに対して腹を立てるはずもない、と自分の気持を悟ったんです。
そして、人を信じるということがどういうことなのか、ようやく少しずつわかってきました。人を信じるっていうのは、幻想を持つことじゃないんだって......信じるってことは愛することで、努力が必要なんだってこともわかりました。他人を信じるのは、自分を信じることと少しも変らないんです。つまり自分を信じられない者は他人をも信じられないってことなんですね。わたしのいっていることはちょっとわかりにくいかもしれません。
でも、信じることは決して安易なことじゃない、これだけは間違いないんです、ともすれば自分の心の隅に湧いてくる猜疑心、疑いの心との対決なんです。
一度信じればそれでOK、ずっと信頼が持続するかというとそんなことは決してないんです」
郁江は自分の言葉がどれだけ聴衆の心に入っていったか危ぶむ表情で、人々の顔を見わたした。聴衆は己れの心と対峙しているような内省的な貌で、くい入るように郁江の顔を見返した。
「自分の勝手な都合で、他人を信じることがどんなに危なっかしいことか、だれでも知っているはずです。あんな人とは思わなかった! そういって憤然と仲間割れする人々はいくらもいるし、だれしも憶えがあることじゃないかなとわたしは思います。
自分の都合で他人を信じれば、必ずそういう破局が来るんですよね。他人に対して己れの幻想と偏見をもって期待をかければ、そんなものが当てはずれになるのは当り前のことじゃないでしょうか?
他人には他人の都合があるのだし、自分の思い通りにならないので憤然とし、非難したりするのは凄く滑稽なことです。自分の勝手な都合で、自己本位に他人を愛したり信じたりするのは、根本的に間違っていて、それは愛でもなく信でもないってことなんだとわたしは思うんです。
他人が自分の期待にはずれ、幻想を裏切ったからといって、非難したりできるでしょうか? それはあまりにも身勝手すぎる考えじゃないでしょうか?
他人を信じ、愛するってことは、大きな努力を人間に要求します。いつも相手の心を思いやっていなければ、どんどん互いの心は離れて行ってしまうからです。愛とはそうしたデリケートな思いやりがなければ、あっという間に独善的なきめつけに堕落してしまうとわたしは思うんです。自分で勝手に決めた枠組の中に、他人を無理やり押しこめて、それが愛だと思いこんでいる人がどんなに多いことでしょうか。友人の間でも、親子の間でもいくらでも見られる独善だと思います。
東丈先生が自分に理解できなくなったから、もう信じられないというのは、恐ろしく馬鹿げています。だって理解を超えているのは、自分の了見が狭いからかもしれないじゃないですか?
大宇宙意識フロイの意を体して動いていられる先生の動きが何もかも理解できるはずはないんです。だって先生は目先のことだけを見て動くわけじゃないんですから。
大宇宙意識は高次元の目で、未来も過去も同時に見ています。肉眼でしかものの見えない、物質に囚われやすい人間より深い考えを持ち、正確な判断を下せるのは当り前です。
それなのに、先生が理解できないのは先生が間違っているからだなんて判断を下すのはあまりにも傲慢すぎます。
ある人は、先生が真の救世主なら、会を閉鎖してしまい、来る者を拒むやり方をするはずはない、先生は間違っている。救世主なら間違いを犯すはずはない、それは先生が真の救世主ではない証拠だ、と独断的にきめつけて去って行きました。
でも、イエス・キリストだって自分の教団は持たなかったんですよね。十二人の弟子たちを持っただけです。教会が出来たのはイエスの死後で、弟子たちが造ったんです。
先生は、会は拡大しないけれども、講演会で外部の人々にも接しておられます。決して来る者を拒んではおられません。
自分の勝手な幻想を当てはめて、先生が間違っているなんてきめつける人は、よほど自分のことを偉大な人間だと思いこんでいるんでしょうね。独善的な人間はみな、傲慢な思い上りの虜になってしまうんです。そして自分では決してそれに気付きません。自分の考えこそ正しく、相手は間違っている、と頭から信じこんでしまうんです。
もちろん、わたしだって大きなことはいえません。東丈先生の欺瞞性を剝いでやろうと意気込んでいたわたしは、鼻もちならない傲慢さの権化でしたから。でも、わたしは結局、先生に負けてしまったんです。
先生はやっぱり偉い、と思いました。みんなが爪弾きする、会の厄介な鼻つまみになったわたしを、先生は決して差別したり疎外したりなさらなかったからです。自分を批判して、明らさまな挑戦の態度をとっているにもかかわらず、先生はいつも寛容でした......人間だったら決して嬉しいことじゃないと思うんですけど......意地っ張りなわたしですけど、先生に負けてしまったことを本当に心から嬉しく思っているんです。
先生は、愛とは何か、信とは何かということをわたしに身をもって教えて下さったんです。わたしの中にある、人を信じたい、愛したいという必死の希求を先生はよくご存知でした。人を信じるということは、その人の魂を信じるってことなんですね。先生は、わたしが必死に対決しようとする心の奥底にあるものを、本人のわたし以上によくご存知だったんです......」
拍手が湧き出した。心からの共感と称讃のこもった拍手であった。郁江は戸惑ったように小首を傾げていた。
「わたしの今お話ししたことは、個人の内面的なものだけに、ちょっとわかりにくいんじゃないかなあって気がするんですけど......」
「いや、そんなことはありません!」
ステージの上で拍手を続けながら、内村が力をこめていった。
「よくわかります! 今のお話で、我々の気持を代弁してもらいましたし、ある意味で恥しく、郁江さんにお詫びしたいともみんな思っているんだと思います。郁江さんの本当の気持がわからず、誤解したあげく、非難していたことをとても後悔しているんですよ、みんなは......今のお話で、郁江さんがどんなに真剣で必死だったかよくわかって、みな反省しているはずです。自分の勝手気儘な幻想をもって人を見、判断することがどんなに危険か、よくわかりました。
反省ということがどんなに大切か、我々はまだ本当にはよく知っていないのだと僕は思います。我々はまだ先生に対しても、勝手な幻想を抱いているのかもしれない......その危険性が身にしみて感じられます。そうじゃないですか、みなさん!」
人々は力いっぱい手を叩いて、内村の呼びかけに応えた。不得要領な顔付で拍手に賛同しているのは塾生の松岡と井上だけであった。後発の塾は、会の潜り抜けてきた変動を経験していないのだった。
「ありがとうございます。わたしが一番力をこめていいたかったのは、人を信じるってことは大変な努力が要るものじゃないかなってことなんです。あだやおろそかにできることじゃないんです、きっと。
それがどんなに大変でむずかしいことか、先生はわたしたちに知ってもらいたがっているんじゃないでしょうか。一瞬一秒の努力と先生はいつもおっしゃいますけど、結局、信ずることも同じなはずです。
でも、大変な努力を必要とするけれども、人を信じ、愛することが、どんなに素晴らしいか、わたしたちは知っているんじゃないでしょうか? それは一時の幻想に酔うことと全くレベルの違う、次元の異なる最高の喜びです。
魂と魂が共鳴しあう喜びです。自分の心で味わってみなければ、この全身全霊がおののき慄える、至福の喜びは決してわかりません。それは、感情的になって涙を流し、カタルシスを味わう一時的な興奮とは縁のないものなんです。その一幕がすめばけろりと忘れてしまう肉的な喜びとは完全に異質なものなんです。それはいつまでも心に残り、いつしか自分を変えてしまう、巨大な力を備えている魂の歓喜なんです」
郁江は自分の声が必要以上に高くなり、波動を強めていると気付いたように、声の調子を落した。それは郁江の抑制の強さを感じさせた。思わず声音を高め、それに喚起された己れの感情に動かされ自己発振してしまうことを嫌っているのである。いかにもクールな郁江らしい自制力だと平山圭子には感じられた。
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「ごめんなさい。こういう場所で話し慣れていないので、すぐに話がそれて行ってしまいます。テーマを反省ということに絞ります。でも、わたしが信や愛というものを本気で考えるきっかけを作ってくれたのは、離反して行った元の仲間たちなんですね。
どうも、傲慢になり独善的な思い上りに支配されるというのは、反省という心的行為に欠けた人たちに多いんじゃないかなって気付いたんです。
自分こそ絶対に正しいと思っている人は、反省なんてしません。反省なんておぞましい、鬱陶しいものには縁がないんです。
反省って、とても厭なうんざりすることですよね、皆さん。そう思いませんか? 夜中に寝ていて、天井を見上げながら、声をあげたくなる恥しい記憶に悩まされた人は、わたし一人じゃないと思うんです。厭、いや! もう沢山! そう声をあげてひとりで頭を激しく振ってお布団にすっぽり潜ってしまうんです」
平山圭子は声をあげて笑った。あまりにも郁江の形容が真に迫っていたからだった。しかし、郁江のいうことは真実であった。体がポッと火照るような暖い共感を郁江の告白に対して抱かずにいられなかった。
「わたしは、反省って凄く苦手です。恥しいこと厭なことがきりもなく、ぞろぞろと掘り出されて来るからです。まるで〝夢の島〟を掘り返すみたいにゴミタメのような恥ずべき記憶がいくらでも出てきます。自分がこんなにひどい人間だったのか、とがっかりしてしまうくらいです。
本当にひどいことを他人に向って沢山しているんですよね。ご免ねご免ね、とさいげんもなく詫びていなけりゃならないくらい。そのうちにとっても惨めになってきます。反省には大変な努力と勇気が要るんだなとびっくりします。
それでも、反省にはそれだけの値打があります。いえ、それ以上の素晴らしい価値があります。だって、反省って心のお掃除と同じなんですから。すればするほどうんざりするほど溜まっていた心のゴミが消えて行きます。心が軽く薄く透き徹ってくるのが、自分でもよくわかります。心のお荷物を捨てて行くことなんです。
これは強調しておきたいんですけど、反省には努力が要ります。全て簡単に行くとは限りません。物凄く深い根っ子のような厭な記憶、思い出したくない、永久に出てこない深い谷底へ捨ててしまいたい恐ろしい罪の記憶が人間には必ずあると思います。そうでない人はとても幸運な恵まれた一部の少数の人たちです。
でも、普通の人間は、そうは行かないと思うんです。自分で自分の考えること行なうことにぞっとして身慄いする、罪深い記憶にだれしも思い当るはずです。
そうした深い谷底に投げ捨ててしまいたい厭な記憶を再び拾い上げてむし返す......大変な勇気が必要です。体中が恥で燃え上りそうになります。
自分は厭だ、絶対に反省なんかしたくない! そう思う人だって少くないと思います。穢れた臭いハキダメの中にすっぽり潜りこむような不快さを禁じえないはずです。でも、それは他ならぬ自分が造りだした汚穢なハキダメなんですよね。自分自身で清掃しない限り、永久にそこに存在し続け、心を汚し続けているんです。それでもいい、といいはる人もいるかもしれません。せっかく忘れ去っているのにわざわざ掘り返し、厭な思いをすることなんかない! って......
でも、それは目に見えないだけで、心を重く暗くしているお荷物だし、それがあるかぎり本当の安らぎなんか決して持てないんですよね。それどころか、今の自分の性格の歪み、我と我身が厭になる自己嫌悪の元凶、ねじくれた心は、その谷底に投げ捨てて忘れてしまいたい恐ろしい記憶が造り出しているといって間違いありません。
反省はそういう自分の心の歪みと真正面から向い合うことなんだとわたしは思います。わたしが心の一番深部に埋っていた根っこを掘り返したことは最初にお話しした通りです。もの心ついて初めての辛い苦しい記憶の中に、わたしは自分の〝偽我〟の芽生えを発見したんです。
わたしは〝偽我〟の発端である五歳の自分と徹底的に対話しました。彼女がどんなに辛く悲しかったか理解しようとしたんです。彼女のいい分をとことんまで聞いてやろうとしました。だれにだって〝いい分〟はあるんですね。〝偽我〟にだってそれなりのいい分はあって、ある程度は正当なんです。全てが絶対に間違っていて悪いなんてことはないんじゃないかなって思います。
わたしの依怙地な性格、頑固で人を信じにくい狷介な性格、皮肉で冷笑的でひねくれた性格は、この五歳のわたしの経験から生れてきたんだな、としんそこから納得できました。五歳の少女が味わった惨めな思いが、その後のわたしの性格を歪めてしまっていたんです。少くともそれが出発点であることは間違いありません。
両親に対する皮肉な観点、冷笑的な態度が、他の全ての人たちに向って敷衍されて行くんです。人間なんてこの程度のものだ、しんそこから信じることなんてできないんだ......いくら素晴らしく見えたって、それは見せかけだけにすぎないんだ。だから本気になったりするものか。
どうせ〝落ちた偶像〟になるにきまっているんだから......そう、もう二度と傷つきたくないんです。自分を守らなきゃいけない。そういう身構えが最初からきまってしまうんです。人を信じるのが恐ろしいんです。他人を見る目に自信がないんです。つまり、人を信じられないのは、自分が信じられないからです。
自分自身がひねくれて暗い厭な性格で、自己本位の身勝手なエゴイストで他人に好かれない人間だとわかっているから、自信なんかあるわけがありません。自分がそんな厭な人間だったら、他人がどうしてよく見えるかということです。
他人が、みな、自分と同じように皮肉でひねくれた意地悪な心で動いていると思いこんでいたら、人間なんかだれも信じられないと思うのは当り前です。相手のあらゆる言動に悪意を見出してしまうにきまっています。
相手が無邪気で悪気がなくても、自分の悪意や意地悪という基本的な観点から色メガネをかけて見てしまいます。
人間はいつも他人の裡に自分自身の姿を見出しているんですね。他人の動機と自分のそれは違うかもしれないとは考えにくいと思うんです。
いつも他人の心を臆測して、悪く悪く取っているんです。そのうちに被害妄想になってくるのは当然ではないでしょうか?
わたしはもう二度と失望したり幻滅したりするのが厭だったんです。他人を信じなければ、裏切られて絶望したりすることはないんだと思いました。他人を信じてはいけない。だからどんどん他人との間に高い塀を造り出して行ってしまったんです。
他人がその塀を越えて侵入することは頑として拒みました。ある程度までは接近を許しても、それ以上は絶対に許さないんです。ぴしりとはねつけるんです。だから、わたしには本当の友人が一人もいませんでした。当り前のことですけど......
本心では孤独で、寂しいんです。でも我慢しているんです。人を愛し、信じて裏切られる苦痛を知っているから、我慢した方がましだ......そう本気で思いこんでいました。
だから、素的だな、素晴らしい人だな、と思う人間が現われても、つい逃げてしまうんです。自分を護らなきゃという意識が強く働いてしまうからです。
もう二度と幻滅したくない。その気持が堅固な高いフェンスを造ってしまっているわけです。
ですから、東丈先生に対して、わたしは初めて高いフェンスの内側から出てきたということになります。その代り、もし先生が偽物であるならば、自分の手でその欺瞞性を引き剝がしてやるんだ......そんな悲壮な気持で武装していました。それにはとても大きな決心が必要でした......でも先生との出逢いが自分にとって物凄く大きな転機になると直感しましたし、背筋に強い電流が通り抜けたことをはっきりと覚えています。これで人生が変るんだという戦慄を伴った自覚でした。おそらく皆様にもわたしと同じような経験がおありではないかと思います......」
郁江は言葉を切り、しばらく沈黙した。聴衆の裡に己れの言葉が喚起した感動をともに味わっているような沈黙であった。
「わたしは最初、幻魔についてお話しするつもりだったのですけど、いつの間にか〝偽我〟さんの話から、今回の箱根セミナーのメインテーマである〝反省〟にまで逸脱してしまいました。
わたしはまだ〝反省〟については充分に考えが熟していません。まだまだ不充分だし、見落しも沢山あると思います。わたしはまだとても未熟だし、そのことは皆さんも忘れないで下さい。わたしなりの反省についてお話ししただけで、他の人たちにとってもあてはまるかどうかわからないんです。反省にも他にいろいろなやり方、方法論があるんじゃないかと思います。
幸いにして、わたしはあまり深刻な性格ではなく、かなりいい加減な、いってみればチャランポランな人間です。だからこそ、自分の〝偽我〟ともわりあい軽い気持ちで対話できたのかもしれないんです。人によっては、己れの偽我と対決するのはもっともっと大変なことかもしれません。そのことを念頭において、ご自分の〝偽我〟さんと話し合ってみて下さい......」
当を得た警告だった。平山圭子は、美晴がしきりに首を小刻みに振りながら熱心に聴き入っているのを目に留めて、少し不安な気分になった。
郁江は本人がいうようにいい加減な人間ではなく際立って強い性格の持主なのだ。その強靭さは魂の持つ性格であり、普通の人間には真似のできないものかもしれなかった。
郁江の告白は奇妙にスリリングな感覚をもって人々の心を捉えたようである。それは人間の内面性が、傍目で見ていては想像もつかない複雑な屈折に満ちていることを知らされ、他ならぬ自分自身も例外ではないのだという発見に驚いているようであった。
「先生! 質問があるのですけど」
と、竹居が沈黙を破って挙手した。
「わたしは先生じゃありませんけど、何ですか?」
「あんまり素晴らしい講演だったので、つい先生といってしまいました......さっきから非常に気になっていることがあるんです」
「といいますと?」
「あの、五歳の少女の郁江さんが家出をしますよね。どこか遠くへ行きたいと......暖い幸せの国を捜して、氷雨の降る夕暮れ、雨に濡れそぼりながら暗い夕方の街を歩いて行く......それでどうなったのか、心配でしょうがないんですけど」
「別に暖い幸せの国に行ってしまわなかったようです。こうしてわたしがこのステージの上に立っているところを見ますと......」
聴衆が笑った。竹居は焦れて、両掌でタオルを絞るような手付をした。
「いや、雨に濡れて風邪を引き、肺炎にでもなったんじゃないかと心配で......それで、結局、警察に保護されるとかして、家に連れ戻されたんでしょう?」
「そうですね、肺炎になったという記憶は別にありません、でも、どうしたんでしょうね、結局は家へ無事に帰ったんですけど、警察のお世話になったかどうか、そこまでは憶えていません......」
郁江は首を傾げて考えこみながら答えた。
「無事に帰れてよかったです」
竹居が感情をこめていい、拍手を引き出した。
「安心しました。どうなったのかとずっと心配していたんです」
「ありがとうございます、ご心配頂いて......その後のことは記憶がさだかでないんですけど、とにかく何事もなかったんでしょう」
郁江はいいかけ、ふと口をつぐんだ。
「今、ちらっと思いだしたんですけど、だれかに逢ったような気がします。そう、若い女の人だったみたい」
「若い女の人ですか?」
と、内村が身を乗り出すようにして尋ねた。
「ええ、確かそうだったと思います。不思議ですね、今この瞬間まで完全に忘れていたんですよ......若い女の人がどうしたの、と尋いてくれて、しばらく話し合っていたような気がします」
郁江はおぼろげな記憶を懸命に辿りながら、跡切れとぎれに呟いた。
「女の人がわたしのびっしょり濡れた頭や顔を拭いてくれて......もしかしたらその女がわたしを家に連れ戻してくれたのかもしれません」
「きれいな女の人でしょう?」
「ええ......とてもきれいな女......それに親切でした......でも、変ですね、なぜ今までけろりと忘れていたのかしら? これまで一度も思い出したことがなかったのに」
「その女の顔は憶えていますか?」
内村は妙にしつこく質問を重ねた。
「ぼんやりと......夕闇の中で白い大輪の花みたいだったのを憶えてます」
「突拍子もないことを敢えていいますけど、その若いきれいな女の人って、ひょっとすると今の郁江さんじゃないですか?」
「?」
あっけに取られた表情になったのは、ステージの郁江だけではなかった。内村はさすがに照れくさげにメガネに手をかけて、位置を直したりした。
「いや......郁江さんがさっき五歳の少女である自分と話し合ったとおっしゃったでしょう? 少女のいうことを徹底的に聞いてやったと......それでふっと気付いたんですよ。もしかしたら郁江さんの意識は時間と空間を超えて、十二年前に戻り、過去の五歳の自分の前に姿を現わしたんじゃないかなって......想念の力は時間空間を超えて働くというじゃありませんか。五歳の郁江さんの前に現われた優しいきれいなお姉さんは、今の郁江さんだった......もしかしたら、それは本当に起こったことじゃないかと思ったもんですから」
「それは素晴らしいイマジネイションですね」
と郁江がいい、内村は赤くなって頭に手をやった。
「いや、非常に美しいイメージですよ。僕は胸が痛くなりました!」
竹居が意気ごんでいった。
「美しくて優しくて、こう泪がじわっと湧いてきます。なんともいえず懐しい郷愁を誘われるような......僕は内村氏のいったことは本当に起こったと思います!」
聴衆が拍手で共感の意を表明した。暖いものが人々の心を流れていた。
「話を幻魔に戻しましょう」
と、郁江がやや唐突な感じで言葉をつないだ。だれもが郁江の少年っぽい含羞を感じずにはいられなかった。
「幻魔のテーマに戻らないと、少しも話が進行しませんので......大急ぎでわたしの幻魔研究を発表させていただきます」
その時、ひどく傍若無人な印象で、ルポライターの風間俊敏が会場の大広間に入りこんできた。無断でストロボをたき、カメラのシャッターを押し始める。
12
井沢郁江が幻魔に関して話題を引き戻したと同時の登場だっただけに、風間の出現はややショッキングなものがあった。前夜遅く、ホテル廊下で、幽霊騒ぎを派手に演じただけに、トップ屋風間の存在はホテル中に知れわたっているといってよかった。
聴衆は異様なものを見る目付でトップ屋を注視した。勝手に闖入して写真を撮りまくっているトップ屋は、注目の的になっていることを意に介す気配もなかった。
ステージの上の松岡と井上は気色ばんで立上り、聴衆の間にいる塾生の注意を促そうとした。場合によっては自分たちがステージから降りて行きそうな気色であった。聴衆はざわめき、会場の雰囲気はとげとげしいものに一変してしまった。
会場にいた河合康夫ら塾生数名が跳び出して、トップ屋を取りおさえにかかった。
「ルポライターの風間さん!」
郁江はワイアレス・マイクを握って、ステージから呼びかけた。中央デスクの後ろから立ち上る。悶着を起こしかけていた風間はさすがにマイクで名差しにされ、びっくりした顔でステージを見詰めた。

「風間さん、あなたはこの箱根セミナーの邪魔は決してしないから取材させてほしいと申し込んだはずじゃなかったんですか? わたしはあなたがしつこく杉村さんに頼んでいるのを知っていますよ。それなのにこんな乱暴なやり方で、許可されていない取材を強引にやってのけるとはどういうことなんですか? あなたはゆうべも夜遅く大騒ぎして研修のみならずお泊りになっている一般のお客様の安眠まで妨害したじゃないですか」
厳然とした容赦のない糺弾であった。それまでの愛らしい郁江からは想像もつかないような峻烈さがあり、さすがの風間も棒立ちになってしまった。マイクで名差しでは、いかに厚顔なトップ屋も閉口したのであろう。
「幽霊騒ぎで一晩中眠れずに、昼まで眠って、目覚めると今度はノコノコ出てきてまた大騒ぎなんですか? まったくいい加減にしてほしいですね。周囲にいくら迷惑をかけても何とも思わないんですか? もう少し遠慮というものを心得ていないと、本当に可愛くないですよ! 自分でもそう思いませんか?」
さすがの風間も頭を搔いてニヤニヤ笑っていた。マイクを握った郁江が相手では喧嘩にならない。
「もう少し控え目にやって下さい。でないとわたしがここから降りて行ってつまみ出しちゃいますよ。会場警備の腕っ節の強いお兄様方の手は借りません! わたしがこの腕で実力行使しちゃいますからね、いいですか?」
郁江は可憐なピンクのスウェーターの袖を腕まくりし、気勢を挙げてみせた。笑声と拍手が湧き、ステージの郁江を応援した。
「それが厭だったら、そこにおとなしくじっとしていらっしゃい。勝手に写真なんか撮ったら駄目ですからね。いいですか?」
闖入者を取りおさえるべく、詰め寄っていた康夫ら塾生たちもあっけにとられたが、一番驚いたのは、他ならぬ風間自身であるかもしれなかった。
「風間さん、わかったら頷いて下さい。でも約束ですよ。もしセミナーをこれ以上妨害したら、これですからね。いくらあなたでも笑い物になりたくないでしょう?」
風間は度胆を抜かれた顔をしていたが、あわてて大きく頭を上下させ頷いてみせた。
「風間さんが約束しましたから、警備班の方々は元の位置に戻って下さい。わたしの研究発表を続けます」
騒然と湧きたった険悪な雰囲気は、手際よい郁江の処理で速やかに鎮静化した。これほど常識はずれの、しかも巧妙な鎮圧はないとだれもが感じていた。峻烈でありながらユーモラスで、しかも可愛らしく、角が立たない。とっさにこれだけの手腕を発揮するのは並大抵ではないと平山圭子は思った。郁江は異常な天才ぶりをますます顕わしてくるようだ。それとも、これも目に見えない宇宙意識の助力の顕われなのだろうか......
しかし、杉村由紀が、郁江の処置をどう思うか、圭子は首を縮めたい気分になった。郁江の遣り方は僭越だと由紀は感じるに違いなかった。トップ屋を勝手に会場に入れて、セミナーの聴講を許すなどとんでもない越権行為には違いない。郁江には勝手にそんなことを許可する権限はないはずである。
恐るおそる周囲を見まわしたが、杉村由紀の姿勢のいい長身は見出せなかった。どうしたのだろうと不審の念が湧く。まだホテルの廊下で田崎宏と立話をしているのだろうか? 杉村由紀は丈の不在でおそろしくナーヴァスになっているのだ......
「素晴らしい方ですね!」
と、息を殺して白水美晴がささやいてきた。興奮を隠せない面持であった。まだ聴衆が騒然としているので、話しかける勇気をかきたてたのであろう。
「あんなお嬢さん、見たことありません! まるで天使みたい! ただものじゃないですね!」
心からの讃辞であることはわかっていた。本気で崇敬の念を抱いたのだ。圭子にも、今の郁江にはその讃辞に恥じないだけの内容があるような気がした。
「わたし、あの方とどうしてもお話ししてみたい! そういうこと、できるでしょうか!?」
興奮に堪えきれず、両の拳が白くなるまで力一杯握りしめ、胸許に押しつけ、美晴は叫ぶようにいった。場内のざわめきは、彼女の興奮と呼応するように高くなっていた。
美晴に向って頷き返しながら、平山圭子は杉村由紀がこの場に居合わせないことに、不安を高まらせていた。郁江が今、このように驚くべき才能を顕わし始めたことは、東丈を襲っている異変と何らかの関りがあるのではないかと突如気付いたのである。
郁江は、東丈の〝身代り〟として動きだしたのかもしれない。丈の不在が強く郁江の自覚を促したのではないだろうか......
13
再開された講演の後半は、雰囲気ががらりと一変した。郁江がテーマを〝幻魔の攻勢〟について絞ったからである。
幻魔と聞いただけで、会場の空気が緊張するのが皮膚感覚でわかるほどであった。闖入者のトップ屋風間も今のところはおとなしく座りこんで聴講していた。
郁江は背後のブラックボードに、幻魔と大書して会場を振り返った。
「幻魔と聞くと、とたんに皆さんしーんとなりますね」
郁江はチョークの白い粉の付いた指先をこすりあわせながら、面白そうにいった。手の空いたホテルの従業員たちも熱心に聴いている。
「〝幻魔の標的〟というのは、皆さんもご存知の通り、三月初めに出版される東丈先生のご本のタイトルです。内容については、先生ご自身のご講演で触れられると思いますから、わたしがでしゃばることはさし控えます。
ここではもっぱら、わたし自身の経験に即しまして、先生からサジェスチョンを頂き、考えてみたことをお話ししようと思います。研究発表などという大げさなものではありませんから、安心して聞いて下さいませ」
鮮やかな語り口であった。わずかな間に口調や言葉遣いまで洗練されて、初講演のぎごちなさ拙劣さの影もない。わずか十七歳の少女の生硬さとは縁がないのが不思議であった。実にみごとな呼吸である。
ただ単に巧妙であるだけでなく、新鮮な魅力に富み、無類に可愛らしく、しかも洒脱という形容がふさわしかった。とうてい素人などとはいえない。いったいどこで、この呼吸を覚えてきたのかと瞠目するほかはなかった。
「わたしが先生にお聞きしたところによりますと、〝幻魔の標的〟とは、他ならぬわたしたち自身のことを差すそうです。
つまり、わたしたちが気付くと気付かないとによらず、大昔からわたしたち人類は、幻魔という巨大暗黒エネルギーの攻撃目標となり、宇宙から目に見えない砲撃を受け続けてきたわけです。
ですから、〝幻魔の標的〟でない人間は一人もいないんです。全ての人間が、四六時中幻魔によってガンをつけられ......失礼しました、看視を受けているんです。
ここで、幻魔について全然ご存知ない方のために、ちょっぴり解説しておきますと、幻魔とは、宇宙における破壊的な負エネルギーを差して、そう呼んでいます。超巨大な邪悪な意識エネルギーです。といわれてもピンと来ない方は、宇宙における悪魔的存在の本家本元とお考え下さい。
宇宙には物凄く巨大な邪悪な意志の磁場が存在するんです。つまり宇宙を存在せしめようとする大きな宇宙意識、宇宙の光である造物主を大いなる正エネルギーと規定しますと、それを破壊し、破滅させようとする負エネルギーが働きます。それが幻魔です。幻魔はこの宇宙が誕生する以前から存在する、計り知れない邪悪な古強者、と先生はいっておられます。
また、宇宙における超巨大な悪想念のハキダメともおっしゃいました。さきほどわたしは、人間の心の奥底に潜んでいる悪想念のハキダメといいましたが、つまりそれが幻魔のヒナ型である小さな黒い渦巻なのですかと先生にお伺いしたところ、そうだとお答えになりました。
やはり、幻魔がわたしたち人間を標的としてつけ狙うのは、それなりの根拠があるということです。つまり、こういうことではないでしょうか?
宇宙の巨悪である幻魔にとっては、わたしたち人間がエネルギー源であるということなんです。わたしたち人間の裡に生れ育った、悪想念の黒い渦巻が彼らのエネルギーの根源であり、彼らの目的はその暗黒波動の渦巻を徴収することにあるわけです。
たとえばマフィアのような暗黒組織のことを考えてみて下さい。犯罪組織はそれ自体では存立して行けないんです。どうしても一般市民の間に深く根をおろし、金や構成員を収奪しなければなりません。絞り取る対象の一般市民社会がなければ、マフィアは存在することができません。マフィアは寄生虫と同じなんです。寄生主、宿主がなければ営業が成立しないということです。
もちろん、幻魔はマフィアのような犯罪組織よりずっと悪どくて、不可解なところが沢山あります。考えれば考えるほど、謎めいていて、矛盾だらけです。
邪悪な意志──悪として合理性があるように見えて、何だか得体が知れず不合理で、無気味な混沌があります。要するに純粋な暗闇でどろどろしていて、わけがわからないのが幻魔です。
ですから、よくいわれる神と悪魔の抗争といった具合に単純で図式的なものではないようです。幻魔はいわゆる悪魔という既成概念のように卑小な、みすぼらしいものではないんです。光に怯えてコソコソ逃げ隠れするゴキブリみたいなけちなものではなく、光を闇で吞み尽そうとする不逞ぶてしく強圧的な、したたかな悪だということを銘記しておいて頂きたいんです。
幻魔が永遠不滅の邪悪な負エネルギーであれば、わたしたちも永遠の宇宙意識、宇宙の光である造物主の一部分でありまして、同様に不滅の存在なんです。
わたしたちは永遠不滅の存在であるがゆえに、幻魔は宿敵として永遠に等しい時間をおつきあいしてきたことになります。
わたしたちは転生輪廻を繰り返し、人間としての肉体を持ち、この地上に誕生すると、魂の記憶をきれいさっぱり失ってしまいます。幻魔がどんなものかわからなくなってしまうんです。
それでも、幻魔の波動、暗黒エネルギーの波動は、だれでも直感的にわかります。ザワザワッと来る、暗い不吉な感じ、無気味な妖しい感じは本能的にわかってしまうんです。
それは、肉体を持つ人間が記憶喪失していても、潜在意識の中にある魂は、宿敵の幻魔をすぐに波動としてキャッチしてしまうからです。魂は何一つ忘れず、全ての記憶を蓄えているからです......
ですから、わたしたち人間が、暗黒波動を恐れたり、無気味に感じたりするのは、いわゆる本能的なことなんですね。とくに幻魔が攻撃目標としてつけ狙っているというのは決して冗談事じゃありませんし、皆さんの中にはどうしようと恐れおののく方もおいでかもしれません。幻魔は闇に潜む得体の知れない代物だけにいっそう無気味です。恐ろしい怪獣につけ狙われている恐怖でノイローゼになってしまう人もあるいはいるかもしれません......
もちろん、〝幻魔の標的〟をお書きになった東丈先生の真の意図は、幻魔の正体を暴いて、幻魔の目的を人々に報らせ、警告することです。闇雲に脅して怖がらせることではありません。
幻魔問題研究を先生にいいつかったわたしの目的もそれと同じです。幻魔とは実にありきたりの、昔からありふれた存在だという事実を明らかにし、この昔なじみの旧敵、古いおつきあいの幻魔さんをどう扱ったらいいか皆さんとごいっしょに考えてみようということなんです。
はっきり申し上げて、幻魔は大変な強敵でして、決して軽視することはできませんけれども、無闇に恐怖し、逃げ腰になって恐れ戦くことは決してないということです。
なぜかといいますと、人間は普通の状態では、正エネルギーである宇宙意識の強い光でもってガードされているからです。
光が強い時には、闇は人間の裡に侵入してこられません。幻魔は普通の状態においては、なかなか人間に手出しができないんです。
たとえば、大昔から地球上には沢山の細菌が棲息しています。中には病原菌もいますけれども、人間の生体には細菌に対する抵抗力が備わっていて、そう簡単に病菌に犯されることはありません。太古からの宿敵を抑えてしまっているわけですね。
ところが、一度人間の肉体が正常な健康的なバランスを喪うと、今まで手の出せなかった病原菌はいっせいに暴れ出し、攻撃に出てきます。普段は無害だった細菌まで凶悪な正体を剝きだして致命的な攻勢をかけてくるんです。正常で健康な肉体では無害な存在が、危険な殺し屋の素顔を明らかにするわけです。
幻魔の場合も、それと同じことが起こると思うんです。人間の心が正常な健康的なバランスを保っている時は、幻魔といえどもなかなか手が出せるものではない。むしろ強い光のため遠ざけられてしまいます。
でも、人間の心が病み、憎しみや怨み、嫉みそねみの悪想念に毒され、犯された時は、待ちかまえていた幻魔の付け目です。あっという間に幻魔の掌中に落ちてしまいます。弱い光を幻魔の闇が吞んでしまうことになるんです......
幻魔は単純な細菌と異り、頭がよくて狡猾で計画的です。人間の精神的に正常なバランスが崩れるのを気長に待っているだけではありません。
計画的に罠を仕掛けることもあるし、意図的に揺さぶりをかけたりもします。それどころか慎重に悪想念の芽を植えつけ、丹念に育てあげ、反乱軍を決起させてクーデターを起こすこともやってのけます。巧妙に偽装したスパイを送りこんでくることもあります。
幻魔はその意味で物凄く巧妙な破壊活動工作者に似ています。というより、破壊工作者テロ工作者たちは、幻魔の波動を受けて、幻魔を模倣しているのではないでしょうか? さっきマフィアなど犯罪組織のことをいいましたけれども、これも幻魔の暗黒波動によって動く、幻魔軍団組織のコピーといえるのかもしれません。
要するに......幻魔の暗黒波動は大昔から人間社会の隅々にまで入りこみ、しっかりと根をおろしているんではないかな、とわたしは思うんですけど。
ですから、ますます幻魔とは昔なじみの存在であって、今さら驚くほどの新顔のギャング組織ではないということになります。ただ東丈先生と宇宙意識フロイとの交感により、幻魔の宇宙的規模、全容というものがある程度わかってきたということなんです。
ずばりといえば、今まで人類が悪魔、妖怪、魔物と呼んできた魔性の存在は、幻魔の一部にしかすぎず、それもうんと階梯が下の、最下位ランクの下っ端だったということです。
宇宙の真の姿に目を開くと、幻魔という超巨大な暗黒星雲のような悪の渦巻が目に入ってきたわけです。
でも、恐れることはない、と先生もいっていらっしゃいます。幻魔の真の姿とともに、造物主と呼ばれる宇宙の巨大な光も、同時に人間の視界に入ってきたからです。大宇宙を創造した大いなる光にしてみると、幻魔もまた大きな包容力をもって懐の中に抱く、そうした小さな存在でしかないんです。
宇宙における光と闇の壮絶な戦いといいますと、造物主と幻魔は対等の存在に見えるかもしれませんけど、本当はそんなものではないということです。
闇は光の存在を際立たせるものにすぎず、その逆はありえません。光と闇は全く次元の異る存在なんです。
幻魔がいかに巨大、凶暴な宇宙的破壊者であっても、造物主である大いなる光は、無数の宇宙を一瞬にして創造し、産みだすことができます。幻魔の破壊は全然追いつきません。幻魔は何百億年もかけながら、まだこの宇宙、物質宇宙一つさえも滅すことができずにいるではありませんか!
このように幻魔の力は巨大でも、むやみに恐れ戦く必要は全くないんです。むしろ、幻魔は脅迫と恫喝を常套手段にしていて、いたずらに人間が恐怖することは、彼らの思うつぼだということです。
幻魔を怖れることはないんです。幻魔の正体を知り、その在り方を明確に知ることによって、有効な対抗手段を講じることができます。それは、衛生状態をよくすることにより、有害な細菌をシャットアウトするとともに、良好な健康状態を保持することと少しも変りません。
何よりもまず、幻魔という敵の正体をよく知ることが大事なんです。幻魔がどんな目的を持ち、どんな手段をもって攻勢をかけてくるか、知識を持つことによって、わたしたちは身を護ることができます。
疑心暗鬼になったり、被害妄想になることは、幻魔の思い通りになり、彼らを喜ばせるだけなんです。幻魔を過小評価し軽視することはもちろん間違いですけど、必要以上に大きく評価することも間違いです。
東丈先生もおっしゃっているように、幻魔から身を護るのは、わたしたちが心を結び合わせ、〝光のネットワーク〟を造り出すことが最高の方法です。宇宙の光はどんな幻魔の攻撃も突破できないほど強まり、わたしたちを護ってくれます。先生がめざしておられるのも、人類全体が自覚を得、巨大な〝光のネットワーク〟を造りだすということだと思います。この時にこそ、幻魔の敗北は始まると預言されているんです。
もう少し具体的にいいますと、人類の各自がもっと精神衛生に気をつける必要があるということではないでしょうか?
人の心が毒念によって汚染されますと、幻魔はにわかに活発に活動する条件を与えられたことになります。人の憎悪や怨恨や嫉妬などの悪想念は、幻魔という病原菌にとり、絶好の培養基です。幻魔はあっという間に人の心を腐敗させ、乗取ってしまいます。
人の心を光で満たし、幻魔につけ入る隙を与えなくさせるのが〝真の救世主〟の果すべき使命です。つまり人々を自覚させることが救世主の使命だ、と先生はいつもおっしゃっておられます。
人が自覚を得るためには、宇宙の真理、宇宙の法則を知らなければならない。救世主は宇宙意識との魂の交流により、〝宇宙の法〟を教えられ、人々に説くことを求められます。
そして、〝宇宙の法〟を知らずに、人が自覚を得ることは至難の業といえます。そのためにこそ、救世の使命を帯びた〝その人〟は地上に肉体を持たれるのです。
〝宇宙の法〟は一つ一つをとれば単純に見えるかもしれませんが、それらを体系として自覚するのは〝救世主〟だけになしうる業です。
反省だって? なんだ、古臭いことをいうな、と思う人々は少くないと思います。反省、努力、と聞かされると、顔をしかめて反応するのではないでしょうか? もしかすると学校の退屈な道徳の時間が、しかめ面の原因になっているのかもしれません。
お仕着せになっている通俗次元での道徳訓は、偽善者を大量に製造します。自らは信じてもいず実践もしていない偽善者の押しつける道徳訓が、人々の反発を招くのはむしろ当然のことかもしれません。
でも、人々の心には生れながらに良心が存在していて、ごく自然に徳性の高さを崇敬し、自ら求めるのも、否定できない事実ではないでしょうか。
それは他から決して強制されず、自発的に求めて行く心の働きです。反省、努力? よしてくれ、と吐き捨てる人だって、本当はその素晴らしさをよく知っているんです。ただいかがわしい偽善的な他者から押しつけられることに反発しているんです。
〝真の救世主〟は決して道徳訓を人々に押しつけたりはしません。人々の心を光で満たすことにより、自覚を促すのです。素晴らしい偉大な人の光を、己れの魂で受信した人々は、ヒマワリのように心が光源に向いてしまうんです。
そして人々は、自覚の素晴らしさを自ら知ります。他から強制された時は、やみくもに反発して受付けなかった徳性の真の意味を理解するんです。それらが実践した時にだけ顕わしてくる真の価値を、己れの目覚めた霊性で知ることができるんです。
〝宇宙の法〟は壮大な体系なんです。一つ一つの要素は単純に見えるかもしれません。
だれもが既成概念として持っている知識ばかりのように思えます。反省や努力はありふれた道徳訓であり、コケのはえたような徳目に思えます。
転生輪廻といえば、古臭い仏教世界の概念だと思います。宇宙の創造主、造物主といえばキリスト教の神様だな、と既知の概念の中にさらいこみ、分類してしまいます。
高次元世界っていうのは、つまり天上界で、宇宙意識っていうのは神様とか天使のことをいい換えたんだな......そんないい方をする人に逢ったこともあります。
いい換えをすると、非常に理解しやすいようですけど、大切な本質を誤解してしまうこともありえます。一つ一つの要素は、埃をかぶった古臭い宗教や哲学の既成概念と少しも違わないように見えてしまうんです。
でも、自覚を得、心が開かれた時、そうした既成概念が全く間違っていたことを悟るんです。画に描かれた餅の味は決してわかりません。〝宇宙の法〟は実践の法なんです。食べてみなければ、その真の値打はわからないんです。〝宇宙の法〟は体系であり実践なんです。
最高の料理人が作った素晴らしい料理の材料は、一つ一つをとれば、なんの変哲もない料理の素材です。ありきたりの平凡な野菜であり、魚介であり肉でしかありません。
それを差して、なんだ、ありきたりじゃないかという者がいれば、よほど愚かな人間でしょう。料理を味わわずに、材料だけで悪口をいうのははっきりいって馬鹿としかいいようがないのではないでしょうか。
ですから、〝宇宙の法〟の一つ一つの要素を差して、なんだ、ありきたりのことばかりじゃないかという者は、気の毒な人だとわたしは思います。
そのありきたりの既成知識ですら、その悪口をいう人間が、自分一人で気付いた真理ではないではありませんか。全て与えられたものであり、何一つ自ら悟った真理じゃないんです。埃だらけの古臭い代物と見えても、埃を払ってみれば光り輝く真理が姿を現わしてきます。
その埃を払うことさえできない人間がほとんどなんです。それができるのは、宇宙意識に導かれた〝真の救世主〟その人なんです。
わたしたちは〝使徒〟としての使命を担っています。つまり〝真の救世主〟がいかなる人であるかを多くの人々に伝え、報せて行くことが使命なんです。
東丈先生のおっしゃったことを上手に受売りし、お説教して行くのが、わたしたち〝使徒〟のなすべき業じゃないんです。そんなことをしても、すぐに見破られてしまいます。受売りはあくまでも受売りにすぎず、身についたものではないからです。わたしたちがいくら巧みに先生のお話をコピーして、上手に真似て話そうと意気ごんでも、肝心の魂から出てくる波動が全く違って、頼りなく弱々しいものですから、あっけなく見抜かれてしまうわけです。
わたしたちは、〝真の救世主〟がその人であることを人々に差し示すのが役割で、それ以上のものではないはずです。このようにステージの上で偉そうに喋っているわたしも、みな受売りです。全て東丈先生に教えていただいたことばかりです。
先生はいつも有益なサジェスチョンを与えて下さって、わたしたちが自ら気付くように仕向けて下さっています。ごく単純な真理でも、わたしたち愚鈍な人間が自らの力で、独力で悟るというのは困難です。
それなのに、偉大な悟られた方に教えていただいたことを、あたかも自分だけの力で悟りを開いたように思いこみ、思い上った挙句、人々に偉そうにお説教してまわることがいかに多いことでしょうか?
今までわたしのお話ししたことが、そのような印象を皆様に与えたとしたらご免なさい。そんなつもりは毛頭なかったんです。わたしはただ先生に出された宿題をこうやって皆様の前でご披露してるだけなんです。大それた自信など少しもありません......先生が、郁江君、君はどう思う、と問いかけられて、自信はないなりに出してみた答をお話ししているだけなんです。それを決してお忘れにならないように、とお願いしておきます」
郁江は、ルポライターの風間を意識しているのだな、と平山圭子はようやく吞みこめた。箱根セミナーに参加した会員たちは、幻魔について東丈から教えられて知識をかなり持っている。郁江が初心者向きにわかり易さ平明さを強調して話していることに違和感を持っていたのだ。
むろんルポライターだけが対象ではない。こっそりと傍聴しているホテル従業員のためでもある。これだけの配慮をごく自然にめぐらすことが郁江にはできる。自分にはとうてい及ばないと圭子は痛感した。
郁江の話がどれだけ説得力を有しているか、隣りの白水美晴が夢中になって聴き入っていることでもわかる。郁江が、ここにはいない東丈の波動に乗って語っていることはもはや明白だった。
それだけに圭子の胸騒ぎはおさまらなかった。そっと振り向いて、会場に杉村由紀を捜すが、やはり見当らない。なにごとか異変が進行しつつあるのはまぎれもないと思った。無気味な黒雲が覆いかぶさってくる心地がした。
胸騒ぎは灼けつくような焦慮に育って行き、それに堪えるのは大きな苦痛であった。早く杉村由紀を捜しに行き、状況を把握したい。圭子はどうしようかと思った。大声で叫びだしたい切迫感がつのってくる。
こんな堪えがたい気分になったのは初めての経験だ。とろ火で煮られているような凄まじい焦燥の苦しみである。圭子は情緒が安定しているタイプであり、この強度の不安感には普段から馴染みがない。それだけに強い不安がいきなり増大してくるのは、驚愕さえ伴なっていた。
なぜこんなに不安なのか異様な気がした。圭子は深呼吸して不安を鎮めようと必死に努めた。こんなことで動揺してはならない、と自分にいい聞かせる。たとえどんな事態に立ち至ろうとも、やるべきことは一つのはずだ。げんに郁江は己れのなすべきことを懸命に果そうとしている。東丈の代役をみごとに遂行しているではないか。
広い宴会場は暖房が不足気味なのに、圭子の顔にはじっとりと汗が滲み出してきた。
14
「幻魔は強烈な意識エネルギー体です」
郁江は淡々と続けた。
「強い意識エネルギーの集中固定化により、物質化現象は容易になされる、と先生はいっておられます。
要するに、幻魔の基本的な在り方は意識エネルギーで、必要に応じて幻魔は物質化を行ないます。幻魔は霊体で現われることもあるし、肉体で現われる場合もあるので、一律にはその形態をきめつけられないのですけど、多くは憑依という形で、人間の心と肉体を乗取ってしまうようです。
憑依......憑き物です。さきほどお話しした人間の心の小さな暗黒の渦巻に、幻魔は暗黒波動を送って揺さぶりをかけ、共鳴現象を起こします。
激しい震動を起こして、相手の人間の心のバランスが崩れると、幻魔は一瞬にして主客転倒を演じ、人間の心と肉体を乗取ります。もはやその人間は己れでありながら己れでなくなり、肉体を強奪されて、心は幻魔の奴隷になりさがり、思うがままに操られることになってしまいます。
肉体を乗り物としますと、いわばハイジャックされてしまうわけです。操縦士にはもはや己れの意志がなくなります。ハイジャッカーの幻魔が支配者として振舞うようになるんです。
憑依されるということを、皆さんは非常に怖れるとともに関心を持たれているようです。昔から狐憑きといった現象があり、常人には不可能な突飛な行動をとるので、憑き物のことはわりあい広く知られています。狐に憑依された人間は超人的な怪力を発揮したり、座ったまま二メートルも高く跳躍したり、重い大きな布団を口でくわえてビュンビュン振りまわしたりします。失せ物を巧みにいいあてたり、予言をしたりする場合もあります。
これは〝狐〟が生物種としてのキツネではなく意識エネルギー体の魔物である狐だから可能なんです。狐憑きの狐は、魔族なんです。肉体を持ったキツネにはそんなことはもちろんできません。
こうした魔物の憑依は、復讐や悪戯というような動機で行なわれる場合が多いようです。魔族を犯罪者になぞらえますと、個人営業の犯罪者といったところでしょうか。
ところが、幻魔は巨大犯罪組織のマフィアです。人間に憑依するにしても気まぐれや悪戯でやることはまずないといっていいと思います。幻魔は精妙な計画を立て、整然と実行にかかるので、行きあたりばったりなところはありません。
憑依する相手を選び、ちゃんとした目的をもって、己れの走狗とすべく支配するんです。巨大な計画の一部として、特定の人間を選び、制圧しにかかります。その巨大計画というのは、いわば〝人類幻魔化作戦〟です。相手もあだやおろそかにやっているわけじゃないんですね。
幻魔は綿密な計画を立てていますから、有効なポイントをしっかりと抑えて行こうとします。人類全体を制圧するために必要な人材を幻魔の走狗に仕立てあげるのが目標になります。従って憑依は人間ならだれでもかれでもというわけじゃありません。
真先に狙われるのは、社会的に有力な人間、つまり実力者で、社会全体に大きな影響力を振う立場にある人間です。政治家、宗教家、芸術家、大企業の経営者もそうだし、マスコミ関係者も有資格者です。それに次いで、これらの有資格者たちに身近で影響を及ぼす人たちも目標になるでしょう。
幻魔が相手のガードを崩すのは、決して尋常一様な、単純な手段によることはなく、ありとあらゆるテクニックが駆使されるはずです。金権欲に弱い人間はそれにつけこみ、名誉欲に強い人間にはそれなりに、色欲に弱ければ、という具合に、もっとも相手の弱い部分から攻めこみます。概して、人間の欲望をかきたてることによってつけ入ろうとするわけですが、義理人情に弱い人間に対してはお涙頂戴でくいこむ巧妙さも発揮されます。
幻魔は意識エネルギー体ですから、人間の心をお見通しです。どんな弱点を持っているか、それこそ本人以上にご存知というわけです。それゆえ完璧な攻略法を立案することができるわけです。
皆さんは、それなら自分には関係ないや、とホッとした顔をしてらっしゃいますけど、それはちょっと気が早すぎますよ......」
郁江は釘をさして、忍び笑いを引き出した。彼女は聴衆の心の動きを完全に把握しているようであった。
「それどころか、皆様は東丈先生の弟子であり〝使徒〟なんですから、もっとも重要な攻略目標なんです。どうぞ誤解なさらないで下さい......
わたしたちは四六時中、間断なく幻魔の完全看視下に置かれていると見て間違いありません。わたしたちのどんな心のゆらめきも、即座に幻魔の探知するところです。幻魔はわたしたち一人一人の弱点を知り尽して、着々と計画を立て、各自にふさわしい攻略法をもって攻撃をかけてきます。もはやそれは開始されているでしょう。心に穴があいていたりして、幻魔につけ入る隙を与えようものなら、電光石火で幻魔は心に橋頭堡を築いて、大攻勢に出てきます......」
郁江は言葉を切り、頭を傾げて、何者かの声に聴き入るかのような仕草を見せた。
「でも、心配しなくてけっこうです。確かにわたしたちは物凄い幻魔の攻勢に今この瞬間もさらされていますけれども、〝光のネットワーク〟で護られているからです。わたしたちが心の絆を互いに解かない限り、幻魔は空廻りをするだけです。
もし、先生がいつも望まれているように、充分に自覚した人が十人いるならば、世界は幻魔を退けることができるんです。皆さんは今、なによりもまず自覚することを望まれているんです......
自覚さえすれば、幻魔は少しも怖れるに足りません。反省や努力は、自覚へ到達するために絶対に不可欠の道程なんです。皆様はもうそれをよくご存知のはずです。
つまり、反省を充分に行なうことにより、己れの弱点がわかってきます。幻魔の攻略法が読めてしまうんです。その意味でも、〝己れ自身を知れ〟という格言は大切です。
幻魔の手が読めさえしたら、いくら攻められても、ちっとも怖くありませんよ、そうでしょう? 幻魔が心に送りこんでくる波動、恐怖や怒りや不安、そういった破壊工作員の存在をすぐに見抜いてしまえるからです......いくらやり方が巧妙でも、冷静に落着いて対処することができるからです。
幻魔ははっと驚かして心理的なショックを与え、するりと入りこんでくるテクニックに長けています。あわてたり、うろたえたりすれば、あっさり相手の術中に陥ってしまいます。
いつも苛々していたり、恐怖や不安に怯えていれば、ショックを与えて攻略するテクニックの好餌になってしまいます。いつも心は平静に、柔和さを保っていることが大事なんです。わたしたちがバランスを保持していることは、幻魔にしてみれば、とてもやりにくいことなんですよね。
つまり、暗黒波動を送りこんで、共鳴作用を生じさせることが困難だからです。幻魔は〝光のネットワーク〟という強固なガードを突破しなければ、仕事になりません。それだけのハンデがすでに存在するのに、なおかつ更にむずかしい作業をしなければならないんです。
武芸に練達した松岡君や井上君なら、よくご存知でしょうが、自分より防禦の業に優れた強敵を崩すにはどうしたらいいでしょうか? 幻魔の側に立って攻略法を考えてみましょう。松岡君、いかがですか? 自分より優れた敵を倒すにはどうしたらいいでしょうか?」
いきなり指名された松岡は、ぐっと息を吸い込んで動揺を抑えた。しばらく濃く太い眉を寄せて考える。
「そうですね......防禦に優れた相手を崩すには、よほど攻める方との間にパワーの差がないとむずかしいです。力で防禦を打ち崩すということになりますからね......やっぱり心理的に崩すということになるんじゃないでしょうか」
「心理的に崩すというのは、相手を苛立たせたり冷静さを失わせるということですか? 宮本武蔵は試合の当日に遅刻の常習犯だったそうですけど」
郁江がいたずらっぽく尋く。
「そうですね。カッとさせたり、怯えさせたり、疑心暗鬼にさせたり、とにかく心理的に崩せばいいわけです。そうすれば、相手は自縄自縛になって、固くなったり、ミスしたりして、向うから勝手に負けてくれます。
やっぱり試合ではメンタルな要素が大きいですね。心理的な駆引きが大事で、その点宮本武蔵がただ強いだけじゃなかったというのはよくわかります。物凄く狡猾だったんじゃないですか? もっともこれは褒め言葉ですけど」
「わたしも幻魔は物凄く狡猾だと思います。これは褒め言葉じゃありませんけど......幻魔が心理的な駆引きの超ベテランであることは間違いありません。
人間の方が自ら勝手に崩れてくれるように、小細工を施すのが幻魔の常套手段で、力押しに攻めることは滅多にないという気がするんです。弱敵と踏んでよほど自信があれば、力で攻めるかもしれませんが、〝光のネットワーク〟で護られている人間を攻めるには、やはり心理的駆引きを多用するはずです。
決してまともには来ません。一気に強い波動を送りこみ、憑依してくることはないと思います。ですから、さっきから心配でお尻がもぞもぞしている方は、どうぞご安心下さい。幻魔はもっとソフトに、巧みに忍び寄ってきて、優しく口説きにかかります。いきなりガッと牙を剝いて襲いかかったりはしません」
女の子たちの笑声が甲高く響きわたった。
「幻魔はもっと陰険ですよ。紳士的に振舞って人を安心させて油断させるにきまっています。そういう陰険な男の人は、幻魔を見習っているのかもしれませんよ。
わたしたちはもっと聡明でなければならない......先生はいつも繰り返して強調なさっています。それは、幻魔に対する心構えとしても、重要だと思います。やはり陰険な下心のある男の人に対しては、わたしたち女性は賢く聡明でなければならないわけです。どんな巧妙な手を使ってきても、用心深く自制を効かせていれば、簡単に瞞されたりはしません。
それどころか、相手の思惑が全てお見通しということになるでしょう。女の子は、本当はそう簡単には瞞されたり毒牙にかかったりはしないものですよ。無邪気な人を信じやすい娘だってそうです。波動でおのずと相手の魂胆が見え透いてしまうからです。ちゃんと警戒心がおのずと湧いてきます。いわば、守護天使とか守護霊といったような高次元の賢い存在が、こっそりと耳打ちしてくれるからです。
陰険な男性に瞞されるとしたら、それは女の子本人が瞞されることを自ら求めたんだ、とわたしは思います。
自分の欲望や好奇心との葛藤に負けてしまったんですよ。無邪気で罪を知らない娘だから、悪い男にかかったら、赤子の手を捻るようなものだ......そんなのは噓だと思います。誘惑に応じたのは、自分の肉の欲望に流されたからです。聡明さが足りずに、衝動に負けてしまったんです。後でどうなるか、自分でもちゃんとわかっているんですよ。精薄でもない限り、女の子なら末路がどうなるか知り尽しています。
幻魔の場合だって、結局同じことではないでしょうか? 下心のある陰険な男とそっくり同じテクニックを用いて、誘惑にかかってきます。
肉欲をかきたてて、防禦を切り崩すんです。快楽に脆い人間の弱点を知り尽しているからです。
でも、肉欲に溺れた結果がどうなるか、お脳の弱い女の子でない限り、だれでも一応はわきまえているんですよね。それでもなお流され、溺れてしまうのは、やっぱり聡明さが不足しているからだと思うんです。結果がわかりきっていることをなぜ、わざわざやるんですか?
自分は他の人間とは違う。賢いし、立ち廻り方もよく心得ているから、うまくやってのけられる。そんな傲慢さの虜になって、足を踏みこんでしまう人もいるかもしれません。逆に相手を手玉にとり、翻弄してやるんだという自己過信のために、自ら罠に落ちてしまうんです。
自分だけは大丈夫だといういわれのない自信、自負の虜になっているんですね。幻魔はすかさずそこを突いてくるんです。
わたしたちがもっともっと賢くなり、聡明になれば、幻魔の心理的駆引きは通用しなくなります。幻魔の使う手をことごとく封じてしまうことができるんです。
ですから、恐れることは少しもないんです。幻魔を封じてしまうためには、まず己れの弱点を知ること、そして幻魔の手口を知ることが必要です。
己れ自身を知るには、反省を徹底的にやるしかありません。この一瞬一瞬が反省であるといっても決していいすぎじゃないんです。反省にそれだけの努力を費すことによって、己れ自身の魂の個性、癖というものがしだいに自分の目にも見えてくるはずです。
転生輪廻という長い過程を生きて行くわたしたちは、いわゆるカルマ、業という型を魂の裡に造って行ってしまいます。カルマはその人間の魂に固有の癖です。癖は知らぬうちにできてしまいますし、訂正しようとしても簡単には行きません。たとえばお食事の時、無作法とされる癖を持っている人が少くありません。ペチャペチャと咀嚼の大きな音を立てて、周囲の人を不快がらせる癖を持つ人がいます。小さいうちに直せばいいですけど、大人になってからではなかなか直りません。いくら本人がやめようと努力しても、つい出てきてしまうのが癖というものです。
この世で造った小さな癖でも、訂正するのには大きな努力が必要です。なくて七癖、といいますけど、人間には各自の癖がそれこそ無数にあります。ただ自分では気付かないだけです。知らぬうちに、どんどん習い性になって行きます。
自ら意識しない悪癖をわたしたちは沢山持っているはずです。カルマという魂の癖になると、それこそ転生輪廻によって、地上に出るたびに同じ失敗を繰り返すということになります。
もう二度とやるまい、再び失敗しないぞ、と固い決意をかためて地上に出てくると、記憶が潜在すると同時にけろりと決心を忘れ、また同じことを繰り返してしまうんです。元の黙阿弥ということになってしまいます。
習慣というのは、強い癖を造り出します。無意識のうちにやってしまうんですね。そして同じ失敗を繰り返してしまいます。
癖というものを意識化するには、自分の思考と行為について徹底的に反省するしか方法がありません。一瞬一瞬の自分の思うこと為すことについてよく観察していれば、特有の癖は徐々に意識化されて行くはずだと思うんです。
ああ、また同じことをやってるぞ、と自分で気付くはずです。これは前にも同じことをやった。こういうことをしたから失敗したんだな、と意識化が進んで行きます。意識化がなされない限り、訂正することは決してできません。当然のことですけどね。
お酒で失敗する人、異性関係で失敗する人、人間関係をいつも悪化させる人、いつの世も転生輪廻の度に同じことをやっているんですよ。
今度こそは失敗しまいと決心していても、つい同じことを繰り返します。〝わかっちゃいるけどやめられない〟という植木等のスーダラ節と同じです。
カルマって怖いですね。物凄く強い慣性の法則が働くんです。電車がいきなり急ブレーキをかけると、立っている乗客はみんな転倒してしまいます。カルマというのはそれと同じです。自分自身で造り出した慣性です。自らの意志でブレーキをかけない限り、足許でぐるぐる廻り続けている渦といっしょです。ポケッとしていれば、必ず足を取られて転けてしまうことになるんですよ。
この際、皆さんも真剣になってご自分のカルマについて検討してみてはいかがでしょうか? 徹底的に反省を行なえば、必ず自分のカルマは発見できます。そのカルマこそ、幻魔が集中攻撃をかけてくるこちら側の弱点なんです。
幻魔には人間のカルマがよく見えるわけですし、カルマにつけこみ、カルマを肥大させて失敗をあおりたてることもやってのけます。人間はだれでも肉体的な欲望に弱いものでして、その欲望を巧妙にかきたてられると、自ら足がもつれて転んでしまうことにもなります。
皆さん、心当りがあるんじゃないですか? 神妙な顔をして聞いていらっしゃるところを見ると......」
「先生! 質問があります!」
竹居が手を挙げた。
「わたしは先生ではありません、何度もいうようですけど。質問をどうぞ」
「いや、なんだか東丈先生が郁姫様に乗り移ってきたような気がするものですから、ついいってしまうんです......本当に先生の波動がどんどん郁姫様から出てくるんですよ、ねえ皆さん、そう思いませんか?」
聴衆は拍手で応じた。傍聴のホテル従業員たちまでが同感の意を表していた。
「先生と郁姫様は意識が連動しているような気がするんです。同時に同じことを考えていらっしゃるのではないかと......郁姫様を通じて、郁姫様の口を借りて、東丈先生がお話しになっているように感じられます。もしかしたら、それは本当のことなんじゃないかなって思ったものですから......」
「それじゃまるで先生がわたしに憑依して、乗取っているみたいじゃありませんか」
と、郁江がいい、どっと場内が揺れた。
「いや、しかし、宇宙意識は人間の口を借りてメッセージを送ってくることもあるわけでしょ、だから......」
「だって、それはわたしが先生の受売をやっているからですよ。わたしの考えたことなんか、ほんの少ししかないんですから」
「郁姫様が気付かれないだけじゃないですか? 我々は郁姫様の中に先生の波動をモロに感じてるわけですよ。皆さんもそう思うでしょう?」
聴衆は同意の声と拍手で竹居の呼びかけにこたえた。
「先生はこの場にいらっしゃらなくても、郁姫様を通じてメッセージをくださっているんじゃないでしょうか? これがもしかしたら、〝光のネットワーク〟の証明じゃないかと気付いたんです。先生が世界のどこにおいでになっても、我々と常にともにいらっしゃるということじゃないかなって思ったんです」
剽軽な竹居は真面目な面持でいい、盛大な拍手と歓声を受けた。
「今、竹居君がいったのは、これは打合せじゃありません」
郁江は人々を笑わせた。
「わたしはまだ先生の波動を、そんなによく受けられるとは思っていませんけど、〝光のネットワーク〟とは、今竹居君がおっしゃったように、わたしたちの全員が、東丈先生の波動を受けられる、いいかえれば宇宙意識の波動に己れを合わせて動くということかもしれません。〝光のネットワーク〟が増大するということは、人々の自覚が進んで、光で地球全体が覆われるということを意味すると思います。
でも、その前にわたしたち一人一人が、己れのなすべきことをもっと本気で果さなければと思いますけどね。そのためには、どんなに努力したって、努力しすぎるってことはないんです」
「先生の波動をよりよく受けるためには、どうしたらいいんでしょうか?」
と、内村が尋ねた。
「そうすべきだとみんなわかっていると思うんですが、やり方がわからないんじゃないでしょうか? 郁姫様がいつもどうやって先生の波動を受けていらっしゃるか、それを教えていただけないでしょうか? ちょっと幻魔研究の本論からそれますけど、とても重要なことだと思いますので......」
「そんなことは、先生がいつもおっしゃっていることですよ」
郁江はぴしりといった。思いがけぬ語気の厳しさに、場内がしんとなる。
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「皆さん、耳にタコができるくらい聞いていらっしゃるはずです。今更、改まって質問することじゃありません。本当に先生がいつも嘆いていらっしゃる通りですね。先生のいわれることが、右耳から左耳へ筒抜けになっているんじゃないですか? 一瞬一秒を努力しなさいってあれほどいわれても、ボサッとしてただ聞き流している証拠ですよ」
痛烈な笞の響きがあった。一同は度胆を抜かれたように、しゅんとなってしまった。可愛く魅力的で振るいつきたいような郁江が一瞬で、信じられぬような厳しい波動を放出している。
それが東丈の示す厳しさだと会員たちは感じていた。暖かさと厳しさの同居が東丈の顕著な特徴である。図に乗って甘える人間は厳しくハードに突き放される。東丈が決して優しく暖かいだけの人間ではないと思い知らされることになるのだ。
「申しわけありません。その通りだと思います......」
内村が悄然とうなだれて詫びた。
「叱られるのは当り前です。お叱りは甘んじて受けます。でも、ここにおいでの初めて講演を聞いていらっしゃる方々のために、もう一度だけ教えていただけないでしょうか?」
郁江の顔は苦笑いを抑えていた。内村たちは目を伏せているので、それには気がつかないのだった。
「仕方がありません。じゃ、もう一度だけ......先生はいつも皆さんに、ご自身の代理人として振舞ってほしいと望まれているでしょう? 先生の身になってものを考え、行動する。それに尽きますよ。先生だったら、この場合、どうするだろう? どういわれるだろう、といつも心を先生という光に向けておくことです。そうじゃないですか? 他に方法がありますか? 先生の弟子なんですよ、わたしたちは......先生の代理としての務めを立派に果すためにはどうしたらいいだろう、といつも考えていることが、取りもなおさず先生の波動を受信していることになるんじゃないでしょうか......」
人々はしきりに頭を頷かせながら、熱心に聞き入っていた。浮わつきかけていた場内が一気に引き緊まったようであった。
「わたしはいつでも先生のことで頭がいっぱいなんです......いつも先生のことばかり考えています......心からそういえる人、挙手してみて下さい」
聴衆はしんと静まり返って、互いの反応を伺いあっていた。だれも手を挙げようとはしない。
「いないんですか? 先生の弟子だといいながら、絶えず先生の身を思いやっているという人は、一人もここにはおいでにならないんですか?」
郁江の言葉に押されるようにして、躊躇いがちに数本の手が挙げられた。勇気を振るい起こして、聴衆の間で少しずつ手が挙がって行く。
「なにも皆さん、他人の顔色を伺いながら、そろそろと手を挙げることはないんですよ。平山圭子さんみたいに颯爽と挙手して下さい。じゃないと何か悪いことでもしてるみたいじゃないですか......でも、情けないですね。皆さん、そんなに自信がないんですか? だってこれは謙遜するようなことじゃないでしょう?
今、挙手された方はたった七人しかいませんでした。八十名もこのセミナーには参加しているのに、わずか七人しかいなかったんですね......ちょっと情ないですよ、そう思いませんか?
きっと皆さんの心の中には、気になる異性のことが沢山ひしめいていて、先生のことが入りこむ隙があまりないのかもしれませんね。でも、時々は先生のことを思い出すという程度では、先生の代理人なんか決して務まりませんよ。
わたしには皆さんが何を考えているのかよくわかりません。でも、たいして本気ではないのだなということだけはよくわかります。これでは、会に入って何か活動らしきものをしているというだけで、全く無駄じゃないですか?
せっかく箱根までやってきても、時間とお金の無駄遣いですよ。そうでしょう?
だって、先生が切実に求めていらっしゃるのは先生の代理人なんですから。遠く世界の涯まで孤りで飛んでも、堂々と先生の代理を務められる自覚した人を、先生はいつも求めておられるじゃないですか?
その決心がなければ、いくらこんなセミナーをやってみたところで無駄骨ですよ。だって、少しも本気じゃないし、仲間内のお遊び気分ですもの。
朝まで自主研修をしたところで、何か得るものがあるでしょうか? ないとわたしは思います。少しも目的意識を確立していない人間が何をしたところで、空しいお遊びです。自己満足のためにやっているんです。
先生のことを少しも考えない弟子たちなんて、いても仕方がないんじゃないですか? 先生が会をほとんど閉鎖状態にして、新入会を認めない方針をなぜお取りになっているのか、皆さんは考えてみたことがありますか?
お遊びの人々がいくら入っても、会が水ぶくれになるだけで何の意味もなくなってしまうからだとわたしは思います。皆さんの意識がこの程度の低次元で低迷しているのでは、会が大きくなっても堕落するだけだとおわかりだからではないでしょうか?
楽しい仲間が集まって、お祭りしているんじゃないんですよ、皆さん! 幻魔大戦は始まっていて、その脅威を世の人々に知らせるために、先生は身を細らせて努力なさっておられます。
だから先生は夜ぐっすりと眠る時間もろくにありません。一時間、二時間の小間切れのような乏しい睡眠時間で間に合わせていらっしゃいます。でも、それを外形的に真似したってしょうがないじゃありませんか?
先生を見習って自分は二、三時間しか眠らない......でも、仲間内ではしゃぎまわって、楽しく自己満足に耽りながら徹夜したって何になるんですか? それじゃ先生のご苦労なんか少しもわかりゃしませんよ。
自分はこれだけやっているという自己満足で終始してしまうんです。これではセミナーではなくてフェスティバルです。お祭りです。何もセミナーだからといって、陰気臭く固苦しくやる必要はないけど、仲間で楽しくやるというのが目的意識にすり変わってしまったら、セミナーの意味はなくなってしまうんじゃありませんか?
先生がいくら必死になって努力なさっていても、弟子がこの有様では何一つ進行しません。何もかも先生におんぶにだっこです。先生が一切合切、やっていかなければ何も動きはしないんです。早い話、このセミナーの実行委員で、先生のお力を借りずに自発的にやれた人が何人いますか?
先生がいらっしゃらなければ、全然何も動かないというのが現状じゃないでしょうか? 編集会議に先生がもし出席なさらなければ、一号でも機関誌が出せますか? 何を取っても先生に頼りっきりなんです。
それほど依存しているのに、どれだけ先生のことを思いやっていますか、皆さん? 皆さんの両親に対する態度とそっくりですね。全面依存して親の脛を嚙っているのに、親孝行しようなんて滅多に思わないんじゃないですか?
何か困ったこと、力を借りたいことが起こった時だけ皆さんは親許へ帰り、頼ろうとするんじゃないでしょうか? 普段は親のことなど念頭にもないのに......
一事が万事なんですよね。皆さんが弟子として先生のことを思いやらないとすれば、全ての点で無責任、無能力になってくるのは当然のことなんです。これじゃ、先生の代理人が務まらないのは無理ないですよね。
でも、もし今、先生が会にいらっしゃらなくなったら、皆さんはどうなさるんですか? 先生のいない会で、何ができますか? 会は即座に空中分解ですよね。だって、目的意識もなく責任感も何もない会員ばかりが集まった会なんて、本当に形骸にすぎませんものね......」
沈黙が重く場内に垂れこめた。郁江の思いがけぬきびしい糺弾は、冷たいものを体に走らせていた。
糺弾そのものよりも、郁江の暗示した東丈の不在が心に突き刺さったのかもしれなかった。
聴衆は息を吞んでいた。東丈がニューヨークへと去る噂は会員のだれもが知っていた。会長不在の会はどうなるのか......その不安はだれもが心に重くわだかまらせていたのだ。郁江の発言はその不安と恐れをはっきりと裏付けたように思えたのである。
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居心地の悪い沈黙が続いた。ステージ上の郁江は敢えて口を閉したままだった。真剣勝負のような特殊な緊張が鋭く徴してきていた。ホテル従業員のような傍聴者たちですら、動くに動けなかった。沈黙は全聴衆を囲繞し、不動金縛りにしようとかかっているようであった。
むろん、郁江が全聴衆を圧倒的に圧しまくっているのだった。口を閉したまま、聴衆を凝視している。聴衆の心にどのような反応が生じているか推し測っているようであった。一人一人が郁江によって意識を読まれている居心地の悪さ、具合の悪さであった。
聴衆は困惑しきって、しわぶきの音も立てずに息を殺していた。どうしていいかわからなくなってしまったのだ。郁江の言葉は錐のように胸にくいこんでくるようである。
彼女の非難があながち見当はずれといえないだけに、居すくめられたように感じていた。しかし、やはりそれ以上に、東丈がいなくなってしまうことは避けられない事実として胸苦しく圧迫感をはらんでいた。
「発言してもよろしいでしょうか?」
内村が咳払いしていった。声が掠れてしまっていた。この濃密な沈黙を破ることは、非常な勇気を必要としたに違いない。
「今、おっしゃったことは本当だと思います。我々が先生に全面的に依存しきっていることはここにいるだれにも否定できないと思うんです。だからこそ、先生が日本を離れられるという噂を耳にしただけで、あっさりと浮足立ってしまいます......恥しい話ですが、僕も動揺した一人です。自分があまりにも未熟なので、先生のご指導なしには何もできないと思いこんでいたからです。体中が冷たくなる不安をごまかしようもありませんでした......
今、郁江さんがきびしく指摘されたことは全く本当です。僕らは先生のご指導に慣れてしまって、甘えてしまい、たるみきっていたと思うんです。先生がどこかへ行かれてしまうなんて、本当に考えもしませんでした。
いつも先生がともにいて下さって、指導して下さる......そんな甘い幻想にしがみついていたんです。先生のご指導が当然のことのように思いこみ、つけ上っていたといってもいいと思います。先生のために何か自分のできることを一生懸命やる......それは建前であって、本音では先生に与えられるものをただ貪っているだけだったんです。先生の代理人と口癖のようにいっても、それはただのモットーでしかなくて、空念仏だったことが、今はっきりわかりました......なぜかというと、それがもし本気なら、こんなに心が冷たく不安になって浮足立ったりしないと思うんです。先生の代理として死物狂いでやろうなんて、口先ばかりだったと痛いほどわかりました。いざとなったら簡単にぐらついてしまうほど、僕らの決心はいい加減なものだったんです......」
内村は蒼白い顔で懸命にいった。郁江の大きな瞳を直視しようと努めている。郁江の目は光っていて風圧のようなものを感じさせるほどであった。
「先生が偉大であればあるほど、巨大な奇蹟能力を顕わされればそれだけ、僕らの依頼心は増大していったんじゃないでしょうか? こうやって会で活動していれば、おのずと自覚が進むと甘いことを考え、自己満足に耽っていたことは、今郁江さんが指摘なさった通りです。先生の巨大な光にいつも触れていれば、自然に僕らの霊性は目覚めて行く......そんないい気な幻想を持っていたことを、今僕は告白します。
何の疑問もなくそう思いこんでしまっていたんです。会で一生懸命に徹夜して働いていると、ああ自分はこれだけ先生のために必死にやってるんだと思っていい気分になったことが幾度もあります。本当に郁江さんに指摘された通り自己満足なんです。
その程度のことで、先生のために自分のできることを精一杯やっているんだ、と平気で思いこんでいたんですから......これだけ自己犠牲を払ってやっていれば、当然自覚も進むに違いない......そんな恩着せがましい得手勝手なことを一瞬でも考えた自分が、僕は恥しいです......
先生や郁江さんにそれをお詫びするだけでなく、会員の皆さん全てにお詫びします! 僕は全くだらしない他力志向の人間です! とうてい青年部長など務まる人間じゃありません! 僕のいい加減さが皆さんまで惑わせてしまったと思うと、申しわけなくてどうしていいかわからなくなります。根底的に意識を改革しないとだめです!
何から何まで郁江さんの指摘された通りです! 僕らは自己覚醒を大声で叫びながら、他力の道にずっぽり埋りこんでいたんです! もし、このセミナーだって郁江さんがおられなかったら、収拾のつかない破目になったに違いないんです......先生がご不在で郁江さんの助力がなければ、このセミナーは空中分解したはずです。
僕らがどんなに他力志向で、いい加減な目的意識をもって、このセミナーに当ったかを、浮足立っている僕らははっきりと証明してしまったんです」
内村は悲痛な声音で自己告白を続けた。それは自己告発という苛烈な響きさえ帯び始めていた。
会場は寂として声がなく、大部分の聴衆は目を伏せてしまった。懸命に目を瞠っているのは全く少数でしかなかった。
「僕らは最初からやり直さなきゃ駄目です! 人によりかかり、依存し頼りきって先生や郁江さんがやってくれるから、という甘えを全部捨てなきゃなりません! 僕らはもう先生に充分教えていただいたはずなんです。今後は先生や郁江さんがいらっしゃらなくても、僕らだけで頑張って行く、そういう明確な意志がなかったら、このセミナーには何の意味もなくなります!」
気弱で無能扱いされていた口下手の内村が、必死の形相で聴衆に訴えていた。あるいは郁江の言葉以上に、それは人々の心を打つ力を有していたかもしれなかった。
会場ですすり泣きの声が漏れていた。感情のふくらんでいる若い会員は簡単に感きわまって、泪を噴きこぼれさせるのだった。男女を問わず若者たちは自制できずに歔欷に体を震わせ、顔を覆っていた。ステージの上では内村も竹居も歯をくいしばり、顔を泪で濡らしている。冗談の多い明朗な竹居も噴きあげてくる泪に抗することはできないようであった。
塾生の松岡と井上が面食ったように体を硬くして、場内を湿っぽくした情動の高まりに抵抗していた。それは異常な感動の波動であり、強い磁場を生じて現場に居合わせる人々の全てを巻きこみ、影響をもたらさずにはおかなかった。現に松岡は鼻をすすりあげ、うつ向いてしまった。内村の悲痛な自己告白に心打たれたというのではないのだろう。
雰囲気に引き込まれてしまったのだ。
感情に流されるのが大嫌いな郁江は憮然とした面持で口をつぐんでいた。若者たちは自己浄化のカタルシスを好んでおり、たやすく感情を噴きこぼれさせて実に簡単に泣く。感涙にむせぶのは実に心地よいことらしいのである。しかし、郁江は苦手だ。どうにも抑えのきかぬ高圧の圧倒的な感動というならともかく、低圧の〝どうってことのない〟感動で泣くのは涙腺の締りがなくなり、栓がだらしなく緩んでいるとしか思えない。
郁江にとっては笑いを誘われるか、逆に腹が立ってくるかのどちらかだ、いい加減にしたら、といいたくなるのである。
しかし今は、内村が反省を提起していることでもあり、郁江は敢えて何も批判がましいことは口にしなかった。
「僕も反省し、皆さんに謝罪します!」
竹居がガバと身を起こし、叫んだ。引きつったような真摯な表情だった。日頃のおどけた波動は皆無である。
「僕も、先生や皆さんに奉仕するといいながら、いつも恩着せがましい根性を持っていたことを告白します! これだけ一生懸命やっているんだから、先生にもみなさんにも認めてもらうのは当然だ......そんな卑しい根性が心に潜んでいたことに今やっと気がつきました。内村君のいう通りです! 僕は何もかも最初からやり直さなきゃいけません! 僕は自分の愚かな思い上りを皆さんの前で告白し謝罪します。どうもすみません、許して下さい!」
竹居は頭がテーブルにぶつかってごつんと音を立てるほど平身低頭してみせた。彼が真剣であることはまぎれもないが、郁江は噴き出すのを必死に堪えていた。
女の甲高い声が場内で響いた。目を向けると見習秘書の夏本幸代が立ち上り、何事か必死になって訴えていた。声が割れて聞き取りにくいが、どうやら深く反省し、己れの非を認めて謝罪しているらしい。
あの夏本幸代が、と思わないでもなかったが、幸代は真剣であった。いかに自分がだらしない人間であり、会長秘書の務めに対して無定見、無責任であったかを深く認め、悔悟の涙に暮れているのだった。
異常な雰囲気に溺れて、だれもかれもが自己告発の衝動にとり憑かれてしまったようであった。夏本幸代が絶句し、告白が続かなくなり両掌で顔を覆って立ち尽すと、聴衆は我先きに立ち上り、告白の浄化に参加しようとして、場内は収拾のつかない混乱状態に陥ってしまった。何の関係もないホテル従業員の若い娘までもらい泣きしている有様だった。分厚い粘液質の感動で場内が覆い尽されてしまっていた。
その異様な集団の生理的な波動は、郁江にねばっこくまつわりつき、湿ったタオルで、体表をくるみこまれたように窒息感をすらもたらした。感傷に陶酔するのは、生理的な快楽に等しいと郁江は思う。この強い催眠力を持った情動の磁場にさらされて、感傷に流されないのはよほどの変り者に違いない。
人々を自己告白と悔悟の涙の嵐のような磁場に巻きこむことは、甚しく危険が伴っているような気がして、郁江はやはり好きになれなかった。場内は異様などよめきに満たされている。聴衆がすすり泣いているのである。なんとかしてやめさせなければ、と郁江は思った。こんなのは嫌いだ。泣いて浄化のカタルシスに酔うなんて、やっぱりまともじゃない......
郁江にとってそれはいかがわしく不埒なことに感じられるのだった。正常な人間から見れば、狂気の集団に等しいであろう。もちろん、情動の強い磁場に入りこめば、無関係な人間でも必ず巻きこまれ、影響されずにはいられない。内臓感覚に直接襲いかかり、胸を詰まらせてしまう猛烈な波動なのだ。
しかもこの場にはトップ屋の風間が立合っているのだ。まずいな、と思わずにはいられなかった。風間は狂気に支配された集団とみなすに違いなかった。
この情動が見さかいなしに沸騰してしまった尋常でない空気を変えて、再び講演に引き戻すのは容易ではなかった。おそらく聴衆はたやすく冷静さを回復することはあるまい。郁江は失敗を自覚した。もはや郁江が何を喋っても、人々の耳には入らないであろう。悔悟の涙に泣き濡れている快い感動から引きはなされることを嫌い、拒むに相違なかった。
郁江の〝幻魔研究発表〟は本論に入る前に挫折してしまったのだ。思いがけぬ袋小路へ迷いこんでしまったのは、彼女の手違いとはいえ、予想もつかぬ失敗といえた。なんとかして、事態の収拾を考えなければならない。
郁江は沸騰するような場内の雰囲気に手の出しようもなく、天を仰いで溜息をつく心境だった。しかし、この美少女には端倪すべからざるところがあって、こんな際でも逆上することなく天啓を受信するすべを心得ていた。
この反省の雰囲気をうまく使ってやろう、と彼女は思った。テーマを〝反省〟に切り換え、各自に反省研修をやらせてしまえばいいのだ。それこそ魚に跳びつく猫のように、彼らは、〝反省〟にしがみつくだろう......
「皆さんが反省したいという気持はよくわかりました」
と、郁江はマイクを摑んで立ち上りながらいった。
「わたしも皆さんのその気持を大切にしたいと思います。話は一応ここまでとして、後は反省研修ということにします。さっきお話ししたように皆さん一人一人の幼い頃に記憶を戻して、自分の至らなかったこと、間違っていたことを総浚いしてみましょう。
反省はそこから出発するのが本当だと思うんです。さもないと、自分のどこが本当に間違っているのか、よくわからないということになりがちです。素直な子供の心に戻ることが大事なんです。〝偽りの自我〟は自分の心の成長を邪魔立てする存在であるだけでなく、真剣に対話してみることによって、自分の弱点を教えてくれます。
〝偽りの自我〟を嫌ったり憎んだり、排撃する必要はありません。それはやはり自分自身なんです。いつまでも育ちきらない未熟な自分であるんです。いつも自分を目立たせたい、他人に構ってもらいたい、可愛がってもらいチヤホヤされたい......そういう子供なんですよ。それは皆さん自身でもあるんです。
ですから、親切に話してあげて下さい。決して感情的になってはいけないんです。反省というのは、客観的な第三者の心でやらないと、自己嫌悪に陥ちてしまって、やらない方がよかったということになるかもしれないんですよ。それを忘れないで下さいね......
〝偽りの自我〟は決してやっつけて滅ぼしてしまうべき敵じゃないんです。愛の心で融かしてしまえば、自分の心のこやしになってくれます。〝偽我〟さんが本当に心から納得した時に、反省は真の価値を持つんじゃないでしょうか......
ですから、決して自己嫌悪に陥ちたり、自己憐愍に陶酔したりしないで下さい。自分を嫌ったり、自分を可哀そうがって泣きぬれてみるのは何の役にも立ちません。かえって反省しそこなうだけです。冷静な第三者の立場を決して忘れないで下さいね」
郁江はステージの前に立ち、人々の心に言葉を投げかけて反応を待った。
「静かにして下さい。目を閉じて下さい。深呼吸をして、うわずった心を鎮めて下さい。反省は一時の感情のままにやるものじゃないんです。心が静かに澄んでくるまで、大きく深呼吸して下さい......大きく吸い込んで......吐いて......」
指導を続けながら、郁江はトップ屋の風間までが自分の指示に従っているのを見て、危く笑いの衝動にとり憑かれかけた。
風間は真面目な表情で瞑目し、深呼吸を繰り返していた。会員たちの幾人かよりもずっと真剣であり、郁江の指導に同調していることがわかった。
少くとも郁江の講演にある程度の共感を持ったのは確かである。頭から馬鹿にしていれば、反省をしてみようなどとは思いつかないに違いない。反撥よりは共感を抱いたのである。ただ面白半分でやっているのかもしれないが、それにしては真剣すぎた。
面白い男だ、と郁江は思った。彼女に対してそこはかとなく反撥と抵抗を示している幾人かの会員たちよりはよほど可愛気があった。
しかし、後でこれが問題になるのは目に見えていた。いかがわしいマスコミを無断で会場に入れ、取材させた郁江の独断専行は強い反作用を生じさせるだろう。郁江はマスコミ対策要綱で定められた取り扱いをあらゆる意味で破っており、越権行為として杉村由紀に強く責められるであろう。会場の少なからぬ数の会員たちが不審と戸惑いを持ち、数人ははっきり非難の態度を示していた。
先夜来、郁江の専横さに穏やかならぬ気分を抱いている杉村由紀は、これを知れば黙っていないはずである。
まあ、いいやと郁江は思った。どうせ杉村由紀は明日渡米する。郁江を叱責している時間的余裕はあまりないはずである。
かなりやり方が強引に過ぎたかもしれないとは感じている。あまりにも高圧的にすぎ、東丈の威を借りた居丈高という波動が場内のあちこちからはね返ってきている。何様のつもりかという強い反感である。たかが東丈の腰巾着に過ぎないではないか......高の知れた小娘が何を偉そうに居丈高になって反省を強要したりするのか......勝手な真似をするのもいい加減にするといい。
言葉にするとそのような内容を持った波動であった。そう反撥するのも無理はない、と郁江は思っている。途中で波動に変化を生じて、思いがけぬことを口にし、強い調子で参加者を糺弾し、きめつける口調になってしまった。自分の厳しさが意外であった。
もちろん内容はそれなりに筋が通っているし、日頃から郁江が感じている事である。だからこそ内村を初めとする、セミナー参加者の大部分は素直に己れの落ち度を認めたのであろう。衝動のままに一斉に反省へ突走ってしまったのは、郁江ですら考え及ばない反応であった。
しかし、現状では少数派ではあるが、郁江の指導性を認めず、強い反動を示している会員たちは、後に結託して激しい批判を加え、混乱を深めて行くだろうという気がした。東丈を欠いた会の前途は決して平坦ではない。必然的に分派活動が始まるだろう......
組織は必ず分解の強い力にさらされる。特に中心的な指導者を失った組織は四分五裂の危機に遭遇するといってもよかった。ある指導力が力を強めれば、反作用が生じるのは理のしからしむるところかもしれない。
それを承知で郁江はやって行かなければならなかった。会を分解させる力は今後更に強大化するだろう。今は自己陶酔して一時的な反省の衝動に駆られていても、冷静に戻れば、分解の力にさらされ、反作用の側に与しそうな顔は決して少いとはいえなかった。
強大な反作用の〝力〟はすでに会の足許を底流となって洗いつつある。杉村由紀はそれに気付いていない。外部にばかり目が向いているからである。そして郁江の活動を、東丈の庇護を受けた者の専横と解するであろう。
幻魔の〝力〟がどれほど巧妙に侵食してくるか、まだだれも正確には知らないのだ。それゆえ、郁江は自分が大きな抵抗に遭遇することを予感していた。
東丈はいかなる意味でも、〝GENKEN〟を試金石にしようとしている......郁江はそう感じた。
全ては演習──それが東丈の口癖であった。しかしその真意を会員たちは本当にどれだけ理解しているだろうか。近視眼的に、とかく一時の感情で動きやすい者たちが、今試されているのかもしれない。
むろん、感情に目がくらむのは、そうしむける力が底流となって足許を洗っているからに他ならない。幻魔に関する知識をいかに増やしても、知識だけに留まっている間は、理知の光の中で相手を照らしだすことは決してできないのではないか......
いきなり反省へと熱狂的に奔騰してしまったのは、それなりのわけがありそうだ。後できっと納得が行くに違いない。今、人々を左右している力の方向付けさえ誤まらないようにすればいいのだろう。
郁江は淡々と反省指導を続けながら、自信の如きものが甦ってくるのを覚えた。杉村由紀がこの場に居合わせれば、郁江の独断専行に烈しい制止がかかってくるのを避けられなかったであろう。由紀はその責任感から、郁江のそれを暴走と解釈したに違いないのだ。
自分にやりやすいようにコントロールされているのかな、とふと想念がよぎった。でも、だれが大局を見通した上で、コントロールするというのだろう。東丈だろうか? それともこれが〝光のネットワーク〟の働きなのだろうか? 東丈すら意識しないところで巧妙な操作がなされているとすれば、それは宇宙意識の業としかいいようがない。あるいは〝光のネットワーク〟とは、宇宙意識フロイの意志の顕現を表わしているのかもしれなかった......
17
箱根湯本の駅まで、田崎宏が自ら車を運転して送ってくれた。
どんよりした曇天の下で、駅舎は底冷えがしていた。冷気が体を絞めあげ、コートを着ていても杉村由紀は寒さを免れることができなかった。
「疲れているんです。今日一日ゆっくりと休めるといいんですがね」
田崎はいった。そうには違いないが、明日出発となると、体を休めている余裕など少しもない。若い秘書たちに残す注意事項を作成するだけでも大幅に時間をとられてしまうであろう。
小刻みに体が慄えてくるのを、由紀は田崎の目から隠そうとした。体が重く鈍く、力がなかった。あるいはいくらか発熱しているのかもしれなかった。悪寒が襲来しそうな予感がした。それに伴い、気力も萎えている。
これほど陥ちこんだのは、東丈の許へ来て以来始めてのことであった。しかし、今更寝込んではいられない。セミナーは井沢郁江があずかって進行させているらしい。気にはなるが、会場に留っていては、ますます消耗が激化するとわかっていた。
「郁江さん、大丈夫かしら?」
幾度繰り返したかもしれぬ言葉を口にのぼせて、由紀は後悔した。田崎の返事はきまりきっているのに。
懸念を口にすればするほど、自分がいかに郁江に不信を抱いているか明白になっていくような気がする。それどころか、己れの裡に信頼のギャップが広がって行ってしまうのである。
「大丈夫ですよ。郁姫はガッツがありますからね。だから先生も講演をさせようというお気持になられたんでしょう」
幾度目かの田崎の返事であった。懸念を目に浮べて、由紀の肩のあたりを見ている。彼女が慄えているのに気付いているのだろう。
「心配ないです。会場の波動でわかりますよ......俺、東京までいっしょに行きましょうか?」
堪まりかねたようにいった。特急がホームに入ってくるところであった。
「ご心配かけてすみません」
杉村由紀はようやく微笑を顔に押し上げてみせた。
「このまま乗って新宿まで一時間半ですもの。本当に大丈夫ですから......それより会場警備の方、くれぐれもよろしくお願いします。あのトップ屋がまた何を始めるかわからないし......」
「トップ屋のことはまかしといて下さい。たいしたことにはならないと思いますよ」
改札口に急ぎ足で向う杉村由紀について行きながら、田崎は口早にいった。
「先生がお戻りになったら、お伝え下さいね。わたくし高輪の自宅に戻って仕度をしますから」
由紀は田崎の差し出すバッグを受け取りながらいった。足許がふらつき気味なのを、足を踏みしめて堪える。
「気をつけて帰って下さいよ。後でご自宅に電話します」
大目玉を光らせて田崎はいった。いかにも心配そうであった。感謝の笑みを浮かべ、由紀は頭を下げて改札口を抜けた。案の定、悪寒が徴して心細い。手にしたバッグが常にない重さであった。それは心の重さであるのかもわからない。
むろん、この程度のことで田崎に助けは求められなかった。
由紀は振り向いてもう一度お辞儀をした。心細さが心を絞めあげていた。田崎にいっしょにいてもらいたくて、どうしても後ろを振り向かずにはいられなかったのである。由紀にはかつてないことだった。彼女は決して男に依存心を持ったことがなく、それがキャリア・ウーマンとしての矜持に他ならなかった。
田崎にもそれは通じたようである。今にも後を追ってきそうになり、辛うじて踏みこたえていた。由紀のプライドを気遣っているのである。田崎にはそうしたデリカシーがあった。
田崎の思い遣りに支えられて、由紀はプライドを甦らせ、心許なさを背中に現わさぬように気を張って歩き去った。それだけのことに非常な努力が必要であった。孤りで東京へ戻ることが厭で堪らなかった。なぜだかわからない。異様に足を重くするものがあるのである。
戦線を離脱するという後めたさのせいかもしれないと考える。箱根を離れて、東丈のいない東京へ帰るのが厭なのだ。
しかし、それだけでは納得できない。もっと強力な理由がなければ、自分の裡に生じているこの後髪を引かれる抵抗感の正体が説明できなかった。
ロマンスカーの座席に身を埋めて、由紀は鬱々と考えに耽った。心が暗く狭くカメラのシャッターの孔のように引き絞られてしまったようであった。体が噓寒く、悪寒がする。生体エネルギーが明確に低下していた。
必ずしも疲労のためばかりではない。心が暗く閉され、平安がないからだ。心は安らぎを求めて苛立っている。
しかし、彼女を囲繞する世界はことごとく彼女に歯向ってきて、苛立ちを深めているようであった。東丈の〝失踪〟もそうなら、それに乗じた井沢郁江の専横ぶりもそうだ。郁江は明らかに丈の信任を受け、会を切りまわす気構えでいる。未熟な郁江が丈や自分の留守中、どれだけ独断専行で会を暴走させるかわからないものがある。
郁江にはそんな危うげなものがあるのに、丈は全く気にもかけていないようだ。郁江は思いきった冒険主義で会を運営させて行く気であるに違いない。それは彼女のトップ屋風間の扱い一つを見てもわかる。手の内を明して、トップ屋を抱きこんで行く腹なのである。しかし、そんな大きな度量を必要とする芸当が、郁江などにできるはずがない。逆に海千山千のトップ屋に翻弄され、骨までくらいつかれるのが落ちだ......
東丈が自分をニューヨークへ派遣しようとする考えはわかる。むろん郁江がこざかしくもいうように、自分に休養を与える、それだけのつもりであるはずがない。会で自分をおいて、丈の代理が務まる人間は他にいないからだ。
しかし、それは東丈が日本に留まるという大前提の上で進められた話である。もし東丈が日本を空けることになるならば、事情は全く変ってくる。会の運営をなにも郁江の危っかしい手際にまかせておくことはない......
想念はことごとく郁江批判に向って集中した。どうにも反撥が抑えがたいのだ。郁江は出すぎている、専横すぎる、と凝集してくる想念をどうすることもできない。
いかに丈の信任があっても、郁江の力不足は明瞭だし、思いつきだけの跳ね上りで、会をとんでもない危地へ導いて行ってしまうだろう。
なぜ郁江があんなに傲慢に振舞えるのかわけがわからない。むろん丈の是認があるからにせよ、すでに会を思うさま切り廻す権限でもあるかのような錯覚に陥っている。
それに、あのとんでもない思い上りだけは許せない!
思いだして、由紀は嚇っとなってきた。まるで東丈が自分に特別待遇を与えたがってでもいるように郁江は匂わせたのだ。東丈が、いったい他のだれよりも杉村由紀の身をおもんばかっているなど、どこで思いついてきたのだろう。まるで丈が由紀に対して特別の感情でも持っているかのようないい草ではないか。
さすがにその場では自制したが、郁江に平手打ちを浴びせたいほどに感情が激発してしまったくらいである。とんでもない勘繰りで、思い出すたびに怒りが甦ってくるのを抑えられなかった。
郁江はまるで全権大使気取りである。ろくに目も見えないひよっ子同然なのに、世の中のことは何でも思い通りになるような気でいる......
まったく郁江は、自分がどれだけの屈辱を他人に与えたかわからないのだろうか!
不意に感情が激し、由紀は泪が出てきそうになった。それが女の性であることはわかっている。女は厭だな、と思う気持が心のどこかで動いている。昔はこうではなかった。思いきりさばさばとして生きていたのに......やはり自分はよほど組織に向いていないのだろう。会の外部にいて眺めていれば、こんな陰湿な気分を自分が抱くなど、想像もつかないに違いない。
組織の外にいさえすれば、自分はもう一度闊達な己れを取り戻せるのに......
いつの間に自分を囲繞する世界はこんなに不快な居心地の悪いことばかりで充満しはじめたのだろうか。まるで風向きが百八十度、くるりと変ってしまったようだった。
杉村由紀をはさんだ前後列の座席の乗客が喫煙しはじめ、もうもうと車内の空気が汚れてきた。以前はほとんど気にならなかったのにタバコを止めてからの彼女は、他人の吸うタバコの煙に堪えがたい不快さを覚えるようになった。まるで毒ガスに等しい悪臭である。密閉した場所で吸われると、酸欠の苦しさで居堪れなくなる。
タバコ嫌いの東丈の影響で、会にはタバコを吸う会員はほとんどいないし、数少い喫煙者も会へ来てまで吸うことはない。クリーンな空気に慣れ始めると、喫煙者の無神経さ鈍感さが非常な苦痛になってくる。自分もかつてはタバコを吸わない他人にこれだけの迷惑を平気でかけていたことが信じられなくなってくるのだ。
喫煙者たちは、車両に乗りこむが早いか、親の仇にでもめぐりあった勢いで、猛然とタバコのいがらっぽい煙を吐き出し始める。前後からの挾撃を受けて、新宿までの一時間半はとたんに苦痛に満ちた時間となった。
座席を変えようにも、ロマンスカーは全座席指定なのだ。
由紀は全世界が敵意に満ちて己れを囲繞していることを改めて発見した心地になってきた。暗く冷涼たる気分が心を侵食してくる。
どんなに努力しても、心が明るい方に向いて行かなかった。むしろ憤懣と怨みがましさの中に埋没していたかった。
想念はとげとげしく不愉快になる一途だった。東丈が、〝岩戸隠れ〟してしまったので、自分の心はこんなに暗くなってしまったのだ。正月に突如失踪を繰り返し、あれほどまでに自分を悩ませた丈は、またしても理由不明の蒸発で心配させようとする。
郁江がなんの懸念もなく、丈の失踪をけろりとして受け容れる心境がどうしてもわからない。それとも丈と郁江の間には、特別の了解でもあるのだろうか。
その考えは否定したくても、否定しきれないものがあった。正月の最初の〝岩戸隠れ〟以来、丈と郁江の結びつきが飛躍的に深まったのは事実である。二人の間には濃厚なサイキカルなつながりがあり、それゆえ郁江は丈がどこで何をしていようと全て知悉しているのかもしれない。
郁江が平然としているのは、丈の行方を知っているからに他ならないのではないか。しかも郁江はその秘密を握りしめる特権を享受している。
胸郭が圧搾されて呼吸が苦しくなり、由紀は呻き声をあげたくなった。この胸苦しい侵食感はただごとではなかった。強酸で胸の裡がぼろぼろに蝕まれて行くようだ。
これほど強烈な負の情動で苦しめられるのは近来にないことだった。魂が苦しみに堪えかねて軋みつつ揺動しているようだ。
この熾烈な情動は嫉妬ではないかと気づき、由紀はああと声をあげて頭を激しく振り動かした。他の乗客の不審の視線が辛うじて彼女を抑制させた。
全身が羞恥で燃え上り、体全体で拒否を表明したかった。異性関係で由紀はこのように強く烈しい嫉妬に懊悩した覚えは一度もない。異性のそうした感情に対して、彼女は常にクールという以上に冷淡であった。いささかの同情心を持てずに相手から遠ざかろうとした。男に自分を所有させてはならないと強く心に命ずるものがあり、いつも拒否で鎧っていたのだ。
そうしたおぞましい異様な情動、嫉妬を今由紀自身が抱いていると自覚するのは、しんそこ愕然とする思いであった。
あまりにも醜悪すぎると思った。もちろん由紀が嫉妬を知らない人間であるという意味ではない。幼いころから友人関係ではたっぷり味わってきている。肉親に関する嫉妬、級友への嫉妬、形も度合もさまざまであった。
しかし、今由紀を襲っている情動は、胸を灼き焦し、ぼろぼろに心を侵食するどうにもならない魔的な苦悶をもたらすものだった。
自分がこともあろうに井沢郁江に対し、身も世もない嫉妬を抑えかねている。今まで郁江に感じていた批判、反撥がことごとくこの生臭い醜悪な情動に根差していたとは! 由紀は己れの顔が蒼白く冷たく凍るのを意識した。それでは自分もまた久保陽子と同じではないか。陽子と同じ轍を踏もうとしているのか!?
自らを疎外し、心の絆を解いて離反して行こうとしているのか。東丈はそんな由紀の心の表裏を全て読み取った上で、彼女をニューヨークへ送ろうとしているのかもしれなかった。
顔面のみならず、全身が蒼く冷たく凍てついてくる。丈になぜそれがわからぬいわれがあろうか。丈の黒い瞳は自分の気付かぬ心の深みまで覗きこんでいたのである。
あらん限りの力で否定したい。だがどうしようと否定しきれない。飼主の寵を争う動物じみた浅ましい感情は時に触れて、意識を掠めていたと思いだす。しかし、無意識のうちにそれを否定し、振り払ってきたのだ。そんな浅ましさが己れに存在することを認めたくなかったからだ!
すでに心に生じた異変は、警報を鳴らしていたのに、由紀はそれを是認する勇気を持たなかったのである。
18
新宿までの一時間半は、杉村由紀を消耗させた。心が暗く狭く固定化してしまい、いかに心を他の方向に向けようとしても思うにまかせなかった。強い牽引力で暗い穴の中に引きずりこまれてしまうようであった。
いかに思い惑ってみても、思考には少しの進展もない。同じ穴の底をとめどもなくぐるぐる廻りしているのである。むしろ穴は更に深くなり不健康な陰湿さを増して行くようだった。
郁江と東丈の間になんらかの暗黙の了解があるということは、新宿に到着した時の由紀にはもはや疑えない事実と化していた。理由は全く推測もできないが、丈が失踪した後の責任者はすでに郁江と決まっている。丈が由紀を奇妙な形で疎外するのは、郁江を後継者にするためなのかもしれない。丈が彼女を渡米させるのは、その交代劇を容易にするためであり、体よく遠ざけられたのではないだろうか......
さもなければ、東丈が秘書の由紀には一言の断りもなく姿を消し、郁江だけがその理由を知っているという、奇怪な状況を説明することはできない、と思った。
郁江がことさらに由紀に対して同情的であり、思い遣りさえ見せかけているのは、その間の事情を説明するものである。郁江はすでに勝利者としての立場を隠す気もないのだ......
今となっては自分は丈にとっての重要性を著しく減らし、用済みとして会から遠ざけられるのだ。この思いがけない失墜はいったいいつから始まったのか......おそらく自分が丈の心を読めなくなり、彼の考えを把握しきれなくなった時から、丈にとって真の秘書の資格を自分は喪失し、交代を迫られていたのではなかったろうか。
井沢郁江は今、丈のパートナーとしての位置を確立し、それにふさわしく振舞い、権力を行使しはじめたというわけであろうか。
埃っぽい小田急新宿駅のホームに降り立った杉村由紀は心中の葛藤にぐったり疲れてしまっていた。唯一の願望は早く横になって体を休めたいということに尽きた。体を襲う悪寒はいっかなおさまらない。しかし、このまま休むことはできないとわかっているし、それが一層由紀をやりきれぬ気分にさせた。
心が深い穴ぼこの底に陥ちこんでいることよりも、そこから脱出するすべが見つからぬことが情けなく絶望的なのだった。
ずっしりと重いバッグを手にホームの雑踏を歩いて行くのが苦痛にみちた重労働だった。早くタクシーを拾って体を楽にしたい、それしか念頭にない。明日のニューヨーク行きまでの多忙な時間が堪えがたい疎ましさだ。このガタガタになった体ではたして可能なのかどうか疑わしい。しかし、医者へ行く時間もないし、彼女には医者にかかる習慣がまったくないだけに、それはおよそ考えられない鬱陶しいことであった。
体に力がなくて、まったく頼りなかった。足がふらつき、今にもハイヒールを穿いた足首を捻挫してしまいそうであった。
きっと転ぶに違いない、と不吉な予感がした。それも衆人環視の中で思いきりみっともない転び方をするに違いないという気がした。目の焦点が合わなくなり、視界が二重映しになってきているのだ。
不意に強い力がぐいとかかって肘を支えた。だれかが体を支えてくれたのだと理解するまで、しばらく時間が必要であった。頭を振り、目をしばたたかせて二重映しの視界を明瞭にしようと努力する。
焦点が合って、くっきりと鮮明な白い顔が映じた。隆い鼻筋、睫の長い眸は、陶器のフランス人形の面ざしを思わせる。意志の強さを示す表情が、懸念を湛えて由紀を見守っていた。
木村市枝がなぜこんな所にいるのか、と由紀は不思議に思った。頑なになり、狭量になった心が安堵を覚えようとする気持を妨げ、払いのけた。
「大丈夫ですか、杉村さん?」
市枝の声音には怯えたような響きがあった。市枝の態度が由紀のプライドを活性化し、甦らせた。おのずとしゃんとなり、背筋が伸びてくる。田崎の場合とは大違いだった。
「どうしてこんな所にいらっしゃるの?」
由紀は気力を取戻していた。市枝の前ではみっともない姿を見せたくなかった。
「田崎さんからお迎えに行くようにいわれたんです」

市枝は、とがめだてする調子を敏感に感じ取ったようである。態度が硬くなった。
「田崎さんが......」
声が和んだ。田崎の気遣いに感謝がこみあげてくる。
「ええ。杉村さんがお疲れのようだから、お手伝いするようにって......」
「そうでしたの。それはどうもありがとう」
口ではそういったが、相手が市枝ではいささか有難迷惑であった。市枝には普段から緊張感を誘い、気疲れさせるものがある。今のように疲弊した状態では、ただでさえ乏しい気力をことごとく吸い取られてしまいそうであった。
木村市枝はいつも緊張し、鋭い気配を張り詰めさせた印象を持つ。あまりにも鋭敏すぎるのだ。いきおいこちらも真剣勝負の気構えになってしまい、安らぎというものが得られない。普段ならさしたることでもないが、今のように活力が低下した状態では、できるだけ避けたい相手だった。決して嫌いであったり苦手だったりするのではない。
今の由紀がたった一つ求めてやまないものは慰謝であり、安らぎであった。
「荷物、お持ちします」
「いえ、いいの」
市枝が伸ばしてきた手を反射的に強く拒もうとしたが、それでは角が立つとさすがに気付いて、体から力を抜いた。あまりにも強い語気で振り払うようにしたのに気が差した。市枝は敏感すぎる娘だから、と丈からさりげなく注意を受けている。市枝は郁江の不死身な精神的タフさとは縁がないのだ。
市枝の力強い手が重いバッグから由紀を解放した。心ならずもホッとする解放感がやってきた。こんなことで市枝に負い目を持つなんてやりきれない。由紀にはそう思える。
軽々とバッグを提げて市枝が先に立つ。由紀は重い気持で後について行った。
早く市枝を遠ざけて孤りになりたい。狭く閉された心はそれだけを望んでいる。丈の許にあってしばらくの間でも、群れに順化していた自分が不思議でならなかった。まるで催眠術にかかったように、本来の自分の性質とはまったくそぐわないことを懸命にやっていたのだ。
今、由紀はかつての自分、丈と出逢う前の自分に回帰したように感じていた。群れに同化せず、いつも孤立していることを好む自分に立ち返ったようであった。
それでいて親密感はないのである。暗く狭苦しく不自由な気分があるばかりだ。それでもなお望むのは、この雑踏の中から一刻も早く脱出して、自己の狭いたこつぼの中にたてこもることでしかない。
早く市枝から逃げだしたかった。ただひたすら気詰りで居心地が悪い。こんな鬱陶しさにどっぷりと閉されて、何事もないように口をきき、愛想よく振舞うことは、遥か自制心の限界の外にあった。
とはいえ、心の一部では、なぜこんなことになってしまったのか、と疑っているのである。自閉の暗い穴から出て、正常に立ち返らねばならぬと義務感が要請している。
しかし、その声音は、圧倒的な重量感をもってどっぷり垂れこめ、閉してくる暗い狭隘感の中にあっては、遠く微かな呟やきでしかなかった。今日の由紀は全く自己中心に凝り固まっており、己れの心に対して少しも分析的でなく、内省的になることを拒む力が働いていた。
脱力感を伴う苦痛は高じてくる一途であり、由紀が己れの心に生じた逸脱状態を検討することを強く妨害していた。心が膠着してしまい、今の自分に対して支配的な不快感だけに囚われてしまっているのだ。
「今日は、先生のお姉さんもお迎えに来られるはずだったんですけど、突然来客があって、少し遅れるとおっしゃってました......」
荷物を持って先導している市枝が話しかけてきた。
「お姉様が?」
と胸を突かれて、とっさに言葉が続かなかった。反射的に忌避の思いで心がずしりと重くなる。なぜ自分がこんなに拒否で凝り固まっているのかわからない。
「ええ。新宿駅にはお迎えに来れないので、杉村さんの高輪のお宅へ伺って、お手伝いをさせていただきます......お姉様はそうおっしゃってました」
「お手伝いなんて......そんなに大げさなことじゃないし、一人で手早く準備するのは慣れていますから......」
「お姉様は、杉村さんがニューヨークへ往かれる前にお逢いして、是非お話ししたいことがあるとおっしゃってました」
「そうですか......」
いたずらに忌避してみても始まらないが、気持は重くなるばかりであった。普段なら、東三千子に逢うことは心弾む期待と楽しさをみなぎらせるのに、今日は全く逆の位相をもって心が沈下してしまう。
田崎の配慮だと気付き、その思い遣りがにわかに負担になってきた。田崎は由紀が疲労困憊しているため、三千子と市枝にサポートさせようと手配したのだ。一時間半前、箱根にいる時なら、感謝してその配慮を受け容れたかもしれない。
が、車中の暗い悶々とした一時間半が、由紀の心を塗り潰し、変えてしまっていた。他者の干渉をことごとく排除する自閉的な頑なさだけを唯一の頼りとして鎧ってしまっていたのだ。
「お姉さんは、杉村さんがお疲れなのをとても心配なさってました。どんなことでもいいから、お手伝いすることがあればとおっしゃってました」
「でも、お姉様はお忙しいのでしょ」
由紀は弱々しい語調でいった。我ながら愚痴っぽいのに気付く。感謝の念が一片も湧出してこない。ひたすら有難迷惑であり、どうにかして逃れようという思いで心がいっぱいになっている。
今は三千子の、弟の丈と酷似した黒い瞳の前に立つ自信がまったくない。三千子に己れの心を全て読まれてしまう恐怖と強迫観念が強まってくるばかりである。
どうやって逃れよう......由紀の心はそれだけに縛られてしまった。
「あ、そっちじゃなくて......国電じゃないんです」
由紀は素早く心を定め、前を行く市枝に声をかけた。
「はい?」
けげんそうに足を停め、市枝が振り向く。
「タクシーで行きます。高輪じゃなくて、渋谷の事務所に寄ります。事務所で片づけなければならない仕事が沢山あるものですから」
由紀は市枝や三千子を振り切り遠ざける方法を考えついたのだ。二人とも渋谷の会事務所にはほとんど足を向けたことがなく、寄りつかない。市枝もそうだが、三千子さえも会に対して奇妙な遠慮を持っていることを由紀は知っていた。丈の肉親が会に出入りして、芳しからぬ印象を与えることになっては、と惧れているようである。
市枝の場合は己れの前歴が会の活動に支障を来すことを危惧しているとはっきり告白している。二人とも会に馴染まない心理状態にあるのだ。
それを利用しよう、と由紀はとっさに思いついたのだった。悪知恵のようで、後めたい気持が働かざるを得なかった。
「でも、会の皆さんは箱根に出払っておいでなのでしょう?」
「いいえ、セミナーに参加したのは会員の一部です。会は普通にやっています......」
多少、誇張気味だが、噓ではなかった。会の全員がセミナーで出払ってしまったわけではない。むろん残留しているのは留守番にしかすぎないが......
「そうですか......」
果して市枝は躊躇した。渋谷の会事務所へついて行くことには、心理的抵抗が強く働くのだ。それに会員たちが残留している以上、自分は役立てないと思ったようである。
「それじゃ、一応、渋谷までお送りさせて下さい。高輪のご自宅へお帰りになったら、お掃除でも何でも、お姉様といっしょにお伺いして手伝わせて下さい」
「ええ、ありがとうございます」
由紀の目論見通りであった。罪障感が湧いてくるのを否みがたかった。
「お姉様にはわたくしからお電話します。お忙しいのに無駄足させては申しわけありませんもの。渡米の準備だって、そんな大げさなことは少しもありませんのよ。本当にこんなバッグ一つでいつも往復しておりましたから......」
自然に声音が弁解調を帯びた。強く心にとがめるものがある。しかし、今の由紀にとり、市枝や三千子たちを遠ざけたいという思いは一層切実なものがあった。
由紀の心に感応したのか、市枝は気重い感じになり、コンコースを脱けて西口のタクシー乗場に着くまで、無言で荷物を手についてきた。敏感な娘であることは確かだった。おそらくこの娘は、拒否の波動にもっとも鋭敏に反応するのではないか。
が、今の由紀にはどうにもならなかった。決してあなたが嫌いなわけじゃない、と心に弁解する。でも、心が滅入って鬱陶しい時は、だれだって孤りになりたいと思うはずだ......たまたま今のわたしはそんな陥ちこんだ気分になっているだけ。だれにだってよくあることだ。ちょっとした不機嫌な気分で人を遠ざけ、孤り静かにしていたいと望むのは......
しかし、いくら自分にいいきかせても、いっかな心は了承しなかった。この暗い狭隘な切り通しに圧迫されている気分は、果てしもなく永遠に続きそうな気がしていた。
もしかしたら自分はノイローゼになりかけているのかもしれない。そんな疑念まで心に徴してきた。
新宿駅から渋谷道玄坂までタクシーに市枝と同乗した気詰まりさは、由紀にほとんど拷問同然の苦痛をのみもたらした。
市枝が黙りこくっていたら、まだしも救われたかもしれない。だが、少女は努力を示して、箱根セミナーについて質問してきた。沈黙を怖れているようなあわただしさであった。
由紀はやむなく当り障りのない返事だけをした。トップ屋風間の闖入についても触れない。どうせ後で塾生の参加者から聞くであろう。箱根山中で丈が人々に示した光の奇蹟のことも黙っていた。喋る気になれず、幾度も口にのぼそうとしては思い留まった。どういうわけか今の由紀には感銘がきわめて乏しかった。人伝てに聞いた話だからかもしれない。彼女はそれを平山圭子に聞いたのである。
平山が心臓発作を起こし、人々の生体エネルギーを受けて回復した話も、妙に遠く虚ろな感じしか持たなかった。
気持がその種の話から離れてしまっているようである。努力してさえ関心がさっぱり持てない。そんなこともあったのか......その程度で終ってしまう。
木村市枝が聞けばきっと感動するだろうなと思いながらも、口がねばったようになり、やめてしまう。心に活力がなく、どこまでも重く沈みこんで行くのだ。
その代り、井沢郁江が大活躍していることを伝えた。とはいえ東丈が姿を消した後のピンチヒッターだとはいわなかった。
「郁江さん、素晴らしいですね!」
市枝は素直に感動していた。混りけなしの讃美があるだけで、嫉妬の重苦しさを感じさせないのが、由紀には妙な気がした。この少女が郁江に競争心を持ち合わさないはずがなかった。郁江が光り輝けば、それだけ苦しい思いをするはずなのだ。
本気なのかという目をしたが、市枝は気がつかなかったようである。
「郁江さんて、最近お逢いするたびに素晴らしくなりますね。どんどん光が増して、迫力いっぱいになってきます。やっぱり東丈先生の光をキャッチしているんですね。本当に凄いなあと思います」
市枝はうわずった声音でいった。
「あたしたち塾の者も、今度の箱根セミナーにみんな参加したいといってました。人数が多すぎるんで、結局遠慮してしまったんですけど。今度、塾でもセミナーをやりたいなって考えているんです。その時、郁江さんに講演をお願いしてもかまわないでしょうか?」
「それはかまわないんじゃないですか」
由紀は気のない返事をした。それは塾の問題であり、会には関りがない。そんなよそよそしい気分であった。
「先生のお許しが出れば、郁江さんも引受けるんじゃないかしら」
と、つけ加える。あまりの冷淡さに気が差したのだ。どうせ自分には関りのないことだし、明日からはニューヨークだ。郁江は郁江で自分の留守中、どうせ好きなように会を切り廻して行くだろう......そう考えている自分の冷やかな虚ろさに由紀はぼんやりとした愕きの念を覚えた。
「そういえば、塾へお見えになった時、先生がこんなことをおっしゃっていました。──今後はますます光り輝く者とそうでないものがはっきり分離して行くだろうって......それは努力する者と努力しない者の差がそうしてしまう......先生はそうおっしゃったんです。だから郁江さんはますます光り輝く者なんですね。あたしも頑張ってついて行かなくちゃって思うんですけど......」
市枝の他意ない言葉が、由紀の心を逆撫でするようであった。
しかし、市枝は相手の青ざめた沈黙を、単なる疲労のためと受けとめたようである。由紀の不機嫌さ口の重さも、他の動機に発しているとは思わなかったらしい。
「すみません。お疲れなのに、あたしばかり一人で喋ってしまって......」
と、市枝は詫びた。それなら黙っていてくれればいいと思ったが、逆に市枝は懸命に話し続けた。もっぱら塾の話題であり、虚ろになっている由紀にはさっぱり興味が持てなかった。
会にさえ感興が薄れ、どうでもよくなっているのだ。塾のことなど知ったことではない......露骨に言葉にすれば、そういった冷たい気分に他ならなかった。
「弟の明雄が、杉村さんにお逢いしたがっているんです。渡米なさる前に、どうしてもお会いしたいんだそうです」
市枝が話題を変えた。由紀が少しも関心を示さないでいることに気付いたのであろう。
「でも、ちょっとお会いしている時間がないかもしれない......」
由紀はほとんど心動かされぬままに、事務的に答えた。明雄のことを考えても、いっこうに心が浮上してこない。かつてはあれだけ心が通いあっていたのに、それが信じがたいまでになっている。他の人々への疎遠な気分と変るところがなかった。
「明日、みんなで空港までお見送りに行こうといっているんですけど、その時にでも......」
「あ、それはやめて下さい!」
由紀は相手に二の句を継がせない強さでさえぎった。
「そういうのってわたくしとても弱いんです! 昔から空港へのお見送りだけは、遠慮させていただいておりますから......皆様のご好意だけありがたく頂いていきます」
「そうですか......」
市枝は茫然とした様子で呟いた。杉村由紀の反応の烈しさにショックを受けたようであった。
「わたくし、ずっと昔から何十度もアメリカと日本を往復しておりますでしょ。だから初めのうちはよかったですけど、もう今となるとお見送りだけは本当に許していただきたいんです。こればかりは平にご容赦という感じで......」
「もう慣れきっていらっしゃるから......」
「そう。わたくしにしてみると、新幹線でちょっと大阪までという感じと変わらないんですの。それをいちいちお見送りいただいてはもう照れくさいというか、堪えられなくなってしまいますのよ」
「そうですね、きっとそんな感じになるでしょうね。でも、塾の方だけではなくて、会でも大挙して羽田へお見送りするんだって郁江さんが電話でおっしゃってましたけど」
「大変だわ。それだけは是非ともくいとめなくちゃ......」
冗談にまぎらわしたが、更に心が沈下して行った。何十名もの会員たちに賑々しく送られて羽田を発つなど、由紀をぞっとさせずにはおかなかった。あまりにも田舎くさい感覚で、都会人の由紀にはとうてい堪えられなかった。
人間関係が妙にべたついているのはまっぴらであった。なぜもっとさらりとスマートに振舞えないのだろう。押しつけがましい好意や友愛が会には多すぎる、と由紀は口中が苦くなる感覚で考えた。前からそうした不自然な人間関係に漠然と異和感を覚えていたことは確かだ。
郁江までそんな野暮くささと無縁でないのは不思議であった。淡白な郁江なら、いっていらっしゃいと事務所での一言ですませてしまいそうなものである。
郁江まで鈍感な友愛の押売りの悪習に染まってしまっているのか。だとすれば、この際、会を離れ、日本を離れるのはいっそ清々しくていいかもしれない。人間関係のねばついたところのないニューヨーク暮しは、自分の孤独癖には向いている。
日本でのこの妙な窒息感からは免れられるに違いない。
本音を吐けば、性に合わない会での生活はしんそこ飽きあきしたということかもしれない、と由紀は他人事のように考えた。
話題が跡切れた間に、タクシーが道玄坂近くに着いた。日曜日の歩行者天国なので、車は平山ビルの前まで入れない。タクシーを下りて、雑踏の中を坂を登らなければならなかった。
どこまでツイていないのかとうんざりしてしまう。市枝が重いバッグを持ってくれなければ、事務所へ行くのにも厭気が差してしまったろう。
ゆっくりと歩いて坂道を登るのに、体中に冷たい汗が這い降りて行く。事務所に着いたら、執務室の長椅子でしばらく横になろうと思った。異様な脱力感を伴った体の変調であった。
生体エネルギーが払底してしまったようである。かといって市枝に限らず会員たちの手で生体エネルギーを補給してもらう気にもなれなかった。
前を行く市枝が足を停めたのにも気付かず、体をぶつけてしまった。足がふらついてもう少しで転けてしまいそうになる。
「ごめんなさい......」
市枝が詫びたが、何か他のことに気を取られていることは明らかだった。
「どうしたの?」
気をつけてよ、と尖った声を出すかわりに由紀は尋ねた。当り前の声を出すのに、意識的な努力が必要であった。
「ええ。ちょっと気になる人がいたものですから......」
市枝は奇妙な緊張を示しており、それがようやく無感動な由紀の心にも関心を呼んだ。
「どこ?」
「あの背の高い男の人です。サングラスをかけた......斧で割ったような、頰のそげた顔をした人です」
人ごみの中でも、すぐに目についた。黒いレザーの背広を着て、洒落た黒革のブーツを穿いている。長身のがっしりした男だ。が、いかにも雰囲気が暗く、突拍子もない不調和なものを感じさせる男であった。洒落者なのに異彩を放つという印象である。
周囲の歩行者たちも、本能的に察知しているらしく、丈高い洒落者を迂回するように避けて行くのがわかる。
「それがどうしたの?」
「別にどうということはないんですけど、眼付がちょっと気になって......」
市枝は緊張を緩めずにいった。警戒心に白い皮膚が引き緊まり、いっそう鮮やかな印象になっていた。鋭敏に耳をぴんと張った野生の鹿のような美しさであった。
しかし、濃いサングラスをかけているのに眼付が変だとわかるなんて、市枝はそれこそ超能力者ではないかと思った。異常なほど他人の視線に鋭敏なのだと市枝から聞かされた記憶がある。体中のどの皮膚でも視線を知覚するそうであった。おそらく他人の侮蔑に敏感な不良少女時代に培われた感覚異常なのだろうと思った。
19
「行きましょう」
由紀はそれ以上の関心を示さずに、先に立って平山ビルのある路地に入った。つまらぬ些事に気を取られてはいられなかった。そうした苛立ちが後姿に滲みでていた。
木村市枝は思い切りがつかないという感じで、躊躇いがちについてきた。どうしても気になって堪らぬという表情であった。
秘書室には鍵がかかっており、由紀はロックを解かなければならなかった。しかし、七階には留守番の会員が何人かいるはずだ。市枝はその間、そわそわしながら荷物を手に持っていた。いつも平山ビルの事務所にやってくると過度の緊張を隠せなくなるのだった。ひどく居心地が悪そうであった。
解錠して由紀が振り向いた時、エントランスへ女性会員が姿を現わした。若い女の子で、由紀はその植物の蔓のようなほっそりした姿を見て驚いた。
「緑ちゃんじゃない。どうしたの、久しぶりね」
前の見習秘書の野沢緑であった。
「お久しぶりです......」
野沢緑は平然といった。何事もなかったような尋常な挨拶ぶりといえた。
「どうしてるのかなって思ってたのよ、緑ちゃん。少しも顔を出してくれないから」
由紀は外交辞令を述べた。この野沢緑は高鳥慶輔に憧れて、一階の秘書室を出ていってしまった女の子だ。しかし、高鳥に相手にされず、いつしか顔を出さなくなっていた。
どういう風の吹き廻しだ、と思わずにはいられなかった。それも会員たちが箱根セミナーに出払った留守宅を狙ったようにやってくるとは、どういう気でいるのだろう。
由紀は内心ではこの少女を快く思っていなかった。狭量かも知れないが、秘書室を見換えられた腹立ちはいまだに消えていない。
「ご心配かけてすみません......ちょっと体の調子が悪かったり、家のことでゴタゴタしてたものですから......」
緑が殊勝な面持ちでいう。
「また一生懸命出てきて頑張りますから、よろしくご指導下さい。今度は脱落しないように努力します」
言葉はもっともらしいが、まるで練習してきたようなわざとらしさが感じられた。おそらくそうなのであろう。この女子大生は少くとも秘書室には顔出しできないことをしでかしているのだ。
しかし、何で今頃、と思わずにはいられない。会へ来て、面白いことでもあるというのだろうか。会員たちの特殊なものを見る視線を浴びるだけではないか。
たとえ心が狭いとそしられようとも、由紀はそう思わずにはいられない。
「今後ともよろしく......」
野沢緑は頭を下げ、木村市枝にも会釈してエレベーターで上階へと去った。
しゃれっとしすぎている。何事もなかったという顔で七階へ行っていったい何をする気なのか。由紀は不快なものを飲んだような重苦しさを胃に味わった。このところずっと胃に変調を来している。昔からストレスはすぐに胃に来る方だ。
楽しいことが少しもない生活を繰り返しているのだから、それも当然だった。日々の激務が疲労となって、回復しないままに徐々に蓄積されて行く。心が鬱屈し、沈降して行くのは当り前だ、と由紀は思った。自分は他の皆のように責任を放り出して好き勝手な真似をするわけにはいかないのだ。自分は東丈の秘書なのだから......
しかし、それももう終りだ。ニューヨークへ遠ざけられて、何がどうなるのか自分には皆目見当がつかない。
丈が何を考えているのか把握することができたら! 一瞬、熱病の烈しさで杉村由紀は希求せずにはいられなかった。自分のこの胸のつかえ、吞み下すことも吐き出すこともできない凝りはいっぺんに解消するだろうに......
「あの、バッグをどこに置いたらいいでしょうか?」
と、市枝の遠慮がちな声がして、由紀の沸騰しかけた情念を冷ました。自分の感情を見抜かれたかと彼女はひやりとした。このねじくれて結節のようになった胸の裡を、超能力者に窺かれるのは、とうてい堪えがたい屈辱であった。
「そのあたりにお願いします」
由紀の態度はおのずと固くなり、それが速やかに反映して市枝も固くなってしまった。あまりにも鋭敏すぎて気が疲れると思わざるを得ない。
「今の方は......前に秘書室にいた方じゃなかったですか?」
と、市枝は努力を払いながら尋ねた。
「前にここへ伺った時にお逢いしたと思うんですけど」
「ええ、そうなの。もう辞めたけれど」
「どうしてですか? せっかく秘書になれたのに、どうして辞めてしまったんですか?」
「さあ。個人的な事情があったんでしょう」
由紀の返事は、冷笑的に突放すように響いたようである。
「あたしには信じられません。東丈先生の秘書にせっかくなれたのに、自分から辞めて行ってしまうなんて! どんな事情があるか知りませんけど、それじゃ会員になった甲斐がないんじゃないですか」
市枝の語調には切実なものがあった。信じがたいという感情と抗議がこめられていた。
「でも、人はさまざまですもの」
由紀は自分でも冷淡と感じる声音でいった。
「家庭の事情でもあるんでしょ」
「でも、会員の皆さんはそんな軽々しい気持で会に入っているんでしょうか?」
市枝は懸命に感情を抑えていた。
「さあ、そんなこともないでしょうけれどもね......」
「あたし、今度の箱根セミナーに参加できなくて、本当に口惜しい思いをしたんです。塾の人はみんなそうだと思います。でも、会員の方は、参加しようと思えばできるのに、そんな気もない人たちが沢山いるんですね」
「でもやっぱり経済的な事情もあるでしょうし、時間的なことやいろんな問題があるでしょうから、一概にはいえないんじゃないかしら? 事情が許せば、みなさん参加したかったと思うんです」
「でも、今の野沢緑さんて方、箱根セミナーのことなんか一言も尋きませんでした。本当にやる気があったら、そんなことないと思うんです。いったい何のために会へ来てるんでしょうか? 先生にも会にも関心のない人たちが何で会員でいるんですか!?」
「それは、本人に尋いてみなきゃわからないけど、あまりそんなことを気にしない方がいいんじゃないかしら?」
「どうしてでしょうか? 会員の皆さんは、自分たちが今どんなに素晴らしい幸運に恵まれているか気付いていないように見えるんですけど、先生とともに歩む幸せってあまり感じていないんじゃないですか?」
「そんなこともないと思うけど......他人のことを気にするより、まず自分が一生懸命やるというのがわたくしの主義なの、他人のことをあれこれいっても仕方がないでしょう? 本人には事情があるんだろうし、好きでやっているんでしょうから」
「それはそうかもしれませんけど、自分の幸せにぬくぬく座りこんで、有難味を知らない人たちを見ると、あたしとっても気になるんです」
「市枝さんはとても親切なのね......でも、他人は他人、自分の思い通りにはならないわ。好きにさせるしかない......わたくしはそう思って突放すことにしているの。口でいったって駄目な者は駄目ですもの」
由紀は疲れており、議論はしたくなかった。口をきくのも億劫であった、コートを着たまま自分の椅子に腰をおろした。エアコンのスウィッチを入れるのも面倒であった。埃っぽく冷えた重い空気の底に沈みこみ、何もしたくなかった。
早く市枝が帰ってくれないかとそればかりを思っていた。
「すみません。何のお構いもできなくて......これから大急ぎで片付けなければならない仕事があるものですから......長い間、秘書室を留守にするかもしれないでしょ。留守中の注意事項をリストにしておかなきゃならないんですけど、分量が多くて大変なの」
由紀は無理やり笑みを顔に押しあげながらいった。
「大急ぎでやっても、夜遅くまでかかりそう。先生のお姉様にはくれぐれもよろしくお伝え下さい。せっかくのご好意、本当に嬉しいんですけど、もしかするとここで徹夜になるかもしれませんので......夜には箱根の人たちも帰ってきて忙しくなりますし」
なんとかして市枝に帰ってもらいたかった。これではかえって心が休まる暇がない。疲労と焦燥が深まるだけだ。
「じゃ、あたし帰ります......」
木村市枝は幾度も躊躇したすえに、ようやくいった。危惧の念がはっきりと顔に表われていた。
「何もお手伝いできなくてすみません。あたしがここにいては、かえってお仕事の邪魔になりますし......一応、塾の方へ戻ります。でも、何かお手伝いできることがあったら、塾の方へお電話下さい」
「どうもありがとう。その時はよろしくお願いしますわ。先生のお姉様によろしく......」
由紀は心にもない笑みで、市枝を送り出した。彼女が気を変えて居座られるのがなによりも心配であった。今はだれにもいっしょにいてほしくなかった。孤りでの安息こそ何にも増して由紀の求めるところであった。
木村市枝はいかにも心を残しながらという後姿で、平山ビルを立ち去った。義務感のために圧し潰されそうになっていたようである。しかし、由紀本人の意志に逆らってでも、押し通すことはできなかったのであろう。由紀のきっぱりした態度は全く誤解の余地のないものだったからだ。さすがの市枝にも、それ以上秘書室でねばることは不可能であった。
市枝を追い返しても、心の安息は全く訪れなかった。かえって焦燥感が深刻化してきた。いても立ってもいられない苛立ちが由紀にとり憑いていた。
由紀は暖房を入れ、コートを脱ぎ、洗面所で手を洗い、顔の化粧を直した。苛立ちはおさまらず、酒が飲みたいと本気で思った。しかし、とろ火で焙られる苛立ちが酒で鎮められるはずはないと考えるだけの理性が残っており、衝動を制することができた。
秘書室附属の小さなキッチンで湯を湧かし、お茶を淹れて飲む、ただそれだけのことが大事業になっていた。しかも、その大事業を成し遂げてもいっこうに得るものがなかった。疲労が療される気配は全くない。リフレッシュされ、活性化される効果がまるでなかった。ただ横になって体を休めたいという欲求が強まる一途であった。
由紀は己れに鞭打ってデスクにメモ用紙を広げた。必死に精神集中して、留守中の注意事項を書き出そうとする。
ある程度、腹案があったつもりなのに、何も出てこなかった。気力が失せているのである。注意事項と書いた字にまったく力がなかった。ペンを握り続ける根気がまるでない。
由紀は溜息をついてペンを投げ出した。気力を回復しなければならなかった。立ち上ってデスクを離れ、会長執務室に入った。続き部屋のドアを閉める。
執務室には革貼りの長椅子があった。丈が仮眠を取るのに時折用いられる。そこに崩れるように体を伸ばした。重力の桎梏から解放されることがこれほど有難いと思ったことはなかった。
頑健な由紀はこの何年も寝込んだ憶えがない。気力と体力を消耗し尽して、長椅子で横になるなど、普段の由紀には考えられないことであった。
体が長椅子に貼りつけられてしまったように感じられた。戸棚から毛布を取ってこなければ、と思うが体が動かない。ただ一休みするだけで眠るつもりはなかったが、奈落の底へ吸い込まれて行くような墜落感が襲ってきた。
幻魔の暗く深い磁場に捉えられ、吸い込まれて行くようだと思った。ぞっとする冷たい恐怖感がこみあげて、体を起こそうとしたが、やはり自由にならなかった。金縛りにあってしまったようである。
もうすでに意識が夢の中に半ば移行してしまっているのかもしれなかった。体が動かないのではない。意識が金縛りにあっているのである。
東丈が不意に帰ってきたら、と由紀は思った。こんな醜態を丈に見られるわけにはいかない。由紀が会長執務室のソファで長々と寝ているなど、これほどぶざまでみっともないことはない。自分のようにやたらにのっぽの大女が長椅子に横たわっているなど、まるで鯨が陸揚げされたような醜状であろう。
由紀は日頃あまり縁のない自虐的な気分の虜囚になっていた。自分の肉体を卑下するなど滅多にないことだ。時折は、東三千子や郁江のように小柄で精緻な女性に対していると、己れの肉体の大味さが、およそ繊細さを欠くものとして意識されることがないでもないのだが......
幾度も起きようとはかない努力を繰り返したが、体がじっとりと冷たい力で抑えつけられていて、自由にならなかった。不動金縛りであった。体の筋肉が一筋も動かない。満身の力を渾めても指一本動かないのだ。
ごく若い頃は頻繁に味わった金縛りだが、今では久しぶりの襲来であった。その前後に、性夢を見ることを思い出して、由紀は厭な気分になった。ここは東丈の執務室なのだ。彼の秘書がソファに長々と横になり、性夢の虜になったりしていては、これほどみっともないことはなかった。第一、丈が夢の途中に帰ってきたりしたら、あわせる顔がなくなってしまう。
木村市枝を帰すのではなかった、と本気で後悔した。自分がうなされていれば、市枝に起こしてもらえたのに......
世界が官能的な若草の緑に染まると、若者が部屋に入ってきて、彼女の隣りに横たわる。若者の顔はいつもわからなかった。夢を見ている時はわかっているのかもしれないが、目を覚すと同時にきれいに忘れてしまうのである。
自分が寝ているのは、ベッドではなく、幅の狭い革の長椅子なのにおかしい、と由紀は考えている。だれも自分と同衾することなど不可能なはずなのに。
彼女はこれがごく若い頃から繰り返されてきたお馴染みの夢であることを思いだす。ああ、またこの夢だなと思う。同じことがまた繰り返されるのだとわかっている。
この夢の中の由紀は十七歳の少女である。今の由紀ではない。少女時代の意識に戻ってしまっている。未経験の怖れと戦きに捕えられている。
しかし、官能的な期待と喜びは同時に由紀のものだ。若い美しい神にささげられた神の御妻なのだと己れを感じている。十七歳の少女のしなやかな体は、硬さを残して若い神にささげられるのを待っている。
そして若き神の輝くような肉体を肌で密着して感じる時がやってくる。瑞々しい官能の喜びに体が柔くほどけ、湿って開いて行くのを覚える。肉体がどこまでも柔軟にほどけて行き、綿雲のようになってしまう。自分が若い神の肉体と一体化しつつあるのを感じる。熱く濡れて一分の隙もなく若い神を包みこみ、囲繞し、捉えて離すまいとする。信じがたいほどの激越な官能の喜びが訪れて、爆発的な奔騰に彼女を攫って行く。
それは彼女が後年成熟し、性の深みの中で覚えた快楽のどの奔騰にも優る極まりの感覚であった。現実の肉の歓びは底が浅く、いじましいものだと感じさせるのだった。彼女がこれまで知っている最良の官能的喜悦さえ、夢における上昇感と爆発感の粗末ななぞり描きにすぎない。
由紀がこれまで機会がありながら、おどろおどろしい変質的な性の深淵へ沈むことを拒否してきたのは、すでに最高の上昇感を知っていたからかもしれない。
好ましい男と肌を交えているさなかにあっても、夢の記憶がふと甦えると、にわかに索然と気持が醒めてきてしまうのだった。それは好奇心で麻薬類を試してみた時の心理に酷似していた。こんなものは所詮は偽物なのだという冷めた認識であった。すでに最高の極まりを知っていれば、二合目や三合目あたりをさすらうことは虚しい徒労感をのみもたらすものだった。
由紀が常に男たちに対してクールでありえたのは、彼らに幻想を持つことがなかったゆえに他ならなかった。
最初からわかっていたのだ、と由紀は思った。彼ら男たちが約束するのはいつも麻薬の類いが提供を申し出ている偽りの快楽にしかすぎない。それは決して最高の飛翔に彼女をいざなってくれることはないし、偽りの甘さで後味を苦く不快なものにする。なぜなら、自分はすでに最高の上昇感を知っているのだから......
──どうしてなんだ!?
と、男たちはいつも別れを告げられると愕然とし、不信の声をあげた。
──なんのことかわからない。二人ともあんなにうまく行っていたじゃないか! なにもかもうまくいっていたのに、それなのになぜ!?
彼女はいつも男たちにすまないと思い、罪障感の虜になった。どんなに強く烈しく問い詰められても、肩をすぼめて詫びるしかないのだった。彼女にはどうしても行きつかねばならぬ所があったし、それを心変りを責める男たちに説明し、納得させることは不可能であった。彼らは必ず他に男ができたのだろうと曲解し、烈しく嫉妬した。彼らの感情の泥沼ではねちらかす泥は、由紀に決して附着しなかった。すぐに乾いて剝げ落ちてしまうのだった。
すまないことをした、と彼女は心の奥底では思い続けてきたのだ。心を深く傷つけられ憤然と去った男たち、いつまでも待っている、と真剣な言葉を与えてくれた男たち。彼女は罪を犯したし、赦しが与えられるとも思っていなかった。常に冷酷さで心を鎧い、男たちを傷つけ、彼らの感情を顧ることなく、そのめめしさをむしろ嘲笑おうとしてきた。未練を残す彼らを軽蔑した。
結局、自分はいつも自己正当化をほどこしてきたのだ。自分の心をしっかりと摑み、縛りつけてくれない男たちが悪い、と自分にいい聞かせてきた。
自分はいつも旅を続けに出て行ってしまうから、しっかり摑まえていて、とあれだけ頼んだのに、だれ一人捕えてくれる男はいなかった......自分を力ずくでも制止してくれる男がいないことを自分は悲しんだ。彼らはいつも紳士的で弱々しく力に訴えても止め立てする気概はだれ一人持ち合わせていなかった。
だから自分はやむなく運命の強い力に曳かれるままに、再び旅立って行ったのだ......
でも、やっぱりすまなかった申しわけないことをしたと心の奥底ではいつも思い続けていたのだ、と由紀は悟った。
彼らの味わった苦悩、懊悩がことごとく今自分に帰ってきて、今の自分の苦しみとなっているのかもしれない。なぜなら、男たちを冷酷に見捨てた自分が、しんそこから幸福になるなど許されるはずはないから......
この夢はいつもと違う、と由紀は気付いていた。どこかであの夢はすり換わってしまっていた。
たとえようもなく官能的な至福の歓びがいつの間にか変質し、無気味な味わいを持つ性の底知れない深淵を覗かせる快楽にすり換わっているのだった。
これはいつもの夢とは違う! 大切な夢が盗まれ、瀆されて凶悪なおぞましいものに変貌してしまっている!
20
ドアを開けて入って来たのは、彼女のよく知っている若い神ではなかった。若い神に化けた何かしら変質的な異形のものであった。由紀の隣りに横たわり、彼女の肉体を搾めつけ、占領し、穿ち続けるのは、見知らぬ淫魔だった。そいつは若い神に変化してやって来たのである!
快楽は深淵の無気味な味わいがした。腐敗した粘液が全身にからみつき、おぞましい快美感の泥沼の底に彼女を引きずりこもうとしていた。穿たれるごとに気味の悪い戦慄が湧き起こり、ぞっと慄えながら、由紀は悶えのたうった。それは変質的な性技を好む男とつきあった記憶を由紀に甦らせた。紳士然とした外見の裡におし隠している無気味で貪婪な欲望のおぞましさに、鳥肌を立てた記憶であった。その男は奇怪な性具を取り出して己れ自身を瀆すことを由紀に要求し、同じことを彼女にもほどこそうとしたのだ......
人間の裡に蔵した得体の知れぬ深淵に触れるほど慄然とする経験はない。腐爛した精神に接触すると、その汚穢さがこちらにまでしみついてくるのだ。
戦慄を伴った悪魔的な快美感が、由紀を糜爛させようとしていた。妖しい背徳の快楽が神経を痺れさせた。異様なむず痒さが快感を堪えがたいレベルに押し上げて行く。
淫靡きわまりないるつぼの中で、どろどろに溶かされてしまう恐怖が由紀を捉えた。由紀はかなり奔放な性体験を積んできたはずだが、その淫蕩さには怖れを禁じえなかった。
由紀は全力を挙げて魔性の抱擁から逃れ出ようともがいた。彼女の体の深部を満たし、今にも引き裂きそうに膨隆しながら穿ち続けている異常な硬く冷たい男根を拒絶しようとした。それは人間の男の持つべき男根ではないと直感していた。魔王の所持する巨大な、破壊的な男根であり、今彼女を蹂躪すべく、若い神に変化して襲ってきたことを由紀ははっきりと確認した。
腐敗した漿液で充満した底無し沼から浮上するような苦しみだった。由紀は声高な呻き声をあげ、その声のあまりの高さに愕然とした。不浄な悪夢の泥沼が彼女をようやく解放した。
濃い灰色の幕に裂け目が見つかり、由紀は溺死しかけた人間のように死物狂いで脱出を果した。
全身がぬらりとした冷汗にまみれ、凍るような冷たさの中で由紀は目を覚した。これほど不快な目覚めは絶えて味わったことがなかった。凍土の下に生き埋めにされていたような気分であった。
体の深部がおびただしく湿潤していて、由紀は強く眉をしかめ、冷たく濡れしとった不快感に堪えた。淫夢の巨大な魔王の男根に穿たれていた体のうろがひどく脹れあがり、疼きながらいまだうごめき続けていた。
目覚めた後も強い幸福感を残してくれるいつもの夢とは全く異質の、陰惨で不愉快きわまりない後味であった。
由紀はがぱっと激しい動作で長椅子の上に上体を起こした。目が据わってしまっている。一瞬自分がどこにいるのかわからず、強い不安の虜になった。会長執務室の見慣れたたたずまいが、あまりにも異様に目に映じたのだった。
ドアが開いてだれかが戸口に立っていた。それが悪夢の続きの錯覚をもたらした。無気味な人影は再び若い神に変化した魔王が、彼女と同衾すべく現われたのかと思えたのだ。
悪寒が慄えのぼって、由紀は大きく目を瞠り、懸命に戸口の人影を睨みつけた。なんとかして侵入を阻止しなければならないと思った。再びあの巨大で凶悪な魔王の男根を受け容れるつもりは毛頭なかった。いまだに堪えがたいまでに伸展された感覚が冷たく濡れしとったうろに残っていた。
現実感が訪れて、ようやく自分が会長執務室の長椅子で仮眠をとっていたことを思い出した。
灼熱する恥の感覚が由紀を摑んだ。寝乱れているさまを他人に見られたのはショックであった。しかもただの悪夢ではない。凄まじい淫夢なのだ。
「だれっ」
誰何の声が甲高く烈しいものになった。プライヴェートな場所へ踏みこまれた怒りが気持をうわずらせていた。なぜドアに施錠しておかなかったかと後悔で体が熱くなる。
戸口の人影は由紀の誰何の語気の鋭さに気圧され、怯えたようであった。
「すみません......」
女の声であった。あまり聞き慣れない声である。由紀は眉をしかめ、足を長椅子から床におろした。脱ぎ捨てたパンプスを爪先で捜す。
執務室の照明を消して、秘書室だけ点灯しているので、逆光になっているのである。人影の体の輪郭は女のものだが、だれであるかわからない。
「起こしてしまってご免なさい。電話に全然お出にならないので、どうしたのかと思って様子を見に来たものですから......」
「久保陽子さん?」
ようやく相手がわかった。気味の悪い衝撃が体を突き抜けて行った。
「はい......無断で入ってしまって申しわけありません」
「すまないけど、あかり点けて下さる?」
照明の明るさがくらくらと脳裡を白く灼いて、止めればよかったと一瞬後悔した。
執務室の照明は眩しすぎるほどで、悪夢の残滓をたちまち部屋から追い払ってしまった。由紀はけだるげな重苦しい動作で、ようやく長椅子から立ち上った。いつものきびきびした由紀とは別人のようであった。
自分でもわかっているが、どうにもならない体の重だるさだった。冷たい汗の被膜が全身を覆っており、熱いシャワーを浴びたいと切実に願った。せめても体の深部の不快な汚れを洗い流し、下着を替えたい。どうにもならない不快さと情なさで呻き声をあげたくなった。
まるで思いきり失禁でもしたような堪らない居心地の悪さだ。悪寒が繰り返し体を這った。汚れた下着の湿った感触が膚に貼りついてしまっている。
明るい照明光の下で、久保陽子は蒼白い顔を由紀に向けていた。緊張過多で、顔が肉の脂身のように白く硬い。
「どうしたの?」
なんとか粗々しくないという程度の声音がようやく出た。思うさま突慳貪になっても不思議はない心境だったのである。これほど克己心を必要としたことはなかった。
蒼白い顔をこちらに向けて立っている久保陽子はやはり薄気味悪いところがあり、それが由紀の自制心を駆り立てたのである。差別してはならぬと自分にいつもいい聞かせているが、一度幻魔の完全支配下に入った少女は無気味であった。心の中がどのような状態になっているか見当もつかない。遠感で探るなどまっ平で怯気を振るった。どうしても敬して遠ざけるという気持に傾いてしまう。
「申しわけありませんでした。まさかお寝みとは思わなかったもので......」
陽子はこだわっていた。由紀に劣らず面食ったのであろう。
「いいのよ。ちょっと仮眠をとったものだから......セミナーで少し疲れてしまったの......」
いわでもがなの弁解を口にしていた。早く用事をすませて出て行ってくれないかという気持でいっぱいだった。なんとかして下半身の不快感を拭い去ってしまわなければならなかった。
「郁江さんあての電話がしょっ中かかってくるものですから、どうしたものかと思って......みんなが杉村さんに相談した方がいいというものですから......」
少女は固い調子でつかえ、どもりがちにいった。うまく言葉が出てこないようであった。
「箱根セミナーに出かけているとはいえませんし......困ってしまって......」
「だれからの電話?」
「それが、名前はいわないんです、でも、何か事情があるらしくて、とてもあわてているんです。どうしても連絡をつけたいといって、もう十回くらいかけてきました。連絡がつかないと大変なことになるといっていますし......」
「名前をいわないって、どんな感じの相手なの?」
「若い人です。同じ人がいつもかけてくるんじゃなくて、その都度人が違うみたいです。大急ぎで郁江さんに連絡をつけたいって、その一点張りなんです」
「ふうん......」
といって、由紀は考えこんだ。頭の中が空白になっていて、考えが空転し、少しもまとまらなかった。
「箱根の方の電話を教えるわけにはいかないし......あの、いけなかったでしょうか?」
久保陽子が恐るおそる尋ねた。
「いけなくないわ......それでよかったのよ」
由紀は変ないい方をした。
「今度電話があったら、名前と用件を必ず聞いておいてちょうだい。さもないと取り次ぎはできないっていって」
「そうはいったんですけど......本人に直接でなければ話せないっていいはるんです。ただごとでない雰囲気ですし、みんな困ってしまって......野沢緑さんが、杉村さんお帰りになったというので......」
「いいわ。今度電話が来たら、わたくしに廻してちょうだい。それでいいわね? 何か他には?」
相手の話の持って行き方がもどかしく、由紀は引ったくるようないい方をした。
「いいえ、ありません......あの、杉村さん大丈夫ですか?」
と、久保陽子はいきなり尋ねた。
「お体の具合でも悪いんじゃないんですか? 凄く汗を搔いてるみたいですけど、寝汗ですか?」
「大丈夫よ、どうして?」
「凄くうなされているのが、部屋の外にまで聞こえたものですから、心配になって......」
「そんなに大きな声でうなされていたのかしら?」
ぎょっとした。まるで見透かされたように感じたのだ。体中が氷のように冷えた。淫夢でうなされている声を聞かれてしまったのだ。相手の少女に対して憎悪に近い感情がこみあげ、我知らず睨むような視線を久保陽子の蒼白い額に射込んでいた。
「とても苦しそうな声を出して、うなされていました。呻き声を聞いていたらとても怖くなってしまって、起こさなきゃいけないって思ったんです」
少女は一生懸命にいった。
「もしかしたら病気じゃないかと思ったものですから」
「大丈夫よ......でも、ありがとう、起こしてくれて」
由紀は手の甲でぐっしょり濡れた額の冷汗を押し拭った。
「本当に聞くに堪えない、苦しそうな呻き声だったんです。体中の血が肌の毛穴から滲み出して来るんじゃないかと思うような、怖ろしい声......」
「もういいわ、沢山!」
由紀は鋭くさえぎった。いつまでもくどく続ける相手に殺意に近い嫌悪を覚えた。肌に粟が生じてきた。生理的に生臭い聞くに堪えない呻き声を出したのだろう。少女の耳にはそれが何であるか判別できなかったのだ。
それを聞かれた恥辱が青い憎悪の炎となって心に燃え上った。歯軋りしたいほどだった。
「ちょっと疲れてうなされただけ。とにかく郁江さんあての電話があったら、一階に廻してちょうだい。それでいいわね」
「はい......どうも失礼しました」
久保陽子は一礼して立ち去ろうとした。
「ドアをちゃんと閉めて行ってちょうだい」
「わかりました」
少女は目を伏せたまま、別室に去った。ドアが閉まる。少女が一度も由紀と目をあわせなかったことに今更のように気付いて、由紀は身慄いした。伏し目がちの眸がどんな表情を湛えていたか想像力が不意に活発に働き、まざまざとイメージを造りあげたからである。
久保陽子は冷たい嘲りの眼差を目を伏せて隠していたのだ!
もちろん想像にすぎなかったが、冷汗をとめどもなく絞り出すには充分の力を有していた。由紀は大声を出して叫びたくなるのを全力を挙げて抑制しなければならなかった。それではあまりにも非人間的すぎ、無気味すぎた。久保陽子は蒼白い表情の下に魔性の嘲笑を秘め、何もかも見透かしていたとでもいうのか。
由紀は烈しく頭を左右に打ち振った。妄想であることは明白であった。しかし、その妄想があまりにも真に迫っていたため、体に慄えが来てしまった。
妄想に心をゆだねていたら、どうなってしまうかわからなかった。戦慄を体に波動させながらトイレに立った。断乎として妄念を心から押しのけてしまわなければならなかった。過去、これほど心が急速に深淵へ向って陥ちこんでしまったという憶えがなかった。とめどもなく滅入りこんで行くのだ。しかも、その沈降に制止をかけるのが容易なことではなかった。自ら好んで暗鬱な地底へ潜りこもうとしているようなのだ。
己れ自身を陰惨な冷暗に押しこめて、自分をこんな目に遭わせただれか他人の非をとがめ、怨み続けていたいという強い欲求が心の底に居座ってしまっているのだった。自分を冷酷に遺棄し、こんなにまで悲惨な目に遭わせたのは、あるいは東丈であるかもしれず、冷暗の深淵で、丈の無慈悲さ冷酷さを怨み続けることに、異様な倒錯した喜び、歪んだ快感を秘かに覚えているのかもしれなかった。
そうではない、と断言する自信を持てないことに由紀は慄然とせざるを得なかった。気味の悪い慄えが深奥から際限もなく湧き出てくるのだった。
体の深部は驚くほど顕著な生理的反応を示しており、由紀はトイレで後始末しながら体中が赤くなるほどの恥しさにさいなまれることになった。こんなことは近来にないことだった。そのあたりは恐ろしく分厚く脹れぼったくなり、自分の器官のようではなかった。充血しきっていて、歩くのにも刺激されるほど強い異和感を生じていた。由紀は自分が色情狂にでもなったような気がして、後始末の手を幾度も止め、躊躇した。
己れの手が触れるだけで、異様な生物が反応するように、それはショックを全身に広げるのだった。烈しいむず痒さに酷似した感覚であり、その都度由紀は固く目を閉じ、眉根を寄せて堪えた。慄えわななくような声音が喉を漏れた。
由紀は成熟した性感の持主であり、そうしたものは既知の感覚であった。淫夢に刺激されて、体が覚醒してしまっているのである。しばらくの間、禁欲主義に浸っていたせいもあって、目覚めたセクシーな感覚は尖鋭そのものといえた。
もちろんそればかりではない。淫夢は異常な後味を残していた。体が己がものとは思えない反応を示しているのである。体の深部に無気味な快楽の鬼子を産みつけられたような気がしていた。女性特有の器官が全て脹れ上り充血し、粘液にまみれて脈打っていた。まるで独立した異種の生物がそこに棲みついてしまったようであった。
まさに快楽の鬼子をはらんでいるとしかいいようがなかった。清拭しようとそのあたりに手を触れるだけで、跳び上るような快美感が走り抜け、深部が痙攣してどうにも手がつけられなくなってしまうのだ。
自制する気もなくなり、口許が歪んでしまい、由紀は泣き顔になった。幾度も慄えわななくような溜息をついた。己れ自身をどうしようもなくなっていた。
こんなことは生れて初めてであった。厭らしい色情狂になってしまったと思った。これほど情けないことはなかった。まるで自制がきかないのである。
じっと息を潜めているだけで、痺れるような快美感が体の芯を波動し続け、勢力を更に拡大しようとしている。勝手に体が感覚の奔騰をきわめてしまおうとしている。
由紀は歯をくいしばって恐ろしくも甘美な襲撃に抵抗し、呻き声を押し殺した。体に微妙な痙攣が生じ始めている。狼狽と快楽の汗が滲み出てねっとりと膚を湿らせている。
己れ自身の体に爪を立てて、由紀は自分が快楽の叫び声をあげることを免れようと努めた。尖った爪の先が皮膚を搔き破るほど力をこめ、痛覚を引き出して抵抗しようと全力を挙げる。
これほど苦しい異様な戦いは経験したことがなかった。異常な快美感が全身に波打っており、息もつけず、ものも考えられなかった。圧倒的な快楽の波がさいげんもなく押し寄せてきて、足許をさらい、うち倒して溺死させようとかかっている。
由紀を辛うじて支えているのは、彼女の職業意識であり、責任感であった。ここは彼女の神聖な職場なのだ。命懸けで重責を担い、使命を果そうとしている職場なのだ。どんなことがあっても、職業的倫理を崩すわけにはいかない。東丈の秘書として見苦しいことをすることは許されない。
高潮にも似た快楽の波が背の立たぬ深みへ彼女を追いやろうとする都度、由紀は命綱のように職業的倫理にしがみつき、抗し抜こうとした。
──早く快楽をやりすごして、すっきりすればいいではないか。
脂汗を滲ませている心に自棄的な考えが芽生えた。
──長い間禁欲したりするから、こんなみっともないことになるのだ。今までのように適当に処理していれば、こんなことにはならなかった。全ての遊びをまるで悪徳のように排撃して、禁欲主義に徹してきたから、強い反動が来たのだ。お前はセックスが好きで、いっぱしの快楽主義者だったではないか。
突如としてピュリタニズムのごとき禁欲主義にとり憑かれて、死物狂いで日夜働き続けたからこのざまだ......蒸気を抜かずに圧力をあげ続ければ、こんな破壊的なありさまになるのは当然ではないか。

唐突に心に湧いた考えは、妙な説得力をもって彼女に迫った。その通りだと首肯させかねない力があった。由紀は反射的にかつての男友達のだれかれを念頭に甦らせた。もう何か月も逢っていない遊び友達であった。彼らのうちのだれでも、喜んで彼女の飢きを満たしてくれるだろう......
由紀は深呼吸をして、強い誘惑に成長しかける考えを押しのけた。そんなことは論外であった。明日はニューヨークへ向うジェットの客席に座っているのだ。今これからただちに片付けてしまわねばならぬ仕事は山積している。
深呼吸を続けることによって、目もくらむような欲望の昂まりは鎮まってきた。今にも爆発しそうな圧力を半減させる。
自制心が戻ってきて、由紀はカラカラに乾いた唇を舐めた。これほどの情欲の奔騰を味わったことはないと断言できた。男と同衾しているならともかく、状況を考えると馬鹿げてさえいた。
強い誘惑に駆られはしたものの、由紀は自らの手で欲望を処理する習慣がなかった。蛇の生殺しの状態が長く続いて、その挙句頭が割れるように痛み出すからだった。長いニューヨーク生活のうちに、外向的なセックス・ライフに慣れていたせいもある。
三十分間もかけて、高圧の欲望をなだめなければならなかった。次々にかかってくる電話の呼び出し音が壁越しに聴き取れたし、これほど焦燥に心を焼いたことはない。
下着を上から下まで換え、じっとりと重く湿った肌着を紙袋に押しこんで、由紀は洗面所を出た。腰が鈍く重くなり、足が思うように動かなかった。平衡感覚がすっかり狂ってしまっていた。また足をもつらせて転ぶのではないかという強迫観念がぶりかえしてきていた。
秘書室に戻った由紀は不意に棒を吞んだようになって立ちすくんだ。大きくて黒い圧倒的なものといきなり出食わしたショックに似ていた。巨大な羆の如きものが秘書室に入りこんでいるのを見た錯覚であった。
21
むろんそれは、愚にもつかない感覚的倒錯でしかなかった。
長身の高鳥慶輔が立っていたのである。素晴らしい仕立てのスーツを着、一分の隙もないという陳腐な表現がそれなりにしっくりとあてはまった。
まさに貴公子であった。洗練され優雅な気品というべきものをさりげなく漂わせている。
こんな際であっても、はっと目を奪われるものがあった。実にグレードの高いハンサムぶりである。行きあった女たちはある種の胸騒ぎの虜にならずにはいられまいと思えた。それほど衝撃的なのである。
高鳥は生真面目な貌をして、じっと杉村由紀を見詰めていた。気がかりそうな表情であった。
「大丈夫ですか、杉村さん?」
と、彼は魅力のある低音でいいかけた。
「............」
由紀は息を吞み、棒立ちになっていた。まさしく虚を突かれていた。気味悪い波動が背中を上下している。なぜいきなり、真黒な巨大な化物のように錯覚してしまったのかわけがわからない。気まり悪さと当惑が由紀を捉えていた。
「高鳥君......びっくりしたわ......」
由紀は動悸がする胸を片手で抑えながらいった。
「黙って部屋に入りこんでしまって申しわけありません」
高鳥は礼儀正しくいった。しばらく姿を見かけないうちにずいぶん変った、と由紀は思わざるを得なかった。素晴らしいスーツでドレスアップしているだけではない。見違えるように人間の厚みと幅を増し、成長したようだ。
今の高鳥慶輔はただ単に才気のある若者ではなかった。別人の重厚さを加えて、堂々とした男に変貌したといってもよかった。
自信に満ちた落着きがあり、それはこの若者を年齢にそぐわない貫禄の重量感で満たしていた。
杉村由紀は自分が眩しいものを見るような目で、高鳥を眺めていることに気付き、軽く狼狽した。顔の赤くなる感覚に襲われる。
「野沢緑や久保陽子が、杉村さんは秘書室においでになるはずだというので......だいぶ電話がかかってきていましたが」
「ごめんなさい、ちょっと席をはずしていたので......」
由紀は汚れた肌着を入れた紙袋を左手に持っていることを不意に焦げつくように意識し、羞恥と困惑でかっと体中が熱く火照った。生臭い匂いをさせた肌着の存在が灼けつくような気がした。
相手が鋭敏な超能力者であるだけに、由紀の当惑は甚大であった。この若者は遠感者ではないらしいが、超感覚には異常な鋭さがあるはずであった。
あまりにもエロティックな生臭さにこの若者が気付かないはずはない! 由紀は死にたくなった。そっと紙袋を床に落し、デスクの下に足で押しこむ。それだけのことをギクシャクしたロボットの動きでわざと注意を惹きつけながら演じたような心地になった。
「だいぶ疲れておいでのようですね、杉村さん? 久保陽子から聞きました。よかったら生体エネルギーを入れて差し上げようかと思って伺ったんです」
高鳥はあくまでも爽やかにいった。自分の生臭さとあまりにも対照的だと思わずにはいられなかった。
「いえ......ありがとう。もう大丈夫なの。ここのところちょっと無理が続いたものだから、少しバテてしまって」
由紀は口ごもりながらいった。どうしても意識が汚れた下着に膠着してしまい、はなれることができない。とめどもなく顔が火照り、発熱したように無闇に熱い。
「でも、もう大丈夫です。やっと元気が出てきましたから......」
「でも、まだ生体エネルギーがだいぶ低下してるみたいですよ」
高鳥が確信をこめていう。超感覚の目で見れば明白だというのであろう。由紀はただ首を横に振った。立って会話を交えるのが苦痛であった。再び冷汗がじっとりと膚を濡らし始めている。
「いよいよ明日、杉村さんは出発ですね。もう準備はできたんですか?」
高鳥は由紀の苦境には気付かなげに明るい声音でいった。
「ええ、だいたいは......」
由紀はそっと手を伸ばして、デスクの端に摑まった。膝がガクガクしている。
「僕はあと四、五日かかります。ニューヨークで再会ということになりますね。ミスタ・メインが早く来いと矢の催促でね......」
「再会を楽しみにしてますわ」
由紀は必死で外交辞令を口にした。早く高鳥が立ち去ってくれることだけを祈っている。
「海外へ行くのは初めてなので、あちこち挨拶廻りが忙しくてね。早く杉村さんにもご挨拶しなきゃと思いながら、つい遅れてしまって」
挨拶などどうでもよかった。高鳥慶輔は好青年だが、今は一秒でも早く姿を消してほしい。由紀の望みはそれに尽きた。
「やっぱり参っちゃってるじゃないですか」
高鳥はいきなり風のように由紀の傍らに立っていた。由紀は立ちくらみを起こしたようである。
若者の太く力強い腕が由紀の肩を支え、椅子に座らせた。大きな分厚い掌が、彼女の額と後頭部にあてがわれ、頭をはさみこむようにした。
「大丈夫。ほら、体を楽にして......」
高鳥の仕草には権威があり、由紀に抗う隙を与えなかった。
「今、うんと楽にしてあげますよ。体がだるいのやつらいのはすぐ取れます。体から力を抜いて......」
高鳥の遣り方は、これまで由紀が知っている生体エネルギーの注入とは異っていた。耳慣れない異語を呟きながら、高鳥はしきりに由紀の頭に巻きついている目に見えないロープの如きものをほどき、引き抜くジェスチュアを示していた。
高鳥は異語の声音を鋭く権威的に高め、ほどいた紐の如きものをほうり投げるような動きを加えた。ヘブライ語ではないか、と由紀は感じた。こんな呪文をどこで覚えてきたのだろうか......
「どうですか? 頭がすっきりしてきたでしょう?」
高鳥は同じ仕草を反復しながら、治療師のようにもの慣れたいい方をした。絶対の権威と自信により暗示をかけているようだ。
「すうっと爽やかになってきたんじゃないですか? 重だるい痺れるような感じが取れてきたでしょう? どうですか?」
「ええ、本当......すっきりしてきました」
高鳥のいう通りであった。頭の中に涼風が吹きこむ爽快感が湧いてきた。思考を妨げていた重い霧の如きものが吹き払われ、みるみる視界が展けて行く心地よさであった。
頭蓋骨を絞めつけ、暗くどんよりした痺れで満たしていた圧迫感が消失して行くのがはっきりわかる。
驚くべき高鳥の手際であった。心霊治療師として、この若者は高度な業と力を身につけているようである。丈や郁江の遣り方とは違うが、卓効という点においては遜色がないように思えた。
「素晴らしいわ。今まで頭にどぶの汚水が詰まっていたみたいだったのに......本当にすっきりしていい気持」
心からの讃辞が出た。感謝がこみあげてくる。今まで心がコンクリートのように硬化していたのが噓のようである。
にわかに肉体を接触させている高鳥が、かつてない存在感をもって迫ってきた。その若い肉体の逞しさ強壮さが雄性そのものと化した。巨大な力を秘めた圧倒的な存在となっていた。
不快ではない。その反対である。百パーセント女性という意識を持つ由紀には、雄性がこの上なく好もしい。まして高鳥はそれにしなやかさを加えた若い牡鹿のような魅力を備えているのだった。すらりとした四肢の先端にまで、ダイナミックな雄性が息づいている。
由紀はごくわずかな間に、高鳥の手の感触に馴染んでいる自分を発見した。理由もなく頼もしく豊饒な気分になってくるのだ。
「でも、今のはどうやったの?」
頭部を両の掌の間にはさんでいる高鳥に向って、由紀は和いだ声で問いかけた。背後に立つ若者を、指名した美容師ででもあるかのように気易く感じていた。
「杉村さんの頭に巻きついていた黒い紐を取ったんですよ」
高鳥はごく日常的なことをいうような口ぶりであった。
「黒い紐!?」
「そう、生きている黒い紐です」
「生きているって、どういう意味なの!?」
ざわっと無気味な波動が肌に生じた。
「蛭みたいな黒いぬらっとした紐ですよ。杉村さんの体にしっかり巻きついて、生体エネルギーを吸い取っているんです。目に見えないけど、やっぱり蛭ですね。あの世の吸血蛭です」
「あの世の......?」
体中から血が引いて、悪感で満たされ、ぶるっと胴震いが出た。
「魔性のエネルギー生物ですよ。霊視すればはっきり見えます。杉村さんの肉体に巻きついて血のかわりに生体エネルギーを吸い取っているんです。こんな奴に何十匹も巻きつかれていたら、頭が重だるくなって痺れてしまうのは当り前です。考え事だってろくにできなくなる」
高鳥の言葉には抗拒しがたい権威の重みがあった。
「高鳥君、そんなものが見えるの? いつから霊視できるようになったの?」
由紀の声音には驚きと尊敬がこめられた。
「僕だって多少は進歩しますよ。いろんな意味でね......」
高鳥は笑いながら軽くいった。自信のほどが仄見えた。
「会にはあまり来ませんでしたがね......あちこちで勉強していたんですよ。深山にこもったりしてね。今のやり方はそうやっている時自然に会得したんです。どうですか、効き目があるでしょう?」
「ええ、とても。頭がすっきりしたわ」
「頭だけじゃありませんよ」
「え?」
由紀は体を固くした。冷たい波動が全身に上下した。悪寒で慄えるのが、高鳥にはそのまま伝わってしまった。
「こういう所にも入っています」
高鳥の手は頭部をはなれ、由紀の首筋に降りてきた。柔らかい首筋をもみ始める。由紀には拒否できなかった。無気味な魔性の吸血蛭への恐怖がのしかかり、心を占めてしまっていた。
「首から肩が、ずっと張って重だるいでしょう? さっきみたいな黒い紐みたいな蛭が何十匹も入ってるからですよ。そうすると肩凝りがしたり、首の後ろがもわっとした感じになってしまうんです。杉村さんの肉体と霊体との間に潜りこんで、生体エネルギーを吸い取っているんですよ。あの世の蛭です。これはマッサージでも指圧でもどうしようもない。いくら治療したって少しも効かないですよ。僕が今やったように、強引に引っ張り出して捨ててしまわなきゃならない。
僕の肉体の手ではなく、霊体の手を使ってつまみ出すんですが、やっぱりぬらりと冷たい感触がして気味が悪いものですよ......この首のあたりずいぶん深く潜りこんでますね。鉤みたいになってる牙を打ちこんでくらいつき、吸血するんです。うっかりこっちまで咬まれると、かなり痛いですよ」
「いやっ。取って! お願い!」
由紀は堪らず悲鳴をあげ、身悶えした。高鳥の手が頭部から〝吸血蛭〟を除去し、楽にしてくれたばかりであり、彼の言葉を疑うことはできなかった。
「いいですよ。楽にしてて下さい。よかったらみんな取ってあげますよ......ほう、凄くでかいのが巻きついてますねえ! 力いっぱい引っ張るとちぎれて頭だけ残ったりするんですよ」
「!」
由紀は暗示にかかったようになった。体をすくめたまま魅入られたようになってしまう。高鳥はゆっくりと彼女の首をもみ始めた。その感触はやはり決して不快ではなかった。
「あまり緊張しないで下さい。蛭の奴がしゃにむにくらいついたりしますからね......気持を楽にして、体をほぐして下さい。別に何も痛いことはないでしょう?」
「ええ......」
「こうやって霊視すると、黒くて無気味な代物だけど、見えない人にはそれまでですからね......どうも最近体の具合が悪いなんて愚痴をこぼしたりしてるんですよね。いくら医者通いしたって治療師にかかったって、さっぱりはかばかしくないわけですよ。ちゃんと霊視がきいて引っ張り出せるだけの霊力を持ってなければ、お祓いしたってお呪いしたって無駄なんです。かえって追っ払おうとする人間に喰らいついてきますよ。拝み屋が体がガタガタだというのはそのせいなんです」
「高鳥さん、よくご存知ね......」
由紀は心からの感嘆をこめていった。この高鳥はしばらく前の彼ではないと思った。別人のように成長し、大きくなっている。
「少くとも時間は無駄にしていませんでしたよ。会へ一生懸命通って議論したりしてるよりもよっぽど実になることを身につけました。なにしろアメリカでお呼びがかかってますからね」
高鳥が軽く笑った。
「それは高鳥君が特別の〝力〟の持主だからでしょう?」
由紀は心地よさに支配され、軽く眠気を催しながらいった。
「みんなには〝力〟がないんだし、高鳥君の真似はできないわ」
ごく自然に高鳥に対し迎合する口ぶりになっていた。お世辞ではなかった。ついさっきまで堪えがたく体を圧迫する不快感が拭ったように一掃されてしまったのである。高鳥が彼女の首筋や肩をもみほぐす手際は、巧妙なマッサージ師のそれのように快感をもたらすものであった。
「こんなことをいうと失礼かもしれませんが......杉村さんはだいぶやられてますよ、この手の吸血蛭に......体の具合がずいぶん悪いんじゃないですか?」
「ええ。過労だと思うけど、体中が重くて、どうしようもなかったの」
高鳥が相手だと素直に口がきけた。自己告白を容易になしやすいところが高鳥にはあるようであった。
「いいにくいですけど、ちょっとこれは大変ですよ」
高鳥の口ぶりは由紀に不安を目覚めさせた。
「大変っていうと?」
「体中やられてるんで、一度徹底的に大掃除しなきゃだめですね。蛭だけじゃなくて、こんなでかい蛇まで入ってますよ」
「蛇!!」
由紀は体を硬直させた。蛇は苦手である。生理的嫌悪がもっとも大きい。ざわざわと全身の体毛が音を発して逆立つようだった。
「腰のあたりに蛇がもぐりこんで巻きついています。こんなこといいたくないけど、ちょっとこの有様だと立居振舞いにも支障を来すんじゃないですか? 歩きにくくて、転んだりすると思うんだけど」
「ええ、そうなの......」
体中に鳥肌が立って消えなかった。高鳥の指摘は全く、正確そのものである。物凄い霊眼を身につけたものだと感嘆する。それ以上に蛇が体内に潜りこんでいるという指摘は由紀に生理的ショックを与え、高鳥に対し心を傾斜させた。知らぬうちに依存しきってしまう傾向が生じてしまっていた。
「いずれアメリカでお目にかかった時、蜘蛛の巣を払ったり大掃除をしてさしあげますよ。知らないうちにあの世の汚れをどんどんかぶってしまったんですね」
「あの......今は蛇や蛭を全部取ってもらうわけにはいかないのかしら?」
いずれ、という言葉が不満だった。一度聞いてしまった以上、異次元の蛇や蛭など無気味な化物を体内に潜ませたままでいるのは堪えがたかった。
「今すぐ、というのはちょっと無理だな。時間がかかりますから......腰に入ってる蛇を取るのはちょっと大仕事ですよ、杉村さん。かなりでかいんですから......」
「大きいって、どれくらい......?」
由紀はこわごわと尋いた。
「そうですね。けっこう大きくて、三メーターぐらいあるんじゃないかな?」
「そんな!」
由紀は悲鳴のような声をあげた。
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「三メートルもある大蛇がどうやって体の中に入るの!?」
「だって、この世の物質的な蛇じゃないんですよ。杉村さんの霊体の腹から腰、脚にかけてもぐりこんじゃってるんです。だから、ずしんと体が重くなってしまっているはずですよ。こうやって霊視してみると物凄いんですから......体が重いでしょう? 歩くのもいやなほどずしんと重いんじゃないですか?」
「ええ......その通りなの」
悪寒が停まらなくなってきた。体内に無気味な寄生虫が大量に巣食っていると医師に教えられれば、こんな気持になるのであろう。おぞましさで居堪まれない。しかし、自分の肉体から逃げ出すわけにはいかないのである。
「ずいぶん体に気持の悪い感じが生じているはずですよ。すごく気分が悪かったでしょう? だれだって堪ったもんじゃないですよ。こういうのは医者へ行ってもどうにもならないし、大変ですよ。本当にこれはひどいなあ......」
「でも、どうしてこんなことに......? 全然心に思い当ることがないんだけど」
由紀は自分の声音が哀願調になっていることにすら気付かなかった。
「だってここは幻魔の悪想念の集中する場所ですからね。だれだって集中攻撃を受けたら堪らないですよ。蛭や蛇ぐらいだったら、まだましな方じゃないですか? 今にもっと強烈にやられる者が必ず出ます。杉村さんはここを出てアメリカへ行けるから、運がよかったですよ。あっちで蛇を出してしまえば、もう取り憑かれずにすむと思いますけどね」
「ここはそんなに磁場がひどいのかしら......」
「ひどいです。今にみんなやられますよ。断言してもいいです。こういう地獄の生物にとっ憑かれて知らずにいたら、体中がガタガタになってひどい目に遭いますよ。こうやって取り除く方法を皆さんが知っていればいいんですけどね」
「高鳥君が教えてくださればいいのに」
皆が警戒するように高鳥慶輔は危険人物ではないと由紀は確信した。郁江などは明らかに思いすごしをしているのだ。
「だめですよ。僕はすっかり疎外されちまったから......もう僕のいうことなんかだれも聞かないでしょう」
高鳥はさらりといった。特にひがんでいるという印象はなかった。
「暴力団をのしちゃったんで、すっかり評判を落しちまいました。まあ、しょうがないですけどね、会に迷惑をかけたんだから」
「でも、それは郁江さんを暴力団から守るためだったんでしょう」
「だとしても、弁解無用ってことらしいですよ。総すかんを食っちゃったけど、これも成行だから仕方がないです」
「でも、今にきっとみんなもわかる時が来ると思うわ。だって男だったらだれだって高鳥君と同じことをしたと思うの。みんなも軽々しく人を非難しすぎるわ。暴力団がねじこんできたというのは、単なる結果にすぎないんですもの。自分がもしその場に立ったら、とだれも考えないのね」
由紀は熱くなっていった。
「少くともわたくしは高鳥君を責めたりしないわ。男なら当然のことをしたまでだし、それを結果で非難するなんて、めめしくて厭なのよ。会にはそういうめめしさがあるわ」
「ありがとうございます。杉村さんにそういってもらうと気持がやっぱりすっとしますよ。どうせ僕はアメリカへ行くからと思っていたけど、杉村さんにまで誤解されっ放しというのは切ないな、と思っていたんですよ」
高鳥は神妙にいった。その手は由紀の首筋をゆっくりもみほぐし、撫で続けている。
「安心したと同時に嬉しいです。僕は杉村さんが大好きなんですよ。人間的にしっかりしていて立派だし、視野が広くて見識があるから......やっぱし会の若い人たちとは全然違いますよ。感情的に一斉に右へ習えして白い目で見られると、なんかがっかりしちゃうんだな。昨日までの友達を一斉に排斥しなくてもと思っちまう。僕なんかまだいいですよ、男だし、まったく理解者がいないわけじゃないから。
でも、久保陽子なんか気の毒ですよね。だれも彼女を見ないようにして避けてるし、口先ばかり親切でも、完全に疎外されちゃってますからね」
「そうなの? 知らなかった......」
由紀は呟いた。そうであろうと想像はついていたというのが正直なところであった。一度は幻魔の支配下に入った少女は無気味であり、だれしも敬遠してしまうのであろう。
「久保陽子も異次元の蛇や蛭に山ほど吸いつかれていたんです。でも、今は元気そうでしょう? 全部取り除いてやったんで......」
「そうだったの」
今は他人事ではなくなっていた。久保陽子がにわかに共感の対象として心にクローズアップしてきた。
「本当に物凄かったんですよ。信じられないくらいでかい大蛇が何十匹もくいこんでいて、ほどいて引っぺがすのに大骨を折りました。こっちもだいぶ咬まれて痛い思いをしました。異次元のエネルギー生物だけど、こっちの霊体を咬まれると悲鳴をあげたくなるほど痛いんですよ。ほら見て下さい」
高鳥は、由紀の首筋をもんでいた左手を伸ばして、彼女の目の前に差し出した。
「手の甲に牙の痕がついたでしょう? 今、吸血蛭にガブッとやられたんですよ」
青い斑点が、分厚い手の甲にみるみる現像され、浮び上ってくるのを、由紀は身を固くして驚異と恐怖の思いで眺めた。
「霊体を咬まれるんだけど、すぐに肉体に物質化してくるんですね。蛇になんか咬まれるとこの程度じゃすまない。本当に穴があいて血が出てきます。久保陽子の蛇を取るのは三日がかりでした」
「そんなにかかったの......?」
由紀は息を吞んだ。気が遠くなってくる思いであった。
「久保陽子の場合は数が多かったですからね。まるで蛇の巣ですよ。僕もあちこち咬まれたりして大格闘でした。全部取り終った時は、さすがにヘトヘトになっちまいましたよ」
高鳥は手を引っ込め、由紀の首から後頭部にかけて撫で始めた。まるで愛撫の感覚であった。スリリングな心地よさが生じてきた。
「わたくしの場合も、三日がかりになるのかしら?」
由紀は深呼吸で肉体に生じている反応を鎮めながら、やっと尋ねた。妙に刺激的な感覚が目覚めていて、不快ではないにしろ、彼女を困惑させかねなかった。
「いや、一日あれば大丈夫でしょう。杉村さんの場合は、そんなに数が多くないですから......ニューヨークでお逢いした時にでも、時間があれば蛇取りをしてあげますよ。久保陽子、見違えるように元気になったでしょう? 体力がついてきたんで、みんなの白眼視に堪えて頑張ってますよ」
「そんな、白眼視なんてことはないでしょ」
「いや。それが案に相違して、ひどいもんですよ。幻魔に一度やられたからって、あんなに嫌われ疎まれるもんですかね。だって本人の責任じゃないじゃないですか。いわば犠牲者でしょう? いつ何時、だれが同じ目にあうかわからないんですよ。
杉村さんだって、異次元の蛭や蛇にやられてるとわかったら、みんなどんな目で見るかわかりませんよ......幻魔にやられたといわれるかもしれない」
「............」
由紀は体を固くした。高島は軽く笑って彼女の当惑を解いた。
「もちろん僕はそんなことはいわないですよ。しかし、会にも超能力者がいるんでこうしたことはすぐ噂になって広がるんですよね。悪い噂ほどあっという間です......」
「いいわ、どうでも」
由紀は衝動にまかせ自棄的にいった。
「明日からアメリカですもの。どんな噂を立てられたって知ったことじゃないから。好きなようにいわせておくわよ」
「しかし、東丈先生の秘書ともなると......」
「郁江さんが秘書室をあずかることに決まったの。わたくしはもうお役ご免ということらしいわ」
「そうだったんですか......」
「まあ、アメリカでの新しい仕事が待ってるけどね」
由紀はすぐに感情的な口をきいたことを後悔した。高鳥との間があまりにも接近しすぎたと感じていた。あまり気易くなってはいけないと思った。大きく平衡を乱していた心が均衡を取り戻しにかかっていた。体がどうにかなってしまうと警報を発しているためかもしれなかった。高鳥の掌に魅力を覚えすぎたと悟ったのだ。その感触には危険なものがあって、にわかにしゃっきりと心が目覚めてきた。
「もう結構よ、ありがとう。ずいぶん体が楽になってきたわ」
由紀は体を前屈させて、高島の掌から逃れようとした。体の芯に生じている微妙な快感に執着しようとする気持を敢えて断ち切ってしまわなければならなかった。
「よかったですね。だいぶ元気になってきたじゃないですか」
高鳥はあっさりと手を引いて後退った。デスクの向う側へまわる。唐突な拒否を気にしている様子もない。翳のない明るい顔はあくまでも爽やかであった。
「おかげさまで......素晴らしい力を持っているのね、高鳥君」
「いや。先生の力とは比べものにならないですよ」
高鳥はいささか照れたように微笑した。
「久保陽子さんや、あの女優さんも高鳥君の力で治してあげているのね?」
由紀は衝動的にいった。なぜ美人女優のことを口にしたか、自分でもわからなかった。しかし、高島は平然としていた。少しも表情は変らない。
「頼まれればね......他に蛇取りのできる人間がいないから」
「あの女優さんはお元気なの? 江田四朗にはもうつきまとわれてはいないの?」
「江田はその後全然手出しをしないようです。今は張切って撮影中ですよ。元気いっぱいです」
「高鳥君が渡米してしまうと、心細くなってしまうんじゃないかしら? 高鳥君に頼りきっているんでしょう?」
由紀はなぜ自分が美人女優のことにこだわるのか理解しかねたまま、言葉を重ねた。
「高島君に頼っているのに、日本に置いて行くなんてお気の毒じゃない?」
「まあ、その辺はきちんとさせていかなければいけないと思ってます」
高鳥はけろりとしており、みごとなまで落着き払っていた。高鳥のこの鮮やかな変身振りが、あの美人女優に関りがあると見抜いた由紀の眼力は並みなみならぬものがあった。一目で看破してしまったのだ。
「先生に相手にされなかったので、彼女は僕に頼ってきたんですよ。最初ちょっとだけ手古擦りましたけど、もう江田の奴は手出しをしません......おおいに感謝されましたけど、付人か便利屋扱いにされるのは閉口ですよ。僕は彼女の付人をやってる時間はありませんからね」
「そう」
杉村由紀はゆっくり首筋をさすり、肌に残る高島の手の感触を消しながらあっさりといった。
高鳥はそれ以上由紀が追及してこないのが不審のようであった。好奇心に駆られて根掘り葉掘り問い質すと思っていたのであろう。
「僕なんか本当に先生の足許にも及ばないのに、彼女が大袈裟にいいふらしたのか、いろんな人が頼みに来るようになっちまいましてね。中にはけっこう著名人もいるんですが、このままだと蛇取りの拝み屋扱いにされそうなので、今度のアメリカ行きはありがたいんですよ。まさかアメリカまでは追いかけては来ないでしょうからね」
妙なもので、由紀が関心を示さないと、高鳥は饒舌になった。由紀の手強さを改めて認識したようであった。
「僕も初めは面白がってやっていたんですけど、やっぱり拝み屋、祈禱師、霊感師の類いと一視同仁されてしまうってことがわかったんです。一種の便利屋なんです。決してそれ以上のものではない。まあ、女優さんは江田四朗のことがあるから、ちょっと違いますが......やっぱり東丈先生はさすがだと思いますよ。教祖や霊感師扱いされることは断乎拒否して、それで押し通してしまうんですから......このところ若き救世主という声が急激に高まってきたようですね」
尊敬をこめた口ぶりであった。いささかわざとらしさが感じられるほどであった。
「ある大部数の週刊誌で、なんと四週連続で先生のことを取り上げるらしいですね。全く凄いですね......これで〝幻魔の標的〟が出版されたら収拾つかない大ブームになっちゃうんじゃないですか? メイン財団で熱心に先生を招聘しているニュースだって、もうじき大々的に流れますよ。いよいよ東丈先生の時代ですね」
興奮を抑えかねたという顔色であった。
「僕も先生がどんなに偉大な人で、真の救世主たる資質を持っておられるか、大声でいいたてたいですよ。僕が先生を裏切って、ミスタ・メインに売り込んだとみんなは悪く思ってるらしいですけど、決してそんなことはないんです。成行でそうなっただけで、僕は先生を崇拝しています。不世出の大預言者であることを確信しきっているんです。偉大な先生を向うに廻して、僕如き人間が力を競うなんて馬鹿げています。せめて杉村さんにだけは、僕の本当の気持をわかってもらいたかったんです。だれにどんな誤解を受けようと平気だけど......」
「今にみんなもわかると思うわ。高鳥君にはアメリカ人みたいなオープンなところがあるから、誤解されやすいのね、きっと。日本人は謙譲の美徳を大事にするから、自分の能力を堂々と売り込むというのは、とってもいかがわしくて不遜なことだと感じてしまう。あなたはアメリカ人的なのね、いろんな意味で......」
「ありがたいです! 杉村さんにそういってもらえると、何よりも嬉しいですよ」
高鳥はぱっと顔を喜色に輝かせた。演技とは思えぬ自然さだった。
「前からそう思っていたのよ。高鳥君にはアメリカのオープンで湿度の低い土壌が合っていると思うわ。ミスタ・メインもそこを買ったんでしょうね」
由紀は褒めすぎかなと思いながらいった。高鳥におもねっている心地の悪さがあった。彼に対してある種の借りがあるという意識が、必要以上に賞讃の言葉を吐かせてしまうのであろう。魔性のエネルギー生物を除去してもらったという負債だけではないように思えた。確かにおもねり、媚びを売ろうとする心の動きが存在していた。
「ともかくアメリカではしっかりやってちょうだい。ミスタ・メインの期待にこたえるように......」
これで話は終了という意味を明確に響かせた。自分の裡でしゃっきりと立ち直ってくるものがあった。高鳥を必要以上に接近させてはならないと命じるものがあった。悪く狎れ始めたのは由紀自身であり、そうした部分を切り捨てたいと彼女は思った。
「ありがとうございます。アメリカでもいろいろあると思いますが、よろしく」
高鳥もすかさず態度をただして応じた。このめりはりのある呼吸はいかにも彼らしいものであった。他人の気分を読んで対応するわざに長けているのだ。それがごく自然に、スムーズに出来るのが高鳥の爽やかさの根元ではないかと由紀は思った。変り身が早くスマートなのである。
「そうね、次はアメリカで逢いましょう。今日はご親切にありがとう」
由紀はすでに東丈の秘書に返ってしまっていた。今にも崩れそうだったのに、崩れなかった。そんな芯の毅よさはやはり由紀自身のものであった。どたん場でぐっと踏み堪えてしまう毅よさであった。
「一足お先に、お元気で出発して下さい」
高鳥は秘書室を出て行きかけて、振り返った。迷いを感じさせる動作であり、由紀の気を引かずにはおかなかった。
「どうかしたの、高鳥君?」
「こんなことはいいたくなかったんですが、やっぱりいいます」
彼は躊躇いがちにいった。
「どういうこと?」
「ご出発の前なので、いおうかいうまいか迷ったんですが......いやな予感がするんですよ。未来透視......予知だと思うんですが、杉村さんの身に暗雲がまとわりついているのが霊視できるんです」
「暗雲!?」
「真黒な雲みたいなものが見えるんです。あの世の蛭や蛇みたいにはっきりしたもんじゃありませんが......霊視してみると、密雲に覆われた月みたいに、杉村さんの体が暗雲に覆われて見え隠れしています。不思議なもんですよ。肉眼じゃいくら見ても何も見えやしないんだけど......」
高鳥は意を決したように、熱心にいった。
「別に脅かすわけでも何でもないんですが、ここ当分は充分に気をつけて下さい。こういう時はしっかりと気を張っていないとだめです。ぐたっとして気を滅入りこませたりしていると、何かあった時、被害が大きくなるんです。気力を充実させていれば、軽い被害ですむものですよ」
「いったいどういうことが起こるの?」
由紀は我知らず乗っていた。高鳥が超能力者として成長しているだけに、聞き流すことができなかった。
「そうですね、交通事故とか、何か体にぶつかってくるという感じです。杉村さんの気が緩んで生体エネルギーが低下しているところへ、隙を狙ったようにぶつかってくる......だから、ひょっとすると被害が大きくなるかもしれない」
「ご忠告、胆に銘じておくわ」
と、由紀は脅威を振り払おうとするようにきっぱりとした口調でいった。
「わたくしは占いとか予知とか、あまり気にしないの。心配したり不安になったりするとかえって負の想念が災難を招き寄せるって信じているから。でも、いつも気を張って、気力を充実させていなさいというのは、素晴らしい忠告だわ。ありがとう、高鳥君。頑張りますから、大丈夫......」
「何かあったら、僕を呼んで下さい」
高鳥は人懐っこい笑顔でいった。
「僕は杉村さんが大好きなんです。いつでも杉村さんのためにお役に立ちたいと思っているんですよ。暗雲のこと、充分注意して下さい。僕ももっと具体的に暗雲の内容がわかったらお報らせしますよ」
高鳥は軽く手をあげて、秘書室を去った。部屋が急に広々として、由紀は孤独感を覚えた。荒涼感が覆いかぶさってきて、高鳥を追い払ったことをわずかに後悔した。
由紀は強く頭を左右に振り、気の弱さを振り払おうとした。頭部の動作に伴うロングヘアの質感の欠如が改めて念頭にのぼってきた。髪を短く切ってしまってから、苛立たしさや気弱さが己れの内部にしっかりと根付いてしまったような気がした。知人の全てに褒められた美しい長い髪に対してよほど強い執着を持っていた証拠かもしれない。
思いきりよく髪を切った由紀に、丈が一言の感想も述べなかったことを思い出す。あのころから、彼は由紀に対して関心を薄れさせていたのかもしれない......
由紀は再び頭を強く振って、そうしたマイナス想念を振り払った。甦った気力がそれを可能にしてくれた。高鳥慶輔の暗示的な言葉など気にかけまいと思った。未来を恐れていては何も出来ない。すでに東丈は多難な前途を予告しているではないか。
しかし、高鳥のおかげで頭の内部が明快になってきたのはありがたかった。思考力がかなり回復してきている。体を重だるく、鈍重にしている脱力感は消えないが、仕事に取りかかる気力は甦ってきていた。
箱根セミナーの一行が帰還してくるまでに仕事を片付けてしまおうと思った。そうすれば一行と顔を合わせずに高輪のマンションに帰れる。入浴して汚れた体を洗いたいが、もうしばらく辛抱しよう。
一行のだれとも顔を合わせたくなかった。平山圭子や郁江はあっさりと今の由紀の葛藤を見破ってしまう、そんな惧れが彼女の心を絞めつけていた。
杉村由紀はデスクに向けて座り直した。すると足先が紙袋に触れ、ガサガサと鳴った。生臭い匂いをさせる汚れた下着が意識にのぼってきて、由紀は素早く紙袋をデスクの下から引っ張り出し、バッグの中に押しこんだ。だれかが同室してその行為を見守っているかのような切迫した動作であった。
高鳥の指摘した暗雲とは、この心に執拗にからみついてくる強迫観念かもしれない、と由紀は考えた。東丈が限りなく由紀から離反し去ってしまう......
秘書を解任され、代理人という名目で遠くニューヨークへ追いやられてしまう。
東丈が〝岩戸隠れ〟をしながら、由紀には所在を教えず、その理由も明かさない、そうした隔意は、由紀にとりどうしても納得できず、心を搾めつける暗雲ではないだろうか。
由紀は三たび頭を強く振り、注意を眼前の、仕事に引き戻した。多少なりとも気力があるうちに留守中の注意事項を書き残しておかなければならない。
しかし、そうした努力も、新しい秘書室の責任者である井沢郁江によって、あっさり黙殺されるのではないか......そんな猜疑が湧いた。
郁江は郁江の流儀で全て推し進めて行くだろう。由紀の掣肘を敢えて無視するだけの絶大な自信が郁江にはあるのだから。
由紀は不意に感情が激し、メモ用紙を両手の間で押し潰した。自分の甲走った動作がひやりと冷たいものを胸裡に流しこんだ。
これが高鳥の霊視した暗雲なのだろう、と不意に気付いたのだった。自分は全く感情的に制御が効かなくなっている。
やはり体の中に大きな蛇が入っているからだろうか......あの無気味な悪夢に続く生理的な感覚の擾乱も、体内に侵入した蛇の仕業なのかもしれない。
蛇が鎌首を先に胎内に侵入してくるイメージが無気味で、由紀は大きく身慄いした。さもなければ、あれほど激しい性的な擾乱が説明できないと思った。あまりにも激甚すぎて、いまだに余韻が強く残っている。高鳥の掌の感触を拒否したのも、いつまたぶり返すかわからなかったからだ。
幻魔の標的だと由紀は思った。今、自分は徹底的な攻勢にさらされている。
しかし、何よりも堪えがたいのは、東丈の不可解な離反により、精神的支柱を喪いかけているという認識であった。
もし、彼に突き離されたら、自分はこのまま己れを支えて行けるだろうか。彼の不可解な動きはもはや由紀を必要としないという、遠まわしな意志表示ではないのか。
東丈は、もしかすると由紀が幻魔の徹底攻勢に堪えられないことを見抜き、崩れる前に遠ざけて被害を最少に留めようとしているのではないだろうか。
杉村由紀は不意に汗びっしょりになってデスクの端に両手で力いっぱいしがみつき、座っていた。口が半開きになっており、荒い呼吸の音を発していた。ひどい動悸がして、息が切れてしまっていた。
東丈のやることなすことが不可解になったのは、ひょっとすると由紀自身の責任ではないかもしれない。
胆を冷やす恐ろしい考えが突如として生じていた。
東丈が不可解になったのは、彼自身の心に奇怪な侵蝕が始まったせいではないのか......東丈こそ〝幻魔の標的〟として熾烈な攻勢の前に立たされているうちに、均衡の狂いを生じ始めたのではないのか。
さもなければ、この大事な時にどうして無責任な〝岩戸隠れ〟など演じるだろう。暗雲に包まれ、光を喪ってしまったのは、もしかして東丈自身ではないだろうか。
杉村由紀は何百トンもの重量が不意に頭上からのしかかってきたように、真青になり満身に汗を流して、硬直してしまっていた。
いったいだれが真に〝幻魔の標的〟なのか。杉村由紀は突如、東丈を心の視界から見失ったように感じていたのである。
本書中には「黒んぼ、黒ん坊」という人種を差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
井沢郁江は、座卓の上に積み上げたアンケート用紙を片はしから読んでいた。昼食後の休憩時間を利用して参加者に書かせ、提出させたものである。気分が高揚しているのか、参加者たちはいずれもアンケートに回答するだけでなく、裡にこもった感情を文字にして、びっしりと書き連ねていた。
いかに郁江の提示した反省研修が素晴らしかったか、感動的な結果をもたらしたか、綿々と書いて倦むことがなかった。反省の後、嵐のような高揚に見舞われたことを、いずれも熱っぽく告白している。中には醒めた字でそっけなくアンケートにだけ答えているのが見当るが、こうした郁江の批判者はごく少数であった。
郁江にとっては思いもよらぬ突発事であり、研究発表を反省研修に切り換えてしまったことには悔いが残るが、想像を絶した盛り上りということからすれば、大成功といえるのかもしれなかった。
熱烈なファンレターめいたものもあって、郁江は時折吹き出した。くすぐったく照れくさいというより、他人事のように面白かった。客観的な視点がいつの間にか身についていて、感情に惑わされにくくなっているのを感じる。内村のように郁江を女神扱いし熱烈な崇拝をささげる若者たちが激増を遂げていた。
「ねえ、これ見て、圭ちゃん!」
と、郁江はアンケート用紙に読み耽りながら、ぷっと吹き出して平山圭子に声をかけた。
「ひどいの、これ! 郁姫様はいつごろ結婚するんですか? 結婚相手の男性はどんな人が好みですか、教えて下さいだって! まったくどういうつもりなんだろう! わたしのことをタレント扱いしてるの。アトラク班なんかに混ってやったのがいけなかったのかしら」
「そうね......」
平山圭子は後に言葉が続かなかった。部屋の中は、郁江と圭子の二人きりではない。伴野静子や夏本幸代らがまるでお通夜のようにしんとなって座っている。ひとりだけ郁江がふくみ笑いを漏らしながら、アンケート用紙を読み耽っているのである。
部屋は東丈のために取られたもので、壁にはハンガーにかかり丈の衣服が吊るされている。部屋の主は、昨夜来姿を消したまま、午後四時に至るまで帰ってきていない。
むろん何の連絡もない。蒸発という言葉を用いたくなるほどであった。秘書たちには失踪の理由が全くわからない。心痛で部屋の空気は水に満たされたように重くなっていた。
〝岩戸隠れ〟......と称しているのは郁江である。しかし、秘書の娘たちにはその真意がわからない。天照大神ではあるまいし、なぜ東丈がこの期に及んで〝岩戸隠れ〟しなければならないのか。
あまりの唐突さと理不尽さで、わけがわからなくなり、頭がくらくらしてくる。郁江が顔色も変えず平生通り振舞っているのが不思議でならず、どうしても納得が行かない。
「まったくもう、無署名のアンケートだと好きなことを書くわね。──郁姫さん、あまりセミナーでは華やかな恰好をしないで下さい。郁姫さんは派手好みですね、だって! それでカッコして(本当はその方がいいけど)って書いてあるのよ。こいつ、絶対、正体をあばいてやるわ! 物凄く人をおちょくってるの! 東丈会長がアメリカへ行ったら、留守は郁姫さんが取りしきって、うんと派手にやりましょう、だって! こいつ許せない! ポストコグニションで絶対に正体を突き止めてやるんだから! こんなふざけたこと書いてるの、こいつだけよ。もしかすると竹居かな?」
だれも笑声で応じなかった。滅入りこんでいるのである。セミナーが東丈の失踪で破滅的な結末を迎えることを惧れているのだった。
郁江はようやくアンケート用紙から目をあげて、部屋の空気を重くしている同僚たちの顔を見まわした。
「面白いから、アンケートをみんな読んでごらんなさいよ」
と、郁江は沈黙の重みにも気付かない顔で勧めた。
「どうするの......?」
と、夏本幸代が首振り人形みたいに、首をしきりに左右に打ち振りながらいった。それどころじゃない、と言外に強く含ませている。
「先生が戻られないうちに、セミナー終っちゃうわよ。いくらなんでも、先生抜きのセミナーで押し通すなんてあんまりじゃないかしら......」
秘書たちの目は、おのずと壁にかかった東丈のブレザー・スーツに集まった。丈はトレーニング・ウェアのまま姿を消してしまったのである。
「でもね、これからはずっと先生抜きのセミナーや講演会をやらなきゃならないのかもしれないわよ」
郁江は平然としていった。
「え......」
秘書たちは顔を見合わせた。あまりの率直なものいいに、平山圭子ですら鼻白んだ気配を隠せなかった。
「どうしてそんなことが郁江ちゃんにわかるの?」
と、夏本幸代が反論した。
「先生が郁江ちゃんにそういったの?」
「別にそうじゃないけど」
「杉村さんだって、なぜ先生が出て行かれたのか理由が全然わからないとおっしゃってたわ......会員の人たちに尋かれたら何といえばいいの? 答えようがないわよ。そうじゃない」
「大丈夫、金を返せとはだれもいわないわよ」
郁江はずばりといった。
「だって、これじゃまるで看板に偽りありじゃない? 先生の講演や指導があるから、みんなも一生懸命参加したのに、先生は講演もされないうちに雲隠れだし......」
夏本幸代は唇を震わせていった。目が脹れぼったくなり、唇がいくらかむくんでいる。心労のせいなのか顔色は冴えない。
「みんなに先生はどうなさったのかと尋かれる身にもなってよ。そりゃ金を返せとはいわれないけど、いったいどうなってるんだと非難されてるようで身が細る思いがするわ」
「そう。でも、わたしにはだれも尋かないのよ」
郁江はあくまでも落着き払っていた。年上の同僚が感情的に揺いでいるのを気にも留めていないようである。
「それは、郁江さんが怖いからじゃない! 怖いから尋けないんでしょ」
「あら、どうして? わたしそんなにみんなに怖れられてるかしら?」
「怖いわよ......このごろとっても怖い。圧倒されてしまうもの。こうして話してるのだって、あたし必死で喋ってるんだから」
夏本幸代は覚悟を決めたのか、目を据えていった。
「そうかな......圭ちゃん、会員の人たちから先生はどうしてるかと尋かれて困ってる?」
郁江は目を平山圭子に転じて尋ねた。圭子は少し躊躇してから首を横に振った。
「そういえば、まだ一度も質問されていないみたい......」
「伴野さんは? 何かいわれた?」
「いいえ......先生のことは何も......」
内気そうな新参秘書の伴野静子は口ごもりながらいった。郁江に対する畏怖の情が明白であった。年下の少女を尊敬の目で見ている。
「ね、夏本さんの思いすごしじゃない?」
と、郁江は穏やかにいった。
「そんな、思いすごしなんて......先生が行方不明になっちゃって、みんな動揺しきっているのに!」
夏本幸代は食ってかかるように反駁した。目に涙を滲ませている。
「でもね、このアンケート見てごらんなさい。先生がいらっしゃらないということでは、だれも動揺していないわよ。むしろ責任感をはっきり持って、先生のお留守中、会を護って行くと決意を披瀝した感想が多いわ。みんな自覚するんだと本気で決心してるの。だからわたしは本当にホッとしてるんだけど......アンケート目を通してごらんなさい。夏本さんの取越苦労だってことがわかるわ」
「そんなの本心じゃないと思うわ! 絶対に本心からいってるんじゃないわよ! あなたはあたしの取越苦労だっていうけど、先生がだれにも一言の断りもなく蒸発しちゃったのが異常事態じゃないっていうの!? 先生の身を少しも心配しないとしたら、そんなのおかしい! みんなどうかしてるのよ!」
幸代の反論はヒステリックな調子を帯びてきた。
2
「そうじゃないわ。先生の身を心配していないのじゃなくて、先生をみんな信頼しているからよ」
郁江は少しも語調を変えずにいった。相手の興奮した波動には決して乗らない。
「わたしは素晴らしいことだと思う。先生が何をなさろうとそれは先生にとって必要なことなんだとみんなにはわかっているのよ。先生が大事なお仕事で会をお留守にされるなら、自分たちみんなで会をしっかり守っていかなきゃいけないっていうみんなの決心が、このアンケートを読むとよくわかるわ。
自覚のチャンスを先生は下さっているんだという意見も多いのよ。もし親が余儀ない事情で家を空ければ、子供たちが全責任を負って留守を守らなきゃならない......先生はみんなが成長するチャンスを下さったんだと奮起しているの。わたしもその通りだと思う。今年からは先生は大きな舞台に登場されるし、おのずと会は留守番のわたしたちにゆだねられるのよ。だとすれば、今度のことは、みんなが覚悟をきめるいいチャンスだと思う。否応なしにわたしたちが責任を負うことになるんだから。そうじゃないかしら?」
「そんなの詭弁だわ! うまくいい抜けてるだけよ!」
夏本幸代はまったく受付けなかった。みんなはいいくるめられても、自分は絶対にごまかされないという剣幕であった。
「だって、先生の身に重大な変事が起きてることは確かじゃないの! さもなければ、先生が秘書に一言もいわず、杉村さんにも無断でセミナーを放棄してしまうなんてこと、ありっこないもの! それなのに、自覚のチャンスだ何だといって、先生のことを少しも心配しないなんておかしいって、あたしはいっているのよ! 先生を信頼してるからだなんていうのは何の理由にもなりゃしないわ、だって詭弁以外の何ものでもないもの!」
「夏本さん。信頼というのはそんな生易しいものじゃないわ。あなたは考え違いしているとわたしは思う」
郁江はいささかもたじろがずにいった。
「先生は偉大な方で、その意志と行動は宇宙意識フロイに添っているならば、先生がどんな行動をとられようと大きな必然性があるわけ。たとえわたしたちの目で見て、理屈に合わない、不合理だと思うようなことがあっても、先生はもっと次元の高い必然によって行動されているとわたしは思う。だってわたしたちは高次元意識と違って、この物質的な世界しか見えないのだから。
先生が不可解な行動を取られても、それはこっちの意識が低次元だから理解できないだけかもしれない。
わたしたちが先生を尊敬し、偉大な指導者として仰いでいるのは、先生が高次元意識と一体化している存在だからでしょう? 肉の身の東丈としての存在だけじゃなく、宇宙意識フロイの意志を具現するために、〝真の救世主〟として行動されている先生をわたしたちは信じて、ついて行こうとしている......そうじゃないかしら? だとすれば、仮りに先生が肉の目では理解しがたい、突飛な行動をとられたとしても、簡単に動揺しないのがわたしたちの信というものだと思うの。むしろ今こそ全力を挙げて先生を信じようと努力すべきだわ。だって不安や危惧の虜になって心を動揺させたって何のプラスにもならないんですもの。みんなはそれがわかっているからこそ、信頼を保ち続けようと心を鎮めて努力しているのよ。でも、先生を信頼するというのは、そんなに生易しいことじゃないかもしれない」
「みんなは郁江ちゃんになだめすかされて、一見落着いたように見えているだけのことじゃないの」
夏本幸代は皮肉にいった。
「郁江ちゃんは口がうまいもの、だれだってかなやしないわよ。先生のお留守の時こそ、自覚のチャンスだといわれれば、だれだってそうかと思うでしょ。だけど、そんなのいつまでも長続きしやしないわよ。先生の身に重大なことが起こっているのは確かなんですからね」
「わたしが言葉巧みにいいくるめただけで、みんなこれほど納得するかしら?」
「だって郁江ちゃんは天才だもの。郁江ちゃんにかかったら、男を女にしてしまうことだって簡単じゃないの」
平山圭子と伴野静子は気をもみながら聞いていた。夏本幸代が感情的になっているのはわかるが、口調の毒々しいまでの辛辣さが気になる。郁江はおとなしく反論しているが、一度攻勢に立った時の猛烈な論客ぶりは有名である。丈でさえお手挙げになってしまうほどだ。
「郁江ちゃんはいかにもわたしが先生を信頼していないから動揺するみたいにいうけど、あたしが先生のことを心配するのがどうしていけないの? あたしは先生の身に大変なことが起こったんじゃないかって心配だし、郁江ちゃんに気兼ねしていいたいこともいえないなんて真平だわ。わかる? 郁江ちゃんはそうじゃないかもしれないけど、あたしは先生が心配なの。だから、変に悟ったようなことは絶対にいいたくない。だって考えてごらんなさいよ、先生はこの箱根セミナーを放棄して行方不明になってしまったのよ! これほど無責任なことはないって外部の人の目に映ったとしても当然でしょ。不祥事よ、だれが見たって大不祥事だわ!」
夏本幸代は郁江の穏やかさにつけこんで、激しい剣幕でまくしたてる。
「杉村さんだって何が何だかわからずに茫然としてたわ。当り前のことだと思うわ。主催責任者が何もかも放り出して雲隠れしちゃったんだもの。赦せない無責任だと非難されても弁解の余地もないじゃない? セミナーを滅茶めちゃにした道義的責任を非難されたらどうするの? 先生の社会的信用はゼロになっちゃうじゃない!?」
平山圭子が何度もいいかけようとしたが、夏本幸代はそれを許さなかった。おとなしい伴野静子は顔が白くなってしまっていた。それほど夏本は居丈高であった。
「風間というトップ屋だってずっとつきまとって、一部始終を知っちゃったじゃない? いったいどういうことになるの? 先生がセミナーを放棄して蒸発しちゃったことを書かれても抗議のしようがないじゃない? 郁江ちゃんが考えてるようにすんなりと行くわけがないわよ、どう考えたって! もう何もかも滅茶苦茶じゃない!」
「夏本さんは内を見ずに外のことばかり見ているのよ」
郁江は全く動じなかった。伴野静子は驚きの目で郁江を見るようになった。文字通りびくともしないのである。いろめきたつところが少しもない。
「内だの外だのって何のことよ?」
「つまり、無責任だとか不祥事というのは外を見ているからそう思うわけ。内を見てごらんなさい。動揺もなくて先生を信頼しきって、これを自覚のチャンスにしよう、頑張ろうとしているんだから、決して悪い状態じゃないわ。外ばかり見たってしょうがないじゃないの。大切なのは会がこの危機的状況を団結して乗り越えようと努力していることよ。わたしはちっとも心配していないわ。禍い転じて福となすという格言だってあるし、現状はその通りに進んでいるじゃないの。違うかしら?」
「そんな! 無責任だわ、そんないい方!」
夏本幸代は躍起になっていいつのろうとした。郁江をやりこめるということだけに捉われてしまっているのがもはや明白であった。
「会がまとまってるなんて、郁江ちゃんの詭弁でもたしてる芸当で、ほんの一時的なものじゃないの!? みんなだってすぐに目が覚めるわよ! 〝岩戸隠れ〟なんて郁江ちゃんはいうけど、だれが見たって道義的責任を非難される大不祥事には違いないんだから!」
「会は今後更に大きな困難にさらされて行く、と先生がいつもいっていらっしゃるのを忘れたの?」
郁江は静かにいった。
「外部から非難され、徹底的に攻撃され、弾圧さえ受ける......先生はそう預言されているわ。だけどみんなが心の絆をしっかりと結び合わせ、〝光のネットワーク〟を育てて行くならば怖れることは何もないって......つまり、みんなが困難にぶつかっても挫けず怖れず、自覚のチャンスにしようと努力する限り、わたしは心配しない。みんなだって先行きに待つ困難はちゃんとわかっているはずよ。だから、今度のことだって積極的に受けとめて、先生のいない会をどうやって守り育てて行くか、一生懸命になっているんだとわたしは思うの」
「そんなの甘いわ! 悪いけど、そんな甘いことでは絶対に世間に通用しないわよ」
夏本幸代は頑としていい張った。
「そんな非常識なことをしていたら、世間様に嘲笑され、蔑視されるだけよ。考えても見てよ、郁江ちゃん。どこの世界に会長が雲隠れしたというのに会員や幹部が知らん顔して平然としてる組織があるっていうの? 会長には会長のお考えがあるんでしょうから、なんていってたら物笑いの種になるだけよ。非常識も甚しいし、世間並みの良識もない会長や組織に何が出来るか、救世主なんて思い上りはいい加減にしろと冷笑されるにきまってるじゃないの。
理由もわからずに蒸発してしまった会長を、それでも信じ続けます、信頼とは愛ですなんていい続けていたら、狂信者といわれるし、全く反論のしようがないじゃない? 良識も何も通用しない狂信団体と非難されるにきまってるじゃない。
どう考えたって、郁江ちゃんの態度はおかしいわよ。あわてず騒がず沈着冷静に、というのは一見恰好いいけど、会員のみんなを集団催眠にかけているんじゃないの? みんなが当然抱いてしかるべき疑問を持たせないように、巧妙に圧殺してるんだとあたしは思う。
このままじゃ、会は狂信団体化するだけで全然意味がないと思うわ」
「では、どうしたらいいと夏本さんは思うの?」
郁江が反問する。感情的に傾く気配はさらにない。ますます水のように冷静になって行くようである。
「別に、どうしろなんてあたしはいわないわよ。どうこうすべきだなんていったら僭越だもの。今の状態は絶対間違ってるといってるだけよ」
「でもね、代案を出さずに批判するのは安易すぎると思わない? 夏本さんはそれこそ外部の人じゃないんですもの。会の中枢部にいる人よ。それが意見具申は僭越だからといいながら、否定的な意見ばかり吐くのは自家撞着じゃないかしら?
非難は外部の人々にまかせておきたいわ。批判は結構だけど、世間態のことばかり気にしてる時じゃないはずよ。いったいどうしたらいいのか、代案を出してくれないかしら」
「代案を出さなきゃ批判を許さないなんて、そんなの強圧的すぎるわ! 郁江ちゃんが独断専行するのに、一切他の口出しは許さないというわけなの!?」
夏本幸代は激昂して目に涙を溜めていた。ここに至って平山圭子たちは不審の目で夏本を眺めるようになった。
「今はちょうど嵐のどまん中で、船が遭難する瀬戸際にあるのよ。みんなで一致協力して危機を切り抜けなきゃならない。船長がどうの、だれがどうしたのこうしたのともめてる時じゃないわ。そんなのは嵐がおさまった後でゆっくりできる。
今はとにかく何をなすのが最善かということだわ。大急ぎでしなきゃならないという最優先事項があるわけ。みんなの意識を統一して、ピンチを乗り越えることだとわたしは判断したの。みんなの心をまとめて、動揺を防ぐ、できたら各自の自覚の機会にするというのがわたしの考え。でも、代案があるのなら、もちろん聞くつもり」
「そんなの、僭越だわ!」
夏本幸代は叫んだ。その声は鋭く感情的に突き刺さってくるようだった。
「郁江ちゃんは僭越すぎるわ! 独断専行も甚しいわ! そんなの専横で思い上りすぎるわよ! トップ屋を無断で会場に入れたのだって、郁江ちゃん、あんたの独断専行じゃないの! いったい何の権利があって、そんな重大な事をあんた一人で決定するの!?
郁江ちゃんにそんな権利はないはずだわ! 先生がお留守だったら、会の幹部会に計って合議して決めるべきことじゃないの!」
「わたしが出過ぎているというのね?」
「そうよ! 少くともみんなで合議して決めるべきだわ! 先生がお留守の間、ちゃんと責任ある人たちの合議制で会を運営して行くべきよ! 郁江ちゃん一人の考えで独断専行すべきことじゃないわ!」
「夏本さんに何の相談もなく、わたし一人の考えで勝手にやったということで、気分をこわしていらっしゃるならお詫びするわ」
郁江はあくまでもおとなしくいった。いかにも殊勝げだが、目は輝いて活気に満ちていた。
「あたしが気分をこわしているっていうのじゃないわよ。あたし一人に事前に相談されたって困るもの。幹部の人たち全員に相談すべきだとあたしはいってるのよ。だって、そうでしょう? 郁江ちゃんには何の権限もないんだから。あたしはそれをはっきりさせておきたかっただけよ」
明らかに勝ち誇っていた。郁江をやりこめて、非を認めさせたことに大きな快感を覚えているらしい。ぼってりした肉厚の感じの顔が勝利感でどぎつくなっていた。
3
平山圭子と伴野静子はちらりと視線を合わせ、大急ぎで互いに目をそらした。これほど居心地の悪いことはなかった。勝ち誇っている夏本幸代は不快で醜悪だと思った。伴野静子も全て同じ印象を受けたようである。
それにしても郁江がおとなしく非を認め、謝罪したのは意外であった。郁江はいつも例によって遣り過ぎの傾向があり、今回のトップ屋の件にしてもそうだが、全体的に見れば、夏本が非難するような過誤や手落ちはないように思える。
会が動揺もなく、まとまっていられるのは全くもって郁江の並みはずれた手腕によるものとしかいいようがない。むろん、東丈の失踪への不安は別問題である。平山圭子にしても、郁江が丈の失踪に何の不安や危惧の念を表わさないことに対して、異和感を禁じえないものがあるからだ。
しかし、夏本の非難はあまりにも一方的に偏しており、いいがかりに近いものだという感じはまぎれもない。まさかの場合に幹部を集めて合議制で決めているわけにもいかないではないか。
夏本幸代には郁江への反撥があり、ことさらに手落ちを追及しているとしか思えない節があった。
「トップ屋のことだって、あの時はまだ杉村さんがいらしたはずよ。杉村さんの判断を仰ぐことだってできたはずだわ」
夏本はあくまでも追及を続ける気のようである。この好機に、郁江をとことん、へこましておこうという気であるらしい。
「そりゃ何もかも合議制でやれなんて、緊急のことだってあるし、無理いうつもりはないけど、郁江ちゃんが独断で動くには重大すぎることもあるわけよ。そうじゃない? 郁江ちゃんは何の権限もないということにおいては、あたしたちと同じなんだから。会の方向付けやら何やら独りで決めるなんて、それこそ僭越至極じゃないかとあたしはいってるだけよ。
この先、会をまとめて行くのだって、幹部会で決めるべきだわ。先生がいないという事実がある限り、会の存続にかかわる重大問題だもの。ごく一部の人間だけの独断で運営して行くことが許されるはずがないわ」
「わたしが自分の判断でやって、独断専行とみなされる行動があったことは認めるわ」
と、郁江は落着いていった。勝ち誇っていた夏本幸代も、おや、と思ったようである。郁江が少しもいい負かされていないことを感じて不安になったらしい。
「じゃ、自分の間違いを認めるのね? みんなの前で認めて謝罪するのね? だって非を認めたんでしょう? トップ屋の件だってどんなに重大問題化するかわからないんだから」
「必要があれば謝罪だってするわ。わたしはいつだって遣り過ぎるところがあるし。トップ屋のことも全面的に責任を取るつもりでいるわ」
「あなたがその決心でいるなら、いうことないわよ。でも、やっぱり幹部会では責任の所在をはっきりさせる必要があると思うわ」
「でも、幹部会なんて会則にはないでしょう?」
と、平山圭子はようやく口をはさんだ。夏本幸代はじろりと圭子に横目をくれた。
「そんなものは造ればいいわけよ。会則にも定款にもないからなんて、杓子定規なことをいってる場合じゃないでしょ。大急ぎで頭立った人たちを招集して、現在の危機をどうやって打開するか会議を開くべきだわ」
夏本幸代は、郁江が握りかけている権力に反感を示しているのだ、と圭子にはわかってきた。同じ秘書が会長代行に自らのしあがろうとしているとみなし、反感を抑えきれなくなったのであろう。いっていることはいかにも筋道が立っているようだが、本音はその程度の代物だと圭子にはわかってしまった。
夏本は大義名分を掲げて嫉妬や反感を自己正当化しているにすぎないのだ。それにしても、自分の浅墓な本音が見破られないですむと思っているのかと不思議な気がした。
「夏本さんのいうことはもっともだと思うし、みんなに相談もなく突走ったことは皆さんの前で釈明するつもり」
「でも、郁江ちゃんは本当は少しも責任は感じてないみたいね」
夏本幸代はとげとげしくいった。
「悪いことしたなんて、ちっとも思ってやしないんでしょ? 口先ばかりで己れの非を認めてるって感じ。そんなのとってもふてぶてしくて感じ悪いわよ」
「わたしの手落ちは認めるけど、それは夏本さんが考えている手落ちと違うかもしれない。ふてぶてしく見えたらご免なさい。今度杉村さんが渡米なさるので、わたし、先生から秘書室の責任者になるようにと求められたの。もちろん杉村さんもご存知のことだけど」
へえっ、という感じで平山圭子や伴野静子は郁江を見た。驚きこそあったが、決して意外ではなかった。
夏本幸代は青白くなって黙ってしまった。よほどショッキングな〝反撃〟だったのであろう。
「忙しさにまぎれて、そのことを皆さんに申上げる暇がなかったのだけど、それはあたしの手落ちとしてあやまります。でもね、もし先生がわたしを指名なさらなくても、きっとわたし同じことをやったと思うの。先生が突如会を留守にされたら、だれかが責任を負わなければならないし、大混乱を回避するためにも必要なことだと思うから。
もし手落ちを指摘される破目になっても仕方がないわ。責任を負うって、そういうことなんですものね。みんながわたしを専横だ、独断専行だと非難するかもしれないけど、わたしは自分にできることを懸命にやるしかないと思っているの。
夏本さんにはわたしに対していろいろ不満があるかもしれないけど、今は緊急事態なんだから是非協力してもらいたいの。とにかくこの急場だけはなんとしてでも切り抜けなきゃならないでしょう?」
「先生が杉村さんの後任に、郁江ちゃんを指名なさったというのは本当なのね? 間違いないわね?」
夏本幸代は青くこわばった顔で念を押した。
「わたしだけの勝手な思いこみじゃないわ。杉村さんに尋いてもらえばわかります。どうしても納得が行かないなら......」
「そんなことないけどね。先生の指名がなくても、会を背負って立つというようなことをいうから......念のためよ」
しかし、夏本幸代の唇は慄えていた。
「じゃ、今後は、郁江ちゃんが会長代理なわけなの? 事実上、郁江ちゃんの独裁で会を運営して行くってことなのね? 先生の信任を受けたから......」
「そういういい方はちょっとひどいんじゃないでしょうか」
と、平山圭子は堪りかねていった。青い顔で夏本幸代が呆然と圭子を見返す。
「郁江ちゃんは相談している時間がなかったので、とっさの判断で動いたと思うんです。わたしだってそうせざるを得なかったと思うんです。もっともわたしには、郁江ちゃんのような勇気や決断力があるとは思えませんけど......夏本さんもご自分が同じ場面に直面したらどうなったか、お考えになってはいかがでしょうか? 後になってとやかくいうのはいくらだって出来ます。トップ屋さんを実力でつまみ出していれば、それはそれで別の問題が生じたに違いないんですから......だったら、その時責任はだれが負うんですか? 結局、だれかが責任を負うことになるけれど、それは夏本さんじゃないはずです」
「わかったわよ! あたしに黙っていろ、引っ込んでいろというのね」
夏本幸代が真青になりヒステリックに口走る。体中が震えてとどめようがないようであった。
「先生はみんなに対して、いつもご自分の代理人になってほしいと望まれています......」
と、伴野静子が意を決したように可憐な声でいった。
「郁江さんはそうなさっただけだと思います。強い責任感がなければ出来なかったことじゃないですか? そうでなければ、先生の代理人なんてとても務まらないと思います」
緊張しきって一息にいいおえると大きく息をついた。黙ってはいられぬという健気な決意をみなぎらせていた。
「いいわよ......! みんなであたしに引っ込んでろというなら黙ってるわよ!」
夏本幸代は異常な興奮ぶりであった。孤立無援になってしまったことが、よほど心外であったらしい。
「郁江ちゃんはきっと先生に全権を委任されたんでしょうよ! 会をまかせるからといわれたんでしょ、そうなんでしょ!?」
「先生はたしかにそうおっしゃったわ。あたしに会をまかせたいって......」
と、郁江がいい、平山圭子たちはあっけにとられてその顔を見詰めた。
「でも、その時は冗談かと思った。まさかこんなに急激に留守にされるとは夢にも思わなかったから......」
「じゃ、もういうことなんかないじゃない!」
夏本幸代の声は自棄的になった。
「後から後から何食わぬ顔で証文を出してくるんだから! そのうちに後任会長は自分だとでもいいだすんじゃないの......でもね、会長が先生だからこそ、人が集まってくるんだってことをお忘れなく」
捨台詞のように投げつけて、夏本幸代は荒々しく立ち上った。
「馬鹿ばかしい! こんなことじゃ、もう会は有名無実じゃないの! 実体なんてとっくの昔になくなってるわよ!」
「夏本さん、気をつけて」
と、郁江はいきなりいった。
「何よ」
夏本幸代が部屋を出ようとする足を停め、気を吞まれたようにいった。郁江の口調はあくまでも、こうした感情のもつれた場面にふさわしくなかった。
「あなた、胃腸の調子が悪いんでしょう? 気をつけないと、もっとひどくなるわよ、少し休んでた方がいい」
「何のことよ? 変なこといわないで! あたしを脅かすつもり、暗示でもかけて......」
何をいいだすのだろう、と平山圭子は不快になった。夏本幸代の感情の荒れ方は異常としかいいようがない。
「ううん。ちょっと気になっただけよ。でも、自覚症状が出る前に、横になっていた方がいいと思うわ。外科だけど、笛川先生に診てもらったらどうかな?」
「冗談はよしてよ! あんたって相当陰険ね、呆れたわ! 体が何ともなくても、そんな暗示をかけられたら、だれだって調子が狂ってくるわよ。あたしだって心理学を教わってるんですからね!」
夏本幸代は感情的な高声でいい捨て、畳を踏み鳴らして部屋を立ち去ろうとした。平山圭子と伴野静子は互いの顔を見合わせた。老成ぶった顔付の夏本は完全に幼稚な本性を露呈してしまっている。全てその場の感情次第で流されるのだ。女にはありがちなことだが、あまりにも女臭すぎて閉口する。男性秘書を入れた方がいいのではないかと圭子などは考えるほどだ。最近は夏本幸代一人に振りまわされているような心地がする。
杉村由紀の重石が取れたとたんに、秘書室の年長者だという妙な気負いが生じてきたらしい。どう考えても、秘書室責任者の格はないが、本人は自信満々だったのであろう。夏本幸代にもっとも必要なのは、〝己れ自身を知れ〟という東丈がよく使う箴言のようであった。
4
平山圭子と伴野静子の不安を秘めた視線を顔に集めながら、郁江はいささかの動揺ものぞかせなかった。
秘書室が割れてしまった、大変なことになった、と後悔と危惧を二人とも抱かずにはいられなかった。結果的には三対一で夏本を追い出してしまった形になる。しかし、夏本のいいがかりに近い追及に関しては、井沢郁江を弁護せずにはいられなかったのだ。
郁江は何のコメントも口にせず、アンケート用紙に目を戻している。強がったポーズかもしれない。これだけ激論を交わして、心が平静でいられるはずがない、と圭子は思う。
しかし、郁江はもしかすると自分のようには考えないのかもしれない。その平静さは終始一貫して崩れなかった。郁江はとうの昔に、反感を露呈して攻撃に出てくる夏本幸代との論争を予期していたのかもしれなかった。
小揺ぎもしない郁江の落着きぶりは見事だが、何やら空恐ろしくもあった。丈の冷静さ果断さによく似ているのだ。丈がまるで郁江に乗り移ってきたかのようである。昼間の講演も、聴衆に同じ印象を与えたような気がする。
が、郁江の示している強さは、丈の不在が造り出した空白の招き寄せる多事多難さ、甚大な混乱を予告しているように思えて、圭子をうすら寒い心地に誘った。
部屋の入口で訪う声がした。田崎だ、と敏感に聴き分けて、圭子はだれよりも機敏に立ち上った。伴野静子があわててついてくる。
田崎は困ったような目で、圭子を見た。
「ちょっとご相談がありまして......」
と、彼は礼儀正しくいった。圭子は田崎の目を見て、またしても問題が突発したことを悟った。ホテルの廊下に目をやり、しばらく離れて佇んでいる白水美晴の嬌かしい姿を一瞥する。
「どうかしたんですか? 今、夏本さんがえらい剣幕で出て行きましたが......」
「多事多難です」
圭子はいってから、顔を赤らめた。心にあった言葉がすらりと口から滑り出してしまったのだが、突拍子もないせりふには違いなかった。
「まったくです」
田崎は太い声音で同感の意を表明した。田崎の顔を見ることによって生じた安心感、頼もしさは彼の背後に後めたい雰囲気で佇んでいる美晴の姿によって相殺されてしまった。
「郁江にちょっと話したいことがあるんですが......」
「いいわよ、どうぞ」
田崎の声は、戸口まで出て来た郁江にさえぎられた。
「あんまりいいお話じゃなさそうだけど、多事多難は覚悟の上だから。どうぞお二方ともお入り下さい」
郁江は、気を吞まれたような表情で頭を下げる白水美晴に会釈を返した。美晴は畏怖と憧憬の目で郁江を見ている。
部屋へ通された田崎は、畳の上に座るこの若者独得の格調高さで座した。周りの者も田崎につられて、姿勢を正してしまう。そんな影響力がこの若者にはあった。
郁江も正座して田崎に対した。正座は大の苦手のはずだが、生真面目な顔付でおくびにも覗かせない。中学までバレエをやっていた郁江は足が曲るのを怖れて、正座など無縁で育ったのだ。
美晴は時折、上眼遣いに郁江を初め、秘書たちの顔色をうかがっていた。快くない癖だが相手は怯えているのだと考えて我慢するしかなかった。平山圭子のもっとも嫌うのが、上眼遣いで人をうかがうこのタイプだ。穏和な圭子に似つかわしくないほど気色ばむものが裡にある。
「これは白水美晴といって、たぶんもう耳に入っていると思うんだが......」
「存じています」
と、郁江は田崎に全部いわせなかった。
「わたしが井沢郁江です。お初にお目にかかります」
郁江は、妙なもので重みすら備え始めているようであった。責任者としての自覚かもしれないと平山圭子は思った。ただ妖精のようにきれいで可愛くて魅惑的なだけではなくなってしまった。きちんと姿勢を正して座っている姿には、確かに威厳というべきものが漂っていた。
「今度、塾にお入りになったとか......」
郁江はそんなことまでよく知っていた。あれだけ多忙にしているのに、よく情報を仕入れる余裕があるものだ。
美晴は喉を詰まらせたように、ただ頭を頷かせていた。郁江に圧倒されてしまっているのだった。
「実は、この美晴がついさっき、山本という男と電話で話したというんだが......山本って知ってるだろう? 例のヤクザの塚田組幹部だ」
「ええ、もちろん知っています。山本がどうかしたんですか? ヤクザはもう務まらないといってだいぶ陥ちこんでいるという話は聞きましたけど......」
郁江は美晴に向っていった。
「まあ、そんなこともあって、山本に電話をかけたらしいんだが......お前から直接話してみたらどうだ?」
と、田崎が美晴を促す。
「あたし......ふと気になって山本に電話したんです......」
美晴はすっかり上ってしまい、おかしな抑揚でいってからさっと赤くなった。悪声の上に外人のような奇妙な喋り方では救いがないと自ら思ったのであろう。
「今日の講演があんまり素晴らしかったものですから! 物凄く感動してしまったんです。先生がおっしゃったように、いろいろ反省していましたら、なんとなく山本に話して聞かせてやりたい気持になってしまって......山本は今、凄くめげてしまって、自分のマンションの部屋に閉じこもったまま、タバコが切れても買いにも出ない有様らしいんです。深い穴の底に陥ちこんだようになってるんです。
あたし、山本にはうんと腹を立てていたし、いい気味だとつい今の今まで思ってたんですけど......反省してみたら、やっぱり山本にはかなり世話になってるし、あたしだけ今度の講演会で先生の素晴らしいお話を聞いて幸せになってたらちょっと済まないような気がしてきたものですから......」
実際は、美晴はこのようにすらすらと喋ったわけではない。何度もどもったり、とちっていい間違えたりして額や鼻の頭にまでびっしり汗の玉を浮かべながら、訥々として懸命に言葉をつむぎだしたのだった。
郁江の前では、言語障害者になったような強い緊張があったようである。しかし、その懸命さには好意を寄せずにはいられないものがあった。
「山本って、ヤクザですけど、根はそんなに悪い奴じゃないと思うんです。そりゃ悪いことはいっぱいしているし、人を沢山泣かせていますけど、やっぱり人のいいところもあるし、しんそこからの悪じゃないって気がするんです。もちろんヤクザなんか人間以外の代物だし、山本に取り柄があるってわけじゃないんですけど......」
「わかります」
と郁江は目をきらめかせていった。東丈に似ているな、と圭子はまたしても思った。仕草や目の輝きがそっくりなのだ。田崎たちも同じ印象を受けたようである。
まるで郁江には東丈が乗り移っているようだ......とだれかがいっていたが、やはり丈の波動をもっともよりよく受けているのが郁江だからであろう。
「それでも、山本はあなたに機縁を作ってくれた人間だから、東丈先生の存在を知るきっかけをもたらしてくれた男だから、ご自分がこんなに幸せになったということを山本に教えてあげたかった......そうなのでしょう?」
「そ、そうです。そうなんです!」
美晴は、郁江が己れの胸のうちをずばりと要約したことに驚異の目を向け、どもりながら答えた。
「あたし、山本にいってやりたかったんです......あんたなんかには想像もできないだろうけど、この世にはこういうすばらしい人たちの集まったすばらしい世界があるんだってことを。暗い汚い、ジメジメした日陰ばかりに目を向けていれば、そんな明るい世界があるってことに気付きもしないけど、そんな夢みたいな最高の世界がちゃんと存在するんだって......あたし、あまり感動してしまったので居ても立ってもいられなくなってしまったんです。世界中の人々に大声で呼びかけて知らせてやりたい、そんな気持がふくらんで胸がはちきれそうになってしまって......」
歓喜が美晴の顔を輝かしていた。高揚で顔が赤く染まってくる。瑞々しい情感の高まりが、美晴を少女のようにした。
「わかります。あなたのそういう気持は、ここにいる人たちみんなが味わっているんですよ」
郁江は微笑を浮かべていった。
「そうなんですか! あたし、やっぱり山本には恩があるなって気が付いたんです。ヤクザだけど、わりとよくしてもらったってことに......だから、参ってしまって陥ちこんでいる山本に、あたしの気持をお裾分けしてやりたかったんです。この話を聞いたら、少しは山本も元気が出てくるんじゃないかと思って......」
美晴の男への怨念はそう簡単に消滅してしまうものだろうか、と平山圭子は漠然とした懐疑心を覚えていた。圭子が美晴から遠感で受けたぞっとするものは、依然として圭子自身の裡に留まっていたからである。
それは残忍な男たちの嗜虐行為が美晴の心に植えつけた、凄まじい苦痛、恐怖、悲苦の結節のような硬い凝こりであった。圭子が遠感で感知しただけで、生理的な異常を圭子自身生じさせてしまったほどの無気味な過去から来る波動だったのである。
それほどの心理外傷が短時間の反省などで、簡単に洗い浄められてしまうものかどうか、圭子は疑いを抱かずにはいられなかった。そんなに人間の心とはお手軽なものだろうかと考えてしまうのである。

圭子ですら感情移入で得たショックから完全に立ち直っているとはいえないのだ。そこをライターの炎で焼かれる嗜虐行為は、悪夢と化して圭子自身の眠りを襲いそうな予感がしていた。
そんな圭子の気持を読み取ったのか、郁江の目がきらりと輝いて一瞥した。驚くべき勘のよさであった。もちろんそれは超常能力であって、ただ単に勘が鋭いというレベルではないのだろう。
郁江は全く、〝力〟を誇示しないが、異常なハイレベルにあって、ただそれを表に顕わさないだけかもしれなかった。
「ずいぶん長い間、呼び出しのベル音を鳴らし続けました......」
と、美晴が語っている。
「電話には出ないけど、なぜか山本は絶対に部屋にいるという確信があるんです。ベッドに寝ころがって、暗い目をしてベルを聞いているという気がするんです。絶対に電話に出さしてやるという気分でした。念力で出さしてやる......本気でそう思いました。
四十回ぐらい鳴らしたところで、山本がようやく送受器を取り上げました。とうとう根負けしてしまったんです」
美晴の話は注意深く聞いていると、興味深いことがあった。ひどく断定的なのである。まるで山本自身の心理状態がわがことのようにわかっているような、独断的ないい方をしていた。
5
──山本は全く精彩がなかった、と美晴はいった。飲まず食わずでここ数日間というもの、ただうつらうつらとしているようであった。ブラブラ病になってしまったらしい。よほど気落ちが甚しかったのであろう。
「声音も違う人間みたいに力なくて、張りがないんです。なんだか半分死んでるみたいでした。ただ元気がないという程度の生易しいものではありませんでした......」
──眠れないんだ、と山本は電話で告白した。
「眠ろうとしても眠れねえ。そのくせ一日中うつらうつらしてやがる。ほとんど食欲もないし、外へ出る元気もねえ。腹が減っても、何もしたくねえんだ。ただベッドに横になってるだけだ。飲まず食わずでじっと寝てると、餓えも渇きも何も感じなくなって、自分が生きてるのか死んでるのかわからなくなってきやがる......参ったぜ、俺はもう駄目だ。このままくたばって行くような気がする......体中の筋を全部抜き取られたみたいだぜ。頭の中では動いてるんだが、実際は体が動かねえ。便所に小便をしに行ったつもりなんだが、実際はベッドに寝ころがったまま全然動いていねえんだ......
お前のいいたいことはわかってるぜ、美晴。何をいわれようと、腹を立てる元気もありゃしねえよ。俺はもう半分死人よ......本当にくたばるのにそんなに時間はかからねえよ」
「ママは? ママはどうしたの?」
「路子か?......あいつが俺にこれ以上かかりあうはずはねえだろう......俺がもう前の俺じゃねえってことは百も承知さ。行き倒れの野良犬と同じよ、あいつにとっちゃあな......」
山本は非常に高齢の老人の覇気のない喋り方をしていた。のろのろと足をひきずり、よちよちとアヒルが歩くような喋り方であった。
「路子はもう俺を怖がっていねえ。怖がる必要はねえとわかってしまったからだ。あいつはそういう敏い女なんだ......今の俺は車に轢かれた犬ころといっしょだからな。お前だってそうだろうが......」
俺はこわれちまったんだ、と山本は本気でいった。
「手前から勝手にこわれちまったんだ。だからあの田崎の旦那に叩きのめされたからというわけじゃねえ。田崎の旦那は本気で正拳一発も当てたわけじゃなかったからよ......体ん中でガタガタとこわれちまったもんがあってな、俺はもう駄目になっちまってたんだ。生きている死人よ......」
──山本は、あたしが箱根セミナーに参加させてもらっていると聞いても、少しも驚きませんでした。低い声で木枯しみたいに笑っていました......
「そうかい、そいつはよかったな」
山本は笑いながらそういったんです。
「それで、お前は俺を慰めてくれようってのかい......お前にはそういう脳天気なところが昔からあったぜ......」
「あんたなんかを慰める親切心なんかひとかけらだってありゃしないわよ!」
美晴はかっと感情に駆られて口走り、すぐに後悔した。
「あんたに教えてやろうと思っただけよ。あんたも知ってる井沢郁江さんという物凄くきれいな女の子が、あんたには想像もつかないような素晴らしい講演をしてるってこと」
「郁江が......? 風変りな女の子だとは思っていたがな」
山本はさして意外でもなさそうにいった。
「そうか。東丈という先生の代理が務まるくらい偉い女の子だったのか。じゃ、超能力とやらがあるわけだな?」
「それは知らないわ。でも、素晴らしい講演をなさった......だれが見たって十七の女の子のやることだなんて絶対に思えない。胸が急に広くなって軽々と息が出来るようになったわ。涙が出て停まらなくなった......それをあんたに教えてあげたかったのよ。あんたみたいな男でも良心があるんなら、この話を聞く資格があるんじゃないかと思って......」
「良心? 良心とやらがあるせいで、おかげで俺はこのザマよ。もうこれ以上は関り合いたくねえ......息をしてるのも厭になるかもしれねえからな」
山本は冗談とは思えぬ口調でいった。
「これ以上はご免だ。ほうっといてくれ。ぶっ倒れてる人間を靴で蹴りまくってやろうっていうならともかく......」
しかし、山本は電話を自分から切ろうとはしなかった。それだけの気持の張りがないのかもしれない。力なくだらだらと喋っていた。
「あんたはそういうことを、さんざん他の人にやって来たじゃない。生きる気力もなくなって一家心中した人たちだっているはずだわ。そういう人たちの気持を今、思い知らされているのよ」
「人間、落ち目になりたくねえもんだ......こともあろうに美晴、お前から説教されるとはな。自嘲する気にもならねえよ」
「あたし、あんたが参っているところを、さんざんいじめてやるつもりだった。もう生きていたくないと本気で思うまで、うんと残酷にいたぶってやろうと思ってた」
「どうしてだ......? おれはお前にそんなにひどくした憶えはねえ......ちっちゃいころからお前を知ってるし、むしろ路子にかばってやれといってたくらいだ」
山本はしんそこから不審げにいった。
「俺がそんなにお前に恨まれるようなことをしたか?」
「そうね。あんたはあたしのことを知りすぎてたのね。中学生のころ、あたし、あんたに憧れてたもの。素的な男の人だと思ってた。恰好いいし喧嘩は強いし、スカッとした見惚れるようなお兄さんだった。でも、あんたはあたしが憧れてたことなんか知らないでしょう?」
「知るものか。知るわけがねえ。シジミみたいな中学生の女の子なんか目にも止まらなかったからな。しかし、俺はお前に恨まれるようなことをしたか? 全く憶えはねえが......」
「しないわ。でも、全然相手にしてくれなかった」
「冗談じゃねえ。そんなことでいちいち恨まれていたら堪らねえ。中学生のお前を姦って、どこかに売り飛ばしたっていうならともかく......」
「あんたがあの時、あたしを自分の女にしてくれれば、こんなにならなかったかもしれない。こんなカラスみたいな声にならないですんだかもしれない......」
「それはひでえいいがかりというもんだ。いくら悪の俺だって、シジミみたいな可愛い女の子には手を出せねえ。確かにお前は中学生にしちゃ、妙に色っぽかったが......お前が悪の学生どもに姦られて、そんな声になったというのは知ってるが、そんなことまで俺のせいにされて、背負いこまされちゃ堪らねえよ......そうだろうが? それともお前は学生どもに突込まれたことまで俺のせいにして恨んでるのか?」
「怨んだわ、今だからいうけど......あんたはとっくの昔に忘れてるかもしれないけど、小学校のころから、あんたはあたしをいろいろからかったじゃないの......一人前のちゃんとした女になったら可愛がってやるといって......赤飯を炊いたら知らせろよなんていったわ」
「憶えていねえが、そんなこともあったかもしれねえ。だが、お前がそんな冗談を本気にしてるとは思わなかったぜ。お前は目立つ娘だったから、からかったのは俺だけじゃなかったはずだ。お前は俺と逢うとつんとしてそっぽを向いたじゃねえか。悪の俺だから、軽蔑の目で見られたって何とも思やしねえが......お前に整形手術しろといって金を出してやったのも俺だ。その俺をなぜ恨むんだ。俺はお前に客を取れなんて一度もいった憶えはねえ。お前が勝手に取ったんだ」
「まともな体にしてもらったら、恩を返さなきゃならないじゃない。あんたはあたしを自分の女にする気なんか全然なかったんだし......」
「それはお前の勝手な思い込みだぜ。お前があそこが足のかかとみたいなゴワゴワした体になっちまったと聞いたから、気の毒に思っただけだ。そりゃ逆恨みってもんだぜ。驚いたな。俺はヤクザだ。手前のことをいい人間だなんて思ったことは一度もねえが、ことお前に関しては、恨まれるようなことはしていねえと信じてた。恩を売るつもりはねえが、いろいろよくしてやったつもりだ。それを、手を出さなかったからといって恨まれるんじゃ、いくら俺でも立つ瀬がねえよ。本当だぜ」
「あんたは靴のかかとみたいな体になった女には興味がなかったのよ。でも、金を払っても触りたがった連中だっていたわ。だから、あんたを恨んだのよ」
「わからねえ......頭がおかしくなりそうだ。女の考えることは全くわからねえよ。そんな体にされたお前を可哀そうだと思いこそすれ、そんな汚ねえ好奇心は持たなかったが、それがいけなかったというのか? 金を払ってライターで焼かれて靴底みたいになったあそこを見物した方がよかったっていうのか?」
山本はしんそこ不思議そうな、どこか苦しそうな声音でいった。
「そうよ。そうすればあたしは楽な気持になれた。あんたに恩を感じないですんだもの。でも、あんたは卑怯だった。いつも逃げてしまった......何さ、たかがヤクザのくせに偉そうにするんじゃないよ。いつもそう思ってたわ。あたしをひどい目にあわした男たちよりあんたを怨んでた」
「お手挙げだ......俺はヤクザだ。だが時にはヤクザらしくないこともする。だけどヤクザらしいことでは責められずに、ヤクザらしくないことでお前に責められるのか? 俺はお前に関してはいいことをしてると信じてた。昔のちっちゃな可愛い女の子だったお前を今でも憶えてるし......」
「ヤクザが生意気なのよ。ヤクザはヤクザらしく徹していればいい。人に恩をほどこしていい気になるなんて絶対に許せないのよ。わかる? ヤクザは人間じゃないし、それが人間らしい真似をするなんて、身の程知らずなのよ。だからあんたを憎んだの。あんたは沢山人をいじめて泣かせてきたじゃない。そのあんたがあたしに恩恵をほどこすなんて、凄く狂ってることなの」
「しかし、お前のあそこを焼いてだいなしにしたのは学生で、ヤクザじゃなかったぜ」
「だからといって、ヤクザのあんたがあの学生たちより上等で善良だってわけじゃないわ」
うんと、山本は呻いた。他にどうしようもなかったのであろう。女の論理だ。男の理解を超えている。山本は、美晴の期待を裏切ったがゆえに怨まれてしかるべきなのだ。彼女の不幸や不運は全て彼自身の責なのだ。非論理の論理であるが、山本にはひどくこたえたようであった。
「俺には何ともいいようがねえ。しかしお前は怨みたいから怨むんだろう。お前にひどいことをした学生どもを怨むより俺を怨んだ方がいい気分なんだろう......まるで天罰みたいなもんだ。前世で俺はよっぽどお前にひどいことをしたのかもしれねえ。そう思って諦らめるしかねえよ」
山本は無気力な諦念と自嘲をこめていった。
「でも、今はもうあんたを怨んでいないわ」
「どうしてだ?」
「素晴らしい講演を聞いたから。反省の仕方を教わったから。そしたら、あんたを怨むことなんかないって気付いた。やっぱり筋違いだったんだなってわかったの。あんたにはいろんなことで世話になったし、感謝しなきゃいけないって心から思うようになったわ」
「郁江の講演を聞いて、気持が変わったというのか?」
「そう。泪が停まらなくなったわ。自分の気持がすっきりして、よくわかるようになったの。今までは、自分が何を考えているのかはっきりしなかったんだけど......」
「そんないい加減なことじゃ堪らねえ......だが、もう俺を怨んでないというのか?」
「たぶん、そう思う。あんたは今生じゃ、そんなにひどいことをあたしにしてないとわかったから」
「今生では......じゃ、前世ではわからんというわけか」
山本は惰性のようにのろくさと喋っていた。喋りたいわけでもなく、気力もないのだが、電話を切ってしまうことができないのだった。電話を切った後の空白を恐れているのかもしれなかった。
「しかし、多少は安心したよ。怨んでいないと聞いて気楽になった......」
「あんたが? まさか......」
「いや、本当だぜ。俺はもう根太がすっかり緩んじまってる。お前が俺を怨んでいるとさっき聞いた時は、本当に愕然とした。本音を吐くと、ヤクザの俺だが、お前に関しては少しは善根を施した気になってた......〝蜘蛛の糸〟って話が昔、教科書に載ってたっけが、カンダタという人殺しから火付けからおよそ悪い事は全部し尽したって悪党がな、死んでから地獄に堕ちた。血の池地獄でもがき廻って他の亡者どもといっしょに苦しんでた。それを極楽からお釈迦様が見降して......」
「知ってるわ、その話」
美晴は引き取っていった。
「カンダタは生前、一度だけ蜘蛛を踏み殺さずに仏心を出して助けてやったことがあるっていうんでしょう。カンダタにとってたった一つの善事で、それを見通したお釈迦様は、助かるチャンスをカンダタにやるんでしょ。細い蜘蛛の糸を極楽から暗い血の池地獄に降ろしてやったのね......」
「つまりだな、カンダタの蜘蛛の糸ってのは、俺にとってはお前だったのさ」
山本は無気力な声音で呟いた。
「昔から、ほんのちっちゃい女の子だったころから知ってるお前に善いことをしてやれば、地獄へ行かずに済むんじゃないかと甘いことを考えた。死んでから地獄へ行っても、もしかすると助かるかもしれねえと思ってた......お前が俺に感謝してるとばかり思いこんでたからだ。だから、さっき俺を怨んでるとお前がいった時は、足許の床が抜けたような気がしたぜ。これほど驚いたことはねえ。お前にひどいことをした学生どもよりも、俺を怨んでたとは......俺には最初から蜘蛛の糸なんかなかったんだな」
「でも、今は怨んでないわ」
と、美晴は急いでいった。山本の声にはそれほど沈痛なものがあったのだ。
「こんなことを手前から抜けぬけというとはな......」
山本は自嘲をこめていった。
「徹底的に救いようがなくなってる証拠だな。俺はもう要がとれた傘みたいにバラバラになっちまってる......もう息をするのも厭気が差してきたよ。だが、だらしがなくなっていやがる。くたばるのが恐い。死んで暗い地の底へ行くのが恐い。今となっては俺には蜘蛛の糸があるんだと手前にいい聞かせて空元気をつけることも出来ねえ。おかしなもんだぜ。俺みたいなヤクザの悪でも、何か善根を積んだという自覚がないと、死ぬのが猛烈に恐ろしくなりやがるんだ。今は死にたくねえ......恐怖心でいっぱいになっちまいやがった」
「あたし、もうあんたを怨んでいないわ」
美晴は困惑しながらくり返した。
「郁江先生に教わった遣り方で反省したのよ。そうしたら、小さいころから自分がどんな気持で生きてきたかはっきりした。あんたにはよくしてもらったし、やっぱりお礼をいわなきゃいけないって気付いた。だから電話したの。もう怨んでないわ。本当よ」
美晴はどもりながらいった。
「あんたは安心していいわ。あたしはもう生れ変ったんだから。今はもう昔のあたしじゃない。小さなころのあたしみたいに、とっても素直な気持になれたの。沢山あった辛い厭なことはみんな消えてしまった。だから、あんたに電話をかけたのよ。生れ変ったあたしを見せてあげようと思って......あんただってそうなれるんだってことを教えてあげようと思って」
「そいつはどうもありがとうよ」
「信じないの?」
「信じるさ。たいへんなご利益だ。あの郁江の話を聞くだけでお前がそんなに変るとはな......郁江には何か人と違うところがあると気付いてはいたがな」
「素晴らしい人よ。あんた、呼び捨てなんかにしたら罰が当るわ。後光が射してるの。とても生身の人間とは思えない......郁江先生は不死身なんだって」
「不死身?」
「あたし聞いたの。ついほんのちょっと前、このお正月には、郁江先生は癌でもう助からないといわれてたんだって。若い人の癌だから......でも、奇蹟が起こったそう。郁江先生は一度死んで甦ってきたんだって」
「それじゃ、キリストだ。一度死んで復活するなんてのはな」
「有名な話よ。あたし、写真を見せてもらった。しばらく前の郁江先生と今の先生は別人だわ。顔も体つきも全然違うの。郁江先生は目に見えない力で護られていて、不死身なんだって......」
「............」
「信じないの?」
「そうじゃねえ。そういうこともあるかもしれねえ......どんなことが起きたって、もう俺は不思議に思ったりしねえよ」
山本はぼんやりした精気のない声でいった。
「特にお前の変りかたを見てるとな、美晴。人間はどこまで変れるのかわからなくなる」
「とにかく、あたしが箱根のセミナーへ行ってどんなことが起こったか、あんたに知らせたかったの。あんたも来ればよかった......そう思った」
「そうは行かねえ。俺みたいな男がどうしてそんな所に顔を出せる......? 俺は手前が生ゴミみたいに腐ってひどい臭いをさせてるのがはっきりわかるんだ」
「でも、あんただって救われるチャンスがあるわ」
「............」
山本はしばらく沈黙していた。
「じゃあ......電話、切るわ」
「待ってくれ」
戸惑ったように山本はいった。
「郁江に伝えておいてほしいことがある。矢頭の気違いが郁江を狙ってるらしい。タケの奴らがそれをえらく心配してた......俺の所まで電話して来たくらいだからな。矢頭は気違いだ、何をするかわからん、組長に引導を渡されて、それっきりどこで何をしてるのかわからねえと思ったら、郁江をつけまわしてるというんだ。
もしかしたら、箱根のそっちに行くかもしれねえから、用心するようにと伝えてくれ。矢頭がどんな奴か、郁江はよく知ってると思うが......あいつは死神だ」
「死神!? だって、矢頭がそんな勝手な真似をするのに、組では何にもできないの? 矢頭を抑えられないの?」
「駄目だ。組には矢頭を抑えられるような奴は一人もいねえ。死神に歯向う奴がどこにいるもんか」
「じゃ、あんたはどうなの? 組で矢頭に重石になってたのはあんたでしょ? あんたなら矢頭に勝手な真似をさせずにすむんじゃないの?」
「今の俺は生ゴミさ......腐って厭な臭いをさせてる......そんな元気はどこにもねえよ。告白するとな、前だって矢頭を抑えきる自信なんかなかった。それどころか矢頭がいつ俺の首を取りに来るかビクビクしてた。俺はもともと卑怯未練な臆病者さ。でなければ、とっくの昔に矢頭を殺っていたろう。今となれば、だれにも矢頭は抑えられねえ。組長にだって無理だ。それどころか矢頭の逆襲に怯えきって、用心棒にトイレにまでついてこさせてるだろうよ......」
山本は喉に引っかかるような笑声を立てながらいった......
6
冷汗の匂いのする沈黙が室内に立ちこめていた。鳥肌をたてていない顔はだれ一人としてなかった。
不意に室内の空気が稀薄になり、酸欠状態が襲ってきたようだった。伴野静子が喉許に手をあて、苦しそうな呼吸をくり返していた。顔面は蒼くなり体がわなないている。
息苦しいほどの視線を集めて、郁江は無言で考えこんでいた。彼女が動揺を免れているわけではない証拠に、滑らかな頰が鳥肌立っている。
平山圭子は、頼みとする田崎までが緊張感に体を硬くしているさまを見、祈るような思いで東丈の帰還を願わずにはいられなかった。田崎でさえ冷水の感覚に捉えられてしまったのだ。この場を覆った不吉な空気は、呼吸困難の感じをもたらすほど濃厚なものだった。
それはただ単に、矢頭という狂暴なヤクザの存在がもたらす恐怖感ではありえなかった。全員が幻魔の濃い影がのしかかってくるのを実感しているのだった。
「警備を増強する」
田崎が重々しくいい、片膝を立てた。
「でも、東京から呼んでももう間に合わないわ。後一時間足らずでセミナーは終了だもの」
と、郁江が沈黙を破っていった。
「わたしは大丈夫。丈先生の〝光のネットワーク〟を信じてるから......」
「しかし、ヤクザは飛道具を使う。拳銃を持って殴りこんできたりしたら、怪我人が出るくらいじゃすまないかもしれん」
田崎の頑強な分厚い肉体は闘志でぐっとかさを増しふくれあがったように見えた。平山圭子たちにとっては、初めて見るような男の荒々しさ猛々しさを露呈した田崎の形相だった。猛烈に野性的なエネルギーの昂まりが、圧迫感をすらもたらした。
気合が乗って来て、目が覚めるほど田崎の皮膚は色艶を増した。これはまさに変貌とさえ呼ぶべきものであった。
それほど田崎にとって、矢頭という凶暴なヤクザの存在は危機感を与えるものだったのであろう。気力を充実させた田崎は部屋がにわかに狭くなったほどの圧力を放射していた。
「でもね、みんなに防弾チョッキを着せるわけには行かないでしょ。わたしだってそんなものでみっともなく着ぶくれるのは厭だな」
郁江は平生と変らぬ語調だった。頰に立った鳥肌はもう消えている。すっかり平静さを回復していた。
「いや、本当に郁江には防弾チョッキをつけてもらうかもしれん」
田崎は冗談事を口にしているのではなかった。
「相手は物凄く危険な奴だ。勘でわかるんだ。山本みたいなヤクザとは全く違う......阿修羅がとっ憑いたような奴だ。郁江、いくらお前でも、そんなに吞気に構えているわけにはいかんぞ。山本がいったように、奴は確かに死神だ、間違いない」
「矢頭は偏執狂だ......山本はそういっていました」
と、美晴がつけ加えた。
「タケとか、塚田組の若い衆は本当に、郁江さんのことを心配してるんだそうです。渋谷の事務所には絶対に帰らない方がいいっていってました。矢頭って本当に物凄い男なんですって......」
「知ってます。わたし、矢頭と遇ったことがあるから......ご心配頂いてありがたいのですけど、わたし逃げ隠れしたり、警備を増やしたりして身の安全を計りたくないの」
「なぜだ!? そんな恰好つけたことをいってる場合じゃないんだぞ、郁江!」
田崎は憤然としていった。顔が充血し、赤くなってきた。
「まさかのことがあってみろ。みんなの迷惑も考えたらどうだ。お前の身に何かあったら、先生に対して俺たちは申しわけが立たないんだ!」
「そういきりたたないで。わたしはとにかくちっとも心配してないの」
「心配してないったって、お前......」
郁江の軽みは、田崎を呆然とさせた。
「自分の身を心配するっていう気持が、心に全然ないのね。本当に大丈夫」
「お前が死の恐怖を超えてるということは凄いことだと思う。思うが、それでは事が済まないんだ。お前は先生の代理人だ。会をあずかって行く重大な責任があるんだぞ。だから俺たちはお前の身を護らなきゃならない。それが俺たちに課せられた責任なんだ。そいつをわかってくれ」
「もちろん、わかっているわ。でも、大丈夫なの」
「ちっともわかっておらんじゃないか! お前が厭だといおうが何といおうが、俺たちは先生のためにお前を守らなきゃならん。窮屈かもしれないが、今後警備を増強して、お前には二十四時間ボディガードをつける。俺たちを困らせるなよ。頼むから......」
田崎は懇願の響きを混りこませた。頭から強引に郁江に対して振舞う自信がないのだった。
「この通り、頭を下げて頼む。俺たちに警備責任を果たさせてくれ......先生がご不在の今、お前の身に万一のことがあったらどうする」
「わたしは違うことを考えてるのだけど......」
「わかってる! 〝光のネットワーク〟があるからというんだろう! しかし、己れのなすべきこともなさずに、〝光のネットワーク〟に頼るのは間違ってるぞ! それは他力だ。先生だってそういっておられた! 最大限努力もせずに〝光のネットワーク〟に頼るのは他力そのもので、虫がよすぎる! それが許されるのだったら、俺たちは何もせずに、ただ運を天に任せればいいことになるじゃないか......とにかく俺たちは万全を尽して警備に努力する。だからお前も俺たちに協力してくれないか」
「郁江ちゃん、田崎さんのいう通りだと思うわ」
平山圭子は田崎に助勢した。郁江に異存があるにせよ、この場は彼女を説得しなければならないと思った。今、郁江を万が一失うようなことがあれば、会は動きが取れなくなる。会にとって郁江は巨大な推進力なのだ。郁江自身にはそれがわからないのであろう。
「自分の立場をもっと自覚してほしいの。先生はあなたに後事を托されたんじゃないの。あなたには重大な責任があるはずだわ」
「わたし、今こんなことを思ったんだけど」
と、郁江はお構いなしにいった。
「矢頭がどんな遣り方をするか、考えてみたの。矢頭は邪悪な頭のよさがあるわ。警備が厳重だと勘付けば決して正面から攻撃はかけてこない。警戒の薄い所を狙う。となれば、まっしぐらにわたしを襲うことはないんじゃないかって......」
「というと?」
「矢頭は人質を取るんじゃないかな。要はわたしをおびき寄せればいいわけで、人質には事欠かないわ。だって会員全員にボディガードをつけるわけには行かないのだから。人質を取られた以上、わたしは逃げを打つわけには行かない、と矢頭は必ず考える。警察沙汰になってもいい。人質は無事には返さない。わたしが人質を見殺しにしないと矢頭は知っている。それが矢頭の邪悪な知恵だと思う。
わたし、確信があるの。矢頭は必ず今いったようにする。わたしが警備を強化しないというのはそのためなの」
「............」
田崎たちは息を吞んで、郁江の貌を見詰めていた。郁江の顔は少しも興奮や緊張の色を持たずに透き徹るようだった。
「矢頭にはまっすぐわたしの所へ来てもらいたいの。本当はそれが警備陣にとっては一番いいわけ。相手が見通しのきく一本道をやって来てくれるなら......」
「お前、囮になろうというのか?」
田崎は喉の通りが悪くなったような声でいった。
「わざわざ、矢頭をおびき寄せる気か?」
「だれが人質に取られるか、心配しないですむわ。向うが大通りをやって来てくれるなら、清々するじゃない? 会員の数だけ心配してたら、それこそいくら時間があっても足りないもの」
「しかし......危険度は大きくなるぞ。矢頭は拳銃を持っているから、お前を狙撃するかもしれん。警備が手薄だったら、銃はまず防ぎ切れない。それを覚悟の上なのか?」
「矢頭はわたしに対しては銃を使わない。そんな気がするの。もっと残虐な手を使うんじゃないかな。彼の性格って嗜虐的なんだって......刃物で切り刻んだりしてなぶり殺しにするタイプなのね」
「............!」
一同の顔に再び鳥肌が立った。
「彼がわたしにしようとしてるのは、拳銃で射ち殺したり、そんな簡単なことじゃないのね。子供がよく蟬を生体解剖したりする、あんな残酷な遣り方だという気がする。もし、他の会員、たとえば圭ちゃんを人質に取っても、矢頭は同じことをやると思う。矢頭の心の中は物凄く悪魔チックなの。凶悪な変質者タイプなのね。
わたし、自分のことは少しも心配じゃないのだけど、もし他の会員が矢頭の手に落ちたらと思うと鳥肌が立つの。わたしは恐怖心がわりと稀薄なんだけど、他の人はそうは行かないでしょ? 矢頭って本当に人間放れしてて物凄いんだもの」
「............」
いつしか一同は畏怖の目で郁江を見詰めていた。
「警備は増強しない、警察の保護は頼まない、このことは厳重に伏せて、会員たちの動揺を防ぐ。この三つを徹底してほしいの。さもなければ矢頭は必ず勘付くわ。そうなったら最後、だれが犠牲者になるかわからないし、事態はうんと深刻化する。田崎さん、そうじゃないかな? あなたにしても、わたしだけを警備した方が楽にきまってるでしょ?」
「お前のいうことはわかった」
田崎は太い吐息をついていった。
「前言は撤回する......確かにお前のいってることは正しい。俺の方が浅墓だった......しかし、郁江、囮は辛いぞ。もちろん何もかも承知の上だろうが」
「急に気が変って、うんと恐くなるかもしれない。でも、他の人よりは楽だと思うな。一度死んだ人間にとって、死自体はさほど恐くないの。不死身の郁姫様だもの。もうこのことは忘れて......深刻な顔していると必ず会員たちに勘付かれるから。霊感でわかっちゃうみたいよ。
大丈夫、郁姫様はまだまだ死なない! その時は自分でちゃんとわかるもの。だからこうして平気にしていられるわけ」
郁江は不思議な説得力を持っていた。彼女の確信がずしりと手応え重く伝わってくると、不安が緩和されるのだった。伴野静子が大きな溜息をつき、圭子もつられたように安堵の吐息を漏らした。
7
郁江は居ずまいを正して、美晴に向いきちんと頭を下げた。
「わざわざお報らせ下さってありがとうございました。今お聞きいただいた通りのことになりましたが、ご好意は決して無にはいたしませんので......」
以前の郁江には感じられなかった折り目正しい口上であった。
「いいえ、あたし......何か先生のお役に立てばと......」
美晴の方がうろたえて口をもつらせた。
「どうか先生、充分にお気をつけになって下さい......あたし、やっぱり心配なんです。警察に頼んだ方がいいんじゃないでしょうか? 相手はヤクザだし、きっと護ってくれると思うんですけど」
「どうかご心配なく。わたしは平気だという確信があるんですよ。何の根拠もない確信だけど、本当に全然何の不安もないんです。ほら、触ってみて下さい」
郁江は立ち上り、美晴の傍らに歩み寄って座った。手を伸ばして、相手の手の上に置いた。
「ね、汗も搔いてないでしょ? 何の不安も恐れもないんです。胸だってドキドキしてませんよ。いつもと同じに平静です。講演する時の方がよっぽどドキドキして大変です......」
「本当に、先生はお強い方なんですね」
美晴は尊敬と憧憬をこめていった。
「どうして女なのに、そんなに強くなれるんでしょうか? 塚田組にも一人で乗りこまれたんでしょう? 山本は先生にお逢いした時から、なんだか負けそうな気がしてたといってました......先生はこんなにきれいで可愛らしいのに、なぜそんなに強いんでしょう?」
「わたし、神を信じてるんですよ。この宇宙全体を創りだした巨大な神を......東丈先生は大宇宙意識と呼ばれていますけど、その大いなる力が自分の裡にあるのが実感できるんです。その大いなる力自体がこのわたしの本質なんです。この肉体は本当のわたしでなく、仮りに使っている乗物にすぎません。
たとえば、わたしたちが今アメリカへ行くとしたら、自動車に乗ったり、船やジェット機に乗って行くことになりますね? その車や飛行機という乗物が、今使っているこの肉体に相当します。本当のわたしは車やジェット機ではなく、ただそれに乗っているだけなんです。だから、目的地に着けば、もう乗物は必要なくなって降りることになります。
それが世にいわれる〝死〟なんです。でもわたしは目的地に着いただけで、ちゃんと存在しているんです。人間が転生輪廻で生れ変るというのは、いろいろ乗物を乗り換えているにすぎないんです。
ですから、肉体の死など少しも恐くありません。わたしは一度死んで、そのことがとってもよくわかっているんです。皆さんだって一度わたしのような体験を持ってみると、恐いものがなくなりますよ。ほら、死ぬ気になれば人間、何でもできるというでしょう?
つまり、わたしが強いと皆さんおっしゃるのだけど、わたしからいうと反対に皆さんの方が弱すぎるんじゃないかなと思うんですよ。死ぬのが恐かったりすると、思い切ったことが何一つできなくなってしまう。臆病になって萎縮してしまう。そこの違いではないでしょうか? 死んだ時の感じがわたしにはよくわかりますから、いざとなれば死ねばいいやって居直りみたいな気持になります。
いつ死んだっていい、今のわたしはただ、宇宙意識の意志に添って生きているんだ......そんな気持でいます。肉体の死が恐ろしいなんて、本当はとっても奇妙なことなんですよ。ただ乗物を降りるだけなんですから......窮屈な乗心地の悪い乗物から解放されたら、だれだってホッとするし、早く降りたいと願うんじゃないでしょうか?」
郁江は両手で美晴の手を握りしめながら、熱心に話し続けた。
「ですから、わたしは自分のことに関しては少しも気にしていないんです。べつに生命を粗末にするとか、危険を顧ないというのとは違いますよ。肉体に必要以上に捉われないですむということなんです。肉体なんかどうでもいい、傷つこうが壊れようがへっちゃらだといって空威張りしてるんじゃないんですよ。もちろん大事にはしています。でも、本当に大事なのは乗物じゃなくて、乗ってる本人なんですよね。つまりそれが、人間の魂というものなんです。
乗物が壊れて役に立たなくなったとしても恐れる必要は少しもありません。神様がまた新しい乗物を下さいますよ。それを本気で信じることができたら、肉体の死をそれほど怖がることはありませんよね? 乗物に向ってこれまでお世話になりました、ありがとう、といって降りればいいんです。そこが目的地なんですから......」
「先生の手ってとっても熱い......!」
美晴が感に堪えたようにいった。
「物凄くエネルギーが充満してるみたいです! なんだか体がすっきりしてしまったみたい......あたしも先生みたいに何も恐いものがなくなれるでしょうか? 先生を信じて、神を信じれば、いつ死んでも平気だし、心残りがないようになれるでしょうか?」
「もちろんなれますよ。でも、神を信じるというのは、人を信じ、友を信じることなんですよ。ですから、自分は人間は信じないけど、神を信じるなんてことはありえないんです。神を信じるということは、全ての人々に対して優しい気持を持てるということなんです。
神さえ信じれば、後はどうでもいいってわけには行きません。もし美晴さんの中に、人を怨んだり憎んだり呪ったりする心がひとかけらでもあれば、神を本気で信じることはできませんよ。
神様、あたしはあなたをやっぱり信じることはできません......美晴さんは前にそう思ったことがありますね。自分をこんなひどい目にあわせた恐ろしい人間たちをあなたがお作りになったなら、あなたはそれでも神様ですか? 美晴さんは前にそう思ったでしょう?
その時の怨みや憎しみが、美晴さんの心の中では固いコブみたいになって残っています。美晴さんがここへ来たのは、心のお荷物をおろして自分が楽になれると思ったからですね?」
「はい......さっきから反省してとっても楽になりました。先生のおかげです」
「でもね、反省ってそう簡単にはできませんよ、心の中に憎しみ怨みつらみがほんの少しでも残っていたら、すぐに逆戻りしてしまいますよ。神を信じるって、そんなにたやすいことじゃありません。信じるってことは物凄く大変なことなんです。美晴さんにとって、塾へ入ったというのはとてもよかったと思います。
一時の感情に駆られて、強い信仰を持つのはたやすいことなんですよ。だれにだってできます。興奮していますから、何を見ても大感激です。でも、それは所詮長続きはしないんです。もし、心が冷めたら、反動で前よりも心が陥ちこんでしまいます。
ですから、美晴さんはまず地道にやるということを主眼にして下さい。反省だって一ぺんにやって、何もかも浄化して洗い流してしまったなんて決して思わないようにして下さい。反省は毎日コツコツやった方がいいんです。決して欲張らないようにして下さい。
一時的な感情の高揚は、その場限りのものだってことを忘れずに。美晴さんはとても辛い思いをして来られた方だし、心がゴリゴリに凝ったコブは簡単にはほどけません。自分で解けたと思っても、それは錯覚です」
「先生には、それが......やっぱりおわかりなんですか?」
美晴は身を慄わせ、手を引っこめようとしたが、郁江ははなさなかった。
「わかります。反省は根気よくやって下さい。その意味でも塾に入ったことはよかったと思います。塾の皆さんが助力してくれますから......反省はインスタント・コーヒーみたいにお手軽には行かないんですよ。もしかしたら一生かかると思って下さい。それだけの意志と根気が絶対に必要です」
「一生......?」
「そう、一生がかりで。でも、だれだって本当はそうなんです。死ぬまでやっても、まだ不足です。そう思うと、今度はうんざりしてしまったりして......」
「そんなことはありませんけど......」
美晴はやや沈んできた。
「あたし、今は神様を信じてると思ってるんですけど、あたしの勘違いなんでしょうか? 生れて初めて、こんな明るい気持になれたと感じたんですけど、やっぱり思い違いなんでしょうか?」
「勘違いじゃありません。美晴さんが本気でそう思っていらっしゃることは、わたしにもよくわかります。でも、その高揚した気分は決して長続きしない、といっているんですよ。ほら、もうぐうっと沈んできたでしょう? 人にちょっといわれただけで、簡単にぐらついてしまうのでは、本物とはいえないはずです。そうじゃないですか?」
「ええ......でも、先生がそうおっしゃられると、やっぱり自信がなくなってしまいます......あたし、やっぱり駄目なんでしょうか?」
「ほら、インスタントの悟りはすぐに消し飛んでしまうでしょう? それを本物にするにはもっと根気よく努力しなければだめですよ。でも、大丈夫。ちゃんと塾へ入れたじゃありませんか。後は辛抱強い努力あるのみです。わたし、思うんですけど、人間は本当の悟りを得るために、わざわざ苦しい環境を選んで地上へ降りることがあると思うんです。でもそれは他ならぬ自分が選んだことなんですよね」
「生れる前に?」
「そう、生れる前にじっくりと検討して自分の意志で決めるんです。自分の魂についてしまった癖、つまりカルマを修正するために、わざわざ苦しい環境を選ぶんです。両親や兄弟、隣り近所の人たち......学校、職場、全部計算の上で選ぶんです。とうてい堪えがたい苦しくて厭な環境と思えても、それは承知で選んだことなんです」
「そんなことが......」
美晴は承服しがたいという態度を示し、強引に己れの手を郁江の掌中から引き抜き、取り戻した。それは美晴の性格のある依怙地さを居合わせた人々に印象づける動作であった。
「そんなこと、とても信じられない......そう思いますか?」
「ええ。やっぱり......」
美晴は言葉少なになっていた。もはや彼女はさいぜんのように幸せそうではなくなっていた。それはまさに、郁江が指摘した通り、美晴の心が陰惨な過去に抜きさしならぬほど深く囚われており、彼女の達成した〝反省〟なるものがその表皮をすら掠めていなかったことを証かすもの、と一同には感じられた。
「今の今まで、美晴さんは明るい心で活きいきとしていましたね。それが急に消え失せてしまったんでしょう?」
「ええ......」
わかりきったことを、という口ぶりであった。それもこれも郁江のせい、という潜めた鬱屈が感じ取れる。
「ごく上っつらの反省だとそういうことになりやすいんですよ。反省は自覚のためにするものなんです。一時的に気分が高揚するのは、決して本物の自覚じゃありません。それを本物にするためには、地道な努力が必要なんです。ほら、ローマは一日にして成らず、ですよ。
じっくりと反省を続けることによって、得た自覚は簡単には消えて失くなったりしません。人にちょっといわれたぐらいで、心が揺れ動かなくなるんです。わかりますか? それでさっきから、反省は簡単には行きませんよ、とくり返していっていたんです。でも、本当にいわれた通りになってしまったでしょう?」
「はい......急に気持が沈んで、日が暮れたように暗くなってしまって......」
「でも、大丈夫ですよ。すぐに明るい気持は取り戻せます。反省とはなかなかむずかしいものなんだな、と気付いたでしょう? 今度は塾で、わたし、徹底的に反省をテーマにした研修をやります。美晴さんには絶好のチャンスじゃありませんか」
「はい。頑張ってみます」
美晴に明るさが戻ってきた。しかし、いかにも危っかしい状態にあることは、だれの目にも否めなかった。
「本当に先生のおっしゃる通りです。反省って大変なんですね......今さっきまで、こんなに幸せな気持になったことはないと思っていたのに、先生にそんなのはだめだといわれたとたんに目の前がすうっと暗くなってしまうんですから。でも、よくわかりました。今度こそ本物の反省になるように、一生懸命やりますから......」
美晴は笑みを浮べたが、さっきまでの快活さには遠く、おどおどした自信のない代物であった。
8
「先生のおっしゃった通りです。自分の心は自分で思うようにならないものなんですね。今のあたし、〝偽我〟さんに鼻面取って思うさま引きまわされたみたいで......自ら望んでこんな自分になったわけじゃないって、物凄く辛い気持になってしまったんです」
美晴は自分が硬ばった反撥的な反応を示したことを悔んでいるのだった。平山圭子は美晴がどうしても許容できない概念を岩根のように抱えこんでいることに気付いていた。この悲惨な人生が己れの意志で選択したものだという考えを、美晴は獣のように逆毛を立てて拒むのである。
人が生れる前から己れの意志により地上の環境を選び取る......その考えはあまりにも斬新すぎて、受容するには抵抗の多い革命的な新概念なのかもしれない、と圭子は考えさせられた。
すでにして幸せな人間はいい、しかし己れの不幸を深刻な重い岩根として己れの裡に据えている人間にとっては、堪えがたい嘲笑に感じられるのかもしれない。それは人の世の不幸を知らぬおめでたい者のたわ言にも等しいのかもしれない......現に平山圭子は美晴からそうした手きびしい拒絶を受けたのだ。
今、美晴は郁江に対しても同じように不信を表明せざるを得なかった。圭子に対した時のように過激な反応でないにしろ、その内心は覆いがたいものがあった。
硬化した古い既成概念でかさぶたのように心を覆っている人間は、革命的と思える宇宙の真理を決して受け容れようとはしないのではないか。そうした者たちは己れの感性と理性の範囲内で辛うじて許容できる真理のみを受け取ろうとする。
己れの角質化した概念に合わせて、真理を取捨選択しようと彼らは試みる。そして彼らのサイズに合わなければ、虚妄として退けようとさえするであろう。
宇宙的真理は全体にして一なるものなのだ。それなのに不信を心に抱いた者たちは、真理をつまみ食いしようとする。己れの身の丈に合わせて真理の衣を継ぎ剝ぎしようと企てるのだ。
平山圭子は自分の思惟に驚いた。まるで自分で考えているようではなかった。このような思考は、どちらかといえば不得手である。やはり女であって圭子の思考は直感的であり、飛躍が大きく非論理的だ。このような論理の骨太さは縁の薄いものであった。
これは東丈の思考スタイルだと思った。圭子自身が考えたのではなく、丈が考えたように感じられる。いつの間にか丈の波動に染まり、自分も丈のように考え始めているのであろうか。
目をあげた圭子は、郁江と視線を合わせた。郁江の心の裡が流れこんできて、彼女と全く同じ感じ方を共有していることを圭子は悟った。
丈のように考えたのは郁江かもしれない、と平山圭子は思った。まるでパイプで結ばれたように郁江の思惟が流入してきたのではないだろうか。
「あたし、塾でやって行けるでしょうか......皆さんのご迷惑になるんじゃないでしょうか? あたし少しも自信がなくて......」
と、美晴がいった。それは危惧の表明であるよりは甘えのように思えた、塾の人々がどれだけ彼女の頼りになってくれるか、推し計ろうとしているのだ。
「ですから、その自信を作るということが大切なんです。自覚がなければ、自信はやっぱり得られませんよね。何よりも自覚が先なんですよ。そのためには反省、努力しかありません。この一瞬一瞬、一秒一秒が反省であり努力なんだ、と東丈先生はおっしゃっています。
わたしが、お手軽に反省はできませんよ、とさっきからちょっときびしくいっているのはそのためなんです。わかりますか? 反省は上っつらだけではだめです。辛くてきびしい努力を必要とするし、もうやぁめた! ということになってしまうかもしれません。そのためにも甘い気持ではできませんよ、と申し上げておくことがどうしても必要だったんです。
本当に反省は簡単なことではありません。間違ったやり方をすると、かえって悪い結果をもたらすかもしれない。自分勝手な、自分を甘やかしたり、逆にいじめつけたりする遣り方ではやらない方がましということになるかもしれない。反省のための正しい基準というものが絶対に必要です。美晴さんはまだそれがよくわかっておられないんじゃないでしょうか?」
郁江は毅然としていった。東丈の波動を強く感じさせる瞳であり、口ぶりであった。
「あたし、やっぱりまだだめですか......?」
「自分がいつも感情的でグラグラ心が揺れ動いているようでは、反省は本物じゃないんです。本物にするためには時間をかけて、じっくりやる覚悟が必要です。美晴さん、反省が短時間でお手軽に出来るという考えは捨てて下さいね。それは絶対に無理です。一生かかってもいい、反省を完璧にやってのけるという気持になって下さい。お風呂に入ったようにさっぱりするのが本当の反省じゃないんですよ。それは一時的なもので、すぐに汚れや垢がついてしまうじゃありませんか......
大切なのは垢や汚れを心につけないということで、一瞬一秒が反省というのはそういう意味なんです」
「あたし、やっぱり無理みたい......」
美晴は力なくいった。一同はしんと静まり返り、揺動をくり返している美晴を、息を潜めるように見守っていた。
「一時はやれる! と本気で心の底から思ったんですけど......先生の今のお話を聞いていると、やっぱり特別の才能を持った、心の浄らかな方でないと、本当に反省なんてできないみたいです。あたしなんか、普通以下の、心がどぶ泥みたいに汚れて腐っているような女だし......本当の反省なんか、とってもできそうもありません」
「できますよ。特別の人間にしかできないなんて、とんでもない話です! どんな人間だって反省はできるし、それは良心という本当の自分を神から与えられているからじゃないですか! それが真の神の慈悲だし、神の前に全ての人間は平等だってことなんですよ、美晴さん! 特別の人間なんて一人だっていやしないんです! わかりますか!?
病気で苦しんだ人間は、病人の気持がよくわかります。でも生れつき健康な人はそれがわからず同情心がなくなってしまう場合が多いんですよ。病気で悩み苦しんだから、それだけ人の心がわかるようになる、つまり心が豊かになったということじゃないでしょうか? 健康で元気でも、思い遣りのない冷たい人は沢山います。苦しみや悩みは自分の心を肥やしてくれるんです。でも、絶望してしまうか、心の肥やしにするかはその人次第です。
苦労して素晴らしい人になる者もいるし、苦労が仇になって心が貧しくいじけてしまう人もいます。当人の心次第なんです。美晴さんは気がついて立ち直ろうとなさっている。これまでの苦労が教えてくれたんじゃないでしょうか?
辛い思いをしなければ、人間は幸せを幸せと感じることができないんです。愛されていることを幸せに感じられない、当り前だと思っていることほど不幸せなことがあるでしょうか。幸せを幸せと思えない人間は、本当に生きているとはいえませんよ!
神に愛され、人々に愛されていることがわからない人間は最大の不幸者です。心が砂漠のように乾ききっていて、注がれる愛は全て砂地にしみこんで消えていってしまいます。愛してほしい! もっともっと愛してほしい! 愛を貪ろうとすると、人間の心は不毛の砂漠です。感謝のない心は砂漠なんです。一木一草も生えません。愛を求め、愛を貪ろうとすればするほど、荒涼となってしまうんです!
でも、美晴さんは愛の素晴らしさを知っているじゃありませんか! 苦しみを味わい尽してきたからこそ、幸せで満たされた心の素晴らしさ、真の値打がわかる......そうでしょう!
さんざん拒まれてきたからこそ、両手を広げて迎え入れてくれる人々がどんなにありがたいかわかるんです。苦労しただけのことはあったはずですよ。
でもね、美晴さん、神の愛、人々の愛が当り前になってしまったら、幸せが当然のものになってしまったら、心は安らぎを失い、どんどん苦しくなって行きますよ。その時はもう心に感謝はないんです。もっともっと自分を甘えさせてほしい、愛してほしいと望む心は貪りなんです。いくら愛を食っても食っても決して満たされないんです。きっと前よりも苦しく辛くなってしまうでしょう。
皆が手を広げて迎え入れてくれているのに、自ら手をほどき、暗闇の中へ立ち去ってしまうんです。冷たい孤独しかないとわかっている闇へ向って、光に背を向けて入って行ってしまうんです。愛を貪る心の中には闇が忍びこんでくるからです......
美晴さんはもう初めの気持を忘れかけていますよ。ここへ来た時、最初美晴さんは皆に拒まれるのではないか、相手にしてもらえないんじゃないか、と不安と期待でいっぱいだったはずです。そうでしょう? わたしにはちゃんとわかっていたんですよ!」
郁江の瞳の輝きを受け止められずに、美晴はうつむいていた。圭子は心臓を締めつけられるように感じていた。微動もしないが、田崎もおそらくそうなのだろうと思った。真剣勝負の緊迫感が立ちこめていた。気の弱い伴野静子など蒼ざめて居ても立ってもいられぬという気ぶりを示していた。
「反省をしてみて、生れて初めてというような最高の感動と喜びを味わった......でも、それはもう美晴さんの心の裡にはありません。やっぱりだめだったという苦々しい失望と挫折感、孤独感しかないんです。でも、どうしてそうなってしまったと思いますか?
初心を忘れたからですよ。もっともっと愛してほしい可愛がってほしい、甘えさせてほしいという貪りに心を占領されてしまったからなんです。違いますか? 美晴さんは昔から、他人に本当に愛してほしいという激しい願いを心に持っていたんです。それが満たされた時、夢中になってしまったんですよ。
だから、わたしが甘えは許さないと厳しい姿勢を示した時、かちん! と強い抵抗を感じてしまったんです。自分の味わってきた苦しみや悲しみがわかるものか、と嚇っとなってしまったんです。幸せな家庭にぬくぬくと乳母日傘で育ったこんな小娘に地獄を味わった自分の辛さがわかって堪るものか! 美晴さんはそう思ったでしょう? この苦しみ悲しみは自分だけのものだ、他人にはわからないんだ......美晴さんはその固い拒否の殻を穿山甲という動物みたいにまとってきたんです。違いますか?」
「こんな小娘に、なんて思いませんでした」
と、美晴はおずおずといった。心中を見透かされた者の衝撃を体に滲ませていた。
「そんな失礼なことは......」
「いいんです。わたしはまだほんの子供といってもいいような年だし、本当に小娘なんですから」
郁江は笑っていった。
「でも、美晴さんの苦しみがわたしにはわからないから、気軽にものをいってくれる......そう思ったでしょう? 世の中はそんなお説教が通用するなら、苦労は要らない......美晴さんはそう思ったはずですよ。そうでしょう?」
「どうして、そんなことが先生にはおわかりなんですか?」
美晴は恐怖の色を目に浮かべていた。
「先生にはあたしの考えることがみんなわかってしまうのですか!?」
「それくらいお見通しですよ。美晴さんが心の中でいっていることが、わたしの心の耳に聞こえてくるんです。自分の味わった地獄の苦しみがだれにわかるものかって......そうでしょう?」
「はい......申しわけありません......」
「あやまることはないんですよ。でも、美晴さんはいつもそうやって心を閉してしまって、他人が差し伸べる手を拒絶してしまうことが多いみたい。怖いんでしょう?」
「はい。怖いんです......」
「それは他人に拒否されるのが恐いからですよ。拒絶される苦しみを味わいたくないから、その前に自分の殻の中に穿山甲みたいに閉じこもってしまうんです。違いますか?」
「違いません......」
「美晴さんは昔から優しく甘えさせてくれる人を必死で求めてきたんです。何もきびしいこと、意地悪なことをいわず、自分を責めたりせず優しく受け容れてくれる相手を、心の底から求めて、捜してきたんです。本当に愛してくれる人を夢中で希い求めてきた。
愛されたいというのが、幼いころからの美晴さんの最大の願いだったんです。それは美晴さんの家庭やその他の環境がそうではなかったから......
でも、美晴さんは自分から人を愛することはしないで、愛されることばかり求めてきたんですよ。
美晴さんにとって、愛されることとは、無条件で受け容れてもらい、チヤホヤされ、どんな我儘も聞いてもらえる、そういうことでしかなかったんです。自分はそんな形では決して人を愛さないのに、自分だけそうしてもらうことを求めた。美晴さんは、真の愛というものがわからず、間違えたまま求め続けてきたんですよ。
だから、相手が少しでもきびしい態度を取ると、自分は愛されていない、拒絶されたと信じてしまうんです。でも、真の愛は人をチヤホヤしたり甘やかしたりすることと全然違うんですよ。わたしはちょっときびしいことをいいましたけど、それは美晴さんが自分の甘えに気付かない限り、結局人を拒否したまま、自ら立ち去ってしまうことがわかっていたからです。
やっぱりだめだった......苦々しい心で立ち去る美晴さんの姿が目に見えてしまったんです。愛されたい、可愛がってほしい、もっとチヤホヤし甘えさせてほしい、という欲望には限度がないんです。砂漠の砂といっしょで無限に愛を吸いこんで、乾ききったまま潤いを知らないままです。愛を無限に消費してしまいます。欲望は足ることを知らないんです。いくら愛されていても、それが当り前になり、何の喜びも感謝も覚えない。もっともっとチヤホヤしてくれ、甘えさせてくれ、と要求し、とめどもなく烈しく横暴に、我儘になっていってしまいます。
なぜそうなってしまうんですか? 欲望がどんなものか知らないからなんです! 欲望には限度がありません。金がほしいという人間はもうこれでいい、これ以上の金は要らないという限度がないんです。女を次々に漁る色欲の虜になった男は、もう女に飽きたとは決していいません。漁れば漁るほど新しい女がほしくなります。欲望の奴隷はみんなそうです。足ることを知らない欲望にとり憑かれてあくせくと追い使われることになってしまうんですよ!
喉が乾いて、渇きを鎮めようと水を飲めば飲むほど渇きが激しくなる地獄といっしょです。全て欲望とは同じ性質を持っているんです。
なぜ感謝がなくなってしまうんですか? したくてもできなくなってしまう。それは愛を消費するばかりで、愛を生産していないからです。初めは感謝しても、すぐに忘れてしまうからです。慣れてしまって当り前になり、有難味も感激も何もなくなってしまうからなんです。
感謝しっ放しで、報恩する、恩にむくいるという行動がないからなんですよ! 愛が生産されないんです! 有難い、嬉しいと思ったら、なぜ他人に同じものを与えてあげないんですか?
そこで愛がストップしてしまうんです。愛は生産すればするほどどんどん増えてくる。愛は人々の間に循環し、ますます増加し、大きくなって行きます。だけど、愛の消費者になったら、それは行き止りです。心の砂漠はどんどん拡大して行きます。
わかりますか? 愛とは人を甘やかし、チヤホヤすることじゃないんです! 愛とは優しくて同時に厳しいものなんです。暖い愛で人を包むというのは、決して我儘を通してやったりつけ上ってくる相手を許してやるということじゃないんです。
美晴さんも子供がいるでしょう? 子供が可哀そうだ、不憫だといって、なんでもいいなりになっていたら、子供は増長するんじゃないですか? 母親が子供のほしいものを買ってあげても、こんなものは要らない! と投げ返してよこすようになるんじゃないですか?」
「............」
美晴は雷に打たれたように体を固くこわばらせ、身じろぎもしなかった。顔が白っぽく血の気が失せてきている。
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「甘やかされて、つけ上り、自分の我儘を押し通そうとする子供は、愛の消費者そのものの姿なんですよ。そうした子供の心は砂漠化していきます。感謝も喜びもなく、人への思い遣りもない乾ききった砂漠です。激しい癇癪と我儘の砂嵐があるだけです。愛ってそんなものじゃないはずですよ! 人を愛そうとして、一木一草の緑もない荒廃した砂地に人の心を変えてしまうなんて、そんなものは愛じゃありません。
人を甘やかすというのは、自分がよく思われたいという心の顕われなんです。いい人だと思われたい、悪く思われたくない。結局、他人にチヤホヤしてもらいたいという欲望と同じじゃありませんか!? ね、根は結局同じなんですよ。そうでしょう?
自分をだめにし、人をだめにするのは、甘えと甘やかしが循環しているからなんです。それは人と人との間をどんどん破壊し、砂漠化して行ってしまう呪いですよ! 人と人の間を結ぶ絆を断ち切ってしまうんです。
とめどもなく我儘になり横暴になった子供は自分で自分をだめにしてしまうんです。そして、自分をだめにしたのは母親だときめつけて恨むでしょう。悪いのは全部他人であり、自分じゃないんです。責任を取るのは常に他人であって、自分ではないんです。甘えの行きつく果ては、破滅しかないんですよ。
でも、悪いのはもちろん子供ばかりじゃありません。──なぜあの時、もっとぴしゃりとやってくれなかったのか!? と子供は母親を責めるでしょう。もっときびしくいってくれれば目が覚めたのに! こんなことにはならなかったのに!
子供にそういわれて、母親は何といって答えればいいんでしょうか? 答えようがないはずです。これは親子の関係だけじゃなくて、全ての人間関係にいえることなんですよ。愛することと人を甘やかすことは全く違います。
わたしたちが、東丈先生を中心に集まっているのは、人々が真の己れ自身に気付くようにお手伝いするためなんです。人が沢山集まって親しくなり、仲よく和気あいあいでやるのが目的じゃないんです。
真の自分自身とは、魂の自分です。かしこくて素晴らしい愛に満ちた本来の自分を発見し、取戻すことなんです。わたしがいっている自覚とはつまり、欲望に捉われ、欲望の奴隷になり易い肉体を持った弱い自分は本当の己れ自身ではない、とはっきり気付くことなんです。本来の自分、光りあふれ愛にあふれた強い魂の自分を発見することが自覚の本当の意味なんです。
わたしたちはそのために会や塾を作っているんです。肉の自分は欲望に溺れ易い弱い存在であるかもしれない。けれども、本当の魂の自分はそうではありません。強い魂の自分に立ち返るために、わたしたちは励ましあってやって行こうとしているんです。全ての人々がみな、本当の自分を発見できるように、わたしたちはお手伝いしようとしているんですよ。それが東丈先生のお考えであって、人を愛するというのは、人を活かすことです。人を生かすというのは、人の魂が本来持っている役割を自ら発見することに協力することです。
人の魂があかあかと本来の輝きを回復するのを見ることがわたしたちの目的であり、喜びなんです。
人間はみな、己れの定めた目的地に向けて旅をしている......と先生はおっしゃいました。自ら歩くことを覚えようとしない子供たちを甘やかし、背中におぶり、胸に抱きかかえて運んでやることが我々の使命ではない、と。
子供たちは自分の足で立ち、自らを健やかに鍛えあげ、歩まなければならない。目的地には決して他力で辿りつくことはできない。あくまでも自力でやるしかない......そう人々に自覚させるのが我々の使命なんだ、と先生はおっしゃいました」
どうして郁江はこんなことがさりげなく、少しも力まずにいえるのだろう......平山圭子は半ば痺れたような心地で聞いていた。本当に丈が郁江の裡に宿っているようだ。自分にはとてもこれだけの素晴らしい説得力は発揮できないと思った。
田崎宏も驚嘆の表情で、一言も口をさしはさまず聞いている。圭子自身と同じように、郁江の裡に丈を発見しているからに違いない。
「美晴さんが、塾に入るのは自信がないとおっしゃるのは当り前のことなんです。でも、その自信とは何かということですよね。自信がないというよりも、決心が、やる気が不足しているということではないでしょうか?
自信とは、自分が人々を愛し、人々から愛されているという自信のことなんですよ。愛されることだけを求めているとしたら、どうして自信が持てるでしょうか......
わたし、ちょっときびしいいい方をしましたけれど、それはこのまま美晴さんが塾に入っても、必ず引っ掛ってしまう問題だからなんです。そのことに気付かないと、自分から塾をはなれて行くことになるとわたしにはわかっているんです。
やっぱり駄目だった、と塾を去って行く美晴さんの姿が今、目に見えてしまったんですよ。美晴さんが早く気付かない限り、必ずそうなってしまうんです。自分で自分を塾から追い出してしまうことになります。
みんなが美晴さんを大切な仲間だと思い、塾に留まってほしいと心から願っているのに、心を閉している美晴さんにはそう思えないんです。そんなのは口先だけだ、と思います。みんなは自分がいない方がいいんだ、早く出て行けばいいと思っているんだ......そんな絶望的な気持で、心がいっぱいになり、自分から背を向けて逃げるように去って行ってしまうんです。
どうしてそんなことになってしまうんでしょうか? みんなが両手を広げ、輪の中にお入りなさいと招いているのに、背を向けてしまいます。だれも追い出したりはしないのに、どんどん依怙地な気持になり、自分を追い詰めてしまいます。
それは、美晴さんがすでに愛されていることに気付かないからなんですよ! 美晴さんは神に愛され、人々に愛されて、今ここに存在しているんです! なぜ美晴さんは今、ここにいらっしゃるんですか!?
ここ以外の場所にいたっていいはずです。でも、美晴さんはみんなに迎えられて、ここにいらっしゃる。ここにいるみんなは両手を広げて美晴さんを歓迎しているんですよ! そうでしょう、皆さん!」
田崎、圭子、伴野静子は同時に同意の声をあげた。
「美晴さんが来て下さったことを嬉しく思っています」
と、圭子がいった。
「美晴さんに教えて頂きたいことが沢山あります、人生の先輩として......どうぞよろしくお願いします」
「わたくしも......」
と、伴野静子がごくりと固唾を飲んでからいった。
「素晴らしいお友達が来て下さることほど最高の喜びはないと思うんです......」
「みんなお前を歓迎しているんだよ、美晴。わかるだろう? 口先だけで適当なことをいってるんじゃない。この人たちに限って、口と腹がバラバラだということは決してない。あるがままのお前を迎え入れてくれているんだ。表面的なお前だけでなく、魂のお前までをよく見ているんだよ。
郁江はきびしい口をきくが、腹の中はさっぱりしている。人を甘やかしたりはしないが、これでけっこう慈愛深いんだ。お前が後になってから悩まないように、今のうちに切開手術をして膿を出してしまおうとしているんだな。きついことをいうと思うだろうが、それはお前のために先を読んでいるんだ......
なあ、医者は病人を甘やかしたりせず、病人にとって最善の方法を取るだろう? 大急ぎで手術をすべき時に、患者の我儘を聞いてぐずぐずしていたら、手遅れになって患者は死んでしまう。郁江はそれと同じだ。東丈先生と同様人間の魂の医師なんだ。きびしいこともいうお医者さんだが、俺は信頼してる。なかなかの名医だと思うよ。ぴしゃっと思いきったことをいうので、時にはたじたじとするけど、後になれば、それでよかったと必ず思う。俺が保証する......」
田崎は大目玉を輝かせ、熱心にいった。美晴はうなだれ、無言で聞いていた。体の線は固く、ほぐれないままであった。
「美晴さんはすでにして、愛されているんです。それに気付いて下さい。さっき、美晴さんは世界が展け、虹に包まれるのを感じて泣いたじゃないですか? わたし、ステージの上からちゃんと見ていたんですよ。ここへ来てよかった! 美晴さんは心からそう思ったじゃありませんか。集まっているみんなが、懐しく慕わしい人々に思えたでしょう!
こんな素晴らしい世界があるなんて、今まで知らなかった! 美晴さんはそう心の中で叫んだでしょう? わたし、それを聞いていたんですよ。
でも、今は美晴さんはそこから背を向けて立ち去ろうとしている......やっぱり自分のいるべき世界じゃないって思いながら。みんなが差しのべている手を振り払って、行ってしまおうとしている」
「いいえ! そうじゃありません! そうじゃないんです!」
美晴は頭を左右に打ち振り、口走った。苦悶のひびきを帯びた声音であった。
「あたしは、みなさんといっしょにやって行きたいんです! でも、あたしにはそんな資格がないという気がして......」
「お子さんのことが心配なんでしょう?」
と、郁江が尋ねる。美晴は口をあけたまま、郁江を呆然と見返した。
「わかりますよ、それは。でも、お子さんのことは、美晴さん次第だと思うんです。今に必ず心を開くようになります。美晴さんの心がお子さんの心に反映しているんですよ。ですから、美晴さんの心の状態が変れば、お子さんの心もそれにつれて変ってきますから。それは間違いありません」
「自閉症なんです......」
美晴は頭を左右に振りながら、押し出すように呟いた。
「一言も口をききません。ほうっておけば、自分から何もしないんです......新興宗教の人からいろいろいわれました。先祖供養をしないから罰が当ったんだとか、水子の祟りだとか......本当にそうなんでしょうか?」
「............」
郁江は伏し目になり、じっと考えていた。それは常人には聞こえぬ声に耳を傾けているという神秘感を漂わせていた。東丈がしばしば見せるポーズであることを知っている平山圭子は口中が乾いてきた。
10
東丈と郁江には明らかに不思議な心のつながりがある。その通路を通って、丈が郁江に乗り移ってきているかのようだ。丈が現在どこにいようと、郁江は丈を呼び出し、霊媒のように丈の意識を招き入れることが可能なのではないだろうか。
しばしば郁江が東丈の波動を放っているのはそのためなのかもしれない......
「そんなたわごとを気にする必要は少しもありません」
と、郁江がきっぱりといった。
「その新興宗教の人たちには、本当のことが少しもわかっていないんです。子供の心は鏡のように美晴さんの心を反映しています。美晴さんの心を閉ざした状態がそっくり子供の心に映っています。外部からやってくる苦しみを避けたい、苦しみや悲しみを逃れたい、その美晴さんの一念が、子供の心に現われてきているんです。
相手に拒否されるのが恐ろしい、攻撃され迫害されるのが怖い......だから自分から相手を避けて閉じこもってしまうんです。ご自分の心を振り返ってごらんなさい。さっきわたしが少しきびしいことをいったら、美晴さんは石のように硬ばってしまったでしょう? やっぱり駄目だ、駄目なんだ、だれもあたしの気持はわかってくれない! 絶望的な悲鳴のような心の声がわたしには聞こえました。
その美晴さんの心の状態が、そっくり子供に映し出されているんです。口もきかず、何もしないで石みたいになっている子供の心が、今の美晴さんにはよくわかるはずです。そうじゃないですか?」
「そうですか......そうだったんですか」
蒼白くなっていた美晴の顔にゆっくり生色が戻ってきた。感動を抑えきれなくなったようだった。
「じゃ、子供は治るでしょうか?」
「それは美晴さん次第です。まず自分の〝偽我〟を克服することじゃないですか? さっきからだいぶ〝偽我さん〟に振り廻されていましたね? もうすっかり〝偽我〟のことなんか忘れていたでしょう?」
「はい......」
「やっぱり付焼刃では役に立たないと思いませんか? 反省はインスタント・ラーメンみたいに三分間では出来ません。ちょっと感情的になり心が揺れると、付焼刃の反省なんかどこかへ吹っ飛んでしまいますよ」
郁江は微笑した。美晴はすがるような目を上げて郁江を見ていた。反撥が消え失せてしまったようであった。
「反省を徹底的にやれば、子供は治りますでしょうか?」
美晴はすがるようにいった。
「反省は、本来の自分、魂の自分を回復するためのものです。慈愛深い、神の光に溢れた魂の自分に立ち返ることが自覚で、それが反省の目的です。きっと塾で田崎さんたちがお手伝いしてくれますよ。子供にとってもいいことだと思います。安心して励んで下さい......」
「ありがとうございます。すうっと胸の中が楽になりました。これまでゴリゴリになった凝りがあって、どうしても消えなかったんです......子供のこと、先生にいわれて、本当にはっとしました。やっぱり先生は何もかもおわかりになってしまうんですね。先生は本当に生神様です......」
「とんでもない! わたしは生神様なんかじゃありませんよ。とんでもないことをおっしゃらないで下さい」
郁江はあわてていった。ごく自然に、美晴は胸の前で両掌を合わせていたのである。
「わたしたちはみんな同じ魂の仲間なんです。大いなる神の前に立てば、だれもみな平等な魂たちなんです。巨大な宇宙の光であられる神から分れた光たちが、わたしたちなんですよ。本は一つ、同根なんです。だからこそ、わたしには美晴さんの心の動きが我がことのようにわかります。
わたしたちは同根で、大いなる神から分れた魂ですから、お互いに理解しあえるんですよ。美晴さんの苦しみ、悲しみは美晴さんだけのもので、美晴さんにしかわからない......決してそんなことはないんです。だれもが美晴さんの悲しみ苦しみを我がことのように理解する能力を持っています。
人間はだれでも煩悩を持つんです。他人事というものはないんだ、と東丈先生はおっしゃいました。美晴さんの苦しみは全ての人間にとっての苦しみなんです。そんな馬鹿な、と思いますか? でも、美晴さんが血の涙を流して悲しんでいる時、神様も悲しんでおられるんですよ。
美晴さんは気付いていなくても、美晴さんの魂の親友たちは沢山います。魂の親友たちはいつも美晴さんを見守っています。美晴さんが悲しむ時は、もっともっとその人々は悲しむんですよ。美晴さんがこの地上に肉を持つために降り立った時から、親友たちは決して目を放すことなく、見守ってきたんです。
だから、この世に本当に孤独な人間なんて、ただの一人もいないんです。いつも愛され、見守られているんです。魂の親友たちからすると、美晴さんは代表選手です。いつだって、頑張って! くじけないで! と一生懸命応援して祈っています。美晴さんにはわからなくなっているけど、美晴さんはそうした人々の想いに包まれているんですよ。
わたしたちは皆、同じ立場にあるんです。神の意志をこの地上世界に具現するために、この地上に自らの意志で、代表選手として送られて降り立ってきたんです。美晴さんもわたしも、ここにおいでの田崎さん、圭子ちゃん、静子さんも皆同じです! お互いを想いあい、生かしあうために、今ここに存在しているんです。
今、この部屋でみんなの心が結びあい、お互いを生かしあう愛の磁場が生まれているとしたら、わたしたちは、それをもっともっと更に大きく、愛の磁場を広げて行かなければならないんです。それが目的で、わたしたちは地上世界に降り立った......その魂の目的を悟ることが自覚です。神様を信じたらお金もうけが出来る、出世できる、病気が治る、そんなのは全然違うんです。神様を信じてお願いすれば幸せになる、だから神様を信じなさい、お布施やお賽銭を沢山あげなさい、神様を信じなければ罰が当る、供養しなければ先祖の祟りがある......そんなの間違ってます!
わたしたちは地上世界に出る前はみんな本当のことをよく知っていたんです。それは神の意志を具現化すること以外にありません。神から分れた光である魂たちは、〝光のネットワーク〟を高次元世界で作っています。魂と魂とで緊密に、しっかりと結び合っているんです。
その〝光のネットワーク〟を、この地上世界に作り上げるのが、わたしたちが降り立った目的なんです。それが、昔から沢山の人々が必死に求めてきた、ユートピア、神の王国、エルドラドなんです!
人々がいくら一生懸命に捜し求めても、ユートピアはこの地上には見つけだすことができなかった。それもそのはずです、人々が互いに許し合い、ささげ合い、尽し合う......地上天国は人々の心の中にしかなかった。それを今から、この地球上にわたしたちは作り上げようとしているんです。〝光のネットワーク〟をどんどん広げて行くことによって、〝神の王国〟は誕生して行きます。
わたしたちは、肉体を持つ前、高次元世界で持っていた幸せを、この地上世界に植えつけ、培って行くのが使命なんです。
決して自分だけ幸せになるために出てきたんじゃありません。怪しげな神様、金を沢山持ってくればご利益をやるなんていう悪霊の化けた神様仏様と取引して、自分だけ幸せになろうなんて大間違いです。
わたしたちは高次元世界において、最高に幸せだったんです! 幸せになることだけが人生の目的であるならば、何もわざわざ地上世界に出てくる必要なんかなかったはずです!
物欲を満たし、我欲、我執にこり固まって自分だけ幸せになりたい、他人を押しのけ、足を引っ張っても幸せになりたい、そんなガツガツした思いで欲望の奴隷になっている人たちに対して、本当のことを気付かせるのが、わたしたちの使命なんですよ!
わたしたちはすでに神に愛され、人に愛されて幸せなんです。ただ、それに気付けばいい......本当に心の底から気付いた時、最高の幸せはわたしたちのものになります。
人間はいくら物質的に恵まれていて、自分の我儘を押し通せる立場、環境にあっても、幸せに気付かなければ、心満たされず、寂しく不安で苛々しているんです。このわたしがそうでした!
物質をいくら搔き集めたって無駄です! 自分だけ幸せになろうとあがく人間は、全く逆になってしまうんです! 他人の幸せなしに、自分は幸せになれないんだ、とはっきり気付いた時、世界はがらりと変わります。
ねえ、美晴さん。あなたは幸せになりたくて一生懸命生きてきましたね? でも、心を閉じてしまって、他人を拒否している時は、心の安らぎが少しもなかったでしょう?
幸せって、心の安らぎのことなんですよ! ここへ来て、みんなが親しく素晴らしい仲間だと実感することができたら、美晴さんは本当の幸せに触れることができたんですよ」
「ありがとうございます。本当にそうだったんです。先生の今おっしゃた通りだったんです。みなさん素晴らしい方ばかりです。だから、あたしみたいな汚れた女が仲間に入れていただく資格はないように思えて......」
「そんなことは絶対にありません。だれだって人間は魂が美しく燃えていることには変りないんですから。それが神と同根ということなんです。外側の汚れは落せばいいんだし、必ず落ちます。自信を持って下さい。魂の友人たちがついているんですよ。あなたを想ってくれている方々のためにも、頑張らなくちゃ! ね、そう思うでしょう?」
「はい......なんだか元気が出てきました。体がフワッと浮き上った気持がします。あたし......子供のためにも一生懸命、頑張らなきゃならないんですものね」
美晴は初めて決意を眉宇に見せていった。
「あたし一人じゃないんですから......そう思ったら力が湧いてきました」
「そうだ、俺たち塾の男どもみんなで、父親になってやる」
と、田崎が高揚した力のこもった声でいい切った。
「心配するな。子供はきっと治る。お前が幸せになれば、子供の自閉症なんてどこかへ吹っ飛んじまう。子供はお前の〝幸せ度〟のバロメーターなんだ。きっと治る、自分の一念で治してみせると信じろ。力を貸してくれる本当の仲間が沢山いるんだ」
「田崎さんもなかなかの名言を吐くわね」
と、郁江がいった。
「〝幸せ度〟なんていいじゃない? 〝自覚指数〟とか......今日のあなたの心の〝幸せ度〟は八五とか、数字が出てくると面白いわね。一目で心の状態がわかってしまうもの。美晴さん、あなたの今の〝幸せ度〟はどれくらいだとご自分で思いますか?」
「そうですね......このセミナーに来る前を二〇とすると、七〇ぐらいでしょうか?」
美晴は顔を赤らめながら、おずおずといった。
「それは急激な大アップですね。今にもっともっと上りますよ。自分で努力するだけ上昇するんです。他人の仕業によって左右されないのが〝幸せ度〟なんです。つまり、自分の心をどれだけ明るくし、澄ませるかという自らの努力にかかっているんですから......他人にどうこうされたから、こんな仕打ちを受けたから、そんな受身の立場じゃないんです。〝自覚指数〟を上げることにより、〝幸せ度〟はいくらでも上げることができる。
よし、今日から他人の仕打ちによって心を揺れ動かしたり、心を濁したりしないぞって決心して下さい。自覚が進めば、自然にそうなってきますけどね。大丈夫です。塾で頑張って下さい。そんな美晴さんの努力を見て、他の人たちも励まされるんですよ。人間関係って、どんな場合でもどちらかが一方的に与えられたり受け取ったりするばかりってことはないんですよ。お互いに影響されあうんです。いい影響を互いに与えあえば、素晴らしい人間関係が生じて、〝幸せ度〟はどんどん上がって行きます。それが逆になったら、とても不幸な人間関係になって、悪化する一途になってしまうんですけどね......
それは一人一人の自覚が問題になります。〝光のネットワーク〟って、一人の放つ光が他の人たちの光を増し、互いに光を増やし合うことだとわたしは思うんです。ですから、美晴さんも魂の放つ光をうんと光り輝やかせて下さい。そうやって光はどんどん増えて行き、いつかは地球全体を〝光のネットワーク〟ですっぽりと覆って行こう......それが東丈先生の願っていられることなんです。
そんなことができるものか! と嘲り、冷笑する人々は多いはずです。世間知らずだから、そんな夢みたいなことを考えるんだ、世界はそんなに甘いものじゃない、甘ったるい理想主義もいい加減にしろ! きっと心の硬い皮肉な人々、虚無的な人々、悪意で心が満たされた人々はそういって嘲笑するに違いないんです。
でも、そうじゃないんだってことを、わたしたちはそういう人々に対しても示して行かなければならない。わたしたちの掲げる理想は、根も葉もない空想的な理想主義じゃないってことを、はっきりと示さなければならないんです。〝宇宙的真実〟を明確にし、〝光のネットワーク〟とは何なのか、人々が目覚め、自覚して、人生の目的と使命をはっきりと知るように、わたしたちは〝宇宙の法〟を掲げて行かなければならないんです。
妨害は無数に加えられます。幻魔によって操られ、動かされる心ない人々が攻撃を仕掛けてくるでしょう。悪意と憎悪で心がねじ曲ってしまった人々です。幻魔の怨みや憎しみの凝り固まった磁場で生れ育って、生きてくれば、そうなってしまう人は沢山います。
でも、そういう幻魔の暗黒波動に犯された人々でも、心が光に向く機会さえあれば、気がつくかもしれないんです。自覚のチャンスに恵まれれば、心がはっと迷いからさめるかもしれないんです。わたしたちはそれをやろうとしているんですよ......」
「わかります! あたし、自分がそうでしたから!」
美晴は叫ぶようにいった。ぽっちゃりした手を胸の双つの隆起の間に当てがっている。感動した時の癖なのであろう。
「あたし、心が真暗で、〝幸せ度〟なんかゼロかそれ以下、本当にマイナスだったんです。心が満たされ、明るくなることなんか、どっちを向いたって見えやしないんです! お金がほしい......いつもそう思ってました。お金さえあれば、こんな惨めな境遇から脱け出せるのに、と思っていたんです。だれかいい〝鴨〟がいたら騙してやろうと虎視眈々としていました。この声さえなんとかなっていたら、絶対にそうしていたと思います。でも、あまり声がひどいので、なんとなく警戒されるようなことになってしまって......この声さえなんとかなれば! いつもそう思っていました。お金持の男の人をうまく騙して絞りとってやれるのに......しばらく前までは本気でそう思って機会を窺い続けてきたんです。
でも、田崎さんにお逢いして、急にそんな決心が揺らぎ始めてしまったんです。やっぱり心が光に気付いたってことなんでしょうか......? ああ、いい人だな、素晴らしい男性だな、こんな光り輝いている男の人が、まだこの世にはいたんだな! 昔、自分が夢見たりひそかに憧れていた、理想の男性がひょっこり目の前に出現した......そんな感じでした。昔の純な心だった自分が、不意に甦ってきてしまったんです。
このあたしがそうだったんですから、〝光のネットワーク〟に触れることができれば、心が暗闇に犯されている人たちでも、はっとなって気が付くんじゃないでしょうか? 絶対にそうなると思うんです! 光を見た時、人間は心の闇に気付くんではないでしょうか......?」
美晴はまるで熱にうかされでもしたように、息もつがず、懸命に喋り続けた。それには田崎宏への想いが情熱の流露と化しており、平山圭子を不安定な心地に押しやらずにおかなかった。
「その時まで、あたし心を幻魔にやられていたと思います。幻魔の怨みや憎しみで、心がドロドロに汚れてしまっていたんです。とても人に見せられるようなものじゃありませんでした。ドブ泥よりも真黒に腐って、物凄く臭い匂いをさせていたと思います。今だってそんなにきれいになっていないかもしれませんけど......そういう幻魔に心をやられている人間って物凄く多いんじゃないでしょうか?
あたしは田崎さんに初めてお逢いした時、ああ、どこかで逢った人だな、と思うと同時に、何ともいいようのないほど懐しい気持がしてきてしまったんです。いつもお金のことや厭らしい不潔なことばかり考えて念を凝らしている自分じゃなくて、子供の頃の自分に戻ったような気がしました。
懐しくて悩ましいような、胸がときめくような、自分が生れ育った田舎の故郷に戻ったような......あたしは東京生れなので、田舎の故郷なんか全然ないんですけど、泪が出るくらい懐しい、ふるさとっていう気持になってしまったんです。我ながら変ないい方だって思いますけど......
田崎さんを見ると、いつでも心の故郷っていう気持が湧いてしまうんです。いつも幸せで人々は優しくて、あたしの実際の両親とは全然違う、素晴らしい両親がいて......空が青くて、風が光っていて......胸がぎゅっと詰まってしまうんです。あたし、一晩中泣いていました。これで苦しみから救われたって本気で思ったからです。
こんな都会の薄汚いジメジメした空気の悪い所を捨てて、風の光っている故郷へ帰るんだ......素晴らしい人たちが、両手を広げて待っていてくれる......」
「わかります」
と、郁江がいった。
「それは美晴さんだけじゃなく、ここにいるみんなが味わった気持なんです。わたしたちは地上に肉体を持つ前、みんなそういう素晴らしい世界にいたんです。本当の故郷です。魂のふるさとなんです。わたしたちはみんなの自覚を得て、この地上世界に魂の第二の故郷を建設するのが使命なんです。
今は、思っただけで泪の出るほど素晴らしい世界は、わたしたちの心の中にしかないけど、最初は会や塾の内部から実現させて行くんです。今、この場がわたしたちの心が結び合って光の世界、小さなユートピアを作っている......そうしたら、次はその光の世界を広げて行かねばならないんです。わたしたちにはユートピアという理想境建設の目的と使命があります。今は美晴さんも、建設者の一員になったんです。自覚とは、その責任に目覚めることでもあるんですよ......」
「でも、幻魔がいつも狙っているんでしょう? あたしなんかずっと悪い汚れた心でいて、よこしまな欲望ばかり燃やして、幻魔の奴隷になっていましたから、幻魔はまたあたしを取り戻しに来るんじゃないでしょうか? いくら逃げようとしたって、絶対に俺から逃げられやしないんだってげらげら笑いながら、やって来るような気がするんです。
あたしみたいな幻魔の奴隷だった女は、すぐに逆戻りする......そんなことになりはしないでしょうか? さっきもあたし、心がまた真暗になってしまった時、やっぱり駄目なんだなあと思いました。一度心が汚れてしまって臭い匂いがしみついたら、もう二度と白い布みたいな心には戻らないんじゃないかって......幻魔がもし奴隷のあたしを取り戻しに来たら、やっぱり逆らえずにみなさんにご迷惑をおかけするんじゃないかって......」
美晴の語調はすがりつこうとしているようであった。
「まるで刑務所を出たヤクザが昔の女の所へやって来るみたいですね」
と、郁江が軽い調子でいった。
「でも、もう自分の所へ女が戻らないと知ればヤクザも帰って行きますよ。もう昔とは違う女になっていればね......魂は自ら光り輝くもので、白い布とは違います。汚れや臭いがしみついたりはしないんです。太陽をどうやって汚せますか? 心の汚れって、スモッグと同じで、太陽の光をさえぎりますけど、太陽自体は決して汚されたりせず、素晴らしく光り輝いているんですよ。地上では大雨が降ったり嵐が吹いたり、天変地異が起こるかもしれないけど、太陽の輝きは本来、そんな地上のことに影響されることは決してないんです......」
「〝偽我〟ってスモッグなんですか? 魂が太陽だったら、スモッグを自分で作らないようにすればいいんですか?」
「その通りです。スモッグを作りだすのは人間ですよね。だから、人間が自覚してスモッグを作らないようにすれば、大気は澄みわたってきます。スモッグの原因と結果を作っているのは他ならぬ人間なんですよ。美晴さんがいつも心をきちんとさせて、思うことと行なうことを、怨みや怒りや嫉みから遠ざけていれば、スモッグはきれいになくなって心は晴れわたってきます。
結局、心を汚していたのは自分自身なんですよね。だれそれが悪い、こんなことになったのは他人のせいだ、自分のせいじゃない! いつもそう思っていたって、心のスモッグは増えて行くばかりです。それで苦しむのは他人ではなくて自分じゃないですか! 心をきれいにお掃除したら、もう二度と汚さないようにしなきゃ。いつだって晴ればれした気持で生きて行きたいですよね。
美晴さんがそうなったら、もう昔なじみのヤクザがやってきても、手を出せずにスゴスゴと帰って行きますよ。お互いに住む世界が違う、と向うから諦めてくれるんです」
「本当にもう二度と連れ戻されずにすむでしょうか!?」
美晴は必死の語気でいった。
「あたし、絶対に戻りたくないんです! でも、やっぱり自信がなくて......」
「だから、その自信をこれから作るんですよ。強い決心が、最後まで頑張ってやり抜いて行くぞっていう決意が必要なんです。勇気をもって、二度とあんたの所には戻らないわっていい切る決心が必要なんです。その勇気がないあまりにズルズルと元の陰惨な生活に戻ってしまうことがないように、自分自身を鍛えて行く努力が必要なんです。
塾って、そういう自分を鍛えあげるトレーニングの場所なんですよ。トレーニングは辛くてきびしいけど、みんなが励ましてくれるはずです。人々の愛や励ましがどんなに素晴らしいものか、そこで美晴さんは悟ることになるんじゃないでしょうか......」
「そうだ、俺たちみんながついてる!」
と、田崎が断言した。
「ハード・トレーニングだけど、やるだけの値打は絶対にある! 自分を鍛え上げて、強い魂に変えてしまうんだ! 心配なんかするな、絶対にやれる、と固い確信を持て!」
「弱き肉より強き魂へ......ってわけね」
郁江は楽しげにいった。
「ちょっといいじゃない? 塾のうたい文句にしたらどうかしら......〝弱き肉より強き魂へ〟って......」
「そいつは素晴らしい!」
田崎はエキサイトして、大声になっていた。
「これから塾のモットーにするよ! 肉欲に捉われ易い己れ自身をハード・トレーニングで鍛え上げて、光り輝く魂の己れ自身に還そうというわけだな! 郁江、お前は本当に凄い! まるで東丈先生が乗り移ったみたいだぞ!」
廊下の外まで聞こえるのではないか、と平山圭子は心配になった。田崎は恐ろしいほどの高揚に見舞われているようである。やはり困難に遭っているきれいな女性に対して、なんとかして助力してやりたいという、田崎の男性本来のギャラントリーが発揮されているのだろう。
田崎は無意識のうちに、白水美晴に惹かれているのかもしれない。元来照れ性の彼も、塾に美晴を迎え入れる大義名分があれば、己れのギャラントリーに気付いて照れる必要がないのである。そのためにも、郁江の口添えを得て、ますます活気付いているのではないだろうか。美晴が塾生になれば、田崎は好きな時にギャラントリーをもって彼女に親切に振舞うことができる......
圭子ははっと我に返った。何を自分は考えていたのだろう、と顔が赤くなってくる。胸苦しくて息が詰まりそうな心地がした。
もちろん、こんな考えは馬鹿げていた。考えることさえ許されないという気が強くした。まるで自分は、田崎と白水美晴の間に妙な猜疑心を持ち、目を光らせて窺っているようだった。
これほど愚かしいことはないと思った。白水美晴が田崎宏のような男性に憧憬の念を持つのは当然のことかもしれない。田崎にはそれだけの人を魅する男らしさが溢れている。彼に対して熱っぽい憧れと讃美の念を持つ女性は決して少くないであろう。何も白水美晴だけに限らないのである。
しかし、田崎は美晴に、強い同情と憐れみの感情を抱いている。それは男としての保護欲とでもいうべきものだ。美晴は本能的にそれを察知しているし、それを捉えて田崎を動かす方法も充分に心得ている。圭子自身などとは比較にならないほど世慣れていて、人情の機微に通じている女なのだ......
気がつくと、郁江の目が圭子に向いていた。その目は警告の光を湛えているようであり、圭子は息を吞んで顔を伏せた。己れを恥じずにはいられなかった。郁江に意識を読まれてしまった、と感じていた。あまりにもみっともない心の動きであり、それを郁江に知られたことが、平山圭子を身も世もない心地にさせた。体中が熱く火照ってくる。
11
菊谷明子と内村久雄が部屋へ姿を現わしたのを機に、白水美晴は入れかわりに部屋を立ち去った。
田崎と平山圭子は、美晴を部屋の外まで送って行った。
「五時から講演があって、それがフィナーレだ」
と、田崎は美晴にいった。
「本当は東丈先生の講演のはずだったんだが、お留守なので、郁江がやる。また今度という機会があるから......そうがっかりするな」
「がっかりなんてしません。郁江先生も本当に素晴らしいですから......東丈先生の講演は聴けませんでしたけど、箱根に来て本当によかったと思っているんです!」
美晴は力をこめていった。
「どうもありがとうございました。今日一日で本当に人生が変ったってはっきりわかりました。あたし、頑張ります。子供のためにも......」
眸が星のような輝きを放っていた。顔が赤らみ、生色に溢れている。ああ、綺麗だな、と圭子は思わずにはいられなかった。
まるで見違えるような美しさだ。皮膚の下によどんで、どんよりしていた暗さがきれいに失せている。こんな美晴はだれもが讃嘆の目で見ずにはいられないだろう。体中から不浄なものが一掃されて、吐く息までが爽やかに匂っているようだった。
人の心が昇華し、高揚した時見せる、表現しがたい爽やかな輝きが、美晴の全身を充たしていた。
「セミナーが終った後、どうする?」
と、田崎が尋ねる。
「帰ります......子供を他人にあずけてあるので......」
「それならいっしょに帰ろう。車に乗って行くといい」
「あの......よろしいんですか?」
美晴は躊躇いがちにいった。自分を気にしている印象を受けて、圭子ははっとした。
「何をいってる。塾の仲間じゃないか。セミナーが終ったら待っててくれ。だれか迎えに行かせるから」
「じゃロビーで待っています......本当にすみません」
美晴は幾度も頭を下げて立ち去った。
「よかったな」
と、田崎がいった。
「だいぶ気を取り直したらしい。それにしても郁江があんなに素晴らしいことを話せるようになるとは想像もつかなかった......美晴に郁江先生と呼ばれてたけど、先生と呼ばれるだけの風格が出てきたみたいだな。恐ろしいほど迫力がある......」
「本当にそうですね」
言葉が続かなかった。舌が重くなってしまっていた。どこかの部屋からTVの大相撲中継の音が漏れてくる。そういえば、今日は千秋楽だったのだ、と圭子は見当違いのことを考えた。最近は大相撲ファンの彼女も、初場所がどんな展開を遂げているのやらろくにわからなくなっている有様であった。
ホテルの廊下はしんと静まり返り、アナウンサーが佐田山のことを喋っているのがかすかに聴き取れた。
「俺も先生のことは気になる」
田崎は平山圭子の沈黙を取り違えたのか、いきなりいった。
「しかし、それを今いってもどうにもならん......そうだろう?」
「ええ」
「俺は先生を信じている。郁江が講演を立派に代行しているのは、先生の意志の現われだと思ってるんだ。つまり、郁江は先生の波動を受けて動いてる。いつも先生がいわれるように、先生の代理人としての役目をきちんと果しているんだ。だれもがそうならなくちゃならん。それが先生の望まれていることだと俺は思う。平山さんはどう思いますか?」
生真面目な顔であった。大目玉を輝かせて圭子を見ている。近くで見ると、意外なほど睫が長く、女性が羨ましがるような繊細さが目についた。
「わたくしもそう思います。郁江さん、本当に変りました。やっぱり責任感なのかしら。でも、それ以上に神秘的で、先生が郁江さんの眸を通してご覧になっているみたいで......みんなの心が郁江さんには見通しなのかなっていう気がします」
「確かにそういう感じがするな......」
次第に大胆になって見返す圭子の視線を避けて、田崎は目をそらした。照れ屋の性分を取り戻してしまったようである。
「心配ない......そういいたかった。何が起ころうとも、俺たちが心を結んでいる限り、恐れることはない。でも、平山さんが郁江みたいに神秘的になって近寄りがたくなってしまうと、寂しい気持がするかもしれない」
「わたくしは大丈夫です!」
思いがけない田崎の言葉に、圭子は妙ないい方で強調してしまった。いささか反応が早すぎ力がこもりすぎていたかもしれない。
「わたくしはとても平凡な人間ですから、どんなに頑張っても、郁江さんみたいにはなれません、きっと......」
圭子は顔をあからめていった。
「わたくしには立派な指導者の器を持った方のお手伝いをするのが精一杯です。それでいいと思っています」
「平山さんにはそれが似つかわしいかもしれないな」
田崎は呟くようにいった。
「ひっそりとして地味で人目には立たず、決して自分を主張したりしない。だれも見ていない所で一所懸命に他人に尽している。だが、平山さんのような人がいなければ、どんな立派な指導者だって充分に力を発揮できない。平山さんはきっとそういう存在なんだな。本当は、これほど素晴らしいことはない。
宇宙意識フロイが、だれの目にもつかぬ方法でひっそりと我々人間を扶けてくれているのと本質的に等しいんだ......俺は平山さんを見ると、有難いなと心から思う。どんな辛いことがあっても、文句一ついわずに尽してくれる......胸が痛くなってしまうんだ」
「そんなこと! 褒めすぎです......いくらなんでも」
圭子は上気していった。田崎の讃辞は本気だとわかっているだけに、動悸がしてくるほどだった。
「俺は最近思うんだ。女性って素晴らしいなと......俺は口下手だからうまくいえないが、平山さんにはいつまでも、今の平山さんでいてほしい......心からそう思ってる。郁江は本当に凄いが、平山さんだってそれに負けないくらい素晴らしい、光っている存在だってことを、忘れてもらいたくないんだ」
「はい......」
「それをどうしても、平山さんにいいたかった。もしいい方が無礼だったら、勘弁して下さい。俺は、平山さんや杉村さんや、ウチの市枝や、目につきにくい所で懸命に努めて、支えてくれる女性たちに、心から感謝している。平山さんたちのような助力者がいなければ、我々は何もできないんだ、と心の底からわかるようになった。人間は素晴らしいなとしんそこ思う。それを教えてくれたのは、平山さんなんだ......だから、いつかお礼がいいたかった」
「............」
圭子は不意に喉が詰まったように何もいえなくなり、顔を伏せた。田崎の熱した心がそのまま伝わってきて、当惑すると同時に嬉しかった。
田崎はいわゆる通俗的な意味で、愛を告げたわけではない。硬派で照れ屋の田崎には一生かかってもそんな浅薄な真似はできないであろう。
が、今の圭子には突如、眼前の幕が上がったように田崎の心が見え、圭子自身に対する想いをはっきりと見届けることができた。
「部屋に戻ります」
惑乱を押しのけて、意外な言葉が口をついて出た。いかにも冷静な声音であり、今の圭子自身の心境とはあまりにもかけはなれていた。
しかし、もっと強くなければならないとする意識も心のどこかに動いていたのだ。こんな非常時に、恋や愛なんて贅沢すぎる......きびしい叱咤の声がどこからか聞こえてくるような気がした。そんなことに心をそらしている暇はないはずだ。田崎だってそれは百も承知であろう。
そうした心が、圭子をきびしい貌にしたかもしれなかった。
「俺も部屋に戻る。郁江にまだ話があるから......」
田崎はいわでもがなのことを口にし、自分でも気付いたらしく、恐いような顔付になった。くだらぬことを圭子にいって、怒らせてしまったと感じたようだ。その後悔の情を、圭子は己が手に取るように感知することができた。そんなことはないのだと慰めてやりたい。しかし、圭子の貌は内心とは全く逆に屹っとした近寄りがたい表情で覆われて行くのが自分でもわかった。
圭子は心を残しながらも、それ以上は一言も口をきかず、田崎にお辞儀をし、部屋へ戻って行った。
12
部屋は一段と深刻な空気によって満たされていた。沈黙が重苦しくよどんでおり、人々は救いを期待するように、戻ってきた圭子と田崎を見た。
「いや、実に感心した!」
と、田崎は現場の空気を知ってか知らずでか、ことさらに大声でいった。
「あの郁江がここまで素晴らしい言葉が吐けるようになったかと頭をひどくどやされたみたいだったよ。もう前の郁江じゃない。郁江なんて気軽に呼び捨てにするのが恐れ多くなっちまった。今の美晴みたいに郁江先生と呼ばなきゃいかんのかな......」
「もっともらしいお説教ばかりしたって、気が引けてたのよ」
と、郁江はいつもの調子でいった。よどんだ重苦しい空気をものともしていない。
「わたし、いつからこんなお説教ばかり平気でするようになっちゃったのかな? しかも美晴さんなんてずっとわたしより年上なのにね。子供が大人を摑まえて得々とお説教するなんて聞きづらい......自分でもそんな気がしていたわ」
「しかし、お前は自分の親に向って昔からお説教していたんだろう?」
田崎は郁江の示している軽みに調子を合わせていた。
「郁江はお説教の天才じゃないのか? 美晴がすっかり大感激して帰ったぜ。いざとなると日頃の郁江じゃなくなって、大迫力だな。東丈先生が乗り移ってきたんじゃないかという気になる。今はそんなでもないが、美晴に話してる時は、本当に魂消てた」
「それが、あまりいい気になりすぎてるというのね。だんだん評判が悪くなってきたわ。それで今、菊谷さんたちが相談に来ているところ」
「どうしたんだ?」
田崎は目をほそくして尋ねた。
「また問題が生じたのか?」
「そうなの。わたしが出すぎている、横暴だという非難の声が高まってきてしまったのね。先生のお留守に乗じて、独断専行が甚しすぎるって......それだけじゃなくて問題続出なの」
「先生の留守につけこんで、お前が勝手な真似をしているといってる奴がいるのか?」
「何の権利もないのに、我がもの顔にしてけしからんということでしょうね」
郁江は内心を窺わせない顔と声音だった。
「そんな馬鹿げたことを、どこのだれがいってるんだ?」
田崎の顔は赤くなってきた。憤慨で内圧が上昇してきたのだ。
「まあ、そういう見方があっても不思議はないし、わたしにもいわれるだけの落度があったということかもしれないわ」
「夏本という娘だな? 非難の急先鋒になってるのは......」
田崎は正しく状況をいい当てた。こうしたことになると超常的な勘が働くようである。
「さっきもお前ともめてたんじゃないのか?」
「別にどうってこと、ないんだけど......女の子ってとても感情的になりやすいもんだから。たまたま不満を持ってる人たちに火をつけてしまったんでしょうね」
「他人事みたいにいうなよ。非難されてるのは自分じゃないか......で、どうしろというんだ。そいつらは、お前が出過ぎてるから引っこめというのか?」
「先生のご不在の問題もはっきりさせろ......いや、はっきり納得が行くように会員に説明すべきだと申し入れてきたんです」
と、内村久雄が沈んだ語気でいった。
「先生の身に何が起こっているのか、自分たちにも知る権利があるというんです。上層部だけでもみ消したり、いい加減なやり方で糊塗するのは姑息だから止めろと......井沢さんはだれの信任も受けていないのだから、先生の代理のように振舞うのはおかしい、そんな権利はないと強硬にいってきまして......」
内村は衝撃を隠せない顔色であった。今の今まで仲間だと信じていた会員たちが掌返して咬みついてきたのだ。メガネの奥の目がうわずってしまっている。
「自分たちはちゃんとセミナーの参加費用を払っているんだから、講師や研修の内容に変更があったら、その理由を知る権利があるというんです」
と、菊谷明子が涙を浮かべていった。
「権利権利とずいぶんやかましいことをいうものだな」
と、田崎は呆れたようにいった。
「GENKENというのは、権利義務だけの団体かね? まるで労働組合みたいだ」
「そうなんです。なんだかびっくりするほど高圧的で......戸惑うというより悲しくなってきてしまって......」
「内憂外患だな。幻魔さんの波動にだいぶ揺すぶられてしまったわけだ」
「心配することないって、今お二人を慰さめてたところなの」
〝応えない郁姫〟の本領を発揮して、郁江は平然といった。
「しかし、どうせごく少数の急進派だろう?」
「それが、そうでもないみたい。先生がどうしてるか知りたいというみんなの気持をうまく摑んで揺すぶっているのね。会の危機だというわけ。そんなわけで、わたしが会を乗取って独裁者におさまろうとしているというデマが本当らしく聞こえるんじゃないかな。
自分たち会員は、東丈先生に帰依したので、井沢郁江の子分になったわけじゃないというわけ。わたしが会を私物化して、先生を蔑しろにするのはけしからん。そういうとなんとなく説得力があるでしょ」
「ひどいものだ......あれだけ郁江の講演に感動していた連中が、そんなに簡単に、ころりと気が変るのか?」
田崎は慨嘆をこめていった。怒りに赤くなっていた顔色がさめて、暗たんとしてしまっている。
「もちろん全部が全部じゃないわ。やっぱりみんな先生のことが心配だし、夏本さんたちはそこにつけこんだわけよ。いったい上層部は何しているんだということ。秘密主義はけしからんじゃないか、会の精神や主旨に反している......重大な変動があるのなら、会員たちにも知らせて、態度をはっきりさせる機会を与えるべきだ。そんなところね。もし先生が不在のまま、わたしが会長代理ということになるのなら、会から離れ去る者だっているというわけよ。それなのに、肝心なことを不明確にしておくのはけしからん、要するに、わたしのやることは一から十までけしからんみたい」
「わからんものだな......どうしてそうあっけなく心が動いてしまうのか。愚にもつかぬ扇動にあっさり乗って騒ぎたてる......そんな自分が恥しいと思わんのかな」
「心コロコロというでしょ。人間は気が変るものだと先生はいつもおっしゃってるわ。磁場が変れば心も変るって......不動心なんて簡単にだれもが得られるものじゃない。わたしがみんなの信頼を容易に得られると思う方がおかしいんじゃないかな?
だって、強い求心力を発揮していた先生が、突然いなくなってしまったんだもの。わたしじゃ役不足なのは当然だし、求心力が弱まった分だけ、逆に遠心力が強くなって、会がバラバラになろうとしているのよ。このピンチは不可避のものだとわたしは思うんだけど」
「まったく他人事だな。ちっとも動揺していない......それも郁姫らしいが、このままで大丈夫か? 例のトップ屋だって頑張っているんだ。騒ぎになったら大喜びさせるだけじゃないのか?」
「そうなればなったで、トップ屋さんを無断で引き入れた責任を問われることになるでしょうね」
「騒ぎを起こして、騒ぐだけ騒ぎ、責任は郁江一人に負わせようということか......まるで幻魔の遣り口だ」
田崎が吐き捨てるようにいった。目が怒りに燃えていた。
「幻魔という言葉は口にしないことにしましょう。結局、今まで溜まっていた不平不満が一気に溢れ出したということね。わたし、よっぽど快くない思いで見られていたのね。専横だといわれれば、もっともかもしれないもの。先生の権威をカサに着て、偉そうにお説教したり、会長代理みたいな顔で会を牛耳ってみたり、厭な奴だ、出過ぎた奴だと思われても不思議はないでしょ、ね、内村君?」
いきなり郁江はいった。名ざしにされた内村は跳び上るように姿勢を正し、目を激しく瞬かせた。
「そ、そんなことはありません! 今度のことはつまらない誤解です! 先生がご不在であるってことに不安が高まっていて、そこへ井沢さんへの反感をあおる一部分子が出たものですから......大部分の者は、真相を知りたがっているだけなんです! 井沢さんを信頼していないってことじゃないんです!」
「それはそうなんですけど、でも、このままではちょっと......おさまらないような気がします」
と、菊谷明子が蒼白い顔でいった。
「最後の講演なしで、このままセミナーを終了させてしまっては、と思うのですが」
内村は目をぱちぱちさせながらいった。以前の緊張癖が復活してしまったようであった。顔面がチック症のように攣ってしまうのだ。
「で、このまま解散となれば、トップ屋に具合の悪い所を見られずにすみますから......ちょっと騒ぐ者もいるでしょうが、別室で話しあえば外部には漏れませんし......」
「それが一番いいと思うんですけど」
菊谷明子は懸命にいった。
「わたくしたち、なんとかしてみんなを説得しますから。事情をよく説明して、東京へ帰ってから充分に話し合うということで納得してもらおうと思うんです」
「でも、それは逃げですよ」
郁江がいい、一同をはっとさせた。
「それこそ姑息だ、と非難される原因になります。結局、わたしがどう動いても、どんな手を打っても、非難されることに変りはないんです。向うには非難の口実さえあればいいんです。目的は、わたしを排除することで、会長代理なんかにさせないことなんです。その目的にそって、非難すべき点を探し出す、つまり難癖をつけるわけです。お取り潰しのためのお咎めですよ。わたしが逃げたら、今度はセミナーを放棄して参加者に迷惑をかけた、井沢郁江は無責任だというでしょう。そしてこっぴどく責任を追及されることになりますよ」
「............」
一同は声もなかった。
「どうせなら、真正面からぶつかりましょう。正々堂々とやるのが一番です。ルポライターが虎視眈々と目を光らせていることを忘れないように......」
「それがいい。後ろめたいことは何もないということをわからせてやればいい」
と、田崎が力のこもった声音でいった。
「人間はいつ、どこでも、正々堂々としていなきゃ駄目だ。毅然としている郁江を見れば、だれだって引きさがる。大事なのは気迫だ。勝負というものは気迫でつくものなんだ。みんな郁江を信用した方がいい。先生の力が郁江に乗り移っていることを信じるんだ」
「ありがとう」
と、郁江がいった。田崎の力強さが一同の愁眉を開かせたようであった。
「わたし、大丈夫よ。何とかして乗り切れるという自信があるの。これくらいの揺さぶりはきっと手始めだもの......それよりわたし、何だか東京のことが気になる。よくないことが東京で起こっていそうな気がするんだけど......」
「東京の方では、別に異常はないようですけど」
と、菊谷明子が答えた。
「プロジェクトが進行しているわけでもないし......お留守番の人の話では日曜日なので静かだといっていました」
「そうかなあ。何かあるという気がする、わたし。さっきから、セミナーの問題なんかそっちのけで、東京の方へ意識が行ってしまうの。何かあるんじゃないかな......お留守番はだれだったかしら?」
「岩本さんです。お昼過ぎに電話した時は、平穏無事ですという返事でした。あの、電話入れてもう一度確認してみましょうか?」
「そうして下さい。わたし、胸騒ぎがするんですよ、どうしてか......箱根の方はどうってことないのに、どうせわたしが吊るし上げくうぐらいだから」
「堂々たるものだな。俺は郁江を吊るし上げようという連中が気の毒な気がするよ。竜車に歯向うなんとやらだ」
「ついさっきまでは、大変なことになったと思ってたんですけど」
と、内村がいった。もうメガネの奥の目はぎょろついていない。
「反省しました。やっぱりいざとなると、付焼刃じゃ駄目ですね。あっけなく心がうわずってしまって......でも、井沢さんにはだれもかなわないんだとよくわかりました」
「あれっ、それ、どういう意味なの、聞き流せないぞ、内村君!」
と、郁江がいった。
「いや......変ないい方になってご免なさい。井沢さんは結局、自己保存がなくて、自分のことでは少しも心配したりしないから、本当の意味で強いんだな、そう気付いたんです。自分を守ろう守ろうとするから、恐怖心が生れる。でも、郁江さんはご自分のことは少しも気にしないで、会全体のことにいつも心を配っている。自分を捨ててしまうから、不動心が生れるんだと今はっきりわかったんです」
内村は白い頰を赤らめて懸命にいった。
「やっぱり自己保存に囚われてしまうと、何をしても付焼刃にしかならないんだなってわかりました」
「おそらくその見方は正しい」
と、田崎がいった。
「まず自分を捨ててかからなければ、敵への恐怖心が先に立ってしまう。武道の極意だな」
「まるでわたし、武道の達人みたい。そろそろ会場へ行きましょうか? あまり待たせると、宮本武蔵を待ちくたびれた人たちみたいにカンカンになって、何をいわれるかわからないし」
郁江の自信と余裕はどこから生じるのだろう、と平山圭子は疑わずにはいられなかった。ただの恐いもの知らずなのだろうか。それとも生死を超えて達観したものの不動心なのであろうか。
それとも圧倒的な使命感が、心の片隅にきざす不安や恐れを押し潰してしまうのかもしれない。なんの不安、危惧もなければ、郁江は生身の人間とはいえないであろう。もしかしたら浮き足立っているみんなをなだめ、落着かせるために、自信と余裕に満ちた態度を演技しているのではないか。
圭子は、郁江の内部に意識を向けるのが恐ろしかった。そうした心的な接触をはばからせるものが、郁江にはあった。それは、東丈の心を忖度することがおこがましいと感じられ、おのずと遠慮してしまう心の傾きとそっくり同じものであった。
あまりにも高圧の張り詰めたものがあり、触れるのが恐ろしくなるのだ、と圭子は思った。己れを不遜とさえ感じてしまうほどであった。
「あの、珍しく高鳥君が会に顔を出してたようです」
と、電話で東京と連絡を取っていた菊谷明子が報告した。
「珍しい人ばかり来てますって......野沢緑さんや久保陽子さん、岩田邦子さんも、会に顔を出したそうです」
「それだ、高鳥慶輔!」
と、郁江がパチリと指を巧みに鳴らして声をあげた。
「彼、会へ何をしに来たの?」
「ええ、それが、ちょっと顔を出しただけですぐに姿を消したそうです。ですから、今はとても静かで平穏ですって......」
「ふうん」
といって、郁江はちょっと考えこんだ。
「とにかく、わたしの胸騒ぎは、高鳥慶輔と関係あるわ。それは間違いないの。何かあったらすぐに連絡するようにいって下さい」
「わかりました......」
菊谷明子は電話口に戻り、相手に指示を与えにかかった。
「高鳥が何かしら動いているというのは、郁江の超能力でわかるわけか?」
「そう、間違いないってわかっちゃうのね。理由も何もないんだけど......超能力というより勘ね」
「勘というのも超能力の一種なんだろうが......」
「ちょっと待って、菊谷さん!」
郁江は田崎の言葉を断ち切るように叫んだ。
「杉村さんのことを聞いて! 杉村さんはどうなさってるか......まだ会にいらっしゃるの!?」
郁江の放射するただごとでない雰囲気が、その場の全員を圧倒した。はっとなり、固唾を吞ませる緊迫感が流れた。
「まだ一階でお仕事をなさっているそうです。さっき七階に電話があったとか......杉村さんの分も夕食を取り寄せてさしあげたといっていますけど......」
「それならいいわ」
郁江は頷いたが、殺気の如きものは消えていなかった。
「杉村さんのお手伝いにウチの市枝を行かせた。だから、杉村さんのことは心配いらんだろう」
田崎が、なだめるようにいった。
「〝幻魔の康夫〟は、こっちの方に、箱根セミナーの方に幻魔は動くといって、実際その通りになっているんだろう? 気を散らさずに、こっちをしっかり抑えた方がいい」
「そうね。じゃ、会場へ行きましょうか」
郁江はあっさりいって立ち上った。再び赤いミニスカートのいでたちに戻っていた。こうした群れに同化しない、孤り異を立てるような態度が、一部の会員たちには目ざわりであり、挑発的に映るのかもしれない、と平山圭子は思った。派手好みで自己顕示欲の権化という印象を与えるのではないか。

会の中には、己れたちとは異質なものを許容しない偏狭さが根っこのように居座っており、それが郁江への抵抗運動にまで高じてきたのだろう......
幻魔はそうした心の貧しさ、狭量さをすかさず捉えて増幅し、揺さぶりにかかってくるということか。わずかな心の隙も、幻魔は決して見逃さぬという警告であるように思えた。
「さ、吊るし上げられに行きましょう」
と、郁江が朗らかにいった。さりげなく一同の心を鼓舞しにかかっている。圧力をかけられても少しもへこんでしまうということがない。向うから見れば、これほど面憎いことはないだろうと思えた。
13
郁江に促されたようになって、一同は部屋を出た。だれも口には出さないが、丈がこのまま還らなければ、会が始まって以来の大きな危機にさらされることは明白であった。
むろん、郁江は並みはずれた力量を発揮してはいるものの、いかんせん東丈から正式の受け継ぎを行なったわけではない。たとえ丈が総会を開いて、その席上で郁江を会長代理に指名したとしても、不満を持ち、おさまらない者はおさまらないであろう。
会員たちは東丈の魅力に感応し、丈を求めて集ったのであって、郁江を盟主として仰ぐ義理はないとする声は必ず湧くに違いない。認識が浅いといえばその通りで、彼らは会を東丈ファンクラブの体質に染めようとしている。まして郁江が正式の受領なしに会長代理の権限を振りかざそうとするならば、夏本幸代のように、郁江を東丈ファンクラブの簒奪者とみなすだろう。
平山圭子はあらためて深刻な不安と危惧に胸を締めつけられ、動悸がしてきた。本当に東丈が還らなければ、会は大変なことになってしまう。郁江を主流派とするならば、反主流派がトップ屋の面前で、郁江を吊るし上げ、会を二つに分裂させてしまうかもしれないのだ。
伴野静子の顔を見ると、彼女が圭子自身と等しく血の気の引いた蒼白な気分になっていることがわかった。おとなしくて柔和な静子は、荒々しい殺伐な波動にことのほか弱いのだった。
大広間で待ち受けている修羅場を思うと、おのずと足取りが重くなってしまう。重責を担わされた郁江を、みんなで力のかぎりもりたててやらなければならないはずなのに、逆に足を引っ張ろうとする人々がいる。人間とはなんとわけがわからず、不可解にも複雑なものかと嘆息がしたくなってくる。
会の内部でも、この有様なのだ。
わずか数十名の人間でさえも心をあわせることの困難な状況が存在する。人々の心を結集し、〝光のネットワーク〟を編もうとする東丈の壮大な意図は、足許から早くも破綻を来そうとしている。こんなわずかな人間たちが相手であっても、重大な蹉跌に見舞われている事業が、果して三十数億の巨大な混沌そのものの人類に通用するのだろうか。
そんなことは不可能だ......圭子は蒼白い絶望感にさらされてしまった。杉村由紀を含めて、わずか五名の秘書室でも、最初に野沢緑という脱落者を出し、次は夏本幸代の造反という不協和音を出し、無気味に軋んでいる。
幻魔の巨大な暗黒波動が妨害し、干渉し続けている限り、人々がしんそこ心を統一するなど不可能なのかもしれない。人々の作った心の絆は必ず欠け落ち、崩壊し去ってしまう。〝光のネットワーク〟という理想は壮大だが、所詮は理想そのものでしかないのではないだろうか......
平山圭子ははっとして心を冒してくる虚無感、絶望感を振り払った。心が陥ちこみ、滅入りこむとすかさず強い弾力をもって生じてくる妄念であった。
これが、〝幻魔の標的〟なのだ、と気付く。郁江に指摘され、教えられている通りの、奇妙な心の侵食現象が生じている。あれだけ感銘を受け、印象が強烈だったのに、いつの間にかけろりと忘れてしまっている。結局は付焼刃だからだ。
おそらく一人の例外もなく、参加者たちは心的侵食を受け、郁江の警告など忘却してしまっているのではないか。変幻とさえいいたいほど、人の心は定めがたく、いつも移り変って行く。
よほどしっかりしなければ、打ち寄せる波にあっさりと攫われて行ってしまうだろう。
平山圭子はいつの間にか、自分が一同から取り残され、考えに沈みながらのろのろと重い足取りでホテルの廊下を歩いていることに気付いた。足の早い郁江や田崎たちはもう視界の中にない。不安を全身にみなぎらせ、立ち止まって伴野静子が自分を待ってくれているだけだ。
圭子ははっと気を取り直し、小走りになった。大広間で待ち受けていることを、自分がよほど強く忌避しているのだと悟る。
しかし、やるべきことはわかっている。徹底的に郁江をバックアップしなければならない。逃避することはできないのだ。東丈はそれを期待しているに違いない。
しかし、会は割れる。もしかしたら総崩れになるかもしれない。
それでもやらなければならないのだ。それにしても、人を信じるということはなんと困難であり、莫大なエネルギーを要求するものだろうか。どれだけの人間が、この危機を克服して〝信〟を貫き通すことができるだろうか......
「大丈夫よ、伴野さん。郁江ちゃんはきっと切り抜けるわよ」
と、圭子は年上の同僚の肩に手をまわしながら慰めるようにいった。二歳年長のこの女子大生と圭子は気が合う。己れの身長のせいもあるのか、圭子はいつも年上の同僚を妹のように感じてしまう。おとなしくて気弱な伴野静子が感情的に依存してくるせいであろう。
おかしなことに、秘書室に入ってから、年齢というものがさほど大きな比重を持たなくなってしまった。郁江と三歳年長の夏本幸代を較べてみればそれがよくわかる。魂の容量の相異が明確になったせいかもしれない。
「昨夜、魂の本質を先生に見せていただいたでしょ。あのわけがやっとわかったわ」
と、伴野静子は圭子の体にしっかりと手を廻しながら、思いつめた声音でいった。
「どんなことが起きても怯むなってことを、先生はおっしゃっていたのね。自分の魂の本質があんなに素晴らしい光のかたまりなら、何が起きたって怖くないもの。やっぱり大変なことが起きるのかなあって、あの時はぼんやりと思っただけだったけど......」
「............!」
圭子はとっさに言葉が出てこなかった。あれだけの奇蹟を前夜、見せられているのにかかわらず完全に記憶から剝落していたのである。改めて奇蹟の意外な無力さを悟る。
意識誘導にかけられた時、他力は全く役に立たない。己れの心に保持する〝信〟だけが頼りなのだ。
「人間の心って、本当に変りやすいでしょ?」
と、伴野静子は幼なげにさえ聞こえる熱っぽさをこめていった。
「その日その日の風まかせみたいにフラフラ変ってしまう。本当に不変のものって何なのかな? 昨日はあれだけ熱くなって信じていたのに、今日はもう白けきって、何もかも信じられなくなってしまう。
いや違う! 自分はそんなにいい加減じゃないっていいたいけど、心はいつもフラついているの。昨夜、光を見せられて、あれがあなたたちの本質だ、と先生にいわれた時にはよくわからなかったけど、胸の奥底にしんとして動かない静かなものがやっぱりあるのね。感情が荒れて嵐のように心が乱れてしまった時でも、やっぱり深いところでは、しんとしている心がある。さっきそれがわかったわ。ああ、この動かないしんとした心が、あの光のかたまりとつながっているんだなって......」
万感のこもったいい方であり、控え目な伴野静子らしくなかった。
「試されているのかなって思ったんだけど、圭ちゃん、そう感じない?」
「試されている?」
「ええ、先生が昨夜、あたしたちを連れて行って下さったことには大きな意味がある、そういう気がするの。しっかり気持を持ちなさい、何が起きてもたじろぐんじゃないよって......君たちは本当のことを知っているんだから、何も恐れることはないって。先生が姿を隠された後、何が起こるか、先生はもちろんご存知だった......あたしたち、覚悟を試されているんじゃないかなって気がするんだけど」
「本当に先生を信じることができるかどうかを......?」
「そう。やっぱり郁江ちゃんのようにぴしっとしていられるのは本物よね。前よりも強くなってしまったもの。あたしなんかフラフラしてて、圭ちゃんにも恥しい......」
「試されているんじゃなくて、自分を試しているんじゃないかしら」
と、圭子は衝動的にいった。
「自分で自分を試しているということ?」
伴野静子が首をかしげる。理解できない新しい概念にぶつかった表情であった。
「先生に試されているんじゃなくて......自分自身がどれだけしっかりしているかをテストするチャンスを与えられたんじゃないかなって思うんだけど......」
圭子自身、思いつきで口にしているだけであり、わかりにくい考え方かもしれなかった。
「先生が、わたしたちの覚悟を試されているんじゃなくて......? よくわからないわ」
「そうね、じゃ、こう考えたらどうかしら。あの光のかたまりがわたくしたちの本質だと教えられたでしょ。あの魂の本質が、肉体を持っているわたくしたちを試しているんじゃないかって......
つまり、さまざまな計画を立ててこの地上世界に人々は降りてくるわけだけれど、肉体を持ったわたくしたちは全ての記憶を失くして......潜在してしまうわけ。だけど、魂の本質であるほうはもちろん、何もかも憶えている。この世でなすべきさまざまな計画はもちろん、魂の親友たちのことも。前世、過去の世界で人間として肉体を持って生きてきた記憶も何もかも......
魂の本質って、肉体を持った人間に比べると何十倍も何百倍も大きい存在なの。それが本当のわたくしたち自身であるわけなの。
自分で自分を試すというのは、この肉体を持った自分だけじゃなくて、魂の本質を含めたもっと大きな意味の自分なの。
だけど、生れ落ちた時記憶が潜在して、何もかもわからなくなってしまった肉体を持つ人間は、自分勝手に孤りで生きている、と信じこんでしまう。魂の本質は、肉体の目には見えないから......先生がいつもわたくしたちに向って自覚しなさいって口が酸っぱくなるほどいい続けてきたのは、きっとこのことだとわたくしは思うの。
人間は己れがちっぽけな肉体を持った存在だけじゃないことに気付きなさいって......もし、それに本当に気付いたら、人間は何一つ恐れるものがなくなる。魂の本質は何があっても決して傷ついたり壊れたり滅びたりしない永遠の光なんだって......郁江ちゃんがあんなに強くなったのは、そのことを自覚したから。心弱くていつも怯えているのは、肉体を持った人間でしかなくて、自覚しさえすれば、自分が永遠の魂であり、不滅の光なんだってわかる。だったら、いつ不時の死に見舞われたって構わない。そんなものは本当の死ではないし、肉体を着古した服みたいに脱ぎ捨てて行くことでしかない。わたくしたちは永遠の過去から永遠の未来へと向っている光であって、それを悟ることが真の自覚なんだって......こう考えられないかしら?」
平山圭子はいつも控え目な己れを忘れたように、迸るように一気に話した。
「凄いなあ......圭ちゃん、そんなこと、自分で考えたの?」
伴野静子は驚嘆と尊敬の目で長身の圭子の顔を仰いでいた。
「今、突然、腑に落ちたの。郁江ちゃんがあんなに強くなった理由が......つまり郁江ちゃんは癌と対峙した時に、頭ではなくて、心ではっきり真実を悟ったのね。観念じゃなくてもっと素晴らしい実感として......つまり郁江ちゃんは、弱い肉体から脱け出して、強い魂に還ったわけ。それが郁江ちゃんをあんなに素晴らしく変えたのだと思う。
わたくしたちだって、真の自分自身の姿を見せられたのよ。怖れることなんか、何一つないはずだわ。たとえ、たった今、大地震で死んだとしたって、あの素晴らしい光に還るだけですもの。あの光の本質を見せられたわたくしたちは、もう怖れる必要なんかどこにもないのよ。今、それがすっと腑に落ちたの。もう、やるしかないんだなって......」
「凄い、あたし尊敬しちゃう!」
と、伴野静子はぎゅっと力をこめて、トレーニング・ウェアをつけた圭子の細身の体を抱きしめた。
「圭ちゃんて、いつも楚々としてもの静かなのに、いざとなると強いのは、やっぱり魂の本質が現われてるからなのね! やっとそれがわかったわ! 暴力団がオフィスに押しかけてきた時だって本当に素的だったもの。圭ちゃんも、やっぱり郁江さんみたいに魂が目覚めて行って、神秘的になってしまうのかしら......
でも、そうなってもかつての友を見捨てないでね。あんまり偉大に素晴らしくなりすぎて、あたしなんか忘れちゃったりしないで......」
「そんなことあるわけないでしょう」
圭子は、同じ意味あいのことを田崎からいわれたことを心に甦らせた。自分はいつであっても自分だ。他のものになれようわけがない。
「みんな、魂の本質に目覚めることを求められているんだわ、きっと。伴野さんだってそうよ。もちろん人間はだれだってそうなんだけど、昨夜光の本質を見せられたものは特に促されているのだと思う。だから、伴野さんも早く気が付かなきゃ!」
「あたしなんか駄目、自信がまるでないんですもの......相変らず怖いものばっかりなの。だから、圭ちゃんや郁江さんを凄く尊敬しちゃうの......」
会場が間近になったことに気付いて、伴野静子は声を落した。緊張を甦らせて、ぎゅっと平山圭子の体にしがみついてくる。
会場は静かであった。無気味なほどの静寂によって充たされていることが、通路からでもそれとわかる。
「怖い......どうしよう!?」
伴野静子が声を殺していった。顔が蒼白く引き攣ってしまった。
「心配いらないわ。郁江ちゃんはこんなことぐらいじゃ参らないわよ」
強い言葉を吐いて、圭子は伴野静子の肩に廻した手を放した。
「さ、入りましょう。これくらいのことで負けていられないわ。覚悟をきめてしまえば、どうってことないの」
14
伴野静子が怯えたように、会場は特殊な雰囲気が支配していた。
浮き立った気配はあとかたもなく失せてしまっている。押し殺した沈黙が濃密に詰まっている。私語がまったくないわけではないが、人々は息を殺し、押し黙って、何事かが始まるのを待ち構えていた。
物音を立てることすら、はばかられる雰囲気であった。わずか数時間前とはあまりにも大きな落差が存在した。
井沢郁江によって感動のうねりに巻きこまれ、熱情をもって反応していた聴衆が、小さくしぼみ、いじけてしまって、息を詰めている。
こんなに他愛なく人間の心とは変り易いものなのかと平山圭子は不審の念とともに、失望を覚えずにはいられない。
それとも、これが〝意識誘導〟の効果というものなのであろうか。
圭子はそっと周囲の人々の気配を、感覚をとぎ澄まして窺った。じっとりと冷たく重い不安の味わいがあった。人々の心を危惧の念が犯していた。重い緊張感が高まる息苦しさに、聴衆はじっと堪えているのだった。まるで水銀のようなどろりと重い沈黙が一人一人の心を充たしていた。
圭子は会場に入った時、数多くの視線が救いを求めるように、己れの顔に集まってきたことを意識の外に置くことはできなかった。笛川医師や看護婦の松代直子などはもう少しで話しかけてきそうになったほどである。
──いったいどうなっているのだ?
と、笛川医師の目はいっていた。東丈先生はどうしてしまったのだ。何かしらひどく異常な事態が進行しつつあるのではないのか......
それは、会場に居合わせる人々の全ての思念と等しかったかもしれない。
トップ屋の風間は、厚かましくも最前列に陣取っていた。取材を郁江に黙認されて、これ以上は厚顔になれないほど人もなげな振舞い方であった。
しかし、その無神経な風間にしても、会場を埋め尽している居心地の悪い緊張感と沈黙に異常を感じ取っていたようである。
これくらいのこと......と強い言葉を吐いたが、この無気味な沈黙の中に登壇する郁江を思うと、胸がしめつけられた。進行係の連中も硬ばった蒼白い表情で動きまわっている。
何が起こるかわからない......というより、不穏な予感そのものが人々を捉えていた。荒れずにはすまぬという予感であった。
郁江を信じよう、と平山圭子は予感を振り捨てるように、強く念じた。郁江はこれしきの圧力に屈するような弱々しさとは縁がないはずだ。
たとえ場内から郁江糺弾の声が上り、責を問われる破目になっても、郁江は必ず切り抜ける。第一、自分がそんな吊るし上げなど許さない、と圭子は思った。そして自分のそんな強さが意外でもあった。
暴力団が事務所に乗りこんできた時と同じであった。驚くほど速やかに気持が定まってしまうのだ。もはや迷いも動揺もなくなってしまう。
郁江を守らなければならない、と圭子は思った。たとえ糺弾者たちと論争になっても、あくまでも郁江を掩護してみせる。味方のことは考えなかった。心情的に郁江につく者は少からず存在するであろうが、人々はやはり納得の行く状況説明を強く求めている。何が東丈の身に起きたかを知りたがっているのだ。
糺弾者たちは、そうした人々の欲求を利用し、郁江を非難する口実に使うであろう。不満を持っている者たちに火を付けた夏本幸代はいったいどんな気でいるのであろうか。夏本がある種の私怨を晴らす気で彼らを扇動し、利用しようとしていることを、糺弾者たちは知っているのだろうか......
不意に甲高くブザーが鳴り出して、平山圭子は居すくめられたようになった。全員が同じ印象を受け、体を固くし息を吞んだようである。ざわめきと失笑が生じた。驚かせるなという気分が産んだ弛緩であった。
ざわめきが続く間に、井沢郁江がステージに登壇していた。素早い出現であり、無気味な会場の内圧がふっと緩んだ間隙を巧妙に捉えていた。
「〝幻魔の標的〟についてお話します」
と、郁江はいきなりいった。ざわめきが消え、会場は水底に沈んだように静まり返る。
「お約束通り、箱根セミナー最終日の講演に、〝幻魔の標的〟を演題といたします」
郁江は親しみやすい愛らしい表情を微塵も留めていなかった。人々を笑わせながら説いて行く郁江ではなく、張り詰めた高圧のものでつけ入ることを許さない、凜然とした波動の強い郁江と化していた。
「この講演は本来、東丈先生がなさるはずのものでした。けれども余儀ない事情で、先生はわたしにこの講演をゆずられました。
わたしは東丈先生に委任を受け、先生の代理人としてこの箱根セミナーをしめくくろうとしております。講演の内容は、一部分は先生ご自身の口からわたしがお聞きしたものであり、その他の部分は、先生の意識による通信を受けてお話するものです。
意識による通信とは何なのだろう? 皆さんは不思議に思われるかもしれません。テレパシーでわたしが先生のお考えをキャッチし、通訳のようにしてお話しするということなのだろうか、と。
わたしはそうではないと思っています。テレパシーではありません。先生とわたしは魂と魂で結ばれて、受け継ぎをなしているのだと思います。わたしの意識の中に、先生はメッセージを残されて行ったのです。ですから、わたしが今用いている意識は、わたし自身のものであると同時に、半ばは先生の意識が占めてもいます......」
平山圭子は電気に打たれたように、くらりと意識をよろめかせていた。何という驚くべきことを郁江は語り始めたのだろう。郁江は今、東丈の意識を用いて自分は語っているのだ、と聴衆に向けて宣言しているのである。
「それは、先生が今どこか別の場所にいらして、ラジオ放送のように遠感でわたくしの口を通じ、語っているというのではありません。そのような技術的な、機械的な想像は間違っています。
先生はわたしの意識の中に、メッセージとしてのご自分を留めておられるのです。先程から、強い霊覚を持たれる方々に、郁江さんは先生の波動を放出している、郁江さんの顔が先生に見えるという指摘をくり返し受けて来ました。
魂と魂が結ばれているならば、魂の受け継ぎがなされているならば、先生にはそのようなことがお出来になるという証明だとわたしは思います......」
高い調子に張られた、凜然たる声音の響きは、確かに東丈に酷似した印象を聴衆にもたらした。丈のバリトンに対し、アルトの相違はあるが、一種独得な輝やかしい声魂は、丈自身のそれと錯覚を起しかねないほどのものであった。余人には決して真似出来ないとだれもが確信していた輝やかしく迫力に充ちた波動が郁江の声に宿っていたのだ。
人々は度胆を抜かれていた。否定しがたいものにいきなり出食わして呆然となってしまっていた。郁江が聴衆の度胆を抜いて圧倒しようと意図したのならば、みごとにそれは成功していた。
平山圭子は奇妙なデジャ・ビュの虜になっていた。郁江の声音は日頃の彼女のやや低い調子に抑えられたそれとは全く異るものである。郁江がこのように輝かしく声を張って語るなど、想像もつかぬことであった。
確かにそれは丈の講演時に出す声魂に似ている。いきなり全力で疾ばし始め、ぐいぐいと引きずって行く圧倒的な波動とそっくりである。
しかし、聞き憶えがあるのだ。確かにこの郁江が発している波動には、以前どこかで接したという記憶がある。丈に似ているからではない。似てはいるが、やはり違うものだ。それは男性の波動ではなく、完全に女性の波動として接した記憶なのだ。
いつ、どこで、この波動に触れたのだろう......平山圭子の意識は身裡から身を乗り出すようにして想い起そうと努めた。知らぬ間に、彼女は超常感覚を総動員して、郁江の発している波動の根源を探ろうとしていた。
郁江の声はいつしか、圭子の意識の中で美しい青い光の瞬きと化していた。痛いほど強く鮮やかに輝く青い光である。
一瞬、イメージが脳裡に閃いた。美しい若い女性のイメージだと辛うじて捕捉できた。東三千子、と彼女は思ったようである。なぜかはわからない。丈の姉、三千子に酷似したイメージであり、記憶がはっと甦った。
三千子は以前、一度だけ平山ビルの七階に姿を現わし、ボランティアたちに向って挨拶したことがある。その時の三千子が今の郁江と同じ波動を放っていたのだ、と気付く。
しかし、脳裡をよぎったイメージは三千子に似てはいるが、三千子その人ではないように思われた。もっと強烈な迫力に充ちた波動といえる。それが今、圭子の意識に輝いている青い光であり、東三千子にかつて宿り、今また郁江に宿って語らしめている波動の源泉だという理解がやって来た。それは啓示以外の何物でもなかった。
ああ、この女だ、と思った瞬間、今度は鮮やかで明確なイメージが訪れた。東三千子に酷似した美しい女性。自分はこの女を昔からよく知っている! 体が慄えるほどの感動がこみあげてきた。胸が熱くたぎり、とめどもなくふくれあがって行く凄まじいほどの感情の奔騰がやって来た。
平山圭子は驚きに体を固くし、全力を挙げて自制しようとした。もはや郁江が何をステージの上で語っているのかわからなくなってきた。爆発するばかりの感動を抑えるのに必死になっていた。ステージの上の郁江はもはや、郁江の顔には見えない。東三千子に酷似した女性の貌が圭子の目には映っている。いまや語っているのは郁江ではなく、その限りなく懐しく慕わしいその美しい女性なのである。
自分は昔から、その女をよく知っているのだと圭子は心の中にひとりごちた。それは遠い昔......あるいは未来!
破滅の光景が見えた。凄まじい荒廃の景色が突如として圭子を囲繞した。全ての建造物が平らに押し潰され、こぼたれて瓦礫の山と化した恐ろしい廃墟がいきなり圭子の視野に滑りこみ、全知覚を占領してしまった。
それを幻視と呼ぶにはあまりにも凄まじすぎた。圭子はもはや箱根セミナーのホテル会場に聴衆とともにいて、井沢郁江の講演を聞いているのではない。そこから意識を引き抜かれて、世界が死滅を迎えた荒涼たる廃墟に移され、氷雪の舞い踊る中をさまよっているのだった。サイコ・トラベル......しかし、それは迫真的にすぎて、単なる幻視とはいえなかった。彼女自身、その荒廃の世界に立ち合っているのに等しかった。
全身の体液がどこかの異次元空間に吸い取られて行く無気味なおぞましい消失感覚に圭子は捕えられた。これが幻魔の波動だ、と悟らされているようだ。
幻魔の叫喚が伝わってきた。それは天地を崩壊に導く轟音であった。人類の死滅の時が至ったことを告げる鬼畜の鯨波であった。圭子は心身ともに慄えた。否応なしに最後の時が至ったことを悟らずにはいられなかった。
全世界はすでに幻魔が支配している。地球は氷で覆われた死の惑星と化し、小山に等しい大氷塊が時速五百キロの疾風に巻かれ、小砂利の如く唸り飛んでいる。
人類が存在した証拠は何一つ残されてはいない。氷結した死せる惑星、地球が宇宙の深淵にあり、虚無の姿をさらしている......
地軸の割れ砕ける震動が足許から......次第に勢いを増し、這い登って来る。幻魔の恐ろしい波動が全知覚を襲い、宇宙は破滅と死で充満した。
むろん、これが幻視であることを平山圭子は承知している。しかし、幻想の域に留まることなく未来に待ち構えている破滅の時であることも同時に理解している。単なる幻ではなく真実なのだ。東丈はそれを知っている。井沢郁江も知っているであろう。そして圭子自身もまたそれを知らされた者となったのである。
ただの、頭で考えた〝破滅〟の観念ではない。彼らは破滅を魂で経験したのだった。
この経験こそ、魂による受け継ぎそのものだ。と彼女は知った。経験を持つがゆえに、彼らは全力をあげて世界を破滅回避のコースに向わせなければならないと知っている。
郁江の声魂は、圭子の意識に共鳴を起こし、厖大な経験を一瞬にして積ませてしまったのである。破滅体験は圭子の裡に宿り、彼女の精神構造に変化をもたらしていた。
郁江の声魂は、圭子を覚醒させ、解き放った。圭子のこれまで知らぬ自己が目覚め、身じろぎするのを感じていた。
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「地球は、そして地球人類は遙かな超過去から〝幻魔の標的〟となってきました。それは東丈先生がお説きになっている通りです。けれども、人類はなぜ己れ自身の上に加えられている幻魔の熾烈な砲撃を、これまで気付くこともなく生きてきたのでしょうか?
それは人間の心が、否応なしに物質に捉われ、埋没してしまう呪いがかけられているせいではなかったでしょうか......」
郁江が語り続けている。それは青い光が輝きながら瞬いていると圭子には感じられる。
「肉の身に捉われた人間の精神は、もはや五官を通じる以外に、外界を認識するすべを失ってしまっているのです。かつて、人類のだれもが生来備えていた霊覚は物質の中に埋れてしまい、特殊な例外を除いては定かなものではなくなっています。
人間の心が物質に捉われるに従い、そのことは明確化してきます。物質文明が進展すればするほど、人間は物質こそが全てという盲信の虜囚になってしまうのです。
五官という感覚器官だけに捕捉できる物質現象以外は、何も信じなくなってしまったのです。
かつての地上世界に生きた人々は、魂の備える力である、霊覚を自由に使いこなすことが可能でした。遠く離れた場所を、その場にいながら霊視することができ、人々は厖大な距離に隔てられていながら、心と心で自由に話し合うことができたのです。
人々はみな優れた霊能者、超能力者だったということです。それは、当時の人々の心が物質に捉われていずに、宇宙の根元の力、宇宙エネルギーの源と直接結ばれていたからです。人々は心の現わす力、つまり宇宙エネルギーを自由に駆使することができました。
それは現在の人々が見れば、神の顕わす力としか思えないでしょう。何百トン、何千トンもある巨石を、人々は心の力により重力の法則から切り離し、自由自在に操ることが可能でした。そんなことは、彼らにとっては当り前のことなのです。己が心に念じることは全て物質を支配し、現実となって現われてきます。
人々は一瞬にして、何百キロ、何千キロも肉体ごと移動させることを苦もなくやってのけました。今の人間にとっては、神通力以外の何物でもありませんが、当時の人々にとっては己れの足を使用して歩くのと同様に、だれにも簡単になしうる業だったのです。
人々は、物質を心のままに支配しました。魂を肉体から脱出させて、何万光年も隔てた他の天体を訪問させることも造作なくやってのけました。今でいう〝空飛ぶ円盤〟のような非物質的な乗り物に乗って、異星を訪ねることをごく日常的にやっていたのです。
テレパシーやサイコキネシスや、その他、心が現わす超常能力の極限まで使いこなし、ほとんど不死の肉体すら持っていました。己れの意志により肉体年齢を自由に保持することができました。
今の我々から見れば、当時の人々は全て超人類そのものです。高い徳性と巨大な奇蹟能力をだれもが当然のこととして保持していたのです。それは、現在のわたしたちにとっては想像しにくいことかもしれません。それではまるで天上界じゃないか......そうお思いになる方も多いことでしょう。
そうなのです。かつて地球上には〝地上天国〟が存在したのです。人々は心がほとんど完全に開かれており、宇宙意識と容易に交感することをなしえました。高次元世界の人々──いわば天上界の住人たちと話し合い、交流することが日常的に可能だったのです。
それがどんなに素晴らしい世界だったか、皆さんには想像できるのではないでしょうか? いつも東丈先生が心をこめて説かれているのは、このように人間が持てる力を十全に発揮し、心を宇宙意識と通い合わせて生きる世界へ我々が到達することだからです......
超能力なぞ、本来の人間にしてみれば、手足を用いるように容易なこと、当り前のことなのです。
けれども、人間は今、その力を喪失してしまい、それどころか、そのような力など非科学的であり存在するはずがない、と否定までする有様です。
人間は物質の中に全身埋没し、目も耳もきかず、本当のことが何一つわからなくなってしまったのです。
現在の人間は、心というものを見失っています。自分の心が本当はどれだけ偉大な力を蔵しているか、わからなくなってしまっているのです。試みに、知識階級、インテリといわれる人々に、心とはどういうものか尋いてごらんなさい。心とは脳にあるといいます。この物質的な脳髄、肉体の内臓器官である脳こそ心の存在するところだというのです。思惟も感情も全て、この肉体の脳によるものだと沢山の知識を持った人々は自信たっぷりに答えてくれます。
でも、本当にそうなのでしょうか? わたしはこの場においでになる笛川先生にお尋きしてみました。笛川先生は外科の優秀なお医者様です。
すると、笛川先生はこう答えました。現在の脳に関する研究は非常に進んでいますが、研究が進めば進むほど不可解な謎が増えてきます。天才級の優秀な人間の脳と、能力のきわめて低い人間の脳との間には、いかに精密な比較研究を行なっても、全く差異が現われません。
研究すればするほど、脳とは何なのかわからなくなってきます。脳が高度な精神作用のセンターであっても、脳自体が思惟、感情そのものをあやなしているのかどうかは不明なのです。つまり脳と心とはイコールとはいえないようなのです......
脳をいかなる手段で調べても、心を検出することができないのだそうです。脳をさまざまな部位に区画して、機能別に結びつけて説明しようとする試みもありますが、事故で脳を半分失った人間が、平常人と何ら変らずまともに生きている事実もあって、この種の説明は怪しくなっています。
また、睡眠中、人間の意識が失われてしまうことも、脳が心の主体であるとするならば、説明不能になってしまいます。眠っている間、なぜ人間は何もわからなくなってしまうのでしょう。肉体的な感覚から遮断されてしまい、脳はちゃんと機能しているのにもかかわらず、何も見えず何も聞こえなくなってしまうのは、なぜでしょう?
心とは物質ではないからです。物質的頭脳を超えて存在する高次元エネルギー体だからです。
優秀な科学者たちがいかに努力しても、唯物思考によっている限り、脳を調べ、心を検出する試みは徒労に終ります。歯車やゼンマイなどで動く機械にかけては大天才だったレオナルド・ダヴィンチに、現在の高度な電子装置を見せても何一つ理解できないのと同じです。次元が異っているのですから、わかるはずがないのです。
事実は、人間の脳はそれ自体が主体ではなく、送・受信装置にすぎません。精巧な装置ではあっても、脳自体が意志を持ち、感情を持っているわけではないのです。
人間の心という高次元エネルギーが操作してこそ、脳は初めて性能を発揮することを許されるのです。つまり、人間はこの物質である肉体と、心という目には見えない高次元エネルギー体が二つ重なり合って存在しているのです。
睡眠時に、心なる高次元エネルギー体が肉体を離れますと、いかに刺激を与えても何一つわからなくなってしまいます。それは、肉体という乗物を、心という運転者が降りてしまったからです。運転者が再び戻って来てハンドルに手をかけ、ギヤを入れない限り、乗物はそこに静止したままです。生きている死体に等しくなってしまうのです。
昔から人々は、高次元エネルギー体の存在をよく知っており、〝霊〟と呼んでいました。この肉体と〝霊〟は別々のものだと心得ていたのです。〝霊〟が宿らなければ、人間は人間たりえないのです。
昔は人々の多くが霊視能力を持っていたため、霊の存在は疑う余地もないものでした。死者の霊も、一時的に肉体を離れた生者の霊もよく見えて、コミュニケートすることさえ可能でした。
現在の唯物思考に囚われた人々は、霊肉二元論といって、あたかもそれが明白な誤謬であるかのように信じ、迷信の如く平気でそしることをはばかりません。
でも、それはこうした人々が本来の能力を失ってしまい、本当のことが何もわからなくなってしまっているからです。全ての人間が生れつき盲目であるとしたら、視覚があるということすら信じられないでしょう。光が存在し、こうして視覚によってものを見るという行為自体を断乎として否定してしまうに違いありません。もし目が見えるといい張る人間がいたら、狂人としておとしめ、そしるのではないでしょうか。
霊肉二元論と呼んで、霊の存在を否定する人々は、もしかしたら自分には正常な能力が欠けているのではないかと考えることはしないのでしょう。既成概念に目をふさがれている人々は、盲目であることが当然になってしまっているからです。
もちろん、全ての人間の本質は、霊である高次元エネルギーであるがゆえに、霊的能力を全ての人間は所持しています。ただ、その霊能力は潜在しているがゆえに、その存在に気付かず、使いこなせないだけなのです。
宇宙エネルギーは全ての存在の根元です。精神と物質は、本来同じ宇宙エネルギーの別々の現われにすぎないのです。心は高次元エネルギーであり、物質はもっと低い次元のエネルギーです。
東丈先生は、色即是空という般若心経の言葉を、物質とエネルギーは同一のものだと解釈なさいました。万物はエネルギーであるがゆえに不生不滅であり、壊れたり傷ついたり汚れたりしないのだ......皆さんもそれをお聞きになっているはずです。
般若心経は、エネルギーと物質は本来同一であり、宇宙法則に従い流転する、つまり循環するものだという宇宙論を説いている、と東丈先生はおっしゃっています。
わたくしたちは、人間の心が現わす力について何も疑っていないはずです。心がどれだけ大きなエネルギーを有しているか知っているからです。霊能力といい、超能力といい、その本質は心が現わす力です。それは物質的な力ではありません。物理法則に拘束されない、高次元の力なのです。
それは、高次元世界の存在を証明する力に他ならない、と東丈先生はいつも力説しておられます。
人間の本質は、この肉体ではなく霊である、と全ての人々が知っていた時代には、超能力などごく普通のものだったのです。
今はその逆に、ごく限られた人々だけが、霊を見、話すことが出来、霊能力を操ることをなしえます。人々の大部分はもはや自分が霊であるとはわからなくなり、この肉体こそが唯一無二の自分である、と確信するようになってしまったのです。
物質に埋没し、心を囚われた人間は、生れ落ちた時から、地下牢に幽閉されて生きて来た囚人といっしょです。暗い牢獄の壁しか見たことのない囚人は、地上世界の話を聞かされても信じられないでしょう。緑なす野山に美しい色彩の花々が咲き乱れ、小鳥たちの唄が聞こえる、そのような光景はとうてい、想像もつかず、作り事と思いこんでしまうのではないでしょうか。
人間は己れの目と耳で見聞きした範囲内でのみ実感を持てるのです。生れつき盲いた人々には光も色彩も想像がつきません。
人間は自分の既成概念を頼りに生きています。皆さん、ご自分の人生を振り返ってみて下さい。知識は全て外部から与えられます。己れの力で突き止めた真理がどれほどあるでしょうか。
現在のわたしたちは、夜空の星々が天体であることを知っています。しかし、それは両親や兄姉や、先生から授けられた知識であり、それを自明の真理として受け容れているだけです。
過去の人々は、星を天にあいた穴だと思いこんでいました。それも同様にして与えられた知識でした。その時代に星がこの地球と同じように天体なのだと主張した人間は、狂人とみなされ、神の教えに背く異端者として焼き殺されました。
わたしたちは既成概念で生きているのです。ヤドカリのように既成概念という借り物の貝殻で身を覆って生きているのです。もの心ついた時から、年長者たちに教えられ、心に吹きこまれた既成概念の何と多数にのぼることでしょうか......わたしたちの意識には無数の既成概念がびっしり詰めこまれ、まるで既成概念が人間の形を取っているみたいです。
わたしたち人間はそうした意味で恐ろしく保守的であり因襲的です。既成概念を破壊されることをひどく嫌います。己れ自身が既成概念そのものであるがゆえに、自己保存しようと努めるのです。
他から与えられた既成概念がもちろん、全て間違っているわけではありません。しかし生を享けた場所の環境や風俗、習慣によって誤まった有害な既成概念を心に刷りこまれてしまうかもしれません。
そうした危険で有害な既成概念の代表格は、狂信的で攻撃的な、非寛容な宗教教育といえるでしょう。真理を抹殺することを平気でやってのけるようにさせます。人々が互いに愛しあうことを教えるはずの宗教が、反対に人々を殺し合いに赴かせるのです。危険で有害な既成概念ほど恐ろしいものはありません。
人々の心に一度刷りこまれた間違った既成概念は、容易なことでは除去できなくなってしまいます。その試みはまるで手足を切断し、肉を切り取るほどの猛烈な抵抗を人々に惹起せずにおかないでしょう。
唯物的思考に心を冒された人々が、不信と非難をもって、霊肉二元論否定の合唱を行なうことは、ある意味で当然のことではないでしょうか。
霊の存在を認めることは、そうした人々にとって、まさに革命そのものです。ヤドカリが背負っている貝殻を剝ぎ取られ、赤裸で放り出されるほどの恐怖感をもたらすことは間違いありません。
これまで自分が営々と築いてきた人間観、世界観、歴史観を全て放棄しなければならないのです。それは自分が自分でなくなってしまうことです。恐ろしいほどの勇気が必要です。真理を直視することは、それほど大変なことなのです。それよりも霊の存在を否定し、自分の確固たる世界を守ることの方がどれだけ容易で好ましいことでしょうか。しかも人間は生き易さを求めて行く性癖を備えているからには、断乎として真理の否定、抹殺に赴くことは少しも不思議ではないのです。
そうです、そうした人々は自己保存のために、たとえ霊の存在をあからさまに見せつけられ、証明されたとしても、インチキだ、イカサマだと叫び、決して容認しようとはしないでしょう。科学を自己保存の道具にしている人々ほど、空しい科学的権威にすがり、否定に努めるはずです。そんなものは非科学的だ、と彼らは合唱します。非科学的だから、そんなものはあるはずがない、ありえない、と否定し、葬り去ろうとします。架空の科学的権威に依存し、名声を得、生活の基盤にし、糧を得ているエセ科学者は、自己保存のために真理を圧殺することを決してはばかりません。こうした種族はいつの世も存在します。空しい宗教的権威を居丈高に振りかざし、真理を求める真の科学者たちを弾圧し、焼殺した司祭たちは、エセ科学者たちの精神的先祖であり、今また生れ変って同じことをやっているのかもしれません......
けれども、全ての人の心には、真理への欲求が潜んでいることも否定できない事実です。それもそのはずです、人間の本質は霊であり、人間はだれしも潜在意識においては真理を知っているのですから......太陽に向こうとする向日葵のように、人々の心はおのずと、自動的に真理の光に向こうとするのです」
場内にざわめきが生じていた。聴衆の大部分は、郁江の語る言葉に心を魅せられていたが、一部の者はそれを阻害し、故意に聴衆の精神集中を妨げようと計っていた。
──そんなことはどうでもいいんだ、という声高な野次が明瞭に、郁江の息継ぎの合間に聴衆の耳を打った。それは独白のように装ってはいるが、明らかに講演の妨害を意図したものであった。最前列にいたトップ屋風間は真先に反応を示し、くるりと振り返って大胆に聴衆と向きあい反乱者を捜しにかかった。手はすでにカメラをスタンバイしている。
16
──先生はどうしたか知りたいんだ......
と再び野次が湧く。
──先生はどうなってるんだ......
「しかし、人間が肉と霊の二つで構成された存在であることが、次々に証明されてくれば、いかに物質に心を捉われた人々も、次第に無視を続けたり、闇雲に否定することが困難になってくるでしょう」
ステージの郁江は野次には取り合わずに語り続けた。
「自らが霊に他ならないのだ、と自覚する人々がどんどん増加してくれば、一概に否定し無視できない状況が生じてくるでしょう。名もない庶民ではなく、指導者層にある有力な人々が己れの霊性に目覚めた時、これまでのような揶揄と嘲弄の対象にできなくなったことがわかるかもしれません。
いずれは必ずそうなるとわたしは思います。先日、このようなことがありました......」
郁江は野次にきらりと輝く瞳を投げ、平然と言葉をつむぎ続けた。
「事故で頭部に重傷を負った若者がいたのです。若者は意識を失ったまま病院に運ばれましたが、脳に損傷を負ったのか、そのまま意識が戻ってきません。自発的に呼吸し、心臓にも異常はないのですが、ベッドの上に横たわったままの有様です。どんな刺激を与えても何の反応もありません。昏睡状態のまま、いわゆる〝植物状態〟になってしまったのです」
意表を衝かれたように野次が止んだ。聴衆はしんとなって郁江の次の言葉を待っていた。噂を小耳にはさんでいる彼らは、その若者が高鳥や郁江が暴力団塚田組と悶着を起こすきっかけになったチンピラであることを理解したのである。
「頭部に骨折が生じていて、確かに重傷ですが、その若者が植物状態と化すほどの重大な損傷は脳に生じていないらしいのです。にもかかわらず若者は意識を回復しません。ただ呼吸をして心臓が動いているだけの、生ける死人になってしまっているのです。
脳をいろいろ検査しても、理由が全くわかりません。脳のよほど深部に異常が起きているのかもしれないと考えられました。しかし脳幹を切り開いて調べていては、患者に重大な生命の危険があります。器質的な故障はほとんど考えられないという結論が出ている以上、そんな冒険は許されません......
わたしがその若者を──K君と呼んでおきますが、見舞いに行った時には、病院でも打つ手がなくなっていました。十八歳のK君は植物状態と化した姿で、いつ意識が戻るやら知れず、ベッドの上に縛りつけられたまますごすしかなくなっていたのです。
K君にはたった一人の身寄りの年老いたお母さんがいて、雑役婦をしているお母さんは毎日病院へ見舞いに来ては泣いています。ちゃんと生きて呼吸しているのに、眠ったままどうしても起きてくれないからです。いくら話しかけても、K君には聞こえません。泣いても叫んでも、生き人形のようになったK君には全く通じないのです。
お母さんがいくら泣いてお医者さんに頼んでも、どうすることもできません。K君は脳波計で調べて見ても、普通に眠っている時と少しも変らないのです。ただ揺すろうと叩こうといっこうに目を覚まさないだけです。ただひたすら眠り続けているのです。
でも、人間の睡眠とはいったい何なのでしょうか。不思議なことに、睡眠とは何か、まだ科学的に究明されていないのだそうです。沢山の学説はあります。睡眠が人間にとっては不可欠で、もし眠らせなければ精神錯乱を起こした挙句、死んでしまうことがわかっています。それほど人間にとって欠くべからざる大切な睡眠なのに、学説が乱立しているだけで、定説がないのだそうです。人間の脳が意識のセンターであるとされながら、ほとんど解明されていない事実とよく似ています。
脳波計で脳波を測定し、記録することは可能です。覚醒時と睡眠時の脳の働き方は違うということは脳波を調べればわかります。
でも、人間がどうやって思考するか、脳波からは決してわからないんです。天才の脳と凡人の脳をいくら実験室で精密に調べても差異が見出せないのと同じです。
人間は眠ると夢を見ます。それも脳波計からはわかりません。脳はちっとも機能していないのに、夢を見ている我々は、現実と同じように思考し、行動し、五官を働かせています。夢の中では、現実と非現実の区別はつきません。我々はそこで現実と同じように生きているのです。歩いたり走ったり、食べたり飲んだりします。
逆説睡眠と呼ばれるごく眠りの浅い状態で人間は多く夢を見ます。眼球運動が起ったり、筋肉が痙攣して手足をピクピクさせたりします。そんな時は、人間は夢を見ているのだそうです。
でも、眠りが深くても浅くても、人は夢を見るんです。脳波に全く変化が現われなくても人間は夢を見ます。脳が機能している証拠は全くないのに、人間の意識は活動し続けているのです。
脳が働きを停止しているのに、意識が活動しているのは、意識がそれ自体、脳に根差しているのではないという証拠です。そうではないでしょうか? 人間の脳が結局はコンピューターと同じだというならば、コンピューターが作動していないのに、意識だけが勝手に分離して働くはずはありません。
脳はただの送・受信装置にすぎないんです。運転者が操作しなければ、何一つ自分からは出来ない機械でしかないのです。霊が肉体を離れた時、人間からは精神作用が消え失せてしまいます。
でも唯物的思考に捉われた人たちは、霊の存在を頭から否定しますから、どうにも説明がつけられず、わけがわからなくなってしまうのです。唯一の正しい解答を無視して、他に答を探そうとするのですから、救いようのない混乱状態に陥るのは当り前です。
真の主人である霊が離れた後の脳をいくら切り刻んで調べてみても、真相が判明するはずはありません。
生命現象も同じなんです。霊が一時的に離脱した時、睡眠という現象が生じます。完全に離れた時、肉体には死が訪れます。生命現象を支配しているのは、霊という高次元エネルギーに他ならないわけです。
霊存在を否定する物質科学は絶対に生命現象の秘密を知りえません。霊能力、超能力と呼ばれる〝力〟は、霊の発揮するエネルギー波動です。ですから、超能力者の脳をいかに調べても、超能力の源泉は突き止められません。普通の人の脳とちっとも変らないんです。
しかし、脳が傷つけば、人格に変化を来たすではないかという反論があります。脳に損傷を受けた人の人格が変り、無気力になったり凶暴になったりすることは、わりあい知られていることです。
でも、この反論は当を得ていません。人間の体は遠隔操縦装置を備えた乗物です。送・受信装置のコントロールがうまく働かなくなれば、乗物が性能を劣化させるのは当然です。
操縦性能が損なわれてしまったから、人格が変わったように見えるだけで、心霊的主体の高次元エネルギーは少しも変化していないのです。
皆さんがもし飛行機に乗っている時、操縦装置が壊れてしまったとしたらどうでしょう? ただ気が狂ったように飛行機は飛びまわるしかなくなります。でも、それは操縦者が狂ったということではないんです。地上から見れば一見、そう見えるということなんです。
おわかりでしょうか? 現在の物質科学は霊という高次元エネルギー存在を否定しているために、とんでもない袋小路に迷いこみつつあります。つじつま合せのために沢山の説明を考え出しますが、全ては的はずれになってしまいます。
現在の科学は、物質至上主義を捨てない限り、これ以上は進展しません。高次元世界の秘密は、物質至上主義者の決して手の届かぬ高みに存在しているからです。
それで、K君はどうなったのだ? ともどかしげな顔をなさっている皆さん、ご安心下さい。
わたしは植物状態を初めて見たのですが、眠っている人と少しも変りはありませんでした。ただ、眠っている人は、呼び起こせば目を覚します。肉体を離れている霊は、矢のようなスピードで古巣の肉体へ飛び戻ってきます。
植物状態というケースは、霊が肉体へ入りにくい状態にあるのです。肉体をお留守にしたまま、どこかにひっかかってしまっているわけです。
もちろん、脳がひどく壊れている場合は、本人が操縦不能になり、植物状態になってしまうのですが、K君の場合はそうではありませんでした。
K君の霊体は、頭を両腕で抱えて、うずくまっています。すっかり絶望した様子で、虚脱したようになっているのです。肉体に帰りたくてもうまく行かず、疲れ果てて呆然としているようでした。

わたしはまだ包帯をしたままのK君の頭に掌を当てがい、光を与えながら呼びかけてみました。そしたら、声が届いたんです。K君の霊体は、はっとして立ち上り、わたしの言葉に耳を傾けていました。
K君の霊体はこの地上にではなく、どこか異次元にいるのですが、テレパシーのようにわたしの声を想念として聞くことが出来たのです。
K君の霊体はあっという間に飛び帰り、瞼が震えたかと思うと、ぽっかりと目を開けました。二週間近くも植物状態でいたままのK君が、霊体が肉体に入り、重なり合ったと同時に、完全に正常な意識を取り戻していたのです......」
会場は気を吞まれたようにしんと静まり返り、もはや妨害の野次も鳴りを静めていた。郁江がとてつもない奇蹟について語っていることはわかっていた。しかし、彼女があまりにもさりげなくそれを語ったために、にわかに対応するすべを見失ってしまっているのだった。
最前列のトップ屋風間が異様な関心の虜になって、魅せられたように郁江を見詰めている。むろん、それは風間だけにとどまらなかった。
「その場に居合わせた老いたお母さんが、悲鳴のような声でK君を呼びました。K君は、母ちゃん! と応えて、ベッドの上に起き上ってしまいました。二週間も植物状態だったK君が、ごく当り前の眠りから覚めたという気軽さで起き上ってしまったんです......
植物状態から回復したK君は、何の後遺症もみとめられませんでした。ごく普通の正常な若者でした。お医者さんはもう大丈夫だと太鼓判を捺してくれました。怪我をして植物状態になる前と少しも変りがないといいました。
でも、本当はK君は変っていたんです。心の中に大きな変化が生じていたのです。
実をいいますと、K君は中学時代から非行化して、グレてしまっていたんです。事故に遭う時は、暴力団に入っていました。早くいえばチンピラです。肉体は健康でも、心は健康とはいえませんでした。心はいつも殺伐として平和な安らぎなどなく、たった一人の身寄のお母さんにいつも心配をかけ、心を悩ませていました。
K君はそんな荒んだ自分が自分でどうにもならなかったんです。暴力団から足を洗おうなどと全く考えてもいませんでした。早くいっぱしの兄貴分になって大きな顔をしたい......それがK君の唯一の望みだったんです。兄貴分になれば金も入るし、いい思いもできる。いつも心配かけているお母さんにもお小遣いぐらいやれるようになる......K君は人に嫌われ、恐れられることがかえって誇りでした。いつも自分を馬鹿にした連中が、K君を恐れて道を避けて行くんです。自分が大きく強くなった気分を味わって、いい気持になることができるからでした。
でも、心には安らぎがありません。暴力団のチンピラなんて実態はとても惨めなものなんです。暴力団組員たちの奴隷でしかありません。いつも掃除や洗濯、使い走りでこき使われているばかりで、小遣いもろくにないし、着る物もろくになく、冬など裸足のままいつもいつも寒い惨めな思いをしていなければなりません。
兄貴分のいうことには絶対服従を要求され、もし反抗的に振舞ったり、失敗を犯したりすれば、ひどいリンチを受けます。チンピラなんて、人間並みに扱ってもらえないんです。心はいつも満たされず、欲求不満で苛立っています。
街で見かけるチンピラの実態なんて、こんなものです。ですから、彼らの願いは早く昇格していっぱしの兄貴分、正規の組員になりたいということに尽きます。足を洗ってチンピラを辞めることは簡単には出来ません。今もいったようにチンピラは奴隷であって、暴力団にとっては道具であり持物です。人間ではないんです。その奴隷が足を洗いたいからといって、あっさり辞めさせてくれるわけがありません。逃げてもすぐに摑まって猛烈に焼きを入れられます。暴力団とは生易しい世界ではないんです。地獄と全く同じです。
K君はいかにお母さんがいい聞かせても、泣いて頼んでも、暴力団を脱ける気は毛頭ありませんでした。早く出世して兄貴分になりたい......そうすれば金も女も権力も自由になる、お母さんも楽にしてやれる......他にK君は考えなかったといいます。ただ殺伐な荒んだ心で毎日を送っていたんです。
人々に蛇やムカデのように嫌われるような悪どいことを得意になってやっていました。ヤクザ、暴力団といわれる連中は、映画や小説で描かれるようにカッコいいものじゃないんです。任俠なんていいますが、噓ばかりです。正体は弱い者いじめの人間の屑の集団です。卑しい欲望を満たすためには、どんな悪どいことでも平気でやる地獄の団体です。K君は、そんなことには少しも疑問を持ったりしませんでした。兄貴分には卑しくへつらい、弱い人間をいじめることに少しも抵抗を覚えない人間の屑になってしまっていたからです。
そんなK君が植物状態になったところで、だれ一人悲しんでくれる他人はいませんでした。暴力団にしてみれば、道具の一つが壊れて使い物にならなくなっただけです。後のことは知っちゃいません。もちろん面倒など見るはずがありません。奴隷としてK君を追い使っていた組員たちは、だれ一人病院へ見舞いに来ませんでした。人間の屑なんて、そんなものです。
今度のことで、K君はそれを厭というほど思い知ったようです。K君には考える時間が沢山あったからです。
ベッドの上でぽっかりと目を見開いたK君の第一声は、母ちゃん、とお母さんに呼びかけることでした。K君は目が覚める前から、お母さんがその場にいることを知っているようでした。後でお話しますが、意識を喪失して植物状態になってしまったK君は、自分の身に何が起きているかみんな知っていたんです。
K君は第一声のあと、わたしを見ていきなりこういいました。──俺、あんたを知ってるよって......」
17
聴衆を戦慄が襲っていた。ぞくぞくする波動が人々の身裡をくり返し通り抜けていった。郁江はしっかりと聴衆の心を摑み、自由自在にあやなしていた。彼女の発する一語一語、一挙手一投足に人々は耳目をそばだて、魅せられてしわぶきの音もなく聴き入っているのだった。
東丈はかつてこのように己れの体験した超常現象について、具体的に語ったことはない。むしろ己れの霊覚に関する経験は、注意深く抑制し、隠蔽すべく努めていたのである。
今、郁江は何のてらい気もなく、率直に語り始めていた。それは彼女が霊覚を備えていることの告白ですらあった。
「K君は本当に変ってしまいました。心境が変ったために、人柄や顔付まで変ってしまったような印象を、かつてのK君を知る人々に与えたのです。
以前のK君とは人間が違うように、柔和な口をきき、思いやりを示して、お母さんをひどく驚かせました。とげとげしい攻撃心にあふれた、荒んだ心境が一変してしまっていたのです。殺気立った雀蜂のようにだれに対しても攻撃的で、お母さんに対して手をあげることさえはばからなかったK君が、お医者さんや看護婦さんに対して、素直にありがとう......と感謝の言葉をのべられるほど、K君は心が和んで優しくなっていました。
K君の身にはいったい何が起こったのでしょうか? 二週間もの間、病院のベッドの上で植物状態と化して昏々と眠り続けてきたK君の身に、何が起こったのでしょうか? 皆さん、想像してみて下さい。唯物主義者には決して理解できないことが、K君の心には生じていたのです......」
郁江はレーザー光線のように強く明確な光を感じさせる瞳で、聴衆を見わたした。強烈な光が瞳から迸り出てくるのである。東丈が郁江の眼の中に宿っている、とだれしもが感じていた。確かにこれは、これまでの郁江とは異る存在であった。
人々は身じろぎもせず、寂として静まったまま、郁江の次の言葉を待っていた。
「K君は二週間ほど前の夜、自ら乱暴な事件を起こして、頭に大怪我をしました。相手に摑みかかったところ、身をかわされて、自分からコンクリートの電柱に頭から突っ込み、自爆してしまったんです。頭骨が割れて陥没する重傷でした。
K君もそこまでは記憶していました。あっと思ったとたん、衝撃とともに真暗になってしまったのです。
気がつくと、K君はコンクリートの路上に座りこんでいました。両腕で頭を抱えこみ、うずくまっていたのです。ここはどこなんだろう......?
ひっそりと静まり返った、人気のない空虚な街でした。まったく見憶えがありません。だれかが気を失っているK君をこの見知らぬ街に運び、置き去りにしていったんだろうか? K君はまずそう疑いました。
建物はみな古びて背が低く、街はがらんとしています。人間どころか犬ころ一匹、雀一羽見当りません。空はどんよりと曇って、頭を押しつけるように灰色の密雲が垂れこめています。
K君は取りあえず、立上って歩き始めました。体には何の異常も見当りませんでした。したたか頭をコンクリートの電柱にぶつけてぐしゃっと潰れたような気がするのに、頭には傷一つありません。どうなっているのか、さっぱりわかりませんでした。
だれか人と行き遭ったら尋こうと思って、街中を歩いてみましたが、人間の気配はないようです。おーい、だれかいないかあっ、K君はついに堪りかねて大声で叫びました。いたら返事をしてくれえっ、おーい、だれか......声は頼りなく拡がって行き、建物に反響するばかりです。
K君にも、ここが無人の空虚な街だとようやくわかってきました。通りをどんどん歩いて行きますと街はずれに出ます。荒野が地平線の果てまで続いているだけで、道路はありません。引き返して通りを反対側の街はずれに行っても同じです。重苦しい鉛色の密雲が地平線に押しかぶさっているばかりです。
荒野の果てを考えると、K君はぞっとしてしまいました。そこには何もないという気がしたからです。無人の街を出て、荒野をどこまでも歩いて行く勇気などK君にはありませんでした。ただ無性に恐ろしくなりました。この無人の街の他には、〝虚無〟しかないんだという考えにとり憑かれてしまったのです。何もない全くの虚無......K君にとりそれほど恐ろしいものはありませんでした。この無人の街を出るなど、とうてい考えられないことでした。
K君はそこで幾日もすごしました。いつまでたっても、状況は少しも変りません。空を見上げれば、いつも密雲は頭を圧しつけるように垂れこめて不安をそそりたてます。時間は経過しているのか経過していないのか、K君には見当もつきません。ですから幾日も経ったと思うのはK君の主観にすぎず、本当は数時間であるかもしれず、あるいは数十分間かもしれないのです。
幾日もたったと感じているのにお腹も空かず、眠くなることもありません。街中の建物の中を全部、隅から隅まで探しまわりましたが、かつて人がいたという痕跡は全くありませんでした。まるで映画撮影のために作られた書き割りの街のようです。しかも、だれがこんな空虚な街を作ったのか、見当もつきません。
K君は探し疲れて、路上にうずくまり両膝を両手で抱えてぼんやりとしていました。だれかが気絶している自分をここに運び、捨てていったことを確信していました。
〝異次元〟に来たのかもしれない......K君はそう思いました。前に見たTV番組に、不思議な異境を扱った場面があったようなのです。〝異次元〟......何だかわからないけれども、ぴったりする呼び名だとK君は思いました。
暴力団のチンピラ仲間はどうしたろう、とK君は考え始めました。自分がどこかにいなくなったので不思議に思っているだろうな......でも、K君はこの時ふと思ったんです。あいつ等は俺が居なくなっても、たいして気にもしないし、すぐに忘れるんじゃないかって。
暴力団なんてそんなものなんです。チンピラや組員が死んでも、すぐに忘れられてしまい、死んだ者を噂することもなくなります。心の荒んだ人間は死んだ者に気を使ったりしないものです。目先の欲望を満たすことだけに熱中しているんですから......
K君はそれに気付き、猛烈な淋しさに襲われてしまいました。かつて中学時分、非行グループの兄貴株が盗んだバイクで事故を起こし、腸が破れてあっけなく死んでしまったことがありました。K君はそれすら、あっという間に忘れてしまった自分に気付いたんです。
だれもがあっという間に、K君という人間が地上に存在したことを忘れてしまうのだ。そう思った時、かつてないほどK君は辛く切ない気持になりました。泪が流れ出て止まらなくなってしまいました。自分を心にかけ気にかけてくれる人間がだれもいない......それがどれほど孤独でやりきれないものか、K君は生れて初めて思い知りました。これまで火花を散らすように、せつな的に生きてきて、欲望をその場その場で追い求めてきたK君は、欲望を充足させるすべもない世界に来た時、初めて自分の空虚な心が見えてしまったのです。
喉が乾いたりお腹が空くこともなく、欲望がきわめて稀薄になってしまっています。淋しさだけがあるのです。猛烈にやりきれない孤独感です。
K君はお母さんのことを考え始めていました。今まではたいして肉親の絆や愛着を覚えたことのないお母さんなのです。いつもいつも心配ばかりかけてきました。K君をいさめる母親に、やかましい糞ばばあ、説教ばかりしやがって、といつも怒鳴っては乱暴を働いてきたのです。
母親に楽させてやろう、と殊勝な気持になることなど滅多にありませんでした。それどころか、小遣い銭をせびりに行っては母親をいじめつけ、泣かせてきたのです。早く兄貴分になって、母親に小遣いでもくれてやる身分になりたい......それはK君に多少良心が残っていた証拠だったかもしれませんが、母親の泣き顔を見ると、なぜかむらむらと腹が立ち、残忍な仕打ちをしてしまうのです。自分で自分が抑えられなくなって、口にすることもはばかられる醜悪な言葉で母親を罵り、辱しめてきたのです。
母親は、俺がいなくなって、ホッとしているかもしれない。いつもいじめつけては、なけなしの金をむしり取ってきたからなあ......
なぜ、こんなことになってしまったんだろう、とK君は突如考え始めていました。昔からお母さんをいじめて、泣かせてきたわけではないんです。お母さんに可愛がられて、幸せだった子供のころもあったのです。優しくてきれいだった、昔のお母さんを想い出して、K君はなんともいえない奇妙な、不可解な気持になりました。
五十代になったばかりで、もう老婆のように老いこんでしまった母親、苦労ばかりしてきて、少しも楽しいことなどなかったような、やつれて老けた母親。お母さんをこんなにしてしまったのは自分だ、とK君は思いました。
中学時分にグレてから非行の限りを尽くし、人を傷つけ、少年院を出入りして、お母さんはその度に老けてやつれ、白髪が目立ってきた......
なんでこんなになってしまったんだろう? 何が悪かったんだろう、とK君は真剣に考え始めました。最初から今のように荒んでいたわけではないのです。幼いころは幸せで楽しい日々があったはずなのです。きれいで優しい母親にいつくしまれて、幸せだった幼い日々が確かにあったのです。仲のよい友達もいたし、好きだった可愛い女の子たちもいました。
それがいつの間にか、学校の成績は低下し、頭が悪いと級友や先生たちからも馬鹿にされ、憂さばらしに腕力を振るって、いっぱしの悪に成長して行ったのです。家が貧しく頭が悪いと馬鹿にし嘲笑する世間の連中に、暴力で仕返しを始めていたんです。
過去のことを考え始めたとたん、不思議なことが起こりました。目の前の空間に、いきなり映画が上映されだしたのです。カラーでしかも立体映画なんです。しかも映画館で上映されるようなのとは違って、物凄く鮮明で、現実と寸分変りません。
むしろ、空間に穴があいて、他の異次元とつながってしまい、その穴を通して、現実に起きていることを見せられているようにK君には思えました。
立体映画の映し出す光景には見憶えがありました。自分が生れ育った街の景色なんです。K君にはすぐにわかりました。自分自身の過去の姿を立体映画で見ているのです。画面には幼い日の自分自身が出てきます。若い時分のお母さんが出てきます。お母さんに手を引かれた仲むつまじい親子の姿です。それはK君が過去を想い出し、反省し始めたとたん出現したのでした。それは決して夢でも幻覚でもありません。過去に起きた出来事が、現実そのものとして目の前にあるんです。
K君は体が痺れるほど感動しました。自分にもかつては幸せな日々があったことを目のあたりに見せられたのです。その光景に促されるようにして、幼い日々の記憶が次々に念頭に甦ってきました。
仲良しの友達と遊んでいる幼い自分が見えます。K君は自分がそんなに小さいころから乱暴だったことに気付いてびっくりしました。本当は好きな女の子をいじめて泣かせている自分を見て、恥しくなりました。いつもそうだったことに気付いたのです。現実そのものの光景が目の前に見えてしまうのですから、どうにもなりません。そんなことはしなかった、と否定することはできないのです。
体が大きくて腕力が強いのを鼻にかけて、意地悪で乱暴な行為が多いのを見せつけられて、恥じ入るほかはありません。友達の親がどなりこみに来て、お母さんが平身低頭して詫びている光景が見えて来ます。なんの理由もないのに、友達を突き倒したり殴りつけたりして怪我をさせることが多いのです。
それが父親に知れると、ひどい折檻を受けます。父親は激情家で嚇っとなるとK君や母親に殴る蹴るの乱暴を働くのです。棒切れでK君をビシビシ叩くので、K君は泣き喚いて逃げまわり大騒ぎになります。父親は機嫌のいい時はK君を猫可愛がりするんですが、何か外で面白くないことがあって不機嫌だったりすると、八つ当りのように手を挙げる人です。ギャンブルが大好きで、家庭にはいつも波風が絶えません。お金を外で使ってしまうので、お母さんはいつも青い顔をしています。
──あんた......お金がないんだけど......お母さんが恐るおそる請求すると、お父さんは額に青筋を立ててしまいます。ちゃんと金はやっている、この前やった金はどうしたとどなりだし、言い争いになります。お母さんが無駄遣いしたのだろう、と反対に責めるのです。
お母さんはやがて仕方なく夜のお勤めに出ることになります。なにしろお父さんがそんな有様なので、親子二人干ぼしになってしまうといっています。バーに働きに出たお母さんは明るくなり活きいきとして、ますます美しくなってきます。お父さんはそれが気に入りません。ことごとに厭がらせをし、夫婦喧嘩の絶え間がありません。K君もだんだん陰気になってきました。お母さんがいつも家をあけるようになったからです。K君はお母さんのかげに他の男の存在を感じ取っていました。もうそのころには、夫婦仲は決定的に悪化していたのです。
バー勤めで沢山の男性を見るようになったお母さんは、父親がいかにだらしなくて駄目な人間であるかを悟ったように振舞い出していたからです。お父さんはますますギャンブルにのめりこみ、大きな借金をこしらえた挙句、夜逃げしてしまいました。K君とお母さんを置き去りに、蒸発してしまったんです。
K君はなぜ自分がお母さんに辛く当ってきたか、理由を悟りました。蒸発した父親が自分を捨てたのは、お母さんが他の男と浮気したせいだと信じこんでいたからです。父親が酔っ払って悪しざまに母親を罵った言葉をそのまま鵜吞みにしていたのです。夜の勤めに出てからお母さんが留守がちで、自分が見捨てられたように感じていた怒りや恨みのせいだったのです。家庭を破壊し、子供をほうりぱなしにして駄目にしてしまった責任を、全てお母さんに負わせたんです。そして陰湿な復讐心を心に巣食わせていたのです。
もっとも、お母さんはバー勤めで知り合った男性を好きになり、それが元で、父親とのいさかいを激化させた事実はあるようでした。しかし、K君がずっと信じ続けてきたように、悪いのはお母さん一人ではなかったのです。母親が浮気したので父親が家出し、家庭が崩壊し、自分はこんなにグレてしまった。悪いのは何もかもお母さんだ、と事あるごとに責めてきましたが、そうではなかったのだとK君は悟りました。父親の卑怯さが破滅の最大の原因だったのかもしれない、とK君は気付きました。何もかも母親一人が悪いなんてことはありえなかったのだ......
その後、K君が鬱憤晴らしをするように非行化へ傾くのを見て、母親は反省し、情人とも手を切ったようですが、もうK君の心に生じた傾斜はどうにもなりませんでした。K君は自分の裡にある凶暴な火をどうにもできないようになっていました。
凶暴な衝動に駆られるままに、K君は非行を重ねました。中学一年の時にはいっぱしの悪になっていました。悪いことは何でもやりました。盗み、恐喝はもちろん、手当りしだいに犯罪行為へのめりこんで行きました。悪い仲間と徒党を組んで教師を脅し、学校の教育資材を大量に盗んで売り飛ばしたりしました。仲間たちと女の子を襲い、集団暴行を働くことなど日常茶飯事でした。
K君はそうした自分の過去をことごとく立体映画で見せつけられてしまいました。目をそらそうにもそらせないのです。顔をそむけ、背中を向けても、目の前についてまわります。目をつぶっても見えてしまうんです。冷汗を流しながら、自分の犯した悪の数々を見ていなければなりません。
冷酷で無慈悲で、他人に対して一片の思いやりもなく、心の痛みも感じず、他人を傷つけ、苦痛を与え、蹂躙してきた過去の罪業が一つ一つ克明に見えて来てしまうんです。
なぜ自分がこんなに残忍な所業を平然と働いてきたのか、K君にはわけがわかりませんでした。心が凶暴な鬼になっているのです。悪いのは自分ではなく、世間や母親が悪いから、自分はこんなになったのだ、と本気で信じているのです。罪の意識など少しもありはしません。他人をやっつけ、踏みにじるのは当り前のことなんです。やられた相手がどうなろうと知ったことじゃないんです。
心の裡の凶暴な火のような衝動につきうごかされるままに、K君は行動しています。凶器で人を脅し、服従させ、いたぶることには特別な快感があります。他人に屈辱を与えることが楽しくてならないんです。
中学三年のころ、K君は小学校の同級生の少女を仲間たちと襲い、集団暴行を働いて捕まり少年院送りになりました。昔、好きだった同級生の少女をK君が呼び出し、十数人で乱暴したのです。
K君の眼前でその光景は全て再現され、正視に堪えませんでした。少女の悲鳴や泣き声が胸をえぐり、全身に冷汗がとめどもなく流れ落ちます。K君はこれほど後悔したことはありません。いつも心に引っ掛っている罪悪感なのですが、強いて心から振り払ってきた記憶なのです。
悪い事はいくらもしてきましたが、こればかりは忘れることがどうしてもできなかったのです。だってその哀れな少女は、小学生時代いつもK君に親切でこそあれ、意地悪なんかこれっぽっちもしなかったのですから......
さすがのK君も心にとがめてきたのです。でも、残虐な心の鬼にとり憑かれているK君は機会があれば同じようなことをやってしまうのでした。それこそ何十度も、数えきれないほど繰り返してきたのです。
自分が悪かった! K君はその時初めて思いました。地面を叩き、やめろ、やめろ! と喚きました。少女を襲っている十数人の仲間を全員殴り殺しても、少女を助けたい、と本気で思いました。しかし、仲間を率先して残忍な所業を働いているのは、他ならぬ自分自身なんです。どうすることもできません。
K君は泣きました。取り返しのつかない自分の行為を悔い、赦しを求めて泣いたんです。自分は本当はこんなことはしたくなかったんだ、そう思いました。自分はその同級生の少女が好きだったし、ずっと愛していたんだと気付いたんです。その愛を、なぜかK君は破壊として表現するしかないのでした。K君は好きで堪らないものを全て破壊してきたのでした。世界との関り合いで、K君はそうするしかなかったのです。幼稚で残酷な自分をどうすることもできなかったのです。
K君は深い悔恨に駆られて泣きました。これまで鬼畜と化して生きてきた自分の心が見えてしまったのです。母親が悪い、世間の奴等が悪い、と全て責任を他になすりつけてきましたが、自分こそ心の鬼にとり憑かれ、嗜虐の快感を味わい、楽しんできた極悪人だったと気付きました。
責任を他人に押しつけるのは間違いだ、と気付いたんです。母親が苦労している時、自分はなんの同情もしなかった。苦しんでいる母親を責めることに喜びさえ見出していたのです。自分は幼くて善悪の区別もつかなかったわけではなかった。自分は母親をかばうべきなのに、反対に母親を責めたのだ。父親を追い出したのはお母さんではなかった。悪いのは母親ではなく、自分だった。愛してくれる母親を憎み、いじめつけることに喜びを見出していた自分だったんだ。
──お母ちゃん、ごめん! K君は声を出してそう叫んでいました。母親を駄目にし、母親の人生から笑いを奪い、苦しみだけで満たしたのは自分だ! 俺が悪かった! 俺はこの永久に時の過ぎない、〝地獄〟で罪を償うことになって、お母ちゃんにあやまることもできない! でも、今は本気で後悔し、すまないと心から思っているんだ......
お母さんにもう一度逢い、ごめんなさいと謝まれることができたらどんなにいいだろう、とK君はしんそこ思いました。
すると、どうでしょう。過去を再現している立体映画がいつの間にか止んでしまったんです。
あれだけ見まいとして必死に、目をそらし、顔をそむけても否応なしに見せつけられていた、恥ずべき過去の再現がぴたりと止んでしまっていたのでした。
K君はしばらく呆然としていました。嵐が心の中で荒れ狂っているようでした。自分は真実を知ったのだということだけわかっていました。
でも、だれがこれを自分に見せてくれたのだろう? 神様だろうか? 自分をこの異次元世界へ運び、今過去を再現して見せつけてくれたのは、偉大な神様なんだろうか?
やっぱり神様はいるに違いない、とK君は確信しました。神様でなければ、こんなことは不可能だし、その神様が自分に反省させ、気付かせてくれたのだ。
これは自分に神様が与えた罰だろうか? 自分は罪を償うため、永久にこの無人の街に閉じこめられるのだろうか? それも仕方がない、とK君は思ったんです。自分は人を殺すよりも残虐な恐ろしい罪を沢山犯してきたんだから、罰を受けるのも仕方がない。どんなことをしたって、あれだけの罪を償うことなんかできやしないのだ......もっともっと恐ろしい罰を受けたって、文句をいう資格なんかないのだ。
でも、できればお母さんにあやまりたい。悪いのはお母さんではなく、俺だったといって安心させてやりたい。お母さんは俺がこんなになったということで、自分を責め続けて、あんなに醜く老けてやつれてしまったのだから......
K君がそう思ったとたん、また異次元につながる穴が目の前に現われました。神様がK君に何を見せようとしているのか、K君はもう恐れませんでした。もう観念してしまったのです。何を見せられても、それは罪の償いなのだろう、と平静な気持で受け容れる心境になっていました。
今度見えたのは、病院の光景でした。お母さんが受付を通り、病院の廊下を歩いて行くのが見えます。お母さんは階段を昇り、また廊下を歩いて病室の一つに入って行きます。いったい何をしに行くんだろう? K君は興味を持って見守っています。どうやらお母さんは病人をお見舞いに行くらしいのです。だれが入院しているのかな......?
病室へ入ったお母さんは、立ちすくんでベッドの中の病人を見詰めています。病人は剃りあげた頭部に包帯を巻きつけています。眠っているようで、お母さんが入っても何の反応も示しません。
その病人の顔をつくづくと眺めたK君は息が詰まるほどびっくりしました。昏々と眠り続けている病人は、まさしくK君自身だったからです!
目の前に自分が寝ているんです。正確にいえば自分の肉体です。何がどうなっているのか、と疑わずにはいられませんでした。だって、K君自身はちゃんとそこに存在しているからです。なぜもう一人の自分が頭に大怪我をして病院のベッドに横たわっているのか、わけがわかりません。それでは自分が二人いるということになります。
夢じゃないか、とK君は疑いました。体に触ってみると、ちゃんと存在するのがわかります。頰っぺたをつねってみると、確かに痛いんです。決して夢じゃありません。
異次元の光景に目を凝らし、進行している状況を、お医者さんとお母さんの会話から推察すると、ようやく自分の身に何が起きたか、見当がついてきました。あの夜、覚醒剤をやって異常に攻撃的になっていたK君は、頭を強く打って頭の骨を折り、救急病院に運ばれたまま、ずっと眠り続けているということがわかったんです。意識がどうしても回復せず、植物状態になっているというのです。
そんな馬鹿な! とK君は思いました。だってK君はちゃんとここに存在しているからです。体だってちゃんとあるし、自由に運動することだってできます。頰をつねれば痛いのが、ちゃんと肉体をもって存在している証拠です。
医者はいったい何をデタラメいっているのだとK君は腹を立てました。植物状態とは何事だ。自分はこうやって異次元の世界に運ばれているが、無事に生きているではないか。頭の骨を折ったなんて、とんでもない大噓ばかりつきやがって!
でも、K君がいくら怒って、医者にどなりちらしても、全く通じません。TVの画面に向ってどなっているのと同じです。
俺はちゃんとこうやって生きてるんだ、とお母さんに向って話しかけても、やはり通じません。お母さんやお医者さんたちには、K君の声が聞こえないのです。向うの話声はみんな聞こえるのに、こっちのいうことは通じないんです。わけのわからない不愉快な一方通行でした。
でも、向うの様子がわかるにつれて、大変なことになったと気が付きました。このままでは、病院のK君は永久に植物状態のままベッドに横たわっていなければならないのです。掃除婦をしているお母さんは貧乏で、とてもそんな病院の費用は払えません。暴力団からはチンピラ仲間が一度顔を出しただけで、組の幹部など一度も見舞いに来ませんでした。暴力団なんてそんなものだと痛いほどわかりました。奴隷のように酷使しておきながら、いざとなれば冷酷に見殺しです。
でも、それどころではありません。どうやったらこの窮状を打開できるのか、K君は真剣に考え始めました。病院のベッドで意識を失くし、ぴくりとも動かず植物状態になっているK君と、この異次元世界に閉じこめられているK君と、二人のK君はどんなつながりを持っているのか......もしかしたら、元々一つであったK君は、事故の時二人に分離してしまったのではないか、とK君は考えました。本当のK君は今こうして意識を持ち、考えている自分であり、病院のK君は肉体だけの魂の抜殻なのかもしれない。
自分はもしかすると魂だけの存在で、幽霊なんじゃないだろうか? K君はそう気付いて、ぞっとしました。自分が幽霊になってしまったという考えが、とても恐怖感をもたらしたんです。
魂だけとなって自分の肉体から抜き取られ、この世界に閉じこめられている。もし、この異次元と信じていた世界から、自分が脱け出せなかったらどうなるだろう?
向うの世界では時間がどんどん経って行く。植物状態となった肉体は、やがてベッドの上で老い朽ちてしまうだろう。自分はまだこんなに若いのに!
その発見は大ショックでした。大変だ、なんとかして自分の抜殻となった肉体に戻らなければならない! さもないと、抜殻の肉体はやがて死んでしまい、焼かれて骨と灰になってしまうだろう。そうしたら自分は永久に行く先を失い、この無人の街にいつまでも閉じこめられたままになるのだ、それも永久に!
K君は猛烈に怖くなり、パニックに陥りました。本当のことが吞みこめてきたからです。人間は魂と肉体の二つで構成されており、いつもはその二つが重なり合って一人の人間として存在している。しかし、何かのはずみで魂が肉体を離れると、人間は意識を失くし、植物状態という生ける屍と化してしまうということが、真実として理解できたんです。
これまでK君は、肉体こそが自分だと思ってきました。ところがそうじゃなかったんです。肉体とそっくり同じ形をしたもう一人の自分がいて、それが魂であり、本当の自分自身だとK君は悟りました。肉体と魂の関係は、車と運転手の関係に似ています。運転手が一度車を降りると、車自体は何の意志も持たず動かなくなってしまいます。運転手が戻るまでは、不動の物体と化しているだけです。
人間も結局、それと同じでした。魂こそ本当の自分なんです。魂が抜け出せば、肉体は抜殻になり、どうしようもない厄介なお荷物になってしまうだけです。
長い間考え続けて、K君は真実を突き止めました。早く肉体へ戻らなければならない、と思いました。でも方法がわかりません。だれか方法を知っている人を捜そう、とK君は思いました。
お母さんやお医者さん看護婦さんには、自分の声は聞こえないが、だれかわかってくれる人がいるかもしれない。そういう力を持った人を捜そう。
K君が決心してから、どれだけの時間が経ったのか。K君は相変らず無人の街に閉じこめられたままでしたが、〝異次元の窓〟を通じて、こちらの現実世界に接触することができるようになっていました。もちろん、しょっ中、好きな時にいつでも、というわけではありません。
時には、K君の意志で、〝異次元の窓〟を動かすことが可能になっていたんです。いっぺんにはあまり長時間続けることはできません。頭が疲れてぼうっとなってしまうからです。やがて意識がはっきりしてくると、気を取り直して助けてくれる人を捜しに行くのでした。
自由自在とは行きませんが、〝異次元の窓〟はK君の視野となって、現実世界を移動させることができるのです。K君は自分の古巣の暴力団事務所に行ってみました。でも、ここではだれ一人として、K君の存在をわかってくれる組員はいませんでした。彼らにとって自分は幽霊と同じで、目には見えない存在なんだ、とK君は知りました。幹部の部屋にもどんどん入って行くことができましたから、暴力団がどんなひどい人間の集りか、改めてわかってきました。チンピラのK君にはふだんわからない雲の上のことが、幹部たちの話を聞いているうちにわかってしまったんです。
反省を通じて良心の目覚めているK君は、暴力団という人種に初めて強い嫌悪感と批判を覚えました。改めてチンピラだった自分が恥しくなりました。こんな奴らは人間ではない、腐った生ゴミみたいな奴らだと思いましたが、K君自身もその一員だったんです。
K君はそれから、さまざまな所をさまよい歩きました。自分をわかり、話を聞いてくれる人を求めて、実にさまざまな場所へ行きました。最初に中学時代の迷惑をかけたカウンセラーの先生の所へ行きました。少年院を訪ね、警察を訪ねて、世話になった刑事さんや教官に話を聞いてもらおうとしました。それもだめで、お寺や教会や、話に聞いていた新興宗教の道場など、霊力のありそうな人を求めてたずねまわりました。そうした場所には必ず、気味の悪い化物が沢山いて、K君を妨害し、からかい、いじめようとしました。
それでもK君を認識してくれる人は見つかりません。あちこちさまよった挙句、K君は渋谷の平山ビルへやって来たんです。そこでK君はとても興味深い話を聞くことになり、その人に大きな関心を持ちました。その人が東丈先生だったんです。K君はそこで初めて表と裏のない人格を持った人たちに遭遇したんです。裏表のある人間たちばかりうんざりするほど見聞してきたK君には大きなショックでした。
K君はすっかり東丈先生を尊敬し、魅せられてしまいました。東丈先生は物凄く霊視がきくので、時折K君を見ることがあるんです。でも、K君に気付いていても、先生は一言もおっしゃいません。でも、K君には先生の心が何となくわかるような気がしました。そこでじっくり見学していなさい、とK君にいっているように思えたんです。
K君は平山ビルにずっといて、先生のお仕事ぶりを眺めたり、お話を傍聴したりしていました。もちろん七階へ行って会員たちを観察したりしました。K君が、わたしのことを知っている、と覚醒するなりいきなりいったのは、平山ビルの常連だったからなんです。もっとも目には見えない常連です。自分の他にもそういう常連が沢山来ていた、とK君はいいました。わたしたちはいつでも、そうした目には見えない観客に注視されているんです。K君もその一員だったのです。
ですから、K君は、わたしが病院へ見舞いに行く前からそれを知っていました。自分を肉体へ戻す方法を知っているのは、東丈先生の他にはいない、とK君は確信していました。先生がだれにも信じられないような巨大な力の持主であることを、K君は知っていたのです。
K君が肉体を回復した時、人柄が変わっていたのは、少しも不思議なことではありません。K君は大きな経験を積み、真実の自分に目覚めていたのです。二週間近く、病院のベッドに植物状態として横たわっていたK君に起きた奇蹟を、唯物主義者は決して理解することができないでしょう。夢を見たにすぎないと断定してしまうに違いありません。物質しか見えない人間には、人の心の蔵した神秘は理解不能なんです。
でも、考えてもみて下さい。たかが夢を見たぐらいで人間の性格ががらりと変わってしまうでしょうか? 唯物主義者は、脳に大きな衝撃を受けたためにK君の人格に変化を来したのだ、というかもしれません。
しかし、K君の心に生じている変化はそんな説明では絶対に納得できないんです。K君は覚醒した時、自分の身に生じたことについて正確な知識を持っていました。現実には逢ったこともない東丈先生やその他の人々についてよく知っていました。唯物主義者はそれについてももっともらしい説明を考えだすかもしれません。植物状態と化してもK君には実は意識があり、医師たちの話を聞いていたからだというかもしれません。なんとでももっともらしくでっちあげることができるんです。そうしたことでは決して説明できないことまでK君が知っている事実は無視し、黙殺してしまうでしょう。唯物主義者はいつも霊肉二元論は誤謬であり、人間には霊魂などありえないという信念によって生きているからです。無罪の証拠には最初から目もくれず、被告を疑わせる証拠だけを拾い集める検事と同じです。初めからクロという確信を持って証拠集めをするのです。となれば、真実はもはや見えなくなってしまいます。強引にツジツマ合せすることだけが仕事になってしまうのです。
でも、この場合、大切なのは、そうした頑迷な唯物論者を説得したりやりこめたりすることではありません。植物状態から甦ったK君の心に奇蹟が起きており、殺伐な荒涼としたK君の心が、愛や思いやりや、真実への希求で満たされて蘇生したということなのです。
K君は、人が生きることがどんなに素晴らしい大切なことか知らされたのです。わたしはこれこそ最高の奇蹟だと思います。人が得られる最上の神秘体験だと思うのです。
神の恩寵という言葉はあまりにも宗教的すぎて、東丈先生は決してお使いになりませんでした。しかし、このK君のケースでは、他に何といえばいいのか、わたしにはわかりません。K君はこの神秘体験を得るまでは、あまりにも荒んだ心の持主であり、神と呼ぶ偉大な宇宙的存在が嘉するとはあまり考えられない人間でした。他人を攻撃し、傷つけることにのみ喜びと満足を覚えてきた人間です。常識的に考えれば、神の恩寵を受ける資格に乏しいといえるかもしれません。
でも、わたしはこう思うのです。人間はすでに神によって深く愛されており、いかなる場合も神は決して見はなしてしまわれることはありえないのだ、と......わたしたちの存在それ自体が、神の絶対の愛の保証なのではないか。
人間とはわたしたちが考えているより、根元的に遙かに巨大で深遠な存在であり、それ自体神から分れた一部分ではないだろうか。
たぶん、わたしたち人間は、こうして肉体を持ち、肉体により制限され、縛られているがゆえに、自分の本当の大きさがわからなくなっているのではないだろうか。九牛の一毛という言葉がありますけれども、その一毛に当るわたしたち肉体意識は、己れをもって総体と勘違いしているに違いない......なぜならわたしたち人間は、物質しか目に映らないからです。自分の魂のことさえわからないんです。
本当は自分の魂ははかりしれないほど大きいのだ、と人間は気付くチャンスがありません。だからこそ自覚しにくいのです。
K君の得た神秘体験は、人々に忌み嫌われるチンピラといえども、神の恩寵を受けることができるというだけにはとどまりません。K君は自分がもっと大いなる存在の一部であるということに気付くチャンスを与えられたのです。
人間の魂は自浄能力を持っているのです、K君は反省によって、真の己れ自身を再発見することができました。反省せよ、とだれに命じられたのでもありません。K君は自分が反省する能力を持っていることをおのずと発見していったのです。
K君は自分を再発見するに至るまでの間、ずっと自分が助力されているのを感じていました。目には見えない力が不思議に作用しているのを感じ続けていました。何者かが過去の自分の姿を〝異次元の窓〟を通じて見せてくれ、反省の助けになってくれたことを察していたのです。
もしかしたら神様かな、とK君は思っていました。その目には見えない助力者は、K君からすればあまりにも巨きくて、神様としかいいようがなかったのです。でも、その偉大な助力者がいつもK君を助けていてくれたということははっきりとわかっていました。
二週間も植物状態としてベッドに横たわっている間にK君は、真実を学んで甦ってきたのです。K君は目を覚ますなり、一目でわたしを見分けました。
──郁江さん、すみませんでした......とK君はいきなりいったんです。そして息もつかずに、今までわたしがお話したことを語り続けました。呼ばれて駆けつけたお医者さんも、看護婦さんも、K君のお母さんもただ呆然としてK君の話を聞いていました。とうてい信じられないようなことを、植物状態から回復したばかりのK君が語ってやまないからです。
これはまさしく奇蹟です。しかし、どのような値打があるかは、まったく聞く人次第です。頭からそのようなことはありえないと極めつけて、夢物語だと断定してしまえばそれまでです。
けれども、少しでも真剣にものごとを考えようとする人ならば、沢山の貴重な示唆を与えてくれます。人間の肉体と魂の関係が明解になります。人間が死後どうなるかという問題にもヒントを与えてくれるのではないでしょうか?
K君は、〝異次元の窓〟を通じて、この現実世界を探訪して歩くことが出来ました。霊としてK君は存在したために、ほとんどの人間はK君の存在に気付きませんでした。しかしK君は、人々の表と裏を見抜いてしまったのです。霊にしてみれば、そんなことはごくたやすいことです。肉体を持つ人間がだれも見てはいないと思って陰でこっそりしていることでも、霊は見ているということです。どんな人間も、沢山の霊に見張られているということを、K君はこの経験を通じて知りました。なぜなら、霊として存在している時、K君は霊視がきくようになり、多くの死者の霊や化物たちを見ることができたからです。
だれも見ていないから大丈夫だと思ったら大間違いなのです。あなたを沢山の霊が看視しています。だれにもわかるまいと思っていても、あなたの行動は全て、霊たちには筒抜けなのです。K君の経験はそれをよく教えてくれます。一つには、昔のことだから忘れてしまった、帳消しになったと思うのは浅墓だということです。K君が〝異次元の窓〟を通じて見せられたように、ものごころつかない幼児の時代ですら、そっくりそのまま異次元世界には保存されているのです。忘れたからといって、記憶が消滅してしまったわけではありません。それどころか、その過去になって消えてしまったはずの時間がそっくりそのまま保持されているんです。
全て、録音テープに録音されているように、過去は完全に記録され、保存されているんです。自分のなした悪いことも善いことも、水泡のように消えてしまったりはしません。本当は何一つ消却されたりはしないという厳然たる事実があるのです。
死んでしまえばそれまで、何もかも終り、虚無あるのみという考えは大きな誤りなんです。人間は肉体を去れば、過去己れの想ったこと為したことの全記録を持って異次元へ行くことになります。魂として肉体から分離してしまったK君の経験がそれを教えてくれます。人間は否応なしに、全体験を総チェックしなければならないんです。もう忘れてしまったと安心なんかしていられません。
K君は無人の街に閉じこめられて、反省することになりました。そこはまさしく〝地獄〟だった、とK君はいっています。それまでのK君は肉体を持って生きていながら、心は〝地獄〟につながっていたんです。K君は全ての愛を拒否して生きていました。本当の友達なんか一人もいませんでした。チンピラ仲間なんかとうてい友達とはいえません。悪事をなすためだけのつながりです。K君は心の世界ではいつも〝無人の街〟にいたのです。
たとえば、K君が新宿駅の雑踏の中にいたとします。せかせかと大勢の人々が視界の中を往来しています。けれどもだれ一人、K君と親しい心のつながりを持った人間はいないんです。人々が多ければ多いほど、心は淋しく孤立感が深まっていきます。K君の心の世界ではだれ一人人間はいないんです。無人の街があるばかりです。心の結びつきがなければ、この地球上にたとえ何十億人存在しようと、無人の惑星に等しいということです。
K君が〝無人の街〟にいる自分を発見したのは、まさにそのためです。K君の孤立感は心の世界ではこのように現象化してきます。
霊にとって、心の世界は、この現実世界と少しも変りません。夢を見ている時、人々が夢の世界を現実と思うのと同じです。K君は頰ぺたをつねりました。すると本当に痛かったんです。霊にも霊体という、この肉体とそっくり同じ霊の体があります。ちゃんと感覚も備わっていて、怪我をすれば血が流れて痛みを覚えるのです。
K君は〝無人の街〟でよかった、としみじみいいました。もっと恐ろしい殺伐とした、暴力団にふさわしい血まみれの争闘の世界に行ったかもしれないと思うと、身慄いするといっています。
──俺は運がよかったですよ、郁江さん、とK君は本心からいいました。〝異次元の窓〟を通じて、真実を知ることができたからだそうです。平山ビルに行き、東丈先生を見ることができなかったら、やはり本当のことがわからずとても苦労したに違いない......
自分は目に見えない大きな存在に教えられ、導かれていた、とK君は確信していました。いつもその存在を感じると、暖かくなってきて安心な気持になれたのだそうです。
──俺を教え導いてくれる偉大な霊が確かにいましたよ......K君は自信をもっていいました。
それを〝守護霊〟と呼べば、皆さんの中にはあまりにも宗教的すぎると反撥し、嫌う方もあるかもしれません。でも、K君は本気で信じていました。やっぱり神様かもしれないな、と最初から思っていたのです。
宗教的にわたしが偏りすぎる、東丈先生はそんないいかたはなさらなかったではないか、と眉をひそめている方々にはお詫びしますけれども、K君はとにかくそう感じていたのです。これまで自分は気付かなかったけれども、〝守護霊〟はいつも自分とともにいて、自分の荒んだ生き方に心を痛めていたのだ、とK君は悟ってしまったのです。〝守護霊〟といういいかたが厭だという人々は、頭から反撥してしまうかもしれませんが、人間にはだれしも、肉体を持った自分を導いてくれる目には見えない宇宙エネルギーが存在するということだけは否定できないのです。
だって、それは真実なのですから。
K君が病院で目覚めるまでの二週間、外見的には何一つ変化は生じていませんでしたが、K君はだれにも信じられないくらい大きな経験を持っていたのです。いずれK君は彼自身の口から、その大きな経験を人々に告げて行くでしょうが、人々を信じさせるのはかなりむずかしいことかもしれません。
それは大きな旅といえるものでした。時間と空間を超える旅といった方がより正確です。今までわたしがお話したことだけに、K君の経験は限られません。もっと沢山のことを彼は経験したのです。
K君を導く偉大な宇宙エネルギーによってそれはなされました。K君が〝守護霊〟と呼んでいる存在です。K君の言によれば、人はだれでも〝守護霊〟によって護られ、そして指導されているのだそうです。ただ我々人間は、物質的な視覚によって制限されているために、そうした高次元の存在が見えないのだそうです。
〝異次元〟にいる間、K君は霊視がきくようになっていたため、霊たちや化物のような人外の存在を自由に見ることができたのでした。K君は人間とそうした目に見えない存在との間に成立している関係を学んで、この世に帰ってきたのです。
──驚きましたよ、郁江さん。肉体を持った人間は、何もわからなくなっているんですね、とK君は目を輝かせてわたしにいいました。
みんなが俺みたいな経験を積めたら、きっとものの考え方がころっと変っちゃいますよ。こうやって肉眼に映るものしか見えないから、人間は自分さえよければいいと思いこんで、あくせくやってるんですね。でも、それはとんでもないことですよ、人生って至る所に落し穴が仕掛けられているんだから。〝指導霊〟にきちんと導いてもらえなかったら、大変なことになってしまう。俺なんかその口ですけどね。でも、霊視がきくとわかりますけど、人間って凄く危険な状態にあるんですね。人間の暴力団なんて問題にならない、物凄い連中が虎視眈々として人間たちを狙っているんですから......
K君は、元チンピラとは思えないような柔和な顔にキラキラ瞳を輝やかせていいました。
──人間は本当のことに気がつかなきゃいけない......あちらにいる時はずっと気をもみっぱなしでした。もし、こちらの世界に戻ることができたら、みんなに警告しなきゃならない、とそればかり考えていたんですよ。
だから、平山ビルのGENKENへ行って、東丈先生のお話を傍聴した時、とても安心しました。ちゃんとわかっている人がいて嬉しかったんです。もしこちらへ戻れたら、必ず先生に逢いに行こうと思っていました。でもまさか郁江さんに来てもらえるとは思わなかったから、大感激です......
自分は先生のお役に立ちたい、とK君は本心からいいました。自分はきっと証人になるために、偉大な霊によって導かれ、真実を学ばさせてもらったのだと思う。
以前のチンピラ時代のK君を知っている者でなければ、K君に生じた変化がどれだけ大きなものかわからないでしょう。でも、大きな経験を積んだ時、人間って本当に変るものなんです。それはわたし自身の経験からも確信をもっていえることです......
K君は自分は証人なのだと信じていますが、確かにそれは正しいのかもしれません。東丈先生の証かされた宇宙的な真理の証人ということです。その一つは幻魔について、もう一つは転生輪廻について、K君は証人となるべく経験を積んだというのです。
──昔から俺は郁江さんを知っていたんですよ。
わたしは、K君のような知り合いがいた憶えがないので、奇妙に思いました。
──違いますよ。郁江さんが生まれるずっと前ですよ。郁江さんが違う肉体をもって生きていた昔のことをいってるんですよ。江戸時代かな、もっと前かな。俺は本当に郁江さんに会ったことがあるんです。
K君はおそろしく生真面目にいいました。こんな話を聞かされればだれでもK君は頭がおかしくなったのだと思うでしょう。お母さんなどは明らかに心配していました。
──向うに......異次元にいた時、〝守護霊〟に見せられたんです。生れ変りって本当にあるんだなあと初めて思いました。郁江さんは今の郁江さんとは全然違うけど、すぐにわかりましたよ。東丈先生もです。一目見るとフワッとわかってしまうんですね......ああ、人間とはやっぱり魂が主人で、こうやって生れ変って行くんだな、とよくわかったんです。そしたら、素晴らしい気持になった。人間が肉体を持って生きるなんて、本当に一瞬のことだなってわかった。肉体を持つと人間は、それまでのことを何もかも忘れてしまう。それまでの親しい友達もみんなわからなくなってしまう。物質しか見えないから、魂の友達を敵だと思いこんだり、馬鹿なことを人間はやってしまうんですね......全ての人間が本当のことに気付けたら、どんなにいいだろう......K君は自分の知ったことをみんなに伝えて、真実を話して行くつもりだといいました。それがチンピラとして人々を傷つけてきた過去の自分の罪滅ぼしじゃないか......自分に出来ることを一生懸命やって行こうと思う。K君はそういったんです。
でも、これはなかなかできることではありませんよ、皆さん。たとえK君の言葉を信じられない人たちでも、生れ変ったようなK君の熱意には心をうたれるはずです。なんらかの奇蹟が起こったことを感じずにはいられないと思います。
わたしはK君と話しあっているうちに強く感じたことがありました。東丈先生のめざされていること、つまりわたしたちが具現化しようと心を合わせて努めていることは、たとえ今は世間から空想的な理想主義と誤解されているにしても、いずれは誤解のバリヤーを突破できるという確信でした。
なぜならば、この地球世界を破滅の運命から救えるのは、人間たちが自覚する以外にすべはない......自覚とは、人間がこの物質である肉体に限定された存在ではないと悟ることに他なりません。人間の魂と肉体の関係について、K君は大きな示唆を与えてくれたのです。東丈先生の証かした真実への証人たちの第一号として、K君は現われたのだ、とわたしは信じます。
K君は決して夢を見ているのでもなく、妄想に浸っているわけでもないのです。K君は必ず自らそれを証明して行くでしょう。自分の生き方によってK君は人々にそれを信じさせるでしょう。わたしたちもそれを、一人の非行少年の身に起きた奇蹟として終らせてはならないのです......
そういえば、しばらく前、わたくしはこのようなことを東丈先生からお聞きしたことがあります。転生輪廻とは宇宙の大法則なんだということがわかった、と先生はおっしゃいました。ある場所で先生とお話していた時のことです。
人間は魂をもって無限に生れ変って行く。僕は郁江とそれこそ数限りなくめぐりあっていることがわかったよ、と先生はかなり唐突にいわれたのです。
──郁江とはずいぶん古いつきあいなんだなあ......大昔、この地球へやってきたころからの昔馴染みだな。それ以来、幾度転生輪廻しては、再会してきたろう......
本当に先生はいきなりそんなことをいいだされたのです。わたしはびっくりしてしまいました。先生は皆さんもご存知の通り転生輪廻については、具体的なことは説かれていません。そこまで自分の力は及ばない、と正直に認められていたほどです。
──地球を救うのは、人類がみなそれを自覚するほかはないな......
先生は黒い瞳をきらめかせておっしゃいました。確信のこもったいい方でした。
──なぜなら、地球上には人種や民族や宗教同士の争いが、深い怨恨の根を張りめぐらせている。それが幻魔の最高の土壌になっているんだ。人類には血の呪いがかかっている。殺しあって流した血の呪いだけでなく、人の体に流れる血の系譜という呪縛にがんじがらめになっている。白人対黒人の相克、長年月にわたるアーリア人とユダヤ人の怨念に満ちた確執......宗教戦争の残した憎悪......怨恨の根は深く人類の心に張りめぐらされている。先祖から子子孫孫へと流れて行く血の呪縛なんだ。その憎悪と怨恨の根をきれいに切り落さない限り、幻魔の勝利は確実なものとなる。
転生輪廻の証明こそ、人類の運命を変える鍵だ。今、僕にはそれがわかった......
先生は確信をこめてそうおっしゃったんです。なぜもっと沢山質問を先生に浴びせかけなかったか、今となれば不思議です。K君の話を聞くまで、それをきれいさっぱり忘れさっていたことも不思議です。生れ変る前のわたしに逢ったことがある、とK君がいった時、いきなり先生の言葉が甦ってきたのでした。
たぶん、わたしが追及しなかったのには理由があります。先生は黙りこんでしまわれると、深い思索に沈みこんで行くのがわかります。たぶんわたしは、その沈黙を乱すことを恐れたのでしょう。でも、先生はその後、転生輪廻について話されませんでした。まだ話す時期が来ていないのだとわたしは感じました。
あまりにも重要なことなので、気軽に口にされることをはばかられたのではないでしょうか......転生輪廻の証明が、地球世界を破滅から救う唯一の鍵と明言された以上、先生はそれを具現化される途を模索されているはずなのです。でも、まだ時期が到来しないゆえに、先生の口から皆さんはたぶんお聞きになっていないと思いますが......」
再びざわめきが聴衆のうちに生じていた。それは執拗な弾力をもって、幾度捻じ伏せられても屈せず、台頭してくるのだった。
──そんなことはどうでもいいんだよな、先生はどうしたんだ......?
独白に似せた野次である。その声に刺激されて、糺弾の波動は急速に立ち上ってくるのだ。まだ低レベルにおさえられてはいるが、いずれは耳をつんざく騒音と化して襲いかかってくるに違いなかった。
聴衆たちは催眠術にかかったような精神集中を乱され、頭をめぐらして野次の正体を知ろうとしていた。
これだけ郁江が重大な語りかけをしているのに、心ないにもほどがある。なぜ感情的な反撥だけに身をまかせようとするのか......平山圭子は怒るよりも悲しくなった。なんとしてでも講演を失敗させ、郁江を吊るし上げて、彼女の新しく得た権威を失墜させずにはおかぬという毒念が感じられるのだ。
その結果、どうなるというのだろう。会はバラバラに分解し人心は離反してしまうだけではないか......
彼らは新指導者としての郁江を排除することしか念頭にない。会の目的も使命もとうの昔に忘却してしまっているのである。
わずか八十名ほどのセミナー参加者が真二つに割れてしまおうとしているのだ。その仕掛人はほんの数名ではあるが、何十名もが扇動にいとも簡単に乗せられ、無反省に会の分裂へと突走ろうとしている。
東丈が、会の拡大と正反対の方向をめざしたのも、この日のあることを見抜いていたからに違いない、と圭子は悟った。丈は最初から知っていたのだ。そして今、遠心力として会を割り、破壊へ向わせようとする者たちは姿を現わした。もし、東丈の方向選択が誤っていたならば、もっと多数派の遠心力が、郁江の前に立ちはだかっていたであろう。
今、郁江は試練を迎えている。最初の困難を克服することを迫られているのである。しかし郁江がそれをなし遂げることを、平山圭子は一瞬も疑わなかった。なぜなら、郁江は東丈の波動で動いている。圧倒的なエネルギーは東丈のものだ。それなのに妨害者たちは少しも明白な事実に気付いていないのだ......
18
会場の妨害行為は無視できないほどにエスカレートしてきたが、郁江は少しも動揺しなかった。妨害者たちの目には、それが不逞ぶてしい自信に映り、いっそうの敵意をかきたてられることになったのであろう。
郁江に与みする者たちは、郁江がどのように反応するか計りかねて、掩護に出かねていた。妨害を制止することはできるが、それ自体が新たな混乱を生むとわかっていた。去就を決めかねている会員たちがどのように動くか不安があったのである。
東丈失踪の真相を明らかにせよと求める大合唱を生むきっかけにもなりかねない。そうした思いが、郁江派の人々に息を吞ませていた。扇動に乗りかけている参加者たちも、東丈の〝岩戸隠れ〟の真相を知りたいだけなのだ。郁江追い落しを狙う一部の扇動者とは全く動機が異る。
「わたしは、転生輪廻の証明をなすべき時期が到来していると思います」
郁江の言葉は、再び場内のざわめきを切り落すほどの威力を有していた。思いがけぬことを聞かされたショックで、糺弾の芽は再び潰えた。人々はいずれも驚きの目を瞠って、ステージの郁江を見上げた。
郁江は思い切った賭に出ているのか......緊張した想念が場内を走り抜けるのを、圭子は感じた。
「昨夜、東丈先生は、〝永遠の生命〟である人間の魂の光り輝く本質を、十人の人々に見せられました。すでにここにいる皆さんは残らずご存知のことでしょう。それは人間がこの肉体がすべてではなく、不滅の光の本質として存在することの証明でした。
なぜ先生が十名に数を限られたのか。それは先生が常々いわれているように、己れの本質に充分目覚めた者が十名いれば、世界は破滅から救われるという言葉と無関係ではありません。
先生はこれらの人々を証明者、証人として選ばれたのだとわたしは確信しています。人間はその魂によって転生輪廻する......それはいくら言葉で教えられても、概念の域を超えることはむずかしいのです。
けれども、己れの光り輝く魂、〝永遠の生命〟を直接見せられた人々は、概念ではなく実感を得られたはずです。K君が、肉体と魂がはっきり異るものだと認識し、それをきっかけに転生輪廻に目を開いたように、これらの人々も、開眼する準備が整えられたのではないでしょうか?
見も知らぬ他人であるK君の話だけでは、ぴんと来ないという人々も、自分たちの仲間、よく知っている友達が転生輪廻に目覚めれば、実感を持たざるを得なくなるのではないかと思います。平山圭子さん、恐れ入りますが、このステージに上って下さいますか?」
いきなり郁江に指名されて、平山圭子の脳裡は驚愕の念に痺れた。それこそ何の打合せもないままに、郁江は圭子を招いて何をするつもりなのだろう。
「圭子さん、どうぞお願いします」
と、郁江が促す。やむなく立上ると、会場の全員の視線が集まって来て、その圧力が痛いほどであった。
再び好奇心が高まり、ざわめきも大きくなったが、それは数瞬前の不穏な波動とは著しく異質なものであった。平山圭子は覚悟をきめて、ステージに向って進んだ。
郁江は何をやる気なのか......その期待が場内の雰囲気をがらりと一変させてしまった。さいぜん話題を変えて植物状態から蘇生したチンピラのことを取り上げ、反対派にジャブを与えた郁江は、再び機先を制しにかかったのだろうか。
郁江の意図が何であれ、彼女は再び場内の人心コントロールを回復していた。
郁江は進行係に用意させた椅子に平山圭子を座らせた。場内はしんとなって固唾を吞み、郁江が何を始めるのかと注視している。好奇心で余念が一掃されてしまっていた。
──どうするつもりなのだろう......
圭子は胸が動悸を打っていた。人々の顔がもやっと霞んで見える。しかし、最前列にちゃっかりと割りこんでいるトップ屋風間の厚かましい好奇心に溢れた幅広の顔だけがいやに明確に見えた。ふくらんだ厚ぼったい瞼の下の裂け目のような細い目が炯々と光っている。何一つ見逃すまいと恐ろしいほどの精神集中が眼光となり、レーザー光線のようにこちらの皮膚に突き刺ってくる。
このトップ屋の眼前で、郁江はとてつもない冒険を試みるつもりなのだろうか?
「はい、緊張を緩めて下さい。深呼吸して下さい」
と、郁江がいった。頼もしい声の響きだった。やはり東丈の波動である。どんな場合にもそれは、圭子の裡に信頼感と安心感をかきたてずにはおかなかった。
やはり、郁江は先生の波動で動いているのだ......
それを確信すると波立っていた心が静まり、深呼吸につれて安堵感が動悸をなだめ、おさえこんでしまった。郁江にまかせておけばいいのだと思った。自分は郁江を全面的に掩護し、助力すると誓ったのだから......
郁江が近寄り、柔く可愛い手が圭子の額にあてがわれた。郁江が口中で何かしら呟いている。よくわからないが、日本語でないように思えた。滑らかなR音の多い異語だ、と至近距離にいる圭子は聴き取った。
突如、黄金色の光が眼前に拡大した。フワッと体がステージから浮き上ったような心地がした。
何かしら胸中に激しく強い圧力が生じ、渦動しながら急速にふくれあがり、圭子の体全体を占めてしまった。
奔流と化して溢れるものがあった。胸が暖くなり、体の感覚が失せた。圭子は自分の口が知らぬ間に動き、郁江と同様にR音の強い異語をつむぎだしているのを呆然と見守っていた。
むろん異語を語っているのは圭子自身である。しかし、それを一歩退いて客観的に見守っているのも他ならぬ圭子なのだ。自分が不思議な二重存在を始めていた。
高圧をもって出現した新たな圭子の人格は、深い感動を流露させ、郁江に向って話しかけている。その郁江はもはや、同僚として圭子が知っていた存在ではない。親しく懐しく、素晴らしい旧知の存在であった。数年間も言葉の通じぬ異境で暮した者が、突如親友とめぐりあうならば、このような大きな感激を味わうに違いない......圭子自身の意識は客観的になり身を退いて、観察していた。
圭子の裡から立ち上った人格──それは潜在意識がいきなり識閾下から出現するのに似ていた──は、郁江との再会に信じがたいほど大きな感動を味わっている。正確にいえば、郁江の裡から現われた人格に対してである。
その人格(意識)は自分でありながら、自分を超える巨大な存在なのだ。決して二重人格のように対抗しあう、否定的な人格、〝自分の中の他人〟ではありえない。本質的に自分と同一存在とわかる波動である。
大きな波動の中に生じている部分的な小さな波動こそ自分だ、と圭子は観じた。
改めて郁江に生じている不思議な変貌の意味が氷解した。深奥の波動がどんどん表面化するにつれて、郁江は一見変ったように見えるのだ。が、郁江はあくまでも郁江である。けれども、深奥から溢れだす大いなる知恵が、郁江をより素晴らしい存在にしてしまう。
魂の本質が出現した時、人には大きな変化が生じたように見えるのだ。悟りを開くとはこういうことだ、と圭子は理解していた。
東丈にも全く同じことが生じたのである。丈は真先に、真の己れを発見したのだ。魂の本質が流露した時、東丈はそれまでの自分を超えてしまった。だから弱冠十七歳の少年である東丈に、人々は競って魅せられ、惹き寄せられたのである。
真の自我である魂の本質を取り戻した時、井沢郁江にも全く同じことが起きた。魂がどれだけ大きな力を有しているか、全ての人々が覚らずにはいられないのだ。丈も郁江もあまりにも眩く光って、その存在を人々に告知し始めたからだ。
魂の本質を流露させるならば、全ての人間に彼らと同じことが可能になる。人間であることを超えて、魂の有する力を発揮することが可能になるからだ......
圭子は己れの口が自然に動き、異語を滑らかにつむぎだして、郁江と語りあっているのを、退いた立場から観察している。感動はあまりにも大きすぎて、とめどもなく泪が流れるのを制止することができない。普段とは比較にならぬほど感情のレベルが上っているのである。それは、素晴らしく感動的な夢の中で、心がふくらみ、感情が溢れるのと全く同じであった。目が覚めると、心があまりにも平板なので、その感情の昂まりとの落差に驚いてしまうのだ。
圭子は、己れが郁江と再会を喜びあっているのがわかっている。何を語りあっているのか見当がつく。遠い過去、圭子は郁江と親しい友人同士であり、その当時の記憶を甦らせて、当時の言葉で、二人は話しあっているのである。素晴らしい密度で、記憶が溢れだしてくる。聞いたこともない異語を語るのもそのためなのだ。
郁江が日本語で聴衆に説明しているのを、圭子はやはり客観的な立場で聞いていた。
「今、平山圭子さんは、遠い過去、地上に肉体を持って生きたころの記憶を取り戻し、当時の言葉で語っていらっしゃいます。わたしたちが今用いて話しあっている言葉は、皆様には聞き慣れない言葉、異語です。なぜならこの言葉が用いられたのは遠い超過去のことであり、今は地球上どこを探しても使用されておりません。それほど古い古い言葉なんです......そんな死滅して久しい言葉を、平山圭子さんがなぜ自由に話すことができるのでしょうか? かつて圭子さんはその時代に生きていたからです。圭子さんが当時生きていた時代の文明は一切が滅び去り、地上から消え去ってしまっています。それほど超古代のことなんです......でも、魂としての圭子さんの裡には当時の記憶が、昨日のことのように生きいきとして留まっています。
自分がどのような人間で、どんな名前を持ち、どんな時代に生きたか、圭子さんは全てを証言することができます。すなわち、圭子さんは転生輪廻の証人なんです。人間は魂をもって生れ変る......その宇宙的真実の証人なんです。
わたしたちが、同じ言葉を使って話し合えるのも、わたしと圭子さんがかつて同じ時代に生れ、友人として知り合っていた仲だからです。遠い超古代にわたしたちは親しい友人同士であり、今もまたこの日本に、親友として生れ合わせています。
皆さん、これが転生輪廻というものなんです。とうの昔に死滅してしまった超古代語をこうしてわたしたちが自由に用いて語りあえるのは、当時の記憶を取り戻したからです。今のわたしたちは、母国語である日本語と同じに使いこなせます。これは、今は地球上に存在していないムウ大陸という土地で用いられていた言葉です。たぶん、皆さんの中にも、当時わたしたちとよく知りあっていた友人たちがいるはずです。その人たちも記憶を回復すれば、全く同じ言葉を喋ります。
この超古代語はとても美しい言葉ですが、発音がむずかしくて、簡単に喋れる言葉ではありません。きわめて複雑精緻な発音とイントネーションで構成されております。圭子さんが今話している言葉の内容は、この会場にとても親しい人がいる、それは当時自分の肉親だった人です。その人とわたくしは姉妹として幸せな日々を送りました。彼女が記憶を取り戻してくれれば、とても嬉しいのですが......圭子さんはそういっています。皆さんの中に、かつてムウ大陸で生きた時代、圭子さんの姉妹だった人がいるようです。皆さんのうちのどなたがその人なのでしょうか?」
聴衆を見わたす郁江の視線の動きにつれて、ざわめきと動揺が生じた。人々は完全に魂を奪われたようになっていた。
平山圭子は自分が椅子から立ち上り、聴衆の一人に向って手招きし、呼びかけるのを意識した。夢見心地としか形容しようがなかった。自分は傍へどき、〝魂の本質〟が主導権を握っているのである。それは、夢の中の、〝自分でありながら自分でない〟気分に酷似していた。
会場の聴衆の中で甲高い声が湧き、人々はいっせいに頭を動かして注目した。前列の者はぐるりと体ごと振り返って声の主を探している。
声の主は女性であった。圭子はぼんやりと予期していたことが的中したと思った。伴野静子である。一人立上り声高に異語を語っている。感情が高まって泣き声になり、なおも語りながらステージへ近づいてくる。聴衆は二つに分れて、伴野静子に道をあけた。
圭子は自分が同じ異語で応えながら、ステージから身を乗り出し、伴野静子に手を差し伸べるのをひどく冷静に眺めていた。感情が熱くふくれあがっているが、圭子自身は冷静である。観客席からこの再会を眺めている客観性がある。しかし、大きな感動を同時に味わうことも可能なのだ。
伴野静子は髪振り乱し、顔を泪で濡らしてステージに上り、圭子にしがみついてきた。泣きながら懸命に異語で喋り、圭子も同様に受け応える。その様子を、差しだす郁江のマイクはことごとく拾い、人々を動揺に巻きこんでいった。〝姉妹〟の再会には大きな迫力があり、聴衆に驚愕の衝撃とともに感動をもたらさずにはおかなかった。異様な奇蹟を目撃しているという感動に痺れていた。
「圭子さんの前の名はフォーリアといってお姉さんです。伴野静子さんはワーリアといって妹です。ムウ大陸の当時の姉妹なんです。美しい自然と文明の調和した世界に育ち、肉親、姉妹として仲むつまじく育った記憶を、二人とも甦らせ、語りあっています......」
郁江が説明を続けている。
「かつて太平洋にはムウという大陸が存在しました。超古代文明が花開いていた最高の時代......今から三万年ほど昔、二人の姉妹は幸せに暮していたんです。十人ほど兄弟姉妹がいましたが、二人は特に仲良しだったようです。平和な素晴らしい時代だった、と二人は語っています。戦争もなく、争いごともない時代で、ムウ大陸は偉大な王によって統治されていました。大西洋にはアトランティスとやがて呼ばれることになる大陸が存在し、文明が起こりかけていましたが、ムウ大陸とは比較になりませんでした。地球はまだ地質的な大変動にさらされる前で、現在の地形とは全く違っています。
二人の姉妹は最高に美しい穏やかな自然に恵まれた土地で生れ育ちました。二人とも大神官である偉大な王に仕える巫女でした。わたしも含めて、当時もっとも有名な神託所で人々の幸せのために努めていました。
アガシャーと呼ばれる王は、当時世界でもっとも有名な王であり、聖職者でもありました。全世界から沢山の巡礼が王の謦咳に接するためにやって来ました。アガシャーという名を冠した方はずっと後にアトランティス大陸にも存在し、大王としてやはり知られていますが、わたしたちのアガシャー王はその二万年ほども前に生きられた聖者です。
当時はとてもいい時代でした。人類の苦難に満ちた戦乱の長い長い歴史の中で出現したオアシスのように、奇蹟的に幸せな時代といえるでしょう。
もちろん永遠の生命である魂は、これ以外にも数限りなく転生を繰り返しているのですが、二人はまるで特別のプレゼントのように恵まれた人生の記憶を取り戻して語りあっているんです。本当に夢のようにいい時代でした......我々が今求めている理想の世界に近いといえるかもしれません。それでも、人類がかつて持っていた最高の壮大な精神文明に比べれば、ミニチュアのように小規模な、可愛らしい世界だったことは確かです。わたしたちは砂漠の中に点在するオアシスに住んでいたようなもので、数千年後にはもう地上から記憶も失われ、現在と同じような荒々しい物質文明、機械文明が地上を覆い、人々の心は荒廃して行きました。その挙句、ムウ大陸は幾度かの大破壊を閲した後、地上から完全に消滅することになり、人類文明の中心は、いわば新興のアトランティス文明に移りました。そのアトランティスも今から一万年前に、ムウと同じコースを辿り、地球上から消滅してしまいます。こうした興廃は数え切れないほど地上で繰り返された、おきまりのドラマなんです。人間の記憶は数千年で跡切れてしまい、過去は夢のような水泡となって消えて行きます。
でも、〝永遠の生命〟である人間の魂には人類の全ドラマが精密に記録されていて、このように当時の状景を復元することが可能なのです。この二人の姉妹に、当時のことを本人の口から語ってもらうことにしましょう」
郁江は異語で二人の姉妹に語りかけ、伴野静子と圭子はこもごも異語で応えた。
「今、フォーリアとワーリアのお二人の姉妹に、日本語で話して下さいとお願いしました。日本語は初めてだし使いにくい言葉ですが、やってみますとお二人ともいっています......」
伴野静子は口を切ってぎこちない日本語で話しだした。
「わたくしは、ワーリアです......当時のわたくしは姉のフォーリア、ここにいる方とごいっしょに、ソル王女様の神託所で巫女を務めておりました。ソル王女様はここにおいでの郁江さんでございます......アガシャー王様の唯一の王女様で、とても霊力の優れた方でございました......」
伴野静子のワーリアはこのように滑らかに日本語を操ったわけではない。悪戦苦闘しながらようやくのことで言葉をつむぎだしたのである。郁江は日本語に不慣れの外人が喋るような言葉をいちいちいい直し、補足しなければならなかった。
「わたくしたちの神託所は、とても有名でした......」
圭子のフォーリアが後を継いで語った。フォーリアの方が日本語に慣れているようであった。圭子は己れの口がおのずと動いて言葉を送りだすのを感じている。
「偉大な霊力を持たれたアガシャー王様は、過去、現在、未来の三世に通じられたお方でございました。アガシャー様は天界の人々とも自由に語りあうことができ、霊体離脱しては天界や地獄世界や、世界の果てまで訪ねることを日常としておられました。意識体としてのアガシャー様は、遠い過去、遠い未来にまで旅され、地球世界が辿る運命を語られました。
当時のわたくしたち地球人類は、大いなる宇宙エネルギーこそ神であると知っており、敬虔な信仰生活を送っておりました。アガシャー様は宇宙の法を説かれる大聖者として人々の深い尊敬を集めておられたのでございます。
当時の住民の多くは霊眼が開いており、神託所へ来ては、トランス状態に入り、高次元の人々と交流することが常でございました。
美しく深い緑の中に点在する純白の神殿の素晴らしい光景が今もくっきりとこの目に映しだされます。

この上なく平和な時代ではありましたが、幻魔との戦いの記憶はわたくしたちに伝えられておりました。かつて幻魔との戦いにより地球全土は真赤に灼熱した岩漿によって覆われ、人々はほとんど死滅してしまった過去の姿を、わたくしたちは霊視することができました。
天は無気味な緑に染まり、地表は真赤に煮えたぎっているのでございます。この時は人類の大部分が死滅し、地中都市でさえ壊滅し、宇宙エネルギーに守護されたごく少数の人々と、地球外に出ていた人々だけが生き伸び、月や火星などに基地を設けて地球が甦るまで長い間待たなければなりませんでした。
数知れぬほど多くの大災害が地球上に吹き荒れ、その都度人類は大打撃を受け、激減し、苦しい思いをしながら、再び長い時間をかけて営々と復興への道を歩いて行ったのでございます。
幻魔のかけた恐ろしい呪いのように、人類は繰り返し、興亡を経験する運命にありました。宇宙文明とも呼ぶべき大文明を築きあげたのは、二度や三度のことではありませんでした。現在のような物質文明を人類が持ったのは、過去数えきれないほどでございます。
けれども、あたかも幻魔の呪いのように、大文明といえども爛熟し、バランスを喪うとあっけなく崩壊に向い、戦乱の中でわずかの生存者を残し、死滅してしまうのでした。地球人類は過去数億年の間、急速な興隆と滅亡のドラマを、あきることもなくえんえんと繰り返し演じてきたのでございます。
宇宙文明といえども、急速に堕し切ってしまえば、人類の子孫たちには理解を超えた謎の遺跡と化してしまいます。わずか数十年で人類は原始レベルに堕し、それから何千年もかけて再び文明を築きあげて行かねばならなかったのでございます。
文明の絶頂期に到達すると、崩壊は急速に生じ、人類はどん底に向って墜落してしまうのです。かつて同じ破滅が何百度何千度も起こりました。人類文明の急速な興隆と滅亡は、あたかも季節が繰り返されるように、必ず繰り返されてきました。文明は他の全てのものが周期を持つように輪廻し循環するのでございます。それはまことに幻魔のかけた永遠の呪いのようでございました......
わたくしたちは、アガシャー様に指導され、〝聖なる眠り〟の中で、地球人類の描いてきた軌跡をことごとく見せられました。人類が経験した宇宙戦争も見せられました。今もなおわたくしは〝神託所〟での〝聖なる眠り〟の中にあり、過去の文明を訪れて見聞している心地がいたします。なぜならわたくしたちから三万年後の現在の地球文明は、過去百万年間に数十度興亡を見せた文明と少しも異っていないように思えるからでございます。
現在の人類は偉大な宇宙エネルギーの存在を信じることなく、ただ物質のみを追い求めては、物質文明の与える刺激に中毒しております。こうしたタイプの文明はごく短時日で絶頂期に達してしまいます。二百年とは保ちません。精神文明が数万年もの寿命を持つのに比較すれば、驚くべき短命の文明といえましょう......」
フォーリアは淡々として語った。しかしその淡白な語り口に暗示されるものは、聴衆を慄然とさせる破滅の予告に他ならなかった。
フォーリア、ワーリアの宿った少女たちは、その異語だけでなく、日本語で語る場合もたとえようもなく異国的な雰囲気を漂わせていた。少女たちの目鼻立ちが変ったわけでもないのに、まぎれもなく異人種として聴衆の目に映り始めていた。
「わたくしたちは偉大なアガシャー様のご指導により、地球人類の過去と未来を知り、厖大な記録を神殿に残しました。アガシャー様の残された〝宇宙の法〟はアトランティスに渡り、その一部はいまだに伝えられております。〝宇宙的真理の書〟はその後地上を何度も覆った暴虐な地上権力者の圧制により、破棄され、焼かれましたが、辛うじて命脈を保った一部分は、旧約聖書などに残存しており、偉大な覚者たちを目覚めさせる預言書として役立ちました。
大いなる宇宙エネルギーの命を受けた人々は、いつの時も精神文明を再興すべく結集を遂げるのでございます。そして今また、結集の時が至っております。この素晴らしい時に妹のワーリアともどもお招きを頂き、真実についてお話しできる光栄を与えられましたことを、とても喜んでおります......」
フォーリアは再び異語に戻り、ワーリアとともに郁江の手を取り、感情のこもった声音でともども話しかけた。
「アガシャー様を父君に持たれたソル王女様は、わたくしたちの神託所の責任者であられ、神託所はマリ・ソルの神殿と呼ばれました。ソル王女様の下に数百名の巫女たちがおり、〝聖なる眠り〟によって人々を導き、道場で心を磨く巡礼たちのお世話をいたしました。
ソル王女様はアガシャー様同様、大きな霊力を持たれ、霊体離脱により時を自由に超え、星の世界を訪ねるばかりでなく、過去や未来の世界からわたくしたちのムウ大陸を訪問する人々、タイムトラベラーの接待役でもあられ、神殿にはいつも異次元からの訪問者が滞在していたことを思い出します。
この会場にも、当時のわたくしたちの同僚であり、親しい友人だった方々が何人もいらっしゃいます。残念ながらまだ心が目覚めていないため、記憶を呼び戻して話し合うことは許されておりませんけれど......
ソル王女様は、この肉体を持たれた方、郁江さんの中で目覚めておられ、そのおかげでわたくしたちも記憶を取り戻すことを許されました。まだ充分に目覚めているとは申せませんが、わたくしたちと肉体を持たれた方々との相互の努力により、わたくしたちの持てる霊力は注ぎこまれていくことでしょう......
ここにおいでの皆様も同じことなのでございます。大いなる宇宙エネルギーの〝化身〟であるお方を戴いて、わたくしどもの結集する時はすでに至っております。過去の縁によるだけではなく、各自の意志、使命感によって、多くの人々は結集してまいります。
ここにおいでの皆様は、ほとんど一人の例外もなく、かつてマリ・ソルの神殿を訪れた方々ばかりでございます。一人残らず〝聖なる眠り〟の中で、この日のあらんことを知っておられたはずです......皆様の意識は、今後急速に開かれてまいります。それは予定されていることなのです。ソル王女様のご指導を受けて、何人もの方々が近く心を開き、意識を開かれることでしょう......」
聴衆は息を吞み、目を釘付けにされて、異語を自由自在に語りあう少女たちの会話に聞き入っていた。それは決して芝居などではありえないと確信させる自然さと巧まぬ迫力とがあった。
聴衆には全く理解できぬ異語を、ステージの三人の少女は母国語同然の滑らかさをもち、感情豊かに話し合っている。ある時は笑い、ある時は泪を流して、手を取りあい、飽くことなく熱心に語り合っているのである。
聴衆を支配しているのは驚異の念であった。不信も疑惑もいまだに生じる暇がない。驚異の念と衝撃に心身とも痺れたようになり、立ち直るすべもなく心を奪われてしまっていた。三人の少女の波動はそれほど純粋で力強いものがあり、真実を感じさせずにはおかなかった。
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「わたしたちは、今このようにして三万年も過去に栄えたムウ大陸当時の記憶を取り戻して、お互いに話しあい、再会を喜んでいます......」
と、郁江が再び語り始めた。
「もちろん、わたしたちはそれ以前も、それ以後も数え切れないほど転生輪廻を繰り返し、地上に肉体を持っています。その後何回もムウ大陸に生れ、最後のムウ帝国崩壊の瞬間も経験しています。ムウ文明を受け継いだアトランティスにも転生し、アトランティス崩壊後はエジプトに、そして中南米のペルーに、ギリシャに生れました。ユダヤの民としても肉体を持ちましたし、インド、中国、日本と順に転生しています。わたしは千三百年ほど前、日本に生れたことを憶えています。この二人の姉妹、フォーリア、ワーリアはわたしの親友たちで、いつの世も同じ土地にいっしょに出ることが多いのです。
ここにおいでの皆様もまったく同じなのです。いつもいつも手を取り合って、同じ目的と使命を持ち、地上に肉体を持つ同志でありグループでもあるのです。
いつも東丈先生がおっしゃったように、わたしたちは魂の盟友なんです。あだやおろそかにこの場へ参集したわけではありません。いつも、いっしょに助けあっていきましょうね、と固い約束を交わした、魂の仲間たちなんです。決してにわか造りで寄せ集めたグループではありません。わたしたちの結束にはたいへんな年季が入っているのです。わたしたちの隣りにいる人たちは、数億年の歳月を同志として固い約束を守ってきた真の仲間なんです! それどころか無限の時をともに生きてきた魂の親友たちなんです!
このように人間はだれでも、一人の例外もなく転生輪廻という宇宙の大法則に従い、地上に生れ変っては沢山のことを学んで行くことを許されています。肉体を持つと過去の記憶は全て潜在してしまい、何も憶えていませんが、決して消滅したわけではありません。
本当に必要な時は、フォーリアとワーリアの姉妹のように転生輪廻の記憶を取り戻し、過去使っていた言葉で話すことができます。このお二人は、転生輪廻が実在することの証人として、記憶を甦らすことを許されたのです。
今後お二人のような証人は、必要に応じて幾人も登場することでしょう。これは決して芝居でもなく演技でもありません。姉妹が使った言葉はたいへん発音がむずかしく、たとえ語学の天才でも簡単には習得できません。外国語をよくご存知の方であれば、お二人の話す言葉がきちんと文法を持ち、決してデタラメに外国語らしきものを喋っているようなものではないとおわかりでしょう。もちろん三万年も昔に今はなきムウ大陸で使われた言葉、超古代語ですから、現在はだれ一人理解できる者はおりませんが......
でも、この場においでの皆さんは、もし心を開いたならば、お二人のようにムウ大陸当時の言葉を用いてお互いに語りあうことができます。皆さんは当時、同じ土地に肉体を持って生きていた仲間たちであるからに他なりません......」
魅せられたような目で、ステージの上の郁江を注視している聴衆たちは、郁江の顔に重ねて異境の王女の面影を見出しているようであった。人種的な骨格、肌色の異る美姫の貌が透けて見える心地がするのである。二人の姉妹が宿っている平山圭子と伴野静子についても同じ印象が存在していた。人々は息を吞み、しわぶきの音一つなく魅了されていた。
ここに至って、箱根セミナーが一気に大転換を遂げたことを感じていない者は一人としてなかった。その立役者はむろん井沢郁江に他ならないが、その転換を仕向けたのは反郁江派ともいうべきグループだった。
しかし、聴衆の多くにとって、そうした行きがかりは意識の外にあった。
「このように転生輪廻は疑う余地もなく存在します。それは宇宙の大法則なのです。人間の不滅の魂にとり、転生輪廻は大いなる宇宙エネルギーによって与えられた勉学の時であり、各自の可能性をより大きく育てて行く時でもあります。
人間にとっての本質とは魂であり、魂は地上世界に降り立ち肉体を持つ都度、魂を大きく豊かに肥やす経験を持ちます。たとえ地上の環境が厳しくても、それは魂が自ら選んだ条件に他なりません。肉体を持った魂は、それが自らの意志のもたらした結果であることを忘れ去ってしまうのです。両親を初めとする肉親たち、隣り近所の人々、生れた時から身近にある環境は、あるいは非常に不満なものかもしれません。人種、民族、宗教、社会階級、性別などにより、人は数多くの差別に直面し、苦しまなければならないからです。
しかし、いかなる苦しみがあるにせよ、人間はそれを魂の意志として選んだのです。決して他に強制され命令されたのではありません。いかなる環境も、完全に己れ自身の意志として選び取ったのです。何もかも覚悟の上なのです。己れに内在する魂を大きく豊かに育て上げることが、人生の大きな目的であることをわたしたちは知らなければなりません......」
郁江に生じた変貌が、その魂の裡にある大きなエネルギーの流露によるということが人々の心にしみこんできた。覚者であり霊能力の持主であった異境の王女が、郁江の裡に目覚め、人々に語りかけているのだった。郁江に突如として生じたエネルギー感の増大は、そうした超常現象以外には全く説明のつかぬものであった。
「エネルギーの循環こそ大宇宙の実相であり、般若心経に記されている通りです。この経はムウ大陸の時、アガシャー王の説いた〝宇宙の法〟のもっとも重要な部分であり、アトランティスからエジプト、ギリシャ、古代インド、古代中国を次々に三万年かけて経由し、日本に伝えられた〝真理の書〟の一部なのです。
そして転生輪廻こそ宇宙法則の真髄といえましょう。それを知らぬ限り、決して宇宙的真実を知ったとはいえません。宇宙における幻魔大戦とは、全ての宇宙意識体の歴史といえるからです。わたしたちが魂に記された記憶をひもとくとは、転生輪廻について知ることであり、幻魔について知ることでもあるからです。
皆さんはまず転生輪廻という宇宙法則の真髄を知らねばならなかったのです。さもなければ、人間が〝幻魔の標的〟である真の意味はわかりません。幻魔という負エネルギーが何に由来するか、それを皆さんは学んで行かなければならないのです。
幻魔の時が至れば、多くのことが終り、多くのことが始まります。それをわたしたちは現実のものとして目のあたりにして行くでしょう。
皆さんの中には、こうした奇蹟を見せられても疑いの心を湧き立たせ、真実から目をそらしてしまう人々もおります。心がなおも物質主義の価値基準の枠をはめられているため、信じることができないのです。あらかじめ打ち合わせ、練習した芝居を見せられたのだ、と考えざるを得ない人もおります。芝居ではないにせよ、自己催眠に陥り、でたらめな言葉を操って自己満足に耽っているのだ、と考える人もいるでしょう。こうした形で英語を喋りたい願望を満たしているのだ、と一見合理的な解釈を下して本人こそ自己満足に耽る否定論者もおります。
しかし、お試しになればわかるように、いかなる天才でも無意味なデタラメ言語を一分間と喋り続けることはできないのです。必ず同じ言葉の反覆になってしまいます。ムウ大陸の二人の姉妹の会話をお聞きになれば、決してそのような無意味な言葉の羅列ではないことが、皆さんにはおわかりになるはずです。
こうした異言を語る現象は、今後多くなって行くでしょう。皆さんの中にも、心を開き、過去の記憶を取り戻して、古代語で語りだす人々が続出するからです。それは不思議なことでもなんでもなく、ごく自然な当り前のことなのです。心を開かれた人間には、だれにもそれが可能です。
けれども、それはあくまでも転生輪廻という宇宙法則の証明にしかすぎません。東丈先生がいつもおっしゃっているように、超常能力はそれ自体意味を持ち価値を有するものではないのです。大切なのは、わたしたちが人間らしく生きることであり、人間として立派であることに他なりません。
転生輪廻の記憶を取り戻したからといって、人間として立派であり偉大であるということには決してなりません。宇宙法則の証人としての役割をゆだねられたということでしかないのです。お釈迦様が悟りを開かれ、仏陀となられたということとは全く違います。転生輪廻の証人となったからといって、偉大な覚者扱いしチヤホヤしたり尊敬しすぎたりしないようにして下さい。
唯物主義の観点から否定するのと同じように、大奇蹟として聖者扱いするのも極端すぎる間違いです。冷静な理性的な目で、証人たちの語る言葉を聞いて下さい。あなたにもそのうちに起こってくる現象かもしれません。起こってみれば、さしたることではないとわかります。真実が証かされただけなのです。
田崎さん、ステージに上っていただけますか? よろしくお願いします」
聴衆はいっせいに頭をめぐらし、田崎宏の分厚い体を捜した。いきなり指名を受けても田崎はたじろがなかった。よく光る大目玉でステージの郁江を見返し、ゆっくりと体を起こした。悪びれず、堂々としていた。美晴が張り裂けんばかりの目を見開き、体を慄わせて田崎を視線で追っている。異常な興奮に駆られていた。
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ステージに上った田崎を、郁江が紹介する。聴衆は拍手も忘れ、夢中になって目を奪われていた。
「塾の方々は、転生輪廻の記憶を取り戻した方々が多いとお聞きしています。田崎宏さんも他ならぬそのお一人だそうですけれども、どのような感じを田崎さんは持たれているのか、話して頂けますか?」
「我々の転生輪廻の記憶は、今三人の皆さんが見せられたような、華やかな劇的なものではありません......」
田崎はさびのきいた声音で口重に答えた。
「時折、かつての過去の記憶がイメージとなって甦ってくるだけで、きわめて断片的です。皆さんのように過去の人格が現われて名乗りをあげ、かつて起きた出来事をすらすらと語ることはありません......ああ、昔はこんなことがあったな、とぼんやり思いだす程度のものです。転生輪廻の証人となるような、鮮明なものではありません......」
「わたしには田崎さんの過去の姿が見えます」
と、郁江は弁明じみた田崎の言葉には構わずにいった。
「現実の田崎さんの姿に二重写しになって、過去に生きた田崎さんの霊体が見えます。もちろん、今の田崎さんとは異っています。でも不思議に雰囲気はそっくりです。圭子さんにも見えますか?」
郁江が振り向いて尋ねる。平山圭子は田崎の顔をまじまじと見詰めていた。恐れげのない大きく瞠られた眸であり、田崎の方が目をそらしてしまった。
「はい......見えます。田崎さんの過去の姿だとわかります」
圭子は瞬きもせずに見詰めながら、フォーリアの異国的な口ぶりで答えた。
「田崎さんにお願いします。過去の記憶を取り戻して話して頂けませんか?」
「いや、それはできません。ここでは......今は無理です」
田崎は苦渋を秘めた口ぶりでいった。
「でも、できますよ。田崎さんは転生輪廻の証人なんですから。過去世の方もお話したがっていらっしゃいます......」
郁江は、田崎の躊躇を気にかけずにいった。
「過去世の方を出していただけませんか? わたしたちに伝えたいメッセージがあるようですから」
「しかし......」
田崎は何事かいいかけて断念した。彼がいかにそれを好ましく思っていないにせよ、郁江の現わしている権威は、彼に躊躇を振り捨てさせる力を有していた。
郁江は田崎を椅子に座らせ、圭子たちはステージの後方に退った。郁江は可愛い手を、田崎のがっしりした頭部に当てる。
「どうぞお話し下さい。あなたのお名前を聞かせて頂けますか?」
「............」
田崎は瞑目し、唇をしっかり結んでいた。
「どうぞご遠慮なさらずにお話し下さい。わたしにはもうわかっていますが......ご心配には及びません」
郁江が優しくいう。
「お話しになれることだけでけっこうです。お願いします」
「この者は心配している......」
田崎の唇が動き、しっかりした野太い声が漏れ出た。田崎の声音とよく似ている。
「そこもとのいわれる通りである」
「今語っていらっしゃるのは、田崎さんの過去の方です。声が似ているので、わかりにくいかもしれませんが、いわゆる〝守護霊〟といわれる方が話していらっしゃるのです......」
郁江が聴衆に説明する。田崎は椅子に端然と腰かけたまま、瞑目し、身じろぎもしない。
「どうぞお名前をお聞かせ下さい」
「丸橋......丸橋と申す......」
ざわめきが聴衆の間に広がった。郁江はとくに驚きの気配も示さなかった。
「江戸時代の方ですね?」
「いかにも。三百有余年前のことになり申す......」
「丸橋様とおっしゃると、もしかすると慶安事件に関係していらっしゃいますか?」
「さよう......慶安の変に関りを持った者である」
「宝蔵院流の槍の名人と呼ばれた丸橋忠弥様でいらっしゃいますか?」
「槍はいささかたしなむ......」
場内のざわめきが高まった。郁江は手振りでそれを制し、丸橋忠弥に向き直った。
「丸橋様にお願いします。当時のことを少しお話しいただけませんか?」
「徳川が江戸開府してから数十年......徳川の大名取り潰しは続き、諸国には数十万の牢人者が塗炭の苦しみをなめ、呻吟しており申した」
丸橋は言葉を切った。頭をしばらく左右に振っていた。
「政商富商は幕府の腐吏と結托し、米の買占を行い、諸国にうち続く不作凶作に乗じ、民草の首を絞め上げた......民草の苦しみをよそに徳川は切支丹詮索に狂奔し、牢人の弾圧に血道を上げ、無数の禁令法令をもって民草をがんじがらめにした......牢人は生きて行くことさえできなかった......武士であることをやめ、草莽の民として生きて行くことさえ徳川は禁じた......その苦しみを見るに堪えず、我々は立上った。最初は徳川幕府のやり方を変えさせようとしたが、それは不可能とわかり、徳川打倒を決意しなければならなかった......」
丸橋の語り口はぶっきらぼうであり、口でちぎりとって吐きだすようであった。
「私は徳川を倒せと提唱した。異論はあったが、幕吏にこちらが潰される前に倒さねばならぬという主戦派が大勢を占め、先生も決意を下された......先生は最初は徳川を説得するべく運動されたが、松平伊豆守が我々の行く手に立ちふさがり、もはや打開の道は失せた......」
「先生といわれると......?」
「由井民部正雪先生である。正雪先生は我々の偉大な盟主であられた。正雪先生は、最初あくまでも戦いを避けようとなされた。それを我々主戦派が突き上げ、先生を戦いに踏み切らせた。それは大きな悲劇であり、私は慚愧に堪えない......先生こそ正しく、我々弟子たちは間違っていた。先生は多くの人々の心を教化することにより、徐々に徳川の方針を変更させようと心を砕かれていた。それでは手ぬるい、牢人たちはみな干ぼしになり死んでしまう! 我々はそう信じていた。我々は戦乱の無惨さ虚しさを避けようとする先生のお心を理解せず、悲劇の道へと先生を追いやったのである。
先生は偉大な巨人であり、必ずや徳川を打倒するだろう......我々は確信していた。先生の力は巨大であり、幕府を倒すのには充分と思われた......」
「正雪先生は、最初は徳川幕府を説得するつもりで、武力による決起は考えていなかったということですか?」
「さよう。先生の下には大名、旗本、富商まで競って教えを乞いに来ていた。紀州家ですら先生を招いた。先生はご自身の影響力により、なんとかして徳川の酷薄な牢人政策を変えさせようと腐心なさっておられた。それをことごとく邪魔し、妨害しぬき、先生のお命を縮めようとさえ計ったのが松平伊豆守信綱である。伊豆守は先生を幕府安泰を覆す難敵としていかなる手段をとっても陥れる気であった。先生の望みはことごとく断たれ、もはや武力をもって起つ以外にすべはなくなった......しかし、先生をそう仕向けたのは、弟子の我々であった......」
「先生を突き上げて、徳川幕府を武闘で倒すことに踏み切らせたことを後悔しているのですか?」
「そこもとのいわれる通りである。先生は昼も夜も苦しみ抜かれていた。先生のお心には一片の私心もなかった。しかし、先生は島原の乱で、数万の切支丹を鏖殺した徳川幕府の冷血さ酷薄さを目のあたりにしておられた。先生は天草四郎が主戦派に押し切られ、戦火の中で無残な末路を遂げるのを目撃されていただけに、戦いの結末を見通しておられたはずだ......
先生は天草四郎に対し、徹底的な不戦をもってしなければ、切支丹はこの国に本当に根付くことはないと説かれた。天草四郎は心ならずも幕府と戦ったのだ......なぜなら天草四郎は先生に心服していたのだから......だが、やがては先生もまたやむなく戦いを選び取られた......」
「正雪先生はどんな方だったのですか?」
「大きな心の持主であられた......私利私欲はひとかけらもお持ちでなかった......だれもが先生に魅せられた。磁力のように心に働きかけ、かたくなな心を融かす魅力の持主であられた......」
「素晴らしい先生だったのですね? 大きな法力を持っていらっしゃったのでしょう?」
「左様じゃ。しかし、その法力はあまりにも大きすぎて......先生にとっては不本意な結果を招き寄せてしまった......」
丸橋忠弥の口は重くなり、しきりに頭を左右に振り動かしていた。
「あまりにも大きすぎる力は、災いを......破局を招いてしまう......力が招き寄せるのは災いだけだ......流血の戦いを選び取った切支丹は、遂にこの国に根付かなかった......先生のいわれた通りであった......」
「正雪先生は、今のこの時代に、肉体を持っておられるのですか?」
「持っておられる......」
「それは、東丈先生ですか?」
「そこもとのいわれる通りである」
聴衆のざわめきが不意に鎮まり返った。
「正雪先生にゆかりの方々は、丸橋様を初め今転生し、先生とともに肉体を持たれたのですね」
「いかにも。我々同志たちは、今この世界に肉体を持ち、先生の下に参集した」
「お仲間はこの場にいらっしゃるのですか?」
「何人か集まっている。先生の腹心が多い......そこもとにはもはやおわかりであろうが......」
丸橋忠弥は瞑目したまま続けた。顔付、喋り方は田崎のものではありえなかった。
「では、同志の方々をここへお呼びします。河合康夫さん、松岡高志さん、井上おさむさん、恐れ入りますが、ステージへ上って下さい」
郁江の呼びかけで、塾生の三人が聴衆の中に立ち上った。三人とも緊張し、いささか照れているようであった。ステージに設けられた椅子に固くなって座る。
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「河合さん、いかがですか? 守護霊の方を呼び出して頂けますか?」
マイクを手に三人の前に立った郁江がいった。河合康夫は頭を搔いて、首を振った。
「だめです......とても自信ないです。こんな晴れがましい場所ではとても......」
「田崎宏さんの過去の姿が、歴史上の人物だということは、前から気付いていました?」
「ええ、それはもう......よく存じあげている師匠ですから。やっぱり転生ですから、今も昔もそっくりなんですよね。でも、今みたいに過去世の人が出てきて直接話したことはありません。我々、みんなそうです。こんなことがあったなといって記憶を甦らせて、話しあうことはあります。うんと大昔の同窓会って感じです......だから、俺、守護霊なんか出したことないんですよ。古代語......異語っていうんですか、あんなものはとてもじゃないけど喋れません」
「異言というのは、転生で出た土地の言葉ですから、十七世紀の日本に出た皆さんはやはり日本語を喋ります。現代人が聞いても何もわからないということはありません......河合さんは、過去の自分のお名前を憶えていらっしゃいますか?」
「ええまあ......でも、たいした名前じゃないんで。丸橋の師匠みたいな有名人じゃないんです。師匠は今もかなりそうですけど、昔はえらく短気でね、あっという間に真赤になって癇癪玉を破裂させるんです。まるで瞬間湯沸しですよ。酒でも入ってたらもう大変。暴れだしたらあの通りの豪傑ですから、取り抑えるも何も何人かかってもかなやしません。みんな這うほうの態で逃げたもんです。そうしてみると、今生では酒は吞まないし、暴れもしないし、生れ変って紳士になったってことかな......」
「先生のことをよく憶えていますか?」
郁江は湧きかけた場内を抑えるように質問を重ねた。
「東丈先生が由井正雪という歴史上の人物の転生だとわかっていたんでしょう?」
「ええ、それは......」
「他の皆さんもそうですか?」
郁江は質問を松岡と井上に向けた。
「松岡さんは、先生を憶えていますか?」
「ええ。昨日のことのように、とは行かないですが、小学生のころを憶いだすみたいに甦ってきます」
松岡は秀でた鼻梁を緊張に白っぽくさせ、硬くなって答える。
「井上さんは? 思いだせますか?」
井上は無言で頷いた。内部の感情をうかがわせないポーカーフェイスであった。いつの世も無口なのであろう。
「河合さん、正雪先生はどんな方でしたか?」
「凄い美男子でした。今の東丈先生生写しです。なぜあんなに似ておられるのかわかりません......もしかすると血のつながりでもあるんじゃないかと思います」
軽薄な康夫は、ステージの圧力も感じないようによく喋った。
「島原で、正雪先生のお伴をして天草四郎に逢ったことがあります。天草四郎も凄い美少年でしたが、先生の方が高雅というのか、天性の気品がありました......」
「天草四郎と正雪先生は、親しい友人同士だったのですか?」
「いや、一度逢っただけだと思います。天草四郎は先生の軍学者としての力を借りようとしたんですが、先生は断わられました。切支丹がもし流血の戦いをなすならば、もはやこの宗門は未来永劫にわたり、この国に根付くことはないだろうと先生は予言しました。天帝の教えをあがなうには敵の血ではなく、己れの血をもってなさねばならぬ......しかし、天草四郎はいってみれば、ただの御輿でして、多少の霊力はあったようですが、周囲の力には逆えなかったんじゃないですか? 正雪先生の言葉にはずいぶん心を動かされたようですけど、やっぱり駄目でした。歴史の必然というのはどうしようもないものなんですかねえ......先生はキリスト教の聖書のこともご存知でした。剣によって立つものは剣によって滅ぶとか、もし右の頰を打たれれば左の頰を向けよとか、イエス・キリストの言葉を引いて、天草四郎に説いていました。切支丹の教えには本来戦いをせよとはないはずだ、と先生はいわれました。そういや、原始キリスト教ってのは、ローマ帝国に大弾圧くって火焙りになったりライオンに食われたりしましたけど、日本の切支丹みたいに、国家権力と戦争なんかやってないですよねえ。ただ一方的に殺しまくられて、地下墓地かなんかに逃げたりするだけで......してみると正雪先生の予言はやっぱ、的中したんですな。今の日本じゃキリスト教徒なんて全然幅を効かせてないですから......」
「日本におけるキリスト教徒の人口は、いくら布教に力を入れても、ある一定数を超えることはないようですけど」
と、郁江はいった。
「正雪先生の予言は当ったようですね。でも先生は軍学者なのに、戦いを避けよと教えるなんてずいぶん風変りだったんじゃありませんか?」
「そりゃ変ってました。恐ろしいほど魅力があって、一度逢った者は必ず心を奪われ、先生の魅力の虜になりました。先生は、松平伊豆守にも逢おうとされたんですが、伊豆守の方が嫌って、この対面は実現しませんでした......きっと正雪先生の影響力をよく知っていて、逢ったら危いと伊豆守は思ったんでしょうな。
伊豆守はなんというか、戦車みたいな冷酷な心の持主で、人間味はなかったけど、本当に強敵でした。もしこのおっさんがいなかったら、正雪先生は幕府の中枢にも食いこんで、大きな影響力を振るわれたんじゃないかと思います。でも、伊豆守は天敵だったようです。じりじり追いこまれて、幕府は反正雪派の一色に染っちまいました......正雪先生は、ただ牢人政策を変えさせて、野倒れ死にしかけてる数十万牢人を救済しようと懸命に努力されたんですが、伊豆の野郎が徹底的に邪魔をしてくれましてね。なんつうか、まったく目の仇です。最後には先生も、やっぱりこれでは駄目だ、数十万牢人はむざむざとくびり殺されはしないのだと底力を幕府に見せつけるしかないと考えを変えられた......我慢の限界を超えたってところですか。
でも、伊豆ってのはどこまでもついてる男でしてね、この野郎さえ取り除いちまえば、後はどうにでもなると思ったんですが、どんなピンチもするするとすり抜けては助かっちまうという命冥加な奴でした。今にして思えば、向うの方が天の加護を受けていたってことになるんでしょうが、こっちはそんなことはわからないから、やきもきしては腹が煮えくり返っていました......やはり天の理は向うにあったんですかねえ。何のことはない、我々も島原の乱の二の舞いになっちまいました。正雪先生を突き上げて戦いに踏み切らせたことを、さっき丸橋の師匠が後悔してましたけど、まったくのところ、我々弟子どもの責任です。正雪先生をさんざん苦しめただけに終ってしまったんですからねえ......」
場内はしんとなって、引きこまれるように康夫の述懐に耳目をそばだてていた。単にそれは奇蹟、超常現象への興味や関心を超える真剣さというものがあった。
彼らは歴史の証人たちというべき存在だった。彼らの口から語られる歴史的事実は、ただの無味乾燥な歴史の教科書に羅列されるものとは本質的に異なっていた。今、聴衆の前で、歴史は突如命を持ち息づき、血を通わせ始め、人々は歴史を外部から観照しているのではなく、歴史の内部に入りこみ、歴史の生々しい内臓にじかに手を触れている感覚に浸り切っていた。
すでに閉会の時間を大幅に超過していたが、だれ一人気付くものはなかった。進行係でさえ、心を奪われて、タイム・テーブルがお留守になってしまっていた。
郁江は、由井正雪が大きな過誤を犯したという証言に気を取られたようである。しかしその点になると、丸橋忠弥同様、康夫の口も重くなり油切れのように渋くなってしまった。
松岡や井上にも証言を求めたが、肝心なポイントは同様にはぐらかされる結果に終った。正雪の門弟たちは、正雪を激しく突き上げ、徳川幕府転覆への陰謀に穏健路線を切り換えさせたことを強く後悔している、そうした漠然たる陳述を得たにとどまった。
徳川幕府を覆えす陰謀自体に関しては、彼らは言及することを頑として避けている印象が濃厚であった。郁江にしてみれば、壁に突き当った気分だったようだ。
河合康夫と松岡高志は、郁江の要請にもかかわらず〝守護霊〟が直接、本人の口を通して語ることがなかった。松岡は緊張しきってしまい、うまく行かなかったようである。本人の口を操って語ることに慣れていないせいもあるらしい。額に汗を浮かべて松岡は口を切ろうと努力したが、どうしても発声に至らず断念せざるを得なかった。それは手に汗握るもどかしい光景であった。
22
が、もっとも無口でとうてい喋りそうもないと思えた井上が簡単に〝守護霊〟の口を切らせてしまった。意外感と安堵感が同時に場内に流れた。
「加藤市衛門......張孔堂先生の門人である......」
と、井上は明解な調子で名乗った。
「丸橋たちとともに張孔堂先生の腹心であった......今はこれらの者たちと無名塾に集っている。肉体を持ったこの者は狷介で心が狭く、大変指導しにくい......」
肉体を持った本人、井上修の批判を始めたので、場内がどっと湧いた。郁江が身振りで笑いを鎮める。
「我々、守護指導の任に当る霊界の者の責任は非常に重大である......是非それを知ってもらいたい」
加藤市衛門は生真面目に語った。
「肉を持った者はもはや目も見えず耳も聞こえなくなったのと同じである。いかに我々が声を大にしても、本人には通じない。そのために、肉を持った者はしばしば道を誤まってしまうのである。我々と肉を持った者が意を通じ合わせることは、非常に稀なことであり、奇貨とせねばならない。しかるにこの者は努力が足らず、頑迷であるためちからを生かすことができない。霊力とは己れの好奇心を満たすためにあるのではないのである。これを機にこの者は猛省すべし......」
抑え切れぬ笑声がこぼれる。〝守護霊〟は井上本人に大きな不満があるらしい。
「本気になり死物狂いになってやらなければ、とうてい先生をお助けして行くことなど覚つかない。それをはっきり自覚するべきである。この者たちは全く本気になってもいないし、真に努力してもいない。
今は何をビクビクし怖れていることがあろうか? もはや死物狂いになり力を尽して行くほかはないではないか......お主たちの盟主はすでに立ち、死力を尽してお主たちを導いているではないか。それにも関らずお主たちは何をぐずぐずしているのか......
今はお主たちは有無をいわず、我々守護指導の任に当る者たちに従わねばならぬ時である。さもなければ、お主たちの盟主がいかに偉大であろうとも、空転するばかりではないか。今は躊躇している時ではない。お主らの盟主は、ここにいるお方の補佐を受けられ、一段と飛躍なされようとしている......」
井上は瞑目したまま、手を郁江に向けて差しだした。無口な井上らしからぬ雄弁ぶりであった。いたく痛憤するものがあるらしい。
「お主たちはまだ気がつかないのであろうか? このお方は非常に大きな使命を帯びられている......しかるにお主らは陰でこそこそとささやきあって、このお方をおとしめようと愚かな真似をしているではないか。我々の目は節穴ではないのだ」
加藤市衛門は遂に聴衆たちの批判を始めた。度胆を抜かれたように、忍び笑いが消えてしまった。
「目も耳もふさがれ覆われているとはいえ、お主らはなんと愚かなのか。我々、守護指導の任に当る者たちの叫びもお主らの心には全く響かないのであろうか......今は躊躇らう時にあらずとお主らは知っているではないか......それなのにお主らは黒い猜疑心を湧きたたせ、このお方の使命をさえぎり、妨害しようとしている。心当りの者もおろうが、そうしたお主たちの黒い想念は必ず現象化し、悪魔の破壊的な力を導入することになってしまう。
そのことを我々はどうしてもお主らに告げたかった。今は後を向き脇見をして躊躇する時ではない。心を集め、一丸となって嵐を突破しなければならぬ時である。しかるに、どうであろう、お主らの心はみごとなまでにバラバラである。我々にはそれが丸見えになってしまうのだ。かりそめにも霊界にいる我々の目をごまかせると思ってはならない。
お主らのうちのある者は、黒い心の魔に操られている。怒り嫉みそしりの魔の虜になっている......お主らの盟主やこのお方を、お主らはなぜ疑うのか? お主らの心はもはや良心から離反してしまっているではないか。
お主らの心にはもはや否定の黒い想念しかないではないか。我々は決してごまかされはしない。
お主らのある者は、大きな危難に遭っている盟主を疑っている。愛も信も根こそぎに失せ、猜疑心をもって盟主を否定しようとしている。それのみか、他人をも扇動して、猜疑心を一層増大させようとしているではないか......お主らの黒い心は全て我々の知るところである」
場内は氷のように冷たい怯えにみちた沈黙で満たされた。加藤市衛門の糺弾は峻烈そのものであった。
「そうした者たちに、我々は忠告する。お主らの謀らみは必ず阻止され、失敗する。お主らは猜疑心を捨て、純なる心に戻り、盟主とこのお方をお助けし、盛りたてて行かなければならない......
心を一つに集め、盟主に従おうとする者たちは決して怖れることはない。悪企みはもはや潰えてしまっている。心を引き緊め、心の迷いを反省しなければならない。さもなければ、お主らがこの場に集った意義は失くなってしまう。そのことをお主たちに告げたくて、我はこの者の口を切って語ったのである......くりかえしていうが、お主たちが純なる心に立ち返らない限り、我々は援助を与えることが困難になり、お主たちは魂の本質の力を無駄にしてしまうだろう......ただただ反省し努力せよ。お主たちを守護指導する者たちの叫びに心の耳を傾けよ。さもなければ、お主たちには重く冷たい悔恨しか残らないであろう......」
井上の目は瞑しているが、肉体に宿った守護霊加藤市衛門は、かっと目を見開いて聴衆の一人一人を凝視しているようであった。聴衆の中には目を伏せてしまう者が少なからず存在した。
「盟主を心から愛し、信頼してついて行こうと決心している者たちよ。お主たちがしっかりと心を一つに集めているならば、たとえ困難が行手に立ちふさがり、有害な震動が生じた時も、お主たちは守護されているがゆえに、大きな被害は免れよう。愛し信じる心に隙を作ってはならない。黒い破壊の震動は、ほんのわずかな心の隙間からも侵入しようと機を窺っている......
繰り返して忠告するが、お主らは今は怯んだり躊躇らっている時ではない。お互いに心の絆を強め、しっかりと結び合え。宇宙の大嵐はもはや目前に迫っている。心の絆を緩めた者は木の葉のように吹き散らされ、再び戻ることは不可能になる。
しかし、恐れてはならない。大いなる力がお主らとともに在るではないか。宇宙の偉大なエネルギーはお主らの魂の内に蔵されている。お主たちはすでに宇宙の真理を知るという機会を与えられ、偉大な盟主の下に集う幸せを我がものにした。その幸せは、お主らが己れの使命を果たすために与えられたのである。己れの幸運の上にあぐらをかいていてはならない。お主たちはすぐに立ち上り、己れの使命を果たせ。お主たちがかつて我々とともに霊界にあり、地上に降り立とうとした時の熱望と決意を思い出せ......さもなければ未来永劫の失意と後悔しか残らないであろう。
我々は次元を異にしていても、本来お主たちと一体の者なのである。ともに手を取り合って進んで行かねばならない。
最後に、この者の口を借りてお主たちに呼びかけることを許された幸せに心から感謝する。このこと自体大いなる奇蹟なのである。それを是非ともお主たちに知ってもらいたい......」
加藤市衛門は口を閉じ、それ以上語ろうとしなかった。沈黙が続いた。聴衆はどうしていいかわからなげに、身じろぎすることさえさし控えているようであった。
「ただ今、井上さんの過去の転生で、井上さんを守護指導している高次元の方から、きびしいけれども、慈愛のこもったお言葉を頂きました......」
郁江がマイクを手に沈黙を破った。井上は目を開き、不審そうな顔付をしていた。トランス状態に入っていたため、守護霊の加藤市衛門が何を語ったのかわからないのであろう。
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「これは決して井上さん個人に限られたことではありません。皆さんも同じことなんです。皆さん一人一人の守護霊も、同じことを皆さんに伝えたがっているんです。きびしいけれども、本当のことばかりです。もし反撥の気持が湧くとすれば、皆さんの心に反省がないからです。皆さんは今、皆さんの良心の声を聞かされたのです。
高次元の方がおっしゃったように、今はいたずらに躊躇したり迷ったりしている時ではありません。わたしたちははっきりとそれを知らなければなりません。
まさかこの箱根セミナーの最後の最後になって、こうしたことが起こるとは、わたし自身、予測もしていませんでした。高次元世界の方々が、肉体を持つ者の口を借りて直接語りかけて下さったり、忠告や助言を与えて下さるとは夢にも思わなかったことです......
昨夜、先生とともに十名の人々の前に、魂の本質である高次元の光が姿を顕わし、真実を示して下さいました。そして今夜は直接語りかけて、わたしたちの心の迷いを晴らして下さいました。
わたしたちは何と幸せなことでしょうか。加藤市衛門と名乗られた高次元の方がいわれたように、わたしたちはろくに努力もしていないのに、真実を知る幸運を恵まれたのです。
わたしたちはこの物質世界に生きるだけの肉体的存在ではなく、高次元世界にまたがって生きる永遠不滅の生命であることが、今こうして実証されたのです。転生輪廻はまぎれもない事実であることが証明されたのです。
宇宙の真理を知った以上、わたしたちにとって何を怖れることがあるでしょうか? たとえたった今、天変地異により地球が壊滅し、わたしたちが全員肉体の死を迎えたところで、永遠の生命を知ったからには、怖れることなどないはずです......
高次元の方がいわれたように、わたしたちは偉大な盟主に指導されているのです。心を一つに集めて、使命を果すことにのみ努力を傾ければいいのです。道はおのずと展け、光に照らされて行きます。わたしはそれを断言いたします。
けれども、正しく指摘されたように、わたしたちは少しも必死ではなく、死物狂いになっているというにはあまりにもほど遠い現状です。箱根セミナーでこうしてこの場に集まっているけれども、心はバラバラです。心はそれぞれ勝手な思惑に走っています。本気で先生とともに歩もう、何があっても必死でついて行こうとする人々はこの中のほんの一部にしかすぎません。
それでもけっこうだとわたしは思っています。先生が会を閉ざし、会員数の膨張を防いだのは、真の同志たちを得るためだったとわたしは信じています。
死物狂いになって先生とともに歩もうとする者はほんの一握りでいいのです。不毛の種子がいくら多くても得るものはありません。真の生命を宿した種子はたった一粒でも、多くの収穫をもって地に満たすことができるのです......
ついてきたくない者は、ついてこなくてもいいのです。ついて来ないことこそ、その人々にとっての幸せでしょう。死物狂いでついてくる人だけ、ついてきて下さい。先生が昨夜おっしゃったように、真に自覚した者が十名いれば、世界は救えるのですから。
この箱根セミナーで、大きな収穫を得た人もいれば、そうでない人々もいるでしょう。ひっきょう、あらゆる機会を捉えて心の糧とする気持がなければ、いかなる奇蹟を目のあたりにしても幻にすぎないのです。
二日間にわたった箱根セミナーはこれで全プログラムを終了することになります。意外な出来事続きでしたが、皆さんがそれから何を学び、何を得るかは、まったく皆さん次第です。
ご協力頂いた塾の皆様方、どうもありがとうございました。皆様の惜しみない力添えを、会を代表いたしまして深く感謝いたします。皆様のご尽力を得て、GENKENは新しい転機を得たことを、わたしは確信しています。これより、無名塾とGENKENは、車の両輪として協力しあい、機能を十全に果して行くことを願っています......」
田崎を初めとする四名の塾生はいっせいに椅子から立上り、答礼した。拍手は湧かなかった。聴衆は拍手を忘れ、声を喪っていた。その静寂は、箱根セミナーの不成功を印象づける幕切れと思われた。明らかに参加者たちはどうしていいかわからず、行動のめやすを喪失していたのである。
異様な沈黙の中で、ステージ上の人々は戸惑ったように棒立ちになっていた。ステージを降りるきっかけを喪ってしまったようであった。
その空隙が、まさに吸引したように声があがった。反郁江派にとっては乗ずべき好機だと直感したに違いない。
「質問、質問!」
と、粗野な声が飛んだ。聴衆はぎょっとして振り返り、声の主を捜そうとした。
「質問したい! こんなセミナーには納得できない!」
日下という若者が立ち上り、勢いこんでどなっていた。静かなので声はよく通った。居丈高な波動の悪い声音だった。
「我々はこんなセミナーを期待して参加したのではない! プログラムと全然違う! この二日間、まともなことは何一つやっていないじゃないか! 何もかもその場しのぎのいい加減な猿芝居だ!」
日下は眼が据り興奮に酔ったようになっていた。空隙に魂を吸いこまれたように激越な口調で怒鳴りまくっていた。抑制を失ってしまい、喋れば喋るほど興奮がいや増してくるのである。
日下にしても最初はこのように過激な弾劾とアジテーションに走る気はなかったろう。彼は秘かな扇動者として立ち廻っていたのであり、表面に出る気は毛頭なかった。魔が射したのである。
好機到来と思った瞬間、反射的に声が出てしまったのだ。

しかし、聴衆は異様な表情で日下を注視するだけで、何の反応も示そうとはしない。日下が扇動に成功したはずの数名の反郁江派も、度胆を抜かれたように沈黙していた。日下の真向切った跳ね上りに、仰天してしまったのであろう。
「会長はいったいどうしたのか!? このセミナーの責任者であり、講演その他指導を約束していた会長は何をしているのか!? 無責任じゃないか! インチキな代理を立ててお茶を濁すなんてけしからんじゃないか! 我々はこんな素人のにわか芝居を見て恐れ入るほど甘くない!
我々は会長の無責任さを断乎として追及する! 我々は安からぬ参加費を払いこみ、貴重な時間を遣り繰りしてこの箱根くんだりまでやって来た! こんな馬鹿ばかしいお説教を聞かされるためではない! こんなインチキに納得し、詐欺行為に満足するほど我々は愚かだと思ったら大間違いだ!
即刻、会の責任者は我々に陳謝せよ! 我々の納得が行くまで、この不祥事が何に起因するかこの場で説明することを要求する!」
日下は金切声になってきた。過度の興奮のため、聴衆の反応が理解できなくなっているのだった。
聴衆のうち、だれ一人日下の弾劾に同調する者はなかった。日下はむろん、彼の追及に声援が飛ぶことを期待していたのであろう。しかし、日下の声が金切声になるにつれて、会場は拒否と反撥を明確に日下に対して表示し始めていた。だれ一人共感の声を発さず、沈黙している。日下だけが浮き上り、空転しているのだった。
田崎を初めとする、塾の四人が静かにステージを下りて行った。会場にいる警備係たちはすでに行動を起こしていた。沈黙したまま日下の周囲へ移動を続けている。
「会長はどうした!? 返事を聞かせろ!」
日下はなおも聴衆を扇動しようとして喚きたてた。
「転生輪廻なんて下らない猿芝居は沢山だ! 我々はこんなものが目的で、セミナーに参加したんじゃない! プログラムのデタラメきわまる変更はどうした!? なぜ変更したか釈明しろ! 会長はセミナーを放りだしてどこへ消えたんだ!? 我々は徹底的にこの不祥事の責任を追及するぞ!」
「............」
郁江は身振りで警備係を抑えた。日下はようやく気付き始めた。聴衆の反応は、彼が意図する方向へ動いていない。日下に同調するはずの扇動者もひっそりと鳴りをひそめていた。糺弾の声が、日下の弾劾に呼応していっこうにあがらないのだ。
日下の声音に乱れが生じた。近寄ってくる警備係に恐怖を覚えたのであろう。呼応して弾劾に立つはずの仲間たちが聴衆の中に埋りこんだまま、寂として声も立てないことが日下をうろたえさせたのだ。自分が孤立させられたことを知って、顔色が変り、汗が顔面に噴きだしてきた。
「我々は、プログラム通りのきちんとした研修を受ける権利がある! こんなセミナーはインチキだ! 参加費用を参加者全員に払い戻すことを要求する!」
声が震え、うわずった。
「皆でこんな茶番劇は拒否しようじゃないか! 会長は無責任にもこのセミナーを放棄して姿を消したんだ! この女は会長代行などといっているが大噓だ! 井沢郁江は何の権限も持っていない! もし持っているというなら、会長権限を委譲された確かな証拠を見せるべきだ! しかし、そんな証拠などないことを我々は知っている! 会長が無責任な失踪を突如として遂げたため、幹部は狼狽しきってその場凌ぎのために会長秘書の井沢郁江を急遽代役に立てたんだ!
このセミナーはインチキだ! いかなる意味でも正しい研修は何もなされていない! 講師は何らの公的な資格もなく、知識も実力も何もない! 講師と呼ぶべき内容もない、いい加減な人間によって指導された研修など、単なる詐欺行為以外の何者でもない! 我々はここにこの研修会の欺瞞性を暴露し、断乎糺弾する!
我々が今もったいぶって見せられた奇蹟と称する茶番劇、猿芝居、ドタバタ劇は宗教的詐欺行為だ! こんな非科学的なことがありうるはずはない! 転生輪廻など迷信にすぎない! 会長東丈の無責任きわまる蒸発により、研修を続行できず困惑しきった実行委員がその場凌ぎにでっちあげた即興芝居にすぎないんだ! 皆は瞞されているんだ! こうした神がかりの宗教的詐欺行為に早く気付き、我々はこの不祥事の責任を追及しようではないか!? 井沢郁江は単なるヒステリー妄想性の神がかりにすぎない! 東丈会長の信任を受け、会長代行として権限を委譲された事実などどこにもない! みんな瞞されるな!」
日下は汗をしたたらせ、声を掠れさせて非常な早口で喋り続けた。会場には同調の声は上らなかった。ざわめきが生じたが、それは日下の期待しているのとは異質なものであった。
「こんなものはインチキだ!」
日下はステージの郁江に指を差しつけ、必死で喚きたてた。
「インチキにきまってる! こんなペテン行為で会長失踪の不祥事を取りつくろおうとしてもそうは行かないぞ! 我々はあくまでも道義的責任を追及するからな! 我々は会長を初めとする現執行部の無責任体制に裏切られたんだ! 井沢郁江は会長東丈の研修会放棄という大不祥事をごまかす隠れミノにすぎない! みんな瞞されるな!」
日下の声は自棄的に割れ掠れて、悲鳴に近くなってきていた。声が掠れるだけではなく、息切れしてしまっている。
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ステージの上の郁江は不可解な沈黙を守っていた。日下の金切声の告発をさえぎるどころか、気のすむまで充分にやらせようとしているようであった。
日下は大きく喘いでいた。胸部が激しくふくらんだりすぼんだりを繰り返しているが、出てくる声は小さくなり、聞き取りにくくなってしまっていた。自分が全く孤立しているという自覚が日下に大きな衝撃をもたらしているのだった。恐怖が忍び寄ってきて、彼の声は怯えに満たされた。
「みんな、どうしたんだ......!?」
日下はしゃがれ声を振り絞り、聴衆の中に仲間を捜そうとした。すがるような声音になっていた。
「なぜみんな黙ってるんだ? どうしたんだよ......どうして何かいってやらないんだ......? みんな、インチキだといってたじゃないか! 会長失踪の責任を追及するといってたじゃないか......なぜ黙ってるんだよ......井沢郁江にみんなでいってやれよ。会長代行なんて大噓だって......井沢郁江は何の権限もありゃしないんだ......どうしたんだよ!? なぜみんな黙りこくってるんだよ!? こんな研修会なんかインチキだといってたじゃないか......時間と金の無駄使いだといってたじゃないか......会長がなぜこの研修会をいきなり放棄して姿をくらましたか、我々は知る権利があるって......みんな怒ってたじゃないか......それなのに、なぜ黙ってしまったんだ......こんなのおかしいじゃないか......俺ばかりに喋らせて、みんな逃げるのかよ......そんなのってないだろう......」
不意に日下は孤立無援の重圧に押し潰されたようになり、声を喪い、喘いだ。体から力が抜けてしまったようであった。絶望と失意が全身にのしかかっていた。
「皆さんにお尋ねしたいことがあります......」
ステージの郁江が口を開いた。いささかの感情の乱れもない声音であった。
「大変に、大事なことをお尋きしたいのです......もし皆さんは東丈先生が、いきなりいなくなってしまわれたら、どうなさいますか? これはしばらく前から、先生が身近にいる人々に投げかけていた問いでもあります。──僕がもし突然この世を去ったら、君たちはどうするかな? ちゃんと遺志を継いでやってくれるかな?......そう先生がおっしゃったのを聞いた人々はわたしの他に何人もいるはずです。
──僕が肉体をもってこの地上に留まっている限り、皆さんはどうしても本当に自覚できないのかもしれないね......先生はそうおっしゃいました。先生のちょっとした冗談だと思った人もいるでしょう。先生はそれほど深刻にはいわれませんでしたから。
そして先生はいつもわたしたちに向い、一人一人が先生の代理人になってほしいと要望され続けてきました。けれども、皆さんが先生の心をあまり理解していなかったことは事実です。いつも先生がともにいて、手を取って教えて下さる......そうした甘い期待がわたしたちをどんなに毒し、弱々しくしてきたか、今回のセミナーを通じて、皆さんは思い知らされたのではないでしょうか?
もし、先生が突然、いなくなってしまわれたら、わたしたちはどうすればいいのか? どのように先生の教えを生かしていけばいいのか......それが今回の箱根セミナーの真実のテーマだったはずです。
先生の代理人としてわたしたち一人一人が生きることがどれほどの決意を必要とするか、わたしたちは、このセミナーで学んだのではなかったでしょうか?
先生が望んでおられたのは、わたしたち一人一人が先生の代行を務めるということなのです。それが先生がいつもわたしたちに求めておられる自覚ということの真の意味なのです。
けれども、皆さんにはどうしてもそれがおわかりにならないようです。依存心、依頼心が強すぎて、先生に対し全てオンブにダッコの頼り切りになってしまうのです。わたしはそれが大きな間違いであるということを、繰り返して皆さんに指摘しました。
先生がもし、たった今いなくなってしまわれたらどうするか......そこまで申し上げて、皆さんの自覚、覚悟というものがどの程度のレベルにあるか知っていただこうとしました。
けれども、皆さんの多くは、それを単なる仮定、言葉の綾として聞き流してしまったり、あるいはどうしても本気にできなかったというのが真実ではなかったでしょうか?
もし、先生がいらっしゃらなければ、この会に留まる意味はない、とお考えになるのなら、どうぞ立ち去っていただいてけっこうです。先生の代理人、代行者としての光栄を投げ捨ててしまうのは本人の自由です。でも、わたしは全ての人々が立ち去り、わたしだけ残されたとしても、一人でもやります。先生のお心を世界中の人々に伝えるため、努力していきます。
本当に先生はこの地を去り、二度と戻ってはこられないかもしれません。でも、たとえ先生がどこに行かれようが、心と心で交わした誓いは生き続けています。時間と空間を超えて生きています。一度、先生の代理人となったならば、たとえたった一人で宇宙の果てへ行こうと務めを果たすのは当然ではありませんか? それが代理人ではありませんか?
先生がどこに行かれようと、時間的空間的にどれほど離れようと、わたしたちは先生の弟子であり代理人です。その事実は少しも変りません。先生の心はいつもわたしたちの心に生きているはずです。心と心で話しあうことができるはずです。
もしそれができないとすれば、あなたがたがあまりにも甘ったれているからです! 心の中に先生が生きていないからです。先生を愛してもいないし、信じてもいないからです。本当に人を愛し信じているなら、その人のためにわたしたちは奮い起ち、普段の自分には信じられないような大きな力を発揮することができるのです!
先生を崇拝し尊敬するというのは、先生に全て頼り切ってしまい、先生がいなければこの世は闇だ、何もかも終りだ、と悲嘆し、絶望することでは決してありません。先生の代理を果すべく、奮起し、力の限り努めることではありませんか!
先生のいない会には意味がない、そう思う方々はどうぞ去って下さい! 先生のいらっしゃらない時こそ、代理人の務めを果そう、そう決心した人だけ残って下さい! どうぞ、ご遠慮は要りません。
真の自覚とは責任感にほかなりません。自分を甘やかすことなく、自ら責任を負い、務めを果たして行こうと決心した人間だけが得ることができるのです。それは魂の使命感、義務に目覚めることです!
会は、物質的権利義務の追及だけに明け暮れる労働組合ではありません! 己れの霊性に目覚めることこそ、この会の最大最高の目的です。さもなければ、いかに会が拡大し人が増えても、何の意味もありません。
わたしがこの会に固執し、リーダーシップを取ることを望んでいると考える人もいるでしょうが、それは間違っています。代理人であることを自覚したならば、会にはさほどの意味はなくなります。先生がいつもおっしゃるように、組織はただの方便にすぎません。なまじ組織に拘泥するために、自覚が遅れ、執着の虜になることだってありえます。
わたしは必要とあれば、いつでも会を出ます。代理人としてもっとも大切な道を選ぶつもりです。代理人は甘い覚悟では決して務まりません。
それを悟ることができて、このセミナーはわたしにとり最高に有意義でした。わたしは今とても幸せです。
わたしの選んだ遣り方に反撥をお持ちの人々に対してはっきり申し上げますが、わたしにとって、このセミナーを大過なく終了させることはたいして重要ではありませんでした。このセミナーに参加した皆さんの一人一人が、自分の心の在り方、心構えを全て洗い出すことこそ、このセミナーの目的だったからです。
楽しい意義あるセミナーをお祭りごととして終了し、浮き浮きと帰宅することをお望みだった方々には、当てはずれだったかもしれません。けれども、そんな甘い心根では、代理人は決して務まりっこないんです。わたしたちは宇宙的嵐を目前に控え、これから凄絶な経験を積んで行かなければならないんです。
ですから、わたし井沢郁江に対して反撥され、このセミナーのあり方を否定し、それをはっきりと表明された方々に、わたしは感謝さえしています。これは決して強がりでもなんでもありません。
皆さんは、改めて自分が何をなすべきか、選択する機会を与えられたのです。先生がもし突如としていなくなられた時、自分はどうするか、今回のセミナーで皆さんはよくわかったのではないでしょうか。先生に依存しきっていたあまり、なすすべも見失い、うろたえきった人々が大部分だったのではないでしょうか?
自分で自分の心がわからなかった人々が、はっきりと見定めるまたとない機会を与えられたのです。ありがたいと思うべきかもしれません。このセミナーを終えて、心重く家路につく人々が多いことでしょうが、それでいいのです。自らは決して何も与えず、全て他から与えられることをのみ欲する、ないものねだりのセミナー、楽しいお祭り騒ぎのセミナーなど幻影に過ぎなかったのですから......
最後に大きなショックを受けている皆さんに申し上げますが、わたしは先生が亡くなられたとか、二度と戻ってこられない、といっているのではないのです。先生はお帰りになります。先生がこのセミナーで皆さんに対して明らかになさりたかったのは、依存心がある限り自覚は決して得られないということだとわたしは信じています。
けれども、先生のご不在がなければ、皆さんは決してそのことを考えようとはしなかったでしょう。〝自覚〟〝反省〟というテーマはただのお題目になってしまい、皆さんは気易く口走るだけで、実践には至らなかったでしょう。そうでないと断言できる人がどれだけいるでしょうか......」
場内が安堵の吐息に満たされていた。郁江が、東丈は戻ってくると言及したとたん、絶息しかけていた沈黙が一気に破れたようであった。青ざめて金縛りになったような聴衆の顔に生色が甦ってきた。
「ご安心下さい、とわたしはいいません。皆さんの自覚を引き出すために、先生は本当に立ち去ってしまうかもしれないのですから......今日一日、皆さんがどれだけ心の動揺に見舞われ、心を毒する想念に自らをゆだねたか思い起こしてみてはどうですか? 恥しいことだと思います。先生がお戻りになっても皆さんはどの面さげて先生にあいまみえることができるのですか? わたしなら先生に合わせる顔がありません。この次、皆さんがどういう顔で、お戻りになった先生をお迎えするのか、わたしにはとても興味があります。皆さん一人一人のお顔を、穴があくほど見物させていただこうと思っています......」
思いがけずに拍手が湧き出して、郁江は二の句が継げなくなった。拍手は更に激しく熱烈に高まった。聴衆は一人残らず立ち上って、ステージの郁江に拍手を送っていた。日下たちが聴衆の間を抜け出して逃げ去るのがステージの上からよく見えた。立ち去ったのはさほど多い人数ではなかった。六名ほどにすぎず、後はその場に残って、郁江に対し、謝意をこめた拍手をあくことなく贈り続けていた。
それは、聴衆たちが郁江に猜疑心を持ったことをどれだけ後悔し、恥じているかという表明でもあった。彼らは郁江の痛烈な批判をむしろ感謝をもって受容していた。
カメラのストロボが生き返ったように閃光をステージの郁江に浴びせ始めた。トップ屋の風間が走りまわってしきりにシャッターを切っていたが、だれも風間をとがめだてする者はなかった。風間はだれにも妨害されず、熱狂の表情で何事か口走りながら、ステージの下を駆けまわった。しまいにはステージの上に跳び乗り、クローズアップで郁江の顔を狙うありさまだった。
郁江は苦笑いしながら、衰えぬ拍手に送られてステージを降りて行った。──あんたは凄い、本当に凄いよ! と風間が口走ってはシャッターを切るのが聞き取れた。トップ屋は忘我の境地に達していた。夢中になった犬ころのように郁江の後先を駆け廻る。
聴衆たちは、足早に退場する郁江の周囲に押しかけてきて、拍手し声をかけ、握手を求めた。しまいには郁江の小振りの可愛い手は真赤に脹れ上り、もみくしゃにされる郁江を警備の塾生や内村、竹居たちが体を張ってガードし、押し寄せる聴衆たちから救出しなければならなかった。彼らが熱狂という以上に、贖罪の衝動にとりつかれていることは明らかであった。
彼らは一瞬でも郁江を猜疑心をもって見たことをいたく後悔し、その罪を償わなければならぬと感じていたのである。日下ら反郁江派の扇動に乗り、危く箱根セミナーを破壊しかけた自責の念で、彼らは居堪れなくなり、口々に謝罪の言葉を発し続けた。申しわけなさのあまり、彼らは郁江について歩いた。自分たちの悔悟の気持をどうしても伝えなければならぬと感じているのだった。
井沢郁江も含めて、だれもがこの箱根セミナーが成功したのか、それとも無惨な大失敗に終ったのか判断をつけかねていた。もっとも冷静な判断を下しているのは、傍聴人だったホテル従業員やトップ屋の風間であったのかもしれない。あるいは敗走した日下ら陰謀グループだったのかもしれなかった。郁江は聴衆のまっただ中にダイナマイトを投じたほどの反響を得たのである。
この強烈な印象をもたらした箱根セミナーがどのような因果関係を作りだして行くのか、予測できる者は一人として存在しなかった。当の郁江自身、全く見当がつかなかったのである。


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大都会の上に長い陰鬱な夜と寒波が居座っていた。冷惨な寒さは、心の裡にも居座り、堪えがたかった。
東丈は失踪し、盟主を失った組織は無意味に鳴動し、軋んでいた。全世界が寒く真暗な廃墟に変貌していくようであった。腐蝕しボロボロに崩れた骨で埋まった地下の墓場に、たった一人で閉じこめられている心地がした。
心の裡で無限に崩れて行くものがある。血の代りに腐蝕性の毒液が体内をめぐり、胸を内側から侵食している。
杉村由紀は体中に冷汗を滲ませて、冷たく痺れた思いのまま自らを駆りたて、仕事に励んだ。今はただがむしゃらに仕事を続けること、依怙地になり続けることだけがわずかに心の支えであった。余計なことは考えまいとした。現状がどのように動いているか、知りたくなかった。箱根セミナーが東丈を欠いたまま、どのような推移を遂げているか、考えることすらやめようと思った。
八時過ぎに、全てのメモを書き終えたが、箱根からの帰還者の気配はなかった。六時までには全スケジュールを終了して、渋谷の平山ビルに引き上げてくるはずなのだった。
デスクの上には、出前で取り寄せた店屋物の丼が蓋をしたまま冷たくなっていた。どうしても箸をつける気にならなかったのである。空腹なのだが、食欲がなかった。朝から食事を摂っていないので、体の芯が冷たくなり脱力感が生じている。しかし、どうしても箸をつける意欲が湧かない。二時間もたって冷えきってしまえばなおさらである。
由紀は依怙地さだけを頼りに、秘書室の後輩たちに残す注意書きを清書した。冷汗が滲み、動悸がするのに懸命に堪える。字体までが冷たく覇気がなく虚ろであった。いつもの由紀の字の持つ人間味がまるでないのだ。他人が書いたものとしか思えないほどよそよそしかった。
セミナー参加者たちが帰還するまでに、仕事を終えたことが有難かった。だれにも顔を合わせることなく帰宅することができる。セミナーの結果を知らせる人間には逢いたくなかった。とりわけ井沢郁江にはしんそこ逢いたくなかった......
杉村由紀は己れが外郭だけを残した脱け殻になったような気がしていた。依怙地であり続けることだけが、外郭を辛うじて保持する唯一の途であった。
由紀は七階にいる留守番の会員たちに、帰宅することを告げようかと考え、思い止まった。久保陽子たちがいるだけに、それは億劫だった。あまりにも気が進まなかった。
代りに書き置きをし、デスクの上に残した。丼物をどうしようかと考え、そのままにしておく。帰ってきただれかが片付けるだろう。こんな際でも日常的な些末事にこだわっている自分が愚かしく思えた。東丈に遺棄されたというのに、あまりにも自分が日常的なルール通りに従っているからだった。
後片付けを手早くし、コートを着る。まるで体に力がないのに、セミナーの帰還者と顔を合わせたくない一心で体が動くのだった。
汚れた下着を紙袋ごと鞄に押しこみ、秘書室を出た。人目を避けて逃走する犯罪者の心境であった。秘書室のドアをロックし、平山ビルを出るまで、だれか会員にばったり出食わさないように、と由紀は祈りたかった。彼女が明日、日本を発つことは会員のだれもが知っている。顔を合わせようものなら、長々と煩わしい挨拶につきあわされ、時間を浪費しなければならない。箱根帰りの一行を避けたい理由はその一事に尽きた。心が冷えきっていて、彼らに一片の愛情も持てなかった。ただ疎ましいとしかいいようがなかった。
冷たい風に吹きさらされながら、明るい道玄坂の商店街に出ると、悪い予感が湧いた。渋谷駅までの坂道を下って行くと、箱根帰りの一団と顔を合わせてしまいそうな気がした。
強迫観念に駆られて、由紀は衝動的に通りすがりのタクシーを呼び止めた。その時はまっすぐに高輪のマンションへ帰宅するつもりだったが、湿気のこもった車室の空気に触れると、突如として気が変った。
酒が飲みたい、と思った。その欲求は突然高まり、由紀には身構える暇もなかった。体が冷え切って、がらん洞のように感じられたせいだろう。その空隙を満たさなければならなかった。
しかし、マンションの自室には酒など置いていない。ウイスキー一本の買置きすらもなかった。アルコールとは絶縁する気でいたからである。
しかし、今日は日曜日であった。バーのたぐいはどこも開いていない。銀座の、以前馴染みだった店のあれこれを心に思い浮べていた由紀はひどく気落ちした。孤独感が色濃くこみあげてきた。
「お客さん、どちらへ行くんですか?」
初老の運転手が声を高めて尋ねた。幾度か尋ねたのだが、由紀の耳には届かなかったのだ。
「ああ......赤坂......」
由紀はあわてていった。ホテルのカクテル・ラウンジで飲もうと思いついたのだ。日曜日でも開けている場所は他には思いつけなかった。改めて赤坂にあるホテルの名を告げる。タクシーは強引にUターンして道玄坂を下り始めた。
酒を飲もうと決心すると、少しだけ心が晴れてきた。どうせ長居はできないが、一、二杯ひっかけて帰ろうと思った。明日はアメリカ行で、やることはいくらもあるのに、自分はいったい何をやる気なのか、と不審な気がしないでもない。汚れた下着を鞄に押しこんで、わざわざ方向違いの赤坂のホテルへ酒を飲みに行こうというのだ。三十二にもなった女のやることではないと思った。
汚れた下着のことが、意識の一部に灼き付き、膠着してしまっていた。どうしても心から振り払うことができない。そのくせ、それを持ち歩いて大ホテルのバーまで飲みに出かけるのだから、これほど矛盾したこともなかった。
体の内部ががらん洞になっているせいだと由紀は思った。意味のない女が意味のないことをしているのだ。しかし、仕事だけはきっちりとやったはずである。自分から仕事を取り除いてしまえば何も残らないのだから、それも当然だ。
恋する男もいない。家庭もなく子供もいない。ただ仕事だけの三十二歳の独身女。正味の自分のなんと貧相なことだろう。無我夢中になり、己れの全てを打ち込んでいた仕事も、今は虚しくなった。終の栖と思いこんでいた宿りも今は虚しく冷たくなった。
自分には何もなくなった、と由紀は白々しい感慨を嚙みしめた。自分はそれまでの全てをなげうって東丈の下へ走った。仕事も友人も男たちも、何もかも。東丈の秘書を務めることが、自分の終着点だとしんそこから確信したからだった。それまでの人生を思い切りよく投げ捨ててしまった。
終の栖と信じたればこそである。己れが全くの別人として生れ変ったのだと信じたからだ。
しかし、東丈の秘書の座を喪失した今となっては、由紀には残されたものが何もなくなった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう、と幾十度目かの白々しい灰と化した疑問を彼女は奥歯の間に嚙みしめた。
自分に責任がある、自分が悪かったという理由をどうしても見出すことができない。
東丈こそ、残酷な遣り方で自分を裏切ったのではないかという気がしてならない。が、怨んでいるのではない、と由紀は思った。決して怨みはしない。ただ自分はあまりにも翻弄されるのに疲れすぎて、心が硬直してしまったのだ。
東丈は、自分などの及びもつかない高度な世界、異次元へ足を踏み入れてしまったのだろう。井沢郁江もそうだ。彼らの入りこんだ世界は次元を違えていて、とうてい自分などのうかがい知るよしもないのだった。
自分は怨恨など二人に対して抱いていないし、嫉妬などしているはずがない。世界が違うのだから、そんな感情は持ちようがない。彼らは異常な天才少年少女たちであり、自分は凡庸なことこの上ない年増女にすぎないのだから。
それは事実そのものであり、ひがみでもなく自己卑下でもない。自分はみっともない、疲れきって足を引きずっている家鴨だと思った。もともと真の才能になど縁がなかったのだ。そんなことは最初からわかっていることではないか。〝白鳥の湖〟を踊るのは東丈や郁江たちであり、自分にはもともとそんな素質はなかったのだ。
車は道玄坂から青山通りをまっすぐに走り抜けて、赤坂通りのホテルの車寄せについた。日曜日なのに車の行き交いは繁く、大通りは光に溢れていた。ホテルの建物は光に満ちて華やかだったが、遠い星のようにあくまでもその光は冷たかった。
ホテルの内部は暖く人々は居心地がよさそうだった。由紀は自分が生れてからこの方、ずっとホテルで人生を送ってきたような心地がした。慣れ切っており隅々まで心得ているが、行き交う人間たちと決して親密な関係を持ったことがないのだ。
荷物を受け取ろうと近づいてきたボーイを断わって、由紀は厄介な鞄を下げ、ロビーの奥まった場所に潜んでいるバーへまっすぐに向った。
エレベーター・ホールにたむろしていた背の高い外人客たちが由紀にねばりつくような視線を投げてきた。コールガールが出入りしていると噂のあるホテルだけに、丈高い男たちの視線にはある種の期待がこめられていた。
由紀は、今の自分にどれだけの魅力があるのかと不思議に思った。汚いボロの詰まった洗濯袋としか自分が思えないのである。疲れきって体は冷たく臭っている。最低としかいいようがない。
あくまでも仕事だけは続けるという、頑なで依怙地な気持だけが頼りであった。キャリア・ウーマンでありつづけるという以外には自分には何もないのだった。
超能力者として東丈の使命に寄与できるという希望も水泡と帰し、消えてしまった。あるかなしかのわずかばかりの超能力が何だというのだ。そんなものは何の役にも立たぬと思い知らされた。
もともと東丈は、由紀の事務能力を評価したにすぎない。彼女の卑小な超能力になぞ一顧もくれなかった。
今は用済みとなり、由紀はお払い箱である。会は、巨大な霊能に目覚めた井沢郁江にゆだねられた。郁江の行動をうるさく掣肘する由紀は遠ざけられた。
こんな役立たずのちっぽけな超能力など、どうとでもなるがいい、と由紀は冷たい思いを嚙みしめた。味も素気もないガムの嚙みかすのようにしがみながら、どうしてもその思いを吐き捨てることができなかった。
2
ホテルのバーは空いていた。静かでひっそりとしていた。注視する者のないことが、由紀を心地よくさせた。思い切り隅へ引っ込んで席を取り、近づいてきたウェイターにヘイグの水割を注文した。水割なら酔うほどもないだろうと思った。
最初の一杯はうずうずするような期待をまさにかなえてくれた。長らく求めていたのはこの一杯だという気がした。琥珀色の氷片を浮かべた眺めが新鮮に光り輝やいているようであった。
もともと由紀はいける口である。二十代にはボトルを二日で空けるような芸当も心得ていた。アメリカでアル中の女性が多いのに恐れをなして控えるようになったが、酒との交際を本気で断ったのは、東丈と知りあった去年の暮からにすぎない。
気がついた時には三杯目を頼んでいた。三杯目からはアルコールの味がしなくなった。水割などで堪能するのはおよそ無理なことであった。体がぽっと暖まり、気持が浮上してくる。
飲みすぎるのではないかという予感がしたが、さして気にならなかった。最初の一、二杯で帰ろうなどという殊勝な心掛けは雲散霧消している。
酒とはいいものだと思った。こんないいものをよく一か月間も遠ざけていたものだと不思議な気がした。もともと禁欲主義とは縁がない生き方をしてきたのだ。それがGENKENの秘書室におさまり返って以来、およそ無理に無理を重ね、非人間的な生活を己れに強制してきたのだった。
今となると、それがなぜ唯一の人間らしい途と感じられたのか、実に奇妙である。なぜ全ての人間的な楽しみを犠牲にして、あくせくと日夜働き続け、寸秒を惜み、睡眠時間を詰めてまで献身しようとしたのか、今は納得が行かない。
まるで催眠術にかかっていたようだ。宗教的な熱狂にいつの間にか染め上げられ、客観的な余裕を見失ってしまっていたとしか考えられない。
由紀はテーブルの上のグラスにささっているセロリやニンジンのスティックをつまみながら、己れが今、ようやく客観性を回復するに至ったのだと信じた。心地よい酔いが身体中を仄かに染め上げていた。
にわかに他愛ない解放感と楽しさが徴してきた。本来の自分が戻ってきたのだ。
東丈のことは考えたくなかった。丈は彼女と関りのない高次元の異世界へ往ってしまった。自分を遺棄した丈のことは考えまいと思った。どんな感情の激変が生じて、この束の間の心楽しさが吹き飛んでしまうかもしれない。
冷たく荒涼とした心境から脱出して、アルコールのバラ色の靄の中を浮遊しているのである。たまゆらの解放であっても、望んで再度の沈降へと向うことはない。
執拗に体の裡でチロチロと舌なめずっていた青い炎は鎮まり、死灰と化していた。執務室で仮眠をとる間に見た性夢は無気味な燠火となって、由紀の感覚を脅やかし続けてきたのである。徹底した禁欲の後だけに、反動ともいうべき性感の奔騰は凄まじすぎ、異様すぎた。
今は鎮静しているものの、いつまた青い炎が復活するか知れぬという予感がずっとつきまとい、由紀をひそかに怯えさせていた。再度襲来すれば、今度こそ太刀打ちできないかもしれないという気がした。前回は仕事場で生じたがために、強い職業意識が防波堤になってくれた。辛うじて持ちこたえることができた。
しかし、この次にはどうなってしまうか、まったく予測がつきかねた。三十二歳のこの年までかなり奔放といえる私生活を享受してきたが、これほど強烈な波動にさらされた覚えはないといってもよかった。あまりにも異様すぎた。異常性愛の泥沼の恐ろしい魔蠱としかいいようがなかった。
底なしの泥沼じみた性的快楽のとば口を覗いた経験はあるが、本格的な耽溺に浸りきることはあまりにも恐ろしすぎ、幾度か辛うじて踏み留まり一線を画してきた。今の由紀はその一線を自分が半歩だけ超えて、足を踏み入れてしまったという恐怖感があった。
その怯えを圧殺するために自分はアルコールを必要としたのだ、と彼女はぼんやり考えた。意識の上から抹殺したいことがあまりにも多すぎた。そのためにはどうしてもアルコールの助勢が必要だった。
自分は幻魔にやられているのかもしれない......そう考えるのが怖かった。被害者意識にとり憑かれることを避けなければならなかった。一度沈降しきったら、識閾下に押しこめていたものがいっせいに活性化し、暴れだすような気がしてならなかった。
アルコールの魔力が束の間浮上させてくれた安息を、今は精一杯満喫したかった。あっという間に、三杯目のグラスが氷塊を残して空になってしまった。
アルコールの靄が色濃くかかり、意識をとろりと不透明にさせ、感覚を鈍磨なものにさせた。絶えず心を刺激し、苛立たせ、とげとげしくさせていた現実の粗々しい膚触りが遠ざかって行った。
アルコールで超能力が麻痺しかけているのかもしれなかった。そういえば、東丈に出逢う以前の由紀がかなり大量の酒を常習的にたしなんでいたのも、己れの鋭敏すぎる感受性をなだめ、鈍感にさせる必要性から生じた習慣だったような気がする。
遠感によって常に他人の波動を受信し続けていることは、精神を過労に追いやることでもあった。くたくたに疲れて、神経が病的にナーヴァスになってくるのだ。
四杯目に口をつけると、友人のだれかれを呼びだして飲もうかという気分になっていた。しかし、頭の中であれこれ数えあげてみると、これはという友人の名が浮んでこなかった。今のような雰囲気にしっくり合った友人が見当らないのである。わずか一か月の間に、かつての友人たちと驚くほど疎遠になり、間隙がひらいてしまっていた。まるで星と星の間を隔てている途方もない宇宙空間のような距離が生じていた。
手帖を取り出して見たが、住所録はほとんど白紙のままだった。旧年度の手帖から住所と名前を書き写す手間をかけなかったからだった。それほどかつての友人たちとは心が離反してしまっていたのである。
かつての友人たちは、由紀に生じた心境の変化を全く理解していなかった。気のおけない遊び仲間が突如新興宗教に凝り、入信してしまったと感じているのだった。
由紀がかつての仲間や友人との交際を続ける意欲も時間的余裕も失ったように、彼らもまた不可解な〝回心〟と〝変貌〟を遂げた由紀を避けた。由紀は以前の由紀ではなく、別人に変ってしまったからだ。
──由紀が〝聖女〟に変身してしまうんじゃね......と、古いつきあいの友人は慨嘆をこめていった。つきあい上手のプレイガールが、修道女に大変身を遂げたショックと失望があったのだ。
由紀が彼らに対して前ほどの親しみや執着を覚えないように、彼らもまた新しく変身した由紀に対して疎遠な気分を禁じえないようであった。目に見えない心の紐帯が切れてしまったのだった。そして一度切れたとなると、状況が変ったからといって、古い仲間とよりを戻すことにも困難が存在していた。
気分はあっという間に翻転して、腹立ちがこみあげてきた。一瞬前までのアルコールの功徳である仄かな心楽しさ、安息感が噓のように消え失せてしまった。アルコールの約束する安らぎなどやはり束の間のものでしかないと明白になった。一時凌ぎの麻酔薬でしかなかったのだ。
あてどのない怒りが心に充満して、額が青白くなるのが感じられた。抑制がきかなくなりかけていた。一転して怒り上戸になりそうだ。
東丈はいったい何をしているのだ......禁忌として心の底に押しこめ、重圧をかけて封じていた憤懣が怒りの気分に助けられ、一気に浮揚してきた。
東丈は自分を見捨て、会を見捨てて、どこへ去ってしまったのだ。東丈は、彼によって遺棄された者たちがどれほどの心の苦悶にさらされるか、一切考えていないのだろうか。もしわずかな配慮でもあれば、簡単なメッセージでも残せたはずだ。メモなどする必要はない。電話も要らない。いったい何のための遠感能力なのだ。心のチャンネルを閉鎖してしまい、知らん顔でいるとはどういうことなのだ。
東丈に自分のこの苦しみが伝わらないはずはない。彼は不世出の大超能力者ではないか。当然全会員の想念を把握し、知悉しているはずなのだ。そのためにこそ、〝光のネットワーク〟ということを東丈は力説していたではないか。自分がこんなに苦しんでいるのを見捨てて、東丈はいったいどこで何をしているのだ。これでは〝光のネットワーク〟どころではない......
会員たちの心がバラバラに遊離していることを憂えたからこそ、東丈は心の結束を説き、急務として人々に要請したはずである。その肝心の東丈がどうしたことだろう。失踪としかいいようのない行為で、箱根セミナーを危機に陥れ、会を崩壊の危地にさらしてしまっている。考えようによっては、これほど気まぐれで無責任な行為はないはずだ。東丈は首長としての責任を全て放棄してしまったといえるではないか......
想念は果てしもなく過激になり、怒りの気分を高めつつあった。恐ろしいほどの逸脱ぶりであった。由紀は己れがはっきりと東丈を責め始めていることに気付き、慄然とした。心の呵責がアルコールの靄を一時的に押しのけた。
頭を振ることで想念を振り払おうとするように、由紀は思考停止を計った。東丈を疑うことは、彼女にとってもっとも恐ろしい禁忌に抵触した。それは自己崩壊を意味するものであった。
絶対に考えてはならないと思った。が、それでもなお、心の片隅で丈を糺弾する動きは止まなかった。
東丈が精神的に幻魔の侵食を受けているのではないかという恐ろしい疑いがまたぞろ息を吹き返しつつあった。幾度きっぱりと払いのけても、ブーメランのように舞い戻ってくる懸念であった。
東丈のとっている行為はあまりにも不条理であり、不可解という以上に筋が通らない。やることが滅茶滅茶なのだ。筋道を立てて考えれば、だれしも東丈の逸脱ぶりが甚しすぎて、大きな心境の変化が彼の裡に生じていると結論せざるを得ないであろう。
理解を絶していることが即ち、彼の神性を意味づけていると考えるのはおよそ馬鹿げている。東丈のやることなすことが突飛で、超常識的なのは、低次元に縛られた人間の意識からすると当然、といいきる田崎流儀の考え方はあまりにも狂信的で、どうしても受け容れられないものがあった。
神の思召しは、人間には計りがたいといっているようなものである。しかし東丈は決して神ではない。大きな容量を持った偉大な超能力者、あるいは霊格者であっても、神そのものではない。
非常識でデタラメな行動をとることが、彼の〝神性〟を証明するなどといういい草は、あまりにも神懸りな狂信妄信にすぎる。大霊格者であり、神の使徒であるがゆえに、東丈にはいかなる非常識的行為も許されると考えるならば、もはや正気の沙汰ではなくなる。
〝神性〟の持主である東丈はあらゆる通俗的次元での道徳的規範から自由であるという、途方もない思い上りに支配されてしまうではないか......
そうだ、明日からの東丈の面会の予定はいったいどうなってしまうのだろう、と由紀は身裡が寒くなる思いで考えた。月曜日からのスケジュールは相変らずの過密状態を呈している。丈が失踪となれば、早急に手を打たなければならない。少くとも数日間は予約を解消して様子を見なければならないのだ。平身低頭して相手方の了承を取りつけねばならないのだが、果して井沢郁江たちにそれがきちんと処理できるだろうか。
もしかすると、会の内部でのみ通用する、東丈の〝神性〟を振りかざして、充分に了解を求める手続きを無視してしまうのではないだろうか。彼らはまだ子供であり、どこまで非常識になるか見当がつかない。
会の内部は東丈の意志一つでどのようにでも動くが、それが対外的にも当然通用すると思いこむのではないだろうか。
彼らにしてみれば、外部世界は取るに足らない低次元の俗界であろう。俗人との約束など、東丈の都合でどのようにでも一方的に破棄してもさしつかえないと考えるに違いない......
由紀は胸が悪くなり、閉所恐怖的な窒息感に捉われた。東丈がセミナーを無断で放棄して失踪したままならば、明日からの面会の予約は全てキャンセルと覚悟しておかなければならない。東丈の信用と評判は地に落ちるであろう。
彼はそれでも平気なのであろうか。今後の活動に支障が出るとは考えないのだろうか。しかし、自分は日本を発つことによって、何の関与も許されなくなる。自分にはもう関係のないことだと割りきり、思い定めた方がいいのだろうか......
由紀はそうした思いを果てしもなくこねくりまわしていた。暗く狭い迷路をさまよっているようだった。東丈の下で、遂に真の人生に逢着したと感じ、歓喜に浸っていた日々が、信じがたいまでに遠ざかってしまっていた。あまりにも急速な崩落であった。
まるで自分は主人に裏切られた犬のようだ、と由紀は自虐的に考えた。まったく自信喪失してしまっている。以前の自分にはおよそ考えられなかったことだ。利己的であることを当然と心得ていた自分が、己れを空しゅうしてささげ尽し、相手に裏切られるヘマを犯すなど絶対にありえないことだった。そんな失敗はあらゆる人間関係において、無縁で通してきたし、不実な男の裏切りに遭って泣く女の役どころなど、自分に関りのないことだと信じてきた。
それがどうだろう。これまでの傲慢さの報いがきたように、一挙にぺしゃんこになってしまっている。柄にもなく崇高な使命感に駆りたてられ、もっとも警戒し、軽蔑していた熱狂状態にはまりこんだら、案の定このザマだ......
これが柄にもなく〝聖女〟になろうとした報いだ、と由紀は苦々しい自虐の思いに浸りこんだ。今の自分を見れば、だれもがみな腹を抱えて笑うだろう。笑われても当然であった。我ながら、身の程知らずと呆れ返らずにはいられない。
〝聖女〟どころか、主人に置き去りにされた間抜けな犬ではないか。しかし、だれが悪いのでもない。自主独立の気概を忘れ、主人に媚びる犬になりさがっていた自分が愚かだったのだ......
3
何事か話しかけられて、己れの思念に深く埋没していた由紀はとっさに何のことかわからなかった。
いつの間にか隣りのテーブルに色の黒い男が陣取っており、それが由紀に話しかけてきたのである。由紀は相手の黒人が分厚い唇を動かして何を喋っているのか見当がつかなかった。
カタコトの日本語を喋っているのだとわかるまでしばらく時間がかかった。ようやく相手が自分にいい寄っているのだと理解する。黒人は満面に愛想笑いを浮べていた。知る限りのお世辞をカタコトで並べている。
由紀はしばらくの間、呆然としていた。何が自分の身に起こっているか腑に落ちなかった。いい寄られていることはわかるが、そんなことが今の自分になぜ起こるのか納得できないのだった。厚かましい男にはいくらでも出食わしているが、まさかこんな際に手を出してくるとは予測もつかなかったのだ。
黒人は由紀の反応に脈ありと見きわめたのかやおら席を立ち、由紀のテーブルに移ってきた。二メートルもあろうかと思われる大男であった。手を挙げてボーイを呼び、飲物を運ばせる。由紀は茫然としたまま、反応できないままでいた。大型の野生動物のような巨軀が身近に迫り、異臭が鼻を衝いた。人間ばなれした異様な印象であった。
「オジョーサン、キレイ、ダイジョービ......」
と、黒人の大男は同じことを幾度もくりかえした。白い歯を剝きだし、愛嬌たっぷりに迫る。やってきたボーイに向って、由紀のグラスを指差し、彼女に同じ飲物をやってくれといいつける。
ボーイは妙な目で由紀を見ていた。冷たくなった目に蔑みの色が浮んだ。
ようやく由紀は、自分がその種の女に間違えられたのだと悟った。あまりにも鈍すぎていつもの由紀らしくなかった。己れの思考の穴の底に落ちこんでしまい、すっかり鈍く愚かになってしまっていたのだ。
ホテルのバーに孤りで座りこんでいる由紀を見て、黒人は、客を漁りに来ているその種の商売の女と思いこんだに違いなかった。ボーイの目付が冷やかになったのも、同じ理由からだったのであろう。
由紀は何事かいおうとしたが、喉がつかえでもしたように言葉が出てこなかった。うろが来てしまったようだった。誤解を解こうとすると頭がかっとなり、英語はおろか日本語さえ出てこなくなってしまった。
なぜ自分が、こんな途方もない誤解を受けなければならないのかわからなかった。今まで数限りなくホテルのバーで飲んで、こんな目にあったことは一度もない。そんな目で自分を値踏みする人間がいようとは想像もつかぬことであった。いつも由紀の周囲には親しい男たちがいてくれたからだ、と虚ろなショックの中で彼女は悟った。孤独に座りこんでグラスを重ねるなど、かつての由紀には考えられぬことだったのだ。
黒人はカタコト混りの米語で口説き続けながら巨体を寄せてきた。異臭は目もくらむほどだった。愛嬌たっぷりの笑顔で由紀の機嫌を取る。テーブルの上に置いた由紀の手に、人間放れした黒い大きな掌を載せてくる。くみし易しと見たのか、大胆であった。
やはり言葉が出ないままに手を引っ込めようとしたが、ゴリラに手を摑まれたように動かない。
屈辱とも何とも名状しがたい黒い想念が胸裡を占めて、由紀は茫然と目を見開き、相手の臆面もない歯の浮くような口説き文句を聞いていた。
こんな有様を東丈に見られたら、と思ったとたん呪縛が解けた。こんな光景はいかなる人間にも見せてはならなかった。東丈の秘書ともあろう者が、ホテルのバーを稼ぎ場所にする売春婦と思われているのだ。
クラゲのように力がなかった体にいきなり力が甦り、由紀は満身の力を渾めて、黒人に握られた己れの手を取り戻しながら立上った。黒人はだしぬけの過激な反応に仰天して由紀を見ていた。
「どういうつもりなの、この厚かましいゴリラ!」
と、怒りに駆られて、歯切れのいい米語を投げつける。一気に怒りの青炎が天井まで燃え上ったようであった。
「他人を何だと思っているのよ!」
堰を切ったように、立て続けに飛び出してきた。凄まじい剣幕でまくしたてる由紀を、黒人は目玉を剝き出し、呆然と眺めていた。なだめようとでもしたのか、大きな太い腕を突き出して由紀を捉えようとした。由紀は跳びのいてその手を逃れた。黒人はうろたえて、テーブルをひっくり返さんばかりの勢いで立ち上った。太い声で咆えるように弁解する。しかし、その二メートル近い巨軀はあまりに圧倒的であり恐ろしげであった。制服のボーイたちは気を吞まれて立ちすくみ、手を出しかねていた。

黒人は由紀を驚かしたことをあやまり、なだめる必要を感じたのか、テーブルの下に置いてあった由紀の鞄を取り上げ、由紀を追ってこようとした。その行為が由紀の裡の火薬に火を点じた。黒人の黒い手が自分の鞄を摑んだ時、彼は由紀の劣等感と鬱屈にまともに手を突っ込んでしまったのだった。
由紀は反射的に黒人に襲いかかり、鞄を奪い返そうとした。怒りに目がくらんでいた。鋭い声をあげながら、ハイヒールのかかとで黒人の向う脛を力いっぱい蹴りつけていた。この思い切った襲撃に、黒人は熊蜂に刺されたように怯み、喚き声とともに由紀を突き飛ばした。由紀は軽々と吹っ飛び、床に転がっていった。それでも奪い返した鞄を必死に両手に握りしめたままであった。
バーに居合わせたボーイたちはどうにも手が出せなかった。雲突くような巨漢の黒人が真赤な口を開けて大声で喚いているのである。その迫力は矮小な体軀の日本人ボーイたちをまったく近寄せなかった。
由紀は床から跳び起き、鞄を胸に抱きしめて後退った。黒人がしきりに喚きながら再び由紀に近づこうとしたからだ。黒人が何をいおうとしているのか、その場の人間はだれ一人理解しなかった。黒人が再び由紀を襲おうとしているのだとだれもが感じていた。
「どうしたんです?」
と、声がかかった。由紀は振返って長身のスマートな青年を見、魔法のように忽然と出現した高鳥慶輔に呆然とした。
高鳥の目が黒人に据えられたとたん、黒人の様子が変った。咆えるような太い声が跡切れ、黒人は白目を剝きだした。人間業とは思えないような巨大な腕がだらりと垂れて、力なく下腹を抱えた。
激甚な苦痛が不意に下腹部に生じたように黒人は顔をしかめた。みるみる顔面が灰色になり、玉の粒をなした汗が額に噴き出してきた。目が苦痛のあまり虚ろになり光を失った。猛烈な強打を浴びたボクサーのようにぐらつき、黒人はよろめきながら歩き出した。一歩ごとに呻き声をあげ、苦悶に絶えず巨大な頭部を振り動かしていた。
由紀を含めて、ウェイターたちは気を吞まれ、黒人に道をあけた。黒人は傷ついた巨象のように、その間を通り抜けて、倉皇とバーを去って行った。もはや由紀には目もくれなかった。この場を逃れたいという本能だけが黒人を動かしているようであった。
ウェイターたちは期せずして安堵の吐息を漏らしたが、由紀はほっとするよりも先に頭がぐらぐらし、猛烈に目が廻った。朝から食事を摂っていないところへ、急激に胃の腑へ注ぎこんだ数杯の水割がいきなり効き目を現わしたのだった。
「大丈夫ですか?」
高鳥が左肘を取って支えてくれた。由紀の顔にもどっと汗が噴き出してきた。必死で眩惑に堪える。
「その椅子に掛けて......顔色が真蒼ですよ!」
高鳥の声音が水底から漂ってくるように聞こえた。
「大丈夫。お勘定を払いますから......」
由紀はきっぱりといった。必死で両足を踏みしめ、回転する感覚に逆らった。
「お勘定は結構でございます......どうも大変ご迷惑をおかけしまして......」
年かさのマネージャーらしい男がもみ手をしながらいった。由紀は左の手の甲でこぼれかかる額の汗を押しぬぐった。
「いったいどうなってるんだ? あんな黒ん坊が女性客に乱暴するのを放置しておくとはどういうことだ!」
高鳥が鋭くいった。圧倒的な権威がこめられてい、高鳥にふさわしくない口調であった。
「どうも、まことに申しわけございません......」
「申しわけないですむか。君はここのマネージャーか?」
マネージャーの顔色が変ってきた。高鳥の眼光にはこの年季の入ったホテルマンを恐れさせるものがあったのだ。
「失礼でございますが、お客様は......?」
「僕はこの女性の連れだ。さっきの黒ん坊が狼藉を働くのを放置していた君たちの無責任さは許せんぞ!」
高鳥は本気で怒っているようであった。
「申しわけございません......どうかお客様、あちらの部屋で......」
「このホテルで、外人相手の淫売婦が客を取っていることはわかってる。お前たちが、黒ん坊にからまれているこの女性を見すごしたのはそのためだ!」
「とんでもございません......なにを滅相な!」
「噓をつけ。お前らの腹の中は丸見えだ! 僕はこの女性を淫売婦扱いしたお前らの遣り口が許せないといっているんだ!」
「そ、そのようなことはございません、決して! ですから、どうぞ、別室でお話を......」
高鳥には恐ろしいような威圧力があった。あの感じのいい好青年の高鳥とは思えなかった。迫力がありすぎた。
「高鳥さん、もういいわ。帰りましょう」
由紀はようやくの思いでいった。眩惑はおさまらず、胸のむかつきが激しくなってきた。冷汗が停まらずに動悸がしてくる。高鳥の抗議は有難迷惑としかいいようがなかった。
彼女は高鳥の返事を待たず、バーを出た。数少い何組かの客が中腰になって見送っていた。
「杉村さん、どうしたんです。大丈夫じゃないじゃないですか!」
高鳥があわてて追いかけてきて、由紀の腕を取った。
「ふらふらですよ。どこかで休まなきゃだめだ!」
高鳥は強引に彼女を引張って行き、ロビーの椅子に座らせた。胸のむかつきが止まず、体中が冷たく鉛色になって力がまるでなくなってしまった。由紀は必死に嘔吐を堪えた。トイレに行きたかったが、脱力感があまりにもひどすぎた。
こんな醜態は始めてだと思った。若い時分から酒は強い方だし、これほどの惨状をさらしたことはない。おまけにそれを高鳥に見られてしまったのは取り返しのつかない痛手だと思った。東丈の秘書ともあろう身が、よくも恥しげもなく醜態をさらけだせたものだ。
右掌をむかつく胃の上に押しつけて、反乱を制しているうちに、少しずつおさまってきた。眩惑も我慢できないほどでもなくなってきた。由紀はハンドバッグをあけ、ハンカチを出して顔中を濡らした冷汗を拭いた。化粧がすっかりこわれてしまった。
「まいったわ......高鳥君にまさか見られるとは思わなかった......」
由紀はようやくいった。それだけを口にするにも努力が必要だった。
「でも、偶然なんかじゃないでしょ? それは信じられないわ」
しっかりしなければ、という思いが由紀を速やかに立ち直らせていた。自分はやっぱり東丈の秘書なのだ......その責任感はいかなる気付薬よりも有効だった。
「僕は超能力者なんですよ。忘れたんですか......?」
高鳥はこともなげに答えた。
「赤坂にいたのは偶然ですけどね。しかし、杉村さんがいるなと気付いたのは超能力ですよ。何かあったんじゃないかと急いで来たら、案の定でしたよ」
「高鳥君がそんなに凄い超能力の持主だとは知らなかった......」
由紀は高鳥の視線を避けながら弱々しくいった。己れの弱さが気に入らなかった。今夜の彼女は気力がまるでない。さっきの一騒動で使い果してしまったようだ。
「だれがどこにいるか、即座にお見通しというわけなのね」
「修行の甲斐ありましてね。杉村さんのことならすぐにわかりますよ。先生のいわれる波動ですね。ぱっとわかってしまう。大好きな人のことなら百発百中じゃないかな」
高鳥は臆面もなくいった。
「僕はいつでも杉村さんのことを考えているんですよ。大変だな、苦労してるなって......頑張ってほしいと祈るような気持で考えてるんです。睡眠不足と過労で、食が細ってるし、体をこわさないかな......みんなもう少し杉村さんのことに気を遣ってあげてもいいじゃないかって腹を立てたりしてね......僕は会からはみ出してしまったけど、杉村さんのことだけはいつも気になって仕方がないんです。今夜だって赤坂へ来たのは、やっぱり偶然じゃなかったかもしれない。引き寄せられるようにして来てしまったんですよ。杉村さんがいるとは思わなかったんだけど、どうしても行かなければと思った。僕の心は牽引ロープみたいなもので、杉村さんに結びつけられているのかもしれない......」
高鳥の目は情熱をこめて底から光っていた。杉村由紀は気力を振り絞り、高鳥の顔を直視した。逃げてはならないと本能に教えるものがあったのだ。高鳥に愛の告白じみたことを喋らせておいてはならないと命じられたようであった。
「高鳥君にかかると女の子は大変ね。素晴らしい超能力者だから、なにしろ心はお見通しだし、何一つ噓をつけなくなっちゃうでしょ? 何を考えているか見破られるとなると、もう逃げの一手しかなくなるんじゃない?」
由紀には年上の女の年輪ともいうべき狡さがあった。男のほこ先をいなすのは年季が入っている。
「女の子って、秘密が多いから、高鳥君のように何もかもお見通しという男性の前じゃ手も足も出なくなるものね」
「冗談じゃない。それは買いかぶりですよ。何もかもお見通しなのは、東丈先生でしょう。それに杉村さんだって遠感能力者じゃないですか? 心を読まれちまうのは僕の方ですよ。でも、読んでもらっても構わないんだ。僕は本気ですよ。どうぞ見て下さい。僕がどんなに杉村さんを大好きかわかるでしょう?」
高鳥は熱意をこめていった。まともに口説くつもりなのかな、と由紀はたじろいだ。大変な自信家なのだ。しかし、この直接的な求愛は決して不愉快なものではなかった。
由紀は妙なもので、気分がよくなってきた。自信を回復させられたせいかもしれなかった。高鳥は、確かに女性を扱う手際にかけては天才的なものを持っている。女を高揚させ、夢見心地にさせ、卑俗な現実感からロマンティックな彼岸へと誘い出す能力を持っているのだ。
これはもしかすると超常能力の一種かもしれない、と由紀は感じた。
「わたくしは超能力なんか忘れてしまったもの。先生に仕えているうちに、自分の力があまりにもちっぽけなので、呆れてしまったのね。今は、そんなものが自分にあったなんて信じられないくらい......」
「そんなことってあるんですか?」
高鳥は由紀の言葉の真偽を確かめるように、相手の目を覗きこみながら、ゆっくりといった。
「杉村さんの場合、もともとあったものでしょう? その超能力が失くなってしまうなんてことがあるんですか?」
「東丈先生の下へ来て以来、いつの間にか自分から離れて行ってしまったみたい。皆さんが超能力に目覚めて行く中で、わたくしだけがちょうど逆になってしまったみたいなの。勘違いじゃないわ。先生が、超能力なんかに頼ってはいけないと何度もおっしゃったせいかもしれない......超能力を用いることに罪悪感のようなものを覚えるようになってしまったのね」
「信じられないな......」
高鳥は呟いた。彼の眉根の間に険しい縦皺が一筋刻まれていることに、由紀は今更のように気がついた。前に高鳥の顔を見た時に、そんな険しい縦皺があったろうか? なかったような気がする......
「いきなり自分の持っている超能力が失くなってしまうなんて、本当にあるのかな? 取り戻そうと努力したんですか?」
「超能力なんか必要ないと思ったから......もう自分の裡にないということがわかるのよ」
高鳥の猜疑の目を不審に思いながら、由紀はいった。
「取り戻そうと努力なんかしなかった。なくなってしまったって、別に支障はないんだし......遠感で他人の心を読もうとする必要なんかないもの」
「杉村さんは思い切りのいい人なんですね。普通だったら大ショックのはずですが......」
「だけど、遠感能力を使用するって、覗き見に似ているのね。たとえば、望遠鏡を使用して他人の私生活を覗くようなものなの。大義名分が立つような使い方ってあまりないんじゃないかしら」
「そうですかねえ......だれだって杉村さんの力を羨むと思いますけどね。しかし、思い切りよく、自分には必要ないといい切って捨ててしまうのは、杉村さんらしいですね。東丈先生のいわれることには絶対服従なんですね。心の底から信服していなかったら、自分の超能力までなくしてしまうようなことは起きないでしょうからね」
高鳥はいかにも感銘を受けたようにいった。
「そこまで人を信じ切るというのは驚異的ですね。杉村さんのような人の忠誠を独占している東丈先生って本当に凄い人だ。超能力でも何でも、僕なんか全く遠く及ばない......」
しかし、その殊勝な口ぶりに反して、高鳥の目は挑むようにきらきらと光っていた。
4
「さっき高鳥君は、あの黒人に対して超能力を使ったでしょう?」
杉村由紀はいきなりいった。自ら意図しない言葉が不意に口を衝いて出たのだ。
「え?」
高鳥は口を半ばあけて、由紀の顔を見返した。
「PKのようなもので、黒人の動きを封じたでしょう?」
「まあ、とっさのことでしたけどね......」
高鳥は認めた。目にはやはり猜疑の色があった。
「神経に物凄い激痛を与えたんじゃない? 普通の人間だったら悶絶するような......」
「あの黒ん坊はちょっと人間放れした奴でしたよ。逃げてったからいいようなものの、動き出した時は、まだ向ってくるのかとちょっとヒヤリとしましたからね」
高鳥は臆面もなくいった。隠すまでもないと居直ったようであった。
「まるで化物ですよ。ボーイの奴等がビビッたのも無理はないんだ。殺されても死なないような馬力のある奴だったから......」
「気の毒なことをしたと思って......あの黒人はそんなに悪気はなかったのよ。むしろ人懐っこいタチで、わたくしと仲よくなりたかったのね。わたくしがびっくりして過激な反応を示したものだから、なだめようとしただけだと思うの。乱暴なんかする気は全然なかった......わたくしが気が立っていたものだから、かっとなって騒いでしまったんだけど......」
高鳥は、由紀の言葉が全く気に入らなかったようだった。
「僕は、あの黒ん坊やボーイどもが、こともあろうに杉村さんを売春婦扱いしたのが気にくわなかったんですよ! そんな侮辱は絶対に許せない! 僕は残酷なことをしたなんて後悔したりしませんよ! もっと徹底的に制裁してやればよかったと思っているくらいです! あの黒ん坊だって全身不随にすることだってできたんだから!」
高鳥は激昂が戻ってきたのか、低く叩きつけるような声音でまくしたてた。双眼に怒りがきらめき、総毛立った獣のようにスリリングな迫力と美しさをこの若者にもたらしていた。
「僕は後悔なんかしませんよ! 自分の大好きな人を侮辱した奴は絶対に許さない! 杉村さんをいかがわしい淫売扱いした黒ん坊はそれだけで死ぬほど罰を受けて当然なんだ! 殺されなかった幸運をあの黒ん坊の犬畜生は感謝すればいいんだ!」
高鳥は傍の耳目を気にする余裕を失っていた。彼は頭に来てしまったようである。由紀が自分に感謝するどころか、逆に責めていると感じたらしい。子供っぽい激しい癇癪と我儘が高鳥を荒々しくさせていた。癇癖家の素性が不意に露わになってしまったようであった。
由紀の言葉は自分への不当な非難であり、裏切りだと感じたのだ。余裕たっぷりの好青年の仮面は一気に崩壊し、由紀は意外な感を抱かずにはいられなかった。思いがけぬどぎつさ、あくの強さを素直で快活な好青年の内に発見した思いだった。それは子供じみた我儘が肥大化した、凶暴な自我を感じさせた。
こんな一面があったのか、と改めて高鳥という好青年を見直させるに充分であった。
「もちろん、高鳥君が来てくださったことには感謝してるのよ」
由紀は、殺伐な若者の波動をなだめるために急いでいった。
「もっと大げさな騒ぎになるかもしれなかったものね。警察を呼んだりされたら、かえって迷惑したし......明日はアメリカ行きなんだから、こんな所で油を売っていたわたくしも悪かったの。まさか、このホテルがその種の女性が集まる場所だとは思わなかったから......とにかく高鳥君には感謝してる。ホッとしたもの」
自分のおもねりが厭だった。高鳥をなだめるためとはいえ、必要以上に迎合していると思った。
「僕としては騎兵隊のつもりだったんですよ」
高鳥も気を落着かせる努力を見せていった。
「杉村さんのピンチだと思ったものだから、気が逸ってしまったんです。まったくあの黒ん坊はキングコングみたいな化物だし、ひょっとするとこっちがやられるかもしれないと思った......それだけは認めて下さい。杉村さんを助けようと思って夢中でやったんです。でないと、こっちの立つ瀬がないですよ。そうでしょ? 僕がバーに跳びこんだ時は、杉村さんがあの黒ん坊に突き倒されたところだったんです。かあっとなりましたよ、あたり前じゃないですか......」
抗議の口調が女心をくすぐる訴えに変っていった。自尊心を傷つけられた若者の怒りと恨み、年上の女への甘えをこめた口調になった。
「それなのに、杉村さんは僕が残虐非道なことでもしたようなことをいうんだから......ひどいですよ」
高鳥はごく自然に拗ねてみせた。年上の女に対してそうした稚気が効力を持つことを心得ているのだった。
「僕は杉村さんの崇拝者なんです。杉村さんを守るためなら、体を張ってでも闘いますよ。でなきゃ、男じゃない......」
「わかったわ。わたくしのいい方が悪かったのね......気を悪くしたならあやまります。わたくし、ちょっと怖かったのね、きっと」
「怖いって、何がですか?」
高鳥は若々しい甘美な笑顔でいった。杉村由紀の譲歩と謝罪によって凶暴な自我をなだめられたのだ。
「高鳥君の超能力って、本当に凄いから......あんな人間放れした大男だって、手も足も出なくさせてしまうのね」
「あの程度のことで? 先生の凄さに比べたら、ちっとも己惚れるほどのものじゃないですよ。僕なんか本当にマイナーもいいところです。だけど、杉村さんのお役に立てて満足してます。今夜、初めて超能力があってよかったなとしんそこ思った......」
熱意を認めてもらいたいという願望をこめて、高鳥は身を乗り出してきた。由紀は人目が気になると同時に、自分の体が汗くさい異臭を放っている強迫観念を舞い戻らせてしまった。
高鳥は超能力者であり、異常な感覚の鋭敏さの持主であろう。汗くさい体臭を感知されるのは堪えがたかった。由紀は昔から体臭に関する強迫観念の持主であった。最初の愛人にそれを指摘されたことが元凶になっているのかもしれない。興奮すると由紀は体臭が強くなった。決して悪い意味でいったのではないだろうが、由紀はそれ以来、体臭恐怖にとり憑かれてしまったようである。
「ちょっと洗面所で顔を直してきます」
由紀はその場を逃れる口実のように、口にしながらロビーのソファを起った。
「その鞄、僕がおあずかりしましょうか?」
「いいの!」
反射的に強い声が出て、鞄を受け取ろうと手を差し出した高鳥が不思議そうな顔をした。いくらか心を傷つけられたようでもあった。外見的に見るよりも、ずっと傷つき易い自我の持主のようであった。
「これは手離せないの、大切なものが入っているので」
声を和らげて、相手をなだめなければならなかった。胸にしっかりと鞄を抱きかかえたままなのである。由紀は顔が赤らんできた。高鳥に鞄の内容を見透かされそうな、悪い予感がした。汚れた下着を鞄に詰め込み、後生大事に抱えてまわるなんて、まったく自分はどうかしている。己れのぶざまさが呪わしかった。
「じゃ、僕はここで待っています」
高鳥は顔色を和らげていった。闘争の余波のため、この好青年は変に殺気立っているようであった。以前に比べると、感情が顔に出やすいようだった。堪え性がなくなったばかりか、感情の起伏が大きくなり、癇癖家といいたいような我の強さが目立ってきた......そんな印象を由紀は受けていた。
嘔吐感はおさまっていたが、いまだに眩惑は去らなかった。ぐらぐらと世界中が廻っている。腹が空ききっているところへ、アルコールを注ぎこんだ無謀さの報いであった。気を取り直したものの、酔いは去らない。
洗面して化粧を直した。酔いがまわっているので体がふらつき、思うにまかせなかった。顔色は凄絶に蒼く、化粧を濃くしてもごまかしがきかないほどであった。しかし、そのために異様な色っぽさ嬌かしさが滲んでいた。バーでの黒人は夏の虫が火に惹きつけられるように反応したにすぎないのかもしれない。行き合う男たちは例外なしに異様な目で、由紀を見るのだ。
由紀は自分が病的になっており、それゆえに男たちを魅していることを悟った。あまりにも性的すぎる波動を放っているのだ。普段の由紀にはないことである。心が均衡を喪った時、かつての由紀には縁のない性的魅力を獲得したなぞ、これほど皮肉で不可解なことはまたとなかった。
東丈の女秘書が、大ホテルを根城とする高級売春婦と間違われたなんて、これほど不名誉なことはない、と改めて痛感する。洗面所に入ってきた女性客がことさらにしげしげと、化粧を直す由紀を観察していった。敵意ある雰囲気が明らかであった。昔から同性にはあまり敵意を持たれないタイプであっただけにショックだった。今の由紀は、同性の裡に強い敵意を喚起する色っぽさを滲ませているのだった。
化粧を直すと、多少しゃんとしてきた。足許もふらつくが、まっすぐ歩けないほどでもない。
自分は東丈の秘書なのだという意識が、由紀を支え、武装させていることを、彼女は今更のように再認識した。崩れそうで崩れないのはそのためだ。今にも倒れてしまいそうに大きく傾くが、いつの間にかバランスを回復してしまう。
なぜ自分がこんな場所で、馬鹿な真似をしているのか、疑わしくなってきた。愚行という以外にいいようがない。まるで外部の力に操られでもしているように、日頃の由紀が思いもつかぬようなことをやっているのである。
不意に冷たい清水が脳裡に流れこんだようにすっきりし、視界が晴れてきた心地だった。相変らずぐらぐらするほどの酔いを感じてはいるが、意識が明確化し、鮮明になったのだ。
意識誘導かもしれない、と気がついた。思いもつかぬことを自分がやっているからには、巧妙な意識誘導によって、トラブルに誘いこまれようとしているのかもしれない。
わざわざ赤坂の大ホテルへ来て、酒を飲む必然性など少しもないはずだ。明日はアメリカ行きなのだ。こんなところで時間潰しをするなど、およそ考えられないことだった......
ロビーに戻った時、由紀は別人のようになっていた。背筋が伸びて、足腰に力が回復している。顔色は蒼ざめているが、瞳には光が戻ってきていた。
高鳥慶輔は驚いたように眉を吊り上げた。短時間で由紀がこれほど立ち直るとは予測もつかなかったのであろう。
「自宅に戻ります」
杉村由紀は宣言するようにいった。
「どうもすみません、高鳥君。ご迷惑をおかけして......やっぱりこんなことはしていられないわ。準備が沢山あるのに、まだ何もしていないんですもの」
「迷惑なんかしていませんよ」
高鳥はやや不機嫌そうにいったが、すぐに気分を直した。
「少しでも杉村さんのお役に立てば、嬉しいんですから......ご自宅までお送りしますよ」
「いいえ。ここからまっすぐタクシーで帰りますから」
由紀はつけ入ることを許さぬ語気で、きっぱりいった。
「ニューヨークで逢いましょう、高鳥君。今夜のことは、もう忘れた方がいいみたい」
見事に立ち直っていた。彼女の気丈さは、その言葉を誤解する余地のないものにしていた。
「しかし、杉村さん。僕が透視した暗雲は、まだ杉村さんから離れていないんですよ。それどころか、もっと大きくなって、黒くなってきているんです。僕が今夜、ここへ来たのはやっぱりそのためだと思う......杉村さんのことが気になっているから、引き寄せられるようにやって来てしまったんですよ」
「高鳥君のご好意は嬉しいし、感謝しているんだけど、わたくしはやっぱりそういうことは気にしたくないの。ある意味で、わたくしに暗雲がつきまとっているのは当然かもしれないと思う。だってわたくしも〝幻魔の標的〟なんだから......そういうことを苦にして、心配したり怯えたりしたくないの。先のことをくよくよし始めたらきりがないんだし」
「杉村さんはそう割り切るかもしれないけど、やっぱりこっちは心配ですよ。僕にできるかぎりのことをして暗雲を払ってあげたい......杉村さんを守ってあげたいんです。だから、気をもむなといっても無理です」
高鳥は真剣にいった。あまりにも真剣な顔をしているのが、ふと可愛らしく思えたが、もうこれ以上、高鳥とつきあうのは沢山だった。必死で気を張って、アルコールのもたらす酔いの圧力に抗しているのだ。胃の粘膜から数杯の水割りはどんどん吸収され、血液中のアルコール濃度を高めつつあるのであろう。いっそ無理にでも戻してしまえばよかったと気付いたが、もはや後のまつりであった。
あとは高輪のマンションまで、気力で保たせるほかはなかった。高鳥の前で気力を維持できることを、しんそこありがたいと由紀は思った。
高鳥はこちらが隙を見せれば、どんどん内側へ入りこんでくるタイプだとよくわかっている。しかも自分が高鳥に対して甘くなりすぎることが認識できるとなれば、なおさらであった。
どうしても甘くならざるを得ないのである。高鳥慶輔は好みのタイプの若者であり、向うからも慕ってこられれば、無下につれなくすることはできない。彼の若さゆえの自信家ぶりも傲慢さも年上の女の目からすれば、可愛らしく映り、つい許容してしまう。東丈の秘書という立場がなければ、もっと接近を許したであろうことは明白であった。
高鳥のとっている態度には、由紀の自尊心に巧妙に訴えてくる心地よさがあり、いかに努めても点を辛くしすぎることのできない自分がわかっていた。
「暗雲というのは、だれにとっても同じなのよ。高鳥君自身にとってもね」
「............」
自分の言葉が高鳥にとって予想外の、いわば急所を衝いたことを由紀は知った。高鳥は一瞬だが、思わぬ足払いをくって尻もちを突きでもしたような、痴呆的な表情を見せたのである。それは聡明さのサンプルにしたいような高鳥の顔には、あまりにも似つかわしくない衝撃の表情であった。
高鳥は、もしや自分が幻魔による攻撃を先天的に免れていると信じているのではないか......
由紀はふとそんな疑念に捉えられた。高鳥はとっさに言葉が出ず、眉宇に険しいものを浮かべた。由紀の指摘はこのしたたかな若者を直撃したのだ。
5
「僕は幻魔なんか怖れませんよ」
高鳥はようやくのことで言葉を吐き出した。しかし、それは見当はずれで、いささか間が抜けており、彼自身それに気付いたようであった。
「幻魔になんか負けやしない。でも、杉村さんは女だ......だから守ってあげたいんです。いつもそばにいて、守ってあげたい」
騎士道精神を強調することによって、高鳥は辛うじて、ぶざまになることを回避した。それは同時に強い求愛でもあって、杉村由紀をどぎまぎさせた。由紀らしくもなく、心臓が動悸を打ち始めた。彼女は今までに、このような若者らしい率直さで求愛されたことがなかった。が、動揺を相手に感づかれることを由紀は惧れた。今の自分の千々に乱れた心を高鳥に見抜かれたくなかった。彼はすかさずどこまでも内懐に入りこみ、由紀を思い通りに支配するだろう、そんな危機感があった。
「わたくしは大丈夫。東丈先生の秘書だもの。何が自分の身に起きようと覚悟はできているの。最初から安穏な生活には縁がないのよ。私生活なんかないものと思っているわ。わたくしって采女みたいなものじゃないかと思う......采女って知ってるでしょ、古代朝廷で神の御妻として仕えた巫女。神と結婚した身だから、私生活はないわけ。神に仕えるのが務めの全てなのね......」
由紀は思いもかけぬことを口にした。するとそれが唯一無二の真実だったような気がした。しかし、その神の御妻がホテルのバーなぞに出かけたので、罰が当ったのかもしれないとも思った。
「采女って、あの万葉集の、我は安見児得たり......という歌の采女ですか? 人の得がたしてふ安見児得たりという......」
高鳥は目をきらめかせていった。すると、この美しい若者の不遜さが露わになった。
「しかし、采女だって人のものになることがあるわけじゃないですか。神の御妻だって、召放されれば、人間に戻れますよ」
「それは采女という身分が堕落してしまってからの話よ。わたくしが選択した道は、変更の余地がないものなの」
由紀はきっぱりといった。自分にいい聞かせるのが目的のような心地がしていた。自信がない証拠かもしれなかった。
「杉村さんにとっての神とは、東丈先生のことですか?」
高鳥の目はますます挑戦的にきらきら光った。こんな時に、こんな場所で、高鳥のような若者から直接的に迫られているのが、ありえない非現実のように思えてならなかった。
「もちろん違うわ。だって東丈先生はそういう私生活は全く持たれない方ですもの。わたくしのいう神とは、大いなる宇宙意識のこと......」
「しかし、東丈先生は宇宙意識が肉の身をとって地上に降臨した方でしょ。キリスト教でいえば神の子で、神の化身ですよ。だからこそ救世主なんじゃないですか......だから、杉村さんが神の御妻ということになれば、東丈先生の花嫁ということになりませんか?」
「とんでもないことをいわないで。キリスト教では神の花嫁といえば修道尼のことでしょう。イエス様はもちろん妻帯されなかったし、恋人も持たれなかったわ」
「わかりませんよ。古いことだし、イエス・キリストの私生活なんか聖書には全然書いてないんだから。三十すぎた男なんだから、恋人はおろか子供がいたって不思議はないんじゃないですか」
高鳥は笑いながらいった。目はますますきらめいており、由紀は危険なものを感じずにはいられなかった。
「なんでそんなことを、高鳥君がいいだすのかわからないわ。高鳥君がイエス様だったら、それくらい当り前だということなの?」
「イエス・キリストは三十に近くなるまで、大工をやっていた。ユダヤ教の坊主じゃなくて、普通の市井人でしょ。だったら、子供ぐらい造っていたかもしれない。釈迦だってラフラという息子がいたじゃないですか。最初からイエスが女っ気が全然なくて、欲望も何もない聖人だったなんて考える根拠は少しもない。
東丈先生だって、ちゃんと恋人がいたんですよ。ご存知なかったですか?」
「え......」
由紀は不意打ちをくったように、喉が詰まってしまった。
「沢川淳子という年上の音大生です。東丈先生って、どうやら年上の女性に惹かれるタイプのようですね」
高鳥はいかにも他意なさそうに笑っていた。何くわぬ顔で自分を混乱させようとしているのか......由紀は喉が乾いてきた。動悸がして、目が廻り、頭ががんがんしている。飲酒による脱水症状に間違いなかった。
「その話は聞いているわ。でも、前のことじゃないの......先生はもう自覚を得て、変られてしまっている。お釈迦様だってそうだし、悟達を得た時はもう前の人間とは違った存在になってしまったのだとわたくしは思う......今の先生には何の関りもないことだわ」
「まあ、いいですよ。その話はタブーですからね、沢川淳子という恋人の話は。警察が内偵しているという話もありますが、そんなことはどうでもいいとしておきましょう。僕はやっぱり杉村さんのことが心配なんです。暗雲というのは、人間の思いがけない過去が暴露されるということかもしれない。それに杉村さんも不可避的に巻き込まれるということじゃないか......そんな気がする」
「イエス様が子供を持っていたかもしれないと高鳥君のいったことと、それが何か関係があるの? まさか東丈先生に隠し子があるなんてほのめかしているんじゃないでしょうね? 先生はまだ十七歳なのよ......」
由紀は不快を抑えきれなくなった。高鳥は何かしら容易ならぬことを仄めかしているように思えた。しかし、東丈が清廉潔白であることは絶対に間違いがない。彼はそうした不行跡や不品行とは無縁であり清浄そのものである。それは由紀が絶対の確信を持つところであった。
それ以前に、東丈は正直というよりは透明そのものであった。過去に不行跡があるなどとは信じられないが、もしあったとしても意図的に隠蔽するとは考えられない。高鳥が仄めかしたように、東丈にかつて沢川淳子という年上の恋人が存在したのは事実である。由紀はそれを東丈の口から直接聞かされたのだった。それゆえ、高鳥の仄めかしを一笑に付すこともできた。東丈は彼女に対して、何一つ秘密を意図的に持たないという確信があった。にもかかわらず、高鳥の思わせぶりな言は、由紀を心穏やかでなくさせた。故意に不安と猜疑を植えつけ、由紀から確信を奪おうとしているように思えた。
「イエスに子供がいようといまいと、そんなことはどうでもいいんです。イエスの行なった偉大な事跡には何も関りがないわけですからね。しかし、聖書記者は都合の悪いことは一切書かないということで、イエスの過去を隠しているということをいいたかったんですよ。
僕はイエスに子供がいようと隠し妻がいようとかまわないと思う。イエスが人の子であった証拠ですからね。しかし、ごく当り前のことまで必死に隠すというのは、反撥を覚えるな。偽善的すぎるから。人間には欲望が山ほどあるんだ。それでこそ人間らしい。それを敢えて隠す厭らしさが気にくわないんですよ」
「高鳥君が何をいいたいのかわからないわ。イエス様のことはだしにしかすぎないんでしょう? でも、先生に限って、高鳥君が疑うようなことは何もないわ。先生ほど浄らかな人間はこの地上にはいないと思う」
「たとえそうでなくたって、僕はちっとも悪いなんて思わないですよ。人間は人間らしく生きるべきだ。人間は神じゃないんだから......欲望を持ち汚濁を持っているのが人間なんだ。それなら堂々と生きればいい。美しい睡蓮の花が咲く沼は汚い泥沼ですよ。汚濁しきっているからこそ綺麗な花が咲く。清浄な水には生物は棲めない。美しく清らかであっても死そのものだ。汚濁こそ全ての生命の素です。人間が清浄になりきろうなんて、およそ無理な話ですよ。欲望あっての人間だ。食欲も性欲もなくて人間が生きて行けますか? たちまち人間も全生物も死滅して、地球は完全に美しく清浄になるだけじゃないですか」
高鳥は熱意をこめていった。その口調にはカリスマ的な権威と説得力がこめられていて、由紀にはっと息を吞ませた。いつの間にか高鳥は影響力を強め、大きな器を感じさせるようになっていた。由紀は自分の中に、高鳥に対して傾きかけるものを知り、愕然としたのである。
「高鳥君は、何か本当にいいたいことが別にあるようね......でも、今は都合が悪いわ、時間も場所も......いつかもっと余裕ができた時にお話をお伺いするわ」
由紀は勇を振るっていった。なぜか決断が必要であった。高鳥は確かに、何事か容易ならぬことをいおうとしているのだが、それを今は聞いてはならぬ、と心に命ずるものがあった。
ふっと怯えが心に湧いた。高鳥は本当に東丈について、由紀の知らない秘密を握っているのかという疑念であった。むろん、そんなことがありうるわけはない。高鳥がいかにも意味ありげなのは、別の理由がなければならなかった。
「わたくし、帰ります」
言下に由紀はロビーを横切り、エントランスへ向けて歩き出した。回転ガラス越しに、タクシーの列が覗けた。執拗に心にからみついてくるものを全力で振り切らなければならなかった。高鳥はあわてもせずについてきていた。
「僕は最後まで杉村さんの味方ですよ。何があってもそれは変らない。それだけは覚えておいて下さい」
高鳥は真摯な声音でいった。が、いささか自信過剰すぎるところが気になった。押しつけがましいのだった。以前の高鳥には感じられない臭みといってよかった。高鳥は総じて権威を身につけると同時に、相当にあくも強くなったようであった。
見送ろうとする高鳥を制しながら、回転ドアを抜けようとした由紀は、背後から声をかけられてどきっと心臓が疼いた。聞き慣れぬ女の声だったが、一瞬厭な予感に襲われたのだ。
ホテルを高鳥とともに出ようとしているところを、だれかに見とがめられた......それがぎょっとした理由かもしれなかった。由紀にはかなり古いところがあり、そうしたことは強迫観念の原因になるのだった。
「杉村さん......杉村さんでしょう?」
ぐるっと振り向くと、三十年輩の女性が小走りに駆け寄ってくるところであった。
「やっぱり、由紀ちゃん! あたしよ、河村蓉子よ!」
「ああ......蓉子ちゃん?」
由紀はぼんやりといった。見知らぬ女性の貌に、幼な顔が重なりあって甦ってきた。中学校の同窓生である。由紀の生家のあった西荻窪の中学校で同級だったおさげの少女の幼な顔が脳裏に浮んだ。
懐しさよりも、バツの悪さが先行した。もともと由紀は過去に愛着を持たず、むしろ進んで訣別する生き方を常に選んできた。そのため、小学校、中学校、高校と通じていまだに親交のある友人は一人もいない。由紀が在米生活を長く経験したためというより、みずから過去を断ち切る生活を選んだことに起因していたようである。
由紀は過去のことをあまり考えず、捉われない女だった。卒業以来同窓会の類いには一度も出たことがない。教師や級友には関心がなかった。
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「やっぱり由紀ちゃんじゃない! 物凄く素的になったんだもの、見違えちゃったわよ」
と、慣れなれしい口調で、かつての級友が近寄ってきて、由紀の背中を打った。その独得の押しの強さで、古い記憶が甦り、嬉しくない相手に遭ったと由紀は思った。もともと虫が好かず、肌が合わない級友であった。それほど親しくされるいわれは何もない。
「しっばらく!」
と、河村蓉子は大仰な口調でいった。
「何年ぶりかしら! そうだ、十五年ぶりよね! でも、そのすらりと背が高くてスタイルがいい、素的な女っぷりを見たら、由紀ちゃんだとすぐにわかったわよ! 本当に外人みたいなスタイルなんだもの、顔も日本人放れしてるし!」
相手はひとりで油紙に火がついたように喋りまくった。由紀は合槌をうつのが精一杯であった。
由紀はこうした類いの女特有の独善的なお喋りが得手ではない。さんざ喋りまくった挙句、しつこい詮索が続くと思うとうんざりしてしまう。
河村蓉子は尋かれもしないのに喋りまくり、今は破局に至った学生結婚のことやさる女性雑誌編集部に勤めていることなどを明らかにした。
由紀は受け応えすることさえ苦痛だった。何の興味もない上に、頭痛がして目が廻っているのである。少しでも早くタクシーの座席に逃げこみたいのに相手は単なる妨害者以外の何者でもなかった。
由紀の素気なさは、相手にも通じたようである。愛想はいいが、意地悪そうな表情が浮かんだ。相手の動機が旧友再会の懐しさよりも、好奇心にあることが明らかになった。
「こちらの、お連れの方、とっても素的な方ね! 紹介してくださらない?」
相手はおさげ時代から顕著だった厚顔さを発揮して、こぼれるような愛想笑いとともに高鳥慶輔を振り向いた。
「高鳥といいます。いつも杉村さんにはお世話になっております」
高鳥はいささかの躊躇もなく颯爽といった。最高の仕立てのスーツとともに見惚れるばかりの美青年ぶりが、雑誌社勤務の中年女の瞳を嫉みで曇らせた。由紀は舌打ちしたくなった。高鳥はいかにも彼らしい愛想のよさで、この下らない旧友再会劇に参加しようとしているのだった。
「あら、杉村さんとはどういうお知り合いですの? お安くなさそうね......」
生臭い嫉妬を押し隠して河村蓉子が芝居気たっぷりにいう。
「そういうのじゃありません。杉村さんは先輩なんですよ」
わざと高鳥が焦らしている。由紀はよっぽどこのまま出て行こうかと思わずにいられなかった。立っていることさえ苦痛なのだ。
「僕ら、GENKENという団体でいっしょでしてね。そこで杉村さんにお世話になってるんです」
高鳥は余計なことをいいだした。果して相手の目が貪婪に光る。
「GENKENって、あの高校生教祖で有名なGENKEN!?」
「そうです。米国のメイン財団から僕ら、招かれていましてね。米国超能力者協会に参加するように要請されてるんです。で、今夜はその打合せってわけなんです」
高鳥はいわでもがなのことを喋った。相手はすかさずハンドバッグを開け、名刺を取り出した。目はぎらぎら光って内心を隠しようがない。
「わたし、こういう者なんですけど、お名刺頂戴できますかしら?」
態度がころりと変っていた。冷やかしの調子ではなく、声音が媚びるように甘ったるくなっている。
「いいですよ。でも、僕も四、五日したらアメリカへ行ってしまいますけど。杉村さんは明朝発つんです」
高鳥はものなれた手付で名刺を渡した。どんな名刺を持ち歩いているのかと気になった。
「なんですか、とっても面白そうなお話ですわね。今度是非、お話をお聞かせ願えませんかしら......」
臆面もない女の媚びが不快であった。まるで厭な口臭を嗅がされている心地がした。
「いいですよ。ただし時間があれば......なにしろ出発が迫っているのでね」
高鳥も馬鹿なことをいっていると思った。しかし会員でもない彼を拘束はできなかった。
「悪いけれどわたくし、明日の朝早いもので、これで失礼するわ」
由紀は堪りかねていった。もう真平であった。今にもぶっ倒れそうなのに、これ以上つきあってはいられない。
「申しわけないけど、準備がさし迫って、大変なので」
「あら、残念ね。同窓会じゃいつも由紀ちゃんの話題でもちきりよ。結局、由紀ちゃんはどこにも転校しなかったんでしょ?」
真綿に何やら剣吞なものが隠されていた。
「転校って......中学を?」
何のことかわからなかった。
「中学じゃないわ、高校よ。転校しないで、そのままアメリカへ行ってしまったのね? 同窓会の名簿造りで、ずいぶんあなたの連絡先を捜したみたい」
「そうだったの、ご免なさい」
曖昧にいうほかはなかった。話が妙にくい違っていた。連絡先など実家に尋けばわかることではないか。
「由紀ちゃんがアメリカへ行ったという噂は聞いたけど、じゃあのまま、アメリカでずっと暮してたわけ? まさかコブつきってわけじゃ......」
由紀はよほどぽかんとした顔をしていたようである。相手は急にけたたましい笑声をたてた。
「あら、ごめんなさい。アメリカのハイスクールじゃ日本と違って、うんとさばけているんでしょ。別にどうってことないわよね、きっと......」
腑には落ちなかったが、相手は由紀がアメリカのハイスクールへ留学したと勘違いしているように思えた。由紀がアメリカで通ったのは秘書学校である。なぜ相手がしきりに転校という言葉を口にするのかわからなかった。が、敢えて訂正する気もしない。相手が何を仄めかしているのかわからず、それを理解しようとする気力も今は持ち合わせていなかった。
「あたしも学生結婚で、別れた夫との間にコブを二匹も作っちゃって、母子家庭で大変だったわ。若いうちの失敗は取り返しが効くっていうけど、女の場合は大噓よね。若すぎて目はしがきかないとダメ男に引っ掛っちゃって、後悔先に立たずだもの......」
由紀は頭がぐらぐらしてきた。いつ果てるともないお喋りが速射砲のように飛び出してくるのだ。相手の別れた亭主の心境がよくわかるような気がした。
「あたしのところはもう二匹とも小学校だけど、やっと手がかからなくなってきたところ......お宅はもう中学じゃない......?」
由紀はくらっとめまいがして倒れかかりそうになった。相手が何を喋っているのか全く聞きとれなくなった。
「失礼......」
夢中でいい、相手を後にした。もはや相手がどう思おうが知ったことではなかった。どうせ関りがある人間ではない......夢中で回転ドアの間を抜け、ドアを開けて待っているタクシーに転げこむように乗った。高鳥の長身が後を追ってくるのをちらっと見てとったが、タクシーはすでにスタートしていた。
「高輪......」
と、荒い息とともに告げた。なぜこんなに息が切れてしまうのかわからない。一時にどっと堰を切ってアルコールが暴れ始めたようであった。
突如、相手の全てが何もかも疎ましく嫌悪に堪えないものとなったのだ。その感情があまりにも激烈なので、突如廻ってきたアルコールの酔いと混同してしまったのかもしれなかった。
高鳥に対しては悪いことをしたという気分が動いている。居堪まれずについでに置き去りにしてしまった。いずれアメリカで逢った時にあやまっておこう......
けれども、河村蓉子が何のつもりで、何をいおうとしていたのか、さっぱり見当がつかない。中学を卒業して以来、一度の交友もない相手だった。同窓生とはいえ、在学当時から疎遠な級友でしかなかった。
由紀には中学、高校にかけては恐ろしく平板な記憶があるばかりだった。とりたてて親友もなく、めざましい出来事があったわけでもない。由紀は成績もよかったが、勉強もした。アメリカへ渡って勉学するのが夢だった。中学時代から徹底的に英語を学び、おかげで高校を卒業したあと、渡米して、言葉で難渋した覚えは一度もなかった。マーサ・リンゼイという親切なアメリカ女性が近隣に住んでいて、由紀の熱心さを喜び、欲得抜きで徹底的に仕込んでくれたからである。そのリンゼイ夫人とは高校を卒業して以来、一度も逢っていない......
どうして、高校を卒業して以来、過去の人々といっせいに断絶してしまったのだろう......疑念が心に湧き上ってきた。現在、交友のある人間は、ことごとく渡米以後に知己となった人々であった。高校以前の人々とは葉書一本の交流すら跡切れてしまっている。マーサ・リンゼイのように我が子同様に可愛がってくれた人ですらそうなのだ。今はクリスマス・カードさえ送っていない。
不可解なことが多すぎた。由紀は高校卒業を境いにして、自分が全くの別人に分離してしまったような気がしてきた。そういえば、高校卒業前後の記憶というものがかなり怪しくなっていた。卒業写真も何も高校生活に関りのあるものは全て、西荻窪の実家に置いたまま十五年間も忘れていたのだ。由紀の人生は奔流のように慌しく、停滞することを許さないからだった。
記憶を呼び戻そうとすると、胸がむかむかしてきた。またぞろ冷汗が体中に滲んでくる。今日はいったい幾度冷汗を搔く破目になったか憶え切れないほどだ。
由紀は反乱しかける胃の上に掌をあてがい、生体エネルギーを注入しようと試みた。自分にはそんな力など皆無のような気がしてならない。それは自分が常凡すぎる人間だからであり、井沢郁江のような非凡な存在ではないという証しのように思える。東丈がこんな凡庸な自分に失望するのは当然かもしれなかった。郁江たちがみるみる真価を顕わし、高次元の境地へと向って離陸して行くのに、自分ときたら、ますます凡俗きわまりない下降を辿り続けているのだから。
ほどなくして胃のむかつきはおさまったが、酔いは更に廻ってきた。目を努力して開けていなければならなかった。ぎらぎらするようなどぎつい夜景が、タクシーの車窓を流れ去って行く。車群の真紅のテイルライトが血のように衝撃的な赤さで目に迫ってくる。
今はマンションの自室に帰りついて、入浴するだけが唯一の生きる証しと化していた。汚穢な腐った漿液の中を潜り抜けてきた、堪えがたい気持悪さだった。
タクシーの稼ぐ距離は遅々としてはかどらない。特に渋滞しているわけでもなく、タクシーが故意に遠廻りしているわけでもない。車群はこの時間帯にふさわしい自然さで流れている。焦りが時間感覚を狂わせているのだった。
疲れ果てていて、ひどく酔っているのに、睡魔だけはやってこなかった。求めるのは少しでも早く部屋に戻り、暖い湯に首まで浸ることに尽きた。他には何も考えられない。疼くような切望があるばかりであった。
いつしか意識野が暗く狭隘になり、どうやってタクシーを降りたのか憶えがなかった。ただ、しんそこほっとしていた。八階建ての巨大なマンションが夢の中の城塞のように眼前にそびえたっている。人気がなく静かであった。
由紀は頭をぐらぐらさせながら、マンションのエントランスを潜った。せっかく買ったばかりの部屋が明日から無駄になるが、さして愛着があるわけでもなかった。もうどうでもいいのだ。
足許が不確かになっており、由紀は両手にハンドバッグと鞄をぶらさげて、エレベーター・ホールへと歩いた。酔っ払い女の醜悪な醜態を自虐的に誇張していた。つんのめるようにして首うなだれて歩く。エレベーターの壁に背中でもたれかかり、幾度も目測し直してようやく階数ボタンを押した。簡単なことが重大問題と化していた。頭がしっかりと胴体に接続されておらず、ともすればどこかへ飛び去ってしまうようであった。
片目を閉ざさなければ、はっきりとものを見ることができなかった。二重映しになり、その上アウトフォーカスになってしまうのだ。これほどしたたかに酔ったことは、ごく若い時分を除いてなかった。胃がすっかり空になっているところへ、早いピッチで水割を流しこんだからだ。
由紀は自分が泥酔状態にあることを知った。明日がどんなざまになるか、考えたくもなかった。ひどい宿酔いでベッドから脱け出せないかもしれなかった。
エレベーターが停まり、由紀はひどく高齢の老婆のように鈍い動作でケージをようやく出た。体が左へ右へ面白いように揺れて、滑稽であった。立ち止れば、両足が開いて尻もちを突いてしまいそうであった。
行きどまりの自室の部屋の前で足を停め、ハンドバッグから部屋の鍵を出すのが難事業であった。ひどい近視の人のように鍵束を顔面に触れるほど近寄せ、選びださなければならなかった。乱酔が深い水底にいるように、圧力となってのしかかっていた。
何度も失敗したあげく鍵を鍵穴にさしこみ、なんとか鍵をグルリと回転した時はしんそこ嬉しかった。思わず声をあげて笑ったかもしれない。
ドアが開きかけた時、由紀は何が自分の身に起こったかわからなくなった。だれかが身近にいると感じたようである。
何かしら爆発でも生じたような錯覚が生じていた。
体が吹っ飛んでしまった。闇の中で体が床に落ち、転がって行く感じが夢の感覚そのままであった。
あちこち体をぶつける衝撃はあったが、酔いのせいか痛みはなかった。
昨年ニューヨーク郊外で交通事故に遭った記憶と妙に重なり合ってしまい、時間を逆行して、自分が再びその現場にいるような錯覚が襲ってきた。
ひどい事故で、由紀の乗っていた車は何回転もしたあげく大破してしまった。由紀が軽い打撲傷と擦過傷ですんだのは奇蹟といってよかった。運転していたアメリカ人の友人は重傷を負い三か月間の入院を強いられたのである。あの事故で、由紀は死んでいたとしても不思議はなかったのだ。
不意の衝撃が、由紀の意識を事故現場へ運んでしまったようであった。押し潰された車体を切断して由紀を引張りだした救急隊は、由紀が元気でいるのを見て、ひどくびっくりしたものだった......
なぜあれだけの事故のことを忘れていたのだろう。念頭からきれいさっぱり拭い去られてしまったようであった。東丈にさえ話さなかった。結局、脳震盪と掠り傷ですんでしまったからであろうか。
同じような衝撃を受けなければ、決して思いだすことはなかったに違いない。由紀はまるでそんな事故は起きなかったかのように、完全に忘却してしまっていたのだ。
ぱっと唐突に光が瞼の間から射しこんできて、ぎらぎらと眼底を灼いた。あの時もこのようにライトの光条が注ぎこまれ、あわただしく赤いスポットライトが回転していたことを思いだす。意識が同時に二つの時空間に存在しているようだった。
由紀は体を起こし、呆然と座りこんでいた。そこがニューヨーク郊外の事故現場ではなく、自室の玄関を入ったばかりのホールの床であることが、どうにも納得いかなかった。
ぐらぐらする頭を両手で抑えて、由紀は眼前にそびえている丈高い男を茫然と見上げた。黒い革のスーツをつけた長身、革のブーツ、瀟洒だが黒豹のように邪悪な精悍さを発揮している男......斧で断ち割ったような頰のそげた鋭角な顔は、大きな濃いサングラスで半分隠れている。
7
たとえようもない異和感が立ちこめてきた。長身の男には見憶えがある。昼間、木村市枝とともに平山ビルに帰ってきた時、歩行者天国の道玄坂で、市枝が鋭敏に見とがめた男である。
市枝は濃い色の粋なサングラスに隠された男の眼付が気にくわないと矛盾したことを口にしたのだ。だから、よく憶えている......
しかし、その丈高い男が、なぜ自分の部屋に入りこんでいるのか、わけがわからなかった。何かしら、大きな間違いがあるように思えてならなかった。
丈高い男──暴力団塚田組の幹部、矢頭はスチールドアの前に立ちはだかり、昆虫のように無気味で無表情なサングラスを座りこんだ由紀に向けていた。
後手に、ドアをガチャッとロックする。由紀の退路は絶たれてしまった。が、その事実は、茫然としている由紀の頭にしみこんで行かなかった。
矢頭の手にした鞄──汚れ物の詰まった鞄に、由紀の意識は集中し、焦げついてしまった。
「やめて! 返して!」
由紀は跳ねおきざま、鞄を奪い返そうとした。矢頭は平然として、由紀の腹へパンチを放った。容赦のない一撃であり、矢頭が手下のチンピラを殴りつける時以上の苛烈な力が渾っていた。矢頭の加虐性は、女に向った時にこそ顕著に発揮されるのだった。
由紀は体を二つ折りに、後腰を先に吹っ飛び、キッチンまで転がっていった。みぞおちを強打された苦痛に呼吸も出来ず、由紀は両脚を胸部に引きつけ、胎児のように屈曲した姿勢になった。スカートが大きくまくれあがり、下半身が剝き出しになった。
後にも先にもこれほどの激甚な苦痛は経験したことがなかった。そのくせ意識だけははっきりしているのである。由紀の口は弱々しく開いたが、求める空気はいっかな流入してこない。酸欠の金魚のように口を開閉させるだけだ。息ができず、死ぬほどの苦悶だ。女をこれほど残酷に殴打する男がいるとは信じられなかった。男同士の凄惨な死闘でもなければ、男は抑制のない殴打を振るったりするものではない。
矢頭は、床でのたうっている由紀には構わず、片手でサングラスをはずした。鋲のように据った無気味な瞳が現われる。サングラスを畳んで、胸ポケットに差しこんだ。
「やけに大事にしてるじゃねえか......」
矢頭は電動機の唸るような、変に非人間的な声でいった。鞄のファスナーを引き開け、紙袋を引っ張り出した。汚れ物の下着の入っている紙袋である。振り廻すと下着類が床に飛び散った。鞄を逆様にしてあけると、トレーニング・ウェアやパジャマ、洗面道具がバラバラと落ちた。
「なんだ、これは......」
と、呟いて、鞄をぽいと投げだした。めぼしいものが皆無だったので、意外だったのであろう。由紀があまりにも大事そうに抱きかかえていたので、よほど貴重な物が在中していると踏んだのだ。
「なんでこんなものを、後生大事に抱えこんでいたんだ......? こんなバッチイ下着なんぞをよ......」
矢頭は床に散乱した下着を革ブーツの爪先で蹴散らしながらいった。由紀はようやくわずかに呼吸ができるようになり、目もくらむ苦痛の巨波をやりすごしたところであった。
矢頭が何をやっているかよくわかる。が、苦悶はなおも屈辱を凌ぐ激烈さであった。むしろ苦痛がありがたかった。矢頭の与える屈辱を忘れることができたからだった。
矢頭は、床に二つ折りになっている由紀の傍らに屈みこんだ。床から拾い上げた下着をいじり廻している。
「お前を尾けてきたんだ。手をかけさせられたぜ......」
と、矢頭はごく当り前の口調でいった。
「お前は会長先生様の女秘書だろうが......だからお前に眼を付けたのよ」
──ニューヨークではあんなに用心していたのに......由紀の脳裡はかっと後悔で灼けた。世界有数の暴力都市ニューヨークにおいては、女性が尾けてきた男によって自室で強姦されるケースは珍しくない。帰宅したところにいきなり男が飛び出してきて、自室に押しこまれ、暴行を加えられるのだ。由紀など神経質すぎるほど、そうした危険に気を払ったものである。それでも幾度かは暴漢の待ち伏せに遭い、危地に陥っている。
まさか安全が当り前の平和な故国日本で、ニューヨーク並みの危難に出遭うとは想像もつかなかった。安全に慣れて、気が弛んでいたのである。
矢頭はごつい手で、いじりまわしていた下着、スリップを引き裂いた。由紀の両腕を背中に廻し、後手に手首を縛り上げてしまう。抗おうにも、体中に苦痛の波が荒れ狂っており、まるで力がなかった。また平常時であっても、この長身の男の馬鹿力にかかっては抗すべくもなかったであろう。たちまち両手首から先の血行が停まり、無感覚になり麻痺してしまった。馬鹿力の制御というものを知らないのが、この矢頭という粗暴の化身のような男であった。
「どうして、こんなことを......?」
由紀は横向きに頰を床に押しつけられたまま、ようやくのことで、それだけの言葉を絞りだした。まだ苦痛はおさまらない。スカートがまくれあがり、下半身が露出してしまっていることがわかっていても、両膝を顎まで引き寄せた屈曲の姿勢を崩すことができない。自然に体が二つ折りになり、腹部をかばってしまうのである。
「お前のところに、郁江という小娘がいるだろうが」
と、矢頭がいった。再び横倒しになった由紀の前面に戻り、うずくまっていた。由紀は呻き声をあげ、矢頭の顔を見ようと首をねじ曲げた。冷汗でぐっしょり濡れた蒼白な頰に髪が貼りついているのが凄惨であった。はり裂けそうにみひらいた目で矢頭を見上げる。
「あの小娘に、俺はコケにされた......なぶり殺しにしてやらなくちゃ気がおさまらねえのよ。お前も同じ会長先生の女秘書だろう。お前を抑えておけば、小娘をおびきだせる......そういう寸法だった」
矢頭は平然といった。目が確かに狂っていた。変に底が浅くて平板なのだ。おはじきのようである。それが顔に打ちこまれた鋲のように動かない。瞬きもしないのである。
由紀は息が苦しくなり、呻き声を発してねじ曲げていた首の筋肉を元に戻した。体中が冷たく凍り、死んでしまったようであった。
「わたしを人質にして、郁江さんをおびき寄せるつもりなの......?」
そう喋ったつもりが声にならなかった。苦しげな唸り声が漏れるだけだ。
「そんなことは......できない......」
できっこないと思った。東丈が郁江を守るだろう。いつだってそうなのだ......東丈の加護から切り離された自分とは違う。
今日は厄日だと思った。本物の厄日なのだ......いや、そうではない。自分は東丈との間の心の絆を自分から解いて放れようとした。東丈に対して不信を抱いた。その報いなのだ。
〝光のネットワーク〟からはずれた自分に恐ろしい反動が襲いかかってくるのは当然だ。ありとあらゆる凶事が自分を滅ぼすべく、いっせいに襲いかかってきたのだ。東丈への不信と不実を心に蔵した自分を、幻魔が見逃すわけはないではないか......
これが報いだ、と由紀は信じた。当然の報いなのだ。
「だが、気が変った。人質なんてことはどうでもいい......」
矢頭はかがみこんで、由紀の顔を覗きこんだ。太い強靭な指が彼女の両頰を摑み、ぐいと顔をねじ曲げた。無理やり自分に顔を向けさせようとする。
「小娘は後で料理する。今はお前の体でとっくりと楽しむことにするぜ」
矢頭の強靭なほとんど色のない薄い大きな口がねじ曲がって、気味の悪い笑みを湛えた。矢頭は笑わない男だが、その笑顔は人間放れしていた。
革の上衣のポケットを探り、矢頭はひどく大型のスウィッチ・ナイフを取り出した。ボタンが押され、しゅっと毒蛇のように鳴いて鋭い刃が跳び出した。刃渡り二十センチは充分にある代物であった。スウィッチ・ナイフとはいえ玩具ではなかった。人殺しのために造られた凄みがあった。
「今日はずっと働き詰めでな。お前をつけ廻したりして働きすぎた。癇が昂ってきやがった......」
矢頭はごく普通のことを喋るようにいいながら、スウィッチ・ナイフの刃先を由紀の首筋に近づけた。由紀はほとんど実感が湧かなかった。相手の意図もよく吞みこめなかった。依然として苦痛は続いており、かなり減じているにしても、会話を交わす気分ではなかったのだ。
由紀は強姦された経験はまだない。しかし常に強姦の危険が遍在するニューヨーク暮しが長いので、怪我をしない知識というものを持っていた。強盗に対してもそうだが、決して抵抗しないことだと聞かされていた。相手は目的さえ果せば、さっさと立ち去ってしまう。さもなければ生命がなくなる。ニューヨークはそんな土地であった。
しかし、いざ自分がそんな破目になってみると、少しも実感が持てなかった。まさか自分がこんな目に遭うなんて......という不信の虜になってしまうのだった。
矢頭はナイフの鋭利な切先をこじるようにして、コートのボタンを跳ね飛ばしていった。そんな遣り口に彼の偏執的な気味の悪い性格が覗いていた。ナイフを使うのが好みなのだった。偏執を持って研ぎあげたナイフの切れ味をあらゆる物で試さずにはいられない。ボタンをかがる糸であれ、女肉であれ、その切れ味こそが、矢頭のねじくれた嗜好を満足させ、悪魔じみた快感を倍加させてくれるのだった。
矢頭はコートを脱がせるために、ボタンを切り取ったのではなかった。彼はナイフでカシミヤの生地のコートを解体し始めた。文字通り解体してしまうのだった。恐ろしいほどの切れ味を持ったナイフで、生地を切り刻んで、由紀の体から剝ぎ取って行く。
矢頭はその作業に快楽を見出していた。無気味な笑みを膠着させた顔貌はさながら仮面のようだが、呼吸は少しずつ荒くなり、愉悦の期待に堪えられぬようであった。
由紀はようやく息もできぬほどの苦悶から解放され始め、相手の異常さに感づく余裕が生じていた。
カシミヤのコートを切り刻むその遣り方があまりにも丹念であり執念深く、奇妙なのである。常人ならば、ナイフでコートの生地を切り裂くことに性的な快楽を見出すとはとうてい思えない。しかし、矢頭の目は異様に輝き、呼吸は荒い。
苦痛がある程度おさまってくると、相手のもたらす脅威が現実のものとなってきた。体は石のように冷えきっている。冷たい床や冷えた室温のもたらす寒冷が、新手の苦痛と化して迫ってきた。コートを切り刻まれ、細切れにされて体から剝ぎとられた後に何が続くのかという考えが彼女の関心を占めた。
相手の男には何かしら恐ろしくエキセントリックで狂っているところがあった。ただ彼女を強姦し、蹂躙することだけが相手の目的とはどうしても思えないのである。コートの次は彼女の衣類をことごとく切り刻みにかかるのであろう。そしてその次は......ぞっと全身が鳥肌立って震えがきた。
相手は虐殺者ではないか......と感じたのである。これだけ相手がコートを刻むのに熱中しているのは、虐殺の儀式であるからかもしれない。相手にとっては皮剝ぎの儀式なのだ。その行きつくところは、由紀の肉体の解体にあるのかもしれぬ、と考えつくと、震えが止まらなくなった。
明らかに相手は彼女を強姦することにより欲望を充足させるのが目的ではないのだ。もっと狂っていて、嗜虐的で変質的なものだ。その入念さ、辛抱強さは明白に偏執狂のものであった。
幻魔が憑依している?
その考えは赤い閃光となって頭蓋の中を走り抜け、由紀は悲鳴を上げようとして大きく息を吸い込んだ。幻魔に操られて、この男は、やってきたのだ! もはや後先の考えは失せていた。
同時に、ドアのチャイムがいきなり鳴った。胆を潰すようなとてつもない大きさで静寂を破った。
矢頭の動きは電光のように素早かった。左手が走ると、由紀の顎を両側からはさみつけ、口を圧殺してしまう。巨きな掌は万力の圧力をもって締めつけた。もはや声を出すどころではなかった。顔の骨が砕けるのではないかという苦痛だった。
ドア・チャイムは更に鳴り続けた。スチールドアを叩く。
「杉村さん! いらっしゃいますか! こんばんは! 杉村さん!」
女の声であった。由紀は骨を砕かれる苦痛の中で、木村市枝ではないかと直感した。
「杉村さん! 開けて下さい! 久保陽子です! 杉村さん! いらっしゃるんでしょう!」
なぜ久保陽子が......苦痛のさなかでも、意外感と不審の念が湧き起った。久保陽子がなぜこんな時間にやってくるのだ?
矢頭の右手は素早く動いた。ナイフを口にくわえ、その辺にあった下穿きを摑むと掌でまるめ、由紀の顎をこじ開けて口中に突っ込んだ。ぐいぐいと強引にねじこまれ、由紀は嘔きそうになってもがいた。舌で押し返そうとするが、口腔一杯に詰めこまれてつかえてしまい、吐き出すことができない。
矢頭の手が自分の体から離れて行くと同時に、由紀は身を起こそうと必死でもがきだした。が、両手を背中で扼されているので、行動は全く思うにまかせなかった。みぞおちを強打されたためか、体に力が入らず、冷たく死んだようになって鈍い痛みが湧き上るばかりだ。腹筋が効かないので、どうしても上体が起こせない。のたうち廻っている間に、体が壁に触れ、ようやく支点が生じて、体が起き上った。
矢頭は獲物を窺う黒豹のようであった。しきりにドアを叩き続ける久保陽子の気配をうかがっている。その意図を察知して、いけないと警告しようにも、口は動かない。矢頭は恐ろしい素早さでドアを開けると同時に、外にいる久保陽子を内部に引きずりこんだ。
何が起こったかわからぬまま、久保陽子は茫然として、黒豹のように粋で邪悪な長身の男を見上げていた。矢頭は陽子の手首をしっかりと摑んで、にんまりと笑った。ドアのロックを念入りにかける。
「ご苦労だった」
と、矢頭はいった。歯でくわえていたナイフが落ちるのを器用に指先でつまんで受け止める。
8
由紀はその場の一部始終を丹念に観察したわけではない。苦痛は依然として体内に波打っており、体は震え続け、四肢は痺れて、縛られた手首から先は全くの無感覚になっている有様であった。その上口腔に詰めこまれた下着が喉を刺激して嘔き気を催させていた。
しかしそれでも、手首を黒豹のような危険な男にがっちり握られながら、久保陽子の顔に驚愕や恐怖の色が少しもないことが印象に留まった。久保陽子はただ矢頭を見ているのだった。
あまりの唐突さに反応できずにいるというのでもなかった。久保陽子は一切の感情を表出していなかった。
「入りな。遠慮することはねえ」
と、矢頭が顎をしゃくった。久保陽子は素直に頷き、玄関ホールの壁際に背中をもたれさせて上体を起こしている杉村由紀を、表情のない目で眺めた。奇妙なものを見る目付であり、人間的感情が欠如していた。
「さあ、みんなで楽しむとするか」
矢頭は楽しげにいった。無気味な躁状態が現われていた。血なまぐさい饗宴の期待が、彼を上機嫌にしていた。それも杉村由紀一人ではない、久保陽子という新たな生贄が、彼の狂った饗宴にささげられたのである。
彼は久保陽子の制服のネクタイをほどき、引き抜くと、手際よく後手に両手首を扼した。例によって容赦のない力まかせの緊縛であり、少女の手は真白に血の色を失った。が、少女は少しも気にならないようであった。恐怖や苦痛とは縁のない目の色で矢頭を見ていた。
「遠慮せずにずっと奥に入んな」
矢頭は少女の体を突き飛ばした。久保陽子は転げそうになりながら、ダイニング・キッチンへ足を踏み入れた。テーブルに体をぶつけ、大きな音を立てて停まる。
矢頭は物音にも少しもたじろがなかった。何が起きようと気にしないようである。常人の神経ではないのだ。
矢頭のごつい指が万力のように由紀の右肩を摑み、引き起した。あまりの激痛に由紀は夢中で立ち上った。肩の筋肉ごと骨が潰れひしゃげてしまったような気がした。相手の異様な馬鹿力は人間業ではなかった。
人間とは異質の精神が、この長身の筋肉質の男に宿っており、制御のきかない怪力を発揮させているに違いなかった。

矢頭は掌に加える力を弛めないままに由紀の肩を握り締め、久保陽子の後を追わせた。激痛は肩口から溶けた鉄を注がれるようであり、由紀は、体を弓なりにそらして堪えようとした。悲鳴も泣き声も、布切れを口腔に詰めこまれた口からは出てこない。矢頭の残忍な指が肩にくい入るにつれて体がそり返り、痙攣に見舞われる。相手が嗜虐の喜悦を味わっていることだけを意識していた。背後にいる矢頭のボタンのように浅い目が異様に輝やいているであろうことは推察がついた。鼻孔をふくらまし、歯を剝きだしている恐ろしい貌が目に見えるようだった。苦悶にわななく女体の反応を心から楽しんでいるのだった。
──こんなことになったのは、自分が不信をもち、先生を裏切ったからだ......
その思念は心に突きささって赤く燃える熱鉄のようだった。
──先生、ごめんなさい! わたくしが悪うございました......
身も世もない後悔に由紀は悶えた。いかに赦しを乞い救けを求めても無駄だと思った。これが自分の犯した罪の報いであるならば、黙って受け容れるほかはない、と彼女は本気で信じた。だが、それでもなお、赦しを乞い、救けを求め続けていた。苦悶の中で由紀は己れがバラバラに分裂してしまったように感じていた。必死で苦痛を逃れようと身も世もなくもがく自分と、従容と苦痛を甘受することにより贖罪としようとする自分とに分裂してしまっていた。
不意に骨を砕くような苦痛から解放され、由紀は顔面から居間の絨毯の上に突っ込んでしまった。いやというほど突き倒されたのである。本当に目から火花が散った。
矢頭は居間中の照明をつけたようである。物音を立てることは少しも気にならないような傍若無人さであった。
絨毯に額を押しつけ、のたうちながら由紀はようやく上体を起こした。矢頭が久保陽子をソファに座らせ、白ソックスを穿いた両足首をソファの足に括りつけているのが目に映った。
久保陽子は無抵抗にされるままになっていた。が、少女が怖れてもいず、怯えてもいないことは明らかだった。矢頭がそれをどう思っているにせよ、仮面をかぶったような顔貌からは窺い知るよしもなかった。しかし、少女の足首まで扼したのは、少女が何かしら矢頭を慎重にさせるものを有していたからであろう。
「名前は何というんだ?」
と、矢頭は無気味な上機嫌ぶりをうかがわせて尋ねた。テーブルに腰をおろし、スウィッチ・ナイフを開いたままテーブルの上に置いた。細巻の茶色い葉巻を出し、薄い色のない唇にくわえた。あまりにも悠然としすぎていた。快楽を引き伸ばすための儀式であるに違いなかった。
由紀は相手のヤクザがもっとも危険なサディストであることを疑っていなかった。それも精神病理学で扱うべき殺人淫楽タイプである。鞭やロウソクのお遊びタイプのサディストではない。
少女が己れの名を答えた。ごく普通の口調であった。この危険きわまる状況を認識していないとしか思えなかった。
「会の者だな......?」
「ええ、そうです」
少女が躊躇なく答える。矢頭は太い煙を鼻孔から吐き出しながら、考えていた。
「何をしにここへ来た? 急用でもあったのか?」
「急いでここへ来なきゃいけないっていう気がしたからです......」
久保陽子が素直に答える。
「用事は何だ?」
「用事なんてありません。杉村さんの身に何か起こるから、急いでいかなくちゃって思ったんです」
「ふざけるな。何の用事もないのに、来なきゃいけないと思ったから来たっていうのか!?」
「はい......何かあるってわかってしまったんです」
いったいどういうことなのだろう、と由紀は戸惑っていた。なぜ久保陽子がこの夜に限っていきなり由紀の部屋を訪れなければならなかったのだろう。由紀の身を案じるとすれば、それは木村市枝であり、今この長身のヤクザの餌食になっているのは市枝でなければならなかったはずだ。
久保陽子が現われる理由も必然性も何もない。
「本当のことをいえよ」
矢頭はぐいと腕を伸ばし、久保陽子のネクタイを奪われた制服のえり首を摑んで引き寄せた。くわえタバコのまま、テーブルの上に置いたスウィッチ・ナイフを取り上げ、少女の蒼白い頰に切先を滑らせた。あっさりと皮膚が裂け、プツプツと玉をなした血が噴き出してくる。
「本当のことをいわねえと、面の皮を剝ぎ取るぜ」
矢頭は平然といった。威嚇の調子ですらなかった。
「本当です......」
久保陽子は苦痛の声もあげずにいった。見ている由紀の方が腰が重だるく痺れ、失禁の感覚に襲われた。少女はどうかしていると思った。顔が火で焙られているような灼熱感が由紀に転移してきたようであった。浅くだろうが頰は四、五センチにわたって裂けている。
「本当のことをいえといってるんだ」
矢頭は面倒臭げにいい、両眼をなぶる葉巻の煙に目をほそめ、鋭い針先に似たスウィッチ・ナイフの尖端を用いて、少女の耳朶に刻み目を入れた。たちまち噴出した血が首筋から肩にしたたり落ちる。
「でも、本当なんです」
少女の声音は変らなかった。
「耳を切り落すぜ......」
それは威嚇ではなかった。由紀は全身から体液が消失する気分になった。長身のヤクザはステーキの肉を切り分けるように少女の柔い耳を切り取りにかかっていた。
「あたしにはわかるんです。そういう力があるんです」
と、久保陽子は痛みに反応することもなくいった。
「杉村さんの身が危いってことが、その力でわかったんですよ。あなたのことだってわかります。今日ずっと道玄坂で見張っていたから......郁江ちゃんをつけ狙っていたじゃないですか?」
矢頭は明らかにショックを受けていた。スウィッチ・ナイフを引っ込め、おはじきのように底の浅い表情のない目で、少女を穴があくほど凝視していた。
「お前も、あのけたくそ悪い霊能とか超能力とかいう力を持ってるっていうのか?」
「はい。あなたが来てるってことは、ずっと感じてました。だから、杉村さんのことが心配で、ここへ来てみたんです」
本当だろうか......由紀は信じられなかった。なぜ久保陽子が自分を救けに来る理由があるのだろうか。少女と自分の間は、親密というにはあまりにもほど遠い。むしろ少女は自分に対して敵意を持つだけの理由があるではないか。なぜなら自分は東丈の側近だし、少女は自分を憎悪しこそすれ、好意を持ついわれは何もないはずだ。前に少女が井沢郁江に対してやったように恐ろしい呪詛の毒念を向けてくるのが理にかなっているのではないだろうか......
「そうかい、お前はこの会長先生の女秘書が危いというんで、助けに来たってわけか......」
矢頭はようやく納得したらしい。えり首を摑んでいた少女の体を勢いよくソファの背に向けて突き飛ばした。葉巻を左手で口から取り、灰を絨毯に振り落とす。
「だがよ、ミイラ取りがミイラになったってことかい......せっかく霊能があるってのに、てめえの身までついでに危くなるとは気がつかなかったってのかい......?」
「夢中で来たんです。まだ間に合うって思いました......」
「あいにくだが、間に合わなかったってわけよ。ついでにお前もな。よくせき運がなかったと思いな」
「でも、あなたは杉村さんに何の恨みもないはずでしょう......? 恨みがあるのは郁江ちゃんでしょう? だったら、なぜこんなひどいことをするんですか?」
「ことさら別に理由はねえよ。気が変って、楽しむことにしただけよ。なんなら、お前が郁江って娘の仲間だからということにしてもいいがよ......だが本当は、女の体を刻むのが好きなだけさ。他に理由なんかねえ。こいつで切り刻んで、肉が皮につながってビラビラするのが面白いのよ。それだけだ」
矢頭はスウィッチ・ナイフを己れの眼前にかざしていった。
「そんなことがどうして面白いんですか?」
「バクチをやる奴にそういって尋いてみな。俺の場合は、そうしなければ本当には面白くなちねえんだ。だがよ、こんな時でもねえと、本当に思う存分やるわけにはいかねえがよ......いつもは欲求不満という奴が残って、後味がよくねえ。徹底的にやって、切り刻んだことは何回もねえがな......」
矢頭はなぜかよく喋った。お喋りの衝動が矢頭にとりついたようであった。
「女の人をそんなに何度もいじめ殺したことがあるんですか?」
久保陽子は血をしたたらせる傷口に構わず、痛みも感じていないようだった。ただ問いを重ねることに奇妙な情熱を見せていた。
「あるさ、女も男も、何度もな。運んでって山に埋めちまう。埋立地に埋めることもある。一番簡単で手がかからねえ」
「一人でやるんですか?」
「だれかに手伝わせれば、そいつも埋めちまうさ。お前たちも刻んだ後に埋めてやるぜ」
矢頭は身を前に乗り出し、スウィッチ・ナイフの尖端を、少女の喉許に突きつけた。軽く触れただけで、たちまち血玉が皮膚に浮き上ってきた。少女は身じろぎもしなかった。苦痛や恐怖を少しも感じていないようであった。それが矢頭を刺激したようである。
「これから俺がお前らをどうするか、教えてやろうか......」
矢頭はナイフの刃で少女の喉を愛撫するように撫でながら喋った。どのようにして二人の女を切り刻み、虐殺するかを念入りに描写した。変に底の浅い目は狂的に輝いているが、声音は無気味に平板で、感情がこもらなかった。
由紀は矢頭がお喋りに夢中になっている間に、気を取り直し始めた。なんとかして近隣の注意を惹く方法はないものかと考える。しかし、コンクリートの建物の壁や床は分厚くしっかり造られていて、多少の物音では隣人を驚かすことはできないだろうと思えた。それにいつも不在がちの由紀は近隣にどんな住人がいるのか疎かった。時間的に住人が寝静まっているという時刻ではない。
矢頭の驚くべき話を聞いているうちに、なぶり殺しを避けるにはどのような手段をもとろうという決心が生じていた。どのような試みでもためしてみる値打はあるのだ。それが結果的に自殺につながったとしても、矢頭の凶悪な手を逃れることであるなら、好ましかった。
矢頭が幼稚で狂った頭から発想される、ちみどろの幻想を口にしているのだと信じることはむずかしかった。矢頭は貪虐凶暴な暗黒エネルギーに憑依されており、操られるままに魔的な嗜虐心を満たしてきたのだと考えざるを得なかった。
矢頭は単に粗暴であるだけではなく、粗暴性格者の多い暴力団の中でも特異な存在だったろうことが明白であった。
この丈高い男は魔性の存在だ、と由紀は思った。幻魔がさし向けてきた刺客なのだ。自分がこんな危難に遭っているのは決して偶然ではない。東丈のいう〝光のネットワーク〟からはずれてしまったがための、反動に他ならないのだ。心の絆をほどいて去る者がたちまち、待ち構える幻魔に貪り食われるのは必然的な成行なのだ......
「俺は、気に食わねえ女にはお仕置をしてやるんだ......女のあそこを手で裂いてやるのよ」
と、矢頭がいった。
「簡単に尻の穴から下っ腹まで裂けて、血みどろのバケツぐらいの穴が出来るぜ。二度と使い物にならねえようにしてやる......だが、こんなことはほんの序の口さ」
矢頭が苛立ち始めていることは明らかであった。久保陽子が期待に添った反応を示さないからだ。少女は何をいわれても、石のような平静さを崩さなかった。ナイフで顔を傷つけられ、刃で喉を撫でられても、少女は人間的な感情を表わさないのである。矢頭は自尊心を傷つけられ、苛立ち、一層危険になり始めていた。少女が恐怖し、屈伏することを拒んでいると感じているのであろう。
「てめえ、噓だと思っていやがるのか」
矢頭は唐突に、恐ろしい怒気をあらわにしてどなった。その凶暴さの発露はバーナーの炎を相手の顔に浴びせる凄まじさであった。
「俺のいうことを噓だと思っていやがるんだな」
弾けるような激烈さ凶暴さで矢頭の腕が動き、少女の右腿に深々とナイフを突き刺した。制服のスカートの上から、噓のように易々とスウィッチ・ナイフは太腿の筋肉に吸い込まれた。
矢頭が手を放すとスウィッチ・ナイフは黒い握りの部分を上に突き立ったまま残った。
少女はぴくりと肩を慄わせただけで、声もあげなかった。唇を嚙んで、自分の太腿に突き立ったままのナイフを見下している。苦痛の表情はなかったが、顔色は更に蒼ざめてきていた。
由紀は喘ごうとしたが、猿轡のため声にならない吐息が鼻孔から漏れただけであった。
その時、いきなり電話が夜の静寂をけたたましく破って鳴り出した。
9
電話のベルは心理的に時限爆弾が破裂するほどのショックを矢頭に与えたようである。矢頭はその場に凍りつき、一瞬動きを忘れた。会のだれかが電話をかけてきたのだ、と由紀は直感すると同時に、意外な素早さで行動に転じていた。跳ね起きると、電話の載っているサイドボードに体ごとぶつかっていった。電話を払い落すのが目的であった。
どしんとサイドボードにぶつかりざま、肘を使って電話を叩き落す。送受器は架台からはずれ、床に転がり落ちた。
しかし、由紀は叫び声をあげることができなかったし、我に返った矢頭がそれ以上の動きを封殺した。矢頭は素早く由紀を蹴倒し、絨毯の上に転がった送受器を拾い上げ、架台に戻した。あっさりと電話コードを壁のコンセントから引き抜いてしまう。矢頭の顔は仮面になっていた。怒気がデスマスクの容貌となって貼りついていた。由紀は腰でいざって逃げようとした。矢頭が何を始めるにせよ、それは彼女の肉体の徹底的な破壊作業に違いなかった。
電話をかけてきたのが会員のだれかであったら、異常に気付いてほしい、と彼女は祈るように思念を凝らした。感のいい会員であってほしい。しかし、異変を察知して、すぐに駆けつけてきたとしても、急場に間に合うかどうかわからなかった。
「気のきいた真似をしやがって......」
矢頭は屈みこむと恐ろしい表情の貼りついた貌を近寄せてきた。
「だが、てめえらを仕置する時間ならあるだろう......俺はてめえらのような女どもが一番気に食わねえ。人を小馬鹿にしやがって......。利口ぶってつんとお高くすかしてる女どもがよ......そういう女どもには糞と小便を垂れ流して這いまわらせてやるんだ......」
矢頭は左手を伸ばして由紀の喉を摑んだ。ごつい大きな左掌はたちまち無慈悲な圧力を加え、喉を一息に摑み潰す勢いを見せた。
だが、そこで力を抜き、由紀に呼吸をする暇を与えた。それが彼女の苦痛を長びかせ、嗜虐心を満足させる目的でなされたことは明らかであった。
「気取りやがって......てめえは自分をよっぽど上等だと思っていやがるんだろう。美人で頭がよくて教育があってよ......男を見下げていやがる。だがよ、てめえは今から絞め殺される鶏みたいにバタ狂った挙句に糞小便で尻を汚してくたばるんだ。見られたざまじゃねえぜ......」
執拗な怨念と憎悪のこめられた口調であった。
「てめえがただの薄汚れた牝だってことをわからせてやるぜ......簡単には死なせねえよ......何度も地獄の崖っ淵まで行かせちゃ引き戻してやる。もう一思いに死なせてくれとな、泣きわめいて頼むだろうぜ......。だが、まだまだあっさりとは死なせねえ」
矢頭は歯を剝き出し、由紀の口中から薄い下着を引きずりだした。口腔が切れたのか、ところどころベージュの生地は血で染まっていた。
「さあ、叫んでみな、遠慮は要らねえぜ」
由紀の喉を無造作に左掌で扼しながら、殺気のこもった声音で矢頭はうそぶいた。じわじわと圧力を加えてくる。その気になれば、卵の殻を摑み潰すように喉笛を砕く力を秘めた巨大な掌であった。
「叫んでみろよ、助けてくださいと頼んでみろ......殺さないでくださいと頼め......」
矢頭はわずかに指から力を抜いていった。
「殺さないでくれたら何でもしますといってみろ......」
巧妙に窒息感の強弱を与えながら、矢頭は目を輝やかしていった。
「許して下さいといえ。殺さないで下さいと頼むんだよ! さあ、いってみろ!」
頭の中がくらくらと痺れ、体中が爆発しそうに苦しくなってきた。気管と大動脈を同時に扼されているせいだ。血管だけを圧搾されるなら意識が遠のいて行くだけだが、気管を塞がれると苦悶が大きい。矢頭がいうように失禁し、大小便を漏らしながら死ぬのかもしれない......ぶざまでみっともない死に方だ。しかし、それが自分には似つかわしいような気がした。心弱くて東丈について行くことができず、信を放棄してしまった自分にはふさわしい醜悪な死に様のように思えた。
頭の芯に真紅の穴が開いて、由紀はそこへ体全体で落ちこみ、吸いこまれようと努めた。しかし矢頭はそれを許さず、指の力を巧妙に抜き、由紀の体は死物狂いで空気を貪っていた。それが相手の残忍な嗜虐の喜悦を引き出すだけだとわかっていても、肉体が勝手に心を裏切り、どこまでも生に執着し、狂いまわろうとするのだった。
凄まじい耳鳴りが轟音となって咆え猛っていた。苦悶が高じてくると由紀の自制心、決心はあまりにもたやすく破られた。体がもがき、そり返り、痙攣した。相手を楽しますまいとしてもどうにもならない。肉体はあまりにも脆く弱すぎた。死ね、と己れの肉体に命じるが、肉体はどこまでも生に執着し、浅ましくも生き伸びようと狂いまわり止むことがない。
肉の身の弱さ脆さ、いかがわしさが心の底から由紀を愕然とさせた。このような自分が東丈に最後までついて行くなど、とうてい考えられない傲慢さだと知った。彼女はこれまで自分を強い女だと信じこんでいた。ほんの小娘の年齢で異郷に渡り、逆境に堪えた己れの勇気や忍耐力、精神の強靭さを心ひそかに誇ってきた。
その傲慢さが、真の意味で東丈に従うことを妨げていたのではないだろうか。彼女はその傲慢さ、自負心によって東丈を扶け、保護しようと知らぬ間に思い上がりの虜になっていたのではなかったか。東丈を含めて未熟な若者たちを保護し指導しなければならぬものという驕りの虜になっていたのではなかったか......それゆえ知らぬ間に東丈をすら見下げる心が生じ、不可解な乖離をもたらしたのではなかったか。
その思念は真紅の稲妻のように心を刺し貫き、照らしだした。一瞬にして到着した認識であり、自覚そのものといえた。
彼女が努力すればするほど、不可解な乖離は拡大し、消耗だけが増大し、悩みを深めたのも当然であったかもしれない。彼女はあまりにも己れの力に恃みすぎていたからである。
由紀の心には、神と呼ぶべき大いなる宇宙意識への信もなく、愛もなかった。由紀が常に見ていたのは、東丈の肉体だけであり、宇宙意識とつながる丈の意識にまで目を向けたことがなかった。
由紀が無上の愛と信じていたものは、東丈の肉体に向けられた執着に他ならなかった。由紀の目にはいつも、肉体的存在としての丈しか映っていなかったのである。その証拠に、彼女は神について考えたことがなかった。神への愛や信とは無関係に切りはなしてしまい、東丈を物質的な偶像として扱っていたのである。
だからこそ、東丈と彼女は努力すればするほど離反し、限りなくすれ違って行ってしまったのだ、と由紀は悟った。東丈はいつもそれを由紀に気付かせようとし、機会を与えていたが、傲慢さに心を支配されていた由紀はその啓示に目を向けようとさえしなかった。
自分は久保陽子と同じだった! 東丈を肉体的存在とみなしたがゆえに、彼に関り合う全てを嫉妬した。久保陽子に嫌悪を禁じえなかったのは、自分が彼女と等質存在であることを薄々感じとっていたからだ。
自分は東丈に関るがゆえに、神に嫉妬し、人に嫉妬し、全てのものに嫉妬した。そして久保陽子同様、自己破壊への道へと走ってしまったのだ。
こんな破目に至ったのは決して偶然ではない。自分自身で選びとった自己破壊への道だったのである。
そのことを自分はどうしても悟らなければならなかったのだ! 由紀の体は狂おしいまでの自己啓発の感動に震えた。堪えがたい重圧が自分を解放し、すっと離れ去って行くのが感じられた。心身を貫き走った感動があまりにも大きかったので、由紀は窒息の苦悶を忘れた。体がすっと軽く透き徹り、薄くなったようであった。どうにもならない苦痛が自分を鉤爪の搾めつけから解放していた。
気がつくと、矢頭が首の圧搾を弛め、何事か命じていた。
「救けて下さいと頼め。お慈悲ですから殺さないで下さいと頼むんだ!」
由紀には相手が何を強制しているのかわからなかった。理解もできず、関心もなくなっていた。自己啓発の喜びだけが圧倒的に心を揺がせていた。
「わたくしが悪うございました......」
と、由紀はいった。喋ったつもりであった。声になったかどうかもわからなかった。
「あなたを疑いました。愚かなわたくしをお赦し下さい......わたくしの目にはいつしか本当のあなたのお姿が映らなくなっておりました......」
「何をいってやがるんだ!」
と、矢頭が歯軋りするような怒声を発した。
「狂いやがったな......」
「赦して下さい、先生......わたくしもう一度やり直します。わたくしが愚かでした......本当はそのことがどうしてもわかりませんでした......わたくし思い上っていました。そのくせ自分を謙虚だと思いこんでいました。本心では全く違うのに......ごめんなさい先生......わたくしやっと気がつきました」
「何をぬかしてやがる!」
矢頭は由紀の顔に猛烈な平手打ちを往復させ、彼女の頭は胴体からちぎれて飛びそうに大きく左右に振れ動いた。
「この女郎! ラリ公の振りをしやがって!」
矢頭は歯軋りした。顔が怒りに歪み、引き攣っていた。
「そうは行くか! てめえに簡単に楽にならせるわけにゃいかねえんだよ! 泣き喚いてくたばるんじゃなくちゃ、こっちのけりがつかねえんだ!」
荒々しく由紀の体を揺さぶりながら、矢頭は喚いた。由紀は頭部をぐらぐらさせ、瞬きした。目に焦点が戻ってくる。
「やめて......」
と、掠れ声で喘ぐ。首を絞められて声帯を痛めつけられた声だ。ほっそりした長い首の周囲は、黒ずんだ指の痕がくっきりと痣になって浮かび上っている。
「そうだ、まだてめえにはしゃんとしていてもらわなきゃならねえんだ! 水責めにしたって正気に戻してやるからな!」
矢頭の頑丈な巨きな掌が由紀の胸許にかかると、ブルゾンの上衣のボタンがいっせいに飛び散った。スリップごと引き裂いてしまったのだ。ブラジャーを一気にむしりとると、鳥肌の立った膚が矢頭の目にさらされた。
白くて形のいい吊鐘型の隆起の片方を、男は残忍な期待をもってわし摑みにし、握り潰すほどの圧力を加えた。言語に絶した激痛が炸裂し、由紀は絶叫をあげのたうった。すかさず片手が喉を摑んで、悲鳴をあっさりとナイフで切り落すように断ってしまった。
矢頭はとほうもない馬鹿力の持主であった。由紀は以前ニューヨークでプロレスラーが己れの人間放れのした怪力を誇示するため、分厚い電話番号簿を真二つに引き裂く力業を見物したことがある。彼女は矢頭の中にそうした狂的な力を感じた。破壊だけを目的とする狂気の力である。
矢頭はそうした怪力を駆使して彼女の体からあらゆる着衣を剝ぎ取りにかかっていた。どんな生地も、矢頭の手にかかると薄紙のように易々と裂けた。これほど能率的な作業はなかったが、由紀はあちこちの皮膚を失い、みみずばれになり、血を滲ませ、青黒い痣を作った。これほど狂暴な発作的な動作を振るう男は、まさに狂人以外の何物でもなかった。衣服を破る行為が同時に、彼女の肉体を傷つけるということに、矢頭は何の注意も払わなかったのだ。
むしろ彼女の白い肌に赤いすり傷を増やして行くことを享楽していたのかもしれなかった。
矢頭はあらゆる意味で、常軌を逸していた。彼の暗いねじ曲った心は、破壊の魔的な快楽にのみ満たされ、理知的な作用は全て影をひそめてしまっていた。肉食獣が捕えた獲物をその場でガツガツと食らい、他のことは何も考えないように、矢頭の心も狭窄され、目前の一点にのみ膠着し、固定化されてしまっていた。彼のねじくれた心を暗い喜悦で満たし、欲望をますますかきたてる破壊行為だけが全目的と化していた。周囲で何が生じようと、矢頭は一瞥もくれなかった。今この瞬間、パトカーのサイレンが窓外で湧きたっても、矢頭の関心を集めることはできなかったに違いない。矢頭は極度に知能の低い貪虐な欲望だけによって動かされる悪鬼と化してしまっていた。
その時、矢頭は前後の見境いをなくし、凶悪な衝動のままに、素手で由紀の肉体を破壊しようとしていたようである。矢頭の恐ろしい威力を持った手が、由紀の体の深部をえぐろうとしていた。それは子供が凶暴な衝動に駆られて、蟬や蛙などの小動物をバラバラにちぎってしまうのと似ていた。子供にはなぜ自分が小動物の体を八つ裂きにして内臓を引きずりだし、すり潰したりするのかわからないであろう。無気味な破壊衝動が身裡を満たし、どうでも残虐な欲望を満たさずにはいられなくなってしまうのだ。矢頭もそうした血に飢えた凶悪な酩酊にどっぷりと漬かり、常人には考えも及ばないような嗜虐心を満たしにかかっていた。
悪鬼の無気味な快楽を追求する矢頭が、由紀の下半身を襲い、女性の中心部をえぐり取りにかかっている時、由紀はおよそ場違いの想念に脳裡を占められていた。それは出産の場面の幻覚であった。間隔を短くする陣痛につれて、彼女の産道は伸展し、胎児の頭部が旋転しつつ限りなく彼女をおし拡げ、満たしながら、誕生へ向って突き進んで行く感覚であった。
不思議な倒錯が存在した。彼女は今まさに自分が胎児を出産しつつあるのか、それとも胎児の自分が誕生しつつあるのかと考え、迷い、疑った。
認識する力を失ってしまったのではない。自分の身に今、何が起きつつあるかはわかっている。悪鬼と化した男が自分の女性器官をむごたらしく破壊にかかっていることはわかっている。巨大な手が深部に突き入れられ、膣を割き、子宮をえぐり取ろうとしている。それは赤い閃光の中の悪夢に似ていた。
にもかかわらず、その手の行為は残虐さを喪い、意味が解体され、一人の新しい生命の誕生を促す産婆の手と変化してしまっていた。
由紀は己れ自身の誕生とともに、出産を経験しているのだと感じた。意識が不意に拡大した。自分を閉じこめる狭溢な柩が一気に破れ、消え去り、広大な宇宙が広がったようであった。
己れを閉じこめる時空の一点が由紀を解放し、凄まじい迅さで飛び去った。今や彼女はありとあらゆる桎梏から解き放たれ、自由となっていた。
矢頭の暴虐な手はもはや彼女に届かなかった。いかなる形でも彼は危害を由紀に加えることはできなかった。矢頭はあまりにも卑小すぎる存在だった。地底をうごめくものだった。由紀のように魂を解き放ち、時空の外へ飛翔することなど及びもつかないのだった。それを知って由紀は心和み、気分がよくなった。
彼女は生れたての嬰児である自分を、母としての手で抱きあげ、胸にいだいた。同時に子であり母である二重存在が少しも不思議ではなかった。
だしぬけに彼女は自分が出産したのは、世界そのものなのだと意識した。彼女自身は女性原理そのものであり、だからこそ世界を産んだのだ。神話的な幻想の中に、彼女は漂っていた。
彼女の出産した世界は、東丈という嬰児でもあった。なぜなら彼女は女性原理の化身であり、存在するものは全て彼女の胎内に種子まかれたからだ......
男神である男性原理が急速に接近してきて、彼女は恍惚の中で男神とまぐわった。彼女は女性原理として、男性原理と交り、全ての時間、空間を産み出すのだと感じた。彼女は素晴らしい恍惚と陶酔のうちに、再び嬰児を胸に抱いていた。彼女はその嬰児を孤りで旅立たせなければならなかった。彼女は地上を去るがゆえに、嬰児を抱く腕がなかった。
深い悲しみがこみあげて、頰を涙が流れ落ちた。いつも彼女は幼い子供を置いて地上を去らなければならないのだった。赤ん坊はみるみる成長して、彼女そっくりの若い娘と化した。その若い娘は時間と空間の化身であった。男性原理と女性原理のまぐわいが産み落した新しい世界そのものであった......
凄まじい咆哮で、由紀の幻覚は破られた。咆哮と聞いたのは悲鳴であった。丈高い男、矢頭が弾けるように跳び上り、大口をあけて悲鳴を絞り出していた。このように獰猛、剽悍をきわめた、暴虐の化身じみた男が、恥も外聞もなく悲鳴を上げるさまは不思議な光景であった。
矢頭の体が半回転し、腰の下にスウィッチ・ナイフが突き立っているのが見えた。
ナイフの柄を、少女の手がしっかりと握り締めている。少女はどうやってか、束縛を抜けて、己れの腿に刺っていたスウィッチ・ナイフを抜き取り、それを矢頭の尻に突き立てたのである。
矢頭は仰天してしまっていた。あまりの激痛に思考力が雲散霧消してしまったのである。動くたびに火柱が立ちのぼる物凄い苦痛に灼かれるのだ。矢頭ともあろう者が、気も動転したため、尾に火がついた猫のように反応するしかできなかった。
矢頭の跳び上る動作に振り落されて、少女の体が床に転がった。上体を起こそうとするが、右腿を刺されているため、体が利かないようである。
矢頭はきりきり舞いし、凄まじい激痛を逃れようとして、テーブルを押し潰し、ともに床に転がり落ちて、なお被害を甚大なものにしたらしい。尻に刺さったスウィッチ・ナイフを手探りして抜き取ろうともがきまわっている。
由紀は苦労してほとんど裸体同様の体を起こした。逃走のチャンスだということはわかっている。しかし、深傷を負っている少女を残してはいけない。復讐鬼となった矢頭の手にかかることはあまりにも明白であった。
久保陽子は蒼白な顔で、絨毯に横座りになっている。血は点々と散っているが、さほど大量ではない。筋肉を深く傷つけられて、片足が麻痺してしまっているのである。
後手に手首を扼されている由紀には、少女を助け起こす手の自由がなかった。もつれあうようにして、ようやく少女を起たせるのに成功した時、矢頭が尻からナイフを抜き取り、ひどい跛行を見せて迫ってきた。
出血し、激痛の責め苦にあっている矢頭には、もはや余裕はなかった。顔面は凄まじく歪み、目は憎悪に狂っている。手負いの野獣の形相であった。
そのとたん、キッチンとの境いの入口に、魔法のように人の姿が現われた。由紀たちと同様、矢頭もなんのことかわからなかったようである。
何の前ぶれもない、恐ろしく唐突な出現ぶりであった。高鳥慶輔がどのようにして、ドアのロックを解き、入ってきたのか、その時の由紀は疑うことも忘れていた。
さすがの高鳥も、真剣な顔をしていた。ぐるりと振り返り、血まみれのスウィッチ・ナイフを手に、狂った野獣の唸りを喉から漏らす長身の矢頭と至近距離で対峙することになったからだ。
高鳥が何事か叫んだ。中途半端な意味不明の叫び声であった。高鳥自身、凄惨な矢頭の形相に気を吞まれてしまったのだ。
高鳥がどのような超能力を発揮したにせよ、矢頭に対して効力が乏しかったことは確かなようである。気を吞まれたために、念力の集中が損なわれたのかもしれない。
矢頭はナイフを構え、立ちふさがった高鳥めがけて突進した。高鳥は叫び声をあげて後ろに跳びのき、二人ともキッチンに消えた。──キッチンで烈しい物音がした。家鳴り震動の物凄さであった。
取っ組み合う物音に続き、乱闘が玄関口へ移動して行った。どちらが逃げるにせよ、追跡と逃走が展開されていることは間違いなかった。
胆の冷える凄まじい格闘の物音がひとしきり続き、玄関のドアが開き、入れ乱れた荒々しい足音が遠ざかって行った。
後はどうなったのか、由紀は記憶に乏しい。自分がどのように行動したのかよく憶えていないのである。おそらく鋏を捜し出して、手首の縛めを断ち切ったのであろうが、自分でやったのか、あるいは少女にさせたのか、後で考えてみても記憶の空白を埋めることができなかった。
あの背の高い恐ろしいヤクザが引き返してきて、少女と自分を惨殺することだけは阻止しなければならぬと思ったようである。高鳥の突然の出現など現実感が乏しすぎて、本当に起きたこととは思えなかった。
気がつくと、ドアが激しく叩かれており、田崎や木村市枝の声がしきりに由紀の名を呼んでいた。それすらも夢の中の出来事のようであった。
由紀がドアを開けるまでに、マンションの通路に立った田崎たちは気が気でない時をすごさなければならなかった。何かしらとてつもない異常事が突発したことは間違いないのだ。
あまり激しくスチールドアを叩くため、同じ階のマンションの住人たちが、いずれもドアを開けて不審の意を表明した。中には抗議する住人もいた。
──さっきから何事ですか、大騒ぎして......
と、寝巻姿の住人が食ってかかる。
──夜の夜中にバタバタ大暴れされちゃ困るじゃないか! 君たちは何だ!? 警察に電話するぞ!
不機嫌な住人たちの抗議を受けているところに、ようやく杉村由紀がドアを開けた。
「杉村さん! どうしたんですか!?」
木村市枝が息を吞むようにしていった。由紀はワイン・レッドの部屋着を着、深いポケットに両手を差しこんで、田崎たちを見返した。仮面じみた虚ろな顔で、感情が全く欠如していた。左頰の擦り傷から痛々しく血が滲んでいる。
由紀は虚ろな大きな瞳で田崎たちを見ていた。エキセントリックな、異常に感情の枯渇した貌が、彼らの背筋に冷たいものを走らせずにはおかなかった。
「どうぞお入り下さい......」
と、由紀は感情のない声音でいった。
「夜分お騒がせして申しわけありません......ちょっと取り込みがございましたものですから......もうお騒がせすることはないと思います。わたくし明日から渡米するもので、しばらく留守にいたしますので......」
杉村由紀の挨拶を受けて、ものものしい空気になっていた住人たちも釈然としない顔でぶつぶついいながら引き取っていった。由紀の挨拶は尋常のようだったが、やはりどこか調子が狂っていた。まったく人形じみているのである。人騒がせを詫びるのはともかくとして、明日から渡米するなどとつけ加えるのは奇異であり、由紀らしくない。とってつけたようで、あまりにも不自然なのだ。
「何があったんです?」
と、田崎が尋ねた。不安と危惧の念が彼の顔を険しくしていた。杉村由紀は玄関ホールの壁に背中でもたれて立っていた。問いには答えず、虚ろな意味のない微笑を見せた。
木村市枝は、由紀が頰のみならず、部屋着の胸許にのぞく肌にも赤い擦り傷を作っているのを見つけ、慄然とした。
「笛川先生を呼んで下さい。怪我人がいるんです」
由紀は虚ろな表情にそぐわぬはっきりした声音でいった。
「奥にいます。早く笛川先生を......だいぶひどい怪我ですから......」
そのままずるずるとしゃがみこみ、うずくまってしまう。反射的に駆け寄り、扶け起こそうとした木村市枝は、由紀の体が氷のように冷えきっているのに気付いた。石のように固く冷たくなり、由紀はうずくまって虚ろな目を眼前の中空に据えていた。何事かしきりに口を動かし、呟やいている。
木村市枝は再びぞっとして、救いを求めるように田崎の逞しい顔を見上げた。杉村由紀が何かしら目に見えない存在と話をしている......そんな疑念に駆られたのである。由紀が精神的に破綻を来しているのは間違いないように思えた。
「お前はここで杉村さんを見ててくれ。俺は奥を見てくる」
田崎は意を決したようにいい、血痕の点々と散る床を奥へと辿って行った。由紀の冷えきって固い体を両腕の中に抱いた木村市枝は、由紀が譫妄状態になり、しきりに譫言を口走っているのを不安な思いで聞いていた。それは高熱に浮かされて口走る譫言と少しも変らないように思えた。由紀は幾度も繰り返し、可哀想と口走っていた。はっきりとは聞きとれないが、彼女は「可哀そう」「もう帰らなくちゃ」「駄目になる」という言葉をしきりに口にしているようであった。
いつも端然として凜々しく、気丈で有能な女性の権化として市枝にとっては遠い存在だった杉村由紀が、どんなに心の奥底で激しい懊悩と憂悶を味わっているか、市枝は垣間見たような心地がした。
10
それはたった一人の例外を除いて全関係者の間に、身の毛のよだつ出来事として時間が経つほどに印象を深めて行った。後になればなるほど恐くなるのである。
それは、凶悪な魔に使嗾される人間がどのように動くかという戦慄的な教訓ともいえた。
杉村由紀は一日だけ休養のために出発を遅らせ、東京国際空港を発った。心身に受けた被害は大きいと予測されたが、だれもが驚くほど由紀の立直りは迅速であった。それどころか、心に後遺症を残さなかったただ一人の例外は由紀自身だったのである。
あまりにも酷烈な体験だったはずだが、かえって由紀の裡で大きな拘泥が吹っ切れてしまったようであった。それは羽田まで出かけた少人数の見送りの者がだれしも受けた共通の印象であった。
「ご心配をおかけしましたけど、わたくしにとっては、かえって薬になったと思うんです」
と、東京国際空港の出発ビルで、杉村由紀は見送りに来た田崎たちに向っていった。頰や首筋の痣は、濃い目の化粧と大きなサングラス、幅の広いたっぷりしたスカーフで隠されていた。
「だいぶ心の迷いが出て来ていましたから......冷水を頭から掛けられたように、しゃんとなりました。もう大丈夫です。ひどい風邪を引きこんで、鼻も耳もきかなくなっている状態から回復したような気分がします」
由紀は透明な感じの微笑を見せていった。
「本当にすっきりしました。わたくしのかわりに大怪我をされた久保陽子さんには心から申しわけないと思いますけれども......手荒い目に遭わないと目が醒めなかったんですね」
背筋がすっきりと伸びていて、無気味な消耗感、虚脱感は旅行用のスーツで身を引き緊めた長身の由紀にはどこにも見当らなかった。わずかな間にみごとな回復ぶりだ、と田崎は思わずにいられなかった。杉村由紀らしい毅さが戻ってきて心身を満たしている。匂いたつような勁烈さが感動をもたらした。ここしばらくの由紀が喪っていたものだ。やはり迷いというものは人間にとって最大の苦しみなのだと改めて実感した。杉村由紀はそれを克服したが、まかり間違えば死んでいたかもしれないのである。
その考えは田崎の腹の底に冷たい氷塊の如きものを沈めた。田崎と木村市枝の到着は間に合わなかったかもしれない。杉村由紀を救ったのは久保陽子だった。その事実は、考えれば考えるほど不可思議な気分に田崎を誘った。ありえないことが起こった......そんな気分であった。
「久保陽子さんのこと、くれぐれもよろしくお願いいたします」
杉村由紀はそればかりを口にしていた。
「向うから手紙を書きますし、電話もかけますけど......」
「心配要りませんよ。笛川先生も保証してくれてますから。重要な血管や筋ははずれているし、回復は早いって......」
田崎にしても、幾度同じことを口にしたかわからない。杉村由紀にしてみれば、自分の身代りになった久保陽子を残して渡米することに罪障感を抱かずにはいられないのであろう。東丈の名代を果さればならぬ義務感との間に杉村由紀は板挟みになってしまっていたのである。
「笛川先生が責任を持つといっちゃってますから、大船に乗った気持でいて下さいよ」
と、河合康夫が独得の無責任さでいった。
「郁姫様を始め、みなさんで寄ってたかって生体エネルギーを注ぎこんでますからね。あっという間に治っちまいます。ほんの掠り傷だって笛川先生も太鼓判を捺してることだし」
「そういうのは太鼓判とはいわないんだ」
「とにかく後顧の憂いなしってことですよ。みんなでガッチリ留守はまもりますからね。こっちのことは気にしないで、全力集中して下さい」
河合康夫はおごそかにいった。
「心配ないです。終りよければ全てよし、ですよ」
その〝終り〟とはいつのことなのか、と思ったが、むろん田崎は口に出さなかった。
「お気をつけて......」
平山圭子はそれしかいえなかった。あまり喋ろうとすると、目が潤んできて収拾のつかないことになるとわかっているからだった。
「大丈夫......」
杉村由紀はさばさばした声音でいい、手荷物を床から持ち上げた。きりっとした男物仕立てのスーツとショートの髪がスチュワーデスのような有能さを感じさせる。国際空港の雑踏がいかにもふさわしかった。
「気軽に行ってくるわね。今は新幹線に乗るのと大差ないんですもの、国際線のジェットだって......去年は五回もアメリカと日本を往復してるのよ。だから、市枝さん、そんな顔しないで」
「すみません......郁江さんからいわれていたんですけど。やっぱりあたしには、アメリカって遠いなって気がしてしまって......」
木村市枝が相変らずの懸命さでいった。
「じゃあね、行ってきます」
杉村由紀は思い切りよく背を向けて歩き去り、税関の仕切りのドアに姿を消した。水際立った容姿であり、そのいさぎよさが強く印象に残った。一度も背後を振り返らない淡白さが、杉村由紀らしさなのだと感じさせた。
「往っちゃったな......」
と、康夫が気落ちした声を出した。
「でも、本当にいいんですかね。一人で往かせてしまうなんて」
「あの人は日本の水が合ってないんじゃないかな」
田崎はゆっくりと首を振った。
「こういう場所で見ると、活きいきしてるよ。水に戻った魚みたいだ。アメリカへ渡ったらもっと元気になるんじゃないか」
そうあってほしいという気持がこめられていて、他の三人の心を打った。杉村由紀は彼らにとって特殊な重い存在であった。
「郁江さんが、休養なんかアメリカでいくらでも取れるから、本人の希望通り、早くアメリカへ行かせてあげなさいっていっていたのは、そのためだったんですか?」
木村市枝が税関の方向から目をそらさずにいった。ひょっとして由紀が戻ってくるのではないかと期待しているようだった。
「まあな。矢頭というヤクザのこともあるからだろう。警察沙汰になるようなことはもう願い下げだよ。久保陽子のことだって、笛川先生がいなかったら危かった......」
「でも、この先どうなるか見当がつきませんね。矢頭というヤクザだって、いつ舞い戻ってくるかわからないんでしょう?」
市枝は殺気立つような緊張感をみるみる高めていった。逆毛を立てるようだった。
「でも、郁江ちゃんはちっとも心配していないようですけど」
と、平山圭子がいった。
「〝光のネットワーク〟だな」
河合康夫がいささかの皮肉もなくいった。
「じゃ、幻魔がぶち当ってくるのは、〝光のネットワーク〟をはずれた一番弱いところってわけですな。さしずめ不肖私めなど恰好の〝幻魔の標的〟ってことになりそうですわ」
「己惚れるなよ。矢頭っていう変質キチガイは美女専門なんだ。お前が女装してみても、ハナも引っ掛けてくれんだろう」
「郁江さんが、自分から囮になって矢頭をおびきだすそうですけど、本当なんですか?」
「と、いってる。本気でやる気らしい。しかし、むずかしいな。命がけのことだし......」
「彼女を護衛して、しかも矢頭の畜生をとっ摑まえる成算はありますか?」
「郁江は大丈夫だといってる。しかし、こっちはそこまで気楽になれん。当然のことだけどな」
田崎はにわかにむっつりとした顔になり、黙りこんだ。改めて重責が心にのしかかってきたのであろう。
「しかし、師匠、矢頭ってヤクザは化物みたいにしぶとい野郎らしいじゃないですか? そんな奴が拳銃でも持って郁姫をつけ狙ったら、いかに腕に憶えがあっても、ちょっとこれは危いですよ」
「そんなことはわかってる」
田崎は苦りきっていった。
「しかし、郁江がどうしてもというんだ。他の会員に犠牲を出さないために、他に方法がないといってる。確かに今度の杉村さんが襲われたケースを見ると、郁江のいうことはもっともだと思える」
「しかし、何か他に道がないですかね......」
「塚田組だって矢頭の行方を捜しているんだ......組としても責任を免れないからな」
「いっそ、警察に頼んだら......?」
と、康夫が思い余ったようにいった。
「そりゃもちろん、警察が東丈先生や会のことを内偵していることはわかってますがね、何もやましいことはないんだし、いっそのこと何もかも公開してやったらいいんじゃないですかね。郁姫なんか図太いから、かえって面白がるかもしれませんよ」
「お前は気楽な男だな。そして今発ったばかりの杉村さんを警察に呼び返させるのか? マスコミがさぞかし大喜びをするだろう。杉村さんや久保陽子が受けた被害を、内々にもみ消したことも問題になるぞ」
「あ、そうか......やっぱり我々の手でやらなきゃならないか......それじゃ、高鳥の手を借りるのはどうですか? 気に食わん奴らしいけど、杉村さんが危いところを助けてくれたし、超能力の方も凄いものを持ってるらしいし......」
「俺は反対だ。そういう意見がないわけじゃないし、郁江自身もオーケーするかもしれないが、俺にはどうも危険すぎるという気がしてならん。どうにも気が進まない......」
「それはまたなぜ......高鳥はそんなに危険な奴ですかね? 厄介者というんならわかりますが」
「高鳥はその厄介者なんだ。安易に力を借りたり、手を組んだりするのは考えものだ。後で思いがけないような大負債になるかもしれん......そんな気がする」
「師匠はちょっと神経質になってるんじゃないすか? 肝心の郁姫がOKしてるなら、何も問題はないと思いますがね......会と塾の合同幹部会で決めることでしょ。光のネットワークも結構だけど、やっぱりあとで後悔しないように万全の策を講じておかないとね......」
「お前は気楽すぎる」
田崎は不機嫌にいった。こんなに不機嫌な田崎は見たこともないほどだった。
「お前には責任がないから、そんな気楽なことがいえるんだ」
「それはひどい。あたしだってこれでも必死に頭を絞ってるんですぜ」
康夫がちょっと顔色を変えて抗議した。無責任呼ばわりされたのが、よほど心外だったのであろう。
「あたしだけじゃない、みんな必死なのは同じだと思いますがね。先生のお留守中に万一のことがあっちゃいけない。そう思ってるのはだれしも同じです。いくらあたしだって、こんな際に無責任にはなれませんよ!」
「ちょっと!」
と、木村市枝が緊迫した声音でさえぎった。
「わたしたち、ずっと見張られているみたいですよ......そういう監視の視線が来てるんです。あまり大声を出さない方がいいんじゃないでしょうか」
「待て。きょろきょろするな」
と、田崎が康夫を制止した。
「知らん顔していればいいんだ。会は内偵されてるんだし、見張りがつくのは当り前のことだ。放っとけばいい」
「しかし、どうも気分が悪いもんですな。こっちは逃げも隠れもしない、正正堂堂たるもんなんだから、まともに事情聴取に来ればいいんだ。内偵ついでに、杉村さんが危い目に遭った時だって、助けてくれりゃいいんですよ!」
康夫は憤懣やる方なくいった。
「何だ、こそこそ尾けまわしやがって! 悪いこともしてないのに、こっちだってだんだん陰惨な気分になってくる」
「後でいい笑い話になる、そう思っておけよ。矢頭というキチガイの脅威に比べたら、ただ見張ってるだけなんだから、実害はないさ。とにかく帰って対策を練ろう。いちいち細かいことに気を立てる暇はない」
「やっぱり明雄を使うのは駄目でしょうか?」
と、木村市枝は諦めきれぬという口ぶりでいった。
「杉村さんのことだって、早く明雄に遠感で見張らせていれば、大事にならなかったような気がして......」
「明雄には荷が重すぎる。それに先生に釘を刺されているんだろう? 早く学校に復帰するのが先だって......」
「でも、まさかの時にはお役に立てないと......いくら子供でも、恩返しはきちんとしなきゃいけないって、わたしきつくいい聞かせているものですから」
「しかし、市べえ、明雄は杉村さんが危い目に遭うのをキャッチできなかったんだろう?」
「そうなんだけど......かえってわたしの方がとても心配になって、田崎さんをあおりたてて......」
市枝は唇を嚙んだ。
「やっぱり向き不向きがあるさ。明雄にはそういうのは向いてないんだろう......かえって市べえの方が勘が働くんじゃないか? 超能力が出てきたみたいだぜ」
「そんな! わたしに超能力があるわけないだろ!」
「しかし、何かあるかもしれないからといって、杉村さんのマンションにどうしても行くと主張したのは市枝だからな。超能力とはいわないまでも、凄い勘の冴えがあるのは確かだ。昼間も矢頭がうろついてるのをちゃんと見とがめているし......郁江の護衛についてみるか?」
と、田崎が思い切ったようにいった。
「ええ。やらせてもらえるなら、わたし精一杯やります!」
「しかし、危い仕事だぞ。まかり間違えば、郁江の道連れになる......」
「わたし、体を張っても郁江さんを護りますよ!」
市枝は烈しい口調でいった。顔面にさっと紅がみなぎり、つややかな白い皮膚を夢のように美しく染めた。
「覚悟はできています。明雄のこと、お願いしますね......明雄だってちゃんとわかっていると思いますけど」
「何も、そこまで思いつめることはないさ」
と、田崎が面食っていった。平山圭子は息をひそめる思いで、市枝の顔を見詰めていた。市枝が口にしたのは、明らかに遺言以外の何物でもなかったからである。市枝は己れの死を覚悟している。何の躊躇もなく、あっさりと死線を超えてしまったのだった。
己れの生命を捨てて、郁江を護り切ること......それは市枝の東丈への最高の忠誠の尽し方なのだと知り、圭子は胸が痛くなった。市枝の比類ない忠良さは、だれにも真似のしようのないものだった。
英語と日本語のアナウンスが間断なく繰り返される国際空港の喧騒の中で、四人の若者は不意に緊張し、急速に迫ってくる未来へ向けて身構えを見せていた。広い出発ビルのホールは、大量の旅客と見送りの人々で、ゆるやかな大渦巻を形成していた。
刻々と変化する掲示板がカタリと変り、杉村由紀の搭乗したパンナム機が出発したことを報らせた。
金属的な爆音とともに、由紀の体は頭上の上空を駆けのぼり、不安な未来のまっただ中へ運び去られてしまう。彼女がどのような困難を迎えることになるのか、平山圭子には想像もつかない。
金属的な味わいが急速に体を浸してくる感覚に、圭子は懸命に堪えようとした。それはしたたかな恐怖の味わいであった。東丈を欠いた会と塾の双方にとって、未来の与える試練はあまりにも荷が重すぎる、そんな気がした。
先生、帰って来て下さい......何百度繰り返したか知れぬ祈りを、今また必死の思いで繰り返す。
全世界が腐蝕に犯され、急激な崩壊に見舞われようとしている今、東丈を欠いた会と塾になにほどのことがなしうるというのだろうか。あまりにもちっぽけすぎ、無力すぎて、巨大な腐蝕をもたらす幻魔にはお笑い草にしかすぎないのではないだろうか......
平山圭子は必死になって光のネットワークに心を集中しようとした。東丈は己れ自身が去っても、光のネットワークは残り、作動し続けると啓示したのかもしれなかった......
白く眩く輝く光球が、天空を駆け抜けて行くイメージがちらと脳裡を掠め去った。
白い光球は蒼穹をきらりと光って銀色の魚のようによじ登って行くDC─8にぴたりと寄り添っている。あれが人間の光の原泉、魂の本質である光球だ、と圭子にはわかる。杉村由紀の搭乗したパンナムのDC─8機を守護している光球なのだ......
一瞬にして掠め去ったイメージであったが、圭子は安心し、体が暖くなり心地よくなってきた。杉村由紀は大丈夫だ、安全にアメリカに到着する、とはっきりわかった。この光のネットワークを信じないのであれば、東丈を信じているとはいえないはずだ。光のネットワークこそ、東丈を最大に証するものではなかったか。
それを人々により深く理解させるために、東丈は去ったのかもしれなかった......
11
一九六八年一月三十一日、井沢郁江は報告のため、東三千子を自宅に訪ねた。約一か月ぶりの訪問だが、実感としては数年の時間が間に横たわっているような気がした。
東家はひっそりとしていて、特別な静謐によって満たされている印象があった。例えは悪いが、喪中の家を訪れたような沈んだ雰囲気であった。
郁江の連れは木村市枝と松岡高志が警護のため同行し、会からは大学生の金沢がついてきていた。金沢は郁江が選抜した助手グループの一員である。いずれも、三千子の前に出ると緊張しきって、声も出ないほどになる。生真面目なタイプが揃ったのだった。
三千子の黒い瞳はあまりにも、盟主の東丈に似ている。男と女の違いはあるが、目だけをクローズアップして見せられたら、見分けがつかないのではないか。東丈の黒瞳は、女性たちが本気で羨しがるほど美しかったからだ。
今日の三千子は黒づくめの服装で現われた。黒ビロードのワンピースは彼女を清楚に美しく見せたが、郁江ははっと胸を突かれる思いがした。黒づくめの三千子は喪服姿そのものに見えたからである。
郁江の報告を、応接間で三千子はやや俯き加減に顔を伏せて聞いた。お河童に切り揃えられた前髪の下で、伏し目勝ちになった黒い瞳はあまりにも神秘的すぎて、郁江を含めて全員の体に微妙な戦慄の波動を走らせた。
三千子は弟の丈の失踪については一言も語らなかった。
「杉村さんがアメリカへ無事にお着きになったと伺ってほっとしました......」
と、彼女はいった。
「お見送りできなくて、とても心残りだったので......杉村さんは大仰な送迎はとてもお嫌いだとのことで、さし控えさせて頂いたのですけれど。安全をずっとお祈りしていました」
「そうなんです。みんなで祈ったんですよ、一生懸命」
と、郁江は明るく弾むような語調でいった。喪中のような沈んだ空気を追い払おうと決心したらしい。
「ニューヨークからオフィスに電話がかかってきたので、わたしも少し話しましたけれど、びっくりするほど元気でした。やっぱり自分にはアメリカの水の方が合うらしいと笑ってました......ここのところしばらく、活力ダウンしてみんな心配していたんですけど、もう元気一杯です。明日、メイン会長に逢うといっていました」
「旅の途中、何か変ったことはなかったのですか?」
「ええ......ロサンゼルスからニューヨークへ向う途中で、ジェットの噴射が急にストップしたんだそうです。それも四基とも全部いっぺんに......」
「まあ......」
三千子は眉をひそめた。
「でも、すぐに回復して無事にニューヨークへ到着したわけですから」
「危かったのですね」
「そうですね。きっとお姉様を初めとして、みんなの祈りが通じたんじゃないでしょうか。〝光のネットワーク〟ですよ」
郁江は恬淡といった。
「割と平気だった、と杉村さんおっしゃってました。使命がある限り、簡単には死ねないんだって悟りの境地に達したからだそうです。もうこの地上世界に用はないってわかるまでは不死身でいるんですって......これまで何度も死んでも不思議のないような目に遭ったことを思い出したんだそうです」
「本当にそうなのかもしれませんね」
と、三千子は遠い目の色になって呟いた。
「使命を終えるまでは死ぬにも死ねない......杉村さんがお元気になられて、本当によかったと思います。やっぱりこれは悟りなのでしょうね、迷いが吹っ切れたのですから」
「もう心配は要らないみたいです。今となるとなぜあの杉村さんが神経を立てて、陥ちこんでいたのかよくわかりません。本当はとても強い方なんですものね」
「あたくしもなんだか肩の荷が降りたような気がいたします。杉村さんのことがずっと気がかりになっていたんです。やはり強い波動にさらされ続けていらしたからでしょうね」
「あ、お姉様もやっぱりそれをお感じになってました!?」
郁江はぱっと目を見開いていった。あどけない微笑が口許に浮ぶ。今日の郁江は特別に愛らしい......木村市枝はそんな感慨をもって見ていた。三千子に逢うと郁江はみるみるうちに変貌してしまうようだ。とろけるように甘美になり可愛くなってしまう。東丈の不在中、代行を果すという気負いが消えるのか、峻厳さの如きものが融けるように失せてしまう。やはり無類に愛らしい郁江の方が市枝は好きだ。
「でも、不思議なことに、波動がどんなに強まって圧倒的になってきても、それに圧し潰されてしまうってことはないんですよね。弾けるような強い力が内部から湧き起ってきて、外圧をはねのけてしまうんです。本当は人間って底知れず強いんだなあって思います。杉村さんは結局、だれの力も借りず自分でもって圧力を押し返して立ち直ったわけでしょう......? 傍で見ているとつらくて、とても見ていられないって気持になりますけど、ぎりぎりの所で踏み留まってみごとに立ち直るのを見ると、人間ってとっても素晴らしいんだなって心の底から思います。先生がわたしたち弟子に教えたいのは、やっぱりこういう人間の底力のことなんだ、傍から無用な手助けをするとかえってその人の可能性を圧し潰してしまうことにもなりかねないんだな......つくづくそう思いました。安易な助力、援助は反対に人を弱くしてしまう......でも、そうはわかっていても、傍で見ているのって、これほど辛いことはありませんよね」
大学生の金沢と松岡は息を詰めるようにして、三千子、郁江の会話に聞き入っていた。事情はよくわからないが、その会話には彼らを緊張させるものがあった。
「すみません、お姉様。この先はちょっと内密を要するので、別室でお聞き願えないでしょうか?」
「そうですね、ではお茶の間で......」
と、三千子は少し躊躇して答えた。
「じゃ、市枝さんもいらして。お願い」
郁江に促されて、木村市枝はうわずった動作で立ち上った。緊張で胸が痛くなってきていた。
「電話で簡単にお話ししましたけど、問題は高鳥慶輔のことなんです」
茶の間の電気炬燵に膝を入れると同時に、郁江は気忙しくいった。
「高鳥はずっと杉村さんに接近を計っていたんです。ですから、今度のヤクザの矢頭が杉村さんを襲ったのを、高鳥が来合わせて助けたというのはどうも偶然とはいえないような気がします。久保陽子が杉村さんの自宅へいきなり来たというのも、物凄く不自然です」
お茶を淹れようとする三千子を制しながら、郁江は一息に話し続けた。
「わたし、高鳥と久保陽子はつながりを持っていると思います。高鳥は、会の中で変に浮き上ってしまい、皆から疎外されて弾き出されたような感じを与えていますけど、それは見せかけだと思うんです。むしろ菌糸を張りめぐらすように、潜行して会員の中に秘密の同志を造り出している。とても奇妙な動き方をしているんです。
今度のことでも、高鳥が特別の意図をもって、杉村さんに接近を計ったのをはっきり感じます。以前に、高鳥はお姉様にも近づこうとしたでしょう? いいえ、考え過ぎじゃありません。高鳥の波動はうさん臭いというより、もっとはっきりしていますから」
郁江は、三千子の先廻りをしていった。
「疑惑とか猜疑心というのと違うんです。もっと明確な波動です。明らかに高鳥の出している波動は反GENKENです。東丈先生の波動を打ち消そうとする、ちょうど逆位相の波動そのものなんです」
「高鳥君は、弟の......丈の果すべき使命を妨害する意図を持っている、そうおっしゃるのですか?」
三千子はゆっくりと慎重な口ぶりで尋ねた。
「何の証拠もありません。でも、わたしには波動でわかってしまうんです。お姉様はわたしが疑惑だけで、証拠もなしに極めつけている、とお思いでしょうけど。わたしは先生がご不在の間、会を護って行かなければならないんです。その責任感のせいか、人の心の動き、出している波動に物凄く敏感になってしまいました......女の勘だといわれれば、それまでですけど。でも、わたしの心の裡には、絶対に間違いなしだという確信があるんです。それは揺ぎのない確信で、証拠も何も必要としません。理屈抜きなんです。お姉様にわかって頂けるかどうか、心配ですけど......」
「郁江さんは、あたくしの心がお見通しのようですわね」
と、三千子はわずかに微笑していった。
「何もかも先廻りされてしまうんですもの。何とお答えしてよいのかしら......」
「ごめんなさい。わたし、だいぶせっかちになってしまったみたいです。急がなきゃ! 急がないと手遅れになる! そんな切迫感がこみあげてきて、居ても立ってもいられないんです。時間がない! 時間がないんだよ! そう繰り返されていた先生のお気持が、今やっと身にしみてわかるようになりました。お留守中、会を護らなければ! そう決心したとたんに、わたし心が張り詰めてしまって......これまでになく人々の出している波動、世界中に放出されている幻魔の暗黒波動に鋭敏になってしまったんです」
「素晴らしいことですわ。今の郁江さんはとても巨きくおなりになっています......ちょうど丈が自覚を深めた時とそっくりです。あたくしなんかもう圧倒されてしまいそう......丈の感じと今の郁江さんの感じは、本当によく似ています」
「それはよく人にいわれるんです。わたしの裡に東丈先生の波動を感じるって......わたしなんかとても及びもつかなくて、先生の代理が充分に務まるとは思えませんけど、お姉様にそういって頂くと何より嬉しいです」
郁江は目をきらきら輝やかせ、身を乗り出していった。
「今日は、ご報告とともにお姉様にお願いがありまして、やって参りました。お姉様に相談相手になって頂きたいんです。相談役といえばいいんでしょうか......先生のご不在が、今後どれだけ続くか見当もつかないんですけど。その間、会をおあずかりするのは、わたしにとっては重責です。でも、杉村さんが渡米された今は、力不足でもわたしがやるしかありません。お姉様のお力を借りてもよろしいでしょうか?」
「あたくしなど、何の力もありませんもの。弟もそれを承知していて、ただあたくしは客観的な目で弟の遣り方を見ていてほしいと頼まれていました。ただそれだけのことなんです。あたくしは弟の丈や郁江さんのような、優れた霊格者ではありませんもの。世間知らずの、平凡すぎるほど平凡な女でしかないんですから......」
三千子は目を伏せた。膝の上で両手の指を固く組み合わせている。そうすることで、じっと堪えている気配があった。
「先生にとって、お姉様は心の支えだったんです。ご自分のなさることを、いつもお姉様に見ていてほしい、お姉様こそ先生の全ての価値基準の大本であって、お姉様が誇りにする人間になることが先生の目的であり望みだった......そうお聞きしたことがあります。わたしにとってもお姉様はそういう存在なんです。心の支えになって頂きたいんです。お聞き届け頂けるでしょうか?」
「弟はもう充分に巨きな存在に成長しました......あたくしの助力などもう必要としないほど。お言葉ですけれども、あたくしのように小さな者が、弟の心の支えなどであってはならないと思います。弟の心にはいつも大いなる存在が......宇宙意識が存在しているべきです。どのような困難に遭っても、自分は大いなる宇宙意識とともにある、という自覚こそが、本当の心の支えではないでしょうか?
弟は小さな時分から姉のあたくしに頼り切りで、依存する癖が深く心に根差していました。それは吹っ切らなければいけないことだし、そうしなさいとあたくしは強く弟に自覚を求めました。そうではないでしょうか? 弟もそれははっきりと自覚したはずです。正月以来、弟とあたくし、一度も逢っておりません。それが弟の自覚の証明だと思っています。姉弟なんだから、という甘えはもう許されないんですね......ですから郁江さんも、東丈の代行者という責任感に目覚めたのなら、心の支えを平凡な人間などに求めるべきではないと思いますのよ。それはおわかりのことではないでしょうか......? 郁江さんはすでに宇宙意識と心を結び合って、人々を導くという大きなお仕事に手を染めておられます。心の支えなどという甘いことばを口になさるべきではない、とあたくし思うんですの。きびしいことを申し上げるようですけれども、弟を見ればおわかりのように、指導者は孤独です。全責任を担うのは自分なんですから。心の支えとは、自分の裡にある宇宙意識との結びつき以外にはない、とあたくし思うんです。これは以前、弟にもいいました。弟はよくわかってくれたと信じています......」
木村市枝が、心臓を縮み上がらせるほど、三千子の言葉は容赦なくシビアーに響いた。黒い瞳は強く張られ、たじろぎを知らなかった。郁江はその黒い瞳を受け止め、不意に激しく瞬きして、目を伏せた。
「すみません......今、自分でお願いしながら、あ、お姉様にきびしくがつんとやられるなって気がしました。わかりながらお願いしてしまうところが、わたしって図々しいのかなって思います。よくわかりました。前言は撤回させて頂きます。他人に依存し、頼っちゃいけないんですよね、たとえ先生であっても......わ、きびしいなって体が引き緊まる思いがしました」
郁江はあっさりとした口ぶりでいった。しかし眸はうるんでいた。
「でも、もし先生がわたしたちに、この感じを悟らせようとして姿を消されたのなら、もう充分目的を果したっていう気がします。わたし、先生から郁江はやりすぎる恐れがあるって釘を刺されていたことを思い出しました。会をギリギリと締め上げてしまうだろうって......もう二度と馬鹿なことはいいません。本当は、わたし自身の遣り過ぎを、お姉様にチェックして頂こうと思ったんですけど、それも結局は甘えだったんですね」
「真の価値基準は、自分自身の心の裡にしか存在しないのですね......」
三千子は呟くようにいった。
「今の郁江さんには、だれよりも弟の気持がよくおわかりなのではないでしょうか?」
「わかります! これはお友達としてのお願いですから聞いて下さい!」
郁江はテーブルの上に身を乗り出し、三千子の両手を摑んだ。
「お姉様、死なないで下さい! 絶対に死んじゃ厭です! わたしはお姉様が大好きなんです。お姉様に万一のことがあったら、と考えると居堪りません! 先生もわたしと同じ気持だと思うんです!」
郁江の突然の激情ぶりに、木村市枝は度胆を抜かれた。それはきわめて郁江らしくない激情の発露といえた。駄々っ子のように三千子の両手を摑み、揺さぶるのだ。クールで淡々とした郁江を見慣れている市枝には、信じがたい光景であった。
12
「お友達としてのお願いです。お姉様に護衛をつけさせて下さい。高鳥や江田四朗のことが気懸りなんです。わたし、先生に代ってお姉様を守らなければなりません!」
「ご心配いただくのはありがたいのですけれども......なぜそのようにお考えになるのですか?」
と、三千子が尋ねた。両手を取られ、揺すられていることには無関心のようであった。
「あたくしが死ぬなどと、どなたからお聞きになったのですか?」
「いいえ。でも、前から感じていたんです。先生がどんなに心を痛められているかもわかっていました。そのことに関しては、だれとも話し合ったことはありません。杉村さんからお聞きしたわけじゃないんです......」
「あたくし、一度だけ杉村さんにそのことをお話したことがあります。でも杉村さんに聞かれたのではないとすると......自然にわかってしまったということでしょうか?」
「ええ。先生のお気持がわかるようになった時からです」
と、郁江が認める。木村市枝は息を吞んで二人の遣り取りに聞き入っていた。白熱したものが立ちこめる心地であった。郁江は己れが霊格者として目覚めたことを、はっきりと自認したのである。箱根セミナーで何が起こったか一部始終は塾生の参加者に聞かされている。
市枝は全身の皮膚が鋭い緊張感で引き緊まって行くのを覚えていた。郁江はどうやら霊格者として容易ならぬことを口にしているようであった。
「箱根のセミナーで何が起きたか、田崎さんから電話で報らせて頂きました」
と、三千子は落着いていった。
「転生輪廻の証明がなされたそうで、とても素晴らしいことだと思います。郁江さんがなぜ郁姫様と呼ばれるかわかったと田崎さん、おっしゃっていました。ずっと昔、郁江さんは大霊能者として有名な王女様で、お巫女さんだったのですね......」
「だって、三万年以上も前のことなんですよ。ムウ大陸なんていっても、今の人にはろくにわかりもしないでしょう? そんな大昔に王女だったなんていっても古すぎますよ」
「転生輪廻の証明がなされたことは画期的です。それがどんなに素晴らしい意識革命になるかわかって行くのは、これからではないでしょうか? キリスト教でいうような、〝永遠の生命〟の意味がにわかに具体的になって、だれにも納得できる裏付けが出来たのですものね。仏教で転生輪廻といっても、悪いことをすれば地獄に落ちたり動物や虫けらに生れ替ったりするという、現代人にはあまりピンと来ない迷信的ないかがわしさを感じさせますでしょう......? でも、そうではなくて、人間は魂をもってさまざまな時代、さまざまな人種、民族、国民に生れ変って行き、しかもその記憶は何一つ喪われていない......その画期的な事実を、郁江さんたちはみごとに証明されたのですもの。〝永遠の生命〟とは、霊としての人間、転生輪廻して行く真の本質としての魂だと証明されたんです。
これを知れば、大部分の人間の死生感は一変してしまいます。人間とはこの肉体だけの存在ではない、肉体が滅びても、不滅の魂は永遠の生命として生き続けて行くのだ、と本当にわかったら、どんなに素晴らしいでしょう......もしそれが本当にわかれば、人間は死ぬことなんか少しも怖くなくなってしまいます。だって、人間は真の意味で死ぬことなど決してないのですもの......ですから、郁江さんたちが証明なさったことは、限りある生命という物質観の中で、死に怯えたり煩悩や執着に苦しんでいる人々にとって、本当の救済になるはずですわ。だって人間は永遠不滅の存在であり、肉体という乗り物を次々に替えては永遠の時を旅して行くのだという事実が〝転生輪廻の証明〟によって解き明されたのですから......」
物静かな三千子がいつになく熱情をこめて語っていた。
「郁江さんは立派に丈の代理を務めていられます。それ以上のことをなさっていると思います。大きな霊格者として、人々に魂の真実を解き明して行かれることが、郁江さんの使命なのではないでしょうか? あたくしも人伝てにですけれども、郁江さんのなさったことを聞き、とても納得できましたし、救済を肌身で感じたんですのよ。もう恐れることは何もないのだ、とはっきりと確信が湧きました。生死一如と昔からいいますけれども、真実だと思います。この物質世界、この物質的肉体、これらは仮相のものなんです。恒常ではなくて無常です。刻一刻と移り変り、変化して行きます。永遠不滅の物質的存在は何一つありません。この肉体も一秒前と一秒後では違っています。古い細胞が死滅し、新しい細胞が誕生しています。人間の体って宇宙とサイズこそ違え、そっくりです。人間こそ宇宙のヒナ型といえるのかもしれません......
絶えず新しい星々が誕生し、古い星々が死んで滅びて行くのと同じことが、人間の体にも起きているんです。人間が肉体の死をいつか迎えることが避けられないように、この大宇宙もいつか滅びの時を迎えることがあるのかもしれません。でも、小宇宙である人間が不滅であるように、大宇宙も不滅なんです。だって、大宇宙は神の肉体、大宇宙意識の肉体なのですから......」
三千子は迸るように語った。裡にたぎる熱い想いを言葉にしてつむぎ出すことに大きな歓びを覚えているように、三千子の貌は紅潮し、童女のそれのように純粋な喜びの表情を湛えていた。木村市枝は掌中に汗を握りしめる心地で、三千子の熱した言葉に聞き入っていた。
「あたくし、郁江さんに心から感謝しているんですのよ。心の奥で吹っ切れたものがあるんです。やっぱりそうだった、転生輪廻って真実だったんだな......そう思った時、心の底から安心したんですの。もう何も惧れることはないんだって......もう自分は物質的なしがらみや拘束によって何一つ縛られる必要はないのだとしんそこ確信しました。
人間の運命や宿命は、他律的な、何かわけのわからない他の存在、他の意志から押しつけられ、束縛されてしまって、人間は逃れようがない......そんな考えは間違っている! そう確信したんです。まるで大それた悟りを開きでもしたように思い上っている、と人様の誤解を受けそうですけれども、本当にそうはっきりと確信してしまったんですの。不思議ですわね......人間の運命とは己れの使命によって定められている、と心の底から得心できたのです。己れの使命を力いっぱい果すならば、人間は何一つ惧れることなどありはしないのです。
ですから、肉体の死など問題ではありません。本当の自分、本質である魂に戻るだけですもの......箱根での夜、十名の人々が丈とともに見た、素晴らしい光球、永遠不滅の光の意識に、使命を果して立ち返るだけのことなんです。肉体の死は自分が滅びて、どこにもいなくなってしまうことではなく、真の実在の光に戻ることだ......それが人間全てに理解できたら、世界の歴史はその瞬間変ります。尽きざる闘争と破壊の歴史に終止符が打たれることに必ずなります......
あたくしにとっては、肉体の死とはもはや恐ろしいものでも何でもなく、むしろ心弾む愉しい期待に変ってしまっているかもしれないんです。務めを果たしたという安堵の瞬間かも......ですから、郁江さんのなさった〝転生輪廻の証明〟は、世界中の苦しんでいる人々にとって最大最高の福音になると思います。もう人間は互いに憎しみあうことも争い合うこともない......全ての人間は偉大な光の魂なのですから。肉体を持つ人間は、光の魂の〝物質的表現〟に過ぎません。人種や民族や国民......そんなものは物質にすぎず、光の意識は最初から超越して存在します。
この宇宙的真実を知れば、黒人と白人が人種的憎悪によって確執を構える必要など少しもありません。だって魂は必要に応じて衣服をまとうように、〝肉体という衣〟をまとい使命を果して行くのですから......用がすめば、〝肉体の衣〟は脱ぎ捨てて、本来の魂の自分に戻るだけのことです。今は白人の肉体を持っていても、その前は黒人であったかもしれないし、その逆も当然ありえます。民族や国民にしたって同じことです。今はアラブ人でも転生の過程ではユダヤ人であったかもしれません。民族や宗教は、人間が勝手に造り出したものですもの。大いなる宇宙意識を、宗教的な枠にあてはめて、イスラム教の神アラーとかユダヤ教の神エホヴァと呼んでいるだけでしょう......しかもそれは人間の肉体意識によって勝手に歪められた、怒りの神であったり嫉みの神であったりするんですね。人間たちに恐ろしい呪いをかけたり、破滅をもたらす神とは、大宇宙意識とは何の関りもない、それは幻魔の化けた神だということに、歴史的呪縛を受けた人々は気付かなくなっているんです......
ルナ王女や丈が遭遇した大いなる宇宙意識フロイこそ、真の意味で神と呼ぶべき偉大な存在です。何億年もの間、人類を見守り、絶えず救いの手を差し伸べてきた、大いなる魂の父というべき神です。郁江さんたちは、その偉大な父の教えを世界中の人々に伝え、福音をもたらして行く使命を持たれた方々なんです......田崎さんからお聞きした時、ああこれでいい......そう思いました。自分は救われたって、幸せな思いがこみあげてきましたの。郁江さんや丈が語ったことは、その場に居合わせなかった沢山の人々の心に、やがては届いて行くんだな......そして人々の心に法の慈雨となってしみこみ、いつしか物質的呪縛から切り離して、真の魂の自由をもたらして行くのだな......心からそう納得できましたの」
三千子は逆に郁江の手を握り返し、情熱をこめて語りかけた。
「ですから、もう何も心配なさらないで......肉体の死を気にするなど、郁江さんのなさるべきことではないはずですもの。肉体という物質的な枷に捉われてはいけない、と人々に説くことこそ、郁江さんのなすべき大業ではないでしょうか......? 別に肉体を粗略に扱っても構わないといっているわけではないんです。でも、人々が肉体という物質的呪縛にあまりにも捉われているのは事実なのですから、それを切り離すことは絶対に必要だし、大至急なされねばならないと思います。
この物質的肉体があるからこそ、人間は沢山の執着を造り出してしまうのではないでしょうか。この肉体が全てなんだと信じこんでしまえば、病気や老年の苦しみ、死の恐怖に絶えず悩まされてしまいます。肉体が病めば、痛い、苦しい、それだけになってしまうし、反対に五体健全なら、あらゆる肉体的欲望の虜になってしまう......肉体って本当に始末が悪いですわね。自分の肉体に執われてしまえば、わが身安楽に、ということしか考えられなくなってしまうのですから。
自分の肉体が滅びて、自分がどこにも存在しなくなってしまうのが恐ろしい......その物質的な呪縛がしっかりかかっている限り、幻魔はあまりにも恐ろしすぎ、強力すぎる敵で、一堪りもなくやられてしまう......多くの人々はそう感じると思います。大災害が人類の上に襲いかかってきたら、物質的な死生観に支配されている人間たちは堪えることができないはずです。自分だけは生き延びよう、他人を見殺しにし、足蹴にしても生きようとする人間たちは、幻魔にとって弱敵どころか、好餌というべきではないでしょうか。
今後、巨大な災害が地球全土を覆うはずです。各地で人類は大量死して行くことになると思います。だからこそ、皆さんが解明した魂の真実はこの上なく重要なものになって行くと思うのです。肉体の死を恐れることはないのだと本当に知った人間はとても強くなります。人間を臆病にし、卑怯にするのは肉体的な恐怖であり死の恐怖です。
皆さんの解き明す宇宙的真実は、人々を死の恐怖から解放して行きます。物質的呪縛を断ち切って、真の魂の自由をもたらすのですから......もう恐ろしいものは何もない、と人類は気付くはずです。人間は弱い肉体ではなく、強い魂として存在する......一人一人不滅の光として、大いなる根源の光、宇宙意識とともに存在する。人々がその自覚に目覚めた時、幻魔など何もできなくなってしまう。あたくしそれを確信したんですの。郁江さんたちのなさった〝転生輪廻の証明〟のおかげです。もうこれ以上、あたくしたちは何も恐れることはないし、心配することもありません。そうじゃないでしょうか......?」
「お姉様のお話を聞くと、胸のへんがとても熱くなってきます。やらなくちゃ! よし、やるぞ! そんな意欲が湧いてくるんです。まるで進軍ラッパが鳴り響いているみたいです」
郁江は紅潮した顔をしていた。微笑は泣き笑いのようだ。木村市枝は郁江のこんな顔を想像したこともなかった。
「でも、やっぱり死なないで下さい。死んじゃ厭です。一度肉体を与えられたからには、精一杯頑張って生きる義務と責任があると思うんです。そうじゃないでしょうか? やっぱり人間はぽっと地上に出て、肉体を持つだけじゃないと思うんです。一生懸命、生きて生きて生き抜かなくちゃ! わたし、やっぱり癌であのまま死んでいたら、物凄く後悔したと思います! 肉体のあらん限り、人間はやるべきことがあるんですよ! それは、肉体が仮相で本質的なものでないということと少しも矛盾しません! 魂には肉体を持たなければ決して出来ないこと、不可能なことがあると思うんですよ! それは限りある物質的肉体という制約の中で、力一杯頑張って生き抜くこと、己れの可能性を精一杯試すことですよ! それをやらないと、魂は成長できないんです! もう死ぬなんてことは心から追い払ってしまって、わたしたちといっしょに手を取り合って生きましょう! そうでないと、あまりにも悲しいですよ! 自分が死ぬのをじっと待っているなんて、自覚した人間のやることじゃないはずです! そうじゃないですか、お姉様!?」
郁江の情熱の発露は、白熱し、圧倒的であった。木村市枝はただ息を吞んで見守るほかはなかった。
「お姉様は、東丈先生を親代りとしてお育てになって、先生は立派に救世主として目覚められた......それでお姉様はもうご自分の使命を果たされたと思ってらっしゃるのかもしれません! でもそうじゃないんですよ、お姉様! お姉様はもっと偉大な使命を持たれた大きな魂なんです、わたしにはそれがはっきりわかります! 役目を果したからには、もうご自分の命は終るなんてお考えになったら大間違いです! お姉様は大きな力をお持ちだし、その力は、わたしたちにとっても、世界中の人々にとっても必要なものなんです! もしお姉様の力が欠けたら、先生はご自身の使命が果せないのかもしれないんですよ! お願いですから、もっと力強く積極的に生きられて下さい。肉体を去る日のことばかり考えて、こんな所でひっそりと生きるなんて絶対に間違ってます! 神様から大きな力を与えられたお姉様が、その力を無駄にするなんて、罪です! お姉様はもっと力一杯生き抜かなくちゃ! それが大いなる宇宙意識の意志ですよ! もうご自分の使命は終ったなんて考えたら駄目ですからね!」
「驚きました......郁江さんは本当に素晴らしい迫力を持っていらっしゃるのね」
と、三千子はいった。しかし、郁江の鋭鋒をはぐらかすといういい方ではなかった。蒼白い頰に血の色が差してきていた。
「やっぱり人が死んで行くって、悲しいことですものね......魂が不滅だとわかっていても、不要になった衣を脱ぐように肉体を脱ぎ捨てて行くのだとわかっていても、愛する人、親しい人と離別して別の世界へ去って行くというのは、とても辛いことですわね......」
「わたしたちといっしょに手をとり合って進んで行きましょう! 一夜明けたら物凄い嵐が地球全土に荒れ狂うことになるはずです。だから、結んだ手を放したら駄目なんです! わたし、お姉様が世捨人みたいにここのお家でひっそり暮していらっしゃるのがとても厭なんです。お姉様は貴重な人材です。大きな才能を持たれることは、それだけ使命も大きいってことなんですもの! 先生がご不在の今は、見栄も外聞もありません。なりふり構わず死物狂いでやらなくちゃ!」
「でもね、郁江さん......あたくしはとても平凡な女ですし、特別の能力など何もないんです。郁江さんのように素晴らしい霊格者といっしょにはなりませんもの。それこそ郁江さんはあたくしを買い被っていらっしゃるのではないでしょうか......? あたくしはただ東丈の姉というだけですもの」
「お姉様、聞いて下さい」
と、木村市枝は衝動的にいった、三千子と郁江の視線を集めて、市枝は白い肌をルビーの赤に染めた。
「あたしには何もありません。学歴もないし頭もよくないし、何の能もない女です。先生のために、何か一つでもいい、自分に出来ることを精一杯やりたい、それだけが念願なんです。郁江さんのように素晴らしい力も、頭も持っていないから、人々に先生の教えを伝えることもできません......本当にあたしには何にもないんです。それが悲しいし、辛いんです......精々お掃除とか使い走り程度しか出来ません。辛くて夜も眠れません......でも、お姉様は先生を育てた方です。人々を感動させ、自覚させる力をお持ちのはずです。それは郁江さんが何度もいっている通りだと思います。でも、お姉様のように優れた方がなぜご自分の素晴らしい説得力や影響力を使わずに、もう使命を果したとばかり思いこんでおられるのか、あたしにはわかりません......あたしのような無能な女には、それがどうしてもわかりません! お姉様がご自分を無能力で何も出来ないといわれるのなら、あたしのような人間はどうしたらいいんでしょうか!? 早く死んでしまった方がいいんでしょうか!?
あたしには納得できません。あたしのように能力のない人間にも、何か出来るはずだ、そう思ってあたし、必死に生きています。それなのにお姉様はなぜ、優れた力で先生を扶けて差し上げないんですか!? あたしにはわかりません! とうてい理解できません......どうか教えて下さい、お姉様。あたしのように無能な人間はどうすればいいのですか!?」
無口な木村市枝が立て続けに喋り、留まることを知らぬ勢いであった。あらん限りの懊悩、悲しみを訴える、血を吐くような叫びであった。三千子と郁江は雷に打たれたように息を停め、市枝を見詰めていた。衝撃の色はもとより三千子に深いものがあった。悔恨で彼女は蒼白くなった。
「あたくしが悪うございました......お許し下さいね、市枝さん。あたくしのいい方、とても無神経で間違っていたと思います。お気に障ったら許して下さい。誤解を招くようないい方をうっかりしてしまって......あたくし愚かでした」
三千子は深々と首を垂れて詫びた。
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「あたくしのいい方、とても自己卑下しているようで、その癖、物凄く傲慢でした。市枝さんにそれを指摘されて、思い切り鞭打たれたような心地がしました......決して超能力を持たないことを卑下したり、あたくしと同じような人々のことをおとしめるつもりはなかったんです。無能力だから駄目で、超能力を持っているから優れているなんて、決して思っていません......どうかそれだけはわかって下さい」
三千子は珍しくしどろもどろになって謝罪に努めた。
「あたくしって何て愚かなんでしょう! 市枝さんの心を傷つけてしまうなんて、考えもしなかったんです。あたくし、丈が自覚してから、それに反比例するように、心の中がカラッポになってきてしまって、もう自分は役割を終えたのだな......そう感じていたんですのよ。弟を親代りとして育てることに全力を傾けて生きて来ましたから、不意に目標を見失ってしまって、心にポッカリと孔があいてしまったのでしょうか......もうこれでいい、弟に教えることは何もないし、後は沢山の優れた助力者たちが弟に力をかして下さるだろう。用はすんだ、務めは果した......心の底からそういう思いが湧き上ってくるんですの。
ですから、正直に申し上げますと、皆さんといっしょにやって行くという気持は毛頭なくて、もう老兵は戦場を去るのみ......そんな気持しかありませんでした」
「老兵って、お姉様はまだこんなにお若いのに!」
と、木村市枝が叫ぶようにいった。
「こんなにお若くてお元気でおきれいなのに! なぜそんな悲しいことばかりおっしゃるのですか!?」
郁江が抑える身振りをして、市枝は口をつぐんだ。目が真赤になり、体を慄わせていった。
「昔からずっと、そんな予感がしていたのです。弟が巣立ったら自分は去ることになるのだって......でも、もちろん、弟がこんなに若くて自覚し、巣立つことになるとは夢にも思いませんでした。正直に申し上げると、あたくしは体も弱いし、いつも気力で保たせていたような気がします。弟が一人前になるまでは石にかじりついても......いつもその思いだけで自分に鞭打って生きて参りました。弟は何も知りませんけれども、過労のために幾度心臓に異常を感じたかわかりません。それでも、一念でここまでやってこられたと思っています......もう精も根も尽き果てた......そんな心地です。もうこれでいい......丈はもう大丈夫ですし、もう一人の弟の卓もしっかりした堅実な性格ですから、あたくしがいなくても何とかやって行ける、そう思ってしまったんですね」
「知りませんでした! お姉様がそんなにご無理を重ねていらしたなんて......心臓がお悪いなんて何にも知らなかったんです! わけもわからずに乱暴なことをいってしまって、申しわけありません!」
木村市枝は双眸から溢れ出した泪を両手の手指で払いのけた。泣くことに関してはあくまでも無器用な娘であった。
「でも、お願いです! もう用ずみだなんて悲しいことはおっしゃらないで下さい! そんなはずは絶対にないんです! 先生はもちろん、あたしたちもお姉様を必要としています! お姉様に相談に乗って頂いたり、助言をして頂きたいんです。杉村さんが渡米された後は、みんな若くて未経験で、助言者はどうしても必要なんです。郁江さんたちは素晴らしい才能を持っていますけど、それでも経験を積んだ年長者の忠告や助言は必要としているはずです。そのことは先生ご自身でもおっしゃっていました......あたしたち、お姉様のお力を必要としているんです! どうかそのお力をあたしたちにかして下さい! 先生はいつお帰りになるかわかりません。それまでみんなであらん限りの力を結集して、総力を挙げて頑張って行かなくちゃならない......お姉様のお力はどうしても必要なんです! あたしたちを扶けて下さい!」
口下手な市枝が火花を散らす迫力を見せて、三千子に詰め寄っていた。それは目覚ましいばかりの光景であった。
「お姉様のお体がそんなに弱っていられたとは少しも知りませんでした」
郁江が後を受けていった。
「駄目ですね......やっぱりそこまで気が行き届かない、気が廻らないんです。配慮も足りないし、思い遣りも不足しています。お姉様がとてもお疲れになって消耗していらっしゃると感じてはいても、そこでストップしてしまうんです。目先のことばかりに気持が行って、ついそればかりにかまけてしまって......
でも、わたしたちお姉様に光を注入してたちまちお元気にして差し上げます! その点に関しては大船に乗ったつもりでいらして下さい! 平山圭子ちゃんのお父様も、みんなの〝光のネットワーク〟で、若返って活力もりもりになってしまったんですよ。やっぱり心臓が悪かったんですって! ですから、お姉様も大丈夫です。〝光のネットワーク〟を信頼して下さい。ほら、さっきから生体エネルギーを送っているんですよ! だいぶ体の調子が違ってきたでしょう!?」
「ええ、本当に......」
三千子の顔に赤みが差してきていた。体中が暖くなっている。その熱は、しっかりと三千子の手を握っている郁江の可愛い暖い手から流入してきていた。
「〝光のネットワーク〟って凄い力があるんですよ。癌も心臓病も何でも完全に治してしまう。それだけじゃなくて、無限の力があるような気がします。やっぱり大宇宙意識の力そのものなんじゃないでしょうか......造物主の力ですから、物質を消滅させ、創造することも自由にできます。イエス様が不治の難病を一瞬で治したり死人を生き返らせたりしたのは、〝光のネットワーク〟の力だったのじゃないかって思います。
先生はこの〝光のネットワーク〟は幻魔を退ける唯一の力だとおっしゃいました。悪を地上から消滅させる力だって......幻魔をすら浄化し救済する力なんだって、先生のおっしゃっている言葉が聞こえてきます」
三千子の体は火照り、汗ばんできた。体中に巣食った鈍い冷えきった不快感、油切れのぎごちない感覚がきれいに消え失せて行ってしまう。体細胞が若々しい活力を回復し、かぐわしい芳香を放ち始めたのが、鋭敏化した嗅覚によって感知できた。身近にある郁江の体から漂ってくる香気と同質のものだ。郁江は人工的な香水などとは全く異る、素晴らしい甘美な芳香を全身で放っていた。郁江は全ての要素をもって、人を魅する波動を放出しているのだった。三千子の鈍く油切れしたような嗅覚ではそれまでわからなかった香りであった。
「ね、市枝さんわかる? 素晴らしい匂いでしょ?」
と、郁江がいい、自ら握りしめた三千子の手を掲げてみせた。木村市枝は体を前に乗り出し、目をまるくした。
「ほんと......でも、香水じゃないみたい」
市枝は鼻孔をぴくつかせ、うっとりした貌になった。
「香水なら、もっとツンと来るのに......お部屋中が香ってきたんじゃない?」
「〝光のネットワーク〟が物質化現象を起こしたんじゃないかな? でも、今までこんなこといっぺんもなかったわね。お姉様の体に光が入ったとたん、芳香が漂ってきたのよ。信じられないみたい......香水会社の人が嗅いだら目の色が変るわね、きっと。でも、物質的な香水には絶対に無理よ、この芳香は......これはきっと天上界の匂いだもの。地上の香りじゃないわ。お姉様の魂が放っている芳香だと思う。市枝さん、そう思わない?」
「思う! 絶対そう思うわ! お姉様の魂の香りだなって、今あたしもそう思った!」
市枝が興奮しきった声音を出した。
「郁江さんの匂いだと思ってましたけど」
と、三千子が戸惑っていった。天上の芳香はますます強く香り、恍惚感に誘いこもうとしていた。
「違いますよ! これは絶対奇蹟です。〝光のネットワーク〟の奇蹟なんです! でも、こういう美しいきれいな奇蹟っていいな......そう思いませんか?」
郁江が力をこめていった。さながら天界に遊ぶ強い幸福感と満足感が三人をとらえていた。
「宇宙意識のメッセージです、きっと!」
郁江のいう通りなのかもしれない、と三千子は思った。素直に受容する気持になっていた。突拍子もなさすぎて、一般的には思いこみの強さとして片付けられてしまうにせよ、いま生じている現象は、浄らかで美しく、好もしいものであった。
「お姉様にはまだなすべきことが沢山おありなんです!」
郁江は勢いこんでいった。
「まだまだ決して使命を果した、さようなら、なんてことはありっこないんです。この天上の香りは宇宙意識からのメッセージで、お姉様にそれを知らせようとしているんです。これは絶対に間違いありません! だって、考えてみれば、自分の使命をしっかり果して帰る人間は、とても幸せなはずだし、気が滅入ったり淋しくなったりしないと思うんです。力いっぱいやったという満足感にみたされているんじゃないでしょうか? お姉様の使命はまだこれからですよ! この天上の香りでお元気になられて下さい!」
「そうですね。郁江さんのいうことはわかります。その通りなのかもしれません......」
三千子は胸中が明るく澄んでくるのを感じた。顔がおのずと晴れてくるようであった。
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井沢郁江の報告は詳細をきわめ、長きにわたった。語り続けて、二時間、三時間と瞬く間に過ぎ去って行った。傍聴している木村市枝は、わずか一か月間のうちにあまりにも比重の大きな時間がぎっしり詰めこまれていることに驚嘆の念を禁じえなかった。
まさに数年間分に匹敵する密度で、多くの出来事がひしめきあっており、市枝自身初耳のことが多く存在した。郁江が大峰山脈で、丈とともに経験した奇蹟は、市枝のみならず三千子にすら大きな衝撃をもたらすものであった。
むろん、それだけではなく、郁江が不思議な的確さで、東丈を中心に生じている波動の全体像を把握しているあり方は、人間の分析能力、演繹能力を超越したもので、郁江が巨きな霊格者であることを証して、二人に息を吞ませた。
一片の手掛りで、全貌を推察する。いや、推察という言葉はあたらない。おのずと郁江には全貌が見えてしまうらしいのである。
「あたし自身、不思議なんですけど、たとえばトップ屋のとてもしつこい風間という人がいます。その人の顔を見、声を聞くと、そのトップ屋さんがどんな記事を書くか、瞬間的にわかってしまうんです。トップ屋さんがその時点でどのような内容の記事を書こうかと思量しているかがわかるだけじゃありません。実際にどんな記事となって出てくるか、ぱっと波動でわかってしまいます。週刊誌の記事を読もうとすれば読めるかもしれません......パッと瞬間的にイメージがやってくるんです。他のマスコミもいっしょです。全体像が透けて見えます。こんなことをいうと気違いじみていて気が引けるんですけど、自分では絶対間違いないって確信しているんです。こんなことを人に喋ったのは今、お姉様に対して初めてですけど。
おわかりになりますか、こんないい方で......現在こういう波動が巡っているなら、必ずこういう結果になって現実化する。それが物凄い早さで、一瞬にしてわかってしまうんです。もしかしたら、先生も同じような感覚をお持ちだったんじゃないかなって思います。後になると、本当なのかしらって疑わしくなってきたりしますけど、その時は絶対間違いないとわかっているんです。とても非合理な確信です。他人の心が放っている波動も、一瞬間でわかります。相手が次にこういうことを考えるなってあらかじめ、ぴんと来てしまうんです」
「さっき郁江さんは、あたくしが考えることを先廻りしてみんないい当ててしまいましたわね」
三千子は苦笑とともにいった。
「みんな先廻りされてしまって......実際にはまだ考えていないうちに、郁江さんにはわかってしまうのですの?」
「たとえばコンピュータに沢山データを入れて、未来予測をするという感じじゃないんです。シミュレーションで、どういう動き方をするか見るというんじゃありません。ただ、わかってしまうという以外にいいようがありません」
「素晴らしい力ですわね。単なる霊能とはいえないような気がします。郁江さんがご自分の使命を果すために、与えられた力なのでしょうね。その力で、今、丈の身に何が起こっているか、アメリカでルナ王女たちに何が始まっているか、郁江さんにはおわかりじゃないのですか?」
木村市枝は烈しく緊張して、郁江の答を待ち受けた。郁江はやや動揺し、躊躇しているようであった。三千子の問いがあまりにも直接、核心に触れたからであろう。
「漠然とわかります。でも、こういうことはあまり口外したくないんです。考えたくないといった方がいいかもしれません......」
「それを知るのが恐いということですの?」
「そう......そういわれてみると、その通りなのかもしれない......そんな気がします」
郁江は珍しくいい淀んだ。
「確かに知りたくないんですね。世界の動向があらかじめ全部わかってしまうとしたら......やっぱり恐ろしいことだと思うんです」
「知らずにいた方がいい......?」
「先生なら、ひたと見据えるだけの勇気をお持ちかもしれません。でも、わたしは駄目です。もし未来の全貌が見えてしまったら、敢然と立ち向う勇気どころか、心が萎えてしまうかもしれません。だから見てしまいたくないのだと思います」
郁江は正直だ、と三千子は思った。郁江は不吉な女予言者カサンドラに全く向いていない。それは必ずしも、批判を伴った気分ではなかった。郁江に勇気が欠けていることを責めるつもりはない。人間には、正視するに堪えぬ未来というものがある。その重さに堪えるのは、やはり救世主の重責を担った者だけかもしれなかった。
「ですから、なるたけ見ないようにしているんです。もし全部見えてしまうようだったら、そんな力は恐ろしすぎます。わたしって狡いでしょうか? やはりどんなに物凄い絶望的な未来であっても、勇気を奮い起して正視するべきでしょうか?」
「郁江さんに、もしそうするだけの力がおありだとしたら、それを用いる役目があるということかもしれませんけど......」
三千子の口ぶりは曖昧にならざるを得なかった。彼女の視野に時折現われる、凄惨な廃墟の光景が、必然であり不可避の未来だとしたら......それを冷徹に見据えることが可能な者がどこにいるだろうと思った。それは生命の痕跡も残らぬ死せる惑星と化した地球の姿だったからである。
「もし、どうしても、ということだったら、無理やりにでも宇宙意識によって、未来を見せられてしまうと思うんです。ですからわたし、あまり気にしません。自分から視ようとしないことに決めたんです。やっぱり明るい光で心の中を満たしておいた方がいいでしょう?」
郁江の語調は弾力と明るさを取り戻した。
「世界は必ず善い方向へ向うし、今も向いつつあるんだ、とわたし思うことにしたんです。そういう望ましい未来を現出させる能力が人間にはあると信じてます......信じなければ、努力なんかする意味がありません。人間の意志的な努力はそれに応じた未来を引き寄せる、そうした巨大な力があるとわたし信じることにしたんです。わたしがそのためになすべきことは、〝光のネットワーク〟の増大しかない。そのために、全ての念力を集中して行こうと決心したんです。甘いといわれるかもしれませんけどね。暗い不吉な未来から目をそらしてしまう、勇気のない人間になにが出来るかといわれそうですけど......わたしはあまり不吉な恐ろしい警告者に向いていないタイプと自分で思いますから」
「郁江さんのその選択は正しいのかもしれません......あまりにも恐ろしい未来を知ってしまうことは、人々を絶望的にさせ、虚無的にさせてしまうかもしれませんし......」
三千子は喋りながら、それが真実なのではないかと感じた。自分の行動力を殺ぎ、自己限定させてしまったのは、あの繰り返し現われる廃墟のイメージだったのかもしれないのだ。むろん、それだけではないかもしれないが、丈の活動に己れを参加させることを阻むものが心に存在し、それが廃墟のイメージと無関係であるとはいいきれないものがあるように思えた。
〝破滅〟が不可避であるとわかってしまった人間に何がなしうるだろう。それでも絶望的な努力を続けることが人間に出来るだろうか。それが不可避の運命だと信じれば、全ての力は奪い去られてしまうだろう。
郁江の選択は正しい。望ましい明るい未来を自らの意志で引き寄せようと努力する以外に、残された道はない。〝廃墟〟を否定すべく努める以外にないのだ。
にわかに豁然と胸が展け、呼吸が楽になる心地を三千子は味わった。同時に三千子の貌は透明な明るさを湛えた。己れの胸郭を捉えがっちりと搾めあげていた鉄の鉤爪がわずかに圧力を減じ、息することを許した感覚であった。そのわずかな圧力の変化が、三千子にはこれまでにない解放感を与えた。
人間の心は不思議なものだ。弟の丈が不審な失踪を遂げ、憂色に閉されていなければならない時に、こんな解放感で気分が高揚してくるなんて、信じがたいことだった。
郁江は特殊な影響力の持主であり、それを三千子に対して及ぼしたのかもしれない。それにしても、三千子を息もつけないほどきつく縛り上げていた桎梏が、苦もなくはずれてしまったことは驚異であった。もの心ついてから間断なく感じ続けていた圧迫感が、にわかに緩んでしまったのだ。
「あたくし......今郁江さんのおっしゃったことでフワッと体が浮き上るような感じがしました。全ては善くなる......そうなんですね。人間はそう信じなければいけないんですわね。それは宇宙意志を信じることですもの。体中に光が入ったように明るくなりました。人間は絶対に暗い悲観的な未来を信じちゃいけないんです。なぜって、想念の力は必ず物質化して行くものですから、多くの人々が、未来に暗い破滅の光景しか見なかったら、厖大な破滅への潮流を造り出していってしまうと思うんです。
郁江さんのお考えは間違っていません。あたくし、こんな明るい気持で未来に目を向けられるのは初めてです。郁江さんのおかげですわ」
「お姉様、いっしょにやりましょう? 一族の首長がいない時には、女たちが代りにやらなければならないんですから! わたしたち、先生に対してとても責任があると思うんですよ?」
三千子が頷くのを見て、郁江と木村市枝は期せずして歓声をあげずにはいられなかった。三千子は遂に己れの殻の中から出てくることを意志表明したのである。
郁江は凄い! と市枝は叫び出しそうになった。歓喜とともに泪ぐましい感情がこみあげて、目を抑えずにいられなかった。郁江はいとも簡単に、魔法をかけるように三千子を動かしてしまったのだ。もしかすると先生にもできなかったことを、郁江はあっさりとやってのけてしまったのかもしれない、と市枝はめくるめく思いで考えた。
不可解で強固な己れの殻の中に閉じこもっている姉の三千子に対して、丈は引っ張り出すことはおろか、殻から出てくることを要請する気ぶりも示さなかった。東丈にすら多大な影響力を有する彼女が、なぜそのように引っ込み思案であり、いってみれば後向きなのか、だれもが奇異を感じていながら、無理に疑問を圧殺していたというのが実情であろう。
盟主の東丈に対する遠慮もあり、郁江でなければここまで正面切って要請に踏み切ることはなかったであろう。
玄関のガラス戸が開く音がし、東家の末弟の卓が帰宅した気配がした。卓はまっすぐ茶の間へやってきて障子を開け、客の郁江たちに会釈するのもそこそこに声を放った。
「うわあ!」
と、卓はいった。
「なんでこんないい匂いがするんだろう? 家に入る前から馥郁と匂ってくるんだよね」
仁王立ちになったままの大男の卓の顔には恍惚とした表情があった。マタタビでうっとりとなった猫の顔を想い起して、郁江はくすりと笑った。木村市枝も同じことを考えたらしい、にわかに両手で顔の下半分を覆った。それほど卓の顔は締りがなく、とろんとしていた。
「素晴らしい香りだ......家の中に入ったら、いっぺんにどっと濃くなってきた......なんだか天国へでも行った気分だよ、姉さん」
「ご挨拶は、卓。お客様に失礼よ!」
と、姉の三千子が注意を与える。
「どうも......失礼します」
如才ない卓が、あまりにもだらしない顔をしているので、郁江はとうとう笑いだした。体を前に折り曲げて笑う。木村市枝は両手で口をおさえつけ、肩を慄わせていた。
「いやあ、いい匂いだ......なんだか、体中から力がなくなっちまった......うっとりしちゃうんだよね......」
大男の天才柔道少年は雲を踏むような足取りで、廊下を自分の部屋へ行ってしまった。障子も開けっ放しであり、日頃の如才なさは片鱗もなくなっていた。酩酊状態になり自室でぶっ倒れるのではないかと思うと、郁江たちの笑いは停まらなくなった。彼女たちには何ほどのこともないが、頑強な大男の卓には麻酔薬ほどの効力があったようである。
陰気な、戦前からの古い家屋が馥郁とした芳香に包まれ、妙に華やいでいるのを三千子は感じていた。不思議なものだ、自分の陰鬱な沈んだ気分が変ったぐらいで、こんなにも一変するものだろうか、と思う。重々しい暗がりが家の隅々にまで忍びこんでいたようだったのに、今は陽性な雰囲気によってことごとく駆逐されてしまったようである。
これはやはり井沢郁江の超能力なのかもしれない、と三千子は思った。郁江がもたらした奇蹟なのだ。弟の丈が後事をゆだねていっただけのことはある。洒落ていて、しかも華やかな超能力だ。そういえば、郁江はいつも甘い花の香をまとっている印象があった。花の妖精が存在するならば、郁江のような容姿を備えているのではないかと漠然と想像したこともあるほどだ。
一家の首長が不在の時は、女たちが代行しなければならぬという郁江の主張は、的確な支点となって三千子の心を動かすことに成功した。郁江のいう通りだと思わざるをえなかったのである。考えてみれば、〝首長の不在〟は三千子に常につきまとっていた。三千子はその分だけ責任感に目覚め、強くならざるを得なかった。その経緯は、井沢郁江にとっても同じなのであろう。丈が不在となった時、郁江はだれよりも自覚し、力強さを獲得せざるを得なかったのである。
搾め木にかけられるような、息もつけない不安な未来から解放してくれた、魔法じみた郁江の手際に、三千子は感謝せずにはいられなかった。
あるいは丈の不在は、このような事態を見越して意図的になされたのかもしれぬという気がした。その考えは、丈の失踪を聞かされた瞬間から存在したようである。丈が覚者として成長を遂げた以上、失踪は意図的になされなければならぬ、と思ったのだ。意味もないただの無責任さであるはずがない。それは信念であった。丈を信じる心が三千子に冷静さを保持させた。郁江や木村市枝の冷静さも、丈を信じる心の強さに他ならない。不思議な強さで女たちは大きな揺動を切り抜けた。
それは、杉村由紀にしても例外ではなかった、と三千子は思う。杉村由紀は立派に切り抜けた。〝光のネットワーク〟が彼女を見捨てなかった事実が、それを証明していた。由紀はみごとに試練を切り抜けてアメリカへ向ったのだ。
今は何も心配したり懸念したりはしない、と三千子は己れに命じた。全ては善くなるのだから。丈が口癖のようにいっていた通り、全ては演習なのだ。襲いかかってきた揺動を切り抜ける都度、人々が自覚と自信を深めつつあることは、井沢郁江においてもっとも顕著といえる。
丈の先見したことは、みごとな人間的成長として結実したといえるのではないだろうか...... むろん、まだまだ未熟であり、独り歩きするには不安がないとはいえないが、東丈を欠きながらも、とにかく曲りなりに歩けることを郁江たちは証明しているのだった。
丈が、姉の三千子の担ぎ出しまで予見したのであるならば、見事というほかはなかった。この状況下になければ、千万言の説得を丈自身から受けても、三千子自身の裡に意欲を湧き立たせることは不可能であったに違いないのだ......
15
井沢郁江が主宰代行としての主導権を取ったGENKENは、明らかに変化を来していた。
一つは、郁江自身が代行としての充分な能力を持つことを、会の内外に証明して、会員たちの信頼をつなぎとめたことであり、一つには、無名塾との連携を東丈以上に明確に打ち出したことであった。まず二月の研修セミナーは無名塾主催となり、会との協力関係が具体的なものになった。郁江は会と塾の相互間に存在する心理的齟齬を解消させることに真先に着手したようであった。
郁江は大筋で東丈の遣り方を踏襲しながらも、幾つかの点で思い切った手を打った。郁江自身のアイデアで、助手グループの育成に取りかかったのである。それは、郁江自身にとっての秘書グループともいうべき存在であり、いまだに東丈の秘書である郁江にしてみれば、屋上屋を重ねることに似ていたかもしれない。
批判の目で見る会員たちが存在するにしても、郁江の霊格者としての実力はもはや隠れもなきものであり、高鳥慶輔の比ではなかった。何よりも東丈の信任を受けた代行という立場は強く、批判者たちに表だった抵抗を許さないものがあった。なによりも箱根セミナーの最終シーンで郁江の示した力は、批判者たちを沈黙させるのに充分であった。
郁江のもたらしたもう一つの大きな変化は、マスコミ関係に対する〝一部解禁〟という、東丈の意志に背くかもしれぬスリルを伴った解放的な姿勢であった。
ルポライター風間俊敏をセミナー会場に入れ、取材を認めたことで、郁江はすでに〝マスコミ解禁〟の先鞭をつけたのだった。
東丈の閉鎖的、禁欲的な姿勢に慣らされていた会員たちには当然少なからぬ戸惑いと混乱が生じたが、郁江は翌日から集会を続けざまに持ち、説得に乗り出した。郁江に心服している青年部長の内村たちが手足となって動き、動揺抑制に努めた。
郁江の打つ手は綿密であり、よく計算されていて、人々の説得に大きな力を発揮したといえる。郁江は、主宰東丈の不在による危機感を利用し、結束への力とした。彼女が選抜したアシスタント・グループは青年部の若者たちが大半であり、以前からもっとも献身的なボランティアの働き手だった。郁江による若者たちの掌握ぶりは驚くほど巧妙であり徹底したものであった。
杉村由紀が会に留まっていたならば、必ず大きな抵抗を示したに違いない、と平山圭子には思えた。郁江の遣り方はそれほど強力な指導力を発揮した、〝改革的〟とさえ表現できるもので、細心綿密でありながら、素早い人心掌握を意図していた。
──東丈主宰からGENKENを簒奪するもの、と杉村由紀なら断定したかもしれないのだ。禁欲的な東丈とうって変って、日ならずして会の内部には、華やいだ芳香の如きものが漂い、会員たちの態度は闊達になり、開放的になった。
あまりの急速な変化ぶりが、平山圭子には恐ろしいほどであった。もし東丈がひょっこり戻ってきたら、自分の造ったGENKENとは別物の組織を目のあたりにすることになるのではないかと思えたからである。
父親の平山圭吾などは、東丈の不在を救うピンチヒッターとして、郁江の指導力強化を素直に歓迎しているが、たとえば菊谷明子などはかなり屈折した心情を抱いているのではないかという気がする。郁江の遣り方は、女性らしくないほど豪快であり、いい変えれば強引ともいえたからだ。
会員への配慮は行き届いているが、あまりにも方向転換は大胆であり、急激をきわめている。東丈が帰還するという希望がなければ、菊谷明子を初めとする主だった人々は離れて行きそうな気がする。それほどの極端な変化が短時日に打ち出され、平山圭子自身めまいをすら感じている。
東丈主宰の不在がどの程度続くのか、圭子にはわからない。不在の理由がわからない以上、だれにも見当がつきかねることであろう。しかし、意外に短期間ですんでしまいそうな、(甘い)予感が圭子にはある。
これから、幻魔大戦の巨大な嵐が、全地球的な規模で吹き荒れようとしているのに、肝心の東丈が失踪したままでいるとは考えられない......そんな考えが心に居据っている。おそらく菊谷明子たちも、圭子と同じ思いでいるのかもしれなかった。
郁江は強力な指導力を発揮する主宰代行者かもしれないが、自分はあくまでも東丈の弟子であり助力者なのであって、井沢郁江の弟子でもなければ下僕でもない......そんな気分が菊谷明子たちには濃厚にわだかまっていそうに思えた。
圭子自身は、郁江に協力することについて全く異存はない。それが東丈の意志であるならば、己れの心を無にして、献身する用意がある。郁江を全面的にバックアップして行くことが、東丈への奉仕になる、と素直に思うことができるのだ。そうしなければならぬ、という義務感を持っている。しかし、心情的にどうしても反撥に傾いてしまう人々の気持も同時に理解することができる。
そうした人々は、いまだに丈の不在を受け容れることができずにいるのだ。東丈はちょっと留守にしているだけなのに、郁江の遣り方は全くもって独断専行もはなはだしく、会の簒奪行為に等しい、と感じられるのであろう。あの時、箱根セミナーで、秘書の夏本幸代が示した反撥は、決して夏本だけの個人的なものではないということである。
郁江は説明会を続けざまに開くなど、決して根廻しを怠っているわけではなく、東丈主宰の姉である東三千子の担ぎ出しに成功するなど、みごとな手腕を発揮しているのだが、それにもかかわらず、わだかまりは色濃く存在していた。
それは、あるいは、東丈の不在への疑問や失望が変形したものであるのかもしれなかった。丈に見捨てられたのではないか......そんな恐怖が、主宰代行の郁江に対して素直な態度をとらせない原因になっているのではないか、と圭子は感じていた。
東丈の不在は、全ての会員たちにとって、ある種の禁忌に他ならなかった。表立っては疑問を口にのぼすことさえ躊躇われた。それは失踪としかいいようのないものであり、いい換えのきかぬものであることを、だれもが感じていたからだ。
郁江だけが、東丈の失踪をイエスの荒野の放浪になぞらえて正当化をすることが可能であった。
──それが先生に必要であるならば、弟子の自分たちがどうこういうことではない、と郁江は主張した。イエスや釈迦は大いなる悟達のためにきびしい放浪を重ねている。
先生が大いなる宇宙意識に導かれて行動している限り、平凡な人間の理解をはみだすことは当然ありうることだ、と彼女は合同幹部会の席上で断言し、だれもこれには反論できなかった。
東丈主宰が真の救世主として巣立ち、国際的な活動に入った時の不在に備えて、今、演習の機会を会員全体が与えられたのだ。その貴重な機会を自覚のためにこそ全員が活用すべきであって、無用な逡巡や停滞で使い果してしまうべきではない。今を措いてやるべき時はないのだ......郁江は説得力を発揮して、合同幹部会の信任を取り付けた。
慎重論がないわけではなかったが、主宰の姉三千子を引っ張りだした井沢郁江の実行力の前に押し切られたのが実状であった。いずれにしろ、東丈が帰還するまでの代行にすぎなかった。そして東丈がそのまま帰還せずという状態はだれ一人考え及ばなかったのである。
圭子が見るところ、井沢郁江はみごとな采配を振るっており、今のところだれにも文句のつけようがなかった。それどころか目を瞠る素晴らしさといってもよかった。驚くほどの綿密な配慮を感じさせる手を次々に打って行く。合同幹部会でもそうだが、連日会員を招集しては〝意識統一〟と称するトレーニングを繰り返している。
その活発で精力的な動きは、女性のものとは信じがたいほどであった。ほとんど徹夜に近い状態で、大学生を主力とした若いボランティアはしごかれていた。
〝意識統一〟というのは、会員たちの目的意識を高め、鮮鋭にすることによって、熱意や努力を極限まで引き出し、献身のベクトルを造り出す遣り方であった。漫然とした意識のたるみ、誤った思い込みや方法論を、ミーティングを通じて徹底的に排除して行こうというものだ。
人心掌握については、主宰の東丈ですらそこまで徹底しなかった猛烈なものがあった。異様な熱気が、箱根セミナーの最終シーンから持ち越されたように、渋谷の平山ビルに充満していた。熱に浮かされた感じで、若者たちは井沢郁江に追随しようとする意欲に溢れた。
東丈不在の危機感をことさらにあおりたてる郁江の遣り方が正しいのかどうか、平山圭子には判断できない。批判の余地は残しながらも、圭子自身、熱気に感染し、押し流されているといってもよかった。
批判的な気分が皆無というのではないのだが、さりとて面と向かって郁江の行き過ぎを指摘する明確な根拠があるわけでもない。それは、圭子以上に批判的な会員にとっても同じことがいえたろう。
夏本幸代のような批判派が、皮肉をこめて〝親衛隊〟と呼ぶ、アシスタント・グループを核とした若者たちが日ましに勢力を増大させた。会と塾を掌握した形の井沢郁江に対して、批判派はあまりにも無力であり、それが彼らを屈託させたようである。日の出の勢いの郁江に対して敵すべくもないのだ。夏本幸代などは箱根セミナー以来、平山ビルに足を向けなくなってしまった。いささか気の毒でもあった。東丈個人の魅力に惹かれて集まった会員たちのある種の気分を代弁しただけにすぎないとも考えられるからだ。
どこの組織にも存在する〝政権交代劇〟のゴタゴタが産んだ犠牲者といえないこともないようである。菊谷明子やメガネの秋津女史たちが、夏本に近い心情にあることは容易に推察できた。
むろん圭子自身は、指導者としての郁江に魅力を覚えないわけにはいかない。郁江との間に魂のつながりがとりわけ深いことは、〝転生輪廻の証明〟によって明らかにされているからだ。心情的には、批判派のいう〝親衛隊〟寄りなのかもしれない。
井沢郁江が、指導者として大きな器であることを、圭子はだれよりも早くから認識していたつもりだ。その郁江が実力を発揮しだしたことは、圭子の鑑識眼の確かさを証明するものであろう。
にもかかわらず一抹の不安がわだかまるのは、郁江の才気があまりにも大きすぎて、東丈が帰還した時、すでに別のGENKENに変質してしまっているのではないかという危惧があるからであった。
必ずしも僭越だとは思わない。主宰が不在だからといって、停滞は許されぬとする郁江の主張には賛成である。しかし、原型を留めないほどにGENKENが変質する前に、丈に帰ってきてほしい。それは声に出して訴えたいほど切実な希求であった。
秘書室の立たずまいを見まわすたびに、圭子は胸苦しい懊悩の虜になった。杉村由紀の姿はなく、夏本幸代のデスクも空席となっている。残るは圭子自身と伴野静子だけである。郁江はアシスタント・グループの中核となって絶えず移動を続けており、会と塾の間を往復している。アシスタント・グループを構成するのは、GENKEN会員だけではなく、塾生との混成集団である。
その行動ぶりは郁江らしく疾風怒濤であり、時には会長室でミーティングを開くこともあるが、機動力を駆って絶えず移動しているといった方がよかった。
個人的な面接が多く、その他の場合は会長室にこもりひっそりと書き物をしていた東丈とは、行動範囲において多大な相違が存在した。
会長室はいつもしんと静まり返っている。秘書室での仕事は残務整理に等しくなり、面会の取消し、延期などが主な仕事になってしまった。
会を訪ねてくる人々の応対は、郁江のアシスタント・グループにまかされた。わずか数日で、平山ビルで見かけるボランティアは、新顔がめっきり増えたという印象であった。新入会が解禁されたというのではないが、便宜的な仮の入会が増えたということなのであろう。
これも東丈の時代とはうって変った様変りといえるのかもしれない。わずか数日間のうちに、郁江によって大胆な改革が進められ、がらりと雰囲気が一新してしまった。
とりわけ顕著なのは、〝マスコミ解禁〟であり、ルポライターの風間が大きな顔で会に日参しはじめたことだ。とりわけ大きな顔をしているつもりはないかもしれないが、押しの強い慣れなれしさと、物理的に盤広の横幅の広い面構えのために、ひとしお〝大きな顔〟に見えるのであろう。〝批判派〟の苦情はこの一点に集約したといってもいい。自身も会員として公認されでもしたように、平気で出入りし、くちばしを突っこんで歩く。それを郁江がとがめだてしないことが、大きな不平不満の種子となっていた。
柄の悪い〝低級マスコミ〟の尖兵が自由に出入りしているのである。これほど不愉快で不安な緊張を高めるものはない。しかも意外なことに、風間は〝親衛隊〟と仲よくやっていた。若者たちは柄の悪いトップ屋に対して親しみを見せ、お義理ではないほど愛想がよかった。風間に対して隠すことは何もないと考えているようであった。
圭子は、この風間というトップ屋が簡単に手馴付けられるような甘い存在ではないという点で〝批判派〟に同意していたが、最初に感じていたような強い嫌悪感は薄らいでいた。
情が移ったのかもしれない。幅広の恐ろしく厚顔な面構えも、幾度も見ているうちに愛嬌が見出されるようになった。ブルドッグのような醜貌の持つ愛嬌だが、鳥肌の立つ厭悪感を駆逐するには充分であった。以前は〝マスコミ恐怖症〟が圭子の目をくもらせており、ただ憎たらしさだけを風間の盤台面に発見させていたのであろう。
会員の風向きが変ると、風間も憎たらしい顔をする必要が失せたのかもしれない。比類ない強引な厚かましさが薄れ、ぐっとソフトタッチに変貌してきた。人間の心とは面白いものだと圭子は思う。会員たちに受容されていると知った時から、風間には仲間意識が生じてきたようである。
己れの講演を風間に聴講させた時から、郁江には成算があったのだろうか、とそこまで考えざるを得ない。セミナーの夜、大仰な幽霊騒ぎを演じて一躍会員の間に有名になると同時に、滑稽感を伴った親密さを、風間は人々にもたらすようになった。
風間の名を聞くと、だれでもくすくすと笑いだしてしまう。とうてい嫌悪感をもって拒否することなどできないのである。
思いきりぶざまさをさらけだすことにより、風間は会への通行証を手に入れたようであった。それどころか、風間は自分も会員であるかのような顔をして、昼夜を問わず平山ビルへやってくる。もはやとがめだてする人間はいないのだ。
が、平山圭子はやはり彼がマスコミの低俗なハイエナに等しいトップ屋であることを忘れることはできない。杉村由紀がアメリカにおいても、もっとも気に病んでいるのは、風間の一件といってもさしつかえなかった。
郁江によってトップ屋風間が手馴付けられたという考え方はあまりにも安易すぎる、と由紀はいう。黒豹は、豹紋を持っていないが、それでも豹であることに変りはないのだ。
しかし、郁江は充分の自信を持っているようで、圭子には口出しできなかった。あるいは、郁江には風間を心服させるだけの力量があるのかもしれないと思う。できうれば、トップ屋を会に出入りさせることで、郁江が致命的な傷を負わないように、と祈るほかはなかった。杉村由紀は、郁江の傲慢な自信過剰と見ているようだが、圭子にはそこまでいい切る自信はない。郁江は明らかに、大きな霊力を発揮し始めているからだった。
16
一九六八年二月二日。
落着かぬ騒々しい時間が、平山ビルを囲繞して流れている。気がつかぬうちに一月が急流と化して流れ去り、二月に突入してしまったようであった。

こと改まっての感慨も何もない。ただ矢のように突走る恐ろしい急流に乗ってしまった怯えはだれにもあるようだ。東丈を欠いて、減速するどころか、逆にスピードがぐんと上った空恐ろしさが感じられる。
この日、トップ屋の風間が襲来したのは、夜になってからであった。しかもひとりではなく連れがあった。彼の厚顔さは果しもなく増大するものであるらしい。
「ごめんなさいよ、おこんばんわ」
と大声をあげて、厚顔なトップ屋はいきなり秘書室のドアを開けた。杉村由紀が同室していたら、烈火となって怒り狂ったであろう。
「郁江ちゃんいる?」
風間は平然といった。この男は場所柄をわきまえる能力を欠いているらしく、会員の前でも平気で、〝郁江ちゃん〟と呼ぶのである。──幼馴染みか何かのつもりじゃないの、......と当の本人の郁江は笑っている。気にしている様子もない。
「郁江ちゃんいるでしょ? ちゃんと確かめてあるんだから......今夜は友達を連れてきちゃった」
おめず臆せずという面でいう。
「困りますよ、風間さん!」
平山圭子は立ち上って抗議した。いきなり秘書室にヅカヅカと踏みこまれては堪ったものではない。
「いいじゃないの。会長先生がいる所へ押しかけてきたわけじゃないんだからさ」
風間はヘラヘラ笑いながら、油切った盤広の面の中央に、思いきりあぐらを搔いた鼻をこすった。懐柔の意図を露わにしていた。
「夜遅くまで精が出るね、圭子さん。あんた今度大学受験でないの? 事務所に詰めきりで、用意の方はちゃんとできてるわけ?」
だれに聞いたのか知らないが、余計なお世話だと思った。しかし、さすがに情報収集能力は馬鹿にできなかった。
「いいんです。どうぞお構いなく」
穏和な性格の圭子でも、これくらいのせりふは風間相手だと出てくる。
「ご挨拶じゃない。なぜ圭子さんにそんなに嫌われちゃうのかわかんないねえ」
風間はぬけぬけといった。
「僕は圭子さんが大好きなんだけどねえ」
伴野静子が失笑した。こんなせりふを堂々と吐けるのは、風間をおいて一人も存在しない。
「杉村さんに、今のを聞かせたい」
と、静子は笑いに身を揺すりながらいった。
「そりゃ僕にとって、圭子さんは杉村さんの妹みたいなものだもんね。だけど杉村さんは僕の女神様で、他の人とは違いますよ」
おとなしい伴野静子まで、いつの間にか風間相手に軽口を叩くようになっている。圭子は何かしらぞっとする気分になった。これは異常接近だと思う。
「その杉村さんから、何か連絡はあった?」
「いいえ、お気の毒様。杉村さんはずっとご多忙で、それどころじゃないみたい」
伴野静子は風間に対して少しも警戒心を持っていないようである。多少相手を軽んじている口をきく。
郁江に影響されているのである。会員たちの軽々しい態度は、全て郁江自身のそれに端を発しているといっていい。
「何しろ、杉村さんのホームグラウンドですものね、ニューヨークは......お友だちが沢山いて、水にかえった魚みたい」
「そりゃいかん。俺もやっぱ、大至急ニューヨークへ行かなきゃいかんな」
風間は本気で渋面になった。
「強敵ゴロゴロですね、きっと」
伴野静子は乗り過ぎであった。変にはしゃいでいる。風間のような道化者が現われるのは嫌いでないらしい。
「よしなさいよ......」
けしかけるのは、と続ける言葉をぐっと吞みこみ、平山圭子はきびしい表情を造ろうとした。
「ご用は何でしょうか? 井沢とお約束でもおありですか?」
「またまた、そんな、固いこといいっこなし......」
鉄面皮の風間には全く通じない。面罵されても一向に痛痒を覚えないという大変な代物なのだ。
「今夜は、郁江ちゃんに是非ともお目にかかりたいという人がいましてね、そう僕のお友達......郁江ちゃんに引き合わせようと思って連れてきたの」
異彩を放つ風間と対比的に、およそ目立たない地味な人物であった。小柄で瘦せていて、面長な顔にフチナシ眼鏡をかけている。トックリのスウェーターに皮の上着を着ているのが、普通の勤め人には見えない人物であった。その他はおよそ平凡であり尋常という他はなかった。
「違う、僕の同業者じゃないの。僕の大学時代の友人でね、職業は作家、そう、売れない作家なの。土屋香なんて聞いたことないでしょ、二人とも。なにしろ全然売れてないからね......でも優秀なんだよ、僕はその点しっかり保証する」
風間に保証してもらっても、どうともなるものではなかったが、二人の娘は興味を湧き立たせて、売れない地味な作家を見詰めた。
「どうも......」
と〝売れない作家〟は一言だけぽつりと口にして、後は無言の行に入ってしまった。恐ろしく饒舌な風間と対照的であって、かなり新鮮といえた。
「俺がいうのも何だけど、この土屋君もちょっと変った人間でね、前から見所があると思ってたわけ。で、郁江ちゃんに引き合わせたら、喜ぶんじゃないかなと思ってね。いや、もちろん喜ぶのは郁江ちゃんの方。彼女、変な人間を見ると喜ぶでしょ、だから......」
郁江は、風間によってよほど悪趣味だと思われているらしい。
「お気の毒ですが、井沢はおりません。外出中です......」
「あれ、そんなはずないんだけどな。ああ、夕飯食いに行ったのね? なら、待たしてもらいますから、お構いなく」
断りもなく風間は、杉村由紀のデスクに着席し、掌でデスク・ボードを撫で廻していた。しみじみと由紀をしのんでいるのか、と圭子は同情しかけたが、風間は掌を鼻先に持ってきて、埃が附着しているかどうか調べていた。たちまち安易な同情が消し飛んでしまう。
「風間さん、お断りしておきますが、今の秘書室の責任者はあたくしなんです。許可を得ずに入室されることはご遠慮下さい」
平山圭子は深く息を吸いこみ、毅然として言い渡した。責任感が湧出してくると、まるで魔法のように気弱な自分が強くなるのがわかる。我ながら不思議である。
「わかってますって......だから日中はちゃんと遠慮してるでしょうが。こっちだって日がな図々しくやってるわけじゃないんだからさ......これでも気を遣ってるのよ、圭子さん。僕はこのGENKENがやけに気に入っちゃってね、まんざら他人とは思えないわけ。まあ仕事は仕事だし、そうには違いないけど、やっぱしGENKENに対して良かれと思ってるわけよ。いつの間にか情が移っちゃったんだよね。もちろん杉村さんの一件もあるけどさ」
風間は顎を突き出し、鮫のような口付をして笑った。憎めない人物かもしれないが、だからといって好き勝手に振舞わせておくことはできないと思った。
「あたくしは杉村さんから、秘書室をきちんとさせておくようにといわれています。相手がだれであろうと好き勝手な真似をさせておくことは許されないんです。おわかりですか......?」
「わかってますって! そんなにきれいな目をきつくさせないで下さいよ。なんでGENKENの女性秘書さんはこんなに凄い美人揃いなんだろうな。東丈先生の趣味ですかね?」
「そんなこと関係ありません!」
「怒るとますますきれいになるというのは、本当の美人ですよ、これは。いやね、あたしは秘書の皆さんを崇拝してるんですよ、杉村さんを初めとして。決して噓じゃありません。あたしは時にはオーバーなこともいいますがね、根は正直な男なの」
伴野静子が噴き出して、口を両手で抑えた。笑いが停まらなくなったらしい。
「申し上げておきますけど、あたくしは冗談やおふざけが通じない人間なんです。不真面目なことは嫌いです。人間的に真摯な方なら歓迎いたしますけれども」
平山圭子ははっきりといった。杉村由紀が乗り移ったようにきっぱりとした口調であった。
「あたしだって自分では真摯なつもりなんですがねえ......」
と、風間が不服そうにいう。伴野静子は圭子の気迫に押されて笑うに笑えない表情であった。
ちょうどそこへ、まさに〝ドヤドヤ〟と表現せざるを得ない感じで、郁江の一行が帰還してきた。十名近い一団である。アシスタント・グループの中には、ボディガードの木村市枝や松岡高志のような塾生まで加わっているため、大人数にふくれあがっているのだ。
「おや、風間クン......」
と、井沢郁江はいった。こういう気易い態度が、当の風間を増長させる原因ではないかと圭子には思えてならない。遥か年下の女の子にクン付けにされて、やに下っている風間も風間だと思う。
「何の用? それはそうと、会員にあまり直接つきまとわないでもらいたいの。みんな困っちゃってるのよ。これからはきちんと手続きを踏んで頂戴。会員の自宅に電話をかけたり、呼び出したりするのはだめよ。あなたは可愛い女の子の会員にばかりチョッカイをかけるんだから!」
「わかりました。すんません......」
と、風間は猪首を縮め、素直にいった。
「今度から気をつけますから......でもさ、どういうわけかここの女性会員はみんな可愛い人ばかりで、特に意識的にやってるわけじゃないのよね......」
「噓おっしゃい。あなたの心の中ぐらいミエミエなんだから。とにかくそういう押しの太いことは許しません。あなただってきちんと申し合せを守っていた方がいいんじゃないかしら」
外部の人間に対する口のきき方ではなかった。身内の者を叱る口調であった。
「わかるでしょ、わたしのいうことの意味が......風間クンもおつむはそう悪い方じゃないんだから。それをきちっとさせておきたかったの、了解?」
「了解しました。今後気をつけます......」
風間の恐るべき強引さ厚顔さを知る人間には噓のような光景であった。唯々諾々と郁江のいうなりになっているように思える。風間のことだから、さぞかし面従腹背であろうとだれしも考えるのだが、そうでもなさそうなのである。郁江の手際は、ライオン使いの少女とでもいった意外性があった。風間は相手がだれであろうが、とうていいいなりになりそうもないしぶとい人間なのだ。
「こちらの方は?」
と、郁江は鋭鋒を引っこめて尋ねた。作家の土屋は思案に暮れたという貌で、郁江を眺めている。
「ああ、忘れてた。紹介します......」
郁江のアシスタント・グループのメンバーは興味津々という表情で、風間の紹介する瘦せた小柄な作家を観察していた。
「初めまして、井沢郁江と申します」
と、郁江は相手が風間の場合とうって変った愛らしさとしとやかさで尋常に挨拶した。どういうつもりなのか、傍観している平山圭子には見当がつかない。得体が知れぬ、という点では作家の土屋香にしたところで、風間と大差はないのである。
「これは、僕の書いた本なんですが......」
土屋はぼそぼそといい、大判の茶封筒から出した本を郁江に渡した。
「差し上げます。よかったら読んでみて下さい......」
「それはどうもありがとう......面白そうな本ですね」
郁江は白と黒だけで装幀されたパトカーのような配色の単行本を手に持って覗きこみながらいった。〝サタンの再臨〟というタイトルが白抜きで黒地に浮き出している。その明瞭さがなぜか凶々しくて、圭子の背筋にぞくぞくと毛根を浮き立たせた。アシスタント・グループの若者たちも熱心に首を突き出して覗きこんでいる。
「まあ、たいした本じゃないし、全然売れませんがね、多少は郁江ちゃんのお役に立てるかと思って引っ張ってきたわけ。いや、その逆か。この土屋君がどうしても、郁姫様に逢わせてくれと目の色を変えてせがむもんですからね」
「幻魔のことを風間氏から聞いて......お話を伺ってみたいと思ったものですから」
土屋は、風間の軽躁さとは対比的な口の重さでぼそっといった。
「ご意見をお聞かせ願えれば......幸いです......」
言葉をブツブツちぎって出すような喋り方であった。真摯であり重厚といえないこともなかった。
「どうぞ、中へお入り下さい。立ち話もなんですから」
郁江は会長室のドアを開けながらいった。初対面の身許も知れぬ人物を、会長執務室に招じ入れる郁江の大胆不敵さに、平山圭子は恐れ入ってしまった。やはり杉村由紀はニューヨークへ行ってよかったとしみじみ思う。郁江の傍若無人な遣り方に、杉村由紀はとうてい我慢ができないであろう。
「市枝さん、松岡君、金沢君、それに圭子ちゃんいっしょに来て下さい。後の人は七階で各自の仕事に戻ること」
郁江がきびきびと指名する。選に漏れたメンバーは特に不満の色も見せず、来客に挨拶をして風のように去って行った。よくしつけられていると感心するほかはない。わずか数日でみごとな呼吸が出来上っているようであった。
「ほう......若い連中まるで郁江ちゃんの手足みたいだなあ」
と、風間が無遠慮な感想を述べた。
「いや、これなら東丈先生が留守しても、ちっとも心配ないねえ。若い人がみんな恐ろしいほどしっかりしてるもの。みんな凄い超能力者で、実は超人類っていうヤツと違う?」
「へえ、風間クンもSFを読むの?」
土屋に向けて応接セットに着席を勧めながら、郁江が茶化す。
「あたしはもっぱらソークン先生の方ですけどね、この土屋君が通なんですよ、SFの......」
「どんなSFを読まれるんですか、土屋さん?」
きらきら輝く眸で郁江が興味深げに土屋を見る。
「クラークなんか好きですね。〝幼年期の終り〟や、〝海底牧場〟〝都市と星〟など......」
土屋は控え目にいった。
「わたし、〝幼年期の終り〟読みました。東丈先生がSFをお好きなので、その影響を受けて」
郁江は情熱をこめていった。SFなど読んだこともない他の面々はきょとんとした顔で遣り取りを聞いている。
「もちろん、そんなに沢山は読んでいませんけど......ブラッドベリとかレムとか、アシモフとか。やっぱりクラークが好きです。〝幼年期の終り〟に出てくるオーバー・マインドなんていう宇宙意識にはかなり疑問がありますけどね。東丈先生にお尋きすると、本物の宇宙意識よりも、むしろ幻魔の特性を持ってるそうです。物質的な宇宙観は必ず袋小路に入ってしまって......」
「物質的宇宙観といえばアシモフはそうですね、明らかに」
土屋は、郁江との会話を愉しむとも見せない貌で愉しんでいた。
17
「アシモフってユダヤ人なんでしょう? ユダヤ教徒じゃないんでしょうか?」
「しかし、ユダヤ人というのは一筋縄じゃ行かない連中ですから。エルサレム追放以来二千年間、弾圧と虐殺に堪えて生き延びてきた民族ですから、その怨念も凄いですけれども、しぶとさとしたたかさは、日本人のように島国でぬくぬくと温存されてきた人間には想像もつかないものがあるようですよ」
「土屋君はそういうことに詳しいんですよ」
と、風間が傍から口をはさんだが、二人とも気に留めなかった。
「もちろん、そうなったのは、イエス・キリスト殺しの責任をとらされて、キリスト教徒たちによって目の仇にされてきたわけですが......ユダヤ人は今でもユダヤ教という宗教を守り、モーゼ以来の細分化された戒律を守っているからこそユダヤ人であるわけです。もちろん彼らはイエス・キリストが救世主であることも認めないし、キリスト教も認めません。しかし、ユダヤ人が果して本当の神を持っているかというと、疑問があります。二千年間の凄まじい民族的怨念の中で、神を喪失してしまったのじゃないかという気がするんです。
ユダヤ人......イスラエルの民は〝神のメッセンジャー〟として、連綿と神の言葉を保持し、伝えてきた。しかし、イエス・キリストを産み出し、己が手にかけた時、ユダヤ人はもはや〝神のメッセンジャー〟ではなくなってしまった......私はそう考えています」
土屋は瘦せた面長な顔で、ぽつりぽつりと話した。話しぶりは咄々としており、内容的にも若者たちには感興の薄いものがあったようである。しかし、郁江は熱心に耳を傾けていた。ユダヤ人などの話がなぜそんなに面白いのか、と平山圭子が不思議に思うほどの熱意が溢れていた。
「ユダヤ人の〝神の選民意識〟は、この二千年間の迫害の歴史で、濃厚になる一方だったんです。ユダヤ人からすれば異教徒の連中が、彼らをいためつければいためつけるだけ、蹂躙すれば蹂躙するだけ、ユダヤ人の確信は強化されて行ったんです。恐ろしいしごきにかけられて、空前絶後のタフな民族として鍛えられてしまったんですね......アーリア人による迫害は、ヒットラーの大虐殺で最高潮に達しますが、ユダヤ人は遂に生き残り、勝ち残った。ユダヤ人の中には〝超エリート意識〟があります......民族的憎悪と怨念の化身である〝神の選民意識〟の行きつくところです。ユダヤ人たちは二千年間の大弾圧と大虐殺によって、己れを他の全ての上に置く権利を手に入れたと考えています。
日本人にはぴんと来ないと思います。島国に温存された日本人は、宗教や文化の異る民族がどれほど恐ろしい確執を構えるものか、理解しにくいところがあるようですから。
二千年もの間、ユダヤ人であるということだけで、自由を奪われ、差別され、それどころか虐殺され続けてきたユダヤ人が、どのような性格を持っているか、我々日本人には想像もつかないのではないでしょうか?」
「物凄く強い団結精神......容易に他民族を信じない心と、拝金思想、ですか......?」
郁江は考えこみながらいった。
「なんか恐ろしいですね。経済力で世界を動かし、支配するという行き方になると思うんですけど......」
「ありとあらゆる民族的、人種的憎悪と怨恨にもまれてきたら、人柄がどんなに奸悪になるか、我々日本人にはやはり想像がつかないんじゃないかと思いますが......ユダヤ人のスーパーエリートが、二千年の苦難の代償に、地球の支配権を手に入れたと信じたとしても不思議はないと思うんですが......」
「経済を制する者は世界を制す、ですか? ユダヤ人って昔から商人として有名ですものね。シェークスピアの〝ヴェニスの商人〟ってやっぱり反ユダヤ主義なんですか? 悪どいユダヤ商人が登場しますけど」
「ユダヤ人が圧迫されなかった土地はほとんどありません。日本などは例外の一つです。それでも、〝ヴェニスの商人〟などの影響によって、ユダヤ人は悪辣な連中であり、イエス・キリストを殺した裏切者で、神に呪われた民族だという印象がないわけではありません。ユダヤ人がスケープ・ゴートとしてさんざんの目に遭って来たことは確かです。だからこそ、ユダヤ人は世界中に貸しが沢山ある、取り立てるのは自分たちの権利だと考えたとしても不思議はないわけです。ユダヤ人は受難の歴史を通じて、裏から手を廻し、金という餌で他民族を操る術に長けてきたことは確かです。
ユダヤ人の歴史は陰謀と工作の歴史でもあります。民族を生き延びさせるために、あらん限りの狡智を働かさなければならなかったのは、ユダヤ人の悲劇です。二千年間を通じて、それは民族の体質となっている。ヒューマニズム──自由、平等、博愛という大義名分で、宿敵アーリア人の桎梏を断ち切った時、ユダヤ人の体質的な狡智がどこへ向けられるかということです」
「これまでの二千年間の貸しを取り立てるということですか?」
「そうですね。陰謀好きな人間は絶えず謀み続けずにはいられないはずです。それが生甲斐になり、人生の目的になる。ユダヤ人が神を喪ってしまったのは不幸なことです。人類にとっての大きな不幸です。高度な文化と倫理を持った連中が、その優秀さを有意義に生かせなくなってしまったという全人類的な不幸です」
「つまり、土屋さんのこの本には、今おっしゃったようなことが書かれているのですか?」
郁江はいまだに手から放さず持ち続けていた〝サタンの再臨〟を掲げて見せた。
「まあ、そういうことです。それだけではありませんが......」
「でも、とても面白そうですけど、かなり難しい内容じゃないですか?」
「とうてい売れる本じゃありません。ですから自費出版です。三百部刷って五十万円かかりましたが、知り合いの本屋に頼みこんで置かせてもらって、数冊売れただけです。大部分は寄贈したんですが、何の反響もありません。日本人はユダヤ人に無関心だし、サタンなどという代物には更に興味を持っていませんから......井沢さんにお読み頂ければ、これ以上の幸せはありません。この本を書いただけの価値があった......そう思います」
「さっそく読ませて頂きます」
郁江は本を胸に抱き締めるような仕草をしていった。土屋の面長な貌にちらりと血の色が差したようであった。メガネの奥の目がにわかに光を増して郁江に向けられ、急いでそらされる。照れ屋のようであった。
「郁江ちゃんに読んでもらえて、よかったじゃない。本望だな、土屋君」
風間が無神経な割り込み方をした。
「でも、惚れても無駄だぞっていい聞かせてきたんですよ、彼には。郁江ちゃんはなにしろ生神様なんだからってね」
大声で笑う。土屋の貌に滲んだ血の色はますます濃くなってきた。しかし、一言も抗弁しない。
「わたしは生神様じゃありませんよ。風間クンは何か誤解してるんじゃないですか?」
と、郁江がいう。
「大霊能者が何を謙遜してるのよ。なんたってソル王女様ときちゃうんだから。ムウ大陸の時代の王女様じゃない」
「昔の話ですよ」
「あれ、もう一度、どこかでやりませんかね? 物凄く感動的だったから......今度はテープと写真に撮りたいんですよ。いや、映画に撮って記録に残したいね。超古代語で皆さんが自由にペラペラ喋るヤツ......異言ていうんですか、言語学者に研究させたいんですがね」
「三万年前のムウ語なんて、だれにもわかりませんよ、きっと」
郁江がさらりとかわす。
「大陸ごとムウ人は海底に沈没してしまったんですもの。ムウ大陸が存在したという証拠はないんでしょ」
「しかし、脱出に成功した連中だっているはずだし、超古代文明に痕跡を残してるんじゃないですか。ヒマラヤのラマ教寺院にムウ大陸に関する古文書があるっていうじゃない。これは土屋君からのまた聞きですがね」
「超古代文明についての本には、よくそういう話が載っています」
と、土屋は咳払いしながらいった。話題が変って安堵したようであった。
「もちろん、権威ある学界は一顧だにしません......超常現象、奇現象もまた同じです。学者は石頭ですから......もっとも学者があまり軽薄すぎて珍奇な新説に血眼になって飛びつくのも困りますが。しかし、ムウが実在したとなれば、現在の科学的史観が覆ります。エジプトより遥かに以前、超科学文明が存在したということになりますから。異言によると、現代の科学文明を凌ぐ超文明ということですが」
「火星や木星のあたりまで、宇宙文明が及んでいたらしいんです。今の物質文明と異って、高度な精神文明です。まさにユートピアって感じですよ。大きな超能力を持っている人々が沢山存在しました。それでも、本格的な超能力文明と呼ぶには、程度が低すぎたみたいです......」
「今、ソル王女様とお話しするわけには行かないでしょうか?」
土屋はおそろしく真剣にいった。
「今ですか?」
郁江は眸をぱっと大きく瞠った。土屋の性急さに呆れたようである。
「できれば、ですが......ぶしつけなお願いをして申しわけありません」
「わたしは霊媒じゃないんです。自分から霊を呼んで容れるということはしません。ソル王女の場合も、向うから訪れたんです。〝転生輪廻〟の証明として必要だったからだと思います。わたしは霊を呼んだりしたことはないし、自分にそんなことができるとも思いません。それを決定するのは、高次元存在の霊たちですから」
「でも、試してみたらいいんじゃないかなあ?」
と、風間が無遠慮に割りこむ。
「駄目でももともとだと思えば......」
「わたしは不必要なことはしません。だれかさんが面白がっても、これは余興じゃないんですからね。霊的現象は興味本位で絶対に起こすな、と東丈先生からも厳しく戒められていますから。高次元霊の方で行動を起こさない限り、わたしの方からは決して呼んだりはしません」
「固いかたい。残念だなあ......物凄く迫力があって、あれを芝居だの何だのとぬかす奴がいたら低脳だよ。この平山圭子さんという女性も超古代語ペラペラなんだ」
風間は土屋に向っていった。
「フォーリアといって、ソル王女様の下に仕えている巫女さんらしいんだな。こうしてみるとごく普通のお嬢さんだろう? それが一度霊が降りると、顔形まで変って、超古代語をベラベラ喋る別人に変っちゃうんだよね」
土屋のメガネ越しの視線を受けて、圭子は顔が赤くなった。風間のお喋りには際限がない。どこへ行ってもこの調子で吹聴しまくっているのだろう。
「いや、本当に凄いものですよ、あれは。あまりにも圧倒的でね、雷に打たれたような感じになってしまった。この僕がだよ......ああ、こういうことも世の中にはあるんだ、さすがに世の中は広い、心からそう思った。世界観がクルッと変っちまったんだね。このGENKENというのは、大超能力者の巣みたいなもんで、奇蹟なんてそれこそ月並、ありふれてるってことがよくわかった。僕は少くとも高次元世界の存在を確信するね。このお嬢さんたちは、普通に見る分には、きれいなお嬢さんですむが、実は高次元霊の化身で、いってみれば天使だ。地上に降り立った天使だ。僕は心の底からそう確信しているわけよ!」
風間は、風間らしくない熱弁を振るった。
「だから、土屋君を連れて来たわけよ。なんとしてでも、君にあの光景を見せたいからね......本当に世界観が変るよ。俺なんか、うーんと唸っちゃったもんね。もっと沢山の連中にこれを見せたい、と燃えるような気持になっちまったわけよ」
書生っぽいほどの熱っぽさであり、風間の真剣さを証かすものであった。
「公開の講演会の席上で、あれをなんとか再現できませんかねえ? 大反響を呼ぶこと絶対に間違いなしですよ! ちょっと話しただけでも、この土屋君のように大関心を持っちゃうんですから。みんな身を乗り出しますよ。一度、五千人ぐらい入る会場でやってみませんか? 〝今甦る魂の記憶〟! 物凄く受けますよ、絶対にやるべきですよ!」
「風間クンは興行師になりたかったんじゃないの? でも、駄目よ、転生輪廻は見世物じゃないんだから。風間クンのことだから、入場料を取って一もうけ、なんて考えているんでしょ?」
「違いますよ! まったく冗談きついんだからね! 僕はただ提案してるだけですよ! これでもGENKENが発展するのに少しでも役に立てばいいなあと思ってるんだからね!」
風間は色をなしていった。少なからず本気のようであった。
「風間クンは、自分の〝過去世〟を出せないかなんて尋いたじゃない? 自分もペラペラと超古代語を喋って、有名になりたいなって心の底で思ったでしょ!? みんなをびっくりさせ感心させて、ついでにお金もうけもできればいいって考えてたじゃない? 隠したって駄目! わたしにはちゃんと風間クンの下心が見えちゃうんだから!」
「いやまあ、チラッと、ほんのチラッとよからぬことも思いましたけどね、そりゃまあ人間ですからしょうがないじゃないですか。しかし、半分ぐらいはGENKENのためにお役に立ちたいって思ったんですよ!」
「でも後の半分は私利私欲でしょう。それがいけないといってるの」
「じゃ私利私欲は捨てます。もう捨てた! だから安心して下さいよ」
「そんなに簡単に捨てると、すぐにまた拾い上げそうじゃない。でも、私利私欲を捨てないと大変な反作用が起きてくるって、丈先生にも警告されてるはずよ。よからぬ心が騒ぎだしたら、それを思いださなきゃ駄目。でも、わたしにはすぐにわかっちゃうけどね。風間クンが内心こっそりと思ってることだって、掌を指すようにたちどころにわかっちゃう」
「困っちゃうんだよね、それは。少しは手心を加えてもらわないと......」
わざとらしく風間は顔をしかめた。しかし、さほど気にしているとも思えない。
「この間、電話でずい分長く話してあげたじゃない? 今度よからぬ心を起こしたら、箱根の時の騒ぎぐらいじゃすまなくなるって......幻魔にとり憑かれるのはもうコリゴリだといったじゃない......」
「ええまあ、そうですが......」
風間が神妙な顔に戻る。郁江との間にかなり立ち入った話し合いがあったことを想像させる口ぶりであった。
「実はウチのお袋が、こないだおっしゃった通りのことになりましてね......」
「個人的な話はまたにしましょう。とにかくお母さんのことは大丈夫だと思うわ」
郁江がきっぱりといい、風間も素直に頷いた。郁江がどうやってこのルポライターを掌握するに至ったのか、圭子には謎が解けた。風間は大霊格者としての郁江に心服してしまったのだ。
「実は、私も何か井沢さんのためにお役に立てればと思っているのですが......」
と、土屋香が控え目に申し出た。しかし揺がぬ決心がメガネの奥の目に光っていた。決断は人間の貌を変えるものだと平山圭子は思った。つい先刻までの貌と全く土屋は異る貌になっていた。
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「私はやはりもの書きですから、そちらの方面でお役に立てれば、と思っております。もし井沢さんが本をお書きになるようなことでもあれば、原稿整理でもなんでも、是非お手伝いさせて下さい......」
体中に力を渾め、カチカチに固くなって土屋はいった。真剣そのものであった。
「ありがとうございます。今のところ、そういうつもりはないのですけれども、もしかして機会がありましたら、よろしくお願いします」
郁江はあくまでも丁重にいった。風間に対する態度とは大違いであった。
「もしお許しを頂ければ、井沢さんのお話を記録に取りたいのです。テープに採って、それを原稿に起こします。もちろん私が私用に供するわけではありません。井沢さんのお話の全記録を採っておきたい......残すべきだという気がするのです。もちろん、何の報酬も求めません。テープを取るのも、文書にするのも全て私が自弁します。そうせねばならない......それこそが私の本当の仕事だ、という気持がフツフツとこみあげてくるのです。記録に残さず、散失させてしまうのは罪悪です。風間君からセミナーの話を聞いた時、真先にそう思いました」
「東丈先生の講演は、一部分テープに採ってありますけど。でも、わたしの話など、それだけの値打がありますかどうか」
郁江は同席している一同を見わたしながらいった。
「残すべきです」
と、松岡高志がすかさず応じた。
「できれば、風間さんがいったように、映画に撮っておくべきだと思います」
大学生の金沢が顔を赤くしていった。
「物凄く貴重な記録になると思うんです。多少経費がかさんでも、プロジェクト・チームを組んでやるべきです。僕にやらせて下さい。どれくらい予算が必要か、大至急で調べます。16ミリが無理なら、8ミリでもいいから撮るようにしたらどうでしょうか?」
「じゃ、金沢君、大至急でやって、プロジェクトを組んでみて頂戴。費用の方はなんとかなると思うの。会の予算とは別枠で取れると思うから。大至急でお願い。二月セミナーで間に合わせるように」
郁江がキビキビと断を下す。この辺の呼吸は全く東丈ゆずりだと圭子は舌を巻いてしまう。決断の速さ、実行の果断さは余人の及ぶところではない。しかし、これも会の内部で批判を呼ぶだろうな、と思わざるを得ない。郁江が何かしら新しいことを試みれば、たちどころに独断専行呼ばわりされる土壌が存在しているのだ。郁江にとっては批判の対象にされる材料がどんどん増えて行く。
──派手好きで、目立ちたがりだ......そんな悪口も一部ではささやかれているらしい。東丈の時ですらやらなかった、記録チームを組み己れの活動ぶりをテープや映画に残すといった斬新な試みは、ただではすみそうもないという予感がする。
しかし、郁江はいかなる抵抗があっても、その果断さで突破して行くのだろう。会だけではなく塾を把握している強みだ。塾では郁江の全面的支援にまわっているのである。
「土屋さんのお申し出はとてもありがたいのですけど、ボランティアとなると時間的にも大変です。お仕事の方に影響するのではないかという気がします」
と、郁江は土屋に顔を向けていった。
「その点は大丈夫です。是非ともお手伝いさせて下さい。機関誌の編集でもなんでも、お役に立てればと思ってきたのですから」
土屋は面長な顔をあげ、目を輝かせて郁江を見た。どちらかといえば陰性で無表情な容貌が、これほど明るく嬉しげになるとは想像もつかないことであった。
「雑誌編集をやった経験もありますので、もし手伝わせていただければ......」
「ありがとうございます。土屋さんに助力して頂けるのでしたら大歓迎です」
郁江はあっさりといった。さすがに若者たちは意表を衝かれて、声もなかった。初対面の人間をいきなり組織の内部へ抱えこんでしまおうというのである。それも機関誌編集といえば、組織の中枢部に近い。GENKENのこれまでの閉鎖的性格からすれば、信じがたい大転換であった。
土屋という人物は氏素姓もわからず、怪しげなトップ屋の友人という触れこみがあるだけだ。あまりにも郁江の決定は軽率すぎるのではないだろうか。
とっさに平山圭子にしてもそう考えずにはいられなかった。いささか茫然としてしまう。若者たちにしても同じ心境であったろう。
「わたし、土屋さんのような助力者の出現を心待ちにしていたんですよ」
と、郁江は若者たちの心中を知ってか知らずでか、平然としていった。
「優れた文章表現の出来る人が必要だなと思っていたんです。はっきりいって、ちゃんとした文章の書ける人材は主宰の東丈先生お一人で、先生が抜けた今は大穴があいてしまっていたんです。でも、不思議ですね。文章の書ける人がいないかなあ、と考えていたところへちょうど土屋さんがいらして下さって。神様にお願いしたのが通じたみたい......」
「いや、私の助力など高が知れていますから......期待はずれになるかもしれません。郁江先生が文章をお書きになれば、たちまち一流の文章家になられるのではないかという気がします......」
郁江先生という呼び方はさすがに奇異に響いた。しかし、土屋は本気のようである。
「わたし、字がドヘタで、文章はまるっきり書けないんです。マンガを描く方が上手なんじゃないかと思います。でも、わたし、土屋さんに初めてお逢いしたという気がしないんですよ。もう二十年ぐらい前からお知り合いだった......そんな感じがします。二十年前っていうと、わたしの生れる前になってしまうけど」
「なんと申し上げていいのかわかりません。胸の奥から大きくふくれあがって、こみあげてくるものがあります。郁江先生のお顔を見た瞬間、目の前で運命が大転換したという心地になりました......やはりこれは、転生輪廻に関りがあるのでしょうか」
土屋は真剣に、少し照れ気味に尋ねた。可愛い、という印象を受けて平山圭子はびっくりした。三十に近い男性を可愛いなどと感じたことはこれまでに一度もなかった。
「たぶん、そうでしょうね、でも、そうした転生輪廻の関り合いといえば、この場にいる人で持っていない者は一人として存在しないはずです。こうやって顔を突き合わせること自体、深い縁生というのか、つながりがなければありえませんから」
「それは、あたしもそうですか?」
と、風間が尋ねた。真面目な貌をしていた。
「風間クンもそうです。それは間違いありません。相当に強烈な縁生ですよ、きっと」
郁江の言が、若者たちに忍び笑いを生じさせた。
「でも、いい縁生も悪い縁生もあるんですよ、風間クン。過去に仇同士だったというのも強い縁生なんですからね」
「そういうのは、顔を一町先から見ただけで、大急ぎで殴りに行きたいというやつでしょ? でもあたしはちょうどその逆ですよ。郁江ちゃんは物凄く可愛いもの。そりゃ時には憎まれ口もききますがね、それでもやっぱり可愛くてしかたがない」
風間は生真面目な貌でいった。
「郁江ちゃんがどこかのお姫様だったころ、あたしは爺やか何かで可愛がってお守りしたという縁生じゃないですかね?」
「そんな憶えは全然ありません」
と、郁江はきっぱりといった。
「庭に成った果物をいつも盗りにくる悪餓鬼というか悪童の一人が風間クンに似ていたような気がします。衛士に怒鳴られて追いかけられると、ウンチをポロポロこぼして逃げて行くんです。もちろんお尻まるだしの悪童です」
笑声が炸裂して、部屋の空気が揺れ動くようだった。生真面目な貌の土屋までが体をのけぞらして笑った。
「そいつは、本当ですか......?」
風間はいっしょになって笑い転げたあと、真顔になって尋ねた。
「そんな過去の記憶がわたしの中にはあります。でも、その悪童が風間クンだったというのは冗談です。人間には沢山の過去世の積み重ねがあります。過去にどんな縁生があっても、我々が生きているのは今生なのですから、新しく素晴らしい縁生をつくるべきだと思うんです。過去のことに捉われず、こうして友情を育んで行けるんですよ。それが人生にとって一番大切なことなんです。わたしはそう信じているんですけどね......」
大学生の金沢が拍手した。感じやすい若者で、目に泪を湛えていた。純粋で心優しいのだ。
「風間さん、土屋先生、よろしくお願いします。今、郁江先生のおっしゃった通りだと思うんです。僕はお二人と知り合えたことがすごく幸せに思えます。どんな行き違いや誤解があったとしても、人間はそれを克服して、友情を培って行ける、僕はそう思うと元気が出てくるんです。無上に嬉しくなって幸せな気持になります」
「いや、こちらこそ......」
土屋は言葉少なにいったが、金沢の言葉に大きな感銘を受けていることは明らかであった。風間までがそうらしいのだ。このすれっからしのトップ屋が......と意外に思うほどのだらしない貌になってくる。
「そうだ、先が見えない人間だから、行き違いも誤解も起きてくるし、しかし、そこを頑張って理解して行けるのが、人間のいいところなんだよな!」
風間は興奮したのか、熱した語気でいった。
「けっぱって仲良くやって行こうでないの! いや、こうやって腹を互いに打ち割って話し合えるのって、気持いいね! 僕も腹の探り合いにはいい加減うんざりしてたんだよね。あいつは口先ではこういうことをいってるけど、本当は腹の中はどうなのかなんて、やっぱり厭になっちゃうんだよね! そこへ行くと、この郁江ちゃんなんかサッパリしてていいよ! ポンポンいうし憎らしいこともいうけど、人柄に毒はないってよくわかるもんね。郁江ちゃんたちに逢うと、気持がスッキリしちゃうんだよね。ちょうど心をクリーニングに出したような気分になっちゃってさ。それで癖になるというか、もっとスッキリしたくなって、足繁く押しかけることになっちゃって、仕事の邪魔をして悪いなあ、と僕も時には考えるわけよ」
風間は熱心に早口で喋ると、ますます書生っぽくなった。
「腹に一物を持たない連中って、最近は少いからさ、凄く精神衛生にいいんだよね。特に郁江ちゃんに遠慮なくポンポンいわれてると、滝に当ってみそぎをしてるような、スキッとした快感を覚えるようになっちゃうわけよ。最初は、やっぱり例の通りの新興宗教かと思ってたんだけどさ、今はこの連中は......連中はなんていったら悪いな、もとい、この人たちは精神のクリーニングをやってるんだって気付いたわけよ。反省というヤツで精神的なみそぎをやると、心の中が物凄くスカッとしちゃうんだよね。それも中毒というか、一日に一回は足を向けて、みそぎをやらないと物足りなくなっちゃったってわけよ。それで、仲間を増やしてやろうと思って、とりあえず土屋君を引張りこんだのよ。でも、この人たち、精神衛生に凄くいいだろう、な? 僕なんか酒の量がうんと減ったもんな」
「じゃ肉体の健康にもいいってわけね」
と、郁江がいった。
「精神のクリーニングといういい方は、間違っていないと思います。風間クンも時にはいいことをいうのね。人々がサウナへ行って体をサッパリ清潔にするように、心をきれいに浄化する場所も必要ね。今はお寺や教会は少しもその役に立っていないけど......とにかく風間クンには大いに心を清めて、精神のみそぎをして頂きましょう。もう効果は現われてるのよ。見違えるように可愛くなったもの」
「あたしがですか......?」
風間は腑に落ちぬ表情で郁江を見返し、一同から軽い笑声が生じた。
「そう。風間クンがとても可愛くなったと思う人、手をあげて」
その場の全員が即座に手をあげた。土屋までが挙手しており、改めて笑いを誘った。
「そうですかねえ、このあたしがね......可愛いなんていわれたことないからね」
「本当よ。チャーミングになったわ。笑うと特に可愛いわよ。前の不逞ぶてしい笑い顔とは大違いだもの。こう、無邪気で純真っていう感じのいい笑顔よ」
「そうですかねえっ」
風間は仰天したという風に大声をあげた。ひどく照れていた。生れてから一度も可愛いなどといわれた憶えがないのであろう。よほどびっくりしたようである。
「まあ、この土屋君もなかなかの頑固一徹で知られている男なんですが、よろしくお願いします」
風間はとってつけたようなことをいった。
「仕事は几帳面で、徹底的にやる男です。筆も立つし、頭もいいんですが、なにせ融通がきかなくてねえ。才能はあるのに売れるものは書きたくないという、ヘソ曲りなところがあるんですよ。こうしてみると、すっかり生甲斐を感じてるようで、本人のためにもよかったかなと思ってるんですがね......」
「いい友達を持ったと感謝してる」
土屋がいい、風間はますます照れた。
「いやあっ、いいもんだねえっ」
と、彼は驚くような大声を張り上げていった。
「人が喜ぶのを見るっていいもんだっ。この土屋君って男は、嬉しいのか悲しいのか、いつも判断に苦しむような顔しか見たことないんですがねえっ。今はどうです、嬉しそうな顔をしてるじゃないですかっ。俺も善根を施したってわけだよねえっ」
風間は顔を真赤にして力んでいた。最初に逢ったころの風間は無類に不逞ぶてしく厚顔無恥の権化であり、こうした無邪気さなどひとかけらも持ち合わせていそうになかった、と平山圭子は思った。人柄が変ったというより、奥深く隠されていた美質が表面化してきたのであろうが、一人だけ無頼のトップ屋を疎外しなかった郁江の判断の正しさが証かされたのだろうか......
やはり郁江には度はずれの包容力があるという証明なのかもしれない。さもなければ、あの恐るべき厚顔さ破廉恥さの持主が、純真な仔犬のように変貌してしまうなど不可能であるに違いなかった......郁江は、東丈が後事をゆだねるだけの巨大な力量を日ましに顕らかにしているのだ。
それは、平山圭子をふとめくるめくような思いに誘った。郁江が大きな力を顕わすに従い、東丈の帰還が遠のいて行く......そんな惧れが重みをまして胸裡に落ちかかってきたからであった。
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「風間クンはいい人を連れてきてくれたわね」
と、郁江は後でいった。
「土屋さんて素晴らしい人よ、誠実でやさしくて、大きな魂の持主だわ。わたし、最初のパッとくる印象でそれがわかったの。風間クンは、土屋さんを連れてくるのが役割だったわけね......だって、とても意外だと思わない? あの風間クンに土屋さんみたいな控え目で謙虚な、少しも偉ぶらない友達がいるなんて......土屋さんて凄い才能を持った人よ。十数か国語が自由に読み書きできて、物凄い博識なの。その癖、才能を全然表に出さない人なのね。話してみてびっくりしちゃった。大インテリなんだもの......それなのに、ごく普通の人みたいな話し方をするし、自分の知識をちっともひけらかそうとしないでしょ? ああ、これは本物だな、と一目でピンと来たけど......人って本当に見かけだけじゃわからないものよ。
わたしは知識も少ないし教養も足りないから、あまり実のある話し合いが出来ないけど、東丈先生だったらとても話が合うかもしれない......恐ろしいほどの努力家でね、会の若者たちがとってもいい影響を受けてるみたい」
会と塾の合同幹部会が持たれた席上で、井沢郁江は報告し、土屋香という人物を激賞してのけた。東三千子を加えたメンバーは、郁江の報告に大きな感銘を受けたようであった。
「で、土屋氏はさっそく会に来て活動しているわけだね?」
と、田崎宏が尋ねた。
「自分から機関誌の編集を手伝いたいと申し出てくれたの。だから今、編集スタッフの金沢君といっしょにやってもらっています。二人はなんだかとっても気が合うみたい。見るからに縁生が深いなっていう感じ。やっぱり仕事もプロ級でね、編集スタッフが生れ変ったみたいに活気付いてきたわ。編集の仕方をABCから教わってるの。とにかく、風間クンにはとっても感謝してる。皆さんだって、彼がそんな役割を持ってるとは、気が付かなかったでしょう!?」
「その土屋さんて人、郁姫様とどんな縁生を持ってるんすか?」
と好奇心の旺盛な河合康夫がすかさず質問した。
「郁姫様のご祐筆か何かですか?」
「さあ、わからない......でも見憶えはあるの。最初の一瞥でフワッと印象が来るのね。それで相手の魂がどの程度、自分と関り合いを持っているかわかってしまう。転生輪廻の過程で、親しい間柄だったような気がするわ。これはここにおいでの皆さん全員についていえることなんだけど......」
「魂の友人てことすか?」
康夫がニヤニヤしながらいった。
「うん。早くいえばそうだけどね」
「いや、郁姫様がそんなに激賞するなんてただごとじゃないですよ。前の世で、こう憎からず思っていた間柄なんていうわけじゃないでしょうね?」
「そんなのじゃないわよ。馬鹿ね!」
郁江が反射的にいった。
「わっ。郁姫様が赤くなった! こりゃますますもってただごとじゃないですよ! 郁姫様が恥らいにパッと頰を染めるなんて、やつがれの想像も及ばなかったですよ!」
康夫がはやしたてる。田崎宏は苦笑していた。郁姫が珍しくちょっぴり赤くなったのは事実だったからだ。郁江には端倪すべからざるところがあり、彼女が赤面するなどおよそ信じられないことであった。
「何をいってるの。相手には奥様もお子さんもいるのよ。歴とした世帯持ちよ」
「そんなもの、忍ぶ恋路に関りがありますか! しかし、郁姫様にこんなに赤くなられちゃうと、どうも弱っちまったなあ。まさか本気じゃないんでしょう?」
ともすれば暗くなりがちな席上の雰囲気を浮揚させようと康夫が努力していることはわかっていた。
「それは、過去にはいろいろあったでしょうよ。わたしだって女ですから......かなり複雑な関係を持った相手が、眼前に登場することだってありえないことじゃないわ」
郁江は珍しくむきになっていった。
「そんな、居直ったりして......」
「ううん、居直りじゃなくて、そうしたことにいちいちこだわっていられないということよ。過去のことをいいだしたらキリがないもの」
「おや。とうとう認めちゃったんですか? そのお相手とは昔、わけありだったってことを......」
「違うわよ。何があったとしても、今生は今生だし、こだわらないってこと」
同席して話を聞いている平山圭子は、土屋の陰性な面長の顔を想い出して、吹き出しそうになるのを堪えていた。康夫も土屋香の顔見知りであったら、からかいのタネにしようとは思いつかなかったであろう。しかも、郁江は康夫の揶揄に調子を合わしているようである。
とはいえ、頰の上をわずかに上気させている郁江は、これまでに見た憶えのない新鮮な印象であった。初々しくて魅力的である。だれもがおや、と思って顔を見直したくなるのは無理からぬところであった。
「そう郁姫様をいじめるものじゃないよ、康夫君」
と、平山圭吾が上機嫌でいった。酒が入っているのかと思うほど血色がよく、つやつやとした顔が赤らんでいる。箱根で心臓発作を起こし、倒れたことが噓のような元気さであった。
「しかし、気になりますからね。どう考えてもあの褒めっぷり、ただごとじゃないもの。だれだって気にならないはずがないでしょうよ。何事が起きたのかと思いますわね......郁姫様だっていずれは結婚するでしょ? どんな相手を選ぶのか、みんな興味津々ですよ!」
「それはまた早手廻しの心配だね」
「まだ早い」
と、平山圭吾と田崎が同時にいった。
「お前は想像力過多症だよ」
田崎はやや苦々しげにいった。
圭子と木村市枝は堪えかねて忍び笑った。河合康夫は追及しているうちに、しだいに真剣になってしまったようである。郁江が思いがけぬ反応を示したからであろう。
──ヒョウタンから駒が出るというたとえが本当になって泡食っている、と圭子は思った。しかし、郁江が土屋に特殊な気持を動かしているなど、とうてい考えられない。郁江は東丈の代行という重責を果すだけで精いっぱいなはずである。
まして、土屋香が相手というのは、田崎のいう通り康夫の想像力過多というほかはなかった。
しかし、会から幹部に推されて出席した菊谷明子と内村久雄はくすりとも笑わなかった。緊張した面持をさらしている。それぞれの思惑は異るにせよ、冗談で笑う心境にないことでは共通しているのであろう。恐ろしく大きな座卓を前に、気を張り詰めて、固くなって座っていた。
十五畳の和室も人が詰まると狭く感じられる。大型ガス・ストーブに近く位置する者は、熱気で背中が焦げそうになるほどだ。
「そのお相手なる人を、今日お呼びすればよかったんですよ」
と、康夫はこだわっていた。多くの者にとっては全く得体の知れぬ人物である土屋香をGENKEN中枢に近づけた郁江の果断さにはだれしも戸惑いを禁じえないのだった。菊谷明子などあきらかに反撥心を抱いているし、他にも異論を持つ者は少くないはずである。冗談にことよせてはいるが、康夫もまた郁江の真意を知りたがっている一人であろう。
「まず皆さんに報告しようと思ったの。いきなり土屋さんをお連れするより、その方が筋だと思って。でも、土屋さんが今後わたしたちに大きな助力をして下さる方だということは間違いないの。わたしには一目見ればわかるもの......でも、康夫は冗談事のようにいっているけれど、これが恋愛沙汰などと全く関係ないことははっきり申し上げておきます。今の状況を見れば、のんびりと恋愛なんかしてる暇がないことは一目瞭然でしょう。いっておきますが、わたし個人に限らず、皆さんそんな暇は全然ありませんよ。もちろんおわかりだと思いますけれど」
「そんなに大変なんですか?」
と、康夫がびっくりしたようにいう。
「もちろん大変です。今は幻魔大戦のまっさい中なんですよ。はっきりと形に現われ、目にも見える異変はまだこれからです。でも、一度現象化したら、とどめようのない猛烈な勢いで続発して行きます。そうなったら最後、どんな手を打とうが間に合わないんです。もう人間の力では停まりません。世界全体がソドムとゴモラになってしまうんですよ。でも今度滅亡するのは地球ぐるみです。だからこそ東丈先生は必死になっておやりになっていたんじゃないですか。
のんびりと恋をしたり、楽しんだりするのはこの次生れ変った時にして下さい。今は必死で頑張らないと、今度転生しようにも、肝心の地球がなくなっているということにもなりかねませんよ」
「本当に、そんなに切羽詰まっているんですか?」
康夫はごくりと喉を鳴らした。
「そんなに余裕がないとは思わなかった。それで、どれくらい時間は残されているんですか......?」
「ごくわずかですよ、きっと。先生が必死になって、もう時間がない、と訴えておられた時、わたしもまさかと思っていましたけど......今はもうそれどころじゃない、とよくわかります。もうタイムリミットぎりぎりなんです」
「どれくらい......? 十年......? それとももっと短い......?」
郁江が首を振るにつれて、一同は膚寒さが増して行くのを覚えた。ぞっとするものが漂い始めた。
「まさか今年中なんてことはないでしょうね?」
康夫の顔色はすっかり変っていた。
「もしかしたらここ一、二年の間に急激に起こるかもしれません。ですから皆さん、決して楽観的にならないで下さい。まだまだ時間がある、なんて絶対に思わないことです。もしかしたら明日にも......そんな気持でやって下さい。今日なすべきことを、明日やろうと思っても、肝心の明日がなくなっているかもしれないんですよ!」
どろりとした沈黙が水銀のような比重でその場の空気を覆った。
「今やらなければやる時はない。そういう覚悟でやっていただきたいんです。そんなに切羽詰まっていても、大恋愛に命を懸けるという人には、もう何もいいませんけど......」
「脅かさないで下さいよ......」
康夫は苦笑いしながらいった。さすがの康夫も顔が引き攣ってしまっていた。だれの口からも笑い声は漏れてこない。いずれも真剣な顔付になり、郁江を見詰めている。
「脅しているわけではありません。今、この場に先生がおいでにならないということの意味を、皆さんにもっと真剣に考えていただきたいんです。世界はこの瞬間にも雪崩を打って滅びるかもしれないんですよ。今、この時をおいて、機会はないということなんだとわたしは思います。これは決して冗談でもなんでもありません......もう時間がないんだよ! そう血を吐くようにいわれた先生のお言葉をもう一度よく考えてみたいんです。これでも、わたしのいったことは脅かしだと思いますか?」

「いや、思いません。前言は撤回します」
康夫は汗を拭きながらいった。
「でも、切羽詰まった時は鼻唄混りで、というのが私の主義なので、つい......」
「それはとてもいいことだと思いますよ。わたしも本当はそうしたいんです。本当は、こんなに死物狂いなんだと他人に見せるのは嫌いなんです。でも、それでは他人はわかってくれないんですよね、決して......わたしは悲観論者じゃないし、先生も暗い未来について語っておられたけれども、悲観論者ではありませんでした。ただ相当な大変動が現象化してこない限り、人々が本当に気が付くことはないといっておられました。強烈ショックを与えられないと目が覚めないのだって......ただ、気がついた時には手遅れになっているかもしれないっていうことなんです」
「いや、もちろんここにいる我々はだれ一人として、東丈先生のご不在の意味するものを、誤解しているはずはありません......」
と、大きなハンカチで額を押し拭いながら、平山圭吾がいった。
「ことが緊急を要しているというのも、よくわかっているはずです。康夫君も持前のおどけ癖がつい出てしまったものの、決して郁姫様を笑いものにしたり、ケチをつけたりする意図はなかったものと私は信ずるのですが......」
「もちろんわたしはそのような解釈はしていません。ただ、皆様が想像する以上に状況はきびしいということを申し上げたかったんです。康夫が軽い意味でいったことはわかっていますが、恋愛どころではないというのは本当です。わたしたちには今後、私生活などなくなってしまうはずです。こんな極端ないい方をするので、反撥を呼んでしまうかもしれませんが、もしそうだとしたら、東丈先生のご不在についてもう一度じっくりと考えていただきたいんです。この瀬戸際に、先生がわたしたちを見捨てて姿を消してしまわれるでしょうか? ありえないことです。この機会にもしわたしたちが本当に目覚めなかったら、もはや望みはないということなのではないでしょうか......?」
だれもが郁江の気迫に圧されてしまっていた。郁江の波動が峻烈な東丈の波動に変わりつつあるのを、その場の全員が一人残らず感じていた。あるいは郁江の独断専行ぶりに不快を持っているかもしれぬ菊谷明子にしたところで、その特殊な波動に対して無感覚ではいられないに違いなかった。
「むろん、ここにおいでの皆様には、わたくしが事新しく申し上げるまでもないと思っています。でも、わたしたちがここに集っているのは、東丈先生ご不在の穴を、我々が合議制で埋め、会や塾を運営して行く、その相談をしようというのではないはずです。わたしたちはかつてないほど鋭く自覚を迫られているのだ、とわたしは思います。わたしたちの責任は非常に重い......ここで口にするのも憚られるほど重いということを申し上げたいんです。人にそしりを受けるのを覚悟でいえば、もしわたしたちが自己確立を成し遂げなければ、世界は滅びる......わたしは本気でそう信じています。会や塾が存続するかどうかなどという悠長な問題じゃないんです。もしわたしたちのうちの一人でもいい、本当に自覚したならば、会や塾はどうなっても構いません。先生もそれをお望みだと思います。組織は手段に過ぎないし、組織は誕生した瞬間から、組織自体の自己保存へ向い始めます。先生は幾度もくり返し、それを警告しておられました。もしわたしのすることなすことが増上慢から発していると皆様がお考えになるなら、わたしは直ちに一人になってでも、先生のお望みになっている途を模索していくつもりです。
もちろん組織を割ったり、一宗一派を立てたり、そんなつもりは毛頭ありません。わたしの主張に賛同して、一人でも二人でもついて来てくださる方があれば、わたしは真にめざすべき途を捜します」
郁江は事実上、一同に信任を問うているのだった。人々は固唾を飲み、沈黙の重さに堪えようとした。
「あたくしは、郁江さんを信じます」
と、東三千子がその控え目な性格からは信じがたい明確な決意を見せて、即座に郁江を支持した。
「郁江さんの考え方に全面的に賛同するからです。丈の帰りを待ち、そのために組織を温存するという方向は大きな誤りだと思います。あたくしたちは今、自分になしうることが何か、真剣に考えることを迫られている、と郁江さんはおっしゃいました。物事にはじっと待つ時と、即座に素早く動かなければならない時と、この二つがあるのではないかと思います。そして今はまぎれもなく、電光石火で対応すべき時です。幻魔は悠長な時を与えてはくれませんから......」
一度、平山ビルで会員たちを前に講演し大きな感銘をもたらした時以上の熱気と迫力が充ちていた。
「あたくしはこう思います......もし郁江さんの自覚がなかったら、丈は決してこのように姿を消すことはなかったはずです。これは試練なんです。郁江さんはご自身の力を示し、それによって、人々の支持を集めなければならなかったんです。そしてそれがとりも直さず丈の望みであった、とあたくしは信じています。今は、皆様で郁江さんに全面的な支援をお与えになり、革命的と思われるような新しい路線であって、一見丈の志と反するように思われるとしても、新しい途を打開しなければならない......あたくし、そう思うんです。郁江さんのおやりになることが、丈のとっていた方法、手段と異っているとしても、それが間違いであるとは限りません。今は新しい方向付けがもっとも急務となっているのではないでしょうか......?」
「お姉様は、先生のお帰りが当分ない、とお考えなのでしょうか?」
と、堪りかねたように菊谷明子が重い口を切った。顔には衝撃の色があり、青白く血の気が引いていた。
20
「丈がこのまま帰らずじまいになると、そこまでは思っておりません」
東三千子の言葉は、さらに大きな衝撃を菊谷明子にもたらしたようである。
「でも、もし先生がお帰りにならなければ、世界は本当に破滅してしまうのではないでしょうか?」
「もう破滅は始まっているのかもしれません。ただ私たちの目にははっきりと見えないだけで、症状が明らかになった時、手遅れの病気のように取り返しがつかなくなっているかもしれないんです。丈は繰り返し、それを皆様に警告したのではないでしょうか......」
それは身震いする考えであった。だれもが反射的に井沢郁江に対して目を向けずにはいられなかった。郁江はわずか一か月前まで、致命的な癌に肉体を蝕まれていたのである。
──郁江を犯した病魔は、地球全体の破局への警告だったのか......
それが飛躍しすぎた考えではないとだれもが感じていた。同じ幻魔の暗黒波動が地球という惑星全体を席捲し、巡っているのだ。一個人を襲った破局と根は一つなのである。
菊谷明子は真蒼な顔で、三千子を見詰めていた。三千子が言外に意味することを理解したようであった。
「あたくしが自覚をなしとげない限り、先生はお帰りになることはない......お姉様はそうお考えでしょうか?」
「もしかしたら、本当にそうなのかもしれません。菊谷さんが、丈に見捨てられた、と恨みがましい気持を持っていらっしゃる間は、菊谷さんは自覚からもっとも隔てられているはずです。そうではないかしら?」
「見捨てられたなんて......そんなことは思っていません」
「そうした気持がひとかけらでもあればということです。丈の失踪に対して多くの人たちが釈然としない気持を持ち、猜疑心を育てることは、あるいは避けられない成行かもしれません。でも、それは丈の望む人々の自己確立への道から、大きくそれ、遠ざかって行くことだとあたくしは思います。頭で得た知識は役に立たない、と丈はいつもいっていたはずです。これまで丈の下で学んでいらした皆様が、得ていたのは頭だけの悟りだったのか、それとも心から丈を信じていたのか、各自の心を試す機会を与えられているのではないかしら......あたくしはそう思うんですの」
「............」
菊谷明子は顔を伏せてしまった。平山圭子は息が詰まる心地に追いこめられた。圭子自身、傍観者ではいられなかった。菊谷明子の苦悩はわがことのように理解できる。丈に見捨てられた苦しみは、彼女だけではなく煎じ詰めれば圭子自身の裡にもある苦悩かもしれない。三千子は恐ろしいほどの洞察力でそれを見抜いてしまった。人の心は決して確固不動のものではない。あれほど丈を信じ切っているように思えた菊谷明子にしたところで、信と不信の間を激しく揺れ動いているのである。
なんと人間の心ははかなく脆いものかと痛感せずにはいられない。圭子自身、動揺を免れていられるというのは、僥倖にすぎないのかもしれない。強固な信頼関係を築いたという思いこみは、砂上の楼閣にも等しいのではないだろうか。一度猜疑心が忍びこめば、信頼は脆くも崩壊してしまう。
しかも、菊谷明子はあの箱根の夜、東丈から〝光のネットワーク〟について説かれ、人間の本質という光球まで見る機会を与えられているのである。
あれほど巨大な魂を揺り動かす感動すら、永久不変のものではありえない。東丈が失踪することにより見捨てられたという恨み、井沢郁江への嫉妬心によって、菊谷明子の心は大きく揺動し、とどまるところを知らないのである。
東三千子の指摘はあまりにも正確すぎた。それは正視に堪えないむごたらしいものを見る気持に誘った。圭子は自らも面も上げられぬ恥しさにさいなまれていた。列席者はいずれも息を停めているような切なげな表情で、推移を見守っていた。
「少しきびしすぎることを申し上げてしまったかもしれません」
三千子は目をそらさずに、菊谷明子の蒼白い額を見詰めていった。
「でも、あたくしには甘いことは申し上げられないんです。さもなければ、こうした席に出てきた意味がなくなってしまいますから......皆様に考えて頂きたいことがございます。イエス様が十字架の上で亡くなられた後、弟子たちがどんな振舞いに及んだか、ということを......弟子たちは逃げました。イエス様の弟子であることさえ必死に否定しました。それどころか、イエス様の教えを、ユダヤ教の一派として保存しようと姑息なことさえ考えたのです。イエス様がなぜ十字架上の死を選ばれたのか、理解している弟子は一人としていませんでした。結局、弟子たちはだれ一人、イエス様を本当には信じていなかったということです」
三千子の黒い瞳と、その声音にこめられている重々しい警告が人々を戦慄に誘った。その瞳はあまりにも東丈のそれとそっくりであった。
「人々はイエス様を理解することができず、そのために、イエス様は十字架に登らなければなりませんでした。十二使徒と呼ばれる弟子たちでさえそうだったのです。イエス様が十字架上で死なれた後も、その事実は変りませんでした......人はだれでも自分のはかりで他を推し測ります。そのはかりが小さければ、理解を超えてしまいます。もしはかりが数十センチしかなければ、何千キロ、何万キロメートルの距離をどうやって計ることができるでしょうか。イエス様の心を推し測ろうとする時、人はそうした誤りを犯すはずです。神を信じず、至上至高の価値を信じない者、虚無主義に心を蝕まれた者がどうしてイエス様の心を推し測ることができるでしょうか。
それは二千年前も今も同じです。科学合理主義と称して、高次元世界の存在に対して皆目無知な人間が、イエス様を理解できようはずがありません。イエス・キリストの教えは、無力な人々が現実逃避のために用いる麻酔薬のようなものではないのです。現実主義者が自分に都合のいい部分だけ切り取って利用する万能薬ではないんです! イエス様を信じるといいながら、自分の生き易さを求めるために利用したり、自己満足に耽っている弟子たちが、イエス様の生前も死後も多すぎる、とあたくしは思います。
イエス様が民衆に求めたのは、自己覚醒そのものであって、ご自分を神として崇めたり、ご自分を信ずることによってのみ救われる、と人々が妄信することではなかったはずです。結局、弟子たちは十二使徒に始まって、いつの時代もイエス様を誤解し続けてきたのではないでしょうか。己れの計りでイエス様を推し測り、はみ出た部分は全て捨て去ってきたからだ、とあたくしは思うんです。己れの幻想に合致しなければ否定し、あるいは都合のいい部分だけを切り取り、イエス様の教えをキリスト教と称する宗派で、ズタズタに切り縮め、寸足らずにしてきたのではないか......あたくしにはいつもそうした疑問がこびりついてはなれません。
もし皆様が本当に自覚しなければ、丈の説く〝宇宙の法〟もやがて寸断され、形骸のみと化してしまう、そんな気がしてなりません」
「あたくしも、イエス様を見捨てて逃げた十二使徒たちと同じ誤りを犯しているわけでしょうか?」
と、菊谷明子が蒼ざめた顔でいった。
「菊谷さんだけのことを申し上げているのではありません......どうか誤解なさらないで下さい。でも、イエス様を愚直なほど愛し、信じていたペテロでさえ必死に逃げたんです。自分だけは違う、という思いこみほどあてにならないものはないのではないでしょうか。あたくしは、所詮人間とはその程度のものだ、などという冷嘲に耳を貸すつもりはありません。人間はもっと本当は素晴らしいものです。そう確信しています。
きっと人間は己れの愛や信を絶えず育て上げ、鍛え上げ続けていなければならないのだとあたくしは思うんです。日々に新に、日々に強く、絆を固めていかなければならないのだって......ですから、あたくしは決して菊谷さんを責めているのではないんです。そんなつもりは毛頭ありません......それはわかって下さいね。
恐ろしい激動の時代が襲いかかってきた時には、人々が絆を固めなければ、あっという間に大嵐で吹き散らされてしまいます。丈が〝光のネットワーク〟と呼んだ愛の絆が今試されているのではないでしょうか? 結び合った手を緩めてはいけないんです。疑いの心が出てきたら、絆は緩んで行きます。猜疑の心がどうやって生じてくるのか、今、だれもが知らなくてはいけないと思うんです......」
「あたくし、間違っていたのかもしれません」
菊谷明子は低い声音でいった。顔には戸惑いと懊悩の色が濃く留まっていた。
「何がどう間違っていたのか、よくわかりませんけど......徹底的に反省してみます。今日もこの場に出てくることに、とても躊躇いがあったんです。こんなに心が揺れ動いているあたしに、会の幹部みたいな顔をして出席する資格があるかどうか疑ってしまって......お姉様がおっしゃったように、先生に見捨てられたと恨む心が少しでもあったとしたら、あたくしにはこの場に留る資格がありません。確かに、あたくしは、先生が突然行方不明になられたことで、どうしても納得が行かなかったんです。夜も眠れないほどずっと悩み続けてきました。どう考えても釈然としないんです。この大事な時に突如失踪してしまわれるなんて......どうしても理解できないんです。もしかしたら先生に見捨てられたんじゃないか......みんな裏切られたんじゃないかって、ともすればむらむらと黒い疑いの心が湧き上ってきて、それを必死で振り払い、抑えつけるのにあたし、ヘトヘトに疲れ切ってしまって......」
菊谷明子は声を絞るようにして告白を続けた。声音は老女のそれのように掠れてしまっている。三千子は痛ましげに、明子の蒼白な顔を見詰めていた。
「そのお気持はよくわかります。もしあたくしが菊谷さんの立場にあったら、同じように悩んだと思います。でも、負けないで下さいね......今、ここで結び合った手を緩めてしまったら、取り返しがつかなくなってしまいますから! もう一度やり直す機会は、この世の時ではもうないかもしれません。今はもう躊躇している時ではないんです。あたくしも実を申し上げれば、郁江さんに説得されてようやく気付いたんですけど、今は死物狂いになって、なりふり構わず自分にできることをしなければならない時なんです。今、即座になさなければ、なすべき時はもはやないんです! それだけは絶対に間違いないことなんですよ、菊谷さん」
東三千子の瞳はきらめき、声は熱した。痺れるような心地なのは、圭子だけではなかった。だれもが等しく心を痺れさせていた。
「先生を本当に信じているのかどうかわからないあたしが、こんな席に出ているのは、よくないことだという気がしてならないんです。もう一度、反省を最初からやり直します。そうしなければいけないって思うんです。
正直にいって、この場にいることはつらくて堪りません。どうしていいかわからないほどつらいし、苦しいんです。あたしは、本当に先生を信じていないかもしれないし、もしかすると裏切者になってしまうかもしれません......こんなあたしに、皆様と同席する資格はありません。どうかあたしを幹部会からはずして下さい......」
「そんなこと、おっしゃらないで下さい、菊谷さん! お願いですから......」
平山圭子は思わず高声でいい、己れの声音の高さにたじろいだように眸を瞬かせた。
「先生に魂の本質を見せて頂いた菊谷さんがそんなに心ゆらめいて会をはなれるなんて、みんなが知ったらどう思うでしょう!? だれも自分を信じることができなくなってしまうのではないでしょうか!? 元気を出して下さい! 悩んでいるのは菊谷さんお一人じゃないんですよ! みんながみんな、必死になって足をふんばり、自分を支えようとしているんです。必死で堪え抜こうとしている皆さんのことを、菊谷さんも考えてあげて下さい。だれだってつらいし、苦しいんです。自分との対決を免れられる人は一人だっていやしないと思います。菊谷さんが崩れてしまって、退会すると知ったら、必死で堪えているみんなは......」
圭子は声をのんだ。感情が激してきて、自分が何を訴えようとしているのか、ふと見失ってしまったのだ。
「退会するつもりはありません。それは誤解です。あたし、ただ反省を徹底的にやり直したい......ただそれだけなんです」
菊谷明子は必死の語気でいった。
「孤りになってじっと考えてみたいんです。心の底の底までひっくり返して、反省してみたいんです。本当にそれだけなんです。しばらくあたしに時間を貸して下さい。一度とことんまで迷い抜いて、それから反省してみれば、心が晴れるという気がするんです。お仕事の方も休暇を取って、一週間ぐらい静かな所へ旅行でもして、心を鎮めてみます。今のあたしは心が嵐でもまれ抜いて、一時として心安まることはないんです。お願いですから、皆様、しばらくあたしを自由にして下さい......」
「でも、菊谷さん、そんなことをしたら、悩みがもっと深まるだけかもしれないですよ」
と、内村久雄が思い切ったようにいった。メガネをかけた色白の顔は引き締まっていた。
「悩みが深まり、今以上に苦しくなってしまうんじゃないですか? 今だって菊谷さんは悩み疲れてヘトヘトになってしまわれているんでしょう? みんな、菊谷さんのことを心配しているんですよ。菊谷さんは、みんなに愛されているんです。菊谷さんが悩んだり迷ったりして苦しんでいるのは、みんなにとってもつらいことなんです。お姉様がおっしゃった通り、今は結び合った手を緩めてはいけない時だと僕も思います。仲間からはなれていく羊はあっという間に野獣の餌食になってしまうんですよ! 幻魔はそれを狙っているはずです。心の絆を解いて、一人ずつ離れて行くのを舌なめずりして待ち構えているんですよ、菊谷さん! 反省なんかいつどこでだってできます! なにも遠い場所に旅して、一人にならなくたって、今この場所でだってできるんです! やろうと思った時がそのチャンスなんですよ! 明日やろうなんて思ってたら、いつまでたっても絶対にできやしません!」
熱弁であった。木村市枝は指で目を拭っていた。本当に無器用な泣き方をする人だな、と見ているうちに、圭子も目が熱く濡れてくるのを覚えた。だれかが大きな音を立てて、はなをすすった。父親の平山圭吾のようであった。
「わかります、内村君のいうことはよくわかります......でも、お願いです。時間を少しだけあたしに下さい......今のあたしにはもうものを考える力がなくなってしまっているものですから......この場にいるだけで、胸が圧し潰されそうに苦しいんです。わかって下さい......」
「だから、その苦しさは、菊谷さんが一人になっても決して楽になりませんよ! かえって余計につらくなるんです! 楽になろうとして菊谷さんは仲間からはずれようとする。でも、そうじゃないんです! 今こそ菊谷さんには仲間が必要なんですよ!」
「内村君のいうことは間違っていないとわたしは思います」
と、郁江が口をはさんだ。
「今はだれにとっても、本当の心を結び合える仲間がどうしても必要な時なんです。でも、菊谷さんが一人になって心を鎮め、反省をなさりたいという気持を、無理強いして変えさせることはできないはずです。時には一人になって静かに禅定してみるのもいいことではないでしょうか。きっと得るものがあるはずです。でも菊谷さん、できるだけ早く帰ってきて下さい。みんな、菊谷さんを好きだし、愛しているんですよ。一日でも菊谷さんの顔を見なければ淋しいんです。菊谷さんがどんなに大きな犠牲を払って、これまで会のために献身して下さったか、だれでも知っています。菊谷さんは地味な方ですから、献身ぶりは人目にはつかないけれど、水や空気のように絶対不可欠のものなんです。あたくしは他の会員がそれを実感するためにも、菊谷さんがしばらくお休みすることもあっていいと思います。たとえば、いつもきりきりと働いているお母さんがたまたま何かの用事で家を留守にした時、家族がどんなにお母さんを必要不可欠にしていたか、はっきりと思い知るように......」
「でも、僕は心配なんです。菊谷さんが一人で遠い所へ旅行するなんて、幻魔の攻勢が目立ってきた時だけに、気が気じゃありません」
内村は白い頰を染めて一生懸命にいった。
「だれかがついて行くんでなければ、とても安心できません。もしよかったら、僕がついて行きます! たいした用心棒にはならないけど、是非とも連れて行って下さい!」
「内村君、〝光のネットワーク〟を信じなさい。みんなの菊谷さんを思う心が、ちゃんと菊谷さんを護ります。わたし、それを確信しているんですよ。一人旅をしてみれば、菊谷さんご自身にもそれがおわかりになると思います」
「ありがとう、郁江さん。あたしの我儘を許して下さって......必ず明るい気持で、晴ればれとして戻ってきますから。今のままじゃあたし、どうしようもないんです」
顔を伏せた菊谷明子の目から泪がテーブルの上にしたたり落ちた。一同は惘然として、彼女がハンドバッグを探り、ハンカチで目を拭うのを見ていた。
「すみません......これで中座させていただきます。我儘ばかりいってご免なさい。でも後悔したくないんです。自分の心がわからないままに、ただ押し流されるのは、どうしても厭なんです。心を整理したら戻ってきます。失礼します......」
深く頭を下げて立上り、泳ぐようにして菊谷明子は和室を出て行った。とっさに平山圭子は座を立ち、菊谷を追った。そうしなければならぬと感じたからだった。郁江がそれを望んでいることが、目顔を見なくても、それとわかっていた。
21
「菊谷さん!」
廊下で追いつき、振り向いた菊谷明子の目は真赤になっていた。
「大丈夫ですか......?」
他にいいようがなかった。とっさに何も言葉が出てこないのだ。
「大丈夫よ、圭子さん」
その点は菊谷明子も同様だったらしい。
「本当は大丈夫っていい切る自信なんてないの。だって生れて初めて家出するような気分なんですもの。心細いし、淋しくて恐いわ。でも、みんなといっしょにいるのがもっと切なくてつらいから、そうするだけ......圭子さん、あなた本当に先生がお帰りになると思う?」
小柄な菊谷明子は体軀に似ぬ強い力で、圭子の腕を摑んだ。必死の語気であった。
「もちろんです。なぜそんな風に思われるんですか?」
「あたし、郁江さんがあんなに驚異的にしっかりしてしまったから、もう先生はお帰りにならないんじゃないかという気がして......居堪れなくなってしまったみたい。先生がもしこのままお帰りにならなかったら、と考えると、不安と恐ろしさで気が違ってしまいそうになるの......ねえ、教えて。圭子さんはどうしてそんなに強く深く、先生を信じていられることができるの!? あなたは少しも迷ったり悩み苦しんだりすることはないの!?」
「それはもちろん、不安はあります。心細くなって、恐いと思うこともありますよ」
「だったらなぜそんなに平静にしていられるの? ただぐっと抑えつけて、表に出さないだけなの?」
「わたくし......変ないい方ですけど、心の奥の方に沈潜してしまうんです。そうすると心配や不安や恐怖は、ちょうど海面近くで荒れ狂っている嵐みたいに感じられて、心の深い部分ではひっそりとして平穏で、静かなんです......」
圭子は躊躇しながらいった。自分のいっていることがちゃんと相手に伝わるかどうか疑わしかった。
「神を信じよう、先生を信じようという思いは、心の奥深く沈潜するにつれて、どんどん強まってくるんです。不安になってくると、わたくしいつもそうやって落着きを取り戻すことにしているんです」
「圭子さんは偉いのね。あたしにはとてもそんな真似はできない......」
菊谷明子は嘆息した。
「心が波打ち騒いで、ボロボロになって崩れて行くようで、本当に気が違ってしまいそうなの。何をやっても気が休まる暇がないの。こんな苦しい思いをするのは初めて......もう厭! 大声でそう叫びだしたくなってしまう......先生がお帰りにならなければ、何をしても虚しいしつらいし、苦しいだけ」
「でも、自分自身から逃れることはできないんじゃないでしょうか」
圭子は自分の率直なものいいにはっとした。
「ごめんなさい。無神経ないい方をしてしまって......でも、やっぱり逃げてはいけないと思うんです。自己逃避をすればするほど、苦しさがどんどんつのってくる。それは間違いないと思います。今は逃げずに正面から苦しみを押し返す時じゃないでしょうか......菊谷さんの責任はとても重いんです。ご自分ではそう思っていらっしゃらないかもしれませんけど、会の土台になって支えているのは菊谷さんなんですよ。菊谷さんこそ会の基盤なんです。郁江ちゃんが菊谷さんを会の幹部として選任したのは、ちゃんとそれが明らかになっているからだとわたくしは思うんですけど......もしかしたら、菊谷さんはそのことが負担になっているのかもしれませんけど、わたくしがもし選任するとしても、やはり同じだったと思います」
「負担でないとはいえないわね、やっぱり......」
「それは郁江さんが選んだからで、もし投票で菊谷さんが選ばれたとしたら、もっと抵抗がなかったということですか?」
「そうね。そうかもしれない......今まで考えたこともなかったけど、圭子さんのいう通りかもしれません」
「郁江ちゃんが民主的な手続きを取っていないからですか?」
「ええ。それもあるでしょうね」
「でも、会はもともと民主的な手続きで作られたわけじゃありませんよね? 東丈先生のお考え通りに作られた組織であって、合議制や投票などで動かされてきたことは一度もないんですから......相談ずくで全ては決められるべきなのに、郁江ちゃん一人で独断専行をやっている、郁江ちゃんは独裁者だ......でも、先生もそうだったんです。先生の場合は当然で、郁江ちゃんの場合はとてもいけないこと、許されないことなんでしょうか?」
「あたし......わからないわ。本当は郁江さんに協力してやるべきなのかもしれない......でもこだわりが心にあるの。抵抗があるの。だから、徹底的に反省して自分の心を深くみつめたいの」
菊谷明子は途方に暮れたようにいい、圭子の腕を握りしめた。
「暗いわ......圭子さん。急に冷たくて寒い夜になってしまったみたい。自分で自分の心がどうにもならない。確固不動だと信じ切っていたものが、グズグズになり頼りなく崩れ始めたみたい。人間の心って、こんなにあっけなく、他愛ないものなのかしら......? 心が塩酸を掛けられたみたいに、痛くて熱くて苦しいわ。胸の裏側が灼け爛れてしまっているみたいなの......」
「菊谷さん、聞いて下さい。会では民主的な手続きを取ることが絶対に正しいとは限らないんです。今まで投票で決められたことなんか一度だってありません。大事なのは、皆で相談ずくで決めることではなくて、東丈先生がそうしておられたように、郁江ちゃんが宇宙意識の波動に心を合わせて動いているかどうかということでしょう? 違うでしょうか? 大切なことはそれに尽きるとわたくし思うんです。そしてわたくしたち一人一人の心が、宇宙意識の波動に合っているかということじゃないですか? そして更にいえば、わたくしたち一人一人が大いなる波動にどうやって心を合わせるかということじゃないでしょうか?」
圭子は自分が男っぽい論理性をもって説得にかかっているのを感じ、ぼんやりとした驚きを覚えていた。いつも自分はロレツが廻らなくなるように、論理の脈絡がもつれ、自分の喋っていることがわけがわからなくなってしまうのだ。
まるで援軍でも来たみたいだ、と圭子は思った。
「これはわたくしたち一人一人の大切な問題なんです。だって宇宙意識の波動に同調しているのは、東丈先生お一人だけというのが、これまでの会の現状だったんですものね。宇宙意識に心を合わせるということと、ただやみくもに先生に盲従して行くこととは全然異った方向なんです。わたくし、今やっとそれがわかりました。先生が会の発展を抑えていらしたのは、それがはっきりとみんなに認識されるのをお待ちになっていたんだって!」
明快な光が心に射しこみ、圭子は夢中でいった。初めて経験する透徹した洞察の瞬間であった。
「心に苦悩が生じるのは、宇宙意識の波動から同調がずれたという証しなんです! だから、自分の心の苦しみをよく確かめれば、同調を取り戻すことができるはずなんです。苦悩というのは正しい方向付けを得るために、どうしても必要なことなんですね! わたくし、これまでなぜ人間には苦悩なんて厭なものばかり沢山あるんだろうと考えていたんですけど......」
菊谷明子は大きな目をみひらいて、茫然と圭子の顔を凝視していた。血の気のない固い顔に、少しずつ人間味のある表情が現像され始めた。
「あたし、今なにかちょっとだけわかったみたい!」
菊谷明子は声に力を取り戻した。
「圭子さんのいった、心の奥深くに沈潜するという意味が......つまりそれが宇宙意識の波動に心を同調させるということなのかしら。あたし、心の奥底ではやはり先生を信じている......強く烈しく信じていると思うの。でも心が波打ち騒いで、平常心が失われると、どうしていいかわからなくなってしまう。
今ちょっとだけだけど、嵐は海面近くだけで起こるという言葉の意味がわかってきたわ......だから、深く沈潜することができれば、あたしも先生を信じきっている自分を発見することができそうな気がする! うろたえて苦しんでいる自分はやっぱり〝偽りの自分〟なのかしら......」
表情がほぐれた。冷たく凍っていた体に再び熱した血がめぐり始めた印象であった。
「よく考えてみるわ! 圭子さん、ありがとう! やっと、少しだけど糸口が見つかったみたい! 不思議ね、今の今まで堂々巡りを果てしもなく繰り返してきたのだけど、ぱっと新しい路の入口が見つかったような気がするの!」
声が弾んできた。気まり悪そうに微笑する。
「これで旅行する気力が湧いてきたわ。元気が出てきた。圭子さんのおかげよ。本当は旅行に出かけるのだって、厭で億劫で堪らなかったのだけど、今にわかに楽しみになってきたの! くるっと心が一瞬にして回転してしまったみたい!」
「やっぱり旅行にはお出かけになるんですか?」
「ええ。行ってくるわ。本当の自分と出逢えそうな気がするの! お土産持って帰ってくるわね。圭子さんには本当にいくらお礼をいってもいい足りないくらい......」
何も改まって旅行に出る必要はないのではないかと思うほどの急変ぶりであった。暗くかげっていた眉が晴れ、頰がにわかに艶を帯び、ふっくらとしてきたようであった。人間の心と肉体の不思議な合一ぶりを目のあたりにする心地であった。
「旅がしたいの。前からそう思っていたわ。何か自分を変える素晴らしい出逢いがある......ずっと前からそんな予感がしていたの。それが昔からの夢だったんだけど、今ようやっと果たされる......」
菊谷明子は自己陶酔の感じられる口ぶりでいった。先ほどまでの滅入りようからすれば信じがたい落差が存在した。しかし、悪いことではない、と圭子は思った。陰々滅々とした旅立ちよりどんなに好ましいかわからなかった。
自分がこんな風に、相手を説得できたというのは目新しい経験であった。だれかが助けてくれたのかな、とふと思った。自分にあれだけの論理性のあることがいまだに信じられない。──先生が助けて下さったのかもしれない......その考えはぞくぞくするような魅力があった。
「皆さんに、心配は要りませんと伝えて下さらない? 大丈夫、元気で帰ってきますって......本当に今はっきり自信が湧いてきたわ。さっきまでの苦しさが噓みたいにスッキリと取れてしまったの」
ロビーで立話している二人に、塾生たちが目礼して通ることに圭子はようやく気付いて愕然とした。菊谷明子を説得することに夢中で、ここが塾の玄関ロビーであることを忘れ去っていたのである。塾生たちの挨拶に目もくれず、高声で話し合っていたのだ。
塾で見かける人々は、GENKENの会員とはタイプが全く変っていた。一目で正常な職業についていないと知れる若者、筋骨逞しい武道青年など、会の都会的で線の細い若者たちとははっきりと異質のものであった。それだけに骨太の迫力、活気が漂っていたといえるかもしれない。
女性の塾生は少いようだが、黒衣をつけて度胆を抜かれるように嬌かしい女性が一人目を奪った。婉然と圭子らに向って会釈を送ってくる。白水美晴であった。
美晴が塾に入ったとは聞いていたが、こうして見ると異彩を放っているとしかいいようがなかった。無骨な塾の雰囲気の中では、あまりにも華やぎすぎ、艶かしすぎた。これほど異色の取合せというものはなかった。
菊谷明子を送り出して戻ってくると、美晴が傍へ寄ってきた。色っぽくて圧倒されそうだ。圭子はなぜか溜息が出そうになった。どちらかといえば、美晴という美女は苦手である。細胞の隅々にまで、全身これ女という嬌かしさが充ちている。女のエッセンスを濃縮したような女性だ。
塾の若者たちにどのような影響をもたらすかと思うと、なにやら空恐しくなってくる。男性の精神集中を乱す妨害物として、これ以上の存在はまたとないのではないかという気がするのだ。男という男は彼女が傍にいるだけで気もそぞろになってしまうであろう。
「今日は子供を連れて来たんです」
と、美晴は他意なく頰笑みながらいった。心を許した親しみを見せてくる。圭子は苦手意識があるだけに気が引けた。美晴は本人としては出来るだけ地味な装いで振舞っているのであろうが、黒という色を身につけると、特殊な色っぽさが滲み出してしまい、かえって逆効果になっていた。
「木村市枝さんの弟さんが、うちの子供を診て下さるというので......」
挨拶を終えると美晴はいった。目に輝きがあり、全身がふわりと浮き上るような華やぎに包まれている。明るい陽光が隅々にまで射しこんでいるようだ。
「今、いっしょに庭で遊んで下さっているんです。どうなっているのか心配ですけど、田崎さんが二人きりにしておいた方がいいとおっしゃるものですから......」
相手が田崎の名を口にすると、胸のどこかが攣るような気分になった。その場から逃げだしてしまいたくなる。苦手としかいいようがなかった。これほど他人に対して敬遠の気分を抱いた覚えはかつて一度もない。決して嫌悪感というのではないが、〝波長〟が合わないのである。合性が悪いという不幸なのかもしれないが、白水美晴の方は少しも意識していないようだ。それどころか特別な親しみを見せてすり寄ってくる。美晴は憧憬の目で長身の美少女を仰いでいるのだが、本人の圭子は全くそれに気がつかない。
「さっき郁江先生にお逢いしたら、大丈夫だと太鼓判を捺して下さいました。子供は必ずよくなりますからって......塾の皆さんもとっても親切にして下さるんです。地獄からようやく上ってきたという気持です。本当にこれ、実感なんですよ......塾へ来ると気持が和んでほっとします。お手伝いといっても、飯炊きばあさんのようなことしかできないんですけど、不思議に思うほど楽しいんですよ。ああ、心が安らぐってこういうことだったんだなって、つくづく思います。お金やその他のものじゃ決して得られないものが、塾へ来るといくらでもあるんですね......今までガツガツと生きてきて損したなって思います」
白水美晴はよく喋った。少女っぽく活きいきしている。二十三歳の年齢相応に若返ったようである。三十近い女の妖艶さと最初に感じた印象は消えている。今の美晴は、悪女の蠱惑よりも、無邪気さの印象が勝っていた。懸命に喋る美晴に、ただ圭子は合槌を打つしかなかった。精々、よかったですねとでもいう他はない。
「今日は、会の皆さんが大勢見えていらっしゃるんですね」
美晴は他意のない口ぶりでいった。
「それで、チャンスと思ってあたしも来たんです、子供連れで......あわよくば会長先生にお逢いできるかもしれないと思ったもので。会長先生はもうお帰りになったのですか?」
胸にずきりと突き刺った。美晴は事情をよく知らないらしい。東丈に会わせるという田崎の約束を無邪気に信じ、期待をつのらせているのであろう。
「まだなんです......」
口重になった。
「あら......それで、いつごろお帰りになるのですか? やはりアメリカへ行かれたのですか? 皆さん、そうおっしゃっていますけど......」
「わからないんです。すみません......」
「本当に?」
一瞬、美晴は探るような目の色になった。それからトラブル含みの事情を察したのか、心が臆したようであった。
「ごめんなさい。いきなりこんなことお尋きしてしまって......何かあったのかなって感じていましたけど、やっぱり......」
「いいえ。いずれ田崎さんが塾長代行として皆さんにお話になるはずです。わたくしからはちょっとまだ申し上げられなくて、すみません」
「何か大きなことが起きるのでしょうか?」
美晴は怯えを見せていった。
「田崎さんは心配するなっておっしゃってましたけど」
認識の浅い美晴にしてみれば、会や塾の前途に待っているものが想像もつかないのであろう。この地球が壊滅し去るような大異変があるいは行手に待ち構えているかもしれないのだが、そうした危機意識はまだ美晴に到達していなかった。
さもなければ、田崎は心配するなといったせりふは口にしないだろう。美晴にとっての専らの関心事は自閉症の子供のことなのだ。そして一種の人間修養の場として塾をとらえているのであって、幻魔大戦の認識はまだ遠方にあった。話に聞いているにしろ、現実感はほとんどないのであろう。
大変動を恐れるのは、肉を持つ身にとっては止むを得ぬことであるのかもしれない。人間が生老病死という肉の囚われを超えることの至難さを思わずにはいられなかった。
人間の本質が光り輝く宇宙意識の一部分だといかに頭で考えても、肉体的な恐怖は少しも減じはしない。それは現実感覚とは全く別次元のことなのだ。
頭の中にいかに〝宇宙の法〟についての知識を詰めこんでも無駄なのである。
頭に詰めこんだ知識は決して心の支えにはなってくれはしない。
それどころか、ある意味で肉体的恐怖を脱し、〝生老病死〟を克服しているかもしれない菊谷明子でさえ、心を襲う動揺から免れていられないのだ。その点は圭子自身も同じであろう。肉体的な死は恐くない。大変動への恐怖心は稀薄といってもよい。
しかし、それでも心は他愛なく揺れ動いて止まるところを知らない。敏感な振り子のようにゆらめき出してしまうのだ。
どこまで行ってもきりがないのだな、と嘆息したくなってしまう。
意志的な濃い眉をした若い女性と目礼を交わして、圭子は相手が東洋病院の看護婦、松代直子であることを思いだした。東洋病院には現在、久保陽子が入院中である。陽子の様子を聞かなければ、と思った。笛川医師のおかげで警察沙汰になることは危く免れたが、笛川の診断では全治二週間の重傷である。矢頭の傷害行為は事件として警察が処理すべきものだが、久保陽子の申し出によって、自傷事故として扱われたのだ。マスコミを慮って内密にされたのだが、圭子にはそれがいいことかどうか見当がつかない。凶暴な魔に等しい矢頭はそのまま野放しになっているのである。
郁江は自分自身を囮にして矢頭をおびき寄せるつもりらしいが、果してそれが賢明な策かどうかはわからない。あまりにも軽率すぎるような気もする。しかし、郁江には成算があるようである。
圭子は、相手の白水美晴が自分の返答をじっと待っていることに気付き、たじろいだ。どこまで行っても厄介事にはとめどがないのだ、と告げたい気分になった。
「それは......いずれ田崎さんがお話になると思いますけど」
われながら、これは逃げだなと気が差した。しかし、いつまでもこの色っぽい銀座の女性のお相手を務めているわけにはいかなかった。苦手な相手が自分に親愛の情を示してくるほど困ることはない。顔を見ただけではだしで逃げだしたくなってしまう。
わずかに会話を交えただけで、早くも精神的疲労を覚えている有様なのである。不思議なほど消耗してしまう。圭子はこれほど疲れる相手に会ったことがない。
こんなことではいけない、と自戒するのだが、どうにも我慢ならなくなってしまうのだ。当の美晴には一片の悪意があるわけでもなく、むしろ圭子に対して好感を持ち、すり寄ってくるだけに、罪悪感が増大してくる。圭子は生来、対人的な好悪の乏しい方である。それが白水美晴だけは、できるだけ遠ざかっていたいという切なる気持にとり憑かれる。
つくづく人間関係とは難しいものだと嘆息を禁じえない。
「松代さん!」
と声をかけて圭子は意志的な眉の女性を招き寄せた。美晴を松代に押しつけて肩代りしてしまおうという胆だった。早く合同幹部会に戻らなければならなかった。
が、罪悪感が消滅するわけではないことは明白であった。白水美晴は、圭子の悩み事の種子になることがはっきりとした。
美晴の親しみをこめた接近には堪えられないのだが、さりとて彼女をつれなく、不誠実に扱えば、良心のとがめが増大して苦しくなってしまうのだった。
生きている限り、悩み事は尽きないのだ、と圭子はいくらか絶望的な気分にとらわれた。相手が憎らしくて堪らないというだけなら、まだしも扱いやすい。反省によって嫌悪感を取り除く努力をなすことができる。しかし、嫌悪というのでもなく、ただ肌が合わぬという生理的な反撥はまことに始末が悪かった。
生老病死を克服するなど、おこがましくて簡単に口にするのは間違いだ、と圭子は思い知らされた。
自分の心が自分でどうにもならない。白水美晴を遠ざけることは自己逃避だとわかりきっている。美晴を好きにならねばならぬ、と裡なる義務感の要請に心を搾めつけられている。
だが、好きでもない人間を作為的に好きになろうと努めるほど苦しいことはまたとなかった......
22
合同幹部会は、菊谷明子と圭子を欠いた後も議事進行を続け、井沢郁江の報告が続けられていた。
「それから、例の〝寝返り幻魔〟のことなんですけれども......」
と、郁江が口にしただけで、重く沈んだ空気がにわかに浮上を始めたようであった。
「その後、〝幻魔の康夫〟は何かいってきたか?」
と、田崎がすかさずいった。
「それは止めて下さいよ。約束じゃないですか!」
康夫がふくれっ面をし、人々の口から笑い声が漏れた。〝幻魔の康夫〟の話題が出ることほど、康夫が厭がることはまたとなかった。
「まあ康夫がそれほど嫌うなら、〝幻魔の郁江〟と呼んでもいいんですけどね」
と、郁江はいった。
「箱根セミナーの最終日の夜、わざわざ箱根のホテルまで、どうやって探りだしたのか、電話をかけてきたことは、もう皆さんのお耳に入っていることと思います。──どう、予言が当ったでしょう、とひどく自慢していました。つまり杉村さんの件と、それからセミナーが荒れるということを予言的中させたというわけです。わたしたちの動静は全部読めているのだ、といいたいんでしょう、きっと......」
「ヨタッパチを口から出まかせに並べたことが、たまたま当ったということじゃないのかな?」
田崎は眉をしかめていった。
「こっちを精神的にゆさぶる戦術かもしれんぞ。幻魔側のスパイが入っている、とこちらに思わせて疑心暗鬼にさせるのが目的かもしれない。俺は〝幻魔の康夫〟の言を信用することには反対なんだ」
抗議しかけた康夫を大目玉でじろりと睨んで田崎は続けた。
「こっちに食いこんで、揺さぶるのが目的じゃないか? もちろん江田四朗の指令通りに動いているんだ。多少は本当の情報をこちら側に流して信用させ、こっちへ入りこんでから二重スパイをやる気だと俺は睨んでいる。だから、〝幻魔の康夫〟を相手にするのは、俺は反対だ。役にも立たない囮の情報を摑まされて、翻弄されることだってありうる」
「幻魔がこちら側の情報に詳しいとしても、不思議はないと思うわ。幻魔にはもともと妖力があるんですもの。ただ〝寝返り幻魔〟はちょっと興味があるの。たとえ、二重スパイが目的で接近してくるとしてもね......向うもこちらにだいぶ興味を持っているようだし、お互に相思相愛ってとこかな?」
「またまたやめて下さいよ!」
康夫が声を高めていった。
「縁起でもない! 幻魔と相思相愛なんて、冗談にもならないですよ!」
「だって、向うはわたしのことが好きらしいんですもの」
郁江は平然といった。
「反対派の人たちが、あのセミナーの晩、ひどいお腹下しをしたでしょう? 食中毒かどうかわからないけど、なぜか同じ食事をしているのに、反対派の十人だけがすごい下痢しちゃったのね。〝寝返り幻魔〟はそれを知ってて、もう大喜びで笑うのね、本当に面白がって......だから彼女というか彼というか、向うは心情的にわたしを応援しているわけ。幻魔が敵であるわたしに肩入れするっていうのは、確かにおかしいし、うさん臭いけど、わたしを応援してるのは確かなのね。もっとも動機は、江田四朗の鼻を明かしてやりたいという近親憎悪に発しているわけだけど」
「それが危ないんだ!」
「つけ入る手じゃないのか?」
康夫と田崎が同時にいった。
「実をいうと、わたし、向うを憎からず思っているの。だって、わたしそっくりに化けてくるし、声とか喋り方とか、わたしそのものなんだもの。こないだテープの自分の声を聞いたら、向うがあまりにもそっくりに似せているのがわかって笑い転げちゃったわ」
「............」
列席者は一様に不安げな面持で、けろりとしている郁江を眺めた。
「憎からず思うって......幻魔を?」
康夫がようやくいった。啞然とした表情であり、郁江は笑った。
「情が移ったみたい。幻魔といえども、ただむやみに憎たらしいだけじゃなくて、愛すべきものもいるんじゃないかなって、思いはじめたところよ。だって面白いんだもの。それは幻魔だけあって、意地悪で辛辣で悪の波動をぷんぷんと臭わせているけどね。えげつなくてまったく信用できないっていう印象は強いんだけど、わたし自身の中にも意地悪で辛辣な部分があるから、そのあたりで共鳴するのかもしれないわ。向うにもそれがわかっているわけ」
「そんな......気をつけて下さいよ」
康夫は深刻の権化のような顔付と声でようやくいった。
「向うはなんとかして、郁姫様に隙を作らせ、付け込もうとしているにきまってるんですよ。なのに、郁姫様がそんなに軽々に気を許していたら危険じゃないですか。いつ足許をすくわれるかわからないんだし」
「わたしだって、そこはちゃんとわきまえておつきあいするつもりよ。だって、幻魔は幻魔だもの。でも身許は幻魔と知れているんだし、たとえ幻魔といえども神の子であることには変りがないでしょう? だから、向うがコンタクトしてくるたびに、いろいろお話をしてあげるわけなの」
「しかし、それが心配で......」
「やあ、まるで身内の若い娘さんが、いかがわしい男とおつきあいを始めたような心配ぶりですな」
と、平山圭吾が大声でいった。
「しかしね、お父さん。やっぱり相手は幻魔ですから。ちょっとでも気を許したら、大変なことになるんじゃないかと思うわけですよ」
「しかし、郁姫様はすでに暴力団の若い衆を何人も改宗させているし、実績があるのではないですか? いや、この塾に来るなり、ぎくりとさせられましたよ。どう見ても筋者とわかる若者がうろうろしているので......」
「申しわけありません。服装や髪型までまだ連中も手が廻らないので。いずれは正業に就かせようと思っているのですが......」
と、田崎が頭を下げた。
「ご無礼があったらお詫びします」
「いやいや、なかなか折り目正しくて、びっくりさせられましたよ。田崎氏のご指導ぶりよろしきを得て、真人間に返りつつあるわけですな」
「一人一人は悪い人間ではありません。やはり暴力団という悪い磁場の中にいると、人間放れしたとんでもないことをやり始めるわけです。塾に通ってくるようになって、だいぶ落着いてきました。これは郁姫の影響で、俺はただ羽目をはずさせないように見ているだけです。もうじき全員組からも抜けることになりそうです......例の山本という大幹部が協力してくれるので楽です。チンピラはなかなか足を抜けないものなんですが。昏睡状態から回復した義も、退院したら塾へ来ることになっています。義のお母さんにいわせると、もう人柄が変って神様みたいになったそうで、親子で郁姫を崇拝しきってますよ。奇蹟の恩寵にさずかったというわけで......しかし、郁姫はえらく暴力団のチンピラどもには人気があります。連中は女神様のように信心してますよ」
「火薬のように火がついたら物騒な年頃の若い衆ですからな。それは大変なことです。郁姫様の影響力は甚大ですな......それなら、幻魔も同じことかもわかりません。その〝転び幻魔〟も、郁姫様の人間的魅力に惹かれて接近を計ってきたとすれば、ですが。暴力団の若い衆が慕い寄るのであればですな、幻魔だって同じことをするかもわかりません」
平山圭吾は分厚い掌を振りながら熱心に弁じた。
「だからこそ、東丈先生は郁姫様に後事を托されて行かれたのではないですか? 先生が郁姫様の中には巨きなものがある、と漏らされていたのを思いだします。その魅力には特別なものがあると......包容力にかけては余人の及ぶところではなく、さしずめ男であれば万軍の将だ、とおっしゃっていました。私なども今の郁姫様の指導ぶりを拝見しますと、先生のご炯眼ぶりをしみじみと感じさせられます。先生のお留守中、危げなく代行を務められることを私は疑っておりません」
「それは同感です。俺も先生から、郁江が大きな力を現わすということは幾度か聞いています。だからこそ塾を挙げて協力態勢に入っているわけです。しかし、ことが幻魔になると、安易な態度は厳禁で、郁江が自信を持ちすぎるのが気がかりになる......」
「そうそう。それそれ!」
康夫が声をあげた。
「自信の持ちすぎ、自己過信! それが一番心配なんですよ! 自分だけは大丈夫、幻魔になんか騙されないと妙な自信を持たれるのがね! だって、幻魔がそんなに組みし易かったら、だれも苦労はしませんよ! 暴力団の若い衆みたいな単細胞と違って、どんな高等戦術を使ってくるかわかったもんじゃないんだ。そんなはずじゃなかったと後悔したって追っつかないわけでね。幻魔に対して情が移ったの、憎からず思っているだの、軽々なことはいってほしくないんで」
「わかりました。誤解を招くようなことはもういいません」
と、郁江がきっぱりといった。
「でも、幻魔に対しては、わたしなりにきちんと一線を劃しておりますので、どうぞご心配なきように。ただわたしは、幻魔をひたすらに嫌ったり疎んじたり、徹底的に最初から排除するという姿勢はとりたくないんです。もちろん、甘いのかもしれませんよ、わたしは......でも、わたしの中では幻魔がひたすら憎らしいとか厭わしいという感情は乏しいんです。幻魔といえども人間だっていう気がするの。だから幻魔を見つけしだい殺せ! そんな気持にはなれない......幻魔といえども、接触のチャンスはいつも残しておきたい。時にふれて話しあいの機会を作り、交渉し、説得し、取引するだけの勇気とゆとりを持っていたい。だって、わたしたちの目的は〝光のネットワーク〟を育てることで、幻魔と正面切って戦い、撃破し、皆殺しにし、幻魔を宇宙から消滅させてしまうことじゃないと思うから......先生は己れの裡なる悪を怖れよ、とおっしゃったけど、幻魔を殺せとは一言もいわれていない。闘争と破壊によって幻魔を制圧せよと命ずるかわりに、〝光のネットワーク〟を育てなさいといわれたわけでしょ。幻魔に打ち勝つ方法はこれ以外にはないって......だからわたしは〝幻魔の康夫〟......失礼、〝転び幻魔〟と交渉の余地を持ってみようと思ったの。もちろん、相手を手馴付けたり、仲間に引きこめると甘い期待を持っているわけじゃないの。わたしは観念的にじゃなく、幻魔の実態を把握したいし、個人的に知己を持って理解を深めたいと思ってる。
でも、幻魔にも可愛い所はあるんだなんていったら、甘さを通り越して思い上りになってしまうかしら? でも、物凄い顔の鰐だってペットにしている人はいるんだし、どこかに可愛いところはあるんじゃないかって思うんだけど」
「俺だったら幻魔とつきあうよりは、ベッドの下で鰐を飼いますがね」
と、康夫がいった。
「たとえ鰐に食われたって、幻魔の暗黒磁場へ引っ張り込まれるよりましだから」
「あたくしは、郁江さんが自己過信に陥っているとは思えません」
と、三千子が口を切り、その場がしんとなった。三千子の言には特別の説得力があるようであった。
「幻魔をただいたずらに憎み、恐れるだけではなんの進歩もないと思うんですの。相手のことをよく知って、理解しようとする郁江さんの態度は素晴らしいと思います。思わずはっとさせられました。幻魔に媚びたりへつらったりするのではもちろんなくて、幻魔もやはり同じ人間なんだ、といいきった時の郁江さんにあたくし感動してしまったんです。
そうなんです! 幻魔も元をただせば人間なんです。今は暗黒磁場の中に引っぱりこまれてしまっているけれども、本当は宇宙意識から分れた〝光の意識〟なのだし、神の子だとおっしゃる郁江さんの考え方は本当に感動的です。丈がいった〝光のネットワーク〟も、宇宙的な業病として幻魔の暗黒波動を捉え、宇宙全体の病患をいやすのが目的だったはずですもの。
幻魔への恐怖心や敵対感情、嫌悪で、会と塾を結束させ、武装させようという意図は、決して丈にはありませんでした。〝光のネットワーク〟は唯一、幻魔を浄化する〝力〟だと丈が語ったことを憶えています。今も目をつぶると丈の声が聞こえてきます。でも、不思議なことに、いつそれを丈から聞いたのか、どうしても思いだせないんですけれど......この一か月間、丈とはほとんど逢っていないし、電話ですらろくに話していないのですけれども、丈から確かにその話を聞いたという記憶があるのです。もしかしたら夢だったかもしれません......でも、あまりにも声音がはっきりと甦ってくるもので......」
「先生は確かにそうおっしゃいました。先生の心とお姉様の心はしっかりとつながっていらっしゃるので、そうなるのだと思います」
郁江は厳粛な声音でいった。
「先生は今はこの場にいらっしゃらなくても、お姉様の心の中に、そしてわたしたちの心の中にしっかりと存在なさっているんです。先生は消えたわけでもなく、なくなってしまったわけでもありません。人間の心と心のつながりはこんなに強いものなんだよ、とわたしたちに教えてくださっている、そういう気がするんです。〝光のネットワーク〟が進めば当然のことになるんじゃないですか?
だから、先生が姿を消されたのは、ちゃんとした理由があるはずです。でも、頭ではわかっていても、菊谷さんのように動揺してしまうことは仕方がありません。いつも〝偽我〟と競り合っていなければならないんですから......
わたし、思うんですけど、会員と塾生の皆さんには、先生のご不在のことをはっきり告げるべきだという気がします。真実を告げればいいんです。曖昧なことをいって、糊塗するかわりに、東丈先生は更に大きな自覚を得られるために旅されている、と明確に告げるんです。みんな必ず納得します。詳しいことを告げる必要はありません。先生は肉体を持たれたまま、高次元世界をめぐっていらっしゃるかもしれないし、星の世界をたずねていらっしゃるかもしれない......みんなそう考えるかもしれないし、それでいいんです。わたし自身、そんな気がしています。何もこそこそと隠す必要はないじゃないんですか? 先生は偉大な奇蹟の人であることを、みんなよく知っているんですから。わたしたちは、己れのなすべきことをしっかりやって、先生のお帰りを待てばいいんですよ。何も心配することなんかないって、わたしは申し上げたいですね!」
「俺も賛成だ。人に尋かれれば、今郁姫がいったようなことを答えている。先生のなさることが俺たちの理解を絶したとしても、俺たちがあまりにも愚鈍なためだ......それは絶対に間違いない。俺は、郁江に力を発揮させるために先生が仕組んだことだと思ってる。宇宙意識フロイの仕組みといっても同じことだが......」
田崎が力をこめていった。顔が紅潮していた。
「あまり姑息なことはしない方がいい。必要もないことまで隠してしまうと、重苦しい秘密主義になって、息が詰まるような空気になってくる。できるだけオープンにやりたい。郁江がマスコミに対して、開放的すぎると批判が強いようだが、状況はどんどん変ってくるし、対応のために変化して行くのは止むを得ない。全面的なマスコミ解禁とまでは行かなくても、態勢は整えておいた方がいいと思う。俺は、郁江が一番やりやすいようにバックアップして行く用意がある。土屋氏という人のこともからめて、マスコミ対策は全面的に見直して行くことを提案する。お姉様はどのように考えられますか?」
「あたくしは、郁江さんを中心にして、みなさんが協力して行けるようにするのが一番よいのではないかと思います。丈もそう考えていたようですけれども、マスコミとの関り合いはもっとも重要だと思うんです。丈がこれまでマスコミをシャットアウトしていたのは、態勢が整わなかったからで、永久にマスコミを閉め出しておくのが目的ではなかったはずです。ともすれば、丈の遣り方を踏襲するのが最善、と保守的な考え方に流れてしまいますけれども、状況はどんどん変って行くのですから、それにつれて処方箋も変って行くのが当然です。さもなければ、いたずらに閉鎖的になり、伝統主義になって、退化して行ってしまうのではないでしょうか? あたくしは、皆様が郁江さんのやりやすいように協力して行くことが一番望ましいと思うんです。革命的と思えるような改革も恐れる必要は少しもありません」
三千子の論旨は明快であり、誤解の余地がなかった。
「丈には丈の遣り方、郁江さんには郁江さんにもっとも合った方法があります。反対派の人々を説得するためには、ここにお集りの皆さんの協力が絶対に必要です。どうか郁江さんに力を貸して上げてください。反対派の人たちも、状況の変化に戸惑っているのだと思うんです。感情的になり、郁江さんを排斥しようとする人たちはごく少数ではないでしょうか。丈の提唱する考えに対して、本当に理解を持っている人であれば、一時的な動揺を克服して、必ず郁江さんに助力を与えてくれるはずです。菊谷さんもきっとわかってくれると思います。もっとも大切なのは〝光のネットワーク〟を結集させることだとみんなわかっていることなんです。皆様が説得を惜しまないことによって、感情的になった人々も心を鎮め、納得なさるのではないかしら?」
郁江にとっても、三千子がこれほど強力なバックアップに廻ってくれるとは予想もしないことであった。三千子はGENKENの総会に出席して、郁江を支援してもよいとまでいったのだ。
「ありがとう、お姉様。お姉様にそういって頂けると鬼に金棒です」
〝応えない郁姫〟もさすがに目をしばたたかせながらいった。
「わたし、負けませんから。もう私生活はないものと覚悟しています。命に代えてもやります。どうせ一度は死んだ身ですから!」
「物騒なことはいいっこなし。郁姫様はやっぱし類い稀れな魅力でもって人々を虜にしちまう方がいいですよ」
康夫が元気を回復して、弾んだ声を出した。
「郁姫様にかかったら、だれだってコロリといかれちまいますよ。現にあのいけ図々しいことでは天下一品の風間トップ屋も、郁姫様にしつけられてぐっと上品になったじゃないですか。郁姫様は魅力でもって売りまくって下さい。集まってくる連中は片っぱしから懐ろに取り込んじまえばいいんです」
「郁姫は、包容力を生かすことだ」
と、田崎が保証した。
「お前には特別製のとほうもない包容力がある。お前が大物の証拠だよ。お前は自分のやりたいようにやれ。俺は全面的にバックアップする。会の方はお姉様が話して下されば、まとまりがつくだろう」
「やれやれ......なんとか内憂外患のうち内憂の方は切り抜けられそうですな」
康夫はほうっと溜息をついた。
「菊谷のお姉さんがごねだした時は、どうなることかと思いましたよ。あのおとなしい女の人が目を据えると、やっぱり恐いもんな。東丈先生のいない会なんか、意味がない......そんなことをいいだしたら、どうしようかと思ってた。菊谷さんは会の方では人望があるらしいし、万一そんなことになったら影響が大きいから」
「大丈夫。きっとうまく行くって、今確信が湧いてきたわ。菊谷さんのことだって大丈夫よ。きっとわかってくれる。わたしがもっともっと努力しさえすれば......」
と、郁江が確信をこめていった。
「あたしも今、そう思いました。圭子さんが菊谷さんを説得してくれるって。ここに集まっている者が全員で郁江さんを盛り立てて行けば、会だって絶対に崩れないと思うんです。郁江さんはもう自分を捨ててしまっているし、自分の利益のことなどこれっぱかしも考えていない。もし、会がうまくまとまって行かないようだったら、それは郁江さんのせいではなくて、ここにいるあたしたち全員の責任じゃないでしょうか!」
木村市枝はびっくりするような熱弁を振るった。いつも口下手で、思い屈した沈黙の多い市枝には珍しいことであった。
「市枝さんのいわれる通りです。例外的な数人を除いて、いわゆる〝反対派〟の人たちもしんから郁姫様を排斥しようという気はないんです。僕たちで必ず説得して行く自信があります。日下君のような例外的な人たちは、ちょっと〝反対派〟とは背景が違います......」
「そのことは、今はいいわ」
内村久雄の発言を郁江がさえぎった。
「彼らのことはあまり触れないようにね。できるだけ仲間内でも話し合ったりしないようにして。彼らは別の意図で動いているんだし、もう少し様子を見て、はっきりした動きになるまで待ちたいの。彼らは鋭敏だし、こっちの考えも波動で察してしまうところがあるのね。だから、仲間内だからと気を許して話合ったりしないこと。いいわね?」
「わかりました。皆にも注意して、充分に口止めしておきます。余計なことを申し上げてすみませんでした」
内村が素直に頭を下げる。
「日下って、あの箱根セミナーで、郁姫様弾劾をやった奴でしょうか? そいつら、何か特別の陰謀でもめぐらしてるので?」
と、康夫が尋ねた。
「よそから会に入りこんできている......」
と、市枝がいった。
「手先なんですね? もしかしたら幻魔に関係があるんですか?」
市枝は自分の言葉にびっくりしたように目瞬きをした。出過ぎた発言をしたと感じたのだろう。
「そのことについては、いずれはっきりしてからご報告します」
郁江は、市枝の鋭さに驚いたという目をちらりと投げていった。
「今はまだ話題にしたくないんです。なぜかというと彼らはやっぱり非常に霊的に敏感で、こっちが関心を向けてるなっておのずとわかってしまうところがあるから。もう少し様子を見て、正体が明確になるまで触れないようにしようといっているわけなの」
「なるほど。泳がせておいて、正体を自ら暴露するまで待とうというわけか」
と、田崎。郁江は頷いて、話題を変えた。
「今日はちょっと皆様を驚かせたいことを用意してあるんですよ」
郁江は悪戯っ子の貌をしていた。
「さて、何でしょう。おわかりの方、いらっしゃいますか?」
「お年寄り......」
と、木村市枝が言下にいった。自分の口走ったことに戸惑った貌になる。
「あたり! どうしてわかったの、市枝さん!? まるで超能力があるみたい!」
郁江はぱっと大きく眸をみひらいていった。
「ねえ、本当に超能力が出てきたんじゃない? 一発であてるなんて、わたしの意識を読んだんじゃない?」
「ふっと心に湧いたものだから......どうしてかわからない。頭の禿げたお年寄りのイメージがやってきたの」
木村市枝はおどおどしたようにいった。なにかしら怯じ気付いてしまったようであった。
「ああ、禿げ頭のお年寄りっていうと、郁姫が箱根行きの特急で会ったという高野さんとかいう老人のことじゃないのか?」
と、田崎がいった。
「当たり。でも、市枝さんがお年寄りといいあてちゃったからね。だけど田崎さんの霊感も冴えてるわよ。実はその通りなのです。今日は、高野さんを特別にお招きしてあるんです。皆様に是非ともお引き合せしようと思いまして......きっと皆様にとっても、有意義な素晴らしいめぐりあいになると思います」
「高野氏という老人は、どこかの大企業の会長さんだとかいっていたが......?」
と、田崎。
「確か箱根の仙石原に会社の施設があるとかいってなかったか?」
田崎は陪席していた松岡高志に尋ねるような目を向けた。松岡は反射的に首を縮め、後頭部に手をやった。不始末を働いて、郁江にこっぴどく叱られた記憶のなせるわざであろう。
「その後、高野老人とは電話で何度かお話しまして、意気投合したというか、必ず近い内にお目にかかりましょうと固い約束をしたんです。それで、今日は皆さんとのミーティングもあるしということを申し上げたら、是非ともお会いしたいというわけで......事後承諾になりましたけど、この場へお招きしてしまったんです。すみません......」
「ほう。高野さんという方が、今からここへ......?」
平山圭吾は興味津々の顔付になった。
「大企業の会長というと、どこの方ですかな?」
「経済団体協会の会長さんですって。わたし全然そういうことに関心がなかったので、ピンとこなかったんですけどね」
「えっ。それじゃあの高野会長じゃないですか!? 大物も大物、経済界の大立者ですよ! 郁姫様があまり気軽におっしゃるので、高野会長とは夢にも思いませんでしたよ!」
平山は興奮に顔を染めて大声を出した。仰天してしまっていた。
「そうなんでしょうね......わたし、無知なものですから、面白い、楽しいおじいさまだなあなんてただ思っていたんです」
「冗談じゃない。そんなこといきなりいわれたって......」
田崎は手を泳がせるような仕草をしながらいった。
「何の用意もしてないんだぞ。そんな大立者に、気軽にいきなり来られても困る」
「あら、どうして? いつものように平常心をもってお迎えすればいいんじゃない? 何も特別のことじゃないんだもの」
「特別のことじゃないといったって、お前......」
田崎は、ふっと力を抜いて苦笑した。
「まあ、そうだな。郁姫のいう通りだ。経済界の大立者だからといって、あたふたすることは少しもないわけか。人間同士は魂同士のつきあいだからな......やっぱり郁姫、お前は偉い。魂でいえば、お前こそ本当の大物なのかもしれんな......」
「いいお友達になれるわ、きっと。わたしたち意気投合しちゃったもの。世の中にはチャーミングな素的なお年寄りもいると思って感心してしまったわ」
「郁姫様にかかると、だれでもかたなしというか、肩書なしの魂としての人間になっちまうんですな」
平山圭吾が嘆息した。
「いや、それが本当の人間同士のつきあいだと思いますが、だれしも地位や権力、名誉などの夾雑物に邪魔されて、裸同士のつきあいはできません。お年寄りと孫娘ぐらいの年齢の差異がありながら意気投合して親友になってしまうとは、郁姫様もさることながら、さすがに高野会長もよくできた方というほかはないようですな」
「じゃ、さっそくお呼びしてきます」
郁江はいって身軽に立ち上った。
「えっ、郁姫様自らお迎えに行くんですか!?」
と、康夫があっけにとられていった。
「お迎えに行くのは、我々がやりますよ」
「実をいうと、その必要はないの。高野会長は車を塾の門前に停めて、さっきからお呼びがかかるのをお待ちかねなの」
と、郁江がいった。
23
無名塾の庭の、薄茶色になった芝生の上に木村明雄は立っていた。体こそ同年齢の少年たちよりはるかに小柄だが、四肢にはみっしりと肉がみちていた。一か月前の、棒のように無細工な手足、身体障害者のアンバランスさから完全に脱してしまっている。
もはや頭部も不釣合に大きく感じられることはない。健康な子供の精気が小柄な全身に充ちていた。眸は輝き、頰は内部からバラ色の光が滲みでてくるようであった。
頼りない冬の日射しが当っている芝生には、もう一人の子供がうずくまっていた。明雄よりずっと歳下であるが、体のサイズはたいして変りがない。明雄があまりにも小さすぎるのである。体の成長が遅れた明雄は、五歳の子供とほとんど大差がない。
芝生にしゃがみこんだ子供は、かぼそく弱々しく、精気がなかった。まるで影ででもあるかのように存在感というものがない。顔立は整っているが、能面のようである。固く凍りついて表情がまったく動かない。
しゃがみこんだまま、自発的な動きを見せようとしないのである。他から強制されなければ外の世界と関与する意志をまったく持たないのだった。木村明雄が手を引いて導けばついてくる。しかし、手を放せばその場にうずくまってしまう。目は瞠られているが、地表の一点に据えられたまま凝固してしまっている。
自ら、外界との関り合いを一切拒否してしまっているのだった。口はきかず、目は相手を見ることもしない。知性や意志を表出しない目であった。明雄を見てはいても、本当は見ていない。何の関心もないのだ。目の前の壁を眺めるのと変りがないのだった。
明雄は慰めるように右手を伸ばし、子供の頭頂に置いた。手が触れた瞬間だけ、子供の体はぴくりと反応したが、後は相手を無視しきっている。明雄の存在すら認めていないのである。子供の狭く閉された世界には、他人の介在する余地はない。子供にとり、木村明雄は存在しないのと同じである。

明雄はすでに、相手の子供の抱えている問題を完全に把握してしまっていた。一目で理解したのである。
いや、それ以前に、姉の市枝から、白水美晴の子供の話を聞かされた瞬間、どこが悪いのかわかってしまったようだ。わかってしまったというより、教えられたという方が正しかった。彼の友達が、彼にしか聞こえない声でささやいてくれたのだ。
〈子供は閉じこもっているんだ〉
と、友達はいった。
〈傷つくのが厭だから、だれにも逢いたがらないんだ。だから、耳も聞こえないし、目も見えないように自分でしてしまったんだ。他人が恐ろしいからだよ〉
〈だって、恐ろしくない人たち......親切な人たちだっているのに〉
と、明雄は心でいった。それだけで充分に考えを交換しあうことができるのだった。かつて、杉村由紀たちと遠感で話し合ったのと同じだ。今は明雄はもっぱら友達と話し合っている。他人がそばにいない時は、自分の口を動かして言葉を交換することもある。友達も明雄の口を使って語るのだ。しかし、他人が居合わせる時は、誤解を招くから控えるように、と友達はいう。精神状態のおかしい人間が一人二役を演じているように思われる、と彼はいうのである。
友達のいうことは、いつも理にかなっていて正しいように思われた。それだけではなく、暖くて親切であった。友達が身近に現われると、明雄は安心して身も心も和んだ。
〈君は暖かいね。まるで石油ストーブみたいだ〉
と、明雄は感想を述べた。
〈金色に光っていて、ホカホカする。君がそばに来ると、どんなに寒くても大丈夫だ。他の人たちはなぜ君のような友達を持っていないんだろう?〉
〈他の人たちは気がつかないんだ〉
と、友達はいった。
〈僕は君にしか見えない。だから、あまりこのことは他の人たちにいわない方がいい。きっと君の頭がおかしくなったと思われるから......〉
〈お姉さんにも話しちゃいけないの? お姉さんならきっと信じてくれる。でも、お姉さんも君が見えないみたいだ......〉
姉だけでなく、霊能力を持っている塾や会の人たちも、友達には気付かないようであった。他の優れた人たちが、明雄と同じようにできないのが不思議でならなかった。
〈他の人たちには僕が見えなくてもいいんだよ。僕は君だけの友達なのだから......何も心配することはない〉
友達はいつも安心を起こさせる遣り方で力強く保証してくれた。きらきらと黄金色に輝きだし、目を射るような光を放つ。
〈僕は君を導いている。沢山のことを教え、何が善くて何が悪いか教えている。そしていつも君に害をなす黒い波動から君を護っているんだ。他の人たちにも僕のような友達はいるが、その人たちにはもう見えなくなってしまっている。目が塞がれてしまっているからなんだ。小さな子供たちは心が澄んでいるから、友達が見えることもある。君が僕を見て話ができるのは、君が小さな子供のように心をいつも澄みわたらせているからだ〉
〈君がいつも僕といっしょだったのなら、なぜ今まで僕は君が見えなかったんだろう? なぜ気がつかなかったのかな?〉
〈気付いてはいたさ。君はいつも心の中に光を感じていたじゃないか。君はいつも光の充ちた青空を心に視ていた。つまり、君が見ていたのは僕なんだ...... 君の心が光に満たされたから、僕は君に自分の姿を見せることにした。君に心の用意ができるまで待っていたんだ〉
〈僕は君とお話ができるようになって嬉しいよ。君ほど素晴らしい友達はいない。他の人たちにもみんな友達がいるのに、僕たちのようにお話ができないなんて、ずいぶんつまらないことだし、淋しいことだ。そうじゃないだろうか? みんなが自由に友達と話せるようになれたら、本当に素晴らしいのに......〉
〈そうだね。そうなれば素晴らしい。本当は人間はだれでもそうできるはずなんだ。でも心の目を閉ざしてしまっているから、僕たち友達が存在することすらわからなくなってしまっているんだよ〉
〈田崎のおじさんも、康夫さんも? 先生も郁江さんも、やっぱりわからないのかしら?......素晴らしい力を持っているのに〉
〈みんな少しずつ感じるようになってきている。でも、君のように僕と自由に話し合うことはできない。もしかしたら、明雄。君がみんなに教えてやれるようになれるかもしれない。みんなにも本当は素晴らしい力が隠されているんだから......〉
〈僕がみんなに教える? みんなとっても立派な素的な人たちなのに、僕なんかが......〉
〈みんなは、心配事や悩み事で心がいつも震動していて、友達に気付く余裕がないんだ。君だって心が乱れて、有害な震動に邪魔されてしまったら、もう僕とは会えなくなってしまう。たとえ僕がそばにいても姿は見えず、声も聞けなくなってしまうんだ〉
〈そんなのは厭だな! 君と会えなくなるなんて......〉
〈君がいつも優しい気持を失わず、全てが善くなりますように、と神様にお祈りする心があれば、僕たちはいつまでも友達でいられるんだ。だれでもそうなんだよ。その逆に、自分さえよければいい、人はどうともなれ、と思って、冷たいきびしい心を持った者には、悪い友達がついてしまう。明雄、君もよく見かけるだろう。黒い邪悪な者たちだ......有害な震動を人々の心に送っている。君はいずれ、本当のことを人々に教えてあげなければならない。郁江のお姉さんを前に苦しめていた黒い邪悪な者たちが、この先どんどん有害な震動を強めてくるだろう。君は自分にできることをして、人々を助けてあげなさい。それが君の仕事なんだ。よく勉強することも大事だが、君の本当にやるべきことは、困っている人々、苦しんでいる人々に光の存在を教えてあげることだ......この子供は君の力を必要としている。君は宇宙の大きな強い光を子供に見せて、気付かせてやるんだ!〉
〈そうだ......僕はやるよ!〉
明雄はきっぱりといった。遣り方はわかっている。友達が心の中に描いたイメージで見せてくれたからだ。
〈君はとても小さくて、でも素晴らしく光っている。君は妖精なんだろう? 僕は本で読んだ......親切で善い妖精......でも、君のように強く、太陽のように光り輝くなんて、本には書いてなかった。君は時々、眩しくてはっきり姿が見えなくなる......〉
〈妖精は他にいる......君はいずれ妖精たちを見るだろう。でも、僕は妖精じゃない。僕は君なんだ! 君は僕なんだ! 君はいつか僕と一体になるのさ! 君が充分に学んで、僕らの世界へ帰ってきたら!〉
友達は正視に堪えないほど強く光り輝きながら笑った。小さな太陽が間近に輝いているようだった......
冬の弱い日射しが、柔い日だまりを作っている芝生の上で、年上の少年は自信に満ちて、しゃがみこんでいる子供の頭頂に右掌を載せた。その光景を見守っている者がいれば、木村明雄が子供に祝福を与えているように見えたかもしれない。
〈そうだ、明雄。彼に光を入れるんだ〉
と、友達が告げた。
〈そうすれば、子供には光が見えるようになる。彼の何も見ていない目が光に気づくようになるんだ〉
〈そうだ。僕はそうするつもりだ〉
〈彼の心の門をあけて、入って行くんだ。子供はもう君の送った光に気づいているぞ。わかるだろう? 体が暖くなり、居心地がよくなってきたんだ......彼の鉛色の暗い寒い世界に光がさしこみ、暖めているんだ。ほら、彼が冬眠から覚めかけたヤマネのように、君の光に目を向けようとしている〉
〈僕はもうこの子の心と接触しているよ。この子は不思議がっている。こんなことは初めてだと思っている。この子の友達は僕と同じことをなぜこの子にしてあげなかったんだろうか......?〉
〈それは、君がこの子にしてあげることに決っていたからさ。友達は僕もそうだが、余計なこと不必要なことは決してしないことになっている。僕たちには先のことがわかるのだ。この子供の心に光を与えるのは、君のやるべきことだったのだ。だから、僕らはこうなる時を待っていた。君は自分の力によって、この子供の心を開き、光を与え、彼と心を結び合わせる。それはずっと以前から、決まっていたことだったのだ......僕たちはそのためにずっと協力してきたんだ。君たち人間は、僕たちが助力していることに少しも気がつかない。〝真実〟を知らないのだ。明雄、君は〝真実〟を多くの人々に、子供だけではなく大人たちにも教えてあげなくてはいけない〉
明雄が心で触れ、光を注入した時、相手の子供には目立った変化が生じた。たじろぎ、身をすくませるだけではなく、明らかに好奇心と興味を動かし、もっとよく明雄を見ようと身じろぎしたのである。
凍結していた体の線が融け、柔らかみが現われた。子供は自分に変化をもたらしている相手に関心を抱いたのだった。なおも自己閉鎖し続けようとする慣性は強い力を持っていたが、子供はその力の拘束をゆっくりと押しのけ、明雄を見ようとした。明雄のもたらす光があまりにも明るく朗らかだったので、反応せずにいることは、子供にとってかえって苦痛だったのだ。それは拒否できない魅力をそなえていた。もしそれが霊的な光でなければ、子供の注意を惹くことは決してなかったであろう。
明雄は、友達に教わったように肉体から霊体を少しだけ分離させ、霊体の手を使い、相手の子供の頭部を探った。相手の肉体ではなく、肉体と重なり合って存在する霊体の頭部に触れたのだった。彼は友達の指導によって、霊体離脱と呼ばれる心霊的な作業に熟達していた。いつでも好きな時に、肉体、霊体の分離を計ることができ、その度合も完全な分離から部分的な分離に至るまで、自由に選ぶことが可能になっていた。
明雄の霊体の手に、冷たいぬるぬるした感触の異次元生物が触れた。太い紐のように、子供の霊体の頭部に巻きついているのである。子供の心身の活力を奪取し、冷たく痺れさせている異次元の〝寄生虫〟であり、明雄には霊視によってその形状を明らかに認めることができた。
友達の指示により、明雄は異次元生物を子供の霊体から引き放し、捨てた。光の息を吹きかけてやることにより、〝寄生虫〟はあとかたもなく消え失せてしまうのだった。虫や蛇の形状をした異次元生物につきまとわれているのは相手の子供だけではなかった。子供のきれいな母親も同様であった。大きな蛇が幾重にも母親の霊体にからみついているのが明雄の霊眼の前に露呈されていた。
巨大な蛇だが、明雄は恐れなかった。明雄の心は光に充たされているために、恐怖が忍びこむ間隙はなかった。明雄は他人の恐怖や苦痛に対しておそろしく敏感ではあったが、彼自身は恐怖や苦痛を感じなかった。相手の思い遣りや気遣いに心を占められてしまい、己れ自身思い煩う余裕がなくなってしまうのかもしれなかった。
自己保存の欲望に欠けるために、恐怖心が極度に稀薄化しているのである。異次元生物は明雄に引き剝されても、反抗の気配すら示さなかった。一瞬身をもがかせるだけで、光の圧力によって異次元へ吹き飛ばされてしまう。
霊体にからみついて、活力を奪っている〝寄生虫〟を剝がすだけで、子供がすみやかに思考力を回復するのがわかった。自己閉鎖するだけでなく、エネルギーを吸う〝寄生虫〟により思考能力さえ奪われていたのだ、と明雄は知った。子供の自ら閉じこもろうとする心がエネルギー生物を呼び寄せ、目も耳も塞がれてしまったのだとわかる。
〈君はだれ?〉
と、子供が興味を湧きたたせて尋ねた。心に射しこんだ光があまりにも快活だったので、いっぺんに灰色のどんよりした暗鬱な心象が吹き飛んでしまっていた。子供らしい活きいきした関心が目覚め、子供はおずおずと心を開き、しだいに大胆になった。快活な魅力に溢れた誘いには抗することができなかったのである。
〈僕たちは友達だ〉
と、明雄は答えた。彼はもっとも正しい答を知っていた。
〈僕は君だ......君は僕だ。僕たちは別々のものではないのさ〉
子供は身震いして、しっかりと目を見開き、明雄を見上げた。二人の子供の間に心の障壁は存在を止めていた。
本書中には「黒ん坊、キチガイ」という差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
二月に入って、時間は異様な速さで流れ始めた。その加速感は目がくらみ、息を吞むほどであった。
主宰の東丈を欠いたまま、GENKENは矢のような急流のまっただ中に乗りこんでしまったようであった。だれもが慄然とするほかはなかった。
東丈の不在は知れわたったが、奇妙なことにそれが会にとりマイナスに働く傾向はなかったようである。会長代行の井沢郁江の発揮する影響力ががぜん衆目を集めるに至っただけではなく、東丈という主宰の神秘性が失踪によっていっそう強まったのは、信じがたい成行といってもさしつかえなかった。単なる謎に充ちた失踪というにとどまらず、大霊能者の時空を超えた旅という突飛な解釈が流布され、意外なスムーズさで受け容れられた事実によった。
二月の第二週発売の週刊誌数誌がいっせいに、ニューヨークから流された国際超能力者会議のネタを扱い、いずれも大きく東丈の名前に触れた。メイン財団によって設立された〝米国超能力者協会〟が、国際会議の開催に踏み切り、その招聘者リストの筆頭に東丈の名があげられていたのである。
渋谷の平山ビルは以前の比ではないマスコミの取材攻勢に真正面からさらされることになった。会員たちに衝撃的であったのは、東丈の他に高鳥慶輔の名もリストアップされており、〝国際超能力者会議〟がらみで高鳥が東丈とGENKENを凌ぐスポットライトを浴びていることであった。
高鳥慶輔は同時に二誌の女性週刊誌のインタヴュー記事に登場し、ショッキングなデヴューを飾ってのけた。恐ろしいほど通俗的な形ではあったが、東丈に優る知名度を一気に獲得したといってもよい。
一九六八年二月八日。
杉並の〝無名青年塾〟を、作家の土屋香が訪れた。東三千子が土屋と逢って話し合いたいと望んだからだ。マスコミの注目の焦点が合った渋谷の平山ビルを避けて、無名塾が場所として設定されたのである。
トックリのスウェーターに革の上衣という無造作ななりで現われた土屋は、三千子との初顔合せに緊張しきっていた。例によって瘦せた面長の顔は無表情だが、案内に立った河合康夫の声も耳に入らぬほどであった。
「すげえ記事が載ってますな」
と、康夫は大広間のテーブルの上に散乱している週刊誌に顎をしゃくっていった。
「読みましたか、土屋先生。先生のお友達の風間さんがどんな記事を書くか、心配になってきましたよ。土屋先生、変な記事を書かせないように、しっかり監督、頼みますよ」
康夫は十年の知己のように慣れなれしかった。人見知りというものを知らないのだった。
「風間君はアメリカ行きの金の工面に夢中で、このところ逢っていないんですが......」
土屋は若造の康夫に対しても礼儀正しかった。
「杉村さん恋し恋しと太平洋を越えて飛んで行こうってんで......思いこまれちまった杉村さんが大変だ。しかし、おかげで風間氏も滅多な記事は書かないだろうと......もっともこれは希望的観測ですがね」
「そうですね。風間君も最近変りましたからね。週刊誌編集部の方で、よっぽど変な記事を書かせようとするなら別ですが」
土屋はおずおずとさえ聞こえる優しい穏和な口調でいった。
「変な記事を? そんな可能性があるわけですか?」
「まあ、それは......ご存知のように大衆週刊誌で、えげつないというのか、わりあい刺激的な記事を載せるところですから、おとなしい書き方では飽き足りないということも、あるいはあるかもしれません」
「それはまずいな......風間氏が本当は書きたくなくても、編集部の方でどぎつく、えげつないデタラメを書かせようとするかもしれない、そういうことですか?」
「まあ、そういうことがないとはいえないかもしれないですね。もちろん最終的には風間君次第といえるでしょうが......」
「大変だ。郁姫様にもっとしっかり、風間氏の教育に力を入れるようにいわなきゃならない! 土屋さんも風間氏説得に一つご尽力願えませんか......」
「まあ、僕も風間君に逢えば、それとなくいってはいるのですが。彼も思いこんだら頑となってしまう性格でしてね。しかし、今は彼自身GENKENに対して非常に肩入れしていることですし、ご心配のようなことはないんじゃないかという気がします」
「風間氏はGENKENの中枢部にしっかりもぐりこんでしまったわけで、滅多なことをされたらそれこそ会がひっくり返っちまいますよね。まあ、その点は土屋先生も郁姫様の書記になったわけだから同じですが」
と、康夫はづけづけといった。
「なんとかして、風間氏をあれしてくれませんかねえ、土屋先生。いつ風間氏の気が変るんじゃないかと気が気じゃないんですよ。風間氏にはちょっと人間的に問題があるってことはないですか?」
「風間君がちょっと変った人物であることは確かですが、彼が郁江さんに心服していることは間違いないと思いますよ。僕は郁江さんの指導力を非常に大きく評価していますし、信頼しています。人間の信頼関係をしっかりと確かなものに培って行かなければ、郁江さんの大きな仕事はそもそも成り立たないわけです。だから僕は信じています。郁江さんはこれからも多様な人間をスタッフとして抱えていかねばならない......大切なのは包容力だし度量です。僕は郁江さんの遣り方は素晴らしいと思います。僕としては、風間君に関してもなんら心配していません」
きっぱりした返事であった。
「それはまあ、土屋先生と郁姫を引合せたのは風間氏だし、土屋先生がそうおっしゃるのは無理もないですがね......」
康夫は胸の裡が晴れない顔をしていた。
「風間氏がガラッと気を変えたら、やっぱ、致命的なことにもなりかねませんしね。たとえば、風間氏がニューヨークまで杉村さんを追いかけていって、手ひどく振られたらどうします? そうなるに決ってますがね。可愛さ余って憎さ百倍ってことになるじゃありませんか?」
康夫は口をつぐんだ。白水美晴がお茶を運んできたからだ。土屋はびっくりしたような目で、この場違いに嬌かしい美女を見、大急ぎで目をそらした。照れ性であることは明白であった。
土屋が戸惑っているのを、康夫はにやにや笑いながら見物していた。美晴は地味な和服をこそ着ていたが、その放出している波動は水商売のものであり、媚は体臭そのもののように匂っていた。
美晴は土屋香に対する興味を隠せなかった。関心を抱いた男に対しては、本能的に女の媚を発動させてしまうのである。〝女のエッセンス〟と井沢郁江は評したが、〝女であること〟を武器にしている美晴のような存在は、同性からは決して好感を持たれないものだ。
その結果、白水美晴は昼間にふさわしくない存在になりきっていた。陰性で妖美なのである。昼間はどこにいても〝場違い〟になり、変に浮き上ってしまうのだった。
美晴が立ち去ってしまうまで、土屋は体を固くしてじっと座っていた。美晴の眸に浮んでいるねっとりした光で見られて息苦しくなったという顔をしていた。
「〝銀座の蝶〟ってわけですよ」
と、康夫は美晴が遠ざかって声が聞こえないと確かめてからいった。
「物凄く色っぽいでしょう? なんか場違いじゃないかって気はしますが、田崎の師匠が入れちまったもんで......あれでも地味造りに本人はしてるつもりらしいけど、どう見たって粋筋だし、黒板塀に見越しの松が似合っちゃいますよね。彼女のおかげで、塾の空気がうわついちまってね......しかし、本人は一所懸命だし、師匠もそんなことに気を取られる方が悪いという一言でしてね。しかし、ただでさえいい若い者が道心堅固におさまり返っていられない所へ、あのような色っぽさでうろうろされて、人間修養に励めるかというと、あたしは全くもって絶望的なんですが」
「............」
土屋は賢明な沈黙をもって、康夫の軽薄なお喋りに応じた。
「今の所、マスコミはもっぱら会の方へ殺到してますが、もし風向が変わって塾の方へ押しかけるようになってごらんなさい。あの妖艶なる美女は何者かと、それこそ下世話な関心の対象になると思いませんか? あれこれ取沙汰されると思うと、今から心配で......」
大広間の入口をくぐってくる女性の声音が、康夫のお喋りを断ち切った。東三千子が美晴に案内されて入ってくる。
土屋香は緊張しきって椅子から立ち上り、三千子を迎えた。視線の合った三千子がたじろぐほど土屋は緊張し、息詰る気配をただよわせていた。まるで真剣勝負の立合いのようだった、と後で康夫が評した。
東三千子と美晴はきわめて対照的であった。黒ビロードの服をつけた三千子は清楚であると同時に、息が詰まるほど神秘的な味わいがあった。黒い瞳が鮮やかに輝いて、白い小さな顔を際立たせている。土屋は電気に触れたように反応し、体を石のように硬直させていた。呼吸をしていないのではないかと心配になるほどの貌になってしまっていた。
いつも素顔に近い三千子がきれいに化粧しており、その小柄で精緻な美しさは衝撃的ですらあった。美晴の胆を潰すような嬌かしさは土屋の裡でみる間に色あせてしまったようである。
「申しわけございません、お待たせいたしまして......」
東三千子はたとえようもない優雅さを見せていた。東丈の姉ということでしか三千子を見ていない康夫が目をまるくしていた。匂い立ってくるように鮮やかなのだ。いつも東丈のかげに隠れてひっそりとしていた三千子が、丈の失踪以来、郁江と期を合わせて鮮烈な変貌を遂げたようであった。こんなに素晴らしい美人だったのかと康夫は舌を巻いていた。寒梅がほころびて凜烈とした芳香を漂わせているようだ。幻覚であろうが、陶然と酔う心地になってしまった。確かに梅の香をかいだと思った。
南に面した大広間の大きな窓ガラスからは、早春と呼ぶには早すぎる日射しが入りこんでいる。庭木に梅があっただろうか......後で調べに行こう、と康夫はふと考えた。
「ご本、読ませていただきました」
と、三千子が初対面の挨拶に続けていった。
「郁江さんにお借りしまして......土屋さんにお逢いして、お話を伺ってみたい。そんな気持にとり憑かれてしまいましたの。お目にかかれて、本当に嬉しく思っております」
「私こそ......」
土屋の額に汗が光った。大広間は暖房がききすぎているわけではなかった。
「光栄です。本を書いた甲斐があった......そう思います」
まるで真剣勝負だ、と康夫はまたしても感じた。緊張し、とぎすまされた精神が接することで、傍で見ている人間さえも弛緩を許されなくなってしまうのだった。
土屋は、郁江と逢ったことよりも、東三千子との対面に大きなものを見出しているのかもしれないな、と康夫は直観した。傍観している康夫自身圧倒されそうであった。白熱した波動が奔り出てくるような緊迫感である。康夫はぞくぞくと背筋に沿った毛が逆立ってくる気分の虜になっていた。
2
土屋香を三千子に引合わせると約束した井沢郁江が到着しないままに、二人は大テーブルをはさんで対座し、ぽつりぽつりと共通の話題である翻訳の話などで言葉を交わしていた。
土屋の方がすっかりあがってしまっているのだった。相手が東丈先生のお姉さんとなれば無理もない......と同席する康夫は観察していた。
塾生は遠慮して大広間に入ってこないので、二人のために貸切りにされたようである。それが余計に緊張感を高めているのかもしれなかった。
座もちのいい康夫も、二人の会話は専門的すぎ、口をはさめない雰囲気であった。それだけでなく、二人がこれから交わすべき会話に備えて、精神をとぎすましていることがひしひしと伝わってくるからだった。
自分の出る幕ではないらしい、と康夫は感じ取っていた。康夫風情の知的レベルでは追いつかないものを明らかに二人は持っていた。康夫がくちばしを突っこめば、二人は波長を乱され、迷惑するだろうという気がした。
東三千子と土屋は翻訳に関する専門的な話をしており、横文字が自由自在に横行しだすと、康夫にとっては完全な別世界となってしまったのである。専門家同士はことさらに疎外する気は持たなくても、素人の方で自然にはみだしてしまうのだった。
が、康夫の見るところ、緊張こそしているが二人の呼吸は合っており、その点は安心していられた。知的レベルもそうだが、合性もいいらしい。
三千子の瞳は黒々と光り、顔色は輝いていた。彼女がもの静かな女性であり、陰気というのとは違うにしても、声を立てて笑うことなどないと信じていた康夫には、それはめざましい変化であった。眠り姫が覚醒したほどの衝撃的な見ものであった。
郁江たち一行が弾け返るほどの華やかな活気をもって大広間に姿を現わすまで、康夫は郁江の遅参に苛々と気をもまずにすんだ。
「わたし、今朝、先生の夢を見たんですよ」
と、井沢郁江は開口一番いった。
「普段と全然お変りにならない姿でした。わたしもなぜか、先生に対して今どうなさっているのですかとかいつお帰りになるんですかとかお尋きしないんです......そんな雰囲気じゃないんですね。先生は何も心配していらっしゃらないという印象を受けました。わたし、先生の夢を見るの、今度が初めてなんです。先生が何も心配なさらないので、わたしも平静でいられるんだって、今度の夢でよくわかりました......」
ただの夢の話にしては、真剣すぎた。
「これは単なる夢じゃないんだっていう気持がとても強くするんです。物凄く鮮明なハッキリした夢です。こうやって皆様とお会いしているのと同じか、あるいはそれ以上にビビッドな記憶があります。わたし、これまでのことを全部、先生にご報告しました。先生とごいっしょに連れ立って、散歩するように歩きながら、箱根セミナーのこと、杉村さんのこと、風間さん土屋さんのこと、お姉様のことを残らず......先生はもちろん全てをご存知なんですけど、わたしがどういう風に感じているか話すことを望まれているとわかったからです。
先生にはなにかしら大きな、とても大事なことがあるんだとわかりました。この地上世界のことだけじゃないんです。この物質の頭脳じゃとうてい考えきれない、複雑な恐ろしく難しい問題があるんです。たとえば地上界の単純で原始的なコンピュータじゃ解析し計算できない問題を、高次元の超コンピュータにかけて計算している......そんな感じです。そのために先生は今、お出かけになっているんだな、とはっきりわかった時、目が覚めました。
先生はわたしたちをとても信頼して下さっているんです。それがわかって、とても安心感というのか、自信が湧いてきました。わたしたちは間違っていないんだ。このまま信ずる途をひたすら進めばいいんだ。先生は全てをご存知で一部始終を見守っておられるし、ご用がすめばお帰りになる! そんな固い確信をもってわたし、目を覚ましたんです」
気力がこもって活きいきとしていた。郁江は日増しに気合が乗ってくる印象を周囲に振りまいていた。周囲の者たちにも自信や活力をもたらす強い波動であった。少し霊的感覚のある者であれば、郁江が近くにいることはすぐに勘づくであろう。空気中の電位の如きものがみる間に上昇して緊張感、活力というべき張りがみなぎってくるからであった。
「わたし、いっしょに散歩しながら、いろいろなことを先生に相談しました。心配なこと、どうするか頭を悩ましていることをみな相談しちゃったんです。先生はそれでいいとかこうすればいいとか的確にサジェスチョンを与えて下さるんです。現実に先生と逢っているのと少しも変りませんでした......先生の表情とか話し方とか細部まで具体的にはっきり憶えています。
たとえば三千子お姉様のこととか、先生はとても喜んで下さいましたよ。お姉様には素晴らしい力が内在しているんだっておっしゃいました。三千子姉さんは僕がいる時には決して力を出さなかったろうって。やっぱり先生は何もかもご承知の上で、わたしたちの力を引き出すのが目的でお留守にされたんですよ! わたしそれを確信しました。今後は内在する力を急速に発揮する者と、そうでない者が画然と分れて、その格差はどんどん広がって行ってしまうだろう。それはまったく本人の自覚と努力にかかわるもので、資質とか才能には少しも関りがない。本来十の力を一しか使えない者よりも、五の力を三、四と使いこなして行く者の方がはるかに大きな仕事が出来る......そう、宝の持ち腐れって本当なんですよ! それに、努力は更に大きな力を呼びこむことができるって先生はおっしゃいました。つまりフロイの、高次元の力を呼びこんで使いこなすことが可能なわけで、わたしのように小さな者が先生の代役を務めるなんて畏れ多いことができるのは、どうやらそのためらしいんです......」
郁江は自分の気負い過ぎに気づいたように語調を和らげ、微笑した。
「普通の人が聞いたら、異様な気分になるでしょうね。気違いだと思われちゃうかも......夢の話を現実そのものと混同していると思うでしょうから。でも、大丈夫です、気は確かですから。こういう夢は初めてなんですけど、普通見る頼りない散漫としたとりとめもない夢とは歴然と違うんですよね。明らかに霊夢なんです。わたしと先生はどこか高次元世界にいてお逢いしたんです。
そこからは、この日本がよく見えるんですよ。人工衛星から見おろしたように、日本列島が明確に見えます。人間まで見えるんです。ただし人間は光点として見えます。たとえば、あれ、康夫はどこにいるのかなって見おろすと康夫が光の点になってすぐわかります。物凄く便利ですよ。だれがどこで何をやっているのか一目瞭然です。
つまり高次元世界から見ると、人間はだれ一人隠し事ができないってことですよね。光点といっても、いろいろな色合と光の強さがあるんです。高次元世界の〝管制司令室〟から見ると、人間はその心が光点となってスクリーンに映し出されるってことなんですね。心の浄不浄によって、人はそれぞれ色彩も光度も全然違うんです。素晴らしい心の持主は暁の明星みたいに強く輝いているし、そうでなければだんだん頼りなくなって、蛍みたいに瞬いています。緑や青の厭な鬼火みたいな光を出している人間たちも多いですよ。中には完全に真黒になって切れた電球みたいになった心の持主もいます......日本列島を高次元世界から見降ろすと、大きな宝石箱をひっくり返したみたいで、とても見応えがありますよ」
「それであたしはどんな色の光点に見えました?」
と、すかさず康夫が尋ねた。重厚に押し黙っているということができないのだ。つい口が滑ってしまう。
「頼りなくかそけく、こう遠い漁火みたいにチラチラと瞬いていたりして......」
「どうせそうでしょうよ。あたしなんかどうせ頼りないですからね」
「それは冗談です。思ったよりずっと勢いのある光で、金色に輝やいていましたから安心して下さい。新品の金貨みたいにね......」
「それじゃ、郁姫様はみんなの心の状態をカラー・ディスプレイで見てしまったということですか?」
康夫はまんざらでもなさそうに、期待をこめて尋ねた。
「もちろん、しっかりと見させていただきました。でも、あらかじめ思っていた通りでしたけどね」
「ちょっと聞かせていただきたい人の光と色合があるんですがねえ......」
「あいにくですけど、それはだめ。自分でその高次元世界へ出かけて見てきて下さい。教えたらカンニングになっちゃうもの。でも、康夫が本当に冷静に客観的な気持で、しっかりと人を見定めようとすれば、そんなに狂わないんじゃないかな? 意地悪な偏見や、先入観を持たないようにさえすればね......」
三千子と土屋香は興味深げに聞いていた。土屋はこうした〝突拍子もない神がかった〟話に対していささかも拒絶反応を示していなかった。彼のように理智的な人間がこれだけの許容を示すのは不思議なことであった。
「そうそう。土屋さんのことも先生にお話しました。先生は土屋さんのことがよくおわかりになっているようでした。土屋さんは大きな力を持っている方だし、土屋さんがわたしたちに協力してくれることを喜んでいるとおっしゃいました。土屋さんに伝言が先生からあるのですけど、ここでお伝えしてもいいでしょうか?」
「東丈先生から伝言ですか?」
土屋の顔にただならぬ緊張と驚きの色が走った。
「ええ。高次元世界からの伝言です」
「聞かせて下さい。どういう伝言か......」
「土屋さんが研究なさっている問題に関して、土屋さんの考えはおおむね正しい、と先生はおっしゃっていました。特に〝サタンの再臨〟という土屋さんの本で、指摘されているユダヤ問題は全くその通りだそうです。それは人類世界が今後迎える大変動の引金にもなりかねない......ユダヤの加える圧力に注意して下さいということです。我々の運動も必然的にユダヤ問題と関り合って行くそうです。幻魔は必ず利用するし、すでにハルマゲドンに備えて〝力の方向〟は定められているそうです。それにもう一つ、これは土屋さんの個人的な問題になりますけれども......」
「構いません」
土屋の冷静な顔は紅潮してきていた。
「土屋さんの現在の家庭問題ですけど、もしご自分の使命というものを自覚されたならば、なすべきことはおわかりになるはずだということでした。土屋さんにはもうプライヴェート・ライフというものはなくなった......そういうことなんです。おわかりになったでしょうか、先生の伝言......」
「よくわかりました」
土屋はきっぱりといった。顔面の紅潮は引く気配もなかった。ただならぬ感銘の虜になっていた。
「弟と話し合われたことを全部憶えていらっしゃるのですか?」
と、三千子が尋ねた。黒い瞳が強くきらめき、鮮やかな印象をもたらしていた。
「憶えています。これは大切なことなんだから絶対に忘れないようにしようと思いましたから。夢ではなくて現実に起きたことだという気分になってしまうくらいです。細部に至るまで明確な記憶があるんですよ」
「もしかすると、本当にそれは起きたことかもしれませんね」
三千子はいった。
「郁江さんは高次元の世界へ行かれて、丈と話し合われたのかも......あたくし、郁江さんにはそういう才能がおありになるんじゃないかと思っていましたの。やっぱりただの夢ではなくて霊夢であって、神託というものかもしれません」
「神託?」
と、康夫は突拍子もない声音を出した。
「神のお告げってやつですか? じゃ、まさしく神懸り......」
うっかり口走って首を縮める。だれも気にする気配は見せなかった。
3
「郁江さんの前世......ムウの王女様の時に、神託所の巫女の長をなさっていた......箱根セミナーのお話を聞いた瞬間、郁江さんはいずれ神託をなさるんじゃないかなと思っていましたの」
三千子は活気をおびた口調でいった。自分の予測が的中したことを喜んでいるのだった。
「過去に可能だったことは、今生でも必ずできるようになる......そんな気が強くしました。というより、過去の全ての蓄積はこの時のためにあったのかもしれないなって......郁江さんは今そうした力を徐々に呼び起こし始めていらっしゃるんですね。神託という形の予言は、郁江さんにとって一番得意なわざではないでしょうかしら?」
「今、つい神懸りなんて、失礼なことを口走ってしまいましたが、神託っていうのは、神様がかかって、ぺらぺら喋って予言したりあてものをするというんじゃないわけですね?」
康夫が遠慮がちにいった。
「巫女がトランス状態になって......つまり意識がなくなった催眠状態で霊を入れて、予言をしたりあてものをしたり、というのがいわゆる神懸りというのでしょうけど、ソル王女様の神託はそういうやり方ではなくて、意識を肉体から離脱させて高次元世界へ行き、そこで高次元霊からメッセージを受けるというものだと思います。トランス状態になると、本人の意識は失せてしまいますから、入った霊が何を喋っても本人には全くわかりません。ただ肉体の口を貸すだけですから、記憶は一切ないわけです。それでどんな霊が入って語ったか判断する審神者という存在が必要になるようです......霊が本物かどうか注意深く問答して判定するのがさにわです。もしかしたら悪霊が入って邪まなことを喋って行くかもしれませんから......ほとんどの神懸りは、霊媒の肉体の口を使ったり自動書記で文字を書いたりして行なわれるようです。
郁江さんの場合はもっと特別な形のもので、〝霊界探訪記〟を残したりしているイマニエル・スウェーデンボルクに似ているみたいですけれど......」
「そう、スウェーデンボルクに似ています」
と、土屋がいった。
「スウェーデンボルクは十七世紀の稀代の霊能者で、霊体離脱を自由に駆使することによって、いわゆる高次元世界を訪問して、記録を書き残したんです。郁江さんの遣り方は、いわばスウェーデンボルク流で、大変素晴らしいものだと思います。ムウの時代も同じようにして神託を下しておられたのでしょう。偉大な才能です......」
「偉大だなんていわれると困りますけど、とにかく先生のメッセージがお役に立てばいいなと思います。土屋さんの個人的な問題のことですけど」
「役に立ちました。あれこれ迷って決断を下しかねていたことがすっきりして、暗雲が晴れた気持です。なにもかもお見通しなのだとよくわかりました」
「わたしがお見通しなのじゃないんですよ。わたしはただ先生のメッセンジャーを務めさせていただいただけですから。高次元でお逢いした先生はまさに神の如き広い視野と叡智をお持ちなんですよ。なんでも先の先までわかっていらっしゃるみたい......」
郁江は尊敬をこめていった。今更のように高揚感を湧きたたせていた。記憶を呼び戻すと同時に、強度の幸福感が喚起されたようであった。
「わたし、間違っていない、大丈夫だって確信しましたよ。これまではどうしても、戸惑いがちにというか、頼りなさが吹っ切れないところがあったんですけどね」
「それで、あの強気ぶりですか? それはちょっと信じられないですが。で、先生は肉体を持ったまま高次元世界とやらに昇ってしまわれたんですか? それじゃまるで、イエス・キリストの昇天じゃないですか?」
康夫が懸念をこめた口ぶりで質問した。
「そうじゃないとわたしは思います。イエス様の場合とは違いますから。先生はわたしと同じように霊体離脱して、高次元世界で遭遇することになったんだと思います。そこは、なんというか〝管制司令室〟みたいな場所らしいんです。日本列島が人工衛星から見降ろすみたいに見えたと申し上げましたね。日本のことなら何でも即座にわかるんです。全ての状況が一瞬にして把握できます。
わたし思うんですけど、先生がどうしてあんなに世界状勢を的確に把握していらしたか、その理由がこれでわかったんじゃないでしょうか? 先生は霊体離脱して、〝管制司令室〟で、状況を読み取っていらしたんですよ。先生は高次元世界では、〝管制司令室〟の責任者なのだという気がしました。つまり、先生の〝光の本質〟といいますか、高次元霊としての先生は、ということですけど。肉体を持たれた先生、東丈という名の人間はあくまでも現身であり、仮りの姿なんです。高次元意識体としての〝光の本質〟が地上世界において肉体的表現を取ると、東丈という人間になります。これはわたしたち全てにとっても、同じことがいえます。わたしたち人間は一人残らず高次元意識体の肉体的表現、物質的表現、仮象でしかないんですよ」
「よくわかりますよ、それは。例の光球を箱根で見せられて、あれが自分の〝光の本質〟なんだと教えられた人たちなら、もっとよくわかるでしょうけどね」
と、康夫。
「でも、なぜ丈がそのままの姿で、〝管制司令室〟にいたのでしょうか? 〝光の本質〟である、真の姿をなぜ郁江さんに見せなかったのでしょうか?」
と、三千子が審しげにいった。
「それが少し不思議です......」
「それは、わたしがこの井沢郁江という意識のままで訪ねて行ったからじゃないですか。だから先生も東丈という姿を見せて下さったんだと思うんです。もし〝光の本質〟をそのまま見せられたら、わたしにはわからないだろうし......でも今度もう一度チャンスがあったら、本当の姿を見せて下さいとお願いしてみます。もしかしたら、光の圧力が強すぎて、わたしのような未熟者は、意識がブレてしまって消し飛んじゃうのかもしれませんけどね......たぶん、そんなことだろうと思いますよ。先生とお別れして帰ってくる時、振り返ってみたら、光が強すぎて何も見えなかったのを憶えていますから。光の天というか、〝光の宇宙〟なんです。高次元世界って、人間の肉眼で見ると光度が強すぎて、強烈な光以外の何物でもないんですね」
「いつ帰られるのか、それをしっかりと尋いてほしかったなあ」
と、康夫が嘆息した。
「向うへ行きっきりなんてことはないでしょうが、今度高次元に先生を訪ねる時は、必ずそのへんを確かめて下さいよ。俺はやっぱ、肉体を持った先生に早くお逢いしたいですよ。光の本体なんてとてつもなく偉大すぎておっかないもの。康夫君、と気軽に声をかけてくれる先生の方がいい」
実感がこもっていた。
「それは、わたしだってそうですよ」
と、郁江がいった。
「東丈先生だからわたしも気易くお話ができるので、〝光の本質〟そのものだったら、巨大すぎて宇宙意識フロイと区別がもうつかないと思うんです。やはり人間的に親しみがもてるってことは大切なんだなって思いました。宇宙意識となると、あまりにも偉大すぎて光の化身としかいいようがなくなるし、人間的なとっかかりがなくなっちゃいますものね。イエス様だってあんなに悲しそうでつらそうな顔をしているから、人間的な共感が持てて、ああ、大変だったんだなあっていう気になれるんじゃないでしょうか? きっとキリスト教が世界的大宗教にのしあがった秘密ですよ。
ですから、我々の運動においても、〝人間の顔〟をしていることが、ひょっとしたら大切じゃないかっていう気がしました。宇宙意識とか宇宙の法とかいうと、大がかりすぎてのっぺらぼうみたいになってしまうでしょう? ですから〝人間の顔〟って必要ですよ、きっと。
宇宙意識が東丈という顔をもって降臨して下さるから、わたしたちにも理解できるし、ついて行けるんだと思うんです。もし〝光の本体〟が直接地上へ降って法を説いたとしたら、人間はただ畏れかしこんでしまって、何もできなくなってしまうんじゃないかな......そう思います。だから、キリスト教で、神がイエスという神の子を人々に与えたという意味がわかるような気がします。
〝神と聖霊と子〟というキリスト教の三位一体理論は、つまり宇宙意識の構造論なんじゃないですか? 神というのは造物主で大宇宙意識、聖霊というのは宇宙意識フロイと名乗る高次元意識、そして子というのは、地上で肉体を持った高次元意識すなわち〝救世主〟ですよ。きっと宇宙意識、高次元意識は〝光のピラミッド〟の構造を持っているに違いないという気がします。大本の光、造物主である大宇宙意識から分霊して行く階梯というものがあるんじゃないかって思います」
「凄いですな。郁姫様の宇宙構造論ってわけですな」
康夫がひやかす。郁江はいっこうに意に介さず、テーブルの上にあった模造紙を引っ張り寄せ、マジックインキで素早く図解を始めた。〝光のピラミッド〟と記した三角形を描く。大きな三角形を小さな三角形に分けて行く。
「ピラミッドの一番上、頂点が宇宙の造物主で、この高さはポテンシャルで、エネルギー量が最大だという意味です。造物主の下に位置するのが、フロイのような宇宙意識で、更に高次元意識を沢山分霊します。つまり、これを見るとお分りのように、光のピラミッドは、光のスペクトラムなんです。神の下に七彩に分れる。この光の系列が、キリスト教などでいう七大天使ということになるんじゃないですか?
よく人間社会の構造をピラミッドにたとえたりしますよね。頂点に立つのは権力者で、下へ行くほど無力で弱い名もなく貧しい庶民というわけです。
でも〝光のピラミッド〟は、そんな人間の勝手に作った権力構造とは全然違うんです。このピラミッドの高さ、上下という位置関係は、物質的な権力の大小とは全く違って、光の量、宇宙エネルギーの量なんですよ。宇宙の光は、全てを在らしめる〝神の愛〟と同義だと思います。
こうしてみると、人間は全て神の分霊だということがよくわかります。神というか大宇宙意識はご自身の全てを、ありとあらゆる意識体に分ち与えられておられます。わたしたち人間は神の一部であり、〝神の子〟だといわれるのは、わたしたち人間が肉体を地上で持った高次元意識体に他ならないからなんですよね......」
「この宇宙構造論は画期的で、これまでにないタイプだと思います」
土屋香が遠慮がちにおずおずとさえ聞こえる声音でいった。
「仏教でいう〝曼陀羅〟も、仏教的な宇宙構造論の図解だと思いますが、郁江さんの〝光のピラミッド〟の方が、現代人にとっては遥かに理解しやすいと思いますね。〝曼陀羅〟は神様のお札と同じで、ご本尊様などと称して、拝む対象にしているところもあるようですが、本来からすれば馬鹿げたことです。
この〝光のピラミッド〟はどうやって思いつかれたのですか? 虹の七彩とか七大天使とか、〝光のスペクトラム〟論は非常に興味深いです......」
「〝管制司令室〟で先生とお逢いしている時に、話が出たんです。そのとたん〝光のピラミッド〟がスペクトラムになってパッと見えました。これは憶えとかなきゃいけないと思って、必死で帰ってきたんです。この〝光のピラミッド〟は本当はもっともっと深い意味があるんですよ、それこそ計り知れないほど深遠な......それははっきりしているんですけど、今わかるのは範囲がとても限定されています。

つまり、これは高次元世界の構造図でもあるわけですよ。こうして図解してみると、恐ろしく単純化されていますけれど、これは心の進化を意味しているはずなんです。
高次元世界は、〝心の世界〟ですよね。物質世界ではないんですから。心の世界、真の実在の世界、プラトンのいうイデア世界です。光の量は、心の広さ、豊かさを意味しているんです。大きな慈愛に満ちた明るい心は、それだけ宇宙エネルギー量が大きい、光の量が大きいんです。
つまり、この〝光のピラミッド〟の上下の階梯というのは、心の豊かさ広さを現わしています。上へ行くほど広大無辺な無量光の境地になります......下へ行けば行くほど、肉体を持った人間の性質が強まってきます。狭量な縄張り意識、自己本位な個人主義、慈悲や愛の乏しさなどが強調されてくるんです。すなわちわれわれ人間は、肉を持つがゆえに、本当の自分がわからなくなっているということですね。慈悲も愛も、糞食らえ、自分さえよければそれでいい、他人などどうともなれ......そうした心の光量の乏しさといったら、お話にならないほどで、このピラミッドの最下層にも位置できません。まして他人の足を引っぱり、蹴落し、それどころか他人を食い殺し、その肉を食らうという心になれば、もうまっ暗闇で、切れた電球みたいに真黒です。こうなると〝光のピラミッド〟とは対照的な倒置したピラミッド、逆三角形の〝闇のピラミッド〟に組みこまれてしまっているわけですよ......」
「〝闇のピラミッド〟すなわち〝幻魔ピラミッド〟というわけですな」
と、康夫。塾生たちが遠慮しながら大広間に入ってきて、そっと話に耳を傾けているさまに、チラチラと目を遣っていた。塾生たちは気兼ねしているのか近寄ってはこない。傍聴の許可を得ていないからであろう。
4
「〝闇のピラミッド〟の最高階梯、頂点に位置するのが〝幻魔大王〟なる絶対暗黒神というわけですか?」
「そういうことになりますね。影は光のやることを何もかもそっくり真似をするわけですから。絶対権力を一身に集めれば、己れは神だという慢心、誇大妄想にとり憑かれても、不思議はありませんよ。〝幻魔大王〟はまさしく己れは造物主と同等、優るとも劣らない存在だと必ず思っているはずですよ。
この〝幻魔ピラミッド〟は、地上で人間が作る権力のピラミッドとまさしく同じです。人間の造りだす組織は必然的に腐敗し、退廃して、この〝闇のピラミッド〟と相似形になってしまうんですね。先生は〝組織は必ず腐敗する〟とおっしゃいました。組織が巨大化することは、悪そのものになってしまうんですね」
「S学会とか見本は沢山ありますね」
「悪い見本ばかりね......最初は正しい動機で造られても、組織の自立性というのか、組織自体が勝手に肥大を始めて、それ自体意志を持ち目的性を備えて、人間みたいに振舞いだしてしまうと思います。〝組織の、組織による、組織のための〟世界を現出させ、造り出そうとして動き始める。権力者といえども、貪婪な組織自体の意志によって操られ、動かされるようになってしまう。S学会だって創始時にはもっと立派な理想があったと思うんですよ。でも、組織が自立性、自走性を備えだすと、初心はもう喪われてしまう。
つまり、人間の造りだす組織は、その物質的性格に必ず乗っ取られ、支配されてしまう。心不在になってしまうという〝呪い〟がかかっているみたいです。幻魔の暗黒波動は、物質的性格と共振し、共鳴しやすくできているんじゃないでしょうか?」
「〝幻魔の呪い〟ですか......」
と、康夫がすかさずいった。
「例外はないわけですか? しかし、それじゃ砂で作った城だ。何度作っても崩れて行ってしまう......我々の塾や会も例外じゃないんですか?」
「もちろん例外じゃありません」
郁江はきっぱりといった。人々がはっとするほどの厳しい語気だった。
「我々の作る組織だけは大丈夫だ。〝幻魔の呪い〟から免れていられる......そんな甘い期待はとんでもないことです。例外なんかひとつもありませんよ。むしろ我々の組織こそ、間断ない幻魔の侵蝕にさらされ続け、一瞬の油断も気を抜くことも許されないんです。高次元の庇護を受けている......そんなことを思ったら大間違いですよ。もし気を緩めれば、わたしたちの歩む、一歩一歩の足許から崩れて行くことにもなるんですから」
「じゃ、いったいどうすればいいんですか?」
康夫は恐怖をこめて抗議した。
「我々が何をやっても無駄ってことになるじゃないですか!!」
「わたしたちは弛緩することが許されないといっているだけです。容赦のない猛烈な強敵がいてくれるからこそ、いつも心を引き緊めて手ぬかりなくやることが可能になるんです。その点、幻魔はわたしたち新兵さんにとって恐ろしい鬼軍曹で、徹底的にしごき抜いて鍛え上げてくれるわけですよ。今後、わたしたちの作る組織が和気あいあい春風駘蕩の温湯の中でやって行けると思ったら、これに勝る誤解はないくらいです。康夫は楽観主義者というより〝甘ちゃん〟なんじゃないかしら? 今の塾のありかたに満足しきっているんじゃないのかな?」
「満足しきっているとはいいませんよ。でも、そんなにひどいとは思ってないですがね......幻魔に揺すぶられたって、持ちこたえて行く自信はありますよ」
「そうかなあ......」
不服らしい顔をしている康夫を、郁江は輝く瞳でまっすぐに見詰めた。その意識圧の高さに閉口したように、康夫は目をそらした。
「そりゃ、ま、そこそこの自信はね」
「それが甘いといっているんですよ。幻魔が本気で揺ってきたら、今の塾も会も一堪りもありませんよ。今までのは、ほんの小手調べだったといって間違いないんです。箱根セミナーで、人々の心がコロッと一ぺんに変るところを見たでしょう。本当に心コロコロの見本ですよ。あれを見れば、真の不動心がどんなに確立しがたいものかよくわかるはずです。風向きが変れば、人の心も変っちゃうんですよ。こんな有様で、幻魔の本格的攻勢にどれだけ持ちこたえられますか? 理想の組織造りなんて夢のまた夢ですよ」
「しかし、そんなことをいったら、夢も希望も失くなっちまうじゃないですか!? 築いては崩れる砂の城だなんていいかたは、それこそ虚無的ですよ」
康夫が精一杯抗議する。
「でもみんな、甘すぎると思うんです。見通しも甘いし、それよりも何も自分自身に対して一番甘すぎます。慣れ合いが目立ちすぎますよ。楽をして手抜きばかりで、そこそこの努力だけでなんとか恰好をつけているなんて、まったくどうかと思います。だから砂の城といっているんですよ。このままだと、震度2ぐらいの弱震でも、一揺りされるとあっという間に崩壊しますよ。間違いありません。そこそこの自信なんて、とんでもないことです。幻想もいいところで、甘えの極致ですよ」
「............」
人々は息を吞んで、郁江を見守った。いきなり雷を落されたという気分であったろう。最近の郁江はいついかなる時に、峻厳な貌に早変りするか予測もつかなかった。さすがの康夫も反論できなくなってしまった。
「わたしは、そういう根拠のない楽観主義が一番恐いんです。一番緊張感の必要な時なのに、ダラダラ、ズルズルと緊張を欠いて、無意味な安心感に身をゆだねることになってしまうんです。わかりますか、もうそうした心根によって、組織は目に見えない風化を受け、崩壊を始めているんですよ。恰好だけつけたってなんにもなりやしませんよ。会も塾も順風満帆、うまく行ってるというのは、全くの幻想にすぎないし、その油断がもっとも危いんです。幻魔が本気で攻勢に立ったら、あっという間に潰れます。それもS学会のように無意味な膨張政策で足腰が弱った肥大漢になり、内臓疾患であちこち犯されているというわけじゃないんですよ。わたしたちはほんのケシ粒みたいなのに、もう脆弱化は進行しているんです」
「しかし......例外なしに組織は崩れ去るというんだったら、我々の今やってることは、全然無意味になるじゃないですか」
康夫は辛うじていった。
「努力も何も、無駄ってことじゃないですか......そんなの切ないですよ。なんの救いも望みもないですよ」
「わたしは、物質的な組織のことをいっているんですよ。リーダーがいて部下がいる。それが人間の作る組織です。物質的な組織なんです。もう最初から硬直しているんですよ。リーダーの指導、指揮を受けて部下が動く。もはやそれは組織のための組織なんです。会も塾もその弊害を免れていないじゃないですか。わたしたちは、理想の組織を作り上げなければならないんです。物質的な組織とは根底的に異るものをね......」
「しかし、どうやって......地上に存在しない組織をどうやって作るんです? リーダーと部下のいない組織なんて存在の余地がありますか? 命令系統がなければ、そんなものは組織として機能しないんじゃないですか? 仲よしクラブだって、自然発生的なリーダーはいるはずですよ」
「だから、これからわたしたちは、理想の組織を作りあげるんですよ」
郁江の信念の強さは、人々に舌をまかせた。それほど郁江は強烈な波動を振りまいているのだった。
「組織は、物質的な既成概念そのもので出来上っているんです。リーダーと部下、上意下達......それらをまずこわしてしまわなければならないんですよ。理想の組織を模索するのが第一なんです。必要なのは目的意識ですよ。メンバーの全員が意識統一して、遠心力を働かせないことだと思うんです。私利私欲を初めとする各自の思惑は、組織に働きかけて脆弱化をもたらす遠心力そのものなんです。
嫉妬や競争心や愚にもつかない反撥心が、どれだけ組織を弱体化していくか、この半年間で、みんないやというほど学んだはずですよ。メンバーの一人一人が、目的意識をはっきり確立しなかったのが原因だと思うんです。目的意識を一点に集中させなかったら、求心力なんて働きません。東丈先生が組織の中心であった時でさえ、みなの気は少しも揃わず、競争心や目立ち根性の虜になって、先生の注意を少しでも自分の身に集めようとして、強力な遠心力が働いてしまったんですよね。
仲間であるはずなのに、ライヴァルなんです。少しでも相手を凌ぎ、優位に立とうという意識が働いてしまうんです。自分を少しでも余計に認めてもらいたいんですよ。先生に褒められ、チヤホヤされるのが心の奥底にある本当の目的なんです。顔だけニコニコして仲よしクラブをよそおっても、内心は弱肉強食、相手が落ちこぼれてくれることを祈っているわけですよ。先生の掲げる理想に共感して、会に参加したはずなのに、その心は闘争心で逆毛を立てているんですよ」
郁江は語気を緩めずにいった。高圧のものが彼女の内部で張り詰め、波打っているようであった。
「そんなのはひどい矛盾だし、偽善にしても許せませんよ。口先では宇宙的連帯なんて平気でいえるんですから......先生はだれよりも会の実態をご存知だったと思います。だからこそ、会の拡大をきびしく抑えられたんです。なによりもまず、メンバーたちの意識を改革すること、正しい意識統一で求心力を働かすことを計られたんです。でも、みなさんにはそれがピンとこなかったみたいです。仲よしクラブで表面的に和気あいあいとやっていれば、それでいいと勘違いしていたんです。先生の指揮の下に元気いっぱい突撃すれば、あっという間に世界は変貌して行く......そんな誤解と幻想が心にはびこって、酔っぱらってしまっていたんです」
「我々は、会の内情のことはよくわからないですが、完璧に他人と気を揃えて動くなんてことができますかね? そりゃチームワークが大事だというのはわかりますがね、全員が意識統一とやらで同じことをいっせいに考え、同じように動くなんてことは......だって人間は十人いれば気は十色、なんてことをいいますからね。それぞれ個性も違うし、ものの感じ方、考え方だって人によって違う。好き嫌いだってあるでしょうから。それらを全部統一しちゃうというのは、なんか無理があるんじゃないですか? ファッショとかファシズムとかいわれて非難攻撃されるもとになりやしませんかねえ......」
康夫は、郁江の側近たちには見られない頑固さと狷介さをもって主張した。内村を初めとする青年部の若者たちは、郁江の発言の一語一語を感激と陶酔をもって、何の疑いもなく受容するのだった。
その場に居合わせた若者たちは、はっとした顔で康夫を見ていた。このように康夫が疑問を表明し、反対意見を持つこと自体がショッキングであったようである。その気配を感じたのか、康夫は更に頑固そうな顔になってきた。ものわかりのいい軽薄な康夫がかつて見せたことのない顔付であった。
「それは違いますよ。それこそ勘違いの早とちりというものですよ」
郁江は一呼吸おいていった。郁江にしてみても、康夫の反論は意外だったようである。
「各人の個性を全部削りとって、みな同じように感じ、考え、行動するようになるのがわたしたちの目的だなんて、とんでもないことですよ。先生はそんなことは一言もおっしゃらなかったし、わたしだっていうつもりは全くありません。それはとんでもない誤解です。わたしのいい方がよくなかったのかもしれないけど、ファシズムだなんて、どうしてそんなことになるのか、わたしにはわかりません......」
郁江は、東三千子と土屋香の顔に懸念が浮かぶのを見ていなかった。多少むきになっていた。
5
「いや、外部の者が見たら、ファシズムと誤解するんじゃないかということですよ」
「だって、わたしはだれに対しても、無個性になれなんて説いていませんよ。それぞれの魂をしっかりと結び合って、自分がこの地上に肉体を持った理由、人生の目的と使命をはっきり自覚することが、どうしてファシズムになるんですか? そんなのおかしいですよ。ファシズム、全体主義というのは、全体によって個人が支配され、圧殺されるということでしょう? 個人より、国家、社会が大切で、優先さるべきだという思想でしょう? 魂の結びあい、〝光のネットワーク〟は、互いに自分の魂の光をますます増して、光り輝かせようということだし、全体主義、ファシズムとは全く方向が違いますよ」
「いや、私がいっているのは、意識統一とかいういい方をしていると、ファッショだと世間で勘違いする連中がいるんじゃないかということを心配しているんですよ」
康夫が鼻白んだようにいった。郁江は感情的になり食ってかかっているというのではないにせよ、康夫の反論を予想外の衝撃として受けとっていることは明らかであった。
「統一という言葉を使ったらいけませんか? そんなに個性無視のいかがわしいイメージがあるでしょうか?」
「いや、世間を騒がせている統一協会とかいう物騒なイメージがあるということではありませんか?」
と、土屋が取りなすようにいった。
「統一というと、全部画一的に、のっぺらぼうに洗脳して、そのあげく家庭や社会の絆から切りはなしてしまい、知性や理性の働かない狂信的人間にすることを連想させる......河合康夫さんはそういう心配をなさっているのではないですか? 郁江先生の真意は別なところにもちろんあるわけでも、悪意のある見方をすれば、そうした誤解や偏見を容易に生産することができるのではないか......私はそのように受け取ったのですが」
「そうなんですよ。私はどうも口下手でうまくいえないんで......土屋先生に今代弁して頂いた通りなんですよ」
康夫はほっとしていった。自分の発言が思いがけぬ反応を引き起こしたので驚いているようだった。
「わたしの表現が不適当だったのかもしれません......そんなに誤解を招きそうなら、意識統一という表現はもう一度考え直します」
郁江は譲歩した。息をひそめるようにして見守っていた者たちは、こっそりと安堵の息を吐きだした。
「でも、ファッショだなんていきなりいわれるとショックですよ。わたし、本当にギクリとしました。独断専行とか独裁とかさんざん悪口をいわれて、いい加減慣れているつもりだったけれど......」
多少のトーンダウンが声音に現われた。しかし、圧倒的な波動の強さはいささかも変らない。
「でも、表現がどうであれ......世間の誤解はもちろん避けるに越したことはないですけど、わたしのいうことに間違いはないという自信ははっきりと持っていますよ。つまり、全員の心が、宇宙の中心の光に向いているかどうかということなんです。もし正しくその方向を向いていなければ、それこそどんな恰好いい言葉で飾ったところで無駄なことなんです。各自の勝手な思惑で、てんでんばらばらに生きている限り、なにをやっても駄目です。わたしはただそれをいいたかったんですけど、やっぱりファッショという誤解を受けるでしょうか?」
「............」
康夫は無表情な顔で黙っていた。もうこれ以上発言を試みて、波乱を招く意志は毛頭ないようであった。
「今いわれたように、意識統一というと多少の偏見で見られる惧れはあるでしょうけど。それより会員各自の心構えや生活態度がしっかりしているかどうか、そちらの方が大切な気がしますが」
と、内村が色白の顔でいった。もはや緊張過多で顔を朱に染めたり、ろれつが廻らなくなるようなことはない。めっきりと落着きが出て、重厚とさえいえるような物腰になってきていた。
「もし攻撃のための攻撃を加える気であれば、なんとでもいえます。難癖をつけるわけですから......だから、あまり細かいことにこだわって、気にしすぎない方がいいと思いますが」
「でも、やっぱり相手の攻撃目標はなるたけ少くしておいた方がいいですよ。これからは特に発言の一語一語に慎重さが要求されることになりますよ」
と、郁江は考えこみながらいった。
「それこそ、どんないいがかりをつけられるかわからないんですからね。康夫のいう通りです。意識統一という表現は、やっぱりよくないようです......もしかすると、親から子供を取り上げたといって、大学生の両親が子供を返せと騒いでいる新興宗教と同一視される危険だってあるわけですからね......内村君! 君のご両親は、君の会への参加についてやっぱり反対してるんじゃないの?」
「はあ......それほどいい顔をしているということもないですけど......一応、黙認という感じで、はっきりとは反対しません」
「内心では大反対なんですよ。大事な可愛い息子が、妙な新興宗教まがいの団体に夢中になってる......大学の講義にもあまり出てないようだし、本当に大丈夫だろうか。でも、うっかり反対すると、息子はまたハンストをやって死にそうになるだろうし......ご両親はそう思ってますよ。ハンストなんかちょくちょくやるんですか、内村君?」
「はあ......よくご存知ですね、郁江先生! 昔は自分の思うようにならないと、三日でも四日でも食事を取らないで親に反抗したんです」
内村は啞然とした表情で応えた。
「今、君のご両親の波動がフッと来たんです」
郁江は神秘的な表情をしていた。霊覚に精神集中を始めると、郁江の顔はみるみるうちに変貌してしまう。肉を持つ身の汚れや濁りというべきものが透き徹って行って、肉の薄いシャープな顔立ちになってしまう。錯覚ではないかと己が目を疑うほどだ。
「君のご両親は、わたしに対してとっても不審な気持を持っていますよ、内村君。わたしの両親が去年、東丈先生に持っていた猜疑心と敵対心にそっくりです。君がわたしにたぶらかされているんじゃないか、瞞されてのぼせあがっているんじゃないか......ご両親はそう思っていますよ、内村君」
「そうですか......僕には直接、何もいわないものですから......」
内村の色白の顔は血の色が差してきた。
「大事なウチの息子をたぶらかす神懸りの妖しげな新興宗教の霊感少女......そう思っています。たぶらかすなんて、それじゃまるでわたしはキツネみたい......」
中途半端な笑声が湧いただけであった。郁江の眸はきびしい光を湛えていた。
「一応、自分がやっていることは、母には話してあるんですけど......」
「話し方が足りないんです。きちんと説得していないからそうなるんです。両親初め家族は普段の君の生活態度を見ていますからね。口でうまく喋っても、中身が伴わなければ駄目です。会でこういう素晴らしいことを学んで、活動しているんだと口で説明したって、相手の耳には空々しく聞こえるだけですよ。夜はいつも遅く帰る、時には夜明かしになることもある......大学の講義にはきちんと出ている形跡もない。いったい全体、GENKENという妖しげな団体で、妖しげな霊感少女にたぶらかされて、何をしているのかしら......大学生の息子や娘を親から取り上げて狂わせてしまう新興宗教と同じようなことをしているんじゃないかしら。──君のお母さんはそう考えていますよ。間違いありません。君が日頃、会や先生やわたしについて話していることは、少しもお母さんの頭には入っていません。大事な可愛い息子を狂わせ、血道を上げさせているいかがわしい霊感少年や霊感少女......ああ、お母さんは先生やわたしのことを凄く反撥していますね。女親というものは、とても感情的だし、許容度が小さく狭いものなんですよ、内村君。これはウチの母も同じでしたけれどね。一度反撥し嫌悪したら最後、容認するというのは大変なことなんです。
やっぱり母親は息子の君が一番可愛いし、君を狂わせようとしているといったん思いこめば、もう何をいっても聞く耳持たなくなりますからね。これは内村君、君の日頃の態度が悪かったわね。きちんと話して納得してもらおうとする努力が君には足りなかったのと違う?」
「確かに努力が足りなかったかもしれません......」
内村は一同の注視を受け、赤面しながら認めた。
「僕は陰気で引込思案な性格だったんです。何をやっても自信がなくてウジウジしているし、そんな自分の性格が厭で堪りませんでした。それが会に入ってから、東丈先生や郁江先生のご指導を受けて、性格が明るくなってきたので、親も喜んでいるとばかり思いこんでいたんです。そうじゃなかった、と今わかって、ショックです。母はそんなに郁江先生に対して反撥しているんでしょうか?」
「人間は顔と腹の中はだいぶ違いますよ。内村君に何か厭なことをいって、君が前みたいにノイローゼのハンスト息子に逆戻りしやしないかと心配があるものだから、君には直接、何もいわないんですよ。でも、腹の中は心配とわたしに対する反感でいっぱいです。女親ってむずかしいものなんですよ、内村君。女特有の視野の狭さ、狭量さや嫉妬心があります。相手が丈先生だったら、もう少し違ってくると思います。女は異性には寛容なところがありますからね。お母さんは、この霊感少女め、ウチの大事な息子をかどわかさないでおくれ! 心の中ではそう思っていますよ。
でも、そうなるのは当然の成行だと思いませんか? お母さんがなぜ一途にそう思いこんでしまうか、内村君にはわかるでしょう?」
「僕の努力が足りませんでした。説得の努力を怠っていました。僕の陰気な性格が明るくなったし、よく変ったので、親も当然喜んでくれているはずだ......そう頭から思いこんでいました」
「ところが、そうじゃなかった......人間の心ってむずかしいですね。皆さんもそう思うでしょう? 人間ってすぐにひとりよがりな気持になってしまうんです。自分がよく変ったんだから、当然相手も喜んでくれているはずだ。ところがそうは問屋がおろさないんです。自分と他人の心にはいつもギャップが存在するんですね。親だから、肉親だから......そうはいっても、やはり自分と同じように感じるとは限りません。自分の気持は、説明しなくてもわかってくれると思うのは、ひとりよがりだし、甘えそのものです。いくら親子だって魂は別々の存在なんですから。口で説明するだけではなく全ての波動をもって、お互いに理解し合うことを努めなければ、心はいつだってギャップの間でチグハグになり、すれ違っていってしまうんです。内村君のお母さんに対する甘えた心根が、どんどんあらぬ誤解を呼び寄せているんではないでしょうか?」
「そう思います......申しわけありません......」
「そう思ったら、誤解をとくことが大切だ、そうじゃないかな? 黙っていても親子なんだからわかってくれる......そうきめつけるのはやめて、お互いにわかりあうようにあらゆる方法で、あらゆる機会を捉えて努力することが必要なんじゃないかしら?
何もいわないでもわかってもらいたい。それはやっぱり怠慢ですよ。人間は、他への愛の心を態度で示さなきゃいけないんです。もし、内村君がブスッとして仏頂面でいたら、いくら心にはお母さんへの愛情があっても、素直には通じて行かないでしょう。なぜお母さんを愛しているのに、その気持を素直に示すことができないんですか?」
「照れ臭いからだと思います。なにを今更と思ってしまうんです。やっぱり子供のころはともかく、この年になってみますと、恥しいという気持が先に立ってしまうんです」
「でも、ことさらに反抗的になり、ひねくれてみても、何か得るところがあるんですか?」
「別にありません。でも、ストレートに自分の気持を表わしてしまうのは餓鬼っぽいことだという観念があるし......でも、男の場合はだれでもそうじゃないかと思います。中学生ぐらいから、無口になって親と口をきくのが億劫になり、鬱陶しくなってくるんです。自我を確立して、親離れするために必要なことじゃないかと思いますけど」
「でも、友達がみんなそうだから、それを見て自分もそうしなければならない、そうしないと餓鬼っぽく見える......そういう傾向もあるんじゃない?」
「そうですね......確かにそうした心理はあると思いますが......」
「だけど、反抗的になり突っぱってみると、それで大人になれるんですか? わたしはそれこそ相当な偏見じゃないかという気がしますけど。親兄弟の間をギクシャクさせ、冷たくよそよそしくさせて、得るものはどの程度あるんでしょう?」
「さあ、わかりません。反抗して、大人になったと感じるのは錯覚かもしれない、そう思います」
「肉親との相互理解を断絶させ、得るものは大人になったという錯覚だけ......もしそうだったらずいぶんつまらないですね。しかもそれは友達がそうだから、そうしているからという理由だけ。もちろん、親はいつまでも子供扱いにし、親の権威に従属させようとする傾向があり、それに対する反抗、自立心の芽生え、独立への準備ということは否定できないでしょうけれども、正しい相互理解を自ら断ち切ってしまうのは大きなマイナスではないでしょうか? やはり正しい自覚が大切であって、意味もない反抗心は有害無益......わたしはそう思うんです。自信がなければ、闇雲な反抗に走ってしまうんじゃないでしょうか? 周囲をきちんと説得して、自分の気持を理解してもらう努力が必要ですよ。
努力もせずに自分の気持を強引に押しつけるのは甘えです。甘えがある限り、年齢に関りなく人は大人になれないんです。甘えを捨て自覚した時、幼い子供でも立派な大人になることができるんじゃないでしょうか」
東三千子と土屋の顔には驚嘆の表情が色濃くなっていた。郁江がこうした調子で、若者たちを間断なく教育していることが吞みこめたのである。
6
郁江は教育者なのだ。自らを教導することがどんなものか、あらゆる機会を捉えて若者たちにさし示している。〝教育〟の真のあり方を十七歳の郁江は苦もなく体現している。それは東丈に教わった遣り方なのかもしれないが、彼女はもはや完全に自分のものとして使いこなしていた。郁江は稀有の天才なのではないか......三千子はそんな思いをこめて、歳下の少女を見守っていた。
郁江はいささかのわざとらしさもなく、ごく自然に振舞い、彼女よりいずれも年長の若者たちは、歳下の〝師〟を心からの尊敬をこめて遇している。彼らにあっては、世間一般の年齢など無意味なものなのだ。弟子たちは若き〝師〟の姿形ではなく、その輝かしい魂を視ているのであろう。
「これは皆さんも同じですよ」
若き師は若者たちを振り向いていった。弟子たちは幼稚園児のようにおのずと声を揃えて、はい、と返事をした。その素直さは妙に印象的であり、胸に響くものがあった。拘泥や躊躇がないのである。──幼子の心を持たなければ、天国の門を入ることはできぬ、という有名なイエスの言葉を三千子は思いだしていた。浄化されて清澄になった精神が若者たちの活きいきした顔色や眸に顕われていた。
「なにも内村君に限ったことじゃありません。皆さんの一人ひとりが、ご両親に向ってきちんと話し、納得を得ているかどうかが大切なんです。ウチの息子や娘は最近ハキハキして態度が明るくなった......素直になって心優しくなり、前のように反抗心や強情でとげとげしく陰気臭く親に楯突くことがなくなった......ご両親がそう思っていると確信のある人、手を挙げて」
言下に四分の三ほどの若者が素早く手を挙げた。一人は迷ったように躇いを見せてから挙手する。
「金沢君、大丈夫ですか? 自信があるんですか?」
「たぶん大丈夫だと......たぶん喜んでいるのではないかと思います」
瘦せぎすのひよわな大学生の金沢は細い顎を振り動かしながら懸命にいった。
「大丈夫そうですか? 親に向って受売のお説教なんかしていたら駄目ですよ。ひよっ子が何いってると思われちゃいますからね。ご両親に対して感謝の気持をきちんと表現できた人、手を挙げて」
一挙に激減して二人だけになってしまった。
「へえ......井上君と市枝さんだけなんですか? ちょっと意外ですね、これは......井上君、どうやってご両親に感謝したんですか? 聞かせて下さい」
「礼をいいました」
〝狷介〟とあだ名のついた井上修はぼそりといった。しかし以前のような頑くなさは影をひそめている。
「お礼をいったんですか?」
意外という顔で郁江は井上を見た。だれしも同感であったろう。井上自身の〝守護霊〟によって狷介と評された彼は、とうていそんな己れ自身の気持を素直に発露させるタイプではなかったからである。
「何といってお礼をいったの?」
「僕を産んでくれてありがとうといったんです。母は泪を流しました。生れてからこんなに嬉しかったことはない......母は父にそういったそうです」
井上はいささかの倨傲もなくいった。
「産んでくれてありがとう......本当にお母さんに向ってそういったんですか? びっくりしました。感動的ですね、それは。お母さんの身になったら、それは本当に大感動ですよ。だって井上君はこういっちゃなんだけど、いつもむっつりして無口で、狷介孤高でしょう? 最初会った頃は、自分は生れてから一度も他人と協調したことなんかないんだという顔をしていましたよ。その井上君が、お母さんに向って少しも躊躇しないで、産んでくれてありがとうといえたんですね」
郁江は何度目かの嘆声を漏らした。
「凄い進歩ですね。皆さん、そう思いませんか? あの井上君がここまで変ったというのは、信じられないといったら失礼だけど、わたし感動しました。やっぱり井上君は自覚したんですね......」
「僕は今、最高に幸せなんです」
井上は何のてらいもなくいった。
「自分をこれまで縛っていた頑くななものが、全部ほどけてしまったという感じなんです。これまでは自分の気持の中に、いつも他人の目を意識するものがありました。いつだって他人を気にしているんです。だから、いつも突張っていたんだと思います。恰好つけずにはいられない気持があって、素直には絶対なれなかったんです。孤高を保つ頑固さ、つまり狷介さというのが、僕には最高に恰好よく思えたんですね。自分は他人とは違う、いつもそう思っていました。今思えば、全然無内容なエリート意識だったですが......親兄弟に対しても、僕はいつも傲岸不遜で威張り散らしていたんです。母とはろくに口をきいたこともありませんでした。僕のような息子を持ってありがたいと思え......そんな物凄く不遜な気分でした」
「ひえ......」
と、郁江が嘆息した。
「それは凄いですね。どうしてそんな風に思ったんですか?」
「母は無知で無教養だと軽蔑していましたもんですから......それに引きかえ自分は優秀だし、文武両道だ、母のように無能な女が産むにはふさわしくない。トンビが鷹を産んだとはこのことだ。母なんて賤しい下女みたいなものだ、こんな無知無能な女が自分を産んだなんて恥しい......そう本気で思っていたんです」
「それじゃ、井上君の心境が変って、お母さんが感激するわけですよね。どんなにお母さんが嬉しかったか、わたしよくわかりますよ。でも、井上君、よくそこまで心境が変わりましたね?」
「今、自分がこんなに幸せなのは、親が産んでくれて肉体を与えてくれたからだ、と本気で感謝することができるようになったんです。心から感謝の念が湧いてきました。こんなことは初めてなんですよ。両親に向ってありがとうなんていったのは、たしか小学校以来です。いつも心の奥底では、両親に感謝のない自分、素直になれない自分に後ろめたい気持、自責の念がゴリゴリになってわだかまっていたんだ、と初めて気がつきました。それが非常に大きな重荷になっていたんです。自分では意識しなかったけれども......やっぱり良心はいつもこんなことじゃいけないっていい続けてきたんですね。
〝守護霊〟......高次元の人のいう通りです。今、僕がこうして肉体を持ち、最高の幸せを満喫できるのは、人間の魂の絆のおかげだ、と実感できるんです。僕に肉体を与えて、この世に送りだしてくれた両親の魂の絆にありがとう、と心から感謝せずにはいられないんです。少しも照れたり恥しく思ったりしないで、母親にいえました。自分がこんなに素直になれるなんて、箱根セミナーまではとうてい信じられなかったと思うんです」
無口な井上修が奔るように語った。若者たちは、泪を滲ませている者が多かった。彼らの純粋さはそれ自体輝くような精神の発露に他ならない、と三千子は感じていた。
「でも、やっぱり井上君がそうするまでは、大変な勇気が必要だったと思うんですよ。自分がこれまで築いてきた強固な殻を自ら打ち砕かなければならなかったんですから......恥しさで体中が火照るような気持を克服しなければ、井上君はお母さんにありがとうといえなかったはずです。わたしにもよくわかります......井上君と全く同じ経験を持ちましたからね。ですから、拘泥りや躊躇いという強い抵抗感を押し切るのがどんなに大変なことかよくわかるんです。でも、勇気をもって敢行した時に、これで自分は本当に自由になったという歓喜と解放感が自分のものになるんですよね。わたしも、井上君ほどじゃなくても親に対して相当に傲慢であり、不遜だったものですから、ごめんなさいと謝まったんです。
でも、産んでくれてありがとう、というのは井上君の素晴らしい名せりふですね! わたしもさっそく両親にいうつもりです。いいことはどんどん真似しなくちゃ!
しかし、井上君て素敵ですね。最近とっても素敵だな、魅力的だなって、わたしひそかに思っていたんですよ、そう思いませんか、市っちゃん?」
「そう思います!」
木村市枝は反応が早かった。
「井上さんの顔、とても穏やかになって......柔和になったと思います。しばらく前とは波動も全然違いますから......」
「ほら、やっぱりそうでしょう。女性二人の意見は期せずして一致したわけですよ。魂が本当の自分に還って行くと、本当に素晴らしい波動がどんどん出てくるんですよね。これは井上君だけじゃありません。皆さんだって同じです。とっても素晴らしくなったといわれてますよ。魂の自分に還れば、だれだって素敵になってしまうんですよ」
「ありがとうございます。こんなに褒めてもらったのは生れてから初めてです」
井上修は素直にいった。かつての井上を知っている者なら己が目を疑ったであろう。倨傲そのものという面構えだった井上とは大違いであった。
「いくら褒めても褒めたりませんよ。このことは是非本に書かなくちゃ! わたし、感動しました。とっても勇気が要ることですもの。自分の殼をこわすって大変なことなんです。たとえ井上君が幻魔と闘うことを少しも恐れずに、勇敢に立ち向い、撃退したとしても、わたしはこれほど感動しないと思います。だって井上君は、長年かけて作り上げた自分の頑固な性格を打ち破ったんですから......ありがとう、の一言は井上君にとって口にするのは何よりも恥しい、死んだ方がましだというほどの思い切った一言に違いなかったんです。そうでしょう?」
「自分にとうていいえるとは思いませんでした。やっぱり郁江先生のおかげです。先生に励まされたからこそ、できたんだと思います」
と、井上は少しも照れずにいった。
「自分が非常に素直になったのがわかります。肩に力が入らなくて、伸びのびした気分で楽なんです。前はなんで、つまらないことにいちいちこだわって、突張って生きていたんだろう、と不思議です。人間は素直なのが一番だ! 心からそう思えるようになったんですよ。まだまだ他人から見ると皮肉っぽくて厭な奴だなと思われるかもしれませんけど......」
「そんなことは決してありません。本当に大変貌ですよ。コペルニクス的大転回というのか、井上君は全くの別人みたいに変ってしまったんですね。まあ、以前が極端すぎたってことはいえるでしょうけど......そうだ、井上君、今度の青年部のミーティングで、自分に生じた大転回のことをみんなに話してあげて下さい。きっと大感銘を受けますよ。つっかえてしまって悩んでいる人もだいぶいるみたいですから。──どうして自分の心はこんなに固くて冷たくよそよそしく、皮肉なんだろう......どうして素直になれず反撥ばかりしてしまうんだろう......そう悩んでいる人がかなり多いんです。井上君に生じた大転回のことを聞けば、きっと自分もやってみせるぞ! そう奮起するんじゃないでしょうか」
「喜んで、やらせていただきます、僕が何かお役に立てるなら何でもさせて下さい」
井上があっさりといい、若者たちはいっせいに拍手した。
傍聴していて、いささかの気恥しさは否めないが、これはもしかしたら大変なことなのかもしれない、と東三千子は思った。狷介で傲岸だった若者をここまで素直な心に戻してしまうのは、奇蹟としかいいようがないのではないか。しかも、郁江はいささかも力んだり教条主義的になることはないのである。その一言一言が力強く明確な波動を持ち、輝かしさを備えて若者たちの心を打っているのがわかる。
三千子が感じている気恥しさは、やはり心に形成した殼のせいであろう。郁江を初めとする若者たちの純粋さ、純真さが眩ゆすぎるのかもしれない。やはりイエスが人々に求めた〝幼子の心〟とはこうした輝かしい素直さなのかもしれない。若者たちは少しも曇りのない素直な幼子の眼を回復しつつあるのだ......
7
「どうも申しわけありませんでした、お姉様、土屋さん、せっかくのお話を中断させてしまいまして」
と、郁江が頭を下げ、三千子たちはあわて気味に答礼した。郁江の〝声魂〟がキラキラときらめきながら、空気中に波紋を広げて行くのを見る心地がした。素晴らしく張りがあり、鮮烈そのものであった。
「どうぞお話を再開なさって下さい。本当に申しわけありません。東丈先生の夢を見たものですから、今日のわたし興奮しているみたいです」
「いやいや、実に感動的なお話を聞かせていただきました」
と、土屋はあわてていった。
「心が爽やかに洗われる......そんな思いがします。魂があかあかと輝くということがどんなに大切なことかよくわかります。私も本来決して素直な性格ではないものですから、井上さんの〝回心〟の素晴らしさがひとしお強く感じられます」
「土屋さんが素直な性格ではないなんておっしゃったら、わたしなんか頑迷固陋そのものといわなきゃなりません。井上君の狷介孤高ぶりといい勝負ですよ。なにしろ東丈先生に一から十まで楯を突きまして、さんざん悩ませ申し上げたんですから......」
郁江は笑っていった。
「皆様の変貌ぶりのスピードは早すぎて恐いみたいですわ」
と、東三千子はいった。
「お目にかかるたびに、一段と心が浄化され醇化されていらっしゃるのがはっきりわかりますもの。あたくしなんか何の進歩もなくて気がひけてしまいます」
「お姉様はもともと素晴らしい方ですから。高野のおじいさまが大感激していらっしゃいましたよ。お姉様には女神様の位があるんですって。霊界での格は物凄く高い尊いお方で、この物質地上界でなければ、とうていお目にかかれない女神様ですって......」
「とんでもないことです。あたくしのような未熟者をなぜそのようにおっしゃるのかわかりません」
三千子は人々の視線を集め、わずかに頰を染めて否定に努めた。
「とにかくおじいちゃんはお姉様を、女神様だと畏敬しているんですよ。わたしも賛成なんです。おじいちゃんはしょっ中電話をかけてきては、お姉様のことをさかんに知りたがり、聞きたがります」
「どうしてでしょうか? あたくしなぞなんの力もない平凡な女なのに......郁江さんのように自覚を得られて、素晴らしい霊力を持たれたならともかく......あたくしは平凡そのものですもの」
「高野のおじいちゃんは、霊力は人の値打を計る基準にはならないと断言していますよ。心がねじ曲っていてもびっくりするほどの通力や霊力を持った行者や教祖は沢山いる。そういう徒輩は狐狸や魔王の通力を借りていることが多いそうです。お姉様は霊力はお持ちでないとしても、そんな必要がないからですって......もし本当に必要な時にお姉様が力を発揮なさったら、わたしのわずかな力など問題じゃなくて、東丈先生のお力に匹敵すると思います。高野のおじいさまもわたしと同じ考えですよ、きっと。今後、霊力や過去世の名声で、現在生きている人間を計ろうとする考えが広まってくるかもしれませんけど、わたしは大反対です。過去がどうあろうと、本当に大切なのは現在の自分自身なんですから。さすがにお姉様は丈先生をお育てしただけのことはある方だ、とおじいさま大感激です」
高野老人は先週の合同幹部会の席上、郁江に招かれてやってきてからというもの、熱心なシンパを自ら呼称するようになった。よほど郁江を初めとする若者たちが気に入ったようである。もっとも熱心な若者のボランティアに匹敵する熱意を会と塾に寄せていた。
若者たちはほとんど何も知らないが、平山圭吾などは、経済界の大立者のオーラによほど眩惑を覚えたようである。日本の経済企業家団体の重鎮として隠然たる勢力を持っている高野老人に対して、郁江などは全く畏怖の念は持たない。
社会的通念である身分や地位のもたらす権威によって惑わされることが毫もない。郁江にとって高野老人は、あくまでも同志的な親愛の念をもって連帯した年長の友人以外のなにものでもない。
若年ゆえに郁江が社会的常識を欠いているからだという批判がたとえあったにせよ、純粋な友情が、祖父と孫娘ほど年齢の異る両者を強く結びつけていることは、誤解の余地のないものであった。
高野老人が郁江に夢中になって惚れこみ、ひいては会や塾にまで熱中していることは、大きな事件といえた。高野老人の持つ社会的影響力が今後どれだけの多大な反響をもたらすか、東三千子などはスリルを持って考えずにはいられない。土屋もまた同様であろう。
しかし、郁江は至って無邪気なようである。高野老人との交流を、会や塾のために役立てようとは考えていないらしい。他人を利用しようとは露ほども思わないのであろう。
老人の方がかえって己れの力を用立てようと夢中になっている気配を、郁江の問わず語りから感じ取ることができる。なまじの魂胆がないからこそ、郁江はこだわりなく伸び伸びと振舞うことができるのであろう。
「あたくしは霊力など少しもない、平凡きわまる人間です、と高野さんにお伝え下さいね。本当にそうなのですから......」
三千子は真剣になっていった。自分が話題の中心になることには堪えがたい恥しさがあった。
「でも、おじいさまは見込んでしまったわけですよ、三千子お姉様を。お姉様と是非ともお話したいんですって......お姉様とお話するだけで、心が浄化されるような気がするんだそうです。よろしかったらおじいさまの願いをかなえてあげて下さいませんか?」
「困ります。あたくしは本当に無内容で、そんなに買いかぶられるなんて、とんでもないことですわ......あたくしは丈や郁江さんのように魂が目覚めた存在でもなんでもありませんから」
「そんなことはありません......!」
若者たちがこもごもに異議を誦えた。思わず否定の言葉が声となり、口を衝いて出てしまったようであった。
「お姉様は謙虚な方ですから、そうおっしゃるのでしょうけど、あたしたちは高野さんのお気持がとてもよくわかります」
と、木村市枝が珍しく勢いこんだ口調で発言した。
「みんなお姉様のお話を聞きたい、心からそう思っているんです! 心が浄化されて、素晴らしく澄んだ気持になる......それは高野さんばかりじゃありません。お姉様はご自分のお力をご存知ないんじゃないでしょうか? 失礼ないい方だけれど、そうとしか思えないんです......」
「市っちゃんのいう通りですよ。わたしも今後はお姉様にできるだけ活動していただきたいんです。待望しているのは高野のおじいちゃんだけじゃありません。もっともっと沢山希望者がいるんです。ここにおいでの土屋先生もそうなんですよ。だから、今日の土屋先生はとても張切っているでしょう?」
「郁江さんのおっしゃる通りです」
と、土屋は同意した。力のこもった同意ぶりだった。
「お姉様には非常に大きな影響力があります。いってみれば人格的な影響力です......謙虚なご性格からそれを自覚されていないにしろ、だれもがお姉様から影響を受けずにはいられないと思います。ご自身では気付いておられないだけです。これまではその〝力〟をお姉様は弟の丈先生にだけ発揮してこられたのではないですか? しかし、今は多くの者がお姉様の〝力〟を必要としているわけです。郁江さんのいわれる通り、お姉様はご自身の〝力〟を充分に活用し、行使される時ではないかと思いますね。もうその時は到来した、そうお思いになりませんか?」
「あたくしにできることなら、なんでも......そう思ってはいますけれど。でも、あたくしを皆様が買い被っていらっしゃるという気持は消えません。この先も決して消えることはないでしょうね。あたくしは自分があまりにも愚鈍すぎるとよく知っていますもの」
「とんでもない。お姉様が愚鈍だったら、わたしたちはどうなるんですか?」
と、郁江がいい、若者たちは異口同音に賛意を表明した。
「お姉さんが愚鈍であれば、さしずめ我々は煮込みぐどんってとこですな」
と、康夫が駄洒落をいった。生真面目な人間が多いのか、あまり受けなかった。郁江が笑った程度だ。
「ひとつ、お願いがあるんですが......実はさっきから塾生たちがお姉さんや土屋先生たちのお話を聞きたくて気もそぞろ、廊下をウロウロしておりますが、入れてやりまして、ごいっしょに聞かせていただくわけには行きませんでしょうかね?」
と、康夫は三千子に向っていった。
「それは、気がつきませんでした......」
三千子は軽い狼狽を見せていった。
「もし、あたくしなどの話などでよければ......」
「私も別に構いません」
土屋はちらりと目を郁江に投げて、遠慮がちにいった。
「そんなこと、考えもしなかったので......郁江さん、よろしいでしょうか?」
「構わないんじゃないですか。話が内密を要するようなことにならない限りは」
「では、お許しを頂いて、やつがれが塾生どもを呼び入れて来ます」
康夫はお道化たいい方をしてテーブルを離れ、大広間を出て行った。郁江は大きな眸でそれを見送り、三千子と視線が遭うとにっこりした。三千子はなぜかどぎまぎして、ぎごちない心地になった。
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塾生たちが遠慮しながら、白水美晴を先に大広間へ入ってきた。会釈をしておずおずと大テーブルの遠い端にひしめきあって着席する。
「どうぞご遠慮なさらずに。もっとこちらへお詰めになりませんか?」
三千子が声をかけたが、塾生たちは固くなり、声も出せない緊張ぶりであった。女神を前にしたように畏敬の念を露わにしている。恐ろしく嬌かしい美晴を初め、明らかにチンピラとわかる若者たちが混った顔触れは異色そのものであった。木村市枝のかつての仲間の不良少女たちの顔も混っている。
郁江の〝秘書グループ〟の青年たちはエリートの趣きを漂わせているが、こちらは不統一で、第三者にはいささか気味の悪い印象を与えるかもしれなかった。しかし、顔付は真剣そのものであり、切実な気配をみなぎらせていた。
「康夫はどうしたんですか?」
と、郁江が尋ねた。康夫は出ていったきり、塾生たちの中に顔を見せていない。
「河合さんは何か用事があるそうです」
美晴が答えた。悪声であることには変りはないが、聞くに堪えないというむごたらしさは声音から消えていた。ひどい風邪を引きこんだという感じだ。
「お師匠さんに......あの......田崎さんに用があるといっていました」
「そう......」
郁江は呟いた。しかし、表情は少しも変らなかった。他人の感情に敏感な三千子はやや緊張の面持を隠せなかった。河合康夫は明らかに同席を避けて、姿を消してしまったからである。塾生たちを呼び入れるというのは、その口実にすぎなかったかもしれなかった。
「あの......ご用でしたら、河合さんを呼んできましょうか?」
美晴は席を立ちかけて、郁江の顔色を伺った。美晴は年長者であり、世慣れているせいもあって、もっとも気働きが効いた。いじらしいほどまめまめしく立ち働いている。
美晴もまた、鋭敏にその場の屈托を感知しているようであった。ひどく鋭いアンテナを持っているのである。
「いいえ、かまいません......その必要はありません」
郁江はきっぱりとした口調でいった。その声音はいささか毅然としすぎているように響いた。
「お姉様、土屋先生。どうぞお話をお続けになって下さい。傍聴人のことはお気になさらずに......」
郁江の眸は深沈としており、心中を少しも表わさなかった。大広間はしんと静まり返って、不自然な緊張に満たされた。わずか前の浮き立った華やかな雰囲気は雲散霧消してしまっていた。
「あたくしは皆様に聞いていただくような、内容のあるお話は何もできないのですけれども、土屋先生にお聞きしたいと思っていたことが多少あるものですから......」
三千子は躊躇いがちにいった。不意に多数の聴衆を得て、戸惑ってしまっていた。
「もし、全然興味がない、面白くないと思われましたら、今のうちにお詫びしておきます......」
若者たちは満々たる興味を示して、三千子の言葉を一言も聞き流すまいと身構えていた。あまりの真剣さは滑稽感をともなうものである。頭を短く刈ったチンピラ風の若者などはかつて学校では一度もこのような真剣な表情は見せなかったろうと思えた。彼らの真摯さは、郁江の〝秘書グループ〟に対しても、いささかもひけを取るものではなかった。
「土屋先生は〝サタンの再臨〟というご本を出していらっしゃるのですが、あたくしたいへん興味深く読ませていただきました。それで、前から疑問に思っていたことなどを土屋先生にお聞きしたくて、今日お目にかからせていただいたわけなのですけれども......」
三千子は聴衆たちを意識して、ややぎごちなくなっていた。若者らにも理解できるレベルを手探りしている趣きがあった。
「この〝サタンの再臨〟というご本は、二十世紀末における『ハルマゲドン』、いわゆる世界の終末、この人類社会が滅亡するという預言を中心に、〝救世主〟の再臨について語られている、とあたくしは読ませていただいたわけなのですけれども、土屋先生はたいへん聖書を深くご研究されておいでなのですね?」
「聖書には以前から非常に興味がありまして、いろいろ調べているうちに、今おっしゃった〝ハルマゲドン〟ということにどうしても的が絞られてしまったわけです」
土屋も三千子に調子を合わせていった。先刻、康夫が同席していた時の専門的な対話ではなく、嚙み砕いた解説調の喋り方になっていた。聴衆の理解力は大学生たちを除くと、たいして高いものとはいえなかったからである。
「私はキリスト教徒ではないのですが、聖書には子供のころから関心がありました。不思議なこと、面白いことが沢山書いてありまして、好奇心をそそられたからです。神による天地創造や、エデンのアダムとイブや、ノアの洪水、モーゼの十戒など、胸をワクワクさせる話ばかりでした。いわゆるおとぎ話や民話とはスケールが違いまして、物語の背景に何かしら物凄く巨大なものがある、と子供心にも感じられたからなんです......」
土屋の話術は必ずしも達者ではないが、若者たちを惹きつけるには充分だった。
「あたくしの聖書に対する感じ方も、土屋先生と全く同じなんですの。聖書にはずいぶん親しんで育ちましたし、キリスト教に対しても関心がございましたけれども、洗礼を受けたり入信するという気持にはなれませんでした。お友達にクリスチャンの方が幾人もいらっしゃいますし、機会もありましたのですけれども」
「それは、何か理由がおありになってですか?」
土屋が反対に質問した。
「聖書を読んだり、キリスト教の歴史を調べているうちに、いろいろ疑問が湧いてきまして、その疑問が神父様にお聞きしても、どうしても解けないものですから。納得ができないままに、入信にはとうとう踏み切れませんでした。やはり信じられないものがどうしても心にわだかまってしまいます」
「たとえば、それはどういうようなことでしょうか?」
「一番ひっかかってしまったのは、キリスト教が過去行なった凄まじい宗教戦争、異端者虐殺やいわゆる魔女裁判でしょうか......愛や平和を説くはずの宗教が、なぜ人々を迫害し大量虐殺やむごたらしい拷問、なぶり殺しを平然とやってのけられるのか、どうしても納得が行きませんでした。キリスト教が説くことと行なうことのあまりにも大きなギャップ、食い違いが理解できませんので......」
「中世の暗黒時代にキリスト教がやってのけた野蛮行為は、イエス・キリストが説いた愛の精神と全く相容れないということですね?」
郁江は口をはさまずに、両者の対話に耳を傾けていた。理解力のもっとも乏しい若者たちも、ここまではなんとかついてきたようである。
「そうですね。新約聖書において語られている、イエス・キリストの言葉と行為は、キリスト教の二千年間の歴史の中で完全に姿を消してしまった時代、つまり暗黒時代があって、当時の中学生だったあたくしには全然理解できませんでした。愛を説きながら、キリスト教徒以外のいわゆる異教徒は人類でないとして、殺しても構わないという精神は、どうしてもわからないんです。異端審問、魔女狩りにしてもそうです。己れのみを正統とし、他の宗派は全て悪魔の手先だときめつけるやり方、同じ神の造った人間、同胞である人間を、悪魔としてありとあらゆるむごたらしい方法でなぶり殺しにするやり方......キリスト教会こそ悪魔そのものではないか、と思わずにはいられませんでした。
アメリカ大陸で行われたインディアン、つまり先住民族皆殺し、根絶やしの大虐殺も、キリスト教会がインディアンは人類ではないと認めたから起こったので、欲の皮の突っぱった征服者たちの行なった蛮行については、キリスト教会の道義責任は免れることができません。キリスト教徒以外は全て悪魔、人類ではないから根絶しにしても構わない......こんな考えはそれこそ悪魔の発想であって、戦慄せずにはいられませんでした。
ご存知のように原始キリスト教は、ローマ帝国の迫害を受けて、信徒は残虐ななぶり殺しの目にあっても、神への信仰を捨てず、愛を信じ続けました。それなのに、同じイエス様の弟子であるはずのキリスト教会が、かつてローマ帝国が信徒に加えた蛮行以上の物凄い残虐行為を平気でやってのけて、少しもはばからないんです。歴史的事実を知ったあたくしは体が慄えて止まらないほどの怒りを覚えました。キリスト教会は、自分に従わないものは全て悪魔と呼ぶけれども、本当の悪魔はキリスト教会自身ではないか......あたくしはクリスチャンの友人にそういいました。その友人はあたくしを納得させるだけの説明をすることができませんでした。神父様にもお尋きしましたが、やはり同じことでした......」
塾生の中には、初耳という顔で耳を傾けている顔が少くなかった。愛と救済を声高に説く世界的大宗教の秘めた歴史の、暗部については無知であったのだろう。
日本人はキリスト教について知ることがあまりないようである。特にその歴史的沿革についてはほとんど知らぬ者が多い。日本人の民族的な宗教の土壌は、厳格な一神教にはあまり馴染まないとされている。神と人間という突きつめた対立の構図は存在せず、宗教心というには曖昧すぎる、宗教的雰囲気で満足してしまう。厳格な唯一絶対神を信仰する宗教的土壌からすれば、日本人には宗教心がないとさえ映りかねない。
しかし、一般的日本人は、一神教にも馴染まぬかわりに、無神論者も少い。きびしい対決の姿勢を持たない精神構造によって、形式的には宗教心とは無縁に見えるとしても、神と呼ばれる超越存在に対して全く無関心というわけではないのだ。
同席している若者たちのうち、知識階級に属する大学生を除けば、三千子の解説によって初めて、キリスト教の蔵する歴史的暗黒を知ったという顔ばかりであった。キリスト教に対して漠然と抱いていた異和感の正体を初めて気付いたのかもしれない。
日本人はヨーロッパの中世暗黒史についてどれだけ知っているだろう、と東三千子は思った。いっぱしのインテリとされている人々でも、ほとんど関心を持つまい。まさしく暗黒の狂風が吹き荒れたように、戦乱と疫病が猖獗をきわめるなかで、人口が半減する暗黒時代を持つヨーロッパは、日本人からはあまりにも遠い。極東の島国で世界中に荒れ狂った狂風から遠ざけられ、ぬくぬくと温存されてすごした日本人は、幸せであるがゆえに、無知でいられたのだ。
9
「私も、仏教は宗教戦争をやらなかったのに、世界的大宗教といわれ、世界を二分するキリスト教と回教がなぜ血で血を洗う戦いをあきることなく繰り返してきたのか、非常に興味がありました」
と、土屋がいった。
「回教は、開祖のモハメッドが〝左手にコーラン、右手に剣〟と誦えたように戦いを肯定する宗教です。もともと砂漠の民から生れた厳格な一神教のユダヤ教を更に厳格にした、峻烈な唯一絶対神アラーを崇める戦いの宗教といってもいいと思います。しかし、キリスト教はイエス・キリストが掲げた神の愛に貫かれているはずであって、戦いを肯定する言葉はイエスの口から一言も出ておりません。いかにイエスの教えを歪めたとしても、異教徒やイエスの教えに従わぬ者を呪い、殺戮しても構わぬということには絶対にならないはずです。
イエスの説いた神の愛は、ユダヤ教という民族宗教を超えるものであって、異教徒すら包みこむ大いなるものです。心に愛を持つ者をイエスは祝福したのでありまして、ローマ人兵士をさえ差別しませんでした。だからこそ、当時ローマ帝国に隷属していたユダヤは、イエスが〝救世主〟であることを否定したわけです。ユダヤ人にとって、救世主とはユダヤにとっての救世主であり、つまりユダヤの王として来る者でなければならなかった。イエスはそれを否定し、異教徒までも祝福したものですから、ユダヤ人たちはひどくがっかりし、イエスに反感を持ったわけです。そのころイエスは、ユダヤ教からすれば、強力に台頭した新興宗教の開祖ですから、ユダヤ教の司祭たちにとって大きな危険人物でした。イエスが自らユダヤ人だけの救世主ではないと否定したことは、ユダヤ教の司祭たちにとっては絶好のチャンスだったわけです。今こそ、邪魔者のイエスを葬り去るチャンスだとばかり、司祭たちはユダヤ人を失望させ人気を落したイエスを片付けにかかりました。
当時の占領軍だったローマ帝国の法律によってイエスは裁かれたのですが、実はイエスを殺したのはユダヤ教司祭たちです。十字架刑はローマの死刑法で、ユダヤの死刑は石打ちです。人々に石を投げつけられて打ち殺されます。ローマ式のやり方で、イエスは十字架にかけられたので、殺したのはローマ帝国だと誤解する向きがあるかもしれませんが、仕掛けたのはあくまでもユダヤ教司祭なんです......」
土屋はいまや若者たちに向って講義するように語っていた。思いがけぬセミナーといった状況であった。
「時のローマ総督ピラトは、ユダヤ教司祭らに猛烈に突き上げられて、やむなくイエスの処刑に同意します。そこでピラトは、このことに関して責任は自分にないと宣言し、群衆の前で手を洗い己れの潔白を申し立てます。ユダヤ教司祭たちは、この責任はユダヤ人が子々孫々に至るまで負う、といい切ります。後にユダヤ人がキリスト教徒によってあくまでも迫害されたのは、この時の言質が効いていたためなんですね......
ですから、ユダヤ人はいまだにイエス・キリストが救世主であることを認めません。ユダヤの歴史が産み出した偉大な預言者たちの一人としてすら認めないんです。ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教ですから、いまだに命脈を保ち続けています。逆にユダヤ教あるがゆえに、ユダヤ民族は二千年間の苛烈なきびしい迫害に堪えて、滅亡することなく生き続けてきたともいえます。なにしろユダヤ人は、イエス殺しの下手人として世界中で物凄い迫害にあい、世界全土にチリヂリになりながらも、イスラエル再建の預言を信じて生き抜いてきた、世界にも稀れな不死身ともいうべきタフな民族なんです。
もしこれがユダヤ人でなければ、二千年どころか、すぐに消滅してしまったに違いありません。滅亡した民族はいくらもあるんですから。このしぶとい、人類最強というべき民族、ユダヤ人の精神的支柱、というより根幹がユダヤ教です。実をいえば、旧約聖書はユダヤ教の聖典なんです。皆さんご存知の天地創造、エデンの園、ノアの洪水などの出所は、全てユダヤ教の聖典です。イエス・キリストはこの旧約聖書中で預言された救世主として登場しますから、当然キリスト教は旧約聖書を聖典とします。新約聖書はイエスの布教とその生涯について、弟子たちによって記録されたイエスの言行録です。それで、キリスト教では新旧合わせて聖書と呼んでいます。
しかし、ユダヤ教ではもちろん新約聖書は認めず、旧約だけです。この旧約聖書もキリスト教会では利用できるものだけ取捨選択してありますから、本来はもっと沢山あるんです。捨てられたものを外典偽典なんて呼んでいますが、ユダヤ教からすれば、非常にけしからん話でしょう。
この旧約聖書は非常に物凄いもので、人類最大の文化遺産といってもよいと思います。ユダヤ教を母体として誕生したキリスト教は世界宗教にのしあがりましたが、それもこの旧約聖書があったればこそです。
ユダヤ教キリスト教もともに、その真髄は預言者という存在です。偉大な預言者が次々に出て、神の言葉を伝えて行きます。預言者は神と人間を結ぶ掛け橋なんです。神の存在を証かす者です。偉大な預言者が輩出しなければ、ユダヤ民族はその苦難の歴史の中で消滅してしまったでしょう。預言者こそユダヤの民を支える柱だったんです。他の宗教には見られない、この預言者がどんなものか、イエス・キリストの生涯を見ていけばわかり易いと思います。
預言者とはいかなる苦難にも堪えて、神の義を貫く者です。この世における栄華を受けず、神に仕え、神の言葉を正しく人々に伝える者です。神の言葉を預るがゆえに、その預言は決してはずれないといわれます。
ですから、世間一般でいわれる予言者、未来予知で出来事をいい当てたりする占い者たちとは本質的に異ります。百パーセント的中させることは、この種の予言者には決して出来ません。
大地を打つ槌がはずれようとも、神の言葉を伝える預言者のいうことは決してはずれない。このはずれないということがもっとも重要でありまして、もしはずしたら預言者の資格がそもそもないわけです。古代ユダヤ社会では、偽預言者は石打ちの刑によって殺されました。預言者の一言一言は命懸けであって、洒落や冗談ではできませんでした。今のいい加減な占い師とは本質的に違います。的中率百パーセントでなければ、たちどころに命が失くなるんです。今の占い師たちは一人残らず石を投げられて殺されてしまいます......
この的中率百パーセントの完全な預言者たちが行なっている預言の中に、〝救世主の降臨〟ということがあります。神は世界を救うべく、己れの子を地上に送るという約束があるんです。つまり、旧約とか新約とかいいますが、これは神と人間の間の約束という意味なんですね。
しかし、〝救世主〟が送られる時は、ハルマゲドンと呼ばれる破滅的な恐ろしい状況が世界を覆っている時でもあるんです......
ハルマゲドンについて、イエスはこんなことをいっています。弟子たちがイエスに質問するのです。
〈そんな恐ろしいことがいつ起こるのですか。あなた様がもう一度おいでになる時や、この世の終りにはどんな前兆があるのでしょうか〉するとイエスは答えます。
〈わたしの名を名のる者が大勢現われ、〝私こそキリストだ〟と言って、多くの人を惑わすでしょう......民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです......人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。また偽預言者が多く起って、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この神の御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終りの日が来ます〉
このイエスの預言は新約聖書のマタイ書に載っています。イエス自身は滅亡の日であるハルマゲドンについて明確な時期は予告していません。ただ、同じマタイ書の中で、イエスはこう断言しています。〈この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることはありません。ただし、その日、その時がいつであるかはだれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます〉子というのはイエス自身のことで、父とはエホバです。
時期はいわないけれども、破滅の時は必ず来る、とイエスは明言しているんです。
旧約聖書にも、ハルマゲドンの予告は沢山あります。イザヤ書では、それを〝主の日〟と呼んでいます。〈泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。それゆえすべての者は気力を失い、すべての者の心がなえる。彼らは怯じ惑い、子を産む女が身悶えするように、苦しみとひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る〉
ちょっと長いですけれども、もう少し引用してみます。〈見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶しにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしはその悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは人間を純金よりも稀れにし、人をオフィルの金よりも少くする。
それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く〉
凄絶な神の怒りを、預言者イザヤは語っています。不正不義の横行にイザヤがどれほど憤激していたか、その心境がよく伝わってきます。イザヤの預言では、救世主の降臨と十字架による受難が有名です。イザヤがもっぱら預言したのは、バビロン滅亡についてですが、もちろん〝主の日〟とはバビロン壊滅のことだけではなく、いまだに預言は有効となっています。イザヤは二千六百年ほど前の人ですが、彼のいった〝主の日〟はそれ以前にも何度かくり返されています。たとえばノアの大洪水、ソドムとゴモラの滅亡などです。〝主の日〟には明確なパターンがあるんですね......」
土屋の博識ぶりは人々を圧倒した。彼の頭脳はどういう構造になっているのだろうと三千子はしんそこ不思議に思った。厖大な聖書が全部頭の中に入っているのだろうか。
10
「つまりそれは、おごり高ぶった不遜な人類、道義的に腐敗しきった人間たちへ下される神の怒りです。だからこそ〝主の日〟と預言者たちは呼ぶわけです。
この〝主の日〟について、他の預言者たちも告げています。旧約聖書中のヨエル書では、
〈その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。主はご自身の軍勢の先頭に立って、声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう〉
同じく旧約のナホム書では、
〈山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる〉
〝主の日〟とは、神の怒りだということで預言者たちは共通の認識に立っています。同じく旧約のゼパニヤ書ではこうです。
〈主の大いなる日は近い。聞け、主の日を。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日......彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救いだせない。その嫉みの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽す〉
こういう具合に、激烈な調子で預言者たちは語るわけです。こうした怒りに燃えた物凄い脅迫を傲慢で不遜な人類は無視してハナもひっかけなかったということですね。ペテロは次のようにいって止めをさします。
〈しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽されます〉
ところで〝主の日〟とは審きの恐ろしい日であると同時に、救世主の再臨の日でもあるのです。新約のマタイ書、マルコ書、ルカ書には、それをこういっています。
〈人の子の来るのは、稲妻が東から出て、西に閃くように、ちょうどそのように来るのです......太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。その時に、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみにくれながら、人の子が大いなる能力と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです〉
人の子とは救世主のことです。次いでマルコは、〈だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。その時、人々は人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです〉
ルカは次のようにいいます。
〈そして、日と月と星には前兆が現われ、地上では諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々はその住むすべての場所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
その時、人々は人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです〉
滅亡の日は、同時にまた輝かしい救世主の再臨の日でもあるわけです。光と闇は同時にやってきます。この両者はワンセットになっていて切り離せないのです。
私は、救世主の再臨の日は、同時にサタンの再臨の日だと解釈しました。サタンの降臨ゆえに、恐ろしい暗黒の日は訪れるということです。しかし、光はその暗闇を追い払います。
もう少し預言者たちの言葉を聞いてみましょう。
〈あなたが滅び去る時、わたしは空を覆い、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。わたしは空に輝くすべての光を、あなたの上で暗くし、あなたの地を闇でおおう〉
これはエゼキエル書で、〝主のお告げ〟とされています。
〈ああ、主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それは闇であって、光ではない。ああ、まことに、主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない〉
これはアモス書です。苦々しい呪いの言葉のようです。最後に黙示録から引用してみましょう。
〈小羊が第六の封印を解いた時、大きな地震が起こった。そして太陽は毛の毛布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それはいちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落すようであった。
天は巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
地上の王、高官、千人隊長、金持、勇者、あらゆる奴隷と自由人が洞穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向ってこう言った。『私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう』〉
聖書にはこうした〝主の日〟と呼ばれるハルマゲドンについて、沢山の記述がちりばめられています。最後の日に、容赦のない苛烈な神の怒りが下り、人類の終末が来ると恐ろしい口調で告げているんです。聖書にはこうした神がかりの物凄い威嚇が秘められていて、聖書をまじめに読もうとする人間を戸惑わせることがあります。私も最初は大いに引っ掛りました。人類を産みだした大いなる神の愛が、なぜこのようなヒステリックな陰惨な激怒に一変するのか、わけがわからなかったからです。預言者たちは己れの義憤、それも私憤の混った激怒を、神の怒りとしてぶちあげているんではないか......そう思いました。
私はクリスチャンではないので、聖書を頭から丸吞みにし、全てが神の言葉であるなぞと信じてはいません。預言者たちも人間です。人間は心狭いもので、神のように広大無辺な度量は持たないはずです。預言者たちは自分に我慢ならない道義の退廃を、神も我慢しないはずだ、そう考えたのではないかと考えました。己れの怒りと神の怒りをどうもすりかえた惧れがある......どうも私にはそう思えるんです。心義しき者と自負している方々はどうやら大変狭量である方が多いのではないか、そんな気がします。
〝主の日〟という神の怒りとははたして、どのようなものだろうか......私は子供のころ聖書に接して以来、ずっと考え続けてきました。聖書に現われる神は実によく怒るんです。アダムとイブの楽園追放、カインの兄アベル殺し、バベルの塔、ノアの洪水、まるで人類はひっきりなしに神の怒りに触れ続けてきて、火と硫黄の雨に焼かれながら、よくここまで生き伸びてきたと感心するくらいです。
しかし宇宙を創造した神、造物主にしてみれば、人類なんてカビのようにちっぽけなものではないか。その哀れな人間に対して全宇宙をしろしめす神が、実に他愛もなく簡単に怒って、お前たちは出来損いだから皆殺しにしてしまうぞ、と物凄い威嚇をする。
神ともあろう者が大人げないんじゃないか......度量が狭すぎるんではないか......昔から私はいつもその疑問を去来させてきたわけです。神が親とすれば、人間はまだもの心もつかず、わけのわからない幼児のようなものです。幼い子供がわけもわからず悪さをしたというので、慈悲深い親は子供を殺してしまうでしょうか? そんなことはどうしても納得できないんですよ。もしそうだとすれば、神は恐ろしい暴君としかいいようがありません。私は聖書に登場する怒りの神をどうしても信じられないんです。
それで私はクリスチャンになりそこないました。〝主の日〟というひどい脅しがどうにも我慢ならなかった、ということです」
「あたくしもそうなんです。今、土屋先生のおっしゃったことと全く同じ感じ方で、キリスト教に引っ掛かるものを感じてしまったんです」
東三千子が引きこまれるようにいった。その声音は三千子らしくもなく熱していた。
「聖書に現われる神は著しく分裂しているような気がいたします。慈愛深い、最高の人格を具現した偉大な父......そして自ら嫉みの神、怒りの神と名乗る悪鬼の形相を持った存在に分裂しているのではないでしょうか。
聖書には実に多くの箇所に、わたしは嫉みの神だと自ら宣言されています。異教徒と異教徒に与みする者を絶対に許さず、特に近親憎悪的なヒステリックな怒りを示す神......神とはそもそも憎んだり嫉んだりする者でしょうか。偉大な人格者はそんな醜い感情に心をゆだねる己れを恥じるものではないでしょうか。神ではなく人間だとしても、嫉みは醜悪な感情で狭量な自我の現れのはずです。それは自己本位の狭い心の現れです。
それを、宇宙を創造し、過去、現在、未来をしろしめす偉大な神ともあろう存在が、もっともちっぽけな人間的な感情、どろどろした毒念に支配されるものでしょうか? あたくしにはそれがもっとも理解できませんでした。イスラエルの民だけを助け、身びいきし、己れに背く者を激しく憎悪する神......それが全宇宙の創造者である神のあるべき姿でしょうか?
聖書中の神は、明らかに分裂してしまっています。何千年も迫害され続けたユダヤ人たちの憎悪と呪詛が、〝嫉みの神〟として悪魔の王を祈り出してしまった......そんな気がいたします」
一同はしんとして聞いていた。東三千子がただ控え目で穏和な女性ではないと改めて思い知ったような表情になっていた。三千子は抑制した喋り方によって、大声で激しく叫ぶよりも効果を上げることができた。
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「あたくしは、何人ものクリスチャンの友人たちと、その点に関して質問し、議論を重ねました。神父様を含めて、友人たちは同じ見解を示し、あたくしの質問を否定しました。つまり、イスラエルの民だけの神というものはありえない、神は唯一であって、創造主であり、全人類の神だという答えです。その証拠は聖書の中に沢山あるというのです。たとえばエゼキエル書の中で、神は自分が悪人の死を喜ばない、と断言している、とクリスチャンの友はいいます。悪者がその態度を悔い改めて生きることを喜ぶ、と。神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる、とテモテ書にもある、と友人はいいます。だから、旧約聖書の神がユダヤ人だけの神だというのは大きな誤りだ、神は唯一であり、全人類の幸せを望んでいられるのだ、と......あたくしは友人たちが証拠として聖書から拾い上げて示してくれる神の慈愛については全く否定していません。事実、その通りだからです。
でも、友人たちはあたくしの質問に正しく答えてくれておりません。あたくしの甚しい誤解だと断定し、あたくしを熱心に説得しようとするだけなのです。友人たちは答を避け、問題をすりかえようとしているようにあたくしには思えました。
たとえクリスチャンの友人たちが、どのように弁護しようと、聖書中の神が分裂していることはまぎれもない事実なのです。慈愛に溢れた偉大な父と、嫉みの神と名乗る悪鬼のような存在とに分裂しており、単に誤解だといって片付けられることではありません。
あたくしはなぜ、そのような著しい分裂が聖書の神に生じているのか、理由を知りたいと思ったのですが、友人たちはそれを考えることすら避けてしまうのです。自動的に思考停止がかかって、問題のすりかえに熱中してしまうということがわかりました。
つまり、クリスチャンの友人たちにとり聖書は絶対であり、あたくしはそうではないということなのです。聖書は神の言葉であるゆえに、絶対不可侵の神聖、と友人たちは考え、矛盾を指摘したり、正当性に疑問を抱いたりすることを、神の言葉を冒瀆するものだ、と思うらしいのです。あたくしの指摘に対して、神への冒瀆という言葉は使用しませんが、無意識的にすりかえを行い、あたくしの疑問にはまともに答えてくれないのです。いくら反証を山ほど示されても、矛盾があるという事実を動かすことはできません。
明白な矛盾が存在することを認めない、認めることを拒むという態度は理性的ではないし、論理性の欠如を意味します。それが信仰だ、ということなら、あたくしには納得できないんです。理性を否定してただ神を信ぜよ、ということになり、狂信、妄信と少しも変りがなくなってしまいますから......
あたくしは、クリスチャンの友人たちのように、聖書が神の言葉であるがゆえに絶対不可侵とはどうしても思えないのです。神の言葉とはいえ、人間が書き写し、何千年もの間伝えてきたものです。後世の人間の手が加えられている可能性は十分ありますし、誤りだけでなく、意図的になされた書き変え、改ざんもありえます。その可能性に目をつぶってしまうことは、やはり同じように理性的とはいえないはずです。伝達ゲームといって、一つの文章をなした言葉を何十人もの人々が順々に口伝えにして行く遊びがございます。最初の一人と最後の一人との間には、とんでもない相違が生じてまいります。全く違った内容になってしまうのです。
何千年もの歳月を通して、聖書が原初の形を正しく保ち、誤り伝えられることが全くなかったと信じることにはやはり無理があるのではないでしょうか。故意ではなくとも、改変が加えられ続け、その都度ユダヤ人の心が反映して行ったのではないか、とあたくしは考えたのですけれども、友人たちにはそんな不遜な考えを持つこと自体、許されないことらしいのです......
あたくしは、神を信じるということは、聖書を鵜吞みにして何の批判も加えない、また許さないということではないという気がいたします。聖書を記述したのはあくまでも人間です。神は間違いを犯さないとしても、人間はいつでも誤りを犯す余地があります。聖書にはあたくしが冷静に、素直な気持で読んでみましても、驚くほど人間的感情が豊かに溢れております。それも低次元な醜い感情、憎悪や嫉妬や呪いの念で彩られていて、ぞっとすることもございます。
あたくしはもちろん専門的知識の持主ではございませんけれども、白紙の状態でもし聖書を読むならば、嫉みの神、呪う神と自ら名乗るエホバは、サタンの化身ではないかと思うかもしれないという気がいたします。それを率直にいいましたところ、クリスチャンの友人たちは大変ショックを受けまして、それ以来あたくしを見る目が変ってしまいました。なんとはなしに疎遠な、よそよそしい感情をあたくしは友人たちに生じさせてしまったような気がいたします。
多分、あたくしはあまりにも率直すぎて、思い遣りに欠け、クリスチャンの友人たちの気分を害してしまったのでしょうし、その点については反省しておりますが、聖書中における神の分裂については、いまだに考えを変えておりません......
あたくしはいかなる宗教宗派の信者でもありませんが、造物主、宇宙創造者としての神は信じております。東丈が大宇宙意識という言葉を用いて語った時、これまで耳にしたどのような神を語る言葉よりも強い感銘を受けました。
人間が造った宗教の枠内に規定された神ではない巨大な存在、擬人化された神を超える真の神、大宇宙意識こそ、あたくしがこれまで宗教に関係なく信じてきた神だったのだ、と体が慄えるほどの感動を覚えたんです。
そうなんです。大宇宙意識は人間が勝手に人間の形をさせた小さな神と関りない巨大な存在だったんです! 宇宙全体を創造した神は仮にも人間の形など取るはずがありません。人間的になるには大宇宙意識はあまりにも巨大エネルギーそのものです。この大宇宙こそ神の肉体ではありませんか!
クリスチャンの友人がいうように、神が人間の肉体を持つなんてありえない、とあたくしは確信したんです。唯一の神はそんなに小さな存在ではありません。大宇宙意識は、あらゆる意味で、人間的であることを超えています。二千年前、イエス・キリストという神の一人子がイスラエルという中近東の場所に出た。そのイエスの贖罪により全ての人間は救われることになったとクリスチャンの友人はいいました。
けれども、全宇宙にとり地球とはいったいどんな存在でしょうか? 宇宙を人の肉体にたとえれば、八十兆の細胞のうちのただの一つが地球です。その小さな目にも止まらないほど小さな地球の、更にちっぽけな一地方で得られた贖罪が全宇宙を救済するということが本当にありうるのでしょうか? しかも、イエス・キリスト誕生以前の人類は、イエスの贖罪という恩恵にふれえないがゆえに、決して救われないというのでしょうか?
キリスト教では、その通りだというんです。イエス以前の人間はどんなに罪を犯さず善良であっても、決して救われない存在だというんです。唯一の神はそんなに無慈悲なものでしょうか?
この広大な宇宙を創造した神は、そんなにまで心狭く無慈悲なのでしょうか? もちろん違う、とあたくしは思います。あくまでもそう主張するなら、間違っているのはキリスト教の方ですし、それは人間が造り上げた宗教だという証拠です。唯一の神を人間の小さな狭い心で造り上げた宗教の枠内に押しこめてしまったからではないでしょうか?
あたくしは、どうしても解答を与えられない疑問のために、クリスチャンになれませんでした。今にしてみれば、もし自分の良心に忠実に生きようとするならば、正しい批判精神を圧殺してしまうことなど決してできない、とよくわかります。矛盾に気付き、疑問を持つのは、神から与えられた神聖な権利なのではないでしょうか。
あたくしが大切な友人と疎遠になっても、自分の心が本当に求めるものを求め続けてきて、よかった......そう思えるようになったのは、弟の丈に教えられてからのことなんです。あたくしは自分の心にどうしても不正直になれなかったんです。もし、自らの目を塞ぎ、明白な矛盾に心を塞いで、偽りを信じ続けようとしたならば、決して真実を知ることはできなかった......そう思います。求めよ、さらば与えられんという聖書の言葉の意味がよくわかります......」
内奥にあるものが迸り出るように、三千子は一気に喋った。いいよどんだり、混乱するところはまったくなかった。それは、考えが三千子の裡にすでに熟し、語られる時を待っていたからだ、とだれにもわかった。いい加減なその場の思いつきで語られる言葉とは比重の異なる重みがあった。
人々は引き込まれて聞いていた。美晴のように、三千子の一言一言に熱心に頷きながら夢中で聞いている者もいた。郁江は依然として静かに聞いていた。いつもごく自然に主役を掠ってしまう郁江が、東三千子に敬意を表しているように見えた。
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「先日、郁江さんともお話したことですが、既成概念とはまったく恐ろしいものです。目から鱗が落ちる、といいますが、その鱗とは誤った既成概念のことのようです。既成概念は目を覆って、真理から遠ざけてしまうことがあります。目を覆うには、ほんのちっぽけな鱗で充分なんです。
しかも、自分ではそれに気付きません。本気で自分は真実を見ている、と頭から信じこんでいます。自分が見ているのは、小さな誤った既成概念なのに、それに気付かないんです。
人によっては信念が強固なのでしょうか、特に既成概念にこだわり、ものに捉われやすく、明白な真理を直視することを頑強に拒む方もいらっしゃいます。
たとえば、キリスト教を深く信じている方で、キリスト教を信じず、福音を受け容れることを拒む者を、愚者として憐み、あるいは蔑む方もおいでのようです。このようにイエスの救いという福音は明白なのだから、それを受け容れない者はどうかしている......そのように思うらしいのです。キリストの十字架を信じない人間は魂が滅びる、と本気で信じているからです。でも、あたくしにはキリスト教徒以外は、仏教徒も回教徒も含めてあらゆる人間が滅びるのだ、と真剣に信じているその方がとても不思議に見えます。
宗教とはこのように人間を狭量で、偏見と誤解に充ちた人間に変えてしまうのか、と慄然としてしまうんです。人間的には善良な方かもしれませんが、あまりにも独善的で自己満足型に過ぎるという方々が、どうも宗教に若いころからのめりこんだという人には多いように思われます。
宗教は麻薬だ、という言葉がございます。宗教に凝られた方は、ご自分の宗教での教義が世間一般に優先するものだ、と勘違いされているのではないかしら、という気がするのです。これは何も宗教に限らず政治思想に若いうちからのめりこんだ人々にも同じことがいえるのかもしれません。
そういう人々は、世間一般の常識、良識といったものにあまり関心を持ちません。自分の信仰する宗教の教義こそ、唯一絶対の真理だと確信しているからです。S学会が組織拡大のための活動で、非常識な言動に及ぶ信者が多く、物議をかもしておりますけれども、それはS学会の遣り方が極端であり強引すぎて、しかも巨大組織のために、社会問題になってしまったからでしょう。多くの宗教を信仰する人々が大なり小なり、似たようなことをしているのではないでしょうか。
キリスト教の信徒の一部も、過激な活動をすることで知られています。でも、イエス・キリストの十字架を信じない人間は滅びるというのですから、過激ではない信徒の方々も結局は同じ独善に捉われているとしかいいようがありません。
罪を悔い改めよ、そうすれば天国へ行ける。さもなければ滅びるぞ、と脅迫しているようなものです。これでは〝脅迫宗教〟としかいいようがありません。滅びを声高にいいたて、意に従わせようとするのです。
その心の中に愛があるでしょうか? 救済を大声で叫びたてていても、心にあるのは権力意志であり、他人を己れの意に従わせたい欲望ではないでしょうか。
もし、神がキリスト教徒だけをえこひいきされるなら、ユダヤ人はもちろん、仏教徒も回教徒も滅ぼし尽されてしまっているのではないでしょうか?
もちろん、そんなことはありませんでした。〝原罪〟ということをいいたて、キリストの十字架を信じないものは滅びると本気で信じるならば、それは独善と自己満足にすぎないはずです。イエス様が十字架を信じよ、とおっしゃったでしょうか? もちろんそんなはずはないし、初期キリスト教を信じる人々のシンボルは十字架ではなくて〝魚〟だったんですから。
聖書に己れの勝手な解釈を施した人々が、十字架を信じない者は救われない、などと無体なことをいいだしたんです。この数千年の間に、聖書は権力者や教会にとって都合のいいように造り変えられてしまったんです。イエス様以前の人間はだれ一人救われず、十字架を知らない全宇宙の生命体は救われずに滅びる、と、どうして正気でいいたてることができるのでしょうか。あまりにもいい気すぎるのではないでしょうか。
改めて宗教という既成概念は恐ろしいものだと思います。中学生の子供でも変だな、とわかる明白な矛盾がわからなくなってしまうし、認めることを拒ませるようになってしまうのです。それは既成概念ゆえに真理が見えなくなってしまい、明らかな誤謬が唯一無二の真理に見えてきてしまうのです。それは自己催眠にかかるのと同じです。頭から信じて疑わず、正しい批判精神を封じこめて働かないようにしてしまっているからです......
ですから、あたくしのクリスチャンの友人たちは、あたくしの指摘した聖書の矛盾に答えることを拒否しました。友人たちは、あたくしが十字架の救いを信じず、滅びて行くことを悲しんでいると思います。でも、友人たちが心の奥底であたくしを愚かだと思っていることはわかります。本当は、あたくしがその人たちの勧めを受け容れず、福音を拒んだことが面白くないのでしょう。あたくしがその人たちの独善と自己満足を指摘してしまったからです。その人たちにとっては、あたくしが真の神を信じず、罪を悔い改めず、せっかくの救いを拒むなら、それは自ら滅びを選んだことで自業自得だということなのでしょう......つまり自分たちはもう救われたので絶対に大丈夫というわけなのでしょう。
でも、あたくしは、真の神はクリスチャンだけをえこひいきして救うとはどうしても思えません。イエス様は異教徒であるローマ兵士をすら神の子として讃えているではありませんか。どうやらイエス様の神とキリスト教の神は、同じ神ではないという気がいたします。
クリスチャンだけにとって都合のいい神とは、既成概念という神ではないのでしょうか?
あたくしのクリスチャンの友人の一人は、この十字架の福音を日本人の多くは受け容れようとしないと嘆き、日本人は滅びる、日本人は駄目な民族だ、という意味のことを強くいい慨嘆しました。キリストの救いを受け容れず日本人はみな滅びると悲しんでいたのでしょう。でも、世界中のキリスト教国における社会的な退廃が日本よりも急速に進んでいることについては、その友人は何もいいませんでした。
なぜ既成概念に捉われた人たちは、自分にとって都合の悪いことは全て無視し、黙殺してしまうのでしょうか。それは宗教というものがもっとも強固な既成概念に異ならず、目を覆う鱗として、真実を見る目を塞いでしまうからではないでしょうか。
自分の信仰する神、仏という人間の造った既成概念に囚われてしまった人は、宇宙的真実を知らされても、既成概念に合致しなければ、受け容れることを拒否するでしょう。明らかな真実を誤っているとして頑迷に退けようとするでしょう。真の神は十字架に関りはないといわれれば、激しく憤り、転生輪廻思想は異端であるがゆえに、教義に合致しない異教の考えとして拒絶するでしょう。自分の奉持する既成概念は唯一無二でなければならないからです。聖書は絶対であり、誤りなきものだという理由によって、聖書に抵触する宇宙的真実は決して認めないということになってしまいます。
こうしたことはキリスト教だけではありません。仏教では、神という概念はありませんから、造物主を認めません。お釈迦様が神について語っておられない、という理由によって、宇宙創造者としての神は否認されてしまうんです。でも、仏教はキリスト教のように異質のものは異端として厳しく斥けることはありません。
もし、キリスト教と仏教の位置が、日本で逆転していたらどうでしょうか? 宇宙意識フロイがルナ王女や丈を通じて開示した宇宙的真実は、キリスト教社会によってきびしく排除され、異端視されることはほぼ間違いないと思います。宇宙意識フロイが示した真実は、必ずしも聖書通りではないからです。
丈が宇宙的真実をさし示し、日本の人々に〝宇宙の法〟を説くことに対して、物凄い抵抗がかかったであろうことは、容易に想像がつきます。あたくしのクリスチャンの友人たちは、聖書の教えに抵触する〝宇宙の法〟に対して逆毛を立てて拒むような、きわめて強い拒絶反応を示すことは確かです。
もしかしたら......これはあたくしのほんの想像にすぎませんけれども、もしかしたら日本においてキリスト教がどうしても根付かず、キリスト教会を慨嘆させてきた歴史には、宇宙意志が働いていたのではないでしょうか......
〝宇宙の法〟はまず日本において開示されることが予定されていて、それがためにキリスト教は抑制されていたのかもしれない。それはキリスト教が、〝異端〟に対してきわめて斥力の強い宗教、強固すぎる既成概念だったためだった......これはもちろんあたくしの想像にすぎません。
もちろん、あたくしはキリスト教の教義がなにもかも誤っていて、宇宙的真実に反しているといっているのではないんです。この場にはクリスチャンの方はいらっしゃらないと思いますけれど、念のために......
ただ、宗教は、あくまでも人間が造りあげた既成概念の枠の中に閉じこめられた〝宇宙的真実〟だと思います。二千年前のイエス様が説かれた教えと、以後のキリスト教会という弟子たちが様々な都合によって手を加えた教義が完全に合致すると考えることには無理があります。
もし、宇宙意識フロイが今度明らかにした〝宇宙的真実〟も、もし会が巨大化し、キリスト教会のような権威と化してしまえば、組織の自己保存のために改変を加えられて行くのではないでしょうか? 丈が恐れたのもそれだったように思います。
なぜ〝宇宙の法〟が時間的経過につれて変化し、硬直化してしまうか、それはまた別の問題があります。おそらく丈は、キリスト教を初めとするあらゆる宗教が、強固な既成概念と化して、〝宇宙の法〟自体から離れ、斥力を働かして行く事実を悟っていたと思うのです。同じ間違いを犯さないように、懸命に模索する態度が、会の運営に現われていたのではないでしょうか......
たぶん、丈にとって最大の関心事は、宗教を初め政治思想を含めて、強い粘着性を持つ既成概念の妨害を避け、抵抗を最少にして、〝宇宙の法〟を人々に伝えて行くということにあったという気がいたします。急進的になりすぎまいとする慎重な態度が、多くの人々の不満を買ったかもしれませんけれど、丈は強い抵抗、斥力となって現われてくる力の〝元凶〟について考えるところがあったのではないでしょうかしら。
つまり、幻魔の力が現われる時には、非常な多様性を持つということです。いい方がわかりにくいかもしれませんけれど、幻魔の大本の波動は一つでも、人間の数だけ多くのさまざまな方法、手段をとることができるということなんです。その人間によって個性が違えば、弱点も異ります。幻魔は人間の一人一人について対応する方法を心得ている......
波動を送って人間の心の中に食い入ってくることもしますし、極端な場合にはその本人を憑依という形で乗っ取ります。それが効かなければ、他人を動かして攻撃させることもします。組織を分裂させたり内輪もめを起こさせて弱体化を計ることもあります。
丈の活動を妨害するためには、ありとあらゆる方法を用いて揺さぶりをかけるはずです。組織の弱体化に失敗すればマスコミで叩いたり、他の組織、既成宗教によって攻撃をかけるかもしれません。
皆様は、会の内部で何が生じてきたか、じっくりと観察されてきたはずです。幻魔の波動のテクニックというものを実地に体験されたのです......幻魔の正体については、あたくしなどより、郁江さんの方がずっとよくご存知ですから、これ以上は申し上げませんけれど、幻魔という存在が太古から地球上に大きな影響力を及ぼしているからには、聖書にも取り上げられているはずです。そのことを今日は土屋先生にお尋きするはずが、あたくし一人でお喋りしてしまって申しわけありませんでした......今日のあたくし、ちょっとどうかしています。ごめんなさい......」
三千子は頰に紅いを走らせた。万事控え目に徹している三千子にしてみれば、自分があまりにも情熱的に語り続け、一人舞台を演じたことは大きな驚きだった。自分にそのような真似が出来るとは信じられないことであった。
三千子の内奥から溢れ出してくるものが彼女に飽くことなく情熱を傾けさせ、駆り立ててやむことがなかったのである。
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一同の間にかすかなざわめきが生じた。だれもが固唾を飲み、息を潜めて東三千子の話に聞き入っていたのだ。その者の理解力の限界によって全てを理解できなくても、三千子の語りかけは迫力があり、ぐいぐいと引き込んで行く力があった。
もっと勉強しておけばよかったという悔いが若者たちの顔色にうかがわれた。宗教については知識が極端に少い者が大勢を占めていたようである。あまりにも初耳のことばかり多すぎて頭が飽和してしまうのだ。ある程度の一般知識がなければ、三千子の話に完全について行くことは困難にすぎたようである。
若者たちは互いの反応を窺いあっていた。他人に比べて自分がどれだけ理解したかに不安を覚えていたのであろう。それだけに視線はごく自然に井沢郁江の顔に集まった。
しかし、郁江はただ聴き手として徹底しており、何ら発言の意志は見せなかった。彼女の考えをその顔から読み取ることは、だれにもできなかったろう。
「素晴らしいお話を聞かせていただいて、私圧倒されてしまいました......」
と、土屋が咳払いしながらようやくいった。ハンカチでじっとりと汗ばんだ額を拭う。春の日ざしは明るい大きな窓を通して大広間に差しこみ、汗ばむほど室温をあげていた。
「本当におっしゃる通りだと思います。大いに啓発されましたし、以前からキリスト教に対して疑問を抱いていた点が、氷解した、すっととけたという心地もします......」
「とんでもありません。舌足らずなことばかり臆面もなく申し上げてしまって......」
三千子の上気は去らず、それが彼女を活きいきと目を瞠るばかりに魅力的に感じさせた。
ああ、綺麗だ......と若者たちはおのずと讃嘆の目で三千子を見ていた。まるで灯が内奥で点ったように、三千子は美しくなってしまった。いつも顔を覆っていた服喪のベールを不意に取り去ったようであった。
「あたくしの独断と偏見を必死になってお話したような気がいたします。キリスト教についてさんざんひどいことばかりいってしまったようですけれども、決して悪意があったり攻撃してやろうというつもりではないんです......全面的にキリスト教を否定しているのではありません。今後、〝宇宙の法〟が人々の間に広まる時、クリスチャンの方々もわかってくださるといいな、と思っています。
あたくし、聖書は大好きですし、イエス様には強く惹きつけられます。ただどうしても洗礼を受けてクリスチャンになれなかったのは、疑問が多すぎて、解決することができなかったからなんです。自分の裡にある正しい批判精神はどうしても必要だと思います。それを捨てきらなければ、信者の資格はないということであれば、クリスチャンになれなくても仕方がない......自分の心に忠実であることを選びたかったのです。信じてもいないことを信じている振りはあたくしにはできませんでした......信じることのできない自分、疑問を捨てきれない自分にずいぶん悩みましたけれども、今はそれでよかったのだ、と晴ればれした気持になれます」
「教義に関しては、クリスチャンであっても懐疑的になる人々が少くありません......我田引水、牽強附会、得手勝手なこじつけを鵜吞みにするのは、人間にとっては本来むずかしいことではないかと思います。たとえ幼時から狂信的な教育を受けても、おのずと疑問が生じて、目が開いてしまいます。人間は元々正しい批判精神を良心として神から与えられているからです。おっしゃるように人間は既成概念という鱗で目を塞がれ易い存在でありながら、一方では偏らない公平さ、公正さというものを求めています。
私も、お姉様と同じように敬虔なクリスチャンの友達と気まずくなってしまった覚えがあるんです。しかし、それはマルキシズムに凝り固った友達と大激論した挙句、袂を分ったのと結局は同じことです。人間は己れの信念を守ろうとする時、もっとも戦闘的になり、非寛容になるものだとわかりました......
奉持する信念とは第二の自己とでも呼ぶべきものなんですね。狂信者はまるで母虎が子供を護る時のように猛々しく戦いますから......どうも宗教や政治思想という信念体系は、人間をワンウェイ・トラック・マインドにしてしまう、馬車馬のように目隠しをされて真正面しか見えないようにしてしまう傾向があると思います。価値概念が一本化して、それだけで全てを判断してしまうようになる。恐ろしく単純な見解、一元的な視座から全てを切って捨てるようになります。善か悪か、敵か味方か、イエスかノーか、つまりオール・オア・ナッシングになってしまうようです。
人にはさまざまな立場があるということがわからなくなってしまう。己れの奉持する価値概念こそ絶対の、至上至高のものだと信じて疑わなくなってしまう。自分とその与みする陣営だけが絶対に正しく、その他のものを全面否定し、多様性というものを認めなくなってしまう。つまりクリスチャンにとっては、他宗教の神は全て偽神であり、否定されなければならなくなる。だからこそ宗教戦争は起こったんです。
己れは絶対に正しい、無謬である、間違いや誤りはないと信じこむのは盲信であり、狂信です。そこには反省という均衡復元装置が働く余地がなくなります。
一人一人は善良で、悪気のない、本来親切な優しい心の持主なのであろうと思いますが、狂信に囚われたら最後、独善と自己満足の権化となります。まことにお姉様のおっしゃる通りです。
こうした人々は、他人が間違いを犯していると本気で思いこみ確信していますから、飽くことなき精力で、誤りを指摘し、間違いを悟らせてやろうとするわけです。それは一見善意の押しつけですが、本当は他人を己れの意志に従わせたい、権力意志の顕れなんです。その根底には真の愛はありません。もし自分の〝善意の押しつけ〟を相手が拒めば、腹を立て、憎みます。もし相手が不幸に見舞われたりすれば、天罰だ仏罰だといい快哉を叫びます。ざまあみろというわけです。その心にあるのは復讐者の喜びであり、憎悪です。
しかし、本人は少しもそんなことに気が付きはしない。あくまでも自分は、神仏の心に従って生きており、神仏の救いを受けて、決して滅びたりはしないと信じ切っています。真の反省がなされないからです。正しい批判能力が少しも働かなくなる。自分は正しいし、悪いもの、間違っている者は全て他人だからです。
真の神を無視し、自分の罪を悔い改めず、せっかくのキリストによる救いを拒むならば、それは自ら滅びを選んだことで自業自得だ......そういう傲慢ないい方になってしまうわけです。自分こそは正しく、必ず救われるという信念の上にあぐらをかき、こうした居丈高ないい方になるんでしょう。
真の神とはキリスト教にしかないのか、神はクリスチャン以外は救わないのか、と一度でも考えてみたことがあれば、こうしたせりふは出てこないでしょう。
自分自身の独善は盲点に入っていて見えませんから、こわいものです。いくら形式的な謙虚さを装ってみても、独善家には真の謙虚さがありません。どうしても居丈高な波動、投げ遣りな波動が出てきて、正体を現わしてしまうんです。けれども、独善家に限って己れの善意を信じ切って、疑いません。善意の押しつけを他人に拒まれると、自我が傷つきがぜん怒ってしまいます。人の親切を無にする愚か者ときめつけるわけです。
自分の権力意志に従わない者は全部愚か者、馬鹿者なんです。マルクス主義の狂信者も全く同じ遣り方で、非服従者を非難し、罵ります。独善家はどの陣営に属していても、みな同じです。同じ鋳型で造られていて、ただ違う制服をまとっているだけなんです」
土屋には説得力があった。決して巧妙な話し手ではなく、しきりにつかえたり、いい廻しに難渋したりして、このようにすらすらと語ったわけではないのだが、反撥を相手に生じさせず理解させて行く〝力〟があった。
「会や塾の方々にお逢いして、いわゆる狂信者タイプのこわい人たちが少ないのにホッと安心しました。私は苦手でしてね......仏罰とか破滅とかすぐに恐ろしい言葉で人を脅かすんですよね......」
若者たちからようやく笑い声が漏れた。それまでは緊張しきっていて、笑いどころではなかったのだ。
「お姉様がいみじくも〝脅迫宗教〟とおっしゃいましたが、これは鞭とアメの使い分けをするんですよね。十字架の償いを信じれば救われるが、さもなくば滅びる。ご本尊様を信仰すれば、ご利益が沢山あるがさもなくば仏罰が下る。二つがセットになっていて、利益誘導と罰の脅しで魂まで縛ろうとする。私はどうしても好きになれません。滅びようと仏罰が下ろうと知ったことかという気になります。そんな脅しを、人間の弱みにつけこんで加える神仏は、真の神でもなく仏でもないという確信が心の裡にあるんです。
ですから、郁江さんにお逢いしたりお姉様のお話を聞いて、これこそ真実だと思いました。神仏が人間を罰したり滅ぼしたりすることは決してない、と確信できたんです。憎しみや嫉みで人を審き、恐ろしい罰を加えるとしたら、それは真の神でもなく仏でもない。憎しみや嫉みは闇であって光ではありません。ネガティヴな......マイナスの暗い想念です。自分の信仰する神に従わない人間は勝手に滅びてしまえ、自業自得だ、ざまあみろと呪う心は、人々の幸せを願う心、光に満たされた心とは正反対のものです。そんな心根は、人間としても卑しいし、低級です。だれが見たって偉いと褒められた代物じゃない。
まして神や仏が同じことであったら、これはもう論外です。悪神であり、祟り神です。神仏どころか悪霊様そのものではありませんか。
宗教とは、人々に正しい生きる道を教える、宇宙を示す教え、宇宙の法であるはずですが、いつの間にやら闇が忍び込んでしまうようですね。
善意の人々の心の奥にも、いつしか権力意志が芽生えます。独善と自己満足の虜になり、人々を勝手に審き、人々を己れの意志に従わせようとする業念によっていつしか操られ、動かされるようになってしまいます。
そういうことがなぜ生じるのか、突きつめて考えておくことが大切だと思うんですね。聖書中の嫉みの神はどこから現われたかということを考えてみたいんです。私もお姉様と全く同じで、嫉みの神にまず最初に引っ掛りました。これはおかしいんじゃないか、そう思いました。これじゃまるで聖書の神は、悪魔が化けたようなものじゃないだろうか......人間たちが己れの意のままに従わないというので、人間たちを嫉み、憎み、呪う。それどころか恐ろしい審きを下して痛めつける。こんな暴力的な神が本当の神だろうか......こんな遣り方は神どころか、悪魔王サタンのものじゃないか......他にも処女降誕など疑問は沢山ありますが、私をクリスチャンにせず、引き留めた最大の疑問は、お姉様と同じ、この〝嫉む神〟だったわけです」
土屋は言葉を切り、しばらく沈黙していた。だれもその沈黙をあわてて埋めようとする者はいなかった。その沈黙が、更に大きなテーマをはらんでいることをだれしも予感しているからだった。
「いよいよ、ここで悪魔ということを問題にしなければならないようです。皆様は東丈先生や郁江さんから、幻魔という暗黒波動の存在について教示されている。幻魔とは今急に出現した新顔の魔的存在ではない、古来より人類を暗黒波動で撃ち続けてきたというのが東丈先生たちのお考えです。地球人類は大昔から〝幻魔の標的〟だった......ならばそれは、大いなる文化遺産である聖書の中にも記述されているはずだ。ではどのように暗黒波動は聖書中で語られているのだろうか......それが今日、お姉様とお逢いして語りあってみたいテーマだったわけなんです」
「本論に入る前に少し休憩して、喉を湿らせてはどうでしょうか?」
と、郁江が不意に発言した。
「いっぺんに何もかも詰めこんでしまうと消化不良を起こしてしまいますよ、きっと。わたしたちの慣れない頭脳にとっては大格闘と同じですから......小休止して、質問があったら質疑応答などして、頭を整理してから、先へ進んではどうでしょうか? みんなの顔を見ると、ちょっと呆然とした顔が多いようですから」
「わかりました。少し休みましょう」
と、土屋はおとなしくいった。せっかく興が乗ってきたところを腰を折られたという表情はいささかも見せなかった。
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白水美晴を初めとする若者たちがまめまめしく茶菓の準備に立ち、ざわめきが大広間を満たした。知的な興奮が若者たちの顔色を彩り、活きいきと輝かせていた。若者たちの多くは学校教育の長い退屈な授業時間の中で、これほどの刺激を味わったことがないという表情を浮かべていた。彼らの快い興奮状態は、大広間全体に熱気をもたらしたのか、初夏ではないかと勘違いするほどの高い室温が、人々の肌をじっとりと汗ばませた。
東三千子は、土屋との対話の内容がきわめて固苦しく、特殊な話題であるという自覚があるために、若者たちを捉えている高揚感がかなり意外であった。聴衆のうち大学生を除く若者たちの知的水準でどの程度の理解が得られるか、はなはだ心許なかったのである。
しかし、もっとも知的水準が低いと思われるチンピラ風の若者ですらも、非常な熱心さで耳を傾け、倦む気配すら見せなかった。己れの限界を超えて懸命に理解しようとし、その努力ぶりは泪ぐましかった。慣れぬ手付きで、三千子や土屋の話をメモしようとする努力を示したのである。
なぜ郁江が講義にストップをかけたのか、三千子にはその真意が理解しがたかった。だれ一人として講義に倦み疲れた気ぶりは見せていなかったからである。むしろ高調している雰囲気を中断によって冷やすのは好ましくないとさえ感じたほどだった。
時として郁江は、三千子の理解を超えてしまう。郁江には郁江の独得な考え方があるのだろう、と無理に納得する他はない。
「あの壁掛、素敵ですねえ。なんの模様なのかしら?」
郁江は高声で人々の意識を惹きつけにかかっている。
「ゴブラン織ですね。まったく素晴らしいな、これは......」
と、土屋が応じている。人々の集中していた意識はもはや初夏を思わせる熱気を満たした大広間の中で、拡散し始めている。大広間の壁面を飾ったゴブラン織の壁掛は確かに一見の価値はあっても、今のんびりした話題の中心になるべきものとは思えない。
三千子は自分の顔がおのずともの問いたげな表情を浮べているのに気付いていた。しかし、郁江はなんの反応も示さない。黙殺されたような心地がした。
悪魔というテーマが郁江の心に染まなかったのか、と考える。人々の意識がそのテーマに集中することを、郁江は故意に妨げているような気がする。少くとも喜んでいないという印象があるのだ。
なぜであるかはわからない。今日は、土屋と三千子自身が中心になり話を進めたが、その間、郁江は一言も自ら発言しようとはしなかった。
異和感を覚えずにはいられなかった。今日は何かしら様子が変だと思えてならない。郁江はいつもの郁江ではないという気がする。また河合康夫もぷいと部屋を出て行ったきり戻ってこない。何が気に食わなかったのか知らないが、奇妙な緊張関係が生じているような気がする。そしてそれらは全て、郁江に起因しているようであった......
まさか、土屋や自分が若者たちの関心を集めすぎたので、快からぬ思いを持ったということもあるまい。
三千子は急いで心に湧出した疑念を強く振り払った。そんなことはありえないと思った。郁江がそこまで狭量であるとは信じられない。
しかし、疑念はさながら附着したコールタールのように想念にべったりとこびりつき、はなれようとしなかった。
郁江は最近、あまりにも強烈な波動を振りまいており、接する者によっては高圧的と感じないでもないかもしれない。三千子にしたところで、波動が強すぎるのではないか、と感じることが往々にしてある。ひところの丈をそっくり模したようだ。意識圧の高さが、高圧的と感じる原因なのかもしれない。
あまりにも確信に充ち、自信たっぷりでありすぎるのだろうか。人によっては圧倒されると同時に反撥心を生じさせることがないとはいえない。康夫も郁江の発散する意識圧の高さに反撥しているのかもしれなかった。
己れの考えに沈潜していた三千子は、不意に甘い香りに包まれて、我に帰った。白水美晴が茶菓を配っており、果物の香りに刺激されたのだと気付く。
尊敬心と憧憬が美晴の動作をぎごちなく固くしていた。不始末を犯すことを怖れる心が、滑らかさを奪っているのだった。
緊張過度の美晴の手が滑り、フォークが滑り落ちてガラスの鉢にぶつかってけたたましい音を発した。美晴の顔が真赤に染まる。美しいカットグラスの鉢に大きなひびが走り、美晴は思いがけぬ失態に茫然となった。
「すみません......」
たかがフォークが当ったくらいで、ガラスの鉢に亀裂が入るとは信じられぬことだった。それも鉢が真二つに割れそうなほどの大きな亀裂であった。

「申しわけありません。ごめんなさい......」
その場の全員の注視を集めて、美晴は泣きそうな表情になっていた。己れの醜態がよほどこたえたようである。
人々はぎょっとした表情で見詰めていた。ガラスの鉢を落したわけではないのだ。軽いフォークが滑り落ちただけとは信じられない光景であった。彼らの顔が異様な表情で覆われるのは無理もなかった。
これがもののはずみというものなのか、と三千子は思った。一瞬にして大きな波動が走り抜けガラス鉢を割ってのけるのを見る思いがしていた。
「申しわけありません......今、器を取り換えてきますから......」
と、美晴がおろおろ声でいった。自分の犯した過失に動転してしまったようである。
「今、とても強い波動が来ていましたね」
と、郁江がさりげなくいった。とっさのことで、その意味するところがわからぬ者が大部分だったようである。
「それがわかった人......いますか?」
間いかけに応じて、郁江の〝秘書グループ〟の数名が即座に手を挙げた。
「金沢君もわかった?」
「はい。何かこう、存在を誇示するという感じでした。デモンストレーションをやったみたいです」
大学生の金沢が歯切れのいい喋り方で答えた。
「金沢君もたいしたものですね。彼は波動に対して、とっても敏感なんですよ」
と、郁江があっけにとられている一同に向って説明を加える。
「内村君はどうですか?」
「僕も、ずっと気配を感じていました。圧力がぐんぐん高まってくるので、なにかあるんじゃないかと思っていたんですが......」
内村はしきりに目を瞬かせながら答えた。多少神経質になっているようであった。
「木下君は?」
「だんだん指向性が強くなってきている......そんな感じがしていました」
やはり大学生の木下は、三千子たちの注視を受け、固くなっていた。下ぶくれのメガネをかけた、いかにも良家の子弟という顔が赤らんでいる。
「みんな凄いですね。波動に対して、心霊的に物凄く敏感になっているんですね。わたしなんか、皆さんの反応を見て、あれおかしいな。波動が来てるのかなと改めて感づいたくらいですからね......お姉様も感じていらしたのじゃありません?」
「波動ですか......?」
いきなりお鉢が廻ってきたので、三千子はいくらか面食った。一同の視線が己れの顔に集中している。美晴はなすすべもなく、棒立ちになり、茫然と三千子を見ている。
「波動といいますと、何の波動でしょうか?」
と、土屋が落着いて尋ねた。郁江と秘書グループの何人かを除いて、何が話題になっているのか見当もつかぬという表情であった。
「破壊的な波動です。暗黒波動の......ほら、噂をすれば影が差すっていいますでしょう? あれと全く同じです。ちょうど犬の名前を大声でいっていると、犬が呼ばれたと思って駆けつけてくる......それと同じなんですよ。お二人で話されているうちに、どんどん波動が強くなって、指向性が合ってくるのがよくわかりました。つまり、みんなの意識が暗黒波動の根元に向けられたので、チャンネルが一致して、一気に波動が流入してきたんですね......わたし、それをずっと観察していました」
「暗黒波動というと、幻魔の波動のことですか?」
土屋はようやく腑に落ちたようである。
「土屋さんとお姉様の意識が、サタンに向けられたと同時にみるみる波動が強まってきたんですよ。呼べば答えるという感じですよ、本当に。いつだって暗黒波動はわたしたちのそばにつきまとっているんですけど、いってみればそれは看視の波動なんですね。わたしたちの〝光のネットワーク〟の、光のバリヤーの外で動静を逐一窺っているんです。それが、自分たちのことが話題の中心になり、わたしたちの意識が向けられると同時に、つまり木下君がいった指向性、それが合うと一時にエネルギーが一挙に流入してくるというわけです。
幻魔の中心勢力というのか、意識中枢がわたしたちにいっぺんに関心を向けるんです。圧力が高まってくる、と内村君が表現するような感じになります。幻魔の意識圧がこの場所でにわかに上昇します。それを称してエネルギーが流入するとわたしがいったわけです。つまり、金沢君がいったように、幻魔は己れの存在を誇示するんです。われここにあり、とね......俺はここにいていつも見張っているぞとハッタリをかけたわけですよ。それで、美晴さんがフォークを落したとたんに、ガラスの器を割ってのけた。それが幻魔のデモンストレーションなんです。だって常識で考えたって、小さな軽いフォークが落ちて当った程度で、こんな分厚い頑丈なガラス器が割れるなんてありえないですよ......
幻魔はハッタリ好きですから、これ見よがしに暗黒波動を一気に送って破壊してみせたんです。そうでないと、とうてい起こりえない事故なわけですよ......」
若者たちは期せずして溜息をついた。驚嘆の念がこめられていた。
「幻魔はそんな強い力を持っているんですか?」
土屋はいささか感じ入ったという口調であった。
「もちろんです。この程度のことは簡単にやってのけますよ」
「では、美晴さんがフォークを落したから、ガラス鉢が割れたというわけではないのですね」
と、三千子はいった。
「もちろんです。フォークを落したのをきっかけにしたんです。波動を強めて〝力〟を一気に集中するためのね......美晴さんを波動で縛って、手許を狂わせたわけですよ」
美晴は感謝をこめた眼差で三千子を見た。安堵に心を満たされたようであった。ガラス器が割れたことに、責任感のみならず罪悪感を覚えずにはいられなかったのだろう。
自分が幻魔の波動に操られているのかという恐怖が美晴を息もつけぬ心地に追いこんでいたに違いなかった。
幻魔に憑依された......そんな凍える恐怖から解放されて、硬直した美晴の貌が安堵にやわらかく融けてきた。
美晴の吐息が大きく明瞭に聞こえた。
「幻魔はなぜ、示威運動をやってのけたりするのでしょうか? 看視しているのなら、こっそりした方が効果的なはずなのに......」
三千子が疑問を口にする。
「とてもわざとらしい、そんな気がしますけれど」
「そこが幻魔らしいところですよ」
郁江は一座の中心としての位置をおのずと回復していた。答え方も確信に充ち、堂に入っている。
「幻魔はとっても自己顕示欲が強烈なんです。目立ち根性の塊りです。いつだって自分の存在を誇示して、われここにありと示さずにはいられないんです。ただじっと静かに鳴りを鎮めて看視しているだけでは気がすまないんですよ。何かあると、でしゃばらずにいられなくなってしまうんです。ひっそりと縁の下の力持ちを演ずるとか、下働きに甘んずるということが性格上、幻魔はできないんですね。もちろん陰険なことこの上もない幻魔のことですから、こっそり策動するということ自体は得意です。盗聴したり窃視したり、陰謀をめぐらすのは大得意です。でも、やっぱり自己顕示欲は隠しがたくて、ことあるにつけ自己を顕示し、俺はこうしてここにいるんだ、といわずには気がすまなくなってしまうんです。あれもこれも俺様の仕業なんだ、とついいいたくなってしまうんですよ。
ですから、お姉様と土屋さんが悪魔についてお話しになろうとする。すると、我慢ができなくなってしまうわけです。ついついでしゃばって示威をやってのける。俺はこうやってちゃんと見張ってるんだぞ、といいたくなってしまうところがミソです。
もちろん、〝力〟を誇示することによってわたしたちを脅し、恐怖感をもたらすということもちゃんと計算に入っています。何も後先を考えずにデモをかけるわけじゃありません。
それで、今日はこの席で何か起こりそうだなとさっきから様子を見ていたんです。向うは〝力〟を誇示したいわけですから、乱暴なこともやってのけるかもしれないという気がいたしまして。
でも、ガラス器ぐらいの被害でよかったですよ。だれかが怪我するといけないと思って光を送ってバリヤーを強めていたんですけれどね」
「では、幻魔による暗黒波動の干渉は、今に限ったわけではないということですか?」
と、土屋が尋ねた。
「常に看視されていて、時折自己顕示のためにちょっかいをかけてくると......?」
「その通りです。わたしの場合、少しはなれたところにいて絶対に目を放さずべったりという感じです。時折は光を強めて追い払ってやったりしますけど。時には看視役ではなく、暗黒波動の意識中枢が気まぐれのように干渉してきて、強い破壊的な波動を放出することもあります。そうすると不思議なことが......こっちにとっては迷惑なことが起こったりするんですよ」
郁江は〝秘書グループ〟の若者たちを振り向きながらいった。
「金沢君、どういうことが起こるか、皆さんにはなしてあげて下さい」
「非常に奇妙なことが起こるんです」
と、命を受けた金沢がキビキビした口調でいった。
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「時計という時計がいっせいにこわれてしまったりするんです。部屋の時計、みんなのはめている腕時計、ほとんどが故障してしまうんです。何の原因もありません。なぜいっせいに故障したのか、結局は時計屋さんにもわからないんです。それぞれの故障個所は違っても、いっぺんに重なって起こるということは常識では説明がつきません。それで、面白いことに、金色をした時計だけが故障しないで動いているんです。金無垢や金貼りじゃなくて、安物の金メッキの腕時計なんですけど......幻魔の破壊的な暗黒波動は、時計を停めたり狂わせたりするけれども、どうやら金色には弱いんじゃないかという結論になりました。逆に、黒色はあっという間にこわしてしまいます。幾度修理してもだめなんです。黒い色はさすがに幻魔の暗黒波動に親和性を持つようです。金色とはちょうど正反対です」
一座の者たちは強い興味を湧きたたせて、金沢の話に聞き入っていた。奇談を聞く者の表情であった。
「どうして暗黒波動はゴールドカラー、金色には弱いのですかね?」
と、土屋。
「さあ、それはちょっと......ただ金色の時計だけは故障しなかったという実績があるわけです」
「不思議な話ですな......」
「一般にいう霊光、〝光のバリヤー〟はゴールドカラーなんですよ」
と、郁江がいった。
「とても美しい金色です。ほら、仏像の後光が金色に塗りたくられていますね。あれはやっぱり〝光のバリヤー〟を霊視したからじゃないでしょうか。キリスト教の聖画もそうですよね......幻魔の暗黒波動にとっては、ゴールドカラーの〝光のバリヤー〟は大敵で、とても具合が悪いんじゃないでしょうか? まあ、これは推測ですけどね。黄金はもっとも腐蝕しにくい安定した金属ですし、何かしら象徴的だと思いませんか......」
「なるほど。ただ金色をしているだけで、幻魔の暗黒波動は安物の金メッキ時計を避けて行くわけですな」
笑声が湧いた。
「きっと何か理由があるんでしょうけどね。それからもう一つ。今わたし、本を書こうと思って口述筆記をとってもらっているんですけれども......」
「本をお出しになるのですか?」
三千子は半ば驚き、半ばは納得した気分で郁江を見詰めた。郁江は少し照れたようであった。
「ええ。わたしなんかまだまだ本を出す資格なんかないんでしょうけれども、土屋先生のお勧めで......高次元の方々がわたしの口を使って大切なことを語るので、それを記録しておこうということなんです。
それで、わたしが口述することをテープレコーダーに採っておこうとして、テープを廻していると暗黒波動が送られてくるわけです......」
これだけの驚くべき〝力〟を発揮し始めた郁江が口述にしろ一冊の本を書くというのはなんら不思議なことではなかった。しかし、丈についで郁江も著書を出すというのはショッキングであるといえよう。丈も郁江もまだ弱冠十七歳の少年少女に過ぎないのだ。
土屋がついている限り、間違いはないだろうと三千子は思った。が、本を出すのは容易なことではないと翻訳者の三千子はよく知っていた。多くの人々を納得させるには大きな力量というものが必要である。
ただ原稿を闇雲に書くことなら、素人にも可能であろうが、郁江のやろうとしていることは巨大な説得力を必要とする仕事であった。いずれにせよ、丈の〝幻魔の標的〟に次いで刊行される郁江の本は大きな反響を呼ぶことは間違いなかった。
「わたしが口述を始めると、テープレコーダーが片っ端から故障してしまうんです。念のために二台、三台と用意しても駄目です。どこか具合が悪くなって、うまく働かなくなってしまうんです。
修理に出して、故障が治って戻ってきても、いざ口述を始めると、すぐにまたこわれてしまうんですよ。もう、テキメンです。待ってましたという感じ......」
「それは偶然ではなくて、ということですか?」
土屋が尋ねる。
「もちろんです。だって口述を始めるまでは何ともないんですよ。わたしが話を始めてテープを廻すと同時におかしなことがぞくぞく起こり始めるんです」
郁江はきらりと光る眸を〝秘書グループ〟に向けた。
「木下君。説明して下さい。テープを廻すと、まず例外なしに変なことが起こりますよね?」
「はい。常識では考えられないことですけど......」
木下は顔を赤くして立ち上った。
「もう十回以上、テープレコーダーを修理に出しています。使用したのは六台ですけど、どれも二回以上故障しまして、サービス・センターへ行っている機械が今三台もあります。故障個所は走行系やアンプ系がほとんどです。秋葉原へ行って買ってきたばかりの新品のテープデッキが目の前で故障したこともありました。僕はオーディオが好きで小学生のころからいじっているんですけど、こんなことは初めてです。考えられないことだと思います。僕が自宅から持ってきた三台のテープレコーダーも全滅してしまいました。自宅ではなんともなかったのに、郁江先生が口述を始めると同時にだめになってしまうんです......中にはその時だけ故障して、自宅へ持ち帰るとけろりとして作動するということもありました」
「つまり幻魔はわたしのやることを看視していて、本の口述を始めると暗黒波動を送ってくるんです。そしてテープレコーダーを狂わせてしまう。幻魔にはそういうことが可能なんです。破壊こそ幻魔にとって最高の得意業ですからね......
わたしたちの意識が、本を作るということで精神統一されます。意識が幻魔の方に指向性を合わせます。そうするとすかさず、犬が名前を呼ばれたように、幻魔様がお出ましになるわけです。それこそ喜々として駆けつけてきます。幻魔喜び庭駆け廻るって感じですよ......」
こんな際でも郁江は一同を笑わせることを忘れなかった。余裕というものだろう、と三千子は思った。
「幻魔の暗黒波動が焦点を合わせると、時計やテープレコーダーは簡単に壊れるわ、電球は切れて停電になるわで大変です。真夜中にやっていまして、ぱっと電球が切れてまっくらになるともう大騒ぎですよ。怖がりの竹居なんか手当り次第に近くにいる人にしがみついたりして。この間なんかはしがみつかれた金沢君が閉口してましたよね」
「郁江先生が口述筆記をお始めになると、変なことがいっせいに起こります。水道のバルブが飛んで水浸しになったり、エレベーターが故障して動かなくなったりします。偶然なんて言葉が存在すること自体、間違っているんじゃないかと思います。確率から考えれば、時計やテープレコーダーがこわれ、電球が切れ、水道のバルブが飛び、エレベーターが故障する、これらの事故がほんの数十分間に集中して発生する確率は何兆分の一のはずです。
しかも一度や二度じゃないんですから......一昨日なんかは時計やレコーダーだけでなく、外の駐車場にあった車が三台とも動かなくなりました。明らかに破壊的な波動が巡ってきていっせいに機械類を故障させてしまったんだと思います。みんなで冗談をいったんですけど、同時刻に平山ビルの上空を飛行機が飛んでたら、落っこちてくるんじゃないかって......」
「木下少年のいう通りです。間違いなく破壊的な波動が巡っているんです。機械が片っ端からこわれてしまうのに、われわれ人間が無事でいるのは霊光、つまり〝光のバリヤー〟で護られているからなんです。さもなければ、機械を故障させるのと同様に暗黒波動は有害で危険な震動をもたらして、人間を病気にさせたり、事故に遭わせたりすると思うんですよ。
わたしたちを強固な〝光のバリヤー〟がガッチリとガードして、破壊的波動から護ってくれているんです。これは奇蹟ですよ。わたしたちはこの素晴らしい奇蹟に気付かなきゃいけないと思います。わたしたちがこうやって無事にピンピンしていられるのは、強い光の守護があるゆえなんです。
わたしたちはその真実に気付かなきゃいけなかったんですよ、きっと。高次元の方が箱根セミナーでいったでしょう?──黒い破壊の震動は、わたしたちのほんのわずかな心の隙間からも侵入しようと機を窺っているって......
ですから、暗黒波動が時計やレコーダーをこわしたのは、ほんの警告なんですね。怖がるよりも、事故が何を意味するのか、警告の意味に気付かなければならないんです。わたしたちの心が〝光のネットワーク〟からそれたりすると、すぐに警告のブザーが甲高く鳴りわたって教えてくれます。何がおきようと闇雲に怖れて、パニックに陥る前に、軌道修正の機会を与えてくれたことに感謝すべきなんです。だってそうじゃないでしょうか?
もし、必要な時に警告がなされなかったら、時計の故障どころか大惨事間違いなしですよ......だから、わたしは幻魔の暗黒波動が巡ってきて妙なことを始めたら、あっ来たなと心を引きしめなさいと若い人たちにいっているんです。その意味では幻魔様に感謝、です。時計やテープレコーダーがこわれたからといって、ブウブウ文句をいったりしてはいられないんですよ」
「では、このガラス鉢が割れたのも、やはり警告ということでしょうか?」
三千子が尋ねた。
「そうです。この場にいる者たちの心がバラバラだということを警告しているんです。それぞれが勝手な思惑に走っているからです」
「しかし、幻魔がわざわざそれを警告してくれるのですか? そんな親切は幻魔の特性からはあまり考えられないのでは?」
と、土屋。
「もちろん、幻魔がそんなに親切である道理はありませんよ。幻魔にはこっちを脅迫し、驚ろかし、恐れさせてやろうという意図しかありません。だけど、結果的にはそれが警告になるわけです。わかりますか? 高次元意識にとっては、幻魔の攻撃をわたしたちへの警告として意識化させることが主眼なんですよ。幻魔こそ最大の反面教師なんです。幻魔は攻撃を仕掛けることによって、わたしたちの心に生じた隙を教えてくれるんですよ」
「なるほど。それでわかりました」
土屋は吐息をついた。
「幻魔は我々に間断なく圧力をかけているわけですな。隙が生じれば、即座に浸透が開始される。そこでブザーが鳴る......」
「その通りです。もちろん幻魔はいつだってわたしたちを看視し、圧力をかけています。でも、わたしたちが意識を暗黒波動に向けると、それに呼応して一気に圧力が上昇します。どっと巨大なエネルギーが流入してくることになるんです。
だからこそ、〝光のバリヤー〟を強化しておかなければならないわけです。みんなが各自の思惑に走り、バラバラな不統一のまま、意識を暗黒中枢に向けるのは、とっても危険なことだとわたしは思います。興味本位に走って、心をサタンに向けたりしたら大変です。だからわたしは、ストップをかけたんですよ。普通の魔族だって呼べば駆けつけてくるというのに、まして相手は大魔王サタンですからね。
ここにいる全員の心が光に充たされ、〝光のバリヤー〟で護られている状態にならなければ、それこそ何が起こるかわかりません。わたしがみなさんの意識をそらし、精神統一を乱したので、大事にはいたりませんでした。ガラス器が割れたのは、暗黒波動の先触れが到着したからなんですよ......もっと巨大な危険な波動が津波のようにやってくるところだったんです。
きっと皆さんも、危なかったなと後になってわかりますよ。これだけ丈夫なガラス鉢をあっさり割る力が本格的に働いたら、地殻を割ったりするのは簡単だと思いませんか? 後で必ずわかります」
郁江は女預言者の重々しさで断言した。今日の郁江が妙に静まり返っていた理由がわかったと胸落ちしたのは三千子だけではなかったろう。
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「私が聖書中のサタンについて話すことに、ストップをかけられた意味がやっとわかりました。そうしますと、今日はサタンについて話すのは取り止めにした方がよろしいですか?」
「いえ、ちゃんとこちらの態勢が整っていれば大丈夫です。その遣り方、方法については今お話しますが......どうも冬になって寒さがきびしくなってくると、幻魔の攻勢にも俄然拍車がかかるみたいです。幻魔の力は負エネルギーだし、寒冷とつながりがあるのかもしれないですね。クーラーみたいに熱エネルギーや生体エネルギーを奪取してしまうんだと思います。幻魔の暗黒磁場には、ちょうど寒冷地獄そっくりのエネルギー場があって、それが超次元的にコンタクトしてくると、局所的に物凄く寒くなってきます。本当に冷凍室に入ったみたいに、みるみる温度が低下してくるんですよ......うかうかしていれば生体エネルギーをごっそり持っていかれてしまいますよ。ひどい風邪を引きこんだりしますから、皆様十分にご注意の程を。
わたしにしきりに接触を計ってくる幻魔がいるんです。前にお話しましたよね? 〝寝返り幻魔〟のこと......〝彼女〟がそうなんです。必ず寒冷を持ちこんできます。何度か接触しましたけど、その度にとっても寒くなってしまうんです。これも寒冷という物質化現象ですよ。寒がりの松岡君なんかすっかり閉口してしまって、もう来ないでほしいといってます。何しろ部屋の中でも氷点下に下ってしまうんですから、寒がりの松岡君でなくても堪りません......」
「〝転び幻魔〟の話は伺いました。依然として接触は続いているわけですね」
土屋は興味を顔に表わしていった。
「どんな幻魔ですか? 物質的肉体を持った幻魔なんですか? 郁江先生のドッペルゲンガーに変身した幻魔と聞きましたが......」
「憑依という形で、肉体も持っていますけど、意識体で来る場合もあります。わたしが逢うのは意識体です。だから、肉眼だけの人間には見えません。霊視の効く人間には見えます。わたしそっくりの姿でやってきますから、松岡君など気持悪がって大変です」
初耳の者たちは好奇心の塊りになって耳をそばだてていた。
「郁江先生のドッペルゲンガーに化けるというのは、何か理由があるのですか?」
「さあ、よくわかりませんね。たぶん向うの趣味なんじゃないですか。確かに気持のいい代物じゃありませんけどね」
「趣味......? 何か魂胆があるとは考えられませんか? 郁江先生の姿で現われて、皆を攪乱するといったような」
「そうかもしれません。でも、わたしは霊体であちこちへ出現するというような、突飛な真似はしませんよ。だから、そうした遣り方で人を瞞すことはできないし......」
「幻魔には、どんな人間にも巧妙に化けることができるという一つの証明ですな。やはり何か意味があるのではありませんか?」
「考えられることは一つありますよ。霊視のきく人間にとっての陥し穴ということです。悪魔は如来にも菩薩にも化けてくる、と高野のおじいさまがおっしゃいましたけど、そのことだと思うんです。霊覚があるがゆえの陥し穴というのは危険だし、とても怖いことですね。だって、もし東丈先生の霊体に化けて幻魔がやってきたら、わたしだって動揺します。それを考えるとぞっとしますよ......」
郁江のビロードのような頰に鳥肌が立つのを、一同は凝然と見詰めた。身震いする者も少くなかった。
「もし、東丈先生に化けた幻魔が得々と喋ることを真に受けて、〝神のお告げ〟みたいに信じこんでしまったら、心を狂わされてしまいますものね。なんでも幻魔のいいなりになって、操られてしまいます......それで気付いたんですけど、たとえ霊視といえども、姿形を信じこんだり、判断の基準にするのは間違いだということです。
たとえば、東丈先生に化ける、わたしに化けるというのは、姿形を盗むことですよね。姿形というのは本質ではないんです。いわば物質的表現なんです。姿形とはあくまでも物質の持つ属性にしかすぎないんですよ。〝光の本質〟には姿形という形象はないんですから。そうでしょう? 物質的な姿形は、この地上、物質世界、三次元世界の特徴なんです。いわば低次元の形象化なんです。
ですから、幻魔は如来、菩薩にも自由に化けることができます。でも、本質である光には決して化けることができないんです。
光というのは形ではありません。物質でもありません。愛や思い遣りや慈悲、これも物質的な形象ではないんです。幻魔には逆立ちしたって光に化けることは不可能です。愛や慈悲の波動は心を和ませ、安らぎを与えますけど、幻魔には絶対に出せないんです。だって幻魔はその正反対の暗黒波動なんですから......
ですから、幻魔は姿形を盗み、化けることしかできないんです。もし、東丈先生に化けてやってきたとしても、本物の先生の波動とは必ず違うはずです。もっともらしいことを喋ったとしても、先生の輝かしい声魂は出せません。化けの皮が剝がれて、正体を暴露してしまいます。もし、こちらが注意深く、東丈先生の光の波動に心を合わせているならば、必ず向うはボロを出してしまいます。それだけは絶対に間違いありません。
けれどももし、霊覚者に高慢さや思い上りがあれば......つまり自分は霊能者、超能力者だ、普通の人間とは違うんだ、偉大な力の持主なんだという思い上りがあれば、必ず幻魔に瞞されてしまうでしょう。それが霊覚者にとっての恐ろしい陥穽なんですよ。
神や仏のお告げがあった、大日如来や天照大神が出現して使命をさずけた、よくそんな神懸りの話を聞きます。本人は本気で信じています。でも証拠はありません。悪霊が神仏に化けてくることはいくらもあるんですよ。本気で信じたあげく怪しげな宗教に凝ったりして身も心もボロボロになり家財産もなくしてしまう人が沢山いるそうです。
悪霊なんかがまことしやかに告げることを真に受けたりしたらそれこそ身の破滅です。
なまじ霊覚があるばかりに、恐ろしいことになってしまうんです。わたしは、自分のドッペルゲンガーに化けた幻魔に逢って、それがはっきりと自覚できました。これは警告なんだなって......向うは好きでやっているのかもしれませんけど、霊覚者の罠というものをわたしは汲み取ることができたんです。東丈先生に化けて幻魔がやって来たら恐いだろうなって......
そうしたら、それが本当になって、幻魔の化けた東丈先生に逢ってしまった人がいるんですよ。木村市枝さん、そのことを皆さんに話してあげて下さい」
いきなり郁江に指名されて、木村市枝は緊張の面持で立ち上った。郁江にかかると、いきなりお鉢が廻ってくるので、うかうかしているわけには行かない。
「幻魔の化けた先生にお逢いしたといっても、現実にあって目が覚めている時じゃないんです。夢を見たということなんです」
と、市枝は緊張のあまり、妙な敬語の使い方をした。喋るのはあいかわらず苦手であるらしい。みるみるアラバスターのような白い艶のある皮膚が上気してバラ色になってくる。自分でも変ないい方をしたと気づいたようである。
「なんだ、夢かとおっしゃるかもしれませんが、あたしの夢の中に、幻魔の化けた先生が登場したんです。郁江さんにお話ししたところ、その夢には何かとても重大な意味があるといわれました......」
「最近、夢というのは高次元世界への通路じゃないかと気付いたんですよ」
と、郁江がいった。
「だって、高次元世界というのは、物質世界じゃありません。精神エネルギーの世界なんです。わたしたちは眠ると夢を見ます、その時、霊体は肉体を抜け出しているんです。高次元の世界へ入って行くんですよ。そのことは、義の体験からも明らかです。失礼、義というのは植物状態になって不思議な霊体験を積んだ元不良少年のことなんですけどね。彼はその後もいろいろ霊体離脱の経験を積んでいますから、いずれ皆様の前で報告してくれると思います。
わたしも義に学んで、さまざまな体験を重ねています。先刻お話した、高次元の管制司令室で丈先生にお目にかかったというのも、最新の体験の一つです。
ところで、市枝さんですけど、こちらは幻魔様の化けた東丈先生とお目にかかってしまったわけです。彼女も非常に霊体離脱をやりたがっていまして、焦っていました。そこに付けこまれてしまったのだと思います。後は本人の口からどうぞ......」
「郁江さんのおっしゃる通り、あたし焦っていたと思います」
市枝は真赤になっていった。透明感のある肌が赤く染まったさまは美しかった。
「あたしにはいわゆる霊能は全然ありません。それでひどく焦っていました。霊能など欲しがるなといわれているんですけど、どうしても......霊能、超能力については無欲になれないのです。だから、せめても霊体離脱だけはやってみたい......夜眠る時に意識を肉体から抜けさせようといつも努力していました。そうしたら先生に化けた幻魔がやって来たんです......」
市枝は躊躇した。口にしにくい理由があるようであった。三千子は薄々とそれがわかったような気がした。
「自宅のあたしの寝ている部屋へ、先生がいきなり入って来られたんです。そしてあたしのお布団をいきなりはぎ取って起こしたんです。本当にびっくりして跳ね起きました。だってパジャマのままですから......先生は、これから大峰山へ行くというんです。あたしにもいっしょに来いといいました。
とても強い調子でいわれるものですから、逆らえませんでした。仕方なくついて行きました。パジャマのままでいいっていうんです。その時はまだ本当の先生だと信じていましたから、困ったけれども、何かわけがあるのだろうと思っていわれるままにしました。先生のおっしゃることには、何事によらず従わなければならない、絶対服従しなければならないと思っていたものですから......
山道を先生はどんどん歩いて行かれます。あたしも必死でついて行きました。そこはどうやら大峰山らしいんです。先生は大峰山にこもって重大な悟りを得なければならない。それであたしに身のまわりの世話をしろ、といわれるんです。まさか幻魔が化けてきた先生とは思いませんから、とても光栄に感じました。あたしを選んで下さったことがとても嬉しかったし、誇らしかったんです。
その時は、これはどうやら普通の夢じゃないということに気付いていました。霊体離脱して高次元世界へ入りこんだんじゃないかと思いました。あまりにも現実感が強くて、ただの夢じゃない、さっき郁江さんがおっしゃったように霊夢なんです。
大峰山に到着して、これから先生が山ごもりされるという家にやってきました。料理を作ったり洗濯や掃除をしたり、沢山仕事がありました。先生はこれからずっと自分はここで暮すから、あたしもいっしょに住めといわれるんです。何年も何十年もここで暮すんだって......それであたしは妙な気がしました。だって先生は大変お忙しい方ですし、こんな山奥で何十年も仙人みたいにすごすなんて変だと思ったんです。
それは、禅定のために大峰山に幾日かおこもりになるというならわかります。でも何十年も暮すなんて......会や塾はどうしてしまわれるのかと疑問に思いました。でも、先生は一向に平気なんです。あたしもここでいっしょに暮すんだって......それも妻になれといわれたんです......」
市枝はますます躊躇し、抵抗を一気に押し切るようにいった。顔はみごとなまでに真赤である。
「あたし、本当に驚きました。びっくり仰天しました。先生がそのようなことをおっしゃるとはどうしても信じられなかったからです......でも先生は平気でいうんです。あたしは体も丈夫だし、奴隷労働に向いているっていうんです。だからあたしを選んで連れてきたって......身も心も肉欲で汚れているから、ここで修行させてやろうと思ったんだって......先生がそんなことを平気でおっしゃるとはどうしても信じられませんでした。
先生は他の人たちのことも、ひどい表現で罵り始めたんです。とうてい考えられないようなひどいことを平気でいいだすんです。顔はニヤニヤ笑いながら、胸が悪くなるようなことを次から次にいうんです。あたしはもう顔面蒼白になって、体の慄えが停まらなくなってしまいました。
お願いですから止めて下さい、先生、何をおっしゃるんですかって、あたし止めました。でも先生は止めません。物凄くいい加減でチャランポランなことをさいげんもなく喋り続けるんです。
たとえば、会や塾を作ったのは、金もうけの実験のためで面白半分にやったんだとか、みんな馬鹿ばかりで自分の真意にはまったく気付かないとか、人の悪口を徹底的にいうんです。馬鹿だの低脳だのというだけじゃなくて、もっとえげつない、どぎつい悪口で聞いていると胸がムカムカして目が廻ってきます。尊敬する先生の口から、まさかそんな低級な卑しいあくどい言葉が出るなんて......とっても気持の悪いことばかりいうものですから......その時はまだ本当の先生だと信じきっていたので、天地が覆えるようなショックでした。
たとえば、よく子供がはやしたてます、だれとだれが肉体関係があるという意味のことをワイセツな春歌みたいな表現で......それと同じ醜悪な言葉が尊敬する先生の口からいくらでもとび出してくるんです。あたしが厭がっているのを知って、わざとしつこくいうんです。あたしは少しぐらいワイセツで汚らしい言葉を聞いたって驚かないぐらい鍛えられているつもりだったんですけど、とうてい耐えられませんでした......最後に先生のお姉様の悪口をいいだした時、これはおかしい、とぴんときました。本当の先生なら絶対にこんなことはおっしゃらないはずだ......わかるのが遅すぎたんです、実際。
あんた、だれなのってあたし尋いてやりました。これは本物の先生じゃないって確信が湧いてきたんです。何物かが先生に化けてきたんだと悟りました。すると先生はとても怒りました。自分の師がわからないのか、お前は馬鹿だってさんざん罵られました。
でも、もう本当の先生じゃないってわかっていますから平気でした。もしあんたが本当の先生なら、〝宇宙の法〟について説けるはずだとあたしはいってやりました。愛とは何か説いてほしいって......そうすると、やっぱり説けないんです。ああだ、こうだといって言を左右にしていい逃れようとします。先生に化けてきた幻魔は、愛について説くことはできなかったんです。次いで、慈悲とは、と尋きました。それにも相手は答えられませんでした。いい加減なことをのらくらと喋ってごまかそうとするんです。
その時はもう相手が幻魔で、先生に化けてきてあたしを瞞そうとしたことがはっきりわかっていました。先生に化けた相手もとうとう隠しきれないとわかったようでした。さっさと家を出て、逃げて行ってしまうんです。一人取り残されたあたしは、どうして帰ったらいいのかなと困っていたら、いきなり家の底が抜けて、違う世界に落ちこみました。
目が覚めてから、あまりにも明確な夢で全部覚えていましたから、ただの夢じゃないと確信しました。郁江さんのいう霊夢なんだって悟ったんです。郁江さんにお話したところ、その霊夢にはとても重要な意味があるといわれました。今度、皆様の前で話してほしいと頼まれてしまったんです......とても恥しい夢で、口に出したくなかったんですけど、恥をしのんでお話し申し上げました」
木村市枝が着席し、しばらく間を置いて拍手が湧いた。よく抵抗を押し切って話すことができたものだ、と三千子は思った。フロイド流儀の夢判断の知識があったら、自分の見た夢の内容など人前で開示できるものではなかった。フロイドなど引き合いに出さなくても、市枝の夢には彼女自身の願望が沢山姿を現わしているとみなされるであろう。市枝は話さなかったが、幻魔の化けた丈が彼女に情交を迫ったのかもしれなかった。しかし市枝は拒んだ。市枝にとり東丈はもはや肉を備えた地上の存在ではなかったからだ......
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丈に変化した幻魔は、市枝の肉欲をかきたて、つけ入ることに失敗した。市枝の心はすでに浄化されており、情欲の波動で押し流されることがないほど、自己確立が進んでいたという証明なのであろう。
「ありがとう、市っちゃん。とても話しにくかったでしょう。汗びっしょりかいているわよ」
と、郁江が軽妙にからかう。
「はい。厚かましい夢を見てしまって、どうも申しわけありません......」
市枝の顔は更に赤くなっていた。みごとなほどの赤さであった。語り終ってから、恥しさが急激に増してきたのであろう。三千子は紅潮し汗の粒を浮べた顔にセンジュアルな情感を覚え、胸が詰まる心地がした。
「このような夢は、ただの夢じゃないんですよ。夢だからといって馬鹿にしちゃいけないんです。世の人々は夢のような話、などといって夢を意味もない無価値なものだとおとしめて考えがちです。でも、夢にもいろいろあります。重要なのは霊的な夢です。眠ってから霊体離脱して、高次元世界へ行き、さまざまな世界をへめぐり、沢山の貴重な経験を持つということだってあるんです。たかが夢、という人は、夢が高次元世界への通路であることを知らない人なんです。
ある種の大切な夢は、わたしたちが現にこうして肉体を持ち、この現実世界で経験を積んでいるのと全く同等の、あるいはそれ以上の体験を積ませてくれるんですよ。一瞬一秒の努力、と丈先生はおっしゃいましたけど、それは起きている時だけでなく、夜眠っている時だって同じなんです。
たとえばわたしが高次元の管制司令室で先生とお目にかかった夢もそうだし、市枝さんが幻魔の化けた先生に瞞されかけた夢もそうです。それは、現実に起こったことと少しも変らないんです。人間の魂にとっては、物質世界も高次元世界も、本質的な差異というものはないからです。
自分にとって、自分の霊体というものは、ガスや煙のように手応えのない非実体的な存在じゃありません。この現実の物質でできた肉体と同じに確固とした実在なんです。頰ぺたをつねれば痛いし、刃物で切れば赤い血も流れるんです。霊体と肉体はちっとも変りがないんですよ。
高次元世界というのは、意識の世界、想念の世界です。肉眼では見えないから、手で触れないから幻のような煙のような世界だと思ったら大間違いです。なぜかというと、意識体である霊体にとり、意識でできた世界は実在世界です。霊体の手で触れば、この物質世界同様に何もかもが存在していることがはっきりわかります。全く寸分変らないといってもさしつかえありません。
高次元世界といっても、階梯が下で、世界を構成する意識波動が粗雑にできていて、物質世界に近い世界では、物質世界と寸分変りません。そこに住む人々はわたしたち同様、眠ったり食事をしたりするんですよ。煙みたいに手応えのない空を摑む非実体の世界だと考えるのは全くの見当はずれです。皆さんがもし霊体離脱して訪問したら、必ず地上世界と間違えます。それくらいこの物質世界と酷似した世界も存在するんです。
市枝さんの見た霊夢は、わたしの場合と比べると、かなりの相違があります。市枝さんは幻魔の意識世界へと導かれたということです。幻魔は幻魔だけの世界を形成しています。それは幻魔の精神的磁場なんです。幻魔は意識体で市枝さんが眠っている所へ訪れて、市枝さんの霊体を連れ出しました。幻魔の正体をそのままでは市枝さんがついてきませんから、東丈先生に変身したんです。先生は市枝さんに対して最大の影響力を振える存在だからです。先生に化ければ、市枝さんも安心してついてくるということが、幻魔にはよくわかっていたわけですよ。
市枝さんを瞞して幻魔の意識世界へ引っぱりこみ、虜にしてしまうことが、幻魔の目的だったようです。
市枝さんの心に毒を吹きこみ、甘い誘惑でさそいこみ、幽閉してしまうつもりだったんでしょう。市枝さんだって、先生からいっしょに来なさいといわれれば、すぐについて行くのは当り前です。わたしだってそうしますよ。大峰山に山ごもりして修行するんだと先生がおっしゃれば、そうかと素直に思うでしょう。先生を心から尊敬しきっていれば、ここまでは恐らく疑いを持たないと思うんです。皆さんだってきっとそうでしょう。
そして、先生に化けた幻魔は、市枝さんの心に毒を吹きこみ、欲望をかきたてようとします。自分の奥さんになれ、といったのがこの場合はミソです。女にとっては非常にショッキングな言葉ですよ。先生が自分だけを特別扱いにし、可愛がってくれる......これくらい女心をかきたてるのに有効なせりふはないんじゃないですか。
だれにだって多少の己惚れはありますからね。女心の弱みをしたたかにえぐる狡猾な誘い方です。これでぐらっと来たら、幻魔の思うツボだったと思います。後は欲望をさんざんかきたてられて、思い通りにされてしまったでしょう。
市枝さんの場合は女性ですから、幻魔は先生に化けてきたんです。でも、男性の場合だったら、きれいな女性に化けてくることは間違いなしですよ、木下少年。決して他人事じゃないんです。木下少年が憧れている女に化けて誘惑しにきたら、どうしますか?」
いきなり名差された木下はぱっと赤くなり、うつむいてしまった。口の中で不明瞭に口ごもっている。
「わかりません......」
「簡単に誘惑されてしまうんじゃないの、木下少年。そんな波動が来ますよ、とっても頼りない......美女に、迫られたらホイホイと話に乗ってしまうんじゃないですか? 駄目ですよ、そんな頼りないことでは。市枝さんは別として、そういう異性関係のことでは、みんなとっても脆弱で、頼りないといったらないんだもの......幻魔は自由自在に皆さんの夢に出没する力を持っているんだから、もっと心を引きしめなければだめじゃないですか。市枝さんはやっぱり一番頼もしくてしっかりしていますよ。
ところで、幻魔は欲望をかきたてるのに、他人をいろいろ中傷するというテクニックを使用するのがわかります。他人という他人をさんざんおとしめて、あなただけは別なんだと甘い言葉でエリート意識を持たせます。
他人の悪口というのは甘美な毒なんです。それはそれはいい気持にさせるものですよ。あの人はこうなのよ、ああなのよ、と中傷することは悪魔的な喜びがあるものです。先生に化けた幻魔はその手を使ったんです。他の連中はみんなだめだ、まるでなってない、とさんざんこきおろし、だけど君だけは連中とは違う、君は特別で素晴らしいんだ、と巧みに持ち上げられ、優越感、エリート意識を刺激されたら、どうでしょう。皆さん、持ちこたえる自信がありますか?
君は素敵だよ、郁江君、特別の才能があるよ、なんて持ち上げられ、おだてられたら、たとえ幻魔のいうことでも、信用したくなっちゃうかもしれませんよ。やっぱり人間には己惚れがありますから。わたしにだっていやというほどあります。これは否定できません......」
一同は軽い笑声を立てた。儀礼的な笑いとしかいいようのないものだった。
「でも、市枝さんはその誘惑にも堪え抜きました。立派だと思います。皆さん笑ってますけど、もし自分だったら大変なことなんですよ。夢には赤裸裸な己れの本心が現われます。もろに自我が出てしまうんです。わたしたちがこうして目を覚している時は、理性が働いて自分の行動をコントロールすることができます。いかに欲望に燃えていても、宝石店のショーウィンドウを打ち壊して、宝石をわし摑みにして逃げたり、素晴らしい魅力的な異性がいるからといって、白昼路上で抱きついたりはしません。欲望剝きだしで即座に行動してしまうとしたら、それはちょっと頭の調子がおかしい人としかいいようがありませんよね。刑務所には入らず、特別な病院に入ることになります。
ところが、夢の中では、理性の歯止めが効かないんです。欲望を率直に満たそうとして行動するようになってしまいます。普段、お金がほしい、ほしいとそればかり考えている人は、夢の中でお金が出てくれば、後先考えず持ち逃げしてしまいます。セックスのことで頭をいっぱいにしている人は、衆人環視の中でも、みだらな行為をしてのけて少しも恥じません。
恥も外聞もなく、ただ欲望のままに動かされるのが夢の世界の法則です。自分でいくら清潔な人間だと自負していたって、夢でみだらなことを平気でやってのけて、本性を暴露してしまうことになるんですよ。
夢では、正直な素裸の自分が出てきてしまいます。つまり意識の世界では、偽善が存在しないんですよ。もろに自我が剝き出しになります。理性のブレーキが効かないんですからね。普段、心の中で欲望を燃やしていれば、正直そのもの、脇目もふらずに突進してしまいます。
夢って恐いでしょう。そう思いませんか? 自分の掛け値なしの正体を映し出してくれる真実の鏡です......
それで、市枝さんはとうとう幻魔の誘惑に乗らずに、先生に化けた相手の正体を看破してしまいました。本当に立派です。いくら賞讃してもいいと思います。見事にテスト合格ですよ。もし皆さんが市枝さんと同じ立場だったら、テストにパスできると思いますか?......だいぶ自信のなさそうな顔が多いですね。
この市枝さんの夢は、霊夢だけあっていろいろなことを示唆していると思うんです。まるで幻魔が市枝さんをテストしているみたいです。いろんな誘惑を試してみています。市枝さんの弱点を巧妙に突いて、揺さぶりをかけて行きます。
まず市枝さんの、先生を敬愛し崇拝する気持を突きます。服従心を利用して連れ出すわけです。次に修行ということで、市枝さんが自覚を焦る気持を引きつけます。市枝さんはいつも超能力を欲しがっているのを、幻魔は知り尽しているんです。これは巧妙な誘惑です。市枝さんにもわたしたち同様、さまざまな欲望があります。中でも、超能力を得たい、自覚を得たいという気持は、強い欲望となってしまっています。市枝さんも、欲望に捉われているところがあるわけです。
幻魔がどんなに巧妙か、よくわかるんじゃないですか? 先生が修行に行くからついてきなさいという、これは殺し文句です。こればかりは逃げようがありません。わたしだって喜んでついて行ってしまうと思います。実にうまい導入ですよね。
そして次に、君は弟子たちの中でも特別なんだ、一番可愛いんだ、もっとも高く評価しているんだよ、と甘い言葉をささやきます。これにもぐらっと来るはずです。だって自己顕示欲と完全に無縁な人間は、この世の中で一人もいないんですから。
尊敬する先生、崇拝する先生からそういわれて、心が動かない人がいたとしたら、それはすでに聖人君子そのものですよ。
次には他人を中傷します。人間にはどうもけしからぬところがあって、他人の不幸を喜ぶという人格的欠陥が全ての人の心の奥底に、大なり小なり潜んでいるように思えます。新聞など報道機関の場合にはその心理を〝悪いニュースは良いニュース〟なんていいます。世間の美談や善行ばかり拾い集めて報道した新聞があるとしたら、いったいどれだけ売れるでしょうか? 航空機事故で何十人も死んだという大ニュースを載せた新聞には全くかなわないんじゃないでしょうか......他人の不幸は大きければ大きいほど商売のタネになるんです。それは、人々が他人の不幸を喜ぶ傾向があるからだとわたしは思うんです。
不幸というものは、いざ自分の頭に降りかかってこない限り、面白おかしく、楽しいものですらあるんですね。それを諺で、〝他人の不幸は鴨の味〟なんていいます。陰惨でゾッとする話ですけど、わたしたちはだれ一人、こうした〝悪の愉しさ〟から無縁じゃないんです。
他人の悪口や陰口、中傷、誹謗は、人間関係を腐敗させて行きます。皆さんも、自分が好意を持っている人、信じていた人、そういう人が自分の悪口をいっていた、と伝聞で耳に入ってショックを受けたことが一度や二度はあるんじゃないでしょうか。
中傷というのは陰湿です。悪口をいったという当人に直接かけあって、問い質すということはなかなかできません。心の中で疑心をつのらせ、口惜しさや怒りをじめじめと内攻させてしまいます。
ある場合には歪曲されて、実際の発言とは全く違う、正反対の内容になって耳に入ることもあります。悪口のつもりでいったのじゃないのに、言葉尻を捕えて歪曲して伝えるというケースも多いからです。中には針小棒大に大げさにし、根も葉もない噓をご注進に及ぶお節介者もいます。
悪意をもって人の間を割こうと策動する人間だっているわけですし、善意のつもりでご注進しても、その人の誤解や曲解が加わるととんでもない誤報になります。
わたしも、人々に悪口をいわれやすい人間ですので、中傷や誹謗の怖さはよくわかっているんです。信じていた人に裏切られたという口惜しさ後味の悪さが胸の内を汚すのはどうにもなりません。まさかと半信半疑でも、そんなことはありえないときっぱり否定しても、心平静ではいられません。
もしかしたら、と猜疑心が湧き出して、心が動揺してしまうんです。悪い噂やデマというマイナス情報の恐さです。他人に加えられる中傷誹謗を聞くだけでも、耳が汚れ心が汚れます。人間関係を根底的に破壊する力が、マイナス情報にはあるんですよ。
蠅という生物は、沢山の雑菌、病原菌を脚や体につけて飛び廻ります。きれいな清潔な物を汚し、細菌をまきちらして食物を腐らせます。腐敗の媒介者なんです。
中傷誹謗はまさに蠅のように飛びまわって、人の心を腐敗させる病毒をまきちらして行きます。組織にあってこうしたマイナス情報を野放しにしておけば、組織は必ず危機に見舞われるようになります。しっかりと結びあっていなければならない心がバラバラになってしまい、反目しあい、内部抗争に至るからです。
中傷誹謗は、暗黒波動の使い方としてはもっとも巧妙な遣り方です。──組織は内部から崩れる、と東丈先生がおっしゃった通りなんです。一枚岩の連帯をボロボロに崩壊させ、砂のように結合力を持たない組織の形骸に変えて行くことが可能なのは、外部の敵ではなく、こうした内部の敵です。
人心が互いに離反し始めたら、どんな大組織でもあっという間に潰れてしまいます。東丈先生は最初にそれを見抜いていたと思います。幻魔の本当の恐しさは、内部に浸透して腐敗させる暗黒波動の使い方なんです。凶暴な悪鬼が大喊声をあげて攻め寄せてくるというイメージじゃないということです......」
郁江が言葉を切ると、室内はしんと静寂に満たされた。外で甲高い子供の声がしていた。学校帰りの子供たちであろう。だれもが固唾を吞むことさえはばかっているようであった。
「わたしは今、この蠅という病毒の媒介者、ものを腐らせる運動家に対して、とても関心を持っています。もちろん現実の蠅ではなくて、蠅が象徴する存在、〝蠅の王〟とでもいった存在に対してです。きっと何かあるんじゃないかなと思っていました。それで市枝さんの見た霊夢を聞かされて、胸落ちするものがあったんです。他人の悪口、中傷、ああこれだと確信したんです。わたしたちに対する暗黒波動の基本というものが、ぱっと目の前に出現したような気がしました。この手で徹底的に攻めるぞ、ということなんですね。
しばらく前から、心の中に、〝蠅の王〟〝蠅の王〟......そういう言葉がしつこく浮かんで、つきまとっていたんです。あれ、〝蠅の王〟って何だろう? なぜこんな言葉が心に浮んでくるんだろう? 不思議に思っていたら、やっぱり意味があったわけです。
預言しますが、わたしたちは今後、根も葉もない悪口、中傷に苦しめられます。それはわたしたちの活動がマスコミの関心を集め、焦点に立つことと無関係じゃありません。この三月初め、先生の〝幻魔の標的〟が出版されて大ベストセラーになると同時に、恐ろしい中傷、誹謗の渦中にわたしたちは投げこまれます。
でも、恐いのは、そうした外部の攻撃じゃありません。わたしたちの心が本当にしっかりと結びあい、一枚岩になっているかどうかが肝心なことになるんです。お互いに本当の愛をもって思い遣っているかどうか。もし心に隙間があれば、暗黒波動がどっと押し入ってきて、きびしい試錬を与えて下さるということになります」
「〝蠅の王〟というのは、ある悪魔王の別名なのですよ」
と、土屋が咳払いをしていった。郁江がぱっと眸を瞠る。
「あ、やっぱりそうだったんですか!? どうも、そうじゃないかと思っていたんですけどね......」
「聖書にはベルゼブブとかベルゼブルという名の悪魔が登場しますが、これが〝蠅の王〟なんです。バール神という悪魔信仰の邪神がありまして、ユダヤ民族のバビロン虜囚の時代、エリヤたち預言者を迫害したのがバール神、ベルゼブブのことです。
私も、なぜ悪魔が〝蠅の王〟と呼ばれるのかと前々から不思議に思っていたのですが、今おっしゃったことで納得が行きました。病毒を媒介し、人心を腐敗させる悪魔の働きが、蠅という害虫に象徴されるのは、実に妥当性があります。疫病を流行させるのも〝蠅の王〟、人心を腐敗させ、退廃させて行くのも同じ〝蠅の王〟の働きだったわけですよ」
三千子はさまざまな悪魔を描いた中世画の記憶を脳裡に甦らせていた。凶悪な鹿そっくりの顔をした、角を生やした悪魔の顔などが記憶に残っている。巨大なふくれあがった顔のベルゼブブ、〝蠅の王〟......そうした悪魔学の素養があるとも思えぬ郁江が、さりげなく的確に〝蠅の王〟と呼ばれる悪魔の本質を把握してしまう。まさに天才的というほかはなかった。魂の本質が目覚めているため、過去に蓄積した偉大な知恵がどんどん流露しているということであろう。なまじこの地上において学識を積み、それを誇ったとしても、郁江のように本質をずばりと摑みだしてしまう叡智は決して生れてこないのだ。
郁江には確かに聖書学や悪魔学についての専門的知識はない。しかし、埃まみれの書籍文献を山ほど積み上げた以上のことを先験的に知っているのである。天才とは、内在する叡智の発露以外の何物でもないであろう。
もし、己れに内在する〝魂の本質〟を引き出し、自由に使用することが許されたなら、十代の若者といえども、丈や郁江のように偉大な指導者としての道を歩み出すことになる。彼らだけではなく、全ての者にその可能性が許されているのだ......そう考えることは、三千子を口中が乾くような驚きの念に誘った。
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丈や郁江に導かれた若者たちが、内在する叡智を目覚めさせて行くならば、全ての大人たちは若者の前に教えを乞わねばならぬようになるであろう。今、土屋香が大人としての立場をすてて十七歳の井沢郁江を師として仰ぎ、教示を求めているようなことが、社会的現象となって行く。若者たちが立ち上り、終末へとつき進む人類破滅のコースから世界を引き戻すことになるのだ......
若者たちは見事な精神の成熟によって大人たちを凌ぎ、世界を救済して行くであろう。それこそがイエスによって聖書中で預言された〝後の者が先になる〟という有名なフレーズの真意であるのかもしれない、と三千子は考え、センス・オブ・ワンダーに支配された。体中をぞくぞくさせる驚異の波動が走り抜けて行く。
「しかし、何の苦もなく、物事の真髄をあっさりと把握してしまわれる郁江先生の凄さにはただ驚嘆するばかりです。この一週間ほどで、一生分の感動を残らず使い果してしまった、そんな心地がします」
と、土屋が心をこめていった。
「東丈先生の〝幻魔の標的〟のゲラを読ませて頂いて、内容的にはもちろんのこと文章力の素晴らしさに感動しましたが、郁江先生にも感動の連続です。口述筆記をあれほど苦もなくやってのけられ、しかもそれを自動的に文字に書き移すだけで、実に立派な文章になっています。すでに存在している著作物のページを開いて、すらすらと読み上げられているようです......つかえもせずよどみもせず、一気に流れ出してくるさまに接すると、大きな奇蹟に立ち合っているという気が強くしてきます。文章の整理をお手伝いさせて頂くはずだったのですが、かえって私などが手を加えたりすると、文章の持つ格調や明快さ、波動の強さが傷つけられてしまうような気がします。実に素直でいながら、格調が高い......心に抵抗なくすっと入ってくる文章です。だれも誤解したり読み違えたりすることはないはずです。ぱっと目につくレトリックは施されていないけれども、見事な論理性が貫かれていて、読む者はだれしも素直に、反撥することなく受け容れることができる。小手先のレトリックはないけれども、無用な抵抗感を惹起しないように、細やかな心遣いが施されています。
失礼ですが、郁江先生はこれまで文章を書かれることは大の苦手だったということで、これはまさしく奇蹟的です。もしこれが本になった時、予備知識なしに読めばわずか十七歳の少女による文章とは、いかなる具眼の士といえども見破れないと保証します。美しい言霊なんです。いかに才能があり、何十年も文章修錬に懸けた文章家であっても、この無造作で確かな、素直な文章の美しさには決して及びません。言霊は魂から発する波動ですから......天使の魂の持主でなければ、この尋常ならざる言霊の美しさは、絶対に出せるものではありません」
土屋は高揚に見舞われ、一気に語った。これほど土屋が熱くなるとは、郁江自身予想だにしなかったようであった。
「これは奇蹟ではないか、と何度も自分に問いかけずにはいられませんでした。十七歳の少女がこれだけ大きな力を顕わしている。そのことをいったいだれが信じ、本気で受け止めてくれるだろうか......そう自問自答せずにはいられませんでした。もしこれが奇蹟でないとしたら、世の中に奇蹟などありうるのだろうか。そう思いました」
「もちろん奇蹟ですよ。わたしの力で、本など書けるはずがありませんから」
と、郁江は笑いを含んでいった。
「いつも作文の時間は、こっそりマンガを落書きしていたんですもの。手紙を書こうとしても、拝啓、と書いた後、一行も文章が出てこないんです。おまけに字は空っ下手だし、およそ文章を書くほどの難儀はこの世に存在するのかといつも思っていましたよ。
高次元霊たちが力を貸してくれなければ、わたしには何もできません。口述筆記しているのは、わたしではなく天上界の霊たち、天使たちなんです。これこそ最大級の奇蹟だと確信がありますよ。天使たちが力を出せば、わたしのような無能な人間でも、土屋先生をびっくりさせ、感動させる奇蹟を演じることができるという、一つの証明なんです」
もちろん、だれも郁江の言葉を額面通りに受取りはしなかった。郁江の謙遜以外の何物でもないと思っていた。郁江は、疑問の余地もなく、天才なのだ。空恐ろしいほどの真正の天才の輝きは日増しに増大している。
「皆さん、信じないんですね。でも、それはよくないことですよ。力の根源が、肉体を持つ人間にあるわけはないんですから」
郁江は真顔になっていった。
「天才なんて、馬鹿げています。そんな己惚れ屋が、自前の力を出したら、あまりにもお粗末すぎてお笑い草にしかなりませんよ。人間の持つ力なんて高が知れています。
逆立ちしたって、人間には自力では何もできませんよ。力はいつだって、高次元の通路を通って導入されてくるんですから。
もし、力の根源が人間に存在すると信じ、わたしを天才としてみなすならば、それは当人の自己過信につながります。少し大きな力を発揮したなら、それは自前の力だとすぐに思いこんでしまうことになるんです。それは高慢です。
わたしは実際にたいした人間じゃないし、いつもそれは強調しています。わたしは魂の受け継ぎをなして、東丈先生の意識を導入し、動いているだけです。そのわたしを、とほうもない天才視するのは、軽卒そのものとしかいいようがないですよ」
郁江が本心からいっていることは明らかであった。しかし、それは謙遜であって、必ずしも真実ではない。時折、郁江は彼女を知らぬ者の目には、度胆を抜かれるほど傲慢で高圧的、と映りかねない思い切った言動に及ぶことがある。
郁江のへりくだった謙虚さと恐ろしいほどの意識圧の落差は、本人を直接知らない人間にとっては、謎以外の何物でもないであろう。それは郁江のみならず、東丈にも顕著に見受けられた特徴であった。
「わたしは東丈先生じゃないんです。宇宙意識、高次元エネルギーの化身として現われる〝真の救世主〟とは全然違います。高次元世界の経綸というものがわかってくるにつれて、世にいわれる天才という地上的な概念はおかしいとわかってきたんです。
高次元世界には、いわゆる天才は存在しないんですよ。特別な際立った才能、特別な頭の良さ、高知能はありえないんです。高次元世界の階梯は、宇宙エネルギー量によって決定して行きます。それは慈悲と愛のポテンシャルです。その最高の巨大ポテンシャルが大宇宙意識です。
だから、地上における階梯の概念は高次元世界では全くあてはまりません。巨大な才能とか指導力は全然関係ないんですね。霊という意識エネルギーにとっては、頭の良さ、悪さはありません。地上においてそれは肉体的なものによって決定されるんです。記憶力が優れているとか、分析力がどうこうとか、霊には関係ないんですよ。視力や聴力など五官の機能が優れているということと同じです。霊には霊覚というものがあって五官を超越しています。
霊はこの肉体という物質的な容器に入りますと、容れ物の性能の優劣によって制限され、規制されて行きます。しかし、肝心の霊本体は少しも変化はしていないんです。
天才とはまことに地上的な表現です。東丈先生は自覚を得られるまでは、少しも天才ではありませんでした。優れた才質を垣間見せたことはあっても、天才とはだれも思わなかったはずです。肉体的にも知能的にも、ごく平凡としかいいようがなかったんです。
幼いころから、天才と呼ばれる存在は、その魂が本来備えている力が、並みの人間より多少大きめに導入されているにすぎないということなんです。守護、指導霊と宗教的に呼ばれる高次元意識体が力を貸している場合もあります。いずれにしても、肉体を持った人間本人の、自前の力じゃありません。高次元からもたらされる力なんです。
ところで、〝十で神童、十五で天才、二十過ぎれば只の人〟といいますね。世の中にはざらにあることです。子供の頃は、これで大人になればどれほどの大天才になるかわからないと人々にもてはやされた〝神童〟も、成人を迎えるころまでには、もてはやされた素晴らしい才能をすっかり喪失してしまい、平凡な人間になってしまうというケースです。
なぜ、そんなことになってしまうと皆さんは思われますか? 簡単なことだ、とわたしは思うんです。〝神童〟は人々に賞めそやされ、チヤホヤされて、しだいに己惚れ、増上慢になってきます。自分は天才であり、並みの人間とは違うんだ、特別な才能を備えた、優れた人間だ、そんな高慢な心が〝神童〟の裡にふくれ上ってきます。それに伴い、本人の意識はどんどん変質し、高慢な波長になってしまって、高次元世界の波長と食いちがって行きます。ギャップが大きくなれば、もう守護、指導霊によって導入されていた〝力〟は入ってこなくなってしまいます。
高慢な心は天上の波動とは百八十度位相が異るために、大きな高次元の〝力〟から見放されてしまうことになります。後は自前で細々とやるしかなくなります。天才がとうとうただの人になってしまうわけですよ。
ですから、自前の力なんか本当に高が知れています。自分を天才だエリートだ、なんて自負したら大間違いです。物凄い力量の持主、と自他ともに認めていた才能が、ぱたっといきなり凋れ果ててしまいます。作家とか音楽家とか、芸術家には顕著に見受けられる現象じゃないでしょうか。
世の中に認められ、もてはやされだしたとたんに輝きと力を喪って、ごく平凡な才能に落ちて行ってしまう芸術家は沢山います。
皆さん、才能を自前の力と勘違いしたからなんですよ。本当は才能なんてあまり関係ないんです。本人の自覚と努力が、優れた力を引き出すことになるからです。
たとえば、転生輪廻の過程で、いつも肉体を持つたびに作家になる、そんな魂があったとします。そのプロセスで蓄積した経験は大きな魂の力となります。それを用いることができれば、大きな才能の持主、と世間的に評価されることでしょう。アイデアを思いつくのも、プロットやストーリーを考えるのも、他の人々よりはたやすくできます。生れついての作家というわけです......」
郁江は、眼前の土屋香に目をあてながら熱心に語り続けた。
「大量に、しかも猛スピードで小説を送りだすことができます。まるでものに憑かれたように、普通では考えられない速さで原稿を書くことが可能です。一日に何百枚も書いたバルザックなんかがその見本だと思います。
でも、それは高次元世界から与えられる助力があっての話です。本人の努力と研鑽が、力を引き出して使用し、あるいは指導霊の協力を受け容れさせているということなんです。さもなければ、ものに憑かれたように一晩に百枚も二百枚も書いたりできるわけはありませんよ。まさに〝力〟がどんどん流れこんでくるからこそ、ペンを持つ手が追いつかないほどの猛烈なスピードで小説を書くことができるわけです。〝神懸り〟といわれている状態と同じなのです。トランス状態になった霊媒や巫女が〝口寄せ〟をやるのと本質的に少しも変りません。
ところが、世間的に高い評価を受け、大作家や巨匠、文豪などと呼ばれてもてはやされるようになると、当人もその気になって、自前でこれだけの仕事ができたと思うようになります。意識も当然変化してしまいます。有名人、文化人、芸術家としてのエリート意識に支配されます。恐ろしく我儘になり横暴になってくる大作家の方々もおいでになるようです。たとえ世界的に有名な大作家で、ノーベル文学賞を受けても、人格的には恐ろしく低劣で、醜悪な欠陥人間の方もいらっしゃいます。
もちろん、そうなった時には創作活動は終っていますし、過去の栄光だけしか残っていません。まるで噓のように書けなくなってしまいます。往時の奔流のような、旺盛な創作活動が夢ででもあったかのように、まるで信じられなくなってしまうのです。
自分の才能を買いかぶり、それが全て自前のものと勘違いした作家は、必ず霊的な原泉が凋れてしまうことになります。巨匠、文豪と呼ばれても、当人はもはや抜け殻になってしまっているんです。
土屋先生、いかがでしょうか? 今、お話したような大作家は、世の人々が想像するよりもはるかに多いのではないでしょうか? 作家として、土屋先生はどのようにお考えになりますか?」
「おっしゃる通りです。全く、その通りです......」
土屋は躊躇なく答えた。
「世間的な栄誉と創作活動は反比例します。もっとも私のように非才な作家には適合しませんが......作家は世に認められると間もなく才能を出し尽してしまう傾向があります。大作家というのは抜け殻のことといってもさしつかえありません」
「それはいささか過激な表現のようですね」
郁江が目をまるくする。
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「いや。これは私のような才能の乏しい人間が大作家巨匠ともてはやされている人々に抱く浅ましい嫉みかもしれません。しかし、以前から著名な作家たちに見受けられる才能の枯凋現象に対して、不思議に思っていたんです。もしかすると、人間の才能には一定量があり、使い切ってしまうということなのかもしれない、などと考えたりしました。どんなに才能豊かな作家にとっても、質と量を長期間に渡って維持することは困難、というより不可能なんです。いつしか原泉が干上ったように詩藻が枯れてしまいます。かつての栄光が疑わしくなるように、枯渇した惨めな作品しか生れてきません。まるで鉱脈を掘り尽したあとの廃鉱みたいに荒涼としてしまうのです......
しかし、今の郁江先生のお話で、その謎がやっと解けました。つまり才能は自前であり、己れの裡に才能のダムがあると勘違いしていたわけです。だからこそ全ては自分の力だと自負することになります。巨大な才能も輝かしい成果も栄光も、全て自分の物だ、と。
事実はそうではなくて、肝心のダムは高次元世界にあり、肉体を持つ人間は、いわば水道の蛇口に過ぎない存在だった......つまり本人の努力によって水道を高次元のダムから引いて、水を汲み出しているというのが真実だった。
だからこそ、作家が純粋な創作意欲に駆られて、一念を燃やしている時は、努力に応じて豊かな水量が供給される。しかし、作家本人の意識が変化して、純粋さを喪い、世俗的な名誉欲や権力欲に左右されると、とたんに水量が乏しくなってしまう。つまり、少しでも手抜きをすれば、それが自前のダムでないがために、てきめんに跳ね返ってくる......そういうことでしょうか、郁江先生?」
「それは巧みな比喩だと思います。さすがですね。わたしにはうまく表現できなくて、考えていたんですけども......わたし思うんですけど、肉体を持つ人間はどうしても物質的見地に囚われがちで、何もかも自分の才能だとごく自然に思いこんでしまいます。特に才能に恵まれて自信を持っている人たちは、全て自分の力でやっている、と感じます。他人に依存したり依頼心を持ったりせず、自分の力で運命を打開しようとしますし、また人一倍の努力も払いますから、それに見合うだけの成功は得られるわけです。自分の力に自信を持っていますから、積極的だし、意志強固で、敢闘精神も旺盛なわけです。いつも他人に頼って、神仏を拝んでご利益をもらおうとする他力志向の人々よりも、努力するだけに成功率が高いのも当然だということでしょう。
頼るのは己れの力のみ、という自力志向の人間はやっぱりたのもしいし、他人の協力も得られます。その意味では、自力ってやっぱり強いんですよね。
芸術家は、他人にバトンタッチして、交替してもらうわけに行かない仕事だし、自力志向の見本だと思います。他人に頼って、助けてもらおうとしたって、どうしようもないんですから。全ては自前の才能だ、と思いこんでしまうのも無理はないかもしれません。
ですから、意欲と自信に充ちてバリバリやっている時は、波動がみなうまく巡っていますから、傑作もどんどん生まれます。でも物事が万事うまくいくとは限らないもので、自信の強さは自信過剰を招きますし、自負心がふくれあがり、チヤホヤされるから傲慢にもなるし、増上慢にもなって行きます。その時は、もう純粋な意欲は失われてしまっているんですね。大作家気取りで文豪風を吹かせてみるようにもなるでしょう。
自力志向の人々を待ち受けている典型的な陥し穴だと思うんです。謙虚さも何もなくなって、自分の虚名だけを維持するために努力するようになる。名声欲だけに動かされる、欲望の奴隷になってしまいます。それで、名声だけは高く、世間の人々に大作家として知られても、中身はすっかり失われてしまっているということになります。もう作家の残骸になってしまいます。もう何も書けないし、いかに書こうと努力しても、見るかげもない、魂の抜けた惨めな代物しか出てこなくなってしまう。
才能が枯渇した、と本人も他の人々も思うけれども、本当はそうじゃないわけです。本人が物質的欲望に囚われてしまったからです。いつの間にか背負いこんでしまったもろもろの欲望というお荷物をおろし、心の大掃除をしない限り、枯れてしまった詩藻は二度と甦ってきません。
金と名声に飽かせて、いかに大量の資料をかき集めてみたって、人々の心を打つ優れた作品は決して書けないんですね。高次元のダムを我と我が手で封鎖してしまったんですもの、それも当然です。でも、物質的見地で終始している本人は決してその真実に気付かないんです......」
「まさか己れの才能が、自前のものではないとだれも考えないからでしょうな」
「無理もないと思うんですけどね。自分の才能を伸ばせという教育を受けて育っているわけですから」
「してみると、郁江先生。我々人間にとってわずかに自前といえるのは、事をなそうという努力だけになるのでは......? つまり、銭湯へ行きますと、水や湯を出すカランは、手で押し続けていないと出てくれません。手をはなせば即座に停まってしまいます。人間の努力はカランを押し続けることだけであって、お湯は高次元のダムから全て送られてきます。そんな関係に似ているといえそうですね。つまり人間にとって〝自前は努力だけ〟とでもいいますか......」
「面白いですね。わたしお風呂屋さんにいったことがないので、手で押していないとお湯が出てこないカランて知らないんですけど。〝自前は努力だけ〟というのは、素敵なモットーじゃないですか?」
郁江はうれしそうに笑っていった。土屋のいいだすことは全て彼女の意にかなう、そんなことを三千子に感じさせた。
気のせいかもしれないが、郁江が土屋に向ける笑顔さえ違うように見えるのである。甘く融けるように、振るいつきたいほど魅力のある笑顔である。最近の郁江は意識圧を高めているせいなのか、以前のように甘美な愛くるしい表情や笑顔はあまりのぞかせなくなっている。瞳の色も表情も屹然としてきびしく、丈が見せていた峻厳さによく似ている。
それだけに、郁江が土屋に見せる愛らしい笑顔は特別とさえ呼べるようであった。それに気付いているのは三千子一人ではないだろう。土屋はまさに〝郁江のお気に入り〟としかいいようがない存在になっていた。以前の丈に対し、郁江自身が占めていた立場を思わせるものであった。
若者たちの中には、嫉妬が黒い醜悪な想念と心得ていながらも、土屋の面長の瘦せた顔に対して心穏やかでない思いを持つ者も絶無とはいえないだろう。そんな気がした。土屋自身は控え目であり、遠慮がちとさえいえそうだが、郁江の示す重用ぶりはただごとではなかった。
「それで〝初心忘れるべからず〟という言葉の意味がよくわかりました」
と、土屋がいっていた。若者たちや三千子自身が居るのにもかかわらず、二人だけで特別な会話が続けられているようであった。
嫉ましい、という感情とは違う、と三千子は思った。郁江と土屋の魂には特別な結びつきが存在するに違いない。あるいは、それは三千子自身と丈との間に存在する結びつきに似ているのかもしれなかった。郁江が土屋に対して、肉親以上の親しみを覚えていることはそれとわかるほどであった。

「そうです、わたし、それをいいたかったんですよ」
郁江が熱意をこめていった。
「土屋先生は、わたしのいいたいことを何でも先廻りしておっしゃってしまうみたい。土屋先生ももしかしたら、霊覚に目覚められたのじゃないですか?」
「とんでもありません。私ほど霊覚というものに縁遠い人間もいないでしょう」
「あら、それはわかりませんよ。土屋先生は元々霊覚の優れた方だと思います。魂で見ますとね......土屋先生は高次元の波動というか、通信を上手にキャッチできる方だし、転生輪廻の過程を通じて、そういう天上界通信に従事されていたはずですよ。たぶん、土屋先生の前身は、預言者じゃないですか?」
一座が軽くどよめいた。郁江が霊的な人格転位を行ない、魂としてのソル王女と化すのではないかと期待したのであろう。
「わたしが感じるところでは、土屋先生は過去世では小説家や戯作者ではなかったと思います。一度もそういうお仕事はなさっていないはずです」
「道理で、小説が下手なはずです。私にとって小説を書くほど難儀する仕事はないんですから......」
土屋は苦笑しながらいった。
「小説家のくせに、小説を書くのが一番苦難をもたらすというのは変な話ですが......一度としてスラスラと書けたためしがありません。小説を書くことが喜びをもたらしたり、快楽を覚えるなどという経験は一度としてないのです。常に素手で岩場に穴を掘ろうとするほどの苦痛と困難がつきまといます。
時として......というよりいつも、自分が作家になろうとしたのは間違いだったと思うのですが、やらなければならぬ、という裡なる義務感の要請の方が強くて、不向きな作家業にこだわり続けているわけです。
作家によっては......私の聞いた話ではある流行作家などは、白い原稿用紙に向いますと、これから書く原稿が、白紙の上に透けて見えるといいます。その流行作家は、ただその透けて見える原稿通りにマス目に字を埋めて行けばいいのだというんです。
もしかすると、本当にそういうこともありうるのかもしれない、と思います。作家としての修錬を過去世を通じて積んでくれば、そのくらいの芸当は出来るのかもしれない。私など、過去世で修業していないというんですから、作家として落第でも当然です。そもそも蓄積がないし、キャリアもないわけですから......」
「そんなことはありませんよ、土屋先生。それは考えすごしです。土屋先生が過去に作家としての修錬をせず、初めてのお仕事だとしても、高次元の助力は当然受けられます。天上界のその道のプロ、優れた作家である指導霊が、土屋さんに協力してくれるんです。土屋さんは受信作業のプロなんですから、その時期が来れば、別人のようになって素晴らしい作品をどんどん送りだすように必ずなりますよ。
土屋さんは、地上に肉体を持つ前に、天上界で充分に用意してきたはずです。もう今後書くべきものもちゃんと決定していますよ、きっと。どうしても書かなければならなかった本が〝サタンの再臨〟だったんです。これを書く時、土屋さんはそれこそ、ものに憑かれたようになって夜も昼もなくなり、必死に書き続けたはずです。それは本来、土屋さんが書くべき本として、天上界にいた時にちゃんと用意していたからです。それを受信する時には、他の仕事とは明らかに違う、特別な波動を感じていたはずですよ。そうじゃないですか?」
「おっしゃる通りです。家内からは人格が変ったようだといわれました。あんなに必死の形相をするさまをこれまで見たことはない、と......例によって苦しい仕事で難渋するのは変らなかったのですが、石にかじりついても書かなければならないという使命感が特別な気迫を生みだしたようです」
「使命感でお書きになったのですか? 不思議ですね」
「生命をけずっても、たとえ死んでも書かなければ、という必死の気持でした。どこに売れるあてもないし、出版を引受けてくれる出版社があるわけでもないのに、なぜそれほどまでに懸命になって、死物狂いで夜昼なく書き続けたのか、我ながら納得できませんでした。その間、無収入になってしまったので、家内につらい思いをさせてしまったと思いますが......家内は批判がましいことや不平不満は一言もいいませんでした。しかし後で、大事にしていた切手のコレクションを残らず売り払って家計の足しにした、とわかった時には、胸が痛みました」
「素敵な奥様ですね。土屋さんを本当に理解し、信頼していらっしゃるのですね」
「家内は私の最高の助っ人です。家内がいなければ、私には何もできません。それなのに、私自身、仕事に迷いが出たりして、余分な苦労をかけました......郁江先生にお目にかかる前後が、一番心に迷いが生じた時期でした。作家としてこれ以上続けることに、ひどく疑問を感じておりましてね......」
「でも、今は迷いは吹っ切れたのでしょ? そうでなければ困りますよ」
「おかげさまで、迷いから抜け出しました。今はもう大丈夫です」
「そうでしょう。いまだに土屋さんに迷っていられては大変です。土屋さんはわたしの大切なスタッフなんですから」
郁江は胸を撫でおろすジェスチュアを見せながらいった。
「家内を今度連れてまいりますから、是非逢ってやっていただきたいんです。家内も郁江先生にお礼を申し上げたいようです。私が迷いから吹っ切れたのを、だれよりも喜んでいるのは、やはり家内だと思いますから......」
「それは喜んでお逢いします。でも、本当によかったですね。作家開眼ですね。土屋さんは素晴らしい作品、人々の魂を洗うような、画期的な作品を小説として書こうと準備して地上に出られたんですよ。
今後の土屋さんは、これまで書かれた作品とは全く傾向の異る小説を書かれるはずです。それはもう準備されているんです。失礼ないい方ですけど、これまで書かれた作品とは比べものにならない、人間復興をもたらす原動力になるような、力強い作品が書けると思うんです。それは、土屋さんが高次元世界でしっかりと用意して、それをただ通信すればいい、そんな状態にしてから、地上に肉体を持ったんです。後はしっかりと受信すればいいわけですよ。今の土屋さんの心の状態なら、必ずそれができるはずです」
郁江の声音は力強かった。波動の強さはとりもなおさず、彼女の自信の強さであった。たとえ土屋にいくばくかの懐疑心や逡巡があっても、それを吹き飛ばしてしまうことを意図しているようであった。
20
三千子の見るところ、土屋は理知的で、懐疑的な性格の持主である。狂信家タイプとはおよそ逆位相の心を持っているであろう。
もっとも狂熱的になりにくい、醒めた意識を、本能的に維持しようとするバランス感覚に優れた人間なのだ。キリスト教に入信しなかったのもそうだし、マルキシズムのような一種狂熱的な〝異教〟に心動かされず、本質を看破してしまうところに、土屋のクールさがよく顕われているように思える。
土屋は決して懐疑心を根底的になげうつ人間ではないし、たとえ今は心が大きく傾いていても、いずれは本能的なバランス感覚が作動し、平衡を取り戻そうとするであろう。
郁江はそれを知っていて、敢えて熱狂的な高揚感の中に土屋を巻きこんで行こうとしているようであった。郁江は土屋を今はもっとも必要な人材としている。そのためには彼女の持つ影響力を最大限発揮し、土屋を惹きつけておこうと計っているのだ、と三千子は思った。
無意識的にせよ、郁江は己れの魅力をフルに発揮し、眩いばかりの輝きを放っている。土屋がいかにクールな性格であっても、これには抗しがたいに違いなかった。
「作家になった甲斐があった、と思えるようになれれば、それ以上の幸せはありません。私を信頼してくれる妻にも、応えることができますしね」
「必ずそうなりますよ。わたし、もう土屋さんのお書きになった本が目に見えるようです。もしかしたら、土屋さんが高次元世界においでの時に書かれた本かもしれません。今、一瞬ですけど、フッと見えたんですよ。物凄く分厚い本、聖書ぐらいの分量がありそうな本でしたよ」
「それは、実に読みたい本ですね。なんとしてでも読みたいです」
土屋は笑顔になっていった。あまり笑わない彼にしては、滅多に見せないような嬉しそうな笑顔であった。
「必ず読めますから、ご心配なく。......今すぐというわけには行きませんけどね。残念ながら......」
「私は今、小説を書かねばならぬという気持がないのです。全然焦っておりません。それよりも、郁江先生のお手伝いをするということに強い意欲と情熱を覚えます。それだけが本当に自分のしたいこと、望んでいることであって、他の全ては驚くほど比重が小さくなってしまったようです。まさに天職を見出したという身震いするような強烈な高揚感と興奮を覚えるんです。私は今、本当に幸せだと思います。今まで軌道をはずれ、さんざん迷い抜きながらとんでもない大きな迂回をして、ようやく本来の軌道にめぐりあった......ですから、私はなんの疑問もないし、逡巡を覚えません。しかし、もし後悔というものが存在するのなら、もっと若くして郁江先生にお目にかかりたかった。そう思います。ここにおいでの若い皆さんのように、まだ心が純粋で世俗的なさまざまな煩悩に心を汚されないうちに、郁江先生にご教示を頂きたかった......心から皆さんを羨ましく思います」
土屋は若者たちに向かっていった
「私の十代は激しい懊悩で塗り潰されていましたから......迷いははてしなく続く迷路のようで、抜け出すための光もありませんでした。いくら考え抜いてみても自縄自縛になるばかりで、何もわからなかったんです。人生についても、宇宙についても、神についても、何一つ答は出ませんでした。これじゃない、こんなものであるはずがない、と猛烈な焦りにとり憑かれていました。宗教も思想も信じられない。求めているものと何か違うんです。他人が信じられず、自分さえも信じられない。自分が何物になろうとしているのか、まったくわかりません。全ては混沌の中にありました。
無数の劣等感に塗り潰されて、幾度死を想ったかもしれません。尊敬する先輩や友人の自殺にあって、ほとんど実行しかけたこともありました。今でも、暗い底知れない夜の海の色がふっと甦ってきます......
自分の家庭的環境や身体的な劣等感や失恋やら、ありとあらゆる悪い運命にさいなまれているんだ、そう思いました。振り返ってみるとよく命ながらえたものだと慄然とします。私は十代の多感な青春期を、死ばかり考え、死神にとり憑かれたようになって、無駄にすごしてきたんです。もし、あのころ、郁江先生にお目にかかれたら、あんな人生の無駄遣いはしなかったのに......それが今となれば痛恨のきわみです。これほど口惜しいことはまたとありません。私がどんなに若い皆さんを羨望しているか、たぶんおわかりにならないでしょう......」
一座の若者たちは沈黙して聞いていた。突然始められた土屋の自己告白に戸惑っているようでもあった。しかし、若年にして屈折した人生を辿ってきた塾生たちは比較的、土屋の告白に共感を覚えているのかもしれなかった。
「それは違いますよ、土屋先生」
と、郁江がいった。
「土屋先生が今のような心の状態になられたのは、十代においてさんざん苦悩し、人生の目的と使命を必死に模索してこられたからじゃないでしょうか。やっぱりその苦しみはとても役に立っていると思うんです。もし土屋先生が何も悩まずに淡々と生きて来たならば、生き方も当然、全く変ってしまっているはずです。一流大学を卒業して、今頃はどこかの官庁で出世コースをひた走っているかもしれませんよ、現世的欲望に目の色を変えて。自分の周囲の世界のこと以外には決して能動的にかかわりあわない、視野の狭い生き方をしているかもしれないんです。きわめて物質的な人生観を持ち、人生の目的と使命については少しも考えない生き方を送ることになったんじゃないでしょうか。
そんな生き方をする土屋先生は、食うや食わずで売れ口のない〝サタンの再臨〟を書き上げたりすることは決してないし、わたしのところへおいでになることもなかったはずです。縁なき衆生の一人になってしまったんじゃないですか......
それに、十代のころの土屋先生がわたしの許へおいでになったとしても、やっぱり困ったことになります。今ここにいる若者たちの一人と少しも変りません。わたしの有力なスタッフとして助力していただけなくなってしまうじゃないですか......そうでしょう? 沢山の劣等感に悩み、さんざん迷い抜いたからこそ、現在の土屋先生があるわけで、だからこそわたしを助力していただけるんです。
やっぱり何もかも、ちゃんと考え抜かれ、計算し尽されているんですよ。土屋先生の苦しい人生体験は重要な訓練だったはずです。苦労しただけの甲斐はあったんじゃないでしょうか......今、この場へ辿りつくために、どうしても歩んでこなければならなかった道程だったんです。
今、こうしてこの場に青年たちが、わかったようなわからないような顔をして聞いておりますが、この人たちには土屋先生の苦しい経験はありません。まあ、多少はあるんでしょうけれども、あっさりと辿りついてしまったために、あまり有難味がなくなっているような気がするんです。ですから、どうしても人間的にポーッとしています。甘ちゃんなんです。性根に甘い所がまだまだ沢山あります。それをなんとかしようとして、わたし大奮闘しているんですけど、まださほどの成果を得られておりません......
わたしは、土屋先生がここにいる青年たちを羨んだり、ご自分の人生を後悔する必要は少しもないと思うんです。甘く育ってくるとどうしても、人間は性根が薄っぺらになり、人格的に厚みが欠けてきてしまうんですよね......彼らは今、わたしにハッパをかけられて大変なんですよ。土屋先生も是非、この若者たちにご自分の貴重な体験を分け与えてやって下さい。とにかく今急がれるのは、人間的な自覚なんです。促成栽培というわけじゃありませんけど、今彼らに教えているのは、他人の体験を己れのものとして身につけるということなんです。でも、想像力が乏しいものですから、なかなかうまく行きません。他人事という観念がどうしても抜け切らないんです。
一口に思い遣りといっても、他人の立場に立って痛みや苦しみをともに味わうなんてことはなかなかできることじゃありませんものね。想像力が大切なんです。でも、その想像力は霊的感覚であって、ポケッと生きている人間には無縁なんですよね。人間はやっぱり痛い目苦しい目に自分であってみないと、他人のそれがわかりません。
土屋先生は貴重な経験をされたんですよ。若者たちを羨むなんて、それこそ本末転倒です。若者たちこそ、土屋先生を羨まなければならないはずです」
「おっしゃる通りだと思いますが......しかし、あの若いころの苦しみは、私の性格をかなり歪めてしまったように思います。陰気で引込思案な性格が定着してしまいましてね。小心者の何の魅力もない凡夫......今となってはどうにもならないようです。劣等感が凝り固まって人の形をとったのが今の私、そんな気持です」
「そんなことありませんよ、とんでもないことです! 土屋先生はとても魅力的ですよ、ね、お姉様!」
郁江は声を高めて、三千子に同意を求めた。
「燻し銀の魅力ですよね。本当に信頼できる人間の重みがありますよ。奥様だってその魅力に惹かれて、絶対の信頼を置いていると思うんです。これは失礼ないい方かもしれませんけど、怒らないで下さい。土屋先生はとっても可愛いですよ。わたしは本気でそう思うんです。お姉様だって、きっと同意見だという感じがします。ね、可愛いですよね、土屋先生って......」
「そうですね」
三千子は微笑を浮かべて、軽みのある口調で同意した。
「あたくしもそう思います」
「ね、そうでしょう? お姉様もわたしの意見に賛成して下さいましたよ。土屋さんの性格は歪んでなぞいません。どうかご安心下さい......土屋先生はわずかの間に、笑顔がとても多くなりましたよ。ご自分ではお気付きになっていますか?」
「そう。家内によくいわれます。最近はとても顔付が穏和になって幸福そうになったと......私は陰気になりやすい人間なので、妻にとってもたいへん歓迎すべきことなのでしょう。家内が郁江先生にお目にかかりたいといいだしたのは、そのためかもしれません。家内はとても感謝しているのだと思います」
「嬉しいですね。人が明るくなり、元気に幸せそうになるのを見るのって、とても素晴らしい経験ですね。人間って心がいい方向へ変ると何もかもがどんどんいい方へ変って行ってしまうんですね。幸福って、人と人の間を循環してどんどん増えて行く......それが一番望ましいことで最高です。幸福の拡大再生産ですよね。でも、やっぱりそれはまず自分の心の裡に始まるんです。
まず自分が幸福でないと、他人にそれを波及させることはできませんよね。ユートピアを実現させることもそれと同じだなって、わたし思うんです。まず自分の心の裡にユートピアを築くことです。自分が不幸なのに、他人を幸せにすることなんかできないし、自分の心の中にユートピアを築き上げていない者が、いくら大声でユートピア建設を説いたって、何の説得力もありませんものね。
心に何の捉われもなくて、欲望や執着で苦しみを造り出していない、自分の人生の目的と使命にはっきりと目覚めた時の人間って、本当の意味で幸せだし、自由なんですね。土屋先生の笑顔が明るく幸せそうになったのは当然です。自分の使命にはっきりと気付かれたんですから......自分の軌道を明確に知るということが、人生最大の幸せじゃないでしょうか。
みんなも同じですよ。心が定まらず、いつも振り子のようにフラフラと揺れ動いているのは、まだまだ本気になっていないからですよ」
と、郁江は若者たちに向けていった。
「みんなは、会や塾へ来て、人生の目的、使命を知ったと思い、安易に口にしているようだけど、行動が伴わなかったらなんにもならないんですよ。もっともっと気を配りなさい。注意力散漫だし、まったく配慮が足りないよ。結局、努力が足りないから、いつもそうやってポケーッとしていられることになってしまうの。わかる?」
目の光り方も顔付もきびしくなっていた。土屋や三千子に向ける融けるような甘い笑顔とは全くの相違があった。声音も喋り方も、俄然男っぽくなり迫力が生じることを、三千子は感じ取っていた。それは郁江の容姿に似つかわしくない線の太い男性的な波動であった。
「荒井、熱心にメモ取っているけど、ただ書き取るだけだったら何にもならないよ。忘れるためにメモしてるようなものだから......君はいつも丹念にメモを取ってるね。どの程度身になってるのか、今度テストしようかな」
郁江は塾生の一人に向っていった。頭を短く刈り上げたチンピラ風の若者である。荒井は照れ臭そうに首筋を搔いていた。
郁江は若者たちに向っては、いつもこの調子で喋っているようである。時として男言葉になってしまう。それもこの年頃の少女が意識的に使う調子ではないようだ。ひどく迫力のある男性的な波動である。
三千子は、郁江の放っている波動に、弟の丈を見出したような心地がして胸がときめいてきた。口の中が乾いてしまう感覚であった。郁江の意識の裡に丈が存在する、と思った。郁江は丈の波動で喋っている。そのために言葉遣いから喋り方まで丈そっくりになってきたのであろう。
「義に話してやろうと思って......」
と、若者はメモを閉じながら、おずおずと答えた。畏敬の眼差で郁江を見ている。郁江の男っぽい波動に反撥する気配はいささかもない。
「義がとっても喜ぶもんですから......俺はメモ取るなんてえらく苦手なんだけど......」
「そうだったの......学校時代にそれくらい勉強家だったらよかったのにね。でも、偉いと思うよ。本当に君はやる気出したんだものね。もし君自身のためだったら、苦手のメモをいつも取り続けるなんて、できなかったかもね。やっぱり友達の義を喜ばせてやりたいという君の気持が長続きさせているんだよ」
「ええ......俺もそう思います」
若者はぺろりと舌を出していった。
「その舌を出すのはやめるの。とっても幼稚に見えるよ。せっかく顔がきりっと引き緊ってきたのにさ。でも、義はいい友達を持ったね。君はまだまだだらしない所が沢山あるけど、口先だけじゃなくて実があるもの。本当にそれは偉いと思うの。一番苦手な、人の話をメモに取るということをくじけずに頑張ってやる......根性あるよ、荒井は。わたしは尊敬するな......みんなも心に思ってもなかなかできないことだものね。荒井は偉い! みんなも他人のいいところはどんどん真似しちゃおう! 口先だけで友情だの宇宙的連帯なんて百万べんいったって何の役にも立たないんだから!」
「郁江先生に尊敬されちゃった」
と、若者は首を縮めていった。扁平で粗野な頰骨の高い顔が嬉しげに輝やいて見えた。
「尊敬するよ! だって、荒井には根性だけでなく〝徳〟のあるもの。思い遣りが深くて荒井ほど配慮が深い者はいないっていつも思ってたの。人の目にはつきにくいけど、わたしの目は節穴じゃないからね。義もいい友達を持って幸せだと思うよ。荒井は塚田組にいても、大物ヤクザとして大成するかもしれないね。もしかすると親分になれるかもしれない。どう、このまま組に残ってヤクザ道に励む?」
「とんでもありません!」
若者はあわてて手を振り、一同の笑いを誘った。安手のチンピラそのものの顔付に見えるが、根は純朴なのだな、と三千子はほほえましい気持になった。夕陽を浴びたレンガ色に色黒の顔を染めて照れているのが可愛らしい。
「義も来週ぐらいには退院するし、そうなると皆も負けていられないわよ。義はとみに進境著しいから。病院にいる間に悟りを開いちゃったのね。反省したり禅定する時間にたっぷり恵まれてたせいもあったけどね......君たちはさ、いい仲間に囲まれて、研修する機会に不自由しないけど、その幸運に甘えちゃってるところがあるんじゃないかな。余裕たっぷり、吞気すぎるとわたしは思う。みんなも一度入院してみるといいかもしれないよ。今のままだとどうしても易きについて、イージー・ゴーイングになってしまうらしいからね......」
21
義、と通称で呼ばれる元チンピラの金本義男が入院中に霊覚に目覚め、神秘的な経験を積み続けていると三千子は聞いていた。
その義の影響を受けて、郁江もまた霊体離脱により高次元世界への移行を体験しつつあるようである。
義の指導よろしきを得て、というあたりが三千子には興味深い。霊格からいえば、井沢郁江の方が遥かに高処にありそうに思えるが、義から指導を受けることに少しも拘泥しないのが、いかにも郁江らしかった。
義から遣り方を聞いただけで、郁江は何もかも理解してしまったようである。一を聞いて十を知る、というが、郁江の潜在能力からいえばきっかけさえ摑めば、きわめて容易なことであったらしい。
わずか一か月間で、郁江の霊覚は尋常ならざる進境を示している。霊体離脱した郁江が高次元世界で丈と遭遇した体験など、知識の乏しい人間からすれば単なる夢物語に思えようが、土屋香が即座に指摘したように、大霊能者として知られるイマニエル・スウェーデンボルクのユニークな体験と顕著に重なり合う。
霊体離脱しなければ、人は〝霊界〟を訪れることはできないのだが、霊界での体験、記憶を持ち帰り、覚醒後も明瞭に細部まで記憶しているのはたやすいことではない。一貫して意識を持続させるのはとてつもない難事である。
意識による旅は、普通、人が見るおぼろげな夢とは根底的に異る。それは現実に地上を旅行するのと少しも差異がないのだ。
郁江を初めとする若者たちは、どこまで霊覚を伸ばして行くのか、と三千子は思った。その進境は速く、目覚ましい。若者たちの多くが霊覚者として離陸を見せ始めている。だれもことさらに口に出したりはしないが、会においても塾においても、霊覚などしごくありふれた普遍的なものであるかのように軽く扱われている。郁江を初め、霊能、霊覚には特別の意味などないと宣言した東丈の言葉を忠実に守っているようだ。
自分には超能力の素質の片鱗もないと訴えていた木村市枝ですら、霊覚としかいいようのない鋭さを発揮していることが仄見える。しかし市枝はそれが霊的感覚であるとの自覚はないようだ。
その程度では霊覚と呼ぶに価しないと思っているようである。郁江や義が、大霊能者スウェーデンボルクの高名な〝霊界探訪記〟と等しい霊的体験をあっさりと積んでいる事実があるからには、何も不思議ではないということなのか。ルポライター風間が評したように会と塾はいまや〝大超能力者の巣〟となりつつある......その評言は正しいように思えた。
東丈の時代には意図的に抑制されていたのが、郁江の時代になって一挙に開花したような華やかさ眩しさが感じられた。
この先、郁江の牽引を受けた会と塾はどれほどの急激な進展を見せることになるのか。その考えには眩惑感がつきまとっていた。空恐ろしいとしかいいようがないのである。
本当にこれが、高次元意識の企図するものなのだろうか。この変化に、弟の丈がどの程度関与しているのか、と三千子は考えてしまう。郁江ははっきりと、それが丈の意図そのものだと確信している。だからこそ一抹の不安もなく逡巡も見せず、突き進む活力を汲み出しているのであろう。
しかし、それには高速で疾駆するものの不安定さ危うさが否定しようもなくつきまとっていた。思わぬ障害が出現した時、あっさりと覆り、大被害を出すのではないかという心許なさであった。
「病院といえば、陽子ちゃんをお見舞いに行ってきてくれたのはだれだっけ......木下少年、報告、まだでしょ?」
「はい......報告を書きました。平山ビルの方に提出してあります」
「ああ、まだそれは目を通してないわ。今日は平山ビルにまだ顔出ししていないから、久保陽子ちゃん、どうだった?」
「もうすっかり元気そうです。でも義君より退院はちょっと後になる、と笛川先生がおっしゃっていました」
木下少年と皆に呼ばれる大学生は一生懸命にいった。会の若者に共通する線の細さと知的な印象の持主であった。生真面目で緊張過多の傾向は、久保陽子にいくぶん似ているようである。
「先生に指示された通り花束を持っていったら、久保さんはとても喜んでいました。女性はやっぱり花が好きなんですね」
「木下少年は花より団子ね、きっと。男の子ってお花を見ても、ああ、花がある......なんて散文的に感じるだけなのね。で、どんな話をしてきたの、木下少年?」
「会や塾の話をしました。久保さんが聞きたがるものですから......郁江先生がお花を選んだんですかって尋かれました。とても気に入ったそうです」
「それは、君がお花については皆目無知識という顔をしているからよ、きっと。春に咲く草花の名前を三つあげなさいといったら、君は困るでしょう、木下少年」
「桜とか梅とか......ああ、草花ですか、チュ......チューリップ......」
「偉いえらい。で、後の二つは?」
木下は答えられず、笑いを誘った。
「アメリカから、杉村さんのお見舞い状が来たそうです。とても嬉しそうでした。エアメイルをもらって、入院した甲斐があったといっていました。それから、自分はまた会に戻っていいだろうかと尋いていましたけど......」
一同はしんとなった。
「会に大きな迷惑をかけてしまって、申しわけないというんです。非常にそれを気にしているようです......」
「で、木下少年は何といって答えたの?」
と、郁江はゆっくり尋ねた。木下は眩しそうな目をした。郁江の輝かしい瞳に見詰められ、太陽を直視したような表情だった。
「もちろん、会はみんなで久保さんが回復して復帰するのを祈っているといいました。すると、久保さんは泣き出しまして......困りました。でも本当に嬉しかったようです。郁江先生からおあずかりして行ったメッセージを幾度も読み返していました......」
木下は改めてその時の感動を追体験する面持で語った。郁江がほとんど無表情な貌で報告を聞いているさまが、三千子には印象的であった。
「久保さんは最初からもう一度やり直したいといっていました。入院してよく考えてみたけれども、やっぱり自分は会からはなれられない、いつも自分の心は会といっしょにあった。久保さんはそういいました。とても素直ないい顔をしていました......これは僕だけが感じたんじゃなく、いっしょに行った吉野君も同じ意見でした。東洋病院の笛川先生も同じようなことをいっておられました......またお見舞いに行って上げても構わないでしょうか、先生? いろんな本を貸して上げると久保さんに約束してしまったものですから......」
「そうね、じゃだれかといっしょに行きなさい。順子ちゃん、彼女といっしょにお見舞いに行ってらっしゃい。君は気がきかないところがあるから、順子ちゃんをお目付役にするわ。いいわね」
「わかりました。川口順子さんには先生からお見舞いの件を......?」
「君から頼みなさい。お見舞いに行くのはいいけど、あまり長居しちゃだめよ」
「はい。よく気をつけます」
「............」
郁江は何事かいいかけて、翻意したのではないかと三千子は思った。郁江の心の中に逡巡が生じた証拠であった。何か注意しかけて、止め、喉の奥に逆戻りさせてしまったのである。郁江には珍しい躊躇として感じられた。
以後、郁江は久保陽子のことを一言も口にしなかった。それが逆に、根深い拘泥として存在する証拠のように思えないでもなかった。
郁江は、もちろん久保陽子に対して拘泥する充分な理由を持っているわけである。幻魔の助力を得て自分に強烈な呪詛を行ない、癌で生命を奪い去ろうとした久保陽子に気を許さないのはあるいは当然なのかもしれない。しかし、今の郁江はそうした個人的な怨恨などで拘泥を持つような人間ではないという気もした。
そうした根の持ち方は、郁江にきわめてふさわしくないことだからだ......
郁江は病院の久保陽子を自ら見舞いに行ったものと思いこんでいた三千子には少からず意外であった。杉村由紀の命を、凶魔に等しい矢頭から救ってくれ、自らは大怪我をした久保陽子に対し、主宰代行としての郁江は恩義があるはずである。
やはり多忙という言葉にまぎらわすことのできない心理的屈折が存在するのかもしれなかった。それを直接、郁江に向って指摘するにははばかりがあって、三千子は口を開くことができなかった。もし心理的屈折が存在するならば、それは郁江自らの努力で直して行かねばならぬことであろう。
「土屋先生、お姉様。こちらの勝手な話ばかりしてしまいまして、どうも申しわけありません。どうぞ、サタンのお話をなさって下さい......」
郁江は土屋たちに向き直り、頭を下げた。若者たちに向って話しかける時の男っぽい波動が薄れ、郁江らしさが戻ってきている。波動を自由に使い分けることが彼女にはできるのかもしれなかった。
「あ、もう構いませんか?」
土屋がやや間の抜けた質問をし、笑いが湧いた。
「申しわけありません。手間取らせてしまいまして......もう春の陽がすっかり翳ってしまいましたね。わたしが見当違いのことばかりお喋りしてしまったものですから。時間切れになってしまったみたい......」
郁江の言葉通り、広い南側の窓ガラスを通していっぱいに差し込んでいた陽差しがすっかり這い出してしまっていた。向って左側の窓枠が黄色く光っている。陽が翳ると同時に、膚寒さが大広間に忍び込んできていた。
あっという間に午後の熱気をはらんだ時間が去ってしまったようであった。
「強烈な暗黒波動は、今は来ていません。意識をそらしたので、あてはずれになってしまったのでしょう。でも、土屋先生、サタンのことを語られる時は、やはり〝幻魔の標的〟になり易い状態になってしまうんです。
ですから、その時はできる限り、心を浄化して......つまり荒れた感情や暗い気持はすっかり清めて、心穏やかにしてからにして頂きたいんです。つまりそれが心を光で満たすってことなんです。
安易な好奇心、物好きや趣味でサタンについて語るのはとても危険です。どうしても必要な時だけに限定して下さい。こういう真面目なセミナー・スタイルの時はいいんですけど、霊的現象大好きという趣味人は多いですし、そういう人たちの無責任な波動、好奇の波動は、暗黒波動をまともに呼びこむことになります。物凄く危険なことなんですよね。悪魔信仰へのめりこんでしまう人たちは、こうした軽薄な好奇心から出発することが非常に多いんです。
狐狗狸さんとかカード占いとか、沢山霊的な現象はありますけど、悪魔を呼びこむ絶好の呼び水になってしまうんですよ。なにも神秘的な悪魔学の奥儀を学んで、悪魔を呼び出す方法を知らなくたっていいんです。悪魔は呼べば同じ室内にいるようにすぐに飛んできます。
この席で、悪魔の話をしているだけで、すかさず暗黒波動が流入してくるんですから......だから、土屋先生、次回からは禅定をなさって、心を光で満たしてから、サタンについての講義をなさって下さい。聴講する者も同じです。これは決して冗談事じゃありません。
今日のところはガラス器が割れた程度で無事にすみましたけれど、次は何かもっと強烈な物質化現象が生じるかもしれないんです。物凄い幻魔の想念エネルギーについて、いずれいやというほど見せられ、学ぶことになると思いますよ」
「わかりました。では、残念ですがサタンについてはまた日を改めまして......」
と、土屋はゆっくりといった。
「よろしいでしょうか、お姉様?」
平板な声音からは、土屋が残念に思っているとは全く汲み取れなかった。
「あたくしは構いません。もう皆さん、時間もあまりないようですし......」
三千子は疲労は感じていなかったが、帰宅して弟の卓のために夕食を用意しなければならぬ時間になっていた。
「サタンさんについてお話したい、お聞きしたいと皆さんがお望みであれば、構わないんですよ」
と、郁江がいった。
「土屋先生、お時間がおありでしたら、このまま第二部へ突入しましょうか?」
「申しわけありません。子供のことがありますので、席をはずさせていただいてよろしいでしょうか」
白水美晴が椅子から立ち上り、頭を下げた。
「大丈夫でしょ。子供は塾生のだれかが見ていてくれるわ。ああ、お勤めがあるのね......」
「はい。子供を他人にあずけてこなければなりませんので、中座させて頂きます......」
「夜のお仕事だから、大変ね。子供は塾に置いていったら?」
郁江はこともなげにいった。美晴は驚いてしまい、とっさに言葉が出てこなかった。
「で、でも、そんなこと......」
「塾で面倒を見させますよ。子供の名前、健太君だったかしら。わたし、ちょっと健太君に興味があるの。今、お話してもいいかしら?」
郁江は三千子と土屋に会釈して、さっと立ち上り、風のように大広間から姿を消してしまった。アシスタント・グループが大急ぎで後を追って行く。いつもながら移動のスピードは目覚ましく、水際立っていた。
後には塾生たちが、どことなく不得要領の戸惑った表情で残っていた。私語もできず、三千子と土屋がどう行動するか見守っているようであった。
「どうも申しわけありません......」
美晴はなぜか詫び言を口ごもってお辞儀をし、郁江一行の後を追って大広間を出て行った。郁江の電光石火にも似た言動に適応しきれないのは、なにも美晴だけではなかった。
会も塾も、郁江の意志一つで動くという印象を強めた一幕であった。よほど郁江の反応の迅速さに慣れていない限り、目がくらむ心地がして、おろおろと戸惑うことになるのであろう。
かといって、郁江がきわめて発作的衝動的にのみ動いているとは考えられない。その霊的才能により、判断に要する時間が極度に短縮されているということなのかもしれなかった。アシスタント・グループのようによほど慣れ切った者でもなければ、追尾するのに困難が生じるのは明らかであった。
批判的な目で見れば、郁江の言動は神懸り的絶対権力者のそれに見え、反撥を招くだろう、と三千子は考えてしまう。かなりの人数がそのために会から離れたという話も聞いている。
郁江が会や塾に、己れの立場を完全にバックアップするよう要請していることは確かだからだ。批判を許さないということではないであろうが、批判者が自ら遠ざかって行くという結果を見ることは止むを得ないと郁江自身は考えているようだ。説得よりはむしろ分離に傾いているのは、東丈の時代と変らないようである。
いずれにせよ、不可避的に新陳代謝は進行せざるを得ない。自ら離反して行く者を引き留める手だてはないと、丈も郁江も考えているのであろう。
しかし、菊谷明子のように誠実なスタッフが会から姿を消してしまうのは、三千子にとって淋しく感じられた。脱会したということではないようだが、郁江の遣り方に抵抗があって遠ざかったことは間違いなかった。
新しい人々は会にも塾にも日を追って増加しつつある。新陳代謝は止むを得ないとしても、去って行く人々に対して示される無関心さは三千子の馴染むところではなかった。
慰留し、引き留めることにもう少し努力が払われてもいいのではないかと心に引っかかるものがある。
〝縁なき衆生〟ときっぱり思い定める意志強固さが指導者には必要であり、三千子の抱く不満は感傷に過ぎないのかもしれない。
しかし、新陳代謝が認められている限り、この場に親しく顔を集めている面々も、いつ自分が欠け落ちて行くかもしれないのである。人々はそれを明確に認識しているのだろうか。もしかしたら、自分だけは違う、例外だと何の根拠もない自信に捉われているのではないだろうか。
だからこそ、いざ自分が離反せざるを得ない羽目に立ち至れば、茫然として何が自分の身に生じたのか理解を絶することになってしまうのだろう。
あるいは、こんなことを考えてしまう自分は不遜なのか、と三千子は思った。郁江が高次元意識の波動に添って動いていることには疑問の余地はない。その郁江の言動に、地上的人間的な意識から疑問を抱き、批判的に傾くのは決定的な誤謬なのであろうか。
疑問や批判を心に住まわせれば、会や塾の現状では自ら離れ去って行くほかはなくなってしまう。意識統一を人々に要請する郁江の基本方針に反し、共通の認識という波動を乱すことにもなるからだ。
郁江は強い波動を放出し、会や塾の人々を席巻して行動へと駆り立てようとしている。それに対して敢えて異を立てるのは、反乱にも等しくなってしまうであろう。反論も批判も許されぬ雰囲気がいつの間にか醸成されてしまったようだ。
郁江の最大の持ち味であった寛容さはいつの間にか姿を消し、狂信妄信への拒否は見られなくなっている。
一つの運動が開始された時、その活性作用が強烈なほど、全体主義の傾向が目立ち始め、組織が許容する個人の自由意志は損われ、寛やかさや伸びやかさは失われて行ってしまうのであろうか。
言葉にしてみると、そのような重苦しい思念が三千子の心に漠然とした圧力を加えていた。
三千子は自分が性格的に、組織に馴染まないことを知っている。それだけに今後の動向について不安を抱いてしまうのかもしれなかった。
組織には、人間を縛りあげ、使役し、操作する魔性の力が存在するように思えてならない。郁江のように反骨的で奔放不羈の性格でも、今となれば組織に規定されてしまっていることはまぎれもないと感じられた。
それはもちろんのこと、郁江の責任感がもたらした変化であろう。
しかし......現在の郁江は、以前の反抗的で懐疑精神の旺盛な郁江自身を許容するだろうか、とつい考えてしまうのだった。丈が許容したように、彼女は内部の反抗を許すだろうか。
郁江は組織内に一点の不純物も存在しないように、浄化を進め、純潔度をこの上ないほどに高めようとするのではないか。
むろん、考えすぎなのかもしれない。三千子がいわれのない不安を抱いているにすぎないのかもしれない。そうであってほしいと願う。
しかし、郁江の十七歳という年齢は理想を純粋培養して行く危険さを感じさせずにはおかなかった。純粋でひたむきである。郁江はすでに高次元世界という理想境を知っている。それを地上界に移植させることに使命感を持つならば、おのずと純粋になり、それだけに過激になることは避けられないのではないだろうか......
批判的になりすぎてはいけないと自省しながらも、三千子は危うさを意識から振り払うことができなかった。郁江はあまりにも強力すぎる影響力を備えるに至っている。強烈な魅力の磁場を展開し、人々の心をからめとって磁化してしまう。その波動は圧倒的であり、猛烈であり、純粋で尖鋭である。以前の懐疑的な郁江ではない。カリスマとして生れ変り、ダイナミックな運動体の原動力となった郁江なのである。止めても止まらぬほどの加速がついてしまっている。
郁江と二人だけで話し合ってみる必要がある、と三千子は思った。彼女に随順している若者グループが郁江の〝質量〟を異様なほど大きなものにしてしまっているからだ。
側近たちが傍に存在する限り、郁江はカリスマとして振舞わざるを得なくなっているのではないだろうか。郁江は自分の造り出した若者のアシスタント・グループ、〝親衛隊〟によって逆に規定され、制約を受け始めたという傾向がないとはいえなかった。
しかし、それくらい郁江にわからないはずがないとも思う。意図的にやっていることなのかもしれない。若者たちの意識を方向づけ、活性化を計っているのかもしれないのである。生ぬるい精神を排し、活力を汲み上げるためには、どうしても熱狂を生みだすカリスマ性が必要になるのかもしれない。
もし郁江にその熱狂を呼びさまし、献身的な行為へと駆り立てるカリスマの魅力がなければ、土屋はもちろんのこと、自分もこの場へ顔を出すことはありえなかったろう。
一時代を画する潮流が生じるには、運動体の中心がよほどの力を持たなければならない。さもなければ、旧秩序がもたらす強固な抵抗を排除し、打ち砕き、突破して行くことなどとうていかなわないであろう。微温的で常識的な意識で、大業を成し得ようはずがない。旧秩序からすれば著しく破壊的な、暴力的な運動体でなければ、何程のことがなしえよう。
熱狂という精神の白熱状態を生みださなければ、郁江は旧秩序を打ち破る運動体を手に入れることができないと知っているに違いない......
人々のエネルギーを結集させ、推進力として白熱させるべく、郁江は敢えて過激な方針を貫くのかもしれない。そのために郁江は、丈が抑制していた超能力の発顕を武器として大がかりに展開させようとするのではないだろうか。
全ての人間を潜在的超能力者として捉える行き方は、確実に関心を集め、献身や奉仕の大きな流れを造り出さずにはおかないであろう。しかし、その方法は過激な側面を持つがゆえに、大きな反作用をもたらしてくることを免れまい。
それは息苦しい不吉な予感であった。郁江が敢えて多難な道を選んだのであれば、郁江のために憂いずにはいられなかった。
22
河合康夫は苛立っていて不機嫌であった。不機嫌な康夫という存在は、肥満したマラソン・ランナーほどに珍しいといえた。
康夫は、田崎宏に対してさえ素気ない無愛想な口をきき、田崎を不審がらせ、興味をかきたてさせた。
「どうしたんだ、康夫。今日のお前はどうかしているぞ」
と、田崎はいった。

「どうせあたしは頭がどうかしていますよ。こんな頭の変な人間に車の運転なんかさせない方がいいですよ」
康夫は拳で車のハンドルを叩きながら、愛想なしに答えた。口がへの字になり、目が怒っている。隣席の田崎には目もくれない。無情な口を叩かれても田崎は怒らなかった。
「まあ、その気持はわからんでもない」
と、ふきだしそうな表情で、声音だけは抑えていった。
「同情するがね......」
「何が同情ですよ!?」
康夫が咬みつく。
「別に女の子に振られたわけじゃないんですよ。あまり安易に同情なんかしないで下さい」
青山通りは車の混雑が甚しく、康夫の苛立ちをひとしお高めているようだった。しかし康夫はもともと情緒が安定しており、滅多なことで感情を乱したりしない若者である。
「わかった。同情はやめる」
「そんなに簡単に同情を出したり引っ込めたりしないでもらいたいんですがね。一応、ねばってみるのがやっぱし礼儀ってもんじゃないですか......相手がいいといったって、まま、そういわずに、と押しっくらを三度ぐらいやるのが人情ってもんです。師匠はあっさりしすぎてて人情が乏しいですよ」
「じゃ、どうしろというんだ? 結局、同情された方がいいっていうのか?」
「何か方法があるでしょうが? さりげなく声をかけて、何を悩んでいるのかさりげなく聞き出すとか。あたしゃね、いつだってそうやって気を遣ってるつもりですよ。それなのに俺の番になると、だれもハナも引っかけてくれやしない。あ、あの馬鹿が悩んでやがる、面白いから石をぶつけてやれなんて、ひどすぎますよ」
「お前は面白い拗ね方をするな」
「最近心労が多くてねえ」
田崎は堪りかねて失笑した。
「いや、笑って申しわけなかった。康夫が真面目に会と塾の前途を憂いていることはよくわかってる。しかし、俺はお前ほど心配性じゃないのでな」
「俺は心配性なんかじゃありませんよ。人を苦労性のばあさんみたいにいわないで下さい。しかし、師匠は本当に気にならないんですか? そりゃ、先生がお帰りになれば、一挙に解消する心配かもしれませんがね」
「自分にいつもいい聞かせているのさ」
田崎は康夫の苛立ちを鷹揚に受け止めていた。短気なはずの彼が実にゆったりとしていた。
「今日一日、辛抱しよう、頑張ろうってな。必ず先生は帰ってくる。帰ってきて逞しい活動を展開する。今はその準備のために必要な期間なんだ。みんなが先生とともに突走るだけの気力と体力を養成するための、ハード・トレーニングの時期なんだ。不安や心配に気を遣うのは、ハード・トレーニングが不足しているからだ。もっと必死になれば、気苦労している暇などなくなる。だから、頑張れ、頑張れ、と自分に号令をかけている。
やることは山ほどある。いくら時間があったって足りない。先生が帰った時に、どれだけ自分が変ったか、会が変ったか見てもらいたい。よくやったという先生のねぎらう言葉を聞きたい。それだけで俺は満足する。だから今は、必死にやるしかない。便所に入っても俺は自分に号令をかけてる。さあ頑張れよ。踏んばって行くんだ、とな。今日はお帰りにならなくても、明日は帰られるかもしれない。もう一日の辛抱だ、そう自分にいい聞かせる。しかし、これは武道の稽古も同じさ。もう少し、もう少しの辛抱といい聞かせて、トレーニングを積む。あと五回、あと十回と腕立て伏せや木刀を振る回数を伸ばして行く。そのわずかな回数を増やす努力の積み重ねなんだな」
「へえ。偉いもんですな。さすが、武道の達人は違う。あたしのような軟弱者はもう辛抱堪りませんよ。火焙りにされてるようなもんだから。もう厭だ、助けてくれ、殺せ、と喚かずにはいられなくなる。一日ごとに、もう先生は二度と帰られないんじゃないかという気持が黒雲のようにかさを増してふくれあがってくる。もう限界です、師匠、俺はギブアップです、そういう最後の瞬間がついこの鼻先まで来ている。俺はただの人間なんですよ。意志薄弱な凡俗の徒なんです。師匠や郁姫のような特別製の根性の持主とは違います。俺はやっぱし天使じゃない。逆立ちしたって天使にはなれませんよ」
康夫は訴えるようにいった。その甘えに気付いていても、田崎はそれを愚痴として退けようとはしなかった。
「先生がいつも口癖のようにいっておられた。〝真の救世主〟が降臨する日を一日千秋の思いで待っておられる、とな。自分を励まし、この一日が終れば明日は来てくれる、だから頑張れ......この一日だけをなんとか保たせよう。明日は到着してくれる......先生はいつもそう思っているんだと話して下さった。俺たちと同じなんだよ、先生も。この鼻先にあることだけ頑張って片付けてしまおう。今は辛抱しなきゃならない。でも、明日こそ必ず来てくれる......わかるだろう、康夫。それが先生のおっしゃった一瞬一秒の努力ということなんだ。先生ですらありあまる活力をもって山のような仕事をてきぱきとこなして行かれたわけではないんだ......」
「だって、先生こそ〝真の救世主〟じゃないですか......なぜそんなことを......?」
康夫は口を半ば開けて田崎を見返した。不審の色が目に光っていた。
「それは、先生の謙虚さだ。先生はご自分の口から自分は〝真の救世主〟だとおっしゃったことは一度もない。自信がないというんじゃないと俺は思う。先生はもちろん、ご自分が〝真の救世主〟としての役割を果さなければならないと知っておられた。
先生のおっしゃる意味は、そうした一日一日の苦しみに死物狂いで堪える努力が、いつしかご自身を〝真の救世主〟として鍛え上げ、存在せしむる......そういうことだと俺は思っている。先生は必死に努力なさり、やがて来るべき〝真の救世主〟のために素地を築き、受け継ぎをなさることを目差しておられた。それはご自分が〝真の救世主〟として覚醒されるための努力だったのだ......決して外部からやってきた〝救世主〟が何の苦労もなく、先生から偉大な使命を引き継ぐということじゃない。
〝真の救世主〟こそ最大の努力をなす人なんだ。わかるか、康夫? 偉大な力を神から授けられているから〝真の救世主〟は偉大なのじゃない。その人以外にはだれにも堪えられない苦しみに堪え、努力を払って行く存在なんだ。
俺たちが先生の弟子だという意味は、決して先生を崇拝し、大声で讃美することだけじゃないんだぞ。先生がそうされたように、俺たちも努力を払い、先生のように生きるということだ。意志薄弱で心脆い凡人でも、魂に目覚めれば、強く生きられるということを先生は示して下さっている。俺たちが真に学ぶべきものはそれ以外にはない。郁江だって最初から、あんなに強い女の子じゃなかった。自覚して霊性に目覚めたからこそ、先生の代理が務まるほどになったんだ。俺たちだって同じことだ。霊性に目覚めるためには、先生がそうされたように、郁江が先生から学んだように、努力を一瞬一秒、支払って行くことしかない。
今日は先生がお帰りにならなくても、明日はお帰りになる。今日だけ辛抱し、凌いで行こう。そう信じて頑張るしかない。苦しいのはだれも同じだ。郁江だって必死で堪えて頑張っているんだ」
「だけど、そう思えないんで......先生はもうお帰りにならないんじゃないか......どうしたって心がそっちへ傾いてしまうんですよ。郁江がああやっている限り、先生はお帰りにならない......
郁江が必死で頑張って堪えているとは思えないんですよ、師匠。郁江は〝真の救世主〟が到着するのを一日千秋の思いで待っているとは思えない。だってそうでしょうが。郁江は自分こそ〝真の救世主〟だと思いこんでいますよ、あれは絶対に......
郁江は先生のお帰りをひたすら待つような殊勝な気持はこれっぱかしもありやしません。先生から使命を受け継いだ、魂の受け継ぎにより〝真の救世主〟として目覚めた......郁江は口じゃそうはいわないにしても、はっきり態度に示しているじゃないですか......」
「お前はそういうことを気にして、いじいじしていたのか?」
田崎は憐れむような口調でいった。
「いじいじなんかしていませんがね。心配はしていますよ。郁江に大きな力があることは俺も認めます。郁江が努力していることも認めるのにやぶさかじゃありませんよ。指導力だってたいしたものだと感心せざるを得ないですよ。公平に見ようとすれば、だれだってそういうほかはないでしょうよ」
「じゃ、いったい何を気にしているんだ?」
「郁江のやろうとしていることが、先生のと方向が違うような気がしてならないんですよ。だって、そうじゃないですか、師匠。マスコミは解禁するわ、新入会員は無制限に入れてしまうわ、やることなすこと派手はでしいといったらないもの。もう東丈先生の精神はどっか物置へ片付けられて埃をかぶってるみたいだ。それなのに、なぜみんな大喜びでお祭り気分になっちまうのか、わけがわかりませんよ」
「派手なのは嫌いか?」
「嫌いとはいってないでしょ。あたしゃね、お祭りだって好きですよ。それどころか人一倍浮かれちゃう方です。ぱあーっと浮き立ってくる空気が嫌いだなんて陰気くさいことは口が裂けたっていいやしません。だけど年がら年中、毎日がお祭りというわけにはいかないんだ」
「郁江のやり方は、先生のとは方向が違うというんだな? 郁江にはもうついて行けないと? いつからそんな気持になった?」
田崎は居ずまいを正すようにして尋ねた。康夫は眉をしかめて、交差点に詰まった車群を苛々と睨んでいた。
「あたしはね、師匠、郁江が何もかも先生のおやりになっていたようにやるべきだなんて思っちゃおりませんよ。念の為に申し上げておきますが......しかし、どう考えても、遣り過ぎだって気がしてならないんですよ。マスコミ解禁にしても新入会解禁にしても......だって先生がそうなさっていたことにはちゃんと裏付けがあるわけでしょ? 沢山解決しなきゃならない問題があるからこそ、先生はマスコミをシャットアウトし、新入会を制限しておられたはずですよ。
郁江がその問題を全て解決したとは思えないもの。先生がお出かけになってからまだわずか二週間しか経っていないじゃないですか? その間に、諸問題のはらむ難点をことごとく解消したとはどうしても思えないのですがね、あたしには......
結局、地道じゃないですよ。郁江の遣り方はその正反対だ。地に足がついていない。やることは恐ろしく派手で、華麗なるもんです。しかし、このまま〝ええじゃないか〟といって踊りながらどこへ行くかとなると、先生の目差した方向とは全く違う......」
「郁江と口論でもしたのか?」
「口論なんかしません。郁江にかかったら、だれだってかないっこないですからね。俺はそれほど馬鹿じゃないですよ。しかし、いいんですかねえ? 郁江はやりたい放題にやるが、だれもブレーキはかけない。先生のお姉様だってそうでしょう? だれもが郁江のやりたいようにやらせようと暗黙のうちに一致しているみたいだもの。郁江の遣り方に反対でも、これじゃ黙っているほかないですよ。沈黙するかあるいは会を離れるか、どっちかだ......」
「まさか、辞めるなんていいだす気じゃないだろうな?」
「そうはいってません。だって俺は前世から師匠と一蓮托生だもの。ただ深く懸念し、憂慮しているだけですよ。どうも正面立って郁江に対し、反対意見をいいにくい風通しの悪い雰囲気が徴してきましたからね」
「郁江は、反論を許さないか? そんなことはないだろう......」
「反論を許さない、鬱陶しい雰囲気が立ちこめてきてます。それは間違いない。大所高所からものを見ているとなれば、郁江は大天使か何かのようじゃないですか? 地上をうろうろしてる俗人が反論するなんておこがましい......そんなものものしい雰囲気ですよ。わけのわからない凡人が何をいうかと頭からきめつけられそうな感じだ」
「それは康夫、お前の思いすごしだろう。お前はそんなにコンプレックスの強い人間じゃないはずだ。本当の不満はもっと別のところにあるんじゃないのか?」
田崎は大目玉を光らせ、落着いた声音でいった。
「心配なんですよ。ただそれだけです。今度郁江はスポンサーをつける方針に切り変えたでしょう?」
「スポンサーといういい方は語弊があるな。後援者といった方がいいだろう......高野老人が郁江をバックアップすることが気に食わんのか?」
「だって過激すぎます。師匠はそう思いませんか? それじゃ他の宗教団体と同じになっちまう。高野老人に何百万も何千万も後援してもらえば、そりゃ大船に乗ったも同然かもしれませんがね。しかし、それじゃ先生の自主独立路線とは百八十度も方向が違う。大逆転だ。とうてい進歩とは思えませんよ。それどころか退歩だとあたしは思う。並みの宗教団体と変らなくなっちまう。それに会費だって一挙に大幅値上げでしょう? こりゃ大転換です。世間並みになっただけだと郁江はいうかもしれないが、俺にいわせれば、先生の大方針にもとるとしか考えられない......」
「それがお前の不満か?」
「まあ、スポンサーでも後援者でもいいですがね。大金をかき集めて何をやろうというのか、その辺の展望がね......手造りでコツコツ努力を積み上げた先生の遣り方の全面否定でしょう?」
「一概にそうはいえないと思うがね。先生には最初から平山さんという後援者がついていた。何もゼロから出発したわけじゃない。そうだろう? 今までわずかな会費だけでやってこられたのは、平山さんに部屋を無料で貸してもらい、オンブしてやってきたからだ。平山さんの奉仕を受け入れるからには、他の人たちの奉仕をあくまでも拒絶するというのは筋が立たない。少額すぎる会費を改訂して正当な金額にするのも、筋が通っている。これまでがみんな会に甘え過ぎていたんだ。平山さんにオンブでダッコという現状を郁江が改めようとするのは妥当性があるんじゃないか?
何も目の玉の跳び出るような高い会費をふんだくろうというわけじゃないんだ。これまで、会費が安すぎるという声が内部から出なかったことこそ、俺にいわせれば問題だよ。会で活動するということが、いかにも大層な勤労奉仕でもあるかのような感じがなきにしもあらずだ......本当はその逆に、どれだけ授業料を払っても追っつかないほどのものを教わっているんじゃないか。本当に何千万円授業料を払ってもおかしくない。地球上どこでも教えてくれないことを教えてくれるんだからな。
それなのに身銭を切って奉仕しているんだという恩着せがましい気分があったとしたら大問題だよ。これほどの本末転倒はまたとない、俺はそう思うね」
「だけどねえ......やっぱり安易じゃないですか、大金持がばらまく銭をホイホイと気軽に受け取るのは......俺はやっぱ、まずいと思うなあ。先生は、安易になるのを怖れて、寄附金をきっぱりと拒んでおられたんでしょう? やっぱ、他人に金をもらうのを当り前だという感じになるのは危いんじゃないんですかねえ」
「大金持は簡単に金をばらまいたりはしないよ」
「そりゃそうですがね......」
河合康夫はあくまでも抵抗の色を保持し続けようとしていた。
「しかし、寄附をもらい慣れるようになったら、よその宗教団体と同じになっちゃうじゃないですか。平気で他人の金を湯水のように使い散らすようになったら人間おしまいですよ。郁江は大金持の娘だから、金銭感覚が普通の人間と違うんじゃないかな。山林王か何かの凄い素封家なんでしょ、実家が。
郁江はやっぱ、小遣い銭もろくに持たなかった東丈先生とは金銭感覚がどうしても違いますよ。第一、金の有難味なんかわからないでしょうからね」
「しかし、そういうお前だって金の有難味がわかっているかどうか、疑問だけどな」
「そりゃそう。だけどね、俺がいってるのは金のことでけじめをつけないと、危いってことですよ。人間はやっぱ、何といっても金で堕落しますからね。先生はそのことをよく知ってらしたと俺は思います。先生は会の金を絶対に私用にまぎらわしいことじゃ使われなかったでしょ。事務局員が店屋物を取って食っている時、先生は腹が減ってないとおっしゃって、箸をつけたためしがないというじゃないですか......」
康夫は感情が激してきたようである。
「そこまで要求するのは苛酷かもしれませんがね、やっぱ先生の清廉潔白さを見ならうべきですよ。金は怖いですよ。特に金が潤沢にジャブジャブしてるとなると、人間は感覚的に麻痺してきますからね。ありあまる金を使うことが当り前になってくる。使わないと悪いという気にさえなっちまうかもしれない。バスに乗ってテクテク歩いてたのが、高級車を乗りまわして何の抵抗感もなくなる。そうなると道傍を歩いてる奴が馬鹿に見えてきたりするんですよ」
「実感をこめたいい方じゃないか」
「あのね、もっと真面目に考えて下さいよ」
康夫は堪りかねたように、大声を出した。
「あたしはね、本気で心配してるんですよ。何も先生の時代と全部同じにすべきだなんていってやしません。そりゃ郁江が自分の考えでやるのもいいですよ。だけどさ、郁江は大金持の娘でポッと育ってるから、金の怖さなんて知らんでしょう。ね、スポンサーっていうのは頭で考えるよりずっと重みのあるものなんですよ。いつの間にか負い目を心の中に作っちまっている。金銭の威力は、人間の心を縛り上げることですよ。金なんか、といって見栄を切れるのは、金の威力を知らないからなんだ。実際的にいえば、金は人間の愛よりも信義よりも強い。金の威力を知らずに大言壮語する奴ほど、簡単に金の奴隷にされ、いいなりになっちまうんだ。
金は怖いですよ。俺の悪党の親父のやり方を見ててつくづくそれがわかった。ある場合には人間の良心だって金の威力の前にはかなわない。突張ってみても、いつの間にか大スポンサーの前では愛想笑いし、へつらい始める。それが人間の弱さです。俺は、先生がそこまで気付いてらしたから、金には用心を怠らなかったんだと思いますがね」
康夫はむきになっていった。田崎のお株を奪って、顔が赤くなっていた。
「お布施が坊主を堕落させるというお前の意見はもちろんわかる。俺だって、無原則的に寄附を受けるというなら、もちろん反対だ。しかし、お釈迦様だってイエス・キリストだって援助者はもっていたことは事実だ。さもなければ教えを広めるという行為は不可能になってしまうからな。〝宇宙の法〟を伝える使命を持った人に対しては、援助の役割を持った人間がバックアップに廻るということじゃないかという気がするんだ。つまり、ちゃんとした計画性があるということだ。高次元から地上に出る前に、そうした使命の割りふりはきちんと定められる。たとえば、東丈先生に対しては平山氏が援助者になるという約束が成されていたというわけだな......郁江に対しては高野老人という援助者が決まっていた。そういう風には考えられないか?」
「それは理屈ですよ。理屈では何とでもいえる。金をもらうことにどんな大義名分だってつけられる。暴力団の資金稼ぎとは違いますからね。早い話、暴力団から寄進されたって立派に正当化することはできるでしょうよ。やっぱ、問題は原則ですよ。寄附をどういう場合に受け容れ、どんな時に拒むのかということですよ。だってそうでしょうが?
今は郁江の一存で決まっちゃうわけでしょ。いってみりゃ〝神懸り〟の判断の基準しかないということですよ。郁江が全くの勘で決めるわけですからね。まったくのところ、郁江が一言、善だといえばなんでも善になる。悪といえば悪で、全員右にならえになる。こんなのを称して全体主義とかファッショというんじゃないですかね。反対意見を持ったりしたら、根っからの悪人みたいに見られる」
康夫の口調は更に苦っぽくなった。
「俺だってわざわざ悪役に廻りたくないですよ。卑怯だっていう気はしますがね」
「お前が本当に気にしているのは、ちょっと違うだろう」
田崎はあくまでも平静さを崩さなかった。いつもとは立場が逆転している。かっと熱くなるのは田崎であって、康夫ではない。今の康夫には剽軽なところがまるでなかった。
「康夫、お前は高野老人のことを気にしているんだ。郁江じゃない。後援を申し出ているのが高野老人でなければ、そんなに苛立ったりはしないはずだよ。自分をごまかしてみても始まらんぞ。後援者が高野老人でなければ、お前は決していきり立たなかった。そうだろう?」
「まるで我が心のようにずばりとおっしゃいますねえ」
康夫は笑おうとしたが、笑いにならなかった。
23
「師匠が遠感能力者だとはご存知なかったね」
「それくらいわからんでどうする。しかし、今更過去世のことに拘泥してもしかたがないじゃないか。今生は今生、過去世は過去世と割り切って俺たちは今やっているはずだぞ。これしきで感情的になるな。そんな小さな度量では、何も大きなことはできないじゃないか。人生は遺恨試合と違うんだぞ」
「師匠もやっぱり気付いてたんですか?」
康夫は目を伏せ、息をのむようにしていった。
「ああ。すぐにわかった。不思議なものだな。これまでは過去世の同志だったが、今度は宿敵が現われた。何ともいいようのない気分になったよ。どうしても色めきたって身構えるものが心の裡にある。これがカルマなんだ......そう思った。だから、康夫が不機嫌になって八つ当りを始めた時、己が事のようにわかった......しかし、高野老人に直接逢う前に、井上と松岡の例の箱根特急の車中の一件を聞いた時に、何やらぴんと来るものがあったよ。不思議なものだ......松岡たちも高野老人の第一印象がひどく悪かったらしい。わけもなく気持が荒れてきたのだな」
「やっぱ、俺の場合も過去世の仇敵だからというんですか?」
康夫は複雑な面持で呟いた。
「お前がへそを曲げる理由は、他にはないさ。郁江が高野老人にあまり深入りしてもらいたくないという感情を、もっともらしい理由にこじつけて、自己正当化しようというんだ。まるで鏡に写してみたようなものだ。だからお前を見ていると、こちらは逆に冷静になってきた。こいつはカルマなんだとよくわかってきたんだな。しかしな、康夫、俺たちは得がたい経験を持ったわけだぞ。過去世の仇敵同士が今生で顔を合わせると、どんな気分になるか、今まではっきりと突きとめた人間はあまりおらんのじゃないか」
「でもね、師匠。高野老人が過去世において俺たちのどんな宿敵だったにしてもですよ、俺のいってることは大筋として間違っていないという確信があるんですがね。それとこれとは別なんだ。郁江は金集めのとてつもない才能がありそうな気がする。高野老人が皮切りになって、どえらいことをおっ始めるかもしれませんよ。高野老人もそうですが、過去、日本や世界を動かしてきた連中と、郁江は過去世でも深いコネがあるんじゃないですかね。郁江は、黒幕として大変な大物じゃないかっていう気がするんですよ。だからこそ心配なんです。
師匠がいつもいうように、郁江には凄い才能がある。だからこそ、金でつまずいたりするのは見たくないんです。やっぱり金っていうのは最大の陥し穴ですよ。下手すれば、袋叩きにされますからね。郁江に自ら金集めさせることだけは止めさせなくちゃいけない。俺はそう思う。絶対に危いです」
「お前が心配しているのは、高野老人と結びついて郁江がでかいことを始めるということだろう。自分が置いてけぼりにされるという焦りだ......どうしても東丈先生の地道な遣り方と郁江の派手さを比較してしまうからだ。もう自分にはついて行けない、自分の手の届かない所へ行ってしまう。そんな焦りと危惧があって、郁江の行動を制約したくなる。そうじゃないのか?」
「師匠はたいした心理学者だ」
「自分の心を分析してみただけさ。郁江の思い切った遣り方を見ていれば、だれだってそんな気分になるだろう。もう自分には手の届かない世界へ往ってしまう。そんな心細い気分になっちまうんだな。
しかし、郁江は器量の大きい人間だ。女だということやきれいな可愛い顔とはあまりにもそぐわないが、恐ろしいほどの大物であることは間違いない。だから、俺たちの器量では郁江を推し測れないんだ。郁江のやろうとすることを制約しようとするのはよくない。郁江は、先生が信じて後をまかせていった人間なんだ。俺たちがやるべきことは、妙な制約を加えることじゃなくて、郁江を全面的にバックアップしてやることだ。そうじゃないか......」
「師匠はいつもそうだ。だいたい郁江に甘すぎるんじゃないですか? 郁江は確かに大物かもしれないが、やっぱり先生とは違いますよ。〝真の救世主〟とは魂の格、霊格が違うでしょうが......」
康夫は執拗であった。田崎の顔がようやく赤くなってきた。
「いい加減にしろ。駄々をこねたところで何になるんだ。お前がどんなにこだわってみたって、郁江はお前の思い通りに動くわけじゃない。お前のいい草を、先生がお帰りになって聞かれたら恥ずかしいと思わないのか?」
「先生がお帰りになるんだったら、どんなに恥をさらしたって平気ですよ。そうじゃないから腹が立つんだ」
「そんな度量の狭いことをいっていると、過去世でも敗け、今生でも敗けるぞ。豆州は俺たちのことなど気にもとめていないんだからな」
康夫の目が光り、形相が変った。全身の毛を逆立てたという形相になった。
「やっぱ、豆州ですか......」
「多分な。しかし、康夫。高野老人が松平伊豆守の過去世を持っていたとしても、今生の俺たちにとっての仇敵じゃない。そのことを忘れるなよ。過去世で行きがかりがあったとしても、もうそれは天上界で清算済みだってことだ。今更、いうまでもないことだと思うが......高野老人は今生では助力者としての務めを持って現われたんだ。今は敵じゃない。敵視する感情が出てきたら、それはカルマだ。訂正すべきカルマなんだぞ」
「理屈ではその通りですがね。相手が伊豆守とわかったら平静ではいられませんよ」
康夫の声音は乱れていた。額から汗が筋を引いている。それは肉体的なショックだったようである。
「あの年寄の顔を見たら、何ともいえない気分になっちまってね。感情がいきなり荒れてきてどうにもなりやしない。家へ帰って酒を食らいましたよ。豆州か......そんな気がしてたんだ!
中学時代、やっぱ同じような気分にさせる先公がいましてね。面を見るだけでムラムラと不穏な気分になるんですよ。相手もやっぱそうらしくて、目の仇にされましたね。刃物でよっぽどグサリと行こうかと思ったくらいですよ。今度も同じなんだ。中学時代の先公も豆州の一味だったんじゃねえのかな! ひでえ野郎で、どうでも俺を不良に仕立てなければ気がおさまらないって感じでしたよ。まあ俺も不良だったけどね。その先公がいなきゃ、もう少しはましな人間になったでしょうね。今思えば、俺をやたら目の仇にした理由がわかりますよ。奴は幕吏で俺は逆賊だからね。全く宿縁て奴だ。いまだに恨みが残ってて、今顔を合わせれば、何をするかわかりませんよ」
「お前は過去世のこととなると、人が変ったようになるな。殺伐な面構えになってくるぞ」
田崎は形相の変った康夫をなだめにかかっていた。好人物の康夫が逆トゲを全身に立てたヤマアラシのようになっているのだ。
「ねえ、師匠。過去世のことは気にするなと師匠はいうけど、そうは行きませんよ。人間の心ってそんなに簡単なもんですかね。全ては清算ずみだっていうが、はいそうですかという気分にはなれやしない。仇敵同士がいくら生れ変ったからといって、全てを水に流し、ニコニコ手を取り合うなんて、そんなことありえますかね?」
康夫は車をマンションの駐車場に停めてから、沈んだ口ぶりでいった。
「面見ただけで気分が悪くなる。大通りの向うにいても許せないって人間がやっぱ、いるじゃないですか。そうなると理屈じゃないですよ。生理的嫌悪だ。不俱戴天っていう奴はやっぱりいますよ、世の中には。俺は厭なんだ。どうしても許せないっていう人間と表面的にニコニコお友達になるってのは......もう理屈はいいません。どうしても厭な奴とつきあうのは、俺はご免なんだ」
「俺だって、できればそうしたい。その気持はお前と少しも変らん」
田崎は黒く太い眉を沈鬱にしかめていった。
「だが、そういう過去の陰惨な行きがかりは捨てなきゃならんということも同時にわかっている。俺は先生の弟子だから、先生の教えに殉ずる。なあ康夫。先生は高野老人とお会いになったらどんな態度をお取りになると思うか? 過去はどうあれ、高野老人は今生では助力者だ。昨日の敵は今日の友というわけだよ。先生はどうされると思う?」
「そんな仮定の問題にはお答えできませんよ。現実に先生は今おられないんだから!」
康夫は頑くなに言い張った。
「だが俺たちは、先生がどうされるかということをいつも念頭に置いていなきゃならん。なぜなら俺たちは先生の弟子だからだよ」
「わからない! わかりませんねえ! 今はそんなこと考えたくもありませんよ! とにかく俺は高野のさまじいなんかとつきあうのはご免なんだ! 他の連中はそうしたきゃ好きにするがいい。だが俺は厭ですよ! 郁江がさまじいと仲よくするのは勝手だ! しかし、じいさんが塾にでかい面で出入りするというんなら、俺は出て行きますよ! なにせ不俱戴天の仇敵だからね! 俺はいくらでも拘泥りますよ!」
康夫の荒れぶりは手がつけられなくなった。が、いつもなら短気に怒鳴りまくる田崎が癇癪を起こす気ぶりもなかった。
「どなりつけてもいいですよ、師匠。なんならぶっとばして下さいな。だけど、俺の気持は変りませんからね」
「郁江は伊豆守とのつきあいはないはずだな」
田崎はぽつりといった。康夫は予想がはずれて驚いたように田崎の顔を見た。田崎の逞しい顔は思い屈していた。
「そりゃないでしょうよ。江戸時代に郁江は出ていないもの。天上界にいて指導霊ぐらいはやってたかもしれませんが......」
「郁江は正雪先生に逢っていないし、先生のことは知らないわけだ」
田崎は重い息をついた。
「そりゃそうです」
康夫は、田崎の屈托ぶりに驚いたようである。激情が鎮まり、怯えたような表情になった。
「どうしたんです、師匠? そんなに考えこんじゃって......俺がじいさんのことをこだわるといっても、他人には気付かれないようにやりますよ。師匠にだけは俺の本当の気持を話しておきたかったんで......」
「お前が高野老人にこだわるというのは、じいさんが松平伊豆守信綱だってことだけじゃない。そうだろう?」
「他に何か理由でもありますか? 別に違う過去世で親の仇だったとかいう心当りはありませんがね」
「いや、あるさ。俺たちは理由を知ってるが、それをお互いに口に出さなかっただけだ。本当は伊豆守なんかどうでもいいんだ。ただ、豆州の過去世を持つ高野老人が、俺たちを不安にさせるから、つきあいたくない。それが俺たちの本音なんだ」
「あたしには何のことだか、さっぱり......」
「いや、この辺で自分に対して正直になってもいいだろう。俺たちは過去世について思い出したくない記憶を持っているんだ。それが郁江たちとは違う。本当は過去世に触れたくないんだよ。だから努めて思いだすまいとしている......その記憶を呼びさます高野老人のような存在はありがたくないし、忌避してしまいたい。
問題は豆州が俺たちの仇敵だったということじゃないんだ、康夫。豆州は俺たちが思い出すことを避けようとしていることを知っているかもしれない。それをお前は恐れているんだ。自分に対して正直になれば、それが真実だということがわかるはずだぞ」
「厭ですね、居直ったりして......まああたしが依怙地だったことはあやまりますよ。師匠が相手だから、心に引っかかってることをいったまでで......」
康夫は怯んでいた。田崎の言葉の重みに圧倒されてしまったのだ。
「もうよしましょうよ。こんな所で二人で議論していたってしょうがないんだから......高野のじいさんのことは、撤回しますよ。もう駄々はこねません」
「まあ待て。この際だから、はっきりさせておきたいことがある......」
「その話は後にしましょう。人を訪問してその玄関口で議論してるってのも妙なもんですからさ。交通渋滞でだいぶ遅刻しちまったことだし......」
「俺たちは、転生輪廻の証人なぞといわれながら、過去世については曖昧なことしかいっていない」
と、田崎は構わずに、いった。
「特に正雪先生については、具体的なことを全くいわない。東丈先生の過去世だということを認めながら、人に尋かれても曖昧に口を濁している。記憶が定かでないという振りをしてとぼけているんだ」
「ま、確かにそういう傾向はあるとしても、いう必要のないことだってあるわけですし......興味本位に、好奇心剝き出しという手合にはあまり喋りたくないですよ」
「違う、そうじゃない。俺たちはまだ真面目に話し合ったことがないが、暗黙のうちに口に出すことを避けていることがあるんだ。そうだろう?」
「だから、今は時間がないことだし、その話は次にしましょうよ」
「いや、今がその機会だ。是非、はっきりさせておきたい。さもなければ、将来これは癌になるぞ。口に出すことを避けて、押し隠そうとすればするほど、俺たちは自信を失くしてくる。心をむしばむ癌にとり憑かれてしまうんだ。やることなすこと自信を喪失して、郁江たちの活動について行けず、脱落することにもなりかねない。今さっきお前が、勝手な理由を考え出して、高野老人から逃げ出そうとしたようにな......さももっともらしい理屈をつけるが、本音はじいさんを避ける、ただそれだけなんだ。自分がどんなに巧妙な自己正当化を施したか、お前にはわかっているのか、康夫? だれでもコロリと瞞されるかもしれん。しかし、それは逃避の口実なんだ。お前自身も気付いていなかったかもしれないが......」
「............」
康夫の顔色は青ざめ、言葉も出てこなかった。それほど田崎の語気は重く沈痛であった。
24
「しかし、俺たちは認めるべきだ。自分に対して正直であらねばならん。事実に正面から立ち向うべきだ。正雪先生は、幻魔と誼みを通じられ、幻魔の〝力〟を借りておられた......それは事実だ。否定できん......
正雪先生はそれによって大きな〝力〟を発揮されたが、我々の真の盟主たる正雪先生にとっては大きな不幸だった......」
「............」
康夫は息を吞んでいた。顔面蒼白になっていた。体が抑えようもなく慄えている。
「もちろん、それは我々弟子の責任だった。正雪先生を突き上げ、倒幕に向わせようと無理強いした。正雪先生は全国数十万牢人の苦しみを見るに堪えず、幻魔と結び、魔道の力をもって倒幕を達成しようとされた」
「............」
「正雪先生は魔道に堕ちることさえかえりみられなかった。大いなる愛のためだ、他に理由はない。しかし、幻魔に心身をゆずり渡した先生は、当然の如く変貌された。魔道正雪とひそかに噂されるほど巨大な力を発揮されるようになられた......
もちろんお前も憶えているはずだ。もはや先生はそれまでの先生ではなくなった。我々弟子たちがひたすら敬愛し、尊崇した正雪先生ではなくなった。あまりにも巨大すぎる力を振るい、弟子たちを畏怖させしょうふくさせる恐ろしい先生となられた。我々はもはや恐怖のため先生に従うようになってしまった。幻魔の力を持った先生は、人間以上の存在になられたからだ......豆州たちは、魔道正雪と先生を呼んだ。先生の力は、徳川幕府を優に転覆させるに足りるほど巨大化していった。だが、もし倒幕が成ったとしても、それはかつての我々が敬愛した先生の理想とされ、めざされた世界とは何の関りもなくなっていた。
幻魔は先生を操り、地上の支配者となし、地球を魔境となすことが真の目的で、先生に大きな力を貸し与えたからだ......」
大きな音をたてて、田崎は深呼吸し、瞑目した。感情を鎮めるべく懸命の努力を払っているのだった。
「もし、この事実が明白になれば、我々の運動は大きな打撃を受けるかもしれん。我々の盟主の東丈先生が過去世で幻魔と手を結び、魔道に堕ちたという事実が明らかになれば......」
「だ、だって師匠、正雪先生も最後には幻魔を落したじゃないですか!? 正雪先生は幻魔を自ら去らしめたんですよ。お亡くなりになる時、先生は元の先生に戻っておられた。来世で再会しようと先生はおっしゃった......だからこそ我々は腹を召される先生のお伴をしたんじゃないですか。先生は幻魔正雪として死んだんじゃないですよ! 我々の素晴らしい盟主、正雪先生として亡くなられたんです。あたしは駿府で先生のお伴をしたからよく知っているんです!」
「しかし、一度は魔道正雪と呼ばれた事実は残る。魔道を操り地獄に堕ちたということは大きいぞ。お前も、幻魔に憑依された久保陽子が皆にどんな目で見られているか知っているだろう。一度幻魔に支配されたら、その事実はいつまでも残る。いつまた幻魔の手に落ちるかわからないという不信と猜疑の目がいつまでもつきまとうんだ。
一度起きたことが二度起きないという保証はないと人間は考える。久保陽子がどんなに更生の努力を示しても、〝前科〟があるという人の目は変らない。まして先生が過去で魔道を操り堕地獄の業を成したという事実が現われれば、どれほどの反響を呼ぶか......先生が説かれる〝宇宙の法〟も説得力を失うかもしれない。
だからこそ我々は、過去世に触れることを避けたんだ。いつ魔道正雪の話が出るかわからない。それだけは避けなければならないと思ったからだ。しかし、豆州の高野老人がそれを明るみに出してしまうかもしれん。高野老人が過去世の記憶を甦らせているかどうかはわからんが、いつ思い出したとしても不思議はないだろう......」
「豆州の奴、思い出しますかね......」
「我々がそうしているんだから、伊豆守も同じことをやるだろう。問題は豆州がどの程度正雪先生のことを知っていたかだ。俺は豆州が知っていたと思う。豆州は正雪先生のことを、恐らく何でも知っていた。先生の振るわれる魔道の力を怖れて、豆州は決して正面から攻めてこなかったからな。伊豆守が先生を追捕する胆を決めたのは、先生が幻魔と手を切られてからだ......我々にもはや力がなくなったことを知って、伊豆守は初めて幕吏を動かしてきた。伊豆守は大きな〝力〟の持主に護られていた。伊豆守暗殺の試みがすべて挫折したのはそのためだ。その〝力〟の持主が、先生のことを伊豆守に教えていた......伊豆守は時機の到来を待っていさえすればよかったんだ。先生が幻魔を去らしめた時が、伊豆守にとってのチャンスだった......」
田崎はしきりに首を振り動かした。
「我々には義がなかったんだよ、康夫。先生が魔道に手を染めた瞬間から、義は失われた。魔道正雪と化した先生にとって、牢人救済は名目のみと化し、倒幕だけを自己目的化して楽しまれるようになった。魔道正雪にとり、全てはゲームだった。己れの〝力〟を駆使することが享楽になった。
魔道正雪にとって倒幕はゲームだった。遊びでしかなかったのだ。その偉大な〝力〟に逆比例して〝志〟は矮小化した。万人の幸せを追求された先生の志、理想は、魔道をもって支配しようとする権力欲にすりかえられてしまったのだ。我々は魔道正雪の巨大な力に酔い痴れ、批判力を喪失した。幕府転覆しか我々の眼中にはなかったからだ。〝力〟に依る者は〝力〟に依って倒れる。イエス・キリストの言葉は真実だった。幻魔の〝力〟によって人々を幸せにすることなど決して出来ないのだ。〝力〟は闘争のためのもの、破壊のためのものだからだ」
「しかし......今後どうなります、師匠? 魔道正雪のことが明るみに出るようなことがあれば、致命的なことになりますか?」
康夫はすがるようにいった。田崎は重い動作で頭を横に振った。
「わからん。魔道正雪のようなことがなぜ起きたのか、俺にはわからんのだ。先生にとってみれば、何か大きな理由、必然的な理由があったのかもしれん。そうとしか考えようがない......先生ほどの偉大な人物でも魔道に堕すことがあるという事例なのかもしれんし、あるいはもっと大きな高次元の計画に組み込まれていることなのかもしれん。
俺としては、これが天界の意志の一環だと思いたい。人間はたとえ幻魔の手に落ち、支配されたとしても、強い意志と神への信仰があれば、支配下を脱して自由を回復することができる、そうした証明なのだと信じたい。たとえ偉大な天使といえども、地上に肉体をもてば、ただの人間だ。心迷い、魔手にかかることもありうる。それでも天使は神への信によって己れを解き放つことを成しうる......俺はそう思うのだ。どんな窮地に追いこまれても、たとえ地獄に堕ちても、常に救済は己れの魂の裡に蔵されている。それこそが神の大いなる慈愛だ......そうじゃないだろうか。
先生はその証明者たろうとなさったのだ。もちろん、それだけではなく、先生は幻魔について深く知ることを必要とされていた。そのために魔道へ身を落すことさえ躊躇されなかった......
あまりにも正当化がすぎる、と人に批判されるかもしれん。だが、他に考えようはないんだ。一度地獄に堕ちた人間は信用できないと人はいうかもしれないが、幻魔は先生に振り落され、先生を失った。その事実は歴然としている。
あるいは、幻魔の力がいかに強く、圧倒的に見えようとも、決して怖れたり絶望したりする必要はないという啓示ではないだろうか? 先生が幻魔をすら最終的に救済するという計画のために、一時的に身を落すことがどうしても必要だったんじゃないだろうか......」
田崎の言葉は、最初己れ自身に切々といい聞かせるように重く、途中からしだいに熱を帯び力が渾もってきた。己れの語る言葉に真実のみの持つ迫力を感じ取ったのかもしれない。大目玉は炯々と輝き、全身に力感が溢れてきた。自信を回復したのである。
「そうだよ、康夫! 魔道に堕ちるということは人間の永遠の魂にとり、それほど重要じゃない。全ての経験を積み、魂を大きく豊かにこやすことが人生の目的ならばだ......大切なのは、人間がそこから立ち直る力を魂の裡に与えられているということだ。
〝大魔王即大如来〟という言葉があるじゃないか。これは高野老人がいった言葉らしいが......如来となるためには、魂は魔王の経験を積まねばならない。それでこそ魂は宇宙大に広がり、全てを包みこむことをなしうる。その境地を差して〝宇宙即我〟と釈迦はいったというじゃないか!」
「そうですね。そこまでいうとちょっと大袈裟という感がなきにしもあらずですがね」
康夫は拗ねたようにいったが、顔色は目立ってよくなり、声音にも力が戻ってきていた。田崎の説得が効を奏したようである。
「高野のじいさんがいったとなると、あんまり面白くない冗談だ」
「高野老人がいおうというまいと真理は真理だよ。俺は魔道正雪には天界の意志という必然性があったと信じる。よく先生がおっしゃったように、他人事ということは存在しないのだ。自分だけは渦中に巻きこまれずにすむ、自分は大丈夫という思い込みはなんの根拠もないし、誤りだ。
偉大な天使ですら魔道に堕ちることがあるというのは、大きな教訓じゃないか、そうだろう? 自分だけは大丈夫という迷信に陥って、幻魔に支配された人々を差別し、見下げるというのはとんでもない大間違いなんだ。偉大な天使ですらそうなるということは、だれ一人安全でいられるという保証がないということだ。
とうてい他人を蔑んだり見下げたりしていられるはずがない。自分だっていつそうなるかわからない。人間は幻魔の前に、皆平等というわけだよ。
しかし、救いは常にあるし、恐れることはない。幻魔は永久に人を制圧し、支配することはできないからだ。魔道正雪はその真理を証かすものかもしれん。おそらくそうだと俺は思う。今までは考えることさえ怖ろしかったが、やはり人間は困難と真正面から対決しなきゃいかんな。必死になった時に、真理は自ら衣を脱いで現われてくる......」
「凄いですね、師匠。なんか悟りの境地に達してしまったみたいですよ。今日は俺がいくらゴネてみせても全然怒らなかったもの」
「いや、康夫のおかげだよ、それに気が付くことができたのは......俺もこれまでは考えることを避けていた。考えてしまうことが怖ろしかったんだ。もし魔道正雪のことが明るみに出たらどうしようとそればかり気になっていた。他人に尋かれても、なんといって答え、説明していいのかわからなかった。それが心の中に根っこを生やした大きな岩のようにこだわりを造っていたんだな。ただひたすら、人に知られてはならないと思っていた。人に知られたら破滅だ、何もかもおしまいだと思った」
「やっぱり師匠もですか? そうじゃないかなと思ってたけど、こればかりは軽々しく口に出せませんからね。だから、高野のじいさんが伊豆守じゃないかと感じた時、全身の血が逆流しましたよ。一瞬にして世界中が青く凍って氷河期が来たみたいな気分になっちまった。今にして思えば、これも執着でしょうが、不安で恐ろしくて苛々して、酒でも吞まずにはいられないって気になりましたよ。吞んでも無駄だってわかっていたから、結局一滴も飲みませんでしたがね......」
康夫は長い溜息をつき、頭をヘッドレストにあずけた。烈しい緊張が徐々に体から脱け出して行く。
「一時はどうなるかと思ったんですけど、師匠、魔道正雪のことだって何も明るみに出るとは限らないですよね。何しろ昔のことだし、何の証拠もないんですから。正雪先生のことは歴史的にもみ消されちまって、慶安の変だって何が本当に起こったのか、わからなくなってますよね?」
「もみ消しは伊豆守がやったんだろう。紀州家が倒幕に一役買ったなど、とうてい表沙汰にはできないからな。しかし伊豆守は、魔道正雪のことをはっきり知っていたはずだ。伊豆守に力を貸した者がそれを教えたんだ。
もし伊豆守が魔道正雪を力攻めにしたら、伊豆守の命はなかったし、歴史は変っていたろうな」
「えらいことになったでしょうよ。魔道正雪が本気で倒幕にかかったら成功させちまったろうし......伊豆守に力を貸した者って結局だれだったんですかね? おそろしく強い法力の持主だったんでしょう?」
「わからんな。徹頭徹尾、姿を隠し通していたからな。あの時代は暗闘の時代だったんだ。伊豆守を助けた者が、幻魔の正体や目的を完全に知り尽していたことは確かだ。考えてみればこんなに不思議なことはない。なぜあの時代に、幻魔について知り尽している人間が存在したんだろう......俺はもしかすると、先生がやったんじゃないかという気持になることがある」
「先生って......!?」
康夫があんぐり口をあけ、田崎を見返した。
「東丈先生......? 正雪先生じゃなくて?」
「もちろん東丈先生だ。先生の力は時間と空間を超える偉大な力だ。過去に及んで江戸時代に達し、魔道正雪から日本を守ったのかもしれない。そんな気がするんだよ」
「そりゃ、とんでもない話だ。全くとてつもないですよ。東丈先生は過去へ跳んで時代を逆行し、過去世の自分自身と闘ったというんですか!? こんな頭のおかしくなる話は聞いたことがない! いや、凄いことを考えるもんだ。たまげましたよ。全く......」
「あの時代に幻魔に関する正確な知識を持ち、大きな力を発揮して、魔道正雪の巨大な魔力を封じるという大仕事が、だれに出来たと思う? 俺にはやはり東丈先生の力以外には考えられない。魔道正雪はエネルギーを暗闘に消耗した挙句、幕府を覆し、日本を乗取る大業に失敗したんだ。さもなければ、魔道正雪は造作なく伊豆守を片付け、幕閣にロボットを幾人も造り出したはずだ。巨大な法力を駆使する難敵の存在が、魔道正雪の前に立ち塞がり、遂に挫折させ、正雪先生が幻魔を振い落すきっかけを造ったんだ」
「伊豆守に力を貸したのは、女じゃないかという話もありますよ。魔道正雪には大敵がいたらしいでしょ。その大敵は女だったようだし、伊豆守に助力したというのはいかにもありそうなことでしょうが。
もしかしたら、伊豆守を助けた女というのは、郁江じゃなかったんですかね? ま、郁江の過去世というか......だったら郁江と高野のじいさんが出合い頭に意気投合するのも不思議じゃない。郁江ぐらいの力があれば、それくらいやりかねないですよ」
「いや。俺はどうも違うという気がする。郁江の力はやはり方向が違う。魔道正雪と対等に渡り合うには大きな法力が必要だし、やはり東丈先生の力以外には考えられない。郁江はいわゆる念力タイプの霊格者じゃない。人の心に働きかける波動の使い手だよ。大きな魅力でもって人の心をからめ取る、いわばソフトタッチの霊力なんだ。幻魔正雪を封じこめるには東丈先生の力でなければ無理だ。
つよい魔を降し、魔力を封じるのは摩利支天の降魔の力であって、如来や菩薩の教化の力とは違うものだ......」
「なるほどね。それは頷けますね......」
康夫は実際に幾度も首を頷かせながらいった。
「郁姫の霊力は、いわゆる力業という感じじゃないですからね。なんかこう、非常に女の子らしいロマンティックなところ、綺麗なイメージがありますからね。男勝りの腕力でぐいぐい押しまくる、山をひっくり返してみせるというダイナミックなパワーじゃない。
やっぱ、郁姫のは人に好かれ、魅力を及ぼすことによって、人心を掌握して行くスタイルなんでしょうね。トップ屋風間をからめとった手際なんかがまさにそうだ。確かに力で押しまくるというのは郁姫のイメージにはかなわないですね。
しかし、じゃ、相手の正体は結局だれだったんです? 東丈先生の〝力〟を持った女がいたことになるけど......」
「我々の知らない存在がいたということだ。摩利支天の〝力〟を備えた存在が......」
「そんな強力パワーを持った存在がいるんならですよ、なぜ今出てきて、我々に助力してくれないんですかね? 今こそ幻魔を抑える〝力〟が欲しい時ですよ。矢頭なんて物凄い人間離れした幻魔憑きが野放しになっている有様だし。魔道正雪の力を封じた法力が今すぐ必要ですよ」
「いずれ、この先出現することになっているのかもしれん」
田崎の言葉には溢れるほどの期待が渾められていた。
「まだ同志たちは集結を遂げていない。今顔を揃えているのは、同志たちのごく一部に過ぎないんだ。いずれ沢山の仲間が、運命の糸に曳かれて集まってくる。〝光のネットワーク〟に参加してくるんだ。今はまだそれを待たなきゃならない」
「だけど手遅れになりませんかね」
「そうならないように祈るだけだ。〝摩利支天〟はまだ幼いのかもしれない。小学生か中学生の年齢なのかもしれない。あるいはまだ生れていないのかもしれないんだ」
「そんなの、間に合わないですよ!」
康夫が大声を出す。
「早く出現してくれなきゃ、手遅れになっちまいますよ! だって、土屋先生の〝サタンの再臨〟によれば、大魔王はもう復活の時を迎えてるっていうんでしょ!? 〝摩利支天〟が小学生だの赤ん坊だの、それどころかまだ生れていないなんていったら、いったいどうなるんですか!
絶対に今すぐ出てきてもらわなくちゃ困ります。向うがまだ気付かないんなら、呼び出しをかけても目覚めてもらわなくちゃならない!」
「もちろん、その仕事を我々がやるわけだ。先生の〝幻魔の標的〟や郁江の今度書く本も、同志たちを覚醒させ、結集させるための狼火なんだ。〝天上界計画〟に基いて、同志たちが続々と集まってくるわけだ」
「へえ、八犬伝みたいですな」
「そうだな。八犬伝というのは、もしかするとある種の預言書かもしれないぞ。目に見えない糸に曳かれて、同じ目的を持った同志が集まってくる。覚醒した時、初めて先天的に持っている使命に気付くわけだ。我々同志たちの一人一人が目には見えないが、宝珠を所持している。珠というのはつまり魂だ。魂には義とか信、智などという字が刻まれているわけさ。南総里見家再興というのは、地上天国再興ということだ。犬士たちが生れる以前から使命を帯びているように、我々も使命を与えられている。同志たちと巡り逢って行き、大集結を遂げた時に事は成就するんだ」
「凄いですね。その発想は! 今まで八犬伝を預言書だと看破したのはおそらく師匠が初めてですよ! さっそく土屋先生に教えてやらなきゃ! きっとそれをネタに幻魔大戦の物語を書くんじゃないですか」
エキサイトして康夫は車のハンドルを平手で叩いた。
「郁姫にも教えてやろう! きっと喜びますよ! こういう話が大好きなんだから! さしずめ郁姫が、伏姫の役どころですかね! いやそれとも伏姫は先生のお姉さまかな? すると犬の八房はだれにあたるんですかね? 役どころを割りふると面白いですよ」
陰惨な気分はとうにどこかへ去って、康夫は浮かれ始めた。高野老人への敵意が何に起因するか明白になった時、康夫の心の鬱屈は去ってしまったのである。
「しかし八犬士というのはちょっと人数が少なすぎますよね。みんなはみ出て、役どころの奪い合いになる」
「八犬伝の原作はどうやら、水滸伝らしい。滝沢馬琴は水滸伝を日本風にアレンジした......そんなことを本で読んだ憶えがある。水滸伝なら英雄豪傑が百八人も登場するから、キャラクターの割り振りもだいぶ楽になるぞ」
車のガラスを叩かれるまで、二人は馬鹿ばなしに熱中していた。気分が沈降しきった後の浮上に気を取られ、我を忘れてしまっていたのである。
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胸板の分厚いガッチリした体格の男が笑いながら、フロントグラス越しに車の内部を覗きこんでいた。
田崎宏に体格の酷似した男は、茶色の地味なカーディガンを羽織っていた。ヤクザの大幹部には見えなかった。あわてて車を降りる二人を、山本は満面に笑みを湛えて迎えた。田崎の差し出した逞しい手をがっちりと握りしめ、歓迎の意を表する。
「申しわけない。時間に遅れた上、門前で議論などしていて」
と、田崎は真面目な貌でいった。康夫がふきだしそうになるのを堪える。
「いや、反米デモでだいぶ交通渋滞がひどかったようですから」
山本は如才がないというより朴訥な調子で答えた。
「よく来て下さった......恐縮です。私の方からどこへでも出向きましたものを」
山本は以前より、かなり瘦せて肉を落していたが、顔色はよくなり、目の光もずっと尋常になっていた。皮膚を油ぎらせて、どろりとよどんだ陰惨なものが薄らいでいることは一目でわかった。
要するに、常人に戻っているのである。波動がだいぶよくなった、と田崎は思った。笑顔もとってつけたような人工的な印象ではない。眼尻の笑いじわがいい感じであった。
山本は康夫にも歓迎の辞を述べ、手を握った。痛いほどの握力であった。
「調子がいいようですな」
と、田崎がいった。
「近くに空手道場を見つけまして、通い始めています。減量とトレーニングでようやく体が動くようになりましたよ。毎日十キロ走っています。汗をかくたびに、汚いヤクザの垢が剝げ落ちて行くようで、シャワーを浴びるのが楽しみです」
山本は声までが爽やかになっていた。
「タバコと酒を控えてから、声が変ってきたといわれます。なにせ中学生時代からこのかた初めてです......中学時代の、なんというか意識、ですか、中学生の意識に時折戻ってしまうんですね。朝目を覚ますと、学校へ行かなくちゃとまず思います。あ、そうか、もう学校へは行かなくてもいいんだ、そう思うと実に奇妙な気分になります」
山本は逞しい歯を見せて、照れたように笑い声を立てた。
「これが生れ変った気分というんですかね。かなりこっ恥しいですが、まんざら悪いものじゃありません」
「引越ししたと聞きましたが、独り暮しですか?」
田崎はマンションの建物を見上げながら尋ねた。建物はかなり古びていて、生活臭が滲んでいるようであった。洗濯物が窓にひるがえっている。
「いや。実は家内と子供のいるアパートへ転がりこんだわけです。前にいた場所は手ばなしました。やはりヤクザの垢ですから」
山本は照れていた。
「ほう。ご家族がいたとは知りませんでした」
「さんざっぱら、蔑しろにした家内ですが......私が人生をやり直すと聞いたら、戻ってきてというので。まだ落着きませんが、人並みの家庭とはこういうものか、とひどく新鮮な気分がします」
「ご家族の下へ帰ったとは知らなかった。ご迷惑ならば、外で話してもいいのだが」
「そんなご遠慮は無用ですよ。家内は田崎さんにお目にかかるのを大変楽しみにしておりましてね......私の恩人だということを話してありますので」
山本は手を振っていった。
「さ、どうぞ。むさ苦しいところですが、お気兼ねなさらず」
「では、遠慮なく」
と、康夫が引き取っていった。
「行きましょう、師匠。物見高いおかみさん連中の噂のタネになっちまいますよ。今にも空手で立ち合うんじゃないかってね」
「よせよ。くだらんことをいうな」
「いや、いつかもう一度立ち合って下さい」
と、山本が真面目にいった。
「もちろん、勝負は見えていますが、前のようにぶざまな敗け方はしないつもりです」
「最近は道場にはさっぱりご無沙汰でしてね。今度遅れを取るのは俺かもしれない」
「松岡たちと庭で稽古をやってるじゃないですか、真夜中に。最近は空手じゃなくて、槍ですか? いよいよ宝蔵院流が出てきたわけですな」
と、康夫が暴露する。
「ほう、田崎さんは槍術をおやりになるのですか?」
山本は興味津々だった。案内する足が停まってしまう。
「私も実は槍術に興味がありましてね。若い頃は是非やってみたいと思ったものです。古武道が好きでして、空手を始めたのも、古武道の小具足の術を多少かじってからなんです。槍の方はいい先生が見つからず、空手にしましたが」
「いよいよ過去世の因縁浅からず、じゃないですか」
と、康夫。山本は何かいいたそうにしたが、結局いわなかった。
「結局、空手も続かず、ヤクザになってしまいました」
山本は呟いた。胸中にひしめきあっている想いで喉が詰まってしまったかのようであった。
「ヤクザに教えるわけにはいかないと空手の先生に破門を受けましてね......」
部屋に着くまでに行き逢った住人のおかみさんたちと山本は尋常に挨拶を交わした。おかみさんらは、山本がヤクザであることを知らないようであった。山本は住人に対して、至極人あたりがいいらしい。
玄関のドアを開けた山本の妻はきりっとした美人であり、田崎と康夫は驚き、感じ入った表情になった。とうていヤクザの女房には見えない女性である。しっかり者らしく動作はきびきびしており、小気味がよかった。
「これが家内で......こっちが娘の光子です」
山本は照れながら紹介した。娘は小学四年だそうで、ほっそりした少女であった。物怖じせずに、客の二人に挨拶する。
「奥さん似ですな」
と、康夫は褒める言葉のつもりかそんなことをいった。如才ない康夫は子供を扱うのが上手であり、さっそく少女に話しかけ、手馴付け始めた。小学四年の光子は少しも人見知りをせず、はきはきと受け答えている。髪を頭の両側に束ね、前髪を額に垂らしているのが可愛らしく似合っていた。山本のようなごつい男が父親とは思えない。田崎宏はそんな感想を抱いた。性的な成熟にはほど遠いが、そのしなやかさ、繊細さには女児特有の嬌かしさがみなぎっていた。
大きなしっかりした眼を持った山本の妻は田崎たちに好意的であった。尊敬の眼差で見ている。
部屋は女世帯であることが歴然としており、山本が入りこんだのがごく最近であることは明らかであった。灰皿はおもちゃのような焼物で出来ている。二本ほど吸殻が入れば、一杯になってしまいそうだ。
「主人が大変お世話になりまして......」
と、山本の妻は改まって挨拶をした。その隣りにいた少女も緊張した面持で可愛い膝を揃えていた。突然の両親の和解という運命の急変に戸惑っているのであろう。父親の山本を見る目にはまだ他人行儀なところがあるようであった。見知らぬ第三者であり、怖いという意識が田崎の目には読み取れた。いきなり父親が戻ってきても、それは母親との間にいきなり割りこんできた闖入者にすぎないのかもしれなかった。血肉を分けた肉親の情はまだ少女の心に湧出していない。
長い間、父親に見捨てられ、父なし子同然に母親と寄り添って生きてきた拘泥がとけずにいるのだ。母親は山本に惚れているのだろうが、娘はそれがためにかえって心を開けずに自閉的になっている、と田崎は考えた。いや、考えるまでもなくおのずとわかってしまうのである。それが田崎の霊覚者としての鋭さなのかもしれなかった。
「まったく田崎さんのおかげで、私も人並みの生活が出来るようになりました」
と、山本がいった。
「人並みの幸せというものがどういうものか、これまでわからなかったヤクザ者ですから。まるで病み上りという気分です。ああ健康とはいいもんだなあ、と骨身にしみてわかったという感じですよ。一時はまったく腑抜け同然でしたが、少しずつ気力も回復してきました......心身ともに徹底的にクリーニングをすませたという気持がします。時々、自分の身に起きたことが信じられなくなりますが。今は正道に立ち戻ったという満足感が何物にも替えられません。田崎さんにはいくら感謝しても感謝しすぎるということはないです」
「そのお礼は筋違いですよ。この俺自身、東丈先生に救われていろいろ教えて頂いたから、こうしていられるわけでね。山本さんが先生にお逢いしたのは、過去というか前世からの約束事だったんですよ」
「やはり、そういうものですか。自分ではどうにもならない運命の力というものがありますからね......郁姫先生にお目にかかった時に、最初にその力を感じましたよ。自分の意志では動かせない、運命の力を......やっぱりそれは前世からの因縁というか、約束事だったわけですか」
山本は熱心にいった。山本の妻は光子に手伝わせて茶菓の接待に動き廻っていた。
「私はやはり、東丈先生と前世の因縁が強いわけでしょうか? 美晴がそんなことをいっていました。私もまた昔から先生の弟子だったのだそうで......だから、この世でもおのずから引き寄せられて、先生の弟子として仕えるようになるんだ、と美晴はいっていました。やはり本当にそうなのでしょうか?」
「美晴がそんなことをいいましたか? 確かにそういう魂と魂の約束というのはあります。気がつかなければそれまでですが、やはり運命的な力として感じるということになるんでしょうな」
「私も、これは駄目だ、逆らえんと思いました。東丈先生に組の事務所でお目にかかった時、勝てない相手だという畏れの気持が湧いたんですよ。ジタバタしても無駄だ、そんな気になりました。その時から、自分がこうなることを見通していたような気がします。
絶対に勝てない相手だとわかってしまったわけです。人間が運命に逆らってもかなうわけがない......ですから、いくら強がってみても無駄でした。心の奥底では降伏して白旗を掲げてしまっているわけです。
しかし、強がってあがくのをやめると、なんともいえず、心が安らぎ、落着いた気持になれましてね。美晴や、若い衆が塾で教わったことをいろいろ話してくれるのを聞きまして、自分の裡にある神、良心に逆らったりしたから、こんな手ひどい反作用を受けることになったんだとよくわかりました。私がこれまでやってきたのは、鉄の壁を素手で叩くようなものだったんだと美晴が教えてくれました。力をこめて叩くほど、強い反作用が返ってきて、己が身を痛めてしまう。実に愚かな真似をしていたわけです。
降参だ、自分の裡なる良心、神の心には所詮勝てないんだ、と悟ったとたんに気持がすうっと安らぎました。生れて初めて重い肩の荷を降ろして、仰向けにぶっ倒れて休んでいる......初めて空が青いのに気付いたり、きれいな緑の草木が目の中に入ってくる、小鳥の声がさえずっているのが聞こえる、そんななんともいえない安らぎ、ほっと溜息をついて、思いきり背伸びをし、手足を伸ばす......これまで自分が求めていたのは、こんな安らかな心地だったんだ、とはっきりわかったんです。鬼のように目を血走らせ、炎の息をついてガツガツ貪りながら、共食いをして生きてきたようなこれまでの人生が、地獄そのものだったとつくづくわかりました。本当に私は地獄にいたんですね。義の奴が私にもよくわかるように話してくれました」
山本は迸るように話し、飽むことを知らなかった。
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「若い者が塾に通い始めてから、本当に別人のようになりました。特に義などは、後光が射しています。前に知っていたチンピラとは全くの別人です。神々しいといってもいいほどです」
山本は膝を崩さず正座したままだった。武道家の格調ある姿勢であり、定評のある田崎の座り方に通じるものがあった。彼がヤクザの波動と無縁になったのは、こうした武道家の折り目正しさを甦らせたためであろう。
しかし、同席している河合康夫には堪えがたい苦行のようであった。早くも脚に痺れが来たのか、尻をもじもじさせ、体重のかかる部分をあちこちに移動させている。話もろくに耳に入らなくなってしまったらしい。
「若い者とはいえ立派です。もうヤクザなどさせておくのはもったいないというか、そんなことは天に対して不敬です。いや、田崎さん、私は義たちを見ていると、尊敬心すら感じてしまうんです。本当に頭が下ります。今まで彼らを人間扱いせず、犬のように追い使ってきたことが、今更のように罪深く思えてなりません。
チンピラという事実に全く少しもこだわらず、塾へ引き取って下さった田崎さんや郁姫先生には、いくら感謝しても不足です。考えてみると、夢でも見ているような不思議な気持になりますよ......こんな素晴らしいことが本当に自分の身に起こったんだろうか? そう思って頰っぺたを捻ってみることが何回もあります。
まるで傍から見たら気違いですよ。頰っぺたをいやというほどひねりあげて痛いのにニヤニヤ笑っているんですからね。奇蹟だ、奇蹟が起きたんだ、と夜中でも布団を跳ねとばして起き上ってしまいます。
しかし、田崎さん。やはり気になって堪らないのですが、我々ヤクザやチンピラが、大きな顔で塾生と名乗って、世間様の糾弾を浴びずにすむものでしょうか? 東丈先生や郁姫先生が攻撃を受けられて、大変なことになるのではないでしょうか?」
「いや、そんなことを気にする必要はないでしょう」
田崎は笑っていた。
「俺も名うての乱暴者で何度、警察のご厄介になったか知れません。それでも東丈先生はこんな俺を信じて、塾をあずけて下さったんです。世間態を気にするお上品な所なら、俺やこの河合康夫などとうていいられやしません。だから、そんなことは気にしないで下さい」
「義がいいことをいいました。自分は悪だったし、それを世間に対して隠すつもりはない。自分がどんなにひどい罪人だったか自ら告白したい。そしてどんなに自分が後悔して罪を償いたいと願っているかを世の人々に知ってもらいたい。自分には努力しかないということを、一生を通じて示して行きたい......義のやつはそんなことをいいました。それは他の若い者も同じ考えのようです。
ですが、もしかして塾や東丈先生たちのご迷惑になってはいけないと思いまして、そのことを田崎さんにお伺いしたかったわけです。一度ヤクザの垢がつきますと、いつまでも世間様の目はつきまといますし、この彫物といっしょで、若気の至りだったといって身の皮を一枚古シャツのように脱ぎ捨てるわけには行きませんのでね......」
山本はうつ向き、己れのカーディガンの袖を見詰めた。さぞかし目を奪うような彫物が隠されているに違いなかった。娘の光子が眸を大きく瞠り、身を固くして座っていた。父親の体を彩る彫物のことを知っているようであった。恐ろしいものを見る眼で、父親を見ていた。
「まったくもって若気の至りです。若いうちはともかく、歳を取ってくると身の皮を剝ぎ取りたいと真剣に思います。子供といっしょに風呂へ入ることすらはばかられます。このような私がいかに心を改めたからといって、塾へ入れて頂けるとは思えません。後悔したからといって、罪が消えるわけではなし、頭をまるめて仏門に入る方がまだしもという気がします......」
「坊主になるのもいいですが、それより塾で活動した方が甲斐があるのではないですか? 道をいろいろと誤まった人間が、引き返して来るのに手を貸してあげられると思うのですが。
俺がもし稀代の乱暴者として警察のご厄介になる鼻つまみではなかったら、今頃は塾を開いて非行少年たちといっしょにやろうなどと思わなかったでしょう。お上品に取り澄まして、そうした若い連中を見下げていたでしょうからな。我々にはお上品な連中には手が出せないこと、やりにくいことができるはずだと思うんです。山本さんはきっと俺が見込んだ通りの人材として活動してくれますよ。それが俺にはわかっているんです」
田崎の言葉には確信の重みがあった。この若者独得の重厚さであった。遥か年長の山本よりも厚みや幅を感じさせるのだ。それは肉体的年齢を越えた、魂の器の寛さ大きさをうかがわせるものであった。
山本はうなだれ、鼻を詰まらせていた。落涙に堪えていたのであろう。息詰る緊張感が肉厚の体を支配していた。
「田崎さんにそうおっしゃっていただくと、何よりも力になります。こんなことが本当にあっていいのか......私は義と違って罪の重い人間ですから」
康夫のいじかりが激しくなってきた。正座の苦痛に辛抱が切れたせいもあるし、こうした場面をひどく苦手としているからでもあった。顔をしかめて体を前傾させ、足首にかかる体重の圧力を少しでも緩和しようと、右手の拳を床につく。武道をやっている田崎と山本が平然としているのと対比的であった。
山本の娘の光子が、康夫の窮状に気付き、口を半開きにして見詰めていた。不審と気懸りの表情が、少女らしい肉の薄い華車な貌に浮んでいる。
「組長が、実は今度の一件で、ひどく感じるところがあったようでして......」
と、山本が話を続ける。鼻詰まりはどうやら解消したようであった。
「若い者たちの更生にも理解を示してくれました。今度のことで、おやじもだいぶ気が弱くなったらしくて、先代の菩提を弔いたいなどと殊勝なことをいうようになっています。おかげで私自身も含めて、組から足抜きするのにだいぶやり易くなりました。
もっとも、強く反対する連中もいるわけですが、矢頭の問題がらみで、組が弱体化することを恐れている......それが本音といったところです」
矢頭の一言で、さっと緊張感が生じた。冷風が吹いたように、雰囲気が一瞬にして硬くなってしまう。
矢頭という一語には、さながら魔術的な効果があるようであった。凶々しい呪詛を聞いたように胸の裡が冷えてしまう。
「おやじは体調が悪いせいもありまして、前々から引退ということを考えていたようです。あとめの問題もありますんで、そう簡単には片付かないかも知れませんが、本人は罪業深重というのか、罪の重さがようやく怖くなったらしいのです。まあ、その点は私と同じです。郁姫先生の話などをして聞かせますと、郁姫先生のご講話を是非拝聴したいと本気でいっていました......
ありていにいえば、矢頭のような鬼畜の徒を手許に飼っていたことが、本気で恐ろしくなったようです。ヤクザの組長などといっても、本音はこうしたもので、風の音にも驚くというやつです。心には安らぎなど少しもないんですよ。
後継が決まったりすると、若い者の足抜きがまた面倒なことになるので、おやじの言質をもらい、一気にやってのけようと思っています。ま、集団脱出ということになって、ひょっとすると十人かそれ以上の人数が、塾の方にお世話になるのではないかと思うんですが......よろしいでしょうか? どうも大変厚かましくて気が引けることばかりです」
ハンカチをカーディガンのポケットから取りだし、山本は顔を拭いた。ゆっくりといつまでも大版のハンカチで顔をこすりまわしている。
「ご心配には及びません。何十人来ようと受入れるつもりです。山本さんは足抜きした後どうなさるんですか? 人生設計は出来ているんですか?」
「今はただ、人生の清算をしよう、そう思っているだけです。いずれはどうにかしなければなりませんが......」
「すみません」
と、康夫は堪りかねていった。額が脂汗にまみれていた。
「ちょっと失礼します。足に電気がかかってきまして......」
「足が痺れたのか?」
田崎は不思議そうに上体を前後によろめかしている康夫を見た。わずかばかりの間に痺れを切らす人間がいるのが信じられぬという表情であった。
「ちょっと......席をはずさせて下さい。すみません」
康夫は細心の注意を払って、痺れた足にかかる負担を軽減すべく努めながら、そろそろと立ち上った。これほど滑稽な眺めもないが、今は気にする余裕さえ失せていた。
「大丈夫ですか!?」
キッチンで接待に忙しく立ち働いていた山本の妻が声をかけた。
「はい、ちょっと......その辺を歩いて来ます。すぐに治ると思います」
康夫は鼻の頭までびっしりと汗をかいていた。
「光子、お兄さんについていてあげて」
と、母親が命じた。康夫によほど危っかしいものを覚えたのであろう。壁に摑まり立ちしている幼児のような心許なさだ。はい、と素直に答えて光子が立ってきた。身軽にふわりと浮き上るような動作であった。
膝までのロングソックスを穿いた細っこい足をスニーカーに突っ込み、玄関のスチールドアを開けて、手で抑えて康夫を待つ。
康夫は顔をしかめてようやく靴を穿いた。これほどひどく痺れが切れたのは生れて初めてだった。両足がまるで自分の足のようではない。無数の針が膝から下の脛に詰めこまれ、体重がかかるたびに、いっせいに突き刺って灼熱した痛みを脳髄に立ち登らせた。
「すぐに戻ります」
「いっていらっしゃい」
と、母親がエプロンの端で手を拭きながら送りに出て、康夫に苦笑いさせた。しかし、その苦笑もすぐに化石してしまう。一歩一歩が地獄の業苦であった。
「手を引いてあげる。摑まって」
と、少女が手を差し出した。細い手が意外な強靭さで康夫の伸ばした手を支えた。
「階段、危いから気をつけて」
「ありがとう、光子ちゃん」
と、康夫は息を弾ませながらいった。意識的に、痺れの切れた足を更に誇張してみせる。その方が少女の気に入るだろうと思ったからであった。
少女はくすりと笑った。康夫のぶざまさに対して優越感と同情を等量に覚えているのであろう。
「お兄ちゃん、正座が苦手なんだよ。膝を折って座ったことがないもんだからさ......だって正座してると足が曲っちゃうだろ。そうすっとバレエが出来なくなっちゃうもん」
康夫は女子供に受けのいい軽薄さで少女に話しかけた。
「え......バレエ? 噓......」
少女は疑わしげな顔をしてから、ぷっと噴き出した。康夫の生真面目な顔付がおかしかったのであろう。
「光っちゃん、バレエ興味あるかい?」
「うん......でも駄目なの。だってウチは貧乏だから」
少女は明けすけであった。康夫は女子供に警戒心を惹起させないタイプであった。
「でもバレエ好き。やりたい......今は少女マンガで読んでるだけだけど」
「お兄ちゃん、バレエ界のこと知ってんだ。有名なバレエの先生と友達だからね。若いお弟子さんたちとよく話をするよ」
康夫は高名なバレリーナの名前をあげた。まんざらいい加減な出まかせではなかった。康夫はその独得の人脈により、奇妙な交友関係を多々持っている若者だった。
「郁姫様もずっとバレエをやってたんだよ。郁姫様、知ってる?」
「うん......」
少女はこっくりと首を頷かせた。複雑なものを窺わせる眸の色になっている。十歳の少女はもはや幼児ではないのだと康夫に感じさせた。時折、驚くほど大人びた波動を漂わせる。
「生神様って本当? 凄い霊能力を持ってるんだって?」
少女は何やら屈折したものを漂わせた口調で尋ねた。
「生神様なんかじゃないよ。でも、大きな力は持ってる。きっと天使じゃないかな?」
階段を降りるのに難渋しながら、康夫はいった。結びあった少女の手が巧妙に支えてくれるが、反対側の手で建物の壁面を擦っていないと転落しそうな不安があった。
「大丈夫よ。しっかり摑まって」
少女は叱るようにきびしくいった。
「あたし、見かけより力があるんだから。お兄さんくらいおんぶできるわよ」
「光子ちゃんは強い女の子なんだな?」
「そうよ。だれだってあたしみたいに生きてくれば強くなるわよ。お母さんだってあたしに頼ってるんだから......お母さんをあたし、護ってあげてきたんだもの」
「でも、これからはお父さんがいるから安心だね」
康夫は機嫌を取る気でお愛想をいったが、的はずれのようであった。少女は答えなかった。その沈黙は壁の固さを感じさせた。
「郁姫様が天使なら、どうして翼をつけてないの?」
ややあって少女が口を開いた時は、話題が変わっていた。意識的な転換そのものであった。その態度は依怙地さを想わせるものであった。

「天使は、こういう白いきれいな翼を両肩につけているものでしょ? 郁姫様は翼がないわ」
「本当はつけているんだよ。だけど、それは肉眼じゃ見えないんだ。郁姫様は人間に生れて、肉体を持った天使だからさ」
「肉眼じゃなければ、どうやって見れるの? おかしいわよ、そんなの」
「肉眼じゃなくて、霊の目で見るんだ。それを霊視というんだけどね。光子ちゃんが夜眠っている時、夢を見るだろう? その時は肉眼は使わないで、霊としての目で見ているんだ。夢を見ている時、人間はだれでも霊視しているのさ」
「ふうん......霊視すると本当に郁姫様の天使の翼が見えるの? だったらお兄さんには見える?」
「お兄さんは肉眼でしか見えない。でも、霊視のきく人が見れば、翼が見えるんじゃないかなって......」
「なあんだ」
少女は露骨な失望の嘆声を漏らした。
「お兄さんは霊視できないのか......」
「すみません......今度から努力しますから」
「でも、お兄さんも霊能者なんでしょ?」
少女は気を取り直したようにいった。春めいた日差しが古びたマンションの建物を出た二人の上からいっせいに降り注いだ。その心地よい暖かさが少女の心を和ませたようであった。
「そんなこと、だれに聞いたの?」
「ウチに来た若い男の人がいってた。塾とか会のこと、郁姫様のことなんか......話を隣りの部屋で聞いてたの。話し声が聞こえたから......」
「変な話してると思った? 馬鹿ばかしい話だって......?」
「ううん。そうでもない。お母さんなんか気味悪いっていうけど。霊とか過去世とか、幻魔とか、そういう話お母さん嫌いみたい。恐いのね、きっと。でもあたしはちょっと興味ある」
少女は突如、康夫の手を振り放そうとし、それから逆にぎゅっと力を渾めて握り直した。少女と同じ年恰好の女の子数人が、彼女に声をかけて行き過ぎた。少女の級友ででもあるようであった。好奇的なくすくす笑いと押し殺したささやきが背後に生じた。少女は身を固くして振り向きもしなかった。
27
少女の揺れ動く心が、力が渾もり熱くなった掌から伝わってきた。それははっとするほどセンジュアルな鋭い感覚であり、康夫は思わず胸がときめいた。康夫がかつて知らない胸苦しい情感であった。どうかしてるんじゃないか、と康夫は己れを叱りつけた。
「学校の友達?」
「ええ」
少女はよそよそしく答えた。手はあいかわらずつないだまま放そうとはしない。ぎゅっと力が渾もったままだ。背中にしつこく少女たちの好奇の視線が貼りついているのが感じられた。
「平気よ、あたし。恐くなんかない。かえって凄く興味があるもの」
必要以上の力が渾もっていた。
「あたしは風変りなの。みんなと違っている。何をいわれたって平気だわ」
細っこい植物のような体に精一杯の反抗心を満たして、少女は烈しくいった。
「友達やみんなに何かいわれるの?」
「まあね......でも気にしない!」
「お兄さんと手をつないで歩いてる、こんなところを友達に見られると、また噂されるんじゃないの?」
「いわれるかもね」
「手を放そうか......?」
「いいわよ。もうしっかり見られちゃったもん。だから平気だっていってるでしょ!」
少女の語気が荒くなった。怒りっぽさがヤマアラシのトゲのように全身に芽生えたようだ。
「お兄ちゃん、もう大丈夫だ。だいぶ足の痺れも治ってきた。手を放しても一人で歩けるよ......」
「まだいいの! ほら!」
少女のはしこい手がぐっと康夫の体を押しこくり、はずみを食って康夫はよろけた。すかさず少女が引き戻す。
「ほら、ね!? まだ駄目じゃない。もう少しで転ぶとこだったよ!」
いいように少女に鼻面取られて、引き廻されているようであった。しかし、それは必ずしも不快ではなかった。一人っ子の康夫には新鮮な経験であった。しかし、十歳の少女は妹どころか、ひどくお姉さんぶって高圧的であった。
「それとも、あたしと手をつないで歩くの、恥しい?」
「いやいや、光栄の至りでございますよ。お姫様のお伴をいたしておりますようで」
「ふん」
と、少女はいった。満足したらしい。康夫の誇張した軽薄さが気に入ったようである。
「郁姫様って、本当に昔、お姫様だったのかしら?」
「ずっと昔、大昔、三万年も前にムウ大陸という所があったころね。光子ちゃんもそのころお姫様だったんじゃないかな? こう隠せない気品があるから。気位も高い......そんなこと人にいわれるんじゃないの?」
「まあね......過去世って本当にあると思う?」
「あるよ。光子ちゃんは疑ってるのかい?」
「わからない。でも、凄く不思議」
「不思議でも何でもないよ。ごく普通のこと、当り前のことさ。だって康夫お兄さんだって過去世のこと、憶えてるもの」
「本当?」
少女は立止り、康夫の顔を見上げた。眸が大きくなっており、一重瞼のくっきりした眸がびっくりするほど綺麗で、康夫は柄にもなくドギマギした。額を隠した前髪が、少女の思い詰めた光を宿した眸を際立たせている。
「過去世って、どんな風?」
「うんと小さい子供の頃のようだな。薄らいだ遠い記憶......光子ちゃんももの心ついたころの記憶はそうだろ?」
「ええ。でも、はっきり憶えているとこもある。赤ちゃん用の椅子に座っているところとか。お日様が当ってポカポカ暖いの。ちょうど今みたいな感じ。お母さんが人と話してる......」
「人って、お父さん?」
「かもね。ぱっと浮かんでくるの」
「過去世の記憶もそれと同じだよ。所々、うんとはっきりして鮮明なことがある。とても印象が強かったからだろうな。人間は生れ変るんだってこと、光子ちゃんは信じるかい?」
「よくわかんない。でも、あったら面白いかもね......でも、普通はだれも生れ変る前のこと、過去世のことなんか憶えていないんでしょう?」
「憶えていないから、忘れてしまったからといって、なかったわけじゃないんだ。現に憶えてる人、思い出す人っているもんね」
「お兄ちゃんみたいに?」
「そうだ。ずっと前に、お兄ちゃんは光子ちゃんと逢ってると思うよ。今は忘れてしまって思い出せないけどね。でも、憶えていなくても、昔からよく知ってるような気がする。光子ちゃんはそういう感じしないかな、お兄ちゃんと逢ってさ......」
「そうね。そんなこともあるかもね......あの田崎さんていうおじさん、生れ変る前に、うちのお父さんと友達だったって本当?」
その質問は、少女にかなりの努力を強いるようであった。お父さん、と言葉を発する時の少女は大きな抵抗を押し切る努力を康夫に感じさせた。康夫の手を握りしめた少女の手は熱く汗ばみ、感情の昂まりを伝えた。しかしそれでも意地になって少女は手を放そうとはしなかった。
「ああ。田崎のおじさんは過去世のことをよく憶えている人なんだ。あのおじさんはね」
康夫は嬉しげにいった。田崎は木村明雄や白水美晴の息子によっておじさん呼ばわりされるのを何よりも苦にしており、それをもっとも喜ぶのが康夫であった。同じ十八歳なのに、田崎はおじさんで康夫はお兄さんと呼ばれるのである。
「光子ちゃんのお父さんは、昔、江戸時代の田崎のおじさんのお弟子さんだったんだよ。おじさんは槍の先生だったんだ、武芸の先生。だから、田崎の師匠と光子のお父さんは何となく感じが似てるだろう? そう思わないか? 二人ともこの地上に出てくるたびに、武道を学んでいる魂じゃないかな? 生れつき武道の専門家ってわけだよね。だから、田崎のおじさんは物凄く強いよ。面白いだろう?」
「あなたも仲間なの? おじさんやお父さんたちの?」
光子は大人びた口調で尋ねた。少しずつ話のツボをはずして行くのは、意識的にやっているらしい。話をすぐにそらせてしまうのである。少女の意識には安易に狎れまいとする身構えが感じられた。素直でハキハキしているかと思うと、決してそれだけではない。
「昔からの仲間さ。同志だよ。わかる? 同じ目的を持って集まったグループの友達なんだ」
「過去世って変ね。なんでいつもそんな同じ決った人たちといっしょに出るの? あたしなら全然違った人たちと出るけどな。だってうっとうしいじゃない? 小学校一年の時から大学卒業まで、全然クラス換えがなかったら、いつもいつも同じ顔ばかりで、うんと厭になりそうな気がするけど。それといっしょで息が詰まってきて死にそうな気持になるわよ。あたしは知らない人たちといっしょがいい」
実感をこめて少女はいった。強い拒絶の意志が生々しく息づいていた。
「でも、光子ちゃんが遠い外国に一人で送られて、日本語を話す相手が一人もいない、そこで一生を肌の色も顔立ちも違う外国の人たちの中ですごすとしたら、やっぱり寂しくなるんじゃないかな?」
「そうかな? 日本語が全然喋れなかったらやっぱり寂しいかな......でもあたしは平気だと思う。好きな友達なんかそんなにいないし......友達ならどこへ行っても作れるんじゃない?」
「それは今だから、気楽にそんなことをいえるんじゃないの。実際にその場になってみないとわからないよ。それとも光子ちゃんは強い女の子だから平気かな? 友達どころか、お父さんもお母さんも一人もいなくて、外国人が聞いたこともない言葉で喋っている......そんな外国へ行っても」
「たぶんね。でもわからない。あたし友達なんかいなくたって平気......だけど、時々わからなくなることがある。あたしって本当に場所を間違えて生れてきちゃったんじゃないかなって。仲のいいお友達と別れ別れになって、とんでもない遠くの場所へ生れてきたのかも......それとも生れるはずじゃなかったのに、何かの間違いで生れたのかもしれないわね。ずっと昔からそんな気がしてたの」
「そんなことはないと思うよ」
康夫は妙に心動かされて、性急な語調で説得を試みずにはいられなかった。
「光子ちゃんはまだ本当の友達や仲間に巡り逢っていないだけかもしれないじゃないか。そうだろ? きっとこれから、いろんな友達に巡り逢って行くんだよ。だってまだ光子ちゃんはうんと若いんだからさ」
「間違えて生れたという気持はとっても強いわ。あたしってだれとも話が合わないから。あんたって変なことばかりいうのねってみんなにいわれる。光子ちゃんのいうことは少しもわからない。みんなそういうわよ。人のことを少し頭がおかしいんだと思っていて、そんな目で見るの。
あたしが考えていることをわかってくれる人ってこれまでに一人もいなかったわ。一人だけいたけど、関西の方に引越して行っちゃったし......あたしが生れたってこと自体、間違いなの。絶対にそう思う。何かとんでもない大間違いをしてしまった......足を滑らせて落っこっちゃったみたい。あたしって、神様に翼を取り上げられた天使かもしれない......本気でそう信じてた。でも、うっかり友達にいってしまったら、みんなにいいふらされて、笑いものにされちゃった。大恥をかいてしまったわけ。
そんなこと、お母さんにはあまりいわないけどね。お母さんはまともな人だから......でもあたしが間違えて生れてきたといったら、きっと泣くわね。だから、考えたことはほとんどいわない。お母さんもつらい目をしてきたんだから、あたしは親切にして護ってあげるつもりなの。だから、外で何があってもあたしはいつも平気な顔をしてるわけ。だって母子家庭ってとても陰惨になりやすいでしょう......」
「光子ちゃんは考え深くて、奥行があるんだね。だからきっと、他の子供たちには、光子ちゃんの考えることがよくわからないんだよ。物事を深く突きつめて考えているからだね。でも、きっと光子ちゃんのいうことがわかってくれる人たちは沢山いるよ。子供たちにわからないのはしょうがないさ」
「そうかしら? でも学校の先生も駄目だったわよ。協調性がないっていつもツーシンボに書かれる。ひとりよがりで気むずかしい性格だって。たぶん、そうなんだろうなって思う。一生懸命愛想よくしてるつもりなんだけど、やっぱり駄目ね。無理してるなって見破られちゃう。人には親切にして、協調性を持って生きて行きたいけど、なぜか空廻りをしてしまうわ。努力がゼロになって、あたしがキリキリ舞いしてるのを、みんなが呆れて見てることになるの。どうやっても咬み合わないのよ。最近ようやくそれがわかってきたわ。努力しても駄目、しなくても駄目。やっぱり間違えて生れてきた証拠よ。
でも変ね。どうしてあたし、こんなことを急に話してるんだろう。お兄さんとは初めて逢ったばかりなのにね。今までだれにも話したことないのよ。どうせ無駄だって諦めてきたから......」
「光子ちゃんはずいぶん辛い思いをしてきたんだね」
康夫は激しく心を打たれていった。
「心の中に苦しいことをぎゅうぎゅう押しこんでいるんじゃないの? お兄さん、見てて辛くなるよ。一生懸命努力してるのに、だれもわかってくれないって辛いよね。学校の先公ってのがまた人の上っつらばかり見るから厭になるんだよな」
康夫はつい感情移入して語気を荒くした。
「なにもわかってねえつーんだよ。全く......だけど心配ないよ、これからは。お兄さんが何でも相談に乗っちゃうからな......お父さんのことでだいぶ悩んでるんじゃないの?」
「............」
くっきりした一重の眸で、光子はしげしげと康夫を見詰めた。気合の渾もった真剣な眼差であった。
「お母さんはとっても喜んでる。だから、あたしはそれでいいの」
「いきなり割り込んできた......そう思う?」
「フクザツよ、それは。だってろくに知らない男の人だもの。小さいころからずっといっしょでないと、親子なんて気持になれないんじゃない。頭でこの人は自分のお父さんなんだと考えるのと、心ではっきり感じるのは違うもん。でもお母さんがよければ、それでいいの。あたしは別に......」
「小さいころからずっといっしょでも、親って気持になれない人間だっているよ。ウチの親がそうだけどね。ま、悪党の親父に低級なお袋......子供は苦労するよ」
「今でもそう思う?」
真剣な問いかけであった。
「ま、駄目親であっても、親は親と思っておりますがね。俺もだいぶ人間が練れてきたね」
「でも、うちのお父さんみたいにヤクザじゃないでしょ?」
「いえいえ、どういたしまして。ヤクザ以下の悪党でございましてな。首吊りの足を引っ張るのはむろん得意中の得意、言葉巧みに陥し穴へ突き落そうというひど親、地獄行き必定、絶対間違いなしという悪党なんで......こういうのがいずれ代議士になってもっと悪事を働こうってんだから、世の中はどうなっとるのか?
光子ちゃんのお父さんと俺の親父とは比べものになんないよ。親父は地獄へ落ちたって後悔なんか決してしないし、鬼を瞞しかねない悪党なんだから。元はヤクザだったとしても、改心したんだろ?」
「そうあっさり割り切れないわ。自分に関係のない第三者っていう気がする。お父さんって呼ぶのは、お母さんがそうしてもらいたがっているから......とってもぎごちないのね。よろしくお願いします、そんな感じ」
しかし、少女が言葉に現わさない強度の屈托を秘めているのは明らかであった。
「あたしはいいんだ。どうせ間違って生れてきたんだし。そう思えば、人に腹も立たないでしょ? 本当は関係ないのに、たまたまいっしょにいるんだって、そう考えればすむことだもん。あたしがひねくれたり反抗したりしないので、お母さんは安心してるしね。それでいいの。お父さんにもっと甘えなさいっていうけど、それだけは勘弁って感じ。ごく普通にやってるだけで精一杯だし、とても疲れることだもの」
「光子ちゃんは、まるで大人みたいに感じたり考えたりするんだね?」
「変に大人じみていて厭な子だって、そう思う?」
「とんでもない。その反対だよ。物凄く一生懸命努力してるんだなって、そう思う。俺みたいにヤケクソになってこん畜生、糞親父に一泡噴かせてやるって、グレたりもしないし......思い遣りがとても深いんだね。俺が大人みたいにっていったのは、そういう意味だよ。幼稚じゃないってことなんだ。大人でも人の心がわからない、思い遣りのない幼稚な奴は沢山いる。つまり、そういう意味でいったんだ......」
「無理してるわね、お兄さんも。あたし平気よ、そんなに気を遣わなくても。ひどいことをいわれても許しちゃうもの。その時は腹も立つけど、許しちゃう。だって本当は何いわれても、自分には関係ないんだもの。相手がうんと勘違いしてるのね。あたしはどうせ間違えてこの場にいる......そう思うと、カッとなった気持もおさまるの。だってそうでしょ? 自分に関係のない第三者が何をいっても平気......」
「自分に関係のない第三者......光子ちゃんはだれに対してもそう感じるの?」
「そうだな......自分にいい聞かせてるのかもね。そう思うことができれば、人に対して怒ったりがっかりしたり、ショックをあんまり受けなくてすむでしょ? あたし、人を憎らしく思ったり嫌いになったりするの厭なの。心にべったりと黒い汚いコールタールみたいな染みがついちゃうみたいだから。
だから、あまり深い関係を持ちたくないのね。ちょっとした顔見知りだったら、にこっとして会釈したり、お天気いいですね......なんていったりして、軽い感じですむでしょ? ああ感じのいい人だなって、手を振りあったりして、ふわっとしたいい気持になれる。
必要もないのにべたべたくっつくようなつきあい方をするから、人間ってお互いにうんざりしちゃうんじゃないかなって、そう思うわ。だからいつでも、関係のない第三者でお互いにいれば、軽い心でいられるでしょ? 納豆みたいにべとべと、糸を引いてる関係って大嫌いなの」
「なるほど、光子ちゃんは納豆が嫌いなんだね」
「べたべたするのって厭」
「そうか。君子は水魚の交わりってやつですな......光子ちゃんはべつに人嫌いってわけじゃないんだよね。必要もないのに、お互いに過度に干渉しあう人間関係、狎れなれしく土足でヅカヅカと人の心の中に踏みこんでくるようなつきあい方が嫌いなんだよね。本当はお互いに相手を尊重していれば、軽いふわっとしたつきあい方ができる......光子ちゃんはそう思っているんだね?」
「そうなの。お兄さんて、なぜそんなことがわかるの? やっぱり超能力者だからなの?」
少女は眸を瞠って康夫を見た。その尊敬の眼差は彼をいい気持にさせた。少女がその心を殼から抜け出させて、すっと寄りそってくる膚のぬくもりが感じられた。
「郁姫様が、今の光子ちゃんと同じようなことをいっていたよ。幼いころから、自分は間違えて生れてきたんだと確信してたって。本当の故郷、本当の両親は、どこか遠い国、もう一つの国にあって、自分はどうしてか違う場所に出てしまったんだって......
つまり、心の奥底では、自分の出てきた天上の世界のことを憶えている。素晴らしい世界があるってことがぼんやりとながらわかっているんだ......天上の世界と比べれば、この地上の世界は不完全だし、荒々しくて冷たい物質の世界だ。人の心も自分さえよければいいという気持、利己主義にこりかたまって、不人情で冷たく意地悪で、天上界の人々とは比べものになんないからね。それで自分は間違えた世界に生れてしまった、人々はみんな縁のない第三者なんだ、本当は無関係なんだ、両親だって赤の他人で、赤ん坊のころ本当の両親とすりかえられてしまったんだ。いつか本当の親が自分を迎えに来るんだ......郁姫様はずっとそう思ってたというよ。つい最近までその気持は続いてたそうだ。
実は白状すると、お兄ちゃんもそうなんだよ。実の両親はどこか遠い場所にいて、いつか逢えるんだ、そう思ってた」
「ふうん。みんなそうなのかな......」
「天上界と今を比べるからそうなるんだ。でも自分だって、天上界にいたころとは違うだろ? 天上界で幸せだったころの自分のように素晴らしい自分じゃないんだから。いつも苛々と自分勝手な想いに心を燃やしている自分なんだ。他の人たちとちっとも変らない利己主義者なんだよね」
「郁姫様に逢ってみたい。あたし、逢えるかしら?」
「もちろん逢えるさ。お兄ちゃんが連れて行って逢わせてあげる」
「いろいろ尋いてみたいことがあるの。超能力ってどんなものなのか知りたい。知りたいことがいっぱいあるの」
力いっぱい熱意をこめた口ぶりが、そこで不意に頼りなく揺れた。
「でも、超能力とか霊能って、普通の人にもあるのかしら......あたしなんかにも、あると思う?」
「あったってちっとも不思議はないさ。霊能とか超能力と呼ばれる力は、人間の魂が発揮する力で、だれでも持ってるはずなんだよ。でも、人によって力が強く出たり弱く出たりする。東丈先生や郁姫様はとっても大きな力が出ている。お兄ちゃんなんかはたいしたことないけどね......でも本当はだれでも持っている力なんだ」
「まだ今は起きていない先のこと、未来のことがわかっちゃう力、あるでしょ? 占いのように......」
「未来予知という力だね」
「あたし、時々わかることがあるの」
少女は息をひそめて大きな秘密を告げるようにいった。康夫の手を摑む指にぐっと力が渾められた。
「前からそう。こうなるよって人にいったことが必ずそうなってしまう。いいことも悪いことも......それでみんなに変な目で見られるようになってしまって、今はだれにもいわないけど。
体がとっても冷たくなるの。黒い雲にぎゅっとおさえつけられたようになって、心臓が苦しくなってくるわ。恐い気持になって、何かが起こるって強い気持がしてくる。そうすると必ず悪いことが起こるのよ。人が死んだり不幸になったり......それが半年も前からわかってしまうの。そんなのってとっても変でしょう?」
「少しも変じゃない。未来の出来事を知る、そんな超能力なんだ。魂はこの時間や空間に縛られない自由な存在だから、未来や過去へ出かけて出来事を見てくることができるんだよ。光子ちゃんはやっぱり小さいころから超能力者だったんだね。
お兄ちゃんのいる塾には、光子ちゃんと同じ年ごろの男の子がいて、明雄というんだけど、やっぱ超能力者なんだよ。遠感といって心と心で話す超能力なんだ。遠く離れた場所の出来事を、その場にいるように見ることもできる......」
「千里眼みたい......」
「そうだ。もう一人ちっちゃい子だけど、やっぱし超能力を持った男の子がいる。光子ちゃんも塾に来て、その子たちと逢ってみないか? きっといい友達になれると思うよ。明雄は心が優しくて暖くて天使みたいな子だよ。きっとお互いにわかりあえるんじゃないかな? 超能力者同士としてね」
「そうね。素敵かもね......」
しかし、言葉ほど光子の語調には熱意がこもっていなかった。
「最近は、いいことを少しも当てられないの。わかるのは悪い出来事が起こるってことばかり。体が冷たく凍ってしまう......前はその人をじいって見ているとわかったんだけど、今は違う。未来に何が起こるか知りたくない。だからなるべく人をじいっと見たりしないようにしてる。それでもいきなりわかってしまうことがある......自分の好きな人のことはわかりたくないわ。とても辛いから......関西へ引越したお友達のこと、話したでしょう? そのお友達とも、もう二度と生きては逢えないんだってわかってしまった。そんなの辛すぎていや。
無関係な第三者なら、何が起きたって、あまり心が痛まなくてすむでしょ? ああ、そうか......それですむもの。自分にそんな力がなければいいのにって思う。恐ろしい夢のようなことばかりが未来に起こるって自分だけわかっている......そんなのって我慢できないわ。じっと我慢するしかないけど。
あたしって馬鹿みたい。絶対に人にいわないつもりのことをみんな話してしまうなんて......」
少女は己が愚かさに呆れ果てているようにいった。ショックを受けたようであった。
「お兄さんは何も驚かないし、恐がったりもしないよ。心の準備が出来ているんだ。未来には大変なことが起きるって東丈先生に教えられてるからね。だから、どんなことが起きても、みんなで手を結び合って頑張って行こう......塾はそのために造られたんだよ」
「塾って、勉強を教えてくれるところかと思った」
少女はまたしても話をそらした。するっと体をかわし、逃げてしまう。それは眩惑感を康夫にもたらした。しっかりと摑まえてしまいたいという欲望がきざしてくる。それはまるで少女が誘いとも見せずに誘っているようだった。少女が身をかわして逃げるのは、追いかけさせ摑まえさせるためだ......そんな気さえした。少女はしっかりと捉えられることを本当は求めているのかもしれない。
「勉強だって教えるさ。明雄って子は毎日来て勉強してる」
「お兄さん、勉強教えるの?」
「俺は駄目。勉強の方はからきし駄目さ。でも落語なら教えてあげる。光子ちゃんも塾に来ないか?」
「そうね。今にその気になったらね。でも、あたしは気が変りやすくて、人と約束できないの。今はその気でも、すぐにころっと気が変ってしまうから......」
少女を襲った異変は、手をつないでいる康夫には明白だった。少女は声をのみ、体を固くした。足が不意に停まってしまう。その手がにわかに冷たくなった。血のぬくもりと柔らかさを失い、人形の手のように硬く冷えて行くのだ。
「光子ちゃん......」
「黙って」
康夫は息をのんだ。少女の顔はみる間に面変りし、能面のように硬く化石してしまった。さながら、トランス状態を思わせる急激な変化であった。郁江が人々の見ている前で、高次元霊に支配され、容貌の急変を示すことがあるが、それよりもはるかに無気味で唐突な化石ぶりであった。
体は瑞々しい柔軟さを残さず失い、冷たく硬直した。しかし、心臓の激しい動悸ははっきりと康夫の知覚に届いた。絶望的なほど狂おしく烈しく鼓動は高鳴っていた。
少女の心が異常な心霊的干渉を受け、幻視に埋没していることを彼は悟った。〝悪いこと〟の幻視がいきなり少女を捉えたのだ。
しかし、少女を急襲した変貌は長続きしなかった。ほどなく少女の貌の硬直がとけ、膚が総毛立った。どっと汗が噴き出してきて、康夫の手を湿らせた。急激な解凍が行われ、少女の全体細胞を凍結から解放するのを目のあたりにするようであった。
「どうしたの?」
と、康夫は慎重に言葉を送り出した。激しく動揺している少女をできるかぎり刺激したくなかった。
「悪魔って本当にいるんでしょう?」
少女は掠れた声でいった。その声音は、白水美晴のしゃがれた悪声を思わせ、康夫をなぜか慄然とさせた。
「幻魔っていうの? お父さんに逢いに来た若い人がいってたわ」
少女はすぐに元通りの声になった。
「幻魔は実在するよ。郁姫様なんか、しょっ中逢ってる」
「今、幻魔が見えたの。恐ろしかった......でも、幻魔は人間なの? 人間に化けているの?」
康夫も体が冷えてきた。小春日和の日差しのぬくもりが消えてしまった。
「幻魔は人間に化ける......でも、とり憑くこともある。キツネ憑きみたいに。キツネ憑きって知ってる?」
「ええ、物凄い人間になったわ、幻魔がとり憑いたのね。はっきり見えてしまった......」
「だれが......」
「知らない。でも、きれいな男の人。とっても二枚目の若い人。きれいな顔があっという間に物凄い顔に変ってしまうの。やっぱり幻魔なのね。恐い手下が沢山いるわ。本当に鬼って感じ。口がガバッと裂けていて、目がニシキヘビみたいなの。とっても気味が悪い目。わかる、お兄さん?」
「わかる......で、その〝悪いこと〟はお兄さんの身に起こるのかな?」
康夫は剽軽な語調を保持するのに全力を挙げなければならなかった。気味悪い慄えが続いており、ねっとりと汗が滲み出てくる。
「ううん。お兄さんじゃないと思う。心配......?」
「正直いうと、ちょっと恐かった。ぞっとした」
「あたしに関係あるのかもしれない」
少女は沈んだ調子でいった。
「自分のことだなってわかるの。でも、あたしだけのことじゃなくて、もっと大きなこと。お母さんやみんなを含めて、というのかしら......ねえ、お兄さん。この東京がいきなり失くなっちゃうっていったら信じられる?」
唐突な質問であり、心臓を刺し貫くほどの威力があった。
「東京が平べったくなっちゃってね。あたり一面焼野原。ずうっと地平線の向うまで焼野原が続いているのね。ところどころにビルのコンクリートの残骸かなにかがあって、それがなおさら気味悪いの。季節は真冬で、氷と雪で焼野原が真白になってる。もちろん人っ子一人いないわ。生き物なんか全然見えない......心の底まで冷たくなったわ。いきなりその光景が目の前いっぱいに広がって、もうどうしていいかわからないの。夢だ、今自分は夢を見ているんだって自分にいい聞かせたわ。悲しくて寂しくて恐ろしい夢......でも、目がちゃんと覚めていて、立っているのに夢なんか見るのかしら。
ああ、人間はみんな死んじゃったんだなって物凄く辛かった。核戦争でみんな地上から消えてしまったんだって......」
「恐ろしかったろうね、たった一人きりで」
康夫は胸が迫り、言葉に何かがからみつくようで、声が出てこなかった。
「こんなこと、だれにもいえないしね。お母さんにいったら、うんと怖がるに決っているもの。だからあたし、黙ってたの。何も知らない方が幸せだって思う。お兄さんにもいわない方がよかった?」
「いや、大丈夫さ。それより、光子ちゃんはさぞ辛かったろうなと思った......」
「そんな顔して......噓よ、噓! みんな夢のお話。こんな夢を見たっていうだけ」
少女は語調を変え、唄うようにいった。
「みんな夢なの。起きててみる夢なのよ。だから気にしなくてもいいわ。お兄さんを怖がらせようと思って、噓をついたの。うんと話をオーバーにしてね......」
「作り話だったのか?」
「あたしって噓つきだもの。みんなにそういわれる。光子ちゃんのいうことは噓ばっかりって......だから気にしなくてもいいわ」
「人が悪いなあ、光子ちゃんは......」
「そう、あたし人が悪いの。人を構って驚かせるのが面白いから......もう足の痺れは治った?」
「ああ、すっかり治った」
光子はいきなり強く康夫の手を振りほどいた。その動作は唐突であると同時にきっぱりとしていて、康夫は少女に拒絶されたと感じたほどであった。
事実、少女は己れの意志に反して康夫に狎れ始め、安易になりかけた自分を強く突き放したのかもしれない。
「じゃ、家まで走って帰ろう? いいわね、競走!」
いい了るなり、いっさんに走りだした。結んだ髪が激しく跳ね躍って、少女のしなやかな体が思いがけぬ速さで走り去って行く。少女が走る姿は、康夫の裡にいい知れぬ懊悩に満ちた情感をかきたてずにおかなかった。
妖精が逃げて行く、と彼は思った。彼に追いかけさせ、摑まえさせるために逃げ去って行くのだ。
少女はその小さな稚い胸には余る懊悩を、康夫の前でつい溢れさせこぼしてしまい、それを恥じて逃走して行くのだ、と康夫にはわかっていた。その悩みは少女の心にはあまりにも重すぎて、だれかがともに担ってやらなければならなかった。
康夫は懸命に走る少女を追って、大股に走り出していた。


1
春先になると、気違いが増えるというのは本当らしい、と高鳥慶輔は思う。俗に木の芽時という通りだ。春の息吹きとともに、狂気が人の心に蠢動し始めるのかもしれない。
高鳥は天地の間に流れる波動がにわかに強まってきたのを霊覚で捉えている。空気に不穏な刺激が充満して、ぴりぴりと皮膚をくすぐり、体毛を逆立てる気配がある。大気中の電位が急激に上昇したかのようだ。
この帯電の感覚が、精神の均衡を失した人間たちを狂わせるのかもしれない。間断ない刺激を受け続けているために、抑制のきかぬ衝動が内圧を高め、なんらかの行動に突きやらずにはいられなくなるのであろう。
得体の知れぬ衝動にとり憑かれた人間どもが、灯に惹かれる虫けらのように高鳥を目差して集まってくる。うるさくつきまとったり、精神失調を露呈したわけのわからぬ手紙をしきりに送りつけてくる。
執拗な精神異常者どもが、どうやって嗅ぎつけてくるのか、高鳥の住居や事務所へ押しかけてくる。強烈な意志力で追い払ってしまえばすむことだが、やはり煩わしいことには変りがない。
しかし、今高鳥の心にわだかまっているのは、そうした連中がしきりと送りつけてくる手紙の類いであった。解読不能のたわ言も多いが、中には読むに堪える内容を持った代物もある。熱烈なファンレターもあれば、陰惨な脅迫状もある。いずれも神懸りの、常識をはずれた内容であることでは一致している。
見知らぬ者からのファンレターや恋文はともかく、脅迫状となると、高鳥の闘争心がかき立てられる。強い念の波動でも感じ取れば、強烈なしっぺ返しで応じずにはいられない凶暴な情念の虜になってしまうのだ。
それは路上で見知らぬ他者から挑戦されるのと同じであった。相手がかかってくれば、応戦せずにはいられないし、叩きのめして再起不能になるまで蹂躙してしまうことになるのだ。
高鳥の全身は鳥肌立ち、闘争の獰猛な喜悦に雀躍りしてしまうのである。充満する凶暴な憤怒を凝集させ、指向性を定めるのには特殊な快感があった。
しかし、攻撃を受けた直後の不愉快さもまた格別のものがあった。側近たちが怯気を振るうほど高鳥は不機嫌になり、癇癖の筋が強度に浮かび出てくる。満身にはらむ殺気には、慣れている者でも慄然とさせる恐ろしさがあった。稲妻と雷鳴の癇癖がひとしきり荒れ狂うことになるのだ。
今日の午前中届いた郵便物は、幾つか高鳥を怒り易くさせる代物が混入していた。いつもは側近の郵便係が処理するのだが、今日はなぜか高鳥自身で開封するという気まぐれを発揮し、不機嫌と癇癪の虫を目覚めさせる結果となったのである。
とりわけ高鳥を不愉快にしたのは、B5サイズのパンフレットが封入されていた郵便物であった。「星の門」というSFじみたタイトルを持つ、宗教団体の会誌だ。それも極小の聞いたこともない新興教団で、教祖は二十四、五歳の若造であり、SFじみているのは、精々新しがり粋がっているためであるらしい。白衣をつけたヒッピーめいた若者が、不鮮明な写真の中でいかにも瞑想的なポーズをつけている。
七鬼八樹というのが、その若き教祖の名前で、素晴らしい透徹した知性と巨大な神秘力、霊能の持主だということである。一見意味ありげな疑似科学めいた教理がパンフレットに詰めこまれてあり、科学に無知であったり劣等感を持っている凡人たちに、畏怖と尊崇の念を惹起させようという意図がまる見えであった。
その怪しげな疑似科学的権威主義は失笑すればすむ程度のものだが、その後半に詰めこまれている七鬼教祖自らによる宗教界批判は、GENKENの東丈主宰と並べて高鳥自身をマナイタに上げており、その毒々しく苛烈な筆致は、高鳥をかっとさせ癇癖家の青筋をこめかみにふくれあがらせるには充分だったのだ。
文字通り、野卑な悪口雑言が書きつらねられていた。東丈は気取った澄まし屋の小僧っ子でありハッタリ屋のチビスケと呼ばれていた。この七鬼という若き教祖は恐ろしく野卑な口調で相手の肉体的欠陥をこきおろすのを遠慮しない性癖の持主なのだった。
──この寸足らずのチビスケ高校生教祖は、若さに似ず恐ろしく口が達者で、悪達者といってもいいほど筆が立つのだが、何分〝霊力〟の方はご本人の東丈センセイが仄めかすほど大きなものではなく、超能力は見世物にあらず、霊界の存在証明なりと称して、いっかな衆生の前に披瀝しようとしないのである。その手際たるや、大道の香具師のガマの油売がやるぞやるぞと声をかけながら、いっこうに腕を刃物で切りガマの油の効用を見せないさまにそっくりなのである......
七鬼教祖の文章はこうした野卑で下品な、揶揄と嘲笑のトーンで満たされていた。〝週刊S〟という週刊誌の悪どいからかいの調子に似ているな、と高鳥は最初は薄笑いを浮かべながら、パンフレットを読んでいた。
まさか高鳥本人が七鬼のマナイタに上げられるとは夢にも思わなかったからだ。
その挙句、高鳥のこめかみの血脈はふくれ上ったままになり、眉間の険しい縦皺は一日中深く刻まれっ放しとなった。不機嫌さはずっと持続し、気がまぎれて薄れるどころか、時間経過につれて、一層彫りが深く鮮鋭なものと化して行った。
思い出すたびに余計に腹が立ち、その都度憤怒が増殖していることに気づくのだ。
普段の高鳥はだれに対しても愛想がよく丁重である。内面の高慢さ不遜さを表に出さないだけの才覚に恵まれている、高鳥はそう自負している。
利用価値のある人間に対しては当然だが、一見そのようなものがなさそうに見える人間に向っても、一応注意を払っておいて損はない。それが高鳥の処世術だ。
なぜなら、好感のもてる態度、爽やかさや愛想のよさは、習慣の力で保持できるからだ。一度習慣にしてしまえば、気が向かない時、不本意な時であっても、最小の努力で、表面的な魅力を保持できる。
そのためには、習慣を崩してはならない、と己れに命じている。そうする必要がない程度の低い人間に対しても、心を引き締めて愛想よく振る舞い、魅力を見せつけておかなくては、習慣性が崩れてしまう。肝心な時に不機嫌な仏頂面、厭な表情を他人に見られてしまうかもしれないのだ。
その点、高鳥は実にプラグマティックな人間であり、他人に真似のできない聡明さを発揮することをなしえた。
今日の来客は高名なデザイナーであった。東丈と面識を得たがっていた人々が、ことごとく高鳥の方へ流れこんできているのだ。
高鳥は二月に入って、すでに十数人の個人面接希望者と会っている。社会的に有名であり実力を持つ人々ばかりであり、高鳥が渡米を遅らせてまで、個人面接に時間を割くだけの値打は充分にあった。
有力な人脈がみるみるうちに形成されて行くのである。客たちは高鳥に心服し、畏敬の念を隠さずに大きな満足感を持って帰って行く。すると、その客の人脈が素早く高鳥の所有下にすり変わってくるのだ。
巨大な霊力を持った存在が、これほどの関心を惹きつけるのか、と高鳥自身驚くほどであった。彼らは誘蛾灯に誘われる夏虫のように、高鳥の霊力に他愛なく夢中になった。
社会的地位が高く、知名度の大きい実力者はカモだと高鳥は知った。彼らは物質的に失うものがあまりにも多すぎて、運命の浮沈に異常なほどの関心を寄せている。
失うものをあまりにも持ち過ぎた人間は、運命の激変を恐怖し、瘦せる思いをしているのだ。彼らは一人残らず、高鳥に対し、己れの余命がどれだけ残っているか知りたがり、質問は必ずそこへ帰結した。
もし余命が乏しければ、なんとかして補充するすべはないかと必死の思いを凝らしているのである。
〝生命乞食〟と高鳥は呼び、内輪では彼らを嘲けっている。どれほど権力や財力を握っていても、彼らの風袋なしのめかたは恐ろしく軽く、貧しい阿呆どもだ、と高鳥は側近たちに向って告げている。
高鳥にかかれば、どれほどの知名度を擁していようともかたなしになってしまう。彼らは例外なく顔色青ざめ、羽根をむしられた鶏よろしく鳥肌立って、足許も頼りなく蹌踉として帰って行くことになるのだ。
高鳥は容赦なく、面接客を脅し上げる。肉体的にも精神的にも苛烈に絞め上げ、恐怖感をとり憑かせる。高鳥の超能力をもってすれば、相手の肉体に影響力を及ぼし、快不快を自由にもたらすのは造作もないことだ。
高鳥が得意業にするのは、近未来での有名人らの死亡を予知することであった。面会客たちは、さながら高鳥自身が未来を自由自在に操作し、改変することすら可能のように錯覚し、必ず再び面会を求めてくる。
その時は、高鳥の熱心な帰依者と化し、高鳥の思うがままに操られる〝奴隷〟に改造されてしまっているのである。数日間、高鳥によって与えられた心労、強迫観念の自己増殖が、彼らを精神的に崩壊させ、強烈な洗脳作用をもたらす。
再び面会を希望してきた時の彼らは、高鳥を唯一絶対の〝救世主〟として信仰しきって彼の眼前に現われるのだ。
基本的には高鳥が元子という本名を持つ美人女優を奴隷化したテクニックが、更に洗練度を加えて駆使されることになった。
高鳥はそうした遣り方で、すでに二名の大口〝後援者〟を造り出していた。もはや美人女優などとはスケールが違う。地方の大富豪を釣り上げることに成功したのだ。
高鳥が渡米を遅らせてまで、〝後援者〟造りに励んでいるのは、その妙味を覚えて病みつきになった証左かもしれなかった。
むろん、そんなことは口が裂けても口外するはずがない。メイン会長の催促を言を左右にしてかわすのも、会長を焦らせた上で、自己を更に高く売りこむためもある。現状の高鳥にとって、時間こそ金の卵を産む鵞鳥そのものであった。一日が二十四時間に限られていることが惜しくてならなかった。
高名なファッション・デザイナーとの個人面接を終えた高鳥は失望し、あやうく不機嫌さを隠せなくなるほどだった。
社会的知名度は高いかもしれないが、相手はすでに急速な下降線を辿る衰運にとり憑かれており、破産寸前にあることがわかってしまったからである。
もちろん、高名なデザイナーが高鳥との面接を希望したのは、己れの衰運を挽回したいという意図を托したものだった。しかし、高鳥が見るところ、相手は神懸りの助っ人をあちこち訪ね歩き、ハイエナの如き拝み屋や霊感師に食いものにされている有様であり、さほど高鳥の食指をそそらなかった。
他力だけにすがろうとする人間は、もはや衰運から逃れることはできないのである。消耗しきって気力を喪ったデザイナーは、どう転んでも破産を免れそうになかった。
むろん、骨までしゃぶるには手遅れではなかろうが、高鳥はそこまですれっからしではなく、その類いの貪欲さは高鳥の美意識に反するものであった。
ぶざまな真似は嫌いだ。スマートなのが好きなのだ。落ち目で河馬の皮膚のように感受性肥厚症になった有名デザイナーは彼の好みに合わなかった。貧すれば鈍するという俚諺そのままの人物であった。
しかし、有名デザイナーの同伴した女性秘書は気に入った。物凄いほどの美人で、才女そのものだった。外国語は数か国語、自由に操れるらしい。有名デザイナーの愚鈍さにはあまりにも似つかわしくない女だった。
彼女が杉村由紀を想わせたからかもしれない。高鳥は女性秘書に強い興味と欲望を湧き立たせた。彼女を有名デザイナーから奪い取ってやろうと決心する。
自分には彼女のような優秀な女性秘書が必要だと思った。彼女なら容姿や才能からいっても杉村由紀に優るとも劣らない。早晩破産することが明白なデザイナーはもはや女性秘書は必要としない。
彼女を我が物にするということが、高鳥の情熱をかきたて、活力を湧出させた。強い意志の持つ〝魔力〟を確認することは、いつも刺激的であり、高鳥を求愛のディスプレイを試みる孔雀のように鮮やかにし、魅力的にさせた。
もし、女性秘書が彼の要求に抵抗の色を示すようなことがあれば、それは高鳥にとって克服すべき挑戦としてますます活力を高める要素となった。
ワラにもすがる心情をさらけだしてデザイナーが帰った後、高鳥はほどなく美人の秘書が電話をかけてくることを疑っていなかった。
念のパワーで彼女にそうさせる自信が高鳥にはあった。相手は催眠にかかったように動かされ、それが本当の己れの意志であるかどうかもわからずに電話をかけてくるはずであった。必ずそうなるはずなのだ。高鳥は他人に及ぼす己れ自身の霊力に強い自信を持ち始めていた。
相手の女性秘書と目を合わせ、深々と覗きこんだ瞬間、相手が己れの意志に従うことは明らかになった。他人は催眠力というかもしれないが、真実は念力だ。念の強大なパワーで他人の意志を縛り、支配下に置くのだ。
有名なデザイナーが帰った後、高鳥は口辺に薄笑いを浮べてソファに座り続けていた。不機嫌な貌に、深い縦皺が眉間に走り、しかも口許に浮べた薄笑いは、高鳥の美貌を著しく分裂した印象にしていた。
高鳥は自分の容貌が変化したことに気付いてはいるが、むろん悪くはとっていない。より複雑になり、神秘的になったと思っている。以前のように開けっ放しで単純な明朗さは消え失せてしまった。気難しさは重厚さであり、高慢さは年齢を超越した英知の顕われとして解釈していた。
しかし、老けたとは思いたくない。輝くような若々しさをいつまでも保持する必要があるからだ。だれもが瞠目するような、光輪に包まれた美少年でなければならなかった。
そのために高鳥は化粧を覚えた。照明の下で映えるような、一種の妖しい美しさをかもしだす化粧だった。美人女優の紹介で知り合ったメイクアップ師が高鳥の許へ出入りするようになっていた。
だから、昼間でも昼光の下で高鳥は来客に逢わなかった。人工光に合わせたメイクアップだからだ。全ては計算し尽されている。部屋の調度も含めて、来客は高鳥のオーラに圧倒され、畏怖の念を励起するようになっているのだ。
2
「いかがでした、先生?」
と、側近の中野が音もなく現われて、ソファに深々と埋りこんでいる高鳥に声をかけた。
「凄く感動して帰ったようですが......」
中野もGENKENの頃よりだいぶ様変りしていた。服装を含めて挙措動作がだいぶ洗練されてきている。高鳥の好みだ。高鳥の男性秘書が野暮ったくイモ臭くあってはならないからだ。
「雲を踏むような足取りで帰って行きました......あの分だとすぐにまた、個人面接を申し込んできますね、先生」
声におもねりと媚びがあった。高鳥の貌の不機嫌さと口辺の薄笑いのアンバランスさに戸惑い、惧れているのだった。高鳥はこのところ癇癖家ぶりがしだいに昂進し、中野のように気心を吞みこんだ者であっても、扱いにくくなっている。こちらの察しが悪いと、とたんに癇癖が発動し、荒れ狂うことになるからである。
高鳥の側近はもはや、勘の悪い者にはつとまらなくなった。高鳥は察しが悪く鈍感な人間が何よりも嫌いなのだ。吞みこみが悪いと、中野でさえ怒鳴られるだけでなく、手近の物を投げつけられることになる。高鳥はしだいに難物のボスとなりつつあった。
「また、面接を頼んできても断われ」
と、高鳥はソファに埋りこんだままいった。さほど機嫌の悪い声ではないが、中野を戸惑わすには充分であった。
「え? 断わるのですか?」
なぜ、と尋くのを高鳥は好まない。察しが悪い奴だ、と頭ごなしにきめつけられることになる。
「あいつは俗物だな。どうしようもない愚物だ。落ち目になってから指導霊が見放してしまったんだろう。さもなければ、頭の配線がこわれたんだ」
「でも、力になってもらえると思いこんでいるようですが......」
「ワラにでもすがろうという気だからさ。ところがこっちはワラじゃない。あの愚物は二度と浮び上れないし、そんな奴に手を貸すほどこっちは暇じゃない。うっかりすると、あっちの背負っている悪運をこっちに押しつけられる。触らぬ神に祟りなしということだな」
「しかし、先生のお力なら、悪運如きはすぐに退散させることがお出来になるのではないでしょうか?」
「そうだな。悪運は俺にはとり憑かない。こっちの霊力が強いからだ。しかし中野、お前は俺の近くにいる人間だから、悪運は手近のお前に跳びついてとり憑くかもしれないぞ」
「え......」
中野は真に受けて鼻白んだ表情になり、高鳥は面白そうに笑った。嘲りが倍音のように感じられる笑声であった。以前の高鳥にはなかったことだが、彼は有名になるにつれて、そのマナーの内に嘲りのトーンをまぎれこまさせていた。必ずしも不快であるだけではなく、魅力的ですらある。高鳥の複雑さ、神秘性を際立たせる特性として、彼と接する者は受け取っていた。
もはや高鳥は単純明朗な好青年ではない。偉大な霊覚者、救世主として世に知られ始めた存在なのだ。
以前から高鳥を知る者は、高鳥の鮮やかな際立った変貌に驚愕するであろう。安易に接近し、話しかけることさえ許されない強烈なカリスマとして高鳥は再生しているのである。
「脅かさないで下さい、先生」
冗談と知って、中野は卑屈な笑いを浮べた。この中野という若者は最近、犬に似てきた、と高鳥は思う。追従者は必ず犬化してくるものだ。態度から風貌に至るまで犬に似てくる。
高鳥の気分が荒れてくると、中野を初めとする追従者はとたんに卑屈になってくる。白目を剝き出した犬そっくりだ。そうした卑屈さは高鳥の加虐性を刺激する。妙に底意地が悪くなってしまうのだ。顕著になったのは癇癖だけではない。高鳥の攻撃性があらゆる面でいっせいに開花し、毒々しい花のように肥大してきたようであった。
中野のような追従者のせいだ、と高鳥は思っている。自覚症状がないわけではないのだった。奴等が卑屈な犬のように振舞うから、勢いこちらもいじめたりいびったりする衝動の虜になってしまうのだ。
「別に冗談をいっているわけじゃない。しかし、悪運がお前にとっ憑いたら、俺が落してやるから心配するな。しかし、お前も近頃ではえらく羽振りがいいからな、この辺で悪運を少しとり憑かせて、ちょうどいいバランスにしたらどうだ?」
「とんでもありません。私は今のままで結構です。悪運の方は遠慮いたします」
中野は大あわてでいった。高鳥は冗談と本気の区別がつきにくい人間である。冗談だと高をくくっていると、とんでもない目に遭わされることがある。
最近の高鳥は気まぐれであり、突拍子もない物騒なことを、ほんの冗談として平気でやってのけることがある。強大な念力を持つ高鳥が何か始めたら、冗談が冗談ですまなくなってしまう。
高鳥がその気になれば、若い女を自らの意志で服を脱がせ、銀座の真中を全裸で走らせることぐらい造作もなくやってのけるのだ。それに近いことを現実に高鳥は試みている。同じビルにいる若い女が素裸でエレベーターに乗ってきたのを、中野たちは経験しているのである。高鳥はただ薄く笑っていた。若い女は高鳥の悪戯気の犠牲になったのだ。
その種の悪戯が最近の高鳥には多く見られる。側近といえども、いつ犠牲に供されるかわからないので、うっかりできなかった。自分ではズボンを穿いたと確信しきっているのに、実際はそうではないかもしれないのだ。中野も靴下を穿き忘れて、素足で革靴を穿き、このビルまでやってきたことがある。なぜ自分がそんな馬鹿な真似をしでかしたのかわからない。靴下を穿いたと頭から思いこんでいるからだ。
高鳥は意識誘導で、そうした心理的錯覚を簡単に他人に対して惹起できるらしい。そのことを弟子たち、帰依者たちに思い知らせるために、そうした悪戯を見せつけるのであろう、と中野は思った。高鳥は弟子たちが弛緩し、だらけているのが大嫌いである。弟子たちの弛みを引き緊めるためには、高鳥は容赦がなかったし、きわめてきびしかった。
東丈や郁江たちに後れを取ることを、高鳥は己れに許さないのだった。高鳥の精励ぶりは丈らへの競争心から発するものであり、その飛ばっちりは中野たち弟子へまともにやってくるのだった。
「しかし、先生......どうもしつこくつきまとわれそうな気がいたしますが......」
中野はねばっこい口調でいった。
「今度の個人面接でも、一月に五回も六回も電話をかけてきたくらいですから。もしかしたら、電話どころではなく、毎月、日参するかもしれませんよ。やはり、立ち直るには先生のお力を借りるほかはないと信じていますし、必死でしょうから......」
「俺は海外へ出かけたといえばいいさ」
そんなことはお前たちが始末すればいいことだ、と突っぱねる代りに高鳥はいった。不自然な上機嫌さが徴してきた口ぶりであった。
「え? いよいよ海外へお出かけになるんですか、先生!?」
「ばか。口実だよ。いずれは行くが、今すぐにというわけじゃない。しかし、海外へ行ったとなれば、向うも諦めるほかないだろう」
「しかし、先生。何分向うも必死ですし、もしかすると先生をニューヨークまで追いかけて行くということになるかもしれません。向うは国際派のデザイナーだし、しょっ中海外へは出かけているでしょうし......」
「お前がそうしつこくいうわけは何だ、中野?」
高鳥はニヤニヤ笑いながらいった。
「あの女秘書のためだろう? 隠してもだめだ。俺の目はお前の心などすべからくお見通しだよ。お前はあのデザイナーじゃなくて、あの美人の女秘書に逢いたいんだ」
「そんな、先生......」
中野は照れたが、赤面するよりはむしろ青くなった。高鳥は読心術に長けている。まるでエックス線のような視線を持っているかのようだ。
「安心しろ、中野。あの美人秘書はまた来るから......今度はデザイナーの先生は抜きだ」
「本当ですか!?」
欣然といいかけて、中野ははっと気付いた。なぜそんなことを高鳥は知っているのか。
「そうだ。デザイナー先生はもうお呼びでないんだよ。彼女は俺に逢いに来るんだ。俺の秘書になるためにな......」
「しかし、先生。先生はそんなこと彼女の前で一言もおっしゃらなかったじゃないですか!? それなのになぜ彼女と話がつけられたのですか?
僕はずうっと同席していましたし、そんな余裕は全然なかったと思うんですが......」
「お前は鈍いな。俺は彼女が秘書として必要だからそうするんだ。やはり有能な女秘書がいた方がいい。男手ばかりだと野暮ったくていけない......だから俺は彼女を呼んだんだ。彼女は必ずまたここへやってくる。この二、三日のうちにな。あるいは今日中にもやってくるかもしれない」
「ああ、なるほど......」
中野の顔に納得の色が浮んだ。
「がっかりしたか? だがな中野、彼女はお前には分不相応だよ。諦めるんだな。彼女は俺に仕えることに決っていたんだ。きれいさっぱり思い切った方がいいぞ」
「とんでもない! 思い切るも何も、私は元々何もそんなことは......」
中野はあわてて弁解に努めた。高鳥の大きな眼は冷嘲に満ちて光っていた。
「しかし、先生。彼女なら申し分ないですね。容姿も能力もキャリアも、あの杉村女史に比べて全く遜色ないんじゃないでしょうか? いや、杉村女史よりだいぶ上ですよ。年だってずっと若いし......まだ二十五、六といったところでしょうし」
中野の情念はころりと変り、おもねりの蜜にまみれた。ボスの高鳥と女を張り合って見ても得るところはないという打算が、諦めというまでもなく急速に中野の欲望を消し去ってしまった。
いずれはボスのお下りが廻ってくるという期待があるからだ。高鳥があの女性秘書に飽きれば、配下の中野たちに下げわたすであろう。あの美人女優をそうしたようにだ。
中野はすでに幾度か美人女優を抱いていた。高鳥に完全支配され、己れの意志を喪失したかのように、美人女優は唯々諾々と命令に従った。それは中野にとり素晴らしい経験であった。日本中に知られた高名な美人女優が彼の意のままに服従するのである。思うさま男の支配欲と征服欲を満足させる屈辱的な体位にも美人女優は反抗しなかった。中野はその光景を思い出すとどろどろと血がたぎってきて、鬼のように男性器を硬直させてしまうのだった。中野は己れの攻撃的な性欲を満たすべく、美人女優を白昼のマンションの屋上に連れて行き、春風というにはほど遠い寒風の中で彼女と性交したのである。
人目につけば、相手が女優としての生命を失うという危険が中野に異常な興奮と快楽をもたらしたのだ。さすがに、後で高鳥に知られた時は注意を受けたが、それほどきびしくではなかった。
「お前は意外と変態だな」
と、高鳥は嘲るように薄笑いとともにいった。きびしい叱責ではないので中野は安堵した。やはり高鳥は恐ろしい人間であり、注意を受けるのは冷汗物だったのだ。
「だがな、屋外でやるのはもうやめろ。今後はマスコミがべったりと貼りついてくるからな。写真でも撮られたら、ただではすまないぞ。望遠レンズがいつも自分を狙っていると思え。もしお前の不注意で大きな不始末をしでかしたら、お前に責任を取ってもらうことになるぞ。二度と不始末ができないようにな......」
薄笑いとともに穏やかないい方がされたが、これほど物騒な予告もないと後で気付き、満身が冷汗にまみれた。容赦なく不始末を犯した中野を抹殺するという警告なのだった。高鳥にそうした力があることは疑問の余地もなかったし、かっと激怒する高鳥よりも本当は恐ろしいと感じた。見せかけの穏和さに瞞されてはならないと中野は自らにいい聞かせた。
美人女優の肉体を自由にすることを許されたのは中野だけではない。主だった弟子たちが共同で美人女優を所有することになった。中野を含めて、彼らがどれほどの色餓鬼となり、美人女優の有名な瘦身にむしゃぶりつき、おびただしい体液を吐き出したか、後で考えるといささか中野ですら不快感を催すほどであった。
今は中野の色欲は〝共同便所〟と化した女優を離れ、新手の女性秘書に向けられていた。
「まるで、あの女はお前たちの〝共同便所〟だな」
と、高鳥が冷やかに嘲ったとたん、気持がいくらか冷めてしまったのだ。高鳥の下賜品の女体には後光が射しているが、弟子たちが廻しを取った女体は黄色い汚れの染みついた便器のうとましさを覚えさせるようになってしまった。
高鳥の片言隻句は、弟子たちにはかりがたい大きな影響力を及ぼす例といってもさしつかえなかった。
しかし、あの物凄い美人の秘書が高鳥の所有物になるのなら、遠からず女優同様に下げ渡しになり、中野にも自由にできると気付いたとたん、彼は他愛なく機嫌がよくなってきた。
それほど待つ必要はない。美人女優の場合も、高鳥はすぐに飽きた。その例に漏れなければ、女性秘書も一か月後には払い下げになっているだろう。高鳥の好奇心は長くは続かない。瞬く間に情熱は冷め、飽きてしまうのである。そして貪欲な好奇心は次々に新手に向う。
が、高鳥は決して異常な女好き、漁色家ではない。そうした色付けは高鳥の自尊心にもっとも反するものであろう。高鳥はあらゆる意味で己れ自身にスマートであることを要求して止まない。自己に対する要求水準の高さは、中野のような凡人の理解を超えるものである。
むしろ性的には淡白ではないかと中野は想像している。女性を完全に自己の支配下に置くこと、すなわち完璧な征服が高鳥の目的であって、快楽の追及など二の次なのであろう。高鳥には異様な超常能力があり、相手の女に性的快楽の極点をきわめさせることなど容易であるらしい。しかし、彼自身は快楽を追及したり、溺れたりすることは決してせず、注意深く避けているとおぼしき節が感じられた。自分はあくまでもクールに冷酷に留まり、女だけを快美の泥沼へ追い込み、溺死させようとする残忍さを感じてしまう。
ひょっとすると淫魔とは高鳥のような美青年ではないか。そんな想いが時折、中野の脳裏をよぎる。彼は自分のように快楽に溺れることは決してせず、いつも冴えざえと冷たい大きな眼を見開いているのであろう。
中野は、自分に注がれている高鳥の視線に嘲りを感じ取り、思わず身震いした。高鳥は他人の心を読み取ってしまうことができる。それゆえ中野ら弟子たちは間断ない緊張を強いられた。高鳥のもたらすメリットが小さなものであるなら、彼の下に留まることは困難になるだろう。
しかし、高鳥の巨大な霊能はやがて世界を席巻し、全てを支配下に置く。彼ら高弟はそうなれば計り知れない大きな利得を我がものにすることができる。権力、金、美女、全ての人間が究極的に欲するものを何もかも享受することが許されるのだ。
高鳥はやがて全人類を支配下に置く王の中の王として君臨する。それは決して遠い未来ではない。中野ら配下の抱いている幻想は小揺ぎもしない強固な代物であった。
3
「ところで先生、日下がこちらへ帰りたいと申し出ているのですが、どういたしましょうか?」
と、中野は冷やかな高鳥の大きな目から意識をそらすべく話題を変えた。心を読まれているという強迫観念はしだいに肥大化して、冷静さを残らず奪い去るということが経験上わかっているからだった。
高鳥の前で平静さを保持する方法はただ一つであった。自分が高鳥の忠実無比な弟子だと心の底から思いこむことだ。自己催眠をかけて、わずかな反抗心や逆意を持たぬように己れ自身を調教しきってしまうことだった。
それ以外に、高鳥の冷徹なエックス線さながらの視線に堪えるすべはなかった。もちろん、それは高鳥によって吹き込まれたことだ。
──お前たちの心は、何もかもまる見えだぞ......
と、高鳥は弟子たちに向っていつも叩きこんでいる。一人一人の心を読み、実際にさらけだしてしまうのだから。疑う余地は何もない。
「お前たちがいつも何を考えているのか、波動ですぐにわかるんだ。つまりお前たち自身の意識が告白しに来るんだな。だからお前たちがいくらこっそりと内密にやろうとしても無駄だ。たとえば俺に対して反抗心を持ったり、猜疑心を抱いたりすれば一瞬でその状態が、俺の心のレーダースクリーンに映し出されるんだ。絶対にごまかしはきかない。
地獄の閻魔大王が照魔鏡という鏡を持っているのを知っているだろう。人間がこっそりとやったことをいかに隠そうとしても、照魔鏡には残らず映し出されて、何もかもバレてしまう。
それと同じだよ。わかるか? お前たちの心の中にある〝良心〟がすぐに報告に来るんだ。お前たちは俺に対して何一つ隠し事ができないってことをよく憶えておけ。お前の〝良心〟がいつもお前の考えることやることを見張っていて、俺に報告するってことをな......」
高鳥のいう通りであった。高鳥の言葉が決してブラッフではないとわかったのはショッキングだったが、それ以上に高鳥の力が大きいものだということが次いで示された。
高鳥は他人の過去を見抜く霊力を示したのである。本人すら憶えていないこと、忘失してしまったことを彼は白日の下に引きずり出した。
人間はだれしも過去におぞましい記憶を秘めているものである。思い出したくないおぞましい罪深い記憶、汚穢な記憶を肥溜めのようにこっそりと隠し持っているものだ。高鳥はそれを秘密の地図でも有しているように正確に指摘し、あばきだしてしまうのだった。
「これは過去認知、ポストコグニションという力だよ」
と、高鳥は薄笑いとともに告げた。
「科学的に、超心理学の用語でいうならば、そういうことになる。だが、本当は俺の裡にある〝神の眼〟が見抜いてしまうんだ。何一つ隠せないと思え。俺は〝神の眼〟を持っている。その〝神の眼〟をもってすれば、全てが明らかになってしまう。〝照魔鏡〟と同じことだ。お前たちの〝良心〟が全てを告白してしまう。今のお前たちがすっかり忘れてしまっていることでも、〝良心〟は残らず憶えていて、洗いざらいお喋りしてしまうんだ。
もちろん、それはお前たちだけじゃない。全ての人間にとっても同じことだ。俺の持つ〝神の眼〟の前では全人類が平等なんだ。つまり、〝真の救世主〟の備える神性の前では、全人類が平等になるということだ。それが本当の意味での平等ってことなんだ」
高鳥は真実を告げている、と中野たちは信じざるを得なかった。まったく高鳥の〝神の眼〟の前では何一つ隠し事が通用しなかったからだ。
高鳥は正真正銘の〝救世主〟の大霊力の持主であった。彼はそれらを続々と証明しつつあった。
高鳥によって質問されれば、何もかも正直に答えるほかはなかった。弟子たちの密か事は全て高鳥の掌握するところとなった。
中野は絶対に秘密だったはずの、実の妹との近親相姦の事実を高鳥に告白してしまっていた。まるで魔法にかかったように、舌が勝手に動いてべらべらと告白してしまったのである。
高鳥は実に旺盛な好奇心の持主であり、根掘り葉掘り事実関係を細部に至るまで尋問を浴びせて聞き出した。中野自身忘れてしまっていた細部まで再現させられる始末であった。全身にびっしょり汗を搔いて怯えていた妹の肌の感触までが生々しく甦り、それさえも告白させられてしまった。
「お前は元々変質者の素質があったわけだな、中野よ」
高鳥はさんざんしつこく聞き出したあと、生真面目な顔でもっともらしくいった。
「自分の妹と姦った奴はそれこそごまんといるし、聖書にだって出てくるくらいだから、ちっとも珍しくはないが、まず最初に妹のアヌスを掘ったなんて、お前ぐらいなもんじゃないか? 俺のような〝真の救世主〟がなぜ変質者を大弟子に持たなきゃならんのかわからんな」
後になればなるほど中野は冷汗をかいた。その調子で過去の陰惨などす黒い記憶を洗いざらい告白させられてしまったのは、中野一人ではない。側近の全員が同じ目に遭っていた。
高鳥は弟子たちの後暗い秘密を残らず知り、しっかりと弱みを握ってしまったわけである。しかし、告白を続けている時は、だれ一人その深刻さに気付かなかった。
自己告白し、懺悔することによって、己れの欲望そのものが浄化され、魂は昇華するのだという高鳥の説明を何の疑問もなく受け容れていた。高鳥の根掘り葉掘りの追及はそれほど徹底的であり執拗であって、催眠術にかかったようになり高鳥の説明を信じなければ、とうてい告白を続けられなかったであろう。
後になり、大変なことを話してしまった己れのうかつさにほぞを咬むのだが、どうせ高鳥の霊力にかかれば、過去はすべて暴かれるのだと強いて己れを納得させるほかはなかった。
高鳥は自己の備える〝神の眼〟と呼ぶ神性を、まず弟子たちに徹底した洗脳の猛烈さで確信させ、受容させた。高鳥が弟子たちの隠された全過去を知っているという事実は、しだいに弟子たち自身が告白した記憶を薄れさせて行き、最初から高鳥は何もかも知り尽していたのだという錯覚に転じつつあった。強い暗示にかかっているため、よく考えれば歴然とした事実がわからなくなってしまうのである。
もちろん高鳥はその錯覚を意図的に培養して行ったのだ。先生の目は〝神の眼〟であり全てお見通しであって、隠し事は何一つ出来ないと弟子たちが信じこむべく、巧妙な暗示を常に与え続けているのだった。だれ一人錯覚から覚醒することなく、更に深みへ沈むように意図されていた。
むろん、中野を初めとする側近たちは、先生の高鳥が変ったと感じてはいる。以前の高鳥とは明らかに違う。しかし、その変化は常にプラス方向に働くと感じさせるのが、高鳥の作為であった。高鳥はどんどん偉大になり、巨大な権威として育ちつつある。弟子たちは頭からそう信じている。絶対の確信を持つことを高鳥は奨励したし、仮初にも高鳥に対して疑問を持つことは許さなかった。
〝主〟に対して疑惑を持つことほど最悪の裏切り行為はない、と高鳥は強烈に指導した。それは猜疑であり、〝主〟との間の結合を決定的に破壊する悪魔だ、と高鳥は口をきわめて罵った。
〝ユダ〟の存在は絶対に許されない。〝主〟である高鳥に対し疑問を持つことは、すでに〝ユダ〟との合一に他ならないと断定された。弟子たちは常に行住座臥、自己の心の洗い出しを命じられ、疑問を決して持つことがないように指導された。
完全な解答はすでに高鳥によって与えられている。だからこそ弟子たちは疑問を持つ必要はないのだ。
なぜなら、高鳥慶輔は〝完全霊〟の化身であるからだ。完全無欠な宇宙大霊が地上に下生し、肉体を持った姿こそ高鳥その人であるからだ。過去に〝完全霊〟は幾度か地上に肉体を持ち出現した。それが〝救世主〟なのであって、過去の偉大なモーゼや釈迦、イエス・キリストは〝完全霊〟の下生の先駆なのである。
〝完全霊〟が最後に姿を顕わす時、それは〝真の救世主〟である高鳥慶輔その人となるのだ。過去の偉大な先駆的救世主たちの全ての霊力を合算したものが、〝真の救世主〟高鳥の顕わす巨大な力に他ならないのであった。
つまり、構造的にいうならば、〝完全霊〟とは〝霊の主〟なのである。偉人な救世主たちは全て、〝霊の主〟の分霊である。のみならずありとあらゆる霊魂は、〝霊の主〟の〝霊的細胞〟だという構造論を高鳥は説いていた。
高鳥が〝神の眼〟を備えているのは、彼こそが〝霊の主〟であり、〝霊的細胞〟である全人類の意識を包含するからにほかならなかった。いうなれば〝霊の主〟は大宇宙意識たる大神霊であり、高鳥こそ地上に降り立った神そのものなのだ。
東丈や郁江が説いている〝宇宙的真理〟に彼自身の独創的にして放恣な想像を加えた霊的宇宙構造論を、弟子たちは何の疑問も持たず鵜吞みにした。
キリスト教的神学になぞらえれば、高鳥は神であり、同時に神の子であった。全体にして一なるものという概念を高鳥は巧妙に取り入れていた。それゆえ彼はイエス・キリストの再臨であり、その他の釈迦など救世主たちの再臨でもあるのだ。
高鳥は三位一体理論を援用したがために、中野ら弟子たちは、自己を聖霊に擬し、大天使の下生として自らを想定した。筆頭弟子の中野がミカエル大天使長であり、他の者はガブリエル大天使、ウリエルやサリエル、パヌエルなどという大天使を自分に当てはめて考えることができた。それは大きな自己満足をもたらした。それらの自己想定を、高鳥は知っていたが、特に否定しようとはしなかった。
「お前たちは〝真の救世主〟に仕えるために、〝太陽界〟という高次元霊界の最高レベルから降りてきた霊たちなんだ」
と、高鳥は折にふれて強調し、弟子たちの更なる自覚を要求することを忘れなかった。
「だから、今生でしっかり使命を果さなければ、二度と最高位の霊界に戻れないぞ。堕天使というのを知っているだろう。あの連中は皆使命を遂行しそこねて暗黒の地底に堕ちたんだ。お前たちも死物狂いでやらないとああなっちまうぞ。大天使のお代りはいくらもいるし、みんな昇格を待ってるんだからな。自分のポジションを奪われるなよ」
中野らは必死の気分にならざるを得なかった。
「必死でやらない弟子は必要としない」
と、高鳥は厳然といい渡したからである。
「いい加減な奴は、あちらへ引き取らせる。そんな奴は今生、肉体を持って生きている必要がないからだ。早目にあちらへ追い返すのも大いなる慈悲だと思え。暗黒の地底へ堕ちて悪魔になるよりはましだろう。自信がない者は申し出ろ。すぐに帰らせてやる」
つまりは高鳥に不満をもたらせば、本人は死ぬというのである。これには全員が慄え上った。これからいくらでもいい目を見ることができるというのに、今更死にたい人間がいるはずがない。高鳥の人心掌握術は絶妙としかいいようがなかった。アメとムチと呼ばれるメリット・デメリットの使い分けに関して、まさに天才的な手腕を有していたようである。
4
「日下はもうGENKENに居辛いというんですが......まあ、もちろんひどいミスをやってのけましたから、無理もありませんけど。どういたしますか? 郁江にすっかり睨まれてしまったようで、会の方に置いていても、もう使い道はないんじゃないでしょうか......」
一月下旬のGENKEN箱根セミナーで、配下の日下が犯した失態を知った時、高鳥はただ一言吐き捨てるように漏らしただけであった。
「役立たずが......」
癇癖家の高鳥がもっと怒り狂うと思いのほか、冷やかな嘲罵ですませてしまったため、弟子たちのだれもが意外の感を免れなかったようである。
しかし、その一言で日下は見捨てられた。GENKEN内に残された諜者としての意味を喪失してしまったからである。日下の立場は宙に浮いたまま、会にも留まれず、さりとて高鳥のお声がかからない以上、帰参することもかなわない有様になった。
それきり高鳥は日下の存在など忘れてしまったかのように、一度もその名を口にしなかった。
中野が今回、勇をふるっていいだすまで、側近のだれ一人として日下のために取りなそうとする者はなかった。それだけ高鳥は恐ろしかったし、日下のために危険を冒そうとするほど濃密な友情は存在しなかった。高鳥同様、日下など最初から存在しないように振舞うことが賢明だと感じているのだった。
「そうか。お前は日下と仲がよかったんだな?」
高鳥は白く光るような大きな冷やかな眼で中野を凝視しながらいった。中野はすでに余計なことを口にした自分を後悔していた。
「はい。高校が同期だったもので......でも親友というほどでは。先生の下に偶然、同時にやってきて顔を合わせたものですから」
「お前が友達の日下のことを思いやるのはいいことだよ」
高鳥は意外なほど穏やかにいった。しかし中野はその見せかけの穏和さには気をつけるだけの用心深さを身につけていた。高鳥は感情家であるだけに、突如豹変するからだった。
穏和さはあくまでも表面的によそおわれたものにすぎないかもしれなかった。安心していると突如として雷を落されることにもなりかねないのだ。
「しかしな、中野。日下には非常に危険な傾向がある。理性の歯止めがきかなくなってしまうんだ。箱根セミナーの一件だって考えてもみろ。日下の役割は単なる情報収集だ。セミナーを攪乱したり、郁江を引きずり落したりすることじゃない。じっくりと東氏や郁江の遣り方を観察し、報告するというのが、日下に与えられた使命だったはずだ。
ところがどうだ、日下のやったことは。あいつは自分の狭い了見で、手柄を立てようとして勝手に動いた。郁江は不可解なところがあるから気をつけろ、と俺が充分注意しておいたにもかかわらず、日下は命令を無視した」
高鳥の穏やかさは確かに見せかけであり、中野は己れの無思慮さを後悔した。自分は日下に対して何ら友情も義理もないのだ。こんなことで高鳥の癇癖を発動させては、まことに割に合わなかった。

「日下はあらゆる意味で無能さをさらけだし、判断力のなさ、慎重さ、配慮を欠いていることを暴露した。しかも俺の命令を無視するという重大な過ちを犯した。これだけでも重罪だよ。そうじゃないか、中野? しかし肝心なことがもう一つある......」
中野は、高鳥が問いかけてから中野の答を待たず、更に言葉を重ねたので安堵した。高鳥が重罪と断定した以上は、帰参どころではない。それ以上の制裁があるということを意味している。もし中野が判決に加担させられたとすれば、有罪判決をなすほかはないし、恐ろしく寝覚めの悪い思いをしなくてはならないからだ。
「日下はあまりにも衝動的すぎて、全く信用ならないということだ。それまで思ってもいないことをぺろっと喋ったり、いきなり発作的に行動する人間だということを暴露したんだ。こんな人間は危険すぎて、とうてい組織の内に抱えこんでおくことはできない。そうだろう? しかも、〝草忍〟としてGENKEN内部に埋めておくこともできない以上、お前ならどうする、中野?」
「そうですね......やっぱり考えてみますと、帰参はかなわないです。日下がこちらへ戻ってくれば、東丈たちはやはりこちらが日下を使って東丈の留守中に破壊活動をやったと思うわけですし......」
「その通りだ。この俺が日下を使ってGENKENをぶちこわして郁江を追い出し、会を乗っ取ろうとしたと東氏でなくても考える。さすがの俺も、日下の暴挙を聞いた時は愕然としたほどだからな。お前たちが考えるほど、日下のやったことは軽くない。絶対に軽はずみだ軽率だといって片付くようなことじゃないんだ」
「確かに先生のおっしゃる通りです」
ひたすら迎合するほかはなかった。高鳥の裡には容易ならぬ高圧の怒りが波打っているかもしれず、自分がそれを引っかぶる結果を生むほど愚かしい行為はなかった。中野はひっきょう日下に何の恩義も義理もないのである。見殺しにする罪悪感が存在する余地もない、と彼は素早く判断した。
「日下にあまりにもしつこく頼みこまれるし、毎日やいのやいのとせっつかれますので、ついご不快になるようなことを申し上げてしまいました。まことに申しわけございません......」
「日下の始末はお前にまかせる」
高鳥はあっさりといった。一瞬体が冷たくなり、中野は反射的に高鳥の顔を振り仰いだ。高鳥の眼は特殊な光を放射しており、長くは視線を合わせていられなかった。
「お前が始末をつけろ、中野」
「私がですか......?」
喉がぎゅっと狭窄し、ろくに声にならなかった。
「そうだ。どうやって始末をつけるかはお前が自分で考えるんだ。友達だろう? 引導を渡すのはお前の役目だ」
「わかりました......」
中野はようやくいった。とりあえずそう答えるほかはなかった。しかし、高鳥が直接制裁を加えるのでなければ、たいしたことにはならないだろうと考え、思わず安堵の吐息が漏れ出た。
「日下はうまく取り除け。GENKENの内に入ってる奴で、まだ郁江に感付かれてないのは、慎重にさせるんだ。絶対に表面に出させるな。目立つような真似は絶対にいかん。下手すると日下の二の舞いだからな......久保陽子はどうなってる?」
「もう退院したようです。コンタクトは取らないでよろしいのですか?」
「しばらくほうっとくんだな。あれもちょっとわけのわからないところがある。郁江もそうだが、女というのは不可解な代物だな。とんでもないことを考えたり、信じられないようなことを平然とやってのけたりする。どうも女は信頼性に欠けるところがあるようだな......お前たちも女には充分気をつけろよ。うっかり気を許すととんでもないことになるぞ......突拍子もない点では、日下の一件に似てるが、日下のは日頃の想念がにわかに現実化しただけだ。しかし、久保陽子はふだん考えもしないことをいきなり始める。女は謎だな。これは扱いにくい」
「先生でもやはりそうなのですか?」
中野はほっとしたようにいった。高鳥はその心底を見透したように笑った。
「女子と小人は養いがたし、というのを知らないのか? 釈迦でも女のわからなさ加減には手を焼いたんだぞ。ましてお前たちでは女にかかったらきりきり舞いさせられるのが落ちさ。自分で何とか始末できると考えたりしたら大間違いだ。
俺の意を体するというような安易なつもりで久保陽子に手を出すなよ。とんでもない大火傷をするぞ」
「とんでもありません! 彼女に手を出すなど、だれもそんな僭越なことは考えていないはずです!」
中野の顔は蒼ざめた。やや照明の暗い人工光の下で、高鳥はぞっとするような妖しい笑みをうかべた。
「久保陽子は元子と違って、お前たちの歯に合う相手じゃない。無邪気な顔をしてるが、中身は全然違う。可憐な女の子に化けた淫魔かもしれんぞ。うっかり手を出して取り殺されないようにするんだな」
「そんな! 冗談じゃありません! 先生のお許しもないのに、そんな僭越なことを......」
ねっとりと冷汗が皮膚を湿らせた。高鳥は弟子たちの欲望を、ねぶるように読み取っているのだった。
「先生」
静かに部屋に入ってきた側近の若者が、はばかるような声音でそっと呼びかけた。昼光をさえぎり、ほの暗い人工光だけの室内には、思わず声を忍ばせたくなるような神秘的な雰囲気が立ちこめていた。
「お電話です。今さっき帰られたばかりの......」
側近の本間は糞真面目な顔で告げた。
「栃折加寿代さんとおっしゃる女性の方です。どういたしますか?」
有名デザイナーの女性秘書であった。引き上げたばかりで早くも電話をかけてきたのである。中野は驚嘆の表情になった。盟主の念力には恐るべきものがあった。予言した通り、栃折という女性秘書は磁力に惹きつけられるように、高鳥に向って吸引されてきたようである。
「電話をまわせ」
中野はテーブルの上に載っている電話器をそのままソファの高鳥に運んだ。本間が回線を廻すべく足早に部屋を出て行く。
後は高鳥の電話口での応答を、嫉妬と感銘の入り混った気分で聞かされる羽目になった。
それを聞く限り、高鳥が凄腕の女たらしであるという印象はない。しかし相手の女の心をぐいぐいと摑んで引きこんでいくカリスマ的な迫力が印象的であった。すべて高鳥の意のままに従うことこそが唯一の正しさだと感じざるを得ないのであろう。それは中野たちにしても同じであり、高鳥は人間的な意味であらゆる批判を超絶する存在だと思わざるを得なくなってしまうのだった。
電話を終って、部屋の隅に立っている中野を振り向いた高鳥の顔は平静を装ってはいるが、昂ぶった自尊心の輝きに映えているように思えた。
「いった通りになったろう?」
高鳥は傲然といった。
「まだ三十分も経っていない。彼女はあのデザイナーといっしょに会社に戻らずに、すぐ公衆電話からかけてきたんだ。もうデザイナーの秘書はやめる決心だといっている。今夜彼女は四谷のマンションへ来るそうだ......」
「恐れ入りました、先生。他に何もいうことはありません。先生のお力は凄いとしかいいようがないです」
中野は心の底から畏敬の声音を出し、深々と頭を下げた。
「中野。お前はちらっと心の底で俺を疑ったろう? まさか、いくら先生でも、と思ったろう? 逢ったばかりの女が、しかもあんな凄い美人がすぐにやって来るとは信じられない......お前はそう思ったろう? ちらっと一瞬だがお前はそう思ったよ、確かにな。その波動が来たんだから......だが、これではっきりしたはずだ。たとえ一瞬でも俺を疑うな。それはわずかな時間であっても、大きな罪業だぞ、中野。お前は〝真の救世主〟から心をはなして、底なしの暗黒地獄へずり落ちて行くことになるんだ。〝真の救世主〟を疑うことは、無間地獄行きの大罪だ。たとえ一瞬ちらっとであっても、俺を疑うことは絶対に許さない。だからこそ、彼女の心を動かし、電話をかけさせて、お前の犯した大きな過ちをわからせてやったんだ。しかし、二度とはしないからな。ただ一度だけの大きな慈悲をかけられたと思え」
「わ、わかりました! 申しわけございません!」
中野はごく自然に床の絨毯に両膝を突いてしまった。体内に冷たい恐怖の氷塊が生じ、立っていられなくなったのだ。もっともへりくだった恭順の姿勢を示し、赦しを乞うほかはないと感じていた。土下座して額を床にすりつける。ひたすらに高鳥が恐ろしく、全身が金縛りになり、力が萎えて行くようであった。
部屋へ入ってきた側近の青年たちが息を吞み、棒立ちになっている。
「どうした?」
と、高鳥が顔を向ける。峻厳な表情であった。青年たちは中野に倣っていっせいに床に正座してしまった。ごく自然に恭順の姿勢を体が自動的にとるようにしつけられているのである。
「インタヴュー記事のゲラが出ましたので、これから持ってくると......」
衣笠というマスコミ係の若者が、緊張に掠れた声を出した。
「編集部の者が、先生にお目にかかって、ご説明したいと申しておりますが......」
「どこの編集部だ? まず最初にどこの雑誌とはっきりいえと教えてあるだろう」
「申しわけございません! うっかりいたしました」
衣笠は掠れ声で女性雑誌のタイトルと、編集記者の名を告げた。無我夢中という緊張ぶりであった。高鳥より年長で、気はしの利きそうな怜悧そうな青年だが、まったく萎縮してしまっている。
「河村蓉子? あの中年女か。鬱陶しいな」
と、高鳥は吐き捨てるようにいった。不愉快な記憶でもあるかのように、端麗な面は曇った。
「ゲラだけ届けさせろ。女には遭わん」
「かしこまりました......」
「待て、ちょっとだけ遭おう。多忙なので五分間だけな。女にそういっておけ」
高鳥は気分が急変して、命令を変更した。むらっと端麗な容貌の底で、好奇心が動いたようであった。
まさか高鳥があんな中年女に興味を持つはずはないと側近のだれもが感じていた。チビで太っていて、三十そこそこで早くも容姿が衰えた中年女である。しかも二人の子持ちなのだ。
だれもが目を瞠るような美人秘書の栃折加寿代とは全く違うのである。高鳥には超一流のブランド志向があり、それは人間にまで適用された。
見栄えのする容姿を持たない限り、高鳥の眼鏡にはかなわないのである。
「早く電話に出ないか」
彼は苛立たしげにいった。側近の青年たちが土下座しているのが不意に癇にさわってきたようであった。高鳥の気まぐれさは、側近たちに常に混乱を招じたが、高鳥の意向を素早く読み取るような鋭敏な感性を持たない限り、いずれは遠ざけられてしまうことになるのだった。
いつまでも這いつくばっているようでは、高鳥を不機嫌にさせるだけだ。
──いつも一歩先を読んでキビキビ動け。師の意を体するのがお前たちの使命だ。
高鳥は繰返し、そう側近に叩きこんでいる。鈍感であったり鈍重であったりするのは、高鳥のなによりも嫌うところだ。みごとに統制された青年たちが機敏な動きで、彼の命令一下鮮やかに動くことを、常に求めてやまなかった。
高鳥が重用するのは、たとえば木下藤吉郎タイプであり、森蘭丸タイプでもあった。もっとも高鳥は容貌の美醜にひどくうるさく、醜貌であるという点で木下藤吉郎を排除する織田信長といったところであった。
「俺は戦国武将では、信長の意識をプロジェクトとして組みこんでいる」
と、高鳥はまじめな顔で告げたことがあった。プロジェクトされた意識、とは側近たちの理解を超える新概念であった。高鳥にいわせると、織田信長の器量を高鳥は持っているが、それは高鳥の過去世そのものではないというのである。
「俺が過去世で信長だったわけじゃない。つまり俺が分霊として釈迦やイエスを魂の内部に持っているのと同じじゃないんだ。わかるか? 魂の容量が釈迦たちと信長じゃ大違いだからな。
今回の高鳥慶輔として、〝真の救世主〟の役割を果すために、俺は沢山プロジェクトされた意識を用意している。日蓮とか信長というのは沢山用意したうちの一つなんだ。
つまり俺が天界にいる〝光の大指導霊〟だった時に、今回の使命に役立てるために、特に気を入れて念入りに指導したのが、あの連中なんだ。だから、そうした連中の過去世は俺自身のものとして存在する。連中の蓄積した経験は全て、俺の経験として活用することができる。
それが〝プロジェクトされた意識〟という意味なんだ。今日の日のために、〝真の救世主〟高鳥慶輔として起つ日のために、俺は天界で大プロジェクトを用意してきた。沢山の〝力のある意識〟を組み込んだんだ。
だから、仮にも信長が俺の転生だとか、生れ変りだとか考えたら大間違いだ。信長はパワーはあるが欠点の多い奴で、真の意味での英傑とはほど遠い一種の蛮人だったよ」
弟子たちは一点の疑念もなく、高鳥の言葉を受容し、信じこんだ。高鳥の言には、磁力に似た強い催眠力があり、その矛盾点を取り上げ批判する知性が麻痺し、封じこめられてしまうのだった。異常な説得力であって、だれしも批判の余地がなくなってしまうのだ。
5
高鳥は、東丈や郁江がやったように、細心の注意を払い、全日常生活を費して、弟子たちの教育にあたった。そのありさまは、あまりにも酷似していて、もし観察者があれば笑い出さずにはいられなかったろう。それは影が光の動きを克明に模倣するさまそのものであった。
しかし、高鳥は異常な精力をもって指導にあたり、弟子たちの忠誠と献身を引き出すことに大きな成果をあげた。彼らは高鳥の忠実無比な奴隷、忠犬的存在として磨きをかけられたのである。その盲信ぶり盲従ぶりは世間一般の常識を覆すものであり、弟子たちの高鳥に対する態度を見ただけで、外部の人間は高鳥の凄いほど卓越したカリスマぶりに心を奪われずにはいられなかった。
高鳥は注意深く側近の弟子たちを選定したし、日下のような不適格者は早目に容赦なく排除し、決して近づけなかった。彼はどのようにして己れのカリスマ性を高め、神秘のヴェールを濃密にするかについて、恐ろしく的確な知識を先天的に身につけているかのようだった。
高鳥慶輔は何よりも神秘的な大指導者として、自己演出する天才を有していたようである。人格的な迫力、厚みや幅は、側近たちが驚くほどの速度で日々増大を遂げていた。
一日ごとに高鳥は変貌する。昨日の高鳥はもはや今日の高鳥ではない。更に迫力を増し、分厚く複雑になっているのを弟子たちは感じざるを得ない。
高鳥は早いスピードで成長を続けているのである。弟子たちはその成長ぶりに瞠目するだけで全く追従して行けない。
この二か月足らずの間に、高鳥は驚異的な変り方をした。以前の高鳥からは信じられない巨大な存在と化してしまった。
とりわけ、高鳥の霊力は想像を絶するほど巨大化したようである。もはや東丈や郁江などあっさりと追い抜いてしまったと、中野ら弟子たちは確信している。それは高鳥がまぎれもなく〝真の救世主〟としての偉大な姿を顕現しつつあるからであった。
高鳥と比較すれば、東丈は単なる先駆的な予言者であり、郁江に至ってはほんのお笑い草でしかない。異言を操り、過去世の再現という座興を演ずるしか能がないのだ。高鳥の前途に立ちはだかる難敵とはとうていいえない代物であった。
むろん、そうした見解は、弟子たちが高鳥をことさらに持ち上げるために、東丈や郁江たちを卑小化する試みであり、他愛もない競争心から出たものにすぎない。高鳥自身が指導しているわけではないが、若者たちはことごとく彼らの偉大なる導師とGENKENの指導者を比較しては、容赦なくこきおろし、嘲笑と揶揄の対象にした。彼らにとっては、東丈や郁江は滑稽な道化でしかなかった。高鳥本人が依然としてGENKENに多大の注意を払い続け、情報収集を怠らないのが不審であり、不満でもあった。
今更、GENKENなど古い。それが弟子たちの確信だったのである。もはや高鳥慶輔の時代なのだ。あらゆる意味で、高鳥は東丈らを凌駕した。時代の潮流は変り、何もかもが高鳥に与し、加担し始めた。なぜなら高鳥は宇宙神の化身である〝真の救世主〟なのだから......
それは弟子たちの確信であるだけではなく、高鳥本人の信念でもあった。しかし高鳥自身は、弟子たちほど単純な精神構造に堕した狂信盲信の徒ではなかった。
GENKENを支える東丈と郁江に対して、強い警戒心と競争心を内心では保持し続けていたのである。彼らがいずれ、強力な競合者として台頭してくることを怖れ、今のうちに芽をつみ取ることをこの美貌の若き教祖は真剣に考え始めていたのである。
潜在敵は芽のうちに取り除くこと。それが高鳥にとって基本的な命題であり、彼の巨大な世界制覇の構想の前に、絶対的な要請と化していた。
側近の青年たちが、驚かされた鳥が飛び立つように去った後、高鳥は苛々と部屋の中を歩き廻った。ひどく不機嫌になってしまっていた。
七鬼の悪態が、しつこくつきまとう虻のようにどうしても念頭を離れないのだった。
クレージーな悪文家の七鬼は、高鳥を愚弄するポイントを正確に心得ているようであった。
高鳥慶輔などは所詮、東丈のエピゴーネンにすぎず、その神がかり性や思想性(という程のものではないが)は、東丈の猿真似にすぎない。
高鳥は、東丈のGENKENで青年部部長という東丈の茶坊主を務め、組織造りやセールスポイントのでっち上げ、売り込みのテクニックを盗み出してきた二流品の〝新型教祖〟にすぎぬ、と七鬼は辛辣に断じ、口をきわめてこきおろしていた。
しかし、もっと許せないのは、七鬼が高鳥にさほど興味を示さず、東丈の亜流と断じて、真の敵として江田四朗を想定し、論じている態度にあった。
江田四朗は強大な霊力の所有者であり、組織者としても東丈を凌ぐ、と七鬼は評定を下していた。東丈が江田に勝るのは、マスコミ受けがよく宣伝が巧妙という一点だというのである。江田四朗は性格的に根が暗く、マスコミの表面に出たがらず、極度の秘密主義者ではあるが、総合すれば東丈よりも一枚も二枚も上手なのだという。
筆者の七鬼が、江田よりは遥かに東丈に対してより大きな敵意を持っており、最初から結論を用意しておとしめにかかっているのは明白であったが、高鳥はおさまらなかった。東丈がけなされ、故意におとしめられ、過小評価をされているからではない、その評言を独立させてみれば、それはそれで面白い。辛辣な東丈論になっている。悪意に満ちて料理しているのが痛快であった。別に七鬼の文章は説得力があるという次元のものではないし、悪どい揶揄と当てこすり、個人攻撃そのものの罵倒を、悪達者にやっているだけの下種な悪文なのであるが、読物としての面白さだけは溢れていた。
高鳥も自分自身が引合いに出されていなければ、無責任に吹き出し笑いをしながら読み捨てたかもしれない。東丈の矮軀を俎上に上げ、ピグミーだのコロポックル呼ばわりするくだりには、声を出して笑わざるを得なかった。
七鬼は自制心の留金がはずれているようで、身体的欠陥をあげつらい、人種的社会的な差別主義剝き出しに悪しざまに罵り、嘲弄してやまぬ、悪意に満ちた戯作者といった趣きが濃厚であった。無気味なまでにあくの強い辛辣さ、攻撃性を己れのセールスポイントとして心得ており、一切遠慮というものを持たなかった。
ひたすら面白がっているうちは、まさか東丈攻撃の筆が高鳥自身まで波及してくるとは思わなかったのである。
東丈に対するのと同様、容赦のないこきおろしが、高鳥本人にもなされていれば、高鳥はまだしも単純に腹を立てるだけに留まっていたかもしれない。
しかし、七鬼は許せぬことに高鳥を取るに足らぬ存在として扱った。郁江にすら二十行ほど割いて寸評を加えているのに、高鳥にはわずか五行しか与えなかった。しかも、東丈の亜流として軽く片付けた。七鬼が江田四朗に与えた比重とはまるで比較にならなかった。
高鳥は取るに足らぬ雑兵として片付けられたのである。高鳥の自尊心はこの時変質したようであった。異常なまでのポテンシャルを有する自尊心として生れ変ってしまったように感じられた。
七鬼は、高鳥が知らなかった性格を顕現させる隠しボタンを計らずも押してしまったようである。
高鳥の怒りは、それを触発した七鬼本人にはほとんど向わなかった。七鬼をそれて、江田四朗に向った。高鳥の自尊心に手ひどい傷を負わせたのは、七鬼本人ではなく江田四朗であるかのようであった。
むろん、筆者の七鬼をそのまま放置しておくつもりはない。痛烈な報復を加えてやる気でいる。
しかし、高鳥の心に湧出した底知れぬ巨大な復讐心は、江田四朗に向った。なぜなら、江田は七鬼によって
1として規定されたからである。
最近輩出した若手霊能者、新型教祖の筆頭として江田四朗は挙げられ、高鳥自身は雑兵として黙殺された。
高鳥はこの意図的な混乱を収拾し、正しい秩序に戻さねばならなかった。それは強固な使命感として、突如高鳥の頭上に舞い下り、しっかりと居座って、鉤爪で彼を把握し、強烈な圧力をもたらして、高鳥を使命遂行に駆り立てずにはおかなかった。
江田四朗の悪霊存在としての実態を白日の下に全てさらけだし、破滅させることで、七鬼の駄文を全面否定しなければならない、と高鳥は感じていたようである。
江田の〝悪霊帝国〟を崩壊させてやろう。自分のこの巨大な〝霊力〟にとって、それがいかにたやすいことであるかを完全に証明してやるのだ。
江田の悪業を全面的に暴露し、〝悪霊教団〟の基盤をマスコミの注視の下に覆してやろう。
その程度の事は、〝真の救世主〟の霊力にとって造作もない。たとえ、江田が悪霊の力を借りて歯向って来ても、徹底的に、完膚なきまでに叩き潰してやるまでだ。
闘争の期待が、高鳥に総毛立つような喜悦をもたらした。相手を叩き潰し、蹂躙するという目的が、高鳥に憑依し、阿修羅の愉悦と化した。
この若者独得の闘争心がかきたてられ、ふくれあがり、さながら怪獣並みの巨大な活力となって満身をめきめきと鳴らしながら、拡大させて行くのを、高鳥は実感した。
不機嫌さはあとかたもなく消え失せ、高鳥は異様な高揚の虜と化した。
その間、高鳥は三度も粗末なタイプ印刷のパンフレットを屑籠に叩きこんではまた拾い出した。どうしてもそのまま捨て去ることができないのだった。癇癪にまかせて目の前から消し去ろうとするのだが、その怒りをなし崩しにする気になれない。もう一度拾い上げて、更に怒りをむし返す。
実に三度も同じことを繰り返した後、高鳥の胆は決まり、腹立ちは高圧の闘争心に変っていた。衝動的な行動に出るかわりに、じっくりと計画を練ろうというのだった。
雑誌編集記者の河村蓉子を迎えた時には、高鳥の眼は澄み、仄かな微笑さえ浮んでいた。決して作りものの笑みではなかった。演技臭を感じさせないのが、この天才的な若者の持味であった。
河村蓉子はころんとした短軀に精一杯のスーツをまとい、気取って部屋に案内されてきた。滑稽なほどドレスアップして化粧も凝っていた。いかにも子持ちのおばさん然とした締りのない体形に似合わなかった。杉村由紀の高校同窓生というのに、由紀の引き締った崩れを見せないプロポーションとは雲泥の差がある、と高鳥は思った。
凝ってはいるが、とってつけたような化粧を施した顔には媚があふれていた。しかし十キロほど体重を落さないことには見られたざまではなかった。高鳥は贅肉が嫌いである。肉体的にも精神的にも、美意識の権化なのだった。
しかし、高鳥の顔は軽蔑を表出しない。磁力で惹きこむような魅力にあふれている。
この中年の職業女性とはこれで三度目になる。同窓生の杉村由紀と偶然に都心の大ホテルで再会した時、高鳥がその場に居合わせたのが最初だ。二度目はその縁で、インタヴューを申し込んできた時であり、河村蓉子は高鳥への絶大な関心を隠そうともしなかった。
普通、雑誌のインタヴュー記事は、印刷される前に本人の目に触れることはない。本人が要求したとしても、いい加減な口実を設けてのらりくらりといい抜けされる。本人の事前検閲は、雑誌側にとり具合が悪いからだ。本人の要求に応じて記事を訂正していては雑誌の校了に間に合わなくなってしまう、と一様に同じ弁解がなされるが、本音は雑誌のポリシーに介入されることを嫌うからだ。
むろん、狎れ合いの提灯記事は別である。
河村蓉子は高鳥の条件をことごとく容れ、結果的には提灯記事になることを拒まなかった。個人的に彼女が高鳥に対して容易ならぬ傾倒を示しているからにほかならなかった。
河村蓉子は、高鳥に逢いたい一心で、記事のゲラを持ってやって来たのである。
すっきりした長身を一挙動で立ち上らせ、入室した彼女を迎える高鳥を見て、河村蓉子の瞳孔は拡大し、口はわずかに開いた。潤んだ眼で、高鳥の微笑を湛えた顔を盗み見ている。
動作は鈍くなり間伸びしてきた。にわかに身ごなしが不自由になってしまったようである。
高鳥は頰笑んで、手を差し伸べ、握手を求めた。ごく自然な呼吸であり、この若者独得の爽やかさ鮮やかさであった。河村蓉子はぎくしゃくとした動作で応じ、高鳥の差し出す掌を夢中で握り締めた。彼女の体の深奥で何かが溶解したようになり、腰が落ち気味になった。
体の箍がはずれてしまったようである。彼女の眼はとろんと焦点を失い、呼気は特殊な臭気を発散しだした。しかし、本人は少しも気付かない。とろけるような熱いものが体内をうねって、それだけに神経が灼きついてしまっているからだった。
高鳥が手を放してソファを勧めた。彼女は下半身が融けて流れ落ちる異様な感覚の虜になったまま、夢中でソファに尻を落した。抑制がきかないので体がソファに弾かれ、幾度もはずんでしまう。両足が開いてしまうことにも気がつかない。
呼吸は荒くなり、言葉もろくに出てこない状態であった。目の焦点が定まらず、実際には何も見えなくなっている。きわめて特殊な逆上せようであり、しかも自制がまったく効かないのだ。
中年女性であるだけに、自分の体の深奥部に生じている顕著な現象がどんなものかよく心得ている。高鳥の眼前で、己れが性感のプラトーをきわめようとしていることはよくわかっているのだった。しかし、己れの意志では制止が効かない。体がどろどろに溶けて流れ出しているのだ。
河村蓉子はソファの肘を満身の力で握りしめ、感覚の奔騰に備えようと必死になった。深奥部から痙攣が波及してくるようだ。高鳥の冷やかに澄んだ大きな眼が、赤く灼熱した意識に注がれているのがわかっている。
この異様に美しい若者に、洗いざらい全てを見透かされているのを感じている。だが、さほどの羞恥心は覚えない。欲望を隠す気にもなれないのである。室内に高鳥と二人きりでいるせいであろう。どのような醜態をさらそうと他人目はないからだ。
この美しい若者は神の如き透徹する目を持って人の心の奥の襞までを見通してしまう。最初から彼女は無条件降伏の白旗を掲げてしまっているのだった。高鳥があの杉村由紀といっしょにいる場面を目撃した瞬間、この中年女は欲望と嫉妬にかっと灼かれてしまったのだ。杉村由紀を許せないと思った。なぜなら杉村由紀は自分と同じ年齢であり同じハンディキャップを負っているにもかかわらず、遥かに若く見え、美しさと魅力に溢れており、目もくらむ嫉妬に彼女を引きずりこんだ。
高鳥と杉村由紀があのホテルから出て来たのである限り、二人は寝たに違いない、と彼女は即断した。その証拠に杉村由紀は異様に嬌めかしく色っぽく、同性の敵意をかきたてずにはいない波動を放っており、その特殊な生臭さは情事の余韻に違いないと一人決めして、中年女の目を嫉みに曇らせた。絶対に許せないと思った。
この中年女は美少年に対して特別な嗜好の持主であり、高鳥のように爽やかな美しい若者を見ると、身裡がどろどろと灼け爛れる、熾烈な欲望の虜になってしまうのだった。奴隷となって美しく気高い君主にかしずきたい、と狂おしい懊悩にのたうちまわりたくなる。
今、その高鳥を目の前にして二人きりになっている状況は、河村蓉子を心身ともに狂わせた。自分が発狂したことを彼女は確信していた。とめどもない快楽の波が続けざまに押し寄せてきて、彼女を頂点に押しあげ、堪えがたい呻き声を喉の深奥から絞り出させた。淫蕩な炎が全身を爛れさせた。
6
高鳥はそしらぬ顔でインタヴュー記事のゲラを読んでいる。三ページだから、内容的にはたいしたことはないが、まさによくできた提灯記事であった。高鳥の気に障るようなことは一行も書かれていない。高鳥の談話を誤解したり勘違いした部分はあるが、他誌には共通した故意の曲解という傾向はまったくない。
この女編集記者は使えるな、というのが高鳥の感想であった。うまく手馴づけて飼い馴らす必要すらない。もうすでに完全に高鳥によって取り込まれてしまっているのである。引き抜いて調教し、マスコミ担当にするのに適当な人材ではあったが、惜しむらくは容姿が高鳥の許容規準からはずれていた。
しかし、今、高鳥の眼前で快楽の頂点をきわめたばかりの河村蓉子の貌はなかなかに嬌めかしく、考え直してもいいという余地を彼に与えた。贅肉を思いきり落させ減量させれば、我慢できる線に持って行けそうであった。
身近に醜貌の人間が仕えるのは、高鳥が何よりも疎んじるところだ。美しくなければ、あらゆるものは存在の価値がない、と彼は本気で考えていた。全ての醜いものは地上から消滅させてしまうべきだった。
「だいたいにおいて、結構だと思いますね」
と、高鳥は声の響きに気をつけながらいった。
「写真もそんなにひどくない。しかし、次回からはもっと優れた名のある写真家を起用してもらいたいですね」
彼のような若造が口にするのは横柄すぎるせりふだが、声音の爽やかさと魅力ある雰囲気でそう感じさせないことも可能なのだった。要は相手に彼の権威を容認させてしまえばいいのである。
だから初対面の人間を巻きこむのに、高鳥は総力をあげた。手許に引きこみ、催眠的な影響力で金縛りにしてしまうのだ。むろん、すれっからしのマスコミ人は、彼の強力な念力をもってしてもからめ取るのは容易な業ではなかった。ポリフィルムで包装したような心のバリヤーを備えているからだ。
特に高鳥のような霊能者に対しては最初から警戒し、用心してかかってくる。バリヤーを突破するには特殊な工夫が必要であった。たとえばいきなり、相手の過去をずばりと読み取り、相手を苦しめている問題を明るみにさらしてみせる。これは霊能者のよく用いるハッタリであって、一時的に相手を驚愕させ、畏怖させることはできても、効果のほどは長続きしない。
相手は怖れをなして更に警戒心を強め、二度と近寄らなくなりがちである。強引なテクニックは人間関係に破綻を来たしやすい。
何よりも魅力で引きこみ、からめ取ることが最良であった。相手に依存を強めさせ、離れられぬようにさせてしまう。身も心もあげて溺れこんでしまえば、後は高鳥がどのように料理しようと思いのままだ。
河村蓉子などは、さしずめそのサンプルといってさしつかえなかった。もはや強固な愛着や依存心が形成されており、高鳥の奴隷に等しい。
自己献身の欲望に満たされ、忠実な犬同様に高鳥の後について廻るであろう。
河村蓉子は生返事をして、とろんとした眼を据えていた。高鳥の言葉をほとんど理解していなかった。紅潮して色っぽい貌になっている。いまだに快楽の波間に漂い続けているようであった。意識が焦点定まらぬ状態に留まっているのだ。
高鳥は相手の鋭敏さに驚きを禁じえなかった。彼独得の、性的快楽を誘発する霊力を相手に向って発揮したわけではないのだ。そんな気分になる相手ではなかった。杉村由紀ならいざ知らず、相手の中年女はいささかも高鳥の欲望を刺激する力など持っていない。相手の美醜に極度に拘泥する高鳥は、一瞬間もそのようなことは念頭におかなかった。
河村蓉子は、高鳥がそこにいるというだけで勝手に快楽の頂点を極めてしまったのである。彼女にとり、高鳥は淫魔以上の力を持った存在なのだった。
河村蓉子が正常に近い状態に戻るまで、しばらく待たなければならなかった。相手はあまりにも感覚の深淵に陥ちこんでおり、這い上ってくるのは容易なことではなかった。ほとんど忘我の状態だったのである。
恍惚境から浮上し、ようやく口がきけるようになった河村蓉子は顔を赤らめて、お手洗いをお借りしたいといった。腰が抜けたようになり、足許の定まらぬ鈍重な足取りで、高鳥の視界から消えた。しかし、透視力を働かすまでもなく、高鳥は彼女の動作を見抜くことができた。重く湿った下着が肌にからみつく感触までがわかるのだった。
河村蓉子にしてみれば、激しく狂おしい情事の後始末にも等しいであろう。想念の上で彼女は高鳥慶輔と交わったのだ。
河村蓉子のさらけだしているぶざまさが、高鳥の口辺に薄笑いを刻ませた。女に対する抜きがたい蔑みが、彼の心の裡でしだいに肥大して行く。彼の〝力〟に翻弄され、まったく抵抗を示さないで屈従して行く〝牝〟への軽蔑であった。誇り高さも潔さもない、生臭い体液にまみれている牝どもは、もはや高鳥を高揚させる力を一片も持たなくなっていた。
杉村由紀へと連想が飛んで、高鳥に挑戦の熱い疼きをもたらした。あの誇り高い女性は他の牝どもと全く異る。最初から高鳥への屈従をはっきりと拒み、彼に対して一線を劃している。彼を近づける意志は毛頭ないのである。杉村由紀の全忠誠は東丈に献げられており、高鳥をわずかにでも心に容れる余地はまったくない。
それは杉村由紀が、高鳥の霊力を受付けぬことで明確に証されている。彼の異性を吸引する性的快楽の鉤が、杉村由紀には届かない。まるで硬質のガラスの表面を滑るように、空しく引搔くばかりで、鉤を打ちこむ隙がまるで見当らないのである。
そのくせ、冷淡というのではない。高鳥に対して充分に好意的であり、受容的とさえいえる。しかし、それはあくまでもお姉さんぶった親しみであり、高鳥の性的な求愛を受け容れる性質のものではない。
高鳥が全力を挙げ、いかに想念エネルギーを送りこみ、刺激を与えても、杉村由紀は崩れようとはしない。性的に無感覚ではありえないはずなのに、どう攻めても引きずり倒す手掛りが摑めないのである。
高鳥にとって、杉村由紀ほど手強く、挑戦的な存在はまたとなかった。彼女を征服することはもはや、彼の執念と化していた。杉村由紀を思いのままにし、いかなる要求にも屈従させること。それは、高鳥の支配欲の焦点にすわっていたといえる。
それがなされない限り、高鳥がたとえ全世界を掌握する権力者となったところで、完全なものにはなれなかった。
高鳥慶輔は小学生以来、好みに合致した異性に求愛して失敗した試しがなかった。たとえ時間がかかっても必ず意志したことはなし遂げた。最長は五年かかったが、それは小学校時分に知った若い女教師を、中学三年になってようやく征服する機会を得たからである。その点、高鳥は恐ろしく執念深かったし、精力と実行力に満ちていた。
己れの意に従わない女は、高鳥をもっとも興奮させる挑戦そのものであり、支配下に置くまでは高鳥は手段を選ばず、謀計の限りを尽すことを厭わなかった。
杉村由紀は、小学校時分の若い女教師に匹敵する難敵であり、血を熱くたぎらせる挑戦であった。もし彼女がいなければ、高鳥は東丈の姉三千子に照準を定めたであろう。
天秤にかけた挙句、杉村由紀が標的として選ばれた。東三千子も文句のない相手だが、彼女が東丈の姉であるという点以外にも、何かしら高鳥を不安にさせる要素を有しているため、天秤は杉村由紀に傾いたのかもしれなかった。
東三千子には、奇妙なわけのわからないところがあった。生身の女として把握しにくい、理解を絶する印象が避けがたく最初から存在した。
強く征服欲をかきたてられるのだが、なぜか躊躇してしまうのだった。放恣な想像をかきたてにくいのである。イマジネーションの中で、生身の女としてもてあそぶことに、妙な抵抗感が困難として存在した。淫らなイメージがきわめて喚起しにくいのである。高鳥の深層意識に潜んでいる検閲官が、放恣なイメージの肥大を阻止してしまうようであった。
まるで、東三千子が生身の人間ではなく、神聖な女神であるかのように、高鳥の深層意識は感じているようなのだ。それゆえ意識的な努力をいかに払っても、想像力はよそよそしく萎えてしまうのだった。
馬鹿げている、と高鳥は思う。自分で自分が理解できないのだ。彼はいわゆる深層心理学などに全く信を置いていない。己れの内部に、己れ自身の意志に逆らい、疎外する第二の自己が存在するなど全く信じられない。そんなことはフロイトやユングなど、いい加減な心理学者のたわ言である。
しかし、己れの内部に、東三千子を想像力の性的奴隷にしようとする試みを邪魔する傾向があることは事実のようであった。
高鳥は、深層意識では、東三千子を神聖な女神視しているのかもしれなかった。それはきわめて強固な抵抗として明確に存在しており、高鳥の意識的な瀆神的想念を断乎として押し返し、排除した。
幾度も繰返した挙句、高鳥は東三千子から撤退した。偏執的な高鳥が拘泥せずに手を引いたのは、杉村由紀の存在が助けとなった。
杉村由紀の方が魅力的だからだ、と彼は考えざるを得なかった。東三千子は性的妄想に馴染まない〝禁忌〟の傾向があるが、杉村由紀はそうではなかった。ずっと庶民的であり、神聖さや高貴さには欠けるが、遥かに親しめる相手であった。
杉村由紀は、高鳥の妄執の標的として選ばれたのだ。高鳥は自信に満ちており、いささかも焦らなかった。相手が抵抗すればするほど、高鳥の意欲はかきたてられるからだ。挑戦者の存在は、高鳥の内奥から更に巨大な活力と霊力を引き出さずにはおかない。彼女が拒めば拒むほど、高鳥は活気付き、圧倒的な精力によって駆動されることになる。
杉村由紀が〝強敵〟であることは楽しいことであった。
高鳥は、小学校時分の女教師を征服した瞬間を想像力の中で甦らせ、いまだに生々しい記憶を楽しんだ。征服の快感は一瞬であっても、その経験は彼に大きな自信をもたらさずにはおかなかった。その瞬間から、高鳥は征服者として目覚めたといえるであろう。
瑞江というその小学校女教師は、中学三年の高鳥に組み敷かれ、徹底的に従順になり、性的奴隷として仕えた最初の女であった。
高鳥には何かしら特別なところがある、とささやき、以後の彼の人生に転機をもたらした。女教師の〝牝〟としての讃美は、高鳥を正常な異性愛から逸脱させた。彼はいわば〝大物猟師〟としての道を歩み始めてしまったのである。
7
高鳥慶輔のインタヴュー記事への注文は厳しかった。文章の一つ一つに注文をつけたといっても過言ではなかった。
編集部はこうした干渉をもっとも嫌うものである。事前にゲラを相手に見せないのはそのためだ。高鳥のようなうるさ方は、よほどの超大物でない限り、疎まれて二度とお座敷がかからなくなってしまう。
そうしたことを知っているのかどうか、高鳥は平気であった。インタヴューアの感想に至るまで遠慮なく赤線を引いて、チェックを施してしまった。恐いもの知らずの大スター並みの過干渉ぶりであった。
しかし、河村蓉子は一向に抵抗を示さず、むしろ進んで干渉を受け容れた。
「先生のお気に召すように、存分に朱筆を入れて頂いても構いません」
と、河村蓉子は編集長が聞いたら髪を逆立てそうな阿諛追従を情熱をこめてやってのけた。
「まだ時間的に間に合いますから、先生のお気に召すように、どうぞ直して下さい。あたくし、そのつもりで予定を組んで参りましたから」
「それなら今、手を入れましょう」
高鳥は猛烈なスピードでゲラを書き直しにかかった。発言内容が完全に入れ変るような書きこみで、校正刷がみるみる埋って行く。その速筆ぶりを河村蓉子は驚嘆を通り越して、陶然として見惚れている。
高鳥に対しては、すでに完全に無批判であり、無防備になっている。彼のやることなすこと全てが天上の黄金の光彩を帯びて、崇高であり高貴に見える。
高鳥の傲慢さ、傍若無人さも、天上の御使いであればこそ凡人の伺い知るよしもない謎を秘めて正当化される。
高鳥は幼稚で非常識であるのではなく、神秘的なのである。社会通念に無知なのではなく超越しているのだ。彼は単なる凡百の天才少年や霊感少年ではありえず、〝真の救世主〟である超越存在なのだ。
だからこそ高鳥は通俗次元での道徳的規範やルールに縛られることのない唯一の人なのである。
〝真の救世主〟を凡庸な俗人の徒が、低級な物質的頭脳でどうやって理解することができるだろう。俗人にはただ彼を崇め、随順する以外、なすすべがないではないか。
高鳥の一語一語が、その眼差や表情の一つ一つが、河村蓉子にとっては法雨であり慈雨そのものであった。
仏教でいう〝本仏〟が下生した時に随順を許される幸せが彼女の体液を沸騰させ、熱く体を痺れさせる。
だからこそ、高鳥の眼差を受けるだけで、〝法悦〟に達し、恍惚境を漂うことになるのである。
通俗的な人間たちには決して理解できず、到達を許されない境地だと彼女は思う。
以前、S学会の知己が執拗に折伏を彼女に対して試み、彼女に知らしめようとしていた至上の境地とはこういうことだったのか、と改めて思い知る。
もちろん、S学会の本仏論などは愚昧であり迷妄そのものの錯誤だったのである。〝真の救世主〟とは、偉大な霊力を持つだけにとどまらず、人間的基準を超えた、この世ならぬ美の持主でなければならない。地上的な権力意志だけの俗物や粗野な田吾作などでありうるわけがない。
高鳥慶輔はあらゆる意味で、〝真の救世主〟の基準を超えている。彼が備えているのはまさしく神の力であり、その美しさは比類なく、輝かしく、衝撃的でさえある。
高鳥に逢い、言葉を交し、その〝力〟を示されてなお、彼が〝真の救世主〟であることを感得できず、その美しさに魅せられない者は救いようのない愚物であり、〝縁なき衆生〟だと河村蓉子は信ずるに至った。
衆生が、本仏を迎える時に感得する〝恋慕渇仰〟とはまさしくこのことだ、と確信する。心をしっかりと高鳥に結ばれてしまい、寝ても覚めても彼を熱烈に恋慕せずにはいられない。
S学会の熱心な信者である友人など、真の本仏がどのような実体を備えているか知らぬままに妄信に走っているのだ。理性も知性も根こそぎにされ、盲目の愚物と化して、奇蹟能力の一片もない〝本仏〟と称する会長に入れ上げているのである。
〝本仏〟といやしくも名乗るならば、人の心を一瞬にして見通す程度のことは当然のことであろう。高鳥がやったように、第三者が知り得るはずもない個人の秘密をずばずばと見抜くほどのことは、〝本仏〟と称する会長もやってのけるべきである。むろん、そんなことはあの脂切った俗物、権力意志の化物には出来るはずがない。いかに巨大組織を誇ろうとも、中身は卑小なペテン師そのものではないか。
何の信ずべき証拠もないのに、友人を含めた学会員という名の信者は狂者、妄信に走り、凡庸な俗物を〝本仏〟に祀り上げているのである。これほど笑うべき愚昧さはまたとなかった。
彼女は、学会員の友人に対して強烈な優越感を、顔を打つ熱風のように意識した。今に見ているといい。〝真の救世主〟である高鳥慶輔は、砂の楼閣であるS学会の巨大組織を一瞬にして崩壊へと導くであろう。高鳥は生殺与奪の力を神より与えられ、腐敗した既成宗教をことごとく覆し、巨大教団の指導者たちを粛清し、組織を解体、浄化の洗礼を与え、新しい秩序を世界の隅々に至るまで組み上げて行くのである。
そして自分は、〝真の救世主〟高鳥慶輔の真価を、初めて認識し、真先に帰依したマスコミ人、ジャーナリストなのだ。
後は雪崩を打って、全ての人々は高鳥に帰依し、〝真の救世主〟の前に跪くであろう。しかし、自分が最初の帰依者、最初の弟子である栄光はそれで失われることなく、ますます光り輝くだろう......
河村蓉子は陶然と身裡を恍惚感に痺れさせながら、校正刷に朱筆を熱心に走らせている高鳥を見詰めていた。やや光量の少い人工照明の光を受けた高鳥の貌は凄みをはらんだ端麗さであった。
非人間的なまでに美しい。汗の匂いや体液の濁りを感じさせないのである。人間の生理を超越しており、これは天使族の透徹した美だ、と彼女は思った。対比的に自分の発している生臭さが強く意識された。トイレットに立って始末してきたが、それが無為に帰すように顕著な生理的反応が持続している。まるで失禁したようになった肌着をどうしようもなくなっていた。
下半身が溶けて流れ出して行く強烈な感覚が、いまだに続いている。蛇の生殺しのように止めを刺されぬままに、いつまでも高処に掲げられているようだ。
高鳥が自分の恥ずべき生理的状態に気付いたら......そう思うと全身がべっとりと汗ばんでくる。激しく叱責を受けるかもしれない。侮蔑の言葉を浴びせられるかもしれない。高鳥の〝神の眼〟にかかれば、自分が〝法悦〟に酔い痴れた挙句、恐ろしいほど逸脱してしまっていることをあっさりと看破されるはずだからだ。
その考えは奇妙な倒錯した期待を生んだ。高鳥の口から、自分のように薄汚れた、生臭い淫乱女は徹底的に叱責され、処罰を受けるべきだ。露骨な言葉で罵られ、鞭打たれ、徹底的に辱しめを受けるべきだ。
さもなければ、自分のようにみっともない、醜悪な女は、〝真なる救世主〟の面前にまかり出る資格はない。自分は浄化を受けなければならない。自分が過去行なってきた、全ての醜い所業の全てを、高鳥に告白し、叱責されることによって、自己浄化を計らなければならない。
さもなければ、自分は高鳥に弟子として仕える資格は与えられることは決してないだろう。自分は〝真なる救世主〟の前で、下半身が溶解するほどの淫欲の虜になっている下種な女なのだから......
そんな河村蓉子の自虐的な卑下の熱い想念が通じたように、高鳥は目をあげて彼女を見た。その眼底にスポットライトが備わっているように、輝度の異常に高い瞳がきらりと光を放った。後から後から、虹の光芒を引くように強い光が眼底から溢れ出してくる。
これは絶対に生身の肉体を持つ人間の瞳ではありえなかった。あまりの光圧の強さに体が揺ぎ、吹き飛ばされて行きそうだ。彼女の意識が強い圧力を受けて、激しく揺動しているのだった。
「あなたが私をプッシュしたい気持は、この程度の記事では物足りないでしょう」
と、高鳥は艶のある甘い、深い声でささやいた。彼女がささやきかけられたと感じただけなのかもしれない。しかし、全ての窓を分厚いカーテンで覆い、昼光を締め出した室内は、高鳥と二人だけの密室という気分を高め、より陶酔を強めるものであった。高鳥が呼ばない限り、室内へは秘書といえども無断では足を踏み入れない。
前回訪れた時は、インタヴューア、カメラマンが同行しており、こうした特殊な密室性は意識の外にあった。
しかし、今はだれも足を踏み入れない密室で、高鳥と二人きりなのである。
改めて強いときめきが襲い、不意に喉が狭窄して声が出なくなり、彼女は必死でただ頷いた。
「あなたが、私を〝真の救世主〟と心から信じてついて来たいと思う心は本物です。私はそれを嬉しく思う。この短い記事の中に、あなたの真情は溢れているし、それは読む者の心を打ち、捕えて離さないでしょう......あなたは私を愛し、全てを献げて尽したいと全身全霊で願っていますね?」
「はい! そうです! その通りです!」
彼女は必死でいった。それだけを喋るのに全てのエネルギーを振り絞らなければならなかった。猛烈な熱波が満身に波打ち、目がくらんだ。
「あなたが私を愛するなら、私もあなたを愛そう。それもあなたが私を愛するよりも何十倍も何百倍もの強さで。それが〝真の救世主〟の愛、〝神の愛〟だということを憶えておいてほしい」
彼は朗々たる声音で告げた。人間の喉から出るとは信じられない、輝かしい声音と河村蓉子は〝法悦〟の中で聞いた。
「あなたは私に、真心の全てをもって仕えなさい。そうすれば天界の幸せは全てあなたのものになる。苦しみも悩みも何もかも消えて行く。〝神の愛〟があなたを浄化するから......私を全力を挙げて信じなさい。魂を挙げて信じ、愛しなさい。いっておくが決して疑ってはいけない。私は宇宙の神の意を体するものであり、心は宇宙神と同通している。あなたが物質でしかないちっぽけな人間の心で、私の心をあれこれ推量するのは、最も大きな間違いであり、罪悪なのである。
ただひたすら私を信じなさい。それが大宇宙なる神の慈愛を受ける唯一の資格なのだから。わずかにでも私を疑えば、その時より大きな苦しみがあなたを襲うだろう。疑いは猜疑心であり、神へ矢を引く行為なのである。私をわずかにでも疑えば、あなたは神への裏切り者、ユダとなって無間地獄へ落ち、消滅させられ、永久に地獄の一部となり、責め苦を受けなければならなくなる。
それ以外に、神は何もあなたから要求しようとはしません。神は全てをもってあなたを愛し、あなたは最大の幸福者となります。
しかし、これは決して裏切りや違背を許されぬ神との約束だということを忘れてはならない。
もし私を疑えば、その瞬間から、あなたの地獄は始まる。あなたは宇宙が終りを迎える日まで、想像を絶した苦しみを受けなければならない。
しかし、神は寛大です。あなたが不信という裏切り行為さえなさなければ、あなたのこれまでの罪業は全て許され、浄化され、消え失せる。私はそれをあなたに約束する。また、この先、あなたがどのような罪を犯そうとも、私はあなたのために神の慈悲を願ってあげよう。
あなたは私を信じ、決して裏切らないと誓いますか?」
「誓います! もちろん誓います。あたくしの魂を全てあなた様におあずけし、ゆだねます。あたくしはあなたさまこそ唯一無二の〝真の救世主〟と信じ、未来永劫につき従って行くことを誓います。もし裏切れば、その場で死ぬことになっても構いません!」
「その誓いは聞き届けられた、宇宙の全能なる神によって......神は全ての幸福をあなたに与えて下さる。けれども不信を抱いて、わずかにでも神を裏切れば、たちどころにあなたはその場であらん限りの苦しみを味わい、悶死することになる。
そのような不幸をあなたが迎えないように、私はあなたを全力を挙げて導くだろう......」
「お願いします! 先生、あたくしはあなたさまの下僕でございます。あなたさまの卑しいはした女でございます!」
河村蓉子は涙を噴きこぼれさせながら跪き、甲高い泣き声で宣誓した。感情を思うさま奔騰させ、涙に泣き濡れて自己浄化するのは甘美な体験であった。ぞくぞくする快美感が身裡を走り抜ける。彼女はいつしかソファの足許に体を滑り落させ、上体を高鳥の足先に投げ出して額を床にすりつけ拝跪の動作を繰り返していた。
高鳥慶輔の靴先の泥を舌で舐め取って浄めたいと本気で思っていた。痛々しい自己卑下の姿勢を甘美な自己陶酔にすり変えていた。自分は高鳥の女奴隷なのだと本心から確信した。それは体が戦き慄える自己犠牲の歓喜であった。
高鳥はソファに座したまま、額を床の絨毯に擦りつけ、両手で彼の足を拝し、かき抱く動作を繰り返す河村蓉子を瞬きもせずに見降していた。その眼は冷ややかな勝ち誇った光に満たされ、輝いていた。相手が彼に与えた満足感は特殊なものであり、かつて高鳥が味わったことのない勝利感であった。これほどまでに自己卑下し、自ら進んで屈辱的な姿勢で隷従を誓った者は、弟子たちの中には一人もいなかった。
己れの影響力を駆使して隷従を誓わせたことは何度もあるが、己れから身を投げ出して奴隷の服従を申し出たのは、この河村蓉子が初めてだったのだ。
力強い誇りと昂ぶりが身裡に湧出した。その味わいは特殊な麻薬の強烈な作用に似ていた。一度味を占めれば、それにとり憑かれ、二度と退けることの出来ぬ恐ろしい魔蠱の歓喜であった。
高鳥慶輔は、この時真剣に世界の帝王たることを欲した。全ての人間を、河村蓉子のように自己の足許に拝跪させ、隷従を誓わせたい、と熱病の烈しさで望んだ。その欲求があまりにも圧倒的だったので、彼は慄えた。
熱病がとり憑いた、と高鳥は思った。それほど体は猛烈に熱くなり、衣服が高熱を発して焦げるのではないかと思われた。体が炎を発したとしても不思議ではなかった。尻の下端から高熱の火球がぎらぎら輝きながら上昇し、頭頂へと向うようだった。
あまりの昂揚と興奮に堪え切れず、高鳥は身悶えした。身裡から奔るものがあり、叫び声を挙げずにはいられなかった。高鳥は立ち上り、両手で喉を摑んだ。体内から急速に喉へせり上ってくるものがあった。
驚きに満ちて、河村蓉子が見上げるその眼前へ、高鳥は喉から口腔へ逆流してきた異物を吐き出した。
黄金色に輝く円球がバラバラと彼女の前の絨毯に散乱した。それはパチンコ球ほどのサイズの黄金球であり、河村蓉子はわななく手で拾い上げた。茫然と掌中の黄金球と高鳥を見比べる。
奇蹟であることはわかっているのだが、どうにも実感として頭にしみこんで行かないのだった。
「それは、あなたの誓いを宇宙なる神が喜ばれ、報酬としてあなたに与えられたものだ......」
高鳥は突っ立ったまま、肩で息をしながらようやく告げた。疲労を感じていた。かつて覚えたことのない特殊な疲労であり、黄金球を物質化させたために、生体エネルギーを消耗しすぎたのかもしれない、と高鳥は思った。精力絶倫の彼が立ちくらみを起こしかねない異様な消耗感の虜になっていた。
「それを大切に取っておきなさい......神が与えたもうた贈り物である。そなたの忠誠心が続くかぎり、黄金の珠はそなたの許に留まるだろう。その黄金の輝きはそなたの魂の輝きである。大切に毎日磨くがよい。磨けば磨くほど、その黄金の珠もそなたの魂もさんぜんとした光輝を放ち続けるのだから......」
いいおわって、高鳥は堪りかねたようにソファに体を倒れこませた。いっぺんに物質化を進めすぎたようであった。あまり派手にやると消耗が激しく生命取りにもなりかねないと本能的に感じる。事前に生体エネルギーを何らかの方法でフルチャージさせておかなければならないだろう......
8
「宇宙神が地上に降臨したのが私だが、私は現身であり肉体を持った人間なんだ」
と、高鳥はいった。ようやく元気を回復したところだった。ソファに戻った河村蓉子は心配げに崇拝する生身の美神を見詰めていた。みるみるうちに目の前で高鳥が蒼ざめ、憔悴してしまったからである。
黄金の珠を産み落すことは、生身の神である高鳥にしても、生命力の乱費を意味するのだと教えられた。確かにそうであろう。余人には出来ない真の奇蹟である。〝真なる救世主〟ならではの天の御業であった。
高鳥によって与えられた数十個の黄金の珠はハンカチにつつまれ、大切に河村蓉子の肌身に接していた。ひやりと冷たく、重い。
それが奇術であるとは一瞬も、彼女は疑わなかった。
何百グラムもする黄金の珠である。それが高鳥の口中から溢れ出るさまを彼女は全て目撃したのだ。手品や奇術を弄し、彼女にこれほど大量の黄金を与える必要がどこにあるだろうか。
高鳥があらかじめ黄金の珠を大量に腹中に吞んでおき、彼女の面前で吐き戻してみせたと疑う人間もいるかもしれないが、黄金の価格を考えるだけで、そのような事実はありえないとわかる。第一、黄金の珠は一個や二個ではないのである。少くとも五、六十個はあるであろう。これだけの価値のあるものを、高鳥が無償で彼女に与える理由は何一つなかった。
「これは僕があなたに与えたものと考えなくてもいい。天の神があなたの忠誠心の強さを非常に喜びたもうた証しだから」
と、高鳥は平然としていってのけた。
「全部持って帰りなさい。本当に黄金かどうか調べてみるといい。まず絶対に間違いないはずだが......まさか天なる神がニセやメッキの黄金を与えてくれるはずもないからね。だけど、調べた後は大事にしなさい。他人にあげたりしない方がいい。天が与えてくれた財宝は、人間の欲望には馴染まない。売り買いしたら大変なことになる」
「そんなことは絶対にいたしません! 一生の間大切にあたくしの宝物にいたします。この黄金珠はうちの家宝にするつもりでおります」
河村蓉子は意気ごんでいった。体を冷やす黄金の重みが快かった。
「あたくしは最大の幸せ者でございます。生身の神であられる先生にお逢いできただけでも無上の幸せですのに、このように神界よりの贈り物まで賜わりまして、あたくしは本当に世界一の果報者でございますわ......」
「この程度のことで、それほど幸福になれるとは、あなたはもともと幸せ者なのじゃないかな?」
と、高鳥が笑いながらいう。その砕けた人間味が洒脱であり、無類の魅力に思えて、彼女は陶酔の目で仰がずにはいられない。
ひたすらに神秘的な高鳥も凄いほどの美しさで彼女を総毛立たせるが、くつろいで人間味を見せる高鳥もまた最高であった。
美神が人間の手の届く位置まで降臨してくれた、そんな気軽さがある。それがゆえに、一転して神秘の靄に包まれた時との落差の激しさは筆舌に尽せないものがあった。高鳥はその両極を自由自在に往復することができるのである。
「先生にお逢いし、弟子の一員に加えて頂ける運命が存在した......その意味であたくしは生れ落ちた時から幸せ者であったと申し上げられると思います。常日頃、自分の運の悪さや運命を呪っておりましたけれども、一時的な衝動にまかせて他の宗教団体へ入信したりしなくて本当によかったと胸を撫でおろす心地がいたします。もう少しでS学会へ入っているところでしたもの......そうでしたらあんな会長を〝本仏〟だというデマに惑わされて、真実が見えなくなり、先生のことをお聞きしても、本当の生き神様だとはわからなくなっていたでしょうし......」
河村蓉子はブルッと身慄いしていった。
「あの時ニュージャパンで先生に引き合わせてくれた杉村由紀さんに、どんなにお礼をいってもいい足りないようですわ」
「そう、彼女があなたにとっては導きの役を務めてくれた......いずれはあなたが私の許へ来るにしても、数か月か一年は短縮してくれたといえるだろうね」
「そうなったとしましたら、もう大差がついていたのではないでしょうか......沢山の高弟の方々が先生をしっかりと取り巻いて、あたくしなどお声をかけて頂けるどころか、先生のお顔を遠くから仰ぎ見ることさえ容易ではないのではなかろうかという気がいたします」
「たぶん、そうなっていたろうね。私にとってこの一か月は普通の人間にとっての百年にも相当する。一年となれば、何十万年、何百万年という地質学的な歳月にも匹敵するだろう。数か月経てば、あなたにはもう理解できないほど、私は高処へ昇ってしまっているはずだ」
高鳥はさらりといった。思い入れを排し、力んだところのない爽やかさであった。本気でそう信じているのである。それゆえ高鳥は大仰なハッタリを弄したりする必要を少しも感じなかった。
この二か月間で自分に起こった変化を見るがいい。良家のお坊ちゃん風の平凡な大学生から、〝真の救世主〟として自覚へと至る飛躍の巨大さを、だれが事前に予測することができたろうか。
しかも自分はようやく第一歩を踏み出したばかりなのである。〝真の救世主〟の一歩は巨人の一歩だ。だれしも度胆を抜かれる超絶の歩幅で行なわれる。この自分の歩みによくついて来られる弟子は一人もいまい。大きな才能を有する人材がやがて輩出して、今の無能な若輩者の弟子たちに取って換って行くであろう。
古き者は新しき者に取って換られて行くのだ。無能な人間は容赦なく退け、淘汰して行かなければならぬ。
一年後の自分は、すでに日本を制覇し、海外への膨張を続けているであろう。その日のために更に有能な人間たちを、あらん限りの引力を発揮して手許へ引き寄せなければならない。さしずめこの河村蓉子などは、マスコミ係として当座の間は使えるだろう。未経験の大学生衣笠と異り、河村には現役のマスコミ人として、マスコミ世界について知り尽している強みがある。
現時点での河村蓉子の容姿は、高鳥の美意識が要求する水準に到達していないが、河村蓉子の努力、克己によってそれは大至急改善されなければならなかった。
しかし、いかにひいき目で見ても、杉村由紀にはとうてい及ぶまいと思えた。その比類ない忠誠心を初めとして、容姿、知性、能力いずれも遠く及ばない。杉村由紀はあまりにも卓越した存在であった。
たとえ、高名なデザイナーの美人秘書栃折加寿代といえども、やはり杉村由紀と同等とはいえない。杉村が霊能者であることを抜きにしてもそうなのだ。
杉村由紀は何かしら他の女と並べて、比較し、採点することの不可能な女であった。代替のきかぬ特殊な存在なのである。それは、あるいは杉村が東丈の秘書であるという事実に関りを持っているかもしれなかった。
東丈の最も信任おくあたわざる秘書であるがゆえに、高鳥は彼女に対して特殊な関心を払い続けているのかもしれない。彼女は東丈の所有物であってはならなかった。東丈以上の存在である高鳥の占有下に属するべきであった。
もし高鳥が自己の力の全てを振るって、杉村由紀を己れの所有に帰すれば、高鳥が東丈を凌駕する存在であることが、だれの目にも明白になるであろう。
早くいえば、他人から奪い取った女でなければ、高鳥の優越感を満たすことはないのかもしれなかった。他人が欲しがらないものにいったい何の価値があるか。全ての人間がこぞって欲するものをこそ、高鳥は独占すべきであった。それだけが具体的に高鳥の超絶性、神性をもっとも効果的に俗人どもに認識させ、圧倒することが可能なのだった。
──全てを与える者こそ、全てを奪い去る者だ、と高鳥は思っていた。
さもなければ、人間などという愚鈍な輩は、決して〝真の救世主〟を遣わす神の偉大さや有難さを思い知ることはないだろう。
強く殴りつけられなければ、何も理解できぬ馬鹿なロバのような存在が人間というものだ。激しく鞭で打たれ、苦痛に悲鳴をあげ、泣き叫び身悶えした後でなければ、愛撫の手を感謝して受け容れることのできない愚物なのだ。
有難味を教え、感謝の念を教えるために、高鳥はあらかじめ人類から全ての希望を奪い取り、絶望の淵に陥しこみ、徹底的に鞭打たねばならないであろう。
さもなければ、愚昧な人類は、〝真の救世主〟の到来を歓喜を持って迎えることすらかなわないはずだ。そのために世界は一度崩壊させ、徹底的な〝苦〟に人類全員を埋没させてやらねばならない。
まさしく──〝真の救世主〟は浄火の炎の立ち登る中をやってくる──存在であるのだ。その点を東丈は実に鮮やかに捉えている。
〝真の救世主〟到来を予告するのが役割の、洗礼者ヨハネである東丈の言葉にふさわしい名せりふというべきであった。
東丈はすでにその霊覚においては、高鳥の霊的誕生を感じ取っていたのであろう。
あの講演会で、東丈は唯一人高鳥慶輔のために講演を行なったのである。高鳥の自覚を促すために行なわれた、火を発するようなみごとな弁舌であった。
あの日から、高鳥の裡なる霊性は巨竜の如く目覚め、胎動を開始した。東丈率いるGENKENは、まさしく高鳥にとって登竜門となったのだ。
しかし、その恩人たる東丈の秘書、杉村由紀を奪い取ることに、高鳥はなんら矛盾も良心の呵責も覚えなかった。なぜなら東丈は、高鳥を発掘し覚醒させることだけが目的の洗礼者ヨハネ役であり、すでに高鳥が〝真の救世主〟として自覚を得たからには、使命を終えたからであった。
東丈が不意に失踪したまま、いまだに行方不明のままというのも、高鳥にいわせれば何の不審もない。使命を果し終えた人間は燃え尽きるものである。むしろ〝真の救世主〟高鳥の行く手を妨げることのないように、自ら姿を消すことになったのである。
残された会も塾もともに形骸にすぎず、まして後継者面をしている井沢郁江など、お笑い草でしかなかった。彼らにはもはや内蔵する可能性の何物もなく、放置しておいてもいずれ消滅して行くであろう。
高鳥にとって、杉村由紀を己がものにすることはきわめて自然であり、理にかなったことであった。それどころか〝真の救世主〟である者は、杉村由紀の所有者でもあるのだ。なぜなら全人類の魂は唯一宇宙神の占有下にあり、高鳥はその神の現身であるからだ。
〝果樹園〟はもともと高鳥のものであって、気儘に手当りしだい、果実をもぎ取って味わうことは、唯一高鳥だけに許された特権に他ならなかった。
高鳥は快い高揚に心身を満たされていた。先程までの苛立ちが噓のように雲散霧消していた。七鬼の与えた侮辱も気にならなくなっていた。
彼特有の気まぐれから、眼前の河村蓉子がその寛闊さをもたらしたものとみなし、彼女に何かしら褒賞を与えるべきだと感じた。
神は時として気まぐれにより、人を嘉するものであった。高鳥が河村蓉子を側近として手許に置こうと決心したのは、彼女の才能を買ってのことではなかった。
高鳥にしてみれば〝醜いものは悪しきもの〟──なのだ。河村蓉子はその点、〝悪しきもの〟であった。彼女に特別な恩恵を与えるのは、まさに気まぐれ以外の何物でもなかったのである。
9
「しかし、君は杉村由紀を好いてはいないね」
と、高鳥はいきなりいった。それは質問ではなかった。断定というよりは、眼前にある事実を指摘する態度であった。
「え......」
河村蓉子は怯み、絶句してしまった。高鳥は時折、気まぐれから何の脈絡もなく、相手の意識を明るみにさらけだす癖があった。ことさらに計算ずくではないが、彼の有する〝神の眼〟を相手に印象付けるために、任意になされるのかもしれなかった。相手を動揺させ、衝撃を与えて萎縮するさまを見るのが楽しいのだった。時として彼に取りつく悪戯心、と高鳥自身は思っていた。
「一番初めにわかった。君は学生時分から彼女を好きではなかった。高校の同級生といったな......」
「はい。でも、なぜそんなことが......」
「わかるというのか? もちろん私にはわかる。相手が意識していようがいまいが、全てお見通しだよ。必要とあれば、潜在意識の中まで見てしまう。子供時代のことで、忘れてしまったようなことでも全部わかってしまうのさ。君は杉村由紀が嫌いだった。ずいぶん意地悪をしたな。杉村由紀はもう憶えていないが、私にはわかる。彼女の体操着をこっそりハサミで切り裂いたり、セーラー服にペンキをつけたり、スカーフを別の色のものにすり変えたり、そんな意地悪だ。少女らしいといえば少女らしいが......」
「そんなことまで、先生にはおわかりになるんですか......?」
河村蓉子は息を吞んでいった。それが、相手の全面的な告白を引き出すために弄されるテクニックであることを知らないのだった。高鳥の〝神の眼〟にかかっては何一つ隠し通せぬ、と観念して己れの人生の暗部に至るまで、言葉の下痢症状を呈したように、ぺらぺらと喋ってとどまるところを知らぬ有様になるのだった。高鳥は他人のスキャンダラスな過去を詮索するのがとりわけ好きだった。根掘り葉掘り尋き出し、本人が忘れてしまった過去の記憶までほじくり出してしまうのだった。
「今、見えたんだ。高校生の君が、無人の教室に一人忍び込んで、杉村由紀のブルマーをハサミで切っている光景がね......なぜそんなことをしたんだ?」
「わかりません......」
河村蓉子の顔は最初真赤になり、それから血の気が退いた。恐慌が鷲の爪のように心臓を握りしめたのだ。だれも知るまいと思い込んでいた過去を透視され、あばき出された者が一様に示す罪悪感の表出であった。
「憶えていないのか? ブルマーのちょうど股下の部分を切り裂いて、使用できないようにしてしまったじゃないか。それも、二度三度とだ。よほど杉村由紀に対して恨みでもあったのか?」
「恨みなんかありません......」
河村蓉子は蒼ざめた顔で観念したようにいった。
「憎らしかったんです」
「なぜだ? 彼女が美人だったから嫉ましかったのか?」
「そうです......何をやってもかなわないし......きれいで成績もいいし、人望があって、先生たちにも物凄くひいきされていました。たぶんそれが口惜しくて嫉ましかったのだと思いますけど......」
「なるほど、才媛だったわけだ。だから嫉ましかった。目の仇にしていじめた。それも最初はこっそりとだれにもわからないような、陰湿な遣り方で......」
「はい。申しわけございません......」
「心配するな。私は君を責めているわけじゃない。君の過去の罪は全て許された、そういったろう? しかしそのためには、君は告解をしなければならない。そうしなければ、本当に罪を許されたことにはならないんだ。この先、君が犯す罪も、告白がなければ浄化されないし、許されることもない。わかるな、そのことは?」
「はい......でも、よく憶えておりませんので......あまり罪深くて恐ろしい記憶は忘れようと努力しているうちに、ぼんやりしてきて記憶が定かでなくなってしまったものですから......申しわけございません」
「必死に思いだすんだ。努力しなければ、自分を浄めることはできないぞ」
高鳥は不意に厳しくいった。語調のみならず貌も峻厳なものに一変していた。相手の心に徴している反撥の芽を容赦なくひねり潰そうとしているのだった。

「もっと必死になれ。〝真の救世主〟に随順する道は、それほど生易しいものではないんだ。思い出すのも厭な、恥しいこと恐ろしいことを残らず吐き出して、心身を浄化しなければ、つき従うことなどとうていできない。死物狂いにならなければ、狭き門は潜れないんだ。わかるだろう? それとも私が全て逐一思い出させようか? しかし、私がやったのではあまり浄化に役立たないぞ。それでもやらないよりましだが......〝真の救世主〟はそんな個人的な瑣末事をなすために降臨したんじゃない。〝真の救世主〟をくだらないことで酷使して、少しは申しわけないと思わないのかね?」
「申しわけございません......」
「心がこもっていない!」
高鳥は一喝し、相手は体を硬直させ、ついで痙攣に襲われてがくがくと慄えた。
「なっていないじゃないか! そんなことでどうする。必死にもならずのんびりとやって〝真の救世主〟の下僕が務まると思っているのか?」
「お許し下さい。必死になります! 死物狂いでやります! ですからどうか見放したりなさらないで下さい! ただ、よく思い出せないんです......とっさのことで、頭が混乱してしまって......中学と高校の記憶がゴッチャになってしまったものですから......」
河村蓉子は、高鳥の見せた恐ろしい目に慄え上ってしまった。体が戦き、慄えが止まらなくなった。気が動転してしまったのである。高鳥に見捨てられる恐怖で、全身の血が引き、唇まで白くなってしまった。
「では、思い出させてやろうか? 中学の時に新聞の作文コンクールがあったろう? お前はそのころから文章に自信があり、将来は作家になりたいと思っていた......自信はあったのにお前の作文は落選した。当選したのは杉村由紀だったんじゃないのか? そうだろう?」
「思い出しました!」
河村蓉子は呻くように押し潰された声を出した。
「そんなことが確かにありました。杉村さんのことは自宅が西荻で近所に住んでいましたから、子供の頃から知っていたんです。小学生の頃から、恐ろしいような美少女でした。あの女は......友達じゃなかったですけど、昔から知っていたんです。杉村由紀さんに憧れている男の子が沢山いました。男の子だけじゃなくて女の子もそうでした......物凄く目立つ女だったんです。気になる女でした。どうしても放っておくことができなくなってしまって......本当は杉村さんに近付きたかったのかもしれませんが......」
「どうせ相手にされない、そう思ったのか?」
「そ、そうなんです! 初めからそんな気がして、仲よくしたい、お友達になりたい、そうやって近付くんではなくて、頭から反撥してしまった......たぶんそうだと思います。今、先生にいわれて初めて気が付きました。
どうせ相手にされないんなら......私はチビ助でブスですし、杉村さんを取り囲む人たちはみんな素敵でした。非常に素晴らしく、素敵に輝いて、チビ助でブスの私には近寄りがたく見えたんです。
私はいつも執拗に、杉村さんのことを見張っていたような気がします......何か付け入る隙があったら、やっつけてやろう、いじめてやろう......子供の頃からいつもそうやって、杉村さんを看視していたんです。人に見透かされないように用心しながら、杉村さんの悪口をいい、根も葉もない噂をまき散らしたりしました。そうせずにはいられなかったんです。
私がこんなに気にしているのに、当の杉村さんは私のことなんかろくに知らない、ハナも引っかけないということが口惜しくてならなかったんだと思います。杉村さんは子供の世界ではスターだったんですね。何をやっても華やかに目立つ。何の苦もなくむずかしいことを遣り遂げてしまう、素晴らしい才能がある......何の能もなくて無視され続けの雑草のような私には、そんな杉村さんが許せなかったのだと思います」
「お前はずいぶん悪どいことを彼女に対してやったものだな。俺には何もかもわかるんだ......」
高鳥は白光を放つような眼を河村蓉子の顔に向けたまま、ねばりつくような語調でいった。その光圧の如き視線が苦痛で身悶えしたかった。高鳥は視線だけで人間を素裸に剝ぎ、火焙りにすることができるようであった。
「彼女に濡れ衣を着せようとしたことがあったじゃないか? 他の同級生の大切にしているものをお前はこっそりと盗み、杉村由紀の持物の中に忍ばせておいた。盗難事件として大騒ぎになれば、杉村由紀は盗人という汚名を負うことになる。お前は、彼女が罪人になるのを見て快哉を叫ぶつもりだった。無実の罪で苦しむ彼女の姿を見て、陰惨な復讐心を満足させようとしたんだ。
なぜそんなことまでわかるのか......そう思うだろう? それはお前の〝良心〟が俺に対して何もかも告白してしまうからさ。お前の霊としての本質が〝良心〟そのものだ。〝良心〟は決して眠ることがないし、いつも昼となく夜となくお前の為すこと想うことを見張っている。〝良心〟は絶対にごまかされたりしないし、買収されることもない。真実をいつもいつも瞬きもせず見張り続けている。
たとえ肉体を持ったお前が忘れてしまったような小さなことでも、〝良心〟は逐一憶えていて、絶対に忘れない。そして俺は〝霊の主〟だから、全ての霊は、俺の下僕だ。俺が知りたいと望めば、全てを教えてくれる。お前の〝良心〟は、さっきからお前の過去の人生を残らず告げているんだ。お前にはわからないだろうが......俺に対して何一つ隠せないということをよく憶えておくといい。
俺には、あの時のお前がどれほど意地悪い、罪深い気持で杉村由紀に罠を仕掛けたか、手に取るようにわかるんだ。胸の轟きや、心臓が搾めつけられるように苦しくなって、異様な冷汗をかいた感じ、悪魔的な快感までそっくりそのままわかる。お前の体験を追体験することができるんだ......」
高鳥は瞑目したままいった。白光を放つ視線から解放された河村蓉子は、気付かれぬようにそっと安堵の息を吐き出した。体の慄えはいつまでもおさまらない。腰が重だるく痺れて、尿意を催してくるようだった。体の芯を抜き取られてしまった脱力感であった。
「文字通り、悪魔の心だな。お前はその頃から邪霊にそそのかされたり、操られたりしていたんじゃないか。お前の心にとり憑いている悪霊がそそのかしているのがはっきりわかる......お前はまさか自分がそこまで悪どいことをやるとは我ながら信じられなかったろう。自分の悪企みが失敗した時は、むしろホッとしたんじゃないのか? そうだろう?」
「そ、そうなんです!」
河村蓉子は舌の根をもつれさせた。
「友達がスウィス製の時計を盗まれたといって騒ぎ出す前に、杉村さんが見付けて返してしまったからです! 変なことがあるものね、というだけですんでしまいました......杉村さんの身の周りに変なことばかり起こるという評判が立っていたもので......でも、あたくしは今先生がおっしゃった通り、ホッとしました。とんでもないことをしたと心の底では後悔していたものですから......それ以後は二度としませんでした。もうコリゴリでした......」
「お前が怪しい、犯人じゃないかという噂が立ったからだろう。杉村由紀も用心するようになったからな......しかし、それでお前は諦めてしまったわけじゃないはずだ。その後もずっと彼女の隙を窺い続けたんだ。高校三年の時に、お前はやっと杉村由紀の尻尾を摑んだわけだな」
高鳥ははっとしたように眼を見開いた。自分の読み取ったことにショックを受けたようであった。
「お前は結局、杉村由紀を学校から追い出すことに成功したわけだ......」
「杉村さんとは家同士が近所だったものですから......近所の噂はすぐに耳に入るんです。杉村さんの家に生まれたばかりの赤ちゃんがいる、杉村さんが産んだ赤ちゃんじゃないか、という噂はすぐに耳に入りました。杉村さんのご両親はもうお年ですから、妹が生まれたなんてはずは絶対にないんです。杉村さんが父無子を産んだ......あたくしはすぐにその噂を学校中に広めました。
杉村さんが妊娠してお腹が大きくなったという外見的な変化は全然なかったものですから、初めはだれも信じませんでした。でも、杉村さんの自宅に赤ちゃんがいるというのは事実でしたから、学校も杉村さんを呼び出して調べにかかりました。だれも気がつかないうちに赤ちゃんを産んでしまったという例は前にもあったらしいんです。
杉村さんは結局、赤ちゃんを産んだという事実を認めて、こっそり退学しました。しばらくしてアメリカへ行ったという噂を聞きましたけど、あのニュージャパンのロビーで逢うまでは、杉村さんがどうしているのか、だれも知りませんでした......」
「彼女は本当に子供を産んだのか? いったいだれの子供なんだ? 父親は......?」
高鳥は衝撃を隠し切れなかった。いささか呆然とした面持になっていた。
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「わかりません。杉村さんは父親については一言もいわなかったらしいです......いろいろ推測が取沙汰されましたけど。いくら問い質されても、頑として口を閉していたそうです。父親と覚しき男の人が幾人もいて、だれだかわからないんだという噂もありました。その反対に杉村さんは処女懐胎したのだという話もかなり真剣に取沙汰されました。本気で処女懐胎説を信じていた人もずいぶんいたようです......杉村さんは真面目な女学生だったという人もいれば、そうじゃなくて、こっそりと遊んでいるプレイガールだったといいはる人もいました。中には、杉村さんの子供の父親を見たことがあるという人もいました。凄い美青年だったというのですけど、本当かどうかわかりません。
今でしたら、女学生がこっそり子供を出産するぐらいどうということじゃないのでしょうけど、もう十四、五年前の話ですから、当時は大騒ぎでした。杉村さんは成績もいいし、素行もよくて人望もあるし、とうていそんなことをするタイプじゃなかったんです。人は見かけによらないというので、大ショックだったのでしょう。今はそんなことはないでしょうけど、当時は女学生が私生児を産んだなんて大変な事ですから......」
「処女懐胎というのは面白い話だ......」
高鳥は目を半眼のように薄く見開いて、呟くような声を出した。
「杉村由紀は処女マリアのように、神の子を身ごもったというわけか。そんな噂が取沙汰されたというだけでも面白い。彼女はだれも妊娠したと気付かないうちに、子供を産み落してしまったわけだな。しかし、なぜ気が付かなかったんだ?」
「それが不思議だとみんないっていました。ずっと普段と変りなく登校していましたし、体育の授業にも出ているんですから。もし臨月で出産間際だったら、絶対に気付かないはずがないということで......
結局、杉村さんの子供じゃないんじゃないかという疑問も強かったんですけれど、杉村さんが学校の取調べの時に、自分の子だとはっきり認め、自主退学の手続きを取ってしまったんです。杉村さんはとても毅然とした態度で立派だったそうです。今でも同窓会の時など、真相はどうだったのか、といつもそんな話が蒸し返されます。
とにかく普通じゃなかったんです。もしかしたら、非常に超自然的な、奇蹟だったんじゃないかという考えに傾いた人が沢山います。杉村さんはとても不思議な、神秘的なところのある人だったし......子供の頃から霊能があるという、噂を聞いたこともありますから......」
「で、子供はその後どうなったんだ。彼女が子持ちだなんて初耳だ......GENKENでも、知っている者は一人もいないんじゃないかな。信じられないような話だ......」
「赤ちゃんは、杉村さんのご両親がまだお元気でしたから、渡米した杉村さんに代って育てられたようです。でも、西荻窪から田無の方へ越してしまったという噂を聞いて以後は、消息不明になってしまいました。ですから、ニュージャパンで杉村さんに再会した時は、本当に自分の目を疑いました。物凄く素敵になって、とうてい十四、五になるお嬢さんがいるとは見えませんでしたから」
「しかし、杉村由紀はあの時、そんなことは全然知らない、聞いたこともないという風だった......」
高鳥は眉根を寄せ、努力を払って記憶を甦らそうとしていた。
「あたくしもびっくりしてしまって......なぜシラを切るのかと......」
「いや、彼女の当惑は本物だった。決してシラを切ったり噓をついていたんじゃない。それは確信がある。杉村由紀が子持ちだというのは全く初耳だったし、本人ももしかしたらそうだったんじゃないか......彼女は高輪のマンションで一人暮しをしているし、子供がいるという雰囲気は全然ない。不思議な話だな。杉村由紀が、自分には子供がいるということを完全に忘れているなんてことが本当にあると思うか?」
「杉村さんは、GENKENの東丈先生の秘書をなさっているし、そのために私生活を隠す必要があったのではないでしょうか?」
河村蓉子がしたり顔で推測を述べる。
「東丈先生の女性秘書が未婚の母で、私生児を産んだなんて、聞こえが悪いでしょうから......」
「いや、そんなはずはない。彼女は本当に意識していなかった。子供のことなど完全に忘れ去っていたんだ。俺には確信がある。俺は杉村由紀の意識を読んだんだから、それは確かだ!」
高鳥は強い語気でいった。相手の推測を一蹴する勢いであった。
「不思議なことがあるものだ。聞こえが悪いから、私生児の娘がいるという事実を隠したというのはもっともらしいが、それは本当じゃない。もっと奇妙なことが起こっているんだ!」
「はい......」
高鳥の激しい語気に威圧され、河村蓉子は絶句してしまった。自分がしたり顔で得々と推論を述べたことが彼の怒りを呼んだような気がしたらしい。
「俺にはわかるんだ。杉村由紀はそんな世間態で私生児の娘のことを隠したんじゃない! 彼女は全く別の人間になったように、そのことを忘れ去っていたんだ! 彼女の意識の中には、そうした私生活の影が全然なかった。どうしてだと思うか!?」
「さあ......あたくしにはなんとも......」
彼女は不意の問いかけに目を白黒させ、苦しげにいった。
「申しわけございません......」
「彼女は意識の上においては、別人になっていたからだよ! 私生児の娘がいるとか未婚の母だとか、そんな意識は全くなくなっていたんだ!」
「............」
「確かに彼女は別人になっていたんだ! 考えても見ろ! 自分のそうした重い過去をきれいさっぱり忘れ去ってしまうなんて、人間に出来ると思うか!? 絶対に忘れ去ってしまえるようなことじゃない。多忙だから念頭にないというのとは違うんだ。人を殺した人間がその人殺しの記憶をきれいに忘れるなんて出来るはずがない、それと同じだ。家庭を持っている人間が、そんな事実など存在しないかのように完全に忘れているなんて絶対にありえない、そうだろう!?」
「............」
「それじゃまるで記憶喪失症じゃないか! とうてい考えられないことだ! 君は自分の二人の子供のことを記憶からきれいに消すことが出来るか!?」
「いいえ......」
「自分はかつて一度も結婚したことはなく、二人の子供もいない......意識の上でそんな状態になれるか?」
「いいえ......もしそうだったら、と思うことはよくございますけれども。他のことにまぎれて、一時的に忘れているというならともかくといたしまして、そういうしがらみを全部、最初からなかったように忘れてしまうなんてありえないのではないでしょうかしら?」
「そうだろう! その通りだ! 人間には出来ないことがある。忘れようとしても決して忘れられない記憶というものがあるんだ!」
河村蓉子は驚きの目で高鳥を仰いでいた。高鳥は興奮に堪えかねたようにソファから立ち上り、苛々と部屋の中を往復し、歩きまわっていたからである。人間離れして神秘的であり静謐な高鳥のポーズは脆くも崩れてしまっていた。彼はもはや河村蓉子に対して己れを演出し取りつくろう必要を感じていないようであった。
「ところが杉村由紀はそれをやったんだ! 不可能なことをみごとにやってのけたんだよ! 自分が私生児を産んだという記憶をきれいに消してしまったんだ! しかし、なぜそんなことができたんだ!? 彼女自らが記憶を消して、忘れてしまったのか? それとも彼女に何かの力が働きかけてそうさせてしまったのか、どっちなんだ!?」
「............」
むろん、河村蓉子には答えようがなかったが、高鳥は異様にきらめく目を彼女に据えて真剣に問いかけていた。
「恐ろしく奇妙なことが起こったんだ! 大事とは思わない奴もいるだろうが、俺はそうじゃない。わからないか? もし人間の意識を自由に操り、好きなようにどうでも記憶を消去したり、偽の記憶を挿入することが可能だとしたらどうだ?」
「............」
河村蓉子はわけのわからぬ異語を聞かされている呆然とした面持で、高鳥の顔を見返していた。その表情はきわめて愚かしかった。
「わからんのか!?」
高鳥は苛立たしげにいった。ソファの背を両手で鷲摑みにし、体を前屈させて、緊張した顔を彼女に差しつけた。
「俺のいうことがわかるか? もし、記憶の操作が自由に出来るとしたら、人間を別の人間に作り変えてしまうことも出来る。本当の記憶を消してしまい、違う偽の記憶とすり変えてしまう。考えてもみろ、記憶が変れば、人間も変化してしまう。お前が杉村由紀と同じ立場だったらどうだ? 記憶が変ってしまい、自分は結婚して二人の子供を産んだこともなく、離婚したこともないとなったら? 自分の人生が変ってしまうことじゃないか? お前は沢山のしがらみから解放されて自由になる。いつも子供の世話を焼き面倒を見るという煩わしく鬱陶しいことから解放されるんだ。お前は自由なんだ。勤めを休んで小学校の父母会へいやいや出席しなくてもすむ。そんなことはもう完全に存在しないんだ。そんな事実は最初から存在しなかったんだから、もちろん記憶もない。お前はどれくらい自由になれると思うか?」
「ああ......」
ようやく河村蓉子の顔に理解の色が現像されて来た。高鳥の真意がのみこめたのだ。
「もし、そうだとしましたら、素晴らしいでしょうね......重いお荷物を全部おろしたのと同じですから。もう何の気苦労もなく、先生のお手伝いに打ちこめますもの。会社を辞めることにしましても、あっさりしたものですし、本当に煩わしいことが大部分消え失せてしまうのと同じことですわ」
「そうだろう。それが杉村由紀の身に起こったことなんだ。彼女は何の気苦労もなく、東丈氏の下へ来ることが出来たんだ。これがお前のように子持ちの独身女だったら、そうは簡単に行かなかったろう......杉村由紀は意識の上では独身で係累がなく、軽々と生きていたし、何もかも自分の意志一つで決められた。自分の生活はだれにも口出しされずに変えることができたんだ」
「まるで、夢のよう......」
河村蓉子は羨望を隠し切れなかった。
「しかし、だれにそんなことが出来たんだ? だれが記憶を消して、彼女が私生児を産んで高校を中退したという事実を隠してしまったんだ? 杉村由紀には自分が母親だなどという意識は一片もなかった。母親という意識を消してしまうのはいったいどんな力だ?
杉村由紀が自分で自分の記憶を消したのか? 自己催眠をかけて、そんな事実は初めから存在しなかったように、自分に思いこませて......そんなことはありえないと俺は思う。そんな必要が杉村由紀にあったとしても、やっぱり無理がある。東氏がそれを見破れなかったとは思えない。それに、一時的に彼女が忘れることに成功したとしても、決して長続きはしないはずだ。一時的であっても、そんなことが可能とは俺は思わない」
高鳥の双眼は激しい精神集中に光っていた。それを間近に差しつけられて、河村蓉子は圧倒されていた。彼の呼吸が顔面に吹きかけられる距離なのである。それは彼女の思考力を奪うものであった。
「では、だれがやったんだ? 東丈氏か? 他人の記憶を改変する力が東丈氏にあったということか? しかしなぜ東丈氏はそんなことをした? 彼女を秘書として是非とも必要としたから、彼は力を発揮して杉村由紀の意識を操作し、自分の手許に引き寄せたというわけなのか?
もし、そうだとしたら、大変な力だ。物凄い奇蹟力だ。東丈氏は他人を自由に操り、奴隷に変える霊力の持主だったということになる......まるで大魔王並みの力じゃないか! 東丈氏はそんな魔力を発揮して、会の連中を引き寄せたのだろうか? みんなは知らない間に記憶を改変されてしまい、意識操作を受けていたということか......杉村由紀を初め郁江たちも......
しかし、なぜ杉村由紀は記憶を改変されなければならなかったんだ? 私生児の娘を持っているという過去の経歴がそんなに邪魔だったのか? だが、娘の方から母親に連絡を取ってくれば、いっぺんに何もかもおじゃんになってしまうじゃないか!? 記憶の改変も帳消しになってしまう! やっぱり納得が行かない......東丈氏にもしそんな物凄い霊力があったら、無敵のはずだ。自由に記憶改変を行い意識操作をすることが可能だったら、東丈氏は独裁者として、好きなように人間を奴隷化できる。敵を排除し、敵を敵でなくさせることも出来る。敵を支配することさえ可能なんだ。東丈氏が、だから杉村由紀を霊力で操ったという考えには無理がある。つまり杉村由紀の記憶改変をやったのは東丈氏ではない。東丈氏にはそんな力はない......しかし、ではいったいだれが杉村由紀の記憶を変えたんだ!?」
「わかりません、わたくしには......」
河村蓉子はつい高鳥の自問自答に答えてしまった。彼がじろりと不興げに一瞥をくれた。我に返ったように前傾させていた体をまっすぐに起こす。独白を邪魔され、精神集中を乱されたのが不愉快だったようである。
「事実関係を調べないとならないな」
と、高鳥は熱狂的な調子を消して、醒めた声音を出した。
「杉村由紀の戸籍がどうなっているのか、彼女の両親といっしょにいる娘が今どうしているのか知りたい。田無へ引越したとかいったな?」
「だいぶ前の話ですので......確か田無と聞いたように思いますけれども、本当かどうか、そこまでは......調べてみませんと」
「調べられるか?」
高鳥が機嫌を直しそうだったので河村蓉子はしんそこほっとした。
「はい。調べられると思います。勤めを休んでも調べてまいります」
「まあ、それが手土産ということだな。それくらいで俺の弟子になれるのは、やっぱりお前は運がいい......」
高鳥は依然として己れの考えに気を取られていたが、機嫌はよくなってきた。手土産、という俗っぽい表現にはいささか引っ掛るものを覚えないでもなかったが、高鳥の歓心を買うことができたのは何よりであった。河村蓉子の裡には高鳥に対して恥しげもなく媚びへつらい、腹這いになって犬のように、彼の足許にすり寄りたいという強い衝動がまぎれもなく存在した。屈辱はもはや存在を止めていた。どれほど凄まじい破廉恥さで媚びを売ってもまだ足りなかった。高鳥のいかなる命令にも喜んで従うであろう。犬そのものになれと命じられれば、その通りにし、御意にかなおうと努めるであろう。足の爪先を舐めろといわれれば、歓喜に身を慄わせて服従するに違いない。
河村蓉子の自我は、奇妙な変形を遂げてしまっていた。全ての価値基準の上に高鳥慶輔を置くことに何の疑念もなくなっていた。高鳥こそ若き美神の現身であり、彼女自身は美神に仕える卑しい奴隷であった。高鳥の意志こそ絶対であり、全権威を凌駕するものだった。
彼女のように卑しい無能な、存在することさえおこがましい、虫ケラに等しい哀れな存在が、若き美神の下に致仕することを許されるのは驚異であり、奇蹟そのものであった。高鳥の前にまかり出ることは、彼女自身を卑しい目的で使用され、汚穢にとっぷりとまみれた塵紙のかたまりとして感じることに他ならなかった。強い自己愛が絶対値を保持したまま負に転換してしまっているのである。
常に極端な利己主義に徹底して、貪婪に人生を生きてきた河村蓉子は、徹底的な自己卑下と自虐の泥沼にはまりこみ、身も心も美しく若き神にささげることになってしまったのだ。
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高鳥慶輔がどのような考えを思いつき、上機嫌にとり憑かれたのか、それは河村蓉子の想像の外にあった。彼女はただ、この美しく若き神が上機嫌でありさえすればよかった。自分のもたらした何が高鳥を気分の高揚に押し上げたのか、いろいろ考えてみるのであるが、とうてい見当がつかないのだ。
美神とは気まぐれであり、唐突に気分の急変する存在なのかもしれなかった。高鳥の歓心を買うために、どのような阿諛追従をなさなければならないのか、懸命になって考えをめぐらせている。
しかし、杉村由紀の過去があばかれたのはともかくとして、彼女の私生児の娘の行方を捜索するということが、なぜ高鳥に楽しい期待をもたらすのか、少しもわからない。あるいは高鳥がGENKEN主宰の東丈の弱味を握ったということなのかもしれない。会長秘書に私生児がいるというのは、醜聞沙汰になりかねない。
もし、高鳥が東丈会長を敵にまわす宿命にあるならば、出来る限り敵の弱味を摑んでおこうとするであろう。そのために秘書の杉村由紀の過去をあくまでも詮索しようということなのか......河村蓉子の推測はそのあたりに終始していた。
おそらく、高鳥はニューヨークにおける世界超能力者会議での覇権を狙っているのかもしれない。杉村由紀はすでに東丈会長の代理としてニューヨークへ飛んでいる。高鳥にとってもはやGENKENは古巣というより競争相手であり、杉村由紀は仲間や先輩という関係ではなくなっている。叩き落すべきライバルなのだ。そのために高鳥はさまざまな手を打ちつつあるのだろう。
高鳥が〝真の救世主〟として世界に君臨するのであれば、大富豪のメインが主催する世界超能力者会議が絶好の舞台になる。全世界のマスコミがいっせいに注視を向けつつあるのだ。高鳥の巨大な力は、彼こそ〝真の救世主〟であることを余すところなく、地球的規模での注目の中で証明せずにはおかないであろう。
高鳥の上機嫌はそのあたりに起因している、と彼女は読んだ。最大のライバル東丈を叩き落すために、秘書の杉村由紀の弱味を握ることがおそらく必要なのだ。そして彼は攻略の手掛りを摑むことに成功した。それゆえの上機嫌に違いない......
しばらくの間、高鳥と河村蓉子の間に雑談が続いた。多忙な高鳥には、無駄話で時間を潰す余裕はないはずである。高鳥の予定時間が過ぎれば、きわめてドライに、話の途中でも打切りを宣告することを知っているだけに、よほどの上機嫌の所産としか思えなかった。それとも彼女が外部の人間であることを止めて、高鳥の傘下に入ったということを意味しているのかもしれなかった。
河村蓉子はのぼせ上るほどの喜びの虜になっていた。現実を脱して、いつも思い描いていた夢の中に入りこんでしまったようであった。
もはや杉村由紀のことで、焦げつく嫉妬と煩悶の火で焙られなくてもすむのだ。彼女は秘かに高鳥と杉村由紀の間に嫉妬妄想の種を育て続け、自ら懊悩の虜になっていたからである。
最初に二人をホテルで見た時の衝撃はあまりにも深甚であった。杉村由紀は心が灼けるほどのなまめかしさ色っぽさをみなぎらせ、確かに情事の後の生臭さを発散しているように感じられたのだ。
その相手が高鳥慶輔であることを、彼女は全く疑わなかった。杉村由紀が身慄いするような魅力的な美青年をホテルに連れこみ、年下の若者と午後の情事を堪能した、と信じこんだ。それほど杉村由紀の貌に刻まれた激しい快楽の名残りは、嫉妬の目を光らせた彼女にとり明白だったのである。
が、それは彼女の思いすごしにすぎなかった。二人の間には何もなかった。さもなければ、杉村由紀が中学生にもなる私生児の娘を持つとわかれば、高鳥は興醒めするはずである。そのために、彼女は杉村由紀の過去を暴露しようと計ったのだ。
しかし、高鳥は東丈追い落しのためにその事実を利用しようとしている。河村蓉子が勘繰ったような男女関係はまったくなかったと考えてよかった。彼女は安心し、心地よくなってきた。
女性の魅力にかけては、とうてい杉村由紀の敵ではないという自覚があったからだ。強敵どころではない。何をとってもかなう相手ではなかった。ホテル・ロビーで見かけた二人は、最高の一対としかいいようがなかった。居合わせただれもが魂を奪われたような目付で二人を見ていたことを憶えている。かつてこれほど魅力的な男女を見たことがなかった。
身も世もない嫉妬の苦しみが去り、河村蓉子は最高の気分を味わった。羨望と嫉妬ほど苦しい情念はまたとなかった。
彼女は解放感の虜となり、夢中であらぬことを喋り続けた。己れの饒舌を止めることができなくなっていた。いつもあらぬことを喋りすぎてほぞを咬むことになるのだが、その時は自制がきかなくなっているのだ。
テーブルの上に見憶えのあるパンフレットが載っているのを見つけたのが悪かった。
「あ、これ、先生のお手許にも送付されていたんですのね」
と、河村蓉子は抑制のきかぬ饒舌をもって指摘を加えた。
「これ、ウチの編集部にも送られてまいりましたのよ。怪文書のようですけど、内容はなかなか面白いですわね。ちょっと品は悪いですけど達者な文章で......最近売り出しの新興宗教の教祖様だそうですわね。なんですか、まだ二十四、五歳の若さだとか、どこかの大学の学生さんだと聞きましたけれども」
高鳥の顔色が曇るのに気付かないまま、彼女は喋った。
「最近、非常に年若い教祖が輩出しておりますわね。関東でも関西でも。とても面白い現象だと思います。この手のパンフレットが急に増えているんですのよ。数十人の帰依者を持って、イエス・キリスト気取りで伝道している若い人があちこちで増えているようです。この七鬼という教祖もそうですね......GENKENの東丈会長のように有名じゃありませんけど、そのうちに何かやりそうだといって注目されているようですわ」
「このパンフレットは、そんなに大量にマスコミにばらまかれているのか?」
「じゃないでしょうか......マスコミ有名人になりたくてしょうがないのでしょうね。この手の若い宗教的指導者はあの手この手で自分の名前を挙げようとしているようですよ。東丈会長がもうじき本を出すようですけど、〝幻魔の標的〟ですか......きっといっせいに本を出してくるでしょうね。この七鬼という教祖なんか必ずやりそうですわ。東丈会長の本はきっと売れて有名になるでしょうし、そうなれば、ブーム到来ですものね。どこの出版社でも食指を動かすことになるんじゃないかと思いますけど。ウチでもパンフレットを読んだ編集長が、七鬼教祖に何か書かせてみようかなんていっておりましたし......」
この一言はよく効いた。高鳥の体のどこかのスウィッチがにわかにオンにされたようであった。にわかに熱風のような強烈な波動が高鳥の全身から放たれた。
「先生もお出しにならないといけませんわね。もちろんこんな七鬼教祖はともかくとして、GENKENの東丈会長には負けられませんものね」
「本などはだれでも出せる。ゴーストライターに書かせれば、自分で書かなくたっていいんだからな」
高鳥の倨傲ぶりはいささかわざとらしくなっていた。したたか弱味を突かれ、狼狽しているのだが、河村蓉子にはそれがわからなかった。
井沢郁江までが無名作家をゴーストライターに使って、本を出版するという噂を耳にしている高鳥は、何としてでも恰好をつけねばならない破目に追いこまれた。
「しかし、こんなくだらない駄文の見本のようなパンフレットが、そんなに読まれているとは知らなかったな。中身はどうせデタラメに決っているのに」
「怪文書ほど熱心に読まれるものですわ、先生。もちろん記事には出来ませんけれども。宗教団体の生々しい実体が伝わってきますものね。こうした怪文書が手掛りになって、ルポライターに調査させることもありますし、そういう意味で、この七鬼教祖のパンフレット、〝星の門〟ですか、わりあい注目されていますわ。この人は、どういうわけか他の教団の内部事情にとても詳しいんです。本人は霊視だといっていますけど特別な情報ルートを持っているようです......このパンフではGENKENのことをこっぴどく叩いておりますわね。どうやら七鬼教祖は、東丈会長が嫌いのようで......先生のことも少し触れておりましたね」
「私も本を書かなければならないようだな」
高鳥は穏やかにいったが、顔は蒼白くなっていた。ついに河村蓉子は、知らぬことながら高鳥の痛いところをしたたかえぐったのである。
「七鬼などどうでもいいが......東丈氏とはどうやら競り合わなければならない。そんな運命の仕組になっているらしい。これで〝幻魔の標的〟がベストセラーになりでもしたら、ますます東丈氏と比較されて、あれこれいわれることを避けられなくなる......この忙しいのに大急ぎで本を書かなきゃならないらしい......」
「そうですわ。七鬼教祖を見返してやらなければ! いちいち東丈会長と比較して、先生をおとしめるようなことばかり書いているんですもの!」
河村蓉子は興奮して、過激な言辞を吐いた。
「もっと許せないのは、東丈会長より江田四朗とかいう教祖の方が上だって書いてあることですわ。七鬼という教祖は新興教団のことはなんでもよく知っているような顔をしているくせに、本当は何も知らないのですね! 先生のお力がどんなに素晴らしいか知りもしないで、聞いた風なことを偉そうに書いているんですもの。まるでどこかのお偉い評論家先生そっくりですわ。七鬼なんて、先生の本当のお力を見たら、ぐうの音も出なくなってしまうでしょうね、まったく......
七鬼は、東丈会長がマスコミ操縦術にばかり長けて、真正の力は江田四朗にはるかに劣ると断定していますけど、マスコミに対して必死になって売り込みをやっているのは、七鬼自身じゃありませんか......東丈会長がマスコミを避けて一切表面に出ないのは、巧妙な高等戦術で、本音はマスコミを誘いこんで踊らせるのが目的の凄腕宗教商人なんて書いていますけど、内心の嫉妬がまる見えですものね。
マスコミに対して門を閉しているのに、評価がどんどん上っている東丈会長に物凄く嫉妬しています。だからこそ巧妙な宗教商人とか、偽善者タイプの道徳教師とか、しゃにむに悪口雑言を投げつけているんですね。地下に潜った江田四朗の教団なんかそれこそ何をやっているのかわからないし、マスコミが接近しようもないのに、それでも東丈会長より上だと強引に断定するんですもの。こんなに無茶な話ってありません! つまり、東丈会長はマスコミ受けがよくて、七鬼にとって強敵ですけど、江田はそうじゃありませんから、江田を沢山持ち上げて、東丈会長をおとしめようという巧妙な戦術なんですわね。あたくしはそう読みました。ですけど、編集長はそれがわからなくて、七鬼に原稿を依頼して新興教団地図展望を書かせてみようか、なんていっておりますのよ」
「............」
高鳥は無言で聞いていたが、眉根のあたりにただならぬ電光の如き雰囲気が立ちこめてきていた。しかし、話に熱している河村蓉子はまったく気が付かなかった。奔るように喋り続けて、倦むことがなかった。
「だけど、本当に七鬼っていい気なものだと呆れてしまいますわ。自分はどれだけの力を持っているのか知りませんけど、釈迦を凌ぐ大覚者の再来などと匂わせて、最新科学の先端理論めいたものを見せびらかしているんですから......それこそ東丈会長を初めとして、みんな有象無象の小僧っ子で取るに足らない、自分だけはお山の大将で一番偉いのだ、天上天下唯我独尊だ......つまりそういうことをいいたいわけですわね。ちょっとパンフを読めば、誇大妄想が見えみえですもの。
それが、どうやって情報入手しているのか知りませんけど、教団の内部事情を詳しく知っているような顔をして、評論家先生面をするんですものね。そのくせ先生のお力がどんなに大きくて素晴らしいか、全く知りもしないんです。東丈会長は口先ばかりのハッタリ屋だが、江田四朗の霊力は相当なものだ、などと平気で書いて、先生のことは無視しているんですから、あたくし本当に頭に来てしまって......」
あたくし、編集長にいってやります、と彼女は息巻いた。
「七鬼なんて、ただのハッタリ屋のペテン師で、口から出まかせをいっているだけなんだ、他の教団の内情に詳しいというのも、自分から匂わせているように、七鬼の霊力で透視しているなんて大噓の与太っパチだって! その証拠に七鬼は高鳥先生の素晴らしい奇蹟能力のことなんか何も知らないって! 〝真の救世主〟は高鳥先生の他には絶対にいない! 東丈会長だって高鳥先生の露払いにしかすぎないんだって、あたくし編集長に必ずいってやります!」
「本は必ず出す」
と、高鳥はいった。平静を装ってはいるものの、顔色は尋常ならざるものがあった。部屋の照明と化粧でわかりにくいだけだ。顔面の表皮一枚下には稲妻と雷鳴、黒雲が立ちこめていた。煮えくり返るものを、わずかに自制しているのだった。
「東丈氏の本がヒットして、ベストセラーにでもなれば、私はもっと大ベストセラーを出さなければならない。大変だな......」
「先生になら必ずお出来になりますわ。だって先生の大奇蹟能力は〝真の救世主〟だけのものですもの。東丈会長だってかなうはずがございませんわ。あたくしが保証してもようございます。先生にはだれもかなうはずがありません! だって先生こそ宇宙神の化身ですもの!」
河村蓉子は、高鳥の顔を仰ぎ、熱病にうかされたように喋り続けた。
「年増め!」
高鳥慶輔は、河村蓉子が帰った後の無人の部屋で、くいしばった歯の隙間から唸るようにいった。凄惨な表情になっていた。魅力たっぷりの表情は影もなくなっていた。
「阿諛追従で俺が喜ぶとでも思っているのか!」
しかし、彼女が単なる迎合をやってのけたと本気で思っているわけではなかった。しんそこから高鳥を崇敬し、讃美したことはわかっている。
たまたま憤懣のほこ先が河村蓉子に向いたというにすぎなかった。喋りまくることによって、彼を煮えたぎる感情の鬱屈へ追いこんだからであろう。
「埒もないことをべらべら喋りくさりおって......貴様の所の編集長がどうだろうと、俺の力は全部のマスコミに否応なしに見せつけて認めさせてやるわ!」
独白になると、高鳥の言辞は奇妙に偏向し、時代がかった表現が多くなった。普段使わない言葉、知らない言い廻しまでが口を衝いて飛び出してくるのだ。
「俺は俺だ! 王の中の王たる者だ! 他の何者とも比較されて堪るか! 俺は竜王だ、雑魚どもといっしょにされて堪るものか! 年増女め、貴様の助力など......見ていろ、王の王たる者がどれだけの力を振るうか思い知らせてくれるぞ!」
芝居がかった独白が際限もなく出てくる。最近の高鳥に生じた奇癖の一つであった。自問自答の掛合いで、いつ果てるともなく独演を演じるのだ。側近たちは、彼が独白をぶちあげている時は遠慮して、入室してこない。掛合いの独演がいささかというより異様で薄気味悪いからであろう。
まるで、高鳥が二人の人格に分裂し、問答し、議論しているように見える。異様な見ものであった。
「江田四朗が東丈を凌ぐだと!? 低能が何をいうか! 七鬼などマスコミの馬鹿踊りに憧れくさった小倅ではないか! 何の霊力もないくせに、悪達者な口舌だけでマスコミに売り込もうとしおって!
見ていろ、今に叩き潰してペテン師がぐうの音も出なくさせてくれる! 王の中の王を侮った罪を償わせてくれる......貴様など冗談半分のような雑魚の一匹にすぎないと思い知らせてくれるわ!」
妙に口調が古色蒼然としてくるのである。粋でスマートな、現代青年の都会派である高鳥慶輔には全く似つかわしくなかった。
「そうだ。七鬼など冗談半分で透かした屁のようなものさ」
と、掛合いのもう一人の片割れが皮肉な調子でいった。この方が普段の高鳥に近い口調だが、へんに底意地の悪い陰湿さがあって、明るい快活な高鳥とははっきりと異質なものであった。
こうした独白には、日頃の高鳥は決して面影を見せない。孤絶した密室の中にあっては、人当りのいい魅惑的な高鳥が、意識的に作られたかりそめのものであるかのように見えてくる。
本音は傲慢不遜な分身と皮肉で冷笑的な分身の掛合いに露呈されるようであった。
「しかし、江田四朗の方はいささか難敵だぞ。本物の霊力を持っている。江田は魔性から力を借りているからな。だからこそ、東丈も手を出せなかったんだ。久保陽子の話を聞けば、江田が七鬼のような冗談野郎ではないとわかる。魔道に陥ちた江田は恐ろしい相手だぞ。どうだ、自信があるかね? もしお前が江田四朗を粛清してのけたならば、高鳥慶輔は確かに東丈より霊力は上だと実証される。江田が魔王だと証明できるか? いったいどうやってやる?」
「むろん、やれる!」
高鳥の片割れが咆えるような大声を出した。
「俺の力が東丈のみならず、江田を凌ぐものだと証明できる! 簡単なことだ。やらいでか! 俺の力は日ましに増大している。人間を自在に金縛りにし、悶絶させることはおろか、一瞬にして生命を奪ってしまうことさえできる! この高鳥には不可能の三文字はない! 俺の力を疑うことはだれにも許さない! 俺が意志すれば、江田の地下教団など瞬く間に崩壊させられるということを、全ての人間に思い知らせてやる!」
「どうやってやる? 口先ばかりでは東丈と少しも変らないぞ。あの先生は、本当に大きな力を持っているのかいないのか、己れの霊力は封じた、超能力では何も出来ないなどと恰好いいがわけのわからんせりふを口にしているうちに行方をくらましてしまった。腕を切って血止めをしてみせるガマの油売と同じで、やるやると口先では威勢がいいが、なぜかちっとも実行はしない。それと同じだと思われても仕方がないぞ。お前はただでさえ東丈の亜流と思われかねない立場にあるのだからな」
「冗談ではない!」
高鳥は怒髪を逆立てる形相でどなった。この一人二役の掛合いほどの目覚ましい見ものはなかった。完全に高鳥のキャラクターが、異質の二人に分裂して、感情移入も豊かに議論をやってのけるのだ。
「江田四朗は俺が自ら葬ってやる! 俺が直接手を下す。江田が地下に潜って何をやっているか、暗黒の祭祀を明るみに引きずり出し、暴露してやる! さぞかし七鬼の奴が赤恥を搔くだろうよ! 江田が魔性の力を借りているにすぎない、ただの傀儡だってことを満天下にさらけだしてくれる! 江田が暗黒界の魔王に憑依された、単なる虫ケラだってことをだれの目にもはっきりとさせてくれる! 今に見ておれ! 江田の悪魔の教団をこの手で解体し、消滅させてみせてやる! その時に初めて俺が東丈に優る巨大な力の持主だと明白になるだろう! 東丈に出来ないことをやってのけたのだからな!」
「口先だけでないという証拠を、いったいいつ見せるのだ?」
高鳥の片割れは冷静で意地が悪かった。冷嘲と悪辣な揶揄に満ちているようなキャラクターである。
「江田は、東丈のようなお人好しではないぞ。力も東丈以上かも知れん。暗黒の魔王の力を借りているのだ。洗礼者ヨハネの東丈には元々戦うべき相手ではなかった。もし〝真の救世主〟であれば、必ず戦って打ち滅ぼしたろう。
江田の力は借物だけに底が知れない。うっかり手を出せば、返り討ちに遭うかも知れない。それでもやるのか?」
「もちろん、やってのけてやる! 江田が魔王であろうとなかろうと、俺が恐れると思ってか!」
高鳥は怒りに身を慄わせ、握りしめた拳を打ち振って獅子吼した。奇妙な二人一役の論争で、巨大な意欲をかきたてられたのだった。高圧の闘争心が全身から溢れ出し、高鳥は猛烈な存在にみるみる変りつつあった。
高鳥は本気になったのである。
「江田は俺がこの手で直接叩き潰す。俺には何事によらず、不可能なことはないと思い知らせてくれる! 下種な暗黒界の蛆虫を踏み潰して、煮え返る地底の大釜の中に投げ落してくれる! 奴が二度と這い出てこられぬように、俺自ら封印してやる!」
「やる気なら、それもいいだろう」
片割れが冷静な声を出す。一人は激昂して荒れ狂い、他の一人は冷笑と嘲弄の波動で傍観すると見せて、その実は巧みに煽り立てているのだった。奇妙な分裂、というよりも、高鳥の裡には完全に異質の、複数の人格が並存しているとしか見えなかった。側近たちが寄りつかなくなるのは、この分裂と対立が、あまりにもおぞましい奇蹟そのものだったからかもしれない。単なる奇癖といってすむ代物ではなかったのだ。
「必ずやる。遠からずな......」
高鳥は冷静に返って呟いた。第三の人格、平生の高鳥がそこに出現していた。
12
彼は若い雲水そのままであった。
手術時に剃りあげた頭部は、やや髪が伸びかけて手術の痕を覆い隠しにかかっている。墨染の衣をまとっているから雲水以外の何者でもないのであるが、それが裸足にスリッパを突っかけ、病院内を歩き廻るさまは一種異様でもあり、滑稽感をも伴っていた。
病院でもいささか困惑しているのだが、さりとて彼がチンピラヤクザの制服を着て歩き廻るのはもっと目障りだということで、黙認の恰好になっていた。しかし、病人の多い場所で、坊主がうろついていては落着かないという向きも少くないようであった。どこへ行っても驚きと畏れと困惑の視線が彼を迎えることになるのである。
しかし、彼は入院患者たちには、なかなかの人気があるようであった。廊下に出てきた患者やその家族たちに、摑まってしまい、ついつい話しこんでしまうケースが多い。
彼が特別のちからを持った存在だという事実はいつしか知れ渡っていたのである。それがために、彼はわざわざ雲水のまとう墨染の衣を身につけたのかもしれなかった。
一般人が特殊な霊力を持っているよりも、僧形をしている方が抵抗が少く、異常な好奇の対象になることが少いと考えたのであろう。また、彼には雲水の姿が実にしっくりと合っている......と、東洋病院の看護婦、松代直子は見ている。
やはり、過去世に曹洞宗の僧侶がいるためらしい。かなりの力をもったお坊さんだったようである。
彼がいきなり雲水の恰好になったのも、そうした過去世の意識が出てきているからなのであろう。まだほんの少年といってもいい年齢なのに、何十年も坊主をやっているような落着きがある。
退院を控えているので、彼はもう平生と変らない。病室を抜け出して病院の中を歩き廻っては、人々と何やら話し合っている。顔をしかめる病院関係者もいるが、笛川医師のひきがあるだけではなく、彼自身の一種の人徳がそうした突飛な行動を容認させてしまっているようであった。
突拍子もない存在ではあるが、彼は看護婦たちにも受けがよかった。口やかましい婦長ですら、彼に出合うと顔が和んだ。心がカサカサに乾燥してしまう超多忙な勤務の中でも、彼の雲水姿を見ると、なぜかほっと心が安まるのである。
彼にはそうした功徳があった。宗教心に乏しい現代人であっても、墨染の僧形には呪術的な影響力があるらしい。彼は日常社会とは次元を違えた世界の権威を象徴していたのかもしれなかった。
「あら、義さん。もう退院の用意をするんじゃなかったの?」
看護婦詰所から出てきた松代直子がいった。義はちょうどその真前で、年寄りの入院患者に摑まっていたところであった。
年寄りは瘦せた細い手で義の肘をしっかり摑み、目やにだらけの目で彼を凝視しながら、くどくどと何やら訴えていた。看護婦泣かせのうるさ方で、評判のよくない軽症患者である。話がくどい上にしつっこい。一度摑まるとなかなか放してくれない。寂しがり屋なのであろう。身寄が少なく、見舞いも滅多に来ない患者である。
義は、くどい年寄りのお喋りに辛抱強くつきあっていたらしい。そうした点、この若者は実に辛抱強く、親切である。看護婦である直子など一秒でも早く逃げ出すことしか念頭になくなってしまう。相手が気が狂いそうなほど超多忙な勤務に従事していることなど、決して理解しない人間なのだ。自分の持て余している肉体的苦痛、悩みしか心にないからである。その点、実に偏執的としかいいようがない。
その偏執狂めいた年寄りに、辛抱強くつきあい、相手になってやっている若者に対し、松代直子は感嘆と敬服を覚えている。並みの人間には不可能なわざだ。
「ええ、もう準備はできています。塾から車で迎えに来てくれるというので、待っている間にちょっと......」
義は微笑しながらいった。その顔付、口ぶりなどには、数週間前、この若者が粗暴きわまるチンピラヤクザであったことを匂わせるなにものもない。
ただ尋常という以上に、物腰に落着きがあり、めりはりが効いて、何かしら寛やかさというものを全身で感じさせる、人間的な風格と呼ばざるを得ない雰囲気が備わっていた。
「おじいちゃん。あんまり歩き廻っちゃだめでしょう」
と、いっしょになって詰所から出てきた見習看護婦の信夫祐子がしかつめらしくいった。彼女はまだほんの少女という年齢の見習だが、職業意識の強さにかけては、いかなる正看護婦にも引けを取らなかった。
「点滴、まだなんでしょ? さ、早く病室に戻って」
点滴など自分にはもう用がない、といった意味のことを、年寄りは聞きとりにくい声音で告げた。義歯をはずしているので、発音不明瞭であり、よほど慣れている者でないと、何をいっているのかわからない。その相手になって閉口もしない義は確かに霊力の持主だけあるようである。
「いやね、そんな気の弱いこといわないの。おじいちゃんはまだまだ二十年や三十年は長生きするって石山先生も太鼓判押してらっしゃるでしょ。まだまだあの世のことなんか、興味を持たなくてもいいの」
孫娘のような年の信夫看護婦はぽんぽんと遠慮なしに叱りつけた。この厄介な年寄りの扱いが一番上手なのが、この見習看護婦なのである。
「さ、いらっしゃい。おとなしくいうこと聞かなきゃ駄目よ」
幼い子供にいうようにして、信夫看護婦は義に会釈し、老人の着たよれよれのナイト・ガウンの背に手を当てて連れ去って行った。老人はしきりに背後を振り返り、未練を残していた。
「よかったわ、彼女がいっしょにいてくれて......」
直子は苦笑いしながらいった。
「あのおじいちゃんはみんな鬼門でね。忙しい時なんか、もうかあーっと頭に血が登ってわけがわからなくなっちゃうのよ。物凄く偏執的で、何をいっても通じないから。だけど祐ちゃんて本当に特殊な才能があるみたいね。あのおじいちゃんをうまく扱えるのは彼女一人だけよ」
「そのようですね」
義は穏やかな口ぶりでいった。当りの柔かさは、この年齢のものではなかった。目が柔和で優しい。
「大変な難物なんだけど。彼女にかかると噓みたい......何か過去世の縁生とか因縁ってものでもあるのかしら?」
「あるかもしれませんね」
「あなたも、あのおじいちゃんにとってもよくしてあげたわね。ちっとも厭がらずに話を聞いてあげて......なかなか出来ることじゃないわ。同室の患者さんたちはすごく義さんに感謝しているのよ。何が盗られたとか何がうるさくて気が休まらないとか、うるさいことをいわれずにすむから......あのおじいちゃん一人のおかげで、病院が地獄のようだと訴える患者さんもいるくらいだもの」
「おじいさんは寂しいんです。長い間いろいろ苦しい目に遭ってきましたからね。自分はもう用無しでだれにも必要とされないと思いこんで自棄になっているんです。家族との折合いもひどく悪いようですし......」
「義さんって偉いのね。他の人は同情ぐらいは出来ても、あのおじいちゃんの話相手にはとてもなれないわ。気が狂ってしまうもの......」
「私は罪深い身ですからね。そのくらいのことで罪滅ぼしになるとは思っていませんが......お年寄りの心が少しでも安らぎを得るのなら、お安い御用です」
義は微笑した。彼がしばらく前まで凶暴な火を心に抱いて渋谷の街をのし歩いていたチンピラヤクザと見る者は一人としていないであろう。
彼は完全な別人として蘇生したのである。松代直子はそれ以前の彼を知らないが、現在の心優しい彼と、凶暴無頼なチンピラの彼とは極端な落差があり、どうやっても結びつかなかった。今の義は、雲水として何十年も飄々と行脚を続けてきた、そんな風格をしっかりと身につけているのである。
「今の祐ちゃんが、とてもあなたに関心を持っていてね。是非一度話を聞かせてほしいってせがまれているの。彼女を塾に連れて行っていいかしら......」
「もちろんです。真実が知りたいと発心するのは素晴らしいことです。そんなことを知っても一文にもならない、と吐き捨てるようにいう人だっているのですからね。ここの患者さんで私にそういって忠告してくれた人もいます。変な霊感だの霊能だのは身を滅ぼすもとだ、若い内はそんな下らぬことに気を取られず、身を粉にして、しゃにむに働け、と意見されました。この恰好も、大変叱られましてね。生悟りだ、ときびしくやられました。若者はちゃんとした恰好をしろ、というわけです。
雲水を気取っても、世間の事が何一つわかるわけでもないと......坊主は大嫌いだといわれてしまいました。坊主とは土方の主と書く、お布施を何枚だあ、と数えるのが商売の、罪業深重の徒で、地獄行きは必定の世にも下賤な商売だ、と......」
「わかったわ。画かきさんの南峰さんでしょう? そんなきついことをづけづけというなんて、あの画描きさんの他にいないもの」
松代直子は声をあげた。
「あの方のおっしゃることも、もっともだと思います。決して奇をてらったり、お布施目当でこのような恰好をしているのではないと説明したのですが、どうもわかっていただけないようです」
「そんなこと気にする必要、ないわ。その雲水のスタイル、とても似合っているわよ、義さん。何十年もやってるみたいに、ぴたっと板についてる」
「どうも、これが一番しっくりするもので」
義はやや髪の伸びかけた頭に手を当てた。
「私はまともな衣類を持っておりませんので。ご存知かと思いますが、前職が前職ですから......この恰好なら入費もかかりません」
彼は入費などという古い形容を用いた。こういう点が、彼の若さに似合わないのである。
「けれども世の中には、大の坊さん嫌いという人たちもおられるわけで、考えが浅かったと反省しております」
「南峰さんみたいな人も、きっと今にわかってくれるわよ。義さんの気持を誤解して、自分の気持だけを押しつけようとしているんだから......義さんが退院すると淋しくなるという人が沢山いるのよ」
「ありがたいことだと思います。私のような浅墓な若い者に......話をしてくれとおっしゃってせがまれる方々が、皆さん私よりも年長者で沢山知識を持った方々ばかりなので、お話をさせて頂きながら、冷汗が出てきてしまいます......」
義は呆れるばかりに謙虚で低姿勢であった。いかなる者に対しても口ぶりは丁寧で穏やかであり、決して変ることはない。

「義さんって奥床しいのね」
と、遠慮のない松代直子はからかう。
「感心するわ、本当よ。でも、見ているとじれったくて、歯が浮いてくることもあるけどね」
「それは申しわけありません。何しろ一生懸命で慣れないことばかりやっておりますので、どうも気が廻らないのです。行き届かぬことばかりで、申しわけないと思っているのですが......」
彼はあくまでも生真面目である。からかわれているのはわかっているのだろうが、むっとなって反撥したり、やり返したりする気配はまったくない。
「義さんが一生懸命なのはよくわかるけど、もう少し普通にやってもいいんじゃないかと思うの。あまりにも下手に出て、極端に低姿勢だと人に誤解されることだってあると思うわ。人によっては卑屈だと思うかもしれないでしょ。南峰さんなんかは、本当はそれが気に障っているのかもしれない」
松代直子も気の変りやすい女性らしく、南峰という画家の毒舌を気にするなと慰めた後で、反対のことをいいだす。
「あまり丁重すぎるのも極端なんじゃないのかしら? かといって南峰さんなんかづけづけと平気でいいすぎるけどね。義さんの謙虚さや奥床しさも、南峰さんからすれば、優越感や高慢さの裏返しと感じられるんじゃないかと思うけど」
「とんでもないことです。私は最低の人間で、優越感など逆立ちしても持ちようがありません!」
さすがに義は狼狽して、懸命に弁解した。
「それは誤解です。いくら裏返してみても、私には何もありはしませんから。逆さにしてはたいても同じことです」
「だって、義さんには、普通の人にはない霊能というものがあるじゃないの。だからこそ、皆さん集まってきて、義さんにお話を聞かせてほしいとせがむわけでしょ? 優れた霊能を持ってる義さんはいくら自己卑下して謙遜にしても、ポーズとしてしか見えないということもあるわけよ。南峰さんのようにうるさ方から見ればね。恰好つけて低姿勢をよそおっているが、人々に霊的な講話を得々としていい気持になってるじゃないか......南峰さんはそう思っているわ。わたし、彼の意識がわかるもの」
「それは考えませんでした」
義は大きな衝撃を受けたようである。頰に片手をあてがい、顔を曇らせた。
13
「それは私、まったく考え及びませんでした。罪深い身ですので、少しでも罪滅ぼしに、と私に出来るわずかなことをしてさしあげた......そんなつもりでいたのですが。そんなに私は高慢に見える所業を働いていたとは、夢にも思いませんでした」
「義さんは、人に出来ないことを簡単にやってのけるんだから、人によっては羨しく思ったり苦々しく感じたりするのは当然でしょう? しかも、それをうんと卑下して、たいしたことじゃないという素振りをするのは、南峰さんのように寛容精神の乏しい人にとっては目にあまる高慢さなわけよ」
「ああ、そこまでは考えませんでした。まったく私の浅慮でした」
義は苦しげに嘆息した。
「人によっては、全く違った受け取り方をするとは、頭ではわかっていたのですが」
「だからこそ、世間には誤解や曲解が尽きないわけよ。自分と同じような考え方をする人って、うんと少いわ。義さんが素直な気持で善意を持ってやっていても、他人の目には正反対に映るかもしれない。義さんは凄い霊能の持主というエリート意識、特権意識があって、本音では他人を見下しているから、逆に謙遜な振りをする......そう裏読みをする人って、何も南峰さんばかりじゃないと思うわ。絶対にそんなことはない、と義さんは心の中を打ち割って証明することは出来ないんですものね」
「困りました。松代さんのおっしゃる通りです。意地悪な目で見れば、どんなことでもねじ曲って見えますし、誤解曲解のタネにならないものはありません。南峰さんがいろいろおっしゃるのを聞いている時は、この方はずいぶん誤解していらっしゃるな、物質的に捉われていらっしゃるなと心で思っていました......しかし、そんな生易しいことではなかったと今初めて気が付きました。私のような者がそれこそ偉そうにして、人々の相談に乗ったり悩み事を聞いてさしあげるということが、僭越だということだったのですね......
しかし、私には他に何もないので、ついそういう霊的な話になってしまうのですが、やはり、僭越な、いけないこと、間違ったことなのでしょうか? 教えて下さい、松代さん......」
「ごく普通にしていればいいんじゃないかと思うけどね。服装や態度や口のきき方があまり極端なのも考えものなのじゃないかしら? 優しくて丁重で、素晴らしい、若いのによく出来た偉い人だ......そう思う人もいるかもしれないけど、若い者のくせに薄気味悪い、わざとらしくて若々しさがない、まるで五十、六十の年寄りみたいにへんに老成して、ひねこびている、そう感じる人だっているでしょうね、きっと。南峰さんみたいな批判的な人は他にもいくらもいるわよ。
わたしは、もっと義さんは自然にしていた方がいいと思うな。罪業深重の身なんて、二言目にはいうから、年寄り臭くなって、不自然になるのよ。義さんはまだ十九歳でしょう? もっと若々しくて潑剌としてた方がいいんじゃない?
その墨染の衣だって、わたしは面白いと思うけど、やっぱり突拍子もないと感じて、顔をしかめる人だっているわけ。反撥を感じて不快になっちゃうのね。なかなかむずかしいことだと思う。自己満足に留るのはいけないって、郁江先生がいつもおっしゃってるけどね......」
「しかし、松代さんも霊能をお持ちですが、先輩として、この霊能というものをどのように扱ったらよいか、教えて頂けるとありがたいのですが......」
義が真剣な顔で尋ねた。廊下の立ち話なので、入院患者や看護婦たちが興ありげに二人を眺めて通り過ぎる。松代直子はからみついてくる視線に閉口していた。看護婦は多忙な身だから、病院の廊下で患者相手に長々と立ち話などしてはいけないのだ。後で必ず婦長からお目玉を頂戴することになる。
「だって、わたしは霊能のことは内証にしているもの。そんな力があるとわかったら、どんな目で見られるかわからないし、誤解を受けるかもわからない。だから塾へ通っているのだって内証だし、霊能のことも含めて、笛川先生にも伏せておいて頂いているわ。
特殊な目で見られるって、わたしすごく厭なの。同僚や患者や、先生たちにだって警戒されるかもしれないし。私はただ並みはずれて勘がいいという評判を取っているの。看護婦の仕事にもとっても役立つわ。霊能だの、霊視だのっていわなくても、勘がよければ、みんな信頼してくれて、変に警戒もされないでしょ」
「松代さんは考え深いのですね。私は本当に浅慮でした。きっと自分に霊能が備わったのが嬉しくて、見せびらかしたい......そんな気持が底にあったのだと思います。私のような者が、と謙虚さをよそおいながら、実は霊能を見せびらかす機会をいつも求めていた......それが真実なのでしょう。今初めてそれがわかってきました。南峰さんのような方は、眼力鋭く私の浅墓さを簡単に見破ってしまわれたのですね......改めて自分の愚かしさに冷汗が出てきます......しかし、松代さん。私が塾に入って、自分の唯一の力を生かそうとするのはやはり間違いでしょうか? もっとまともになれ、と南峰さんにいわれてしまいましたが、私はいつの間にか、まっとうでない道へ入ってしまったのでしょうか?」
「そういう考え方も極端すぎると思うけどね......義さんには義さんなりの遣り方があると思うし、自分で自分の道を見つけるほかはないわ。ともかく、この問題は後にしましょう。今はちょっとまずいから......世間には沢山の人たちがいて、それぞれ違った考え方、受け取り方があるんだということがわかればいいんじゃないかしら?
義さんとわたしは、立場も違うし、役割も違うと思うから......」
結局、松代直子は逃げた。こうした問題を論ずるには、病棟の廊下は全く不向きであった。
「久保陽子さんの所へ会の木下君がお見舞いに来ていたわよ。知ってた?」
立ち去る用意をしながら、松代直子は話題を変えた。相手があまりにも深刻な表情になってしまったので、気が差したのだ。
うるさ方にとがめられた義を慰めるつもりがいつの間にか逆転して、相手を更に滅入らせてしまった。自分で自分の気まぐれさが不思議でならない。その気もないのに、づけづけと直截な口をきき、あからさまな批判をやってのけてしまう。
「いいえ......午前に久保陽子さんにお目にかかって、一足お先にとご挨拶してきました」
「会や塾の人がいろいろ親身になってくれるからよかったわね」
松代直子はどことなくピントはずれのことをいった。気が急いているためと思ったが、それだけではないようであった。
「でも、久保陽子さんって、義さんと違ってあんまり感動しないみたい。表面的にはそうでもないんだけど、内側の方は感情が枯渇して空洞になってるみたい。表面的にはニコニコして嬉しそうにしてるんだけど、本当なのかどうかわからない......そんな感じがしない?」
直子はますますピントのはずれた、いわでもがなのことを口にしていた。義は当惑したようである。
「郁江先生は義さんの所へ二度もお見舞いに見えたのに......」
余計なことを喋ったと彼女は後悔した。いつも心に引っ掛っていることなので、つい口に出てしまったのであろう。郁江はなぜか久保陽子を一度も見舞っていないのである。
〝親衛隊〟とかげで呼ばれている側近の若者たちはしばしば見舞いに来ているようだが、郁江自身は一度も足を運んでいない。
入院の事情を知れば、逆のように思えるのだが、まともに質問することもはばかられるところがあった。
何かいうにいわれぬ理由があるのだろうと考えるほかはない。郁江が何を考えているのか、その思惑を知ることは、優れた遠感の持主である松代直子にも不可能であった。
常人と異り、その思惟には不可解な所が沢山あるようだ。確かに並みの人間とは異質なのである。
かといって、久保陽子の不可解さとも一味違う。似ているが、やはり違うのである。
久保陽子の思惟には、谺を伴った虚ろな感じがある。喜怒哀楽がさながらポリフィルムで包装されている、奇妙な異和感が存在するのだった。
郁江の感情はもっとストレートで生々しいが、逆に思念の方は読みとりにくいものがあった。
感情は豊かで活気に満ちているのに、あらかじめ考えは予測できない。直子のように平凡な人間にはとうてい考え及ばない、発想のユニークさが存在する。思考速度も人間ばなれしていて、追いつけない。飛躍的で唐突なのである。
思考の筋道など、とても辿っている余裕はない。
郁江の思惟には閃きが多い。直子の思考スタイルが鉛筆と紙で延々と計算するのであれば、郁江は一瞬にして直感の閃きで解答を出す。計算の過程は抜きであるが、その速さは余人の及ぶところではない。
その〝閃き〟、直感の冴えと鋭さが、井沢郁江の霊能の著しい特徴というほかはなかった。
そもそも、霊感には理由付けができない。ふっと何の理由もなく、ただ〝わかってしまう〟のだ。予測や推測とは全く異るのである。データを必要とせず、論理的といえない。
〝波動〟でわかる、と郁江はよく口にする。たとえば初対面の人間の内容が、予備知識なしに把握できる。どんな経歴を持っているか、信用できる人間かどうか、一瞬にして看破してしまう。
単なる洞察力とはいえない。〝女の勘〟だと郁江は笑っていうが、その程度の代物でないことは明らかだ。
松代直子にも勘というべき閃き、直感力はあるが、やはり郁江に比べれば、紙と鉛筆で長々と計算した挙句、答を出すというもどかしさは免れない。
たとえば、郁江が発揮するある種の不公平さ、義を二度も自身で見舞ったのに、久保陽子には側近を差し向けてお茶を濁すという差別が、直子には理解できない。
理由があるに違いないのだが、彼女の頭では想像もできないのだ。あるいは、郁江にも意識的な理由はないのかもしれない。
陽子を見舞わない方がよい、という直感的な判断があるだけなのだろう......松代直子はそう思う。
不人情だ、薄情だと思う向きもあるだろうが、郁江は確信を持って下した判断なのに違いない。
それがもっとも正しい遣り方だ、と先験的にわかっているからだ。
それこそが、郁江が高次元世界の波動を受容し、同調している証拠であるのかもしれない。
松代直子も、久保陽子という少女には、奇妙な異和感を禁じえないだけに、理由はないが郁江の遣り方に納得できるものがあるのだった。
「私はさんざん他の人々を苦しめ、傷つけてきた身なので......」
と、義は静かにいった。
「このように幸せな気持でいられること自体が後めたく思えます。私にひどく傷つけられた人たちはいまだに傷痕を残し、苦しんでいるわけですから......神様が私のような人間を許して下さることが大変な奇蹟なのだと強く感じます。過去に私の傷つけた方たちが今私の前に現われて、私が心の平安を得ていることを責めたとしたら、私にはただお詫びするしかありません。私こそ苦しみ続けて地獄へ堕ちるべき罪深い人間なのですから......
私によって深く傷ついて現在も地獄の苦しみの中にある人たちが、不公平を呪うとしたら、私にはどうすればいいのかわかりません。私が代って地獄へ堕ちたいと願うほかはないんです......神様は不公平だ、とその人たちはいうでしょう。自分たちをあれだけひどい目に遭わせて死ぬほどの苦しみを味わわせた私が悔い改めたといってのうのうと心安んじており、一方その人たちが過去の傷の痛みにいまだに苦しんでいるとしたら......申しわけがないとしかいいようがないんです。私にもっともっと苦しみを与えて下さい、と神様に祈りたくなります。悔い改めたからといって、私がこんなに心の安らぎを得ていいものかどうか。私はもっともっと責められ、罵られなければならない人間なんですから......罪の償いのために一生かけて、命をかけてやって行こうと決心はしていますが、私を怨んでいるだろう人々のことを思うと、刃物で心臓を切られるような思いがいたします......
久保さんは本当にお気の毒です。あの方の負った心の傷はあまりにも深くて、我身に引き比べてみることはむずかしいのではないでしょうか? 私はまるで久保さんを傷つけたのが、自分自身であるような気がします。二人が同じ時期に、同じ病院に入院しているのは決して偶然ではない......そういう気がするんです」
「義さんの気持はわかるけど、あんまり深刻にならない方がいいんじゃない」
松代直子は後悔しながらいった。義と皆に呼ばれる、暴力団塚原組の元チンピラ金本義男の経歴はだいたい知っている。井沢郁江が箱根セミナーで語ったことを聞いているからだ。元チンピラとして彼が働いた所業は、人殺し以外は何でもやっているというに等しかった。
加害者と被害者の相違こそあれ、義が久保陽子を理解する深さは、傍観者でしかない松代直子が考え及ばないものかもしれなかった。
直子はいつでも、あくまでも一介の傍観者でしかないのである。他人の苦痛や懊悩をただ向う岸から眺めているだけなのだ。百年たっても、直子は義や久保陽子の心を本当に理解することはできないのかもしれなかった。
その認識が彼女を心やましくさせた。
自分は他人を本当には正しく理解していないし、その心になることもできない。あるのはただ表面的な共感や同情だけだ。結局は他人事という範疇を一歩も出ることはない。義に対して偉そうに高所に立ち、得々とお説教をしたりする浅墓さもそれがゆえであるのだろう。
自分はあくまでも義を、改悛した元チンピラという観点からしか見ていない。その観点からはずれることは不可能なのだ。年長者意識や、霊能者という自負心や、そして何よりも彼のように罪深い身ではないという自信が、彼を理解することから遠ざけてしまうのかもしれなかった。
人並はずれた才に恵まれているわけではないが、まずまずの境遇に育ち、家庭的にも不遇というわけではなく、常にそこそこの成績をあげてきた。平凡としかいいようがないものの、派手な人生ではないかわりに、冷汗をかくような罪業深重の身であることもない。看護婦としては中堅であり、過不足のない信頼を受けているといってもいい。
人生に多少の波風が立たないわけではないが、概して平穏といえるだろう。自分では頑張り屋の方だと思っているし、努力もしているつもりだ。職業意識も技量も人並より劣ると思ったことはない。
だれに対しても恥じるような生き方をしてきた憶えはない。自己採点してみても、さほど悪い点はつけずにすむだろう。
井沢郁江から聞いた自己省察という反省の方法を試してみても、冷汗が滲むような罪の記憶は発見できなかった。さしたる挫折にも遭わず、人生の節目にも遭遇せず、苦難の乏しい生き方をしてきた己れを発見するばかりであった。
事件らしい事件もなく、人生の分岐点らしいものといえば、大学進学を勧める両親の意見と対立して、看護婦養成機関を選択したということぐらいである。それも正しい選択だったと確信している。もし看護婦を職業に選ばなければ、笛川医師とも逢えずじまいになったろうからだ。
その意味で、反省はあまり役に立たなかった。自分は特別な恵まれた人間なのかという気がした。試練に合わずにすんだ幸せな人間なのかもしれないと思った。
けれども、それがために他人の心がわからないのかもしれなかった。全てが他人事以外の何物でもないようだ。
加害者の立場にある義が、罪の意識を通じて久保陽子を理解できるのに、自分には出来ない。自分は結局、義に対しても久保陽子に対しても両方とも理解を阻まれている。他人事という観点から一歩も踏み出すことが出来ないからだ。
松代直子は初めて不安な思いを味わった。苦労知らずに生きてきたがために、人と人との真の理解から自分は疎外されてしまっているという危惧であった。
人の苦しみや悩みが所詮は他人事であるとすれば、自分は東丈のいう〝光のネットワーク〟からはずれてしまい、決して近づくことを許されないということを意味しているのではないか......
自分が平凡ながら恵まれた境遇にあるという確信は全く根も葉もないもので、実際はその逆ではないか。そうした疑問がいっせいに湧き立ち、松代直子をひやりとさせたのだった。
14
久保陽子の病室は個室であった。
息が詰まりそうに狭いが、トイレットは附属しているし、小さいがガスレンジもあってお茶ぐらいは淹れられる。
病院の部屋ほど殺風景なものはなく、花瓶の花の色彩ぐらいではとうてい緩和されるものではない。無表情な白い壁があり余っているのがかえって強調されるようである。
大通りに面した窓の薄汚れた白色のアルミ・ブラインドが味気ない。交通騒音はかなり耳障りであり、車の往来の激しい大通りを見降していても、少しも興味深いとはいえなかった。目を楽しませるものは何もない。
病院での入院生活の経験のない身にしてみると、これほど退屈なものはまたとなさそうであった。自分だったら無聊に堪えかねて、気が変になるだろうという気がした。
入院中の久保陽子を見舞いに来るたびに、妙なことだが、刑務所のように監禁された彼女に面会するような気がする。入院した知己や友人を見舞ったことは幾度もあるが、そんな気になったのは初めてだ。
病院の個室ではなく、独房に入れられている久保陽子に逢うようなのである。
病床のベッドにいる彼女は、まるで大きな貝殻の中におさまっているような感じを受けてしまう。なぜだかわからない。
久保陽子は青白い顔に目ばかり大きいが、綺麗だ、と彼は思う。やや病的だが、それだけに心を惹きつけるものがある。痛々しくかぼそく見えるせいかもしれない。
この殺風景な、息が詰まるような狭い病室に一日中閉じこめられ、じっとおし黙ってすごす久保陽子のことを考えると、胸がしめつけられる心地になる。憐愍で居ても立ってもいられなくなってしまう。
何かしら傷ついた白鳥、とでもいった哀れさが彼女にはある。悼ましくて切なくてどうにもならなくなってしまう。
むろん化粧気があるわけでもなく、身につけているのは木綿のネグリジェであり、とりわけ彼女を綺麗に見せる要素は何一つないが、不思議なことに、この閉塞的な病室にいると、久保陽子はびっくりするほど美少女に見える。
彼の目に同情や憐愍の靄がかかっているせいかもしれないが、こんな美少女は見たこともない、と彼に真剣に思わせるほどだ。
もちろん、自分にロマンティックな偏りが過度に存在することは知っている。昔からおセンチなのだ。
いつも見舞いに同行する会員の川口順子が、今日は不参で、彼が孤りで見舞うのは初めてのことである。
「もう、足をひきずりながらですけど、だいたい歩けるんです。でも、まだ痛みがとれなくて......」
と、久保陽子が低い声音でいう。
「そんなはずはないって、先生はおっしゃるんですけど、本当に痛むんです。突き刺されるように痛く......それで、退院はもう少し先に伸びることになりました。本当はもう今日ぐらい退院してもいいっていわれていたんですけど......」
「そうですか......」
と、彼は戸惑いながらいった。女性に関しては無器用で口下手な方である。いざとなると、言葉が詰まってしまう。あれこれと喋ることを考え、ちゃんと頭の中ではリハーサルして出かけてくるのだが、本番になると失語症気味になってしまう。
連れの川口順子がいる時はいい。たいていのお喋りは彼女が引き受けてくれるし、彼自身もなんとか口をはさむ余裕があるからだ。以前に三回来たが、その時は連れが多く、彼はほとんど口をきかずにすんだ。
一人で見舞いとなると、彼には負担が重すぎる。他の連中のように自由自在にお喋りしていく芸当は、彼には無縁である。異性とつきあうのは苦手なのだ。
しかし、久保陽子を見舞うのは嫌いではない。彼女は口数が少くて、他の少女たちのように眩惑的にお喋りの速射砲という感じではないからだ。川口順子など、気楽なタイプなのだが、あまり喋りすぎて疲れる。
久保陽子はじっと黙っていることの方が多い。見舞いの者が喋っている間、無言で頷いているか、微笑しているかであり、自分から火がついたようにまくしたてたりは決してしない。
「お医者様にも、理由がわからないっていうんです」
「笛川先生が?」
「ええ。退院するのが厭なんじゃないかって笑ってらっしゃいました」
久保陽子は、いつもよりも積極的によく喋った。彼の負担を少くしてくれているようであった。
「君は病院が好きなんだろうっていわれました。だから、痛まないはずの足が痛むんだって......」
「病院が好きな人間なんているんですか?」
「沢山お見舞いに来て、チヤホヤしてくれるからですって......つまり学校へ行きたくない子が、朝になるとお腹が本当に痛くなる。あれといっしょだっていわれてしまいました」
「でも、そんなことはないんでしょ?」
「どうでしょうか。ここにずっと入院していたいという気はありませんけど、早く退院したいっていう気にもなりません」
「どうしてですか!? みんな、久保さんが一日も早く退院することを祈っているんですよ」
彼ははっと愕いていった。
「だって退院すれば、いろいろなことができるじゃないですか。こんな所、退屈でしょう?」
「あたし、こういう所でひっそりしている方が、他人の迷惑にならない、そんな気がしてしまって......」
「どうして、そんなことをいうんですか!? そんな迷惑だなんてこと、ありっこないですよ......」
「早く退院して、会へ戻りたい、皆さんとごいっしょにやって行きたい......そうは思うんです。でも、やっぱり迷惑をかけてしまうような気がします」
「そんなこと、絶対にないですよ!」
彼は我知らず熱くなっていった。久保陽子はあまりにも寂しげで孤独そうに見えたからだった。熱いものが身裡に内圧を高めて、黙っていられない衝動が襲ってきた。
「なんでそんなこと思うんですか? 我々は〝光のネットワーク〟を作り出し、世界中に張りめぐらして行くのが目的じゃないですか? 我々は光の仲間でしょう? その真の魂の仲間同士が、迷惑をかけた、かけられたなんてことは絶対にありえないですよ! そんな低次元のことで、我々が手を結ぶことができないなんて、ありえないですよ! たとえどんなことがあったって、魂の仲間は切っても切れない光で結ばれているんですから!」
「木下さんは、〝光の本質〟をご覧になったんでしょう?」
久保陽子はいきなり尋ねた。熱くなり、むきになっている彼の気分とは、波長が合わないようだった。
「〝魂の本質〟だ、と東丈先生が箱根で教えられたと聞きましたけど」
「見ました。信じられないような光景でした。僕は運がよかったんです」
冷静になろうと固唾を飲んで、彼は久保陽子の視線を避けた。彼女は他のどの少女とも違う瞳をしていた。郁江のきらめく瞳でもなく、平山圭子の思慮深い瞳でもない。木村市枝のひたと見据えてくる、たじろがない強い眸でもない。無邪気な瞳でもなく、底意のあるからかうような瞳でもない。瞳の背後にある意識の波動が、他のいかなる少女たちとも異質であることを感じざるを得ない。街で見かける若い娘たちの浅墓で衝動的な、底の浅い妙に動物じみた眸とも一切隔絶したものが、久保陽子の瞳にはあった。
その眼を見ると、黙ってはいられぬという強く身裡にたぎるものに駆られてしまう。それは確かに同情や憐愍の感情であったろう。いつもは連れがいるために、その感情を明確にする余地がなかったことに、彼は今更のように気付いた。
「素晴らしい光でした。直径数メートルもある光球で、目を射るような光を出しているんです。ちょうど太陽を直視するような感じでした。それが〝空飛ぶ円盤〟みたいに整然と編隊飛行をしているんです。ちょうど先生を含めて、十一人いて、人数分、十一箇の光球を見ましたけど、どの光球が誰のものか、そんなことは全然わかりませんでした。光の強さが違っていて、どれが大きくて、どれが小さいなんてことは全然ないんですよ。みんな物凄く光っていて、優劣なんかとうていつけられませんでした......」
「十人の方々は、世界を救う使命を持った、特別の魂だから、そんなに素晴らしい光を放っていたんじゃないんですか?」
久保陽子が小声で尋ねた。心を奪われた表情であった。
「そんなことはないです。そんな特別の魂なんてことじゃないんですよ。だれでも〝光の本質〟は同じなんだって先生はおっしゃっていました。我々は先生といっしょにいたんで、運よく自分の〝魂の本質〟を見られたんです......みんな同じなんです。特別に世界を救う運命なんて、そんなエリートじゃありませんよ」
「でも、他の方々は見られなかったわけでしょう? やっぱり十人の方々だけ、特別に見せてもらったんじゃないでしょうか?」
「それは確かにそうなんですが......なぜ僕らだけ見せてもらったのか、理由はよくわからないんです。でも、エリートとかそんな特別に選ばれたなんてことは絶対にないと思いますよ。なんというのかなあ......僕なんかよりよっぽど優れた、光を見る資格のある人たちがほとんど見ていないんですから......きっと宝クジに当ったようなもんだっていってるんですけど」
彼は顔を染めて懸命にいった。久保陽子の示している尊敬は過大評価であり、面映ゆかった。
「ただ幸運だったんです。それだけのことですよ。だって井沢郁江さんだって見ていないんですから......だとすれば、先生が十人の者だけを特別待遇したなんてはずはなくなります。だって先生が後をゆだねていった郁江さんが漏れているのは、そんなエリートだなんていう次元の問題じゃない証拠です。そうでしょう?」
彼はあまりにも真摯であり、一生懸命であった。自分が特別のエリートなんぞではないことを絶対に証明せずにはおかないという意気込みであった。
「木下さんが羨ましい......」
と、久保陽子はいった。彼の胸を痛くさせるほどの切望がこもっていた。
「何をいうんですか?」
彼は急いで目をそらしながらいった。少女の瞳の奥から溢れるように光ってくるものがあり、直視に堪えない気分になったのだった。
「だって、木下さんは心が綺麗なんですもの。心が浄らかで、光が満ち溢れているから、〝光の本質〟を見ることを許されたんでしょう?」
「そんなことありませんよ! いや、他の方々はともかくとして、僕は決してそんなことはないです。欲望や執着で心が汚れているし、浄らかなんてほど遠いです。本当なんですよ。久保さんにそんないわれ方をすると困ってしまいます。僕は自分がどんなに俗悪で凡庸な人間かわかっているし、そんなの全くの買い被りですよ。僕は聖人にも君子にも絶対なれません! いつだって心がグラグラ揺れ動いていて、不動心や自己確立なんて夢のまた夢です。とにかく僕は自分があまりにも未熟でだらしがない人間なんで、呆れ返ってしまっているんですよ......」
「木下さんは、それを謙遜していえるから......」
ぎょっとして、彼は久保陽子に視線を戻した。
「謙遜なんて、とんでもない......」
「木下さんって、とても綺麗です」
そんなことを女の子にいわれたのは初めてだった。おとなしいとか気弱、と評されたことはある。二言目にいわれるのは、純情という評言であった。彼自身は褒め言葉とは思わない。物足りなさ、飽きたりなさを含めた軽蔑を感じ取ってしまう。少くとも相手が不満を感じているのは確かなのだ。
かっと顔が熱く火照った。
「綺麗なのは久保さんですよ......」
彼は思い切っていった。
「あたしなんか、穢れていて駄目なんです。どうしようもなく穢れています。腐って臭い匂いをさせている生ゴミみたいに......」
久保陽子は息をのむようにしてからいった。
「とんでもないです! 久保さんは穢れてなんかいません! 腐っているなんて、とんでもないことですよ!」
彼はむきになっていった。声がうわずってしまう。
「僕は絶対にそんなこと、思いませんよ! もし久保さんをそんなふうに見る者がいたら、穢れているのはその者の方です! なぜ久保さんは自分のことをそんなふうに思ったりするんですか!?」
「あたし......体も心も穢れてしまっていますから......それは自分で一番よくわかっているんですもの。だから、木下さんみたいに綺麗でいられたら、どんなに素晴らしいだろうと思ってしまって......羨ましいんです。でも、今更どうしようもないんですよね......」
「久保さんは穢れてなんかいませんよ。僕が保証します。それに僕は、久保さんが思うように清浄でもないし、心身ともに綺麗なんかじゃありません」
彼は夢中で喋った。久保陽子の瞳があまりにも悲しげなので、憐愍で心を切り裂かれるような心地がした。
「僕は中身と外見が違っている人間です。心の中はいつもドロドロした醜い欲望や感情に囚われっぱなしです。清浄だなんて、とんでもありません。汚らしいことを沢山しています。今だって欲望に負けてしまうことがとても多いんです。僕は久保さんが思うような清浄な人間じゃありません。いつも後悔ばかりしています。でも、駄目なんです。今度こそと思っても、自分の弱さにすぐに負けてしまいます......」
自分がいかに駄目な、不浄な人間であるかを口をきわめて罵りたかった。久保陽子が自分よりも汚穢な、不浄な人間ではないということを何とかして証明したかった。彼は贖罪意識にとり憑かれてしまったようであった。
「でも、あたしは幻魔の虜になって、奴隷にされていた女なんです......もう汚れがすっかり染みついてしまって、どうやってもとれないんです。体も心も腐ってもの凄く生臭い匂いをさせています......自分でそれはよくわかるんですけど、どうしようもないんです。お風呂に入っていくらゴシゴシ洗って、皮膚が剝けるまで擦っても、臭い匂いは消えないんです......」
「久保さんは絶対に臭い匂いなんかさせていませんよ! 僕は凄く鼻がいいんです。そんな悪臭なんかさせていないってことを、僕は絶対に断言します!」
彼は顔が上気するほどの熱と力をこめていい切った。その気負いは好もしいものであった。
「だって臭いんです......自分でよくわかります。心が汚れているから、魂が痛んでいるから、腐った匂いを出してしまうんです......蛇の死骸のようなひどい匂い......どうしたらいいのか、わからなくなってしまいます」
久保陽子は堪え切れなくなったように、急激な動作で、顔に両掌をあてがった。彼は思わず椅子から立ち上った。まるで強い吸引力が働いたように、久保陽子の傍へ行かずにはいられなかった。
15
「臭くなんかないですよ。なぜ自分で、そんなふうに思いこんでしまうんですか? 僕には口臭恐怖症の従姉がいるんですけど、自分では強い口臭があると思いこんでしまっているんです。本当は口臭なんか全然ないんですよ。うんとそばへ行っても臭いなんかしないんです。でも、本人はもう信じこんじゃってるから駄目なんです。いくら他人に臭くないよと保証されても、本人はもの凄く気にしてるから、臭く感じてしまうんですよ。本当に気のせいなんです。
その従姉には好きな男性がいて、その人の素振りで自分には口臭があると思い込んじゃったんです。はっきりと口が臭いといわれたわけでもなんでもないんですよ。だけど、本人には致命的なショックだったんですね。
たぶん、従姉の誤解か気にしすぎだったと思うんです。でも、恋人にはそんなこと尋けなかったといいます......自分の口が臭いので、相手が変な顔をしたと思い込んでしまってますから。気にしすぎると、神経質になってどうってことのないものまで、物凄く気になるんですよね。
それで、結局、従姉は恋人と別れてしまいました。最後までその理由はいわないままで......やっぱり僕はずいぶん馬鹿げていると思います。他人にいくらそんなことないと否定されても信用せずに、自分には口臭があるとひたすら思い込んでる。だったら、医者へ行けばいいんです。でも、それも行かない。ただ家へ閉じこもって、ノイローゼみたいになってる。そんなくだらないことで、大好きな人と別れてしまうなんて、くだらないじゃないですか。相手はなんで従姉が自分を避けるようになったのか、見当もつかないだろうと思うんです。幻の口臭が元凶だったなんておよそ想像もつかないはずですよ......従姉も自分に口臭があると思うなら、医者にかかって治そうとすればよかった。そうすれば、そんなのは幻臭だってことを医者が教えてくれたはずですよ。そう思いませんか? 久保さんだって、従姉と同じだと思う......」
久保陽子は顔を覆った両手の指を開き、その指の隙間から、熱中のあまり顔面を紅潮させている彼をそっと窺った。彼はがんと頭を打たれたような気がした。
「ね、こんなに近寄っても、臭くなんか感じませんよ......」
と、彼は掠れ声で辛うじて後を続けた。
「石鹼の匂いがする......さっぱりしたいい匂いです。お風呂に入ったばかりでしょう? ちゃんとわかりますよ。ふわっとした暖い匂いがします。やっぱり女の人の匂いですよね、当り前だけど......リンスした髪の匂いがします。うちの妹が使っているのと同じ匂いです。全然臭い匂いなんかしませんよ。僕が絶対に保証します。もちろん、口臭だってありません。健康な匂いです。もう消毒薬や薬品の匂いもしない。久保さんはもう完全に健康ですよ。間違いないです......」
「本当に幻臭なんでしょうか?」
縋りつくような口調であった。彼女の両掌は顔を依然として覆い隠しているが、その手を取って何も心配する必要はないと慰めてやりたかった。それは熱風のように襲って心身を揺り動かす激しい情感であった。
「幻臭です。久保さんの体はいい匂いがします。やっぱり若くて健康な、清潔な女性の匂いです......」
顔が赤くなった。自分が彼女に近づきすぎているのを不意に意識する。
「本当に? あたしの体、いい匂いがするでしょうか? 生臭い腐ったような匂い、しないでしょうか?」
「しません。誓ってもいいです。いい香りがします......」
「信じてもいいですか?」
ぎゅっと心臓を熱い手で握りしめられるような気がした。それほど彼女の声音は切望に満ちていた。
「もちろん......僕を信じてください」
必要以上に力がこもっていたかもしれない。しかし、どんなに保証しても保証しすぎるということはない、と彼は思った。
「よかった......」
久保陽子は長く震える溜息をつき、わななくようにいった。
「胸を締めつけていたロープが切れたみたい......急に、とても楽に息ができるようになりました。ありがとう、木下さん。ありがとう......何度いってもいいたりないけど......木下さんをこれからずうっと、信じていてもいいですか?」
「信じてもらっても大丈夫です。自信がありますから」
「気休めや嬉しがらせではなくて......?」
「もちろんです! 僕はそんないい加減な人間じゃありませんよ!」
彼は力をこめていい切った。相手が危ぶんでいると感じ、それが心外であった。
「僕は誓います。誓いは絶対に守ります! どんなことがあったって......」
「ごめんなさい。あたしはそんな値打のある女じゃないから......木下さんを信じてる......そんなこという資格なんかないから......だから、つい心配でいってしまったんです。ねえ、ごめんなさいね......」
久保陽子は縋りつくようにいった。覆っていた両手を顔から取り除き、懇願をこめた瞳で彼を見上げていた。彼はまたしても懊悩に似た憐愍の虜になり、息苦しくなった。
「僕は怒ってなんかいませんよ。なぜそんな風に思うんですか......?」
「あたし......木下さんを怒らせてしまったような気がして......あたし、お友達と呼べる人が一人もいなかったんです。だから、木下さんに怒られて、見捨てられてしまうのが恐くて......」
「怒ったりしませんよ、何があっても絶対に!」
彼は誓った。その口調は高揚しており、激しさを感じさせるほどであった。
「約束します。これでいいですか?」
「ええ......安心しました」
久保陽子の顔が明るくなり、微かな頰笑みが浮んだ。左頰に小さな笑窪が出来るのが、奇妙に胸を打たれる新鮮な発見であった。
「僕たちは友達だ......だから何も心配する必要なんかないんですよ。だれが久保さんを誤解しているにしても、そんなことは間違ってると僕はいってやります。久保さんのことを陰でこそこそいう人間がいたとしたら、僕は決してそいつを許さないし、はっきりといってやりますよ。だから、何も悩んだり苦しんだりすることなんかない。僕は久保さんのことを守ってあげたい......みんなが特殊な目で久保さんを見ているのが、腹が立ってたまらなかった。でも、もう二度とだれにもそんなことはさせません。前から僕はそう思っていたんですよ......人間はだれだって、いつ何時、自分ではどうしようもない、辛い目に遭うかもしれない。そんな時、味方になり、力付けてくれる友達がいなかったら、どんなに苦しいだろうかって......みんなはだれもそんな辛い目に遭っていないから、不幸な人の気持がわからないんだって......」
夢中で喋り続けた。見上げている少女の瞳から視線をそらすことができなかった。こんな気分になったのは、生れて初めてだと思った。何かしら狂おしく熱いものがとり憑いてしまったようであった。
「僕はいつだって、久保さんを守ってあげたい......だれも久保さんをいじめたり、悪口をいったり白い目を向けて疎外したりしないように見守っていてあげたい。だって久保さんは犠牲者なんだから! 犠牲になったことには何の責任もない! だれだって同じ目に遭うかもしれないんだから! だれもがいい仲間に囲まれてぬくぬくと幸せでいられたら、それに越したことはないかもしれない! だけどそうでない不幸な人だっている。うわべは親切そうにして、同情したりするかもしれない。けど、本当はやっぱり差別の目で見ている! 前科者を見るように、また何かやるんじゃないか、ともう犯人扱いして、罪人を見るような目でこっそり見ている! あの人はやっぱり......と心の底ではきめこんでいるなんて、僕には許せない! それはやっぱり物凄く間違ってると僕は思う!」

熱狂に駆られて喋り続けながらも、本当に自分はここまで深く突っ込んで考えていたのかという自制が徴していた。井沢郁江に指名を受け、川口順子たちと久保陽子をこれまで四回ほど見舞ったが、そこまで意識化していなかったような気がする。
しかし、口に出してしまうと、以前からその考えは確信として存在していたような気分になった。強い批判を会の仲間たちに向けていたのだ。それは自己批判を含んだ、強烈な贖罪感であった。
「もしかすると、僕の中にもそういう差別意識というものがあったのかもしれない、そう思います! 何か特別に変った、異様な人間......たとえば殺人犯とかそういう人たちを見る目、差別的な目が自分の中にあったことは否定できません。それはとても恥しいことだと思います。人間はだれだって同じなんです! 巡り合わせが悪ければ、だれだって同じ目に遭うかもしれない! 特別に恵まれていて、幻魔の攻撃から奇蹟的に免れている人間なんて一人だって存在しやしない!
自分は恵まれていて幸福で、幻魔なんか関係ない、そう思っている人だって、いつ自分の番が廻ってくるかわからない。幻魔は全ての人間に対して平等なはずですよ。人間は神の前において平等であるだけでなく、幻魔の前にも平等なんだ! 幻魔は差別なんかしませんよ! 人間を差別するのは同じ人間同士なんだ......」
久保陽子は茫然とした面持で、彼の熱弁を聞いていた。身も心も打ち砕かれた少女を前に、熱弁を振るうのは、英雄的な自己陶酔の快感があった。
「僕は幻魔のことはよく知らないんです。みんなもきっとそうでしょう。幻魔がどのように人間を攻めたり、もてあそんだり、苦しめたりするか、わかっている人間はほとんどいないはずです。僕は幻魔のことをもっとよく知りたい! 幻魔がどのように人間を扱っているのか深く突き止めて、専門家になって多くの人々に警告したいと思っているんです。幻魔はおそらくありとあらゆる方法で、人間の弱点を攻略すると思うんです。だからこそ、だれだって幻魔の犠牲者になりうるし、他人事なんか存在しないはずです!
久保さんの問題は、人類全員の問題なんだと思う。だから久保さんが必要もないのに自己卑下して、自分を卑しめるのは、とても辛い......身も心も穢れているなんて、そんなこと絶対にないのに......」
「痛い」
と、久保陽子がいきなりいった。顔はしかめられ、血の気が退いていた。
「足が痛い! 傷痕が痛くなって......」
「そんなに痛むんですか!?」
彼はうろたえ、おろおろした。久保陽子の訴えはただごとではないようであった。
「いったぁい......」
久保陽子はシーツの下で体をよじらせていた。苦しみに堪えぬように激しく頭を打ち振る。顔は蒼白く血の気が退き、玉をなして冷汗が噴き出している。
「看護婦さんに今報らせて来ます! 待ってて下さい!」
彼はうろたえきっていった。看護婦を呼ぶ押しボタンは彼女の枕許にあるのだが、それさえも目に入らなくなっていた。
「行かないで!」
少女は右手を彼に差し伸べて口走った。
「ここにいて、お願い! 麻酔を打たれるのは嫌いなの、気分が悪くなるから......」
「し、しかし、その痛みを止めなければ!」
彼はせめぎ合う二つの衝動の間に宙吊りになり、病室のドアとベッドの少女を、機械的な動作で交互に見ていた。
「お願い、ここにいて......しばらく我慢すれば止まるから......」
「じゃあ......」
自分に向って懸命に差し伸べられている少女の手を無視できなかった。少女が必死で救けを求めている、と感じた。彼は磁力に引かれるように近寄り、少女の手を握った。少女の冷たい手が強い力で摑んでくる。
「こうですか? こうしていればいいんですか!?」
「え、ええ......ぎゅっと摑んでいて!」
苦悶が少女の体をのたうたせていた。まるで少女は出産する間際の女に似ていた。立てた両膝をしきりに右へ左へと倒している。ぎゅっと力のこもった首筋は白く腱が浮き出し、痛々しい限りであった。
「本当に大丈夫ですか、医者を呼ばなくてもいいんですか!?」
「ええ...大丈夫......大丈夫!」
少女は自分が何をいっているのか、自覚がないようであった。苦痛に目の焦点が失われ、息切れしてしまっている。呼吸は荒くなり、はっはっと喘ぐようになった。
少しも大丈夫ではなかった。彼はどのように判断し、振舞えばいいのかわからなくなってしまった。
医者を呼びに行こうにも、少女の手は死力を尽しているように、異常な握力で彼の手を握りしめており、自由がきかない。大声を出して人を呼ぶという知恵も浮ばない。度を失ってしまうと、実に簡単なことがわからなくなってしまうのだ。
16
少女は異常な力を発揮して、彼をぐいぐいと手許に引き寄せた。抗し切れずに体が浮いて、少女の汗にまみれた顔が身近に迫る。
「生体......エネルギーを......」
と、少女は喘ぎ声でいった。息切れしているために、聴き取るために己れの耳を少女の口許に寄せなければならなかった。
「お願い......生体エネルギーを......」
どうやら生体エネルギーを、右腿の傷痕に注入することを求めているようであった。
「だけど......」
「お願いだから......」
躊躇を、少女の哀願が押し切った。生体エネルギーの注入法は、箱根セミナーの夜、東丈から直接教わって知っている。しかし、これまで実地に試したことは一度もなかった。自分にどれだけの生体エネルギーが存在するのかも見当がつかない。
「お願いだから......早くして!」
「わかった、今やりますから」
意を決して、彼はベッドサイドにうずくまり、右手を毛布の下にさしこんだ。生体エネルギーがあろうとなかろうと、やらなければおさまらなくなったのである。
ネグリジェの上から足が手に触れた。体温の熱さに目がくらむ心地がし、口の中が乾いた。異性の体に手を触れるなど初めてのことだった。
膝頭に触れて戸惑っている彼の手首を、毛布を潜ってきた少女の手が摑んで案内した。ナイフに深く刺されたという患部は、彼が漠然と考えていたよりもずっと上部の右腿にあった。ほとんど腿の付根に近い部分であり、手を伸ばすことさえはばかられた。もし少女が強引に手を摑んで運ばなければ、彼はいつまでも逡巡することになったであろう。
少女の軟い凝脂に満ちた太腿の柔媚な感触が、火にふれたようなショックを与えて、どっと汗が噴き出した。うろたえてしまい、なすすべもない。
「治して......治して!」
と、少女が喘いだ。その声音の狂おしさが、彼に精神の平衡感覚をもたらした。はっと我に返り、意識から熱っぽい狂躁が退き、すっきりと澄んできた。
自分に可能かどうかはわからないが、やるだけやるしかないと思った。決断を下すと、にわかに冷静さが心身に舞い戻った。
雑念が一挙に消え失せて、精神集中が鮮やかにきまるのを感じた。もうあれこれと思い惑うことは何もなかった。
神への祈りが、自動的に口を衝いて漏れ出た。こうしようと意図したわけではない。祈るなど初めての経験であった。あの箱根セミナーの夜の、東丈の神聖な祈りが心に甦ってきた。心が澄んだためか、一語一句がはっきりと思い出される。
自分も、東丈のように祈ろうと思った。愛の心が強ければ強いほど、宇宙意識の光エネルギーをより大量に呼び入れ、生体エネルギーに変換できる、と東丈は告げたのだ。
額から汗がしたたるままに、彼は祈った。不思議なほど精神集中が容易であり、妄念は拭ったように消え失せた。もはや相手の肉体的な感触がもたらす、異性感覚も蒸発してしまっていた。
意識野の中央に光の点があり、それが宇宙意識フロイの光だ、と彼は信じた。強く眩く白く輝く光点であった。ほんの点にしかすぎないが、精神を集中するのに不足はなかった。
その強い光点の根源に向けて彼は祈りをささげた。口が自然に動き、祈りの言葉をつむぎ出しているのを感じる。
それは東丈の祈りに似ているが、そのままではない。不思議な精霊の言葉が己れの口に宿り、語っているのを感じる。自分が自分でなくなったようだ。己れ自身の〝光の本質〟が語っているのだろうか。井沢郁江たちがやるように、〝守護霊〟と呼ばれる己れの本質、魂の本質が語り始めたのか、と疑う。
しかし、郁江たちのように語られる言葉は、理解を超えた異語ではない。日本語が口を衝いて溢れ出てくるだけだ。己れの潜在意識が語っているにすぎないのか、とふと失望をし、同時に納得する。
「この者、久保陽子は、一度は心惑い、幻魔の手に落ち、囚われの身となりました。それは心弱き、肉持つ身の、だれしも味わう惑いと悩みの時かもしれません......
しかし、この者は己れの本質が暗闇にあるものではないと悟り、心弱き肉の身を克服して、惑いの時を切り抜け、再び光の仲間の許へ戻ってまいりました。どうかこの者が再び闇の者たちの手によって引き戻されることのないように、光をこの者にお与え下さい。この者の精神と肉体の双方に、偉大な宇宙意識の光をお与え下さい。
この者は闇のエネルギーの浸透により、今もなお苦しめられております。どうか光のエネルギーによって、この者の苦痛を取り去り、安らぎと平穏をお与え下さい。偉大なる魂の父フロイ、どうかこの者久保陽子の肉体に加えられる苦しみをやわらげ、取り除いて下さい......」
体がかっと熱を帯びてきた。力強く充電してくる感じであった。箱根セミナーの夜、東丈から指導を受ける時は無我夢中で、よく憶えていない。あの時よりも明確でパワフルな感覚であった。己れ自身も生体エネルギーによって充たされ、賦活化されているのに違いなかった。
全身に充たされた生体エネルギーが、久保陽子の太腿の患部にあてがわれた彼自身の掌から脈搏って迸り出る感覚があった。あるいはそんな気がしただけなのかもしれないが、確かに生体エネルギーは圧力を高め続けており、ただごとでない精気の汪溢が彼の心身を訪れていた。
病室中が淡い黄金色の光によって充たされているようである。確実に黄金の光が視野を占めている。生体エネルギーだ、と彼は思った。
信じがたいほどの強力さで、生体エネルギーが迸っている。それが彼の目には黄金色の光として見えるのだ。
淡い黄金色の光は、彼が更に意識圧を高めるにつれて、目を射るような光に変ってきつつあった。夜の箱根山で見た、目の眩む強烈な輝きが再現されて行く、と彼は思った。
まさか、自分にこのようなことができるとは信じがたいことであった。それは東丈や郁江のように特別に選ばれた者たちに許された奇蹟の業であり、彼のように平凡な人間には所詮無理なことだ、とごく自然に思いこんでいたのである。
だれにも可能な業だ、と東丈は告げたが、なぜか素直に受容し、信じる気にはなれなかった。他の者に出来ても、自分には不可能のような気がしていた。謙虚なのではなくて、ただ自信がないのだった。目撃した奇蹟の光景も、後になれば、不思議な信じられない、幸せな幻想であったかのような心地に移行してしまっていた。やれといわれても、二度と可能であるとは思えなかった。
それがどうだろう。今、彼の掌を通過して、黄金の光と化した生体エネルギーは、ノズルから噴出する高圧の感覚をもたらす勢いで、とめどもなく溢れ出し、久保陽子の病める肉体へ注入されて行き、その余勢を駆って、病室中に溢れてしまっている。
病室どころではなく、病院中に黄金の光は充満し、全ての病人を療やすのではないか、と彼は高ぶった幻想の虜になった。
平凡な学生に過ぎない彼に、これだけのことが出来るとは、だれも他人は信じないであろう。
しかし、彼は強力な生体エネルギーをあたかも無尽蔵であるかのように、惜し気もなく湧出させている。しかも、その効力にはきわめで顕著なものがあった。
久保陽子の顔から眉根をきつくしかめた、苦悶の表情が融けるように失せていた。全体に血の気が差して、穏やかな安息の表情が漂っている。眉の間が晴れたせいであろう。唇は半ば開き、皓い歯がこぼれている。呼吸も深く静かなものになっていた。
体中が柔く融けてほぐれている。瞼を閉じたその顔は寝顔のようであった。彼の手首をしっかり摑み、痛む太腿の病患部に押しつけていた彼女の指も力が抜けて、今は軽くまとわりついているようだ。
自分の注入した生体エネルギーが、奇蹟的に久保陽子の激甚な苦痛を柔げ、取り去ってしまったのだ、とはっきり自覚することは、彼を誇らかな高揚感に誘った。
これはまぎれもなく奇蹟である。そしてその奇蹟をなし遂げたのは、東丈でもなく井沢郁江でもない。自分なのだ。木下健一がやってのけたのだ。
生体エネルギーを大量に注入することによって、久保陽子の苦患を素早く消し去ってしまったのである。それが彼の行なった奇蹟の業なのだ。
時間経過がどの程度あったのかわからなかった。ほんの数分のようでもあり、数十分間が過ぎ去ったようでもある。彼は左手首の腕時計を見ようとわずかに身じろぎした。
三十分が経過していた。あっという間に経ってしまったようである。それほど精神集中が激しく行なわれたということであろう。一心不乱という古めかしい表現が実に適切そのものであった。
精神集中が緩んだためか、高圧の汪溢感は退いて行ったが、誇らしい満足感はそのまま留まっていた。
彼は久保陽子を療したのである。大きな業は今、彼のものであった。彼は自分が強く大きく成長を遂げたような気がした。これまでの自信欠如の平凡な若者である自分から、脱皮したという実感が濃厚に存在した。
今や久保陽子は彼にとり特別な存在と化していた。巨大な功績に対して与えられた特別の栄誉そのもののようであった。
彼を捉えた満足感、偉大な業績を成し遂げたという喜悦があまりにも大きかったので、酩酊が彼を襲った。
彼は特別に与えられた賞品を見降すような目で久保陽子を眺めた。いや、そうではなくて、久保陽子が大きな試練を彼に与え、それを克服した彼に特別の気分、大きな自信をプレゼントしてくれたのだ、と思い直した。
久保陽子が急激に彼の裡で比重を増大させ、特別な近しい存在になったのを感じていた。
にわかに彼の掌の下で久保陽子は若く好もしい異性の肉体と化した。その肉のみちた太腿の軟かさ、体温の熱さは突如として危険な感触となって彼を狼狽させた。
生体エネルギー注入のために精神統一していた時には全く感じなかった、たぎるような情感が溢れてきて、彼は危険なものから遠ざかるように手を引っ込めようとした。
反射的に久保陽子の指に力がこもり、ぐっと彼の手首を締めつけた。彼の手を捉え、離すまいとした。無意識の行動であろうが、彼を息苦しくさせるには充分であった。
毛布の下の少女の体は蒸すように熱くなり、彼はかっとのぼせ上ってしまった。当惑と恥しさで目が眩む心地だった。何かとんでもない破廉恥なことをしでかしたという戸惑いと後めたさがいっしょになって襲いかかった。異様なスリルに満ちた罪悪感だった。
「まだ放さないで......このままにしておいて......」
と、少女がささやいた。その声音の甘美さと妖しさは、許されないことの誘いであるかのように感じられ、彼は身慄いした。その戦慄は、接触している少女の肉体に直接伝わり、さらに大きな戦慄となってはね返ってきた。
「また痛みだすといけないから......もうしばらくこのまま......」
少女のいいかたは、弁解以外の何ものでもなかった。二人は罪悪感を共有し、奇妙な共犯者となった......そんな認識が訪れた。二人は奇妙な後めたいスリルを同時に己れのものとしていた。それは互いに隠しようのないものであった。
「ありがとう......噓みたい......痛みが溶けて消えてしまったみたい......」
少女の絶え入るような声音には、感謝が滲んでいた。心底からの感謝であった。それが更に彼と少女との間隔を狭めた。数十分前、彼が病室を訪れた時と比べれば、新しい次元を迎えたといっても過言ではなかった。一挙に十年以上の時間経過があり、気心をのみこんだ間柄へと突然、飛躍してしまった。それは、肉体的な接触が、二人の間に存在したぎごちなさ、目に見えぬバリヤーを取り払ってしまったかのようであった。
二人は狎れ合い始めており、奇妙な明確さをもってその事実を受け容れていた。しかしそれには依然として後めたさがつきまとっていた。肉体的に狎れ合い、親近感が増すにつれて、胸裡のどこかが攣れるような罪悪感も重さを増しているのだった。
毛布の下で、少女の下肢は異常に体温が上昇した。まったく火のように熱かった。彼の手首を握りしめた少女の手も異様な熱さであった。彼はそれに強い刺激を与えられた。思い切って手を引っ込めるべきだと感じているのだが、その要請に彼の意思は従わなかった。
少女の下肢の異様な熱さがもたらす刺激とスリルを味わうことに享楽を見出しているからであった。それはまさしく背徳の秘かな享楽であった。理性はとがめ続けているのだが、享楽の喜びはその警告を圧倒し、無視させてしまうのだった。
数十分前の彼には、今の己れの心理状態の奇怪さが信じられなかったろう。魔法にかかったように理性の警告が空々しいものと化しているのである。
少女がそれを望むなら、正しいこと、適切なことなのだ......そんな考えがいつしか心に生じ、居坐っていた。
少女の苦痛をやわらげ、取り除くことに今自分は全力を投入しているのだ、それは愛と慈悲の実践であるし、とりも直さず〝一瞬一秒の努力〟の具現化に他ならない。
少女がそれを強く望むならば、今自分の感じている居心地悪い当惑、後めたさを努力して克服しなければならない。
それが自分の今なすべきことだ。少女の感じている恐れを緩和してやり、安心させてやるためなら、今の自分の当惑ぐらい、さしたる自己犠牲ではない......
彼の意識の表面ではそのような自己正当化の強弁がなされていた。しかし、彼が現在、少女との肉体的な接触によって強烈な刺激とスリルを享楽していることを否定するには、その強弁も力不足であった。
彼は今、強い刺激を受けており、その感覚は記憶層をかきまわして、ヘドロの如きやましい記憶を底部から湧き立たせた。
ラッシュアワーの通学時の国電で生じたささやかな背徳の記憶であった。彼の側面に立っていた若い小柄な女性が、電車の動揺につれて偶然のように胸の隆起を押しつけてきたのである。
最初は、それが故意になされているとは夢にも思わなかった。彼は生真面目で禁欲的な性格であり、そうした異性との肉体的接触には罪悪感をすら覚えてしまうからだった。しかし、彼が避けようとするほど、若い女はぴったりとついてきて、体をこすりつけるのである。
それは猫が執拗にまとわりついてくるのと似ていた。車両の動揺に合わせて、偶然と見せかけ、実は故意に隆起を押しつけ、体をすりつけ続けるのだった。それが故意だと知って、彼はのぼせ上ってしまった。
女性がそのように大胆に男を挑発し、同時に性的な刺激を味わうことができるとは、彼の想像を超えていた。相手が若くて男好きのする容貌を持っていただけに、その痴漢的な行為との落差は、彼を眩惑させた。
相手の上気し汗ばんだ顔、すが目になった眼付は、彼を動転させたといってもいい。その後しばらくは、彼自身が背徳行為を犯したような罪障意識が心やましくさせた。自分が相手の挑発を敢えて避けようとはせず、秘かに強い刺激とスリルを楽しんだことが、後めたい記憶となった。
それ以上に、女性が自ら積極的に、性的欲求を満たそうとする存在だと知ったことは、大きなショックであった。
修道僧のように禁欲的で宗教的......と他人に評される彼は、異性関係に臆病で逃げ腰であり、女性に関して著しく無知であった。そのくせ、彼自身は、他者が評価するように禁欲的でもなく、清浄でない自分をよく認識していた。
満員電車の中での秘かな背徳の記憶(と彼は信じていた)は、その後ずっと彼の性的妄想の根となり続けたからである。
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ドアのノックの音が、冷水のショックをもたらした。心臓を冷酷な手で鷲摑みにされたように、全身がすくみ上った。
手を引っ込める速さは、我ながら驚くほどであった。久保陽子の手がその反応の速さに追いつけず、爪で引搔いたような擦過傷を彼の手首に残した。そのヒリヒリする熱い痛みも念頭にのぼってこなかった。
それほど驚愕は大きいものがあった。悪事の最中に踏み込まれた、そんな冷たさが全身を捉えたのである。
「金本です......よろしいですか?」
遠慮がちな声が訪うた。息が乱れ、全身がぐっしょり汗に濡れて、彼は声を出すどころではなかった。どうしていいかわからなかった。完全にうろたえてしまっていた。
「どうぞ......」
ベッドの久保陽子は、何事もなかったような声音で答えた。その落着きぶりは、彼とは対照的であった。女の大胆不敵さを垣間見たような心地がした。
「失礼します......」
ドアを開けて、義が入ってきた。鋭敏に何かを感じ取っているにしても、その穏やかな顔は何も表出していなかった。しかし、義は優れた霊能者であり、その場の雰囲気で悟ってしまう特殊な鋭敏さの持主であった。悪い人間に出合った......そんな犯罪者の心理が彼を捕えていた。
まともに義の顔を見ることが出来なかった。自分の後めたさ、心やましさが全て義の霊感により隈なく読み取られている。そんな強迫観念が爪をたて、しっかりと食い入ってきていた。
「今、木下さんに生体エネルギーを入れて頂いたんです」
と、久保陽子がいった。少しも弁解調ではなく、さらりとしたいい方に、彼の方が面食ったほどであった。
女のしたたかさ、という印象が心を掠め去った。彼のように罪障意識で萎縮するなど、寸毫もないらしい。今までの共犯者の心理は錯覚だったような驚きが湧いてきた。
「ああ、そうですか......」
金本義男の穏やかな声音には、いささかの懐疑心も窺われなかった。この十九歳の元チンピラヤクザは、完全な別人に等しい変貌を成し遂げていた。非知性的、浅薄さをきわめた動物的な雰囲気が拭ったように消えていた。神経が露出しているような、見ている第三者さえも圧迫するぎらぎらする獣性、他人の冷静さを失わせ、防衛的逃避的にさせる粗悪な波動はもはやどこにも感じさせなかった。柔和で穏やかな、心身ともに浄化をなし遂げた若い雲水、そのままの貌をしている。身構えたところが一片もなく、飄々としているのである。
「それで、木下さん大汗を搔いてしまって......ご迷惑をおかけしてしまいました。おかげさまであたしの方は痛みが完全になくなりましたけど......」
「ああ、そうですか」
俗事には関らず、自然界の動きを茫漠と観ている若き雲水という貌で、義が判で捺したような返事をした。
「それはご苦労様でした......」
「いいえ......」
ねぎらいを受けて、彼は口ごもった。この雲水の貌をした元ヤクザ少年には、雲を摑むようなところがあり、何を考えているのか、見当もつかなかった。しかし、無害な存在であることだけは確実である。まるで爪と牙を抜き取られた野獣のように安全なのだ。
そう思うと、にわかに呼吸が楽になってきた。義は他者を非難したり罪科を問うような人間ではない。またそんな資格もないであろう。義は泥沼のような罪と悪の世界にずっぽりと頭のてっぺんまで浸していた、そんな経歴を持つ、改悟したチンピラ・ヤクザなのである。
そんな、妙に居直った気分が生じていた。
「木下さんは、生体エネルギーを注入するのがとってもお上手なんですよ」
久保陽子が微笑していう。しかし、愛想はいいが、少女が自分に対するように、義に対しては心を開いてはいないことが感じられる。同じ病棟に入院して、しげしげと顔を合わせているはずなのに、なぜか二人は他人行儀なよそよそしさがあるようだ。距離感のある礼儀正しさ、ぎごちなさが顕著であった。
その発見はなぜか彼を安心させ、心地よくさせた。急速に自信が回復してくる。あられもない現場へ踏み込まれた、という恐慌の波が退いて行った。
久保陽子は巧みに状況を説明し、誤解の余地なく義はそれを納得したように思える。金本義男は、自分のぶざまなうろたえぶりから、二人が病室でいかがわしい行為に耽っていたと誤解したかもしれないのだ。もし、そんな誤解を受けたら、身の置き所がなくなるところだった。
彼の思考は矛盾し、混乱していた。自分に対してわざとらしく弁解し、強弁しなければならぬ必要を感じているのだった。自分自身をまるで第三者のように感じていた。自己を説得しなければならぬ、と思い込んでしまっているのである。
なんとかして罪悪感をごまかしてしまわなければならないのだった。
その点、久保陽子は彼よりもずっと余裕を持ち、自信を持っているように見える。それは女特有のしたたかさであるように感じられた。彼女は決して男の自分のように小心に、くよくよと思い惑い、悩むことはないのだ。
「ね、木下さん。凄いエネルギーが来ましたよね。体全体が灼けてしまうんじゃないかって気がしましたもの」
「そうですね......まるで急に真夏が来たように体中が熱くなっちゃって......」
受け応えながら、少女が自信をもって彼をリードしているのを意識した。
「光が、隣りの病棟からも見えました」
と、義は穏やかにいった。
「金色の光が、この病棟の縁から漏れているんです。あれ、おかしいな......高次元のお方が来ておられるのかな......そう思っておりました。ちょうど、そんな光り方なんですよ......柔らかい金色のなんともいえない、美しい霊光です。高次元のお方でなければ、決して出せない光なので、さては久保さんの所で何かあるな......そう思っていたんですが......生体エネルギーとは思いませんでした。霊視してみますと、高次元の光と全く区別がつかないものなのですね」
義の口調は何の気負いもなく、いたって淡々としていた。
「霊視していたんですか!?」
少女が息を吞むようにして尋ねた。彼も全く同じ心境であった。
「隣りの病棟から!? そんなに離れていても見えるんですか?」
「はい、よく見えました。それで、高次元霊の方々がお見えになっているな、と感じていたわけですよ」
ごく普通のこと、日常茶飯事を語る淡々とした語調である。
「高次元霊を、義さんはいつも見ているんですか?」
義さん、という呼び方には抵抗があった。ヤクザの尻尾を引きずっているようである。
「向うからお見えになっている時は、割合よくわかります。素晴らしい光を出しておられますから、夜中でも太陽が昇ってきたのではないかと錯覚するほどですよ。何ともいえず、心を洗われる気持がするものです。すっとした平和な、なごやかないい気持になります。GENKENの方々とお逢いする時と同じです」
義は微笑しながらいった。へりくだってはいるが、へつらっているわざとらしさは感じさせない。
「とても幸せな気持になります。郁江先生のおっしゃる、善き波動ですか、それが高次元のあの黄金色の光のことなのだな、と心から納得できます」
彼は息が詰まるような気分がほぐれてくるのを覚えた。久保陽子のように気にしなければいいのだ。義は今や、あらゆる意味で有害な人間ではない。霊能を持つ風変りな若者、ただそれだけだ。何も神経を立てる必要はない。彼はきわめて安全な人間なのだ。
しかし、そうであっても、義が介入してきたことは、やはり鬱陶しいことであった。早く立ち去ってくれればいい、と願わずにはいられない。義だけではなく、他者は全て久保陽子と自分の間に割り込んでくるうとましい邪魔者と化していた。
だから、義のいう〝高次元霊〟の霊光にも積極的な関心が持てない。義はいろいろ不思議な体験を積んでいるらしいが、とくに話を聞きたいとも思えないのだ。
従って、質問もお座なりで儀礼的なものになった。すっかり閉鎖的で排除的なバリヤーができ上ってしまっていた。じっと辛抱して他者が立ち去るのを待つという心境であった。
「いいですね、義さんはいろいろなものが霊視出来て......きっと楽しいでしょうね」
「とんでもありません、私はいたって未熟者ですから......」
義の貌は、その若さに似ず、温顔というにふさわしかった。彼のやや厭味な質問をさらりと受け流す。
「郁江先生のような、真の霊眼の持主とは全く違います。私は至って無能な人間ですから......それはともかく、私、今日退院を許されました。それでご挨拶にお伺いしたわけです......お先に失礼、と申し上げるのはちょっと心苦しいのですが」
「いいえ、そんなこと。あたしもたった今、退院できるという自信がつきましたから」
と、久保陽子が明るい声でいった。
「だって、木下さんの生体エネルギー、とってもよく効くんですから......もうすっかり噓みたいに楽になって、今すぐにでも退院できそうなんです」
せかせかした足音がドアの前で停まり、ノック抜きでドアがいきなり開かれた。笛川医師であった。彼は冷汗が出そうな気分になった。生体エネルギー注入の途中に、義ではなく笛川医師が踏み込んできたかもしれないのだ。
笛川医師は気忙しく、少女の説明を聞いていた。よほど興味を惹かれたらしい。木下と義に後を向かせておいて、ベッドの毛布をやにわにめくり上げた。遠慮なく前開きのネグリジェの裾をめくって、少女の太腿を露わにする。
医師は余念のない手付きで、少女の大腿部をぐいぐいと押しつけたり、こねてみたりした。少女の下肢にぴっちり食いこんでいる小さな薄い下着にも何の情緒的な関心は示さない。その下着は、高校生が身につけるにしては、いささか凝りすぎているようなのだが、医師はまるで気付かないようであった。
「ここは痛む? ん? ここはどう?」
「いいえ、全然痛くありません。もう何ともないんです」
少女の声音は晴ればれとしていた。
「そりゃそうだろう。元々、そんなに痛むなんて理由は何一つないんだから。気のせい気のせいといってすますところだよ」
「そんな、先生、ひどいですよ。本当に気のせいなんかじゃなくて、転げ廻るほどの猛烈な激痛なんですから。でも、先生が気のせいだなんて、おっしゃるから、看護婦さんはいくらいっても、なかなか痛み止めのお注射、打ってくださらないんですよ。本当に死ぬかと思うくらい痛むのに......」
少女は怨ずるようにいった。しかし、その声音には甘えがあった。意識しない媚であり、後向きになって聞いている木下は息苦しくなってきた。
「しかし、痛む理由なんか全くないんだから。傷は綺麗に治ってるし、ちゃんと歩く気になりさえすれば、いつだって退院できるんだからね」
「だって、いつ急に痛みだすかわからないんですもの。本当に転げ廻るほど痛むんですよ。先生はそんな目に逢ったことがないから、そんな冷酷なことおっしゃるけど......傷は完全に治ったといっても、奥の方じゃ神経がどうなってるかわからないし......」
「そりゃもう、ちゃんとわかってるよ。非常に綺麗な刃物傷だからね。僕が細心の注意を払ってやったとしても、あれほどうまく行かなかったかもしれんよ。何度もいうようだがね、痛む理由がないんだ。これで骨とか腱とか神経とかを傷つけたというなら、君のいうこともわかるんだけどね」
笛川医師は未練気もなしに、少女の大腿部から手を離し、毛布をおろした。少女の放っている微妙なシグナルには何も感じないらしかった。少女の硬質の体は医師の手が触れるにつれて、生きいきとした精彩を増し、やわらかく仄かに色づいて、別人のように魅惑を発散しはじめたからだ。笛川医師でなければ、当惑させられることになったに違いないのだ。それは蠟人形が突如血が通い、息づき出すような顕著な変化なのだった。
「ひどいですよ、先生。それじゃまるで、あたしが噓をついて、お芝居してるみたいじゃないですか?」
「まあ、心因性ということもありうるからね。君が退院したくない、いつまでもこの病院に入院していたい、という強烈な動機でもあれば、考えられないこともない。つまり、ここへ入院していれば、学校へ行かなくてすむし、沢山お見舞いに来てもらえるし、そんな理由があればだね。早い話、学校をズル休みしたい子供が朝になると本当に腹痛を起こしたり、熱を出したりするようなものだ......どうだ、心当りがあるんじゃないか?」
「先生の意地悪! あたしのことをよっぽど怠け者だと思っているんですね!」
「まあ、ゆっくり心身を休めるのもいいさ。もしかしたら、霊的現象というやつかもしれない。まあ、ずっと経過を見てくると、それもありそうなことだという気にならないこともないな。しかし、これは医者としてはいっちゃならないことだがね......とすれば、木下君が生体エネルギーを入れて、痛みが完全にとれたというのも、なんとなく頷ける。霊的現象は、現代医学じゃ手に負えないところがあるからね。
まあ、霊的現象には霊的現象で、といったところか。だが、なぜ今までその生体エネルギーの注入を試してみなかったんだ?」
「だって、とっさのことですもの。そんなこと、お願いしにくいですよ......」
「まあ、そりゃそうだ。ちょっと手を触れにくい場所ではあるね」
笛川医師は鈍感ないい方をした。木下は背中を向けたまま、顔にかっと血が昇るのを意識した。
「いやだあ、先生、そんなこと大声でいっちゃ......」
久保陽子が甘え声でいう。それは特殊な痛みで彼の胸を刺すものだった。その場を大急ぎで遠ざかりたいという衝動を覚えた。医者とはいえ他の男に、そうした甘え声を出している少女から離れたかった。苦々しく許せない思いであった。
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「しかし、もしかしたら、こいつは祟りという奴かもしれんぞ」
いきなり笛川医師は振り返っていった。
「幻魔の祟りだ。なあ、どう思う、義君。これは霊障とかなんとかいう奴と違うかね。君のことを物凄い霊感の持主だと郁江君がいっていたが、君の目からすると、どう見るね?」
笛川はさすがに郁江を先生呼ばわりはしなかった。それはそれで、ひとつの見識といえるだろう。
「つまり、この子に発作的に生じる激しい筋肉の痛みのことだが、医学的にいうと、全く説明がつかないものだ......」
「それは前に、先生から説明して頂きました」
義は丁寧にいった。
「私はなにぶん、未熟者ですから......はっきりしたことは何もわかりません。でも、霊の障りと新興宗教の方々がおっしゃるようなことは、ないとはいえないようです。たとえば、成仏できない低い段階に落ちている霊が、いろいろ悪さをするということでしょうが......しかし、久保さんの場合は、そういうのとはちょっと違っているように思えますが」
「違うか? 幻魔の祟りじゃないんだね?」
笛川は医師らしくもなく、どことなく不満げにいった。
「私の霊視など、お粗末なものなので、はっきりしたことが申し上げられず、すみません......郁江先生なら簡単に霊視なさってしまうのではないかと思いますが......」
「そんなに恐縮することはないさ。妙に自信満々より、慎重な方がよっぽどいい。それが君の美点だといっていた、郁江君がな......ま、自分のことを棚に上げていうと、医者というのも己れの技量を鼻にかけているうちは、まだまだ未熟でね」
笛川は義の肩を叩いた。
「君たちは東丈氏を初め、己れの霊能を少しも鼻にかけず、奥床しいから感心するよ。郁江君なんか物凄い力を持っているらしいが、全然そんな素振りも見せないからね。これはなかなかできないことだと思う。あんまり霊能に興味を持つな、と郁江君に忠告された。ただでさえケタはずれという悪い評判がもっと悪くなるってね。あの口の悪さにはかなわん」
笑いながら、さっさと病室を出た。廊下から首をのぞかせて、いいそえる。
「いつ退院してもいいんだよ、久保陽子君。後は生体エネルギーで治療すればいい。とにかくこれ以上の入院費用も大変だろう。好きな時に帰っていいよ」
廊下でそんなことを大声で喋って、少しも気にする様子はなかった。
「ここの病人食は喉を通る代物じゃないからな。自宅へ帰っておいしいものを食べている方がよっぽどいい」
笑って廊下を歩き去った。義がその後を追いかけて行く。
笛川医師によって無視された形の木下は、いささか自尊心を傷つけられたようでもあり、またほっと安堵した気分を味わっていた。笛川は彼の存在に全く気付かなかったようである。
ちょっと憮然として佇んでいた。久保陽子が笛川医師に対して示した媚態にも心を傷つけられていた。彼は神経が立って鋭敏になりすぎており、少女のわずかな心の傾斜も見逃さなくなっていた。医師に対する少女の狎れなれしさや甘え、媚は鋭い苦痛の棘をもって、彼の心を刺激し続けるのだった。
愚かしいことだと理性は警告しているのだが、こだわりを捨てられなかった。不機嫌になり依怙地になる自分を感じていた。
少女が自分を傷つける有効な〝力〟を持ったことを知り、大急ぎで逃げだすことを、心が求めているようでもあった。ごくわずかな間に、少女は彼に対して、絶大な権力を手にしてしまったように思えた。
少女は、医師に向い狎れなれしく振舞うことで、彼に対しかつてないほどの心の惑いと苦しみを与えたのだ。
「あたし、本当に治っちゃったみたい!」
少女は彼の気も知らぬげに、明るい声を出した。
「なにか、傷の奥の方で、治りきれなかったのが、今の生体エネルギーを入れたら、治っちゃったみたい!」
生きいきした瞳でいい、少女はいきなり毛布を両手ではねのけた。前開きのネグリジェがまくれて下半身が露わになっており、それがまともに彼の目を射た。ショックに度を失い、うろたえて目をそらす。
少女は行動的であった。心を捉えた衝動がよほど大きかったのか、やにわに体を起こし、素足のまま床に降りてしまった。
完全に治ったという確信が少女を後先の考えなしに振舞わせたのであろう。衝動のままに歩こうとした。
しかし、ろくな歩行訓練もしていない足は機能が後退していた。足が萎えて、少女の体重を支えきれなかった。
一、二歩、足を運んだかと思うと、少女は体勢を崩し、倒れかかった。両手を前に彼にしがみついてくる。
彼はまともに胸の中に飛びこんでくる少女の体を抱きかかえる形になった。膝がくにゃくにゃと曲り、ずり落ちようとする少女の肉体を全身の力をこめて支えなければならなかった。
これほど柔らかく熱く、豪華な重みが存在するということを、彼はかつて知らなかった。切ない甘さで胸に痛みさえ覚えた。くらっと脳裡が痺れる心地がした。
「ごめんなさい......」
少女が息の切れたような声音で詫びた。両手を彼の両肩に廻し、しっかりとしがみついている。意外なほど大きな、重量感を持つ双つの隆起が彼の胸板との間でたわみ、変形しながら、弾力をもって押し返そうとした。
その感触はいっぺんに彼をのぼせ上らせるに充分であった。理性が蒸発するほどの力を有していた。
固い所を一点も持たない柔軟な少女の体は異様に熱く、火の塊を抱いているような気分にさせた。それは苦痛の域を超え、あまりの熱さに己れの身を焼いてしまいたいという激しい欲望と化した。
少女の肉体はあまりにも甘美すぎ、蠱惑的にすぎて、彼は身慄いした。慄えをどうしても止めることができなかった。それが直接少女の体に伝わり、感知されてしまうことがわかっていても、その恥しさでさえ慄えを止める力を持たなかった。
彼の戦慄が伝染したように、少女の体も大きく震えわなないた。相互の感応を確認することは、魂が昇天するほどの快さをもたらした。
少女が決して彼を拒んでいず、受動的に彼を受け容れている、嫌われてはいないという自覚は、彼の心を更に大きく動かした。先刻の共犯者意識よりはるかに濃密な関係が、少女との間に生まれていた。
「まだ、急には無理みたい......」
少女は懸命に彼にすがりながら、照れかくしのように呟いた。少女の両手は彼の首に廻り、これ以上の密接な抱擁はありえないという形になっていた。
「絶対に歩けると確信してたのに......」
少女の息が首筋をくすぐった。甘えが蜜のように心に触れた。
「まだ無理だ。歩行訓練をしなくちゃ......」
彼の言葉はいつしか崩れていた。
「そうね。いきなり勢いこんでやったから」
少女が日常的に歩いて用足しをしていることは、拭ったように忘れ去られていた。
「少しずつ歩く練習をしないと。ベッドにゆっくり戻って......」
病室のドアが開け放されて、廊下から自由に二人の抱擁した姿を見ることができるという事実が、火が付いたような慌しさで念頭に昇ってきた。
少女は彼の肩を借り、ゆっくりと歩いてベッドに連れ戻された。少女が別段汗もかかず、息も弾ましていないのに、彼の方は全身、熱湯のような汗にまみれ、ゆでたように上気して、息を切らしていた。
少女の柔い持ち重りのする肉体から手をはなすことは、彼に未練と解放感の矛盾した気持をもたらした。それは思い返すたびに、鼓動が速くなる経験に間違いなかった。
「でも、思い切って退院する自信がついたわ。みんな木下さんのおかげよ。どうやってお礼をしていいかわからないくらい」
久保陽子は彼の顔を見上げ、他意なげに頰笑んだ。
「お礼なんて、とんでもない。友達なのに......」
息切れがいまだ回復しないままに彼は口ごもった。たいした肉体労働に従事したわけではない。それなのに感情がひどく激したように息が上ってしまうのだった。彼をがっちりと縛りつけていた紐帯の如きものが、いきなりぶつりと切れてしまった心許なさ、解放感が混在した不安が彼をうわずらせていた。額から垂れてくる汗を、彼は掌の付け根で押し拭った。大げさな汗だと我ながら思った。
「でも、また痛くなったらどうしよう......木下さん、生体エネルギーを入れてくださる?」
「もちろん、いつでも入れに行くよ」
「真夜中に、突然痛み出しても?」
「救急車みたいにとんで行くさ」
「それなら安心......でも、退院すると、もうお見舞いに来てもらえないのね」
少女はくすりと笑っていった。
「笛川先生のいったこと、本当みたい。木下さんにお見舞いに来てもらいたくて、無理にねばって退院を遅らせていたみたいね」
「まさか......」
少女は大胆になっていた。彼は喉がねばりついて声が出にくくなった。
「あたし、本当に木下さんを信じててもいい?」
「約束は守るよ」
「不安なの、あたし。会ではあたしのことを陰で何といってるか見当がつくし......木下さんの気持がそれで変っちゃうんじゃないかって......」
「絶対に変らないと誓うよ」
「でも、一度幻魔にやられた女の子なんか信用できないってみんな思ってるわ。木下さんもそうなっちゃうんじゃないかって気がして、とても不安なの」
心細く頼りない少女に逆戻りして、久保陽子はいった。
「僕は君の味方だよ。もしそんなことをいう者がいたら決して許さない。だから、安心しててもいい」
彼は少し怒ったようにいった。少女の念の押し方はくどすぎると感じていた。本当に自分が信用されていない口惜しさであった。
「ごめんなさい、怒らないで、ねえ......こんな病室の中に一日中閉じこもっていると、同じことを何度も何度もくり返して蒸し返すことになってしまうの。その時々で、とっても気持が暗くなってしまうし。みんながこっそり噂してることをいろいろ考えるの。幻魔はどうやってあたしを虜にしたのかって、みんなが好奇心満々で噂しているのがわかる。物凄く好奇心を持ってるのね......」
「そんなことない。それは君の思いすごしだよ」
彼は堪りかねていった。
「そんなことだれもいってやしない。陰でだってそんな噂はしていないよ。もし、そんな人間がいたら、会員の資格なんかない......」
「でも、絶対に知りたがっているはずだわ。たとえ口ではいわなくても、心の中では。だって郁江さんは、幻魔がどうやって人間を捕えて虜にするか研究して、本に書くっていってるんでしょう?」
「本を書くとは聞いてるけれども、やっぱりそれは思いすごしだと思う。みんなは自分の身に引き比べて考えてると思う。他人事じゃなくて、いつ自分の身に起きるかもしれない事として考えてる。だから、そんな卑しい好奇心を持って君を見たり、こそこそ噂してるなんて、本当に思いすごしだよ」
「でも、やっぱり知りたいでしょう? あたしが本当はどんな目に逢ったのか......」
「............」
彼は沈黙せざるを得なかった。少女はむごたらしい記憶を、不発爆弾のように裡に抱いていた。その事実の前に、彼の説得はあまりにも軽々しくすぎるように思えたのだ。ふっと怯えが湧き出した。
自分があまりにも未経験で無力な若造でしかなく、少女のために何の役にも立てないのではないかと疑い、恐れたのだった。
「あたし、絶対に話さないわ。どんなに尋かれても、一言も話さない。絶対に他人にはわからないもの、本当のところは......同情されてみたってしょうがないし、それはどうせ憐みでしょ。興味本位とか好奇心とか、そういうのとたいして変らないもの。だから、他人には決して死ぬまで一言だっていわないし、お墓の中まで持って行くわ。でも......」
少女は打ちのめされたように沈黙している彼を素早く窺いながら、いいそえた。
「でも、木下さんが本当に知りたいなら、木下さんにだけ話してあげてもいい。でも、木下さんはそんなこと尋かないでしょう?」
「もし君が話したいという気持になれないなら、尋くつもりはなかった。そんなことは考えてもいなかった、本当だ......」
息が詰まる心地で、戸惑いながら答えた。うまく言葉が形成されず、もどかしく冷汗をかいた。
少女が深淵に身をさらしており、自分の言葉しだいで、彼女の身に重大な危険が及ぶ、そんな危機感が彼に汗をかかせたのだ。
「好奇心や興味本位じゃないし、同情や憐みなんかでもない。つまり、他人事じゃないんだ。幻魔に関しては、だれの身に起きても、それは自分の身に起きたのといっしょなんだ......僕はそう思ってる」
「そう郁江さんはいってるんでしょう?」
とりわけ皮肉の意図もないように、少女はいった。
「どうしようもない気持になってしまうんだ。同情や憐みは絶対に厭だといわれても、心がつらくてどうしようもなくなる。でも、それは思い上りなんだろうか。何の被害も遭わずにのうのうとしている、気楽な人間の傲慢さなんだろうか? 僕はそうじゃないと思うんだけど......」
彼は不意に激しい懊悩に摑まれ、居堪まれなくなった。己れの感情の起伏が、抑制のきかぬものになってしまっていた。その場から逃げだしたい恥しさであった。気楽な第三者の位置から傍観している、と久保陽子に誤解されている居心地の悪さだった。傍観者として発言し、しかもそれは全て東丈や井沢郁江の受売りにすぎない、と少女に非難されている心地であった。被害者の身に一度もなったことのない人間に何がわかるか......と手きびしく拒絶されたような思いが体にからみつき、惨めな居堪まれない気分にした。
「あたし、木下さんを信じてる......」
と、少女は敏感に彼の屈托を読み取ったようなものいいをした。
「信じても構わないとおっしゃったでしょう......?」
「ああ......でも、自信がなくなってしまったんだ。僕にそれだけの資格があるかどうか、わからなくなった」
「でも、あたし、木下さんを信じたいの。だってあたしには他にだれもいないんですもの......」
少女は彼の惨めな気分を慰撫しようとしていた。結局、少女は彼を鋭く拒絶したり、非難したりする気はないのだ、と気付き、陥ちこんだ気分が急速に浮揚を始めた。己れの感情の描く激しい振幅は信じがたいほどのものがあった。
少女の一言一言で、がらりと心が塗り変えられて行くのだ。こんなことは初めての経験であった。かつてないほど神経が敏感になり、少女の一顰一笑に反応して止まなくなる。
少女が自分を拒絶していないとわかったとたん、気分は急浮上を開始し、歓喜に近いレベルへ到達してしまった。我ながら気まりが悪かった。
少女に信じられ、頼られているのだ、と保証されたことは、彼の不安を一気に拭い去り、一挙に英雄的な気分に押し上げた。
彼女は自分の保護下にある。あらん限りの力を振るって、護ってやらなければならないのだ。
彼女の不安を拭い去り、立ち直らせるために、自分は何でもやるだろう。自分に備わった力を最大限、発揮して、自分の才能を彼女に見せつけてやろう。
生体エネルギーの注入も、自分の大きな才能なのだ、と彼は思った。少女を苦しめたあれほどの苦痛も、自分が生体エネルギーを彼女の肉体に注ぎこむことにより、あっさり治してしまった。
だれにでもできることではない。医者が強い麻薬を使用しなければ抑えられぬ激痛を、彼は簡単に療すことが可能なのである。少女の信頼をつなぎ留めるに充分な能力を自分は備えている。
つまり、それは彼に心霊医師としての、巨大な霊能が蔵されていることを証すものではないか。
言葉にしてみると、彼が味わっている高揚はそのような内容を持っていた。
もはや己れが不遜になりつつあるという自覚はなかった。どれだけ少女の歓心を買い、信頼をつなぎ留めることができるかという点に、彼の意識は膠着してしまっていたのである。
自分が少女から依存され、頼られるに足る力強い存在であることを、少女に対しても、自分に対しても証明しなければやまぬ衝動が彼を捉えていた。
19
無名塾は総出で、金本義男を迎えた。車寄せに着いた大きなアメ車から降り立つ義とその母親を、塾生たちは拍手で歓迎した。
「お帰りなさい」
「お帰り」
と、口々に声をかける。義は呆然とした表情だった。数十名の塾生たちがずらりと並んで迎えてくれる光景に気後れしてしまったようである。このような晴れがましい状況は全く想像を超えていたのであろう。
小柄な母親はのぼせてしまい、両手で義の墨染の衣の袖をしっかりと握っていた。口々にかけられる歓迎の辞は、この親子にはショッキングすぎたようである。
立ちすくんでしまった二人を、車から降りた河合康夫が笑いながら案内した。
「今日はお二人が主賓ですからね。そんな隅っこへ行っちゃ駄目ですよ、お母さん。お母さんが主役なの。恐くないですからね、大丈夫。みんなでお二人を大歓迎しているんですよ。さあさあ、立ち止らないで歩いて下さい、心配しないで。あたしがちゃんとついてますから」
すくんでしまった母親を巧妙になだめすかし、康夫は手を引いて導いた。自他ともに認める親不孝息子の彼にはもっとも縁遠いエスコートぶりといえた。母親は頭を下げ通しで、ぼうっとなっていた。その姿は夢遊病患者に似ていた。無我夢中なのであろう。
康夫から母親を引き継いで、東三千子が招じ入れる。すでに大広間は歓迎会の仕度が整っていた。飾りつけられた生花の芳香がむせるように漂っている。小春日和で暖く室内は暖房の必要がなかった。
「お帰り、と皆さんに声をかけられた時、胸がじんとなりました」
義は後で、挨拶に代えてそう語った。
「私は、この無名塾へ来たのは初めてです。でも、お帰りなさいと暖い声をかけていただいた時、ああやっと帰ってきたんだ、そんな気持が胸の奥からこみ上げてきたんです。懐しさと嬉しさがふくれ上って、何ともいえない感激でした。
ほとんどの皆さんとは初めてお逢いするはずなのに、どうしてかお顔に見憶えがあるんです。どうしても初対面とは思えないんですね。ずうっと昔からよく知っている人たちだ、そんな気がして仕方がないんです。
長い長い旅を終えて、故郷へようやっと帰りついたら、こんな気持になるのかもしれません。嬉しくて嬉しくてたまりません。まさか自分のような人間に、こんな幸せな日が来るとはとうてい思えませんでした......
嬉しくてたまらないのに、その反面、恐ろしいような気持がいたします。夢じゃないかという気がするのです。こんな幸せなことは現実にはありえない。自分はずうっと夢を見っぱなしなのではないか......こんないいことづくめなど、現実にはありえないんじゃないか。
もしこれが夢だとしたら、永遠にさめないでほしい、と今私は本心から必死になって祈っております。このまま、目が覚めないで、死んでしまってもいいからって......
これは冗談ではなくて、半分は本気なんです。私、皆様に迎えて頂いた時、あ、これは前に夢に見たことがあるんじゃないかって真先に思いました。
私、いつも夢の中でだけお逢いすることのできる素晴らしい人たちがいたような気がするんです。目が覚めてしまうと、けろりと夢の中身は何もかも忘れてしまいますが、ああ、またあの人たちと逢ったな、という漠然とした感じは残っています。
その感じが、今先ほど、皆様の歓迎を受けた時、猛烈な勢いで甦ってきたんです。古い懐しい記憶、心の奥底に埋もれている、真の故郷に対する憧れ、懐しい、素晴らしい人々への憧れがいちどきにわっと甦ってきまして、あ、自分は夢を見ているんじゃないか! 夢ならさめないでほしい。いつまでもいつまでも私をこの夢の世界に住まわしてほしい、と必死の気持になってしまいました。
ですから、今、私がもっとも恐ろしいのは、だれかがポンと私の肩を叩いて、そうだ、夢だよ、と告げられるんじゃないかということなんです。
さあ、さっさと夢からさめて、現実へ帰りなさい、ここは君のいる場所じゃないよ。
もし、そういわれたら、私はきっとさめざめと泣くだろうと思います。これほど悲しいことはまたとありません。胸がはり裂けるような辛さです。
どうか皆様、お願いですからそのままの姿でいて下さい。夢となって消え失せたりしないで下さい。私は今、母親と二人で最高の幸せを味わっております。私は恐ろしい鬼のような親不孝者でした。私の母親を幸せにするようなことは、これまでただの一ぺんもしたことがありません。その母が、今、皆様のおかげで生涯最高の幸せと晴れがましさを味わっていることと思います。どうか、私の母のためにも、〝これは夢だよ〟とつれないことはおっしゃらないで下さい。私はもう恥も外聞もなく、死物狂いでそう願わずにはいられません。たとえ母をだしにしても、今のこの嬉しさにしがみついていたいのです......」
「夢ではない、と一応は保証するが......」
と、田崎宏がいって、一同の笑いと拍手を引き出した。
「夢ではない、という確証は、まだ俺自身持っていないからだ。昨年から今年にかけて、我々の人生は大幅に変った。まさに革命的というほどの大激変であって、俺自身時々信じられなくなる。はっと気がつくと、全て夢であって、自分は昨年までの愚かしく馬鹿げた人生をいい気になってすごしている自分に逆戻りするんではないか、という怯えに捕えられることがある。じわっと冷汗が湧いてくるのはそんな時だ。
だから俺は、今の義の気持がよくわかる。それはそのまま自分の気持であるからだ。ここにいる者の大部分は、俺と同じ気持でいるのではないかと思う......」
笑声が更に大きくなり、康夫の大きな野次が飛んだ。
「その通り、今康夫のいった通り、逆戻りするのは、実は簡単なことだ。今、俺のいったことと裏腹のようだが、時々、自分が実に奇妙な、不思議なことをしでかしている......そんな気分になることもある。昔の自分の意識がふっと甦ってくるからだろう。今はキッパリとタバコを止めて、禁断症状もなくなり、普段はタバコに対して何の欲望も覚えなくなり、むしろタバコの臭いや煙に対して人一倍の嫌悪を感じるくせに、何かの弾みにふっとタバコに手を出しそうになる、あれと同じだ。昔の意識がふっと甦ってくるからだ、と俺は思うんだが......
そこでタバコにひょいと手を出してしまえば、たちまち元の黙阿弥となってヘヴィ・スモーカーに逆戻りする恐れがなしとしないように、我々もすでに意識革命を完全に成し遂げた、と安心していることはできない。
それはみんなも、よくわかっているんじゃないか。
我々のやっていることは、東丈先生のおっしゃったように、恐ろしく急な傾斜を懸命に這い登っているようなものだ。
ほっと気を抜いて一休みしようとすれば、もう体はずるずると下に滑り落ちている。一日休めば、一日逆戻りしてしまうのだ。一か月休めば、昔の立派な不良少年・不良少女にあっという間にカムバックしていることは、俺がしっかりと保証する」
元不良少年・不良少女の多い塾生のメンバーには大受けだった。彼らは今、己れの過去に対して客観的な視点を持つに至ったようであった。さもなければ、笑う余裕はなかったろう、と東三千子には思えた。
GENKEN会員たちと比較すると、塾生たちの知的レベルはかなりの格差を持っているかもしれないが、彼らの懸命さやひたむきさは、会員たちに優りこそすれ、寸毫も劣るものではなかった。
「真の自覚に至る傾斜、坂道は、幸か不幸か我々の肉眼には見えない。もし見えたとすれば、ぞっと全身に鳥肌が立って、一日をのんきにすごすなど、とうていできなくなってしまうのではないかと思う。あるいはあまりの急峻さ、険しさに最初から怯気付いて、あわてて逃げだす者もいるかもしれない。
真の自覚へと至る道は、心の世界に存在して、目には見えないがゆえに、我々は気楽にもなるし、あるいは怠惰にもなりうるだろう......一足気を抜けば、それがてきめんに跳ね返り、ずるずると後退することを、我々はもっとよく意識化しなければならないだろう。昨年、会や塾が結成されて以来、一時は意欲に満ちて参加したものの、やる気をなくして離れて行った者の数は、決して少くはない。
手抜きを少しでもやれば、あっという間に、それこそ一瞬の間に、思い立った最初の時点の自分を通り越して、それ以前の意識に逆戻りしてしまうという証明がそこにはあるのだ。
なぜなら、疑惑を持ち、あるいは否定の気持を持って、暗い心で会や塾を離れ去る時の、その者の心は、最初の時点での、素晴らしい仲間たちといっしょにやって行こう、理想を実現させて行こうと決心していた時の、歓喜や希望を全て失ってしまい、お先まっくらになっているからだ......
これほど悲惨なことはない、と俺は思う。わずかに気を抜き、手を休めたがゆえに、心は遥か暗い地底の世界にまで陥ちこんでしまうのだ。
一瞬一秒を努力せよ、と東丈先生がおっしゃった時、我々の多くは、それを単なる道徳訓として解釈してしまった。古めかしいことをいう、と批判を残して去って行った者もいる。スタイルだけは目新しいのに、内容は恐ろしいほど古めかしくて、道徳教育が並べたてる、古色蒼然とした徳目と少しも変らないじゃないかというのだ。
善いことをしなさい、悪いことはするな、という道徳の押しつけをやられてはかなわない、という言葉を、俺自身、耳にしたことがある。古来よりの儒教の教えと少しも変らないじゃないか。
結局は体制側、権力者階級の思うツボにはまることだ。東丈は宇宙の法を説くなどと大きなことをいっているが、その実は悪魔だの天使だのを持ち出して、古くさい宗教の既成概念を目新しく見せかけながら再説しようとしているだけだ、というのだ。
その者にとっては、一瞬一秒の努力、など他愛もないたわ言にすぎなかったようだ。よほど無邪気な人間だけがのせられる罠だ、といっていた。
つまり、昔彼が無邪気だったころ──といってもたかだか半年も経っていないが──東丈先生の説く宇宙の法に感激し、まんまと乗せられたが、やっと目が覚めたというわけだ。なぜ目が覚めたかというと、他の人の本を読んで、宇宙の法のくだらなさに気付いたというのだ。
宇宙には神も仏もない。いわんや悪魔や幻魔の存在するはずがない......単なる唯物主義に逆戻りしたことを、彼は目が覚めた、と称しているのだ。
半年前には東丈先生の説かれる宇宙の法は素晴らしい、これこそが最高の真理だ、と陶酔していた人間が、今は目が覚めたとかで、科学で解明できない謎はない、神も悪魔も、人間が造り出した産物だ、といっている。
もう自分は目が覚めて、昔のように無邪気ではなくなったから、宇宙の法などたわ言にすぎないと看破したということだろう。
しかし、俺にいわせれば、彼こそ徹頭徹尾、無邪気そのものであり、次々に受売りをやっているだけだ。
他人の説く教えを、まるで自分が考えだしたかのように錯覚する。本で読んで、感銘を受け、刺激されると、それを自分の才能そのものだと勘違いする。自分を新時代の旗手であるかのように感じ、自己陶酔にのめりこむ。これほど無邪気な人間はいないだろう。
そして旗を次々に取っ換えひっ換えして、チンドン屋のように触れ廻って歩く。そしてそんな自分の無邪気さ、軽薄さには少しも気付かず、かつては陶酔してかつぎ廻っていた旗を泥足で踏みつけ、悪しざまに罵る。
何の主体性も持たない自分には決して気が付かないのだ。プラトンに凝っていた時はプラトン気取り、そしてヘーゲル気取り、ニーチェ大先生気取り、今は唯物史観の旗を担いで、たいした鼻息だ。他人の話をちょっと聞きかじり、他人の本をちょいと読みかじっただけで大先生気取りになってしまう。
しかし、これはだれにも心当りのあることだろう。程度の差はあっても、だ。実をいえばこの俺自身もそうだ。東丈先生からの聞きかじり、受売りが高じて、とうとうここまで来てしまった。
だが、受売りはあくまでも受売りにすぎないし、自分で実践してみなければ意味はない。他人の能書きを自分で考えだしたような面をして触れ廻っているようでは、チンドン屋以下だからだ。チンドン屋のように自分の生活をかけて真面目にやっているならともかく、この手合は気が変れば、それまでの先生にありがとうの一言をいうでもなく、悪口の限りを尽して、後足で砂をかけて行く恩知らずだ......
東丈先生は、いつも我々が一時の熱狂に我を忘れて、非理性的になることを嫌っておられたことを思い出してほしい。かっとなって後先も考えず、闇雲な逆上に身をまかせて走り出すのは、実は恐ろしく安易なことで、楽なことだ。
一歩一歩、足許を確めながら、地味な努力を重ねて行くことは、容易ではない。しかし、それこそが〝一瞬一秒の努力〟なのだ。
一気呵成に坂道を駈け上ることはできないということだ。すぐに転がり落ちて、とめどがなくなる。〝一瞬一秒〟の実践がない者は、あっという間に心変りする。東丈先生の説かれる宇宙の法を、欺瞞だなんだと悪口雑言の限りを尽した者が、その典型といってもいいだろう。
彼は、最初に志した皆といっしょにやって行こう、理想境の実現に向って努力して行こうという燃えるような心をもはやひとかけらも持っていない。心は冷たく冷めてニヒッているだけだ。他の人々がみなぎらせている情熱、志を冷やかに嘲笑い、揶揄するしかできないのだ。
つまり、彼は東丈先生の説かれる宇宙の法に触れる以前よりも、遥かに心は暗い地下世界へ堕ちてしまっているといえる。それ以前の彼は少くとも、宇宙的な愛や友情の連帯という志に感動し、発奮するだけの心を持っていたのだからな。
彼の心は地下の暗闇の世界に通じてしまっている。粗悪な粗々しい波動に染まってしまっている。しかも、彼自身は己れに生じた変化には気付かない。
自分は決して間違わず、間違っているのはいつも自分以外の者たちなのだ。どうやれば人間はこれほど高慢になれるのか、独善的になれるのか。
我々はその理由を知らなければならないと俺は思う。さもなければ、なまじ宇宙の法に接したばかりに、その者は地下の世界へ心が堕ちたということになってしまう。なまじ宇宙の法など知らなければよかった......そんな人間はその者一人ではない。心は地下に通じて、光を憎み、呪うという人間は数少くはないし、今後はもっと増えるかもしれない。
そんな哀れな人間を増やさないためにも、俺たちはなぜ理想が破れて行くか、その理由を明確に突き止める必要がある。いっておくが、これは俺たち自身のためでもあるのだ。
ここにいる者はだれしも、理想に破れた冷たい心を抱き、かつての仲間や同志たちに憎しみを燃やし、あれほど畏敬と尊崇の心で見た東丈先生に悪罵を投げつけたりはしたくないはずだ。
そんなことはありえない、と否定するかもしれない。たとえ天地は覆ろうとも、自分は、自分だけは、心変りをし、志を投げ捨てたりは絶対にしない、と。
しかし、その思いこみが、真実でないことは、これまでの会の歴史が示している。会は塾よりも発足の時期は早く、遥かに大人数でスタートした。しかし、そのうちの何人が現在まで残っているだろうか。おそらく八割までの人間たちが、志を投げ捨て、心破れて去っていったはずだ。
念のためにいっておきたいが、塾においてそうした現象が比較的少数なのは、あくまでも発足が出遅れたためと、少人数のためでしかないと俺は思う。今後はいくらも見られる現象かもしれないのだ。
それは、ここにいる俺たちの身に、いつでも起こりうることなのだ。自分だけは違う、自分は例外だと思ってはならない。だれ一人例外はない。
自分は大丈夫だと思った時から、すでに心の侵食は始まっている。なぜ自分だけは大丈夫、特別だ、と思うのか。それこそは、意識しないかもしれないが、〝高慢〟に発しているのではないか。自分だけは特別、と思えば、ごく自然に特別待遇を要求したくもなるだろう。人にチヤホヤされ、偉大な人と尊敬され、特権階級の地位を要求するようになるのではないだろうか......
はっきりさせておきたいが、ここにはすでに〝高慢〟の芽をこっそりと隠し持っている人間が存在しないとはいえないのだ。この俺自身がそうであるかもしれない。例外は一人として存在しないという真理を、いつも心に叩きこんでおいてほしい。
全ての人間が、平等に〝高慢〟の罠に足を取られる可能性を有しているのだ。一人として例外はない。自分だけは大丈夫、という根拠のない安心、自信に身をゆだねるな。たとえ、如来や菩薩であろうと、地上に肉体を持てばただの人間だ。例外はない。このことをしっかりと自覚すること以外に、〝高慢〟の罠を免れるすべはない、と俺は思う。
人間はいくら謙虚であっても謙虚でありすぎるということはない。己惚れや自負心、増上慢は、抜いても抜いても無限に生えてくる雑草と同じだ。これから春、夏にかけて、庭の草むしりをすれば、皆にもその実感がしっかりと持てるだろう。
俺は子供のころ、祖父から庭の草むしりを一夏やらされてへばったことがある。どんなに頑張っても、雑草の生えるスピードとタフさにうち勝つのは容易なことではなかった。一日ごとに新しい雑草の芽が逞しく芽吹いているのだ。
数日、怠けて手抜きをすれば、もはや手に負えなくなった。小学生の俺は泣き泣き、草を暗くなるまでむしり続けなければならなかった。
いつも優しくて、俺にだけは甘い祖父が、なぜこのことにだけは厳しいのか、と恨みもした。
しかし、祖父が教えたかった意味は、当時もはっきりしていた。人間は一日手抜きをすれば、それだけ苦しみが己が身にはね返るということだ。
庭の草とりは一夏で解放されたが、俺は日課の木刀の素振り千回だけは、たとえどんなにへばっていてもやり通してきた。手抜きをしないということを教えてくれた祖父の慈愛には、どんなに感謝しても感謝しきれない......」
拍手が湧いた。手を叩く塾生たちを、田崎は大目玉でじろりと見返した。
「で、諸君には、この春から、庭の雑草とりをやってもらう。一人の例外もない。この塾の庭はやたらに広いから、手抜きをすると大変なことになる、それが骨身にしみてわかるようになるだろう......」
みんな腹を抱えて笑った。東三千子は、田崎の話しぶりが一種の格調を持っていることに感銘を受けた。十八歳という若年でありながら、どこへ押し出しても恥しくない。堂々とした男、という以上のものがある。田崎はこの二月に、ある私立大学の入試を受け、合格したらしいが、そんな必要は毛頭ないという気がした。彼はすでに一人前の指導者なのだ。どこから見ても、田崎はみごとに成熟した存在と思えた。むろん彼にも年齢相応の子供っぽさ、稚気はあるのだろうが、注意深く観察していない限り、表にはあらわれてこないようである。
20
田崎が湧いている一同を鎮めて、話を続けようとしたところへ、例によって、風を巻くスピード感をもって、井沢郁江の一行が到着した。
〝アシスタント・グループ〟と呼ばれる側近のメンバーには、塾生である木村市枝や松岡高志の顔も見える。
かなりの遅参ではあるが、最近多忙をきわめている井沢郁江がよく顔を出したと思えるほどである。
郁江は、田崎に向けて話を続けるようにと合図を送り、用意されていた席に着席した。そこだけ目立っていた空席が完全に埋まる。
郁江はさらに贅肉を落したのか、細身になったようであった。かつてのぽっちゃりした丸顔の美少女を知る者にとっては、別人のような変貌ぶりである。
もう単なる抜群の美少女でもなく、妖精という表現もあたらない。人間放れした、透き徹った感じが強まっていた。肉を持つ身の濁りが洗い流され、稀薄になって行きつつあるのかもしれない。むろん、人を魅する力が弱まったというのではない。更に波動は強く明瞭になっている。
しかし、ある意味では近寄りがたいという感想を持つ者もいるのではないかという気がした。
ある時期から、丈が急激に神秘感を強めだしたのに酷似していた。それは見る者に奇妙にスリリングな戦慄をもたらすものであった。
三千子の視線に気付いたのか、郁江のきらめく眸が上り、にっこりと会釈を送ってきた。郁江の周囲だけ、空気の色合いが微妙に異っていた。意識圧が高いためなのか、そこだけ明るくなっているのである。
錯覚かと幾度見直しても、同じであった。空気が明るく光っている。郁江の輪郭を模して、人型の光が生じている。
こんなことは初めての経験であった。郁江のまとっている霊光が見えるのだ、と気が付く。あまりにもオーラの光圧が上り、強くなったために、三千子の肉眼にも視認できるようになったのかもしれなかった。
田崎は、そそくさと話を切り上げにかかった。塾生たちは気圧された雰囲気になり、全神経を郁江にそれとなく向けている気配が濃厚になった。
注意を向けずにはいられなくなってしまうのである。磁性体が強い磁力線に感応するのに似ていた。
「どうぞ、もっと続けて下さい」
と、郁江が田崎に向かって声をかけた。
「尻切れトンボにしちゃ惜しいですよ。とっても面白いお話だったから......」
だれもが啞然とした表情を浮かべて、郁江と田崎を見比べていた。この場に居合わせなかった郁江になぜそんなことがいえるのか、と疑い、戸惑っていた。田崎もさすがに絶句してしまった。
「草むしりのお話でしょ? 塾へくる者は一人残らず夏の間中、草むしりをさせられるっていう......」
郁江は確かに心得ていた。当てずっぽうを口にしているのではなかった。
「どうして、それがわかった?」
と、田崎が尋く。
「ちょうど塾の前へ車が到着したところへ、ふっと田崎さんの波動が来たもの。あ、やばい、これは草むしりさせられるなって......」
どっと笑声が湧いた。緊張が一時に破れたのだ。
「相変らずたいしたものだ......」
田崎は苦笑しながらいった。
「波動で、何でもわかってしまうわけか?」
「ひょいと、やってくるのをキャッチする感じね。雑草取りって面白い話だな、と思っていたわ。そのずっと前から、雑草というイメージが心にこびりついていてね......きっとそれで波長が合ったのだと思う」
「郁姫に何もかも聞かれてしまうのでは、うっかり喋れないな」
その場の全員が魅せられた目で、郁江と田崎の遣り取りに聞き入っていた。
「しばらく前から、人間の心の中に湧いてくる雑念、妄念というか、悪い考えというのは、雑草に似ているな、と漠然と思っていたの。雑草というのは、恐ろしく逞しくて、生命力旺盛で、畑の作物を圧倒する迫力と根性を持ってるでしょ。
人間の正思、正念というのを畑の作物にたとえるなら、妄念、毒念というのは、雑草に相当するわけね。どんなに人間が一生懸命になって、正しい思い、正しい想念を凝らそうとしても、妄念、毒念はあっさりとそれを妨げて、乗っ取ってしまう。
ちょっと手抜きをしようものなら、あっという間に、折角の畑は雑草に占領されてしまうわけね」
手抜き、と聞いて一同笑いを抑えられなくなった。確かに郁江は、遠く隔てて、田崎の話を聞いていたといえそうである。
「実は、手抜きは恐ろしいという話をしたんだ。東丈先生が急傾斜を這い登るたとえ話で、一瞬一秒の努力がどんなに大切か、強調されたが......それも波動でキャッチしたわけか」
「丈先生の時も、同じようなことがしょっ中あったわ。精神感応の実例かもね。とにかく、雑草ってどうしてあんなにしぶといのかしら? 除いても除いても無限に生えてくる。根はどんどん大きくなり、どこまでも伸びて拡がって行く。雑草があんなに逞しく強大なのに畑の作物ってひよわなのね。いつも注意深く面倒を見て、愛情を沢山注いであげないと、雑草に圧倒されて消えて行ってしまうんですものね。
人間の正しい思いというのも、畑の作物と同じで、いつも世話を焼いて、丁寧に育てていないと、いつの間にか行方不明になって、心の中は毒念、妄念で溢れ返っているということになってしまう。どうして、人の善き思い、正しい思いはあんなに弱っちくて、妄念はあんなに強くてしたたかなのかな、と嘆きたくなるわ。
毎日毎日、雑草を丁寧に抜き取っても、無限に新しい芽が生えてくる。抜いても抜いても生えてくる。根気比べのように、向うも充分の余裕をもって、嘲笑うように芽をぐいぐいと伸ばしてくるわ。
空しい無限の繰り返しのような気がしてくる。だってあっちはタフだし、不死身の生命力をもって、こっちが根負けするのを待っているんだもの。額に汗を流し、体中の筋肉が痛むのを我慢して、無限とも思える雑草を抜いて行く。厭気が差して投げ出したら、もう向うの勝ちだものね。畑は巨大な逞しい雑草で覆われてしまう。
だから、汗をかきながら懸命に抜いて行く......そこへ、雑草の想念の波動がふっとやってきたの。──雑草は永遠にして不滅なり、って......」
どっと大広間中が湧き返った。三千子も笑わずにいられなかった。郁江は決して冗談をいって笑わせようと試みたわけではないだろう。あくまでもその顔は生真面目であり、かえってそれが笑いの発作を誘った。郁江はけろりとした貌で、非常に可笑しいことをいいだす名人であった。
「雑草にも、想念なんてあるんですか?」
と、田崎が尋き、更に爆笑を誘い出した。井沢郁江の魅力は、簡単に人々の笑いを引き出す能力にあるのかもしれない、と三千子は感じた。それは、精神の軽みなのかもしれない。どんなに厳粛であっても、決して緊張過多になったり、重すぎたりすることはない。
その点は、変貌前の郁江も、変貌後の郁江も変ることなく、一貫して持ち続けている軽みといえた。精神に硬化を生じることのないのはそのためなのだ。いかに神秘的になり、天使族の特徴を強めだしても、郁江本来の軽みだけは失くしてほしくない、と三千子は願わずにいられなかった。
「もちろん、雑草は意識を持っていますよ。天地の万物は想念、意識を持っています。意識を持っているのは、何も生物だけじゃないの。鉱物だってちゃんと持っているわ。海だって山だって......こういう思想のことをアニミズムっていうらしいけど、事実なのね。ただ人間とは波長が違うから、キャッチしにくいのだけど......地球自体の意識というのも存在するわけ。地球の意識からすると、人間なんか、自分の体に生えたカビみたいなものでしょうけどね。
で、いみじくも雑草がいうように、彼らは永遠なわけね。だって彼らは、雑草といえども、神から存在を認められ、生きることを許されているのだもの。
人間がいくら雑草は邪魔だ、根絶してやる! と努力しても、あっちはどこまでもしぶとく生き伸びて、人間の思い上りを嘲笑っているのね。
人間の心も同じだな、とつくづく思う。単なる比喩じゃないのね、もしかしたら、それを教えるために、雑草はしぶとさ、したたかさを与えられて存在しているんじゃないか、と思えるくらい。雑草が己れは永遠なり、と豪語するように、人の心の妄念、毒念も永遠不滅の存在なの。
人間の心は、放置しておくと、簡単に荒地になってしまう。猛悪な毒草やトゲのある雑草に占領されてしまう。
わたしたちがやっていることは、荒地を開墾して、耕作して行く作業そのものなんだなって気が付いた。人間の文化って、耕作と語源が同じなんだけど、ちゃんとそのことは昔からわかっていたんじゃないかなって思う。
今の人間世界は、毒草がはびこる荒地そっくりよね。手に負えないほど荒廃してしまっているわ。地球を霊視してみると、毒々しい色とりどりの黴がはびこっているみたい。地球がぞっとするような黴によって覆われているように視えるの。
つまり、そこに住む人間たちの毒念が、幻魔の暗黒波動と結托して、物凄く毒々しい黴そっくりの磁場を作り出してしまっているのね。
まるで、地球が腐敗してしまったみたい。これだけ黴にやられると、もう長いことないなと思ってしまった......ちょうど青いリンゴが腐ってブヨブヨになってしまったようなの。
もし、皆さんが霊視で地球を見たら、ぞっとすると思う。それくらい凄惨になっているから......ああ、保ってくれればいいなって祈るような気持になったわ。もう少し辛抱して、頑張ってちょうだいって、黴に覆われた地球に一生懸命お願いしてしまった。
だって、どう見たって、もう末期症状なんだもの。凄惨な黴から免れているのは、本当に北極とか南極とか、人間がほとんど住んでいない地方だけなんだから......
地球の意識が、苦しい......苦しい......って悲痛に呻いて訴えているようなの。重病人が喘ぎながら苦しみを訴えているのとそっくりなのね。
ああ、大変! もう少し頑張って! わたしたちも一生懸命やっているから、もう少し辛抱して! なんとか楽にしてあげるから!
わたし、祈りましたよ、必死に。宇宙意識フロイにお願いしました。もう無我夢中です。本当に今にも、地球がグズグズ......と崩壊しそうなんですから!
本当に大丈夫かな、保ってくれるかなって、もう気が気じゃないんです。わたしたちも死物狂いで頑張りますからって......東丈先生が、時間がない、時間がないんだよって、血を吐くように訴えていた意味が、しんそこから実感できましたよ。
わたし、あんなに凄絶なものを霊視したの初めてです。体が慄えて停まらなくなってしまうんですよ。もうカスタネットみたいに、歯がカチカチ鳴って、賑やかというか騒々しいというか」
だれも笑わなかった。息をのんでしまっていた。郁江の霊覚は日を追うにつれて更に進化を続けているようである。
以前の郁江を知る者にとっては、信じられない大霊覚者としての力を備えてしまっている。
しかし、一同に息をのませたのは、その時が至近距離に迫っているという実感が、郁江の話しぶりから伝わってきたからだった。
郁江が驚異的に急スピードで霊力を高めつつあるのは、タイムリミットが目前に迫ったからだ、とだれしもが感じてしまうのだった。
「でもね、そんなに気にすることないですよ」
と、郁江はとってつけたようにいった。しんと沈みこんだ沈黙のあまりの重さにかえって驚いたようであった。
「気にしすぎても、心配しすぎても、意味ないんですから。わたしたちは精一杯、努力するほかはないんです。
わたしたちがやろうとしているのは、気が遠くなるほど気が長い、迂遠な途かもしれません。心の荒地を開墾し、雑草と戦いながら耕作を続けて行かなければならないんですからね。そんな先の心配ばかりしていたら、雑草とりどころじゃなくなってしまいますよ。明日をのみ思い煩うなってイエス様もおっしゃってますからね。今日の苦労は、今日一日で充分です。
わたしたちは、せっせと己れの心を開墾し、しぶとい雑草と根比べしながら、きれいな耕作地を造り上げて行くことです。余計な心配をする必要はありません。いつもいっているように十人が真の自覚を得れば、地球は救われるんですからね......」
「しかし、切羽詰まってますな」
と、康夫がいった。
「いや、それをひしひしと感じますよ。心の雑草とりをしている余裕があるなんて、実に幸運そのものじゃないですか?」
「康夫のいう通りです。そんなにぎりぎりの瀬戸際にいて、切羽詰まっているのに、わたしたちは神によっていまだに機会を与えられているんです。高次元世界では、力を振り絞って地球を支え続けているんですよ。地球はいつグシャッと潰れても不思議はないのに、幻魔の加える暗黒磁場の重圧に対して、地球が持ちこたえているのは、まさに奇蹟が生じているからですよ。
高次元世界では、わたしたちに急ぎなさい、と絶えずメッセージを送り続けています。今できることを必死にやりなさい。今やらなければ、二度とやる時はないんですよ、と。
それなのに、わたしたちはいつまでも時間がたっぷりとあるかのような錯覚に陥っているんですよね。
でも、時間はないし、急がなければならないけれども、雑草とりをいい加減にすることは絶対にできないんです。
つまり、〝急がば廻れ〟とはこのことですよ。以前にもまして、丹念に一本も雑草を見逃すことなく、抜き去らなければならないんです。矛盾しているようだけど、組織を拡大したり、大々的に社会へアッピールして行くことよりも、わたしたち一人一人が、遠廻りに思える心の雑草とりを、今しっかりと、完璧にやってのけることが要求されているんです。そのことはわたしには絶対の確信があります」
「東丈先生の〝幻魔の標的〟が出版されるまでは、せめて持ちこたえてもらいたいですよね」
康夫は軽薄なのか真面目なのかわかりにくい語調でいった。近頃の康夫に目立って表われている変化であった。
「まさか、そんなに早くはないとは思いますよ、いくらなんでも」
郁江は笑いながらいった。わずかに余裕が生じて、一同の間に波紋のように安堵が広がった。
「しかし、決して遠くはない......?」
「そうですね。雑草の話なんか出て、あれ、と思っていたんですけどね。やっぱり夏ごろ、七月か八月ごろ、ちょっと危いかなって感じですね」
「何か大きな異変が起きますか? たとえば大地震とか、核戦争のような大変動が?」
ますますもって康夫らしくない質問であった。康夫は以前は、このような真剣勝負のような雰囲気を極度に嫌う人間であり、軽妙に回避してしまう術に長けていたからだ。
「人の心に、大変動が生じることは、絶対に間違いないといい切れますけれどね」
郁江は、康夫の鋭鋒をさりげなくかわしていた。
「さっきもいったように、明日のことをくよくよ心配してみたって仕方がありません。わたしたちが志しているのは、人類の大きな犠牲をもたらす大異変を回避するということなんですから。だって、そうでしょう? わたしたちの努力によって、未来の姿は変わって行くんです。大異変は絶対に確定して不変なのではなくて、人類意識の総和によって、変わっていくものなんですよ。望ましい未来も、恐ろしい未来も、今生きている人々の努力次第によって、様々な色合いや変化をもって引き寄せられ、現象化していくものです。
それなのに、大変動は必然だ、核戦争や大地震は絶対に避けられない、とわたしたち自らが信じこんでしまったらどうなりますか? あっという間にそれは現象化し、現実のものになって行きますよ。
わたしたちは、未来予測のために浮き身をやつしている暇はありません。望ましい光明に充ちた未来を、いつも心に描いておくことですよ。その光明の未来が現実化して行くために、そのビジョンはもっとも必要なものなんです。わかりますか?」
「わかります。わかりますが、やっぱ最近、そのことを心配する感じの人たちもかなり増えているみたいなので......」
康夫は無意識の裡に、ちらっと眼を走らせながらいった。郁江は康夫の視線の行く先を読んだな、と三千子は直感的にわかってしまった。テーブルの末席には〝幼い〟と形容したくなるような子供たちが三人着席している。木村明雄と白水美晴の息子健太郎とほっそりした少女がひとかたまりになり、肩を寄せあっている。少女が元ヤクザ幹部、山本の娘であることを三千子は知っている。
康夫は意図せずに、光子という名の少女に視線を投げてしまったのである。それが偶然ではなく、磁力に引かれるように幾度となく先ほどから繰り返されていることを三千子ははっきりと意識化した。感覚の敏い三千子は、他人の視線の行方が、直観的にわかってしまうことが多かった。
ほっそりした少女は、上体を直立させた姿勢を崩さずに座っている。生真面目な表情が可愛らしかった。しかし、郁江を見る眼には、同席した人々にはない表情があった。
眼の色が醒めているのである。同席者たちの浮かべている畏敬の色は全くない。郁江の意識圧の高さに対抗して、きちんと背中を立てて座り、負けまいとしているのが三千子には感じとれる。その懸命さ、依怙地さが可愛らしい。
一人だけむきになって異を立て通そうと頑張る姿勢が、かつての郁江を思わせるためかもしれない。三千子は不意にやる瀬ないほどの心情の昂まりを覚えた。
もう一人の郁江がそこにいる、と思ったようである。今のように意識圧の上昇を見る以前の郁江だ。かつての郁江である。そこには奇妙なまでの相似性があるようであった。郁江は光子という少女の中にそれを見出しているだろうかと疑った。
しかし、郁江の態度にはそれを読み取る手だては何もなかった。かえって無視しているようでもある。
「それは心配でしょうね。みな肉を持つ身ですから、急激な変動が生じてくると、我が身を保持できるかどうか危惧が生じてくるのは当然のことかもしれません。
いくら人間はこの肉体だけじゃないんだ、魂があって永遠不滅なんだ、と頭ではわかっていても、肉体が傷つくような異変は、やっぱり大変なことです。
でも、わたしたちは、その危惧や心配、恐怖感を乗り越え、克服して行かなければならないんですよね。さもなければ、この肉体から生じてくる自己保存の欲望によって、こちらまで支配されてしまうことになりますから......
本当は、何も恐くないんだよ、びくびく恐れたりすることは何もないんだよ、と高次元世界からはいろいろメッセージやサインを送ってきてくれています。でも、わたしたちはなかなか気が付きません......」
一同はしんと静まりかえって聞いていた。実感を持てないでいる顔もあり、何が語られているのか理解していない顔もあった。むろん心が底冷えするような怯えをのぞかせている顔も見受けられた。その中にあっても、懸命に対抗している少女の顔はやはり印象的であった。
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「みなさんは覚えていると思います。箱根セミナーの最後に、高次元の方が井上君に降って、いろいろ素晴らしいことを教えて下さいました。その折に何が語られたか、塾生の皆さんもご存知のはずです......高次元の方はこうおっしゃいました。
あなたがたがしっかりと心を一つに集めているならば、守護されているゆえに、有害な震動が生じた時も、大きな被害は免れるだろう。愛し、信じる心に隙を作ってはいけない。黒い破壊の震動は、小さな心の隙間からも侵入しようと機会をうかがっている、と......
わたしたちは、宇宙エネルギーにより加護を受けている、と告げられたのです。ああよかった、これで安心だと思った人もいるでしょうし、それなら恐れることはない、もっともっと頑張って行こうと決心した人もいるはずです。
高次元の人々は、わたしたち地上に肉体を持っている者たちが、あくまでも肉体保存の意識から脱却しがたいということをよくご存知のようです。
でも、大宇宙エネルギーであられる神は、わたしたち人間をあくまでも魂として見ておいでなんです。魂は永遠不滅の生命であり、肉体は一瞬にして滅びてしまう仮りの容れ物だからです。
こうやって肉体を持って生きている人間、つまりわたしたちは自分の一生をかなり長いものとして意識しているかもしれません。とくに年若い人々、青年にとってはあと自分が五十年も地上で生きなければならないってことに、むしろうえーっと思ってしまうかもしれません。若者は自分が年を取り、やがて老いて死んで行くということに、どうしても実感が持てないんです。自分が三十歳になったら、ということさえ実感できない人が大部分だと思いますよ。
更に明雄たちのような子供たちからすれば、大人になるということさえあまりにも遠すぎて、見当もつかないんです。
けれども、神である大宇宙エネルギーの目からもってすれば、地上で肉体をもって生きている人間の一生は、まさに一瞬です。あっという間に人間は一生を終えてしまう、ウスバカゲロウよりもはかない生命なんです。
神の目をもってすれば、人間の転生輪廻は点の連なりでしかありません。人間は自分の一生を長いと感じますが、高次元から見れば一瞬の出来事なんですよ。
神は時空を超越するがゆえに、人間の一生どころか、星の一生という天文学的時間も、同様に一瞬間でしかないんです。たまゆらということでは、人間も星もちっとも変らないんですよね。
ですから、人間を永遠の生命、魂と見ていらっしゃる神にとっては、地上で肉体を持って生きている人間はあくまでも仮そめのものでしかないということです。救済されようとしているのは人間の魂であって、肉体ではありません。
わたしたち人間が、肉体を過大視するのは、肉の容れ物の中にあって真実が見えなくなっているせいです。必要以上に肉体を大切なものと勘違いしてしまうんです。肉体意識にしっかりと捕えられてしまい、脱け出せなくなっているからです。
大地震や核戦争が最大最高に恐怖すべきものと感じてしまうのは、この肉体意識ゆえです。でも、人間の肉体はごくあっさりと滅びるもので、そんな大げさな大異変でなくても、交通事故で簡単に死んでしまうものなんです。なにも、水爆でなくても、車でぽんとはね飛ばされれば、この肉体とはお別れです。
人間の肉体を滅ぼすのに、大仕掛けな兵器など必要ないんですよ。現に人間は地球上、世界各地でどんどん死につつあります。今この瞬間も大量の魂が肉体から次々に去りつつあるんですよ。
だれだって人間は、明日の生命さえ知れないんです。大地震や核戦争の悪夢に怯えている人間が、つまらないことであっさり死んで行きます。足を踏み滑らせて階段から落ちたり、お風呂場で転んで打ち所が悪くて死んでしまうかもしれません。
人間を殺すのには、小さな災難で充分です。ちょっとした風邪を引いて、心不全でぽっくり逝ってしまう人だって決して少くはないんです。
だから、〝明日をのみ思い煩うな〟とイエス様はおっしゃたんじゃないでしょうか? 今この時を一生懸命に生きるのが大事なのだって......
永遠の生命を知っている人間が、肉体意識から逃れられずに、大変動を怖れてノイローゼになったりしたら、これほど愚かしいことはありませんよ。そうでしょう?
この肉体を保全するのは、高次元の人々の仕事、と割り切ってみたらどうでしょうか? わたしたちが使命を果すのに必要なだけ、この肉体は神によって護られるんだって、信じてみませんか?」
人々の中には、我知らず熱心に頷く顔が多く見られた。郁江の言葉にはそれだけの説得力があった。空理空論ではなく、世界の真の姿を知り、生死を脱却した人間だけが備える説得力であった。
「わたしは確信をもって申し上げますけれども、肉体の死は少しも恐ろしいものではありません。ごく簡単なちょっとしたことです。皆さんが今、冬の間中着ているオーバーやコートは、春になって暖くなると脱ぎ捨てられます。もう用がなくなるからです。必要もないのに重いオーバーを着続ける者は一人もいません。
肉体の死とは、まさにオーバーを脱ぎ捨てるのと全く同じ感じなんです。もう用ずみだから脱ぐんですよ。わたしたちの本質である霊体にとっては、肉体は窮屈な重い着づらいオーバーといっしょなんです。
暖くなって、吹く風が優しく心地よくなってくる。その時オーバーを脱いで町へ出る、ホッとした軽さです。霊体の軽々した自由さを一度知ると、この肉体の重さ不自由さ、苦しさは、ちょうど布団蒸しにされるのと似ているかもしれません。
わたしたちは、きびしい寒さが続く冬の間は、重いオーバーを着こむことにさほど抵抗は覚えないかもしれませんが、真夏にオーバーを着る気にはだれもなれないでしょう。
ですから、わたしは一度死を経験した者として、皆さんに保証します。
肉体の死とはちっとも苦しい厭なものではありません。かえって脱ぎ捨てるとせいせいする気持を味わいます。ただわたしたちは、肉体の死を迎えた後の自分がなかなか想像できず、実感を持てないものですから、恐怖感を抱いてしまうんですよ。
いくら頭で思い描いていても、実感が持てなければ、恐怖心を拭い去ることはできません。それはちょうど、泳げない人間が、水を恐れるのと似ています。
自分の肉体で、泳ぐという行為を体験してみない限り、大量の水に対する恐怖感を拭い去ることはむずかしいものなのかもしれません。一度水泳を覚えてしまえば、簡単なことなんですけど、泳げないうちは、ただひたすら恐いものです。
肉体の死は少しも恐れるに足りないということを証言できるのは、わたし一人だけではありません。今ここにいる、本日の主賓である金本義男君、通称義クンも、肉体の死に関しては有能なる経験者です」
席がちょっと湧いて拍手が起こりかけた。いきなりお鉢が廻ってきた義は、びっくりしたように反射的に立ち上り、頭を下げた。拍手が盛大になる。
「わたしと義クンは、今二人で高次元世界、いいかえれば霊界について探究しているところなんです。つまり、人間が肉体という重いオーバー・コートを脱ぎ捨てた後、帰って行く世界です。非物質な世界ですから、目には見えず、手で触れることもできない世界です。でも、物質至上主義者がいくら躍起になって否定しても、真理を否定することは不可能なように、高次元世界は厳然として存在し続けています。
その高次元世界を探訪するのに、わたしたちは肉体という重いオーバーを脱ぎ去らなければなりません。一時的にこの肉体を離れ去り、霊体をもって霊界という非物質的な高次元世界へ入って行かなければならないわけです。
義クンとわたしは、もちろん同時にではなく別々にですが、霊体となって霊界を幾度も訪問しました。思いがけず向うでバッタリと出会ったこともあります。あら、こんにちは......という感じです。
わたしたちの高次元世界に関する研究は、今月末のセミナーで皆さんに発表するつもりです。今日はほんの予告編という感じでお話ししています。
どうですか、河合康夫サン? この程度の説明では不満足でしょうか?」
いきなり鋒先を向けられた康夫は、面食って立ち上った。
「いや......私が満足する、しないの問題ではありませんから......私自身いわれることはよくわかるんですが、やはり大変動とか大異変に対する恐怖心は根強いものがあるようだし、いくら肉体の死は恐くないよと教えてあげても、一般的には納得するかどうか、別問題ということなので......」
康夫はいささかへどもどしながら喋った。
「やはり大恐慌、パニックというものは、どうしようもなく拡がるんじゃないでしょうか? 社会的な大混乱が生じて、一人一人が生きて行くことも困難だという状態、生地獄というものが一番恐ろしいんじゃないでしょうかね? 大地震なり核戦争なりであっさり死ねるなら、かえって安楽だという考え方もあるかもしれないと思うんですがね......」
「苦しむのはご免だ、あっさり死にたいという考え方は確かにあるでしょうね」
「死ぬよりも恐ろしい状況......これに対してどう生きて行けばいいのか。これは相当につらいことだと思うんですが」
「人間の生死というものは、頭で抽象的にあれこれ考えても始まらないというところがあります」
郁江はやや声を落していった。
「それは肉体を持つ人間の意志を超えたところで決定されてくるからです。たとえば、あんないい人がなぜあんなひどい死に方をするんだろう、とか、悪い奴なのに大往生した、こんなことがなぜ許されるんだろう、とか、いろいろ疑問が湧くケースはいくらもあります。
善人が悲惨な死を迎えたり、血も涙もない極悪人が家の子郎党に囲まれて安らかな大往生を遂げる......それを外面的に見れば、不条理だと人は考えてしまうかもしれません。
でも、それはあくまでも肉に囚われた人間の物質的な見方によるものです。物質しか見えないから、あんないい人がなぜ、と疑い、神も仏もあるものか、という考え方に落ちてしまうんです。
もし、霊の目をもって、そうした人々の最後の瞬間を見るならば、物質観は覆されてしまうはずです。全然違ったものを見ることになるんです。
心の美しい人々がどんなに悲惨な末路を遂げた、と肉の目には映ろうとも、霊の目で見るとそれがまったくの誤解であることが即座にわかります。
高次元の人々が霊を迎えに降りてきているのが、霊の目にははっきりと映ります。本人が生きている間中、ずっと守護し、指導してきた高次元霊の友人たちです。美しく光り輝いた高次元霊たちに手を取られて、肉体を脱け出した本人は、本来の所属する高次元世界へと還って行くんです。
これほど荘厳な光景はちょっとありませんよ。胸を打つ感動的な光景です。本人の霊は今まで何も知らず、何もかも霊としての記憶を喪失して地上世界に肉体を持って生きてきたんです。その肉体はむごたらしく傷つき、肉の目には悲惨をきわめて映ろうとも、真の姿は全く違います。
大感激ですよ、それこそ。真の親友たちと再会できるんですから。これほど嬉しく喜ばしいことはまたとありません。皆さんもきっと、肉体を去る時はそうした経験を持つことと思います。いえ、是非とも持ってほしいんです。
地上にはもう何の未練もありません。未練なんか持つはずがないんです。人生が〝仮の宿〟であり、真の故郷は他にある、とはっきりわかるんですから。それがわかった時の感激は大変なものです。それこそ言語を絶しています。晴れがましくも素晴らしい帰還ですよ。
心の美しい人々の死は、傍目にはどう映ろうとも、霊的な観点からすると最高の見ものなんです。それがわからないからこそ、物質観に固執してしまい、あんないい人がなぜ......と疑うし、神も仏もあるものか、と絶望感に囚われてしまうんですよ。
また、逆に冷血にして非道な極悪人の最期は、どんなに大往生と肉眼には映ったとしても、真実の姿は全く違います。
心の美しい人々の肉体の死とは全く正反対、逆の恐ろしい光景が、霊の眼には見えてきます。
凄惨な青や緑の鬼火で、死者は取り囲まれているんですよ。つまり、悪霊たちがちゃんと待機しているんです。生前から死者とおつきあいのあった悪霊たちです。今か今かと待ち構えています。本人が肉体から去ると同時に暗黒世界へ引っ張り込んでしまおうというわけです。
冷酷非道に生きてきた本人は、知らないうちに悪霊たちの奴隷になっていますからね。憑依されて悪霊たちの一部分と化してしまっているんです。肉体の死を迎えたからといって放免してくれるわけがありません。自分たちの育てた果実を収穫にやってくるわけですよ。あっという間に暗黒の地下世界へ引きずりこまれます。真実に気付いて、厭だ! 助けてくれ、止めてくれ! といくら騒いでももう手遅れです......」
話の途中に遅れて駆けつけてきた笛川医師と松代直子がそっと大広間へ入ってきた。満席で座る席はもうなくなっていた。パイプ椅子の予備も切れてしまっていた。坊主頭の若い塾生が立ち上り、笛川医師たちに席をゆずった。壁際に並んで立ち、郁江の話に聞き入る。元チンピラ・ヤクザの塾生たちは、金本義男にならって全員頭をまるめてしまっていた。いずれも若い雲水を想わせる顔付きになっているのが面白かった。五分刈りでも応援団学生や刑務所帰りには見えない。やはり雲水という雰囲気なのである。
元チンピラの彼らが、変り種の多い塾生の中でももっとも注意深く、他への思い遣りが行き届いているのは興味深い現象であった。いかにも温厚篤実であり、深い信仰心を持っているのが見てとれるのである。
続いて作家の土屋香が遅参して遠慮がちに入ってきたが、やはり席をゆずったのは、元チンピラの一員であった。他の塾生たちは気がつかないのか郁江の話に集中しているのか、そうした配慮を示す気配はなかった。
さしたることではないかもしれないが、三千子の目には興味深い光景であった。とくに郁江の〝親衛隊〟とやや悪口じみたニュアンスでささやかれている側近グループの若者たちは、そうした配慮にはまったく無関心であった。わずかに気を使っているように見えるのは、木村市枝一人のようである。
ただ、若いので気がきかないというのではなかった。〝気働き〟がないのだ、と三千子は思った。郁江に対しては神経をとぎすまし、気を張って痒い所へ手が届くように、こまめに立ち働き、仕えているが、その心遣いは他には適用されない。ごく自然に無視し、黙殺してしまうようである。彼らは郁江という女王に仕えている忠実な臣下なのだ。その忠誠は、忠実な犬のそれと同じで、主人以外の人間には向けられない。
郁江はそれに気付いているのだろうか、と三千子は考えた。他者からすれば、決して見よいものではない。手きびしいいい方をすれば、横着であって見苦しいということになるかもしれなかった。
22
三千子には、〝組織人〟としての経験は何もないが、ほとんど先験的に〝組織〟の持っている問題点が見えてしまうところがあった。とりわけ、短所、欠点ほど明確に見えてしまうのである。
あら捜しをする気など毛頭ないが、郁江の率いている〝親衛隊〟の体質的なあらははっきりと見えてしまう。ひどく鈍感で〝気働き〟に欠けるのがそれだ。彼らにもとより悪意があるわけではなく、たいへん明朗であり礼儀正しく、善意に満ち思い遣りに溢れているようではあるが、なぜか三千子には肌に馴染まない。
一見善意と友愛精神に溢れているようだが、どことなく上っ調子で軽躁的である。真の誠実さとはどこか欠けたものがあり、隔っているように思える。木村市枝だけが一人浮き上り、戸惑っているように見えるのだ。
彼らはよく出来た若者たちかもしれないが、どこか木村市枝の持つ誠実さとは異質なのである。
彼らはもちろん、自分たちが周囲に対して異和感をもたらしていることには気付いていないであろう。仲間内だけで充足し、楽しんでしまっているためである。彼らがいかに優しく親切であり、快活、明朗に見えようとも、〝気働き〟に欠け、鈍感なのはまったく事実なのだ。
郁江が行住座臥、〝親衛隊〟に向ってきびしい教育を施しているのは事実だが、傍から見ると、その〝親衛隊〟らしさはますます体質化し、濃厚になって行く。夏本幸代は明らかに悪口として〝親衛隊〟呼ばわりしたのだが、今は〝親衛隊〟の域を通り越して〝宮内庁〟という批判をこめた囁きも三千子の耳に聞こえてきていた。
井沢郁江と一般会員の間に、一種の防壁と化して立ち塞っているという批判が〝宮内庁〟という仇名のゆえんであるらしい。
むろん、彼らがよそよそしく、偉ぶって傲慢であるというのではないし、三千子に対してはまったく丁重そのものである。好意に溢れ、友愛に満ちて接してくれる。どこから見ても、非の打ち所のない、よく出来た若者たちと評価されるかもしれない。
しかし、それはただ単に、井沢郁江の三千子に対する気持の反映であるにすぎない......そんな気がするのだ。
郁江が三千子を尊敬し、敬愛をもって接しているから、彼らもまたそれにならっているにすぎないとさえ思える。彼らの示す友愛や好意には、どこか機械的で空ろなものを感じてしまう。
郁江がそうせよ、と命じたことは忠実無比に実行するが、そうでなければ見向きもしないといううさん臭さ、いかがわしさの如きものがつきまとっている。
三千子は自分が埒もないやっかみやひがみの虜になっているとはどうしても思えない。
元チンピラの塾生と〝親衛隊〟を比較してみると、はっきりとわかるのだ。どう見方を変えても、謙虚で思い遣りに富み、気働きがきくのは元チンピラの塾生であって、エリートそのものの〝親衛隊〟ではありえない。
〝親衛隊〟の中で、一人木村市枝だけが浮き上り、自信と落着きを欠いているように見える。ひどく上っ調子の〝親衛隊〟の波長に合わず、居心地が悪そうに見えるのである。
市枝は性格的にエリート集団に融けこめないところがあるのだろう、と三千子は思う。そればかりでなく、市枝の心にあるのは東丈への忠誠心であり、他の〝親衛隊〟のように東丈という太陽を郁江という月にあっさりと乗り換えることが不可能だったのかもしれない。
今は、全てが郁江の個性で急速に塗り変えられ、装いを新にしつつある。〝親衛隊〟の波動が異常なほど強まり、〝飛ぶ鳥を落す〟勢いであるのは、無理もないかもしれなかった。
「大宇宙意識であられる神は、人間を肉体として見ておられないということに尽きます」
郁江が語っている。その話しぶりは堂に入っており、とうてい十七歳の少女のものではありえない。三千子は夢でも見ているような心地だった。
郁江は会と塾の双方をしっかり把握し、新路線に載せることに成功した。その実力はたいしたものだと思う。郁江は自信と確信に満ち、難局を乗り切って、新しい未知の局面を切り開いて行こうとしている。
主宰の東丈を欠きながら、批判を封じこめて、郁江はみごとな操船ぶりを見せ、船出をやってのけている。それは激賞されてしかるべきことなのかもしれない。
しかし、三千子は異常振動ともいうべき、上っ調子な軽躁さを〝親衛隊〟の中に見出しているし、それが今後どのような発展を示すかまったく予期できない。
その自信過剰の根元は、井沢郁江自身の裡に存在するのかもしれなかった。批判派をことごとく封じこめた郁江の前に、もはや障害はない。何でも思い通りに切り廻して行けるのだ。
しかし、郁江の急激な加速ぶりに対して抵抗を示し、追従を拒むのは、夏本幸代のような批判派ばかりとはいえない。三千子の見るところ、河合康夫や木村市枝のような、いわば古参の東丈の帰依者たちは、急加速ぶりに対して無意識の抵抗を行なっているように思える。それは菊谷明子のようにもっとも尖端的な心情の表現を取りうるものであった。
〝親衛隊〟のように無批判に、郁江の言葉をそっくりまるごと鵜吞みにできないのである。常に東丈の語った言葉を規範とし、照合しなければ気がすまないのである。
郁江にとっては、きわめて不快な点検作業かもしれないが、三千子にはそうせずにはいられない人々の心情がよくわかるのだった。
〝親衛隊〟の連中は、〝郁江宗〟の狂信者盲信者ではないかという疑いが、彼らの心の裡に徴しているのである。
河合康夫を例に取ってみれば、彼の態度は〝親衛隊〟やそれに準ずる若者たちのそれとは歴然と異る。そわそわとしており、注意力散漫である。郁江の話をじっくりと聞く姿勢ではない。同席者たちの反応に注意が向けられているためだ。
康夫には、郁江の講話を全て摂取しようとする気構えはない。己れを常に中立の立場に置こうとする努力が、不安定さを生み出しているようであった。一応聞いてはいるが、それを受容する態度はあやふやである。
しばらく前から、康夫の態度に顕著になった傾向であった。それは必ずしも康夫ばかりではなく、郁江の強い推進力が生んだ〝反作用〟ともいうべき抵抗や反撥が、古参者たちの心にそこはかとなく生れている証拠であろうと思える。
夏本幸代はおろか、菊谷明子や康夫にまで〝反作用〟は及んでいるのである。郁江はあらかじめそれを見越して、東丈の姉である三千子を担ぎ出し、〝反作用〟の緩和を目論んだのではないかと考えられる。
郁江が波動を強めれば強めるほど、反作用もまた強まってくる。決して全てが順調に運んでいるわけではない。三千子は〝親衛隊〟の勢いの強さに潜む軽躁さに危ういものを感じずにはいられなかった。
「大宇宙意識である神は、人間を永遠の生命である霊、肉体ではなく魂として見ておられるんです。ですから、神の救済の対象は、人間の肉体ではなく、永遠の生命である魂なんです。神にとって地上での人間の一生など目にも留まらぬ一瞬のことでしかないんです......」
また康夫が、あの少女、ヤクザ幹部山本の娘である光子に気持をそらしている、と三千子は感じた。
郁江の言葉からごく自然に心がそれてしまうのだ。波長が嚙み合わないのである。
郁江の言葉に説得力がないわけではないのだが、康夫にとっては空疎であり、お題目としか聞こえないのかもしれない。権威があり確信がこもっているほどに、心がそれていってしまうようだ。
郁江はあまりにも圧倒的であり、〝頭ごなし〟と聞こえかねない話しぶりを身につけてしまったのかもしれないと思った。日頃の郁江、座談の時の調子とははっきりと異質な波長になってしまう。
これでもか、これでもか、と強烈すぎ高圧的にすぎて、〝頭ごなし〟の権威としか感じられなくなってしまう。
三千子ですら時としてそう感じるのだから、康夫が心をそらしてしまうのは無理からぬことかもしれなかった。
「今後わたしは、大宇宙意識によって産み出された高次元世界と、この物質世界との関連、転生輪廻によって霊たる人間が二つの世界の間を循環している真実を、明らかにして行こうと思っています。
そのために、今、義君といっしょに高次元世界の構造を探究し続けているんです。おかげさまで、かなり高次元の真相というものがはっきりしてきました。
私たち人間は、肉体の死を恐れますが、本当は数限りなく、それこそ無限に私たちは、肉体の死を経験してきている大ベテランなんです。高次元世界と地上を無数に往復している、百戦練磨の古つわものなんですよ。新米の航海者じゃないんです。
箱根セミナーで明らかにされたように、真の人類の歴史は、現代科学が仮定しているように平坦でのっぺらぼうな進化論とはまったく大違いなんですよ。
地球人類はかつて幾度もハルマゲドンと呼ばれる大変動に遭い、人類絶滅の瀬戸際までくり返し行っています。大きな破局に直面するのは、何もこれが初めてではありません。
現在以上の巨大な宇宙文明を築き上げながらも、あっさり崩壊して、進歩の坂を転がり落ち、原始レベルの時代へ逆戻りしたことが幾度あったかわかりません。
ムウやアトランティスの大文明も、盛りを過ぎれば、物凄いスピードで崩壊し、海底へ消えて行ってしまいました。
私たちが転生輪廻によって何回も肉体の死を経験しているように、ハルマゲドンという大破局もかいくぐって、私たちは今ここに存在しているんです。
わたしのいっている意味、わかりますか、河合康夫サン?」
「よくわかります。私は何も心配しておるわけじゃありません。私は〝神のみこころのまま〟という気持で生きていますから......」
何人か忍び笑いを漏らした。遅参した笛川医師たちであった。郁江と康夫との間にそこはかとなく生じている緊張感に気付かずに、康夫の表現の面白さに笑いを誘われたのであろう。
「でも、大変動近し、などとささやかれると、恐怖感は免れがたいんじゃないかと......理屈では過去に何度もあったことだし、今更怖れることはないんだよ、とこういうことになるんでしょうが、最近マスコミでは核戦争間近しというムードになっていますし、郁江先生いかがですか、ズバリ占って核戦争は起こりますか、なんてバカなことを尋くマスコミ関係者もいるとか聞いていますが......」
「確かにそういう傾向はあります。人々の心が大変動、大異変に集中するのは好ましいことではありません。警告ではなくて、人騒がせを目的にし、破滅や終末ムードを煽り、商売にしようとする低級なマスコミも存在するわけですから。
破滅が必至というムードが人々の潜在意識に沈んでしまえば、現象化は免れなくなります。ですから私たちは、そうじゃないんだ、破滅は努力によって回避できるんだ、とはっきり人々の間に意識化を進めて行かなければならないわけです。
そのためにも、宇宙の構造というか、高次元世界とこの物質世界との関係を解明し、人々に示して行く必要があります。
人間にはこの物質世界こそ全てなんだ、という強い思いこみが人々を虚無的にしたり、物質への執着を作り出して行き、地球の波動をいやが上にも重く重く沈みこませてしまうんです。数十億の人類の想念が暗く重く沈んで行けば、地球はいっぺんに壊滅です。腐ったリンゴが地に落下するように、グシャッと潰れてしまいます。
人間の想念はたった一人でも、地球を動かせるほど強力なエネルギーを持っているんですからね。それが数十億も集合し、同じ方向へ動いたら、地球どころか太陽系が吹っ飛んでしまいますよ......
ですから、重荷を作り出している物質的執着を解きほぐすのが先なんです。遠廻りに見えるかもしれませんが、本当はそれが最短の近道です。
でもね、わたしはこう思うんです。たとえ地球がそっくり消え失せるような大異変が仮に生じたとしても、大宇宙なる神は、私たち人類にまた新しい星を下さいますよ。新生の地球を与えられ、新たな肉体を与えられて、わたしたちはまた生きることになる、とわたしは確信したんです。
これはわたしが勝手に造り出した幻想ではありません。わたしの本質である魂意識がそう教えてくれていますし、かつてイエスさまもそう告げられたということです。これは土屋先生からお聞きしたことですけどね......」
一同の視線は、遅参して末席についている土屋香に集まった。土屋はそれを追認するように細い顔を動かし、頭を下げた。
「そんなことが聖書に書かれているんですか......!?」
康夫が感に堪えぬ、という口ぶりでいった。
「それは凄いですな。直下型大地震ぐらいのショックですよ! しかし、そんな物凄い話があるのに、なぜ知られてないんですかね?」
「きっと今まで、聖書記者を含めて、だれにも理解できなかったからでしょうね。だって宇宙における暗黒波動の幻魔という存在が明らかになったのは、つい半年ぐらい前に、東丈先生が初めて接触されてからのことですもの。もしかしたら、イエス様にも具体的にはわからなかったんじゃないでしょうか?
でも、大宇宙意識なる神は、創造の神です。この大宇宙を創造された神なんです。幻魔がいかに星々を大量破壊しようと、追いつかないスピードで新しい宇宙が創造されつつあるんですよ。
この宇宙が滅びても神は新しい宇宙を即座に創造される、ということを、イエス様は指摘なさりたかったんじゃないかと思います。
たとえ、この地球が消滅しても、神様は宇宙のどこかに新しい地球を造られ、わたしたちはその地球に生れ変るということではないでしょうかね。
もしかしたら、そういうことは、今までにも起きているのかもしれないんですよ。わたしたちが忘れ去っているだけで、本当は新しい地球に移植され、やり直してきたことが以前にもあったのかもしれません。
だとすれば、ますます何も怖れる必要はありませんよ。この地球が消滅してしまったら、転生輪廻の舞台がなくなると心配する必要もなくなります......」
「でも、地球が消滅してしまったら、いくら新しい地球をもう一箇もらえるにしても、やっぱり幻魔の大勝利であって、こちらの高次元というか天界の敗北ということになるんじゃないですか......?」
「でも、最終的な敗北とかそういう決定的なものじゃありませんから。そのラウンドは幻魔にポイントを取られたということじゃないでしょうか? それに、これは無限のラウンドがあって、最終ラウンドというものはないんですよ。たとえどんなに失敗と敗北をくり返したとしても、やはり少しずつは進歩しているし、神も人類の努力と進歩を認めておられると思うんです。
くり返していいますが、物質は無常なもので、いつか滅びます。人間の肉体だけじゃなくて、この地球もまた最期を迎える時が必ずあるということです」
郁江は説得力をみなぎらせていたが、妙に不安定な心許ない心地になったのは、三千子だけではなかったかもしれない。
「その、人類が神により、新しい星を与えられるということが聖書に載っているそうだが......」
と、田崎が発言した。こうした質問は、田崎には珍しいことであった。
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「それは、具体的にいうと、どういうことなのか、説明してもらえないだろうか?」
「わたしはそれを土屋先生にお尋きしたんです」
郁江は、末席についている土屋香に目を向けながらいった。
「聖書には、〝ラプチュアー〟という言葉があります。日本語に翻訳すると〝携挙〟というとてもむずかしい言葉になり、クリスチャンでない人間にとってはなんのことやら、さっぱりわかりません。
土屋先生のお話では〝ラプチュアー〟とは、素早く取り出すという意味だそうです。ますます何のことかわかりませんけど、クリスチャンにとっては非常に大事な言葉でして、つまり〝生きたままの昇天〟ということを差すんです......」
一瞬、ざわめきに似た雰囲気が生じた。いっせいにだれもが私語を交わしているような、ざわついた波動が生じたのである。
三千子も強い関心をそそられずにはいられなかった。〝携挙〟という言葉が、クリスチャン以外には何の意味もない、隠語に等しいものであることを知っていたからだ。
「同じように〝トランスレーション〟という言葉も用いられますが、これも〝生きたままの昇天〟という意味です。イエス・キリストが死後甦って〝生きたまま昇天〟したということを思いださせますが、これは少し違います。〝ラプチュアー〟、素早く取り出すという業は、イエス・キリストによって行われるということですから......
つまり、〝ハルマゲドン〟という神のみぞ知る最後の時に、イエス・キリストは、自分を信じている全ての人々を、この地球から〝素早く取り出す〟ために来るというのです。つまり、信心深いクリスチャンだけを、生きたまま救出に来るという信仰のことです。
キリスト教を信じない人間たちは、最大最悪の悪疫と流血と飢えの中でみな滅びてしまいますが、善良なクリスチャンだけは、助かるんです。宇宙船など使わずに、神の偉大な力によって、想像もつかない美しい栄光の地に移されて助かるというわけです。
それが〝ラプチュアー〟、日本語に訳すと〝携挙〟というわかりにくい言葉になります。
キリスト教徒以外の人間たちにとっては、えこひいきであり、身びいきとしか感じられませんけど、クリスチャンは仲間に入ればいっしょに助かるんだよ、だから早くキリスト教を信じなさい、というわけです。
この肉体が死んで滅びた後、どこかわからない白い雲間か何かにある天国に上れるというのではなくて、この肉体を持ったまま、素晴らしく美しい新世界に移れるというわけですから、クリスチャンにとっては、これほど魅力的な話はないのではないでしょうか。
つまりクリスチャンは最後の切り札を持っているわけですから、この地上がどんなに最悪になってきても平気だし、楽観的でいられるわけです。
でも、わたしは他の人間たちがみんな苦しみながら滅びて行くのに、自分だけは大丈夫だと楽観しているのは厭ですね。お前だけは善い人間だから助けてあげよう、この宇宙船に乗りなさい、とどこかの偉い宇宙人が親切にいってくれたとしても、わたしはありがたくお断りするでしょう。死んで滅びるなら、みんないっしょですよ。他の人々がみんな苦しみもがいているのに、わたしだけクリスチャンに宗旨変えして助かりたいとも思いません。そんなのは身勝手すぎる、と思ってしまうんです。自分だけが楽をしようなんて、気が引けます。そんなの、良心が許しませんよ。死ぬならみんないっしょです。
そう土屋先生に申し上げたところ、携挙、ラプチュアーとは本来そういう意味ではないのではないか、ということでした。
それはそうですよね。わたしたちは大宇宙意識を信じていますけど、それはキリスト教でいう神よりももっと遥かに巨大な存在としての宇宙創造者、造物主としての大宇宙エネルギーです。
大宇宙意識はもちろん、特定の一部の人間、キリスト教徒だけをえこひいきしたり、差別などなさいません。もし、〝ラプチュアー〟ということがあるとしたら、それはイエス・キリストがやって来て、善良なキリスト教徒だけを選り抜いて、生きた肉体のまま素晴らしい新世界へ連れて行くということではありません。
全ての人類、それどころか全宇宙の生きとし生けるものに平等に機会を与える、それが〝ラプチュアー〟の真の意味だと思うのですね。
全ての物質は無常なもので、太陽や星々や地球ですらもいつかは滅びて行く。この肉体と同様に、大宇宙意識にとっては、ほんのたまゆらでしかない......七十年の一生を生きる人間と、七十億年の星の一生とは、大宇宙意識の前では大差はない......そう気付いた瞬間、〝ラプチュアー〟の真の意味が、ぱっと閃いたんです。
人間の魂は永遠です。とすれば、私たちは幾度も肉体を脱ぎ捨てて転生輪廻したように、星々の間を輪廻したのではないか。古い星の寿命が尽きて滅びれば、新しい星を与えられ、そこに転生したのではないか!
それが〝ラプチュアー〟の真の意味なんだ!
一瞬にして解答が与えられたのです。決してそれはキリスト教徒だけにとって都合のいい選別ではないんです。全人類は大宇宙意識の前に平等なんです。
〝ラプチュアー〟とは、地球人類全て、生きとし生けるものが全て、新しい星、新しい宇宙を与えられることだ、とわたしは悟ったんです」
「それは、凄い悟りじゃないですか?」
と、康夫がいった。べつに冷やかしているのではないだろうが、そんな誤解を生みそうな語調であった。醒めた波動が、郁江の意識圧の高さ、共振を意図する昂った波動にマッチしないからだろう、と三千子は感じた。
「それは本当に魂消ちゃいますよ。イエス・キリストもお釈迦様もびっくりという、物凄い悟りじゃないですか! そうであるなら、もう恐いものなしですよ。死のうが世界が滅びようが平ちゃらだ。地球はおろか太陽系が消滅したって平気だってことになりますからね。キリスト教徒の皆さんは、専売特許を侵害されて面白くないかもしれないですが、こりゃ全人類、地球全生物にとっての福音ですよね。もう幻魔なんか何も怖くないって気分になりますよ。いざ来い来たれ、幻魔なんぞ怖るべきってわけですな。
しかし、よく考えてみると、やっぱり幻魔の大勝利で、地球を取りしきっておられる高次元世界の大敗北ってことになるでしょうな。〝光のネットワーク〟も及ばず、一敗地にまみれる......東丈先生のおっしゃっていた〝神のシステム〟発動は空振りにおわって、また無限の時をかけて、一から出直しということになるんではないですか?」
「............」
郁江はしばらく考えこんでいた。それが返事に窮しているというのではないにしても、一同の間に居心地の悪い落着かぬ雰囲気を生みだすには充分であった。康夫が歯に衣着せず、思い切ったことをいってのけた、と人々は感じているのだった。最近の波動の強い郁江に対し、康夫だけが遠慮せずに思い通りのことを口にしているからであろう。本来であれば、ごく当り前の質疑応答のはずだ、と三千子は思った。
しかし、康夫は何かしら意図的に、郁江に対して挑発を行なっているような印象がないでもなかった。他の人々が、あまりにも萎縮して(畏敬のあまりに?)、おおせごもっともの雰囲気を形成していることに、康夫は敢然と批判を試みているのかもしれなかった。
郁江の、ごく自然に批判を封じてしまう意識圧の高さを考えれば、それは勇気としかいいようのないものであるかもしれないのである。
「たぶん、私たちは何も怖れることはないのだ、という東丈先生の〝光の本体〟からのメッセージなのではないでしょうか」
と、郁江はしばらくの沈黙の後、ようやくいった。
「今後、破滅や破局に関して大衆的な関心が高まってきます。ハルマゲドンは必至、だれもが逃れようはないという、虚無的な絶望感も生じてくるかもしれませんからね。おそらく沢山の霊能者、予言者が、人類滅亡の予言をなして行くことになるでしょう。
未来予知にもグレードの高いもの、低いものがあります。割合低い所で未来を透視すれば、破滅的な光景がたやすく見えるんです。ですから、グレードの低い占い師は、凶事はうまく当てても、吉事ははずしてしまいます。というより、ハッピーなことを当てるのは、やはり高次元の力を借りているからで、その反対に凶事を的中させるのが巧いのは、暗黒世界の人々が専門にしているということに関連があります。悪霊さんも未来予知はとても達者なんですが、悪いことは教えてくれても、いいことはやっぱり苦手ですからね......」
最近の郁江にない、もって廻ったいい方であった。何かをはばかり、遠慮しているのではないかとさえ感じられた。
もしかしたら、三千子を気にしているのかもしれなかった。三千子は己れの視るハルマゲドンの光景について郁江に告げている。
「じゃあ、ハルマゲドンを予言する者は、悪霊さんによって教えられているということですか?」
と、康夫。今日の康夫には妙に手きびしいところがあるようであった。
「吉事を予言する者よりは、少くともグレードが低いというわけですか?」
「もちろん、そんなことをわたしはいっていません。凶事の予言はよりたやすいということをいっているんです。たとえば、虫の知らせにしたって、善いことよりは悪いことの方が圧倒的に多いはずです。グレードが低いというのは簡単だという意味です。難易度の問題ですよ、いってみれば。そこを変に誤解しないようにして下さい。たとえ康夫サンがハルマゲドンを未来透視したからといって、何も悪霊の力を借りているなどというつもりはありません」
義務感の要請を受けたように、一同は軽く笑った。それほど場の空気は重苦しさを増加させていた。
「それを聞いて安心しました」
康夫はまたしても、光子に目を走らせながらいった。少女は圧力に負けまいと精いっぱい眸を瞠って、郁江を見詰めていた。
「ですから、神の慈愛は底知れずに大きい......そのように解してほしいのです。もし本当に必要であるならば、人類が幾つ地球を喪ったところで、幻魔がいかに勝ち誇ったところで、神様は少しも気になさらないと思います。
人類が真に必要としていることを、大宇宙意識はよくご存知です。高次元世界には、人間的な意味での面子、狭量な自我というものはないはずです。いたずらに面子に拘泥し、体面を傷つけられた、顔を潰されたと感情を害し、憤激するのは、きわめて地上的なものです。それは人間や幻魔にとっていえることで、高次元世界にはない低級な感情、執着だし、ましてや大宇宙意識がそのような、低次な拘泥り方をするとはとうてい考えられません......わたしは神様があまりにも寛容なので、時々悲しくなってしまうほどです。その寛大さ、大きな慈愛に人間は甘えすぎているんじゃないかと思ってしまうんです。大宇宙意識なる神は、ただただ黙って大きな懐に私たち人間を抱いて下さるのに、人間はいったい何をやっているんでしょう......
神は私たち人間に無限の機会を与えて下さっています。昔から幾度大失敗をくり返し、何もかも駄目にし、慈愛に満ちた贈物である地球をだいなしにしてしまい、消滅させる愚かな真似を止められないのに、神様はそれでも人類を見放したりせず、辛抱強く新しい機会を提供して下さっているんです。
人間にこれほどの寛容さや慈愛深さがあるでしょうか? ちょっとした他人の失敗も許せず、出来損いめ、屑めと罵って見捨ててしまうのではないでしょうか?
神は、幻魔すらも寛大に包容していらっしゃいます。永遠の時の中で、幻魔が自覚を得て立ち直る日を待っていらっしゃるんです。幻魔ですらも許されて今存在していることこそ、神の絶対の慈愛の証しです。
もちろん、私たちは神の寛大さ慈愛深さに甘え切ってしまってはならないとわたしは思います。でも、人間的な基準で、大宇宙意識を推し測るのは間違いです。神には体面などありません。絶対の愛があるだけです。
人類がどれだけ愚かしい過ちを重ねても、神は私たちを信じておられるのです。必ず立ち直る勇気と愛を私たちが己れの裡に持つことを信じていらっしゃるのです。たとえその進歩への歩みはのろく、堂々巡りを繰り返し、時には後戻りをしてしまったとしても、わずかずつでも進歩を遂げつつあることを、神なる大宇宙意識は知っておられるのです。
それが真に必要なことであり、学習にとって欠くべからざることであるならば、人間がたとえ何億年暗黒世界に堕ちていたとしても、永遠の時にとり何程のことがあるでしょう。人間には永劫の時に見えようとも、本当はそれはたまゆらでしかないということです。
無意味なこと、思っても詮ないことに心を煩わすのは止めましょう。私たちはいつでも新たな自覚のチャンスを与えられているし、それは地球の一つ二つには替えられないことだと神がお考えになっている証拠です。私たちはただ自覚に向って精いっぱい自分に成せることを成す、それでいいのではないでしょうか......?」
拍手が湧いた。郁江の信念は正しい、と三千子は思った。強引な論理と見えないこともない論法があったとしても、それは郁江が高次元世界を肌で知っているということなのかもしれなかった。
しかし、宇宙意識の絶対の愛、信じられぬ寛容さに対して戸惑い、不信を持ってしまうのが、地上に肉を持った身の暗愚さかもしれない。人間とは、容易なことで他を許容せず、そうした点では、神よりはむしろ幻魔に似ていたからだ......
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「先のことを、ただ徒らに心配するのは止めましょう。私たちに必要なのは、何が起こっても心を揺がせたりしない不動心です。不動心というと鉄石の心のようですけど、本当は愛の心です。神を信じ、人を信じる心なんです。全てはより善くなって行く、と信じ、そのための努力を惜しまない心です。虚無的になったり自嘲的になり陥ちこんでしまうのは、愛の心を目差して努力を重ねていないからです。
幻魔を恐れたり、破局を恐れたりするのは、心に愛の防壁が作られていないからです。結局、いつでも全力を挙げて生きていれば、何が起きたって平気なはずですよ。心が揺いでしまうのは、なすべきことを怠っていた心のとがめなんです。
私たちは全力を挙げて、全世界の人々に対して〝宇宙的真実〟を告げて行かねばなりません。物質的執着から脱却させ、地球に苦しい呻き声をあげさせる想念の重さを軽く、薄くさせて行かなければならないんですよ。
わかりますか、康夫サン。私たちが東丈先生を信じ、大宇宙意識を信じ、己れのなすべきことをなそうと決心しているなら、何も恐れることはないんじゃないでしょうか?」
「わかりました......」
康夫が殊勝げに頭を下げた。しかし、それはひとまず話にけりをつけるためのものに見えた。
郁江の言葉には権威の重みがあり、説得力は十七歳の少女には稀有のものであったが、三千子の耳には幾度もくり返して話された、一種の〝型〟が感じられた。喋り慣れてよどみなく、一つ一つの言葉がぴたりとつぼにはまるのである。郁江は青年たちに向って幾度となく同じことを語っているのであろう。
みごとな〝話芸〟として完成されて行くのであろうが、〝型〟が出来上るにつれて、衝迫力が失せて行く事実は否みがたいようであった。
最初に聞く者にとっては、ただ単に充分という以上に衝撃的であり、感動させられるに違いないが、何度もくり返して聞くうちに、お題目として聞き流される危険もないではないだろう。
「携挙について詳しくは、明後日からのセミナーで、土屋先生からお話しして頂くことにします。今日はあくまでも義クンの快気祝パーティーということですので、このあたりで切り上げておきます。
でも、あくまでも人間の本質は肉体ではなく、魂であって、その自覚をなおざりにするようなことがあっては、なんにもならないということです。沢山の平和運動や反戦運動が世界中で進められていますが、ほとんど全ては魂抜き肉体オンリーの物質観によっているもののようです。死ぬのは厭だ、核兵器反対! とそうした人々は一致して叫びます。
けれども、それだけでは核兵器はいけないが、通常兵器による戦争は構わないのかという反問を引き出すことにもなりかねません。いかに自由主義国家群の間で核反対運動が激化しようとも、共産圏では全く受付けないのですから、単なる反戦ムードに終ってしまうこともありえます。
いかに激しい戦争が行われようとも、核兵器、通常兵器による戦いを問わず、魂の見地からすれば、物質的な破壊、爆弾や砲弾の飛ばし合い以上のものではないのです。
人間の肉体がいかに破壊されても、その魂までを殺すことはできません。けれども、今は幻魔大戦が真の姿を顕わしつつあり、強大な暗黒波動の地球全土にわたる席巻のうちに、永遠不滅のはずの魂が滅びて行く凄惨な恐ろしい戦いがすでに激化の一途を辿っています。
平和への運動が、逆に物質的な激しい執着を産み出してしまうのかもしれません。死ぬのは厭だ、とする激しいプロテストは、逆に相手を死滅させ、こちらが生き残りたいという執念を産み出すかもしれないのです。
自分が死ぬのは厭だが、相手が死ぬのは構わないのです。暗黒波動の巧妙な使い手として現われる〝悪の救世主〟は、そうした激しい自己の肉体的執着を利用せずにはおかないでしょう。
私たちが真になすべきなのは、人類の物質的執着を軽減させ、魂としての真の自己の本質を自覚させることです。神による救済は、この肉体ではなく、本質である魂において行われるという事実を、全人類に知らせることです。
物質的な自由、物質的な平等、物質的な平和は仮象です。決して永続きはしません。真のそれらは、魂の裡に存在するものです。
全人類の本質は光であり、宇宙の中心の光である大宇宙意識を目差している、それゆえ、人類は全て平等であり、自由である。それは神の前に全ては平等で自由だということなのです。本質は高次元の偉大な光であるがゆえに、肉体は仮象でしかない。人種や民族、国民、宗教、すべて仮象なのです。一人一人が偉大な光である人間は、自覚さえ得れば、お互いの戦い、殺し合い、奪い合いがいかに愚かで、自己の本質に反するかを悟って行くでしょう。
その宇宙の真実を悟る以外に、人類が救われる道はありません。ただ肉体保存に偏り、闇雲に死にたくない! とする執着心は、更に激烈な戦いを招き寄せ、遂には魂をすら暗黒波動に吸引され、破滅の深淵へ沈んで行くことになるでしょう。
私たち人類は己れの本質に目覚める以外に救済される途はないのです。早く気付かなければならないんです!
わたしと義クンは、霊界、天上界、あるいは地獄界などと呼ばれてきた、目には見えない高次元世界、あるいは異次元世界について、現在学びつつあります。
人間が魂と肉体で多元的に構成されているように、宇宙もまた物質宇宙と高次元宇宙とで造られています。現在の物質科学の探究はあくまでも物質宇宙にしか及びません。
でも、本当は、物質科学の及ばない巨大な世界が、我々の肉眼では見えない複雑精緻な高次元世界、真の実在の世界が今、私たちの前には果しもなく広がっているのです。
今度のセミナーで、わたしと義クンの経験した異次元世界について詳しく報告することをお約束します。もちろん皆さんが興味津々で、もっとも知りたがっている幻魔世界、別名地獄界についても、最新情報をお伝えすることにいたします。
今日はお祝いの席なので、ほんの予告編というところで我慢して下さい......
今日、義クンの新しい旅立ちにふさわしく、世界ぐるみの新生、ラプチュアーというテーマのお話などいたしました。義クンの自覚の過程を見ていますと、人間の蔵した底知れない力、英知、巨大な光というものを感じずにはいられません。結局、人間の本質が流露する時、絶望や諦めなど、無意味なものだとしんそこからわかって、勇気がこみ上げてきます。
大宇宙意識なる神は、その神の巨大な力を、人間の一人一人に分ち与えられているんです。要は、それに気が付けばいいんです。もうだめだ、立ち直れない、と絶望感にうちひしがれる時、義クンの身に起こった奇蹟を知れば、消えかけていた希望の炎は再び勢いよく燃え上り、再び消すことなど不可能になってしまうでしょう......
人間は決してしんそこから打ちひしがれてしまうことなどありえないのです。人間はいかに周囲の状況によって孤独に見えようとも、本当は豊饒な愛によって取り巻かれ、支えられているということです。
今日は、ここに義クンのお母さまがお見えになっています。義クンの心に生じた奇蹟も、詮じ詰めれば、お母さまの義クンへの愛によって基いを造られていたのです。お母さまが決して義クンを見放したり見捨てたりなさらなかった、その愛の深さが、神に分ち与えられた不屈の愛が、義クンを救い、再生させたのだとわたしは思います......」
堰を切ったように拍手が湧き出した。それまで抑制されていたものが奔流と化して溢れ出たように、熱がこもった烈しい拍手であった。
〝秘書グループ〟の金沢が用意した花束を、郁江に手渡した。小柄な郁江が隠れてしまいそうなほど大きな花束であった。
「わたしからも感謝のしるしとして、花束を贈呈させて頂きます。お母さまに、大いなる感謝をこめて......ありがとうございました。お母さまの無私の愛が、義クンの光の本質を目覚めさせて下さったのです。どうか私たちの感謝の気持をお受け下さいませ......」
金本義男の母親は、緊張しきって何も言葉に出さず、ただくり返し頭を下げ続けた。五十年配の割には老けているが、顔立ちはよく、往年の美貌が偲ばれた。
これほど晴れがましい席は経験したことがないのであろう。上気したりのぼせあがるほどの余裕もないようであった。むしろ顔面は極度の緊張に白くなり、茫然とした面持で、頭をさげ続けながら、両手に余る花束を郁江から受け取った。
拍手は熱狂の域に高まり、義のチンピラ仲間だった若者たちは、いずれも席から立ち上ってしまった。涙で顔中を濡れ光らせている。どれほどの熾烈な感動に揺られているか、三千子にはよく理解できた。彼女自身目が濡れてしまう。
総立ちになって、拍手はいつまでも続いた。両の掌が腫れ上り真赤になって熱をはらむのも構わず、いつ果てるとも知れぬ拍手を続ける。
滅多に感情に流されない郁江自身も、眸を濡れ光らせていた。郁江の涙など見るのはだれしも初めてであったろう。それが更に一同の感動を高め続けているのだった。
これほど好もしく素晴らしい光景は味わったことがなかった。これまで郁江の示したいかなる演出にもまして好もしいといえた。
人々が総立ちになって拍手を続けているさなか、白水美晴が人々の背後を忍ぶように廻ってきて、三千子の注意を引こうとした。妖艶な香料にふわりと体を包まれるだけで、相手が美晴だということがわかった。美晴は、他の塾生たちとはおよそ異質な、粋筋の波動の持主なのだ。
塾には、木村市枝のかつての仲間である、不良少女たちも出入りしているが、市枝に倣らって、化粧気などなく、むしろ素っ気ない類いに属する。
「お姉様......弟様が......」
と、美晴はおずおずと耳打ちした。
「今、玄関に見えています。急用だそうです......」
胸に重苦しいものが落ちかかり、にわかに波立った。末弟の卓はかつて一度も会や塾に足を向けたことはない。〝四次元オンチ〟と自ら称する卓は、無神論者であり、神懸ったことは極度に苦手である。それゆえ、会や塾に顔見知りがいくらあっても、決して近寄ろうとはしないのである。
むしろ、臆病なほどに塾を敬遠している卓が、自ら足を運んだことは、容易ならぬ事態を想わせ、三千子を不安な心地にさせた。
総立ちの熱狂に駆られている一同は、目を郁江と義親子に釘付けにされており、三千子がそっと席をはずすのにほとんど気付かなかったようである。
廊下に出た三千子を追ってきたのは、田崎一人であった。さすがに田崎は目敏かった。
「どうかなさったのですか?」
「急用で弟の卓が来たようですので......」
大広間の拍手の音はいまだに続いている。
「あの、お上り下さいと幾度もお勧めしたのですけど、いいですとおっしゃるばかりで......申しわけありません」
と、美晴が恐縮していう。三千子を中座させたのが自分の手落ちのように感じてしまったのであろう。

「じゃ、玄関に? 行ってみましょう」
田崎は先に立ち、足早に歩き出した。三千子の不安を見抜いているようであった。
大きな玄関ホールには、図抜けた巨漢の弟、卓が肩をすぼめ、所在なげに突っ立っていた。圧倒的な巨軀が、妙にいじけて見えた。常に悠容として拘泥しない性格の卓だが、初めて見るほど心細げであった。
姉の三千子や田崎を見て、安堵の表情になる。
「挨拶は後で......」
と、田崎は卓の言葉を抑えるように素早くいった。
「急用だそうだから、まずお姉様と話しなさい」
「すみません......」
卓は、田崎の逞しい体を見ただけで心強くなったようであった。大男で年のわりには世慣れているようだが、まだ十六歳の少年なのだ。
「姉さん、警察から電話があった。兄さんのことに何か関係があるらしい。すぐにS警察署に出頭してくれといってきたんだけど」
「今すぐに?」
底冷えのする波動が全身に広がった。警察と聞いただけで、全身の体細胞が強い警戒態勢に入ってしまうようである。忌わしい記憶が湧き立ってくるのだ。
「うん、早く来てくれって......物凄く頭ごなしなんだよな。こっちの都合なんか聞きもしないし......今家にいないといったら、どこにいるってしつこく尋くんだ。塾にいるっていうと何か迷惑がかかりそうなもんで......」
直接、塾へ駆けつけてきたということらしい。
「出頭しなければ、こっちから行くっていうんだよ。どうする、姉さん?」
「行ってみるわ。S警察署なのね? 待ってて、今ハンドバッグ取ってきます」
「あたくしがお持ちします」
美晴がバタバタと大広間へ駆けて行った。
「俺もいっしょに同行します」
と、すかさず田崎がいった。こんな時、田崎は実に頼もしい人物であった。小揺ぎもしない度胸を感じさせるからだ。
「申しわけありません。でも、今パーティーの最中なのに」
「構いません。郁姫にまかしておけばいい。今、車を出しますから、外で待っていて下さい」
「姉さん、俺はどうしよう?」
卓はすっかり存在感を減少させ、自信なげにいった。一人でよほど不安だったのであろう。高圧的なお上意識の強い警察にかかると、柔道三段の天才少年も、心細くなってしまったらしい。
「家で待っていてもいいけど、それだとかえって落着かないでしょう? いっしょにいらっしゃい。田崎さんも来て下さるし......」
「わかった。俺も行くよ......しかし、田崎さんがいっしょに行ってくれるんで、安心したよ。姉さん一人じゃ心配だったから」
そんな卓は、年齢相応の少年に見えた。
玄関ホールから外へ出ると、黄昏は灰色の冷気となって降りかかってきた。もはや小春日和の気配も失せていた。思わずブルッと肩が慄える。黄昏の冷気とは別種の寒さが心を絞めつけてくる。
平静さを取り戻そうと努力するほかはなかった。徒らに惧れていたところで得るものはないと己れにいいきかせる。
事態がどんなに悪化したところで、それは覚悟の上ではないか。心の準備こそしっかりと整えておかねばならないのだ。全てが敵対してくることは、すでに丈や郁江によって預言されているし、何も驚くに足りない。
しかし、そうは思っても、身裡が冷えて、顔が硬ばってくることは免れようがなかった。不動心なぞ言葉にすれば簡単なようだが、現実にはあまりにも遠いことが実感できる。心とは敏感な振り子のように、ゆらめき出せば静まることを知らないのだ。
車庫で、喉太な車のエンジン音が響き、田崎の運転するスカイラインGTRが、車寄せに入ってきた。
三千子のハンドバッグを手に、和服の美晴が息せき切って小走りにやってきた。こんな際なのに、張り切って活きいきとしているのが印象的であった。まめまめしいことでは群を抜いているのが、この妖艶な銀座の女性であった。
「あの......ご無事で」
と、美晴は窓越しにハンドバッグを差し入れながらいった。突拍子もないせりふを口にしたと自覚したらしく、ぱっと顔を染める。
「きっと大丈夫です......だって、宇宙意識はいつだって見守っていて下さるんですから......〝神われとともに在り〟ですよ」
気負って美晴はいった。
「ありがとう、美晴さん。そういっていただくと元気が出てきます。でも、たぶんたいしたことはないと思いますから」
三千子は微笑した。美晴の励ましがきいたのかどうか、にわかに心がしゃっきりと立ち直ってきた。警察から呼び出しがあったからといって、うろたえたり怖れたりするのはおかしい。良心にとがめるものがなければ、どんな場に出ても平静にしていられるはずだ。
「後で、郁姫にだけこのことは耳打ちしておいてくれ」
田崎は運転席の窓ガラスを下げ、美晴に指示を与えた。
「他の者には伏せておいてくれ。つまらない動揺が起きないように。後で警察から電話を入れるから......」
「わかりました。康夫さんにもいわなくていいんですか?」
「その辺は、自分で判断して適当にやってくれ。お姉さんや俺のことを尋かれても、うまくやるんだ」
「はい......」
「頼む」
気忙しくいって、田崎は車をスタートさせた。テイルライトが血のような赤さに輝きながら、門を出て行く。それは不吉な赤さであり、美晴の体に冷たい波動を這わせた。
急速に頭上から滑り落ちてくる夜闇が、彼女を心細くさせた。それはみるみる濃密な敵意と悪意を周囲に充満させて行くように感じられたからである。
ただごとではない、と思った。全身が改めて総毛立ってきた。
しかし、東三千子はいかなる意味でも、警察如きに関り合う人ではなかった。三千子は神聖な女性であり、警察など彼女に指一本触れることは許されない。
もし滅多なことをすれば、警察署は雷に打たれて炎に包まれるだろうと思った。それほど東三千子は神聖にして侵すべからざる存在なのだ。
が、もしかして警察署全体が幻魔によって乗っ取られているとしたらどうだろう......その想像は、美晴を氷水に漬けられる心地にした。
それでも、宇宙意識は東三千子を守ることができるだろうか。
恐怖に駆られて、美晴は両手を胸の前に組み合せ、祈り始めていた。
本書中には「寸足らず、チビスケ」という身体的特徴を差別しているととらえかねない語句があります。これは、現代の人権擁護の見地から使うべきではない言葉です。しかしながら、著者自身に差別的意図はなく、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)


1
河合康夫は、遥か年下のほっそりした少女と連れだって、青山通りを歩いていた。
なぜか、この十歳の少女と肩を寄せ合って歩いていると、平安を覚えるのである。なぜだかわからない。他のだれといるよりも、気持が落着くという事実があるだけだ。
よほど過去における縁生が深いのかもしれないと思う。康夫は元来、孤独癖のある人間で、表面的にはともかく、しんから慣れ親しむということはほとんどない。外面的には社交家で、如才がないように見えるが、内面は用心深く慎重であり猜疑心が強いとさえいえるほどである。だれかれ構わず気易くつきあっているようだが、内実は打算的とさえいえるほどであって、滅多に他人に心を許さない。東丈や田崎宏などは、過去の縁生の濃密さがもたらす吸引力が働くので、他の会員や塾生たちとの間は、他人目にはどう映ろうとも、通りいっぺんのつきあいの域を決して超えることがない。
己れの猜疑心の強さに自己嫌悪を覚えることもないではないが、それが己れの性格の基本的なものであることを康夫は自覚していた。本能的に相手の意図する裏の裏まで読み取ろうと身構えてしまうのである。
表面的にはどんなにリラックスしているように見えても、彼は用心怠りなく、相手の裡に裏切りや攻撃のサインを見抜こうと緊張しているのだった。特に己を利用しようという底意を秘めてかかってくる人間に対して、康夫はこの上なく鋭敏であった。そうした人間と数多くつきあってきたゆえに、軽薄さや如才なさで相手を韜晦するという処世術を早くから身につけざるを得なかったのかもしれない。笑顔や親しげな気易さは、あくまでも表面的なものであり、保身のテクニックなのである。いつも裡には鋭く敏く、抜け目のない心が働き続けている。
そうした康夫の警戒心をなだめる人間は、東丈や三千子の姉弟、田崎や市枝などほんの数えるしかいなかった。五指に足りないほどだ。
それが、十歳の少女、田代光子に対してだけは、奇妙なほど心がくつろぐのだった。それは木村市枝に対する心の傾斜などとまったく性質の異るものである。
市枝には異性として惹かれているが、やはりくつろぎを与えられるよりは、常に緊張感をそそりたてられる。木村市枝は他人に緊張をもたらす娘である。常に張りつめた心が、接する相手に気持の弛緩を許さない。
市枝は鋭敏すぎ、繊細すぎるのだ。異性として吸引力は働いても、それは絶え間ない緊張関係であり、くつろぎからは遠ざかる一途を辿る。
それはスリリングであり、嫌悪すべきものではないが、いってみれば、市枝は疲れる相手なのである。
とはいえ田代光子が決して鈍感で大ざっぱな性格というのではない。逆に木村市枝以上に繊細で鋭敏な心の持主といえるかもしれない。無口であり、何を考えているのかわからぬという測りがたさでは、むしろ難物といえるのかもしれない。
塾では、光子を扱いにくい手の焼ける女の子とみなしている傾向がないではなかった。光子が精神的にきわめて屈折しており、容易にうちとけない性格であることは、だれの目にもはっきりしている。いかなる視点を持ってしても、彼女が素直で優しいという評価を引き出すことは不可能に近いであろう。
一筋縄では行かない手強い女の子という印象は、いかに好意的に接近してみても、決して修正される余地がなかった。
しかし、康夫はどうしてか、その難物の少女光子といっしょにいると、心和み、くつろいでくるのである。
決して少女に対して気を遣わないというのではない。普通以上に細かい心遣いを示し、あれこれとサーヴィス精神を発揮して、相手を楽しませようと努力を払っているのにもかかわらず、少しも気疲れしない。底なしの活力が湧き出てきて、新鮮な気分にさせてくれる。
当の相手の光子も、そうした康夫の努力が煩わしそうではない。他の塾生たちには気を許さない固さを保持し続けるのに、康夫には別人のような寛容さを発揮しているようであった。
要するに合性がいい、ということなのかもしれない、と康夫は思う。光子は八歳も年上の康夫に対して、妙にお姉さんぶった、年長者意識を抱いているようであった。少女から見ると、康夫は非常に危っかしい性格の持主であり、保護されるべき〝少年〟ということなのであろう。
夜の青山通りは、車の流れが繁かった。まだ宵の口といった時間で、人通りも少くない。ファッションの最先端を行く新しい盛り場としての地位を六本木、赤坂から奪取しかけている趣きがあった。東京オリンピックで拡張された青山通りに沿って、洒落た真新しいビルが続々と建ちつつある。
旺盛な遊び心に満たされた若い男女の姿が多い。原宿から青山通りにかけて、ヤング世代のメッカが形成されつつあった。しかし、その最先端のシーンにあっても、小学校四年の少女と連れ立っている康夫は異色といえたであろう。
夜気は冷えて、そぞろ歩きの季節ではなかった。まだ二月下旬なのだ。いつも車に乗り慣れている康夫は、薄手のカーコート一枚を着こんでいかにも寒そうだった。それに引きかえ、少女はスキー用の分厚いスウェーターに着ぶくれ、毛糸の手袋をはめて、ぬくぬくとしていた。身を切る夜風の冷たさにもめげず、顔は赤らんで元気そうであった。
「寒いかい?」
と、康夫は答がわかりきっている問いを発した。少女は少しも寒がっていない。活発な生体エネルギーに充満しているのだ。
「ううん。手袋貸してあげようか?」
と、少女がいった。さっさと手袋を脱いでしまう。行動はあくまでも迅速であり、果断なのである。
「いいよ。だって、光子ちゃんが冷たいだろう?」
「いいの。あたしは若いから平気。若さのエネルギーで満ちてるもの。さあ、はめて」
「しかし、これはちょっと......可愛すぎますね、あたしには」
「お兄さんは可愛いから、ちょうどいいじゃない」
少女は平然といい、華やかな色彩で編まれた毛糸の手袋を、康夫の手に押しつけた。
「手、凄く冷たくなってる......風邪引いてしまうから。暖めてあげようか」
少女の素早い手が、康夫の手をぐいと握った。躊躇いや戸惑いのない感触であった。康夫は自分が、少女の正当な所有下にあるという気にさせられた。最初に逢った時から、少女によって素早く所有権が確立されたのかもしれない。
まるで仔犬を拾うように、彼は少女に確かに所有されてしまったらしい。それは少女にとって異常な行為であり、生活態度の特殊な変更だったに違いないのだ。少女はありとあらゆるしがらみを超克することを決意して、人生に決然と挑戦していたからである。
「どうもすみません。お手数おかけして」
と、康夫は殊勝げにいった。そうした調子が少女を喜ばせるのを知っていたからだ。大人扱いにされるほど、少女をいい気分にさせることはなかった。康夫はサーヴィス精神を流露させて華やかな毛糸の手袋を両手にはめてみせなければならなかった。
「似合うわよ」
と、少女が満足していった。
「さいですか。ま、スキー場にいると思えば......」
「マフラーも貸してあげる」
「しかし、それは、いくらなんでも」
「いいの。あたし、体が熱くなって、火照っちゃって、どうしようもないから」
少女は背伸びして、康夫の首のまわりにマフラーを巻きつけた。庇護者気取りを楽しんでいるのだった。康夫は少女が自分のスウェーターも着ろといいだすのではないかと心配した。
少女は、康夫とともにいる限りこまごまと世話を焼こうとしたし、少女の気持を傷つけまいとする以上は、それを受け容れるほかはなかった。
時折、康夫は、少女が母親気取りなのではないかと感じた。それは必ずしも不快なものではなかった。不出来の薄情な母親を持った康夫には、少女の気取りは目新しく、魅力的ですらあった。
少女は思いがけぬ父親の帰還で、それまでの母親に対する庇護者の立場を失ってしまった。この十歳の少女は、自分の母に対してさえも庇護者として振舞ってきたのである。その立場を失った代償として、今度は康夫に対し、庇護者の役割を演じようとしているに違いなかった。
「お兄ちゃんは、市枝さんのこと好きでしょう?」
と、歩きながら少女は唐突にいった。少女にはそうした思いがけない攻撃性があり、康夫を面食らわせるのだった。そんな時、彼は少女に女を感じた。女とは何を考えているのかわからず、常に予測しがたい存在である。そうした意味では、木村市枝は少年ぽいとさえいえる。何を考えているのか読み取ることが不可能ではないからだ。明解な思考形式は男のものだが、市枝もまた不可解な女の生理にひきずられず、明解にものを考えることができるのだった。波長が女のものではないのだ。
「そう見えるかい?」
と、康夫ははぐらかした。しかし、少女はストレートであり、躊躇いを知らなかった。
「本当のこといって。あたし怒らないから」
「友達だもの。彼女が東丈先生に引き合わせてくれたんだ。いってみれば恩人だな。でも、それ以上の気持は持ってない」
「そうシラジラと噓をつかれると、怒りたくなるわ......」
「彼女は男みたくさっぱりした気性だろ? だから友達づきあいがしやすいのさ。いろいろ変に勘繰ったりしなくてすむんだな。彼女が、だめよっていったら、それは本当にだめなんだ。他の女の子だと口でそういっても本音はいいわよってこともあるんだけどね。市枝には駆引きがなくて、いつも本音の部分でつきあえる。あいつはこんなことをいったけど、本当にそうだろうか、と悩んだりしなくてすむ......たとえば、市枝に向ってデートしないかって誘うとする。そうすっと、ふざけんじゃないよって一言で終りだね。それ以上しつこく誘えば、ベシッとひっぱたかれて終りなの」
「つきあえよって誘ったことあるの?」
「ないよ。ひっぱたかれるのはわかりきっているからね。市枝は男嫌いでね......それに東丈先生にお逢いしてからは、ますますそんな感じじゃなくなった。市枝の心の中には、先生のことしかないんだ」
「男嫌いでも、東丈先生は別なの?」
「つまりね、市枝にとっては、先生は素晴らしい偉大な父なんだな。最高に偉大な魂の父なんだ。男嫌いとかそんなのはまったく関係ないんだ。市枝は朝起きた時から、夜遅く寝る時まで、ずっと先生のことばかり考えている。しんそこから、先生を崇拝し、尊敬しきっているんだ。他のことを考えてる暇はない。もうだれが好きだのなんだのっていう低次元のことは超越しちゃってるんだな。わかるかい?」
「わからない。女が男の人を好きになるってとっても自然なことでしょう? 市枝さんが東丈先生に夢中だっていうのは、そういうこととは違うの?」
「全然違う。市枝にとっては、先生は男性を超えた存在なんだ。偉大な魂の父、つまり神様みたいなもんだな」
「生き神様なの? でも、先生は男性として物凄く綺麗なんでしょう? ギリシャ神話のアポロみたいに美しいんだって......?」
「まあ、そんなイメージだね」
「そんなに物凄く綺麗な男の人に夢中になってるのに、好きになるというのとは違うの?」
「違うんだな、それが......まだ光子ちゃんにはわからないのかな? こっちとしてもいささか説明しにくうございますね」
「お願い、説明して。市枝さんがなぜそんなに夢中になって尊敬したり崇拝しているのに、恋愛とは違うってことがわからない。男性と女性の間には、友情なんか存在しないっていうでしょ。あたし、それを信じてるの。先生と生徒の間の師弟愛っていうの? そういうのも信じないな、あたし。見てると、とっても妖しいもの。口ではきれいなこといっても、腹の中は大違いで、噓ばっかりって感じ」
「本当かい......」
康夫は、少女が霊覚の持主であることを想い出した。少女には偽善が通用しない。簡単に見透かされてしまうのだ。
「じゃ、市枝は先生に対してやっぱり恋愛感情を持ってるの? 師弟愛なんかじゃなくて、ただの女と男の間の妖しい気分かい?」
「別にそうじゃないけど......市枝さんのことをどうこういってるわけじゃないわ。学校の先生のことをいってるのよ。心の中はとっても厭らしいものでいっぱいなんだから」
「学校のセン公なんか問題外だよ。奴等は並みの人間より以下だから」
学校教師嫌いの康夫は力をこめていった。
「並みより低級な奴等が教師になるんだ。幼稚で女々しくて低劣でどうにもなりゃしねえや。まともな人間なら、もうちっとましなことをやるってえの」
「お兄ちゃんって凄く先生嫌いなのね?」
「嫌いも何も、地上にあんな奴らは生かしとくべきじゃないね。世の中を毒し、子供を駄目にし、人類を破滅させているのは、あのセン公どもだね。俺は生れてこの方、一人でもまともな教師なんかにお目にかかったことないんだから。だからさ、俺は医者に向ってもセンセイというの厭だった。口が裂けてもいいたくないんだ。ところが先公って輩は、センセイって尊称をたてまつらないと怒り狂いやがるんだね。〝センセイと呼ばれるほどの馬鹿でなし〟っていうのによ。とにかくセンセイと呼ばれないと腹を立てるっていう馬鹿は、政治屋と先公がいい勝負よ。中学のころ、どうしても先生って呼ばないもんで、先公によくぶっ飛ばされたね。人非人、犬畜生みたいに罵られた。だけど、心底から軽蔑してる犬の糞みたいに低劣な人間に向って、スズキセンセイ......なんて呼べるか? 俺には呼べないよ。せいぜいスズキサンよう......ってことになっちまうわな。そうすっと殴る蹴るの騒ぎよ。いくらぶっ飛ばされたって、口が裂けてもセンセイなんていわねえよ」
康夫は興奮して、往時の不良少年の口調になってきた。昔の意識が甦ってきたのだ。
「先公に向って頭を下げるくらいなら、ブスッとドテッ腹に穴をあけてやろうといつも思ってたよ。糞みたいな奴等にゴマをするくらいなら、死んだ方がましだって思ってた」
「驚いた......お兄さんって本当は物凄く激しいのね。過激なのね。そうは見えないんだけど......」
少女は目をまるくしていった。
「愛想がよくて、人当りがよくてって、みんなそう信じてるんじゃない?」
「そんなのは見かけだけさ。うわべだけ見たって、人間の本当の性格なんかわかりゃしないってことは、光子ちゃんだって知ってるだろ」
「そりゃそうだけど......」
「とにかく、俺は尊敬できるまともな教師なんかに逢ったことはないからね。ほんの少数だけど、いることはいるっていう人間もいるけど、俺はやっぱし信じない。そんなことをいう奴だって先公の腹ん中まで見通して、まともだなんていってるわけじゃないんだからさ。光子ちゃんにはわかるだろ? いっぱしの人格者みたいな面してたって、腹ん中はドロドロした汚いものではき溜みたいになってるんだからさ。そういう偉そうな面した先公が陰で何やってるか、俺は調べ上げてガッチリ証拠を摑んでやったよ。袖の下をたんまりもらってたり、女生徒に悪戯したりな。奴等はみんな偽善者よ。偉そうに構えて人の道を説くなんてことは絶対に許せねえ。口でいうことと腹の中で考えてることは全然違う。こっそりやるのは小汚いことばっかしだ。そういう薄汚い外道どもが教育者だっていいやがる。冗談じゃねえや! 世界を滅し、人類を破滅させるのは核戦争なんかじゃねえ、こういう腹の腐った偽善者どもだ」
康夫は甦った怒りに燃え上っていた。東丈に逢って以来、康夫が放ったことのない粗々しい怒りの波動であった。
「許せない下種どもを口が裂けたって先生なんて呼べるかい! 心からの尊敬と崇拝をこめなきゃ、先生なんて呼べないよ!」
「怒ると康夫お兄さんって素敵」
と、少女がいきなりいった。からかっているのか、なだめようとしているのかわからない口調であった。
「おとなしすぎるのって厭。優しくて穏やかみたいだけど、本当に優しいんじゃないんだもの。去勢されたみたいだから」
「凄い言葉を知ってるな、去勢だなんて......確かに見かけは人格者風で、熱心、誠実この上ないって奴が、裏に廻ると大違い。白蟻に食い荒らされた建物と同じで見かけだけ立派だっていう手合が多いものな。でも、光子ちゃんもそうだけど、俺の目にも、人間の裏の裏までちゃんと見えちゃうわけよ。熱心で誠実そうで、いい人だっていくら褒められてても、本当は点数稼ぎでやってるとか見栄や体裁ばかり気にしてるんだって内幕がね。
そんな薄汚い偽善者どもに、先生面させることはねえやって思っちゃうわけよ。イカサマ野郎が先生面で権力を握り、生徒の未来を全部握って、生殺与奪の権力を振るうなんて絶対に許せねえんだ。いざとなったら刺し違えてやるって覚悟を決めてたもんだ。
そんな時、東丈先生にお逢いしたんだな。一目見ただけで体がぞくぞくしたよ。慄えが来ちゃって、この人には頭が上がらないって観念した。生れて初めて、しんそこ素直に、先生って呼べた。一生自分には先生なんていう素晴らしい偉大な存在は関係ないもんだと決めこんでたけど、本当の先生にとうとう逢っちまったんだ。じっさい先生から後光が差してたよ。あの時は感動したし、嬉しかったな......純粋で心が綺麗で、人間の器がとてつもなく大きいんだからな。一口にいって、人間として偉大な人だ......心から先生って尊敬をこめて呼びかけられる人なんだ。自分より歳下なのに、そんなことは全然気にならなかった。そんな自分が信じられなかったな......俺は疑い深い人間で、裏の裏まで見通しても、まだボロを隠してるんじゃないかって疑う人間だったからな」
「東丈先生って、素晴らしい人だったみたいね」
少女の口ぶりには羨望があった。
「それなのに、逢えないなんて、あたしって運が悪い。いつもそう。巡り合せっていうのか星廻りが悪いのね」
「そう決めこむことはないさ。先生はまた戻ってこられるし、先生がご不在でも、先生のお姉さんもいるし、郁姫様だっている。先生のお姉さんって素晴らしいだろう? 先生を育てたお姉さんだから」
「うん......でも、何だか恐くて近寄りがたいみたい。きっと口がきけなくなっちゃう。心の底まで見透すような瞳なんだもの。真黒で光がどんどん溢れ出してくるような瞳なのね。人間の瞳って感じじゃない。お姉さんの瞳でじっと見られてると、大変、どうしよう......体が慄えてきて、どうしていいかわからなくなっちゃう」
「お姉さんの瞳は、先生の瞳とそっくりなんだ。女と男の違いはあるけど......何もかも見透かされて、隠し事ができないっていう気分になっちまう」
康夫の顔も声も話題が変ると同時に和んできた。粗々しい怨恨の波動が消え、浄化されてくる。
「つまり、俺はお姉さんを凄く尊敬してるけど、それは市枝が先生に対して抱いている気持と同じだと思うな。男女なんてものを超えてしまうんだ。もちろん、男でも女でもなく、中性っていうぎすぎすした感じじゃなくてね。たとえば天使とか菩薩っていえば、男でも女でもない、性別を超えてるって感じだろ? 俺はお姉さんに対して、素晴らしいな、素敵だなって尊敬と崇拝に駆られちゃうけど、セックスとは無関係なんだ。それは、お姉さんは女性として美しい人だし、魅力がないとは絶対にいえないけど......」
「それは、わからないことはないけど、やっぱり市枝さんは違うわ。やっぱり女だなって気がする。女としての気持を、先生に対して持っていないとはいえないわよ。先生に恋してるのがあたしにはわかるもの。それが悪いっていうんじゃないけど......生命を懸けてるって感じ。市枝さんを見てると、こう体中の皮膚に、霜が降りてくるっていうような気持になるの。一念っていうのか、念力っていうのかわからないけど」
早熟な少女は、驚くほどのボキャブラリーを駆使していってのけた。光子が見かけ通りの小学四年の少女でないことに、幾度康夫は気付いたかわからない。まるでほっそりした植物的な未熟そのものの四肢の中に、康夫と対等以上の女性が閉じこめられているような心地がした。見た目は小さな女の子にすぎないというのが不思議なほどであった。
「市枝は物凄く純粋なんだ。俺みたいないい加減な人間とは違う。でも、つきあってみると、すっきりしてるから、こっちまで浄化されてくるところがいい。いろいろ変に勘繰ったり気を廻す必要がないからね。とってもいいヤツだ、人間としていいヤツだ、と本気でいえる。市枝の弟の明雄は本物の天使みたいだけど、やっぱ、姉弟だけあって似てるな。純粋無垢の黄金って感じだ。珍しいよ、あの姉弟は。そう思わないか?」
「そう思うけど......」
少女はいいよどんだ。顔には翳りがあった。最初に康夫が少女に出遭った時から、その翳りは一度として消えたことがなかった。
「市枝さんも明雄もいいけど、あたし、あの郁姫さんの囲りの人たちって好きじゃない。家来みたいで厭。塾の人たちとは全然感じが違うのね。なんていうのかな、忠実な家来というのか、まるで犬みたいなとこがあるでしょ? 主人を守って、人々を近寄せまいとするような感じの悪さが」
少女の眼力は鋭いとしかいいようがなかった。
2
「なるほど。忠犬ハチ公っていうところですか」
康夫はすっかり感心していった。
「いわれてみりゃ、確かにそんな感じだよなあ。忠実で絶対服従で、主人の郁姫のいうことは何でもいいなりだし、疑いもせず不信も持たない。主人のいうことしか耳に入らないし、他の人間なんか居ても居なくても、そんなことは関係ないって顔してるものな。
忠犬ってのは、主人から見りゃこの上なく可愛いが、他人から見りゃ憎たらしくて感じが悪いもんだよな。光子ちゃんのいう通りですよ。確かにあの連中は忠犬ハチ公だもん。見かけはともかくとして、あいつら人間の芯に変によそよそしくて冷たいところがあるもんな。ツーンとしやがってさ、あたしら、お宅たちとは違いますよ、選り抜きの親衛隊でござんすよ......そんな面してやがるもんな。
光子ちゃんに指摘されて、ハッと気がついたよ。何か変だと思ってたんだ。郁姫に用事があって、電話をかけてもなかなか取り次いでくれないし、どうしてるんだって尋いても、さっぱり要領を得ない返事ばかりしやがるし、何かあの人たち、宮内庁みたいね、菊のカーテンて感じねといってたんだけどさ......
そうかあ、やっぱ、連中は忠犬ハチ公だったわけかあ......」
康夫があまりにも感に堪えているので、少女は得意そうな表情を隠せなくなった。
「塾の人たちって、みんな感じがいいのに、なぜだろうって思ってたの。そしたら、あの人たちは、他人は眼中にないのね。仲間内だけで楽しくお喋りしたり何かせっせとやっていればいいのね。物凄く自然に、他人を見下すことができるのね。それが全然わざとらしくないんだもの。──まあ、あなた方はあなた方で、適当にやっていればいいんですよ......そういう感じ。私たちは私たちでやりますからって......皆さん下々の方は......そんな目付をするのね。
皆さん下々の方は、この線から中へ入らないで下さい。郁姫様は私らがお守りする大切な方ですから、あんまり近寄らないで下さい......」
「凄いな。本当にそういう波動をあの連中、出してるの? まあ、忠犬ハチ公なら、そんな波動にもなるだろうけど」
「それどころじゃないわよ。──下々の奴らは、すぐにつけ上るから厭なんだよって......わたし、そう感じたもの。口ではいわなくても、心でいってるもの。郁姫さんの囲りに垣根を作って、塾の人たちを近づけずに、さあっと郁姫さんを連れて行ってしまったでしょ。塾の人たちだって、郁姫さんに直接お話したり、質問したり相談したいことがあると思うのね。そんな時に、──下々の奴らはつけ上るからって......郁姫さんのおつきの人ってそんなに偉いのと尋きたくなったもの。
わたし、塾の人たちってとても優しいし、親切だから、郁姫さんたち会の人々はもっと素敵なのかと思ってたけど、そうじゃないのね。とっても偉そうに、人を差別してるのね。不思議だなあって思った。塾の人で、頭をまるめて、お坊さんみたいな若い人たちって、チンピラ・ヤクザだったわけよね。お父さんの手下だった義さんたち。あの人たちの方がよっぽど腰が低くて、言葉遣いも丁寧で、感じがいいし、親切なんだもの。後から駆けつけてきた人たちに席をゆずったりしてあげたのは、チンピラだった若い人たちだけだもの。何か変な気がしちゃった......」
「そうなんだ! 実際、その通りなんだよ!」
康夫は興奮してその場に立ち止まってしまった。
「今日の義さんの快気祝のパーティーをやるんだって大変だったんだから! 郁姫のスケジュールが過密だからっていってな、一度決まった日取りや時間が幾度でも変るんだ!
それもすぐに決まるならともかく、郁姫に取り次いで日取りや時間を決めてもらって、それだけでも手間がかかるのに、やっさもっさして五回も六回も電話をかけてやっと決まったことが、郁姫の都合が悪くなったという一言であっさり取消しになって、もう一度やり直しになるんだからな。
郁姫に今日、塾へ来てもらうまでに、何十回電話をかけたり、会へ無駄足を運んだかわからない。やることがいちいち横着でいい加減で、官僚的そのものなんだよな。
それも快気祝をやろうってそもそもいいだしたのは郁姫自身なんだ。それなのに塾へ来るのがそんなにご大層なことですかねって皮肉の一つもいいたくなるよ。お姉さんにだって土屋先生、笛川先生にだってせっかく時間を取ってもらったのに、郁姫が都合が悪いっていう一言でパーになって、もう一度やり直し。こっちはお姉さんたちに申しわけなくて冷汗かいてるのに、あのハチ公どもは屁でもない、しゃあしゃあとしてやがるんだからな。
もう時間は無茶苦茶に守らないわ、手前勝手でいい加減だわ、最初に四時に来るっていうのを都合が悪いからといって六時に変更させて、こっちが全部手配をすませると、また今度は四時に行けるからっていいだすだろ? こっちはもうお姉さんたちに何といっていいかわかんないよ。
でも、しょうがないからもう一度四時に変更すると、一言の断りもなく一時間も遅刻して五時にやってくる有様なんだから、まったくもう言葉もないよ。もう初めから終りまでいいように振り廻されっぱなし。文句をいってもけろっとしてやがるんだから。全然通じないのね。郁姫様はもう天皇陛下よりも偉いんだから、下々の者は文句をいわず、黙って郁姫の都合に合わせりゃいいんだと思ってるわけよ......なにしろ〝救世主〟なんだから。
いや、まさに〝下々の者......〟っていうのは言いえて妙ってやつだよ。どんぴしゃりだね。なぜあんなに我儘勝手な連中にいいように振り廻されなきゃいかんのか、どうしても納得行かなかったんだけど、〝下々の者〟と思ってりゃ、向うからすりゃ当然だよな。世界はあのお方たちを中心に廻っているってなもんだからさ」
康夫はいきりたって、湯気を立てんばかりであった。少女のほそい肩を派手な毛糸の手袋をはめた手で叩く。
「光子ちゃんは偉い! ハチ公どもの正体を一発で見抜いたんだからさ! 俺としちゃ、あれっ!? あれっ!? って首をひねって不思議がっていたわけよ。何か変だなあ......そう思っても、やっぱ同じ仲間、魂の同志、同じ先生に学んでいる弟子だっていう気持があるだろ、まさか〝下々の者〟として差別されてるとは思わなかったものなあ......」
「最初に見た時から、あ、この人たちはうわべだけの人たちだなって思ったもの」
「郁姫がよくいう〝既成概念〟ってやつだな。同じ仲間なんだから、平等だっていうのは錯覚なわけよ。こっちは頭からそう思いこんでるけど、あっちはそうじゃない。冷やかに見てるわけね。その線から中へ入っちゃだめだって......子供のころ、そういう意地悪されたことがあったな」
「こっちはいまだに意地悪されているわ」
「光子ちゃんは、郁姫に似てるところがあるな」
と、康夫は感動をこめていった。
「昔の郁姫は、いつも醒めた目で観察してて、たいていの他人とは逆のことをずばっというんだ。頭から変に思い込むってことがないから、真実を突いているわけだよ。他人が心に思っていてもいわずに、あるいはいえないでいることを平気でいっちまうんだ。それが皆にうとんじられてね、さんざ悪口をいわれた。何しろ誰彼かまわずズバズバいってのけるからね。耳の痛いことだらけなわけ。平気でニコニコ笑っているのは東丈先生だけだった。やっぱ、度量が広いんだね。
また郁姫が真正直なのか、正義感が強いのか、黙ってりゃ波風の立たないことを平気でいっちゃう。後で考えれば、郁姫のいったことは正しいとわかるんだけど、何しろ遠廻しにいうなんて七面倒臭いことはしないからさ......いつだってずばり直撃なんだ。
不合理なこと、うさん臭いことを放っておけないわけよ。おかしいんじゃないですかってまともにいっちゃう。そういわれてみると郁姫のいう通りなんだよね。ただこっちは現実と妥協してるから、うさん臭いこと、いかがわしいことが目に見えなくなっちまってるだけなんだ。ところが郁姫は眼力が確かで、気力があるからね。何くそという気迫で、妥協はしない。一時はだいぶ白い目で見られて、疎外されたらしいけどね。
光子ちゃんは、その頃の郁姫に似てる。今の郁姫じゃなくてね」
「わたし、似ていたくないわ」
と、少女はぽつりといった。
「でも、強くて勇気があって、不正不義に負けない気力を持っててさ......おまけに目茶滅茶に可愛い。郁姫って小学生の頃、そんな女の子だったんじゃないかな。ちょうど今の光子ちゃんみたいにね」
「他人に似ているっていわれるの、わたし嫌い」
少女ははねのけるようにいった。
「わたしはわたしだもの。だれにも似ていたくなんかない。いつもわたし自身でいたいもの」
「つまり、そういうところが郁姫に似てるというわけさ。大勢に逆らっても、自分が真実だと信じてることは曲げない。信念の人ってわけだよ」
「郁姫さんだって、自分がだれか別の人に、わたしに似てるといわれたら厭がると思う」
「光子ちゃんは、郁姫様が嫌いなの?」
と、康夫は尋ねた。尋ねてからはっとしたようである。あまりにも端的なものいいに、我ながら驚いたのであろう。
「わたしはみんな好きよ。お姉さんは特に好き。綺麗で凛としてるから。田崎のおじさんも大好き。信頼できて、大船に乗ったような感じだから。明雄も市枝さんも好き。健太もお母さんも好き。でも、その他の郁姫さんのおつきの人は嫌い。ああいう人たちがいつも塾へ来て威張り散らしてるなら、わたしはもう行かないと思う。時々来るだけなら我慢するけど......口もききたくないし、顔も見たくない。いくら霊的能力があって、郁姫さんのつき人でも、そんなに威張るなんておかしいじゃない?」
「わかった。光子ちゃんは怒ってるんだな」
と、康夫はようやく気がついたというふうにいった。
「お兄さんが叱られたから......」
「だって、あんなに上から押しかぶせるみたいにいうことないと思うの」
少女は堪りかねたといわんばかりだった。
「だって、よく事情がわからないし、田崎のおじさんが後で電話するといったから、お兄さんはもう少しはっきりするまで待ってたわけでしょ?」
「だけど、健太のお母さんから話を聞いて、それを黙って伏せておいたのは、お兄さんだから......叱られてもしょうがないさ」
康夫は軽い調子でいった。
「判断を間違えたのはお兄さんだから」
「でも、おめでたい席だし、不吉な話は黙っているのが当然じゃない? それに健太のお母さんをかばってあげて、お兄さんが叱られたんでしょ? 馬鹿みたいだわ」
「健太のお母さんは、まだ塾に入ったばかりだし、郁姫のことを恐がってるから、直接いいにくかったんだよ。それで俺にこっそり話した。でも、そんなことをいえば、叱られなくてもいいのにお母さんが叱られることになるだろ? とにかく話を伏せておいたのは、お兄さんの一存なんだからさ」
「でも、あんなに頭ごなしに、みんなのいる前でお兄さんを叱りつけることないと思うの。まるでお兄さんが馬鹿でポンツクで救いようがなくて、何の価値もない最低の屑みたいにやっつけるんだもの。わたし口惜しくて涙が出ちゃった......何もあんなに口をきわめていうことないわよ。まるで郁姫さんは万能の神様か女王様みたいじゃない......
おまけにあのおつきの連中が寄ってたかって、お兄さんのことを非難するじゃない。お兄さんだって、おめでたい席をだいなしにしちゃいけないと思って、伏せておいたんでしょ。それなのに僣越だとか思い上ってるとか......本当にびっくりしたわ。思い上ってるのはあっちじゃない? すぐに郁姫さんにご注進しないのが悪いっていうけど、こっちにだってちゃんとした理由があって黙ってたんだから。それをわからずに、よくもあんなに頭ごなしにポンポンいえるなと思った。絶対におかしいわよ、あんなの」
声は硬くなり、目には涙が溜まっていた。よほど鬱積していたのであろう。康夫は黙って聞いていた。
3
「でもね、光子ちゃん。やっぱりお兄さんの気がきかなかったんだと思うよ。大事なことなんだから、そっとメモを郁姫に渡せばよかったんだな。後で気が付いたんだけどね......郁姫さんは結局、一瞬一秒の努力が足りないから、そういう判断の間違いが出てくる、といいたかったんだと思う。塾で田崎のおじさんにいろんな仕事をまかせられているんだから、もっとしっかりしなきゃだめじゃないかっていうことで、びしびしいったんだと思う。
東丈先生がお留守なんだから、みんなもっとしっかりしなきゃいけないのに、康夫まで何をやっているのって郁姫さんは怒ったんだよ」
「だって、わたしやっぱりそんなのおかしいと思う。わたし、だれかを人前で叱るって好きじゃないの。だって、だれだって面子があるじゃない? いっぱい他人が見てる前で、馬鹿だ阿呆だ、ポンツクだって最低の屑みたいに悪しざまにいわれたら、心が傷ついちゃうでしょ? みんなにジロジロ嘲りの目で見られて、クスクス笑われたら、チクショウって燃えるような怒りの気持になって、相手を恨むと思う。恥を人前でかかされるって最低の最悪のことよ。なぜ、後でこっそりと本人だけ呼んで注意してあげないのかと思う。自分一人だけで他人がいないなら、いくらガミガミ叱られてもまだましだと思う。自分の落ち度を認めることだってできるでしょ。
だけど、あんな大勢の人前で頭ごなしに低能みたいにいうなんてひどすぎるわ。そんな、人の気持もわからない、考えられない人がまるで神様みたいな偉そうな口をきくっておかしいと思う。
郁姫さんって、そりゃ素晴らしい霊力があって天上界のこととかよく知ってて偉いのかもしれないけど、何もあんなに頭ごなしに、絶対反論を許さない、批判を許さないって口ぶりで押っかぶせるのはおかしいわ。絶対におかしいわよ。
それにあのおつきの連中、まったく頭に来ちゃった! 何よ、尻馬に乗って! 虎の威を借る狐って、あの連中のことじゃないの!
寄ってたかって人の間違いを攻撃するってわたし大嫌い! 大勢で一人をいじめるって本当に嫌いなの! この連中、絶対に許さないからって思ったら、体が震えてきちゃった......塾の人たちもおとなしすぎるわよ。仲間が攻撃されてたら、かばうべきだと思う。お兄さんはちゃんと健太のお母さんをかばって叱られたんでしょ。それなのに塾のみんなはお兄さんがこてんぱんに叱られてる間中、何もいわなかったじゃない。わたし、あんなに口惜しかったことないわ」
「きっと郁姫さんも心配だったんだろう。そんな大事なことをなぜもっと早く知らせないのかって、嚇っとなったんだよ」
「でも、それじゃ八つ当りじゃない!?」
少女は激しくいった。夜目にも顔が白くなり、目が怒っていた。
「おかしいわよ! 郁姫さんて偉いんでしょう? 自分を救世主だと思ってるんでしょう? それなのに八つ当りして罪のない人間に怒りちらすなんて、絶対変よ!」
「郁姫さんだって人間なんだよ。心配事や不安があって、苛立っていたんだ」
「そんな向うの弁護しちゃ駄目! せっかくわたしが怒ってあげてるのに、郁姫さんたちを弁護したら、わたしの立場はどうなるの!?」
少女が足踏みして不満を表明した。
「わたし、お兄さんのために怒ってあげているんじゃない!?」
「そうだ。まことにすみませんでした。その通りでした」
康夫はおとなしく頭を下げた。少女の気持を思い遣ればそうするほかはなかった。少女の燃えるような怒りは彼女自身のためではなく康夫のためであり、義俠心に発していたからである。
「光子ちゃんが私をかばってくれてるとは思わなかったもので......本当に思いがけなかったんだよ」
「塾の人たちだってみんな、わたしと同じ気持だったはずだわ。だれだって何さ、って思うはずよ。でも、みんなおとなしいのね。何でも仰せごもっともなのね。驚いたわ。お兄さんが総攻撃に遭って吊るし上げ食ってるのに、誰も何もいわないんだもの。郁姫様が一言いったら、それはもう絶対なの? 絶対に正しいことなの?
でも、郁姫さんだって人間でしょ? 人間だったら、何もかも正しくて間違ってないとは限らないはずだわ。だって神様じゃないんだもの。勘違いだって、誤解だってあるでしょ? 全部が全部絶対に正しくて間違わないなんてことあるかしら? わたしはないと思う。
だって、郁姫さん、とっても感情的でヒステリックだったもの。ウチのお母さんがヒステリ起こすのとちっとも変らないわよ。それこそ理不尽なんだもの。でも、ウチのお母さんは正直だし、むしゃくしゃしてわたしに当り散らしても、本当は心の底では悪いなって思ってることがわかるわ。ただ自分で自分の抑えが効かなくなっているだけなの。
だから後でたいていは、ごめんねって謝るわ。そりゃ口では謝らないこともあるけど、心の中では悪かったと思ってるのがわかる。
人間だから荒れることもあるし、女だからヒステリになることもあると思う。でも、郁姫さんが荒れてる時、それを制止しないで、煽るなんてとんでもないことだわ。郁姫さんがもしかして悪かったなと思っても、おつきの人たちの手前、素直になれなくなってしまうでしょ?
なぜ、みんなは一言でもいいから、そんなにきつくいわなくてもって止めなかったのかしら? 仲間がひどく責められてるのに......わたし、それを許せない」
「無理もないと思うよ。郁姫様は凄い大霊能者で高次元の立場に立ってる天使みたいなものだもの。その郁姫様があんなに怒るのだったら、俺がよっぽど悪いことをしたに違いないと思うもの。おかしいなと思っても反論なんかできやしないよね。俺も郁姫があんなに怒ったのを初めて見たからね。俺でさえ度胆を抜かれちゃったんだからさ......ひょっとしたら俺は大変な過ちをしでかしたのかもしれないと本気で思ったぐらいだもの」
「そうね、わたしもみんなのことはあんまりいえないわね。わたしだって一言もいわなかったんだから。体が慄えるくらい腹が立ったけど、やっぱりいえなかった。お兄さんの弁護をしなくちゃと思ったけど、どうしても口が切れなかった......
やっぱり勇気がなかったの。郁姫さんが怖くて、それは違うんじゃないですかっていえなかった......口惜しいけど圧倒されて言葉が出なかったの。だから、わたし自己嫌悪......塾の人たちもわたしと同じ気持だったのかもしれないわね。
わたし自分のことを卑怯だって感じてしまって......やっぱり勇気を出していってやるんだったとずっと後悔してたの。
わたし、こんなに腹を立てたこと初めて。いつもは、まあいいや関係ないやって思っちゃうのにね。相手は何か勘違いして怒ってるんだから、好きなようにすればいいって。
でも、今日はそれができなかった。頭に血がのぼって口がきけなくなってしまったから......わたし、いつも人からずっと離れて冷静でいられるんだけど、今日からそれができなくなっちゃったみたい。
ああ、厭だな、こんなに感情的になるのって。でもどうしようもない。お兄さんと遭わなければ、こんなにならなかったわね、きっと」
「俺のために厭な思いをさせてしまって、すまないと思うよ。光子ちゃんは自分の感情が荒れるのが一番嫌いなんだろう?」
「ううん。いいの、そんなこと気にしないで。わたし、お兄さんを守ってあげられなかった自分に対して、一番腹を立てているの。後悔もしてるわ......あのおつきの人たちよりも自分に腹が立つ。きちんと話をして、お兄さんを守ってあげたかったのに、何をいっていいのか頭の中がかっとなって、一言も喋れなくなってしまった......でも、わたし今度は絶対負けないわ。ちゃんとお兄さんを守ってみせる。口惜しくてどうしようもない気分だったけど、闘志が湧いてきたから大丈夫、安心して。今度こそ頑張るぞって思ったら、元気が出てきちゃった。
今、お兄さんに遭わなければっていったけど、それは噓。絶対に気にしないで。わたしこのところ凄く張り切ってるの。お父さんが帰ってきてから、ちょっと陥ちこんでいたんだけど、今は前より元気。だって、お兄さんを守ってあげなきゃならないもの。それで、このところファイト出してるのよね。学校でも人のことが気にならなくなったし。もう何を噂されても平気。
わたし、うんと勉強して郁姫さんには負けないようにする。郁姫さんのいうことで、おかしなこと、筋の通らないことをきちんと指摘できるようになるの。じゃないと、負けちゃうもの。
わたし今日思ったんだけど、よっぽど自分がしっかりしてないと、大勢でよってたかって責められたりすると人間って負けちゃうのね。お兄さんが割と平気で顔色も変えずに堪えたのは、健太のお母さんをかばって、守ってあげようと思ったからなのね。そうしてみると、塾の中では、お兄さんがやっぱり一番しっかりしてるのかしら......?」
「とんでもない!」
といって、康夫は大きなくしゃみをした。ずるずると鼻をすする。少女の素早い手が彼の腕を取りに来た。
「カゼ大丈夫? 生体エネルギー入れてあげようか?」
「あんましびっくりするようなことをいわれたもんでね......」
康夫は苦笑しながらいった。
「俺がしっかりしてるなんて、今日の叱られっぷりを見た後でよくいえるもんだよ」
「そうね。お兄さん頼りないものね。でなければ守ってあげたいなんて思わないわよ。そんな気持になったのは、お兄さんの時だけだもの」
「きっと前世で、よっぽど光子ちゃんに気をもませたことがあるんだろうね」
康夫はぐずぐずと鼻をすすりながらいった。
「なんだか熱でも出そうな気分だ」
「生体エネルギーで治してあげる。気にしないでもいいわよ。何かあったって、わたしがついてるから......」
「じゃ、安心して、心細くなってみるかな......俺は今までだれにも、自分がついてるからまかしといてっていわれたことがないんだよ。光子ちゃんは俺の保護者だな......
しかし、今夜の郁姫はよっぽど心細かったんだな。先生がいてくれたらって思ったに違いないんだ。郁姫には相談相手も保護者もいないんだから......恐ろしい黒雲のようなものが襲いかかってくるって、郁姫がいったろう? 血も凍るような恐怖を覚えたんだろうと思うよ。だけど郁姫を慰めて、あたしがついてるといってくれる頼もしい保護者は一人もいない。全部自分で引き受けなければならないんだ。もし弱気を出せば、みんなパニックにやられてガタガタに崩れてしまうもの。
恐い! と思っても郁姫にはしがみつく相手が一人もいない。それで、俺に当ることになったんだよ。恐怖に怯えるかわりに、怒りにまぎらわしたんだ! だから、理不尽だとは思っても、俺には反撥できなかった。
郁姫には弱音も吐けないし、人生相談を持ちかける相手もいない。みんなを励まして、相談に乗る側なんだからさ......なんとかして必死で自分を支えるしかないんだ。郁姫は口先では物凄くいったけど、本気で怒ってるわけじゃない。どうして康夫はもっとしっかりしてくれないの、男のくせになんてだらしがないの、と結局それをいいたかっただけなんだよ。
こんなにかよわい女の子の自分が命を張って頑張ってるのに、男の康夫がなぜもっとしっかりしてくれないのか、もっと努力をしてくれないのか......結局、それに尽きるんだ。八つ当りのようだけど、郁姫は必死に頼んでいるんだな、と思った。だから腹が立たなかったんだ。
警察と聞いたとたんに、幻魔の巨大な影がわっと押しかぶさるのを感じたんだね。先生も、警察は必ず敵に廻るといっておられたことだし......とうとう来た、と全身が氷になったような気分だったんだろう」
「だけど、どうしてそんなに警察が恐いの?」
と、少女がいかにも不審げに尋いた。
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「だって、悪いことしていなきゃ、平気でしょ? ヤクザだとかそういうのだったら、警察が恐いというのはわかるけど、塾や会は何もしていないじゃない? それどころか、とても素晴らしいことをしようとしている人たちの集まりでしょ? 世界を破滅から救おうとしている東丈先生を助けるために、みんなで集まったんでしょ? それがなぜ警察なんか怖がるのか、不思議......」
「そりゃそう。普通だったら、だれでも光子ちゃんみたいに考える。何も悪いことしていないのに、なぜ警察を恐がらなきゃならないのかってね......だけど、もし幻魔がバックにいたとしたら、警察は何をするかわからない。それが一番問題なんだ」
「でも、警察は悪いことした人を捕まえたり、取り締まったりするところでしょ? つまり善い人を助けて、かばってくれるのが警察でしょ? それなのに、なぜ幻魔が警察にとり憑いたりするの?」
「普通に考えれば、光子ちゃんのいう通りだけどね。幻魔ってのは、今光子ちゃんのいったように警察にとり憑くこともある。つまり幻魔にとり善い人というのは、幻魔の仲間だ。悪い奴というのは、幻魔にとっての悪い奴だ。そうだろ? もし警察が幻魔に乗っ取られ、支配されたら、捕まったり取り締まられたりするのは、普通でいう悪人じゃなくなる。幻魔にとっての邪魔者だ。意味が引っくり返ってしまうんだよ。我々のいう善い人が、幻魔警察に追いかけられ、捕まってひどい目に会わされることになる。わかるかい、お兄さんのいってる意味が......?」
「でも、警察がどうして善い人をいじめるようになるのかしら?」
康夫の言い草は少女の理解を絶しているようであった。
「わからないわ。警察が悪人の味方をして、善人をいじめるようになったら、もう警察じゃないでしょ? 暴力団と同じだわ」
「そうだ。つまり警察は強い力を持ってる。人を取り締まって自由を奪うことのできる力だ。軍隊のように武装しているから、人を殺したりすることもできる。もし、警察が正しくない心の持主によって動かされることになれば、人の自由を奪い、傷つけ、殺す恐ろしい力になる。暴力団と同じように不正な力、つまり暴力を振るって、人々をひどい目に会わすことができる。
光子ちゃんはヒットラーって知ってるかい?」
「知ってる。ドイツのヒットラー総統でしょ。ナチの指導者......」
「そうだ。よく知ってるな。ヒットラーは国家権力を一手に握って、警察を自分の用心棒みたいに使ったんだ。自分に反対する者は残らず警察に摑まえさせ、引っ張ってきて牢屋へ叩きこみ、拷問したり殺したりした。国民にとって、当時のドイツ警察は、ヒットラーの用心棒でゴロツキ同然だった。国家権力者、支配者の命令通りに動いて何でもやる忠犬のようなものだった。
警察は単なる道具として使われたんだ。支配者によって思い通りに使える武器だ。国民を脅して支配するのに最大の武器だったんだ......警察はもともとそういうものなんだ。警察自体の意志ってないんだよ。用心棒や忠実な猛犬は自分の意志で、人々を痛めつけたりするわけじゃない。全て主人のいいなりに行動するんだ。主人が善いといえば、警察には善いことになり、悪いといえば悪いことになる。ヒットラーが一言いえば、ドイツ警察は何でもいいなりに動いた。ヒットラーが白を黒だといえば、警察にとっても黒になったんだ」
「でも、警察の人だって、そんなのおかしいと思うでしょ? 白はあくまでも白だって......」
「そういう反抗的な人間は、警察から追い出されてしまう。自分のいた警察の仲間に捕まって自分が今度は牢屋行きになる。それが恐ろしければ、黙って従うほかはない。主人の命令をきかない用心棒はクビになり、猛犬はお払い箱になる。殺されてしまうかもしれない。社会を正常に保つための警察は、いつだって国民を絞め上げて自由を奪うための道具に早変りしてしまうんだよ」
「警察って、暴力団やドロボウや強盗を捕まえるだけじゃないのね......」
少女は感に堪えたようにいった。
「普通の何も悪いことをしてない人でも、捕まえることはできるわけね。無実の罪で捕まって死刑になってしまった人もいるんでしょ?」
「そうそう。つまりそれが警察の恐ろしさだよ。力というものは、正しい使われ方をしなければ、暴力そのものになるんだ。もし、国家支配者が暴力団組長だったら、警察は暴力団そのものになってしまう。わかるだろ、なぜ警察が善人にとっても恐ろしいか」
「わかる......でも、あまり信じられないけど。だって日本は法治国家だっていうでしょ?」
「だけど、法律を作って動かすのは、国家権力者だよ、光子ちゃん。日本でだって戦争中は、戦争に反対する者は警察に捕まって牢屋へぶちこまれてたんだ。国家権力者に反対する人間が、忠犬である警察にとっても悪人であり、犯罪者なんだ。主人にゴマをするために、忠犬は罪もない人間を平気で痛めつけたり殺してしまったりする。実際にそれは日本でも起こったことなんだよ。みんなもう忘れているか、あるいは知らないだけでね。法治国家であっても、警察はいつ暴力団の手先に早変りするかわからない。人々を脅したりいためつける暴力団と同じことをやるようになるんだ。
東丈先生は前から預言しておられた。警察は幻魔の暗黒波動に導かれて、その手先になり、恐ろしい弾圧を加えてくるだろう、といわれた。マスコミや警察は我々の敵となって、激しい攻撃を加えてくる......郁姫さんや田崎のおじさんが警察に対して神経質なのは、そういう預言があるからなんだよ」
「ふうん。知らなかった......」
少女は、康夫を捉えた手に力をこめながら呟いた。急速な心細さと不安が少女の心の裡にきざしてきていた。
「じゃ、わたしたち、今にみんな警察につかまるのかしら? 幻魔がとり憑いた警察は、みんなを拷問していじめたり、牢屋へ入れたりする?」
「もし、そんなことになったとしても、怖れてはいけない、と東丈先生はいっておられたらしいよ。宇宙意識は我々とともにある。大いなる光の救いを信じていれば、怖がることは何もないって......〝光のネットワーク〟は、幻魔の攻撃を無力化してしまうって......」
「お兄さんは本当にそれを信じてる?」
少女は真剣に、康夫を見上げていった。その眼差には迫力があり、気圧されるほどだった。
「ああ。信じていたいね。でも、それは生易しいことじゃないだろうと思うよ。だってお兄さん、自信がないもの。警察に捕まって拷問を受けたりしたら、頑張り通す自信なんかない。お兄さん、痛がりでくすぐったがりだしさ。もう〝光のネットワーク〟に必死でお願いするしかないね。死ぬ時はどうか、あっさりと一思いに死なせて下さいって......お兄さんみたいな弱っちい人間は、光子ちゃん軽蔑するかい?」
「ううん。でも、お兄さんは本当に覚悟を決めているのね。痛い目に会わせないで、あっさり死なせてくれなんて、本気でお願いするなんて......人によっては、どんなに苦しい目に会わされても、なにがなんでも生きていたいと思うものでしょ? 死ぬよりはましだって......お兄さんは死ぬことが怖くない?」
「怖くないとはいわないが、きっと高飛びこみみたいなもんじゃないかと思うな。飛びこみ台の板の端に立つと、下のプールがひどく小さく見える。やっぱり度胸を据えて、思い切って飛ばなきゃならないだろう。
死の瞬間って、ちょうどそんな感じだと思う。思い切ってやるしかないんだよ、きっと。恐怖心を吹き飛ばすように、やあって掛け声をかけて飛ぶのはどうかな? さあ行くぞ! とか、バンザイ! とか、お母ちゃん! とか、いろいろ掛け声や気合をかけてさ!
一度飛んじまえば、後はもう楽なもんだと思う。人間はきっと普段から死ぬ時の準備をして死に方の研究をしておくべきだよ。お兄さんなら、うんと気取って気障に行きたいね。遺言を残すとか辞世の句を残すとか、今から用意しとかなきゃならないな」
「お兄さん、本当に平気? 本気でそう思ってる?」
「ああ。人間が転生輪廻するっていうことは、この世に生れたのが初めてでもなければ、死ぬのも初めてじゃないってことだろ? 人間は数え切れない回数、生れては死ぬことを繰り返しているんだ。つまり、だれでも死ぬのはベテランってことじゃないか。ベテランもベテラン、大ベテランだよ。ただそのことをけろりと忘れちまってるだけなんだ。
だから、いざとなれば、人間だれでも上手に死ねるはずだよ。どうせなら恰好よく、ピシッと極めて死にたいじゃない? 死ぬのは厭だ、と泣きながら死ぬよりか、辞世の句を朗々と詠み上げて死ぬ方が、やっぱあたしの美意識にかなっていると思うのよね。
もちろんいざとなればわかりませんよ。腰を抜かして座りしょうべんを垂れ流し、命乞いしながら、泣き喚いてくたばるということになるかもしれない。そうはならないように、常日頃から心がけておかなくちゃね。すわという時に淀みなくスラスラと辞世を詠めるようにさ。死に方もいろいろあるだろうし......たとえば銃殺とか絞首刑とか、拷問でなぶり殺しとかさ。暴徒に襲われて、刺し殺されるかもしれない。どんな時でも、ピシッと極めたいもんね」
「お兄さんがいうと、何となく冗談みたい」
少女は、緊張感を緩めていった。
「ちっとも本気に聞こえない......大胆不敵というより冗談半分みたい」
「その通り、あたしのモットーは、〝人生冗談半分〟って、色紙を頼まれると書いちゃうくらいだもんね」
康夫はしだいに余裕と精気を取り戻してきた。少女との他愛もない対話によって、活力を回復したらしい。
「でも、他の人たちもやっぱり、自分が死ぬ時のことを考えてるのかしら? 郁姫さんはもう一度死んで復活したっていうから別にしても......そうは思えないんだけど。先に大変なことが待ってるなんて知らないみたい。とても明るくて楽しそう。幸福が永久に続くって信じてるみたいに見える」
「みんなはあまりよく知らないんだ。警察やマスコミが敵にまわるっていう東丈先生の預言だって、一部の者しか知らない。どんなことが起きても驚かない覚悟を固めてる者なんか、ほんの一握りだろうね。会よりは塾の人間の方が、覚悟はできてるかもしれない。田崎師匠がいつもいいきかせているから......我々が相手にしているのは幻魔なんだ。何が起きたって不思議じゃない。それを知った上で明るく楽しそうにしていられるなら、本物だろうけどね。先生もそれをみんなに求めておられたと思うんだ。人間が真に己れの使命に目覚めたら、恐れることは何もないって......」
「それじゃ、お兄さんは、先生のお姉さんが警察へ呼び出されたこと、心配じゃないの? 郁姫さんはやっぱりそれが心配であんなにヒステリックになっちゃったんでしょ?」
「心配は心配だけど......でも、別に逮捕されたってわけじゃないもんね。警察が本気でやる時は、刑事がやってくるよ。逮捕状を持ってない時は、任意出頭を求める。逮捕の前の段階だね。事情聴取したりして、クロの心証を固めて行くんだ。
いきなり刑事が来て警察署へ同行を求めるというんじゃないんだから、お兄さんはあんまり心配しなかった」
「ふうん。お兄さんは警察のことをよく知ってるのね」
少女は感心したようである。
「別に警察のご厄介に幾度もなってるというわけじゃないけどね」
康夫はあわてていった。
「郁姫さんはそれを知らないから、恐くなってしまったの? でも、それじゃずいぶん気が小さいじゃない? 天使だったら、それくらいでビクビクするなんておかしいわよ。お兄さんだって平然と落着いて構えているのに......天使ってもっと強いはずじゃないのかしら?」
「きっと何か他にも心配事があったのかもしれないよ」
「お兄さんは郁姫さんをかばうのね。あんなに侮辱されたのに腹が立たないの? お兄さんには自尊心がないの?」
少女が挑発を試みた。康夫が郁江に対して感情を害していないことが、意外でもあり、不満でもあるようだった。
「そりゃ、気分がいいとはいえませんよ、おおせの通り。でも、郁姫さんはやっぱり未来に何かしら、普通でないものを見ているんだという気がする。それでつい八つ当りするほど気がかりなものを見てしまったんじゃないかな?
郁姫さんも生身の人間なんだよ、光子ちゃん。人間には正視に堪えないものがある。郁姫さんはそれを視てしまったのかもしれないんだ。光子ちゃんにも、その気持はわかるんじゃないのかな?」
「でも、わたしは人に八つ当りなんかしないわ」
少女はあくまでもつっぱね通すつもりのようであった。
「だれもが全部、郁姫さんの忠犬ハチ公じゃないわ。わたしはそんなの絶対に厭。ハチ公なら主人に八つ当りされても、尻尾を振ってるかもしれないけど、わたしは人間だもの。だれかの忠犬なんかじゃない。お兄さんだってそうでしょう!?」
いい逃れやごまかしは許さないという気迫で少女は迫った。少女の怒りが正当なものであることは、康夫はとうに認めていた。郁江の振舞いは少女を憤慨させるに充分であった。郁江はまさしく理不尽であり、心ある者を啞然とさせるほど、理性を逸脱した言動に及んだことは間違いなかった。
それを認めない者があるとすれば、それがまさしく忠犬たるゆえんであった。
「郁姫さんの気持は、光子ちゃんにはわからないかもしれない。わからなくても、当然だと思う。光子ちゃんはただじっと見ていて、批判を下せばいい。あれはおかしい、これも変だと気がつくままに指摘すればいい。
でも郁姫さんとは光子ちゃんの立場が違うから、それが簡単にできるんだよ。批判するのは簡単なんだ。でも、郁姫さんは、先生に後を頼む、といわれているんだ......」
「ふうん」
といって、少女は黙りこんでしまった。不愉快そうな居心地の悪い沈黙のまま、歩き続ける。
5
少女をすっかり不機嫌にさせてしまったことを康夫は感じ取った。郁江を弁護することは、少女にとり許しがたいことなのであろう。
郁江と少女は合性が悪いのかもしれない、と彼は沈黙の中で考えた。彼が口を開かない限り、沈黙はいつまでも続きそうであった。少女はすっかり気を悪くしてしまっている。
関心は大いに持っているのだが、反撥もまた大きいのだ。もしかすると、少女は郁江をライバル視しているのではないかと思った。それなら意識すればするほど、反撥が増大することも頷ける。
少女は無意識のうちに、郁江と張り合おうとしているのかもしれない。郁江は、突如として少女の内的世界に侵入してきた、無視できない権威なのだ。それは彼女の世界に、否応なしに介入し、激しい変化をまき起こしている。母子二人の生活の中に、父親という大きな存在を連れ戻してしまったのも、郁江のもたらした変化である。
少女の人生は、郁江により強烈な干渉を受け、根底から変動しつつあるといっても過言ではないだろう。
反骨精神の持主である少女が、素直に権威のもたらす変化を許容するはずはなかったのかもしれない。
彼女が康夫の勧めに応じて、塾に出入りするようになったのも、変化を受容するためではなく、その逆に、突然の新しい〝敵〟の正体を見きわめるためだったことが、康夫にものみこめてきた。
「郁姫さんには重い責任があるんだ......」
といって、康夫は少女の反応を見定めようとした。
「先生に、後を頼むよといわれた責任感だ。全部が郁姫さんの肩にかかってきたんだよ。大切なことは何もかも自分で決めなきゃならない。今までは先生がいて、面倒な問題は全部先生がやってくれていた。郁姫さんはとても批判精神が強い人だから、先生に対してもいいたいことをいっていた。あれは違うんじゃないの、それはちょっと変よ、とづけづけということができたんだ。決めるのは先生だから、思ったことは何でも遠慮せずにいえた......でも、今度は郁姫さんの番なんだ。郁姫さんが指導者なんだ。会と塾の運命は、郁姫さんの決定にかかっている。もし、判断を間違えれば、大変なことになる。
つまり、郁姫さんの立場は、船長と同じなんだよ。船のことは全部、郁姫さんの責任だ。大嵐がやってきた時、船を守り、正しく導いて行くのは、郁姫さんひとりの肩にかかっている......乗客、乗員の全員に対して船長は責任がある。今までのように、先生に対して遠慮なく批判したり、ケチをつける立場とは全く違う。
大変なことだ、とお兄さんは思うな。ありとあらゆることに気を配らなきゃならない。そればかりでなく、船全体の運命を決めるのは船長なんだ。もし間違った判断を下したら、船は遭難してしまう。しかも、これは会や塾だけのことじゃすまない。先生から引き継いだ責任は、地球人類全員、地球全ての運命にかかわっているんだ。
もし、郁姫さんが間違ったことをすれば、何もかもが終りになるかもしれない。地球が破滅してしまうかもしれない。全ての人類の運命が、自分の判断や決定にかかっているとしたら、本当に大変なことだ。夜もろくに眠れない。いつも自分のしていることが正しいかどうか、体が瘦せほそるまで気にかかるんだろう......
ねえ、光子ちゃん。真の指導者の責任って、そういうものだと思うよ。お兄さんにはとうてい背負ってなんか行けないよ。傍から、人のやることを批判したり文句をいうのは簡単だ。何の責任もないんだもん。
でも、責任者は、自分一人で責任をひっかぶらなきゃならない。どれほど苦しい思いをするかわからない。みんなに相談したり、意見を聞くことはできるさ。でも、決めるのは結局は自分一人なんだ。
ねえ、光子ちゃん。これが家庭だったら、船長はまず父親といったところだろ。もし商売がうまく行かなくなったり、勤めてる会社が左前になったりしたら、父親はとても悩むよ。だって家族に対する責任があるもの。だから、みんなにとって一番いい道、最良だという道を、父親は選んで行かなきゃならない。責任感の強い父親ほど悩むだろう。夜も眠れないほど苦しい辛い思いをするだろうね。
でも、家族に心配かけまいとして、元気な振りをするだろう。大丈夫だ。心配ない、お父さんにまかしておけ、というだろう。強がりじゃなくて、思いやりのために、無理してそういうんだ。
でも、もし家族がそんなお父さんの気持もわからずに自分勝手な真似をしたら、お父さんはどんな気持になるだろうか。家族が一致協力して苦境を切り抜けなければならない時に、父親をなお苦しませるようなことをしたら、どうだろう? なぜお前はお父さんの気持がわからないんだ、と怒り嘆くだろうね......」
康夫はなぜこんなことを自分が喋っているのだろう、と不審な気がした。最初は郁江を弁護し、光子の気を悪くさせるなど思いもしなかったのだ。郁江のやり方に対して、秘めた反撥、反感こそあれ、郁江をかばうつもりは毛頭なかった。しかし、喋っているうちに冷静になり、ひどく論理的になって行く自分を発見することになった。いつの間にか、自分を自分で説得することになってしまったのだ。しかも、すっかり納得し、いささかの疑義をさしはさむ余地もなくなっていた。我ながら説得力があると感心するほどであった。
自分がそれまで喋ったことは、まぎれもなく正しいのだとわかっていた。康夫がこれまで語ったどんな言葉よりも高度な論理性、そして倫理性に貫かれていることは確かであった。
「わたしには、お父さんのことはよくわからない」
と、光子がいった。水を浴びたように康夫は気持が冷めた。少女に対して父親の話題は禁物であった。心がたちまち硬化してしまうのだ。少女はよそよそしく、恥しそうになってしまう。心を許している康夫に対してだけは、少女がどれだけ馴染みのない〝闖入者〟である父親に抵抗を持っているか明らかにするのだった。
「もちろん、お母さんだっていいんだ。家族に対して責任を持ち、働いて一家を支えているお母さんだって沢山いるわけだからね」
康夫は大急ぎでいった。しかし、自分自身を説得することに成功はしても、肝心の少女の説得は失敗したようであった。
「でも、責任があるということの意味はわかるわよ」
少女は硬い調子でいった。
「とても緊張してるのね、きっと。だから苛々するんでしょ。ウチのお母さんがよくヒステリ起こしたから。ウチのお母さんって、ちょっと見にはしっかりしているように見えるでしょ? でも本当は甘えん坊で、依頼心がとっても強いの。だから何かあるとすぐうろたえちゃう。どうしようどうしようって、もう何も考えられなくなっちゃうのね。だから、わたしがこうしたら? っていうと、とっても安心するの。お父さんが帰ってくるという時だって、わたしに気兼ねしていいだせなくて、毎晩お布団の中で泣いてるのよ。ウチのお母さんて可愛いでしょう?」
「うん」
「結局、見かねて、お母さんの本当にしたいようにしたら、といってあげたわ。だって自分一人じゃ決められないんだもの。あれこれ考えているうちに、何か何だかわかんなくなっちゃうのね。わたしが意見をいうのを待ち望んでいるのがわかる。わたしの立場ってフクザツだわ......結局、いつでも自分を殺してでも相手を立てて上げることになるんだもん。
わたしが意見をいうたびに損しちゃうのよ。時には、自分で決めたらって、冷やかにいえたらどんなにいいかって思うわよ」
「わかった。これまでは光子ちゃんが船長だったわけだ」
と、康夫は力をこめていった。
「お母さんは何か困ったことがあると、いつも光子ちゃんの判断を仰いだ。お母さんを護ってあげなくちゃ、という気持が、光子ちゃんを船長にしたんだ。責任が重いから、船長はしっかりしなきゃいけない......光子ちゃんはいつも船長として振舞うことに慣れてきたわけだよ。だけど、今度はお父さんが帰ってきて、船長になってしまった......光子ちゃんは戸惑っているんだ。そうだろ? もう自分で判断したり決定したりしなくてもすむようになってしまったから......」
「そうね。そうかもしれないわね」
しかし、それは口先だけの肯定であった。心にもない合いづちを打っていることは明らかだった。心が硬化してしまったまま、元へ戻らないのだ。少女が内心、自棄的になり、途方に暮れているのが、康夫にはわがことのようにわかった。
「でもね、光子ちゃん。人間はだれでも、自分自身にとっての船長なんだよ。それは大人でも子供でも同じだ。他人に甘えたり頼ったりする心は幼稚なんだ。船長の持つべき心じゃない。お兄さんがいっとう最初に光子ちゃんに会った時、光子ちゃんはみごとに船長だったよ......」
「今は船長じゃない?」
少女は少し屹っとなって康夫に眸を向けた。しかし、すぐに視線をそらす。
「今は船長らしくない。どうともなれっていう気持が出てきているから......みんな、好きなようにやればいいでしょ。関係ないわって光子ちゃんの心が素気なくいってる」
「それ、テレパシーなの?」
少女はつんとして、嘲るようにいった。
「お兄さんはテレパシーの能力なんかないっていったじゃない?」
「テレパシーなんか必要ないさ。愛情と思い遣りがあれば、人の気持はわかるようになるんだ。テレパシーがあるからって、真の理解ができるわけじゃない......」
「お兄さん、本当にわたしの気持がわかるっていう自信がある?」
「自信なんかない。努力あるのみだね。光子ちゃんの気持をわかろうと努力しているだけだ」
「郁姫さんのことはもういいわよ。わたしもうこだわらないから」
少女は初めて譲歩した。
「だから、安心してもいいわ。ただお兄さんが可哀そうって思っただけだもん。肝心のお兄さんが侮辱されたって思ってないし平気でいるなら、気をもむだけ損しちゃうものね。
どうせわたしには関係のない第三者だし、郁姫さんが舞台で何を派手にやってても、あまり見たいとも思わない。興味がないの」
少女は突き放した。これ以上、議論する気はないようであった。
「前は興味がありそうだったけどね」
「実際に遭ってみたら気が変ったのよ。ああ、自分には関係ない人だな、とわかった、凄い力のある人だとは思うけど、興味が持てないの。きっと歩いて行く方向が違うのね。そう思った......」
「光子ちゃんと郁姫さんは共通点があるんだよ」
「他人が見れば、そう思うかもしれないわ。でも、磁石の同じ磁極はお互いに反撥するでしょ。共通点があるからといって、意見が合うとは限らないもの。郁姫さんが一生懸命にやってるのはわかるし、偉いとも思う。でもわたし、郁姫さんが〝真の救世主〟だとは思わないな。そう思ってる人は沢山いるみたいだけど......」
「しかし、光子ちゃんは郁姫さんに遭ってから変ってきたよ。なぜか雰囲気が似てきた。喋り方もそっくりだ。すごくきっぱりした口のきき方なんか......」
「噓!」
光子は思わず声高にいい、そんな自分にびっくりしたようであった。困惑と腹立ちが顔に出た。
「そんなことない、絶対に! なぜわたしが郁姫さんに似なきゃならないの!? そんなの心外よ......」
「やっぱ、気にしてるのさ」
「そうかな......そんなことないんだけど......でも、人が見るとそうなのかな」
急速に自信がなくなったらしい。
「反撥するっていうのは気にしているからさ。本当は物凄く意識しているんだよ。ただ、それを自分では認めたくないだけなんだ」
「認めたくない......?」
「そうさ。郁姫さんは否定できないほど大きな存在なんだよ。凄い美人で大きな力を持っていて、沢山の人間に崇拝されている。どうしたって無視はできない。口では関係ないといっても、気にせずにはいられない。だから反撥してしまうんだ。郁姫さんの長所や美点には目を塞いでしまう。
だけど、自分と郁姫さんを比べるのは馬鹿げたことだよ、光子ちゃん。劣等感を持つのはもっと馬鹿げたことだと思うな」
「わたし、劣等感なんか持ってないわ!」
少女は烈しくいった。
「比べたりもしないわ。全然別々だもの! 郁姫さんはお金持のお嬢さんで、何の苦労もなく育ったんでしょ。それに美人で才能があってチヤホヤされて......わたしは美人でもないし、貧乏して育ったもの。でも、郁姫さんには、下々の者の気持なんかわからないと思う。凄く恵まれてて、何の苦労もしてないお嬢さんだもの。でも、わたしは違うし、困ったり悩んだりしてる下々の者の気持はよくわかるわ! 郁姫さんが相手にしないような貧乏人の気持もわたしにはわかるもの!」
「でも、そういうところを見ると、ずいぶん郁姫さんと自分を比べたんじゃないの?」
「え......」
といって、少女は黙ってしまった。康夫の指摘はしたたか、思ってもみない弱みを突いたようであった。
6
「つい比べてしまうもんだよ。無視できない相手であればあるだけ......意識すればするほど、自分と比較してしまうんだよ」
「でも、わたし競争心なんか持っていなかったのに......」
少女の言葉は、康夫の指摘の正しさを認めていた。ショックを隠せない口ぶりだった。
「光子ちゃんは正直な人間だと思う。自分の気持をごまかしたり、偽ったりするのは嫌いな性格だと思うよ。でも、人間は自分では気がつかないうちに、もっともらしい理由を考えだして、自分をごまかして納得させてしまうことがあるんだよ。お兄さんにだって、そんな無意識のごまかしは幾らもある。田崎のおじさんにずばりといわれて、ずいぶん参ったことがあるよ。
でも、もっともらしい口実をつけて自分を瞞し続けていたら、どうなる? 噓とデタラメとコジツケだらけになってしまうんじゃないか。真実から目をそらして、他人の非や落度ばかり攻撃する偽善者になってしまう......
お兄さんは光子ちゃんが大好きだ。正直で率直で、自分を偽らないところがとっても好きなんだ。だから、光子ちゃんが自分をごまかし続けて偽善者になってほしくない。でも、もう光子ちゃんは、それに気付いているんじゃないかな......?」
「わたし、やっぱり比べたと思う?」
少女は愕然とした面持で尋ねた。
「それはもう自分でわかってるだろ?」
「そうか......でも、間違ってはいないと思うんだけど......」
「郁姫さんは郁姫さん、自分は自分、ときっぱりいったのは光子ちゃんなんだよ」
「わたし、郁姫さんに嫉妬して、張り合おうとしてたと思う?」
「もうわかってるんじゃないの?」
「............」
少女は切なげに溜息をついた。すっかりしょげこんでしまっていた。
「そんなつもりじゃなかったんだけど......わたしって駄目だなあ......お金持のお嬢さんで、何の苦労もなくぬくぬく育って、凄い美人で、みんなに崇拝されてて......やっぱり口惜しいと思ってしまったのね。わたしなんか全然取り柄がなくて、みんなに変人扱いされて、馬鹿にされているし......そんなつもりはなくても、いつの間にか嫉妬してしまっているのかなあ。お兄さん、わたしのこと馬鹿だと思うでしょうね。そう思われても当然だもの。わたしって凄い馬鹿だわ! 自分で自分を瞞してることに気がつかないなんて......」
少女は居堪れない恥しさに摑まれ、身の置き所がなくなってしまったようである。
「お兄さん、わたしを馬鹿だといって! お願いよ。光子は大馬鹿だって! こんなおめでたい間抜けのノウタリンは二人といないといって!」
少女は真赤になった顔を康夫からそらし、引き攣るような声音でいった。
「どうしようもないわ! もう今夜は眠れない! 今夜どころか、明日もあさっても、永久に! こんなに自分が愚かだってわからなかったもの! 身のほど知らずの思い上った大馬鹿よね!」
とうとう足を停め、くるりと背中を向けてしまう。身も世もない羞恥の虜だった。康夫は少女がこれだけ剝きだしの感情を見せるとは考えもつかぬことだけに、どう扱っていいかわからなくなっていた。彼はなすすべもなく、少女が感情の奔騰に身をまかすのを見守った。
「本当に馬鹿よね。もうお兄さんには合わす顔がない......このまま帰って。お願い」
光子は背中を向けたままいった。頭のてっぺんまで赤くなっていることは間違いなかった。
「もうこんな大馬鹿な女の子は見捨ててちょうだい。つくづく愛想が尽きたから」
少女は本気でいっているようだった。
「さよなら。もうお兄さんとも塾のだれとも遭わない。忘れてしまって......」
すっかり煮えこぼれてしまっていた。感情の奔騰をどうしていいかわからないのだ。
「ここでさよならいって帰って、お願いだから。二度と思いださないで」
終夜営業のスーパーマーケットから出てきた男女の客が好奇心をみなぎらせて、じろじろと二人を観察しながら行き過ぎた。両手に買物の大きな紙袋を抱えたまま、首をねじ曲げて歩いて行くのが危っかしかった。よほど二人には興味をそそりたてるものがあったのであろう。
「他人が見てるよ」
と、康夫はいった。
「人間はだれでも恥をかくもんだ。光子ちゃんは壮烈に恥をかくタイプだな。でも、恥を恥とも思わないヤツラもいるさ。うちの親父みたいに......物凄い勢いでいっぺんに恥をかく方が、後でジワジワというのよりいいんじゃないか?」
「ほんと。物凄い勢いで恥をかいたわ」
地団駄を踏みたそうな口調でいったが、やや気持がほぐれてきたらしい。
「お兄さんに軽蔑されても仕方がないと思う。物凄く己惚れて思い上ってるんだもの。信じられない......わたし、間違えてこの世に生れてきたと思ってたんだけど、それも噓で、自分を瞞してただけなのかしら? ショックだなあ......自分で自分を瞞すなんて、そんなことがあるとは思わなかったもの。お兄さんにいわれるまで、全然気がつかなかった......今でも信じたくない。でも、やっぱり本当みたい。郁姫さんのことを考えると、ムラムラしてきて、燃えるような反抗心が出てくるんだもの。でも、自分が嫉妬していて、負けまいと張り合っているなんて、全然気がつかなかった......凄い人だと口ではいっても、本当は何さって思ってたみたい。郁姫さんが自分にはないものばかり、素晴らしいところばかり持ってるので、本心では猛烈に嫉妬してたのね。だれも自分を相手にしてくれないのに、みんな郁姫さんを生神様か大天使扱いにして崇拝しきってるから、嫉ましくて口惜しかった......それがよくわかったわ。ほんのガキのくせに、郁姫さんと張り合って負けまいとしてたことが......霊能力だって今に負けないようにしてみせるとか、郁姫さんは美人だけど、そのうちにわたしだって、とか......笑ってよ、お兄さん。わたし、本当は今にみんなを見返してやると思ってたらしいわ。今はみにくいアヒルの子だけど、今にきっと......わたし心の底でそう思ってたみたい。それなのに自分で自分を瞞して、自分はみんなと無関係なんだっていい聞かせてきたのよね。わたしは本当は高貴なお姫様で、何かの運命のいたずらで、下々の者に育てられたんだ......わたし、前にずっとそんなことばかり空想してた。今はみんなに馬鹿にされていても、いつか本当のことがわかって、みんなびっくり仰天するんだって......だから、郁姫さんのことを聞いた時、焦ってしまって体中が燃えるような気持になってしまったの。郁姫さんに自分のとても大事にしていたものを盗まれてしまったような気がして......違う。本当のお姫様は自分なんだって大声で叫びたかったのかもしれない......その時は心が灼けるようになって、何といっていいかわからなかったんだけど......」
光子の告白は康夫の心を強く揺さぶった。少女には己れの自己欺瞞を己が手で全て引きはがしてしまおうとする激しさと毅よさがあった。康夫はその勁烈さを賞讃せずにはいられなかった。自己欺瞞を自ら認めることは、容易なことではないのだ。それは仮面がいつしか血肉化したように己れの顔面の肉にへばりついてしまい、引きはがすには流血の苦痛を必要とする。
光子にはまぎれもない本物の勇気がある、というほかはなかった。少女の激しさは目を離せないほどスリリングであり、同時に魅惑的であった。
「でも、わたし、やっぱり郁姫さんは好きじゃない! どうしたって好きになれないと思う! だって、人間には根本的に好き嫌いがあるでしょ!? 合性が悪いとか肌が合わないとかあるもの。下らないことで反撥したり、嫉妬するのはもう止めるわ。でも、無理に好きになる必要ってないでしょう? とてもいい人で、偉大な人なんだって、自分に無理やり思いこませるのは、やっぱり自分を自分で瞞すことになるはずだもの!」
「何もいわないよ、お兄さんは」
康夫は空とぼけた声でいった。
「でも、自分を自分で瞞すというのは、心のお荷物だってことは確かだよ。荷物を降ろしてしまえばすっとする。それだけのことだと思うよ。でも、お荷物はどれだけあるか、本当のところはわからないだろ? もうないと思っても本当はまだぞろぞろと出てくるかもしれない。今夜のところは、目につきやすいことだけ気がついたのかもしれないね」
「厭だなあ......まだ気付かないで自分を瞞してることが沢山あるのかしら」
少女の声音はしんそこ途方に暮れていた。
「これ以上あったら、気が変になっちゃう」
初めて康夫は笑った。
「光子ちゃんは大丈夫さ。まだそんなに長い間、人間稼業やってるわけじゃないから。これが年季の入った奴になると、もう数え切れないし、憶えてもいないだろうからね。光子ちゃんなんか、あっという間だもんね」
「わたし、反省って嫌い」
少女は烈しい剣幕でいった。破れかぶれで食ってかかるような勢いだった。
「反省とか禅定とか大嫌い。みんなが素直にやってるのを見ると気分が悪くなる。飼い馴らされて、去勢されてるみたいなんだもの。だれも疑問を持たないのかしら? 郁姫さんのいうことは何でも絶対なんだから......反省していい結果になるかっていうと、反対に気が滅入って陥ちこんじゃったりする人だってけっこういるんでしょ? 他人にああしなさいこうしなさいといわれて、何でも素直にいいなりになるって、わたし信じられない。ちょっとおかしいんじゃないかって思う。
わたし、だからそれはやりたくない、とか自分が納得してからでないとやる気になれないといってはっきり断わるのよ。とにかくやってごらん、理屈抜きで、といわれても困るの。今は何の効果もなくても、やっているうちに素晴らしさがわかる、なんていわれると、かえってやりたくなくなる。
わたしって自分で納得できないかぎり、絶対に駄目なの。とにかく禅定してごらんと塾の人はいうけど、その気になれないんだもの。もし、滝に打たれてごらん、理屈抜きでやっているとそのうちによさがわかる、なんていわれたら、塾の人たちはみんな真冬に滝行をやるのかしら? わたしはまっぴら......
でも、そうすると、塾の人たちは、ものわかりの悪い、頑固な困った子だと思うのね。わたしの仇名、〝難物〟というんですってね? まだ小さいのに偽我が凄いんだっていわれてるみたい。そういわれると、わたし余計に自分の〝偽我〟さんを大切にしたくなっちゃう。厭なものは厭だってはっきりいえなければ、人間じゃなくて犬みたいになっちゃうもの。郁姫さんの忠犬になんか、死んでもなりたくないわ」
「塾の人たちは、まだ光子ちゃんのことがよくわかっていないんだよ。光子ちゃんが塾に来るようになって、一週間足らずだものね。でも、それは光子ちゃんも同じだろ? そんなに簡単に相手のことが何もかもわかるなんてことはないんだから」
「でも、郁姫さんはそれができるんですってね? 相手の人の〝守護霊〟に尋けば、すぐにわかるんだって......だれの〝守護霊〟でも少しも隠し事をしないで、みんな郁姫さんに告げ口しちゃうんだって。お兄さん、その話信じる?」
「わからないな。郁姫さんの口からじかに聞いたわけじゃないから」
康夫は肩をすぼめていった。改めて夜気の冷たさが薄着の身にじんわりとこたえ始めたようであった。
「わたしはありうると思う。だって、郁姫さんは、わたしにほとんど口をきかないし、無視してるもの、黙ってじろりと見るだけでね......たぶん、わたしが競争心を持ってることを見透していたのね。わたしの〝守護霊〟がみんな喋ってしまったとしたら、何さこのチビ、と思ってるかもね。会や塾には郁姫さんに反対したり、反撥してる人は一人もいないのかしら?」
「いるさ。いるけど、あんまり出てこなくなってしまっただけさ。郁姫さんのやり方はおかしいんじゃないかといいたくても、周り中みんな忠犬ハチ公ばかりだから」
康夫はブルッと身慄いし、はなをすすりあげた。もう外気にさらされての立ち話はご免なのだが、少女は突っ立ったまま動く気配もない。切りそろえられた前髪の下の眸は真剣そのものに光っていた。
7
「でもさ、みんなを忠犬ハチ公にしてしまったのはだれなの? やっぱり郁姫さんなんでしょ? 忠犬ハチ公になれない人は出てこられなくなったのだとすれば、ずいぶんひどい話じゃない。郁姫さんにはとっても責任があると思う。だって自分のいうことだけを聞く人間だけを作って、それ以外の人たちは囲りに近寄せないなんて、それじゃ独裁者じゃない? 物凄いワンマンよね、女だけど......わたし、そういうの厭だな。人間をみんな犬みたいに変えてしまうのって、とてもいけないことじゃないのかな?」
「光子ちゃんは忠犬ハチ公にならなければいいさ」
「でも、そうすると、とても居心地が悪くなるんでしょう? お兄さんも今日はひどい目に遭ったものね......忠犬たちに寄ってたかって嚙みつかれて......でも、わたし負けない。お兄さん、今ちらっとわたしがもう塾に来ないんじゃないかと思ったでしょ?」
光子は康夫の気持を正確に読んでいた。
「ちょっと心配した......」
「ほらね。でも、わたし絶対負けない。だって塾には好きな人たちがいるもの。田崎のおじさんも好きだし、木村市枝さんも明雄も好き。健太もお母さんも好きよ。忠犬たちがどんな変な目で見たって平気。わたし頑張っちゃうもの。わたし、自分の〝守護霊〟に、あまり余計なことをいうなっていっとこう。でも、自分を自分で瞞してなければ、いくら郁姫さんに心を見抜かれても平気だわ。恥しいことなんか全然ない......自分には無関係な人だということは本当だもの。たまたま電車やバスで隣りに乗り合わせた他人と同じだわ。そう思って割り切ることにするの」
「............」
康夫は何といえばよいのかわからなかった。少女の間違いを説得する言葉がなかった。借り物の言葉、それも郁姫の言葉で説得しようとすれば、少女に軽蔑されてしまいそうな気がした。彼自身の言葉があまりにも乏しいのに気付いて、愕然とする思いだった。受売りの言葉しか喋れない〝忠犬〟たちと同じではないか、と気付く。彼の頭の中には、東丈の言葉や郁江や東三千子の言葉がぎっしりと詰まってはいるが、自前のものはほとんど何もないのである。少女の光子が生きいきとした自分の言葉で語っているのに比べると、あまりにもみすぼらしいと思わざるを得なかった。何もかも他人の受売りだ......光子はそうなるまいとして懸命に反抗しているのだ。
自前の考えを何一つ持たないことほど、人間として貧相なことはないと康夫は思った。いつの間にか、自分の頭で考えようとする努力を失ってしまっているようであった。自分もまた〝忠犬ハチ公〟たちと大差はないということではないか......
「先生のお姉さんと話をしてみたら......?」
彼は辛うじていった。それぐらいしか思いつかなかったのだ。
「光子ちゃんの悩みに答えてくれるかもしれない。お姉さんは郁姫さんとは違う......忠犬ハチ公しか相手にしないなんてことはないはずだ」
「お姉さんは怖い......」
少女は前と同じことをいった。
「怖い......?」
「心を見透かされてしまうから」
「だけど、郁姫さんだってそうじゃないか」
「お姉さんに心を見られると恥しい。でも、郁姫さんなら平気。わかられたって構わない」
「お姉さんだとどうして恥しいの?」
「自己嫌悪を感じてしまうから。さっきみたいな、猛烈な恥のかき方で......」
少女は首を傾げながらいった。自分の奇妙な混乱ぶりに疑問を覚えたのであろう。
「自分に無関係だと思えないから?」
「うん......無関係なら、どんなに恥しいことを知られても平気なんだけど......お姉さんだとまずいの、とっても」
なぜ、と更に問いつめようとした康夫は、歩道をやってくる山本に気付いた。ざっくりしたカーディガンを着た山本は、笑顔を見せながら近づいてきた。夜目にも白い息を吐いているが、その精力感はきわめて旺盛なものであった。

少女ははっとしたように振り返り、みるみる硬い表情になった。父親と出食わすとは思いもかけなかった、ただそれだけではなさそうであった。感情が乱れている、無防備な状態を山本に見られるというのは、少女にとりきわめて重大なことだったようである。
少女は石のように硬い無表情な貌になって山本を迎えた。その変貌ぶりは、康夫にとってショッキングであった。まったく別人の貌なのである。康夫には決して見せない硬直した仮面じみた貌なのだ。少女のいう〝無関係な人〟に見せる特殊な表情であるのかもしれなかった。
「お出迎え、ご苦労さまです」
と、如才なさを発揮して、康夫は先にいった。
「遅くまで光子ちゃんをお引き留めしてすみませんでした。渋谷から歩いてきたので、遅くなっちゃいました。ご心配かけてごめんなさい」
「いやいや、康夫君といっしょだということはわかっていたのでね」
山本はいささか照れ臭げにいった。
「心配なんかしなかったが、タバコを買いに出たついでなので......」
「............」
光子は一語も発さなかった。取り澄ました顔で黙っている。十歳という年齢よりずっと大人びた表情であった。黙っているとなれば徹底して沈黙を守れる女の強さのようなものを康夫は感じた。間がもてずに困るというような気弱さとは縁がないのだ。
「では、私はこれで」
康夫は吐息をつきたい気分でいった。少女に宿題を出されてしまったように感じていた。少女は郁江に対する態度を明確にし、康夫自身の曖昧さを鋭く突いたのである。
少女は康夫自身にも旗色鮮明にすることを要請している。少女の性格はそれほど鮮鋭であり、際立ったものであった。自分に接する者が持っている曖昧さを許容しない強さである。
しかし、それはとてつもなく面倒であり、厄介なことであった。己れの考えを煮詰めてしまえば、反郁江派として旗上げするほかはなくなるかもしれないという予感がした。少女はそこまで容赦なく康夫を連れ去ってしまうであろう。
「康夫君、もしよかったら、自宅へ来ないか?」
山本は躊躇いを見せながら誘った。
「康夫君とはゆっくり話す機会がなかったから......光子がいろいろお世話になっていることもあるし」
少女は無言でいたが、それは反対の意志表明であるに違いなかった。父親の山本は、娘の光子により〝無関係〟と判定されてしまっているようである。その〝関係ない人間〟である父親と康夫が話し合うことを、少女が歓迎すべくはずもなかった。
むろん、康夫は山本に対して特に反感は持っていない。多少という以上に興味を抱いているのは、やはり過去世の縁生というものがあるからである。それは田崎と山本のそれのように濃密なものではないが、ただ単に顔見知りという域を超えるつながりであった。
「それは残念だなあ」
と、康夫は残念さを強調していった。それが少女の気に入る演技だとわかっていた。
「いやね、実はこの後、塾に帰ってミーティングに顔を出さなきゃならないんですよ。塾主催の研修セミナーが明後日から始まるでしょ? 山本さんもちょっと顔を出してみませんか?」
「いや、私はまだ......」
と、山本はあわて気味にいった。
「まだそういう場所へ顔を出せる体ではないので......誘ってもらったのは嬉しいんだが......」
「そんな格式張ったもんじゃないですよ。何しろ塾の連中はあたしを初めとして、あまりお品の良いとはいえない面々でして。落語でも一席うかがおうかっていう、気楽な感じでやろうといってます。田崎の師匠のいうことなんか、〝ヤットウ〟の合宿みたいで、あたしみたいな柔弱者は恐れをなしちゃいますが......何しろ午前四時起きで、早朝マラソンに瞑想とか体操とか、朝飯にありつくのが一苦労ってんですから......」
「それは私向きだと思うが......」
山本は逞しい顔に苦笑を押し上げた。
「何分、まだヤクザの垢がこびりついているので、皆さんにご迷惑をかけてはいけない、そんな気がする」
「そんな心配はご無用ですよ。正道に立ち返るのに何の遠慮が要るもんですか。まだ塚田組大幹部の看板を背負ったまま、研修セミナーへ乗り込むというんなら、お断わりしようってことにもなりますがね。義なんか見て下さいよ。鉄砲玉もつとまろうという凶暴無類のチンピラヤクザが、今では塾切っての人格者ですぜ。若い雲水って清々しい顔でやってます。元々浄らかで一点の汚れもないという人々を集めたわけじゃなくて、どこか捻じ曲ったり反りかえったりして、どうもうまくないっていう規格はずれの連中の集まりですからね......田崎師匠はいうまでもなく。今生ではまともそうに見えても、前世では逆賊と呼ばれてたりするんですから......どんな人間だって過去世を辿れば、乞食の親方とか、山賊の首領、女だったらお女郎さんや心中の死に損い、その他もろもろの古傷を持ってます。あたしみたいに橋の下で拾われた捨て児だっているんですからね」
「ほう、捨て児?」
山本はにわかに興味を持ったようであった。
「前世で?」
「そうです。どんな人間だって裏を見れば波瀾万丈ですよ。生れ変る度に、乙に澄まして事なかれでいるわけには行かないんです、人間って奴はね。恥じる必要なんか全くない、ごく当り前のことなんですから。今生ではお上品に気取ってる上流階級の奥様お嬢様だって、過去を見りゃどうなるかわかりゃしない。凶賊の情婦か何かで、鬼の亭主に鬼神の女房なんていわれてたかもわからない。女だてらに刀を振り廻して十人も殺してたりしてね」
康夫は軽薄さを回復していたが、それは多分に意識的な努力を必要とするものだった。
「今は良家の令嬢でも、昔は吉原の遊女で、馴染みだったとか。まあ下世話な話ですが、人間だれしも脛に傷持つ身といえるんじゃありませんかね......」
「私も前世というのか、過去に生きていたことを思いだせればいいんだが......」
山本は頭を振りながらいった。
「田崎さんや康夫君たちとともに生きていた時のことを想いだしたい。研修セミナーへ行けば、それができるようになれるだろうか......? もしそうなら恥を忍んでも、と思わんでもない」
「しかし、研修セミナーはそういうことが目的じゃないんで......義みたいな霊覚者になりたくてセミナーに参加しようとする者もいるけど、田崎の師匠にきびしく説教されていますからね。東丈先生は、霊覚目当てというのを非常に嫌っておられたし」
「いや、別に霊的な力が目当てというんじゃないんだが」
山本はあわてて手を振った。
「皆さんと親しい同志、仲間であった頃のことを想いだしたい......ただそれだけのことなんだが、私にとっては非常に大切なことなのでね」
「その気持はわかりますがね」
若い時分からずっとヤクザとして人生を送ってきた山本にとり、塚田組を離れたことはただ単に人生の別れ道という以上に、根無し草の不安をもたらすものなのだろう、と康夫は考えた。
ヤクザであることをやめた瞬間、山本の人生の大半が消滅してしまったのである。いかなる人間にとっても、自分を育んだ人生の土壌を離れることは、深刻な不安をもたらすに違いない。山本は、若い義たちのようにあっさりと過去を切り捨て、裸になって塾へ飛びこんでくる真似ができないのだ。
それは、山本が全身に背負っている目を奪うような彫り物と等質のものであり、彼を錨のように引き留めている、過去そのものの重圧であったろう。
山本は、その代りに田崎たちとの過去世の結びつきに逃げ道を求めているのかもしれなかった。
「しかし、今生でも親しい友だちや同志になるのに、何も苦労は要らないんじゃないですか。過去世でそうだったのなら」
康夫はごく楽観的にいった。
「前世で仇敵同士だったというんなら、仲良しになるにはちと骨が折れるかもしれませんがね。昔の仲間なら、今生だって気楽なもんですよ、やあやあどうもなんていってね。そんな心配は抜きにしましょうよ。塾の連中はみんな田崎師匠の同志だし、ということは山本さんにとっても古い仲間ってわけですよ。義たち若い衆は、あたしなんかよりずっと田崎師匠と親密になってます。その点は山本さんだって同じじゃないんですか?」
「そういってもらえると、何よりもありがたいが......」
山本はふと声を詰まらせた。湿った感情が苦手の康夫は浮足立った。光子も眉をひそめているようである。康夫が山本相手にべらべらと軽率な饒舌を弄するのが気に入らないのだ。少女は、康夫の意図的な軽薄さを愛しているくせに、それが他人に向って発揮されることに関しては著しく非寛容であった。
少女はなぜか、決して他には見せず、彼女に似つかわしくない独占欲と嫉妬心を剝き出しにしてしまうのだった。
にもかかわらず、康夫は少女の嫉妬を、別段煩わしく感じていない。それどころか少女を喜ばせるべく、専心これ務めてしまうのである。
少女の眸に非寛容の光を見て取り、康夫は切り上げるしおにした。
「じゃ、急ぎますので、私はこれで。光子ちゃん、お休み」
さんざん油を売っておいて今更、急ぎますもないものだが、少女の眸が笑うのを見て、康夫はほっとした。少女はいかにも、余計なお喋りをしたら許さないぞ、という厳しさを湛え、目にものを言わせようとしていたものだ。
「明日からセミナーの準備に入るんで、塾での勉強は土曜日、日曜日とちょっとの間お休みだってさ、光子ちゃん」
と、康夫はつけ加えた。塾の大学生たちが、光子や明雄たちの学科の面倒も見ているのだった。郁江のお声がかりで始まったものである。
「じゃ、月曜日にまた」
「さよなら」
無愛想にいった少女の眸が強がりを消し、寂しげに翳った。少女は口では何といおうとも、塾の一員として自己同一化をなし遂げてしまっているのだ。
研修セミナーは子供抜きであり、少女の不機嫌の原因もそのあたりにあるのだろう、と康夫は察した。光子は塾に夢中になっているのである。それを素直に表明することはできないのだが、セミナーに参加を拒まれていることは少女にとりいたく不満であるに違いなかった。
「康夫君......」
山本は思い切ったようにいい、康夫を引き留めた。
8
「今度の研修セミナーだが......もしかして私も参加させてもらって構わないだろうかな?」
自分の言葉に驚いたように、山本は目をしばたたかせた。事実、自分でも思いがけぬ言葉を出してしまったらしい。
「いや......義に是非といって勧められていたし、まんざら興味がないわけじゃなかったんだがね。しかし、自分のような汚れた体の人間が顔出ししては、研修会がだいなしになるのじゃないかと遠慮していたんだよ。しかし、今の康夫君の言葉で、すっと気が楽になった」
山本は苦笑した。山本のような男には似合わない含羞の笑みであった。
「前世で仇敵同士でも、今生は清算して同志になれるというじゃないか......ましてや過去世で一蓮托生の仲間だったら、当り前のことだ。それが今、康夫君のおかげで急に胸落ちしたんだよ。
義がよくいうように、人間はたとえ地獄に堕ちても、強い決心さえあれば引き返してこられる。それが人間の本当の強さだってね......私のような人間が仲間にいては、皆さんに迷惑がかかる......そればかりが気になっていたが、それじゃいけないんだとわかった。人間は地獄から這い上って、真人間になる魂の力を持っている、と義はいつもいっているが、私もやっぱりそれを確かにやってみせなければいかんのだろうな」
「わかりました。田崎師匠に伝えておきます。きっと喜びますよ......しかし、なぜ急に気持が変ったんですか?」
「今、康夫君と光子が並んで歩いてくるのを見た時にね。私は自分が父親らしいことを何もしてこなかったと気がついたんだな。光子と並んで歩いたこともない、ろくに二人だけで話をしたこともない。自分に引け目があって、父親という気持で構えることができないんだ。もちろん父親としての資格があまりにもなさすぎるからなんだが......情けない話だがね」
「しかし、今は光子ちゃんの帰りが遅すぎるので迎えにきたんじゃないんですか?」
康夫は衝動的にいった。
「タバコを買いに出たフリをしてね。父親ってそんなに照れ臭くて切ないものなんですかね。俺なんか想像もつきませんよ。ウチの親父なんか俺の顔を見りゃ珍しい虫ケラがいるという目付をしますからね」
「親父さんのことをそんな風にいうもんじゃないよ......いや、私にはそんな偉そうなお説教をする資格なんかないが、しかし、康夫君もそのうちに結婚して子供を作り、親父になるだろうからな。非常にこう照れ臭いもんだよ。光子がお父さん、と呼んでくれると、びっくりして気恥しくなり、そわそわと周りを見廻したくなる。お前にそんな風に呼ばれる資格があるのか、と誰かに尋かれているような気がしてね」
山本は、康夫の軽薄さに気を許したのか、傍に当の光子がいるにもかかわらずよく喋った。
光子は、驚いたように眸を大きくして山本を見ていた。確かにそれまでの山本を見る眸の色とは異っていた。彼の率直な感慨を今まで耳にしたことがなかったのであろう。山本がどのような気持で自分たち母子の許へ帰ってきたか、やはり少女には想像も及ばないものがあったようである。
それはいいことだ、と康夫には素直に思えた。山本が今のように率直に己れの心境を語らなければ、娘の光子には決して理解が及ばなかったに違いない。
親の心、子知らずとはよくいったものだ、という心地がする。全く相互理解が欠如している康夫自身の父親との間にも、このような誤解がありうるのか、とふと考え、そんな馬鹿なことが、とあわてて打ち消す。
親子の縁は前世の約束事だ、と郁江はいっているが、康夫には己れの糞親父との約束の記憶など全くない。何かの間違いではないかという気分がずっと持続している。しかし、親子といえども魂は別々の存在であり、ただ単に高次元世界で約束を交わした結果、とする〝真実〟の開示は大いに気に入っていた。今までは血縁という肉体的しがらみにがんじがらめになり、息の詰まる不快さに苦しめられていたが、今はさっぱりと楽になってしまっていた。
〝親子といえども魂は別々〟という驚くべき真実を知り、納得して以来、奇妙なことに両親への反撥が弱まり、自分が寛容になって行くのを感じている。自分が厭うべき両親の汚穢な血肉のしがらみによって分ちがたく結びつけられた〝分身〟ではないと知った時の安堵感が、逆に両親への寛容さを生んだのである。
康夫の父親が、山本のように率直な胸の裡を明かすことは決してあるまいが、父親が本当はどう思っているのか知ってみたい、と康夫はふっと心を動かしていた。
「私はなにしろ〝新米〟の父親なものだから......光子や家内にああもしてやりたい、こうもしてやりたいと思っても、照れ臭くてどうにも気持に行ないがついて行かない。ろくに顔も上げられん気分になってしまう。今だから、康夫君の前でも正直にいえるんだが......私はこの光子と二人きりになると、どうにも照れ臭く、気恥しくて言葉が出てこなくなってしまうんだな。いいたい言葉は山ほど心の裡に溜まっている。生れた時から何も構ってやらずにうっちゃらかしておいたことを謝りたい、しかし、ヤクザ者の自分が父親面して逢いに行くことはどうしてもできなかった......光子の戸籍のこともずいぶん考えあぐねた。結局ヤクザ者の父親の戸籍に入るよりも、家内の汚れていない戸籍名を名乗らせておいた方がいいのではないかと考えたり......そういうことを光子に話したかった。
しかし、それも本当はただの言い訳にすぎないような気もしてきて、やはり口にする勇気がなかった。光子は勘の鋭い子だから、そんな弁解がましいことはすぐに見抜いてしまうだろうという気がした。
私には、この子が母親のことを考えて、じっと我慢してくれていることがわかっていたしね。本当はヤクザ者の不行跡な父親が、父親面して偉そうに帰ってくることに、不愉快な気持を持っているだろうと思う。それを思うと、うかつに口がきけなかった......」
光子はまたしても驚いたような眸をして、素早く山本を見、すぐに目をそらした。
「この子の母親がいっしょにいる時でないと、光子に向って口がきけないんだ。勇気がないのだな。今も、康夫君がいるおかげで、こうやって自分の本当の気持を話すことができる。だが、光子と二人きりになると、何もいえなくなる。照れ臭いどころか、恐ろしいような気分になる。この子が私に話しかけるのに、どれほど努力しているかわかるだけに、申し訳ないという気持にさえなってしまう......
お父さん、とこの子は呼んでくれる。そんな資格は私にはないし、この子もそう思っているだろう。ただ母親が望んでいるので、無理してそう呼んでくれているだけだ......私にもそれくらいはわかっているつもりだ。自分がとても理不尽なことをこの子にさせている。そんな申し訳なさでいっぱいになる」
山本も貌や恰幅に似合わず、恐ろしくセンシティヴなところがあるんだな、と康夫は感心した。外見とは逆にひどく鋭敏で感じやすい性格なのかもしれない。さもなければ、東丈や郁江、田崎に逢っただけで、あっさりヤクザ廃業に踏み切るほどの大ショックは受けなかったに違いなかった。
「光子ちゃんはよくわかってくれていますよ、山本さん。光子ちゃんは精神年齢が俺なんかよりよっぽど上を行ってますからね。二人がそうやって心から話し合おうとする姿勢を持つことが大切なんじゃないですか? やっぱ、人間、黙っていちゃ素直に心が通じて行かないですからね。厭なら厭だとはっきりいうことも大切だし、罪を償いたいという気持があるなら、悪かったと一言いえばいい。口はやっぱ、何のためについてるかという......物を食うためについてるだけじゃないですからね。自分の気持は態度や口で表わすべきですよ」
そう喋りながら、それは真先に己れ自身に適用すべきせりふだ、と康夫は反省した。
井沢郁江にいいたいことがあるなら、いじいじと内攻して不平不満を傍にこぼさず、郁江に面と向っていえばいい。もっとも、最近の意識圧の高い郁江に対しては、それは口でいうほど簡単なことではないかもしれないのだが......
「どうですか、今、光子ちゃんに素直に言ってみちゃ......光子のことが心配で、タバコを買いに出るという口実を設けて、迎えに出たんだって、本当のことを。お父さんの気持っていうものは、いつもこんなに切ない、気恥しいものなんだってことを......やっぱ、それは口ではっきりいわなきゃわからないもんですよ。本当は、光子ちゃんのことが可愛くてしょうがないんだっていってみたらどうですか? 人間、素直なのが一番ですよ」
「康夫君が今いった通りなんだ」
と、山本は素早くいった。
「そりゃずるいよ、山本さん、いやお父さん! 他人のせりふに只乗りするなんて......」
康夫は吹き出していった。山本があまりにも素早く巧妙に便乗したからだ。
「しかし、本当なんだ、光子。馬鹿な父親を持って不運だと思っているだろうが、本当は何とかしたい、いや、しなきゃいけないってずっと思い続けてきたんだ。光子のことを思いだしては、こんなヤクザな稼業とはおさらばしよう、と幾度思ったかわからん。自分には子供がいるんだ、子供のために何とかしなきゃいかん......そう思ってもずるずるとヤクザ稼業を止められなかったのは、お父さんのだらしなさだし、卑怯さだ。
しかし、そういう気持があったからこそ、東丈先生に最初にお逢いした時、これはいかんと素直に思えたんだ。つまり光子のおかげで、お父さんは間違った道から引き返してくる力を与えられたんだ。でも、お父さんのせいで、辛い苦しい目、悲しい目に遭った光子やお母さんに対して、今でも合わす顔がない......しんそこから悪かった、申し訳なかったと思っていても、それがどうしてもいえなかったんだ。だが、何とかして罪の償いをしたいと願っている気持は噓じゃない。許してくれとはいえないし、光子にしても許すという気持になれなくても当り前だと思うけれども、もう少し長い目で見てくれないだろうか......? お父さんは一生懸命やってみようと思っているんだ......」
「ちゃんといえたじゃないですか。心がこもってるいい言葉でしたよ。きっと心の中でいつかいおうと思って何度もくり返していたからでしょうね」
と、康夫は拍手をしかけて、むずむずする両手を組み合わせていった。
「ねえ、光子ちゃん。こんなに素直なお父さんの言葉ってなかなか聞けるもんじゃないよ。俺だってもし親父になって娘ができた時、こんなに真心のこもった言葉が吐けるかどうか、まったく自信ないな。お父さんは本気だし、努力しているんだよ。その努力は買ってあげるべきじゃないかな......何も父親と娘が急遽和解して、べたべたする必要なんかないんだからさ......きっとお父さんだって、そんなのは苦手だよ。納豆みたいにベトベト糸を引く親娘の関係なんてものはさ」
「高次元にいた時、人間はこれから地上に降りて肉体を持った時のことを、未来予測できるんだって郁姫さんがいってたでしょ?」
少女は全く別のことをいった。一瞬、康夫はひやりとした。父親の真情を全く無視してしまう気かと思ったのだ。
「高次元にいる人々は、地上の肉体を持った人間と違って、未来を見ることができるんだって......地上の人間が未来予知をする時は、必ず霊の力を借りてやるんだって、郁姫さんはいったでしょ?」
「そんなことをいってたみたいだな」
「霊には未来も過去も見通しなんだって......そうすると、人間がまだ地上界で肉体を持つ前、この世に生れ出る前、自分が地上に人間として生れ出て、どのように育って行くか、どんな人生航路を辿って行くか、高次元霊としての自分は知っているわけよね?」
「ということだろうね」
「つまり、どんなことが起きても、万事、承知の上ってことになるのかしら?」
「郁姫さんや義君は、霊体離脱して高次元世界へ行って、そう教えられたっていうんだろ? ちょっと俺には想像もつかないけど」
「親子の間も、地上界へ肉体を持つ前に、親しい霊同士で約束するんだって......今度あなたたちをお父さん、お母さんと呼ばせて下さい、そう頼んで、きちんと約束した上で、地上界で親子になるんだって......お兄さんはこの話、信じる?」
「ああ。そういうこともあるのかなって思った。自分のことになると、なぜそんな頼み事をする気になったのか、全然わからないけどね。しかし、肉体を持った人間には本当のことが何もわからなくなってしまったんだ、といわれると、何となくそんな気にもなるね。何か深いわけがあって、あんな人間たちを両親にしたんだろうって......この世を去って、高次元霊に戻れば、何もかもわかるっていうから、今からそれだけが楽しみだね」
康夫はわざと強調した気楽さで答えた。光子が何をいおうとしているのか、その真意が薄々のみこめてきたのだ。
「だから、俺も親父お袋に対して、ぐっと寛容になってしまったんだな。もしこの二人を両親に選ばなかったら、どうなったかという興味は大きいな。物凄くお堅い、代々大学教授という家柄に生まれたりして、今頃はもっとひねくれていたかもわかんない。親の期待がずっしりと肩に重くこたえたりして......そうすっと、今は気楽でいいやっていう気になる。ウチの親は、俺がどこで何してようが全然気にかけないもんね。たまに自宅で顔を合わせると、おや、いたのってお袋はいうんだぜ。
口うるさい両親に勉強しろ成績がよくないってハッパをかけられるより、こりゃずっと楽だなって思ったよ。俺は最近、ぐっといい子振ってるから、両親としても安心だろうね。親父、お袋の弱身を握って、じわじわと金をゆすったりしないからさ」
「お兄さんて、そんな悪い子だったの!? 知らなかった!」
少女の眸は真円に近いほどまるくなった。
「親を脅してお金をゆすりとったりするの? 凄いなあ......大変な悪なのね」
「前の話さ。東丈先生とお逢いする前の。しかし、どうやってこんなとんでもない人間たちが親子の約束をしたのかねえ?」
「ほんと......天上界にいる時はちゃんとお互いにわかってるわけでしょ? 親子として血縁関係を持って生まれた時、どういうことになるのか......おかしな親子だって思わないのかしら?」
「そりゃ思うだろうね、絶対に思うよ。親子でありながら、互いに相手を疑いと恐怖の目で見てるんだからさ」
「それでも約束して、親子の契りを結ぶっていうのは、それなりの深い意味があるからでしょ?」
光子は年齢に似ない言葉遣いで、洞察力を発揮した。
「肉体を持った人間には、その深い理由がわからない......でも、天上界にいる時は、ちゃんと先の先までわかっていて、どうかお願いします、あなた様を父と呼ばせて下さい、と頼んだわけでしょ?」
「まあ、そういうことだろうね。俺には本当のところはよくわかんないけどさ......けど、そんなこともあるかもしれないなあって思うよ」
「人間って不思議ね」
少女は溜息とともにいった。
9
「とっても不思議。理解できない......地上界で肉体を持って、自分の身に何か起きるのかわかっているのに、それでも天上界から降りてくるのね。物凄い自信を持って、高を括っているのかしら? 平気へいき、何とかなるさって......それとも悲愴な決心で、結果がどうなるのかわかりきっているのに、地上へ出て行くのかしら? 受けなければいけない試錬なんだって覚悟して......地獄へ落ちるってことも最初からわかりきっているのかな? それを考えると恐ろしい気持になって、体がしんと冷えちゃうの。
あまり考えていると、頭がぐしゃぐしゃにこんがらがってわけがわからなくなってしまう。郁姫さんたちのいっていることが、本当なのかどうか疑問に思えてくるわ......だって、自分が地獄へ落ちることも承知の上で、なんてあまりにも勇気が必要でしょ? わたしにはとてもそんな勇気ないもの。永久に天上界に留まって絶対に地上へ降りたりしない。
わたし、地獄へ落ちるのって厭だもの。絶対に落ちたくない。落ちないようにするためなら何でもする。だってわたし、自分の身が可愛いもの。だから、地獄へ落ちるのを覚悟で地上に出るなんて人たちのことは、とっても信じられない......」
「光子ちゃんは正直なんだよ。お兄ちゃんもそれは同じだ。でも、人間ってヤケクソになりやすいもんだし、その場の勢いで地獄へ落っこっちまうんだろうね。その上幻魔なんていう暗黒の吸引力がいつも人間の足を引張っているからさ」
「人間って変ね。いつだって幸せになりたいのに、どうにでもなれってすてばちな気持に簡単になってしまうのね......わたし、郁姫さんたちのいっている高次元の世界の話が本当かどうかわからないし、素直に信じる気持にもなれないの。納得できないところが沢山あるし......未来が見えて、自分が地獄に落ちるのがわかっているくせに、地上界へ出る人間がいるってことが信じられないのね。
でも、人間はたとえ親子でも魂は別々の存在で、相手の肉体的な一部分じゃないっていうことは、なんとなく信じられる。親子になる約束をして地上界に出るってことはありそうな気がするの。でも、幸せな親子関係もあるし、不幸せな関係もあるっていうのが、よくわからないんだけど」
「幸せなのも不幸せなのも、人間同士が作りだすものだよ。郁姫さんも前は母親とひどく不仲だった。でも、ごめんなさいとあやまってから、とっても好転した。人間関係って一方的なものじゃないからね」
「そうね......」
少女は唇を嚙んで考えていた。それからやにわに、山本に対してぴょこっと頭を下げた。
「お父さん、よろしくお願いします。わたしは素直じゃないし、かなり陰険なところもあるんですけど、お父さんとうまくやって行きたいと本当に思っているんです。もし、天上界で親子の約束をしてきたことが本当だったら、もう一度ここではっきりと再確認しておきたいんです。よろしくお願いします......そういってもいいですか?」
「もちろん......」
山本は、唐突な少女の物言いに度胆を抜かれたようである。少女はまるで短距離競走のスタートを切ったランナーのように性急であった。
「お互いに約束してきたんなら、きっとうまく行くと思うんです。仇同士でも和解して仲よくできるんでしょう? だったら、親子の約束をした間柄なら、仲よくできるのが当り前だと思うから......」
「そうだね。その通りだと思う」
山本は少しどもりながら答えた。
「お父さんは、自分に光子の父親の資格があるとは思っていない......父親というのは、もっともっと素晴らしいものだと思うからね。だが、何とかして頑張ってみたい。今のお父さんには、それしかいえない......私にとって、光子はもったいなさすぎる子供だ。父親ぶっているなんてとんでもないことだ。そんな気がして、どうしても素直に光子に話しかけることができなかった......まるで光子がかぐや姫みたいに眩しく光っているみたいでね」
「わたしってそんなに立派じゃないですよ」
と、少女はいった。照れていた。
「わたしってとっても普通の女の子ですよ。普通よりちょっと落ちるかもしれない......素直じゃないし、ひねくれていて少し陰険だから。そんなに素晴らしい子扱いにされると、凄く困ってしまう」
「いや、光子は素晴らしいよ。康夫君、そう思わないか?」
山本はいきなり康夫を振り向いていった。熱心に同意を求める。
「お父さんには、光子が高貴なお姫様のように感じられる。とうてい自分の子という気がしない。天からおあずかりした光り輝くお姫様のようだ......光子という名を付けたのは、きっとそのためだろう」
「えっ、わたしの名を付けたの、お父さんだったんですか!?」
少女は息をのんでいった。
「それは自分の子供だから......」
「お母さんが付けた名前だとばかり思ってた......」
少女は小刻みに首を振りながら呟いた。
「いや、違う。お父さんとお母さんが別れたのは、光子が二つの時だから。この子はかぐや姫みたいだからといって、お父さんがつけたんだ。思いだしたよ......前からお父さんはお医者さんに子供を作るのはむずかしいかもしれないといわれていたんだ。機能的にちょっと具合の悪い体でね。それなのに、光子が生れたから、天からの授りものだとお母さんにいったんだ......」
「知らなかった」
ぽつりと呟いて少女は黙りこんでしまった。
「そんなに大事な子供なのに、と思うだろうな。その通りなんだ。でも、こんなヤクザ者の父親を持った子供はずいぶん辛い思いをするだろうと思った。子供のことは諦めていたからね。お父さんも自分のことばかり考えていたわけじゃないんだよ。もっとも、こんなことは弁解にしかならないが」
「もう過去のことはいいじゃない」
と、少女はきっぱりといった。
「そんなことより、お母さんを二度と悲しませないで下さい......お母さんは本当にお父さんのことを好きだったのね。今までの苦しかったこと辛いことは全部帳消しになったってお母さんいってるわ。お父さんが帰ってきてくれたから、それでいいって......今頃お母さんきっと心配してるわね。急いで帰りましょう」
「手袋! マフラー!」
と、康夫はいった。
「忘れもんだよ!」
「貸してあげるわ。お兄さんは寒がりだから......じゃ、またね」
少女は思いだしたように振り向いて、手を振った。
「ま、親子水入らずで仲よくやってよ」
と、康夫は大げさにふてくされたふりをする。
「どうせあたしなんか......追っ払われなくたって帰りますよ」
「いやね、ひがんで」
光子は明るい声でいった。その明るさはかなり作為的なものであったが、そうした演技が可能なほど心が和んできた証しかもしれなかった。
寄り添って帰って行く親娘を見送っていると、暖い気分になる反面、幾許かの嫉妬の疼きも覚えた。思わず苦笑いがこみあげて、つるりと顔を撫でる。荒い毛糸の手袋の膚触りで平衡感覚を取り戻したようだった。
十歳の少女の光子に、まるで魂を奪われてしまったように感じられる。わずか数日前、少女は妖精のような捉えがたい身軽さで、康夫の眼前に出現し、それ以来、彼の心の中に棲みついてしまったようだ。
そんな馬鹿なことはありえないと思うものの、光子をめぐって今、父親の山本に感じた嫉妬心はただごととも思えなかった。一瞬だが平衡を失い、本気で嫉妬したようだ。
突拍子もない、と彼は自分を叱りつけた。少女が馴付いてくるのはともかく、自分までが本気になったりしたら、とんでもないことになる。
東丈の突然の失踪以来、自分はかなり箍が緩んできたようだ。心許なく頼りなくなり、足許の大地が流氷と化し、漂流でも始めたような心地がする。やはり、郁江では役不足であり、東丈の代役にならないと心の奥底では感じているのであろう。
本当は、郁江をしんそこから助力しなければならない、と裡なる要請は意識しているのだが、心細さ虚しさには拭い去れないものがある。
井沢郁江一色に染め上げられた会を離れて行く会員たちの心境が、康夫にはよくわかる。郁江がいかに大きな力を発揮してみせようとも、東丈の代りには決してならないのだ。
郁江が、東丈と彼女自身を比較することを嫌えば嫌うほど、その相違はなおさら明確になってくる。
東丈不在の心細さ、心寂しさが、自分を少女に対する偏愛に駆り立てているのかもしれない......
康夫は珍しく自己省察をやってのけ、赤面する心地に追いこまれた。
自分が十歳の少女に対して、時折ぎくりとするほど官能的な魅惑を見出していることに改めて気付いたからだ。
それは、他の成熟した異性には感じたことのない強烈な感覚といえた。木村市枝に対してさえ覚えたことのない官能の疼きであった。
──どうかしているんだ。
と、康夫は思い、ひとり赤面した。変態的なのではないかという自覚であった。
むろん康夫は十八歳という年齢にふさわしく、精力絶倫であり、性欲にも歯止めのきかない傾向を明白に有していた。童貞を失ったのは中学一年の時であり、以来禁欲的であったことは一度もない。
〝波長〟の合った女の子と懇ろになるのに、遠慮する性格ではなかった。同年齢の少年たちと比べて、セックスにかけては手練れとさえいえたかもしれない。
硬派である田崎宏と比べれば、康夫は軟派そのものであった。昨年の暮れから、塾の運営が多忙になり、高校通学さえままならない有様になったが、同時に女出入りの方もさっぱりご無沙汰になってしまった。
しかし、それは心が浄化され、性欲が稀薄になったのではなく、多忙すぎて、そちらにまで気が廻らなくなっただけなのかもしれなかった。
それでも、以前のように性欲で脂切って、のべつまくなしに発情している感覚とはほど遠くなってはいる。
好き心を唆りたてる女、たとえば白水美晴のようにとてつもなく嬌かしく、男好きのする若い女を目のあたりにしていても、気が散って何も手につかなくなるということはない。性的な妄念で心が過密状態になり、常に攻撃的であった頃とは全く違う。すっきりと清潔になり、肌がべとつかないのが自分でもわかる。
その自分が、はるか年下のわずか十歳の幼い少女に対して、ぎょっとするほど官能的な誘いを覚えてしまうのだ。体がかっと灼熱し、たぎるような懊悩が胸裡にふくれあがり、自分がひどく物騒になって行くのを認識せざるを得なくなる。
──だれかに相談しないといかんかな?
康夫は心にひとりごち、ぞくっと身慄いに全身を貫かれた。大きなくしゃみが出る。
馬鹿げた貌をして、いつまでも舗道に突っ立っていたのだ。正面の大きなガラス扉越しに、スーパーマーケットの夜勤の店員が、歩道の康夫を眺めている目とばったり合った。
いつまでも何をしているのかという不審が店員の目に光っていた。店内からあふれ出る照明の光を浴びて、派手な女物のマフラーを首に巻き、毛糸の手袋を両手にはめた康夫は、得体の知れない波動を放出していたのであろう。
康夫は派手な色柄の毛糸の手袋をはめた手を、スーパーの店員に向けて振ってみせ、青山通りを渋谷へと引き返し始めた。たて続けにくしゃみがとびだしてくる。体中が冷え切り、鳥肌が立っていた。
改めて東三千子のことが気になってくる。タクシーを停めて大急ぎで塾へ帰ろうか、それとも電話で動静を尋こうかと考え、それよりもS警察署に直接出向いた方がいいと結論を出す。
もともと康夫は警察の赤ランプの下を潜るのに少しも躊躇したり拘泥することがない。コネを持つ人間にとり、警察は実に親切な場所なのである。
しかるべき筋から一言声をかけてもらえば、警官の素気ない事務的な顔付は豹変する。警察は大家族主義の伝統下にあるので、OBを捜して知己を作れば、コネには事欠かない。その点、康夫は実に要領がよく抜け目のない政治力の持主であった。時折は、己れの忌々しい糞親父よりも政治家向きではないかという自負に駆られることさえある。政治家とは人脈という複雑なジャングルで棲息する珍奇な生物なのである。
光子に質問されたように、康夫が警察の呼び出しについてさほど心配していないのは、田崎宏が同行しているからだった。田崎の祖父の大沢代議士は元法務大臣として強力な人脈を警察官僚の間に握っているのである。
警察が、東丈とGENKENに不穏な関心を抱いているのは事実であっても、現段階では直接的な攻撃をかけてくることはない、と康夫は値踏みしていた。
任意同行や逮捕によって取調べを強行するまで、警察の心証は固まっていない。あくまでも迂遠な方法で、内偵という情報収集が私服刑事によって続けられているはずである。
クロの心証に傾かせる情報が皆無なので、さぞかし警察は不本意だろう、とわかっていた。たとえスパイを中枢部に送りこんだところで、ボロは何も出ないはずである。
とはいえ、康夫にも不安は存在した。警察はその気になれば、火のない所に煙を立てる芸当も出来る。必要とあれば、でっち上げさえも強行する。そうした例は過去にいくらもあるのだ......
康夫はカーコートのポケットの小銭を探り、道端に赤電話を捜した。塾へまず電話して、警察で何が展開されているか知らなければならなかった。
くしゃみのためにグズグズになっている鼻をつまみ、素早く段取りを考える。S警察署にコネを見つけて情報を取らなければならないのだ。
糞親父がS警察署に有力なコネを持っていることを想いだした。
いざとなれば、糞親父と取引きして、コネを借りようと考える。糞親父はさぞかしびっくりするだろうが、厭とはいわせないだけの材料は摑んでいる。
しかし、本来こういうのはいかんのだろうな、と思った。〝光のネットワーク〟の外でこっそりやる闇取引だ。が、東丈は必要とあれば、幻魔とも堂々と取引せよといっているはずだ。天使といえども、幻魔と交渉する時には政治家にならなければならないのであろう......
10
後で考えると、悪夢さながらの光景で甦ってくる記憶というものはあるものだ。
非現実的で、夢の中の出来事と区別がつかなくなる。現実のくせに最初から悪夢じみて陰惨なベールをかぶっているのだ。
現在進行中であっても、現実と虚構の区別がつかない心地に落ち入ってしまう。
東三千子は、これは以前見た悪夢が再現されているのではないかと思った。とてつもない巨犬が路傍に座り、世界の変化を看視しているのだと告げた夢である。
突然、そうした奇妙な夢の記憶が甦ったせいかもしれない。三千子は非現実感に囲繞され、ひどい風邪を引きこみ、五官が鈍くなってしまった時のように、虚ろな世界の谺を聞く心地がした。
奇妙なほど鮮明に記憶が甦ってきて、あれは夢だったのではないと気付いた。自己催眠により見た幻影だったのだ。
それは、金本義男や井沢郁江がやっているような、霊体離脱しての異次元世界への訪問だったのかもしれない、と三千子は思いついた。今まで完全に記憶が脱落していたのが、信じられないまでに鮮明なイメージが三千子の脳裡に映写されていた。彼女は、弟の丈を捜している途中、人間以上の叡智を備えた巨犬に遭遇し、彼に教えられて、江田四朗に囚われている久保陽子を取り戻しに出かけた。
今にして思うと、三千子は霊体離脱し、江田四朗の暗黒の意識世界へ導かれたのだ、と気付く。それは決して夢でもなく幻想でもなかったのだ。さもなければ、あれほど鮮明で細部にまで至る記憶が留まっているはずはない。
映画のフィルムがスクリーンに投射されるように、記憶のスプールがくるくるとひもとけて、三千子はあの夜に自分が回帰したような心地がした。
──世界が変化するのを看視している、と奇妙に親しみ深い巨犬は彼女に告げたのである。
その深遠な叡智は、ただの犬とも思われず、それは犬の形状をとった高次元意識体であったに違いない、と三千子は思った。彼と三千子ははるか以前からの知己なのだ。
やがて、三千子はその世界へ行き、彼とともに世界の変化を看視することになる、と巨犬は告げた。その時はまったく気にも留めなかったが、それは真実であるという気がしてきた。
井沢郁江が霊体離脱し、丈の意識のある〝高次元管制司令室〟を訪ねたように、三千子もまた高次元における〝看視哨〟を訪ねたのかもしれなかった。
自分はこの世界の行きつく先を知っている......不浄な世界を神聖な炎で焼き尽し、再生へと向わせる宇宙意志に触れてしまったからだ......
東三千子の意識は二重存在と化していた。
意識の一方は、鮮明な記憶世界に入りこみ、追体験を行なっていた。あのセントバーナードに似た途方もない巨犬が今も自分の傍らにいて、真理を告げていた。
三千子はいずれ、地上世界を離れて、高次元意識そのものと化し、〝看視者〟になるのだった。
〝真の世界〟が誕生する歴史の分岐点にあって、暗黒エネルギーの干渉を看視し、巨犬とともに退けるのだ。それが、宇宙意識によって与えられた彼女の役割なのだ。〝真の世界〟は日輪のように光り輝きながら、雲海を割って今しも誕生しようとしている。
彼女はその誕生を、地上において助けた後、〝看視哨〟に移って、妨害や干渉を退ける〝力〟を発揮しなければならない......
もう一方の意識は、S警察署の陰惨な雰囲気の内に留まり、他方の意識の伝えてよこす記憶との共通点を探っている。
警察署の建物のガラス窓越しに、正面の大通りを走る車群のライトの光芒が間断なく動いているのが見える。車寄せに入ったパトカーの回転灯の真赤な血のようなきらめきが、更に凄惨な、強迫的な雰囲気を強めている。
尋常ならざる波動が、警察署の裡に集結しているようである。
ひたすらに冷涼としており、陰惨であり、心を圧してくる。どう見ても、悪夢さながらの雰囲気が色濃くわだかまっているのだ。
同行した田崎宏が、平然と落着き払っているのが不思議である。ひしひしと加わってくる冷惨な圧迫をまるで感じていないようだ。それは一見頼もしいが、三千子は己れの感じている敵意の冷たい重みこそ、真実であるとなぜかわかっている。
警察署は、自分たちに対し、まぎれもない悪意を抱いている。それは決して被害者意識でもなく、強迫観念でもない。霊覚としてはっきりわかってしまうのだ。
弟の卓は、すっかり冷静さを回復したようである。田崎の存在がそうさせたのであろう。卓には警察に畏怖の感情や敵対心を持つ理由が何もない。それに、卓は霊的感覚には全く無縁である。
「しかし、待たせるなあ。呼び出しておいてどうしたんだろう?」
と、弟の卓が不審げにいう。S警察署の粗末な木製ベンチに腰をおろして以来、すでに小一時間が経っているが、何の呼び出しもない。窓口では、しばらく待つようにと素気なく指示したきりだ。
「しかし、磁場が悪いですな」
と、田崎がいった。
「お姉さんは、そう感じられませんか?」
霊覚のある田崎はやはり圧迫感を意識しないわけではないらしい。
「そうですね。ちょっと気分が悪くなってきました......」
「そりゃいかん」
田崎は本気で心配した。
「お姉さん、どうか自宅へお帰りになって下さい。お休みになってなきゃいけません! ここは私と卓君にまかせて下さい......お姉さんはお体にいつも無理をされているんですから」
大目玉に至誠が光っていた。田崎の心遣いは何よりも三千子の心を暖めた。三千子にとって気羞しいことだが、田崎は彼女を女神のように崇めている。その崇敬ぶりはちょっと真似手のないものであった。三千子も田崎に対しては肉親同様の親しみを覚えている。過去の縁生に、水よりも濃い血縁があるのかもしれないと思うほどであった。
「ごめんなさい、ご心配かけて。でも、大丈夫です。気分がすぐれないのは霊域が悪いためですから......警察署を出ればすぐに治りますわ。最近は郁江さんたちに生体エネルギーを入れて頂いているので、とても元気なんですのよ。本当に疲れなくなったし、夜もよく眠れます。それどころか、だんだんタフになってくるみたい......卓に尋いて下さればよくおわかりになりますわ」
「私はその手の四次元がかった話は、どうもぴんとこないんですが、姉が元気になったのは確かです」
卓は、田崎に向っていった。
「私の方がハッパをかけられちゃって大変ですよ。こう、家中に明るすぎる大きなシャンデリアでも煌々と点ってる感じでしてね......以前の姉は内向的な性格で、ひっそりと家に閉じこもってることが多かったし、やっぱり己れの目を疑うばかりの大変化です」
卓も他人と話す時は、思ったよりも大人びた口調で、これが卓かと一抹の意外さを感じさせた。
「いや、とんでもない。お姉さんは塾の太陽だよ。お姉さんが塾にいらっしゃる時は、建物の外にいてもそれとわかる。お姉さんの放つ光が建物の壁を通して滲み出してくるんだな。こちらの心もぱっと明るくなり、元気が出てくる。塾生はみんなお姉さんの子供みたいでね、本心から慕っている。これまでは、塾の中心に一本柱が欠けているという感じだが、お姉さんがいらっしゃるようになってから、まるで違う。天照大神が天の岩戸から出てきた時みたいな気分だとみんなでいっている。今ではお姉さんのおられない塾など、まるで考えられない......しかし、卓君には申し訳ないと思ってる。大事なお姉さんを塾でとってしまったようで、ずいぶん不自由をかけているんじゃないかな......」
「いやいや、不束な姉ですが、塾の方で少しでもお役に立つなら何よりです。私からもよろしくお願いします」
卓は一人前に男の挨拶をやってみせた。くすぐったい思いを禁じえないが、頼もしくもある。
「姉がひっそりと家に閉じこもっているのは、やはり気になっていましたからね。私は四次元の方は皆目、見当がつきませんが、やはり姉にもその方の才能があるんですか、田崎さん?」
「まあ、そうしたことよりも、お姉さんの場合は放っておられる目に見えない光が素晴らしいんだな。人格的影響力としかいいようがないが......お姉さんにお目にかかって、お話を聞くと、誰でもがこれまでの自分の生き方に疑問を抱くようになる。非常に物質的な目標だけを追い求めてきた自分の人生に気がつくんだ。人間はそれだけではあまりにも寂しい生き方になると気がつく。卓君も、塾へ一度寄ってみないか? きっと得るものがあると思うが......」
「そりゃ、時には姉が何をやっているのか気がかりだし、様子を見に行かねば、と思うんですが、私はどうも四次元というのが苦手でしてね」
卓は後頭部に手をやった。
「正直いうと、怖いんですよ。目にも見えず手にも触れられないというのがね......こう、ひどく頼りなくなって、足許の地面がいきなり、すぽんと抜けそうな気持になるんで。
私は現実主義者なんで、やっぱり四次元は信じがたい気持が強いんですよ。申し訳ないんですが......そういうことに気を取られてしまうと、今やっている柔道がおろそかになるし、全力を集中できなくなるという気がしまして。別に姉や田崎さんの考えを、絶対に否定するっていうんじゃありません。もしかしたら四次元だってあるかもしれないしね。だけど今は、気をそらしたくないんで......」
「その気持はわかる。地道に自分の人生を設計して行きたいという気持は大切にすべきだと思う」
田崎は黒々としたみごとな眉を大目玉に迫らせて熱心にいった。
「今はそれでもいいと思うが、しかし、人間がだれでも己れの人生の目的を持って、じっくりと蓄積して行くには、それなりの条件が必要だ。世界中が戦乱の渦中に陥って、核兵器を投げつけあうとなれば、個人の理想や希望は一切空しくなってしまう。卓君が柔道家として自分を磨いて行くためには、世界が平和であることが必要だ。そうじゃないか?」
「それはそうです。しかし、塾や会ではべつだん平和運動をやってるわけじゃないんでしょう?」
卓は不審げに尋ねた。
「唯物的な平和運動とは方向が違う......つまり、世界の真の姿を知ることが一番大切だということだ。人間はどこから来て、どこへ行くのか、人間とは何なのか、世界とは何か、宇宙とは......それを知らなければ、真の平和は得られないんだ」
「へえ、凄く哲学的なんですねえ。何となくもっと宗教的なのかと思ってましたよ。そういうのはどうも苦手でしてね。爺さん婆さんが抹香臭くかしこまって坊さんの講話を拝聴したり、教会で牧師さんがアーメンなんて鹿詰めらしくいってるイメージがどうも強くて......会や塾ではいい若い者がどういうことをやってるんだろうなと気にはなっていたんですがね。
まあ、それよりもやっぱり四次元が苦手で、うんと高い場所へ登って、断崖絶壁から谷底を覗くような、背中がむずむずする、無気味な怖さを感じちゃうんです。物凄く気色が悪い......霊とか何とか、俺は厭だなあ。そんなものはないんだと信じてた方が、ずっと気楽ですよ。とにかく、絶対にそうした無気味な、メラメラニョロニョロした代物と関り合いを持ちたくないっていう気持が強いですね。田崎さんには申し訳ないんですが......」
「卓君のように感じている人間は決して少くはないだろうな。しかし、信じようと信じまいとにかかわらず、目に見えない世界に棲息する非物質的な生物は存在する。これは決して怪談や怪奇小説のようなフィクションではないんだ。
非物質的な生物は、いつも同じ室内にいるように、すぐ身近に存在するんだよ、卓君。我々人間は、それを雰囲気として察知する。陰気なひやりとした冷たい雰囲気で、ああ、そばに来てるな、とわかる。お姉さんと俺が、ここの磁場が悪いといったのは、そうしたいわば四次元生物の巣になってるということなんだ。お寺や神社の境内で、ぞっと底冷えするような霊気を感じることがあるが、ここもそれと同じだ」
「厭だなあ......」
卓は逞しい顔の皮膚に鳥肌を立たせて、情なさそうにいった。
「それじゃ、人間はまったく逃げようがないんですか? やだやだ! そんなことやっぱり考えたくない!」
「それは自己逃避だね。恐ろしいものから目をそむけて、そんなものはない振りをしているのと同じだ。たとえば、癌なんて病気はないんだと自分に思いこませるようなものだ。人間は神の子だから、病気なんかないと教えている新興宗教もある。しかし、信者はいくらも病気をする。教祖だって病気にかかってしまう。すると、それを必死に隠すんだ。病気なのに体裁があるから病院にも行けなくなってしまう。
真実を否定すると、人間は不健康になるどころか偽善者にもなってしまう。病気など実在しないといくら信じても、現実に病気は存在する。それと同じように危険な四次元生物は実在する。そうだとしたら、人間は叡智をもって、四次元生物の危険を取り除いてしまうべきだ。そうじゃないだろうか?」
「そうかもしれませんね......」
卓はがっしりした頭部を振り動かしながらいった。しかし、気乗りしていないことは明白だった。
11
「人間というのは面白いものだ。回虫など有害な寄生虫を己れの体内に飼っていると知って、平気な人間はいないだろう。怯気を振るって、しゃにむに体内から駆除してしまおうと必死になるだろう。そんな厭らしい寄生生物が自分の肉体生命を蝕んでいるとわかれば、堪えがたい嫌悪感に駆られるだろう。
その同じ人間が、目に見えず手に触れられないからといって、寄生虫なんかよりもっともっと有害な、まるで比較にならないほど危険な四次元の寄生生物は無視してしまう。
そんな代物は存在しないと決めこんで、わずかな安心を得ようとする。病気など存在しないという誤まった教理を必死に信じこんで、病気を念頭から追い払えば病気にはならないと己れに信じさせようとする狂信者と少しも変らないんだ。
だが、いくら狂信に凝り固まろうと、現に病気は実在し、遠慮なく肉体を蝕む。それと同様に唯物主義を狂信して、危険な四次元生物を闇雲に否定しても、そいつは容赦なくとり憑いて、精神を食い荒らし、生命を枯らしてしまうんだ。
真に合理的な人間は、正しい認識を拒むことはしないはずだよ。唯物主義に基づく〝科学的合理主義〟というのは、病気をただ否定する新興宗教に酷似してる。しかし、本当に大切なのは、そんなものは存在しないと信じこむのではなく、どうすれば危険な病気から身を守るかということだ。有害な四次元生物の危険から身を守る方法はあるし、真実に目を開けば、その方法は自分のものになるんだ。
たとえば、毒蛇の害が多い地方では、人々はどうやって毒蛇から身を守ればいいか知っている。毒蛇など存在しないと信じていたからといって、毒蛇は咬みつくのに遠慮したりはしない。自ら目を塞いで、危険に踏みこんでくる人間の体は、毒蛇にとって絶好の攻撃目標になる。用心深い人間なら、毒蛇の牙を通さない分厚い衣服や長靴で身を守るだろうが、のこのこ裸足でやって来る不用心な人間は生命を失くすのは当然のことだ。そうじゃないかな?」
「じゃ、その恐ろしい四次元生物から、自分の身を守る方法はあるんですか?」
卓が質問した。ようやく心を動かされたようであった。
「もちろんあるさ。会や塾ではそれを突きとめて、世界中の人々に知らせようとしているんだからな。大切なのは、そうした四次元生物の危険が実在することをまず知ることだ。そしてその危険は、自分の心が招き寄せているという事実を知ることだ」
「自分の心と何か関係でもあるんですか? 四次元生物というのは、幻魔のことでしょう? でも、幻魔っていうのは、現実に、物質的に実在するんじゃなかったんですか? 目に見えず触れもしない四次元生物とやらじゃなくて?」
「幻魔はもちろん物質的肉体的にも実在するよ。しかし、人間だって本質的には、四次元生物と同じなんだ。真の姿はこの肉体ではなくて、非物質的というか、超物質的な宇宙エネルギー体なんだ」
「それがつまり、〝霊〟ってやつですか?」
「〝霊〟というと人によっては宗教的にも受け取るし、また迷信深い人間のたわ言だと感じる人間もいる。卓君なんかはそうじゃないのかな? しかし、人間はだれでも、肉体を衣服のようにまとっている宇宙エネルギー体だということは間違いないんだ。人間の精神、意識エネルギーは、いわば四次元生命体で、この物質宇宙を超越している。しかし、分厚く重い衣服のような肉体をまとっているために、意識エネルギーは、何も見えなくなり、何もわからなくなってしまっている。自分が四次元生命体だということですら、見失ってしまっているんだ。
危険で有害な四次元生物の存在を悟るには、人間も己れが物質を超えた四次元生命体であることを悟らなければならない。本来の四次元生命体としての超感覚を回復すれば、本当のことがはっきりわかるようになる。霊覚とか霊能、超能力というのは、人間本来の宇宙エネルギーが備えている超越感覚なんだ。人間は肉体を持つと同時に、きれいさっぱり忘れ去ってしまうが、決して喪失してしまったわけではない。だれでも持っている当り前の〝力〟なんだ。そんなものはない、と信じている卓君だってちゃんと持っている。ただ使い方を知らず、使いこなせないということだけなんだ」
「超能力が実在することは、俺も認めますよ。何しろ実の兄が凄い超能力者なんですから、認めざるを得ません。しかし、認めるとしても、私はあまりそういうことに触りたくないんです。恐ろしいことだし、そんなことに心を悩ましていたら、現実にやるべきことがおろそかになっちゃいますから......」
卓はあくまでも自分の現実主義に固執する姿勢を見せた。それは自己防衛の姿勢そのものだった。
「しかし、向うが攻撃を仕掛けてきたなら、触りたくないといっているわけにも行かないんじゃないかな? 攻撃が現実のものなら、こちらも効果的に防禦の方法を講じなければならん。四次元生物の危険は現実のものだ。つまり幻魔は超自然なやり方で攻撃をかけてくるだけじゃない。戦争や疫病や暴動や、ありとあらゆる社会的混乱を思いのままに引き起こすことができる。幻魔という四次元生物の本当の恐ろしさは、人間の心に入りこみ、乗っ取り、支配することにあるんだ。憎悪や不信や猜疑や嫉妬、反目の火をかきたて、油を火に注ぎ、煽りたてることにあるんだよ、卓君。人間は目に見えない侵略を受けて、自分では気付かないままに、破壊を行い混乱を拡大して行く。四次元生物の幻魔は、心の寄生虫なんだ。心に入りこみ、心を蝕み、心を狂わせて凶悪な破壊行為に人間を走らせる。しかし、物質だけが全てだと信じている多くの人間たちは、真実に決して気がつかない」
田崎の説得力は素晴らしい、と東三千子は讃嘆の気持を惜しまなかった。以前の田崎と異り、一本調子ではない。ただ単に理路整然と喋りまくるだけではなく、聞き手の卓に対する配慮があった。ただむやみに説得し、己れの考えをしゃにむに押しつける独善はいささかもない。
卓は本来、この種の〝四次元がかった〟話には怯気を振るう人間であり、何としてでも話題を避けようとするはずであった。自分から質問を仕掛けるなど、およそ考えられないことなのだ。
「どうも危いですね、そういう話を聞いてしまうと......でも、田崎さんは、そういう四次元生物から身を守る効果的な方法がちゃんとわかってるわけですか?」
渋面になりながらも、卓が質問を発する。
「わかっている。東丈先生がおっしゃったことを、今郁姫たちがどんどん証明しているんだ。郁姫たちは、いわゆる〝四次元世界〟へ自由に往来する力を身につけているんだよ。この肉体から霊体、つまり〝四次元生命体〟としての見えない体を分離させて、四次元の世界を訪ねることができる。天上界と呼ばれる高次元世界を訪問したり、幻魔の作る暗黒世界、つまり俗にいう地獄を探訪したり、大変な仕事を郁姫たちはやっている最中なんだ。明後日のセミナーで、郁姫たちはその研究を発表するんだが、よかったら卓君も聴きに来ないか? きっと得るものがあると思うんだが」
「そうですね......まあ、もう少し考えさせて下さい。じゃ、〝四次元生物〟から身を守る方法はあるわけですよね?」
「もちろんちゃんとある。東丈先生は、それを〝光のネットワーク〟と呼んでおられた。人間はだれでも意欲さえあれば、自分の心の状態を変化させて、幻魔が寄りつけないようにすることができるんだ」
「〝光のネットワーク〟ねえ......」
卓はやはり積極的な関心を唆られないようである。彼の現実主義は、確固不抜のものなのだ。相手が敬意を払っている田崎でなければ〝四次元〟ばなしに、ここまでつきあうことは絶対になかったであろう。
「難しそうですな、どうも。とうてい私などの手には負えそうもありませんね」
「そんなことはない。要するに、人間は自分勝手に、己れの力だけで生きているのではないと自覚することだ。大いなる宇宙エネルギーの慈愛とその意志に包まれ、抱かれて、生かされていると知ることだ。自分勝手に、きわめて即物的に生きているんじゃない、とわかった瞬間から、人間は心の状態が変わり、生き方すら変化する。
唯物主義の観点からすれば、人間は偶然の積み重ねによって生れてきたことになる。だから、どのように生きて、権力意志を発揮しようと人間の勝手だ。一回限りの人生なんだから、己れの生き易さだけを、最大限求めればいい。全ては偶然なんだ。どうせはかない人生、思いきり自己主張し、好きなように生きればいいんだ......そういう結論になる。
唯物主義を信じる人間は、必ず自分一人で勝手に生きていると信じこんでいる。人間の誕生は両親の快楽の所産であり、自然法則によって操作されたものでしかない。全ては偶然の連鎖なんだ。肉親からしてそうだ。別に両親を選んでこの世に生れてきたわけじゃない、と唯物主義者は必ずいう。全ては偶然の所産なんだから、何に対しても恩義など感じる必要はない。親が子を育てるのは当り前のことだ。恩恵に対して感謝などしないが、自己の権利だけはとことん主張する。しかしただの偶然の所産が人権を主張するなどおかしいんじゃないか。自分で勝手に生きてるんだったら、生得の権利も何もないはずだ。他人の権利と必ず食い合いになってしまう。互いの物欲がぶつかりあえば、共食いになり、闘争と破壊以外にない。互いに自分の権利をとことん主張すれば、相手の権利など認めていられない。土地にしろ金銭にしろ、美しい女にしろ、だれもが独占したがっているのだから。
つまるところは弱肉強食だ。自分で勝手に生きてる人間同士がぶつかれば、食うか食われるかに必ずなる。
しかし、そうではなくて、自分が意志ある宇宙エネルギーの大いなる慈愛によって抱かれ、生かされている、と悟った人間にとり、広大な世界が展かれる。全ては偶然などではなく、必然の所産だとはっきり自覚できる。人間は偶然に生まれるのではない。己れの意志で、両親を選び、全てを考慮に入れた上で地上に肉体を持つのだ。それは神によって与えられた素晴らしい機会なのだ、とはっきり知ることだ。偉大な宇宙エネルギーは、人間の一人一人に助力を惜しまず与えられる。そして人間は、己れの可能性を力いっぱい試すだけではなく、それを更に拡大する機会を神によって与えられている......」
「田崎さんがいわんとする意味はわかるんですけどね。そういう話を聞いていると、どうしても不安になり、恐ろしい気分になってくるんですよ。足許の大地が全然確固不動のものではなくなってしまう。自分が生きていることさえ、心細くはかないものになってしまうようで......ああ、厭だ! とどうしても思ってしまうんです。私は不信心者ですからね、神も仏も信じない。だけど、それでもなんとかうまくやっていられるんで......自ら望んで不安な心境にはなりたくないんです。田崎さんには申し訳なく思うんですけど」
「申し訳ないなんてことは少しもないが......しかし、なぜ不安になるのかな? 唯物主義で生きている方がよっぽど根元的な不安につきまとわれると思うんだが。人間は偶然の所産で、一回きりの生命と思いこみ、生きて行くのは恐ろしいことじゃないか? 死ねば人間は無に帰してしまう。だとすれば死ほど恐ろしいものはないはずだ。
人間はいつ死ぬかわからない。年を取れば、死を恐れぬ心境になるどころか、急迫した死を恐れ、生にますますしがみつこうと必死になる。欲望や執着は失せるどころか、更に大きく強くなって行く。死によって失うものはあまりにも大きすぎる。
それに引きかえ、死は新しい起点だという考えは、人間に大きな安心と余裕を与える。物欲にこだわることもないし、死を恐れることもない。自分の人生を完全に生き切ってみせようという意欲も湧いてくる。生きる不安は減り、心に安らぎを与えられる。自分の裡にある巨大な宇宙エネルギー、不滅のエネルギーを知れば、恐れるものは何もなくなる。
その開放的な考え方が、なぜ不安にさせるのかな? 卓君がこれまでしっかり守ってきた城の明け渡しを迫るからじゃないのか?」
「そうですね。でも、いろいろ疑問はありますよ。たとえば、宇宙の神があるとするなら、この世界はちょっとひどすぎるんじゃないかとか......人間として正視に堪えないむごたらしいことは歴史上無数に起きてるし、今だって現在進行形で、ベトナムなんかで起きてるわけでしょう。それひとつ考えても、神が存在するとは信じられなくなる。人間は不完全な生物で自己破壊的なわけですよ、どう見ても......
あるいは宇宙の神という巨大な意志存在があったとしても、ちっぽけな人類なんか、構っちゃくれないんじゃないですか? さしたることではないから、どうでもいいってね......仏教の考え方でいうと、人間は四苦八苦という業苦を背負って生きて行かなきゃならないわけでしょう? 人間が生きること自体が苦であるわけですよ。すると人間が地上に生まれるのは業罰で、神は少しも人間にとってありがたい存在ではない。むしろ人間を罰し、苦しめてやろうという意志にこり固まった恐ろしい存在ですよ。神というのは本当は間違いで、本当は悪魔かもしれない。つまり田崎さんたちのいう幻魔こそ、宇宙の神ってわけですよね。
そういうことを考えるのは、やっぱり恐ろしいし、不安ですよ。だから私は四次元とあまり関り合いたくない。一生懸命、自分のなすべきこと、やるべきことをやっていれば、そんな余計なことで、頭を悩ます必要はないですからね。
私はとにかく、柔道という目の前にある目標があるし、それに精神集中している限り、余分なことは何も考えなくてすむんです。またくだらないことで気を散らしていたら、目標達成なんておよそ覚つかないですからね」
卓は懸命に喋った。三千子は末弟の卓がこれだけまとまった内容を語るのを初めて聞いたようである。喋らせるとなかなか雄弁なのだなと感心する。
二人の議論はなかなか聞き応えがあったが、三千子は隣りのベンチに座っている人物にも注意を引かれていた。
12
平凡な風采の上らぬ中年男である。三千子たちが警察署に到着する前から、壁際の木製ベンチに座っていた。同様に待たされているのかと気にもかけなかったが、いっこうに呼び出される気配がない。
隣りのベンチにいながら、一度も三千子たちと視線を合わせないのも、奇妙といえば奇妙であった。
中年男は、明らかに田崎と卓の議論に対し聞き耳を立てていた。さりげなく装ってはいるが、全聴覚が集中しているのが、三千子にはわかる。
しかし、田崎の話は聞くだけの値打があったし、行きずりの人間であっても、小耳にはさんで関心を持ったとしても不思議はなかった。
三千子に視られていると知って、中年男に明らかに反応が生じた。微妙に固くなり、知らぬ素振りを装った。何も聞いていない振りをするのが歴然としていて、滑稽なほどであった。
三千子の神秘的な黒い瞳を向けられることは、中年男にとり大きな圧迫感をもたらしたようである。陽焼けした赤黒い顔に困惑の色が加わり、煉瓦の色合いに染まった。それを自覚することにより、男の狼狽と当惑は更に深刻化したようである。
意地悪して、相手の横顔を穴のあくほど凝視することもできたが、三千子は視線をそらして男を解放してやることにした。
男は明らかに安堵して、ポケットの新生を取り出し、しみったれた手つきで吸い始めた。これで三千子の瞳を直視したら、どういうことになるのか、とふと考えた。しかし、相手が決して目を合わせまいとしていることは確かであった。
ほんの時偶、三千子は自分の瞳が備えている奇妙な力を意識することがあった。自分が何気なく視線を向けるだけで、人によっては明らかにたじろぐのであった。もとより三千子には何ら含むものなどありはしない。にもかかわらず、たじろぐ相手は強烈な圧力をかけられたように惑乱し、怯え、狼狽して逃げるように立ち去るのだった。
──三千子さんの瞳に見られていると、噓がつけない......それは昔から三千子が友人知己の口からよく聞くせりふであった。
──何もかも心の奥底まで見抜かれるような気持になるんだ。ほら、よく赤ちゃんの無心な黒い瞳でじっと穴が開くほど凝視されると、なぜかドギマギしてしまうだろう? あれよりもずっと強烈な困惑に駆られてしまうんだ。三千子さんには何一つ隠せないという気分になってひたすらおそれ、かしこまってしまう。不思議だな......
三千子の親しい友人はそう告白した。
──自分の心にある邪悪な思いを、三千子さんに向ってべらべらと喋り出し、告白してしまうんじゃないかという強迫観念に捉われてしまうんだよ。自分で自分が恐ろしくなってくる。
三千子さんには、邪悪な心を持った奴は近寄れないんじゃないかな? 評判の悪い奴はみんなあわてて逃げて行ってしまうみたいだ......善い人たちしか三千子さんの傍には残らなくなる。みんな三千子さんを女神様みたいに崇拝している者ばかりだものね。
確かに親しい友人のいうことは当っているようであった。三千子は昔からいい友人や先輩に恵まれていた。仕事の関りを持つ編集者たち、先輩、師匠格の翻訳家たちもいい人たちばかりであった。人とのつながりでは、自分は本当に恵まれている、と三千子は常々思い、感謝していた。
もちろん、それが己れの人徳や魅力にあると思ったことはない。その点、三千子は不思議なほど控え目な性格を持ち合わせていたのである。思い上ったり己惚れたりする精神をどこかに置き去りにして生れてきたようであった。
下働きを務め、縁の下の力持ちを演じる、助力者の立場が少しも厭でない。それどころか完璧に自分の性に合っていると感じてしまう。一番困惑するのは、人前に引っ張り出され、思わぬ脚光を浴びることにほかならなかった。
己れ自身を、この上なく凡庸だと信じているだけに、他人が己の蔵した才能を指摘することは面映ゆく、また信じがたい。けれども、自分の瞳には不可解な力、他人をどぎまぎさせる力がひそんでいることだけは、時折意識せざるを得なかった。普段は全く忘れ去っている。
意図してのことではないから、その〝力〟が恒常的なものかどうかも定かではない。邪悪な意識の持主を逃走させるほどの力があるとはとうてい思えない。しかし、時として、他人が示す困惑はあまりにも歴然としており、三千子自身驚き、申し訳なさを覚えてしまうほどのものであった。
今、隣りのベンチにいる貧相な中年男は、三千子の黒い瞳に見詰められ、強い反応を示していた。明らかにすみやかに立ち上り、その場を去りたい衝動と闘っているのだった。三千子の視線がそうさせたのである。
三千子は再び視線を男に戻すと、本来の彼女にふさわしくない執拗さで、中年男をじっと見ていた。男は動揺し、それを隠掩しようとするように、むやみにタバコを吸った。しわが、畝を作った、なめし皮のような顔の皮膚が、耳の下から顎にかけて血が集まり、赤黒くなってきた。相手が中年男であるだけに、これだけ端的な当惑と羞恥を露わにするとは不思議な気がした。
三千子は、ふと男に話しかけてみたい衝動を覚えた。なぜ彼がそんなに動揺しているのか知りたくなったのだ。
かつて、親しい友人がいったように、心に邪悪な思いを秘めているがゆえに、三千子の視線に堪え切れないのか。しかし、たまたま警察署の待合用ベンチで隣り合わせただけの平凡で貧相な中年男が、なぜ三千子に対してそのような邪悪な思いを心に秘めているのかと考えると、疑わしくなった。
三千子は、自分が男の性的欲望の対象になるとは考え及ばなかった。そうした性的吸引力とは無縁だと固く信じこんでいたからである。それは彼女が完全無欠に、自己顕示欲と無縁だということではない。自分が男のリビドーをかきたてたり、欲望の水位を上昇させる要素を持つとは、いかにしても実感が持てないのである。
全く、次元が異る......そんな気がしていた。自身の裡に、男の気を唆ろうとする意志が少しもなかったせいかもしれない。
が、中年男が裡に抱いている邪心(?)は、そうした性的な生臭さとは別種のものであるように思えた。そうした卑猥さが皆無というのではないが、やはり別のものである。
男に話しかけたいという三千子の衝動が高まるのを察知したように、相手はにわかに立ち上った。どうするのかと見ていると、そのままカウンターには行かず、警察署の建物を出て行ってしまった。
慌しい立ち去りようであり、奇異な印象は否めなかった。これまで何のために警察署の待合所でねばっていたのかわからない。
三千子も席を立った。男の後を追うためではない。いつまで待てというつもりなのか、カウンターの警察官に尋くためである。呼び出しを受けたというのに、もうかれこれ小一時間も待たされているのだ。
「ああ、今来ます」
と、カウンターの警察官は、署内の奥を振り向いて答えた。
制服をつけた初老の男が、階段を降りてやってきた。今まで何をしていたのか、と不審な気がした。席をはずしているといっても、同じ署内にいたのではないか。
「ああ、東さんかね? や、どうもお待たせしてすみません」
東北なまりがあった。丸顔で鼻梁は低く、鼻翼の横に疣があった。もっさりとしていて、風采は上らない。が、さすがに眼付だけは特殊なものがあった。ぎょろりとしていて険がある。いかにも穏和そうだが、目だけが常人と異っているのだ。
「東三千子でございます。青柴様という方から、ここへ来るようにと電話でお託けがあったというものですから、伺いました」
「わたしが青柴です。わざわざお越し願いまして恐縮です」
青柴は、三千子の容貌に何か感じることがあったのか、物腰をやや改めていった。がぜん興味を覚えたようであった。
「あたくしの弟の、東丈のことで、何かお話があるように伺いましたが......?」
「ええ、まあ、ちょっと......そちらの方々は?」
青柴は田崎と卓に視線を向け、二人は会釈を返した。
「ああ、東卓君ね。高校柔道選手権で有名な......」
青柴は卓の名を知っていた。
「この間のインターハイは残念だったね。惜敗で......」
「いえ。まだ高一ですから......」
「こちらは田崎宏さんとおっしゃって、あたくしの知り合いの方です。付添いで来ていただきました」
「ああ、なるほど、付添いね」
青柴は田崎のことを知っているのではないかという印象を受けた。表情が乏しく、感情を表出しないが、三千子には相手の心の動きがわかるような気がした。
稀代の乱暴者であった田崎は幾度も警察の厄介になった過去があり、そのことでも顔を知られているのかもしれない。むろん、ありうることである。が、田崎本人には面識がないようであった。
「ちょっと、こちらで話しましょう」
青柴は、彼らを待合用のベンチに導いた。
「東丈さんという方は、何か新興宗教の教祖さんのようなことをなさっとるのですか?」
青柴は胸ポケットのタバコを探りながらいった。古手の警察官のくせに、三千子の視線が気になって、いささか動作に滑らかさを欠くようであった。
「新興宗教とか教祖ということではありませんけれども、弟の考えに賛同する人々が集まった会をやっております。宗教法人ではなくて任意団体で、GENKENと呼ばれておりますが......」
「そうそう、そのGENKEN。そういえば、週刊誌によく出とりますなあ。GENKENのことや会長の東丈さんのことなどが......」
「はい。近頃ではマスコミの方々の関心を引いているようで、よく取材の申し込みがございます」
「塾というのは何ですか? GENKENとはまた別ですか?」
「塾と呼んでおりますのは、〝無名青年塾〟のことで、やはり東丈が塾長を務めております。こちらの田崎さんは、塾の塾長代行をなさっておられます」
「ああ、なるほど......」
しかし、週刊誌を読んでいるなら、それくらいのことは先刻承知のはず、と三千子はおかしな気分になった。
「その〝無名青年塾〟というのでも、やはりGENKENのようなことをやっておられるわけですか?」
「塾では、人間修養ということを主眼においてやっております。いってみれば、道場でしょうか。あたくしも塾の方をいろいろお手伝いさせて頂いております」
「ほう、それは......お姉さんのあなたもやはり霊能者ですか?」
「いいえ。あたくしには全然、霊能はございません」
「東丈さんは、何やら史上最大の霊能者とかいって騒がれているようですなあ? GENKENとか塾は、霊能者団体とかマスコミで書きたてているようですが、本当ですか?」
青柴が週刊誌をよく読んでいることは、しだいに明らかになった。
「そういう傾向も全くないとはいえないようです」
「お姉さんは、非常に複雑な言い廻しをなさる」

青柴はしきりにタバコをすいながらいった。ユーモアの乏しい人物のようであった。
「お姉さんも会や塾でむずかしいことを教えておられるのじゃないですか? 超・心理学とかなんとか......なんでも英語にご堪能とかで......」
彼は超心理学を、超と心理学に分けて発音した。そうした特殊な用語を記憶しているだけでも、たいしたことなのかもしれなかった。
「いいえ、とんでもございません」
「でも、本を何冊も出しておられるんじゃないですか?」
「はい。でも、翻訳書ですから......あたくしの職業は、英米文学の翻訳家ですので」
「ほう、そりゃ、たいしたもんだ」
本気で感心しているようないい草であった。
「英語の翻訳家さんですか......そりゃ大変ですなあ。わたしはあまりそうした本は読まないが。やっぱり難しくて肩が凝りそうで」
三千子の心に多少、苛立ちのさざなみが生じた。一向に要領を得ない話ぶりだ。
「で、GENKENや無名青年塾には、若い人たちがだいぶ集まっているようですが、全体的にどれくらい人数がいるわけですか?」
「会員はだいたい四百名、塾の方は五十名ぐらいですか、田崎さん?」
と、三千子が田崎を振り返る。田崎は大きな目玉で頷いた。
「塾生は四十八名おります。その他にまだ登録されていない者、小学生を含めて五名ほどいます」
「それで、会も塾も両方とも、目下目覚ましく活動中というわけですか?」
「皆さん、一生懸命努力しておられます。その姿を拝見していると、あたくしまで励まされる心地がいたします」
「いわゆる新興宗教ではないといわれたが、やっていることは似たような感じがしますが......若い人たちを集めて、精神教育を施し、錬成するということでしょう? 家庭や学校から隔離して、集団生活をさせながら、会や塾の思想を叩きこむということですか?」
「いいえ。会でも塾でもそのような極端なことはいたしておりません。両親や保護者の承諾を得た者でない限り、活動には参加させない方針を取っております。もしかすると、青柴様は、原理運動のような過激なものをお考えではないでしょうか?」
「いやいや、そのようなことはありません」
青柴はタバコを指の間にはさんだままの手を忙しく振っていった。
13
「しかし、週刊誌を読むと、GENKENに入会した者には大変な超能力が付くとか書いてありますが、全くの事実無根というわけでもないらしいですなあ。先程、お姉さんも霊能者団体という傾向がなきにしもあらずといわれましたが」
「はい。でも、しだいに霊能を目覚めさせた方々が結果的に増えてきたということを申し上げたかったので、会や塾へ入ったからといって霊能者になれるということは決してございませんし、そのような目的を持って入会しようという意図は固く戒めているようです。弟の丈は常々、霊能自体にはさしたる意味はないと力説しておりましたから。目には見えず触れもしない高次元の世界が存在するということの証明にしかすぎないと申しておりました。常人が持たない霊能を得て、増上慢になったり悪用しようとする心を起こしたりするのは恐ろしい結果を招くし、それくらいなら、霊能などない方がよい、人間が人間らしく立派に生きることの方がよっぽど素晴らしい......。弟の丈はいつもそう皆様方に説いておりました」
「なるほど、なるほど。それでは、会や塾では霊能が付くといって若い人々を集めたりすることはまったくしていないと......?」
「はい。でも、丈の考えによりますと、人間はだれでも潜在的な霊能を持っている、それは人間が本質的に霊であって、霊の備える力がいわゆる霊能とか超能力と呼ばれる超自然的な力なのだ......そう申しております。人間は一人の例外もなく、本当は霊であって、地上に生れ出て、肉体という衣をまとった時に霊の持つ力は潜在してしまう......。少数の例外、霊能者という人々を除いて、大部分の人間は、霊能に縁がなくなってしまう......でも、完全に埋没したのではなく、だれでも虫の知らせやインスピレーションという形で、第六感を働かせることがある......。丈はそう語っております」
「お姉さんは非常にお話がお上手だ」
青柴は本気で感心したようにいった。
「お話を聞いていると、わたしまでふっとそんな気がしてきますよ、いや、本当に......そうしますと、会や塾に入会しますと、非常にいいことがある。第一に人間修養ができ、あわよくば霊能者にもなれる、と、まあこんなわけですな? いいことずくめで、大変素晴らしいし、それだと入会希望者が殺到して、大変なんじゃありませんか? これだけマスコミで大々的に無料宣伝してくれると、全国的に注目されますからなあ......今は小さくても、あっという間に何千、何万と会員が増えて、急成長するんじゃありませんか?」
「確かに、今マスコミの方でとても注目されておりますけれども、丈の方針でいたずらな会員増は避け、組織拡大は行わないということになっています。その理由は、会員の意識が低いままに組織がただ大きくなっても水ぶくれになるだけで、質が低下し、大きな弊害が生じるという考えによります。現在の巨大教団のようになったとしても、それは根底的に腐ってしまうだけだ、といっておりました。そのために、丈は新入会を極度に制限し、会の規模をできるだけ小さく抑えると決めております。組織拡大には弊害の方がはるかに大きいものがあると......」
「なるほど。それは一風変った考えではありますな。せっかく会員になりたいという人たちが沢山来ても、まあちょっとそれは待ってくれというわけで......本当にあなたはやる気があるのか、霊能を得るとか有名になるとかが目的じゃないのか、もしそうだったら、お引き取り下さい。会では人間修養が第一で、それを通じて世直しをするんだ、と、〝宇宙的真実〟というものを世の人々に知らしめて、心を鍛え直す方法を教えるんだ、とこういうわけですな?」
青柴が会や塾について、最初何も知らない振りをしていたことは明らかであった。
「だいたいにおいて、おっしゃることは当っていると思います。丈は人間修養とか世直しという言葉は決して使いませんけれども......ただ、〝宇宙的真実〟を全人類が知れば、人類の歴史は必ず大きく変る、と確信を持って申しております。人類の悲しい闘争と破壊の歴史、戦争や大量虐殺は、人間の本質が霊であり、人種や民族、国家を超えた、偉大な高次元の存在であることを知らないために、忘却してしまったために起こるのだ、と......人類は霊であるがゆえに、全て平等であり、同胞であり、親兄弟にも等しいのだ、といずれ人類の全員が悟るだろう。その時に世界には真の平和が訪れ、真の理想境が築かれるための礎ができるだろう。それを招き寄せることが、会や塾の目的なのだ、と丈は人々に訴えております」
「はあ......お姉さんの口からお話を聞くと、なんとも素晴らしい考えですなあ。わたしも今、ふっと心が動くのを覚えましたよ」
青柴は真面目な貌でいった。
「もし、それが本当なら、自分も〝宇宙的真実〟を知ってみたい......自分もあの戦争では肉親や友人を沢山なくしておりますから。二度とあの無惨な戦争は起こしてくれるなよ、と、死んだ者たちがいっているような気がしますのでなあ......。今、お姉さんからお聞きした以上のことを、教祖さんの東丈氏は話しておられるんでしょうなあ?」
「あたくしはただ、弟の丈の話すことを、そのままお伝えしているだけですので......」
「なんでも三月初めに、東丈氏は本を出されるとか......〝幻魔の標的〟とかいいましたなあ」
「はい。本をお読み下されば、丈の考えはほぼおわかり頂けると思いますが」
「ところで、同じ東丈氏がやっておられるのに、なぜ会と塾とに分かれているんですかね? GENKENと〝無名青年塾〟というのは、何か理由があって分離しているわけですか?」
「私が東丈先生にお願いして、塾を作らせて頂いたわけです」
田崎が大目玉を光らせていった。
「ぶっちゃけていえば、塾は落ちこぼれの集まりです。非行少年や虞犯少年、元ヤクザのチンピラに至るまで......道を誤まっていた若い人間が勇気をもって道を引き返してくることが可能なように、東丈先生のご配慮を頂戴しました。私自身、以前は非常に粗暴な性格でして、幾度も暴力団相手に大乱闘を演じた過去があります。このS警察署にもご厄介をおかけしました......塾は、会に参加しにくい経歴を持った若い人々を対象にして作ったものです......」
「なるほど、なるほど、そうですか。それは立派な人助けですなあ。なかなかできないことですよ、それは」
青柴はしきりに丸顔を頷かせながらいった。まんざらその感服ぶりは噓ではなさそうであった。
「どうでしょう、私も一度是非、若い人々の錬成ぶりを覗かせて頂けないものでしょうかね?」
思いがけない申し出に、田崎と三千子は顔を見合わせた。
「私もこうして、警察で少年係を拝命しております関係上、非常にその塾での錬成、人間修養ということには関心が湧きます。お話を伺っていると、どうやら大変ユニークな、宗教的要素も加味した錬成をされているようでたいへん興味があります。もちろん、これは警察官という公人ではなく、私青柴個人として訪問させてもらえればありがたいのですがね......」
「それは、よろしいのではありません?」
と、三千子は、助言を求めるように彼女の顔を見ている田崎に向けて素早くいった。
「あたくしたちのやっていることに、真面目な関心を寄せて頂けるのは嬉しいことですもの」
「いつでもお越し下さい。塾としては歓迎します」
田崎は、三千子の意を汲み取ってすみやかに応えた。三千子の波動に対して、彼は驚くほど鋭敏であった。
「そうですか、お聞き届け願えますか、それは嬉しい......」
つるりと顔を掌で撫でて青柴はいった。
「で、東卓君も塾の方で活躍しておられるのかな?」
「いいえ。僕は柔道の方で精一杯ですし、あまり宗教的なことは得手ではない方なので......」
卓は気を許したのか、そんなことまで喋った。張り詰めていたものが緩んだらしい。
「兄や姉は、宗教的な性格ですが、僕はどうも唯物論の方が性に合いますから」
「有名人の兄さんを持つと大変だね、卓君も......」
「そうですね。でも、それよりもお前も超能力で試合をするのかといわれるのが弱りますね。僕には全く四次元の気はないもんですから......」
「四次元の気とはよかった」
青柴がタバコのヤニで染まった歯を剝いて破顔する。ぎょろりとした目はしんそこから笑ってはいない。
「で、最近お兄さんはお留守とか、さっき電話で卓君はいってたが......家にはずっと帰らないとか。しかし、GENKENの方にも全く出ていないとすると、お兄さんの東丈氏は今、どちらにおられるのですかね?」
「丈は旅行中でございます」
と、三千子は卓から引き取って答えた。
「旅行中? どちらへ行かれたのですか?」
「大峰山の方へ行ったはずです。弟は修行のため山に入りますので」
「吉野の大峰山? しかし、今は雪が深くて入峰は出来ないんじゃありませんか?」
「丈は常人の持たないような霊力を持っておりますので、雪など全く苦にしないようでございます」
「なるほど......週刊誌には役小角の再来なんて書いてありましたなあ。すると、東丈氏は空中飛行術なども身につけておられるんですか?」
「さあ、それはどうでございましょうか」
三千子は軽く笑って、相手の好奇心をいなした。
「丈は、霊能や超能力と呼ばれる力を、無闇とひけらかすことを、有害な自己顕示欲の肥大化につながるとしてたいへん嫌い、皆にも強く戒めておりましたから......丈の本当の力はだれも知っておりません」
「それにしても、素晴らしい行力というか法力の持主ということは、間違いないわけでしょう? 役行者と比べられるというだけでも大変なことですよ。しかし、お留守中となると、どうやって東丈氏に連絡をつけたらいいんでしょうかねえ。何か方法はありませんか?」
「弟が大峰山にこもって行中となりますと、こちらからは何ともいたしかねますので......他の者が大峰山に登ることも不可能ですし」
三千子は相手の柔和さには少しも気を許していなかった。険のある眼が、警察官という職業柄からも気になった。
「あの......弟の丈にどのようなご用がおありなのか、お尋ねしてもよろしゅうございますか? 丈のやっております、会や塾の活動に、何か関りがありますでしょうか?」
「いや、もちろん、東丈氏の布教活動に関りがあるといえばあるのですがね......」
青柴は、タバコを持った手で、首の横を搔いた。火傷するのではないかと思いながらも、再び緊張感が上昇するのは避けがたかった。
「東丈氏が留守で連絡がつかないとなると、どうしたものかな......」
三千子と田崎は再び顔を見合わせた。厄介事には違いないだろうが、三千子たちが予想したものとはいささか差異があるようであった。
「実は家出少女を保護したのですがね。北海道から来たというんですよ」
青柴はようやく本題に入った。それまでの長い前置きとは何の関係もなさそうであった。
「ずいぶん遠い方から......でも、それが何か丈と関りがあるのでございますか?」
「まあ、あるといえばある......つまり週刊誌の記事を読んで、東丈氏に是非逢いたい、逢って相談に乗ってもらいたいということで、家を飛び出しまして、上京したということらしいのですよ。東丈氏の自宅を捜してウロウロしているところを保護されたのですがね......」
三千子と田崎は、釈然としない面持で、青柴を見詰めていた。家出少女と東丈との間にどんな関り合いが存在するのか、ぴんと来なかったのである。
「なぜ渋谷のGENKENの方へ訪ねて行かなかったかというと、週刊誌の記事を読んで、会長先生には逢えそうもないと思ったというんですな。マスコミの取材も新入会員もシャットアウトするきびしい体制が敷かれておる、と......それで東丈先生の自宅へ直接押しかけて、何としてでも逢いたいと思ったといっております。
そして電話番号簿を調べたりして、東丈先生の自宅を探し出そうとしているところを、うちの署員の目にとまり保護されてしまった、とこういうわけです」
「でも、それは先方様の勝手な思い込みで、家出したことに関しても、丈とは何の関りもないはずですけれど。丈がその方の家出を唆かしたり、東京へ訪ねてくるようにといったわけではございませんのでしょう?」
「まあ、それはそうでしょうなあ」
青柴は曖昧模糊とした表情で呟いた。
「たとえば、丈と手紙の遣り取りをしていたとか。そのようなことはありえないはずでございますけれども......その方の家出は、丈と直接関りは何もないのではないでしょうか?」
「具体的に交流があったり、上京を勧めたり、家出を唆かすようなことはなかった、とにかくそうしたことを証拠立てるようなものはないようですな」
「それは当然のことだと思います。無責任な週刊誌の記事を読んで、家出をして丈に逢いに上京したからといって、丈には何の責任も存在しないと思いますが」
三千子ははっきりといった。この控え目でおとなしやかな女性が一度意志を表明すると、それはだれにも誤解の余地のないものになった。
「GENKENでは、今、別の方が東丈の代行を務めております。週刊誌ではその方のことも丈以上に大きく扱っておりますのに、なぜ丈に逢うことにだけ固執なさったのでしょうか?」
「それは、やはり特殊な思い込みなのでしょうなあ」
青柴はますます曖昧になってきた。
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「特殊な精神状態にある、ということでございますか? 正常な理性が働かないというような?」
「それは大いにありえますね」
「だとしますと、今後、丈たちのやっております活動が社会的な関心を更に集め、報道されるようになりますと、そのような特殊な偏った精神状態の方がもっと増えて、丈に逢おうと押しかけてくるようになると思います。実際にGENKENの方では、昨年から精神的にかなり失調された人々が押しかけて、警察のお世話になっております」
「どうもそのようですな。週刊誌にも出ておりましたね」
相手はいささか当惑しているようでもあった。
「その家出なさった方というのは、どんな方なのですか?」
「十七歳の女子高校生です。どうしても、東丈先生と逢ってお話がしたい、そのためにわざわざ北海道から上京した......お話ができなければ帰れないといっています。大変に強く思い込んでおる有様だし、ちょっと特殊な状態でもあるので、何とか東丈先生と一言二言でも話させたら、納得するのではないかと思ったのですがね......」
「でも、北海道からわざわざ上京されたといっても、丈の方からお願いしたわけではないと思いますが。どうしてもと上京なさるのは先様の都合で、丈とは何の関りもございません」
「それは確かに向うの勝手な都合には違いないのですがねえ」
「そのような自己本位な都合をこちらに押しつけてよこす方々はとても多いですし、いちいち時間を割いていては、多忙な丈は他に何もできなくなってしまいます。それはやはりはっきりとお断わりして、お引き取り頂くほかはございません」
「それはもう、もっともなのですがね......」
「他に何か、特別な事情でもあるということでしょうか?」
三千子は、相手の当惑を見かねて、つい尋く必要のないことを尋ねた。
「それが、ちょっと特別な女の子でしてね。扱いが難しいわけです......それで、東丈先生に直接、お話して頂いた方がいいと判断したのですがねえ」
「特別な、と申しますと? やはり精神状態に失調を来しているということでございますか?」
「いや、もちろん普通の状態とはいえないでしょう。その女の子は、自分のことを霊能者だと自称していて、なんというか、非常に神懸りになっているわけです」
「でも、そういう自称霊能者や、神懸った方はGENKENの方へ幾らも押しかけてきます。その家出なさった方だけが特別とは申せません」
「しかし、どうも霊能があるというのは、噓ではなさそうでしてねえ。かなり気持の悪い思いをさせられましたよ。人の心をずばずばと読み取ってしまうんです。これはちょっと、東丈先生でないことには、手に負えないのではないか。先生に説得をお願いできないかということで、ご自宅の方へ電話させてもらったわけです」
それで、三千子に向って霊能者なのかと質問したわけがわかった。霊感少女を相手にして、この少年係の警察官はすっかり手を焼いているのだ。
「そうしたことは、別に珍しいことではないようです。弟の丈は、人間はだれしも潜在的な霊能の持主であり例外は一人もいない、と説いておりますから。でも、そのような霊能は、無視なさればよいのではないでしょうか? 人の心を見抜くのは、本当はたいした芸当ではなくて、低級な動物霊の行う得意な手口と申しますから」
「お姉さんはやはり、霊界についてたいへんお詳しいようですなあ。しかし、正直いうと、霊能やら何やら、我々のような凡人の手には余ります。他人の心の中のことをずばりずばりといい当てられては、気味の悪いの何の......説諭しようにも......みんな浮足立ってしまう有様でしてねえ......」
「北海道のお宅の方では、引き取りにお出にならないのですか?」
「何分、遠いですから、すぐにもとは行かないようで。何やら複雑な家庭環境らしく、電話に出た相手は留守番なので、どうしていいかわからないといいますしねえ。両親というのも、実は養父母らしいんですよ。家庭内はかなり乱れていて、娘が家出しようと何しようとあまり関り合わない、構わないという状態らしいです。ですから、うちでも保護はしたものの、家の方をまず説得しなければならないという面倒なことになってしまって......」
青柴はいかにも恐縮の面持になって切り出した。
「いかがなものでしょう。ひとつお姉さんから、女の子によくいい聞かせてやってもらえないものでしょうか? 一途に思い込んだ東丈先生の実のお姉さんに話してもらえば、少しはわかるんじゃないかという気がするのですが......」
「あたくしに、家出された方を説得せよとおっしゃるのですか?」
三千子はさすがに驚きを隠せなかった。
「何とかお願いできませんかねえ......お姉さんなら大変お話もお上手だし、先程から聞いていて、これなら大丈夫ではないか、きちっと説諭できるのでは、と確信したわけです。はなはだ勝手な申し分ですが、どうか是非ひとつお願いします」
「でも、あたくしはそういう特殊な精神状態の方を説得したことはありませんので」
郁江にならできるのではないかと思いながら、三千子は固辞しようとした。精神異常者を相手に説得を試みるのは経験がないだけに恐ろしくもあった。相手が霊感少女というのならなおさらのことであった。人の心をずけずけと指摘するなど、真平である。
「お姉さん。お話しになってみてはどうですか?」
と、田崎がいきなり発言した。
「お姉さんになら必ずできますよ。間違いないと私は思います」
「田崎さんまで、そんな......あたくしには何の自信もありません。第一、どうやって説得していいやらわかりませんもの」
「それは、お姉さんがいつも会や塾でみんなに話しておられるようになさればいいんだと思います。お姉さんの言葉は、どんな人間の心にもすっと入って行く素直な波動です。とにかく家出少女とまずお話しになってみるのが、先じゃないですか?」
「でも、人の心をずばずばと見抜いてしまう霊能者なんて......」
三千子はなおも躊躇した。
「しかし、お姉さんのように、欲望や執着を去った透き徹った心をお持ちなら、たとえ心を見抜かれたって平気なんじゃないですか? 見破られて困るような浅ましい心根はお持ちじゃないんですから」
「それは買い被りですよ、田崎さん。あたくしは平凡な女にすぎませんし、欲望も執着もなくて清浄そのものなんて、とんでもない買い被りですわ。あたくしはそんなに浄らかな心の持主ではありませんもの。見透かされてしまって困ることはいくらもあります。本当にそれは困りますわ......」
「でも、人間はいつも高次元の人や幻魔から間断なく心を見られているわけでしょう? お姉さんは若い者たちにいつもそうおっしゃっている......だとすれば、今更だれに心を覗かれても、たいしたことはないじゃないですか?」
「それはそうですけど......」
三千子は苦笑した。田崎も説得にかけてはなかなか巧妙であった。それに、いつも若者たちに話しているのに、という指摘がよくきいた。いつ、だれに心を見透かされても恥じないように生きるべきだ、と若者たちに告げながら、己れ自身はその教えと乖離しているのでは、あまりにも偽善的といわねばならないだろう。
「わかりました。その家出少女の方とお話してみます。どの程度お役に立てるかわかりませんけど......とにかく東丈の代理人という気持でやってみますわ」
「それは有難いですな」
「心配ないですよ」
と、青柴と田崎が同時にいった。
「じゃ、姉さん、僕は家に帰るから」
と、卓があっさりといった。もうすっかり関心が失せたらしい。時間潰しをしてしまったと思っているのだろう。田崎に挨拶し、青柴に一つ頭を下げてベンチを立ち上る。
「どうもお手数かけて申し訳なかったですね......柔道、ひとつ頑張って下さいよ」
と、青柴が愛想よくいった。卓はさっさと立ち去った。人の心をことごとく見透かす霊感少女のような剣吞な代物からは、できるだけ早く遠ざかるに越したことはないといいたげな足取りであった。
「では、こちらへ......」
青柴は先に立ち、三千子と田崎を案内した。
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二人がいざなわれたのは、階段を二階に昇った突き当りの小部屋であった。明りとりの小窓には鉄格子がはまっている。取り調べ室なのかもしれない、と三千子は想像した。正常な市民にとっては心地よい場所ではないが、同行した田崎は平然たる顔色であった。暴力団との大喧嘩でこの警察署にもお世話になったというから、馴染みなのかもしれない、と三千子はおかしくなった。
いやが上にも緊張を強いられる場所だが、三千子は逆に心が鎮まってきた。度胸が据ったというのか、心構えが生じたからであろう。説得が失敗しても、どうせもともと、と思えるようになったのだ。極度に思い込みと偏りの強い〝霊感少女〟を説得するのは、専門家にとっても困難なのだ。
素直な気持で対面してみようと思うと、心がにわかに透き徹り、拘泥や緊張がすっと解けてしまった。
「大丈夫ですよ。お姉さんの顔がとっても素晴らしくなりました」
と、目敏い田崎が見つけていった。
「ゆったりしてやわらかい気持で会われた方がいいですよ。お姉さんの顔、神々しいです......」
とんでもないいい草に笑わずにはいられなかった。しかし、田崎は生真面目な顔付だった。
「いや、本当です。時々お姉さんはとても神秘的な顔になられて、東丈先生そっくりになります。天使族の顔には共通した特徴があるような気がします......」
〝天使族〟などといわれても困るが、田崎はあくまでも本気のようであった。
「では、ここで少々待ってて下さい。今、家出少女を連れてきます。岩戸幾代というんですがね......」
青柴は二人を小部屋に残し、せかせかと廊下を歩き去った。二人は、小部屋の貧弱な什器、ニスが剝げちょろけの古びた傷だらけの机や椅子などを熱意もなく見廻していた。観察するほどのものは何もなかった。
「やはり、こういうことは、郁江さんが適任だと思いますけど」
「そんなことはないです。東丈先生の代理人なら、だれでも適任です。とりわけお姉さんは一番ふさわしいですよ」
「あたくしね、さっき田崎さんが、素直な心で、とおっしゃった時にはっとしたんですよ」
と、三千子は静かにいった。
「いつの間にか、自分の裡に身構えるもの、自分を守ろう守ろうとする防壁のようなものができてしまうんですね。最初は白紙の心で、〝宇宙の法〟を学んで行こうとしていたのに、いつの間にか気負いが生じてしまって......自分の内に蓄積した〝知識〟に対して自負心が湧いて、人に誇りたいという昂った気持が生れてしまっている......若い皆さんにお話しているうちに、教師気取りになって、知識だけを切売りし始めている。だから、人に反撥されたり、いい負かされたりするのが、だんだん恐ろしくなって、できるだけそういう機会を避けようとするようになってしまうのですね。結局は、自分の考え、自分の意志を他人に押しつけることだけが目的になってしまうんです。素直な気持でいれば、他人の反撥が厭で自己逃避するようなこともないはずですものね。
結局、他人に教示を与えたり、他人を説得していいなりにするという、自負心が元凶なんです。そういう昂った気持、高慢さはいつの間にか自分を乗っ取って動かしているんだ......それが今はっきりと見えたような気がしたんですのよ」
「お姉さんらしい言葉だと思います。今おっしゃったことは、将来会にとっても、塾にとっても大きな問題になるかもしれないですね。とかく、知識だけを受売りして、他人に教えてやるんだという高慢な気持になりやすいものですから......今のお姉さんのおっしゃったことを郁江にも聞かせてやりたいものです」
「郁江さん、どうかなさったんですか?」
聞きとがめて、三千子はすかさず尋ねた。
「いや。郁江の取り巻き......〝宮内庁〟とか呼ばれている若い連中に対してちょっと批判の声も出てきていますので。やっぱりいくら厳しくいわれても、エリート意識はどうしても芽生えてしまうんでしょうかね。その辺が、ちょっとわかっていないという気がするんです」
「難しい問題は際限なく出てくるのですね」
「まったくです」
そこへ〝家出少女〟が廊下をやってきて、二人は深刻化しかけた会話を中断した。
「そこ、入んなさい」
ドアを開けて、青柴が促した。
最初の印象は中学一年生かというものだった。それほど小柄であり未成熟だったのだ。しかし、瞳の光の強さには際立ったものがあった。
東丈や井沢郁江の意識圧の高さが、瞳の強いきらめきとなっているのと、だいぶ異るようである。二人に共通している、はっとするような際立って鮮やかな瞳の明るさというものではない。
精神の内奥から光が溢れだしてくる瞳とは違うが、気の弱い人間なら気圧されて目をそらしてしまう眼の光の強さが存在していた。
しかし、それは思い詰めた者の偏執的な眼光であり、思い込みの強さを証す以上のものではない、と三千子は思った。
必ずしも好意を持てる第一印象ではなかったが、彼女は穏やかな波動をもって、強すぎる自我を顕す視線を受け止めた。
「こちらは、その、東丈先生のお姉さんだ。先生がお留守だというので、わざわざお姉さんが来て下さったんだ」
と、青柴がいった。
「お話して下さいとお願いしたら、快く引受けて下さった。いろいろ話もあるだろうけれども、まず挨拶をしなさい、名前を名乗って......ほれ」
「東三千子と申します。東丈の姉でございます」
三千子は先を取って自己紹介した。
「弟の丈をお訪ねになったそうですけれども、あいにく丈はずっと留守をしております。あたくしではお話がわからないかもしれませんが、あたくしでよければ一応、お話を承ります」
「お姉さんですか」
家出少女の声はしゃがれていて低く、年齢相応の甘さというものと全く無縁であった。突き詰めた強い眼光とよくマッチしていた。
「私、岩戸火見子っていいます。北海道から上京したのは、東丈さんに逢いたいと思ったからです」
押しつけるような口のきき方であった。他人のことなどお構いなく、一方的に自分の考えだけをいい渡すという強引さが基調になっているのが感じられた。
「あんた、名前は岩戸幾代といったんでなかった?」
と、不審げに青柴が口をはさんだ。
「それは戸籍の名前です。親が勝手に決めた名前ですから、私は使わないんです。岩戸火見子でみんなわかってくれます」
家出少女は煩さげにいった。
「でもね、それは通称だろう。ちゃんと名乗る時にはやっぱり本名をいわないと......幾代というちゃんとしたいい名前があるんだから」
「でも、私は自分で決めた名前を名乗りたいし、世間の人々にも呼んでもらいたいんです。他人が勝手に決めた名前を使わなきゃならないなんて、とっても不合理なことだし、嫌いな名前を強制されるのは絶対に我慢できません。とにかく私は、火見子という名で呼んでもらいたいんです。それが私の唯一の正しい名前ですから」
少女は強烈な意志をこめて抗議し、自己主張して止まなかった。
「でもね、そうは行かないの。世間のきまりというものがあるんだから、勝手に決めた名前は使えないんだ。いくら自分で決めた正しい名前だといっても、それは通称というか、偽名なの。やっぱり人と逢って名乗る時には、ちゃんと法律で認められ、戸籍にも記載されている名前を名乗らなきゃいけないの。あんたのいうのは、勝手な一人決めで、世間には通用しない考えなの」
「では、世間がちゃんと認めてくれて、通用すればいいわけでしょう。作家とか芸術家は筆名を使うし、俳優は芸名を使って本名を使わないでしょう。私の考えは間違っていません」
「でもね、それは世間的に有名な人だから通用するわけ。名前も何も全然知られていない人間だったら、滑稽なだけだよ」
「でも、有名人だって最初から有名だったわけじゃないでしょう。必ず最初は無名だったはずです。でも、ペンネームはペンネームとして名乗ってるじゃないですか」
「それはあんたの勝手な理屈。それはね、屁理屈というの。あんたは芸術家でも映画俳優でも何でもないんだから、ちゃんとした自分の本名を使いなさい。幾代なんてちっとも恥かしい名前じゃないよ」
「でも、嫌いなんです。それに私はそのうちに必ず有名人になります。三年後には日本中でみんな知っている有名人になります。私は小説や詩を書いているし、必ず世の人々に知られる存在になるんです。だったら、私が名乗っている名前が本名です。あなたは有名人の本名をどれだけ知っていますか? 有名な作家や画家や、芸能人の本名がわかりますか? 知らないはずです。でも、その人たちは最初から、戸籍名以外の名前を名乗っていたんです。私が同じことをしてなぜいけないのですか?
私は今は無名でも、今でも作家だし、詩人です。名前を岩戸火見子という作家なんです。あなたにそれを否定する権利はありません。私が三年後に有名になったら、あなたにもそれがわかります」
「しかし、あんた、いくら作家といっても今は作家でも何でもない、これが自分の作品だと示せるようなものがないじゃないの? 本とか雑誌とか活字になったものが......」
「作品は全部ここに入っています」
少女は己れの頭を指差していった。
「作家は人に認められて作家になるんじゃありません。自分で志した時、思い立った時に作家になるんです。世の中の人々が誰でも知っている大作家、有名作家だって、私と同じような時期が必ずあったんです。あなたにはそれがわかっていません。でも、三年後にはわかるでしょう。私が芥川賞を受賞したというニュースが流れた時、あなたは私のいったことが真実だったと知るんです。でも、受賞しようとしまいと私は私です。今ここにいる私なんです。今は、あなたは私のことを、少し頭のおかしい田舎からの家出少女だと思って侮っているでしょう。
世の中の人々はみんなそうです。目先のことばかりに捉われて、事物の真実を見抜く力を持たないからです。私が貧乏で頭が少しおかしくて、美人でないからといって侮り、蔑んでいます。今はそうかもしれない。でも三年後にはどうなるか、その人たちには未来が何も見えないからです。私は二十歳になったら大きな力を発揮して行きます。もうだれも私を侮ることはできないほど世に広く知られた、大きな存在になるからです」
青柴は、手に負えぬという目でちらと三千子を見た。助けを求めるような目付であった。彼が手を焼くのは無理もなかった。猛烈なあくの強さ、押しの太さを持った強固な自我は、たかが十七歳の小娘のものとは思えないほどの代物であった。
これが一人前の女となった時はどうなるだろう、と空恐ろしい畏怖の念さえ感じさせるのである。ダイヤモンドのドリルでさえ、切先を切り欠いてしまうほど、したたかな鋼鉄以上の硬度を持った核心が、この家出少女には蔵されていた。
「しかしね、警察では、ちゃんと戸籍に乗った本当の名前を名乗ってもらいたいんだがねえ」
「だから、名乗りました。取調べに必要だと思ったから、ちゃんと戸籍名をいったんです。でも、今は私の〝本名〟を使います。なぜそれがいけないのですか?」
「名前にこだわるのはその辺で切り上げてはいかがでしょうか」
と、三千子はいった。
「青柴様も、戸籍名はご存知なわけですから......あたくしは火見子さんとお呼びすることにします」
「まあ、お姉さんさえよければ」
と、青柴は渋々といった。
「では、火見子さん。こちらは田崎さんとおっしゃる方です」
三千子は田崎を振り向いていった。
「どうも......」
と、家出少女は少しも関心を示さず、お座なりな挨拶をした。田崎は大目玉で会釈したが何もいわなかった。
「火見子さんは、東丈に逢いにいらしたそうですけど、さっきからもうおわかりのように留守をしております。もちろん、留守だからお逢いできないということではなく、在宅していても、たぶんお逢いすることは遠慮させて頂くことになるかと思います。その理由は、丈が大変多忙で、しかも人とお逢いする仕事が非常に多く、あらかじめお約束のない方にはちょっと時間が割けない、余裕がないということです。それをまずはっきり申し上げておいた方がよいと思います」
物腰こそエレガントでやさしいが、三千子には明確な核心ということでは、相手の偏執的な態度にも劣らないきっぱりしたものがあった。
「でも、私、どうしても東丈さんに会わなければなりません。そのために、こうやってわざわざ北海道から東京まで大変な思いをして出てきたんですから」
「しかし、それはあんたの勝手な都合」
と、青柴が東北なまりでたしなめた。
「人には人の都合があるんだからして、あんたの勝手な都合だけが通るとは限らないの。お忙しい東丈先生に、全然知らない家出少女が自分と会えと強要しても、そんなことは通らないし、もの知らずといわれて笑いものにされるだけなの」
「だけど、これはこの世の一般的な常識とか社会通念とは関係ないと何度もいっています。霊的な世界での約束がちゃんとあって、私は東丈さんに会いに来たんです。冗談やおふざけで北海道から来たわけじゃありません」
「しかしね、あんた、そんな霊界での約束といったって、この世では通用するはずがないでしょう」
青柴は啞然とした表情でたしなめた。
「そういうことは、この世では通らないの。なぜそれがあんたにはわからないのかな」
「でも、それは東丈さんにはわかるはずです。あなたにはわからなくても仕方ないですけど、東丈さんが本当に救世の業の助力者として、この世に肉体を持った人なら、必ず霊界での約束を思い出すはずです。現に私はちゃんとこうやってやって来たんですから。東丈さんが、霊界でみんなと誓い合って、世界を混乱から救うためにやって行こう、助け合って世を立て直し、礎になろう、と約束し合った仲ならば、必ず私と会うはずです。霊界での誓いと約束を思い出し、この世で巡り合うことは一番大切なことなんですから」
「だから、それはあんたの一人決めだと口を酸っぱくしていっているの。この世にはこの世の掟があるし、それを守れない人間は、世間知らず、もの知らずと侮られて、爪はじきされるだけなの。わかる?」
「だから、あなたにはわからないことだからといっています。霊界で約束した者同士なら、何もいわなくても、みんなわかってしまうんです。東丈さんに私が来たということを伝えてもらうだけでも、わかる人にはちゃんとわかります」
「ひとまず、火見子さんのお話を聞いてあげてはいかがでしょうか」
と、三千子が取りなした。
「そうですか。ま、お姉さんがそうおっしゃるなら......」
青柴は頭を振りながらいった。家出少女の不遜さには我慢がならないが、三千子の言葉を容れて、止むなく譲歩するという不満が渾められていた。
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家出少女は平然として黙っていた。三千子の取りなしに感謝する気ぶりも見せなかった。確かに常人とは異った神経の持主である。
「火見子さん。あたくしが東丈の代理としてあなたのお話を伺いますから、どうぞお話になってみて下さい。いずれ東丈が帰った時にお話を伝えようと思います」
「でも、やっぱり東丈さんと直接でないと、わからないと思うので......」
「それはそうかもしれません。あたくしでは不足かもしれませんが、東丈は不在中ですし、もし戻ってきましても、あなたとお会いできるかどうかわかりません。とにかくお話のむきは必ず伝えますから、ひとまずご用件をおっしゃってみてはいかがですか?」
「私ははっきりいって、東丈さんだけに関心があるので、GENKENとかそういう人たちには興味がないんです。特に今は、ずいぶん間違ったことを若い人たちに教えていると思います。それは非常によくないことです」
「それは、なぜそう思うのですか? つまりGENKENで間違ったことを教えている、となぜおわかりになるのでしょうか?」
「週刊誌に載っていることだけでも、わかりますよ」
と、少女は傲然といい放った。
「守護霊だの何だのって、馬鹿ばかしすぎます。東丈さんはそういうことはいっていなかったというじゃありませんか? 守護霊とか指導霊というのは、心霊主義で使っている用語ですけど、今のGENKENを東丈さんの代りにやっている、井沢郁江さんですか? あの人のいっていることなど、全く間違っています。守護霊の考え方からして、全然幼稚で非科学的です。心霊主義の概念はもっと厳密なものです」
へえ、という表情が青柴の顔に現われた。いささか気の触れた無知な霊感少女というイメージがぐらついたのであろう。堂々とした喋り方だった。軽視できぬしたたたかな論客の骨格を感じ取ったのであろう。
しかし、その話しぶりはひどく断定的であり、謙虚さを欠いていた。押しが強く、相手をひたすら論破し、いい負かしてやろうという幼い気負いだけが浮き上っていた。
「あの人は、心霊主義など何も知っていません。宗教も哲学も、神学も魔法学も何も知らないじゃありませんか。びっくりするほど無知でいい加減なのに、GENKENを牛耳って、間違ったことばかり若い人たちに教え、マスコミでもてはやされるなんて、とんでもないことです。罪悪です。怪しげな邪霊があの人の中に入って、愚にもつかない異言を喋ったり、取りとめもない教説めいたことを口から出まかせにいっているだけじゃありませんか」
「あなたは色々のことをよくご存知のようですけど、沢山本をお読みになっていらっしゃるのでしょうね?」
「読んでいるといっても、学者や専門家ほどじゃありませんけどね。でも、井沢郁江さんよりは読んでいるし、勉強しているつもりですよ。いい加減なことを、何も知りもしないで、偉そうに人々にお説教したりするつもりはありませんからね」
「井沢郁江さんは、学んだ知識を受売りにしたり、知識の切売りはしていないと思いますけれど。東丈も郁江さんも、そのような受売りは厳しく排しているはずです。あなたは井沢郁江さんに大変反撥していらっしゃるようですね?」
「人々に間違ったことを吹きこむのは、罪だと思うからですよ。今、世界がとても危険な状態にある、危機に瀕して破滅の一歩手前にあるというのに、虚説を広めて人々を惑わせるのは大きな罪悪です。それは東丈さんのいう幻魔の業そのものですよ」
「でも、火見子さん。週刊誌で報道されていることだけで、そう判断するのは危険ではないでしょうか? 週刊誌は興味本位のセンセーショナリズムで書き立てますから、真実からはずれたことも平気です。大げさに面白おかしく書きたてられた東丈や井沢郁江さんの姿は実像ではなくて虚像です。実像を知らずに、それこそいい加減な記事を鵜吞みにして、人を批判するのは、必ずしも的を射てはいないと思いますけれど」
「もちろん私は、週刊誌の記事だけで判断するような軽はずみなことはしません」
「本当に?」
「私にはわかるんです!」
三千子の念押しが
に障ったのか、にわかに少女の語調は激してきた。かっとなったのだ。他人が自分に反対することが、著しく自我を傷つけるのであろう。三千子は相手の病的に肥大した自我が、慰藉を求めて苛立っているのを感じた。傷つきやすい感受性を持った少女であることは間違いなかった。
「私にはちゃんとわかるんです。霊能がありますから、名前を聞いただけでも大体のことはわかります! 週刊誌の記事が本当でも噓でも、そんなことは判断するのに関係ありません! 井沢郁江さんという人が非常に誤まった道へ入っていることはすぐにわかりました。あの人は外道へ足を踏みはずしています!
私のいうことが信じられなくても、仕方ありません! 一面識もないし、私は有名でも何でもない人間ですから! でも、本当のことはやがてわかります。時間がある程度たたないと、この地上界の人間には真実がわからないんです。でも、霊界の人々はちゃんとわかっていて、井沢郁江という人が外道へ落ちたということは大評判になっています!」
「井沢郁江さんのおやりになっていることは、毀誉褒貶があって、もちろん火見子さんのように強く批判される方もおられますし、激賞されて偉大な伝道者とおっしゃる方もいます。でも、正しいか正しくないかは、偏らない正しい価値判断の基準から決定されるべきだとあたくしは思います。偏った基準からいかに賞められ、あるいはけなされようと、あまり意味のあることではありません。価値基準は人によって様々ですし、天界の価値基準と幻魔の価値基準は正反対のものでしょう。そして、幻魔もまた自分のそれが絶対に正しいと確信しているはずです。大切なのは、何が正しくて何が間違っているのかという、偏らない公正な基準ではないでしょうか?」
「私の価値基準は間違っているとおっしゃるんですか!?」
少女の語気は再び過熱した。怒気がみなぎって、粗々しい波動が狭い室内に充満し、居心地を更に悪いものにした。
「私は間違っていないつもりです! 正しいか間違っているかは多数決で決まることじゃありません! 間違った思想の人が千人、一万人で、私は一人だったとしても、間違った思想は正しくなりません! 私はどんなに責めたてられ、迫害されたって、自分の考えを捨てて、間違った思想に改宗したりしません! 死んだってそんなことはしません!」
「なぜ、そのように感情的になられるのですか? あたくしは火見子さんを責めたり、決めつけたりは何もしておりません。どうか感情を鎮めて下さい。そうでないと、お話はできなくなってしまいます」
「感情的になってなんかいませんよ」
少女はそれでも、声を落した。
「霊界の人たちはみんな、井沢郁江さんを批判しています。彼女が訪問している天上界というのは、本当の天界、霊界ではなくて、そのずっと下の暗い地下の世界だと口を揃えて証言しています。地下の霊は井沢郁江さんを引きこんで、天上界だと偽って教えているんです。地下の霊たちは演技が達者ですから、たぶん彼女には見分けがつかず騙されているのだと思います。でもそれは、彼女の心が悪霊と同通するほど我儘になり高慢になっているからなんです。このままでは、彼女は生きながら地獄霊になってしまいます。つまり、東丈さんのいう幻魔の一味に取りこまれてしまうんです」
「でも、それは火見子さんがおつきあいしている霊界の人々がいっていることでしょう? 郁江さんたちと交流のある霊人たちは、それとは全く別のことをいっています。それぞれの立場が違っているから、正反対の教示が出てきてしまうわけですね」
「私は間違っていません! 絶対の確信があります。私はほんの子供のころから霊界の人たちから教えを受けてきたんです! 彼女のようについ最近、霊能が開いたというのと違うんです! 私は霊能のためにとても苦労してきました! 人の持たない力を持っているというだけで、誤解され、嫌われ、悪口のいわれ通しだったんです! 何の苦労もしたことのない彼女が悪霊にころりと騙されて、でたらめな大噓ばかり偉そうに人々に吹き込み、正覚者みたいにもてはやされるのは、私許せないんです! 彼女は悪霊に憑依されて、外道へ引きこまれていることは、はっきりした事実なんですから!」
「でも、自分の信念を主張するだけでは、多くの人々を説得することはなかなか困難ではないでしょうか? 人々を納得させるだけのきちんとした価値基準を持っているかどうか証明しなければならないはずです。
やはり小さな子供ではないのですから、ただむやみにいい張るだけでは、なかなか人々は耳を貸してくれません。もし自分のいい分や主張が正しくても、だれも認めてくれなくては、悲しい思いをしなければならないでしょう......
自分の主張の正しさを、きちんとした論理性や論拠をもって話せば、人は必ず耳を傾けてくれるはずです。ですからまず、自分は絶対に正しいのだ、といい張ることよりも、その正しさを証すものを人々に示すべきではないでしょうか?」
「でも、自分さえ正しいという確信さえあれば、それでいいじゃないですか。人はそんなに簡単にわかってくれませんよ。自分の狭い視野に囚われている頭の悪い現実主義者ばかりなんですからね。正しい教示をいくら目の前に示されたって、猫に小判、豚に真珠ですよ! 何も真実が見えず、見ようともしない人間にいくら語ったって無駄です。ガリレオ、パスツール、みんなそうだったじゃないですか!?
馬鹿な人間は無視するしかないんです。いまにわかってくれる人たちが必ず出てくるし、それまでの反対者がどんなに頭の悪い馬鹿者だったか、必ずはっきりするんです」
「そういう人たちも、いつかわかってくれると信じ、わかってもらえるように地道に努力する。そうは思わないのですか? やはりわからない人間はすぐに見捨ててしまいますか?」
「無駄ですよ。わからない人間にいくらいったって無駄です。時間の無駄、労力の無駄です。わけのわからない低能な人間たちに時間を費すより大切なことは沢山ありますからね。釈迦だって〝縁なき衆生〟といっています。真実に触れて目が開く、そういう縁がもともとないんです。そういう馬鹿な人たちのくだらない反対を受けて、本当に大切な業が妨害されるって、堪えられないことです。生きている意味もない愚劣な人間に限って、幻魔の手先になって、世界の礎になる者たちに心ない攻撃を仕掛けてくるんですよ。ゴミみたいな人間たちが真の天使の業を妨げるんです。そんなことって許されませんよ! 私は絶対に許しません! 有害無益な人間たちは、やっぱりあの世のゴミ捨て場にさっさと行ってもらいたいと思います」
「自分のいうことに反対する人たちは、さっさと消えてしまえということでしょうか?」
「そんなことはいってません! 真の天使の業を妨害する者は、必ず罰を受けるといっているんです! 重い罰を受けてあの世のゴミ捨て場、つまり地獄へ落とされるんです! いつ私自身のことをいいましたか? 東丈さんのお姉さんだそうですけど、あなたもあまりよくわかっていないようですね。正直いってがっかりしました。もう少しものごとがわかっているのかと思っていました」
「ご気分を損ねたようで、申しわけありません」
と、三千子は頭を下げた。田崎の顔は朱を注ぎ始め、逞しい厚い肉体が更にかさをまし、ぐっと厖大にふくれ上ってきたようであった。家出少女の高慢さは堪えがたいほどの代物であることがはっきり露呈されていた。
「そんないい方は、お姉さんに失礼でないのかね?」
と、青柴が憤然としていった。我慢が尽き果てたようだった。
「お姉さんはお忙しいのに、あんたのためにわざわざ時間を割いて来てくださったんだよ。それなのに、あまりにも勝手ないい草ばかりじゃないかね。思い上りも甚だしいよ」
「私はお姉さんと大事な話をしているんです。あなたにはわかりません! 霊界の指示を受けている者でなければ決してわからない話をしているんです。だから横から口を出さないで下さい!」
「それは身の程知らずというもんだ!」
青柴も顔を真赤にしていった。
「青柴様、火見子さんのお話を最後まで聞いてみましょう。どうぞ自由にお話し下さいと申し上げたのはこちらですから......」
三千子はあくまでもやわらかくいった。少女の傲慢不遜さは、哀れみを喚起しこそすれ、感情を波立たせることはなかった。少女が必死で牙を剝き逆毛を立てている小動物のように感じられるせいもあるだろう。
「ああ、そうですか。ま、お姉さんがそうおっしゃるなら、それでもいいですがね」
青柴はむっとした顔のまま、横を向きタバコを吸い始めた。荒々しく煙を吐き散らし、怒りをなだめる。
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「でも、火見子さん。最初はわかってくれずに、強く反対し、それどころかやっつけてやろうと攻撃してくる人でも、こちらが努力することによって心を開き、理解者になってくれることだってないとはいえません。それどころかまたとない頼もしい味方、同志になってくれる場合だってあります。それなのに、最初からどうせ駄目だからといって見捨ててしまっていいものでしょうか? 人々がわかってくれないのは、こちらの説得する努力が足りないのだと考えてみることも必要じゃないでしょうか? 全ての反対者を説得することは無理であっても、わかってもらおうとする努力を全面的に放棄することは、反対者たちの中に潜在している同志をみすみす捨ててしまうことにならないでしょうか?」
「霊界での約束があれば、すぐにわかります。話さなくたってわかります。話さなきゃわからないなんて、馬鹿げたことですよ。私はそんな人間を相手にするつもりはありません。敵だったのにこちらの力強い同志になるなんておとぎばなしは、私は信じません!」
「でもね、火見子さん。その実例がすぐ隣りに座っていらっしゃるんですよ。田崎さんは最初、東丈の強い反対者でした。田崎さんは東丈のことを思い違いしていらしたんです。インチキな新興宗教の教祖で世を惑わし、人々を騙す不徳義なイカサマ師だと誤解していたということです。頭からそう思いこんでいますから、東丈がどのようなことを話していても聞く耳は持ちません。世に害毒を流すインチキ教祖は、世のため人のために退治してやらなきゃならない......田崎さんはそう思い詰めていらしたそうです。
もし、東丈が誤解を解くための努力をそこで惜しんでいたら、今はどうなっていたかわかりません。田崎さんは依然として激しい敵対者であり続けたかもしれないんです。
でも、東丈は田崎さんの理解を得ようと努力し、今はまたとない強力な頼もしい同志に田崎さんはなっています。最初からこんなものだと諦めて何も努力を払わなければ、みすみす素晴らしい友人や仲間を、人は失ってしまうんじゃないでしょうか?
たとえ今は敵対者であり、激烈な反対を唱えていたとしても、明日はよき理解者となってくれているかもしれません。誤解や曲解があるとしたら、それを解こうとする努力を惜しんではならない、とあたくしは思うんです。それは宝の山に入りながら、怠惰であるために手ぶらで帰るのと同じことです。
たとえ霊界の約束があったとしても、人間は地上に肉体を持てば、何もわからなくなってしまいます。生を享けた土地の習慣や風俗のようなならわしによって、人間はそれぞれ異った思想の基盤を持ってしまいます。たとえば、日本では〝おいでおいで〟と手招きするゼスチュアーは欧米では正反対の意味になります。そのような食い違いは無数に存在するし、基盤が異る人間同士は相互に理解するのに、努力が必要になります。ただ生地のままでは素直に心が通じて行かないし、誤解曲解の種は尽きることがありません。
だからこそ、人間はいつも他人と自分の依って立つ基盤は異るかもしれないとはっきり意識化し、互いにわかりあう努力を払って行く必要があるのではないでしょうか。
最初から頑なに相手をこういうものだと決めつけるのはやめて、相手がわかりやすいように表現や言葉を選んで、相手の心の中へ入って行こうとすることも大切だと思うんですよ。
今日の激しい敵対者が、明日もそうあり続けるとは限らないんです。その実例は、ここにおいでの田崎さんです。もちろん、田崎さん以外にも何人もそうしてかつての敵対者はいます。実際にどんな様子だったのか、せっかくの機会ですから、田崎さんの口から直接聞いてみてはいかがですか?」
田崎は大目玉で頷いた。一時は真赤になった顔も急速にさめてきていた。
「いえ、いいんです」
少女はあっさりと一蹴した。
「どうしてでしょう? 火見子さんがもし今後自分の考えていることを、より多くの人々に伝えていきたいと願うなら、敵対者もふところに抱えいれる度量や包容力が必要になってきはしないでしょうかしら?」
「いいんです。そういうことは私にはあまり必要ないですから。私は沢山の人々に理解されたいとは思っていません。霊界で約束したほんの少数の人にわかってもらえば、それでいいんです。少数の人間でも、本当に力のある者なら霊界の助力を得て、大きな救世の業が可能です。今わかってもらう必要なんかありません。私たちが大きな力を持てば、その時は雪崩を打って大部分の人間たちが同調してきます。
頭の悪い分からず屋を説得しようなんて、エネルギーのロスだし、時間の無駄遣いです。私にとっては霊界で約束した本当に力のある人を探し出して、手を組むのが先なんです。分からず屋を説得したって仕方がありません」
コンクリート壁のような頑強でひたすら強固な手応えが返ってくるばかりであった。火見子と自称する家出少女の偏狭な独善は堅忍不抜のもので、いかなる説得も全く受けつけそうもなかった。
「それで、火見子さんは、もう霊界で約束した人をこの地上界で見つけ出すことに成功なさっているのですか?」
三千子はいささかも業を煮やした気配を見せなかった。このたおやかな優しい女性が、不屈の忍耐力を秘めているのを、田崎はもとより青柴も驚異と尊敬の目で見ていた。
それは単に火見子の〝剛〟と三千子の〝柔〟の対比には止まらず、三千子が一見不毛と見える対話の食い違いの中で自説を強固に主張するのではなく、少しずつ問題点を浮き上らせ、対立を調和に変換して行こうとする努力に、傍聴している青柴ですら共感を禁じえなくなったということであった。
「いいえ。でも、そんなに簡単に捜し出せるなら苦労はしません。でも、東丈さんならたぶんそうだろうと思うんです。もし東丈さんが私を見れば、一目であっとわかるはずです。それが霊界で約束した者同士の証拠です。約束した者なら最初から反対したり敵対なんかしません。魂でぱっとわかりあえるし、時間なんか要らないんです。敵対してくるのは、幻魔の波動で動いているからです。そんな下らない低級な人間は相手に出来ません!」
家出少女火見子は目を据えていった。偏執的な思い込みは、大地に根を張った巨岩のように、びくともしない代物であった。
「これまでに、この人こそ霊界で約束した方と思った、そういう例はございますか? 東丈を除いた方々で......」
「何回かはありますよ。でも違いました。私をまるで化物か何かみたいに悪口を触れ歩かれました」
火見子の唇が口惜しげにそり返り、前歯でぎゅっと咬みしだかれた。
「結局は違ったからです。もし本当に約束した人なら、そんなことは絶対にありません」
「前にも何回か、あてがはずれたことがおありになる......とすれば、東丈に逢われたとしても期待はずれになるかもしれませんね?」
「本人と逢って話してみなければ、何ともいえませんよ、こればっかりは......」
「たぶん、やはり話が食い違ってしまったのではないかしら。東丈も、あたくしと同様に疑問を持つと思います。なぜなら、東丈は反対する人たちを説得し、理解してもらうことに全力を挙げての努力を惜しまない性格だからです。
ここにおいでの田崎さんはもちろん、井沢郁江さんにしたところで、東丈の最初からの理解者だったわけじゃないんです。でもお互いに相手を理解しよう、わかりあおうと一生懸命努力した結果、心を開き合い、響き合うことができるようになったんです。
今では、お二人とも東丈にとってかけがえのない友人であり同志です。それは天上界、東丈のいう高次元世界において、固い誓いを交わし、ともに助け合って使命を果して行こうと約束した仲であることを、今皆さんは霊的な記憶を甦らせ、固い結びつきを思い出しているんですよ。
ですから、もし火見子さんが東丈と霊界において約束した魂同士であるなら、あたくしや田崎さん、そして井沢郁江さんとも東丈を介して盟約を交わした盟友であるはずです。もし、他の人々を受け容れることができないというのであれば、それは東丈をも受け容れられないということだと思いますよ。だって東丈は皆さん多くの方々と魂において一体化している、〝光のネットワーク〟を形成しているということをはっきりと自覚したのですから......」
「霊界の記憶といったって、それが真の霊界であるかどうかわかりませんからね。地下の方の邪霊が吹き込んでいるかもしれないし。邪霊はそういう騙しが物凄くうまいんです。前世の記憶とか異言の大部分は偽物ですよ。邪霊の仕業で、本人は憑依されてしまっているんです。井沢郁江さんという人が完全に邪霊にやられてしまっているのは、霊界ではだれもが知っていることです。〝光のネットワーク〟なんて、とんでもない話です。本当は〝悪霊ネットワーク〟ですよ。お姉さんもそんな悪霊の詐術に騙されているなら、早く目を覚して下さい。お姉さんはいい人ですが、とても騙され易い人です。邪霊にころりと騙されて、上手に乗せられてしまったんです。早く目を覚して、本当のことに気付かないと大変なことになりますよ。私にはちゃんとそれがわかるんです。気が付くのが遅れれば、何もかも手遅れになりますよ。生命力を全部吸い取られて、暗い地下の世界へ連れて行かれてしまいますから。一目見ただけで、私にはそれがわかりました。今のようなことをしていては駄目です。幻魔に生命エネルギーを奪られてしまいます。お姉さんだってそれはわかるはずですよ。自分でもこのままでは早死にするとわかっているんじゃないですか?」
これには啞然とするほかはなかった。しかし、火見子が自称するように、霊能と称すべき力を備えていることは明らかであり、己れの心を見透かされている気味の悪さは、三千子といえども否定しようがなかった。青柴が鳥肌を立て、この薄気味悪い家出少女を忌避するのは無理からぬところであった。
「私にはちゃんとわかるんですよ。初対面の人でも、どんな育ち方をして、性格、ものの考え方、欠点、みんなわかります。霊界の友達が何もかも教えてくれるんです。人間には隠し事ができても、霊人にはそんな秘密は通用しません。何もかも、生れた時から現在までお見通しです。隠し事や秘密は、全部見抜かれてしまうんです。そんなこと噓だと思うなら、いい当ててみましょうか?」
たいした迫力であった。青柴が怯気を振るったように、たいていの人間は火見子の迫力に吞まれ、気圧されてしまうだろう、と三千子は思った。しかし、その高圧的なもの言いには、何かしら不自然な、はったりと呼ぶべき虚勢が感じられた。ヤクザの用いるこけ脅しの恫喝と同種類のものである。
「別に噓とはいっておりませんが、無駄なことだと思います」
三千子は穏和さを少しも崩さずにいった。
「やっぱり噓だと思っているんですね? 私のいうことを疑っているんですね?」
少女の語気は再び荒くなり、顔色はすっと青白くなってきた。
「それなら、ここに霊人を呼んで、お姉さんの心を何もかもいい当ててみせましょうか? 私の霊界のもっとも親しい友達で、大きな力を持っています。この一か月間、どんな食事をしてきたか、百パーセント確実にいい当てることができるんです。何でも完全にいい当てますよ。霊人なら誰でもできるわけじゃありません。でも、お姉さんに都合の悪いこともみんな喋ってしまうかもしれませんよ。それでもいいんですか?」
「そのようなことは、少しも構いません。でもやっぱり無駄なことだと思いますけれど」
「じゃ、呼びます。本当に呼びますよ!」
少女火見子は目をつぶった。みるみる面変りしてくる。少女がある種の霊媒であることは明らかであった。貌が目の前で別人のものに変貌して行くのだ。三千子や田崎は、郁江の同様な変貌を見慣れているが、青柴にとってはかなりショッキングな見ものであったに違いない。
火見子の霊的変貌ぶりは、同種のものを見慣れている三千子たちにとっても、気色のいいものではなかった。郁江の変貌が、薄く透き徹り、贅肉を落して行くのとは全く異っていた。
白々となった貌は、妖しい気配を周囲にみるみる立ちこめさせた。名状しがたい妖しさであり、それは狐憑きといった言葉を連想させる変化であった。目尻が吊り上り、唇の両端は切れ上り、妖しい笑みを含んでいるようであった。
青柴は腰を浮かせ、慄然とした顔を三千子に向けた。非日常的なるものが突如現実を侵略し、日常性の基盤を急速に食い荒して行く。牢固とした岩盤のような現実感の基盤が、足許から流砂となって流れ出し、魂を吸引して行く尋常ならざる恐怖が、青柴を捉え、三千子に対して本能的に救いを期待させたのであろう。
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火見子の蒼白になった貌は、瞼を閉じているが、三千子には鋭い威圧的な視線を感じさせる。瞳孔のない異様な目が大きく見開かれ、恫喝の意志をみなぎらせ、圧迫を加えてくるようである。むろんそれは、三千子の受ける〝印象〟であり、はっとよくよく見直せば、火見子の瞼はやはりしっかりと閉じられている。
それを確認して数秒後に、脅迫的な眼が鋭く睨みつけてくるのを意識する。その繰り返しが三千子に自ずと悟らせた。そんなものは気にしなければいい。ただ無視してしまえばいいのである。
それは錯覚ではないにしろ、ただの〝感じ〟または〝印象〟であり、そうした威圧にこちらを巻き込もうとする相手の意志の発動に他ならない。ある種の暗示をかけようとしているにすぎないのだ。
三千子はリラックスして、体の緊張感を弛め、尋ねるように視線を送ってくる青柴に向って微笑してみせた。青柴は三千子の曇りのない貌に安心したようである。
田崎は厚いしっかりした唇を引き結び、真剣勝負の面持で、火見子の妖しい狐憑きの表情を凝視していた。
火見子の貌はますます妖しく、仮面じみてきた。仮面がはりついて肉と融合し、離れなくなった伝説の女のようであった。

「あなたは早く目覚めなさい......」
と、仮面のような貌が言葉を吐き出した。陰気な波動の悪い声音であり、火見子の喋り方や声音ではなかった。
「早く自覚しなければならない。さもないとあなたは自分で思うよりも非常に早くこの世を去ることになるでしょう。邪霊たちがよってたかってあなたを騙しています。暗い地下の世界へ引き込むためです......あなたの今していることは全て間違っており、無駄な努力でしかないことに、早く気付いて下さい。
霊界にいるあなたの霊人の友達はみなあなたのために心配しています。邪霊によって地下へ引き込まれたら、あなたはもう霊界へ戻れなくなり、転生することもできなくなる。神の罰を受けて消滅させられることになります。なぜなら、今は非常に大事な救世の業が行なわれる時であり、その妨げになることは未来永劫に許されない、霊界における最大の重い罰を受けることになるからです。
そのためにあなたは早くこの世を去り、永劫に地下で苦しみに喘ぐことになります。地下は恐ろしい世界です。肉を持つ人間が想像するような安易な世界ではない。その一億倍も一兆倍も苦しい恐ろしい責め苦の世界です。誰も耐えられはしない......
あなたは早く気付き、本来の自分の使命に立ち返りなさい。あなたを取り巻いているのは天使たちではありません。天使をよそおった地下の暗い世界から来た邪霊たちです。邪霊たちは、あなたの身近の人々にしっかり取り憑いて操り、あなたを欺いて地下へ陥れようとしています。
早くそれに気付いて下さい。本当の真なる友達、霊界で約束した友達が多くあなたが目覚めるのを待ち望んでいます。あなたが騙されて恐ろしい苦しみに落とされようとしているのを心配し、悲しんでいるのです。
早く、一刻も早く真実に目覚め、本来の自分の使命に立ち返って下さい。邪霊の仲間たちから離れて下さい。彼らは演技が非常に巧みです。愛や友情をよそおい、お為ごかしの限りを尽し、あなたを深みへ引き込もうとして、ある程度それに成功している。勇気を持ち、邪霊たちのはりめぐらした蜘蛛の網を断ち切って自由の身になることです。あなたを縛っているのは義理や人情というしがらみです。しかし、それはあくまでも偽りのものであり、執着に過ぎないことを悟って下さい......。我々はあなたが真実を知り、我々の許へ戻ってくることを、正道に立ち返ることを一日千秋の思いで待っています。
繰り返していいますが、あなたの今の仲間たちと思っている人々は偽者です。地下の邪霊に操られている哀れな無知な人間たちなのです。
あなたは本来、大きな力を持っているので、孤りで大きな業をなすことができるし、孤りでいるのが好きなのです。有象無象の人間たちと仲間でいるのは、あなたの本性に反しています。それゆえ、群れの中に入るのは、大きな苦労をあなたに強いることになります。偽者の仲間たちとともにいるのは、苦しい厭なことばかりあなたに与えます。彼らは邪霊に操られているので、あなたを悩まし、苦しめ抜いて、疲労困憊させるのが目的で、しきりにあなたにつきまとうのです......
それに早く気付いて、邪霊の仲間たちから離れなさい。あなたも好んで早死にしたくないでしょう。真の友達にめぐりあって大切な使命を果たさなければならないからです。
そのためにも生命を大事にしなさい。生命はなによりも大切でかけがえのないものです。死んでしまっては何もできません。一度限りの生命です。それをなぜ粗末にするのですか......
死んでしまえば無があるのみです。永久に消滅してしまう、絶対の虚無があるのみなのです。生きることをもっと大切にしなさい。人生には楽しいことが沢山あります。もっともっと楽しむのです。あなたは大きな力の持主であるゆえに、大きな特権が与えられています。その特権をもっと大切に享受しなさい。私たち霊界の霊人たちは、あなたが真実に目覚め、約束を果たすことを待ち望んでおります。そのためには、いかなる援助をも惜しまないでしょう。
あなたは自分の大きな力を用いて、使命を果たしなさい。有名になり権力や財力を得るのも、使命を果たすためには必要です。
あなたの一番悪い癖は、すぐに引込思案になることです。己れの本当の力を知らず、尻込みしてしまうのです。それがあなたの最大の欠点です。その欠点ゆえに、あたら大きな力が生かせなくなってしまうのです。
そしてあなたは既成概念に目を塞がれ易く、疑い深く、容易に人を信じないことが、大きな短所となっています。最初は全く受け付けず、誰が何といっても近寄ろうとしないのに、一度その気になると、どこまでも深入りし、溺れてしまうのです。疑い深く用心深いはずなのに、一度崩れると徹底的な盲信の虜になってしまいます。
あなたには心当りがあるはずです。今の会や塾を、最初あなたはあくまでも拒否していたではありませんか。それなのに、今では全く溺れ切ってしまっています。理性が働かなくなってしまっているからです。
自分の欠点に早く気付きなさい。あなたの本当になすべきことは今の会や塾とは別の所にあります。そのことに気付いた時、あなたは本当の友達にめぐりあうことができ、真の自覚を得ることができます。
霊界の友達はみな心を痛めています。この者、今私が口を借りて語っている者は、霊界が送った真の使者です。あなたはこの者を信じなければなりません。あなたの真の幸せはこの者を通じて、初めてあなた自分のものになるでしょう......」
少女の裡に宿った〝霊人〟は喋り疲れたように言葉を跡切らせた。三千子の黒い瞳による凝視がひどく気になりでもするのか、顔をしだいにそむけて、今は壁面を向いていた。鋭い射るような〝視線〟はもう感じられない。睨み合いにたじろいだといった具合に、目に見えない鋭い威圧的な眼は、三千子の黒い瞳の凝視からそむけられてしまっている。
青柴は胆を潰したという顔で、あんぐりと口を開けていた。少女火見子にすっかり気を吞まれてしまったようである。こうした降霊の光景は、慣れない者にとっては驚異であろう。薄気味悪いが、それを超えて神秘的であり、気圧されてしまう。
大変なものを見てしまった、と青柴が総毛立っているのは明らかであった。もはや彼は堅固な日常性に基づく現実主義の地盤の上に、安穏に立っていることはできなくなってしまったのだ。
田崎は沈黙したまま思惟の底に沈んでいるように見えた。黒々とした太い眉の間には深い縦皺が一筋刻みこまれている。〝霊人〟のいい草を検討し、吟味しているのであろう。三千子がいる限り、彼女を押しのけて、積極的に発言する気はないようである。
三千子は田崎の深い信頼を感じた。彼は東丈に寄せる信頼と尊敬に劣らない崇拝を三千子に抱いている。三千子が少女火見子や〝霊人〟によって論破される危惧など全く持っていないことは明らかであった。
「火見子さんに懸っていらっしゃる〝霊人〟の方にお伺いしますが、よろしいでしょうか?」
と、三千子は穏やかな声音で尋ねた。相手の〝霊人〟がこれ以上、この場に留ることを欲していないという印象を受けていた。
「もう帰らなければならない......霊界で私を呼んでいるから......」
「そうおっしゃらずに、質問に答えて下さい」
と、三千子は別人のような押しの強さを見せていった。
「時間は取らせません。あなたの〝霊界〟でのお名前をお聞かせ下さい」
「名前......フリッツ......私の名はフリッツです」
〝霊人〟は戸惑ったようにいった。
「フリッツ様。あなたは人の心が自由に読めるというのは本当でしょうか?」
「私は......人の心を読めます。人が内心でこっそりと考えていることがわかります」
「では、フリッツ様。あたくしが今考えていることをおわかりでしょうね?」
「ああ......わかります。あなたの心の中はよく見えます」
「では、あたくしが考えていることをいい当てられますか? 今ここで......」
「そういうことはよくない......もちろん私にはできるが、そのようなことを興味本位でやることはよくありません......」
「あたくしがあなたに何を質問しようとしているかおわかりですか?」
「それはもちろんです......」
「では、お答え下さい。〝霊界〟の方ならもちろんできるのでしょう?」
「ええ......でも、今はしない方がよいです。私は霊界へ帰らなければならないので......」
「まあ、お待ち下さい。〝霊界〟といっても地下の邪悪な霊の世界もありますし、邪霊は清浄な神霊に化けてやってきます。あなたはそれをご存知でしょう、フリッツ様?」
「もちろん、知っています......あなたは私を疑ってはいけません。疑いの心を持つと、霊界の者の力はあなたに及ばなくなり、あなたを守れなくなってしまいます」
「でも、懸かってくる霊の素姓をよく見分けるのは大切なことです。それはご存知でしょう? 邪霊は必ず高貴な神霊に化けるのですから」
「それはそうです......しかし、私は白く輝く上上段階の霊界の者です。あなたはそれを信じなければいけない」
「あなたはご自分を証明することができます。あたくしの質問に二、三答えて下さるなら......」
「もちろん答えましょう。しかし、私は今とても忙しいのです......」
「わかりました。ではほんの一つだけ、あたしの質問にお答え下さい」
「いいです......」
〝霊人〟は渋々といった。
「あなたは人間は生きているのが一番大切だとおっしゃいました。ただ一度限りの生なのだからと。そうですね?」
「その通りです」
「死んでしまえば何もなくなってしまう。虚無しかないのだとフリッツ様はおっしゃいました。だから、今を大切にしなさい、と。そうおっしゃいましたね?」
「そういいました......」
「人間は肉体の死によって永久に消滅してしまう、死後の世界などない、とフリッツ様はおっしゃいますが、ではフリッツ様ご自身はどこの世界からいらしたのですか?」
「それは......霊界からです......」
「では、霊界は現に存在するではありませんか。人間は死んでも消滅するのではないということを、フリッツ様自身が証明しています。どちらが本当なのですか? 霊界から来ながら、フリッツ様はその世界の存在を否定しています。これは大きな矛盾ではないでしょうか?」
三千子の指摘は鋭く急所を突いており〝霊人〟は言葉に窮していた。いい開きに苦しんでいるさまがありありと見てとれる。
「もちろん、霊界は存在します......」
フリッツと自称する霊人はようやくいった。
「それは私たちの世界......あなた方人間とは関りがない......別々です。あなた方は死ねば無になる。それは変りません」
「では霊界のあなた方と肉体を持つあたくしたち人間が友達だというのは、どういうことでしょう? 霊界で誓い合った間柄ではないのですか?」
「それはそうです。霊界で誓った間柄......だから私たちはあなた方人間を助ける......」
「それはおかしいではありませんか? あたくしたち人間は、かつて霊界にいたからこそ、あなた方〝霊人〟と親しい友達であるわけです。それなのになぜ別々で関りがないのでしょう?
あなたはさきほど、あたくしが邪霊に惑わされたなら地下の世界へ引き込まれ、霊界へ戻れなくなるとおっしゃいました。もう転生輪廻ができなくなってしまうと......それなのにあなたは、人間は死ねば終り、死後の世界などないとたいへん矛盾したことをいっておられますね。どちらが本当なのか、あたくしはお聞きしたいのです。これはとても大切な問題ですから、是非ともお答え下さい」
「それは......霊界へ戻る人間もいるし......消滅してしまう人間もいるからです......」
「フリッツ様はあたくしに矛盾した二つのことをおっしゃったのですよ」
「さあ......何のことだか私にはわかりません......」
「わかりませんか? あなたはあたくしに転生輪廻の大事さを説き、その直後に人間は死ねば消滅して虚無になるのだから、人生を思い切り享楽しなさいと勧めたのです。どちらが本当なのか、教えて下さい」
「人間には二通りあります......転生輪廻する魂と、消滅してしまう魂と......」
「いい加減なことをいってはいけません。あなたはあたくしが何も知らないと思っているのですか? あなたは大変矛盾し、混乱したことを平気で喋っています。いうことがそのたびコロコロと変りますね。地下の世界へ落ちた人間の霊は恐ろしい苦しみを永劫に受けるといったり、消滅してしまうといったり、これもひどい矛盾です。あなたのいうことはまるでデタラメではありませんか」
「私は帰ります......忙しいので、ここにはもういられない......」
「待って下さい。あなたは質問にまだ答えていません。本当は答えられないのでしょう?」
「そんなことはありません......しかし、今は答えたくない......」
「噓をつくのは、もういい加減になさい。あたくしは本当の霊界の方々に幾度もお逢いしているのです。真の清浄な霊人は、あなたのように平気で矛盾したデタラメをいったりはしません。とても謙虚で誠実です。噓や偽りを人間に吹きこみ、惑わせることは絶対にしないのです。
あなたは、真の〝霊界〟の人ではありません。それがわからないと思ったらとんでもない大間違いです。あたくしはあなたの正体がわかっています。いい加減にカブトを脱ぎ、正体を見せたらいかがですか?」
「私は帰るよ......」
「まだ帰ることは許しません」
三千子ははっとするほどのシビアーな語気でいった。凛然とした声音であり、威厳に満ちていた。当の三千子自身が、己れのきびしさに驚きの念を禁じえなかった。ごく自然に己れ自身が変貌してしまったのだ。
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「正直にいいなさい。あなたはどなたですか?」
「私の名はフリッツ......」
「噓おっしゃい。本当の名をいいなさい。あなたはだれ!?」
「俺は来たくなかったのだ」
と、〝フリッツ〟はがらりと態度を変えていった。不貞くされたいい草であった。
「この娘は恐ろしく我が強い。自信過剰なんだ。だから、俺がいうこともきかなくなってしまう」
「あなたの名はフリッツではありませんね。天上界の霊でもないのでしょう? 噓は無用です。最初からあたくしにはあなたの本当の姿が見えていたのですから」
「そうかい、そうかい。じゃあ、しょうがねえやな。あんたに見つからないように気をつけてたんだが、この馬鹿な小娘が我を張りやがって......いいところを見せようってんで、どじを踏みやがってよ」
相手はしたたか者のヤクザな口調で喋った。大あぐらを搔いて不貞腐っているという調子であった。
「見破られたからには仕方がねえが、こっちには何も喋ることなんかねえ」
「そういわずに話して下さい。あなたは魔王と呼ばれる地下の霊ですね?」
「好きなように呼んでくれ。俺は何も喋らねえから」
「魔王ともあろう者が、なぜこのような幼い少女に憑依したのですか?」
三千子は相手の自尊心を巧妙に刺激しながら答を引き出そうとした。
「あまりにも不似合いなのではないのですか?」
「当り前だ。だが、時にはこんなこともあるさ」
相手は面倒臭げにいった。
「年端も行かぬ少女に憑依し、操ってみてもあまり甲斐はないのでしょう?」
「お前らがそう考えるだろうと読んだのさ。まさかと思うだろうとな......ま、うまく行かなかったがな」
「あたくしたちがそれに気が付かないと思ったのですか?」
「軽く見すぎたようだな。しかし、この小娘があまりにも我が強いのには呆れたぜ。俺はお前らの前に出たくはなかったんだ。この馬鹿な小娘が余計なことさえしなけりゃよかったんだ、糞っ」
〝魔王〟の造られた平静さが破れ、内心の口惜しさが迸り出た。
「余計な真似をしくさって! これまでの苦労が水の泡だ! この小娘をじっくりと仕込んで、ソル王女と張合わせようとしたのに、これでだいなしだ! 元々たいしたタマじゃねえが、気負いばかりは一人前以上で、能なしのくせしやがって、くだらねえところで出しゃばりやがる。この間抜けな小娘が!」
恐ろしい勢いで罵り、毒づいた。
「でも、彼女の自尊心をかきたて、増上慢にし、ソル王女と張合おうとさせたのは、あなたでしょう? その結果、彼女が暴走したからといって腹を立てるのはおかしいのではありませんか?」
「実力もねえのに、こっちのいうことを無視しくさるからだ! わずかばかりの霊力を鼻にかけおって、こちらが全部お膳立てしてやっていることに少しも気が付かねえ。あれだけ止めろといったのに、闇雲に飛び出しやがって......まだまだソル王女に張合おうなんて無理な話よ。俺たちの力をもっと注入しなけりゃ、こいつは中央で使いものにならねえ。間抜けな信者どもを集めておいて、旗上げするはずだったんだがよ......」
「とんだ当てはずれだったわけですね」
三千子はあくまでもソフトにいった。相手は口惜しまぎれにすっかり粗暴な雰囲気になっていた。
「この馬鹿な小娘が! 身の程知らずもいいところよ! 畜生! 腹の虫がおさまらねえよ!」
「彼女に力を貸して霊能者として有名にさせ、それからどう利用しようとしたのですか? ソル王女と張合わせ、打ち負かすのが目的で......?」
「まあ、そんなところだ」
「でも、彼女とソル王女の力はあまりにも違いすぎるとわかっていたのでしょう? 地下のあなた方がいかに助勢したとしても、彼女の霊能者としての器で制限されてしまうわけですから。彼女には多くの人々を惹きつける魅力が欠けています。我欲が強すぎて、霊力があるのに人望を得ることができない。これでは、ソル王女にかなうわけがありません。彼女はソル王女への嫉妬心だけを動機にしているので、人々を魅する力を持たないのです。大きな魅力を持つ器でなければ、ソル王女と対抗しても勝ち目はありません」
「そうかね」
と、相手は狡そうにいった。相手の戸惑いや怒りや用心深さなど、感情の起伏があまりにも生々しく、生きている人間に劣らぬ現実感をもって迫ってくるのに、三千子は一驚した。これほど憑霊現象が鮮明に行なわれるとは予想もしなかったことだった。
〝魔王〟のぎろりとした威嚇的な目が、チラチラとこちらを窺っているさまがはっきりとわかる。むろん肉眼では見えないが、その雰囲気は気味が悪いほど鮮やかにわかるのだ。魔王は依然として逃げ腰であり、冷静さを回復して韜晦的な態度になっているが、反面では悪意とともに興味も抱いているようであった。
「ソル王女と張合わせようというのは噓でしょう? そのためなら、もっと大きな器を選ぶはずですから」
「ほう。そう思うのか?」
「あなた方の力を注ぎこめば、彼女も大きくはないにしてもある程度の霊能を発揮することができるようになるはずです。ソル王女が社会的に有名になれば、その亜流として彼女もある程度は、霊能者として知られるようになるかもしれない。そうでしょう?」
「そうかもしれんな」
「今、自称霊能者は、雨後の竹の子のように輩出しています。東丈やソル王女がスポットライトを浴びるのに呼応して、沢山の亜流があちこちで名乗りをあげています。それはみんなあなた方の仕業ですね?」
「そういうこともあるかもしれん」
〝魔王〟はあくまでも韜晦する気のようであった。三千子は構わずにいった。
「あなた方が、沢山の亜流を、この少女のようにけしかけては助勢して育て上げ、対抗馬として世に出そうとしているのは、もちろん東丈やソル王女を蹴落すために決まっています。でも、なぜ力量や人望、魅力では遠く及ばない、競い合うこともできない、まがいものの霊能者を続々と製造しつつあるのかということです。はっきりいえば、粗製乱造でしかなくて、彼女程度の力では、ソル王女の足許にも及びません。彼女は己惚れのために、そうは思わないかもしれませんが、客観的に見れば、比べものにならないのは明らかです。そうは思わないのですか?」
「そう思いたければ思うがいいさ。しかし、もちろんソル王女以上のタマも、こっちではすでに用意してはいるはずだがね」
〝魔王〟は気を唆るように曖昧ないい方をした。
「この小娘などは番外さ。ほんの冗談にすぎんということだな。もう使い道はなくなったが」
「先刻の怒りようとはだいぶ話が違うようですね。でも、あなた方がいっせいに霊能者を粗製乱造し始めたわけがわかりました。他には理由がありません」
「なんのことをいってるんだ?」
相手は小馬鹿にするような口ぶりであった。
「あなた方は、いい加減な信用できない霊能者を山ほど造り出そうとしているんでしょう? たとえば彼女のような霊感少女を何人も自分たちの力を貸して仕立てあげる。でも、人格的には問題があるタイプばかりです。我欲が恐ろしく強くて、ひどい目立ちたがりの権力主義者になり易いタイプを選んで憑依するんです。力を貸して当てごとや未来予知をどんどん成功させます。一見すると病気を治す力を与えたりもします。あなた方の仲間同士で狎れあいのお芝居、病気が彼女の力で治った振りをすればいいのですからね。あなたのような力の強い魔王なら、動物霊に憑依された病人がやってくれば、この憑いた動物霊を追っ払って、病気を祈禱で治したように見せかけるのは簡単なはずです。違いますか?」
三千子は語りながら、自分のいつもの話し方と異っていることを意識した。強い明確な波動であり、言葉遣いもきっぱりとして男性的である。
井沢郁江に時折見られる顕著な現象が、今自分にも生じているのだった。もしかしたら丈の波動かもしれないと思いつくと、体が熱くなり、更に力強さが増大してきた。
「そういう風に思うかね?」
〝魔王〟はあくまでも、のらりくらりとかわして行く胆のようであった。
「あなた方が力を貸すことによって、霊感少女の力は見かけ上増大しますし、それに伴って彼女の自負心や増上慢はどんどんふくれ上って行きます。それが狙いで、あなた方は彼女の耳に吹きこむからです。──お前は凄い力を持っている、天才だ、いや生神様だ、イエス・キリストにも劣らない大きな力の持主だ......お前に不可能なことは何もない。今にお前は全世界に知られる偉大な救い主になるんだ......ソル王女などに負けて堪るものか。あんな小娘は口がうまく人気取りが上手でのし上っただけだ。今に馬脚を現わすに決っている。お前の方がはるかに力は上なんだ。お前はソル王女など叩き落すだけの力の持主だ......
あの小娘は本当は幻魔の手先で、幻魔の力を借りているだけの偽者だ。幻魔の操り人形にすぎないんだ。だからお前は東京へ行ってソル王女よりもっと有名になれ。そしてソル王女が幻魔のロボットであることを暴露してやるがいい。あの小娘の信用を落してやるんだ。小娘が偽救世主という幻魔の手先であることをみんなに教えてやれ......それが世のため、人のためになる。偽救世主に瞞されている哀れな人間たちに真実を知らせ、救い出してやるんだ。それがお前の使命だ。お前は大きな力の持主だから、必ずできる。本当の救世主はお前なんだ。三年後にはお前の真の実力が表われ、全ての者たちが真実を知るようになる。
お前は偉大な真の救世主になるべき者だ。我々天上界の霊人たちはこぞってお前の後押しをし、助力を惜しまない。さあ、行って、偽救世主になろうとしているあの小娘を叩き潰してしまえ。誰もが必ずお前の話に耳を傾ける。さあ、行ってくるがいい。我々はいくらでも霊界の力を貸すから......
あなたはそういって彼女に吹きこんだはずです。あたくしのいうことは間違っていますか?」
今は、田崎と青柴は驚嘆の色を隠さずに三千子を見ていた。〝魔王〟は明らかに押されっ放しだったからだ。その不逞ぶてしさもしたたかさも、三千子の前では影が薄い存在になっていた。
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「面白い話だな......」
〝魔王〟は動揺していた。全てを見抜かれた衝撃が彼を捉えていた。
「あなた方は、彼女に力を貸すと同時に、己惚れや増上慢をどんどん煽り立てて行きます。今でさえ彼女はひどい思い上りの虜になって自分ほど偉大な霊能者はないと本気で思いこみかけています。
実際に彼女は、あなた方に助勢されてかなりの霊力を持っているのですから、信者を作ることも可能です。彼女の押しの強い高圧的な態度や大きな自信は、信者を集めるのにも役立ちます。あなた方も手助けすることだし、今マスコミの目が霊能ブームに向いている時でもあるし、一躍霊感少女として有名になる可能性もあります。東丈に対する高鳥慶輔のように、井沢郁江、ソル王女に対抗する霊感少女として脚光を浴びるかもしれない。あなた方はそれが目的で、彼女を後押ししているんでしょう。
彼女だけではなく、他にも自我が強く自己顕示欲の旺盛な若い女性を沢山唆かして、霊感少女ブームを起こそうと画策しているはずです。隠してもあたくしにはわかります。
そしてあなた方の本当の狙いは何か、ということです。こうした粗製乱造の霊感少女たちは、増上慢、権力欲によって急速に身を持ち崩して行くでしょう。そしてスキャンダルでマスコミを賑わせることになります。所詮あなた方の手先になり、我欲の偏執的な塊となった〝霊感少女〟たちは、必ず不品行によって馬脚を顕わしてしまうことになるからです。
〝霊感少女〟は非常識で精神病質者そのものだという悪質なイメージを造り出すこと、それがあなた方〝魔王〟の目的なのです。造り出された〝霊感少女〟たちは、あなた方の手先ですから、押し上げるのも引きずり落すのもあなた方の自由にできます。本当に発狂させてしまうこともできるし、犯罪事件を起こさせることもできます。ありとあらゆる方法で、〝霊感少女〟全体の株を低落させ、足を引っ張り、霊能自体がいかがわしく邪悪なものだというイメージを強めて、社会的通念を変えてしまいます。
東丈や井沢郁江は優れた霊能者だというだけで、強い社会的偏見によって妨害されることになります。彼女のような〝霊感少女〟を粗製乱造するのは、そのためです。東丈たちの活動を妨げ、〝宇宙の法〟を全世界の人々に知らせる業をやりにくくさせることこそ、あなた方幻魔の隠された真の目的なのです。
不品行で下劣な気違いじみた〝霊能者〟〝霊感少女〟とこみにして足を引っ張り、天使たちの業を妨げるのが、あなた方の今懸命にやっていることです。
あたくしには前からそれがわかっていました。この家出少女だけではなく、同じように暗黒波動に唆かされて、我こそは真の天使なりと名乗り出る〝霊能者〟たちが必ず現われると......
もちろん、彼女自身はあなた方の気の毒な犠牲者です。片田舎で育った我欲の強い少女に、あなた方のような〝魔王〟が力を貸すのは、他に理由はありません。あなた方は全世界を〝闇のネットワーク〟ですっぽりと覆い、使えそうな人材を次々にスカウトしているのです。彼女はあなた方がスカウトした人間の見本です。それ以外に、あなたのような強力な魔王がどうして名もなく力もない一少女に憑依しますか......邪鬼よ、あなたが邪鬼であることはわかっていますよ」
三千子は田崎たちがはっと身の裡を引き締めるほどの威厳をもっていった。
「畜生、やっぱり見破られたか......」
相手は歯がみせんばかりの口惜しがりようであった。
「まさかと思ったが、お前は最初から見抜いていたのか......?」
「邪鬼よ。今あたくしのいったことに間違いはないはずです。今更否定しても始まりませんよ。そなたがやることはいつの時も同じなのですから。この家出少女を唆かして、ソル王女に挑ませ、マスコミで一騒ぎさせようとする意図はもう潰えています。彼女にはそなたがたとえ力を貸したとしても、もはやそれだけの成果は望めません。こうやってあたくしがそなたの真意を見破ってしまった以上は、旗を巻いて引きあげるほかはないでしょう」
「見破られたとあっちゃあ、仕方がねえ......」
邪鬼、と三千子に呼ばれた魔王は不貞腐れ芝居がかっていた。
「お前の顔を見たとたん、まずいと思ったのだ......この小娘ではどうにもならねえ。しかし、何とか瞞してくれようとはしたが......」
「邪鬼よ。そなたの陰謀はもはや潰えています。この家出少女から早く離れて行きなさい。もう彼女の利用価値はないはずです」
三千子は自分の言葉が、自分自身の意識から離れ、自然に生じてくるのに息をのむ心地であった。自分のそれに重なり合った、分厚く力強い意識が、三千子の口を借りて語っているのである。
しかし、まったくの別人という感じではない。あくまでも自分自身で語っているのだ。不思議な自己の遊離が生じていた。語っている自分と、それを聞いて驚異に感じている自分は別々であるが、やはり自分自身であることに変りはないのである。
三千子は、初めて郁江に生じている人格の複重化現象をはっきりと実感することができた。
「俺が手間暇かけて、せっかくこの小娘を仕込んでやったのだ。そう簡単に離れるわけにはいかねえ」
邪鬼と三千子によって呼ばれた魔王は、逆襲に転じる呼吸を計っていた。どすのきいたぎらつく目玉が三千子を睨んでいる。
「この小娘は、恐ろしく我が強いが、念力も強い。こいつに力を貸せば、お前らを呪って封じこめることができる......そう思ったのだ。どこまでも執念を燃やして、お前らの道を塞ごうとつきまとうだろう。お前らをやりにくくさせるのに役に立つ。この小娘は嫉妬深く執念深いからな......」
「でも、もうその謀みも終りです。彼女も真相を知れば目が覚めるでしょう。早く去って行きなさい。そなたの陰謀はもはや失敗したのです」
「まだまだ敗けてたまるものか。こっちには幾らでも攻める手があるんだ。お前らがまさかと思う、夢にも思わぬところから攻めてやる......所詮お前らは、俺たちの掌中で踊っているにすぎないのだ。どこからでも隙を突いて攻めたてることができる。ちょいと波動を送ってやれば、俺たちの思い通りに突っ走る馬鹿な人間どもは無数にいる。己惚れのぼせて増上慢になれば、人間はいくらでも俺たちの手の者として動く。この小娘のようにな......」
「でも、ソル王女に対してこの少女では力不足、役不足だったのではないですか。ソル王女は大きな力量の持主です。そなたたちがソル王女にぶつけるには、よほどの幻魔として大きな器を選ばなければならないでしょう。邪鬼よ、そなたには無理です。この通りあたくしごとき非力な者にも、あっけなく素性を見抜かれてしまったではありませんか」
「まだまだ敗けるものか。敗けて堪るかよ!」
邪鬼は憎悪をこめて唸り声をあげた。恐ろしい唸り声だった。田崎と青柴はぞっと鳥肌を浮きたたせて、腰を浮かせた。少女火見子は形相が一変していた。容貌は醜く引き攣り、悪鬼の形相そのものになっていた。目玉はぎらぎら燃えながら青白く光って眼窠から跳び出しそうになった。口は歯列をぞろりと剝き出し、耳許へ向けて裂けた印象である。鼻はしわが寄り、凶暴な怒りに駆られた犬のような険悪きわまる形相であった。
あまりに極端な、人間放れした変貌に、青柴は椅子から転げ落ちそうになった。直前までの家出少女の面影は一片も留まっていない。いささか陰気だが端正な面立の火見子はもうそこに存在しなかった。まぎれもない邪鬼の面相がそこに具象化して顕われていた。
邪鬼が猛犬のように凄惨な唸り声をあげるにつれて、三千子は全身に圧迫感を覚えた。ねばっこく冷たい網が全身をからめとり、じわじわと絞めつけてくる。呼吸が苦しくなり、体が萎え痺れてくる感覚であった。
邪鬼の憎悪の念力が圧力を加えてきているのだと悟る。恐怖心に駆られれば、圧迫は更に強大化するだろう。
邪鬼が渾身の力で絞めつけようとする。三千子は深呼吸をして心を鎮め、ともすれば徴してくる恐慌を追い払おうとした。深呼吸をひとつふたつとするうちに、邪鬼の念力による強い圧迫が減少するのを三千子は知った。
深呼吸が三千子自身の内圧をぐっと高め、邪鬼のかけてくる外圧に対抗しているのである。
それを悟ると、三千子は深呼吸をしながら、邪鬼の加える圧力を払いのけようと意志を働かせた。〝力〟が三千子から放出されて、邪鬼の圧力をあっさりはねのけてしまうのが感じられた。
緑色の混った灰色の闇が出現し、邪鬼を中心にわだかまった。緑灰色の闇が三千子の体を包みこみ、圧迫を加えてくる。それは非物質的でありながら、ほとんど物質的な膚触り、味わいを持った闇であり、意志を持つ緑灰色の無気味な霧であるように感じられた。
邪鬼の眷属が加勢に出現したのだとわかる。悪鬼どもの邪悪な喊声が耳を聾し、邪念がひしひしと体を圧搾してくる。狭い取調べ室に突如として異次元空間の裂孔が開いたようであった。緑灰色の霧はそこから音もなく吹き出して室内を埋めて行く。
腐った金属の不快な味わいが舌を犯した。暗黒波動をまともに受けて、肉体が感覚異常に侵され、変調を生じている。むかむかと胸が悪くなり、冷たくなった皮膚を汗がじっとりと濡らす。
三千子が直接的な想念エネルギー、念力の攻撃に直面するのはこれが初めてであった。物質的な破壊力を持った毒念の攻撃が、肉体にどのように作用を及ぼすかを知って、こうしたことが以前にもあったことを閃くように想い起していた。
以前にも幾度も、自分は毒念による攻撃にさらされたことがあると気付いた。その破壊的な想念エネルギーは、三千子の肉体を蝕み、変調を心臓に生じさせ、一時は死を覚悟させたこともある。
その時は少しも気付かなかったが、本当は邪悪な暗黒波動による攻撃を受け、肉体を蝕まれていたのである。己れの肉体の虚弱さだけによる心臓発作ではなかったのだ。知らぬ間に、幻魔の毒念による侵攻が三千子に加えられていたのである。
三千子は、青柴と田崎が生理的不快感に犯されているのを客観的に見てとる余裕さえ持っていた。とりわけ青柴は嘔気に摑まれて顔面が黄色っぽくなっている。
大きく深呼吸すると、三千子の手は自然に口許に上り、呼気につれて大きく左右に広がった。邪鬼に向けて息を大きく吹きかける形であった。
一瞬にして緑灰色の霧がちりぢりに引き裂けて、ゴム膜がはじけた風船のように消え失せた。
邪鬼の眷属がいっせいに逃げ去ったのだとわかる。感覚を冒す緑灰色の闇があっさりと去ってしまった。
邪鬼は烈風を受けたように大きく打ち震えたが、辛うじて眷属のように吹き飛ばされずに、その場に居残った。
「畜生......お前の力は強すぎる......」
邪鬼は呪いをこめて呻いた。
「お前に出てこられてはかなわねえ......しかし、このまま引っ込んではいねえぞ。お前以外の奴らなら負けやしねえ。誰にだって負けねえつもりだが......お前だけは苦手だ。お前の炎にかかっちゃ、ひとまず引き下るほかはねえ。お前は本当に手強い奴だ」
「その少女を離れなさい。離れないといっても強引に引き離してしまうけれど、自分から退散した方がいいでしょう」
「わかったよ、畜生め......」
邪鬼は未練たらたらでいった。口先とは異り、少女火見子から離れる気がないのは明らかであった。
「今離れる......離れりゃいいんだろう......」
「口先でごまかそうとしても無駄です」
三千子は再び呼気を邪鬼に吹きかけた。邪鬼は烈風のため今にもちぎれそうな旗のようにはためいた。その暗黒エネルギーの大半が吹き飛ばされ、小人のように縮小してしまったようであった。
必死に抗争を試みるが、圧力に勝てずしがみついた手を離して吹き飛ばされてしまう。三千子の息吹には、まるで光の奔流のような大きな圧力が感じられた。邪鬼にしてみれば爆風によって吹き飛ばされるにも等しかったろう。
21
邪鬼が去ったのを感じたのか、青柴が大きな吐息を漏らした。その雰囲気の一変ぶりはどれほど鈍感な人間も感応せずにはいられなかったであろう。
暗鬱な大きな影が去って、視覚的にも取調べ室の中がすっと明るくなるのが知覚できるほどだった。
「やっと去っちまいましたね。ずいぶんしぶとかったが......」
と、田崎が頭を振りながらいった。
「やっぱりお姉さんでないと、今の奴を去らせるのは無理でしたね。あれは、かなりの大物だったんじゃないですか。幻魔ですね」
「大魔王のようです」
と、三千子はハンカチで額を抑えながら答えた。
「大変な力の持主でした。でも、充分に力を発揮できなかったみたい......」
「幻魔がとり憑いたというのは、やっぱり彼女が相当な霊力の持主だからですか?」
田崎はまだ正気に返らない少女火見子を見やりながら尋ねた。彼女は邪鬼が去っても意識を回復せずに、頭をがっくりと胸許に垂れて身じろぎもしなかった。全くの意識不明になっているようである。田崎の大きな声にも反応する気配はない。
垂れ下った髪が顔を覆い隠し、表情は読めなかった。
「幻魔の力を貸して、彼女を利用しようとしたんです。もう少しで魂まで食い尽されてしまうところでした」
三千子は体中が火照り、じっとりと汗ばんでいた。励起した高次元エネルギーの余波で、生体エネルギーのレベルが上ってしまったようである。暑くて堪らず、ハンカチで上気した頰を扇ぐ。
「彼女自身が、霊力の持主というわけではなかったのですか?」
「多少の下地はもちろんあります。でも、大部分は幻魔の力です。彼女は自分の霊力だと思っていますけど、幻魔がそのように思わせ、増上慢をあおりたてたんです」
三千子は声を落していった。
「丈がいった通りですわ。本当の宗教心と切り離されたところで生じてくる霊能や超能力って物凄く危険です。簡単に人間は己惚れの虜になってしまうのですね。他人の持たない優れた力を自分は持っている......もうエリート意識が生れます。自分が特別な選ばれた存在だと思わない人間はまずいないのではないでしょうかしら? たとえ自分では意識しなくても、使命感とすりかわってしまっていそうな気がいたします。
自分では使命感に燃え、純粋な気持でやっていると思っていても、本当はそうではなくて、選民意識、エリート意識のもたらす己惚れだったとしたら、これほど恐いことはありませんわね」
「それは、恐しいです。鳥肌が立ちます。人間は知らない間に我と我が心を瞞しているということですか?」
田崎は逞しい顔に鳥肌を立てていった。
「自分で自分を知らずに瞞す......自己欺瞞という問題は、どんな人間も避けて通れないのではないでしょうか? 自分の動機というものを改めて洗い直す必要がありそうです。今度のことで、それがはっきりしたような気がいたします」
「会でも塾でも、もうとうの昔に起きていることかもしれません。まさか自分の動機がいつの間にかすりかわってしまうなど、考えも及ばないことですから......」
田崎は鳥肌の消えない顔を、巨きな両手でごしごしとこすった。いささか照れ隠しのようでもあった。
「見て下さい。お姉さんの一言で鳥肌が立ったまま消えません。これほどショックを受けたのは初めてです」
「あたくしだって同じですわ。全身に鳥肌が立っています。でも、今の邪鬼は本当に恐ろしいことを教えてくれたと思います。この問題は彼女だけのことではないのですね......あたくしたち全員の重大な問題ですわ。誰だって最初の動機が純粋で浄らかなものであれば、ずっとそれは変らないと思いこんでしまうでしょうから......」
「この子は、大丈夫ですか?」
と、青柴が尋ねた。
「気絶しちゃったようだけど、医者を呼ばなくてもいいですか?」
青柴は目玉が飛びだしたような、ぎょろぎょろした目付になっていた。よほど胆を潰したのであろう。
「今の邪鬼が脱け出した時に、彼女の意識を剝がして持っていってしまったんです。今は意識不明ですけど、大丈夫と思います」
「しかし、このまま意識が戻らないで植物状態になってしまうようなことは、まさかないでしょうね?」
青柴はいささかうろたえ気味に立ち上り、少女の肩を揺すり、耳許で、名前を呼びかけた。しかし、少女の意識は戻らない。
「こりゃ大変だ......」
青柴は泡食って、手荒に少女の体を揺り始めた。
「お姉さん、光を入れてみてはどうですか?」
と、田崎がいった。
「そうですね......あたくし初めてなのでよく遣り方を知らないのですけど」
「大丈夫です。お姉さんなら絶対にできますから」
田崎の三千子への信頼は揺ぎなきものであった。女神を崇敬する目で三千子を仰いでいる。
その信念が転移してきたのか、三千子も何となく自分にもやれそうな気がしてきた。自分の裡で何かが吹っ切れたのを感じていたせいかもしれない。
我ながら躊躇のない動作で立ち上り、少女の背後に廻った。ぐんにゃりと重く垂れ下った少女の頭部を引き起こし、両掌で額と後頭部を挟みこんだ。実地に試すのは初めてであるが、このようにするのだろうというイメージは確かなものが存在していた。
青柴が落着かず、立ったり座ったりしながら、何を三千子がやりだすのかと注視している。
「心配要りません。どうか腰をおろして、ご覧になっていて下さい」
田崎が落着き払って勧める。
「そうですか......本当に大丈夫ですか? 医者を呼ばんでも......」
青柴は半信半疑であった。現実感が根こそぎにされてしまい、足が地につかない気分であるらしい。
「大丈夫です。すぐに正気に戻りますから」
自信に満ちた田崎のいう通りであればよい、と三千子は思った。先ほどと同様に大きく深呼吸を繰り返す。
特に祈りの言葉は誦えなかった。第一、三千子は祈りなど何も知らない。丈や郁江が光を注入する際、自然発生的に裡から湧出してくる祈りの文句を口にするということは聞いているが、三千子の場合にはそのような現象は起きなかった。
しかし、邪鬼を駆逐した時と同様、大きく呼気を吐くと、息吹につれて強い風の如きものが生ずる感覚があった。
光の奔流の如きものが、自分の裡から出て行くようである。錯覚のように思うのだが、息吹が室内の照度を高め、みるみる周囲が明るくなり、分厚い雲間が裂けて太陽光が奔り、滑り落ちてくるような幻想が溢れる。
それはまんざら幻想とは思えないのだが、建物内部の幾重にも壁に囲われた室内で、太陽光が直接差し込むはずもなかった。
それは物質次元の太陽ではなくて、太陽の本体、高次元世界の〝霊太陽〟だ、と三千子は気付いたようである。中世の高名な霊能者スウェーデンボルクの〝霊界探訪記〟に、その霊太陽に関する記述があったのを思いだす。
霊太陽は常に中天に輝き、決して没することがない。そして視る者の真正面に絶えず位置し、観測者が横を向こうが後ろを向こうがそれに関りなくいつも額の正面にあって輝き続けているという。
その霊太陽を今、三千子は視ているのである。
全ての生体エネルギーの原泉は、霊太陽に在る、と彼女は思った。三千子は今宇宙の中心の光を霊視しているのかもしれなかった。
何段階もの変換を行ない、光の圧力を落さなければ、肉体を持つ身には霊視することもかなわない、宇宙の根源の光なのだ。
今、自分の掌を通って、少女火見子の頭部に注ぎこまれているのは、生体エネルギーに変換された、霊太陽の放つ宇宙エネルギーだと悟る。
それは宇宙を創造し、形成し、〝進化〟という秩序を司る根源エネルギーなのだ。変換を重ね、低次元に光圧を落された根源エネルギーの物質的形態が、物質次元における太陽になるのだ。
三千子が現在用いているのは、その中間次元に無数に存在する、変換された根源エネルギーである。
もし自分の意識が充分に開かれれば、あらゆる段階にわたって、根源エネルギーを自由に操作し、駆使することができる、と三千子は漠然と感じていた。
むろん、まだ時期が到来していないゆえに、三千子がその力を自在に駆使することは許されていない。
もし、彼女があちらの世界へ帰ったならば、全ての力は三千子の手にゆだねられることになるであろう。
手の中で、少女が身じろぎして三千子は我に返った。途方もない幻想に心をゆだねていたような気がした。
青柴が安堵の色を浮かべて、三千子を見ている。家出少女が意識を回復しないのではないかと心を痛めていたのであろう。
三千子は少女の頭部から手を離して、様子を窺った。少女火見子はぼうっとしていた。意識が戻っても、即座には現状認識がなされないようである。
「あたし、どうしたんだろう?」
と、少女火見子は呟いた。眉根を寄せて頭を振り、気を取り直そうとした。もう安心と見て、三千子は静かに席に戻った。
少女は気恥しさや当惑を無理やり圧し殺し、気力をかきたてた。屹っとした表情を三千子に向けたが、いささか照れ隠しのようでもあった。
22
「霊人が私に出て、話したんでしょう?」
火見子は突っかかるような口調でいった。三人の視線に不快感を覚え、鋭くとがめだてている気配があった。
「どうしたんですか? なぜ黙っているんですか?」
少女は
性に額にこぼれかかる髪を、頭を振って払いながら問い質した。
「霊人がちゃんとあなたたちに話したんじゃないんですか?」
「火見子さんは、霊人がご自分の口を使って話しても、その記憶はないのですか?」
三千子は反問した。トランス状態になった霊媒は、己れの体に降霊した霊が語ったことを記憶していないのが普通である。自分の意識を抜き、いわば空家になった肉体を、他の霊に貸すのが、霊媒の機能だからだ。
郁江たちのように、高次元霊が宿っても己れの意識を留めておき、一切を記憶しているのは珍しい例といえる。
米国最大の霊能者と呼ばれるエドガー・ケーシーにしたところで、霊人による告示は完全なトランス状態で行われ、ケーシー自身の霊能は特筆されるほどのものではなかったようである。
「記憶はありません。私の脳を霊人が使って話すからです。もし記憶があったらおかしいですよ。自分自身の考えがまざりこんでいる証拠です。自分自身の意識があるうちは、霊人は入れません。だから、井沢郁江さんたちのやっている降霊法はおかしいと私はいっているんです。自分で自分に暗示をかけて、自分の勝手にでっちあげたことを、霊人の考えだと思いこんでいるんです」
少女火見子はひどく断定的な口ぶりでいった。その断乎とした唯我独尊ぶりは、彼女の特質であるらしい。
「ただ勝手な妄想を喋っているだけです。いっていることはみんなデタラメです。少しも妥当性がないじゃないですか。本当の霊媒はもっと謙虚で奥床しいですよ。自分が、自分がとしゃしゃりでることはありませんからね。自我が強すぎる者は霊媒にはなれません。
でも、お姉さんはそれくらいのこともご存知ないんですか? 週刊誌に書いてあることとはだいぶ違いますね。英語の専門家で、海外の文献にはとても詳しいと書いてあったけど、本当なんですか?」
「あたくしは英米文学の翻訳が専業で、超心理学の専門家でも何でもありません。海外の文献は多少読んでいますが、もちろんその方面の専門家だと自称したことはありません」
「そうでしょうね。本当のことを少しもご存知ないようですから。それに超能力とか超心理学なんて、お笑い草ですよ。霊界や霊人のことは何もわかっていないし、魔法や魔女のことだって全然知らない。物凄く幼稚です」
火見子は軽蔑をこめていった。
「みんな無知だから、いいかげんなことでもあっさりと瞞されてしまうんです。本当に馬鹿だと思います。宗教的な詐欺師の好餌になるのは当り前です。井沢郁江さんたちは自己暗示にかかって、霊媒ごっこをしているだけだと思いますけどね。
お姉さんも早く目を覚まして、本当のことに気がついて下さい。さもないと、偽救世主という詐欺師にころりと瞞されることに必ずなりますよ」
「あのね、あんたは何も知らないようだがね、今大変なことが起きたんだよ......」
堪りかねて、青柴がいいだした。少女のあまりの高慢さに我慢ならなくなってしまったようである。
「青柴様、どうぞあたくしにこの場は」
三千子は強くいった。眸の色で青柴にわからせようと努める。
「大変なことって何ですか?」
少女がすかさず尋ねた。少なからず不安に襲われたらしい。強気のようだが、劣等感が強いために、常に心の中には不安と怯えが自信と混在しているのだ。
「いって下さい。何ですか? 何か起こったんですか?」
「ま、それじゃお姉さんからどうぞ」
青柴はタバコを探りながら、問い詰める少女からそっぽを向いた。
「確かに霊が、火見子さんの体に入って語って行きました」
三千子は言葉を選びながらゆっくりいった。
「でも、それは霊界の方......清浄な霊人ではありませんでした」
「どういうことですか?」
少女火見子は眉根をしかめて尋ねた。
「早くいえば、地下の霊が現われて、喋っていったんです......火見子さん、体の調子が変なのではありませんか?」
「気分が悪いです。でも地下の霊が入ると誰だって後で気持悪くなりますよ」
火見子は案に相違して、地下の霊と聞いても驚かなかった。
「火見子さんには、地下の霊が入ることがしよっ中あるのですか?」
「しょっ中じゃないですよ。体が堪りませんからね。でも、時には入れて、彼らの考えていることを喋らせることもありますよ」
火見子は探るような目の色になった。
「地下の霊って、どんなことを喋っていったんですか?」
「邪鬼という大魔王クラスの古強者です。どのようにしてあたくしたちに攻勢をかけ、やっつけるか喋って行きました」
「邪鬼? 何だろう......?」
火見子は気分が悪くなったようである。三千子の与えた生体エネルギーが急速に脱け出して行くのか、顔色がみるみる蒼くなってきた。気分悪そうに胸を抑える。嘔気を催したらしい。
「大丈夫ですか、火見子さん?」
「大丈夫です。親しい霊人が助けてくれますから。地獄霊が入った後は、いつもこんなになるんです......でも、何だか変......」
火見子は唾をしきりに飲み下した。目がどんよりと苦痛で曇ってくる。
「どうしたんだろう......」
「親しい霊人が力を与えて、苦痛を取り除いてくれるのですか?」
「そうです。でも、今日は何だか変......いくら呼んでも返事がないんです。留守みたい......どこかへ行ってしまったみたい......」
青柴と田崎は顔を見合わせた。青柴にも、火見子のいう〝親しい霊人〟が邪鬼であることはのみこめたようである。
三千子によって追い払われてしまった邪鬼を、火見子がいくら呼んでも返答があろうはずもない。
「おかしいわ......どこにもいないわ。いなくなっちゃった......」
火見子は大きな衝撃を受けていた。
「どうしたの......? ねえ、どうしたの?」
ふらふらと椅子から立ち上った。嘔吐を催して、我慢ができなくなったのだ、消耗しているのでまっすぐ体を立たせておくのも難しく、机に摑まって危く体を支えた。傷だらけの机がガタガタ揺れ動く。
背中をまるめ、体を痙攣させた。嘔吐の発作に堪えかねたのだろう。
田崎は素早い反射神経を示して、机の上にあった大ぶりのアルミの灰皿を取り上げた。火見子の上体を支えながら、灰皿を彼女の口許に押しつけるようにする。
自制が破れて、火見子は背中を波打たせ、吐物を灰皿に吐いた。吐物は大量ではなかったが、灰皿には余るものがあり、田崎の指をべったりと汚した。
引き攣るような呻き声を絞り出して、少女は黄水を吐き続け、空えずきに痙攣していた。吐物の鋭い臭気が立ちこめ、三千子まで気分が悪くなってきた。青柴が急いで、鉄格子のはめられた小さな窓を開けに行く。
田崎は分厚い大きな掌で、慄えわななく少女の薄い背中を擦り続けた。無骨な外見に似ない細やかな配慮と優しさを感じさせる眺めであった。
「少し横になって休んだ方がいいな」
と、田崎はいい、青柴に顔を向けた。
「平気です。平気です......これくらい......」
少女はあくまでも強気だった。しかし、声は細く跡切れとぎれだ。三人の前で醜態をさらしたことがこの上ない屈辱なのであろう。
田崎の介抱の手を払いのけるように上体を起こし、椅子に座り直した。両手で口許を抑えて、机によりかかっている。真青な顔をしていた。目はどんよりして焦点が合っていない。
しかし、目を瞠らせるほどの負けん気の持主であることは間違いなかった。他人の世話になることを、頑として拒もうとしているのである。
吐物で汚れた灰皿を始末しに、田崎は部屋を出て行った。廊下で青柴から手洗所の場所を教わっている。
「青柴様、恐れ入りますが、水を一杯お持ち頂けませんか?」
三千子は、ぐったりと机によりかかっている火見子の後ろに廻りながら頼んだ。
「火見子さん。ベンチに少し横になってお休みになったら?」
「これくらい平気です。しょっ中です......」
少女の強気ぶりは崩れなかった。
「負けませんよ私。いつだって他人のために尽してやろうと思って、馬鹿ばかり見ているんですから。でも平気です。私は強い人間ですから......」
真青な顔で身動きもできないくせに、口先だけは強気一点張りだった。
「ほっといて下さい、本当に大丈夫ですから。今すぐ元気になります。親しい霊人たちが力をくれるんです」
必死の意志の張りようがいたましく感じられた。しゃにむに歯向ってくる必死の小動物のようであった。
三千子は黙って、火見子の背中を擦り始めた。強壮なエネルギー感は、邪鬼を駆逐した時に優るほど高まっていた。
「いいですったら......これくらい何でもないんです。もっとひどい目に遭ったことがいくらもあるんですから......」
しかし、火見子は三千子の手を振り払う力はさすがに持たなかった。三千子の手が快さをもたらし、痺れるような苦痛をなだめ、取り除いて行くことに気付いたのであろう。
火見子の苦悶にしかめられた、真青な顔にほんのりと血の色が戻ってきた。三千子の撫でさする手から伝わってくる和み、心地よさをもはや拒否できなくなっていた。三千子の手は暖く柔かく、拒みがたい魅力にみちており、火見子は不審げな表情で、その手の感触に心身をゆだね始めた。心を凝らして、いっしょに何事か思い出そうとしている面持であった。
少女の心が和み、安らぎを取り戻したのが三千子にはわがことのようにわかった。背中を撫で擦ることによって注入した光が、少女の心をなだめてしまったのだ。
青柴がコップに水をなみなみと湛えて運んできた時は、火見子の顔色はずっとよくなっていた。目にも光が戻ってきている。
少女はコップの水を喘ぎながら飲んだ。
「すみません......」
火見子は初めて殊勝な言葉を吐いた。それは彼女が決して口にしない類いの言葉であった。もう大丈夫、と見て三千子は手を引っ込め、元の椅子に戻った。
火見子は何かしら物足りなげな面持をしていた。もっと三千子に背中を擦ってもらい、掌の心地よい感触に心身をゆだねていたかったのであろう。少女がひどくそれを気に入ったことは明らかであった。さもなければ、恐ろしい意地っ張りを発揮して、断乎として退けたろうからだ。
しかし、もちろん、そんな本音をわずかにでも表出する火見子ではなかった。
「こういうことは、しょっ中あるとおっしゃいましたね?」
「他人の病気を治してやったりすると、いつもとっても気分が悪くなります」
火見子はハンカチで口許を拭いながら答えた。元気が出てきたようである。独得の独善的な高圧ぶりを回復している。
田崎がきれいに洗った灰皿を手にして戻ってきた。
「もういいのか、休んでなくても?」
ぶっきらぼうにいう。
「その灰皿のタバコの臭いで、ムカッときちゃったんですよ」
火見子は一片の感謝の念も表わさずにいった。むしろ田崎の遣り方をとがめだてし、責任を追及しているような口ぶりであった。
「タバコ、大嫌いなんです。臭いを嗅いだだけで、おえってなりますよ。なんであんな臭いものを平気で肺の中に吸いこむのか、気が知れない。我慢しようと思ってたのに、タバコの吸殻の臭いでどうしようもなくなっちゃったんですよ」
「気が付かなくて、悪かった......」
田崎は怒りもせずにいった。相手の気性がのみこめたのだろう。青柴は何ともいいようのない顔になっていた。
「今にも嘔げそうだったので、とっさにやってしまった」
「いつだって他人のためにやっているのに、ひどい目にばかりあっているんですからね」
少女は口惜しそうにいった。
「やっぱり厭な思い、辛い目にはあいたくないですよ。それを我慢してやっているのに、人間ってみんな物凄く得手勝手で利己的で、よくしてくれた人に感謝するなんてことは知らないんです。恩を受けたのに逆にひどい悪口をいうんですからね。呆然としますよ......他人の病気を治してあげて、こっちは疲れ切って病気になったりしているのに、当の本人から悪口をいわれ、化物呼ばわりされてごらんなさい、もう立ち直れないくらいのショックです。感謝も何も知らない人間ばっかしです!」
元気を回復した火見子は再び元の調子でまくしたて始めた。田崎と青柴は理解を絶したという表情で少女を見ていた。感謝を知らない人間というのは、彼女自身ではないかという顔だ。
「私って馬鹿だなあ、とよく思いますよ。我ながら自分のお人好しぶりに呆れます。何の感謝もない自分勝手な人たちに、化物って呼ばれながら、助けて下さいといわれると、性懲りもなく助けてあげて、病気になったりしているんですから。
沢山お金を取って病気を治してあげれば、同じことをやっても拝み屋や祈禱師になれて、お金もうけができるのに......人に生神様と呼ばれて感謝されたりチヤホヤされたりするのに......私が無料で病気になってまで病気を治してあげると、化物と呼ばれるんです。まったく人間って勝手です。
行者が病人に憑いてる畜生霊や死霊を払ったり落としたりすれば、素晴らしい通力といって称えられるのに、私が同じことをやれば感謝されずに罵られるんです。小学生の時は子供たちに石をぶつけられて大怪我をしたことがありました。病院で手当てを受けながら、涙が停まりませんでした」
「火見子さんは、子供の頃からずいぶん辛い思いをしてきたのですね」
三千子は深い声音でいった。少女の強く張った目にふと動揺が生じ、目を伏せてしまった。それは睨み合いに負けたのではなく、己れの裡にこみあげた感情の圧力に破れたという慌しさがあった。火見子は涙を見せまいとして、感情に揺れる己れ自身との間に死物狂いの抗争を行なっていた。人前で涙を流すことは、少女にとって堪えがたい恥辱であることは明らかであった。
23
「本当に馬鹿げてますよ」
激した感情を幾度にも分けて、熱湯か何かのように飲み下す努力を繰り返した後、火見子はしゃがれ声でいった。
「人のためを思って、犠牲的行為をすると、必ず恩を仇で返されるんですから。私が他人にない力を持っているからです。嫉まれたり恐れられたりするんです。ずいぶんいろんな人を助けてあげました。でも、素直に感謝されたことなんかただのいっぺんもありません......沢山お金をとって私と同じことをする人たちは感謝されるのに......」
「それはなぜだと思いますか?」
「私が生れつきの霊能者で、他の人たちとは全く変っているからですよ!」
少女は激烈な口調でいった。
「私は拝み屋みたいに、肉体行をして霊力をつけたわけじゃありませんから! 私は最初から霊能を持って生れたんです。だから、私は養女に出されてしまいました。実の親は、私の霊力を薄気味悪がって、化物扱いにしたんです! 私がどんな思いをしてきたか、喋りだしたらきりがありませんよ!
でも、私は平気です。もう自分が何者か、どんな使命を持って生れてきたか悟ったからです。でも、井沢郁江さんのようないい加減なものじゃありません! 沢山無関係な人々を集めて噓を教えたりはしません! 私は霊界で約束してきた人たちを今探しているんです。
その人たちは、この古い世界が終って、新しい世界が生れる時の礎です。礎になる人々はもうこの世に出て、私と出会う時を待っているんです。私はその人たちの目を覚させてやらなければならないんですよ。幻魔に瞞されて奴隷になる人たちには用はありませんからね......私はこれまでさんざん化物とか妖怪呼ばわりされて、いじめられてきたけど、もうその時代は終るんです。私は礎の人々を集めて、新しい世界が生れるための準備をするんです。
古い世界といっしょに滅びてしまう人間たちは沢山いるし、全地球上に、生きている人間たちは大部分がそうです。新しい世界に渡れる人たちはあまりいません。
だから私は一人でも多く、目覚めさせて新世界に連れて行きたいんです。三年後に私は〝母〟と呼ばれる存在になって、定められた人たちを率い、新世界へ渡ります。
今の私を見れば、名もない貧乏な女の子にすぎないし、みんなこぞって馬鹿にしたり侮ったりしますが、今に本当のことがわかります。でも、その時になったらもう手遅れなんです。三年後には私は〝母〟になって、連れて渡る人々を選別していますから、その時になってあわてて泣きついてきても、もう後の祭りです。それまでに目の覚めない人間は、新世界に連れて渡ることはできません。だから、後悔しないようにしなさい、とくどいほどみんなに警告しているんです。でも愚か者たちにはわかりませんよ。ノアの時だって、ソドムとゴモラの時だって、愚か者たちは決して天使の警告に耳を貸したりしないんですから。滅びてしまうのは本人の勝手です。私は馬鹿者たちは相手にしません」
「でも、幼い頃から霊力を発揮しているのは、火見子さんだけではないと思いますけれども......霊力があるからといって全ての人が化物呼ばわりをするものでしょうか? 普通だったら、霊力で病気を治してもらったり助けられたりすれば、感謝しこそすれ、化物と呼んで罵ったりはしないと思いますが。街の拝み屋さんでも、熱心な信者を多少は持っているものでしょう。火見子さんだけが、なぜ恩を仇で返されるのでしょうか? それについてお考えになったことはないのですか?」
「もちろん、いつだって考えてますよ」
火見子が吐き出すようにいう。
「そういう人は恩知らずで馬鹿だからですよ! それだけでなく幻魔にやられているからです。幻魔は私が三年後には〝母〟たる身になることを知ってますから、あらゆる方法で馬鹿な人間たちを操り、私を迫害しようとしているんです。私は修行を積んで三年後には新世界へ人々を渡さなければならないんです。だから、私を徹底的に迫害し続けているんですよ」
その強固な思い込みには根が生えていた。外見に似ぬ巨大な岩根のようであった。
「つまり、他の霊能者の人々に比べて、火見子さんが特にひどくいじめられたり、迫害されるのは、火見子さんが霊界で大きな使命をさずけられて地上に出てきたからだ、ということですか?」
「いってみれば、そういうことですよ」
火見子は傲然といった。
「雑魚はやっぱり相手にしませんからね、向うでも。ただの霊能者なんかハナもひっかけません。幻魔はちゃんと人を見ているんです。馬鹿な人たちの心に入りこみ、煽動して私を化物呼ばわりさせ、いじめさせて、若芽のうちに潰してしまおうと計画したんです。もちろん、霊界の後楯が私にはついていますから、うまく行きませんでしたけどね」
「幻魔という言葉をお使いになってますけれども、いつごろからそれに気付かれたのですか?」
「ずっと前からですよ。子供の頃から、幻魔というものが存在することはわかっていましたし、私も幻魔と名付けていたんです。東丈さんが幻魔の存在に気付いたのは、去年でしょう? 私は小学校二年生の頃にはもうわかっていて、人々に警告していたんです。私の方がずっと早いんです」
田崎はさすがに苦笑に似た表情になっていた。これだけ異常に肥大した自己顕示欲の持主は放っておくしかないと考えているのであろう。火見子は全ての中心に自我を置き、世界は彼女によって意味性を与えられているということなのだ。狂気の臭いは強まる一方だった。
「東丈さんはなかなか鋭く幻魔の特質を捉えていると思いました。井沢郁江さんのいうことは論外ですけどね。あの人は自我が強すぎるので、幻魔に取りこまれてしまった典型的な例です。でも、東丈さんはまだ事態をしっかり認識できているし、お話してみるだけの価値があると思ったんです。東丈さんと私が協力すれば、新世界へ人々を渡す仕事をスピードアップできそうな感じがするので......もし東丈さんが霊界で使命をさずけた人なら、必ずうまく行くはずです。もう目が覚めかけているという気がするんです。
東丈さんの実のお姉さんなら、あなたも約束のある人かもしれません。早く目を覚まして下さい。井沢郁江さんのような偽りの天使にいつまでも瞞されていては、決して自分の使命は果せなくなりますよ。お姉さんも私の忠告を聞き入れて、早く目を覚して下さい。いつまでも井沢郁江さんに瞞されているなら、私はお姉さんを軽蔑します」
三千子は苦笑いを堪えた。あまりに気負った独善ぶりが憐れになった。これでは人々に疎まれ、忌避されるのは止むを得ないことであろう。
邪鬼が憑依する以前からの顕著な性格の偏りなのだと三千子は思った。邪鬼はその傾向を更に煽りたて、高慢さを助長したにすぎない。
しかし、その高慢さも、火見子が幼い少女時代から己れを守るために身に鎧ったものだと思えば憐れになってくる。根は心優しい少女だという気がする。己れの霊能を用いて人々を救いたいという気持も噓ではあるまい。
善良な人々が陥り易い、独善と自己満足という陥穽に、火見子もまた転落してしまったのだ。いじめられやすい傾向を備えた、多感な性格という面では、弟の丈に火見子は近似値を持っていそうであった。おそらく火見子はまだ丈のようには〝宇宙の真実〟に触れていないゆえに、極度の視野狭窄の虜になっているのだ。
そう考えると、少女への嫌悪感は薄らいで行った。その異常な自己顕示欲も高慢さも、仮象のものなのだ。幻魔が、霊能に関して素質を持つ人間を侵食する、一つのあり方だという気がした。霊能者は誰一人、少女火見子の陥った罠を軽視することは許されない。
それは東丈や郁江にしたところで例外ではありえなかった。
「あたくしは理性や客観性ということを大切にしているつもりです」
三千子はおとなしくいった。
「とりわけ、霊能に関してはクールなほど客観的であろうとしています。霊能には陥し穴が沢山あるからです」
田崎は、この上三千子が少女に対して時間を費そうとしていることがよくのみこめないようであった。少女火見子が悪霊に憑依されていることはまぎれもない事実として証明された。この上、何を少女に関り合う必要があるのか、と疑問を感じているのだ。〝悪霊憑き〟と判明したからには、これ以上の話し合いは時間の浪費である。青柴にも家出少女が精神失調者であることが疑問の余地なく理解できたであろう。
なぜ三千子はもっと少女を突き放し、彼女が邪鬼という名の地獄霊に憑依され、操られていたことを告げないのだろうか。三千子が謙虚であればあるほど、家出少女は傲慢不遜になるように思えた。
邪鬼が何を喋ったか知れば、火見子の傲慢さは叩き潰されるほどのものなのに、三千子はあまりにも優しすぎる......
「井沢郁江さんなんか、その陥し穴にもろに落っこってしまっていますよ。もうちょっと這い上るのは大変なんじゃないですか」
火見子は他人の批判になるとむやみに精力的であった。
「あの人のいってる前世記憶とか転生輪廻とか、守護霊とか、早く止めさせた方がいいです。もう目茶滅茶なんですから」
「火見子さんはよくご存知なのですか?」
「そりゃ、彼女のいってることがデタラメの限りを尽しているってことぐらいはわかりますよ。私もエジプトに生れていますから、ピラミッドが建設される光景とかはっきり憶えています。でも、守護霊が過去世の自分自身だなんてとんでもない大間違いです。それこそ噴飯物ですよ。守護霊っていうのは、霊界での友達がやってくれているんです。彼女がいうように自分自身であるはずがありません。そんなに素晴らしい存在じゃないんです。ごく普通の霊で、おかしいなと思う欠点だって沢山あります。生きている人間と同じですよ、その点は。
それなのに、井沢郁江さんはその程度のこともわからずに、過去世の自分自身だとか、素晴らしい人格的存在の高次元霊だとか、いい加減な噓っぱちを平気でいっているんですからね。
それこそいい加減にしてもらいたいと思います。彼女は暗示にかかって口から出まかせをいっているだけです。それなのに、本人は大覚者気取り、救世主気取りなんですからね。彼女は間違いなく〝偽救世主〟の一味です。そのことにお姉さんも早く気付いて下さい」
「〝偽救世主〟というのは、黙示録に出てくる、〝獣〟ですか?」
「そうです。よく知っていますね」
火見子は驚いた顔をした。その唯我独尊ぶりが人の心に大きな反撥を呼びさますことになぜ気付かないのか、と思う。
「ヨハネの黙示録の666の数字を持った〝獣〟が、なぜ井沢郁江さんに関係あると思うのですか?」
「さすがはお姉さんですね。そんなことご存知ないと思っていました」
火見子はよほど他人を見くびる性癖があるらしい。
「その通りですよ。〝獣〟っていうのは、サタンのことなんです。大魔王サタンです。サタンは肉体を持って〝獣〟と呼ばれる世界的な権力者となり、地球全体に君臨します。物凄い霊能力を持った超天才で不死身です。悪魔の王サタンの力を持っているからこそ、偉大な霊力を発揮できるんです。彼は最大最高の力を持つ〝偽救世主〟、つまり〝偽キリスト〟で、だれもかないません。この〝獣〟によって世界は滅ぼされるんです。
私はその前に、新世界へ渡す人々を選別してしまわなければならないんです。心浄らかで心底から神を信じる人でないと、新世界へ渡る資格はありません。大部分の人間は〝偽キリスト〟に瞞されて、悪魔の奴隷になり、永遠の呪いを受け、魂を腐れさせ、滅びてしまいます。
井沢郁江さんたち外道に堕ちた人たちは、〝偽キリスト〟の一味です。サタンの強い波動を受けて動いているロボットです。罪な噓偽りを人々に吹きこんで、心を狂わせ、神から引き放すのが目的なんです。だから、私はそれを止めさせ、正しい人々が瞞されるのを防ぎとめなきゃなりません」
「新しい世界というのは、どんな世界なのですか?」
「この世界は、米ソの核戦争でおおかたが壊滅します。生き残る人類は本当の小人数です。どんなに深い地下の核シェルターに潜っていても、助からない者は助かりません。でも、地球のある特定の一部は、神の加護を受けていて、核戦争の放射能からも免れます。私は〝母〟として、選別した人々を、その加護された地方へ連れて行きます。これが最後の大脱出になるんです。新世界が来れば、サタンは滅び去り、新しい楽園世界で人類は再生することになるんです。ちゃんとそれは、何千年も前から預言者によって告げられていることなんです。破滅は間もなくやってきます。それはサタンの〝獣〟が地球を支配する時代でもあるんです」
「その新世界という地球の一地方はどこなのですか?」
「それはいえません。〝子供達〟にしか教えられないんです。もしそれが世間に知れ渡れば、命の惜しい人間たちがどっと押しかけようとするでしょうからね。いざという時にならなければ、〝子供達〟にさえもいいません。でも、お姉さんは新世界へ渡る資格がある人だと思います。もしお姉さんが自覚して、〝子供達〟の一人だとわかった時は、もちろん教えてあげますよ。でも、その前にやらなければならないことがあります。〝偽キリスト〟の一味で、サタンの波動によって動かされている井沢郁江さんから、大急ぎではなれることが絶対に必要です。
それから、私の指示する遣り方で、三か月間、心身を浄化することが大事です。信じて決して疑わない心、不動心を作らなければならないんです。サタンの〝獣〟に瞞されないようにするために、不動心は絶対に造り上げなければなりません。
ともかく、お姉さんは早く目を覚まして下さい。井沢郁江さんはなんのかんのといってお姉さんを放すまいとするでしょうが、それを思い切って振り切らなければ、何もかもおしまいです。もしこのまま躊躇していれば、生命エネルギーを吸い取られて、お姉さんは必ず早死にすることになります。私にはそれがちゃんとわかっているので、口を酸っぱくして忠告しているんです。
早く目を覚まして新世界へいっしょに渡りましょう。お姉さんには大きな力があります。人々を助けて自覚させ、〝神世渡り〟をさせなければならない使命があるんです」
少女は熱意に満ちて、三千子を説得にかかっていた。火見子が三千子に対して親しみを抱いているのは疑いを容れなかった。きわめて独善的な愛着の抱き方であり、有難迷惑ではあるが、少女が三千子を救いたいと思っているのは本気であった。
「ご好意はありがたいのですけど、火見子さんが先程見抜かれたように、あたくしは疑い深くて......懐疑的で簡単には信用しないというタチなんです。理性を大事にしますし、疑問の余地がないと確信するまでは決して動きません。石橋を叩いて、結局は渡らない、とよく親しい方にいわれます。ですけど、その生き方を変えるつもりはありません。
火見子さんが、本当に神の心を奉じて、人々を救うために自己犠牲さえ惜しまず、真剣に生きていらっしゃるならば、いつの日にか必ず火見子さんとあたくしの航路は交わり、一致すると思うんです。でも、さっき火見子さん自らおっしゃったように修行中の身でもあるし、まだまだこれから、ということでしょう。何もあわてふためく必要はないと思います。あたくしはもちろん、東丈もまだこれから学ぶべきことが沢山あります。火見子さんもそれと同じことではないでしょうか。焦ることはないはずです。火見子さんもそれはおわかりのはずと思いますが」
「じゃ、お姉さんはやっぱり、井沢郁江さんを信じているというんですか? あんな〝偽キリスト〟の一味を!?」
火見子が憤然としていう。思うようにならないと、簡単に腹が立ってくるのだ。
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「あたくしはきわめて慎重な人間です、と申し上げているだけです。たやすく一時の思いつきや衝動に押し流されることもないし、いってみれば融通のきかない、小廻りのきかない無器用者なんです。
今お逢いしたばかりの火見子さんのお話を熱狂的に受け容れたり、一から十まで信ぜよといわれても、あたくしには全く不可能です。これは何もあたくしだけには限らないでしょうが......火見子さんはずいぶん性急すぎるのではないでしょうか? それではなかなか人はついてこないと思いますけれども」
「やっぱり東丈さんと直接逢って話さないと駄目みたいですね」
火見子は性急にいった。
「もしかするとお姉さんなら、と思ったんですけど、やっぱり駄目でした。仕方ないです。こればかりは縁がないとね......でも、お姉さんも早く気付いた方がいいですよ。みすみす神の怒りに触れて永劫の罰を受けるなんて馬鹿ばかしいですから......東丈さんと逢う方法はないんですか? どこへ行けば逢えるんですか?」
傷ついた自我を剝き出しに、言葉だけは抑えて火見子は詰問した。
「わかりません。もしかすると、吉野の大峰山の方で禅定しているのかもしれません。はっきりとはいえませんけれど......」
「大峰山......? それでいつ帰るのかわからないんですか?」
火見子は不機嫌そうにいった。
「残念ですけど。でも、いつかは戻るでしょうし、火見子さんのおっしゃるように、縁というものがあれば、いずれ逢えるのではないでしょうか。必ずしも火見子さんの思い通りになるとは思えませんが......」
「全ては霊界での約束次第ですよ」
火見子はぷいと横を向いた。
「お姉さんはわかってくれると思ったんですけどね、残念です。何とかして救ってあげたかったのに。やっぱり井沢郁江さんに魂まで虜にされてしまっているんですね。
でもね、お姉さん。もしかすると東丈さんは〝偽キリスト〟の波動を避けて姿をくらましているのかもしれませんよ。会を離れた人たちはみなそうです。会に残った人はみな魂まで食い物にされてしまったんですね。気の毒だけど、もうどうしようもありません。
もう話すことはなくなりましたから、帰って下さってもいいですよ。これ以上、用件は何もありません」
火見子はそっぽを向いたまま、冷やかにいった。
「君! そんな失礼ないい方があるか」
と、青柴が辛抱が切れたようにどなりだそうとした。怒気をはらんで顔色がむらになった。
「いいえ、よろしいんです。青柴様もどうか......これで火見子さんも話すだけ話して、気がすんだと思うんです。意見は一致しませんでしたけど、それは仕方がありません。ものの考え方が根本的に違うのですから......火見子さんもその点は納得なさったのではないかと思います」
「すぐにわかりますよ。どちらのいうことが正しいか」
「そうですね。でも、自分の正しさをいいたてるだけでは、人々は納得してくれません。やはり本人の生き方が大切になってくると思いますよ」
「............」
火見子は相手の言葉が耳に入らないような顔で黙っていた。もはや三千子には興味がないということを表明しなければならぬと感じているのであろう。せっかくの救いをもたらしたのに、三千子がそれを拒むなら、地獄へ堕ちるのは自業自得だという顔付であった。その狂信的な性向ゆえに、他人と協調するなどとうていありえないことなのだ。そのあげく、他人に疎まれ、遠ざけられるほどに、己れの正当さをますます強く確信する。他者の反撥は火見子の正しさを証しするものになるのだ。結局は、彼女の視野狭窄ぶりは矯正不能になり度しがたくなるだけだ。
火見子が何かしら頑固な甲虫じみたものになるような気がして、三千子は憐愍に心を絞めつけられた。しかし、どのように説いても火見子は決して受付けないということがわかっていた。
「火見子さんにお願いがあります」
無駄とわかっていても、三千子はなおもいわずにはいられなかった。
火見子が何だ、という冷やかな目を向ける。
「火見子さんは確かに霊的な才能をお持ちですし、使命感というべきものを心に抱いていらっしゃる。この先、人々が火見子さんの霊力に惹かれ、導きを受けるために集まってくるかもしれません。火見子さんにお願いしたいのは、そういう人々を、大きな心で愛してあげて頂きたいのです。
自分のいいなりにならない、絶対服従しない人々を、馬鹿だ愚かだときめつけるのではなく、その人たちの立場というものもよく考えてあげて頂きたいのです。何がその人たちにとって一番いい道なのか、その人たちの本当の幸せを考えてあげて下さい。
霊力を持つことが人によっては甚だしい危険をもたらす、そう火見子さんはおっしゃいました。たやすく外道に堕ちる、と......それが火見子さんによくおわかりであるなら、霊力に強い関心を持ち、自分も霊力を身につけたいと願って、火見子さんの下に集ってくる人たちを誤りなく導いてほしいのです。
それは霊的な指導者にとって、もっとも大事なことだとあたくしは思います。人々をもし、迷わせ、道を誤まらせることがあったら、火見子さんがおっしゃる通り、大きな罪です。未来永劫に許されないほどの重罪だ、とあたくしも思います。人々の魂を狂わせてしまう指導者ほど許されざる存在はまたとありません。
人々を大きな広い心で愛してあげて下さい。偉大な母であるならば、子供たちの行く末を本心から案じるでしょう。火見子さんも養父母を持ったり、家庭環境に必ずしも恵まれずに、きびしく苦しい境遇にあって育ったならば、母に対する理想像をお持ちではないでしょうか?
狭い心ですぐに感情に走り、己が欲望に流されて、我子のことさえ念頭から見失ってしまう悪しき母親......己れの責任すら全く果せない、自堕落な、無情な母親......そんな女は母たる資格がない、と火見子さんはいつも歯軋りする思いで、幼い頃をすごしたのではありませんか?
自分だったら、決してあんな非道な母にはならない、我子にはこうもしてあげよう、いっぱいの愛情を与えてあげよう、我子のためには自分の身を犠牲にするのが、本当の母なのだから......火見子さんはいつもそう思っていらしたのではないでしょうか?
もし火見子さんが霊的指導者の〝母〟なる者として、人々を導くならば、その〝母〟の立場は、火見子さんの理想像の母とぴったり重なり合うはずです。そうではないでしょうか?
大きな広い心、愛の心を持った〝母〟として、人たちを育んで頂きたいのです。こんなあたくしの願いは間違っているでしょうか......」
そっぽを頑なに向いていた火見子は、途中から意外なことを聞くという表情になり、三千子に目を戻していた。
「間違ってはいませんよ、別に......私は当然〝母〟なる者として、そうするつもりです。駄目な〝母〟には決してならないつもりです......あなたにことさらにいわれるまでもありませんよ」
火見子はきっぱりといった。
「私はこれからも、霊界で約束した人たちを探して行きます。必ずわかりあえる人たちが近いうちに出てきます。どうやらあなたの話では、東丈さんは当分の間出てこないようですけどね......目星をつけている人は、何も東丈さん一人じゃありません。礎になる人は他に沢山いますから」
「駄目な〝母〟にはならないという火見子さんの言葉を信じています」
三千子は頭を下げて、椅子から立ち上った。田崎も無表情な貌で体を起こす。コメントすべきことは何もないという顔であった。
「いつの日にか、火見子さんの生き方と私どもの生き方が交わって行くことを祈っております」
「それまで体の方が保てばいいですけどね」
火見子は捨てぜりふのようにいったが、あるいはそれが精一杯のお愛想であるのかもしれなかった。
失礼します、といって三千子は小部屋を出た。一種の窒息感から解放された心地であった。火見子は誰に対しても居心地の悪い圧迫感をもたらす存在なのであろう。
「お姉さん、申しわけないですが、ちょっと階下で待っとって下さい」
と、青柴が呼びかけた。三千子は無言で頭を下げて、階段を降りて行った。
一階の待合ベンチに浮かぬ顔で座っていた河合康夫が弾けるように立ち上り、二階から降りてきた三千子と田崎を迎えた。
「どうだったんですか!?」
思わず高声になり、三千子の沈んだ顔色に気付いて声を落す。
「大丈夫ですか? 何か先生の身に......?」
「そういったことじゃない」
と、田崎が代りにいった。
「そうですか。心配しましたよ。もうてっきり先生の身に関係あることかと、そればかり......」
家出少女がらみの件だ、と手短かに聞かされて、康夫の顔はいっぺんに晴れた。
「案ずるより生むが易しですな......まあ、相手が警察だと、つい余計なことまで気を廻しちまうもんで。塾の方で心配してるでしょうから、さっそく電話を入れてきます。いや、郁姫の方が先かな。また気がきかないと雷を落とされちゃうから......」
安心してか、康夫は饒舌になっていた。三千子の沈んだ顔色にも気付かない。
「しかしね、今後、家出少年、家出少女が警察に保護されるたびに、お姉様がいちいち警察に呼び出しを食うっていうのは、どうも問題がありますな。ちゃんと話を通しておいた方がいいんじゃないですか、ねえ師匠。何事が起きたかとその都度、心臓がでんぐり返る思いをするのはかなわない」
康夫は留金がはずれたように、無神経になっていた。
「警察ってのは、なるたけコネをきかさないと損ですからね。コネのあるなしで、態度がガラッと変るんだから」
「どうも、お姉さん、大変お手数をおかけしました」
現われた青柴は、康夫の放言を聞かない振りをしていた。
「ちょっとこれは難しい相手で、どうかと思ったんですがね。いや、お姉さんの説得ぶりには本当に感服しました。舌を巻いて見ておりましたよ」
青柴は本心からの賞讃を惜しまなかった。
「いえ......お役に立ちましたかどうか」
謙遜ではなく三千子の眉宇には晴れないものがあった。
「とんでもない。どうにも扱いようがないと思っていたのを、みごとにさばいてもらいましたよ。私こういうのは初めてでしてね。確かに霊力があるし、精神状態がまるきりおかしいというのとは違うし、正直いってお手挙げでして......」
青柴はベンチに再び腰をおろし、ハンカチで顔を拭きながらいった。まだ話は終りではないらしい。三千子たちももう一度ベンチに座った。
「いや、お姉さん。私ほんとに魂消ちまって、あの大魔王がとり憑いてたというのは、やっぱり事実なんですか」
青柴はおくに訛りをまるだしにしていった。
「こんなこと初めてでね、私。何つうかあの物凄い顔や態度の変りよう、あれは絶対に芝居じゃない......やっぱりそうですかね?」
「お芝居ではありません」
三千子は言葉重くいった。
「恐山のイタコとか、狐憑きとかありますがね、あれは本当に大魔王としかいいようのない恐ろしい代物でしたよね」
青柴は念を押すようにいった。己が目で目撃し、事実として受け容れるほかはないが、それでも三千子のお墨付がほしいといわんばかりの懇願がこめられていた。
「かなり大きな力を持っている魔王でした。火見子さんの勝ち気な、負けず嫌いの性格をうまく誘導し、短所を助長していたのです。火見子さん自身は、本来親切で優しい性格なのでしょうけれども、同時にとても我が強いのです。魔王は彼女を慢心させ、己惚れを極限まで増大させるように持って行ったんですね。火見子さんの不幸な生れや育ちにつけこんで、性格をどんどん歪めさせたのだと思います。それに火見子さんは内省的な性格ではなくて、あまり我身を顧みたり、反省するということをしないようです。
さもなければ、魔王もあそこまで火見子さんを完全に操ることはできなかったのではないでしょうか......」
「ありゃ大変な代物ですね。しぶといこと、したたかなこと......魔王だけでなく、本人も魔王そっくりのえぐい性格をしてるじゃないですか」
青柴は嘆息した。
「魔王はお姉さんの力で離れたとはいえ、この先どうなるんですかねえ。魔王が憑いてようと憑いていまいと、あんまり性格は変らないようですけど......」
「やはり、魔王の邪鬼が離れれば、だいぶ様子も変わってくると思います。いつも心が苛々したり怒ってばかりいるという荒々しさも少なくなるでしょうし、多少は落着いて、後先見ずに行動するということも減ってくると思うんです。
でも、こればかりは本人の心が第一で、我身を顧みるという習慣を持たないと、また同じことの繰り返しになってしまいかねない、と思うのですけれども」
「その通りだと思いますな、私も。じっくりと反省させない限り、また何度でも同じことをやるんじゃないですかねえ」
青柴はタバコを吸おうとしかけて、なぜか止めてしまった。引き出したタバコを袋にわざわざ戻してしまう。
「いや、お姉さん、今日はまことにどうもありがとうございました。素晴らしいものを見せてもらいました......」
中年の警察官は心からの尊敬をこめて頭を下げた。三千子が戸惑うほど律儀な叩頭ぶりであった。
「私、いい勉強をさせてもらいました。世の中にはこんなことも本当にあるんだとよくわかりました。週刊誌に大げさに書いてあったことは、まんざら噓じゃなかった......そう思います。人間、この肉眼では見えもせず、わかりもしないことが本当にあるんだ......悪魔ばかりでなく、神仏も本当に存在するということがのみこめました。お姉さんが邪鬼と話されていた時、本当にお姉さんは神々しく見えたです。大の男ですら慄え上るほどおっかない邪鬼を、少しも恐れず、へつらわず、毅然として説得されているお姉さんを見た時、私、これはもしかすると尊い女神様か菩薩様ではあるまいかと拝みたくなる心地でおりました」
青柴はますます警官らしくない言辞を述べた。よく事情のわからない康夫は、もの問いたげに田崎の顔を見た。
「私も、これを機会に、目に見えない世界のことをいろいろ勉強してみたいと思っとります。是非ともお姉さん、私にも教えていただけないでしょうか」
青柴はやおら立ち上り、直立不動の姿勢でしゃちほこばっていった。三千子たちもあわてて椅子を立った。
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青柴という少年係の警察官は、果して本気で申し出たのかという議論が、三千子たちの話題をしばらく占めることになった。
「あれは、本気だな」
と、田崎は塾に帰った後も、繰り返し同じことをいった。
「邪鬼を説得した時のお姉さんは本当に素晴らしかった。青柴氏が感動するのも無理はない。俺でさえ背中がぞくぞくしてお姉さんは凄いと思っていたんだから、青柴氏の気持はわかる。何しろまぎれもない天使と悪魔の対決を目のあたりにしたんだからな。青柴氏がお姉さんのことを、尊い女神様といったろう? 彼は本気でそう思ったんだ。高野老人と同じさ」
「しかし、師匠。相手はお巡りですよ。こっちの内偵が目的で塾に潜り込もうという気かもしれない。俺の勘では、確かによからぬ目的がありますよ。どう考えたって、お巡りが本気でそんなことをするはずがない。警察ってのは、そういうことにうるさい所ですからね。上からの命令がなければ、新興宗教扱いをしている無名塾に、現職のお巡りが首を突っこむなんてありえませんよ。これは情報を取る手だと思いますね、あたしは」
康夫は確信に充ちて主張を曲げなかった。
「臭いなんてもんじゃない。ミエミエってもんですよ。何しろ警察一家ってもんでね。己れの一存で、警官は何もしませんよ」
「そうかもしれん。しかし、半分は本気だろうと俺は思う。それに塾には何も隠すようなことはない。隅から隅まで見せても恥じることはないんだ。向うから覗きに来てくれるなら、気がすむまで見せてやればいい」

「それはちょっと甘いんじゃないですか、師匠。前の時だって、似たようなことがあったじゃないですか。豆州が間諜を送りこんできて、あの時も、師匠は高をくくっていたんですよ。そりゃ先生にとっては何ほどのこともなかったでしょうがね......一万人からいる弟子の中にはスパイがうじゃうじゃいたはずですからさ。先生は一夜にして幕府をひっくり返す自信をお持ちだったから、豆州のスパイが嗅ぎ廻っていても笑っておられた。豆州には絶頂期の正雪先生に手出しをするほどの胆っ玉はありませんでしたからね。先生が山ほど国禁を犯して、切支丹をかくまったり抜け荷と関わっていたりするのがわかっていても、手出しができなかった。
しかし、今は事情が違いますよ。警察が入りこんで嗅ぎ廻るだけだと笑ってなんかいられない。丈先生は、警察が我々の敵に廻るとはっきり預言しておられるじゃないですか。警察ってのは、必要があれば、でっち上げさえ辞さないですよ。わざわざスパイを内部に入れるなんて、絶好の手掛りを与えるだけだ、とあたしは思いますね。絶対に警察は危いですよ。甘く見ちゃいけません」
「甘く見るつもりはないが、でっち上げを本気でやるとなれば、防ぎようがないだろう。いくらでも付け入る隙はあるんだからな。前のことを考えれば、投獄されることぐらい、覚悟しておいた方がいいぞ、康夫。俺はいつも最悪の場合を考えてはいるがな......世の中全体が幻魔の波動に巻かれて、狂ってしまう。俺たちは人類全体の敵になることだってありうる......先生はそこまで考えておられたよ。だから、よほどの覚悟がない限り連れて行かないといわれた。ネロの時はもっと凄かったからな......それを考えれば、今の警察なんて紳士同然だ。俺は青柴氏が上部の命令で来たとしても拒むつもりはない」
「ねえ、お姉さん。ちょっと何とかいってやって下さいよ」
康夫は三千子を振り向いた。
「こりゃ、重大問題ですよ。警察が会や塾の中へ入ってきたら、おちおちしていられないですよ。やっぱり塾や会としては、外部的に伏せておきたいことだってあるじゃないですか......」
「あたくしは青柴様に関しては、あまり心配しておりません」
「それ見ろ。お前はお姉さんが青柴氏の前で、素晴らしい力を発揮したことを知らないからな。郁姫にだって及びもつかない力で、先生にしかできない除霊をお姉さんはやってのけられたんだ。青柴氏がお姉さんに参ってしまったのは無理もない。俺は青柴氏が本気で申し出ていると確信する。たとえ、最初は上部の方から命令が出て、接触を計ってきたとしても、この先について俺は少しも心配していないね」
「お姉さんはやっぱ、先生のような凄い力を持った超能力者だったんですか?」
「とんでもありません。あたくしはただ、丈が光を入れる、その遣り方を真似しただけですもの。皆様がやっておいでの遣り方と全く同じです。それに、邪鬼という魔王は、火見子さんを操っていたことを知られてしまったので、離れる時期に来ていたんですわ。ですから、あたくしの力なぞということは、少しもありません」
三千子は懸命に弁解に努めた。ぱっと噂が立ってしまうことを惧れていた。
「そのようなことを決して皆さんにおっしゃらないで下さいね。あらぬ誤解の原因になりますから。邪鬼が自分でいったように、魔王は恐ろしい自信家ですから、あっさり見破られてしまうと、もうやっていられない、と不貞腐れてしまうんです。邪鬼が火見子さんを離れたのは、決してあたくしの力などではありません。光を入れる、ということ自体は、だれにでもやれることで、特別なわざではありませんから」
「いや、お姉さんが邪鬼を除霊した時の、光の入れ方は、先生がなさったのとは全く違って独得なものでしたよ」
田崎はいった。
「お姉さんは謙虚な方ですから、そうおっしゃるのでしょうが、人間は正直なもので、青柴氏はすっかりお姉さんに心服してしまったわけですよ。青柴氏がたとえ職務がらみだとしても、真実の世界に目を開いて、学びたいという気持になったことは歓迎すべきことだと思うのですが。康夫が心配するように、警察がたとえ敵対するにしても、大きな広い心で敵さえも取り込んでしまうのが、先生の教えですからね」
「つまり、〝光のネットワーク〟を具体的にいうと、敵を味方にしてしまうということかもしれませんわね。康夫さんの心配もわからないではありませんけれど......」
三千子に見詰められて、康夫は降参したとばかり首を振った。
「そこまでおっしゃるなら、もう反対は引っ込めますよ。あたしは決して苦労性でも心配性でもないつもりなんですがね......」
「警官だって人間だ。どんなに疑い深い目で見て廻っても、発見するのは〝宇宙的真実〟というやつさ。俺としては、おかしな目付をした私服刑事があちこちで聞き込みをやって迷惑をかけて廻るよりも、オープンに迎え入れて隅から隅まで見せてやりたい。青柴氏みたいにお姉さんの虜になり、熱心なファンになる警官が必ずもっと出てくる。それが〝光のネットワーク〟の威力というものじゃないかな」
「わかりましたよ。その深謀遠慮を信じましょ。ミイラとりがミイラになるっていいますからね......しかし、お姉さんは何かご心配事でも? お姉さんが浮かぬお顔をしていらっしゃると、陽が翳ったみたいな感じで、さっきから気をもんでおりましたのですがね」
と、康夫は思い切っていった。
「本当に珍しいですよ。それで、やっぱり警察のことが心配なのではないか、と気を廻していたんですが」
「火見子さんのことが気になるんです」
三千子は瞳をあげていった。その黒い瞳の神秘の味わいに、康夫は息をのんだ。時折、三千子も東丈同様にみるみる神秘のヴェールに包まれて、人間放れしてしまうことがある。
その神秘を色濃くはらむ黒瞳を向けられると、全身に戦慄の波動が充満して、身の置きどころを失ってしまう。やっぱり〝並みの人間〟ではない、という衝撃的な再認識を味わうことになる。幾度見ても、その神秘性は衝撃力を減ずることはない。かえって強まってくるほどである。
「一度邪鬼とかいう魔王にやられると、後を引くということですか?」
と、田崎。
「また、塾へ押しかけてきますかね?」
「いいえ。そうではなくて、火見子さんは、別の〝礎〟という存在を捜すんじゃないかという気がいたします。火見子さんにおいては、〝光と闇〟が逆転しています。真の〝光〟は〝闇〟として、その反対に〝闇〟が〝光〟に置きかえられているんです。本人は〝光〟のつもりで、真の〝闇〟へと惹きつけられてしまいます。火見子さんは郁江さんを〝偽キリスト〟と非難しましたけど、〝真の再来したキリスト〟と彼女が確信する相手こそ、本当の〝偽キリスト〟なんです。
光と闇の倒錯は、恐ろしい結果を招くと思います。本人は自分を正義と信じて疑わないのですから......火見子さんの出現はとても暗示的です。
もしかしたら、世界があたくしたちの〝光のネットワーク〟に敵対するというのは、〝光と闇〟の倒錯、転倒がもたらすものかもしれません。今、ふっとそれがわかったような気がしました」
「〝光〟と〝闇〟を取っ違えるなんて、そんな突拍子もないことが本当に起こるんですか?」
康夫が不思議そうにいった。岩戸火見子を知らない彼にとっては、話だけでは実感が伴わないのであろう。
「人が肉眼に頼っている限り、〝闇〟は上手に〝光〟に化けることができるということです。人格高潔な素晴らしい指導者に化けて、人々をあざむくことは今も行なわれているでしょう......肉眼では〝光〟と〝闇〟は区別がつきませんから。〝光〟に化けるのがとりも直さず〝偽キリスト〟です。火見子さんは、郁江さんに物凄い嫉妬心を持っています。だからこそ闇雲に否定し、〝偽キリスト〟の一味ときめつけずにはいられないんです。もし丈が火見子さんを相手にしなければ、丈をも〝偽キリスト〟と呼ぶようになるでしょうね。
でも、火見子さんの激しい嫉妬と憎しみは郁江さんの一身に向けられています。あたくし、今ふっとわかったんですけれど、火見子さんが幾代という本名を絶対に使わずに嫌うのは、郁江という名に似ているからではないでしょうか?」
「ああ、そうだったんですか! 異常にこだわるので妙だと思っていましたが」
田崎の顔に愕きと納得の色が表われた。
「火見子さんは、郁江さんへの敵愾心を生甲斐にしています。郁江さんをやっつけ、引きずり落そうという欲望が、火見子さんに激しい気力を与えています。きっとそのためには何でもやるでしょうね。
あらゆる面で郁江さんに負けたくないんです。火見子さんは自分の裡にある〝光と闇〟の倒錯を人々に植えつけようと必死になっていますし、成功をおさめて行くと思います。そして、同じように〝光と闇〟の倒置を心に蔵した人々と結びついて行くはずです。中には大きな霊的才能を持った〝闇〟の使徒もいるはずですし、それが火見子さんの繰り返しいう〝礎〟なんです。火見子さんは知らぬ間に、〝闇のネットワーク〟の拡大に使われて、しっかりと取り込まれてしまうことになると思います。火見子さん自身が憎悪の心を持っている限り、それはどうしようもない、避けられないことなんです」
「厄介なことですな」
康夫は嘆息した。
「そういう連中がこの後も続々と出てくることになるんでしょうな」
「でも、それはあたくしたち自身の問題でもあるのです。火見子さんの場合も、〝闇〟を〝闇〟として認識していないというところに恐ろしさがあります。自分ではあくまでも、正義の使徒をもって任じ、〝闇〟と戦うつもりでいるのですから。自分では少しも気が付かないのです。いくら善意があっても優しさがあっても、それが生かされないことになってしまいます。絶対的に自分は正義であると信じ、相手は悪だときめつけているからです。
もしかすると中世の恐ろしい魔女裁判官は火見子さんと似ていたかもしれません。他者を悪魔と決めつけた瞬間、慈悲も憐れみの心も一切消え失せてしまうんですね......」
「そうしますと、お姉さんの考えでは、これから世界は〝魔女裁判官〟の性質を備えて、我々に敵対してくるということですか?」
と、田崎が尋ねた。逞ましい顎から頰にかけて鳥肌が立っていた。
「あの女の子は、一種の予告として現われたということでしょうか......?」
「火見子さんは、独善的で狭量なタイプで、幻魔の波動に動かされやすい人だと思うんですの。ですから、丈の預言にあるように、幻魔の暗黒波動に乗って敵対してくる人々の典型だと考えてもよいのではないでしょうか。でも、もっと大きな問題は、あたくしたちの一人一人の裡にあるという気がいたします」
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「どうやら、お姉さんはとても怖いことをおっしゃっているという気がするんですが」
と、康夫が頭を振り動かしながらいった。
「つまり独善的で狭量な〝正義の味方〟病の芽は、我々自身の中にもあるってことじゃないですか?」
「康夫さんのおっしゃる通りですわ。幻魔の暗黒波動は何も外部にばかり敵を造るのではなくて、あたくしたちを内部からも蝕んでいるのかもしれません......たぶん本当に恐ろしい敵は外部にではなくて、内部に潜んでいます。外部にばかり気を取られていると、それこそ大変なことになりそうです。丈が〝己れの裡なる悪を恐れよ〟といったのは、誰にでもすぐわかる自分自身の悪心だけではないはずです。つまり火見子さんが教えてくれているのは、人間は自分では善と信じながら、悪をなすことが容易にできるということです。人間は誰でも〝魔女裁判官〟に簡単になれるし、自分勝手な基準で他人を平気で裁いてしまうということだと思うんですけれど......」
「それは絶対にありますよ!」
康夫は興奮して叫んだ。
「前からそう思っていたんですよ! 何つうか、こう正義の味方病に凝り固まっちゃうんでしょう!? もう絶対に自分の正しさを信じ切っちゃってて、他人のいうことなんか耳も貸さなくなっちゃう! 批判も何もゼッタイ聞かない。非難されたりすれば、すぐに正義への挑戦だとか冒瀆だとかっていうことになっちまう。いや、これは特定の人間のことをいってるんじゃありませんがね。批判即〝仏敵〟による攻撃で、〝法難〟だとか何とか手前勝手なことをいっては逆ネジを食わすとこもありますからね。
批判されることを嫌うっていう精神はゼッタイによくないです。簡単に批判を〝法難〟にすりかえちまいますからね。自分を攻撃するのは幻魔の仕業だから、批判する奴は幻魔の手先だ、幻魔に操られてるんだってことになっちまう。
しかし、なんで批判を一切嫌って耳に入れなくなる、内部の批判を封じてしまうということになるんですかね? 他人のことは平気で批判するくせに、他人から批判されるのは厭だっつうのは、どうも......」
「それはきわめて普遍的な人間の弱点だよ」
と、田崎がいった。
「しかし、康夫は特にある人間を批判したいということがありそうだな? そうじゃないのか?」
「いや、別に。今お姉さんがおっしゃった通りのことで、真に恐ろしい敵は外部にではなく、内部にいる......それを反省しているだけですよ」
康夫は首の後ろを搔きながらとぼけてみせた。
「しかし、ものいわざるは腹ふくるるごとしというぞ、康夫。いいたいことがあれば、素直にいえばいいじゃないか」
「しかしね、師匠。批判を嫌い、耳を塞ぐ人間にどうやって批判を聞かせればいいと思いますか? その火見子ちゃんとかいう家出少女の方に、いくらいっても無駄だったでしょう? 耳の痛いことをいえば、嚇っとさせるだけでね。無礼者、さがりおろう! ときめつけられれば引っ込むしかないですからね。下々の者のいうことなんか、おかしくって聞けないってわけですよ。ともかく高次元世界とか天上界の最高幹部のお歴々とツーカーなんですからね。お前なんかに何がわかるかときめつけられれば、二の句が継げなくなる。あたしみたいに天上界とは元々無縁で、地べたを這いずり廻っている俗人にはね」
「............」
田崎は沈黙して考えこんでいた。
「ま、黙ってろといわれれば、黙ってもいますがね。こうなってくると、あまり他所のことは口はばったくていえなくなってくる。話の火見子ちゃんだって、事情を知れば、そんならあたいとどこが違うのよって居直るかもしれない。そうなれば一言もないですよ。他人のことなんかいっていられやしない......とまあやつがれは思うんですがね」
康夫は、田崎と三千子が黙りこんでしまったので、にわかに気が差したようである。喋りすぎたことを後悔していた。
「まあ、これはあたしのきわめて浅薄な考えですから聞き流して下さいな。天上界の思慮分別はまことにもって広大無辺。その天上界に直接指導を受けているというんですから、たぶん間違いはないでしょう。あたしの雑言なんか本当にお笑い草でね......ほんの冗談ですよ。天上界のお偉いさんのやることに、文句をつける気なんて、毛頭ありゃしません。
こんなことをウダウダいってる間に、明後日からの研修の準備をやっちまわないと......康夫の奴が余計なことをいって廻ったから、研修会が失敗したなんていわれないよう精々気をつけます」
「今、康夫がいったようなことは、すでに昨年の段階で先生が警告なさっていたような気がしますが」
田崎は三千子に向っていった。康夫の韜晦を無視していた。
「組織は必ず内部から崩れる......前はぴんと来なかったのですが、特に最近、その預言がずっしりと重みを持ってきました。心と心を強固に結びつけるべき時に、逆に遠心力が強烈に働いてくる......俺にはよくわかりませんが、これもあるいは高次元のはからいと解釈すべきなのでしょうか?」
「わかりません......でも、軽々しく結論に短絡できないものがあるような気がいたします。今、組織が巨大な波動の力にさらされ続けていることは確かですし......そこに火見子さんが現われて問題を提示してくれたということは大きな意味があると思います。反省というフィードバックを欠いてしまえば、動機がどんなに素晴らしくても、大きな歪みを抱いてしまうということだと思いますけれども......決して見過しにはできないでしょうね」
三千子は口重くいった。康夫は名指しこそしないが、井沢郁江批判を行なっていることは明白だった。それに対して、態度を決めかねているのは、三千子だけではなく、田崎も同様であるらしかった。
三千子にしても、最近とみに顕著になった井沢郁江の変貌に対して、全く疑問がないではない。批判にまでは直接結びつかないが、判断を下しかねて保留しているという趣きが濃厚であった。
康夫が郁江の遣り方を強引すぎ、高圧的にすぎると考えているのを、あながち誤りだとすることができないのだった。
しかし、三千子が己れの考えを率直に表明することは、あまりにも衝撃が大きすぎると考えざるを得なかった。郁江に対する批判が主宰東丈の姉の彼女から出たとなれば、強大な批判勢力の核心が突如誕生したという誤解を周囲に与えずにはおかないであろう。激動が組織を見舞い、根底から揺るがしかねなかった。
田崎も、それと同じ観点から、態度を保留せざるを得ないのであろう。塾長代行の彼が郁江批判を公然と口にのぼすことは、重大な影響を及ぼさずにはおかない。
もちろん、康夫もそれらを知り尽しているゆえに、郁江批判を匂わせる程度に留まっているのだ。
しかし、康夫が韜晦しながら提起した問題は、黙過できない重大性をはらんでいて、三千子は気重くならざるを得なかった。
もし、これを上手に処理できなければ、組織はかつてない大きな危機に直面するという予感があった。目には見えず、耳にも聞こえないが、組織はすでに大きく軋みつつ歪みをはらんでいる。いずれ、家鳴り鳴動は誰の目にも明白なものと化すだろう。
問題解決に三千子自身があたることを、暗黙裡に、田崎と康夫は期待しているようであった。まさに独走する井沢郁江を制止できるのは、三千子以外にいないという結論で、二人は一致してしまっているのであろう。
もっとも苦手なことをしなければならない......その意識が三千子を重く絞めつけていた。組織が不得手である自分が、よりによって、もっとも馴染まないことをやらされることになるのだ......
「俺が郁江に話しましょう」
田崎が唐突にいった。三千子は己れの意識を読み取られたような惑乱に捉われた。康夫も口を半ば開けて田崎を見ている。まさかあからさまに郁江の名を出すとは思わなかったのだ。
「組織を分解にさらす遠心力が働きだしているのは確かだし、一度話した方がいいとは思っていたんですが......このままでは、組織は徐々に分裂に向って皆の心が割れて行くという気がします。一方では郁江を中心に一枚岩の傾向が始まっているし、それについて行けない者たちも批判を強めてくる......夏本幸代はともかくとして、菊谷明子さんなどは明らかに批判があって会に出てこなくなってしまったわけですから......今後もこの傾向はもっと進むと思います。康夫までがとなると、こちらも事態を静観してばかりいるわけには行かないようです」
「俺は何も郁江のことをはっきり名指しで批判する気なんかありませんよ、師匠」
と、康夫が異議を申し立てた。
「そりゃ、多少は気になってはいますがね」
「お前の名を出したりしないから、安心しろ」
田崎は相手にしなかった。
「とにかく一度、郁江とじっくり話し合ってみた方がよさそうです。このままでは、二極化へ向かうことは避けられなくなりそうですから。お姉さんはどうお考えですか?」
「郁江さんとはあたくしが話し合ってみます」
三千子は後悔と恥しさに赤面する思いでいった。自分が躊躇し、責任回避の欲望に足を取られている間に、田崎にいいだされてしまったという恥しさであった。
田崎の男らしさ、責任感の強さに比べて、何という自分のみすぼらしさだろう。ひたすら逃げ腰になり、責任逃れの口実を探していたのだ。
「前々から、郁江さんとは話し合ってみたいと思っていたんです。郁江さんはますます多忙におなりですし、だんだん考えがすれ違って行ってしまう怖れもなくはないと感じていましたから......」
「俺も同じです。確かに郁江は忙しすぎる。それにいつも沢山の〝親衛隊〟に囲まれていて、心を打ち割って話す機会がなくなってしまった......それが気懸りでした。いつの間にか、郁江と〝親衛隊〟が切り離せない一体化を遂げてしまったようです。いつだって〝親衛隊〟が郁江にくっついている。まるでべったりという感じです。これでは郁江と腹を割って話すという雰囲気ではない。〝親衛隊〟どころか〝宮内庁〟という陰口が聞こえてくるのも無理からぬ雰囲気です。俺ですら今は、直接郁江に電話を取り継いでもらうのは不可能になっているんですから......しかも〝宮内庁〟と呼ばれるだけあって、完全なバリヤーそのものです。一般会員から郁江を隔離しようとするバリヤーとなってしまっている。郁江の意向だけは一方的に通達してくるが、全くの片道交通です。この状態を当り前だと思っている〝郁姫宗〟グループと疑問を抱いている一般会員の間に大きな断絶が生じてくるのは、防ぎようがありません。いずれ分裂して二極化してしまうのは、避けがたいのではないか......俺もそう感じてはいたのですが......」
「あんまり事を荒立てない方が......」
と、康夫がおどおどしながらいった。自分の投じた一石が思いがけぬ大きな波紋を呼びそうだと知って怯じ気付いたようであった。
「もちろん、事を荒立てるつもりはない。しかし、いずれにしろ一度腹を割って郁江と話してみる必要はある」
「どうも俺がいいだしっぺのようで、困っちまったなあ。しかし、内憂外患、だんだん凄くなってきたじゃないですか」
「だからこそ内をしっかり固めなければならないんだ。組織を割ってはならないということだ。放っておけば、亀裂はどんどん広がる。手当てするのは今がチャンスだし、見送れば手遅れになるかもしれん。火見子の一件は、それに気付くために必要だったらしいな」
田崎は思い切りよくいった。物事に拘泥するあまり優柔不断に陥ることがないのは、田崎の最大の美点だったかもしれない。
「郁江さんとは、あたくしがお話します」
三千子は口にしてしまうと、緊張がにわかにほどけるのを感じた。
「それがあたくしのなすべきことだという気がいたします。塾長代行の田崎さんでは、どうしても公式会談という感じが強まってしまうと思うんですの。アシスタントの方々に席をはずして頂いて、郁江さんと二人だけで話し合うとなれば、やはり、田崎さんよりもあたくしの方が適任です。それにかども立ちにくいでしょうし......」
「しかし、そこまでお姉さんを煩わしては、申しわけが立ちません」
「いいえ。もし田崎さんにやって頂けば、それはあたくしの自己逃避ということになりますもの。気の重い厭な仕事を別の方に押しつけて、のうのうとしているわけにはまいりませんもの」
「すみません。私が余計なことを口走ったばっかりに」
と、康夫が激しく後悔していった。
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「私が馬鹿でした。黙ってりゃよかったんです。お姉さんや田崎の師匠にまで厭な思いをさせてしまって、本当に申しわけありませんでした!」
「そんなことはありません。康夫さんが思い切って口を切るまで、当らず触らずという態度でいた自分を反省しています。郁江さんに決して他意はないと信じますけれど、菊谷さんのように波長が合わなくなり、遠ざかって行く人々が続出するのは、やはり見過せない問題だと思います。丈の〝幻魔の標的〟は間もなく出版されますし、そうなれば、これまでにない大きな注目を社会的に受けることになります。その前にやはり、心を再び一点に集めるために全員で努力しなければならないはずです......」
「お姉さんに、そんな気重い不快な仕事を押しつけることは、俺にもできません」
田崎は力をこめていった。
「いいだしたのは俺ですから、俺がやります。どうかまかせて下さい」
「いいえ、どうぞ......あたくしにとって心染まないこと、抵抗の大きい仕事ですから、だからこそあたくしがやらなければならないんです。誰だって心弾む愉しいことばかり選ぶわけには行きません。自分には不向きで苦痛が多い、そういうことを避けて逃げ廻っていたとしたら、恐怖心ばかりがふくれあがってきてしまいます。心には怯懦が根差して、いつでも責任逃れをしようとする悪い癖が造られてしまうと思います。
郁江さんと話し合うのは、まさしくあたくしの責任でなさなければならないんです。そうでなければ義務は果せませんから......怯じ気付いて躊躇っていて、先に田崎さんにいいだされてしまった時、恥しさで体が燃え出しそうになりました。厭なことは、いつの間にか体をかわして責任回避しようとする自分が、ちゃんと存在しているのですね......」
「しかし、厭なことをお姉さんだけにさせることはできません。俺にも同席させて下さい。元々これは塾を先生からおあずかりしている俺のなすべき任務なんです。お姉さんに押しつけてしまうことは、それこそ俺の責任逃れにもなります。この胸を絞めつけてくる厭な気重いものを、お姉さんだけにかぶせてしまうのは、あまりにも卑怯というものです」
「私もいっしょに郁姫に逢います」
と、康夫が決心の色も露わにいった。
「そもそも私がいいだしべえですから......お二人におっつけてしまうのはすごく罪悪感があります。いや、俺だって本当は逃げ出してしまいたいのが本音なんですけどね。郁姫って迫力ありますからね。がんがん荒れ狂うとおっかないですよ、本当に。まともにものをいわせないところがあるし......けど、勇気を奮い起こしてやりますよ。お二人だけにまかせたら、男がすたります」
「それはいい。では、お姉さん、ここはひとつ康夫にまかせますか」
と、すかさず田崎がいった。
「郁江を説得するのは、康夫が適任です。何分、いいだした本人でもありますしね」
「え......」
康夫は呆然とした顔で田崎と三千子を見比べた。
「それはないですよ、俺一人だなんて......」
「なにしろ、男が廃るそうで。康夫が話すぶんには、一番かどが立たんでしょう」
三千子は思わずくすりと笑った。康夫の表情の変化はそれほど見応えがあった。
「一瞬、本気にしましたよ。冷汗が出た......背中まで濡れてます」
康夫は苦笑いした。
「ソル王女様は苦手ですよ。前の郁姫とは全然違う。最近は〝宮内庁〟の若者に遠慮なく手が出るそうですからね。死ぬ気で対決しないと、あの頭ごなしの態度には通用しない。物凄く強烈ですからね。師匠などご存知ないでしょうが......」
「俺たちが警察へ出向いた後、康夫が郁姫に痛烈に吊るし上げを食ったというのは電話で聞いたよ。こっぴどく張り倒されたのか?」
「いや、そこまではしません。俺は〝宮内庁〟じゃないから......ま、別に恨みに思っているわけじゃないんですよ。すぐに郁江の耳に入れなかったのが悪いといわれれば、一言もないですからね」
「康夫も人間が出来たものだ。満座の中で目茶滅茶にいわれても、腹も立てずにじっと抑えられるようになったんだからな。ひそかにみんな感心してるらしいぞ、康夫」
「それほどのことはありません......などというと、また郁江と一人で話せなんていわれるから止めときます」
康夫はしかめ面のように見える笑いを浮かべていった。
「しかし、冗談事じゃないですよ。まかり間違えば修羅場だ。郁江だってどう反撥してくるかわからんでしょ? 自分の遣り方のどこが悪いかといって逆ネジを食わすかもしれない......ともかく、下々の者が口応えなど、恐れ多いという雰囲気ですからね。いや、申しわけありません。つい話が厭な方へ厭な方へとずれこんで行ってしまいまして」
「幻魔を喜ばせることだけは、避けたいものだな」
と、田崎は感情を交えずにいった。
「幻魔の強さは底知れず、危うし〝光のネットワーク〟ってやつですな」
康夫がわざとらしい気楽さで口走っているところへ、お茶を運んで白水美晴が姿を現わした。
奥の狭い和室に閉じこもって密談している三人に気兼ねして、今まで塾生は一人も近寄らなかったのである。
美晴はわずかの間に憔悴感を深めていた。ひどく顔色が悪く、神経質な翳りが顔を覆っている。以前の美晴に逆戻りしてしまったようであった。
「申しわけありませんでした、康夫さん。あたしの手落ちなのに、康夫さんがあんなに叱られてしまって......どうしても自分のせいだと名乗る勇気がなかったものですから......」
美晴は、ひどく耳障りな掠れ声で詫びた。ほとんど気にならないまでに軽快していた悪声がまた復活していた。
心が陥ちこむと、すかさず肉体が追従するという、現象化の一例をまざまざと見せつけられているようであった。
それとわかるほど、手が震えている。その手指の震えは、彼女の動揺と心痛がどれだけ甚大であるか、如実に表わしていた。郁江の激烈な叱責ぶりをまともに見せつけられたショックもあるのだろう、と三千子は察した。傍で見るだけでも気死しかねない恐怖に捉えられたに違いなかった。
夜の勤めにも出ずに、塾に残っていたことを見ても、美晴がどれほど罪悪感に苦しめられていたかわかった。
「郁姫は、相手が康夫だからガンガン遠慮なくいったんだ」
田崎は平然といい、美晴は審しげに田崎と康夫を見比べた。
「でも、悪いのはあたしなのに、康夫さんだけが郁江先生からあんなに叱られてしまって......」
「康夫にはいい薬になったろう。な、そうじゃないのか?」
「ま、そんなとこですね。なにしろあたしは叱られ役ですから。あたしが叱られるのを引受けると、みなさんぴりっと引き緊まるってなもんで......」
すかさず康夫は吞みこんで調子を合わせた。
「康夫なら、いくらお目玉食っても決していじけずふくれないという美点の持主だからな。気楽で鷹揚なのがお前の最大の長所だよ」
「それは褒められたと解釈していいんですかね。とにかく、美晴さんは気にしないで下さい。あたしはいつの世も、叱られ役を引受けることになってますから。うまく叱られるのだってコツがあるんですよ。叱り役とぴったり呼吸が合わないと、みんながピリッとするようなみごとな叱られ場面ができませんからね......」
「でも......」
「郁姫先生も、相手が俺だから安心して叱れたんです。叱られ役が未熟だと変に陰惨なシーンになりますからね。失礼だけど、美晴さんじゃまだぴたりとツボにはまった叱られ役は無理です。そのへんは郁姫もよく心得ていて、うまくやってのけたわけですよ」
「そうでしょうか......」
美晴は半信半疑であった。
「あたしを慰めて下さっているのでしょう?」
「そんなことはないですよ。郁姫は人の心の動きがわかりますからね。美晴さんを人前で強く叱ればどうなるかぐらいよくわかってます。美晴さんには、俺みたいにけろりとしている芸当はまだ無理ですからね」
「あたし、ただ申しわけなくて......郁姫先生がとても怖くて、直接口をきくこともできないものですから、つい怠けていたというか、康夫さんにお願いして、ズルをきめこんでしまったものですから......」
美晴は三千子に向けて、贖罪意識とともに訴えをこめていった。顔には依然として血の気が戻っていない。
「お姉さまから、郁江先生に取りなして頂けませんでしょうか......康夫さんに全部罪をかぶせてしまって......このままではとてもあたし、塾にいられません......」
それほどまで郁江は恐れられているのか、と三千子はショックを受けた。美晴の感情は畏怖というよりは恐怖心そのものであるかのように感じられた。まるで郁江は、神罰を下す力を所有する〝祟り神〟のように受け取られている。
郁江はもちろん無自覚に、波動を強化し、意識圧を高めて恫喝的、威嚇的になっているわけではなかろうが、それが結果的にどのように波及するかについては、著しく認識を欠いているように思えてならなかった。
強い共鳴作用を人の心に生じさせ、波動で席巻する効果は、〝宮内庁〟の若者たちで代表されるように、狂信的な一枚岩の結果を生むことはできようが、反作用もまた甚大といわねばならない。
美晴のように威嚇された恐怖心をもって、郁江を専制君主のように惧れる存在は、決して彼女一人ではないだろう。
「ご心配は要りません。あたくしが郁江さんにお話しますから。でも、塾にいられないなんて、なぜそんなことを思われるのですか?」
「もう生きた心地もしませんでした。郁江先生のお怒りを受けたら、塾にはいられないし......でも、せっかくよくなった子供がまた元通りになってしまうと思うと、お姉さまにおすがりして取りなして頂くしかないと必死になって......」
「でも、美晴さんは郁江さんに直接叱られたわけではないのでしょう?」
「ええ。でも、郁江先生の前にはもう出られません。あたしのやったことだとわかっていると思うし、郁江先生の目が恐くて......」
「郁江さんの目が、そんなに恐ろしいのですか?」
「はい......郁江先生のご意向に背いたら、また元の地獄へ堕とされてしまうような気がして、怖ろしくて......」
「そんなに? 本当にそんなに恐いのですか?」
「はい。さっきからずっと体の震えが止まりません。郁江先生はもうとっくに、あたしの仕業ということをご存知だろうし、怒っていると思います。康夫さんのように、もう塾なんか止めてしまいなさいといわれてしまいます......」
「塾を止めろ、と郁江さんはいったのですか?」
三千子は康夫を振り向いていった。
「まあ、言葉のはずみでしょうがね。そんなダレた気持なら塾にいても無駄だといわれましたよ。元の生活に戻ったらどうかと......まあね、俺が相手だからいったので、美晴さんにはいわないと思いますがね」
康夫が軽薄な調子でいう。これが郁江の
に障ったのかもしれない、と三千子は思った。以前にはそうではなかったようだから、今の郁江には余裕が失せ、寛容さが乏しくなっていると推量せざるを得ない。郁江は〝宮内庁〟の若者たちに切羽詰まった必死さ、懸命さを要求して止まないようである。康夫の軽薄さはよほど反抗的な雰囲気をかもしだしているのだろう。
「郁江さんは、東丈がいない間、自分が一生懸命、頑張らなければならないという気持が強くなりすぎたのだと思います。重大な責任を果たさなければならない......そう思って郁江さんは死物狂いなんです。それで時には行き過ぎもあるし、勢いが強くなりすぎることもあるでしょうけど、決して本心から康夫や美晴さんのことを怒っているのではない、とあたくしは思うんです。だから、美晴さんがそんなに怖れる必要はありません」
「でも、郁江先生はご自分の遣り方についてこられない者はついてこなくてもいい、ととても強い調子でいわれたので......さっさと塾を止めてしまいなさい、元のだらしない生活に戻ればいいって......どうしようもない駄目な人間、人間の屑とはいっしょにやって行きたくないってはっきりいわれたんです」
「だからさ、美晴さん。それは俺に向っていったのよ」
と、康夫がなだめにかかった。
「美晴さんにいったわけじゃないの。俺はいつもこっぴどくいわれつけてるから、それくらい強くいわないと効き目がないって思ったんでね......実際、面と向っていわれた俺は何とも思ってないもの。それなのに、傍で聞いていただけの美晴さんがそんなに陥ちこむなんておかしいじゃん」
「でも、郁江先生は、あたしが張本人だということを知ってらしたんでしょう。それで、あたしに聞かせるために、わざと康夫さんを責めたんでしょう......」
「だから、それはそうじゃないのよ。俺は叱られ役だから、向うも安心して叱るわけ。美晴さんがそんなに陥ちこむことはないの。だいたい俺と美晴さんが同じようなミスをしたとしても、俺の方がずっと責任が重いんだから、俺の方が強く責められるのは当り前のことなのよ」
「郁江が、もし美晴の責任だと知っていたら、そんなに強い調子ではいわなかったはずだ」
と、田崎までが堪りかねて口を出した。
「だから、美晴はそんなに気にするな。この問題は俺が責任をもってきちんとさせる。わかったな」
「はい......」
田崎が美晴に及ぼす影響力は、三千子が目を瞠るほどであった。実に素直なのだ。美晴は尊敬しきっている父親を見る娘のような目をしていた。
「もし美晴の気持がどうしてもすまないというなら、今度郁姫にあやまればいい。気が行き届かずにすまなかった、といえばいいんだ。俺やお姉さんからも口添えする。それでいいな」
「はい......あたしお詫びしてきます」
「みんな美晴が一生懸命やってるのは知ってる。だから、郁姫だってわずかなミスを取り上げて美晴を責めやしない。それは俺が保証する。だから、この問題はこれ以上こねまわすな」
「わかりました。すみませんでした」
美晴は泣きそうになりながら、部屋を退出した。安堵でにわかに緩んでしまったような後姿であった。
「魂消たね。あれほどごねてたのに、師匠が一言いうとぴたっとおさまるんだから」
康夫はいささか不服そうにぼやいた。
「しかし、彼女は本心から郁姫を恐がってるみたいですな」
「いかになんでも、人間の屑だというのはいいすぎだろう」
田崎はむっつりといった。
「美晴が怯えてしまうのは無理もないな。人前で叱るのはただでさえ難しいものだ。人前で恥をかかされたと恨むことになりやすい。そこへ行くと、康夫は見上げたものだ。いささか見直した」
「本当いうと、ほとんど腹は立たなかったんですよ。郁江は取り乱してましたからね」
「郁江さん、そんなに取り乱すほどショックを受けていたのですか?」
三千子は眉をひそめていた。
「初めてあんなに動揺している郁江を見ましたよ。顔面蒼白でした。よっぽど恐怖していたんじゃないですか」
「それはちょっと......容易ならぬことかもしれませんね」
三千子は息をのむ心地で呟いた。にわかに重圧感が冷たくねばっこい網のような、無気味な密度をもって、三千子の全身にからみついてきた。
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「そうですね。あの度胸のいい郁江が、そこまで取り乱すというのは、確かに容易ならぬことかもしれない」
田崎は胸の前に太く逞しい両腕を組んだ。重苦しい表情が眉宇を曇らせた。
「郁江はヒステリックになったり理不尽になりにくい感情的に安定したタイプだと思っていました。まさかそこまで荒れたとは思わなかった。まるで半狂乱じゃないですか......」
「あたくしもまったく同感です......」
「どうかお二人とも、あんまし深刻にならないで下さい、お願いですから......」
と、康夫が懇願した。自分が発端を作った張本人であるだけに、気が臆してしまったようである。
「まったく、俺が余計なことをいわなきゃよかったんです。悪いのは俺ですしね......取り乱すといったって、本当はさしたることはなかったんですよ。おおかた郁江も虫の居所が悪かったんでしょう。つい
癪を起こしてガンガン怒鳴りまくるなんて、誰にだってよくあることじゃないですか。失礼ながら師匠だってしばらく前までは、よく真赤になって怒鳴りましたからね」
怯えているためか、康夫は必死になって喋った。
「とにかく本人のあたしは全然恨みに思っちゃおりませんよ。何もかも自分が至らなかったせいだと思っております。だから、郁姫に怒鳴られたなんて一言だっていっておりませんでしょうが......」
「康夫さんが、郁江さんをかばう気持は美しいと思います」
と、三千子がいった。三千子は目を伏せて、卓の上に揃えた十本の指を見詰めていた。田崎はそんな彼女の仕草を初めて見たと思った。三千子はいつも端然としており、苦しげな動揺の表情を表わしたことはない。しかし、今は心のゆらめきを隠している、と田崎は読み取った。人前で自分の手をしげしげと見詰めるような仕草は三千子には似合わない。
「でも、大切なのは、郁江さんの言動が、郁江さんらしい闊達さを失ってしまっているということではないでしょうか。とても奇妙なことが起こっているような気がします。美晴さんの怖れ方はちょっと尋常ではないみたいです......」
「でも、美晴は、郁姫が初めて怒るのを見て度肝を抜かれたんだと思いますがね」
「いいえ、そういうことではないんです。しばらく前から、やはり不可解な変化が始まっているとあたくしは思います。まさか、と思ってそれを見過してしまっていたのです。知らぬ間にそんなことはありえないと自分にいい聞かせてしまっていたのかもしれません......」
「それは、具体的にいうと、どういうことになりますか?」
田崎は大目玉を細めてゆっくり尋ねた。
「こんなことを口にしてしまうのは、とても抵抗がありますけど......」
三千子は頭を振りながらいった。
「郁江さんの波動が異常に強まりすぎてしまって、郁江さん個人に関する批判を許さないという雰囲気がいつの間にか支配的になってしまったことです。天界の意志をゆだねられた者として、郁江さんは決して過ちを犯さないとする一種の強固な信仰が誕生し、郁江さんもそれを人々に与え、人々も何の疑問もなく〝無謬論〟を受け容れて、狂信化へ向いつつあることです」
「〝無謬論〟というのはつまり、郁江は天界の意志の忠実な代行者であるから、その言説と行為の一切に誤謬はない......誤りは決して犯さないというわけですな?」
「カリスマは批判を許さないんです。批判的な分子は異物として排除されることになります。あたくしは何も、郁江さんが批判を絶対に許さないとか、狂信盲信を煽っているというつもりは毛頭ありませんけど、郁江さんの責任感、使命感の強さが増大して行くにつれて、ある種の傾向が目立ってきたような気がいたします。自分がやらなければ誰がやる、やらなくっちゃ、という気持が強い焦りにもなって、人々に対する要求水準を天井知らずに上げてしまった......個人個人の自覚の程度や立場を無視させるほど、気が逸ってしまったのではないかしら......そんな気がいたします。
それに、これは失礼な臆測かもしれませんけど、どうせ離反し、楯突いたり敵対したりする人間なら、未然に分離を促進させようという意図がなくもないような気がするのです。つまり、ユダを早目に分離しようという、早手廻しな自衛の姿勢がどうしても感じられてしまいます。ですから、批判者の存在は許さず、離れ去るにまかせ、慰留のための説得を惜しむということになるのではないでしょうか......会を離れ、遠ざかる人たちに少し冷淡すぎるのではないか......そんな気がしてしまいます。もう少し親身になって悩みを聞いてあげる、相談に乗ってあげる姿勢がとれないものかと......でも、批判者の存在は許さないのが基本姿勢であるならば、説得などもちろんしないでしょう。そういうことが、ここしばらく心に引っかかっていたんですの。
でも、突きつめて考えてみることには、心理的な抵抗がなぜかあったようです。考えたあげく理由を突きとめるのが恐かった......それで自分の心をごまかしていたのかもしれません」
「俺も全く同じです。今、お姉さんがおっしゃるのを聞いて気がつきました。いろいろ疑問はあるわけです。しかし、それを圧し殺してしまっているんです。こんな疑問を持つのは、天界の意志、東丈先生に対する不信じゃないか......自分の信というものが頼りなく、不足しているからではないか。そんな惧れがあって、無意識的に考えまいとしていた自分がわかりました。何といっても、郁姫は東丈先生が後事をゆだねていった人間なのだから、疑問を持つのは、東丈先生に対する不信そのものになる......疑ってはいけないのだ、自分は絶対的に東丈先生を信じているのだから、後継者の郁姫をも信じなければならない......それで疑問が生じる度に、心の奥底へと沈めてしまった......それが今夜の火見子と逢って以来、いっせいに再浮上してきたという感じです。火見子の独善ぶりを見ていると、決して対岸の火事ではないと肌寒くなってきました」
「田崎さんのおっしゃる通りです。あたくしも、火見子さんは何かしら重大な事を教える役割を負ってきたのだなという気がしていて......もちろん火見子さん自身は何も知ってはいませんけれど。
郁江さんは、今はあまり東丈のことを口にしなくなっています。お気付きですか......? ついしばらく前まで二言目には丈先生が......と口にしていらしたのが噓のようです。今はもう東丈というバック、七光りというものを必要としなくなったという明確な自信のほどが感じられます。
あたくし自身は、決してそれが悪いとは思いませんし、不遜とか思い上りとは感じませんけれど、菊谷明子さんを初めとする批判派には、それが堪えられなくて反撥するということもあるようです......もう東丈は役割を果したのだ。東丈の役目は基盤を築き、郁江さんを舞台に載せることだったのだ......そんな言葉が郁江さん自身の口から出たということも伝わってきます。もう高野様という大きな後援者も出たし、平山様という人も用ずみになった......平山様は東丈を世に出すのが目的であって、郁江さんの舞台造りは高野様がやるのだ......そんなことも郁江さんは側近の人たちに語ったとか。もちろん噂にすぎませんけれども、郁江さんが非常に自信を強めているという最近の傾向を物語っているような気がします。批判派の人たちは、郁江さんがもっと傲慢不遜な言葉を吐いて、東丈や平山様たちをおとしめているといっています。実は批判派の一人からお手紙をもらって、事の深刻さに半信半疑になっていたところでしたの」
「それが事実なら、容易ならぬことですな」
「誤解だとしても、ちょっと難しいのではないかという気がいたします。批判派の人々が全て正しいとは限りませんけれども、分離する力がこれだけ強く働きだしていると、感情的に流されてしまうのではないでしょうか......
郁江さんたちは、今は批判などで時を費している余裕はないと考えているのかもしれませんし、ついてこられない者はついてこなくてもいい、という丈の強い発言を、更に拡大して推進力に用いているようです。なりふり構わず、多少の非難は覚悟の上で突進しようということであれば、批判派が分離して行くことは止むを得ない、払わざるを得ない犠牲だということになるのかもしれません」
「ますますもって、容易なことではないですね。扱いが悪ければ、会は割れてしまいますな......」
「組織をより純粋に、というのが郁江さんの目差している方向だと思います。つまり東丈がやろうとしていたことを、更に強化し徹底化するという意識が、確かに郁江さんにはあります。役に立たない、無用な存在は不純物、夾雑物として払い落して行こうとして無意識のうちに、分離策をとっているのではないかと思うのですけれど......」
「組織にとって無用と判断すれば、分離するにまかせて、慰留はしないというわけですな。去る者は追わずといえば、聞こえはいいですが、内部批判者は全て追い出してしまうということであれば......」
「郁江さんの目差しているのは壮大な意図といえます。高次元世界の純粋な組織を、この物質世界に移植しようとする試みなんですから。不眠不休で若い人々を教育しているのはそのためです。より純粋に、不純物を排除して行こうという気持が強まりすぎれば、批判者の存在を許容しがたくなっても不思議はありません。
郁江さんは、今は批判など無用だ、基盤造りが先だと考えておいでじゃないでしょうかしら? 屁理屈をいう前に、まず実践しなさい、批判的になれば遠心力として働くだけだ......口先だけであれこれ批判しても何の役にも立たないどころか、有害無益だ、と郁江さんはおっしゃっているようです。猜疑心をもって郁江さんを見るものは、必ず欠け落ちていってしまうことになる。〝信〟を保てない者は会に留まることはできない......郁江さんはいつも若い人々にそう教えている、とお手紙を下さった批判派の方はそう書いていました。
つまり郁江さんは、口では盲信狂信を排するといいながら、実は若い人々の狂信盲信を煽り立てている。〝宮内庁〟と陰口される取巻の若者たちは、郁江さんの言葉しか耳に入れない狂信者だ、と手紙には書かれていました」
「大変なことですな、どうも......」
田崎は腕組みをしたまま、溜息をついた。そういえば、田崎が溜息をつくさまなど初めて見た、と三千子は気がついた。
「話し合いは慎重にお願いしますよ、くれぐれも慎重にね......」
康夫はすっかり落着きを失ってしまっていた。張本人であるだけに、事の重大さにうろたえ切ってしまったのだ。
「だって、うっかり話を切り出して郁江を怒らせれば、郁江は〝親衛隊〟を連れて平山ビルを出て行っちまうかもしれないでしょう? 高野老人の肝煎で、新しい会を造るのはわけないだろうし......前々から郁江はみんなの理解が得られなければ、独立して一人きりでもやって行くと公言していますからね。うっかり諫言すれば、いいきっかけだとばかり飛び出す口実にするかもしれません。最近の郁江はよく怒りますからね。以前の郁江とは全然違います。うっかりしたことをいうのは禁物ですよ。たとえお姉さんと師匠が話しても、今の郁江に通じるかどうか疑問ですよ......相手が誰だろうと、批判されるのは大嫌いっていうんですから......」
「それは、いいすぎだと思います」
三千子はきっぱりといい、康夫は一瞬身をすくませた。
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「やっぱりいいすぎですか?」
「はい。郁江さんには考えがあって、そうしていると思います。郁江さんの遣り方に批判を加えるにしても、そこのところを汲み取ってあげなければ。......愛情がなければ、外部の敵対者が加える攻撃と少しも変りがなくなってしまいます。共感をこめながら正しい批判精神に基づいてするということが一番大切なのではないかしら......? ただ難癖をつける、非難のための非難は、何よりも慎まなければならないはずです」
「いや、難癖をつける気なんか全然なかったんですが」
康夫はおずおずといった。三千子の示すきびしさに怯んでいた。
「康夫さんのお気持はわかります。難癖をつけるためであれば、郁江さんから受けた仕打を大げさにいいふらすでしょうから......」
「そう、そうなんですよ。あたしはどっちかというと、郁江に同情しています。でもやっぱり目につくところは目につくんで......」
康夫が安堵をこめていった。
「もし、お姉さんに批判されたら、郁江は物凄いショックなんじゃないかな、と思ったんですよ。だって郁江はお姉さんや師匠に全面的に支持されていると思いこんでるはずですからね......」
「俺もそれが心配です」
腕組みを解いて、両手を膝の上に戻しながら、田崎がいった。
「康夫のいう通り、郁江には大ショックだろうと思います。これまでお姉さんも俺も、郁江に全面的支持を与えてきたわけですから。よほどうまくやらなければ、大変なことになりかねません。胸騒ぎがします。郁江が素直に受け容れるとは思えません」
「あたくしが、内密に二人だけで話し合ってみても駄目でしょうか?」
「何ともいえんです......大丈夫という気持がしませんから。しかし、お姉さんのおっしゃることに反撥するようなら、俺が諫言しても逆効果でしょう。康夫がいったように、若者たちを連れて、会を出るということにもなりかねません。もし不信任を受ければ、会を出て一人でやると郁江は口癖のようにいっていましたから......」
「絶対の信任状がなければ、会では活動して行けない、と郁江さんはおっしゃるかもしれませんね......」
三人の沈黙は重く、どこまでも沈みこんで行くようであった。正座の苦手な康夫も膝を崩さぬまま、身じろぎもしなかった。
「先生、帰ってきて下さい......そう切実に思いますよ」
と、康夫が泣きそうに顔を歪めていった。
「だって、これじゃ〝光のネットワーク〟どころじゃないですよ。みんな一生懸命やって行こうとしてるのに、どうしてこう心が割れて、すれ違って行っちまうんですか。本当にみんな、何とかしなきゃ世界が滅びちまうって必死になってるんですから。どこがどう間違ってしまったんですか?
善意を結集して、懸命に頑張るだけじゃ駄目なんですかね? 幻魔の波動に吹かれたら、簡単にバラバラになるほど、みんなの結束は脆かったんですかね?
いったいどうしたらいいんですか? 教えて下さい先生、としんそこからいいたいですよ。まるで闇の中を、目隠しして走らされているみたいだもの......方向がどんどんそれて行ったとしても、わかりようがないですよ」
「組織は内部から崩れる......先生のおっしゃったことが、これほど切実になるとは思わなかったです」
田崎は苦渋の色を眉根に刻んで呟いた。
「組織を崩さないためには、郁江を会から出て行かせてはならない......そうではないですか?」
「では、郁江さんに批判がましいことをいわないほうがよい、と田崎さんは思われますか?」
「いや......正直なところ、俺にはわからんのです。正しい選択が何なのか、まったくわからなくなりました」
「こんな時、東丈はどのようにすればよい、と皆様に告げたのでしょうか?」
と、三千子は静かに尋ねた。
「己れの良心に問え、と......裡なる神の心に問うてみよ、と先生はいわれました」
「では、そのようにしてみてはいかがでしょうか......?」
三千子はつと身を起こした。田崎と康夫ははっとして東丈の姉を見上げた。三千子は庭に面した障子を開け、雨戸を繰った。
凛烈な夜気がたちまち雪崩れこんできて、康夫は慄え上った。霜が全身の肌に降りるような鋭い寒気であった。春が間近まで来ているとはとても信じられない。ただの厳冬期の寒さ以外のものを康夫は感じていたようである。
ひょっとすると、もう春など二度とこないのではないか、という冷たい恐怖がじんわりと心にしみ入ってきた。救いを求めるように田崎を見る。
その田崎は微動もせずに座敷に座り、縁側に立つ三千子を瞬きもしない大目玉で仰いでいた。精神集中のあまり、寒気など感じていない貌であった。
「たとえ、丈が今戻ってきたとしても、全てがうまく行くとは、あたくしには思えません......」
三千子は暗い庭の上に広がる夜空を見上げていった。その黒衣をまとったほっそりした後姿には、胸が痛くなるような懊悩に誘うものがあった。
「それは幻想だと思います。偉大な存在に頼って助けてもらおうとする依頼心でしかないし、他力信仰の始まりだと思います。素晴らしい奇蹟を見せられても、偉大な宇宙的真実を教えられても、依頼心がある限り、いつしか風化して崩れ去り、忘れ去られてしまいます......それには二千年、三千年の時は不必要なんです。たぶん、丈はその真実を皆様に気付いてほしかったのではないでしょうか......?
〝光のネットワーク〟を築くということは、真の叡智を甦らすということではないかと思うのです。真の叡智が欠けていれば、愛も思い遣りも努力も、何もかも正しい方向を失って暴走してしまうのかもしれませんね。
こんなに愛しているのに、思い遣っているのに、精一杯努力を払っているのに、お互いの心がいつしかすれ違って行ってしまう......
〝光のネットワーク〟をしっかり築き、拡大するどころか、最初の段階で硬直し、風化の力に曝されてしまう。偉大な人の力で、それをなんとか救済してもらいたいと願う。偉大な人を中心にして、しっかり結束したいと夢想する......
でも、やっぱりそれは虚しいことなのですね。丈がいれば丈に頼り、丈がいなくなれば、つっかえ棒がはずれたように結束をバラバラに乱してしまうのですから。
丈はそれを全ての人々に知ってほしかったのではないでしょうかしら? 丈がいてもいなくても、変らぬものが全員の心の中には存在しているはずです。それが良心という内在する大宇宙意識の心であって、不変の価値基準となってくれ、問いかけに答えてくれる真の導師なのだ......丈はそういいませんでしたか?」
「確かに先生は、そのようにいわれました。自分を教え導く者は他ならぬ自分自身であり、全ての人にとっての〝救世主〟とは自分自身なのだ、と......」
田崎は答えた。

「お姉さんのおっしゃる通りです。何かあれば、たやすく自信喪失し、先生に救いを求める......それでは先生の教えが少しも身になっていません。そんなことでは、いつまでたっても自立などできはしない。先生は皆にそれを教えるために去られた......しかし、それは皆にもわかっているはずです。頭ではわかっているのに、大人に置き去りにされた幼い迷子のように、心細く不安なのを否定することができない。
今こそ真の叡智と勇気が必要なのに、強い吸引力によって心の支えになりそうな存在が外部にあれば、たやすく引かれて行ってしまう。人間の目は外部にある存在、形象ある存在しか見ることはできないし、心の裡にある良心は決して力強く頼もしい形象を持たないものですから......先生がいなくなれば、心細くなってしまい、今度は郁姫に頼ろうとし、あるいは先生との相違を見つけて反撥する。目が外部に向きっ放しだからです。もしその真実に気付かなければ、たとえ先生が百年、地上に留まって教えて下さったとしても、結局は自覚とはますます遠ざかって行く......お姉さんのおっしゃることは真実そのものです。
しかし、あまりにも難しすぎる。困難が大きすぎて、どうやって手をつけていいか、見当もつかない。〝光のネットワーク〟は築く前から崩れ始めているのに、我々は〝真の叡智〟とはあまりにも遠い地点にいる。いったいどうすればいいのか......良心に問うにしても、答は与えられるでしょうか?」
「でも、田崎さん。良心に問うということが、〝真の叡智〟に到達する唯一の道であることに、今あたくしたちは気付いたのではないですか? もし、先生戻ってきて下さい、と百万遍祈ったとしても、解答を与えられ、救いがもたらされるでしょうか? 先生がたとえ戻ってきたとしても、真の解決になるでしょうか? ならないはずです......たとえ問題解決が容易ではないとしても、唯一の解決への道を発見したとあたくしは思うのですけど、間違っているでしょうか?」
「いや、間違ってはいません」
田崎は確信の重みをこめて断言した。
「もう不安も恐れもなくなりました。唯一の道が見つかれば、迷いは存在する余地がありません。お姉さんにお礼を申し上げるのみです」
「泣き言をいって申しわけありません」
と、康夫はいった。
「俺も、この唯一の道を行きます。しかし、お姉さんは燈台みたいな方ですな。今、お姉さんのおっしゃったことを聞いたとたん、真暗だった心の中に、燈台みたいな光が見えてきましたよ。ああ、燈台の光だ......航路をそれかけていたなって、しんそこ納得できました」
「星をごらんなさいな」
と、三千子は夜空を仰いでいった。
「無限の彼方から、星々は〝宇宙的真実〟を告げているのに、人間はそれに気付かなかっただけなんです。人間の心は宇宙とつながっているからこそ、解答は全てそこにあるんです......過去も現在も未来も、全部重なりあって存在しているのが、宇宙なんですね。
だからこそ、宇宙は正しい答を与えてくれるのではないでしょうか? あたくしたちの心には、宇宙がそのまま入っているんですものね。
もう解答は与えられているし、あたくしたちは問題解決の努力をしさえすればいいんです。解答に気付きさえすればいいんです。なぜなら、あたくしたちの心の裡には、全ての解答を知る大きな存在があるのですから......」
都会の夜空は星が乏しかった。しかし、三千子の言葉がにわかに浅薄な夜空に、無限の奥行を与えるのを、田崎と康夫は実感した。
光芒の天が突如として展けた。まるで魔法のような視野の変化であった。それは霊的な視野が展けたのであり、肉眼によって眺める宇宙の姿ではなかった。
この物質世界を流れる単調な時間流が、にわかに無限の複雑なスパイラル構造を持ち、分岐を遂げるありさまが眼前に展開された。
あまりの霊視の凄絶さに康夫は目がくらみ、脳が痺れて、両手で思わず顔を覆った。光芒の炸裂は一瞬も止まず、宇宙を彩り続け、刻々と変化を遂げて行く。
康夫たちのいる時空は、脈々と光芒を放ちながら変り続ける一点にしかすぎなかった。光が激しく渦巻いて急迫し、意識が蒸発しそうになった。その時空の小さな一点に、己れの意識を保持することすら容易ではなかった。
光の波動が全天に満ちながら通過して行った。もはや貧しく限定された物質世界の時空にしがみついていることは困難をきわめた。時空連続体は光り輝く厖大な複合スパイラルであり、一度光圧に吹き飛ばされたら、二度と元の時空に帰れそうもない、と感じた。怖れを感じているのは、康夫の地上に生きる物質的な心そのものであった。
光芒のスパイラルは次々に分岐を重ね、新しい時空連続体を生み出し続けていた。康夫の貧しい地上世界の心では、その壮大な光景にただ圧されて、意味を汲み取ることさえできなかった。隣接する光のスパイラルが回転しつつぐっと近づいてきても、康夫にはそれに飛び移り可能性を究める勇気がなかった。そのためにはあまりにも彼の意識は限定され、狭すぎた。
回転しつつ光の複合スパイラルは再び遠ざかって行った。同時に康夫の究め尽すべき巨大な可能性も去って行ったのだった。失意が心を襲った。
わずかな勇気と決断を持たぬがゆえに、最大の機会を失ってしまった、と感じていた。
光芒の天は、素晴らしいスピードで、康夫を置き去りにして去り、後には光を失った物質的な硬直した時間が無表情に伸びていた。
それは光芒の生命を喪失し、死滅した時空の残骸であった......
(第一期幻魔大戦完結)
あとがき
本巻でひとまず「幻魔大戦」シリーズを終了する。「第一期幻魔大戦」の完結を告げることにしたい。
本シリーズは、最初、「真幻魔大戦」シリーズを補完するためにスタートした。コミック版「幻魔大戦」の原作小説をリライトする、それだけの予定が突如として巨大な物語に成長を遂げてしまったのである。もはやコミック版「幻魔大戦」とは何の関わりも持たぬほどの大きな成長を見せることになった。
書き続けるほどに、コミック版の幻魔大戦の世界からは遠く隔たって行くことになってしまった。いいかえれば、コミック版の幻魔大戦が袋小路にはいりこみ、可能性を持たないことを発見したということなのかもしれない。
主人公の東丈は、コミック版の超能力戦士としてではなく、「救世主」としての覚醒の道を歩みだすことによって、新しい「幻魔宇宙」を生みだしたのである。
十数年来のコミック版の愛読者の皆さんにはまことに申し訳ないが、事実として本シリーズはコミック版「幻魔大戦」とは、全くかかわりがなくなってしまった。
本巻で終了を告げるのは、その事実をはっきりさせるためであり、今後の「幻魔宇宙」の発展へのステップにしたいためでもある。
「幻魔大戦」は、「真幻魔大戦」シリーズと合せて、信じがたい巨大世界として育とうとしている。作者自身にしたところで、その全体像を透視することはむずかしい。
はっきりしていることは、本シリーズが「救世主ストーリー」として意図的に書かれているということである。
現代における「救世主」は、どのように人々の心に、覚醒への道を説いて行くのであろうか。そして出現を聖書において予言されている「悪の救世主」はいかにして、「真の救世主」の大業を妨げて行くのか。
ハルマゲドンへ向けて、光と闇の巨大な力は相克を演じることになる。
この物語を書くべくして、私はこの世に生を亨けたのかもしれない。かつて私は、ライフワークとして、「ルシフェル伝」に挑むことを読者たちに告げた。その時がいよいよ到来したようである。「第二期幻魔大戦」を「ハルマゲドン」シリーズと名付ける。
繰り返してお願いしたいが、コミック版「幻魔大戦」についてはもう忘れていただきたい。あの「幻魔世界」は、袋小路にあり、もはや再起の可能性は持たない。そのストレートな続編はもはや存在することは決してないからだ。
代りに新しい「幻魔宇宙」が開けたのだ。無限の可能性を秘めた、豊穣な超宇宙が。
その物語を、今から私は書いて行く。願わくば、われに力を与え給わんことを。

イラスト 生賴範義
幻魔大戦 全20冊合本版
平井和正

平成26年12月25日 発行
(C)KAZUMASA HIRAI
(C)LUNATECH
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『幻魔大戦
幻魔宇宙』
昭和54年11月30日初版発行 昭和58年2月20日18版発行
角川文庫『幻魔大戦
超戦士』
昭和55年3月31日初版発行 昭和58年2月20日16版発行
角川文庫『幻魔大戦
最初の戦闘』
昭和55年6月30日初版発行 昭和58年2月20日14版発行
角川文庫『幻魔大戦
救世主への道』
昭和55年8月31日初版発行 昭和58年2月20日12版発行
角川文庫『幻魔大戦
巡り逢い』
昭和55年9月20日初版発行 昭和58年2月20日12版発行
角川文庫『幻魔大戦
悪霊教団』
昭和55年10月20日初版発行 昭和57年11月30日10版発行
角川文庫『幻魔大戦
浄化の時代』
昭和55年11月20日初版発行 昭和58年2月20日10版発行
角川文庫『幻魔大戦
集結の時』
昭和55年12月20日初版発行 昭和58年2月20日10版発行
角川文庫『幻魔大戦
青い暗黒』
昭和56年1月30日初版発行 昭和58年2月20日7版発行
角川文庫『幻魔大戦
超能力戦争』
昭和56年3月20日初版発行 昭和58年2月20日6版発行
角川文庫『幻魔大戦
闇の波動』
昭和56年5月20日初版発行 昭和58年3月15日8版発行
角川文庫『幻魔大戦
大変動への道』
昭和56年7月31日初版発行 昭和58年6月10日10版発行
角川文庫『幻魔大戦
魔王の誕生』
昭和56年10月10日初版発行 昭和58年4月1日8版発行
角川文庫『幻魔大戦
幻魔との接触』
昭和56年11月30日初版発行 昭和58年4月1日8版発行
角川文庫『幻魔大戦
幻魔の標的』
昭和57年1月30日初版発行 昭和58年2月20日5版発行
角川文庫『幻魔大戦
光の記憶』
昭和57年3月25日初版発行 昭和59年4月10日8版発行
角川文庫『幻魔大戦
光のネットワーク』
昭和57年5月20日初版発行 昭和58年4月1日6版発行
角川文庫『幻魔大戦
ハルマゲドン幻視』
昭和57年8月31日初版発行 昭和58年3月20日5版発行
角川文庫『幻魔大戦
暗黒の奇蹟』
昭和57年12月20日初版発行
角川文庫『幻魔大戦
光芒の宇宙』
昭和58年2月25日初版発行
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